かんかん虫は唄う
吉川英治
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「食えない者は、誰でもおれに尾いて来な。晩には十銭銀貨二ツと白銅の五銭玉一ツ、みんなのポケットに悪くねえ音をさせてやるぜ」
かんかん虫のトム公は、領土の人民を見廻るように、時々、自分の住んでいるイロハ長屋の飢餓をさがし歩いた。
彼は、貧民街の同胞たちから、長屋のプリンスの如く人気があった。事こころざしと違って、二年や三年食いはぐれて見ても、外国のようで日本のようで、金儲けで埋まっているようで、金を摺らせる坩堝のようで、得体のわからない貿易港から、ふしぎにもよく仕事のアナを探って来る彼は一種の天才だった。
「おじさん、労働したことがないって言ったね」
「まったく経験がないんです、勤人なんてものは、落魄れると実に困りものだなあ。なかなか二度とは雇口がないし、家族はみんなあんなだし……」
「悄げなさんな、お天陽さまが出るうちは、心配はねえッてことさ」
「助かりますよ、今日から仕事があれば。──だが、僕にできますかな」
「のみこんでるよ」
「一つ、よろしく」
「だが、おじさん、帽子の縁を、鼻まで引ッ張ったり、女が来ると、下を向くのだけはよしねえ」
今朝の彼の同伴者は、イロハ長屋へ落ちて来てからまだ間のない四十前後のよく肥ったカイゼル髯のある男だった。大人しく官吏でいればいいものを、開港場のばか景気にそそられて、健気な発奮をしたため、立志伝の逆をやり遂げてしまったというのが彼の述懐であった。
十四のトム公は、生活力をスリ減らした四十男をしりえに連れて、ぽかぽかと木靴を躍らして歩いた。矮短な体をズボン吊で締めて、メリケン刈の頭へ蟇の疣みたいに光る鳥打帽を乗っけている。
彼のいちばんお花客先は、横浜の船渠会社であった。まだ菜っ葉いろの職工さえその門に見えないうちに、全市のかんかん虫は煙のように高い煉瓦塀の下に蝟集する。わらじ、ボロ靴、ゴム足袋、木靴、洋装、和装、裸装、あらゆる労働的色彩が睡眠不足な蠢動をしている。女は女でかたまり、男は男でかたまっている。鉄の門には、まだ朝霧がふかい。結核性な匂いをもつ青白い瓦斯燈が、ほそい眼をして、いつもそこに簇る夥しい求食者の群を見下ろしている。
「きょうは百二十人、百二十人」
前のめし屋のランプの影から、やがて二、三人編上靴を穿いたのが出て来て、こういう時は仕事のある福音だった。
しかし、三分の一は、ハネをくって帰った。落伍者はたいがい労働にたえそうもない病人や老人だった。ほかへ行っても、ハジかれる率の多い者にきまっていた。
トム公には、あぶれて帰る人たちの執着がわかった。大人になったら、おれはかんかん虫の指揮者になりたい、病人や老人はあぶれさせないようにしてやる、と彼はポケットの中で握り拳を固くした。
「親方」
「なんだ、トム」
「この人をたのむよ」
「ほ、お髯さんか。立派なもんだな」
「官員さんだもの」
トムは顔が利く。お髯さんは処女みたいに顔を赤くした。まったく彼が着て来た失業前の遺物らしいチョッキは異彩を放ち過ぎていた。
かんかん虫とは、星の夜に、秋草の蔭で、しおらしい美音をまろばすあの鉦たたき虫のことではない。同じく、鉄はたたくが、目も鼻も耳の穴も、まっ黒になって、船のサビ落しをやる労働者の名だ。或いは、港の船を目あてに、ペンキ塗りでも何でもやる自由労働者のことと通用してもよい。
午の、ドンが鳴った。
トム公は、ほかのくろんぼ連と一緒に、七千トンの〓(「舟+巨」)槽の底から午飯を食べに甲板に上がって来た。半日の作業で、どの顔も、どの顔も、蝋燭と、カナ錆でまっ黒に生れ変っている。
その中をキョロキョロしながら、
「オーイ、おじさん」
あの立派な髯も、見当がつかなかった。
「おじさーん。亀田さーん」
亀田は、別人のようになって、これもうろうろトム公を探していた。一等船室の甲板から頓馬な首をのばして、
「ここにいます」
「上がっていたのか」
「弁当を食べようと思って」
「そこはいけねえ、外国船の船長のやつ、癇癪もちだから、甲板をよごすと怒るぜ」
「え、いけませんか」
小心そうに、亀田の大きな体がそこのブリッジを降りかけて来た時だった。ふとうしろから、茶色の丸ッこい動物が、彼の肩を越えて、上の船橋へ跳び上がった。
それと共に、一つの船室から、ハイヒールのあわただしく弾む跫音と、ゴム草履とが、もつれながら駈けて来て、
「あれ! たれか、あれを捕えて下さい」
亀田の肩をたたいた。泣き出しそうな声だった。
彼の眼は、受令的に、船橋を彷徨したが、何も見つけえなかった。二人の婦人は、彼が有髯のかんかん虫であったと気づくと、きたない物のそばを離れるように飛び退いた。そして、こんどは、水夫や事務長を呼び立てた。
幾つもの扉が一時に押された。赤い顔や、のッぽや、デブが溢れ出して、亀田は早口な外語と葉巻くさい体臭に取り巻かれた。彼は、あわてて下甲板へ降りた。船渠の壁も、船の中も、たちまち人間で埋まった。
「先刻のだ、先刻のだよ」
「なんだ、あの女は」
「らしゃめん」
「芸者」
「いや、奥様に、お嬢様」
「わかるもんか」
「年増がいいな」
「おれは、若い方がいい」
「いや丸っこ過ぎる」
職工たちの無遠慮な眼や指が、わいわいと騒いでいた。入渠している外国汽船の船員か客かを訪問して来たこの異彩は、とっくに、彼らの好奇を煽っていた。
年上の婦人は、洋装だった。着こなしが肌につきすぎて、粋というのもおかしいが、垢抜けがしている。もうひとりは、こってりと、日本髪で、あどけない。
だが、ふたりとも衆目もなく、羞恥もなく、黄色い声でさけんでいた。
「たれか、早くあれを!」
「たれか、取って来て」
「私のオペラバッグです、あの中には、大事な物ばかり、はいってるんですから」
彼女らの指につれて、人々は、眩しそうな眼をみな帆柱の上へやった。暗褐色の小さい怪物が、銀の鎖を咥えて、そこに、丸まッていた。
「猿だ」
「インド猿!」
「うまくやったぞ、オペラバッグを咥えて逃げやがった」
「お聟さんにするなら、返してやるとよ」
ワーッと陸で囃した。
船長は、まっ赤になって、それへ呶号を返した。難船に瀕したせつなのように、大きな拳が空でうごいた。会社側の職工長は、陸の者を追いながら、一足跳びに桟橋を渡って来た。
二人の水夫が、見事な速度で、帆柱へ登って行った。小さな、賢いインド猿は水夫がそこへ来るまでに、蜘蛛の巣のようなロープを渡って、まったく、手の届かない所へ、腰をすえ込んでしまった。
「誰か捕まえて下さい、いいえ、あのオペラバッグを取って下さい、あれを紛失しては、大変なんです! お礼は、いくらでもあげる。事務長さん、どうして下さるの。もし、あれを紛失したら、船へ責任を持たせますよ。宝石だけでも十万円位なものは、はいっているんですから」
婦人は、金持臭い哀命をふり撒くそばから、ヤツ当りに、上級船員へ詰問した。船長の赤い顔も、のっぽな事務長の顔も、空へ向いたまま硬ばってしまった。
飛んでもない悪戯者へ、あらゆる方法で捕獲の手が試みられた。だが、彼はそれに対してトンボや綱渡りを酬いて見せるだけだった。そして最後には、信号柱の尖へ行って、オペラバッグを齧り始めた。
「飼主は誰ですか!」
婦人の眼は、ヒステリカルに周囲を物色した。
「あの猿は、船のですか、それとも、誰か飼主があるんですか」
飼主は一等船客の外人だった。彼は、日本婦人の狂噪を軽蔑しながら、そんな大事な物を船室の外へ置いたのが悪い。こっちに責任はないという意味を一息に周囲へ向ってしゃべった。
「猿を買います! 船長、猿の代価を払いますから、短銃で射殺してください」
飼主は、やや日本語がわかるとみえて、ひろい肩幅を婦人の前へ押して来た。
「いけません、猿、売りません」
「いいえ、売ってください」
「飼主、わたくし愛している、動物の生命を売る! 否、否」
飼主の顔も猿みたいになった。
「あなた、会社の職長さん?」
「はっ」と、職長はいらいらした拳を腰につッかって、
「──高瀬さんの奥さまでございましたな」
「はい、弁天通りの高瀬でございます。主人の代理で、船へ、お贈り物を持って来たところですの」
「飛んだご災難ですな」
「何とか、会社として飼主へかけ合って下さいませんでしょうか」
「かけ合ってみましょう」
船底作業が終ったので、午後から船渠に水を張って三時四十分の満潮期には、キッカリ、船を出さなければならない。同時に、次の入渠船の約束もあるので、職長としては、なおさら、気が気ではなかった。
職長と飼主の間に、流暢な外語で、交渉が始まった。しかし、交渉はすぐに破裂して、飼主は、傲然と首を振った。理論に於て、上級船員たちも、取做しがつかなかった。ただ船長の裁判権に解決を待つよりほかはない。
「ふうッ……」
船長は当惑そうに首を振り動かした。
「射殺して下さい」
婦人はまた、それをくり返した。
職長も口をそえた。
「船渠の底へでも落されたらそれッきりです」
発電所の煙突は、時間どおり、黒煙を吐いて怒濤のように、海水を吐き入れていた。一時の汽笛が鳴っても、職工たちは、わいわいとさわいで、就業にかかりそうもない。
「困りましたなあ」
「ほんとに、どうして下さるの」
「船長!」
職長は、時計を示しながら、
「三時四十分に出渠できないと、一日延びますが」
「それは、いかんです」
「会社こそ困ります。次の入渠船へ、莫大な違約料をとられますからな」
船長は大きくうなずいて、ボーイに短銃を取りにやった。短銃は空へ向けられた。空の猿と甲板の飼主とは、主従で腹をあわしているように船長へ歯をむいて吠えた。
短銃を見せても、猿は下りて来ない。問題は紛糾した。相互の感情と利害は妥協の余地が見出せないように相反している。上甲板は、喧々囂々とした。
トム公は、木靴を脱いだ。
「なにを騒いでやがンでい」
彼のすがたが、栗鼠みたいに帆柱へ駈け登ってゆくと、彼を知る彼の仲間のかんかん虫たちは、こぞって拍手と歓呼を下から送った。
「プリンス!」
「うまくやれ」
「一割取ってやるぞ」
「一割じゃ承知できねえ」
ワーッ、という動揺めきに、上甲板の醜い喧噪は、一時に押し黙って、眸を吊り、眉をひそめ、生唾をのんだ。
トム公は、太陽の中にいた。
帆柱の上から堅パンが落ちて来た。トム公は敬礼していた。群集にしたのではない、猿に。
猿は、白い歯を与えたのみで、敬礼を忌避した。トム公は、帆柱へ足を巻いて、また一枚堅パンを出した。
半分は自分が食った。
半分は、彼が抱えて行った子猿に食わした。彼は、再び、親猿に敬礼した。
万雷のような歓呼の中へ、トム公は、二匹の猿を連れて辷り落ちて来た。──甲板へつくと同時に、彼はくろんぼの波に胴上げされて、狂的に手から手へ送迎された。
猿も、オペラバッグもたちまちどこかへ素っ飛んでしまった。船はいつのまにか、船渠の地上から十尺も高く泛かび出している。職長の指揮笛が、両舷のワイヤロープへあわただしく鳴っている。
三時四十分──
汽車の発車時刻のように、満潮期の海へ、船渠は口を開いた。山のような影を、ゆるやかに吐き出した。
「どうしたい、あの、らしゃめんは」
「いつのまにか、ドロンでやがる。ふてえ奴だオイ、どうする気だ、プリンス」
「何がよ……」
ペンキ小屋の裏で、ストライキが起った。彼の支持者たちは、不平だった。トム公は、草原の中に乾いている快走船の中で、阿片の混合している噛み煙草を噛んで、黄いろい泡を口の中で揉みながら、夕方の空をながめていた。
「何がって、あのオペラバッグよ、十万両の一割なら、一万両だぞ」
「会社へそう言ってやれ」
「黙ってるばかがあるもんか、職長へかけ合えよ」
だが──そのうちに六時半の解放汽笛が鳴ると、みんな頑張る気を失ってしまった。一刻も早く帰りたい方が、先になった。
金釦をつけた守衛は、いつもの出口に立って帰る者のポケットや弁当箱を、両方から一人一人撫でまわした。それは通常のことで、侮辱とも感じないほど馴れきっているが、きょうのは、いやに手間がかかって、なかなか先が吐き出されなかった。
空の弁当箱は、いちいち解かれた。口を開かせられたり、綱を跨がせられたり、ひどく、きびしい。
「私服が来ている」
そんな囁きが、伝わった。
「私服、どうしたってんだい」
トム公は、反抗的に、前の者をグイグイ押した。すると、彼の前に立っていた髯の亀田が、
「ちょっと、君」
と、私服に引っ張り出された。
「なんですか」
「まあ、いい、こっちへ来い」
背中を小突かれて、守衛部屋へはいって行った。
トム公は、驚いた。
「開けてくれ、おじさん」
木靴の先で、守衛部屋の戸を蹴った。
「おまえに用はない」
会社の守衛は、彼をつまみ出そうとした。
「こっちで用があるんだ」
彼は、中へとびこんだ。
先刻の夫人と令嬢がびっくりして、卓から立った。オペラバッグが、彼女と刑事の間にあった。
刑事は、彼女たちを、眼でかばいながら、
「なんだおまえは」
「かんかん虫のトム」
「何しにはいって来た!」
「おれの連れだよ、その人は。一緒に帰るんだ」
「これは泥棒だ」
「冗談じゃない……」
「──奥様」
刑事は、体を横に反らした。
「ご紛失の腕輪は、これでしょうな」
白金台の金剛石の環が、燦然と、卓の上におかれた。
「え、これですの! ……まあ、よかったわねえ、奈都子さん」
「ほんとにネ」
「ほかに、まだ何か、あったように伺いましたが」
「え、書類と、粒の宝石が、……でも、ようございますわ、これさえ戻れば」
「宝石じゃ、ちょっと出ませんな。指輪ぐらいなものは、食ってしまいますからな、こういう動物は」
と、亀田の頭へ、手をのせた。
「動物だ?」
亀田は、刑事の手をふり落しながら、わなわなふるえる声で、
「動物たあ何ですか。その品が、吾輩のポケットから出たから、吾輩が泥棒だというように言うが、全然、知らんこッてす。まったく、誰かそばにいた奴が」
「いかんよ、後で聞こう」
「冤罪だ、動物とは、何ですか」
「よせ! 興奮するな」
そこへ、会社の給仕が、扉を開けて、
「奥様、お馬車が参りました」
刑事や守衛は、いっせいに壁へひらいて、
「とんだご迷惑をかけましたが、どうぞ、ご主人に、悪しからず」
「じゃ、後はどうぞ……」
トム公は、立ち塞がった。
「待ってくれ、オイ」
「…………」
奈都子は、まっ蒼になった。
「伯母さん、こわいわ」
「人に濡れ衣を着せて、すまして、帰るのか、てめえッちは」
「こら!」
「何がコラだ。もっと、調べろ」
「明白じゃないか」
「うそだい」
「君! このチビを追い出してくれんか」
守衛は、両方から、トム公の襟くびをつかんで、ズルズルと引っ張った。トム公は、両方の手を、扉と壁に突ッ張って、木靴でバタバタと床をたたいた。
「こら、出んか」
「出ン」
「どうしましょう」
「よろしい」
刑事は立って来て、柔道何段かの実力を示すように、トム公の喉首を壁際へ持って行った。
「さ……奥様、お通りください」
柔道何段かの前には、トム公も毬のようだった。守衛たちは、さんざん転がった彼の体を、三人でかついで、門の外へ抛り出した。
「畜生」
トム公は、閉じられた鉄の門へぶつかッて行った。亀田を返してもらわなければ、十銭銀貨二枚を待ちこがれて、ランプの石油も買わずにいる彼の五人の家族に対してまみえることができない──という気持でいっぱいだった。
「やい、ヘッポコ、チョンガリ、南京虫!」
赤と青の角燈の光が、彼のうしろから虹のように投射して掠め去った。トム公は、それが本社の表口を離れた馬車だと知ると、まッしぐらに追いかけて、馭者台へとびついた。
「あっ、違ッた」
二頭立ての中に見えたのは、トム公の知らない小父さんだった。前内閣総理大臣大隈重信の顔も、新聞を見ないトム公には、幸いにも、あのへの字口が、そう大したものに見えなかった。
だが、彼は、それが先刻の二婦人でなかったことに狼狽した。馭者の鞭は、風を切って、飛び降りた彼の影をビュッと払った。
とたんに、馬車の戸を排して、ふたりの憲兵が、外をのぞいた。トム公は胆をひやした。横ッ飛びに逃げ出した。豪放な笑い声が、そのうしろで聞こえたように思った。
「プリンス!」
「どこへ行くのさ」
野毛橋は、通せんぼをして、彼を通さなかった。彼は、咽せるような匂いに包囲されて、軽々と、河岸の暗い所へ運ばれてしまった。
「なぜ、黙って通るの?」
女たちは、みんな、熱帯人種の好むような強い臙脂のハンケチを襟にむすんでいた。共同便所の異臭と柳の葉のそよめく闇に、十二、三の白い顔が、海月みたいにぽかぽかと彼を取り巻いた。
夏に、秋に、春に、夕暮となると、享楽の開港場の街を押し流してあるくハンケチ工場の女工たちである。西戸部にはむらさき組、大田町には臙脂組、北方にはコバルト組、それらの色とりどりが、伊勢佐木町の夜景を、どんなに濃くすることか。
「どうしたの? トム」
「まあ、やアだ!」
「泥だらけよ」
「血が」
「なめてあげよう」
トム公は甘んじて、頬と、右の肱を、こそぐッたい舌に舐めさせていた。
「喧嘩したの?」
「ううん」
トム公は、彼女たちを見廻して、
「たれか、五十銭一つ貸してくれ」
「五十銭?」
「貸してくれ」
「ないわ」
「たれか、あるだろう」
「二十銭なら」
「わたし、五銭ならある」
トム公のてのひらに、白銅が二つ、小さな銀貨が三ツばかり集まった。
「これから、南京街?」
「それどこじゃねエよ。人の家へ持って行くンだ」
「違うわね、いつもの、プリンスと」
「癪にさわった、おら、癪にさわった。もう船渠へは仕事に行ってやらねえ。警察と喧嘩してやる。──それから」
「まア、大した威勢だわよ」
「だから、好きサ」
トムは、肩をゆすぶって、女たちの手を振り落しながら、
「今夜は、ふざけッこなしさ。おれは怒ってるんだ。──弁天通りの高瀬って、何屋だい」
「高瀬なら石炭屋だわ」
「石炭かつぎかあ」
「違うわよ、百万長者だっていうじゃないの」
「もとは、おれッちと、おんなじだ」
「そうそう、それがどうしたの」
「火を放けてやる!」
「え」
「ウソだよ」
トム公は、いきなり、足もとの砂利をつかんだ。左の手から一つずつ取っては、川面へ向って低く飛ばし始めた。
暗い水面に、燕の腹がするように、小さな飛沫がピョイピョイと切れてゆく。
「二つ切れた──」
「三つ切れた!」
プリンスに習って臙脂の女たちも、ポカポカと石を投げこんだ。キャッキャッと笑って手を打った。
木靴は、めんどう臭くなって、大きな石を一つ蹴落した。どぼーん! と白い水玉が岸まで上がった。
「ひどいわ!」
水鳥のように、女たちが分れ飛んだ。トム公は、野毛橋の闌干から振り向いていた。
「──今のこと、誰にも言うな」
朝、まだ朝霧や紙屑がほの白い横浜の町を、二人曳きで波止場へ飛ばしてゆく四、五台を見る。──その上には、ゆうべ、真金町の日本ムスメに、もてたか、ふられたかした赤羅紗の外国士官どもが、籐の細いステッキを膝に挟んで、強烈なウスケの大壜を喇叭飲みにつかみ、俥から俥の上へ、手わたしに飲み廻しながら銀貨の音で、車夫の細い脛を叱咤して行く。
傍若無人な俥上の声、日本ムスメの貞操と、シンガポール、蘭領あたりの女のそれとの値段の比較や、いわゆる、大和なでしこの、低級さ、騙しよさ、肌のよさ、髪あぶらの臭さなどを、日本人なみの惚気まじりに、唾を吐きつつ爆笑して行ッた。
それが、当時の浜ッ子には、いかにも颯爽と見え、開化の賓客らしく見え、偉く見え、文明人らしく見えた。
商館の通勤者、税関吏、お茶場女、燈台局の官員さん、沖仲仕、生糸検査所へ初めて採用された海老茶袴、すべて朝まだきの人通りは、みな彼らに道をひらいた。先生に、そうせよと教えられているのか、小学生は、脱帽した。
そんな時、彼らが、俥上から捨てる葉巻の吸いかけを見ると、きっと、パンへ飛びつく痩せ犬のように、頭から南京米の麻袋をかぶっている男が、鳶のようにあらわれて、攫い取るように、自分の口へ横に咥えた。
だから彼等が、どんなにジャップを軽蔑し、また開港場の我利我利人種も、それに対していかに、安ッぽく媚び諂ったことか。
横浜で屈指といわれる豪商でも、ここぞと思う大商いをする時は、船の碇泊期間だけ、目ぼしい外人を生擒っておくため自分の妻、妾、娘さえ提供するのがあるというほどに。で、北仲通りの高瀬商会などにも、チョイチョイそんなのが出入りする。
そのためにか、店の横から裏通りへとおして華麗な、和洋折衷の青楼とも住宅ともつかないものがあって、今朝も、ふたりの洋人が、濁った眼をして、桟橋へ帰った。
それを、送り出すと、夫人お槙は、伸びをして、やけに、ひとりで肩を叩きながら、まだ煙草の煙の濁っている西洋間の長椅子へ、自分を抛り出していた。
「もう、くさくさしちまう。いくら店の為になるったって、毛唐のお客は、たくさんだわ」
「…………」
うすい髪の毛に、ていねいに櫛の歯をとおしている、脂肪性赤鼻質の彼女の主人の、高瀬理平は、ちらっと、新聞紙から額ごしに彼女をながめたが、また、黙ってしまった。
「あなた」
「ム?」
「わたし、きょう、千歳へお供するのは、ごめん蒙りたいわ」
「なぜエ?」
「なぜって……」
「いかんわえ、そんなこたあ。ゆうべのもだいじなお客筋だが、きょうのは、なお大事なんじゃ。千歳の方をひきあげさせて、ぜひ、わしの本牧の別宅へお連れ申さにゃならん。そういうことは、女の交際術で、上手にやるのが役目だ。またお前が、そういう方にかけては、諸事抜け目がない奴と思えばこそ、家へ入れたのだからな。でなければ、以前のように、金春の姐さんに帰るか、日蔭者になって、猫でも対手にするがええ」
「まったく、今になって、大後悔だわ。妾といわれても、尾上町に別になっていた方がよッぽどよかった」
「ば、ばか!」
「でも、ここへ来て、夫人といえばおていさいはいいけれど、しょッ中、異人のお相手ですもの。──まるでチャブ屋の女将だわ」
「よせ!」
誰か、ノックしていた。
「奈都子さん?」
「ええ」
理平は、姪の顔を見ると、すぐ言った。
「奈都子、きょうは大隈伯のお顔を見せてやるぞ。前の総理大臣閣下、新聞でよりほか見たことはあるまい、御前様のお顔は」
「なんのご用事で行らっしゃるの」
奈都子は、やがて義父になる伯父と、生さない伯母の前に、一つずつ珈琲をおいた。
「そりゃ、商売じゃ」
「だって大隈さんは、石炭なんぞ、買わないでしょう」
「大隈さんに、石炭は売りつけられんよ、運動してもらうんじゃ、海軍の方へ。こんどの遠洋航海の艦隊だけでも、たいへんなもんだよ。また、生糸の方でも、いろいろといい便宜がある」
石炭と生糸の話になると、奈都子は、理平の顔が、石炭に見えたり、さなぎに見えたりして来た。開港場成功者は、みんなそうであったがこの伯父が昔、石炭かつぎをしていた頃の姿まで見えて来て、いやであった。
「伯母さん、きょう、どうなさるの」
「疲れているから、今、お断りしていたところなのよ。奈都子さんだって、大隈伯なんて、おじいちゃんの顔なぞ、見たくないわね」
「え……でも……何でしょう」
目交ぜで、クスリと笑っていると、理平は、新聞に眼を突かれたように、ガチリと、珈琲茶碗をおいて、
「おい、こら、お前たちゃ、きのう船渠会社へ何しに行ったんじゃ。──新聞に出とる、新聞に」
と、新聞をたたいた。
「あらっ」
お槙と奈都子は、下品に笑い出した。
「ま、新聞に? ──じゃ、隠していてもムダだったわね、こう暴露しちまッては」
「ろくな所へ行きおらん、あんな、かんかん虫どもの集まッとる所へ行ったら、ペスト菌にとッつかれる。自体、何しに行ッたんじゃ」
「外国船のM号に」
「M号には、わしの店では、石炭を売っておらんが」
「ハムスンさんへ、お礼に伺ったんですわ」
「ハムスン? あのグランドホテルで、何かやった下手ッくそな、音楽家の」
「え。贈り物をいただきましたから──奈都子さんも、あたしも」
理平は、不快そうに、新聞をクシャクシャに持って、もう一度読み直しながら、
「それはええが、お槙は、わしがやった腕環を盗まれ損ねたというじゃないか。なぜあんな高価なものを持って歩く? すぐ、犯人が捕まったからよいけれど、もし宝石をバラバラにしてこかされたら、それ限りじゃないか。金庫へでもしまッとけ。ばか!」
「よく、ばかの出る朝ですこと」
「毛唐の客は、うるさいの、嫌いのと言って何だ、あんな西洋乞食のヴァイオリン弾きの尻などを追い廻して」
ちょうどよく、その時、電話のベルが鳴ってくれた。
「あ……千歳の女将からだろう、大隈伯がお目ざめになったら、知らせてくれるように頼んでおいたから」
理平は、あわてて受話器を耳にあてた。
「……おウ、わしは高瀬、左様、主人の理平じゃがね……え……えっ……何? ……何だア? ……何じゃッて? ……」
耳を疑るように、何度も訊き返していたかと思うと、彼は、電話機が相手の顔に見えて来たように、呶鳴ッた。
「──わしは、お前みたいな者は知らん。それでも来ると言っても、面会はせんぞ。──何、奥さんに? 奥は旅行中じゃ。──愚連隊じゃろう貴様は……来るなら来い! 刑事を呼ンでおくから!」
「おじ様、どうなすッたの」
奈都子は、電話口を離れて椅子へ戻った彼の顔いろに、彼以上の動悸をうけ取って訊ねた。
「なに、愚連隊にちがいない」
「何だって言うんです」
お槙も、不気味そうに白けて言った。
「──今朝の新聞を見た奴じゃろう、そのことについて、わしかおまえに会いに来ると言うから、呶鳴りつけてくれたんじゃ、警察でも、あの愚連隊のやつらを、何とかしてくれんと困る」
そう言いかけて、彼はまた、ぎょっとしたように振り向いた。つづけさまに、電話は、生きた怪物みたいに震鈴していた。
「お槙、おまえ出ろ。あ……おまえじゃいかん、奈都子、女中になって、おまえが聞いとけ。……そしてな、今の奴じゃったら、ご主人は只今もう東京の方へお出ましになりましたと」
だが、今度かかって来たのは、港町の青楼からであった。やさしい女の声なので、奈都子は、落着いて聞くことができた。
「おじ様、千歳の女将さんよ」
「そうか、大隈の御前様はまだおいでるらしいのか」
「え。ですけれど、きょうはまた、水上警察旗相定祝賀会というのへご出席なんですって。晩には、グランドホテルで、大使館の方や知事さんなんかの晩餐会があるから、とても、きょうはお目にかかる隙がないでしょうって」
「だから、そこを頼んであるんじゃないか、あの女将も役に立たん女じゃの」
「いいえ、ですから、まだ三、四日は、ご逗留になるらしいから、よい折があったら、お電話でお知らせするというんでしょう。おじさんみたいに、半聞きで、すぐに人を価しちゃ、失礼だわ」
「分った、分った、それならば、それでいい。折角、横浜へ来た大官を、利用せずに帰しちゃつまらんからの」
「どうしておじ様は、官員様ばかりそう崇拝なさるの」
「崇拝はせんよ、勲章を佩げた鴨をつかまえんじゃ、大きな実業家にはなれやせん。知己は、上に求むべきものさ。たとえば、将来おまえのお聟を探すにしても」
「わたし、勲章を下げた人、嫌いだわ」
「そうとも、お金持の方が、遥かにええ」
「金持なんか、なお嫌い」
「じゃ、貧乏人になりたいのか」
「働く人が好き。ねエ、おばさん、船渠へ行ってみて、わたし初めて、金持の悲哀を知ったわ、あの、汗みどろになった職工の顔や、ハンマーの音を聞いてさえ、物が美味しく食べられそうな気がしやしない?」
「ま、変っているのね、奈都子さんは。わたしは、気持がわるくって、しじゅう鼻を抑えていたほどなのに」
「それみろ、あんな所へ連れて行くから、すぐペスト菌にたかられて来おる。それよか、ぼつぼつ支度をしなさい」
「千歳は、お見合せになったんでしょう」
「わしにも、招待状が来ておるから、グランドホテルの方へ出席してみよう、大隈伯にも、そんな場所で顔を知って戴いてからの方が都合がええ、──槙も、おまえも、うんと盛装せい、伯は派手好きじゃという話だから」
各〻の朝湯と化粧に、三時間ぐらい費やされた。首だけ粧ったところで、万珍楼の支那料理をとって昼食がすむ。髪結が帰る。洋服の着付師のお定さんが来る。理平は、万年青展覧会ほどある屋上庭園から降りて来て、ちょっと、店へ顔を出して、金庫の鍵を鳴らしながら奥へ引っこむ。
午後四時──やっと女中が馬車会社へ電話をかけている。夫人お槙は、かつらのように夜会巻に結って、居留地仕立の洋装に開化人のあらゆる粧いを凝らし、バイオレットの香液を咽せるほどふりかけて、金春時代の全盛さを、ちょっと理平の眼に偲ばせた。奈都子はまた、きのうとは下から帯まで色彩を変えた裾模様に、白金と宝石のかがやきを歩身から撒き散らして、フロックコートの伯父を中に挟んで、馬車へ乗った。
夕風を切って、馬車のムチは鳴る。
赤塗の轍はれきろくと関内の文化街を真っすぐに疾走した。前の台に胸を張って、二頭の馬を操りながら、辻々の人を避けさせてゆく馭者の鞭振りを眺めつつ行くことは、彼女たちに快い誇りを満たした。長い点火器の棒を持って飛ぶ瓦斯燈夫や、石油罐とキャタツを腕にかけた軒燈屋が、縦横に町を駈けて、町の夜を華やかせてゆく。
「あらっ?」
うしろの幌が、ばり、ばりッ、といったのでお槙も奈都子も、同じ姿態をして、振り向いた。
「あ……」
理平も首を捻じ向けた。
そして、三人とも恟ッとしたように浮腰を立てかけると、そこの幌を、海軍洋刀で十文字に切り破って、メリケン刈の頭を突き出した少年マドロスが、にっこと笑って、
「大将、今朝ほどは失敬」
と、言った。
「こらっ、そんな所へぶら下がッちゃいかん。降りろ、怪我をするぞ!」
少年マドロスは、狎々しい眼で、理平の襟元から車内をジロジロと見廻した。
「怪我をすりゃ、病院に入れてくれるだろう。だが、ご心配はいりませんや、馬丁台に足を掛けているんだから」
「あぶない! 穢しい! 降りろ」
「いいよ、グランドホテルまで送って行くよ」
「ああそうか、おまえ──波止場乞食か。これをやる。寄るな」
理平は、あわてて、五十銭銀貨一枚を彼の手に握らせた。彼は掌の銀貨に軽蔑をくれて理平の顔へ抛りつけた。
「何をするッ」
「おれを、波止場乞食ッて言やがったからよ。こう! おれにゃ、立派な商売があるんだぞ」
「なんだッ貴様は」
「今朝も、電話で言ったじゃねえか、よく覚えとけよ、おいら、かんかん虫のトムってんだ」
「あっ、今朝のは──おまえか」
「おれだよ。紳士だろう、ちゃんと、電話で、お目にかかることを、断っておいたんだから」
「おい、馭者っ、馬車を止めい」
「おじさん」
トム公の海軍洋刀の先は、真っ蒼になって顫いている奈都子の顔のそばまで届いていた。
「騒ぐと、お嬢さんの顔を、ここの、幌みたいに破ッて逃げちまうぜ」
「…………」
「卑怯なことをしっこなしさ。おら、ただ懸合に来ただけなんだよ、何も、人殺しに来たんじゃないよ」
馭者は、聾のように、自己の使命だけを守って、税関前の大通りを曲がり、前よりもはやく快走をつづけている。──理平は、子供だとは思いながら、幌の破れから突き出している顔だけを見ているので気味が悪かった。
「お槙、おまえは、このかんかん虫のトムというのを知っているのか」
「い、いいえ」
彼女のことばは、ひッつれた喉からやっと洩れた声だった。
「だって、今朝の電話では、昨日のことについてと言ったが……」
「そうだ、そのことさ!」と、トム公は流暢な横浜弁で一息に言った。
「──きのう、ここにいる女の人が、船渠のM号へ遊びに来てる間に、オペラバッグを船のインド猿に攫われたんだぜ。その中にゃ十万円もする腕環がはいってると言ッてベソを掻いてたから、おら、可哀そうだと思って、マストへ登って取り返してやったんだ」
「ウム……新聞で見た」
「──その礼なんかをセビリに来たんじゃねえぜ。──ところが、船渠の退け時間になって帰ろうと思うと、警察の私服が来やがって、おれが、初めて商売に連れて行ったうちの近所の亀田さんて人を、いきなり泥棒だといって捕えやがッた。亀田さんは、そんな人じゃねえ! おら、言ってやったのさ、だが、刑事のボンクラ野郎は、亀田さんのポケットから、指環といっしょにあった腕環が出て来たから、何でも、承知しねエんだ。そして、とうとう警察署へ連れて行ッてしまやがった」
「フーム」
「フームじゃねえよ、大変だよ、亀田さんが帰らねえと、イロハ長屋に残っている病気のおかみさんだの、子供だの、五人の者が乾干しになるんだぜ」
「だから、どうせいと言うのか、おまえの要求は」
「亀田さんを返せッてんだ」
「そりゃ、警察に言う筋じゃないか。ほんとに泥棒せんものなら、今に帰してくれるだろうし悪心のあるものなら、監獄へ行くのが当然じゃろう」
「それでいいのか」
「おまえ、幾歳じゃ」
「大きなお世話だい。それでいいのか、それで……」
「子供のくせに、そんな心配は、せぬがええ、生意気じゃ。お上のご裁判にまかせておけば間違いはない」
「木刀お巡査に任して、安心していられるもんかい。──やい、そこにいる女! てめえッちも、そうだぞ。礼なんか欲しかあねえが、あんなに、ベソを掻いていた品物を取返してやっても、おれに、有難うとも言わなかったじゃねえか。ほんとなら、てめえたちが頼んでも、亀田さんを貰い下げしてくれるのが、あたりめえだろう」
「…………」
「やい、何とか言えよ、何とか」
「…………」
「らしゃめん奴」
「…………」
「それでいいのか。それでいいのか。そいつをきょうは聞きてえんだ。その返事次第で、こっちも宣戦布告をするからな。やい、何とか言えよ」
その時、トム公のからだは、後ろから大きな手に抱き込まれて、フワリと馬丁台からかかえ降ろされた。馬車は、いつのまにか、ピタリと止まっていたのである。
「やっ、いけねえッ」
トム公は、足を宙にバタバタさせながら、水上警察署の青い瓦斯燈を見た。馬車はその門の中へ、半分はいっていた。馭者は、石段の上の扉を半分押して、内部の巡査へ応援をさけんでいる。
「こんちょろチビ奴。餓鬼の分際しおッて、本官に、反抗しちょるかッ、こらッこらッ、来いッちゅうに」
トム公の首根っこを抱き締めて、勇猛に引き摺り込んで来た木刀の巡査は、石段の前まで来ると、
「あっ」
と彼の首をつよく押して、火のついた手袋を脱ぐように、振り離した。トム公は、仰向けに転びながら、巡査の指の肉片を、口から吐き出した。そこへ、飛びかかろうとした馭者は、彼の木靴の先ッぽで顎の骨を蹴飛ばされた。
トム公は、青い夜の中へ駈け込んだ。晩餐楽のゆるい奏曲が、ホテルの窓から海へ吹かれていた。
彼は、居留地の七番館の塀の蔭に、首を沈めて屈んでいた。木刀を抑えた駈足の巡査が、三、四名、眼の前を掠めたが、振り顧ったひとりの眼が、トム公を見つけた。
トム公は、煉瓦の上へ躍った。船渠の板足場をわたる時の軽快な足どりが、巡査を揶揄するようにヒョイヒョイと弾んで、塀のミネを駈け出した。そして、すばらしい迅さで、隣りの八番館の庭へとびこんだ。
何処かの領事館であった。巡査はたじろいだ。彼らが、門の前で何かガヤガヤ評議している間に、トム公は、コック部屋の外に干してあった白い前掛を胸にかけ、肉屋の籠を肩にかけて、ついでに、そこにあった自転車に乗って、フルスピードで警官たちの前を弧を描いて走り去った。
南京街の肉問屋、田村の前まで来ると、トム公、ぽんと降りて、
「おばさん、こんばんは」
豚の如く肥えたここの内儀さんは法華信者とみえて、店先から見通しの部屋で、非常に木音のよく響くものをカチカチと懸命にたたきながら、トム公を横目に見て、
「こんばんは」
と、お題目のあいだに言った。
「これネ、おばさん」
「はあ」
「ここンちの自転車だろう。居留地で、自転車を持っとる家は、何軒もないからね」
「そうだよ、家のだよ」
「八番館の横にあったから、持って来てやったよ。いいかい、ここへおいとくよ」
「おやじさんは、見なかったかね」
「見なかったよ。──駄ちんに、鶏卵一個貰っとくぜ」
卵の箱から、一箇取って、奥へ示しながら往来へ出た。彼は空腹だった。何しろ、きのうの銀貨は、みんな亀田の家族に貢いでしまったので。
トム公は、木靴の尖で、卵の殻の両端をコツコツたたいた。歩きながら、小さな穴を開けようとして、ていねいに、殻の亀裂をむしッている彼の姿は、いかにも無邪気なマドロスである。
チュッと舌を鳴らしながら美味そうにそれを啜った。──と思うと、いきなり拳を振りあげて、彼へ嗅覚を向けて来た野良犬へ、卵の殻をたたきつけた。犬は驚いて、横ッ飛びに逃げた。そこに手をつないでいた清国の女の子が、棒の倒れるように転がった。纏足をした耳環の母親が、子供を抱き起しながらトム公を早口で罵った。
「おれじゃねエや!」
トム公は、ポケットへ手を突っ込んで、ちょっと首をかしげていたが、ふいに、飛びこむように、うす暗い露地へはいった。
石造家屋のうす穢い炊事場と炊事場がくッついていた。井戸のまわりで、四、五人の清国人が、豚の腸を分配している。今の犬が、バケツに首を突ッこんでいた。
幾つも、幾つも曲がった。曲がるほど、南京街の裏は、穢く、狭く、異臭が濃い。
屈んではいれる程度の、石窟のような家の口が、右側にあった。眠たげな赤い軒燈の下に、老酒の瓶が五ツ六ツ転がっているのを見る。
そこを、トントンと降りて行く。
「だれ?」
「トム」
「トム?」
地下室の番人は、韮くさい口臭と、安煙草に滲みこんだ体を、彼のそばまで運んで来て、何か、求める顔をした。
トムは、ポケットをさぐって、真鍮の貨幣を出してみせた。貨幣の両面には、淫媚な清国人の笑い顔がポンチ絵風に浮かしてあった。
この倶楽部の門鑑を阿片ダラといった。番人は、それを認めると、鍵を出して、突当りの頑固な戸を開けた。
中は、真っ暗だった。
だが、石の歩廊を少し歩いて、左側のカーテンをあげると、
「ほう?」
と、その中で、間の抜けた驚き声を出した者がある。
「李鴻章、また来たよ」
「トムか」
李鴻章にそっくりな男は、もうひとりの清国人を相手に細長い網袋の両端を持ち合って、何かその中にある非常にいい音のする金属を、極めて気永に、揺りうごかしていた。
「何をしてるんだい?」
トム公は、そこにあったピンヘットを一本抜いて、燐寸をすると、すぱッと美味そうに口へ咥えた。
「何さ、李鴻章」
「これ?」
「ム」
「砂金採り」
「へえ」
「まだわからぬ?」
「わからねえヤ」
「これ、みんな金貨。五千円程ある、こうして一晩ゆすぶる、金貨の角と角がすれるな、それ細かい金のクズが下にたくさんたまる、また、銀行に持ってゆく、金貨の額少しも変りない、またお紙幣を金貨に換えて来るな、またこれをやる。いくらでも砂金採れる。密貿易、阿片、みんなあぶない、これいちばんいい」
「ちっとも、面白くねえヤ」
トム公は、歩廊へ出て、隣のカーテンを剥ってみた。卓の上に、阿片を吸う真鍮の道具が、幾つも、ぴかぴかと光っておいてあるのみで、今夜は、誰もいなかった。
「李鴻章、元町のお光さんは、来ねエかなあ」
「お光さん? 来る」
「何時頃?」
「何か用あるか」
「あるから聞くンだい、急に会いたいのさ、お光さんの智恵を借りたいことがあるんだよ、どうしても、おれだけじゃ、できねえことだから」
「それでは、薬師様へ行く方、はやい、こん夜縁日ある、ムラサキ組の女衆、みんな、あそこに寄る」
「あ! 薬師か」
トムは、阿片クラブの砂金窟をとび出した。
いい月が空にある。
赤い谷戸の薬師の縁日の巷から、その晩、彼が帰ったのは、ずいぶん、遅かった──
いつも、どんなに遅くなっても、寝もやらずに、彼の帰りを闇の家で待っている彼の母は、たいへん、勘がいいので、それらしい木靴の音が、狭隘な路地を弾んで来るとすぐに、
「トムかえ? ……」
と、闇の中に坐りなおした。
この家にはランプがなかった。トム公の母親は、このイロハ長屋にあっては、どうかしてできた一つぶの天然真珠のように、若くて、美しくて、この細民窟のすべての人にない常識が豊かであった。──だが、悲しいことには、彼女は、盲目だった、自分の指も見えない黒内障であった。
「トムかえ?」
「あ、あ」
トム公の返辞は、元気がなかった。六畳一室の闇の中には、なんにも、食物のにおいがなかった。
「おっ母あ、ご飯を食べたのかい、今夜は」
「食べたよ──お民さんのお家から、また一合、拝借してネ」
「じゃ、もう何合も借りができたんだな。今に、倍にして、返してやるよ」
「お民さんは、親切だから、まだほかに、砂糖だのお醤油だの、お野菜まで」
「アア分ったよ、今に、みんなお礼するよ」
「おまえ、ご飯は」
「おら、眠たいヨ」
畳をなで廻す手が、トム公のからだへ探り寄った。そして、その重いからだを、乳呑み児のように抱いて、自分の寝ていたうすい夜具の中へかかえ入れた。トム公は、眼をあいていながら、母のなすがままに、甘えていた。
「おまえ、きょうも仕事に行かなかったの」
「仕事どこじゃないもの」
「悪いことをして歩くのは、やめておくれ。ネ……おっ母さんが、ひとりで、こうしていても、どんなに、心配だか。……分るだろう、おまえにも」
「おら、悪いことなんか、した覚えはねえ」
「だって、おまえは、愚連隊だって、言われているよ」
「誰に」
「警察の人に」
「警察のやつなんか、こっちの味方じゃないもの」
「小さな者のクセにして、そんなことを言うから、悪者に間違われるんですよ」
「そんなら、間違う方のやつが悪いんだ。おら、悪かあねえ!」
少し昂って、そう言った彼の顔へ、ぬるい乳のような涙が、ばらばらこぼれた。
トム公は、いきなり母の手をふり払って、
「おっ母あは、嫌えだ! すぐに、泣くんだもの!」
と、ふとんの外へ出て、足をバタバタさせた。てんかんのように拳を握った。
そこへ、戸が開いた。亀田の細君であった。乳呑み児に、乳をふくませながら、
「奥さん──トムさんはお帰り?」
「え、今、帰りました」
「トムさん」
トム公は、頭をかかえたまま、こっちを向かなかった。
「きのうは、有難う。あんなに、お金をいただいてね。ほんとに……すみませんね。おかげ様で、五人が助かっていますの」
トム公の母には、何のことだか、わからなかった。トム公も、黙りこくっていた。
「──それから、きょう、警察の方が来ましてね、いろいろ調べて行きましたけれど、何だか、当分は、帰されそうもないようですね。……良人は、落魄れてこそいますけれど、決して、他人様の物を盗むなんて、そんな大それた人間じゃないとお巡査さんにも私から言いましたけれど」
「おばさん、心配しねえでも、大丈夫だよ。きっと、亀田さんは、おいらが、貰って来てやるよ」
「どうぞね、トムさん」
「横浜じゅうの愚連隊に頼んでも、ほんとの泥棒を見つけ出して、おれが、亀田さんを、きッと返すよ」
その時、四、五人の靴音がして、門口から無遠慮な角燈の光が、家の中を照らした。
「──相沢町字和蘭陀横丁百三十七番地、通称イロハ長屋、千坂桐代」
木刀を佩げた巡査が、声を出して、手帖と標札を読みくらべながら、土間へはいって来た。
「おまえの家に、千坂富麿という子がいるはずだな」
「どなたでございましょうか」
桐代は、幸いにも、盲目であるために、なんの驚動もうけないで、ふとんの上に坐ったけれど、亀田の細君はふるえていた。
「水上警察署から電話があって、ちょっと調べに来たんだが」
「警察のお方ですか……」
彼女も、初めてわなわなした。
「山手警察署まで、来てもらいたい。……いやおまえじゃない、おまえの実子じゃろう、富麿という少年の方」
「富麿なんていう子は、ここの家にゃ、いねえぜ」
トム公が、母親のうしろで、呶鳴った。
「これ、何を言うんです。おまえが、富麿じゃありませんか」と、桐代はもうおろおろとして、声が立たないほどである。が、──トム公は、巡査のすがたを見ると、反撥的に、反抗的に、
「おら、誰にだって、富麿なんて、呼ばれたことはねえもの。おら、トム公だ。かんかん虫のトムだ!」
佩剣をにぎって、立っていた巡査部長は、何か手帖へとめていた鉛筆の尖を向けて、
「あれだろう、引ッぱり出したまえ」
と、部下へ言った。
巡査たちの泥靴が、床をふまないうちに、トム公はバネにかけられたように、木靴を両手にさげて、外へ飛び出した。
「逃げるもんか! 誰が逃げる!」
駄々ッ子のように呶鳴りちらして、彼が、木靴へ足を入れると、彼の母親の泣く声が長屋中を起した。隣、隣、隣、前、前、前、イロハ長屋のすべての戸があいて、同時に、露地をふさぐほどな人影が、真っ黒に、そこへ群れた。
「なんで、トム公を引っ張って行くんだ」
と、まっ先に、食ってかかったのは、屠殺場へ通っている仙吉という男だった。
警官たちは、牛を殺す時のような嶮しい眉間をした男の権まくに驚いて、一応の釈明を与えた。
「山手署の方では、全然関知しないことだが恐喝罪ということで、拘引するんじゃ、署ではすぐ、水上署の方へ引き渡すから、あっちへ行って、聞いたらよかろう」
「ばか言ってやがら」
連中は服さなかった。
「──十四のトム公が、誰を恐喝するんでえ。何か、寝ぼけているんだろう。トム公は、このとおり、盲目の女親を養っているんだから、あいまいな嫌疑で、連れて行かれちゃ困ら」
「そうだ。それとも、警察じゃ、女親は、乾干しになっても、いいと言うのか」
ガラス工場の職工もいた、南京墓の番人もいた、貧乏異人館のコックもいた、競馬場の馬糞さらいもいた、チイハの運送屋もいた。みんなそれぞれ、一理屈を酬いた。
だが、無力の者の力が、いかに多数でもイクォール無力だった。すくなくも、巡査部長の佩剣に一触の感も与えはしない。
「じゃお前らも、本署まで、一緒に来たらどうか」
「…………」
その間に、トム公は、スタスタと自分で大股に濶歩して、相沢の大通りへ出た。巡査は追いかけて、彼の小さな両腕を左右からねじ取った。深夜の冷たい街路には、木桟の目隠し窓をつけた監獄馬車が、青い角燈をともして待っていた。
トム公は、馬車の中へと突き飛ばされた。その途端に、暴風のような長屋の同胞たちの喚きに交じって、ひとりの盲目が、取りみだして叫ぶ声を彼は聞きのがさなかった。トム公は、思わず木桟の目隠し窓へ、顔をこすりつけて見たけれど、馬車の轍は、深夜の街上を、もうグワラグワラと廻っていた。彼のからだは、その中で、セルロイドの噴水玉のように躍るのだった。
彼は、唇を噛んだ。
絶望と、憤怒のいろを抑えて、可愛らしく閉じた眼に、涙はなかった。その代りに彼の手は、腰のバンドを探って、そこに挟んであった金槌のような物を握りしめていた。それはトム公の職業用のカンカン鎚である。
商船の横ッ腹をなぐる時のように、小さな槌は、突然、馬車の木桟をグワラグワラと破壊しはじめた。馬車は、爆弾を乗せて走っているように木片を飛ばして疾駆した。前後に乗っていた警官たちは、狼狽しながら、かつ怖れながら、
「こらッ」
と、中へはいった。
馬と車は、曲がッた形に、突然、砂利を噛んで、疾駆を止めた。そこは、山手の居留地の辻だった。鬼蔦のつるがスコッチの外套でもかぶっているように絡んでいる異人館の塀際から、煙のような人影が不意に襲って来た。
彼らはまず馭者台の馭者をひきずり下ろして、息も出ないように踏みつけておいてから、馬車のまわりを一周して、
「トム公! トム公!」
と、野太い声で呼びあった。
紺ガスリの羽織の長い紐を、首へ引っかけているのもあった。バプテスト神学校の制服もあった。西洋乞食のようなセラパンもあった。それは雑多な若者の混色ではあったが、ゴロ歯のさつま下駄と、桜の仕込み杖とによって統一された争闘的団体の色があった。
「愚連隊だな、貴様たちは」
そう言って、馬車の上から睥睨した巡査も、巨浪の意志が、岩の上の物を持って去るように、苦もなく、地上へひき下ろされて、いきなり、ドタ靴とごろ歯とで、踏ンづけられていた。
「愚連隊だがどうした」
「トム公を拘引するなら、吾々を同伴しろ。弱い者いじめをするな」
「民権蹂躪じゃ」
「かまわん、馬車をやれ」
「やれ、やれ、どこまでも!」
ひとりは、占領した馭者台に、大股をひろげて、鞭を振った。七、八人は、中へはいって、巡査と格闘した。三、四人は、馬車の外へ蛙の目刺みたいにブラ下がった。
馬車の中でも、激しい格闘の物音がくりかえされている。馭者台のそばに立ったマドロスは、警鈴をつかんで、大きく振りながら、深夜の異人館町を驚かしつつ奔馳してゆく。
その間に、反抗力のなくなった警官のからだが、一町ごとに、捨てられて行った。凱歌をあげた馬車はその勢いに駈られつつ、代官坂の下りへかかって、まるで、無軌道をゆく機関車みたいに、無鉄砲に、駈け降りた。
「やれ、やれ、どこまでも!」
鞭と警鈴は、乱暴者の気をあおるに持ってこいの伴奏だ。急坂の加速度への調節なしに疾走をつづけた。だが、坂の半ばまで来ると、彼らもやや狼狽して、
「あぶない! あぶない! あぶない!」
と、さけび出した。
馬は、疳を起したように、止まらなかった。いや止め得なかったのかも知れぬ。四ツの車輪は、壊れて飛ンじまいそうに、猛烈な回転をつづけながら坂の下へかかった。前は谷戸橋の袂で、すぐ海岸にちかい、大岡川の川口だった。
「わッ」
「トム!」
「早く出ろ!」
彼等はいッぺんに、馬車の両方へ跳び下りた。最後に──トム公が跳んで降りたすがたを認めると、大胆なる馭者は、びしりッと置土産にひと鞭くれて、谷戸橋のたもとで、ぽんと、地上へからだを交わした。
同時に──真っ暗な河の中へ、すさまじい音響と嘶きがとびこんでいた。水けむりが、橋のらんかんまで濡らした。川口の税関派出所のガラス戸が開いて、眠たげな監視の帽子が、びっくりして河の中をのぞき廻している頃──彼等の愚連隊は──水底に半ぶん沈没した馬車のすがたを、向う河岸にいて、ながめていた。
ひとりが、ピンヘットを出した。ひとりがマッチを点けた。
マッチとピンヘットが、順々に、みんなの手へ渡った。──のどかな紫煙が、トム公の鼻の穴からまで出た。
夜あかしの好きな南京街の窓は、まだ所々に、紅燈を残している。康有為の建てた大同学校に於てする清楽の哀歌がほそぼそとカーテンから洩れている。つい四、五年前の日清戦争の亡国的記憶を忘れ果てるように、清国の学生たちは、毎晩、学堂で夜を明かしていた。
愚連隊の影が、その窓の下を、ぞろぞろと一列になって通った。順和商行と関羽の廟のあいだを曲って、いくつもの、ほそい露地をたどると、さっき、宵に、トム公の訪れた、阿片クラブの地下室へ出る。
銀絡の大きな吊洋燈をつるしてある地下室では、今夜は、もう例の金貨から砂金を採る仕事をしてはいなかった。──小指の爪をおそろしく長くのばしてある主の李鴻章は、赤い房のついている水煙管をくわえながら、花梨卓へ肱をついて、女の顔の白さに、眼をほそめてた。
女は、お光さんだった。北方のむらさき組のお光さんだった。彼女は、横浜ハンケチ女の中での孔雀だった。月々、ここの李鴻章から多大な小費金をもらっているというのは、うそであると、トム公はいつも人にも言う。事実、彼女が、稀〻ここへ来るのは、阿片を求めに来るのと、男女の不良隊と密談の必要ある場合を出ないようである。
「あら、帰って来たよ」
お光さんは立った。
その晩の彼女は、とろけるようなヒスイの耳環を下げていた。そして、彼女は広東仕立のスマートな服がよく似合った。色の白い、やや丸こい顔と、天啓陶磁のような薄手な姿態にも。
多勢の、跫音が聞こえると、李鴻章は、ものうい顔をして、水煙管を、卓の上へ捨てて、腰へ手をあてがいながら、室内をあるきだした。
お光は、もう、はしゃぎ立って、多勢の男たちの中から、トム公を拾い出して、しゃべっていた。
「なぜゆうべ、私が行くまで、薬師様に行っていなかったの」
「待っていたよ」
トム公は、口を尖らした。すこし、不平のように。
その顔を、お光の白い指が、痛いほど強く突いて、からかい気味に、
「うそ、一時にはもう、いなかったじゃないか」
「ああ、十二時には帰ったから」
「それごらんな、だからあたしゃ、心配しちゃッて、あれから、どれほどヤキモキしたか知れないよ。──だがね、おまえに頼まれたことは、探っているから、安心おし」
「亀田さんは」
「検事局からすぐに根岸の未決監へ送られているのさ。それはまあ、これからの工夫として──私が心配しちまッたのは、おまえの方さ」
「それで、みんなが来てくれたのか」
「山手警察にいる女小使いのおしげさんに、人をやって、聞いてみると、案の定だから、あわてて、みんなを糾合したッてわけさ。トム公、おまえ、いくら歯ぎしりしたッて、そんなどじじゃ仕返しはできやしないよ」
「おれたちは、まだ詳しいことを聞かないんだが、いったいトムの復讐っていうなあどういう真相なんだね」
愚連隊たちは、それぞれ、椅子や寝台や家具の端に、腰をすえて、濛々と、ピンヘットの煙を立ちこめた。
「トム、お話し」
「めんどくせえや」
「じゃ、私が、代りに話そうか。こういうわけさ──それも宵に薬師の縁日で、トムから聞いたばかりなんだけれど」
お光は流暢なことばで、トムの代弁者となって、金満家の高瀬理平と夫人お槙の不都合な点を熱をもって語りだした。トムが、彼らから、恩を仇で酬われたことについて、彼女は、トムと同じ悲憤をおびて話した。
「イヤ、そんなことは、どッちでもいいんだよ」
トム公は、彼女のことばを遮って、小さな拳を、卓のうえに、突ッ張った。
「自分の遺恨は、自分でかえすよ。おれがいちばん堪らないのは、自分のことじゃない、亀田さんのことさ。おいらが、馴れない人を、むりに仕事に連れて行って、その日に、あいつらのために、窃盗の冤罪をきてしまった、亀田さんのことだけが、すまないんだ! 悲しイんだ」
みんなトムの顔をじっと見つめた。すごい眉間をしている者があった。もうありありと胸で怒っている顔があった。
「──その人には、五人の家族がある。イロハ長屋で、満足に食える家はないけれど、亀田さんの家は、いちばんひどい。まだ、残飯の味を知らない官員さんのおちぶれで、おまけに、子供も病気、おかみさんも、働けない体だから……」
「わかった」
神学校の制服が言った。
「要するに、トムの責任感を果してやりさえすればいいんだろう」
「ウム」
「同時に、横浜愚連隊は、醜穢なる石炭成金高瀬理平の家族に、精神的、或いは物質的に、社会的制裁を思い知らしてやることを、ここで、宣言しようじゃないか」
「異議なし」
「賛成」
「手段は」
「えらばんよ、硬軟両策で行こうじゃないか。まず美男子のおれは、あそこの娘の奈都子というのへ、魔手をかけて、堕落させてやる」
「そんな方ばかり目企んでいないで、トムの悩みを第一義に考えなくッちゃあ」
「亀田を救うことかい」
「むろんさ」
「だれか名案はないかしら」
お光が、火照ッた耳を抑えながら言った。
「──ある! それは船渠のモンキー騒ぎの時にオペラバッグから金剛石の指環をちょろまかした小走ッこい、ほんとの盗ッ人を探すことさ」
「なるほど」
その時ぼんやりと室内を漫歩していた李鴻章の足の前で、けたたましい非常ベルが鳴った。──今までの光景は、すべて、一場の煙草の魔術であったように、一瞬に、そこの人影が消えて煙ばかりが吊洋燈のホヤに濛々とまきついている所へ、ひとりの靴音が、あわただしく、地下階段を駈け下りて来た。
──追い立てられるように非常鈴は鳴ったけれど、李鴻章だけは、水煙管を咥えたまま、吃驚した表情もあらわさなかった。尤も、甚だしく大陸的な空漠をそなえている彼の顔に、ちッとやそッとの驚きが掠めても、他人には分からないのだろうけれど。
ごむまりの弾んで来るような南京靴の跫音が、地下階段を駈け降りてくるとすぐに、
「大人、おる?」
と、緞子のカーテンを割って、出っ歯の清国人がひとり、はいって来た。
同じ清国人でも、それは、非常にするどい眼をもち、苦力みたいに穢くて、弁髪をグルグルと頭に巻きつけていた。ふたりの間には、同時に、おそろしく早口な、広東ごろつきのアクセントで、喧嘩じゃないかと思うような会話がはじまった。
「張じゃねえか、なんだッて、非常ベルなんぞを鳴らすんだ、ばか野郎め」
「今ネ、親方、あっしが、急用があって、ここへ来ると、水上警察のお巡りが、いやにうろついているんでさ」
「どこに?」
「この南京街界隈に」
「それや、何も、おれたちの阿片窟をかぎあるいているわけじゃねえだろう。お巡りを見るたんびに、驚いていたひには、居留地に住んじゃいられねえぜ」
「そんな手緩いんじゃありませんや。二十一番館の四ツ辻と、前田橋通りじゃ、非常線を張っているんで。──おまけに、あっしの後からも、私服らしいのが尾けて来たようですから、そいつを撒いて、一巡りして戻って来ると、またここの入口をのぞいている奴がある。で、あっしも、こいつアてっきり、今朝の一件から、巣が割れたなと思ったんで、隣家のベルを押したんです」
「そりゃ、トム公をさがしているお巡りだろう。──だが今朝の一件というなあ、なんだ」
「まだ聞きませんか、明け方の騒ぎを。谷戸橋の袂は、たいへんな人だかりですぜ」
「オヤ、もう夜が明けているのか」
「とッくですよ」
この地下室では、朝の微光も感じられなかった。
「谷戸橋で何を騒いでいるんだ」
「警察署の監獄馬車が河の中へ堕ちて、馬車の土左衛門ができたッていう騒ぎでさ。──何だろうと思って、見物に行ってみると、その馬車は、引ッ張りあげてあるけれど、後の騒ぎが大変です」
「フーム、どの辺だい、それは?」
と動じない李鴻章の顔も、だいぶあやしくなりだした。不安そうに水煙管をおいて、卓の上に、両肱をのせた。
「築港の方から、舟で来るとすると、海口の税関の見張所と、谷戸橋のあいだ辺りの見当ですがね」
「…………」
「親方にも、覚えがあるでしょう」
「ある」
「そこへ、ゆうべ、馬車が堕ちたんでさ。……で、人夫や船頭を連れて来て、そのやっかいな土左衛門を引き揚げにかかると、誰が最初に見つけたのか、河底の泥土ン中から、金時計を拾ったやつがあるというわけなんで」
「ふ……」
「すると、おれも拾った、おれも見つけたと、たちまち、馬車の方はそッち退けになっちまって、この河には金時計がウンと沈んでいるというんで、まるで喧嘩腰で、河ざらいみたいな騒ぎがもち上がッたんでさ」
「ふ……」
李鴻章の顔は、だんだん、泣き出しそうに、曇ってしまった。
「そのうちに、通りがかりの沖人夫だの、石炭かつぎだの、あの辺のコックや御用聞きまで、みんな、河の中へはいって、宝さがしを始めちまったもんでさ。──だから、今朝の人ッたらありませんや、新聞記者までやッて来るという騒ぎでね」
「それを、知らせに来たのか」
「へえ、何しろ、河の底を足でさぐると、いくらでも、金時計が出て来るが、大体、これは、誰が落したものかということが、今朝のうちにぱっと、横浜中の大評判でしょう。──それが分りゃ、すぐに此窟へ火がつきますからね」
「なあに、そんな心配はねえ」
と、彼は意志強そうに、かぶりを振ったが、そのことばの下からすぐに──「心配はねえけれど、だが、たいへんな損害だ。あの河の金時計をみんな拾われてしまったひにゃ、おれたちが、日本で稼ぎ込んだ儲けを、みんな注いでも足らねえからな」
と、肺臓の沈澱物でも吐くように、鼻腔から重くるしいため息をついて、椅子の角へ、がっくりと首をのせた。
むろん午前ではあるけれど十一時半ごろだった。──あれからトム公が眼をさましたのは。
幾つもある阿片寝床には、もうゆうべの愚連隊たちはひとりも見えなかった。ただ、トム公と背なかをくッつけて、お光が、絹糸の束のように、からだを縒捻ッたまま、ふかい寝息をかいて寝ていた。
トム公は、眼がさめると共に、今、殻から生れた小鳥のように、からだも気もちも爽快だった。この倶楽部で、面白はんぶんに教えられた阿片のこころよさを幾日ぶりかで満喫したあとの利き目が、てきめんに分ったように──
「おはよう。李鴻章」
歩廊へとび出すと、彼はすぐに、隣室のカーテンを刎ねた。
「おはよう」
返辞はしたけれど、それは、張という手下だった。
トム公は、すっかりゲッソリしている張の顔を、どうして人間がそんなに気懶くなれるかというように、きょろっと、見つめて、
「大将は、どうしたい?」
「谷戸橋」
「谷戸橋へ行ったのか」
「ウン」
「何しに?」
この清国人は、広東語のベランメーのほかには、日本語はからだめだった。トム公は、あきらめた。
「谷戸橋へ、何しに行ったんだろう?」
歩廊から地上の昼の光を見あげていると、お光が、眼をさまして来て、
「お腹が減ったよ」
と、うしろから欠伸笑いを浴びせた。
トム公は、音の物にひびくように、
「まったくだ」
「万珍へ行こう」
「アメリカ屋がいいぜ。あそこのテキは、こんなに厚いぜ」
指であつさを示してみせると、その手を、彼女の金剛石が打った。
「なまいきを、お言いでない」
「うそさ、何でもいいや」
「アメリカ屋のお昼を奢ってやろうか」
「朝飯だろう」
「トム、顔を洗うといいよ」
と、彼女は、七宝側の時計をのぞいて、釦の下へかくしながら、
「もうすぐに、午砲じゃないか。そんな寝呆けた頭で外へ出ると、すぐに、御用になるよ」
ふたりは、口笛をあわせながら地下室を出た。南京街のせまい路地にまで漲っている太陽の光を見ると、トム公の矮小なからだに、争闘的な血が、むくむくと温度をもった。
「さ。きょうから、戦いだぞ」
トム公は、ズボン吊をしめ上げて、両手をもって、青空を突いた。
「しっかりおやり」
「やるとも」
「軍用金はあるのかい?」
「軍用金なんか、一銭もねえや」
「そのあいだ、おっ母さんを、どうするの」
「どうかするだろう」
「心ぼそいネ。……やろうか、一円ばかり」
欲しそうに、考えているまに、西洋料理のアメリカ屋の前まで来てしまった。
温いミルク、パン、彼の渇望してやまなかった大きなビフテキ。トム公は、口もきかずに食べてしまった。
そばの卓に、四、五人の商館番頭らしい背広服の一かたまりが、フォークの忙しない間に、さかんに、谷戸橋の河から金時計が出るといううわさをしていた。
「うそだろう、河の底から、そんなに無数の金時計が出るなんて、どう考えても、お伽噺じゃないか」
「うそだと思うなら、行って見たまえ」
その人々の話はむきだった。
ここばかりでなく、お光とトム公は、路上でも、そんな熱病のようなうわさを、幾たびも耳にした。
「たいへんだよ、いくらでも人が出て来るんだ。あの谷戸橋を中心に」
「ほんとかなあ」
「慾ッて、ひどいもんだなア」
「実際に、河の底から、そんな金時計が出るなら、僕らだって、勤めを休んで、一日ぐらい真っ黒になってもいいがな」
コック部屋から、ビヤ樽のような腹をつき出して、ここの主人が言った。
「だめですよ、もう……。巡査が来て、すっかり、縄を張って、しまいましたから」
「じゃ、まったく、出たのかあ?」
「なんでも、九時頃までに、われがちに河へはいって、あの穢い底をかき廻した者が、みんなで四十個とか七十個とか、金時計をさがし出したって言いますぜ」
「うまくやりゃあがッたな」
「ところが、はやく、一つでも、見つけて、逃げたやつアいいでしょうが、慾の皮の突っ張り放題に、いつまで、血眼でいた連中は、そのうちに、警察署から来て、みんな、代物を吐き出された上にふン捕まってしまったそうです」
「ははは、そいつアよかった。さんざん、金時計を鵜に呑ませておいて、一網に、吐き出させるなんて、警察も抜け目がない」
「しかし、いったいそんな高価な金属品を、どうして、あんな河の中へ捨てたのだろう。まさか、金持の道楽じゃあるまいがね」
「それが、疑問なんですよ」
お光が、卓へ勘定をならべたので、トム公は、満腹のバンドをゆるめながら、外へ出た。
そして、お光を待っていると、彼女は、紙入れからべつにして来たらしい一円紙幣を、トム公の手ににぎらせて、
「あばよ」
と、元の道へ戻りかけた。
「お光さん、どこへ?」
「心配だから、もういちど、倶楽部へ帰ってみようと思うのさ」
「心配って、何が」
お光は、往来を見まわしながら、トム公のそばへ寄ってささやいた。
「ことによると、李鴻章が、首を縊るかも知れない」
「? ……」
トム公には、分らなかった。
「どうして?」
「今、話していたろう、河から金時計が湧くっていう話。……あれはネ李鴻章が、この夏、密輸入をして一儲けしようとして失策ったしろものなんだよ」
「ヘエ」
「おまえだって、聞いてるだろう」
「話は聞いてるけれど、どうして河の中へなんぞ、捨てちまッたんだろう」
「誰も捨てる気じゃないけれど、宝石や時計を密輸入する時は、艀舟の底に穴をあけておいてそこから水のはいらないようにゴムの袋を、舟底へぶら下げておくんだよ。税関の監視や、水上署に捕まって、いくら舟を調べられたって、しろ物が、舟底から、水の中に沈みこんでいるのだから、分りゃしないやネ。それを、いい気になって、何度もやっているうちに、谷戸橋の辺は、河が浅いから、そのゴム袋を、何かに引ッかけて、破ってしまったのさ。おまけに、運わるくあの向う河岸には、税関の見張所があるから、きょうまで、引揚げることができないでいたンだよ。──けれど、まさかそこへ、監獄馬車がとびこんで、それから、見つかろうとは思わないから、悠長に構えこんでいたものサ」
──聞いているうちにも、しじゅう動いているトム公のすばやい眼が、居留地を巡回する警官のすがたを四ツ辻に見つけて、
「いけねえ、木刀が来たよ」
お光は、ちょっと振り顧ったけれど、まだ落着いて、
「李鴻章に、首でも縊られると、わたしだって、お小費いに困るからね」
そう言って、さっさと、曲がって行った。
トム公は、すぐに、彼方の煉瓦の建物へ貼りついて、巡査の行動をながめていた。やがて、彼の影も、日向が消えるように、いつのまにかそこにいなかった。
本牧の三の渓に、遠くからでも見える十九世紀型の西洋館と、破風づくりの、和洋折衷の、その頃ではめずらしい、また、豪奢なとも驚かれていた、別荘があった。
西洋館の方の塔みたいな屋根の尖に、赤い風車が乗っているので、トマト畠にいる百姓でも、それが北仲通りの輸出入商、セキタン屋の高瀬の別荘だということを知らないものはない。
秋の晴朗な畠道を、きょうも、幾台となく、馬車や俥が、そこを向けて通った。
「お大尽が通る」
「関内芸妓が通る」
と百姓たちは、幾度も、腰を立てた。
別荘の庭園の前にも、漁師の子だの、碧い眼の赤ン坊を連れた雑用婦だの、ピクニックに出かけた外人の家族づれなどが、俥から下りては、邸内に吸われてゆく華やかな座敷着の女や、雛妓たちを、ものめずらしそうに、見物している。
そのうちに、黒の山高帽をかぶった跛行の紳士が、馬車から下りた。この跛行の紳士がその日の正賓であるとみえて、玄関のまえには、主人の高瀬理平や、夫人お槙や、令嬢の奈都子や、すべてのものが、ものものしく立ちならんで、出迎えた。
硝子戸いッぱいに、海の色である洋館の応接は、さながら貴賓室ともいうべき、すべてが重厚な色と匂いをもって装飾されていた。七、八年前に、外務省の玄関で、一壮漢のために右足を失った大隈重信は、ぞろぞろと彼に侍く人々の先に立って、海を前に、ふかいソファの中に腰をうずめた。
「いいのう、横浜も、波止場や船渠の音が聞こえる所ではたまらんが、山手町をこえて、ここまで来ると大いに景観がちがってくる」
彼の顧みた所に、千歳の女将が、笑っていた。
「御前様、それはお皮肉ですか。何しろてまえどもなどでは、眺めといえば、波止場のマストかかんかん虫の人通りだけでございますからね」
「わはっははは、おまえの家を、けなしとるわけじゃないんであるよ。ここの眺望を賞めたまでじゃ」
「お越しにあずかりました上に、お賞めをうけて、恐縮にござります」
と、理平が、わきの椅子から、しきりと頭を下げていたが、大隈伯には、眼にはいっていないようだった。
「女将」
「ハイ」
「おまえ今、かんかん虫ということを言ったが、そのかんかん虫で思い出したことがある。なあ渡辺」
と、うしろの執事らしい男へ言った。
「は、いつぞや、船渠会社のまえをお通りになった晩でございましたな」
「そうそう、あれは小ッこいかんかん虫じゃった。何と思ったか、わしの馬車に飛びついて来たんである。あんなのが、横浜名物とすると、女などは、夜歩きはできんぞ」
「御前様、それは、波止場乞食ではございませんか。よく馬車へとびついて、お金をねだる──」
「いろいろなものがあるんじゃの、横浜には」
伊勢佐木警察署長の保科勝衛が、壁に向って、油絵の額をながめていた眼をうつして、ことばを挟んだ。
「渡辺さん、その晩のかんかん虫らしい小僧というのは、どんな服装をしておりましたな」
「夜なので、よく分らんが、十四、五ぐらいな奴じゃ。木靴というか、ズックで木の底の靴を、ぱかぱかとならして、逃げおったが、おそろしく、素早い」
「ははあ、それや、トム公という小僧であったかも知れませんな」
「トム公?」
伯は、トム公という名と、あの晩の──右脚爆失以来である路上の襲撃者であった矮短なかんかん虫に、すくなからず興味をもった様子である。
そこへ、座敷くばりを視に行った千歳の女将が、
「御前様、では、お支度ができましたから、どうぞあちらのお広間の方へ」
と、扉をひらいた。
華やかなイギリス絨毯をふんで、伯を中心にかこむ人々がゆるやかに日本間の方へながれてゆくと、その後から尾いてゆく、一組の雛妓たちが、馴れて怖さを失った隠し笑いを、クックッと、袂につつんで言った。
「かんかん虫ってなアに?」
「清ちゃんのお父さん、かんかん虫じゃないの」
「あらひどいわ」
「トム公って、おもしろい名だわね」
「ごまかしても、だめだわ、覚えてらッしゃい」
「あら、痛いッ、女将さん、清ちゃんがいじめるわ」
女将は、学校の先生のように、雛妓たちの中にたって、めッと、睨んでみせた。
それを、雛妓たちは、よけいにおかしがって、いっぺんに、声を出して笑った。──けれどその中に、たったひとり、笑いもしないで、泣きそうにしている妓があった。いちばん美しい雛妓だった。
伯を正賓としての、その日の高瀬家の招待は、いろんな趣向を尽して、午後から夕刻までつづいた。
豪奢な町人趣味の饗宴は、ようやく、伯をして、少々倦怠を催させて来たし、たえず、その顔いろを見ている高瀬理平にもわかった。
「いかがでしょう、だいぶ席が濁りましたから、ひとつあちらの茶室で、姪の不手前なお薄茶を差しあげたいと存じますが」
七時に、神奈川県下の政党人たちの懇話会にのぞむが──それまでにはまだ少し時間がある。
大隈伯は、チョッキの時計をのぞいて、
「よかろう」
と、言った。
離亭の茶席へ誘ったところで、理平は、伯のふところにはいって、商法にかかるつもりだった。が、その胸算を切り出さないまえに、伯は奈都子のたてた薄茶をひと口のんで、
「高瀬、すこし、女将に話があるんじゃが、みんなあッちへやってくれんか。む、君も……」
そして、千歳の女将だけを、そこに止めた。
「あら、みんなお人払いをして、何でございますの御前様」
「おむら、もそッと、前へよれ」
「こうでございますか」
と、おむらは笑いながら膝をすすめて、
「いやに改まって、変じゃございませんか」
「女というものは、どうして、そうすぐ気を廻すんじゃろう」
「あら、そんな意味じゃございませんわ。御前様こそ、私の申しあげたヘンをヘンにお取りになっていらっしゃるくせに」
「冗談は措こう、時間がない」
「どうしても、こん夜の終列車でお帰りでございますか」
「ム。そこで、お前に頼み残して行きたいことがあるんだが、無論、きいてくれるだろうと思う。──ほかじゃないが、極めて内輪の話だ。秘密を守ってもらわなければ困る」
「なんなりと、私で、できますことならば」
「わしが民部省に勤めていた頃、もう二十年も前だから、権書記じゃ。その頃、紀尾井町の隣家にいた縁故で、千坂家の末娘を、ある県判事の家内に、世話をしたことがある、桐代というてな、たいへん美人であった」
おむらは、まじめに聞いていた。
「──千坂男爵は、上杉家の支藩で、血統も正しい、両親も厳格であるし、兄弟たちも、それぞれ立派に社会に出ている。その末娘じゃから無論教養も十分、性格もまちがいないものと信じて、世話をしたのが誤りだった。媒人が若い」
「先様と合わなかったのでございますか」
「なに、その娘の性格が、先天的に淫らにできていたんじゃ。嫁ぐとすぐ、良人の赴任先で、書生と密通するというように」
「まあ」
「すぐ破談になった。それで、わしとの手は一時切れていたが、それからも嫁ぐ先で、幾たびも姦通騒ぎを起した。千坂も弱り果てて、しまいには、邸にひきとって、監視をつけておいた、その監視に媚色を送って、座敷牢をやぶって逃げてしまうという女じゃ、女にしては、めずらしい」
「上流のおひい様にも、そんなお方があるんでしょうか」
「あるな、その程度ならいくらもある。──だが千坂の娘は、そんなことでは納まりがつかん。それからも、男へ渡りあるいて、しまいには衣食にも窮してしまった。むろん、生家の方は、親族会議の結果、絶縁になっとる」
「困ったお姫さまですことね」
「堕落すると、女でも、底なく落ちてゆくものとみえる。そのあげく、こんどは、わしの名を騙り歩いて、大胆な詐欺をして廻った。大隈の親戚、千坂の娘というので、慾につられた被害者が、ぞくぞくと、警察へ届けてくる。初婚の時から、約十年間、わしも迷惑をしたが、千坂家の親類はみなどれほどの不名誉に泣いたかわからぬ」
おむらも、そこまで聞くと、古い新聞記事で読んだ、女天一坊だの、華族の女詐欺師だのという、あくどいみだしを記憶の中に拾うことができた。
だが、それもずいぶん古い巷の世間話だのに、今ごろになって、伯は、何を自分に頼むというのだろうか。
「その……何と仰っしゃいましたッけ、桐代さんでしたか、千坂様のお嬢様は」
「ム、桐代」
「その後、どうなさいましたか」
「とうとう、しまいには、横浜の時計屋を詐欺して逃げたり、旅役者といっしょに、悪いことをして歩いたりしたあげく、水戸警察署に捕まって、検事局に廻され、重禁固二年かの処刑をうけたが、その時、妊娠であったので、執行猶予をされたことだけは聞いたが……以来杳として消息も聞かずに来たんじゃ。ところが……」
ここからが、本題であった。おむらは、伯のたのみをうける心じたくをしてきた。
「近ごろ、また、その話が再燃してきた。というのは、千坂の当主が、老病で今東京のある病院に入院中だ。親には煩悩がある、それほど、堕落した娘でも、どうかして死ぬまえに一度会いたいと言う。──で、いろいろ消息をたずねると、桐代は、刑の執行中に、ひとりの女子を生み、その前にも、男の子があって、ふたりの子をかかえながら、しばらく神戸の方で、ある通弁と夫婦になっていたが、その良人とも死にわかれて、今では、横浜に来ているという話なのだが……」
「ずいぶん古い話なので、分りません、今おいくつ位になるんですか」
「左様……」と、伯は、指をくりながら、
「四十ぢかい」
「じゃ、子供も、相当な年にはなっていますね」
「いくら放縦な女でも、さだめし、悔いているだろうと思う。何といっても血筋だから、本人の居所が知れるものならば、その子供たちも、どうかしてやりたいと言っておるんじゃ」
「私においいつけのご用は、その桐代さんの家族を、たずね当ててくれと仰っしゃるんでございますね」
「どうじゃろう、分るまいか」
「たしかに横浜においでになるなら、きっと探してみますけれど」
「あまり名誉なことじゃないし、新聞にでもでると、折角、昔の生涯をすてている当人が、また新しく社会から鞭を打たれる……。で、これや、おまえが適任じゃと考えて依頼するんじゃ」
「よろしゅうございます」
「女傑と定評のある千歳の女将が、うんと言ってくれたので、わしもこれで安心した」
「御前様は、おだてるのが、お上手でいらっしゃいます」
「分ったら、すぐ知らせてくれい」
「どういたしましょう、それだけのご用で、御前様がおいでになるわけには参りませんし」
「おまえが、東京へ伴れて来てくれぬか。──わしの邸へ直接に」
「その方が、かえって、世間にわからないだろうと存じます」
「すべて、女将の才覚にまかそう。──ちょうど時間がきたな、懇話会へ行かなければならん。馬車を命ってくれ」
高瀬理平は、折角の貴賓を、意味なく、うやうやしく、送り出さねばならなかった。
「みんな! 何を買って上げようネ」
本牧から横浜の市街へ向って走る馬車の中で、女将は、はしゃいでいた。
七人の雛妓ばかりが、二台の馬車につまっていた。馬車がゆれるたびに、雛妓たちはキャッキャと笑い転けた。
「たくさんご祝儀をいただいて来たんだからネ、何でもおねだり、何でも」
小猫のような眼は、急に羞恥んでしまった。
「欲しくないの」
「ほしいわ」
ひとりが手をあげた。
「なあに? 軍艦? おもちゃの」
「いやあよ、そんなもの」
「犬屋にいるお猿さん」
「いや! いや!」
「洋服」
「え。え」
「青い、職工服」
「ひどいわ」
「痛い、この子は」
「だって、あんまりだわ、私たち、かんかん虫じゃなくッてよ」
「そう、じゃ何?」
「──わたし、簪」
「──わたし、刺繍の半襟がほしいわ」
「わたし、柳屋で見た、蟇口」
「お金もないくせに」
「いいのよう」
「ホホホ。みんなお安値いものばかりだね。──豆さん、おまえは」
七人組のなかで、一番小さい、一番おとなしい、一番かしこそうな豆菊は、さっきから馬車の隅に押しつけられて、淋しげに、笑っていた。
「豆さんは」
「わたし……」
と、やっぱり笑っている。
女将は、この子の、ふだんからそうであるが──何かしら淋しげなのを、浮かせるように、
「もっと、すばらしい物をお考えよ。なあに?」
と、顔をのぞいた。
豆菊は、笹色に光る口臙脂から、その紅さを、顔じゅうにちらして、
「……ないわ、わたし」
と、蚊のなくように。
「ないの」
「え」
「あら。あるッて言ったわ、昨日。うそよ、女将さん」
と、白粉の下ににきびのある雛妓が告げた。
「──きのう、豆菊さんが、わたしに言っていたわ、欲しい、欲しいって」
「そう、何」
「お金」
「え、お金」
「うそ!」
と、豆菊は、泣き出しそうになって、顔をかくした。
馬車が止まった。
雛妓たちはわれがちに降りた。活き活きとかがやく盛り場の無数な灯が小さな胸を嵐奏する。街光と騒音をあびながら、女将は、人浪に押されながら、らんちゅうのように泳ぎたがる彼女たちを、
「迷子になっても知らないよ。ひとりで歩くと、異人が手をにぎるよ」
と、叱りながらすすんだ。
勧工場へはいって、勧工場から吐き出されて来た時には、各〻が、小さな小箱を一ツずつ胸にかかえていた。豆菊も持っていた。しかし、小さな淋しい顔は、明るい灯をあびるほど沈んでいた。
相生座には、川上音二郎の壮士芝居がかかっていた。アセチリン瓦斯の白い光の中に、血みどろな絵看板と、幟が、ばたばたとはためいている。
その入口のわずかな空地に、新舶来英国聴音機御一名二銭と札を立てている男が、空箱に、赤毛布をかぶせ、その上に一箇の機械をのせて十数本の象牙の乳首のついているゴム管を、その機械から群衆の耳に貸していた。
「蓄音機だよ」
と、女将が教えた。
女将が、銀貨を払ったので、雛妓たちは、空いているゴム管を見つけて、象牙の乳首を耳にはさんだ。
「あら、浪花節が聞こえる」
とふしぎな世界をのぞくように、彼女たちは、眼をまるくした。そこでも、豆菊は、気おくれがしたように、その小さなからだを、うしろの方に隠していた。
と、誰か、彼女の背なかを、指で突いたものがあった。
「? ……」
豆菊は、ちらと、後ろをみたけれど、知らない顔をしていた。
また、人の間から、指が出て、同じところをついた。
豆菊は、かぶりを振った。
また、指が出た。
また、かぶりを振った。
「──ちぇっ、いやなやつ!」
投げるように言って、アセチリン瓦斯の人群れから、相生座の横の方へ、抜け出して行ったものがあった。
「ちぇっ、いやなやつ!」
トム公は、暗い空地から振りかえって、もういちど呟いた。
空地の向うには、射的場、釣堀屋、ミルクホール、白粉地獄といっていい家の灯がならんでいた。
コールタアで塗った相生座の高い二階窓から、壮士役者が白い首を出して、射的場の女と、手で信号をしていた。
「オホホホ、オホホ」
「アハハ、アハハハ」
紙くずだらけな空地の闇を、トム公が不きげんな顔をして歩いていると、忍び足に、後から尾いて来た大勢の影が、誰かがクスリと吹き出したのを機ッかけに、いちどに笑い出した。
「誰だい」
トム公はふり顧って、
「何を笑やあがるんだ」
「プリンス」
隠れていた人影は、いちどに集まって、彼をかこんだ、臙脂組のハンケチ女の群だった。
「プリンス、おまえは色気があるんだね、吃驚しちゃったわ」
「どうして、隅におけるもんかね」
「いいよ、いいよ。色気があるなら、私たちにも、覚悟があるからね」
「あ、勘弁できないわ」
「清純なユダ、公園へおいで」
「童貞の洗礼をしてあげる」
と、大勢して、手を引ッぱった。
トム公は、驚きはしないけれど、何のことだか、彼女たちが揶揄する意味がわからなかった。
「何さ、うるさいな」
「わたし達は、うるさいの」
ひとりが、トム公のからだを抓った。
「──そして、雛妓さんなら、うるさくないのだろう」
「なにッてやがんでい」
トム公は、赤くなった。
「悪いことはできないねえ、みんなして、見ていたんだから」
「あれは、おれの妹だもの」
「うそ、おつき」
ひとりが、帽子を攫って、空へ投げあげた。またひとりが拾って投げ上げた。三度めに、トムはそれを引ッたくって、
「ほんとだい! 聞いてみろ」
「だって、おまえとは、似ていないよ」
トム公、悲しい顔をした。
「なんといっても、現行犯だから、もう言い遁れの余地なし」
「そうよ、こん夜はもう、いくらプリンスが逃げようとしても、私たちで、暗いところへ連れて行って、童貞の洗礼をしてあげるよ。ね、みんな」
トム公は、女たちの淫らな眼交ぜを見まわして、
「童貞って、なんだい」
「だから、教えてあげるのよ」
「教えてくれよ、ここで」
「ここじゃ、教えられないわ」
「口でさ」
「口じゃ教えられないもの」
女たちの淫らな眼は、それを想像するだけでも媚液を分泌して、熟れた果物がおかれてあるように、トム公を眺め合った。
彼にも、何かしら分った。と共に、トム公は初めて阿片パイプを口に押しこまれた時のような陶酔と戦慄に衝かれて動悸をうった。
「あっちへ行け!」
「おおこわい、どうしたの」
「おいらは、今夜ここで、みんなと会う約束がしてあるんだから」
「あ……愚連隊。そう、何時に」
「十一時」
「じゃ、それまで、兵隊山へ来ない。でなければ、高島町の倉庫の裏」
トム公は、ポケットへ手を突っこんで、五、六十銭ほどの、銅貨と銀貨をつかんだ。その中から白いのだけを拾って、つき出した。
「あら、授業料は、いらないわ」
「こっちから上げるわよ」
と、女たちは、接吻の雨を彼に投げた。
「この間の借りだよ」
トム公は、ひとりの女にそれを渡すと、逃げるように駈けだして、元の雑沓の中へ、小魚のように、泳ぎこんでしまった。
蓄音機屋のまえの綺麗な一団も、もうそこにはいなかった。
時計屋の時計塔が、夜の空に、十一時の指針をきっかり示している頃、その大きな時計問屋の地下室では、広東服のお光さんが欠伸をしていた。
店頭の方で前後して鳴る無数の時計の振子がてんやわんやに聞こえてくる。
お光さんは、実は、ここの少し変態なといわれている老主人の妾である。居留地の清国人と連絡をとって、時計の密輸入で資産の大をなしたという隠居である。で、そんな関係から、妾のお光さんは、南京街の李鴻章の地下室も愚連隊の巣にしてしまい、此店の地底倉庫も、みんなとの会合場所に利用する特権をもっている。
やがて、彼女の待つ足音が断続して訪れた。男のくせに、いつも薄化粧をしているバプテスト神学生の三浦、紺がすりの羽織紐を首のうしろへ引っ掛けている今村、西洋乞食の樫井、新聞配達の西村といった順に、ぼつぼつ不良色が濃くなって、そのうちにトム公も交じっていた。
南京豆の三角な袋が、事務卓の上に、十ばかり腹を裂いている。その殻をわる音が錯雑とはじまった。トムの手が時々、お光さんの肩の上からそれをつかんで行った。
「食べてばかりいないで、そろそろ議事を進行しようかね」
お光さんが言った。こん夜の議長格然と。
「三浦君──」
彼女は、男に対しては、君をつけ、君をもって呼ぶことにしている。
「調べてくれたの? 監獄の方は」
「学校に、そこへ金曜ごとに行く教誨師がいるから、それに依頼して、調べて貰ったところが亀田は三号舎の独房に収監されているが、健全だと言っていた。明日は行って、差入物をして来る」
彼女は、トム公の方をふり顧って、
「トム公、聞いたかえ、よく聞いといて、亀田の家族に話して安心させておやりね」
感謝をあらわしながら、トム公は、黙ってうなずいた。お光さんは、パッと、指先と唇のあいだから煙草の煙をはいて、
「それから、あの、樫井君、石炭屋の高瀬とあの夫人や娘を、どこかで捕まえる機会はまだ見つかりません?」
樫井は、ふけだらけな頭をかいて、
「どうも、うまく探れねえんだ」
「じゃ、落第よ、君は」
「撲るとか、殺すとかいう場合には、いくらでも吾輩は先頭に立つが」
「なんにも報告がないの」
「きょう本牧へ行ったことだけは分っている」
「そんなら、私だって知ってるわよ。これからも、一週間位は、別荘の方にいるようだから、じゃその方も私がひきうけちまおう……」
それから彼女は、びろうどの小型なサックを帯の間から取り出して、その中からすばらしい金剛石の指環を、手品師のような指つきをして、つまみ上げた。
「諸君──こんなものが手にはいりましたのよ。こん晩は、そのご報告をいたしますわ」
「あっ、これかも知れねえぞ」
トム公は、直感的に、口をすべらして、黙っておいでと言うように、お光さんの眼に止められた。
「指環は、ごらんの通り、婦人の小型、金剛石は一・半カラット、白金だい、時価二千円ならば当店でも買えるという品物なんですよ、諸君」
と、お光さんは、ひとわたりそれを一同に見せびらかして、一枚のマントを五人ぐらいで着廻している愚連隊の飢えた眼をすくなからず羨望させた。
「それが、どうしたというのか、早く、説明に移ってもらいたいな」
と、神学生の今村が言った。
「この店で、二千円で買うと言うんなら、買ってもらって、少しお光さんの手からうるおして貰いてえもんだ」
と、西洋乞食は寒がった。
「ところが、そうは行かないんですよ諸君。なぜと言えば、これは当店の品でも私の所有品でもありませんから、──実を言うと今日、ちょうど私が店の金庫の前に坐っている狒々旦那に、お小遣いをねだっていると、そこへ、ある男が、売りに来た品物なの」
「なるほど」
「二千円……はあると言うのよ、狒々がね」
「ふウむ」
「男は、すぐにも売りたい顔なの」
「いったい、その男ッていうなあ、どんなご人態なんだい」
「至って、おとなしやかな商人風の三十二、三という人物さ。黒眼鏡をかけて、糸織の袷羽織に、角帯をしめて、茶の中折帽、東京から来て今生糸の相場へ思惑をしてみたが、ちょっと、追敷が足らなくなったからと、軽く言っているのだがね……」
「あぶねえもんだぜ、そんな口は」
「あぶないどころじゃないのよ、諸君」
「へ」
「ちらと、私がそばから覗くと、まあ、どうだろう、その前に検事局や伊勢佐木警察署へ行って、未決の予審調書から写して来た盗品と、そっくりじゃないか」
「じゃ、亀田が窃盗の冤罪を被せられた、あの高瀬夫人の失くした品物か」
「そう……。これが、そうなの」
「じゃ、いよいよ亀田の窃盗罪は、むじつときまった」
「そんなことは、トム公が、最初から断言しているじゃないの」
「そこで、どうしたんだ、店では」
「狒々旦那は、考えておくから、あしたもういちど電話をしてみて下さいと、軽く断ろうとしたのよ。──だけど私、そばからすすめて、無理に品物を預からしたのよ、その男も、急場に金がいるんだから、置いていってもいいと言うのさ。……面白いだろう、明日の午後二時頃には、もういちどその男が、店へ来ることに仕掛けたのだから……」
「よし、そいつは、おれが捕まえる」
と、今村や二、三人が競い立った。
「で、捕まえたら」
「わたしとトム公とで、十二天の上で待っているから、連れて来てもらいたいわ」
お光さんは、指環のサックを、広東服のポケットに納めて、
「高瀬の方の手段は、それから考えたっていいしね……」と南京豆を割った。
その晩の話は、それですんだ。
「居留地のクラブへ行こうぜ」
「だめだよ、君たち」
「どうして」
「李鴻章は、上海へ高飛びしちまったから」
千歳の女将は、朝詣りの帰りを、呼びこまれた常盤町の金春で、三十分ほど縁喜棚の下でしゃべりこんでいた。
熱い塩桜の湯を、手にのせて、
「おや、豆菊ちゃんは、見えないね」
「昨ばんはどうも」
と、主人の春太郎という、自分も、抱えといっしょに、座しきに出ている三十ぐらいな働き芸妓、
「今朝もはやくから、蔦家さんのところへ呼ばれて」
「朝から、半玉が出るなんて、いい景気だこと」
「おかげさまでね」
「それに、あの妓は、まるで、お人形だから、お客には、いい玩具だろうよ」
「何しろ小さくってね」
「内気だけど、品がいいもの、ほかの雛妓さんと来たら、私たちでも、顔負けがするのがあるもの」
「感心なことには、五十銭でも一円でもお小遣いがあると、家へ送ってやるらしいんですよ。なんでも、おっ母さんというのは、まだ若いらしいけれど、盲目だとかいうのでしてね」
「へ。家は」
「それを言うと、いやがるんですけど、相沢のイロハ長屋……」
と言いかけて、口をむすぶと、格子が軽く鳴った。木履の鈴の音は、豆菊だった。
「あら、もう帰って来たの」
豆菊は、すぐ千歳の女将の方へ、
「きのうは、有難うございました」
「まるで、家の娘みたいだね」
「置いてみれば、可愛いもんですから」
と、言って春太郎は、豆菊の方へ向いて、
「どうしたの、お座しきは」
「あの、蔦家のお客さんが、伊勢佐木町へ連れてゆくと言うのよ、わたし、昼間だから、いやだって、言ったんだけれど」
「雛妓が、そんなませたことを言っちゃあだめ、連れて行っておもらいなさい」
「今、家へ行って、姐さんに聞いてっからと言って、帰って来たの」
「豆菊ちゃん」
「え」
と、千歳の女将の方へふり向いて、長い袂を持った。
「あのね、おまえさん、ゆうべみたいに引っこみ思案じゃいけなくってよ。きょうは、そのお客さんに、何でもねだらなくっちゃあ……」
「だってエ……」
「どんなお客さん」
「それはやさしい人」
「横浜の」
「東京ですって、まだ若いのよ、そして、黒い眼鏡をかけて、どこかの、若旦那みたいな人」
「おや、この妓、なかなかだよ」
「そんななら頼もしいけれど。……さ、お客さんが待っているんだろう、はやく行ってらっしゃい」
「どれ、私も」
「まあいいじゃありませんか」
「おや、もう一時。ちょっと、朝のうちに、お薬師様へお詣りして、帰りに、西の橋の易者がよくあたるというので、観て貰って来たりしたものですからね」
「ご病人でも、あるんですか」
「いいえ、人様の頼まれごとだけれど、まるで見当がつかないのでね、探偵じゃあないし、またそう他人に話しては困ると言うし、困ったことを背負わされてしまったのさ。……ひきうける私もすこし粋狂だけれど」
「ホ、ホ、ホ。女将さんのような気性だと、見込まれるんですよ」
「女のとりもちぐらいならいいけれど、大隈さんも、ひどい目にあわせるわよ。いずれ、お前さんにも智恵を借りたいと思うけれど」
と、急にいろいろの用事を思い出したように、そわそわと下駄をはいて、
「豆菊ちゃん、そッち? また、遊びにおいでよ」
真昼の、活動的な、太陽の下、ことに埠頭、船渠、荷馬車、お茶場工場などの、騒音と埃と人間の奔影とが錯綜と織られている横浜の十字街を、ゆうべの芸妓や、雛妓を引っぱって、生糸を積んだ幌荷馬車の前を横ぎっても、誰も、そのすがたを、特に、不生産的冷蔑な眼で、見るものはない。
茶色の中折帽に、黒眼鏡をかけ、色の小白い中背の男だった。すこし、やにっこく、若旦那を気どってはいるけれど、女たちには、気うけがいいに違いない。
「買ってやるよ、買ってやるから、往来でそんなことを言うのはよせやい。それに、用事を先にすまさなくっちゃだめだから、おまえたちはそこいらで待っておいで」
「いやだわ、置いてけぼりなんか……」
「誰が、そんなことをするもんか、すぐそこだよ」
「どこ? どこ?」
「どこだって、いいじゃないか」
「いけない、いけない」
黒眼鏡はあわてて手を振って、
「尾いて来ちゃいかん」
と、睨む真似をして、早足に五、六歩離れると、またふり顧って、ついと屋上に時計塔のある柳田商会の小売部へはいった。
豆菊とひとりの若い芸妓は、しばらく、街路樹の下にたたずんでいたが、通りかかる外国人に、ステッキで指されたり、顔を知っている新聞社の原稿給仕が、わざと自転車を向けて来たり、撒水車が来たりするので、居たたまれないで、なんども、柳田商会のまえを行ったり来たりしていた。
時間を約束してあるので、小売部の金庫のまえには、豚のごとく肥えた老主人が、お光さんの所謂狒々然たる精力的な精力を、為すことなく、退屈させていた。
「どうでしょうか、昨日の指環は」
と、黒眼鏡は、店の椅子に腰をかけて、
「買ってくれませんか」
と、切り出した。
老主人は鈍角な赤ら鼻を上げて、
「拝見いたしました」
と、不明瞭に、ていねいに答えた。
「値だんですか、そちらで、考えているのは」
「ま……それもございますが」
「少しゃ、引いても、いいですよ」
「はい」
「一・半カラットは十分にあるんですからな。それに、尤も、そっちの方が眼が黒いでしょうが、宝石そのものには、キズやナミは絶対にないです」
「分っております」
「どうでしょう、私も、きょうの夕刻の七時までには、どうしても、生糸の方へ、追敷を注がなければならない場合ですから、即金ならば、たくさんは困るが、ある程度まで見きりますが」
「ま、お茶をひとつ……」
「人が待っているから、なるべく」
「こちらへ、お入れなさいましては」
「いや、かまいませんが、どうですか、その方は」
「実は、きのうここにおりました娘が……」
「ふム、あの、広東服を着ていた?」
「はい、あれが、非常に気に入ったふうでしてな」
「ふム。ふム」
「持って行ってしまったんでございます」
「どこへ」
「それがまだ今日此店へ見えませんようなわけで」
「じょ、じょうだん言ッちゃ困るよご主人。僕は、ここの店へ売ろうというのだから」
「分っております。……ですから買う買わないのご相談も、ひとつ、それが来てからにして戴きたいのでございますが。いえ、責任は当店で持っております。お預かり物を、どうの、こうのと言うのではございません」
「じゃ、いつ頃見えるのかね、その広東服の娘さんは」
「晩には、きっと、見えましょう」
黒眼鏡は、店じゅうの時計の時間を見くらべて、
「それでは、もういちど、晩に来よう」
「ご足労でございました」
「値だんは折り合うから、なるべく、買い取ってくれたまえ」
「はい」
店先を出て行くと、男は、中折帽のやまへ手をやりながら、往来を見わたして、向うの角に見えた豆菊と芸妓の方へ、大股にあるき出した。
郵便箱の蔭にかくれていたトム公は、男の足がはやくなったのをみると、ついと飛び出して、一本指を上げた。
「おい、君、君」
愚連隊の西村と樫井だった。馴れ馴れしく、両方から肩をつかんで、
「手間はとらせんが、ちょっと来てくれないか」
黒眼鏡の顔が、さっと、青く冴えた。
「どこへ」
「警察たあ言わねえよ、僕らは、刑事じゃないからね、安心して来たまえ」
「誰だ、君たちは」
「横浜にいて愚連隊を知らないのか」
「…………」
「まあいいから来たまえ」
「いや、僕は、連れがいるのだから」
「連れは連れで、また、いつでも別な日に会ったらいいじゃないか」
しっかり、両方から腕を拱んで、ずるずると吉田町の河岸まで来ると、樫井と西村は、いきなり男を河の中へ突き落した。
が──下にはボートが待っていた。黒眼鏡のからだが、蟹の穴だらけな黒い河砂の上に顛落すると、樫井と西村もすぐとび降りた。トム公もとび乗った。
そして黒眼鏡の四肢を、ぎりぎりと隅へしばりつけるとボートは、オールの唄のどかに、鉄の橋の下を辷るように潜って行く──
びっくりして、色を失った豆菊や若い妓はその橋の上を、今にもわっと泣き出しそうな顔をして、関内の街へ、走っていた。
火を放ければ、ぱっと、海が燃えそうだ。重油船からにじみ出る油の皮膜が、マーブルペーパの紋様みたいに薄くひろがっている。
赤い帆の快走船、白い帆の快走船。また、猫背なヤンコの鉄骨の上には、秋の午後の陽がとろりと舂いて、C字形の築港に抱かれた港内の海はまるで思春期の猟虎の肌みたいに滑らかだ。
──岬の十二天へ登って、お光さんは、港内を見下ろしながら、広東服の膝を組んで、その上へ、巻煙草を挟んだ指を放心的に乗せていた。
「──失敬ですが」
先刻から、森のうしろへはいったり、社の絵馬を仰向いたりしていた洋服屋の職人みたいな鳥打帽が、その廂へ、ちょっと手をかけながら、彼女の前へ屈みこんで来て──
「火を一つ」
と、一度吸って消してある両切りの先ッぽを、ぶしつけに、出して来たのである。
「火ですか」
「恐縮ですが」
お光さんは、わざと火のついている煙草はそのまま指に置いて、ポケットから、香港出来の蝋マッチを探って、黙って貸してやる。
男は、人間の小骨みたいな蝋の棒から、硫黄色の火を出して、すぱっと、いやしい音をさせて吸った。
それを、戻しながら、
「いい日曜ですな」
「え……」
お光さんは、道理で港内が静かなわけだったとうなずいたけれど、男の顔へは、一べつも向けなかった。
「お散歩ですか」
と、男はうるさい。
「え」
「どこかでお見うけしたように思いますが……あなたを」
「そうですか」
「ご近所ですか」
「え」
「山の手でしたろうか、さあ……何処でお目にかかったでしょうな」
お光さんは、とうとう、持ち前のかんしゃくが起きてしまった。
「うるさいわよ。君」
君! と来たので男はぎょっとしたように彼女の顔を見直した。
お光さんは、犬を見るように、蔑んだ眼で、
「──ご苦労様、吹きさらしで、張り番も楽じゃないわね。君は税関のスパイでしょう。顔に描いてあるわ。だけれど、私が、密輸入の信号をしているわけじゃないから、お生憎様ね!」
呆っ気にとられているのを後にして、お光さんは活溌に、石段の降り口へ向って歩き出した。──そこへトム公が駈け上って来た。トム公を見るとお光さんは、姉のように手を伸ばした。
「どうしたえ、連中は」
「今、黒眼鏡を引っぱッて、ここへ来るよ」
「税関のスパイがいるから、ここへ来てはまずいね。どこかないかしら、ほかにいい場所が」
「坂のナンキン墓は」
「あ、あそこなら静かでいい、こっちへ上がって来ないうちに、ナンキン墓の方へ行くように連中へそう言っておくれ、私は、上から廻って行くから」
長い急な石段を、トム公が転がるように、駈け降りてゆくのを見て、お光さんは反対に、十二天の境内を裏坂の方へ歩き出した。その背なかへ、まだ先刻の頓馬なスパイの眼がこびりついているのを感じながら──
川すじで、貸ボートを捨てた一群の愚連隊たちは、柳田商会の前でうまうまと罠にかけた黒眼鏡の男を取りかこんで、誰の眼にも、何の異様も感じさせずに、北方の通りをぞろぞろと連がって来た。
「十二天はいけねえとよ! ナンキン墓だ、廻れ右」
先へ行ったトム公が戻って来て、そう告げる。
谷戸坂を登って、左側の高い崖をのぼると、中腹に土饅頭型の陰気な丘があった。刈られてある雑草のひろい空地の向うは、凝固土の低い杭から杭へ、鉄の鎖が垂れていて、その中には、異国で死んだ中華人の墓石が乱立している。
ここのナンキン墓の墓番をしながら、花や香を売っている広東人の若夫婦は、たいした金が儲かるというので、その頃、在邦の清国人のあいだでは羨望の的だった。
墓番の若い細君は、同邦人の葬式があるたびに、必ず、楊貴妃のように盛装して施主に雇われてゆく。それは、清国式の大げさな葬式にはぶたの丸煮と共に、ぜひともなくてはならない「泣き女」の職業に。
銅鑼や、木鼓板や、鉦を、破れかえるほどたたきながら、よく、彼等の祭の如き輿をかこんで行く葬式の行列が、横浜の町を練ってゆくのを見る。
職業婦人の「泣き女」は、その葬式の先頭に立って、人力車の上でオイオイと声をあげて泣くのが商売だった。ナンキン墓の細君は、その泣くことの天才であって、ご亭主さんよりは稼ぐということである。
その「泣き女」の細君と懇意なのか、お光さんは、家の中で立ち話をしていたが、トム公の声を聞くと、すぐに出て来た。
「あ、来たのね、諸君」
捕まって来た黒眼鏡の男は、彼女のすがたを見ると、すぐに何か話しかけそうにしたが、樫井と西村に腕を抑えられて、
「オイ、逃げると、手荒くなるぞ」
「何も逃げやしない」
黒眼鏡もすこし度胸をすえたように、その手を突ッ放して、お光さんの方へ迫った。
「ご婦人!」
「なあに」
「君はきのう柳田商会にいた娘さんじゃないのか」
「そうよ、覚えているわね」
「なんだって、無頼者を使嗾して僕をこんな所へ引っぱって来たんですか。君たちは白昼に追剥でもやろうっていうのか」
「…………」
お光さんは、相手にならないで、笑いながら墓地の鎖を跨いだ。そして、大きな菩提樹の下から振りかえって、
「諸君、こっちへ連れておいでよ、その黒眼鏡を──」
ここへ来ると、愚連隊たちは、急に黒眼鏡を罪人のように小突き廻した。彼は、墓地の上へ追いあげられて、菩提樹の下に起立を命じられた。言うがままにしなければ、その度ごとに、拳骨が来るのだった。
「誰も来やしまいな」
と、今村がきょろきょろした。
「だいじょうぶだよ」お光さんが言った。
「今ね、墓番の若夫婦にたのんでおいたから……」
「誰か寝てるぜ、あんな所に」
「どれ?」
今村の指さす所へ、みんな鋭い目を向けた。墓と墓とのあいだに、ひとりの清国人が、新聞紙を敷いて昼寝をしている。いや、そこばかりでなく、よく注意してみると、あっちこっちの樹や石の蔭に、木の葉虫みたいにごろごろと人の寝ているのを発見した。その中には、日本人も交じっていた。
「なんだろう? あいつら」
「知らないのかえ、諸君は」
お光さんは笑って──
「あれはね、チイハという南京富籤を買う人間が、夢を見に来ているんだよ。──ナンキン墓へ来て昼寝をして、その夢をけんとくに富籤を買うとあたるという迷信があるのさ。……抜け目はないやネ、墓番のやつは、それでチイハ流行のこの頃、墓地の入場料をとってしこたま儲けているんだよ」
──話しながらポケットを探っていたお光さんの手には、いつのまにか、小さな短銃が光っていた。
黒眼鏡は、それを見て、顔もからだも、硬直したように、竦んでしまった。
ピストルが物を言うように、冷たいことばだった。
「君」
「…………」
黒眼鏡は、その黒い玻璃の奥で、お光さんの顔を、恐怖にみちた目で見つめたままだった。
「君」
「……なんだ」
「名まえを仰っしゃいな、名まえを」
「僕の姓名を貴様などに告げる必要はない。そんな物を人に向けて、何をするんだ」
「素直にしなければ、撃つのよ。空弾だと思うならば、撃ってみましょうか、見本にネ」
彼女は、事もなげに、菩提樹のこずえに向って、一発、実弾を放した。
「まだ、五発あるわ」
今の短銃の音に、墓場のあいだに、チイハの夢占をむさぼっていた人間たちは、びっくりして飛び起きた。そしてコソコソと逃げてゆく跫音を、黒眼鏡も、お光さんも、愚連隊たちも、黙って、聞き過ごしていた。
お光さんは、重ねて、
「名まえは? 君の」
「高橋」
と、遂に、黒眼鏡もふるえながら言いだした。
「高橋? それから」
「高橋八寿雄」
「住居は」
「東京」
「うそ。……ほんとのことを仰っしゃいな」
「東京だから東京だって言うのに、信じなければしかたがない」
「うそ、うそ。柳田商会の伝票へ書いてあったのは、長者町八丁目、盛心館としてあったじゃないの」
「それは下宿先だ」
「ご職業は」
「木綿問屋ということも、きのう柳田の店で話していたはずだ。知っているならば、くどく聞き給うな」
「お生憎様。君は、まずその黒眼鏡を外してはどう? そんなもので、世間がごま化されていたら滑稽だわ。ね、トム公」
トム公は、さっきから、彼女の侍者のようにまた、今にもつかみかかりそうに、鋭い眼をしていたが、黙って、うなずいた。
「君は、木綿問屋ではありません、ほかに本職があるでしょう。言いにくければ、私が、代弁してあげてもいい」
「…………」
「言わないのね、じゃ、私が高橋八寿雄に代って告白しましょう。──諸君、わたくし、高橋はですね、実は掏摸でございます。うそだと思うなら、襦袢の袖をめくッて、二の腕の文身を見てください」
彼女の皮肉な揶揄が耳を刺すと共に、黒眼鏡は、脱兎のように逃げかけた。
「野郎」
「ふざけるな」
追いかぶさった腕が、何本も、彼の帽子、彼の襟くび、彼の袖、彼の帯をつかまえて、仰向けにひっくり返した。ゴロタ下駄やドロ靴が、たちまち眼鏡をとばし、肩を蹴とばした。
「野郎、逃げられるものなら逃げてみろ」
「…………」
男は、半殺しの目にあって、腰も上げ得ないほど参ってしまった。そして、眼鏡のとれたすごい顔を、お光さんに向けて、
「さ、殺せ。殺すなら殺してみろ。そのかわりにてめえたちも、ただはおかねえぞ、おれは東京の仕立屋銀次の身内で常ッていうんだ」
「じゃ話はすぐに分るわ、とんだ失礼をしたけれど、君が、ここまで来ても口を開かないから悪いのよ。ほんとなら警察へ突き出されたってそれまででしょう。それを地道に訊こうというのに、シラを切るんだもの」
「覚えていやがれ、畜生」
「まだ怨んでいるのね、君は。──君は勘ちがいをしているのよ、私たちは何も、好んで君を痛めつけたわけじゃないわよ、そこに、相当な理由があるから敢えてお体を拝借して来たんだわ」
「なんだ、いッてえおれに聞きてえというのは」
「これよ」
お光さんは、金剛石の指環を示して、
「ご存じ?」
「知っている!」と、掏摸の常は、もう捨て鉢だった。
「船渠会社の構内で掏ったんでしょうね、あの、仲通りの高瀬商会の夫人お槙さんのオペラバッグから」
「それがどうしたって言うんだ」
「有難う……。それさえ分れば、ここに泛かび上がる人があるのよ。トム公、おまえこの巾着ッ切さんに、よく事情を話したらいいよ。こういう人は、物分りがはやいのだから」
トム公は巾着ッ切の常に向って、亀田がその冤罪をうけて、監獄へはいっていることを話した。また、その亀田には五人のあわれな家族たちがあって、飢えに瀕していることも話した。
トム公の話の半ばごろから、巾着ッ切の常は首を垂れてしまッて、社会の最大悪を犯したように、ただただ恐れ入っていた。そして、こんな言葉をつけ加えた。
「実あ、あっしも、まさか船渠の中でそんな仕事をしようとは思わなかったのですが、横浜へ稼ぎに出て、ろくな仕事もなく、飯にも困ってしまったので、ちょッくら、かんかん虫ッてやつになって、一日、あそこへ働きに行ったんです。──すると、あの騒ぎでしょう。おまけに、あっしの鼻ッ先へ、オペラバッグが飛んで来たので、ごたごた騒ぎに、目ぼしい金属品を三ツ四ツ抜いたんですが、帰りとなると、門衛や私服が出口に詰めこんでいるので、しまった、と思ったので側にいたのろまそうな男のポケットへ品物を筒抜けさせて、指環だけを、ここへ」
と、大きな口を開いて、自分の喉仏を指さしながら、
「嚥んじまったんです」
「じゃ指環は、いちど、君のお腹の中をくぐッたの」
「まさか」
と、巾着ッ切の常は、すこし明るく笑った。
「何しろ、わけを聞いてみりゃ、重々、すみません。何時なん時でも、自首をして、その亀田さんとかを貰い下げにいたします」
「きっとだね」
「へい」
「じゃ、ほんとの住所を書いといてくれないか」
「ここへ知らせて下さりゃ、いつでも、入監の支度をして、出て参ります」
東京市本郷区湯島仕立屋銀次方──と鉛筆で書いたのを、お光さんに渡した。
山の下には、もう谷戸町や北方の町に、美しい灯がともっていた。
「どうですか、諸君」
常と別れてから、お光さんは、ナンキン墓を下りながら双手をあげて、
「こん夜は、トム公のために、乾杯してやろうじゃないの。そして私は、この金剛石の指環を、柳田のお狒々さんに、二千円で売りつけてやるよ」
「二千円?」
みんな、嘆め息をあげた。
「アア二千円よ、そしてさ、百円は亀田の家族にやっとくよ、そして、百円はトム公のおっ母さんに上げっちまうよ! そしてあとの千八百円をどうすると思う?」
「むろん、こっちへも渡るだろうな」
「仲間割れをしッこなしさ。合資会社ということがいいじゃないの。諸君! 八百円をわれらの合資会社の資金として、根岸の競馬はどうですか」
「異議なし」
「さんせい!」
「だけれど諸君、競馬ばかりに熱中しちゃ困るわよ。まず、指環の真犯人はいつでも出せることになったから、これからは、高瀬理平への策戦よ。でなければ、なんらの意義がなくってよ、ねえトム!」
トム公は、愉快で愉快でたまらないように、足を弾ませて、三鞭のコロップみたいに踊りながら、
「競馬? そうだ! 根岸の競馬へ行きゃ、きっと、石炭屋の高瀬とあのおんなたちが来ているぜ!」
あれから幾日か経って、広東服のお光さんはまた、嬌然と宝石を噛んでいるような明るい歯を笑まして、屋上の時計塔が、薄暮の空に午後四時の指針を示している柳田商会の店へはいって来た。
店の、うす暗い金庫と事務卓の隅に、赤い笠の電気を捻って、何かカード様の無数の紙片をならべて他念なく見入っていた柳田老人は、南京靴の軽いステップに驚いたような顔を上げて、
「おや、来たのかい」
と、あわてて卓上のカードを取りまとめて、手の下にかくした。
お光さんは、腰をおろすとすぐに、それを彼の手の下から毮るように引っ奪くって、四、五枚、ペラペラと見ては剥くり返して、
「いやなお狒々さんね、昼間からこんな物ばかり見ているのよ。店員たちに見られたらきまりが悪くなくって?」
と、唾を吐くように言いながら、お光さんもまた、それを離そうとはせずに、つい同じ物を何度も繰り返しては眺め入ってしまうのだった。
「いいじゃないか、何もこれは、わしの蒐集だからな。趣味だよ」
と、老人は、どうせ見られたからには、という風に、隠していたあとのカードまで、みんな彼女の手へ公開してしまった。
「まあ?」
と、お光さんは、その一枚一枚に、わざとらしい眉をひそめながら、息をのんで見て行った。それは、阿片やモルヒネと同じように種々な文化の中に紛れこんで輸入されるドイツの売笑婦や、フランス物の淫蕩な乱舞を、トリックした写真なのである。──それが迫真味の乏しい安俳優と売笑婦のトリックとは知りながらも、中には、何となく悩ましく胸の押されてくるようなものもあったけれど、そのうちに、二十名以上もいる金髪の裸美人が、胸や肱や曲げた足や、種々なポーズをもった四肢を組み合わせて、一個のグロテスクな人間の性慾的な面貌を構成している写真にぶつかって、急にいやな気もちがして来たように、
「つまんないわ、こんな物」
と、卓へ抛り出した。
老人は、それを、あわてて掻き集めて、金庫の中へ仕舞いこんだ。そして、意味のあるようなないような、妙な笑いかたを頬杖にのせて、
「あとで時計塔へおいで」
と、老人のする別種な気味のわるいはにかみをして言った。
「ええ、行くわ。私も話があるから」
老人は毛皮のスリッパを穿き直して、小売部の横から狭い階段を螺旋なりに登って行った。三階は二階よりも、四階は三階よりも狭隘になって、やっと一坪半ぐらいな、そして天井だけが妙に高い扁平な感じのする一室に突き当った。
その扁平な狭い所へもって来て、要りそうもない扉が付いていた。扉を締めるとそこは壁と壁との間に隠れこんだような秘密的な落着きが得られる。床にはダブル寝床がいっぱいに置かれ、仰ぐ上には、大きな真鍮の歯車だの油穴のあいている鉄板だの振子だのが、機関室の一部みたいに組みあわされて、その機械の間に、二個の丸い窓があった。いうまでもなく、ここは四階の時計塔の時計の心臓であった。丸い窓はその字板を切りぬいている鍵穴である。
お光さんは一週間に一度ずつは、この時計塔の裏に登って、柳田老人の自由意志の下に、そむくことのできない義務を買われていた。ベッドはすぐに事もなげな二人のためのものになり、壁の字板の鍵穴からは、煙草の煙が紫いろに夕方の外気へながれて出た。
「あ。……忘れた」
と、老人はぴくりと体を起しかけた。
「なにを」
「今の写真を持って来て、ここで、二人してゆっくり見るんだったに」
「いいわ、あんなもの、持って来なくっても。……それとも私の魅力は、あんな物以下なのかしら」
「そ、そんなことは、ないがね」
「じゃ、こうしていらっしゃいよ。あの写真のようになれというならば、私、どんなポーズにでもなって見せるわ。その代り、きょうは店へ買い取って貰いたいものがあるのよ、この間、二千円と評価したけれど、千五百円に負けとくわ、儲けさして上げたり、言うことを肯いたりする、こんな若い孔雀を持って、あんたは何ていう幸福者」
と、お狒々さんの腮をつまみながら、左の指から外した指環をその鼻の先へ出して見せた。
そこの「時計の心臓」は、いつのまにか真っ暗になった。ちょうどそれが懐中時計の機械の中の紅玉石を象徴するように、赤い豆電気が三ヵ所から、寝床に向ってぼんやりした光を投げている。
ギギギと、天井の遊体歯車の一個が活動しはじめると、何処かにかくれている鐘板がジャンジャンと時の音を連震した。──お光さんはその音響に眼をさまして、さめるとすぐ無意識に、その指が、寝くたれた髪の毛を耳のうらへ掻き上げていた。
「……八時?」
と、数えていると、どこか遠い外の方で、するどい指笛が二度ばかり聞こえた。彼女は、寝床からすぐに手のとどく小さな梯子へ足をかけて、時計塔の鍵穴から首を出した。
眩ゆい宵の街光と繁華な人の流れが、眼の下に見下ろされた。しかし誰も、その夜の星空のよいことに無関心でいるように、柳田商会の時計塔の穴から、白い女の顔が、町を物色しているとは気がつかないのである。
ただ──たった今、郵便箱の蔭で、指笛を吹いたトム公だけがすぐにそれを見つけて、にこッ、と笑った。
お光さんは首をひッこめた。
そして再び、飽食した豚のように、鼾をかいて寝ている柳田老人の顔をながめていたが、やがて金剛石の指環をその小指に嵌めてやって、その代りに、彼のポケットにある五、六個の鍵のうちから一箇を抜き取って出て行った。
三階は、日本間になっていて、老人の居間であった。彼女がそこの勝手に通じていることは、自分の銭入にいくらあるかということよりも詳しい。袋戸棚の手提金庫は、机の上に持ち出されて、苦もなく彼女に千五百円の紙幣をかぞえさせた。鍵をそれにさしたまま、元の所に納めると、お光さんは階下へ降りて、小売部の若い店員へ、素直に、さようなら──を与えて街へ歩み出した。
この間、ナンキン墓での時に、今夜ここへ来いと言われていたトム公は、正直に、約束の時間を待っていた。
「君、たくさん待っていたの」
「なあに、三十分ばかり」
「うっかり寝込んでしまうところさ。そのかわり、予定は着々とはこんでいるわよ。……さ、この百円を亀田の家族に、この百円をおまえのおっ母さんの当分の暮しにあてがっておいで。──それからだよ。高瀬との争闘はね」
トム公は、生れてからまだ見たこともない二百円の紙幣をからだに持って、なんだか、足がふわふわした。
「そしてと──明日じゃない──明後日が競馬の初日だから、根岸の松林にある教会の裏へ集まるんだよ。アア、ほかの者もみんな知っているから……。いいかい、それを落しちゃいけないよ」
こう言って、彼女は、たくさんな人が歩いているのに、トム公の顔を抑えて、痛いほど接吻をして、伊勢佐木町の裏で放した。トム公は、眼が眩るほどきまりが悪かった。そして、決して嫌ではないけれど、お光さんの手を突っ放すようにして、掻っ払いのように、あわてて、人混みの中へ駈けこんでしまった。
彼は久しぶりで、あれ以来足を抜いているイロハ長屋の、暗い故郷を眼に描きながら、急いで歩いた。からだ中が金の重さのように感じられた。飢えたる亀田の家族や、目の見えない母の顔が、どんなに歓びにかがやくかを想像すると、トム公の胸にも言い知れない喜悦がいッぱいになる。
「牛肉を買って行こうか。おっ母あは甘い物が好きだ、風月の最中を買って帰ろうか」
トム公はいくたびも、そんな食料品屋の前に立って、やさしい出来心を起してみたけれど、二枚の百円紙幣をくずすことが怖くもあり惜しい気もして、とうとう何も買い得なかった。
で、まっすぐに、ほとんど一散に、手を振って貧民街のイロハ長屋の露地口まで帰って来ると、誰かうしろから、大きな手が彼の肩をつかんで、
「トム公じゃねえか」と言った。
振り向いてみると、同じ長屋にいる屠牛場の仙さんだった。仕事場からの帰りとみえて、仙吉は片っぽの手に竹の皮包みをぶらさげて、少し異様な眼をして彼を見つめた。
「どこへ行くつもりだ? トム公」
「家へ帰るのさ」
「とんでもねえことだぞ」と仙吉は誇張した声で、「長屋にゃあれから後、毎日、一人ずつ刑事が交代で来て、見張っているのを知らねえのか」
「捕まッたっていい。おらあ行くよ、おらあおっ母あに会いに来たんだ」
と、張りつめて来た愛慕が、拒めるものの好意にさえ感傷になって、つよくさけんだ。
「ばかを言いねえ。おめえが捕まったらどうするんだ。亀田さんの出獄て来るあてもなくなるし、おめえのおふくろまでが、どんなに嘆くかわかりゃしねえぞ。……だからよ、おふくろも、病院へはいる間際まで、そればかり周りの者にたのんで行ったって言うぜ」
「おっ母あが病院へはいったって」
「知らねえのか」
「知らねえ」
「おめえが帰られなくなってから、病臥についちまったんだ。おれたちにゃ何の病気だかわからねえが、何しろ、粥をすする元気もねえんでオタスケ病院の医者に頼みこんだところが、入院しなくっちゃいけねえというので、一昨日のことだったよ、ふとんにくるんで、みんなが送って行ったなあ」
「じゃ、銭がなくって、困ったろうな」
「なあに、病院の方は、オタスケ病院だから、一切金は要らねえのよ。俥賃だの何だのは、長屋の者から五銭ずつ集めて、それで立派に間に合ったから心配しねえがいい」
「小父さん」
トムは感激に燃えながら、二枚の百円紙幣を彼の前に示した。
「おら、こんなに金を持って来たんだぜ」
仙吉は飛び上がるほど驚いて、
「や、おい、トム公、これやおめえ、百円紙幣が二枚だぜ。どうしたんだ。こんな大金を」
「貰ったのよ……元町のお光さんに」
「お光さん……。あのむらさき組というハンケチ女のお光さんか」
「百円は亀田の家族へ、百円はおれのおふくろに」
「だって、あのお光さんは、南京洋妾だという話じゃあるけれど、こんな大金を、女愚連隊のくせに、持っているはずはねえじゃねえか」
「なあに、あの女の旦那は李鴻章じゃねえよ。吉田町の柳田という時計屋だよ。そこから持って来た金だからふしぎはねえのさ。……もし刑事に捕まった時は捕まった時だ、おれは、これを、亀田さんの家族に渡してやらなけれやならねえ」
「ばか。ばか。──そんな大金を持って捕まったひにゃ、なおさら罪が重くならあ。それなら今、おれが亀田のおかみさんを呼び出して来てやるから、どこかそこいらに隠れていろ」
仙吉は、そう言って、イロハ長屋の暗い露地にかくれた。
しばらくすると、嬰児の泣くのをあやしながら、亀田の細君が仙吉に連れられて、いそいそと駈けて来た。今夜も、トム公の母のいた空家には刑事が張込みに来ているらしいからと言って、ふたりはトムに注意をしながら、植木商会の菊畑へはいって菊の中にかくれながら話した。
「トムさん、こんなお金をいただいてどうしましょう。良人が帰ってから叱られます。どんな内職をしても、留守のうちだけはやって行きますから……」
と、亀田の細君は、どうしても金を受けなかった。まだ貧民街のどん底気質に馴れない中産階級型のこの細君は、刑事に追われているトム公の手から出された百円紙幣を、何の恐怖もなくは見られなかった。
しかし、母乳が出ない上に、赤ン坊のミルクを買う金もないので、母も子も、蝋燭のように青く痩せ細っていることは、仙吉が、よく知っていた。もし金のことで間違いが起ったら、自分達でひきうけるからと、口を酸くしていったが、それでも取らないので、仙吉が長屋を代表して預かっておく。そして意義のあるように費う、と言って自分の手へ預かった。
「もう犯人も分っているし、いつでも、自首させることになっているんだから、近いうちに、きっと亀田さんを長屋に帰してあげるぜ。……だから気を落しちゃいけねえぜ」
トムはそれから、母の収容されている赤十字病院の所と部屋の番号をくわしく聞いて、
「どうしても、おっ母あに会って来る!」
と、仙吉が危険だと言って止めるのを振り切って、そこへ廻った。
植木商会のひろい庭園を抜けると、道が半分も近いので、彼は、通行の止められている柵を越えて、背のたかい蘇鉄の葉や温室のあいだを駈けぬけた。金釦をつけた制服の園丁が、花の蔭から彼のすがたを見たけれど、咎めなかった。
輸出向の百合の根がたくさん蓄えられてある倉庫の間から、彼は山の手通りへ飛び出した。五、六丁、桜並木の蔭を走ると、右がわにひろい空地をかこんだからたちの垣がある。
そのまん中にある三階建ての古い病舎が、赤十字病院だった。──取りこまない白い洗濯物が、からたちの垣から桐の木へ、幾すじも渡してあった。
あの三階に見える弱々しい灯の一つが、盲目の母の枕辺を照らしているのだと思うと、トムはひとりでに眼がしらが熱くなった。
越前蟹みたいに大きなそして赤く灼けた薬罐が、炭の一俵もおこしたほどな炉の上に、手とつるとを伸ばしていた。医務室の職員たちもあらかた帰ってしまって、番茶殻まできれいに流してしまった小使部屋の老小使は、貸本屋の「自転車お玉」を愛読しながら、板裏草履の脚を椅子から椅子へ長々と掛けていた。
生首正太郎と自転車お玉とが、築地河岸の闇で七五三科白で、匕首を持ち合う出合場のところで、小使はちょっと本をふせた。同時に彼は、沸きこぼれている大薬罐の湯気の向うに、忍術を使って立っているような少年マドロスの姿を見出して、変な顔をしながら、職務的になった。
「おや、どこからはいって来たんだ、おまえは。──残飯なら明日おいで、明日」
ぼんやりとそこへはいって来たトム公は、この小使部屋で珍しいものを見た。それは天井から下がっている五燭の電気だった。居留地の異人館ですらまだ多くがランプなのにここには電気がついている。赤十字病院はやはり金持なんだな、と考えた。
彼はポケットに突っこんでいる指先に意識をとめてみた。ポケットにはさっき亀田の家族へと言って仙吉にあずけた百円のほかに、もう一枚の百円紙幣がうすいなめし革のような触感をもって指先に存在を知らせた。彼は、その紙幣と同居している脂臭い物をポケット糞といっしょに探り出した。それは半分の紙巻煙草であった。一本の半分まで吸って、揉み消した方を紙パイプの中へ突っこんで丹念に次の喫煙慾の起るまでしまっておいた半分のピンヘットである。
トム公は、その吸いかけの方を紙パイプから抜いて差し直しながら、そこにあった大きな鉄の炭挟みの先へ挟んで火をつけた。そして口へ持って来て横に咥えると、初めて呆っけにとられている老小使へ返辞をした。
「おじさん、おら、残飯貰いじゃねえぜ。この赤十字病院にはいっているおっ母あに会いに来たんだ」
「じゃ正門の方へ行きな。そして、受附へ面会人の名前と、自分の住所姓名を言って、その上で、医務室のゆるしを得なければいけない」
「だって、表門は締まっているじゃねえか」
「面会は午前九時から七時半までの規則だから」
「ところが、おら、昼間は来られねえんだよ。後生だから内証でおっ母あの病室へ連れて行ってくんねえか。え、おじさん」
老小使の眼は十分な疑いをもってトム公の挙動を調べ始めた。彼の頭脳は「自転車お玉」を捕縛するために奔命する武藤刑事と同じように働いて来た。
「ちょっと訊くがお前──一体どこからここへはいって来たのか」
「裏門から」
「裏門も閉まっているはずだが」
「からたちの垣を越えて」
「ふーむ」と老爺はいかめしい顔をして、「これまでにして病院へはいって来るというのは、何か事情があるんじゃないか。その会いたいという病人は何号室の患者だね」
「三階の十九号室。──そこに、相沢町字和蘭陀横丁の千坂桐代っていう人がはいっているだろう。盲目で、女の……」
「はいっている。十九号は伝染病隔離室だから腸チフス患者だな。それがおまえのおふくろか」
「あ」
「名前は」
「おれのかい?」
「そうさ」
「かんかん虫のトムっていうんだ」
「トム? ……混血児かい」
「馬鹿にすんねえ!」
トムは純粋な日本語を飛ばして、口元まで吸い切った煙草を火の中へ抛った。紙パイプの蝋が彼のたんかの如く罪のない焔をぱっと上げた。
「混血児か混血児でねえか、よく眼の色を見てくんな」
「だって、トムなんていう名は、日本人にはないだろう」
「詳しくいえば千坂富麿っていうんだけれど、舌が廻らねえや、トムで分るじゃねえか」
「とにかく明日出直して来なければだめだな。それにしたって、伝染病患者だから医務室で許可をするかどうか分らない」
「そんな馬鹿なことがあるかい」トム公は食ってかかった。
「自分のおっ母あに会うのに、他人が許可をするもくそもあるもんか。おら、ここからはいって行くぜ」
「そうかい、無断ではいって行くならはいって行くがいいだろう。その間に、おれは前々から刑事さんに頼まれていることをしておくからな」
と、老小使も彼といっしょに廊下へあがって、電話室の扉に手をかけながら振り向いた。黄色い歯がげらげらと笑った。
トム公は、あっと足を竦めると、突然、爆片のように素ッ飛んで小使部屋から外へ逃げ出した。そして再び、うらめしそうに、三階の病室の灯を見上げていた。どうしても、彼は母の顔が見たかった。ちょっとでも、自分の声を母に聞かせたかった。
「おっ母あ。……おっ母あ」
心のうちで叫びながら、病院のまわりを歩いていた。夜もすがらこうして歩いていたら母が自分の姿を夢に見るであろうと儚いことを考えて慰めた。
と、永いからたちの生垣の外を、可愛らしいぽっくりの鈴が忍びやかに歩いて鳴った。トムが歩む方へ、その鈴の音が尾いて来た。彼がいつまで気がついてくれないのを焦れったく思うように、やがて、垣の外から低い声がトムに向って呼びかけた。
「兄さん。……兄さん」
トム公は振り顧って、ぎょっとしたように外の闇を見つめた。からたちのいばらを透かして華やかな友禅ちりめんと緋鹿の子の帯揚が見えた。白い、夕顔の花みたいな顔が、悲しそうな眼をして、棘のある垣の隙間からのぞいていた。
「あ、お菊ちゃんだね」
トム公は言った。
お菊ちゃんとは、金春の雛妓の豆菊の本名だった。あの、小さな淋しい雛妓が、こんな晩こんな所へ、どうして来たのか、ぽつねんと袂をかかえて立っているのだった。
「馬鹿だなあ」
トム公は、兄さん顔をして、
「何だッて、女のくせに、こんな所へ来たんだい。馬鹿だなアお菊ちゃんは、早く帰れよ」
「だって……昨日病院へ面会に来たら、誰にも会わせることはできないと言って、帰されたんですもの」
「誰と来たの?」
「姐さんと」
「どうして、おっ母あが病院へはいったのを、おめえに、分ったんだろう」
「警察の人が金春へも調べに来たのよ。わたしみんな聞いたわ、兄さんは、警察でも手こずッている不良少年なんですって。こんど捕まえたら、八丈島の感化院へ送ることに極っているんですって。……兄さん、悪いことをするのはもう止めてネ……」
「ふふンだ! 誰がくそ、感化院なんかへ行くかい!」と、トム公はむきになって怒りつけた。
「おれが悪いことをしたッて、何時おれが悪いことをしたか、おれは、掏摸や泥棒なんかしたおぼえはねえぞ、警察のやつが来たら言ッてやれよ」
彼のみはそう言って、独りで気概を昂げていたが、豆菊は垣の外でほろほろと泣いているのだった。──寒そうに、そして、世の中の何もかも、すべてが凍え切って、すべてが真っ暗のように。
「……兄さん」
「泣くない、馬鹿だな」
「おっ母さんは、死ぬんじゃないの」
「…………」
「わたし、お座敷にいても、寝てからも、それが心配になって。……ねえ兄さん、おっ母さんが死んだら、私たちは、どうするの……」
「死にやしないよ、病院にいりゃ大丈夫さ。それよりも、菊ちゃんは、どうして今時分来られたんだい。金春の家で、探していやしないのか」
「いいえ、お客さんに、お座敷を付けて戴いたの。……そんないいお客さんを、兄さん達はこの間、酷い目に合わしたのね」
「あの黒眼鏡か」
「え」
「だってあいつは、掏摸だもの。それにどやしてやる理があるんだから」
「違うわ、あんないい人はなくってよ。わたしが、せめて病院の外から、おっ母さんのいる窓の明りでもいいから見たいと言ったら、俥屋をよんで、お座敷をつけてくれて、病院の灯を見ておいでと言ってくれたのよ。……私、ここから、あの窓の灯を見て、お祈りをしていたの」
「おれも、おっ母あに会いたくって来たんだけれど、どうしても、会わしてくれやがらねえ。──よし、菊ちゃん、もう少しそこに待っていな、もういちど行って、何とかしておっ母あにおめえが見舞に来たことを話してやるから」
トムはたちまち駈けて行って、前の小使室をのぞきこんだ。電気が消えて、錠がかかっていた。彼は安心したように、病院の横へ廻って、物干場に渡してある、すべての綱と竹竿とを、こッそり裏の方へ運び出した。そして、二、三本の竿を束ねて、所々を綱で結び、それを二階の露台へ立てかけた。
外から眺めている豆菊の眼には怖くて見ていられないような、彼の敏活な行動が始まった。苦もなく二階の露台へ上ったトムは、そこの扉を押してみたが開かないので、やがて今度は物干綱の先に何やら結びつけて、何度も何度も三階の手欄へそれを抛っていた。そして目的を達すると、ぐんと引いてみて綱へ体をまかせた。
ぶら下がッたトム公の体は、時計の振子のように二階と三階の間に大きく揺れていた。彼の両足は高い壁上を逆さになって歩き出した。
仙さんが教えてくれた通り、彼の見ておいた三階の五ツめの窓が、たしかに十九号室であった。
「おっ母あ!」
その手欄に掴まりながら、彼は、首をのばして、硝子窓のうす暗い明りへ呼びかけた。白い寝床がトムの眼に映った。
「おっ母あ!」
トムは遂に、手欄を跨いで、ぴったりと、硝子へ身を寄せた。懸命に、必死に、そして注意ぶかい低い声で、なんども呼び声をくり返した。ガラッと窓が上へ開いた。そして、
「こっちへおはいり」
と、彼は手を取って中へ引き込まれた。
しかしそれは、母ではなかった。黒い背広の上へ雪白の臨床服をまとった医員であった。トム公は吃驚して跳ね返ろうとすると、医員は臨床服のポケットから聴診器にあらぬ捕縄を出してトム公の目の前へぶら下げた。
「こらっ、静かにしちょらんと、縛るぞ、縛るぞ。──おまえわしの顔を忘れとるな」
彼は白い上衣を脱ぎすてて、ばたばたと暴れ廻るトム公を、易々として廊下の外へ抱え出した。それは船渠会社の事務室で見たことのある伊勢佐木警察署の刑事である。柔道何段かのあの刑事だったのである。
暗いからたちの外に、豆菊は、いつまでも正直に立っていた。わッと泣きたそうになるのを怺えて待っていた。
「おい、君あここで、何をしとるんだ」
刑事風の男がそばへ寄って来た。そして彼女の恟々した眼をじいっと見て、
「おまえは、かんかん虫のトム公の妹じゃないのか」
「え? ……」
「トム公は捕まった。もうここへ戻って来やせんぞ」
豆菊は吃驚して振向いた。うしろにも、もじりを着た気味の悪い男が立っていた。
「可愛い雛妓のくせに、ひとりで物騒じゃないか。抱え主の家まで送ってやろう。さ、帰れ、帰れ」
豆菊はその手を振り払って、桜並木の蔭を夢中で駈け出した。遊行坂をころぶように駈け降りた。そして、坂の下で待っていた人力車へ跳びつくと、うしろ向きに蹴込みへ乗って、わッと泣いてしまった。
「どうしたんだい豆菊さん」
俥夫は、茶屋からいいつけられたままで、深い理は知らないので、彼女に毛布をかけてやるとすぐに轅を上げて走り出した。彼女の泣けるだけを泣かせて夜露に濡れた俥の幌は、やがて関内の色街へ帰った。
巾着切の黒眼鏡の常は、前の日から馴じみの待合の奥にしけこんでいた。自分には此葉という好きな若い妓があったけれど、何となく、雛妓の豆菊もまた好きで、側においても邪魔にはならないので、いつも、来るたびに呼んでいた。
けれども豆菊が、あの愚連隊の仲間にいたトムの妹だということは、その晩、彼女が帰って来てからの話で初めて知ったのであった。常はトム公が捕まったと聞くと、何時ぞやのナンキン墓での約束があるので、自分が捕縛られた以上に、しまった! と思った。
広東服のお光さんに話せば、何とか、応急の策があるにちがいないが、そのお光さんの一定の住所というのを知らない。また、愚連隊の樫井や今村や三浦などの連中の巣もどこだか分らない。──ただ時計屋の柳田商会へ行けば、或いはお光さんとの連絡がとれるかとも考えたけれど、自分が掏摸だとわかっているのに、図々しく訪ねることも間が悪く思われる。
で──翌日、その柳田商会へ、電話でたずねてみることにした。電話口に出たところはたしかにあの狒々旦那であった。
「……はあ、はあ、お光ですか。お光ならば、こちらへ来るのをお待ちになるよりも、明日、根岸の方へ行ってお探しになる方が早うございますよ。根岸? ……え、あの、競馬場です。何でも、明日が初日だそうで、あいつめ、屹度そこへ参っているに違いございませんから。──しかし、貴方様は? え? え? どなた様で」
諄く訊くのを、おかしく思いながら、常は、中途で受話器を切った。
──その頃まだ横浜の子ども達は、親達の伝統的な異端視をうけて、聖書を手にしながら歩いてゆく牧師や、花屋の軒先に立っている黒いバテレン・マントを着た耶蘇の尼さんを見ると、こんな歌を唄って逃げた。
耶蘇!
ミソ!
てッか味噌ッ。
と。──だが異人さんはそんな時、人のいい笑い顔を何事かと振り向けているだけだった。かえって日本人である花屋の爺さんなどが、おとくいを怒らしてはという懸念から、
「こいつらッ、清正公様のお堂の蝋燭で洟でもかんで、ほッけのてえこでも叩いてけツかれ!」
と、花桶の水を往来へぶち撒いて叱った。
だからまだカトリックの宣教師たちがいくらクリスマスに贈り物をくれたり、日曜学校を建ててオルガンを奏でていても、なかなか親たちも近寄らないし、子供達も人みしりをして馴つかなかった。それが相沢のような貧民街ほどそうであった。
今朝も丘の日曜学校ではオルガンの音が洩れている。しかし日曜の祈祷ではなく、きょうは土曜日のはずである。人の来ない教会では、金を送って貰う本国のカトリック本部への言い訳みたいにオルガンばかり鳴らしているのだった。
──ところがその神聖な建物をかこむ根岸の松ばやしのある丘には競馬へ押し出す勢ぞろいをする約束だったので、約束の午前十時頃になると、広東服のお光さんだの、愚連隊の三浦だの、樫井、西村、今村だのという、みんなユダみたいな人間ばかりが集まって来て、早速、マッチの棒や、ナンキン豆の皮殻を散らかしはじめた。
しかしきょうの愚連隊たちは、みんな瀟洒な背広服を着こんで、また新しい鳥打帽とネクタイと鳴皮の靴まではきこんで、どこの若紳士のお揃いかと思われるような風采だった。──むろんそれはお光さんの手から分配された例の指環のお金のおかげで新調されたものには、違いない。そしてこれからまだ千円ほどある金を資本として、根岸の競馬場の一等観覧席を占めて、馬券のガラ買合資会社をやって一攫巨万の夢をみている彼等なのである。
「諸君、紳士になったら、南京豆だけはよしたらどう」
お光さんは、両手を腰につがえながら、服装と品行のつりあいがとれない彼等のグループを上から眺めて、
「それはそうと、トムはどうしたんだろうね」
と、気がかりらしく呟いた。
「そうだ、トム公だけが来ない」
と樫井は芝の上から立ち上がった。そして、丘の端へ歩いてゆくお光さんの後について、そこから目の下に眺められる広い坦道を、いっしょになって見下ろした。
相沢から根岸の競馬場へとつづいているその道筋には、ほとんど、蟻の行列のような夥しい人間の流れが動いてゆくのが見える。馬車、パラソル、二人曳きの腕車、その中に高く見える騎馬巡査の帽子、その路傍に押しつぶされかかっている風船売りの風船玉、すべての喧噪と色彩とが一つになって流れている。秋の空の碧々と澄んだ彼方の馬見所のグラウンドの上には、黄いろい埃の虹が幾すじも立っていた。
「どうしたんだろう?」
お光さんはもういちど呟いた。けれどあのチビなトム公であるから、数万の人間が潮流のように押してゆく所に発見されるわけもなかった。
「あいつだけ知らないのじゃないか、きょう競馬に行くことを」と、樫井は言った。
「そんなことはないわけよ。ナンキン墓の帰りにも相談を聞いていたし、あれから後、私の口からもよく話してあるんだから」
「妙だな、来ると言えばきッと来るトム公なのに」
「だから私も心配なの」
お光さんは、折角もくろんで来た馬券合資会社の出ばなを折られた気がして、こんな日に競馬場へ行っても勝てないに決まっていると思った。トムのいないグループなら彼女になんの魅力もない、用もない存在だった。
帰ろうかしら?
彼女はめずらしく女らしい憂鬱に曇った。しかしほかの連中は、競馬場の上の埃を見るだけでも気が逸って、トム公の見えないことは伴奏者の来ない寂寥にはちがいなかったが、きょうの希望に何らの支障とは思わないのである。
「もう十一時だ」
ひとりが、つまらなそうに言った。
「お光さん行こうぜ!」
花火が空に炸裂する、遠くの音楽隊の吹奏がながれてくる。観衆はグラウンドにつめ込んだ。──お光さんもまたきょうの合資会社の社長として否応なく連中に取りかこまれつつ競馬場の入口に立った。
「君、入場券をお買いよ。ええ、七枚」
今村に紙幣を渡している時である。さっきから人に押されながら立っていた巾着切の黒眼鏡が、すぐに彼女のすがたを見出して、
「あ。お光君じゃありませんか」
と寄って来た。
「オヤ、君はこの間の……」
「え、高橋八寿雄ですよ」
と、巾着切は中折帽をとって、左の手の甲で汗ばんだ額を抑えた。
「ずいぶん尋ねましたよ、一度場内へはいってみたのですが、来ていないので、切符をムダにしてまた外へ出て見張っていたんです」
「よく知っていましたね、私たちがここへ来るのを」
「柳田商会で訊いたら、多分、きょうから競馬の方だろうと言うので」
「お狒々さんも察しがいいわネ。しかし、君はどうしてここへ来たの? そしてそんなに私たちを探したの? 君も競馬が好きで私たちの合資会社へでも入れてくれと言うの?」
「いや、あっしゃあ、競馬なんざあ嫌えです。競馬へ来ることはあるけれど、馬を見たことはありません」
「なるほど、それよりは、むしろ馬に気をとられている人間のポケットの方に目をつけますか」
「もちろんです……」黒眼鏡は笑って、
「職業意識はどんな所へ行ったって働かずにゃいねえんで」
「私たちのだけは許して欲しいわネ」
「まさか。──あはははは大丈夫ですよ。あ、話が外れちまったが、おとといの晩トム公の体に異状があったのをごぞんじですかえ」
「異状って?」
「とうとう、食らいこんだんです」
「えっ、捕まったの」
「それを皆さんに報らせたいと思って、おとといの晩からずいぶん泡を食ッちまったってわけでさ」
と黒眼鏡は豆菊から聞いたとおりのことを、そこで早口に、雑沓の中で話し出した。──競馬場の中では初日ゲームの第一戦を報ずる爆音が揚がった。観覧席からは騎手の名をさけぶファンの絶叫が嵐のように起っている。それを、思いがけない蹉跌で聞きながしている愚連隊たちは、いかにも髀肉を嘆じるように振り顧って、
「なあに、トム公のことだもの、捕まったって、二十日鼠じゃないが、すぐに脱け出して来るさ」
と、なるべく簡単に、はやく、片づけたがった。
「でも、検事局へやられたら、もう手遅れですからな」
「未成年者だから、あそこまでへはやられまい。警察からすぐに少年審判所送りになって、八丈島の感化院へやられるのさ。──鳥も通わぬ八丈島のね」
とお光さんが言った。お光さんはいつもに似あわない憂鬱で、言うことまでが感傷的であった。
それを打消すように、今村や樫井たちは、
「大丈夫、大丈夫、トム公はきっと独りで逃げて来るよ」と、言った。
「いいえ」
お光さんは争った。
「こんどはそうは行くまいよ、警察でも要心をしているからね。それに、私たちが義憤して起ったのも、いわばトム公が中心じゃないか。そのトムが捕まってどうなるかわからないというのに競馬場へ来ていちゃ私は気がすまない。諸君はどう思うこと?」
「どうって?」
「この競馬場へはいるつもり? それとも、これから引っ返してトムを奪取するつもりなの?」
「だからその点ならば、彼奴が自発的に逃げ出して来ると思うんです」
「だって、もし逃げられなかったら?」
「それや、やむを得ないことになる」
「とすれば、プリンスを見殺しにするッてもんじゃないこと。私は行くわよ、諸君──」
お光さんとしては稀に見るヒステリカルな投げ言葉である。みんなへ、そう言って、くるりっと、南京靴の踵を廻して二、三歩弾みかけると、そこへ、時間に遅れたので急いで来たのであろう、轍を躍らして切符売場の前へ駈けつけて来た二頭立ての馬車があった。
「あぶない」
と馭者は、馭者台の上から、お光さんへ呶鳴った。
その叱り飛ばしかたが、刑吏の罪人へのぞむような声だったので、愚連隊の連中は、きっとお光さんがまた例の手をやると思っていると、案の如く、お光さんは、きらりっと馭者の顔を見上げて、奔馬のまえに屈みこんでしまった。──そして轢かれもしないのに片足を抑えて、
「痛い、痛い……」
と顔をしかめた。馬は止まった。奔馬のまえに屈みこむ美人を轢き殺してゆくほど勇気のある馭者はかつてなかった。術もなく、お光さんの甘い策にかかるのだった。
お光さんにはこういう叛逆的な性格が多分にあって、ことにそれが、二頭立ての馬車や一等列車に納まり返っている上流の人間に向って強いのである。貴顕豪商というと彼女は生れぬまえからの仇敵のように反抗したくなるのである。──奔馬の前の危険な強請も、稀〻興味的にやりたくなる衝動の発作なのであった。
けれど、馭者は驚いた、悪戯とは思わない。
「だ、だから、言わないこッちゃない!」
と蒼くなって馭者台から飛び降りると、屈みこんでいる彼女のそばへ寄って、
「どこです? 怪我は、怪我は」
と、あわて声でたずねた。
「足を折ったのよ」
彼女は言った。
「折った?」
「え、右の脚を折ったから起てないわ、どうしてくださるの」
「大げさなことを言うな、脚を折ったものがそんな真似をしていられるか。ふてえ女だ、強請だな、てめえは」
「君! わたしをゆすりだと言ったわネ」
この、君! にたいがいな馭者は毒ッ気を抜かれるし、またそのうちには人だかりがするので、車上の者が紳商貴顕のたぐいである場合には、必ず馭者を呼んで、金貨か紙幣をそっと握らせて囁くに決まっている。
いつもの例である──とお光さんの折れもしない脚に、相手が薬でもない金貨をそッと塗りつけようとすると、俄然と起って、その金貨か紙幣かを投げ返して、車上の貴紳を罵倒して去るのを遊びとするのであったが、きょうの馬車からはいつまでも反応がなかった。
馭者は、彼女の悪戯と知って、かんかんに怒る。
彼女は応酬する。
愚連隊たちは面白がって成行きを見ていた。
そのうちに、後から後から競馬場へ来る二人曳きの腕車や馬車がれきろくとしてつづき、そしてたちまち、停滞車に道を塞がれて百足虫のように止まった。──お光さんは平然としてうごかない。折れたと称する脚をかかえて、屈みこんだまま地上を離れない。
「おい、どうしたんだッ、前の馬車は」
競馬の日は、人々の気が立っていた。
「やい、わきへ寄せろ」
「ぼろ馬車」
「轢き殺すぞ」と、後ろの方でごうごうと喧しい。
かかりあいになった馭者は、甚だしく狼狽していたが、お光さんはあたりが殺気立つほど冷然として、
「君はわたしを強請だと言ったわネ、強請であるかないか、また、わたしのからだに怪我があったかないか、念のために、裸にして調べてくださいよ! え! 調べてもらいたいわ。──君、わたしを裸にして公衆の立会をうけて調べて頂戴、そのかわりに……」
翡翠の雫の滴っている耳朶を桃いろにして、睨めつけるのだった。
「もし、わたしの玉のような体に、少しでも怪我があったらきかないよ。わたしもハンケチ女の紫組のお光さんだからね」
こう言われて尻尾を巻かない馭者があればもぐりである。果たして、彼女をさんざ罵倒した馭者は蒼くなって謝罪した。けれどお光さんはきかなかった。
「いやよ! さ、裸にして調べて頂戴、君も男じゃないこと」
すると、群衆の中に交じって、それとなく弥次っていた愚連隊の中から、神学生の今村がつかつかとそこへ出て来て、鹿爪らしく仲裁した。彼女は今村と何か目交せをして、
「じゃ、君にまかせるわ。──そのかわり晩までにごあいさつがないと、わたし、どんなことをするか分らなくってよ」
と、幌の中へことばを投げて、お光さんは恥しげもなく、折れたはずの脚をもって軽快に歩き去った。
馬車は揺るぎ出した。それとほとんど一斉に切符売場は殺到する客で混乱しだした。──神学生の今村は、そのまま救ってやった馭車台に跳びついて、
「少しの間待っていたまえ──何、じきにすくよ、また今みたいな女愚連隊に引ッかかるとつまらんからね」
と、馭者に話しかけながら、眼は、幌の中へ媚びるように振りかえった。──その幌にくるまれた牡丹色のビロウドのクッションには盛装した石炭屋の夫人高瀬槙子と、姪の奈都子とが、ほッと、蒼白い顫きから救われた顔をしていたのである。そしてむろん、神学生の今村に対して、ふたりの眼は、感謝に盈ちあふれていた。
「……奥さん、何でしたら、僕が、切符を買ってさし上げましょうか。どうせ僕も買わなければならんのですから」
今村は言った。
槙子は、幌の奥から、
「ありがとうございます。切符は、私たち主人が馬を持っているのでレース倶楽部の会員券がありますから……」
「あ、馬をお持ちですか」
「はい、クンプウというサラブレッド種の黒鹿毛を」
「クンプウ? へえ、あれはおたくの持ち馬ですか、すばらしい人気馬ですな」
「さほどでもございませんけれど。……あの只今のお礼と言っては失礼ですが、今日は主人が参りませんから、まだ入場券をお買いにならないのならば私たちといっしょに、会員券でおはいりなさいましな」
「そりゃ大助かりです、どうぞ」
と、今村は馭者台の端から下りて、従者のように、彼女たちを馬車の扉から迎えた。
──遠い人混みの中で、結果をみていたお光さんや黒眼鏡や樫井たちは、くすりと、笑いをしのばせながら、
「今村のやつ、まるで、川上音二郎の下にいる桜井何とかいう壮俳にそっくりだなあ。……どうだい、あの臭いしぐさは」
と競馬場の中へ消えたうしろ姿まで見送っていた。
そしてお光さんは、何かささやくと、みんなと別れて、ひとり、二人曳きの帰り俥を飛ばして、どこかへ急いで行った。
「あ、ここよ。ここでいいのよ」
お光さんは俥の上で腰を浮かした。
競馬の前から乗ったお客様ではあり、スマートな広東服や腕環などから見ても、俥夫は、いずれこの俥は祝儀の出る門口へつくだろうと予測していたのに、羽衣町の裏通りのきたない縄のれんの軒先で止められたので梶棒を迷わせた。
「へ? こちらですか」
「そうよ」
膝の毛布をけこみへ捨てて、お光さんは軽く俥を捨てた。石田屋という差入れ弁当屋だった。暗い店の腰かけにも四、五人の男たちが、めしを食べていた。
「おばさん。──オヤ相かわらず働いているのね」
彼女は土間を通って、野菜屑ですべりそうな煮物場へはいった。便所、帳場、流し元、すべての機関部となっている畳四枚と二坪ほどの土間に、秋蠅が充満していた。
「なんだ、お光さんか」
いわゆる後家の気丈者らしいここの内儀さんは、かぞえかけていた一円紙幣の束をもういちど読み直して、
「おまえさんも相変らずよく遊んで歩いているね」と、言った。
「だっておばさん、何をするのも、若いうちだもの」
「そうかね」
「おばさんみたいに、お巡査さんや刑事さんの月給から小利息を絞ったり、輪切りにするお大根を三角に切って何厘ちがうか考えてみたり、そうして一円紙幣の裏打をしては、銀行へ運んでみたってつまらないじゃないの」
「そうかね……」と、処世の哲学をしっかり持ってしまって、なりにも振りにもかまわない内儀さんは、てんからお光さんのたわ言などは、うわの空で聞いているらしい。
「松どん、松どん」と帳場の下からコークスにかかっている鍋を気にして、
「焦げくさいよ。それから、庄吉は警察の後註文を持って行ったかい。七つだよ、ああ、留置場の方はみんな行ってるとさ」
「おばさん、その留置場へ、ゆうべ、かんかん虫のトムがはいって来ない?」
「トム? 知らないね。だれか知ってるかえ、伊勢佐木署へそんな男が抛りこまれていたかいないか」
「お光さん、トム公ってな、子供でしょう。まだこんな小ッこい」と煮方の松どんが、煮を待ちながら背丈の寸法を示して、
「そいつなら、ゆうべも今朝も、さんざん刑事部屋でなぐられていたッて、庄吉が話してましたぜ」
「じゃ、たしかに、捕まって来たのだね」
「なあに、今朝はもう、西戸部の少年懲治監の方へ廻されましたよ。子供は二晩以上は留置場に置かねえことになっていますから」
「おや旦那。……いらっしゃいまし」
ふいに、内儀さんが座蒲団を向けたので、お光さんはうしろを振り向いてみた。そしてすぐに、自分の肩に寄って、ぬうっと立っている男に刑事らしいにおいを感じた。刑事の眸は眼の皮の左の隅に寄って、見ぬふりをしながらお光さんの耳たぶをじっと見ていた。
こういう人たちにありがちな尊傲な、それも至って安っぽい官僚ぶりを鼻にかけながら、座蒲団の上に大きな臀部をぶえんりょに乗せて、
「おかみ、この別嬪は」
と鼻で、お光さんを指したものである。
「わたし?」と、お光さんは先に答えた。
「ゆうべ、おたくでごやっかいになった、トム公の同類のお光というもんですわ。──むらさき組のお光さん。え、わたしのこと。君! まだ新米らしいわね」
顔ばかり見つめてしまって、うもすも言うのを忘れている刑事をうしろに置いて、お光さんは、家の中を素通りすると、とんぼのように裏通りの秋晴れへ出て行った。
トム公は、ゆうべも今朝も、伊勢佐木警察署の刑事部屋で、刑事たちに、さんざん撲られたり蹴られたりした。けれどやがて九時ごろ、西戸部の少年懲治監へ廻されて来てから、急に、故郷へ帰って来たように、愉快になれた。
ここは監獄ではない。そうかといって、学校や家庭のようでもなかった。高い黒塀は一丈もあるし、陽当りのわるい部屋には一つ一つ錠がかかるようになっている。昔は──明治四、五年ごろには、戸部の西洋牢と言って、ふつうの罪人を収容した遺蹟だそうであるが、今では畳を敷いて、遊戯場には一個のピアノを置き、曲木細工の椅子が四つほどもあって、英国社会教育家のなにがしという老外人が、不良児の感化事業を試みている、いわゆる少年懲治監なのである。
不良児たちの間では、ここへ三度来ると、八丈島の感化院へ送られて一生涯帰れないということが信じられ、恐れられていた。──トム公はこんどで三度目だった。そして高い塀の下に咲いているコスモスまでが故郷の花のごとくなつかしい。
「トムが来た」
「プリンスが来た」
懲治監の不良児たちはおそろしく敏感でまた早耳だった。その無電的な囁きはたちまち伝わって一丈もある黒塀の囲いの中を明るくした。各個の監禁室にいる不良児たちは、バンザイのかわりに、指笛をふいて、監視に叱りつけられた。
「何を騒ぐ、おまえたちは」
監視人には、まさか入監者のトム公を歓迎するそれが彼等の礼式だったとは知らなかった。ただいつものように、
「また晩飯を減らされたいのか! 麻つなぎをやらせるぞ!」
と、ただ脅かすべく、各室を事務的に呶鳴りあるいた。
トムは、十四番の監室へはいった。ここには十三歳以上十六歳未満の少年漂泊者や小悪漢ばかりが六人いた。トムがはいって七人になった。ひとり一畳ずつにすると、ちょうど畳が二枚余る真四角な箱のごとき部屋だった。
「やあ、おめえたちは、まだいたのか」
トムの知っているのがその中に四人いた。一番のッぽの徴兵検査ぐらいに見える少年は洟をたらしていた。
「トム、また捕まったのか。こんどはおめえ八丈島へ行くんだぜ」
「アア行くよ、八丈島へ行ってみてえや」
「あそこへ行くと、一生帰れねえんだぜ」
「嘘だい」
トムは彼らよりは高い知識で、少年感化院の性質を説明しかけた。
「こらッ、しゃべっちゃいかん」
監視人のスリッパの音はたえず廊下を往復していた。彼らの心境とは最も遠い音であった。
「チイッ、くそ。……おびんずるめ」
と、七枚の赤い舌は、蛤のようにチュッと啼いて、感化事業家の跫音を軽蔑した。
薄暮になると戸部の西洋牢時代を偲ばせる遺物の鐘が、黒い塀の中で六時を鳴った。
「チャブだ! チャブだ!」
と、監内の不良児たちはざわめくのだった。
「食事」
と、冷たい声を投げながら、監視は、各室の錠をひらいて、五名、或いは七名、或いは十名ずつの食慾そのものに柔順な不良児たちを引率して、ひろい板場の食卓にあつまった。
薪の煤で真ッくろに燻っている天井から、笠の焦げているのや、ホヤに膏薬貼りのしてあるランプが、卓の上に添うて七、八個ほど吊りさげてある。真摯な感化事業家をもって生涯をゆだねているような老外人の夫妻は卓頭に立って黙祷をする。不良児たちもその間だけは、しおらしく口のうちで祈祷のことばを呟いている振りをするのだった。
老外人の夫妻は、彼らと同じように、割麦の大部分な日本米を食べ、鯨油をたらしたまずい野菜汁をすすり、沢庵漬をも噛んだ。しかし不良児たちは、監長のそういう行いに何らの感激をもうけた例しはない。
彼らはこの食事室の会合によって胃ぶくろを満たしながら、その箸の先と、眼と眼とのうごきかたで、意中にあるすべてのことを仲間の者と語りつくした。──たとえば、きょうは吾らのトム公が入監って来て大いに愉快だということも、また、こん夜、誰か夜半に事務室へしのびこんで巻煙草を各室へ一本ずつ配分する英雄はないかという信号も、また、K監視はすこしこのごろ生意気だから何かで失策らせてやろうじゃないかという計画も──敢えてことばを要せずに通じるのである。
トム公もその声なきことばで一同へ入監のあいさつをした。トムを知る者も知らないものも先輩の彼氏へ対して汁椀を上げて敬意を表した。それからぞろぞろと監房へ分れて帰ると、二時間の作業である。一時間の修身である。なんと胃ぶくろに反比例して詰めこませることか。
「消燈──」
監視のこの声こそは彼らの黎明だ。絶えず彼らの聴神経につながってる、いやな監視人のスリッパの音は朝まで遠く消え去る。そして彼らは自己になる、腕も、足も、眼も、ことばも、自己のものとして自由なる使用をゆるされる。長い一つの枕とうすべったい蒲団の中に、伸び伸びと寝ころがった彼らの枕元に、やがて天国が降りてくる。
突いたり、抓ったり、女のまねをして抱きついたり、さんざんふざけているうちに誰からともなく鼾をかいてぐっすりと寝こんでしまう。──ただトム公だけは、ほかの六人の寝息を羨ましい気もちで聞いていた。
彼はそっと起き出した。ゆうべから予定していた行動にかかるのであって、極めて落着いたものであった。どこへかくしていたのか、小さな捻釘廻しを硝子戸の鋲へあてた。くるくると廻すと鋲はすぐに足元へこぼれる。二本、三本……そうして一枚の硝子戸を外すことは三十秒の作業であった。
が、トムは六人の寝顔を見て考えた。自分が無断で逃げれば、共犯の疑いをかけられて、あしたから減飯の懲戒をくうことは勿論であるし、彼ら自身も、また、取り残された寂寥から自分をうらむに違いない。
彼は考え直した。──そしてみんなを揺り起した。
「火事かい?」
と、寝呆けているのがある。
「どうしたんだい、トム君」
と一同は眼をこすった。
「おれはね」──とトム公は言った。「ここに長くはいられねえのさ。だから逃げようと思ったけれど、みんなに黙って行ッちゃ悪いからお別れを告げて行くよ」
六人の不良児たちは困った顔をした。それは実に困り入ったような顔つきだった。
「だけれど、心配しないでくんな。おら、用がすめば帰ってくるよ。ここへ帰ってくるよ。みんなの好きな土産をうんと担いで──」
「何日?」
「二週間」
「二週間経ったら帰って来るのか」
「うん、きっと帰って来る」
彼らはトム公のことばに嘘のないことを信じた。硝子戸を外すことを手伝ったり、また時々、扉に耳をつけてみる注意を怠らなかった。
「じゃ、後はまた、これで鋲を締めておいてくんな」
と、トムは窓の外へ出て、捻釘廻しを彼らに預けた。
「あしたになったら、どこから逃げたんだろうと思って、驚くだろうな監視が」
「じゃ、あばよ」
「土産をたのむよ」
硝子を外した窓の一劃から、交りばんこに手をのばして握り合った。
トムは走って、闇の突き当りへ立った。しかし一丈あまりも高い塀だったので、足がかりがなければ越えられないのが分った。
彼の脱け出した穴から、六名の不良児たちはぽんぽんと外へ跳び降りた。そして塀の根にあつまると、一人が手をついて台になる、また一人がその上に重なる、また一人がその上に段をつくる、そして人間の梯子を作って、トムを塀のみねへ送り上げた。
「諸君、健康でいろよ」
「土産をたのむぜ」
「オーライ、何?」
「あんぱん」
「煙草」
「ナイフ」
「ピストル」
梯子の下から順々に註文した。
トムは外へぽんと降りた。かくべつ新しい世界でもなかった。ことに十二時近いので戸部の町は寝しずまっていた。彼は杉山神社のお堂へ行って寝ることにきめた。貧しい町にかこまれた松の丘には、貧弱なベンチとブランコがあった。
その晩、拝殿の裏に寝ころんでから間もなく、彼はすぐ下のベンチに不思議な動物を見てしまった。うとうととしかけると、どこから来たのか二個の動物が、夜更けのベンチに憩って、手も足も顔もどこにあるのか分らないようになって、いつまでも動かずにあるのだった。……トム公はこの時ほどふしぎな感に衝たれたことはない。彼はまじまじと闇を見つめて寝られなかった。
やがてそれが人間であること、男女のふたりであったことが分ってからよけいに胸がときめいた。二人はベンチを離れると、すぐに他人のようになってべつべつに別れて行った。
彼は、ぼんやりとお光さんの唇を思いうかべた。──そして朝、眼がさめてまでゆうべの悪夢が後頭部にこびりついて彼の軽快を削いだ。
陽がたかくなると、全市の空に、根岸競馬の花火が晴々しい爆音をひろげた。町の人々はすべて競馬場へ向っているようにトムには見えた。
ポケットの百円紙幣も海軍ナイフも、きのう伊勢佐木署から少年懲治監に送られるまえに刑事に取り上げを食っていたので、彼の淋しく探る指先には、何もふれるものがなかった。それでも競馬場にさえゆけば、お光さんか誰かが来ているにちがいないという希望が、わずかに彼の気もちを幾分か躍らせていた。
「トム、トム公じゃないか」
彼は刑事の声と聞きちがえた。ビクリとした眼は秋の空の下にはちきれそうな健康さをもって笑っている男の眼と出会った。彼は、数百円もしそうな漆黒のサラブレッド種の鞍にぎゅっと乗りこんでいた。その毛の艶、乗馬靴の艶、鞭の艶、トム公は惚れ惚れと見入ってしまった。──それは競馬界で島崎とよばれている売出しの騎手だった。
内外人の女たちにもてて、体がいくつあっても足りないほど騒がれているというこの根岸の花形騎手も、つい数年前まではメリケン波止場で砂糖馬車組合の幌荷馬車に鞭を打っていた労働者だったのである。──しかし島崎は自己の才分を生かしていつか悧巧に波止場ゴロなどとの縁を切って、今では山の手に庭園付きの宏壮な邸宅や厩舎をもって、取り澄ましている。しかし、なかなか昔のゴロ仲間の方からは縁を切らさないので、人気商売として、かなりその操縦には腐心が要った。また、トムは彼をそうまでよく知らなかったが、彼の方ではトムをよく知っている様子だった。
「トム、おまえ逃げて来たな」
トムは笑って答えなかった。
「探していたぞ、お光さんが」
「お光さんはどこにいるでしょうか」
「ゆうべ僕の厩舎へちょっと見えたが、さあ、きょうは競馬にいるかどうだか。何しろ、おまえのことで狂奔していたからな」
「何しに行ったんだろう? お宅へ」
「それは話せない」
と島崎は意味ありげに笑った。
「おまえもお光さんを探しているんだろう」
「お光さんに会わなければ、困ることがあるんだもの」
「競馬場へ行って見るさ」
「だけど、入場券がないもの」
「厩舎へ行って貰って来い。……あ、だが、おまえは未丁年者だからだめだ」
「馬券を買わなければいいでしょう」
「駄目駄目、観客としてもはいる資格がない。馬丁に連れて行ってもらえよ。厩舎の通用門からはいるんだ」
「名刺をください」
「辰公に言えばわかる」
トムは駈け出して島崎の家へ行った。馬丁の辰公と彼とはなお懇意だった。辰公の好意で彼はズボンと上衣と、そしてやや大きすぎるけれど赤革の編上靴まで借りることができた。
根岸の場内へ行ってみると、きょうの最興味である特別のハンデキャップ競走が内外人の人気を煽って、一等観覧席からひろい柵のまわりに至るまで人間をもって埋まっていた。午前に居留地のある外人の持ち馬であるアメリカン・トロッターが大穴を出したというので、ファンの眼は血走っていた。
ここの競馬場の歴史は古い。まだ大小の刀をさした丁髷日本人たちが、維新の革命に血みどろになって騒いでいた慶応年間に幕府から敷地を請求して、そのころからもうぼつぼつ外人間だけでやっていた最古の競馬場であるのだ。それだけに、ここの競馬倶楽部は国際的なスポーツ熱と上海式な賭博本能をあおる組織にできていた。いわゆる巨万の一攫を夢みることもできるし仲間買もやれるし合八もできるし、飽くまで自由なガラ式なのである。
人気馬には巨万の値がついた。種のいいサラブ、或いは英国ダービー馬の仔など、何万円というのが珍らしくなかった。二千三千の賞金などは垂涎にも価しなかった。騎手の生活は社会のどんな者より華やかで、また多すぎる艶福に神経衰弱になるほどだった。その中でも人気者の島崎にことばをかけられて、はいったトム公は、非常に肩身のひろい気がした。
視野のかぎり平面なきれいに刈りこんだ芝生を眸にするだけでも、トムはすばらしい爽快さにすぐ衝たれた。その芝生のいろの中に、男性的な駿馬と騎手とが個々に持つ、ユニホームの赤、紫、白、青などの洋画的な色彩がすぐ眼の中にとびこんで来る。
トムは、いつのまにか、貴族的な匂いと色との人中に埋っている、一等観覧席のあいだにもぐりこんでいたが、お光さんの姿を見つけるよりも、まずその方に気を奪られてしまった。無数の眼、金ぶちの眼鏡、望遠鏡、そして息づまりそうな沈黙をもった顔とが、すべて同じ角度に向いていた。
やがて、騎手たちはスタートを切った。弦を離れて行った七色の点が星のように馬場を駈け出した。──巨きな賭博の回転盤が旋り出したのだ。
観衆はみんな常に装うている第二自己を抛り出してしまって、まっ裸の自己になった。拳を振る。怒号する、飛び上がる。
そして口々に、自分の買馬を呼んだ。或いは惚れている騎手の名を金きり声でさけんだ。
「島崎! 島崎!」
そういう女の声がトムの耳をついた。トムはそれによって初めて今スタートを切ったハンデキャップ競走に島崎も交じっているのを発見した。島崎のユニホームは白地に紫の筋だった。
「紫! 紫!」
トムもつり込まれて叫び出した。
二周目の半ばごろで島崎の馬は危うかった。わずかな距離の差であるが、紅白それから紫が見えた。
「紫!」
「島崎ッ」と前の女も、見栄を忘れて叫んでいた。
「勝て」
「島崎」
「紫──ッ」
とたんに、トムは観覧席の段を踏み外して、前の人々の脚の林立へと転げこんで行った。しかし誰一人、それを顧みている者はなかった。
「いやよ、いやよ、この人は」
ただ彼と共に、島崎の名を叫んでいた女だけが絹靴下につつまれた細い脚をふりうごかして眉をひそめた。トムは気がついて、恥かしそうに、女の脚から手を離した。
そして彼が腰をさすって起き上がった時には、競馬場は発狂したような群衆の乱舞と絶叫とにくるまれて、濛々とほこりの煙幕がかかっていた。トムには、誰が勝ったかわからなかった。
「やっぱり、われらの島崎よ!」
「さ、あんた!」
「伯父さん」
と、あわただしく眼の前から駈け去ってゆく男女の横顔をながめて、
「あっ」
と、人蔭へからだを避けた。
それは石炭屋の高瀬理平と夫人のお槙だった。なおトムにとって、ふしぎでならないのは愚連隊の今村が高瀬の姪の奈都子と肩をならべて、やはり、あわただしく、高瀬夫妻の後について駈けて行ったことだった。
「おや?」
トム公は眼を皿にして、仲間の一人である今村の姿を見送った。
どうして、札つきの愚連隊の闘士が、あんな、けばけばしい、しかも俺たちの敵としている高瀬の家族なんかと、睦じげに肩をならべて競馬場を歩いているのだろうか。
その側に添ってゆく夫人のお槙は、今観覧席で足をつかまれた時に気づいたとみえて、時折トムの方をふり顧りながら、
「いやな奴! あの、いつかのチビが、後から尾いて来ることよ」
と、姪の奈都子にささやいているらしかった。
そして、既成品屋の店頭人形のように反っくり返って歩く良人の高瀬理平をせきたてて厩舎の方へいそいだ。
ちいッ、とトムは舌うちをして、彼等の後塵に尾いてゆくことをやめた。そして、彼もまた、その日は瀟洒であった赤革靴のきびすを回すと、やや低いスロープを作っている芝生の窪みに、お光さんがいた。さっきから探しあぐねていた彼女が、白い手をかざして、自分を呼んでいる!
そこに、お光さんと共にいた黒眼鏡も、樫井も西村も三浦も、みなトム公よりは早く高瀬の家族たちを見つけていたらしく、彼がそこへ駈け寄っても、多くのことばをかけなかった。そして厩舎の方へと、なだれ押しに集まってゆく紳士淑女群の中にある高瀬理平と、そして奈都子と今村と、夫人のお槙とに、等しく探奇的な注視をそこから送り合っていた。
で、トム公も、低い背丈をのばして、お光さんの側から彼方の埃っぽい中に騒然としている貴族色の集団を浅ましいもののように眺めることにした。
人々は、厩舎に曳きこまれた勝馬を宥りにゆくのでもなく、敗者の騎手を慰めに行くのでもなかった。競馬場は飽くまでも、勝者の独壇場であり燦く者のためにある広場だった。
最終のハンデキャップ競走が終ると共に、ファンたちは、いっせいに、人気騎手の島崎を取り巻いた。銀の優勝カップを取り落すまいとして、高く空に右手をあげている島崎を目がけて、女、男、白色、黄色、あらゆる人種と階級のファンたちが、彼の握手を争奪した。わけてもその中に、中年の婦人たちが甚だしく勇敢であった。
その中に、高瀬の家族たちも、押し揉まれていた。
島崎は、チラと、その人たちを群衆の中に見かけると、巧みに、ファンの群を逃げて、短い時間に、理平や奈都子たちとことばを交わした。神学生の今村は、夫人に紹介されて学生らしい初心さをつつみながら、島崎と握手を交わした。
「ね、いらっしゃいよ」
理平が知人に肩をたたかれて、後ろを向いている瞬間に、お槙は、ついと、島崎のそばへ寄ってささやいた。
「いらっしゃいな! ね!」
「どちらへですか」
「本牧へよ」
「どうも、今夜は」
「それや、ひく手は多いでしょうけれどさ、ひどいわ! 何日かの、あれッ限りでは!」
「おいおい」
理平は振り向いて言った。
「今な、そこで十番館のダグラスさんと会ったから、一緒に馬車へ乗って、先へ行くから」
「あなたは、どちらへですか」
「どちらへって、今夜は、本牧の方へ、船のお客を呼ぶ晩じゃないか」
「じゃ、そこへ、島崎さんをお連れして行ってもいいでしょうね」
「うん……。だが、来るかね」
「嫌だと言っても、連れてゆきますわ」
「よかろう」
夫人のお槙は、そういう間にも、ともすると見失いそうになる島崎の顔を、眼から離さないで、会話が終るとすぐに、彼のそばへ戻って来た。
そして、彼の耳へ背のびをして、
「いいこと。事務所の門の方へ、馬車を廻して置いてよ」
と、言いながら、手袋をぬいで、島崎の指先をつよく握りしめた。そして、もういちど、
「いいこと。分って、──薔薇色の馬車よ、薔薇色の」
と、念を押した。黄金色の埃の虹を立たして、根岸の競馬場に陽が沈みかけた。はるばると、東京から来て東京へ帰る俳優の羽左衛門だの、洗い髪のなにがしだの、仇っぽい名や、いかめしい著名の名士たちが、つかれて帰る群衆の眼に拾われながら、そこが暗くなるまで、人の崩れがやまないのである。
ひとりの従者を連れて、島崎は、合着のオーヴァの襟を立てて、事務所の門からこっそりと外へ出て来た。
贔屓の騎手を攫ってゆこうとする貴婦人たちの旨をうけた俥や、幾台もの馬車が、まだ根気よくそこに網を張っていた。島崎は、それらの蜘蛛の眼みたいな誘惑線を巧みに避けて、柵のそばにぴったりと箱を寄せている小型な薔薇色の馬車を見かけて、
「お、これだね」
「はい」
と、馭者は心得ていた。
「はやくやってくれ」
島崎は、従者と一緒に、逃げこむように、扉をあけて中に飛びこんだ。──と中のクッションにからだを埋めていた女が、
「ま。遅いのね」
と、手を取って引き入れた。
それは千歳の女将だった。
「あ。違った」
と、島崎は狼狽して出ようとした。しかし、馬車はもう勢いよく走り出しているのみならず、女将は、調子のたかい笑い声を疾走する窓から撒きながら、こう言うのだった。
「人違い? ほほほほ。島崎さん、いつかの機会には、私を、月下氷人だと言ったくせに、今夜は、人違いなの。──だけど、ご心配はいらないことよ、お約束の人は、今横から出て来ますから。あれ、もう後から尾いて来る! 同じ薔薇色の馬車ですの。あれには、皆さんが乗っていらっしゃいます。──え、私? 私はお料理屋の女将ですもの、あなたを横奪りなんてとんでもない。ただ、本牧のお別荘に着くまでの途中、人目につくといけないというんで、こうして、飾り物になって、おつきあいしているに過ぎませんのさ」
「なるほど!」
島崎はすぐ落着いた。
馬車の中からうしろを覗くと、色グラスのライトを点けた同じ型の馬車が、楽しい夕べをれきろくと奏でるように、すぐ後からつづいて来る。
その中には、夫人の姿も見え、奈都子と今村の顔も見えた。──そして前にゆく島崎を祝福しているかにみんな明るい。
だが、それよりも後に、また一台、幌のやぶれた辻馬車が、荷物のように黒い人影を積んで、ぐわらぐわらと、華やかな二つの薔薇色の疾走に尾いて来つつあることを、恐らくは、誰も知らないらしいのである。
幾つもの窓の灯は映えて、青い夜の空に、魔の翼のように風車はくるくると廻っていた。本牧の──石炭屋高瀬の別荘である。
横浜の桟橋に、巨大なジャマンの商船や蘭領インドあたりの無数の外船が新しくはいりこんでいるような時は必ず、この風車の家の下には、桃われや、つぶしや、銀杏がえしの、数多のニホン娘が、関内の花街から送りこまれて、夜をくだつ器楽や強烈な酒精の騒音と共に、毎夜毎夜、更けるのを知らない。
高瀬理平はその間に、石炭といわず、雑貨といわず、そのころ夥しく輸出される絹ハンケチといわず、何でも、利のあるものを売りこんで、巨額な儲け仕事をするのだと言われていた。つまりこの風車の別荘は、そういう商取引において、よい都合を与える上級船員たちを擒人にしておく、商法の捕虜収容所だった。
千歳の女将も、そのたびごとには、すくなからぬおこぼれを頂戴した。つまり商戦の捕虜たちに饗応する白粉の女を、彼女は彼女の商法としてここへ提供する。そして、二日でも三日でも、捕虜たちの解放されるまで、彼女もまた娘子軍の幾十人かと共に、関内の店とかけもちに、ここで眼を紅くしておとりまきをしているのだった。
で──その晩もである。
しかし競馬場からそこへ薔薇色の馬車がはいった時には、もう、狂躁な饗宴の熾んさが、玄関にまであふれ、ホールには、その前から運ばれている関内の芸妓、雛妓たちにとりまかれて、多くの、外人賓客たちが、酔態をきわめていた。その中に交じって、先へ帰った主人公の理平も、乱酔といっていいほどに、浮かれていた。──いつか大隈伯をここへ招待したあの晩の理平とは、だいぶ調子がちがう酔い方なのである。
下品な海員ごのみの音楽にホールを鳴らして、彼もまた、特殊な寵愛をかけている何とかいう若い妓を擁して客と共に踊っていた。背のたかい異人たちの間にあって、彼はフロックを着けたゴリラのごとく背が低い。
扉が開いた。
シャンデリアに曇っていたいっぱいな煙草の煙が、そこからはいる夜の風に、美しくかき乱れた。理平は、扉口に立った騎手の島崎と、夫人と姪とに気がついて、
「──遅かったじゃないか」
と、踊りをやめた。
「だって、島崎さんをこっちへ奪って来るにはたいへんな努力ですわ。ねえ、女将」
「そうですとも」
千歳の女将は、調子をあわせて、
「ひとつ、お客様たちへ、ご紹介してあげてくださいな、島崎さんを」
だが、その労をまたずに、島崎のすがたを見出すと、幾組かの踊りは、みんなステップをしずめて、島崎のまわりになだれて来た。そしてきょうの見事な騎手ぶりを外人特有な誇張さをもって賞めたたえた。芸妓たちも、客たちへの遠慮を忘れて、みんな、島崎の注意を欲するように、そばへ寄りたがった。
「島崎君。この次の機会には、ぜひ、わしの持ち馬に乗ってくれんかな」
「あのサラのクンプウですか」
「そうじゃ、君が一鞭いいところを乗って優勝してくれたら、うんと呼び値があがるな」
「機会があったら、ぜひ、試みましょう」
「こんどのには、だめかの」
「一、二年は、私の手もとに、お預かりしてみなければ」
「はははは。気のながい商法じゃな。それじゃ、やっと、利廻りにしかつかんぞ」
「やはり、ご商売にするなら、こっちにも、相当に玄人すじがおりますから、石炭の方が、まちがいないでしょう」
「ふム、そういうものかな。とにかく、ご来客を煩わしてすまんが、わが島崎君のために、ひとつ、ご乾杯を願おう」
と、理平はグラスをあげて、乱酔している賓客たちを煙に巻いた。芸妓たちは、それこそは本気になって、島崎を祝福するのだった。
その騒々しい客間をのがれて、奈都子は庭へ下りていた。例の神学生の今村といっしょに。
「──まったく、僕も、こういう場合には実に困ることがありますよ」
今村はセンチメントに彼女の会話を誘い出しながら──
「何しろ僕も、酒ときたひにはちっとも飲けない性ですからね」
「私も……」
と、奈都子は言った。
「ああいう部屋の扉を開けただけでも、むうっと、しますのよ。それがもう、年中なんですからたまりませんわ」
「こういう生活というものも、そう申しては何ですが、実に、お察しできますね」
「わたし、何でもいいから、はやくこんな混濁した、心にもない、生活を抜け出して、ほんとに、力のある個性のもてる、家庭に生きたいと思いますわ」
「そうでしょう、そうでしょうとも。……誰だって」
と、今村はちょっと暗い庭の前後を見廻して、
「あたまがお痛いんじゃないんですか……」
「ええ……すこし」
「あれへ休みましょうか」
ベンチがあった。
ちょうどそこは温室の蔭で、人目を避けて星を見るにはいい。高い南洋植物があたりをつつみ、温室の花の香が、そこはかとなく、闇にただよってもいるし……。今村は、奈都子の手をつよく握った。
奈都子は拒まなかった。
「ほんとに、ご同情ができます」
「今村さん」
彼女の眸は、何か、夢をみている。
「伯父はあんなお金だけに生きているんですしね。それに伯母といったって、親身じゃありませんし、それに……私の口からは言えないような行いをしているんですし。そんな家庭へ、お人形のように貰われて、そして、伯父の傀儡になって、何の生き甲斐があるでしょう」
「あなたの性格は、ああいう、濁った中に、物質的にだけ生きるには、あまりに清純なんですよ」
「清純? ……そんなことばを聞くと、私、怖ろしくなりますわ、いつ、今に、あの伯父が私を黄金の犠牲にするか……」
「奈都子さん」
彼女のうつつな感傷は、いつのまにか、今村の両手の中に、つよくゆすぶられていた。
「逃げませんか」
「え」
「ほんとの道へ」
「ほんとの道って」
「僕が手をひいてあげます」
「でも……」
と、彼女は、両手で顔を掩った。
「だって……わたし」
「つよくなければだめですよ、つよく」
今村は、ささやいた。彼女の顔を掩っている指を、捥ぐように剥り離して、そして唇をそっと寄せた。
「あッ」
奈都子は彼を突き放した。彼のくちびるを恐怖したのではない──すぐうしろの棕梠の葉がガサッと妙な音を立てたので、ひょいと振り向いた途端に、わっと、泣くように驚きながら、羞恥に眼が眩みそうになったのだった。
「奈都子さん」
「ひどい人!」
奈都子は、袂を上げて、今村を打った。
棕梠の葉のかげや、温室のうしろに、鳴りをひそめていた妙な人影の気配は、たえきれなくなったように、どっと笑った。そして、そこらの南洋植物の暗い蔭の中から、お光さんの顔が咲いた。黒眼鏡がのぞいた。樫井や、トム公や、愚連隊たちの顔が、いちどに伸び上がった。
「──誰だい、かんじんな所で、吹き出したやつは」
奈都子を取り逃がして、引っ返して来た神学生の今村は、腹立たしそうに、仲間のものに当りちらした。
「蔭でクスクス笑い出しちゃ、こっちで真面目になれやしねえじゃねえか」
「いよう、いろ男さん」
「なに言ってやがんでい」
と、今村はでんぽうに言い返して、
「人にここまで踏みこませて、慰みものにしちゃひでえや。そんな約束じゃねえはずだろう。もっと辛辣によ、あの娘を、堕落するところまで引っぱり堕して、それから、高瀬のやつに吠え面をかかせてやるという話なんじゃねえか、それを……」
「まあ、いいわよ、あれくらいで」と、お光さんが、彼の諄い泣き言を打ち切った。
「可哀そうじゃないか、あの娘に、罪はないんだもの」
「なあにネ」と、樫井が横から、口を出してからかった。「今村のやつは、実は、自分からあの娘に、興味をもってしまったんですよ。それを、浅いところで済まされたものだから、むやみに、腹が立つわけさ。君の口吻をまねして、ほんとに、僕、同情いたしますよ」
「畜生ッ」
「あはははは」
「おい、高すぎるぞ、声が」
「そうそう、まだ島崎が、来るはずだ」
「今のは、罪ッぽいけれど、あの方の口ならば、どんな辛辣にやってもかまわない」
「来る時分だぜ、やがて」
「ひっこめ、ひっこめ」
いたずらな魔もの達は、さんざん言いたいことを言い囃して、それぞれ皆、温室の蔭と植物の葉の中に、その首を沈めこんだ。
誰やらそッと、燐寸を摺って、煙草をのみかけたけれど、仲間の者に低声で叱られて、あわてて揉み消してしまった。
棕梠の葉の闇は二十分間ほど沈黙をつづけていた。誰か、欠伸をするような声を立ててからまた五分間ほど戦ぎもしなかった。
そうしている間は、別荘の裏にあたる海の音が眠気を誘うような諧調をもって聞えてくる。小蒸気のエンジンの音が、その暗い海の連想をよぶ。
「来ないわね、なかなか」
お光さんはとうとうしびれを切らして、第一に温室の蔭から腰をのばしてしまった。冷たい玻璃板へ息が曇っているように秋の特有な星雲が空に夜更けていた。
「ねえ諸君、まさか、木乃伊取りが木乃伊になっているのじゃないだろうね」
「何とも知れねえぜ、こう遅いところを見ると」
彼女が、立つと、みんな、待っていたように、一斉に首を伸ばした。棕梠の葉の中から、南洋鬼蔦の中から、シャボテンの中から、蘇鉄の中から。
「トム。見ておいでよ」
「斥候?」
「あ。そしてね、もし島崎がいい気もちになって、こっちの約束を忘れているようだったら、人のいない所で、お尻を抓っておやりよ」
「そりゃ可哀そうだ」と、誰か笑った──
「そんな事をしなくっても、チラと、おめえの姿を見せてやれば気がつくだろうぜ。プリンス、頼まあ」
「それだけか」と、トム公の影は海藻の中を泳ぐ縞鯛のように、ぴちぴちと、正確な針路を探って、青い庭園の闇をわけて行った。
別荘の日本間には、どこの座敷にも灯明がはいっていた。が、そこには客のすがたはなかった。噪音を辿って、トム公は洋館の窓から客間をのぞいてみた。
そこは、濁りきった空気と噪音を入れたガラス箱みたいに不透明である。泥酔した外人、すれッからしな通弁、芸者ガール、賓客も主人公側のものも、けじめなく踊り疲れ、飲み疲れて、長椅子の隅やあっちこっちに、とぐろを巻いているのだけがわかる。
日本人も幾人かいたが、騎手の島崎だけは見えなかった。帰ってしまったとすると、お光さんやみんなはずいぶん馬鹿な目を見るわけだ。
「どうしたんだろう?」
トムは窓を離れた。そこは、十歩を出ると本牧の海である。波打ぎわから咽せあがる汐の香が白く煙っている。洋館の屋根の風車は勢いよく旋っていた。
「日本間の方へ、茶を喫みに行ったのかも知らねえな。そうだ、きっと、そうだ」
裏庭の海べづたいに、彼は歩き出した。すると、その洋館と日本座敷とをつないでいる橋廊下の上にぼんやりと、海をながめている雛妓のすがたがあった。トム公の影はすぐに隠れていた。
雛妓の影もそこから消えた。
いつのまにか、二人の影はひとつになって、海の方へ斜めになっている芝生の蔭にかがみ込んでいた。それは豆菊だった。
「兄さん、おっ母さんは、どうしたでしょうね」
「あれっきりだよ。おら、ゆうべの晩、西戸部から逃げ出して来たばかりだから、まだ行って見る暇がねえのさ」
「もう行っちゃいやよ、兄さん……」
「どこへ」
「おっ母さんの病院へ」
「自分のおっ母あのところへ行くのに、どうして悪い?」
「あそこには刑事さんが来ていて、兄さんが行ったらすぐ捕まえられてよ。もしおっ母さんの耳にはいったら、その心配だけでも、きっとおっ母さんは……」
と、袂を顔に当てると、掴み細工の花櫛が、前髪からふるえて落ちた。
「冷たい手をしているなあ」
「行っちゃいやよ、兄さん」
「じゃ、止すよ。……冷たい手だなあ、菊ちゃん、おめえ子供のくせに、どうしてこんな冷やッこい手をしているんだい」
「どうしてだか、分らないわ」
「陽あたりへ出ると、消えちまいそうだな。おいらはこんなに丈夫なのに、どうして、おまえは弱いのだろう」
「女だからよ」
「女だって、そんなに細い女って、あるもんか。こんどおっ母あが病院を出たら訊いてみよう。菊ちゃんとおれとは、きっと父親がちがうのかも知れねえぜ」
「そんなことないわ、そんなことないわ」
賢い豆菊は、トム公よりは、そのほんとなることを知っていた。母がどんなにして自分たちを産んだか、また自分たちが、私生児という名であることも、また自分たちが生れるまえの、母が若さを濫費して来た行いなども、ちらちらと耳にはいる人の話が、いつか豆菊の澄んだ心のなかに纒って分っていた。その淋しいものが、豆菊の少女らしさをだんだん内気な聡明にして来た。
「菊ちゃんは、時々、この別荘へよばれて来るのかい」
「ええ時々、千歳の女将さんや、姐さん達といっしょに」
「もうじき帰るの?」
「まだでしょう、お客様たちが寝てしまわなければ」
「じゃ、後でまた、ここへ来ねえか。ふたりで唄おうよ」
「唄なんか唄いたくないわ。私、いろんな話がしたい」
「あ、話をしてもいいさ」
「兄さんは一体、大きくなってから何をするの? おっ母さんは、これから先、どうして暮すの? そして私は……。こんなことも、話したいわ」
「あ、島崎さんは、帰ったかい。──騎手の島崎さん」
「いたわ、今そこに」
トム公は、花櫛をひろって、妹に渡してやりながら立った。
「どこにいる」
「夫人といっしょに、客間から出て行ったわ。きっと庭の四阿亭の方へ行ったんでしょう」
「じゃ、後でネ」
豆菊の涙ッぽい眼をそこにおいて、トム公はあわてて前の温室の蔭へ帰って来た。
「じゃ来る! きっと来るんだ」
彼の報告に、そこらの闇はまた、人影をかくして、何げない夜の景色を森とととのえていた。
「真面目ね、真面目ね、いやよ、島崎さんは」
そういう夫人お槙は酔っていた。相手の酔いの程度が不足なほど酔っていた。庭へ出て、騎手の島崎と、腕を組んで、しどけなく夜露を漁って来るのだった。彼女と島崎との対照は、ちょうど脛の長いアフリカ種の馬のそばに驢馬が寄り添ったようであるけれど、彼女は、十分な満足を感じ得ている。
「あんた狡いわ、今夜は酔うと言っておいて、私にばかり飲ませて、そのくせ、酔ってないんだもの」
「それや無理ですよ、奥さん、騎手ってものは、朝から夜まで、派手なものにつつまれ通しでいながら、それで、夜更かしも酒も、食べるものすらも、始終神経質でいなければならんのです」
「分ってるわよ」と夫人は地を出して──「分っているけれど、こん夜はいいじゃないの」
「まだ、もう一競馬ありますからな」
「酒は飲めない、夜更かしはいけない、女も何もなんて、そんなにびくびくしていなければならないものなら、騎手なんてやめっちまえばいいのにさ。坊さんになっても同じことだわ」
「まったく、騎手生活なんて、はやくやめたいです。人気者になるほどいやなものはありますまい」
「だから、この次の競馬には、負けた方がいいじゃないの」
「そうも行きませんな。ははは」
「やっぱり、人気者でいたいんでしょう」
「だから苦しむのです。それがなければ何も」
「むじゅんしているわね、この人。──いいわよ、どっちにしても、こん夜ひとばんは、きっと私につきあってくれるのだから。ね、そういう約束だったわね」
「それやいいですとも」
「なんだかうわの空だわね、この人は。よその奥さんを騙すようには、私は、いかないことよ。ご承知でしょうが」
「ははは、騙せるあなたでもないでしょう。ま、そこのベンチへ腰掛けましょう、すこし草臥れました」
と、島崎はくすぐったい顔をしながら、ベンチのまわりを見廻した。お槙は男の腕に拱まれたまま、投げるようにからだを崩して、
「呆れたでしょう」と、仰向いて、ちょっと理性めいたことを言った。
「何がですか」
「だって、高瀬の夫人であるくせに、こんな強要をしてさ」
「今の上流の奥さんたちは、そんなことは、一つの娯楽ぐらいにしか考えていないでしょう」
「じゃ、私ばかりじゃないのね。──だけれど島崎さん、あんたいったい、幾人ぐらい女のパトロンがあるの」
「幾人? 冗談じゃありません。男のなら、ないこともないが」
「知っていますよ、私に、隠したって駄目駄目。だからね、そんな者はみんなやめてよ、私が、三人分でも、四人分でも、力になってあげるから」
女の執拗さがそろそろ島崎を疲らしてきた。島崎はかなりよいほどに生返事をしているのであったけれど、彼女には、それが人気者の偉さに見えた。そして今夜失望している幾人かの女性もあるだろうと思いながら、自分の幸福感を刺戟した。やがて男のからだを揺すぶってみた。島崎はまかせていた。家鴨の愉悦するような女の嬌態が、しきりとくすぐったく思えた。
「ね。ね」
お槙は、もう自分のものであるように、島崎に唇を命じた。眼をつむって待った。男の近づけて来る顔を心臓で想像した。
彼の口臭が温く頬にさわった。鼻骨が鼻骨にふれた。そして、全身の神経が麻酔しかけたところへ、ぱッと、マグネシュウムのつよい閃光と爆音が、彼女を撲りつけたように驚かした。
彼女は、弾かれたようにベンチから飛び上がった。とたんに、棕梠の葉が手をたたくように揺れて、あたりの闇が、笑い声に騒いだ。
「? ……」
夫人のお槙の顔へ、もういっぺんマグネを与えたら、どんな表情をしているだろうと思って、お光さんや愚連隊の男たちは、止めどなく笑いを交換した。
お槙は、ふるえていた。そこに硬直したまま、誰とはなく睨みつけているのだった。そのあたまのうえを、ふわっと、白くながれてゆくマグネの煙が、島崎の化身のように。そばにいた島崎はいつのまにかそこにいなかった。
「見ておいで!」
彼女は、こめかみをぴりぴりさせて、うしろを振り向くと、突然、ヒステリックな声で呶鳴った。
「どなたも! みんな来てください! 悪いやつが大勢、邸宅の庭にはいりこんでいますから。──爺やッ、三吉ッ、お客様たちも来て下さい」
そして、危険を避けるように、温室の周囲をバタバタと駈けめぐった。
「諸君、お芝居はハネましたよ」
お光さんは、夫人の狼狽を冷笑しながら、小型なカメラをかかえて、すばやく、庭園を横ぎった。誰の足もはやかった。──だがひとりトム公だけは、みんなが逃げる方角とは反対に、さっき豆菊と会った裏手の海岸の方へ駈けだした。
彼は、もういちどそこに待っていると言った妹との約束にひかれたのだった。しかし、彼はすくなからずそれを悔いた。座敷から、風呂場から客間から、いちどに、吐き出されて来た人間は、彼ひとりを見つけて、大げさに追い廻して来た。
一方が、海であるだけに、トム公は逃げ場を失ってしまった。風呂番の男のたくましい腕が、まず彼の襟がみをつかんで、外人だの、ガイドだの、召使だの、ほとんど彼のすがたをつつんでしまうほどの人群が、そこに度胸をすえて坐ってしまったトム公をかこんで、がやがやと騒いだ。
「この少年、ドロボウ?」
一外人の質問に、通弁は言った。
「いいえ、かんかん虫」
「かんかん虫? あ、かんかん虫? ……」
外人は、分ったような分らないような顔をして興がった。主人の理平も来た。千歳の女将も来た。芸妓たちものぞきに来た。
「電話をかけておいたろうな、警察の方へ」
「はい、すぐ知らせておきましたから、もう程なく来るでしょう」
「さ、お客様たちは、どうぞあちらへ。……いや何でもありません、コソ泥です。かんかん虫のトムという小僧で、まいど、強請をしたり何かして、よくないやつなんで。……こらっ、今夜こそ、警察へわたしてやるぞ」
トム公は、黙って理平の顔を睨んだ。その高瀬の肩に、甘えかかって、何か、恟々とささやいているお槙へ、何か言ってやろうかと思ったが、ここではやめた。
「警察のお方がお見えになりました。署長さんまで」
「署長も。──いやそれ程のことじゃないのに」
「電話をかけたものが、ひどく、あわてたものですから」
「まあよいよい。伊勢佐木署の保科さんならあとでお詫をすればいい。とにかく、こちらへ」
警官の提燈と、佩剣の音は、そう言ってるまに、人々のうしろへ来ていた。
「あははは、そうですか、何か非常なことらしい電話なので、自転車をとばしてお見舞に来たわけです。──がまあ、そんな小事件であっておめでたいわけでした」
署長の保科勝衛は、高瀬理平と肩をならべて、もうほかの雑談などをしているのだった。だが部下の巡査は、その小さな一事件にも、職務の忠実を示し得るように、おそろしく厳粛がって、鉛筆のシンを舐める。
「こらっ、貴様あ、かんかん虫のトム公だな」
「さきおととい、調べてもらったばかりだ」
「でも一応は、住所年齢を聞くんじゃ。年は」
「十四さ」
「住所は」
「忘れちまった」
「貴様、署では言ッたじゃないか。──相沢町字和蘭陀横丁、俗称イロハ長屋、千坂桐代長男──そうだな」
「おっ母あの名なんか、そんな、汚ねえ手帳に書いてくれんなよ。おっ母あは何も、警察の手帳に書かれるようなことをしたことはねえ」
「署長、こういう小僧です。実に手におえんです」
「こんなのが大きくなったら、さしずめ、吾々の飯の種じゃろう。あははは」
「しかし、法律というものも不便ですな」と、理平が、署長の吸いかけている巻煙草へ燐寸を摺ってやりながら横口を入れた──
「こんなチビでも、いっぱし、大人以上の悪事を働いて社会を害するのに、十四歳では、それを懲役にすることができないのですか」
「まあ、こんなひどい不良は、八丈島の感化院へやるわけですがな。その感化院へやっても、どうも大した効果はないようです」
「そうでしょう、こんなのは、つまりもう先天的に、血のなかに悪を持っているのでしょうからな」
「おい、連れてゆけ」と署長は無造作に顎をすくって、
「僕はまだちと用事が残っとるから、後から行く。何、トム公のことは武藤主任が何もかも知りぬいとるから、武藤君にやらすがよい」
「じゃ、署長、ご迷惑でしょうが」
と、理平が彼を客間へ迎えようとすると、さっきから、しげしげと、トム公のすがたを見入っていた千歳の女将が、そのトム公の腕をつかんで引きずり上げた巡査へ向って、ていねいに、腰をかがめた。
「あの、失礼でございますが、ちょっとお待ちくださいませんか」
署長と、高瀬とは、振り顧って、
「女将、なんじゃ?」
「はい、この子のことで、すこし……」
「おまえが、かんかん虫のトム公などに、何の用があるのか?」
「相沢町字和蘭陀横丁、千坂桐代、そう仰っしゃったように存じますが」
巡査も、妙な顔をしながら、
「はあ、それがトムの母親にあたる者で、今、どこかの施療病院にはいっとるということです」
「もういちどお確かめ下さいませんでしょうか。母親が千坂桐代──そしてトム公というその子は、本名を、富麿といいませんかしら」
「さ、それはどうですか。おい、トム。貴様の本名はトムではなくて、トミか、トミ麿か」
その巡査の顔を見ないで、トムはじっと千歳の女将のすがたをながめていた。女将も、彼の鼻すじのとおった顔だちに、自分の直覚をまちがいのないものと信じた。
「署長様。おそれいりますが、ちょっと、お顔を拝借させてくださいませんか」
千歳の女将と、署長の保科とは、そこを少し離れて、闇の中へ顔を突っこむように屈み合った。
トム公──千坂富麿が大隈伯のたずねている千坂男爵のむすめの子にちがいないと囁かれて、保科署長はびっくりしてしまった。
それを、背なかあわせに、耳をすまして聞いていた高瀬理平が、度を失うほど驚いたのは、なおのこと当然であった。
伝統の濃いこの国の女、彼らの故国の酒──
悪い雰囲気であるはずがない。
風車の別荘に罐詰とされた商策の捕虜たちは、理平のたくみな歓待に日を忘れて、出帆の朝の間際まで、完全に、二日二晩を、そこで沈酔していた。
その間に、桟橋にある彼等の本船は、すべての積荷を終ってしまう。一万トンもある船腹は、不良品に充満する。石炭は、看貫をごまかし放題ごまかして、どしどしと、その期間に積みこまれた。
貿易華やかなりしころ、巨富をつかんだ横浜成功者の多くは、そうした智謀に富んだ器であった。──いよいよ悪辣な輸出戦の火ぶたが切られる日の前に、やかましい本船の頭株の異人達は、遠くは箱根、大森のあけぼの、新橋の花月と拉して行かれる。まだまだ、本牧の風車の下で、関内の安ッぽいお吉や、似て非なる亀遊の髪あぶらの香を嗅いで、うつつを抜かしているてあいなどは、至って、馭しよい異人たちであるのだ。
だが、オキチでもブタでも、とにかく、彼等の満喫するに足る柔肌のかいなに抱かれて、彼らが姫氏の国の甘夢にうつつなき一夜こそ、港の埠頭は戦争だった。カンテラは桟橋を焦し、炭煙は桟橋に立ちこめている。ボーラ吠え、石炭かつぎ呶鳴り、波止場人足さけび、かんかん虫夜業にたたく。何もかも夜明けまでと、徹夜で、一万トンにあまる船腹を、手品のように、不良品とごまかしで、征服してしまうのだった。
ぼうっ! ぼうっ……
出帆の朝。──あの色けのない本船の咽ぶとい汽笛の声が、横浜の朝靄をゆるがすころになると、あっちこっちの遊仙窟から、それこそ、とるものもとりあえず、といったような、あわてふためいた異人たちが、上は船長から下は火夫やコックにいたるまで二人曳きで押ッとばして、出帆五分前──二分まえ、という際どいところを桟橋の本船へ駈けつけてくる。
その時こそ、船乗り異人の薄情さかげんがわかるし、開港町の女たちの、いと、あっさりしたものであることが歴然とする。
「この次は、サイベリア丸だとさ」
呉の客を送って、すぐに越の船の入港日を税関の前の掲示板で見ながら、よく戦った白粉の女たちは、裾寒げに、ぞろぞろと、自分の巣へかえってゆくのだった。
「や、ご苦労、ご苦労」
高瀬理平は、やっと一船かたづけて、ほっとしたように、腰をたたいた。──その朝は、千歳の女将が姿を見せなかったので、船の外人を送ってきた芸妓たちも、何となく、つぎ穂がなく、まじめに挨拶をして、それぞれの方角へ、俥の幌をかぶって、帰って行った。
「旦那さま、旦那さま」
桟橋を出ると、すぐに、迎えの馬車が理平の方へ寄って来た。
「お疲れでございましょう」
と、お槙は、一昨日の晩から、別人のように彼に親切だった。こんな朝はやくに、彼を迎えに来ることだって珍しいのであった。
「──朝は、だいぶ寒くなったな。もう季節だとみえて、鯊釣の竿が見えだした」
「夜ふかしがつづいたせいでございましょう」
「それもある。……あ。奈都子はどうしたね、医者に見せたかい」
「あれから、ずっと、寝ております。石川博士が毎日診察に来てくださいます」
「病名は」
「やはり神経性のものだろうと仰っしゃるんですが」
「分らんのか。……熱は」
「三十八度前後……。ゆうべは、九度ぢかくまでありましたが」
「ふーむ」
「やっぱり、年ごろですから」
「肺じゃあるまいの」
理平は、沈鬱になった。眼の下の皮が、疲労にたるんでいた。
北仲通りの本宅へ、馬車はやがて着いた。支配人はまだ事務所の電燈を鼻の先まで下げて執務していた。瀬戸の大火鉢にゆうべからの忙しさを語る吸殻がむせッぽい煙を漲らしていた。
「松下君、やすみたまえ」
「あ、お帰りで」
「だめ、だめ。此ッ方もヘトヘトに疲れとるから。話は、あとで聞こう」
あわてて、手を振って、理平は奥の洋室へ逃げこむようにはいった。どっかりと、椅子のなかに体を投げこんで、
「珈琲」
両手を、後頭部でむすびながら胸をそらして、
「熱く」
と言い足した。
それを待っている間に、彼は眉をしかめ出した。上の露台だろう、朝からハーモニカを持ち出して、幼稚な、騒々しい音を、吹きちらしている者があった。
おそろしく熱い珈琲へ、くちびるを近づけただけで、理平は、ふきげんに下へおいて、
「誰だ、あれは」
と、女中へ咎めた。
「ハーモニカですか。あれは、おとといの晩千歳の女将さんと警察署のお方が預けておいでになった、トムさんです」
「トム公か。困ったやつじゃの」
「ほんとに、とんでもない者を預かってしまいましたわね。警察へおいてくれればいいのに」
と、お槙もいっしょに、眉をひそめた。
「だが、女将の証言がほんとだとすると、あれが千坂男爵の身よりのものだというのだから、そう分ってみると、署長も処置に困っとるんだろう。……おいあの小僧に、トム公に、そう言え、病人があるんじゃから、そんなものは吹いては困るって」
女中は旨をうけて、さっそく露台へ上がって行ったらしいけれど、ハーモニカはやまなかった。
理平は一睡したいのであったが、それが気になって寝る気にもなれなかった。千歳へ電話をかけさせてみると、女将はきのう東京へ行ってまだ帰って来ないとのことで、結局、そこへも当りようがなく、隣室へ寝床を命じて、横になった。
読みかけていた新聞にも、すぐに眼がつかれて、二、三時間ほど彼はウトウトとしていた。──すると隣室で、聞き馴れない来訪者の声がひびいた。
「ごじょうだんでしょう、君! 嘘を言ッたって、だめよ」
それは、男とも聞えるし、女ともうけとれるアクセントだった。
「──居留守なんて、古手だわよ、第一、君、自身ですら、女中にいないと言わせておきながらここにいるじゃないの。しかし、君だけじゃ相手にならないですから、ご主人に会わせてください」
「だってほんとに今、主人は船のお客をつれて、箱根の方へ参って、不在なのです」
応接しているのは、明らかにお槙だった。けれど、来訪者の圧倒的な語調のまえに、何となくおろおろしている風がわかる。
「誰だろう?」
と、理平は寝床の上に起き上がって、耳を澄ましていた。
「ホホホ」と、落着きすました笑い声だ。笑い声はやはり女だった。「──今朝、桟橋からお帰りになってから、ここのご主人はまだ一歩も外へ出ていないはずよ。君! そんな嘘ッぱち、いくら並べても、認めなくってよ。はやく会わせたまえ」
「あなた。会わせる会わせないはともかく、いったい誰に断って、ここへ、はいって来たんですか」
「女中君が、嘘をつくから、家宅侵入を敢えてしたのよ、君、訴えますか」
「……呆れましたね、なんていう、あばずれでしょう」
「けれど、君ほどに、あばずれでないつもりよ、その証明は後に立てます。とにかく、ご主人を呼んでもらいましょう」
「いませんよ」
「います」
「いません」
ふたりがいい募っているところへ、扉を押して、ひらりッと、はいって来た者があった。ポケットの口にハーモニカを短銃のようにのぞかせているトム公だった。
「お光さん」
「あ、トム公、おまえここにいたの?」
「主人はすぐそこの奥に寝ているぞ、いないなんて、大嘘さ、おれが連れて来てやろう」
と、大股にあるいて、隣室の扉をぽんと足で開けた。すかさずに、広東服のお光さんは、彼につづいてその部屋の口から、
「ご主人、起きて頂戴な」
と、覗いた。
「誰だおまえは。やたらに人の居宅へはいって、寝室へまで無断で来るやつがあるか。警察へ言うぞ」
「結構ですわ」
と、お光さんは、椅子に倚って、ほそい脚線を組みあわせた。
「けれどご主人、君は、私の用向きを聞かなくってもいいんですか」
「おまえみたいな婦人に、わしは、何の用件も持っとらん。いずれおまえは、女愚連隊とか、ハンケチ女とかいう、そんな類の者じゃろう」
「そうよ、私は、ハンケチ女から成り上がった、女の愚連隊よ。しかしご主人、君もつい十何年かまえは、港橋で真っ黒なパイスケを担いでいた石炭担ぎじゃなかったの」
「失敬なことを言うな。つまみ出すぞ」
「おもしろい、私が、つまみ出されるかどうか、トム公、そこで見物しておいで」
「あ。見ていよう」
トム公は、二つの椅子を並べてその上に足を投げ出しながら、ハーモニカを弄んでいた。
「──が、ご主人、つまみ出されるといけないから、その前に、かんたんに私の訪問した好意だけを分ってください」
お光さんはポケットを探って、まだ感光液のねばりそうな生々しい一葉の写真を出して、理平のまえに突き出した。理平は、手もふれようとはしなかったが、ちらと見ると、顔いろをうごかして、思わず眼を奪られてしまった。
「どうですか、この写真は。……夫人、あなたもここへ来て見ないこと。大へんよく撮れましたよ」
お槙は青白い戦慄を奥歯にかんでいた。写真の画面には、大きな自分の顔と、騎手の島崎の顔が、唇を寄せ合って、見るからに淫らな陶酔を語っていた。彼女は、この間の晩、その秘密な場面を盗まれたせつなに浴びたマグネシュウムの閃光を、今また、驚愕の後頭部によみがえらせて、眼がぐらぐらとして来た。
「ご主人、君は、買いますか、買いませんか、この写真を」
お光さんの笑靨は、だんだん冷たく誇らしくなった。
まるで、滅心したかのように、どすぐろい憤怒と、苦悶に、ぶるぶるとそれを睨んでいた理平は、いきなり彼女の手の物を引ッ奪くッて、
「買おう! いくらだ」
と、言下にビリビリと引き裂いてしまった。
「お生憎さまです」
と、お光さんは皮肉な商人のように、わざと少し頭を下げて、
「それは、お売りいたしませんわ、なぜかと言えば、幾ら君の財力で買占めを試みても、原板でない以上は、何百枚でも複製がききますからね。無駄じゃないこと」
と、また隠しの中から、一葉の写真を出し示しながら、
「たとえば、こういう、トリック写真でも作ることができるんですから」
次のそれはまた、正視できないほど悪辣な猥画屋のトリックに依って画面の拡大されたものだった。夫人のお槙の首は、見も知らない売笑婦の裸体の胴にすげ代えられてあった。理平はもうそれを奪って、裂き捨てる勇気さえ失ってしまった。
その硬ばった理平の顔と、慚愧そのもののようなお槙の戦慄とは、トム公の眼に、頗る愉快な対照であった。トムは、椅子の上に軽く足を弾ませながら、その間に、ハーモニカの低吟を唇に弄しはじめた。
「もっと、ごらんにいれましょうか。まだ、奈都子さんのもありますが」
「ゆるしてくれ、もう、たくさんだ」
理平は、両手で、頭をかかえたまま、とうとう屈伏してしまった。
「金はいくらでもやるから、その原板を持って来てくれんか」
「売るならば、私は、輸出絵ハガキ屋のトリック師へ売りつけてやってよ。こういう絵は、外国船の下級船員たちが、非常によろこぶもんですって」
「だから、わしが買うよ」
「いいえ、売らないと言うんですよ。──ようござんすか君! 私は、これを売りつけに来たんではありません」
「じゃ、何だって」
「夫人も、一言あっていいでしょう、君はこれを認めますか。騎手の島崎との醜行を」
「え! 今言おうと思っていたんです」お槙は、乾いた唇をわなわなさせて──
「それはみんなトリックです、私の、何かの写真を盗んで、悪戯をしたんです、冤罪です」
と、終りの一句を、理平に向けて、訴えるように叫んだ。
「む、む、そうじゃろう。誰かの、悪戯にちがいない。おまえにとっては、まったくの冤罪だろう。もし、そんなものを、承知しながら流布するならば、警察の力を借りて」
「君たち!」お光さんは、平等に、ふたりを睨んで、その秩序のない泣き言に句点を打たした。
「そんな強がりや、見ッともない狎れ合いはおよしなさい。その代りに、夫人の冤罪という点だけは認めて上げましょう。場合によっては、この原板を無償で進呈してもいいことよ。──だが私の大事な用向きはここなのだから、ここをよく聞いて欲しいの」
と、お光さんは、平調に澄まし返って、「冤罪ということは、これほどに怖ろしいことでしょう。だのに、夫人は、君よりももっと正大な、一人の労働者を、冤罪に墜し放して、素知らぬ顔をしていましたね。──そのことは、私が連れて来た男の口から言わせましょう。──黒眼鏡君、来て頂戴」
彼女が、扉の外へちょっと顔を出すと、瀟洒な巾着ッ切の常は、おとなしい笑いをたたえながら、
「ごめん下さいまし」
と、羽織の裾をはねて、一つの椅子を占めた。
トム公は愉快でたまらなかった。ハーモニカを唾だらけにして、弄んでいた。その間に、彼の希望していたことは、はきはきと、片づいて行った。
船渠の構内で、お槙の指環を窃盗した真犯人が、亀田でなかったことは、黒眼鏡の口から立証された。
それを掏った当人──黒眼鏡の常が、自分の口から述べることばだった。お光さんはまた、その証拠として自分の手にある、ダイヤの指環を見せた。
理平もお槙も、その後、亀田がほんとの窃盗者でないことは、うすうす感じていたのであったが、そういう階級の人間に、何らの同情も介意もしない富豪通有の冷淡さが、彼らにもあって、いいかげんに放念していたのである。しかし、今はお光さんに、きびしい鞭をピシピシと打たれて、その真実のまえに、慚愧のあたまを下げずにはいられなかった。
「いや、相すまん。さっそく、亀田という人を、貰い下げよう。何とも、すまん事じゃった」
「当然その人には、賠償する義務がありますわね」
「あります。その人の身の立つように考慮しましょう」
「よろしい、誓ったことよ。──ではすぐ伊勢佐木署の保科署長を呼んで貰いましょうか。黒眼鏡は自首するそうです。つまり、冤罪をうけてはいっている亀田さんと入れ代りになるんですから」
「さっそく、電話をかけましょう」と、理平は唯々として、お光さんの命に伏した。
署長、刑事主任、ほか二、三人、すぐに自転車をとばしてきた。黒眼鏡はるるとして、船渠以外の犯罪の事実までを陳述した。それは、すこしも暗惨な気分のない、明るい話をするようだった。
「仕立屋の身内か。じゃいちど、手にかけたことがあるな」
「ごやっかいになったことがございます」
と、いう風に柔順であった。
「よろしい」
と、常の方を終ってから、
「検事局の方へ上申すれば、亀田は、即日放免されましょう。何、まだ未決監ですから、法曹界の人々に聞えても、問題化される心配はありません。こんな例はありがちなことです。──それからトム公の方ですが」
と、チラと、彼をしり目にかけて、
「県庁の警務部へ行って協議した結果ですが、たとえ本人が、大隈伯のおたずねになっている千坂家の身よりの者であるにせよ否にせよ、情実でこのまま、放免することはいかんという意見なんです、で、一応は、本署から彼の脱走した戸部の懲治監へ送り返してやることに決めました。どうぞ、それのご諒承を」
と、宣言的に、経過を告げて、すぐトム公の手くびをつかんだ。
「刑事主任、ついでに、連れ帰ってくれたまえ」
「ちょっとお待ちください」
「何をしているんだ君」
「彼はどこへ行きましたか」
「彼って」
「黒眼鏡です、今の、巾着ッ切です」
「? ……」
「……便所じゃありませんか。中折帽がおいてある」
と、理平がつぶやくのを、トム公は、横を向いて笑った。そして、お光さんに、眼くばせした。
「いるんでしょう、見て来ますわ」
と、お光さんも、部屋の外を覗き廻った。そして、ちらっと、広東服の裾の端を見せたまま、彼女もそれっきり帰らなかった。──もちろん金剛石の指環も、トリック写真も、その隠しにつッこんだまま。
*
大隈伯の代理という人と、千坂家の家令という老人とが、紋付袴で、千歳の女将に伴われて、横浜駅から大江橋のすぐまえにある千歳楼へはいったのは、同じ日だった。
女将は興奮していた。一昨日の晩から何か非常な奇蹟にぶつかったような驚きもあったし、最高な善事のために自分を疲らしているという満足もあった。
帰るとすぐに、しきりと、あっちこっちへ、電話をかけていた。高瀬家の番号も、警察署の番号もよび出された。──やがて程経て、金春の春太郎姐さんが、すこし、瞼に泣いた痕を見せながら、豆菊の手をひいて、連れて来た。
豆菊は、いつもの座敷着とは、すこし袂のみじかい銘仙の着物を着せられて、髪まで、お下げ髪に改められていた。賢い彼女の眼も、すこし、きょとんとしていた。
「このお方が、おきく様という、お末のお嬢様でござりますか」
と、両手をついて言う千坂家の老家令に、彼女はやはりきょとんとして、抱え主の春太郎のそばへばかり寄っていた。
やがて、しめやかに、襖を閉てきって、大隈伯の代理の人と、女将とが、何か細々と言いきかせるうちに、豆菊はしゅくしゅくと泣き出した。
その心もちが分ったので、女将はまたせかせかと警察へ電話をかけた。話がついたと言って、急に馬車をいいつけて、豆菊も加えて、四人づれで伊勢佐木署へ出頭した。
県庁との打合せに、さんざ手間がかかったらしいが、トム公はそこにいること二時間ばかりで、一同へ下げ渡された。馬車はまた一人の客を容れて、そこから山の手へ向って鞭を打った。
「分っている? 赤十字病院だよ」
「分っています」
「いそいでおくれネ」
女将は、こんなうれしい日はないと言って、涙をふいた。まったく、うれしそうだった。
豆菊が、お下げ髪に結って、きちんと、銘仙の袂を膝に重ねているので、トム公は、ぎごちなかった。髯の生えているそばの人、紋付袴で謹厳そのものといった態度でいるそばの老人、それも、鬱陶しいものだった。
ただし彼は、こうして公然と、母のいる病院へ訪れ得ることがとても愉快であった。一刻もはやく、冷たいだろうと思う母の手を、自分の頬ぺたに当ててやりたかった。
馬車はかなりの歩速で躍ッていたが、馭者の鞭の数がまだ少ない気がした。黙っているお菊ちゃんだってやっぱり同じだろうと思った。彼は、妹の眼にいっぱいうるんでいるものを見て、共に、目を熱くしている自分に気づいた。
馬車は、うねうねと、黄昏の坂路にかかった。坂のうえに、灯が見えた。あれもこれも母の枕べにともる灯かと思われた。──坂を登り切ると、軌は並木の下を縫っている。
やがて、からたちの垣根が見えた。──夕暮の空に白いペンキ塗りの赤十字病院が仰がれた。豆菊もトム公も、そこの窓の灯を見たとたんに、睫毛にぽうっとその灯が滲んでしまって、幾すじとなく熱いものが、むずがゆく頬を流れてくるのも知らなかった。
「はい、ご通知を拝見して、非常に驚いたわけです。で早速、病室も特別室の方へお移ししておきましたから」
通された病室は、雪の夜のように白々としていた。主治医は、寝台に椅子をよせきって、無言を守っていた。助手や看護婦たちの沈黙にも、あきらかに、病人の危篤を語るものがあった。
「実は……」と、主治医は三名だけを蔭へよんで「東京からの電報も拝見しておりましたので、極力、尽しましたが、遺憾ながらお待ちしきれなかったのです。で……只今注射をしましたから」
「どうも、万、やむを得んことでござります」と、老家令は沈痛な低声で言った。
そばに、俯向いていた女将が、しゅくッと嗚咽をして、突然、袖口をかみながら背を向けたので、二人もはっとして、寝床の方へ眼をふり向けた。
いたいたしい、厳粛な光景が、人々の眼を打った。注射によって、わずかな時間の生を意識した盲目の病人は、からだを蔽っている白いきものを、無性にうごかそうとしている。ベッドの両方からは、トム公と、豆菊とが、母の胸へ、頬へ、まるで泣いてもいないように顔をすりつけてふるえていた。
細い、蝋細工みたいな指が、何ものかを、宙に探った。トム公の髪の毛をつかんだのである。片方の手には、豆菊の背をつよく抱えよせて、異様な、泣くとも歓喜ともつかない声を、咽から発した。
「ゆ……ゆるして! わたしが作った罪を、おまえたちの一生にまで、こんなに負わせてしまうなんて。……でも、女の一生って」と、きれぎれだった。「初めの一歩ね、貞操って、自分のために大事なものよ……そ、それを、お母さんは」
すこし息をついた。しかし、あわただしい死の督促が彼女の心臓をたたいたらしい。
「ふたりとも、堪忍してね。……堪忍してね」
わッと、トム公があるッたけの声を出して泣いた。
「おっ母あ……」
「お母あさん」
「おっ母あ。……おっ母あ」
「おっ、おっ……おっ母さん……」
直立していた主治医と看護婦とは、眼を見あわせてその枕元へ、無言のまま冷たい歩みを運びかけた。
*
数日の後──
横浜駅のプラットホームは、今、新橋行の列車に駈けつける人々の騒音で慌だしかった。
一等車の窓の外には、千歳の女将と金春の春太郎とが、送りに来ていた。あとの処置はすべてよいようにしておくということ。大隈伯によろしくということ。──そして、くれぐれも、二人のことをなどということ。
「いや、お坊っちゃん、お嬢さまのことは、もう一切ご心配はございませぬ。何事も大隈の御前様が、よいようにして下さいましょうから」
と、家令、代理の者、ふたりが謹厳に帽子を脱いで労を謝した。
五分鈴が鳴ると、女将は、のび上がって、一等車のなかをのぞいた。華族のお孫になってこれから東京の邸へ迎えられようとする豆菊とトム公とは生れ代ったように、品よく見えた。
「……じゃ菊ちゃん、富麿さん、さようなら」
汽車はゆるぎ出した。送りに来た二人のすがたは、プラットホームといっしょに、うしろへ飛んで行った。
トム公はすぐに窓から首を出した。横浜の市街、横浜の港内が、彼のひとみに展開された。船渠の構内も瞬間、眼の下に見えた。
「──菊ちゃん、うれしいかい? 華族の家へ貰われてゆくんだとさ」
「わからないわ、私には」
「おっ母あ、何と言ったんだっけ。──死ぬ時に」
「あやまっていたわ」
「どうして謝るんだろう。自分の子供へ」
「よしてよ……」
「また泣くの。泣虫」
「自分だって、泣いたくせに」
汽車は、疾風を衝いていた。
トムは、ちらと窓外をのぞいた。
「あ、もう横浜は見えねえな」
「そんなことば、やめてよ」
「おまえ、もうお嬢様になッちまったのか。早えなあ」
と、少し浮かない顔で、
「菊ちゃんは、華族のお嬢様が似合うよ。だが、おいらは嫌いだ。金持もきらいだし、華族様もきらいだ。……ああ、おっ母アが生きていれやいいのになあ。おっ母アとなら、一生でも、かんかん虫をしていた方がいい」
「よしてよ、そんなことば。トムさんが、かんかん虫をしていたことなんか、これからは言わない方がいいのよ。千歳の女将さんも言っていたわ」
轟音が変った。汽車は、ひとつの川をうしろにしていた。
「おら、帰ろう!」
「どこへ、兄さん」
「菊ちゃん、あばよ」
トムはふいに、そばにあった帽子をつかんで扉の外へ駈けだした。あッと、豆菊と付添の二人が、窓を開けたとたんに、トム公の矮短なからだは、激流する空気の震音の中を、もんどり打って、線路堤から沼地らしい蘆のなかに振り飛ばされていた。
「帽子が見える! 帽子がッ」
豆菊のかなきり声が、疾風にちぎれて、列車の黒煙といっしょに、後方へ飛んで行った。
水族館の魚みたいに、懲治監の不良児たちは、監禁室の底にヘバリついて寝ていた。青いガラス窓の外にさっきから彷徨している人影にも、なかなか眼がさめなかった。
「オイ、鋲を抜けよ。鋲を抜けよ」
そういう外の幻に、やっと、一人が眼をこすり出した。そして、ほかの者の耳を順々に引っ張り合った。
「トム公だぞ。トム公だぞ」
「えっ、帰って来たのか」
「ほんとか」
「ほんとだとも」
彼らは、畳の下の捻廻しを持ち出して、たちまち一枚のガラス板を外した。トム公は、にこにこしながら飛び込んで来た。彼は、からだじゅうのポケットを探って、手あたり次第に持って来たものをそこへつかみ出した。アンパン、ハーモニカ、ピストル、煙草、洋刀、ドロップ。
「食え、食え、食え、みんな。まだあるぞ、いくらでもあるぞ」
「偉いなあ、プリンスはやっぱり偉い。おいらのプリンス」
「約束どおり帰って来たぜ」
「持って来たぜ」
「ばんざい!」
アンパンの饗宴が初まった。煙草の曲喫みが初まった。餓えた中に物のあること!
人生のなかで、およそこんな感激的なことがあろうか。トムは、それを眺めていると、からだじゅうを幸福でくすぐられるように欣しかった。果した約束に、爽快であった。
だが、その深夜の享楽は、大騒ぎは、当然監視人に発見されずにいない。トムはすぐに別室へ拉し去られた。東京の千坂家へ、大隈伯へ、また県庁の方へ、十幾日間の交渉がかわされた結果、トム公はやはり放縦だった母の血を多分にうけたトム公であって、ある年齢までは、それを厳格な監視の下におく必要があろうときまって、八丈島の最不良児感化院へ送ることになった。
月に二回、横浜を出帆する八丈丸に、トム公は監視付きで乗せられた。もう海の寒い冬だった。だがその朝は、港いッぱいに陽がさして、水蒸気が水面にあった。
「プリンス! プリンス!」
トムは左舷に立って、自分へさけぶたくさんなハンケチ女の群を見出して笑った。お光さんはその中に立って、白い手をさしあげていた。唇が届かない──トムはそう思った。──唇が届かない。
また、男たちは、男ばかりで一団になっていた。愚連隊の連中である。警官もちらほら辺りに見えるのに、二重廻しを着て、あの黒眼鏡がやはりトムを見送りに来ていた。──だが、彼の最も満足したのは、そこに、嬰児をおぶっている細君を連れた亀田が来ていてくれたことだった。
ふとい汽笛の呶号が、霧をふらした。船は桟橋を置いて徐々に水紋の間隔をひろげた。
見送りの人影は、てんでに、口へ手をかざして、彼に餞別の「ことば」を送った。トム公も、舷へのり出して、口へ手をかざした。
「──あばようッ」
港はいっぱいな陽あたりだった。方々の船で仕事をしているかんかん鎚の音がうららかだった。トム公のために唄うように、かんかん日和を唄が流れた──
だが、少年期から次の成長へ向って、彼に与えられたこの重大な航路が、いや岐路が、よい環境と未来とに恵まれればよいが。
──もしそうでなく、悪い潮から潮へ迎えられても、その結果には誰も責任は持ってくれないのだから。
底本:「かんかん虫は唄う」吉川英治歴史時代文庫、講談社
1990(平成2)年9月11日第1刷発行
2009(平成21)年3月2日第10刷発行
初出:「週刊朝日」
1930(昭和5)年10月号~1931(昭和6)年2月号
入力:門田裕志
校正:トレンドイースト
2017年5月9日作成
青空文庫作成ファイル:
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