銭形平次捕物控
大村兵庫の眼玉
野村胡堂
|
「八、花は散り際って言うが、人出の少なくなった向島を、花吹雪を浴びて歩くのも悪くねえな」
銭形平次はいかにも好い心持そうでした。
「悪いとは言いませんがね、親分」
「何だ、文句があるのかえ」
「こう、金龍山の鐘が陰に籠ってボーンと鳴ると、五臓六腑へ沁み渡りますぜ」
「怪談噺てえ道具立じゃないよ。見や、もう月が出るじゃないか」
「へッ、へッ、真っ直ぐに申上げると、腹が減ったんで」
ガラッ八の八五郎は、長い顎を撫でました。涎を揉み上げるといった恰好です。
「もう食う話か、先刻あんなに詰め込んだ団子はどこへ入ったんだ」
「それが解らないから不思議で、──何しろ竹屋の渡しから水神まで三遍半歩いちゃ、大概の団子腹がたまりませんよ」
「泣くなよ八、風流気のない野郎だ」
銭形の平次と子分の八五郎は、こんな無駄を言いながら、向島の土手を歩いておりました。
昼のうちは、落花を惜しむ人の群で、相当以上に賑わいますが、日が暮れると、グッと疎らになって、平次と八五郎の太平楽を妨げる酔っ払いもありません。
ちょうど牛の御前のあたりへ来た時。
バタバタと後ろから足音がして、除け損ねた八五郎の身体へドンと突き当りました。
「危ねえ、後ろから突き当る奴もねえものだ。何をあわてるんだ」
「御免下さいまし」
振り返ったガラッ八の袖の下を掻潜り様、ト、ト、トと前へ、物に驚いた美しい鳥のように駆け抜けたのは、紛れもなく若い女です。
「どっこい、待ちねえ。胡乱な奴だ」
後ろから伸びた八五郎の手は、その帯際をむずと掴みました。
「急ぐ者でございます。お許しを願います」
女は花見衣の袖に顔を埋めて、堤の夕闇に消えも入りそうでした。
「懐中物の無事な顔を見ないうちは、うっかり勘弁するものか」
八五郎は遊んでいる片手を働かせて、内懐から腹掛の丼から、犢鼻褌の三つまで捜っております。女巾着切と思込んだのです。
「八、何てえ事をするんだ。見れば御武家方に御奉公している御女中のようだ。無礼があってはなるまい」
平次は見兼ねて八五郎の肩を叩きました。
「ヘエ、巾着切じゃありませんかねえ。花時の向島土手で、不意に後ろから突当るのは、巾着切と決ったようなものだが」
ガラッ八はようやく手を放します。
「とんでもねえ野郎だ。──御女中、勘弁してやって下さい。こんな解らねえ野郎でも、役目があるんだから」
「ハイ、イエ」
女はひどく恐縮して、二人へ弁解をするともなく、顔の袖を取りました。堤の掛行灯は少し遠過ぎますが、ちょうど田圃の上へ出た月が、その素晴らしい容貌を、惜しみなく照し出します。
「お急ぎのようだ、構わず行きなさるがいい。まだ花見の往来があるから、物騒なことはあるまい」
「有難う存じます。船がツイ竹屋の渡しの手前に待っておりますから」
「それじゃ、ほんの一と丁場だ、──送って上げるのも気障だ。酔っ払いか何かに絡み付かれたら、大きな声を出しなさるがいい」
平次は月明りのまだよく届かない橋の下蔭を透しながら、行届いた注意を与えております。
「銭形平次親分という荒神様が付いているんだ、──とな」
「余計な事を言うな、馬鹿野郎」
「ヘエ」
ガラッ八の凹む顔を見て、女は始めて微笑みましたが、そのまま物優しく小腰を屈めると、踵を返して竹屋の渡しの方へ急ぎます。
土手の人足は至って疎らですが、川面は夜桜見物の船が隙もなく往来し、絃歌と歓声が春の波を湧き立たせるばかりです。
「何か間違いがあったらしいな」
平次は三囲の前に来た時、堤の下を覗きました。そこに繋いだ一艘の屋根船の中には、上を下への大騒動が始まっているのです。堤の上からは若い武家が一人、それを覗いているのを見逃す平次ではありません。
「行ってみましょうか、親分」
ガラッ八の職業意識は燃え上がりました。
「放っておくがいい、武家の遊山船だ。──町方の岡っ引が口を出す場所じゃねえ。第一後がうるさいよ。それよりは堤の上から一生懸命、船の様子を見ている、若い武家の人相を覚えておくがいい」
平次はそのままそっぽを向いて通り過ぎます。
ちょうどその時、堤の下の屋根船には、大変な騒ぎが起っておりました。
駒形に屋敷を持っている、旗本大村兵庫。三千五百石の大身ですが、若くて無役で無類の放埒、この日は柳橋から花見船を仕立てさせ、用人村川菊内、愛妾のお町、仲間の勝造、それに庭掃きの親爺三吉をお燗番に、芸妓大小三人、幇間一人を伴れて、昼から漕ぎ出させ、水神まで一と往復した上、夕景から三囲の前に着けさせて、存分に夜桜の散るのを眺め、月が明るくなってから帰ろうという計画を立てました。
日が暮れる前、召使という名義になっている愛妾のお町は、長命寺境内に叔母が居るから、ちょっと挨拶だけでもして来たいと言い出し、相当むずかる主人の大村兵庫をなだめて船から上がり、お燗番の三吉は、用意の酒を酔っ払いの幇間にこぼされたので、口を開けたばかりの灘の銘酒の補充に、一と走り駒形まで帰りました。船の中は、酔ってないのは二人の船頭だけ、七輪は仲間の勝造が預かって、たそがれと共に、際限のない乱酔に落ちて行きそうでした。
しばらく濃くなる夕闇──それも存分に灯が入ると、飲んで騒ぐ分には、何の煩いもありません。
大村兵庫、この上もなく満足でした。喰らい肥った三十二歳の巨体を、傍若無人に芸妓の膝に凭せ、左手に挙げた朱塗の大盃を半分乾すと、
「ホーッ」
と息を継ぎます。
「殿様、卑怯千万。敵に後ろを見せるという法はございません。グッと、グッとお乾し遊ばして。お流れは、へッ、この私が頂戴仕ります」
幇間が中腰になって、泳ぐような手付きをするのでした。
「武士に向って卑怯、──とは聞捨てにならんぞ。卑怯や臆病で休んでいるのではない。酒が切れて、お燗番の勝造が眼を白黒させているではないか──三吉はまだ戻らぬか」
「もう、追っ付け戻りましょう」
用人の村川菊内は少し苦々しいのを我慢して、精一杯合槌を打っております。この辺で御意に逆らうと、いきなり「──仲へ行けッ──」と言い出さないものでもありません。
「大分手間取るようだな。ところで、月はまだ出ぬか、真っ暗では花見も一向興がない」
「土手の上は月が射しております。今出たばかしでございましょう」
勝造は艫へ立上がって、小手をかざしました。
その時。
「あッ」
主人の大村兵庫、いきなり盃を投げ出して俯向いたのです。
「どうなさいました、殿様」
芸妓、幇間の騒いだも無理はありません。大村兵庫の左の眼に楊弓の矢が真っ直ぐに突立って、血潮は滾々として頬から襟へ滴っているではありませんか。
船の中は煮えくり返る様な騒ぎですが、誰もどうする事も出来ません。その中で一番落ち着いているのは、眼を射られた本人の大村兵庫でした。さすがは三千五百石を喰む旗本だけに、気が落ち着くと、自分で矢を抜き取り、有合せの巾を集めて、キリキリと繃帯はしましたが、流るる血は、潮時と見えてなかなか止りません。長さ九寸、朴の木で作ったヒョロヒョロの矢ですから、他の場所に当ったんでは、大した業もしなかったでしょうが、眼玉を射ただけに、これは厄介です。
「この辺に外科はないか」
それでも村川菊内、一番先に医者の事に気が付きました。
「向島の土手じゃ医者がありません。本所へ行かなきゃア」
これは勝造です。
「本所へ行くくらいなら、向う岸へ引返した方がよかろう。少しでも御屋敷へ近く行きたい」
村川菊内の言葉は尤もでした。二人の船頭はそれを聞くと、堤の下の杭に繋いだ纜を解いて、もう艪を押す支度をしております。
「あっ、待って下さい」
愛妾お町はこの時、昇ったばかりの月を背に受けて、堤を下って来たのでした。
「早く、お町さん、──殿様がお怪我をなすった」
「えッ」
勝造の言葉は、お町にとって恐ろしい打撃だったらしく、しばらく船に乗るのも忘れて堤の中腹に立ち縮みました。
「どうなすった。お町さん」
「本当にお怪我? 人にどうかされたのではない? 勝造さん」
「楊弓で眼を射られなすったのさ。さア、船を出すぞ」
酒を取りに駒形へ帰った三吉を待ってはいられません。そのまま船を漕ぎ出して中流へ五六間も行かないうちに──。
「おーい、その船待ってくれ」
浅草の方から小舟でやって来た三吉。摺れ違い様、川の中で舷を付けて、こっちの船に飛乗りました。
「三吉か、──もう酒は要らねえよ」
と勝造。
「どうしたんだ。勝兄哥」
三吉は三升樽をブラ下げて、艪に踞みました。五十六七、すっかり月代が色付いて、鼻も眼も口も萎びた、剽軽な感じのする親爺です。
翌る日用人の村川菊内、神田の平次を訪ねました。
「ざっとこう言うわけだ。公儀へは遠乗りの途中暴れ馬が殿を乗せたまま雑木林に飛込み、木の枝で眼を突かれた──と届出ているが、町人の玩ぶ楊弓の矢で眼を一つ潰されては、何としても諦められない。意趣か、悪戯か知らぬが、入費はいかほど嵩もうと苦しゅうない。是が非でも曲者を探し出し、主君の手で成敗したいという仰せだ。かようなことは素人に手の付けようなく、江戸一番の御用聞と聞いて参ったわけだ。何と引受けてはくれまいか、平次殿」
折入っての頼みです。四十そこそこ、まだ用人摺れのする年ではありませんが、主人大村兵庫の脂切ったのと違って、ひどく気の弱そうな菊内は、御用聞風情の前に揉手をしているのでした。
「御気の毒様ですが、私の手におえそうもございません。そればかしは御勘弁を願います、村川様」
平次は日頃になく尻込みをしております。
「それはまた、どういうわけだ」
「第一、御武家方の紛糾は畠違いでございます」
「それも承知だが、役目の表でする仕事ではない。公儀筋へ聞えてはこっちも迷惑、内々で探って貰えばよいのだが──」
「…………」
「折入っての頼みだが、平次殿」
「まアお手をお上げ下さい。御武家に拝まれちゃ私は逃出しでもしなきゃアなりません」
「こう言っただけでは疑念があるかも知れない──ついでに言ってしまいましょう──実はな平次殿、私がここへ参ったのは少しばかり仔細のある事だ」
「ヘエ──」
「主人が何とおっしゃろうと暗闇の恥を明るみへ出したくはないが、堤の上から楊弓を射た疑いが騒ぎのすぐ後で船へ帰った御女中のお町という者に懸って、昨夜から恐ろしい折檻を受けているのじゃよ」
「ヘエ──」
平次は後ろに控えたガラッ八と顔を見合せました。
「お町は主人の御寵愛の深い女で、そんな事をするはずはないと思うが、困ったことに、いろいろの証拠がある」
「…………」
「主人は眼の傷の手当をしながら苦痛を忍んでお町の折檻だ──ところでそのお町という女中が神田の銭形平次親分を呼んで下さい。あの方は何もかも御存じだから、とこう言うのだ」
「ヘエ」
平次は驚きましたが、それよりガラッ八はたまり兼ねて、平次の後ろから袖を引いております。昨夜向島の堤でガラッ八に突当ったのは、そのお町という女でしょう。
「旦那、よく解りました。いかにもお邸へ参りましょう」
「えっ、乗出してくれる、──それは有難い」
「ついてはいろいろ承りたいこともございますが」
「何なと訊くがよい」
村川菊内、すっかり喜んでしまいました。
「第一に、殿様奥方はおありでしょうな」
「お喜佐様と言われる、三十七歳、お歳上だが、貞淑の誉高い方じゃ」
「お里方は?」
「西久保町の矢吹様、以前はれっきとした直参じゃが──」
「御当主は?」
「御家族と申しては御舎弟狷之介様たったお一人。まだ部屋住で、大村様御邸に掛り人であられる」
矢吹家が微禄していることは、言外の意味でよく解ります。
「殿様を怨む者のお心当りはございませんか」
「無いとは申されぬが、さて、差当り思い出さぬが──」
これではなかなか埒があきません。
駒形の大村邸に行った平次とガラッ八は、大変な情景を見せられてしまいました。
通されたのは女中部屋の隣の大納戸。
若い女が一人、長襦袢一枚に剥かれて、キリキリと縛り上げられたまま、畳の上に崩折れていたのです。
側に立っているのは主人の大村兵庫。半面を白布で巻いて、弓の折を杖に、苦痛と憤怒に、火のような息を吐いております。
「神田の平次を召連れて参りました」
村川菊内が声を掛けると、
「お、平次と言うか、御苦労であった。──とんだ目に逢ってのう、──医者は動いてはならぬと言うが、一眼を潰した曲者がいかにも憎い。朝っから休んでは責め、責めては休みじゃ。この女の強情が続くか、余の根が続くか──」
兵庫は顔を挙げて苦笑いしましたが、左の眼の痛みに引釣って、脂切った顔は、見る影もなく歪みます。
「証拠があるように承りましたが」
平次は恐る恐る顔を挙げました。
「沢山ある、──第一に余が楊弓で眼を射られた時、この女は船に居なかった、大騒ぎの最中に堤を降りて来たのじゃ」
「それは」
平次は口を容れようとしましたが、兵庫はそれに構わず続けます。
「いや、まだある。この女は船へ帰ると、余の傷よりも、楊弓の矢の心配をした、──眼から抜いて側へ置いた血だらけな矢を隠そうとしたのじゃ」
「殿様」
「一年越し世話をした女だ、分に過ぎた事もしてやってある。その恩も思わず、楊弓で主人の眼を射るとは、不都合と言おうか──」
大村兵庫はこみ上げて来る激怒に、前後を忘れて弓の折を振り上げました。
「殿様、しばらくお待ち下さいまし」
「いや放っておけ」
弓の折は大納戸の淀んだ風を切ってピシリ、お町の肉に鳴ります。
「あッ、ツ」
身体をねじ曲げて、歯を喰いしばる女の苦悶の姿は、どうかしたら、兵庫には快いものに映るのかもわかりません。たった一つの眼が、苦痛のうちにも妖しく歓喜に輝きます。
「言えッ、女、言わぬか」
兵庫は続け様に弓の折を振り冠るのでした。
埃臭く、黴臭く淀んだ大納戸の空気は、美女の苦悩の声と折檻に絞り出された汗に薫蒸して、言いようもなく不思議な匂いを醸し出すのを、平次は顔を反けて我慢しました。
「殿様、それは大変なお間違いでございます。そのお町さんとかいう方は、昨夜月の出る頃から、船の中で騒ぎが始まるまで、私と一緒に堤の上に居りました。──突き当られた八五郎が何よりの証人でございます」
平次はそう言いながら、激情に駆られるように、兵庫と女の間に割って入りました。
「それもこの女の口から聞いたよ。平次、一つは、その言葉が本当か嘘か、たしかめるために、お前を呼んだようなものだ」
「…………」
「だがな、平次。楊弓を射たのはこの女ではない、この女の兄と言って、時々邸へも出入りした男が怪しいのだ。浅五郎という遊び人だ。兄と言うのは、どうせ偽りだろう」
「…………」
殿様は妙に下情に通じております。
「その浅五郎が、昨日向島の土手の上をウロウロしているのを見た者があるのだ」
「どなたが?」
平次はツイ釣られるともなく口を容れました。
「矢吹狷之介というてな、──奥の弟じゃ」
「えッ」
「奥の嫉妬から無い事を告げ口させる──というような疑いもあるだろうが、それは大丈夫だ。狷之介はまだ十九歳、一本気の男だ」
「それにしても殿様、堤の上から、船の中の人の眼玉を射るのは容易の腕前ではございません。何の某と言う楊弓の名人でもなければ──」
「一応尤もだが、平次、まぐれ当りという事がある」
「ヘエ」
平次も弱りました。三十そこそこで、放埒で、我儘で、悪賢くて、なまじ下々の事に通じていては、およそ扱いにくい典型的な殿様です。
「長命寺境内に叔母が居ると言ったのも、大方嘘であろう。その証拠には、折檻されてから寺島新田と言い直している。恐らく土手の上をウロウロする浅五郎の姿を見かけ、それに逢うために口実を拵えて、一刻あまりも座を明けたに相違あるまい。楊弓で余の眼を射させたのも、二人の談合ずくであろう──たってそうでないと言うなら、浅五郎の住処を言えッ」
兵庫はまたお町の頭の上へ弓の折を振り上げました。
「殿様、──私は、何にも存じません。──おっしゃる通り浅五郎には逢いましたが、月の出る前に別れて、お船へ帰って参りました」
お町の言うのは本当でしょうが、兵庫は、
「偽りを申すな、──浅五郎はどこに居る」
少しも責手を緩めようとはしなかったのです。
「存じません」
「しぶとい女だ。これでもか」
「あッ、ツ、ツ」
続け様に四つ五つ。
「菊内、代って打て。眼に響いてかなわぬ」
大村兵庫は弓の折をポンと放って奥へ入りました。
この辺で少しばかり楊弓の事を説明しておかなければなりません。
言うまでもなくこれは寸法二尺八寸の極めて小さい弓で、初めは楊柳で作りましたが、後にはいろいろの貴い材料で作り、継弓にして金爛の袋などに入れて持って歩くようになりました。
矢は九寸が極り、羽にはいろいろの彩色を施し、七間半の距離から三寸の的を射るのが定法です。一表の矢数は二百本。その中五十本以上の当りには、いろいろの名前が付いたもので、江戸時代の名人と言われた人には、百八十本以上百九十四五本当てる人は決して少なくなく、稀には二百本「皆矢」のこともあったと伝えております。
室町時代には高貴の方々の遊びであったのを、江戸時代になってから、民間の遊戯となり、天保以後は品格が崩れて、美しい矢取女を呼物とする矢場に堕落し、一種の魔窟になってしまいました。
明治の矢場はその名残で、明治十九年の取締で廃絶しましたが、天保以前の矢場、すなわち結改場はなかなか品格のあるものだったと言うことです。
楊弓の技に優れた人だったら、向島の土手の上から、船の中の人の目を射るのは、さして困難ではなかったでしょう、が同時に、それだけの腕を持った人は、広い江戸にも幾人もありません。
平次が、この曲者は女や子供ではない。特別な技があるだけに、かえってすぐ判るだろう──と思ったのは一応尤もです。
それはともかく──。
平次はお町の縄を解いて貰って、一応村川菊内に預け、それから、菊内の引合せで、大村邸内に住んでいるほどの人間に逢いました。
最初に逢ったのは奥方のお喜佐、──少し淋しい、平凡らしい婦人で、取立てて言うほどの特色はありません。夫兵庫の放埒を止める力もなく、蔭では泣いているといった型の、消極的な人柄ですが、こんなのが思いの外嫉妬が強いのではあるまいか──と平次は考えておりました。
次に逢ったのは、その弟で矢吹狷之介、十九歳の大柄な青年ですが、元服はしても部屋住で、西久保巴町の邸に帰って、やがて家禄を継ぐ事になっている──と村川菊内が説明してくれます。
「親分」
この若い武家の顔を見ると、ガラッ八は驚いて平次の袖を引きました。あの晩、向島の堤で、船の騒ぎを覗いていた人間に紛れもなかったのです。
「平次、お前の腕前は大したものだと言うな、何分頼むぞ。曲者は間違いもなくあの浅五郎の奴だ。お町も共謀だろう、──浅五郎が船を追っかけて、向島の堤を往ったり来たりしていたのを、この私が確かに見たんだから間違いはあるまい」
狷之介は肩などを怒らしながら、こんな事を言います。姉の敵と思っているのでしょう、お町に対してはかなりひどい反感を持っていそうです。
「その浅五郎を御覧になったのは、何刻頃でしょう?」
と平次。
「申刻半(五時)かな」
「何か持っていましたか」
「さア、そこだよ。継弓にしても目に付くはずだが、どうも思い出せない」
「貴方様は、殿様日頃の遊ばされようについて、どう考えていらっしゃいます」
平次は妙な事を訊ねました。
「打明けて言うと面白くないな、──兄上もあんまりだ」
青年らしい一本気で、狷之介の顔にはサッと忿怒が一と刷毛彩られます。
平次はそんな事にして、仲間の勝造を呼んで貰いました。三十七八の仲間にしては少し年を取った渡り者で、ずいぶん摺れてはいるようですが、大した悪人とは思われません。
「楊弓の巧い人間に心当りはないかえ」
平次が小当りに当ると、
「芝の五郎、未磧なんてのは?」
それは当時聞えた名人です。
「そんなのじゃない。もう少し若いのでは誰だろう」
「浄瑠璃の今井一中がうまいって言いますよ」
「少し見当違いだな」
今井一中は都一中のこと、これも旗本の眼玉とは縁の遠い名前です。
外に女中が三人、小侍が二人、門番が一人。
最後に逢ったのは、庭掃きの三吉爺やでした。
「爺さん、お前はあの騒ぎも知らなかったんだね」
「土手にはろくな酒がないし、お邸には口を開けたばかりの菰冠りがありますから、竹屋の渡しを渡って、駒形まで飛んで帰りましたよ。三升ばかり取り分けて駆け出そうとすると吾妻橋手前で、幸い知ってる船頭衆に逢って、三囲前のお船まで小舟で送って貰いました。船から船へ移ると、──今殿様がお怪我をなすったという騒ぎでしょう。いや驚いたの驚かないの」
三吉親爺はそう言って首を振りました。年にしては少し老けていそうで、顔の皺にも、曇った眼にも、曲った腰にも、何となく労苦が刻まれているようです。出は、上総の知行所、先代の庭掃きの株を譲られたまでで、身分にも何の変哲もありません。
平次はそんな事にして引揚げることになりました。
「村川の旦那、隠さずにおっしゃって下さい。殿様はこれまでずいぶん罪を作ってお出でしょうね」
これが、菊内の胸倉を掴むようにして訊ねた最後の問です。
「左様」
「御女中で、目を掛けられたのは、何人くらいあるでしょう」
質問は具体的です。
「お町が三人目で──」
「その前のはどうなりました」
「申上げにくいことだが、──一人は奥方のお憎しみを受けて自害し、一人は不義の疑いがあって、御成敗を受けたよ」
「それが怪しいじゃございませんか。村川の旦那、その身内の者はどうしているんです。名前は?」
平次はせき込みました。
「自害したのはお小夜といってな。三年前に死んだ時は十八だった。両親には過分のお手当を下すったはずだ。下谷で安楽に暮しているよ」
「旦那は御存じで」
「よく知っている」
「もう一人の方は」
「おせいといって二十だった。──これはもう十年にもなる」
「不義の相手はどうなりました」
「これも死んだよ。当時三十そこそこの好い男だった。又三郎という遊び人でな、殿様に追われて袈裟掛に斬られたまま、大川へ落ち込んでしまったよ」
「女の身寄は?」
「姉夫婦があった。これも世間の口がうるさいから、多分の御手当で、今以て繁昌している」
平次は少し胸が悪くなりました。こんな乱倫な旗本のために十手捕縄の誇りまで犠牲にして、楊弓の曲者を捕えるのが、何だか馬鹿馬鹿しいような気がしたのです。
「親分、どうする積りなんで」
それっきり十日ばかり、ろくに外へ出ようともしない平次を見ると、ガラッ八の方が気を揉み出しました。
「どうもしねえよ。寝溜めだ」
「楊弓の下手人は」
「この十年の間、江戸で高名な楊弓の名人を書き上げて貰って、その道の者に一人一人身元を当らせたが、大村兵庫に怨みのあるような気のきかない人間は一人もない」
「浅五郎は?」
「お町の亭主かい、──丁半の心得はあるだろうが、楊弓などに縁があるものか」
「困ったね。親分」
「放っておくがいい。俺はお上の御用を勤めていりゃいいんだ。お町が可哀想だと思って乗り出したが、──入費は嵩んでも苦しゅうない──てな事を言う武家の紛々なんかに首を突っ込むのは嫌だ」
手の付けようがありません。銭形平次は全くこんな事を考えていたのでしょう。
その時──。
「親分、──お願い」
外から案内も乞わずに転げ込んだ者があります。
刷毛先を散らして左へ曲げた、色の浅黒い兄哥。唐桟の胸をはだけて、掛け守袋の紐と、腹帯に呑んだ匕首の脹らみを見せようといった種類の人間です。
「何でえ。吃驚するじゃないか」
ガラッ八は以ての外の顔を出しました。
「命に拘わる大事だ。済まねえが銭形の親分に逢わしておくんなさい」
「平次は俺だが、──お前は」
八五郎の後ろから顔を出した平次を見ると、
「有難え。これで死んでも浮ばれるというものだ。あっしは浅五郎というケチな野郎で──」
「あッ、お町の」
平次もガラッ八も驚きました。まさか、兵庫の眼を楊弓で射たと思われている、浅五郎が飛込んで来ようとは思わなかったのです。
「へッ、お町の阿魔がお世話になったそうで、あっしからもお礼を申します」
「そんな事はどうでもいいが、何だってここへ飛込んで来たんだ」
と平次。
「あの狷之介の野郎に捉まって、駒形の大村屋敷に引立てられ、危なく笠の台が飛ぶところでしたよ」
浅五郎は自分の首を平手でピシャリピシャリと叩きました。
「…………」
「庭先に引据えられて、殿様が一刀を引抜いて後ろへ立った時には驚きましたよ。なアに、命に糸目をつけるわけじゃねえ。この首が欲しきゃア、熨斗を付けてくれてやるが、あの屋敷の中で死んだんじゃ無礼討で済まされるから、これほど詰らねえことはねえ」
「…………」
「計略を用いて、殿様の面へ砂を叩き付けると、塀を飛越えて逃出しました。いや駆けたの駆けねえの」、
「何だって俺のところへ飛込んで来たんだ」
平次はまだ腑に落ちません。
「助けて貰おうてんじゃありません。この浅五郎に縄を付けて、奉行所へ突出して貰いたいんで──」
「何だと」
浅五郎は大変な事を言い出しました。
「大村兵庫の眼を、楊弓で射潰したのは、この浅五郎に相違ございません。金ずくで女房を奪られた怨みだ。どんな処刑でも受けますが、その代り、遊び人風情に女出入りで眼玉を射られた大村兵庫も何とかして貰いましょう──とね、こう申上げる積りで。町方が筋違いなら、龍の口の評定所へでも、若年寄の御邸へでも駆け込んでやりますよ。兵庫の野郎に腹を切らせて、あの邸にペンペン草を生やさなきゃア、胸が治まらねえ」
浅五郎は全く本気で言うのですから、手の付けようがありません。
「馬鹿な事を言え。お前にあんな器用なことが出来るものか、あれは楊弓の名人の仕業だ」
平次は相手になりません。
「親分、そんな情けねえ事を言って貰いたくねえ。あれは紛れ当りだ」
「そんなに都合よく紛れるものか」
「一生懸命になりゃア、俺だって、畜生ッ」
「駄目だよ浅五郎。そんな事で平次は騙せねえ。出直すがいい」
「よし、それじゃ頼まねえ。銭形の、平次のと言うから、もう少し判る人間かと思や、何でえ」
「帰れ帰れ」
「帰らなくってさ。これから南の御奉行所へ駆け込み訴えだ」
「馬鹿な事をしちゃアならねえ」
平次は驚いて飛出しました。入口で浅五郎を捕まえるのが精一杯。
「放してくれ、親分に用事はねえ」
「それほどまで思い詰めたのなら相談に乗ってやろう、まず入って坐れ」
「有難え。それじゃ突出して下さるか、親分、やくざ者が三千五百石の大旗本を背負って行きゃア本望だ。三尺高え木の上から上総房州を眺めて、浄瑠璃を語ってみせるぜ、親分」
浅五郎は少し有頂天です。
「待て待て、そんな話じゃねえ。お前を突出す代り、本当の下手人を捜して、あの邸からお町を救い出しゃ、それでよかろう──そんな事で手をうっちゃどうだ」
「有難え。親分、未練なようだが、お町は泣いているぜ、助けてやっておくんなさい。恩に着ますよ親分」
浅五郎は涙ぐんでさえおりました。
「俺には段々判って来ているんだが、あの家の人間が気に入らねえのと、とりわけ殿様の面が癪にさわるから、しばらく知らん顔をして様子を見る積りだったんだ。──お前に言われなくたって、人身御供のお町だけは助けてやりたい。行ってみようか、八」。
「親分」
ガラッ八も妙に涙っぽい眼で平次を見上げました。
「平次、どうだ、曲者が判ったか」
大村兵庫はまだ左の眼に繃帯をしたまま、脇息にもたれて平次の方を見やりました。
「大方判ったような気がいたします」
「ほう、それはえらいな。──褒美の金に糸目をつけるわけではないが、お町と浅五郎は、こっちで捉まえたのだから、曲者がこの二人のうちなら、その方の手柄にはならぬぞ」
殿様の生摺れが、またイヤな事を言います。
「お町、浅五郎に罪はございません」
「はて?」
「他に下手人があったとしましたら、お町浅五郎の両名はお許し下さるでしょうか」
「許し難いところだが、その方の手柄に免じてもよいのう」
「それでは申上げます」
平次は少し居座を直しました。
縁側に坐って、存分に春の陽を浴びておりますが、キリリとして好い男振りが、場所柄も、主人の傲慢さにも圧服される気色がありません。
平次の後ろには、お町が菊内に護られて、慎ましく坐りました。
その後ろにはガラッ八の八五郎、これは少し場うてがしておりますが、それでも親分の号令が掛れば、すぐにも飛出しそうです。
「お町はいつぞや申上げた通り、あの時、私と八五郎の側を離れません。浅五郎はお町に逢ったのは真当でございますが、それからズーッと、寺島新田の叔母の家に居りました。長命寺境内と申したのは遠方へ行くのはお許しがむずかしいと思ったからでございましょう。これは間違いございません。それから、もう一つお町が矢を隠したのは、浅五郎に疑いのかかるのを心配した取越し苦労からでございます」
「フム」
平次の話は依然として少しの疑いを挟む余地もなかったのです。
「あの騒ぎの時、所在の判然しないのは、この御邸の方でたった二人ございます」
「曲者は邸内の者とどうして相判った」
大村兵庫決して馬鹿ではありません。
「殿様の人気と申しましょうか、外向きの御噂はまことに宜しい方で、御所領の百姓は申すまでもなく、御朋輩、御同役、目付、重臣方にも申分のない評判でございます」
「左様か」
少し御世辞になりましたが、兵庫も悪い心持はしなかった様子です。
「それに、船の行方を一日つけ廻した浅五郎が、自分の外にあの船を狙った者はないと申しております。もしまた堤を通りかかった者が偶然船の中の殿様をお見かけして、折よく持っていた楊弓で射たと致しますと、あまり物事が都合よく纏まり過ぎます。そんな廻り合せは滅多にあるはずはございません」
「なるほど」
「すると、三囲前にお船のとまっている事を知った者が楊弓を用意して、ちょうど月の出前の暗い時刻を見測らって射たと見るのが順当でございます」
「よく判った。ところで、あの時刻に所在不明の二人というのは誰と誰だ」
「申上げる前に、三人の女中を除いて、あとの方御一同、これへ御召を願います」
平次は大村兵庫の邸にお白洲を開く積りでしょう。奥方お喜佐、弟狷之介、愛妾にして女中のお町、用人村川菊内、仲間勝造、庭掃きの三吉親爺を始め、二人の小侍、門番、──までズラリと並べました。
「これでよかろう。曲者は誰だ、名指してみるがいい」
大村兵庫は一刀を引寄せます。
恐ろしい緊張が、縁から庭に流れた。男女十数名の顔をサッとかげらせました。
「それを申上げる前に、少しばかり、古いことを思い出して頂きとうございます。今から十年前、格別の御目を掛けられた召使おせいという娘、不義の悪名を負わされて御手討になった事がございます」
「…………」
「真実は不義ではなく、許嫁の良夫があったのでございます。又三郎という遊び人で好い男ではあったが、至って向う見ずで、殿様に召された許嫁のおせいと、御邸の木戸のところで逢引しているところを見付けられ、おせいは一刀の下に斬られて相果て、又三郎は逃げる背後から袈裟掛に斬られたまま大川に落ちて相果てました」
「…………」
大村兵庫は痛いところに触られて、ムズムズしておりますが、平次の調子に淀みがないのと、一つも嘘が交らないので、口の出しようがありません。
「──いや、死んだと思われて、その実人に助けられ、傷養生をして丈夫になったのでございます。又三郎は袈裟掛に斬られたに相違ありませんが、刀尖が伸びなかったので、背中を斜めに一尺も割かれ、大変な出血で、しばらくは命が助かっても起上がる力もなかったことでございましょう。でも、取って三十の又三郎は、どうやらこうやら起出すと、そのまま上方へ飛んで、知り人の金で本式の結改場(矢場)を開きました」
「…………」
一座は矢場と聞いてザワザワとなりました。
「それから十年、商売の楊弓を稽古してしっかり磨き、京に幾人という名人になった又三郎は、名と姿を変えてこの御屋敷に入り込み、殿様に怨みを酬いる折を狙ったのでございます。江戸の楊弓番付をどんなに調べても、殿様に怨みを持つ者のなかったのはそのわけでございます」
「誰だ、その曲者は」
大村兵庫はたった一つの眼を光らせて見廻しました。四十前後と言うと、村川菊内、仲間勝造、それに二人の小侍がありますが、いずれも曲者らしくはありません。
「あの時在処の判らなかった二人のうちの一人でございます」
「誰だ、それは」
「一人は狷之介様、──しかしこれは又三郎にしては若過ぎます」
「…………」
狷之介は黙ってうつ向きました。なんかやましい事があったのでしょう。
「奥方の御憤りを思いやられるのは、御姉弟の情としてご尤ですが、曲者を御見逃しになったのは御手落でございました──」
「それは真実か、狷之介殿」
兵庫の一つの眼はギラリと光ります。
「もっとも、なまじ曲者を捉え、これが表沙汰になっては、かえって御家の瑕瑾になると覚召された事でしょう。下賤の者に楊弓で眼を射られたと知れては、御身分に拘わりましょう。狷之介様の遊ばされ方は、御褒めになって宜しいかと存じます。もっとも、お町を憎しみの余り浅五郎に罪を被せようとなすったのは面白くありませんが──」
「フーム」
上げたり下げたりです。
が、兵庫はこれで堪能し、狷之介はすっかり油を絞られた形です。
「ところで曲者は?」
重ねて問う兵庫には答えず、平次は庭の方へ向き直りました。
「又三郎、背中の傷痕を見せてあげな」
「ヘエ」
何という事。
素直な返事をしたのは、五十七八、六十近い老人と見えた、庭掃きの三吉だったのです。
「真っ平御免ねえ」
パッと肌脱ぎになって後ろを向くと、頸筋から背中へかけて、斜め一文字に、物凄い古傷の痕。
「己れッ、不届な奴」
一刀を提げて大村兵庫は立ち上がりました。続いて、村川菊内も、二人の小侍も──。
「お待ち下さい。表沙汰にすると、家名に拘わりますぞ。狷之介様、殿様をお留め下さい」
平次と狷之介とガラッ八が一生懸命宥めているうちに、柄に似ぬ軽捷な三吉の又三郎は、二三つ跳んで、木戸から路地へ、往来へと逃げ去ってしまいました。
「逃がしてはならぬ、それ追えッ」
と兵庫、縁側から庭へ、足袋跣足で飛降ります。
「殿様、それはなりません。あれは一度斬られて死んだ男の幽霊でございます。たって捉まえても成敗のいたしようがありません。公儀の御耳に入れば、あの男の命一つと、三千五百石の御家が釣り替になった上、一つ間違えば殿様の腹切道具になります」
平次は木戸に突っ立って、両手を拡げて押し止めました。
「殿、穏便の御沙汰を願います」
「邸外への聞えも如何、平に御鎮まりを」
村川菊内外一同、寄ってたかって兵庫を座敷へ押上げてしまいました。
*
「どうだ八、溜飲が下がったろう」
「その代り褒美はフイになったぜ、親分」
「欲張るな、三吉を逃がした上、お町さんを貰って来たんだ。なア、浅五郎が神田の家で待っているぜ」
平次はそう言いながら、後ろからイソイソと従いて来るお町を顧みました。
「狷之介が曲者を見たとどうして解ったんで、親分」
「相変らず絵解きか。あの晩三囲の前で船の騒ぎを面白そうに見ていたからさ──投げ槍か、刀、鉄砲でやられたのなら、狷之介に相違ないと思うところだが、曲者は楊弓の名人と解っているから迷ったよ」
「三吉が曲者と解ったわけは」
「船の居る場所を知って、楊弓を用意して来る隙のあるのは三吉だけさ」
「それにしても酒を持って船で来たはずだが──」
「それが詭計だよ。往きは渡船で行って、帰りに知合の船頭に頼んで船に乗せて貰ったと言うのが可怪しいと思わなかったかい。──あれは、船頭を一人仲間に引入れて、少し下手の土手に着けさせ、そっと登って、堤伝いに船の上へ行くと、狙いを定めて矢を射たのさ、──当ったと見ると、継弓を畳んで元の場所へ引返し、船を中流まで出して、いい加減のところから漕ぎ戻らせ、今向う岸から来たような顔をしたのだろう。船から船へ乗移ったのが疑わせない手だよ」
「どうしてそれが解ったんで、親分は?」
「楊弓の名人は、どんなに道具を大事にするか知ってるだろう。紫檀の継弓を捨てるくらいなら、自分の身体を隅田川へ捨て兼ねないよ。──俺はそう気が付いたから、村川の旦那に頼んで、そっと三吉の荷物を捜さしたのさ。三吉もそれを察したらしいが、あわよくば三千五百石の殿様を抱いて自首する積りで、逃げも隠れもしなかったのだよ。それにあの男は風呂へ入るところを人に見られるのをひどく嫌っていたそうだ。背中の傷痕があるからだ」
「又三郎は四十そこそこじゃありませんか、三吉はどう見ても五十七八、六十ぐらいに見えるが」
「大怪我で精気を費い尽したのだろう。それに人の三倍も五倍も苦労をした。その上少し顔へ細工をして、年よりは十七八老けて見えるようになったから、平気であの屋敷へ入ったのさ。生れは上総の知行所だから、住込むとなると、わけはなかったろう」
「変な仕事だったネ、親分」
「笹野の旦那には叱られるだろうが、いい心持さ。岡っ引もこれだから満更じゃねえよ」
人を縛らない時は、本当に朗らかな平次だったのです。
底本:「銭形平次捕物控(二)八人芸の女」嶋中文庫、嶋中書店
2004(平成16)年6月20日第1刷発行
底本の親本:「銭形平次捕物百話 第二巻」中央公論社
1938(昭和13)年12月7日発行
初出:「オール讀物」文藝春秋社
1935(昭和10)年5月号
入力:特定非営利活動法人はるかぜ
校正:結城宏
2018年7月27日作成
2019年11月23日修正
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(https://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。