銭形平次捕物控
受難の通人
野村胡堂




 銭形平次が関係した捕物のうちにも、こんなに用意周到で、冷酷無慙むざんなのは類のないことでした。

 元鳥越もととりごえの大地主、丸屋源吉まるやげんきちの女房、おゆきというのが毒死したという訴えのあったのは、ある秋の日の夕方。係り同心漆戸忠内うるしどちゅうないの指図で、平次と八五郎が飛んで行ったのは、その日も暮れて街へはもうあかりの入る時分でした。

「ヘエー、御苦労様で──」

 出迎えた番頭の総助そうすけの顔はさお

「銭形の親分さんで、──とんだお騒がせをいたします」

 そう言う主人源吉の顔にも生きた色がありません。

「皆んな蒼い顔をしているようだが、どうした事だい」

 平次は単刀直入に訊きました。

「皆んなやられましたよ、親分さん、運悪く死んだのは平常ふだんの身体でなかった家内一人だけで」

 主人源吉の頬のあたりに、皮肉な苦笑がゆがんだままにコビリ付きます。

「フーム、一家皆殺しをやりかけた奴があると言うのだな」

「ヘエ──」

 主人と番頭は顔を見合せました。

「そいつは容易ならぬ事だ、詳しく聞かして貰おうか」

 平次も事の重大さに、思わず四方を見廻しました。気のせいか、家中のものが皆んなソワソワして、厄病神の宿のように、どの顔もどの顔も真っ蒼です。

「今朝の味噌汁が悪うございました。飯にもこうものにも仔細しさいはなかった様子で、味噌汁を食わないものは何ともございませんが──」

「味噌汁の中毒というのは聞いたことがないな、──まア、その先を」

 平次は不審の眉をひそめながらも、主人の言葉の先を促しました。

「朝飯が済んで間もなく、皆んな苦しみ出しました。──さんざん吐くのでございます。ちょうど、霍乱かくらんか何かのような、一時は臓腑ぞうふまで吐くんじゃないかと思いました。が、それでもうんと吐いたのは容態が軽い方で、あまり吐かない女どもは重うございました」

「女ども?」

「死んだ家内と下女のおえつでございます」

「で?」

 平次はその先を促します。

「町内の本道ほんどう(内科医)、全龍ぜんりゅうさんを呼んで、お手当てをしてもらい、昼頃までには、どうやらこうやら皆んな人心地がつきましたが、昼過ぎになって、つわりやすんでいた家内がブリ返し、一刻いっとき(二時間)ばかり苦しんで、とうとう……」

 主人の源吉はさすがに眼を落します。

「それは気の毒な」

「昼頃一度元気になって、この分なら大丈夫と思っていただけにあきらめがつきません。どうか、親分さん、このかたきを討ってやって下さい」

 この春祝言したばかりの、恋女房お雪に死なれて、丸屋の源吉は少し取りのぼせておりました。

「ともかく、御新造こしんぞの様子を見たいが──」

「ヘエ、どうぞ」

 源吉は不承不承に案内してくれます。恋女房のもがきじにに死んだ遺骸なきがらを、あまり他人の目に触れさせたくなかったのでしょう。

 大地主といっても、しもたや暮しで、そんなに大きな構えではありません。元鳥越町の甚内橋じんないばし袂に、角倉かどくらのある二階建、せいぜい間数は六つ七つ、庭の広いのと、洒落しゃれ離屋はなれのあるのと、木口きぐちの良いのが自慢──といった家です。

 主人の源吉は三十そこそこ、歌舞伎役者にもないといわれた男振りと、蔵前の大通だいつう達を圧倒する派手好きで、その頃江戸中に響いた伊達者だてしゃでした。小唄、三味線、雑俳ざっぱい楊弓ようきゅう香道こうどうから碁将棋まで、何一つ暗からぬ才人で、五年前先代から身上しんしょうを譲られた時は、あの粋様すいさまでは丸屋の大身代も三年とはつまいと言われたのを、不思議に減らしもせず、あべこべにやして行って、世間をアッと言わせました。

 その算盤そろばんを預かったのは番頭の総助、四十前後の中年者で、丸屋の身代を貧乏揺るぎもさせないのは、この地味な忠義者の手柄のように、世間ではうわさしております。



 奥の一と間には、嫁のお雪の死骸が、まだ蒲団ふとんの上に転がされたままになっておりました。あまりの事に顛倒てんとうしたのと、一家中毒の半病人揃いだったので、誰も死骸を屏風びょうぶで囲うことさえ忘れたのでしょう。

 三十四五の女が一人、机を持って来たり、線香を立てたり、時々はそっと涙をぬぐいながら、まめまめしく立働いておりました。

「あれは?」

 眼顔で訊ねる平次に、

「下女のお越ですよ、十七年もここに奉公しておりますが」

 主人の源吉は弁護がましくこう言います。

「…………」

 振り返って目礼したお越の顔を見て、平次もなるほどと思いました。足が少し悪い上に、半面のあばたで、眼鼻立ちはそんなに悪くないのですが、これでは嫁の口も覚束おぼつかなかったでしょう。十七年奉公する気になったのも無理のない事です。

 平次は仏様を片手拝みに、そっと膝行寄いざりよって、顔へかけた手拭を取りました。

「フーム」

 すさまじい相好そうごうですが、美しさは一入ひとしおで、鉛色に変ったのどから胸へ、紫の斑点のあるのは、平次が幾度も見ている、「石見銀山鼠取いわみぎんざんねずみとり」の中毒です。

 徳川時代の犯罪には、石見銀山は付きものでした。斑猫はんみょう鴆毒ちんどくは容易に素人の手に入らず、山野の毒草は江戸の町では得難く、中毒死というと、一番先に考えられるのは、この石見銀山でした。

「石見銀山があるだろうな」

 平次は顔を挙げて、主人源吉の表情を追いました。

「へー、それがその、お越、お前は知っているだろうな」

 照れかくしらしく、下女の顔を見やります。

「ハイ、あの、あんまり鼠がひどいんで、おまつさんにお願いして買って頂きました」

 お越は物を隠そうとする様子もありません。それほど無技巧に、忠実に使い馴らされたのでしょう。

「お松さんというのは?」

 平次は言葉を挟みました。

「私の妹でございます。一度縁付いて、不縁になって帰って来たっきり、この七年間、世帯の切盛りをしてくれますが──」

 主人は何となく妹の方へ疑いの行くのを好まない様子です。

「どこへその石見銀山を置いたんだ」

 平次の問は委細構わずお越に突っ込んで行きました。

「人が触ったり、間違って食物に入ったりしては悪いと思って、お勝手の戸棚の上へ置きましたが」

「持って来て見せてくれ」

「ハイ」

 お越は立ち去りました。その少し足を引きずる後ろ姿を見送って、

「あの女は信用していいだろうな、御主人」

 平次は問いました。

「十七年の間に一つも後ろ暗いことのなかった女です。──今時、あんな奉公人はございません」

「そうらしいな」

 そう言いながらうなずく平次の眼には、満足らしい輝きがありました。

 しばらくは言葉が途切れて、お勝手の方の人声が、ザワザワと聞えます。妙に押し付けられたような、不安と恐怖をはらんだ声です。

「どうしましょう、石見銀山は見えませんよ、旦那様」

 お越は飛んで来ました。肝腎かんじんの平次には眼もくれずに、主人の源吉に訴える眼差まなざしです。

「どうしたんだ、誰がったんだ」

 源吉もひどくあわてました。

「私が隠しておいた戸棚の上にはございません」

「お前が隠し場所を間違えるような事はあるまいな」

「いえ、そんな事はありません、他の物と違って」

「その隠し場所を知ってるのは、お前だけか。他に、誰か知っている者はないか」

 平次は口をれました。

「…………」

 お越はギョッとした様子で振り返りましたが、すぐ激しく首を振って、

「誰も、誰も知ってるはずはございません。私が隠したんですから」

「疑いはお前にかかるが、それでも構わないのだな」

「構いません、え、少しも構いませんとも」

 お越の声は激情にうわずります。きれいな方の半面はカッと血に燃えて、どんな犠牲でも忍びそうな、この女の馬鹿正直さが、人を圧倒するのでした。

「味噌汁を食わない者は何ともなかったというが、誰が一体味噌汁を食わなかったんだ」

 平次の問は核心に触れます。

「それは──あの」

 主人の源吉は思わず言葉を滑らして、ギョッとした様子で口をつぐみました。

「旦那様」

 お越は、飛びかかって、主人の口をふさぎそうな気組みでした。

「飯や香の物には仔細しさいはなかったそうだ、──これはご主人の言ったことだ。飯や香の物だけを食って、味噌汁を食わないのは誰だい」

「…………」

「この家の中に、石見銀山の中毒にかからなかったのが一人あるはずだ、そいつは誰だい」

「…………」

 ワナワナと動く主人源吉の唇を、お越は必死の目くばせで封じている様子です。

「八、店かお勝手へ行って、家中の者で、毒にあたらなかったのは誰か訊いて来てくれ」

 平次は事面倒と見て、八五郎を動員しかけたのでした。

「ヘエ」

 立上がる八五郎、──が、その身体が部屋の外へ出るのを、外から押し戻すように、

「申しましょう、味噌汁の毒に中らなかったのは、この私でございましたよ」

 そう言って入って来たのは、二十七八の年増、まだ美しくも若くもあるのを、自棄やけに汚な作りにしたような、白粉おしろいっ気のない女でした。



「お前は」

 驚き騒ぐ源吉の前へ、女は静かな顔を挙げました。〝男まさり〟というタイプの、水のような冷たい表情です。

「構いませんよ、兄さん、本当の事をはっきり言った方が、物事が早く片付くでしょう、ね、親分さん」

 女は半分平次へかけて言って、わずかに頬をほごろばせます。

「お前は?」

「主人の妹──松と申しますよ。今朝は御近所の方と、観音様へ朝詣りをする約束で、その方が誘って下すった時は、生憎あいにく御飯は出来ていましたが、おみおつけが仕掛けたばかりだったので、お茶漬にして、お香の物で済ませて飛出しましたよ。お蔭で味噌汁にはあたりませんが、あによめ殺しの疑いを受けるわけですね」

 お松はそんな事を言って、ツケツケと平次を見上げるのでした。冷たい聡明な眼差です。

「そんな事を言って、お前」

 驚く源吉、威猛高いたけだかに妹をきめ付けようとしましたが、お松はそんな事には馴らされていない様子で、なかなか引っ込みそうもありません。

「──その上、お越が石見銀山を隠しておいた場所も、この私だけは知ってましたよ」

「まア、お松さん」

 お越は飛付きました。が、さすがに口をふさぎもならず、お松のたもとをグイグイと引くばかりです。

「放っておいておくれ、──私は物を隠してビクビクしていることなんか大嫌いなんだから」

 お松はしかし、そんな手緩てぬるい事には牽制けんせいされそうもありません。

「私も申し上げてよろしゅうございましょうか、旦那」

 番頭の総助は後ろからそっと主人の顔をのぞきました。

「何だい、何か知っていることでもあるのかい」

 平次がそれを横合から引取ります。

「他じゃございませんが──石見銀山を戸棚の上に隠してあったことなら、この私も存じております、ヘエー」

「何だ、そんな事か」

 主人の源吉、事もなげですが、お松とお越の顔には何やら疑惑の色が浮かびます。

「これから、一人一人に内々ないないで訊きたい。まずお越だけ、お勝手へ来て貰いたいが」

「ハイ」

 平次は先に立ってお勝手に入って行きました。続く、お越、ガラッ八。

「さア、少しお白洲しらすめくが、正直に言ってくれ、嘘をくと為にならないよ」

「ハイ」

 平次は二本灯心とうしん行灯あんどんを引寄せて、踏台の上に腰を掛けました。広々としたお勝手は念入りに磨き抜かれて、ちり一つない有様、十七年間忠勤をぬきんでたという、お越の働き振りが思いやられます。

「お勝手はお前一人か」

「もう一人お富さんという御飯炊きがおりますが、父親が病気で三日ばかり前から葛飾かつしかの在所へ帰っております」

「一人では骨が折れるだろうな」

「いえ」

 お越は、いつもの習慣で、巧みにきれいな方の半面を見せて、慎ましく板の間に坐っております。後ろに突っ立ったのはガラッ八、長い影が、ユラユラと戸棚に揺れるのも、少しばかり怪奇なおもむきでした。

「お前の生れは?」

「房州でございます」

「親兄弟はあるのか」

「兄夫婦が百姓をしておりますが──」

 あまり事件と縁のない訊問に、お越は不審の眉を挙げました。

「この家の人達はどうだ、目立って仲の悪いのはないか」

「いえ、──皆んな良い方ばかりで」

「亡くなった新造は、主人の望みで、大層な支度金を出して貰ったという話だったが──」

 それは神田から下谷したや浅草かけて、誰知らぬ者もない評判でした。きりょう好みの源吉が、飾り屋の小町娘を、金に飽かして申受けたという経緯いきさつ、──半年ほど前に、幾つのゴシップを飛ばしたことでしょう。

「でも良い方でございました。──気前の良い」

 お越は給金でも増してもらった様子です。

あによめとお松さんとの仲は?」

「そんなに悪くはございません、──お松さんはあの通りで、世間の小姑こじゅうとめとは気風が違いますから」

「もう一つ訊くが、──番頭さんは、お松さんをどう思っているのだ、先刻さっきは変にかばっていたが」

「私には何にもわかりませんが──」

「よし、よし。次はお松さんをここへ呼んでくれ、──それから、石見銀山の鼠取りを隠しておいたのは、この戸棚の上だな」

 平次は、ガラッ八の後ろの古い戸棚を指さしました。

「え、その小さいお重の中へ入れておいたのです」

「よし、それでいい」

 平次はお越の後ろ姿が廊下に消えると、踏台を戸棚の前に持って行き、硫黄いおう付け木を一枚灯して、念入りに戸棚の上を調べ始めました。戸棚の上には、蓋のない古お重が一つ、その外側には、たった一ヶ所指の跡が付いておりますが、不思議なことに、お重箱の中には一面にほこりが付いて、今朝まで物を入れていた跡などはなかったのです。

「八、これを見ておけ、──お重の中は一面の埃だ、──お越がこの中へ石見銀山を隠したと言うのが嘘か、でなきゃ、曲者くせものはずっと前にこの中から取出したのだ」

 平次がそう言って踏台から下りると、主人の妹のお松が取り澄まして入って来るのと一緒でした。

「まだ御用があるんですか、親分」

 何か平らかでないものがあるのか、お松は突っ立ったままこう先手を打ちました。

「お松さん、お前さんは石見銀山が戸棚の上にあるのを知ってると言ったが、ありゃ、お前さんの眼で見たのか、それとも──」

「お越から聞きましたよ、鼠取りを買ってやると、──戸棚の上の重箱の中へ入れておきますよ──と言ったんで、そこにあると思っていたんです」

「いつごろだ、それは?」

「五六日前ですよ」

「すると、石見銀山を見たわけじゃないのだね」

「ええ──でもお越なんか疑っちゃいけませんよ。お奉行所へそう申上げれば、あれは御褒美ごほうびの出る奉公人ですよ」

 お松は少し躍起となります。

「お前は、嫁のお雪と仲がよくなかったそうだな」

 平次はズバリと言い切りました。

「え、──あんな女はありゃしません。下品で、阿婆擦あばずれで、派手好きで、おしゃべりで、食いしん坊で──」

 平次も少し呆れました。まだ下手人の見当もつかないのに、この女は殺されたあによめの悪口を、何の遠慮もなく並べ立てるのです。

「悪口はそれくらいでよかろう、もう生きちゃいないのだから。──ところで、番頭の総助はどうだ」

「ありゃ馬鹿ですよ、私をどうかするつもりでいるんでしょう、──あんな半間はんまかばい立てなんかして」

「少し手きびしいな」

 平次は苦笑いに紛らせました。



 次は主人の弟吉三郎きちさぶろう、二十五歳の冷飯食いで、家中の不人気と気むずかしさを、一人で引受けたような男でした。

「当り前ですよ。こんな事になるのは、半年も前から判り切っていましたよ、兄貴のあの癖が直らなきゃ──」

 吉三郎はそう言ってプツリと口をつぐみました。松皮疱瘡まつかわぼうそうでひどい大菊石おおあばた、まだ若い盛りを何という顔でしょう。光源氏のような兄の源吉とは、どう折合をつけて見ても、血を分けた兄弟とは思われません。

「癖?」

 平次は何やら思い当った様子です。

「兄貴とあねうらむ者は、町内だけでも五人や十人じゃありません、現に──」

「現に?」

 吉三郎の言葉はまたプツリと切れます。

「言ってしまいましょう。隠しておいたって、誰かから親分の耳に入るに決ってまさア」

「…………」

「お向うのおみつさんなんざ半歳前あねが嫁に来た時は藁人形わらにんぎょうを持出す騒ぎをやりましたぜ。そいつを五寸釘でどこかの杉かなんかに打ち付けるつもりのを、町内の者に見付けられて──いや大変でしたよ」

「フーム」

 平次も薄々それは聞いておりました。飾り屋のお雪が丸屋の嫁になるのが口惜くやしいと言って、元鳥越の丸屋からは、溝川どぶがわ一つへだてた猿屋町さるやちょうの粉屋のお光が、白装束を着て飛出したという話を──。

「こんな事になるのも、もともと兄貴が浮気っぽいからでさ。ね、親分、三十になるまで、独り身が面白くてたまらない兄貴だったんですもの。家の者なんか捜すより、外へ出て、町内の娘や後家をあさってごらんなさい。嫂のお雪さんに怨みのあるのが、ざっと私が知っているだけでも十人はありますぜ」

 吉三郎の言葉は露骨なとげを含んでおりました。美貌の兄に対する憤懣ふんまんと、抑圧された情慾のハケ口が、場所柄も何も考えるいとまもなく、れてつぶれた膿汁のうじゅうのように、果てしもなく噴き出すのです。

「それで、お光が怪しいというのか」

 平次は独り言のようにつぶやきました。この男の毒気にてられて、さすが、探索の意気込みもくじけたのでしょう。

「怪しいのはお光ばかりじゃありません。女房を貰って三月経たない兄貴と変な噂を立てた、師匠のおかくだって、白紙じゃありませんよ」

「師匠のお角?」

「猿屋町の小唄の師匠ですよ、お光の粉屋から一軒置いて隣の──」

 この男の呪いを聞いているのは、平次にも少し鬱陶うっとうしいことでした。

「ところで、中毒を起したのは朝の味噌汁だ、──家の外の者が味噌汁へ細工をすることが出来るだろうか」

 平次はこの男の呪いの口をとざしてやるつもりで、ツイこんな事を言った様子です。

「下女はお越一人きりでさ。お勝手元にばかり居たわけじゃないから、曲者くせものは御用聞か何かの振りをしてお勝手を覗き、仕掛けた味噌汁の鍋へ石見銀山をほうり込んで逃げ出すのはわけもない事じゃありませんか」

真物ほんものの御用聞に逢ったら? 曲者はどうなるだろう」

「逢わなかったら? どうです、親分」

 この男の悪魔的な空想は、どこまで発展するかわかりません。

「ところが、この戸棚の上の石見銀山が無くなっているんだ。外から女が入って、踏台をして石見銀山を取って、それを鍋へ投り込んで逃げ出したというのか」

 平次は弁護側に廻ったような形勢です。

「なアに、お越が置き場所を忘れたんですよ。大体あの女は忙しすぎるんです、──曲者は別に石見銀山を外から持って来たとしたら、辻褄つじつまは立派に合うでしょう、親分」

「…………」

 平次はその上相手にはなりませんでした。あごをしゃくって、吉三郎を去らせたまま、踏台に腰をかけていつまでも考えております。

「いやな野郎じゃありませんか、親分」

 ガラッ八は後ろから平次をのぞきました。

「誰が?」

「あの弟野郎ですよ、──あによめを殺したのは、ひょっとしたら、あの野郎じゃありませんか」

「嫂だけじゃないよ、毒は家中の者が呑まされたんだ」

「…………」

 ガラッ八は黙ってしまいました。これ以上は考えたところでガラッ八には判りそうもありません。

「親分さん」

 不意に、お勝手の障子が開きました。

「何だ、お越じゃないか、用事でもあるのか」

 平次は踏台にかけたまま、グルリと向き直ります。

「一つだけ申し忘れましたが」

「何だい」

「御新造さんが昼頃になって、少し気分がよくなったが、のどが渇いて仕様がないから、水が欲しいとおっしゃいました」

「フム」

「何しろ毒にてられたのが五人もある騒ぎで、その時は誰も側に居てくれません、──私はうようにしてお勝手へ参り、薬缶やかんと湯呑を持って来て、御新造さんに呑ませましたが──」

「お前は呑まなかったのか」

「湯呑が一つしかなかったので、私はもう一度お勝手へ行って、水甕みずがめからくんで呑みました。──二度お勝手へ行ったわけですが、水を呑んでから気分が清々して、御新造さんのところへ帰って来ると、──」

「…………」

「七転八倒の苦しみでございました。びっくりして大声を出すと、たった一人御無事なお松さんと、旦那様のお手当てをしていなすった、本道の全龍さんが飛んで来て介抱して下さいました」

「お松さんと全龍さんは一緒に駆け付けたのか」

「いえ、お松さんの方が先で──」

「それから」

 お越の話に、何やら重大さが匂うのでしょう、銭形平次は少し夢中になって、踏台から乗出しました。

「それっきりでございます」

 お越の顔は──今朝の中毒のせいか、まだ真っ蒼です。

「まだ何かあるだろう、──みんな言ってくれ、大事なことだ」

「いえ、もう何にもございません」

「その薬缶はどこへやった、奥にもここにも見えないようだが──」

 平次は四方あたりをキョロキョロ見廻しました。

「その後で旦那様が、その水を呑もうとなすったので、私がお止めしました」

「それはよかった」

「また誰か呑んでも悪いと思って、みんな流しへ捨てて薬缶はよく洗って戸棚に仕舞い込んでしまいました」

「何という馬鹿なことするのだ、仕様がないなア」

 平次はそう言いながら、水下駄を突っかけて流しの外を見廻りました。

「親分、毒はとうに流れましたぜ」

 少し茶化し気味のガラッ八の顔がそれを覗いております。

「だがな、八、下水の中に、蚯蚓みみずがうんと死んでいるぜ、──こいつは見ておく値打はあるだろう」

 平次はそう言って、虫唾むしずの走るような顔をお勝手に戻しました。



 丸屋の嫁お雪を殺した下手人は、秋たけなわになっても見当が付きません。疑えば、夫の源吉も、小姑こじゅうとめのお松も、弟の吉三郎も、下女のお越も、番頭の総助も、猿屋町の粉屋のお光も、小唄の師匠のお角も、ことごとく殺すだけの動機と機会とを持っているわけですが、疑わないとなれば、石見銀山が偶然に味噌汁の中へ落ちたとしても済まないことはありません。

 銭形平次も悉く閉口しました。係り同心漆戸忠内は、三輪みのわの万七に、主人妹お松を縛らせましたが、これは本当に奉行所への申し訳だけのことで、一と月経たないうちに、そっと許して帰すより外に手段もない始末だったのです。

「どうした事だ、丸屋の中毒騒ぎは? やはり鼠のせいかな」

 与力よりき笹野新三郎は、時折平次にそんな事を言いますが、

「鼠じゃございませんが、あの下手人は、私などより、よっぽど智恵がありますよ」

 平次も頭を掻いて引下がる外はなかったのです。

 そのうちに、猿屋町の小唄の師匠お角が、大びらに丸屋の源吉に囲われることになりました。女房が死んで百ヶ日も営まないうちに、後添いの話でもあるまいというのと、お角には先の亭主の子で、四つになる幸三郎こうざぶろうというせがれがあるので、いずれ年でも明けたら、幸三郎を里にやって、丸屋の後添いに納まるだろう──というのが、界隈かいわいうわさでした。

 お角は二十四五の年増盛り、柳橋に左褄ひだりづまを取っている頃から、江戸中の評判になった女で、その濃婉のうえんさは水のしたたるばかりでした。源吉は死んだ恋女房のことも忘れ、通と粋との見栄も捨てて、ただもう愚に返ったように、日が暮れるのを合図に、猿屋町に入り浸りました。

 川一と筋へだてての狂態を見兼ねたのと、近所中の噂に閉口して、妹のお松は度々苦いことを言いますが、源吉は耳を傾けようともしません。近頃はお角の弟子達を全部断って、肌寒くなりまさる晩秋の一夕いっせきを、長火鉢を挟んで口説くぜつの糸をたぐるのに余念もなかったのです。

 お角は先月まで使っていた下女にも暇を出し、源吉との恋の遊戯をはばかりもなく続けました。四つになる倅の幸三郎は、のあるうちは外面そとに追いやられ、日が暮れると、床の中に追い込まれてしまいます。

「おや? 坊やはどこへ行ったかしら」

 お角はフト、先刻さっきから幸三郎が見えないことに気が付きました。陽のあるうちからの酒で、玉山ぎょくざんまさに崩れおわんぬ狂態、源吉のひざに片手をもたれて、さかずきをこう斜めに捧げたまま、美しいが、少し三白眼に据えられたのです。爛熟しきった歓楽の底から、ホロ苦い母性がよみがえったのでしょう。

「どこかその辺に居るだろうよ。馬も牛も通る場所じゃなし、それに、外はまだ薄明りがあるよ。さアその盃をあけるがよい」

 源吉は銚子ちょうしを取上げて、自分の胸のあたりに匂う女の額をのぞきました。

「でも、こんなに遅くまで外に居たことなんかないんですもの」

「心配することはないよ。子供は正直だ、暗くなれば帰って来るに決っているさ」

「そうでしょうか、──」

 しきりにこみ上げて来る不安と憂鬱ゆううつに、お角は思わず居ずまいを直しました。膝からともすれば襦袢じゅばんがハミ出しますが、酣酔かんすいが水をブッかけられたようにめて、後から後から引っきりなしに身震みぶるいが襲います。

 ちょうどその時、幸三郎は、川岸かしっぷちを、フラフラと歩いておりました。子供心にも、源吉に白い眼でにらまれて、母親に床へ追いやられるのがイヤだったのでしょう、ツイ敷居をまたぎそびれた心持で、人通りもない川端を、甚内橋の上手の方へ、ヨチヨチと独り歩きをしていたのでした。

 フト、四つのにも不安の直感がありました。どうやら赤いものが、サッと襲って来たのです。

「あッ」

 と言う間もありませんでした。宵闇の中を、通り魔のように襲いかかったものが、幸三郎の小さい身体を、ドシンと力任せに突き飛ばしたのです。

 子供の身体はまりのように宙を飛んで、甚内橋上手十間ばかりの川の中へ──。

 それは実に一瞬の出来事で、誰も見た者もありません。

 いや、たった一人、川の向う岸、丸屋の裏木戸をあけて、ゴミを捨てに出たお越が、夕闇の中に、ただならぬ悲鳴と、川に突飛ばされた子供の姿を宵闇の中に見たというのです。

 お越は咄嗟とっさの間に石垣を駆け降りて、そこにつないだ小舟に飛乗り、さおを突っ立てて、浮きつ沈みつする子供に近づき、危ういところで引上げました。

「誰か来て下さいよ」

 思わず口から出たお越の叫び声を聞付けて、三人五人と岸へ立ちました。近所の家からは、手燭てしょく提灯ちょうちんを持って飛出す者もある騒ぎです。そのあかりの中へ救い上げた子供をつれて来ると、

「おや? お師匠のところの幸三郎じゃないか」

 多勢の顔には、驚きと非難と、そしてほのかな嘲笑ちょうしょうが浮んで来ます。この時、狭い川を隔てて猿屋町のお角の家からは、三味線のにつれて、なまめかしい歌が漏れていたのです。

 幸三郎が、お越始め町内の衆の介抱で、ようやく息を吹返した頃、お角は漸く事の始末を聞いて駆け付けました。

「坊や、お前はまア何だってあんな場所に居たんだい、──お母さんが、先刻さっきから一生懸命捜していたじゃないか」

 お角は半狂乱のていでした。えりすそも乱れたまま、熟柿臭じゅくしくさい顔を、わが子の濡れた頬に持って行くのです。

(──三味線をひきながら捜していたんだとよ、迷子の迷子の幸三郎やい──なんてのはいい節廻しだぜ──)

 後ろの方で、そんな事を言う者もありました。

「お母ちゃん、──坊は川へ突き落されたんだよ、ひとりで落ちたんじゃないよ──」

 四つの早生れで、幸三郎は賢い子でした。咄嗟の間に自分が川に落ちた、因果関係を読んでいたのです。

「まア、この子は、何を言うんだえ、お前を川へ突き落すなんて、そんな鬼のような人があるものか──こんな可愛いを」

 お角は幸三郎のぐしょ濡れの身体を、自分の胸に抱きしめて、駄々っ児のように身を振りました。

「本当だよ、──赤いおべべを着た小母おばさんが突き飛ばしたよ」

「まア」

 お角はゾッと身をふるわせます。



 この事が平次の耳に入ったのは、それから四五日経ってからでした。

「それは本当の事かい、お角さん」

 猿屋町の師匠の家へ、平次が自分でやって来て確かめると、

「親分さん、怖いことですが、幸三郎の言ったことに少しの嘘もありません、──そのあくる日この格子から、硫黄付け木に消炭けしずみで書いた、こんな物を投込んだ者があります」

 そう言ってお角の取出した一枚の付け木に、恐ろしく下手な字で、〈げんきちとてをきるか、いやならこんどはほんとにおまえのこをころすぞ〉とこう書いてあったのです。

「心当りは?」

 平次は顔をあげました。

「十人ぐらいありますよ、親分さん」

「まず第一に?」

「粉屋のお光」

 お角の眼は口惜くやし涙にキラキラと光ります。

「それから?」

「丸屋の旦那の妹、──お松さん」

「少しおかしいな」

「私が乗込んで行けば、一文だってあの女の勝手にはさせませんよ」

「フーム」

「両国の水茶屋のおらく、──あの女も旦那に夢中なんです」

「それから?」

「とても数え切れるものじゃありません。ともかく、私は身を引きました。丸屋の後添いになるのは本望ですが、倅の命はそれよりも大事です。三日前に旦那とは手を切りましたよ、親分」

 お角はそう言ってサメザメと泣くのです。次の間ではあの晩から風邪を引いた幸三郎が、弱々しくもき込んでおります。

 平次は暗い心持で甚内橋を渡りました。事件は女の嫉妬しっとか、女の嫉妬と見せかけた、恐ろしくタチの悪い男の毒計でしょう。

 そのいずれにしても、平次にとっては、決して良い心持の捕物ではありません。

 その足で丸屋へ行くと、主人源吉も、その事があってから、二三日は小さくなって引籠ひきこもっております。

「親分、これは」

 くすぐったい顔に迎えられて、平次は縁側へ腰をおろしました。

「誰も聞いちゃいないだろうな」

「皆んな店の方に居ますよ、どんな御用で? 親分」

「その障子や唐紙からかみをみんな開けて、縁側へ顔を貸して貰いましょうか、──実はね、丸屋さん、お前さんは女出入りの多い人だが、打ちあけたところ、本当に怨まれそうな筋は幾つあるんで?」

 平次の問は唐突でした。

「そんなにありゃしませんよ、親分、世間の評判の方が大きいんで──」

 源吉は照れ臭く額を叩きました。全く良い男には相違ありませんが、自負心が強大で、なまちろくて、平次が見ると、虫唾が走りそうでなりません。

「だが、世間で気の付かない、言うに言われない引っ掛りのがあるだろう。少し押付けがましいが、これへ心当りの女の名前を書いて貰いましょうか、──商売人は別だぜ」

 平次は硯箱すずりばこと巻紙を引寄せました。

「親分さん、本当のところ、人間はそんなに浮気が出来るものじゃありません。商売人をけると、幾人もありゃしません。世間の評判が大きくなると、恥かしい事ですが、私もツイ自慢たらしく見せかけてやりたくなるまでの話で、いざとなると皆んな向うから逃げてしまいます」

 源吉はすっかり恐れ入っております。事実伊達者だてしゃつうすいといわれる人達の内部生活が、思いの外に貧しいのを、平次はマザマザと見せつけられたような気がして、これ以上追及する気もなくなってしまいました。

「お角は子供の命に見返したそうだが、外に私の知ってるだけでは粉屋のお光、水茶屋のお楽──」

「そんなところですよ、親分、後生だから、勘弁して下さい」

「他にうんと怨まれる筋はないだろうな、御主人」

「あるわけはないじゃありませんか」

 大汗になって弁解する源吉を、平次は浅ましくもあわれに見て、それっきり引揚げてしまったのです。

 が、事件はこれでお仕舞になったわけではありません。その歳の暮には、源吉がせっせと通い出した、両国のお楽の水茶屋が、原因も判らず焼けてしまったのでした。

「親分、よっぽど変ですぜ。丸屋の嫁を殺して、幸三郎を川へ投込み、お楽の茶屋へ火をつけた下手人は、鼻の先で笑ってるじゃありませんか。何だって遊ばしておくんで」

 ガラッ八の八五郎までがこんな事を言いますが、平次は容易に腰を切ろうともしません。

「八、曲者くせものがあんまり素直すぎるんだ。証拠がありすぎて、縛れないよ。ところで、頼んでおいたものを集めておいたかい」

「骨を折ったぜ、親分。お松と、お楽と、お角と、お光と、──これは女の筆蹟だ。次は吉三郎と、総助と、主人の源吉と、──これが男の筆蹟だ」

 ガラッ八は帳面、巻紙、小菊、浅草紙、いろいろの紙に書いたものを並べました。

「男三人は相当に書けるが、女四人はお松の外は皆んな下手へたくそだな」

「このうちに付け木の字に似たのはありませんか」

「無い、一つも無い。付け木の字はもっと下手だ」

「わざと下手っ糞に書いたんじゃありませんか」

「多分そんな事だろう。──ところで、もう一人頼んだのがあるはずだが、──女は五人だぜ、八」

「下女のお越は一文不通いちもんふつうですよ、いろはの字も書けやしません。──字は知ってるか──というと、馬鹿にしちゃいけない、これでも知っているというから、書かせてみると、一二三の一の字が一つだけ。──これでも知ってるに違いあるまい、一の字は一本、二の字は二本、五の字は五本で十の字は十本引くんだろうって言やがる。──それじゃ万の字を書くには小半日かかるぜと言うと、半日かかったって一日かかったって、おれの知ったことじゃない。村の庄屋の御隠居は三年も五年も書いていたが、あれは多分億という字だろう──って」

「ハッハッ、こいつは手前の負だ。お越の方が役者が上だよ」

 平次はカラカラと笑いました。



 翌る年の二月、丸屋の主人源吉は、親類縁者──わけても妹のお松の反対を押切って、両国の水茶屋の女、お楽を二度目の女房に迎えることになりました。

 世間の噂をはばかって、祝言はく極く内輪に、三三九度の盃事も形ばかり、「高砂や」をうたい納めて、お開きになったのは宵のうち、花嫁のお楽が、仲人に導かれて、離屋はなれの寝室に入ったのは、まだ亥刻よつ半(十一時)そこそこでした。

 母屋にはいろいろの不祥なことがあったので、新夫婦の部屋を、離屋にめたのは、主人源吉の心尽しでしょう。

 その離屋から、子刻ここのつ(十二時)過ぎになって、思いも寄らぬ火事が起ったのです。

「それッ」

 と母屋おもやに待機していた若い衆、町内のとびの者が、揉み消すように消してしまいましたが、離屋に寝ていたはずの、主人源吉と、花嫁のお楽の姿は見えません。

「旦那、旦那ッ」

 驚き騒ぐ人々の中へ、ヌッと顔を出したのは、銭形の平次でした。

「皆の衆、騒ぐことはない、主人も花嫁も無事だ。母屋の方に休んでいるよ。ここに泊ったのはこの私と八五郎だ。私は主人に化けたから無事だったが、八五郎の女形おんながたは骨が折れたぜ」

 平次はあかりの中に突っ立って、こんな暢気のんきなことを言っているのです。

 ガラッ八の八五郎は、女形の装束を脱いで、コソコソと人込みの後ろに姿を隠しました。顔を見られるのが恥かしかったのでしょう。

「ところで、私と八五郎がここに泊ったのは、曲者の仕掛けるのを待つためだ。せんの新造のお雪さんを殺し、お角の倅幸三郎を川へ投げ込み、今度は花嫁お楽さんの店へ火をつけた曲者は、今晩はこの離屋へ火をつけたのだ」

 平次の言葉は続きます。

 離屋の前に集まった二三十人の群衆は、声を呑んでその次の言葉を待ちました。

「曲者の姿は確かにこの眼で見た。火を付けるところを節穴から覗いたんだから、間違いのあるはずはない」

「親分、その曲者は誰だ。早く言って下さい」

 群衆は異常な圧迫感に堪え兼ねて、ザワザワと揺れます。

「そこに居るよ、誰にも解るはずだ。──手の真っ黒なのが証拠だ」

 平次に指さされて、ハッとした一人、思わず自分のてのひらを見たのを、

「あッ」

 後ろからむずとガラッ八が襟首をつかんだのです。

ふて阿魔あまだ。神妙にせい」

 ガラッ八の手の中に、一と握りになったのは、見る影もない女、あの下女のお越だったのです。

「八、油断するなッ」

 平次が叫ぶ間もありません、お越はガラッ八の油断を見すまして、その手をパッと払いました。たじろぐすきに擦り抜けると、群衆を縫って、バラバラと母屋の二階へ──。

「寄るな寄るなッ」

 お越は絹を裂くような叱陀しったとともに、二階の奥の一と間、有明ありあけの光のほのかに隠れる障子をパッと、蹴開けたのです。

「旦那様、お怨み申します」

「あれッ」

 くれないを乱して、花嫁のお楽は飛出しました。それを追うのは、いつ、どこで手に入れたか、出刃庖丁を振りかざしたお越。

 庭も家の中も、ただ人間が渦を巻く大混乱です。

「お越ッ、執念が過ぎるぞッ」

 平次の叱咤とともに、得意の投げ銭が夜風をりました。

「あッ」

 ひじを打たれて、思わず庖丁を取落したお越、次の瞬間には、ガラッ八の我武者羅がむしゃらな膝の下に組敷かれておりました。

「旦那様、お怨み申しますよ、旦那様」

 きりきりと縛り上げられながら、お越は、哀れな顔をあげて、二階を睨み上げながら、忿怒ふんぬの声をめなかったのです。

「八、早く、猿轡さるぐつわをッ」

 平次が声をかける間もありませんでした。お越の口からはタラタラと血潮が、──振り仰いで、の中に源吉を求める顔の凄さ、群衆はことごとく色を失いました。お越は観念して自分の舌を噛み切ったのです。

 源吉は物蔭に隠れて、ワナワナと顫えました。たった一夜の、かりそめの戯言ざれごとが、人間幾人の命を棒に振って、こんな恐ろしい破局カタストロフィーにまで導いてしまったのです。


     *


「八、いやな捕物だったな」

 この事件がすっかり片付いてから、早春の日向ひなたをなつかしみながら、平次はつくづく述懐しました。

「親分は最初はなっからお越の仕業と解ったんですか」

 とガラッ八。

「いや、少しも解らなかったよ。どんなに巧んだ悪事よりも、少しも巧まない悪事の方が解り難い。──お越は最初から投げてかかったんだ。石見銀山を隠していたのも自分、お雪に二度目の毒の入った水を呑ませたのも自分と、白状しているだけに疑いようはなかった」

「ヘエ──」

「戸棚の上の重箱の中へ、石見銀山を入れた様子のないのを見て少し変だと思ったよ。四五日前に石見銀山を入れたなら、ほこりに形が付かないはずはない。あれほど賢い女が物忘れするはずはないから、──これはヒョッとしたら最初から石見銀山を懐へ入れて、折をうかがっていたんではあるまいかと思った、それが最初の疑いさ。──吉三郎とお松はツンツンしていたが、最初から疑いもしなかったよ。主人はお越をかばっていたが、あれに気のつかなかったのは、俺の大手ぬかりさ」

「…………」

「幸三郎を川へ突飛ばした時は、お越も細工がうまくなっていた。赤い着物を羽織って、お光かお楽のふうをし、子供を突飛ばして甚内橋を渡ってこっちの岸へ帰った。──そこまで何でもないが、──子供を川に突落したのは、さすがに心がとがめて、急に舟を出して救う気になった。──これは、お越の気性ではありそうなことだ、あの女は根が悪人じゃなかったから。──あの晩は雨模様で、六つ半(七時)というと恐ろしく暗かった。川の向う岸の水音を聞いただけで、舟を出すような晩ではなかったし、川の中の子供を何の苦もなく救い上げたくせに、突飛ばして甚内橋を渡ってこっちへ逃げて来た人間を見ないのはおかしい」

「…………」

「あの時は、お越を挙げようかと思ったが、どうも証拠がアヤフヤだ。付け木に書いた下手な字も、お越は全くの無筆のふりをしていたので、手のつけようがなかった。奉公人下女端女はしためは、なまじっか字なんか知っていると、主人や朋輩ほうばいにイヤがられるという事に気のついたのは、ずっと後の事だ」

「なるほどね」

 ガラッ八は感にたえました。

「ところで、男のためにあれほどの事をするには、お越はあんまり不器量すぎた。まさか美男の源吉があのお越に手を出そうとは思わなかったよ。多分、浮気者の源吉が、ほんの出来心で、たった一度ふざけたのだろうが、醜女しこめのお越にとっては、命がけの事だった。歌舞伎役者にもないと言われた美男の主人を、他の女に取られる口惜くやしさで、お越の心は鬼のようになっていた」

「…………」

「源吉はお越を見くびっていたので、疑う気にもならなかった。──もっとも後で、お越ではないかしらと気が付いたらしいが、大通だいつうを気取っている源吉は、あの見る影もない下女に手を付けたとは自分の口から言えなかった」

「ヘエ──」

「源吉は面目のために黙っていたし、お越はそれを思い知らせるために幾人いくにんでも殺す気になった」

「…………」

「八、気をつけるがいい。正直な女はこの世の宝だが、一度だますと怖いよ」

「ね、親分」

 ガラッ八はしんみりしました。

「何だ」

「源吉は憎いじゃありませんか」

「女を撫斬なでぎりにするのを、美男で大通の自分の役得のように思っていたのだよ。あれは本当のところは男のくずさ、醜女の下女に追い廻されりゃ世話はない」

「お越は?」

「悪い事をしたには相違ないが、可哀想だよ。……手前も縄をかけた因縁があるから、思い出したら念仏でもとなえてやれ」

「…………」

 ガラッ八は黙りこくってしまいました。妙に心淋しい日でした。

底本:「銭形平次捕物控(七)平次女難」嶋中文庫、嶋中書店

   2004(平成16)年1120日第1刷発行

底本の親本:「銭形平次捕物百話 第六巻」中央公論社

   1939(昭和14)年416日発行

初出:「オール讀物」文藝春秋社

   1938(昭和13)年10月号

入力:特定非営利活動法人はるかぜ

校正:結城宏

2019年222日作成

2019年1123日修正

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