雨の玉川心中
太宰治との愛と死のノート
山崎富栄

愛してしまいました。先生を愛してしまいました。
三月二十七日~十月十七日


三月二十七日


 今野さんの御紹介で御目にかかる。場所は何と露店のうどんやさん。特殊な、まあ、私達からみれは、やっぱり特殊階級にある人である──作家という。流説にアブノーマルな作家だとおききしていたけれど、〝知らざるを知らずとせよ〟の流法で御一緒に箸をとる。〝貴族だ〟と御自分で仰言おっしゃるように上品な風采ふうさい


 初めの頃は、御酒気味な先生のお話を笑いながら聞いていたけれども、たび重ねて御話を伺ううちに、表情、動作のなかから真理の呼び声、叫びのようなものを感じて来るようになった。私達はまだ子供だと、つくづく思う。

 先生は、現在の道徳打破の捨石になる覚悟だと仰言る。また、キリストだとも仰言る。──「悩み」から何年遠ざかっていただろうか。あのときから続けて勉強し、努力していたら、先生のお話からも、どれほど大切な事柄が学ばれていたかと思うと、悲しい。こうしてお話を伺っていても漠然としか理解できないことは、情けない。

 千草で伺った御言葉に涙した夜から、先生の思想と共になら、あのときあの言葉ではないけれども──「死すとも可なり」という心である。

 聖書ではどんな言葉を覚えていらっしゃいますか、の問いに答えて私は次のように答えた。「機にかなって語る言葉は銀の彫刻物に金の林檎りんごめたるが如し」。「吾子よ我ら言葉もて相愛することなく、行為と真実とをもてすべし」。新聞社の青年と、今野さんと私とでお話したとき、情熱的に語る先生と、青年の真剣な御様子と、思想の確固さ。そして道理的なこと。人間としたら、そうるべき道の数々。何か、私の一番弱いところ、真綿でそっと包んででもおいたものを、鋭利なナイフで切り開かれたような気持ちがして涙ぐんでしまった。

 戦闘、開始! 覚悟をしなければならない。私は先生を敬愛する。


四月三十日


 まだ、ついこの間御逢いしたと思っていたのに、もう一カ月経ってしまうとは。初めの頃は御一緒に席についていても手持ち無沙汰で、先生のおタバコばかりっていたせいか、大変に数を喫うようになってしまった。指先が黄色くなるのを気にしているけれども、かさねてはかなわない。

 先生の性格から一番強く感じられるのは、優しさと、寂しさである。何故か知らない。

「なんじ断食するとき頭に油をぬり顔を洗え、苦しみは誰にだってあるのだ。ああ、断食は微笑と共に行え。せめてもう十年努力してから、そのときは真に怒れ。僕はまだ一つの創造さえしていないじゃないか」


五月一日


〝単なる友達として異性と遊ぶことすら、現代の若人にはできない。幸せを得ることを知らない〟──これは二週間ほど前の頃であったろうか、津軽の故郷から、御上京なさった御親戚の青年お二人と、御一緒に御逢いしたときの御言葉である。あの時は、丁度ちょうど dependents house の帰路で、薄ら寒い夜だったと記憶している。案外渋いネクタイ(紺地にサイコロのような感じのする模様のある)の好みに、ちょっとお顔を見直してから、いろいろ想像をたくましくしてみたものだった。

 愛情というものは、嫌いでない人以外には度重なるうちに、自然に身にみ込んできてしまうものであろうか。型破り(悪い意味でなく)な先生の性格に引きずられてしまったものであろうか。キザなようだけれども、先生はいいものをたくさんもっておられる。

 好きだ!

亀井先生に、うなぎやさんでお目にかかる。早川さんと御一緒。一度、省線の中で、夜遅くおみかけしたことがあったのと、亀井先生のお書きになった島崎藤村の御写真とで、それと知る。評論家と、作家との原稿一枚の値がどうの……とは。食べねば生きていかれない人間なんですものね。サルトルという作家の名前を知る。岡本かの子の、生々流転せいせいるてんのことどもや、いい人でしょう、と紹介された私のこと。大きなグラスに盛られたビール。ウィスキーに入れた炭酸。

「お酒を飲んで、もうこれ以上飲むと道に寝てしまうという頂点になると、彼はいつもクシャミをするんですよ。風邪ではありませんよ。貴女、よく覚えておおきなさい」

 温かい雰囲気。御送りする。


五月三日


〝伊豆の地平線はちょうど私のお乳のさきにさわるくらいの高さに見えた〟

 一番初めにお目にかかったときにも、耳にしたこの御言葉。そして、その後幾度でも耳にする御言葉。かの子の「つれづれと女なる身のはずかしさ、悲しさ覚ゆ乳房いだけば」を思い起こす。

 先生は詩人だと思う。先生の作品から私は詩を感じて仕方がない。当の先生は、お逢いすると十字架を背負っている人のようにみえるのに。人生のピエロ。一番むずかしい役割である。

 言葉は表現できない真実なもの、真実な悩みを体当りさせられているようで、もし私に先生の抱く苦しみの一つでも理解することができ、語られたらと思わずにはいられない。


先生は、ずるい

接吻はつよい花の香りのよう

唇は唇を求め

呼吸は呼吸を吸う

蜂は蜜を求めて花を射す

つよい抱擁のあとに残る、涙

女だけしか、知らない

おどろきと、歓びと

愛しさと、恥ずかしさ

先生はずるい

先生はずるい

  忘れられない五月三日

        *

      *

        *

 〝死ぬ気で! 死ぬ気で恋愛してみないか〟

 〝死ぬ気で、恋愛? 本当は、こうしているのもいけないの……〟

 〝有るんだろう? 旦那さん、別れちまえよォ、君は、僕を好きだよ〟

 〝うん、好き。でも、私が先生の奥さんの立場だったら、悩む。でももし、恋愛するなら、死ぬ気でしたい……〟

 〝そうでしょう!〟

 〝奥さんや、お子さんに対して、責任を持たなくては、いけませんわ〟

 〝それは持つよ、大丈夫だよ。うちのなんか、とてもしっかりしているんだから〟

 〝先生、ま、ゆ、つ、ば……〟

 I love you with all in my heart but I can't do it.

 何処にもおビールがなく、私の缶ビールを籠に入れて、思想犯の独房にのこのこ上がり、御一緒に飲む。

 五月三日、新憲法発布の日、ほのぼのとした月の感覚だった。そして先生の背はいつものようにまるい。雨あがりの道は足を吸いこんで放さない。唸りたいような声を押えて堤を折れる。

 テッサの心以外、何ものもない今の私。

 〝困ったなあー〟

 〝涙は出ないけれども泣いたよ〟

 〝死なない?〟

 〝一生こうしていよう〟

 〝困ったなあー〟

 先生の腕に抱かれながら、心よ、先生の胸を貫けと射る──どうにもならないのに。いつまでもお幸せで、いつまでもお幸せでと。

 忘れられない──振り返って、もう一度とび込んできて下さった心。心……ああ、人の子の父である人なのに、人の妻である人なのに──〝君を好き!〟先生、ごめんなさい。


五月四日


 先生の心なんか分からない。

 分かるもんか!

 馬鹿。分かるもんか!

 頭が渾沌こんとんとしてしまって空廻りだ。

 女。唯それだけのもの。飽和状態の私。

 どうしていいのか、拭いとりたい気もするし、ずるずると入りこんでしまいたい気もする。

 おい、お前! 助けてくれ。酔えなくなったのはお前のせいだ。鼻もちならない! ウンフフ、馬鹿々々、消えろ、消えてしまえ。やい、とみえ、起きろ、路傍の花など摘んでくれるな。いや、もういや。


五月五日


 太宰治、誰かの旦那さん。私が書いた絵で、似ているのは鼻だけ。

 恋愛。眼鏡のツルが壊れてしまった。

 くっきりとしたお月夜。


五月六日


 奥名さん、先生のお声には特長がある。千草には他に二人のお連れがあった。野原さんと戸石さん。この方は前にもお逢いしたことがあったので、御挨拶も親しい。No. 4の女だという意味かもしれないが、盛んに女の心理分析をはじめること〳〵。私も逃れようのない位。下手な言葉は使えないし、中々苦しかった。しかし、気持ちのいい人。先生はもったいぶって華族のおちぶれだと仰言ったけど。

 お酒、ビールとちゃんぽんに注がれて、強いられて飲む。余りいじめるので、最後に、塩水とお酒との混合したものをお飲みになったとき、やっと仕返しをしてあげた。


五月十日


 人間は恋愛をするために生きている。

 古田先生。とし子さん。先生。私と四人雑魚寝ざこね。古田先生、肘で私の横腹を押す。私、そのままグウグウグウ。

 一時ごろ寝て、三時ごろ目ざめる。人の家って、ちょっと中々寝られぬものである。まるで山小屋のような軽い気持ちだったのに、とは言うものの、本当は重苦しいもの。信頼しているからいいけれども──。

 流石さすがの太宰さんも温和おとなしく高鼾たかいびき。急迫したような息苦しさと紙一重の、笑いたいような気持ち。何か、心のときめきを覚える夕べであった。

 ──何事もなく、唯、何事もなきまま、朝を迎えた。

 千草の延長が桜井邸に移る。

 三十四、五の女画家。殺風景でデカダンス。お話が間が抜けていて、ちょっと草臥くたびれる人である。太宰先生が御一緒なので、彼女はとても上機嫌。

 アトリエで、三合位の清酒を、また野原さんから飲まされ、まったくグロッキー。でも気持ちだけは確か。

 先生がたぬき寝入りを始める。

 〝女のピエロって、可愛いいよ、抱いて寝てみてェなあ──〟

 〝マダム・キュウリーに恋人があったって〟

 白菊に、温和な、善良そうな娘さんが一人いる。厚化粧ではあるけれども。

 〝蛇の如くさとく、はとの如く素直なれ〟


五月十四日


恋をする女の耳というものは──

千草にいる人!

眼れない

落ち着かない

声が聞こえる

歌がきこえる

──せつない日──

I love you for sentimental reason.

I hope you to believe me

I give you my heart.

I think of you every morning

Dream of you every night

Dearest I'm never lonely.

For never your inside.

I love you for sentimental reason.

I hope you to believe me.

I give you my heart.


五月十七日


 先生の苦しみを少しでも救うことができないということは、全く涙の出る思い。そして先生のおそばで御世話できないということも、ただ涙。信じて、待っていることも、苦しい涙。

 病気なんて、気になさらないで、生きて下さい。私も、今年か、来年ぐらいまでしかない命だと八卦はっけに占われたときから今日まで気にしてきましたけれど、でも、まだ元気で生きておりますもの。私の毎日々々、それは全く死との闘いでした。でも、もう何時死んでも幸せだと信じます。何故って──太宰さんを愛することができたんですもの。私はいま、女として幸せです。


五月十九日


 愛して、しまいました。先生を愛してしまいました。

 どうしたら、よろしいのでございましょうか。お逢いできない日は不幸せでございます。御病気でも、なんにもできない私は、悲しゅうございます。先生に、お逢いしたいばっかりに、町を歩き、店を覗いて帰る。女なる身が悲しゅうございます。

 六月に先生が死ぬということに首を賭けた女の人がおありになったとか。先生が、私より先に亡くなられるということなど、信じたくも、ございません。いいえ、そんな馬鹿げたことが、どうして信じられましょう。

 病と闘いながら、奥様の御看護をうけられながら、あなたは、ふと、私のことを思い浮かべて下さるときがあるでしょうか。今日でもう二日にもなります。明日はお逢いできるのでしょうか。


五月二十一日


 お別れするときには、一度はあげる覚悟をしておりました。性的の問題というものは、慎みが必要だし、社会生活の全面と絡みあって、真面目に扱われてゆくのが本当だということを御承知のはずなのに。

 至高無二の人から、女として最高の喜びを与えられた私は幸せです。

 Going my way 行け、吾等が道、人生、成りゆきにまかせましょう。自然にまかせましょう。私はもう何時お別れしても悔いない。しかし、できることならば、一生、御一緒に生きていたいとねがわずにはいられない。


五月二十四日


「先生が、貴女のところにウィスキーがあるっていうんですけど──」

「あらそう、どうぞ」

 六月の御誕生日の御祝にと思ってとってあった品だったけど。夕食を持参してお手伝いにいく。七人のお客様と私。野原さんのお隣りで飲む。ウィスキーの甘味な舌ざわり。皆さんに喜ばれて、今宵の私の心も酔う。放送劇団の人達。綱さんや、加藤さんのお話──懐かしい。

〝すみれ〟で二次会。野原さんの楽しいベレー帽から、話は咲いて……、人に喜びを与え得る人はいいなあ、そして、人に悲しみを与え得る人もいい。そして、この二つのどちらかしか、世の中に生きていく強さはないでしょう、と野原さんと握手。そういう御方と一緒でなければ、こうして酒席へなど、私は、はべりませぬ。今夜は私の顔も赤い。真実のことを、ちょっと語ってしまう。

「斜陽」の御婦人も御一緒だったけど……。

 先生、彼女、野原さん、桜井邸へいかれる。

〝ヴィヨンの妻〟──あの奥さんは幸せだと思うわ、野原さん。

 本当にそう思いますか?

 本当よ!

 本当かなあー、信じられないなあー。

 アラ、本当にそう思うのよ。ああいう奥さんなら、大谷は幸せよ。なんていうか、カヴァーされているというのか……。

 そうなんですよ。うれしいね。幸せなんだ。

 貴女、偉いね。

 偉くなんかないわよ。当り前のことよ。ノスタルジャーがあるというのかしら。

 あれを分かる人というのはいないんだ。

 あら、何処かには、きっといてよ。そう信じて生きなければ余りにも寂しいじゃありませんか、ねえ、そうでしょう。

 さあさあ、飲みましょうよ。

 ──サッちゃん、大いに酔う。


五月三十日


 岡本佳子さん、兄上の御結婚式のため、着付に来る。美しい和服を脱がせて、私の洋服と更え、七輪の火を起こしてもらう。

 朝食を御一緒にしながら語る。やはり悩みをもっていると、つい、お互いに話したくなってくるものなのだろう。佳子さん泣いてくれた。──悲しい人達。

 病気になって死にたいと思う。貴女、そう思うことありません?

 生きていることが、もう疲れてしまったの。先生と離れて住みたくないため、苦労して。つかの間の幸福というものかしら。


六月三日


 日本小説の方達と、私の二階でお話なさる。依然として分からない。ゼスチュアの巧みさ。お仕事から帰ってみると、まだお部屋は温くぬくもっている。千草からお夕食をとりよせて、野原さんと飲む。

 ああ、これが、そのまま私達の自然な生活そのものであったならなあと考え、お顔を覗く。

 八時ごろ加納さん見える。一つ部屋なので御一緒にお話する。中途で帰られた先生達の意地の悪い形容詞。ひどい人だ。感じない加納さんを送って、千草へ駆ける。

「愛しているからだよ」

 それから、愛の交換。最後にゴツンと大きく背をたたかれる。

 雨の中を追いつく。千草へ戻る。雑魚寝ざこね

「なんでも話してね。僕になんでも話してね」

「頼りにしていい?」

「うん頼りにしてね」

「今夜は明るいね、いつも灯ついていなかったのに……」

 ああ、幸せよ、永遠につづけ。逃げてゆくな……。


六月十日


 苦労しています。

 三鷹では生まれてはじめての苦労でした。あの、つらい塚本さんの雰囲気。私にはお上手など言えません。よく勤めていられると驚かないで下さい。思い出すと泣けてくるのです。ですから努めて、考えまいとしてますの。三鷹から離れて住みたくないばっかりに、色々のものを棄てました。

 生活の方針も変わってきて、ああ、もう、生きていることが、つろうございます。愛人をもって、夫の生死を案じ、第三者からコヅかれて、それでも黙って生きているのです。私が死んだら一言の挨拶も塚本さんにはいりません。義理も充分果たしてありますし、教養のない主人に使われる人間の、まあ、何と可哀想なこと。

 貴方を知らないでいたのなら、もう、ずっと昔に、三鷹を離れておりましたものを。貴方の知らない苦しみを味わって……。


六月十七日


 一時間半も待ったという御言葉を楽しくきいて席についたのに、

「別れよう──」

 と仰言る。

「何故ですか、私に何か気に入らないところがありまして?」

「いや、そうじゃないよ。君のお母さんを見ちゃったんだもの、年寄りってえりに白い布をつけてるね、見ちゃったんだもの。僕に、母がないからかも分からないけど、お母さんからとっちゃうんだものな、君を。可哀想だよ」「年寄りって、結局は物質的に豊かであれはいいんですよ。私に死に水をとってもらいたいと思っているんでしょう」

「僕も一緒にとるよ。ごめんね、もう放さないよ。いい?」

 優しい御言葉。これほどのことを言って下さる人が、ほかにあるだろうか!


六月二十三日


 ふっと思い出しては、初めから何度でも読み返してみて、また読み返してみる。

 なつかしい思いのしてならない人。修治さん。つらくて、苦しくて、もう息もできないと思うことが幾度でもあるの。肉体が一致したからなんて、そんなんじゃないわ。あなたの持っているノーブルなもの、慈しみ深いものなど、それだけでもない。そうあることが、当然のことのような、何かこう、生まれたときから、二人は、決められてでもいたような、愛人であって、兄である。何かの両親のような濃いものを、身に感じて仕方がないのです。

 もう決して、別れるなどと言って下さいますな。瞬間でも別離のことを考えますと、涙が湧いてくるのですもの。


六月二十四日


 剛ちゃんが失恋して酔ってくれたので、いい人だから仲間に入れてあげようと──。幼い頃を思い起こす。腹巻を落として、体の波が導る。喜びと、悲しみと……。

〝好き──〟〝もう行きな〟

〝私も女の臭いがしないけど、修治さんも男の臭いがしないわね〟

〝あと二、三年。一緒に死のうね〟

〝御願い〟〝もう少し頑張って〟

〝気に入った〟〝御意に叶った〟


六月二十七日


 太宰さんと旅をする。

 九時三十分の待ち合わせ。奇妙に表に出るとバッタリお逢いする。あなたが、あまり愛しすぎるので、昨日の朝から私はM。黒いスカートに白のブラウスで、御出立も諷爽さっそうと東京へ。車中で加納さんにお逢いする。太宰さんのお顔が瞬間赤くなる。丸ビル内の喫茶店で三人談話。駅の前から別れ。京橋でコンテさんに逢い、一時半頃家に帰る。

 髪をまとめていると、太宰さんも帰られ、千草へいく。

 伏目勝ちのお顔。ポカンとした様なときの美しい横顔。好き!

 ポリゴン社からの〝お土産があるよ〟と戴く。嬉しい一日。

        *

      *

        *

 拝復、日ましに暖かさが加わって、心地よい季節になってまいりました。

 かねて父母より御厚情の数々を伺って、ほんとうに、うれしく、失礼ながら書中にて御礼申し上げます。

 この間、父からの便りでお姉さまがこのたび熱海に開業なさることを知りまして、御取り込みも、大変なことと、お察し致しておりました。二、三日前お懐しいお便りをいただき、絶えての御無沙汰を御詑び致しますとともに、御返事の遅れましたことを御容赦下さいまし。

 父からもおきき及びのことと存じますけど、私の現在は進駐軍関係の仕事と、御引受け致しましたセクレタリーの仕事を持っておりますので、ほんとうに申し訳ないことではございますが、御手伝いさせていただくことができないのでございます。

 せめて去年ぐらいでしたら、昔の父母の、御恩返しの何かとして、よろこんで御役に立ったところなのでしたのに、せっかくの御親切を無に致しますようで心苦しいのでございますが、何卒御寛容下さいますよう御願い致します。どうぞ御気を悪くなさいませんように。なおその他のことで御役に立つようなことがございましたら、御利用下さいませ。まずは御返事かたがた御詑びまで申し上げます。

かしこ

(注・雨宮惣兵衛氏長女宛書簡下書き。)


七月七日


 六月二十四日があまり嬉しかったので、とうとう傘をなくしてしまう。

 あれから、幾度飲んで、朝を迎えても、ちっとも熟し切れない二人。こういうのは、一体なにかしら。

 あんなにも泣いた夜があったのに、このところ多忙な仕事のせいかしら。

 今野さんと東上。死ぬんだと思うと、あまり大勢の人に迷惑をおかけしない方がいいんだとも考えられて、出足も鈍る。

 加藤さんと、宮城の草原に寝ころんでお話する。生き疲れ、貴女は再婚しなければいけない、なんて。まァ一度も結婚したこともないくせに──。

 今日は月曜日だし、先週も留守中にいらっしゃっていたので、もしかするとお見えになっていらっしゃるかと思い、車を出ようとするトタン、〝とみえさん〟と呼ばれてふり返る。「飯田女史」と社員の方がみえる。公報が入ったので、これから御伺いしようと思っていたとの由。

「おそば召し上がりません? 美味しいし、第一いまどきめずらしいでしょう」と、川端の店へいく。つれづれのお話。この人も再婚しなければいけないと言う。

「今日は温和しいのね、サッちゃん、飲もうか」


七月九日


 悲しいひと二人、千草に泊る。

「太宰さんは私のために死ぬんじゃないってこと、分かりますわ」

「君のために生きてるんですよ。本当ですよ」

「私の方が苦しいわ」

「僕の方が苦しいよ。話すと君が泣くと思うから言わないけど。僕の腕を継いでくれる人のいないのは悲しいね」

「惜しい、太宰さんを死なせるのは、勿体もったいないわ」

「セッちゃんは、女太宰だね、だから好きなんだ」

 随分多い私のニックネーム。

 女太宰。椿やのサッちゃん。スタコラ・サッちゃん。もぐら。東光。


七月十日


「太宰さん以外、私の死ぬ本当の意味は分からないわ」

「愛している証拠だよ」

 と、つねる。

「愛って、痛いものね」

 と笑う。私は一番幸福者。生きていてよかったと思う。


七月十四日


「男の子が病身で可哀想でならないときがあるよ。そんなとき、ああ、いっそ、一緒に子供と死のうかと思うね。誰もそんな僕の苦しみを分からないのだ」

「太宰さんのようなお方が、あのような家に住み、こうした御様子をしていらっしゃるかと思うと──苦しんでいらっしゃるんだと思うわ」

「こんなこと、誰にも言ったことがないんだよ。君と僕とは何か肉親のような気がするね」

「ええ、私もときどき兄のような気のするときがありますわ」

「君を死なせないように、死のうとするときに、小麦粉でも飲ませようかと考えたりしたんだけど。君が先に死ぬと言ったね? 残された僕というものを考えたら、ひどいんだ。ひどいよ。先になんぞ死んだら、死骸を飛ばすね、僕は。──ね、一緒に死のう。こんなにも信じているのに」

        *

      *

        *

 親より先に死ぬということは、親不孝だとは知っています。でも、男の人の中で、もうこれ以上の人がいないという人に出逢ってしまったんですもの。お父さんには理解できないかも分かりませんけど。太宰さんが生きている間は私も生きます。でもあの人は死ぬんですもの。あの人は、日本を愛しているから、人を愛しているから、芸術を愛しているから。人の子の父の身が、子を残して、しかも自殺しようとする悲しさを察してあげて下さい。私も父母の老後を思うと、切のうございます。

 でも、子もいつかは両親から離れねばならないのですもの。人はいつかは死なねばならないんですものね。

 長い間、ほんとうに、ほんとうに御心配ばかりおかけしました。子縁の少ない父母様が可哀想でなりません。

 お父さん、ゆるしてね。とみえの生き方はこれ以外にはなかったのです。お父さんも、太宰さんが息子であったなら、好きで好きでたまらなくなるようなお方です。

 老後を蔭ながら見守らせて下さいませ。

 私の好きなのは人間津島修治です。


七月二十三日


「それで怒っていらっしゃるんでしょう」

 ハウスで、Mになったので、たいぎで寝すごして夕方帰る。三時頃、太宰さんがおみえになられた由。夕方、心待ちにしてみたけれど、いらっしゃらない。八時まで待ってみて散歩に出る。

 町角に人が立っているので、一つ先の横丁を入ったら、お庭先に出てしまった。奥様が黒いお洋服でお仕事。園子ちゃんが真っ白なパンツ一枚の姿でピーチオ。可愛らしい。西山さんの帰り道に、もう一度寄ると、やっぱり町角に人。スリップ姿の奥様がお子様方を寝かせて、あと始末に忙し気な御様子。お客様かな。

 奥様が健康そうなお姿で……「怒っていらっしゃるんでしょう」と仰言るお声がしたら、何やらボソボソと二声ばかり、暗いお隣りの部屋からきこえる。ああ、もう横におなりだったのかと、ホッとする。

 最初は園子ちゃんで救われたけれど、二度目は太宰さんが何となくお可哀想になってきて胸が塞がる。

 悪いけど、私も奥様は怖い。初めての日の夜──〝こわいんだ、僕はこわいんですよ。救ってくれ〟と仰言ったお言葉を思い起こす。不幸な家庭。奥様って、女学校の先生のような感じのするお方だと思った。

 御免なさい。奥様。こんな浅ましいことなどして、私は……。


八月二十二日


 宮崎さん、北山さん、別所さんお見えになる。二十日ひる。石井さんを御案内して、御一緒に西山方へ伺ってから泊り、二十一日も、〝泊ろうよ〟〝ええ、泊りましょう〟と居つづけたら、夕方野原さんがみえた。その前に、〝野原が今ここへきても僕は驚かないね〟などとお話していたやさきのこととて。三人で泊る。

「サッちゃんて言わなかったね、野原は」

「泊るなら飲みますなんて言ったね、あいつ」

──あまりお体の御様子が快くはいらっしゃらないけど、私にはどうしようもないんですもの。

「君が悪いんだよ。いなかったんだもの。やけくそだったんだ。吉祥寺でウィスキーを一本飲んじゃってね」

 だからいないと心配なの。あのときは仕方がなかったんですもの。それにちゃんと日を決めてお話して差し上げたのに、それでなくてさえ御丈夫なお体でもないのでしょうに、ひどい。宮崎さんには前にも一度お目にかかっていたので、それにあのとき太宰さんと御一緒だということが、とても楽しそうにみえましたので、お休みになりますならと、ちょっとお上げする。千草からビールと焼酎を持参する。失礼だなあと感じたところもあったけど、まあまあと。

「先生は近ごろあまり書きすぎますね。自殺するんじゃないかと思うんだ」

 と北山さん。胸をつかれる。毎日が死との闘争。一字一句が死との闘い。太宰さんを、一面ずつ知っていくことは悲しいけれど、近づいていく喜びもある。

「貴女このごろ、顔の色がよくありませんね」と野原氏。

 よくありませんとも。死んでしまうまで、誰にも、なんにも知られたくはない。そしてまた誰も、なんにも知らないでいる深い理由を。死んでしまって、誰にも分からないことだらけ。二人だけで沢山だ。


八月二十四日


 おひる近く、コンテと帰ってくる。朝、太宰さんがおみえになられた由。買物籠を下げてみえました、といつにない小母さんの顔。やっぱりお見えになったと、泊ってきたことを残念に思う。出張先から帰ったら、コンテさんが千草に来ていらっしゃるという。

 和服姿の良人を改めて二階へお通しする。三人で飲む。宮崎、北山、別所さん達のことをお話したら叱られてしまった。

「君の気持ちは分かるよ、でも、断わんなさいよ。第一失敬だよ。かりに僕の妻じゃないか。僕は不愉快だな」

 ごめん、ごめん、ごめんなさい。コンテさんも太宰さんと一緒になって、〝貴女、駄目ね〟なんて言うんで、苦笑する。

「遊んでやって下さいよ。この人の良いところは、人の悪口を言わないことね。僕は随分言うけど。この人の言うのはまだ一度もきいたことがないよ。君はいい友達をもっている。幸せだよ。僕にはない」

 いやいや。悲しいお言葉ばかり、帰るコンテさんを送って御一緒に吉祥寺までいき、西山へ泊る。

 さっきは、珍しく遊んでやって下さいと、度重ねて仰言ったお言葉が少し気になっていたけれど、その意味が分かった。独りで死ぬと仰言るの。

「駄目だよサッチゃん。十月までたないよ。憔悴しょうすいしちゃったよ。寝なきゃあならないんだ」

「誰か、いい人を見つけて、幸せにおなり」

「いい人なんて、結婚する相手なんて、あなたより他にいやしないのに」

 泣いて、泣いて、泣いてしまう。

「ごめんね。僕はつらいんだよ。別れている間が──。どうして君と一緒にいると、安心なんだろうなあ。不思議だなあ」「……」

「ね、色恋なんていうんじゃなくて、何か、同じもので結ばれているというところがあるね。僕の内臓の一部分のような気がするんだ。だから、いつでもそばにいてくれないと苦しいんだよ」

「ウン、同じ血が流れているような気がするの。妹でもいいから、津島家へ生まれてきたかったなあ」

「君の、そのウン、ていうの大好き。あばたもえくぼだ」

「サッチャんに惚れちゃった」「いやいや、また始まる……」

 太宰さんを待って、嫁がずにいられる女の方のお話も再度耳にした。女の方が御気の毒で涙が出る。二人で随分泣いてしまう。私達二人とも、いままで人の前なぞ、泣顔をみせたこともないのに。そして自分達の苦しみごとなども。

 何故こう私達は悲しいのだろう。泣いた。泣いた。

「私、別にお知らせ致しませんけど、先に逝きます」

「駄目よ駄目よそんな」

 しっかり抱き合って、あなたが死ぬなら私も死ぬ。あなたのいない世の中なんて、なんの楽しみがあるものか。

「御一緒に連れていって下さい」

「ごめんね、サッちゃんを頂きますよ」

「うん、頂くなんて。お願いします。お供させて下さいね」


八月二十八日


 今日でもう三日目。二十六日のひるま、西山方を出た道端で太宰さん吐く。お酒のカクテルをしたためでしょうか。御体が本当に弱られたのだな、と責任もある私の体。痛ましい気持ちがして、ごめんなさいと心で詑びる。

「少し我儘わがままなさって。養生なさって下さいね」

「有難う」と九月十二日までのお別れ。

 病気したら承知しねえぞ、なんて仰言りながら、御自分が先に倒れてしまわれるなんて、御伺いできないじゃありませんか。私いつでも御一緒に逝きます。

 昨夜九時半ごろ裏へ伺ったら、もう雨戸が下りていて皆様お休み。

「ね、思ってね。来てね。ときどきあそこへ来てね」って。垣根の近くまで寄って行ったらまるで新派のセットのような感じの家。お庭先が美しく掃かれていて、心地よい感じ。(注・太宰家の間取りが記してある)お休みなさい太宰さん。鼻血なんぞお出しにならないで。今日、二時ごろお近くまでいく。一つ手前の通りを入って、畑の手前から眺める。お庭へ出てでもいられたら、きっと分かるのに、何故、時間と場所を御約束しておかなかったのだろうと悔まれる。

 昨日も思い出して涙が流れ、本を開いては愛しまれる。

 お別れしてから、急に背中がだるいような気持ち。血を吐きたい。思って下さる? 思って下さるの? 御体大丈夫? 御大事にネ。

        *

      *

        *

「野原と野平は可愛いよ。ね」

「しかし、ああした雑誌社の空気は人間に悪いね」

「二人ともやめたいって言ってましたわ」

「それがいいね」

 野原さん達は太宰さんの御言葉を、一体どういう心で聞いているのかしら。真面目に、素直に、きいているのかしら、死んでしまう人ですのに。そして、この世で最もいい方でしょうに。駄目よ、しっかりしてよ。卑しい人にならないで下さいね。

 夜半にめざめたら、あなたが夢を見て笑った顔を思い出しました。


八月二十九日


 ちょうどおひる頃、近くまで行ってみました。今日は一つ、奥様に見つかってもいいから、と勇んでお庭の見えるあの横丁に入って、立ってみましたけれど、しーんとしているばかりでした。お昼食時ですから、お話声の一つもおききできるのではないかと存じたのですけど。あまり残念なので、表の方からも入ってみましたの。一寸、体がふるえました。窓も、お玄関も閉まっていました。万一悪化でもなさって御入院なさってしまったのかとも考え、それにしても、そのときには誰かを通じてお知らせくらいのことはあろうからと、考え直し、店へ参りました。

 黄村先生言行録を、また読み返しています。四月、太宰さんの本を初めて求めたころは、御向いにいらっしゃることなどが頭に入っていて、いま読み返してみると随分素通りして読んでしまったと思いました。

 十二日までの永い間、一冊ずつ深くみていきます。本当に十二日にはおいで下さいますね。お体が悪化していらっしゃっても、用意してお待ちいたしております。

 シゲ女が店を開きました。このごろは誰をみてもいや、いや、あなたが悪いのよ。お逢いできないんですもの。

「元から頬が削げていたのが一層削げて、顴骨かんこつばかり尖り、ゲッソリ陥込む眼窩がんかの底に勢いも力もない充血した眼球が曇りと濁った光を含めて何処か淋しそうな笑みを浮かべて……」

 八時ごろ、野原さんが見える。

〝誰も二階へ上げるなよ〟

〝ええ、お留守中は誰も上げません〟

 そう申したのですけど、きっと、太宰さんからの帰り道に違いないと思われたのでお上げする。四迷の書き抜きを、なんの気なしに書いたけれども、その通りの御様子らしい。涙が出そうで困った。臥せっきりらしいと、お食事も余り通らないらしいと。

〝もう十日もてば起きられるよ〟と仰言ったとか。十二日のことを言われるのですね。すみません。荷物も大部分整理いたしました。野原さんが、〝先生、死ぬなんて仰言ったことありますか〟なんて、さりげなく。

 いろいろと御交際ねがった方々に、大変お世話になり、御迷惑をおかけしっぱなしで、私一人だけ幸せを奪っていってしまうようで、すみません。

 はじめは、太宰さんも私も、死ぬという各自の決心が一致しただけでしたけど、この頃は、太宰さんが仰言るように、お互いがお互いの内臓の一部分でもあるかのような一致です。それとなく野原さんに、私の最後を飾ってくれるかもしれない私の写真をおみせしました。奥様のおゆるしさえあれば、御一緒に写真だけでも入れて欲しいのです。

 私がいつか、〝お友達に骨の一部分でもいいから御一緒に埋めて欲しいッて言ったら、大丈夫、私がお約束しておそばへ埋めてきてあげるわッて言ってくれましたわ〟と申し上げたら、〝大丈夫ですよ、みんながやってくれますよ。塚でも立ててくれるかも分かりませんよ〟と仰言ってらした。あの世の夢を楽しみに逝きますわ。太宰さんと御一緒なら、何処へいっても、少しも怖ろしくなどありません。

 そう、いつだったか、御一緒に横になったとき、あの世のお話をしていて、

〝亡くなった兄達が喜ぶでしょうね、私がいったら。そして太宰さんの御両親に御挨拶するときには、まず大きな鯛の御料理をして、皆様に御挨拶するわ〟

〝そうそう、そうするとね、祖母が、ああ、私が料理する、なんていうよ。祖母って、そうなんだ〟

〝お驚きになるでしょうね〟

〝おや、人が変ってるねッて言うだろう〟

〝サッちゃん、ご免ね、君をもらいますよ〟

 いま持っている買物籠、吉祥寺で御一緒に太宰さんに買って頂いたもの。毎日お逢いしていた思い出はつきない。

〝十年前に逢いたかったなあ。先輩は、なぜ君を紹介してくれなかったんだろう。同じ本郷に住んでいたのにね〟

〝だって、それは太宰さんが悪いのよ。自動車なんかで学校に通っていらっしゃったんですもの。もし歩いていらしたら、きっと屋上から帽子の上へ唾が落ちたかも分からないのに──〟

 物産の加藤郁子さんには大変々々お世話になりました。失礼でしょうけど、遺品を何か記念に差し上げたいのです。

 宮崎晴子さんにも今度ばかりは御迷惑をおかけしました。御礼の心で記念品を差し上げて下さいませ。

 ほとんど整理品は整理し、洗濯も致してあるつもりですが、汚れた品が残してありましたら、何卒御許し下さいませ。

 太宰さんは私には過ぎたる良人。そして私にはなくてはならない良人でした。

〝僕の妻じゃないか〟と仰言って下さったお心、忘れません。

〝君と一緒になりたかったよ。君をもらった人は幸せだよ〟私も十年前にお逢いしとうございました。

 九月四日頃、お訪ねする御約束を野原さんとする。


八月三十日


〝私が先生の妹にでも生まれてきていたら〟

〝ときどき、兄のような気がするのよ〟

〝そして愛人でしょう〟


八月三十一日


 早川さんのお話と、野原さんのお話に一喜一憂していたところ、今朝八時半頃「奥名さん」の声に飛びおきる。太宰さんだ。蒼い顔して、疲れた御様子で。奥様方が御留守になったので、やめようかと思ったけど、やっぱり呼びにきたよ、と仰言る。

「じゃ、直ぐね」とそこそこにお帰り。早速仕度をして御訪ねさせて頂く。はじめてみるお家の中。お互いに一寸ちっとも悲しそうな顔もせず、相変わらずの、サッちゃんと太宰さん。正樹さんが、よちよちと玩具を持って入ってみえる。ヴィヨンの妻の中にある作家の悩みを思い起こさせるようなお子様。失礼かと思ったけど、太宰さんのお子さんを抱えてみたい心が湧いて「抱かせて下さいませんか」と申し上げたら、「いや、これは孤独を楽しんでいる子なんですよ」との御返事。親心としてどんなに悲しいことだろう、と思ったら涙が湧いてきてしまった。

 九時頃から二時まで御話する。午前十時と午後一時には、お互いの心が一致するような気がして、お互いがお互いを思っている以上に恋い合うよう致しましょうと御約束する。おにぎりを作って下さったり、果物を出して下さったり、御本を頂いたり、御写真を拝見したり。まるで今日は夢のような日だった。

「しっかりしなきゃあ、駄目よ。しっかりしてね」「しっかりするよ」「早くいけよ」

──ああ私達にしか通じない言葉。十二日を楽しみに、病人くさい臭いなどなくなっていますように、十月には御一緒に旅をしましょう。本当に──。


九月一日


 剛ちゃんに逢う。今朝太宰さんのところへいって、いま帰るところだとか。随分血色もいいし、御元気でしたよ。もう一週間もすれば伺うんじゃないんですか、とのお答。とてもうれしかった。私は確かに胸のあたりが少し悪くなってきている。決行するまでは元気でいたい。

「さえら」「ダンボウ」に寄る。

「奥名さんの御主人亡くなられたんですって?」

 太宰さんが御話しなさった由。苦笑する。死にたいって言ってましたよ、とも。青酸カリは三分位で死んでしまうらしい。


九月二日


 お約束をした時間が間近くなって来るということは、本当に楽しみなものね。お目にかかれるような気がして。階下の時計が十時を打つ。太宰さん、お休みなさい。間をおいて、お隣りの時計が十時を打った。

 太宰さん、おやすみなさい。幾度でも十時が来るなんて、うれしいなあ。


九月三日


 朝寝のまま、喜びを迎える。


十月十七日


 月初めにキリスト(太宰さん)の復活があったから──。

 修ちゃんは、もう長いこと、よく眠っていらっしゃる。何だかうれしい。編集者や訪問者などから解放されて、疲れたお体を少しでも永く休ませて差し上げたいの。ねむって、よくねむって、よい作品を書いて下さい。

私の大好きな、よわい、やさしい、さびしい神様。
十月三十日~十二月十日


十月三十日


「光」の原稿を御持参なさって、みえる。

 私も、かわらなければいけない。

 沈黙の時間の意味は

 一つの責任

 一人のときでも自分が現せなくては

 何か御考えなさった御様子

 気持ちが落ちつかなくて外へ出てみる。同じ歩どりを踏む心でお家のお近くまで行く。

 寂しい気持ち。饗宴の名残りの桜をみつけて手折る。悲しいものです。

 この夏かぎり、もう二度と使うこともあるまいと思って買ったほおづきのお茶碗がまだ。そして家の近くで、こんなみじめな姿をした朝顔を、摘ませるなんて。

 神様、でも、会話の中から感じない不安ではございませんでした。けれど、でも、凡人の想像なんて、当たらぬものでございましょうから、そうなくては生きられませんもの。信じてもいいらしいよ。らしい? いけなくなるかも分からないと仰言るのでしょうか。

 たとえ一人で美しい旅に立つとしても、やっぱり信じて参ります。苦しい、悲しい中から、やっと見つけたお方なんですもの。渾沌こんとんとした世の中に生きてきたのですもの。せめて、私の美しい誇りだけは、夢でもいいから持たせていかせて下さいませ。


幸せを祈ります。お幸せで──

幸せを祈る美しい人

修治さん

 私がこれだけのものしか持っていなかったのがいけなかったのです。自分がいけなかったのです。

「いい人間は尊い」

 いい人間になりましょう。努力しましょう。くして倒れれば、天命です。

        *

      *

        *

 お式の時

 思い出に飾ってやって下さい、この写真の中から。

 太宰さんの御写真を一枚一緒に入れて下さい。

 埋めるときでも、焼くときでも。

        *

      *

        *

剛ちゃんへの御葉書

 拝復、御手紙を拝見しました。

 よいことをしたと思っています。

 いい人間というものは、学問のある人間よりも、また才能のある人間よりも貴いものです。御自愛下さい。

 私は君を、私の仕事の完成のためにもたよりにしているところがあるのです。

太宰 治


十一月十三日


 青柳瑞穂氏、おみえになる。

 石井さんも同席。


十一月十四日


 朝、古田さんおみえになる。お若い女のひとと御一緒。しげ女も混じってお夕食。ちょっとしたトラブルがあって……。


十一月十五日


 斜陽の兄君みえる。

 永井さんのお便りによる。

 どうとやらこうとやらを御存知なくておいでになられた御様子。

 太宰さん。直接でかえってよかったよ、とほっとされた御様子。


太田治子

この子は私の可愛い子で

父をいつでも誇って

育つことを念じている。

 昭和二十二年十一月十二日

太宰 治


十一月十六日


 伊馬さん、野原さんみえる。

 いろいろのことがありました。

 泣きました。顔がはれるくらい

 泣きました。わびしすぎました。

〝サッちゃん、ツラかったかい〟

 いいえ、そんなお言葉どころではありませんでした。もう、死のうかと思いました。

 苦しくッて、悲しくッて、五体の一つ、一つが、何処か、遠くの方へ抜きとられていくみたいでした。ほんとうは、ほんとうは泣くまい、泣くまいと頑張っていたのです。涙を出さないようにと、机の上を拭いてみたり、立ってみたり、縫物を広げてみたり、ほんとうは、そっとして、ふれないでいてほしかったのです。

(注・以下四行抹消されている)

 しかも〝大事にしてね〟〝なんでも相談するから〟と仰言っていらっしゃったのに。

〝修治の治、これは「はる」とも読みますね。治子はるこ、この名はどうでしょう〟

〝サッちゃん、どうだろう〟

 斜陽の兄君を前にして、〝いやです〟なんて、申せませんし、このときばかりは、ほんとうに何とも言えない苦しさでした。御自分のお子様にさえお名前から一字も取ってはいらっしゃらないのに。

 斜陽の子ではあっても、津島修治の子ではないのですよ。愛のない人の子だと仰言いましたね。女の子でよかったと思いました。男の子であったら、正樹ちゃんがお可哀想だと思って、心配していたのです。

(注・以下三行抹消されている)

〝そんなこと形式じゃないか。お前には、まだ修の字が残っているじゃないか。泣くなよ。僕は、修治さんじゃなくて、修ッちゃだもの。泣くなよ〟

〝いや、いや、お名前だって、いや。髪の毛、一すじでも、いや。わたしが命がけで大事にしていた宝だったのに〟

〝でも、僕、うれしい、そんなに思っていてくれたこと。ごめんね、あれは間違いだったよ。斜陽の子なんだから陽子でもよかったんだ。遅いよ、君のは。この前のときだって、君に逢ってさえいたら、伊豆へなんかいかなくてもよかったんだよ。そうすれば、僕だって苦しまなくてもよかったんだよ。もう一日早かったらなあ──〟

〝ネ、もう泣くのやめな。僕の方が十倍もつらくなっているんだよ。ね、可愛がるから。そのかわり、もっと、もっと可愛がるから、ごめんね〟

 私が泣けば、きっとあなたが泣くということは、分かっていたのです。でも泣くまい、そういうことを承知していても、女の心の中の何か別な女の心が涙を湧かせてしまうのです。

 泣いたりして、すみません。

〝僕達二人は、いい恋人になろうね。死ぬときは、いっしょ、よ。連れていくよ〟

〝お前に僕の子を産んでもらいたいなあ──〟

〝修治さん、私達は死ぬのね〟(注・二行抹消されている)

〝子供を産みたい〟

〝やっぱり、私は敗け〟

(敗けなんて、書きたくないんだけど、修治さん、あなたが書かせたのよ。死にたいくらいのくやしさで、涙が一ぱいです。でも、あなたのために、そして御一緒に──。)

 救って下さい。教えて下さい。

 主よ、御意ならば我を潔くなし給うを得ん。わが意なり、潔くなれ。

 ──斜陽の女のかたにひとこと、

〝あなたの書簡集はお見事でした〟


十一月十七日


 太田武氏おみえになる。

(注・「小志」と題した太宰治の随筆の新聞切り抜きと富栄さんのスナップが貼ってある。スナップの遠景には太宰治の姿を思わせるトンビ姿の男がうつっていて、「太宰さんもこんな姿をなさることがある。オヤ、もしかしたら、これは……」と付け書してある)


『天国はよき種を畑にまく人のごとし。人々の眠れる間に、仇きたりて麦の中に毒麦を播きて去りぬ。苗生えいで実りたるとき、毒麦もあらわる。しもべども来たりてあるじにいう。「主よ、畑にまきしは良き種ならずや、然るに如何にして毒麦あるか」あるじいう。「仇のなしたるなり」しもべどもいう。「さらばわれらが行きて之を抜き集むるを欲するか」あるじいう。「否、恐らくは毒麦を抜き集めんとて麦をも共に抜かん。ふたつながら収穫かりいれまで育つに任せよ。収穫のときわれ刈る者にまず毒麦を抜きあつめて、焚くために之を束ね、麦は集めて我が倉にいれよ」と言わん』

──マタイ伝・二四・三〇

〝──女はその後、どうなったね?〟

〝──女は、その帝国ホテルのあくる日に死にました。〟

(注・昭和5年1128日夜、鎌倉腰越の小動崎で常用の催眠剤を嚥下えんかし、七里が浜の恵風園療養所に入院したことがある)


十一月十七日


 私の大好きな、

 よわい、やさしい、さびしい神様。

 世の中にある生命を、わたしに教えて下さったのは、あなたです。

 今度もわたしに教えて下さい。

 あなたのように名前が出なくてもいいのです。

 あなたのみこころのような、何か美しいものを、み姿のかげに残しておくことができれば……


十一月十八日


 ひる。

〝──サッちゃん、〝レベッカ〟は苦しいでしょう?〟

〝サッちゃん、あの子が太宰さんの子なんですよ!〟

〝──いいえ、あの子は斜陽の子です〟

〝私は奥様と同じように、あなたが斜陽の人に逢うことはいやです。もし逢ったら、私死にます〟

〝逢わない、誓う、ゲンマン

 一生、逢わない〟

 十八日、よる。

 修治さんに、書いたものをおみせする。

 勝つよ、僕達は勝つよ、と仰言って下さる。

〝愛の問題だよ、これぽっちも(と、小指の先を示して)愛情がないんだよ〟


十一月二十日


 お父さま、お母さま、御元気でいらっしゃいますか。もう御病気も快くなられたことと存じて御便りいたします。

 暖かいうちに、一度近江にいきたいと思いながら、その日に追われて御無沙汰いたしておりました。奥名の籍ももとに戻って、いま、手続きをいたしております。抄本が一緒に入っていなかったので遅れていたのです。昔の話になりますけど、十二月九日にお式をあげて二十一日までの奥名富栄さん。それから今日までの四年の間に、本郷での罹災──田舎落ち──鎌倉──三鷹町──と随分わたしも転々といたしました。それでも、奥名家山崎家へも、ことの外のご迷惑もかけないで、どうやら生きてまいりました。

 葬儀もすっかり終え、お部屋に落ちついて昔をふりかえってみますと、感慨深いものがございます。

 この間、武田様、飯田様が御一緒におみえになりました。おくやみと、わたしの再婚のこと(別に具体的なことではなく)を御心配下さるお話でした。それにつきまして、わたしも近いうちに御訪ねして、今日このお便りのうちに書きますような、わたしの決心を御話し申し上げる気持ちでおりますので、その前にお父さま、お母さまに御相談──というよりもわたしのこのお願いをどうしても受け入れていただきたくて、お便りいたします。

 少し長くなりますけど、どうか終わりまで判読下さいますよう、お願いいたします。

 成人した娘の真剣な願いごとを受けていただきたいのです。冷静に書いて、理解していただきたいとねがっております。

 そう──お父さまが御上京のときには、いつも笑いながらお話ししましたでしょう。おつきあいいただいている先生のこと。わたし、そのお方を敬愛しておりました。

 大変御苦労なさって、生きていらしたお方なので、人の苦しみや、悲しみや、また、よろこびなどにも、慈しみ深いおこころをお持ちになってあらゆる周囲の方々から敬愛されていられるのです。

 たびたびお遊びにみえましても、お話の落ちが女になるというようなことは一度も仰言ったこともなく、わたしも相変わらずの、やんちゃ娘で、おつきあい願っておりました。

 淡々としたおつき合いで、どういうお家柄のお方とも、どういう御家庭をお持ちのお方とも存じておりませんでした。また知ろうとも思いませんでした。

 お友達とお話していらっしゃるいろいろの事柄を、おそばで伺っておりますうちに、世の中にこんな美しいお心のお方が生きていらっしゃったということがうれしく、御一緒になれないお方でもいい、せめて、こうして時折りのお招きに、おそばに坐って、可愛がっていただければと、わたしは思うようになりました。そうしておりましても、わたしの仕事を休んだことはございませんし、先生も、御自分のお仕事を愛していらっしゃいますから、いつでもちゃんと、お仕事をなさってから、文学のことや思想のこと、ときには政治の御批評を伺いにいらっしゃるお友達と御一緒に、わたしとも遊んでいて下さいました。

 わたしの貧しい知識を補うためにも、お誘いをうれしく思っておりました。先生のお名前は、津島修治様と仰言って、ペンネームを太宰治様と仰言います。

 津島様のお父様は御他界遊ばされていられますが、御名前を源右衛門様といわれ、貴族院議員をなさっていられました。お兄様は、現在青森県知事をなさっていらっしゃいます。

 津島様は弘高から東大仏文科を卒えて、たしか亡くなったとしちゃんとは御同年のお方でいらっしゃいます。

 いつか病院で、輝ちゃんが、

「僕も入院生活でお前のそばについていてあげられないし、苦しいことがあったら話しに来いよ」といって下さったことがありますが、いまさらのように思い出されます。

 輝ちゃんがいて下さったら、お父さまへのお願いごとも、きっとすらすら運んで下さったのではないかしらと、そんな気持ちもいたします。だって、お父さまも、お母さまも、輝ちゃんが大好きだったのでしょう。そして輝ちゃんは、わたしをとても可愛がって下さったし、わたしにとって輝ちゃんは、両親のように思われるときもあれば、また姉のようにも懐しく思われて慕っておりましたから。

 お父さま、なぜ富栄は輝ちゃんのことを書いたりして本当のことを避けているのでしょう。お父さま、お母さまのお怒りが怖いからでしょうか。いいえ、ただひとこと「ごめんなさい」と申し上げたかったのです。そしてわたしの願いごとを、ありのままに書いて、わたしたちの心の中に隠されている宝を理解していただきたかったのです。

 どうぞ、わたしからこの宝をとってしまおうとなさらないで下さいませ。津島様は明晳な頭脳と、豊かな御人格で、日本作家陣の最高の地位を保っておられ、文壇をリードされていらっしゃる御立派なお方で、御性格からは、佗しさと、優しさの印象がわたしには強く感じられるのですけれど、お友達の言葉を借りますと、

「とても貴族的で、明朗で、天才的なお方」なのです。

 津島様はわたしとは十も年がお違いになっていらっしゃいますが、何となく血のつながりの濃いものが感じられ、お父さま、お母さまの御心配なさるようなお方ではございません。

 わたしも年が明ければ三十ですし、罹災して、あちこち世の中の苦労も身につけ、もう一通りの女の眼や、成人生活も持ったつもりでおりますし、そうしたものを通して、御つきあいいただいているつもりでございます。

 わたしは女史といわれるお方のように、世の中に名前が出なくてもいいのです。

 芸術の生命をわたしに教えて下さったお方に愛されて、そのお方の持っている美しいもののような何かを残して死にたいのです。

 お父様も、現在の打算を抜いてお考え下されば、きっとわたしのようにお思い下さるのではありませんかしら。

 一時的な関係から起こってくる放埓ほうらつな生活──というようなことにはおちいりません。

 私達はいつの頃からというようなことはなく、なにか、こうなることが自然に与えられた宿命のように、お互いに愛しあうようになりました。

 津島様はわたしを信じて下さって作品以外の重要な事柄をもお話し下さいますし、いろいろの御相談をもなさって下さいます。

 信じ合うということは貴いことの一つではございませんかしら。

 わたし達は、お互いの家庭に傷をつけないように、責任のある態度で生活していきたいと心懸けております。

 わたしたちがこうなったことは、津島様が悪い男の方でも、また、わたしが悪い女のひとになったからでもありません。

 同じ夢を抱いて歩んでいた二人のひとが、一つの道でやっとめぐり逢ったということが世の中にはあることなのではありませんかしら。そして、それが社会には全面的にうけ入れられないものであっても。

 わたしのお店の方のことも、こうしたわたしの個人的な問題と、電気についていろいろな問題からお断りいたしました。

 津島様は、わたしの仕事のことは自由にしてもいいからと仰言って下さるのですけど、津島様のお仕事のお手伝いと、御来客の御接待に、毎日忙しく日を送っておりますので、十一月からずーっと家に落ち着くことにいたしましたが、わたしの生活のことにつきましては、そのお仕事のことで十分足りておりますから御心配はいりません。


 こういうお便りを差し上げたからと言って、わたしのお父さまを慕う心も、お母さまを思う心にも、少しの変化もございません。

 わたしが悪い女のひとになったのなら、こうした苦しい手紙を書かないで、さっさと歩いて行ったことでしょう。

 わたしは人の温かいこころにふれていとうございます。

 なんでもなく、こうしたことの、ゆるされた時代に生きていた昔の人達を、羨ましいと思います。

 富栄のこうした願いごとをお読みになることは、お父さま、お母さまにとって、とてもお辛いこととよく承知いたしております。

 こうした私の心の飛躍は、あまり突飛すぎて、受け入れてはいただけないのでございましょうか。若しお許しいただければ、ほんとうにわたしは幸せなのです。

 わたしは津島様の愛人として慎み深く立派に成長していきとうございます。

 お父さまの御返事が、わたしを惨めにさせないようにと祈っております。

十一月二十日
富栄拝

 お父さま

 お母さま

 追伸

 師走しわすの風がついすぐそこまで吹いてまいりました。お体くれぐれも御大切になさって下さいませ。わたしはこれをお読みになる御両親の御姿を思い浮かべながら、毎日御返事を待っております。このことは、わたしにまかせて下さいませ。


十一月二十一日


 いつものように御仕事におみえになる。

 ここ四、五日前から御洋服。「デブちゃんなんだよおー」とおうわさになっていた小説新潮の女のかたもおみえになる。

 井伏先生と、御一緒に写されてある御写真を拝見する。私も欲しいわ。

 三時近くになると、お体の調子も、御疲れになられるせいか「まだ三時か──」などと仰言って、お仕事なさっていられる。

 御酒がお飲みになりたい?

 この間は喀血かっけつなさったし、あまりかんばしいお体ではないんだけど。アダリンと膏薬を買ってくる。

「昨日の朝ね、胸を開いて寝てたんだ。そしたら、里子ちゃんは幸せね、羽左衛門と一緒に寝られて──って女房が来ていうんだ」

 妙布の貼り工合が変わっていらしたから。

 お仕事の方は、私には分からないので、毎日心配しながら、おそばで用事をしているのだけれど、「とてもよく書けるんだよ」と仰言って、書きかけのを、「読んでごらん」とみせて下さる。

 いつものように夕方土手べりを歩いてお送りする。お月様が明るくて、霧のようなものがおりていて、ボーッとした、美しい眺め。

 二人で終戦後のものでは好きな歌だと仰言る「あなたと二人で来た丘は……」というのをハミングする。

 三鷹病院の横を通る。

「入院するようになったら来てね」

「こちらからお願いします」

「頼みますよ。そして、二人でベッドの上で死のう」

 いつものようにお近くの横丁でベーゼ。おやすみなさい。


十一月二十二日


 野平さんと御一緒に七時頃、再びおみえになる。

 毎日の停電でお気の毒。お泊りになる。


十一月二十三日


 あさ、お見送りしてから東京へ出る。

 吉川さんと、久我さん宅へおよりする。

 下着を、もう一枚着たせいか温かい。

 亀島様から、御本のプレゼント、お心づかいを感謝。

 八時頃かえってきてから、「斜陽」と「晩年」の印を押す。(二万)。四時間かかって出来上がる。二十五日に御持参なさる由なので、是非とも今日中にはと思って。それと、わたしも自分の体をこわしたかったので。

 修治さんばかり病状が悪化するのでは、いや。


十一月二十三日


 斜陽のひとのお手紙に No をつける。信じて私に持たせておいて下さるお心はうれしい。

「さっちゃんの角が出るよ」と御冗談。

「五、六本生やそうかな」と読み出す。

「別に角も出ませんわ」

「カッコの中読んだ?」

「私生児とその母……こういうことは、今の女のひとには随分多い考え方だと思うわ。わたしだってそう思っているし、この斜陽が結局そういう人達の代弁になっているんじゃあない」

 斜陽を御執筆のころ、わたしに良く似た考えの女のひともあるものだと思っていた。──よなかの二時。

〝美しいもの〟

 古田さんが、何日いつか、酔い寝しながら、ブツブツと、

 「僕がこんなに太宰のことを思っているのに、太宰は僕のことを思ってくれない」と。

 修ちゃんと、伊馬さんと、お二人の会話。

 いいお友達ね、羨やましかった。──太陽の如くいけ──って。

 ひとに知られずに播いた一つの種の成長を眺めることの美しさ。


十一月二十四日


 主なる汝の神を試むべからず。

 わがために人汝らをののしり、まため、いつわりて各様の悪しきことを言うときは汝ら幸福なり。


悪しき者に抵抗さからうな

汝らの仇を愛し

汝らを責むる者のために祈れ。

汝らもし人の過失をゆるさば

汝らの天の父も汝らを免し給はん。

隠れたるにまします汝らの父

隠れたるに見たまう汝の父

われにむかいて主よ主よといふ者

ことごとくは天国に入らず、ただ

天にゐます我が父の御意を

おこなう者のみ、これに入るべし。

雨降りみなぎり、風ふきて其の

家をうてど倒れず

これいわの上に建てられたる故なり。

それは学者らの如くならず。

権威ある者の如く教へ給へる故なり。


十一月二十五日


 いい反省になった。斜陽の検印(二万)を持って修治さんと御一緒に東京へ出掛ける。車中、吉祥寺で乗り換えて坐る。(修治さんの御体を思って、立ち通しではお疲れになるのもひどいのではないかしらと考えたので)

 文芸春秋をお読みになっていられた。私は拝借した苦楽の隅田川についてのところをよむ。読み切らぬうちにお茶の水へつく。区役所前まで歩いて、本郷区役所に御一緒に入る。

 私の戸籍(山崎入籍)の手続きが終わるまで待っていてくださる。私のような健康な者にも重く感じられるオーバーをお召しになっていられるので、心配なのだけど、八雲まで歩くと仰言るので、ボツボツ出掛ける。

 帝大前あたりから、奥様の御弟様がいられるので、万一のことがあるといけないからと、いつものように左側と、右側の歩道にお別れしていく。それこそ堂々とした歩きようではなく、少しうつむき加減にして、大学の方を眺め廻しながら、コツコツと軍靴を運んでいらっしゃる。

 二、三間後ろの方から歩く心もちで、私は左側の舗道から修治さんをみつめていました。

 肺病。不治の病だと信じ切っていらっしゃる。でも、あんなに事件が重なってあったのに、生きていられる。

 神様があの方についていられるような気がしてしようがない。

 水菓子屋さんの横を左に折れて、二又道を右に進み、二つ目の横丁を左に曲がると、すぐ八雲書店が見つかった。

 亀島さんが二階から下りて来る。

「サッちゃんが表にいるよ」

「ああ、どうぞお入り下さい」

「先日は失礼いたしました。また御本を御心配下さいまして有難うございました」と〝道鏡〟を御送りくださった御礼を述べる。

 社長室兼応接室のようなところに通されて、一ぷくなさる。

 全集の御相談に時をすごしてから、編集部の皆さんと談話。

 ここの編集部の方々のチームワークはとても静かで美しいバランスがあって、うれしかった。

 一人ひとりの誠実なものが、私達の身に沁むような思いがした。

 みなさん、いい人達だ。

 三時に新潮と御約束があるので、急いで車を拾い、乗りつける。

 小雨の中を、あのダラダラ坂を歩くのはお病身の修治さんには大敵々々。

 野平さんが二階からおりてくる。社長さんだという若僧(悪いかな)とつまらないお話。

 林さんもチラリチラリ用事を持って出入りなさる。少し太ったような感じ。

 顔色の蒼い人だと思っていたけど、今日お目にかかったら、天然の頬紅が広くついているので、ガッカリした。太宰さんも私も、あまり赤ら顔の方ではないからかもしれないけど。すぐに席を千歳に移して飲みはじめる。ここのマダムは、はじめ十八、九位のひとかと思っていたら、どうも私位の年配の方らしい。何しろ断髪なのでね。

 夜分、眼鏡をかけないので、あまり周囲の人に注意をはらわなかったら、西田さんに御挨拶されて、失礼してしまった。

 修治さんがおきらいなので、よしているので時々これからも失礼することがあるのではないかしら。気をつけなければいけない。

 ビールにジンをおのみになって、珍しく先にちょっと横におなりになる。

 我が身に覚えのない病いを心配してはいるけれど、どうしたらよいやら分からない。

 病気について、創作上の苦悩について、家庭について、血のつながりのことや、もちろん芸術のことについてではあるけれど、黙って悩んでいらっしゃる御様子を拝していると、サッちゃんには何故一つでもお役に立つことがないのかしらと、いらいらして、修治さんが可哀想になってくる。

 修治さんは、わたしなどどんなに身も心もささげつくしておつかえしても、心のいやされることはないのでしょう。

 よく「天才だよ」と仰言るけれど、人間としたら、一番神に近い苦悩を負って生きていられるおかただと思う。

 母のように、乳母のように、妹のように、姉のように、子供のように、恋人のように、妻のように、愛して、愛して、愛していく。ほんの瞬間の憩いにでも、私がなることができれば、わたしはそれで、もういいの。

「貴女はお酒が強いですね」と言われながら、一行、新宿駅にいく。

 三鷹まで野平さんが送ってきて下さる。お泊りになるものとばかり思っていたら、今日は帰りますと野平さんは、夜おそくお帰りになる。

 蒼い顔をなさっていたし、平常よりも深く飲んでいられた様子だったし、御気分でも悪くなって来られたのでしょう。

 注射をしてから、おやすみになる。


十一月二十七日


 お家へお帰りになっても、記者諸兄のために休養なされないからと、ずーっと横になったまま朝を迎える。

 私のジャンパーを「丁度いいね」などと仰言りながら、お召しになる。背広はあまり改まるし、第一、長時間着ていると、肩の凝ってくるものだ。

 背広というものは、あれができたばかりの昔は、商人が着用するものだったとか、何かの本に書いてあったけど、私はMだし、陽気も急に冬めいて寒いので、「着物がいいだろう」と和服にする。

 洋服だと、ガタビシ用事ができるけど、着物はあまり動くと、第一に衿もとが開いてきていやなものです。

 三時ごろ野原さんを先頭に、井出さんと、お友達の方が約束通りにおみえになる。

 皆様御手持ちのお酒や、ハムや水菓子を広げて会は始まる。

 随分お飲みになった。

 いつも酒席の前には注射してから、

「お上手にお飲み下さいね」と申し上げるのだけれど、御気性の勝ったお方なので、御無理なされるのだ。

 人のよろこびを我がものと思い、人の苦しみを身のものと感じとる。

 汝を愛するが如く汝の隣人を愛せ。

 神のみことばは悲しい。


十一月二十八日


 昨夜、野原さんが、第一に腹痛。

 実は私も痛んでいたのだけれど、黙っていた。

 お薬のことで、あれこれ悲喜劇があってから、修治さんも痛いと言われて、とうとう本病人になってしまわれた。

 アスピリン、健胃固腸丸、スパスモヒンをやたらに飲まされて、おふとんを被る。汗が体中にじっとりと出てくる。お熱も八度五分位はおありになったかもしれない。肺の方へ来ないかと、随分気をもむ。

 野原さんがお帰りのあと、片付けも終わって、私も横になったけど、心配でたまらない。脈をとって、私のと合わせる。私のよりせいぜい数回多い位なので少し安心して、冷たいタオルを額におのせし、代わりをおいてやすむ。

 カルモチンをお飲みになったせいか、お熱のせいか、ぐっすりと深く眠っていらっしゃる。


十一月二十九日


 朝、すっかりお元気になって、お目覚めになってくださる。うれしいと思う。

 早速おかゆに玉子を入れて召し上がる。

 どうしてもお酒をお放しにならない。何かこれに頼って生きているお気持ちがおありになるのでしょう。

 湯タンポを入れて、とっても長く、とっても深い眠りにはいられる。

 じーっとお顔を眺めていると、私が修ちゃんのお母様かなんかのような気持ちがしてきて、「この子のために、この子のためには、どんな苦しみでも──」と胸の中があつくなってくる。

 そんな気持ちでいるときに、突然お目ざめになって、「サッちゃん」などと言われると、「ううん?」なんて、まるで病気の甘えっ子に答えるような返事が出てしまって、心の中で赤面している。

 御冗談ばかり、よく仰言られるので、ときおり、私も本気になってしまうと、寝ながら、掌の上で手紙の往復が始まる。

 今日は少しも理解できない、ややこしいお話のようなので、紙とエンピツをお渡ししたら「シンジテ」と「バカ」と書かれた。二人で笑う。

「バカ」ということばは、最も嫌いなひとと、最も愛しいひとに使うことができるのだと思う。

 夕方、寝ながら、私が再読している「斜陽」をとりあげて読んでいられたので、とりかえた湯タンポのお湯をもって、お洗濯にいく。

 ねまきと、ワンピースを洗って、お部屋へ戻ってみると、ワイシャツを着ていらっしゃるので「どうかなすったの、怖かったの?」というと、

「いや、斜陽を読んだら、いきり立ってきたんだ。こうしちゃいられない。もっといいものを書かなくては。後から来る人達のために、僕はもっといいものを書かなくてはならないんだ」

 お召しになるお手伝いをしながら、

「本当におからださえ普通のひとのようであったなら、どれほど助かることか分からないのになあ、なんとかしてくなっていただきたい」

        *

      *

        *

 上水の道を歩くお姿は、蒼白くて、軍靴が重そうで、オーバーも重そう。微風にさえも向かえないような、やるせない感じでした。可哀想で、情けなくて、男の友達のように、オイ君、大丈夫かい、と肩を叩いたら、泣き出してしまわれるような、心細い寂しさが私をおおってしまいました。

 セハランチンの注射液がおありになるとかなので、太宰さんを愛している大勢の男のひとのために、大勢の女のひとのために、一日でも早く養生ようじょうして、注射してみて下さるよう御願いする。

 決定的に自分の体はもう駄目だと思っていられるけど、そんなこと分かりませんわ。自らを愛してこそ、ひとも愛せるものではないでしょうか。

 滅私奉公めっしほうこうなんて、第一自分がなくてはできませんもの。

 頑張って下さい。修ちゃんの命は私が預かっているのですけど、私の命は、修ちゃんに預かっていただいているのですもの。


十一月三十日


 父から返事が来た。

        *

      *

        *

修治様

 私が狂気したら殺して下さい。

 薬は、青いトランクの中にあります。

  十一月三十日
富栄


十二月一日


 健康ということには、どうも、一つの無知が加わっているように思われるのだけど。


──治る、治らないのは問題じゃない。

  治ろうとする努力の過程にこそ

  価値があるのだ──。

        *

      *

        *

 『有能な読者は、他人の書いたものの中に、作者がこれに記し止め、かつこれにそなわっていると思ったものとは別個の醍醐味だいごみをしばしば見い出して、それに遙かに豊かな意義と、相貌そうぼうとを与えるものである』──モンテーニュ──


 よ、我なんじらをつかわすは、羊を狼のなかに入るるが如し。この故に、蛇の如くさとく、はとの如く素直なれ、人々に心せよ、それは汝らを衆議所にわたし、会堂にてむちうたん。また汝らわが故によりて主たちの前にかれん。これは彼らと異邦人とに証をなさんためなり。かれら汝らを付さば、如何なることを言はんと思いわづらうな。言ふべきことは、そのときさずけらるべし。これ言ふものは汝らにあらず、其の中にありて言ひ給ふ汝らの父の霊なり。兄弟は兄弟を。父は子を死に付し、子どもは親に逆らひてこれを死なしめん。又なんじら我が名のためにすべての人に憎まれん。されど終まで耐へ忍ぶものは救はるべし。この町にて責めらるるときは、かの町に逃れよ。誠に汝らに告ぐ。汝らイスラエルの町々を巡り尽くさぬうちに人の子は来るべし。


十二月二日


 われ、山にむかひて目をあぐ。わが扶助たすけはいづこより来たるや。わが扶助は天地をつくりたまへるエホバより来たる。エホバはなんじの足のうごかさるるをゆるしたまはず、汝をまもるものは、微睡まどろみたまふことなし、よ、イスラエルを守りたまふものは、微睡むこともなくねぶることもなからん。エホバは汝を護る者なり。エホバは汝の右手をおほふ蔭なり。ひるは、日なんじをうたず、夜は、月なんじをうたじ、エホバは汝を守りてもろもろの禍害をまぬかれしめ、またなんじの霊魂たましいを護り給はん。エホバは今よりとこしへにいたるまで汝のいづると入るとを守りたまはん。

詩篇一二一

        *

      *

        *

 このごろ、お顔のむくみが一きわ目立って感じられてくる。

 お風邪気味でもいられるし、両方の胸は妙布だらけ。

 限りある身の力試さん、といつも仰言ってはいられるのだけれども。

 堤さんの御便りを拝見させて下さる。

 本当によいお方なので、なんだか目頭が熱くなってきた。

 ──先生は短気──ほんとうに。

 ──キリストだって──ほんとうにキリストだって、一度にザアッとなさったのではなく、追われたりしながらも、気長く、歩いていかれた道なんですもの。

 よい作品をお書きになる、ということは一番大切なことですけど、お体だって大切です。大勢の方が心配なさっていらっしゃるんですもの。

 御存知でいらっしゃるのに、ホラ、右がいけなくなってくるじゃありませんか、ああ、お顔がむくんできたではないの、養生できないのね……あなたは、ホラ、右が……。

「寝よう」

「おやすみになります?」

「昨夜も一睡もできなかったんだ」

「お薬は?」

「もうない」

 お話しながらおふとんを敷く。横になりながら、

「昨日、一日何をしていたと思う?」

「分からないわ」

「日本小説のひとがね、ロンドンのジンを持って来たんでね。飲んではグーグー眠り、さめると、また飲んでいたんだ。まったく一日中ぐうたらな生活をしていたんだよ」

「一本全部空けてしまったんですか」

「うん」と笑ってうなずかれる。

「いやねえ、一生懸命注射したり、お薬を探したりしているのに、御自分でちゃんとなさらないんですもの」

        *

      *

        *

 「わたし、修ちゃんを、いろいろなものから守りたいと思っているの。私以外の女のひとなんていうんじゃないわよ。力がないんですもの。でも、努力だけはしているつもりなのよ。」

「分かっているよ」

──モルヒネ中毒になられたことがあるというのに、また、睡眠薬を飲まれていられる。いいのかなあ。


十二月五日


 女ひとりというものは、わびしいものだなあ。

 お目にかからない日がつづくと、もう駄目になってしまいそう。

 良人として、妻としての生活に入るのが、私達の本当の姿だったのかも分かりません。

「妻や子供と別れて、君と一緒になってみても、周囲からの攻撃は、君を一層苦しい立場にするだろうしなあ」

「いいえ、そんなこと、わたしにはできません。奥様に申し訳ありません。わたしはこのままの形式でいいのです。本当に、あなたの仰言るように、十年前にお逢いしとうございました」

        *

      *

        *

かくてのみ有りてはかなき世の中を

     うしとや言わん哀れとや言わん


神といい仏というもよのなかの

     人の心のほかのものかは

                ──右大臣実朝

        *

      *

        *

八雲の亀島様おみえになる。

四日──五日、御不在。


生きていて

ひとりでいて

ぽつんとしていて考える

……………………

はかなさが身にしみてきて

いっそ、と

……………………

苦しみも、佗しみも、悲しみも……

ああ、ひとりしずかにいることの

佗しさ

修治さん!

……………………

エイ、エイ、オウ、ホップ、ホップ、ハッ……

        *

      *

        *

どうにもいたたまれなくなってきて

真暗な夜路を歩いていく

なにか、面影のような

そんなものにでもふれれば、と

お玄関の前に立ってじーっとしてみている

ほの暗いランプが、二つ

ともっている灯は、いらっしゃるしるし

ささやき、もしも?

いや、いや、やはりちがう

奥様と、お客様のおはなしだった

ご免なさい、おくさま


古田さんがお手紙を持ってみえる。

丁度わたしが帰ってきて、これを書いていたところ。

いやよ、いやよ、いやよ。十日もお逢いできないなんて。いやよ、いやよ。

わたし、先に死にたい。ガマンなんかいやよ、いやよ。

        *

      *

        *

羽左さん

泣かせちゃいや

しっかりしてくださいねえ

ちょうどおまえさまの家の前から

帰ってきたらあの飛脚

わたし

ほんとに

もう

おまえさまとは一つわらじの旅の者

どうぞして

早く癒してくだしゃんせ

   五日 よる
梅幸

        *

      *

        *

(注・ここに太宰治から富栄に宛てた次の手紙が貼りつけてある)

「アヤマッタ

クスリヲ

ノンデ

マル三日

仮死デシタ。

シッパイ。

字がマダカケヌ。

手が言ウコトヲ

キカヌノデス。

モウ十日

マッテクレ

ガマン」


十二月六日


 御返事を出そうとして、封筒に住所を書いたものの、三鷹からではいけないと思い、日曜日に、東京へ出て、そこから投函しようと思っていたら、亀島様がおみえになる。

 昨日は面会謝絶で駄目だった由、今日は再度の電報で来られたと──(注・以下四行半抹消されている)

 こんな御返事、亀島様に持っていっていただいたら、御不快にお思いにならないかしら、心配。万一どなたかが、ごらんになるかもわからず、あんな科白せりふで書いたのだけれど、でも、深い言葉として読んで下さることを念じています。余り深刻なものは、かえって御心痛が深まること……と思ったので。

 それでも、書けぬ指にペンを持たれて、御使いを下さったその御返事としては、随分失礼な文面ではないかしら。

 でも、何を書いても、通じるものがあるような気持ちもいたします。

 ブロバリンが十日分買ってあります。

 昨日一包、飲んで寝ましたが、効きませんでした。

 これを一日一包ずつ、十包飲めば、その明日、あなたにお目にかかれるのね。

 御体、幾重にも、御自愛下さい。

 いつも、おそばについていたいのですけれど。

 祈っております。


 亀島様がお帰りにお寄り下さる。

 ランプ入手。

 九日に、ここにおいでになるそうな。

 大丈夫なのでしょうか。

 私が、あんなお便りをさしあげたので

 それで御無理してお起きになられるのでしょう、きっと、そうです。

 もっと、もっと御自分を可愛がって下さい。

 ──ふっと予感──

 そういう奇蹟きせきもあることではないかしら……でも、だめだわ……

 キリストの復活があれば、だけれども──命がけで、尽くしてみます。

 徐々にでもいいのです。現して下さい。


十二月七日


 ひるま、修治さんがおいで下さる。

 つめたい唇、大丈夫なのかしら。

 二重廻しをお召しになったままお話なさる。

 羽左さんの失態については、

 園子ちゃんの笑いごえ、

 奥様の胸のよろこび、

 吉祥寺のおばさんの意外な場面にお手伝いしたうれしさ、など心に残る。

 蒼白なお顔。

 完全でないお体で、お買物がてらお寄り下さったの。

 キーちゃんが夜通し看護なさって、お目覚めの時には、キーちゃんの顔がボーッとかすんでいて、分からなかったとか。

 お手もふるえて

 お口もきけず

 お小用にいらしたこともまったく記憶に残ってはいられなかったとか。

 ヂャールをスプーンに二杯弱で起こった悲喜劇のひとこま。

 あれと、あれと、混合して飲めばいける。

 このごろは、睡眠薬をのんで寝ても、二時間位経つと目が開く。困る。

I love you, but I'm sadly.

 知──理性(科学)、情──感情(芸術)、意──意志(道徳、宗教)。


 太宰さんのようなお方は、生きていらっしゃるだけで、何か、清いもの、温かいものが感じられて、寂しい人生の一角に、ほのぼのとした訪れを知る。

 ネメジスが訪れませんように。


十二月八日


 昨夕、太宰さん、西田さんと、東宝映画の人おみえになる。

 斜陽の映画化、御相談のため。

 結局、お断りになる。

 五、六年後ならいいだろうと。

 それで、三、四年は生きていられるという、お体の見通しでもおつきになったのかしら。

 西田さんお泊りになる。文学、絵画、政治、人物論等に意気投合の御様子。

 朝食後、駅まで御一緒にお見送り。土手の左側を歩いてお帰りになる。お近くまで御見送りする。

 十時頃から東京へ出る。久我山に洋服をとりにいく。相変わらずニコニコと忙しそう。背広、ブラウス出来上がっている。大サービスで一千円の仕立代、ちょっとおどろく。いたい。

 私の働いていた頃のものは、お客様に使っていたので、そろそろ火の車になってきたわい。

 はじめての生活様式なので、さっぱり見当がつかない。

「お金のことはきれいに言ってね」「まだあるの?」などと仰言って下さるけれど、どうも、「もうない、ゲル下さい」なんてことは、中々むずかしくて言えないものですね。

 相手の生活や、気持ちを、あまり考えすぎるせいかもしれないけど、私のような、身も心も打ちこんでしまう性格では、大決心しなければ言えない。

 丁度まるで、あの背の高い人が日響のドラを叩いたあとの、ハッ! と肩を落として息を出すときみたいな緊張感がある。

 独立していた人は、ゲルについてはいえないものだと聞いていたけれど、ほんとうにそういうものの一つがわたしにもあるかもわからない。でも、いよいよ明日は申し上げねばならないわ、きれいに──。


十二月九日


 政治も戦争も芸術も

 一つのことに向かって、進んでいるのです。

 それは、夫婦の愛の完成のためです。

(注・ここに東京新聞の文化欄、第一線の現代作家の「道化師・太宰治」という評価の切り抜きが貼り付けてある)

 田中さんに初めてお目にかかった日。


十二月十日


(注・東京新聞の第一線の現代作家「世俗の達人・坂口安吾」の切り抜きが貼ってある)

恋をしているときは楽しくて、愛しているときは苦しい。
十二月十一日~二月二十二日


十二月十一日


 わたしのこういう生活が、

 あなたにとっての喜びであれば、それがわたしの慰めですの。

 二人の心もちの結ばれは自然です。けれども二人の生活は不自然です。わたしは結婚しとうございます。

 二人が十年前にお逢いしていたのなら、なんにも言われることもなく、周囲の人達も泣かないでこんな幸せなことはなかったことでしょうに。

 人のお世辞も、軽蔑視も、何もかも手にとるように分かっていて、誰方どなたがみえても楽しくはありません。

 でも、わたしは、あのお方に初めて〝恋〟というものを御教えできた女として、あのお方の佗しかった一生の晩年を飾るアーチの菊の役目をして誇らかに生きていきとうございます。

 わたしがほんとうに心から幸せを感じるときは一つだけ。ほんの短いとき。それを信じておりますの。それがあるから苦しい生活にもたえているのです。それは、あのお方の恋したひととして、御一緒に、永い時間待って、楽しみにしていた、永遠の旅立ちをするときなのです。

 わたしは、お人好しの仙女ではありません。

 十一月九日の朝、

 母上京、

 義理と、人情、

 父母と、子、

 父と母、

 母と娘、

 父と娘、

 娘と父母、

 愛、

 馬の耳に念仏、

 わたしの幸せが、あなた方の思っているようなことなら

 血の出るような恋なんか。

 太く、短く、真直ぐに生きたい。


十二月二十日


 京都より、堤様、横田様御上京。


十二月二十二日


 御一緒に、上野浮浪児記について、日本小説の方々といく。

 帰路セレーヌに寄る。一泊。


十二月二十三日


 桜井邸、御留守なので、林家にいき、御迷惑をかける。


十二月二十九日


 お洗濯をしていて知らなかったら、

 氏家さんと、修治さんがおいでになっていられた。

 冷たい風の日。


十二月三十日


 キントンを、

「ええ、その位」と言って計ってもらったら七十円。オドロク。


 島木健作──女一人──

 小説家はつねに美しく真実なものに心かれ、そうしたものをあらゆる世界にたずね求めている。

 世には醜悪なものを底の底からあばいて見せることを仕事にしているかに見えるような作家もある。しかし彼等は、実は世の最も美しいものを強く生かしたいがためにそうであるに過ぎないのだ。


 哀れなもの、みじめなもの、悲しいもの、弱いものが、ただそうであるというそれだけの理由で、私の作家的欲望を刺激するわけではない。そういう哀れさや、みじめさのなかに見い出される美しさや真実が、私にはこよないものに思われるからだ。負けないでそこから伸びてゆく力を見ることはなんという感動であろう。


 女が一人で生きていかねばならぬということは、その生活様式のいかんにかかわらず、決して普通の意味で幸福といわれるべきものではない。物質的に恵まれ、はた眼には幸福であるようにみえても、その幸福は世間一般に言われるものとは異なった性質であり、ことにその本人自身の内面に立ち入ってみたならば、およそ満ち足りた豊かな状態からは遠く、寒峻なものがあるだろう。

 社会は、この最も弱いものを同情するよりは、しばしば一種の白眼はくがんってみる。

 世間は決して素直に、ただ感心しようとはしない。

 ただなんとなくさげすんでみるだけである。

 しかしこの白眼やさげすみに傲然ごうぜんと対していられるのだったら、見るものの感じも違ってくる。

 自分でも女一人から脱け出ようとしていじらしいまでに焦燥しょうそうしている姿に、そうしてまた女一人の生活の空虚さと戦っているうちに、彼女自身の人間が損われ、傷を負うていくところにいたましさはある。

 今日の社会は、このようないたましい存在を益々ふやしていくばかりである。


 女一人の生活者のなかには、周囲の力にジリジリと圧されて、女一人を強いられているものばかりではなく、求めるものが強く正しくて、今日の社会での女の真の生活というものを強く求めて他と妥協できなくて、ついに女一人でいる人も少なくはない。

 性格のどこかにひずみができている。

 知的なもの、抽象的なものへの愛に酔うというようなことのできるものは少ない。


 女一人は、孤独な生活者は、愛の対象を手ぢかには持たぬ。いつでも欲するときにとらえて抱擁ほうようし得る形あるものとしては持たぬ。しかし孤独なものは愛し得ないか。いや孤独なものこそ最も強く深く愛し得るだろう。ただ彼女等が孤独なままに深い愛の生活を営み得るためには、彼女等の愛の対象を求める領域は、普通のにぎやかな生活者のそれよりも高められ、広げられなければならぬ。女一人の生活のあるものは、それを目がけての不断の闘いなのである。


 昨日の生活は今日の生活のなかに生きており、明日の生活もまた今日の生活のなかにはらまれている。生活の基点はつねに今日にある。


 振り返ってみていつの日の生活をとってみても、それは今日の生活のためであったという自覚があり、無駄ではなかったと言い得るのでなければならないであろう。

「女一人」は女一人であることをいとおしみ、愛さねばならぬ。

十二月三十日


昭和二十三年一月一日


〝我に居れ、さらば我なんじらに居らん。枝もし樹に居らずば、自らを結ぶこと能はぬごとく、汝らも我に居らずば亦然り〟

やっぱり私の言葉をいれて下さって、お嬢様と御一緒に井伏様へいかれた御様子。

「先生のようにお顔が長くはないのよ。お目が似ていらっしゃって、マントのようなものを肩にかけてらして、可愛いいお嬢様」とオバさんの言葉。

「明日のひるごろからおみえになるかも分からないって言っていらっしゃいました」とか。

泣きたいような

ほほえみたいような

やるせなく、複雑な思い。

〝我は葡萄ぶどうの樹、なんじらは枝なり〟
──ヨハネ 一五

 修治さん、年が明けました。

 今年もまた、どうぞ宜しく御願いいたします。

 多難な年が明けました。

 今年もまた努力の年と存じます。


一月二日


 昨夕七時頃帰ってくる。

 高見沢様宅にて水泡先生から大黒様の画をいただき、中沢さんにいく。

 オギクボの駅で修治さんにお逢いできないかとキョロキョロ見廻してみる。

 今朝、千草のオバさんみえて、昨夕五時半頃おいでになった由。


一月八日


 美青年とタバコ。好調に書きはじめられる。今年度御仕事はじめの日。

 松の内に、宮崎様、別所様がおみえになる。暮れに河森様おいでになった。加藤さんと御一緒に御相手する。


一月九日


 金木かなぎ町のお家から御写真が届いたから、とお父様の御写真(金木町発達誌?)、お母様の御写真叔母様と御二人のもの(江本写真場)、お兄様(文治様)の御写真(誌中)、修治様の御写真。福田家御家族と御一緒のもの二葉。

 中学生時代のお若いもの、笑っていて、とても可愛らしくて、清い。

 御生家の御写真は正面のものであった。想像の家より小さいように感じられたけれど、全面ではなかったからでしょう。

 二人で異口同音いくどうおんに発した言葉は、お母様の御写真と、わたしの二十六才のときの写真とが、とてもよく似ているということでした。

 二人で泣きました。

 御写真を仏壇にお立てして、修治さんも「泣かせるなあ」と涙しておられる。

「わたし、お約束の、買って下さるという指輪はいりませんから、ロケット銀製のを買って下さい。そしてお母様の複写を入れて、いつでも身につけていたいのです。お母さんと二人で、修治さんを守ってあげたいの」

「親子だと言っても分からないねえ、ほんとうだろう、前に言ったろう? 君は僕の一番上の死んだ姉にそっくりだって」


一月十日


 今朝、血痰がひどく出られた由。

 お体も、めっきりおやせになられた。

 お体にいけないから、と言っても、大丈夫だよ、どうせもう永くはないんだから、と仰言って御一緒に……。

 この日、亀島様、おみえになる。

 おひとりになられてから、ウトウトなさっていられると、太田静子さんのお使者がみえてお手紙を、お手渡しする。

「読んでごらん」と仰言ってみせて下さる。

「今までの中で一番下手なお便りですね」と言ったら、

「うん、一番ひどいよ。自惚れすぎるよ。斜陽の和子が自分だと思ってるんだなあ。面倒くさくなっちゃったよ」

「二人で、なんとかしていきましょう」

 修治さん、急に泣かれて、

「サッちゃん、頼むよ、僕を頼むよ」

「修治さん、いつでもおそばについております」

「独りで苦しまないで、よろこびも、苦しみも一緒にしたいのです」

「僕を良人だと思ってね」

「そう信じてますわ。信じて生きておりますわ」

「みんなが、僕を、僕を……」

「修治さん、泣かないで……泣いちゃ、駄目。ね、あなたのお母さまのぶんとも、わたしは守ります」

「うん、守ってね。僕を守っていてね。いつでも僕のそばにいてね」

 修治さんが可哀想で可哀想で、みんながなぜ、もっと、もっと大事にしてあげないのだろう。

 神様、わたしの命をおとりになってもかまいません。どうぞ修治さんを救ってあげて下さいませ。あのかたの幸せのためなら、わたしはどんなことでもいたします。お願いします。お願いします。神様──


一月十一日


「僕、ほんとうに、死ぬよ」

 …………

 …………

 直治は、ね、「僕は素面しらふで死ぬんです」と私、「僕は素面で死ぬよ……泣かせるない」と、修治さん。


 死ぬことは、少しも怖くありません。

 ただ、作家としての太宰さんの腕が惜しいのです。そのために少しでも永く生きていていただきたいのです。

 あのかたの作品を読んで元気づけられ、生きているたくさんの人達のために、生きていていただきたいのです。


「僕の晩年は、君に逢えて幸せだったよ」

 と仰言ったおことばのためにも、もっと、もっと、喜んでいただきたかった。


一月十二日


 複雑なのです。

 あまりにも複雑なのです。

 いいひと。弱いお方なので問題が重すぎるのです。

 斜陽のひとからの手紙。

 あの最後の御手紙は一番下手なお便りでした。二人の意見なのです。

 織田作未亡人のこと。

 おふとんも上げず、お茶碗ひとつ洗わぬお方とか。女だったら……。

 いろいろな問題のこと、一体どうしようかと二人で考え悩みました。

 奥様にはこうしたことで御心配をおかけしたくなかったのです。

 夕方、野原さんがおみえになりました。


一月十三日


 御病気のほうも、思わしくなくて、今日も、やっぱり床に、つかれたまま、お食事も、わずかばかりで、ほんとうに心配です。

 馬鈴薯ばれいしょのポタージュ、パン。それに、喜んでいただけたのは果物のぢゃぼん(ざぼん?)でした。

「良くあったね。とてもうれしかったよ」

「お好きだって言っていらしたでしょう。丁度あったので、買って参りましたわ」

 お目ざめになってから一つ皮をむいて召し上がる。

「餅がくいてえなあ」

「買ってまいりましょう」

「あるかね」

「ええ、ありますわ」

 お餅も三切れほど、お海苔を巻いて召し上がる。

 御不浄に降りていらっして、階段を上がっておかえりになるだけでも、ひどい呼吸。

「胸が、ひどく痛みますか」

 黙って合点なさってから

「サッちゃん、もう、駄目だよ、もう、見切りをつけたよ」

「家へ帰ったら、もう逢えないような気がするんだ」

「ぢゃぼん、もう一つ買って来た?」

「ええ」

「むいてくれ」

「はい」

「新聞」

「はい」

 黙ってむきながら、泣けてきて、泣けてきて、ただ黙って、泣く。

 召し上がってから

「眠る」

 おふとんをお直しして差しあげようとして、つい顔が合ってしまった。涙がとめどなくこみあげてきて、嗚咽おえつしてしまう。

「サッちゃん、い(死)くよ」

「お願い、つれていって」

合点されて

「一緒にい(死)ってくれる?」

「ええ、お願いです。私、ひとりを残さないで、つれてって下さい」

「いろいろ、世話になったねえ」

「ううん、私こそ……」そんなこと、

「そんなこと、仰言らないで下さい。私の方こそどんなに御迷惑おかけしたか……」

「体さえ丈夫であったらなあ、なんでもないんだのに。サッちゃん、ご免よ」

「いいえ、初めから、死ぬ気で恋をしたんですもの、ご免だなんて、仰言らないで下さい。あなたに、悪いとこなんて、一つもありはしませんわ」

 修治さんは可哀想です。結核なんて病気を、神様は……。

「君は、惜しいよ。僕には、君を死なすなんて惜しいよ」

「いいえ、あなたこそ、私にはもったいないおひとです。すみません。御免なさい。御一緒につれていって下さいね」

「一緒に死んでくれる!」

「ありがとう。とみえ、随分苦労かけたね。あの世というものを、僕は信じないけれど、もしあったら、君をもっと大切にするよ。どこへでも連れて歩くよ。可哀想だなあ」

「ううん、可哀想だなんて、あなたこそ。あなたのようないいひとなんて、もういないのに。い(死)く日をきめて下さい。用意しておきます」

「誰かにまた手紙をもたせてよこすよ。部屋をきれいにしてね」

 うなずいて、二人で嗚咽おえつしてしまう。

 私と一緒なら、お酒も、煙草もやめて、もっと、もっといいものを書くんだがなあ、と仰言った修治さん。

 誰も僕達がこれほど好き合っているなんて、知らねえだろうなあ、と仰言った修治さん。

 十年前に逢いたかったなあ、と仰言った修治さん。

 先輩の方がみえても、別れるのは、やだよ、と仰言ってくださった修治さん。

「短かったけど、楽しかったねえ」

「わたしは、あなたと御一緒に生きて、そして死にたかったのです。わたし、幸せです」


一月十四日


 夜明け方に吐かれる。

 カストリと水だけのようだったのでお食事に召し上がったものは消化されていたことにホッとする。

 気持ちが落着かないし、

 創作のテーマは次々に浮かぶし、

 体は不自由だし、

 ままならぬ、うきよ。


 いつもきっと本を手にしていらっしゃる。熟睡はおできになれないのです。それでも今日は幾分御気分はよくなられたのか、笑顔などなさったり、お話なども自然になさって、うれしい。

 吉祥寺まで出て、ぢゃぼん四個買ってくる。時々、脚のマッサージをつづけてする。

 お仕事のための布団カバーを縫う。

 安らかに、おやすみください。

 すこしでも永く。


一月十六日


 太宰さんに頼まれましたので、御便りいたします。

 夏の頃からの疲労が、冬に入ってからは殊にひどくて、お仕事にもさわられるようなことが度々でございます。御手許もだいぶお苦しい様でございましたが、このごろは喀血量も目立って多くなり、どうにも続けて仕事をなさることができなくなりましたので、御自宅の方で暫く御療養なさることになりました。いろいろと御自分で当たらなければならない御用事もおありなのでございますが、御容態が悪いので人を頼んで御用事をなさることになりました。

 それで、先日、姉上様よりのお便りの、お金のことにつきましては、依頼したおひとに、あちこち調達させていられますから、もう少しのあいだお待ちくださいますように、太田様より姉上様へおつたえくださいますようお願いいたします。よろしくおねがいいたします。
かしこ


一月十六日
太宰治
太田様
代理


一月十九日


 朝、お部屋の大掃除、真黒な顔のまま、修治さんのおいでをお迎えする。ケイソウ様も御一緒。

 落ちくぼんだ眼がだるそうに輝いていて、心配。いろいろのお買物のお手伝いをしてお別れする。明日からお仕事なさるとか。大丈夫でしょうか。

 午後区役所へいき、加藤さんにお逢いする。

 百五十羽ぐらいの雁が連なって飛んでいる姿を、はじめて今日みる。すうーっとするような気持ちよさ。人形町にて。


一月二十日


 御無沙汰いたしております。

 年の瀬には御丁寧ごていねいなお葉書を頂戴いたしまして恐縮に存じております。

 遠路、御上京くださいましたのに、かえって不調法なことばかり重ねておりまして申し訳ございませんでした。ウィスキーのことにつきましては「どうぞ御放念下さいますように」との、おことづけでございます。御迷惑おかけいたしまして、ほんとうにすみません。太宰さんの御言葉に寄せて過日の御詑びまで。

  横田俊一様

(註・ここに「光る太宰、丹羽両氏─中央文壇に目白おしの作家群」と題した新聞の切り抜きが貼ってある)

        *

      *

        *


 昨夜、津島一家御両親様の夢をみる。

 お父様は、あの拝見した御写真のような御姿。

 お母様は日本髪でなく洋髪でした。

 ウツラウツラと連続的に一晩中みていました。

 修治様と私が、夫婦のような、恋人のような間柄でした。でも楽しい夢でした。

 神様、ありがとう。


一月二十八日


 伊豆から御便りある。

 もう一度、前からのものを開いて読ましていただく。No. をうち返す。冷静に(はじめのとき)読んでいたつもりなのに(三度、四度目から今日で)そうではないらしかったことを知る。

 No. が随分前後している。これを読んでいると、自然に頭が痛くなってくるから不思議です。伊豆のひとも可哀想です。わたしも可哀想な気がします。奥様のことも……。

 二十五まで生きればと思っていたのに、三十まで永生きしたのですもの。もういつ死んでもいいわ。わたしに両親がなければ(いけない考えですけど)どれほど、と考えたりしています。

        *

      *

        *

「修治さん(とお呼びするのも少し恥ずかしい)毎日、不安でしょう。いつでもおののいているような感じなのです」

「うん、死にたいと思うよ」

「いけるところまでいきましょう。やれるところまでやってみましょう、ね」

 ──お家の近くのあの、横丁で……。

「じゃあ、また明日、頼みます」

「ええ、お体お大事に」


 二十三日、二十四日、二十五日、二十六日、二十七日とお泊りになる。

 二十三日、野原さんがおみえになったときから、やっぱり御体が思わしくない様子で憩われる。

 足を叩いたり、注射をしたり、お尿水もだんだん薄色になってきて、大分お体の調子もよくなられた御様子。お声も、しつかりしてこられた。それでもわたしは不安、不安、不安。

 わたしも、毎日、不安ですの。

 昨夜、コンテさんが泊って、御送りしながら、吉祥寺のお風呂やさんへいく。

 途中で、

「とみえさんが英語を習っているときね。わたしは、かなしみや、淋しさから逃れるために語学を習うの──と言ったでしょう、あれ、本当ね」

「そう、そんなこと言ったかしら、忘れたわ、けど、それ本当よ」

 今日八雲の方達みえて、修治さんの写真を撮る。

 このごろ、どういうものか修治さんとお呼びするのが、とても恥ずかしくなった。

 とても、むずかしい本が読みたいこの頃。

 五日、六日と千葉方面へいらっして、御仕事なさることに決定。

 何かぶらぶらしているのはいやなので、語学をまた始めようと思います。

 十年も遠のいていると、全然忘れていて、習った言葉はつぼみのままで開いてくれない。修治さんはフランス語を、と仰言る。こっそり独習しておいて、夏になったら、午前中でもアテネ・フランセへいこうかしらと考えている。

 わたしが試験をうけたものが、今度国家試験になるそうな。どこかへ名前だけでも入れて置かないと資格がなくなるとか。誰かがわたしの資格でお店ができればいいけど。わたしは修治さんと生きていくつもりですから、どうでもいいのです。

        *

      *

        *

 皆様おそろいでき年をお迎えのことと存じます。

 太宰さんの「お便りをとても愉快に読みました。ありがとう」という言葉に添えて、この老骨よりお便りいたします光栄を感謝いたします。シラミ荘では、いつもいきとどかぬことばかりで、大変失礼いたしました。これに懲りずに、どうぞ御上京のみぎりは御立ち寄り下さい。この間、横田様から今にも涙の落ちそうな詑状がまいりましたので、〝まあ、まあ、そうあわてなさんな〟とでもいうような御返事を代筆させていただきましたのでお知らせいたします。

 東京には、また怪しい人間の出現とか。

 太宰さん、あちこち大忙し。

  まずは御挨拶まで

井上四十九拝
堤 重久様


一月三十一日


 結核、修治さんが御病気なので、野川家同居人一同の恐怖。

一、ゴミ溜に棄てたちり紙の件

一、御不浄の消毒の件

一、洗物を井戸端でしてほしい件

 等について、今夜野川さんから聞かされる。

 はいはい済みません。

 こういうことは修治さんには言えぬこと。

「山崎さんも苦労しますね、済みませんけど頼みます」

 はいはい済みません。

 共同生活にはつきものの、こうしたことども。

 はいはい済みません。

 わたしは修治さんの幸せになることなら、どんなことでも致します。昔のようにお家がいくらでもあれば、何のことはない事件なのだけれど。今日はじめて「山崎便所」のわけが分かった。あちこち使われることは、気持ちのよいことではなかったのでしょう。

        *

      *

        *

 この間の父からの手紙。ちょっと悩ませるわい。わたしが老後をみなければならない理由はないのだけれど、なんとなく期待されていたらしい私。

 修治さんにお逢いしない前だったら、きっとみられたことですけれど、いま、私一人の身勝手はいけません。生活費の一部を送らして頂いて、兄か姉と御一緒の生活をしてもらうより方法はありません。人に仕事をまかせて、監督だけしていけばいいような経営方針をたてていけば、こうした不安もなくいられるのに。

        *

      *

        *

 御無沙汰いたしております。

 いつぞやは、いろいろと、御心配くださったお便りをいただきまして、肉親の濃いものを身に感じて、うれしく存じました。ほんとうに申し訳ありません。わたしの気持ちは全部初めから書いて、可否はともかく、理解していただこうと思っては、ときおりペンを執るのですけれど、あれもこれもと思うと、頭の方が空回りしだして、少しも、一行も書けなくなりますの。

 今日の御手紙も、別に具体的なお話にはいれない気持ちなのですけれど、唯、このあいだの御挨拶のような気持ちでペンを執りました。

 一信、二信、とお便りいたしますうちに、あのことにふれていけると思いますの。

 どうか、それまで待ってくださいね、すみません。

 父の気持ちも少しは納まったようでございますね。

 わたしは、どうしても現在の境遇を変える気持ちはありませんの。このことは、二信、三信と書いておりますうちに、お話できるようになると思っております。でも親子ですから、それだけ悩みも深いですし申し訳ないと思っております。老人ですので老い先のことどもも心配でしょうし、わたくしが、このような生活に入っておりますので両親もつれづれには自分の安息場所のことなど心配していらっしゃると考えております。

 これについては、兄さんともよく御相談したいと思っております。幸せとか、不幸とかいろいろな言葉が浮かんでまいります。

 わたくしには、こうした言葉の本当の意味は分かりません。もしも言うことができれば、この二つを一緒に抱いた生活のようにも思えます。目下のところは、太宰さんの御家庭にはなんのお変わりもありません。勿論、奥様が御存知ないからともいえるのでしょうけれど。家庭の太宰さんの、ほんとうの幸せのために、奥様にもいいたい言葉もございました。今のわたしから言うのは不自然でしょうし、失礼なのかも分かりませんが、妻として(奥様のこと)なぜと、いいたいと思うこともございます。

 兄さんには、ほんとうのことが言いたいのです。今後少しは、甘ったれた文章やべそ文章を二信、三信の中に書くかも分かりませんが、お赦しくださいませ。

 ただ「なまじの心では親兄弟を泣かせることはできない」ということだけは決心しております。

 今までの私から考えますと、あまりの転換なので、わたしもひとしお、深く考えております。兄さんの御生活のことも、随分心配しておりました。こんなことは失礼なお話なのか分かりませんが。二人しか残っていない身内の私共一族と戦災後の貧乏生活なので、一層気にかけていたのです。でも近い内にお家も出来上がる御様子ですし、お仕事の方も順調の御様子なのでわたしは涙の出るほど、うれしく思っておりますの。

 二信、三信と書くお便りは、どうぞときには友達のような気持ちで判読してくださいませ。でもそのお便りは、太宰さん個人にも触れることなので、どうか、他言(他人の意味ではありません)なさらないで欲しいのです。

 わたしのことは、よいのですけど、わたしだけに信じてお話なさったことがらが、万一、誰かに知れて、そこから三の人四の人という風に広がりますと、それこそ、どうしてよいやら死んでもお詫びのしようがなくなりますからお願いいたします。

 このあいだのお兄さんのお便りの中の、自分だけの幸福は、わたしもいやです。わたし達の生活の意味はとても深い理由やら、人知れず苦しい恋やらがありますの。よく分かっていただけるように、真面目に道を振り返ってお知らせしたいと存じます。自分の問題や、山崎家の問題などが、一時にわっと、頭の中へ押し寄せて来るときがありまして、苦しいときがよくございます。

 御相談いたしますから、これからも、おききくださいませ。毎日、御多忙のことと思いますが、ときおり御葉書の一通でも御送りくださいませ、いつも待っております。

 ではまた、あとで

  姉上様によろしく

かしこ
一月三十一日
富栄拝
兄上様


二月九日


 きょうはお便りありがとうございます。

 読みびとの態度はよろしくなくて、くすんくすん笑ったりなどして頁を追っておりましたが、三枚目あたりから、横田の余りといえは余りな無礼さに憤りました。私も江戸ッ子の一人ですからご多分に洩れず短気者ですし、八方美人は嫌いですから、断然絶交いたします。

 ことに敬愛し、信じている方々の心を傷つけて平然としている人などには用はありません。そんな人は大嫌いです。私のパリサイ人が一人できました。これは悲しい、淋しいことですけど仕方がありません。

 ○○教師、太宰礼讃者が聞いて呆れます。悪かったら悪かったと、ほんとうに詫びたらいいではありませんか。

 私に対しても、あのご存知の葉書といい、過日入手しました手紙といい、まるで女学校卒業したての、ほやほやとでもいうような人に送る内容──、いくら太宰さんと交際している人に送るものだからと言っても、随分馬鹿にしたものです。女高師の女学生ではございませんよ、と言いたい程の気持ちがいたします。そうお思いになりません? いくら自由主義の世の中だからと言っても、案内も請わずに、づけづけ上がり込んだり御主人のお留守中に奥様と長話をしたりするような人との交際はご免です。自由という言葉の裏面に、束縛という厳しい文字のあることを、彼はご存知ない訳でもありますまい。私はそのような、自分のものにしていない言葉で書かれたお便りなどは一通も欲しいとは思っておりません。第一お世辞なんていやなものです。

 というような訳で、過日太宰さん宛に参りましたものを同封いたします。どうぞご覧くださいませ。これは唯一の証拠物件でございます。私が葉書中に「あほくさ」ことを書き加えましたのは、堤様へもお知らせしておかなくてはいけないと思いましたので──。あちこちのひとの心を傷つけて、なんという情けない人でございましょう。太宰さんは、お体の方も、お仕事の方も、とても好調でございますから、およろこび下さいませ。

 三月号か四月号の小説新潮に『眉山』というのをお書きになりましたが、これは、きっと堤様の腸ねんてんの原因になる恐れの十分にある作品ではなかろうかと、思われます。

 それからこの間、全集にお載せになる写真を撮りに、カメラマンの田村茂氏がみえまして、いろいろスナップしていかれました。丁度さきほど八雲のひとがみえまして出来上がったものを見せていただきました。私も全スナップを密着で頂けるようにお願いいたしましたから、できてまいりましたら、その中からどれかをお送りいたしたいと思っております。

 玉川上水の堤のあちらこちらから、可愛い芽生えが感じられて、厳しい冬の名残りもあとわずかに思われます。

 お体どうぞ御大切になさって御精勤くださいませ。乱筆にて失礼ながら御返事まで、

かしこ


二月十七日


 昨夜お泊りになる。

「サッちゃん、たまに、泊って欲しいと思う?」

「う、どちらでも」

「泊らなきゃあ、俺がやりきれねえ」

「でも私には、そういうより他、仕方がないんですもの」

 何となく異った雰囲気でした。

 おふとんに入っても、ことさらのように体を遠のかせて、寝ていらっしゃる。

 お休みなさいを言って眼をつむる。

 黙って、黙ってそのまま私も動かない。

 ソッと、起きられてお寝巻を脱ぎ、

 おふとんの上に脱がれた着物を、とろうとなさる。

二月十七日の晩のことがあってから、わたしの心が一層根を張り、情熱だけでなく、なにか、透きとおったものの道の上を歩いていけるような気がして来た。


二月十八日


 電替一万御送りする。


二月二十一日


「伊豆の方」から電報あり

 御上京の由

「みこころのままになさしめたまへ」

 夜、奥様が千草へお迎えにみえる。

 愛子様が御危篤の由、

 せっかく、仲睦まじくして、未だ一年にもおなりにならないお方なのに。

 御気の毒と言うか、言葉を知らない。


 残した人に愛情があったということ程、いたましいことはない。

        *

      *

        *

 前略

 電文の追信をさせていただきます。

 奥様の妹様の御容態が悪化なさって、昨夕御危篤の電報がございました。妹様の御身内では太宰さん御夫妻が御両親代わりに御力添えなさっていられましたので、このたびのことにもいろいろとおとりこみのございます御様子で、このため今月は御仕事の方も、つまり落ちついた時間も、お持てになれないようでございますから、御上京のおりは、来月になさって下さいますようにとのことでございます。

  とり急ぎ右まで

かしこ
太田様


二月二十二日


 もしかしてすこしのあいだ、おとりこみのために、お逢いできないのではないかしら、と不安なので御便りいたします。

 あの、──御返信の文面は、同封いたしましたもののどちらを打てばよろしいのかしら、それとも、別な内容でお書きになります? お知らせ下さいませ。

 それから、〝渡り鳥〟の最後へ「──なんにもないんだ──」とかいう意味の青葉を、書き入れなかったと仰言っていられましたけど、これは、あのままにして置きますの?


 それとも一応、打電なさいますか、気にかかりますのでおたずねします。

 椎の実が雨に濡れながら、静かに流れていきました。

 何ごともないように祈っておりましたけれど、おつらいことが重なりませんでしたかしら。

 心配しています。

修治様
富栄拝

私ばかりしあわせな死に方をしてすみません。
二月二十二日~六月十三日


二月二十二日


〝桜桃〟の中の言葉らしい表紙の文字。お掃除のあと、何気なく目についたので、修治さんはおいやかと思われるけれど、いただいて貼る。

 これを見ていると、つらくって、肩の張りや体の力が、ずるずるずると落ちて、流れていくように感じるのだけれど。

 かなしい、かなしい言葉です。

 父親として、どのようなときにでも、決してお忘れになれないことですもの、ことにお子様をあんなに可愛がっていらっしゃるお方ですもの。


二月二十七日


さびしさの極みに堪へて天地に
寄する命をつくづくと思ふ
──左千夫歌集──

 太宰さんの気持ちがぴんぴんと胸に響いてきてたまらない。

 まるで、もう、くたくたに疲れていらっしゃるのに「限りある身の力ためさん」と、ぐっと起き上がっては又、口述していらっしゃる。可哀想で、今日は、涙が出そうでした。

 悲壮なお顔でした。

 織田作一周忌の夜も、同じようなお顔で帰っていらっしゃいましたね。お芙美さんの非芸術的な場面のお話を伺って、むらむら致しました。私が林家へ御伺いさえしていなければ御一緒に御邪魔できて、こうしたひどい結果にもならずにすんだろうと口惜しく思いました。

仮りそめの旅先にありても

その地に生涯を送るが如く

あらゆるときに親切をなし

真実を語り

友をつくるは よきことなり


──ジョン・ラスキン──


 今日はつくづくと思ったことなのですけど、男も、四十近くならないと、やっぱり本当の男ではないなあ、と。三十前後の男のひとって、ほんとうになにも分からない。

 それは、学問的なことではないし、常識すぎるほど常識的なことなのだけれど。それから、きたない言葉を文面に平気で書いて来るひとがある。これは私宛のものではなく、男から太宰さん宛のものだけれども、やだなあーと、今日も思った。


二月二十九日


 修治さんの奥様の妹様が御危篤で、宇留田さんと三人で東京へ出る。新宿で宇留田様とお別れし、二人御茶の水駅で下車。帝大病院前まで御一緒にいき、三十分後、正門近くでお逢いする約束をしてお別れする。

 車中、拝借した神西清さんの斜陽についての作をブラブラ歩きつつ拝読する。正門前横の喫茶店でコーヒーをのみ、時間を見計らって外へ出る。丁度門内から出ていらっしたところ。都電に乗って豊島先生の御宅へ御尋ねさせていただく。御体の調子が悪くて、何だか大変大儀らしい御様子でしたので、早く御暇おいとましなければと、折を考えながらお話を伺っていたら、古田さんから御電話。しばらくして古田様と神田へ出る。

 丁度、この日は日曜日でセレエヌは休日だったけれど、二階へ上がってお酒が始められる。その日は泊り、翌朝七時奥様と御一緒にお風呂へいく。帰途『斜陽』の話が出て、「斜陽の人と、私とは、はいった道が違います」と、なにげなく言った言葉が、奥さんの気にかかったらしく、帰ってきてから、「太宰さんはサッちゃんと、なんでもないんでしょう?」

「なんでもなくないんですよ」

 という会話から一瞬にして雰囲気が変わって、奥さんは急に憂欝になられ、私が可哀想だと涙をめている。

「いまの若い人の気持ちは分からない」と。

 この日、たまたま古田さんから口火が切られたからのことで、古田さんにプロテストする。修治さんも悲しい顔するし、私も涙を出すし、古田さんはしょんぼりなさるし、奥さんは、ますます御自分の苦悩をぶつけるし、愛とは、ほんとうに苦しいもの。


お互いをすっかり知り合うために、

心のすみまで打ち明け合っている。


 昨夜、「みんなを帰して、泊っていく」と仰言っていられたけれど、奥様からのおことづてで留守番に御帰りになる。

 外套を御着せして、出掛けた。顔見合わせて、二人共、淋しい笑い──。

 野平さんと、近くまで御送りする。

 今日は形容のないくらい御疲れの御様子。あとが、平常であって下さればいいと、祈る。


三月一日


 朝、お使いの編集者がみえて御一緒にお帰りになる。十一時頃、千草の小父さんが来て封筒を「これを──」といって太宰さんからの手紙を渡される。煙草、その他を買って、私自身で持って来て下さいとのこと。早速身仕度していく。

 園子ちゃんと二人で、しょんぼり火鉢に当たっていらっしゃる。「かき」「とうふ」「しらたき」の鍋物をお作りして召し上がる。

「園子ちゃん、いらっしゃい」と私の膝の上にだっこしたら、恥ずかしそうにしてお父さんのお顔をみていられた。あやとりしたり、犬や猫をつくったり、毛糸で花を造ったりして、心配することなく、親しむ。素直なよいお子様。正樹ちゃんが、ハンモックに寝ていられた。他の編集者の方達もみえて、太宰さんはその接待で大忙し。正樹ちゃんがお目覚めで、おむつがすっかり濡れていたので、それを取り替えてあげてから御飯を召し上がる。園子ちゃんは私に少し馴れたせいか、ちょっとお台所の隅の方に隠れたりして、笑っている。園子ちゃんも御一緒にお昼食。お客様のお鍋から温いものを取り分けて差し上げる。

 正樹ちゃんは夏の頃より随分御身大きくお成りになったし、太って、それにお体の方も、とても良くなられたような心地。お目など、あの頃のようにキュッとした、不安定でなくなっているし、太宰さんが御心配なさるようなお子様として成長なさることもあるまいと思われた。三時ごろの遅いお昼食だったけど園子ちゃんが「母ちゃん早く帰ってこないかなあ」と思い出しながらあやとりしていて、「ほら、できたわ、母ちゃん」と私に仰言ってから、間違っていたことに気付かれて笑っている。私も一緒に笑ってしまう。三時半頃御宅を去る。

 父親と子供との生活は、側でみていられないほど、わびしいものです。

 帰ってきてから、何か、うれしかったような気持ちを味わう。

「あれだ、と言ったよ。他にいろんな女の編集者が来ても言わないのに、分かるんだね、怖いよ」

「私は園子ちゃんも御留守かと思って伺ったのに、随分危険なことなさるんですね、大丈夫ですか、あと……」

        *

      *

        *

(注・日記には次のように記された太宰治自筆のメモが貼ってある。)


煙草と何かオカズ(たとえ

ば、カキなど)買って、

あなた自身 とどけて

下さい、寒いのに

気の毒だけど

右おねがい


三月三日


 野平さん御夫婦が、太宰さんと御一緒にお昼頃おいでになった。毎日新聞の平岡様と古谷さんが午後おいでになる。

(お友達として今の私に、何かを与えることのできる人は、何かを学ぶことのできる人は、加藤さんと久我さんになってきているようだ)

        *

      *

        *

 およそ人間のうちで最も社交的であり、最も人なつこい男が、全員一致で仲間外れにされたのである。どういう苦しめ方が、僕の敏感な魂に最も残酷であるかと、彼等はその憎悪の極をつくして考えめぐらしたのだ。

──ルソオ──


三月七日


 東京発十二時四十分、熱海行。カンヅメ。太宰さん。私。古田さん。セレエヌのマダム。石井さんの五人。

 熱海銀座を眼下に、眺望のいい起雲閣へ登る。どうも、どうも、山の上だけあって全く「登る」です。桜井兵五郎の別荘だったのを、旅館にした由なので、ちょっと不便に思われるところもある、今度の旅行は、古田さんに一人ぶんの御迷惑をおかけしていて申し訳ないと思っている。

 海岸通りの本館から支配人の吉田さんがみえてひとしきりにぎわう。


三月八日


 今日は帰ると仰言っていられたので御見送り方々下へおりる。「常春」で美味しい(私には少し濃すぎる)コーヒーを飲み、ウィスキーを召され、私達だけ山へ帰る。古田さんは本館へ宿泊の由。夜、石井さん、二重マントを持ってきて一泊。


三月九日


 朝、古田さんから御電話あり

「奥さんですか?」

「サッちゃん」

 まさか「奥さんですか?」に「はい」などと答えられるものですか。

 熱海は暖かいと思いの外、案外、東京と同じ陽気なので、がっかり。


 伊豆の方に、ここに来てもらって話をつけようかと思う、と仰言るので、背筋がすうっと寒くなって、力が抜けて、少しふるえ出してしまったけど、一度は逢って話さなければならないと仰言っていられたので同意したことから、波紋を招いて、昨夜(八日夜)は一晩中二人共うつらうつらしたりして、語り明かす。お互い私達は思いやりすぎて、ときどきこうしたことが起こる。

 どうしても別離などのできない私達のこころ、一層愛情を深め、信頼を高めて生きていこうと暁を迎える。

 伊豆の地平線は、お乳の先にふれるくらいのところと書かれてあったけれど、ここでみる地平線は私のまぶたのあたり。

 今日は太宰さんお疲れの様子。小半日、うつらうつら。


三月十一日


 昨夕のこと、二度目の女中さんに「志」をあげるときのことばから端を発して、いろいろ御注意をうける。デリカシーの有無ということになるのです。危険でした。ひとりで生活しているうちにしらずしらずデリカシーというものが薄らいで来てしまったのでしょうか。ものぐさな心が、一人居のうちに強くなってきたのかも分かりません。これからはますますよい恋人になるために、改めて努力していかなければならないのです。加藤さん、岡本さん、コンテさんに御便りする。

 日常生活の様々な慣例から一歩外へ出て手段や判断を迷うことは愚かしいことです。

(注・十一日付と十二日付の間に太宰治の寝顔がスケッチしてある)


三月十二日


 雨霧がかかって美しい山上の眺め。

 昨夕は悪感おかん発熱して、ひとしきり寝苦しかった。修治さんもおこたにのぼせて発汗。おねまきを更え、湯たんぽをとり替える。

 今朝は寒気も薄らいで、気分も良く、うれしい。近視なのに無理して眼鏡をかけないでいるので、眼から疲れが頭や肩などにいくらしい。時たま目を開けていられないほどチクチク痛むことがある。


       *


恋をしているときは楽しくて

愛しているときは苦しい


 情熱だけでは、ほんとうの恋愛には遠い、理性が加わらねば……。

 経験は何ら私達を嚮導きょうどうするものではない。経験のなかに確信を求めるくらい馬鹿々々しいことはない。

 頭痛も薄らぎ、お相手できるうれしさ。

 一番初めのように、お話することもなくなって、体が凍るように感じることがある。

 日中はいつも私にサービスしていて下さる人。何かお叱言をいったあと、必ず慰めの言葉を仰言る。


三月十三日


 雨、昨夜、修治さんは一睡もされない。不眠症のおそろしさ、可哀想。


 眺望は、霧に覆われているので、この山荘は一層高くみえる。


三月十七日


 曇、十五日、十六日と山を降りる。

 昨日は速達と電報を打つためにいった。

 熱海は浮浪者というような人々をみかけない。物価が随分高い。ここの普通の生活者たちはよくやっていかれるもの。

 十八日には海岸通りの本館に一泊することになっているので、靴も少しは磨いておこうと路傍のみがき屋さんに磨いてもらう。二十円。となりの「兄ちゃん」風の修繕屋さんがノコノコ出てきて、ラバを張っておいたほうがよいですよ。砂利道を歩いたでしょう。ですから底のシンが折れて表面に横すじが出ています。「いまのうち──」といわれて、マンマと三百八十円。随分ひどい。

 山の崖道で「花の木」と土地の人たちが言っている美しい若い花を手折る。それから別館の入口ですずらんのような美しい一枝。

 お酒をお飲みになって、いつもよりよい御機嫌になられて義太夫をうなりはじめる。六、七段ほども、あれこれと、おやりになって、あとは新内──。声色(御得意の羽左、梅幸)東京でおききしたよりは、声量もずっとあって、お上手でしたけれど、あとでお体が悪化しないかと、そればかりが心配で聴いていてもはらはらしてしまう。

 まだ血痰は出ないけれども、うす黒い、ごみのような痰が出る。これは病気が進行している証拠だと、いつか仰言っていられたけれど、どうにもならないものなのだろうか。

 昨夜は胸のエキホスをとり換えながら、修治さんは悲しそうな顔をなさっていられる。

 もろもろの過去が浮かび上がってきて、修治さんに迫る。それがみな現実につながっていて、しかもなお生きているのだから、やりきれない、たまらない気持ち。

「僕が万一、寝ついたら……」

 と仰言る。

「来てね」

 と仰言る。

「寝つけば、三月みつき位で駄目だ」

 と仰言る。


 旅をしてみて、ことに私は自分の常識の浅いことを深く感じる。

 男のひとは、常識などに捉われていたらそれこそ何もできやしまい。でも、女は常識的なものを第一に持っていなければいけないと思う。

         *

       *

         *

 愛と尊敬とをうけるだけの態度(才能)を失わないように。

 絶えず変化してみせる能力を備えていること。

 才能──本当の美しさに対する才能──を磨くこと。

〝夫婦が、お互いに相手に対して自分の義務を果たしている場合、どちらかが先に亡くなったとして、より多く失うのは、夫であろうか、妻であろうか〟

 夫は妻の夫であるが、同時に国の民である。妻はこれに反し、夫の妻以外の何者でもない。夫は妻に対する義務を負っているが、同時に祖国に対する義務を負う。妻は夫に対する義務の外、なんらの義務を負っていない。妻の幸福は、夫の欠くべからざる目標ではあるが、唯ひとつの目標ではない。同胞の幸福もまた、彼の祈念するところである。

 夫の幸福はこれに反し、妻の唯ひとつの目標である。夫は全力を挙げて妻に奉仕するのではない、夫の全部が妻のものではない、妻ひとりのものではない。社会は夫の力を必要とする。妻は夫以外の何びとのものではない。妻の全部は夫に属している。妻は夫がその義務を果たすとき、名誉と安全を侵害するものとに対する保障ならびに生活必需品の給与をうけるにとどまるが、夫はこれに反し、妻がその主な義務を果たすとき、彼の現在の幸福の総和を受け取る。妻は夫が幸福でありさえすれば、それだけで幸福なのであるが、妻が幸福であっても、夫は必ずしも幸福ではない。妻はまず夫を幸福にするよう努めることが必要である。夫はそれ故、妻が夫から受け取るよりも、無限に多くのものを妻から受け取る。従って夫は、夫の死に際して妻が失うものよりも無限に多くのものを妻の死に際して失う。

「妻は名誉と安全を侵害するものに対する保障並びに生活必需品の給与を失うにすぎない」

 ──異議あり、これが完全に近い言葉とするならば──、最初のものを妻は法律のなかに再び見い出すこともあり、また、夫は妻のために、親戚、場合によっては子供たちという形でそれを残す。さらに妻はもうひとつのものを遺産として夫から受け取る場合もありうる。しかしながら、妻の死によって夫が失うものを、どのようにして妻は、夫のために残しうる成算があるであろうか、夫は彼の現在の幸福の総和を失う。妻と共に、あらゆる幸福の源泉は枯れつくしてしまう。妻を失うことは、夫にとってすべてを失うことである。しかも、妻が夫のために残しうるものと言えば、過ぎ去った幸福に対する哀愁に満ちた追憶であり、夫の状態をさらにますます悲しみに沈ませるところの追憶であるにすぎない。

         *

       *

         *

 愛の掟こそは、気高い人によってのみ高められていく。

 計算性と秩序。

 女の本当の眼覚めは、自分のこの世の生活の使命について、理性的に思考する能力を持つことなのです。

 ──ウィルヘルミーネ、あなたが、頭と心を働かして教養を深めていかれる有様を見せて頂くという悦びが、私に支えられ、そしてまた、私のための理想の妻、私の子供のための理想の母。

 冴えた頭をもち、理解力ひろく、非の打ちどころはない。絶えず理想の声に耳を傾け、すすんで心の働きにすべてを任せる。このような人にあなたを作りあげることが許されるならば……。──

──クライスト──


 私は目の前にある魂の性質を知り、その用途を理解しています。それは純粋の金を含んだ鉱石で、私は金属を石から離しさえすればいいのです。

一番小さい子供には話すことを

真中の子供には感じることを

一番大きい子供には考えることを

貴女は教えておられる

ひとりの子供の強情を剛毅に

もうひとりの傲慢を卒直に

三番目の弱気を謙遜に

そしてみんなの好奇心を知識欲に


三月十七日 雨


 新潮社の副社長と奥様(山本有三令嬢)、三時頃おいでになる。酒席を開いて六時ごろ山を下る。

 お体の調子は、湿布をしたり、注射をしたりしているけれど、やっぱり思わしくない。憂欝。


三月二十三日


 どんな貧困と戦っても、自分の夢を実現しようという本当の芸術家によく見る執拗さ。

 そういう芸術家に付きものであるかたくなさ──。


 夕食に「ふぐ」を料理していただく。最後に食前の残りバターをいただいたら、何だか気分が悪く、寝る前に吐く。鮮明な色の紅いものが、少し固まって混じって出る。紅色のものなど、今日はいただかなかったので、ちょっと心がかりになって、よくみると、どうも腸壁か何かの、血らしい。万一血であっても、しっかり修治さんの御世話をさせていただかなければならない体ゆえ、頑張れと自分にいいきかせる。二度吐いて、

「ふぐいただいて吐くなんて失敗だね」

 と笑われ、笑う。


三月二十四日


 来た日から雨降りつづき。

 昨夜は修治さんの脚をもんでいても、頭痛がし、眼球がうずいて困った。


三月二十五日


 修治さんは私の、(注・以下一行抹消されている)

 すみません。いつまでも至らないで。

 あなたのお心に添いたいと、一生懸命、努めているのです。(注・以下一行抹消されている)


 結果を考えて行動する。(第三者の眼からみたときは、如何)

 張りをもって、思いやりの深いおつきあい。

 サッサッサッと片付けて、躾よく、三十女、(矜持きんじ

(物凄く叱られました。わたしのためになのでしたけど〝カツ〟を入れる)


三月二十六日


 さやへ納まる。今日からは、はじめからやり直し、

「どんなことがあってもついて来てよ」

 神経を十二分に働かせていること。

 つましい性格、いい意味で、つましいこと。

         *

       *

         *

 自ら進んで払った犠牲が認められなくとも、文句を言わず、腹を立てないこと。

「心の臓をいたわってくれよ」とあの人は仰言る。

 第三者に対する実行。動作。礼儀。思いやり。親しみ。等々、周囲の方々に対しての尽くし方が大切だということ。

「太宰の──」という矜持を失わぬこと。

 ささいなことだから、大きな犠牲を払うのです。

 たとえ、それが全然見もしらぬ人であっても無私無欲な態度をとりたいとねがう。

 決心──

 どうでもいいような場合でも、すべての人の為に、自分の利益などは何時でも惜し気なく棄てることのできるように。

 いらない色気


三月二十七日


 私達夫婦が、はじめてお逢いした

 その一周年記念の日。

 (靴、紛失)


三月二十八日


 上天気、海がいでいて心地よい。

 人間失格、第二の手記まで脱稿。よい作品です。

         *

       *

         *

 前文ごめん下さいませ。

 太宰さんの御留守中(展望の御仕事のため、カンヅメにされていらっしゃいました)に御便りを受けましたので、御返事がたいそうおくれました。とり敢えず太宰さんの御容態を〝落丁集〟によせておしらせ致します。

かしこ
太田様
太宰代理
三月二十八日
三月三十一日投函


(落丁集)

○またまた喀血して重態だとか、いやぴんぴんしてカストリを飲んでいるとか。逢う人によってみな様子が違うので、「斜陽」完成以来、とに角容態が危ぶまれている太宰治氏。

○じつは、いずれも真説らしく、夫人も少しも目が離せないといった次第だが、小康を得るとすぐ仕事場へいくというのを止める訳にもいかず、さて仕事場へ行ってもアルコールが切れているときは、構想も浮ばないとあっては、止むなき原罪でもあろうか。

○先日も織田作之助の一周忌を記念して、ゆかりの銀座「鼓」に坂口安吾、林芙美子などと共に、故人の生活者としての偉大をたたえるとあって、万難を排して出席、いずれ劣らぬ豪の者ばかりで、すさまじいばかりだったとか。

──落丁集(読売新聞)

         *

       *

         *

 治「落ちつくから、小さいのを送ってやろうか──」

 私「ドキ、ドキ、ドキ、……」


三月三十一日


 古田さんと御一緒に、帰京する。


四月一日


 今日はお仕事はおやすみということなので、起雲閣で紛失した靴の代わりを買いに出る。──やっと見付ける。


四月二日


 末常さん、三輪さん、野平さん、宮川さん、宇留田さん、梅林さんみえて、大へん。

 同夜、梅林さん「ブロバリン」百錠、服毒す。夜半、二時半ごろ、太宰さん目覚めて発見。早速医者を呼びに雨の中を走る。重態。翌朝までに三度医者を呼び、朝、中村医院に入院す。この間、たいへんでした。


四月三日


 梅林さん入院、〝死ぬ〟という断。

 ため息ばかり出る。夜、井伏さんみえる。甲斐ない人。


四月四日


 修治さん、一応帰宅。野平さん、宇留田さんと同行。


四月五日


 大映のお迎え自動車にて、東京大映本社へ川口松太郎さんに逢いにいく。根岸さん(日活のひと)と同乗。談後、築地の待合へいく。川口さん、その作品の価だけの人。太宰さんの御体はずーッと悪い調子の連続。


四月六日


 朝、石井さんみえて、書物をとりにいかれる。野平さんの口述筆記(如是我聞二回)はじめられる。


四月七日


 石井さんみえ、井伏選集の後記の口述筆記。私は八木岡さんの頼みで中公へいく。


四月八日


 あさ、聖子ちゃんみえる。新潮退社について御相談にみえる。つづいて八木岡さんみえる。うるさいことがらばかり。

 おひる寝。大変御疲れの御様子。街で蟹を買う。修治さん大喜びで飛び起き、ベーゼ。

 午後、野平さんみえる。

 夕方、御送りしつつ名もしらぬ花を手折って胸に挿して下さる。どうも不安だと思っていたら、今朝、喀血なさったそうな。散髪なさる。聖子ちゃんのことについて三人で心配する。


四月十三日


 熱海から帰ってきてはじめて、お泊りになる。石井さんみえる。


四月十四日


 「人間失格」いつもの通り五枚御執筆。新林女史おいでになる。夜ひとりで「凡てこの世も天国も」を観る。

         *

       *

         *

 お仲人をした井伏さんが、太宰さんを苦しめている。ちょっとした偽善者ぎぜんしゃだ。


四月十六日


 ようやく暖かな季節になりました。電報拝受いたしましたので、お申し越のもの、さっそく電替にて御送り致しました。太宰さんは展望の御仕事の第一回目のものが出来上がりましたので、三月六日にカンヅメから開放されました。その後は御経過もよろしくないのですが限りある身のちから試さんというような御様子で病院いきをなさりつつ、引続き二回目のものを御執筆なさっていらっしゃいます。それから、こういうことがございましたので御相談いたしたいと存じます。配達のひとが、昨夜「下連雀の百何番だったかなあ、もう一人同姓同名のひとがありますねえ、やっぱり、ダザイ、オサムというんですよ」と申しました。こちらでも今まで気付かなかったことなので、はらはらしながら受けとりましたが三鷹も小さな町なので、このままの宛名がつづいて参りますと、雑誌社などからの電報が、下連雀一一三の方へ届きます折、御家族のどなたかに「──」のような言葉をくり返され、洩れないとも限りません。それで太宰さんもいろいろ御心配なさいまして。そうなってからの御相談ではいけませんし、誠に申し上げ難いことなのでございますが、此の次からの御便りの宛名はいずれも左記のようにお書き下さいまして御送り頂けましたらと存じますが、いかがでございましょう。

 よろしく御配慮のほどお願いいたします。

かしこ
十六日
太宰代理
太田様
(下連雀二一二鶴巻様方)
矢崎ハルヨ

         *

       *

         *

 いろいろなこと、させていただいたことども。結局は奥様にとっても「伊豆」にとっても一番大切なことだったのですし、一番救われるのは修治さんです。それから、私。修治さんと私とはちょうどつらいことどもは同じ位かもしれない。文学のことはぬきですけど。


 お互いが、お互いをふびんがって、いとしんでいる。

「僕のために苦労することをうれしいと思ってくれよ」

「私、どうしたらいいか分からなくなった」と言ったら。

「それは、カラムというものだ」

 などとおっしゃって──


五月三日


 御便りありがとうございました。

 漸く初夏めいてきて装いも軽やかな季節になりました。先日中は静謐せいひつな別館で殊の他御世話様になりました。お仕事も順調に進行いたしましたことは一重に吉田様、奥様の御力尽くしのゆえと存じ、厚く御礼申し上げます。せっかく太宰さんの頬に肉づいてきて、やれうれしやと思いつつ帰京いたしましたのに、またまた編集者の訪問責めに逢いまして、このごろは空しく搾り去られてしまいましたけれど、これというほどのこともなく、人間失格の第三の手記にとりかかっておられます。それから、全集の第二巻第一回本が出来上がりました。これにはアートに「蟹の手」のお写真と、外一枚が載せてございます。表紙の金文字は、太宰さんがお書きになりまして、その下に津島家の家紋が空捺からおししてございます。この本は八雲書店から直接吉田様へお送りして下さるように依頼してございますからお求めにならないでお待ち下さいますよう太宰さんからの御言葉でございます。

 またいつか、山荘のメンバーの方々と御一緒におめもじできます日を楽しみに致しております。末筆ながら、くれぐれも御自愛下さいますようお祈り申し上げます。まずは御返信によせて御挨拶まで。

かしこ
五月三日
山崎富栄拝

吉田様


五月九日


 四月二十九日、古田さんと、神田駅で待ち合わせて、ここ大宮市の一隅に修治さんと生活する。人間失格の第三の手記を執筆なさるためのカンヅメ。藤縄信子さん(十八)は顔立ちのよい、上品なお嬢様で、動作もおちついていて、よいお方。お若いのに随分苦労をなさってこられたからなのでしょう。

 お食事もここの御主人が大変心をこめておつくり下さるので、いつも美味しく頂き、お蔭で太宰さんもめっきり太って来られた。御自分でもそれがうれしくて、やすみながら両腕を交互につくづく眺められている御様子は、そばでみていてもほほえましい位。うれしくて涙が出るほどです。

 どんなに丈夫になりたく思っていられることでしょうか。編集者の訪問責めに逢わないことだけでも気持ちがゆっくりして、いいことなのね。

         *

       *

         *

 伊豆からの御手紙が回送されて来る。

 ハボタン集の第二回目。母子共健在は何より。No. 22を認める。

 六日、母上京する。老骨ながら父母が田舎で美容院を経営していくとか、鎌倉の姉の店にて十日ほど、ニュー・スタイルを学ぶ由。胸がせまってきて、なんとも言えません。修治さんとお逢いしないでいた頃であったなら老人二人を心配させることもなかったのですのに。なにせ、私を頼ってきていた二人なので、私のつらさも一層深い。官庁の用事に、六、七日、九日と歩き回る。

 恋と孝行、主婦と職業の両立はできないものなのね。

 人間失格も、熱海で初執筆してから──(二十日間、百五十枚)。三鷹の私のところで、続二回目(十日間、約八十枚)。あと大宮で第三回目(十日間、約六十枚)。今日から、あとがきの由。


五月十二日


 小雨、石井さんのお迎えを得て帰宅。千草へ立ち寄り、一休み。おふとりになって、そしてお声も御元気そうにおなりになって、うれしい。このままの調子で夏を越し、秋を迎えて、今年も無事に過ごしていただきたいものです。

 熱海の吉田様、加藤郁子さんより御便りあり。


五月十三日


 小雨、朝早く修治さんお見えになる。

 田中英光さんよりの三千円の為替と、私の方の二千円の現金を添えて千草へお払いする。宮川さんより御便りあって、ゲル都合ついた由、今日御送りする手筈でしたけど。お留守中に来ていた雑誌の中に、「太宰の仕事部屋は、千草でなく、前の家らしい」と書いてあった由、こまるこまる。


五月十四日


 末常氏を、千草におむかえして御相談なさる。九時頃までお飲みになり、お泊りになる。

「泊ってやろうか」

(よろしいの? お家の方……)

「うん」


五月十五日


「グッド・バイ」はじめて今日から御執筆。一日三枚半。一枚五百円。六月二十日頃より連載予定。朝日終了後亀島さんまで通知状のこと。

 朝、お食事をすまして千草に行かれ、御仕事にかかる。亀島さん、高原さんお見えになる。午後、新潮の副社長おいでになる。バッタリ道でお逢いして、いろいろ聞かれるのだけれど、御気の毒とは思いつつ御断り申し上げる。


五月十六日


 昨夕、アルバムをみせて頂く。奥様のや、お子様の……。よく覚えておいて、町でお逢いしたとき、そっと避けようと思って──。

 二時頃おいでになる。どうもお玄関の戸の開けようが平常のように思われなかったと思ったら、昨夕帰りに御一緒のところを奥様に見つかってしまったとか、びっくりしてしまう。

「あれ誰?」

「……」

「女のひとと歩いてたでしょう? あなた方は気がつかなかったようですけど……」

 ああ、神様!

「ブロバリンを二十錠のんでも寝られないんだ。どきっとして、歩かないよって言っちゃったんだよ。そのとき、死んじゃおうかと思ったね。二人とも近眼だしねえ」

 と仰言る。

「あら、ごめんなさい。どうしたらいいかしら……。お怒りになったでしょうねえ、悪いわ」

 私の方でうまく避けようと思っていたのに、なんにもならなくなってしまった。スムースにいってくれればいいけど……。

「夕べ、気まづくてね、今朝もいけねえんだ」

 今日は、もう、じっとして落ち着いてなどいられない。修治さんは、ウィスキーの残りと、たらを持って帰られる。いつもと違う道を通って御送りする。

 神様、一体どうしたらよろしいのでしょう。私は太宰治という人を知らなかったんですもの。知っていたのは、津島修治であって、その頃は、御家族をもっていられることも、なんにも知らなかったんです。愛してしまってから、はじめて奥様や、お子様のおありになることを存じ上げたので、そのときはもう、私は自分の愛情を抑えられなかったのですもの。

 いちご出盛る。

 夏みかん。


註記。富栄と知り合う直前の静子宛太宰の書簡。

「昨日はありがとうございました。昨日帰宅したらミチはへんな勘で、全部を知っていて(手紙のことも本名も変名も)泣いてせめるのでまいりました。ゆうべは眠らなかった様子で、けふ朝ごはんをすませてから、また部屋の隅で寝ています。お産ちかくではあり、癇が立っているのでせう。しばらく、このまま、静かにしていませう。手紙や電報も、しばらく、よこさないほうがいいようです。どうも、こんなに、騒ぐとは意外でした。では、そちらもお大事に」(原文のまま)


五月十八日


「グッド・バイ」(変心、二)出来上がる。ユーモア小説風で、面白い。

 奥様が「吉祥寺の方から帰っていらっしたようね」と言ったので、ここぞとばかり、「うん、魚でもあるかと思って見に行ったんだ」と仰言られたという。

「それから?」

「あとは、あまりしつっこいとでも思ったのか黙っていたよ」

 配給、洗濯、アイロンかけ、夕方、ひとやすみ。とにかく、無事でほっとしました。

 実業之日本社の倉崎さんに、「短篇集の件、どうしたのか」伺うこと。


五月十九日


 吉岡謙二先生、末常さん大隅さん、伴さんと太宰さんの酒席。

 新聞社の人達は、雑誌社の方々より、どうも、あまりおいけになりませんね。末常さんを駅まで御見送りして、泊る。


五月二十一日


 志賀直哉のことども思えば太宰さんはいきり立ち、やるかたなくてお飲みになった御様子で、朝、血痰出る。進行中の鮮明な色。

 五月二十一日夜──。


五月二十二日


「僕ね、こないだ千草で酔って、女将にそう言っちゃったんだよ、ごめんね」

「なにを?」

「ごめんね、あのね、苦しいんだよ……。恋している女があるんだ」

「……」

 三年位前からのおつきあいで、ファン・レターから、お見合いが始まり、この間手紙がきて、結婚を強いられている由。それで、この三十日にお逢いしたいとのこと。(この日は太宰さんがお決めになった日)……そしたら女将が「山崎さんが直ぐ前にいるから具合いが悪いけれど、裏からでも、一度位なら大丈夫でしょう」といった。「もしかしたら泊るかも知れないぜ」とそう言って約束したとのこと。

「お前のところで二日泊って、いろいろ考えたけれど、やっぱりお前と一緒の方が、僕はいいんだ。──そう思ったよ。お前に悪いよ。ねえ。何でも言えって約束してたから言うんだよ、ごめんね」

 前に一度きいたことのある事件(女のひと)井原さん(伊原さん?)とかいって、二十六才。女子大卒で、美人。スラリとしていて、温和しく、申し分のないようなひとらしい。

 阿佐ヶ谷に住んでいて、御嬢様の由。

 ちょっとした、ドン・ファン。可哀想な日本のロマンサー。

「僕には女がある。僕と一緒に死にたいというんだといったんだが、問題にしねえんだ。美容師ですって? と、よく知ってるんだ、おまえのことを」

「……」

「その女、僕に逢うと、すぐ泣くんだ」

「……」

「だから言ったじゃないか、お前がいつも、そばから離れずに、付いていてくれなきゃ駄目だって……。僕はどうしてこう女に好かれるのかなあ! 丁度いいらしいんだね、僕は。余り固くもないし、場もちは上手だし──。貴男は、小説にいつも御自分のことをまずい顔の男だとお書きになるけど、ずるいって──とも言うんだよ」

──随分な人です……。

〝死ぬ気で僕と恋愛してみないか。責任をもつから〟と言われて、親も兄弟も棄てて、世間も狭く歩いている私。それでも、恋とか、愛とかいうことより以上に、兄妹と言いたいような血のつながりを感じ合っている私達だからこそ、こうしたことも話し合い、修治さんも本性をむき出しにして下さるのだ、とも思う。

「自惚れじゃないけれども、お前もあるだろう、私じゃなければ駄目だ、というようなこと」

「ええ、自分の口から言うのは変ですけど──」

「そうなんだ。さっきお前が言ったけど、赤い糸で結ばれているような二人なんだ、お前でおしまいにするよ。信じてね、死ぬ時は一緒だよ」

 と仰言る。

 昨夜、自殺しようと書き置いた。泣きながら、これでもう最後ね、と心に言いながら、新しいおねまきと更えて差し上げる。

 修治さんは、ものすごい寝汗をかいて、

「すごい美人なんだ……女房より……腕力が強くてね。……大隅さん、あなたは進行性ですか? ええ? 二カ月でしょうね……夜遅い電報は困りますねえ……」

 と、ねごと。でも、私にはうわごとのようにきこえたのです。すごい美人だ、なんて。私は泣きました。グット・バイのこと、病気のこと、身にまつわる女性のことども、私は生きていなければいけない。可哀想なこの子を守るために、と思わずにはいられない。

──女子大のお嬢様で(父君は医者)あるあの女のひとと、万一ご一緒になって──もちろん何から何まで、つまりブルジョアであり、美貌であり(修治さんのいう手足小さく背スラリとして、道ゆく人がみな振りかえる)、学あり、フランス語も話し、衣装も常にパリッとしていて──。

「そういう女のひとと生活して、それで最後になれば、あなたも一番幸せのことなのでしょう……」

「いや、最後になるかどうか、そこは分からないんだ」

「それじゃいけませんわ。私から離れて、次々にまた女のひとを変えるなんて、お子様方が大きくなって、結婚をなさるときなど、一体、どういうことになるとお思いなのですか。あなたのお友達の方達だって、もう信用しなくなるでしょう」

「だから、何にもならない前に皆お前に言ってるんじゃないか。離れないで守ってね。僕は、本当に駄目なときがあるんだ。一生僕のそばにいるって言ってね。サッちゃんでおしまいにする方が、僕自身のためなんだから──」

 ……書きたくても、書けないことばが、次々に生まれてきます。

 私より前からおつきあいしていた女子大生。それから伊豆。

 それから私。それからまた女子大生の手紙に戻る。

 いろいろ考えてみても、修治さんの仰言る通り、たとえ、私を方便的に一時は利用していたとしても、胸を開いて、いま、心を読まして下さるのは、私一人きり。伊豆の人は、「据膳」で愛情は全くないとのこと、女子大生のひとには、伊豆に子供のあることも言っていない。私ひとりきりなのだ。修治さん、結局は、女は自分が最後の女であれば……と願っているのですね。頬を打ち合い、唇をかみ合い──

 和解も喧嘩も最初から私達二人の間にはなかったのね。私はあなたの〝乳母の竹〟やであり、とみえであり、そして姉にもなり、〝サッちゃん〟ともなる。離れますものか、私にもプライドがあります。

 五月雨が、今日もかなしく、寂しく降っています。

「死のうと思っていた」とお話したら、ひどく叱られた。「ひとりで死ぬなんて! 一緒に行くよ」


五月二十三日


私はあなたの口もとに微笑を

あなたのその眼に意地張りの光を

あなたの胸から出てくる傲慢に気づいている。

だが、私のように

あなたも不運

その口もとには人知れぬ無念さがたたえられ

じっと耐えた涙はひとみの輝きを消し

動悸する胸は痛傷を潜ませて


ひみつ

口をつぐんで

苦痛に耐えつつも

秘密は私たちの

悩める心の底に憩う

たとえ心の中で暴れるとも

揺ぎだすとも

口はいつも閉めてある


 ウィスキーを一日一本くらいお飲みになるので心配なのだけれども、お体の方は大丈夫と仰言る。酒とブロバリンで、ここに内泊中(奥様が外泊といわれる由なので、私の方はさしずめ……)は熟睡をなさることのよろこび。仕事なんかより、お前との問題の方が大事だと気づかって下さるのです。

「僕がこんなにお前を可愛がっているの、分からないの」

「誰にも言えないことだけど……んなこと、だんだん考えるようになったんだ。そうなるかも知れないよ。いい? 離れないでね。弱気を起こしては駄目だよ」

 私の悲しみを知っているひとはただ一人。自分自らの手によって私の心を傷つけたあの人。ああ、楽しい恋の苦しみや、涙に濁った恋の楽しみやが、やがて、心に強い痛手を投げようとは、夢にも思ったことはありませんでした。

 ああ「信頼」の二字!


夫が病んでいます

わたしの夫が……

生まれて初めての恋だよと

昔……

夫はわたしに言いました

仲よくしてたそのときでも

夫はあの人の幻を胸に描いていらしたとか

わたしを一番愛しているから、信頼しているからと

すべてを打ち明けてくれました

──手をにぎったこともなく

──唇をふれ合ったこともないと


五月二十四日


 修治さんは気の弱いかたなのです。「優しい」ということの、本当の意味は今の私には分からなくなりました。文学的な苦悩、これは才能に恵まれていられるので、さほどではない様子で私には、女のひとのこと──これは結局、奥様へのやるかたない哀しみに帰るのでしょうが──の方が幾重にも深い苦悩になっていられるのです。お酒をのむことも、そうした恐怖の連続をうち切りたい心からなのです。私は、いろいろの心のいきさつを超越して「頼む」といわれたおことばを守って、「離れないで、僕を守って──」といわれたおことばを心に刻んで、命あるかぎり守りたい。笑われない人になるように、赤い糸でつながれた愛情が、あなたを信じさせてくれますもの。信じておりますとも、ご一緒に、どこへでもおとも致します。あなたも、私を、グッと引きつけて、お側へおいて下さいませ。


五月二十五日


 昨日のおひるから、一物も咽喉に通らない。お食事がちっとも欲しくなくなった。

 何をするのも、いやになり、涙がいつもこみ上げてきそう。私の容貌ようぼうなど、三鷹へ来た頃と、修治さんにおつき合いしてからと全然変わったと、人に言われる。


 結婚は一つの学

 愛人は天が隠して知らせなかったことを全部女に教える。

 自由意志を欠いている女は、身を犠牲にするような資格をだんじて持ち得ない。

 極めて操正しい女は、自ら知らずして卑猥ひわいであるかもしれない。

 結婚は一切のものを持ち合わせる魔物と絶え間なく戦わなければならない。その魔物とは習慣のことである。


五月二十六日


 こうしたことを書き認めてみているのも、結局はあなたに愛されているのですよということを一層たしかめ、深め、刻みこみたい、悲しい、さびしい心からなのです。せずにはいられない心からなのです。

         *

       *

         *

 伊豆の方御病気

 一万円電ガワにて送る

 子供もだんだん大きくなるのに……

 ゆきづまったら死ね!

 ああ、どうして人は、みな一人々々悲しいものを背負って生まれてきたのでしょう。桜桃、びわ、出盛る。

 蝿もうるさい。朝、長袖。午、半袖。夕、半袖。

「古田が言ったよ、伊豆へときたま行ってやれって──」

 ──馬鹿……太宰さんだけが可愛いんでしょう。どうせ私たち二人のことなど……。

 どうしても子供を産みたい。欲しい。

 きっと産んでみせる。貴方と私の子供を。

 水口伸二さん、土井先生、おみえになる。水口さんのあの鋭鋒は見事に入っている、と私は思う。帰路、堤に腰をおろしてお話する。水の流れと人の身は……。

「やるよやるよ、もう二度も喀血したが、死にゃしない」

「さっきは、大分つっ込まれたのね」と言ったら「何処が」と言って笑っていられた。

 あなたにいわれないようにしたいとあがくとき、女は恐ろしい卑しい、こわいことを考えるものか……とはっとする。


五月二十七日


 驚きをもって、常にみられていて、その性格は模倣もほうさえされ、愛されて、嫉妬されるほどの内的な充実と美しさを持っている修治さんに、憂欝な嫉妬と不安を私が感じないではいられないということが、なぜいけないのでしょう。

 グット・バイ、十回分出来上がる。

 朝は、ああ一日中で一番不安なとき

 そしてひるまは、それよりもなお!


 思いのかなったような瞬時

 伊豆のかた

 わたしにも赤ちゃんくださいね。


 改造の西田さん、八木岡さんおみえになる。


五月二十九日


 「どんな忘れられぬ言葉が、あの可哀想な人を死に追いやったのか、この謎を解くすべをあなたはご存知じゃありません?」


六月五日


「雌について」三千枚検印。

 賢者はことを挙げる前に愚を行うとやら、で、古田さんを始め、いろいろのお方とお遊びになる心、苦しいことどもが、うち返す波のように、また押し寄せて来たからなのでしょう。

 宮崎氏、及川氏、土井氏、末常氏おいでになる。末常氏と太宰さん泊る。


六月六日


 野平さんを電報にてお呼びになり、「如是我聞」口述なさる。

 朝、千草にて朝食後、シゲ女宅を襲う。


六月七日


 亀島氏、野平氏みえる。

 新潮、八千五百円。全集第一回、一万五千円。

 ビール二本。お酒二本。ピーナッツ三個。タバコ一個。


六月十三日


 遺書をお書きになり

 御一緒につれていっていただく

 みなさん

 さようなら

 父上様

 母上様

 御苦労ばかりおかけしました

 ごめんなさい

 お体御大切に、仲睦まじくおすごし下さいまし

 あとのこと、おねがいいたします

 前の千草さんと、野川さんにはいろいろお世話ねがいました

 御相談下さいまし

 静かに、小さく、とむらって下さい

 奥様すみません

 修治さんは肺結核で左の胸に二度目の水が溜り、このごろでは痛い痛いと仰言るの、もうだめなのです。

 みんなしていじめ殺すのです。

 いつも泣いていました。

 豊島先生を一番尊敬して愛しておられました。

 野平さん、石井さん、亀島さん、太宰さんのおうちのこと見てあげて下さい。園子ちゃんごめんなさいね。


 父上様

 前の角の洋裁屋に、黒不二絹一反がいっています。まだなにも手付かずになっていると思いますから返品して下さい。

 川向うのマーケット(すみれ)酒店に、去年の八月の月給(未)が約三千円位あります。貰って下さい。

 洗面器のこと、駅前の「丸み」に依頼してありますから訪ねて下さい。


 兄さん

 すみません

 あと、おねがいいたします

 すみません


遺書


 私ばかりしあわせな死に方をしてすみません。奥名とすこし長い生活ができて、愛情でもふえてきましたらこんな結果ともならずにすんだかもわかりません。山崎の姓に返ってから死にたいと願っていましたが……、骨は本当は太宰さんのお隣りにでも入れて頂ければ本望なのですけれど、それは余りにも虫のよい願いだと知っております。太宰さんと初めてお目もじしたとき他に二、三人のお友達と御一緒でいらっしゃいましたが、お話を伺っておりますときに私の心にピンピン触れるものがありました。奥名以上の愛情を感じてしまいました。御家庭を持っていらっしゃるお方で私も考えましたけれど、女として生き女として死にとうございます。あの世へ行ったら太宰さんの御両親様にも御あいさつしてきっと信じて頂くつもりです。愛して愛して治さんを幸せにしてみせます。

 せめてもう一、二年生きていようと思ったのですが、妻は夫と共にどこ迄も歩みとうございますもの。ただ御両親のお悲しみと今後が気掛りです。

(注・この遺書は昭和二十二年八月二十九日付となっている)


鶴巻夫妻宛太宰と富栄連名の遺書


 永いあいだ、いろいろと身近く親切にして下さいました。忘れません。おやじにも世話になった。おまえたち夫婦は、商売をはなれて僕たちにつくして下さった。お金のことは石井に

太宰 治

 泣いたり笑ったり、みんな御存知のこと、末までおふたりとも御身大切に、あとのこと御ねがいいたします。誰もおねがい申し上げるかたがございません。あちらこちらから、いろいろなおひとが、みえると思いますが、いつものように、おとりなし下さいまし。

 このあいだ、拝借しました着物、まだ水洗いもしてございませんの。おゆるし下さいまし、着物と共にありますお薬は、胸の病いによいもので、石井さんから太宰さんがお求めになりましたもの、御使用下さいませ。田舎から父母が上京いたしましたら、どうぞ、よろしくおはなし下さいませ。勝手な願いごと、おゆるし下さいませ。

昭和二十三年六月十三日
富栄


追伸

 お部屋に重要なもの、置いてございます。おじさま、奥様、お開けになって、野川さんと御相談下さいまして、暫くのあいだおあずかり下さいまし。それから、父と、姉に、それから、お友達に(ウナ電)お知らせ下さいまし。

父 滋賀県神崎郡八日市町二四四
山崎晴弘

姉 神奈川県鎌倉市長谷通り二五六

   マ・ソアール美容院
山崎つた

友達

本郷区森川町九〇
加藤郁子
淀橋区戸塚町一ノ四〇四
宮崎晴子

底本:「雨の玉川心中」真善美研究所

   1977(昭和52)年613日初版発行

※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。

※「グッド・バイ」と「グット・バイ」の混在は、底本通りです。

※「(注・」「(註・」ではじまる注記は、編者による加筆です。

※底本巻末の編者による語注は省略しました。

※表題、副題は、底本編集時に与えられたものです。

※大見出しは、作品中の文言をとって、底本編集時に与えられたものです。

※誤植を疑った箇所を、「愛は死と共に」石狩書房、1948(昭和23)年910日発行の表記にそって、あらためました。

※「註記。」として本文に挿入されている太宰治の書簡は、底本(縦書き)では五月十六日付けの日記末尾から五月十八日の見出しまでの箇所のページ下側のスペースにはめ込む形で挿入されています。

入力:江村秀之

校正:酒井和郎

2017年43日作成

青空文庫作成ファイル:

このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。