銭形平次捕物控
巾着切りの娘
野村胡堂
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「あッ危ねえ」
銭形の平次は辛くも間に合いました。夜桜見物の帰りも絶えた、両国橋の中ほど、若い二人の袂を取って引戻したのは、本当に精一杯の仕事だったのです。
「どうぞお見逃しを願います」
「どっこい待ちな、──そんな身投げの極り文句なんか、素直に聞いちゃいられねえ」
「死ななきゃならないわけがございます。どうぞ、親分」
争う二人、平次は叩きのめすように、橋の欄干に押付けました。
「頼むから静かにしてくれ。俺は横山町から駆け付けたんだ。息が切れてかなわねえ、──意見をするのが面倒臭くなると、二人を縛って欄干に晒し物にする気になるかも知れないぜ」
「親分さん」
「解ったよ。三百八十両の大金を巾着切りにやられて、主人への申し訳、言い交した女と一緒に、ドブンとやらかそうという筋だろう」
「えッ」
「お前は、増屋の養子徳之助、──こっちはお富というんだってね」
「そういう親分さんは?」
「神田の平次だ」
「あッ、銭形の──」
徳之助とお富は、死ぬはずの身を忘れて、町の家並に傾く桜月の薄明りの中に、江戸第一番の御用聞と言われた平次の顔を見直しました。
「横山町の店からの使いで飛んで行ってみると、──一度店へ帰ったお前が、お富と牒し合せて飛出したという騒ぎの真っ最中だ。いずれは心中ものだろうと思ったが、永代へ行ったか両国へ行ったか、それとも向島へ遠っ走りをしたか見当がつかねえ、──ともかく、近間の両国へ駆け付けて、幸い間に合ったからいいようなものの、これが永代へでも伸された日にゃ、今頃は三途の川で夜桜を眺めているぜ、危ねえ話だ」
そういう平次の言葉を聞いて、
「…………」
二人はゾッと襟をかき合せました。助けられた今になってみると、三途の川の夜桜が、あまり気味のいいものではなかったのです。
「さア行こうぜ、──店じゃ皆さんも大心配だ。わけても増屋の旦那は、三百八十両のことも忘れて徳之助にもしもの事がなけりゃいいが──と居たり起ったり、神棚に灯明をあげたり、見るも気の毒なほどの気の揉みようだ」
「申し訳もございません、──でも、私はこのまま店へ帰っては済まないことがございます」
「はてネ」
月明りのわずかに残る欄干に凭れたまま、徳之助は苦悶に打ちひしがれて、濡れでもしたように、しょんぼりと語り続けました。
十三の年、親を喪った徳之助は、遠縁の増屋に引取られて養子分で、二十一まで働きましたが、増屋の主人三右衛門の慈愛が深まるにつれて、朋輩の嫉妬が激しく、三百八十両の大金を失っても、主人の三右衛門は許してくれるでしょうが、番頭手代は、決して腹の中では、許してくれないだろうと──こう言うのです。
その上、今日まで内緒にしていた、お富との仲が、この心中騒ぎで一ぺんに知れたら、他の奉公人の手前、主人の三右衛門も、素直に許してはくれないかも解らず、いずれにしても、二人揃って増屋の敷居を跨ぐのは、どうも遠慮しなければならないように思われる、と言うのでした。
「それは一応尤もだが、金は働いて返す折もあるだろうし、二人の仲は、いずれは知れずに済まねえだろう。店へ帰って、大恩ある主人に安心させるのが、何よりの孝行というものではないか」
平次は口を酸っぱくして説き勧めますが、若くて一徹な二人は、心中の仕損ないの顔を、ノメノメと元の店へは持って行く気になりそうもありません。
「それでは、私の父さんは、すぐそこの浜町に居ります。行って相談してみましょうか」
お富はこう言うのです。漸く十九になったばかり、増屋の奉公人には相違ありませんが、女隠居の相手をしている可愛らしくも清らかな娘で、徳之助と並べると、歌舞伎芝居の道行を見るような、一種の情緒を醸し出さずにはいません。
死出の晴着のつもりでしょう。薄化粧に、一張羅らしい銘仙を着て、赤い帯も、黒い髪も、水へも火へも飛込みそうな、純情無垢の象徴に見えて、平次の目には危なっかしくてならないのでした。
「それはいいが、店では心配しているだろう」
平次はまだ、増屋の大騒ぎが目に見えるような気がするのです。
「親分──、横山町へは、あっしが一と走り行って来ますよ。二人を浜町へ連れて行っちゃどうでしょう」
月の隈の中から、長い長い影法師を曳いて現れたのは、銭形平次の子分、ガラッ八の八五郎の忠実な姿でした。
「父さん」
「…………」
「開けて下さいな、父さん」
「誰だい」
「私よ、父さん」
お富はそっと入口の戸の隙間に顔を当てました。
「どこの狐が化けて来やがったんだ、畜生」
たまり兼ねて起出した様子、──火打鉄の音や、荒々しい足音にも、憤々たる怒りはよく判ります。プーンと匂う、硫黄付け木の匂い。
「そんな事を言わないで、父さん」
お富はやるせない様子でした。幾度も幾度も──徳之助がそのまま逃げ出しでもするのを惧れるように、──振返って後ろを見るのです。
「お店から先刻番頭さんが来て、手前の不心得はみんな聞いてしまったぞ、馬鹿野郎。死ぬなら勝手に死ぬがいい、親にまで恥を掻かしやがって」
そう言いながらも、内からガラリと戸を開けました。灯を背負った五十年配の屈強な親仁、左官の彦兵衛といえば、仕事のうまいよりは、頑固一徹なので界隈に知られた顔です。
「父さん、そういわずに、相談に乗って上げて下さい、──私達は本当に死ぬつもりだったのを親分さんに助けられて──こうしてお父さんのところへ帰って来たんです」
お富はそう言って、後ろに立った徳之助と、それから、銭形の平次を見やりました。
「…………」
娘の沈んだ声も、打萎れた様子も、彦兵衛の怒りを宥める由はなかったでしょう。
「父さん」
「主人の養子をそそのかして、三百八十両の大金を持出させるような、そんな娘を俺は持った覚えはねえ」
「父さん、それは、違いますよ。三百八十両は巾着切りに取られ──」
「黙らないか。本所で巳刻(午前十時)前に受取った金を、わざわざ花時の向島へ持込んで、巾着切りに取られる奴があるものか、──その上お店へ帰ったのは、薄暗くなってからだって言うじゃないか」
「父さん」
「さア帰ってくれ。俺まで泥棒の仲間にされちゃ、売り込んだ顔に関わる、──縄を付けて突き出さないのが、せめても親の慈悲だ」
彦兵衛は言うだけのことを言うと、娘と徳之助を暁闇の中に残したまま、没義道に戸をピシリと──
が、その戸は半分閉めかけたまま、銭形平次に押えられました。
「何をしやがるんだ」
彦兵衛は少し中っ腹でした。
「彦兵衛、俺を忘れはしまいな」
「…………」
「平次だ、──久し振りだったな」
「あッ、銭形の親分」
わずかに残る月光に透かして、左官の彦兵衛は仰天しました。
かつては浅草で左官をしていた彦兵衛、飲む、打つの道楽が嵩じて、一時は巾着切りの仲間にまで身を落しましたが、今から五年前、別れていた女房の末期の諫めに、翻然として本心に立ち還り、娘のお富を引取って、神田で堅人に生れ変った経緯──平次は何もかも知っていたのです。
お富は美しく清らかに生い立ちました。親父に巾着切りの古疵があるとも知らぬ清純さ、それを見るのを唯一の楽しみに、彦兵衛は本当に真っ黒になって働き続けたのです。
嫁入前の一と修業のつもりで、増屋の女隠居付に奉公させたのは一年前、それは娘を仕込む術を知らない、男親の淋しさでしたが、彦兵衛はそれも辛抱して、何の邪念もなく、勤め上げて帰って来るお富を待っていたのでした。
それが、お店の養子と勝手な事をして、三百八十両の大金を持逃げしたと番頭に聞かされ、罪の遺伝の恐ろしさに、彦兵衛は打ちひしがれながら、寝もやらず待っていると、顔見知りの銭形の平次に送られて、怪我もなく立ち戻って来たのです。
飛び付いて引摺り込んで、二つ三つ横っ面を張り飛ばして、それから犇と抱きしめて、泣けるだけ泣いてやりたいような心持を我慢して、彦兵衛は没義道に戸を閉めたのに、何の不自然があるでしょう。平次が止めてくれなければ、お富が泣き濡れて、父親の胸に齧りつくに定っているように思えたのです。
「じゃ、あの、娘を助けて下すったのは?」
彦兵衛の照れ臭さ。
「俺だよ、彦兵衛」
「…………」
「浜町で堅気に暮しているとは聞いたが、お富の親がお前とは知らなかった。──それにしても、五年前の彦兵衛とは、打って変った心持、この平次もすっかり感心してしまったよ」
平次は灯の中に全身を現すと、こう心から老巾着切りの心境を褒めるのでした。
「恐れ入ります、親分」
「それにつけても、お前の考えの間違っていることだけは言わなきゃなるまい。番頭は何と言ったか知らないが、三百八十両の金は、たしかに巾着切りにやられたに違いない。二人の様子で、この平次は潔白を見届けたよ」
「ヘエ──」
「両国橋から飛込もうとするのを、どんなに骨を折って止めたか──捕縄を出して、欄干へ縛ろうかと思ったくらいだ。人間は、見栄や洒落で、夜中過ぎの大川へ、女づれで飛込めるものじゃねえ」
「…………」
「増屋の主人は、徳之助の正直をよく見抜いていらっしゃる。奉公人達には嫉みもひがみもあるだろうが、主人の信用さえ変らなきゃ、少しも驚くことはない──」
「ヘエ──」
彦兵衛はポロポロと涙をこぼしておりました。銭形平次が保証してくれれば、もう大手を振って江戸中を歩ける二人です。
「お富との仲が一ぺんに知れ渡って、このままでは横山町の店へ帰りにくいというだけの話さ。お前もよく若い二人に言い聞かせてくれ、──さア入った入った、父さんは苦労人だ、よく解ってくれるよ」
平次は両方へそう言いながら、有明月の隈に小さくなっている二人を招きました。
貧しい灯の下に、二人を押し並べて、平次と彦兵衛は、死ぬ気になった無分別を叱ったり宥めたりしました。
「三百八十両は大金だが、増屋の主人は諦めているし、奉公人並といっても、養子のお前だ。一生真面目に働いて、身上を肥らせる気になれば、三百八十両は安い資本のようなものじゃないか」
平次はそう言ってやります。
「金せえありゃ、俺の手で何とでもするが、こんな暮しをしていちゃ、三百八十両はおろか、三両二分も覚束ねえ」
彦兵衛は口惜しがるのです。悪事に栄えた昔の事を思い出したのでしょう。
「正直者はそれが本当さ、──ところで、どんな野郎が抜いたんだ。三百八十両が懐中から消えた後前のことを、少し詳しく聞かして貰おうか」
と平次。
「相生町のお華客で、三百八十両、小判で受取ったのは巳刻少しまえでした。真っ直ぐに両国へかかると、橋の袂でどこかの小僧さんが待っていて、『増屋の主人が小梅の寮に居るから、そっちへ持って行くように』という言伝です」
「フーム」
「別に疑う心持もなく、向島へ行くと、ちょうど花は真っ盛り、昼前だというのに、土手は、こぼれそうな人出です。その間を縫うように、言問の近くまで──実はとんだ儲けもののつもりで、花を眺めながら行くと、いきなり突き当って喧嘩を吹っ掛けたものがあります」
「どんな野郎だい」
彦兵衛は横合から口を出しました。
「小鬢の禿げ上がった、薄あばたの男で」
「フーム」
「二つ三つ殴られて、土手の下へ転がされると、──それ喧嘩だッ──という人だかり」
「…………」
「漸くハネ退けて飛起きると、相手は人混みの中に飛込んでどこへ逃げたかわかりません。ハッと気が付いて懐中を見ると、三百八十両の小判を入れた財布は、紐を切られて抜かれてしまったのです」
「あの野郎、やりやがったな」
彦兵衛は思い当ることがあるらしく、拳固で鼻の頭を撫で上げながら、詰め寄りました。
「びっくりして、気違いのように駆け廻りましたが、相手はどこへ逃げたか、影も形もありません。小梅の寮へ行ってみると、旦那がここへ来ているというのは真っ赤な嘘、よくよく企まれたと気が付くと私はもう、死んでお詫びをするより外に思案もなくなりました」
「…………」
「日の暮れるまで死場所を探して、あっちこっち歩きまわりましたが、どこへ行っても花見客で一パイ、日が暮れると足は横山町の方へ向いておりました。お富に逢って一と言、別れの言葉が言いたかったのです」
徳之助の肩はガクリと落ちて、鬢のほつれも、白い頬も、あわれ深い姿です。
「一緒に死のうと言いましたのは、この私でした、父さん、堪忍して下さい。──父さん一人残して死ぬと思うと、胸が張り裂けるようでした。でも、徳之助さん一人殺して、私は生きている気がしません」
後ろからお富、伸した手はそっと、父親の膝小僧へ──
「ば、馬鹿なッ。親父をつかまえて、惚気を聞かせる奴もねえものだ、へッ、へッ」
彦兵衛はほうり落ちる涙を、横なぐりに払って、歪んだ笑いを絞り出しております。
「ところで、彦兵衛、その巾着切りの薄菊石を、お前は心当りがありそうだが──」
平次は職業意識を取戻しました。
「それですよ、親分。若い者には聞かせたくねえ話で、──ちょいとお顔を」
彦兵衛は目顔に物を言わせて、滑るように明けかかった街へ出ました。
それを追って平次。二人はしばらく無言のまま、浜町河岸に立って、銀鼠から桃色に明けて行く大川端の春を眺めております。
「彦兵衛──薄菊石の巾着切りは誰だ。早い方がいい。今から手を廻したら、金が戻るかも知れねえ」
平次は口を切りました。
「描き菊石の東作という野郎で、──仕事をする時だけ、自分の顔へ絵の具で菊石を描くほどの用心深い奴ですよ」
「どこに居る、少しでも早い方がいい」
「ね、親分さん、──これはあっしに任せて下さいませんか」
「…………」
「十手捕縄じゃ──そんな事を言っちゃ悪いが、後口のよくねえことがあります。彦兵衛が一世一代、身体を張ってきっと型をつけます。こいつはあっしに任しておくんなさいまし」
彦兵衛は思い切ってこう言うのです。
「それはまた、どうしたわけだ」
と平次。
「増屋の嫁になろうという娘の耳に、あっしの素姓を知らせたくはありません。──それにあの東作の仕事振りを、あっしはよく知っております。これは企みに企んだ上のことで、金を隠して、描き菊石を洗っていた日には、親分が踏込みなすっても、どうすることも出来ません」
「その時は手前が活証人になってくれるだろう。なア、彦兵衛」
「なれとおっしゃればなりますが、その代りあっしの素姓は明るみに曝されて、娘は死ぬほど焦がれても、増屋の嫁になれっこはありません──相対死を助けて貰っても、一人死をさせちゃ、かえって不憫じゃございませんか、親分」
「…………」
「三百八十両の金を取り戻し、徳之助とお富を無事に増屋に帰した上で、菊石の東作を縛るなり叩くなり、勝手になすっておくんなさい。ね、親分──銭形の親分さんを見込んで、この彦兵衛が一生に一度のお願いでございます」
いつの間にやら彦兵衛は、朝の大地の上に崩折れて、銭形平次を拝んでいたのです。
「よし、判った。たった三日、日限を切って待ってやろう。手前の改心を見届けた平次があの可愛らしい娘への土産代りだ」
「有難うございます、親分」
「いいよ、俺は拝まれるのはあんまり好きじゃねえ──大変な泥だぜ、仕様がねえなア」
平次は彦兵衛を起してやって、その胸から膝へ一面に付いた土埃を払ってやりました。
もう出始めた街の人達、酔っ払いの介抱とでも思ったのか、それを遠巻きに見ているのでした。
田原町の経師屋東作、四十年輩の気のきいた男ですが、これが描き菊石の東作といわれた、稀代の兇賊と知る者は滅多にありません。
その奥の、思いの外贅を尽した一と間に、主人の東作と、左官の彦兵衛は相対しました。
「久し振りだね、彦兄イ。眼と鼻の間に住んでいても、稼業が違うと、こうも逢わないものか」
東作は渋い茶一杯淹れるでもない冷たい態度で、少し茶化し加減にこう言うのでした。
「お蔭で地道な貧乏暮しも四年と続いたが──今日はね東作、少しお願いがあって来たんだが──」
彦兵衛は居心地が悪そうにモジモジしながら、思い切った様子で切出しました。
「ハテネ、堅気のお前さんからの頼み、というと、袋戸棚の唐紙でも貼って貰いたいと言うのかい」
東作は煙草盆を引寄せて一服吸付け、長閑な煙を長々と吐きました。プーンと高貴な、国府の薫り──。
「外じゃねえ。昨日向島で抜いた、増屋の息子の三百八十両」
「何を言うんだい、彦兄イ。向島だの、三百八十両だのと──俺はもう悪事とは縁切りさ。三年前から堅気になって、近頃では左官の彦兵衛と同じように通用する経師屋の東作だ。可怪しな事を言って貰いたくないね」
「そうでもあろうが東作、──俺が聞いた手口は、昔のままの描き菊石だ。あの三百八十両を抜かれたばかりに、昨夜は両国橋から、危なく若い二人、身を投げるところよ」
「一人は彦兄イの──娘お富さんとか言ったね」
「それまで知っているなら、言うだけ野暮だ。なア、東作、昔の誼、その三百八十両を、この彦兵衛の顔に免じて返してくれ、きっと恩に被る──」
「それじゃ彦兄イ、本気でそんな事を言いに来たのか」
「本気も、本気この通りだ。娘の命にも関わること、愚に返った彦兵衛が一生の頼みだ。聞いてくれ、東作」
彦兵衛は両手を畳に下ろして、涙ぐんでさえいたのです。
「やい、彦兄イ」
「…………」
「いやさ彦兵衛、年のせいかは知らねえが、大層手前はボケやがったな」
東作は銀煙管を逆手構えに、火鉢を小楯に取って屹となりました。
「東作、頼む」
「東作東作、と、安くして貰いたくねえ。昔は悪党仲間の兄イ分だろうが、──稼いだ金をそっくり返せというのは、こちとらにはねえ仁義だ。巫山戯た事を言やがると、彦兵衛だろうが朴念仁だろうが、勘弁しねえぞ」
「解ったよ、東作、手前の腹を立てるのも無理はねえが、──俺の方にも少しばかり言いてえことがある」
「…………」
「娘の命を助けたのは、他じゃねえ、銭形の平次親分だ。三百八十両抜いたのは、描き菊石の東作と話すと──」
「何?」
「まア、待ってくれ。俺は一生懸命平次親分を宥めて、三百八十両は、見事この彦兵衛が貰って来るからと、漸く引取って貰ったのは、ツイ先刻だ」
「それじゃ、手前、銭形の平次に、この俺の事までベラベラと饒舌ってしまったのか」
東作はカンカンに腹を立てながらも、襟元の薄寒さを感じました。銭形平次に睨まれることは、悪党仲間にとっても致命的な恐怖です。
「娘の命を助けたさの行きがかりだ──それは仕方があるものか。三百八十両の金を返してくれさえすれば、平次親分に頼んで、今度のことは眼をつぶって貰う工夫もあるだろう、なア、東作」
「御免蒙ろう」
「何?」
「岡っ引に脅かされて獲物を吐き出したとあっちゃ、この東作の名折れだ。今すぐ長い草鞋をはくまでも、そいつは御免蒙ろうよ」
「どうあってもか、東作」
「いやに東作、東作って言やがるじゃないか。誰が何と言っても嫌だよ。判ったかい、彦兵衛」
「野郎ッ」
二人は睨み合いました。争闘を始める一瞬前の猛獣のように──。
「ハッハッハッハッハッ、年は取っても、娑婆っ気は抜けねえぜ。とんだいい気合だよ、彦兄イ」
急に笑い出した東作の顔を、彦兵衛は眉も動かさずに睨み据えます。
「三百八十両、事と次第によっては、ずいぶん返してやらないものではないが、その代り、礼はするだろうな、彦兄イ」
「礼?──それはするとも、その日暮しの左官には、どうせろくな礼も出来ないが」
彦兵衛は緊張が緩んで、思わず肩を落しました。相手の様子に妥協的なものを読んだのです。
「礼と言ったところで、銭や金じゃねえ」
「…………」
「俺には少し望みがあるんだ。──外じゃねえ、三百八十両返しゃ、徳之助も無事に増屋に納まるだろう、お富とはどうせない縁と二人を諦めさせて、お富をこの東作の女房にくれる気はないか」
「な、何だと」
東作は大変なことを言い出しました。
「それが嫌なら、増屋へ乗込んで、手前の素性をみんなバラしてやるまでよ。江戸で指折の大店が、巾着切りの娘を嫁にするかしないか。こいつは面白いぜ、なア彦兄イ」
「手前それは正気で言うのか、東作」
「正気も正気、この通り、酔っても寝ぼけてもいるわけじゃねえ。年は少し違うが、まだ厄前の東作に、十九のお富が不釣合とは言わさねえ。巾着切りの娘が巾着切りの女房、こんな似合いの縁があるものか」
「野郎ッ」
「まア、怒るな、彦兄イ。俺は二三年前から、お富坊に眼をつけていたんだ、──この縁談さえ承知なら三百八十両は結納代り、熨斗をつけて差上げるよ」
「…………」
東作の太々しさと、その企みの深さに圧倒されて、彦兵衛は燃ゆる眼に宙を見たまま、血の出るほど唇を噛みました。
浜町の家では、お富と徳之助が、平次に言い宥められながら、事情を知らないながらも、何やら吉報らしいものを待っていることでしょう。
お富を一人残して、徳之助だけ店へ帰すのは、彦兵衛の方では不可能なことでした。
死の一歩手前まで行った二人は、恥も外聞も、義理も体面も捨てて、もう一瞬も側を離れようとはしなかったのです。
幸い、増屋の主人三右衛門からの言伝で、二人を一緒にする前提として、しばらくは世間体を兼ねて、お富は浜町の父親の許に留めるのが穏当だろうということになり、迎えに来た手代に連れられて、灯の入る頃、徳之助は漸く横山町へ帰る気になりました。
「お富、──若旦那はお店へ帰ったが、三百八十両の金が戻らなきゃ、親類方や古い奉公人の手前、増屋の跡取りに直るのがむつかしい事は、お前にも判るだろうな」
改めて彦兵衛は、娘に因果を含めるのでした。
「…………」
それはしかし、何の前提やら父親の気持を測り兼ねて、お富は美しい瞳を挙げました。
「増屋から追出されても、裏長屋に住んでも、二人一緒に暮せるから──とお前は思うだろうが、それじゃ世上の義理が済まねえ」
「…………」
「男の出世を妨げるのは、何といってもつれ添う女の恥だ。解るか、お富」
「え」
「それが解るなら、今晩ほんのしばらく、厭な客に付き合ってくれ──三百八十両の手土産を持って来る客だ」
「父さん、それは?」
「察しの通り巾着切りの東作という男だが、深いわけがあって、表沙汰にしたくないのだよ。判るか、お富」
子供のとき別れて、五年前母親の臨終の床で、久し振りに逢った父親ですが、それから五年の間の愛育は、世の常の五十年の恩にも超えて深いものでした。
世にこんな良い父親があるということは子として、何という誇らしいことでしょう。
お富はいつでも、半白の鬢から、後光が射すような心持で、父親彦兵衛を見て来たのです。
「父さん、──私には何にも判らないけれど、父さんが良いと思うことならどんな事でもやってみましょう」
お富はそれほど父親を信頼しきっていたのでした。経師屋東作、描き菊石と綽名のある大悪党が、押掛け聟に来るとはもとより知る由もありません。
間もなく、東作が町駕籠で乗込んで来ました。
「爺さん、酉刻(六時)だ、早過ぎはしないだろうね」
さすがに極りが悪かったものか、少し面を冠って、笑み割れた頬が、とろけて落そうなのも不気味です。
「まア入んな、──お富、お富、俺の古馴染の東作さんだ。挨拶をするがいい」
狭い家、逃げも隠れもならぬお富は、行灯の蔭に小さくなりました。
「お富坊、相変らず美しいことだな。今晩から俺はここの人だよ、お前とは──」
「シッ、余計なことを言うな。若い者は吃驚するじゃないか」
彦兵衛は精一杯の目顔を働かせます。どうしても承知しなかった東作を説き落して、お富との祝言は、いずれ徳之助と縁が切れてから、改めて盃事をするとして、今晩はほんの見合だけ──という事で話をつけたのです。
「へッ、へッ、へッ、そう言ったものかいなアお富坊、こう見えても、俺は日本一の親切者さ。お富坊に気に入るように、三百八十両の金はちゃんとここに持って来たよ。次第によっちゃ熨斗をつけないものでもない──なアお富坊、今晩にもこの俺の女房になる気はないかえ」
しな垂れかかる四十男の醜さ、お富はゾッと寒気がして、父親の背後に逃げ込みました。
「お富、──あれほど言っておいたじゃないか、酌をして上げな」
「ハイ」
「なア、東作、夜は長え、まず御輿を据えて飲むがいい。──そのうちにはお富も、一と晩経てば、一と晩だけ年を取るというものだ」
「その代りお互も一と晩年を取るぜ、へッへッ。だが、全く堪らねえぜ、──お富坊の酌で飲むなんて、俺は三年越し夢に見た図だが、昨日まではこんな幸せにありつこうとは思わなかったよ」
「だからよ、存分に飲みな」
「介抱はお富坊に頼むか、ゲープ」
東作は鯨のように飲みました。逃げ腰のお富は、彦兵衛に眼で叱られて、観念しきった手に銚子を挙げるのです。これが徳之助を救う方法と聞かされなかったら、どんなに父親が引止めたところで、四半刻(三十分)とも我慢をするお富ではなかったでしょう。
酉刻から亥刻まで、呑んで、呑んで、東作はとうとう正体を失いました。
「いい塩梅に眠たようだ。お富、枕を持って来な、──それから、行灯を退かせるのだ」
「…………」
黙って行灯を退かせ、杯盤をざっと片付けて、お富は部屋の隅に顫えております。
「驚くことはない。少し静かにしたら、よく落着くだろう」
「…………」
「とんだ獣に付合いさせて、気の毒だったなア。お富、その代り、この跡始末は俺がしてやる」
彦兵衛は乱酔して、正体もなく眠りこけた東作の側に膝行寄りました。
「父さん」
お富は思わず声を出しました。父親の戸が妙に物馴れた滑らかさで、何にも知らずに眠っている、東作の懐中にスルスルと入って行くではありませんか。
「抜かれた物を抜くまでのことだ。驚くことはない」
ズルズルと抽出したのは、蛙を呑んだ蛇のように、恐ろしく脹らんだ胴巻。
「ウ、ウン、ウ、ウ」
うなされたように、寝返りを打つ東作。
「…………」
彦兵衛の右手には、キラリと匕首が光りました。
「父さん」
「大丈夫だ、心配するな。こんな毒虫は、人助けのために命を取っても仔細はないが、俺は卑怯な人殺しはしねえ」
「…………」
「お前はその胴巻を持って、横山町の増屋へ行ってくれ、──ここにまごまごしていて、この野郎が眼を覚すと、後が面倒だ」
「父さん」
「手触りでもよく解る。中は確か三百八十両。少し重いが、男一人の命にも関わった金だ、しっかり持って行け」
胴巻を娘の帯の下へ廻しながら、彦兵衛はそう言い続けます。
もう子刻(十二時)近いでしょう。街は灰を撒いたように鎮まって、朧月の精のように、ヒラヒラと飛んで来る花片。
「父さん、それじゃ」
お富は三百八十両の小判を背負って、一歩真夜中の街へ踏出しました。
「命がけの金だぞ、お富」
「ハイ」
「これがしばらくの別れになろうも知れない」
「父さん」
「なアに、そんな事があるものか。明日はまた逢おう、いいか、お富」
娘を夜の冒険に送り出して、引返した彦兵衛、行灯の灯の中に、動物のように乱酔した身体を横たえた東作を、憎々しく見詰めましたが、いきなりハタと枕を蹴って、
「野郎、起きろ」
低いが、圧し付けるような声を浴びせました。
「ウ、ウ、ウ」
ゴロリと寝返りを打った東作、それくらいのことでは、なかなか目を覚しそうもありません。
「只の酒だと思って、よくも食らいやがったな、畜生ッ、どうするか見るがいい」
勝手から持出した手桶、井戸端へ行って二た釣瓶まで汲み入れ、満々と水を湛えたのを持って、東作の枕元に突っ立ちました。
「水垢離を使わせてやる、驚くな」
高々と持ち上げた手桶から、ドッと一条の飛瀑、熟睡した東作の眼へ鼻へ口へ、いや、顔も襟も胸も、上半身一ぱいにブチまけたのです。
「ワッ、な、何をしやがる」
ガバと飛起きた東作。
「騒ぐな、家は借家だ。望みとあらば、もう二三杯食らわせてやろうか」
手桶を振り冠ったまま、彦兵衛の啖呵は虹を掛けます。
「や、や、胴巻を抜きやがったな」
立ち上がって自分の懐中を捜った東作、さすがに酒の酔いも覚めました。
「当り前よ、油断をした懐中から抜くのは巾着切りの手柄だ。ざまア見やがれ」
「爺奴、一杯食わせたな」
濡れ腐った袷をかなぐり捨てると、逞しい素っ赤裸、東作は行灯を小楯に屹と身構えます。
「金を抜いて娘をくれと吐かしやがったな。手前は江戸の巾着切りの面汚しだ。弁天様のような娘を、そんなモモンガアの餌にしてたまるものか。少しは目が覚めたか、馬鹿野郎ッ」
「その娘を、ヌケヌケと増屋の嫁にする気だろうが、そんな甘いわけに行くものか」
「俺の方でも手前を銭形の親分に引渡すはずだが、──昔の誼、縄を打たせちゃ気の毒だ」
「何を、老ぼれ」
「どっちも抜き差しならねえ破目だ。仲間の仕来りは、こんな時には二挺の匕首に物を言わせる外はねえ」
「何?」
「さア、そいつを持って柳原の土手まで来い。地獄の旅へ、どっちが先に踏出すか」
ガラリと投げた匕首。行灯の影から手を出して、東作はあわてて一挺を拾いました。
「しゃら臭え、来いッ、爺奴」
二人は毬のごとく、朧月の街に飛び出したのです。
*
それから一と月、江戸は青葉の風薫る頃となりました。三百八十両を取り返したのは、彦兵衛お富の親娘の手柄と判って、徳之助の家督相続にも、お富との祝言にも、今は文句を言う人もありません。
左官の彦兵衛は仮親を立てて貰うように、強って主張しました。──万一自分の素姓が知れた時の用心だったのでしょう。増屋の主人は、それを世間並の遠慮と思い込んで、反対し続けて来ましたが、最後には折れて出て、一応増屋の親戚の養女と披露し、それから改めて正式の輿入れになりました。
今日はいよいよ徳之助とお富の祝言という日。
浜町の貧しい父親の許に、暇乞いに来たお富は、近所の人達に包囲されて、しばらくは、祝いの言葉と、羨望の感動詞と、あらゆる目出たいものの渦の中にもみ抜かれました。
「まア、何て綺麗でしょう」
「お富さんは本当に仕合せねえ」
「時々は浜町へもいらっしゃいな」
そんな言葉の中に、盛装したお富と、相変らぬ布子一点の彦兵衛は、ただオロオロするばかりでした。
「それじゃ、父さん」
やがて傾く陽、お富は尽きぬ名残を惜しみながら、店から廻された駕籠の中に納まりました。
「お富、達者で暮せよ」
戸口まで送って出た彦兵衛の眼には、涙が光っております。
「父さん、時々は横山町へ来て下さるでしょうね」
お富は美しい髪を気にしながら、駕籠の中から顔を出して、咲き立ての花のように、四方の空気を匂わせます。
「行くよ、行くには行くがな、──親父が娘の嫁入先へ、ウロウロ行くのは、あまり見っともいいものじゃねえ」
「でも、父さん」
「心配するな、時々はお前も顔を見せてくれ。言うまでもねえ事だが、夫を大事に、御主人や御隠居によく仕えるのだよ」
「ハイ」
「やれやれ、これで俺も安心だ。死んだおっ母アも、さぞ喜んでいるだろう」
「父さん」
駕籠は上がりました。親と娘を隔てる、町の女房、娘達、美しく華やかな夕陽の中に、あやかりものの駕籠を、どこまでも追います。
それを立ち尽して見送る彦兵衛。
「…………」
黙って半白の頭を振りました。涙はポロポロと、赤銅色の頬を伝わって、土間の土くれを濡らします。
そっと肩に手を置く者。振り返ると、
「彦兵衛」
銭形平次が立っているではありませんか。
「親分」
「お慈悲は過ぎたぞ、──この上のお目こぼしは、役人方の落度になる」
「覚悟は出来ております、親分」
彦兵衛は静かに後ろへ手を廻しました。
「経師屋東作殺しの下手人、神妙にせい」
「親分、有難うございました。お蔭で娘は、何にも知らずに、あの通り──」
街の夕陽の中に薄れ行く駕籠、それを見送って、彦兵衛は声もなく泣くのです。
「笹野様の御慈悲だ──それもこれも。さア立て」
「親分、この彦兵衛が最後の願い、もう一つだけ無理を聞いて下さい」
「…………」
「お願いだ、親分。あの娘には、何にも知らせたくはありません。私の居ないのを不思議に思ったら、亡妻の菩提を弔うため、西国巡礼に出た──とそう言っておいて下さい」
彦兵衛は自分の襟に深々と顔を埋めます。
「いいとも、この一埒は笹野様も御奉行様も御存じだ。東作はお上でも持て余した悪党、それを害めたところで、大したおとがめはあるめえ──お富に初孫が出来る頃までには、手前も西国巡礼の旅から帰って来られるだろうよ」
「親分、何にも言わねえ」
彦兵衛は崩折れました。合せた手が顎の下に、涙に濡れてワナワナと顫えます。
「八、見っともねえ、そんなものは引っ込めろ」
「ヘエ──」
後ろから来た八五郎は、あわてて捕縄を引っ込めました。どっと起る街の歓声、花嫁の駕籠を見付けた、子供達の声でしょう。
底本:「銭形平次捕物控(七)平次女難」嶋中文庫、嶋中書店
2004(平成16)年11月20日第1刷発行
底本の親本:「銭形平次捕物百話 第六巻」中央公論社
1939(昭和14)年4月16日発行
初出:「オール讀物」文藝春秋社
1938(昭和13)年4月臨時増刊号
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校正:結城宏
2018年12月24日作成
2019年11月23日修正
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