新・水滸伝
吉川英治
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序曲、百八の星、人間界に宿命すること
頃は、今から九百年前。──中華の黄土大陸は大宋国といって、首都を河南省の開封東京にさだめ、宋朝歴代の王業は、四代の仁宗皇帝につがれていた。
その嘉祐三年の三月三日のことである。
天子は、紫宸殿に出御して、この日、公卿百官の朝賀を嘉せられた。そしてはや、楽府の仙楽と満庭の万歳のうちに式を終って、今しも袞龍錦衣のお人影が、侍座の玉簪や、侍従の花冠と共に珠の椅子をお立ちあらんと見えたときであった。
「あ、陛下。しばしのほど」
列を離れて出た宰相の趙哲、参議の文彦博のふたりが、帝座に伏して奏上した。
「お願いにござりまする。──いにしえから、今日の上巳ノ祝節(節句)には、桃花の流れにみそぎして、官民のわかちなく、和楽を共に、大いに愉しみ遊ぶ日とされております。ねがわくば、この佳き日にあたって、下々へも、ご仁政の実をおしめしたまわらば、宋朝の栄えは、万代だろうとおもわれますが」
仁宗皇帝は、ふと、ふしんなお顔をされた。
「なに。こんなよい日和なのに、人民は、何も愉しめずにいるというのか」
「さればで──」と、両名はさらに九拝して。「ここ数年、五穀のみのりも思わしくありません。加うるに、この春は、天下に悪疫が流行し、江南江北も、東西二京も、病臭に埋まっております。家々は飢えにみち、病屍は道に捨てられてかえりみられず、夜は群盗のおののきに明かすという有様でございますから」
「ふうん。そんなにひどいのか」
「そこで、検非違使の包待制のごときは、施薬院の医吏をはげまし、また、自分の俸給まで投げだして、必死な救済にあたっておりますが、いかんせん、疫痢の猖獗にはかてません。このぶんでは、地上の人間の半分は、死ぬだろうと恐れられておりまする」
「それは、ゆゆしい事ではないか。さっそく、天下の諸寺院に令して大祈祷をさせねばならん」
国土の患いでも、一身の乱でも、なにか大事にたちいたると、すぐ、加持祈祷へ頼むところは、わが朝の藤原時代の権門とも、まったく同じ風習だった。いや、それが文明社会に近づきつつまだ文明にほど遠かった当時の人智だったというしかない。
江西への旅は遥かだった。しかし、旅にはよい仲春の季節でもある。禁門の大将軍洪信は、おびただしい部下の車騎をしたがえて、都門東京を立ち、日をかさねて、江西信州の県城へ行きついた。
「勅使のおくだりだぞ。粗略あるな」
と、州の長官以下、大小の諸役人から土軍はもちろん、土地の男女僧俗まで、みな道に堵列して、洪大将を出迎えた。
その夜のさかんな饗宴はいうまでもなかった。地方の吏が中央の大賓に媚びることは、今も昔もかわりがない。わけて、丹紙の詔書を奉じて来た勅使であるから、県をあげて、庁の役人は、そのもてなしに心をくだいた。
が、洪信は、さすが軍人である。豪放で、らいらくだ。かつ、朝廷の賜餐には馴れ、街の銀盤玉杯にも飽いているから、どんな歓待とて、彼の舌や眼を驚かすには足らない。
「まあ、まあ。杯は下におけ。そう酒ばかりすすめんでもよい。このたびの下向は儂にとっても、重大な勅の勤め。さきに飛脚しておいた下し令状も見たであろうが」
「しかと、拝見しております」と、州の長官は、急に、畏みを見せて、──「聖旨のおもむきは、さっそく、この地の奥、龍虎山上清宮につたえおきましたから、万端をととのえご参籠をお待ち申しあげておるはずで」
「そうか。では今夜は、不浄をつつしみ、明朝は沐浴して、上清宮へ登って行くとしよう。貴様たちも、はやく退がれ」
つぎの日、洪は暁天に旅館を立ち、州門から八十支里(六町=一里)もある西南の大岳を望んで行った。案内の州役人らの次に、彼は山輿にゆられ、部下百騎は勅使旗をささげていた。
龍虎山一帯は、古来、全国の信仰をあつめてきた道教の大本山だ。
唐代このかた、歴朝の帰依ふかく、その勅額は、朱の楼閣にも仰がれる。渓谷の空には、苔さびた石橋が望まれ、山また山の重なる奥までも、十三層塔が霞んで見えた。また、道士たちの住む墻院、仙館は、峰谷々にわたり、松柏をつづる黄や白い花は猿や鶴の遊ぶ苑といってもよいであろうか。
ところで、この仙境は、その日とつぜん、眼をさましたように、一山の鐘台から鐘の音をゆり起した。木々は香露をふりこぼし、園の仙鶴は羽バタき、全山の禽獣も、一せいに驚き啼いた。──見れば、三清宮から大石橋へかけて、院主の大師以下、道士、稚児、力士(寺侍)などの群列が、彩霞のごとく、香を煙らし、金鈴や小鼓を鳴らしながら今し勅使の洪将軍を仙院へ迎える礼をとっているものだった。
「大儀である」
洪は、大きく目礼をほどこしながら、仙館へ入った。
えならぬ仙味の献茶一ぷくを、すずやかに服み終ると、彼はただちに、勅の主旨を、院主につたえた。
「──過ぐる日の上巳の祝節。わが仁宗皇帝におかれては、打ちつづく世の悪疫を聞こしめされ、いたく宸襟をなやませ給うた。そこで即日、大赦の令を発せられ、施薬や施粥の小屋を辻々におき、なおまた、かくは、臣洪信を遠くにおつかわしあって、当山の虚靖天師に、病魔調伏の祈りを、おん頼みあった次第である。その儀は、すでに心得おろうがな」
「うけたまわっておりまする」
「勅願の詔書は、すなわち、これなる錦のふくろに入れ、臣洪信の胸にかけて奉じてまいった。──さっそく、龍虎山の大仙、虚靖天師にお会いして、おわたし申しあげねばならんが、天師はいずこにおらるるか」
「大仙は、ここにはおいでございませぬ。ここの俗塵すら嫌って、これよりさらに山ふかく、龍虎山のいただきも尽きるところに、一宇の草院を結び、つねに仙道ご修行のほか、他念もなくおわせられます」
「では、そこまで登らねば、天師にお会いできぬのか」
「それも、お使者ご一名のみ。……斎戒沐浴をとげた上ならでは」
「はて、不便なことだなあ。勅命なのに」
「いかに、ご勅使たりと、霊山の法規はまげられませぬ。まこと、仁宗皇帝が、万民の苦患を救わんため、万民に代って、大仙のご祈祷をおたのみまいらすなれば、ご代参の殿が、それしきの精進をつとめるなどは、何ほどのことでもありますまい」
「いうな、たれが億劫だといった。ただ不便と感じただけのこと。よしよし、あす一日潔斎して、われ一人、天師の仙家へまかるであろう」
彼の意気たるや旺であった。その朝は、星の下に、水垢離をとり、白木綿の浄衣を着て、黄布のつつみを背中へ斜にかけて結んだ。内に宸筆の勅願をおさめたのだ。そして、銀の柄香炉を片手に、折々、香を焚いては、「六根清浄」を口にとなえ、身に寸鉄を帯びるでもなく、白木の山杖一ツを力に、あまたの道士に見送られて、上清宮を出立した。
──が、禁門軍の雄、洪大将ほどな男も、そこから奥の山ではまったくへばッた。第一夜は、樹海の底の谷川を枕として寝ね、第二夜は、斧の刃のような天空の峰で身を横たえた。しかも、ゆくての千峰は、まだまだ嶮しい。
やがて、降ればまた深い渓音水声、昼か夜かも、わからなくなっていた。猿になぶられ、狼に踵を嗅がれ、ただ蔦かずらの中の道標を捜しては、それをたよって行くしかない。やっと、太古の森林を出たと思うと、あ──と仰がれる絶壁だし、めぐれば、瀑布のしぶきに吹きとばされ、攀じれば、磊々の奇岩巨石に覗き下ろされる。
それのみか、彼は、牝雄二疋の大きな虎に出会って、あやうく、虎の餌食にされかけたり、この世にはありえぬような大蛇の鱗光に胆を消したりして、そのつど、無我夢中で逃げまろんだ。いつか、杖も柄香炉も、手になかった。生命一つを大事に、よろ這い歩くのが、やっとであった。
「……おや、鉄笛の音がする?」
幾日目かの、途中である。
彼は、はじめて、人間の香に吹かれた。
「おじさん、どこへ行くんだね」
童子の方から、声をかけた。
童子は、牛の背へ、横乗りに乗っている。手には、さっきから聞えていた鉄笛が持たれていた。
「や、小僧、おまえこそ、どこから来た」
「この先の、中院からさ」
「中院」
「おじさんの泊った三清宮が麓院、この峰が中院、もッともッと天上にあるのが奥院だよ。……だけど、おじさん、そんなに苦労して登って行っても、ムダだろうぜ」
「どうして」
「天師さまは、お留守だもの」
「えっ、いない? ……。そ、そんなはずはあるまいが」
「いないよ。うそじゃないよ。十日も前に、鶴に乗って、都へお出ましになってしまったんだ。なんでも、天下に悪い病が大ばやりなので、皇帝から、道教大本山の老大仙へ、ご加持のお頼みがあったんだとさ。きっと、面倒だから、天師さまの方から、鶴に乗って、ちょっくら、開封東京の空へ、飛んで行かれたんだろう」
「はて。どうして、きさまは、そんなことを知っておるのか」
「知ってるさ。こう見えても、人里の草刈り小僧とはわけが違う。老大仙に仕えている侍童だもの」
「さてはそうか。では、そこへ案内してくれい。たのむ、たのむ」
「疑いぶかいなあ。いないっていってるのに。──ぼやぼやしてると、虎か大蛇の餌食にされちまうぜ。はやくお帰りよ、おじさん」
童子は、憐れむような一笑をくれて、あとも見ずに行ってしまった。
洪は、半信半疑の思いで、なお行くと、なるほど、ここはまだ龍虎山の七、八合目あたりだったのか、巍然として、古塔の聳えを中心に、一郭の堂廟伽藍が、望まれだした。
足をひきずって、辿りつくと、
「洪大将でおわすか」
と、羅漢のごとき道衆と、仙骨そのもののような老真人(道士の師)が、門に出迎え、礼をあつく、いたわってくれた。
それはよいが、彼の蘇生の思いも、すぐ打ち消された。ここの老真人もいうのであった。
「まことに、あいにくでしたの。われらも、今知ったのでござりますわ。──山上の虚靖天師がはやお留守ということを」
「そりゃ、まったくか」
「嘘か、ほんとかよりも、おん大将ご自身、なにか途中で、お気づきになりませんでしたかの」
「牛に乗った童子に出会ったが」
「やや。それは惜しいことをされましたな」
「え。可惜とは、また何で?」
「その童子こそ、天師のご化身だったにちがいありません」
「げっ、あれがか」
「お勅使にムダぼね折らせても、おきのどくと思われ、一瞬に、都から翔け来たッて、はや立ち帰れと、おさとしなされたものでしょう」
「ああ……。そうとは、知らなかった」
「が、まあ。ご安心なさるがよい。そういう示顕のあるからには、おん大将がご帰京ある頃には、もう天師の神妙力にて、かならず、ご勅願はかなえられているに相違ございません」
なぐさめられて、その晩は、霧深い一古殿で昏々と眠った。
「この上は、ぜひもない、勅願の詔を、上清宮の本殿に納め奉って、一日もはやく、都へ帰ろう」
臍を決めて、こう告げると、真人は、十人の道衆に命じて、
「お勅使を、元の上清宮まで、お送りしてあげよ」
と、いった。
洪は、十道士にかこまれて、石門を出た。歩むことやや半日。だが、これはどうしたことだ。あんなにも、幾昼夜の難所、虎や毒蛇にも襲われて登って来たものが、降りとはいえ、坦々と平地を歩むような愉しさである。そして、またたくまに、宝塔仙館の甍が霞む、以前の三清宮へついてしまった。
あくる日、詔は、上清宮の神扉深きところの、宸翰箱に祠り封ぜられ、式を終って、夜は一山の大饗宴に移った。精進料理ばかりのお山振舞である。──これで、つつがなく下山となれば、まずは無難だったのだが、軍官僚のつねで、酒がはいると、もちまえの肌が出はじめた。何か、このまま下山しては、こけんにかかわる気でもしたのだろうか。いやに威儀ぶッていたが、ふと、まわりの雑談に、小耳をはさみ、
「なに、なに。いま申した魔耶殿とは、いったい、どこの閣か」
「は。お耳にさわりましたか。やはり三清宮の深殿の一でございまする」
「ふウむ。霊域の広さは、なかなか一眸には出来んのだな。またと、かかる山へ参ることもあるまい。ひとつ明朝は、ここの全堂閣を、遊覧させてもらおうぞ」
「かしこまりました。ぜひ、ご巡拝のほどを」
宮司、真人たちは、あくる日、彼の先導に立った。そして、上清観の唐代、五代、宋代にわたる名刹の建造物を見せてまわり、さいごに九天殿、紫微殿、北極殿の奥ふかい社廊をすすみ、
「右が、太乙殿、左が、昨夜申した魔耶殿にござります」
と、たたずんだ。
幽寂な陽の翳りも淡い四辺には、どこやら谺する小鳥の声があるだけで、何かぞくと、薄ら寒く肌に刺してくるものがある。
「ははあ、ここはもう、上清観中の奥処だな」
「さようで。いちばん奥の古刹でございまする」
「あれなる石壁に、鉄鎖をもって、物々しい錠前をかけてある門が見えるが、あれは何だ?」
「開かずの祠と申しつたえております」
「開かずの門か」と、洪はずかずか歩き出した。なにか、抵抗を感じたらしく見える。仰げば大絶壁。そこの裾をくりぬいた石窟なのだ。近づいてみると、かたわらの石柱には、
と、四文字が彫られてある。
「おうっ、宮司。──開けて見せてくれい、この内を」
洪は、伏魔と読み、また、不開の門と聞いて、たちまちその傲上慢を、むらむらと、胸に煽りたてられたらしい。
「め、滅相もない仰せを」
宮司や道衆は、青くなった。
彼らが、口をそろえていうには、
「──そもそも、ここに祠られて、咒封となっている魔ものは、ことごとく、世界の妖霊どものみで、ございまする。仔細を申せば、大唐の開山洞玄国師このかた、代々の老祖大仙が、魔ものを捕りおさえては、この石窟へ封じ込めおかれたもので、みだりに開くことはなりません」
「はははは。ばかなことを」
「いやいや、お笑い沙汰ではございませぬ。もし、過ちにせよここを開けば、窟中の魔王は、時をえたりと、人界へ躍りでて、世路のみだれは申すもおろか、人間の智恵、内臓のうちにまで潜んで、長く取り返しもつくまいぞ、といわれておりまする。……されば、道法九代の間、また私も、住山三十年にもなりますが、かつてただの一度も、ここの鉄錠に手をかけたためしなど、見たことはありません」
「だからこそだ。そう聞けば、なお内部へ入ってみたい」
「そ、それは、余りにも、ご無態と申すもので」
「なにが、無態だ。なんじらの馬鹿げた迷妄を、儂の勇をもって、醒ましてくるるのがなんで無態か。鍛冶を呼んで、鎖を切らせろ」
「どうか、その儀だけは、おゆるしを」
「ならん。いなやをいうなら、朝廷に奏聞して、魔霊を祠るものと、公にするぞ。なんじら、数珠つなぎとなって、上饒江の河原に、さらし首を、ならべたいのか」
言い出しては、決して、言をひるがえす洪大将ではない。都城の衛府で、部下をが鳴ッている通りな彼になっている。
恐れわなないた宮司や道衆は、ぜひなくおろおろと、やがて秘門の扉へ、むらがり寄った。鉄槌から火バナが散り、石斧からは、異様な響きと匂いが立った。不気味な谺、キ、キ、キ……と腸をしぼるような何かの軋み。──じっと、見ていた洪は、そこが開くやいな、洞然たる暗やみの中へ、まっ先に躍り入って、
「どうだ、それ見ろ、何事もないではないか。なにが厳秘の門か、なにが咒封か。わははは、みんな入れ」
と、両の手を、天井へ突ッぱり、愉快きわまるものの如くであった。
──が、余りの暗さだ、歩いてみても何も見えない。彼は、また大声で、奥でどなった。その声は、空洞にひびき、ひとつ言葉が、二つに聞えた。
「おういっ。松明をとぼせ。一同、松明を持って、儂のあとから進んで来いっ」
窟は、仏体の胎内にでも象ってあるのか、口はせまく、行くほどに広くなり、四壁には、諸仏、菩薩、十二神将などの像が、彫りつけられてある。
「や。あぶない」
洪は、一石碑に、つまずいた。
松明を呼んでよく見ると、ここばかりが円い広場となっている。冥々昏々、幾百年もの間、太陽の寸光も知らない冷土なのだ。それに六尺ほどな板碑が、にょっきと建ち、台石となっている石彫りの大亀は、碑を背に載せて、千古、眠りより醒めず、といったふうである。
「こりゃ読めん。石碑の表に、何やら細々と彫ってあるが、全文、神代文字らしい。なに、裏には、ただの楷書があると。どれどれ」
彼は、赤い火にいぶされながら、なにげなく、碑の裏へ廻って、顔を寄せた。
四つの大きな文字。それは、
と、読まれた。
「や。洪ニ遇ッテ開クだと? ……。はてな、洪とはおれ、おれに遇って開くとは」
なに思ったか、彼は、全身に瘤をこさえて、大きく唸った。そして、碑を仆せ、石亀をのぞいて、その下を掘り起せと、狂気じみた声を発した。
もちろん、人々は極力、その暴を諫めぬいた。哀号泣訴、
「恐ろしや、恐ろしや。そのような、大それた儀は、ど、どうぞ、お見あわせ下さいませ」
と、地へ、へばッたまま、起ちもしない。
「だまれっ」と、洪は大喝した。「──なにが空恐ろしいのだ。見ろ、碑の文字を。……洪ニ遇ッテ開ク、とあるではないか。すでに古の神仙は、今日、儂がこれへ参るのを、予言いたしておったのだ。いやだと申す者は、素首をぶった斬るぞ」
剣把をたたくと、人々は、もう顫えあがって、唯々諾々と、彼の命のままうごくしかなかった。
大勢の力で、碑は仆され、石亀は数百年の眠りから揺り起された。そして、一転二転、腹を見せた石亀のまろぶ地響きと同時に、人々の足の裏から、ごうッと、大釜の湯でも沸るような音が聞えた。
「わッ、こりゃ深いっ」
亀を除いたあとに、大穴があいた。穴は深さ万丈、奈落へ通じるかと思われた。いやいや、伏して覗いてもいられない。とたんに、地軸の底で、ぐわらぐわら、百雷に似た物音なのだ。洪大将も、人々も、
「あ──」と、耳をふさいで、のけぞッた。そも、なんであろう。すべて一瞬のことである。醒々冷々たる墨のごとき濛気が、ぶっ仆れた面々の上をかすめた。
無色無臭、濛気は見えない。が、穴の底から、噴き出しているのはたしかだ。魔の跫音、魔の笑い声、魔のどよめき、そういっても、まちがいではない。ごうごうの地鳴りは鳴りやまず、一震四壁を裂き、また、山を震ッて、このため、龍虎山の全峰は吠え、信江上饒の水は、あふれ捲いて、麓を呑むかと思われるほどだった。
「……ああ、これはまた、ど、どうしたことだ」
洪は、無我夢中で、石窟の外へ、逃げだしていた。いや、なにかに刎ねとばされて、魔耶殿の橋廊の下まで抛り出されたといった方が真実に近い。
とにかく、やや気がついたときでも、なお石窟は揺れ鳴っている。そして一とすじの尾を曳いた黒雲が、中天に昇ってゆくのを仰いでいると、一閃の赫光が眼を射、とたんに、無数の妖星と砕け散って、世間の空へ八方飛んでわかれてゆくのが見えた。
洪は、ただ、唖々唖々と、腑抜けみたいに、手を振って、よろめき歩いた。一山の騒動はいうまでもない。だが、下手人が勅使では、罰することもならず、三清宮の院主は、いとも嘆かわしげに、うつろな洪大将の顔へ、こう言いわたした。
「はやはや、ご下山くださいましょう。ぜひもなし、あとは虚靖天師のお帰りを待つのみです。したが、あの祠の窟には、三十六員の天罡星、七十二性の地煞星、あわせて百八の魔が封じられていたものを、あなたさまはまあ、恐ろしいことをなされたものでございましたな。物好きにも、護符の禁を破って、人の世の地上へ、百八の魔をばら撒いたからには、行く末、どんな世態を見ることやら、いまから身も縮む思いがされます。──せめて、以後は生涯、ご信心にでも身をお捧げなされませい」
道教では、この宇宙を、魔界と仙界の二元からなるものと観て、北斗、太極、二十八宿などの星座を崇め、それは人の世の治乱吉凶禍福の運行とも、密接なつながりがあるものとしている。
だから、天体中の徳星は、これを崇め、邪星妖星は、仙術の咒をもって、封じこめておく。──古来、龍虎山上清宮の道祖代々が、そうして、せっかく人界平和のために、道行を積んできたのに、ついに今日、百八の魔星を歓呼させて、もとの世間へかえしてしまった。
「これが恐れられずにいられましょうか」
洪大将が、すごすごと下山する日も、院主は、未来を予言して、くり返しくり返し、哀嘆してやまなかった。
「──百八の悪星とは、つまり熒惑星のことです。この宇宙幾万年、太陽の周りには、億兆の星が、行儀よくめぐっていて、かりそめにもその法則をみだすことはありません。──が、熒惑星という奴は、例外です。常軌を行かず、申しわけに、太陽のまわりに、隠現明滅しているにすぎない。世間、人界の仕組みも、まったくその通りなのです。──それを、あなたさまには、好んで、もとの無軌道へ追ッ返しておしまいなすッた。なんとまあ、人間の業とは、尽きない宿命のものなのか……。思うてもごらんなされ。五代の戦乱に懲りて、あんなにも、世は平和平和と渇望していたのに、その平和も、宋朝数十年、少し長つづきしてくると、もう平和に飽いているような昨今の世相ではおざらぬか。救いがたい人間性と申すべきか、平和の退屈さから、百八の魔星を甦えらせて、ふたたび際限ない乱麻の地上を眼に見たくでもなったものやらと思われますわい。……ああ。やんぬる哉、いくら嘆じてみても、もう追いつきませぬ」
それを聞くと、洪もさすが、戦慄を禁じえず、いくたびも耳をふさぎたくなった。勅使旗を巻いて逃ぐるがごとく帰路につき、やがて、首都開封の汴梁城へもどって、仁宗帝のおん前に拝伏した。
帝は、彼をねぎらわれていった。
「洪信か。長途、大変であったろう。しかし、龍虎山の虚靖大仙は、勅をかしこみ、すぐ鶴に乗って都に見えた。そして、七日七夜の祈祷を行うてくれたため、民間の疫病は、たちまち熄み、都府の市色も明るくなった。げに、天師の功力のあらたかなこと、汝が帰るよりも早かったぞ。洪よ、安心せい」
思いきや、この御諚である。
洪は、ひや汗をかいたが、龍顔の麗しさ、嘘とも思えない。もとより山で魔封を破った過ちなどは、おくびにも復命せず、自邸に退がった後は、ひとり密かに恟々と、身を慎んで、余生を終った。
幸いに、彼が存生中には、たいした事件もなく、世間はいよいよ泰平と無事に狎れ、この間に、宋朝の廟も、仁宗から、英宗、神宗、哲宗と御代四たびの世代りを見た。嘉祐三年以来、いつか三十余年を経たことになる。
…………。
──ここに、百八の熒惑星が、封を破って地上に宿命し、やがてその一星一星が人間と化して、かの梁山泊を形成し、ついに宋朝の天下を危うくするという大陸的構想の中国水滸伝は、以上の話を発端として、じつに、この年代から物語られてゆくのである。
それを、日本の史に照らすと、わが朝では、鳥羽、崇徳天皇の下に、不遇な武者どもを代表していた平忠盛や清盛などが、やがての平家時代を招き興そうとしていた時代の晨にあたっている。
東洋の風土、東洋の文物、東洋の人種、すでに遣唐使このかたは、東洋一環の交流もあって、いわば一葦帯水の、遠からぬ大陸であったものの、時運の暗合は、なにか偶然でないものを覚えしめるではないか。
哲宗皇帝の寿隆五年であった。
朝廟のうちには、このところ、不穏なうごきが見えぬでもない。権臣の陰謀だの、皇后を廃して追うなど、咲き熟れた花の腐えが、そろそろ、自然の凋落を急ぐかに思われた。そんな爛熟末期の相は、汴梁東京の満都の子女の風俗にさえ目にあまっていた。
だが、庶民は依然、太平楽だった。何が醸されていようと、宮廷の内事などは、隣家の夫婦喧嘩ほどな興味でもない。──それよりは、その日、彼らが踵を次いで馳け出して行った先の方が、よほど大変な事件らしかった。
「なんだ、なんだ? 百叩きか」
「そうらしい。笞を食ッて、所払いにされる悪党が、いま、役人に曳かれて行った」
街城の門は、人だかりで、まっ黒だった。
見ると二十五、六歳の遊び人態の男が、刑吏に引きすえられ、一イ二ウ三イ……と数を読む青竹の下に、ビシビシ撲りつけられている。
「やあ、あれは高毬じゃないか」
「おお、ちげえねえ、高毬だ。かわいそうに、高も、とうとう年貢の納めどきに会いやがったぜ」
まだうら若い追放者だが、彼を知らぬ者はないらしい。
無職である。だが、この東京には、親代々からいた旧商家の息子で、姓を高、名を二郎という道楽者。──親に似て、家産は失っても、糸竹の道に長じ、歌えば美声だし、書道、槍術、棒、騎馬、雑芸、何でも器用だった。わけて〝賭け蹴毬〟は名人といわれている。
表向き、狭斜の巷で、幇間(たいこもち)めかした業をやっていたが、喧嘩出入りが好きで、一面、男だて肌な風もある。もちろん、悪事の数々もやって来たろう。その積悪がバレた末、ついに今日のお仕置きの破目となったにちがいない。
──で、さっきから、青竹を振ッて、
「八十っ、八十一っ。……九十っ、百ッ」
と、高の背なかへ、一打ちごとに、数を叫んでいた獄卒が、百をさいごに、ほっと身を退きかけると、
「こらっ、待て。まだ百打は打ッていないぞ。なぜサバを読むか。さては、なんじら皆、追放人の高から、賄賂をもらっておるな」
と、あたりで黙認している刑吏までを、こう叱咤した人がある。それは、禁軍の兵に、棒術の師範をしている王昇という武士で、立会いのためこれへ臨んでいたものだった。
収賄は、刑吏のつねで、その方こそ正しい実収入だとして、悪徳とは考えもせぬ彼らだが、こんな人なかで、白昼、面といわれては、いくら彼らでも立つ瀬はない。そこで、いくらかの抗弁はこころみたものの、相手は、役職も上だし、禁門の王師範とあっては、役人面の権柄も歯が立たなかった。
「じゃあ、王師範が、よしというまで、叩きましょう。お数えください」
結局、また四十幾つまで、青竹で高の五体を、打ちすえた。
「よしっ、追ッ放せ」
王昇がいうと、初めて、高の縄が解かれた。高毬は、よろめき起った。
街城の門から追われると、四県を所払いされ、再び都の土は踏めない。高は、あちこちミミズ腫れになった肌を撫でながら、いまいましげに、王昇の姿を振りむいた。
「……覚えてろ。棒使いのでくの棒め。てめえの前身だって、まんざら知らねえ高さんじゃねえんだぞ」
かくて彼は、身ひとつ、淮西の商市臨淮(安徽省)へ流れてゆき、土地の顔役の柳世権の部屋で、およそ三、四年ほど、ごろついていた。
そのうちに、天下大赦の令があった。
元々、軽罪なので、高毬も恩典に浴したが、そうなると、矢もたてもなく、東京へ帰りたくなった。が、帰っても、さっそくの職はなし、さて、どうしたものと、柳に相談すると、
「じゃあ、おれの親戚の董へ手紙を書いてやろう。それを持って帰んなさい」
と、いってくれた。
四年ぶりで、高は古巣へ舞い戻った。──さっそく、手紙を持って、城内金梁橋の近くという宛名の人をさがし歩いた。
「ははあ、この店だな、董将士の家は」
構えも立派な薬種問屋である。
主の董に会って、柳の手紙をしめすと、董は彼の前身も問わず、ふたつ返事で、のみ込んだ。
「そうですかい。四年も臨淮においでなすっては、生れ故郷の王城でもご不案内におなんなすったはむりもない。てまえどもは、商売がら、諸方の官家へもお出入りしておりますから、そのうち、なんぞお勤め口でも心がけましょう。ま、ごゆっくりなすって下さい」
高は、好意を謝して、半月ほど逗留していた。その間に、彼の多芸や才気煥発な質を見たものか、ある日、董が紹介状を書いて、
「どうです。いつまで、遊んでるのももったいないでしょう。ひとつ、これを持って、てまえの極くお親しくしている学士さまの所へ行ってみませんか」
「いやありがとう。職につけるものなら、ぜいたくは申しませんよ」
高は、小蘇学士の門をたたいた。
だが、この学究は、ちょっと、眉をひそめた。学者暮らしは楽でない。わけて、話しこんでみると、自分とは肌合いの違う人間でもある。──といって、義理のある董の依頼では、断りもならず、といった顔つきで、
「むむ。まあ今夜は、邸へお泊んなさい。そして何だな、明日、わしが紹介して進ぜるから、王晋卿さまのお館へでも一つ伺ってみるんだな。先ごろ、ご近習の気のきいたのが一人欲しいようなことを仰っしゃっていたから、御辺の運がよければ、多分、採用になると思うがね」
すこぶる頼りない口吻だが、ともかく、次の日、高はその王晋卿を訪ねてみた。だが、その華麗な館門の前に立つと、さしも横着者の彼も、二の足をふんでしまった。
ここは宮家である。現天子の婿君で「王大将ノ宮」と、世間でいっているのが、すなわち当の晋卿らしい。
「はて、どうしよう。小蘇学士め、ていよく俺を追っ払うため、寄りつけもしないこんな王家へなど、紹介したのかもしれねえぞ。……ええ、ままよ。物事は当って砕けろだ」
持ち前の度胸をすえて、高は、ずかずかと門内へ進み、わざと咎められるのを待った。そして番士に捕えられ、やがて出て来た公卿侍へ、蘇学士の書状を手渡して、ことばすずやかに、こう告げた。
「決して、怪しい者ではありません。職を求めに伺った者で、職能には自信があります。ご採否にかかわりなく、なにとぞご試験をたまわりますよう、よろしくお取次ぎを仰ぎます」
折ふし、大将ノ宮は、奥まった閣の内で、この春の日をしょざいもなく、生欠伸をもよおしていらっしゃるときだった。これや、高毬の開運の目であったのである。取次の言を聞き、また、小蘇学士が、心にもなく認めた一書を見ると、
「ふウん。そりゃ面白そうな書生じゃないか。なに、書生とも見えぬと。……ま、どちらでもよろしい。退屈しのぎじゃ、ひとつ会って、試験してやろう。まろ自身、その人物を見てくれる。これへ伴れてこい」
と、横たわっていた美しい榻(細長い床几)から身を起して、冠の纓(ひも)を、ちょっと正した。
毬使いの幸運は九天に昇り、風流皇帝の徽宗に会うこと
世の才子肌にも、とかく鼻につく小才子風と、ことば少ない誠実型との、ふたつがある。
高毬ほどな男とて、そのへんの挙止はさだめし心得ていたことだろう。王大将ノ宮から直々の試問をうけても、彼は、自己の才をすぐ喋々とひけらかすようなまねはしなかった。あくまで初心で謹直な好青年のごとく、初対面の貴人へ印象づけた。
「なるほど、小蘇学士の吹挙だけあって、この書生なら、当家の近習に加えても恥しくはないな」
王大将ノ宮は、高を一見されるや、すっかり気に入ってしまったらしい。侍臣の列をかえりみては、
「どうだな。おまえたちはどう思う。この男、なかなかよい人相をしているではないか」
などと品評したりして、即座に、お召抱えと、事はきまった。
こうして、市井の一放浪児にすぎない高毬は、はしなくも現天子の駙馬(天子の婿たる人の官名)王晋卿の館に仕える身とはなった。
まことに〝犬も歩けば棒にあたる〟みたいな幸運というほかはない。しかし、幸運に会しても、よくその幸運を生涯に活かしえない者はいくらもある。その点、彼は以後、水をえた魚のようなものだった。つつんでいた才気は徐々に鋭鋒をあらわし、その多芸な技能は、やがて王大将のおそばには、なくてならない寵臣の一名となっていた。
そしてこの頃から、名も、高俅とあらためた。毬の毛偏をとって、亻偏の俅に代えたのである。
そのうち、ある年のこと。──当主、王駙馬の誕生祝いとあって、ここの亭館には、華麗な車駕が門に市をなした。花の楼台には、楽手や歌姫がならび、玻璃銀盤の卓には、珍味が盛り飾られて、朝野の貴紳があらゆる盛装を競ッていた。中でも、一きわ目につく貴公子は、どういう身分のお人なのか、
「九ノ宮、九ノ宮」
と、宴の上座にあがめられた。そして王大将の家族や来賓の男女から、下へもおかぬ侍きをうけつつ、琥珀のさかずきに紫府の名酒が注がれるたび、しきりに、酔をすすめられている様子だった。
その上、この君の眉目の麗しさは、金瓶の花も、玉盤の仙桃の匂いも、色を失うほどであった。だから、やがてのこと。教坊府の妓女たちが、演舞の余興をすまし終ると、たちまち、彼女らの紅裙翠袖は、この貴公子のまわりへ争って寄りたかり、
「ま、端王さま。いつになく、お澄ましでいらっしゃいますこと」
「今日はご主客でしょうが、なにもそんなにまで、よそ行き顔をなさらないでも、およろしいでしょう。もすこし、お過ごしあそばしませな」
などと、牡丹をめぐる蝶のように、戯れかかった。
「ははは。そうかね。そんなに澄まして見えるかなあ」
九ノ宮の端王は、上品な苦笑のうちに、ほどよく群蝶の攻勢をあしらッておいでになる。だが、日頃の行状には、ずいぶん弱味がおありとみえて、彼女らの口封じには、ひと骨折られたご容子だった。それをまた、陪席の来賓はみな、おかしげに眺め合って、しばしば、楽堂の胡弓や笙の音も、耳に忘れるばかりな歓声だった。
誕生祝賀の日から、まもない後のことである。
「高俅。──この贈り物をたずさえて、九ノ宮の御所へ、ちょっとお伺いしてまいれ」
王大将のいいつけで、彼はその日、端王の御所へ、使者として向けられた。
もとより、高俅は、何もかも、わきまえている。
過日の誕生祝いの折、端王が休息された書院で、ふとお目にとまった文房具がある。玉の龍刻の筆筒と、獅子の文鎮とであった。
「──そんなにお気に召したのなら、後日、お届けさせましょう」と、王大将がそのさい端王へお約束していたのを、高俅は側で聞いていたのである。
贈り物とは、その二た品に違いない。高俅は、この日の使いに、何か、会いがたき機会にめぐまれた思いと、晴れがましさを抱いて行った。
なにしろ、端王と申しあげる君は、先帝の第十一皇子で、今上哲宗皇帝の弟君にあたられ、東宮(皇太子)のご待遇をも受けておられるお方なのだ。いや、高俅が内々、この君へ傾倒していたわけは、教坊の妓女たちが、あんなに騒いだのを見てもわかる通り、たいへん粋な貴公子だと、かねがね聞いていたからでもあった。
琴棋書画の雅びは、もちろん、管絃の遊び、蹴鞠、舞踊、さては儒仏の学問も、つまびらかなうえ、市井の人情にもつうじている風流子であるとは、この開封東京の都で、たれ知らぬ者もない評判なので、彼は、
「なんとか、いちど、とっくりお話をしてみたいものだ。その道にかけての極道百般を、この高俅から聞こえあげたら、かならず又なき者と、お目をかけてくださるに違いないが」
と、こころひそかに、久しいこと、野望していたものだった。
東宮御所は、汴梁城の一郭。つつしんで府門へさしかかると、衛兵が、
「いずれから?」
と、威厳もなかなか他とはちがう。
「王大将のお使いとして、九ノ宮へ奉るおん贈り物をたずさえてまいった者です」
と聞いて、衛兵はすぐ門をひらいてくれた。で、彼は悠々と内へ進んでいったが、さらに中門の侍郎へむかって、訪れを再びした。
中門の役人は、ていちょうに、
「それはご苦労でした。したが唯今、殿下には、おん鞠場へ出て、公卿輩を相手に、蹴まりに興じておられますゆえ、しばらく、その辺でお待ちくださらぬか」
と、いう。
「あ。鞠場でいらせられますか」
鞠とあっては、彼の特技、聞き捨てにならない。
高はつい、つばを呑むような顔して言った。
「蹴鞠は、それがしも、好む道でございますが、よそながらでも、御所のおん鞠場の景を、拝見できぬものでしょうか」
「おやすいこと。ならば、ご案内いたしましょう」
林苑を縫って行き、やがて、明るい広場へ出ると、はや快い鞠の音が耳につく。
いずれも鞠好きな、上流の貴紳や姫君や公達ばらに相違ない。広やかな鞠の坪をかこんで、ある一組は、榻や椅子に寄り、ある一群れは芝生に脚を伸ばしたりして、競技を観ているところであった。
高も、そっと、それらの薫袖のなかに立ちまじって、よそながら見物していた。
すると今、一と競技終ったらしく、次のどよめきの後から、端王の姿が〝懸ノ木〟の下に立つのが見えた。──見るからに軽快な鞠装束である。薄紗の唐巾で髪をとどめ、袍(上着)は白地きんらんに紫の繍の華文、袂に飛龍をえがかせ、鳳凰靴(くつ)を足にはいておられる。そして、相手方の備えを見て、
「よいか」
と、いったと思うと、いま、懸りの中央へ、侍者が据えた鞠へむかって、つかつかと進み出られた。
位階に従って、まず高貴な人から、第一を蹴り、以下順々に、二座三座四座と、八本の〝懸ノ木〟に備えている敵手へ蹴渡してゆくのである。さすが、端王の技は、皇族らしくきれいで、しかも、受けにも渡しにもそつがなかった。
ところが、どうした過ちか、一人の靴先から外れた鞠が、いきなり見物の方へ飛んできた。
「ア。あぶない」
頭上に見舞われた人々は、群れを割って、こけ転んだ。しかし、ちょうど近くにいた高俅は、得たりとばかり跳び寄って、ぽーんと、その鞠をはるか端王の方へ、蹴わたした。
「おっ、見事」
彼方で谺のように声がした。
つづいて、おなじ声のぬしが、高俅の姿に、すぐ目をつけたとみえて、こう呼んでいた。
「いまの鞠を蹴った者。これへまいれ」
「はい」──と、高俅は進み出た。
「なんじか」
「おゆるし下さいませ。日頃、好める技とて、つい場所がらのわきまえも失って」
「いやいや。とがめるのではない。そちが蹴ったいまの手は、毬法十踢の秘術のうちでも、もっとも難かしい鴛鴦拐の一ト手と見たが」
「さすが、お目が高くていらせられます」
「いったい、そちはどこの何者か」
「王駙馬さまの近習、高俅にござりまする。じつは、主人の御命にて」
と、さっそく、筥の二品を、そこへ供えて、使いのおもむきを申しのべた。──が、端王は、贈り物のそれよりは、むしろ高俅の鞠の妙技に魅せられてしまった様子で、
「よしよし、委細は、後で聞こう。それよりは、そちの技を、もう一ト渡りここで見せい」
と、たって望んだ。
求められるまでもない。高は、千載一遇のときと、思わず頬にのぼる紅を制しきれなかった。けれど、どこまでも謙譲を装って、再々辞退したが、端王のおゆるしがないので、
「では、ほんの素人技の嗜みに過ぎませぬが」
と、中央へすすみ出て、毬十法、ひと通りの型を演じてみせた。
肩技、背技、膝技から、尖飛、搭舞ノ法などと呼ぶ五体十部の基本の上に、八十八法の細かい型があって、飛燕、花車、龍鬂、搏浪、呑吐星、などさまざまな秘術もある。──もとより高俅は、その道の達人であるばかりでなく、市井の間漢(定職のない遊び人)だったころは、のべつ賭け毬に憂き身をやつして、高二郎と人は呼ばず、高毬というあだ名で通って来たほどな男なのだ。いわゆる堂上遊びの、甘い芸とは、鍛えがちがう。
端王初め、人々が、
「あな、みごと。神技よ、神技よ」
と、ただただ嘆声のほかなかったのは、当然すぎる当然なことだった。
毬の庭もいつか黄昏れた。やがて、閣廊の灯おぼろなころである。高は、あらためて、端王の御前に召されていた。
奉呈の文房具に、端王が、よろこびを見せたのはいうまでもない。だが、言葉はすぐ、べつなほうへ移ってゆく。
またしても、毬の話なのだった。そして、とつぜん、こうも仰せられた。
「高俅。これからは朝夕に、まろの師となって、そちの妙技を教えてくれい」
「おそれいりまする。貴尊のお方に、師などと仰がれる身ではございませぬが」
「そして、今日以後は、この東宮にいるがよい。もう王駙馬の館へは帰るに及ばん」
「や、それは困ります。私にとっては、大事なご主君。二君には仕えたくございません」
「いや、すでに先刻、王駙馬のおん許へ使いをつかわし、高俅をわが家の臣にゆずッてたまえと、ご諒解を願うてある。駙馬はまろが義兄、いわば一門と申すもの。そちの義心は尊いが、決して、義が欠けるわけではない」
「では、それほどに」
高俅は、感泣にふるえるがごとき姿をした。
かくて彼は、東宮付きの一員となりおわせ、日がたつほど、端王の重用いよいよ深かった。
元来、俗才に富み、諸芸百般通ぜざるなし、という道楽者上がりの高俅が、風流公子とはいえ、世間知らずのお若い東宮に侍いたのであるから、これはいってみれば、彼が得意とする毬を掌の上に乗せたようなものだった。
ところが。
この幸運の毬は、まだまだ、どこまで彼の掌にその幸をもたらしてくることか。
──それから僅か半年後。現皇帝の哲宗が崩御られた。しかるに、じつの皇太子がおわさぬまま、文武百官の廟議は紛々をかさねたすえ、ついに端王を冊立して、天子と仰ぐことにきまった。
じつに人の運はわからぬもの。これぞ、玉清教主微妙道君、宋朝八代の徽宗皇帝とも世の申し奉った君だった。
徽宗は、東宮時代から、すでに風流公子たるの素行が見えていたように、帝位に即いてからも政治には関心が薄かった。
しかし、絵画、音楽、建築、服飾など一面の文化は、このとき一倍の絢爛を咲かせた。徽宗自身も、絵筆をもてば、一流の画家であり、宮中の宣和画院には、当代の名匠が集められた。
また、印刷の術が進み、書籍の版行も普及され、街には、まだ雑劇の揺籃期だが、演劇も現われ、すべて宋朝の特長とする文治政治はこの前後に或る頂点を示したといってよい。
けれど、文治のなかには、王安石一派の急進的な改革論をもつ者と、保守旧法にたてこもる朝臣とが、たえず廟に争っていたので、徽宗の代には、もうその内面に分裂と自解の、ただならぬ危機を孕んでいたのである。──にもかかわらず、徽宗は依然、風流皇帝であった。
道教をもって、国教とし、自分も教主となって、保護につとめた。全国から木石禽獣の珍奇をあつめ、宮殿の工には、民の塗炭もかえりみもしない。当然、苛税、悪役人の横行、そして貧富の差は、いよいよひどく、苦民の怨嗟は、四方にみちてくる。──時運は徐々におだやかでなく、遼を亡ぼした金(満州族)は、やがて太原、燕京を席捲して、ついに開封汴城の都にせまり、徽宗皇帝から妃や太子や皇族までを捕虜として北満の荒野に拉し去った。そして、徽宗はそこで、囚人同様な農耕を強いられ、ついに帝王生活の悲惨な生涯を終えるにいたるのである。
徹夜ノ西風ハ破扉ヲ撼シ
蕭条タル孤屋、一燈微カ
家山、首ヲ回ラセバ三千里
月ハ天南ヲ断チテ、雁ノ飛ブ無シ
これは、北満の配所で、徽宗自身が、皇帝たる自身の末路を詠じた一詩だ。
いや、おもわず、これは余りに、先の先をちと語りすぎた。
徽宗の終り、北宋の崩壊などは、ここでは、まだまだ二十五年も後のことである。水滸伝は一名を北宋水滸伝ともいわれるように、徽宗皇帝治下のそうした庶民世間の胎動をえがいた物語なので、前提として、時勢の大河がどんな時点を流れていたか、それだけを知ればよい。
さて。話を元へ返すとしよう。
──新皇帝の即位とともに、高俅もまた、朝に入って、帝の侍座となったのはいうまでもない。毬はついに九天にまで昇ったわけだ。
そして、帝の重用はいよいよ厚く、彼の上には栄進が待つばかりで、やがて幾年ともたたないうちに、殿帥府ノ大尉(近衛の大将)とまでなりすましてしまった。
ときに、その叙任を見てから早々のことだった。
高俅は、禁門八十万軍の軍簿を検して、部班の諸大将から、旗幟や騎歩兵を点呼するため、これを汴城の大練兵場にあつめたが、その日、彼は、
「はてな」
と、巡閲中の駒をふと止めて、鉄甲燦然と整列している諸将の面々を見つつ、何かいぶかしげな顔をした。
「軍書記」
「はっ」
「おかしいな。もういちど、その花簿(職階の名簿)を読みあげてみい」
「はっ」
随身の一名が、軍奉行から簿を取って、列将の姓氏をふたたび点呼してゆくと、簿名にはありながら、ここには見えない一将があった。
「それみい、一名欠けておるではないか。今日の閲軍に、あるまじき不届きな沙汰」
「何とも恐れいりまする」
「かかる軍紀の弛みが見ゆればこそ、皇帝も特にこの高俅へ重任を命ぜられたものではある。しかるに、出頭の簿へ名をのぼせながら、今日の馬揃えに、姿を見せぬやつがおるとは奇ッ怪千万。そも何者だ、そやつは」
「禁林軍の教頭王進にござりまする」
「兵の師範たる職とあっては、なおゆるし難い。ただちにその者を召捕ってこい」
「いや、王師範は、日頃とて、決して懶惰ではございません。数日前から、何か病中にあるよしで」
「だまれっ。武将たる身が、いささかの病などに、大事な一日を欠くことがあろうか。もしこれが、まことの出陣だったらどうする。察するに、この高俅の就任をよろこばぬものか、あるいは軍命をかろんじておるものに相違ない。──すぐ行けっ。折りもよし、軍紀振粛の要もある」
高俅は、こう激語して、馬蹄を蹴らせた。そしてすぐ副官や随身将校の騎馬をしたがえて、次の巡閲に移っていた。
教頭の王進、追捕をのがれ、母と千里の旅に落ちゆく事
棒鎗術の名人として、王進の名は遠近に高い。
父王昇の代から都軍に仕官し、兵へ武芸を教え、家は城下の一隅にあって、ただ一人の母とともに、何事もなく暮していた。
が、その日、病で寝ていた彼の室へ、
「即座に出頭せよ」
という高俅の厳命が、つたえられた。
迎えに来た兵は、みな日頃の弟子である。否めば、彼らの立場がなかろう。王進は、病床を出て身じたくした。
「母上、ご心配くださいますな。こう起きてしまえば、さほどでもありません。新任の近衛将軍のお怒りはごもっとも。よくおわびいたして戻りますれば」
兵に囲まれて出て行く子を、彼の老母は、憂れわしげに、門の外へ出て見送っていた。
近衛府では、閲軍式も終わって、そのあと、高新将軍の就任祝いの酒が下賜され、営門や幕舎は沸いていた。
「申しわけがございませぬ」
王進は、高俅の前に伏して、こう詫びた。
「ほかならぬ日、病躯を押しても出仕をと存じましたが、何ぶん一人の母が余りにも案じますので、つい親心にほだされて、参列を怠りました。どうぞいかようにもご処分のほどを」
「いうまでもない。この高俅が禁門軍の上に臨むからは、昨のごとき、軍の弛緩は断じてゆるさん。まずもって、汝のような軍を紊す似而非武士から糺すのだ」
「あいや、似而非武士とは、ご過言でしょう。また、軍を紊せりとは、何をもって」
「だまれっ。呼び出せば、こうして、歩いてもこられる体ではないか。それが仮病の証拠でなくてなんだ。また、かかる軍廷において、親の母のと、すぐ泣き落しの口実を構えおるが、そもそも、汝の父親が、前身何者かぐらいなこと、百も承知せぬ高俅ではないのだぞ」
「似而非武士とは、それ故のご放言ですか」
「おおさ。汝の父王昇は、後には、棒術をもって、禁門兵の師範へお取り立てにあずかったが、それ以前は、都の路傍に立って、棒振り技を見物に見せながら薬を売っていた者ではないか。その頃の汝は、薬売りの父のそばで、貧しい銭をかぞえていた小せがれだったわ。……こらっ、王進っ、面を上げろ。いつのまにか、旧きを忘れて、近頃、思い上がっておったな」
「…………」
「はははは。二言とないざまは笑止千万だ。やよ、幕僚たち、諸人の見せしめに、こやつをすぐしばり首にしてしまえ」
猛る高俅の前に、人々は王進をかばって、こもごもに、なだめたり、詫びたりした。
「まあ、お待ちください。せっかくのお慶びに、しばり首を見るのも、不吉ではございませぬか」
「罰は罰として、後日、きびしいお沙汰あればよいでしょう。ひとまず、今日のところは、ご猶予ねがわしゅう存じます。満庭の兵も、あのように、みな酔歌して、ご就任を慶しておる時でもありますれば」
「うむ。それも一理はある……」
高俅は、ちょっと、うめいた。自分の慶事である。その就任日に、やはり不吉は見たくなかったらしい。
王進は、一時解かれて、帰ることをゆるされた。
もちろん、家の出入りには、番兵がつき、邸は「沙汰ある日まで」の囹圄だった。
墨のような夜気の真夜半。──王進はそっと室を這い出して、母の枕をゆり起した。
「……母上、ちょっと、お眼をおさまし下さい」
「オオせがれ。そなたも、夜ごと眠れないとみえますね」
「なんの、王進は元来の暢気者ですよ。決して、これしきのことに腐りはしませぬ。けれど、母上のお悩みが察しられますので」
「わたしはいい。わたしのことよりは、どうかおまえ一身の助かる道を考えておくれ」
「ところが、どうもいけません。どう考えても、こんどは高俅に命を召し上げられそうです」
「そなたが死んだら、わたしも生きてはいません。けれど、たくさんな門人衆が、助命の嘆願をして下さるでしょうし、それに何も、死に値するほどな大罪でもないんだから」
「いやいや。ふつうなら、そういえもしましょう。ところが、絶体絶命。この胸へ、どきんと来たことが一つあるのです」
「お、おまえは、まさか、反軍の陰謀などを企らんでいたんじゃないだろうね」
「とんでもない。そんな仔細ではございません。じつは、新しい近衛ノ大将軍高俅とは、どんな人物かと思っていましたら、なんと、彼の口から、私の父王昇のことが言いだされたのです。……はて、堂上人のくせに、父王昇が巷で零落していた時代の姿を知っているのはいぶかしいと……拙者もじっと彼の面体を見てやりました」
「えっ、おまえのお父さんの前身を知っていたのかえ」
「知ってるはずですよ。拙者はまだ子供の頃でしたが、この開封の都で、名うてな道楽者がおりました。そいつは蹴毬の達人で、名も高毬といわれていた野幇間の遊び人。……どうでしょう母上、それが今日の禁林八十万軍の新大将高俅だったのです」
「まあ。そんな、ならず者がかえ」
「……しまったと、拙者はそのとき観念しました。というのは、当時のならず者高毬が、四県追放となって、街門の人中で百叩きになった折、父の王昇は、もう仕官の身でありましたから、刑吏について、立ち会っておりました。すると、街の噂では、そのときの父の処置に、高毬がたいそう父へ怨みをふくみ、いつかはこの仕返しをするぞと、捨て科白を吐いていったとか。もう……十何年も昔のことですが、その記憶がハッと戸胸へきましたので、ああこれはいけないと、即座に、自分の死が見える気がしたのです」
「せがれよ、どうしようぞ。わたしも亡き良人から、むかし聞いていた覚えはあるが」
「あいや、うろたえ遊ばすな。幸い、一時家に帰されて、母上のお顔を見たので、拙者も、死んでたまるかと、心を持ち直して、一策を案じました。さ、さ……すぐお身支度にかかって下さい。父上からの思い出多い家ですが、邸を捨てて、遠くへ落ちのびましょう」
「だ、だっておまえ、邸の前後には、番兵もいるし、天下のお尋ね者になったら」
「番兵の頭、張と李の二人は、拙者の日頃の門下です。罪の軽くすむように、母上と共に、郊外の御岳の廟へ、祈願をこめに行って、夜明けぬうちに戻るからと頼めば、彼らもきっと、見ぬふりをしてくれるにちがいありません」
老母の分別としても、今は、いちかばちかを賭すしかない。目立つ物は何一つ身につけず、息子の背に負われて、裏門から忍びでた。
番兵頭の李と張は、知らぬ顔して、見のがしてくれた。──王進は、深夜の底を走って、西華門へかかった。ここにも彼の弟子がいる。わけを偽って、通してもらい、そのうえ一頭の馬を借りて母を乗せて、自分もその鞍尻に跨がった。
「ああうまくいった。母上、もう大丈夫です。まだ、追手も見えません」
「けれど、おまえ、これから何処をさして?」
「延安ノ府(陝西省)へまいりましょう」
「え、陝西の延安へ」
「そうです。あそこの府境の城に、経略(城代の官名)として国防の任に当っているお人は、老种と申されますが、その部下には、都で拙者が棒鎗を教えた者がたくさんおります。それに种その人とも、よく文通などもしている仲ですから」
「さぞ、遠くであろうの。延安の空は」
「黄河の西、長安の古都の北、なにせい、旅はやさしくはありません。ご辛抱くださいませ」
「おお、どんな難儀とて、わが子と二人なら、忍べぬことはない」
「この王進も、母上を抱いているのが、百人力のここちです」
逃亡の旅は、風に追わるる如く、野に伏し山に伏して、かさねられてゆく。
まだ、駅路も都から遠くないうちは、その後、高俅の激怒が、官布となって、諸道国々の守護へたいし、罪人王進の逮捕を督すこと頻りであるとも聞えていた。しかし、やがて大陸の渺々たる野路山路は、いつか、旅の母子に、後ろの不安も、思い出せぬほどな遠くにしていた。
「……さて、日も暮れたが、ここは何という村か」
王進は、トボトボと疲れを見せてきた馬をあやして、あちこち、宿をさがし求めた。
「どうも、旅籠はないようですな、母上。あそこの柳圃の奥に、四方築土の門が見えますが、ひとつ、あそこへでも宿をたのんでみましょうか」
「村の大庄屋さまらしいが」
「かまいませんよ。私におまかせ下さい」
柳の一樹に、母の駒をあずけ、王進は門へ入って、一夜の宿をたのんだ。
「お。……えらい荘院(御大家)だな」
よほど、由緒ある旧家とみえる。
背後の岡には、草堂風な一宇が見え、道は楊柳を縫うて隠れ、渓水は落ちて、荘院の庭に一碧の鏡をたたえている。
水に臨んでは、母屋の亭館が建ちならび、山に倚っては、主の書楼が、窓を放って、いましがた、灯を挑げたらしく、新鮮なまたたきを見せていた。
──取次の童は、奥へ入ったまま、なかなか出てこない。遠くに、たくさんな牛の鳴き声がするし、釜屋や下男の長屋には、炊の煙がさかんで、何百人もの傭人が、がやがやいっているようでもある。いわゆる、負傭鶏犬も食に飽き、富戸は子孫に足り、書庫には万巻の書を蔵す、といったような趣があった。
「……旅のお人。お待たせしました。さあ、どうぞ」
出てきた小僕の姿に。
「や。お泊め下さるとか」
「はい。おあるじへ、老母をつれて行き暮れた旅人ですと、申しあげたら、それはさぞかしお困りであろうと」
「かたじけない。では、ご好意にあまえて」
王進は、外へ馳け出して、すぐ母の手をひいてきた。小僕は、親切に、
「馬は、そのままにしておかっしゃれ。おらが、飼糧をやっておくから」
家の者、みな、その小僕のように、あたたかであった。
湯浴み、食事なども、終ってから、王進は、荘主の太公に会った。折れ頭巾をかぶり、白髯は膝にたれ、道服に似たものを着、柔かそうな革靴をはいている。
「延安へ行かっしゃるお商人と聞いたが、ご老母づれではたいへんじゃな」
「いや、都ではすっかり資本を失いましたので」
「ははは。宿賃がないというご心配じゃろ。それくらいなら泊めはせん」
「あつかましゅうございますが、どうも年よりを連れては、野宿もなりかねまして」
「遠慮はない。家も広い。こよいはご老母にも、ゆっくり手足を伸ばさせてあげるがよい」
しばらく、さりげない話に過ごした。しかし、やがて退きさがってゆく王進の物腰を、あるじの太公は、雪の眉から、何やらじっと、見送っていた。
翌朝。──太公は好きな茶を煮て、王進を待っていた。が、いつまでも、起き出てこないので、自身、房へ行ってみると、王進の母が、ゆうべ夜半から持病をおこして、今朝もまだ、子の介抱にうめきを怺えている様子だった。
「なんじゃ、はやく告げて来ればよいに」
太公は、すぐ薬嚢をとりよせて、自身、煎薬を調じてくれた。のみならず、幾日でもここで養生するように──ともいってくれる。
「ご恩は、忘れませぬ」
七日ほどたった。持病もおさまり、母の顔いろもよくなった。で、今朝は早くここを立とうと、王進は、自分の馬を、厩のほうへ見に行った。
すると、まだ早暁の靄、みどりの露、肺の中まで青々と染まりそうな柳ばやしのうちで、えいッ、おうッと、誰やらさかんな気合いを発している者がある。
王進は、ふと耳を打たれて、振り向いた。そして肉づきのよい真白な壮者の肉体らしい影を、青い靄の中に見た。
年ごろはまだ十八、九か。とにかく、筋骨隆々たる美丈夫である。
もろ肌をぬぎ、顔から半裸身まで、流れる汗にうるおされ、その汗までが美しい。
さらに、王進が眼をみはったのは、その真白な半裸に画かれている刺青だった。九ツの龍が汗に光って肌から浮くばかりに見える。そして、その若者の手には、長やかな樫の棒が持たれていた。棒はぶんぶん鳴って、彼自体の前後を、まるで車のように旋回して舞う。
「……ははあ、棒術をやっておるな」
わが道なので、王進は、しおらしさよと、思わずこなたで微笑していた。
すると、気がついたとみえ、ふと棒の手をやめた若者は、
「おい、人の芸を見て、なにを笑うんだ」
「いや、あざけりはしない。なかなかやるものだと、感心して眺めていたばかり……」
「なに。なかなかやるもンだって。きいた風な口をきくじゃねえか」
「ま、怒ンなさるな。お若いからむりもない。もすこし見物しようじゃありませんか」
「ふざけるな。おれの棒術は見せ物じゃない。おつなことをいうからには、てめえも多少の心得はあるんだろう。さ、叩きのめすから、受けてみろ。受け損じたら、命はねえぞ」
「これは迷惑。お気にさわったのなら、平に平に」
「いけねえ、いけねえ。その頬ゲタか肋骨の二、三本も、ぶち砕かねえうちは、おれの虫がおさまるものか」
ところへ、あるじの太公の声がした。
「これっ、史進っ。お客人に何をする」
「あ。親父さまか」
「ひかえろ」と、太公は息子を叱って──「客人。……どうも伜めが、とんだご無礼をいたしましたが、このとおりな田舎育ちじゃ、ま、堪忍してやってくだされい」
「いやご主人、こちらも悪かったのですよ。若いお人が一心不乱に、気を研いでいるものを、思わずニヤニヤしたりしたものですから」
「これも、何かのご縁というものじゃろう。ひとつ、この伜への置き土産に、棒術の一手なと、お教えして下さらんかの」
「めっそうもない。てまえは、しがない落魄れ商人、棒術などは」
「いやいや、わしにはあなたの五体のうちに、何かご一芸があるものと見える」
「よしなよ、父さん。買いかぶるのは」
史進とよばれた若者は、父の前から、いきなり王進の胸をつき飛ばして罵った。
「おやじは今、おかしなことをいったが、おれは、てめえみたいな旅烏にご教授をねがうの、ご一芸がおありでなんてことは、おくびにもいわねえぞ。さ、そんな土性骨か、食わせ者か、試してやるから受けてみろ」
跳び退いたのは、構えを作るためだった。いきなり彼の棒は、右手と一本のものとなって、ぶんっと、王進の首のつけ根へ落ちてきた。
どう取ったのか、王進は彼の棒の一端を、左の腋の下にしっかと挟み込んで、
「おあるじ。よろしいですか」
と、太公の顔を見て笑った。
「よろしいとも。うんと、こらしてくだされい。鳥なき里の蝙蝠とかで、自分以上な者はないと、何ともかとも、手のつけられん小伜じゃ。ひとつその増上慢の鼻を、折ッぴしょッてくだされば、いっそ、当人には倖せというもんじゃろ」
「承知しました。親御のお頼みとあれば」
聞くと、史進は、
「なにをっ」
と、全身九ツの龍に、ぱっと血を与えたような色を、みなぎらせた。
が、もとより田舎仕込みの武技だ。たとえこの若者の肉体と血気に、どんな精根があろうと、王進の眼には、児戯にひとしいものだったのは、いうまでもない。
一振一撥、また、眼もとまらぬ一撃一突、すべて見事な肉体の空演舞だった。史進は、声を嗄らして、その喉から臓腑を吐かんとするほどに身も疲れてしまった。それでも、まいったとはいわなかったが、あ──と感じるまに、大空が自分の脚の上に見えた。でんと、投げとばされていたのである。
「ち、ちくしょうッ」
起とうとするや、また投げとばされ、すでに手裡になかった棒は、王進の手に移っていた。そして、その棒の先に、九ツの龍の肌は、まるで竹箒に弄ばれる蜘蛛のように、離されては伏せられ、逃げかけては絡みつけられ、果ては、死に絶えたかのごとく、へたばってしまった。
「どなたか、ご子息へ、水を持って来てあげてください」
言いながら、王進は、史進のそばへ寄って、その体を膝に抱えた。そして親の太公を振り仰ぎながら、気のどくそうな顔をした。
「……どうも、ちと図にのッて、お懲らしが過ぎましたなあ。しかし、どこもお怪我はしておりませんから、ご安心を」
「いやなんの。伜めには、よい薬でしたわい」
そうはいうものの、やはり親心か。太公は、われ知らず、額に滲ませていた冷たい汗を、道服の袖でそっと拭いた。そして、
「お客人。あらためて、とくとお話し申したいことがおざる。茶なと煮て、わしの房でお待ちしておりますぞ。おそれいるが、伜めを連れて、あとよりお越しくださらぬか」
と、杖を曳いて、画中の人のように、彼方の書楼へ向って立ち去った。
緑林の徒の涙を見て、史進、彼らを再び野へ放つこと
ここの山村は華陰県の県ざかいで史家村とよばれている。戸数三、四百軒すべてが〝史〟という氏だった。
荘院(庄屋)の太公は、先祖代々、村のたばね役をしていたが、しかし自分もすでに老齢である。一日も早く息子の史進に跡目をゆずッて、隠居したいものと考えている。
そこで、彼はその日、客の教頭王進へ、こんな希望をうちあけた。──かりそめの旅人に過ぎない王進母子へだが、ひとつ伜史進のために、末長く師となって、村に永住してもらえまいかという相談なのだ。
「さあ? ご好意はまことにかたじけないが」
王進は、答えに窮して。
「今は正直に申しますが、じつは拙者は、ただの旅商人などではありません。つい先頃まで、禁軍八十万の師範役をしていたものですが、新任大将軍高俅と折合いのつかぬことがあって、無断で都門を逃亡し、いわば天下のお尋ね者の身の上です。……せっかくですが、ここにとどまれば、お世話になったご当家へどんな禍いがかからぬ限りもない。それゆえ仰せなれど、その儀は、何ともおひきうけいたしかねる」
「なんのお客人。この年までたくさんな人間を見てきた老人の眼じゃ。はて凡人ではないぐらいなことは、とく感づいておりましたよ。今さら驚きはいたしません。ただただあなた様の人物に傾倒してのお願いなのじゃ。どうぞおきき届けくだされい」
老父の乞いにつれて、そばにいた息子の史進も、いまはまったく自分の独りよがりな棒術の未熟さを覚ったものか、ともども、すがるような眼ざしで引きとめた。
「いや、それほどまでの仰せなれば」
と、ついに王進も、父子の懇請を容れて、その日の出立を見合せ、あらためて、師弟の約を、ここに結んだ。
「この上は不肖ですが、武芸十八般、知るかぎりの技は、ご子息にお授けいたそう。ご子息の名は、史進といわるるか」
「はい。背に九ツの龍の刺青をしているので、人は綽名して、九紋龍史進と私をよんでおります」
「棒術は誰からお習いかの」
「少年の頃、うちの食客(居候)に打虎将李忠という浪人者がおりました。面白半分な稽古が病みつきで、以後、村を通る旅の武芸者や浪人と見れば、片っぱしから当って試合してきましたが、ただの一度だって負けたことなどありゃしません。それが、どうも今日ばかりは」
「はははは、ちと勝手が違ったか。まあよいわさ、まだ十九か二十歳のお身で倖せ、初心に返れば、どうにでも撓め直しはきく」
かくて教頭王進の母子は、そのまま史家村に居着いてしまった。そして史家の嫡男九紋龍一人のために、かつての禁軍八十万の師範王進が、日々手をとって武芸十八般にわたる秘技を指南した。
武技十八というのは。
一に弓、二に弩、三に鎗、四に刀、五に剣、六に鍵矛、七に楯、八に斧、九に鉞、十に戟、十一に鉄鞭、十二に陣簡、十三に棒、十四に分銅鎌、十五に熊手、十六に刺叉、十七に捕縄、十八に白打。
──それからというもの、史家の裏手の柳圃では、必死に教えをうける龍児と師範との「えいっ」「おうっ」の喚きが聞えない日はなかった。雨の日は、荘院の広床で行われ、夜は夜で、燈火をはさんで兵書を講じる声がする。
若き史進は、めきめき上達をしめし、また何よりは王師範の人柄にも感化された。いや師範の都ばなしだの雑談の端にすら、ただならぬ興味をもって、元来、山家育ちの矇は、ようやく、自分の居るところの程度の低さを知ってきた。そして広い大きな世上へと、自然、その若さは疼きを擡げだしていた。
いつか、一年余の歳月はここに流れた。
王進は、この頃になって、つらつら思う。
「……これはいかん。九紋龍は稀に見る天才児で、わしの武芸十八般の秘奥までよく会得してきたが、しかし親の太公の望みは、史進に名主役の跡目をつがせて、早く老後の安心をえたいとするにあろう。生半可、彼が世上慾に目をひらいて、先祖代々からの庄屋づとめや百姓仕事を嫌いだしたら、かえって、わしの仕込んだ道も、史家にとってはあだになる」
そう思いついたので、ある日のこと。
「長々お世話に相成ったが」──と、彼は急に、身の都合を言いたてて、あるじの太公へ、暇乞いを告げた。
「母が申すには、脚腰の達者なうち、どうしても先にこころざした延安府へ行って暮したいと望んでやみません。ご子息へはもう不肖の武芸はのこりなくご教授申しあげた。……どうぞご一家にはこの先ともごきげんよく」
ふいの別れを述べられて、太公はおどろき、子の史進も悲しんだ。けれど、いかに引きとめても無駄だと知ると、さて惜別の宴には、銀子や餞別の品々を盛って、王進母子に捧げ、かつ出立の日となると、馬や供人をも添えて、関西路へ向う隣県まで、ねんごろに送らせた。
──だが、そのあと。
残された史進は、ぽかんと虚脱に落ちてしまった。たまらない寂寥が彼をして毎日酒にひたらせて行った。いや、さらに大きな空虚は重ねて彼の一身を襲った。その秋、父の太公が、とつぜん病死したのである。
これも手つだってか、彼の放縦は自暴の相を帯びだした。元々、百姓は性に合わないといっている彼なのだ。家事はいよいよかえりみもしない。その荘院には、つねに百姓らしからぬ無頼のみを寄せ集め、ただ武勇を誇っては、遠近に喧嘩の相手と機会を求めてばかりいた。されば史家村の九紋龍史進といえば、この頃、泣く子も黙る名となっていた。
山波の影は遠く望まれるが、人里からはどの辺かよく見当もつかない彼方だ。ここに、華陰県の山また山の奥、少華山とよぶ一峰がある。
天地は人間のもの、その人間は生きものだ。おれたちがここに山寨をむすんで、こう生きているのに、何の不思議があるか、と誇りでもしているように近づけば、その少華山の山腹にも、さかんな人煙人語があるのであった。
「おい楊春。どうもこの頃は、さっぱりじゃねえか。……陳達はまだ岩窟の中で寝こけているのか」
「そうらしいて。なんでも奴あ三日ほど前から、蒲城県の方へ降りていって、何かうまい仕事はねえかと、狼のように嗅ぎ歩いたっていうんだが、ゆうべおそく手ぶらで帰ってきやがった。よくよく下界も飢饉年らしい」
「そうじゃあるめえ。おれたち山寨の六、七百人もが、ついこの春までは、下界の貢ぎで悠々と王者みてえに食ッてられた世間じゃねえか。それが昨日今日、急に酒や肉にも干あがるてえなあ、ふしぎだよ」
「陳達もぼやいていたが、どう考えても、こいつあ、やっぱり華陰県の県城で、布令を廻しゃあがったせいだろうぜ。なんでも、おれたち三人の頭目の首に、銭三千貫の賞を懸けて、諸所の街道に高札を立て、旅人の夜歩きを禁じたり、土民の自警隊を奨めたりしているそうだから」
「ばかにしてやがら。そんな金が役署にあるならその金をこっちへそのままよこすがいい。半年ぐらいは山を出ずに、大人しくしてやるものをよ。はははは」
夏ながら山は不断の霧が冷たい。巨大な寨の柵門の内には、怪異な男どもの屯やら焚火が諸所にけむっている。中にも岩戸の階、岩穴の一大殿堂をうしろに、酒を酌みあっている一トかたまりがあった。それぞ少華山の山賊七百人の頭目、神機軍師朱武や白花蛇楊春らの車座だった。
するとなお、岩窟の口から、また一人、
「なんの評議かとおもえば、また芸もなく飲んでいるのか」
大きな伸びをしつつ、のっそりと石階を降りて来た者がある。たった今、二人が噂していた跳澗虎陳達だ。これも三頭目の一人なのはいうまでもない。
「おう陳達か。──芸もなくといわれちゃあ面目ねえなあ。したが、三日も山寨を留守にしたおめえにしろ、やはりなんの土産もなかったじゃねえか」
「ちげえねえ。だが、ちょっと耳よりな土産はあるんだ」
「なんだい、耳よりたあ」
「帰る途中で、兎捕りの李吉っていう猟人を捕ッつかまえて聞いたことだが」
「はははは、かあいそうに、兎の皮はぎを捕まえて、そいつの皮をまたはいだのか」
「ばかいえ。この陳達が、そんなしがねえ猟人や百姓いじめをするものか。お互い三人が義の盃を交わしたとき、第一に誓ったのは、盗賊はしても弱い者泣かせはしまいぞということだった。李吉の手引きで、おれが目ボシをつけたのは、そんなケチな相手じゃねえ」
「ふウむ。猟師の李吉に手引きさせて、どこへ押込みに入ろうというのか」
「史家村の大荘院よ。あの旧家は見かけ以上な物持ちだそうだ」
「兄弟。そいつアよしねえ。史家村ときちゃあ鬼門だろうぜ」
「どうして」
「そこの名主といやあ、九紋龍の家だろう。とんでもねえ話だ。あいつに当って行けるものか。しかも県城の役署からおれたちの首に三千貫の賞金が懸っていることも承知だろうし、手具脛ひいているものと覚悟もせざアなるめえが」
「ところが、李吉のいうにゃあ、なるほど九紋龍の腕前は、四県無敵ッてえ評判だが、なんたって、旧家のお坊ッちゃんだ。誰でも負けてやりさえすれば客にして、幾日でも泊めておき、酒を飲ませたり餞別をくれたりだから、つまりは浪人者のいい食いもの。おそらく、ほんとうのとこは旦那芸ぐらいな腕だろうというんだが」
「あてにはなるめえ。李吉が試してみたわけじゃあるめえし」
「うんにゃ、そんなことアべつにしても、この陳達には自信がある。生れ故郷の鄴城では、長鎗の跳澗虎といわれたおれだ。二十歳そこそこの青二才に、おれたち少華山の三頭目が、恐れをなしているといわれるのも我慢がならねえ。まして金持ちの荘院じゃねえか。なんで指を咥えていられるものか」
陳達は豪語してやまなかった。朱武と楊春が、止めれば止めるほど、意地にもなって、
「よし、それじゃあ、おれ一人でもやってみせる。おめえたち兄弟は、酒でもくらっているがいいや」
とばかり、即刻、二百ほどの手下に、出触れを廻し、自分も戦陣へでも臨むような身支度にとりかかった。
そのいでたちを見るに、緋房のついた鉢兜、鋳物綴りの鍍金の甲、下には古物ながら蜀江の袖をちらつかせ、半月形の革靴をはいた。そして、組糸の腰帯に、刃幅の広い大剣を横たえ、山路に馴れた白馬のくらにりゅうとして乗りそびえた姿は、さすが少華山の賊将、われから豪語したほどなものはある。
手にかいこんだ長鎗を、一振り横に振って、西の麓を穂先で指し、
「さあ、山を降りるまに、日が暮れよう。男と思う奴らは、おれにつづけ」
二百ぢかい手下が、銅鑼や太鼓を鳴らし、柵門で一度、わあっと気勢をあげた。そしてたちまち、一列の黒蛇となって麓の方へ沈んでいった。
「あぶねえもンだな。どうも近頃、陳達は少しあせり気味だぜ」
「三人の中では一番の年上だ。自分でも頭目ちゅうの頭目と任じているんで、ここンところの山寨のさびれを見ちゃあ、じっとしていられねえような気なんだろうよ」
「そうだとしたら、イヤなんとも、足も心も進まねえ相手だが、おれたち二人も、こうしちゃいられまいぜ」
朱武は元、定遠州の生れ、戦う場合は、よく両刀を使うが、得意はむしろ兵法と謀略にあるとは、彼自身がいうところだった。
また白花蛇楊春は、蒲州解良の人、大桿刀の達人だった。腰は細く、臂は長く、綽名のごとき妖蛇の感じのする白面青気の男である。
さきの陳達といいこの二者といい、いずれも元は江湖の処士や良民だった者だろう。しかし宋朝の治、徽宗帝の奢り、ようやくその紊れやら腐敗を世路の辻々にまでただらしてきたので、いずれも正業に生きる馬鹿らしさを思って、野性の自由をほしいままに、この少華山などへ緑林(盗賊)の巣を構えたものにちがいない。
一刻おいて、この二頭目もまた、大勢の手下をつれて、史家村へ降って行った。行くほどに夜は更けてゆき、やがて黒い夜霧の底に、ぼやっと赤い火光が見えだした。史家村の方角に間違いない。楊春は馬をとめ、後ろの朱武の影へよびかけた。
「やってるぞ。あの火を見ろ。陳達はもう九紋龍の家へ乗りつけている。兄貴の難を見捨ててはおけまい。急ごうぜ」
ところが、まだ麓へも出ないうちに、陳達の小頭や手下どもが、さんざんな態で逃げ走ってきた。
「──どうした?」と訊けば、村には備えがあり、警板や銅鑼を合図に、たちまち、九紋龍の家には小作人や荘戸(村人)の若者輩が、まるでよく訓練された兵隊のように集まってきて、たちまち守りを固めてしまったという。
しかし陳達の指揮下にある賊も、「なんの百姓輩が」と、門へ向って馬群をおめかせ、また脅しの早鉦だの銅鑼を打ち鳴らした。ところが、どうして相手は手強い。矢かぜや投げ火の下で、やがて大乱戦となっていった。そのうち九紋龍自身も打ッて出てきた。そして味方の陳達と一騎打ちになったので、互いに火を降らすことかと思っていると、呆ッ気なく、陳達は長鎗を叩き落され、苦もなく九紋龍のために手捕りにされてしまったというのである。
「ふウむ。強さのほどは察していたが、そんなにも強い九紋龍なのか」
「てんで、おはなしにも何もなりません」
と、手下どもはまったく闘志を失っていう。
けれど、朱武と楊春は、まさかここから逃げ戻れもしない。それこそ山寨七百人の手下の信望は地に墜ちてしまう。といって、最初から九紋龍史進に立ち向えるうぬ惚れもなかったのだ。楊春はその白面を一そう蒼白にして。
「どうする。兄貴」
「こうなっては、どうもこうもない。おれにまかせろ」
朱武が得意とする智略が、何かひらめいたものだろうか。朱武は、たちどころに、手下のすべてに足止めを命じ、自分と楊春の二人だけで、史家村の内へ近づいていった。
すぐ見つけた荘戸の土兵は、二人を取り囲んで門内へしょッ曳いた。──見ると、邸内の広い柳園では、諸所に篝を焚き、まん中の一樹に生け捕ッた陳達を縛りつけて、今しも、それを肴に大ざかもりの最中だった。
「なに、朱武と楊春の二頭目が自分から縄目を望んでこれへ来たと。はてなあ。そいつはどうも眉ツバものだが」
史進は、陶の酒樽に腰かけていた。
鱗革に朱紅の漆やら摺り金箔をかけた甲を着、青錦の戦襖に黄色の深靴をはいていた。そして側には一張りの弓を立て、腰には両刃三尖の八環刀を佩いて、久しぶりな闘争の発汗に会ったためか酒の色か、いかにも快げな眉宇に見える。
「よし。とにかく二人を曳ッ張ってこい。たぶん偽者だろうが、どんな嘘をいうか、聞いてみるのも一興だ。もっと篝火を明るくして、おれの前に引きすえろ」
朱武、楊春の二名をまだ見ぬうちから、彼は充分に疑っていた。もし本ものだったら、これ幸い、三頭目を一ト束ねに首斬って、さらにもう一杯の酒のさかなにするつもりだった。
しかるに彼は、やがて朱武と楊春がこもごも述べたてるのを聞くうち、次第に酒の面をさまし、果ては、涙すらこぼすのだった。──朱武はひとしお言葉に憐れをこめて。
「どうぞ、われわれ両名も、兄貴の陳達とともに縄目として、県城の役署へつき出してください。聞くならく三名の首には、三千貫の賞がある由。その金をば近郷の窮民へお頒ちくださればなおのこと本望です。……もともと、陳、楊、朱のわれら三名は、賊となるとも義賊たらんと誓い、死ぬ時も一つにと、血をすすって義兄弟の約束をした仲でした。いま兄貴の陳達が捕われた以上は、あとの両名も生きてはいられませぬ。またお手むかいをしてみたところで敵わぬあなた。いざ、どうなりとご処分を」
史進の純情はすっかりそれに打たれたらしい。山賊にもこんな義心があるかと思い、彼らが貧民の味方だというのも、大いに気に入った。かつは太ッ腹な史進なので、その寛度を大勢の荘戸の者の前で示すことも愉快でないことはなかったろう。
「おい、陳達の縄を解いてやれ。そしてこの三人へも杯をやるがいい」
史進は瞬間、声も出ずにいる三人へ、大容にまたいった。
「盗ッ人にも三分の理、仲間同士では義理固いとも聞いたが、そこまで義に厚いのは感心だ。安心しろ。おれは腐れ役人の手先になんぞなるのは生れつき大嫌いだ。賞金なぞは手にもしたくない。さあ一杯飲んで、足もとの明るいうちに少華山へでも何処へでも、とっとと消え失せろ。その代り、この近郷三県で百姓いじめをすると聞いたら、いつなんどき九紋龍が行って、その首をお貰い申すかしれねえぞ」
三人は地に這って、九紋龍を百拝した。あげくに酒と涙を一しょに呑んだ。たとえば恩を知る動物が人の手から放たれでもしたようである。やがて振り返り振り返り、暁まだき史家村から元の少華山へ立ち去った。
史進、家郷をすてて渭水へ奔り、魯提轄と街に会うこと
彼らの仲間うちでも〝虎は平伏した餌食は食わぬ〟という諺を知っている。「──九紋龍の度量はそれなんだ」と、楊春も陳達も、朱武も以来すっかり史進に心服してしまった。
史進の方では、そんなことなど、いつか忘れてしまっている。すると或る夜の宵の口、一荷の贈り物を担いだ山賊の手下が、こっそり、史進の屋敷へやってきて、
「ご恩返しというほどな物でもござんせんが、てまえどもの志だけを、どうかお納めなすっておくんなさい。いや申し忘れましたが、山の三頭目からも、くれぐれよろしく申しました」
と置き捨てるように、おいて帰った。
あとで開けてみると、獣皮やら山の物の種々、それに三十両ほどな金ののべ棒も入っている。
史進は笑った。
「なんだか、余り貰い心地がよくねえな。だが、奴らにすれば、精いッぱいな善意だろう。まあいいや。金はまた何かいい折につかってやろう。取ッておけ取ッておけ」
ところがその後も何くれとなく、ちょいちょい山から贈り物が届けられる。時には見事な宝石などもよこした。
史進もまた、こう貰ってばかりいてはと思って、家に伝わる紅錦織を三領の袍に仕立てさせ、脂ののッた美味い羊の焼肉を大きな盒へいれて、日頃の礼にと、山寨へ届けさせた。
史家の奉公人頭に王四という男がいる。使者にはこの男に作男一人をつけてやった。二人が麓まで行くと、山賊の見張りに捕まった。しかし、
「九紋龍さまのお使いで」
と聞くや、彼らが先に立って、山寨へ案内した。なおまた、朱武たち三頭目も、王四の労をねぎらって、下へもおかない。酒や馳走を出して、
「一日も史進どののご恩は忘れていない」
といったりした。そして、使いの二人へ、帰りがけには十両の銀子をくれた。
史進は、王四の復命をきいて、
「そんなに歓んだか。また、そんなにも、おれのことをいってたのか」
と、これも悪い気はしなかった。
こうして、彼らとのつきあいが深まるにつれ、史進は相手が山賊であるなどという念もなくなっていた。ただ男と男の交わりとしていた。
そのうちに、秋もなかばの頃、史進は月見の宴を思い立った。ひとつ仲秋の名月に酒壺を開いて、あの朱武、楊春、陳達らの三人と、思うさま飲んだり話してみたいものだと考えた。そこでまた、いつもの王四に、招待状を持たせて少華山へやった。
朱武たちが歓んだのはいうまでもない。
「──必ずまいる」
と返書をしたため、それに四、五両の使い賃をのせて、王四へ渡した。そのうえ十碗あまりも酒を飲ませて帰したので、王四もすっかりごきげんになってしまった。
ひょろり、ひょろり、山路を千鳥足で降りてくると、日頃、顔見知りの山賊の手下に出会った。
「……よウ、大将」と王四が抱えこむと、その男も酔っていて、
「やあ、王サマか」と、ヒゲ面をこすってきた。そして漁樵問答ならぬベロンベロン問答の果てである。頭と頭とを絡み合った四本の脚が、またぞろ、麓の居酒屋へよろけ込んだ。
──だいぶ飲んだに違いない。
その晩、相手の男と別れてから、王四は途中の芒原で寝てしまった。事これだけなら、その一睡は無上天国そのものだった。ところが折ふし通りかかった猟人がある。これなん兎捕りの李吉で、さきに陳達を手引きして史進を襲わせたのもこの男だ。そのことでは思うつぼも外れてしまい、以来、村人からは白眼視されていたが、もともと狐狸以上な狡さを持つ李吉だった。今も今とて、蹴つまずいたとたんに、
「おやおや、こいつあ、史進の家の王四だぞ。はてな?」
酒臭い正体なしの体へ寄って、親切ごかしに胴巻を撫で探っていた。すると銀子と手紙が手に触れたらしい。李吉は狐のような眼をくばった。
──翌朝。李吉がその手紙を持って、県城の役署へ密訴に馳けこんでいたころ、一方の王四は、ひどく冴えない顔つきで、主人史進の前で、復命していた。
「行ってまいりました。──ご芳志にあまえて、ぜひ参上いたします、という三頭目のご返辞でございました」
「いま帰ったのか王四。たいそう遅かったじゃないか」
「どうもその、つい山寨でご馳走になっちまいましたので」
「酒を出されると目がねえンだろう。まあいいや、それよりも早く調理場へ行って、あしたの料理の支度やら倉の中の器物などを出させておけ」
次の日は仲秋節。──史家の小作や奉公人は、昼から莚席の支度に忙しかった。羊を屠り鶩や鶏をつぶすこと、何十羽かわからない。前日から煮きこめた百珍の料理は銀盤に盛られ、酒も家蔵の吟醸を幾壺となく持ち出して、客の前において封を切るばかりに用意していた。
──ほどなく、朱武、陳達、楊春の三人は、かねて史進から贈られた紅錦の袍を具足の下に着て、時刻たがえずやってきた。
接待は土地の壮者や村娘たちである。史進は、上座に三名をすえて、
「おお、よくぞお越しくだすった。昔から好漢は好漢を知るという。月もよし、桂の花影、ひとつ今夜は、心ゆくまで語ろうじゃありませんか。さあどうぞ、おくつろぎなすッて」
と、盞をあげ合った。更けるほどに、月は冴えを増し、露は珠を桂にちりばめ、主客の歓は尽きるところがない。談笑また談笑の沸くごとに、一壺の酒は空になるやと思われた。
そのうちに、ふと、史進も客の三頭目も、何かへギョッとしたらしく口をつぐんだ。広い土塀の外を囲んで、潮のような人馬の気配がひしひしとする。耳をすますと、こう聞えた。
「やあ史進、門を開けろ。開けねば蹴破るぞ。この荘院内に、こよい少華山の賊どもが会合しておると、訴人あって明白なのだ。四隣八隅、遁れんとて、遁るる道はない。賊を渡すか、踏み込もうか。いかにいかに」
「さては、訴人があって、県城の捕手が、襲せてきやがったか、花にあらし月に雲だが、こいつアちっと早過ぎる」
史進は、舌打ちして。
「お客人。なにも慌てることはない。しばらく、そのまま飲んでおいでなさい」
彼は酒席から走り出していった。
梯子をかけ、梯子の上から、門外の人馬へ何かどなった。おびただしい松明のいぶりである。十文字鎗、五ツ叉の戈、袖搦みなどの捕物道具、見るからにものものしい。
「おうっ、主の史進か。このほうは県城の県尉であるぞ。汝の手で、賊をからめて突き出せばよし、さもなければ」
「まあまあ、お静かに願おう。せっかく、賊の三頭目を招いて、うまく酔いつぶさせようとしているところへ」
「では、賊と汝とは、同腹ではないと申すか」
「笑わしちゃあいけません。大口を叩くようだが史家村一の旧家、親代々からの大名主だ。山賊ばらとぐるになって、なんの徳があろう。それよりは、三千貫の賞金は下さるでしょうな」
「もとよりそれは公布にあること。ただし即座にここで突き出せばだが」
「だからよ、少し鳴りをひそめて、ここを遠巻きにして待っていておくんなさい。酒を飲ませて奴らを数珠つなぎに引ッ縛り、そのうえで、ここの門を開けますから」
史進は、もとの宴へ帰ってくると、家人若者に命じて、にわかに、家蔵にある金銀財宝の目ぼしい物をまとめさせ、女子供からそれらの荷物までを、数十人の屈強に担わせた。そして屋後の藁ぶき小屋へ、火をかけろといいつけた。
驚いた三頭目は、
「な、なんでこのお屋敷を焼き払うので? ……まさか、われらを庇うためではございますまいな」
「いや、身の潔白をしめすためだ。こよいの出来事は、まるで貴公たちを罠にかけたようなものだから」
「ご冗談ではない。何が起ろうと、九紋龍どのが罠に陥したなどと思うわれらではありません。おうっ、待ってください、火をかけるのは」
一方へは絶叫しながら、彼らはみずから後ろへ両手を廻し、覚悟のほどを見せて言った。
「かばかり潔いあなたに、山賊渡世のわれらが、おつきあいを願って、こんなご迷惑をかけたかと思えば、手前どもこそ申しわけがない。さあ、年貢の納めどき、われわれに縄打って、県城の役人へ突き出しておくんなさい」
「ばかをいえ。そんなことをしたら、史進一生の男がすたる。おれにそんな真似をしろというのは、おれに乞食をしろというのもおなじだ。……おお火の手はあがった。ともかく、ここは斬りひらいて、一時、おめえたちの山寨へ落ちのびようぜ」
邸内の火を見て、門外の喊声もまたあがった。すでに、史進が鎗を小脇に門の閂を外して躍り出したので、朱武、楊春、陳達らもともに斬ッて出ざるをえなかった。
黒けむりはたちまち疾風雲の翔けるに似、名月は血の色そのまま、剣光の雨と叫喚を下に見ていた。──まもなく掃かるる風葉のごとく、県尉の馬や捕手の群れは逃げ散ッた。
また一方。少華山へさしてヒタ走りに走った人影の列もある。そして、すべてが去った史家村の寂たる暁を、なおまだ、旧家百年の大棟木だの土倉だの四隣の木々は、ひとりバチバチと火をハゼつつ旺な炎を狂わせていた。
おもえばおれも愚かしい。──と史進は自嘲して呟いた。──先祖はさだめし嘆くだろう。だが持って生れた性分ではしかたもない。あのとき、あの身代よりも、三人の賊に対する一片の義の方が重い気がしたのだから、こんな子を生んだ罪はやっぱり先祖にあるんだ、と。
「……だが、この山寨に、いつまで、なすこともなくいたところで始まらない。そうだ、今は家蔵もない身まま気ままの体、先年お別れした王ご師範を尋ねて、延安府へ行ってみよう」
少華山へ隠れてから約一ト月ほど後のこと。
九紋龍史進は、思い立った胸を三頭目に打ち明けて、
「すまないが、ここへ避難した奉公人や若者は、時をみて正業に返してくれ。持ってきた金銀は、その折り、皆で分けるがいい。おれは、師匠の王進先生を尋ねてこれから関西の旅につく」
もちろん、朱武、陳達らの賊頭も、村の人々も彼との離別を悲しんで、極力とめた。けれど、この流離たるや、そもそも史進その人が、生れながらにして百八星中の一星たる宿命だったことによるものだろう。──やがては、芦花散る江頭の船べりに霜の戈をならべ、葭の葉かげに戦艇をしのばすなどの水滸の寨に、かの天罡地煞の諸星を会するにいたる先駆の第一星こそ、まさにこの人だったのである。
──さて、少華山を去って。
飄としてここに旅へ吹かれ出た史進の姿は、いかにも宋朝時代の若人好みな粋づくりだった。
白羊羅紗の角を折った范陽帽子には、薔薇色の纓をひらめかせ、髪締めとしている紺の兜巾にも卵黄の帯飾りをつけている。
あくどい原色は嫌いなのだろう、服地も白麻の裾みじかな戦袍で、紅梅織の打紐を腰帯とし、美しい長剣をつるし、青と白との縞の脚絆という軽快さ。もちろん足拵えは長旅に耐えうる八ツ乳の麻沓だった。
だが、身なりは粋に好んでみても、旅の宿とか食い物は選べもしない。野に伏し山に寝ねだった。それも二十日余りの旅路。ほどなく渭州という一市街についた。
「ははあ、ここにも経略府(外夷の防寨関)の一城があるのだな。ひょっとしたら、王ご師範の消息がわかるかもしれぬ」
歩いてみると、城内も六街三市といった賑やかさだ。雑閙の角に、茶舗が出ている。ずっと入って、床几から、
「おい、おやじ。泡茶でも一杯くれ」
「はい、はい。……お客さまは、旅の衆でいらっしゃいますか」
「そうだ。おやじは知らんか。もと開封東京のお方で、王進師範と仰っしゃる人を尋ねてきたのだが」
「さあ、ここの経略府にも、王氏と名のるお方は幾人もおいでなのでなあ。どの王さんやら、それだけでは、どうも」
すると外から大股に、ぬっと入ってきた壮漢がある。かたぶとりな肉塊を濃緑の緞子の戦袍でくるみ、頭には黒紗の卍頭巾、それには金色の徽章がピカと光っている。
さらに眼の光もただならず、丸ッこい赫ら顔を、もじゃもじゃした髯が取り巻いている。また腰なるは、太原風の帯ヒモとそして金環の飾りある剣。──問うまでもなくこれは軍装である。しかも身長仰ぐばかりであり、腰まわりも普通人の倍にちかい。
「おおこれは、提轄(憲兵)さまで。……ちょうどよい折へ。そこなお客さま。お尋ねのお人とやらのことは、こちらのお方へ訊いてごらんなされませ」
史進は、床几を立って、ていねいに、
「ぶしつけですが、ものをお訊ねいたしますが」
「なんだ。なにかわが輩に用か」
「いえ。私は華州華陰県の者で、史進と申しますが、もしや当地に、もと東京におられた禁軍の師範王進というお方がおいでではございますまいか。或いはまた、なんぞそのお方のお噂でもご承知はありませんか」
「うんにゃ……」と、提轄はヒゲ面を横に振ったが、ぎょろっと見つめて、
「王師範は当所にはおられんが、しかし、あんたは、もしや史家村の史進じゃないのか」
「えっ、どうしてご存知なんで」
「なるほど、聞きしにまさる者だ。貴公のことは、もうかねがね聞いておる。また、お訊ねの王師範も知らんではない」
「失礼ながらご尊名は」
「経略府に勤務する提轄で、姓は魯、名は達」
「魯提轄と仰っしゃるか。いや初対面とも思われない。こりゃどうも」
「そうだ、こんな縁を、かりそめごとにしてはすまん。どうだ、茶ではつまらん。どこぞで一献あげたいと思うが」
「ありがとうございます。しかし王師範は、いったいどこにおいでなので」
「この渭州の守護は、延安府の経略使种閣下のご子息が当っておられる。貴公が会いたがっている王師範は、たしか、种閣下をたずねていったお方だろう。たぶん今でも延安に居るよ」
「そう伺って、ひと安心した。では、おことばに甘えて、お供いたしましょう」
「おやじ」と、魯提轄は、憲兵らしい顔をきかせて「──茶銭はおれにつけておけ」
二人は肩を並べて往来へ出た。
魯達の恰幅も、史進の姿も、行きかう市の群集の中では群を抜いてみえる。
行くこと数百歩、ちょっと歯の抜けたような町中の空地に、何やら真っ黒に見物人がたかっていた。
気まぐれに、二人が人の肩ごしに覗きこんで見ると、どうやら香具師が口上を述べたてているものらしい。
香具師もいろいろだが、ここの空地でシャ嗄れ声を振りしぼッていたのは、三十がらみの痩せ浪人といった風な男。垢びかりした黒い袍に幅広な平帯の房を横に垂れ、反りの強い象牙柄の刀を佩いて、半月靴の足の先をやたらに右や左と交互に刎ね上げ、そして喋る間に水洟をすすッたり、時にはチンと手洟を放って、その雄弁をふるっている。
しきりに、飛躍させているのは、足ばかりではない。左手にも右手にも一本ずつの杖を持ち、言に応じ、気合いに応え、二本の杖を、二本の傘のごとく旋して見せた。
──それから、めッたに大道では公開しない秘術のかずかずを今日はごらんに入れよう──といっているような口上振れの最中だった。
「や、や。こいつあ奇遇だ」
とつぜん、史進が人中で呟いたので、魯提轄はその大きな眼を連れの顔へもどして。
「え、奇遇。あの香具師を、貴公はどこかで知っているのか」
「知ってるどころじゃありません。少年の頃、村で棒の手ほどきをうけた打虎将ノ李忠です」
そのとき、香具師の李忠の方でも、気がついていた。
「やあ、坊っちゃんじゃありませんか」
「やっぱり師匠だったね。何とこれは珍らしいところで」
「師匠なんて呼ばれちゃあ赤面します。お宅さまには長い間、居候していた厄介者の李忠に過ぎない」
魯達が、横から口をはさんだ。
「そんなことあ、どうだっていいや。これから飲みに行く途中だ。貴様もこいよ」
「待ってください。いま見物へ膏薬を配ったところだ。その銭を集めてから、お供をする」
「なんだい、じれッたいな。効きもせぬ膏薬などを売りつけやがって。早くしろよ」
「まあ待ってくださいよ、こっちは商売、先はお客、そう手ッとり早くはいきません。なンなら、先へ行って下さい。坊っちゃんも、提轄さんも」
「こらっ、見物人ども」と、魯達は、たちどころに憲兵づらを作って。「──横着顔して、すッとぼけるな。はやく香具師へ銭を投げてやらんと、ぶん殴るぞ」
毛の生えている魯達の拳骨を見ては、もうおしまいだ。銭などはビタ一文も降らず、見物の男女は、クモの子みたいに一ぺんに逃げ散ってしまった。
晨に唄い女翠蓮を送って、晩霞に魯憲兵も逐電すること
渭州でも街なかの州橋橋畔に、潘飯店という酒楼がある。まず魯達から先に入った。
「こら。空いてるか、二階の卓は」
「オオこれは提轄(憲兵)さまで。よくいらっしゃいました。さ、どうぞ階上へ」
どこへいっても、魯提轄の職権と風貌とでは恐もてときまっている。帳場のあいそもソラ耳に、彼は史進と李忠のふたりを伴って二階へあがり、そこの一卓を繞って、三人鼎のごとき大腰をおろし合った。
「おい。酒を早く出せよ。それから前菜はいうまでもないが、なんでも、美味い料理をどしどし持ってこい」
卓の賑わう間を、お互いに頬杖などして、四壁を見ると、金箔板の聯(柱懸け)に朱を沈めた文字で、
風ハ滞ル柳陰太平ノ酒旗
酒ハホドク佳人ノムネノ縺レ
杏花アマクシテ志イマダシ
シバラク高歌シテ酔郷ニ入ラム
などとある対句が読まれる。
世事の慷慨、他愛もない談笑、三人はすっかりいい機嫌になりいい仲になった。酒も四角(四合入りの酒瓶)を何度卓へ呼んだことやらわからない。──だが時折、魯提轄の神経を針で突ッつくような興醒めが洩れてきた。さっきから、どこかでシクシクいっている女の啜り泣きである。彼はついに持ち前の癇癪を起し、片足で床をどんどんと踏み鳴らしながら呶鳴った。
「やいこらっ。給仕人」
「へい。四角のお代りですか」
「ばか野郎、いくら飲んだって、そばからすぐ醒めてしまうわ。なんだい隣部屋の雨だれみたいなベソベソは」
「どうもその……。あいすみません。お耳ざわりになりましたか」
「あたりまえだ。貴様にだって神経も耳もあるだろうによ。お連れしたわが輩のお客にだって相すまん。女だろ、あの泣き声は」
「酒楼あるきの歌唄いの親娘なんでございますがね」
「ふウん。では貴様が弱い者いじめして泣かせやがったな」
「ご、ご冗談を。……それどころじゃなく、まだ夕方の灯にも間があるしと、隣の部屋で点心(菓子)などをやって宥っておいたんですよ。すぐ追ッ払ってまいりますから」
「待て待て。貴様でさえ可哀そうだと思ってるものを、追ッ払わせて、それでわが輩の酒が美味くなるもんか。連れてこいっ、ここへ」
「かまいませんか。親父付きの娘でございますぜ」
「たわけめ。色気などじゃない」
──油じみた境の帳を割って、やがて連れられてきた歌唄いの父娘を見ると、もちろん夜の町でよく見る貧しげな流シの芸人。おやじは四ツ竹を持ち、娘は胡弓を抱えている。
うす寒げな白の袗衣に、紅羅い裙子の裳を曳き、白粉痩せは、その頬に見えるだけでなく、肩にも弱々しげな翳がある。だが、髪にとめた安翡翠の釵一つが、さして美人でもないこの娘の可憐さを、いとど秋の蝶のように眺めさせた。
「……やりきれんなあ、またここでも泣かれちゃあ。頼むから、泣くのだけはよせ。それよりは、何を悲しむのか、その理由をひとつ訊かせないか」
「はい……」と、娘はやっと、嗚咽から袂を離した。そして、さっきからただ、詫び入るばかりだった老人とともに、
「わたくしたちは、もと開封東京の者でございますが、重い税にくるしめられて、商売もなりたたず、この渭州へ流離うてまいりました。ところが、心あての身寄りも今はいず、旅宿住居のうえに、母も長い病患で亡くなる始末で、もう売る物とて何一つございません。……で、つい人様の口に乗り、さるお方の世話になったのが、そもそもこんな苛責と因果にしばられる間違いだったのでございました」
と、〝街のダニ〟ともいうべき悪辣な男の罠にかかった始末を、ようやく恟々と打ちあけだした。
よくある手で。──途方に暮れていた宿屋住居のこの父娘にも、まるで地獄に仏のような親切者があらわれた。
世の中にはこんな親切なお方もあるものか、と拝むばかりに信じさせておいたところで、男は宿屋の亭主をつかって、妾になれと、半ば脅迫じみた話をもちかけた。ぜひなく身をまかせると、次には、家に入れて家具衣装も揃えてやろうが、それにはお前という者の体に大きな資本をかけることだ。身代金三千貫の証文を書けという。
ところが、身は引取ってくれたものの、本妻というのは老虎のような強い女で、三月ともたたないうちに、その家からいびり出されてしまった。それのみか、衣服一枚くれるでなし、もちろん、先に書かされた証文の金など、鐚一文もくれはしない。
あまっさえ、その後となると、こんどは男が空証文をたてにとって「──先に渡した身代金を返せ」という強談判だ。宿の亭主も事が嘘なのは、百も承知のくせにして、ぐるになってか、高利の日金貸みたいに日々、父娘を責めたてる。しかも父娘はこうして夜な夜な渭州の紅燈街に、儚い四ツ竹と胡弓を合奏せて、露命もほそぼそ凌いでいるありさまなのに、塒に帰れば、稼ぎの七分は、まず鬼の手に搾取されてしまう始末。「……もう死ぬよりほかには」と、つい狭い心につきつめられておりました、と語るのであった。
「……ふウム。ひでえやつがあるものだな。して、おやじさん、おまえの名は。また娘御はお幾ツだえ」
魯提轄は涙もろい。ぼつ然たる憤りの半面では、時々、瞼をぱちぱちさせていた。
「はい、てまえの苗字は、金と申し、娘は翠蓮といって、十九になりまする」
「泊っていなさる宿屋ってえのは」
「東門内の魯家という安旅籠でございますが」
「む。あの魯家か。いや、かんじんなのは、そいつよりも、親切ごかしに人の娘を弄んで、その上にもなお、おめえたちのしがねえ夜稼ぎの小銭まで搾り奪ろうとしている悪どい野郎のほうだった。いったい、そン畜生は、どこのどいつだ?」
「そんなことを喋ると、あとでまた、どんな恐ろしい目に会わされるかしれません」
「ばかアいえ。わが輩は州の提轄(憲兵)で人も知る魯達だ。恐がらんでもいい。わが輩がついている」
「じつは、そのお方というのは、鄭の大旦那さまでございます」
「鄭の大旦那?」
「はい、状元橋の西詰めで、大きな肉舗を構えていらっしゃる関西きッてのお顔ききの……」
「えっ、あの鄭か」と魯提轄は、ベッと唾でもするように唇を鳴らして「──鄭の大旦那なんてご丁寧にいうから、どいつのことかと思ったら、あの豚殺しのデブ野郎だったのか。ようし、わが輩の耳に入った以上、ただではおかん」
魯達は、連れの史進と李忠へ向って。
「お二人とも、ここで飲んでいてくださらんか。一ト走り飛んでいって、その悪党めを一ツうんと懲らしてまいるから」
史進は、彼の短気なのに、呆れ顔だった。
「まあ、明日のことにでもなすったらどうです。せっかく今日は三人邂逅の愉快な鼎座。酒も話もまだこれからなのに」
「なるほど。それもそうか──」魯達はやっと、思い直した態で。「……じゃあ、ここでわが輩が持ち合せの五両を出す。すまないが貴公たちも、この不愍な酒楼芸人のために、一夕の歌でも唄わせたと思って、餞別をやってくれんか。……それを路銀に故郷へ帰してやりたいと思うが」
「おお、よいところへお気がついた」
史進はすぐ十両出した。だが、膏薬売りの李忠には、ちょッと辛い。しぶしぶ二両ほど卓の上へおくのを見て、魯達は爪の先で、それをぽんと弾き返した。
「何だ、吝ッたれやがッて、二両ばかしとは。──まアいいや、爺さん、十五両もありゃあ、宿屋払いをして、あとを路銀に国へ帰れようが。……あれまた、シュクシュク始めやがったぜ。よせやい、湿っぽいのはわが輩、大の禁物だと断っているじゃないか。さあさあ、これを持って今夜は流シも休み、早く宿へ帰って身始末の算段でもしておきねえ。なアに宿の亭主が何と吐かそうと、そんな心配は一切するな。わが輩がまた明朝、宿屋の魯家を覗いてやるからな」
これで、さっぱりしたのだろう。金翠蓮父娘が何度も伏し拝んで立ち去った後も、三人は灯ともる頃まで、快飲していた。そして蹌踉と夜の街へ歩き出ると、やがて四ツ辻で、
「──ではまた、いつか会おうぜ」
と史進、李忠、魯提轄、各〻帰る先へ袂を別った。
翌朝のことである。──魯達はもう例の憲兵服を纏った偉躯を場末町にあらわして、安旅籠の魯家の入口に立っていた。
見ると、軒下の手押し車に、小さい荷梱や食器籠やボロを包んだ一世帯が、積んである。「さては翠蓮父娘が旅立ちの荷物だな」と、何か安心されたのもつかの間で、奥の方から亭主の喚き声につづいて、翠蓮父娘の詫び声やら悲鳴などがガタガタ聞え出した。
「おいっ、金の父娘、なにしとるか。早く出かけろ、出かけろ」
魯達の声を外に聞くと、宿屋の亭主が飛びだしてきて、こんどは彼に食ッてかかった。「翠蓮には貸金の証文がある。その取立てを鄭旦那から依頼されているのに、このまま旅立たれてたまるものか。それともお前さんが代ッて三千貫をここできれいに払うとでもいうンですかい」と、血相もえらい凄文句である。
「ふざけるなッ、きさまも吸血鬼の一匹だな。このヤブ蚊野郎」
靴を高く上げて、彼の胸いたを蹴るや、軽くやったつもりだったが、亭主の体は毬になって三ツ四ツ転がった。
「……ち、畜生っ」と起きあがってくるのを、二度目の靴先が、さらに一蹴を与えると、亭主の影の見失われた溝から黒い泥飛沫がたかくあがった。
「この提轄め、よくも家の旦那を溝に叩ッ込みゃあがったな」
ここに飼われている若い者の一人とみえる。けなげにも薪を持って撲りかかってきた。魯達は身もかわさず、その男のどこかをつかんだ。あッという声が宙をかすめたと思うと、男の体は廂の上に抛り上げられ、廂を破って、どたんと大地へ回ってきた。
「さあ、翠蓮も爺さんも、早く手車を押してここを立て。何をぶるぶる慄えているのか。わが輩がここで見送ってやる。かまわんかまわん、旅へ急げ」
──あと振り返り振り返り、朝霧の中を、渭州の場末から立ち退いていく父娘の姿へ、魯達もちょっと大きな手を振って見せた。そして彼自身はまた、やがて場末の辻から繁華な大通りのほうへ鈍々として歩きだしていた。
「おうっ、大将。いつも繁昌だな。肉の上等なとこを、十斤、賽の目に切ってくれんか」
状元橋の橋だもと。精肉卸売小売と見える大きな店のうちへ、ずっと入っていった魯達は、そこの椅子の一つへ、でんと腰をおろした。そして十人からの店員が立ち働いている肉切り台だの、その後ろに吊ってある沢山な丸裸の豚だの、またそれとよく似ている主人の鄭が何か筆を持って屈みこんでいた帳場の辺までを、ジロと大きな眼で睨めまわした。
「ようっ、これは提轄さまで」と、鄭は彼と見たので如才なく帳場を離れ──「おめずらしいじゃござんせんか。直々の御用なんてえのは」
「ベチャクチャいってくれんでもいい。今日はわが輩の主君、种経略使(种は名、経略は外夷防寨の城主)の若殿のおやしきでご招待があるんだ。脂身などはちッとも交じらんとこを切れよ」
「かしこまりました。ヘイ、賽の目にね。おいよ店の衆、十斤がとこ、極く上々を急いで」
「おっと待て。きさまあ肉屋の主人じゃないか。関西五路の顔役とか何とかいわれて、こんな羽振りと繁昌を見ているのも、当地のご守護种若殿のおひきたてによるものとは思わんか。自分で切れ」
「こいつアおそれ入りました。まったく、こんな時こそ、ひとつせいぜい……」と、鄭はさっそく、自身、肉切り台の前に立った。そして、さすが手練れた大きな肉切り包丁を鮮やかに使って見せ、肉も吟味に吟味して、やっとのこと、
「どうも、お待たせ申しあげました」
と、大きな蓮の葉にくるんで差しだした。魯達は、うなずいて。
「そこへ置け。次には脂身ばかりのとこを、もう十斤」
「へえ。脂身ばかしなんて、何になさるんで」
「よけいな詮索するな。それも賽の目だぞ」
「むずかしいなあ。が、ようがす」
また小半刻もかかって、鄭がこれをも、包んで出すと、今度は豚の軟骨ばかりを十斤、同様に切れと魯達が命じた。
これには鄭も、むっとした顔つきだったが、笑いに紛らして。
「旦那あ、人が悪いや。お嬲ンなすっちゃいけやせんぜ」
「洒落たことをぬかすな。自体、きさまの面は嬲りものにできとるじゃないか」
「何をっ」と、鄭のこめかみに、太い青筋がムラッと燃えあがった。「──おい、もう一ぺんいってみな。州の提轄だと思えばこそ、さっきから虫を怺えていたんだぞ」
「そうか。わが輩もきさまが本性をむきだすのを待っていたんだ。もう一皮むいてみせろ」
いうやいな魯達は、蓮の葉包みの二た包みの肉を、ばっと鄭の顔へ投げつけた。肉の雨を浴びたとたんに、鄭も鋭利な骨削り包丁を持って、肉切り台を躍りこえ、
「うぬ。やりゃあがったな」
一閃、ずんぐり丸い巨体を低めて、魯達のふところへ体当りしてきた。
ぴしゃッと、大きな響きがしたのは、魯達の平手が瞬前に彼の横顔をはたきつけたものらしい。よろっと、泳ぎかけるその弱腰へ、もひとつ、
「今日の相手は、ちと違うぞ。この豚めが」
蹴足をくれて、店先から街上へ吹ッ飛ばした。
鄭は火の玉になって起き上がる。だが、立つやいな魯達の鉄拳に眼じりを一つ見舞われて「げふっ」と奇妙な叫びをもらした。──ところは状元橋の目抜き通り、たちまちまっ黒な見物人の弥次声が周りをつつむ。関西五路の顔役としては、いまさら、逃げもできなかろう。執念ぶかく魯達の大腰にしがみついて離れない。
「ええい街のダニめ。よくも憐れな歌唱いの父娘を、骨の髄までしゃぶりやがったな。この味はその利息だ」
振りほどいて突き上げた鉄拳は、鄭の顎を砕いたとみえ、仰向けにぶったおれた顔は血を噴いて、完全に伸びてしまったようすである。
「ざまア見さらせ」と、魯達はなおも彼の胸いたを踏ンづけて見得を切ったが、鄭の反抗はそれきりだった。ひょいと見ると、片眼は眼窩から流れ出し、歯は舌を噛んでいる。「……しまった、こいつはいけねえ、死んじまった」
魯達は、ちょっと後悔の色を見せた。そしてすぐ見物の群れを割って去りかけたが、一顧するや、わざと後ろへこんな捨て言葉を抛った。
「ち。口ほどもねえ空つかいめ。くたばった振りなどしやがって」
──状元橋を渡るやいな、彼の歩速はだんだん早くなっていた。「つい、大変なことをしてしまった。人民の安寧を守る提轄が、人民を撲り殺した。こいつは、ただですむはずはない」と、心中の自責に追ッかけられている風だ。
彼は、自分の下宿へ帰るやいな、そそくさと持ち物や小費銀をふところにし、その月の下宿代だけを部屋に残して、ぷいとどこへやら飛びだした。手には一振の棒をかいこみ、斉天大聖孫悟空が、雲を翔けるにさながらの態だった。
時もあらせず同日の午後には、州の王観察なる役人が、同心捕手あまたを連れてここの下宿屋へ殺到したが、すでに魯提轄は風を食らってしまったあと。
さはいえ五路の顔役、鄭の遺族や乾分には財力もある暴力もある。また旅籠の魯家からも、同時に大げさな訴えが州役署へ出されていた。当然、府尹もこれは捨ておけなかった。──逃亡した提轄魯達にたいしては、天下の随所、いついかなる土地なりと、見つけ次第に逮捕処分構いなし、の令が出された。わけて特徴いちじるしい彼の風貌背丈などの詳細な人相書がともに諸県へわたって配付されたのはいうまでもない。
蘭花の瞼は恩人に会って涙し、
五台山の剃刀は魯を坊主とすること
食う箸には腕力の要がない。豪傑も案外、職を失うと世間に弱い。逐電の後の魯達は、野に伏し山に寝ね、今は、空き腹も馴れッ子のような姿だった。
漂泊うことも幾月か。彼の姿はほどなくここ代州雁門県(山西省北部)の街中に見出される。街は周八支里の城壁にめぐらされ、雁門山に拠る雁門関は、つねに、北狄の侵略にそなえていた。しかも古来たびたび、匈奴の南下に侵された歴史の古い痍跡は、今とて、どこかここの繁華に哀しい陰翳を消していない。
「おや、ここでもまた、掲示に人だかりがしてやがる。この辺まで落ちてくれば、もう、よもやと思っていたのになあ」
辻の人混みにまじって、魯達は暢気そうに、逮捕告示と、自分の人相書を眺めていた。
──代州雁門県署、コレヲ告示ス。
渭州ニオケル殺人犯ノ軍籍者、提轄魯達ナル凶徒、コノ地方ニ立廻ラバ即刻、官ヘ速報スベシ。庇護行為ノ者ハ同罪タルベシ。モシ又、上告ノ善ヲ為スアラバ、即チ、賞一千貫文ヲ降サルル者也
魯達のすぐ耳のそばで、声を出して読んでいる男や、杖の上に白髯の顎を乗せている老翁や、心憶えに筆写している書生風なのや、女や労働者や物売りやら、なんとも雑多な陽溜りの匂いが蒸れ立っている。
それを他人事みたいな顔で眺めていた魯達は、
「……お、おい。なにをするんだ、なにを」
しきりに、自分の袂を引ッ張る後ろの老爺を振り向いて、眼にかどを立てたが、
「おや、おぬしは翠蓮の」
「しっ。……ま、こちらへ」
老爺は遮二無二、彼を人なき所まで引っ張っていった。そしてさて、大きな吐息を一つあらためてほっとついた。
「さっきから、よう似たお方と見ていたら、やはり恩人の魯達さまでございましたな。てもまあ、なんたる大胆な……」
「おや金の爺さんだったのか。こいつあ意外だ。故郷へ帰ったものとばかり思ってたら」
「じつはあれからの旅路で、この地方の趙と仰っしゃる分限者に行き会い、その方のお情けに囲われて、今では娘の翠蓮も、この土地で一戸を持っておりますので」
「オイオイ。また口のうまい豚野郎に、ころりといかれているんじゃないか」
「いえもう恩人さま。その人は鄭などと違って真面目なお方。翠蓮もあなたのお蔭だと朝夕口癖のように申しております。何よりは今の暮しを見ていただくのが一番。さ、どうぞおいでくださいまし」
「ど、どこへ連れていくんだわが輩を。……なに妾宅。そいつア苦手だナ」
「ま、そう仰っしゃらずに」と、金老爺は無理に娘の家へ伴って帰った。それと聞いて、奥から走りでた金翠蓮が、
「まあ。……魯達さま」
と、蘭花の瞼にすぐ涙をうかべ、この零落の恩人を遇するに、細やかな心かぎりを見せたのはいうまでもない。
「ともあれ、お湯浴みでも」
と風呂をすすめ、その間に、下男女中を督して、鮮魚、若鶏、酢の物などの手早い料理、さて杯やら銀の酒瓶やら、盆果、点心(菓子)なども取揃えて、席も卓の上席にあがめ。
「さ、どうぞお一杯。そして心からおくつろぎくださいまして」
「眼が眩みそうなご馳走だな。どうも近頃のわが輩には、もったいない」
「恩人さまに、こんな流浪のお苦しみをかけたのも、思えば全く私ども父娘のためで」
「よしてもらいたいな、いちいち恩人さま恩人さまといわれちゃあ、なんだか酒も美味くなくなるじゃないか」
「はいはい。もう申しませんが、もひとつだけ、いわせていただきます。あれ以来は、紅紙のお牌にお名前をしるし、朝夕お線香を上げて娘と拝んでおりました。ですから今日のご縁も、神仏の巡り合わせと思わずにおられません。のう翠蓮、おまえもこんな欣しいことはあるまい」
「なんといっていいんでしょう。私はもう、何だか、泣けて泣けて……」
「こりゃあいかん。お志は万々うれしいが、翠蓮のシュクシュクだけは、わが輩、ご馳走にいただきかねる」
「ま、ごめんなさい。ほんに涙はお嫌いでございましたのにね。もう欣し泣きもいたしませんから、陽気にお過ごしあそばして」
ところが、やがて黄昏れ近い頃、戸外でがやがや人騒ぎが聞えだした。風の音にも心をおく身、魯達が窓から下をさし覗くと、手に手に棍棒などを持った若者二、三十人をひき連れて、馬に乗った長者風の一人物が、しきりと妾宅の内外を窺っている。
「来たな」と、でも直覚したのか、魯達が裏屋根へ躍りでようとしたので、金老爺はあわててその腰帯をつかまえた。
「魯達さま、お待ちください。外へ来たのは、翠蓮がお世話になっている趙家のお主でございます。趙の長者も、かねがね娘の話を聞いて、いたくあなたさまの義侠に感じておいでだったのに、なにか勘違いでもなすったに違いございません。ま、ちょっとこの老爺がわけをお告げしてまいりますから」
あたふたと、金は階下へ馳け下りていった。ほどなく、事は氷解したものとみえ、若者たちは追い返され、趙の長者一名だけが、老爺に伴われて上がってきた。
「はははは。どうも変な気を廻して、とんだご無礼におよぶところでした。わしが翠蓮を世話しておる趙という者ですが、そこもとがかねて聞きおよぶ魯達どのか」
「いや、お互い危ないところだった。いかにもわが輩が提轄くずれの魯達です。どうもお留守ちゅうにうかがって」
「なんのなんの。事、さように分ったらこれも一つの奇縁。翠蓮、こよいはお前の恩人を交じえて大いに楽しく飲もう。酒肴もすっかり新たにかえるがいい」
長者の風というか、趙は五十年配だが頗る大容な人柄に見える。あるいは義心の人に報ゆるに義心をもって接しようと努めているのかもわからない。灯は闌けて酒興も酣に入ると、
「どうです、魯達どの。こんな街中では気もゆるせません。ひとつ私の田舎へきて、ゆっくりご逗留なさいませぬか」
「かたじけない。して田舎のお屋敷というのは」
「わずか十里の郊外、七宝村と申す静かなところですが」
「なんらのあてもない身空。甘えるようだが、そいつは一つご厄介をねがおうか」
この話には、翠蓮父娘もわがことのようによろこんだ。かくて趙の長者と馬を並べて、魯達が山紫水明な七宝村へ入ったのは次の日のことだった。
長者の邸は富に飽かせたものである。魯達には窮屈なほど下へもおかない。彼の恐縮を、趙は笑って、
「なにもそうお固くなるにはおよびませんよ。四海みな兄弟という言葉がある」
げにもそうだが、世間はそうではない。余り長居も──と十日目ごろには暇乞いをと思っていると、その晩の酒宴で、趙がこんな相談の口をきりだした。
「へんなおすすめだが、これも宿世の約束ごとやらも知れぬ。……とお考えなすって、ひとつ僧籍にお入りになってみるお気持はありませんか」
「えっ坊主に。……これは驚いた、わが輩に坊主になれと勧めたのは、ご主人、貴公が初めてだな。元来、みじんの仏性もないわが輩に」
「無理にともおすすめできませんが、じつは先日、あなたを怪しんで、街の若者をかたらい、翠蓮の家の前へ押しかけさせたため、あれが噂の因になって、その後ちらちら油断のならぬ風説を巷で耳にいたします。万一があってはと、私もひそかに自責を覚えておるものですから」
「いや、この上ご迷惑をかけては、魯達こそ申しわけない。すぐにも退散するとしよう」
「いやいや。その前に、いま申した僧侶に転化する生き方もあるということを、ここでご一考なすってみては、どんなものかな。……もしお気があるなら万端の手続き費用、また五花ノ度牒(官印のある僧籍免許状)などもさっそく調えるが」
「いったい、寺入りするといえば、どこの寺へなので」
「ここより三十里彼方に、五台山という名山がある。一山の大道場は文殊院といって、結構壮麗、七堂の伽藍と多宝塔の美は翠色に映え、七百の出家たちの上にある碩学は智真長老といって、私とは兄弟分ともいえる仲でして」
「ほ。なんだか悪くない気もしてくるな」
「しかも、父祖代々からの大檀越でもあり、寺の造立や行事には、寄進はもちろん、なにごとにも座主の相談にあずかっておる次第。ただひとつ、願望として欠けているのは、わが家から有縁の一僧も寺籍に加わっていないことだけです。どうでしょうな、魯達どの」
「やってみるか、ひとつ」
「はははは。やってみるでは困りますがね」
「いや、発心しよう。この辺で魯達も大人しく人なみに返れという亡母亡父のおさとしかも知れん。お願い申すといたしましょう」
彼にとっては一大転機にちがいない。ちょっと淋しげな顔もしたが、話はきまった。
なにかの準備に、数日は要した。さて入寺登山の日となれば、二挺の山轎の荷持ちの男どもが五台山へさしていった。すでに一山の長老や僧衆とも、得度の式、贈物の施入、あとの祝いなど、諸事しめし合せはついている。
轎は山僧大列の中を通って、方丈の前で降り、まず、喫茶一碗の施を拝し裏の井泉で垢穢を洗う。……ほどなく梵鐘いんいんと鳴る中を導師に引かれて、長い廊をうねり曲がり、三尊の灯華おごそかな本堂へ進む。
見ると、一つの禅椅(寺椅子)が空いていたので、魯達は澄ましこんでそれに腰かけた。すると趙の長者は、大いにまごついて、坐りかけた身を起し、禅椅に倚っている魯達のそばへきて、彼の耳へ口をよせてささやいた。
「あなたは、ここへきて出家を願う身、一山の長老と差し向って腰かけたりしてはなりませんよ」
「あ。なるほど」
魯達は後へ退がって、長者の趙とともに、新入生のように立った。
正面には長老、首座、以下順に東西二列となって、紫金紅金の袈裟光りもまばゆく立ち流れて見えたのは、維那、侍者、監寺、都寺、知客、書記らの役僧たちか。──いずれも大きく口を結び、眸を澄まし、見るがごとく、見ぬがごとく、新入りの魯達をひそかに凝視の態だったが、どの顔つきにも「……はてな?」と、いいたげな怪訝りが甲乙なく漂っていた。
そうした心のうちで、誰も彼もが密かに思うらく。「……どう眺めても、いかにもぶっそうな人相だな」「あれで出家発心とは?」「……趙檀越のご推薦だが、あの気味わるい居ずまいの不遜さといったらない」「……だが、長老もおひきうけとあれば」などと、声なきものも、自然、並いる姿の目鼻には妙な微風となって現われずにいなかった。だが、どこ風吹くかの魯達は、この森厳さと山冷えに、嚔でも覚えてきたか、しきりと鼻に皺をよせて、鼻をもぐもぐさせていた。
なにを感じ入ってしまったのか、まるで棒を呑んだように魯達は直立のままでいる。趙の長者はふと気づいて、また隣の袂をそッと引っ張って注意をあたえた。
「合掌です……合掌作礼しなければいけませんよ。あなたのために、いよいよ上人さまが、お剃刀の式をとるのですから」
「あ、そうなんで?」
魯達も慌てて掌を合せる。──見れば長老の上人は、払子を払って、やおら禅椅に倚った様子。大香炉は薫々たる龍煙を吐き、この日長者が供えたお香料の銀子、織物、その他の目録にまずうやうやしく敬礼をほどこす。そこで咳一声、魯達が発心による出家得度の願文を高々と読む。
……終ると、香煙の渦の中にある上人の顔は、そのままいつのまにやら定に入ったすがただった。膝に印を結び、趺坐瞑目することしばらく、やがてのこと、何かが憑り移ったようにこういった。
「──善哉、善哉。この漢はこれ、天の一星につらなる宿性。元の心は剛にして直なり。粗暴乱行はしばし軌道を得ざるがためのみ。ゆくゆくは悟りに会って、非凡の往生、必ずや待つあらん。……喝ッ」
とたんに、法鼓がとどろき、再びの梵鐘が鳴ると、二人の稚子僧が進んできて、魯達のかぶっている帽子をとらせ、彼の手をとって上人の法座の下へ、ひざまずかせた。
役僧の維那が、お剃刀を持って立つ。侍者は耳盥を捧げ、都寺は櫛をとって、魯達の髪の毛を九筋に梳いて束ね分ける。……剃刀はジャリジャリと、彼の横びんから頂天の方へお月さまでも描くように剃り上げてゆく。
「……?」
魯達はへんな気持ちである。自分の容貌がどんな珍しいものに変ったろうかと気味わるかった。が、頭が急に寒々と剃り終って、その剃刀が髯のところへくると、彼は慌てた。
「あ。待ってくれい。ここらは、ちッとぐらい残しといておくんなさいよ」
衆僧は、どっと笑う。──それを鎮めるように、法座の智真上人が、大喝で偈をとなえた。
「──寸草留メズ、六根清浄ナリ。汝ノタメ剃ッテ除キ、争競ヲ免ガレ得セシム。……咄ツ、ミナ剃リ落セ」
魯達はもうベソもかけない。ここで首座は、長者に代って九花の度牒を法座にささげ、新発意魯達のために、願わくば〝法名〟を与えたまえと請う。
上人は、おごそかにまた、次の一偈をくだして、度牒を書記にわたし、書記は筆を取って「法名」をそれに書きこむ。偈にいわく。
霊光一点 価値千金
仏法広大 賜名智深
すなわち、新発意の僧名は〝智深〟と名づけられたのだ。──書記からその度牒を手渡されると、これで彼も形だけは出家並の一人となったわけである。それから、長老は、彼の青いテラテラな頭上へ手をのせて〝戒〟を授けた。
「一に仏法に帰依、二に正法に帰奉、三に師友に帰敬。これを三帰という。……次の五戒とは、殺生、偸盗、邪淫、貪酒、妄語のことじゃ。守るか」
「はい。守ります」
魯智深が答えると、なぜかまわりでまた笑った。禅の宗門では、ただ「応」とか「否」とか一語で答えるのが作法だからで、智深はことごとに顔を赤くするばかりだった。
晩には雲堂で大饗(斎の馳走)が行われた。趙の長者から祝いの品々や心づけが端から端まで配られた。──こうして長者は、翌日、下山にさいして、魯智深を一人、選仏場の木蔭へ呼んで、しんみりと言い残した。
「馴れぬ生活で、初めのほどはお辛いでしょうが、どうかみッしり修行して下さいよ。長老にも、くれぐれお願いしてありますから」
「どうも、えらい厄介になりましたな。が、ご安心してください。もうこの頭では、生れ変って大人しくなるしかありません」
と、彼は青い頭を叩いてみせた。
だが、趙の山轎を見送って、叢林の一房に帰ってくると、彼はもう長者の言も忘れ顔に、ごろりと仰向けに寝ころんでいた。
すると、禅床で修行中の二、三名が覗きにきて。
「おい、新発意。なぜ坐禅でもしないのか」
むくむくと身をもたげると、魯智深の方こそ、なんとも不審そうに、両手で頬杖したままいう。
「三帰のうちにも、五戒の中にも、寝ころんじゃいけないという〝戒〟はなかったぜ」
修行僧は呆れて、首座に訴えたが、首座も手がつけられないとみたか。
「いや、あの方外人は、長老にいわせると、なんでも天の一星の宿性をうけた者とかであるそうな。当分はまあ放ッといてみるしかあるまい」
智深の起居は、まるでところを得た猛獣のようなものである。誰も干渉の仕手がないのをいい気にして、眠れば雷のごときいびき、醒むれば、仏殿の裏、浄林の蔭、ところ嫌わず放尿もするといった態たらく。
──かくて早くも五台山の夏から秋の四、五ヵ月も過ぎ、季は紅葉の燃ゆる晩秋の頃となった。
なんとなく里恋しく、魯智深は墨染の衣に紺の腰帯をむすび、僧鞋を新たにして、ぶらと文殊院から麓道のほうへ降りていった。
「……はてな。こいつはたまらぬぞ。ぷウんと、久しく忘れていた香が、どこからともなく風にのってくるが?」
それは秋草の花の香ならぬ酒の匂いだった。
数歩のうちに、下のほうから一荷の酒桶をかついで登ってくる男が見えた。魯智深は、はからずも巡り会った恋人にでも引かれるように、
「おい、ちょっと待った」
と、男の担い棒へ手をかけて押しとどめた。
百花の刺青は紅の肌に燃え、
魯和尚の大酔に一山もゆるぐ事
荷担棒の酒桶は、男の肩の両端でブランと揺れた。もちろんフタの隙からこぼれ出た少しの酒が男の膝や地へ沁みこんで芳醇な香をふんだんに放ったのはいうまでもない。
「あっ。も、もったいねえ」
抑えていた棒先の片手をそのままに、魯智深がこぼれた酒を鼻で追っていくような恰好を見せたので、酒屋男はなおぎょっとして怪しんだ。
「な、なんでござんすか、お坊さま。いったいなんの御用でてまえをお留めなすッたんで?」
「酒だろう桶の中は。どうも、たいした酒だな。どこへ持っていくんだ」
「山上の仁王門にご修理がございますので、そこに泊りこみで働いている塗師、瓦師、仏師などの職人方へ売りにいきますんで」
「ふウむ……」と、智深は絶えず鼻うごめかせながら「畜生。うまくやってやがるなあ」
──そこで彼はもう一言、おれにもそれを売ってくれい、と喉の辺までは出しかけたが、ぐっと唾をのむ音をさせて。
「どうも坊主はまことに不便だな。が、まあ……出家の身だ、死んだと思ってあきらめようかい。……やい酒屋」
「へい」
「こぼさずに担いでいけよ。石コロ坂に飲ませたって、坂道がいい色になって嬉しがりはせんぜ」
「どうもご親切さまに」
「ふざけるな、わが輩は泣きてえんだ。いまいましい奴に出ッくわしたわえ。早く行ッちまえ」
眼をつむって、そこは大股に馳け去った。そしてやがてのこと。麓の明媚な風光が展かれてきたと思うと、また下のほうから、いとものどかな鼻唄調子が聞えてきた。
この辺は、漢の高祖が楚の大軍をやぶった古戦場である。またかの有名な項羽と虞美人が最期の悲涙を濡らして相擁した烏江の夜陣のあとも近い。だから附近の牧童や里人も今にそれを俚謡として歌う。
九里山の草木は知ってるとサ、戦場のあとだとサ
おらも拾ったよ、サビ刀、土になった槍
烏江の水は風に捲かれて、アレ見せる
虞姫と項羽の、別れともない身もだえを
「おや、また何か担いできやがったぞ。ほほう。やってくるのはまたぞろ酒屋男だわえ。どうも今日はよくよく運の悪い日とみえるな」
おそらく、うさん臭い大坊主と先に恐れたのだろう、酒屋男は鼻唄をぷつんとやめた。そっとスレ違おうとしたのである。だが、あいにくな山坂である。ばしゃッと桶のうちから少し揺りこぼしたからたまらない。魯智深はぐらっと目眩にくるまれて。
「おッと、と、と、と。……こら待て酒屋、どうも貴様は不量見なやつだな。なぜこぼす」
「ど、どうかご勘弁のほどを。……お法衣でも穢しましたか」
「うんにゃ、さに非ず。穢されたいのだ。その桶の酒をわが輩に売れい」
「めッそうもない。沙門のお方に酒を売るのは御本山の法度なんで、そんなことしたら、てまえはこの土地に住めなくなります」
「かまわん。もう我慢ならぬ」
「かまわんたって、こっちには妻子もおりまする。お売りするわけにゆきません」
「えい、七面倒な」
「あ痛ッ」
軽くやったつもりだが、酒屋男は天秤棒から肩をはずして、もんどり打ッた。
一荷は倒れ、一荷は無事だった。──智深はあわてて倒れた桶から先に救いあげ、また一方も持って、軽いのと重い桶とを、両手に引ッ提げたまま彼方の見晴し台の亭へ走りこんだ。
「ほうれ、値はとらすぞ」
何を投げたのか、腰をさすッている酒屋男のほうへ、物代をほうるが早いか、彼はもう桶のフタをとっていた。そして渇いた巨獣が流れに鼻を沈めるような姿で、がぼ……がぼ……がぼ……。
ぷるん、と時折、首を上げて舌なめずりをし、顔を横に顎の雫を振って切る。
「う、うっ。たまらぬ」
重いほうの桶は、まず片づけた。さすがに少し骨が折れるらしい。
「てへへへ。まだ底に残っておるな。ようしっ」
墨染の法衣を刎ねて、諸肌ぬげば、ぱッと酒気に紅を染めた智深が七尺のりゅうりゅうたる筋肉の背には、渭水の刺青師が百日かけて彫ったという百花鳥のいれずみが、春らんまんを、ここに集めたかのように燃えていた。
「……ううい。ああ、なんとよい眺めだ、絶景絶景。腹の虫も雀踊りしおるわ。……待て待て、まだまいるぞ」
軽いほうの桶の耳を両手でつかんだ。毛の生えている丹田(下腹)がぐうっとそッくり返ったと思うと、桶の中から滝を呑むように飲みだした。もちろん、その何分の一かは、あだかも岩肌を伝う小さい渓水みたいに彼の胸毛や法衣をビシャビシャにして地に吸われている。
「むむ、これで、まずご満足、ご満足──」と、智深はたちまち混沌たる愉快にくるまれてきたらしい。天地万物、すべて我れのためにあるかのような心地とみえる。ふと、ころがッている足もとの酒桶を、つくづくと見すえて、
「……はてさて、貴さまも空ッぽになってみるとつまらんやつだな。智深和尚の引導を、せめてこの世の冥加と思えや。喝ッ」
と、麓へ向って二つとも蹴放った。一個は空天に躍って森へ沈み、一個はすぐ下にいた牛の群れの中に落ちた。びっくりした牛が跳び別れて、やがて後から、のろまな啼き声が長く聞えた。智深は手をたたいてうち笑い、蹌々踉々、どろんこになって、ほどなく五台山へもどってきた。
「ちイ、このなめくじ野郎め、な、な、なんでこの魯智深を、通さんとぬかすのか」
「とんでもない仏弟子だ。こら智深、ここは山門だぞ、山門だぞよ」
「なアるほど、文殊院五台山の山門らしい」
「葷酒山門ニ入ルヲ許サズ。とそこにそんな大きな制札も立ってある。もし破戒飲酒の僧あらば、青竹で四十打ッ叩いて寺域追放の掟だぞ」
「おもしれえ。ちょうど按摩代りになる。おい番僧、いっちょうやってくれい」
ところへ、騒ぎを聞きつけて、監寺、提点、蔵主、浴主などの役僧などから、工事場の諸職まで、まっ黒になって様子を見にきた。たちまち門の番僧らと一つになって、
「やあ言語道断。破戒堕落の外道など、一歩も不浄者を入れることはならんぞ、水でも浴びせろ」
とばかり智深を拒んで、その大きな図ウ体を突きもどし、さらに山門前の石段へ突きころがした。
さあたまらない。「──やったな」と智深は四つン這いになって上を睨めあげた。一段一段、大象のようにゆっくり登ってくる。恐ろしさに役僧どもも職人もタジタジと後退さりした。智深はいよいよおもしろくなった。まるで彼の遊戯のお相手のために大勢そこへ出揃ってきたようなものだった。
「そうれっ。片っ端から摘ンで捨てるぞ」
躍り立つやいな、事実、彼の左右の腕、両の足から、さながら塵芥みたいに人間が刎ね飛んだ。──わあっと逃げるを追って、彼はなお、伽藍、堂院、いたるところで地震のような音響と悲鳴をまき起し、あげくのはて蔵殿の一室へ入ると、大の字なりに寝てしまった。その鼾たるやまた山谷を揺するがごときものであった。
それに呆れているどころか、後の始末やら物議こそまた一と揉めだった。番僧たちは、監寺、提点などを先に立てて、智真長老の座下へ迫った。
「かかる例は、わが文殊院五台山の開山以来ありますまい。霊域に魔獣を飼えとは釈尊の法にも聞きおぼえぬところ。よろしく即時ご追放あッてしかるびょう存じまする」
「まあ、まあ。そういわんで、こんどだけは慈悲の眼で見てやれんかのう」と、智真長老は慰撫一方のていで努めていう。
「──大檀家の趙大人のお顔もあることじゃし、明日ともなれば、わしから智深にきびしく諭戒を加えて、以後きっと、慎ませようで」
囂々たる不平はたいへんなものだったが、長老の鶴の一と声。ぶつぶつ引き退がるしかなかった。
翌朝。──智深はむっくり起きに、蔵堂裏の竹林へ出て、こころよげに放尿していた。そこへ上人のお召しときたので、彼は大慌てに後へついていき、畏る畏るその座下にうずくまった。
「これっ智深。おまえはどうも困ったやつ。察するに病持ちだな」
「いいえ、体はこの通り人一倍丈夫ですが」
「何をいうぞ忘れッぽいという一病があると申すのじゃ。得度のさい授けた五つの戒と、三帰を忘れたの」
「あ。病とはそのことで」
「さればじゃ。昨夜の大酒乱行はそも何事ぞ。山門の清規を破って、あのざまは」
「もう、しません」
「きっとか。以後忘れないか」
「つつしみまする。はい。きっと、つつしみまする」
しおしおと、智深は禅床へ引き退がった。もう人の耳こすりや潮笑にも、めったには怒らないぞと、顔に錠前をかけたような無口に変った。
だが、その年も暮れて、待つに長い山上の春がやっと訪れ初めた翌年の三月初めの頃、智深はぽかんと麓の空を眺めやっていたが、そのうちにふと、トンカン、トンカン、鍛冶屋の鎚音が風にのって聞えてきた。──と、なに思ったか、ありあう銀子をふところにねじこんで、ぷいと僧堂をとびだし、今日は少し道をかえて〝五大福地〟と額にみえる大鳥居をくぐり、東の参道坂をどんどん降りていった。
「おや、こりゃあ何とも賑やかだわえ。こんな聚落があったとは今日までまったく気もつかなかったぞ。あほう、どうしてわが輩はいままで五台山下に門前町があるべきことを思わなかったのか。だがまアいいや、遅いにしても帰命頂礼──」
彼は、にわかにうきうきとあるいた。眼もキョトキョトとせわしなかった。肉屋がある、酒屋がある、女の嬌声、赤ン坊の泣き声、さてはなつかしい大道芸人の音楽だの、古着屋、八百屋、旅人宿、うどん屋の婆アさんまで、かつての日の渭水の場末も思い出されて、どれもこれも悪くない。
「ああやっぱり人間界はいいなあ」
その人間臭い街のなま温いものに久々でくるまれながら、ぼんやり通り過ぎかけて、
「おっと。ここだっけ」
と、一軒の鍛冶屋の土場へのっそりと入った。
山上にまで、テンカン、テンカン、谺してきたのはここの鎚音と鉄台の響きにちがいない。手を休めた三人の鍛冶工は、鼻の穴から目ヤニまで炭にした真っ黒けな顔を揃えて、智深の姿を見まもった。いや見上げたというほうが当っている。
「やあ親方、こんちわ。……どうだね、極く質のいいはがねはあるかい」
「へえ、お坊さまに、はがねの御用がございますかね」
「ばかにするな。坊主とはがねと、無縁という法もあるまい。錫杖を一本鍛えてもらいたいんだ。ちょっと、手ごろのな」
「なるほど。ですがお坊ンさん、誂えちゃあお高くつきますぜ。出来合いじゃいかがです」
「ところがわが輩の手に合う出来合い物なんて見たことないので持たなかったのだ。ひとつ急いでこさえてくない。重サ百斤ほどなのを」
「冗談じゃない。百斤なんて錫杖は人間の持ち物にゃありませんぜ。三国時代の豪傑関羽さまの偃月刀だって八十一斤でさ」
「では、関羽公と同格の八十一斤としておこうか」
「へへへへ。無理するこたアありませんぜ。なにもお坊ンさんは、三国の劉備玄徳の忠臣でも親類でもねえんでしょ。およしなさいよ不恰好だから。それより飛びきり上等のはがねがございますから、水磨仕立てで六十二斤ぐらいなところはどうです」
「むむ、その辺で折り合ってやるか。相談はついた。おいいっしょにこんか、親方」
「へ。どちらへでござんす」
「韛火祝いに、一杯飲ませてやる。どこか馴じみの家へ案内しなよ」
「ま、どうかお気楽にお一人で。──それよりはお坊ンさん。錫杖は五両かかります。どうかお手付の銀でも、ひとつ」
「け。ケチなことをいうな」
なにがしかの小粒銀を投げ与えて、智深はゆらりと鍛冶の軒を煙といっしょに外へでてくる。そして街をぎょろぎょろ見廻した。
酒屋の軒を覗き廻ること二、三軒。どこでも例外なくお断りを食った。そこでついに街はずれまででてしまい、ふと見ると破れ廂から、酒と書いた旗をだしている一軒がまたあった。立ち寄れば、牛の屎まじりの土墻に、誰のいたずらか〝李白泥酔ノ図〟といったような釘描きの落書がしてある。
「……いや、おもしろい絵だな。いや、おれも一つ、あれくらい酔ってみたい」と、智深は独りごとをもらしながら、内へ入った。
「こら亭主。わが輩は五台山の坊主ではないぞ。だから心配はいらん。酒を一ぱい飲ませてくれ」
「へいへい。どちらからお越しで」
「廻国行脚の途次で通りかけた者。といって乞食坊主でもない。ほうら銀子もある。それ、そこの大碗で早くよこせ」
むさぼるごとくがぶがぶ飲んで、たちまち碗を代えること十数杯。こんどは自分から立っていって薄暗い厨房の調理台にあった兎の股みたいな烙り肉を右手に一本つかみ、それを横へ咥えかけた。
「あっ、雲水さん。そいつあだめです。坊さま向きじゃございませんよ」
「亭主。なぜ止めるのか」
「犬の肉でございますよ。なんぼなんでも」
「なに犬肉だと。いや、よろしい。犬だからとて賤しむことはない。わが輩の腹中はすなわち弥勒だ、猿であろうが鹿であろうが一視平等。豈、差別すべけんやだ、けっこう。いけるじゃないか、おやじ」
にんにく味噌を付けてたちまち骨だけを足もとへ投げ捨て、さらに次の一本を持って、
「肴ばかりじゃしようがないな。おい、そこの瓶ぐるみ持ってきてここへおけ。そいつあ黄米酒だろう。むむ、珍重珍重」
──やがて。陽もすでに黄昏れごろ、智深は、天雲を降りて天雲へ帰るがごとく飄々とひょろけつつ五台山へもどっていく。途中でぶつかりかける男女を見ると、彼らの逃げまどう姿へ、哄笑を撒きちらして。
「わはははは。さあ、智深さまのお通りだぞお通りだぞ。酔いどれには天子さまも道を避けるという諺があるのを知らんか。さあ、退いたり退いたり」
翌朝のことである。──といっても、五台山五峰の西にはまだ影淡き残月が見え、地には颯々の松原がやっと辺りを明るみかけさせて来た頃だった。
「うう寒い。……おや、おやおや。わが輩はどうしてこんなところに眠っていたのか」
智深はわれを疑って、むっくりと起きた。寒いはず、石だたみの上で寝ていたらしい。しかも自分が抱いて眠っていたのは、自分の二倍もある巨きな仁王像だった。山門の仁王様に相違ない。
ふと仰ぐと、日ごろ見なれたそこの仁王門は颱風の跡みたいに、見るも無残に破壊されており、もう一体の仁王像も、常に居るところには見えなかった。だんだんそこらが白んでくるにつれて、仁王の手やら首やらまた瓦だの玉垣の破片などが、惨として、智深をつつんでいることがわかった。
すると、そこへ、番僧の一人がきて叫んだ。
「おう智深。やっと眼がさめたか。長老以下が待っておられる。すぐ大講堂の廊までまいれ」
彼はまだ頭がはっきりしないらしい。ふらふらと歩いていった。見ると智真上人以下、大講堂の廊には、常ならぬ威儀で役僧全部で並んでいた。彼を見るやいな、まず都寺が起坐して、
「こら智深、よくうけたまわれ。なんじ、昨夜は、またもや麓にでて飲酒の戒を破って大酔のまま帰山せしのみならず、山門において、例のごとく暴勇をふるい、番僧雑人十数名を殺傷し、あまっさえわが文殊院の至宝たる仁王像を引きずり下ろして微塵となし、それに尿を放って、快を叫ぶなど、沙汰の限りな狼藉の果て、今暁までその場に眠りおったとのこと。──すべて言語道断な次第じゃ。じゃによって、一山大衆の名をもって、上人の裁可を仰ぎ、即刻、わが浄域より追放を申しつくるものである」
と、怒りをふくんで申し渡した。
智深は、半分ぐらいまで、他人事みたいに聞いていたが、自分が当人かと、やっと気づいて、
「えっ。そんなことをしましたか。この智深が」
すると監寺、書記、首座、提点らの役僧も一せいに口を揃えて罵った。
「ぬけぬけと、ようそんな顔ができたものだ。彼方の僧房を覗いてみよ、汝のために手足を挫かれた怪我人が、枕を並べて呻いておるわ」
「それのみか、門前町から山上の途中でも、見晴らしの亭を打ちこわし、附近の娘どもを見れば、狼が鶏でも追うように、追っかけ廻して歩いてきたとか」
「いちいち挙げればきりがない。さほどな痴態悪業におよびながら、いまさらなんぞ、その白々しさは」
智深は二の句も出なかった。やがて悄々とその場を退がると、智真長老から再度よばれて、
「さても是非ない仕儀。このうえ、当山にとどめおかば、そちの恩人たる趙の長者にもいっそうご迷惑をかけることになろう。そこ思って神妙に退散せよ」
藍の脚絆手甲、一重の僧衣、それに鞋一足、銀子十両ほどの恩施が、前におかれていた。
智深は、ぽろりと涙をこぼした。そして、猫のように。
「どうも、なんともかとも、申しわけございません。われながら今はわが身を持てあましまする。といって首を縊る気にもなりませんが、いったい、この魯智深はどう生きていったらいいんでしょうか。ね、お上人さま」
智真長老は、胸のうちで、心易でも立てているのか瞑目久しゅうして、一偈をつぶやいた。
「……林ニ遇ウテ起リ、山ニ遇ウテ富ミ、水ニ遇ウテ興リ、江ニ遇ウテ止マラム。……四遇ノ変転ハ身ニ持テル宿星ノ業ナリ。魯智深、まずは生きるままに生き、行くがままに行け」
「はい。じゃあ、そういたしましょう」
「さし当って、身の落ちつく先もなくては困ろう。わしの弟弟子は昨今、開封東京の大相国寺にあって、智清禅師と衆人にあがめられておる。この添書をたずさえて、大相国寺へまいり、よう禅師にすがってみるがよい」
「どうも何からなにまで、ありがとうぞんじます。……ではお名残り惜しゅうございますが」
と、彼が神妙に頭をさげると、侍座の役僧たちはみな笑った。「……なにがお名残り惜しいものか」と、彼の退散に、胸撫で下ろしていたからだろう。
さて。──その日。智深は悄然と麓町へ降りていった。そして、鍛冶屋の隣の旅人宿へ泊りこんだ。さきに鍛冶屋へ誂えておいた錫杖が出来上るのを待ったのだ。そしてやがて半月ほど後に、その出来栄えが見られた。重さ六十二斤水磨作りの錫杖は上々なものだった。
「ようし、この一杖さえあれば、天下の山川草木は、みなわが従者」
彼はたちまち、ここ数日の鬱を眉に払って、大満悦な態となり、すぐさま開封東京へさして出立した。
花嫁の臍に毛のある桃花の郷を立ち、
枯林瓦罐寺に九紋龍と出会いのこと
奇異なる旅の子魯智深は、幾度も山に臥し、野に枕したが、野獣猛禽も恐れをなしてか、彼の寝姿と鼾声のあるところは、自然一夜の楽園と化し、なんの禍いも起らなかった。
もっとも智深は身に一トかたきの食糧を持つではなし、金銀は元より帯ぶるところにあらずだから、これを襲ってみたところで、得るものは何もありはしない。──その夕べも、腹をぺこぺこにして、やっと山中の一村に辿りついた彼だった。
「おうこの辺は、たいそう桃の多いところだな。今や桃の花ざかり。そうだ、今夜は一つそこらの桃林に寝て、武陵桃源の夢とでも洒落ようか」
──すると、鶴のごとき一人の老人。彼が立ち入りかけた桃林の傍らから出てきて。
「もしもし、お旅僧。こよいは当家にちと取り混み事がございますし、それに不慮のお怪我でもなさるといけませんから、ほかへ行ってお休みくださらんか」
「おぬしは誰だ」
「この桃花村の旧家で、劉家のあるじでございますが」
「……どうしたのだ、いくら老人にせよ、まるで粘土のような顔いろをして、いまにも泣きだしそうなその容子は」
問われると劉老人は、もうさめざめと本当に泣き出していた。「……じつは」と打ち明けるのを聞いてみると、今夜は愛娘の婚礼の晩だという。
「なに、一人娘の婚礼だと?」
いよいよ、おかしい。好奇心も手つだって、なお仔細を聞きほじってみた。
そこで老翁が語り出すのを聞けば、この地方の青州の県軍でも手を焼いている匪賊の一団がこれから奥の桃花山に住んでいる。
愛娘の聟というのは、その賊将の弟分と称する周通という者で、もとよりこっちから、嫁るといったわけではない。
「桃の花が咲いたら、聟入りにいくぜ。前もって、山から使いを出しておくが、聟入りの夜には、花嫁を磨いて、酒肴の支度はいうまでもなく、万端、華やかにしておきねえ」
と、すでに周通の前ぶれを受けていたものだとある。そしてもし、それに逆らえば、桃花村は一夜に焼き払われるか、みなごろしの目に遭うであろうと顫くのだった。
「あはははは、いまどき、古手なやつもあるもんだ。よろしい。じゃあ真夜半に、その桃花山の賊が押しかけ聟に来るんだな。劉じいさん、心配するな」
「……と、仰っしゃってくだすっても」
「じつは、わが輩はもと渭水で提轄(憲兵)をしておった魯という者だ。そういう裁きには手馴れている。わが輩を娘御の部屋へ案内するがいい」
「娘は昨日から泣き沈んでいて、人さまにお会いするどころではございません」
「会わんでもいいよ。娘御は早くどこかへ隠してしまえ。そしてわが輩が花嫁になり代って、寝台の帳を垂れて寝ておるから、賊の周通がきたら、盛大な祝宴と見せて、たっぷり酒を飲まして連れてこい。……いや、それまでの間、わが輩も独りで閨に待つのは退屈で堪らん。花嫁の部屋にも酒を忘れるなよ」
劉老人は、ためらうより恐れ気味だった。しかし、一族大勢がやってきて、だんだんに智深の説得を聞き、盲亀の浮木で、ついに彼の策にすがった。
そこで智深は、宵のまに、花嫁の部屋に隠れこみ、そこの帳を垂れて、寝台に横たわった。もちろん彼にも饗膳と酒が供されたので、鱈腹たべて、寝こんでいる……。
が、ときどき眼がさめた。もう何刻ごろか。表の方では、花聟の列でも着いたのか、銅鑼や太鼓の音。そして〝聟迎えの俚歌〟などが賑やかに聞えだしている。
「……ははあ、そろそろ祝宴が始まったな」
その辺までは知っていたが、またいつかぐっすり寝入ってしまったらしい。夜は森沈と更け沈み、赤い蝋燭の灯にみちびかれて、魔王のごとき影がゆらゆら室の外まできたらしいのも、彼は全然知らなかった。
劉老人らしいのが、そこで声をひそめて、
「……では花聟さま。てまえは、ここで失礼を」
やがてコトコト戻っていった。遠ざかるその跫音をたしかめてから、賊の周通は、すうっと部屋へ入ってきた。
「おや、真っ暗じゃねえか。……ははあん、さては羞かしがっているのか」
独りごとをもらしながら、周通は手さぐりで花嫁の寝台へ近づいてきた。そしてまた、おや? とでも思ったのか。
「ひどく酒臭えなあ。むむそうか。花嫁の部屋でも、身内の宵酒盛りとかやるのが慣いだからそのせいだな。……これよ、娘、いや嫁御。なにもそう羞かしがるにはおよばぬよ」
じつは、周通のほうこそ少してれ気味である。柄にもなく、そろっと、帳の内へもぐり込んで、花嫁の衣裳の下へ手を入れた。すると、ヘンなものが彼の手にジャリッとした。どうも臍らしいが毛が生えていた。
「あっ。代え玉を食わせやがったな」
どたんと、彼が寝台から転び落ちたので、智深は初めて眼をさました。ばっと刎ね起きざま、花嫁衣裳を被いたまま、
「待てっ、聟どの。逃げるとは薄情な」と裏手の桃林へと追ッかけた。
周通は柳の木につないであった馬を解くやいな、柳の枝をムチにして一散に逃げだした。智深もまた、手下の馬の一頭に跳び乗って追ッかけていく。──それはいいが、さあ、劉家の後の騒動といったらない。
残された手下どもは、変だと知って、劉老人を縛りあげ、これを曳いて、翌朝、桃花山の匪賊の木戸へ帰ってきた。
ところが、なんぞはからん、そこでは、賊の頭目と魯智深とが、仲よく笑いながら酒酌みかわしている。そしてまた、昨夜の押しかけ聟──すなわち頭目の弟分の周通は、悄れ返って、そのそばで首うなだれている始末ではないか。
「やあ、劉じいさん、可哀そうに、捕まってきたのかい。おい花聟、早く縄を解いてあげろ」
魯智深はげらげら笑って、仔細を話した。
昨夜、相手を追いつめて、この木戸まできてみると。弟分の助太刀に出てきた頭目というやつは、なんと、渭水の街の膏薬売り──あの打虎将ノ李忠であった。
「……ばかなやつらだ、こんなところでケチな山賊などしてやがって。まだ、膏薬売りのほうが、どれほどましな商売か知れめえに」
と、今も、意見していたところだとある。
だが、打虎将李忠も、その弟分の周通と名のる男も、これが天性彼らには性にあっている生態なのかも知れなかった。表面は神妙に服して。「……いやもう、以後は決して、劉の娘になぞ手出しはしません」
と、誓っていたが、どうも本気とは思われない。
智深が少し白い歯を見せると、李忠は図にのッて言った。
「おれが渭水の土地を売って旅へでたのも、智深、ほんとは、おぬしのせいだぞ。おぬしが関西五路の顔役鄭をなぐり殺したため、おれたちにまで、役人の手が伸びて、片っぱしから牢へぶちこみ始めやがった。そのため、おればかりでなく史進も渭水を捨てて、どこへともなく姿を消してしまったじゃねえか」
「そうか。いわれてみれば、わが輩にも責任があったことか。だがもう古手な素人脅しの生娘漁りやケチな悪事はよしたがいいぜ。やるなら男らしい大望を持ったがいいよ。でっかい夢をよ」
とはいえ、智深も長居は無用と見たのであろう。ふたたび劉家や桃花村には仇をしないという誓いを二人に立てさせ、二人が矢を折ッて、悪党仁義の金打をしたのを見ると、劉老人を里へ帰し、自分もまた、飄としてここを立ち去ってしまった。
そしてふたたび、東京さしての旅また旅をかさねてゆくうち、はからずも、ここ瓦罐寺と呼ぶ奇峭怪峰の荒れ寺に、一夜の雨露を凌がんと立ち寄って、彼は、世にあるまじき人間のすがたを見た。
「はあて……。これが建立された時代は、天子の勅使、一山の僧衆、香煙、金襴、さぞ目ざましいものだったろうに。よくもこうまで、荒れ果てたものだ」
瓦罐寺の地内へ、一歩入った智深は、その荒涼たる景に、さしもの彼も、唖然とした。
鐘楼や堂宇は崩れ放題、本堂のうちも雀羅の巣らしい。覗いてみれば、観音像はツル草にからまれ、屋根には大穴があいている。そこらの足痕は、狐のか狸のか、鳥糞獣糞、すべて異界のものだった。
「おういっ。人間はいねえのか。だれか住んでる奴はいないのか」
すると奥のほうから骨と皮ばかりな老僧が、ひょろりと立ち現われて、
「おお……お旅僧か。ここには人をお泊めする糧もないぞよ。早う行かっしゃれ、行かっしゃれ」
「なに、糧もないと。あの庫裡で炊いている煙はなんだ。どうせ貴様たちの食物も里で貰ってきたお布施だろう。おれも腹が減っている。お斎にあずかりたいものだ」
「めっそうもない。わしたちですら、露命をつなぎかねているのじゃ。そんな大声だしているとご僧の身の皮も剥がれちまうぞよ。さ、早く立ち退きなされ」
「ていよく追っ払おうというのか。それとも誰かに気がねしてそういうのか」
「ここには、崔道成という悪僧と、丘小一という行者の悪いのが、わがもの顔に住んでおる。……わしらはその二人に寺を奪われて、やっと粟粥をすすって生きているばかりなのじゃ」
「ふウむ。崔と丘。そんなものが恐ろしいのか。とにかく、もうすこし話をきかせてくれ。その代りあっちで粟粥を一杯ご馳走になるぜ」
庫裡へ廻ってみると、まるで隠亡窯みたいな赤い火を薄暗い中に囲んで、ここにも骸骨みたいな痩せ法師が、がつがつ粥を喰べあっているところだった。
智深が鍋へ手を出したので、彼らは隅へ竦んでしまった。そして智深が二、三杯もすすりかけると、恨めしそうに、ぽろぽろ涙をこぼしては見つめている。いかな智深も、これでは喉に通らない。腹は減っていたが、いまいましげに、中途で欠け碗をほうりだした。
──と、外の方で、田舎唄だが、粋な声がふと聞えた。見ると、行者ていの若い男が、天秤で一荷の荷をかついで通った。その竹籠の中には、蓮の葉にのせた桃色の牛肉や酒や野菜などをのせている。智深は眼を光らせた。
「あいつか。この寺に巣を作って、おまえらには物も食わせないというやつは」
「そうです、あれが飛天夜叉とアダ名のある丘小一で」
「ほかにもう一匹、崔道成とかいう化道がいるわけだな。ようし、いま見た牛肉はわが輩が食ってやるぞ」
「およしなさい。そ、そんな真似をなすったら、すぐご一命はありませぬ。のみならず、私たちまでどんな目にあうか知れません」
「わはははは。なにをガタガタ慄えるのだ。まア見ておれ。おまえらにも、今夜は肉の一片ずつをお布施してやるから」
豹のごとく、智深は跳びだして行った。手には鍛えてまだ日の浅い錫杖が、はがねの匂いも立つばかり光っていた。
とも知らず行者の丘小一は、むかし方丈の庭でもあったらしいところまでくると、荷を下ろして、待っていた二人の者と、なにか笑って話している。──見れば、大きな槐の下に、一卓をすえ、崔坊主は、一人の若い女を擁して腰かけていた。
女を中に挟んで、すぐ酒もりにでもかかるつもりか。陶の器、杯などを、卓の上へ並べだした。ところへ、のっそり魯智深が近づいてきたので。
「やっ。雲水じゃねえか、てめえは。誰に断わってここへ来た」
「来てはいけないのか。あっ待った。そこの女子。いずれおまえは、里から攫われてきた人妻か娘だろう。あぶないよ、退いていな」
「なに、あぶねえと」
そこは悪と悪。眼を読むのは迅かった。
崔が起ったと見えたとたんに、その手から水の走るような一刀が智深の胸先三寸の辺を横に通った。かわすまでのことはない。智深の錫杖は傍らの丘小一へ向って一つぶんと旋る。丘は退がって、これも腰の一刀を見事に抜いた。気合い、眼光、いずれも智深に劣る者とは見えない。
だが、恐いもの知らずの智深である。また、かつて一度でも不覚をとったためしはない。「おううっ」と彼の満身が吠えたのも久しぶりだ。──ござんなれという構え。
じりじり、その彼を挟んで、二刀の切ッ先は寸地を詰めつつ迫ってくる。まるで刀の先に眼がついているかのごとく、智深の毛ほどな動きも見のがさない。「……はてな?」智深は少し汗を吹きはじめた。「腹のへッているせいか?」いや、そうでもなかった。剣気というのか、一種の精気が呪縛をかけてくるのだった。智深はやっと自重しだした。
「南無三、こいつは、いけねえ。めずらしく手強いらしいぞ」
破陣の勢いで錫杖を一振すれば、丘小一の影は宙へ躍って新月の刃をかざし、崔道成は低く泳いで颯地の剣を横に払う。一上一下、叫喚数十合、まだ相互とも一滴の血を見るなく、ただ真っ黒な旋風をえがいては、またたちまちもとの三すくみの睨め合いとなった。
やがて疲れたのは、魯智深のほうである。事実、腹もへっていたが、しかし、かつて出会ったことのない強敵にも違いなかった。たじたじと押されつつある。そのうちさすがの彼も、今は自己の限界を知ったとみえる。やにわに後ろを見せて逃げだした。その図ウ体が大きいだけに、その逃げざまこそおかしかった。
まるで転がりやまぬ火達磨みたいに、山門を跳びだし、道を走り、石橋を渡って、ほっと大息ついて振り向くと、そこを関門としてか、追って来た崔と丘の二人は、石橋の欄干に腰をかけて、
「さあ雲水。ひと息いれたら、もいちどおいで」
と、いわぬばかりに涼しい顔で休んでいる。
智深は物蔭からそれを眺めて、
「さて世の中は広いもんだな。あんな化け物もいるからには、わが輩もちと反省せねばなるまいて。残念だがここはまア負けておけ。戻ってゆけば犬死にだ。……だが、待てよ。これはしまった」
わが姿に気づいてみると、大事な頭陀袋を掛けていない。落したかと慌てたが、よくよく考えてみると、さっきの庫裡で、粟粥をふうふう吹いて食ううちに、粥をこぼしたので、脱いでおいた覚えがある。
「こいつは困った。あの中には大相国寺の智清禅師へ宛てた智真長老のお手紙が入っている。取りに帰れば、石橋でふんづかまるし。……といって、あれ持たずには東京へ行く意味もない」
彼は石橋を渡らずに戻れる道はないかとうろつきだした。すると渓谷へ降りる道があった。そこを沈んで彼方へ登ると、瓦罐寺の北へ出た。あたりは赤松林である。行けども行けども赤松ばかりと思われた。ところがやがて忽然と、こんどは死の林みたいなところへ出た。おそらく一院の古い焼け跡でもあろうか。見みかぎり一点の緑もない枯れ木林だ。しかも今、彼の跫音に、ふとその辺の岩蔭から、すっと起って、こっちを振り向いた白衣の人影があった。人馴っこく智深のほうへ近づいてでもくるのかと思うと、白い人影は、彼を見て、
「ちっ。くそ坊主か」
唾でもするような舌打ちして、後も見ずに、枯れ木の間を縫い去ってゆく。智深は彼の「……べっ」と唾を吐いた唇鳴らしが気にくわなかった。一跳足に追いすがって、錫杖を横構えに。
「やいっ、待て。なんでいま、きさまアおれをあざ笑ったか」
「笑いはしない、くそ坊主かといったまでだ」
「ここには、ほかに人間はいない。おれのことをいったと思う」
「思うように思っておけ。たぶん当っているだろう。ほんとの坊主なんてものは、近ごろ世間に見たこともないからなあ」
言語は爽やかだし、姿もすっきりした男である。白衣は行者姿のもの。或いは、丘小一の仲間かもしれない。
陽は沈みかけている。男は彼方の廃院へでも急ぐのか、ふンとまた、鼻で笑いすてて歩き出した。その虚や狙うべしと思ったか、智深は突嗟に、
「かッ」
丹のごとき口を開いた。振り込んだ錫杖の下、白衣は朱と思いこんだ。ところが男は、ついと、横に移っていた。静かに腰の戒刀へ手をかけて、
「坊主、見違えるな。おれはなにも死神じゃねえぜ。命をもらっても仕方がない」
「な、なにを、生意気な」
相手も次の錫杖は待たなかった。抜く手も見せぬ迅さである。振りかけた錫杖がもし斜めに魯智深の眉間を防がずにいたら、彼はきれいに割られた瓜みたいになっていたかもしれない。智深は跳び退いて、錫杖を持ち直した。
すると、夕闇を透かしていた眼と、キラとも動かない戒刀のみねから、落ちついた声が通ってきた。
「おいっ、待った。ちょっと待て」
「怯んだか行者」
「いや、さっきから少し考えていたことがある。もしやあんたは魯提轄じゃあるまいか」
「えっ。わが輩の前身を知っているおぬしは誰だ」
「やれ、あぶないところ……」
行者はすぐ戒刀を鞘にして、つかつかとその顔を近づけてきた。
「史進ですよ。渭水でお別れした九紋龍史進でさ。てまえもこんな風態だが、いや、あんたの変りようではぶつかっても分りッこはない。提轄から坊主とは、どうもえらい化けかたですな」
菜園番は愛す、同類の虫ケラを。
柳蔭の酒莚は呼ぶ禁軍の通り客
「やあ、これは奇遇だった。さても人間てやつ、どこで別れ、どこで会うやら知れぬものだな」
魯智深はいった。──九紋龍史進もまたこの奇遇を尽きない縁と興じてやまない。そして相携えつつ、もとの瓦罐寺のほうへ歩きだした。
──途々、智深は、にわか出家の花和尚となった身のいきさつを友に語り、九紋龍は渭水を去ってのち、延安や北京をさまよい、いまだに尋ねる師の王進先生にも巡り会えず、こうして枯林の廃寺に一時雨露を凌いでいたわけだ、と話す。
「そうか。お互いどッちも、風の間に間に、浪の間に間に、まア似たり寄ッたりの身の上だな。しかしわが輩はこれから、東京の大相国寺へ行くんだが、史進、あんたはどうする?」
「こんなところで行者めかしていたのも、いわば一時の身過ぎ世過ぎ、当座のあてもないから、少華山にいると聞く、朱武のところでも訪ねていこうかと考えていたところだが」
「それもいいかもしれぬ。どっちみち、今のような腐爛した末期の世では、もともと、旋毛まがりにできているお互いは、真面目にもなれず、いよいよ住みにくくなるばかりだろうし……。や、や、ちょっと待ってくれ。まだいやがる」
「なんだ花和尚」
「あれ、あの石橋の欄干に腰かけて、さっき散々、わが輩を苦しめやがった崔坊主と行者の丘小一が、まだ執念ぶかく見張っている」
「はははは。瓦罐寺に住むあの悪党か。和尚、こんどは何も怯むことはあるまい。ここに九紋龍という助太刀がいるからには」
いううちにも、すでに彼方の石橋の上では、丘行者と崔坊主が、こなたの二人を見つけたか、遠目にも巨眼熒々、いまにも斬ッてかかってきそうな構えを示していた。
しかしこんどは、前に智深一人が相手だった場合とはわけが違う。あわれ浅慮にも、やがて、われから挑みかかッて来た彼らは、たちまち逆に、九紋龍の戒刀と、智深の錫杖の下に、お粗末な命の落し方を遂げてしまった。
「さあ、こいつらを片づけたら、さっそく、庫裡におき忘れた大事な頭陀袋を取りにいかねばならん。史進、ここで待っていてくれるか」
「いや、おれも一しょにいく」
──戻ってみると、幸いに頭陀袋はそのままあった。けれど、ここに細々露命をつないでいた老僧らも、身の上の分らぬ一人の女も、みな梁に首を縊って死んでいた。おそらく先刻、智深が崔と丘に追われて、いちど負けて逃げたのを知り、次には自分たちが、どんな目に遭わされるやらと、恐怖の余り、また今のような世を生きるにも絶望して、死をえらんだものかと思われる。
「ああ揃いも揃って。……こいつは何とも不愍なことをした。だが仏さんたち、迷うなよ、これはわが輩のせいでないぞ」
めずらしく智深は奇特な合掌をして、うろ覚えなお経をとなえた。それを見て、九紋龍もそばからいう。「──寺院が寺院の役を果しえず、悪党ばらの巣に恰好な魔所となっているからこんなことにもなる。いッそのこと、焼いてしまったほうが後々のためであろう」と。
「そうだ、一切を荼毘に附して、亡者の霊をなぐさめ、おれたちは、ここを下山としよう」
つい先刻、亡者どもがあばき合っていた粥鍋の窯には、まだ鬼火のようなトロトロ火が残っていた。智深はその薪の火を持って、庫裡に火を放った。──そして両人、宵の山路を、どんどん麓へ降りていった。
「おお花和尚。あの山上の紅蓮を見ないか」
二人は振り向いた。──満天は美しい焔の傘から火の星を降らせている。宋朝初期のころには、紫雲の薫香、精舎の鐘、とまれまだ人界の礼拝の上に燦いていた名刹瓦罐寺も、雨露百余年、いまは政廟のみだれとともに法灯もまた到るところ滅びんとするものか、惜しげもない末期の光芒を世の闇に染めだしていた。
智深と九紋龍は、それから二日路ほどの旅をともにし、やがて華州と開封路の追分けにかかるや、再会を契って、袂を別った。
──さて。一方は日ならずして、時の花の都、開封東京にたどり着き、さっそく大相国寺の智清大禅師をその山門に訪うて、
「拙僧は智深と申す五台山の一弟子ですが、当山の禅師がおんもとにて修行を積めいと、師よりお添状をいただいてまいった者。よろしくお取次のほどを」
と、頭陀袋から智真長老の手紙を取出して、役僧に渡し、一堂に座してその沙汰を待った。
「はて。五台山の智真長老も、えらい者を、当山へさし向けてきたもんじゃな」
大相国寺の智清は、手紙の中にある智深の経歴を読んで、ちょっと、うんざり顔だったが、また禅家特有なとでもいうか、へんな興味も覚えぬではなかった。
坊主の前身には、ずいぶん変ったのもあるが、智深のごときはまず珍らしい。──渭州経略府の憲兵あがり。侠気はあるが、喧嘩好き、酒好き。しかも人殺しの前科のため、剃髪した男だとある。
「おそらくは、五台山でも持て余した者だろうが、智真はわしの昔からの道友、置けぬといったら、気が小さい禅家よと、嘲うであろうし。……さて、どうしたものか」
全役僧を集めて、衆議にかけると。
「来訪の一行脚は、どう見ても出家とは受けとれません。なんとも魁偉な人物です」
「第一人相もよろしくない。どことなく凄味がある。また、知客が迎えたとき、禅家の作法もよくわきまえぬものか、たずさえている香具、座具、袈裟などの使い方にも、まごまごしおった」
「ていよく、お断りあったほうが、当山のためかと存じますが」
衆口紛々である。一人も歓迎はしていない。智清禅師は、ほとほと困った。──すると、都寺(僧職)が、うまい一案を提出した。
「馬鹿と鋏はなんとやら、そのような人物も、当山附属の野菜畑の管理所へやっておくには、案外、適任ではおざるまいかの」
「なるほど、なるほど。野菜畑の目付ならいいかもしれぬ」
「なにせい、あの酸棗門外の菜園ときては恐ろしく広い。のみならず、附近の兵営からは兵隊どもが荒らしに入るし、もっと厄介なのは、門外にある無頼漢街じゃ。年中、墻を破ッて、瓜や菜根は大びらに盗んでゆくし、農耕の馬や牛も、いつのまにか食ってしまう。……といって、番人も山僧どもも、なにもいえん。なにしろ奴らは凶悪なので」
「それや妙案。いかがでしょう禅師。風来の魯智深とやらには、試みにまず、その菜園目付役でもやらせて御覧じあっては」
「むむ、衆意同案とあれば」
一山の断により、さっそく首座(僧職)がその旨を、智深にいいわたす。智深は、ふくれ面だった。たとえ、化主、浴主の末僧でも、なにか僧職の端にはと期待していたらしい。
「まあまあ、やがてはだんだんに、茶頭、殿主、蔵主、監寺などの上職にも、修行次第でと申すもの。が、当座はひとまず菜園のほうで」
おだてられて不承不承、智深は酸棗門外の畑へ移されていった。管理所だの菜園目付のといえば聞えはいいが、来てみればただの大きな畑番の番小屋。「……ふざけやがって。ようし、わが輩をこんな所の案山子に使おうというなら、おれの起居にも干渉はさせんぞ。そんなら、いッそ気楽でいいが」と、ここに花和尚魯智深は、ここの大地主にでもなったような気で持ち前の〝野性の自適〟をきめこみだした。
日ならずして、近所のごろつき街の空気には異変が起っていた。いつもの調子で畑荒らしに入った奴が、巣へ帰って言いふらしたのだ。
「おいおい、行ってみや。番人が代ったぜ。こんどの奴ア八頭芋みてえな面をした凄え坊主だ。おまけに、墻門に何やらむつかしい掲示なんぞ貼りだしやがる」
「なに代ったって。どれどれ、どんな野郎か、面を見ようぜ。それに掲示たあ何だい?」
与太もンどもはつながって、掲示の杭を取り巻いた。文にいわく。
──爾今、当山ノ僧人魯智深ヲシテ菜園ヲ管理セシム。耕夫ノ令、厨入ノ百菜、スベテ右ノ者ニ任ズ。
猶又、無用ノ者、入ルベカラザル事。犯サバ、懲シメニ会ワン。悔ユル勿レ。
「なンでえ、きまり文句じゃねえか。ひとつその、魯智深て野郎のほうへ、見参におよぼうじゃねえか。……いるかい、番屋の中に」
「いるいる。なにしてやがるんだろう、臍を出して、ぼやっと、嘯いている面つきだぜ」
「ふ、ふ、ふ。野郎、恐いンだよ俺たちがね。こうして、ぞろぞろ、いやに静かに近づいていくもんだから、わざと知らん顔しているに違えねえ」
「だが、一度はお土砂をかけておかねえと、俺ッちを甘く見損なうッてこともあらあ。どうだい、番人の代るたびにやる、あの手を野郎にも食わせておいちゃあ」
「むむ肥溜の行水か。あの手を一ぺんご馳走申しておきゃあ、どんな奴も毒ッ気を抜かれてしまうからな。よし、やろう。みんなぬかるな」
ごろつきたちが、胸に一物の揉ミ手腰で、うようよ近づいてきたのを、知るか知らぬか、智深は大欠伸をして、床の高い番所の梯子段を降りたと思うと、のっそり畑のほうへ歩いてきた。
「あっ、もしもし。こんどお代りになったご番僧さんじゃござんせんか」
青草蛇ノ李四と、迂路鼠ノ張三は、二、三十人の仲間を後ろに控えさせて、智深の前に小腰をかがめた。そして凄味をきかすため、相手かまわぬ博奕渡世の仁義をきって。
「ええ、てまえどもは皆、ついご近所に住む気のいい野郎どもでございますが、ご掲示を拝見するッてえと、番所の和尚さんがお代ンなすったとのことで、お顔つなぎに伺いました。どうか、ひとつ、よろしくご懇意に」
「なんだい、まア」と、智深は眼をまろくして。
「おれはまた、どこか裏店の葬式が、道を間違えて入ってきたのかと思ったよ」
「へッ、へへへ。おもしろいことを仰っしゃるなあ。おいみんな。こんどのご番僧さんは話せそうだぜ。さ、こっちへ出て、ご挨拶をしろ、ご挨拶をよ」
「いらん、いらん。そう安ッぽいお辞儀などはいらん。が、顔つなぎなら、酒でも提げてきたろうな」
「こいつア恐れいりやした。渡りをつけるってえご定例は、ほんとのとこは、そちらから、こち徒らへしていただくのが作法でござんすがね。野暮をいうなあ止しやしょう。──おいっ、眼ッ跛」と、張は仲間の一人へどなって。「──どうでえ、粋な和尚さんじゃねえか。さっそく一しょに飲んでくださるってんだ。一ッ走り飛んでいって、街の酒屋と肉屋へ、御用を仰せつけてこねえか」
「あいよ」と、すぐ二、三人は飛んでいった。
それを合図に、眼くばせ交わしたごろつき連は、智深をとり囲んで、なんのかんのと、次第に彼を大きな肥溜のある畦のはずれへ誘いだした。──智深は、これが彼らの計略だとも、また、自分の立ったすぐ後ろが糞の池とも気づかなかった。また、ちょっと見たのでは溜の表皮一面、蠅の上に蠅がたかって、まるで黒大豆でも厚く敷いたような密度だから糞色も見えず肥の匂いもしないのである。で智深はただ、彼らの愛相や馬鹿ばなしに退屈を忘れ、他愛もなく一しょに興じあっていた。
すると、与太もンの一人が、すッ頓狂な声を発して、
「あッ、和尚さんのくろぶしに、大きな虻が」
と、いきなり彼の脚元へ身を這わせ、虻を打つと見せて、片脚を拯いかけた。拯われたら後ろの溜へもんどりは知れたこと。智深は無意識に体をねじッた。そして、そいつをぽんと蹴放し、また、とたんに、も一つの脚へ搦んできたチンピラの横びんたへ向っては、
「ちょめ!」
と、童の頬でも撲るような平手の一擲を食らわせた。なんでたまろう、二つの体は仲よく躍ッて溜りの中へ飛んでいった。刹那。うわあん……鐘の鳴るような唸りが起って、満天満地に蠅が舞い立ち、ために、一天の陽もなお晦いほどだった。
「それっ、たたんじまえッ」
とは声ばかり。智深の体にたかッたと見えたものは、みなそれ、一颯に目を眩す蠅の旋舞といささかの違いもない。──智深は早くも番所小屋の高床に戻って、
「あははは、わはははは」
と、独りで腹を抱えている。
溜に沈没した仲間のチンピラを、どうやって救いあげて帰ったろうか。想像してみるだけでも智深にはおかしい。どうもこの畑番、至極退屈な役と思っていたが、とんだよい景物が近所に見つかった。愉しい哉、世の生きものども。ちょいちょい野菜泥棒にも這い込むがいい。時により、智深にも仏心なきに非ずだぞ──と、彼はそれからというもの毎日、むしろ彼らの現われるのが、心待ちに待たれた。
だが、ごろつき街の連中にすれば、それどころかは、額を集めての、薄暗い密議まちまち。
「さあ、みんな、しッかりしろやい。こんどの番所坊主は、いままでの瓜頭とは瓜の恰好も違うと思ったら、ちょっと中身も違うらしいぜ。なんとか一度、ぶッ砕いてやる思案はねえか」
十数日の後である。練りに練った一計を秘したものか、蛇李と鼠張の二人が、番所の小屋に謝罪りにやってきた。「……先日は乾分どもの悪戯。なんとも、お見それ申しやして」と、いとも神妙に、三拝九拝して、一献差し上げたいという申しいでなのである。
下地はよし、折ふしの炎暑に、智深も茹ッていたところであるから、一も二もなく、誘いにまかせた。そして彼らについて出て見ると、園の蓄水池の畔り、涼しげな楊柳の木蔭に、莚をのべ、酒壺を備え、籃には肉の料理やら果物を盛って、例の与太もン二、三十が恐れ畏んで待っている。彼らは頭を揃えて、
「へえい。以後は決して、こち徒ら一同、畑荒らしはいたしませんし、ご菜園の御用とならば、どんなことでもいたしますから、どうかひとつ、今後はお手下の耕夫同様におぼしめして」
「えらく今日は行儀がいいなあ。なあに、寺でも食いきれない菜園だ。適度には持ってゆけ、持ってゆけ。その代りちょいちょい、わが輩へのお年貢を忘れるなよ」
智深は遠慮なく飲み大いに食らった。ちんぴらどもは彼の酒量に驚き呆れ、三度も酒屋へ馳けつけた。
「……おや、なんだこれは?」
彼はやっと気がついた。彼の肩や頭へ何か時々、楊柳の上からポトと落ちてくるものがあった。手で撫で廻したのは不覚である。鷺やら烏やら、とにかく鳥の糞にはちがいない。
「ちイっ……。対手にならぬやつほど恐い対手はないぞ」
智深は呟いて少し座の位置をかえた。歌う者、手拍子を叩く者、与太もンどもは、浮かれ騒ぐ。するとまた、頭上の柳の葉隠れでも、烏がガアガア啼き騒いだ。のみならず、智深の襟くびから杯の手に、またぞろ、ワラ屑みたいなものがこぼれた。
智深は癇癪をおこして、突っ立った。
「ええい、やかましいっ。この化けもの柳には、烏の巣があるとみえるな」
「相すみません。和尚さん、いま梯子を持ってきて、巣を落しますから、お待ちなすって」
「そんな手間暇がいるもんか。ここの烏も畑荒らしの一族だ。こうしてやる」
あっと、ごろつきどもは思わず嘆声をあげた。智深が法衣の諸肌を脱いだからだ。そしてその酒身いっぱいに繚乱と見られた百花の刺青へ、思わず惚々した眼を吸いつけられたことであろう。
いや、驚倒したのは、それだけではない。智深が大きな柳の幹を抱くようにして、半身をやや逆さにしたと思うと、むくりと根廻りの土が揺るぎだした。ううむっ、と智深の半裸から陽炎が立ち、大樹の親根が見え、毛根が地上にあらわれ、どうっと、大樹は根コギになって仆れた。
「……どうだ、拙僧の余興は」
智深は洒落のつもりらしい。だが彼はがっかりした。気がついてみると、あたりのチンピラは、烏の群れより迅く、逃げ散っていた。舌を巻いたどころの驚きでなく、恐怖に駆られ、その日の計略も忘れて街へ逃げ去ってしまったものらしい。
さすが、それからは仕返しも断念し、腹の底から慴伏したものに相違ない。以後はコソコソ影を見せても、花和尚さまだの、花羅漢さまのと、遠くから平蜘蛛になって、めったに側へ近づこうともしなかった。
「こりゃ、淋しい」と、彼は喞った。
「それに、やつらの馳走になりっ放しなのも心苦しい。よし、こんどはこっちで招いてやろう」
或る日、彼は酒肉を調えて、逆に彼らを園の一莚に招いた。大よろこびで、彼らはやってきた。こうなると、日ごろのゲジゲジも迂路鼠も青草蛇も、案外、天真爛漫なもので、飲む、踊る、唄うなど、百芸の歓を尽して飽くるを知らない。
「ところで、花羅漢さま。今日は一つ、一同におねだりがござんすが、お聞き届けくださいましょうか」
「なんだ貧乏人の拙僧に」
「たいそうお見事な錫杖をお持ちでござんすが、いかがなもンで、ひとつその、花和尚さんのお腕前を一度拝見したいって、みんなが申しておりますが」
「なに。おれの武芸をみせろというのか。そんなことなら無料ですむ。おやすい頼みだ」
さらぬだに、久しく振ってみなかったかの鋼鍛え重さ六十二斤の鉄の愛杖。それを取るや、酒の莚を離れていった。まず片手振りを試み、また八相、青眼、刺戟の構えを見せ、さらに露砕、旋風破、搏浪、直天、直地の秘術など、果ては、そこに人なく、一杖なく、ただ風車の如き唸りと、円をなす光芒がぶんぶん聞えるだけだった。
すると何者か。近くの破れ土塀の崩れの辺で、
「ああ、見事。……すばらしい!」
とわれを忘れて、つい発したような声がした。
その声に、智深はつい気合いを外してしまい、しんとしていた与太もンたちの群れへ。
「誰だい? あんなところから覗いて、いま妙な気合いをかけおったのは」
「お。……ありゃあ花羅漢さま。武芸のほうじゃあ、たいしたお方でござんすよ。汴城八十万の禁軍ご指南役の一人、林冲と仰っしゃるお武家で」
「なに、林師範だって。そいつあ、えらいもンに見物されたな。ごあいさつせずばなるまい。おい、誰か行って、丁重にお呼びしてこい」
鴛鴦の巣は風騒にやぶられ、
濁世の波にも仏心の良吏はある事
林冲には、通り名がある。豹子頭といい、あわせて豹子頭林冲とよぶ。
生れつきなる豹のごとき狭い額、琥珀いろの眸、また顎の鋭さは燕のようなので、そんな綽名がつけられたものか。
見るからに都の武人風。装いは洒落ていた。緑紗の武者羽織は花団模様の散らし、銀帯には見事な太刀。また、靴も宮廷ごのみな粋なのを履いていた。年ごろは三十四、五か。……やがて、こなたへ歩いてくる背丈もまた抜群といっていい。
智深は、その人を莚に迎え、名乗りあってから、一盞を献じた。漢は漢を知り、道は道に通ずとか。二人はたちどころに、肝胆相照らして、
「花和尚、以後はあんたを義の兄と敬おう。武芸からも、年齢の順からいっても、あんたが上だ」
と林冲がいえば、智深もまた、
「この魯智深には、ちともったいない弟だが、そういってくれるなら、ここで義兄弟の杯を」
といったわけで、時のたつのも忘れ顔に、緑蔭の清風は、この二人のためにそよめくかとばかり爽やかだった。
するとどこかで「──旦那さま、旦那さま」と、しきりに林冲を探すらしい女の声がする。彼はすぐ莚をつっ立ち、そしてさっきの崩れ土塀の辺に、チラと見えた小間使い風の女の姿へ、
「おうい、錦児。拙者はここだここだ。なにか急用でも起ったのか」
「……あっ、だ、だんなさま、たいへんでございますよ、奥さまが」
侍女の錦児は、心も空な口走りをつづけ、馳け寄りざま何ごとかを、泣き泣き主人に告げだした。──聞くうちにも、林冲はその豹額にするどい敵意と不安を掻き曇らせていたが。
「……ま、泣くな。よしっ」と錦児をなだめてから、酒もりの莚のほうへ。
「妻の身にちと心配が起ったので、今日はこれで失礼する。花和尚、いずれまた会おう」
「やあ豹子頭。俄に酒もさめた顔いろじゃあないか。御夫人がどうかしたのか」
「いや、侍女の錦児をつれて、この先の東岳廟へ参詣にいった帰り途、なにか殿帥府の若い武士どもに搦まれて悪戯に困っているとのこと。捨ててはおけぬ。──ご免!」
いうやいな林冲の姿は、もう彼方の崩れ土塀を跳び越えていた。なにさま、豹身が風をきって跳ぶかの如く、それは見えた。
無理はない。林冲にとっては、多年の恋が結ばれて、つい先ごろ、家庭を持ったばかりの新妻なのだ。──来てみれば、東岳廟と並ぶ五岳楼の廻廊の欄干に、それらしき武家風の若者十人ばかりが、腰かけている。手に手に吹矢の筒、弾弓、鳥笛などをもてあそび、べつの一組は、階の口を立ちふさいで、通せンぼをしているとしか思われない群れである。
「や、や。あれや高俅の養子、高御曹司の近侍たちだな」
よもやと思ったが、やはりそれだった。廻廊の下には、日ごろ見覚えのある白馬に見事な金鞍がすえてある。──そもそも、現宋朝の徽宗皇帝のもとに、いまや禁門汴城における勢威第一の寵臣は誰なりやといえば、馬寮の走卒でもすぐ「──それは殿帥府ノ大尉(近衛大将)高俅さまだ」と答えるであろう。──高ノ御曹司とは、つまりその人の養子なのだ。もとは高家の叔父、高三郎の子であるが、貰われて、時めく近衛大将軍家の公達とはなったのである。
ところが、この御曹司、養父の権力をかさにきて、ろくなことはして遊んでいない。取巻きの近侍たちも皆、上流子弟の愚連隊といったような連中で、街の人々もこの悪貴公子の群れを〝花花猟人〟などと称していた。また中には「……血筋はあらそえないもの……」と、いう蔭口もなくはない。
都民のうちには、現朝廷の寵臣高俅も、むかしは、無頼な一遊民にすぎず、喧嘩、賭けごと、書画、遊芸、何にでも通達していて、いつか権門に取入り、蹴毬の妙技から、ついに、徽宗帝に知られ、鰻のぼりの出世をとげた法外な成上がり者なることを今でも覚えている者が少なくなかった。──だから養子の高御曹司が、よその娘、人の女房にもすぐ眼をつけての女狩りなどと、高家のお家芸よと、怪しみもしないわけかと思われる。
が、それはさておき。
林冲の新妻はいま、五岳楼の御堂扉にしがみついて、執拗な高御曹司と、争っていた。
「いやですっ。私は人妻です。見ず知らずのあなた方に誘われて、そんな御堂内などへはいかれません。お放しくださいませ。放してッ」
「まあ、いいじゃないですか。あなたは見ず知らずというが、麿はもう夢に見るまであなたを前々から恋していた。ここでお会いしたのは、東岳廟のおひきあわせだ。ああ、そのお唇、そのおん眼」
「ええ、けがらわしい。何をなさるンですかっ」
「女はみんな、初めは柳眉を逆だてて、そういうが、ひとたび、ほかの男を知ってごらんなさい。わが身のうちに潜んでいた泉の甘美に驚きますから」
「ばかっ。色きちがい」
「あ痛ッ。よろしい。あなたはその美しい繊手で、麿の頬を打った。麿も暴力をもって報いますよ。火のごとき愛情の暴力で」
「あれッ。……たれか、助けてっ」
そのとき階の口に通せんぼしていた高の近侍たちを刎ねとばして、馳け上がってきた林冲が、
「悪戯者。人の妻へ、なんの真似だ」
と、いきなり高御曹司を突き飛ばした。そして、彼らが呆っ気にとられた刹那に、妻の体を引っ抱えて、さっと廻廊の角まで身を避け、次に彼らがどんな陣容を盛り返してかかってくるかと、身構えをとって睨んでいた。
しかし、相手の群れは、事の不意に度胆を抜かれてしまッたか、ただちに復讐に出てきそうもない。
「……や。林師範だぞ」「豹子頭か」と、小声をかわしていたと思うと、たちまち、どどどっと階段を降りて、高御曹司を、白馬金鞍の上に奉じ、まるで落花を捲いた埃のように逃げ去った。
新家庭の林家には、あれからというもの、何か気味のよくない暗影に忍び入られて、あわれ鴛鴦の夢も、しばしば姿の見えぬ魔手に脅かされ通していた。
それみな、高御曹司の陰険な迫害と、執拗な横恋慕とはわかっている。が、わかっているだけになお恐ろしい。相手は殿帥府の最高官の部屋住み。こちらは軍の一師範。どうにもならぬ。
「女房。気をつけてくれよ、わしの留守にも、外出にも」
「いいえ、この頃はもう、買物にも錦児ばかりやって、私は外へも出たことはありません」
林冲とその若き妻は、家にあっても声をひそませ、垣の物音にも、すぐ心を研ぐような習性にまでなっていた。というのも、しばしば妻の身が襲われかけたり、林冲が友人の家で酔っている間に、不慮な事件が留守中に起ったり、何度となく、謎のごとき怪に呪われていたからだった。
「……狙われているのは、私の身だけではございませぬ。私を愛してくださるなら、あなたもご自身に気をつけてくださいませ。禁軍へご出仕の行き帰りにも」
彼の妻は、林冲が門を出てゆくたびに、うるんだ眼で、良人に言った。男は出ないわけにはゆかない。林冲は笑ってみせる。
「案じるな、おれは大丈夫だよ。こう見えても、武術では豹子頭の前に立ちうるほどな敵はない」
──が、或る日、閲武坊の辻で、ひょっこり魯智深と行き会った。彼とは、あれからも数回飲みあって、いよいよ交友密なるものがあったが、
「どうしたんだ豹子頭、会うたび顔いろがよくないぜ。そろそろ秋風に枯葉は舞うし、拙僧もなんだか淋しい。ひとつそこらで飲ろうじゃないか」
と、その日も誘わるるまま、居酒屋の軒をくぐった。
花和尚と語っていると、彼は何もかも忘れえた。しかし、妻のことなどは、話もしないし、相手も訊こうとはしない。
二人は、夕明りのころ、閲武坊の酒屋を出て、ぶらぶら街を歩いた。──すると誰やら後ろのほうから、妙な売り声で、呼ばわるともなく、呟くともなく、ぼそぼそ言いながら、くッついてくる男があった。
「──ああ狭い狭い、世間は狭い。この都に人間は多いが、眼のある人間は一匹もおらんじゃないか。……こんなすばらしい銘刀を見てくれる者もないとは情けなや」
先に行く智深と林冲は、ちょっと、耳うるさげに振り向いたが、すぐ話に夢中な様子だった。
するとまた、後ろで。
「大道商人の刀売りとは、わけが違う。仔細あってぜひなく手放す物。買い逃がしたら二度とかかる宝刀には、生涯出会うことはあるまいに」
──そのとき、先の二人は、いつもの四つ角で袂をわかっていた。「……また会おう。近いうちに」といって去る魯智深の後ろ姿を見送って、林冲はふと呟きをもらしていた。
「いいもんだなあ。真の友達というものは」
そしてふとまた、歩きかけると、藍木綿の浪人服に、角頭巾をかぶった四十がらみの男が、手に見事な宝刀を捧げ、それに〝売り物〟とわかる草標示を提げ、つと、林冲のそばへきて。
「どうです、安いもんでしょう。三千貫とは」
「刀か。刀は腰にもある、家にもある。いらないよ」
「そうか。お武家もお盲さんか」
「なに」
「そんな、ざらにある駄刀とはちと違う。眼があるなら、抜いて見さッせ」
「なるほど、拵えは良さそうだな」
「ちっ。素人くさい。柄拵えや鞘作りを売るんじゃねえぜ。いらんか」
「まア、待て」──つい好きなので手をのばし、刀の鯉口下三寸の辺をぐっと握ってみた。男は手を放す。林冲は思わず、むむと心で唸った。
持ち味、たまらない触感と重みである。鞘を払ってみれば、夕星の下、柄手に露もこぼるるばかり。
ためつ……すがめつ……彼の眸は稀代な銘刀の精に吸いつけられ、次第に放しともない誘惑に駆られていた。
「浪人、どうしてこんな神品を手放す気になったのか」
「どうしてって。……この襤褸姿を見てくれればわかるだろう。飢えた妻子が待っている。それ以上、訊くのは罪だ」
「訊くまい。いくらだ」
「昨日今日、三千貫とわめいてみたが、売れない。御辺を眼のあるお人と見て、半分に負けてやる」
「欲しい。だが少々、金が足らん」
「一千貫。あとはビタ一文も引けない。それでよければ」
「よし、わが家の門まできてくれい」
ついに林冲は手に入れた。妻もよろこんだ。
──単に家宝を得ただけでなく、銘刀は魑魅魍魎も払うという。そんな心づよさも抱いたのである。
──と。三日ほどたって。
殿帥府の副官陸謙から使者が来た。その書面をひらいてみると、
聞説。貴下ハ先頃、稀代ナ宝刀ヲ入手セラレシ由。武人ノ御心ガケ神妙ナリト、高大尉閣下ニオカセラレテモ、御感斜メナラズ、マコトニ御同慶ニ堪エナイ。
という祝辞の次に、こう結んである。
……ツイテハ、高家御秘蔵ノ宝刀ト、貴下ノ愛刀トヲ、一夕、較ベ合ッテ鑑賞ヲ共ニシタシトノ高閣下ノ御希望デアル。依ッテ、明日改メテ迎エノ使者ヲ出ス故、御携来ヲ希ウ。
「……はアて。誰が、いつのまに刀のことなど知って、喋ったのか。もっとも大道で買った物。誰も見ていなかったとは限らないが」
林冲も、ちょっと怪しみ、妻もなにか動悸を感じたが、しかし、殿帥府副官の名では、公式な召しも同様で応じぬわけにもゆかない。もしまた、文面の通りなら光栄とも考えられる。何が待つか、ともかくもとその翌日、林冲は正装して宝刀をたずさえ、迎えの者とともに、大尉の公邸に出向いた。
衛兵の見える公邸の門を入ると、林冲を伴った迎えの者は、
「あれなる中門を通って、東の殿廊を進んでいかれい。そこの階に、召次の者か副官がお越しを待っておいでになろう」
教えられるまま、彼は奥へ進んだ。けれどそこには誰も立ち迎えていない。
「はてな?」
振り返ると、彼方で見知らぬ衛兵が、黙って、北廊を指さしている。さては教え違いか聞き違いかと、北へ進むとまた一門があった。すでに禁苑の一劃とおぼしく、美々しい軍装の近衛兵が戟を持って佇立していたが、林冲を見ると、唖のごとく黙礼した。禁軍師範の林冲も、まだかつて、こんなところまでは来たこともない。
だが弱った。いったいどこを訪うたらよいのか。壮麗なる一閣の階を上って、内を窺うと、さらに中庭が見え、彼方に緑欄をめぐらした一堂があるのみだった。
「……あれかな? なにやら人の気配もするが」
橋廊を渡って、一房の珠簾内をそっと覗いてみた。すると、正面の欄間の額に、墨の香も濃く読まれたのは、
とある四大字。林冲はぎょッと、立ち竦んで、
「や。これはいかん。節堂は軍の機密を議するところで、枢機に参ずる高官のほか立入りならぬところと聞いておる。えらいところへ迷い込んだもの」
慌てて後へ戻ろうとしたのである。が、時すでに遅かった。靴音たかく、さっと一方の扉を排して現われた将軍がある。これなん、かつての毬使い高毬、いまでは殿帥府ノ大尉にして徽宗の朝廷に飛ぶ鳥落す勢いの高俅であった。
「こらっ、なにやつだ。節堂を窺う曲者は」
「あ。高閣下ですか。お召しによって伺うた師範林冲にござりますが」
「なに、お召しによってだと。いつ汝を呼んだか。そんな覚えはないッ。怪しい言い抜けを」
「いや、いや。確かに陸副官のお使いをうけ申して」
「陸謙、居るかっ。この者を召捕れっ。わしを暗殺せんと近づいた者があるぞ」
「あっ! なんで拙者が」
すでに彼の四方は鉄桶のごとき兵士で取り囲まれていた。その中には、顔もよく知っている副官陸謙の姿も見える。林冲は、それへ向って、
「使いをよこしたのは、貴公じゃあないか。家にある貴公の手紙が何よりの証拠だ。なんで拙者をこんな目に会わすのか。おいっ、笑いごとじゃあない。返事をしたまえ」
怒りをこめて叫んだものの、陸謙はてんで受けつけない。
「はははは。ばかな血迷い言を。……なんで一師範の汝を、高閣下がお召しになろうぞ。敵国のため、軍の機密を盗みに忍び込んだか、または、高閣下に怨みをふくんで、お命を窺いおったか。いずれかに相違あるまい。──それっ、あの手に持っている宝剣を用いさせるな」
兵士らは、どっと喚きかかり、林冲の体を圧ッ伏せ、高手小手に縛り上げて、その日のうち獄へ下げてしまった。
獄は、開封奉行所の構内にある。時めく高家から下げられた罪人だし、罪状云々とあっては、ただ、首斬れといわぬばかりな囚人だ。しかし府尹の職として、そうもならない。奉行はこれの調べを、与力役の孫に命じた。そして、一応の証拠固めをなすまでの時日を藉した。
これは、林冲にとって、受難中にも一つの幸いだったといえよう。はたまた、彼がこの世に果すべき人間業のいまだつきざるところだったか。
与力の孫は、名を定といい、囚人からも世間からも、慈悲心のある良吏として、慕われていた。綽名といえば良いほうにはつけないものだが〝仏孫子〟といえば知らぬものはない。
孫は、日ごろから林冲の人となりを知っているし、また、節堂事件が、高家の捏ッち上げくさいことは、すぐ感づいたので、われから進んで、いきさつを洗ってみた。
その結果、高御曹司の横恋慕が泛かびあがった。そして彼をめぐる取巻き連の陸謙、富安などという阿諛佞奸な輩が、巧みに林冲を陥穽に落したものとわかってきた。──またそれは林冲が奉行白洲で訴えた寃罪のさけびとも合致していた。
「これまでの謎も、すべて私には解けています。この林冲をなきものとし、私の妻を奪わんとする高御曹司の執拗な呪咀が、さまざまな形となって、わが妻と家庭を悩まし脅かし通してきたものに違いありませぬ」
──それは主席の奉行も認めた。けれど、奉行にしろ高家の睨みは恐い。たとえ寃罪の証拠証人をならべ得ても、無罪にするわけにゆかず、死罪以外の処刑もどうかと、ためらわれた。
「じゃあ、お奉行に伺いますが……」
と、孫与力は、処刑判決のさい、日ごろの仏の孫さんにも似ず、色をなして詰めよった。
「この奉行所は、朝廷と民とのためにあるのでなく、高大将家のためにあるものでしょうか」
「孫定、なにを申すか。それはちと過言だろうが」
「でも、お奉行のごとき憚りをもてば、あだかも、高家の私設奉行所のごとき観を、庶民に与えるのではございませんか。……さなきだに、高家の専横と、高御曹司の非行などは、口には出さねど、開封の都民はみな見て知っておりますからな」
「では、林冲の処刑は、どう裁いたらいいと申すのか」
「とにかく、死刑はいけません。死罪だけは、断じていけない。といって、軽罪では、高家の父子もおさまりますまい。死一等を減じて、辺疆の地へ流刑にされてはいかがでしょう」
「さ。どうだろう、そんな処分では」
「大丈夫です。高家の側にも、手ぬかりがありました。副官陸謙の手紙が林家にあったのを、てまえが握っています。あれを陽なたに出せば、奸策歴然ですから、いかに高家たりとも文句は噫にも出せないはずと、てまえは固く信じまする」
末期宋朝の濁世にも、なおこの一良吏があったのである。即日、流刑と決まり、林冲は白洲で宣告をうけた。
当時の慣わし、半裸にして、二十ぺんの棒打ちを背に食らわせ、その顔に刺青する。また、護送となっては、鉄貼りの板の枷が首にはめられ、その錠前に封印がほどこされた。
流刑先は、滄州(河北省)の牢城だった。──牢城とはつまり諸州から集まる罪囚の大苦役場の名。
また、その聴許を要請された殿帥府の高家でも、司法法廷の裁判には抗いかねたものだろう。だまって、その公文書に裁可の官印を捺して下げてきた。
さて。いよいよ罪人押送の日となって、開封奉行所の門を一歩出てきた林冲の姿は、もうこの一と月ほどで肉落ち頬骨あらわれて、足もとすらもなよなよしていた。その日、往来に群れなしていた街の男女や縁故の見送り人たちも。「……これが昨日までの林師範か」と、涙を催さずにいられなかった。
人目を浴びつつ、やがて州橋を越え、都関も出ると、また一群れの人々が待っていた。すると中から林冲の妻と、妻の父が走り出てきて、
「おお聟どの。……待っていた。しばしの別れを、あすこの酒店で」
と、馬子茶屋みたいな店の奥へみちびいた。もちろん、これにはお定まりの賄賂が充分とどいていること。で。そこでの限られた寸時の別れをお互いに泣いて惜しみあう機会はえたが、しかし、妻は身も世もなく、林冲の胸に涙の顔を埋めて離れない。すでに「──時刻、時刻」と、戸外の護送役人が喚き立てても、離れようともしなかった。
林冲は、眦をふさぎ、ここに観念の臍をきめて、わざと酷くいった。
「いつまで、嘆きあっていても、別れはつきない。また、深く考えてみれば、恋々と泣き濡れているだけが愛情でもない。おそらく、この林冲がいなくなれば、高御曹司が、そなたの身や、お舅の上に、またあらゆる毒手を加えてくるだろう。……早くどこかへ身を隠せ。そして、そなたはまだ若い身そら、良縁があったら他家へ縁づいて、わしのことは忘れて幸福に暮しなさい」
彼は即座に、酒店の老爺から、筆と硯を借りうけ、離縁状を書いて、岳父にあずけた。
「お情けないっ。……あなたは私を、そんな女と思っていらっしゃるんですか。いやですっ。……死んでもそんなことは」
妻は悶絶せんばかり、なお良人の膝にしがみついて慟哭する。その間にも、護送の役人は、軒を叩いて、
「早くしろ、早く」
と急く。ついに舅は泣き狂うむすめを無理にもぎ離し、ともに擁して泣き死んだように丸まってしまった。それを見捨てて、林冲の姿を急く腰鎖は、遠い流刑地の途へ仮借なく彼を追いたてていった。
押送役の刑吏は、端公(端役人のこと)の董超と薛覇という男だった。当時、宋代の習慣では、囚人をつれた端公の泊りには、道中の旅籠屋でも部屋代無料の定めだった。だから彼ら小役人は、旅籠へつくなり自身で火をおこし、粟を炊き、出張費稼ぎの小金を浮かせるのを役得としていたから、囚人の食物などは、ただ露命を保たせておけばいいとしているに過ぎない。
東京城の関外へ出てから二日目、小さな宿場町へ黄昏れ頃つくと、とある田舎酒館の前に馬を駐めて、彼らを待っていた男がある。黒紗の袍を着て、卍頭巾、黄革の膝行袴ばきに、馬乗り靴という扮装。そして鞭を逆手に、
「おお端公たち、いまついたか、ご苦労ご苦労」
と、何かすでに、ここでの会合を東京で諜し合せておいたことらしく、眼くばせくれると、端公らは、ただちに附近の旅籠へいって、林冲の腰鎖を部屋の柱に縛りつけ、そして早速、以前の田舎酒館へ引っ返してきた。
卍頭巾の男はもう、卓に酒肴を並べさせて待っていた。そして、銀子二十両ずつ、二た山にして、彼らの卓の鼻先においてある。
「さあ、遠慮なく飲まんか。これから滄州まで何百里の道のりだが、途中にはもうろくな酒肴には出会わんぞ」
「へい。どうも恐れいります。……が、なんともはや、殿帥府副官ってえお偉い方の前じゃ、ついその、かたくなっちまいやしてね」
「なにも公ではなし、そう恐れいらんでもいい。こちらも人目をはばかることだからな。そこで開封奉行所を立つ前日、そのほうどもの私宅へ、そっと使いをやっといた例の件だが、心得たろうな」
「……そ、それがですよ旦那。弱りやしたな。こう二人で、首つき合せて相談してみたんですが、なにしろ奉行所のほうじゃ、必ず囚人の生命だけは無事流刑地まで押送せよ、万一あらば端公もまた、罰せらるべし……とございますんでね」
「そんなことはわかっとる。わかっとるからこそ貴様たちに密々こうして高家よりお頼みとしてお吩咐がくだったのじゃないか。それができんとあっては、この副官陸謙もただでは帰れん。いやか」
「と、とんでもない。てまえどもみたいな端役人に、ご大官さまから内々のお頼みときちゃあ、是も非もなく、お引受けは否めませんが、なにしろ、日ごろは薄給な身分ですし、家には女房子年寄まで、うようよ腹を空かしているような暮しなのでもし職にでも離れますと、その、その日から」
「だから申しておるじゃないか。……そのほうたちの手で、滄州までの途中において、あの林冲をうまく殺しおおせたら、褒美の金はもちろん、生涯、高家の庭番にでも何にでも使って面倒はみてやる、食うには困らせはせんと……」
「へい。そこはまことに、ありがたいお話で、一生仕事だぜと、こいつにも言ったんですが」
「どうも煮えきらんやつらだな。何をまだ、そんなに思案投げ首をしているのか」
「ただの囚人なら、一も二もござんせんがね、なにしろ豹子頭林冲といっちゃ、禁軍のご師範、やり損なったら」
「たわけめ。なんのための首カセや腰グサリだ。人なき山中で一棒をくれてもよし、谷添い道で突き落し、あとから息の根とめてもいいではないか。……ただしだぞ、林冲を殺したという証拠には、彼の顔から金印(いれずみ)の皮膚をはがし、それを証拠に持ち帰れよ。よろしいか。さあ合点がついたら、元気をだして大いに飲め。──そしてそれなる銀子二十両は、当座の手付け金として渡しておくから収めておくがいい」
賄賂は彼ら端役人の端公には、日ごろも収入に数えている常習のものだが、こんどのことは相手も違うし、ケタも違う。一生涯の運のつかみどころかとも思われた。
そこで、陸謙と別れた翌朝、彼ら端公二人は、またも片手に水火棍(三尺の警棒)をひッ提げ、林冲の背をしッぱだき、しッぱだき、峨々たる山影の遠き滄州の長途へ、いよいよ腹をきめて立っていった。
世路は似たり、人生の起伏と。
流刑の道にも侠大尽の門もある事
俗に、滄州までの道は二千里(一里ヲ六町ノ支那里)といわれている。
道々は難所折所。護送役の端公(獄役人)二人は、毎日林冲の縄ジリをとって追いたてながら、
「さて、どこでこいつを殺したもんだろう。ただの囚人なら雑作もねえが、なにしろ禁軍八十万の師範だ。いくら首枷がはめてあるからって、もしやり損なったらこっちの首がすぐ失くなる」
ついつい、十数日はいつか歩いてしまった。殺意もこう念入りでは、機会もなかなかつかめない。
「オイ、薛」と、端公の一人が、もう一人の董へささやいた。
「毎日毎日、これじゃあ容易にラチはあかねえぜ。なんとか、そろそろ手を下さねえと」
「わかったよ。いちどに息の根をとめようとするから難しいんだ。あしたからは、林冲の足をあの世へ向けて、冥途の旅の一里塚を一ツ一ツ踏ませてくれる。そのあげく、ばッさりやりゃあ、なんの仕損じることがあるもんか」
その晩。──山の旅籠につくと、端公の薛は、いち早く、裏口へ廻って湯玉のたぎるような熱湯をたたえた洗足盥を抱えてきた。
「おい、林師範、これで足を洗うがいいぜ。疲れた足は、よく湯に浸すに限るんだ。夜もよく眠れるからな」
「や。これはどうも」
「なんだい。ははあ、首カセが邪魔になって、うまく体が屈めねえんだな。よしよし、おれが草鞋を解いてやる」
「とんでもない。お役人が囚人の足の世話なんぞを」
「いいってことさ。まア出せよ足を。……都じゃそうもいかねえが、長途の道づれ、なんの遠慮がいるもんかね」
親切ごかしについ乗って、林冲は、それが熱湯とも知らず、うッかり盥のなかに足を突っこんだ。あッ──と退くまもおそし、足くびはやけただれ、彼は足くびを抱えて、悶絶せんばかり転がった。
「てへッ、なんでえ、大げさな」
端公二人は、見向きもしない。彼らは、木賃の定例どおり、例の自炊にとりかかり、寝酒を飲んではしゃぎ合った。もちろん林冲へも馬の飼料でもくれるように木鉢に盛った黄粱飯が、首カセの前に置かれはしたが……。
けれど火傷のくるしさ、食欲も出ず、夜すがら彼は眠れもしなかった。あげくに、翌朝は新しい草鞋を穿かせられたので、数里も行くと、草鞋の緒は血にまみれ、乾いた血と土とが、終日、足の皮膚を破った。
「おいおい林師範。どうしたんだい。そんな足つきじゃ滄州までは半年もかかっちまうぜ。早く歩けよ、早くよ」
「むむ、どうにも歩けぬ。これでもあぶら汗なのだ」
「なに、歩けねえと」
薛が、水火棍(獄卒棒)を振り上げるのを、董は止めて、
「まあまあ、そう短気を起すなよ。そのうち足も癒るだろう。さあ、歩いたり歩いたり」
棒の先で、軽く林冲の背や腰を小突いてゆく。撲られるより、このほうがはるか辛い。
それから三日目。有名な野猪林という原始林へかかった。夜ごとの睡眠不足と疲労に、さしもの林冲も、折々、立ち居眠りをもよおすらしく、混沌とよろめいていた。眼顔を見合せた端公の二人は。
「ああ、くたびれたな。どうだい、ちょっと一と昼寝していこうじゃないか」
「よかろう。だが、縄ジリをどうする? おれたちがとろりとしている間に、もしや林師範に逃げられちゃあ大変だが」
林冲も休みたかったので、つい言った。
「どうか、ご心配のないように、拙者の体を、木の根へ、厳重に縛って下さい」
「いいかい。じゃあ、すまねえが、ちょんの間、そうしてもらおうか」
林冲は、彼らのなすままに委せていた。彼らは、その手頸足頸まで、がんじがらみにして、林冲を大樹の幹に縛し終ると、やにわに、
「よしっ。もう、こッちのもんだ」
と、躍り上がった。その打って変った形相に、
「あっ。なにをなさる」と、林冲は叫んだものの、もう遅い。彼らは左右から水火棍を振り上げて、
「やい林冲、おれたちを恨むなよ。おめえにとっては、ここまでがこの世の定命。また、おれたちには出世の門だ。──林冲を殺して面皮の金印(刺青)をはぎ取って帰れば、生涯安楽にしてやるとは高大将軍家のおさしがね。あの陸謙っていう副官の命令さ。恨むなら、そっちを恨め」
いうやいな、林冲の頭蓋骨もくだけろとばかり、二つの棒が風を呼んだ。ところが、一棒はカンと異様な響きを発して宙天に飛び、一棒は腕ぐるみ捻じ曲げられて、とたんに端公二人は大地へ叩きつけられていた。
ここに現われた者は、林冲の難を聞いて、都門開封から後を追ってきた花和尚の魯智深だった。
「さあ、わが輩が追っついたからには、もう、てめえたち邏卒は、召使いも同然だぞ」
智深はそこらの立ち木へ向って、禅杖を振るい、一撃二撃してみせた。およそ、どんな生木も巨象にヘシ折られたように肌を裂いて砕けた。端公二人は、慄えあがって声も出ない。
「師範。情けないお姿になられたなあ」
花和尚は涙もろい。こう労わりつつ、林冲を木の根から解いて、さて。
「……どうする豹子頭(林冲)。おぬしはここで逃げたいか。それとも滄州の流刑地まで曳かれてゆく気か」
「おお花和尚……」と、林冲は再会のよろこびに咽びながら「拙者も男だ。おのれ一人助かってはいられない。逃げれば、東京に在るいとしい妻や舅などに、この大難の身代りをさせるような結果になろう。やはり拙者は刑地にいって、苦役に服すよ」
「そうか。……ぜひもないなあ。ならばせめて、滄州の近くまで、わが輩が送っていこう。さあ、この和尚の背に、おンぶするがいい」
「冗談じゃない。囚人の身が」
「なんの遠慮だ。大相国寺の菜園で、おたがいは義の杯を交わした仲じゃないか。きさまはわが輩の弟分だぞ。さあ兄貴のいうことをきけ」
こうして、数日の旅は、花和尚が彼を背に負って歩き、端公らは、荷持ち、走り使い。また旅籠旅籠では、下男のごとく、追い使われた。
おかげで林冲の足はすっかり癒え、毎日の食養も充分にとられたから、以前にもます健康に復してきた。しかも道づれは刎頸の友、端公は従者のかたち。──行くてに待つ運命も長途の苦も忘れて、思わず数十日は愉しく歩いた。
「兄弟。名残りは尽きないが、明日はもう滄州でまえの近県に入るそうだ。今夜はひとつ、別れの思いを酌み合おう」
花和尚は、その夜の木賃宿で、鄙びた別宴を設けさせた。お互い心ゆくまでと、酌しつ酌されつはしていたが、さて離愁の腸、酔いもえず、
「……豹子頭。おぬしの心がかりは、おそらく都にある愛妻や舅の身の上だろうが、智深はまだ当分、大相国寺の菜園にいるつもりだ。よそながら見ているから案じなさんなよ。それとここに持ち合せの銀子がある。地獄の沙汰もなんとやら、これを持って」と、二十両ほど、彼に渡し、また傍らの端公たちにも、小粒の銀子を投げ与えて、
「やい、牛頭馬頭」
「へい」
「あしたから、この花和尚がいねえからって、またぞろ師範に酷いまねをしやがると、きかねえぞ。どうせてめえたちも、お役がすめばすぐ開封東京へ帰るンだろう。よくわが輩の顔を覚えておけよ」
「わ、わかり過ぎるほど、わかっておりまする」
翌朝、木賃の軒を出ると、智深はかさねて、林冲に別れをのべ、風のごとく、開封東京の空へ引っ返していった。
その日、一行は滄州の県内に入った。
次の日である。はや何となく、部落も郊外のさまを思わせ、道に見る村娘の姿やら童の群れも、人里くさい賑わいが濃くなっていたが、やがて、村の用水川らしい石橋の附近まで来ると、
「おお、おお。柴家の大旦那が、狩猟からお帰りとみえる」と、そこらの河畔で川魚をとっていた男女も、畑の物を手車に積んでいた百姓も、みな道の端によって、なにやら地頭の行列でも迎えるようなさまだった。
端公の一人が、土地の者に訊いていた。
「そこの石橋の彼方に、豪勢な長者屋敷の門が見えるが、あれが柴家というのかね」
「へえ。おまえさん、柴進さまを知らないのかい。滄州通いの囚人送りの役人がよ」
「つい、聞いていないが、この界隈で、そんな有名なお人なのかね」
「この界隈だけじゃないよ、柴進はお名だが、通り名は小旋風、貧乏人にはお慈悲ぶかく、浪人無宿者なども、何十人となく、いつも食客として置いているほどでさ。たとえば、お前さんたちみたいな流刑者でも、ご門前へ寄れば、きっと施し物をくださるか、一晩泊めて、労わってやるとか、とにかく、たいそうな侠客大尽さまなのさ」
「ああ、思い出した。それじゃあ、なんでも滄州の近郊には、宋の太祖武徳皇帝のお墨付を伝来の家宝に持っているどえらい名家があると聞いたが」
「それさ。それが今いった、小旋風柴進さまというこの土地の侠客お大尽。……あっ、もうおいでなすった。あのお馬の上のお方がそうだよ」
──見ればなるほど、一団の人馬が、上流の川添い道から下ってくる。
狩猟の帰りとは、ひと目でわかった。大勢の従者のうちには獲物の猪、鹿、尾長鳥などを担っている小者もある。さらに柴進その人は、巻毛の白馬に覆輪の鞍をすえて跨がり、かしらには紗の簇花巾、袍(上着)はむらさき地に花の丸紋、宝石入りの帯、みどり縞の短袴に朱革の馬上靴といういでたち。
年ごろは三十四、五か。龍眉鳳目、唇あかく、いかにも洒々たる侠骨の美丈夫。背には一壺の狩矢、手に籐巻の弓をかいこんでいた。
「やっ。……ちょっと待て」
すでに行き過ぎんとしたせつな、柴進は急に振り向いて、従者の一人に、こういった。
「──あの道端に見える滄州行きの首枷人を、護送の端公に断って、ちょっとこれへ呼んでみい。……どうも、ただ人とも思われぬ骨柄だ。日々、滄州送りの囚人を見ぬ日はないが、あれなる男のような人態は見たことがない」
従者はすぐ走って、林冲と端公を、彼の前に連れてきた。
この一機縁が、やがて豹子頭林冲の運命を大きく変えたものとは、後にこそ知られる。──しかしその場では、名乗り合ったすえ、
「さては、わが目にたがわず、あなたは先ごろまで、禁軍ご師範役として、武林に名の高い林冲どのでおざったか。──わしのもとにいる食客や若い者でも、都にありし日、あなたの教導を受けたという話はかねがね何度も聞いている。……ともあれ、ぜひ今夜は、てまえの屋敷に一泊していただきたい」
と、伴われて、柴家の門を、何気なく潜ったまでのことにすぎない。
いや、その夜の歓待の宴でも、一挿話はある。
大勢の家人食客の中で、皆から「洪先生、洪先生」と呼ばれていた傲岸な一武芸者があった。
彼もしきりに、飲んではいたが、柴進がひたすら礼をつくして、林冲を敬い、その骨柄を賞め、あまっさえ洪より上席にすえているので、洪先生たるもの、内心甚だよろこばない風なのである。
とも気づかず、柴進は上機嫌で、
「これこれ、二人の端公にも、杯をやれ。そして銀子、反物など、なんでも欲しい物を与えるがいい。その代り、こよい一夜は、柴進の責任において林冲どのの身はあずかる」
などといっている。もちろん、それらの賄賂は、首枷を脱らせる鍵代なのだ。端公にしても、恐い眼にあうよりは、ふところに実入りのあるほうがいいのはいうまでもない。
だからこの夜ばかりは、林冲も首枷なく、心から馳走になった。ところが、それも、洪先生にはおもしろくない。「……林冲の武芸とて何ほどのことやあろう。しかも流刑の囚人ではないか」と、蔑みきッている眼ざしだ。
「……ははあ。洪先生、ひがんでいるな」
宴も酣となるにつれ、柴進もやっと気づいた。折ふし庭上には、冬の月が鏡のごとく冴えていた。彼はそこに壮烈な一図を描きだしてみたい思いにそそられだしたらしい。
「──どうです洪先生。日ごろは宅の若いもんや田舎剣者ばかりがお相手で、せっかくの神技も振う折はありますまい。ここに禁軍の前師範林冲どのが見えられたこそ、もっけの倖せ、一手の試合をおためしあってはいかがです」
「むむ。それは面白そうな」
待ってましたと言いたいところらしいが、洪先生は重々しく構えこんで、じろと林冲のほうを見た。
「異存はござらんが、なにぶん、それがしの剣たるや、仮借の相成らぬ強剣だ。それご承知の上なれば」
「林冲どの。洪先生はああいうが、あなたの方は」
「さ。拙者の棒術は、お見せするほどの妙技ではありませんが」
「では、庭上に出て、願おうか」
ここで、よろこんだのは、二人の端公だった。洪先生が大剣を払って、月下の庭に立ったのを見たからである。もしその大剣の一颯の下に林冲が敗れ去れば、手濡らさずで自分たちの目的も達しられる。──そう考えて、満場の人々の興味とはべつな固唾をのんでいるていだった。
ところが、月下の試合は、一瞬にして、林冲の勝利に帰してしまった。
彼は、棒をとって、立ち向ったのだが、戛然、白刃と棒が相搏ッたと思うやいな、どこをどうして打ち込んでいたのか、誰の眼にもとまらなかった。明白なのは、腕を折られた洪先生が、地にヘタ這っていた姿だけである。
「いや、さすがさすが。聞きしにまさる見事さではある。かかる技をお持ちしていながら、牢城の苦役につかれねばならぬとは、さても何たる運命のいたずらか」
柴進はひとしお同情を深めたらしい。──次の日、彼が立つ折には、日ごろ親しくつきあっている滄州の長官、牢城の管営(獄営奉行)、また差撥(牢番頭)などへ宛てて、それぞれ添書を書いた上、大銀二十五両二封をも、あわせ贈って、
「まあ、おからだを大事に勤めてください。いずれ冬着も届けさせましょう」
と、力づけた。さらに、また、二人の若者を付けて、牢城門外まで送らせるという親切気のかぎりであった。
氷雪の苦役も九死に一生を得、
獄関一路、梁山泊へ通じること
「……ああ、ここが以前からよく、この世の外のように聞いていた滄州牢城の大苦役地か」
死者の肌を思わす凍てきッた大陸の線。飛んでゆく鴻の影も、それの生きていることが、不思議に見える。
「こんなところで、苦役につこうとは」
林冲は、いくたびも憮然とした。
それにしても、柴進の添書や銀が、ここでは、どんなにものをいったかしれない。就役者はまず、百ぺんの殺威棒で打ちのめされ、いちどは気絶して〝地獄への生れ代り〟をやらせられるのが掟だったが、それものがれた。
また、管営の面前で裸体にされ、四つン這いにされ、肛門を金棒でほじられ、やれ舌を出せの、前の物の毛を剃れのと、あらゆる非人間的な侮辱と翻弄に会うものが通例なのだが、それもまずお目こぼしにあずかった。
そして、登簿、金印調べまで、すっかり終って、これで労役につく仕事場がきまれば、まず地獄人口の一員に数えられて、果て知れぬ苦役生活が始まるわけだ。
「おい新入り、こっちへきな。──てめえの仕事は、獄神堂の番人ときまった。おなさけだぞ。ありがたいと思いねえ」
差撥は彼を拉して、途方もなく広い刑務区域をぐんぐん歩いていき、やがて閻魔大王の祠ってある古い一堂を指さした。
「ここはな、おい。天王堂ともいうが、掟に服さねえ獄囚は、片ッぱしから、しょッ曳いてきて、この前で土埋め、のこぎり引き、耳削ぎ鼻削ぎ、いろんな重刑に処す流刑地の内の死刑場だ。だがよ、おめえは朝晩、線香を上げ、掃除などして、番人役を勤めていればいいわけだ」
「それは、何とも倖せでした。他の服役者にくらべれば」
「そうよ。よっぽど恩にきなくては罰が当るぜ」
「その上にもですが、なんとか、お計らいをもって、首枷をおゆるし願われませぬかなあ」
「除ってくれというのか。ふふん、そりゃあ、だいぶ物費りになるがね」
「銀子なら、なおこれに所持する限りのものは、いといませんが」
「そうかい。もっとも、おめえのところには、まだ柴家からの差入れもあるだろうしな。むむ、まかしておきな」
差撥は、銀をうけとって戻ったが、やがてその夕きて、首枷をはずしてくれた。
冬は深まる。
大陸の氷地はかんかんに凍てきても、数万の服役者には一日の休みもない。ボロ布と垢と水洟と眼ヤニにまみれた骨ばかりの人々が、朝は暁天から蟻のごとくゾロゾロ出てゆき、夕には疲れた煙のように、どんよりと簇り戻ってきて、やがて眠る。
苦役場は三十里四方もあろうか。農耕、土木、鍛冶、木工、染色、皮革なめし、車輛作り、牧畜、酪農、機織など、その生産は、あらゆる部門にわたっている。だが、ここでの消費物資ではない。ほとんどが都へ輸送され、宋朝の贅と権門の奢りと、軍事面に費やされる。
が、林冲は、柴進のおかげで、苦役だけは舐めずにすんだ。柴進からの差入れ物はすべて、獄吏たちに分け与えていたから、彼だけには、別扱いの自由が黙許されていたわけだった。
時折、買物などしに、街へも出かける。
すると、ある日である。後ろのほうから「……もし、もし」としきりに呼ぶ声がする。そして、ひょいと振り返った彼の前へ、
「おっ、やっぱりそうだった。林師範さま、李小二でございますよ。……いったいまあ、どうしたわけで、こんなところへ」
飛びつくように寄ってきた町人姿の男があった。
「やあ、これは恥かしい。そちは以前、開封の家の近所にいた酒屋の手代ではないか」
「どうも、あのせつは、まことにご恩にあずかりました。今もって、女房ともよくお噂などして、忘れてはおりません」
「はて。なにか世話でもしたことがあったかなあ」
「若気とは申しながら、とんだ費いこみをやりまして、あぶなく主人から役所へ突き出されるところを、お助けいただいたことがございます。そのせつお立て替えくだすったお金すらまだお返ししてもおりませんで」
「なんだい、ずいぶん古い話じゃないか」
「まあ、それはともあれ、ちょっと手前どもまでお越しくださいませんか。その後、面目なさに、主家を離れ、流れ流れて、この滄州くんだりまで来てやっと落ちつき、いまでは、小さい飲み屋をやっておりますんで。へい、きっと女房も、びっくりするに相違ございません」
これが縁で、その日を皮きりに、彼は街へ出るごとに、李小二の店へもよく立ち寄った。
裏街の小料理屋で、女房と小僕を使って、李小二は厨房も自分でやっている。牢役所の獄吏にも馴じみが多いので、役所へきたついでには、天王堂へもきて、林冲の洗濯物や縫物を見てくれたり、肉饅頭をおいていったり、とにかく気心のいい夫婦なので、林冲もとんだいい知人をえたと、よろこんでいた。
すると、その年も越えて、或る日のこと。
「た、たいへんですぜ、林冲さま」
「なんじゃ李小二。顔色を変えて」
箒を手に、そこらを掃いていた林冲は、彼があたふたと求めるまま、急いで、堂内に入り、そこの一房の扉を、内からぴったりと閉めた。
李小二が店をすてて告げにきたのを聞けば、なるほどこれは、林冲の身にとって、容易ならぬ凶変を思わす予報にちがいなかった。
今日の午下がり頃だという。
ぶらりと、彼の店へ入ってきた二人づれの横柄な来客があった。
一人は、色の生ッ白い小づくりなにやけ男。もう一人は軍人らしい体つきの赤っ面。ともに、年は三十がらみだ。何気なく「いらっしゃいまし……」といったとたんに、李小二はぎょっとした。どうも都で見た顔だと思ったら、その赤っ面のほうは、たしかに高大将軍家の副官陸謙。
はて、こいつア何か? ──と直感したので、女房を客のおあいそに出し、酒、料理などの註文を聞いたり、それとない雑談を、厨房窓からきき耳たてて窺っていると、やっぱり開封弁だし、またしきりに高将軍だの、高家だのという囁きが飛びだしてくる。
それはまだいい。ところが、そのうちにだ、
「──おい、店のおやじ、途中から使いは出してあるが、やがてほどなく、牢城営の管営(奉行)と差撥(牢番長)がこれへ見えるんだ。そしたら、後の客は、入れてはならんぞ。店は買切りにしてやるからな」というご託宣。
果して、まもなく、管営と差撥がやってきた。
料理を増し、酒を加え、しばらくは、さり気なく飲んでいる様子だったが、そのうち笑い声もやみ、急に、ひっそりしてしまった。
李小二は、女房の尻を突ッついて、耳打ちした。彼女は眼でうなずいて、そっと、料理場と店の境にたたずんで、聞き耳を澄ました。奥では李小二が、眼を凝らしている。そのうちに、女房の腰から足の辺がわなわな慄えだしてきた……。なにかよほど恐ろしいことでも聞いたに違いない。
卓に首をよせあっていた四つの顔は、胸を上げて笑い合っていた。陸謙の手から、管営と差撥の両名へ、莫大な銀が手渡された。
──そしてまた、酒飯に移り、やがて帰り去ったのは、ついさっきで、まだ街の屋根を夕陽が赤く染めていたころだった──とある。
ここまでの話を聞いて、林冲も驚いた。
「では、陸謙と一しょのにやけ男は、富安という野幇間だろう。やつは、高家の御曹司の腰巾着といわれている佞物。だがその二人が遥々、なにしにこの滄州へやってきたのか」
「あなたを殺しにきたんですよ。……と聞いたんで、女房のやつは、ぞうッと、背すじが寒くなって、竦ンじまったわけなんで」
「銀と権力で、ここの管営と差撥を、買収しにきたわけなんだな」
「そうでしょう。なにしろ、大変なことになりましたぜ。なんとか、ご要心をなさらなくっちゃあ」
「まあいいよ。どっちみち凶状持ちとなった身だ。李小二、女房にもいってくれ、心配するなと」
しかし、さすがに、李小二が帰った後は、なんとなく安からぬものがある。その夜の夢見もよくはなかった。
「ようし。それほどまで、執念ぶかく、この林冲の一命を狙うとあるならば、いっそ、それもおもしろい。この命、こっちもただではくれてやれん」
かねて何ぞの場合にはと、ひそかに買い求めて閻王像の壇下に隠しておいた朱房のついた短槍と短剣。その短剣だけをふところに呑むと、彼は用事をよそおって、ぷいと街へ出ていった。
そして、広くもない滄州の街、やつらの姿を見かけたらただ一突きにと、逆に刺客を狙って、その影を探し求めていた。
数日は、何事もない。相手の危害が見えないのと同時に、彼らの姿にも出会えなかった。
妙なもので、自然、研げていた気もゆるむ。しばらく李小二の店へも寄らなかったが、十日目ごろの午後、ちょっと覗いて、
「変だなあ、あれきりだが?」
と囁くと、夫婦とも、ほっとした顔で、
「それはまあ、なによりでございますよ。このままで何事もなければ……。ま、ひと口、召しあがっていらっしゃいませな」
「そうしようか」
と、久しぶり、一酌して、夕刻前に、営へ帰っていった。
──すると、点視庁からの呼び出しで、
「明日から、刑務場十五里先の東門外にある馬糧廠へ転務を命ずる。起居は中央の飼糧小屋の一つにとること」
という職場がえの命令である。
そこも割りのいい役らしい。飼料の出し入れには袖の下も多いとかで、囚人仲間では、羨望の職場だ。
「承知しました。さっそくに移ります」
多くもない荷物を持ち、彼はその夜のうちに、東門外へ引っ越した。折から颷々たる朔風の唸りが厳冬の闇を翔け、空には白いものが魔の息吹きみたいにちらつきだしていた。
──見れば、荒れ崩れた長い黄土の土塀、曲がりかけた観音開きの木戸。入って、まん中の一番大きなまぐさ小屋が、番人の住む台所付きの建物らしい。
黄ばんだ寒灯の洩れてくるところから、先任の老番人が、彼の跫音に首を出した。
「ほう、おまえかね、こんどのまぐさ番は。昼、わしのほうへも、天王堂の者と入れ代れというお差紙がきていたが」
「やあ、遅く来て申しわけない。食器や雑器など、天王堂へ置き残してきたがらくたもあるが、よかったら使ってください」
「そうかい。ここにも、おらの使っていた酒瓢箪やら、鍋や欠け茶碗なぞもころがってるよ。よかったら使うがいいぜ。それとな、夜具はこの隅に。もっと奥には、あんなに炭俵が山と積んである。なにしろ寒いから、冬中は炉に火は絶やされねえでの」
「買物はどこへ出ますか」
「そうそう、西の藪道を二、三里行くとな、ちょっとした酒屋や肉屋の用は足りる。ただ、馬糧廠は、まぐさ盗ッ人がよく狙うところだから、それだけは用心しなよ」
小屋の家主は、かんたんに入れ代った。
天王堂とちがって、板屋葺の古い建物。寒いことおびただしい。なるほど、大きな炉やら炭俵の山があるわけだとうなずかれる。
馴れぬせいか、最初の一夜は、寒さでガクガクと熟睡もできなかった。
明けてみると、外は大雪。しかも終日降りやむ気色もない。
林冲は退屈をおぼえた。
すると夕方。差撥の部下らしい巡邏が、小屋の隙間から内を覗いていった。その跫音も、吹雪の吠えにすぐ掻き消え、小屋の灯はまたすぐもとの寂寞に返ってゆく。
「ああこんなとき、酒の買い置きでもあれば少しは愉しめるんだが」
味気ない炉に、しきりと、李小二の店が恋しくなる。だが街は遠すぎるし……と、ふと壁を見ると、風流な恰好をした酒瓢箪がかかっている。
「そうだ、西の藪道を二、三里行けば酒屋もあるとかいっていたな。どれ、一と走り行ってくるか」
その瓢箪を、朱房のついた短槍の先にくくりつけ、羅紗張りの笠に、蓑を着込み、がらと吹雪の戸をあけて外へ出た。
──が、気にかかったらしく、また内へ戻って炉の火へ厚く灰をかぶせ、灯を消し、洞然たる屋根裏まで見通して、
「まず、こうしておけば、間違いなかろう?」
呟きながら、小屋の錠をおろして出ていった。
大陸特有な魔の白夜。
積雪は沓をうずめ、朔風は横なぐりに地を掃いて、咫尺もわからない。息はつまるし、睫毛には雪片が氷りつく。
「おや、何の古廟だろう?」
半里ほどきて、ふと息を休めた道の傍ら。道祖神やら何の廟やら知れないが、林冲の心に、ふと仏心でもうごいたのだろうか。ひたと、雪中に額ずいて、
「そも前世の宿業にや、林冲、罪のおぼえもなきに、この獄地に流され、かくのごとき、生ける醜骸となっております。あわれ、なにとぞご加護あらしめたまえ。遠き都にあるわが妻をも護らせたまえ」
と、口のうちで祈念して、やがてまた、歩きだした。
やっと辿りついた小部落の酒屋で一ぱいひっかけ、さらに瓢箪には酒、ふところには焼肉の包みを抱き、やがて帰り道についたころは夜も更けていた。雪はいよいよ烈しく、風は足に逆らい、満身これ飛雪の姿で、笠のつばを抑えつつ、もとの馬糧廠まで馳けもどってきた。
そして何気なく、例の観音開きの木戸口を蹴開き、内へ入ってみると、こはいかに、他のまぐさ小屋は無事なのに、自分の寝小屋の一棟は、雪の重さに圧し潰されたのか、見事、ぺしゃんこになっている。
「はアて。これは弱った。……これじゃあ、飯も炊けねば、寝場所もない」
途方に暮れたとはこのことか。
「こうしていては、この身まで、雪の中に埋められてしまう。そうだ、今夜はさっきの古廟に寝て、夜が明けてからの思案としよう」
板屋根の一部をめくッて、心覚えのところから蒲団だけを引っ張り出し、それを担いで、村道の古廟まで返ってきた。
廟の中は案外広い。ひょいと見ると、金色の鎧甲をつけた恐ろしい武神像と、二匹の小鬼が祠ってある。また壇には、供物だの蝋燭の燃え残りだのたくさんな色紙などが散らばっていた。彼は、その前に夜具をのべて、
「やれ、一寸先はわからぬもの。妙なところで夜を明かすことになったもんだな。だがまあ、瓢箪に酒のあるのが何よりの倖せ」
さっそく焼肉の包みを解いて肴とし、瓢の口から冷や酒を仰飲っていた。
「ああ、いいあんばいに酔ってきた。これでぐッすりできれば」
ごろと、身を横ざまに、手枕となったが、やはりいけない。着ている白木綿の服や肌着を透して雪水がジミジミと沁みてくる。──のみならず、どこか遠くで、バチバチと妙な響きが、雪風にまじって聞えてくる。それがまた耳について、寝つかれなかった。
「や、や。変に明るいぞ」
ぎょっとして、彼は飛び起きた。廟の破れ壁の隙間から、赤い夜空が見えたのだ。
「しまった! まぐさ小屋の方角だ」
彼のあたまには、すぐ小屋の炉の火がその原因と考えられていた。まぐさ小屋は一棟ではない。たちまち馬糧廠一面の火の海となるやもわからない。
「すわ、こうしては居られぬわえ」
枕もとに立てかけておいた朱房の槍を持ち、すぐその消火のために馳け向おうとしたときである。彼はギクと足を立ち恟めた。
廟のすぐ前で、なにやら人声がしているのだ。聞くともなく、耳をすましていると。
「うまくいったなあ、管営。……やあ、差撥もご苦労だった。これで林冲も、こんがりと、黒こげになったろう」
──声には都で覚えがある。高大将家の副官、陸謙にちがいない。
それに答えているのは、これも紛れない管営と差撥だ。もう一人いるのは、陸謙の連れの富安だろう、かなたの猛火を眺めあいながら、しきりにげらげら笑っている。
「まったく、管営さんや差撥さんの大手柄でしたな。この大雪を幸いに、部下に命じて、林冲の寝込みを計り、小屋の腐れ柱を一気に除らせたというんだから堪りませんや。大雪の重さはあるし、やつは、屋根裏の梁に圧されて、寝たまんまのお陀仏となったに相違ありません。林冲にとれば、まあいい往生でさあね」
「いやいや、それだけではまだ、完全とは思われんので、われわれ両名が、ここへ来がけに、あの潰れた屋根へ、さらに松明十本ばかり投げ捨ててきたのでござる。これならばもう万に一つも彼奴の生きのびるおそれはない」
「さすが管営。ご念の入ったことだ」
ほめそやしている陸謙の声はつづいて。
「──これで、身どもも主家の使命を見事仕遂げ、面目をもって都へ帰ることができる。いずれ帰府のうえは、高家より足下たちへご褒美の沙汰もあろうが、では、これで」
「はや、お立ち帰りで」
「むむ、人目については、相互のためによくないからな。旅舎へ戻って、早暁に出立しよう。富安、まいろうか」
別れ去ろうとする刹那。──林冲は、内から廟の扉を蹴開いて、
「待てっ、下種ども!」
いきなりまず、手近にあった差撥を短槍の先に引ッかけて、びゅっと、黒い血しぶきとともに刎ね飛ばした。
「や、や、や。なんじは?」
「腰が抜けたか。林冲はここにいる」
「ぎゃっ。た、たすけろ。助けてくれ」
「卑怯者っ。なにをほざくか」
すでに、林冲の豹眉は、彼本来のものに返っている。豹身低く、短槍の一閃また一閃、富安を突き刺し、あっというまに管営の大きな図う体も串刺にしてしまい、つづいて雪の中を逃げまろぶ陸謙の影へ向って、
「佞物。どこへ行く気か」
びゅんと、手の槍を征矢のように投げつけた。槍は彼方の背に立ち、異様な絶叫をツンざいて、夜目にも鮮らかな血の色がぱッと四方を大きく染めた。
「ああ、ついにおれは四人の軍官吏を殺した。宋朝のもとでは、いまは身を容るるところもない犯人となった」──林冲はみずから慄然としたが、身を翻して廟の前に額ずき、武神の像に礼拝して独り何度もいっていた。
「思うに、もう宵のうち、まぐさ小屋が仆れていなかったら、この林冲は彼らの悪計どおり、梁の下に圧し殺され、さらに焙り殺されていたかもしれません。それが助かったのは、廟の神意と存ぜられる。まさに、天のお助けだ。この先とも、林冲を護らせたまえ」
そして、朱房の短槍を持ち直すやいな、夜の明けぬまにと、雪を蹴立てて、その場から姿をくらました。
馬糧廠の火の手も、この積雪で、まもなく下火にはなったらしい。しかし一時は、警板や警鐘の乱打に、刑務場から附近の村々でも、みな起き騒いで、非常の夜警についていた。
そのため、林冲はまったく逃げ道を封じられ、あっちこっちを、袋の鼠のように走り廻ったが、ままよとばかり、ついに街道口の大焚火を見て、その仲間へ割りこんでいった。
「うう寒い。すみませんが、すこし焙らせておくんなさい。皆さんも、ご苦労さまで」
「さあさあ、ぬくもるがいい」と、四、五十人の村民たちは、何気なく譲ってくれたが「──おや、おめえは村の者じゃあないな。面に刺青があるじゃねえか?」
「へい、牢城営の使いのもんでございますよ」
「牢営のお使いだって、おいおい、いやだぜ、そう側へ寄ッてくれるなよ。おめえの着物は血だらけじゃないか」
「あ、この血ですか。なあにこれは牛を屠殺したときの汚れでさあ。じつあ昨晩、管営さまと差撥さんの官邸でお客のご招待があったんで、牛やら羊やらの屠殺をいいつけられたものでございますから」
「そうかね。それにしちゃあ、いやに生々しいが」
大勢の村民たちはみな、不気味な顔をしあったものの、流刑囚の兇悪さは日ごろ見ているので、それ以上は何も問わない……。また林冲も、ひそかにこれはまずいと警戒しだしたが、ふと見ると、大焚火のそばには、村民たちが寒さしのぎに飲んでいた酒瓶が幾つも開けてある。それを見てはもう矢もたてもなかった。
「すみませんが、そいつを一杯、振舞ってくれませんか」
──しかし、誰も黙っている。うんともいわず、すんともいわない。
林冲は「えい、面倒な」と勝手にそこらの器を取って二、三杯飲んでいた。
ところが、その間に、古廟の方から走ってきた者が、後ろの方で、なにやらコソコソ耳打ちし合っていたのだった。やがて林冲のそばへ来て、
「おまえさん、よっぽど酒に渇えていなさるんだろう。さあ、こんなときだ、飲むさ。存分、飲んでいくがいいや」
と、こんどは頻りにすすめだした。
もうこの辺でと、酒の碗をおきかけていたが、つい林冲はまた手に取った。そしてたちまち半壺を飲みほし、さて、礼を言いながら起ちかけようとしたときである。向う側にいた一人の男が、ぱっと林冲の頭から投網をかぶせた。
「それっ獲ったぞ」
とたんに、彼の上へ、棍棒、鈎棒、鳶口、刺叉、あらゆる得物の乱打が降った。そして、猪の亡骸でも担ぐように、部落の内の籾干場へかつぎ入れ、
「こいつはおそらくただものじゃねえぞ。夜明け次第、管営さまのお役所へ届け出ろ。ひょっとしたら、ご褒美ものかもしれねえぞ」
と、わいわい、どよめき合っていた。
するとほどなく、村長が飛んできて、
「たいへんだぞ皆の衆、たったいま、柴進さまのお屋敷の壮丁が飛んできて、捕まえた男は、手荒にするな、侠客大尽の柴進さまが、以前、世話をなすった男だというこった。──いますぐこれへ、柴家の衆が引き取りにくるそうだ」
「えっ、柴の大旦那の知り人だって。そ、そいつは飛んでもないことをしてしまったわい」
「いや、何もお叱りはねえよ。だが決してこのことは口外するな、もし口外したやつは、村にはおかぬぞというお達しだぞ。村長のわしの立場もなくなる。みなの衆、頼んだぞ。牢城営へはいっさい唖になっててくれよ」
──さて。この夜の騒ぎも七日、十日と過ぎていつか噂も下火となっていたころ。
村の名望家、例の小旋風柴進のやしきの奥まった一室で、あるじの柴進の前に、その懇情にたいし、心からな礼と、別れの辞をのべていたのは、余人ならぬ豹子頭林冲であった。
あの夜。この柴家の内へ、助けられてきて、さまざまな手当をうけたことも、そのときは全く覚えもなく、翌日、聞かされたことだった。
ここには、数十人の屈強な壮丁や食客もたくさんにいる。だから馬糧廠の火災と同時に、古廟の前の兇変も、たちどころに柴進の耳へ聞えてきたし、柴進もそれを知るやいな、
「さては、林師範へ何か危害がかかったところを、逆に師範のため、都の刺客も管営も差撥も刺し殺されたにちがいない。日ごろから悪評しきりな管営や差撥だった。命を落したのもいわば天罰……。ただ、林師範こそお気のどくな身の上だ。あの人を見殺しにしてはならぬ」
と、たちどころに手分けを命じて、その結果、瞬時に、邸内へ助け入れたものだった。
──その柴進は今、すっかり体も恢復した林冲を見て、いとも満足そうに、また、名残り惜しげにこう告げていた。
「できることなら、長くわが家にいていただきたいが、いまはそうもなりません。といって、あれ以来牢城役所では四道の街道口に関所を結び、蟻も通さぬ検問のきびしさとか。しかしまあ私にまかせて、ひとまず山東のほうへ落ちのびてください。計略はこの柴進の胸にありますから」
「まこと親身もおよばぬお情け、生涯忘れはいたしません。すでになかったはずの後半生、いかようとも、おさしずに任せまする」
「では、これに紹介状をしたためておきましたから、山東の梁山泊へ行って、よい時節をお待ちなされるがいい」
「ほ。……梁山泊とは」
「まだご存知ないか。──山東は済州の江に臨んだ水郷で、周り八百里の芦荻のなかに砦をむすぶ三人の男がいます。──頭目を王倫といい、その下には宋万、杜選と申して、いずれも傑物。部下、七、八百をもち世に容れられぬ輩ばかり。また伝え聞いて、宋朝治下の世に、身のおき場のないような者どもも、次第にそこへ難を避けていくというありさまで、いわば自然にできた日蔭者の別天地でもある。……その首領三名とは、てまえもよく知っている間柄。あなたがお越しあれば、粗略にはいたしますまい」
「それは、願ってもない場所。ぜひ行ってみたいが、しかしどうして、滄州の街道口をうまく脱出できましょうか」
「ご心配あるな。今日はもうその手筈もできていますから、途中までこの柴進もお送り申しあげる。いざ、お身支度を」
促されて彼は柴家から贈られた衣服に着かえ、また餞別の銀子、旅の用具なども、肌身に持った。
柴進みずからは、華奢な狩猟扮装を、この日は一ばい派手やかに、馬上となって、門前に出る。そこには、すでに従者食客など数十人が、旗をささげ、鷹をすえ、また狩犬をつれ、手には槍、勢子棒などを持って勢揃いしていた。
林冲の身は、巧みにこの中の同勢の一人に偽装されたのだった。──かくて堂々と、滄州の街道はずれを行けば、路傍の土壁には、林冲の人相書が貼ってあるのが、しばしば見えたし、辻には〝林獄囚逮捕令〟の立て札が、いたるところで眼についた。
「見ましたか?」
柴進が馬の上から、後ろの林冲を見て笑えば、林冲もまた、無言のままニヤリと笑う。
まもなく、東街道口の新関の柵門と番所小屋が見えてきた。たたたたと、同勢小早めに足なみを迅めて、そこの前にさしかかると、
「待て、待てっ」わらわらと躍り出してきた関守の番将、番卒たちが、
「おう、これは柴家の大旦那でしたか。今日もまた、狩猟へおでましで」
と、俄に態度をかえて、お愛相を言い囃した。
柴進も、うららかな顔をして。
「やあ、牢城の兵隊さんたちか。先頃からどうもご苦労なこったなあ。まだ捕まらんかね、人相書の野郎は」
「かいもく手懸りがねえんですよ。災難なのはわれわれで、夜も日も番屋に常詰で、ここんとこ街の灯も見ておりませんやね」
「そうだろう。だが夕方の帰りがけには、しこたま猪の肉や鳥を土産に置いてくからな。酒も届けさせておこうよ」
「そいつは愉しみだ。お願いしますよ旦那」
「心得た。だが役目は役目だ。一応、供の連中を一人一人調べてくれ」
「御法度の明るい旦那のこと。そんな必要はありませんや。さあお通ンなすって」
「でも、万一お供の中に、お尋ね者の人間が紛れこんでいたらどうする」
「わはははは。ご冗談を」
「はははは。じゃあ、ご免っ──」
同勢三十余人。まんまと、こうして馳け通ってしまったのだった。
やがて十里も行ったところで、林冲一人が、その中から途をかえて別れ去ったのはいうまでもない。以後、彼の旅路は二十日あまりの山野をいそぎ、やがて朔風肌を切るような雪もよいの或る日、見わたす限り蕭条として葭や枯れ芦の江岸にたどり着いていた。
渡船場らしい水際に、酒屋の旗をかかげた茶店が見える。そこで、一杯ひっかけているうちに、一と癖ありげな茶店のおやじが、じろと林冲を眼で撫でまわして。
「旅人。あんたアこれから、山東のどこへ行こうって、おつもりだね」
「そいつアこっちから聞きたいところさ。亭主、ここの渡舟はどこへ行くのか」
「ここは渡し場じゃねえわさ。たまに魚を漁りに出る舟が着くだけでね」
「では、梁山泊へ渡してもらうわけにもゆかんか。はて、弱ったな」
「梁山泊へおいでのつもりかい」
「そうだ」
「ふうん……?」と、おやじはいよいようさんな眼をして。
「どこで聞いたか知らねえが、梁山泊へというからにゃあ、おめえはお上の目明しか、それとも何かべつな目あてでもあってのことか。あそこへ渡ったがさいご、ただごとじゃあ帰られねえぜ」
「そこは合点だ。じつはな亭主。その梁山泊の頭領あてに、こんな添え状をもらってきた者なんだが……」と、柴進の手紙を示すと、おやじはその上わ書と彼の姿をじっと見くらべ、急に物腰をあらためてこう言いだした。
「いや、お見それ申しやした。滄州の柴旦那のご手蹟に間違いはねえ。どうもとんだご無礼を。……ようがす、いますぐ迎えの舟を呼びますから、もう一杯、そこで寒さ凌ぎを飲っていておくんなさい」
茶店の亭主とは、そも何者ぞ。これもまた山東梁山泊の耳目として、ここに仮の生業をしている手下の一員には相違あるまい。
小屋の奥へ隠れたと思うと、彼は一張りの弓を持って現われ、大きな鏑矢をつがえて、はるか水面遠き芦荻の彼方へ向って、びゅっんと、弦をきった。矢うなりは水に響いて長い尾を曳き、その行方に、一群の鴻がバッと舞い立ったと思うと、やがて一艘の早舟が、芦荻の波間をきって、こなたへ漕ぎすすんでくるのが見えた。
無法者のとりで梁山泊の事。なら
びに吹毛剣を巷に売る浪人のこと
梁山泊は正確に周り何百里とも見きれず、号して当時八百里(支那里)といわれている。風浪の日はおそろしいが、晴れた日は、山をめぐる白雲、太古の密林、そして、目路のかぎりな芦の州から葭の汀とつづいて、まるで唐画の〝芦荻山水〟でも見るような風光だった。
ところが、ここには、宋朝の世に容れられぬ反骨の徒、不平の輩などいつか何百人群れよって山寨をきずき、公然、時の政府に抗して義盗ととなえ、舟行や陸の旅人などをなやましていた。従来しばしば取潰しにかかった官軍といえど、生きて還った例がない──と、までいわれている巨大な〝無法者地帯の浮巣〟だったのだ。
「──なるほど、これでは」
その日、朱貴(茶亭の亭主、実は山寨の一員)が呼んだ早舟に乗せられて、対岸の金沙灘で舟を下りた林冲は、行く行く、その要害には舌を巻いた。
芦荻と芦荻の間は舟の迷路をなし、陸の道は迷宮を行くにひとしい。賽の河原にも似て、蕭条たる水辺、幾ツもの洞門、谷道、また密林の中など、忽ち帰る方角もわからなくなる。
かくて、山腹の断金亭までたどりつくと、そこで彼は、首領の王倫に会った。
王倫はもと、都でまじめに学問を志し、進士の試験勉強に励んでいたが、官府の腐敗を見たり、世間の裏表を知ると、勉学が馬鹿らしくなった結果、試験にも落第してしまったので、ついに自暴ッぱちの放浪をつづけたあげく、この梁山泊へ来て宋万、杜選、朱貴などの仲間を得、いつか七、八百人の頭目にまつりあげられていた者だった。
「おう、滄州から柴進どのの添え状を持ってきたという豹子頭林冲とは、あんたのことか。まあ、おかけなさい」
「これは王倫どのですか。それがしは、もと禁軍の師範、林冲という者、天地、身の容れるところなき人間です。ここに置いてはくださるまいか」
「ご事情は、柴進どのの添え状にも、つぶさに見える。あの方には、以前、恩義をうけているので、お身柄は万々ひきうけた──と申しあげたいところだが、実はだナ」
王倫は、ちょっと、左右にいる宋万や杜選の顔を憚りつつ、
「……正直にいうと、この梁山泊には、現在でも、七、八百人もいるので、いつも食糧が不足がちなのだ。申し難いが、銀子十両を、草鞋銭にさしあげる。身の振り方は、ほかへ行って考えてくれないか」
林冲は、憤然として、断わった。
「せっかくだが、物乞いに来たわけではない。では柴旦那の手紙を返してくれ。引き退がろう」
すると、宋万と杜選の両名は、あわてて彼を引き止め、また一方の王倫を説き始めた。
「頭目。その扱いは、ちとどうかと思うぞ。第一には、柴の大旦那の顔をつぶすし、第二には、梁山泊の人間は、義を知らぬ忘恩の徒だといわれるだろう。おれたちの仲間は、恩と義でもっている世界だ。それでいいのか」
「でも、山寨の仲間には、めったな者は加盟させられない。万一という惧れもある」
「それは口実にすぎまい。疑わしく思うなら、仲間の誓約を立てさせればよかろう」
「誓約。ふウむ……じゃあ、やらせてみようか。おい林冲とやら、誓文なんざ、書けとはいわんよ。その代りに、この王倫の命じることを、三日のうちに、きっとやってみせられるか」
「ここへ置いてくださるなら、いかなることでも」
「よし。じゃあ、もいちど梁山泊を出て、対岸の山東街道に潜み、三日以内に、人間の首を一つ取ってきて、これへ見せてもらおうか。──それも百姓漁夫の首ではいけない。役人なり然るべき武士の首だぜ」
「心得た」
夜は山寨の宛子城で、彼は客としての歓宴に囲まれた。けれどその酒宴中でも、王倫の態度はどこかよそよそしい。林冲も彼の人物を観て「……ははあ、この人は嫉妬ぶかくて、狭量らしい。自分のごとき前歴の人間をここに置いて、将来、首領のお株を奪られでもしてはと、惧れているに相違ない。そんな小人の下にはいたくもないが、さて、天下ほかに身のおくところもない身だし……」と、独り愉しまぬ色をつつんで、三日以内の約束を、観念していた。
次の日、彼は身仕度して、長巻の野太刀を一本ひッ提げ、道案内の雑兵に舟を漕がせて、山東済州街道に渡った。
第一日は、人にも会わなかった。
二日目は雪晴れの好晴で、「──今日こそは」と、路傍に潜んだり、林の中をカソコソと彷徨っていたが、見かけたのは、黄昏れごろ、家路へ帰ってゆく貧しげな漁夫と、子供づれの百姓夫婦だけだった。
「限られた日は、あと一日きりだが」
疲労と焦躁に、林冲の眼は、すっかり獣じみていた。すると昼少し過ぎ、その眼にとまった一個の旅人がある。──やや勾配の急な雑木山の道を、大きな旅梱を担いで、こなたに降りてくる人影なのだ。「しめたッ」とばかり、よくも見さだめず、走り寄って、その眼の前へ、
「待てっ、旅の者」
長巻の石ヅキを、とんと地に突いて見せた。すると、相手の男は、仰天して、荷物もそこへうッちゃッたまま、
「ひっ、人殺しっ」
と、盲滅法、谷そこ目がけて逃げ転げていった。その悲鳴といい逃げる恰好も、役人でもなし、武士でもない。林冲はがっかりして、
「ちいっ。もう三日目は暮れそうだし。……はアて、よくよく運のない俺だとみえる」
そして、何気なく、道に捨てられてある荷物へ眼を落していると、どこからともなく、一陣の殺気が、さっと彼のその横顔を吹いてきた。
はっと、振り向くと、
「盗賊っ。その荷を拾って、生命は落してもいいつもりか」
怒気と嘲笑をまぜて、言葉そのものが、すでに刃のような声だった。
見れば、先に逃げた荷持ちの男の主だろうか。
まだ三十がらみの壮者だが、顔いちめんの青痣へもってきて赤いまだら髯を無性に生やし、房付きの范陽笠を背にかけて、地色もわからぬ旅袍。それへ白と青との縞短袴をはき、牛皮の毛靴を深々と穿って、腰には、業刀らしい見事な一振りを横たえてもいる。
「あははは」と、男は林冲が、硬直したのを見て笑った──
「生命は惜しいし、荷は欲ししか。やい盗賊、荷物の男に代ってその荷を担ぎ、町のあるところまで、身どものお供をして行くなら、そこは人情、酒の一杯ぐらい、飲ませてやらぬ限りもないぞ。ばかめ、どっちを撰ぶのだ」
「むむ、見受けるところ、貴様はただの素町人ではないな。武士だな」
「おおさ、いまでこそ浪々の身だが、昨日までは、五侯の一人楊令公の末裔として、徽宗現皇帝の旗本にも列せられた武士中の武士だ。もしそれだったら、どうだというのか」
「よしっ、その首、もらった」
「なにッ。ふざけるな」
ほとんど同時。白光を噴いた双龍にも似る二人のあいだに、鏘々として、火花が散った。しかし彼の長剣も、林冲の長巻も、幾十合となくその秘術を尽しあったが、どっちも、相手の一髪すら斬ってはいない。果ては鍔ゼリとなり、相互ともに息あらく、ただ鬂の毛を汗にするばかりだった。
すると小高い所から、突然、声がかかった。
「やあ、待ち給え。林冲の三日の約はそれでいい。旅のお武家にも、どうぞ刃をお引きください」
誰かと見れば、日限切ッての約束した林冲の様子いかにと、それとなく見にきた白衣秀士王倫、杜選、宋万、そのほか梁山泊の手下数十人の群れだった。
「豪傑、ぜひ今夕は、われわれの寨まで来てくださらんか。仔細はその上でお詫びするし、また、お身の上も伺いたい」
たって、梁山泊の寨、聚議庁までつれてきて、その夜、盛大な宴を設けた。
王倫の考えでは、林冲一人を置くのでは、自分の地位も惧れられるが、彼に対して、もう一名の互角な人物を配下におけば、自然、相互が牽制し合う形になり、御すには御しやすいし、わが将来も安泰なものと、すぐ胸算用してのことだった。
で、しきりに、酒をすすめ、礼を低くして、
「どうです、浪々のお身の上と伺いましたが、ひとつここに足を留めて、存分、男の一生を愉しんでみる気はありませんか」
それとなく、水を向けてみた。
「いや、お志はかたじけないが、じつはまだ開封の都には、屋敷もあり、身寄り一族も残してあるんで、どうしても一度は立ち帰らねばなりません。──その身が、何故、かかる浪々にあるかといえば、じつは面目ない次第だが」
彼は、ぐっと杯を干して、自嘲をうかべた。その青痣のような顔面は、酔うほど一そう青く見える。
「──わが家は代々、宋朝の旗本なので、殿司制使の役にあり、かねてまた、高大将軍閣下直属の親衛軍の一将校でもあった。……ところが昨年のこと、徽宗皇帝が、万歳山の離宮にお庭作りを営まれるに当って、制使十名を、西湖へご派遣になり、西湖の名石をたくさん、都へ運ばせることになった」
「なるほど……」
「拙者も制使の一人だった。そこで西湖の花木竹石の珍を大船に積み、黄河を下ってきたところが、運悪く、途中でひどい暴風に遭い、ついに役目も果し得ず、面目なさに、そのまま田舎に身を隠しておるうち、やっとこのたび赦免の令が出たというわけでな……」
「いや分った。それで都へ帰る途中でしたか」
「いかにも、都へ帰って、もいちど以前の官職につき、家名を復さなければ先祖にすまん……と思って、要路の大官どもに贈る賄賂の品々を荷物となし、これまで来ると、いきなりそれに居る林冲とやらに斬りつけられ、二つとない首を、あぶなく進上してしまうところであった。はははは」
聞いて、林冲も初めて、口を開いた。
「申しおくれたが、自分も以前は、近衛ノ将軍高俅の下にいて、禁軍師範の職にあった豹子頭林冲と申す者。……だんだん伺ってみれば、貴公とは、以前の同僚のようなものだが、もしや御辺は、あだ名を〝青面獣〟と呼ばれていた楊志殿ではないのか」
「おお、いかにも手前はその、青面獣楊志だが、林師範ともいわれたお方が、どうしてかかるところに居られるのか」
「ま。この刺青を見てください……」と、林冲は、わが額の刺青を指して、苦々と笑いながら、逐一、都から滄州の流刑地に追われた仔細や、またその大苦役場からのがれて、ここへ落ちて来たまでのいきさつを語って──
「悪いことは申さぬ。この林冲の例を見てもわかること。しょせん、高俅将軍はあてにならぬ佞奸なお人だし、またそれをめぐる軍人、役人、徽宗朝廷のすべても、腐敗堕落している現状では、たとえ貴公が都へ帰ったところで、とても長く安穏に暮すことはできますまい。……それよりは、頭領王倫のおすすめにまかせ、われらとともに、この別天地で、男と男の義を生きがいに、存分生きてみる気はありませんか」
「どうも何やら心も惹かれるが、先にも言ったような次第で」
「いや、それまでに仰っしゃるなら、無理にお引き止めもいたすまい」
王倫もあきらめたが、
「……では今夜は、歓を尽して、青面獣楊志の前途を祝うとしよう。ただ、他日でもよい。梁山泊の一天地には、かかる男どもが集まって、宋朝の腐敗に抗し、こんな生き方をしているということは記憶にとどめておいてください。そして何かの時は、お力になっていただければ倖せというもの」
「一河の流れ、一樹の縁。それはいうまでもありません」
あくる朝も、楊志は山寨から餞別を貰うやら、また、王倫以下の盛大な見送りを受けなどして、一舟の上から手を振りつつ、梁山泊を離れて行った。
──さて、ここで物語は、長身青面の壮士、楊志の旅とともに、開封東京の都へ移って行くことになる。
都へ移った楊志は、さっそく持ち帰った荷を解いて、地方で蒐めた珠玉、名硯、金銀の細工物など、とにかく金目な物を惜しみなく、大官たちへの賄賂に使った。そしてようやく、復職のめどもつき、あとは殿帥府最高の大官、高大将の一印が書類に捺されれば……というところまで漕ぎつけて、
「まずは、これでつつがなく、家名を持ち直すことができたわ」
と、希望のその日を待ちぬいていた。
やがて数日の後、殿帥府から「──出頭せよ」との達しが届いた。晴れの日なので、殊に身ぎれいに慎み、府の一閣に控えていると、やがて帳を払って現われた近衛ノ大将軍高俅が、椅子に倚るやいな、傲然とこういった。
「楊志とは、そのほうか」
「はっ、前の制使十名の一人楊志にござりまする」
「どの面さげて、これへ来たか。履歴、上申の書などを一眄するに、汝は元来、宋家代々の重恩をうけたる家柄の身でありながら、昨年、帝の御命にて、西湖石の運搬にあたった折には、途中、船を難破させたのみか、そのまま行方をくらまして、自首もせず、今日まで隠れおッた不届き者ではないか」
「あいや、事情は、上申書にも逐一したためた通りでござりまする。かつはまた、ご赦免の沙汰も聞えましたので、出府いたした次第、なにとぞご寛大をもちまして」
「ばか者、黙れっ。──赦免の令は、汝のために出したものではない。十名の制使中、あらましは任務を全うしているが、なお二、三西湖に戻って、罪を待つ者もあるゆえ、それへ赦免を申しつかわしたまでだ。汝のごときは、その場から逐電して今日にいたった不届き者、復職などは罷りならん。もってのほかな願い。とッとと退がりおろう」
楊志は暗憺となった。絶望に打ちのめされて、以来、怏々の悶えを独り抱きつづけた。
「……いまにして、林冲のことばも思い当ってくる。先祖からの家名、父母の形見といえるこの体、それらを汚すに忍びぬまま、王倫が引き止めるのも断って、なお夢を都につないで帰ってきたが……、ああ、やはり高俅が権を振うこの都府は、俺のような人間の住めるところではない」
今はなすこともなし、ほかに職を探す意志も出ない。すでに復職の運動や賄賂のため、売る物は売りつくしていたし、明日の食にも困る窮状に追われてきた。
「そうだ、ここに祖先から伝わる一腰の名刀だけが残っている。これを売って、身寄りの老幼に頒け与え、あとを路銀として、どこか遠い他県へ行って、身の振り方でもつけようか」
その日。──彼は一剣を持ち出して、それに売り物の〝草標児〟をさげ、馬行街の四ツ辻に立っていた。
しかし、なかなか値段を訊いてくれる者さえない。そこで楊志は、午過ぎから天漢州橋のにぎやかな橋袂に河岸を変え、
「名刀の売り物だ。この稀代な宝刀。たれか眼のある人に譲りたいが」
と、道行く人々に、呼びかけていた。
すると、胸毛もあらわな大男が、ずかずかと彼の前へ近づいてきた。ぷウんと、酒気と油を交ぜたような体臭が鼻を衝く。──それを見るや往来の者はすぐ、
「そら、無毛虎が何か刀売りへ突っかかっていったぞ」
「毛無シ虎の牛二が、またなにか、因縁を付けるんじゃねえか」
と、囁き合って、もう辺りは人立ちの様子だった。
案の定。──無毛虎の牛二といわれる街の悪は、のッけから、楊志を見くびッて、からみ始めた。
「なに。こんな古刀が三千貫だと。……やいやい人を盲にするのもいい加減にしろよ、いい加減に」
「はははは。酔っているな。おぬしに買ってくれとはいわぬ。退いてくれ。さあ、通ってくれ」
「大きなお世話だ。おれには買う力がねえとでもぬかすのか」
「弱るなア、どうも。刀はわが家の宝刀なので、子供に別れるような気持ちなのだ。お前さん方の持ち物にはさせたくない」
「よしっ、買ッた。そう見くびられちゃあ、こッちも意地だ。買わずにゃおかねえ。だがよ、おい。まさか鈍刀じゃアあるめえな」
「しつこいなア。お前さんには売らないと申すのに」
「ふざけるな、売り物の〝草標児〟を下げてるじゃねえか。さあ、買ってやるから、切れ味を見せろ。それとも、尻込みする気かよ、ええおいっ。……さては、汝ア騙りだな」
「この人なかで、騙りとは聞きずてならん」
「そうよ、三十文の刀だって、豆腐や蓮根ぐらいは切れらア。三千貫の宝刀なら、いったい何が斬れるというのだ」
「聞くがいい。銅や鉄を斬っても刃こぼれ一つしない」
「ふん。それだけか」
「髪の毛を吹きかければ、毛も斬れる。──名づけて吹毛ノ剣という」
「洒落たことを言やアがる。それで生きた人間は斬れねえときては、なンにもなるめえ」
「斬ッても、刃の肌に血の痕をとどめぬというのが、この宝刀の鍛えだ。さあ、それだけの説明で充分だろう。退いてくれい」
「いや、おもしれえ。そんならこれを斬ッてみろ」
牛二は、一トつかみの銅貨を、州橋の欄干の上に、塔みたいに積み重ねて。
「さあ、そこの騙り野郎。ここへきて、この銭を見事斬ッてみろ。斬ッたら、三千貫くれてやるが、斬れなかったら、ただではおかねえぞ」
群集はわッと輪をひらいた。名うてな街のゲジゲジと、刀売りの大言壮語。どうなるやらと、往来はいよいよ山をなすばかりである。
「……よしッ、見せてやる」
楊志はついに欄干の前へ寄っていった。じっと、銭の一点を見ていることしばし、抜く手を見せずとは、その間髪のことか。──二つに斬れた銭の数枚が、刃の両側へバッと飛び、しかも欄干には傷痕も残さなかった。
「やあ、斬れたっ。ほんとに、斬れたわ」
どよめく見物人の喝采を尻目に、毛無シ虎は、なお躍起だった。いきなり自分の鬂の毛を一とつかみほど、毮り抜いて、
「おッと、待ちねえ浪人。そんな手品は、大道芸人もやるこッた。さア、これをいう通りに斬ってみろ」
いよいよ、かさにかかって吠えかかった。
「おおさ。性根をすえて見るがいい」
楊志は左の手に、それを受けた。そして晃々たる宝刀の刃に向って、掌の髪の毛を、ふッと静かな息で吹き起すと、
「あら、見事……」
見物たちは一瞬に、うつつを抜かした。──見れば楊志の息にかかった髪の毛は、あたかも宝刀の精に吸いついてゆくように、彼の掌を離れるや飛毛の舞を描きながら、ハラリ、ハラリ、みな二つに斬れて落ちるのだった。
眼をすえていた毛無シ虎は、
「うるせえや、見物人めら。まだまだ、おれの負けじゃアねえ。第三には、人を斬っても、刃の肌に血の痕を残さねえと、吐ざいたはずだ。さあ浪人、証拠を見せろ」
「見せてやる。犬を曳いてこい」
「犬をどうするッてんだ?」
「いわれなく、人は斬れぬ」
「たいがい、そういうだろうと思った。騙り者の逃げ口上はきまっていらア。出来ねえなら出来ねえと、ご見物に向って謝罪れ」
「おぬしに刀は売らぬのだ。まアこのくらいで勘弁せい」
「いや、ならぬ」と毛無シ虎は、楊志の手頸をムズとつかんで、
「──この刀は、おれが買う。買主との約束どおり、人間を斬っても血の曇りを残さぬといった証を立てろ」
「それほどいうならば、金を出せ」
「金はいまねえが、後金ということもあるんだ。とにかく生きた人間を斬ッて、この通りだという値打ちを先に見せるがいいや。それとも、四つン這いに手をついて謝罪るか」
ほとほと持て余した楊志は、ここにいたって、ついに堪忍の緒を破ったらしい。しかしその青い面色に一抹の凄気は見せたものの、依然、言葉はしずかに。
「……さて、お立会い」
と見物人へ向って言った。
「ごらんの通り、この無頼者めが、先刻より私にさまざまな難癖をつけ、なんとなだめても収りがつきません。その上にも、生きた人間を斬って見せろと申してきき入れませんが、いったい、どうしたものでございましょうか」
すると、見物の群れから、弥次馬が、
「斬ッちまえ! 斬ッちまえ。──そういう毛無シ虎に、斬れ味を見せてやるがいい」
「その野郎がいなくなれば、第一、街が明るくならあ。よろこぶ者はあっても、悲しむ奴はたれもねえよ」
「ご浪人、頼むから、やッてくれい」
わいわいと、四方から声の礫だった。
こう聞いては堪らない。毛無シ虎は、その本性をなお剥き出しにいきまいた。いきなり楊志の胸いたを、どんと一ト突きして、その手にある宝刀をつかみとろうとかかったらしい。──が、彼の上半身は、ひょろと、空を泳いでいた。と見えたのも一瞬である。見物人の眼には、一朶の血の霧が、バッと、大輪の花みたいにそこで開いたかのように映った。
「わああっ……。やった!」
まさかと思っていたのだ。呻きに似た群集の声には戦慄がこもッていた。すでに見る楊志の足もとには、真二つとなった毛無シ虎の巨体がピクともせずぶっ仆れている。そして彼が垂直にして持ち捧げていた長剣には、なるほど、血脂の曇りもとどめていなかった。
「街のみなさん」
彼はそのままな姿勢で群集へ向って告げた。
「──おしずまりください。あなた方にご迷惑はおかけしません。見られたような仔細で、てまえはついに白昼、この天漢州橋の大道で人を殺めました。法罰、のがれ得るところでない。あなた方が生き証人だ。これから奉行所へ自首して出ます。そこを開いてお通しください」
彼の態度は立派だった。群集はそれにも感動をうけたらしい。聞き伝えて、彼が入った奉行所の門前には、庶民が群れをなして、
「毛無シ虎が悪いんだ。牛二はふだんから街の者を泣かせ、なに一つろくな真似はしていない。刀売りを助けてください」
と、口々に叫んだ。──以来、毎日のように、嘆願書やら差入れ物やら、楊志のためにはと、義金まで募ッて、あらゆる助命運動が、街の有志によってつづけられた。
六十日間の留置期間に、彼の処分もほぼきまった。官辺でも、折紙付きの毛無シ虎には、手を焼いていたところだし、吟味役人から牢番にいたるまでが、ことごとく楊志の同情者であったことも、情状の酌量を容易にしたらしく、
「──北京ノ地へ流罪トナシ、大名府留守司ノ軍卒ニ貶スモノ也」
これが、罪の判決であった。同時にまた、
「所持ノ宝刀ハ、是ヲ官ニ没取ス」
とも、言い渡された。
定法どおりに、額に金印(刺青)を打たれたのはやむをえない。だが、追ッ払いの背打ちの棒もかろく、やがて護送使の手で、はるか北京の空へ差し立てられていった。
青面獣の楊志、知己にこたえて神技の武を現すこと
北京は、当時、大名府ともいい、五代各国の首府としても名高い。
〝河北、治レバ天下治リ。河北、乱ルレバ天下乱ル〟
唐の世代から、すでにそんな言葉があるとおり、西に太行山脈、東に遠く渤海をひかえ、北方に負う万里ノ長城は、北夷の襲攻にそなえ、不落の名がある。
しかし、近年では、満州の女真(金)や遼の侵攻も油断がならぬため、徽宗の宋朝廷でも、ここを重視して、その留守司(北京軍司令官、兼、守護職)には、特に大物の人物を配していた。
世傑梁中書は、その人である。
彼は、都の太師(太政大臣)蔡京閣下の女婿であり、この北京では、軍権、民政、その一手にゆだねられている留守司の重職なので、その羽振りのよさは、言をまたない。
「おや、東京の楊志が、平軍卒に貶されてきたのか」
或る日、梁中書は、護送者から届け出ていた書類の一片を見て、こう呟いた。
楊志ももとは名家の出なので、その人柄も薄々は知っていた。──で、護送使の者に、身柄受取りの官印をあたえて帰すと、さっそく、自邸に楊志を呼んで、
「そちはいったい、どんな罪を犯して、平の軍卒などに貶されてきたのか」
と、事情を問いただした。そして、彼の口から委細を聞くと、
「なあんだ、そんなわけだったのか。よろしい、折を待ちたまえ。君ほどな人物、いつまで、一兵卒にはしておかん」
大いに慰めて、当座は梁中書の邸内の兵卒に飼われていた。
だが、いかに彼の権威でも、理由なく楊志を取り立てるわけにはゆかない。そこで、城外の大練武場で、一日、北京総軍の大演習が行われるときを待って、楊志の武技を試し、もし彼に抜群の業があったら、それを称えて、大いに登用してやろうと考えた。
頃は、春めき始めた二月の頃。
大演武場は、北京三軍の旗と兵馬で埋まった。時刻となれば、貝が鳴り、鉦鼓がとどろき、軍楽隊の演奏とともに、梁中書は副官その他、大勢の軍兵をしたがえて、式場へ臨んだ。
厳かな閲兵の後、李天王李成、聞大刀聞達、二将の号令のもとに、全軍、中書台に向って、最敬礼をささげ、また、三たびの諸声を、天地にとどろかせた。
たちまち、全軍は二陣にわかれ、紅旗、白旗が打ち振られる。鼓を合図に、両軍それぞれの大兵が、鶴翼、鳥雲、水流、車輪、陰陽三十六変の陣形さまざまに描いてみせ、最後にはわあああっ……と双方起って乱軍となり、そこかしこで、凄まじい一騎討の競武が展開された。
中でも、紅軍の副牌(部将)周謹の働きは目ざましく、彼の槍の前に立ちうる者はなかった。
「周謹。日ごろの猛練習も思われて、今日の働き、見事だったぞ」
梁中書は、輝くばかりな銀色の椅子から、彼を賞めて、また言った。
「ところで、もと東京の殿司制使楊志が、流されて一兵卒に落され、今日も余の供として後に来ておる。彼は近衛の一将として、武芸十八般に秀でた男。──彼とここにて、槍術を競べてみせい」
「おそれながら……」と、周謹は口をとがらせた。
「流され者の一兵卒と、試合せよとは、余りにも」
「なにをいうか」梁中書は、わざと、声を高めて一喝した。
「いまや諸国に盗賊はびこり、国境には、遼族、女真の賊の窺うもあって、今日ほど国家が人材を求めているときはない。まこと神技の武術を身に持つ者なら、一兵卒たりとも、これを用いぬは、国家への不忠である。それを周謹は不服だというのか」
「いや、決して、さような意味では」
「なればこれへ、楊志を呼べ」
召し出された楊志は、かねがね梁中書の好意のあるところを覚っている。もとより異存のあろうはずもない。
両人は、黒ずくめの戦袍(よろい)と黒駒を与えられた。使用の武器は、たんぽ槍(穂先を羅紗でくるんで玉とした物)で、それにたっぷり石灰がふくませてある。
「いざ」
と、将台を前にして、両人、馬上の槍を戦わせた。
真槍でないから、ちょっと、勝負の判定は難しいようだが、しかし、腕前の差は歴々とあらわれた。馳け合うことしばし、周謹の体や黒馬の肌には、白い痕が斑々と描き出されたのにひきかえ、楊志の五体や駒には一点の痕もついていない。
勝負あった! の銅鑼が鳴る。
すると、兵馬都監の李成が進み出て、将台へ訴えた。
「周謹は無念そうです。彼の得意は、弓にあるので、弓を持たせて、もう一度の勝負をご覧願わしゅう存じまする」
「楊志。よろしいか」
「心得ました」
ふたたび、指揮台で青旗が打ち振られ、金鼓一声、馬は馬を追ッて、演武場の南の方へ、パッと馳け出た。
逃げていくのは、楊志だった。
周謹は、三矢を放って、三矢とも、見事、楊志の片手の楯で払われてしまった。
こんどは、楊志が追う番に廻った。──楊志は、弓を引きしぼって周謹の背に迫ったが、わざと急所を射はずして、その肩を射た。しかし、たとえ肩でも何かはたまろう。あっと、相手は馬上からころげ落ちた。
「さすが楊志の武技は中央の武技の一流だった。──周謹はしょせん敵でない。しばらく周謹の現職を楊志にゆずらせ、今日以後は、楊志をもって副牌(部の将校)に取り立て得さす。──管軍書記、さっそく辞令を彼に授けろ」
梁中書が、かく命じると、突如、軍列の一端から躍り出ていう偉丈夫があった。
「今のおことばは、この索超には、大不服です。周謹が拙者の弟子だからとて申すのではありませんが、楊志の武技は中央一流との御意は、聞きようでは、北京総軍には、人もなきかの如く聞ゆる。それほどなご賞辞ならば、この索超を打ち負かしたうえにて、彼へおさずけ願いたい」
「はははは。誰かと思えば、急先鋒とアダ名もある正牌軍(一軍の大将)の索超か。よからん、よからん! 望みとあれば勝負してみよ」
いよいよ、事は物々しくなった。両者にはあらためて、本格的な武装を命じ、試合場所も、将台の欄まぢかに移されたので、梁中書は白銀の椅子を欄前にまで進め、折から北京七門の楼門上には、大きな日輪が夕雲に落ちかけてきたので、縁飾り美しい蓋傘は、彼の冠の上に瑶々として翳されていた。
開始の軍楽。──それがやむと、両側の柵内で、金鼓が鳴り、楼の上では用意! の黄旗が早や振られている。
どかんと、はるか馬場の末のほうで、烽火用の爆音が、夕空に谺した。見れば、西の門旗の下からは、急先鋒索超、東門からは、青面獣楊志。各〻さんぜんたる鎧、甲のいでたち。さながら戦陣そのままな猛気を飾って、静々、こなたへ相寄って来るのが見える。
「おうっ……」
たちまち、二騎の姿は、魚紋を描いて、もつれ繞った。
索超は、雪白の馬上に、金色の焔を彫った大斧をひッさげ、楊志はするどい神槍を深くしごいて、とうとうと馳け巡りながら虚をさぐる。
この戦いは、見事だった。両者の威風といい、その技といい、見ているにさえ息づまった。──大斧の閃々、槍尖の電光、おめき合うことも幾十合か。馬も汗するばかりなのに、どうしても、勝敗はつかない。満場は声なく、巨大な落日の紅炎は、西の空へ、刻々に沈んでゆく。しかもまだ、相互ともに意気旺なのだった。まさに不死身の人間の戦いかとも怪しまれている。
「ああ。みごと」
梁中書は、いつか夢中で、その銀椅子から立っていた。彼は満足した。大名府に両雄を得たり、といってよろこんだ。
彼のそばから伝令が走った。引分けの銅鑼が鳴る。索超の部下は、万雷のような勝鬨をあげたが、楊志の方には、歓呼もない。
しかし二名は、台下に並んで、ともに、同等な賞を拝領した。そして夜は演武庁の楼上で、盛大な祝賀の宴に誉れを謳われ、その席上ではまた、
「以後、索超、楊志ともに、相並んで、軍の提轄使(憲兵の長)たるべし」
と、任命された。
何が不幸か幸か、げにも人の運命はわからない。これからというもの、楊志は、梁中書に気に入られ、楊志もまた、恩に感じて、心からその人に仕えていた。
いつか夏も近づいて、五月の声を聞くと、その日は、端午の節句だった。
佳節の客もみな帰って、梁中書は蔡夫人と二人きりで、やっと私室にくつろいだ。そして夫人の杯に、菖蒲酒を注いでやりながら、
「どうも、こう忙しい重職になると、めったに、そなたの笑顔を見ることもできんなあ」
と、わざと妻のよろこびそうなことをいった。
蔡夫人は艶な姿態のうちに、つんと、いつものお実家自慢を匂わせて、
「でも、こんな栄誉と福貴は、万人の羨むものではございませんか。勿体ない」
「とんでもない。愚痴をこぼしたわけではないよ。それどころか、そなたの父、蔡大臣のお引立ては、夢寐の間にも、忘れてはおらん」
「そういえば、あなた、やがてもう、父君の誕生日も間近でございますよ。お忘れですの」
「なんの、忘れてなろうか。岳父のお誕生日、七月十五日。ことしこそは、去年のような失敗をせぬようにと、内々心をくだいておる」
「去年はまあ、とんでもない抜かりでしたわね。お父君のお祝にと、あんなにまで、おびただしい金銀珠玉を東京へ送らせてやったのに、その途中で群盗のため、すべて強奪されてしまったことではございませんか」
まるで良人の落度でも責めるように、蔡夫人の眸が、耳輪の瑠璃より細い鋭い光で、梁中書の横顔を射ていた。それには彼も二の句がなく、今年もまた、早くから頭を悩ませている風だった。
「ねえ。どうなさるおつもりですの。……今度は」
「だからさ、今年もすでに、心がけて、すでに十万貫に価する珍器重宝は、この北京の古都を探って、ひそかに庫に蒐めてあるわさ」
「いいえ。それよりも、その高価な宝を、どうして無事に、東京のお父さまのもとまで届けさすことができるか。そのご要意のほうが、かんじんではございませぬか」
「それには、人だな。なんといっても、よほど信用のおける人物でのうてはかなわぬし、さらには、いかなる賊と出会っても、断じて負けをとらぬ勇者でもなければならぬ」
「この北京何十万の軍には、それに適う一人の人物もいないのですか」
「いや、そんなことはない……」と、あわてて彼は言い消した。
「──勇者はいる。武術の達人も少なくはない。だが考えてみい。十万貫の重宝といったらたいへんな富だ。いかにわしの蓄えと俸給でも、そんな多額な金目の物を、一私人としては、都の岳父に贈りうるはずのものではないからな。……腕ぶしばかり強くても、腹ぐろい人間には、このことは打明けられぬし、使いにも差向けられんというわけだ。それでこの人選には、わしも全く慎重にならざるを得んのじゃよ……」
「ほんに、そう伺うと、人はないものかも知れませんね。けれど今年こそは、お父君に糠よろこびをおさせしては、あなたとしても、申しわけがないでしょう」
「……まあ待て。まだ幾十日の間もあること。全然、心当りの人間がないわけでもない。充分、信用がおける人間かどうか。ま、もう少しみていよう」
いま、梁中書の腹にあるただ一人の人物──その候補者とは、いうまでもなく、かの青面獣の楊志以外な者ではなかった。
風来の一怪児、東渓村に宿命星の宿業を齎すこと
近ごろ。山東は済州の鄆城県に、あたらしく赴任して来た県知事がある。
姓は〝時〟名は〝文彬〟。県民の評判はたいへんよかった。現下世は腐敗の極といわれているものの、なお多くの中には良吏もいたのである。非理曲直すこぶる公明で、私の暇には蘭を愛し琴を奏で書もよく読むといったような文彬だった。
「──自分がこの地へ着任いらい、まだ何も見るべき行政はしていないが、まず県下の治安を第一に確立したい」
彼は或る日、県(県は日本の郡単位)の庁堂の壁に、民治の主旨をかかげて、その日、公庭に集まった全吏員にこう告げていた。
「これまでどこに赴任してみても、およそ吏として、民を安んじ民と和楽をともにするということはじつに難かしい仕事だと痛感しておるが、わけてこの県は難治な地方と思われる。なぜなれば、大盗の巣窟、梁山泊などの水郷もあって、旅途はさびれ、土民の気風も荒く、そのうえ日々聞ゆる兇悪な犯行にさえ、従来、官の実績は何もあがらず、官は無力なものと、民からも悪党からも見くびられておる」
全員はしいんとしていた。みな面目ないふうである。が、列の中ではそれが不服らしく満面をムズムズ燃やし、耳を押ッ立てて聞いていた巨漢二人の顔があった。
いずれも、庁の与力、つまり捕手頭である。
その一人は、騎兵捕手の与力で、名を朱同といい、あだかも関羽のような髯をもっているので〝美髯公〟という綽名があった。
また、もう一名の歩兵与力は、これも身の丈七尺をこえ、人なみはずれな腕力に加えて、およそどんな土塀もちょっとした小川も一跳躍にとびこえる特技のあるところから、県中、この人を〝挿翅虎〟ともアダ名している雷横という者だった。
こう二人は、新知事の訓令にもどこか反撥的な面構えをみせていたので、文彬はその眼気を感知し、微笑を見せながらすぐ次へ移っていた。
「──だが、過ぎたことはぜひもない。ただ、今後はお互いの協力で県下の治安に尽していこう。そこで捕手頭の雷横と朱同に命じるが」
二名は列の中で、ちょっとその直立をただした。
「ご苦労だがさっそく部下をひきいて、一方は西門道から村々を巡邏してゆき、また一方は、東門街道を出て県下を巡り、途々賊あらば捕え、民の難あらば助け、そして二た手の巡警隊は、東渓村の山上で落ち合い、相互の情報を交わし合うがよい」
「心得ました。では、すぐさま」
「いや待て。──東渓村の山上には、天下の奇樹といわれる有名な大紅葉がある。あの葉は他に類のないものだ。おのおのは、相違なく巡邏した証として、そのもみじ葉を持って帰れ。よろしいな、怠れば罪に問うぞ」
文彬新知事。抑えるところは抑え、厳しいところは、なかなか厳しい。
その夕、朱同は西門を立ったが、彼の方はしばらく措き、まず雷横の行く手を見よう。
捕手二十余人をつれた雷横は、べつに東門街道を出て、村々を巡邏し、翌日も県下を歩いてから、約束の東渓山へのぼっていき、例の大紅葉の下に立った。そしてさて、待つま程なく、一方の朱同組もやって来たので、ここで情報交換しあった後、二人は思わず哄笑した。
「いやどうもご苦労さまだ。こんな時にかぎって、小泥棒一ぴき見当りはしねえ。なんのことはねえ紅葉狩りにきたようなものさ──」
帰路は夜にかかった。お互い逆に道を換えて、松明を振りつつ山を降ッたのである。
すると、その雷横組のほうが、麓ぢかい霊官廟のほとりまで来たときだった。ひょいと見ると、廟の扉が、魔の口みたいに開けッ放しになっている。
「おや、廟守もいねえのに、おかしいぜ」
雷横はふと立ち止まった。多年の直感が何か異臭をそこに嗅ぎつけたものらしい。
「やいやい。念のためだ。松明を持って、踏み込んでみろ」
雷横の一と声に、部下の捕手たちは、どやどやと廟のうちへ躍りこんだ。
するとそこには蜘蛛の巣だらけな暗闇を天国として、一人の大男が、お供え物の卓の上に、まっ裸な体を載せ、丸めた着物を枕に、高いびきで熟睡していた。
「ほう、凄げえ面して寝ていやがる……。眼も覚まさねえぜ」
と、捕手もあきれた。
毛脛、胸毛、まっ黒な肌。裸足に馴れた足は象の皮みたいだし、顔は赤痣だらけで、眉毛などあるかないかである。おまけに厚い唇から涎をたらして、正体もない寝ざまなのだ。
「……ははあ、兇状持ちの股旅者ンだな。叩けば何か出るだろう。なにしろ、紅葉の葉ッ端じゃ土産にもならねえからな」
呟くやいな、雷横は、そこの卓を蹴って、男のからだもろとも、引っくりかえし、
「縄をかけろ。四の五をいわすなッ」
と、不意にその男を搦め捕らせた。
もちろん、赤痣の若者も、吠えたり暴れたり、抵抗はしたが、二十余人の捕手に会ってはどうしようもない。手負い猪のように東渓山の麓へと曳きずられていった。
そもそも、この山裾には、一すじの渓川を境として、西渓村と東渓村との、二聚落がある。
かつて、その西渓村のほうでは、白昼でも妖怪が出るという噂がたち、事実、そこの淵で理由なく村の男女が溺れたり、牛馬が引き込まれたり、怪異な変が多かった。
すると或る年。一人の旅僧が、
「わしが鬼魂を鎮めて、供養してあげる」
と、大きな青盤石に経を刻ませ、妖怪退散の法要を行なって去った。
それからというもの、西渓村には無事がつづいた。──西渓村の幽鬼はみな、東渓村へ逃げていったのだ──と言い囃された。
怒ったのは、東渓村の名主、晁蓋である。
「化けものなんざ、いくらでもこいだが、おれが名主でいる以上、そんなケチをつけられちゃあ黙ってはいられねえ。西渓村の奴らめ、明日の朝になって、腰を抜かすな」
晁蓋は、深夜、ひとりで渓川を渡って行き、西岸の供養塔を担いで帰った。そして東渓村の見晴らしのいいところへ、それをでんと据えこんで、澄ましていた。
以来、この庄屋さんに、あだ名がついた。
──托塔天王。
その名のほうが、有名になった。
「おいっ、誰か起きてみねえのか。さっきから表門を、どんどん叩いている奴がいるじゃあねえか。どいつもこいつも寝坊だな」
晁蓋はさっきからどなっていたが、ついには自身寝室を出て、表門へ出ていった。
その朝。いや、夜はまだ明けてもいなかった頃である。
「うるせえな。だれだい、今頃」
開けてみると、黒々とたいへんな人影だ。松明の火光の中には、大の男の縄付が見えるし、顔見知りの雷横もいる。
「やあ、どなたかと思ったら、県の与力さまじゃあございませんか。いったい、どうなすったんで」
「おう晁蓋。こんな大勢して甚だすまんが、部下の者に朝飯をとらせたい。暫時、屋敷のすみを貸してくれんか」
「おやすいこッてすが、何か大きな捕物でも」
「なあに、そんな仰山な獲物でもねえが、霊官廟の内に、うさんな野郎が寝込んでいたので、引ッ縛ってきた帰り途だ。あそこも村の内、おぬしに声をかけないのも悪いからな」
「それは、どうも……ま、ずっとお通ンなすってください。いま雇人どもを起して、さっそく朝飯の支度でもさせますから」
まもなく荘院の内は、大賑わいになった。県のお役人衆とあって、下へもおかず、酒飯はもちろん、風呂まで沸かす騒ぎだった。
そのすきまに晁蓋は、門長屋の暗い一戸を覗いてみた。庄屋として、縄付の男を一見しておく義務を感じたからであろう。
見ると、鳶色の体に無数な傷を負った若者が、両手を梁に吊り上げられたまま、爪先だちに立っていた。大火傷でもした痕か、赤痣いちめんな顔を歪め、苦痛を歯がみで耐えている。
「はて。村じゃ見たことのねえ男だな。おい、どこのもンだ、おめえは」
「遠方から来た者です、へい、この地方に、お訪ねしたいお人があったのに。……そ、それを理不尽にも、いきなり縄目にかけやがッて。……あ痛て、アててて」
「なんだい。いい若いもンがよ。して、訪ねるお人ってえのは?」
「東渓村の托塔天王だ」
「えっ、なんの用で」
「そいつア言えねえ。だが晁蓋さんは、村名主だとか。……旦那、この村は何村ですえ」
「東渓村だよ。そしてこういう俺が、その晁蓋だ」
「あっ、だ、旦那がですかい。……じゃあ、聞いておくんなさい。あっしゃあ、東潞州の生れで」
「あ、たれか来た。早く用向きだけ、ひと口にいえ」
「じつア、ひょんな早耳から、ど、どえらい儲けぐちを知ったんで、それをお報らせに来たんでさ。旦那なら相談になると思って」
「よしっ、後で聞こう」
「後でッたって、この縄目じゃあ」
「助けてやる。──俺の甥になれ、甥によ。五ツ六ツの年に村を離れていたが、風の便りを聞いて尋ねてきたという風にな。……いいか、うまくばつを合わせろよ。場面は俺が仕組んでおく」
なに食わぬ体で、晁蓋はその足で、離亭に休んでいる雷横の席へ顔を出した。
「おや、もうご出立のお仕度で」
「やあ晁旦那。時ならぬ時刻に、えらい厄介をかけて、すまなかったな。夜も白んできたから、ぼつぼつ出かけようと思う」
「ご苦労でございますなあ。またどうぞ、近くへお越しのせつには」
門のほうでは、はや部下たちが、槍、棒、刺叉などの捕具を持って勢揃いし始めている。雷横もまた、颯爽と出ていった。
見送りにかこつけて、晁蓋はその後についていき、そして、門長屋から曳きズリ出された縄付を見て、
「ほ、ほう……。凄い大男ですな」
と、わざと目をみはって呟いた。
──この時、と合点したらしく、縄付の男は、不意に大声で呼びたてた。
「あっ、おじさんだッ。おじさん、助けてください」
「な、なんだって?」
晁蓋は、わざと怪訝な顔してから、ややしばらく、じっと相手を見すまして。
「や、や。おまえは王小三じゃないのか」
「そ、そうですよ、叔父さん。……ああ、叔父さんは、それでも、この小三を、覚えていてくれたんですね」
びっくりしたのは捕手たちである。わけて、雷横は、ぎょッとした。
「えっ、甥御ですか、この男は……。はアて、こんな股旅者が」
「なんともはや、面目もありません。恥をいやあ、てまえの姉夫婦の子です。これがまだ六ツ七ツの洟タレごろに、夫婦とも南京へ夜逃げしたきり音沙汰なし。その後、この小三の奴ア、いたずらして頭に大火傷をこさえ、それが十四、五のころで、親とともに一時は村へ舞い戻っていましたが、都の風に染んだ怠け者、またすぐ出ていってしまいました。……以来、姉夫婦も不運つづきで、赤痣の小せがれは、やくざに誘われて、家にも居つかず、親不孝を売り歩いているたア薄々聞いていましたが、まさか、雷横さまのお縄を頂戴しようとは」
「ふうむ……意外なこともあるもンだな」
晁蓋は、はッたと、偽の甥をにらんで。
「やいっ小三。なぜ、故郷の村へまで来て、悪事をしやがったか」
「ちがいます、叔父さん、あっしゃあただ、腹はへるし、塒もないので、霊官廟で寝ていただけです」
「悪事もせぬのに、なんで召捕られたんだ」
「わかりません。夢みたいなもンで、あっと気がついたら縛られていたんで」
「嘘をつけッ」
激怒を作って、晁蓋は捕手の棒をひッたくり、いきなり男の肩を二ツ三ツなぐりつけた。
「野郎、ほんとをいえ、ほんとを」
「だって叔父さん、ほかに言いようはありませんよ。……仰っしゃる通り、身を持ちくずし、親不孝をかさねましたから、ひとつ叔父さんにこの悪い性根を叩き直してもらおうと、空き腹を抱えて尋ねて来たんです。だからこそ、盗みもせずに、夜が明けたら、叔父さんとこへ辿りつけると思っていたのに」
「こいつが、ひとを泣き落しにかけようと思やがって。そんな手に、俺がのるかっ」
また振り上げる棒を、こんどは、雷横が慌てて止めた。小三に同情したわけではないが、元々、不審の程度で捕えたに過ぎないのだから、と宥めに廻って、
「当家の甥御とわかれば、仔細はない、はやく、その縄目を解いてやれ」
と、部下へも命じた。
「ちぇッ、運のいい奴だ。小三、このご恩をわすれるな」と、晁蓋は彼をシリ目に措いて──
「どうもせっかくのお役儀を、なんだかこう、ムダ骨折らせたような恰好になって、申しわけございません。ひとつ、もいちど奥で、お口直しをしてからお引揚げくださいませんか」
強って、雷横をねぎらい直し、またそっと、銀子何枚かを心づけた。部下へもまた、それぞれの物を与え、どうやら彼の画策は上々で、まもなく雷横一行は、そこの門を立っていった。
あとの荘院の奥では、それからのことだった。
真新しい衣服頭巾をめぐまれ、朝飯もたべて、すっかり元気を取り戻したかの股旅者は、晁蓋を前にしてその素姓を明らかに語っていた。
「もとより手前はやくざ、生れ故郷は東潞州でござんす。苗字は劉、名は唐、と申しましても、それは顔も知らないうちに死に別れた親のくれた名。人さんからは、この赤面のため、赤馬だの赤髪鬼などとアダ名されております。どうか今後とも、お見知りおきのほどを」
と、型どおりな、初対面の仁義をきって。
「──ご高名は、とうに伺っておりますんで、いちどはご縁をえたいと存じておりましたところ、つい先ごろ、山東、河北の密貿易仲間の者から、耳よりな儲けぐちをチラと聞きこみ、こんな大ヤマを張れる相談相手は、托塔天王、いや晁旦那よりほかに、誰があろうと、お見込み申して、やってまいったような次第で」
「いやよくわかった。だがその、大ヤマを張る儲け仕事たあ、いったいなんだね」
「ようござんすか、ここで申しあげても」
「あ。ちょっと待ちな」と、晁蓋も念を押されて立たざるを得なかった。扉に鍵をかけ、窓の帳も垂れて──「さ。安心して、話すがいい」
「じつあ、近いうちに、北京は大名府の梁中書が、十万貫てえ金銀珠玉骨董を、開封東京へ、密々に送り出すはずですが、よも、ご存知でござんすまい」
「知らぬ。それはまた、なんのために」
「梁中書の女房の親父、いま宋皇帝の朝廷では最高の地位にある蔡大臣への、誕生日祝いに贈るッてえわけなんです」
「まあ、閥族同士の公然な大贈賄というわけだな」
「そうですよ、それにきまってまさアね。いわばみんな、庶民の汗や膏や、よからぬからくりで作った不義の財。そいつをこちとらが、狙ッてぶんどったところで、天道様も、よもやこち徒だけを悪いたア仰っしゃるめえて考えますがね」
「去年は、途中で賊のために、盗られたとかいう噂だったが」
「ですからさ、旦那。他人にやらせちゃもったいねえじゃござんせんか。──世間の噂にゃ、托塔旦那は、男伊達だ、槍や棒も旦那芸じゃねえ。しかも、不義には強いお方だと聞いております」
「よしてくれ。俺あ、おだてには乗らねえよ」
「ご免なすッて。そんな気もちで申したわけじゃございません。ただ、なんぼ北京軍の総帥でも、この干乾びたご時勢に、年々十万貫もの財宝を、女房の実家へ貢いでるってえなあ、たいした大泥棒でございますぜ。ようし、それならこっちも上わ手をいって、横奪りしてやろうというわけ。……どうですえ、旦那、ご分別は」
「先にゃあ、去年の失敗がある。よもや今年は、のめのめ掠奪められるような凡くらを警固としては出かけまい」
「なんの、この劉唐だって、腕には覚えがあるつもりだ。まして托塔天王様に、うんといって、一つ乗り出していただければだ」
「なるほど、話はすばらしいや。ちょっと、食指が動くな」
「だからさ、お譲り申しますよ。この儲け口を」
「ま。……よく考えようぜ。おぬしも、客間で一杯やって、ゆっくり休んでいなさるがいい。やるかやらぬか、おれも思案の腹をきめ、その上での相談としようじゃないか」
ぜひなく、赤髪鬼の劉唐は、一応、客間へ引きさがり、あてがわれた酒の膳について、独りがぶがぶ飲んでいた。
──だが、どうにも彼は、おもしろくない。晁蓋の生返辞が気にくわないのだ。「ははアん。俺をただの与太もンと見て、相棒には不足と考えたに違いねえ」そう思うと、酒が業腹を焚きつけて、我慢がならなくなってきた。
ふと窓外を睨むと、一頭の裸馬が、裏門につないである。なに思ったか、劉唐は「……ようし」と独り呟いた。そして壁の槍掛から一本の野太刀をつかみ取って、
「与力の雷横もまだ遠くへはいっていまい。──そもそも、あいつのために、縄目にあい、ぶざまな弱音を吹いたので、晁蓋までが、この俺を、だらしのねえやつと、見くびッたのだ。雷横に追ッついて、野郎の詫び証文か片腕でも奪ってきて見せたら、晁蓋もおれを見直すだろう」
どんな自信があるのか、赤髪鬼はヒラとそこを跳び出すやいな、荘院の裏門から県の街道を馬で矢のごとくすッ飛んでいった。──時に、陽はゆらゆらと牧場の朝露を離れて高く、木々には百鳥の囀り、遠山には丹霞のたなびきが美しい。これで地に人間の争いがなく、宋朝の政に腐爛さえなければ、この世はそっくり天国なのだが。
寺小屋先生「今日休学」の壁書をして去る事
どうせ、急ぐ道でもない県下巡邏の捕手たちだった。
すき腹に朝酒の振舞いをうけ、雷横以下、なおさらブラブラ歩きにもなっていた。そして彼方の石橋一つ渡れば、次の隣村という村境でのことである。
「おおうい、待てえっ。雷横、待てっ」
突然な後ろからの声に、ぎょっとして振り向くと、なんと例の赤痣が、ひらと飛び降りた裸馬を楊柳につないで、野太刀に反りを打たせて向ってくる。
「やっ、きさまは、さいぜん縄目を解いてやった、荘院の甥だな。なにしに、この雷横を追ってきたのか」
「詫び証文を貰いにきた。さあ書け。──昨夜はなんの咎もない人間に、理不尽な縄目をかけ、まことに相すまぬ落度であった──と、詫び状一札書いて渡せ」
「ふざけるな。こちらの慈悲も忘れやがって」
「慈悲が聞いて呆れらあ。叔父御からは、銀子何枚かを、袖の下に貰っていたろう。ええ、面倒くせえっ。詫びの一枚をよこさねえなら、その片腕をぶった斬って、貰って帰るぞ」
「こいつがッ……」と、雷横は憤ッて「──晁蓋の甥というので、ゆるしておけば、よくも、いい気になりゃあがッて」
「おおさ! 俺をなんだと思ってやがる。霊官廟じゃあ、寝込みで是非もなかったが、いまはちッと俺さまが違うぞ。いわれもねえ縄目の返礼だ、雷横、覚悟っ」
振りかぶってきた野太刀の迅さ──。雷横はかわすひまもなく、腰の官綬刀を抜いてバシッと受けた。そのまま打々発止と火花の間に斬りむせび合うこと数十合──。
わっと騒ぎ廻る捕手たちが、横から手を出す一瞬のすきもない。
「こんな小僧っ子」──雷横は闘いつつ、まわりの部下へ、豪語した。「──おれ一人でたくさんだ。手を出すな。遠巻きに見物していろ」
しかし、結果は、彼の大言の通りにゆくかどうか、なんともいえぬ形勢に見える。
雷横の刀術に、鳳の概があれば、赤髪鬼の野太刀にも、羽を搏つ鷹の響きがあった。赤髪の影が旋風に沈めば、迅雷の姿が、彼の上を躍ッて跳ぶ。──いずれにも、流儀があり、技があり、法にかなった秘と秘の術競べとはなったので、この勝負、いつ果てるともみえなかった。
だが、雷横の部下たるもの、もう見ては、いられない。
「──あっ、お頭があぶないッ」
誰かが叫ぶ。
同時に、どっと助太刀にうごきかけた。
ところが、すでにその寸前、街道わきの緑蔭静かな一戸の垣の網代戸から、さッと走り出てきた田鶴のごとき人品のひとがある。
「まあ、待たっしゃれ」
と、その者は、手に持っている分銅付キの細鎖で、双互の間を分けへだて、
「お二人とも、刀をお引きください。どうした仔細か、わしに任せてくださらんか。わしの家の前で、こんな芸をやられては、まさかただ、見物しとるわけにもいかんじゃないか」
事に迫らず、からからと笑っての扱い。雷横と劉唐も、思わず太刀を収めて、その人を見た。これなん、この片田舎には過ぎた童塾(寺小屋)の先生、智多星の呉用で、道号加亮、あざ名が学究。略して、呉学人とも、呉用先生とも、よばれている者だった。
黒縁の麻ごろもに、学者頭巾をかぶり、髯長やかだが、さりとて、腰の曲がった老人ではない。白皙にして、なお紅唇の精気若々しく、眼すずやかな底に、知識人の何かがある。
学人は、代々土着の家柄の人で、世評に聞けば、書は万巻に通じ、胸に六韜三略をきわめ、智は諸葛孔明に迫り、才は陳平にも比肩し得よう、とある。そのうえ済州の地方、この人あって、童歌の清きを失わず、また能く、読書の声を野に保つ……とまで賞めそやされているほどだった。
「退いてくれい、寺小屋先生。怪我をするぞ」
劉唐は、なお息まき。雷横もいうまではなく、官の与力、估券にかかわる。
「学人。ほうッといてください。用捨はならん」
「盗賊ですか。この男は」
「いや、荘院の甥ッ子とかだが」
劉唐が、横から吠えた。
「盗ッ人でもねえ俺を、盗ッ人と間違えて、縄をかけやがッた凡くら与力だ、そいつは」
「まだ吐ざくか」
「いうとも、詫び状よこせ」
「うぬっ。もいちど、縄目を見たいのか」
ばッと、両人の踵が、砂を蹴って、またもや、と見えた一刹那、どこかで、
「ばか者っ、なにをしている!」
と晁蓋の声がした。
息せき切って、あとからここへ馳けつけてきた彼は、馬の背から飛び降りるやいな、二人を割って、まず雷横にあやまった。
「どうも、はや、とんでもねえ奴です。お腹立ちでもございましょうが、どうかご勘弁なすって下さい」
そしてまた、劉唐の肩を、一つ突き飛ばして、
「この酒食らい野郎め、ちょっとの間に、もう酒をくらった揚句、なにを考えて、飛び出したかと思えば」
いきなり、彼の手から、野太刀をひッたくって、刀背打ちに撲りかけた。驚いて、その手もとを抑え、
「あっ。そうまあ、ご立腹なさらずとも」
と、止めたのは呉学人である。
「いま、聞いてみれば、他愛もない間違いの意趣返しだとか。それに酒気があるなら、なおさらのことだ。雷横どのも、お役儀の途上、ゆるせまいが、ここは晁蓋さんと、わしに免じて、ひとつ堪忍してあげてくださらんか」
ふたりの詫びでは、雷横も渋れない。それを機に、雷横は部下をまとめて去り、劉唐は、晁蓋から「先に屋敷へ帰っていろ」といわれて、これもまた、裸馬にまたがり、ニヤニヤしながら戻っていく。
あとは、呉用と晁蓋の、二人だけだ。
「いや今日は、えらいものを見せられたよ。──あなたが来たからよかったが、さもなければ、野太刀と官刀の勝負、さあ、どっちとも分らなかったな。雷横は有名な刀術の使い手だが、どうして、あの赤痣もなかなか強い。ひょっとしたら、達人雷横も、やられたかもしれん」
「へえ? ……そんなでしたか、あの赤馬が」
「ハハハハ、赤馬はよかったな。まさに後漢の呂布の愛馬赤兎を思わす風がある。甥御さんと伺ったが」
「いやいや、先生、それには深いわけあいがあること。いかがでしょう、折入ってご相談申しあげたい儀があるのですが」
「折入ってとは、よくよくのことか?」
「まったくの、よくよくごとで、どうにも、自分の思案には余りましたので」
「待たっしゃい。あいにく、授業の日だが、壁書を残しておくから」
呉用は、一たん家の内へ入った。婆やに何かいいつけ、また、筆を取って、サラサラと書いた一紙を、学童の眼にふれやすそうな教室の壁に貼りつけておいて、
「これでよし。これでよし。さあ、晁蓋どの、同道しようか」
と、外へ出てきた。
晁蓋が、ふと、立ちよどんだのは、呉用が壁に残した貼り紙の文句に、気をとられていたからだった。子供にも読みやすいように、それにはこう書かれてあった。
先生ハ今日
急用デ、オ留守
素読ハ オ休ミスル
オ習字ハ 家デヤルコト
遊ブ者ハ
蛙ト遊ベ
河ヘ落チルナ
相談事も、事によりけり、というものだ。
北京の梁中書から、都の蔡大臣へ、誕生日祝いに送る時価十万貫のものを、「奪うべきか。見のがすべきか?」また。「──奪うとしたら先生には、どんな奇策がありましょうか?」とは、いかに、今孔明の称ある智多星呉用先生でも、おいそれと、返辞ができたものではあるまい。
人を遠ざけた晁家の書楼の一室。
「……じつは」
と、声をひそめて、主の晁蓋から、今暁の事の次第、劉唐の本体、またその劉唐が持ちこんだところの情報などを、審かに打ち明けられて、さすがに呉学人も黙考、久しい体だった。
それへ答える前に、彼がひそかに思うには。
これはみな、宋朝腐爛の悪世相が、下天に描きだしつつある必然な外道の図絵だ──。これを人心の荒びと嘆くも、おろかであろう。
単に、悪を悪と見なすなら、悪の密雲は、上層ほど濃い。上層ほど、大きい。しかも、政治にかくれ、権力にものをいわせ、公然と合理づけた悪を行って、恥ずるを知らない。
それに反して、民土の悪は、おおむねが小悪だ。生きるために。また、いささか生命を愉しむために。共通の人間欲のために。あるいは、反逆のために。
わけて今は、反逆の徒が多い。虫のわくごとく地にこれをわかせたものは、宋朝自体の腐土ではないか。〝この世をば我が世〟と思い上がっている貴紳大官ではないか。
梁中書、蔡夫人。蔡大臣。それらも、驕慢星の二タ粒三粒だ。
それにたいし、地にはいつか、上層の驕慢星に闘わんとする反逆星が、宿命したのはぜひもない。
この地煞星(まがつぼし)はもとより庶民の土を藉りて住み、悪行いたらざるなき悪戯星の性は持つが、しかし、いささかの道義は知り、相憐れむの仁を抱き、弱きはこれを虐げず、時に、漢と漢とが、ほんとに泣き合うことも知っている。
単純むしろ愛すべく、野性、憐れむべきであるが、なお人間らしき人間たる、真性だけは失っているものではない。
これを捨てず、これを刑せず、もし愛情と同鬱の友となって、よく用い、また善導しつつ、いまの糜爛社会に何らかの用途と生きがいをも与えて、ともに、世を楽しむ工夫はないものか。……あれば、宋朝治下の塗炭の民土に、一颯の清風と、一望の緑野を展じるものと、望みをかけ得られないこともないのだ。
「……晁蓋どの」
やっとその沈思から面をあげた呉学人は、
「おやんなさい。智恵も貸しましょう」
ぼつんとだが、一語は明晰に、また断の力がこもっていた。
「えっ。ではお智恵も貸してくださいますか。じつは昨夜、妙な夢を見ましてね」
「どんな夢を」
「北斗七星が、てまえの屋敷の棟へ堕ちてきた夢です。変な、と思っていたら今暁の出来事……吉か凶か、判断に迷っていましたが、先生のおことばで、力をえました」
「だが、わしがやめろといっても、怖らく思い止まるまい」
「ご明察どおりです。この晁蓋にすれば、なにも危ない橋は渡らずとも、家代々の荘院、食うにも着るにも困る身じゃございません。けれど、いまの世を見渡して、どうにも、腹から愉しめぬものが、日ごろ、もやもやしていたもンです。そこへ持ってきてのこの話でさ。正直申せば、欲と義憤の二タ道かもしれませんがね」
「しかし、梁中書も、今年は去年の轍はふむまい。難かしいぞ」
「覚悟の前です。……が、先生のご意見としては」
「どうしても、粒ヨリな人間七、八人の結束は要る。お宅の雇人や壮丁など、何十人いても、役には立たん」
「ゆうべ見た夢は、北斗七星。……まず先生と、てまえと、赤馬の劉と、ここにゃあ三人しかいませんが、うまく星の数だけ揃いませんかね」
「さアて」と、呉学人は、ふたたび何か眉を沈めていたが、
「いや、ないこともない、はからずも思い出した者がある」
「えっ。先生がそんなにまで、力をこめて、頼もしそうにいう人物というのは」
「三人兄弟。しかも三人とも、義に厚く、武技に秀で、事に当ったら、水火も辞せぬ男たち」
「はて、今時どこに、そんな勿体ない男が、どこに埋もれていたでしょうか」
と、晁蓋は、思わず膝を前へすすめた。
呉学人は、一気に言った。
「その三兄弟とは、阮小二、阮小五、阮小七といって、血をわけた真の同胞。──済州は梁山泊のほとり石碣村に住んで、日ごろは、江の浦々で漁師しているが、水の上の密貿易も、彼ら仲間では、常習とされている。……もとより、文字はない男たちだが、その義心と武には、わしも見込んでいた者だ。会わぬこともう両三年になるが、よも、わしのことは忘れてはおるまい」
「ああ、阮の三兄弟でしたら、薄々、噂には聞いていました。石碣村といやあ、わずか二日道、使いをやって、ひとつこれへ呼んでみましょうか」
「来るものか、あの兄弟たちが。この呉用が出向いて、相談をもちかけても、よほど三寸不爛のこの舌で口説かぬことには」
「なるほど。それほどな男とあれば、なお頼もしい。先生、お出かけくださいますか」
「行ってもよい。……が、学童らの授業休みの貼り紙に、もいちど、日延べを書いて来ねばならぬ」
「今夜立っても、明後日の午には着きます。その前に、赤馬も加えて、一杯さしあげたいし、その上でのご出立でも」
「おおそうしよう。さてさて、人生の朝暮、なにが起るか知れんものだな」
彼は一度、童塾へ帰って行き、夕方からまた見えた。そのときは、赤馬の劉唐も同席し、詳しい話は、もうあるじの晁蓋から聞いている容子だった。
三人は、二更の頃まで、飲んでいた。──時々、声がひそまるのは、密議らしい。北京から東京への道すじを、例の時価十万貫の生辰綱(誕生祝いの荷梱)が行くとすれば、その通路は、どの辺に当るか? 去年と道すじを変えるか否か?
これらはまだ未知数というしかない。今は、五月初め。誕生祝いは七月十五日とか。──なお七、八十日の間は、たっぷりある。
「準備に日は欠かぬ。だが、三兄弟の誘いこみは、早いに限る」
呉用は、酒もほどほどに、さっそく旅支度にかかりだす。外は、ぬるい夜靄の夜だし、陽気にはまず申し分もない。
「じゃあ、わざとお見送りもしませんが」
「むむ、人目は避けよう。劉唐さんも、わしの帰るまでは、おとなしく客間に籠っていてもらいたいな」
「もうご心配はかけません。吉左右をお待ちしております」
門を立って行く呉学人の影は、すぐ模糊たる夜靄のうちに淡れ去った。
一日おいて。翌々日の午じぶん。
早くも彼の姿は、水郷石碣村のほとりに見られた。
かつて、何度も遊んだ土地だ。阮小二の家も、探すまでのことはない。芦汀に臨み、山に倚り、数隻の小舟をもやった棒杭から、茅屋の垣にかけて、一張りの破れ網が干してあった。
「おいでですか、どなたか」
廂を、覗くと、昼寝でもしていたか。
「だれだね」
むっくり出てきた若者がある。
これが阮小二だった。腰切りの漁衣、はだけた胸。その大胸毛は珍しくないが、石盤のような一枚肋骨は、四川の絶壁を思わすに充分である。
「やあ、……これは」
濃い眉毛も、大きな口も、一時に、あどけなく相好をくずして、
「お珍しいなア、先生じゃございませんか。いったい、どうした風の吹き廻しで」
「急な頼みごとができたのでな」
「へえ、どんな御用で」
「さる知人の富家で、お祝いごとがある。それで、めかた十四、五斤の金鯉を、どうしても十匹ほど入用と、折入っての、頼まれごとさ。弱ったな」
「まア、お上がンなすって。いや、いっそ、江の向う浦へ行きましょうや。ちょッとおつな旗亭がありますぜ」
裸足で飛び出した阮小二は、すぐ杭の小舟を解き放して、呉用の体を拯いとり、櫂を操ッて漕ぎだした。
江を行くこと、さながら自分の足で颯々と歩くにひとしい。
まもなく、江のまん中を、斜めに過ぎるうち、芦の茂みを透いて、チラとべつな一隻が見えた。すると、こっちから阮小二が呼んだ。
「おうい、小七。……小五はどうしたい、小五はよ」
水谺して、向うからも答えてくる。
「オウ、小二哥いか。……小五哥いに、なにか用かね」
「大ありだ、呉先生が、おいでなすったぜ」
「なんだア? 呉用先生だって。うそいえ」
「ほんとだ、てめえも来いよ。先生を誘って、これから一杯飲りに行くところだわ」
「こいつはいけねえ、与太をとばして、そいつアとんだ失礼をしちまった」
芦むらを漕ぎ分けて、さっそく近づいてきたのを見ると、これなん、村では活閻羅ともアダ名のある末弟の阮小七。
釣でもしていたか、竹ノ子笠に、碁盤縞のツツ袖水着、笠の翳ながら、大きな出目は、らんと燿き、筋骨はさながら鉄といえば言い尽きる。ひたと、舷そろえつつ。
「ごめんなさい、先生。あんまりお久しぶりなもんで」
「行くかね、いっしょに」
「ぜひ、お供を。……ちょっくら、おふくろの家へ寄って、小五哥いも誘いましょうや」
近くの岸へ寄る。ここにも、水を繞らした小部落があった。その一軒へ、舟の上から。
「おふくろ。小五哥いは、いますかい」
「いないよ」と、膠もない返辞。
「──漁師の親のくせにして、あたしゃあ、ここ幾日も、魚の顔を見たことがないよ。あの子ときたら、毎日、ばくちばくちの追い目でさ。あきれたよ。たった今も、あたしの簪を引ッたくって、消えて行ったばかりだよ」
小二は、頭を掻いて、逃げるように、また漕ぎだした。
「どうも先生、いやなことを、ついお聞かせしちゃって、どうぞお気を悪くなさらないように」
「はははは。そんな内輪ごと、なにも、初めて知ったわしではないよ」
「でもネ、折がまずいや。……小五哥いも、目が出ねえらしいが、どうも早や、あっしら兄弟は、みんな、ばくち好きの、ばくち下手ってやつでしてね」
「近ごろ、いけませんかな」
「近ごろなら、先生、まだいいんですがね、もう一年以上も、取られっ放しの、素寒貧つづきですよ。魚をとったぐらいじゃ、いくらとったって、間にあわねえ」
「小二哥い、およしよ」と、小七が横からいった。「つまらねえことを、お耳に入れたって、頭を掻いたくせに、自分からまた、シケたぼやきをお聞かせするたあ、どんなわけだい」
「ちげえねえ。先生、笑ってください」
「はははは」と、呉学人は、彼らの註文どおり大いに笑って、「──いつも、おまえ方は、明るくていいな。運は時のものだ。時が来れば、あっち向きの花も、こっち向きに咲き変る朝もある」
言いながらも、じつは心のうちで、これは脈がある、わが計なれりと、ほくそ笑んだ。
漕ぎゆくほどに、村の漁師町が望まれてきた。旗亭の旗も見える。橋畔の家々の洗濯物も見える。舳はずんずん岸へ寄せていた。
「ああ先生。いい都合だった。ちょうど、小五がいましたよ」
「ほう、どこに」
「ほれ、あんなところに」
小七が指さすところを見ると、なるほど、いま橋袂から降りてきた一人の男が、舟のもやいを解きかけている。
手頸に提げたのは、どうも、縄を通した二タ差しの銅銭らしい。
どこか殺気のただよう眉間は、ばくち窶れのせいだけでなく、異名も、短命二郎といわれているほどだから、独自な人相というものだろう。喧嘩に俊敏なのは、その尖り肩や脛の長さでも察しられ、ボロの漁着の胸もとからは、青ずんだ豹の刺青が見え、その凄味を消すよりは、むしろ増すかのように、頭上斜めにかぶった刺子頭巾の横鬢に、一枝の柘榴の花を挿していた。
相見ながら、漕ぎ近づくと、
「よう小五さん」──呉学人から、声をかけた。
「どうです、いい目が吹いてきそうかね」
「誰かと思ったら……」と、小五はやっと、怪訝顔を解いて笑い出した。
「──先生たあ、思わなかった。さっきから、あの橋の上で、見てたんだがね。どこへ行くんだ、小二哥い」
「この先の旗亭よ。来ねえかい」
「橋際にもあるぜ。妓もいるし」
「いや先生の馳走には、妓よりは風景だろ。これから夕陽が沈む頃あいまで、芦と水と、帰る帆と、それからあの梁山泊の山々が、紅い瑠璃色からだんだん紫色になっていったり、おれたちでも、恍惚するほどな景色に変る。あれがご馳走だ。もう一ト漕ぎして、水っ端の旗亭まで行こうや」
「よかろう、三艘、舳を揃えて繰りこむか」
小五の柘榴頭巾も、自分の小舟へ、ひらと跳び下り、たちまち、櫂音たかく追いついてきた。
呉用先生の智網、金鱗の鯉を漁って元の村へ帰ること
「ああ酒も美味いが、空気までがまた美味い。お互いこんな日に会うのも、生きてこそだな。おまえ方、三人兄弟と一しょに、こうして杯を持つのもまことに久々だし」
「先生、よほどここの旗亭がお気に召しましたね」
「ム。貧しい漁村の一杯飲屋も、時によれば岳陽楼の玉杯にまさるというもんじゃ。……江の畔には柳や槐のみどりが煙るようだし、亭の脚下をのぞけば、蓮池の蓮の花が、さながら袖を舞わす後宮の美人三千といった風情」
「はははは、先生のこんな上機嫌は初めて見たぜ。なあ弟」
兄の小二がいうと、弟の小五、小七も口を揃えて、
「よかったなあ、せっかく、ご案内してきても、どうかと思ってたンだが。……ところで兄哥」
と、ここで小五が、口をはさみ、
「おれだけまだ聞いていないが、呉用先生がとつぜん村へ現われたッてえのは、いったい、どういう御用向きなんだね」
「それがサ」と、長兄の阮小二は、ちょっと自分の頭を叩いて──「目方十四、五斤の金鯉を十尾ほど揃えてくれと仰ッしゃるんだが……近ごろの漁場じゃ、おいそれとは、とれそうもねえや。……でも、先生の知人のお大尽が、婚礼に使うんだから是非にと、先生も頼まれちゃったというんだよ。弱ッたもんだな」
「ふウむ、そいつはご難題だぞ。……が、まアいいや、先生、もひとつ、いかがです」
「もうだいぶ酩酊ぎみだよ。日も靉靆と暮れかかるし、心気は朦朧だ」
「先生、とにかく今夜は、汚い小屋じゃございますが、てまえどもの家へお泊りくださいませんか。ここの一杯屋も、晩まではやっておりませんので」
「おう、ご厄介だが、世話になるよ。とにかく十尾の金鯉を持たなければ、友人のてまえ帰れんからのう」
これは口実、呉学人の思う金鯉とは、もとより金色の鱗をもった魚なのではない。兄弟三人を網中の獲物として、首尾よく、晁蓋一味の大仕事の味方にひき入れて帰ることだったが──しかし、その真実を言いだすのは、場所もまずい、と考えて、
「じゃあ、ぼつぼつ立とうか。おいよ。旗亭の亭主、勘定をしてくれい」
「とんでもない、先生に金をつかわせるなンて……。ここの払いは、手前ども兄弟にまかせておくんなさい」
「よかろう。では、わしは手土産でも提げるとしよう。亭主、大甕一壺に酒を詰め、牛肉二十斤、鶏一トつがい、あの小舟のうちへ積んどいておくれ」
呉用は銀子一両を亭主に渡して頼んでいる。
阮の三兄弟も、それぞれ小舟にもどり、やがて呉用をのせて、夕波の江を漕ぎ渡って、家路についた。
「さアお上がンなすって」
案内してきたのは、昼、行きがけにちょっと寄った阮小二の家である。兄弟三人中、女房持ちは長兄の彼一人らしい。さっそく持って帰った肉や鶏を、女房と漁場の餌採り小僧にいいつけて、料理にかからせ、
「先生、ここなら夜ッぴて飲み明かしたっていいんですから、どうぞ今夜は帯紐解いたおつもりで召上がっておくんなさい」
と、水に臨んだ裏部屋の破れ簾を捲いて、映し入る月の光を囲んだ。
料理もできる。杯も巡りはじめる。
江上でいちど醒めた酔いがぱっと出て、話はすぐ弾みだした。
「なア兄弟がた。またしても、気がかりを言いだすようだが、十尾の金鯉を揃えるぐらいなことが、どうしてそんなにむずかしいのか」
「それやあ先生が、学問や兵法には通じていても、世事にはお晦いからでございますよ」
「ふウむ……こいつは一本参ッたかな。しかし、どういう仔細か、そこを聞こうじゃないか」
「入江や海なら、どんなところにも、どんな魚でもいると思うのが、そもそも世間知らずでサ。──打ち明けて申しますと」
「なんだか、ひどく物々しいのう」
「まったく、物々しいお話ですがね、あっしどもの漁場としているこの石碣湖なンてえのは、猫のひたえみたいなもンで、一尾十斤もする大鯉を揚げるにゃあ、どうしても向うに見える梁山泊の辺まで漕ぎださなくちゃ採れません」
「それ、そこがおかしいじゃないか。梁山泊なら水つづき、しかも彼方に見えている。どうして、そこで採ってこられんのか」
「鬼門ですよ。梁山泊ときては」
「鬼門。いよいよ変だな。どういうわけで」
「イヤ、お話にも何もなりゃあしません」
「まさか、殺生禁制の禁漁区でもなかろうに」
「殺生禁断どころか、ヘタに近よれば、こちとら、人間さまのお命があぶねえんですよ。──ずっと以前は、梁山泊の沖こそ、あっしども兄弟の稼ぎ場でしたのに、イヤひでえことになったもんで、お蔭ですっかり貧乏つづきのこの落ち目、忌々しいが、どうにも仕方がありやしません。なあ弟」
と、兄弟顔見あわせての嘆息だった。
呉用は心ひそかに、しめたと思う。どうやらこの辺に、兄弟の本心を引き出す鍵がありそうである。──と見たので、杯も下において、
「ほ。……それが落ち目の原因とは一生の大事ではないか。あんた方三名、人なみ以上な五体と若さを持ちながら、なんでそんな運命に負けて指をくわえていなさるやら。……はて、わからんな、もすこし打明けたところを聞かせてくださらんか」
せまくても石碣村の浦人仲間では、男名を売っている兄弟三人が、「──なんでそんな運命に負けて指をくわえているのか」といわれたのだから、少々口惜しかったにちがいない。──そこで兄弟こもごも、憤然とじつを訴え始めたが、それこそは、加亮先生呉用の思うツボであったであろう。
「……なにしろ、先生。その梁山泊ッていうのは、群盗の根城なんです。いってみればまア天下に恐い者なしの無法者の巣ですからね、かなやあしません」
「それは初耳だな。いったい、どんな人間どもが寄っているのか」
「白衣秀士の王倫ていうのが大将株でしょうか。こいつはなんでも、東京の役人試験に落第した書生くずれだそうで、以下、摸着天の杜選とか、雲裏金剛の宋万とか、旱地忽律の朱貴なんてえ手輩がおもだッたところで、手下六、七百人もいるんですから、いくら歯がみをしてみたって、こちとら兄弟じゃ手も出せませんや」
「むむ……それじゃあムリもない。そんな豪勢な賊寨か」
「おまけに、近ごろその仲間へ落ちていった、もと宋朝の禁軍の師範、豹子頭林冲というのがまた、めッぽう腕の冴えた男とかで、いよいよ梁山泊と聞いたら泣く子も黙るくらいなもんです」
「が。妙だナ、それも」
「先生、なにを首を傾げなさるんで」
「だって、いかに今は、濁世のどん底とはいえ、上には宋朝の政府があり、地方には各省の守護、管領。田舎には郡司、県吏もいるものを、そんな大それた群盗が、天もおそれず、山東の一角を占めておるなど、信じられんことではないか」
「さ、それがですよ先生。このごろの役人ときたら、賄賂には弱く、人民には強く、検地や事件で村へ来ようもンなら、豚、羊、鶏、家鴨まで食らいつぶしたあげく、晩には娘を伽に出せの、帰りには土産を馬に着けろなンて吐かしゃあがって、そのくせ、ちょっと手強い山賊や無頼漢にでもぶつかると、逃げまわるのが関の山で、たとえ、盗難や乱暴者があって、訴え出たって、間に合う頃に来たためしなどありやしません」
「ひどいな。本当かな、それは」
「嘘だと思ったら、先生もちと、この辺へ住んでごらんなさいよ」
「そりゃ見てはおれまい。幸い、わしの住んでいる土地には、晁蓋というなかなか肯かない荘院がおる。そのせいか、それほどでもないが」
「だから奴らには、金力か腕か、どッちかでなけりゃあ応対もできません。弱い土地の、素直な土民と見るほど、権柄を振り廻すのが、いまの役人ですからね」
「貧土こそわが世の春といったような振舞だな。これや何とかせずばなるまいて」
「そうですよ、先生。なにもさもしい根性で、役人暮らしの垣の内を覗くわけじゃあねえが、大ゲサに言やあ、金銀は秤で分け取り、衣裳は好み放題、食い物は贅沢ざんまい。それがみンな、人を泣かせてせしめているものだから、業腹でたまりません。こちとらなど、働いても働いても、どうしてあいつらの真似もできねえのかしらと、稀にゃあ、情けない気もしてきますぜ」
「なんだ、漢たるものが!」──と呉用智多星は、ここぞと、語気を入れて、叱るように、兄弟の顔を、らんと睨め廻した。
「あんた方は今、いう口も穢れるように、腐れ役人を嘲ったじゃないか。その口ですぐ、役人暮らしの真似もできぬとは、なんたる意気地のない愚痴か、みッともないぞ、いい漢が」
「先生、ごめんなさい、つい、つまらねえ愚痴をこぼし、面目次第もございません」
「いや、あやまるには及ばんさ。だが、わしはおまえ方の、兄弟贔屓で言いおるんじゃ。どうして、これほど立派な漢三疋が、食うや食わずでいなければならぬかと……」
「ありがとうございます。そう仰っしゃってくださるなあ先生だけだ。もし先生みてえなお方があって、こんな漢どもでも、腕と根性ッ骨を、気前よく束で買っておくんなさる人でもあれやあだが……まずねえなア、今の世じゃあ」
「いやある」
「ありますかえ、先生」
「なきにしもあらずだ。──いッそ、梁山泊へ行ってみたらどうだ」
「だめ、だめ」
兄弟三名、三人ともに、鼻っ先で笑いながら、手を振った。
「そんな智恵なら、なにも先生に教えられねえでも、朝夕に眺めている梁山泊、とうに、そッちへ転げ込んでいますが、あそこには、白衣秀士王倫ていう気に食わねえ野郎が首領に坐っているでしょう。気の小ッけい、侠気も義もねえ男だと聞いています。いくら飢じいッからって、そんな泥臭え野郎の下にゃあ付きたくありませんからね」
「よく言った。その背骨を失ったらもう漢はない。では何か、もしここに、腹から心服できる者があって、かりにおまえ方の漢を見込んだうえ、買うといったら、どうなさる?」
「あははは。ありッこねえや。そんな人は」
「いやさ、もしあったらば」
「それや、いわずと知れている。漢が漢とゆるしあうことでしょ」
「そうだ」
「そんなら、水火も辞しません」
「ならば改めて、君たち三兄弟に、ひきあわせたい人がここにある。どうだ会ってみないか」
「だれです、それは」
「ここからわずか数十里、東渓村の名主をしている晁蓋だが、これは山東河北きッての人物とわしは平常、観ておるが」
「あ。托塔天王とアダ名のある荘院さんですか」
「知っているのか」
「いや、聞いているだけです。──義に厚く、侠につよく、たいそう金ばなれもきれいな人とは伺っておりますが」
「なにを隠そう、じつは今度のわしの用向きというのは、その晁蓋から頼まれて、或る一用を帯びて参ったわけじゃが」
「では、なんですかい。金鯉十尾ご入用とかって仰っしゃったのは、嘘なんですか」
「方便じゃよ。方便はゆるしてくれい。なんとなれば、君たち兄弟の腹の底を見とどけぬうちは、めッたに口を割れぬ秘密なのだ。しかし、いまはもう寸分、君たち三名の義を疑ってはいない」
「どういうご相談事なので」
「くわしくは、その晁蓋と君たちが、義の杯を結んだうえで打合せるが、かいつまンでいえば、一世の大金儲けと、悪政府の大官を膺懲しようという快事だ。つまり、その二つを、一挙に併せてやろうという目企みだが、ぜひ君ら三兄弟にも、その仕事にのッてもらいたいという晁蓋の切なる望み。……で、かくいう呉用が誘いだしに参った次第だ」
「ほんとですか、先生」
兄弟は、眼をかがやかした。短命二郎の阮小五などは、感激のあまり、自身の首すじを平手で叩いて、
「待ってました。この首は、この漢の値打を知って買ってくれる人のためにあるようなもンでした。なあ哥き」
「そうだとも。この漢一匹、もし先生が買うと仰っしゃるなら、いつでもと思っていたのに、そのうえ、晁蓋さんまでが、あっしどもを見込んで、力を借りたいというのなら、一も二もありやしません。早速ここで誓いましょう。どんな秘密でも打明けておくんなさい。こう見えても、裏切るような下種どもじゃござんせん」
「じつは、こうだ。──この七月十五日、朝廷最高の顕官蔡大臣のもとへ、その人の誕生祝いとして、値十万貫におよぶ金銀珠宝が北京からひそかに送りだされる。──贈りぬしは北京の大名府に君臨する梁中書夫妻。──もとよりその財貨宝玉は、すべて悪政の機関から搾りとった民の膏血にほかならぬ。……これを奪うのは天の誅罰といえなくもあるまい。途中、その輸送を襲うて、これをせしめる手だてなどは、晁蓋やほかの同志と同席のうえでなお仔細に密議せねばならんが、要はそういう目的だ。すぐわしとともに東渓村まで行ってくれぬか」
「いきますとも」
小二、小五も二つ返辞で、
「おい小七。いつもおめえが、夢みたいにいってたことがよ、なんと、夢ではなくて、ほんまに来たぜ」
と、三兄弟、手の舞い足の踏むところも知らず、といった風なよろこびだった。
──明ければ、早朝から、兄弟いそいそと二日三日の旅立ち支度。呉学人を先にして、東渓村へさして行った。
月はまだ五月初旬の爽涼、若者の心そのままな薫風が袂を打つ。
東渓村へ入ったのは翌々日の午さがり。さすが荘院の示しがよいせいか、石碣村などとはくらべものにならない村道のきれいさ、村の土倉や、屋根もどことなく落ちついて見える。──と、彼方の一ト構えの土塀門の外、槐の下の木蔭に「今日もや着く?」と待ちうけていた晁蓋その人と、食客の赤髪鬼劉唐のすがたが、はやそこに見いだされてきた。
双方、すでに遥かより相見ながら、
「やあ」「やあ」
と、手を振り上げつつ相寄って行った。
六星、壇に誓う門外に、また訪れる一星のこと
その夜の酒宴のさまなどは、くどくどしい。
呉学人は、兄弟三人のつれ出しに、苦心はしたが、わが功は多くをいわず、
「これが、わしのすすめた阮兄弟だ。まず見てくれ」と、いったあんばい。
晁蓋は、一見すっかり気に入った。また三人の兄弟のほうでも、晁蓋の重厚で、そしてさっぱりした人柄のうちにも、情義の厚そうなところを見て、
「こういう人とのつきあいなら、かねて望んでいた漢づきあい。一生賭けても、悔いはない」
と、はやくも惚れこんでしまった様子である。
赤馬赤馬と呼ばれている赤髪鬼劉唐は、呉先生や晁蓋のあいだにあっては、見劣りすることぜひもないが、これも精悍にして邪悪ではない。短命二郎小五とは、よい組合せだ。
飲み明かし、語りあかして、さて一睡もつかのまの、翌早朝。
同志六名は、嗽い手水の身清めしたうえ、晁家の奥の間にある祭壇に向って立ちならんだ。──壇の道教神のまえには、紅蝋燭赤々と燃え、金紙の銭、色紙の馬、お花、線香、羊の丸煮などの供え物が、種々、かざり立てられてある。
誓いの儀式だ。土器を取って、羊の生血をそそいだ神酒をすすりあい、やがて呉学人が案文した起誓文を受けて、晁蓋が壇にむかって読みあげた。
──聞説。
宋朝ノ管領、梁中書、北京ニアリテ、民ヲ毒シ、権ヲ用イ政ヲ恣シテ富財ヲ私スルコト多年。然ノミナラズ、夫人蔡氏ノ岳父、蔡大臣ノ都ノ邸ヘ向ッテ、連年、生辰綱(誕生祝いの金品)ヲ贈ルコト実ニ巨額ニノボル。
茲ニ、今年七月十五日ノ生辰ヲ期シ、又モ十万貫ノ不義ノ財貨ヲ密カニ都門東京ヘ輸送セントス。天冥、豈コノ不義ヲ許スベケンヤ。
即チ、ワレ等六名、天ニ代ッテ、懲罰ヲ下シ、以テ侫吏ノ肝胆ニ一颯ノ腥風ヲ与エントスル者ナリ。モシ盟ヲ破リ、異端ヲ抱ク者アラバ、ソレ天ノ冥罰ヲ受クルモ恨ミナキコトヲ天地ニ誓ウ。──神明、照覧アラセ給エ。
「……いざ、ご順に」
おのおの、紙の銭を焚き、代る代る礼拝する。
「さあ、これで誓いはすんだ」
お供え物を下げて、一同また、客間で飲み直していた。
すると何となく、物騒がしい声が門外の方で聞え出した。はてと、晁蓋が耳をすましていると、そこへ家人のひとりが来て、さも持て余し気味に訴えた。
「旦那、旦那。ご酒宴中、なんとも相すみませんが、ちょっと、おいでなすって」
「うるせえな、お客さまの席へ。いったい、なにをがやがや騒いでいるんだ」
「それがその……なんとも手のつけられねえ強情ッ張りな山伏なんでして」
「山伏だと。よくねえなあ、この頃の行者って奴あ、装恰好だけは、もっともらしく拵えて歩きゃあがって、作法も経文もろくそッぽ知らねえようなのが、ただ食い稼ぎに村へも時々入って来やがる。うるせえから、粟の一升もやって追っ払え」
「ところが、てんでそんなものア眼もくれねえんです。へい」
「じゃあ、なにを施せと、ねだっているんだ」
「旦那に会わせろって、ごねるんですよ」
「ふざけるな。そんな物乞いに、いちいち会っている暇はねえ。それよりは、てめえたち若いもンが大勢ガン首を揃えてやがって、そんな者一人を持て余してるたあ、なんてえざまだ」
「そう仰ッしゃいますが、ま、ちょっと来てごらんなすってください。──自分は一清道人と申す者──とか何とか吐ざいて、ちょっと触ろうものなら、すぐ人を手玉にとって、ぽんぽん投げつけてしまやあがるし」
「なに、手むかいするのか」
「そいつア向うでいってる文句でさ。手出しをすると用捨はせぬぞ。晁蓋に会わせぬ以上はここは動かん……なんて啖呵を切りゃあがって、四人や五人タバでかかっても、あっさり片づけられちまう始末なんで。なんともはや、私たちじゃあ手におえません」
晁蓋はやっと、腰を上げた。
「先生、お客人にも、失礼ですが、ちょっと中座させていただきます」
彼が門前へ出ていってみると、なるほど、荘丁大勢、ただ遠巻きにだけして、恐れおののいている様子だ。中には、手脚を傷められて凄愴な面をしている連中も少なくない。
「どこにいるんだ、そいつは」
「ほれ、そこの槐の木の下に、悠々と、憎ていな笑い顔して、腰かけておりますよ」
「あ、あれか」
晁蓋は、つかつかと、彼の前へ歩いていった。
彼のほうでも、晁蓋を見るや、すっくと同時に起ち上がっている。
山行者の着る裾みじかな白衣に、垢じみた丸グケの帯。笈は負わず、笈の代りに古銅づくりの一剣を負っている。八ツ乳の麻鞋は、これも約束の行者穿きのもの。さてまた、年ごろはといえば四十を出まい。黍色の容貌に、腮だけの羊髯をバサとそよがせ、口大きく、眉は少し八の字、どこか愛嬌さえある顔だが、身の丈ときたら一幹の松のごとく、すッくと見え、さらに憎ていなのは、手に鼈甲紙の団扇などを持って、ふところに風を入れていたことだった。
「道士、えらいごけんまくだな」
「騒いでいるのは、こッちではない。勝手にここの雇人どもが、自分で瘤をこしらえておるまでのこと」
「布施は何がお望みなのか」
「またいうか。物乞いじゃおざらん」
「では、なんでお動きなさらぬ」
「あるじの晁氏に会いたいのみ」
「その晁蓋は、じぶんだが」
「や。あなたか」
「用を聞こう。手ッとり早く」
「ここでは申せぬ。折入ッての儀だ。どこぞ二人だけで話したい」
「じゃあ、こっちへおいでなさい。一樹の縁だ、茶でも上げよう」
軽い気もちで、門内へ入れたのである。といっても、奥の客間ではない。間に合せの小部屋だったのはもちろんだ。
通されて椅子によると、さすが礼儀はただしく道士はすぐみずから名のった。
「お騒がせして申しわけないが、拙者は公孫勝、道号を一清と呼ばるる者。生れは薊州の産です。申してはお笑いぐさかもしれんが、幼少より武芸が好きで、あちこちの道場歩きなどで多少名を鳴らしたため、公孫勝ノ太郎とか、入雲龍ノ太郎などと少しは恐れられたものです。──かつまた、いささか方術(道教の法術)に通じ、自在に風雨を呼び、隠遁飛雲の法も行うが、それも決して広言ではありませぬ。──ところで」
と、公孫勝の一清は、その羊ヒゲを掌のひらで何度も逆さに撫でつついう。にんまりと人を射てくる眼ざしには、なるほど方術師らしい底冷たい眼光があった。「──当村の名主晁氏のお名は、久しく耳にするのみで、御見は今が初めてだが、初対面の手みやげに、じつは軽少なれど、金銀十万貫に値する儲け仕事を持参いたした。なんとお受けとりたまわるまいか」
聞くと、晁蓋はつい笑いだした。
「そいつあ、北方から都へ行く生辰綱(誕生祝いの荷)じゃございませんか」
「あっ──?」
愕然と、一清道人は、相手の顔を、穴のあくほど見まもって、
「ふしぎだ。誰知るはずもないものを、どうして晁どのには、ご存知なのか」
「はははは。なにをいわっしゃる、こっちがびっくりしましたわい」
「それはまた、どうしてです」
「だって、当てずッぽうに、出たらめをいってみたまでですよ」
「いや、それこそ神感と申すもの。あなたは受けなくてはいけません。取るべきを取らずんば何とやら、しかも、密送の生辰綱は、不義の財だ、なんで、奪うに憚りがありましょうや」
こう、説き伏せんとして、一清道人がその弁をふるいかけたときだ。突如、扉を排して顔を現わした者が、いきなり彼の頭へ大喝をくらわせた。
「不敵な密談、みな聞いたぞっ」
「やっ?」
せつな、一清道人は、さッと椅子を跳び離れたが、とたんに、晁蓋とそこへ入ってきた呉用学人とが、声を合せて、哄笑していた。
「いやいや、公孫先生、おあわてなさるな。──ご紹介いたしましょう。このお方は」
言いかけるのを引き取って、呉用は、自分から加亮智多星と名のりを告げ、そして、
「こんなところで、ふとお会いできようとは、じつに意外。一清道人、公孫勝のお名は、夙に江湖(世間)で伺っていました」
「さては、貴殿が呉学究加亮先生でございましたか。さても、広いようで世間はせまい。しかし、さすが晁家のお知り合いは違ったもんですな」
「奥にはまだ、今日しも、心をゆるしあった幾人かが寄っていますが。……ご主人、ひとつ公孫勝氏も、その座へおひきあわせしようではないか」
「先生のおゆるしとあれば」
晁蓋は先に立って、奥なる客間へあらためて、また新しい一人を加え、阮の三兄弟と、食客の劉唐を交じえ、ここに一堂に会する者七名となった。
「思えば、不思議な」
晁蓋はやがて言った。
「先頃てまえは、わが家の棟に、北斗七星が落ちると夢見て、眼をさましました。ここに偶然、七人の顔が揃ったのも、夢の知らせ、事成就の吉兆でもありましょうか」
「げにも」
と、呉学人は、うなずいた。
「これこそ晁氏の積善の報いだろう。かえすがえす幸先はよい。さっそくにも、劉君は、北京府へ潜行して、生辰綱の輸送路を、どの道にとるか、護送の人員はどれほどか、またその宰領は何者なるかなど、密々探って、その都度知らせてもらいたいものだが」
「いやいや、その儀ならば──」と、公孫勝が口をさしはさんだ。「わざわざ、ヘタな密偵などは止めたがよい。それらのことは、すでに拙者があらかじめ調べ取ってある」
「えっ。おわかりか」
「間道をとらず、わざと今年は、黄泥岡の本街道を行くらしい」
「ならば、それももっけの倖せ。黄泥岡の東一里の辺に、白日鼠とアダ名のある知り人がある。足溜りには、もってこいだし」
そこで、晁蓋の意見も出た。
「決行には、手強にやりますか。すんなりと、おとなしくやりますか」
「臨機応変──」と、呉用がいう。「相手が腕ずくなら腕でゆく。先が智恵で来るなら智恵で挑む。……細かなことは、その場でないと、決め手には出られませんな。さきも、さる者。裏の裏でも掻かれたらたまらない」
「仰っしゃる通りだ」と、晁蓋も公孫勝も、異口同音に、
「妙計と信じたことも、敵の応変によっては、みずからの死地ともなる。余り計に凝って、策士策に溺るなどのことがないように、おのおの、自在身を持って神出鬼没といきましょうや」
ここでほとんど手打ちはできた。夜に入るまで、飲み興じ、あくる早暁には、すでに阮の三兄弟は、もとの石碣村へ、飄として立ち帰るべく、朝飯をいそいでいた。
「時が来たら、そッと急報する。そのさいには、抜からぬように」
「ご安心なすって」
三兄弟はニコと笑って鞋を穿いた。路銀だといって銀三十両を晁蓋が贈ったが、どうしても受けとらない。呉先生は、その物固さを笑って、
「痩せ我慢しなさんな。銀子のちょっとやそっと、受けても辞しても、晁家としては、おなじこった。まず、それは貰って、旗亭の借金でも返しておくほうが上策というもんじゃよ」
かくて。──三兄弟は別れ去り、公孫勝と劉唐とは、晁蓋の名主屋敷に、食客としてとどまった。さらに呉用のほうは、つい近所の住居のこと。家塾に帰って、あいかわらず村童相手の寺小屋先生になりすまし、折を見ては、ちょくちょく荘院の奥を訪ねて、茶ばなしの間に、世間たれも知らぬ密事の打合せをすましては、また何くわぬ顔で、塾の学童の中へもどっていた。
仮装の隊商十一梱、青面獣を頭として、北京を出立する事
ここは北京大名府の梁中書の官邸だ。
後房の園には、黄薔薇の香が蒸れ匂い、苑廊の欄には、ペルシャ猫が腹這っていた。猫は眠った振りして、中央アジア産の白い狆がいま蜂を捕えて嬲っているさまを薄目で見ている。すべてこれらは、有閑な蔡夫人の物ずきが蒐めた愛玩の誇りらしい。
「あら、また水がない! 誰です! 私がいつもいつもやかましくいっているのに、また鸚哥の餌水が切れてるじゃないの」
いま、鸚哥の籠の下に立った蔡夫人は、鸚哥に負けぬカン高い声をして、後房の侍女をよびつけていた。すると、
「うるさいなあ、ちと静かにしてくれんか」
と、書院窓の帳をあげて、良人の梁の顔が、舌打ち鳴らした。
「おや、そこにおいでだったんですか。なにをなすってらッしゃるの」
「なにをって、調べものさ。書類調べだよ」
「お手すきなら、ちょっと、この苑廊の榻(長椅子)までお出ましくださいませんか」
「やれやれ、根気がつきるなあ。茶でも運ばせてもらおうか」
「ま、そこへおかけ遊ばせな。ちと内々のおはなしですから、侍女は遠ざけました。すんでからお茶にいたしましょう」
「なんだね、急に事ありげに」
「だってあなた、今日はもう幾日だとお思いなさいますの。空をごらんなさいませ、もう夏雲ではございませんか」
「そういえば、初蝉が聞えだしたな」
「なにをいってらッしゃるの。蝉なんか、二十日も前から啼いていますわ。いったい、東京へ送り出す父の誕生祝いの品々は、荷拵えばかりなすっておいて、どうなさるおつもり?」
「もちろん、万全を期して、七月十五日までに着くよう、輸送せねばならん。……だがね、誰を輸送使として遣すか、その宰領の人選に、頭を悩ましておるんじゃよ」
「それには、お心あたりがあるなんて、いつか仰っしゃっていたではございませんか。そのお胸の人間ではいけないんですか」
「いけないか、適任か、使ってみなければわからんさ」
「使ってみての上なら、誰にだってわかることじゃありませんか。ばかばかしい」
「おいおい、そう頭ごなしに、大声でいうなよ。中門の外には、衛兵が立っておるんじゃ。聞えたらこの梁中書、まるで赤面ものじゃないか」
「そうそう。兵隊で思い出しましたわ。兵隊上がりの提轄、青面獣楊志とやらでは、いかがなんですの」
「その楊志なら、武芸十八般、腕なら北京軍十万の中でも、屈指の者だが、いかんせん、ここへ来てからの日も浅い、第一心情いかんという点が、まだ充分には信用しかねる。……それで大いに迷っておるのさ」
「そんなことをいったら、どんな人間でも疑えば限りがありませんわ。それにもう日がないじゃございませんか。楊志を召して、お命じになったら、どうですの」
「そなたさえ承知なら、楊志でよかろう。いや、いくら熟考しても、結局は楊志だな。あの青面獣のほかにはあるまい」
「じゃあ、すぐそれをお鳴らししてください」と、蔡夫人は、廊廂に吊ってある喚鐘を指して、良人へ命じた。
梁は、この妻の父蔡大臣のお蔭で立身した者であるから、平常も夫人にはとんと頭が上がらない。唯々として、立って喚鐘を打ち鳴らした。と──すぐ中門外の衛兵が、姿をあらわして庭上に敬礼した。
「青面獣楊志に、すぐ参れと申せ」
「はっ」
衛兵が退がる。まもなく入れ代って、階の前に来てぬかずいたのは、これぞかの北京城の大演武場で十万のつわものの眼をそばだたしめた青面獣その人だった。
「楊志。──そのほうを見こんで、このたび、重大な使命をさずくるが、身命を賭して、やってくれるかどうか」
「ご恩のあるお方の仰せ、いやとは申しません。けれどこの楊志にできることか否か、その辺も伺ってみぬことには」
「わが夫人蔡氏の父蔡大臣の誕生祝いの品を護って、東京までつつがなく送り届けてほしいのじゃ。もちろん、軍兵は望み次第に付けてやる」
「出発はいつでしょうか」
「ここ三日のうちとする」
「して、お荷物は」
「角な荷梱十箇。それには、大名府の役署に命じて、十輛の太平車を出させる。また軍兵のほか、軍部から力者十人を選ばせて、一輛一人ずつを配して付ける。……さらに車輛一台ごとに立てる黄旗の文字には──献賀蔡大臣生辰綱──と書く。まずもって、威風堂々と、山野の魔気を払うて行くがいいとおもう」
「どうも、せっかくですが」
「いやだと申すのか」
「なにとぞ、ほかの者に、お命じ給わりとう存じます。なんとなれば、去年は十万貫に値する高貴な品々を、ことごとく、途中賊難のため、掠奪されたと伺っておりますので」
「だからこそ今年は、なんじを見込んで命じたのではないか。それもだ……」
と、梁はいささか昂奮して、唇を乾かし、眼に赤い濁りを見せて、説得にこれ努めた。
「余は汝を愛しておる。故にだ、どうかして、そちを出世してやりたく思う。それがわからんか」
「かたじけなくは存じますが」
「煮えきらんやつだな。──蔡大臣宛ての献上目録にさしそえて、べつにわしの直書一封のうちに、そちの立身の途をも推薦しておく考えなのだ。──途中つつがなく、生辰綱をお送りすれば、それでもう汝の栄達のみちも開けるのではないか。なにを迷うか」
「しかし、長途の道中には、紫金山、二龍山、桃花山、傘蓋山、黄泥岡、白沙塢、野雲渡などという有名な野盗の巣やら賊の出没する難所があります。楊志も犬死にはいたしたくございませんので」
「まだ、のみ込めんのか。軍兵はいくらでも召しつれて行けばいいのだぞ」
「いやいや、たとえ何百の兵でも、一朝、それ賊が現われたぞと聞けば、あらまし木ノ葉の如く逃げ散ッてしまいましょう」
「なにを申す。ではまるで、生辰綱を送るなと、余に諫めているようなものではないか」
「はい。まったくは、切にご諫止申しあげたいところです。しかし今さら、お取り止めもなりますまい。……どうも是非なき次第、楊志も観念して参ることにいたしましょう」
「や。臍を固めて、行くと申すか」
「けれど条件がございます。──物々しき官用の太平車や旗などは廃し、お贈り物は、すべて人の担げるほどな行嚢にあらため、護衛兵の力者もみなただの強力に仕立てなければいけません」
「まるで山東の行商隊だな」
「それです。それがしも一個の隊商の長に化け、なるべく野盗の眼を避けて、お引きうけした以上は、東京の蔡大臣がご門前まで、無事、おとどけ申したい存念にございますれば」
「まかせる。ただちに出立の準備をせい」
──準備期間の二日は経った。
するとまた、こんどは楊志のほうから、梁中書へ拝謁を願い出た。そしていうには、
「いけません。どうも拙者には、不向きな役です。東京行はご辞退申しあげまする」
「なぜまた、そんなことをごねり出すか」
「でもお約束が違うようです。──洩れ聞けば、ご予定の行嚢のほか、またぞろ、夫人さまから先の大臣邸の女家族のかたがたへ、種々な贈り物がふえ、そのため執事の謝という人物とその他の家来二、三が付いてゆくことになったとか伺いますので」
「ははあ、足手まといだと申すのだな」
「のみならず、夫人直々の執事とか、家来などですと、途々、それがしの命令に服さぬ惧れが多分にあります。賊の出没に加え、難行千里、あらゆる難苦を覚悟せねば相成りませぬ」
「それはそうだ。もちろん、難行苦行だろう」
「一行の者に対しては、あえてムチを振るッて克己させ、時には夜立ち暁立ち。また折には草に伏し、熱砂を這い、もし服さぬ者は、これを斬るぐらいな権は持っていませんと、到底、列を曳きずッてはいけません。しかるに、夫人の執事や家来とあっては」
「いや、その者どもも、他の力者同様に、一切その命に絶対服従いたすように申しつける。もし、汝の命に服さず、楯をついたら、斬りすててもよろしい。……夫人にも、その由はよく申しておこうわい」
「ならば、行ってまいります。願わくは、ただ今のおことばの旨を、お墨付として、一札賜わりおきとう存じまする」
「よろしい。汝もまた、余に対して、重宝十一荷の預り状をしたためて差出せ」
「心得ました。この上は、明早朝に北京西門を出立つかまつりますれば……左様おふくみのほどを」
翌朝の中書官邸は、暁天もまだ暗いうちから騒めいていた。
強力に化けた軍の護衛兵は、いずれも屈強な猛者ぞろいだ。それらがおのおの、一個ずつの重い行嚢をかついで勢揃いしたさまはいかにも物々しくまたたのもしい。──梁中書も蔡夫人も、廊の階欄に立ち出てこれを見送っている。
夫妻は、念のためと、執事の謝を呼びつけて、くれぐれ、楊志の命に服すように、喧嘩せぬように、途中病まぬようになど、かさねがさね言いふくめた。
「ご案じくだされますな。てまえは一行中の最年長者。あんばいよく仲を取ってゆきまする。楊志どの。どうぞよろしく」
夫妻の階前で、両名は手を握って、出立した。
同勢すべてで十七名だった。多くは一様な強力姿だが、楊志と謝は隊商の長といった装い。山東笠を日除けにかぶり、青紗の袖無し、麻衣、脚絆、麻鞋の足ごしらえも軽快に、ただ腰なる一腰のみは、刀身のほども思わるる業刀と見えた。
はやくも朝霧の街へ出て、西の城門街の出口へかかる。楊志一人は、手に籐のムチを携えていたが、それを小脇に、山東笠のひさしへ手をかけて、城門の鼓楼を仰ぎ、
「梁中書の御使の者ども、都をさして、ただいま、ご城門を通ります」
と、呼ばわると、上の鼓楼で「おおいっ」という答えが響く。と同時に、門側の番卒隊が不時の開門なので、とくに総勢でそこに立ち現れ、
「お通ンなさい!」
と、巨大な鉄扉をギイと左右へ押し開いた。
時は五月も過ぎて早や大陸の砂は灼けていた。夏雲はぎらぎらと眸を射るばかり地平線を踏まえて高く、地熱は鞋の底をとおして、足の裏を火照らしてくる。
行嚢を負う蟻のごとき列は、早くもポタポタと汗のしずくを地に見つつ喘ぎあるいた。日頃ひと口に、開封東京とやさしく呼び馴れてはいたが、いざ一歩一歩を踏み出してみた千里の輸送路となれば容易ではない。──いやいや、それらの炎日灼土の苦熱は、まだしも克服できようというものか。
やがての行くてに聳える雲の峰の彼方、手に唾して待つ稀代な七斗星のまたたきがあろうなどとは、青面獣も知らず、喘ぎ喘ぎな強力たちも、ゆめにも思ってはいなかった。
七人の棗商人、黄泥岡の一林に何やら笑いさざめく事
強力すがたの兵十五、六人。それが日々、大陸の熱砂を這うごとく行く影は、炎日の労働蟻が蜿蜒と、物を運んで行く作業にも似て、憐れにもまた遅々として見えた。
おのおのが負う十一箇の行嚢は、そのどれ一つといえ、軽そうなのはない。──すべて蔡大臣の誕生祝いに送られる値十万貫もする貴金属やら珠玉で充たされている荷物なのだ。──彼らの流す毎日の汗も、その中の珠の一粒にすら値するものではなかった。
「なんだ、意気地のないやつらめ。行くてはまだ千里の彼方。今頃からヘタばってどうするか。歩け歩け。しぶるやつは尻を腫らすぞ」
宰領の青面獣楊志の手には、籐のムチが握られていた。腰の業刀もだてではない。──梁中書から絶対の権を附与され、途中、もし命に反く者あらば斬りすててもかまわん、といわれてきたのだ。もう一名の付添い人、執事の謝といえど、こんどの旅では楊志にむかって一切不満も愚痴も言いだせるものではなかった。
とまれ、北京の城門を出てから、はや十数日。この間、雨を見たのは、たった二回だけで、それも物凄い雷雨をともなった一瞬の大夕立だけでしかない。あとは来る日も来る日も、炎天の道中だった。
楊志はその晩、旅籠に着くと、兵の強力と、執事の謝、あわせて十六人へ、言い渡した。
「さあ、旅はこれからが本旅だ。──北京は遥か後になり、行くての都はまだまだ遠い。──風流にいえば千山万水だが、いよいよ彼方には二龍山、桃花山、傘蓋山、黄泥岡、白沙塢、野雲渡などという難所切所やら野盗の名所が、行く先々にひかえている。……そこで、こちらも腹をすえなくてはならん。ただの荷運びだけが能ではないぞ」
不気味な警告を、こう浴びせて、
「だから、明日からは、寝坊してよろしい。朝は朝寝して、ゆっくり立つ。その心得で休養をとれ」
と、つけ加えた。
だが、兵たちは、うれしそうな顔でもなかった。その日旅の寝小屋で枕につくと、耳こすりで騒めき始めた。
「おい、用心しろよ。青痣がまた、ヘンなことを言いだしたぜ。小便する間もオチオチしていられねえほど、歩け歩けと急かついている奴がよ」
「変だな。七月十五日、七月十五日と、都へ着く日を、呪文みたいにいってるかと思うと、急に、朝寝の遅立ちとは」
「なんでもいいや。寝ている間だけがこち徒の極楽だ。なんとか生命だけ保って、開封東京に着きさえすれば、まさか帰りはこんなこともあるめえ。もうもう来世は金輪際、兵隊にはなるめえぜ」
翌日からは、朝は遅く、夕は早着き。日盛りの旅だけが、以後十数日もつづいた。
これだけなら、彼らのぼやきも減っていただろうが、楊志の思案は、野盗山賊の出現を避けるにあり、七月十五日までの期日に、余裕が出来たわけでもないから、日中の間に、それだけの足稼ぎを生みだすべく、前にもまして、苛烈なムチをふるったのはいうまでもない。
「なに、水が呑みたいと。我慢しろ、我慢しろ。水は汗を多くするばかりだ。口に梅の実を噛んでいると想え」
「そいつア無理だ。いくら梅の実を想ったッて、唾は出ねえ」
「これでも出ないか」
楊志は、籐のムチで、風を切って見せた。
「きさまらは、毎夜、寝飽きるほど寝かしてあるじゃないか。贅沢をいうな」
「だって、こう休みなしじゃあ、息もつづきません。どこか木陰で、一ト息つかせておくんなさい。焦死にます」
「だまれ、どんな夏の旅だろうと、人間の乾物ができた例しはない」
「うへッ。もう眼がまわる。楊輸送使」
「なんだ」
「どうか、弁当でも解かせておくんなさい。もう足が前へ出ません。ふらふらして」
「ちッ。きさまらは、木陰を見るたび、きまッて何か弱音を訴え出しゃあがる。今日はもう幾日だと思う」
「ほら、始まった。わかってますよ」
「わかっていたら、弁当などは、歩き歩き食え、七月十五日が一日遅れても、蔡大臣のお誕生祝いには間に合わなくなる。千日の萱も一日で焼くというもんだ」
「もう欲も得もなくなりました」
「じゃあ、死にたいか」
「情けないことを。これでも、女房子がありゃこそ、塩気のない汗までポタポタ垂らしているんですぜ」
「ならば、四の五をいわずに歩け歩け。やがて都へ着いたら、たらふく、飲んで食って、逆立ちでも何でもやるがいいや」
「……ああ、雨でも降ってくれ!」
ところが、あいにくな旱天つづき。大夏の太陽は火龍というもおろかである。満天すべて熱玻璃のごとく、今日も一片の雲さえ見あたらない。
道は、その日の午後、やっと一つの山の小道へかかったが、木々の葉は萎えて、風は死し、谷はあるが、水は涸れ、岩は干割れして、滴る清水の一ト雫もない。
「おお、ここらはもう、太行山脈の一嶺だな」
空身の楊志にしてさえ、息がきれた。
峨々たる山容は、登るほど嶮しくなり、雨の日に洗い流された道は、河底をなしている。万樹はあだかも刀槍を植えたようで、虎豹の嘯きを思わせる。
なにげなく足をとめて、ここまでの旅、またこれからの道のりなどを考えていた楊志が、ふと気づくと、謝執事以下、十一梱の強力やほかの兵も一つの峰の背へ取ッつくやいな、
「もう、だめだ。勝手にしろ」
「八ツ裂きにされても、うごけねえぞ」
「さあ、どうなとしてくれ」
とばかり、おのおのの荷を背から下ろして、ぐたと伸びるやら、仰向けに寝てしまうやら、ここへきてはもう自暴のやん八をきめこンでテコでも動かぬ態だった。
「あ。げて者めら」
楊志は振返って、彼らのやけくそな態度に気づくやいな、そこへ飛んでいって、例のごとくムチを鳴らした。
「だれの許しを得て休むのだ。こいつら、一寸の間も、眼が離せぬ」
「まあまあ」と、宥め役に立ったのは、梁家の執事の謝であった。
「なんぼなンでも、この酷熱に、昼休みも与えぬのは、余りにむごい。楊志どの。そうカンカンにお怒りなさるな」
「執事。貴公が休めとゆるしたのか」
「許すも許さぬもない、これへ登りつくなり、自然にヘバッてしもうたのじゃ。わしにせよ、これ以上の我慢は、口から臓腑を吐くような苦しさだ。まあ、半刻ぐらいここで休んだところで、まさかお誕生日に間に合わぬこともあるまいが」
「分別者のあんたからして、そう仰っしゃるなら、なんでこの楊志のみ、一同の怨嗟をうけつつ無理な道中を好もうか。……したが、ここはどこかご存知か」
「されば、はや太行山脈の一嶺にかかってきておる。ここさえ越えれば」
「なにを、暢気な」
「違うか」
「いやさ、あんたのいう通りだから、馬鹿馬鹿しくなるんだ。さっきから、あたりの地勢を見るに、こここそ、黄泥岡といって、世間に不気味がられている盗賊の出没場所。……こんなところで気をゆるしたら、魔の砂塵の一ト吹きと見舞われぬとも限るまいぞ」
すると、もう度胸をすえて、太々しくなっていた強力の兵たちが、
「あはははは。また楊輸送使のおかぶが始まったぜ。毎日毎日ああいっちゃあ嚇かされてきたもンだ。この真ッ昼間に、そんな幽霊が出るもんなら、おもしれえ。なにも経験だ、お目にかかってみようじゃねえか」
「馬鹿野郎っ」
楊志は、怒りの一歩を、そっちへ移して呶鳴りつけた。
「きさまらは、泣き言まじりの口癖にさえ、こんな苦役も、女房子のためだと吐ざいているではないか。もし厄難に出あったらどうするか。褒美はおろか一命もおぼつかないぞ。──このほうは宰領として、万が一にも、そのような不覚を踏ませてはと、しいて心を鬼にしておるのだ。わからんか。慈悲のムチが」
「へへん。……わかりませんねえ、慈悲のムチなんてえ文句は」
「こやつ!」
楊志が本来の形相を現わして、腰なる山刀を抜きかけると、執事の謝は仰天して、あわてて彼の前を阻めた。
「待った! 楊君もいいが、どうもお若い。そのご短気は、みずから事を破るものだ」
「いや、お放しなさい。こいつらは、拙者がほんとに怒ッたら、どんなものか知らんのだ。見せしめのため、どいつか一匹、素ッ首をぶち落して見せてくれる」
「そしたらその先、一人分の行嚢は、いったい誰が、背負って歩くのか。わしは真ッ平ごめんじゃが」
「一箇の荷ぐらいは、どうにでもなる。それよりは全体の士気を厳に保って行くほうが肝腎だ。老人は、黙ッていなさい」
「いや、見ていられん。血気いちずで、十五人もの心の束ねがなるものか。和もなくてはならぬ。いかんせん、楊君はご苦労知らずじゃ」
「ばかをいえ。拙者にはいささか流浪の経験もある。四川・広西・広東の旅もした」
「ただの旅なら、誰もするわ」
「なんの、世は今や、いずこも暗黒同様な末世だ。その穏やかならざる乱麻の世間に、流浪の艱苦もなめたつもりだ」
「おい、楊輸送使」
「なんです?」
「人なき山中だからいいようなものの、余りな放言は慎むがよい。梁中書様のご恩になり、北京府の禄を食みながら、いまが末世とは何事だ。泰平の世でないとは、なんたる言か。その舌を抜かれるなよ」
これには楊志もハッと答えに詰った。
日ごろ、胸にあるものは、何かの弾みには、我れともなく、つい口に出るものではある。──と、悔いられたが、もう追いつかない。せっかく、蔡大臣の生辰綱輸送の大役を果たしえても、後日、謝の口からそんな讒訴を堂上の耳に入れられたらすべては水の泡だろう。──しまった、と臍を噛んだ容子が、突嗟だったが、楊志の面をやや弱いものにした。
──すると。
彼の眼惑いに、ふと鳥影のようなものが、遠くを過ぎッた。すぐ先の、松林の蔭にである。
「あっ? うさんな男が」
楊志は不意に、そこへ向って、こう叫んだ。
謝との問答で、後味わるくきめつけられた破目も、一切のその場の感情も、この一ト声で、消し飛んだ形だった。──楊志にとっては、いい機であったのかもわからない。何を見たのか、途端に、彼の姿はぱッと迅い足を見せて、彼方の松林のうちへ隠れこんだ一個の男の影を追ッかけていた。
松と松との木の間を、野兎のごとく逃げ走ッていった男の影は見失ったが、その代りに、楊志は、思いがけない一トかたまりの旅商人の仲間に出会った。
彼らは、松林の涼やかな平地に陣どッて、桶を載せた七輛の江州車(手押し車)をあちこちに停め、老若七人、胡坐やら、寝転びやら、また木の根や車の梶に腰かけている者など、思い思いな恰好だった。そして何か戯れ口おもしろ気に、この日盛りの汗を拭きあっているものらしい。
「やッ?」
彼らは一せいに跳ね起きた。楊志の姿に、びッくりしたもののようである。
「何者だっ、きさまらは?」
馳け寄りざま、楊志が問うと、
「だれだい? お前さんこそ」
と、先も鸚鵡返しにいう。
「いやさ、きさまらは、どこのどいつかと訊いておるんだ」
「ふん。こちらも、お前さんはどこの馬の骨かと訊いてるんだよ。ははん……黄泥岡によく出ると聞いたがその悪者か」
「ふざけるな。きさまらこそ、それではないのか」
「えらい者ンに買いかぶられたなあ。あいにくこっちは、若いのや老いぼれやらの、しがない小商人だ。ところで、お前さんの方は?」
「わしもじつは開封の商人だ。胡北で仕入れた毛皮などの商品を、強力に担わせて、都へ行く途中だが、この附近は物騒と聞いて来た折も折、いま松林の蔭から、へんな男が、うさんな眼つきで、わし達を窺っていたので、さてはと、追ッかけて来たわけだが」
「はははは」
「アハハハハ」
七人は、どよめき笑って、
「そいつア、とんだ鼬ごッこだ。こっちも、ここで涼ンでると北の方の麓から物凄い野郎ばかりが十六、七人も、何か担いでやってくるというわけさ。さあ大変だ、黄泥岡の名物がおいでなすッたぜと、胆を冷やして、仲間の一人が、まず様子を探りにいったわけだ。……ところがよ、どうも、悪者でもなさそうだというんで、なアンだとばかり、涼み直していたわけさ」
「ふウむ」と、楊志もつい釣り込まれて、ニヤつきながら、
「じゃあ、お互いは、商人同士だったわけだな。まアまアそいつは倖せだった。して、おぬしたちは、何商売か」
「この桶をごらんなせい」
「あ。棗漬だね。棗商人かい」
「田舎じゃあ、珍しくもねえが、都へ持ち出すと通がッた呑み助が、酒のお肴には、これに限るなんていうものでね、仲間七人、申し合せて、濠州から出てきたんだが、イヤこの暑さじゃ、桶の棗も茹りそうだ。おたがい金儲けは楽じゃあないね」
「まったくだ。金がかたきの何とかさ」
「どうです旦那、お好きなら、ちょぴり棗をあげやしょうか」
「いや、いらん。せっかくだが」
楊志はニガ笑いを見せながら、もとの自分たち仲間の屯のほうへ戻ってきた。
謝執事は、彼の姿を見ると、すぐ皮肉った。
「楊輸送使。──ご自慢の刀の斬れ味はどうでしたな」
「いや、賊かと思ったら、なんのこッた、つまらん小商人の仲間だった」
「へえ。あんたの口癖から推すと、この界隈には真人間は現われないはずなんだが」
「そうチクチク苛めッこはなしにしましょう。老人は執念ぶかいなあ」
「何さ何さ。それでこそ、われわれも先ず祝着と申すもの。どうじゃな。わしはつい食べ残しの弁当を解いてしまった。あんたも、どうせのことに、一ト涼みなさらんか」
「ままよ、きょうは雨に逢ったとしてしまえ。おうい、一同も休め、休んでよろしい」
これは少々楊志としてはまずかった。てれ隠しの気味がある。すでに兵どもは謝執事との狎れ合いで勝手休みをきめこんでいたのだから、楊志のムチもついに衆の結束と横着には、負けの恰好というしかなかった。
さらにまた、折も折だったといってよい。どこからか、田舎唄が聞えてきた。男の声である。ひょイ、ひょイ、ひょイ……と唄の節には、担い腰の足拍子が巧くのっていた。兵たちは皆、後ろの坂道を振り向いた。一人の男が、桶をかついで来るのが見える。……ぷうんと、焼酎の匂いが彼らの鼻をついた。
「おッと、待ちなよ」
つい出てしまった言葉である。
男は、荷を下ろした。
「へい、なにか御用ですかい」
「焼酎らしいなあ、そいつは」
「お察しどおりで」
「どこへ持っていくんだい」
「山向うの村へね、あさっては、そこの夏祭でさ」
「売れないのか」
「売り物なりゃこそ担いでいくんで。へい。値段によっちゃあ差上げますよ」
「いくらだ、一桶」
「五貫とお負けしておきましょう。ここはまだ半道だから、足賃なしに」
兵たちはコソコソ首を集めあった。鼻のさきに餌を置かれた餓鬼の眼つきといった形である。喉が鳴る。鼻がピクつく。とうとう小銭の音をさせ始めた。懐中を合せて、買おうという相談になったらしい。
さっきから、じろと睨んでいた楊志は、いきなり山刀を鞘ぐるみ腰から抜いて、ずかずかと立っていき、刀の鐺で、桶を叩いた。
「こら、きさまらは、これを買う気か。──買って呑む気か」
「銭はわしたちのものですぜ」
「金はともかく、誰のゆるしを得たというのだ。ツケあがるな、こいつら」
「ツケあがるわけじゃありませんが、旦那も人間なら、お察しなすっておくんなさい。もう意地にも我慢にも……。これを見て飲まねえじゃあ、妄念が残って、腰も上がりませんや」
「ふざけるな、がつがつと、哀れな餓鬼声を出しゃがって、よく耳の穴をほじッて聞けよ。道中売りの酒なぞは、ただの旅でも、滅多に意地汚ねえ涎など垂らすものではないわ。そんな浅ましい欲心のために、まんまと、しびれ薬で根こそぎ懐中を抜かれたなどの例が、どれほど多いか、知らぬのか。心得のない奴らだ」
すると、叱られた兵よりは、酒売りの男の方が、きッと、眼にカドを立てた容子だった。ふン……と鼻先で冷笑を見せたと思うと、すぐ担荷の天秤へその肩を入れかけていた。
「おい、邪魔だよ、桶のそばを退いてくんなよ。くそおもしろくもねえ! この炎天に、しびれ薬を売りにいく粋狂がどこにあるッてんだ、ばかばかしい」
〝生辰綱の智恵取り〟のこと。
並びに、楊志、死の谷を覗く事
酒売りの捨て科白は、もとより楊志への面アテだったが、兵たちの妄念を、一そう煽り立てたふうでもあった。
「待てよ。おい。せっかく銭を集めたのに」
「いやだ、いやだ。もう売らねえよ。あばよ」
「ま、そう怒らねえでもいいじゃねえか。ああ言っても、おれたちの宰領は、とんだ話のわかる人で、人情もろいところもあるのさ」
「勝手にしやがれ。人の売り物にケチをつけやがって、話のわかるお人かい。これが市や村でのことなら、ただはおかねえところだぞ」
よほど腹が立ったらしい。次第に威猛高となっていた。──と、彼方の松林の蔭から、さっきの棗商人の連中が、どやどやと馳けよってきた。そして口々に、
「なんだ、なんだ?」
と、いう弥次声。事こそあれと、どの眼も、好奇心みたいなものにかがやいている。
「おッと、あぶねえ。なにを怒ったんだよ酒屋さん。まア桶を下へおきねえな」
「おう、ゆうべ麓でお泊ンなすった商人衆でございますね。まあ、聞いておくんなさい。癪にさわるのなんのって」
「ほう。この衆たちとの口喧嘩かい、おれたちはまたあっちで聞いて、そら、今度こそ、ほんものの泥棒が出やがッたかと思ってさ、びっくりして飛んできたんだ。……が、口喧嘩ぐらいなら、よかったよ。よしねえ、よしねえ、喧嘩なんざあ」
「仰っしゃるまでもありませんや。誰もいさかいなぞしたかねえが、あんまり人を舐めたことを言やがるんで、つい業腹が喚いたんですよ。……人の売り物に、しびれ薬が入れてあるなんて吐かしゃあがるんで」
「誰がよ、誰がそんな、べら棒な因縁をつけたのさ」
「そこにシャチこ張っている、青唐辛子みてえな人相の旦那ですよ。親代々の正直酒屋で通っているあっしだが、こんなに気の腐ッた日はないね」
「いいじゃねえか、もう止せよ。そうムキにならなくっても、相手は黙ってしまったんだから、多分、言い過ぎだったと、腹じゃあ後悔していなさるに違えねえよ。……それよりは、ちょうど俺たちも、喉がひッついていたところだ、みんなに一杯ずつ飲ましてくれ」
「お断りだよ、まッぴらだ」
「なぜさ。おめえもまた、因業だな。無料で飲ませろッていうんじゃねえぜ」
「そんなことアわかッてら。でも元々、こんなところで商はしなくても、親からのお花客に、事は欠かねえ酒売りだよ。ばかにしてやがる」
「冗談いうなよ。なにも俺たちがケチをつけたわけじゃねえぜ。おめえもよほど、おかしな男だ。さ、機嫌直しに売ってくれ。酒売りなんてえ商売は、気合いものだろうじゃねえか」
「お前さん方から、機嫌を直せなんていわれると、おらはまた、馬鹿者だから、つい差上げたくもなってくるがね。だが、あいにく、器がないや」
「よしきた。器なら、あっちにある」
棗商人の仲間の二人が、車のほうへ馳けていった。持ってきたのは、二ツの椰子の実の椀であった。一人は両の掌のひらに、お手のものの棗漬をいっぱい盛ってきた。
それを、桶のふたの上へ開けて、
「ほい、肴はここだよ」
七人は、酒桶を取り囲んだ。かわるがわるに椰子椀に焼酎を汲みあげ、さも美味そうに飲みはじめる。そしては棗をポリポリつまむ。たちまち、一ト桶の焼酎は底になってしまった。
「ああ、こたえられねえ。こんな山路で思いがけなくぶつかッたせいか、甘露とも何とも言いようがねえな。暑さもすッかり忘れたぜ」
「やいやい。機嫌ばかりよくしやがって、焼酎の値段もまだ訊いていねえじゃねえか。酒屋さん、一ト桶干したよ、いくらだい」
「一荷十貫さ。片桶だから五貫だよ」
「よしきた。そら五貫文」
一人が銭を渡していると、べつの一人が、
「──もう一ト椀、負けときな」
と、片荷の桶の蓋を取って、すばやく中へ椀を突っ込み、一ト口がぶと飲みかけた。ひょいと、振り向いた酒売りは、
「あっ、いけねえッたら!」
まだ半分残っている椀の酒を、いきなり、引ッたくろうとする。ところが、椀を持った小商人は、くるッと、巧く身を外し、そのまま松林のうちへ逃げこんで行った。それをまた、酒売り男も、片意地らしく、
「畜生ッ」
とばかり、追っかけていったものである。すると、後に残っていた連中はまた、その隙をいいことにして、これまた、も一つの椰子椀で、明き巣の桶にたかりだした。ふと、振り向いた酒売りは、さらに仰天した姿で、
「泥棒っ」
馳け戻るやいな、遮二無二に、椀を奪りあげた。そして、逃げる彼らの背へ向って、
「阿呆。親切ごかしの、屁ッたくれ商人め。野たれ死にでもしてしまえ」
と悪たい吐いた。
さっきから見物していた兵たちは、笑いも出ずに、ただ生唾をのんでいた。食い物の恨みは元々深刻なもの。いわんや、焦くがごとき暑熱に渇いている鼻先で、舌つづみを打たれたのでは堪るまい。──しいんと、陰気な沈黙におちて、彼方に腰かけている楊志の背を、いとも恨めしげに見ていたが、ついにもう我慢ならじと、声をそろえて、謝執事に訴えてきた。
「執事さん。ご恩にきますぜ。ひとつ、楊輸送使へお縋りなすっておくんなさいな。──これからもまだ、山坂ですし、峠まで行ったところで、飲み水などありッこはねえ。どうか、あの残りの片桶をわれわれどもが買って飲むことを、ゆるすと、いわせてくださいませんか。もう腹の虫がグウグウ鳴って、おさまりがつきません」
執事の謝も、内心、意欲はおなじものだった。しかし、おいそれとは、同調顔もできないので、いかにも、彼らの哀訴を持て余したかのごとく、歩を楊志の前へ移してきた。そして、彼らの代弁にこれ努めた。厭なら、見て見ぬ振りしていてくれと、いわぬばかりな口吻である。
「ちイ。なんてえ土根性だろう」
楊志は、にがりきったが、しかし、この老執事にも、兵どもにも、さっきの自分の失言を、行く先の都へ着いてから、尾ヒレを付けて吹聴されたりなどしたら始末がわるい。かたがた、これ以上の遺恨を含まれるのも、あとの道中に良策でないとは考えられる。
それもあったし、また、さいぜんから眺めていたところでは、二た桶の焼酎にも、怪しまれる点はなかった。で、不承不承な面色だったが、
「……仕方がない。あんたまでが、そういうなら、今日かぎりのこととして、眼をつぶっていよう。その代り、渇を癒したら、元気よく、ここを出発するように」
「や。ご承知くだされたか。さぞ兵どもも、雀躍りすることでしょう。一同よろこべ。おゆるしがあったぞ、おゆるしが」
なんのことはない、老執事の謝自身が、雀躍りの態だった。兵と酒桶のあるところへ、舞い戻るなり、歓声を揚げていた。
「いやだ、いやだ。おめえらには、売りたくねえよ」
兵は歓声をわかしたが、酒売りはまた、ごねだした。
「こんな、おもしろくもねえ道草を食ってるよりは、村へ行って、祭りの衆に、よろこんでもらったほうが、よっぽど増しだ。さあさあ退いてくんな、退いてくんな。きょうはろくな日じゃねえようだ」
「まだ怒ッてるのかい。もう勘弁しなよ、謝るからさ」
「うるさいよ。お前さん方に謝ってもらう筋はないんだ」
「依怙地だな、ひどく」
「ああ依怙地だよ。悪かったね」
「あれだ。……こんなに、銭を集めて、拝むように頼んでるのに、罪だぜ、このまま置いてきぼりは」
「離さねえのか。困ったな。ええい、もう、そんなに飲みたけれやあ、勝手にさらせ」
「そうはいかないよ、銭五貫、それ、ここへおくぜ」
「五貫じゃないよ」
「えっ、値上げか」
「ばかにするない。残りの桶は、さっきの棗商人が、幾椀か手込めにして、飲んだらしいから、減った分だけ、値引きするしかしようがないじゃないか。四貫でいいよ。一貫文だけ銭を引ッ込めなよ」
「なるほど、正直もンだな、おめえさんは。いや見上げたよ」
近くに転がッていた椰子椀を拾って、兵たちはさあ順番だと、桶のぐるりに真剣な顔を集めた。
──舌つづみが鳴る。喉がキュッという。礼讃、嘆声、随喜のよだれ。まさに亡者に囲まれた天泉の図であった。
「やい、やい。先のやつは、もういい加減にしろ。執事さまをお後に廻しておくやつがあるもんか」
「ほい、こいつは、どうも……さあ、執事さまも一杯おやんなすって」
「いかさま、これはよい焼酎だな。むむ美味い。楊輸送使にも、一椀すすめてみよう」
しかし、楊志はいッかな飲もうとはしなかった。もともと、彼はそう飲み手ではない。だが、喉の渇きは、彼とて同じだった。そこでつい、もう桶も空となりかけたころとなって、
「ひと口、飲るか」
と、わずか半杯ほど飲んだ。
「ありがとう。……おかげで今日は、もとの麓へ舞い戻りとござアい。はははは。じゃあ、皆さん、ごきげんよう」
酒売りの男は、愛想をいうと、空桶担って、もと来た坂道の方へ、すたすたと、足早に立去ってしまった。
このとき、やや離れた松林の一端には、さきの棗商人七名の顔が、まさに眼じろぎもせぬ七体の石像みたいに、じっと、こっちを見すましていたのである。
──と、遥か坂下の方で、もう姿の見えぬ酒売りの男の田舎唄が聞えていた。それが合図だったのだろう。とつぜん、七人は爆笑の声もひとつに手を打ち叩いた。
「どんなもんです! この首尾のよさ」
「さすが今孔明の智多星呉用先生だ、先生が書いた筋書どおりよ」
「ざまアみろ、悪官府の召使いどもめ」
「くたばれ、くたばれ。心おきなく」
「どりゃ、さっそく、お仕込みに、とりかかろうぜ」
たちまちに見る七名の影は、松林の下蔭から、それぞれが江州車(手押し車)の七輛を押し出し、なんの憚りもなく、楊志、執事以下、十七名の者が、現にいるところへ、どやどやと寄ってきた。
そしてすばやく、車の上の棗漬をみな谷底へぶち撒けだした。そして、それへ代るに、さきに強力の兵が、地へ下ろして並べておいた十一箇の行嚢を、一台に二箇、或いは三箇と積んでしまい、すっぽりと布覆をかぶせるやいな、
「さあ、すんだ。あとは野となれ」
「あとは烏と野獣のお供えもの」
「おさらば、おさらば!」
まるで凱歌の調子である。そのはず、梁中書夫妻から蔡大臣へ贈らるべき金銀珠玉は、ここに道をかえてしまったのだ。それにしても、江州車七輛の布覆の下、十万貫の宝財は、そもどこへ運び去られていくのだろうか。
「あ? ……あ……。ああ」
楊志は、みすみすそれを、眼に見ていた。しかも、どうにもならないのである。どぼんと、頭は空ッぽの音がする。眼にはそれを知っても、視覚神経は、脳髄までも届いてゆかない。爪は、草の根をつかんでいたが、その手の甲へ、ダラダラ涎が垂れるだけだった。腰は鉛の如く重く、満身に悪寒だけが、走り抜ける。口が歪む、声は声のみで言葉となって出てこない。
「執事は? 兵どもは?」
かすかに頭の泡ツブが思考する。
いちど、俯ッ伏せた額をあげて、どろんとした眼で見廻した。
どれもこれも、干潟にのた打つ死魚の恰好だ。一人として、満足なざまはない。「ああ! ああ!」と、ときどき、唖のような奇声と奇異な身うごきが四辺を埋めているきりだった。
「む、むねん……」
空をつかんで、楊志は起ったが、とたんに、どたと仆れてしまった。昏々として、それ以後は意識の欠けらも彼になかった。──かくて一刻やら二た刻やら、ふたたび、ふと我れにかえったときは、太行山脈の一角に、七月二日の月が、魔の牙とも見える冴えを研いでいた。
かの七人の棗商人は、そも何者の化身だったのか。もう、ここで説くまでもあるまいが、一応いっておくなれば、それなん別人に非ずである。──東渓村の晁蓋、居候の赤髪鬼劉唐、同村の呉用先生および、その呉先生が一味に引き入れた石碣村の江の漁夫、阮の三兄弟とかの公孫勝の一清、以上あわせての七人にほかならない。
いや、もう一人、番外の加盟者があった。
これがなかなかの役者だった。すなわち、酒売り男に扮して好演技を見せた男で、この黄泥岡の近村に住む白日鼠の白勝という遊び人なのである。日頃、晁蓋に目をかけられていた縁から、一味の足溜りとして、白日鼠の家が選ばれ、彼も一ト役買ってでたというわけ。
そこで、次には。──麻痺薬の使われた手順だが、これがまた、すこぶる手のこんだ筋書だった。
事の初め、まず七人が、一つの桶を、空にした。そして、銭を払った。
その隙に、べつの、も一ツの桶のフタを開け、無断で椀に半分飲んだのが、赤髪鬼の劉唐だ。
劉唐が逃げる、酒売りの役の白日鼠が追ッかける。
その留守に、
残る組が、また無断で、あとの桶の分を、争ッて飲みかける。或いは、飲んでみせる。
酒屋の白日鼠、仰天して戻るやいな、絡み合いの争いと見せ、それを潜って、呉用先生が、すばやく、麻痺薬を椀に入れ、その手で、桶の酒を汲もうとする。──この瞬間、手品のごとく、毒はすでに桶じゅうの酒に、掻き廻されていたものだった。
あとは、同勢わッと逃げる。奪った椀を、酒屋が投げつけて罵り散らす。これで計略の筋は終っていたもので、後世、名づけてこの一場の劇を〝生辰綱の智恵取り〟といったものだった。
× ×
「おや? ……。おれは?」
ふと我れに返り、自分の姿を見廻した青面獣楊志は、二日月の影を、凄い空に仰いで、
「そうだった。計られたのだ。計られじ、計られじ、と思いつつ、ついに俺も、不覚な罠に」
慚愧にたえぬもののように、両の手は、髪の根をつかんでいた。潸然として、無念の涙が頬をくだる。
「なんで生きて北京へ帰れよう。さらばとて、都にはなお容れられぬ身、そうだ、断崖から谷へ身を投げ、黄泥岡の鬼となって、世々の旅人に、こんな馬鹿者があったと、語り草になるのが、せめてもの身の始末。それしか、とるべき道はない」
蹌踉と、彼は、鬼影を曳いて歩きだした。
ほか十六名の影は、寂として、まだ地に伏したままである。彼が、いちはやく、気を取りもどし得たのは、あの毒酒を、彼のみは、椀の半分ほどしか飲んでいなかったためだろう。──が、それも今や、死の岩頭に立った身には、何の僥倖と思われるはずもない。
「生れて、三十余年。これで死ぬのか。いったい何しに、生れてきたのか」
死の谷を見おろした刹那、楊志の胸には、過去三十年の自身の絵巻が、いなずまの如く振返られた。
父母の面影が映る。弟妹の声が聞える。武芸の師、読書の師、およそ、この身を育んでくれた天地間のもの、ありとあらゆる生命の補助者が、ひしと、彼の袂をつかまえて、「なぜ、死ぬのか」「死は易いが、生は再びないぞ」と、引き留めているような気がした。
「ああ、恐い。意味のない死は、こんなに恐いものか。やはり俺は死にたくないのだ。意味を見つけたいのだ、死の意味か、生の意味かを」
彼は急に、岩頭から後ろへ跳んだ。死神の口から遁れたように、以前のところへ戻ってみると、そこには醜い十六個の影が、まだ眼を白黒させたり口ばたに泡を吹いている。
「ばッ、ばか野郎っ」
満身の声が、ひとりでに衝いて出た。すると急に、気がからッとしてきて、
「ようし、おれは死なんぞ。こんなやつらと心中してたまるものかい。そんな安ッぽい一命じゃなかったはずだ。後日、今日の匪賊どもを捕えるのも一使命だし、あとの命は、どう使うか。そいつも、生きてからの先の勝負だ」
ふと気づけば、あたまに失くなっていた自分の一剣が地におちていた。拾い上げて、腰に横たえ、空を仰ぐと、夜鳥の一群が、斜めに落ちていくのが見える。その方向を天意が示す占と見て、楊志は、何処の地へ出る道とも知らず、やがてよろよろ麓の方へ降りていった。
その夜も、かなり更けてから、
黄泥岡の一端では、ようやく、執事だの強力の兵どもも、夜露の冷気に甦って、ごそごそ這い起き、
「さあ、どうしよう?」
と、今さらな不覚を喞ちあっていた。
「楊は、逃げたな」
執事の謝は、身の不始末を棚に上げ、何よりそれを罵った。
「いま思うと、あいつは薄々、毒酒を感づいていたのかも知れんぞ。いやいや、なんでもかでも、この場のことは、そういうことにしてしまおう。よいか者ども」
「こち徒の落度にゃなりませんかね」
「有ていにいったら、みんな首だ。だから先を越して、夜明け次第に、まずこの地方の役署へ訴えを出しておく。よろしいか」
「へい、どんなふうに」
「なにもかも、楊志の仕業と、彼奴におっかぶせてしまうのだ。黄泥岡の匪賊と気脈を通じ、ことば巧みに、われわれどもへ毒酒を飲ませ、あげくの果て生辰綱の宝はみな、横奪りして、消え失せましてござりますと。わかったろうな。どこで調べられても、口を合せて、押し通すのだぞ」
「わかりました。野郎には、遺恨骨髄、どうでも、そういうことにいたしましょう」
「お前らは、生き証人、場合によっては、当地の役署に残されるかもしれん。しかし、わしは夜を日についで、北京府に立ち帰り、かよう云々と、梁中書閣下にお告げする。当然、烈火のお憤りは知れたこと。ただちに、閣下から都の蔡大臣へ、お飛脚は飛ぶし、また済州奉行所へも、賊徒逮捕の厳令が下ッてくるに相違ない」
──ところで、一方の楊志はどうしたか。彼は自分の去った後において、こんな腹黒い相談が成っていたとは、夢にも知らない。
半ばまだ、ぼうとして、その夜は、どこをどう歩いたやら──。しかし、夜が明けてみれば、彼は黄泥岡を南へ降り、さらに道を南へと、あてどもなく歩いていた。
「さアて。しまった」
いったんは死ぬ気であったため、官の路銀、関手形、送り状、それらの一ト包みも、抛ったまま、身には一銭も持っていなかった。
「生きていれば、腹が減るものと、いま気がつくなんざ、滑稽だな。ま、どうにかなるだろう。乞食まではしなくても」
部落へかかった。いよいよ腹の虫が泣きせびる。で、盲目的に、
「ごめんよ」
とばかり、つい入ってしまったのだった。よくある田舎の飲屋である。愛相のいい女が出て来て註文を訊く。
肉を炒かせ、飯をあつらえた。小酒屋へ入って、飲まないのも悪いと考えてか、その間に、
「酒も少し……」
と、飲めるような顔でいった。女は世話女房ふうの女だが酌の仕方は馴れている。
飲めぬ口なので、青面獣が炎面獣のような火照りになりだした。肉を食い、飯をつめこみ、やおら野太刀を持ち直して腰をあげた。いささか、夜来の自失を取りもどし、足どり、眼づかい、ようやく本来の彼に立ち返っていた。
「あら、お客さん。お忘れじゃあ、困りますよ」
「なに。なにがよ」
「お勘定を、どうぞ」
「なるほど。そうだったな」
「ご冗談を」
「じつは、文無しだ。だが、おれも男だ、きっといつか来て払うよ」
「とんでもない、旅の人なぞに」
楊志は、耳もかさない。女は叫ぶ。そして、しつこく、どこまでもと、追いすがって来る姿を、
「うるさい」
と、一ト睨みに、ねめすえて、また、
「はははは」と、大声で独り笑った。
「おばさん、おばさん。この男一匹を、そうみじめに追い詰めるなよ。これでも、もとはしかるべき家柄に生まれ、ちょっぴり肩書などもあった者だよ。いまにきっと返しにくるから、今日のとこは、貸しておきなよ」
すると、女の背後から、
「ふざけるな。うぬは、食い逃げの常習だろう。おおいっ、みんな来て、この浮浪人を、叩きのめせ」
と、若い男の声がした。
これが女の亭主かもしれない。刺叉を持って、火事場へでも出てきたような威勢である。彼の声に応じて、近隣の朋輩だの百姓だの、いずれも得物を持ったのが、たちまち、楊志の前後をおっとり囲んで、口ぎたない罵声を浴びせかけた。
「おやおや。たいそう集まったぞ」
楊志の酔眼は、辺りを見て、事の大げさな展開に、われながら、あきれ顔だった。
「一杯の朝飯が、えらい騒ぎになったもんだな。これもまた、生きていく勘定のうちに、つい入れ忘れていたようだ。どれ、こうなったら仕方がない。体で勘定をつけてもらおうか」
二侠、二龍山下に出会い、その後の花和尚魯智深がこと
「あっ、待て待て。──みんな後ろへ退いていろ」
女の亭主らしい男は、なに思ったか、急に大勢の村人をこう制して、相手の風態を、足の先から天っぺんまで見直して言った。
「おい、食い逃げの大将。──どこかでおめえは見たことがある気がするな」
「おう、名のってもいいが」
「聞こうじゃねえか」
「名は騙ったことのねえ人間だ。あからさまにいうから聞け。青面獣の楊志という者だ」
「えっ、青面獣だって」
「おおさ、なんで急に変な面をするのか」
「……と、仰っしゃるなら、もしや以前は、開封東京の殿帥府にお勤めの」
「そうよ。その楊制使のなれの果てさ」
「やっ、こ、これはどうも……」と、男は手の刺叉も抛り出して「知らぬことじゃあございましたが、なんとも、とんだご無礼をいたしました」
「おや、おや。変な風向きになったな」
と、楊志も古い以前の身素姓までいわれては、ちょっと赤面を覚えたのだろう。自然その真面目を見せずにいられなかった。
「して、そういうお前さんは?」
「てまえも、じつあ開封の町家の生まれで、親代々の肉問屋のせがれ、曹正という者でございます」
「そうかい。道理で田舎者にしちゃあ、歯切れのいい啖呵をきりなさるがと思ったよ」
「いやお恥かしゅう存じます。都にいたころは、近衛軍のご師範、林冲先生に弟子入りしてちょっぴり棒術の真似ごとなどして、人さまから〝操刀鬼の曹正〟なんて綽名され、いい気になっておりましたンでね。……その後、おやじに代って山東へ商用に下り、資本をつかいはたして、つい極道へすべりこみ、今じゃあこんな百姓居酒屋の亭主。今あなたへ食ってかかったのが、つまりてまえの女房なんで」
「おや、そうだったのか。そいつアなんとも悪かったな」
「ともかく、手前どもまでお引っ返しくださいませんか。このままじゃ女房にしても、後味が悪くっていけませんや」
曹正とその妻とが、楊志を誘って、わが家の居酒屋へ入ってしまったので、騒ぎに集まった近隣の者も、やがて何処ともなく潜んでしまった。
はからずも、楊志は、曹正夫婦の世話になって、つい数日を、村酒屋の一間で過ごした。で、その間に、彼が黄泥岡で遭った一代の大難をも、そして今は世に身のおき場もない窮地にあることなども、一切打ち明けていたのもいうまではあるまい。
「……ああ、そうでしたか。いや、値十万貫もする〝生辰綱〟なんてものを、このガツガツと飢えている世に、北京から都まで、無事に送ろうなどという目企みからして、自体無理なはなしでござんすよ。まア、ご心配なさいますな、どんなことをしても、夫婦でお匿い申しますから、当分はまあ、ここでご養生でもなすっておいでなさいまし」
「ありがとう。だが、賊に奪われた落度は落度だし、北京の梁中書も、都の蔡大臣も、或いは、この楊志に、もっと悪い嫌疑をかけているかもしれん。なにしろ、天下のお尋ね者だ。──そのお尋ね者を匿ッたといわれて、お宅へ禍いをかけては申しわけがない」
「ま。そんなご遠慮はなさらないで」
「いやいや、恩をアダで返したら、男が立たぬ。明日にでも、お別れしよう」
「といって、どこか行くあてがおありですか」
「こんな時にゃあ、あの梁山泊が思い出されるがなあ」
「あそこなら、林冲先生もおいでになるとか」
「ところが、イヤな奴が一匹いる。王倫という頭領だ。小心者で邪推ぶかくて、ちとばかりな学識などをひけらかす野郎でな。どうも、そいつが気に食わんのだ」
「じゃあ、梁山泊を小っちゃくしたようなもんですが、二龍山の宝珠寺へ行ってみませんか」
「ふウむ、そんな恰好な隠れ家があるのか」
「そこにも、三、四百人は立て籠っておりましょう。山は青州の南です。頭の名を、金眼虎の鄧龍といいますがね」
楊志は、よろこんだ。──すでに黄泥岡で仮死状態にまで陥ちた毒も体から一掃されていた容子である。次の日、夫婦が情けの旅装いに、少々の路銀までもらって、青州へさして立っていった。
かくて、旅路の彼は、ほどなく一座の群を抜いた山を、青州の空の一角に仰いだ。「……これが、音に聞く二龍山だナ」と、さらに麓へ迫り、その夕べ、どこか一夜の寝場所はないかと、吹き渡る松風の中を、あちこち歩き廻っていた。
すると、とある松の根がたから、突然、
「気をつけろッ。盲か、きさまは」
と、彼の背へ、どなりつけた者がある。
「おや、人間でもいたのか」
と、楊志は振り向いた。
見ると、むっくり起き上がった酒臭い大坊主が、いま楊志の足が、ふと躓いたらしい錫杖を拾い上げて大地にそれを突っ立てていた。
「やい、きりぎりす。なんとかいえ」
「なにっ」
「えらそうに、野太刀なぞ横たえやがって、なんで、いい気持でわが輩が寝ているところを、この大事な禅杖を足蹴にしながら澄ましていくか」
「枯れ木でも踏んだのかと思ったら、坊主の禅杖だったのか。天下の大道に、寝ている馬鹿もねえもんだ」
「ふざけるな。ここは二龍山の木戸の下、めッたな人間が通る場所じゃない。あやまれ」
「あいにく、頭を下げるのは、大ッ嫌いな性分だ。ははん、この乞食坊主、難クセつけて、端た金でもセビろうっていうんだな」
「ほざいたな。乞食坊主かどうか、この錫杖を食らってみろ」
とたんに、一颯の風が楊志のいるところをびゅっと通り抜けた。──もし寸前に身を跳び開いていなかったら、楊志の形はもうなかったにちがいない。
「──あッ」
と、楊志も腰の野太刀を噴射するように抜き払っていた。そしてすぐもう一度、
「……あっ?」と、驚きをあらたにしていた。
相手の大坊主が、せつなに、法衣の諸肌を脱ぎ、その肌一面の花の如き刺青が、ばっと眼に映ったからだった。
「やあ、花和尚。鉄杖を引け」
「怯んだか、腰抜け」
「そう毒づくなよ。まんざら、縁のない仲でもなかった」
「巧く言やがる。どこのどいつだ」
「おれもおぬしも、ともに開封東京にいた者同士よ。まずこの面の金印(額の刺青)を見てくれ。高俅一味の悪官僚のため、むじつの罪に貶されて、北京の卒に追いやられた楊志という者」
「じゃあなにか。都の天漢州橋へ、伝家の名刀を売りに立ち、あの雑閙中で絡んできた無頼漢の牛二を、一刀両断にやッてのけた、当時評判だった、青面獣の楊志というのは」
「お。かくいう拙者だ。──そのころ、おぬしは郊外の大相国寺で、野菜畑の番人を勤めていた花和尚魯智深であろうがの」
「や、や。こいつア思いがけない出会いだ。どうして、わが輩をご存知か」
「その刺青は、都の名物と、三ツ児でさえも花和尚の名とともに知っていたもの。……その花和尚がどうしてまた、こんなところに」
「いや話せば長いことになる。……どうだ、そこまで歩いてくれないか。あれに見える馬頭観音の祠に酒がおいてある。一つ聞いてももらおうし、そっちの身の上も聞きたいし……」
魯智深は先に歩きだした。折もよし、楊志も今夜の塒をさがしていたところ。夜もすがら、二人は祠の濡れ縁で語りあかした。
──以後の魯智深の境遇に、大変動がおこっていたのは、当然なはなし。
まず、彼から、そのいきさつを、こう語った。
さきに、兄弟の義を結んだ林冲が、あえなく滄州の大流刑地へ流されていったさい、彼が途中までついていって、護送の端公(獄卒)を、逆に召使いのごとくこき使い、ついに彼らが林冲を途中で殺そうとした目的を遂げさせなかった始末は、やがて都へ帰った端公の口から、輪に輪をかけて、高大臣へ讒訴されていた。
で、たちどころに、「──花和尚召捕れ」の令がくだり、大相国寺の菜園は、数百の捕手で囲まれた。
この晩の騒動たるや大変だった。一箇の魯智深を逮捕するのに、開封東京の王城下は震駭して、都民も寝られなかったほどである。しかも当の智深は、菜園小屋を焼き払い、大相国寺の大屋根を踏み渡り、街中へ隠れ、また暁のころ、城門の警戒線に現われて、あまたの兵隊を手玉にとり、あッというまに鼓楼の甍から城壁を跳び渡って、それきりどこかへ姿を没してしまった。
「──それからはまた、流浪の旅さ。より以前には、延安府で提轄(憲兵)をつとめていたころ、ふと持ち前の腕力をふるッたのがもとで、五台山へ登って頭をまろめ、以後心を入れ代えますと、仏さまにも亡母にも誓ったけれど、どうもいけない。何がわが輩をこうさせるのか、元来、わが輩の持つ業悪なのか。おとなしく飲んで眠って、太平楽に構えていようと思うのだが、何かが来ては、それを突ッつき起してしまうらしい」
魯智深の述懐のあとで、楊志はいった。
「せっかく、まともに立ち返ろうとしている者を、突ッつき起す奴は、世の悪役人だ。いや、拙者の場合は、やや事情も違うが」
彼もまた、ここに至るまでの、逐一を打明けて、二龍山を目あてに落ちてきたわけを話した。
「そいつは、偶然な一致だったな」
と、智深は手を打って、
「じつはわが輩も、二龍山の宝珠寺こそ、世を忍ぶにはもってこいな場所と考え、山寨の頭、鄧龍に会わんものと、訪ねていった」
「じゃあもう、山寨にお住居なので」
「ところが、鄧龍のやつ、どうしても顔を見せん。ただ、麓で試合をしたうえ、おれに勝ったら、客分と敬まって、山寨へ迎えようと、手下に伝言させてきた。そこで、そいつを信じて降りて来たところが、卑怯にも、すぐ三つの砦門を鎖で戸閉してしまい、うんともすんともいってこない。……ぜひなく村から酒を買ってきて、ここで待つこと今日で四日目というわけだ。しかしどうやらこの勝負は、まんまと、こっちが一ぱい騙られたらしい」
「和尚は人がいい。口惜しくはないのか」
「なんとも業腹さ。そこでだ、三つの砦門を踏み潰してくれようかと、考えてみるが、こいつがまた、なんとも頑丈で、いくらわが輩にせよ、あんな関門とは取ッ組めん。また、取ッ組んでも馬鹿らしい」
「ならば、智をもって、乗っ取るしかありますまい。〝生辰綱の智恵取り〟を食った拙者が、そんなことをいうのはおかしいが」
「思案があるなら聞かして欲しいな。このままじゃ、この麓から引き退がれん」
「いや、ここは一度引き退がって、いま拙者が話した居酒屋の曹正の家まで戻ろう。二龍山を教えたのも曹正だから、彼に計れば何かいい智恵が出るかもしれない」
花和尚を連れて、楊志は数日の後、また村の居酒屋曹正の店へ帰ってきた。
「三人寄れば文殊の智恵」
その晩、鼎座の小酒盛りの果てに、どういう妙計が成り立ったか、三名は声を合せて笑っていた。
目明し陣、五里霧中のこと。
次いで、刑事頭何濤の妻と弟の事
かつての名刹、二龍山の宝珠寺も、いまは賊の殿堂と化して、千僧の諷誦や梵鐘の声もなく、代りに、豹の皮をしいた榻の上に、赤鬼のごとき大男が昼寝していた。
「おや、なんだ! 遠くの人声は。──もしや砦門のほうじゃねえか。やいっ、誰か見てこい」
眼をさまして、伽藍の奥から階段の上へ出てきた鄧龍は、虎のような口を開いて、そこらにいる手下の者へ、一ト声吠えた。
「おうっ」
と五、六人が起ちかけると、下の道から賊の小頭と数名が登ってきて、
「おかしら、近郷の百姓どもが、こないだの大坊主をふン縛ッてまいりましたが、どうしたもんでございましょう」
と、階の下に並んで告げた。
「なんだと」──鄧龍は、意外な顔して「──おかしいじゃねえか、いつぞやの大坊主といえば、五台山を騒がせ、大相国寺の菜園を荒らし、おまけに開封東京から姿をくらましたお尋ね者の花和尚魯智深だろう。……だからていよくここも追ッ払ったが、しかし百姓なんぞの手に捕まるはずはねえ。よく眉に唾をつけて取次いでくるがいいや」
「ところがお頭、百姓どもに質してみると、まんざら嘘でもねえんです」
「どういう仔細だ、嘘でもねえとは」
「野郎、ここを追い返されて、食うに困ったものとみえ、村の曹正っていう男のやっている居酒屋へ、あれからのべつごねりに行っていたらしいんで」
「それがどうしたてンだ」
「酔っ払っちゃあどこの家へも這入りこんで、宿を貸せの、小費いを出せの、文句をいえば、暴れ廻るし、いやもう手古ずり抜いたものとみえまさ。──そればかりか、梁山泊へ渡りをつけて、二龍山の鄧龍などは、いまにおれの手下に付けてみせる。なんて脅し文句を触れ歩いていたというから笑わせるじゃありませんか」
「野郎、そんな寝言をほざき廻ッていやがったのか」
「で、居酒屋の曹正と村名主が首を寄せて、一ト晩、あの大坊主を上座にすえ、ご機嫌をとると見せて、酒の中へ麻痺薬をいれて飲ませたというんでさ。こいつア大出来じゃあござんせんか」
「ふウむ。そいつアでかした。ふン縛ってきたのか」
「がんじ絡めに荒縄をかけたうえ、麻痺薬が醒めたところを、また寄ッてたかッて蹴るやら撲るやらしたもんでしょう。坊主頭も見られたざまじゃありません。そいつをまた、猟師が猪でもしょッ曳くように、大勢して、わいわい山まで持ってきたわけでござんす。自分たちの手で、息の根を止めるのは不気味だとみえ、お頭の鄧龍さまに、ご処分を願いますッて、口を揃えての嘆願なんで」
「そうか。いまの騒ぎはそれだったのか。よしっ、料理してやろう。これへ連れてこい。……が、待て待て、縄付きにしても厳重に取り囲んでこいよ」
やがてのこと。
石弩、針縄、逆茂木などで守られた柵門を三つも通って、一群の百姓と縄付きの大坊主が、大勢の賊に前後をかこまれて登って来た。──そして来るやいな、魯智深は、いきなり背を小突かれて、階の下に膝をついた。百姓たちも揃って、鄧龍の姿を仰いでぬかずいた。
「お頭でございますか。この大坊主のためにゃ、わしら村の者は、どんなに泣かされたか知れません。どうかご存分に、八ツ裂きにでもしてやっておくんなさいまし」
「むむ。よくやった。きさまが居酒屋の曹正か」
「うんにゃ、ちげえますだ」と、その百姓は、クスンと鼻皺を寄せて、隣に控えていた、もひとりの百姓の顔を見た。これなん、百姓姿に化けた青面獣の楊志であったとは夢にも知らず、鄧龍はジロとその巨眼を、曹正のほうへ移して。
「こらっ、なんだ、きさまの横に置いてある物は」
「はい、はい。これはこの坊主から奪り上げた禅杖と戒刀でございまする」
「坊主の得物か。これへ持ってこい」
「へい、ただいま」
やっと持ち上げるような重さを見せながら、曹正はその二品を、階段の真下においた。いやそれはちょうど魯智深の鼻の先へ供えたようなものだった。
「たわけめ!」と、鄧龍はどなった。「──持って上がれと申すのだ。なんでそんなところにおくか」
すると、それまで首を垂れていた魯智深が、
「いや、そこでいい」
といったから、鄧龍は跳び上がって驚いた。
「なんだと、この曳かれ者が」
「鄧龍。おまえの首は、もう横を向く間もないぜ」
いったと思うと、魯智深は後ろに廻していた縄目をばらッと解いて、禅杖へ手を伸ばすやいな、猛吼一声、階を躍り上がって、のけ反る鄧龍の真眉間を打ちくだいていた。
縄目は偽結びにしてあったのだ。智深の行動とともに、楊志や曹正なども、慌てふためく賊の手下どもへ立ち向っていたのはいうまでもなく、また、彼らが手もなく慴伏してしまったのは勿論だった。
ここに、宝珠寺の賊寨は、たちまちその主を代えてしまった。──花和尚、青面獣の二人を新たな頭目として仰ぎ、四百の配下は、義を盟って、その晩、庫裡の酒をみな持ち出して、大盛宴を張った。
曹正は、ほかの百姓をつれて、あくる日、村へ帰っていき、二龍山一帯は、その翠の色も里景色も、なんとなく革まった。弱者いじめな極悪非道は仲間掟としていましめ、賊は賊でも、時の宋朝治下の紊れと闘う反骨と涙に生きる漢同士であろうと約したものである。
さて。──楊志の落ちつき先は、ひとまず二龍山宝珠寺と、ここに先途を見とどけることはできたが、なおまだ、黄泥岡事件の後始末は、なにも目鼻はついていない。
いや。この怪事件の詮議は、まだ五里霧中の序の口だ。──江州車七輛にのせて、風のごとく奪い去った重宝十万貫はどこへいったか。その犯人は何者か。天下騒然と、噂はみだれ飛んでいる。
「いまさら、なんとお詫びも、面目もございませんが、憎ッくき下郎は、お手飼いの青面獣楊志。──彼奴のために謀られて、途中、輸送に従っていた十六名の者、みな毒酒を呑まされて……かくのごとき始末にござりまする」
黄泥岡から、夜昼なしに、都へ舞い戻った梁家の執事の謝は、下手人は、楊志と狎れ合いで、道に待ち伏せしていた七人の匪賊であると、主君の前に讒訴した。
仰天したのは梁中書である。
老いの涙を垂らしていう謝執事の言に、嘘があろうとは思えない。怒髪天を衝く、とはまさにこれを耳にしたときの彼の形相といってよい。
「なに、なに。楊志が途中で賊と狎れ合い、きさまらに毒酒をのませて、あの重宝を持ち逃げしたとな。……むむ忘恩の犬畜生め、よくもわしを裏切りおったな。きっと逮捕して、切り刻まずにおくべきや」
また、一方。
開封東京の大臣邸では、蔡大臣の誕生日となっても、梁家から祝賀品は、ついにその日になっても届かない。
「さあ、どうしたのか?」と、気が気でなく、朝野の賓客を集めた招宴も一こう栄えず、蔡大臣の不機嫌はなはだしいうちに終っていたが、やがてその夜も深更のこと。北京からの早飛脚だった。
「あっ⁉ また今年もか」
梁中書の詫び状と、また事態の顛末を報じてきた一状をも併せ読んで、蔡大臣は、身をつき抜ける憤怒とともに、自己の誕生日が、二年もつづいて、賊に呪われた不吉感に、身の毛をよだてた。
夜明けも待たず、彼は腹心の心ききたる家臣を呼んで、
「黄泥岡は、済州管下だな。すぐ済州奉行所へ下っていけ。そして下手人どもを召捕えるまでは、余の目付として、奉行所にとどまり、与力どもを督励しておれ」
と、厳命した。
目付役をうけたまわった家臣は、即夜、馬にムチを打って済州へ急いだ。
来てみれば、土地の奉行所は、いまやごッた返している。
それもそのはず、北京大名府からは、管領職の名をもって、矢つぎ早の犯人逮捕令、公文書、叱咤の伝令、また早馬と、夜も日もなく責め立てられていた折である。ところへ、またもや、
「ただいま、蔡大臣閣下の御命により、直々のお目付役がお着きです」
と、報ぜられたので、奉行は、目を廻すどころではない。寝不足のうえにも畏怖を加えて、対座の間も、まったく錯乱のていだった。
「はるばるのご下向、なんとも恐れ入りまする。偵察局、刑事部、目明しどもまで、全能力をあげて、はや事件の追求にかかり、必死を誓って、もし勤務に怠慢の者あらば、罷免、減俸などの罰則まで立てて事に当っておりますれば、日ならずして、目鼻もつくやと存じおりまする次第。……何とぞ、ここしばらくのご猶予をば」
「あいや、お奉行」と、目付は、きびしい顔をして言った。
「──日ならずして、などという生ぬるさでは心もとない。蔡大臣が、この身を目付役として、差し向けられた一事でもおわかりだろう。黄泥岡に出没したと聞く七人の棗商人、一人の酒売り、また梁家の裏切り者、青面獣楊志。それらの悪徒を、一人のこらず、十日以内に、縛め捕って、東京へ押送せいとの厳達でおざるぞ」
「えっ。十日のご期限ですと」
「万が一にも、十日を過ぎるときは、お気のどくだが、お奉行自体に、沙門島(流刑の孤島)までお出かけ願う仕儀と相成るかもしれん。もとより此方もまた、のんべんくらりと、手ぶらで都へ帰る面もない。どの道、あなたと生死はともにする気でまいったから、左様ご承知おきありたい」
奉行は青くなった。
それ以前とて、やってはいたが、さあこうなると、一刻が気が気でない。
「刑事部屋の室長、何濤を呼べ」
即刻、役室へ移って、彼は自分にかかった重いものを、部下の精鋭に押しつけた。
「何濤。何をしておるんだ、毎日なにを」
「お奉行。お奉行には手前どもの働きが、まだ鈍いとでも仰っしゃるんですか」
「口ごたえいたすな。そのほう自身とて、寸刻たりとも、刑事部屋で悠長そうな顔していられる場合ではあるまいが」
「冗談いっちゃあ困ります。配下の目明し何百人を、夜昼なく、蜘蛛手に分けて、犯人のホシを嗅ぎ歩かせているんですぜ。そのうえ刑事頭の自分がただ眼いろを変えて、ほッつき歩いても始まりますまい。こう腕ぐみに顔を埋めて、苦心しているのが、おわかりないのか」
「だまれ。それくらいな経験は、わが輩も舐めておる。進士の試験を通って、一郡の奉行となるまでには、あらゆる難に当り、なまやさしいことではなかった。どうでも、十日以内に、犯人全部を挙げてみせろ」
「そいつあご無理だ。神わざじゃアあるめえし」
「いや是が非でも、蔡大臣のご厳命だ。お目付も来ておられる。もし、そのほうが十日以内に、犯人を検挙しえぬなら、わしの奉行職も馘だが、きさまもただは措かんぞ。まず遠島だ」
「べら棒な。いくら大臣のお目付が督励にきたからって」
「そう申すのは、なおまだ、必死の捜査が足らん証拠だ。よしっ、この上命が、ただならんものであることを、その肉体に刻んで、寝る間も、忘れることのないようにしてつかわす。書記! 刺青職人をこれへ呼べい」
奉行もいささか逆上気味だ。──左右に命じて、やにわに、何濤の両腕を捉えさせ、その額に〝○州へ流罪〟と、一字空けの流人彫を刺れさせたのだ。まるで、値段未定の半罪人の札を貼りつけたようなものである。
「オオ痛え。永年、甘い汁を吸っていた報いか知らねえが、こうなると、奉行所勤めも辛いもンだな」
額の血を抑えながら、何濤は刑事頭の一室へ下がってきた。ふと見ると、黄昏れかけた向う側の目明し溜りでは、連日の奔走で、草臥れてはいるのだろうが、わいわいと馬鹿話に笑いどよめいている。何濤は、むかっとして、そこの扉口から呶鳴りつけた。
「やい、てめえたちはみんな本職を罷めて隠居の身分にでもなったのか」
「オヤ、室長。お顔をどうなすったんですえ?」
「見やがれ、おれの面体を」
「あっ、たいへんだ」
「他人事みていにいうない。いいか、十日以内に、黄泥岡の一件のかたをつけなけりゃあ、おれは遠島と言い渡されたんだ。なんでえ、てめえたちの暢気さは」
「へい、申しわけございません。といったって、こち徒も、足を棒にして、そこらじゅうを、クルクル嗅ぎ歩いちゃいるんですが」
「それでゲラゲラ笑っていられるのか。べら棒め、真剣真味に苦労してるなら、草の根を分けても、野の末、山の隅々まで、狩り立ててみろ、常日ごろにゃ、やれ飲ませてくれの、家に病人があるから助けてくれのと、そんな時ばかり、人に男泣きを見せやがってよ」
「おいおいみんな。ひと休みしたら、また手分けして出かけようぜ。室長の額を見たら、ぐッと応えてしまったよ。今夜は一つ夜どおしだ。仕方がねえや、蟋蟀になった気で、当分、草の根を分けて歩くんだな」
──そんな声を背に聞き流して、何濤は気分が冴えないまま、その晩は、家へ帰ってしまった。
彼の妻は、晩酌の膳にも浮かない良人を見て、
「どうしたのよ、あなた。……そのお顔の刺青はさ」
「例の一件さ。刑事頭の女房が、そんなこと、クドクド訊かねえでもわからねえのか」
「と、察してはいますけれどさ。なんぼなんでも」
「是が非でも、十日以内に挙げろッてんだ。しかもまだ、下手人どものホシは五里霧中、なあ女房、わが家の灯を、こうして見るのも、あと十日限りかも知れねえぜ」
「よしておくれよ、心ぼそい」
「だって仕方があるめえじゃねえか。お奉行だけの一量見でもなし、こんどのことあ、蔡大臣直々のご厳達ときていやがる。過ったなア、俺も一生の道を」
「……おや、誰か玄関へ。お客かしら?」
「なアに何清だろ。……弟の何清が、また博奕で摺って、不景気な面を見せにきたにちげえねえ。今夜は、俺は会いたくねえな」
「よござんす。わたしが、お酒でも飲ませて、上手に帰しておきますから」
廊を馳け出していった先で、彼女の愛相がいつもより弾んで聞えた。何濤の弟何清は訪ねてきた兄が風邪気味だと聞かされて、ぜひなく、嫂ひとりを相手に、美味くもなさそうに、出された杯を渋々手に取りはじめた。
「姉さん。いやに今夜あ、陰気じゃねえか。どうも姉さんの顔まで湿ッぽいや」
「だって清さん。おまえだって、ご存知のはずだろうに」
「なにがよ」
「うちの良人の心配事さ。あれ、あんな顔してるわ。兄弟効いのないおひとね」
「だって、知らねえもの。なに不自由なしの刑事頭でよ、しょっちゅう、裏口からは甘い収入があるし、世間さまにはこわ持てされ、そのうえ姉さんみてえな水もしたたる美人を女房に持ち、いったい何の心配事があるのか、おれには不思議さ」
「おふざけでないよ。ちゃんと、ほんとは知ってるくせに。黄泥岡の一件を、清さんが耳にしていないはずないわ」
「あ。あれかあ」
「それごらんな」
「はははは」
「いやな笑い方をするわねえ。いい気味だとでも思っていなさるのかえ」
「邪慳なことを言いなさんな。おれだって、兄貴あっての弟だ。だがネ、兄貴も悪い弟を持ったもんで、ときどき、風邪も引きたくなるだろうな」
「まあ、へんだよ今夜の清さんは。なんでそんな嫌味をいうのさ」
「イヤしみじみと、時にゃア懺悔がしたくなるのさ。こうして、姉さんの、心ならずものお酌なんかしていただくと、なおさらのことだ」
「もう、してやらないからいい! 変に絡んでばかりきてさ。──今日もお役署には、蔡大臣のお目付とかが来て、十日以内に挙げなければ、お奉行も馘、うちの良人も遠島だなんて、顔に金印(いれずみ)まで打たれて帰ってきたんだよ。お酒はいいが、悪ふざけは、やめてくださいよ」
「へえ、そいつあ初耳だな。そんなことなら、もちッと早く来れやよかったが、またやくざな弟めが、いつものでんで、銭でもセビリにきやがったかと思われるのも辛いと思って、つい閾を高くしていたが」
「ちょっと待ってよ。清さん、いまいったのは、何のこと?」
「なあに。こんなやくざな弟野郎でも、ひょんなことから、ひょんな役にも立つもんだということさ」
「じれッたいねえ、清さんてば。……もしやおまえ、黄泥岡の一件のことで、なにか、心当りでも持ってるんじゃないの」
「まアねえ。どうせ兄貴があてにしているなあ、日ごろよく小費い銭を撒いている組下の目明しだろうから」
「だから、話せないとお言いなのかえ」
「でもないがね。兄貴が、よくよくのッぴきならぬ破目とでもなりゃあ、そりゃ俺だって、見ちゃいないさ。……だが、兄貴は腕ッこきの目明し頭だ。てめえなぞ、出る幕じゃねえよと、鼻ッ先であしらわれるかも知れねえからな。……いや姉さん、どうもご馳走さまになりましたね、またそのうちに」
「あっ、待ってよ。そう、せかせか帰らなくってもいいじゃないの。いま、うちの良人も呼んでくるからさ」
「だって、お風邪なんでしょう。へへへへ」
「あなた。あなた!」
妻に呼び立てられるまでもなく、何濤はさっきから、部屋境の廊で、耳をすましていたのである。それへ顔を見せるやいな、何清の手を握りしめて言った。
「悪かった。まあ、気を悪くしないで、もう一杯飲み直してくれ」
「おう、兄さんか。酒はたくさんだよ。なるほど、ひどい顔になんなすったな」
「日ごろはつい、おめえの身持ちを案じるあまり、つれない顔も見せたろうが、この兄が一生の頼みだ。知っているなら打明けてくれ」
「ふン。黄泥岡の小泥棒のことですかい」
「小泥棒! おめえ勘ちがいしちゃあいけねえぜ」
「だってさ、兄さん。あんな者あ、知れきっていらあ」
「げッ。ほんとか」
何濤は、奥へ馳けこんで、手文庫の内から、銀子十両を持ってきて、弟の膳のそばへ、ぽんと置いた。
「少ないが、当座の褒美だ」
「兄さん、すまねえが、おれはツムジ曲がりだ。こう横を向くぜ」
「どうしてだ、弟。不足なのか」
「よしてくれ、鼻薬なんぞ嗅がされると、なお言いにくいや。やくざな弟、ろくでなしな弟。そいつが、たんだ一ぺん。こう兄貴に向って、ちょっぴり威張った顔がしていられるんだ。こいつあ、銭金に代えられねえ」
「じゃあ、どうしたら、うんというんだ」
「ああいい気分だ。兄貴、嫂、二人を並べて、こう反ッくり返っている味は」
「じらすなよ、金はお上が出すご褒美。それでも不足というんなら、そうだ、頭を下げる。清、この兄貴が、頭をさげて、こう頼む」
「むむ! 教えてもいい」
「ありがたい。どこだ? 賊の巣は」
「ここだよ」
何清は、自分のふところを、ぽんと叩いた。
「ぬすッとどもは、みんな一ト束に、おれの鼻紙挟みに収まっている。逃げッこはねえ、安心しなよ、兄さん」
「えっ、おめえの鼻紙挟みだと」
「手品師じゃねえが、まずご一覧に入れやしょう、たねも仕掛けもございませんとね。……証拠はこれさ」
両手を深く懐に差し入れて、何清は、鼻紙挟みを取り出した。薄べッたい革財布とともに、一冊の手帖が折畳んである。その手帖だけを、掌の上に残して。
「さて、これにはちょっと、いわく来歴の説明がなくッちゃおわかりになりますまいて。姉さん、そこの窓も後ろの扉も、みんな閉めておくんなさいな。壁にも耳、灯取り虫にも油断はならねえ。……よござんすかい、じつアねえ兄さん、こういうわけだ」
「……もう二た月ほど前。あれやあ六月の半頃ですがね」
何清は、声を沈めて語り出した。
「ごぞんじの安楽村に、王っていう安宿がありまさ。宿屋掟のご定法で、毎晩の泊り客には、行く先、職業、住所、年齢をちゃんと書かせる。──戸を卸して寝る時刻にゃ、そいつを帳場が書き写し、七日目ごとに、村名主に届けに行く。名主はまた、そいつを纒めて、月に一回、お役署へ届け出る。……ま、兄さんにゃ、こんな話は余計ごとだが、そういった手順でござんしょう」
「む、む」
「ところが、宿屋の王のおやじは、夏の初めごろから、病気で寝こんでしまッたし、若い雇人たちも、字盲ばかりときていやがる。……そんなとこへ、ちょうど安楽村の賭場で、すっからかんになったあっしが、銭無しだったが、ままよと思って、泊りこんだものだ。……よござんすか。さア立つ日となったが、払いはできねえや。そこでふてぶてしく腹を割って、またの日に来て払うぜ、てえと、機嫌よく二つ返事さ。おかみが出てきて、その代りに、半月ばかり帳場の帳付けをしてくださいませんか。そのうちには、亭主も起きられましょうからという相談。物好きたア思ったが、面白半分、つい二十日ほど、安宿の手代になって、泊り客の送り迎えをやっていたんでございますよ」
「へえ、おめえがねえ」
「するッてえと、忘れもしねえ、あれは七月に入ったばかりのこと」
「え。七月三日?」
「そうです。七人の棗売りが七輛の江州車(手押し車)を揃えて、ぞろぞろと、夕方の店さきに草鞋を脱いだじゃございませんか」
「…………」
何濤の喉の肉が、ごくと鳴った。
「──あっと、あっしゃあ、とたんにその中の一人に眼をみはった。いや、眼のやりばを反らして、いっそう旅籠の手代らしく、気をつけましたよ。というなア、七人のうちでも、どうやら頭だった無口な男に、見覚えがあったんでさ。ちょっと思い出せなかったが、寝てからよくよく考えてみると、もう数年も前に、やくざ仲間の者に連れられて、頼って行った先がある。──なんと、その時ちらと見た、そこの主人にちげえねえ。鄆城県は東渓村の大名主、たしか晁蓋という男でさあね」
「ふウむ、そして」
「はてな。夕方、なんと宿帳につけたかしらと、翌朝、念入りに調べてみると、七人みんなが、どれも李姓だ。李春、李長、李達、李周といったあんばいに。……それで国もとも濠州の同村、行く先は東京、商売は棗売り。つまり東京へ売り捌きに行くとある。……おかしいなあ、名主が交じって、とは思ったが、その朝はまア、ご機嫌ようと見送ったのさ。そして一日たった次の日だ、やくざの仲間が誘いにきて、行かねえかッてんで、ふところは淋しいが、村のばくち場を覗きにいき、夜になったら、取られたやつと二人で、ぼんやり帰ってくると、村の三ツ叉道を、妙な野郎が、二つの空桶を担いで素っ飛んできやがった」
「なるほど」
「連れの男が、オヤ今のは白日鼠の白勝らしい。おういっ白兄哥って、呼んだけれど、返事もしなけりゃあ、振返りもせず消えちまった。なんのこッた、人違いだぜと、こっちも笑って、そこでは連れの男と何気なく別れて帰って来たが、さてその次の日、黄泥岡のあの一件が、安楽村へも、ばっと聞えてきたじゃあございませんか。──七人の棗売りと、一人の酒売りが、うまく狂言をかいて、あの道へさしかかった十七名の生辰綱輸送の兵に毒酒を食らわせて、十万貫の重宝を、一瞬に掻ッ攫っていってしまったという騒ぎ。いやもう、村じゅう寄ると触ると、四、五日はその話で夢中でさ。……ははアんと、こっちはその間に、宿帳の名前をズラと自分の手控えに書き写しておいたという次第でございますよ。さ、兄さん、証拠のこれは進上する。どうか手柄にしてください」
「おお、かたじけない。貰っておくぜ」
何濤は、狂喜した。すぐ何清を連れて、奉行所へ馳けつけていく。ただちに一室を閉じて、奉行との密談しばらく、二人はまたすぐ腕ききの捕手十名ほどを選りすぐッて、安楽村へ急行した。
村へついたのは、すでに夜半過ぎだ。遊び人白日鼠の家は、岡ッ引きには、日ごろからもう眼の中のものだった。トントントントンと叩いてみる。寝巻き姿の女房が顔を出す。あっと、逃げ込むのを追い込んで、
「白日鼠。早ええもんだな。もう黄泥岡から、お迎えときたぜ」
何濤が、一喝くれると、白日鼠は、夜具の中から転がりだして、
「だ、だん那。なにをとんでもねえこと仰っしゃって。あっしゃあ、ごらんの通り、この夏の暑気あたりで、うんうん、高い熱で唸って寝ている始末じゃござんせんか」
「そうかい。病人ならなおのこと。悪足掻きはしねえがいいぞ。お手当をしてやるから、素直にお縄をいただいて見物していろ」
たちまち、女房と二人を、後ろ手に縛しあげ、天井裏、床下と、手分けして家探しにかかる。贓品は彼の寝台の下、地下数尺の下から掘り出された。一つかみほどな、金銀宝石の入った麻袋だ。
がたがた骨慄いしている女房と、満面蒼白な白日鼠に目隠しをさせ、馬の背に乗せて引っ返した。奉行所の門に入って、白洲にひきすえると、夜は明けていた。──しかし二人とも、頑強に口は開かない。
一応、休息に入って、本格的な白洲開きになる。拷問は、半日もつづいた。女房のほうは耐えきれない。で、良人の白日鼠も、ついに口を割って、白状におよんだ。
「もう、こうなっちゃ意地も約束もございません。申しあげます。へい……一件の主謀者は、東渓村の名主、晁蓋に相違ございません。てまえは、むかしお世話になった縁故から、酒売りの一ト役を頼まれて、筋書どおりに、働いたまででございます。ほかのことも、ほかの六人の衆も、いったい誰と誰なのやら、いっこうに存じませんので」
「よしっ、それだけで充分だ、あとの六人なざ、芋蔓でしょッ曳ける」
何濤は、奉行の手から一札の公文を授けられた。管轄ちがいの他県へ出るので、役署と役署の交渉が要る。
といって、そんな手つづきに手間どって、こっちの手配が漏れたら取り返しはつかぬ。──この間、何濤の苦心たるや容易ではなかろう。それに、なお、犯人の面通し(容貌の鑑定)のためには、さきに生辰綱輸送の行に加わり、その後、証人として奉行所に居残っていた強力の兵三名を現地へ同伴して行くなどの用意もあった。
「まずは、おれ一人で、鄆城県へ急ぎ、県の役署と万端を打合せておく。大勢の捕手組その他は、面通しの者を帯同して、後からこい」
何濤は、部下にこう言い残して、その夜半にはもう単身で、馬を県外に飛ばしていた。
耳の飾りは義と仁の珠。宋江、
友の危機に馬を東渓村へとばす事
どこの役署前も似たような風景だが、ここの鄆城県城の大通りにも、代書屋、弁当屋、腰かけ茶屋などが、町に軒先を並べていた。
「おいおい、菜などは何でもいいが、大急ぎで朝飯を食わせてくれないか。……なに、もう午近いッて。ははあ、おれには朝飯だが、人には午飯だったのか」
夜どおし隣県から馬をとばしてきた刑事頭の何濤は、とにかくと、役署前の一軒へ入って、腹ごしらえにかかっていた。
「へい。どうもお待ち遠さまで」
「ああ腹が減ったよ。ところで、亭主」
「へい」
「さっきから、こう役署の正門を見ているんだが、べつだん休日でもねえのに、妙に今日は、ひッそり閑としているじゃあねえか。なにかい、県の知事さんは、午過ぎでもねえと、役署へは出ないのか」
「いいえ旦那。お役署の混雑は、午まえに一ト片づきして、訴訟人や役人方も、今はみんな昼休みってえとこでございますがな」
「ははは、ちげえねえ。こっちの頭が、時間をとッ違えて見ていたわけか。……じゃあ、ちょっと訊くが、この県の押司(県城の書記長)は、なンてえお人だね?」
「旦那旦那。……ほら、ちょうどいま、そこへおいでなすったお方が、県の押司さんでございますよ」
「え。どこに」
床几を立って、何濤は、亭主の指さす方へ眼をやった。
──見ると、なるほど、押司の制服を着た一名の県吏が、今し役署の広庭をよこぎッて正門から出てくるところだった。
その人は、均整のとれた体つきで、背も余り高くなく、年のころは三十がらみか。色は黒いが、眉目すずやかで、両の耳に珠をかけ、歩々の風にもおのずからな人品が見られ、どことなく、ゆかしい人柄だった。
「あっ、もしっ……」
何濤は、さっそく往来へ飛び出していって、こう頭を下げていた。
「押司。恐れ入りますが、ちょっと、そこの茶店までお顔をかしてくださいませんか」
「や……」押司は、いかにも不意を食ったような様子で──
「貴公は、どこの者か?」
「てまえは隣県済州の刑事頭で、何濤と申しますが、折りいってのおはなしは……お茶でも差し上げながらと存じまして」
何濤は、しいて彼を、茶店の内へ誘ってきた。そしてまず、挨拶の初めに訊ねた。
「失礼ですが、押司のご尊名は?」
「これはつい申しおくれた。私は姓を宋、名を江といって、近くの宋家村から日々この県役署に通勤しておる一押司です」
「えっ、じゃああの有名な、及時雨ノ宋江と世間でいわれているお人は、あなたさまで」
「はははは。そんな大それた者ではありません。まあお手をお上げなすってください」
「いやいや。どうぞ、上座のほうへ」
「とんでもない。それよりあなたこそ、遠来のお客だ。いったい、隣県の刑事頭が、いかなる御用で、これへご出張なされましたか」
「じつは、その……」と、何濤は刑事特有な鋭い眼をあたりに配ッて、声を低めた。
「ご配下の当県内に、ぜひ召捕らねばならぬ数名の犯人がおりますんで」
「ははあ。では、その手続きのために」
「さようです。──済州奉行所からの公文を持参いたしました。ひとつ、お計らい願いとう存じますが」
「承知しました。……しかし一応、どんな事件か、内容を伺ってみねば、この宋江の係か、ほかの者の係となるか、わかりませんが」
「すでにもう、世間の噂で、ご承知とはぞんじますが、例の黄泥岡の一件なので」
「あ。北京の大名府から、蔡大臣へ輸送した値十万貫の生辰綱(誕生祝いの金銀殊玉)が、途中、賊難に遭ったと聞き及んでいるが、その大事件に、なんぞ手がかりでもあったのですか」
「そうなんです。……従犯の白日鼠夫婦は、すぐ召捕りました。ところがなんと、ほかの正犯七人は、鄆城県の者だと、自白におよんだのです。……で、昨夜、捕手の勢を揃えて手順にかかり、まずてまえがその先駆として、ご当所の諒解を得にまいったような次第。……すみやかに、ひとつ、ご内許のお運びのほどを」
「わかりました。して、その犯人七名とは、何者でしょう?」
「共犯全部の名は、まだわかっておりません。が、張本人は知れています。その主謀者は、ご当地の東渓村の名主、晁蓋という人物。……もしや、ご存知はございませんか」
このとき宋江の眉に、一瞬の驚きがサッと掠めたのを、何濤はつい気がつかなかった。また、気づきもさせぬほど、宋江その人の姿は静かだった。
「……さあ、晁という村名主は、いるかも知れぬが、つい覚えていませんなあ。自分は常に、役署内の事務ばかりみていて、近郷の名主などとは、とんと交際い一つしておらぬ。しかしそこまで突きとめているとあれば、甕の内の泥亀を捕るようなもの。なんの造作もありますまい」
「ご面倒でも一つこの公文は、さっそくあなたから知事のお手許へ」
「いや、それは困る。公文書の封は、知事ご自身でないと、開封はできんし、手続き上、私からでは、工合が悪い。……いまはちょうど昼休みで、知事閣下は官邸でご休息中だから、後刻、あなたの手から直接、お差出しなされたがいい」
「では、恐れ入りますが、後ほどご同道願えましょうか」
「それならおやすいこと。ご案内いたそう」
「なんとも、お手数をかけますが、くれぐれも、よろしくどうぞ」
「当然な勤めです。さように恐縮なさるにはおよびません。……が、知事閣下には、たった今、ご休息に入ったばかり、私もこれからちょっと、自宅へ忘れ物を取りに帰るので、暫時の間、あなたもここで休みながら、お待ちうけくださらんか」
「結構です。どうぞ、そちらの御用ずみの上で」
「では、後刻また」
宋江は、そう約束して、往来へ出ていった。
ところが、近くの辻を曲がると、彼は役署の裏門へ行って、小使を呼び出していた。そして、
「やがて、知事閣下が官邸から役署へお戻りだろうが、そしたらお前はすぐ、正門前の茶店へ行って、済州奉行所の何濤という者に会い、宋押司が見えるまでは、そこを動かず待つようにと、よく言伝てしておいてくれい。よろしいか」
と、念を押して立ち去った。
いや、それのみではない。宋江は、官の厩から一頭の馬を曳き出して跳び乗るやいなや、いずこともなく、馬に鞭を打ッて急いでいた。怪しむべし、その姿は、またたくまに、名主晁蓋の住む東渓村の村道へ向って近づきつつあるではないか。
ここで宋江その人の、人となりを、もすこし詳しくいっておく必要があろう。
彼の家は代々、鄆城県宋家村の医者で、宋江は三人兄弟の二番目だった。親には孝行で、人には義が厚いところから、村の衆は、彼を呼ぶに、孝義の黒二郎などといった。
色が黒いところからきた別名で、またの名を〝黒宋江〟とも呼ばれたが、ほかになお〝及時雨ノ宋江〟という異名もある。
綽名には愛称、嘲称、蔑称などはあっても、敬称は稀れなものだが、宋江の場合は、すべてに衆人の畏敬がふくまれていた。
及時雨──というのは、雨が欲しいときに雨を降らせてくれるようなありがたい人──という意味である。これだけでも、日ごろの彼が、いかに人々から慕われているかが知れよう。貧しきを宥り、弱きを助け、また世の好漢どもとの交わりも厚く、兼て剣技に達し、棒をよく使うが、そんな武力沙汰は、まだ一度も表にひけらして人に示したことはない。押司としては、役署向けの評判もよく、この人に限っては、吏員にありがちな汚職めいた蔭口も聞かれなかった。
──その宋江は今、東渓村に馳け入るやいな、荘院の門前の槐ノ木に、乗り捨てた馬をつないで、
「晁君はおいでか」
と、息も忙しげに、訪れていた。
荘丁の取次に、すぐ顔を現わした名主の晁蓋は、彼の姿を迎えるなり、日ごろのように、
「やあ、どなたかと思えば、宋押司さまでしたか。さあ、どうぞ」
「いや今日は、客間へなど通ってはいられない。晁君、どこか人なき小部屋でちょっと話したいのだが」
「えらくお急ぎですな。……さ、ここなら誰もまいりません。して、お急ぎの件とは」
「晁蓋どの!」
宋江はじっと眸を澄まして、彼を見つめた。思いなしか、その眼底には涙があった。晁蓋も、胸をつかれて、思わず、
「はいっ」
と、あらたまった。
「あなたは、えらいことをしてくれたなあ」
「えっ?」
「常々、私はあなたを、親身の兄のように思っていた。あなたもまた、よく人のお世話をし、村の公益を計り、東渓村の旧家としても荘院としても、恥かしくないお人として、諸人の信頼をうけておられたのじゃないか。……どうして今、私があなたを、見殺しにできようぞ」
「ど、どういうことです。仰っしゃる意味は」
「たった今、済州奉行所からの出張命令で、刑事頭の何濤なる者が、晁蓋以下六名の共犯者を召捕る手続きを県役署へ内申に来ておるのだ」
「あッ。では、ばれましたか」
「黄泥岡の一件は、白日鼠の自白により、済州奉行所では、悉皆、証拠固めもつかんだと申しておる。……晁君」
宋江は、突然、彼の手をかたく握って、
「──なに不自由もないあなたが、どうしてそんな大胆な兇行を敢てやったのか、私にも、その心事が、まんざらわからぬことはない。がしかし、いまは何をいってる暇もありません。蔡大臣の厳命から北京大名府の手配まで、蜘蛛手に行き渡っているといいます。なんとて、遁れえましょうや」
「押司っ。……覚悟しました。ほかならぬ御仁の手にかかれば本望だ。さ、お縄をいただきましょう」
「なにを仰っしゃるのだ。あなたを縄目にしていいほどなら、宋江はここへは来ません。私は役人としてでなく、一個の庶民宋江として、日ごろの誼を捨てがたく、宙を飛んでまいったのです。いざ、一刻も早く、お逃げなさい」
「げっ。で、ではこの晁蓋をそれほどまでに」
「おう、私の親から縁者まで、年来、あなたのご温情には一方ならぬお世話になってきた。かつは私もまた、兄弟同様な交わりをしてきた仲です。なんでその義を捨てられようか。……というまにも、済州奉行所の捕手もはや当地に入り込んでいるはず。それと茶店に待たせてある何濤が、直々知事に面接して、公文手交の手続きをとれば、もう万事は休すです。……即刻、ここはお立ち退きあるがいい」
「かたじけない」
晁蓋は、友の手をかたく握りしめて、男泣きの涙をホロリと頬に流した。
「このご恩は忘れますまい。……生涯にかけて、このご恩は」
「さ、さ。そんなことは、どうでもいい。私もすぐ立ち帰らねばなりません。くれぐれ、ご猶予なさるなよ」
こう言うやいな、宋江はもう帰りかける。その袂を惜しむかのように、晁蓋もともに裏庭の廊を渡ってきながら、離亭へ向って、三名の者の名を呼んだ。
声を聞いて、そこから庭面へ出て来たのは、呉用学人、公孫勝、劉唐の三名だった。──晁蓋は彼らを指さして、
「押司に対しては、何事もつつみ隠しはできません。あれが一味の者です。ほかに阮の三兄弟も加わっておりましたが、その者たちはすでに、十万貫の内の分け前を受取って、石碣村のわが家へ帰ってゆきました。……おいっ、みんな、県の宋江さまだ、ごあいさつして、おのおのの名を名のれ」
それに対して、宋江もまた、廊からちょっと会釈を返した。そして身を翻すと、門外へ走り出て、ふたたびその馬上姿を、県城の町のほうへ、燕のごとく小さくしていった。
後ろ姿を見送ってから、その足で裏庭へ廻ってきた晁蓋は、心のうちで、
「しまった。おれはいいが」
と、慚愧の舌打ちを洩らしていた。
「あの人は、県の押司だ。かりそめにもその役人が、天下の賊を逃がしたと後で知れたら、身の破滅は知れたこと。……ああ、おれはうッかり自分のことだけに気をとられて、それを問わずにしまったが」
腕拱いていると、寄ってきた劉唐、公孫勝、呉用の三名が、こもごもに、
「いま帰ったのは、誰ですか」
「何ぞ、俄なことでも起ったので?」
と訊ね合った。
晁蓋は、委細を語って、
「──もし宋江が報らせにきてくれなかったら、おれたちは一網打尽になるところだった。さっそく何とか考えずばなるまい」
「じゃあ、早くも、事露見ってえわけですね。白日鼠も脆いやつだナ。拷問ぐらいに口を割るとは」
「呉用先生。どうしたもンでしょう」
「三十六計、逃げる以外に手はありますまい。……が、さっきの宋江というのは」
「県の押司で、じつはこの晁蓋とは、義兄弟といってよいほど、日ごろ、心腹の誼を結んでいた人です」
「では、あの評判な及時雨ノ宋江でしたか。ならば、身を犠牲とする覚悟で焦眉の危急を、あなたへ告げてきたのも道理だ。……すぐ落ちのびねばなりませんな。また、それがその人の本望でもありましょう」
「といって、どこへ」
「ともあれ、石碣村まで走って、一時、阮ノ三兄弟の家へでも」
「先生、彼らは三人とも、漁師ですぜ。この人数で、どうして狭い漁師小屋などに」
「いやいや。そこは一時の足溜り。石碣村の浦から水を隔てた彼方には、いかなる所があるかを思い出してごらんなさい」
すると、公孫勝や劉唐も、異口同音につぶやいた。
「梁山泊。……江の彼方は梁山泊だ」
「そこだ!」と、呉用学人は、老いに似合わぬ眸をかっとさせて──「かくなるうえは、そこへ渡って、梁山泊一味へ仲間入りを申し入れようではないか」
「だが先生。はたして彼らの仲間が、快く容れるかどうか?」
「心配は無用。われわれの手には金銀がある。引出物としてその一部を献じてやれば」
「なるほど」
たちどころに、四人の腹は一致した。……かねて〝黄泥岡の智恵取り〟で奪い獲た金銀珠玉を五、六個の荷物にまとめ、手飼の壮丁十人ばかりにこれを護らせ、呉用と劉唐の二人が付いて、すぐ石碣村へ向って先発して行く。
あとに残った晁蓋と公孫勝は、大勢の家族雇人を一堂に呼び集めて、それとなく別辞を告げ、家財道具をことごとく分け与えて、これも一ト足あとから石碣村へ急ごうとしていたが、さて別れを惜しむ中には、多年愛していた女もあり老幼もあり、つい濡るる袂に引かれて手間どっていた。
さてまた。──一方の宋江は、馬をとばして、町へ帰っていたが、役署の厩へ、馬をつなぐやいな、すぐ往来を廻って、以前の茶店の前へやってきた。
見ると。
何濤はもう待ちあぐねたような顔つきで、そこの軒先に佇んでいる。
「やあ、お待たせいたした。……折悪しく、ちょうど宅に来客がありましてな」
「ああやっとお見えか。どうなされたかと思っていました」
「すまん、すまん。さっそく、知事閣下の室へご案内いたしましょう。どうぞ、こちらへ」
折ふし、庁の知事室では、知事の時文彬が他念なく時務の書類に目を通していた。──宋江は、静かに扉を訪れて、
「これへ連れてまいったのは、済州の刑事頭で何濤と申す者です。重大な事件で、隣県の公文を帯びて、急派されてまいりました由。──一応、公文をお披閲ねがいとう存じまする」
「どれ……」
と、文彬は花梨の大机から向き直って、正式に、何濤の手から公文を受領し、即座にそれを披いてみた。
「むむ。……何濤とやら、これはたいへんなお役目、ご苦労だな」
「よろしく、お力添えのほどを」
「もちろんだ。書中によれば、蔡大臣からの目付まで下向して、済州奉行所に泊りこみ、十日以内に、犯人のこらず縛め捕れとの厳達とか。お互い吏務にたずさわる者として、こんな苛烈な上命には思いやらるるよ。……よろしい。当県の手勢もあげて、すみやかに、一味を縛め捕るようにしてやろう。宋江、すぐ計らいを取りはこべ」
「承知いたしました。……が、事洩れては仕損じます。黄昏れを待って、疾風のごとく襲いましょう。名主の晁さえ召捕れば、あとの六名に、さして手間暇はいりません」
「そこは任せる。だが、どうも解せんな」
「何がですか」
「東渓村の名主といえば、世評もよく、役署向きにも、従来何らの悪名は聞えていない。……それがこんな強盗事件の張本人とは」
「人間はわからぬものです。だれが、どんなことを、腹の中では考えているやら」
「はははは。皮相だけの観察では、偵察長など一日も勤まるまいな。……そうだ、さっそく偵察長や捕手頭を、別室へ呼んでくれい。わしからも督励しよう」
知事の文彬は、文字どおりな選良だった。一同の顔が揃うと、べつな公堂へ出向いて、事件の重大性を説明し、また一場の訓示を垂れて励ました。
それから一刻ほど後には、早くも庁の広場に、偵察長以下、捕手陣の勢揃いが密やかに行われていた。
捕手頭の与力は二人だ。ひとりは美髯公ノ朱同といい、もう一人は、挿翅虎とあだ名のある例の雷横。
おのおの、太刀、弓矢、鉄槍などを帯びて、物々しく身を鎧い、
「さあ、行こうぜ」
と、気負いを見せた。──時しも、すでに夕空、雲の流れも旗のようだ。
「いや、待った」
朱同がいう。
「東渓村へ入ったらグズグズしてはいられぬぞ。手筈はどうなんだ。それが肝腎ではあるまいか」
「それよ、そのことだ」
雷横も、また和して、
「偵察長、作戦は?」
「むむ。晁の屋敷は、前が村道。裏にもべつな街道が一つあったな」
「そうですよ。一方攻めじゃ、追い落すようなものだ。ふた手に分れて踏み込みますかい」
「おうっ、一手は裏門へ伏せておれ。合図は口笛だ。──口笛とともに、べつな一手が表門を破ってなだれ込むとしよう」
「ですがね」
と、朱同がまた、その美髯をしごいて言った。
「晁蓋の屋敷には、もうひとつ、逃げ道がありましたぜ。これは誰も知るまいが」
「えっ。すると三つも道があるわけか」
「日ごろに〝捨て眼〟はつかっておくもんだ。おれはちゃんと睨んでいる」
偵察長は、ぎょっとして、
「そいつア危険だ。よくいう〝隠し道〟というものだろう。朱同、その道こそ、抜かッたら水が漏れるぞ。──おぬしに捕兵の半分をやる。ぬかりなく、隠し道を塞ぐこったな」
「いや、細道だから、そんな大勢はいらねえ。三十名もあれば沢山さ。じゃあ、おれから先発するぜ」
つづいて、偵察長も雷横も、騎馬となって、人数の先頭に立ち、宵闇まだきに、はや東渓村へ殺到した。
「や、や。火事だ」
「まさしく、あの方角は、荘院の屋敷」
「すわ。やつらの方でも、気づいている」
怒濤の声は、たちまちそこの表門をぶち破った。バチバチ燃えひらめく火光の裡を「──御用っ、御用っ」と叫ぶ刺叉、野太刀、棒、槍などを持った捕兵の影が、煙をくぐって躍り入る。
「火の手は、何ヵ所からも出ているぞ。──やいやい、深入りばかりが能ではねえ、こっちも見ろ。つい、そこらの物陰にも気をくばれよ」
雷横の大音が、しきりに声を嗄らしていた。
とはいえ、彼の腹には、晁蓋の旧情が思い出され、じつは何とかして、晁蓋を逃がしたいものと考えていたのである。──で、わざと声や物音ばかり荒々と立て、指揮者みずから、指揮をみだしていたものだった。
いや、彼のみならず、裏手へ廻った朱同の腹も、また然りであった。
朱同が、道は三つあるといったのは、じつは嘘なのだ。一手の人数を裂いて自分の手に持ち、なるべく、晁蓋の退路を都合よくしてやろうという考えで、わざと一所にとどまらず、ただ、右往左往を見せていたまでである。
ところで、当の晁蓋はといえば、この時まだ奥の一房を出ていず、下男や壮丁に命じて、わが家の諸所に火を放ち、
「これでいい! さ、公孫勝、運を天にまかせて出かけようぜ」
と、内から横窓を破って躍り出し、土塀を越えて、外を望んだ。
ふと、裏門の方からその影をみとめた朱同は、
「やっ、西側の土塀が怪しいぞ。そっちへ廻れ」
と、逆な方角へ同勢を向け変え、そこへ来るとまた、わざと仰山な地だんだ踏んで、
「さては、表門の方か。それっ、表の村道へ出ろっ」
と、命令した。
だが、こういう場合の願いと、出る目とは、とかく皮肉な賽コロの裏目が出る。東側の路次から脱兎のごとく馳けてきた晁蓋と公孫勝の影を、はからず朱同も見たし、朱同の手勢も、ばッたり、行き会ってしまったのだった。
「いたぞっ。逃がすな」
もとより部下の捕手は何も知らない。追われる晁蓋もまた、知ろうはずはない。ぜひなく野太刀を抜き払って、
「死にたいのか。死にたけれや、かかって来いっ」
公孫勝も道士の持つ無反の戒刀をかざして構えた。
「邪魔するやつは一颯だぞ」
それに怯んで、わっと退く隙に、
「孫勝! むだな殺生はなるべくよそうぜ。逃げろ、逃げろ」
二人とも、闇へ向って、鹿のように走りだした。
ところへ、馬上の偵察長が、早くも馬を躍らしてきた。そして異様な昂奮を、その姿に見せて、
「朱同、賊を見たのか」
「オオ偵察長、遅かった。その馬をかしておくんなさい」
「ど、どうするんだ」
「馬さえあれや逃がすこッちゃなかったのに、惜しくも見失ったところですよ。さ、早く早く」
急かれるまま、偵察長はつい、自分の馬を朱同に貸した。朱同は前後の捕手を見まわして、
「ええい、役に立たねえ薄のろめら、おれの馬につづいてこい」
と罵られても、いきなり一ト鞭あてた馬の迅さに、徒歩では追いつけるはずもない。
朱同はまんまと、部下を撒いて、たちまち先へ走って行く二つの影に追いついた。──念のためと、振り向いて、ほかに人もなしと見るや、その後ろから呼びかけた。
「おおい、名主どの。横道へ入れ、横道へ入れ。彼方の林の道を行けよ」
振り返った晁蓋は、変に思って、
「そういうのは、朱同じゃねえのか」
「御用ッとは、言いませんよ。もッともッと、迅く逃げておくんなさい」
「どうしてだ、追手のおぬしが」
「どうだっていいや、そんなことあ。ただ、村の者も悲しむだろう。あっしの縄にはなおさら掛けられねえ名主さんだ。いっそ、梁山泊へ落ちて行くまでも、とにかく生きていておくんなさいよ」
「ありがとう! 忘れねえぜ、いまの言葉は」
「あっ、いけねえ、森道を狙って、向うの部落から雷横の手勢が出てきやがった。名主さん、かまわねえから、そこらの黍畑を突ッ走って、とにかく南へ南へと急ぎなせえ」
言い残して、朱同はわざと、雷横が出てきた方へ馳けていった。
雷横は、朱同が馬で飛んできたのを見ると、すぐ声をかけた。
「朱同じゃねえか。賊はどうした?」
「こっちこそ、訊きてえところだ。部落の内には、不審はねえのか」
「はてね。偵察長は、朱同がすぐにも召捕りそうな懸け声をかけていたが」
「うんにゃ、こっちは空追いを食っちまった。すると、そこの森道かな?」
「ならば、ほかに道はねえ。それっ、森の中を狩り立てて行け」
これはまさに、二人の腹の探り合いだった。しかも、本心はいずれも、晁蓋の逃走を無事なれ、と祈っていたのだから、しょせん捕まるはずもない。
半夜を過ぎると、腹は減るしで、捕手も誰もクタクタになってしまった。雷横と朱同は、期せずして、あたりへ聞えよがしに、こう嘆じた。
「なンてえ素迅ッこい奴らだろう。神出鬼没たあ、奴らのことか」
「しかも、今夜にかぎって、漆壺のような闇夜ときている。あきらめようじゃねえか。人為は尽したぜ」
この報告には、偵察長も落胆した。もっとげッそりしたのは何濤である。済州から着いたばかりの手下を連れて、手配は万全としていたのだが、なにしろ地の理は不案内だし、雷横や朱同の組と一つになるわけにもゆかず、つまり二ノ陣の恰好でいたのである。
「ちぇッ。なんてえ不手際なざまだろう。それよりもこの何濤、どのつら下げて、済州奉行所へ帰れようか」
さらにはまた、その夜、県城の知事室でも、公務に熱心な知事文彬が、服も觧くなく、一夜中その報告のいたるのを待っていた。
「ぜひもない!」
痛嘆はしたが、しかし知事文彬は、法を疑わず、法の下の部下を疑ってみることなどもない。
「惜しくも、晁蓋は逃がしたとあるが、荘院の食客、壮丁、雇人は多いはず。それらは一応、引きつれて帰ったか」
「近隣の者二名、食客二名、雇人三名ほどを、証人として、縛めて来ました」
「すぐ白洲を開いて取り質せ」
この吟味だけでも、次の日一日は、むなしく過ぎた。が、それだけの効がなくもない。居候の一人が、ついに口を割って、知る限りを喋舌ってしまったものである。──火中から逃げたのは晁蓋と公孫勝。それより前に、寺小屋先生の呉用と赤髪鬼、劉唐が先発して、石碣村の阮ノ三兄弟の家で落ち合い、梁山泊へ入ろうという相談でした──ということまで、すっかり口書に取られてしまった。
その口書と、知事の返牒だけを持って、ついに何濤は、不面目な恥を忍んで済州へ帰ってきた。──そして、待ちかねていた奉行に逐一を語ると、奉行は、
「よしっ、それでは、もいちど獄中の白日鼠を白洲に出して、阮ノ三兄弟なる者をたしかめろ」
と、絶望はせず、なおその手がかりに一縷の断末的な意力を燃やして厳命した。
白日鼠はもう意気地なく、すべての泥を吐いた。それをつかんで、密室の協議も数時間の後、何濤は疲れた顔にもぼっと赤い血色をたたえて、
「いよいよ、この捕物陣は、えらい大ごとになッちまったよ」
と、ひと口、がぶと茶を飲みながら、手下の目明しどもに、委細をはなした。
「そいつア大変だ。石碣村といやあ、梁山泊のこっち岸」
目明したちは、口々にみな言った。
「あの辺は、山東きッての難場だと、漁師ですら言っていらあ。見渡すかぎりな浦曲は葭や葦の茂りほうだい。その間には、江とも沼ともつかぬ大きな水面が、どれほどあるかわかるめえ。それに川までが入り組んでいて、いわば人間の棲み家に向かない所さ」
「そんなところへ潜り込んだ賊を捕まえるなんざ、まるで手ぶらで野鳥を追ッかけにいくようなもの。しかも相手が相手ですぜ」
「よほどな兵備で、馬や舟をも使い、捕手なンて、ケチな人数でなく、堂々と官軍仕立ての大部隊でくり込みでもしねえ限りには、行っても無駄だ」
何濤にしても、正直なところ、自信はない。これ幸いと、彼の手下の言をそのまま奉行に告げて、捕手陣編成の再考をうながした。
「いかにも、道理ではある」
奉行は、重大決意を見せて、
「よろしい。ではもう一名、べつにしかるべき与力を差し添えてやろう。そして人数も五百名に増し、装備には武器庫の二番庫も開いて使え。かつまた、これは北京大名府の命であり、蔡大臣のご厳達にもよること。まぎれもない官軍といってよい。──つね日ごろの捕物とはわけが違う。堂々官軍の威をかざして行けい」
まさにこれは、済州奉行所始まって以来の椿事。こんな大捕物陣が繰り出された例は近来ない。
かかる数日の間に。
石碣村の葭芦しげき一漁家のうちでも、怪しい動きが、夜を日についで行なわれていた。
あだ名、立地太歳ノ阮小二、短命二郎ノ阮小五、活閻羅ノ阮小七などの兄弟三名は、とつぜんこの水郷のせまい漁小屋に、晁蓋、呉用、劉唐、公孫勝らの四名を迎えたので、即日、
「ここでは」
と、世帯道具のがらくた物を一ト舟に乗せ、またお手のものの櫓櫂をもって、さっそく家を、そこからさらに遠い湖上の洲の一軒家へ移してしまった。
「さあ、皆さん」と、阮小五が、その晩、酒の支度をすると、小二、小七も手料理にかかって、
「今夜あ一つ、引っ越し酒といきましょうや。小二の婢とおふくろは、金を持たせて、これも遠くへ隠してしまいましたから、こち徒はもう、足手纒いも何もありません」
「それにね、先生」と、小七は呉学人へ向って「──いくら躍起な捕方でも、ここの湖上までは、おいそれとはやってこられませんからね。先は先とし、どうか今夜はぞんぶんに、手足を伸ばしておくんなさい」
「小七。その先の相談だがね、梁山泊へ渡るには、いずれ水路のほかはないが、どう行ったらいいのかな」
「そいつがですよ」
酒、肴の卓を囲んでから、小七が言った。
「──なにしろ、寄り着きにくい、難攻不落ッてえところでしょうがね。漁師仲間でも、舟着きのいい場所を知ってる奴アありゃしません。……ですからね、いちど山東街道へ上陸ッて、李家の四ツ辻にある茶店へ行き、そこで許しを得るんでさ」
晁蓋が、杯の間に、口をはさんだ。
「なんだい。その茶店ってえのは。まさか茶店のおやじが梁山泊の仲間というわけでもあるまいに」
「そ、そうなんですよ。いま晁蓋さんが仰っしゃった通りなんで」
「へえ、茶店のおやじが梁山泊の仲間で……そして?」
「仲間入りを望む者は、その茶店で始終見張っている朱貴っていう男まで申し入れる。そして朱貴が頷けば、物凄い唸りのする鏑矢を番えて、対岸の梁山泊へ向って射るんです。するッてえと、それを合図に、芦の間から、迎えの舟がこっちへくるっていう寸法でさ。……それ以外に、渡る方法はありませんよ」
「はははは」みんな笑った。「──なるほど、聞きしにまさるッてえなあ、このことだろうな。そう聞いちゃあ、追手に追われる身でなくても、一度は渡ってみたくなりそうだ」
湖上の宵、どこに憚る灯一つもない。ようやく酒もまわり、歓語も沸いてきたころである。日ごろ、三兄弟が眼をかけていた一人の漁師が、早舟でここへ告げてきた。
「えらいこッてすぜ、皆さん。五、六百人の官軍が、もう村ぢかくまで来たッていうんで、村じゃあ大変な騒ぎですよ」
「そうかい」──兄弟はすまして言った。
「よく知らせてくれたな。まア一杯飲んでゆきなよ」
呆れたように、男はすぐ消えてしまった。一瞬の沈黙はあったが、七人の世間話はすぐ元通りに返っていた。
「案外、早くおいでなすッたな。官軍というからには、ちったあ支度して来たろうに」
「小二兄哥。来たからにゃあ、弱音は吹くめえぜ」
「あたりまえだ。陸とは違う。こっちは河童だ。どいつもこいつも抱き込んで、水の底を、たっぷり見物させてやるさ」
「残ったやつらは、この小七、小五が、銛のさきで串刺しか」
すると、公孫勝が、からかい半分、杯片手にわざと取澄まして言った。
「いや兄弟衆、意気はおさかんだが、五百人の数ですぞ。そんな芸では、小いせえ、小いせえ。まあ、この公孫勝の手なみのほどを見物してからにしてください」
晁蓋はさっきから黙っていたが、このとき呉用へ向って、初めてこう口を開いた。
「先生はご老体だ。それに筆と書よりほか、修羅場の中はご存知もありますまい。恐れいりますが、大事な荷物だけを小舟につみ、さっき小七の言った李家の四ツ辻とかの茶店附近へ漕ぎよせて、てまえどもが、後から行くのを待っていておくんなさい。そうだ、劉唐を付けてやります。おい赤馬、先生について、夜明け前にここを落ちろ。あとの心配はいらねえから、頼んだぞ」
秋を歌う湖島の河童に、百舟ことごとく火計に陥つこと
風は身が緊まるほど冷たい。水も空もまっ青に冴え切った秋の大湖だ。
湖は海のごとく、山東の河川を無数に吸い容れ、そしてまた山東の外洋へと、その漲りはどこかで吐き出されているらしい。
「アアあれだな。──いち早く石碣村を立退いて、奴ら七人が、隠れたと聞く浮巣のような島というのは」
真ッ先をゆく一艘の舳に立って、刑事頭の何濤は小手をかざしている。そのあとからは大小数十隻の捕盗船が、舳に官旗をひるがえし、捕兵の弓や矛や刺叉を満載して、白波を揚げながら迫ッて行く。
すると、どこかで粋な漁歌が聞えた。見れば芦間隠れの洲の蔭から、ただ一人の漁夫が、こっちへ小舟を操ッて来る。
ぎょっとしたように、捕手の内のひとりが叫んだ。
「あっ、阮小五だ」
「なに、あいつがか?」
捕盗隊は櫓舟、櫂舟、棹さし舟、狩り集めなので船種もじつに雑多である。それが一令のもとに扇開して、小舟一ツを遠巻きにかかった。
阮小五は、櫓柄を片手に、けらけら笑った。
「ようっ、おいでなすったね役人衆。捕手と蝗は、あたま数で脅かすものときまってるのか。意気地なしめ」
何濤はみずから接近しつつ、
「うぬ、不敵な奴。……それっ、弓で射て取れ、弓で」
「おい、笑わしちゃいけねえよ。人民いじめの大官の手先め。てめえらこそ、盗ッ人役人というもンだ。覚悟をしろ、逆に召捕ってくれるから」
とたんに、彼の姿と小舟をつつんで、一せいに矢かぜが唸った。けれど同時にザンブとばかり水ばしらを宙に残して、阮小五の影はもう青い水中に透いて見え、怪魚のごとく泳ぎ廻っていたのだった。
「しまった。──逃がすな」
水へ向って射込んでも、矢は用をなさず、刺叉で掻き廻しても、投げ鑓を抛りこんでも、笑うが如き泡沫が一面ぶつぶつ明滅するのみである。
ぜひなく、さらに芦間を漕ぎすすむと、やがてのこと、またもや人を小馬鹿にするような鼻唄が聞えた。きッと見れば、こんどは二人を乗せた小舟の影が、さながら水馬のような速さで、同勢のすぐ鼻先を横ぎッた。
「や、やっ。阮小七と阮小二だぞ」
「引ッ捕えろ。何をしている」
何濤が、叱咤すると、彼方の舳では、
「何濤、この江には、間抜けに釣られる魚はいねえぜ。それとも蜻蛉捕りか」
竹の皮笠に、半蓑を着、手に管鎗を持った男が、白い歯を見せてからかった。
怒りにまかせて、何濤は手の鎗をぶんと投げたが、むなしく水面に落ちてしまう。そのほか群舟の一せいな攻撃も、先の小舟は尻目にかけて、彼方の水路へさして一散に逃げ込んで行く。そのまた舟脚の速さといったらない。
「しめたぞッ」と、何濤は一同を鼓舞した。「──両岸はもう浮巣の島だ。この水路にはきっと、どん詰りがある。いまの二人を追いつめろ」
ところが、予想はちがった。まるで逆だ。進めば進むほど水路は狭まり、そこへ沢山な捕盗船が無二無三につづいて来たため、舳と艫、櫓と櫂などが絡みあって、果ては味方同士、にッちもさッちも動けなくなってしまった。
「ええい、程にしやがれ、まごつくのも」
何濤は部下を罵ッた。
「てめえたちは、日ごろ陸の上だと、目から鼻へ抜けるような奉行付きの人間どもじゃねえか。いくら水の上だって、このざまア何だ。──少し退がって、横の沼へ出ろ、沼の方へ」
それからすぐ、十人二十人ずつを、手分けして、
「広くもねえ浮巣の島だ。葭の根を分けても程が知れている。奴らの隠れ家を見つけて来い。いや見つけたらすぐ合図をしろ」
と、陸へ放った。
ところが、その幾組もが、いつまで待っても一ト組とて帰って来ない。やがて陽は傾き、蕭条たる水も芦も茜いろに染まっていた。
「やい、この小舟に、五、六人乗り込んで俺について来い。おれ自身、廻って視よう」
赤い沼のおもてを、彼の早舟は影黒く、岸から岸を二、三十町ほども漕ぎ巡っていた。──と鋤をかついだ百姓の影が岸にみえた。何濤はそれへ呼びかけて、
「ここは何処だい。お百姓」
「旦那は何だね」
「見た通りだ。官のお役人よ」
「こんなところに、なんの御用かえ、ここは断頭溝ッてえ、沼の袋小路でがすぜ」
「阮の兄弟の漁小屋があるだろうが」
「あ。そんなら、すぐそこの林の蔭ですわえ」
「や、ありがてえ」
何濤の起つより早く、手下の捕手三人が先へ陸へとび上がった。──それが土を踏むやいな、ぎゃッといったので、何濤は仰天した。待ちかまえていたらしい百姓の鋤が一気に三名をもう打仆している。
「うぬっ」
舟べりから躍って、何濤ともう二人の部下が、汀へ跳ぶと、さながら河童のようなものが、いきなり水中から半身を出して、何濤の足をつかみ、あッというまに、ぶくぶくぶく……と沼底へ深く消え込んでしまった。
「……おおい、小七小七、いい加減に浮いて来いよ」
やがてのこと。
兄の阮小二が、水のおもてを見て呼んでいる。すると、少し離れたところの岸で、げらげら笑っている者があった。いつのまにか、そこで満身の水を切っていた弟の小七である。そばには、何濤の体が、雑巾みたいに、草むらへ抛り出してあった。
「なアんだ、そんなところか。広言どおり、まんまと捕手の総頭を召捕ッたぜ。さあ、料理はこれからだ。……何濤、つらを見せろ」
「ゆるしてくれ、兄哥、このとおりだ」
「わははは。兄哥だなんて言やあがらあ。やいやい日ごろはさんざッ腹、お上の禄を食らって、贅沢三昧、あげくに下々の中を、肩で風を切って歩く奴がよ、俺たちの前に両手をついて、兄哥なんていっていいのかい。……それでおめえ、すむのかい」
「家には、八十にもなる老母がいるんです。どうか一命だけはひとつ怺えておくんなさい」
「おやおや、泣キの手と来たぜ。どうしよう、弟」
「簀巻にして、舟底へ抛りこんでおこうじゃねえか。息の根をとめるなら、いつでもだ」
「よし来た。……じゃあ呼ぶぜ」
小二の吹く指笛が、水に谺してもの凄い。忽ち薄暮を破って数名の漁夫がむらがって来た。その者たちへ、蓆巻きにした何濤の身を預け、小二小七のふたりは、二そうの小舟に乗り分れて、また何処へともなく漕ぎ去った。
「どうかしてるぜ、今日っていう日は」
「おん大将の何濤まで行ッたきり雀で帰って来ねえや。一体どうしたんだろうな」
「あれ、いやな雲だぜ。こいつはいけねえ。空模様まで、ヘンてこになってきやがった」
星屑降るような宵だったが、忽ち芦のざわめき、波を捲く颷風だった。そしてそれとともに、ごうっと冷たいまばら雨をまじえた怪風が、とつぜん、真ッ黒な舟溜りの群れを、山のように揺り上げ揺り下ろした。
「あっ。南無三」
「舟と舟が、芋を洗うようだ。あぶねえ、あぶねえ。舟がぶち壊れるぞ」
まさに、危険はそれだ。舟べりがメリメリいう、櫓がくだける、梶が裂ける。──夕方からここに舟屯して、何濤や仲間の合図を待っていた大小数十そうは、滝壺の中の木ノ葉みたいに揉まれ始めていた。
しかも、それだけではない。沼のはるか風上から、団々たる二つの火が、闇の水面を辷るように飛んで来る──あッと、立ち騒ぐまもなく、それは眼前に来ていた。二そうの小舟に枯れ柴を山と積んだ大紅蓮なのである。
はやくも、炎の柴は、こっちの舟団にぶつかって、凄まじい火を所きらわず撒きちらした。防ぐ手段は何もない。舟から舟へ、火は燃え移り、狂い廻るばかりなのだ。居所を失った人間は、蛙に似ていた。水中よりほかに逃げ場はなく、浮き沈みしつつ火の粉をかぶッた。
なお、憐れをとどめたのは、岸へ逃げ上がった輩である。そこには、
「ござんなれ」
と、待ちかまえていた戒刀の持ち主があった。腕の冴えは、まさに彼の異名、入雲龍の名を思わせるもので、これぞ道士公孫勝その人だった。
さらには、管鎗を持った阮小七だの、野太刀や櫂を振りかぶる小二、小五などの三兄弟のほか、この浮巣島の漁民十数人も加わって、
「──一匹も生かして帰すな」
と、うろたえ廻る官兵を追っかけ廻したものである。そのうえ彼らの逃げまどう先々もまた、いたるところ、野火の焔と化している。
暁もまたず、大小の捕盗船はことごとく覆没し、あわれむべし、この夜助かった捕兵といったら、そも、幾人あったろう。──やがて夜は白み、水のおもての狭霧には、まだ黄いろい余煙が低く這い、異様な鳥声が、今朝は劈くように啼き響く。
「どうだ何濤。ちったあ懲りたか」
「さあ、こんどは、てめえの番だぞ」
「首の座となってから、泥亀みてえに手を合せたって追いつくもんか。きれいに往生しやあがれ」
阮の三兄弟は、ゆうべの小舟の舟底から、簀巻の何濤を引っぱり出して、岸の上にひきすえていた。
やや離れたところに腰かけて、ニヤニヤ笑って見ているのは、公孫勝と晁蓋だった。──晁蓋はほとんど蔭の指揮だけをして、ゆうべの修羅場には腰の一刀も抜いてはいない。
「おい、三兄弟──」と、その晁蓋は、頃あいをみて言いだした。
「やっちまう気か。よせよせ。そんな奴、斬ッたところで、何になるものか。それよりは、押ッ放してやれよ」
「えっ、助けてやれと仰っしゃるんですか。そんなお慈悲は、済州の百姓町人にとっちゃ、かえって恨まれもんですぜ」
「なアに、これほどな目をみせて帰しゃあ、もう人民いじめの元気も出めえ。それに事の次第を、そいつの口から、済州奉行所やら都の蔡大臣へも、つぶさに報告させたほうがいい。おれたちはコソ泥じゃあねえ。当代宋朝の腐れ大官や悪役人どもと対決しているんだ。帰してやれよ、そんな三下は」
「ちぇっ、命冥加なやつだ。おい小七、晁蓋さまのおことばじゃ仕方がねえ。ご苦労だが、こいつを石碣村の街道口まで持って行って、押ッ放してこいや」
「よしきた、ちょっくら、行ってくるぜ」
早舟を漕がせて去った小七は、やがて、二時間ほどもすると、帰って来た。そして四人にこう復命した。
「ただ帰しても、どんな法螺を吹くかしれず、また人民の中で威張りさらすかも知れねえから、匕首で奴の両耳を削ぎ落してくれましたよ。すると野郎、火の玉みたいな顔をかかえて、赤蜻蛉みてえに、素ッ飛んで行ってしまった」
「ま、それくらいはいいだろう」
晁蓋も苦笑し、ほかの三人も笑いあった。
そしてさっそく、その日の午後、江を渡って、さきに呉用と劉唐が行って待っている梁山泊の渡口──李家の四ツ辻にある──偽茶店の亭主朱貴のところで七名全部、落ち合った。
林冲、王倫を面罵して午餐会に刺し殺すこと
ここに一軒の偽茶店を構えて、多年、梁山泊の渡口を見張っている旱地忽律の朱貴だったが、まだかつて今日までには、こんな堂々たるお客様を、お迎え申したことはない。
しかも、七人連れ、いずれも一トかど。
ずいぶん人間という人間は舐めつけている朱貴だが、この一行には、多少畏れを抱いたようだ。七名中の最年長者、智多星呉用の口から、これへ落ちて来たいきさつの一ぶ一什と、各自の年齢、異名、苗字姓名までをすっかり聞き取り、それを書状にするやいな、すぐ手下の一人に命じて、対岸の山寨へ持たしてやった。
「何もございませんが、頭領からおゆるしが参るまで」
と、その晩は、羊を屠り、酒甕を開いて、一同をもてなした。
山寨の返牒は、夜半に来ていた。夜明け早々、かなりな大船が廻されてきた。案内として朱貴も乗り込む。
この朝の彩雲はすばらしい。いちめんな芦の洲は、紫金青銀の花を持つかと疑われ、水は色なくして無限色をたたえる瑠璃に似ていた。漕ぎすすむことややしばらく、近づく一口の江の蔭から、たちまち銅鑼や鼓笛の音がわき起った。見れば、一陣の物見舟である。賓客の礼をとって、歓迎の楽を奏したものか。
さらに、二つの江の口を過ぎると、やがて金沙灘の岸には、幾旒もの旗と人列が見えた。頭領の王倫以下、寨中の群星が、関を出て、立ち迎えていたものだった。
七名、船を出て、粛とした沙上へ進む。
晁蓋の礼をうけて、王倫が大容に言った。
「あなたが、世間で名高い托塔天王の晁蓋どのか。ほかの方々の尊名も、昨夜書中でみな伺った。いずれも名だたるお人々、いや山寨にとってもこんな光栄なことはない」
「どう仕りまして。そう仰っしゃられてはかえって身が縮む。てまえは名主あがりの無学者。ほか一同も、今は天下に身のおき場なき巷の落人。ただただご仁義の下におすがり申すばかりです」
「ま、ここではご挨拶も。……ともあれ、山の本郭までお越しなすッて」
と、王倫は先に立った。
閣に閣を重ねた梁山泊のいわば本丸。そこを〝聚議庁〟とよんでいる。
庁堂の一段たかいところに、王倫以下のものは左列を作して居流れ、晁蓋たちは右側に並んだ。寨中の小頭目たちは、ことごとく階下だった。
ここで順次、正式の名のりがおこなわれ、鼓楽、歓迎の祝辞などあって、
「お疲れでしょう。あらためて、いずれ後刻」
と、客側は、朱貴にみちびかれて、一応、客廊を渡って客舎の棟へひきしりぞく。
さて、午後からは大宴だった。二匹の牛、十匹の羊、五匹の豚が、あらゆる物に調理され、酒は山東の生粋、秋果はこの山の実りだし、隠れたる芸能の粋士もまた寨中に少なくない。歌絃、管笛は水に響き、雲も答えるばかりだった。
「……ああ、つい酔った。久しぶりだ。こんな愉快な日はない」
よほど欣しかったとみえ、晁蓋は、客舎の自房へ帰って来てからも言っていた。そして側にいる呉用へ向って、
「先生、まったく渡る世間に何とやらですな。寄るべない一同を、こんな温情のもとに迎えてくれた王倫の心のあたたかさ。なんと感謝していいかわからない。きっと恩義には報いねばならん」
「あはははは。ハハハハ」
「や、先生としたことが、なにを冷笑なさいますか」
「余りにお人がいいからじゃよ」
「晁蓋がお人よしですッて」
「そうだ。さいぜんも酒宴の席で、あんたは王倫と杯を交わしながら、何度もそれを言っておられた。また、賊にはなっても不義無情の徒にはなるまいとか、世相の不平、悪政への怒り、胸を開いて、さまざま訴えておいでたろうが」
「それが、なぜいけないので」
「いや、そのことではない。──さらに話がすすんで、断頭溝の奇策やら、何濤を押ッ放してやったこと、公孫勝や三兄弟の豪傑ぶりなどを披露におよぶと、王倫の顔は、さっぱり冴えなくなってしまった。のみならず、眼は狐疑をあらわし、暗にあんたやわれわれを、忌み恐れる風もみえた」
「はてな。そいつア、気がつかなかったが」
「彼の幕僚、杜選、宋万の二名は平凡、ひとり豹子頭林冲なるものこそ英俊と見えた。──林冲はいぜん京師で、近衛軍の兵法師範を勤めていた者とか。おそらく彼は心から王倫に服している者ではないとおもう」
「王倫の小人物であることは、かねがね聞いてはいましたが、しかし、ここへ来て、こう厄介になる以上は」
「いや、どっちみち、このままではおさまらんよ。わしに一計がある。寨の内輪に同士討ちを起させ、一ト波瀾はみようが、その上でここの不満不平を一掃させ、そして規律と序列を正そう」
翌朝のことである。──前夜、噂をしていた林冲が、朝のあいさつに見えた。
呉用が、皆に代って、昨夜の礼をのべると、林冲は、薄ッすら笑って、
「いや、ほんとのご歓待なんてものは、形や物ではありません。その点、御気色にさわるふしもありましょうが、それがしは寨中の末端者だし、何かとつい行き届きません。どうかおゆるしのほどを」
「おことばで充分だ」呉用は、親しみを示して、なお話しかけた。「──ご辺のお名まえは、夙に都の東京でも名高い。さるを何で、高俅(宋朝の権力者)に厭まれ、滄州の流刑地などへ追いやられた末、かかる所にまで身を落されておいでたのか」
「高俅」
きっと、林冲は唇を噛んで、
「──高俅と聞くだけでも、この髪の毛が逆だちます。流刑地のくるしみも、涙なくしては語れません。……が、恩人柴進どのの添え状に依り、ここへ仲間入りできたものです」
「と、仰っしゃるのは、あの小旋風柴進と世に響いている大旦那ですか」
「されば、古い周皇帝のご子孫だとも伺っている、あのお方です」
「ほ。そんなお人の推薦もあり、しかもまた、ご辺ほどな履歴と腕のある人物を、なぜ王倫は、寨の主座にすえないのでしょう」
「はははは。拙者などは、彼の下風でも、あまんじましょう。しかし、あなた方には、必ず非礼の惧れが生じる。それがちと不安です。せっかく加盟のお心で臨まれ、寨上に花を添えた心地ですが、さあその点が……」
「王倫が本心では、よろこばないので?」
「嫉妬があの人の瑕です。人を容れる度量がなく、疑い深い。もうここまで申し上げたのだから申しましょう。じつはここの客舎も、関外の低舎です、まあ、ざっとした通り一ぺんの旅人を泊らせる雑房にひとしい粗末。じつはその失礼も、おわびせねばなりません」
「いや、ご辺のおさしずではない。なんのなんの。……しかし王倫がそこまで吾々を気厭くきらッているのだったら、一同は山寨の和を破らぬため、即座に退散してもよろしいが」
「お待ちください。かえってそれは、頭領と拙者どもの間に、異な感情をわきおこしましょう。王倫主座としては、あきらかに、あなた方を、ていよく追っ払うつもりでいますが、せっかくな天与の邂逅、なんとも、拙者にはお別れしにくい。いや皆さんと、このまま、むなしく袂を別ってよいものか。……ま、それがしにお任せあって、お胸をなでていて下さい」
林冲は耳をほの紅くして去った。そして午ごろ、南山の水寨から、その日再び、午餐の招待があった。
会場へ行くべく、みな身ぎれいに、支度しだした。その間に、晁蓋が小声で、呉用の耳へささやいた。
「どうでしょう、この午餐会は」
「何事か、起らずにいまいな。……おそらくは林冲が、くち火を切るに違いない」
「そしたら、黙って見ていますか」
「やれば、やらせておく。もし王倫と林冲の二人の舌火が、あやふやな妥協にでも終りかけたら、この呉用が横ヤリを入れ、三寸不爛の舌さきで、二人の舌戦を煽り立てる。見てござらッしゃい」
「それやおもしろい」
晁蓋もいまはすっかりその気になった。そこで呉用は、他の面々へも、言いふくめた。
「……いよいよの土壇場いざとなったら、この呉用が、左の手で、こう髯をひねる。……と見たら、おのおのは一せいに、隠し持った短剣でな。……よろしいか、髯が合図でおざるぞ」
客舎を出ると、宋万が騎馬で迎えに来るのに会った。七台の山輿を舁いだ山寨の手下が、七名の客を乗せて、山ぞいを蜿り、峰道を越え、やがて南山の一亭へと運んで来た。
閣は水に臨み、欄は外洋の眺めまでを入れ、風光なんとも絶佳である。
主客の列は、左右に椅子を並べて分れた。捲き掲げた珠簾の下から、後亭の池園を見れば、蓮葉のゆらぎ、芙蓉の色香、ここも山寨の内かと怪しまれるほどである。やがて酒もめぐり、談笑にわき、午餐会もようやく酣と見えてきた。
しかし、誰の口からでも、ふと話題が、七名の仲間入りのことになると、王倫はすぐ話をほかへそらしてしまった。そのたびに、白々しい空虚ができる。そして、木に竹をついだような話が宋万や、杜選の口から、無理に出された。
午餐なので、杯盤はまもなく退げられ、甘い酒と、果盆が代って出た。いや、さらに美々しい一盆には、五箇の銀塊が乗っていた。
「──ところで、豪傑がたに、心ばかりなお餞別を仕りたいが」
王倫は、突如として、その銀塊の盆を、晁蓋のいる卓の方へさし向けた。
「思わざるご来訪、王倫、身にとってこんな欣しいことはござらん。しかし、ごらんの通りな波濤に囲まれた一山寨、いわば雨水の溜り桶を分けて暮らしているようなもの。龍宮住居というわけのものでもない。……で些少なれどこの銀子をお持ちあって、諸州を見くらべ、他の大きな寨に身を寄せ、おのおののご雄志を充分に、よそで伸ばしていただきたい」
晁蓋は、来たナと思ってか、くすんと微苦笑を、鼻で鳴らした。
「いやこれは、とんだご会釈です。一同浪々の身なので、どいつもこいつも寒々しくお目に見えたかもしれませんが、じつは小遣銭ならあり余っているのです。せっかくですが、ご斟酌なく」
「なぜ取ッて下さらんのかな。ご遠慮は抜きにしましょうや」
「お心の底は見えた。しからば、これで私どもはおいとまいたしますよ」
「ま、そういわんでもよかろう。何も無下に仲間入りをお断りするわけじゃない。じっさい、冬にでもなると、この大家内、糧や酒は足らなくなるし、住居も不足でな」
ここまで、黙って聞いた林冲は、ついにその双眉をきっと青白い炎にして、末席の椅子から大喝を発した。
「嘘を申せっ、王倫っ」
「な、なんだと。きさまは林冲、頭領のこのほうに、何をいうか」
「聞いてはおれん。そもそも、拙者が初めてこの山寨を頼って来たときも、いまいったのと同じ口上だったではないか。しかも、穀倉には蓄えも山と積みながら」
「だまれ、この忘恩の徒め。──柴進旦那の紹介と思えばこそ、能もないのに、むだ飯食わせて飼いおけば、いい気になって」
「能なし?」
「山寨へ来てから、どれほどな功をたてたか」
「まさに何の稼ぎもしていない。しかし、汝もまた、無能の飾り物ではないか。官途を望んだ落第書生が、流浪の果てについこんな巣を見つけて、やくざを集めたというだけのはなしだ」
「いったな林冲、後刻、眼にもの見せてやるぞ」
「おお、いま見せて貰おうか」
「喝ッ。うごくな」
せつな、呉用が大手をひろげて、両者の間に立ちはだかった。
「ま。お待ちなさい。……要するに、これはわしたちがこれへ来たことがいけなかったのだ。晁蓋さん」
「おう、先生。なんですか」
「見た通り、わしたちのため、とんだ不和を山寨に招いてしもうた。きれいに、お暇して、ここは退散しようじゃないか」
眼くばせすると、ほかの五名も、いちどに、どやどやと椅子を離れて、
「さあ、行こうぜ」
とばかり、一トかたまりになって、亭の階段を降りかけた。
王倫も、これにはちょっと、いやな気持ちを覚えたらしい。あわてて、追っかけるように、
「やあ待ち給え。そいつはちと気が早い。もう一盞、機嫌直しを飲って、こころよく乾杯した上、お別れしよう」
とたんに、末席の椅子が、横に仆れた。卓の果盆も引ッくりかえる。ずかずかと、林冲の大きな背丈が、王倫の方へ真ッ直に向って来かけたのである。
と見るや、呉用は、
「えへん!」
と、咳払いしながら、左の手で、長いあご髯を一つ横へしごいた。それを合図に、
「あっ、同士討ちはおよしなさい」
と階段の中途から、皆、どたどたと引っ返して来た。戻るが早いか、阮小二は杜選に抱きつき、小七は朱貴を、小五は宋万を抱きとめた。
そして、晁蓋と劉唐とは、ぴたと、王倫の両わきへ寄り添い、
「まあ、そうお腹を立てないで」
と、袂の下から、環帯の腰の辺を、ぎゅっとつかんで離さない。
「なんたるつらだ。王倫っ。それが頭領の態度か。恥を知れ、この落第書生め、仁義の皮をかぶッた偽者め」
一方の林冲は、なお罵りつづけている。その林冲の胸先をかろく制して、呉用の位置は、彼を遮るような恰好を見せてはいたが、眼は王倫の姿を焦点に燿いていた。
「女の腐ッたような奴だ。それで梁山泊の頭目などとは片腹いたい。いやこの梁山泊は、きさま一個のものじゃあない。人をそねむ賊の頭目など、舌を噛んで死んじまえ。さもなくば、きさま自身、どこへでも立ち去るがいい」
林冲は罵りつづける。その面罵に、王倫はぶるぶる五体をふるわせ、地だんだを踏み鳴らしたが、足掻きも、前へは踏み出せない。
しかもまた、杜選、朱貴、宋万といった手輩も抱きとめられてはいるし、辺りの空気もただならないので、みずから行動には出なかったが、
「喝ッ。き、きさまたち……この王倫が、こんなに侮辱されているのを見ているのか。やあ。わしの味方はどこにいるんだ。ほかの手下ども、林冲を捕り抑えろ、ぶッた斬ってくれねばならん」
と、吠え猛った。すると彼のその鼻さきへ、
「おおもッともだ。さあ、斬っておやんなさい」
と、呉用が手を退いて、林冲のからだを、突き放してやったのだった。
王倫は、佩剣へ手をかけた。しかし抜けない。いやそれよりもはやく、豹子頭のその青額が、低くどんと、彼の心窩の辺へぶつかって来た。同時に、その脾腹へ深く刺しこんでいた彼の手の短刀が、しずかに王倫の立ち往生のままな苦悶を抉っていた。……ポト。ポト。ポトと音せわしく糸をひいて垂れた鮮血は、絨毯模様のような緋牡丹を床の足もとに大きく描いた。
「…………」
どたんと、林冲は、王倫の大きな図ウ体を、手から離した。晁蓋以下も、みな片手に白刃を隠し持っていたのである。呉用は、大音声で言った。
「言い分のある者はここへ出て来い。──今からは豹子頭林冲をわしたちの頭領として、山寨の主座にいただこうぞ。文句はないか」
朱貴、杜選、宋万らは、床にへたばッて、ただ叩頭するのみである。堂外の手下や小頭目もみな、わっと、どよめきを揚げただけで、その後の声もない。
だが、林冲のみは、仰天してこう叫んだ。
「滅相もない宣言だ。先生のおことばとも思われん。それではこの身の立つ瀬がない。頭領を殺して自分がその位置を奪ったことになってしまう。そんな事ア出来ない。義に生きる仲間同志のいい笑い草だ。無理にと押しつけるならぜひもない。林冲はどこかへ姿を隠すしかございませんぜ。……それよりもどうか、この林冲の意見を、皆してお聞きねがいたいんです。さ、それを聞いてくれますか、くれませんか」
「聞きましょう!」と、異口同音にみな答えた。
「──ほかならぬ、あなたのご意見とあるならば。これや静粛に、伺わずばなりますまい」
人の仏心は二婆の慾をよろこばせ、
横丁の妾宅は柳に花を咲かせる事
さて。林冲の提言とは、こうであった。
「人には天性おのずから器というものが備わっている。林冲は器にあらず。晁蓋どのこそ人の上に立つべきお人だ。晁君を以て今日より山寨の首長に仰ぎたいと思います。ご一同にも、ぜひご賛成ねがいたい」
「いけません、いけません」
晁蓋は手を振って固辞した。──そんな柄ではないと、再三再四断ッたが、すでに満堂一せいの拍手だったから、林冲はすばやく、
「では、諸兄にもご異存はありませんな。晁頭目、衆議の決ですぞ」
とばかり、彼の手を取って、正座の一番椅子に据え、その前に香炉台を置き、王倫の兜巾を外して、晁蓋の頂に冠せた。
「いざ呉用先生。先生は軍師として、第二席にお着きください」
「とんでもない。わしは根ッからの寺小屋師匠、孫呉の智識など思いもつかん」
「ご遠慮は無用、先生がそう仰っしゃると、あとが困ります。──第三は、道士公孫勝どの、先生の帷幕を助くる副将として、ご着位のほどを」
「それやいかん。林冲どの、あなたこそ、その位置に」
これは一同で薦めたのだが、林冲はなお譲ッて四番目の座を取った。
五位には劉唐、六位に阮小二、七位に小五、八位に小七。──それから杜選は九位にすわり、宋万は十位、朱貴が十一位と順位はきまって、ここに新選梁山泊の主脳改組もできあがった。
あくる日、これを全山に布告して、聚議庁は清掃された。星を祠る祭壇には牛馬の生血を供え、天地神明に誓いをなした。
「さあ、飲む時は飲め。三日間は遊び飽きろ」
祝いは毎日つづいた。島は祭り気分である。穀倉も酒倉も押ッ開かれた。しかし胃の腑には限度があった。七、八百の手下どもはまったく堪能したかたちだった。
しかしその後は、刀、弓、箭、戟、矛などを寨門に植え並べ、陸上の陣稽古、水上における舟いくさの教練など、いや朝夕の規律まで、前よりもはるかに厳しい。
けれど、晁蓋の大人の風、呉用の学識、公孫勝や林冲の英気などが、自然、下風に映るものか、不平などは見たくも見られない。それどころか、一種の和楽が醸し出され、それが一だん男仲間の結束と侠を磨き合った。
まもなく、灰色の外洋に冬が来る。
霜白き芦荻には、舟が氷りつき、鴻雁の声も、しきりだった。
「都に残した妻はどうしているだろう?」
ふと、雁の渡るを見ても、林冲は独り腸をかきむしられた。或るとき、その想いを呉用や晁蓋に語ると、もっともだと同情して、さっそく人を派して山寨に迎え取らせることにした。ここの山蔭の一端には、先に呼びよせた阮兄弟の老母や妻子を初め、子供だけの一部落もあったらしい。
ところが、二た月ほど費やして、やがて帰ってきた使いの話によると、林冲の妻は、その後も、高大臣父子の迫害やら、無態な縁組みに迫られて、ついに自害して果て、彼女の父親も、首を縊って死んだという報告だった。
「……そうか。さぞ口惜しかったろう。しかも良人のわしにそれほどまで、貞操をたてていてくれたのか」
林冲はポロリと涙をこぼした。かかる男でも、泣くことがあるのかと思い、晁蓋や呉用までみな瞼を熱くした。
──春の訪れと共に、梁山泊に一舟の注進が聞えた。──再編成された官軍の捕盗船隊三、四百艘が、石碣村の入江から沖を埋めて、機を窺っているという報である。
しかもこんどの総指揮官は、済州奉行所付きの黄安という者で、手勢二千人、戦備も前よりは格段な物々しさであるという。
「さア、いらっしゃい。氷も解けたし、雑魚も蓮の根から泳き出す陽気だ。──こち徒にとっても、長い冬籠りの退屈醒ましにはちょうどいい折、いでや眼にもの見せてやろうぜ」
山寨の驍勇どもは、手に唾して待ちかまえた。──かくて、金沙灘沖の水戦は展開され、颷蕩たる白浪は天を搏ち、鼓噪は芦荻を叫ばしめ、二日二た夜にわたる矢風と剣戟と、そして雲に谺する喊声のうちに、さしもの官船数百隻を、枯葉のごとく粉砕し去った。
げにも皮肉だ。この一戦こそは、求めもしないのに、官から賊寨へ、わざわざ貢ぎの贈り物を運んできたようなものだった。分捕り品だけでもたいへんな量である。馬匹数十頭、兵舟百余艘、弩弓、よろい甲、石火矢砲、帆布、糧食など、すべて梁庫に入れられた。
「冬じゅうの居食いで、山寨の倉も少々お寒くなっていたら、この到来物ときたぜ。なんとこんな疾風なら、ときどき襲せて来てもらってもいいな」
凱歌の角笛は、春を高々と吹き鳴らされ、梁山泊の意気、ここに全く革まる概があった。
それにひきかえ。
船も装備もみな失い、あげくに、指揮者黄安も賊に生け捕られ、散々なていで済州へ逃げ帰った官兵は、ただ事の顛末を奉行所の門へ哀号し合うだけだった。
折ふしまた、庁内の接官亭には、蔡大臣の使者と、大臣府の辞令を帯びた新任官が、都から到着していた。──それにより、旧奉行は官職を解かれ、旅装して、ただちに開封東京の問罪所へ出頭すべし、との厳令なのだ。
「さては、責任を問われるのか」
と、旧奉行は青くなって萎れたが、新任の奉行もまた、門前の哀号を耳にして、
「なんと。お取立てと思ってよろこんで下向して来たら、豈はからんや、こんな土地の、こんな群盗退治が、これからの仕事なのか」
と着任早々、ぼやいている。
とまれ両三日のまに、事務引継ぎもすまされ、旧奉行は都へ召還されて行ったが、やがてこの奉行交代の通知とともに、梁山泊にたいする協同警戒の布告が、隣県鄆城の県役署へも廻送されて来たのだった。
鄆城県の知事時文彬はいま、庁の書記長の宋押司に、一書類を示して、
「どうも気の毒なことになったな。済州の奉行は失脚して、次の新奉行と代ったらしい。これは先の七人組の大盗の逃亡始末と、梁山泊一帯の地理やら内容を報じてきたものだが……。ひとつ、これを書記班で複写させて、至急、県下一帯の郷村に配布させてくれんか」
といった。
「承知しました。大変ですなア、どうも」
宋江はすぐさま、書記室へ行って、その手順をとった。
彼には若くて頭のいい助手がある。張文遠という者だった。村里への配布は張にまかせ、黄昏れごろ、宋江は、役署を出て、いつも見馴れた町角へかかってきた。
「おやまあ……。これはこれは、押司さまじゃございませぬか」
出会いがしらの声に、誰かと思えば、横丁に住む周旋屋の王という痩せ婆さんだ。この口達者な婆さんがまた、もひとり後ろに、肥ッちょなでぶ婆さんを連れていて、
「閻婆アさんよ、お前はまあ運がいいよ。ついさっき、私がお噂をいってたろ。……あの押司さんだろうじゃないか。よくよくご縁があったんだよ、さあご挨拶でもおしなねえ」
「これこれ婆ども。ご縁があったとは、一体なんのことだ」
「まア押司さん、お聞き下さいましよ。ゆうべポッキリと、閻の老爺が亡くなりましてね。……酒のみで、歌謡狂いといわれた道楽者じゃござんしたが、あれでも親娘三人ぐらしの稼ぎ人だったんでございますよ」
「ふム。……それは可哀そうに」
「まったく、気のいいおやじさんでございましたからねえ。それだけに押司さま、死んだあとは借金ばかり。……それでまアお葬式も出せないッて、私みたいなところへ泣きつきに来るような始末。ところがこの私も、病人やら物費やらで、このところ、どうしようもございません。……こんな往来中で、なんともかンともすみませんが、お慈悲と思し召して、この閻婆に、棺桶の一つでも、お恵みなすってやっちゃあ下さいますまいか」
「王婆、ほんとかね、それは」
「まア旦那、なんだって、お葬式をタネに嘘なんかいえましょう」
「じゃあ、これも仏への供養だ。わしの名刺を持って、葬式屋の陳三郎の店から、棺桶と華を貰って行くがいい」
「あれ、まあ。やっぱり宋押司さまは、噂にたがわぬお情け深いお方だった。さア閻婆さんよ。なにサ、おまえのためじゃないか。お礼をお言いよ、こっちへ来て、お礼をさ」
「よせよせ、往来中でそんなペコペコをくり返すのは。しかし、棺桶一ツだけでは始まるまい、雑費はあるのか」
「とんでもない。棺桶にさえ、途方に暮れていたところ、お供えのお団子や煮しめ一つ買うお金さえも、じつはもう……」
「ないのか。じゃあ仕方がない。これで万端をすますがいい」
宋江は、持ち合せの銀子二枚を与えて立ち去った。
歓喜した婆さん二人は、眼でも眩したようにチョコチョコ露地の横丁へ走り込んだ。そこの露地からは、翌日葬式が出た。また数日おいて、王婆さんは饅頭を持って、宋押司の自宅へお礼に行って戻って来た。
「世間もひろいが、まア、あんないい人って見たことないね」
──王婆さんは、賞めちぎるまいことか。そのあげくに「……行ってみたら、ご家族はみんな宋家村においてあって、この町では、まるで書生さん同様な下宿暮らしの独り者さ。それでいて、人の貧苦はよく見てやるんだから、全く感心しちゃったね、出来ない芸だよ」
「あたしにとッても大恩人さ」と、閻婆も負けずに褒めたたえた。そして、苦み走った好い男だの、横顔の容子がいいのと、男振りの品さだめまでしたあげく、
「これでわたしが、もう三十も若かったら、あんな人を独り下宿屋などに寝かしちゃおかないんだが……」と口惜しそうに言ったりした。すると王婆はげたげた笑って、
「なんだね、お前さんたら、まだそんな色気があるのかい。婆惜さんというあんな妙齢の娘を持ッてるくせにさ」
「措いとくれよ。この年じゃあ、どう思っても、高嶺の花だぐらいなことがわからないでどうするもンかね。だからもし、押司さんさえよかったら、わたしゃあ娘の婆惜を、あのお方に持っていただきたいと願っているのさ。わからないかえ、それが本心なんだよ」
「ほんにねえ、婆惜さんは十九だっけね。閻婆の娘とは思われないッて誰もいうほど、ひと目見た者はみんな一ト目惚れする縹緻よし。それに芸事といったら、道楽者のおやじさんが可愛がって仕込んだだけに、たいそうなもんだのに」
「それやあお前、こんな山東の田舎とは生れが違うよ。死んだおやじがまだ都の東京で盛んに商売をやっていた時分は、わたしも朝湯寝化粧だったけれど、あの娘も蝶よ花よと小さいときからの芸仕込み。それを色街の姐さん芸者だの料理屋の楼主が惚々と見ては噂して、ずいぶん養女にくれの何のといわれたものさ」
「ほい、また娘自慢が始まったよ。そうかい、そうかい」
「お茶化しでないよ。こっちが真面目にはなしているのに」
「こっちも大真面目さ。いったいどうするんだよ。押司さんの方は」
「おまえさん、周旋屋だろ。まかせるといってるじゃないか。大恩人の押司さんには、それよりほかご恩返しはないと思っているわけだよ」
「なるほど、ご恩返しにかえ。じゃあ、わたしも欲得なしに一ト肌ぬいでみようかね。ちょっとこの相手は、孔子様みたいで、なんだか恐くて難かしい気がするけれどね」
とはいえ、王の婆さんも海千山千。その男性観にはべつな信条があろうというもの。以後折々に宋江を訪ね、そして宋江の閑暇をよく笑わせ、やがて打ち解けた頃合いを計って、或る日、美人婆惜の執り持ち話をもちかけた。
宋江とてももとより木でも竹でもない。ふと好奇心をもったのは事実である。自分の地位で女の一人ぐらい囲っても誰が怪しむわけでもあるまい。むしろ独居の生活こそ下僚からもいぶかられている。──いや、そう思ったのは、すでに王婆の口舌に口説き落されていたものといえよう。
とにかく彼は、ふと彼に似げない心になって、つい役署の西の横丁に、そっと、近所も静かな一軒を借り求め、そこに婆惜を囲うことになってしまった。
この道のみは、聖賢の道ではどうにも割り切れない。初心な若旦那が、何かに憑かれたようなものだ。反対にわずか一ト月ほどの間に、水を得た魚とも見えたのは閻の母娘である。家具衣裳は買い込むし、髪には珠を、沓には珊瑚を、食べ物の贅沢、臙脂おしろいから香料など、母娘二ツの鏡台の飾りたてはいうまでもない。
が、宋江はそれに惑溺しきれない不幸児でもあったのだ。なるほど十九の婆惜は佳麗絶世といっていいが、その口臭にはすぐ下品を感じ出し、玉の肌にもやがては何か飽いてくる。──自然、泊ってゆくこともない。婆惜も何となくあきたらなかった。男の情炎に焦き爛れたいのに、いつも焦れッたいだけで狂炎の情に突き刺されることがない。もどかしい思いが積ッて自然、不満が醸される。艶眉がそれを怨じて見せても宋江には通じないのだから、なお焦々するし、しまいには男を小馬鹿にしたくなってきた。
ところへ、或る夕のことである。
「婆惜……。今夜はね、ひとつ面白く飲もうと思って、友達を連れて来たよ。婆さん、美味い物をひとつうんとご馳走しておくれ」
めずらしく、宋江が一名の客をつれて来た。
「よう、いらっしゃいました」
婆惜はこぼるるような愛嬌であいさつした。宋江は間に立って、やや羞恥ましげに、
「こちらはね、役署の属僚で、書記室の次長をしている張文遠──またの通り名を、小張三というお人だ。なにかと、仕事の上でもわがままをいっているし、お前もまた、親しくしていただくようにと思ってね」
「どうぞ、ふつつか者でございますが」
鬢の簪を重たげに、婆惜はかしらを下げ、張三もいんぎんに礼をしたが、年ばえから見ても、この二人の対比は、一対の美男美女であったばかりでなく、婆惜のひとみには、張三を見たとたんに、性来の多情がたっぷり色となって、耳朶までほの紅く染めていたにもかかわらず、そばで眺めていた宋押司は、それを嫉むということすらも、知らなかった。
女には男扱いされぬ君子も、山野の侠児には恋い慕われる事
たださえ美人の婆惜が、その夜は、わけても艶だった。宋江へ愛想がいいのは当り前だが、張三への執りなしも並ならず細やかだった。杯のひまにはふと、化粧崩れを直したり、いつのまにか衣裳を着代えて現われたり、いつにない酔艶、妖しいばかりに見える。
「ああ、いい月だこと。今夜は燭もいりませんわねえ。こんな愉しい晩ってないわ」
彼女のいずれへいうともない独り言へ、客の張三は如才なく相槌を打って、
「お部屋を見ますと、ご夫人はいろんな楽器をお持ちですな。音楽はお好きですか」
「ま、いやですわ、ご夫人だなんて」
「じゃあ、婆惜嬢さま」
「ホホホホ、お嬢さんでもないわね私は。……でも、その小嬢だった頃、わたし開封の都で育ったでしょ。そして近所が色街でしたからね、しぜん稽古事は、ずいぶん仕込まれてきたんですって」
「ひと事みたいに仰っしゃるけれど、それじゃあずいぶんお上手なんでしょう。どうです、てまえが笛を吹きますが、ひとつ胡弓をお弾きになりませんか」
「そして、何を奏るの」
「その東京で一ト頃流行った開封竹枝でも」
「開封竹枝、ああなつかしいこと。奏るわ、久しぶりに。……お母さんも、旦那へお酌でもしながら、そこで聴いててよ」
二人は、笛と胡弓を合奏せて、ひとしきり他愛もなく陶酔していた。婆惜が愉しそうであれば宋江の心も愉しむ。妾宅の旦那でこそあれ、いわゆる世の旦那型ではない、彼の君子人的な性質は、女を持っても酒を飲んでも根ッから常日頃の──及時雨、宋公明の人柄をちっともくずす風がない。
だが、女とすれば、こんな堅人は面白くでも酢ッぱくでもないのだろう。一しょに寝てさえ何となく味気ないやらぎこちなくて、地獄で母子が救われた恩人とは思ってみても、ついぞ真底、自分の男と抱きしめる気にもなれぬし、抱きしめられて、枕を外したこともなかった。
「……それにひきかえ、旦那の連れて来た張文遠さんは、役所では旦那の下役だそうだけど、なンてまあ、ほどのいい……」
彼女はその晩、すっかり張三(文遠)に魅されてしまった。色の黒い黒宋公旦那が、色白な張三の肉付きに見較べられては、よけい虫が好かなくなった。恋情は別れ際の眼もとにあふれていたろう。またそこは色道にかけての玄人張三のことだから、
「……ははあ、こいつは、ものになるナ」と、早くも見ていたにちがいない。
その後、いつのまにやら張三は、こッそり、ここへ一人通いをしはじめていた。つまり客ならぬ妾宅の間夫──。娘で食っているおふくろなので、閻婆もそこは巧く逢う瀬のやりくりをお膳立てしてやるしかなかった。後で思えば、これや〝猫にかつぶし〟のたとえ。下役の張三を、わが妾宅へ連れて来たなど、宋江としたことが一代の大失策だったといっていい。
しかのみならず、ひとたび、張三というその道の達人にかかったおぼこ同様な婆惜は、初めて男を知ったなどという生やさしいものではないその性来の性に、われながら持て余してきた恰好だった。元々、淫蕩の血は母の閻婆にあったものだろうが、その閻婆すらが、時には階段の下で舌ウチするほど、二階の帳の内で男にさいなまれる彼女の体が、囈言じみた情炎の悲鳴を洩らしているなども、再々だった。
自然、これは宋江の耳にも入らないわけはない。近所の囁きばかりでなく、婆惜の冷たいしぐさにでも薄々わかった。しかし、それにも彼は、彼独自な考え方で、ぼそと、独り呟いていたにすぎなかった。
「仕方がない。……女のほうからあッちへ血道を上げているのではぜひないことだ。父母が選んでくれた女房じゃなし、なにも、行かないでいればすむことだ。当分、足を抜いていよう」
近ごろは、とんと婆惜のことも忘れ、県役署へも精勤して、さばさばと、今日もそこの門から宋江は退庁していた。
時刻は、たそがれ頃である。
町角の髪結床で、ひげを剃らせていた旅人ていの男がふと、往来を行く彼を見ていた。
「おや、あれやあ、宋押司さんじゃねえか」
「お客さん、ご存知ですかい。あのお方が、及時雨といって、県でも良吏と評判な宋押司さんでございますがね」
「そうか。置いたぜ、髪結い賃を」
「あッ、だんな、まだ片鬂が残っていますよ。それにおつりも」
「いいよ、いいよ」
男は後も振り向かない。
八ツ乳の草鞋に、白と緑の縞脚絆、野太刀をぶっこみ、片手に范陽笠という身がるさ。
燕のように軒並びの町の灯を過ぎって追ッ馳けていって、
「もしっ、お待ちなすって」
と、宋江の後ろ姿へ呼びかけた。
「え? 私ですか」
「お見忘れでござんしょうか。名主の晁蓋さんの屋敷に身を寄せていた者の一人。赤髪鬼の劉唐でございますが」
「あ。あの赤馬どのか。……これは驚いた。意外な所で」
「おなつかしいやら、あの節のお礼やら……。ま、何から申していいか分りません。ちょっと、そこらの酒屋までお顔を拝借できますまいか」
町端れの仄暗い一紅燈。そこの二階の小部屋におちつき、劉唐は、野太刀を壁の隅に立てかけると、下にひざまずいて、
「……昨年の秋、九死に一生を得させていただいた大恩人の宋江さまへ、あらためて、頭領の晁蓋以下、呉学人、公孫勝、阮の三兄弟などに代りまして、このように、真底、お礼申しあげます。……一別以来のご無沙汰の段を、悪しからずと、一同からもくれぐれな伝言でございまして」
「ヤ、お手をお上げ下さい。給仕人が来る、そんな慇懃では怪しまれます」
「では、ご免なすって」と、劉唐も椅子につき、杯、数献を交わしながら、声ひそめて、「──お蔭でただ今では、梁山泊に七、八百人の子分を擁し、山の規律なども一新してうまくいっております。これもみな、大恩人のお蔭と、晁頭領以下、夢寐にも忘れたことはございません」
「そうかい。それはまあ、みな息災で、何よりでした。それにいい便りを聞かして貰ってわしもうれしい」
「ところで、まことに、失礼ではございますが、何をもって、一同の心をお報いしたらいいかと相談の末、ここに晁頭目のお手紙と黄金百両とを、てまえ托されて参りました。どうぞ一同の寸志と思って、お収めなすっておくんなさいまし」
「それほどまでに……」と、宋江はうやうやしく頭を下げ、
「ではいただいておく」
と、差出された書簡ならびに封金十箇のうちの一箇だけを取って、ふところへ納めた。
劉唐は、ちょっと、まごついて言い足した。
「押司さま。どうぞあとの九十金も、そちらへ」
「いやいや、本来は貰うべきではないが、ご一同のおこころざし、身に沁みてうれしい余り、一封だけは頂戴したのだ。官の年俸もいただいている身、なに不自由な身でもござらん。あとはお持ち帰りあって、よろしく、おつたえ願いたい」
「それじゃあ、てまえが困ります。ご恩報じの使いとして来て」
「でも、おこころざしは、これで充分いただいたのだから」
「ところが、山寨の内も、王倫が頭だった頃とちがって、掟きびしく、いやしくも、使命をうけて、使いの役を果たせないなンて奴は、仲間の内に、面をおいてはいられません」
「では私から、ご一同へ宛てて、一札、返書をしたためましょう。それならお顔も立とうし、私の心もとどく」
さっそく懐中硯を出して、一文を書いて封じ、なおお互いの消息を、なにくれとなく語りながら、彼も劉唐も、思わずぼうと頬も染まるほど数角の酒をかたむけ合った。
「じゃあ、お名残はつきませんが、山寨でも一同待っておりましょうから、これでお暇を」
二人は、酒店の横の露地を出た。──ちょうど初夏ごろ。宵の月がまんまると、町の屋根の上に出ていた。
「ここからすぐ、山寨へ向けて、お帰りか」
「いえ、あのせつ、県の与力の雷横さんと朱同さんにも、蔭ながらお助けをうけたので、ついでにそちらへもちょっと、お礼を言ってこいと申しつかって来ましたんで」
「左様か。礼はよいが、しかし、金などは一切やってくれぬほうがいいな」
「へえ。いけませんかね」
「雷横もいい人物だが、与力のくせに、大酒呑みだ。身不相応な金などは持たせぬほうが当人のためだろう。……かたがた、事件いらい、ここの町には目明しが増員され、わけて他州者にはすぐ犬が尾くぞ、油断はあるまいが、気をつけるがいい」
「ありがとうござんす。ヘンな禍風でも背負った日にゃあ大変だ。さっそくに退散します。どうかまあ、押司さまにはごきげんよう」
いうやいな、劉唐は、范陽笠を眉深にかぶッて、蝙蝠のように、県外の街道へ、消え失せてしまった。
あと見送ってから、宋江は呟いた。「……他人事ではない。危ないのは自分も同様だった。もし、梁山泊の使いと、こっそり出会っていたことなどが、役署の誰かにでも知られた日には……」と、急に宵風も肌にソワソワ刺す心地だった。──で、にわかに足をいそぎかけると、あいにく、辻の出会いがしらに、ばったり、婆惜の親の閻の婆さんにぶつかってしまった。
「あらまあ、だんな、どうなすったんでございますよ。ちか頃は」
「や、閻婆か。なアに、どうもせんさ、役署が忙しいだけのことでね」
「いけませんよ、だんな。てんで、この頃はお見かぎりで……。娘が可哀そうじゃござんせんか」
「でも、達者なんだろ」
「あれ、あんな水くさいこと仰っしゃッてさ。憎いわねえ、いったい、どこの奴が、水を差したんだろう。……さ、とにかくだんな、今夜はお連れせずにいませんよ」
「おい、離せよ、人が見るではないか」
「じゃあ来てくださるでしょうね。道でお会いしたのに、お連れもしなかったなんて聞かせれば、娘は泣いて、わたしに食いつくかもしれません。いいえ、毒でも飲みかねないから」
「おどかすなよ、婆」
「この婆だって。……だ、だんなさまに、これきり見放されたら、ど、どういたしましょう……」
「おや、泣くのかい。往来中で見ッともない。行くよ、行くよ」
宋江は負けた。
閻婆の老舌とソラ涙に負けただけでなく、この君子人にも、おのれに負ける一面があったといえる。微酔以上なそぞろ心地も手助っていたことだし、稀れには、彼女がどんな愛相を見せるかと、ふと見たい気もしたものにちがいない。
悶々と並ぶ二ツ枕に、蘭燈の夢は闘って解けやらぬ事
「オヤ、オヤ。灯りも消えているじゃないか。若い娘って、ほんとにまア仕ようがないね。……だんなさん、ちょっと、ここでお待ちなすって」
わが家の門へ入るやいな、閻婆はわざと大きな声して、階下から二階へどなった。
「むすめよ、婆惜よ。おまえが待ちこがれていた押司さまにお会いしたから、むりやりお連れ申してきたんじゃないか。……そんなに鬱ぎ寝していないで、はやく灯りを点けて、お化粧でもしておきなよ」
すると、真っ暗な二階では、俄にばたばた物音がしだしていた。
「……しッ」
と、そこで声をころしていたのは娘の婆惜である。男と寝ていたものらしい。刺繍の枕も寝台の下に転がし、真白な深股もあらわに、もつるる裳裾を掻き合せている。みだれた雲鬂は、たった今まで、張三の秘術にあやなされていた身もだえを、どんな白裸な狂痴にしていたことか、指で梳いても梳ききれない。
「ど、どうしよう?」
もっと仰天したのは、張三のほうだった。上役のそして旦那の、宋江が来たと聞いては、巣箱を引っくり返された二十日鼠のようなもの。あっちへ打つかりこっちへ戸惑い、チョロつくひまに、婆惜はすばやく、二階の裏窓を開けていた。
「張さん、なにしてんのさ。こっちよ、こっちよ。屋根からお隣の塀を伝わってさ。だけど、向う見ずに跳び降りると溝があるわよ。いいこと。二、三日うちにまた来てね」
男の尻を押し出して、あとの窓を閉め終ると、彼女はもう何食わぬ姿態だった。しぶしぶ蘭燈に明りを入れ、そしてお化粧台から階下を覗いて舌打ちした。
「チっ……。うるさいわね、おっ母さんたら。なにさ、天帝様のお出ででもあるまいし」
閻婆はあたふた上がって来て、
「しっ、静かにおしよ。たんと楽しんだ後じゃないか。少しぐらいな勤めは、商売だとお思いよ」
「いやですよウだ。おっ母さんだって、若い頃には覚えがあるでしょ。なンともかンとも、あたしゃあ、あの虫蝕い棗みたいな押司さんの顔を見ると、胸がムカムカしてきて、義理にもお世辞がいえないんですもの」
「そんなこといったっておまえ、母子こうして、贅沢に暮していられるのは、なンたって、あの人のお蔭だものね。足を途絶えさせちゃったら、こっちの頤も干あがるだろうじゃないか」
「ああ、辛気くさい。来たくないっていうものを、なにもむりやりに連れて来なくってもいいじゃないの」
「そうはいかないッてばさ。おまえもほんとに駄々ッ娘だね、まあ、嘘でもいいからさ、酒でも飲ませて、ぽんとこう背中の一ツも叩いておあげよ、世話になった冥利にさ」
娘の耳へ口を寄せて、一方へはなだめ、一方には、階段の下に待たせておいた宋江へ向って、閻婆はやきもき、両面二タ役を使い分けていた。
「さあさあ、だんな、どうぞお上がりくださいませな。あんまりお見えにならないので、この娘はすッかり辛気になって、この通りなんでございますの。……いいえもう、心のうちでは、お声を聞いて、わくわくなンでございましょうが、わざと拗ているんでございますよ。ほんに、待ち焦れ過ぎた女心ッてものは、ツンとしたり、泣いてみせたり……。ほほほほほ。……はいはい今すぐ階下から御酒でも支度してまいりますから」
あとはあとのこと。二人だけでおけばどうにかなるだろう。閻婆は狡い眼つきを宋江の姿に交わして、するりと階下へ抜けてしまう。
部屋には螺鈿ぢらしの塗卓、朱の椅子。百花模様の帳で室の半ぶんを仕切り、奥に片寄せて寝台が見える。
衣桁の下には、脱ぎっ放しの絹の寝衣やら、刺繍枕が乱れていた。錫の燭台の明りが流れている床に、珠の釵子が一本落ちているのを、宋江もチラと見た風だし、婆惜もはっと気がついた。彼女はついとそれを拾って、髪の根に挿し込みながら、
「いらッしゃいまし。……どこで召し上がったの。いいお色ネ」
「ちょっと役署の友人と会ってね」
「あら、なにもお役署の友達なら、毎日お役署で会ってるんでしょ」
「ははは。どうでもよかろう、そんなことは」
「そうねえ、どうでもいいわ」
そこへ閻婆がさっそく酒を運んで来る。婆は娘の仏頂面に気をつかいながら、お酌して、
「女の虫ッ気って、ほんとにもう、自分でさえどうにもならないもンなのでございますよ。今夜はひとつ……ほほほほほ、だんなの男の腕にかけて、この娘の虫のおさまるような得心をさせてやってくださいませな。……さ、もうお一杯」
「なにか知らんが、たいへん、ご機嫌が悪そうだな。よしよし、婆惜には、私が酌をしてやろう。おい取らないか、杯を」
「……じゃあ、だんな、あとはおよろしく。……あとからまた沢山、お料理を持ち運んでまいりますからね」
逃げるように閻婆は出て行く。──宋江もくだらなくなって、ともに席を蹴って出て行こうとしたが、一ト足先に出た閻婆が、カチャリと外から錠をおろしてしまった。しまったと思ったが、もう間に合わない。
台所へ入った閻婆は、鶏の肉をほぐしたり、窯の火を見たりしながら、内心、舌を出していた。男と女とは、窒塞する場所へ一ツに入れておけば自然なるようになるものというのが婆の哲学だった。やがて焙り肉や羹も出来、飴煮も皿に盛られ、婆はほどよいころと、料理盤を持って、二階部屋をそっと開けた。……ところがである、婆の哲学は、案に相違していた。
「…………」
見れば、どっちも黙りこくって、じっと向いあっているだけのことだった。──呆れた! という顔つきで、閻婆はわざと大きく笑った。
「ま! どうしたの、だんなもこの娘も、まるで花聟花嫁さんだよ。いいえ、この頃の新郎新婦はもっとひらけていますとさ! さあ、これへお箸でもつけて」
また、婆さんの酌である。酌げば飲む宋江だった。酔わせるに限るとしてか、たてつづけに閻婆は酌ぐ。──そのうちに、
「酌いでよ、おっ母さん」
と、婆惜も杯を持った。閻婆はやれやれと思ってか、
「そうれごらんな。やっぱり、お腹のなかでは欲しいんだろ。さあお飲り」
「なにいってんのさ、ひとの気も知らないで。やけ酒よ、これは」
「だんな、やっと、この娘のしんねりむっつりが解けましたよ。だんなだって、殿方じゃござんせぬか。ちっとはその、女ごころにもなって、なンとかしておやんなさいましなねえ。……おっと、あとのお料理が焦げつくかもしれない」
また外して、厨房に戻り、腰を叩いて、
「ああ、なんていう世話のやけるだんつくだろう」
と、呟いた。
それからまた、かなりな時間をおいてから、もう何とかなったじぶんと、抜き足差し足、上がって来てみた。しかし座景は変っていない。依然たる睨めッ子。……ただ婆惜の蘭瞼がほんのりと酒に染まり、宋江も酔って沈湎といるだけだった。いや夜も更けたし、宋江は帰るに家も遠く、進退きわまったともいえばいえる姿であった。
すると誰なのか、こんな深夜なのに、階下からとんとんとんと上がってくる跫音がして、
「押司さんは、ここにおいでですかい」
と扉を叩く者があった。
「なんだえ、まあこの人は?」
内から扉を開けて、男の前に立ちはだかった閻婆は頭ごなしに、がなりつけた。
「──だれかと思ったら、おまえは漬物屋の唐牛児じゃないの。人の家へ断りなしに入ってくるなンて、泥棒のするこったよ。なにサ馴々しそうに」
「泥棒とはひどい。なにも黙って入ってきたわけじゃあねえ。階下でさんざん、今晩は今晩は、といってみたが、返辞がねえから、灯りを見て、神妙に訊きに来たばかりじゃねえか。……ちょっと、旦那にお顔を貸してもらいてえんだ」
「おまえの旦那って、誰さ」
「いわずと知れた押司さまだ。宋公明及時雨さまは、常日頃、おれの恩人とも親分とも思っているお方だが、どうしてもまた、お助けを仰がなくっちゃならねえ始末で、宋家村のおやしきから町中を尋ね廻って、やっと探しあててきたわけさ。あ、いるネ旦那、そこにいらっしゃる旦那」
「オ……唐牛児か」
宋江も声を聞いて、椅子を立ちかけた。
思うらく──これは飛んだいい奴が舞い込んで来たもの──。市井の小輩、日ごろなら顔見るたびに小費いセビリばかりする厄介者だが、時にとっては天来の救い。これを機に、牛児を連れて、この場のヤリきれない泥沼から、ていよく外へ出て行こうとしたのである。
だが、そこは勘のいい海千婆さんのこと。扉口へ立った宋江の体を、何のかのと、花言巧語のありッたけを尽して、元の座へ押し戻しておき、そしてまた、漬物屋の牛児へ向って、
「いけない、いけない。さア、出なよ、出なよ。図ウ図ウしいったらないね、お前は」
「おっ……な、なんだって人を突き飛ばしゃあがるんだ。おらあ、牝豚に用があって来たんじゃねえぜ。旦那にちょっと」
「それが虫のいい無頼漢の科白というものさ。いいかい。日ごろご厄介になっている恩人様が、たまにこうして、世間離れてシッポリと愉しんでいらっしゃるのにさ、何だって、お愉しみの邪魔をするのだい。さ、階下へ降りなよ、降りなってばさ」
「あっ、あぶねえ」
「見損なッちゃいけないよ」
と閻婆は、酒の酔いにまかせて、いきなり唐牛児の横っ面へ、ぴしゃっと一つお見舞い申した。
宋江のてまえ、多少怯んでいた牛児も、こうなっては腕を捲くッて、居直らざるをえない。とつぜん、どたんと家鳴りがしたのは、こんどは婆さんのほうが、壁の下に大きな尻もちでもついたらしい。取ッ組み合いが始まった。しかし婆さんの毒舌と腕力もなかなかである。とうとう唐牛児も尻ッ尾を巻いて、
「死に損ないのどら猫め。覚えてやがれ」
と、捨て科白を吐いて、どうやら露地から往来の方へ逃げ失せてしまった様子。
水瓶の水を柄杓からがぶがぶ呑んで、ひと息入れると、婆さんはすぐもとの二階部屋へあがって来た。そしていよいよチーンと冴え白らけている娘と宋江の仲を笑って、さらにペチャクチャ執りなし言に努めたり、また寝室の帳台を開けて、そこの香炉に、春情香を焚べたりした。
「さあ……枕も二つ、こう鴛鴦に並べておきますからね。娘や。まあおまえも、いつまでそんなに拗ねているのさ。夜が明けてしまうじゃないか。可愛い殿御をお床へ寝せて、もすこし色ようしてお上げなねえ」
遊廓にむかし遣手婆というものがあった。まさにそんな呼吸をよくのみこんでいる閻婆のしぐさ。宋江は居るに苦しく帰るに帰れず、ただ理性と凡情と、そして瞋恚の炎に、てんめんたるまま、妖しき老猫と美猫の魔力に、現をなぶられているのみだった。
「ね、だんな、お気色を直して、もうお寝みなさいましてはいかがですえ。娘や、おまえも、たんまりと愉しみなよ。そして朝になってごらん。女ってえものは、すっかり気鬱ぎ病なんか癒ってしまっているものさね。……ほほほ」
二つの灯りのうち、小さい寝室の蘭燈だけを残して、閻婆はふッと灯を吹き消し、やがてコトコト階下へ沈んでしまった。
あとの二階部屋は、青白い湖になった。窓から映す残月が町屋根を黒々浮かしている。初夏ながら肌さむい。星が飛ぶのがスーと見えた。
悪酔いしたにちがいない。ころして飲んだ酒がツーンと宋江のこめかみに疼く。──宋江はふと思った。「……婆惜と張三の仲はどうも怪しいが、といって見とどけたわけでもない。そうだ、女がどんな風におれに接するか、そしらぬ振りで見てやろう」と。
そもそも、これが宋江によく出来る芸か否か。──みれば、婆惜はすでに、着た物を脱がず、刺繍の枕にふて寝のすがただ。ふて寝とあるからには後ろ向き。まるっこいお尻はもう宵のくち情夫の張三の甘美するにまかせて、なお飽かない不足をぷっと怒っている恰好といえようか。さあれ、その艶姿は、海棠が持ち前の色を燃やし、芙蓉が葉陰に棘を持ったようでなお悩ましい。いってみれば、これや裏店の楊貴妃ともいえようか。あたりに競ぶべき絢爛がないだけに、その妖姿はよけいに猥らな美を独り誇ってみえる。
いまいましいし、宋江の性情としては、なんとも屈辱的な気がされたが、彼も冠り物をとって帳台わきの小卓におき、するりと脱いだ上衣をも衣桁へかけた。
「…………」
彼女はこっちを見向きもしない。けれど、かそけき気配もじつは全身で聞いているのがこの性の女の常である。「……小面憎さよ」と、宋江はその姿態を見すえながら、白い絹足袋をぬぎ、帯を解き、そしてふところの書類挟みと紙入れとを、小卓の上におこうとしたとき、ことんと、床の上に何かを取り落した。
ひと振りの短刀と、宵に、劉唐から受けておいた十両の封金とだった。──そしてあのときの晁蓋の手紙は、ついまだ読むひまもなく書類挟みに入れてあるので、それらを大事にまとめて、寝台の細い手欄へ掛けておく。──そしてさて、蒲団の中へ身を入れかけたが、やはり男として、おいそれと女の背を拝して横になる気にはなれない。女の寝姿とは逆に向いて、その足のほうから体を入れ、女の背と肩の辺へ両足をやって、夜具のすそをそっとかぶった。
ふと我れに返る生姜湯の灯も、
せつな我れを失う寝刃の闇のこと
かたちでは、眠りについたが、宋江も婆惜も、じつはまんじりともしていない。男女の体は電体のものだろうか。溶けあえば血は一つにながれる。だが闘えばバチバチと音もない青い火花を発しる。「……畜生」とお互いのうち、いよいよ研ぎすまされるばかりだった。
そのうちに「……ク、ク、ク」と、女が笑った。冷侮、氷刃のごときものだ。宋江はかっと蒲団のうちで熱くなった。女は、もひとつ体を硬めて、じゃけんに宋江の足さきを、うるさそうに肩で払った。「……ちッ」と舌打ちしたのも聞えた。でもまだ宋江は怺えていた。かえって、わが愚が憐れまれた。何をか好んで物ずきに、かかる売女の侮辱を忍んでいなければならないのか──と。
「ええもう、寝ぐるしい」
再度、女が呟いたのを機ッかけに、彼はバッと蒲団を刎ねて脱け出していた。女の白い足がとたんにむきだされたので、反射的に婆惜も壁へ向ったまま叫び出した。
「なにするのッ、イヤな人ね! ほんとにもう!」
「おまえこそ。なにを笑うんだ、ばかにすなっ」
「いけないの。おかしいからよ。そんな男ッて、あるかしら。男なの、あんた」
「言ったな。婆惜。もう来ない!」
「おお、うれしい。決して、おひき止めなんかしませんわよ」
宋江は耳朶の辺に、じんと鎚で焼き鉄を打たれたような鈍痛を感じた。ぐらとしてくる。下袴をはくのも帯を締めたのも夢中だった。両手で扉を突くやいな、どどどと階段を降りて行った。
「……あらっ、だんな。どうなすったんですよ、だんなってば」
後ろに閻婆の仰山な声は聞えたが、一顧をくれる余裕もなかった。そこの横丁から盗児のごとく逃げ出していたのである。町はとっくに丑満過ぎ、人ッ子ひとり往来の影もない。
すると四ツ辻に、ぽちと赤く、露灯の灯が見えた。それは夜ッぴての遊蕩客のためにある夜通し屋の一荷で、生姜湯売りの王爺さんだ。ひょいと見かけて。
「おやおや、押司さまではございませんか。お役署御用で、夜明かしでもなすったんで」
「なあに、友達の家で少し飲み過ぎてね、つい家へ帰りそびれたのさ」
「酔いざましには、二陳湯などいいもンでございますが」
「そうだ、一杯もらおう。……おっと、ありがとう、いつもよく稼ぐなあ、爺さん」
「お蔭さんで、正直に働いておりますせいか、皆さんから、ご贔屓にしていただいておりまするで」
「考えてみると、役署勤めの深夜には、こうして、爺さんの梅子湯やら生姜湯などに、ずいぶん長年のあいだ温められてきたなあ。そしていつもお前さんは、代金も取ってくれない」
「なんの、押司さま。当りまえでございますよ」
「どうしてね?」
「だって、しがない私どもが、こうして真面目にやっていけるのも、旦那がたお役人が、寝る眼も寝ず、悪い奴に悪いことをさせねえように守っていて下さるからこそで」
「ああそういわれちゃあ、面目ないよ」
「どういたしまして、まったく警邏のお蔭さんでございますよ。こうして、町の衆が、夜を安楽に寝ていられますのもね」
「そうそう、思い出したよ、爺さん」
「へい、なんでございますえ」
「いつかおまえに、何か望みはないかと訊いてやったら、人並みに棺桶ぐらいは買って備えておきたいと言ったッけ。よろしい。その棺桶はわしが買ってやると約束したことがあるなあ」
「よくお覚えおきくださいました。……それやもう、分に過ぎた望みか存じませんが、もしそれが能うなら、来世は馬にも驢馬にもなって、ご恩報じをいたしまするで」
王爺さんは、さびしげに笑った。──宋朝その頃の風習として、生前に自分の棺桶を買って家にそなえて置くことが、老後の人の最大な美風とされていたからだった。
ふと。宋江は今、この王爺さんに、それを買ってやるといった旧約を思い出したのである。余りな自己嫌厭や慚愧のあとでは、人間はふと、他の人間の中に〝真〟を求めたり美徳のまねごとでもして自己の救いに置き代えてみたくなるものらしい。──で、宋江は、しきりに懐中をさぐり出した。心なく劉唐から受けておいたあの十両。
あれを、王爺さんの棺桶代にめぐんでやろう、という気もちからだった。
「……おや。……はてな。たしかに手紙は書類挟みに。……金も一しょにしていたはずだが」
「押司さま。なにも急に、今でなくても」
「……いや、待ってくれよ。……やや、こいつは」
「いつだっておよろしいんですよ。この爺の棺桶などは」
「いや、しまった! なんとその棺桶は、自分の使い物になるかもしれん。こうしちゃあいられない。──爺さん、じつはよそで泡を食って、その金包み以外、大事な物まで置き忘れて来たんだ。宋江嘘はいわん。きっと後日買ってやるからな」
言い捨てるやいな、彼は疾風のように元の道のほうへ引っ返し、婆惜の家のある横丁へ馳けもどって行った。
「……いい気味だ、あんなやつ。これで清々と、あしたの昼まで寝てられるわよ」
さきに宋江が憤然として帰った後。──婆惜はいちど起き直って、薄衣を解き、裙子のひもから下の物まで脱いで、蒲団を払い、
「嫌だとなると、同じ男でも、こんなものかしら。いちどあいつが寝た蒲団だとおもうと、この温みやら匂いまでいやらしい」
と、ばたばたさせて、二つの枕の一つまでを、部屋のすみへ放りなげた。
そして、おや? と気がついた風である。
寝台の手欄へと、彼女の白い手が走った。蜀江織の薄むらさきの鸞帯──つまり大事な物入れとして肌身につけておく腹おび──に、釵にでもなりそうな翡翠玉と瑪瑙の付いた括り紐が、たらりと、それにかかっている。
「……ああわかった。目玉に油を塗られたトンボみたいに、あの黒二(宋江のあだ名の一つ)が、きりきり舞いして出て行ったから、腹立ちまぎれに忘れたんだわ。……いいわねえこれ。そうだ張三にやって、よろこばしてやろう」
持って寝て、寝ながら愉しげに蘭燈の明りで中を調べ初めたものである。見ると、鸞帯の中には、かの短刀、かの十両、さらに書類袋のうちからは、梁山泊の晁蓋から彼に宛てた書面まで現われてきた。
まだ封も開いてないそれを、女は小指の爪で器用に剥がしていった。──梁山泊がどんなところかは、三ツ児でも知っている。去年はこの土地で大捕物の騒動もあったほどだ。彼女は、息をつめて、繰り返し繰り返し読んでいた。……ところへ、みし、みしと、忍びやかに上がって来る足音だった。彼女はあわててそれらの物を鸞帯(胴巻)へおしこみ、腹の下に抱いて、そら寝入りをつかっていた。もちろん、その足音は、宋江だった。悄然として、しかも下タ手に、
「……おや、見えないが。……ああわかった、婆惜、おまえが仕舞っておいてくれたのか」
「だれ? うるさいわね、また」
「ちょっと、起きてくれないか。忘れ物をしたのだ。それをここへ出してくれい」
「知りませんよ、そんな物」
「知らんはずはない。たった今のことだ。……あの鸞帯には、役署の書類やら大事な物が入っている。後生だ、返してくれ」
「ふふン……だ。なんでもお役署風さえ吹かせばすむと思ってるのね。婆惜はそんなお人形さんじゃありませんわよ」
「さては、鸞帯を隠したな」
「泥棒だと仰っしゃるの」
「いや、つい語気を荒くしたが、何もおまえを泥棒にする気はない」
「もちろんでしょ。泥棒とお親しいのは、そちら様ですものねえ」
「げっ……。よ、読んだな、中の手紙を」
「あいにく、寺小屋ぐらいの読み書きは、婆惜も習んでいましたからね」
「たのむ! ……」と、宋江は、女の寝台のそばに片膝をついて、首をさげた。
「大きな声をしてくれるな。あの一書は、宋江には無関係な者の手紙だが、知られては、世間に誤解される。宋江の身の破滅だ……」
「あんたを賊の一味だとは思っていませんわ。けれど、梁山泊から、なんであんたに、金百両を贈ってきたのかしら。……なにか、よッぽどなことでもなくっちゃ……」
「しっ、しずかにしろ。おまえのいうこと、望むこと、何でもきくから、ここはもんくなしに、その品だけを、返してくれい。……このとおりだ、婆惜。男が頭を下げてたのむ」
「おもしろいわね。じゃあわたしのいうこと、なんでもきく?」
「きこう。きっときく」
「三つの条件があるわよ。いいこと」
「たとえ、何ヵ条の難題でも」
「いいわね、じゃあ第一に──わたしの妾証文をわたしに返すこと。そして張三のところへお嫁に行っても、一さい苦情のない一札を入れることよ」
「よろしい」
「第二には──ここの家財道具、わたしの髪かざりまで、すべて、わたしの物よ。みんな俺が買ってやった物だなンて、野暮なもんくをいわないことね」
「それも合点だ。して、あと一条は」
「それが、たいへん、難かしそうなの。あんたに、それが肯けるかしら」
「どんなことか、いってみろ」
「百両、ここへ並べて頂戴。……手切れ金に」
「いまはない」
「そら、出しおしんでるくせに、梁山泊の使いから、あんた、たしかに受け取ったでしょ」
「じつは、十両だけ取って、あとは返したのだ。九十金は、後から工面しよう」
「嘘ばッかり。さ、きれいに出しておしまいなさいよ。それがいやなら、こっちも鸞帯は返さないからいい。返すもんか。どうあっても」
「返せ。なんでわしが嘘をいおう。家財道具を売り払っても、きっと数日中に持ってくる」
「じゃあ、その時の引き換えよ。なんでも現金取引きに限るわ。それとも、わたしを泥棒だといって、お白洲へ突き出しますかね。わたしは、どっちでもいいの」
「なんといっても」
「くどいわねえ。この人」
「……な、婆惜」と、宋江は起って、我れを憐れむ涙につい眼を曇らせながら──「きっと、金は後から揃えて来る。な……気を直して、あれを返してくれ。おまえの気にさわったことがあるなら、わしが悪かった。あやまるよ……。婆惜」
彼女の硬ばった肩ごしに、その顔を覗き込み、必死に機嫌をとると、よけい宋江の弱味に誇った女は、その顔を、うるさげに突きのけて、
「いやよ、いやよ! わたしは、あんたのその口の臭いを嗅いでもムカつくのよ。百両出すのが惜しければ、貰いたくもないわ。──その代り、晴れてお上からご褒美を頂戴するわ。百両の半ぶんでも、お上からなら大威張りだし……さ」
「うぬっ」
今はとばかり、宋江の眼じりが裂けて見えた。とたんに、蒲団の下の白裸が双肩にかかった男の力で引っくりかえされ、乳ぶさの下から、鸞帯の錦、翡翠の玉が、チラと見えた。
「なにをするのッ。呶鳴るわよ」
「おっ、これだ! あった。これさえ返れば」
「離すもンか、死んだって」
闘う女の真白な玉裸が、また無性に俯ッ伏してそれを押し隠す。その弾みに、短刀だけが、寝台の下にころげ落ちた。あわてて、宋江の片手が、短刀を拾い上げたのを見ると、婆惜は本能的に、ひーッと悲鳴を発し、つづいて、
「ひッ、人ごろしっ」
と、刎ね起きた。
その絶叫が、かえって、宋江の一瞬の狂気を呼んでしまった。──せつなに「うむッ……」とのけ反ッた重い肌と黒髪が、宋江の顔から胸元へかけて仆れてきたとき、いつのまにか、刃はふかく婆惜の脾腹をえぐっていたのである。温い、いや熱くさえある血潮が彼の二ノ腕までまみれさせ、彼は蒼白となった面に、その双眼を、じっと、ふさいだままにしていた。
「…………」
どたん、と床へ死骸を投げ出すと、大きな息を肩でついた。
彼は手ばやく、鸞帯を肌の下に締めた。そして晁蓋の手紙は灯にかざして焼きすてた。それが早いか、物音に眼をさました婆が、階下から上がって来るのが早いか、間髪な差でしかなかった。
「……あっ、閻婆だな」
ふッと、蘭燈をあわてて吹き消す。しかしもう窓は明けていた。明け方の光が微かに、血のなかの海藻にも似る黒髪と、白蝋のような死者の顔とを、無常迅速のことば通り、冷ややかに照らし出している。
「……だんなえ。今、どすんといったのは、なんの音ですかえ。夜が明けてまで、痴話喧嘩のつづきじゃしようがありませんね」
「婆か。……み、みてくれ。みろそこを」
「なんですの。まあ、らちゃくちゃない」
「……ついに、堪忍ぶくろの緒を切って、おまえの娘を殺してしまった」
「ごじょうだんでしょ、だんな。えんぎでもない」
「ほんとだ。……下手人のわし自身でも信じられん。だが、やってしまった。人間とは、あてにならないものだなあ。ああ、日頃の知識などは役にも立たんものだなア。おれも田夫野人と何ら変るところのない物騒な人間だった」
「いやですよう、だんな。そんな妙な科白を、恐い顔して仰っしゃってちゃあ」
「それ、婆。おまえのいる、そこの寝台の後ろの蔭だ。それが婆惜だ」
「ひぇッ……」と、婆は腰を抜かしかけた。がたがたと、骨ぶるいして、急に歯の根も合わぬらしい。
「……ど、ど、どうぞだんな。この婆は、おたすけなすってくださいまし。ま、まったく、むすめが、わるかったのでございますで……。ばばは、べつにもう」
「こっちこそ、ぞッと後悔したところだ。その上、おまえまでを殺すほど狂乱はしていない。ふびんなことをした。ばば、かんべんしてくれい」
「も、もッたいない。わ、わたしさえお助け下されば。……けれど、アアどうしましょうぞい。この婆は、もう喰べてはゆかれません」
「仏への追善だ。それだけは、ひきうける。一生末生、おまえは食うに困らせぬ。……そうだ、夜が白む。はやく葬儀屋へ行って、棺桶をあつらえて来い。そして隣近所へは、急病のていにでもしておいてくれ」
「よ、よろしゅうございますとも。決して、この上ご恩人のだんなへ、ご迷惑はおかけいたしません。けれど、どうぞ万端のこと、この婆の身の行くすえは」
「ああ見てやるとも、案じるな」
「だが、だんな、もう癲動しちまって何だか物もいえません。それに、婆惜がお世話になっていることは、近所の衆も知っていること。葬儀屋まで、ご一しょに行ってはくださいませんでしょうか。助かります。この娘もまあ、あんまりわがまま育ちから、ついまアこんな……」
ぼろぼろ泣き沈むのを見ては、宋江も胸をかきむしられるようだった。で急いで、台所で手くびなどの血糊を洗い、婆を連れて、夜明けの町へ出て行った。
まだ朝霧の町はしんとしている。ぼつぼつ戸を開ける音や往来の車がカラカラ鳴るだけだった。横丁を出るとすぐ役署の門と大きな楊柳の茂みが眼につく。宋江は、後ろめたさに、
「婆。こっちから行こう」
と、べつな横丁へ交わしかけた。
「あら、どうしてです、だんな。葬儀屋の陳三郎はこっちですのに」
「だってまだ、起きていまい」
婆は、眼つきを、けわしくしていた。が、神妙に後について遠廻りしたあげく、やがて町中の大通りへ出た。そのころもう店屋もあらかた開いて、往来の人通りもふえていた。わけて四ツ辻には、毎朝の朝市が立ち始めている。
「だんな……。よくやったね」
婆はふいに立ちどまった。宋江はその眼光にぎょっとした。婆の両手の爪は自分の袖をかたくつかんでいたのであった。
「なんだ婆。ひとの袂をつかんで」
「覚えておいでよ。……おういっ、町の衆、人殺しだよ、人殺しだよっ。……この押司が、むすめの婆惜をたった今、殺しゃあがった。かたきを取ってくださいようっ」
「あっ、なにをいうか」
「ええい、この人殺し。人殺し──いッ」
「よせ、よせ吠えるのは」
宋江は狼狽のあまり、両手で婆の口を抱きふさいだ。
地下室の窮鳥に、再生の銅鈴が友情を告げて鳴ること
「なんだなんだ。人殺しだって」
附近には朝市も立っている。それに軒並みの商家、往来の男女、たちまちまわりは黒山のような人だかりとなった。
中にはすぐ飛んできた目明しの顔もみえたが、しかし、閻婆に手を貸そうとする者はない。ただ怪しみながらゲラゲラ笑っているばかりである。──いかに婆さんが「こいつは、わたしの娘を殺した人殺しだ」と衆へ向って訴えても、町中知らぬはない温厚人の宋江を目して犯罪人と信じる風はちッともないのだ。かえってこれは飛んだ宋江の迷惑事と察して同情をよせ、逆に閻婆の狂態を弥次り仆す有様だった。
それさえあるに、不意に群集を割って飛び込んできた一人の男は、いきなり宋江の体から婆さんをもぎ離してイヤというほどその頬げたを撲り仆した。そして猛る閻婆を、もういちど蹴離しながら、
「さ、旦那。こんな気狂い婆におかまいなく、早く行っておしまいなせえ。あとは唐牛児がひきうけましたから」
と、追い立てた。
まさにこれは宋江の平常の人徳がしからしめたもの。諺にも──好キ人ノ難ハ人ミナ惜シミ、好悪ニ災ナキハ人ミナ訝カル──とある通り、天の救いといえるものか。
宋江は絶体絶命、眼も昏むばかりだったが、彼の声を耳にするやいな、われも覚えず脱兎のように逃げて行った。あとも見ずに姿を消す。
だが、承知しないのは婆さんの方である。腰をさすって起き上がるやいな、
「おやっ。おまえは漬物売りの唐牛児だね。そうだ、おまえも下手人の片割れだよ、さあおいで」
「ど、どこへ来いっていうンだよ、どこへでも行ってやるが」
「知れたこと。お役署へさ!」
閻婆は、宋江の身代りに、彼の胸ぐらをつかんだまま、わいわいいって散らかる群集の間を割って、近くの県役署の門内へ入って行った。
知事は〝早暁に行われた美人ごろしの事件〟と聞いて、さっそく官舎から庁へのぼり、閻婆と唐牛児を白洲にすえて、吟味をひらいた。
知事の時文彬は仰天した。
下手人とみられる宋江は、彼が厚く信頼もし、部下ながら尊敬すら抱いている稀れな良吏である。「……どうして宋江が?」と情けなくもあり、同時に助けてやりたい気もちのほうがいっぱいだった。
そこで彼は、取調べも緩慢に、努めて婆の心をいたわり、なんとか示談の方へ持ちこもうとしたが、婆はもってのほかな形相をすぐ現わして、
「人を殺せば殺されるのがお上の掟。掟どおりにあいつを縊り首にしてくんなされ」
とばかり、ここでも吠え猛って止まばこそである。
ぜひなくその日は一応、婆を帰宅させ、唐牛児の身は前夜の関り合いもあるので、一時仮の牢舎へ下げた。そして何かと事件の処理は遷延させ、その間に、宋江にとって有利な緒を見つけようとするのが、知事の腹らしかった。
ところが、ここに、
「そうはさせぬ」
と、躍起な活動を暗に起していた一部下があった。
殺された美人婆惜の情夫の張文遠(張三)である。──彼はすすんで事件の捜査係を買って出、兇行現場の死体調べから近所衆の口書あつめまで手を廻していた。かつまた当夜、宋江が婆惜を刺した短刀をも提示して、
「知事。これではもう、犯人宋江の兇悪さは、疑う余地もありますまい。それにあれきり宋江は役署へも出てまいりません。悪くすると逐電のおそれもある」
と、小気味の悪い含み笑いをもちながら、再三にわたって知事へ逮捕の断を迫った。
張文遠にすれば、宋江は憎い女讐だし、上役ながら、日頃の余りに良い彼の評判をくつがえしてくれたい気持ちやら、またその椅子へ累進の野心なども手伝っていた。だが、時知事の方でも町の者などの密告でほぼ彼の行状やら腹の中は見ぬいている。──だから、逮捕令を出せ、出すまいとする、両者の心理的葛藤は、どうしてなかなか微妙なのだ。
とはいえ証拠品やら閻婆の提訴状まで並べられては、ついに知事も折れて、
の令状を下さずにいられなかった。しかし、それはすでに遅く、捕手の群れはやがて空しく引き揚げて来て復命した。
「はや犯人は宿所におりません。杳として以来、姿を見ぬということです」
すると、側で聞いていた張文遠が、俄然、青すじを立てて怒鳴った。
「そんなばかなことはない! 今頃まで日頃の下宿にいないのは当りまえだ。元来、彼奴は宋家村の生れ。村には今も父親の宋老人と弟の宋清が一しょに住んでいる。なぜそこを突かんか。そこに潜伏しているに違いないわ」
宋家村の宋江の実家は急襲された。
ところが、老父の宋老人の神妙な応対と、袖の下をたんまり受けて来た捕手たちは、またも手ぶらで時文彬知事に、こんな復命をもたらした。
「当主の宋老父の釈明によりますと、実家とはいえ、すでに四、五年前に家督は弟の宋清に譲ッているそうで、その宋江は、官途へ立つ身に縁類があっては私心の煩いになるとかいって、独り宋家の戸籍を脱けておる由。……このとおり、書類の写しもこれにあり、他人同様な宋江のこと、一切知らんと申して受けつけません」
知事はむしろ、ほっとした顔いろである。
「ふふむ、そうか。左様な証拠があるとあっては、無礙に老父や弟を拘引もなるまい。宋江の追捕は、懸賞金をかけて、ひろく他を捜させることにしよう」
もちろんこれは張文遠の服従するところではない。二、三日すると、裏面から彼に突ッつかれた閻婆が形相をかえて県役署へやって来た。そして知事室の外でがんがんわめきたてた。
「へん、なにが知事様かよウっ。知事面しくさってよ。人殺しの下手人ひとり捕まえられんのかい。それも眼の前にわかりきっている悪党をさ!」
婆は図にのッて、いよいよ声をあららげたり床を踏み鳴らした。
「ひとの身にもなってごらん。娘を亡くしたこの婆は、このさき誰に食わしてもらうのさ。役署で食わしてくれるかね。それも出来まいがよ。それも出来ず、犯人も捕まえず頬冠りしていようというなら、もういいよ。婆にも婆の考えがある。──ほかの奉行所へ行って訴え出るのさ。そこでもいけなければ都へ行って、おそれながらと、大官のお輿へ直訴してでも、この讐はきっと取ってみせずにおくもんか」
そこへ、あわただしげに、一室から、
「まあ、まあ」
と、婆をなだめに飛び出して来たのは、婆とはちゃんと諜し合せのついている張文遠であって、
「ともかく、今日は帰んなさい。決して役署でも事件を軽く見ているわけじゃないのだから」
と、すったもンだをわざと演じて、やっとのように、婆を庁外へ追い出した。
そして張文遠はすぐ、またぞろ時文彬へ迫って、ついに再度のかつ大規模なる捕手の出勢を知事に余儀なくさせたのだった。
捕手頭にも、こんどは名うてな朱同と雷横が立ってそれを引率して行った。
同勢は、ぐるりと宋家をとりかこみ、二人は内へ進んで宋老人へ令状を示し、
「これだ! 老人。日ごろの誼みも、悪くおもってくんなさるな。家探しするぜ」
「ご苦労さまです。どうぞご自由に」
老父はもう観念のていだった。
二人は邸内を一巡し、やがて土蔵廊下みたいな暗い奥の間へ進んで行った。──と持仏堂がある。四壁は陰々として冷たい。一方の厚戸の閂を外すと、仏具入れの長櫃がある。位置が変だ。二人がかりで横へ移す。──と、たしかに下へ降りられる穴倉の口。
雷横はなに思ったか、
「朱同、あっちにも、変な一室がある。おまえは残って、この下を調べてくれ」
と、眼顔のうちに、何かを語って、ぷいとそこを外してしまった。
まっ暗な階段を降りると、何か顔に触る物がある。布縒の細綱らしい。引いてみると、りりりん……と頭の上で銅鈴がいい音で鳴った。
「だれか……?」
奥のほうから這い出してきた人影がある。じっと見れば、それなん宋江その人にちがいない。ここ久しく日の目も見ず、蒼白の面に鬂のほつれ毛も傷々しく、暗闇の中でも肩の窶れがわかるほどだった。
「や、朱同じゃないか。ああついに来たな!」
「押司。びっくりなさることはない。雷横も自分も、日頃のあなたは知っている。公私にわたって、多年温情を蒙っている二人が来たのだ。なんでその恩人を、縄目にかけていいものか」
「でも、それでは、お身方が役署へ対して、申し開きが相立つまい」
「なあに、どうにだって、虚構はできる。知事も内々はあなたを逃がしたいのだ。庁内でもあの張文遠のほうがよっぽど憎むべき悪人だといっている声は多い。……どうか、他国へ逃げておくんなさい。どこかお心当りはありませんか」
「かたじけない」と、宋江はしばし頸を垂れて──「どこといって、さし当り確たるあてもないが、思いうかぶのは第一に滄州の名士、小旋風柴進」
「なるほど」
「第二は、青州清風寨の小李広、花栄。──次には白虎山のご隠居と、そのご兄弟なども頼って行けば、どうにかして下さるとは思われるが」
「平常、おつき合いも広いあなた。そうした先にはご心配もありますまい。とにかく早速、身仕度だけでもしておいでなさい」
と、朱同は別れをつげて地下室から上へ戻った。そして雷横とともに、なおそこらを愚図ついたあげく、一度門外へ出て、手下の捕手へわざと仰山な身振りで言った。
「宋江は早やここにはいない。邸内隈なく検めたが何処にも見えん。あとは屋根裏と床下だけだ。念のためそこを捜せ。その間におれたちはもういちど宋老人を糺問してみる」
やがてその宋老父を拉した朱同と雷横は、いぜんの持仏堂へ入ってかたくそこを閉め、密々声をひそめ合っていたのだから、ここではどんな相談事が成り立っていたかわからない。
捕手たちは正直に、その間、屋根裏やら床下を這い廻った。もとより何の異状もない。そうこうするうち夕方になると、宋家では、酒肉を盛って彼らを饗応し、またそれぞれにそっと銀子をつつんだ袖の下を賄った。宋朝治下の上から下まで、こんなことは通例だった。雷横も酔い、朱同も酔い、ほどなく夜空の下をどっと潮のように引揚げてしまった。
「残念でした」
二人は、知事に復命した。
「宋江はすでにこの地におりません、事件いらい実家にも姿を見せないという老父の言はほんとでしょう。いや実家といっても、籍は脱けている他人同様な奴の身軽さ。どうも致し方ございません」
「む……」と、知事はもっともらしく呻いて、
「やはり他州へ逐電ときまったか。最初から宋家に潜伏していると、強情に言い張っていたのはかの張文遠じゃ。ぜひもない。この上は、罪状触れと人相書を作成して、諸州の役署へ布達しておけ」
知事はしたり顔である。常套的な公式の手続きを運ばす一方、ひそかに朱同から、張文遠と閻婆を裏からなだめさせた。
内心、張にも痛い脛がある。
自分と宋江のいきさつについて、部内にはヒソヒソ声があるふうだし、婆さんはすぐ金にころぶ。痛し痒しだ。このうえ下手にごねてみずから現職の地位を失うよりはと、彼もそこは利に賢く、軟化の色をやがて見せた。
こうして、とにかく〝婆惜殺し一件〟は、鄆城県署のあぶない網の目から、ひろく懸賞金付きで諸州布令となり、そして、時の無数な波紋のうちの小波紋として、いつか見送られて過ぎたものだった。
宋江、小旋風の門を叩くこと。
ならびに瘧病みの男と会う事
暁の星が白っぽく、旧家の池の枯れ蓮に風もない。一葉一葉と落ちる梧桐の木に、いつも来て歌う鳥の音も、今朝は何か宋家の父子の腸には、沁み入るような悲しみがある。
「気をつけて行けよ。あとのことは案じるなよ」
宋老父は、老いの眼に、涙をためて、この朝、二人の子を、家の裏門から小雨のような霧の小道へ見送った。
宋江とそして、その弟の宋清とをである。
宋清は罪もないので、「家に残って、老父の余生に孝養をつくしてくれ」と宋江は言ったのだが、老父は「いやいや、いつまた、知事が代って、再吟味されまいものではなし、また、今の世相はあてにもならぬ。こんな旧家を持ち支えるため、宋清も、あたら一生をつぶすことはないわ。兄に従ってどこへでも行き、悔いない一生を送るがいい」と、たって共に旅立たせたものだった。
老父の慨嘆も、理由なきではない。
たとえば。
宋家の内に、地下の穴蔵があったことなどもその一端をものがたっている。──当時の宋朝廷下の官吏には、奸佞、讒訴、賄賂、警職の乱用、司法の私権化など、あらゆる悪が横行していたので、その弊風は、州や県の地方末端の行政面にも、そのまま醜悪を大なり小なりつつんでいた。
したがって、宋江の就いていた押司の職なども、重要なだけに、ちょっとした私意や違法の間違いを犯すと、讒に会って、すぐ流罪だの家産没取の厄にあい、その連累は、一族にまでおよぶ有様。そこで官吏の多くは、戸籍を抜いて、あらかじめ九族の難にそなえ、また、穴蔵など造って内々家産を地下に匿しておいたり、日常何かの生活にわたるまで苦心のひそむものだった。──で、
「そんな生き方はもう鬱々だ。宋清までを一生の穴蔵の番人にはさせたくない」
というのが、偽らざる老父の真情だったに相違ない。
「さらば、ごきげんよう。今日の不孝はおゆるしください。いつかはまた、このおわびを」
宋江は幾たびも振り返り、宋清も名残り惜しげに、老父の影を遠くにした。この日、霧はやがて冷たい細雨と変り、県境の長い楓林の道は、兄弟の范陽笠と旅合羽をしとどに濡らした。
二人の旅は長かった。
日かずをかさねて、やっと辿りついたところは、滄州横海県の小旋風柴進の門前。──かつては、かの豹子頭林冲が、むじつの罪で滄州の大流刑地にひかれてゆく途中、一夜の恩をうけ、また後には、梁山泊へわたる手びきなどもして貰ったことのある──あの地方名望家柴進の門だった。
「兄さん、えらい大構えですね」
「そのはずだよ、祖先は大周皇帝のお血すじの別れ。……今の世の孟嘗君ともいわれているお人だからな」
門側へ寄ってゆくと、荘丁長屋が見える。名を告げて、主の在否を問うと、近村まで行って留守とのこと。
「では、ここでお待ちしようか」
と、門前の溝川ぞいに、笠をぬいで腰を下ろしかけると、何かささやきあっていた荘丁らが来て、
「もし大切なお客様でもあると、てまえどもが叱られます。どうぞあちらの亭でお待ちなすって」
とのこと。──伴われるまま庭園の四阿亭に入って、腰の刀や荷物を下ろし、ふたりは主を待っていた。
見わたせば、庭園の広さ。桃林はかすみ、柳圃は小さい湖をめぐり、白鵞、鴨、雁、おしどりなどの百鳥がわが世のさまに水面を占めている。畑の童歌がどこかに遠く、羊や馬、牛の群れまでがまるで画中の物だった。そうした一方には楼台二座、書院や待客堂なども、廊から廊へ、つづいて見える。
「やあ、お待たせしました」
彼方の馬舎の横に、馬や従者をのこして大股にやって来た柴進。すでに壮丁から、宋江の名は聞いていたものとみえ、ただちに、
「ともあれ、こちらへ」
と泉楼の一客室へみちびき上げた。
あらたまって、名のり合う。名のるまではなく、いずれもその人となりその名声は熟知し合っている間なのだ。
「時に、なんとも思いがけないご来訪ですが、そもそも、こんな僻地へのご旅行とは、何か、官命のご出張でもございますのか」
「いや、おあるじ、笑って下さい。じつはこの宋江は、押司の職にもあるまじき大罪を犯し、県城の椅子や家郷の老父も捨てて、ぜひなく落ちて来た漂泊い者でござりまする」
「ほう、君子の風があるといわれているあなたがですか」
「しかも、つまらぬ女にひッかかって、情痴にひとしい過ちから」
「はははは、それは愉快だ。あなたにしてさえ、そういう色事があったとは」
「愉快どころではありません、過失ではありましたものの、じつは女殺しの科を犯して、諸州に人相書まで手配され、一身、置き場もない者です」
聞くと、柴進はいよいよ相好をくずして、むしろ一そうな親しみさえ見せだした。そして宋江がやがて打明けた一切の事情にも、何ら冷たい風はなかった。
「そうですか。仔細を伺ってみれば、いよいよもって、あなたらしいご失策だ。いやしかし、これが生涯の破れか開花かは長い目で見なければわかりません。まあご安心なさい。大船に乗った気で」
客の絶えぬ家である。客を遇すことも厚い彼だが、とくに宋江と宋清に対しては親切だった。頼みがいのある人のところへ来てやはりよかったと、二人は世間のひろさを感じながら、つい数日もすぐ過ぎていた。
と或る日のこと。
「そうご書見ばかりでも飽きましょう。すばらしい珍味が今日は揃いましたから」
柴進が特に心入れの宴をもうけ、その日は夜まで興に入って飲みあった。上の悪政、下風の頽廃、男と男の胸襟を解けば、人生如何に生くべきか、まで話はつきない。
そんな間に、宋江はふと、
「ちょっと、失礼を」
と、厠へ立った。そして紙燭を借り、用をすますと、ふと夜風恋しく、べつな廊下を曲がって行った。そしてなおまた、廊づたいに暗い一室の前まで来て、何かにごつんと躓いたものだった。
悪いことには、その弾みに、手の蝋燭が、そこの暗がりで背を丸くしていた男の頸すじへでも落ちたらしい。男はふいに、
「ア熱、熱、熱っ……」
と大げさに跳び上がり、やにわに宋江の胸ぐらつかんで突ッかかった。
「眼はねえのか、この野郎っ」
驚いたのは、宋江の方だって同じである。
こんな暗い廊下で、かがんでいる奴もないものだと思ったが、客の身として、平身低頭、詫び入った。
だが、聞かばこそ。
男はわめきにわめきつづける。
「てめえもここの居候か。いやに尤も面していやがって、見ろッ、俺の頸ッ玉に火ぶくれが出来たろう。てめえの面を蝋燭でいぶしてやるからそこへ坐れっ。……なに、気がつかなかったと。ふざけるな。瘧は俺の持病なんだ。この持病の苦しみを、いちいち他人へ断ッてから寝ろというのか」
この騒ぎに、家人も騒ぎ出し、やがて柴進自身、何事かと飛んで来た。
「まあまあ」と、彼は瘧の男をなだめ、
「──おまえさん、昨日から体の調子がわるいというんで、今日も酒の座に誘わなかったが、そんなに怒れる瘧なら、なにも大したことはあるまい。とにかく奥へ一しょにやって来ないか」
と、もとの酒席へ伴って来た。そして及時雨宋江と、弟の宋清とを、あらためてそこで紹介したのである。
聞くやいな、男ははるかに飛び退って、まえの気色もどこへやら平伏したまま、しばしは面も上げえない。
「なんともはや面目次第もございません。世上、よくお名は伺っておりました。その及時雨宋公明さまが、あなた様とは、まったくもって、夢にも知らないでいたしたこと。どうか最前の悪タレは平にご用捨くださいまし」
腋の下に冷や汗をたたえているような詫び方だった。
「ご主人」
と、宋江は静かにかえりみて訊ねた。
「いったい此方はご家人か、それともご当家の食客か」
「なあに旅人ですよ。といっても、もう一年近くも家人同様に、わがままをいっている気楽者ンでございますがね」
「申しおくれました。名のるほどの者ではござんせんが」と、男も慌てて、同時にこう行儀をした。
「──てまえは清河県の生れ、苗字を武、名を松と申し、兄弟順では二番目の武二郎でございまする」
「ほ。清河県の武二郎、その武松さんとは──あなたですか。いやこれは奇遇、かねがねこの宋江も、お名まえだけは伺っていました」
「てまえ如きが、お耳にあったとは、いよいよもって、赤面至極です」
「が、武松どの。当所にはどういうわけでご逗留かな」
「どうも至ってやくざな身性で、故郷の清河県でちょっとした喧嘩をやり、そのため、草鞋をはいて、ここの大旦那のご庇護にあずかり、もう故郷のほとぼりも冷めた頃なので、近くお暇をと思っていると、持病の瘧。それでついまた、お厄介を重ねていたところでございます」
「では、瘧が取り持つご縁だったか」
「襟首の蝋燭焼きなんてものは、瘧に効くもンでございましょうかね」
「ほ。どうして」
「なんだか、けろりとしてしまいましたよ」
「はははは。そいつあ奇妙だ」
満座は腹を抱えて笑い、さらに杯盤を新たにして、男と男の心胆をそそぎ合う酒幾斗。やがて鶏鳴まで聞いてしまった。
こんなことから、宋江、宋清も日々を愉しく過ごし、武松もまたつい旅立ちをのばして、その交わりを深めていたが、
「故郷にのこした兄貴が気がかり、どうして暮らしているのやら、いちど兄貴のこの頃も見ておきたい気がしきりにしますので」
と、武松は或る日、急に暇を告げだした。
「まあ、待ちなさい、明日一日は」
と、柴進は彼への餞別をかねて、倉の中から秘蔵の織物一巻を取り出し、それを三つに裂いて、一は宋江の衣裳に、二には宋清に、次には武松への旅の晴れ衣に仕立てさせた。
はるか西の沙漠を越えて輸入されたすばらしく新鮮な色感と匂いのするそれは布地だった。それを着て、白紫の縞脚絆に、緋房の垂れた黒の乾漆笠をかぶり、野太刀を打っ込み、樫の一棒を手に、武松は、
「いずれぜひまた、お目にかからせていただきますが、ひとまずは、長いご厄介と、思わぬお方へお目にかかったお礼をのべ、ちょっくら故郷へ行ってまいります」
と、その日、清々しい別れを酌んで、恩家柴進の門を立って行った。
宋江のことは一応おいて。──ここで旅の武松の姿を追って行くと、彼の大股は濶達そのもの。日をへて、すでに陽穀県の一山の裾にさしかかっている。
「おや、何だと?」
立ちどまった酒屋の門。制札まがいの看板を読めば、
と書いてある。
「亭主、一杯くれ。面倒だから大きな器で」
「へい、いらっしゃい」
猪肉か牛肉の串刺しが付いているのを見ると、
「おいおい、こんな物じゃ腹の足しにならねえよ。脂のいいところ、二斤ほど、こってり煮込んだとこを持ってこいや」
「たいそうお飲けになりますな」
「ヘンな面するない。飲むほど売れ、売れるほど商売になるンじゃねえか」
「ところが、てまえどもの酒は、看板にいつわりなしの上々の吟醸。コクのある地酒ってんで評判物です。どうかそのおつもりでお過ごしを」
「あの判じ物みてえの看板がみそかい」
「みそじゃございませんよ、銘酒の生一本という意味です。つまり三杯も飲むと、この先の丘も越えられなくなるほど廻るンで」
「ふ、ふ、ふ。おかしいぜ、おれはもうとうに三杯やってるが」
「旦那はどうかしていなさる。こんなお客って見たことがない」
「冗談いうな。俺が飲むのはこれからだよ。もう三碗並べておけ」
それも飲み干し、あきれる亭主を尻目に、
「おいっ、もう三碗」
「げっ。……ま、お止しなすっちゃいかがですえ」
「俺を、ただ飲みして逃げる男とでも思っているのか」
銀子をそこに並べ、さらに肉を食らい、香の物をばりばり噛みながら、やがてやおら、
「ああすこしいい気もちになった。これが三碗ニシテ丘ヲ越エズの酒か。高価いものにつきゃあがった」
と、棒を片手に、ぶらんと軒を離れて行った。
すると、彼の後を追って来た亭主が呼んだ。
「もし旅の衆、旅の衆。どっちへ行かっしゃる」
「なにをいッてやがる。向いてる方へ向いて行くしかねえじゃねえか」
「そっちへ行っては、景陽岡にかかりますぜ」
「それが、どうしたと」
「途々、お上の高札が目にとまりませんでしたかえ。近ごろ景陽岡には、額の白い大虎があらわれて、たびたび往来の旅人や土地の者さえ食い殺されていますんでね」
「ふウむ。虎ッてえなあ、おめえんとこの店でよく暴れる奴のことじゃねえのか」
「ちッ、真顔で聞いておくんなさいよ。親切気でお止めしているんですぜ。命が要らないわけじゃありますまい」
「といったッて、清河県へ行くには、この峠を越さずにゃ行けねえ」
「だから峠先きへ行く道づれを待って、二、三十人になったら、松明を先頭に、わいわい囃しながら押し通ることにしているんでさ。──お上の高札にも、夜明け、明け方、午でも一人歩きはならぬと、辻々に書いてあるじゃございませんか」
「そうだったかなあ。俺は見なかった。どウれ、それじゃあ虎が虎にご見参と出かけようか」
「あれっ、強情ッ張りだな。旦那、旦那。食われたって知りませんぜ」
「おれが食われたら、骨はきさまにくれてやる。茶代に取っておけよ。はははは」
彼の笑い声は、もう麓の木暗がりへ入っている。亭主は耳をおさえて舞い戻った。
景陽岡の虎、武松を英雄の輿に祭り上げること
麓道二十町ほど行くと、鬱蒼たる山神廟の一地域がある。
そこからが、景陽岡の峠路だった。
武松が酒屋を出たころは、まだ午さがりまもなくだったが、蹌々踉々の足どりのまに、いつか千古の樹林の先が血みたいな夕陽に染まり、そのくせ足もとはもう陰々とほの暗い。
「ははあ、こいつだな。県の告示ってえのは」
見れば、高札にいわく。
近来、巨虎、峠ニ現ワレ、頻々トシテ人命ニ害ヲナス。官民、捕殺ニ力ヲ協スト雖モ、虎爪血ニ飽カズ、惨害日ニ増スノミナリ。単身ノ旅ハ慎ミ、近辺ノ民モソレ心セヨ
「なあるほど! ……。こいつあまずい、すこし背すじが涼しくなってきやがったぞ」
しかし、ままよといった風な武松の姿である。或いは酔中朦朧の一興と逆に愉しんでいたことかもわからない。
とっぷり暮れた。峠も三合目あたりである。虎の眸のごとき半月が脚下の谷にあった。なお酔いはある。足が気だるい。
「……虎よりは、こんなとき、また瘧が起らなけれやいいが」
やっと頂に近づいた。と見る、疎林の中の杣道に、青い巨大な平石がある。武松は笠をぬいで仰向けに転がった。寝るつもりでもなかったが酔余の快さ、いつかすっかり寝こんでしまったものである。
どこからか映す半月の月光は、この巨漢の姿と凜たる相貌を、石の表に陽刻した一個の武人像のように露めかせていた。年は二十六、七を出ず、唇朱く、鬂はややちぢれ気味、閉じてはいても眼は不敵なものを蔵し、はやくも雷のごとき高いびき。
──まさにこれもまた、かりの地上に宿命して、清河県の市井に一侠児として生れた、百八星中の一つのまがつ星の性なるものにちがいあるまい。
──するとやがて、がさッと微けき木揺らぎがしたようだった。天地は寂とし、およそ鳥けもの、地虫の類までが一瞬、しいんと密まった感じである。それもそのはず、葉摺れを戦がしつつ、のそ、のそ、と巨大な身躯に背うねりを見せながら近づいて来る生き物がある。満身は金毛黒斑、針のごとき鼻端の毛と、鏡のような双眸は、
くん! ぶるる…… ぶウっ……
と人間の香を嗅ぎ知って、しきりに異様な戦意と欲情の昂奮を、尾さきにも描いている。
が、虎も怪しみを抱いたにちがいない。獣王はそのりっぱな体躯に似合わず、どこか小心恟々として平石のぐるりを何度も大股にめぐり出した。そして、武松の顔の辺で、ゴロ、と喉を鳴らし、前肢を突っ張ったせつな、今にも何かの行動に出そうな爪牙の姿勢をピクと見せた。けれど、虎はそれにも出なかった。とたんに、ふと眼をさました武松の眼と虎の眼とが、そのとき、らんらんと睨めあっていたのである。武松は内心ギョッとしたが、石その物のように身じろぎもせず、虎を睨めすえたものだった。
どう思ったか、虎はまた平石を巡りまわる。同時にその尾を窺って、武松もむくりと突っ立った。虎は性来、敵が尾へ廻ることはおよそ嫌いだ。うしろは彼がもっとも弱点とする急所なのである。だから怒った。ばっと一躍するなり武松を搏ッた。
「おうッ」
と、武松は身を沈め、次の攻勢もスラと軽くかわした。すると虎は外された体をまるくちぢめ、背すじの峰を高めて、ふうッと唸った。その腥さい鼻風は砂礫を飛ばし、怒りは金瞳に燃え、第三の跳躍をみせるやいな、武松のからだを、まッ赤な口と、四ツ脚の爪の下に、引ッ裂かんとしたが、これまた武松にかわされると、彼のさいごの手とする素早い〝払い〟をこころみた。
撲つ、蹴る、払う。虎の戦法はこう三つを奥の手とする。そのすべてが効かないとなると、さしもの獣王も気萎えをするものだとか。武松は知っていたわけではないが、活眼、虎の虚を察するやいな、こんどは彼から跳びかかった。額の銀毛の斑を狙って、一拳を食らわせ、また二拳、鼻を搏ち、三打、虎の眼を突いた。
虎はクシャミのような悲鳴を発した。──が、もちろん、そんな程度では怯まない。とたんに武松の体が鞠のごとく七尺も先へ転がった。転がった上へは、間髪を入れず、黄まだらな蜒が尾を曳いて走り、武松のどこかを咥えたかと見えたが、逆に虎の体がもんどり打った。彼の足業は虎をして狼狽させた。しかも尻へ尻へ狙け廻って来る人間の素早さに、虎はクルクル自転せざるを得ず、それには虎もいささか眼が眩み出して来たように見える。
武松は手馴れの棒を拾って小脇に持った。棒の秘術は虎の眸のなかに奇異な幻覚を持たせたにちがいない。何十人もの人間の影がまわりにあって、じぶんを弄るように見えたであろう。その猛吼も飛跳も次第に弱まり、いくたびか棒を咬んだが、その棒テコでも苦闘に落ちる。武松は迫って、また白額の毛の根をつかみ、十打二十打の鉄拳をつづけさまに下した。虎は目鼻から血を噴き出す。呻きは全山を震撼する。さらに蹴る。滅ッ多打ちに打ちのめす。苦しさの余り虎は腹の下の土を掘った、虎のからだの両側に小山ができる……。ついに、みずから掘ったその坑に虎はがくんと躯体を鼻をついた。
武松もまた、ぐたっとなった。大息ついたまま茫然としていたが、はっとわれに返るや短刀を抜き、虎の脾臓、心、肺のあたりに幾太刀となく、とどめを刺した。鮮血は腕を濡らし、袖は緋のまだらに染まった。
──その姿が、やがて景陽岡を西へ越え、夜明けぢかくの道をふらふら村のほうへ降りかけていた。土地の者が怪しく見たのは当然で、
「旦那、旅のだんな……」
三人ほどが、追ッかけて来て、彼に訊ねた。
「もし、ゆうべは、どちらからおいでになりましたえ?」
「なに、どこからだと。知れたことよ、景陽岡を越えてきたのだ」
「へえ。虎に会いませんでしたか」
「虎か。虎はこの鉄拳で、撲り殺してきた」
「ご冗談を」
「冗談と笑うほどなら、なぜ訊くのだ。ばか野郎め」
また、行きずりの猟師二人が、彼にむかって同じことを問うた。武松の返事は同じだった。が猟師は、武松の袂の血を見て、半信半疑に峠の上へ馳けて行った。さあ大変、まもなく、虎の死体が四纏に絡められ、十数人の肩棒で、やッさもッさ麓へかつぎ降ろされてきた。
村では鐘を鳴らし、板木を叩き、一大事でもわき起ったような騒ぎである。女子供も出てくるし、鶏も羽バタキ、羊もさけび、豚も啼く。
「虎だ、虎だ、虎が退治されたとよ!」と呼び交わしつつ群れ集まって来る見物だった。たちまちそれは村道を人の山で埋めてしまう。
また、急を知って、土地の名主、年寄りも出て来るし、やや時をおいては、県役署の役人大勢が、馬を飛ばして馳けつけて来た。そして名主や猟師らを呼び集め、何事か訊問していたが、
「なんと申す。では虎を退治いたした者は、そのほうらではなくて、旅の者か。しかも若い旅人ただ一人で打ち殺したと申すのか。どえらい人間もあったものだ。……して、して、その者は一体どこにおるか」
「それが、麓へ下ってから、どこへ行ったやら、見あたりませんので」
「なに、見当らんと。まさか何かの化身でもなかろう。探せ探せ、まだ遠くへは行っていまい」
武松はくたくたな姿である。村端れの居酒屋のすみで、正体もなく眠っていたのだ。ここでも空き腹へ一杯あおったに違いなく、もう欲も得もないといった恰好だった。
「豪傑、豪傑。どうか、ちょっとその、お眼をおさましなすってください」
急に耳もとで何かガヤガヤ騒々しいし、しきりに揺り起こす者があるので、武松がふと眼をあくと、県の役人やら名主やら……のみならず往来いっぱいな群集までが、
「虎退治のお客さんはあれだ。あれが虎退治の豪傑だ」
と、まるで祭りのような騒ぎでわんわんと歓呼している。
寝足らない眼をこすっているうちに、彼は、酒屋の軒から設けの駕籠に乗せられた。──見れば組み立てられたもう一台の台の上には、大虎の体が横たえてある。彼はまだ夢見心地で、
「やいやい、こんな物に、俺と虎を載せて、いったいどこへ持って行く気だよ」
と、何度もどなった。
役人や名主は、あたかも英雄に仕える奴僕のごとく、彼を敬って、
「ともあれ、県役署までお越しねがいまする。この凶害を除いていただいた大恩人、村民はあなたを救いの神とあがめ、県知事閣下は、領下の難を救った殊勲者として、お迎えして参れとのおことばです。どうかご迷惑でも」
と、はや担夫に命じて、虎の台と、彼の駕籠とをかつぎ上げさせた。駕籠(手輿)には、晴れの紅絹やら花紐が掛けてある。
列が進みかけると、群集の老若男女は、われがちに寄って来た。そして、武松の駕籠を目がけて五色の紙きれを花と投げた。またその膝のうちへ、羊の肉やら酒の壺やら饅頭などをかわるがわるに捧げてきた。また辻では、爆竹の花火とともに、別れを惜しむ歓呼やら手振りやらで、列も行きよどむばかりである。
さらにこのお祭り騒ぎは、その日、陽穀県の県城へ入っては、いよいよ白熱化されていた。もう町中も聞きつたえており、沿道は堵をなす人の垣である。武松は変な気持ちだった。
「……なんだいこれは。……まるで俺を帝王あつかいしていやがる」
知事は、彼を迎えるに、賓礼をもってした。大餐を設けて、酒席の主座にすえ、そして感謝状を読みあげた。あまっさえ、土地の金持ちから集まった一千貫の金を、賞として、彼に授与すると、讃辞に添えて申し述べた。
「そいつあ、ありがたいこってすが」と、武松は、あいさつに窮したようにいった。
「なにも、虎の一匹ぐらいを拳で撲り殺したぐらいなことは、資本のかかったわけじゃなし、たまたま、あっしが拾った道ばたの運みたいなような出来事。──どうか、お金はこれまでにくそ骨おった猟師さんやら、虎に食われた土地のあわれな遺族方にでも頒けてやっておくんなさい」
「それでいいのか」
知事は彼の無欲に驚いた顔つきだった。
「へい、いいにもなんにも、それで大満足でございます」
「むむ、見上げたものだ。では金は彼らに分配してやるとして。……どうだな武松とやら、今日よりそちを県の都頭(伍長)に取立てたいが、仕官の心はないか」
「ないどころじゃございませんが、じつはその、清河県の兄に会いたくて、ここまで来た旅の途中でございますんで」
「清河県なら何もここから遠くではない。つい隣県だ。いつでも会えよう。……では、書記、武松は今日から都頭に任じるぞ。さっそくその手続きをはこんでおけ」
武松は、この出世も、事の弾みみたいな気持ちでただ「オヤオヤ」と言いたげだった。あんまり欣しそうでもない。
四、五日は県の庁舎で身を休めていた。会う人、会う人から、祝福されたり虎退治を賞めそやされる。そのたび彼はむず痒そうな顔をして、
「やあ。どうもねえ。やあ」
とただ、頭を掻いて、柄にもなくテレるのだった。
そうした或る一日のこと。
庁舎を出て、用もないまま町の公園をぶらついたすえ、子供らの騒いでいる鞦韆のある遊び場までくると、そこの一隅に荷を下ろしていた、うすぎたない饅頭屋の小男が、
「あっ。……武松じゃないか」
と、立ったとたんに足もとの天秤棒に蹴つまずき、そのまま身を泳がせるように寄って来て抱きついた。
「あれっ?」
武松は唖然とした。いや次には、顔を笑み破って、やにわに、背のずんぐり低いその饅頭屋の双肩へ両手をかけた。
「兄さんじゃないか。一体どうしたんですえ。こんな所で」
「武松よ。ああやっぱり弟の武松だったか。面目ない」
「泣きなさんな、こんな道ばたでよ。まさか兄さんがこの紫石街に来ていようとは思わなかった。何か清河県の生まれ故郷に、まずいことでもあったんですかえ」
「何も悪いことなんかしてないさ」
「そうだろうなあ。自体お人よしな兄さんのことだもの。じゃあ借金のためにでも」
「うんにゃ。女房をもらったからだよ」
「女房を娶ったために土地をかえたというのも、おかしなはなしじゃねえか。俺には腑に落ちかねるが」
「話せばわかる。弟よ、こっちへ来てくれ。こういうわけだ」
と、兄の武大郎は、彼をつれて元の位置に返り、商売物の揚げ饅頭の荷担をうしろに、公園の池へ向って坐りこんだ。
一つ腹の兄弟だったが、武松は以前から「兄貴は人がいい。おまけに醜男だ、体も畸形だし、なんてえ気のどくな……」と、逆に、目上の兄を不愍がっている。
だから子供のじぶんから、近所の童仲間が、
「ぶだ! ぶだ! ちんちくりんのぼろッ布れ」
などといって揶揄うと、いつも武松が怒って相手をこッぴどい目にあわせて懲らした。──長じて、大人になってからも、そんな例は何度もある。だから武松が草鞋をはいて他県へ飛び出さない前までは、武大も人から馬鹿にされずに庇われていた。
ところが去年、彼の留守のまに、武大は思いがけない女房をもらう破目になった。それがしかもたいへんな美人だった。たとえば、羽衣を地におき忘れた天女がやむなく下界の下種の女房になったかと思われるような……潘金蓮という女。
もちろん、それにはわけがある。
元々、この金蓮という小娘は、姓を潘といい、清河県の大金持ちの家へ買われた女奴隷だったが、やがてその美が熟してくると、主人の狒々長者は、のべついやらしいことを言い寄りはじめた。女奴隷は財物なので、狒々長者の欲情視は特にふしぎなことではない。
だが、金蓮の花芯はまだそこまで開意をもっていなかった。いやがったり、泣いて逃げたり、あげくに長者の本妻へ告げてしまった。
長者は嫉妬ぶかい本妻にいためつけられ、家人子供らには笑われるしで、赤恥をかいた。ために可愛さ余ッての憎さも百倍、金蓮の身は奴隷仲買人の手にもやらず、彼女の持ち物だけを嫁入り支度として、これを町じゅうで小馬鹿にしている醜男で生活力もない評判の武大へ女房にくれてしまったのである。つまり「──一生、憂き目を見さらせ」という意趣返しだ。
ところで、武大はお人好し。よだれを垂らして、金蓮をあがめ迎え、朝飯晩飯の支度から使い走りまで自分がやって、
「女房よ、金蓮よ」
と、随喜渇仰の有様なのだ。そこでその妻のろ振りがまた、さあ町じゅうのいい笑い草となった。いや岡焼きも手つだっていよう。寄れば触れば、「あの三寸男が」だの「ちんちくりんのボロ布れが」のと、武大の家には町中の目が見通す節穴でもあるような騒ぎだし、あげくには、
「いやはや、惜しい美肉が、犬コロの口へ落ちたもんさ」
と、囃されたりした。
その漫罵と人々の意地悪さには、さすがの武大も耐えかねた。金蓮をつれて、とうとう生れ故郷を逃げ出し、隣県の紫石街に小世帯を持って、じぶんは毎日、揚げ饅頭を売りに歩いていたものだった。
「ム、そうか。……そいつあ兄さん、俺のいないまに、とんだ苦労をしなすったね。が、まアいいじゃありませんか。そんな別嬪を女房に持ちゃあ一生の得だ。ちっとやそっと世間に妬かれたって仕方がねえや」
「そうだよ、武松。わしもそう思ってな、今じゃ気楽に稼いでいるのさ。女房の金蓮もほんに気だてのいい女でね」
「そりゃお仕合わせだ。嫂さんがそんないいお人なら、いちど会わせておくんなさい」
「おお会ってくれるか。まだおまえの妹みたいな若さだから、ひきあわせるのも何だかちょっと気まりがわるいが。……じゃあ、一しょに家へ来ておくれ」
「あいにく手ぶらで、今日は何の土産も持たねえが、じゃあ行きましょうか。……おっと兄さん、その荷物は俺が担いでやろう」
「だめだめ。おまえとわしとでは、荷担いの寸法が違い過ぎるよ」
なるほど、五尺たらずの武大。天秤の荷綱もそれに合せてある。──途中話し話し公園を出て、二人は町中を連れ立って来たが、たれもこれを同胞と見た者はあるまい。知る者は、武松ばかりを振り返って、
「虎退治の豪傑だ。あれが武松だ」
と、囁いては摺れちがって行く。
「なあ武松。わしもあの評判は聞いていたが、まさか自分の弟とは思わなかったよ。金蓮が聞いたらどんなに歓ぶだろう。おれもちょっぴり鼻が高いで」
いうまに、武大はわが家を見ていた。人通りも少ない裏町で、堀の石橋が枯れ柳に透いて見え、角に一軒の茶店がある。──武大の住居は、その茶店をやっている王婆さんの北隣だった。門佗びしげな、一枚の芦簾へ向って、武大が、
「女房や。お客さんを連れ戻ったぜ。そらもう珍らしいお客さんでな」
と、外から声をかけると、とんとんとんと二階から降りて来るらしい跫音がした。同時に、ぱらと白い女の腕が、内から芦簾をかかげて、
「あら……お帰んなさい。まあ、どちらのお客さま?」
と、愛相のよい笑みを外へこぼした。──そしてちらと、武松の姿へ流し眼をむけた金蓮の明眸といいその艶姿といい、はっと、男を蠱惑するかのような何かがある。
なるほど、これでは兄の武大が世間から妬かれたり騒がれたりして、故郷にいたたまれなくなったというのも無理はない。突嗟、武松でさえも変に眩いここちがした。
似ない弟に、また不似合な兄と嫂の事。
ならびに武松、宿替えすること
「さ、弟。二階へお上がり。狭いけれど誰に遠慮もない家だよ」
巡り会った弟を連れて帰ったよろこびで、武大はただもうころころしている。さっそく女房の潘金蓮へも鼻高々とひきあわせた。
「ねえ金蓮。……ほら、お前にもしょッちゅう噂をしていたろ、これがあの弟だよ、長いこと旅に出ていた弟の武二郎さ」
「ま。こちらが弟さんですの」
金蓮はそのしなやかな両の腕を柳の枝のように交叉して、初見の拝をしながら、濃い睫毛の翳でチラと武松の全姿を見るふうだった。──武松もまたひざまずいて、この美しい嫂の絹縢りの可愛らしい沓の前に額を沈めた。
「初めてお目にかかります。途々、嫂さんのことは兄からも伺いました。兄は今たいそう倖せらしく、久しぶりで会ったこの武二郎までうれしくてたまりません。それでついとつぜん一しょにお邪魔してしまいましたが」
「あら、そんなお堅いことを仰っしゃらないでください。……親身な兄さんのお家ですもの。さあ、どうぞもうお気らくに」
「金蓮、お前も評判を聞いてるだろうが、あの景陽岡で虎退治をした人というのは、この二郎なんだぜ」
「へえ、では今、大人気な県城の都頭(伍長)さんは、この弟さんだったんですか」
「違うよ金蓮。虎を退治たもんだから、県の知事さんが、無理に弟を都頭に取立てたので、弟はこの街へ来る前までは、ただの旅人だったのさ」
「どっちだって、同じもんじゃありませんか。ホホホホ、ねえ二郎さん」
白珠に紛う金蓮の歯が笑みこぼれる。眼いッぱいな愛嬌というか一種蠱惑なもの、これが自分の嫂だろうか。これが兄の妻なのか。武松にはまだ身に沁みてこない。
「二郎。今夜はゆっくり泊って行っておくれ。いま何か買って来て、精いッぱいご馳走を作るからな」
兄はころころ出て行ってしまった。「──なんだ! 女房にさせりゃあいいに」と、武松は少々むくれたが、金蓮はさっきから武松にばかり見惚れている。
おなじ兄弟でいながら、なんていう違いだろう。良人の武大ときては、背も五尺たらずのちんちくりんでおまけに猪首で薄野呂で、清河県でも一番の醜男と笑われていたのに、武松の身長け隆々たる筋骨は、男の中の男にも見える。どこ一つといって兄の武大とは似ていない。金蓮はひどく惹かれたらしい流し眼だった。
「……あの二郎さんのお宿はいま、どちらですの?」
「まだ、都頭になりたてのほやほやですからね。県城の官舎に独りでおりますよ」
「ま、お独りで」
「なアに気らくなもんですよ、兵隊暮らしは」
「だって、なにかとご不自由じゃありませんの? これからは、なんでもここへ来てわがままを仰っしゃってくださいましな。ご休暇といわず、いつでも来て」
「嫂さんだって、お忙しいでしょ。兄はあの通りな真正直者。清河県にいた頃から、鈍で才覚なしでただ稼ぐ一方と、世間さまからもとかく小馬鹿にされ勝ちな兄でしたからね。ほんとに、嫂さんも大変に違いない。どうかお願いしますよ、あんな兄でも」
「もったいない、そんな他人行儀なんか仰っしゃらないでよ。でも、その兄さんに、あなたみたいな立派な弟様があろうとは思いませんでしたわ、ほんとに。──二郎さんはお幾歳ですの」
「二十五ですよ。はははは、旅の草鞋もいつの間にか」
「じゃあ、わたしと二つ違いですのね」
ひょいと、彼女の眸を眼にうけて、武松はいわれもなく胸がどきっとした。──そこへ階段の下から武大が魚菜や肉を籠いッぱい入れたのを抱えて上がりかけて来た。
「金蓮! ……。ほら、ほら、こんなに仕入れてきたぜ。市場の衆がみんなびっくりしてやがるのさ。武大さん、今日はいったい何のおめでたがあるのかネって」
「あらっ、この人ッたらまあ」
金蓮はつい日頃の調子を出して、武大の出鼻を口汚くののしった。「──そんな物、なんだって、わざわざ二階へなぞ持って来るのよ。台所へ置いといて、料理の手伝いには、お隣の王の婆さんにでも来てもらえばいいじゃありませんか。……これですものネ、二郎さん」
さて、その晩は、ともかく兄夫婦のもてなしに、武松もすっかり酔っぱらった。わけて金蓮のとりなしは手に入っている。武大と連れ添う前までは、さすが清河県第一の富豪の邸に飼われていた女奴隷の使女(こしもと)だけのものはあった。どうすれば男が歓ぶかを知っている。
泊れ、泊れと、夫婦してすすめるのを謝して、武松は深更に帰って行ったが、あくる朝、眼をさましてから、ゆうべ酒の上で兄夫婦と約束して帰ったことを思い出し、さっそく県役署の知事室へ行き、知事に会って、諒解を求めた。
「閣下、じつは偶然なんですが、この街で、久しく別れていた兄に巡り会いました。四方山の話のすえ、強って家へ来て家から役署へ通ったらどうだと親切にいってくれるのですが、よいでしょうか」
「実兄の家に下宿して、そこから通勤したいと申すのか」
「はい、幼少から一つに育って、とかく淋しがり屋の兄だもんですから」
「よかろう。引っ越しには従卒にも手伝わせるがいい」
一方、武大の家でも、階下の一間に寝台を入れたり壁紙を貼り代えなどして、にわかな歓迎ぶりである。やがて引っ越しの日には、荷物は少ないが、武松は従兵三人に、手車など曳かせてやって来た。近所隣では眼を瞠る──。
「じゃあ兄さん、今日からご厄介になりますぜ。嫂さんにも一つよろしくおねがいします」
下宿もただの下宿屋と違う。これから一つ屋根の下ぞと思うと兄弟久々に愉しげである。武松は日を措いて、隣近所の衆を茶菓で招き、また、嫂の金蓮には、緞子の反物をみやげに贈った。──和気藹々たる四、五日だった。
さて、おちつけば、武大は毎日、荷担をかついで例の饅頭売りに出かけ、武松もきちんきちんと県役署へ出勤して行く。……だがしがない饅頭売りのほうはどうしても朝は早いし帰りは晩い。自然、狭い家には金蓮と武松のただ二人だけの時がまま多かった。
潘金蓮は、めッきり綺麗になりだした。
女の中の秘密が醸されて色となり美となって女の熟れをみせてくる生理には何か凄いものがある。朝夕の化粧や身飾りもそれを研いているが、皮膚そのものの下にいつも仄かな情炎の血を灯し、絖やかな凝脂は常にねっとりとその白い肌目からも毛穴からも男をそそる美味のような女香をたえず発散する。
「……あ、嫂さん。毎朝、顔を洗うのにお湯などはいりませんよ。こっちは兵隊だ、下宿人だ。打っちゃッといて下さい」
「だって、せっかくお汲みしたのに、二郎さんてば」
「その親切は、どうか兄さんにしてやって下さいよ」
「良人にだってしてるじゃないの。さ、食事がすんだらお茶を一盞上がって」
「こうどうもな世話をかけちゃあ……。さ、もう役署の時間だ」
「でもあなたのお世話がわたしうれしいのよ。帰りもお早く帰って来てね。いいこと。晩にはまた何かお美味しいものを考えて待ってますわ」
外へ出ると、武松は何かやれやれと思う。嫂のやつ、亭主を弟の俺と取ッ違えてやがる。親切もありがたいが、こう毎朝毎晩、肌着の下まで撫で廻されるように行き届き過ぎるのもやりきれない。
夕方帰ればなおさらだった。湯に入れば後ろへ来て背中を流す。時により酒など支度していることもある。
「いや嫂さん、兄さんが帰ってから一しょに飲りましょうぜ。独りで飲んだって美味くねえ」
「いいえ、良人は今夜晩いのよ。粉問屋へ帰りに廻るっていってましたもの。二郎さん、わたしじゃいけないの」
「何がですえ」
「何がって、このひと焦れッたいわね。頂戴よ、お盃を」
彼女が沸らせてみせる女情の坩堝も、武松にはさっぱり通じないものだった。いや兄思いな彼は、兄の家庭の平和を朝夕に見ていられればそれで充分楽しいのである。だからまた、金蓮の触れなば崩れんとする花の猥らにも、姿態に示す柳の糸の誘いにも、怒りはつつしんでいた。むっとはしても、笑っている。だが、そう交わされれば交わされるほど、
「……もう、ほんとに。わたし、どうかしちまいそうだわ」
ひとり焦々、髪の根をかんざしで掻く金蓮の思いは、無性に募るばかりだった。
時しもその日は、朝からの大雪。──金蓮が積もる思いをはらすのは今日だとしていた。
良人の武大は、今日も、饅頭売りに出してやったし、帰りも晩いように、わざと二つ三つの用事まで背負わせてやってある。彼女は午過ぎると、隣家の王の婆さんに手伝わせて、こってりとした汁、焼肉、羹料理など拵えておき、さて武松の部屋も火気で火照るばかり温めておいて。
「ああ……よく降ること。なんて静かな雪の昼だろう。まるで真夜半みたい」
と、武松の帰りを待ちぬいていた。
その日は兵営祭りで、武松も半日帰りと知っていたからだった。繽紛と舞う雪のなかを、彼はやがて、赤い顔して帰って来た。──そしてこんな日のこと、さだめし兄も饅頭売りはお休みだろうと思っていたらしく、
「兄さん、えらい大雪だ。みやげの折詰を提げて来たぜ。一杯飲ろうや」
芦簾の雪を払って、家へ入って来るなりそう呼んだ。ところが兄は見えず、出て来たのは、いつもの深情けな嫂の金蓮だけ。
「……なんだい、いねえのなら、兵舎で兵隊と飲んでいたのに」
武松は急に無口になる。取りなす金蓮は、かえって、一倍まめまめしい。下心とともに、耳たぶの紅から爪の先まで研きに研いていたことである。窓外の雪明りは豪奢に映え、内の暖炉はカッカと紫金の炎を立てる。武松が制服を脱いでくつろぐ間に、彼女は裏口を閉め、表の扉にもカギを卸してしまった。深夜のように、酒肴がいつか並ぶ。武松はうんもすんもいわずに見ていた。
「どうなすったの二郎さん。いやよ、そんな顔をなすっちゃあ。……ねえ、わたしにだって稀には兄さんにするように優しくして下さらない?」
「いや、話し相手がないと、つい武二って奴あ、こういう顔になるんですよ。何も嫂さんのせいじゃない」
「じゃあお杯を持ってよ。そして私にも酌いで下さいな」
「酌ぐことは酌ぎましょうよ。だが、あっしはもう沢山だ。兵営祭りで兵隊と、たらふく飲んだあとだから」
「あら、嘘ばッかり。兄さん飲もうよって言いながら家へ入って来たじゃないの。もう意地よ、私だって」
金蓮は三つ四つ手酌でつづけた。今日こそぶつかってやれ、と心に潜めていたものの、やはり勇気が欲しい。自分で自分がもどかしい。彼女は泣きたくなった。体の中で狂う性の翼に気が狂いそうだった。
「二郎さん! 飲ませずにはおかないわよ。お嫌いなの、私のお酌が……。あっ、こぼれる」
「嫂さんどうかしてますね、今日は」
「わかること、それが。……私の眼を見てよ、眼を」
「あっ、無茶だ、嫂さんがそんなに飲んじゃいけねえよ」
「じゃあ、助けてちょうだい。……うれしい、飲んでくれたわね。もひとつよ。嫌アん……それを空けてからよ」
そして彼女は椅子ごと寄って、素早く武松の膝へ姿態だれかかった。と、もう白い手は武松の厚い肩を半ぶん捲いて、髪の香もねッとりと、男の胸を掻きみだすばかり甘えかかる。まるで魔女の身ごなしだ。朱い唇が罌粟の花さながらに仰向いて何か喘ぐ。……どうかしてよ! どうかしてよ! 彼女自身すら持て余しているものを身もだえに揺すぶるのだった。
「あ。……ど、どうしたのさ嫂さん。くるしいのかい」
「くるしいわよ、わかんないこと? ……抱いて、抱いてってば」
「こうですかい」
「もっと、ぎゅっと。いっそ絞め殺してよ」
「じゃあ、こうして貰いたいんだね」
武松は抱いたまま突ッ立ちあがった。──ひぇッっ、と天井の辺で潘金蓮の四肢と裾が蝶の舞いを描いた。武松の両手に高々と差し上げられていたからである。
「たいがいにしやがれっ。この女奴隷め!」
とたんに、部屋の扉口の下で、ぺしゃんと濡れ雑巾でも叩きつけたような音がした。そのままかと見ていると、彼女は跳ね返っていた。泣きもしない。痛い顔もしない。眦の紅を裂いて、武松を睨めつけ、恨みの声を投げてきた。
「よくも恥をかかせたわね。なにさ! 女が男を思ったって、ちっとも不思議はありゃしないわよ。それが通じない男のほうが、よッぽど片輪か木偶ノ坊か、どうかしているのよ!」
それでもまだまだ、容易に腹は癒えないらしく、にんやり自分を見すえている武松の醒めた顔へもう一歩迫って、
「二郎さん、覚えておいでね。ひとがこんなにも親切に……わ、わたし……自分の身もわすれて可愛がッてあげたものを、よくもひどい目にあわせたわね。もう何もしてやらないからいい」
後ろの扉を開けるやいな、ぴしゃっと風を残して、台所のほうへ行ってしまった。
しいんと、そのまま、雪のたそがれが来る。
灯ともし頃、武大は雪で丸くなって帰って来た。物音を知ると金蓮はすぐ門口へ走り出て良人を見るなり泣いて見せた。武大はのそのそ物置小屋へ商売道具を入れて戻るとすぐ訊ねた。
「どうしたのよ金蓮。何か、弟と口喧嘩でもしたんじゃないか」
「そうよ。あんたが余り弟を大事にし過ぎるからさ。今日みたいに口惜しいことってありゃしない」
「よせよ。あいつも口は悪いが、腹ん中はいいもんだぜ。いい弟なんだよ」
「へえ、いい弟が嫂にへんな真似をするかしら。ほんとに馬鹿にしてるわ」
「なにしたのさ、武二が」
「いえませんわよ、そんな恥かしいこと。ごらんなさいな、わたしのこの髪を。ちょうど、あんたが帰ってきたんで、猥な真似もされずにすんだからいいけれど」
武大もそれには動揺したらしい。ちょっと暗い顔したが、すぐ笑った。兵営祭りだ。飲んで帰った酒の上から、つい冗談でもいったのだろう。弟の酒好きはわかっている。
「金蓮。武二は部屋かい」
「およしなさいよ。ふて寝しているらしいから」
「じゃあ、そっとしておくか。……明日になったらきっと頭を掻いてあやまるよ。おまえもいつまで、つンつンしているのはおよし。なあ、せっかく一つ屋根におさまった兄弟だ。俺にめんじて勘弁しなよ」
その晩、武大は妻の腕に愛撫された。厚い雪の屋根の下だった。小心で善良な彼は、金蓮の蛇淫の性を思わず白膚から、初めてな狂炎と情液をそそがれて、心ではびッくりもしていたし、また金蓮のうつつない媚叫や無遠慮な狂態が余りなので、階下の弟にそれが聞こえはしまいかと、内心びくびくしたほどだった。
──で、いつになく武大はくたくたになって寝坊した。金蓮もまた今朝だけは何のかんのの文句もいわない。やがて起きて、階下へ降りて行くと、金蓮が独りでケラケラ笑っていた。
「あんた、行っちまッたわよ、あの人」
「え、武二がいないって。なあに今朝は遅いよ。もう役署へ出かけたんだろ」
「でもさ! ごらんなさいよ。部屋の荷物が引っ絡げてあるじゃないの。やっぱり気まりが悪いのね。あんたに合せる顔がないのよ」
いっているところへ、三人の従兵が、武松に代って荷物を取りに来た。──都合で下宿をかえたいからという言伝てだけである。武大はその日も解けぬ大雪のため、珍らしく饅頭売りを休んだが、一日中、ぽかんと虚脱状態だった。
隣で売る和合湯の魂胆に、簾もうごく罌粟の花の性の事
兵隊仲間における都頭(伍長)武松は、いたって人気者だった。威張らない。規則ずくめで縛らない。わかってくれる。
「伍長、知事がお呼びですぜ」
「おれか。……おやおや、こないだ貴様たちが酒場で喧嘩したのがバレたのかもしれないぞ。また俺の黒星だ」
ほどなく、彼は知事室で直立していた。
「まあ、かけ給え」と、知事はおっとりと構えこんでいう。やがて公用筥から一書類とともに、もう出来ていた辞令を取出して、武松に命じた。
「たいへんご苦労だがな、従兵一小隊をつれて、急に開封東京まで行ってもらいたいのだ。この公文を殿帥府までお届けすればよい。そして、もう一つついでに、わしの親戚の家へ、一ト行李の財宝を送り届けて欲しいのだが」
「出立はいつですか」
「明後日、立ってくれ。何しろ遠隔だし、知っての通り途中の山海には賊の出没もまま聞くところだ。で、君を見込んでやるのだから、しっかり頼む」
「見込んでと仰っしゃられたんじゃ、否やもありません。承知しました」
次の日である。武松は旅の具などを買い漁りに街へ出ていた。出張旅費もたっぷり懐中にあった。兄の好きな物などがやたらに目につく。
兄の家へはあれきり足ぶみしていない。考えてみると四十日余りの不沙汰だ。開封東京といっては早くても二ヵ月余、もし天候にめぐまれなければ三月は旅の空になる。
「そうだ。あれきりじゃ何かお互いに気まずいままだ。ひとつ酒でも提げて行って、ひと晩、機嫌直しをして立とう。あんな嫂でも、兄にすれば満足している大事な女房だ。俺さえ折れていればいいことだし」
彼は酒や肉を買って片手に抱え、また嫂のよろこびそうな手土産なども二つ三つ持って、久しぶり紫石街の茶店隣の芦簾を覗き込んだ。
「まあ、二郎さんじゃないの。どうしたの、いったい」
「嫂さん、どうも、いつかは何とも相すみません。いくら酒の上でもね」
「もういいわよ、そんな過ぎたこと。まアお上がんなさいな二階へ。良人もじきに帰るでしょうから」
「じゃあ、待ってましょう。嫂さん、これ、ほんの手土産ですが」
「あら、わたしにまで。すみませんのね。まあまあお肉やらお酒もこんなに沢山に」
金蓮はすっかり穿き違えてしまった。女にはよくありがちな心理でもある。武松がてれ臭そうに訪ねて来たのは、私に未練があるからだと自分に都合のいい解釈をしたものだった。もちろん未練なら彼女のほうこそ、たッぷりである。武松を二階へ上げて引っ込むと、金蓮はあたふた鏡台へ向った。髪をつかね、香油を塗り、すっかり化粧や着がえも凝らしたうえで、また上がって来た。
「二郎さん、見てよ。これ、いつかあなたにいただいた緞子で仕立てた袿袴なのよ。どう似合うこと?」
と、姿態を作って、横へ向き、後ろを見せ、そして武松の椅子の廻りをそっと巡り歩いた。
さきの一例で懲りているので、今日は大事をとるつもりだろうが、その妖艶な媚びといったらない。たとえば蜘蛛がその獲物を徐々に巣の糸に縢り殺して、やがて愉しみ喰らおうとするようだった。武松は嫂のあれがまた始まるかと気が重い。ただ固くなっている。そのうち兄の武大が帰って来た、武大はよろこぶまいことか。
「おお、武二。よく来てくれたな。ほんとによく来てくれたよ。どうしたい近頃は」
「兄さんじつは、お別れに来たんです。といっても二タ月三月のことですがね」
「えっ、どこか遠方へでも行くのかい」
「公命で開封東京まで行って来ます。いずれまたすぐ帰りますが、どうも何だか、兄さんに気まずい思いをさせてるようで、そいつが一つの旅路の気がかり。どうかいつかのことは、兄さん堪忍しておくんなさい」
兄へもわび、また、嫂にも傷をつけないように武松は下げないでもいい頭を下げた。さすが金蓮もちょッぴり沁んみりした容子。階下では隣の王婆さんがお料理が出来ましたよと告げている。さっそく酒盃や皿数が並ぶ。しばしの別杯というので、その夜は三人仲よく杯を交わしていたが、やがてのこと。
「ときに兄さん。嫂さんもそこにいて、一つ、とっくり聞いておくんなさい」
武松はいつになく改まった。兄夫婦へ面と対って、こんな態度は初めてなのだ。
「──生まれ故郷の清河県でもそうだったが、この街でもそろそろ兄さんを小馬鹿にする餓鬼どもの声が立っている。饅頭売りの人三化七だとか、ぼろッ布れの儒人だとかろくな蔭口を言やあしねえ。小耳にするたび、畜生と俺あ腹が立つ。俺にとっちゃあ血を分けたたッた一人の兄さんだものな……。だが、やくざの俺と違って兄さんときたら、天性のお人好しだ。世間に苛め抜かれても苛め返すことなんざ知らねえんだ。それがまたいいところさ。だがね兄さん」
武松は自分の声に自分で瞼を熱くした。兄の武大は首を垂れる──。どっちが兄か弟かわかりゃしないと、金蓮は横目で見ていた。
「この武松が一つ街に居るうちはよござんすが、たとえ百日でも、留守となるとそいつが弟の身には心配でなりませんのさ。どうかあっしの留守中は、人の騙しに乗ったり、人のダシに使われないように、気をつけておくんなさいよ。……また嫂さんへもだ。どうぞお願い申しますぜ。夫婦は二世とやら、こんな兄でも連れ添う良人、大事にしてやっておくんなさい。よくよく嬶の尻に敷かれッ放しな洟ッ垂らしの亭主だと、世間の奴アいってますぜ。ねえ嫂さん、世間態だけでも、そこはすこし良人を立てて、どうか仲よく暮しておくんなさいな」
風向きが自分へ変って来たとみると、金蓮は耳もとを充血させて、ついと横を向いてしまったが、いきなり袂の洟紙をさぐって、良人の武大の前へ抛ッた。
「あんた。それで洟でもかンでよ、見ッともない。洟も涙も一しょくたにこぼしてさ。……だから私までが二郎さんから、まるで悪女か人非人みたいにいつもコキ下ろされているんだわ」
武松はそれを機に立った。そして路銀の一部を割いた金を卓の上に残して、
「嫂さん、これは先ごろお世話になった下宿料だ、と思って取っといておくんなさい。そしてあっしの留守中は、なるべく兄さんの稼ぎも楽にしてやって、夕方は必ず早目に帰るように。──晩には仲よく寝酒でも飲むっていう風にね、とにかく無事に機嫌よく毎日を送っていてくださいよ。くどいようだが頼みますぜ。……はははは何だかまるで、媒人の言い草みてえになッちゃったなあ。──じゃあ兄さん、行ってきますよ」
武松は階段を下りて行く。武大もついて行く。そのときも、武松はまた、小声で言った。
「兄さん、忘れなさんなよ、今夜、あっしが言ったことを」
「うん、うん……」
弟の影が見えなくなると、武大は軒下で声を上げて泣いた。──その泣き顔を持って二階へ戻ると、金蓮はケラケラ笑った。残りの酒を独りで仰飲ッていたのである。そればかりか卓にトンと頬づえ突いて顔を乗せると、良人の泣き面を見ながらつくづく呟いた。
「オオいやだ、夫婦は二世だなんて。──半世でも、うんざりなのにさ!」
翌日、武松は県城を離れて、はるか東京の空へ旅立ったが、彼の気がかりとしていた饅頭売りの兄の武大には、以後一こうに良い変り目もなさそうだった。
「あら、お前さんたら。なんだってまだ陽も高いうちに、商売から帰ってきたの」
「だって、弟が言ったもの。兄さん、俺の留守中は、必ず早目に毎日帰んなさいよって」
「おふざけでない。やっとこ喰べるがせきの山の饅頭売りのくせにしてさ。こんな甲斐性なしの亭主ってあるかしら。ちッ、薄野呂の、おんぼろ宿六、勝手におしッ」
「晩の酒は買ってあるかい。ねえ金蓮、何をぷんぷんするんだよ」
「お酒。そんな稼ぎを誰がしたの」
「弟がお金をくれて行ったじゃないか」
「あれッぱかしの金、いつまであると思ってるんだ。とうに近所の払いに消えてますよ。あしたから、こんな早くに帰って来たら、飯も食べさせないからいい……」
遠山の雪肌も解け初めて、この陽穀県の小さい盆地の町にも、いつか春の訪れが萌えかけていた。ひとり萌えるにもやり場のないものは、金蓮の肉体にだけ潜んでいる。
金蓮はその日、桟叉(竹竿に叉をつけた物)を持って、門口へ出ていた。廂の芦簾の片方が風に外れたので掛け直していたのである。──が、冬中の雪に廂の釘も腐ッていたのだろうか、一方を掛けているまに一方がバサーと落ちた。「あっ」と金蓮は、簾を避けてよろめいた。と、後ろに人がいた。通りかかりの往来の者らしい。その者も軽く「ア。あぶない」といって金蓮の体をささえ、そして、相顧みてわけもなくニッと笑いあった。
「すみません。とんだ粗相をして。……もしやお沓でも踏みはしませんか」
「いえ、なあに」
男は洒落者ごのみな頭巾をかぶり、年ごろは三十四、五。ぼってりと色の小白い旦那風であった。
ほんの行きずりの出来事。それ以上は、多くをいう機ッかけもなく、男は行き過ぎてからチラと振り返った。すると金蓮もまた振り返っている。
男はせつなに何かぞくとでもしたらしい。急にその足を斜めに向けて、金蓮の家のすぐ隣の茶店の内へ入ってしまった。
「まあ、おめずらしい。なンてまあ、今日は風の吹き廻しなんでしょうね」
茶店の王婆さんは下へも措かない。──これなん、こんな安茶店の床几へなど滅多にお腰をすえる旦那ではなかったもの。
県城通りの槐並木に、ひときわ目立つ生薬問屋がある。陽穀県きっての丸持ちだともいう古舗だ。男はその薬屋の主人で名は慶、苗字は二字姓の西門という珍らしい姓だった。
この西門慶は、男前もちょっと良かった。それに県役人の間にも頗るな顔きき。とかく金の羽振りというものか街中では彼の姿に小腰をかがめて通らぬはない。──で、王の茶店婆さんなどにしてみれば、なおのこと、掃溜の鶴とも見えたに相違なかった。
「婆さん、ちょっと訊きたいがね、折入ってだ。……耳を貸してくんないか」
「いやですネ旦那、こんな婆の袋蜘蛛の巣みたいな耳、お側へなんか持って行けやしませんよ」
「なにサ、おまえを口説こうというのじゃない。……いまチラと門口で見かけたんだが、この隣にゃあ、すごい美女がいるじゃないか」
「ま、お眼がはやい。見ましたかえ」
「ありゃあ、さだめし亭主持ちだろうな」
「ええ、それがまあなんと、可哀そうに、あんな縹緻を持ちながら」
「とはまた、どうしてさ、可哀そうたあ?」
「だって旦那、人もあろうに、あれが饅頭売りの武大ッていう薄野呂のおかみさんじゃござんせぬか」
「ひぇっ。ほんとかい……ふ、ふ、ふ。……いやほんとかね、婆さん」
「つい去年、清河県から引っ越して来た夫婦者。ずいぶん世間にはいろんな夫婦の組み合せもありますけどさ、武大と金蓮みたいなのは、なんの因果といっていいやら、縁結びの神さまも、ずいぶん罪な真似するもんですね」
「……オ、婆さん。梅湯を一杯美味く煎れてくれないか。ただの茶よりは梅湯の方がいいぜ」
「あら、ごめんなさいましよ。ついついお喋舌りばかりしていて」
王婆が梅湯を茶托にのせて奥から出直して来ると、その間も西門慶は、床几を少し軒先へずり出して、しきりに隣の二階を見上げている様子だった。
「……旦那。……もしえ旦那。うまくお口にあいますかしら」
「オ、梅湯か。ム、たいそう薫りがいい、酢味もちょうどだ。ところで婆さん、梅っていう字は楳とも書く。楳の意味はまた、媒人にも通じるッてね」
「やはり旦那は旦那。味なことを仰っしゃいますこと。婆には学問のことはなにもわかりませんけれどさ」
「文字の講釈などいってるんじゃない。おまえを楳と見立てていったんだ」
「あらいやだ、旦那はいつのまにか、わたしの内職までご存知なんですね。……だって仕様がございませんものね。こんな人通りの少ないところの安茶店じゃ、正直食べても行かれやしません。暇にまかせて、こっそり妾のおとりもち、出逢い茶屋まがいのチョンの間貸し、そんなことでもしてお小費いをいただかないことにゃあ」
「なるほど、看板にはないが、ここは梅湯、生姜湯のほか、和合湯の甘ったるいのもございますッていうわけか」
「旦那へも、その和合湯をトロリと一服おいれいたしましょうか」
「婆さん、さすがだ、おれの渇きは、もう読めたな」
「この年ですよ。そんなことぐらい読めないでどうするもんですか。……けれども旦那え、チョンでも馬鹿でも、亭主ってものが、にらんでいる花ですからね。そうやすやす、手折れると思ったら、大間違いでござんすよ」
「おっと、今日は急ぎの用先きだっけ。薬種を煎じるにも気永が大事さ。辛抱はするからね、たのんだぜ」
「あらお待ちなさいましよ。床几の下にまでお金が散らばッてさ。お忘れ物じゃございませんの」
「オ、紙入れからこぼれたね。ええ、めんどうだ。婆さんそっくり拾って取っておきな」
「ひぇっ……。まあこんなに」
数日措くと、西門慶はまたやって来た。いやそれからは、三日にあげずだ。時によると一日に二度も三度も来るといったぐあい。大熱々なのぼせ方である。王婆さんには思いがけない福運の春告鳥は、こことばかりな手具脛振りだ。
元々、この王婆たるや、ひと筋縄の婆ではない。近所界隈の事情合いには精通しており、戸々の収入りから女房たちの前身、亭主の尻の腫物までも知りぬいている。堕胎、姦通、妾の周旋、あいびき宿、およそ巾着銭の足しには、なんでもござれとしていたのである。そこへ鴨も鴨、断然そんな手輩とは、金の切れが違う西門慶という大鴨がかかったのだから、婆としては千載の一遇だ。ほかは一切お断りの態で、旦那旦那と彼一人へ手練手管をつくしにかかったものだった。
色事五ツ種の仕立て方のこと。金蓮、良人の目を縫うこと
堅々しい古舗の旦那も、あてにはならない。昼もまぼろし、夜はうつつなさだ。これまでずいぶん、街の商売妓には鍛えられてきた西門慶だが、チラと見染めた潘金蓮だけには、全くどうかしてしまっている。
みすみす王の婆さんに巧く絞られているとは百も承知の上ながら、通わずにいられなかった。こんどは、今日こそはと、つい通いつめ、さすが色事にかけては自負満々だった西門慶も、もうふらふらな様子だった。
「婆さん、いつまで焦らすんだい。おれはもう死にたくなった。今日は約束どおりおまえの棺桶代(養老金)もここへ積むぜ。さあ、どうしてくれる」
「おやまあ、すみませんねえこんな大金まで戴いちゃって。……けれどさ旦那、なんたって亭主持ちでしょ。それに女拵えには、五つの条件てものがありまさアね。ほほほほ、旦那に色事の講釈など、釈迦に説法ですけれどさ」
「いや色道は底が知れないよ。こんどは参った。俺としたことが、こんな初心にもなるもんかとつくづく思って」
「それそれ、それですわよう旦那。女をコロとさせるには、初心っぽくまず見せかけて、次に大事なのがいまいった五つの条件。一が拍子合い、二がお容貌、三がいちもつ、四がお金、五が暇のあること」
「暇と金なら、あり余るぜ」
「お容貌だってとてもとても。もしわたしが若けりゃあ捨ててなんかおきはしない」
「三の男の物なら、おれのものは、驢馬ほどなものはある。どんな商売妓だろうが、嫌泣きにでも泣き往生させずにはおかないよ」
「おやまあ、たのもしい。けれどまだありますよ、いッち難かしい一つがね。拍子合いといって、首尾と縁の機ッかけ。これがねえ、旦那え」
「まだ、渡りがついてねえのかえ」
「あれでもやっぱり亭主は亭主で、朝に晩に饅頭売りの武大めが、金蓮や金蓮やで、くっついていますしね。その隙を狙う才覚ですもの、生やさしい苦労と芸当じゃございませんでしょ」
「わかってるよもう、その骨折りは。まだ何か所望があるのか」
「じつはね旦那、たび重なって申しあげにくいんですが」
「ああよそにいる息子の嫁娶り入費か。それも要るだけは出してやる。……やるがさ、どうだよ、隣の鶯は」
「あしたの昼、そっと籠から盗んで、うちの奥へ誘い込んでおきますから、いいようにお啼かせなさいましな」
「えっ。ではもうはなしは出来てるのか」
「お気が早い、まだまだ細工はこれからですよ。以前、清河県の大金持ちの家に小間使いをしていた時から、あの娘はお針が上手なんですとさ。そこをつけ目に、ごひいきの旦那衆から、何かのお祝い事で、晴れ衣裳の仕立物を頼まれたから、金蓮さん、ひとつ家へ来て、仕立て物を手助ってくれまいか……と、まア持ちかけてみるつもりなんですがね」
「うまい。そいつあいい首尾になりそうだ」
「じゃあ早速ですが、白綾、色絹、藍紬、それに上綿を添えた反物幾巻と一しょに、暦とお針祝いのお礼金をたんまり包んで、夕方までにここへ届けて下さいましな」
「よろしい、そして明日の昼間だね」
「いいえ、明日はちらと、お顔見せるだけのこと。わたしが、座を巧くとりもって、ひと口、お酒を出しますから」
「念入りだなア、どうも」
「お美味しい果物は皮もていねいに剥いて食うことでしょ。よござんすか。そして四、五日はまあ品よく顔を見合ったり言葉の一つもかけたりしなさる。折にはまた、お気前を見せたりしてね」
「いつになるんだい、ほんとの首尾は。寝られないよ、その間なんざ」
「さ、そこが拍子合い。舟も揺れ頃、潮も上がる時分とみたら、わたしがその日、たんまりお酒に媚薬を入れて、眼合図でおすすめしましょう。そしてわたしは買物に出て行っちまう。あとは旦那の腕しだい。といっても、あせッて事を仕損じちゃいけませんから、しばらくは酌しつ酌されつ。そして試しに、卓のお箸を下へ落としてごらんなさい。いいえ、術ですよ。箸を拾う振りをしながら、わざと手をさしのべて、裳のすそからちょっと深めに、あの娘の股へ手を触ってみるんですよ。……声でも揚げて、怒るようだったら、またこの話は練り直しだと、諦めなくっちゃいけませんがね」
「ううむ、そんな心配がありそうかね」
「女心ですもの。どう現われるか、わかりゃしません。自分にだって、わかりゃしない。けれど、その前にわたしが二人ッ限り残して、裏口を閉め、表も閉めて出ていくでしょ。……もし女に気がなければ、そのときジタバタするにきまってますよ。それでも残っているようなら、まず八、九分までは脈のあること。あとは箸落としが、枕外しとまでなるかどうか。ほほほほ、旦那え、出来ちまったら、あとは邪魔物だなんて、わたしを粗末になんぞなさると罰があたりますよ」
近所も近所、すぐ壁隣の家で、いつのまにかそんな運びが出来ていようとは、ゆめにも知らない武大だった。春は日永になり、武大の帰りもだんだん遅くなっている。早く帰れば金蓮に頭ごなしに呶鳴られるからだった。
「ああ、くたびれたよ金蓮。稀にゃ半日でも休ませてもらえねえかなあ」
「好きなこといってるわ。あらなアに。蒸籠のお饅頭がまだ幾つも売れ残っているじゃないの」
「だって、仕方がねえわ。日はどっぷり暮れちゃうし、晩に饅頭なぞ売れやしねえもの」
「おまえさんはまた公園で居眠りばかりしてるんでしょ。いつぞやは、饅頭をみんな、犬に食われてベソを掻いて帰って来るしさ。……それで休みたいもないもんだ」
「おや、金蓮。おまえ酒機嫌じゃないか。それに、どうしたんだい、後ろに綺麗な糸屑がたかっている」
「あんたが意気地がないからよ……わたしここ五、六日ほど、毎日お針仕事に通ってるんだわ」
「そうかい。……すまねえのう金蓮。いったい、お針仕事とは、どこへ通っているんだね」
「お隣の王婆さんよ。お婆さんが親切に言って来てくれたの。どこかご大家のお祝い着を頼まれたんですって。そして小費い稼ぎにどう? っていうからさ」
「だが、酒振舞いは、おかしいじゃねえか。何もお針仕事の針子にさ、酒を出すなんて」
「貧乏性だわねえ、あんたは。今日は黄道吉日でしょ。お大尽の仕立て物には、裁ち祝いということをするもンなのよ、知らない?」
「知らねえ……」武大は暗い顔して、うなだれていたが「なあ金蓮よ、稼ぎの弱いおらが、こんなこというと、またおめえの気を悪くするかもしれねえが、弟の武二も、くれぐれおらに言いのこして行った」
「また、弟さんのご託宣かえ」
「だって、弟がの、兄さん忘れなさんなよと、おらを案じて言っていたもの。世間は恐ろしい、小馬鹿にはされても、人のダシには使われなさんなよって」
「だれがダシに使われたのよ。だれがさ」
「隣の王婆さんは、じたい、おらは虫が好かねえんだ」
「なにもあんたがお針に行くわけじゃないんでしょ。ふン、虫が好くの好かないのと、人並みなこといってら」
「金蓮、後生だ。やめてくれ、おら晩まででも稼ぐよ。だから家にいてくんな」
「ひとを二十日鼠だと思ってるのね。いいわ。その代りに、明日からはもう一ト蒸籠も二タ蒸籠もきっとよけいに売っておいでよ。もし明るいうちになぞ帰って来たら家へ入れないから」
いちぶ一什は、のべつ隣の王婆が、裏の台所口へ来ては、偸ち聞きしている。
朝々、武大を稼ぎに追い出してしまうと、金蓮はもう翼を翻して隣の奥へ来ていた。この間じゅうから縫いにかかった白綾や青羅紅絹がもう裁ちもすんで彼女の膝からその辺に散らかっている。
「まア、なんて早い針運びだろう。金蓮さんみたいなの、見たことないよ、お世辞でなく」
「いやですわおばさん、そんなに褒めちぎッちゃあ、はずかしくって」
「だって、見事だもの、ほんとにさ──針も針だけど、指といったら、まるで何か美しい蝋細工が動いているみたいだし、こう覗き込んでると、わたしだって、この可愛い襟くびへ食いつきたくなっちまう。……薬種問屋のあの旦那が、ずいぶんお目も高いお方だのに、精いッぱい賞めておいでたのも無理はないね」
「あのお方、なにかわたしのことを、仰っしゃってましたの?」
「ままになるならって」
「あら、あんなことを」
「きっと、お淋しいんだよネ、あの旦那も。お金はくさるほどあるけれど、おかみさんには死に別れたし、お子はないしさ。いくら番頭や親類があったって」
「おだやかなよいお人柄ですのにね。……おや、おばさん、どなたか表に」
「あら、旦那らしいよ。噂をすれば影。……おお旦那、いらっしゃいませ。いいえもう、店のほうよりは、奥がたいへんなんですよ。少しは休みながらといってるのに、金蓮さんときては、真正直に、もうせッせと、針の目ばかりに暮れッきりで」
西門慶は、今日も身装りを着かえていた。めかし頭巾も紫紺色の、まるで俳優めかしたのをかぶり、少々は薄化粧などもしているらしい匂い。なにやら如才ない手土産などを婆に渡して、やや離れた椅子に腰をおろすと、大容に言ったものである。
「ご苦労さまね、金蓮さん。そう急ぐわけでもなし、からだに障っちゃいけませんよ。すこし話しませんか」
「いいえ、お針は好きですから……」と、金蓮はいっそう肩をすぼめて、恥じらしげに、針も休めず顔も上げない。
「……でも、こんな下手なお仕立てが、お気に召しますかしら、しんぱいですわ、わたし」
婆はもう台所から、土産物の果物に、一煎のお茶を添えて、そこの卓へ運んで来た。そして、
「さ、金蓮さんも、ご一しょに……。これでお口を濡らしているまに、すぐお料理やお酒を持って来ますからね」と、すぐまた席を外して行った。
「ア、おばさん。そんなに関わないで頂戴、毎日のことですのに」
「いや金蓮さん。酒はてまえが、飲みたいんでさアね。つきあってください。それとも、お嫌?」
「いやなんてこと、ありませんけど。いつも、甘えてばかりいますもの」
「いいじゃありませんか。どうしたご縁やら、茶屋酒には飽いているてまえも、ここへ来ると、何かしらこう、あなたと一しょに、ひとくち過ごしたくなりましてね」
「ま、お上手なこと仰っしゃって」
「ああ、ざんねんですな。この西門慶が、そんな男に見えますか。……お婆さん、酒のしたくはよしておくれ。今日はもう帰るから」
「あら、お気を悪くしたんですか。どうしよう、わたし。……ごめんなさい。ごめんなさいね」
潘金蓮は、おろおろと膝の上の縫いかけ衣を床に曳いて、西門慶の前へ立った。
梨売りの兵隊の子、大人の秘戯を往来に撒きちらす事
もとより西門慶は、本気で帰るつもりなのではない。小当りにちょッと金蓮の〝気〟を引いてみたまでのことだ。
王婆もまた、もちろん今日の寸法は呑みこんでいる。いい首尾を作るにも、男の逸り気を撓め、女の待ち汐を見、そこの櫓楫の取り方は媒ち役の腕というもの。「……まあ、まあ、ふたりともおとなしく、お婆のいうことを肯くもんですよ」とか何とか言いつつ、とにかく予定の小酒盛にまで持ち込んでいくところ、さすがに婆だわと、男の西門慶には頼もしい。
「旦那え……」と、酒もそろそろ廻るほどに、婆までがいやに色っぽく眼もとを染めて「どういうンでしょうね、旦那ってお人は」
「なにがさ? 婆さん」
「なにがじゃありませんよ。こちらのお内儀さんにも、お杯ぐらい上げたらいいでしょ」
「だって、金蓮さんは、迷惑そうなお顔じゃないか」
「ま、お察しが悪い。旦那と一しょなので、恥かしいんですよ。ほんとは、飲ける口なんだもの。さあ、おかみさんも、お杯を受けたらいいじゃないの。焦れッたいねえ」
「まるで、わしとおかみさんとで、叱られてるみたいだな、はははは。時に、あなたはお幾歳ですか」
「もう二十三ですの」
金蓮は、やっと答えて、同時に、貰った杯へ、唇を濡らした。
「じゃあ、わたしのほうが、九ツも上だな。お針は上手だし、礼儀作法といい、人当りの姿態もよし……、武大さんとやらが羨ましいね」
「オヤ、禁句ですよ旦那。おかみさんは、とても亭主運が悪いんで、武大の武の字を思い出しても、すぐ気が鬱いで来るんですとさ」
「それはまあ、似た人もあるもんだね。この西門慶も女房運が悪くッて悪くって。もう女は持つまいと思ったほどだ」
「だって、おくさんは、おととしお亡くなりになったでしょ。……まあ旦那のほうで仰っしゃるから、あけすけに言っちまいますが、陽穀県一の薬種問屋、西門大郎の御寮人にしては、亡くなったおくさんは、余り良妻じゃなかったんですってね」
「悪妻も悪妻だし、嫁に来てから病み通しだったんだよ。のべつ医者よ薬よ、別荘行きよと、贅沢三昧をやったあげく、亡くなったのさ。番頭手代、数十人も召使っているが、いらい女房だけは、それに懲りてね」
「だけど旦那え。外にはたんと、美い妓をお囲いなんでしょ。お隠しなすっちゃいけませんよ」
「ああ。あの小唄の女師匠のことかえ」
「あの女もだけれど、新道の李嬌さんなぞも、向うから旦那に首ッたけだって噂じゃありませんか」
「違う。違う。あれもね、弟を官学校へ入れたり、母持ちなので、つい面倒をみてやっているが、向うですまないすまないと言い暮らしているだけで、こっちは正直、足も余り向かないほうなのさ」
「でしょうね、どうせ。なにしろ、色街でも引く手は数多な伊達者ではいらっしゃるし、お金はあり余るうえ、おまけに、女には人いちばい、お眼が肥えているんだから、めったに、旦那のお気に召すような女なぞありッこなしでござんしょう」
「ところがさ、世はままにならないものでね」
「おや、旦那にも、ままにならないことなんか何かおありですかえ」
「小唄の文句じゃないが、あちらで想ってくれるのは、こちらはさほどでもないし、こちらで想う人には……」
西門慶は、思い入れたっぷり、金蓮の顔を眼のすみから偸み見る。さっきから少しずつ酒も入っていた金蓮の皮膚は、そのとき名の如き蓮花の紅をぱっと見せて俯し目になった。その眸の留守を、婆の眼と西門慶の眼がチラと何かを語りあっていた。
「あら、あいにくだよ、もうお銚子が……。旦那え、お酒が切れましたから、役署前の上酒を買ってまいりますよ。その間、ご退屈でも、おかみさんと話していて下さいませんか。いいかえ、金蓮さんもここにいておくれね」
汐と見て、王婆はするりと、座を外す。そして部屋を出ると、外から扉の把ッ手を紐で絡げてしまった。のみならず、自分もそこに屈まり込んで、内の首尾に、かたずを呑んでいたのであった。
「金蓮さん。いや、おかみさん。も一ついかがです。まだお銚子には少しはある」
「もう、もう。こんなに頬が火照ッてしまって。くるしいほどなンですの」
「だって、いける口だっていうじゃありませんか。おかみさんは」
「おかみさんだなんて、仰っしゃらないで。……なんですか私、かなしくなる」
「そう、そう。禁句ですってね。わたしもあのお喋り婆さんに、亡くなった家内のことやら、あの女この女の、街の取り沙汰など持ち出され、あなたの前でてれ臭くってしようがなかった。といって、私もまだ男の三十そこそこ。この幾年は童貞も同じような独り身ですものな。心からの浮気ではなし、察して下さいよ」
「でも。ひとから見れば、さぞかしと思うでしょうね。そう見えたって、無理ありませんわ」
「じゃあ、金蓮さんから私を見たら? ……」
「わからない! ……」と、艶やかに、かぶりを振って「わかりませんわ、わたしなどには、殿御のほんとのお心は」
「うそばっかり。あなただって、まんざら男を知らないでもないのに」
「だって、わたしの知った男といっても」
「おや、涙ぐんで、どうしなすった。いやもう、つまらないことは思いッこなしにしよう。さ、さ、涙なぞ拭いて、も一つどう」
銚子を向けた肱の端で、西門慶は、わざと卓の象牙の箸を、下へ落した。
かねて、婆さんからも、言いふくめられていたことである。
「試しに、卓上の箸を落して、拾うと見せ、そっと女の脚へ触ってごらんなさい。女に水心がなければ、怒り出すにきまっている。もしまた、なすがままにさせているようだったら、もう大丈夫、さいごのことへ」と。──つまり西門慶は胸ドキドキそれを実行してみたものなのだ。
が、彼より早く、金蓮の体のほうが、
「……あら、お箸が」
と、すぐ椅子をうごかして、その嬋妍な細腰を曲げかけた。しかし「いや、いいんですよ」とばかり、西門慶もそれより低く身をかがめる。そして彼女の裳の下へ手を触れた。いや、もうそのときは、試すなどの〝ためらい〟を持っている余裕はない。本来の彼そのものが、爬虫類のような迅さと狡さで彼女のおんなを偸んでいた。「……あ。……アア」と金蓮は柳腰をくねらせたが、叫びを出す風でもない。深く睫毛をとじたまま、白い喉を伸びるだけ伸ばし、後ろへ悶え凭れただけである。それをもう冷然と、西門慶の眼じりは女の小鼻のふくらみから、あらい息づかいまで見すましていた。あらゆる女を経てきた彼の自信は、いまやどうそれを𩚚欲すべきか、愉しもうかと、まずは思案するほどな、ゆとりと狡智なのだった。
金蓮はくるしくなって、椅子から下へ落ちかけた。その体を片手すくいに抱いたまま、西門慶がひたと唇を近づけると、彼女の乾いて火を感じさせるような唇は烈しく男の唇をむさぼり吸った。それは西門慶ほどな男さえも、かつて味わったことのない無性な挑みと情熱のふるえだった。
「どうしたい。え。なにを慄えるのさ、金蓮さん」
「だって。……だって、もう」
「怒るかしら」
「なぜ」
「こんな目にあわせてさ」
「知らない。どう、どうにでもして」
「しずにはおかないよ」
西門慶は体も大きい。金蓮のしなやかな四肢は、締めころされるようなかたちを乱した。しかも悠々と男には余裕があるのに、彼女の指の先は処女のごとくどこでも無性につかみ廻って、背は、床をズリながら身伸びに身伸びをつづけてやまない。が、すぐ男の胸の下に、死に絶えたような息をつめてしまった。──そして今し、彼女の枕なき枕もとには快楽の国がうつつと入れ代りに降りていた。とつぜん、金蓮の飛魂のすすり泣きは、西門慶を狂猛にさせた。男のふところ深くへ細やかな襟頸を曲げ、また仰け反っては、狂わしげに唇をさがしぬく黒髪にたいして、彼は意地わるく唇を与えないのだった。彼女は悲鳴のうちにいちど気を失って徐々に力を脱いた。男の唇はやっと彼女に与えられ、神丹を含ますように、彼女の精気を気永に扶けた。まもなくまた、彼女は濡れた眸で虹のような妖笑をふとあらわした。それを官能の合図と見たように、西門慶はやおら彼女の体をまるで畳んでしまうような自由さで持ち扱かった。そして貪欲な自己を一そう赤裸にした。金蓮はそのせつなに初めて武大にあらざる男を体のおくに知って何かを生むような呻きにちかい絶叫を発した。それは香ばしい汗と獰猛な征服欲との闘いといってもいい。西門慶の予想は、はるかに期待を超えていた。不覚にも彼さえつかれはてていた。
「…………」
部屋の外の王婆は、さっきから何度、そこを離れてみたり、また、抜き足で戻ってきたりしていたかしれない。ついには、余りにも余りなので、婆の根気もしびれを切らしてしまったらしい。わざと二ツ三ツ咳払いしながらそこの扉へ手をかけた。
「あ。戻って来たよ、婆さんが」
内の男女は、身仕舞いにうろたえながら、慌てて立ち別れた気配である。婆が入って行くと、金蓮はまだ髪の乱れも掻き上げきれず、後ろ向きに腰かけて、化粧崩れを直していた。
「あれ。……いやらしい」と、婆は仰山に、男女を見くらべて、「まさかと思っていたら、なんてことなさるんですよ。人の家でさ!」
金蓮は、婆の胸へ走り寄って、
「おばさん、かんにんして! ……わたしが悪いの」
「ま、あきれた。この通りだよ女ってものは。男に罪を着せまいとしてさ」
「婆さん、静かにしろよ。もうできちまったものは仕方がないやね」
「旦那も居直りなさるんですかえ」
「遠くて近きは何とやらだよ。この上は隣の武大に知れないよう、頼むは神様仏様、次いでは王婆様々だ。今日だけでなく極く内々に、この後の首尾もひとつたのむぜ」
「それはもう、知れたらこの婆だって、同罪でござんすものね。その代りに旦那え、一生末生、婆を大事に、お礼のほうもいいでしょうね」
「わかったよ、わかったよ。河豚と間男の味は忘れられない。ここで逢曳きするからには、わたしたちだけでいい思いをしているわけはないやね」
「じゃあ、この婆も腹をすえたとして。……金蓮さん、おまえも覚悟はしたろうね。これッきりじゃないんだよ」
「ええ、それはもうおばさん、こうなるからには私だって」
「倖せだよ、おまえさん」と、婆は彼女の背を一つ叩いて「これからは、間がな隙がな、可愛がっていただきなよ。……だけど、いくら頓馬の武大でも、勘づかれた日には事だからね。さ、今日はもう帰っておいで」
追うように、金蓮を裏口から帰してしまうと、婆はさっそく、西門慶から当座の大枚な銀子を褒美に受けとった。そのお世辞でもあるまいが、婆は、西門慶が女にかけての凄腕を、聞きしに勝るものだったと、舌を巻いて驚嘆する。西門慶は「その道にかけての俺を今知ったか」といわぬばかりに、ヘラヘラ脂下がった顔してその日は戻って行った。
さあそれからは、ここを痴戯の池として、鴛鴦の濡れ遊ばない日はなかった。西門慶も熱々に通ってくるが、むしろ金蓮こそ今は盲目といっていい。彼女の眠っていた女奴隷の情火は、逆に、男を喘がせて男の精を喰べ尽さねば止まぬ淫婦の本然を狂い咲きに開かせてきたすがたである。ただの一日でも西門慶の愛撫がなければ焦々してきて、いても起ってもいられない。
が、こんな逢曳きが、世間誰にもわからずに、永続きするはずはなかった。いつしか二人の密会は近所合壁の私語となっていたが、知らぬは亭主の武大ばかり……。それがまた、他人眼の哀れと苦笑を誘って、噂に噂を醸していた。
ここに、鄆州生れの兵隊の子で、鄆哥という十三、四のませた小僧ッ子がいる。
鄆州兵の父親は、戦傷で寝たッきりなので、母親一人の細腕の家計を助けているというちょッと感心なところもある少年だった。その鄆哥は、毎日、果物籠を頭に載せ、足ははだしで、
「桃はいらんか。雪梨を買ってくんなよ。姐さん」
などと街の酒場を歩いたり、くたびれると、籠を辻において、往来の男女へ呼びかけたりしていた。
或る日、彼はへんな立ち話を小耳にはさんだ。梨の皮を剥き剥き客の二人が囁いていた噂なのである。やがて、その一方が去ってしまうと、待ちかねていたように鄆哥が訊ねた。
「小父さん、今あっちへ行った人が話していたことは、ほんとなのかい。……西門慶の旦那と、武大さんの女房が、毎日、隣の茶店の王婆の家で逢曳きしているッてえのは」
「おや、この小僧、小耳が早ええな。ほんとだとも。世間、隠れもねえことだ」
「そしたら、武大さんが可哀そうだね、武大さんに教えてやろうかしら」
「止せ止せ。あの薄野呂な武大公にいってみたって始まらねえや。それよりは、こう鄆公、おめえは子供だからちょうどいいぜ。それをたねに金を儲けろよ、金をよ」
「へえ、何かそれが、金儲けのたねになるかしら」
「なるとも。これから王婆の茶店へ知らん顔して乗り込むんだ。そしてな……おい耳を貸しな」
事を好む人間はどこにもいる。何を教えられたか、鄆哥は眼をまろくしてよろこび、さっそく果物籠を頭に乗ッけて、もう歩き初めたものである。
「小父さん、巧くいったら、小父さんちの台所へ、雪梨を一籠タダで届けるぜ。おらもおふくろに金を見せてよろこばしてやれるもンなあ」
「ばか。往来中だぞ。大きな声をしねえで、早く行ってみろ」
「あいよ」
紫石街の街端れ、彼の裸足の軽ろさでは、またたくまだった。
見ると。
茶店の王婆は、店さきの床几で糸を紡いでいる。隣の武大の家はといえば、あいかわらずな芦簾の掛け放し。人が住むとも留守ともみえないような静けさだ。「……ははん」と、鄆哥は猿の目みたいな小賢しさで頷いた。
「おばあさん、こんちは」
「えい! びっくりするじゃないか、この子は。なんだよ素大ッかい声をして」
「雪梨を買ってもらいに来たんだよ。──今日はいい杏もあるしさ」
「また、おいで!」
「婆さんにいってるんじゃねえや」
「なンだって。じゃあ誰に売ろうっていうのさ」
「奥にいる旦那にだよ」
「だんな?」
「西門慶の旦那さんに買ってもらいてえんだ。きっと買ってくれるよ、籠ぐるみ」
「おふざけでない、このこけ猿め。いったい、どこに旦那がいるッてえのさ。水を浴びせるよ、寝呆けたことを言い散らすと」
「だって、いるものは、仕方があンめい。こう見えても、おらア千里眼迅風耳だぜ」
「そうだよ、ちょうど悟空猿の手下みたいな面ツキさね。だけど、出放題もいい加減にしないと、どやしつけるから、気をおつけ」
「ふふん。おらが悟空の手下なら、婆さんは何だい。逢曳き宿などしてやがって」
「いったね。鄆坊。一体、誰がそんなことを言やがったんだい」
「天知る地知るさ。ざまア見やがれ、慌てやがって」
「もう承知しないぞ」
「旦那あっ。奥の旦那あ、婆さんが、邪魔していけないよっ」
「いるもんか。その人は」
「じゃあ、探してみようか」
「この野良犬め」
「ア痛っ、撲ったな」
「こんなことで、腹が癒えるもんか。この盗ッと猿め。これでもかっ、これでもか」
「ア痛ッ。ア痛たたた。くそっ。負けるもんか。死に損いの掃溜め婆」
四ツに組んだが、しょせん、王婆の骨ッぽい体を捻じ折るまでにはいたらなかった。のみならず、ぴしゃぴしゃ鬂太を食ったあげく、鄆哥は往来に突き飛ばされて、したたかに尻餅はつくし、果物籠は引っくりかえされるし、散々な敗北だった。
「み、みてやがれっ。くそばばめ」
ベソを掻き掻き、鄆哥はそこら中にころがり出した梨や杏を籠へ拾いあつめ、あとも見ずに、その日はついに逃げ出してしまった。
姦夫の足業は武大を悶絶させ、妖婦は
砒霜の毒を秘めてそら泣きに泣くこと
武大はいつもの公園に出て、蒸饅頭の蒸籠店をひろげていた。陽も午さがりの頃である。池の鵞鳥ばかりガアガア啼いて、ここの蒸饅頭は一こう人も振り向かない。
「ええおい、武大さんよ。嘘じゃないよ。ほんとのことを教えたんだぜ。だのに、まだ疑っているのかい」
鄆哥はくやしまぎれに、また日ごろ親しい武大でもあるので、ここへ来てのこらず喋舌ってしまったらしい。
ところが、肝腎な武大のほうでは、一こう真にうける風がないのだ。あくまで金蓮を庇っている。しかも街道一の古舗の大旦那が、ひとの女房に手を出すはずがあるもんか。と笑ってばかりいるのである。
「焦れッてえな、武大さんときたら。だから世間でいうんだよ。濞ッ垂らしの薄野呂だッて。──見ねえな、おらの顔や手頸を」
「あれ鄆坊。その傷はまあ、どうしたわけだい」
「これもみんな武大さんのためじゃないか。みすみす今日も、王婆のうちの奥で、おまえンちのかみさんと西門慶の旦那が、しんねこで、ちちくりあっていたからさ、言ってやったんだよ、おいらがね。……そしたら婆の奴が、怒りやがって、逢曳き宿とはなんだと、いきなり、おらの頭をぽかぽかやりゃアがった揚句によ。ええ畜生め、もう腹が立って堪らねえや」
「じゃあ、ほんとかね。まったくかね」
「あれ見や。まだあんなこといってら。自分の女房を盗られてさ、よくも、おッとりいられたもんだな。武大さんは、偉いのかなあ?」
「う、うん坊。……ど、どうしよう」
「あら、泣き出したぜ、こんどはまた。泣いたって、どうにもならないや」
「くやしい。……もし、鄆坊のいう通りなら、おらは、首を縊ッて死んでやる」
「じょ、じょうだんだろ、武大さんよ。おめえが首を縊れば、よろこぶのは男女じゃないか。そんなことお止しよ。おらが力になってやるからさ」
「ど、どういうふうに」
「なんたって、淫婦姦夫の現場をふンづかまえなくっちゃ駄目だろ。だから明日、西門慶が通って行くのを尾けて、おらが武大さんに教えてやるよ。武大さんも一生涯の一大事だぜ。商売なんか打っちゃっても、すぐおらの後から尾いておいで」
「だけど、西門慶は、強いんだろうな」
「いくら強くったって、近所の眼というものがあるよ。古舗の看板や大金持ちの外聞もあらあね。まずおらが先に、王婆を店先から釣り出して、しがみついたまま、離さずにいるから、それを機ッかけに武大さんは、男女がしけ込んでいる奥へ飛びこんで、間男見つけたとでッかい声できめつけるのさ」
「うん、うん。……だけど鄆坊、金蓮の方はどうしよう」
「どうしようと、自分の女房じゃないか。ほんとなら、重ねておいて四つにするんだが」
「そんなこと出来ない。恐ろしくって」
「だからせめて、男には詫び状を書かせて、以後は決して致しませんと、拇印を捺させ、女は二つ三つしッぱだいて、自分の家へ連れて行ってからの処分とすればいいだろ」
「そうだな。うん、そうだ。……じゃあ明日、手を貸してくれるかい」
「いいとも。武大さんこそ抜かッちゃいけないぜ。ところでお腹が減っちまった」
「さあ、幾つでも饅頭を食べておくれ。そしてこれは少ないけれど、今日の売上げを半分上げるよ」
「ありがと。じつはお小遣いも欲しかったんだ。饅頭も貰って帰るよ。おふくろに喰べさせたいから」
鄆哥とはこれで別れたものの、武大はもうそのことだけでいっぱいだった。思いつめると、涙がこぼれ、腹は煮えくりかえってくる。
そうして、浮かない顔は持って帰ったが、しかしその晩、家では彼も、さあらぬ振りして、妻の金蓮にも逆らいなどはしなかった。いや近頃の金蓮には以前のような棘々しい目かどは見えない。さすが心の疚しさに、どこか良人へのとりなしも違っている。その晩とても、わざとらしく、
「どうなすったの、あんた。いやに、むッそり沈んでいて」
と、宵にはもう灯りを消して、武大の寝床へ寄り添って来たりしたが、武大にだって嗅覚はある。その肌には他の男性の香いが感じられ、その唇には空々しい粘液しかないのがわかって、
「なんだか、すこし風邪ぎみなんだよ。からだが懶い……」
と、空寝入りのうちに、独り悶々と、夜明けばかりが味気なく待たれた。
次の日。──風邪気味とはいっても、金蓮は決して「お休みなすっては」とはいわない。彼もまた、期するところがあるので、いつもの蒸籠荷担をかついで、さっさと、家を出かけてしまう。
「……おい武大さん。西門慶があっちへ行くよ。はやく後からついておいで」
午ごろである。
約束の鄆哥が、公園の木陰から手を振った。武大は慌てる。店を仕舞う。おまけになにしろ、荷を担いでのよたよた歩き。見るまに、鄆哥の影は見失った。
しかし、方向はわかっているのだ。それにまた、男女の濡れ場を抑えるのが目的だから、そう急いでも、かえってまずい。
一方は、鄆哥。
西門慶が、いつもの俳優頭巾ののっぺり姿で、すうと、王婆の茶店のおくに消え込んだのを見とどけて、
「ちッ。愚図だなあ武大さんときたら。何をまごまごしてるのか」
と、物陰で首を長くしていたが、さて待てど待てど姿は見えない。そのまに、近所の犬が吠えかかってきたので、居たたまれず、往来を斜めに飛び出して、
「やいっ、ばばあ。きのうはよくも、ひどい目にあわせやがったな」
茶店の前に、立ちはだかった。
ちょうど、王婆は奥から店さきへ出たところだった。「……ふ、ふん」と鼻の小皺で笑ったものである。「チビなぞ、相手にしないよ」という無言の返辞であろう。いつもの紡ぎ鞠や糸筥を床几に持ち出し、さも実直そうに手内職などしはじめる。
「つんぼかっ、周旋婆」
「…………」
「盲じゃないぞ、こっちは」
「…………」
「やいっ、なんとかいえ。逢曳き宿の才取り婆め」
婆は手をやめた。そして、おっとり腰を上げたと思うと、鄆哥の方へ歩いてきた。
「鄆坊、よく来たね」
「あッ」
逃げようとしたが、せつなの婆の手の迅さといったらない。いきなり鄆哥の襟がみを引ッつかみ、ぴしッと一撲りくれるやいな、
「こっちへおいで、文句があるなら」
いきなり耳を引ッ張って、隣家との境の狭い路地へグイグイ持って行こうとした。
鄆哥も今は必死である。往来に坐って婆の脚をつかみ取った。そして、武大を待つ間の持久戦に獅子奮迅していると、
「あっ、やってる!」
武大の声が近くでした。武大はそれを見るなり、荷担を道ばたに捨てて、裏口から王婆の家へ入ろうとしたが、そこでは婆と鄆哥が泥ンこに番み合って格闘している。しかも婆は武大の姿を見るや「かッ」と、鬼婆のような口を見せたので、武大は度を失ってしまい、うろうろまごまご立ちすくみに慄えてしまった。
「ばか、ばか。武大さん、この隙だよ。はやく奥へ踏ン込まないと逃げられちまう」
チビの鄆哥に叱咤されて、武大は勇を奮い起された。茶店の口から、大股ぬいで、
「畜生、もうだめだぞ、間男は見つけたぞ。どうするか見ていやがれ」
と、野猪のような勢いで陰湿な奥の一ト間へ躍り込んだ。
「あっ、うちの声だわ」
「えっ、武大か」
男女は狼狽して、寝台の上わ掛を刎ねのけた。金蓮は白い脛もあらわに、下袴を穿く。裳の紐を結ぶ。男の西門慶も度を失って、彼にも似気なく、寝台の下へ四ツん這いに這い込んで行くしまつ。
「あんた、もう度胸をすえましょうよ! こうなったら仕方がないもの」
金蓮が慄えたのは一瞬で、次のことばは、男の卑怯を罵るように強かった。しかし、西門慶の返辞よりも早く、
「わッ。この阿女め」
彼女の髪は、武大の手に、後ろからつかまれていた。
「あれっ、なにをするのさ、気狂い」
「どっちが気狂いだ。さあ、男も出ろ。やい間男」
「なんだ、武大」
西門慶の長い体が、ぬうっと、寝台の下から出て来るやいな、まるで居直り強盗のような科白で、儒子の武大を睨めおろした。
「静かにしろ。静かに話しても用は足りる」
「うぬか。ひ、ひとの女房を盗ったのは」
「おれだが、どうした。盗られる間抜けもねえもんだ」
「詫び状書けっ。なにっ、なにを笑う」
武大はくやしさに、西門慶の胸ぐらをつかむ。それもしかし、やっと、手が届くほどで、相手の背丈は高いし、こっちは低い。
「えいっ、何しやがる」
西門慶は一ト振りに振りもいだ。でんと、屋鳴りの下に、一方は尻もちをつく。そして起き上がるところをまた、西門慶得意の足業らしく、武大のみぞおちを狙ってばっと蹴とばした。
「……ううむ」
と、武大は体を丸く縮めてしまった。死にもしないが、伸びてしまった容子である。西門慶は金蓮の眼へニコッと一顧を残すやいな、裏の木戸からさっさと帰ってしまった。往来では婆が体じゅうの土をはたいて何か呟いている。すでに鄆哥も敵わじと見てか、雲かすみ、何処かへ逃げ去っていたのである。
騒ぎは近所合壁で見ていたに違いない。しかし西門慶の羽振りは知っているし、婆のあとの祟りも空恐ろしい。目引き袖引き、覗き見していた近所のほうが、かえって、罪を犯したみたいにしいんとしていた。
「どうしたのさ、金蓮さんしっかりおしよ。これくらいなこと、覚悟の前じゃないか」
王婆は彼女に手をかして、半死半生の武大の手を取り足をとり、隣の金蓮の家の二階へ運び上げた。武大は苦しげに、何か黄いろい物を口から吐き、夜どおし囈言を口走っていた。
まずは、武大もそんな程度と聞くと、西門慶は大胆にも、たった二日ほど措いただけで、またぞろ隣家へ来ては金蓮に呼びをかける。金蓮もまた、世帯臭いものを消して、娼婦のごとく隣へ辷りこんで行く。──あとの暗い北窓には枕をつけたままの武大が、口の渇きにも、白湯一つままにはならず、身を起そうにも、肋骨が痛んで身動きもできない有様。そして、ようやく近所の灯とともに金蓮が帰って来れば、あきらかに淫らな紅や白粉の疲れを見せているのだった。武大はいくたびとなく、歯がみして「畜生、畜生」と男泣きの涙にただれた。時には、悶絶して、黒い唇を噛みふるわせ、
「……見てろ。いまに見てやがれ。おらあ死んでも、いまに旅の弟が帰って来るから。ああ息のあるうち、武二郎(武松)よ、帰って来てくれ。このかたきをとってくれ……」
力なく、暗い天井へ向って、独り叫んでやまない時などある。
金蓮から、これを聞くと、西門慶も色をなして、
「えっ。あの虎退治をやった弟の武松が、もう程なく帰る時分なのか。こいつあ、なんとか今のうちに」
と、さすが穏やかならぬ風もある。
「旦那え……」と、婆はその耳へ顔を寄せて「もう待てやしませんよ、なんとか、ここでご思案をきめなくては」
「といったって、おれの身じゃ、金蓮と手に手をとって道行きということも出来やしないよ」
「ですからさ、きのうもちょっと、お耳に入れたじゃありませんか。旦那のおたくは薬種問屋、砒霜なんかもおありでしょう」
「あ、あれか」
「毒をくらわば皿までとか。一服そっと、金蓮さんにお預けなさりゃあ、なあに惚れた旦那のためですもの。きっとうまくやりますよ」
ここに、恐るべき相談が、金蓮も加えて、三人のあいだに成りたっていた。知らないのは、武大だけである。いや、ろくな食餌も医薬も与えられているではなし、武大は青黒く眼を落ち窪ませ、意識もすでに普通ではない。
「……あなた、何か美味しい物でも喰べないこと。……ねえ。仰っしゃって下さいよ。わたし、つくづく悪かったわ」
或る日彼女は、良人の枕もとに顔をよせて、さめざめと泣いてみせた。
「ねえ、あんた、ゆるして……」
「そ、そりゃあ、おめえ、ほんとにいうのか」
「もう隣へは行きません。昨日だって行っていないでしょ」
「ああ。……そう聞くと、急に体を早く癒したくなった。金蓮、おらあやっぱり死にたくねえ。働くよ。癒ったら、うんと働くよ。そしたら、いくらおめえだって、浮気心もおこすめえ」
「いいえ。わたしこそ悪かったのよ。はやく癒って……ね。ねえ、おくすりでも飲んで」
彼女は婆からそっと授けられた劇毒の砒霜をつねに身に秘していた。とはいえ、疑い深い病人に滅多にはやれないと思って細心に機を窺っていたのである。
「からだに力をつけなければ」
と、やたらに美食を与えるのを、武大は逆に、金蓮が改心した証と感じて、よく喰べる。一夜、そのために、武大は夜半に苦悶しだした。今こそと、彼女は砒霜の粉を碗に溶かして、武大に飲ませた。劇毒のあらわれは、たちどころに、武大は七顛八倒もがき廻った。そして近所へも響き渡りそうな絶叫を発しるので、彼女は武大の体に蒲団をかぶせた。絹を濡らして、武大の鼻から口を塞いだ。夜は深沈……まだ燭に油は尽きてもいないのに、ジジジ……と灯火が哭く。
金蓮は恐ろしくなって、ととと、と二階を馳け降り、王婆を呼ぶと、かねて諜し合ってはいたことだ。王婆は一人、二階へあがって、明けがたまでに、死骸の様をとり繕い、誰の眼にも、病死としか、見えないように拵えた。
「さ。……これからだよ大事なやまは」
ここ気懸りなので、西門慶も早朝にやって来た。婆から「うまいこと、行きましたよ」と囁かれて、彼もまずは、ほっとした色だが、近所の外聞、人目の偽瞞、そして役署の検死やら火葬の認証やら、無事、灰にしてしまうまでは、まだまだ、安心とはいいきれない。
「ねえ旦那、役署の隠亡がしらは、何九叔って男ですが、あいつはひどく、死人調べには眼が利く男だと聞いてますが」
「よしよし、役署向きなら、どうにでもなる。九叔のことなら、心配するな」
「お願いしますよ。そこでバレたら、葬式も出せませんからね」
「それよりは近所が恐い。金蓮にも、よっぽどうまくやらせないと」
「抜かりはござんせん。なんなら、ちょっと覗いてごらんなさいましな」
確かめたさも半分、不気味も半分、西門慶は隣の二階へ梯子段から顔だけ出した。もう棺桶も来ていて、仏前仏具の手廻しも、なるほど万端抜かりはない。そして金蓮は、夜どおし泣き疲れたような姿で、祭壇の前にうな垂れていた。
チラと、彼女が振り返ったので、西門慶は慌てて顔を振って見せ、一語も交わさず外へ戻った。入れちがいにもう近所の衆が、婆の泣き触れで、ぞろぞろお哀悼にやって来る。
「もしもし。西門大郎の旦那じゃござんせんか。たいそうお早く、朝からどちらへ」
役署前の大通りの角だった。
「おう、九叔さんか。おまえこそ、どこへ行くのだ」
「なあにね。饅頭売りの武大が、昨晩、病死したっていう届けなので、今し方、手下の者を出してやったんですが、最後の判証をしてやらなくちゃなりませんのでね」
「判証は、やはりおまえが下すのか。そいつあどうも、ご苦労だな」
「いえ、職掌ですから、そんなことあ、なにも」
「親方。ちょっとそこまで、つきあってくれないかい。じつあ、朝飯もまだやってないのさ」
「朝飯ってえと、気のきいた茶館は、色街しかありませんぜ」
「いいじゃないか。遊里風景の朝を見るのも」
何九叔は「はてな」と思った。朝飯の馳走ぐらいなら何も首を傾げるほどなこともないが、別れ際に「……たのむよ」と一ト言、西門慶が彼の袂へずしんと落してくれた物がある。後で開けてみると、何と、隠亡頭風情では、一生にもお目にかかれないほどな大金が、しかも、無造作に鼻紙にくるんであった。
「こいつあ、くさいが?」
ぴんと直感に来たものはあるが、西門慶といえば、役署の上司からして、一目も二目も措いている人物なのだ。すべては、金の力だが、署内における勢力の隠然たるものは無視できない。
「……おっかねえ物だが、強いものには巻かれろだ。口を拭いて戴いとくか」
やがて、九叔は、喪の簾を揚げて、線香臭い家へ入った。二階へ上がって、武大の女房金蓮を見ると、近所のくやみの入り代り立ち代りに、泣き腫らしている態だ。しかしながら、多年の職業的直感では「ははアん」と、わかる。西門慶のおひねりは、これだったに違いないと。
「……どれ、納棺の前に、型どおりじゃございますが、お屍を調べさせて戴きましょうかな。いや、動かさないで、そのままにしておいておくんなさい」
九叔は馴れた手つきで、物質の検査でもするように、死骸の眼瞼、口腔、鼻腔の奥、腹部、背部と引っくり返して視ていたが、そのうちに自分のこめかみを抑え出して、
「……あ。……ああ、こいつあ、どうかしてきた。む、胸くるしい。もうたまらねえ」
と、癲癇のように、床へ俯ッ伏してもがきだした。
居合せた近所の者は驚いた。いや仰天したのは王婆と金蓮である。万が一、砒霜の毒気が残っていて、それに中てられたとしたら大変である。と思って一瞬、色蒼ざめたが、九叔が悶掻きながらも「早く、駕でも戸板でも呼んでくれ。家へ帰って養生したい」と叫ぶので大慌てに人を頼んで、九叔を家へ送らせた。
今朝は、あんなに元気で家を出た人が、と九叔の妻は泣き泣き良人を病床に宥り寝かせた。──だが、誰もいなくなると、
「女房、罪なことをしたな。じつあ、おれの悶掻きは仮病なのさ」
と、けらけら笑って起き直った。
彼は妻に、一切を話した。西門慶から貰った金も出して見せた。「……案のじょう、武大はただの病死じゃない」とも鑑定したところを、つぶさに聞かせた。
「まあ、私もいまだから言いますけれど、王婆の近所の者から、へんな噂を耳にしていたんですよ。だけど、なにしろ相手が西門大郎の旦那でしょう。ですから、めったなことは口にするのも慎んでいたんですの。……もう金輪際、こんなお金には手をつけますまい」
「もちろん、俺もぶるぶるだが、しかし、金を費わねえたって、万が一の時になりゃあ、疑われるぜ」
「ですから、こうなすっては」
と、彼の妻女は、女らしい細心な一策をささやいた。九叔はそれを聞くと、
「なるほど! そいつあ妙案だ。よし、そうしよう」
と、即座に腹をきめ、「おまえがそんな智恵者とは、多年連れ添っていながら、いま知ったよ」と、膝を叩いた。
ところへ、部下の隠亡が、三人でやって来た。あの後で、王婆は自分らを下にも措かずもてなし、銀子十五両を出して「仏の供養ですから、お三人で分けて下さい」と、いったという。その下心は、検死の判証をどうかしてくれということらしい。
「いいじゃねえか」と、九叔はあっさりいった。
「くれる物は、取っておきなよ。判証は俺に代って、おめえたちでしてやるがいいや。何しろ俺は、急病人だからね……。なに? 役署のほうが違反になるだろうって。大丈夫さ、そいつあ。なンたって、西門慶旦那がついていらあね。いいようにするだろう」
こんな風に、通夜の三日祀りもすぐすんで、武大の葬儀は、無事に終った。ところが、城外の化人場でそれが行われた直後、そっと何九叔がやって来て、前もって、彼が取り除かせておいた武大の遺骨の一片を持ち帰ったとは、世間、誰も知った者はなかった。
もとより西門慶も、そこまでは勘づかない。ほとぼりがさめるとまた、王婆の奥に入り浸って、金蓮相手に、したい三昧な痴戯に耽った。──女も今では、誰におどおどすることもない。晩になってもせかせか帰る灯はないのだった。深間の仲は、こうしていよいよ深間の度を増し「もう離さない」「離れない」「いっそ、こうして」というような痴語口説のあられもなさに、王婆さえ、時にはうんざりするほどだった。
歓楽きわまって、哀愁生ず──とか。陽春の花もいつか腐え散って、この陽穀県の街にもぬるい暖風が吹き初めていた。
かねて、県知事の命をうけて、遠い開封の都へ使いしていた武大の弟──武二郎の武松も、はや帰路について、県の近くまで来ていたのである。だが、その道すがらも武松はしきりに、
「はて……妙だな。……いやに毎晩、兄貴の夢ばかり見るが」
と、虫のしらせか、なんとなく胸さわぎに衝かれつつ、ほとんど、何ひとつ道草もせず、まもなく県城へ立ち帰って来た。
「やあ、大儀だった。ご苦労ご苦労」
知事は満悦のていで、彼の復命を聞き終り、賞として、銀一錠を与えた上、
「ゆっくり休暇をとるがいい」
と、長途の労をねぎらった。
身の休養を思うよりは、武松は一刻も兄の顔を見たいのが、帰心の的であった。旅の垢を落して、涼衣に着代えるまも惜しむように、さっそく都の土産物など持って、街端れの紫石街へ出向いて行った。
「おや、あれは都頭の武松じゃないか」
「そうだ、武松だよ、帰ってきたね!」
「さあ、たいへんだぞ。なにか起るよ、あのままじゃすむまいよ」
道を行く者、軒さきに立って見送る者、みな天の一角に、颱風を告げる一朶の黒雲でも見出したように囁きあった。
──とはまだ、何事も知らず、武松は、なつかしさいっぱいな足どりで、はや兄武大の家の前までもう来ていた。そして軒の芦簾を片手にかかげて、つと土間へ入ってみると、壁をうしろにした祭壇に〝亡夫武大郎之位〟と紙位牌が貼ってあるではないか。
「やっ? ……。門違いしたかな? ……。いや、そうでもねえが。はて、おれの眼でも、どうかしているのか」
胸の鼓動とともに、髪の根までが、ぞくッとして来た。たとえば、意にもない穴洞に立ち迷って、思わず、四辺のしじまを試してみるように、奥へむかって、彼は大声で言っていた。
「姉さんっ。……だれもいねえんですか。あっしだ。……武二郎ですよ。いま旅から帰って来ましたよ」
死者に口なく、官に正道なく、
悲恨の武松は訴える途なき事
武松の訪れを階下に聞きながら、二階では何か慌てふためく物音だった。とっさに、情夫の西門慶の姿が梯子段をころげるように降りて来るなり、隣家の王婆の裏口へ消えて行ったし、女の金蓮は金蓮でまた、俄にわが手で髪を揉みくずし、紅白粉を洗い落すなど、今日も二階で逢曳きの痴夢に現なかった男女には何ともやさしい仰天ではなかったらしい。
けれど金蓮はたちどころに、愁然と泣き窶れた身をやっと奥から起たせて来たように、見事自分を作り変えている。そして、武松の前へ出てくるやいな、
「まっ……二郎さんでしたか。どんなに帰りを待ってたか知れませんのよ。もう、どうしましょう。何からお話ししてよいやら」
と、わっと泣き伏さんばかり空泣きに身をふるわせて見せた。
武松も一瞬は真正直にうけて、つい共に瞼を熱くしてしまったが、
「……ま、姉さん。そう泣いてばかりいたって始まらねえ。たった今、旅から帰って来て、何よりは兄さんに会わねえうちはと、この家へ入って見れば、あの一室の祭壇に『亡夫武大郎之位』とお位牌が見えるじゃねえか。思わずここで腰が抜けそうだった。いったい、ほんとに兄の武大は亡くなったんですかえ?」
「……ええ。じつはあんたが開封へお立ちになってから、つい二十日余りほど後に」
「あのおとなしい兄さんだ。まさか街の与太もンと喧嘩したわけでもあるまいが」
「出先で、何か悪い物でも喰べたんでしょうか。急にその日の夜半頃から胸が痛いと言い出したのが始めで、私はもうただびっくり、薬よお祈りよと、帯紐解かず七、八日は必死に看病をしたけれど、とうとう病床に就いたまま逝ってしまったんですよ。急に、私もひとり取り残され、どうしていいのかわかりません」
ところへ、さっそく隣の王婆もやって来た。「武松が帰って来た」と西門慶から今聞いたので、婆としても胸は早鐘を突かれたろうし、もし金蓮が下手な尻っ尾をつかまれでもしてはと、それの庇い立てにも馳せつけたに違いない。
「おや二郎さんかえ。よくまあ無事に帰ってくれたね。武大さんも飛んだ夭逝だったけれど、天子にも死ありとか、病では諦めるしか仕方がない。さあさあ、お線香の一つも上げておやり。誰の供養よりは、さぞ兄さんもよろこぶだろうよ」
金蓮もその尾について、
「ね。二郎さん。お隣のおばさんには、良人が病んでいるうちからお葬式のことまで、ほんとにご厄介になったのよ。あんたからもよくお礼を仰っしゃって下さいな」
と、相槌を打った。しかし武松は、まだ腹から礼をいう気にはなれないらしい。
「どうも夢のようだな。なんとも変だなあ?」
「弟さん。何がそんなに変だというのさ」
「だって、日頃はあんなに達者な兄貴だ。それが胸の痛みぐらいでコロリと逝ってしまうなんて」
「だけど案外、その達者があてにならない例は、世間でよく見ることだからね。だから坊さんがいうじゃないか。無常迅速、人の命は露みたいなもンだって」
「して、兄の遺骸は、どこへ埋葬したんですか」
「三日三夜、通夜や御法事をした後で、かたのとおり火葬に附しておいて上げたよ」
「それから、今日で幾日目ですえ?」
「あと二日で、ちょうど四十九日の忌明け。忌明けを前に、弟さんが帰ってくるなんて、やはり争えないもんだね」
「いや、また出直して伺いましょう。こんなことたあ知らなかったんで」
武松は半ば眩々としたまま、ぷいと戸外へ飛び出してしまった。やや我に返っていたのは、外の風に吹かれてからのことである。
彼はもう冷静だった。県役署の私宅にもどると、白い浄衣に着かえ、麻の縄帯を締め、その内懐へは鋭利な短剣一振りを秘していた。
「おい従卒、一しょに来い」
ふたたび街へ出ると、途中で従卒に野菜、穀類、供物、香華の物などを買い調えさせ、それを持って夕方また亡兄の家を訪い、
「姉さん、今夜はひとつ弟の施主で、回向をさせてもらいますぜ」
と、祭壇の前にぶッ坐った。
そして連れて来た従兵にいいつけて、精進飯やら団子などを作らせ、まず祭壇へ供えてから、近所の者二、三を呼んで振舞った。そしてその中で、武松は仏の位牌へ坐り直し、胸元に掌を合せていたと思うと、生ける人へでもいうように、
「兄貴。あんなに俺が言っといたのに、なぜ死になすった! よもやただの不養生や病気で死になすったわけじゃあるめえ。迷っているなら迷っているとそこから化けて出ておくんなさい。生きてるうちから愚図で煮え切らねえ兄さんだったが、死に方までがはッきりしねえたあ一体どうしたわけなんだ。もしいわれのねえ非業な死をでも遂げなすったンだったら、この弟は、きっと仇を取って上げますぜ。夢でもいいから武松にそこをお告げしておくんなさいまし……」
と、酒を位牌にそそぎ、また冥土供養の紙銭をつかんで燻べ終ると、彼は声を放っておいおいと泣きだした。
つねには、どんなことがあろうと涙を知らない、しかも景陽岡の猛虎をも打ち殺したほどな男が、こう満身を打ちふるわせて泣いたのだから、居合せた近所の衆もぞッとさせられたのは無理もない。ほどなくみなこそこそと腰を上げて去り、片隅に居てともにすすり泣きを装っていた金蓮も姿を消して、いつか二階の自分の居間に寝込んでしまった。
「……おや。もう三ツ刻か」
真夜半の街を行く刻ノ太鼓に眼をさまして、武松はふと周囲を見まわした。祭壇の前の菅莚の上で、通夜の自分はゴロ寝していたのである。
二人の従者も酒に酔って、庭向きの廂の下に倚ッかかったまま性体もない。深沈と夜は更けに、更けて行き、まさに屋の棟も三寸下がるという丑満刻の人気ない冷たさだけが肌身にせまる。
「ああ、この世でたった一人の兄貴ももういないのか。……ええ残念な。兄貴の弱虫め。なぜ死ぬなら死ぬように、はっきり死んで行かないのだ」
またしても、独り泣きに彼が呟いた時だった。
サヤサヤと壁の紙銭の吊り花が灯影にうごいた。風もないのに、瑠璃灯の灯はボッと墨を吹いて、いつまでその灯はゆらゆら蘇生えりの冴えに戻ろうともしない。惨々幽々、なにか霊壇を吹き旋る形なきものが鬼哭してでもいるようだ……
「あっ! 兄さんっ」
武松は確かに何かを見た。
総身の毛を逆立ッて、思わずその人影へ抱きつこうとしたのである。が途端に、彼は膝へ水を浴びていた。花瓶の花が彼の手に仆れたのだった。
──同時に、瑠璃灯の明りは何気なく元の光に返っている。彼はびッしょりと汗をかいていた。夢だったのか、と思い直した。
「だが、夢にしても?」
彼の姿は腕拱みのままだった。その腕拱みにいつか厨の方から朝の明るみが映している。彼はむッくり起って水瓶のそばで顔を洗い出した。
とん、とん、とん……とその襟元へ二階から女の足音がすぐ降りて来た。如才なく彼のそばへ手拭きやら嗽い碗など取り揃えて、
「お疲れでしょう、二郎さん。だけどゆうべは、兄さんもきっとよろこんでいたに違いありませんわ」
「お。姉さんか。ところで姉さん。ほんとのとこ、兄貴は何で死んだんですか」
「あら、また同じことを仰っしゃってるわ。きのうも、よくお話ししたじゃありませんか」
「だがさ、病気にしても、薬はどんな薬を服ませたんですえ?」
「お薬の包みなら、まだそこらに残っているですよ」
「そして棺桶の支度などは」
「親切者のお隣のおばさんが、何から何までしてくれましたのよ」
「まさか焼き場の隠亡までは、婆さんがしてくれたわけじゃありますまい」
「それやあ、何九叔というお役署の人ですわ。でなければ、焼き場の認証書が出ませんもの」
「なるほど。そいつあそのはずだ」
それから小半刻ほど後だった。
獅子街の四ツ角まで来て、そこで従卒を先に帰した武松は、ただ一人で、何九叔の家を訪ねていた。
「これは都頭さん。たいそうお早く。……して、いつお帰りでしたえ」
「きのう帰って、知事へ報告をすましたばかりさ。ところで九叔、すまねえが、ちょっとその辺まで顔を貸してくれまいか」
「ようがすとも。だが、折角のお久しぶり、取り散らしておりますが、まあお茶でも一つ」
「いやまたとしよう。今日のとこは、ちと野暮用だ。まあこっちにつきあって貰おうよ」
九叔は心のうちで「さては」と、もう合点していた。奥へ入って、かねて妻に預けておいた西門慶から取っておいた銀子、それとまた、焼き場から持ち帰っておいたお骨の一片を包んだ物とを懐中に、
「や。どうもお待たせいたしました」
と、連れ立って外へ出た。
客もまだない午まえの横丁の一酒館。まいど武松には顔馴染みの飲み屋らしい。あっさりした肴二、三品に、酒だけは、たっぷり取っておいてから、
「おい、お女将も丁稚も、今日は御用なしだ。呼ばねえうちは、お愛相なんぞを振り撒きに来るなよ」
武松はのッけから店中の者へ、こう断わったものである。
従って、初めからして変テコな対座となった。黙って酌し、黙って受け、九叔も話の継ぎ穂がないように、むっそり飲んでいるほかはない。
「どうも相すみませんね、都頭さん」
「なにがよ」
「手前の方こそ、一杯宅で差上げなくっちゃならねえところを、こんなご散財をかけちゃって」
「こっちの勝手だ。まあ飲みねえ、あるッたけは」
すでに語気からして妙に絡み調子である。しかし九叔の方では「ははん……」と帰結のおよそは読んでいた。それだけにまた、その腹を据えている態度が、逆に武松にとっては「こいつ一ト筋縄では泥を吐くまい」とする腹拵えを、いちばい強めさせていたものだった。
「……おっと、もうねえや。三角(一升二合)ほどのお銚子が、二人でペロと一滴なしだ。いいだろう。一つここらでご相談といきやしょうかね」
「都頭さん、なにか手前に」
「おおさ、九叔、白を切ると承知しねえぞ」
武松はふところへ手を突っ込んだ。かねて隠し持っていた薄刃作りの短剣がいきなり卓の厚板へぽんと突き立てられた。
「……?」
「九叔、なにもそうおれの顔をマジマジ見てるにゃ及ばねえよ。こいつに」と、その白刃を顎でさして「──こいつに向って返辞をする気で、嘘いつわりのねえとこを素直に白状してしまうがいい」
「ほほう。飛んだご挨拶ですね、都頭さん」
「そうよ、折角、あったかい酒を飲ませておいて、氷をぶッかけるような話だが、関り合いじゃ仕方もあるめえ。どっち道、美味い物食いをした後にゃ、腹くだしか腹痛は通り相場だ」
「へへへへ。都頭さんにも似合わねえ、妙に人の腹を勘ぐりなさる。それよりもなんでズバリと、兄の武大の死因を知っていないかと、事を割って、あッさり訊いては下さらないんでございますか」
「やっ。それじゃおめえも、兄の死因を」
「まあ都頭さん、気を落ちつけて、こいつをご覧なすって下さい」
ふところの包みを解いて、その上に彼が並べたのは、十両の銀子一錠と、焼け脆んだ人骨の一片で、その黒ずんだ灰白色の人骨はどこか紫ばんだ斑点をおびていた。
「あッ、もしやこれは兄の?」
「ま、お聞きなさいまし。あれは確か正月の二十二日。朝ッぱらから茶店の王婆がやってきて、隣の武大さんが亡くなりました。ひとつご検死のときはよろしくと、妙な口振り……。はてなと、ひと先ず手下を先にやっておき、手前はぶらと出かけて行くと、忘れもしねえあの紫石街の四ツ辻でしたよ」
「お。そして」
「すると、お役署前の生薬問屋、例の西門大郎とも呼ぶあの西門慶が、あっしを待ちうけていたような様子で、近くの酒館へ誘いますのさ。なにかと従いて行ってみると、この銀子一錠を差出して、武大の納棺のときには、一切、この唇にも蓋をしてくれまいかと──、いってみれやあまあ、その金は口塞ぎ。ははアんと、それでわかったが、しかし何しろ奴は役署きッての顔きき。そこでその場はヘイヘイと先ず呑込み顔で別れましたのさ」
「むむ。あの西門慶の奴がだな」
「案のじょう。それから検死先の家の二階へ上がって、武大郎さんの死体を調べにかかってみると、一見、ただの病死じゃあない。苦悶の形相は眼もあてられません。鼻や口にも吐血した塊りが残っているし、五体は紫斑点々で、劇毒の砒霜を一服盛られたナ……と、すぐ見当がつきましたから、こっちも途端に、腹を抑えて、ウウムと苦しんで見せたんですよ」
「そいつあまた、どういうわけで」
「この九叔としては、納棺の判証は下せませんから、じつあ仮病をつかって逃げたんです。あとは子分委せとしましてね。だってもし、そのさい不審を申し立てれば、西門慶の手がまわって、こっちの馘は飛んじまうし、毒死の処置も、別な検死が出向いて揉み消されてしまうに違いありませんからね。……と、いう実あ苦肉の策で、わが家に一時引き籠っていましたが、それから三日後、手下の隠亡へ申しつけて、後日の証拠にこのお骨の一片を、こっそり盗ませておいたような次第。……都頭さん、これで一切はもうおわかりでございましょうが」
「いや、すまなかった」
深く、頭を下げて、武松は短刀をふところの鞘におさめ、
「……つまり下手人は、嫂の金蓮なんだな」
「それと、隣の王婆」
「砒霜は、何処から?」
「お手のものの生薬問屋。金蓮にやらせたのも、つまりはその男でしょう」
「情夫は西門慶か。むむ、すっかり読めた。とはいえ、もっと動かぬ生き証人は誰かいめえか」
「証人といやあ、世間みんなが証人ですがね、誰も西門慶をこわがって、噫にも公然とは口に出しません。そうだ、ご存知もありますまいが、果物売りの鄆哥ッていう小僧に、なおよくお訊きなすってごらんなさい」
ほどなく、二人はそこの酒館を出ていた。
路次から路次を曲がりくねった貧民街の一軒だった。ちょうど、鄆哥は空になった果物籠を肩に掛けて、わが家のかどに帰って来たところ。ヘンなおじさんが二人、佇んでいたので、
「やい、なんだッて、ひとの家を覗いてるんだよ。オヤ、九叔の親方さんだな」
「おお鄆坊、いいとこへ帰って来た。こちら様を知ってるか。都頭の武松さんだぞ」
「ヘエ、あの虎退治のかい」
「折入って、おめえに訊きたいことがあると仰ッしゃるんだ。いい子だから、正直に何でも知ってることをお話ししろよ」
「あっ、あのことだな」
「あのことって?」
「うんにゃ、おらは何も知らねえ。うちの父ッさんに叱られたよ、子供のくせに、大人の世界のことに出洒張るな、ヘタするとお白洲へ曳かれるぞッて」
「そんなことはあるもんか。そうそう鄆坊の父ッさんは長の病で、おめえの稼ぎを杖とも柱ともしてるンだってな。都頭さん、この小僧はとても親孝行なんですよ」
「そうか、じゃあその孝行にご褒美をやろう。小僧、手を出しな」
「やっ。これや銀子で五両……。どうしよう、親方さん」
「いただいておきねえ。鄆坊の小世帯なら、十月や一年は暮らせるだろうが」
「ありがと……」と、鄆哥はすっかりよろこんでしまった。だが、そいつが何の代償か、町ずれしている少年だけにすぐ察していた。「……じゃあすっかり話すけどね、おじさん怒ッちゃいけないよ」
彼はぺらぺら喋り出した。──もう五十日ほども前のこと。西門慶の旦那がよく行く王婆の茶店の奥で、その日も旦那と金蓮が逢曳きしているから、そこへ行けば小費い銭になるぞと人に唆かされて、さっそく果物籠を頭に載ッけて行ってみた。
すると。──店先で張番していた王婆のやつが、何としても寄せつけない。
まるで人を野良犬かなんぞのようにあしらッて、あげくには打ン撲ったり、果物籠まで往来へ抛り出して、水でも打ッかけそうな権まくだ。
さあ、おらも口惜しくて堪らない。「みていやがれ……」と今度は別な日。──日ごろ仲よしの、饅頭売りの武大さんを公園で見つけて「おまえの女房は間男してるよ」と、すっかり告げ口してやった。
そこで武大さんと諜し合せ、姦夫と淫婦の現場を抑えろと、二人で二度目の襲撃をこころみたのだが、何しろ王婆の警戒がきびしい。その日も自分は往来中で忽ち婆に捻じ伏せられてしまい、一方、武大さんの方は、首尾よく奥の部屋まで飛び込んで行ったらしいが、後で聞けば、これもまたあべこべに、間男の西門慶のため、脾腹を蹴られて、意気地もなくその場で気絶してしまったそうな……。
なんでも、武大さんが病床についたのは、それからのことで、その日以後は、いつも見える公園にも饅頭売りに出なくなった。──と、すぐ四、五日してから死んだという世間の噂だった。なんだか自分までが空恐ろしい気がしてきて、そのことは、つい今日まで噫にも出さずにいたが、何で武大さんが急に死んでしまったのやら、その辺のことはさッぱり知らない──と、いうのであった。
「よし、よし。よく話してくれた。それに相違ねえな」
「ちッとも嘘じゃないよ」
「じゃあ、どこへ出ても、その通りに言ってくれるか」
「ああ、白洲へでも何処へでも出ていうよ」
その日、武松はこの鄆哥と九叔とを連れて、県役署の門に入り、直接、知事の面前へ出て、逐一を訴え出た。
この知事は、かねがね武松には好意的である。
大いに驚いた容子ではあるが、その供述は、よく聞いてくれた。しかし、一応三名を別室へ退げ、さっそく庁の部局長らを呼び入れて、
「どうしたものか」
と、会議にかけた。
「さあ? ……」
と役人たちはみな言い合せたように、妙な懐疑的の生返事である。いうまでもなく、西門慶とは公私にわたって、昵懇な者ばかりなのだ。いや官と政商の腐れ縁といったほうがいい。知事自身にしてさえ、多少なりともその悪因縁に関りのない、きれいな身だとはいえなかった。
「知事閣下」
ひとりが、ついに結論を出してすすめた。
「まずこれは、お取上げにならんほうがいいでしょう。自体、男女の情痴が因ですからな。洗い立てすればするほど、なにかと工合の悪いことも生じてきますし」
「うん。……厄介な事件とは思うのだが」
「事件といっても、多寡が一個の饅頭売りの死。しかも愚鈍で頭の足らない男ということは、世間周知の者であるのです」
結局、知事は、武松をふたたび召し入れて、慰撫に努めた。もちろん、武松は不平である。
「──いや、確たる証拠もないと仰ッしゃいますが、この二品をご覧ください。これでも兄の死は、ただの病死でしょうか。毒殺ではないといえましょうか」
武松は、兄のお骨の一片と、西門慶が九叔へ賄賂した銀子一錠をさし出して、卓を叩いた。
が、知事はなお、煮え切らない。言を左右にするだけで、
「とにかく、二た品は一応預かって、鑑定役へ廻しておくが、武松、そちも篤と、ここのところは穏便に考え直すがよいぞ」
遮二無二、その日は彼をなだめて引き取らせた。つまり早や訴訟は却下の形である。
武松、亡兄の怨みを祭って、西門慶の店に男を訪う事
西門慶は恟々だった。さっそく役署の下僚からは内報があるし、彼自身も昨日からは、おさおさ油断はしていない。
彼の手廻しによる金力が、暮夜ひそかに、各役人の私邸をたたいて、あらゆる手を一夜に打っていたなどは、いうまでもないだろう。
果たせるかな、次の日の強訴室においては、武松の眼にも、知事の態度が従来の人とはまるで別人のような知事に見えた。
「武松。昨夜一ト晩考えて、どう分別をいたしたな」
「今さら、分別も何もございません。西門慶を召喚して、手前と白洲においての対決を、希望しているばかりです」
「それや悪い分別だ。聖賢の語にも〝背後ノ言、豈ヨク信ナランヤ〟とあるではないか。果物売りの小僧の言など、取上げられん」
「でも九叔から差上げられてある紫斑歴々な兄の遺骨は、なんとご覧なされますな」
「あれとて、どうして武大の遺骨だという証拠になろう。他の隠亡役にいわせれば、あんな物は、火葬場附近では、いくらでも拾って来られると申しておる」
「ば、ばかな!」
「武松っ、激すな。いかに激しても、訴訟の上に、感情は酌まれんぞ。総じて、殺害の訴えには明らかな犯行の動機と現場の物件、死体の傷痕、犯人の足跡、その他の傍証、五ツの要目がなければ断は下せぬものだ。……しかもそち自身は旅先にあって、何一つこれと目撃していたことはなく、すべてつまらん輩の臆測だけではないか」
「臆測ですって?」
奮然と、武松は凄い眦を切って、知事の顔を見上げたが、ぐっと胸をさするように落ちつきを待って、さて不気味なほど、あとは柔順な態で言った。
「そうですか。……いや、そうまで知事さんとして仰っしゃるなら、こいつあご意見どおり分別を仕直さなくっちゃなりますまい。どうもお手数をおかけしましたよ。はははは、もう無駄事はあきらめて、兄貴の供養は、ほかですることといたしやしょう」
突き戻された銀子と遺骨を、何九叔の手にわたし、彼は大股にそこを出て、県城内にある自分の兵隊部屋へ引き取った。
「おい従卒、飯を食わせろ」
ムシャクシャ紛れの声である。そして、
「さあ、鄆坊も食べな。九叔も一杯飲ってくれ。明日は兄貴の四十九日だ」
と、自分もともに痛飲し出した。怏々鬱々、遣りばなきものが眼気の底にギラギラ沸る。
まもなく彼は、九叔と鄆哥をそこへ待たせておいて、ぷいと外へ出かけてしまった。従卒二、三人を連れている。そして街へかかると、
「あれを買え、これを買え」
と、気前よく銭を渡し散らす。──従卒は命じられるまま文房具屋では、筆、墨、硯、紙など買入れ、市場では蒸した鶏一羽、酒一荷を。また花だの線香だの、さらに神仏の供え物には一番な豪奢とされている丸煮の豚の頭まで買って、持ちきれないほど抱えこんだ。
「……姉さん、こんちは」
彼が、その家の軒下へ立つと、金蓮の返辞は二階でしていた。
「たれ?」
「あっしですよ。武松です」
「あら、二郎さんですか。ちょっと待ってね」
どきっとしたに違いない。
だが、彼女の許へも、武松の訴えが却下となったことは、とうに知らせが来ていたから、その点では安心し抜いていたのである。ただ、「また、なにしにやって来たのか」と、うるさく思い「ままよ、その場その場で扱ってやるばかり……」と、不敵な気を持ち直すまでの、ほんの寸時を措いていただけなのだった。
──そして、降りて来て見ると。
武松はもう祭壇の前に坐っている。
兵卒に手伝わせて、豚の首を供え、二本の朱蝋燭をあかあかと灯させたり、また、紙銭や花をかざり、その間には香煙縷々と焚いて、およそ兄の武大が生前好きだった種々な供物は、なにくれとなく、所せましと壇に供えているのだった。
「まあ、二郎さんたら、ほんとに兄さん孝行ですこと。四十九日のお供え物に来て下すったの」
「いや、それとね姉さん。ちっとばかり酒肴を仕込んで来ましたから、今日は近所の衆にも、ようっくお礼を申したいと思ってさ」
「あらお礼は私がしてあるのに」
「でも、都頭の武松が、弟としているからには、黙ってもおけませんやね。そうでしょう、弟として」
「お気がすまないなら、どうにでも」
「おい従卒。大皿を出して、酒、さかな、果物、肉、ずらりと並べろ。そして貴さまたちは、ご近所の衆を、ていねいにお迎えして来い。おれは隣の王婆さんを誘って来る」
「二郎さん、隣のおばさんなら、私が行って──」
「なあに、それには及びませんよ。今日は弟が施主だ」
と彼は自身でもう一トまたぎの垣隣りへ出向いて、何か言っていたが、間もなく恐縮し抜く婆の手を曳かんばかりにして、連れ戻って来た。
「さあ、お年順だし、兄の武大や嫂が、始終ごやっかいになってきたお婆さんだ。……どうぞ姉の金蓮のわきにお坐りなすって下さい」
「二郎さんえ。あなたは県の都頭さんという偉いお方。それなのに、婆が上座になんて坐れますかいな。婆はこっちの隅で」
「まあまあ。今日だけは、そんな辞儀をおっしゃらないで。さあ姉さんも先に坐って……。それから」
と、武松は集まった近所の顔一同へ、挨拶を述べ、亡兄に代って、ねんごろに生前の誼みを謝した。
集まった銀細工師の姚次、葬具屋の趙四郎、酒屋の胡正、菓子屋の張爺さんなど、どれもこれもただ、眼をまじまじ、硬くなっているだけだ。というのも、近所合壁、西門慶と金蓮のわけあいを知らぬはなく、どうなることかと、内心、関り合いを極度に恐れていたからである。
「さあ、仏事じゃございますが、そうご窮屈になさらないで」
と、武松はみずから執り持って、杯をすすめ、しきりにくだけて見せるが、誰ひとり浮いてもこないし、酔いもしない。
そのうちに早や、小役人あがりの酒屋の胡正は「……こいつは、あぶない」と勘づいたらしく、浮き腰を上げて、辞しかけた。
「どうも、どうも。今日は飛んだご馳走さまに。……ええと、ところで都頭さま、あいにく、よんどころない用向きを控えておりますで、手前は勝手ながら、お先に失礼させていただきまする」
「なに、お帰りだって」
「へえ、なんとも忙がしい体なので」
「待った。そいつあいけねえ」
胡正の尻ッ尾について、葬具屋の趙もあわてて立った。
「そうだ、あっしも、急用があったッけ。都頭さん、申しわけございませんが」
「駄目だよ」
「でも、じつは」
「坐れっ」
武松は、隊で号令をかける時のような声を発した。が、すぐ顔を直して。
「とにかく、せっかくお越しいただいたんだから、しまいまでいてもらいましょうぜ。こら従卒、ご一同へお酌せんか」
「はっ」
兵は、卓のまわりを酌ぎ廻った。──気がつくと、ほかの二人の従卒は、裏と表の口を立ち塞いでいる様子だ。いくら酌がれても、これでは飲めたものではない。近所の顔と顔の一トかたまりは、みなベソを掻き掻き、いやおうなしに、ただ杯を上わの空に、上げたり措いたりしているに過ぎなかった。
時分はよし、と武松は従卒に命じて、卓の酒さかなを、一応退げさせた。そして彼自身が、卓上を拭き浄めだしたので、客一同も機は今と見たように、挙ッて帰りかけようとした。
「おッと。まだまだ、お話はこれからだ。ええと……お立会いの皆さん、この中で文字が書けるのはどなたですえ」
「……?」
なんのことやら、わけはわからないが、自然、小役人上がりの胡正の顔へ、みんなの横眼がうごいていた。
「ははあ。酒屋の胡正さん。あんたがこの中では手書きとみえるな。ご苦労だが、ひとつ書き役を勤めてもらいたい」
すでに、従兵の一人は、胡正の前に、用意の筆墨と料紙を突きつけている。いや一同がぎょッとしたのは、それではない。
とたんに、異様な精気に膨んだ武松の五体が眼をひいた。左右の諸袖をたくし上げ、内ぶところからは短剣の柄頭をグイと揉み出して、その鯉口をぷッつり切った。──同時に、あッというまもない。ひだりの猿臂は、嫂の金蓮の襟元をつかみ、右手は王婆の方を指さしていたのである。
「みなさん……。どうかじっとそのままに。決して決して、みなさんにご迷惑はおかけしません。ただ武松は、仇には仇をもって、見せしめを、お目にかけるだけのこと。かたがた、証人になっていただけたら結構千万というだけのもんですよ。どうぞ、お静かに」
「やいっ、王婆っ」
武松は、はったと睨みつけた。あの景陽岡の虎をさえ射竦ませたといわれている眼光である。
「よくも、隣住居をいいことにして、いろんなからくりをしやがったな。兄貴の非業の死も、因はといえば、みんなくそ婆め、うぬの所為だ。見ていろ、泥を吐かせてくれるから」
一転、その巨眼は、金蓮の顫きを、冷ややかに睨めすえて。
「こう。虫も殺さねえ面をしやがって、このすべた阿女の潘金蓮め。よくもおれの兄貴をさんざん小馬鹿にしたあげく、砒霜の毒を盛って殺しゃあがったな」
「ちッ……お離しよ、この気狂いめ! 何さ! 人聞きの悪い」
「笑わすな。毒婦、淫婦、妖婦、どう言っても言い足らねえや。さ、せめては兄貴の霊前で、一切懺悔をしてしまえ」
「馬鹿馬鹿しい、なにを懺悔しろというのさ。よっぽど真ともな兄さんとでも思うのかえ。よく世間様にも聞いてごらんよ。あの薄野呂を亭主に持った女房って者は、どんなだか」
「いったな」
ぐざと、短剣が床に突き刺さった。
武松の足は、とたんに卓を、遠くへ蹴仆していた。左の手は、金蓮の黒髪をつかんでいて離さない。金蓮は、ひイっ……といって弓形に身を反らす。武松の片腕が軽々と抱え上げたからである。どたんと、彼女の体が祭壇の前へ叩きつけられたのがほとんど同じ瞬間だった。
武松は片膝折りに、すぐ彼女の鳩尾の辺を踏まえてしまった。そして右手に、床の短剣を取って持ち直し、こんどは、王婆の土気色になった顔をその白刃の先で指して言った。
「ばば。逃げてみないか」
「に、に、逃げなんか、出来るもンかね。いうよ、もう、こうなったら……」
「じゃあ、まっすぐに言ってみな。……こう、胡正さん、筆記だぜ、書き役を頼むよ」
近所の衆は、もう悉く失心の姿である。胡正はぶるぶる慄えながら筆を持った。じろと見届けてから、武松は、また、
「さあ、吐かさねえか。牝豚」
「なにをいえというんだよ。物々しいねえ。知らないよ、わたしは何も」
「ふ、ふん。くたばり損いめ。急に気を変えやがったな。ようしッ、あとで一寸試し五分試しだぞ。……じゃあお手元から先に洗おうか。やい金蓮」
短剣のヒラで武松は女の頬を二つ三つ叩いた。金蓮は悲鳴を発した。もがいたために、われから刃に触れて、顎のあたりを濃い桃色に少し染めた。
「じ、二郎さん。いッちまうよ。……いうからさ、堪忍して」
「さあ、その口で早くいえ」
「だ、だって、くるしい」
「それ、こうしてやらあ。神妙に泥を吐けよ」
女の鳩尾から膝を離して、引きずり起し、その眼さきには、依然、短剣を突きつけていた。
もう半ば人心地はない金蓮に見える。青白い瞼をふさいで、西門慶と出来た事の始めから、王婆のとりもち、毎日の秘か事まで、神おろしの巫女が喋るように、また、他人事みたいに、それからそれと、自白しだした。
「……ちいッ、引っ腰もない」
と、歯がみをしたのは婆である。婆には娑婆気や妄執も一倍深い。だが、とどのつまりは、王婆も一切を白状するしかなくなった。──そして、両者こもごもの自供は、胡正の筆記で、洩らさずそばから口書きとなっていった。
「ようし、ひと先ずすんだ。その口書きを、こっちへよこしてくれ」
武松は入念だった。婆と金蓮の二人にそれへ爪印を捺させ、名まで書かせた。同様に立会人として、近所一同の署名を乞い、それは折り畳んで、自分の肌身に深く仕舞い入れる。
「従卒。祭壇のお明りが消えてるぜ。新しいお燈明と、もいちど、お酒を上げてくれ。……さあ、そこでだ」
彼は、金蓮を引きずッて来て、祭壇の前の菅莚の前にぬかずかせ、自身は手を伸ばして、香炉に香を燻べた。そしてまた、祠りの紙銭へも火をつけたので、女は、せつなに、何か直感したらしい。
「たッ、たすけてえッ」
逃げかけるのを、
「どこへ行く」
武松はむずとひき据える。いや、勢いのまま、仰向けにひっくりかえる。
武松は踏みまたいで、彼女の両手を、両の膝で抑えつけた。そして女の胸を開けはだけた。かの男の西門慶が眼をほそめたであろうふくよかな乳ぶさがむっくりと見えたのもつかのまのこと。武松が逆手にとった短剣は、一声の絶鳴を揚げさせたのみで柄の根際まで突きとおしていた。ぶるんッと女の白い脛が最期の硬直を見せたときは、すでに武松の手には、女の生首がつかみ上げられていたのである。
「兄貴! 見ていなすったか……」
武松は、金蓮の首を、壇に供えた。そしてまたすぐ、従卒にそれを渡して、布ぐるみに包ませ、剣を拭いて、
「みなさん、とんだものをお見せしてすみません。だが、こいつもご近所のご災難と諦めておくんなさい。そして手前はこれから、ちょっとほかへ用達しに出かけますが、その間、さあ小半日とも申しません。すぐ戻りますから、二階で一ト休みなすっていておくんなさいまし」
という挨拶。
もう一同は、気も魂もない顔色である。いやという声もしない。性気のない〝影〟だけの人間みたいに、黙々とみな二階へ上がって行った。
「ついでに、この牝豚の張番もお願いしますよ」
婆の身もまた、二階へ追い上げられて行った。二階の窓、扉の口、ことごとく堅く閉め切り、階段には、従卒二人を、番人として残しておく。
そして、武松一人は、布ぐるみにした金蓮の首を小脇に抱え、紫石街を折れて、役署前の大通りを、こともなげに歩いていた。
ほどなく、きれいな楊柳並木の繁華街の一軒に、古舗めいた大店の間口が見える。朱聯金碧の看板やら雇人だの客の出入りなど、問わでも知れる生薬問屋の店だった。
武松はずっと入って、そこらを見廻し、一人の手代をつかまえて言った。
「ええと、たしか西門慶さまのお店は、こちらさんでございましたね、大旦那は、おいでですかえ?」
獅子橋畔に好色男は身の果てを砕き、
強慾の婆は地獄行きの木驢に乗ること
その日、西門慶は留守だった。事実、店にも奥にもいないらしい。番頭たちはそれと告げて、武松の血臭い風態の前に、おののいた。
「ど、どういたしまして、決して居留守など申すんではございません。さきほど、商用のお客を連れて、いつも行きつけの、獅子橋のお茶屋へちょっと商談にお出かけなんで……」
「きっとだな」
武松は一言、凄ンでみせて、
「そうか。もしそこにいなかったら、すぐにまた、引っ返して、ここへ来るぜ」
ぷいと、身を一転するなり、彼はそこの店頭から往来へ出て行った。
獅子橋畔の繁華な大通りを前にして、一流どこの名代な料亭がある。
武松は、ずっと入って行って、
「ごめんよ。西門慶の旦那は、どちらのお座敷においでかね」
「いらッしゃいまし……。あの、お連れさまでいらっしゃいますか」
「ああそうだよ。おっと仲居さん。案内には及ばねえ」
連れと間違えて、案内に立つ女中の先を追い越して、武松は、とんとんとんと、表二階へかけあがって行った。
つき当りの大廊下から左の広間に、簾を透して、ひと組の客が見える。幾人もの歌妓、女中たちに囲まれて、客二人は上機嫌で、はしゃいでいた。
「居るな」
やにわに、武松はそこの簾を上げて、ぬっと顔を突き出した。
きゃっ──と妓たちは散らかった。そのはずである。何か、血の滴りそうな丸い物を小脇に抱え、しかも、ふと振り向いた西門慶の眼とぶつかった彼の双眸は、なんとも名状しがたい復讐の殺気に燃えていたのだ。
「やっ、武松だな」
「おお西門慶。ふふふふ、ひどい驚き方じゃねえか」
「こ、こんなところへ、なにしに来やがった」
「さすが胸に覚えのあることあ隠せねえ。なんてえざまだ、その顔色は」
「か……帰れ。……は、はなしがあるなら、ほかで聞いてやる」
「いや、ここがいい、てめえの好きな肴を持って来てくれたんだ。それっ、この世の名残に会っておけ」
抱えていた包みの内から、潘金蓮の生首のもとどりをつかむやいな、西門慶の顔を目がけて抛り投げた。
「──あっ」
首は西門慶の沈めた肩を越えて、思わざる彼の相手客の横に落ちた。
しかし、その客はもうとッくに自失して腰が抜けていた。女たちはすでに一人もいない。武松は薄刃の短剣を抜いて、西門慶の前へ迫った。
「…………」
巨獣が闘いの全姿態を作るときのように、西門慶はジリジリと及び腰を上げかけている。金蓮の首を見ては、彼も今は、死か生かの、腹をすえたものに相違ない。
ガチャンと、すさまじい一音響とともに、彼の前にあった卓が、武松の方へ躍ッて仆れた。──彼の得意な足蹴の業で、卓上の器や酒や肉片は、まるで一抹の飛沫のように武松の姿をくるんで散った。
そして、その間髪に、逃げようとするのを追って、
「うぬっ」
武松の短剣が彼の脾腹を突き抜けていたかと見えた。
ところが、刹那は逆な危機に変った。身をひねった西門慶の片脚が、予測し得ぬほど長く伸びて、槍のように、武松の顎の下を一蹴したのである。ために、武松はふた足ほどよろめいたが、
「味な真似を」
とばかり、ふたたび三度、短剣の突きをくりかえした。しかし、室内ではあり、足元の悪さに、またしても西門慶の一蹴が成功して、彼の剣は蹴落され、剣は氷片のごとく、欄を越えて、どこかへ素ッ飛んだ。
相手の素手を知ると、西門慶はもう武松を恐れなくなった。また、自己の足業にも自信をもった。だが、これは彼の誤算である。むしろ武松にとっては、素手で組んだほうが始末がいい。いくら西門慶が死にもの狂いになッたところで、しょせん景陽岡の虎ほどなことはない。当然その帰結は、そう長くもない格闘のすえ、勝負の上にあらわれた。──あッ、と天井のへんで西門慶の叫んだ一と声が彼のさいごであったのだ。
武松は、暴れ廻る相手の体を両手で高くさしあげていた。そして往来に面する欄から、
「えいっ、これでもか」
真下をのぞんで、抛り投げた。
足を上に、あたまを下に、文字どおりな、真ッ逆さまが、西門慶の末期の相だったのだ。──これなん、ひとつには怨霊の報い、ふたつには人道のゆるさざるところ、三つには、いうまでもない武松の神力。──どっちにしても、魔園の美果を盗み食らった償いとして、彼のこの横死は、のがれようもないものだったといえようか。
武松はすぐ、金蓮の首をかかえて、おなじ欄から、往来へ跳び下りた。
見れば、西門慶の体は、頭から脳漿を出して伸びている。彼は、短剣を拾って、慶の首を掻き、金蓮の首を併せて、袖ぐるみに横へ持った。──そして往来の群集が、ワイワイと立ち騒ぐ中を、元の紫石街の方へ、風のごとく走り去った。
「……兄さん、どうかこれで成仏しておくんなさい」
あれから瞬時の後。
武松は、亡兄武大の家へもどり、武大の霊前に、男女二つの首を供えて、滂沱とこぼれる涙も拭わず、位牌へ向って言っていた。
「まるで夢のようだった。何から何まで、こいつアみんな約束事かもしれませんや。だがね、兄さん。かたきを取った今日限り、祭壇のおかざり物も、ここの家財も、一切きれいに片づけますよ。どうか兄さんの霊も、行く所へ行って、安らかに眠ってください」
それから彼はまた、従卒にいって、二階へ閉じこめておいた人々を下へ呼び降ろした。
「ご近所の衆、どうも、とんだご迷惑やら、暇つぶしをおかけして、申しわけございません。……ごらんの通り、骨肉の怨み是非なく、兄貴のかたきを討ちとりました。これから手前は、おかみへ自首して出ます所存」
「…………」
連中はただ生唾呑んで聞いているばかりだった。まるで地底のようである。
「ついては、ご近所の衆。兄貴の祭壇は、ただいま裏で一切焼き捨てさせますが、貧乏世帯ながら、この家の家財、ありとあらゆるがらくたまで、すべてはどうぞみなさんでお頒けなすっておくんなさい。もしまた、手前が自首した後で、みなさん方へ証人の呼び出しでもかかった場合は、どうかそんな雑費の足し前にもなすって」
かくて武松は、わざと生かしておいた王婆を自分で引っ立てて、県の白洲へ名のッて出た。
すでに町中は坩堝のような騒ぎである。知県の役署でも、はや獅子橋畔の事件は知っていたし、刑事役人は、諸方へ飛んでいたことだから、手順、取調べなども、なに一つさし障りはない。
第一日は、まず王婆が訊問された。
王婆の自白と〝近所ノ衆ノ口書〟とは、ぴったりしている。
これで一応、これはすむ。
第二日の呼び出しには、隠亡頭の何九叔と、果物売りの鄆哥少年──それから以後、続々と、料亭の女中やら、西門慶の家族やら、また武大の近所隣の顔やらが、入り代り立ち代り、白洲にみえた。
調書、物件、すべてが揃う。
それを見て、知事は密かに、
「惜しい男だのに。ああ、なんとかならんか」
と、考えた。
さきには、都に使いして、自分の依頼もよく果たしてくれた武松である。しかも兇行の因となった武大の死や、淫婦姦夫の悪事は、すべて武松が旅の留守中に起ったものだ。
「調書の辞句によっては、上司の心証も大へんひびきが違ってくる。少々、上告の辞句を直してくれんか」
彼は、下部の吏員へ、諮ってみた。
たれひとり異存はない。
期せずして、武松の上には、日ごろの同情があつまっていたのである。獄卒の端にいたるまでが、獄内の彼を遇するに「烈士」としていたのでもよくわかる。
こうして、およそ一ヵ月余の後、
「武松、よくうけたまわれ」
知県は、彼を白洲へ曳き出して、調書一切を読み聞かせ、さらに次の通り言い渡した。
「人を殺せば、すなわち死罪。これはうごかし難い大法だ。しかも男女二人を殺め、その噂は、四隣の州にまでひろまっている。人心の影響もまた、少なしとせぬ。……よって、なんじの身柄と、証拠物件一切を差し添え、関係者すべての者も、東平府の奉行所へさしまわし、そちらで判決を仰ぐことに相成ろうぞ。左様、心得ませい」
「ありがとう存じまする」
唯々として、武松は獄へ下がってゆく。そして次の日には、重罪犯の檻車に載せられ、東平府へ送られて行った。
府の奉行所は県役署の上位にある。つまり裁判も管轄権も、奉行の職柄にあるのだった。
その人は、陳文昭といって、なかなかな人物だという市評がある。陽穀県から廻ってきた公文書を一瞥すると、
「来たか」
と独りつぶやいた。
すでに彼も事件の全貌だの、武松のことは、聞きおよんでいたのである。
「武松の首枷は、なるべく軽いのと取り換えてやれ。王婆の身は、提事司監にあずけ、死刑囚の牢獄へ下せ」
また、数日のうちに、
「亡き武大の近隣の者どもや、何九叔、鄆哥などは、その口書によって証言も明らかなことゆえ、めいめい自宅へ戻ってよろしい。……また西門慶の家族は、所内の揚屋へ拘置しておき、追っての、中央のご裁決を相待つように」
一々の処決、流れるが如くであった。
なお、奉行の陳文昭は、そうした公的な半面、ひそかに人をやって、獄中の武松を宥わった。武松は義人である、その行為は、猛に過ぎて惨酷な犯行を敢てしたが、心情愛すべきところもある。──人にも洩らしたほどだった。
だから、彼が都の省院(司法省)へ差出した裁決を乞うための上申には、その同情と手加減が多分に籠められていたのはいうまでもない。
かつまた、中央には、文昭と仲のいい高官もいる。それへ私信を送られてもいたことだろう。やがて降された判決は、ほぼ彼の満足に近いもののようだった。
「みな揃ったか」
判決申し渡しの日。
白洲は、武松、王婆、そのほかの関係者で、みちあふれた。
「何九叔、および果物売りの鄆哥」
「へえい」
「無罪であるぞ」
「ありがとう存じまする」
「ただし、後刻、説諭申しつける。……また、近隣の者どもは、おとがめなし。……西門慶の家族らも、同様なれど、あるじ西門慶の生前の非道は人みな憎むところ。供養など派手派手しくせず、追善の施行に心がけたがよい」
「はい。慎んできっと左様にいたしまする」
「まった、武松事は」
白洲じゅう、しいんとなった。
「──兄のかたきを報じたるものとはいえ、殺人の重罪はゆるしがたい。しかし、自身自首して出たかども神妙なうえに、近隣の輩、そのほかの証人、また全く縁故もなき陽穀県の一般市民よりも、あまたな助命の嘆願が、当奉行所や県城に聞えておる。よって、情状を酌み、死一等を減じて、背打ち四十となし、刺青を加え孟州二千里の外へ流罪といたすものである。……ありがたくおうけいたせ」
「はっ……」
武松が、首枷の首を下げたとたんに、その隣の荒むしろに据えられていた王婆が、身をのばして叫んだ。
「お、お奉行さん! ……わしも、うちへ戻っていいのかね。わしのことはまだ何もいわっしゃらぬが」
「だまれ。王婆は死罪申しつける」
「げっ、死、死罪だって」
わっと、婆は泣き仆れた。
「立て」
一同は退がる。
奉行も、王婆のわめき声をうしろに立つ。
翌日、王婆はふたたび、大牢からひきずり出され、木驢というものに乗せられた。馬の恰好をした台である。それに縛りつけられ、四本の五寸釘で手足を打たれ、刑場まで、引き廻されて行くのであった。
それを曳き、それにつづく獄卒たちは、罪状書きの捨て札を先頭に弔い花をかかげて行く。
また、やぶれ太鼓や、やぶれ銅鑼を打ち鳴らすので、町中の男女や子供がわいわいと寄りたかり、木驢の上の罪人を目がけて、
「こんどの世には生れ変れ」
「人になるな、馬になれ」
「馬がいやなら豚になれ」
「豚になれなんだら、鼠にしてもらえ」
と口々に謡って、小石をぶつける、わらじを投げつける。誰も止めようとはしないのである。
王婆は、竹矢来の中でも、泣きどおしに泣いて斬られた──時刻もちょうどその頃であった。一方の武松は、奉行所の裏門外で、四十打の〝青竹叩き〟を背にうけていた。
しかし、刑吏や獄卒までも、彼にはひそかな好意をよせていたので、一つも皮肉を破るような烈しい打ち方はしていない。
が、刺青だけは、庇いようもなかった。また薄鉄の首枷も約束どおりに首の輪へ篏め込まれる。
「じゃあ、出発するとしようか」
流謫の公文を持った小役人二人が、これから遥か孟州の流刑地まで、彼を護送して行くことになる。
奉行所の門を離れると、武松の姿を待っていた人々が、道ばたに堵列していて、みな別れを惜しむふうだった。或る者は、彼に衣服や食物を贈り、或る者は道中の薬などを餞別にくれた。特に武松が眼を熱くしたのに、例の〝隣近所ノ衆〟が見送りのうちに交じっていたことだった。それさえあるに、中の一人が出て来て、武松の手へ、
「どうか、これはあなたが、お旅先でお費いなされて下さいまし。とても私たちには、冥利が悪くッて、お頒けいただくなんてことはできません」
とかなりな額の金を渡した。
「えっ? ……これはなんです」
「お兄さんの家と、悉皆の家財道具を売り払ったお金ですよ。あなたは、近所の者で頒けてくれと仰っしゃいましたけれど」
「だれも取ってくれないんですか。それじゃあ皆さんへ、ご迷惑のかけッ放しになってしまう」
「とんでもない。お科めなしの言い渡しだけで、みんなほっとしておりますよ。考えてみれば、私たちも、武大さんにとって、近所効いがなかったというもんです。なんでその上、こんなお金をいただけましょう。どうかまあ、孟州の刑地でも、お体だけは大事になすって下さいまし」
牢城の管営父子、武松を獄の賓客としてあがめる事
季節はもう六月の初夏だった。武松、つらつら思うに、ここ七、八十日は悪夢の如く過ぎていた。人生測りがたし。明日はどんな日が孟州の先に待つことか。
「都頭さん。孟州までは二十日もかかる。途中、人里離れたら、なんでも気ままを言いなせえよ」
護送役の二人の小吏も、途々、武松を宥わって、苛烈な風は少しもない。武松もまた、餞別物から持ち金まで、悉く頒けてやって、あくまで淡々たるものだった。
ただ、宿籠宿籠やまた山中でも、酒屋の旗を見るともう目がない。──そしてすでに、あすあさってには、孟州に入ろうかという十字坡の嶺道で、ついその酒の誘惑から、危ない罠にかかッてしまった。
ここに一軒家の居酒屋がある。
もちろん峠を通る旅人だけが目あてのもの。
「ま。一杯やろう」
と、はや孟州もまぢかと見て、護送役の二人までが、気をゆるして、したたか飲ったのが過ちの因だった。
酒には、麻睡薬が混ぜてあったらしい。三名とも、蒟蒻のように正体なく、よだれを垂らして伸びてしまった。
不覚だった。
この辺では、山猿のような童までが唄に謡って、
十字坡の毒苺は、蛇も食わないよ
苺酒は人間の血
肉饅頭を割ると、亡霊の声がするよ
と、いっているほど、その峠酒屋とは、じつは隠れない追剥ぎ渡世の夫婦者が、旅人をおびき込む悪の巣だったのである。
しかも、その兇行がまた残虐だった。ひとたび毒酒に酔わされると、生きてその屋の軒を出た者はない。
「ホ、ホ、ホ、ホ。いくらでも、お後の客は絶えないもんだネ」
店の看板女房は、厚化粧して、緑紗の袍衣に、真紅の裙を着け、生ブ毛の光る腕首には、黄金の腕輪を篏めたりなどしているジプシーのような女だった。
女の異名は母夜叉、親の名は孫。
人呼んで、母夜叉の孫二娘という。
これの亭主は、菜園子の張青という者で、元、光明寺の畑番をしていた男だ。腕だけはすこぶる強い。
ところが、こういう悪業の成果も相手による。いつもそうそう巧くいくものではない。──武松のときが、その一例だ。武松は現につい先ごろ、兄の武大が人に毒殺されていたので、
「はてな、この酒の味は?」
と、すぐ感づき、最初の一ト口から、女に内緒でベッと吐き出していたのである。──それから飲んだと見せたのも、ぐたと仆れて見せたのも、すべて彼のは偽態だった。そして罠に陥ちたのは、彼ではなくて、賊の母夜叉と張青夫婦の方だった。
「いざ、料理を」
と、母夜叉が、彼のそら死の体へ手を出したとき、武松はむくと起き上がって、女を取ッちめ、そこへ現われた張青も、難なく叩き伏せてしまった。そこで、鬼の夫婦が、泣いて懺悔をするという場面になってしまった。
ここで。
この夫婦の口から、武松は、かの花和尚魯智深や、青面獣楊志らの消息を聞き知った。
すでに、花和尚の名は、五台山の大暴れから、都でも、大相国寺を震駭させて、天下にとどろいているほどなものだが、山中の夫婦者は、ついそれと知らずに、同じ手でこの旅僧を眠らせようと仕かかったものらしい。たちまち、看破されて、その花和尚からも、こッぴどい目に会わされたあげく、やっと命だけは助けてもらったので──という懺悔ばなしなのだった。
「いやはや、どうも」
張青は、頭を掻いた。
「それにも懲りず、またぞろ、人もあろうに、虎退治をなすった有名な都頭武松さんとも知らず、とんでもねえ烏滸な真似をいたしやした。どうか、お見のがしなすっておくんなさい。その代りにゃ、どんなおいいつけでも、いやとは申しません」
「よし、助けてやる。だが、おれを護送して来た小役人ふたりは、毒酒に中てられて眠ってらあ。早く、あいつらの手当をしろ」
「でも、あの二人は、あのまま逝かせてしまったほうがいいンじゃありませんかえ。都頭さんのお身にとっては」
「どうして」
「噂には、いまお話しした花和尚魯智深は、その後、二龍山の宝珠寺に居坐って、もう一人の青面獣楊志といっしょに、でんと大きく山寨構えをしているそうです……。なにも、これから都頭さんも、孟州の刑地へなんぞへ、神妙に曳かれて行くにゃ当らねえじゃございませんか。もし、お気持ちがあるなら、手前が二龍山へご案内してまいりますが」
「いや、そんなケチな真似はしたくねえ。おれが逃げたら、おれによくしてくれた東平府の奉行陳文昭さまの落度になる。それにあの小役人ふたりも、途中なに一つ、おれには辛くしなかった。はやく毒消シでも服ませて、息を吹ッ甦させてやれよ」
母夜叉も張青も、彼のさっぱりした気性には感に打たれた。さっそく介抱して、二人を蘇生させ、翌日は、詫びの一宴を張って、心から謝し、なお後日の義を約して、夫婦、孟州大街の入口まで送って来た。
鬼の眼にも涙。いざ別れとなるや、張青夫婦は、
「……お大事に、どうか都頭さん、郷に入っては郷に従え。巧く、刑をおすましなすって」
と、涙さえ浮かべていた。
州尹(州の長官)の公署に着くと、護送役人は、ただちに彼の身柄に、東平府の文書を付けて、
「おうけとりの公文をいただいたら、すぐ立ち帰りたく存じます」
と手続きを運んだ。
州尹は、一瞥して、
「武松は、牢城の獄へ廻せ。──東平府の使いは大儀であった。帰府してよろしい」
と、幾通もの文書へ、ベタベタ判を捺して下僚へ手渡した。
すでに〝牢城〟とは、名からして恐ろしい。まさに煉獄の城である。
いったい、世には、こんな巨大な獄房の数を必要とするほど、悪人が多いのだろうか。──だが、武松の眼で見ると、監房の中にウヨウヨしている顔よりも、警棒や鎖を鳴らして、監外を威張ッて歩いている顔のほうが、どう見ても〝善〟でなく〝悪〟の徽章に見えてしかたがない。
「おい、新入り。おめえ、金を持って来たかい。ここは世間以上、金がものをいう地獄だぜ」
「金。……金なんぞ、一文も持たねえよ。牢内には、酒屋もあるめえ」
「だって、まず初手からして、差撥(獄吏)や監察に、ごあいさつの銀子をお供えしねえと、これだぜ」
「これたあ、なんだい」
「お約束の殺威棒で、百打の叩きを食らうのさ。まともに食ったら、血の泡を口から吹くンだ」
「ふうむ。それで新入りの者の、土性ッ骨を脱こうてんだな。ま、いいようにやってくれ」
「冗談じゃねえよ、新入り、気はたしかかい」
「気はたしかだが、生れつき、ちっとばかり臍が曲がって付いてるんだ。こいつあ、母親のせいだから仕方がねえや」
「片意地を言いなさんなよ。……あれあれ、差撥がやって来たぜ。みんな、静かにしろよ」
彼らは靴音に敏感だった。獄中は薄暗くシーンとなる。鉄錠の音が、不気味を誘う。
「陽穀県の前都頭──武松と申すやつはその方か。こっちへ出ろ。ついて来い」
点視庁の広場には、管営(牢獄の長官)以下の軍卒十名ほどが、待っていた。
管営は、部下に命じた。
「罪人の首枷を外せ」──そしてまた言った。ひきすえた武松の上に向ってである。
「──太祖武徳皇帝いらい、定めおかれた刑法の一として、牢城初入りの流人には、一百打の殺威棒をくだす掟だぞ。──それっ者ども、叩きのめせ」
「あ。どうなさるんで」
「ジタバタいたすな」
「騒々しいのはそっちだろう。おれはピクともしてはいない。だのになんで、両手をつかまえ、おれの周りを取り囲むのか」
「悲鳴をあげて狂うからだ。どんな奴でも十打、二十打と食えば、暴れ廻って打ちすえ難い」
「はははは。撲る方から先に要心してやがる。そんなンじゃねえや。おい、屁ッぴり腰はみッともねえぜ。しっかりやんな」
「こいつが」
棍棒を振りかぶッた軍卒二人が左右から迫って、交互に、あわや一百棒をかぞえだそうとした。
すると急に、なに思ったか管営が「待て!」と止めた。その側にいた一人の若い男が、管営の耳もとへ何か囁いて、制止させたものらしい。
それは二十四、五歳の白皙紅唇の若者だった。細い美しい髭を生やし、その髭を唐風でなく、北欧人のように上へピンと刎ねあげている。身装は黒紗の袍衣に白絹の帯を横結びに垂れ、そして、頭にも手頸にも白い繃帯をまいていた。
管営はその若者から、なにかもいちど、囁きを耳にうけると、
「百棒は中止せい。いずれまた、武松の体が癒ってから申しつける。──それまでは独房へ抛り込んでおけ」
と、軍卒に命じたまま、すぐそこを立ち去りそうにした。
「なにいってやがる」武松は叫んだ。「おれは病気でも何でもねえぜ。なぜやめるんだよ、おい」
「だまれ。上司から来た調書によれば、元来汝には、時折り狂癲の発作があるよしが認めてある。狂気を打ちすえても、御法の殺威棒の主意にかなわん。正気の折に打ってくれよう」
言い捨てると、側の異彩な若者もともに、さっさと彼方へ行ってしまった。
むしろ、ぽかんとしたのは武松である。そして獄卒に曳かれて、以前の石壁隧道の監房前を通りかかると、
「おや、あの野郎、平チャラな面して帰って来たぜ」
「おい、どうしたい新入り」
などと同囚の仲間が寄りたかって彼に委細を訊きただした。そしてわけを聞き知ると、妙にみんなチーンと沈んで、武松の姿を、影の薄い人間みたいに憐れがッた。
「……じゃあなにかい。おめえはここの管営さん宛に、誰か偉い人の添え状を貰って来たわけでもないんだね」
「むむ、そんな物あ貰ってねえよ」
「そしてまた、差撥にも監察にも、そっと、袖の下ッていうこともしなかったんだろ」
「知れたこッた。嫌えだよ、そんなことあ」
「やれやれ、それじゃあ、いよいよ晩にゃ、白飯のご馳走に決まったね」
「なんだい、白飯の馳走たあ?」
「仏さまのお好きな物だ。そいつをお椀に山盛り一杯ゴチになって、あとは土牢行きの逆さ吊りで、あしたの朝は、土の中で蟻と仲よしになるんだよ」
「縁喜でもねえ」
武松は苦笑した。
「ヘンなことを皆して言やがる。ははン、それで俺一人は今夜から独房入りか?」
しかし独房遠くひとり隔離されてみると、武松にしてもいい気持ちはしなかった。
果たして夜に入ると、べつな老軍卒が、獄に似合わぬご馳走を差入れてきた。それは一椀の白飯などではない。煎肉、うどん、汁、酒までが付いている。
「おいでなすったぜ。ままよ、飲っちまえ」
満腹するなり、あとは高鼾の彼だった。
翌朝の食事もまたすばらしい。
「酒はねえが、果物まで付いてやがる。ふふふふ、こうなると、この世に妄念が多くなるな」
いや晩にはまた、前夜にまさる調理の品の数々だった。しかも酒は上酒。鯉の飴煮などの美味さといったら堪らない。
こんな待遇が七日もつづいた。
「はて? いったい俺を、どうする気なんだろう?」
すると、いつも一人で来る老軍卒が、その晩は、もひとり兵隊をつれて来た。大盥を抱えて来て、湯を運び「入浴しろ」とすすめるのである。あげくに理髪師がやって来て、きれいに結髪し、肌着、袍衣まですっかり新調の物とかえて行った。いよいよ彼にはわけが分らない。
「武松都頭。そこを出て、どうぞこっちへ移って下さい」
翌朝のこと。
例の老軍卒が彼をみちびいて、監房隧道から、陽の目のある階段を先に登って行った。いよいよ土牢行きかな? 思っていると、さにあらず、清洒な一屋の明るい部屋だ。見れば調度の品やきれいな寝台まで供えてある。
昼飯には、丸焼の鶏一羽、野菜の煮合せ、白い麭、汁、それにしかも葡萄の酒。
「ああ腹がくちくなった」
何気なく扉を押してみると、錠もおろしてない。そこで武松は一ト散歩を思い立ち、獄営の広い牧場ほどな所を、あっちこっち歩き廻った。
真夏の入道雲の下には、蟻地獄のような囚人の群れが、腰鎖のまま、気息奄々と働いていた。
なにしろ、六月末のカンカン照りだ。囚人たちには汗をふく木蔭もない。鍬の下から火が燃え、担ぐ石材は熱鉄の焔を立て、汲む水も湯のような焦熱の刑場だった。
「おい、みんな」
ぶらと、武松は来て、暢気そうに、手をうしろに組んで話しかけた。
「なんだって、昼寝もしねえで、こんな炎天に働いているのよ」
「え。昼寝だと」
囚人たちの半分は笑いだし、あとの半分は、糞ッ腹を立てたらしく、中の一人がこういった。
「何ってやンでい。どこの米の虫か知らねえが、後生楽な音を吹きやがって、おらたちの身になってみろい。でもナ、ここは終身牢や死刑牢とは違うから、こんな日向はまだ、この世の極楽だと思って、苦役の汗をしぼッてるんだ。世間並みに見やがっておつりきなことを吐かしゃあがると、向う脛を掻ッ払うぞ」
武松は、彼らの語気に、はッと気づいた。「──そうだっけ。おれもその囚人の一人だったのだ」と、何かに追っかけられたように、もとの家屋の内へ駆けこんでいた。そして奇妙な部屋の中で「……はあて? 一体おれはなんだろう?」と独り物思いに、鬱いでしまった。
或る晩。そして、いつもの如く。
美食と酒に倦んで、寝台にゴロとしていると、例の老軍卒が、旅館の小僕のように、おきまりの食器のとり片づけに入ってきた。
「今夜こそは」
と武松はまた、彼をつかまえて、なぜこんな破格な待遇をするのかと、彼にたずねた。
「どうも弱りますナ、都頭さん」
老軍卒は、その主人から、かたく口止めされていたらしい。しかし、武松の執拗な詰問に、ついにその晩は口を割った。
「じつはその……なンです……若殿のご命令では、三月か半年、時いたるまでは、わが名を明かしてはならんといわれておったんですが」
「と聞くと、なお訊きてえや。若殿とは、いったい誰ですえ?」
「いつぞや点視庁の広場で、あなたの一百棒を中止させた管営様のご子息ですよ」
「じゃあ、あの時、管営のそばにいた、手や頭に繃帯していた美男子だね」
「左様で……。無類に剣術がお達者なので、人呼んで金眼彪と綽名され、ご本名を施恩さまと仰っしゃいますんで」
「ふウむ。にらんだとおりな好漢だったか。だが、その若殿の施恩さんが、なんだってまた、縁もねえ一介の懲役人に、こんな思いもよらねえご好意を見せなさるんだろ」
「さあそのお胸は、手前どもには」
「なんの、知っているに違げえねえ。さ、ここまで話しといて後はいわねえなンて法はねえ」
すると、思わぬ方の声であった。扉を排して、颯と入って来た人がある。
「いや、そのわけは、この施恩からじかにお話しいたしましょう」
「や! あなたは」
武松は寝台から立つ。──老軍卒はあわてて食器箱を提げて立ち去って行く。
「都頭。いつぞやは、どうも」
「こちらこそ。あなたが金眼彪施恩さんか」
「そうです。つまらん疑念をおかけしたようで申しわけない」
「それどころか、過分な恩恵。ただ気にすまないのは、その理由が分らねえからですよ。なんのご縁もねえこの武松に」
「いや、お名はとうに存じている。また失礼だが、お人柄もこの眼で先日しかと見とどけました。そこで父の管営に耳打ちして、百棒も止め、そしてご休養を摂るため、いささかご起居や食事にも注意を与えおいた次第です」
「ご監下の受刑者に、休養はちとおかしいじゃございませんか。なにか他に、おめあてがあるんでござんしょう」
「じつは大いに、あなたへお願いがあるのです。あなたならではの切なるお願いの儀が」
「いったいなんです。仰っしゃってみて下さい」
「ただいま、父も連れて来て、あらためて、三拝の上、お願いすることにいたしますから」
「そんなお堅い礼儀にゃ及びません。手前、まどろッこいことア大嫌いです。手っとり早いとこ、こうだと打ち割っておくんなさい」
「では、お聞きくださいますか」
施恩は語り出した。要を得て、語るところも明晰だった。
──孟州大街の東門外に、俗称、快活林という盛り場がある。
山東、河北の旅商人が取引にあつまる市場、駅路に隣接しているので、俗に、妓家千軒、旅籠百軒といわれ、両替屋だけでさえ二、三十軒もかぞえられる。
もちろん、ばくち場は旺だ。
大小の顔役が、それぞれ縄張を持ち、乾分を養い、旅烏の客をつかまえて、好餌としているが、その中で、管営の若殿金眼彪の施恩も、一ト縄張の株を持っていた。
その株というのは、酒と肉を売る大きな店で、盛り場のまッただ中。──一には父の背景、二には彼自身の剣の腕前、三には獄営内から引っこ抜いた気の利く乾分七、八十人。それらの条件にものをいわせて、花街一帯から、宿屋、ばくち場、両替屋出入りの客などをお花客にして、大きな商賈となっているうえ、渡り職人や、旅稼ぎの女芸人にいたるまで、他国者が入市するには、ぜひとも、
(ここで幾月稼がせていただきます)
と、施恩の店へあいさつに出て、つけとどけをしなければ土地で働けないような仕組みになっていた。
で、その収入は莫大なもの。少ない月でも、銀子で二、三百両のあがりは欠かさない。
「はははは、そいつあちっと、良すぎますなあ」
武松は聞いてるうちに笑いだした。
しかし、施恩は、雑談も交じえず「あなたを見込んでの、事情というのは、これからで」と、いよいよもって、熱語をつづける。
流刑地のつねとして、この孟州にも、強力な一師団の兵営がある。
近ごろその軍団長の張という将軍が、東潞州から赴任してきた。さらに、その張将軍が腰巾着として連れて来た男もある。
それが、あだなを蒋門神という稀代なのっぽで、身の丈九尺余り、槍も棒も、拳も脚もきくという凄者。なかんずく、角力の上手で、本場所の泰山でさえ、三年間も勝ちつづけたという剛の者とあって、さあ、孟州大街でも、俄然、羽ブリはきかせるし、手もつけられない。
「……残念ですが」
施恩はここまで語ってくると、まだ繃帯のとれないでいる額を抑えた。
「その蒋門神の奴に、私の縄張も店もすっかり奪られてしまったのです。元よりただは渡しません。こっちも対抗しましたが、奴に立ち対われては当る者なく、私もまたこの通り、みじめな傷手を受けてしまい、どうにも無念ですが、正直いって歯が立ちませぬ。そのうえ彼奴には、張軍団長という睨みが背後にきいているしで……」
「いや分りました。おたのみの主旨は。──だけどまた、なんだって、張とかいう軍人野郎が、そんな野放図もねえ暴れン坊の贔屓をしているんでしょうな」
「それはもとより金の欲です。なにしろ月々二、三百両の銀子が上がる店ですから」
「そうか。まず、あらまし心得ました。ご安心なせえといっておきましょう。由来、この武松の性分として、軍権をカサにきる似非軍人、なんでも腕ずく力ずくで非道を押ッ通そうとする手輩、そんな奴を見ると、ぐっと虫が癇をおこしてきて堪らなくなる」
「じゃあ、一臂のお力を」
「貸すも貸さねえもありゃしません。蒋門神とかいう獣、我慢はならねえ」
そこへ、施恩の父の管営も入って来て、ともども、武松の義気に訴え、管営みずからこういった。
「伜も不肖な者ですが、しかし金ほしさだけで、やった仕事ではありません。孟州大街には、諸州の雑多な人物も集まるので、有為な男とみたら扶け、かたがた、豪侠の気風を、この地に興さんなどの望みもあったわけなのでした。──しかるに、蒋門神のため、その素地を蹂躪され、しかも軍権力もあるため、無念をのんでいた折です。そこへはからず高名な足下をここに見いだして、まさに雲を撥ッて陽を見るの思いです。……どうか、長く伜をお見すてなく、弟とも思って、お叱りねがいまする」
「と、とんでもねえ。冥加にあまる」
武松は、低く、末座に退がって起たなかった。
「いやいや、そうでない。男は男の真価のみ、管営の若殿などと呼ばれても、施恩はまだ、しょせん、足下の片腕にも及ばん者です」
「そうです、父のいう通りです。武松どの、あなたはどうあれ、私は以後、あなたを義の兄と立ててゆきます」
施恩は、武松にむかって四拝の礼をとった。武松もおなじく礼にこたえないわけにはゆかない。
翌晩、父子はあらためて、武松をべつな館に招じた。そして夜すがらの饗宴と歓談に更かした。武松は、久しぶりに濶然たる胸をひらいて、愉快でたまらず、大酔して蹣跚とした足もとを、やがて召使の手に扶けられながら、外へ出て、
「ああ、秋が近いな、銀河が見える」
やっと、自室へよろめき込み、横たわるやいな、前後不覚なていだった。
蒋門神を四ツ這にさせて、武松、大杯の名月を飲みほす事
あくる日、武松は若殿の施恩とともに、さっそく孟州東門外へ出かけて行った。
が、たぶんに二日酔の気味である。途々小酒屋の旗を見かけると、
「ちょっと、ゆうべの迎え酒に一ト口」
と立ち寄り、また少し行っては、
「どうもいけねえ。なんだか半ちくな気分でぱっと来ねえや。もう一杯」
と、施恩やその家来下男を、外に待たせておいては、幾度となく、朝酒をひッかけ、ひッかけ、炎天を歩いた。そしてやがて午頃、孟州大街の市の人声や蝉の声が一つにわんわん沸いている城外の辻へかかって来た。
「や、あんな所に、蒋門神の野郎が涼んでいますぜ」
「ど、どれ、どこに?」
「往来から引っ込んだ広場の柳の蔭に」
「あいつか。そして野郎が亭主になっている飲屋の店はどこなんだ?」
「あの広場の道を斜かいに抜けた所の大通りの角店ですが」
「わかった。みんなは遠くに散らかって隠れていろ」
武松はただ一人となって、わざと男の休んでいる柳並木の前を通った。じろとこっちが横目で見流すと、蒋門神も半眼で武松を見ぬ振りで見ている風だ。
なるほど恐ろしい長身である。椅子に掛けて突ン出しているその両脚は人の二倍もありそうだ。面も馬面であり、紫ばンだ疣々だらけな皮膚に黄色いヒゲが唇の辺を巻いている。──手には蠅払いの払子、上衣も下も白麻ずくめ。何とも、底気味わるい薄眼の眼光が、武松の踵を見送ってから、また半眠りの態に返った様子である。
こっちは武松。大通りでも一番の角店で、ひと目にもわかる繁昌らしい大酒屋へ、ずっと入って、腰かける。
午なのでまだ客も少ない。武松は酒板に頬杖ついて、
「おいおい。兄ンちゃん。早く持って来ねえかよ早く」
「ほい」と若い給仕人が素ッ飛んで来て「何か、ご註文をうかがッてましたか」
「べら棒め。うかがわなくっても、飲屋へ入って来た客なら、酒にきまってら」
「あいすみません」すぐさま二角入りの碗になみなみと注いで来て「へい、お待ちどおさま」
武松は、ちょっと、鼻をやってみただけだった。
「おい。とり代えて来な、こんなもなあ、酒じゃあねえ」
「いけませんか」
給仕人は、上酒の甕から、べつなのを汲んで来て、武松の鼻っ先においた。
「ぶッ……」
と、一ト口、霧に吹いて、武松は呶鳴った。
「孟州一番の酒場だなンてえ評判は嘘ッ八だな。もういちど、取り代えて来い」
すると、奥の帳場内からこっちを睨みながら、その給仕人を呼んだ女がある。肉づきのいい雪膚の腕もあらわにむき出した羅衣軽裳の若い女将で、柘榴色の唇をキュッとゆがめ、金蛇の腕環のみえる手を頬の辺りにやって、さっきから虫を抑えていた風だった。
「ちッ、小癪だね。だがまあ、もう一ぺん代えておやりよ。それでもゴネたら、私がつまみ出してやるから」
ところが武松。三度目の酒は、ぐうっと一ト息にほして、
「すこし、いける。おい、もう一つ」
「こんどはお気にめしましたか」
「だまって持って来い。こう、すぐおあとだよ。それから、女将にここへ来て、お愛相でもしねえかといってやれ」
「そんなことあ、いえません」
「なぜいえねえ」
「ただの酒場や料理屋とは違います。おかみさんは、蒋門神親分のお持ち物でございますからね」
「だからよ……蒋門神を呼びにやるより、そこのすべたを泣かした方が、野郎をここへ素ッ飛ばせて来る早道だろうじゃあねえか」
聞くと、帳場の女は、横の肉切り台に向って包丁をうごかしていた数名の料理人に向って、女将軍のように、往来を指さして叫んだ。
「おまえたち、あのゲジゲジを外へ、抓み出しておしまい!」
しかし、ことばも終らぬまに、武松の体は前の酒板を躍り越えていた。そして女の金蛇の腕環を取って、そこからつかみ出すやいな、土間の一隅に埋けてあった三箇の大きな酒甕のうちの一つへ、女将の体を逆しまに放り込んでしまった。
わっと一面な酒飛沫。それとともに、渦となッた乱闘の下から、肉切り包丁やら手玉に取られた人間が三つも四つも往来へすッ飛んで行った。つづいて武松も、すばやく往来へ出て突ッ立っている。いやその前には、すでに急を知って飛んで来た蒋門神が仁王立ちとなり、武松をにらまえて眉に憤怒の炎を立てていた。
蒋門神と武松との素手の格闘は、しばし辻の群集を沸きたたせた。
武松も巨漢だが、蒋門神の長身には、顎の下にもとどかない。しかし、蒋はこのところ、女色と酒にすさみきり、相手が相手だったせいもあろうが、たちまち脾腹に雷霆の一拳は食うし、額にも一蹴をうけてよろめき、見かけほどもなく、その精彩を欠いていた。
もっとも武松の拳法〝玉環〟の一手や、〝龍髯打雲〟とか〝水斬〟の術などは、景陽岡の猛虎ですら、眼を眩したほどなもの。いかに蒋門神でも、しょせんは及ばなかったにちがいない。やがてはくたんくたんにたたまれて、呼吸もありやなし、地面にへいつくばッていた。
「おい、どうした。青大将」
「お、おそれいりました」
「ただ恐れ入るじゃあ、勘弁できねえ。おれのいう三箇条を呑むなら、命だけは助けてやらあ。どうだ?」
「おっしゃっておくんなさい」
「第一は、即刻、ここの店を、元の持主の施恩へそっくり返上いたすことだ」
「わかりました」
「第二は、盛り場の顔役全部をここに集め、大衆の前で、地にひたえをスリつけ詫びをいえ」
「おっしゃる通りにいたします」
「次には、即刻ここを立退いて、二度と孟州の盛り場に面を出すな。見つけたがさいご、その馬面を引ン捻じるぞ」
「へい。異存はございません」
「よし、そのままでいろ。すぐ段取りをつけてやる」
武松が手をあげて呼ぶと、物蔭にいた施恩以下の主従が、ぞろっと前へ押出してきた。
附近の顔役といえば、これは呼ぶまでもなく、騒ぎと同時に群集の中へ来ていた。すでに誰いうとなく「あれは虎退治の武松だ」「陽穀県で兄のあだ西門慶をころして流されてきた武都頭だ」との囁きが流れていたので、たれひとり彼の前に来て慴伏しない者はない。
「ご見物のお立会、どうぞ証人となって、よくよくこのざまにお目とめておくんなさい。今日以後、非道な青大将はこの快活林の盛り場からつまみ出し、以前通り管営殿の若さん金眼彪の施恩がここのお店と、界隈の縄張りとを締めくくることになりました。……さあ、青大将、三べんお辞儀をして、とッとと何処へでも消え失せろ」
なにしろ盛り場の真昼である。物見高い上のこの騒ぎ。埃りの上にはどっと見物人の笑い声やら雑言が旋風を描いた。
このことあって以来、快活林第一の酒舗といわれる角店は、また一倍の大繁昌を呼び直した。施恩が主に坐ったのはいうまでもなく、父の管営も、ときどき騎馬で景気を見にやってくる。──附近の宿屋、両替屋、ばくち場、旅芸人などからのツケ届けも以前にも増す景況だった。
「都頭。このご恩は決して忘れるこっちゃございません。どうか、あなたも月の内半分は、ここにいて自由に何でも好きにして、お暮しなすって下さいまし」
施恩は言った。
世辞ではない。父は牢城の管営という要職にある。武松の労役は、その職権と金の力で、どうにでもさせようという意味だ。
それに負ぶさる気もないが、酒は飯より好きな武松である。それに身ままも出来るとあっては、ついここへ入り浸りの恰好となったのもむりはない。
いつか、風も秋めき、酒の味も、いちばん美味くなってきた一日のこと。
「こちらに、虎退治の武都頭がおいでなさいますか」
と、見事な鞍をおいた黒鹿毛を一頭曳いて、二人の兵が訪ねてきた。
モールで縁を繍った草色の制服は総督府の従兵と一ト目でわかる。施恩が出て用向きを聞いてみると、
「わが張総督が、一度、都頭の男振りを見たいとの仰せです。即ちお召状はこれに」
と、一通の書面を差出した。裏面には、
という大きな角印。
施恩は、裏の小園に榻を持ち出して昼寝していた武松をゆり起して、書面を見せ、
「どうします? 使いが待っているんですが」
「総督ってえと、お父さんの上役ですね」
「父はまあ、文官ですが、牢城監視隊の張軍団長には、直接の上官です」
「何だか知らねえが、こち徒は元々裸の流人だ。万一管営の落度ッてなことにでもなるといけませんから、ちょっくら顔出しのつもりで行って来ましょうや」
武松は昼寝の顔を洗ってすぐ気軽に、迎えの馬に乗った。張総督邸は城内小高い風致のいい丘にある。
広壮な一閣のうちで、総督は彼を待ち、かつねんごろに、こういった。
「武都頭の名は、わが輩、かねてから聞いておった。お互いは軍人、士は士を知るというものだぞ。どうだ再び軍に返るつもりで、わが輩の身辺に仕えてみんか」
これには武松もつい乗ってしまった。悪かろうはずはない。こっちは服役中の囚人の身だ。それに管営の方へも施恩の店へも、いいように言っておいてやる、このままいろ、といわれたのである。ここらが身の堅めどきか、そんな考えもふとわいて、
「冥利です。犬馬の労もいといません。どうか真面目に一人立ちのできますよう、おひきたて願いまする」
と、答えたのだった。
武松には、一つの小部屋が与えられた。私邸の奥と、総督の公式の座との中間にあり、なにくれとなく、
「武松、武松」
と呼ばれて、新参者には過ぎたほどな、朝夕の寵愛ぶりだ。
本来は彼、ここらで、はてなと思いそうなものだったが、根が情にもろく、人の愛に渇いていた人間なのである。真底、居どころを得たかのごとく、そして真人間に返らんものと、総督の靴を磨く仕事一つにも真心の光をみせていた武松であった。
早くも秋は、仲秋の一夜となった。
その夜、鴛鴦楼の台には、仲秋の宴があった。ここのみならず、孟州の城内外の灯も、地の星と眺められる。
「武松、そちは酒好きと聞いていたが、さっぱり飲まんじゃないか。こっちへ進め」
「はっ」
「なぜ、そう固くばかりなる?」
「ご夫人から、ご一族、将校がた、歴々たる大勢さまの席などでは」
「はははは。豪傑にも似合わん卑下を。……これ武松、わしはそちを、一箇の義士として、世話しているつもりだ。わからんか、この情けが」
「閣下……」武松はひざまずいて、声をうるませた。キラと顔の下から月光が涙を見せた。
「ありがとうございます。おことば、身に沁みまして」
「なにをメソメソ。さあ飲め」
「いただきまする」
「玉蘭、酌いでやれ。いやいや、大丈夫たる者に、そんな小さい杯はいかん。大きいので酌いでやれ」
侍女の玉蘭が、瓶を持って側へ寄って来た。
武松は久しぶりに、それを一ト息で飲んだ。
「見事、見事」と、辺りで称える。さらに二杯三杯、眼をつむりながら、月を吸うごとく立てつづけに傾けた。
「さあ面白くなったぞ。玉蘭、ひとつおまえの故郷の歌謡でも舞うて見せんか」
この玉蘭とは、おそらくは閣下ご秘蔵のお小間使をかねた愛妾にちがいあるまい。
「はい」
といって、すぐ月の楼台の中央に立った。
襞のある桃色の裳袴には銀モールの縁繍いが取ってあり、耳環の翡翠はともかく、首飾りの紅玉やら金腕環など、どこか中央亜細亜の輸入風俗の香がつよい。いや女の白い皮膚とか眸など、はるか西域を越えて買われて来た白色人系らしい女奴隷の血がはっきりしていた。
しかし、やがて彼女が歌い出したのは、やはりこの国の詩人蘇東坡の一詩を俗歌とした一トふしで、
君、いつの世よりか、世にありと
酒まいらせて
み空に、問わん
玉のみや居に、玉のきぬ
高きあたりは寒からん
君、いくとせにましますか
そのかんばせに
老いを見るなく
たち舞えば、いつも若やぐ雲の裳の
人の世の君とは
似つも、似ざりけり
彼女の歌と踊りにつれて、彼女の両の掌に握られていた象板(よつだけ)の活発な音階が、その足踏みを弾ませていた。細腰は風に旋り、鳳簪は月光にかがやき、しばらくは、仲秋の天地、虫の音までが彼女の舞にその鳴りをひそめてしまった風情だった。
とつぜん、醒めたように、一同の拍手がおこる。
終るやいな玉蘭は、お辞儀を一つして、飛鳥のように侍女の群れの中へ逃げ込みかけた。
「待て待て、玉蘭──」と、張総督は呼びとめて「ついでに、みなの杯へ、酒をついで廻るがいい。武松にも、もっとすすめてやれい」
武松は、あわてて、
「いやもう、てまえは」
「はははは、嘘を申せ。それしきで酔う武松とは聞いていないぞ。どうじゃ武松」
「はっ」
「気に入ったか」
「なにがでございますか」
「もし玉蘭が好きになったら、行く末、そちの妻に娶合せてつかわすぞ」
「滅相もない」
彼の言い方が、余り真剣だったので、あたりの者は、どっと笑った。その笑い声で、武松もいちどに酔を発した顔つきだった。あわれやこの正直者、みなの肴にされているとも知らず、玉蘭がおもしろがって強いるままに、なおも大杯を何度となく吸い干してみせた。
歓楽終って、月も傾き、人もすべて眠りに入った。彼は自分の小部屋で前後不覚に横たわっていたが、ふと目がさめた。──奥の方で、きれいな声が、一ト叫び、
「泥棒ッ……」
と、聞えたからだ。
がばと、武松は刎ね起きた。彼の主人思いな良心は、聞きのがしをゆるさない。長い廊を一足跳びに馳けて行った。すると奥庭の欄の階段に、玉蘭が倒れていた。玉蘭は指さして、
「あっちです。曲者は。……早く行って」
と、息も絶え絶えにせきたてる。
武松は身を転じて、大庭の暗い松林の中へ走りこんだ。とたんに、もんどり打ッたのは、蜘蛛手に張ってあった罠の一条に足もとをすくわれたものらしい。起き上がるまもなく、無数の衛兵に圧しつぶされ、うむもいわせず、高手小手に縛られていたのであった。
城鼓の乱打は枯葉を巻き、武行者
は七尺の身を天涯へ托し行くこと
一夜のうちに、観月の楼台の夢は、暗湿な奈落の穴の、現実と変った。
ここは孟州奉行所の地下牢か。
すべて、いまだに、武松自身には、不可解千万だったが、ぶち込まれるさい、奉行から読み聞かせられた罪状はなんとも心外で忘れえない。
其方コト。
日頃、総督ノ愛顧ニ狎レテ、トカク盗ミヲ働キ、ソノ贜品ヲ、自己ノ小僕部屋ニ匿シオキ、十五日夜半モ又、夫人ノ深窓ヨリ金銀珠玉ヲ盗マントシテ、ツイニ衛兵ノ手ニ縛サレタリ
重罪ノ上、更ニコノ重科ヲ重ネタルカド、尋常ニ非ズ、中央ノ処断ヲ待ツノ間、土牢ヲ申シ付ク
「やっぱりおれは騙されていたのか? ……だが、張総督にも、あの女にも、おれは何の恨みもうけている覚えはねえが」
彼はもがいた。こんな犬死はしたくねえ! よしっ、隙を見て、破牢してやる!
ところが、四十日ほどするうち、牢屋あずかりの康与力が、ある折、彼にささやいた。
「じつあ、牢城の管営と、施恩さんの父子が、蔭ながら、たいそうお前さんの身を案じていなさる」と前提して、
「じつは蔭では内々、要路要路の役人たちへ、何百両とも知れないほどな賄賂をばら撒き、なんとか、お前さんの身を助け出そうとしていなさるんだがいかんせん、相手が総督ときちゃあ、これに立ち向う者はねえ。……だが、くれぐれも短気を出してくれるなというお言伝てだったぜ。よろしかね、武都頭」
「ありがとうござんす。……ああ、そんな人の情けにはほろりとするが……しかし与力さん、いったい、総督はなんであっしをこんな冤罪の罠に陥したものでございますかえ」
「そりゃあ、知れているじゃないか。張蒙方総督と、その配下の張軍団長とは、同姓の一族だぜ」
「はてね? どうもよく分らねえが」
「おまえさんが快活林の盛り場で、こッぴどい目にあわせた蒋門神は、張軍団長がこの土地へ赴任して来たときに連れて来た腰巾着だッてことぐらいは知っているだろ」
「へえ。そして」
「だからよ、その蒋門神が、あそこの大きな角店と、盛り場一帯の縄張りを、施恩から奪い取っていたからこそ、その顔で日々莫大な日銭もあがり、その悪銭の何割かが軍閥一家の張家の内ぶところへも、たんまり廻っていたものだ。……よしかね、考えてもみるがいい。……向うにすれば、大事な金ヅルの水の手を、一囚人の武松如きに断たれたんだから、戦法の巻き返しとして、今度はおまえさんの生命を断ちにかかったわけだよ」
こう聞かされ、初めて、
「おれは、馬鹿だった」
武松は独り頭を叩いた。
けれど、施恩父子の情誼を聞けば、まんざらこの世も見捨ては出来ない。──ともあれ、父子の温情にたいしてもと、彼は、破牢の自暴くそだけは思いとまった。そしてどうなる運命か、まっ暗なまま、まっ暗な明日をむなしく待っていた。
ところが、康の親切や差入れ物も、やがてぷッつり絶えてしまった。総督方の監視は水も洩らさぬ手を打って、それを出来なくしていたらしい。──そして程なく、武松の身柄は、この地からさらに遠い、
恩州牢城送り、
となって、即日、腰グサリ首かせの身を、二人の獄役人の手で押送されて行ったのだった。
「はてな、なんでわざわざ、そんな遠くへ俺を持って行って処刑するのか?」
武松には変なと疑われても、総督側にすれば、いうまでもない外聞のためだったろう。蒋門神の人気は悪い。その無頼漢の肩持ちと世間に見えては、張軍閥一家の威信にかかわる。
果たせるかな、その底意は、孟州を離れて三日目の街道で、はや兆しが見えた。──途中から後になり先になりして、護送の武松を尾けて来るうさん臭い三名の剣客風の男があった。
「……ははあん、おいでなすったな」
いくら鈍な武松にでも、その三名の殺気満々な眼つきには、すぐこう気づかずにいられないものがある。
その夕、飛雲浦の江頭にかかった時である。武松はとつぜん駄々ッ子みたいに体を揉んで屈まッた。
「も、もう、いけねえ、こらえられねえ……お役人、小便がしたくなった。ちょっと、手錠だけゆるめてくれ」
「なに、尿がしたいと」
護送役人は目くばせしあった。時はたそがれ、所は蕭々たる江のほとり。わざと二人は鎖を追って、下は不気味な深い瀞と見える崖ぷちへ連れて行った。
「……アア、いい気もち!」
武松が用をすましたか否かの一瞬である。一颯の剣光がサッと彼の影をかすめた。と見えたと思うとドブンと瀞の水面に飛沫が上がり、つづいてもう一人は彼の足蹴を食って、
「あっ──」
と、後ろの役人と共仆れによろめいていた。
「見損なうな! 俺を」
一喝、朱をそそいで太く膨らませた武松の喉首から、ぱんと首カセの蝶番いが刎ね、喉輪の邪魔物は、二ツになって飛んでいた。
わっと、逃げる役人を、両の手につかんで、江のうちへ叩き込み、さらにもう一名の刺客へ追ッついて、
「野郎っ」
と、どなった。その声だけで、男は意気地もなくヘナヘナと腰をついて、
「都頭っ、命だけは」
と、地に這って拝んだ。
刺客三人は、蒋門神の弟子だと分った。武松はその男を裸にさせた。そして自身の獄衣を脱ぎ、そっくり着がえて、男の持っていた大きな野太刀まで召上げてから、
「てめえ一人が無事で帰っちゃ、仲間の義理が欠けるだろう。生き死には、水神様に相談してみろ」
と、それも一ト抓みにして、江の急流へ投げ飛ばした。
かくてまた、二日二た晩を、元の孟州へ馳けもどった武松は、おそらくは憤怒のあまり復讐の鬼と化していたものにちがいない。着いたその晩、総督邸の深くへ忍びこんでいた。──とも知らず、当夜もまた、鴛鴦楼の灯は歓宴のさざめきに星空の更くるを忘れ、玉蘭の象板が「王昭君」を歌っていた。
いやなお、その内輪だけの集いには、いつぞや仲秋の宴にはここにいなかった蒋門神のがらがら声や、また、張家の同族、張軍団長の豪傑笑いも交じっていた。
まだ暁の星も淡い五更の頃。
孟州四つ城門の太鼓が、時ならぬじぶんなのに、いつにない乱打調子で鳴りぬいた。
「なんだろう? 刻の太鼓でもないらしいが」
街の者は、外へ飛び出して見るなり、すわ暴動か、戦争かと、仰天したほどだった。総督邸を中心に、ひきも切らない早馬がどこかへ飛ぶ。辻々には兵隊が立つ。──顔いろを変えた牢城役人や奉行が、馬にムチ打って、官邸の方へ馳けてゆく。
そのうちに、はや午ごろ。
「わっ、大変の何のッて」
と、官邸の馬院にいる馬丁や小者らの口から街の耳へも、真相が伝わっていった。
ゆうべの深更、宴が終ってからのこと。──張総督の夫妻から、小間使の玉蘭、そして客の張軍団長、蒋門神などの五人が、楼台の下や、廊の口や、室などで、すべて野太刀のごとき兇器で斬り殺されていたのが、わずか一刻の後に発見され、すわと、大騒ぎになったものの、すでに犯人の影もみえず、ただ官邸の白壁に血しおをもって、
と、書いてあった、というのである。
「ひぇっ……。よくもまあ大胆な」
噂は、醒めぬ悪夢のように孟州城内を暗くした。以後幾日かは、城外盛り場の灯すらともらず、沼のような凄気が昼も冷たく吹いていた。
なにしろ、これは一地方の行政では到底処理もつくまい。総督、軍団長の横死とあっては、中央政府の威信にもかかわろう。そして当座たちまち、武松の人相書、生地年齢、罪歴などとともに逮捕の官令が、諸道諸県へわたってひろく配布されたようではあるが、しかし犯人武松の足蹟には、かいもく何のつかむところもなく、ただ、血まなこな狂奔にくれていた密偵群の網の目にも皆目行方知れずであった。
では、当の武松はどこにいたか。
その間、彼が身を匿ってもらっていたのは、かの十字坡の一軒家だった。──とだけでは、読者もはや思い出せないかもしれぬが、そもそも、武松が孟州入りの前日に義を結んで別れた例の峠茶屋の夫婦者──菜園子の張青と、その女房、母夜叉ノ孫二娘にわけを打明けて、身を潜めていたのである。
「それ見なッせい。あのとき、おれたち夫婦ですすめたように、二龍山へ突ッ奔ってしまえば、よもや、こんなことにはならなかったろうによ!」
張青は嘆じたが、武松もおのれの馬鹿を知ってるように薄く笑った。
「だが兄弟、男は後悔しねえもんだ」
そのうち、街へ放っておいた張青の子分が、報らせに帰って来た。
「いやもう、いまだに城内外は、しらみつぶしの探索騒ぎだ。高札はいたる所だし、一町五軒の五人組、十人組の町目付が出来、万一犯人を知って、届け出ぬ者は、町中同罪の触れ廻しでさ。その代り、武松の足どりを告げた者には、三千貫の賞金をくれると、奉行所の触れが、今日、出たばかりでございましたぜ」
「こいつアいけねえ」と張青は舌打ちして「そろそろ、ここも峠の一軒と、安心しちゃいられそうもねえ」
と、その日武松へあらたまって、再度、二龍山落ちを切にすすめた。
じつは、武松もすでに、その気ではあったらしい。
「じゃあ一つ、おそれいるが、その二龍山宝珠寺にいるっていう花和尚魯智深と青面獣楊志ってえお人へあてて、一本、添え状を書いちゃくれませんか」
「おやすいこった。しかし、その身装じゃ、道中のほどもおぼつかないな」
「では、どうしたらいいってえのか」
「お怒ンなすっちゃいけませんぜ。いっそ頭陀(蓄髪僧ノ事、行者トモ呼ブ)におなんなさいよ」
「なるほど」
「ずっと以前、ここで殺めた一人の頭陀の衣、帯、兜巾(細がねの鉢巻)、度牒。それに人間の白骨を玉として百八粒の数珠とした一ト掛まで、ちょうど、今日のためのように、そっくり仕舞いこんである」
すると、女房の母夜叉も言った。
「そうそう、それにまだ、凄く切れ味のよさそうな鮫鞘の戒刀までがありますしね。……そして行者作りに、髪も切りそろえ、額の金印(いれずみ)のとこは、前髪でかくし、もっと念入りに、小さい膏薬でも貼っておけば、おそらく、ちょっとやそっとじゃ、お尋ね者の武松さんとは見えますまい」
張青は手を打って、
「よく言った。さっそく、髪を剪って、切下げにして上げるがいい」
その夜から翌る日は、こっそり山家の内の別れの酒。張青はくれぐれ言った。
「人に意見がいえる柄じゃあねえが、どうか酒の上は慎んで、せっかくな出家姿の尻ッ尾を人中で出さないように気をつけておくんなさいよ。それに兄貴は、馬鹿正直に人のことばを信じすぎる。その辺も、どうか要心に要心して」
「ありがとうよ。骨身にこたえる」
草鞋をはいて、ここを立つのも、わざと夕方をえらんで立った。折ふし、頃はすでに十月の短か日。落ちかける薄ら陽の林から舞いとぶ落葉が、振り返り振り返り行く、白い行者姿を横に吹いていた。
音に聞く蜈蚣峰の晩秋もうしろに越えて、道は青州二龍山の方へと、一日一日、近づく冬の歩みとともに、二十日余りを重ねていた。
「ううっ……。めっきり寒くなったぞ」
その日、武行者は一軒の山里の小酒屋にとびこんで、思わず、赤子が乳を求めるように呼んでいた。
「亭主、熱いとこを一本飲ませてくんな」
「行者どん。濁酒ですかえ」
「うんにゃ、上酒がいいね。それと肉のうまいとこを二斤ほど」
「そいつあ、おあいにくさまです。どぶろくのほかはございませんよ」
「肉もか」
「煮しめの一皿もさし上げましょうか」
武行者は、おもしろくない顔で独酌をやっていた。とかく張青の意見があたまにある。この虫がいけないンだな、と思いながら飲む酒なのでよけいに何かホロ苦い。
「オオこれはこれは、いらっしゃいまし」
急に愛相変りな亭主の声に、ひょいと入口を見ると土地の者か三、四人連れ。
わけて一トきわ目立ったのは年二十四、五の白面の少年郎。まだ女ずれもしてない美丈夫で、身のたけ七尺ほど、紅花頭巾に緑戦袍を着、金革の帯には長やかな太刀一と腰、にこやかに卓へ寄るなり、
「友達をつれて来たよ。ご亭主、誂えといた料理は出来ているだろうね」
「へい、へい。羊も鶏も、今日のはまた、すばらしい上肉でございますから、どうぞまあ、ごゆっくりと」
彼らの卓は、たちまち、次々と運び出される佳肴で埋まった。うま煮、焼肉、丸揚げ、菜汁、果盆。こなたの武行者が、ちらちら横目で見たぐらいでは、品数もかぞえきれない。
「おもしろくねえな……。おい亭主、ここへもう一本」
「へい、どぶろくのお代りで」
「ばかアいえ、そっちにある青花模様の酒甕のを、おれにも二角ほど貰おうか」
「これはいけません」
「なぜ、いけねえ?」
「だって、こちらの若旦那様からお預かりしといたのを、封を切ったわけでして」
「嘘をいえ、肉の一片も俺には出さねえところを見ると、俺を銭なしのうらぶれ行者と思やがって、出し惜しみをしていやがるな」
「困りますね、言いがかりをおつけなすッちゃ。そんなに、喉が鳴るなら、よそへ行って、どんな上甕の飛び切りでもなんでも飲むがいい」
「なにを」
軽く撲ッたつもりだったが、なにしろ武松の掌のひらである。亭主は顔をかかえながら、横ッ飛びに、彼方の四人の卓へぶつかって、ひッくりかえった。
怒ったのは、卓の主人役をしていた紅帽青襟の少年郎だった。ぬっと立って、
「君。戸外へ出給え」
「よしっ、出てやる」
躍り出た二人はすでに、二羽の闘鶏が、逆羽を立てて、戦意を研ぎ合う姿だった。
「──行者。出家ハ瞋ルベカラズ、マタ、貪欲ナルベカラズ──とか聞いてるが」
「洒落くせえ、うぬはこの村の青二才か」
「大きなお世話だ。察するところ、きさまは出家の道も恥も知らぬ偽行者だな」
偽行者か、との一言には、武松をドキとさせたものがあったに相違ない。彼の手はほとんど無意識に戒刀の柄へ走った。
しかし、もっと迅かったのは、少年郎の姿だった。飛燕の業といってよい。武松の柄の手をばッと間髪に蹴上げていた。
「やったな、味を」
武行者は、肘を蹴られて、かえって相手の力量の程度をすぐ察知したかのようだった。戒刀にはおよばない。そして敢て、素手を示しつつ身をすすませた。ばッと格闘の卍がおこる。少年郎の巨体が大地へ叩きつけられ、刎ね起きたが、また投げられ、ついに武行者の下となって、その鉄拳の乱打にウもスもいわなくなった。
「美い男! 顔を洗って出直して来い」
武行者は、少年郎の革帯をつかんで、酒屋の前の谷川へ抛り投げた。連れの三人は青くなって「──若旦那ッ」とばかり崖の下へ向って、その体を拾いに行った。
「わははは。まるでこの行者に、お布施を授けてくれたようなもンだ」
武行者は、店へ入るやいな、かの垂涎三尺の眺めにたえなかった青花模様の上酒甕を抱え込んで大いに笑った。そして羨望の甘露をごくんごくんと飲みはじめ、またたくうちに空ッぽにしてしまった。
のみならず、そこらの肉を腹いッぱい平らげた上、腰を抜かしている亭主を尻目に、
「ああ、いい気分、冬も忘れる……」
蹌々踉々、村道を風に吹かれて歩み、一つの桟橋の向うから、谷川ぞいの道を、のぼりまた降り、いつか夜はとっぷりとなったのも忘れ顔に、鼻唄で歩いた。
「おや、行き止まりか? はてな」
戻ろうとしたのは、やたらに鹿柴みたいな枯れ木や竹が道をふさいでいたからだった。ところが、ちょいとまごつくと、縄やら何やらがすぐ足を取る。大酔していたせいもあろう。武行者は二度も三度も谷水の汀にすべってズブ濡れになった。冬十一月の寒冷な谷水、さすがの酔も、ぶるッと一瞬に醒めかけた。
すると、頭の上でガサゴソしていた無数の人影の気配が、いちどに笑って、
「まるで鯰が酒を食らったようだ」
「もう足掻きはつくめえ。足掻いたところで逃げ道はねえしよ」
と、言い囃している風だった。
あとで思えば、桟橋を渡って東へ行くべき本道に偽装垣が作られていたため、酔眼朦朧、いつも村人が猪を追い込む猪落し穴の横道へ誘い込まれていたものらしい。
口笛がつんざく。松明が集まって来る。
やがて無慮七、八十人もの荘丁や百姓たちが、思い思いな得物を手に、武行者の体を、猪捕り手だてで押っ取り囲んだ。いかんせん、醒めたとはいえ、泥酔の果てである。井桁に結んだ丸太担架に五体をくくしつけられた武行者の体は、かつて彼自身が景陽岡でしとめた大虎そッくりな恰好にされ、わッしょわッしょと村の地主屋敷の門内へと担ぎ込まれて行ったのだった。
「兄さん、首尾よく捕まえてくれたそうですね、いや私は面目ないが」
地主屋敷の門へ、いま、こう言いながら帰って来たのは、最前、武行者に谷川崖へ投げ込まれた例の白面の少年郎だった。
対するは、その兄か。
苦みばしった面ざしの、これも眉目秀でた大男で、
「だからまだ、お互い、修行は足らんといっているのさ。おまえにとっては、いい経験だったよ。凄い行者もあったもんだ」
「して、どうしました、あの怪行者は」
「庭の槐にふん縛ッておいた。半ば昏々として、何かぶつくさ言っている」
「どんな文句を吐ざくのか、ひとつ聞いてやりましょう。おい誰か、籐の鞭を持って来い」
一人の荘丁の手から、それを受けとった兄弟の者は、大庭の西にある槐の大木の下へつかつか寄って、やがて四、五打の籐の唸りと罵声を、武行者の上にあびせかけていた。
「……あ、ご兄弟」
すると、書院とおぼしき一亭の前から呼びとめる人があった。静かに、散歩でもするような足どりで、側へ来て、
「ま、およしなさい。ご自身そんな手くだしは、つまらんではありませんか」
「いや先生。こいつ捨ておけん曲者ですぜ。村のしめしのためにもです」
「聞きましたよ、委細のいきさつは。けれど人間、せつなの感情では、時に思慮を欠くことはお互いにもありますからな。ましてご舎弟を屈伏させた腕前もあるほどな男と聞いては、どこに見どころがあるかもしれない」
「じゃあ、助けろと、仰っしゃるんで?」
「もしまた、真の悪党だったら、どんなにでもなさるがいい。だが一応は、私に篤とその人間を見させて下さらんか。私が糺してみる」
「おお、ごらんなさい。弟、松明を」
「いやどうも、お手数、おそれいる」
こういって、槐の根がたへ、屈み加減に身を寄せた人は、ここの家人ではないらしい。しかも兄弟が尊敬している客と見えた。
「はてな」
と、その客は、兄弟を振り向いていった。
「行者の額の膏薬は、どうもわざとな面霞か、金印(いれずみ)隠しによくやる手かも知れません。ひとつ、引ッ剥がして見て下さらんか」
「されば、私たちもさっきから、そう睨んで脱ってやろうとしたんですが、歯を剥いたり、首を捻じ伏せたり、どうしても脱らせません」
「むむ、無理に見るにも及ぶまい。肩の肌に残っている背打ちの傷痕も、まちがいなく罪囚の持っているものだ。しかし……?」と言いつつ、槐の根を向うへ廻って、行者の面貌を見ようとした。すると武松はまたすぐ、逆に、こっちへ顔を捻じ曲げて、あくまで見さだめさせまいとする。
「ふふふふ。見かけによらぬ、未練な男だ」
と、その人は、軽侮と愍笑を交ぜて言った。その言に、むッとしたか、突如、吼えるように、
「なにッ」
武松は顔を振りあげて、上から覗きこむ顔を、はッたと、睨みすえたのだった。そして、そのまま異様なまでに、彼のらんらんたる双眸は、次第に雨雲のような掻き曇りを見せ、あわや、この不敵無双な男が、いまにも泣き出すかと思われるばかりに顔のすじをひッつらせた。
「……おおほ! ……おうっ。あ、あなたは」
「武二郎か。……」
その人の弾んだ声は、半ばで切れて、あとは声高に、兄弟の者へ、さいそくしていた。
「すぐ縄を解いてやってくれ、心からいたわってやってくれ。これは私の弟分だ」
「げっ。先生の弟分でございますって」
「されば、この辺へも、お尋ね書が廻っていたからご存知だろうが打虎武松だ。景陽岡で猛虎をなぐり殺したあの男さ」
驚いたのは、兄弟の者であるが、この兄弟とて、ただの山家地主の息子とも見えず、ましてここの一書院に閑居しながら、いまや世間に身もおくところなき行者武松をよく知って、わが弟分と呼ぶこの客こそは、一体いかなる素姓の人であったのだろうか。
緑林の徒も真人は啖わぬ事。
ならびに、危なかった女轎のこと
めったに自分を見限るなかれ、である。寸前の運命が分らないのと同様に、寸後の転換だってまた測り知れないことは往々といっていい。
今夜の武松がそれだった。
一刻後の彼は、縄目の死地から俄にその家の客院の客としてあがめられていた。浴室で負傷の箇所には手当をうけ、また肌着や衣帯なども、すべて新しいのとかえられていた。
「ここで先生にお目にかかろうとは?」
武松は何度となくいって、人の世の流転邂逅の奇に浩嘆を発するのだった。
彼を見て「──これは自分の弟分だ」と驚き、すぐこの家の兄弟に命じて、彼の縄を解かせた人は、じつに故郷鄆城県の宋家村を立退いた以後その消息を世に絶っていた宋押司──かの及時雨宋江だったのだ。
かつて武松とは、妙なことで、お互いに忘れがたい印象をのこし、しかもその場で兄弟の約までむすんでいた。
あれは滄州の小旋風柴進の屋敷だった。故郷を落ちて、そこの客となった宋江が、邸内の暗い廊下を行き迷って、瘧病みの男の足を踏ンづけて呶鳴られたことがある。
それが武松だったのだ。
あるじの柴進のとりなしで、その晩、杯をともにしまた数日をともに送って、じつに愉快な男であることを知ったが、その武松はまもなく兄を慕って、旅へ去って行った。しかし以後もしばしば、武松の名はいろんな事件で江湖に高くなり、「──あいかわらず、やっているな」と、離れてはいてもその噂だけは、宋江もつねに耳にしていたのである。
「だがその武松に、この白虎山の孔家で巡り会おうとは?」
と、宋江もよほど今夜は驚倒した容子であった。いや、もっとびっくりしたのは、二人の関係と、武松その人を、目の前に見て初めてそれと知った孔家の若い兄弟で、
「先生。どうか武松殿にあやまって下さい。まったく夢にも気がつかず、とんでもないご無礼をしてしまい、お詫びのことばもありません」
と、九拝百拝、ただただ恐懼してやまなかった。
「しかたがない、お互いは神ならぬ身」と宋江は仲をとって、
「──武松、これからはこれを縁に、親しく義を交わして行くがいい。こちらは白虎山の由緒ある旧家で、昼、おぬしが村の居酒屋で出会ったのはご舎弟のほうで独火星の孔亮とよばれ、そちらはご総領の毛頭星の孔明と仰っしゃるお方だ」
「これは……」と、武松もへりくだって、床にひざまずこうとすると、兄弟は双方から彼の手を取って、
「とんでもない。どうか上座にいてください。打虎武松のご高名は雷のごとしで、義に強い数々なお噂も夙に伺っております」
と、下にもおかず、やがて孔家の老主まで出て来て、もてなしの善美をつくした。
かくて武松は孔家にひきとめられていること一週日ほどのうち、宋江も近くこの家の客分を辞して他県へ移るつもりだという身の上を聞かせられた。
「じつはその後、故郷における私の詮議もだいぶほとぼりがさめたので、弟の宋清はいま、宋家村の家へ帰っています」
そう前提して、宋江は意中を語った。
「……で、その弟宋清からは折々の便りを手にしているわけだが、この県の清風鎮の長官で小李広花栄という人物がある。その者からぜひとも私に清風鎮へ来てくれという勧めなのです。かねて旧知の縁でもあり、余りに切なすすめなので、孔家へもわけを告げて、近日そちらへ出向くつもりでいるのだが」
「先生、よけいなことをお訊ねしますが、こちらの孔家はそれでいいんですか」
「ム。孔亮、孔明の兄弟へは、いささか剣法や兵学などをここで教授していた次第だが、この師匠が持っているものは、あらかた教えおわっている。……どうだな武松、おぬしも私と一しょに、道をかえて、その清風鎮へ行ってみないか」
「いや、よしましょう」
「なぜ」
「先生のつい犯した過失同様な女殺しの科とは違って、この武松のやった罪科は、血の池、針の山を追われる地獄のようなもんです。あなたに巻き添えを食わせては申しわけない。──そのうちに天下大赦の日でも来たら、晴れてまた、お目にかかろうじゃありませんか」
「じゃあ君にも、いつかはお上に帰順して、まじめな良民になりたいという希望はあるんだな」
「それやあ先生、だれにだって、そういう希いはありますよ。ところがその希いを逆にひン曲げて、悪へ悪へとこち徒を追い込むようなのが今の宋朝の官人どもではありませんかね」
「いや悪吏は跋扈しているが良吏だっているにはいるのだ。君に一点の耿心さえあればいつか天のおたすけもあろう。悪い治世もそうそう長くは続くまいからな」
宋江は言った。こんな境遇にさすらいつつも、依然彼は彼らしい君子の風を失っていない。
それから五日ほど後、孔家では旅立つ二人のために、一家挙げての惜別の宴がひらかれた。老主から兄弟までが、なんとかして引き留めようと努めたのはもちろんだが「またのご縁をたのしみ」という強っての辞意に諦めのほかなく、衣服銀子などの餞別を積んで、この歓送宴となったものだった。
さらに孔明、孔亮の兄弟は、荘丁を連れて、二人の立つ道を二十里も送って行った。そして、別れにのぞんでは、
「いつかまた、再会の日の来るのを祈っています」
と、振り返り振り返りあとへ帰った。
さて、道連れは、二人きりとなったが、武松の目的地は二龍山だし、宋江は清風鎮へ行く身なので、
「二人もまた、やがてすぐ西と東だな」
と、壮士の腸も淋しげに、相かえりみて微笑しあった。
数日の後、とある田舎町に着いた。土地名を訊いてみれば瑞龍鎮。
ついでに、二龍山はどっち? 清風鎮へはどう行くか? とたずねてみると、
「ここはちょうど追分で、町端れから西へ遥かに行けば二龍山。東の道を行って、清風山を越えれば、峠向うはすぐ清風鎮の官城が見える街ですよ」
とのことだった。
「さあいよいよお別れだな」
二人は居酒屋で、小酌を汲んで惜しんだ。
その杯を持つにつけ、宋江は武松の度に過ぎた従来の義憤と暴勇が、大半みんな酒の業するところと見て憂えていたので、
「君、酒は愛して飲むべしだよ。くれぐれも酒に呑まれて、可惜、好漢を滅茶苦茶にしてくれるなよ」
と親身になって戒めた。
そして、いざ酒屋の払いをと、旅包みを解くと、宋江のそれにも武松の頭陀にも、思いきや大枚銀五十両ずつ入っていた。孔兄弟の心入れなのはいうまでもない。二人はそこでも再び孔家の方へ恩遇を謝し、やがて西と東へ袂を別った。
ここで行者武松の行く先は、ひとまず後にゆずって。
ひとり清風山へ向って、そしてほどなく、山路へさしかかっていた宋江の足どりについて行ってみると、案外この山は、名のようなやさしい山ではない。
峠に立って打見やれば、八面嵯峨たる谷の断岸。
どこかを行く渓流は、とどろの谺を呼んで物凄まじい。老木のつた葛は千条の黒蛇に見える。人の足音に驚いて跳ぶ氈鹿。かえって人間に興味をもつかのように梢から梢へ奇声をあげてついてくる群猿の影。──宋江はつい自然のおもしろさに釣られて歩いた。
ところが、やがて原始林の青ぐらい道へ入ると、とつぜん彼の足元で、リ・リ・リ・リン……と鈴が鳴った。
「おや?」
と足にからみついた葛縄を取りのぞいているまに、すでに彼の運命は変っていた。豹のごとき男女が無慮二、三十人も跳びついて来て、彼のからだをがんじ絡めに、どこかへ引ッかついで行ってしまったのだ。
ここにも緑林(盗賊)の巣があった。
洞窟を背景に、ひとつの賊殿ともいえる山寨を築造し、その頭は姓を燕、名を順といい、あだ名を錦毛虎とよばれているものだった。──もとは山東莱州で馬や羊の売り買いをしていた博労なのだ。
また、彼が片腕の小頭には。
両淮生れの荷馬車曳き上がりで、短小で素ばしッこくて、兇暴無残な王矮虎。──またもう一人は、蘇州の産で、銀細工屋の若旦那くずれの、色が生白くて背のひょろ長い鄭天寿、またの異名を白面郎ともいう男もいた。
この三人三様の風貌をもった賊の頭目は、折ふし山寨の一窟で、博奕か何かに夢中になっていたところから、子分の報らせも耳の外に、
「なに、いい獲物を捕まえたと。そこらの柱へでも引ッ縛っておけ。どうするのかは、あとでゆっくり人態を見てからでいい」
と、晩になるまで、放置しておいた。
そして、それに飽きると酒もりだったが、酒のなかばに「そうそう、子分の奴が、昼間くくッておいた肴があったはず」と、王矮虎が言い出して、宋江を眼の前へ曳かせ来てみると、これはめッたに山寨などではお目にかからない端厳な人品だ。
「ちと色は黒いが」
と、王矮虎は舌なめずりして、ほかの二人へ目くばせた。
当時、宋朝の文化は、帝室や都府の中心では、はやすばらしい発達途上を示してもいたが、未開大陸の僻地では人肉嗜食の蛮風などがなお一方にはのこっていたらしい。とくに人間の生肝は美味で精力薬になるという迷信があり、その生肝をとるには、さんざん冷水をあびせて、肝臓の熱い血をちらしておき、そこを抉りとるのがいいなどといわれていた。
「そうだ。したくしろ」
それと呑みこんで、錦毛虎はすぐ、手下の者へ、生肝料理の準備を命じた。
するとその間に、宋江の持物を、卓に取寄せて、仔細にしらべていた白面郎が、オヤと目をみはった顔つきで、隣の錦毛虎燕順に、一通の反古手紙をみせていた。──宋江の名があったからである。
「やいやい、そんな物は、一度そっちへ持って返れ」
燕順は急に呶鳴った。生肝とりの大俎板やら包丁水桶などをかついで来た子分どもを慌てて追い返してから、宋江へ向って訊いた。
「旅人。おめえの名は?」
「わしは、宋公明だ」
「あの鄆城県宋家村の、及時雨宋江とよく似た名だな」
「その宋江なのだ」
「だれがよ」
「わしが」
「この手紙の名宛人がつまりお前さんだというのかね」
「宋家村の宋江は二人とはいない」
「げっ! それじゃあ、あなたは」
燕順以下、賊頭二名は、腰をぬかすほど仰天した。
彼らの仲間内で、及時雨宋江の名は、仁愛と畏敬の対象として、広く絶大な響きをもっていたらしい。暗闇の仲間ほど、じつは心から服したい人間中の人間を欲し、また心から敬いたい光明をつよく求めているものかとも思われる。
何しても彼らは、その人の生肝を食らうどころの騒ぎではない。次の日には、手下一同にも告げて、賓客の礼をとらせ、彼を豹の皮の椅子にあがめて、賊首三名は下にへりくだり、
「いつまでも、お飽きになるまで、この山寨にいていただきたい」
というほどな変り方だった。
そして宋江の口から、武松の話を聞くにおよんでは、なおさらなこと、
「そいつア惜しい。二龍山など行かずに、都頭武松も、こっちへ来てくれたら、どんなに歓呼して迎えたかもしれねえのに、千載一遇の機を逃がしたようなもんだ」
と残念がり、一そう宋江をひきとめて、日々彼に仕えるような歓待をみせるのだった。
とはいえ宋江は、いつまで賊飯にもてなされて遊んでいる心はない。それに清風鎮の長官花栄を訪ねてゆく途中でもあること。心ならずもつい七、八日をいてしまったというにとどまる。
するうちに季節は早くも臘月(十二月)のはじめ。この山東地方では月々八日の臘日には先祖の墓掃まいりをする風習がある。
「親分っ」
勢い込んで、その日、麓道から戻って来た子分の幾人かが、
「ちょっとした別嬪でしたぜ。たぶん今日の墓詣りでしょう。女は女轎に乗って、お供七人ほど連れ、提げ重二つに、お花を持たせて、街道を練って来ましたよ」
と、王矮虎のいる所へ知らせていた。色好みな矮虎は、きくや否、
「ほんとか」
眼いろを変えて、すぐ手下四、五十人を集めにかかった。そして宋江や燕順がそれを止めるのもきかばこそ、槍や刀をかつぎ出し、銅鑼、角笛の音脅しも物々しく、女狩りに出て行った。
「はて、どうしたろう? 耳にしては放ってもおけず、なにやら気がかり」
宋江は、夕方ぢかく、ふと、昼間小耳にはさんだ婦人のことを思い出した。
矮虎の手下にきいてみると、あれから女轎の供の兵隊七、八人を追っ払い、女の身は轎舁きぐるみ、矮虎が自分の住居へ連れ込んでしまったきりだという。
すぐ燕順の所へ行って、
「人妻にせよ娘にせよ、女隠しなどは罪深い。義で生きる好漢のすることではありませんな。どうもあなたの義兄弟らしくもない」
「いや、どうも」
燕順は、自分のことみたいに恥じた。
「──あいつも、事に当れば負けをとらない男ですが、たった一つ、そいつが彼れのやまいでしてね」
「どうです、ひとつ一しょに行って、ご忠告をしてみては」
いわれると、ぜひがない。燕順と白面郎が先に立ち、山寨附近の山蔭にある矮虎のねぐらへ彼を案内して行った。
戸を叩くと、内では慌てた気配である、「まずいところへ」と言いたいような王矮虎の面つきだった。彼に挑まれていたところだろう。土間の一隅にしどけない女の姿が簪のない髪をみだして俯っ伏していた。
「…………」
一瞬の気まずい黙し合いのなかにチラと見ると、女は良家の内室らしい白妙の喪服がかえって似合わしく、臙脂白粉気がなくてさえ、なんとも婀娜な艶めきをその姿は描いている。
「もし、そこなご婦人。そう、わななくことはありませんよ。お宅はどこです」
そういう宋江の姿を、女は恐々見上げて、
「親分さま。どうぞお助け下さいまし。……わ、わたくし、清風鎮の長官の家内なのでございますが」
「え。長官のご家内ですって」
「はい。今日の臘日詣りで、母のお墓へ行った帰りなのです。こんなこととは知らず、どんなに良人は案じているかもしれません」
「奇遇ですな。じつは私は、近日その花長官をおやしきへお訪ねして行こうと思っていた者で、ここの賊の頭ではありませぬ」
「いいえ! ……」と、女は急に顔を振った。
「ちがいます、その長官の妻とはちがいます」
「なぜ違うんですか」
「清風鎮の長官は二名おります。ひとりは武官の長官。──わたしの良人は文官の方です。文長官劉高でございますから」
「ははあ」
宋江はうなずいた。そしてすぐ矮虎へむかい、
「王君」
「へえ。なんですか」
「頼みがあるが肯いてくれないか」
「分ってまさあ。女をおっ放してやれというんでしょうが。……だが、あっしには女房もねえんだ。ここは大目に見ておいてくだせえよ」
「だが、いま訊けば、歴とした文官の細君だろうじゃないか。なにもそんな人泣かせをしないでも」
「いやこの女には、あっしはもう一ト目惚れだ。長官だろうが何だろうが闘ッてやる」
「まアさ、そう強がらなくてもいい。私が頼むのだ。こう頼む」と、宋江が地に膝をついて、王矮虎を拝したので、燕順と白面郎はびっくりして、
「あなたにそんな礼をとらせちゃ勿体ない。どうかお膝をお上げなすッて」
「いやいや、知人花長官の友人の奥さんだ。この難を見捨てることはできない。……なお王君、約束しようじゃないか。そんなにつれあいが欲しいなら、君のためにきっと自分がいまに適当な女を見つけ、嫁入り支度も添えてお世話しよう。だからこのご婦人は放してやってくれ。たのむ」
こうまでいわれては、矮虎も不承不承、指を咥えてあきらめるほかはない。もちろん燕順も白面郎も切にそれをすすめ、気まずいながら、事はやっと一段落を見たかたち。
女は身づくろいもそこそこ礼をくり返して轎のうちへ入る。轎夫も九死に一生をえた思い。肩を入れるやいな、飛ぶが如く山をくだって行く──。
さて此処、清風鎮の街は、はや宵過ぎの灯であった。
いやその城外まで轎が馳けまろんで来ると、彼方から七、八十人の兵隊が、何かわいわい騒ぎながら疾走して来た。兵は口々に轎を迎え、
「やあ、ご夫人だ、ご無事にもどった」
「おお奥方には、なんのお怪我もしていない」
夫人は、良人の部下と知ったので、
「おまえたちは、私を案じて、探しに来てくれたのかえ?」
「そうです!」異口同音に兵たちは「いやもう、劉長官のご心配ッたらありません。──夜に入っても帰らぬからには、清風山の賊に引ッ攫われたに違いないと仰っしゃいましてね。おかげでわれわれどもは、なにしておるかと、恐ろしいお叱りを食い、万一があったら兵長は縛り首、兵一同は減俸だと呶鳴りつけられました」
「まあいいよ、おまえたちは案じぬがいい」
夫人はツンとして艶麗な威厳を兵どもに誇って見せた。
「山賊に襲われたに違いないが、わたしが劉長官の夫人だよっていってやると、彼らは恐れをなして、私に指もさわれないのさ……。お前たちも可哀そうだから、長官へは私から、いいように申し上げといてあげるよ」
「どうぞ、おねがいいたしまする」
「おくがた様、ありがとう存じます」
彼女は兵の百拝を浴びると、まるで凱旋の女王かのような心理に酔い、その轎を大勢に打ちかこまれつつ官邸の門へなだれ入った。
良人の劉高は、彼女の姿を見るやいな、
「オオよく帰って来たな。どうして無事に戻れたのか」
と、強烈な抱擁を惜しまなかった。
「あなたのご威光ですの……」と、夫人は良人の腕の中でいった。「賊は、私が劉長官の夫人と知って、急に態度をかえてしまったんですの。──そこへ兵隊たちが、喊声を上げて来ましたから、みんな雲霞と逃げ散ッてしまいました。兵隊たちの功も褒めてやってくださいまし」
ふしぎな女性心理である。こんな嘘ッぱちも彼女自身にはおのれを誇る快楽のいい刺激になっているものらしい。
すると、それから数日たった後のこと、清風鎮の街中の三叉路に佇んで、
「はて、どっちへ行ったものか?」
と、思案顔している旅人がある。
宋公明──宋江であった。
山寨の連中にはしきりに引きとめられたが、その日ついに、錦毛虎燕順以下に麓まで見送られ、袂を別って、ひとり鎮城の巷へ入って来たものだった。
街は青州清風寨の要害の地にあるので、かなりな繁華を呈し、各州へ通じる三街道の起点をなし、人家四、五千、小高いところに鎮台がある。
「あ。花長官のお住居ですか」と、道行く人は、宋江の問いに、鎮台の方を指さした。
「鎮台大路へむかって、南側の官邸が、劉文官のおうちで、もうすこし先の北側のおやしきが、武官の花栄閣下のおすまいでございますよ」
「ありがとう」
宋江はやがて、宏壮な一門の前に立ち、衛兵に刺を通じて面会を求めた。
すぐ応接へ通され、待つほどもなく、
「やあ、よくやって来られたなあ」
と、小李広花栄その人の快活な声を目のまえに聞いた。
この青年将軍は皓歯明眸で、よく贅肉を除いて筋骨にムダのない長躯は、千里を行く駿馬のごとき相があった。
金翠の綉キラやかな戦袍に、武長官の剣帯をしめた腰細く、犀の角(これを吹いて軍を指揮する)を併せて飾り、萌黄革の花靴の音かろやかに歩きよって来、
「お久しいなあ。じつにお久しい」
と、なつかしげに遠来の客の手をかたく握った。
花燈籠に魔女の眼はかがやき、
またも君子宋江に女難のあること
小李広花栄の家と、宋家村の宋江の家とは、元々浅からぬ旧縁の仲だった。
だから宋江の犯した一身上の過ち。その以後の流浪の境遇なども、よく知っていて、蔭ながら案じる余り、「ぜひこの地へ来給え、どんなにもして匿まってあげる」と、常々、宋江の郷里へ宛てて音信していたものだった。
「おことばにあまえて、あつかましく、やって来ました」
という宋江へ、花栄は大きく手を振って、
「なんだ、水くさいことを。さあもう我が家とおもって、おちついてくれ給え。そうだ、妻の崔氏へも紹介しよう。そして妻の妹へも」
何不自由ない官邸だし、気のおけそうな家庭でもない。その日から宋江には、特に庭園ぞいの一室があてがわれ、侍者小間使いなどまで付けて、賓客の扱いであるのみでなく、花栄が一日の軍務から帰邸すると、夜ごと夜ごとが、家庭的歓迎の宴みたいであった。
「花君。こうお世話をかけては恐縮です。もうご家族なみに、放っておいていただいたほうがありがたいですよ」
「いや、ご迷惑とは察しるが、こうして毎夜、あなたの口から、広い世上に遊弋している奇骨異風さまざまな好漢どもの存在を聞くのは、なんとも愉快でならんですな。じつに愉しい」
「そうですか。いやそれで思い出したが」
「何かまた変った話がありますか」
「清風山の三賊首のことは、先日お耳に入れましたね」
「む。うかがった」
「じつはまだ言い残していたが、文官劉高という人の細君が、そこで危ない目にあっていたのを、私が救ったことがあります」
「ほ……。劉高は同僚ですが」
「ご友人の妻ときいたので、なおさら、助けねばならぬと思い、たって女を手籠めにする。といって肯かない賊の王矮虎を、やっとなだめて、事なく帰してやりました」
すると、花栄はちょっと、眉をひそめた。
「──よけいなことをなさらねばよいに!」と、その顔つきは明らかに不服である。
で、宋江が、胸をたたいて訊いてみると、
「いや同僚を悪く言いたくはないですがね、劉高もあの細君も、とかく評判のかんばしからぬ方でしてな。ひと口にいえば、夫婦とも陰険で強欲なんです。賄賂ずきの金持ち泣かせ、貧民いじめというやつで、取柄なしの文官だ。わけてあの、それしゃ上がりの細君ときては、虚栄心のかたまりみたいな女なんだ。そんなやつを、助けてやることはなかったですよ」
と、いっそ山賊の女房が適しているといわんばかりな口吻だった。
が、宋江は笑って、
「女子と小人。珍らしくもありませんよ。恨みは解くべし、結ぶべからず。いつか鎮台でお会いになったら、それとなく劉高へはなしておやりなさい」
「おう、ぜひ言ってやりますとも」
「いかに小人でも、救われた恩は忘れてはいないでしょう。自然、君にたいしても以後は好意をよせるにちがいない」
花栄は感服した。宋江のどこまで人を憎まない寛濶な態度には自然頭が下がる。
彼ばかりではない。宋江はよく郊外の仏寺や盛り場などを見物に出歩いたが、花栄がつけてよこす従者たちには、酒食その他、びた一文も支払わせたことがなく、それが彼らの収入にもなったから、
「いやしくない客人だ。温雅なお人だ。ご親切なお方だ」
と、下僕の端にまで、その気うけは頗るいい。
はやくも年は明けて、街は初春気分だった。
その正月十五日の元宵祭は、大王廟の境内を中心に、鎮城の全街が人出に沸く。
辻には燈籠門が建ち、軒々から大王廟の参道まで、花燈籠の千燈にいろどられ、掛け屋台の芸づくしやら、龍神舞やら獅子行列やら、夜どおし、月の傾くまで、上下の男女、歓をつくすのが慣わしだった。
「……おおこの絵燈籠はおもしろい。芙蓉燈籠、れんげ燈籠、百合燈籠、白牡丹燈籠。これも街の衆が、筆を競ったのか。……玉梅の図、金蓮の意匠、とりどり余技とも思えんな」
宋江は人波の中に揉まれながら、官邸の者二、三を連れてのそぞろ歩きに、
春の月 いそぐなかれ
人の子ら 惜しむこの夜を
火光樹 並木をなして
虹の花 地に星橋を架す
わするなり 人みな人の世の火宅を
と、彼には珍らしい微吟を口誦さみなどしつつ、浮き浮きと見物して廻っていた。
するうちに、烈しい人渦に巻き込まれ、われにもなく、一門の内へ入っていた。道化踊りの一群と、それにくッついて歩く群集の中にいたのだ。そして宋江も周囲の男女とともに、道化踊りに気をとられて、笑いこけた。時に余りなおかしさには、老幼とともに手を叩いて喝采した。
ところが、後ろの一段高い桟敷にあって花燈の映えを横顔に、玉杯をあげていた綺羅美やかな人々があった。これなん文官の劉長官夫妻であったのである。「……オヤ?」と、眼をみはったのは夫人のほうで、
「あなた! ……」と、袖を引っぱって、
「ほら、あの色の黒い、すらっとした男がいま、手を叩いて笑っているでしょう。あの男ですよ。清風山の賊のかしらは」
「なに、こないだおまえに危害を加えかけた山賊の頭っていうのは、あの黒奴か」
「そうですよ、忘れっこありませんわ」
劉高はびっくりして、下に控えている兵長へすぐ命じた。
「あいつは山賊だ。あの色の黒い男を召捕えろ」
あたりの異様な叫びが、自分へ迫る何かの予告と知って、宋江はとっさに、人を掻き分けて遠くへ逃げ走った。しかし、のがれ得べくもない。たちまち追いつかれて、五体は麻縄の縞目にされてしまった。
翌朝である。彼は官邸の一階下に引き出され、上の廊から劉長官の大喝をあびていた。
「賊の頭! つらを上げろ。……燈籠見物にまぎれていたら、誰にも分るまいと思っていたのだろうが、なんぞ知らん、天網恢々疎にして漏らさずだ。恐れ入ったか」
「おことばですが」と、宋江は夜来の沈湎たるおもてを振り上げて「──私は花長官の客で鄆城県の張三と申す旅人、賊をはたらいた覚えはありません」
「だまれっ。清風山の追剥ぎめ。証人があることだぞ」
良人の言下に、嬋妍たる衣摺れとともに、廊口の衝立から歩み出て来た夫人が、柳眉をきっと示して言った。
「おまえ、お忘れかい! このわたしを」
「あっ、ご婦人は」
「そうれごらんな。よくも山寨でさんざんわたしを脅したね。ほかに三名の頭目もいたが、たしかおまえが一番敬われていたっけね。大親分はお前なんだろ」
「とんでもない。奥方! あなたこそ、何かお忘れではありませんか」
「なにをさ! 馴々しいことをお言いでない」
「賊首の三名を説いて、あなたを救って上げた覚えはあるが、大親分などとは迷惑千万です。恩人の私へ、なぜ悪名を押しつけねばお気がすまないのでしょうか」
「まあ、しらじらしくいうわね! あなた、とてもこんな人非人、一ト筋縄では白状しそうもありませんわ」
「いや、吐かせてやる。者ども、こいつを打ちのめせ」
と、あたりの部下に命をくだした時である。門の衛兵が馳けて来て、
「ただ今、花長官の使いがまいって、ご返辞をお待ちしています」
と、一書を彼の手に捧げた。
「……ふむ」と、ひとまず鼻息をひそませて、彼が読みくだしてみると。
昨夜お手にかかって貴邸に捕われたと聞く劉丈は、わが家の身寄りにて、最近、済州から来た者です。田舎者とて何か尊威を犯したかもしれませんが、平常のよしみ、偏にお目こぼしにあずかりたく、いずれ拝面、万謝申しあげますが、懇願までを。恐惶謹言
「なんだ、当人は、鄆城県の張三だといい、花栄の手紙には、済州の劉丈とある、察するに、どっちみち出たらめだろう。なに、使いが待っておると。返辞はないッ。追っ返せ」
そしてまた、ただちに檻車の支度を命じ、宋江を、賊名鄆城虎の張三として、州の奉行所のほうへ、差廻す手順にかかりだしていた。
夜来、花栄は一睡もしていなかった。
いやその花栄も燈籠まつりで他家の宴に招待され、明け方帰って、初めて宋江の奇禍を知ったのである。
「日頃も日頃、もう我慢はならん」
劉高の悪罵だけを浴びて、追ッ返されて来た使いの言を聞くや、花栄は烈火の如く怒って即座に、
「馬を曳けっ」
と、身に鎧を着けて、馬上から犀の笛を吹いた。そしてたちまち調練場の兵舎から馳け集まって来た一隊をひきいて、遠くもあらぬ劉高の官邸へ襲せて行った。
かくと聞いて、劉高は奥でふるえ上がった。
相手は、同じ長官でも、一級下だが、兵力を握っている軍官である。官級は上でも文官では勝負にならない。
「劉長官はどこにおられるのか。お目にかかってはなしをつけたい」
花栄は外でどなったが、うんもすんもないので業を煮やし、ついには、
「空家と見えるわ。ええい面倒だ、家探しして、わが家の大切な客を助け出せ」
と命令した。
兵はなだれ込んだ。こうなれば理も非もない。狼藉乱暴はつきものである。とどのつまり、宋江を見つけて、その縛めを切って助け出し、
「やい劉家の奴ら、文句があるなら言って来い。いつでもあいさつは受けてやる」
と、鬨の声をあげつつ潮の如くひきあげて行った。
あとでは劉高、またその夫人、
「畜生、よくも辱を与えたな」
足ずりして口惜しがり、一族の手までかりて、約二百の兵をその夜、逆襲せに、花栄の官邸の門へ差向けた。
防ぐ側、押しかける側、半夜は攻防区々な揉み合いだった。劉高の寄手のうちには、武芸師範の猛者が二人もいて、これが指揮をとり、勢い旺だったからである。
「弓をかせ」
花栄は、夜明けがた、わざと正門を八文字に押し開かせ、
「劉家の雑輩めら、命がいらぬなら、そこを真っ直に入って来い」
と、手なる強弓に大鏃の矢をがッきとつがえた。
門外の寄手はさすがたじたじと後ずさッた。花栄はふたたび大音に、
「来ないな、どいつも。──ならば眼を澄まして見物しろ。そこの門の両柱に、泰瓊敬徳、二門神の絵像が貼ってあるだろう」
「…………」
「まず、この第一矢で、右の泰瓊神の手こぶしを射当ててみせる」
言下にびゅんと鋭い弓唸りが人々の耳を搏った。矢は奇術のように、右門神の拳に立っていた。
「次には──」と、早や二の矢をつがえ、花栄は一ばい声を張上げて、「こんどは、左の敬徳神の兜のまッただ中を射よう。眼の玉をひっくり返すな」
きゅっうと、一線の空気が裂けた。はっと我れに返った人々の眼が、左門神の兜に突ッ立った矢を知ると、思わずわっと嘆声をどよめき揚げた。
しかし花栄の手には、さらに第三の矢が用意されかけていた。そしてつがえた鏃を、寄手の中へ向けて叫んだ。
「その中の赤い戦袍と、白い鎧の奴が、雇われて来た師範だな。覚悟をしろ」
「うへッ」
と、彼らの影はすぐ没してしまい、同時に二百の寄手は、蜘蛛の子になって潰乱してしまった。
こんな大騒動の起因が、自分にあるものと考えては、宋江の性格として、もう晏如とこれを見てはいられない。
その晩、宋江は花栄へ告げた。
「花君、あなたのご懇情は、身に沁みて忘れませんが、しかしこれでお暇を告げるとしたい」
「えっ、どうしてです。劉高ごときに恐れをなしてきたんですか」
「一身を恐れるのではありません。あなたも武の長官、彼も文の長官。官紀の紊れを恐れます。また両者の私怨がこれ以上深まることを恐れずにいられません」
「だって、元来が没義道な劉長官だ、こんなときにこそ懲らしめておかなければ癖になる」
「いやいや諺にも、物はのどに閊えないように食え──です。意趣遺恨は人間を変化化道にするものです。いったんは君の弓に驚いて引き退がっても、このままでいるものではありません」
「なんの、幾たび襲って来ようとも」
「よしてください。帰するところは、宋江の罪業になるばかりです。また、まずかったのは、私は張三と偽名を言い、君の手紙では、劉丈とお書きになったことでした」
「同じ劉姓を用いたら、多少文字に目のある奴なら、同情もすると思ったからです」
「が。万一にも後々、公事沙汰にでもなると、嘘を構えたことだけは争えません。いずれにせよ、私がここから退散すれば、自然、事は氷解いたしましょう」
「といっても、そのお体では」
「劉の家来に打たれた足腰の痛みぐらいは何でもない」
「しかし、ここを出て行くにも、俄にどこへというあてもないでしょうに」
「ぜひないことです。好ましくはありませんが、一時、清風山の山寨をたよって行き、体の傷が癒ってから、いずこへでも身の落ちつきを見つけましょう。ま、人間到ルトコロ青山アリですよ。しかし市民の平和を守る鎮台を、逆に修羅としては、宋江の心も愉しむわけにゆきません」
かくて彼は、五体の諸所に膏薬を貼り、手の肱足くびには繃帯などして、その夜、花栄の家族にいとまを告げた。花栄は心ならずも、軍兵十人をつけて、清風山の麓まで見送らせた。
ところが、宋江の希いもとどかず、彼はそれからの山街道の途中で、ふたたび異様ないでたちの同勢に取囲まれ、即夜、元の鎮台大路の一門内へかつぎ戻されてしまった。
陰険で、しんねり狡い劉高は、そんなこともあろうかと、花邸の諸門に見張りを伏せておき、その狡智がまんまと図に中ったことを、
「どうだ。案のじょう!」
と独り密かに誇っていたものだった。
そんな結果とは、花栄は夢にも知っていない。以後、劉高が出直して来ないのを、
「はてな?」
と、不審にしていたぐらいなもの。そして宋江の身は、清風山へのがれたものとばかり思っていた。
かかる間に、一方の劉高は、巧妙な偽証をならべたてた上申書を作り上げ、その密封を、腹心の家来へ持たせて、時の青州府の奉行、慕蓉彦達のもとへ、上申して出た。
× ×
今上、徽宗皇帝の後宮三千のうちに、慕蓉貴妃という皇帝の寵姫がいる。
青州奉行は、その貴妃の兄にあたる人なので、姓にも二字の慕蓉、名も二字名で、彦達といい、妹の威光を逆に兄がかさに着て、いやもうえらい羽振りなのだった。
「なに。──劉長官の上申だと。どれ見せい」
慕蓉は側近の手からそれを取上げ、一度ならず読み返した後、はたと文書函の蓋をした。
「これで見ると、鎮城の花栄は、軍を私兵化して人民の財をしぼり、あまつさえ清風山の賊魁と通じて、事ごとよからぬ働きをしているとあるが……。花栄も都の功臣の子、劉高はまた文官のきけ者。はて弱ったものだな」
と、熟考のすえ、「しかし、捨ててはおけん。黄信を呼べ」
となった。
州軍の警備総長黄信、あだ名は鎮三山、さっそくにやって来て、慕蓉の台下に、拱叉の拝を執ってひざまずいた。
州の管下には、古来警備に手を焼いている険悪な山岳が三ツある。一が清風山、二が二龍山、三が桃花山、それである。
いずれも山は険で、強盗追剥ぎの屈強な雲窟だった。けれど武技腕力にかけて絶倫な黄信が、みずからその警備軍の長を買って出て「──我れ出でて三山に鬼声なし」と大言を払ったところから、人呼んで鎮三山のあだ名が呈せられたわけである。
「こりゃ黄信。きさまは日頃、乃公出デテ三山ニ鬼声ヲ絶ツ──などと大言を吐いていたが、なんとしたこと、これを見ろ」
慕蓉は言って、劉高からの上訴の状を読んで聞かせた。そしてこう命じたのである。
「山窟の賊が、鎮台の将と内通しているような紊れでは、まるで無政府同様なざまではないか。すぐさま赴って、黒白をつけてまいれ」
黄信の豪傑がりも、かたなしである。「はっ」と恐懼してひき退がり、即刻、官兵百人の先頭に立ち、馬上、金鎧長剣の雄姿を風に吹かせて、夜どおし道をいそぎ、やがて清風鎮の鎮台大路、劉高の公邸の前でまず馬をおりた。
待ち伏せる眼と眼と眼の事。次いで死林にかかる檻車のこと
「なんとも、このたびは恐縮にたえません」
文官劉高は、元々社交性には富んでいる。武辺一徹な黄信を、公邸の貴賓室へ通して、あくまで恐れ入って言った。
「われわれどもの、地方民治がいたらぬ結果、官辺のご出張をわずらわし、為に、夜どおしのご急下を仰ぐなど、赤面の至りでございまする」
彼の妻女もやがて盛装して、賓客にまみえ、その夜は夫婦しての歓待だった。また、黄信のひき連れて来た一百の官兵も、公邸の庭園で大振舞いをうけていたりした。
使命の負担は忘れ得ぬにせよ、黄信とて悪くない気もちである。現地へ臨んでの事情の聴取なども、つい酒間のうちにすませていた。わけて劉高夫人の口は巧い。
「よろしい、いやよく分った。さっそく明日、鎮台の大寨へ花栄を呼びつけて、断乎たる処決をする」
黄信は言ったものである。夫妻のもてなしにチヤホヤされて、権威のてまえ、ついいわざるをえない破目と錯覚におちてしまった形であった。
一方。その翌朝のことだったが。
武官花栄の公邸のほうへは、青州府警備総長黄信の名による令状をたずさえた官兵一小隊がやって来て、
「正午までに、鎮台へご出頭ありたい」
と、かるく告げて立ち帰った。
令状とはいえ、はなはだ私的な文面で、それには、
近来、当地清風鎮のあいだで、頻りに武官の貴下と、文官の劉高との仲に、軋轢が絶えないとの風聞があり、青州御奉行の慕蓉閣下におかれても、いたくお心を悩ませておられる。
そこでわが輩に命ぜられ、両者の円満なる和解をはかり、文武官心をひとつに、一そう民治の実績を上げしめよ、との仰せつけ。──万語は拝姿のうえとし、とりあえず右の公命をおびて、大寨の閣中にてお待ち申す。
と、ある。
しかし花栄の妻や妹は心配そうに、彼の身支度にいそいそ侍きながらも言いぬいた。
「大丈夫でしょうかしら。何かあったんじゃないでしょうか」
「なにもこっちに疚しいことはないのだから、正々堂々たるものさ」
「でも、宋江さまの経緯がありますもの」
「その宋江大人はもうこの地を嫌って、清風山へ去ってしまった。あれだってすべて劉夫人の毒のある舌と劉高の小心からおこったことだ。こっちで怯け目を持ついわれはない」
花栄はやがて出かけたが、わざと従者は五名しか連れていなかった。
しかるに、鎮台の城寨を一歩入ってみると、この日、なんとなく営庭から庁閣にいたるまでが物々しい空気である。
もっとも日ごろの鎮台兵以外に、官兵一百人が階前に整列して、旌旗剣槍、ひときわ燦としていたせいもあろう。
「やあ、よくおいでられた」
黄信は彼を待っていた。
見れば、和解のための大饗の食卓は、すでに設けられている。──黄信からみじかい挨拶があって、
「ここに慕蓉閣下はおられぬが、これは慕蓉閣下のくだされたお杯といっていい。いざご両所とも、杯を持って、仲よく並んでいただこうか」
と、彼も立って、一方の劉高へ眼くばせした。
とたんに、花栄の背後にいた給仕人たちが、やにわに彼へ組みついた。絶叫、物音、すべて一瞬のまである。閣外の官兵もザワザワと混み入って来て、たちまち花栄の体を高手小手の縄目としてしまった。
それにも怯まず、花栄はありったけな声をして周囲を睨み、そして黄信を罵った。
「なんで拙者を縛るのだ! これが公平な和解なのか!」
「おお公平なる法規のご処置だ」
「理由をいえ、理由を」
「おのれの胸にあるものを、人に糺すまでもあるまい。……だが、白々しい吠え塞ぎに、動かぬ証人を突き会わせてやろう。劉君」
と、うしろの劉高を振り向いて。
「かねて君が捕えておいた清風山の紅巾の賊を、這奴の前へ突き出しておやんなさい」
「こころえた」
劉高はすぐ閣外からべつなもう一名の縄付を引っ立てて来た。花栄は一ト目見て仰天した。つい先夜、別離を惜しんで立った宋江ではないか。──相見て、茫然たるばかりである。いうべき言葉も知らず、とはまさにこの刹那の二人の驚きといっていい。
「多言は要すまい」
黄信は、傲然として言い払う。
「言いたいことがあるなら、両名とも、青州御奉行の慕蓉閣下のお白洲でいえ」
「あいや」
花栄は満身の怒りをこめ、
「片手落ちだ。なぜ劉高には手もくださんのか。慕蓉閣下直々のお調べは大いに望むところだ。しかし、われらばかりをこの縄目とは心得ぬ」
「だまれっ。鎮台の武官たる公職にありながら、密かには、清風山の賊と好誼を通じ、軍を私兵化して、人民の財をしぼり上げるなど、平素のことは残らず慕蓉閣下のお耳にも入っているのだ。──何よりの証拠は、その賊魁の男を見たとたんの貴さまの顔にも現われていた。──それ者どもこの両名を、用意の檻車へすぐ打ち込め」
二輛の囚人車は、すでに営庭の一隅に支度されてあったのだ。そして、せっかくの午餐の卓は、それから後、黄信とその幕僚とまた劉高とが、わが事成れりと、杯を上げあう談笑の座と変っていた。
「オオまだ春先だから日は短い。こうしても居られまいて」
すぐ黄信が立つ、幕僚は出発を部下へ命じる。
いざとの立ち際にも、劉高はそっと一嚢の沙金を袖の下へつかい「諸事、よろしく」と黄信の沓をも拝さんばかりな媚び方、ともに、青州行きの列に従った。──すぐ鼓楽、角笛のうちに官兵の旗は列をととのえ、二輛の檻車を中にくるんで鎮台大門から整々として出て行った。
浅春の陽は白々と薄ら寒い。
すでにしてこの日のたそがれ、護送の官兵は、清風山麓の冬木林へかかっていた。骸骨にも似た梢に烏の大群は何かを待つらしく引ッ切りなしな啼き声をあげている。そのうちに、先頭の兵が、
「オヤ、これで二度見たぜ」
「おれも見た、いやだぜ、おい」
「あっ、また先にいやがる。なんだろ? 林のあッちこッちの蔭から人間の眼が覗いていやがる」
自然、足がにぶり出した。
黄信の直感もまた、そのせつな何かにそそけ立った様子で、
「劉君。何か事が起ったら、君は檻車のそばを離れるな。檻車をたのむぞ」
「はっ」
とはいったが、根が文官育ちの劉高、サッと途端にもうその顔には血の気もない。
はたせるかな、ほどなく林道の彼方に躍り立つ三彩の三獣みたいな人影がある。
一個の男は黒色の袍を着て戦斧をひっ提げ、次の大男は赤地金襴の戦袍に卍頭巾といういでたち。また三番目の野太刀を持ったひょろ長い男は緑衣であった。
「やい、待てっ」
彼らはまるで、戦陣の将軍気取りに、こう名のりを揚げ連ねたものである。
「おれを知らねえか。清風山の頭領、錦毛虎の燕順たあおれのこった」
「おなじく兄弟分の矮脚虎王英」
「つづいては、白面郎の鄭天寿だ。──世間は知らず、ここへおいでなすッちゃ、てめえらのお上かぜも効き目はねえぞ」
「二つの檻車をおれたちへ献上して退きさがればよし、さもなくば」
「一匹でも生かして帰すことじゃあねえ。性をすえて返答しろい!」
聞くと、黄信は馬の鞍ツボに立って、怒髪を衝いた。
「よくぞ出て来た。泣く子もだまる鎮三山と異名のあるこの州軍総長の黄信を、うぬらはまだ知らねえな。……それッ陣を開け」
ところが、日頃の訓練も用をなさず、部下の兵は逆にわっと四散し出した。数知れぬ賊の手下が前後に見えたばかりでなく、伏勢は頭上にもいて、樹々の梢から雨とばかり毒矢を射浴びせてきたからだった。
「残念っ」
と叫びながら、林の小道で、黄信も馬の背から振り飛ばされていた。逃げる三彩の賊魁を追ッかけたのが因だった。〝引伏セ〟という茨や張縄の陥し穴に落ちたのである。すぐ狂い馬に取ッついて、再び馬上には返ったものの部下の一兵も早や辺りには見えない。
喊声は諸所に聞える。陽は早や暮れて、それが一そう不気味だった。のみならず得態の知れない火光が林を透して方々に見えたから、
「やっ。これは火計だ。焼け死ぬぞ」
とばかり黄信は無性にムチで馬腹を打ちつづけた。そしてひとまず元の鎮台大寨へ馳けもどり、鎮台兵を挙げて非常の備えにかかるとともに、事の異変を青州奉行の慕蓉閣下へ早馬で急報した。
慕蓉は深夜、それの急使に起されて、
「何事か?」
と、黄の一書を見るに。
──上命を拝して現地へ臨み、反逆人花栄と一賊を檻車に乗せ、かつ劉高を証人として、青州へ立ち帰らんとする。途中、清風山の群賊、道をはばめて、檻車もろとも花栄、劉高の身をも奪い去って候う。……為に、県下の騒乱ひとかたならず、すみやかに二次の官軍と良将を御派遣あって、治安のため焦眉の御指導を給りたく……云々。恐惶謹言。
「すぐ秦明を呼べ!」
夜中ながら彼はさっそく登庁して吏を走り廻らせた。
召しに応じて、霹靂火の秦明は、ただちに庁内へその姿を見せた。
彼は、青州第一の兵馬の家の者である。性、気みじかで、すぐ雷声を出すところから霹靂火のあだ名があり、ひとたび狼牙棒とよぶ仙人掌のような針を植えた四尺の棒を打てば万夫不当な概があった。
「総監。すぐさま一軍をつれて、清風寨の鎮圧にまいってくれ。云々な次第で、黄信も手を焼いてしまったらしい」
「心得ました。大言ながら秦明が馳せつけるからには、ご憂慮には及びません」
「だが、軍官の花栄が寝返ッて賊中で指揮をとっている由だぞ。油断するな」
慕蓉は兵を鼓舞するために、自身、城外の鼓楼へ床几を移して、兵一人宛てに酒三杯、肉まんじゅう二箇ずつを供与して、その行を壮にした。
やがて紅の縁をとった紅炎旗に「兵馬総監秦、統制」と書いた大旆を朝風にひるがえして、兵五百の先頭に立った秦明は、馬上から鼓楼の床几へ向って、
「では行って来ます。吉報は旬日のまにお耳に入りましょう。おさらば」
とばかり軍鼓堂々と、東南の道へくだッて行き、その歓呼と狼煙の下に、慕蓉もまた手を振ってその征途を見送ったものだった。
ところで、一方、清風山上の賊寨では。
あの日、黄信の不意を突いて、首尾よく宋江と花栄の檻車を打ち破り、二人の身を山上の砦へ助け入れてから、さてその夜は、再生再会のよろこびと事のいきさつの語り合いで、一朝の悲境も一転、まるで凱旋の宴にも似ていた。
「憎むべき奴は、文官の劉高」
すべては、彼の拵え事にあるとなして、宋江が、
「劉高も捕えたでしょう。這奴をここへお連れ下さらんか」
というと、賊のかしらたちは、事もなげに笑って言った。
「その劉高は、とうにあの世の亡者です。連れて来るには十万億土まで呼びに行かなければなりません」
「や、もう斬ってしまったのか。やれやれ、無造作な」
「でも先生。あんな野郎は、なにもそう惜しがることアございますまいに。……それよりは今度こそ、劉高が持っていたあの女を、この王矮虎に授けておくんなさるでしょうね」
「まだあんな執着を捨て切れねえでいやがる。なんて鼻の下の長い奴だろう」
矮虎の顔を指して、一同はどっと笑った。
あくる日になると、物見の報が入った。──先に黄信が劉高の手に乗って宋江と花栄を檻車に封じたことも、また何から何まですべての予察は、みな彼ら特有なこの〝飛耳張目〟の探りによっていたのである。
「黄信が鎮台兵を召集している!」
するとまた、翌々日には。
「いやそれよりも、青州一の兵馬総監、霹靂火の秦明が、兵五百騎でやって来る!」
つづいては、同日の晩から翌朝にかけ。
「一路、青州街道からここの北麓の下へ近づくらしい」
「すでに七十里先に見えた」
「麓から十里ほど手前で兵馬をとめ、今夜は野営する様子!」
刻々の物見の声は、まるで颱風来のようである。が、山寨の中はしんとしていた。
宋江がいる。
また小李広花栄もいる。
おそらくは、清風山全体の賊は、二人の智と勇に恃んで「──来たら来た時、ござンなれ」としていたのではあるまいか。
秦明の仙人掌棒も用をなさぬ事。ならびに町々三無用の事
わざと山麓に一夜を明かして、大いに英気を養った官兵は、黎明と同時に、山へむかって、ど、ど、ど、どウん……
と砲口を揃えて、まず石砲をぶッ放した。
つづいて銅鑼や陣鼓の音が、雲を裂くかとばかり野に起ると、山上からも狼煙が揚がり、山くずれのような一陣の賊兵が麓ぢかく陣をしいた。
「やあ、洒落くさい草賊めら」
秦明は、金鎧さんらんたる馬上姿に、例の鉄の仙人掌棒を小脇に持ち、近づいてみると、賊兵の中に擁されている大将風なのは、まぎれもない小李広花栄ではないか。
かっとなって、馬をすすめ、
「やい花栄。なんじの家は代々朝廷の一武官たる上、身は鎮台の将として地方へ赴任していながら、山賊の仲間に落ち入ったとは何事だ。恥を知れ」
「おう秦総監か。まず聞き給え。これには深い仔細のあること」
「言い抜けは無用だ、公辺にはもう真相は知れている」
「そもそも、その真相とは、劉高の拵え事です。まったくは」
「問答無用、陳弁ならば公庁で吐ざけ。おれはきさまにお縄を頂戴させるまでのことだ」
「上官と仰いで、一応のことわけを申すに、それすら聞いてくれないのか」
「叛乱人のくせに虫がよすぎる! 縛に服せ、小李広っ」
「なんの! かくなる上は」
広場をえらんで、双方の馬と馬、卍にもつれた。花栄の閃々たる白槍、秦明の風を呼ぶがごとき仙人掌棒、およそ四、五十合の大接戦だったが勝負はつかない。
その間じゅう、敵味方の金鼓と、わあッという喊声は、山こだまを揺り鳴らす。それはすばらしい二人の剣戟俳優の熱烈な演舞をたすける、劇音楽と観衆の熱狂みたいな轟きだった。──そのうちに花栄のほうが、
「これは勝てん」
と、あきらめたか、急に道をかえて逃げ出した。
「卑怯っ」
追ッかけた途端に、秦明のかぶとにカチンと矢が刎ね返り、朱い房が切れて飛んだ。
見れば、花栄はすばやく手槍を鞍わきの了事環(槍挟み)へ預けて、その手には半弓を持ちかえていたのである。
「あっ、這奴は弓の名人⁉」
身を、馬のたてがみへ俯っ伏せたすきに、すでに花栄の姿は雲林の裡に消え去っていた。
あちこちにおける部下と賊兵の小ぜり合いは、らちゃくちゃもない。彼は一たん兵を平野へ下げて兵糧をとり、再度山へ攻め登った。
「オオ。西の峰だぞ、あのドンチャンな銅鑼や鬨の声は」
しかし、秦明がその西の峰を、えいえい声で攻めて行くと、応えは谺ばかりだった。
「ヤッ、賊は東谷の向うです。谺のせいで、西に聞えたのかもしれません」
部下の注意に、きっと谷向うを見渡すと、なるほど賊の紅旗が見える。
「それ行けっ」
だが、道を急ぐだけでも、百難の思いがあった。細い杣道にはわざと大木を伐り仆してあり、枯れ柴を踏めば、陥し穴ができている。
その上、からくも沢を渡って、東の峰へたどりついてみると、何としたこと! ここにも人の気はないのである。森閑として春浅き樹海にはただ鳥の音が澄んで聞えるだけだ。
「くそうっ。この秦明を小癪な偽計でたばからんとするのだな。いまにみろ」
一ト息入れるまもなかった。またたちまち、百雷のような銅鑼の乱打がどこかでする。銅鑼の打ち方もただの戦陣拍子でなく、まるで人を揶揄するような囃し方としか聞えない。
「下だ、下だ! もうすこし下の東寄りだ」
上からの攻勢は戦法の利と、無造作に雪崩かけたのが、またぞろ重大な過誤とはなった。途中、山肌の剥げている片側道が削られていたのである。土砂もろとも、人馬は谷底へころげ落ちた。「止まれッ、止まれ!」と叫んでも後からの勢いに、瞬時、歯止めの効かない車覆りの如き惨状を見てしまった。
「ひとまず退けい。道をあらためて、こんどこそは潰滅してやる!」
短気で鳴っている秦明も、いまはただ呶号に呶号するばかりだった。怪我人を谷から拾い集めて一たん野営の場へひきあげた。そして休息ついでに早目な晩の兵站に夕煙を揚げはじめた。
するとつい今しがた降りて来たばかりな山中で、またも前にもまさる鬨の声や金鼓のひびきだ。自身はヘトヘトだったので、一隊を割いてまず前哨戦にやってみると、これがなかなか帰って来ない。
しかも、銅鑼の乱打はなお嘲るごとくつづいていたから、たまりかねたか、彼は再び馬上となって全軍へ号令した。
「兵糧は賊徒を踏みつぶしたあとでゆっくり食おう。山寨には酒や肉もうんとあるに違いないぞ。奮えや者ども」
しかし、再び山へ馳け入ると、東山の音声はバッタリ消えて、かえって反対な西山の一角にチラチラ数知れぬ松明の火が見える。
「さてはやはり、賊は西か」
と、昼の一道をとって引っ返せば、さらに思わぬ高い所に炬火が見えて、ここ西山の山ふところは、ただ暗々黒裡の闇でしかない。秦明は切歯した。怒髪をサカ立て、毛穴は血の汗を吹きそうだった。
「兵卒、あの高い所へ行く道はないか」
「南へ迂回すれば本道があるそうですが」
「さてはそっちが奴らの大手口とみえる。ぜひもない。南へ廻れ」
そこで東南路へ向ったが本道へ出るにもさんざんな苦心があった。すでに陽はとっくに暮れている。ぼやっと黄色い月があった。月光をたよりにやっと大道を見つけだし、折々、暗がりから射てくる伏勢の矢風だった。無二無三それを突破しながらすでに登りつめること数十町、ふと仰ぐと、やっと頂上へ出たか平らかな岩盤とかなり広そうな平地がある。
頂上には赤々と幾つもの篝が燃えさかっているらしい。賑やかな笛や太鼓の音はまるで遊興の場のようだ。しかも何事ぞ! と秦明の怒気はいまや頂点に達していた。そこの平らかな岩盤を酒の場として、花栄や宋江や頭目どもが、杯を手に、風流な談笑でも交わしているかのような姿ではないか。
「うごくなッ。賊どもっ」
彼らの前に、こう馬を躍り立てて大喝したが、
「おう、秦総監、遂にやって来られたか」
誰かがそれにこう答えたのみである。驚く者などは一人もない。
「さぞおくたびれであろう。馬を降りて、あなたもここで一献なさらんか」
「ば、ばかなッ。賊ども、神妙にお縄をいただけ」
「わはははは」
その笑い声が合図だったと見える。秦明の体は竿立ちになった馬の背から抛り出され、馬は体じゅうに矢を負ったままどこへともなく狂奔してしまった。
同時に、秦明も横ッ飛びに危地を避けて、うしろへ続いていた味方の中へころげ込んだ。とたんに四面四山は耳も聾せんばかりな陣鉦、陣鼓、陣螺の響きであり山の人間どもの諸声だった。──無我夢中で秦明は兵とともに逃げなだれた。──けれどもその疾走よりも速い谷川水が彼らを追ッかけ、ついに道を失ってしまった。道が河に変じてしまったのである。
この計略たるや、すべて宋江と花栄の方寸から出たものだった。東峰と西峰にいわゆる兵法の〝まぎれ〟を伏せ、山の小道を〝悩乱の迷路〟に使い、また道を河にするには山寨の貯水池を切って落したものなのだ。
官兵五百のほとんどは、これでかたがついてしまった。しかしかねてから賊の手下に命じておいたことだから、いちど溺死しかけた秦明の身だけは、やがて縄目にされて曳かれて来た。場所は賊殿の本丸である。賊は〝山寨の聚議場〟とそこを呼んでいる。
「やっ、花栄だなきさまは。おれは生け捕られたのか。だのになぜおれの縄を解く。……さ斬れ、花栄。なぜこの秦明を八ツ裂きにせんのだっ」
「秦総監。──夜来の失礼はおゆるし下さい。あなたを殺すなといっているのは、そちらにおられるお方です」
「なにっ?」
秦明は血走った眼を横へやって。
「さては、なんじが一山の賊の首魁か」
「ちがいます──」花栄が言って、彼の眸のやりばに注意を与えた。
「賊のかしらは、こちら側に居並んでいる者たちで、上から順にいえば、錦毛虎の燕順、矮脚虎の王英、白面郎の鄭天寿」
「賊でない奴が、ここにいるはずはない。花栄、きさまも今は張本の一人だろうし、そこの椅子にいる色の黒い男も、いずれは悪党の頭株にちがいあるまい」
「いいやそのお方こそ、宋押司です」
「押司だと」
「山東の及時雨、宋公明さんですよ」
「げえっ。この人が?」
「よっく心をおちつけてご対面なすってごらんなさい。かねて鄆城県から諸州へ配付された〝宋江人相書〟なるものはご記憶にあるはずではございませんか」
穴のあくほどじイっと宋江の顔やら風采を見つめていた秦明は、やがてのこと、がくんと肩を落して平伏した。
「いったい、これはどうしたわけか。どうして、かのご高名な宋押司が、こんな所におられたのか。……まるで夢のようだ。自分のしたことの恐ろしさに身がふるえる」
「どうぞお手を上げてください。いかにも宋江は自分ですが、それではお話もできかねる」
宋江はしいて彼を対等な一椅子につかせ、そして、鄆城県出奔の事情から、つい先ごろ、花栄の家に身を寄せているうちの奇禍と、劉夫妻の奸計におちたことなどを、逐一諄々とはなしてゆき、その理非黒白をほぐしながら話して聞かせた。
「過ッた」と、まっ正直なだけに、秦明は、慚愧と義憤におもてを焼いて──「すぐ拙者から慕蓉閣下へ釈明しましょう。まるで事実はうらはらだ。明朝ここを放してください」
「いやまあ、そのお体では、即座にご出発は無理でしょう。まあ、ごゆるりと」
いわれてみれば、豪気な秦明も五体節々痛い所だらけである。手当をうけてつい二日は過ぎた。しかし考えると居ても起ってもいられない。
「山寨の衆、お願いがある。すでに亡い命を、拙者におあずけ下されたうえ、なお虫のいいお願いだが」
「なんですか、いってごらんなさい」
そばにいた燕順がこう聞いてやる。秦明は首を垂れて言った。
「拙者のよろいかぶと、狼牙棒。それと馬やら兵器やら、なお生き残りの部下がいたら、あわせて、返して下さらんか」
「で、どうなさるつもりです?」
「州へ戻って、慕蓉閣下のまえに罪を詫び、また、文官劉高の日ごろの悪と、偽訴の次第を、事つまびらかに申し上げて、治下の秕政を正す献策の資といたしたい」
「それはご殊勝なこッてすな」と、燕順はニガ笑いして──「ですが総監、そいつアどんなもンでしょう。五百の官兵を失ッて逃げ帰った不届き者と、逆に暗い所へぶち込まれるのがせきの山じゃございませんか。どうです! それよりはいッそこのまま、ここの荒山草寨をお住居として、ひとつ渡世の道を考え直してみなすッては」
すると、秦明は奮然と色をなして、賊殿の一室から外へ出てしまった。
「いかに囚われとなろうが、この秦明の腸はさほど腐ッてはいませんぞ。家代々朝廷のご恩をうけ、身は州の兵馬総監。なんで忘恩の賊となり、おかみへ反抗できようか。いざ、弓でも槍でも持って来て、この胸板をグザとやって下さい。──霹靂火秦明の血はまだきれいなはずだ」
それを見ていた花栄は、聚議場の階を馳け降りて来て、
「まあ、まあ」
と、彼をなだめて連れもどった。
「お心もちはよく分りますが、ともあれそのお体ではまだご無理。もすこしご養生をしなくッちゃいけません」
秦明の立場は同情にあたいする。特に宋江はよく察していた。それにほだされて彼は泣いた。宋江や花栄や頭目たちは彼を慰めるべく小宴の酒盛りをひらいた。しかしほがらかに酔いもできない秦明だった。
またそれから五日ほどおいて、彼はいよいよ山を降りた。宋江以下は麓まで見送って来て、彼の甲冑や狼牙棒を返してくれた。彼は恩を謝して、馬にまたがるやいな、青州の方へさして飛ぶが如く帰って行った。
ところがである。その次の日だ。青州郊外十里の辺まで来た秦明は、
「や、や、これはどうしたことだろう?」
と茫然、馬をとめた。街道口の人家から城内へわたる町屋根は、一望瓦礫の焼け野原と化しているではないか。
しかもただの火災や野火ではない。行く行く見れば、兵の死骸や黒焦げの男女の死体もころがっている。あきらかにこれは戦の酸鼻であった。秦明は我を忘れて馬にムチをくれ、一気に州城の城門下まで飛ばして行った。そして城壁の下から、
「開門、開門っ。……おれだ、おれだ、城門を開いてくれ」
と、どなった。
「なにっ、秦明が立ち帰ったと」
どよめきの中ではこんな声がして、城壁の墻頭から無数な人間の首が外を覗いた。しかし鉄扉のひらく様子はない。のみならず一声の喇叭がつんざき渡り、鼓楼の太鼓がとどろくと、彼のあたまの上から奉行慕蓉の声が、こう聞えた。
「やあ人非人! むほん人めが! ぬけぬけ開門とは白々しい。またも我れらをあざむくため、その姿をば見せしよな。何条、再びその手に乗ろうか。そこうごくな、引ッとらえて火あぶりの極刑に処してくれん」
秦明は仰天して、上へ哀号した。
「閣下、閣下。何かのお間違いではありませんか。重々不覚は取りましたけれど、むほん人などとは、心外な仰せ」
「だまれ、その甲冑、その二つとない狼牙棒。馬もまたそれだ」
「それがどうしたのですか」
「とぼけおるな。一昨夜の深更、賊兵を指揮して、大胆にも、州城の内外を荒し去った賊の中に、はッきりと、なんじの馬上姿を見た者がある!」
「げッ。この秦明が?」
「覆面こそしていた由だが、火光歴々、骨柄から働き振りまで、秦明その者にまぎれなしと、目撃した兵のすべてが一致した声だ。憎ッくい奴め。よくも慕蓉の恩寵を裏切りおったな。その報復には、なんじの家族はこれこの通りだ。……天罰のほどを見よや秦明」
と、慕蓉が手をあげると、かたわらの兵が数本の槍を壁上からさし出した。見ればその槍の穂には彼の家族の首が一個ずつ刺しつらぬいてある。最愛な妻の首も中に見えた。
「あさはか者め! 五百の兵は失い、賊にはそそのかされ、あげくに何か嘘言をかまえて、家族を連れ出さんの所存であったろうが、そうはさせん。──それっ、這奴をのがすなッ」
一下の号令とともに乱箭の雨がたちどころに彼の姿をつつみ、その口からは哭くが如く、また血を吐く如き一声が、
「ああっ……」
と、聞えた。
けれど刹那には、本能的な一鞭がビシッと馬腹を打っていた。そして飛鳥のようなひるがえりを見せたと思うと、城壁の蔭からそれを狙ッて石砲の石弾がドドドッと撃ち出された。ばッと黄色い砂塵が立ち、つづいて吶喊してゆく一隊二隊が辻に見えた。しかし彼を乗せた悍馬はいくたびとなく歩兵を蹴ちらし、槍ぶすまを突破して、見るまに郊外十里の外まで彗星のように飛び去ッていた。
──と、行くての木立の蔭に、一陣の旌旗と人馬が屯していて、
「やあ秦総監、どこへ行かれる?」
と、横ざまに五騎の馬首を並べ立てて、彼の道をさえぎッた。
みれば一人は宋江である。また花栄、燕順、王矮虎、白面郎らの面々なのだ。
「青州の灰燼には、さだめし仰天なされたであろうが、仔細はあとで申しあげる。われらはお迎えに出ていたもの。ともあれ、再び山寨へお戻りください」
山兵二百人に擁されて、ぜひなく秦明はまた山へ返った。聚議場では、彼を正座にすえて、はやくも酒餐の卓が飾られる。と見るや秦明は、
「あいや」と、つよくその杯を拒んだ。──「お笑いを受けるかしれんが、自分の心中はいま酒どころでない。断腸の念にたえないのです。どうかごめん蒙りたい」
「わたくしが悪かったのだ」
宋江は深く謝罪して言った。
「いわばあなたの人物を惜しむの余り、奇計をめぐらし過ぎて、その結果、あなたの家族らを非業な死に目にあわせてしまった。なんとも申しわけありません」
「えっ。では宋押司、足下がやった仕業だと仰っしゃるのか」
「手をくだしたのは、私ではない。しかし私の策がその奇禍を招いたといえましょう。……じつは花栄、燕順らのすべてが、あなたの人物に惚れ込み、どうしても仲間に入れて、刎頸の誓いを結びたいとの願い。しかし、あなたはおききいれがない」
「……?」
「で実は、ご辺が山寨にいるうちに、山兵のうちからあなたの背丈け風貌にそっくりな者を選び出し、それにご辺のよろいかぶとを着せ、また狼牙棒を掻い持たせて、燕順、王矮虎らの手下二百とともに、夜半、青州城を襲って、城内外を荒し廻ったというわけです。……そうすれば、あなたは山寨にもどるしかないという目算から」
「さてはそうだったのか……。むむ、宋江っ、外へ出ろっ」
秦明は憤怒して、仙人掌棒を持ちかけた。
「あっ、待ってください」
花栄以下の者、みな彼の足もとに、平身低頭して、
「やりばないご忿怒はもっともです。しかし宋先生お一人へ恨みをかけるのは当っていません。元々、霹靂火秦明なる男に惚れ込んでこんなにまで執着を持ったのはわれわれどもなんです。これや何かの因縁でもありましょうか。どうにも思い切れなかった。今はこの罪の償いもできませんが、未来へかけてお詫びします。どうかここは怨涙を忍んで、われらの杯を受けてください。いや、われわれを義の弟として、長く引ッ提げて行ってください」
こう首を揃えて詫び入られ、また、こうまで、男が男に好かれたのでは、果てなく愚痴をいってもいられない。
かえりみれば、秦明もいまは天涯孤独だ、死んだ者が生きて還るわけでもない。かつは官途の腐敗も痛感している。ついに彼は杯をうけて、ここに山沢の同じ悲命児らと、生涯の義を結ぶこととなってしまった。──これや後々になって思えば、すべて天地の不可思議というしかなく、百八の宿業星が、自然この土に生れて相会す奇縁というしかないものだった。
一方。──清風鎮の鎮台大寨に軍備をしいて、慕蓉閣下の救援を待っていた黄信は、或る日、「おや、あれへ来るのは、秦総監ではないか。たった一騎で、はて何しにこれへ?」
と、そこの望楼から、鎮台大路を見下ろしながら怪しんでいた。
まもなく、大寨門から伝令が来た。やはり秦明であったのだ。彼にとっては上官でありまた武術の師でもある秦明である。自身、出迎えて、柵内の接官亭に請じ、つぶさに秦明の口から、こんどの事件の表裏やら、また秦明自身の境遇の一変をも、聞いたのだった。
「へえ? ……ではすべて、劉夫妻の悪だくみだったんですな」
事ごとに、黄信は意外な眼をみはって、
「道理で、ここにいてみると、城下一般の声は、みな花栄を惜しみ、文官の劉を憎む者ばかりです。だが総監、あなたまでが、花栄につづいて賊寨に身を投じたというのはどういう発心なのかわかりませんな」
「運命の悪戯か、おれにも発心は分っていない。けれど山東の及時雨、宋公明がそこにいる。おれは夙に宋江の人柄には心服していた。会ってみても義心厚く、心のきれいな人とは信じられた。そうだ、おれの発心は宋江を信じたことによるものだろう」
「えっ、宋公明がどこにいるんですって」
「はははは。黄信、貴公はその人を現在手にかけていたではないか。檻車に乗せて君が護送して行った鄆城虎の張三というのが、じつはその人だったのさ」
「ほんとですか」と、なお半信半疑のていだったが「──知らなかった。さりとは口惜しい。もしそれが宋公明とわかっていたら、身をかえても、逃がしてやったものを。……それにつけ、おれはなんと馬鹿だったろう。まんまと口上手な劉夫妻の甘言にもてあそばれていやがった」
黄信は自分の頭を叩いて悔やみぬいた。
「……ところで」
と、秦明は目的の要談に入った。
いわずもがな、彼の目的とは、黄信を説いて、血を流すなく、花栄の官邸にのこしてある妻や妹たちを寨外へ救出させることにあった。
また自分とともに、黄信をも、一味へ引き入れる誘いでもあったのだ。
「ぜひ仲間の内へ」
と、黄信はそれに応じたので、ただちに、秦明と二人で、鎮台城頭の官旗を下ろした。
遠くで、それを合図と見ていたものか、たちまち清風鎮の街中へ、約二百の山兵が、燕順、王矮虎、白面郎などに引率されて粛々と入って来た。
「や、官軍じゃないぞ」
「山兵だ、山賊だ」
町民はふるえ上がり、家々では戸を閉めた。
けれどこの山兵軍は、規律整然、さもしげな他見もしない。
鎮台の諸門は開け放たれ、宋江はただちに〝市札〟を辻々に立てさせた。
閉業、無用
恟々、無用
隠匿、無用
こう三無用の触れだった。
しかしただ一ヵ所、文官劉高がいた公邸へは、すぐ山兵が殺到していた。そして劉の家来は殺戮され、奥に隠れていた夫人は引きずり出されて山へ送られた。──さらにその倉庫からは、種々な財宝が道へ積み出され、牛、馬、鶏、羊などとあわせて、それら財物はすべて貧民たちの手へ公平に分配された。
一面、花栄の公邸から、花栄の妻や妹が救出されていたのはいうまでもない。が、花栄はその肉親たちを連れたのみで、公邸の家財はやはり困窮者の布施に頒けてしまった。
かくて、山兵が獲た物は何かといえば、鎮台内の備品や食糧や兵具であった。それだけでも彼らの凱旋を賑わすには持ちきれないほどの分捕り品であった。──全員、歓呼のうちに山寨へひきあげる。当夜の大宴は、山寨中の端から端までの大はしゃぎ。
ところが、いつのまにか、王矮虎ひとりだけが宴の中に見えない。
「ははアん。……あの女好きめ、もうはやいとこを、やってやがるな」
白面郎の岡焼きを小耳にとめて、燕順が、
「そうだ、宋先生、あの劉夫人めの処分は、どうしましょうか」
「つれて来給え」
即座に、白面郎と燕順がどこかへ行って、劉夫人を拉して来た。それに従いて、いかにも不服面なのは、王矮虎だった。矮虎は宋江を見るやいな先手を打った。
「先生、かまッておくんなさるな。女はもう自分の体を、この矮虎にまかせてしまったんですからね」
「そうか、思いをとげたのか」
「へへへへ、いわば今からはてまえの女房ッてわけですからね」
「それは考えものだろう。思ってもみろ。かつてこの宋江が、危難を助けてやったのに、その恩をアダで返し、ために以後の大きな禍いをよび起した毒婦ではあるまいか」
「毒婦結構、先生の前ですが、河豚にはまた、河豚の巧味がありましてね」
「でも生涯の伴侶にするものではない。おまえはいいにしろ、周囲に不和と不慮のいざこざが絶えぬ。たとえば秦明の家族があえない死を遂げたなども、もしこの女がなかったら、起りうる事件ではなかったろう」
こう二人の間で〝毒婦問答〟が交わされている隙に、後ろで突然、劉夫人の絶叫が聞えた。──あっと王矮虎がふりむいてみると、女はすでに乳のあたりに短剣を突き立てられて鮮血のなかに仆れていた。
「矮虎、いい加減にしろ」
叱ったのは兄貴分の燕順である。矮虎は、首を垂れてしまった。
だがべつに、ここは女禁制の世界というわけでもない。矮虎も恰好なのをそのうちに見つけるサと皆してなだめ、また宋江は、秦明の癒えない孤愁を思いやって、自分が媒人の労をとり、花栄の妹を、秦明の妻にめあわせた。その儀式や祝宴がまた両三日つづいたのである。
「やあ、こんどこそは、大がかりな官兵の討伐がやって来ますぞ」
俄然、物見の一報は、山上の気を醒ました。
花栄、秦明、黄信の名は、むほん人として官簿から抹殺され、代るに、青州奉行や中書省の発令で近く追捕の大軍団がこれへ急派されるという取り沙汰だ。
「さて、どうする?」
聚議場では評定の額があつまる。
「いかに智恵袋をしぼッても、こんな山寨では防ぎきれまい。第一、麓をぐるりと取巻かれて持久戦と出られたら、たちまち干乾しに見舞われる」
「いまは捨てるときでしょう」宋江の説である。宋江はいう。
「天地はひろい」
「広いったって、これだけの同勢が、どこへ行ったらいいんです?」
「梁山泊という地がある」
「梁山泊? 聞いたようだが」
「山東一の水郷です。周囲八百余里、芦荻にかくれ、渡るに難く、しかも内は一島国のごとき山野をかかえ、宛子城を中央に四、五千人の者が、晁蓋という自分の知人を首領に仰いでみな楽しく住んでいる」
「はてね宋先生は、そんな人物とも、知り合いがあるんですかい」
「仔細があって」
と、宋江は微笑した。そして掻いつまんだ由縁をはなすと、
「それだ、そここそは、おれたちに打ッてつけの天地だろうぜ。どうでしょう先生、何か手引きがなくても仲間入りの見込みはありましょうか」
「なくはない。これほどな男揃い。むしろ、よろこんで迎えよう」
「ならば、さっそくがいい。善は急げだ」
十数輛の江州車が準備された。荷馬にも行李や金銀や何くれとなく括られる。
そして、ここで別れを望む者には、かねや物を与えて立ち去らせ、残部の四百人ぢかくの同勢と、馬百数十頭、車十数輛という編制の大人数が、その隊伍の上に、
という大旗を持って出かけた。
すなわち、梁山泊討伐の偽官軍を装って、公然、南へさして立ったのである。宋江、花栄がその先鋒を行き、つづいて秦明と、黄信が、
の旗をすすめた。そして燕順以下は、第三隊となって山を離れ、さいごの者が山寨に火をかけて立ち去った。車輛のうちの六、七輛は、輿造りの式で四方布を垂れ、内には女たちの姿がちらちら見える。宛として、これは世帯持ちの軍隊の大引っ越しといえなくもない。
だが、春はようやく日も遅々として、駅路山村、どこでも怪しむ者などなかった。とはいえこの同勢で梁山泊への道はそうかんたんな行旅でもない。果たして道中無事か否かは、百八星をこの世界に生ませた魔か神のみが知るであった。
弓の花栄、雁を射て、梁山泊に名を取ること
旅もただの旅ではない。なにしろ男女三隊四百人の大移動である。目ざす梁山泊までの幾山河は越えていたが、
「まだあと幾日の道のりか?」
行くての山、行くての雲、ただ漠々な感だった。
そのうえ人員もついに五百人からに殖えていた。──というのは、対影山の山賊、呂方と郭盛の二人を、その手下ぐるみ、途中で仲間に加えていたからだった。
呂方は、あだ名を小温侯という、根は生薬屋あがりだが、方天戟の無双な達人。
また郭盛も、西川は嘉陵生れの水銀売りだが、ともにこれも方天戟の使い手であり、呂方と張りあって、一つ対影山に二寨を構え、賊同士勢力争いをしていたのである。ところが、
「山東の宋公明について、花栄知寨、秦明総監、鎮三山の黄信など、みな官途をすてて義を誓い、それに清風山の燕順、矮虎、白面郎まで従がッて、これから梁山泊へ行く途中だそうだ」
と聞き、ふたりは喧嘩どころでなくなった。たちまち首をそろえて、仲間入りを志願してきたものだった。
「……それはいいが」
と宋江はこの途方もない人員の膨脹をみて一同へ計った。
「もし梁山泊の物見が、これをほんとの討伐軍と見て、先に山寨へ知らせようものなら、それこそ、えらい間違いの因になる──。わしと燕順とは、ひと足さきに行って、前触れをしておくから、一同はあとからやってくるがいい」
そこで、二人だけは先へ馳けたのだ。単騎の方が、道のりはずっと捗どる。
すでに別れてから三日ほど後のこと。宋江と燕順が、とある道ばたの居酒屋で馬をつなぎ、腹ごしらえをしかけていると、
「おやっ? 宋江さまじゃございませんか」
と、店の薄暗い隅ッこで独りチビチビ飲んでいた豚の鼻みたいな頭巾をかぶッた大男が、のそっと、こっちへ寄って来た。
ぎょッとしたが、こう図ボシをさされたのでは隠しようもないままに。
「いかにも、私は宋公明だが。して、おまえさんは」
「やあ、いい所でお会いしましたが、こいつは何やらどうも不思議だ。草葉の蔭の人のお引き合わせかもしれませんな」
「はて、草葉の蔭の人とは」
「ま……。とにかく、この手紙をごらんなすって」
「や。この手紙は、わしの実弟、鉄扇子宋清の筆蹟にちがいないが?」
「てまえは、石勇というケチな男で、あだ名を石将軍といわれ、元は大名府で、博奕渡世などしておりました」
「どうして、弟の宋清と、ご昵懇なのですか」
「いや、ご昵懇というほどなお近づきじゃございません。じつア盆茣蓙のまちがいから土地を売り、ひと頃、滄州の柴進旦那にかくまわれておりました。──するうちに、その柴旦那のお添え状をもらっていたので、そのご旅烏に出た途中、鄆城県のお宅様で、一ト晩ごやっかいになったもんなンで」
「あ。わしの郷里の家に」
「そのときお噂が出ましてね──。弟様が仰っしゃるには、兄の宋江は、白虎山の孔家にいると聞いているが、もしあの地方に行くんだったら、この書面を渡してくれまいか……と、こうお頼みをうけたわけでございまして。──ま、とにかくそれをご一読くださいますように」
何げなく、宋江は封を切った。いや切りかけながらすぐ気づかれたのは、極まり文句の〝平安〟の二字も上に見えないし、封も不吉な〝逆さ封じ〟になっていたことだった。
「…………」
一読して宋江はガバと卓に顔を伏せてしまった。
鬂の毛は泣きそそげ、耳の裏までが血の気を失い、まっ青に変っている。──怺えに怺えるらしい嗚咽がついには全身の慟哭となってゆき、それを見て、唖然としていた連れの燕順も、宋江がもしや気でも狂ッたことかと、怪しみに痺れてしまったほどだった。
「ど、どうなすったんです。先生、先生」
「ああっ……。燕順、すまないが、後から来る同勢の人々へは、君からあやまっておいてくれ。わしはここからすぐ、郷里の家へ帰らなければならぬことになった」
「だって、あなたがお出で下さらなくなっちゃ、梁山泊だって、仲間へ入れてはくれねえでしょうに。五百人が路頭に迷うじゃございませんか」
「いやいや、いま筆紙を借りて、梁山泊へは私の名で一札を書く」
「いったい、どういうご事情なんで?」
「郷里の父が亡くなったのだ。……弟の手紙には、これを見たらすぐ帰ってくれとある。……ああ、わしは何たる不孝者か。燕順、笑ってくれ。泣かずにいられない! ……。この旅空でついに老父の死水もとれず、何一つ安心させてあげることも出来ずにしまった」
宋江は見得もなく、哭いて、哭きやまないのだった。これが宋江の素裸な人間そのものであるを思えば、もうその意志を曲げようもなく、燕順のごとき男すら、つい貰い泣きして、一も二もなくそれには同意を寄せてしまった。
花栄、秦明、黄信らの大人数は、例の大旗を押したてて二日後に三隊とも、同じ土地へさしかかって来た。
すぐ旅籠から飛び出して迎えた燕順と石勇とが、ここにいない宋江のわけを話すと、
「えっ、じゃあ宋先生は、独りでここから故郷へ帰ってしまったというのか。ちぇっ、なぜ引きとめてくれなかったか」
一同は、ひどく落胆したり恨んだものの、すでに別れ去った人である。今さらどうしようもなく、石勇も隊に加えて、そのまま行旅を続けて行った。
かくて。──すでにその日は、山東梁山泊の近くかと思われる水郷地帯へはいっていた。
すると、蕭々たる平沙や葭の彼方にあたって、一吹の犀笛が聞えたと思うと、たちまち、早鉦や太鼓がけたたましく鳴りひびいた。
見れば、野山いちめんに、翩翻たる黄旗、青旗、紅旗がのぞまれ、遠い岸の蔭から、二そうの快舟が、それぞれ四、五十人の剣戟を載せて、颯々とこなたへ向って近づいてくる。
「やあいっ、待てーえっ」
舳から呼ばわったのは、梁山泊の一将、豹子頭の林冲、もうひとりは赤髪鬼の劉唐だった。
こなたでは、花栄やら秦明たち。
「おうっ梁山泊の一手の衆か、おまちがえ下さるな、官軍の旗は、道中の眼をあざむくための物。われらは官軍ではござらん」
「では、どこの何者だ」
「宋公明どのの添え状を持参しておりますれば、それをご一見ねがいたい」
「なに、宋先生の手紙をお持ちだと?」
船上では、小さい信号旗が振られていた。
──と、陸寄りの入江から、一そうの漁舟と、三人の漁夫ていの男が、花栄の前へこぎ寄ッて来て、ひらと陸へとびあがり「さ、こっちへ」と、道案内に立ってゆく。
車も埋まるばかりな葭芦の間の道を幾曲がり、やがて、かの埠頭の朱貴の茶店までやって来ると、早やさっきの二艘も何処やらに着き、
「いざ、お手紙を拝見しよう」
と、林冲が先に来て待っていた。
しかし、林冲はそれを自分の手で開封したのではない。ただちに、鳴鏑の遠矢を射、対岸から使い舟を呼んで、それをどこかへ持たせてやったのだ。
「みなさん、さだめしお疲れだろう。おそらく吉左右は明朝のことになる。今夜はここでゆるりと、野営なさるがいい」
林冲は、一同をねぎらった。
また茶店の朱貴は、大甕十箇の酒をあけ、三頭の黄牛をつぶし、ぞんぶんに大勢の腹を賑わした。
あくる朝。美しい桃色の春の晨だ。
山寨の軍師、呉用学人は颯爽と一舟をこがせて、これへ先に渡って来た。
そして、花栄、秦明以下の、おもなる面々と、いちいち親しく名のりあって。
「宋公明君のご書状に照らして、寨中の頭目ども評議の結果、よろこんで、ご一同を梁山泊へお迎えいたすことに決めた。……いざこれよりご案内申す。お支度あれ」
やおら呉用は、こういうやいな、埠頭へ出て、十二隻の大きな白棹船をさしまねいた。
五百余人が、それへ乗りわかれるまでの雑閙といったらない。女づれ、馬、車、牛、行李、まるで難民の集団移住だ。──しかしひとたび岸を離れるや、先駆の一船が、金沙灘の白波を切って、整々とさきを進み、ほどなく上がった岸から松林の道にかけては、楽隊、爆竹、そして聚議庁(本丸)までの峰道も、すべて五彩の旗波だった。
「やあ、ようこそ」
岳城の大広間には、人々が出迎えていた。
すなわち、左側の椅子には。
晁蓋、呉用、公孫勝、林冲、劉唐、阮小二、阮小五、阮小七、杜選、宋万、朱貴、白勝。
なかでもこの白日鼠の白勝は、つい数日前に、済州の牢屋からぬけ出して、ここにつらなっていたのである。それも呉用学人のはかりごとであったとか。
次に、右側を見れば。
花栄、秦明、黄信、燕順、矮虎、白面郎、呂方、郭盛、石勇、と今日の新顔がすえおかれた。そして、両列の間には、大香炉に薫々と惜しみなく香が焚かれ、正面に神明を祭り、男と男との義の誓いがここに交わされる。
式終って。
聚議庁から山じゅうは、楽の音になった。
女たちや年寄り連れの家持ちには、それぞれ山裏の谷にある土の家が与えられ、その日は夜へかけての祝宴だった。
その祝宴中のこと。
当然ながら、宋江のうわさも出る。
そして、宋江が、老父の死の報らせに会い、ついにこれへ来なかったはなしを聞くと誰もが、
「ああ、あの人らしい」
と、その孝心にひとしく嘆声をもらし合った。
また、清風鎮の一件では、聞く者みな血を沸かし、ひいては、花栄が弓の名人たる話も出たが、これには晁蓋はじめ、呉用も林冲も、耳を外らした顔していた。──この顔ぶれの中で、武芸自慢などは、ちとおこがましいといった空気でないこともない。
あくる日。
花栄以下、新参加の九名は、晁蓋やほかの面々にみちびかれて、梁山泊一帯の木戸や地形、隠し砦などを一巡してあるいた。
折ふし、春靄の江山江水は、絵のようだった。そして時々耳には、
キロロ、キロロ……
と帰る雁の声が聞え、仰ぐと、竿のような雁の列が、しばしば水の彼方へ消え去った。
「どなたか、弓をお貸しくださらんか」
花栄がふと言い出したので、
「これでおよろしいか」
一人が携えていた弓を与えた。
黒地に金の箔を散らし、それに密陀絵具でかささぎが画いてある細弓だった。ぷーんと、弦鳴りをひとつ調べ、矢をつがえて、花栄はあたりの人へいった。
「ほんの余興にすぎませんが、これで空行く雁のあたまを射てみましょう。仕損じたらおわらい下され」
人々は顔見合せた。
ゆうべのことがある。花栄の気もちはわかるが、片腹いたいとする風が誰にも見えた。
しかし、矢は弦に、はやまんまると、弓はひきしぼられていた。頭上へかかる一ト連の雁がねがあった。花栄はさけんだ。
「あの三番目を射る!」
びゅんと、弦は返った。そして、矢はたしかに三番目に飛んでいた雁を射て地へ落ちてきた。すぐ兵をやって拾わせてみると、何と、矢もまさに雁のあたまを見事に射抜いていたのであった。
いらい梁山泊のうちでは、花栄をさして、
と呼び、また、むかしの養由基もおよぶまいほどな名人であるともいって、その弓の神技を疑う者はなくなった。
義の仲間では、席次、つまり階級が厳格だった。やがて席次がさだめられる。──すなわち従来の首席や軍師の座にはかわりもないが、秦明は花栄の妹を妻としているので、花栄に上席の五番目をゆずり、彼は六番目になった。
また黄信は八番目に。
さらに燕順以下は、阮の三兄弟のつぎにすわった。そして旧将、新星の二十一頭目が、ここ聚議庁から指揮をとり、たとえ官軍何万、いつおし襲せて来ようとも、という陣容を新たにしていた。
しかし一抹の淋しさがないでもない。
ひとりここに欠けていた宋江である。──その宋公明の消息如何は、以来、ここの仲間には忘れえない関心事となっていた。もちろん、彼らはその手先を使って、たえず江を渡らせ、その飛耳張目を八方へくばらせてもいた。
悲心、長江の刑旅につけば、
鬼の端公も気のいい忠僕に変ること
話はすこし前へもどって。
さて宋江は、その日、故郷宋家村の村ぐちへ来て、村社の前までさしかかると、
「おや、めずらしい」
村年寄の張とぶつかり、こう驚きのあいさつと、よろこびをかけられていた。
「押司さま。ようまあお帰ンなすったの。あのいやな事件も、一年半ぶりで、なんとかおゆるしのお沙汰が出たとか。これからは村にいて下さッしゃれ」
「おう、爺さんか。おまえお達者かね。あの事件は、おゆるしとなっても、父の死に目に会わなんだこの不孝者、村の衆へもあわせる顔がありませんよ」
「な、なにを仰っしゃるんじゃ。お宅さまの大旦那とは、たった今、そこの社務所で祭りの相談などして、お別れして来たばかりじゃがの」
「そんなはずがあるもンですか。弟の手紙で父の死を知り、仰天して、旅先からたったいまここへ帰って来たばかりだ」
「へえ、宋清さんのお手紙ですッて。どれどれ、そのお手紙を見せてください。……ほほう? ……これですかい。あはははは……こりゃ、宋清さんもどうかしておいでなさる」
「笑いごとではありますまい」
「いや笑わずにはいられませぬわい。現に今、さんざんご冗談をいったり、昼酒のごきげんで、お宅へ帰って行かしゃった大旦那様が、どうして死んでなどいましょうぞい」
「ほんとか。いや、ほんとであれかし」
宋江はまだ半信半疑ながら、飛ぶがごとく馳けて、わが家の古い門へ馳けて入っていた。
「や、兄上お帰りか」
出て来た弟の宋清を見るなり彼は息をはずませて。
「父上は」
「おくにおります。たったいま、よそから戻って」
「なに」
うれしかったが、しかし、腹も立って、弟の横顔をなぐりつけてやりたいほど、涙がこぼれた。
「きさま! なんという馬鹿な手紙をわしによこしたのだ。戯れもほどにせい!」
すると、奥から、
「その声は、せがれか」
老父が走り出して来て、宋江の手をにぎり、その手を自分の頬にあててあやまった。
「かんべんせい。あの手紙は、わしが宋清に書かせたのじゃ。……会いたさにの。……そしてまた、白虎山や清風山のあたりには、賊徒が多い。……もしやまたおまえもそんな徒輩の仲間に染み、不忠不孝の曲者にでもなり終っては、ご先祖にあいすまぬと、日夜心をいためていたところへ、あの石勇という男がみえたので」
「ではまったく、あの手紙は父上の……。ああ、よかった……。もう何も申しません。長らくの不孝のつみ、どうぞおゆるしくださいまし」
「いや、せがれよ。そう気を病むな。ひと頃は、あの事件で、わしもえらく悩んだが、待てば日和、こんどの特赦を知っているか」
「え。特赦の沙汰が出たのですか」
「このたび、宋朝廷では、皇太子さまの立太子の儀がおこなわれ、すべての罪の者に、罪一等を減じられようというお布令じゃ。だからもう、たとえおまえが帰ってつかまっても、たかだか軽い流罪ぐらいですむことじゃろうよ」
「して、当時の与力の雷横や朱同は」
「ふたりとも今は役署におらん。……いまいるのは趙能、趙得という兄弟の与力同心でな」
なんと、宋江がこう聞いてから、まだ半日のくつろぎも、故郷の家でめぐまれていないうちだった。
その趙能、趙得、兄弟の役人がはやくも知って、宋家の外塀を捕手でぐるりと取り囲み、
「神妙に同行あるか。それとも、一せいに踏み込もうか」
と、威嚇をふくめて言い入れてきた。
「もう知って来たか」
老父は慟哭した。
けれど宋江は、父の無事を見たことだけでも、うれしかった。だのにここで、冷静を欠けば、老躯の父により以上な心労をまたかけ直すことになる。むしろはやく刑をすまして、はれて家に帰り、せめて老後の父の余生を見るに如くはないと考えられた。
そう聞いて、老父はいよいよ涙にくれたが、
「ぜひもない、おまえがそう腹をきめてくれるなら、わしも金をおしまず官途へつかって、すこしでも罪がかるく、また早く帰ってもらえるように、それをたのしみに、待つとしよう」
この相談には、趙も立会わせた。そして充分な馳走とわいろの力で、趙の手勢は、一ト晩、張り込みを名目として泊りこみ、宋江の逮捕はあくる日にのばされた。
県城の知事は、事件当時のままで、すなわち時文彬その人だった。
「これでわしの職分も立った」
知事は、ただちに宋江の口書をとり、牢舎へさげた。──が、街中はその噂でたちまちに、
「なにとぞ、宋押司さんのおゆるしを」
「どうぞ、押司さまには、おもい罪となりませぬように」
との嘆願運動がまき起った。
すでに、宋江が過って殺した女の母親の閻婆は、半年まえに病死していたし、女の情夫の張文遠も、役署のすみにはいたが、街中の反感のなかを、いまさら敵役になって出る勇気もない。
かつ奉行所内には、宋江の同情者がたくさんいたので、それに宋家の老父からも金もたっぷりまわっていたので、事々軽くすまされ、恩赦の名の下に流刑地としてはもっとも軽い者がやられる〝江州流し〟と判決された。
また、彼の流される日には、町民ほとんどが、涙をもって彼を見送り、彼の老父と弟の宋清は、すでに人も絶えた県外の途上で、ゆっくり別れを惜しむこともゆるされた。
老父は言った。
「江州は、米どころ、魚もとれ、気候もよい。気をゆたかに、刑期をしんぼうしてくれい。折をみて、弟を見舞いにやろうし、小費いも届けようぞ。ただ江州への道すじには、いやでも梁山泊の近くを通らにゃならぬ。ひょッと一味の者が、おまえを奪おうとするかもしれん。構えて、あんな仲間へは引き入れられるなよ。不忠不孝の子となってくれるなよ」
「はい、はい。そんな取り越し苦労はなさらないでください」
しかし宋江は、弟をかげに呼んで、その耳元へはこうあとを頼んでいた。
「なにしても、おとしよりだ。おまえはどうか朝晩、父のそばにいて、孝養してくれ。いいか。父をうっちゃらかして、江州へ会いに来ることなぞは無用だぞ」
かくて、郷を離れたのである。護送の端公(小役人)は李万と張千という二人の男。
端公たちは、三日後からもうびくびくものだった。梁山泊が近いからである。で、道も遠廻りしていたのだが、五日目のこと、ついに予想していたものが、一つの嶺で待ちかまえていた。
「あっ、劉唐ではないか」
嶺道をふさいでいた四、五十人の手下と、その先頭の赤髪鬼を見て、宋江がこう叫ぶと。
「おう先生、お迎えに来ましたぜ。──おいみんな、この二匹の端公を、ちょっくら叩っ殺してしまえ」
「いや待てっ。劉唐」
「先生、なんで止めなさる」
「その刀をかしてもらおう。君らの手をからずとも、わしから観念させてとどめを刺す」
端公ふたりは、ちぢみあがった。──が宋江は、かりた刀の切っ先を、逆に自分の喉へ擬して。
「君らは、わしを殺そうとするのか」
「じょ、じょうだんじゃありません。先生こそなんでそんな真似を」
「情けはありがたいが、君らの暴は、この宋江へ死を迫りに来たもおなじことだ」
「とんでもねえことを。梁山泊一同の者は、明け暮れ心配のあまり、すんでのことに、県城の牢を破ッても、あなたを救い出そうとまで、評議していたほどなんですぜ」
「さ。それこそすべて、宋江には情けが仇だ。わしを不忠不孝の坑に突きおとす気か。ならばいッそ自決して相果てねばならん。とめるな劉唐」
「あッ待ってください」
劉唐は飛びついて、彼の手の刀をもぎ取った。そして一方には、後ろへ向って子分を走らせ、一方には宋江をつかまえて離さず、
「どうにも、こうにも、そんなお話しじゃあ、てまえ一存ではさばけません。とにかく、端公は連れたままでも、梁山泊までお越しなすって」
「ばかをいえ。わしは流人だ」
争っているところへ、知らせをうけた呉用学人そのほか二、三十騎が飛んで来た。そして首カセを架けられた宋江の姿をみるやいなや、花栄はじんと眼を熱くして。
「なんだこんなに大勢いながら。──なぜあの首かせだけでも、早く脱ってあげないのか」
「あいや」宋江はすぐ言った。「──これは国のおきてだ、当然な法の処置だ、どんな友達の好意であろうと、よけいな事はしてもらいたくない」
「はははは」と、軍師呉用がそばで笑った。
「それもあなたらしい。お気もちはよくわかる。しかし、晁のおかしら以下、ことごとくあなたに一目会いたがっている。どうです、一応おいで下さらんか。しかる後、刑地の旅へいさぎよくお見送りいたしましょう」
「おう、呉先生だけは、私の気もちをよく知って下さる」
宋江はうれしかった。おまかせするといわざるをえない。しかし端公ふたりは、あくまでそばに連れてあるいた。
江岸から舟に乗る。先では山轎で山路を登り、断金亭で一ト休みをとる。
するうちにもう晁蓋をはじめ、頭目一同が迎えに来て聚議庁へと誘ってゆく。──そして過ぐる日の顔合せの序列で、宋江の椅子を中にし、二列に並んだ。
「おかげでこのとおり、山寨には九名の豪傑をあらたに加え、いちばい綺羅星の陣を強固にいたしました。すべてこれは宋先生のご恩恵と申すもので」
「いやいや晁君、またほかの諸兄もお笑いください。過ちとは申せ、くだらぬ女を害めて、この始末。せめて罪科の償いを果たして、この穢身を洗わないことには、どうも白日の下で、人なみの口もきけません。一ト目、お会いしたからには、はや、おさらばでございまする」
「ま、そんなにお急ぎなさらなくも」
一同は、彼を引きとめたが、中にはこういう知恵をいってみる者もあった。「端公二人には、充分な金をくれてやり、そして『宋公明の身は、梁山泊で横奪りされた』といわせてみたらどんなものでしょう」
「いらざるおすすめ」と、宋江はかえって心外そうに顔を曇らせ「──まだ老後の父に、一日の孝養すらしていませんし、門出の日には、まだ膝の子のごとく、その父からいわれています。上、天理にさからい、下、父のおしえを聞かずでは、生きているほど、親の業苦を深くする不肖な者となりましょう。どうしても諸兄が私の意志を曲げようというなら、宋江はここで舌を噛んでお見せするしかありますまい」
言いおわるやいなや、涙とともに、がばと椅子の下へ伏し仆れたので、さしもの豪傑たちも驚いて、皆してたすけ起し、口々になだめぬいた。
「もうお心を邪げはいたしません。われらも辛くなる。どうぞお気もちを直して、せめて一日半夜だけでも、一同の心を酌んで、ここにおいで下されたい」
それまでを振り切ることもできなかった。で、当夜は静かな酒もりに囲まれ、明けるやいなや、はや別れのことばを交わしていた。
別れにさいし、軍師呉用は宋江のために、一通の手紙を用意しておき、こういって手渡した。
「江州に一畸人がいます。自分とは古い知りあいで、苗字を戴、名を宗といい、長くその地で牢節級(牢人の役長)をつとめておるところから、通称、戴院長とよばれておる。──この男、義理がたいだけでなく、一日によく八百里を歩くという稀代な道術を持っていて、人からも愛される風をおびています。もし折があったら、いちど会ってごらんなさいまし」
その朝、宋江は、江上を船をつらねて見送られた。その上さらに、陸上二十里まで送ろうという一同の好意を、宋江は強って断わり、そのまま二人の端公に追っ立てられつつ、一路江州への道をいそいだ。
道は遠い。江州はなお遥かだ。けれど護送役の二人も、今は今さらの如く、宋江の徳望とその人柄にはびッくりしている。為に、およそ主に仕える小者のような善良さで道中小まめな宥りをつくしていた。
しかしながら、これでは彼ら端公役の端公らしい土性骨は失くなっていたことにもなる。
元来、端公という職は、冷血、鬼畜のごとく、眼光、隼のようでなければ、勤まらないといわれているのだ。兇悪な重罪犯に付いて、遠い流刑地までの幾山河をたッた同役二人で送ってゆくことであるから、抜け目や人情があっては途中なにが起るか分らない。
果たせるかな、この李万と張千のふたりは、すっかり縒が戻って、本来の気のいい人間に返っていたため、旅の二十日余りは、とまれ無事で和やかだったが、いよいよ目的地の江州もほど近い掲陽嶺にいたって、ついに大変な奇禍に会ってしまった。
いや奇禍どころな騒ぎでない。
端公の李万、張千、また宋江までも、そこの嶺茶店で昼飯の一杯を飲ったのが不覚のもとであった。いつか唇のよだれを拭く手もきかず、あとは昏々と仮死の空骸をどこかに抛り込まれていたのだった。すなわち、これは江州地方で〝江州の三覇〟と呼ばれるその一覇の網に引っかかっていた。大難とは、後でこそわかったがかりにいま知っても、もう追いつかない姿であった。
死は醒めてこの世の街に、大道芸人を見て、銭をめぐむ事
この掲陽嶺を越えれば、まもなく道はかの白楽天の〝琵琶行〟でも有名な潯陽江の街を見る。──そして水と空なる雄大な黄色い流れは、いわずもがな、揚子江の大河であった。
その揚子江の船乗りで、混江龍とあだ名のある李俊は、その日、仲間の童威、童猛という二人をつれて、街の方から嶺の峠路を登って来たが、
「オオ、李立の店があらあ。あそこで一杯やりながら待つとしようじゃねえか」
と、そこの嶺茶店をのぞきこみ、
「兄弟分、いるかい」
とばかり、ぞろぞろ入って来た。
亭主の李立は、垢じみた下郎頭巾に、毛ムクじゃらな両腕ムキ出しの半纒一つ、薄暗い料理場の土間口に腰かけ、毛ずねの片方を膝に組んで、何かぼんやりしていたが、
「おう兄貴か」
と、夢からさめたような顔して起って来た。
「どうしたい李立、いやに不景気ヅラしているじゃねえか。ところで、この峠の上で待つ者があるんだ。店を借りるぜ」
「ええ、ようがすとも。だがお揃いでいったい誰を待ち合わせるんで?」
「ゆうべ済州から来た奴のはなしでね、宋公明っていう人が、この江州へ流されて来るってんで、日どり、道すじをただしてみると、どうしてもここ二、三日中には、この掲陽嶺を通るはずだ。そこで仲間を誘って、お迎えに来たわけだが、李立、おめえもぜひお目にかかっておくがいいぜ」
「へえ? ……」と、李立は急に大きな眼玉をくりくりさせて。「宋公明ッてのは、なにかそんなに曰くがある人なんですかえ」
「ばか。何ッてやんで。およそ今のでたらめ天下では朝廷の宰相や大臣どもの名は知らぬ奴がいても、山東の及時雨、宋公明の名前を知らぬ人間はありゃしねえ。どんなやくざであろうが、義人宋江と聞けば、道をゆずってお通しするッてくらいなものだよ」
「……はてね?」
「おや李立、てめえ、急にヘンながたがた慄いをしだしたじゃねえか。何かあったのかい」
「いけねえ!」
「何が、いけねえ?」
「兄貴、じつアついさっき、二人の端公と、色の黒い小づくりな首カセの囚人を、例のしびれ薬でねむらしちまった。もしやそれじゃあねえかしら」
「げっ、色の黒いお人だって。や、や、兄弟」と後ろの連れを見て「──李立の奴が殺っちまったらしいぞ。宋江はまたの名を黒二郎といわれるほど、色の黒い人だってことはかねがね聞いていた」
連れの二人も、仰天して、李立をとりかこみ、
「いつ。どんな風に。そしてどうして?」
と、早口に問いつめ責めたてる。
李立は口もきけない。手をくだしたのは、ついまだ今し方のことだという。ねむらせた三個の空骸は、すぐ厨の流しに引きずり込み、すぐばらしてしまうつもりだったが、懐中物をしらべてみると、囚人にしては予想外の大金やら、江州の戴院長へ宛てた手紙などが出てきたので、なにやらすこし不気味になり、ぼやっと考えこんでいたところだと、李立は吃り吃り語った。
「ちぇッ、ありがてえ、ここへ来たのは天のおさしず。それこそ、宋公明さまにちげえねえ。念のため、端公のふところの押送文を調べてみろ! そして早く早く覚醒薬だ! 李立! もしかそれで生き甦らなかったら、てめえも生かしちゃおかねえぞ」
かくて薄暗い奥の土間では、しばしあわただしい叱咤、跫音、物音の転手古舞につれて、まもなくまた、よろこびの声がわき、宋江、端公たちの声もようやく聞えだしていた。
このへんくどい話はいるまい。土地の四人の首を揃えての謝罪に目はしら立てて憤る宋江でもない。むしろ仮死のお蔭で、冥途の世界をちょっと覗いてきたと、宋江は笑うのである。そして李立の謝罪と歓待に一夜をまかせ、翌日はすぐ掲陽鎮のふもとへと降りて行った。
「ぜひ、宅にも一ト晩お泊りを」
と、混江龍の李俊はまた、そこでも宋江をひきとめてやまない。ついに一夜のやっかいになる。その晩の酒もりで、李俊は童威、童猛の兄弟分二人を、あらためて、宋江にひきあわせた。
商売は二人ともに揚子江をまたにかけての塩の闇屋であるとのこと。そして童威には出洞蛟のあだ名があり、童猛には翻江蜃の異名がある。ともに、大江の河童のごとく、よく水を潜り船の底にもヘバリついて長時間といえ怯まない。そんな自慢ばなしを聞いたりして、宋江は旅の憂さもつい忘れた。
また、こんなたびごとには、主人から端公二人へ、たっぷり心づけが渡るのは、礼儀みたいなものだった。端公の李万、張千はほくほくだった。そしてここを別れて立ち、午ごろには久しぶり人烟にぎやかな古色の街へ入っていた。
「さあっ、お立会い!」
とある辻の人群れの中だった。こう高々とシャ嗄れた声をしぼっている香具師がある。
見れば、竿のような痩躯、ひょろ長い男。朽葉色の田螺頭巾をかぶり、それより色の黒い頬のコケに、長いもみ上げをばさらと散らし、虱もいそうな破れ袍をおかしげに着て、皮帯皮靴、大股ひらいて、拳を天に振っている。
「日は長い! 御用とお急ぎでなくば、この男の前口上はさておき、次の芸当の奥伝までも、ゆっくりごらんあっていただきたいもの。……さて、てまえ何処の者とご不審あろうが、猿でもない狒々でもない、人間さまであることはお見届けのとおりとござい。ご当地へは初めてのこと。あれなる槍や棒をつかって秘術のほどをごらんに入れよう。したが身過ぎ世過ぎとなれば、槍では食えんし棒では腹も張らぬわけ。──では何で食う? あれなる膏薬を売らずばならない。きりきず、やけど、うちみ、何にでも効くこと奇妙不思議な神薬! いやそれはただで差上げよう。ただし、これだけのお立会い残らずへは回りかねる、おぼしめしでいい、前芸の見料として寸志のご喜捨を下された方々へ膏薬一貼、いやお志の多寡によっては、何十貼でもさしあげる。よろしいか。さあ、いかほどなりと、ご喜捨ご喜捨」
盆をつき出して、一ト巡り、いや二た巡りも何回も、見物人の輪の前を、ぐるぐる歩き初めたが、さて鐚一文も盆の上にはこぼれなかった。
あまりな白けかたに、宋江はふと気のどくになって一粒の銀を、ぽいと彼の手の盆へのせてやった。
「オヤ、これは五両」
膏薬売りは感激にふるえ、宋江の風態を見まもることしばしだったが、やおらほかの見物へ向って、つら当てのように謡っていた。
おぞや、むかしの鄭元和
青楼のむだがね、むだづかい
つかいばえする生きがねは
はらもなければ、つかえない
「なんとお立会い、人は見かけによらぬもの。首かせかけたお人から、こんな芳志がこぼれるとは、世の中まだ、見捨てたもンじゃござんせんなあ。……いやどうも、かたじけない、もしおさしつかえなければ、ご尊名でも」
「いや、ほんの出来心、お礼などにはおよびませんよ」
宋江はそういって、衆人の視線から顔をそらした。すると誰やらその背をどんと小突いた者がある。
驚いてふりむくと、図抜けて大きな若者だった。血相をなして、若者はまた、一方の膏薬売りへも、こう吼えていた。
「やいっ、どこの馬の骨かしらねえが、この掲陽鎮へ来て、よくも無断で洒落くせえヘボ武芸を囮に、大道かせぎをしやがったな。──それにまた、そっちの首カセめ、なんだってこんな野郎に、かねびらを切りやがるんだ」
「これは……」と宋江は苦笑した。「私が、私のかねをやったまでですが」
「知れてらいッ。それがおせッかいというもんだ。よけいなまねをしやがると、ただじゃあおかねえぞ」
「これは迷惑千万」
「なに迷惑だと」
とたんに、若者の拳が、唸りをもって、真ッ向へ来たので、宋江は無意識に身をかわした。「……うぬ」と、突ンのめった巨体から、こんどはほんものの怒りが燃えたらしい。ばッと土けむりが立ち群集が飛び退いた。しかし投げられたのは宋江でなく、若者のほうだった。
奮然と、彼はまた起ったが、とっさに膏薬売りのするどい脚の先が、若者の胸いたを蹴とばしていた。よろよろと、見物の中へ後ずさった若者の顔はもう蒼白となっていて、
「み、みやがれっ。このままじゃあ、すまさねえぞ」
その捨てぜりふを烏賊の墨として、街中のどこへともなく逃げて行った。
このため、見物も散り、辺りは味けない辻景色に返ってしまい、膏薬売りの男もまた、そそくさと荷物をかたづけて、先へ行く宋江のあとを急ぎ足で追っていた。
「もし、失礼ですが」
「お。何ですか」
「もしやあなたは、山東の及時雨さまではありませんか」
「えっ。あなたは」
「河南洛陽のもので、薛永といい、あだ名を病大虫とよばれています。……が、祖父はいぜん経略使の种閣下につかえていた軍人で、後、浪人ぐらしがつづいたため、てまえもこんな身過ぎをいたしている始末でございまする」
「申しおくれました。お察しのとおり、自分は宋江です」
「ああ、やはりそうでしたか。いかがでしょう。望外なことですが、はからずご高風にふれたご縁を、これなりでは何やら惜しまれてなりません。……どこかそこらの小酒屋で、ご中食でもともにしていただけますまいか」
「ちょうど午どきですから、わしはかまわぬが」と、端公たちにはかると、李万、張千ももとより異議はない顔つき。
で、その四人づれは「ごめんよ」と、一軒の小酒屋の内へはいって行った。ところが、店の亭主はにべもない。肴、飯、酒、何をあつらえても、けんもほろろにお断りである。わけを訊いてみると、こうだった。
「おまえさんたちはたった今、そこの辻で、江州の三覇といわれる顔役のひとりと喧嘩しなすッたろうが。いやはや、あぶねえもんだ。つね日頃でも、あの一覇(顔役)ににらまれたら、こんな店ぐらいはすぐ叩き毀されちまう。今もここらを呶鳴り廻って行ったのさ。野郎たちに腰かけでも貸すこたアならねえぞ、物も売るなってね」
さてはそうかと、四人は笑って出たが、どこへ行っても、同じように寄せつけてもくれないのだ。で、ぜひなく病大虫の薛永とは道でわかれ、わかれ際に、宋江はさらに銀二十両を彼にめぐんでやった。
「ご恩に着ます」と、薛永は押しいただいて「いずれ自分も江州府へまいりますから、そこでまたお目にかかれるかもしれません。……どうぞ、江を渡る日もお大事に」
といって、立ち去った。
困ったのは、その夕からのことである。何軒となく木賃宿の軒に立ってみたが、三人の姿をみると、どこの旅籠でも、手を振るのだった。おそろしい覇の勢力ではあると、途方にも暮れ、舌を巻かずにいられなかった。
「これはいけない。道をかえて、本街道から郊外へ出てみよう」
しかし、たまたま見かける田舎旅籠でも、お断りはおなじだった。が、災難にしては小さいといえよう。宋江はあきらめてこよいは野宿とつぶやいたが、端公の李万は、ふと横道に見えた灯と旧家らしい屋敷門を見て、
「そうだ、素人家なら泊めてくれましょう。ひとつあそこへ頼んでみますから、待っていておくんなさい」
と、急にその灯を目あてに走って行った。
葦は葦の仲間を呼び、揚子江の〝三覇〟一荘に会すること
潯陽江頭 夜 客を送る
楓葉 荻花 秋索々──
これは白楽天の詩「琵琶行」のはじめの句だが、いまの宋江の身は、そんな哀婉なる旅情の懐古に浸りうるどころではなかった。
また時代も白楽天の詩酒三昧をゆるしたような唐朝盛期のいい時世でもない。──明日知れぬおそろしい世音の暗い風が──そのままここ揚子江に近い夜空いちめんな星の色にも不気味な凄涼の感を墨のごとく流している今夜であった。
「おや? 人声が?」
宋江は目ざとくすぐ枕をもたげた。
そばに寝ている端公(護送の小役人)二人は正体もない。
ここは鄙びた旧家の門番小屋だ。
宵に、端公のひとり李万が、地主屋敷の門を叩いて家の老主人なる者に会い「──はるばる山東の役署から、流刑の罪人をつれて、江州へ行く途中のものですが」とわけをはなし、一夜の泊りを頼んで、やれやれと、やっと眠りについたばかりなのだ。
「……はて。なんだか聞いたような声でもある?」
頸の首枷は、端公二人とも、いまは宋江に心服しているので寝るときなどは取り外してある。
宋江はそっと門番小屋の竹窓から屋敷内のひろい落葉道を見まわした。──髯の白い老主人が立っている。──それにたいして七、八名の若い者をうしろに連れた背のたかい壮漢が、なにかがんがん言っていた。そして彼らのたずさえている松明のいぶりがその人影を赤く濃くよけい物々しげにしているのだった。
「なに、兄貴は酒を飲んで寝ちまッたって」と、壮漢の声はあらあらしいが、駄々をこねているような調子もある。おそらくは老主人の息子であろうか。息子とすれば、兄貴兄貴といっているところから、次男坊にちがいない。「──どこに寝てるんだい兄貴のやつは。起しておくんなさいよ、父っさん。逃がしたと聞いたら、あとで兄貴のやつもくやしがるにちげえねえんだ」
「また喧嘩かい。よしなさい」
「喧嘩なんてものじゃねえよ。大恥をかかされたんだ。掲陽鎮の人中でさ」
「あまり顔をきかせるからじゃよ。さあおまえも奥へ入って寝ろ寝ろ」
「寝られるもんか、この虫がおさまらねえうちは」
「いったいどうしたことだ、人中で大恥をかいたとは」
「どこの馬の骨かしれねえ膏薬売りの素浪人が、無断で辻稼ぎをしていやがるから、そいつを追ッ払おうとしたら、見物の中から妙な野郎がいらざる邪魔をしやがったんで」
と、壮漢が言っているのを聞くと、どうも昼間のあのことらしい。──宋江は竹窓にかけていた手が冷たくなった。いや這いのぼる恐怖にそそけ立ってしまった。
壮漢はなおも「叩ッ殺してもあきたらねえ」と罵ッて。「たしかに、その首枷野郎と端公の三人づれは、こっちの方角へ逃げたと途々聞いたんだ、兄貴にも知らせて、取ッ捕まえずにおくものか」と、わめいてやまない。
けれどやがて、老父になだめられたものか、あるいは自分で、兄を起しに行ったものか、どやどや母屋の棟の方へかくれてしまった。
宋江は、「すわ、このすきに」とばかり、二人の端公を揺り起し、わけを語って、
「一刻もここにはおられぬ。ぜひもない、夜道をかけて逃げのびよう」
と、せきたてた。
李万も張千も仰天して、宋江の首枷などは手にかかえ、窓を破ってころげ出した。あとはしばらく無我夢中といっていい三つの影。──田舎道、野道、葦の原、そして鉛のような水の光は、いつかもう揚子江の江畔なのか。
うしろからは、みだれ火が迫っていた。十人以上な喊声だ。ピューッ、ピューッと指笛を鳴らしてくる。気づかれたのだ、南無三である。
「天よ!」
宋江は走りつつ祈った。息がきれる。うしろの足音は早い。たまらなくなって水浸しになるのを覚悟で葦の茂みのなかへ隠れこんだ。ふるえながら葦の根を這った。
「畜生」
「どこへ失せやがったか」
恐怖の一瞬がすぐそばの堤を馳け去った。──端公二人は、泥亀みたいに首をもたげて、
「しめた。宋江さん、すぐそこの入江に舟がみえる、救いの舟だ」
「えっ、舟がある?」
「たのんでみよう。……おい船頭さん、たすけてくれ。金はいくらでもやる。無事な所まで渡してくれ」
「なんだと。どこのどいつだい」
船頭の声だった。舟底に横たえていた酒くさい体をむっくり起すとともに、ぎょろと、三人の影を眼で一ト舐めして、
「乗ンな」
と、かろくいった。
「ありがたい」
拝むばかりな、あわてかたで、三人はすぐ飛びのる。李万は旅の荷物をどさりと下ろし、張千は首枷をおいて、手の水火棍(警棒)で船頭の棹と一しょに岸を突いた。
ゆらゆらと、舟はひろい水面に出る。船頭は棹をすてて櫓に持ちかえた。するともう、さっきの鋭い指笛がまた近くで闇をツンざいた。いちど行きすぎた松明やら二十人ぢかい人影は、たちまちそれと知って引っ返してきた。
「おうーい、船頭、その舟をやッちゃあいけねえぞ」
「もどって来いよっ。引っ返せ」
「返さねえと、ただはおかねえぞ。やい船頭、船頭っ」
気が気でない。生死は船頭の返辞一つにかかっている。
舟中の宋江たち三人は手をあわさんばかり、わななき声を念じ合った。
「もどるな、船頭さん」
「後生だ、もどっちゃいけない」
「あの悪者につかまったら殺される。お礼はいくらでも出す。逃がしてくれ」
船頭は黙ンまりをつづけ、ただ櫓だけを鳴らしていた。しかし岸をたどり歩いて、兇暴な火焔と人群れの影はどこまでもくッついて来る。
「やい船頭、おれたちを知らねえのか」
船頭はフンと鼻で笑った。
「わかってるよ、おめえさんたちの声柄ぐれえは」
「じゃあ、もどれ」
「ごめんだよ」
「野郎、あとで吠えづら掻くなよ」
「あしたは天気だとさ」
「何ッてやんで。てめえが乗せた江州送りの罪人に用があるんだ。そいつを渡せばかんべんしてやらあ」
「とんでもねえや」と、船頭もまた太々しい。「こち徒にもこち徒の商売があるんだぜ。せっかくお乗せ申したお客さまだ。これからゆっくり〝薄刃切り〟のご馳走でも差上げようっていうのに、ひとに譲ってたまるもんか」
「うぬどうしてもか」
「くどいよ、こっちにとっても飯のたね。おととい来やがれ」
櫓幅いっぱい、舟は水を切って行く。みるまに葦間の火光もわめきも遠くにおいて、辺りは大江の水満々とあるばかりだった。
「かたじけない」
と、宋江がいえば、李万、張千もほっとした顔でつぶやいた。
「ああ、これで厄のがれした。命の恩人だよ、この船頭さんは」
しかし船頭は、三人の感謝をみても、ふンといった面つきだった。そして櫓をあやつりながら、酒きげんで、湖州小唄などを、ちょっと低い美い声でくちずさんだ。
ほとけ心があるならば
こんな渡世はしていない
どうせ根からの葦そだち
風と水とで暮らすのさ
宋江はなぜかぎょッとした。
おちついて、しみじみと今、星影で見たこの男。彼には、ただ者でなく思われてきた。
「船頭さん、もうこの辺でいい。どこかそこらへ寄せてくれないか」
「ふざけちゃいけないよ。おめえたちは、命拾いをしたつもりかい」
「えっ?」
「それとなく引導は先にわたしておいたろう。〝薄刃切り〟のご馳走はこれからだ」
「薄刃切りとは」
「早く見てえというのかい」船頭はガラと櫓づかを投げ出した。そして舟底板をめくり上げ、その下からドキドキ研ぎすましてある板刀を取り出すと、
「一匹一颯、三人ならこれで三振り、なんの手間ひまなしに、そのあとは鱠料理さ」
と、切ッ先をつきつけて来た。
悲鳴も出なかった。二人の端公は宋江にしがみつく。その宋江も蒼白なおもてを凍らせたまま背を這う顫えをどうしようもない。
まことや諺にいう〝倖せはかさならず、わざわいは一つですまず〟だ。宋江は天を仰いで思うらく「げに不孝の罪はおそろしい。ついにこの身の業ばかりでなく、この気のいい端公ふたりまで巻きぞえにして、いま死ぬのか」と。
しかし、なお、あきらめきれず、生への必死な執着をしぼッて。
「お待ちなさい、船頭さん」
「まだいってやがる。おれはただの船頭じゃねえんだよ」
「わかりました、長江の水賊ですね」
「水賊か何かしらねえが、水を枕にうたた寝のとこへ、てめえらの方から網にかかって来たわけだ。この商売、やめられねえじゃあるめえか」
「かねは上げます、ですから、そんな刃ものざんまいは、ゆるして下さい」
「おいおい、あんまり当り前なことをいうなよ。もとよりこっちは身ぐるみがご常法だ。その上、一匹はおろか半匹も、命は助けちゃおかれねえ」
「な、なぜですか」
「きまッてら。てめえたちは、江州送りの小役人と流刑人だろう。助けてみろ、次にはこっちへ御用風が吹いてくら。さあ四の五をいわず眼をねむれ。薄刃料理が嫌いなら、一切合財、裸になっててめえで水の中へどんぶり沈んで行くがいいや」
船頭はぬっと立って、まず宋江の襟がみへ、その片手を伸ばしかけた。──するとこのとき、長江の上流から矢のごとく流れてきた一隻の快舟があり、ざ、ざ、ざ、と舷にしぶきを見せながら近づいて来るやいな、
「おうっ。張の舟じゃあねえか」
と、すばやく鈎棒をひッかけて呼びかけた。
張と呼ばれたこなたの船頭は、ちょっとあわてたが、さりげなく、振り返って。
「や、李の兄貴か。ひでえなあ、今日は」
「なにがよ、張」
「だってよ、川上の仕事に、おいらを棄てて行きなすッたぜ」
「見当らなかったんだよ。だが、なにやら巧い仕事を、独りでたんまりせしめてるらしいから、それもよかったわけじゃねえか」
「おわらい草だ。じつあ、ここんとこ、女にゃ振られるし博奕にはすッからかん。やけ酒くらって今夜も葦を屏風にふて寝してるッてえと、この鴨三羽、自分のほうから舞いこンで来やがったのさ」
「そいつアよッぽど、どうかしてる鴨だなあ」
「もっとも、陸ではあの穆さんの兄弟に、なにか恨まれて追ッかけられて来たものらしい。……だが、チラと見るってえと、二人は端公、一人のほうは色の黒い江州送りの流刑人だ。そのくせ囚人のくせに首枷を外していやがる。ははん、こいつ銀を持ってやがるナと、そう睨んだので穆さん兄弟や若いのが、渡せ渡せと、岸でわいわい脅しゃあがったが、こっちも渡世と、とうとうお返し申さず仕舞いというわけさ」
「おい、張! もう一ぺん聞かせてくんな。江州送りの色の黒い流刑人だって。そこにいるのか、その人が」
「うム、こいつだが」
「もしや?」
ばっと、その快舟にいた三人の男たちのうちから、ひとりがこっちの舟へ跳び移って来た。そして上下に躍る足もとも早きざみに。
「もしやそちらは、宋押司さんじゃありません」
「えっ?」と宋江は伸び上がった。そして思わず両手を虚空に振り上げて。「──おおっ、いつぞやの李俊か」
「李俊です。お忘れのはずはない。掲陽鎮の峠茶屋でお目にかかり、またおとといの夜はてまえの家にお泊りねがってお別れしたばかりでした」
「どうして、あなたがここへ」
「今日は家にいて出る気もしなかったんですが、夕方から妙に心が騒ぎ立ち、こんなときには、いっそ大江を漕ぎ廻し、闇屋の塩舟でも襲ッて飲みしろ稼ぎでもするかと、ほかの兄弟分ふたりを誘いあわせての帰り途。いや、こいつも尽きぬご縁というものでしょう」
驚いたのは、薄刃切りにかかりかけた張とよぶ船頭である。茫然、あいた口もふさがらない。
「李の兄貴、いったい、こいつあどうしたわけです」
「どうもこうもあるものか。てめえも命びろいしたようなもんだぞ」
「へ。こッちがですかえ」
「そうよ。こちらは山東の及時雨、宋押司さんだ。もしその薄刃で逸まッたことでもしてみやがれ。てめえはたちどころに俺たちの制裁を食うか、この土地にはいられねえはずだ」
「げッ。では、そのお人が」
がらりと薄刃を投げすてて、張はそこへ這いつくばった。そして彼ら仲間の最上な礼と謝罪のかたちをとって「……お見それいたしました。このお詫びにはどんなことをなされてもお恨みには存じません」を繰り返した。
ほどなく二そうの舟はすこし漕いで、一つの洲の陸へみな上がっていた。
枯れ葦をあつめて、一人がカチカチと燧石を磨る。火をかこんで酒をあたため、あり合う器で飲み交わす。
混江龍の李俊が連れていたほかの二人は、出洞蛟の童威と、翻江蜃の童猛だ。
これはすでに宋江も顔見しりのこと。あらためての名のり合いはいらない。
初めてなのは、船頭の張だ。
そこで李俊は、彼に言った。
「今、天下の義人といったら、山東の宋公明さん一人だとは、このへんの百姓漁師だって知ってることだ。それをしかも揚子江に住むてめえが知らねえなンざあ、大恥ッ掻きだぞ。焚き火のあかりでよく拝んでおくがいいや」
「どうも面目ございません。お名だけならあっしだって、とうに存じ上げていたんですよ。だがまさか、そんなお人が眼の前に降ッて来ようとは思えなかったんで」
張は、李俊の義兄弟のひとりで、その名は横、異名は船火児──生れは江中の島──小孤山の産だという。
この張横には、もうひとり実の弟がある。
稀代な水泳の達人で、水底十里をよく切っておよぎ、水中を出ぬこと七日七晩という記録をもっている。
そして、その肌の白さ、魚の腹のようなので、人呼んで彼を浪裏白跳の張順といった。
で、元来はこの張横、張順の兄弟は、俗に〝私渡〟とよばれる非公認の渡船稼業をやっていたのである。
揚子江両岸の小都市の間には、さかんに税関抜けの密輸や闇屋が往来する。それやら博奕場帰りやらただの旅人などを乗せて、いざ大河のまン中にかかると、張の兄弟は、かねてしめし合せの荒稼ぎにかかるのだった。
まず、いきなり錨をザンブと投げこんで、横が薄刃のだんびらを持ち出す。──凄文句よろしくならべて、約束の駄賃以上な客の懐中物をせびるのだ。
揚子江の上である。たいがいは慄え上がッてしまう。だが、客に化けて乗りこんでいた弟の浪裏白跳張順が「ふざけるな」と啖呵をきッて抵抗しかける。そいつを相手に張横が芝居の格闘を演じたうえで揚子江に叩ッ込む。
もういけない。舟中はどれも生きた空のない戦慄だけのものになる。張横はにんやりとし、ぞんぶん一人一人のふところをゆすッて、銀や持物をとりあげ、ほどよい岸へ着けて追ッ放してやるのだ。──そして舟で火を焚いていると、やがて弟の張順がその白魚のごとき体に水を切って川の中から舟へ這いあがってくる。
という寸法で、ずいぶんこれで荒かせぎをしては、酒、ばくち、女などにつかい果たしていたが、近来はこの手ぐちも評判になって、さッぱりになってきた。そこで、弟の張順は足を洗って江州で魚問屋に変り、張横は依然この界隈で、不景気面な板子稼業にぼやいて、こそこそ悪さをつづけていたところだった。
「いやどうも」
と、張横はあたまを掻いて。
「あまりお上品な身の上ばなしじゃございませんが、宋押司さんと伺っては、ちっとの嘘も申しあげては相すみません。正直なとこ、そんな外道でございますが、これでも折があったら真性な人間になりてえと願ってるんで。へい、江州へおいでなさいましたら、あっしが手紙を付けますから、魚問屋をやっている弟の奴にも、いちど会ってやっておくんなさいまし」
懺悔とともに、張が言った。
すると、李俊をはじめ、みな吹き出して、
「おや、張横がいやに、しおらしいことをいい出したぜ。そんならこれから村の寺小屋へ馳けつけて、寺小屋のお師匠さんに、さっそく一本書いてもらわなくちゃならねえな」
と交ぜかえした。
こんな冗談も出るほどすぐうち解けていたのである。ところへ、彼方の岸にまた松明の点々が見え出した。宋江よりは端公ふたりがすぐあわて出した。
「あっ、さっきの奴らだ、まだ頑張ってる!」
「騒ぎなさんな」と、李俊は立って、唇に指を咥え、水谺するどく口笛をふいた。すると岸の松明は遠くへ去った、と見えたのは洲つづきの葦の間を廻ってこれへ来たのであった。
李俊は、それへ来た一群をみるとすぐ叫んだ。
「穆さんのご兄弟、おれたちが日頃よくはなしていた山東の及時雨、宋押司さんがここに来ていらっしゃる! さあみんな、ごあいさつだ、ごあいさつだ」
「なんだって?」
穆とよばれたのは、宵に泊りかけた、地主の旧家、穆家の兄弟か。
「おう」
宋江もいまは微笑で会釈した。
まごうなく、その日の昼、掲陽鎮の辻で、香具師の浪人を脅し、またさんざん自分のあとを追ッていたあの壮漢だ。
「李俊」
と、壮漢はやや気を抜かれた調子でいった。
「ほんとかい?」
「よっくごらんなさいよ、男の眼で男の人物そのものを。──あっしはおとといからお目にかかっている。済州から江州奉行所への差立て状も拝見している。そして一ト晩は、お身の上からこっちの素姓もかたりあって、ひとつ屋根の下で寝ているんだ」
「しまった」
と、穆の息子はひっさげていた枇杷の木の木剣をなげだして、その兄なる者とともに、地に平伏した。詫びは兄の方がいった。
「まったく知らぬことでした。どうか、さんざんなご無礼は、平にご用捨くださいまし」
兄は、穆弘といい、あだ名は没遮攔。
弟のほうは穆春、小遮攔はその異名とある。
穆家は江畔の大金持ちでつまり二人はその息子だ。
と、李俊が紹介して、またもひとつ言いたした。
「じつは、この地方には〝三覇〟といいまして、まず掲陽鎮の峠の上と下を縄張りに、あの茶屋の李立とてまえとでそれが一覇。また、街の掲陽鎮では、この穆兄弟がふたりで一覇。次に、揚子江のうえを張横、張順のふたりが持って一覇をなし、つごう〝三覇〟がこのへんを抑えているようなかたちなのでございますよ」
「なるほど。覇とは顔役のことか。後漢の三国に似せたのだな」
宋江は笑った。そしてついでに、
「そういうお仲間同士なら、あの膏薬売りの浪人薛永もわしにめんじて、ゆるしてやってくれまいか」
「仰っしゃるまでもありません」
穆弘は、弟の穆春へ、こういった。
「さっそく、若い者を走らせろ。……そして弟、すぐ宋押司さんを、もういちど屋敷へご案内するんだな。こんなことではお詫びがすまぬ。ゆるして下さると仰っしゃっても、このままのお別れじゃあ、こっちの良心がすむまいぜ」
根はみな「やくざ」も仏心の子か。
黒旋風の李逵お目見得のこと
江畔の大地主穆家では、明けがた大勢の客を迎え入れていた。息子二人は手柄顔に、江上から連れ帰った珍客の宋江を、まずわが親にひきあわせる。
「ほう。あの有名な宋公明さまじゃったのか」
老主人は眼をほそめる。
一家の歓待はいうまでもない。全家をあげてその日は盛宴のかぎりをつくす。
宴のなかばに、さきに使いに走った若い者が、膏薬売りの浪人、病大虫の薛永を街中から探して連れて来た。
「……これは?」
と、薛永はただ驚きあきれる。
彼のために宋江は自分が去ったあともよろしくと、穆家の人々へねんごろに頼んだ。穆弘、穆春の兄弟は、
「ええもう、ごしんぱいなさいますな。ひきうけますとも」
と快諾し、また張横は、いつのまにか一通の手紙を用意し、宋江に渡して告げた。
「江州へおいでになりましたら、あっしの弟の張順ッて男を、どうぞお忘れくださいますな」
何やかや、終日は賑やかな親睦の宴に暮れ、また次の日、さらに翌日も、人々は宋江を掲陽鎮の城内へ連れ出して、名所旧蹟、辻々の盛り場、興行物、ありったけな風物を見せてあるいた。
宋江はもう恐縮しぬいて、一同へこう告げた。
「なんとも、おこころざし、生涯忘れえないでしょう。とはいえ、私は流刑の身、こう甘えていてはお上にも畏れあり、あしたは是非是非お別れ申さねばなりません」
さて。その前夜には、一同揃って、また惜別の宴だった。席上とくに宋江が心ひかれたのは、穆家の美しい末娘が琵琶をかかえて、この地方の名所、潯陽江のゆかりに因み、かの中唐の詩人白楽天がそこの司馬に左遷されたときに作ったという〝琵琶行〟を聴かせてくれたことである。琵琶行の序詩には、その由来が、こう叙べられている。
〝──中唐の元和十年、私は九江郡の司馬に左遷され、秋の一夜、客を埠頭に見送った。
するとどこかの舟の中で琵琶をひく音がきこえる。その音は、この片田舎に似あわず、京都の声色があった。主はたれぞと問うと、もと長安の歌い妓で、いまはさる商人の妻なるものであるという。
あわれを覚えて、舟に酒を呼び、たって数曲を弾いてもらった。演奏が終ると、彼女は悲しげにうなだれて、若き日の恋や愉しかった日を思い出すらしく、いまは失意の貧しい生活を、この大河や湖ばかりな蕭々のうちに托して、移りあるいている身の上と、ほそぼそ語った。
私(白楽天)は、遠い地方官吏となって都を見ぬこと二年、今夜という今夜ほど、心をうごかされたことはない。人生の哀歓・流離のかなしみ、それをひとりの女に見た気がした。そこで全六百十二字の長詩をつくり、彼女へのなぐさめに贈り、題してこれを「琵琶ノ行」という〟
宋江はこれを暗誦じていた。
乙女の琵琶はすでに絃をかき鳴らし、その紅唇からもれる詩の哀調に一座は水を打ったようにひそまりかえった。
潯陽江頭 夜 客を送れば
楓葉 荻花 秋索々たり
主人は馬より下り 客は船にあり
酒をあげて飲まんとするに管絃なし
酔うて歓をなさず 惨として将に別れんとす
別るるとき 茫々 江は月を浸せり
忽ち聞く水上琵琶の声
「……ああ」宋江は、ついに涙をたれた。故郷が偲ばれてきたのである。老父は琵琶が好きだった。「もしこれがともに聴ける琵琶であったら」と悔やまれ、身の不孝にさいなまれていたのらしい。
声を尋ねて 暗かに問う 弾く者はたれぞと
琵琶の声はやみ 語らんとするも遅し
船を移し 相近づき むかえて相見る
酒をそえ 灯をめぐらし 重ねて宴を開く
千呼万喚 始めて出で来たるも
なお 琵琶を抱きて 半ば面を遮ぎる
軸を締め 絃を撥いて 三両声
まだ曲調を成さざるに 先ず情あり
「…………」
宋江はまた不思議な感に打たれた。灯は冴えて座中、声もないのは奇異でもないが、その顔ぶれは李俊、張横、穆弘、穆春、薛永、童威、童猛、どれをみても血臭い野性の命知らずだ。その荒くれどもが、かくも生れながらの嬰児のように純な姿で神妙に首うなだれて聞き入っているのはいったい何の力なのか?
絃々に抑え 声々に想い
平生 志を得ざるを訴うるに似たり
眉を低れ、手にまかせて 続々と弾き
説きつくす 心中 無限の事
「……そうだ、こんなやりばのない想いは、いまの若い者の胸にはいっぱいなのだ。それを汲んで生かしてやれない宋朝治下のみだれが今日のような世相をつくり、それの反抗が梁山泊などになっていくのか」
耳は絃に打たれながら、宋江は自問自答を独り胸にささやいている。曲はすすみ、大絃は嘈々、小絃は切々──
撥を収めて 心に当りて画く
四絃の一声 裂帛のごとし
東の舟も 西の舟も、ひそまりて言なく
ただ見る 江心に秋月の白きを
いつか、宋江もすべてを忘れた。恍惚として身は司馬の客とともに舟中に在る気がしてくる。
──自ら言う もとはこれ京城の女
家は蝦蟇陵下にありて住む
十三にして 琵琶を学びえて成り
名は教坊の第一部に属す
曲罷りては 曾て善才を伏せしめ
粧い成りては 常に秋娘に妬まれ
五陵の年少は 争って 纒頭を贈る
詩は、彼女の身の上を、こう歌ってゆく。
今年の歓笑、復た明年
秋月 春風 いつしかすぐ
弟は走りて 軍に従い 阿姨は死し
暮去り 朝来たりて 顔色故びぬ
門前 冷落して 鞍馬も稀れに
老大にいたり 嫁して商人の婦となる
商人は利を重んじ 別離をかろんず
前月 浮梁に茶を買いに去る
去りてより以来 江口の空舟を守れば
舟をめぐる月明 江水に寒し
夜ふけて忽ち夢みるは 少年の事
夢に啼けば 粧涙は紅く 闌干たり
宋江は、はっとした。満座のうちからすすり泣きが聞える。鬼をもひしぐようなのがみな顔を濡らしていたのである。そうだった。彼らにも本来の情涙はあったのだ。また親があり情婦があり子がありいろんなきずなもあったのだ。それへの何かに触れる絃と詩とについ真情が流れ出てしまったものだろう。
──いや、ひとごとではない、宋江もまたそっと眼じりを指で拭いていた。
朝。──掲陽鎮の埠頭には、ゆうべの顔がのこらず、宋江のために、送別の惜しみをわかちあっていた。
「どうか、おからだをご大切に」
ことばは世のつねのものだが、万感の真情と尊敬がこもっている。思い思いな餞別物も、両手に余るほどだった。
やがて船が出る。かなり巨きな船だ。蓆帆に風が鳴り、揚子江の黄いろい水が、瑶々とその舷を洗い、見るまに、手をうち振る江岸の人々も街も小さくうすれ去った。
その日のうちに、舟は江州に着く。護送の端公も、ここへ着くと急に、護送小役人の顔つきになった。もちろん宋江の首カセは厳重に篏められ、公文の手つづき、身柄の引渡し、奉行所や牢城などの認知証もうけとって、これはすぐさま済州へ帰って行った。
ときにこの江州一円の奉行閣下は、蔡得章なる人で、当代宋朝の権臣、蔡京の九番目の息子にあたるところから、諸人は彼を、
と、よんでいた。
その蔡九の奉行所から、宋江の身柄は、ただちに牢城の方へ引き渡される。宋江はかねがね聞いていたことなので、所持の金銀は惜しみなく係の諸官吏にわけ与えた。この頃、とくにこの世界では、賄賂はちっとも悪徳でない。相互の常識なのである。で、管営、差撥、書記、牢番にいたるまでが、
「いい新入りだ、気前のいいやつだ」
と、宋江にたいしては、みな愛相がよかった。例の新入りが食う殺威棒の百叩きも受けずにすんだ。
ところがある時、巡回の軍卒頭が、そっと宋江へ注意した。
「おい、君は抜かってるぜ。なぜいちばん大事な牢節級(江州両院の院長)へお袖の下を差上げておかねえんだ。たいへんお気をわるくしている様子だぞ」
「へえ、そうですか」
「そうですかって、平気でいるが、さっそく何とかしたらどうだい」
「いや、ほっときましょう。かまいません」
「おや。……おいおい、あとでひとを恨むなよ。ここの節級さまときたら、腕ぶしはすぐれているし、気は烈しい。どうなっても知らねえぜ」
果たせるかな、それからまもなく、点視庁から呼出しが来た。迎えに来たのも、おなじ軍卒頭なのだ。それ見ろといわんばかりな顔つきで、宋江の腰鎖を曳き、部下大勢とともに、
「節級! 連れて参りました」
と、突き出して、その後ろに整列した。
見ると、銀紋草色の官袍に金唐革の胸当をあて、剣帯の剣を前に立ててそれへ両手を乗せ、ぎょろと、椅子からこっちを睨まえている人物がある。ここの高官にしては思いのほか若そうな年齢だ。毛の硬いもみあげが旋風を描き、節級冠の燕尾がこの者の俊敏さをあだかも象徴しているようにみえる。
「こいつか、軍卒頭」
「はっ」
「病人ゆえ、規定の殺威棒は、猶予しとるということだが、なんだ、ぴんぴんしておるじゃないか」
「はっ」
「けしからんやつだ。さっそく、おれの面前で、百打の棒を食らわせろ」
「お待ちください──」宋江が口をさしはさんだ。「そう仰っしゃる節級は、じつは、私からのつけとどけが届いてないので、それがあなたの自尊心を傷つけているのでございましょう」
「なにっ」
「つまらんお人だ!」
軍卒頭はじめ、みな冷やとした顔いろである。室中、氷のようにしんとなったところで、宋江はなお言った。
「そんなくだらん手輩とは思わなかった。これは興ざめな」
節級は、かあっとなって、いきなり剣の鐺で床をとんと突き鳴らした。
「こやつ。よく面罵したな。ようしっ」
「どうなさる?」
「きっと、ひイひイいわせてやるぞ」
「これは、いよいよ、あいそがつきる。呉用学人ほどな人の知人にも、中にはこんなくだらぬ人もいたのか」
語尾は低い呟きだったが、節級の耳には、聞えていたにちがいない。彼は俄かに何かあわてだして、
「軍卒頭以下、よろしいっ。みんな室外へ立ち去れ」
と、追っ払った。そして急に、辞色をかえて、訊ねだしたものである。
「もしやあなたは、山東の宋公明さんではないのか」
「そうです」
「なあんだ、それなら……」と、彼は豪快な顔を笑みくずして。「はやく言ってくださればいいのに」
「じつは、呉用学人の添え手紙を持来しています。けれど梁山泊の軍師呉用と、官の節級がお知り合いとあっては、ちと、外聞がありましょう。で、わざと申しあげずにいたのです」
「じつは、こちらへも密書が来ていた。そして心待ちにしていたのだが、宋という姓も多い、ただ済州罪人、宋とあっただけなので、つい粗暴な失礼をしちまった。しかし会えてよかった」
「私こそ、しあわせでした」
即日、彼の命令で、宋江はしごく身ままな独房へ移され、鍵まで彼の手に持たせられた。その上、数日たつと、節級は彼をつれて、町へ出かけ、酒楼の階上で、さらに歓をつくした。呉学究との旧交を打明け、また宋江の身の上話もいろいろ求め、十年の交じわりのような想いをあたためた。
そもそも、この節級は、凡人でない。
戴宗という名は、すでに宋江がもらってきた紹介状でわかっていたが、江州では両院の押牢使という上位にあり、称えて、「戴院長」と敬せられているだけでなく、おどろくべき道術をもっていた。
その道術を、彼自身は〝神行法〟といっている。
たとえば、急な軍使となって長途を飛ぶさいには、仏神の像を鞍皮に画いた甲馬に踏みまたがって、脚に咒符を結いつけ、一日によく五百里(支那里)を飛ぶという神技なのだ。で、戴院長のまたの名を、神行太保の戴宗とも人々はいった。
それはともあれ、酒中、階下からとんとんと早足で馳け上って来た者がある。
見ると、酒楼のお帳場さんだ。下でお客とお客の喧嘩だという。それも途方もない暴れ方、どうしても院長さんでもなければおさまりはつかない。仲裁して止めてください、というのである。
「またか。しようのない奴」
戴院長が降りてゆくと、階下の物音はすぐやんだ。そして彼はまもなく黒ン奴のようなかちかちに肉の緊まった凄い男を一人つれて階上へもどって来た。
「宋君。暴れ者はこれです。沂水県百丈村の生れで、黒旋風の李逵といいましてね」
「ほ」
「職は牢城の牢番人です。ところが酒くせが悪い。また、二挺の斧を両手につかう達人だし、拳や棒も心得ているので、だれの手にもおえやしません。またの名、鉄牛の李なんていわれて、恐がられているほどですから」
李逵は、宋江を見ても、すぐ吠えた。
「院長さん、そこにいる棗の腐ッたような色の黒い野郎は誰です?」
「これですからな」
「なるほど。はははは、いや申しおくれました。私は山東の宋公明です」
「へっ?」と、李逵はたまげた声を発して「まさか、院長さんのそばだ。院長さんのお客とあれば、ほんとだろうが。……こいつはしまった」はたと、自分の頬ッぺたを打って、さっそく最敬礼の仁義を切るなどは、どう見てもどこか憎めない男であった。
この者を交えて、むしろその李逵を肴として、さらに杯を交わしているまに。宋江が彼にむかって、なんで階下で暴れていたのかと訊ねると、金を貸せ、貸さない争いだったと飾りもなくいう。──で、宋江がなんの気なしに銀十両をとり出して、
「これで足りるんですか。よかったらおつかい下さい」
といってやると、李逵は雀踊りして、
「てへッ、ほんとに貸してくださるか。ありがてえ、これで目が出たら、倍にして返すぜ。おごってやるよ」
ふところに入れるやいな、あっというまに、もうそこにいなくなっていた。
「宋君」と、戴宗はあとで眉をひそめ「あれには、お貸し下さらんほうがよかったですな」
「なぜですか」
「無類に気のいい正直な奴ですが、なにしてもかねを見たらすぐ博奕場です。いずれ返すには返しましょうがね」
「ま、いいじゃありませんか」
「役には立つ男だが、牢城の困り者です。弱い囚人は可愛がってやるが、上役に毒づくし、仲間の牢番なども、威張る奴へは、こッぴどくたてをつく。なんともはや文字どおりな黒旋風なので」
「そろそろ、戻りましょうか。……城外の川景色でも見ながら」
「む、では江州風物など、ご案内しようか」
ここはさておき、一方の李逵は、もう賭場の盆ござで眼のいろをかえていた。
「おッと、こっちへ、張り駒をよこせ。だれだ相手は?」
「李逵、すごい鼻息だな」
「べら棒め。このとおりだ、さあこい」
銀十両を、前において。
「快だ」
「よしっ、又とゆく」
「張乙、いいな。──あ、いけねえ」
こんどは、張乙の方から先張りで挑みかけた。
「又!」
「受けた、みんなかかって来い。快だ!」
それも負け、李逵の貼り目は、つづいて四、五たびも取られてしまった。それで一瞬、しょぼッとしたが、
「張乙、もいちど駒を振れ。五両貼る」
「貼るたッて、ねえじゃあねえか。どこにかねがあるんだよ」
「あと払いだ」
「ふざけるな」
「一ぺんだけ貸せよ」
「いけないよ」
「なにを──」と、とたんに、張乙の前にあった銀をジャラジャラと掻き廻し「借りなかったらいいんだろう」と、その中の十両をふところに入れて突っ立った。
「あっ、無茶するな。賭場荒しをやらかす気か」
「これでも今日は大人しいんだぞ。もすこし何かしてもらいてえのか」
「ア痛っ。やったな。客人っ、手をかしてくれっ」
「蹴ちらすぞ」
場中の総立ちを見ると、李逵はほんとに暴れ出した。鼻血を出す者、手を折る者、一瞬、さんたんたる光景を現じ出した。
「泥棒っ。盗っ人っ」
張乙はあきらめきれず、逃げる李逵を執念ぶかく追っかけた。李逵はけらけら嘲笑いながら逃げては振り返ってみていたが、そのうちに、誰かにどんとぶつかった。
「こらっ、李逵じゃないか」
「あ、いけねえ。また会ッちまった、院長さんでしたか」
「なぜ人の物を盗む」
「ごめんなさい。じつは今日ばかりは、勝ったことにして、そしてさっきの宋公明さんに、ひとつ大きな顔で、おごってやるといってみたかったんで」
後ろで、宋江は笑い出した。
「かねが欲しいなら、私が上げるものを」
「いや、かねはここへ持っている」
「それはそれ、そこに追っかけて来た人のかねでしょう。返しておやり」
「ケチな野郎だ」と李逵は張乙の手へくれてやるようにそれを返す。宋江は、張乙にいった。
「だれか怪我した者はいないのか」
「ないどころか、賭場中のやつが、荒れ熊の爪に引ッ掻き廻されたようなもんで、目も当てられたありさまじゃありません。茶汲み婆まで、肘を折られてしまいましたよ」
「それはすまんな。じゃあこれを薬代にでもして慰めてやって下さい」
宋江はべつに銀子を与えて、李逵の代りにあやまった。
戴宗はつくづくと見ていたが、こんどは何も忠告しなかった。李逵に叱言もいわない。いずれおちついてからいうつもりだろうか、先に立って、江州の水辺へ道をたどり、
「宋君、白楽天の古跡を見てみますか。なんならご案内いたすが」
「琵琶行のゆかりの地ですな。それはなつかしい」
「彼方の川ぞいに、その琵琶行にちなんだ琵琶亭という茶屋がある。いまは秋ではないが晩春もまたなかなかです。ひとつ、そこで一ぱいやりましょう」
はやくも宋江の旅情に似た胸には、淪落の女が夜舟に奏でる絃々哀々の声が思い出されている。が、さて、その夜彼が味わったものは何か。もちろん、過去にはあったそんな風雅ではない。琵琶亭そのものも人間も、すべては現実の腐爛と濁流中のものだった。
雑魚と怪魚の騒動の事。また開く琵琶亭の美酒のこと
名所旧蹟地には茶店や料亭は付きもので、またそれが点景の風物にもなっている。琵琶亭などもまさにそんな画中の水亭だった。画中の客となった心地である。
「宋君。ご存知でしょうが、ここで飲ませるのが、純粋な江州産の銘酒ですよ。つまりこの芳醇ですな。天下の酒徒なら〝玉壺春〟の名を知らぬものはありません。江州は米所であるうえ、水も佳い地方のせいでしょうか」
戴宗のお国自慢は何かとつきない。宋江もすでに微酔気分である。ひとりまだまだ飲み足らないようなのは、黒旋風の李逵だった。
「どうもお二人さんともお行儀がいい。こっちは手酌とゆきますぜ」
「李逵」
「へ?」
「まるできさまがお客のようだな。おれのも宋君のお肴も、料理はみんなきさまひとりで平らげてしまったじゃないか」
「いや、塩ッ辛い今し方の吸物なんぞは、宋江さまのお口に合やあしませんよ。もっと美味いのをいいつけます」と、李逵は手をたたいて。
「おういっ、料理場の若いの、ちょっと来い」
「お呼びですか。お客さん」
「おう、てめえが板前か。よくもおれたちを名所見物のおのぼりさん扱いにしやがったな」
「と、とんでもない。何かお気に入りませんでしたか」
「あたりめえだ、中華の米の郷、鮮魚の郷といわれるこの江州でいながら、死んだ魚の飴煮や吸物なんぞ食わせやがって」
「どうも相すみません。じつは昨日の材料なんで、活きた魚は今日はまだ」
「不漁だっていうのかい」
「いえ。そこの鼻ッ先まで舟は着いてるんですが、問屋の親方が来ないため、まだ市場の水揚げが始まッていませんので」
「そうならそうと、なぜ断わらねえんだ。このおたんちんめ」
李逵は杯の酒を、板前の顔へぶッかけると、もう突っ立ちあがって、
「おれが行って二、三尾もらって来ら!」
と、出て行ってしまった。戴宗がうしろから、こらっ李逵李逵っ、と呼び返したが振向きもする彼ではなかった。
「いやどうも、困った奴です。せっかくの酒も、あんながさつ者と同座では、美味くも何ともないでしょう」
戴宗は詫びぬくが、しかし宋江は、ただ笑っていた。
「いや、天性無飾というものだ。赤裸、あのまんまな人ですよ。私は好きだな」
こちらはその黒旋風、はやくも江の岸の、水揚げ場へ来ていた。
楊柳の蔭には、小博奕に群れているのやら、寝ている者、欠伸している者、さまざまだった。漁船の舟かずは百隻をこえようか、それがみんな岸に繋いである。
揚子江は赤く大きな一輪の太陽が、西へ沈みかけていた。
「こう、漁師たち。鱸でも鯉でもいいや、見事な魚を、二、三尾選ってよこしねえ」
「やいやい、なんだてめえは!」と、たちまち漁師のすべてから、買出し人、ぼてふりの小商人まで寄りたかッて来て。
「ふざけるな、このもぐりめ。問屋の親方さんが来ねえうちは、小魚一尾、揚げるこたあ出来ねえんだよ」
「百も合点だ、問屋のおやじが来たら、黒旋風の李逵さまのお買上げだといっておけ。もらって行くぜ」
「あっ、この野郎」
五、六人は一せいに組みついたが、ほとんど彼の一跳躍に刎ねとばされ、彼はすでに無数の群舟のなかを、あっちこっち覗き歩いていた。
「おやおや、どの舟にも魚はねえぞ?」
そのはずだった。魚の貯えてある舟底の魚槽は、船尾を竹網仕切りにして、江の水が自由に浸すようになっている。──それを取り外しては覗き込んでいたのだから、魚はよろこんでみな一瞬に逃げてしまったはずだった。
それを見つつ黒山になっていた岸の人影は、
「ああ、見ちゃいられねえ」
「もう、おしめえだ!」
と、嘆息を放った。そしてついに衆のいきどおりをこめた声が「わあッ」となって、櫂、水棹、水揚げ鈎、思い思いな得物を押っとり、李逵へむかってかかって来た。
しかし李逵にとっては、一杯機嫌の景物だった。まるで雑魚の踊りを掻い潜っているようなものでしかない。──ところへ、事の次第を聞いて彼方から飛んで来た六尺ゆたかな色白な壮漢があった。これやこの漁師仲間で、問屋さんと敬われている旦那であろうか。
袖口だけに刺繍のある裾短かな繍の上わ着、洒落者とみえて、黒紗の卍頭巾には、紅紐で結ッた髷が紅花みたいに透いてみえる。商売柄、足は八ツ乳の麻わらじに、黄と黒との縞脚絆といういでたちだ。
「?」
男は、ゆっくりと李逵をにらんで腰にさげていた商売用の秤を、ぼてふりの一人にあずけた。
「おいっ眼が見えんのか、血迷い野郎、こっちへおいでよ!」
李逵は振返るやいな、水牛が怒ッたような勢いで突ッかかって来た。待っていた男の拳がその横面をかんと撲る。袂が腕に巻きついたほどそれは確かな打力だった。だが、しかし李逵にはこたえもせず、逆に相手の腰の辺へ猛烈な足蹴をくれた。男がよろめく。体当りに、諸倒れとなる。李逵が上だった。こんどは李逵の鉄拳が二つ三つ男のひたいや鼻ばしらを打ちつづけた。すると後ろで。
「やめろっ、やめないか李逵」
「あっ? ──」振り仰いで「誰かとおもったらお二人さんか。放ッといておくんなさい。殺したって、罪はあっしが一人でかぶりゃいいんでしょ」
「ばかっ。こっちへ来い」
戴宗と宋江とは、騒ぎをきいてここへ馳けつけ、ほこる李逵をむりやりに挘ぎ離して、なだめつすかしつ、やっと元の琵琶亭の方へ連れて戻って行った。
ところが道がまだ琵琶亭まで行きつかないうちに、早くもさっきの紅紐髷の男が、こんどは雪白な大肌脱ぎとなって追ッかけて来た。それも陸上でなく、小舟に、水棹さし、江の岸を先廻りしていたのであった。
「やいっ、黒旋風とかいった奴、逃げるのか、ざまはねえな!」
「何ッ」
あっと思った瞬間だった。宋江にしろ戴宗にせよ、止める間などはありはしない。李逵は小舟の方へすっ飛んで行き、なにか二た言三言、悪罵を戦わせていたかとみるまに、
「うぬっ」
と、相手の舟のうちへ跳びこんでいた。
「よしきたっ」
待っていたとばかり、舟の中の男は両手をひろげた。
李逵の方でも、勝負腰を挑んでみせたが、何しろ一歩も近づけなかった。なぜなら艫の男はその両脚で巧妙に、
「それ。……どんぶりこ、どんぶりこ」
と口拍子に合せて、小舟を左右に大きく揺りうごかし、舟はまるで風濤に弄ばれる一葉の枯れ葉に似ていた。しかもぐんぐんとそのまに岸から揚子江のただ中へと離れて行くのである。
たまらなくなって、李逵は、
「やい魚屋。おれを恐れたな。男らしくもねえやつだ」
「ふん。言ッたね。さあ来い」
「そんな足拍子はやめて、てめえからかかって来い」
「こころえた。かたづけてやる」
言下に、男は片足立ちとなって、その体を、舟の外へ斜に描いて見せた。すると小舟は苦もなくひッくりかえってしまった。同時に李逵の姿も男の影もほとんど、一波の白いしぶきも揚げず、ただもっこりと江中に沈んでいった。
驚いたのは、宋江と戴宗である。──慌てて近い岸のなぎさまで馳けよって来たときは、江上の舟はすでに裏返しとなってただよい、漁師、ぼてふりの輩は、さも心地よげな眼を沖へやって、
「うまくやんなすったね、親方さんは」
「何ンたって、浪裏白跳さ!」
「揚子江のぬしみてえなものだ。あの水牛野郎も、たっぷり水を飲むことだろうよ」
と、がやがや快を叫びあっていた。
宋江は、またさらに仰天した。大勢の顔へむかってことば忙しく。
「あの肌の白い魚問屋の主人。あの人のあだ名が、いま誰かの言った〝浪裏白跳〟というのですか?」
「そうです、そうです。張順さんと仰っしゃいますぜ」
「それは大変だ。──戴宗どの、こいつは、しまった」
「えっ。しまったとは」
「彼が魚問屋の張順なら、その実兄の張横から私は手紙をもらっている! 江州へ行ったらぜひ会ってやってくださいと」
「や、や、や。それはさて、なんとしたものか?」
困惑と手をにぎる汗、ただ、彼方の水面へ、その眼をこらし合うしかない。
夕陽は赤い半輪をしずめかけ、江の波は青く透いていた。白きは浪裏白跳の張順の四肢か。黒きはさすが弱りぬいた李逵のもがきか。瑤々たる波騒いのかすかに立つところ、見ゆるが如くまた見えぬようでもある。
すると一瞬、からみ合った両者の肉体が、ぼかと波上に浮き出した。それは白龍に巻きつかれた水牛の吠えに似ていた。陸の黒旋風も水中では手も足も出ず、張順の思うままに溺らされて、七顛八倒の飛沫をたてたが、またたちまち、もくもくもく……と水中深くに引きずり込まれた様子だった。
戴宗思わず両手をあげて辺りへ叫んだ。
「漁師どもっ。早く行け。わしは江州牢城の戴院長だ。ふたりを引き分けて連れて来いっ」
戴院長と聞いては驚かぬ者はない。すぐ一舟が矢のごとく岸を離れ、ほどなく双方をもぎ離して連れ帰った。──といっても、浪裏白跳の張順は、颯々と水中を馳けるが如く一人泳いで先に岸へ着き。
「どうも相すみません。院長さんとは少しも存じませんでした」と、すました顔。
李逵もやっと舟から這い上がって来て、
「てへッ、ひでえ目に会わせやがった」
と、鼻や口から三斗の水をゲッゲッと吐いた。
「ともかく、話は彼方の琵琶亭で」
と、すぐ四人は、元の琵琶亭へひきあげ、からくもこの大騒動は一トまず無事におさまった。
そこで李逵、張順、各〻ズブ濡れの衣服を着かえ、髪をたばね直し、そのまに水欄の灯と酒のしたくなど皆、新たな宵をととのえていた。
「さ、みな杯を持ってくれ」
戴宗も、挙げて、和解の音頭をとった。
「雨降って地固まるだ。二人ともこれからは、兄弟分の誼みをもってつきあうがいい。あれほど派手な喧嘩をすりゃあ思い残しはないだろう」
「意趣は何ものこしません。じゃあ、黒旋風の兄貴」
「おやおや、おれが年上かい。張順、よろしく」
次に宋江が、控え目に名のった。
「山東の黒宋江です。張順さん、あなたのご実兄の張横さんとは、掲陽鎮でお目にかかって、いろいろお世話になっています。どうか以後はお見知りおきを」
「えっ、では山東鄆城県の押司、宋公明さんだったんで。どうも、こいつあ驚き入った。じつは掲陽鎮の兄からも、とっくに手紙が来ていました。ぜひお目にかかれといって」
「そうでしたか。まことに奇遇だ」
「いやこの張順も、はからずお三名の豪傑に、一夕一堂のうちでお目にかかり、こんなうれしいことはございません。どうぞこれからは兄弟分の端と思ってお叱りを」
と、ここに好漢同士の刎頸の交わりがまた新たに結ばれ、銘酒〝玉壺春〟の泥封をさらに二た瓶も開いて談笑飽くなき景色だった。
「ほい。すっかり忘れちまったぜ」
「李逵、何を思い出したのか」
「魚ですよ。事の起りは、魚だったじゃありませんか。張順、二、三尾くれないか」
「ケチなことを言いなさんな。何十尾でもよろこんでこの席に進呈したい」
「じゃあ一ト走り、俺が行って貰って来よう」
「おっと待ちな」
「なぜだ、張順」
「おめえはまだ江の水が呑み足らねえのかい」
「わはははは。そう何度も、からかいッこなしさ。じゃあ張順、おめえも一しょに行ってくれ」
「いいとも。ではお二人さん、ちょっと中座いたします」
張順と李逵とは、手をつないで野に歌う牧童のように、仲よく縺れ合って出て行った。まことやこれ、虚心の自然児、草沢の英雄ともいうべき類か。
まもなく、宿の板前や男衆に桶をかつがせ、見ごとな金鱗の金鯉十数尾をすくい入れて二人は帰ってきた。すぐそれを鱠、から揚げ、汁、蕃椒煮といろいろ料理させたが、ものの二尾とは食べきれたものではない。あと四、五尾は笹に通して、
「どうか、おみやげにお持ち帰りを」
と、あくまで心入れな張順のはからいだった。
これですぐ立てばよかったが、折ふし水亭の別座敷で琵琶の音がした。訊いてみると、客の求めに応じてあるく琵琶芸人ということであり、宋江はふと、かつての一夜、穆家の宴で聞いた「潯陽江頭……」の忘れがたい一曲など思い出して、ついそれを呼ばせてみた。
ところが、それは見るからに哀れな親子の舟芸人で、歌曲も四絃も、穆家の乙女の比ではない。──しかし素姓をきいてみると、京師生れで、苗字も同姓の「宋」といい、娘の名は玉蓮というとのこと。宋江には、そぞろ哀ればかり催されて、酒さえ苦くなってきたので、
「もう、いいよ。ありがとう。もうよろしい。……さあ、娘さんに、何ぞそこらの物を喰べさせておやり」
と、なにがしかの鳥目をやって、逆に慰めてやるような始末だった。
けれど李逵にはそんな斟酌もない。娘に酌させて、悪ふざけをしているうちに、何が気に入らなかったのか、娘をキャッと昏倒させてしまった。娘のひたいに小さな血が滲み、耳環も簪も飛び乱れていた。
「これっ、何ということをするのだ」
それを機に、張順と戴宗は彼を外へ連れ出し、宋江はあとに残って、娘の親へ、
「ま。かんべんしてやってくれ。わしは牢城営にいる者だが薬代でも上げるから、わしと一しょについておいで」
と、李逵に代って深くあやまり、たって芸人の男親ひとりを連れて帰った。それやこれやで、せっかくな琵琶亭の歓も、帰りは味気ない夜道になった。──けれど、琵琶弾き娘の宋という男親は宋江から思いがけない慰藉料の銀子をもらい、涙をながして、その晩、彼の部屋からもどって行った。
壁は宋江の筆禍を呼び、飛馬は「神行法」の宙を行くこと
元来、宋江も酒はつよい。ただ挙止やことばが静かなだけで、酒量は誰にも負けはとらない。
〝玉壺春〟やら金鱗の鯉やらで、ゆうべもあれで、したたかに飲み、そして食べてもいたのだろう。……そのせいか明け方から彼はシクシク腹痛を覚えていた。朝陽を見てからはいよいよ烈しく、厠へ通うこと何十回であった。
土産の金鯉は、すべて牢城の差撥や仲間へ分けてやった。囚徒はみな交り番こに彼の部屋へ来て親切に世話してくれる。下痢止めの六和湯を煎じるやら粥を煮るやらで、同囚のたれ一人、宋江の日頃の徳を、ここで報わない者はない。
李逵、張順も見舞に来た。とかくして宋江は、十日余りも寝こんでしまった。ひとつには済州から江州送りとなったときの、長途の疲労が、今にして一度に出たのかも知れなかった。
こうしてやっと、散歩を思うようになったのも、二十日ぶりだ。もうすっかり体はいい。季節さえ初夏の風に変っている。
「……さて、意外にご無沙汰したものだ」
友恋しさに、彼はその日、城隍廟の地内の観音庵に住む戴院長を訪ねてみた。
が戴宗は留守だった。
「張順の家は」
と考えてみたが、魚問屋の忙しい身だし、おそらくこんな上日和では江の上か城外の市場だろう。また李逵ときては、賭場やら牢番溜りやら、いつも居る所さえわからぬ男だ。
しかし独りも淋しくはない。それに病後の快は、おのずから微吟の口笛を唇に誘ってくる。うッすらと快く肌は汗ばみ、眼は郊外の新翠に洗われ、ちか頃にない空腹感もうれしかった。
「おや……酒旗が見える。……おう小酒屋ではない。すばらしい酒楼ではないか」
近づいてみれば、酒旗には「潯陽江正庫」とみえ、また墻門の簷には、蘇東坡の書の板額に、
の三文字が白彫りにされていた。
「ああ、これが江州に名高い潯陽楼か。あいにくと一人だが、まま、見晴らしだけでも楽しもうか」
ずっと入ってゆくと、かどぐちの左右には、朱塗り金箔の聯牌がみえ、一方の華表には「世間無比酒」。片方には「天下有名楼」と読まれる。
階上は五楼にわかれ、江を望む風光は、どの欄に立ってもただ恍惚たるばかりであった。万畳の雲なす遠山は、対岸の空に藍か紫かの襞を曳き、四川くだりの蓆帆や近くの白帆は、悠々、世外の物のようである。
ほかの粋客であろう。箏や胡弓の奏でがどこかに聞え、楼畔の柳はふかく、門前の槐のかげには、客の乗馬がつないであった。すべてこれ、一幅の唐山水の絵であった。
「お客さま。ほかのお連れさまは?」
みせの女中の声に、
「いや、ほんの気散じで、ふらと一人で上がったのだが、一人客はご迷惑かね」
「いいえ、そんなことはございません。どうぞごゆるりと」
「ではお酒をたのむ。菜、肉、汁、料理はおまかせしておくから」
欄を前に、一室の卓で、宋江は独り暢びやかに病後の心を養った。酒はよし、包丁もよし、器なども、さすが「天下有名楼」であった。
「……わが故郷にも、名山古跡はないでもないが、やはり江州は違ったものだな」
心は、雲の遠くにまで遊び、ふと故郷にある老父や弟までを想いおこした。
独り酌む酒は、沈酔になりやすい。かつは二十日以上も乾いていた腸だった。彼はどうしたのかはらはらと涙を垂れた。
「自分も三十はとうにこえたのに、一個の名も成さず、家の業をたすけるでもなく、親からいただいたこの体には刺青されて遠流の身だ。ああ、残念な。ああ、腑がいないことだ。……すみません、父上」
惨として独り注いでは飲み、注いでは飲み、やがてその大酔を自嘲に交ぜて、思わずも一詩を胸に醸していた。
また、ふと見ればかたわらの白壁には、あまたの遊子酔客が、それぞれここに興を書きのこした題詠が見える。彼もまたつい、備え付けの筆をとって、次の章句を書きとどめた。──もし他日、歳月たって、再びここに遊ぶ日の想い出にもなろうかと。
少年、はやくに、経史を学び
長じて、心に謀をえがくも
爪牙、むなしく
迷いの虎に似る
現し身は、罪のいれずみ
いま江州の囚地にあり
もし年ありて、再び来らば
このうらみ、この嘆
潯陽の水も紅となって泣かん
こう一気に書いて来て、宋江はその溌墨の匂いとともに、心気すこぶる爽快になった。無性に、何かうれしくなり、つづいてその後に。
心は山東に、身は呉にあり
憂心は熱く 涙は冷ややか
こころざし成るの日は笑うべし
黄巣も丈夫のかずにあらずと
「むむ、久しぶりでものを書いた」
筆をおくと、彼は椅子に返って、片手に杯を持ち、片手の指で木琴を叩くように卓を弾き、小声でそれを吟じてみた。そこですっかり気分をもち直し、やがて勘定を払うと、踉々蹌々、元の道をもどって行った。──その孤愁の影、多情多感なその日の彼は、あとで思えば、げにも宋江として珍しいことだった。牢営内のわが部屋へ帰りつくやいな、前後不覚、翌朝までぶっ通しに眠って、前日の墨戯のことなど、ほとんど記憶にもなくなっていた。
ここに無為軍とよぶ田舎町がある。
江州のすぐ対岸で、江州府の大街とは絶えず通船が通っており、また黄文炳のような物持ちとなると、これは洒落た自家用船で、いつも江州大城へ出向いていた。
黄は、非役の閑職だった。
そこで無為軍に美邸をかまえ、ずいぶん贅沢な生活ぶりをやっているが、どうして、なおまだ内には野心勃々たるものがあるらしい。その証拠には、彼が四時の珍しい土産物を積んで行くさきといえば、つねにきまって、江州奉行閣下蔡九の私邸であった。
蔡九は、宋朝廷の権臣、蔡大臣の息子なのである。そこへのご機嫌伺いを、せっせとやっている魂胆をみても、彼の腹はわかるというもの。
しかしこの黄文炳の評判はすこぶるよくない。多少の学をはなにかけ、下の者にはふんぞり返り、上には媚態おくめんなしという型の男である。それが今日もまた、奉行官邸へ伺候していたが、折ふし蔡九から、
「今日は大城の宴会で、ちと忙しい。晩にでも来い」
といわれ、黄は、いちど船へ引っ返していた。そして午すぎ頃、何の気なしに、江畔の潯陽楼へ上がって、
「おいおい、ほんの一杯だ。こってりした肴はいらんぞ。あとは茶漬でな」
と、横柄にいいつけていた。
金づかいは吝な客だが馴染みは古い。またそれを腹勘定に入れているこのお客さまだ。やたら小女にまで威張り散らしていたが、ふと白壁の書に目をとめて。
「おお、何だと。……少年、はやくに経史を学び、長じて、心に謀をえがくも? ……」
黄は、太い鼻息でうめいた。
「何、何。……このうらみ、この嘆、もし年ありて再び来らば、潯陽の水を紅に。……だれだろう。こんなものを恐れもなく書いたやつは、これは謀反の詩ではないか。しかも流罪人の筆だ! 奇っ怪しごく」
彼は手を鳴らして、女中、帳場を呼びつけ、これを壁書きした客の年齢人相などを問いただし、そして「鄆城県人宋江作」の署名も写しとって、晩を待った。いや船に寝て、翌朝を待った。
ここらが彼の奸佞なところである。果たして、奉行の蔡九は、ご機嫌すこぶる斜めであった。
「これ黄文、昨夜見えよと申したのに、なぜ儂を待ちぼけさせおったぞ」
「は。申しわけございませぬが、天下の大事にふと心を悩まし、また万一の間違いでもあらぬよう、その下調べに、奔命いたしておりましたので」
「はて。今朝はよく、天下の大事という声を耳にする日だな」
「ほ。何ぞお手許へも」
「いやじつは、父の蔡大臣からご飛脚があって、ちかごろ都の太史院天文監が、こう申しているとあるのだ。……北斗の星、呉と楚の地を照らし、その色赤し、おそらく謀反の徒のおこる兆しならんかと」
「なるほど」
「また、開封東京のみやこ童の間にも、
山はひがしよ
三十と六つ
家木はみだすよ
水と工と
そんな意味もわからん謎めいた童歌が、近来しきりに流行っていると申す」
「いや、恐ろしいものです」
黄は、膝をたたいて言った。
「天に口なし人をもって言わしむ、とか。その童歌も、北斗の妖しき光芒も、偶然ではございませんぞ」
「なにか、証があるか」
「この一紙をごらんください。てまえが昨日、潯陽楼の壁書きから写しとってまいった詩でございますが」
「うウむ……。みずから江州の流人といってあるようだな。囚人の詩か」
「いえいえ、そこはともかく、詩句すべてに流れている不逞な反逆の血と、その恨みかたの凄まじさをご覧ください」
「いかさま、これは革命者の心胆の迸しりだ。世を呪うやつの声だ。鄆城県の人、宋江とは一体だれだろう」
「ですからご管下の牢営にいる済州の流人でしょう。すぐ牢営の蔵帳官に、簿を検せよと、お命じなされませ」
蔡九は、役人をよんで、すぐ簿を調べて来いといいつけ、その間にまた言った。
「都で流行っている妙な童謡の意味は何と解いたらいいのだろう。こいつは何とも分らんな」
「いえいえ、それもよく符合します。……山はひがしよ、とあるのは山東のこと。家木はみだすよ、とは『宋』の文字を、分解したものでございましょう」
「では、水と工というのは」
「江の文字になります」
「なるほど。して三十と六つというその数字は」
「それだけでは、てまえにも判じかねます。おそらく何か星の天数六六をいったのではないかと思われますが」
そこへ、蔵帳官が牢城の簿を持って来て。
「これではございませんか」
と、点簿の名に、朱紙を貼って差出した。
見ると「五月新入り囚徒、鄆城県産、宋江」とある。折も折、宋朝廷の天文太史院は、都下の謡言や北斗を占案って、諸州へ乱のきざしを警報してきたところではあり、この事実なので、奉行蔡九は、たちどころに決断をくだし、
「潯陽楼の壁に、不敵な叛詩をしるした犯人、宋江を即刻からめ捕れ、一ときたりとも時をうつすな」
と、すなわち江州牢城の両院長、戴宗へその命をくだした。
宋江は何も知らずに、その朝、籠の小鳥に餌をやっていた。病中いらい、窓辺の友としていた鳥籠の黄鳥だった。
「宋君! 小鳥どころじゃないぞ」
後ろの扉ぐちに、こう息ぜわしい声を聞き、ふと振向いて。
「おっ。戴院長ではありませんか。そのお顔いろは、どうしたことだ?」
「いやあなたこそ、とんだことをしてくれた。どうにもならん」
「何がです」
「潯陽楼の壁に、あなたは叛詩を書いたではありませんか。自分もいま、見とどけて来た。明々白々、あれまで、書いてしまっては消しようもない」
「……。……?」
宋江はいつまで、じいんと差し俯向いていたが、はっと酒中の記憶をよみがえらせた容子である。さすがに蒼白になった。しかし悪びれる風もない。椅子に腰をくずし、首を垂れて「──一生の不覚」と詫びた。
だが、詫びられた戴宗のほうこそ、今は極度につきつめていた。進退きわまった立場なのだ。すでに、蔡九の命で彼は牢城の軍卒頭以下一隊の兵を、城隍廟の廟前に勢ぞろいさせ、しばらく待てと待たせてあるのだ。
そして、ちょんのま、ここへ姿を現わしたのは、彼の道術〝神行法〟の秘を使って、風のごとくさっと忍んで来たのである。といって何をはなしている隙もない。ただ戴宗が持って来た一計は、
「宋君、ぜひもない。君を縄目にはかけるが、君は偽狂人になってくれ。蔡九の前へ出たら、あらぬ口走りと狂態をつくして、ひとまず吟味の手を焼かすのだ。あとの思案はあととして」
「いや、やめましょう。戴宗どの、覚悟しました。縛ってください」
「いや縛れん。あなたをここで見殺しにしたら、友人の呉用を初め、梁山泊の面々にも一生末生うらまれる。のみならず、江州界隈で義をむすんだ男どもにも顔がたたん」
「でも、こんなおろかな因を作ったのは誰でもないこの宋江自身です。たれがあなたを不義としましょうか。たとえ偽狂人など装ってみても、しょせん、宋江にはよく出来る芸ではなし、醜態をかさねるだけです」
「ま。そうあっさりと、あきらめないで」
「いや天命に従います。それしかない。もしあなたが、いさぎよしとしないなら、私自身で自首して出る」
もう説きようはない。また策もない。
戴宗は長大息した。まもなく、一軍の中に宋江を押っつつみ、蔡九奉行のいる大城の一閣へ入って行った。
あらゆるむごい拷問道具や獄具が白洲に用意されてあった。ここでは血の焔が燃えるのである。だが覚悟のていであった彼には、さまざまな苛責もくだしようがない。口述書をとられ、死刑囚用の重さ二十五斤の首かせが篏められ、その夕、大牢の闇へほうり込まれた。
わずかに、一つの倖せは、命を奉じて、戴宗がさっそくに宋江をこれへつき出していたので、蔡九もその戴宗にたいしては、なんの疑惑も挟まなかった。で、大牢の監視から食事なども、一切彼に委されたことだった。
その夕、一方では奉行蔡九がその自邸で、黄文炳を相手に、
「やれやれ、これで一トかたづき。まずは大事に至らなくて、めでたかったな」
と晩餐をかこんでいた。
「いや閣下。これからですぞ」
「まだ何か、急があるか」
「第一には、さっそく、事の仔細を、都のお父君へ急報し、蔡大臣さまから、陛下へも奏上して、江州大城ご支配の実績として、その功を、朝に聞え上げておくべきでしょう」
「なるほど、そのとおりだ」
「次には、これは国事の大犯人ですから、その処断は、当所において首となすか、あるいは生身を鉄鎖につなぎ、開封の都まで差立てましょうや、この一事も至急お使いをつかわし、お父君の大臣府へ伺いを立てれば、お父君も大そう面目をほどこし、かつまた、お手柄の名聞に相成ろうかと存じますが」
「むむ、なかなかよく気がつく。その献言は用いよう。わしが陞任したら、きさまもこんどは栄職につけてやるぞ。……ではすぐさま、戴宗をよんで、その使いを命じよう」
「戴宗を?」と、黄は小首をかしげ「彼は両院の長ですが、間違いはありませんか」
「たしかな男だ。それに這奴は、神行法とやらいって、一日よく五百里(支那里)を飛ぶ迅足をもっておる」
「では都へでも旬日のまに行ってまた、すぐ還って来られますな。それは奇妙な重宝者」
黄も異議なく同意した。けれどその夜は何か、蔡九に支度があるとかで、戴宗への申しつけは翌朝に行なわれた。
「戴宗、そちの神行法にものをいわせて、至急、都へ使いに行ってもらいたい」
こう前提して、蔡九は、二つの見事な進物籠と、秘封の一書を、そこにおいた。籠には金銀珠玉の祝い物が入っていた。
「じつはな戴宗。儂の父親の大臣には、この七月十五日がご誕生の日にあたる。どうしてもこの祝文と品々は、同日までにお届けせねば意味をなさん。ついては夜を日についで、間に合うように行ってくれい」
「御命、こころえました」
心中では、はたと当惑をおぼえたものの、いやとはいえない。早々、彼は大牢の前へ来て内なる蒼白い顔の人影へ、小声でささやいた。
「すぐ還ってきます。くれぐれ、ご短気なくお体をお大事に」
それからまた、李逵をよんで、云々で都へ行くが、宋江の身を、くれぐれ頼むとかたくいいつけ、もう一つ釘をさして言った。
「おれの留守中、酒だけはつつしめよ」
「ご心配なさいますな。李逵も男だ。お還りを見る日までは、決して酒の匂いも嗅ぐことじゃございません」
「よしっ、行ってくるぜ」
城隍廟のそば、観音庵の家にもどると、彼はすぐさま身支度にかかった。胸に銀甲を当て、琥珀色の袍に、兜巾をつけ髪をしばる。
足ごしらえは八ツ緒のわらじ、膝ぶしに咒符を結いつけ、仏神の像を鞍皮に画いた馬に乗り、進物籠を載せて、即日、江州を立って行った。その迅きこと、霧に駕し、雲を排い、飛鳥にことならず、といわれていた通りである。
また神行の法は、ときにより馬も用いず、その健脚にまかしても、常人の十倍も走ると信じられていた。つまり道教の道術の一つか。先々の旅籠でも、金紙銀紙を焼いて祭りをなし、身は精進潔斎、呪文修法、種々あって、ほとんど道中では寝るまもすくない。
はや、ここは山東の一角。
芦と平沙と、渺として、ただ水である。
戴宗は、馬を降りて、とある水辺の一旗亭を覗いた。そして一ト息入れ、
「おやじさん、酒も飯もいらん。葛湯でもくれないか」
「なに、葛湯をくれと。冗談じゃねえ。そんな病人の飲むようなものはねえよ。ここは居酒屋だ」
「それは分っておるが、ここ何十里一軒の人家も見ない。では野菜汁でも煮ておくれ」
なおまだ、酒屋の下男は、ぶつぶついっていたが、その間に、外から戻って来たのがじつはほんとの亭主とみえる。ぎょろと、内の客を見たが、軒につないである駒のそばへ戻って行き、その不思議な鞍皮の神仏像の絵やら、また戴宗のふうていなどを、しきりに眺めくらべていた。
「もし、お客さんえ」
「おう、ご亭主か」
「どちらから来なすったのかね。道者でもなし、武者でもなし、どうも変ったお身なりだが」
「江州から来たのさ。これから開封東京へ行く途中だ」
「へえ、江州のお方ですか。……じゃあ、もしやあなたは、神行法の道術をつかう戴院長さんじゃありませんか」
「えっ、どうしてわかった?」
「いつも、あっし達の仲間の呉用先生から、天下にただ一人のこんな男が江州にいるといって、神行法の不思議をいつも伺っておりましたんで」
「ふウむ、では貴公は、居酒屋の亭主にあらずして、そも何者だ」
「あなたが呉用先生のお友達の戴宗さんなら、何もおかくしする必要はありません。じつを申し上げます。ここは梁山泊と一水をへだてた江の茶店で、てまえはここに変装して、いつも江の口を見張っている梁山泊の男の一人、旱地忽律の朱貴という者でございます」
「や、や。では梁山泊とは、このあたりか。そして呉用学人は、いまもおいでか」
「おりますとも、大寨の軍師さまで、まいど江州の噂のたびには、きまって、あなたのお名が出る。そしてまた、そこへ流されておいでになる宋公明さまの身を案じなすって、どうしているかと、ほかの一同まで、話のつど胸をいためないことはございません」
と聞いて、戴宗も断腸の感に打たれた。かくまでの男同士の情誼を聞くにつけ、今はつつみ隠しもしていられず、じつはその宋江その人が、かくかくの大難にあって、いまや命旦夕の牢中の闇にあると、事の次第をつぶさに話した。
聞くや否、朱貴は仰天して、俄に息まいた。
「そして何ですかえ、そんなさいを、おまえさんは一体これから都へ何しに行くのだ?」
「だから、今も申したように、蔡九の命でよんどころなく都の蔡大臣邸まで、あれなる誕生祝いを持って急いで来た途中だ」
「冗談いっちゃいけないよ。宋江さまのお命はどうなるんだ。祝い物なんぞは打っちゃっておしまいなせえ」
「そうもゆかん。使いを果たさねば、江州へも還れぬ身では」
「だって、そのまに宋江さまが、ばッさり打首となるかもしれないじゃありませんか。……何、黒旋風李逵という牢番が付いているって。そいつは甘すぎる。一人二人でどうなるものか。さあたいへんだ。まッておくんなさい、戴院長」
朱貴は軒の内へ馳けこんで、例の強弓と鏑矢を取り出し、江の岸からキリキリと引きしぼった。放つやいな、鏑矢は澄みきッた大気を裂いて、はるか江の彼方へ唸って消えた。
戴宗は、先へ気が急がれてきたので、「帰りに寄ろう、呉用によろしく」とばかり、軒さきを出て、馬の手綱を解きかけた。
「とんでもねえ、やるもんか」
朱貴は、その手綱を奪いとって。
「くそ、友達がいもねえ人だ。宋江さまを、見ごろしにしていいつもりか」
「だからこそ、急ぐのだ、一刻も早くと、気が気でない」
「こっちも、こうしてはいられねえのだ。さっ、梁山泊へ行ってくれ。おれと一しょに、山の聚議庁へ行って、仲間一同へ話してくんなせえ」
「そんな道くさはしておられん」
「何が道くさだ。来ねえといっても連れてゆく」
「えいっ、ききわけのない奴」
戴宗は神速の甲馬の上に跳び乗った。そして鞭で、朱貴をしッぱたいたが、離せばこその朱貴だった。遮二無二、馬のしりへよじ登り、うしろから戴宗に組みついて、ふたたび大地へ諸仆れにころげ落ちた。
こんな間に、はやくも江上には、かぶら矢の合図にこたえ、緑旗紅旗の速舟の影が十二、三ぞう白波を切ってこなたの岸へ近づいていた。
軍師呉用にも千慮の一失。
探し出す偽筆の名人と印刻師のこと
水は渺々、芦は蕭々──。梁山泊の金沙灘には、ちょっと見では分らないが、常時、水鳥の浮巣のように〝隠し船〟がひそめてある。そして居酒屋の朱貴が射るかぶら矢を合図に、事あれば、わっと陸へ上がってくる仕掛けになっている。
戴宗といえど、これを見ては、争いも無用と知った。道を曲げて、梁山泊へ立ち寄り、事のわけを自身語るしかないと腹をきめ、
「かたきでも敵でもないのに、おまえさん方と喧嘩はつまらん。さあ案内してくれ」
と、朱貴に身をまかせて船へ移った。もちろん彼がここまで乗って来た〝神行法〟の神馬、都へとどける金銀の進物籠も、あわせて鄭重に船へ積まれる。
「ひと足、お先に」
と朱貴は先頭の水案内舟で急いだ。それが対岸へつくや否、彼は聚議庁(山寨の本丸)まですッ飛んで行き、軍師呉用にわけをはなした。呉用はまたすぐ、首領の晁蓋にこれをつたえ、全山の賊将をよびあつめた。
だから戴宗がそこへ臨んだときは、あらまし、戴宗の開封行きの使命、また、江州牢城の獄にあって、いまや死を待つばかりな運命に落ちている宋公明の危機なども、すでに一同知っていた様子であった。
とはいえ、呉用と戴宗とは、じつに久しぶりな邂逅でもある。二人は手をとりあって、
「やあ、おめずらしい。ただ、恨むらくは、こんな時でなければだが!」
「まったく、こうしているまも、気が気でない。一刻一刻が、宋江先生の寿命が縮まッてゆく今だ。事情がおわかりだったら、拙者はすぐ蔡九の使いで、朝廷の蔡大臣の許まで急がねばならん。──そのうえ江州へ立ち帰り、何とか、先生の救助法に肝胆をくだいてみるつもりですが」
「まあ、おちつき給え」と、呉用は彼の焦燥をなだめて──
「ここには、晁蓋統領以下、寨のおもなる者、ずらりといる。もいちど、ことこまかに、宋先生の大難とかをよう説明してくださらんか」
「心はせくが、ま、お聞きください。じつは」
と、戴宗は縷々一同へ急を語る。また聞くうちにも、満座の面々は、やるかたない悲憤と、宋江の救出に気が逸って、戴宗のことばが終るやいな、
「それっ江州へ行け。江州牢城の獄をぶち破って、宋先生を奪い取って来ようぜ」
と、総立ちの気勢を見せる有様だった。
「いや待った!」と呉用は仲間の一同を制して。「このさい妄動は禁物だ。ヘタな藪蛇は、逆に宋子(宋江)の落命を早めてしまおう。この計略は入念に入念を要する」
「では、軍師に何ぞ妙計がありますか」
「おう無くもない。……まず第一に、戴院長は都へ行ったことにして、蔡大臣の偽手紙を持ち帰り、蔡九を巧くあざむくことだ」
「そして?」
「蔡大臣への偽手紙にはこう書いておく。──犯人宋江なる者は、世上の童の謡言に照らしてみても、ゆゆしき国罪の張本なれば、軽々しく地方において処刑するな。途中厳重に、都へ差立てい、という偽命令で江州から外へ誘い出す」
「なるほど、その途中を待ち伏せてか。──けれど軍師、大臣蔡京の筆蹟はどうしますか。息子の蔡九が見れば、おやじの筆蹟だ、すぐ見破ッてしまいましょうが」
「案じるには及ばん。近ごろ天下に流行ッている四家の書体といえば、蘇東坡、黄魯直、米元章、蔡京の四人で、これを宋朝の四大家といっている」
「蔡京は書ではそんなに偉いのかなあ」
「まあ聞け。……ところで、わしが以前、済州の城内で少しばかり世話してやった書生がある。その蕭譲という者じつに偽筆の名人なのだ。どんな碑文だろうが軸物だろうが、ひと目見たら忘れない。四大家の書体などもそっくり書く。人呼んで、〝聖手書生〟とあだ名しているくらいだし、しかも刀槍を持たせれば、これまた相当に使うといったような男だ」
「読めました軍師の計は。……けれど官印が要りますぜ。蔡大臣の印章のほうは、どうしますか」
「その目算もついておる。おなじ済州に住む印刻師で、金大堅──異名を〝玉臂匠〟という男がいて、これまたその道の達人。──この二人をつかめばいい」
「つかむとは」
「ここで戴院長が身なりを変えて、泰安州の岳廟に住む山伏と化け、済州の町へ行って蕭譲と印刻師の二名人を連れ出すのだ。さきは職人気質、説き次第で造作はあるまい。……天下の泰安州の岳廟に、碑を建てる。ついては天下一の巨匠であるおふたりに、ぜひ岳廟へのぼってお仕事をしていただきたい。そして些少ながら内金としてと、銀子五十両ずつも持っていけば」
「おうっ、あとは聞かないでも分った!」
晁蓋以下、みな手を打ったことだし、当然、戴宗としても、この妙策には異存がない。すぐさま彼は姿を山伏に変え、即日また、船で金沙灘をわたり、済州の道へ急いでいた。
済州の町の役所裏。──と途中で聞いて戴宗はたずね当てて来たが、その家ときたら、覗いて見るまでもない貧乏世帯で、聖手書生の蕭譲は、独り者か、泥窯の下を火吹き竹で吹いていた。
「ごめんください。てまえは岳廟の戴法印という者でございますが」
「なんだい午飯どきに。また岳廟のお札売りか。行ってくれ、行ってくれ」
「いえ、建碑のお願いごとで」
と、戴宗はまず銀子五十両をさきに出して、鄭重に、碑文の揮毫を依頼した。
「ほ。お急ぎかね」
「じつは建碑の日取りまで予定されておりますので、即日、山へお越しねがって、文案、ご執筆、併せて願い申したいというのが、一山の希望でございまする」
「じゃあ、さっそく旅立ちていうわけじゃねえか。したが法印さん、石はあっても、文は間に合っても、彫りはどうしなさるんで?」
「ご当所には、金石印刻の上手、金大堅と仰っしゃる人もおいでのよしで、これからそちらへ交渉に廻るつもりでございますが」
「大堅なら友達だから、仕事もしいいな。おっと、待ちなせえ。一しょに行ってやるから」
蕭譲はもう大乗り気なのである。
泥窯の火も、家の留守も、裏の婆さんへ声をかけて頼んでおき、すぐ連れ立って表へ出た。
そして町中の孔子さまの社まで来ると、汚い細路次の蔭から、一見居職とわかる猫背の男がヒョコヒョコ出て来て、出会いがしらに、
「おお蕭譲じゃねえか。どこへ行くんだい」
「おめえンとこへさ。この法印さんをご案内してね。……もし法印さま、こいつですよ、玉臂匠というあだ名通りな名人の金大堅は」
「これはお初に」
「ま、どんな御用かぞんじません、どうぞお寄んなすって」
と、大堅はさっそく、わが家へ連れもどって、二人から用向きを聞いてみた。──聞いてみれば、泰安州の岳廟で五岳楼が重修され、それを機に、金持の有志の手で一基の石碑が建てられるというはなし。──そして戴宗がここでも銀子五十両を即金で前においたから、大堅も眼をまろくし、それに単純な職人気質、一も二もなく、
「ようござんすとも! 東岳大帝をおまつりしてある岳廟の碑を手がけるなんざ、彫師一代のほまれだ、腕ッこき、やりやしょう」
とばかり大機嫌で引きうけた。二人ともそんな調子で、爪のあかほども、戴宗を疑ってみようともしていない。
その晩は、この路次裏の家で酒となり、明け方には三人連れの旅に立った。そして小半日も歩いたころ、戴宗は「先へ行って有志一同を迎えに出させる」という口実のもとに、姿を消してしまった。
それは、たそがれ近くのこと、道も七、八十里は歩いて、二人ともやや疲れ気味な足を引きずって行くと、突如、夕霧のうちで口笛がつんざいた。見れば、模糊とした一団が寄って来る。これなん梁山泊の一人王矮虎とその手下で、
「かねを出せ。二人とも、身ぐるみ脱げ」
と、立ちふさがった。
「ふざけるな」
と蕭譲も金大堅も、おぼえの腕前で相手に立った。あげくに、逃げる矮虎を追っかけたが、それは早や相手の術中に落ち入っていたものだった。──たちまち附近の山から銅鑼が鳴りひびき、梁山泊の雄、宋万、杜選、また白面郎の鄭天寿などが襲って来て、難なく二人を林のおくへ引きずりこんでしまったのである。
さりとて、金も蕭も、手荒はちっともされなかった。ただ山駕に抛り込まれて、上から麻縄をかけられ、夜どおし目も眩るような早さで翌日も素ッ飛ばされていただけだった。そしてやがて、船にものせられた心地がする。──奇妙、不思議、いったい何処かと、恐々、縄を解かれて出てみれば、思いがけない、旧知の恩人が笑っている。
「……おやっ? あなたは」
「覚えておいでか。呉用智多星じゃ。いや驚かせてすまなかった」
「先生、ここは一体どこなんで?」
「梁山泊の聚議庁じゃよ」
「げッ……」と、二人は泣き出さんばかりな顔を揃えて。「先生、帰しておくんなさい! 大堅にはおふくろがいる、子供もいます」
「案じなさんな、そのご家族たちも、明日あたりは、寨の者が、済州からこれへ連れてくる手筈になっている。そしてこの寨の後ろには、ちゃんとおまえ方の住居も用意してあるし、まあ、おちつくがいい」
「じょ、冗談じゃねえ。どうして、あっしどもを、こんな所へ」
「もとより悪戯や粋狂ではない。二人の腕を見込んでの頼みごとだ。かねてその名は知ってもいよう。もと鄆城県の押司宋公明さんの一命がおまえらのその技術で助かるのだ。……としたら、ここは職人一代の仕事効いでもなかろうかい」
呉用は目的を打明けた。呉用には世話になった旧恩がある。かつは宋江その人を、ふたりとも敬慕していた。蕭譲はたちどころに義心を燃やし、金大堅もまた言った。
「ようがす、やりましょう! 蔡京の印でしたら、朱文白文、いろいろと以前に彫ったこともあり、印譜ものみこんでおりますから」
ここでさっそく、蕭譲は密室にこもって、呉用智多星と戴宗が作っておいた偽手紙の案文をもとに、得意の偽筆をふるい、それに金大堅の彫った印を捺して、もう何人の眼にも、それとしか見えない蔡大臣の返信を作り上げた。
「ああ、これで思いがけなく、あのお方には吉運の展開となった。では一刻も早く」
と、戴宗はそれを携えて、山寨の一同に別れを告げ、また、後日の手筈をもしめし合せて、急遽、例の神行法の甲馬に跨がり、江州の空へ帰って行った。
ところが、その戴宗を金沙灘の埠頭に見送って、寨の一同、元の宴席へもどって酒くみかわしているうちに、軍師呉用が、はっとした色で、なに思い出したか、
「しまった、千慮の一失! あの偽の返信が、逆に宋子(宋江)の命とりとならねばいいが」
といったので、人々は愕然と、酔を醒ました。わけてその妙技をかたむけ、偽墨偽印の作製に心血をそそいだ蕭譲と金大堅のふたりは、どこが悪いのかと、自分らの面目にかけて、呉用の痛嘆とその後悔の言へ、食ってかかった。
一党、江州刑場に大活劇のこと。
次いで、白龍廟に仮の勢揃いのこと
「たれの落度でもない。手ぬかりはこの呉用にある。呉用一代の失策だった」
「軍師、どうして、あの書翰が、宋公明さんの命とりになりましょうか」
「印章を過った。……つい心なく〝翰林蔡京〟という四字の小篆を彫らせたが」
「よろしいじゃござんせんか」と金大堅は責任上、きっぱりいった。「──従来、てまえが見てきた蔡大臣の手紙はすべてあの印だった!」
「いや、いけない」呉用はいつもになくその顔いろを青くしていた。「思ってもみるがいい、江州の奉行蔡九は、蔡大臣のせがれではあるまいか」
「それは、もちろん」と、異口同音。
「ならば、どうして父が子へ宛てて書いた返信に〝蔡京〟と諱の印を捺しましょうぞ。すなわち、人の諱は、目上にたいして、みずからを卑下するばあいに名のるもの。まして公な意を持つ書翰、地方の奉行へやる大臣の下文に、諱の印はつかわない!」
さあ大変である、満座、みな不安と焦燥に吹き研がれた。
「すぐ戴宗を追ッかけて」
とは騒いでみたものの、神行法の飛馬に追いつけるはずもない。ほかに策はないか。まったくない。──ただあるのは、梁山泊の精鋭をすぐって、ただちに江州へ発向することと、そしてこの大過失をいかに償ってみせるか、軍師呉用智多星の神策に待つのみだった。
かかるうちに、一方の戴宗は。
はやくも江州へもどりつき、蔡九奉行閣下へ、都の返信を復命とともに捧呈する。蔡九は大満足でねぎらいの酒、銀子など賜い、
「いかに神行法といえ、疲れたであろう、数日休養するがいい」
と、彼を退出させ、そのあとで父蔡京の返書をひらいてみた。──それには、祝いの籠の品々たしかに受領とみえ、さらに末文には、
──妖人宋江は、国賊のこと、朝廟の大法に照らし、天下ご直裁の例に倣うとの仰せである、すなわち、檻車に乗せ、使軍に護らせ、すみやかに都門へ押送するように。
なおまた。そこもとはいうまでもなく、黄文炳なる者の功も、奏聞に入ってあれば、他日かならず、恩賞ならびに、栄の叙任もあらむ。
と、細々あった。
折ふし取次の者から、黄文炳が見えましたという。ここ連日、黄は日参のかたちなのである。蔡は彼の顔を見るとさっそく言った。
「文炳、よろこんでいいぞ。まもなくそちは栄職につける」
「ほほう。これはまた、夢のような仰せを」
「嘘と思うのか。戴院長が帰って来て、父ぎみの返書をもたらしたのだ、その結果だ」
「や。もう帰りましたので」
「そちの功も、天子に奏上、不日、恩命あらんとある」
「して、宋江の処刑は」
「いそぎ都へさしのぼせとのご下命だわ、まあ、これを見い。ほかならぬきさまのこと、きさまだけには見せてつかわす」
「はっ、これはもったいない」
黄は、うやうやしげに押しいただき、蔡大臣の返翰を読み初めていたが、鋭い目が、やがて再三、再四と、その小首をかしげさせ、ついに思いきった風でいった。
「閣下、これは真っ赤なにせものです」
「ば、ばかなことをいえ! まぎれもない父の筆蹟を」
「いやいや、この印章は、尊大人がまだ翰林院の学士でいらせられた当時ご使用のもの。法帖には見えまするが、大臣現職の今日では、はやお用いではございますまい」
「……ふうむ?」
「それに父上からご子息へ宛てたご書面に、どうして諱ノ印を捺されましょうか。文辞はよくととのっておりますが、近ごろ当代四大家の書体をよく真似る者ありとも聞き及びますし、油断は相成りません。ともあれ、もいちど戴宗を召して、不審のかどかど、お問いただしあってご覧なされませ。……私も屏風の陰にひそんで、篤と彼の様を見届けておりますれば」
このとき、当の人戴宗は、ほぼ安心して、宋江の牢をひそかに訪い、大いに宋江を慰めて、久しぶりにわが家の門へ帰りかけていた途中にあった。
蔡九から追っかけの召をうけて、何事かと、再び彼の前へぬかずき出た。しかし蔡九の口吻もその眉もすでに最初のときのご機嫌ではない。
「戴院長。その方は、都で父の大臣に、直々お会い申したのか」
「はっ。すこぶるご健勝のていに拝されました」
「では、何事にも内門の取次をなす、門衛長も出てきたろうな、王と申す門衛長だが」
「はい。見かけたように覚えます」
「髯はあったか。それと王の年頃は?」
「さよう、さすが大臣邸の忠勤者らしく、年も長け、ゆゆしい髯もありましたようで」
「それっ、戴宗に縄をかけろ」
勃然たる彼の一声のもとに、武者隠しに潜んでいた家士十数名が、いちどに躍り出で、うむをいわせず、戴宗をからめ伏せた。
戴宗は、仰天して叫んだ。
「こは何事ですッ。閣下、てまえに何の科があって」
「だまれっ、門衛長の王は、老齢のため、この春、職をやめ、いま勤めておるのはせがれの王だ、髯などもありはしない」
つづいて、屏風の陰から黄文炳もあらわれて、急所急所をぐいぐいと問いつめる。ついには戴宗も答えにつまり、階から庭へ蹴落されたあげく、仮借なき拷問に責めさいなまれた。
拷問は夜におよび、さすが戴宗も苦しみもだえた。気を失うと水をぶっかけられ、とうとう偽手紙であることは自白のほかなくなった。途中、梁山泊の賊につかまって、摺り換えられたのだと虚実を取り交ぜて白状した。
たちまち、彼の身は、首枷をかけられて、獄へわたされ、書翰が偽ものと分明の上はと、蔡九はあくる日、大牢の与力をよんで、こう厳しい果断をくだした。
「獄中の宋江と、戴宗とを併せて、同日同所で、斬刑に処せ。刑場の立て札には、ともに梁山泊に気脈を通じ、不逞な陰謀をいだいた大賊なりと公示するがいい」
与力の役人は、日頃、戴院長に好意をもち、世記にもなっていた下役なので、ただおろおろと、
「して、その……斬刑の日は、いつにいたしましょうか」
「きまっている。即日、あしたのうちに行え」
「ですが、あいにく、明日は国家の忌日で、なおあさっては、七月十五日の中元節、さらに天子の景命(誕生日)と、盆や祝日がつづきますので、地獄の大牢さえ、牢番から囚徒まで、休ませねばなりません」
「ちっ、ぜひもないわ。では今日より六日の後にしろ」
偶然とはいえ、これや天が宋江に、また戴宗に、幸いしたものといえようか。
六日後の牢城から江州郊外への刑場の道はたいへんな雑閙だった。聞きつたえた見物人がわんわんと黄塵の下に波打っている。
この朝、死刑囚二人は、かたのごとく、白い死衣を着し、油でない膠の水で、尖ンがり髪に結わせられ、赤い造花が、髪の根元に一本挿された。
また獄神の青面廟の前では、この世の名残に一碗の飯と酒が与えられ、それが終ると、裸馬の背で、沿道の眼にさらされながら、牛頭馬頭の獄卒が手綱持ちで、あまたな兵の警戒のもとに、死の刑場へ曳かれてゆく。
刑場は広い竹矢来だ。ただ二ヵ所ほど、矢来の口の囲いを切って、役人口、冥府口と分けてある。死刑囚の口には、一対の白蓮華、白団子が供えてあり、裸馬から下ろされた宋江、戴宗ふたりはただちに、死の莚へひきすえられたが、時刻の午ノ刻にはちと早い。まだ、検視官以下の騎馬列は途中であった。
「やい、やい、やい、やいっ。そんな所から入っちゃならん。出ろッ矢来の外へ」
見物の雲集に、矢来は揺れる。警固の兵は声を嗄らす。
だが、おさまればこそ。中でも一群れの香具師かと見える風態の者どもが、
「おれじゃあねえよ、後ろが押すんだ」
「兵隊さんよ、しみッたれるな、見物はお構いなしだろ。青天井の下じゃあねえか」
するとまた、役人口の方でも、何か荷をかついだ一群の人夫たちが、どっと中へ入ろうとして来た。
「こらっ、お仕置場へ何をかつぎ込む⁉」
「お奉行所からのお届け物だ」
「嘘をつけ。こらッ、そんな天秤棒など下ろさんか」
「いんごうな兵隊さんだね。ちッたあ粋をきかせなせえよ」
「ふざけるな、ここを何と思う」
するとまたぞろ、三輛の江州車を押してきた旅商人の一団が、遮二無二、人渦の中へ割りこんでいた。
「わッしょ」
「わっしょ」
「わッしょい!」
「こらッ──」と、兵隊たちは押し戻し「どこへ行く、どこへ。矢来が見えんか」
「中の広ッ原へだよ」
「てめえらも、首をちょン斬っていただきたいのか」
「ひぇッ……」と、旅商人らは、笑い合って「そいつはごめんだ。こちらは見物させていただきますのさ」
と、車の上に登って、矢来越しに手をかざし合っている。そこへ妙な蛇使いの男、物もらい、風車売り、風船屋、いろんな雑人たちもがやがやと寄ってしまう。制止しても、手がつけられない。
なにしろ、あっちこちである。その喧騒たるや一ト通りでない。そのまに早くも刑場の中央では、検視以下の諸役人が現われ、罪文を読み上げ、また両者の首カセを取り外させるやいな、ずかずかと首斬り役二名が、だんびら提げて側へ寄り、ただ一語、
「観念!」
という声の下だ。
一閃、キラと動く物が遠目にも見えた。
いやその途端というよりは、一刹那の寸前だった。太刀把り二人が二人とも、飛んで来た二タ筋の矢にあっと顔を伏せ、また、何処かでは、
ジャン! ジャン、ジャン、ジャン……
と銅鑼の早鉦が鳴っていた。
銅鑼を叩いたのは、江州車を踏んまえて高く立っていた旅商人の一人だが、ほかの連中は皆、もうそこには見えない。
飛鳥のごとく刑場の真ン中へと馳けていたのだ。いやもっと早かったのは、べつな口にいた人夫、香具師の一団である。すべてたちまち、野太刀、棒、短槍、薄刃刀、天秤棒、あらゆる得物の下に刑吏獄卒を血まつりとして荒れ廻った。と見えたのも一瞬のこと、いつのまにか、宋江と戴宗の姿は消えて失くなっている。修羅の中には二つの莚だけで、あとはさながらただ戦場の凄風にひとしい。
怒濤に乗せられ、怒濤に運ばれて来た心地だった。宋江はわれに返って、
「や、や、みなさんは」
と、あきれ果て、生きたよろこびも、急にはほんとに思えてこなかった。戴宗とても同様である。
夢にもあらで、彼が目の前に見た面々は、すべて梁山泊の人、晁蓋、花栄、呂方、郭盛のともがら。
また燕順、劉唐、杜選、宋万の雄。
朱貴、矮虎、鄭天寿の豪。
さらには、阮小二、阮小五、阮小七、白勝といったような頭立ったもの十七人に、部下百余人の徒党だった。これらいずれもが、旅商人や人足や物売りなどに化けて、一挙、目的をやってのけたのであるのはいうまでもない。
「ああ、あくまで私ごときを、忘れないでいて下さる諸兄の義気、何とことばもありません」
宋江は、悵然と泣いた。戴宗もうれし涙にぬれる。万感のこと、来し方から今後のこと、到底、とっさには語りきれもしない。
「ところで、ここはどこです」
「河畔の白龍神廟でしょう」
「追手がやって来ませんか」
「もちろん来ましょう。けれど、二つの板斧を持った体じゅう黒い男が、殿軍はおれにまかせろと、縦横無尽、追ッ払ってゆきました」
「え。二つの板斧を持った男? それは一体誰だろう。そんな者は仲間にいないが」
「ああ分った、黒旋風李逵ですよ。李逵もただ一人ながら、今日のこの機会を窺っていたものとみえる」
ところへ、廟門の外から大童となった李逵が韋駄天と馳けこんで来た。一同へ向い大声で外から告げていう。
「ここには夕方まで居られねえぞ! 城内では蔡九、黄文炳の指揮で、数千の大軍が集合中だ、はやく江を渡って逃げのびろ」
宋江と戴宗が、廟から呼んだ。
「李逵、これへ来い。──梁山泊の頭領たちにひきあわせてやる」
「おおう、こっちもそのつもりだ」
時もよし、ここへまた、今しがた江岸に着いた三隻の船から上陸って来た一群があった。それぞれ浪裏白跳の張順、張横であり、穆家の兄弟、浪人の薛永、また顔役の李俊、李立から、童威、童猛など、すべて〝揚子江ノ三覇〟といわれる者どもが、塩密売の仲間まで狩りあつめて、これも宋江の救出に馳せつけて来たものだった。
しかし、すでに宋江はここに在って、
「やあ、ありがとう。お蔭でこの通りです。しかし各〻が来てくれたことも決して徒労ではありませぬ。まずみんなに会ってください」
と宋江が仲に立って、晁蓋以下一党の同勢へ三覇の連中をひきあわせた。所もよし、白龍廟の神殿だった、その大廻廊でのことだった。で、これら初見参の面々に、黒旋風の李逵も加え、後世、この日のことをさして、
〝白龍廟の仮の勢揃い〟
と、その壮観を称えている。
こんなわけで、いつか夕迫ってしまったため、早くも城内の騎兵歩兵、千余の襲来をつい迎えて、相搏つ叫喚と宵の血戦を余儀なくされたが、やがて遠く官軍を追いしりぞけ、同勢ことごとく、白龍廟のほとりから船上へ乗り移った。
風を孕む帆ばたきもつかのま、江を下るのは矢の如しである。着いた所は掲陽鎮郊村の穆家、すなわち穆春兄弟のやしきだった。
穆の老父は、手をあげて迎えた。荘丁、女わらべも総がかりで、炊出しにかかる。黄牛、羊、鶏、豚、あひる、およそ園菜家畜をあげて、調理の鍋、大釜にぶちこまれた。
大酒宴となる。いくら大家でもせますぎる。卓はすべて庭園に出され、まさに星夜の盛宴というべき光景。そして慨歌たちまちに、
「奸人黄文炳をただおくべきでない……」
と、なった。
もと膏薬売りの浪人薛永は、かねての恩返しはこのときと、
「まず、てまえを無為軍の町へ、探りにやって下さい。いささか地理人情にくわしくもあり、知人もいる」
と、物見役を買って出たので、即座に一同は、
「じゃあ、行ってくれ。すぐにも」
と、彼へ任命の拍手を送った。
二日後である。薛永は一人の小男を連れて帰って来た。彼の紹介によれば、この小男は、洪都の生れで、通臂猿という妙なアダ名があり、本姓名は、侯健ということである。
「なんで、この人を、連れて来たのか」
宋江がたずねると、薛永がニヤリと答えた。
「職は、裁縫師なんですよ。針と糸を持たせれば、神わざみたいな技能があります」
「ほ。裁縫師とはめずらしい。が、なんのために、その裁縫師を?」
「じつは、ついこの春まで、黄文炳の家庭へ、お抱えの裁縫師として住み込んでいました。いまでは馘になったのですが」
「では、内部の事情に詳しいな」
「それで連れて参ったのです。どうぞこの侯健から詳しいことはお聞きとりくださるように」
侯健のはなしには、聞くべき価値が多かった。
黄文炳の悪評はかくれもないが、その兄の黄文燁は、土地の人にも、
黄仏子(ほとけの黄さん)
と別名でよばれているほど、善人の聞えが高いという。
まいど、貧民には情けぶかく、孤児を養い、公共の橋を自費で架け、風害水災のたびには、身をかえりみず、財を注ぎこむなど、なにしろ、弟の悪文炳とは、ひとつ母親の腹から出たものとは思えないほどな違いだとある。
そこで、その黄仏子の弟ながら、悪文炳のことはみな、毒蜂刺と町でも呼び、男女の召使い四、五十人はいるが、一人とて、文炳を心から主人と敬っている者はないともいうのであった。
「そんなわけなんで……」と、裁縫師の侯健は、おちょぼ口をつぼめて言った。「私と薛永さんとが、ぶらりと、雇人部屋へ遊びに行った振りして、みんなを笑わせ、その晩、野菜園の木戸から同勢を引き入れれば、なあに、見かけは厳重な構えでも、あんな屋敷へ踏み込むのは、何の造作もありませんよ」
「が、兄の文燁の住居は」
「大路をへだてて、弟の文炳の邸宅とは、すぐの斜向いです」
「文燁は善根を積んでいる。そのような善人に禍いをかけてはなるまい」
宋江は消極的になったが、文炳の奸怨を憎む一党の憤怒は熄まず、江州立退きの置土産に、また、世上への見せしめだとして、ついに黄家征伐がもくろまれた。
大小七隻の船に、梁山泊のかしら分二十九人、乾分百四、五十人が乗りわかれ、江を溯って無為軍の町へ忍んだのは翌晩だった。──すでにその日の昼、裁縫師の侯健と薛永は、先に黄文炳の屋敷内へ、口実をもうけて巧く入りこんでいる。
深夜。大きな夏の月の下。
町は炎になった。戦火のように。
四更にかけて町じゅう灰燼に帰したような大騒動だったが、全焼したのは、黄文炳のやしきだけで、つい斜向いの兄文燁の邸宅は、無事、そっくり残っている。
いや一時、文燁の住居の方へ、飛び火したかと見えたときは、町の者でもない家人でもない不思議な人数が、一方の襲撃をやめて、そこの消火に努めたりしていたのだから、町民たちは明け方にいたって、
「いったい、あの降ッて湧いたような人数は、どこから来てどこへ消えてしまったのか?」
と、怪しみ合ったが、誰ともなく、それこそ四日前に、江州府を修羅の巷とした山東の大賊梁山泊の一勢だとの噂が流れ、さてはと、みな身の毛をよだてたことだった。
しかしその暁早くには、すでに大小七隻の怪船は、霧ふかい江上へ漂い出ていた。──事は果たしていたのである。──がただ一つ、最大な目的を逸していた。当の怨敵黄文炳は、その夜、江州奉行所か蔡九の官邸かにいて、無為軍の家にはいず、ついに討ち洩らしていたのであった。
大江の流れは奸人の血祭りを送り、
梁山泊は生還の人にわき返ること
対岸の火災という言葉はあるが、黄文炳にとれば、対岸無為軍の火災は寝耳に水、驚倒して気も失いかけたことだろう。ひとごとどころか、わが家が焼けたという取沙汰だ。
彼はあたふたと、蔡九へいとまを告げ、自家用の美船で、江を渡って行ったが、そのまも心は空だった。
強欲、残忍、吝嗇、佞奸、あらゆる悪評を冷視して一代に蓄えてきた金銀財宝、倉に充つる財貨は、いったいどうなったことやらと?
すると突如、水を切って鳴った鉄笛の一声が、彼のきもを冷やした。どこからか漕ぎ寄って来た三そうの小舟を見たからである。あッと、文炳は腰を抜かした。近づく舳に戴宗を見たからだった。もひとつの小舟には二つのまさかりを持った黒旋風が見える。
「やっ賊だ、引っ返せっ」
しかし、もうまにあわない。
ほかにも五隻の大船の影が迫っている。文炳は狼狽のあまり江の中へ飛び込んだ。とたんに小舟からもしぶきが揚った。浪裏白跳の張順が、歩く大魚みたいな影を水中に描いて、苦もなく文炳を引っ捕え、大船の方へ引きあげていた。
「ざまを見さらせ」
「さあ、みんな寄って来い」
「悪文炳の膾斬りだ。悪運の強い野郎とおもったが、悪運はやっぱり当てにはなるめえ。思い知ったか」
船上は沸いた。血まつり騒ぎだ。
一寸試し五分試しのすえ、江へ投げこまれたのはぜひもない。あげくに、その人間が一代爪に火をともして蓄積した財貨金銀は、昨夜、一物余さず彼の倉から、ここの大船三隻に移されていたのであった。
「さあ、引揚げようぜ。足もとの明るいうちに」
この日も、江州の府城を中心に、官軍の旗や馬けむりが江岸一帯に眺められた。おそらくは大規模な手配がおこなわれているのだろう。都へは使者が馳せ、各州には官符が飛び、梁山泊の名はいまや、全土へ震撼しているにちがいない。
「この上は、てまえたちも、この地には残れません。老父もつれてご一同とともに」
と、穆家の兄弟、三覇の面々、例の薛永や裁縫師の小男までも、こう申し出て、すべて梁山泊落ちときまった。
いちど、全員は穆家に引っ返した。そして、先に白龍廟で結んだ義の誓いを、さらに杯の上で固め、穆家の資産も、土地を置き残したほかはすべて十数輛の車に移したのである。かくて神出鬼没を極めた一味百七、八十人、日ならずして、風の如く、梁山泊へ帰ったのであった。
寨には、俄にまた、人間が殖え、同時に、財倉も充ちてきた。
そのうえなお、この前後、黄門山の四頭領とよばれた賊が、風を慕って、梁山泊へ降って来たので、それも梁党の盟に加えられた。
四名の前身、氏素姓は、どんな漢どもかといえば。
一番上が、欧鵬、アダ名は摩雲金翅。
元は、江上警備軍の軍人という士官くずれだ。
二番目は、蒋敬。
湖南は潭州の産で、文官試験の落第者。──智略にとみ、書算に長じているところから、神算子という異名がある。
三番目は、馬麟といい、またの名は、南京建康、薙刀をよく使い、鉄笛の名人だった。
さらに、どんじりの四番めの男は、光州産の水呑み百姓のせがれで、ばか力があり、鋤鍬の巧みはもとよりだが、案外にこれがまた、刀槍の上手。あだなも妙な──九尾亀だが──しかし陶宗旺という本名もあるからには、まがいなしの人の子には相違ない。
「ところでご一同」
と、或る日、呉用が提案した。
「こう、さまざまな人物、それぞれな技能の持主が、しぜん群星の如く集まったからには、梁山泊をよく保つため、上下の序、礼の順を、厳しく立てねばなりますまい。……まずは、宋公明その人こそ、われら梁党の上に仰ぐ、主座第一のお人たるべき者ではないか」
ほとんど一人の異議もなく、双手をあげて、
「そうだ、ぜひそう願いたい」
と一同、宋江を繞って言った。
「とんでもない」
宋江はかたく辞退した。
「わたくしは、諸兄のために、からくも一命を助けられ、ただ恩に浴して、そのうえ徒食しているに過ぎぬ者、どうかあるじの座には、晁蓋大人をすえて下さい。わたくし如きは、到底その任ではない」
とばかり、何と一同が推しても、ききいれる色はなかった。
「では」
と統領の座には、結局、晁蓋が坐った。──そして二位に宋江、三位に軍師呉用、四位公孫勝と、すらすら衆議がすすんだので、宋江もついそこまでは否みかねて、受けてしまった。
そもそも、宋江はこんなつもりではない。
彼は漢を愛し、世を憂い、轗軻不遇な人間たちに、ふかく同情はしていたが、かりそめにも賊の仲間入りしようなどとは、ゆめにも思っていなかった。──官に仕えては、善吏といわれ、家にいては、よく老父に孝養し、書を読み、身をおさめ、かつ四隣の友や県民たちに、愛情とまことを尽して、おだやかな生涯を愉しまん、としていたのが、彼の人生目的であったのだ。人生如何に生くべきやも、それしかなかった人である。
ところが、こんな破目になった。いまは朝廷から不逞なむほん人と視られ、天地に身をいれるところはない。生きんとすれば、ただこの梁山泊の仲間うちと、一土塊の小天地があるのみだった。
「では、以下の座順は、晁統領からご指名ください」
呉用のことばに、晁蓋は、
「おまかせねがえれば」
と、人物、年の高下なども、配慮して、名を呼びあげた。
──まず五座に、豹子頭林冲と。
それから順次。
劉唐、阮小二、阮小五、阮小七、杜選、宋万、朱貴、白勝。
──以上を左の席として。
そして右側の列順には。
花栄、秦明、黄信、戴宗、李逵。
また、李俊、穆弘、張横、張順、呂方、郭盛、蕭譲、王矮虎、薛永、金大堅、穆春、李立、欧鵬、蒋敬、童威、童猛、馬麟、石勇、侯健、鄭天寿、陶宗旺──すべてで寨のかしら分はこれで四十人がかぞえられた。
聚議庁の大香炉には香が燻べられ星を祭る壇には供え物が上げられて、鼓楽のうちに、慶祝の酒もりが催された。いつもこうした大祭は三日つづく。あくる日は山寨中の手下から、何十という裏山の家族小屋にも、それぞれな祭り振舞が見られるのだった。
子供もいる、老爺もいる、孫もいる、媼もみえる。彼らは山畑をたがやして、世情何たるかも知らず、いとも小さな平和の陽なたを楽しんでいる様だった。
宋江はそうした風景をながめると、また卒然と、あれきり絶えている家郷の老父を思い出して、つい涙をたれた。
で、その夜のこと、一同のいる席で、
「ここへ助けられて来て、早々にまた、わがままを申すようですが、どうしても自分はもいちど、世間へ行って来なければなりません。その数日の暇を、諸兄におゆるしいただきたいが」
と、申し出た。
「ほ。世間へ行くと仰っしゃるが、どこへ何の御用にですかえ?」
「じつは家にのこしてある老父が甚だ気づかわれますので」
「はははは。また先生が始まった」
と、大勢の仲間は大いに笑った。そして宋江の今にも何か熱いものをこぼしそうにしている瞼を見ると、同情は同情とよく分りながらも、笑わざるをえなかった。
玄女廟の天上一夢に、宋江、
下界の使命を宿星の身に悟ること
宋江の親思いは人並みはずれたものである。晁蓋も呉用もそれゆえ止めはしなかった。ただ、宋江の一人旅は危険きわまるものと見て、
「では先生、行ってらっしゃい。その代り用心棒を十人ほどお連れなすッて。……でないと手前どもも心配でただ安閑とお帰りを待ってもいられません」
と、すぐその人選にかかりかけた。
だが宋江は、それも固く辞退した。故郷には弟の宋清もいるので、老父をここへ迎え取る目的の帰り途には三人の旅になる。そのほうがかえって世間に人目立たず、何よりは老父が気楽に来られようというのであった。
どうも何事につけ、人手をわずらわさず、自分のことは自分で処して行こうという内輪好みが、この人の性情らしい。強ってそれを曲げるもどうかと、梁山泊全山の大衆は、あくる日、彼の歓送会だけをさかんにやり、
「どうぞ、お気をつけなすって」
と、金沙灘の向う地まで、その一人旅を見送った。
日を経て、宋江は、故郷の鄆城県宋家村へたどり着いていた。──風の音にも心をおきながら夜を待ってわが家の裏門をコツコツ叩いた。すると弟の宋清がすぐ出て来た。顔をみるや兄弟は抱きあってしばらくことばも出なかった。
「兄さん。どうしてこんな危ない中へ、とつぜん帰って来たんですか」
「じつはな宋清。わしもついに、梁山泊のほかには、この天地に身を置く所もなくなった。……それで老父とおまえを、山寨へ迎え取ろうと思って来たわけだ。さ……すぐ支度してくれ。父上にもそう告げて」
「と、とんでもない! ……」と、宋清はすぐ手を振った。そしていうには、「江州での騒ぎから兄さんの身元には、すべて手配が廻って、県でも網の目を張っています。ましてここの家を放っとくはずはありません。役署の捕手頭、趙能、趙得のふたりが、たえず部下に巡邏の目を光らせているんです」
「えっ。それではどこかに県の巡邏が見ているのか」
「私たちは囮です。親思いな宋江だから、いまにきっと、これへ立廻るにちがいないと、わざと元のままにおいているのですから、それに引っかかれば、老父も私も、また兄さんまでも、しょせん無事にはすみません。……いっそ救い出して下さるものなら、梁山泊のお力をかりて下さい。大勢の加勢がなければとても村は出られませぬ」
宋江は大いに後悔した。
晁蓋や呉用があんなにいってくれたのに、と今さらな悔いを禁じえなかった。だが早やどうしようもない。ふたたび戻って頼むしかあるまい。で彼は、老父の顔すら見ず、宋清にだけ後日を約して、すぐ元の道へ走りもどった。走りながらもわが愚を責めた。なんたる浅慮な我意を押し通して無駄な日数を費やしたことか、と。
汗は衫(上着)のうえにまで滲み出ている。道は暗い。不気味な月がぼやっとあった。一体どれほど馳けて来たろうか。しかもそのうちに大勢の足音もして。
「──宋江、待てえっ」
彼は何度ものめッた。そして心臓も口から吐いてしまいそうな呼吸だったが、恐怖に突かれ通しだった。喘ぎに喘ぎながら急いでいた。だが後ろでは彼を呼ぶ声が、いよいよ近くなってくる。
「南無三……」
薄雲が払われたのか、こつねんと、おぼろな視界が白く月の下に見えた。なんと、彼が迷いこんだ所は、俚俗〝還道村〟という幾重もの丘陵にかこまれた樹林の奥であったのだ。
「野郎、もう逃げ道はねえはずだ」
追ッついて来た四、五十人の捕手は、バリバリと木立の中へ踏み込んで捜査に散らかった。──宋江は生ける心地もなく、ふと目の前に見えた古廟の扉へ、双肩をぶつけてころがりこんだ。
蝙蝠か、むささびか、目をかすめた物がある。いや追手の松明もピラピラ廟の外を走り廻っていた。とてもじっと隠れてはいられない。
「ああ。これまでか!」
よろめいた途端である。そこは内庭の出口か、或は壁でも腐っていたのだろうか。彼の体は、玉垣の中へまろび落ちていた。見ると左右二列の渡廊を抱えて、青瓦も草に埋み、あたりは落葉に寂たるままな社殿があった──宋江は夢中で階を這いあがった。饐え朽ちた欄干を越え、異様な黴の匂いやら蜘蛛の巣やらを面で払った。そして最も奥の深いところの御厨子の内へかくれこんだ。
めりめりッと、どこかを踏み破るひびきがした。つづいて趙能、趙得ふたりの影が、手下に松明を持たせてどやどやと踏み込んで来た。ここの本殿も広くはない。宋江は早や観念の目をとじた。
すると、ごうッとばかりな山風があたりを揺すッた。いや、たんなる山颪しとも思えないそれは悽気をふくんだ家鳴りをなし、とたんに、天井でも落ちてきたような塵埃のかたまりが、墨みたいに捕手たちの松明を吹きつつんだ。──趙能と趙得の二人は、ともに眼をおさえて、
「うッ……。いけねえ。な、なんだ、この大風は」
「ひょっとすると?」
彼らはひとしく、ぞーっと、身の毛をよだてた顔つきだった。
手下の七、八人はもう横ッ跳びに外へ逃げ出していたのである。ここは神殿の奥だ、神威を穢したお怒りだろう、罰があたる、血ヘドを吐く、目がつぶれるぞ──。そんな恐怖を口々に、捕手頭の呶号もきかばこそ、みな飛び出してしまったのだ。しかし、趙能、趙得はまさか逃げも出来ないのだろう、歯がみをして踏みとどまり、
「ばかな奴めら。狐狸はいるだろうが、神や仏なんてものがあるならお目にかかりてえくらいなもんだ。おうっ兄弟、その御厨子の簾を引ッ剥いでみろ。宋江のやつ、もしやそこかもしれねえぞ」
「こころえた!」
だが、どうしたことだろう。一陣の悽風とともに、稲妻のような青白い一閃を浴び、同時に耐えきれぬ眩いにあたまを抱えたまま、二人ともぐるぐる独楽みたいに廻って気を失いかけたのである。──つまりはたった今、お目にかかりたいものだと言っていたものにまざと出会ったもののように趙能、趙得二人もまた、魂を消し飛ばして、どこかへ逃げ失せてしまったのだった。
ふしぎはそれのみでない。刹那、宋江もまた身を真二つに斬られたような紫電を感じてうッ伏していた。そして落雷の異臭では決してない、いや、馥郁といってもよい香気が自分に近づいている思いだった。まぎれなくそれは人の気配にちがいなく、
「星主さま。星主さま……」
と、二人の青衣の童子が左右から自分を呼んでいるのであった。
ぼかと、宋江はうつろな眸で、ふたりの童子の姿を見た。
天竺髷の頭、琅玕の耳環、鳳凰型の沓。
また、その青い綾衣には花鳥のもよう、薄むらさきの、長やかな風持つ紐。
「おっ? ……どなたでしょうか。おふたりは?」
「女神さまの使わし女です。宋星主さまを、お迎えにあがりました」
「星主? わたくしはそんな者ではありません」
「いいえ、おまちがいはございません。お越し下さればわかります」
「どちらへ」
「お待ちあそばしている女神さまのお座所まで」
清々しい微風がいつか宋江の身を乗せている。
月があって、その月が、まるで近くの物のようで、かつて見たこともない燿かしい真珠色をおびていた。
「おや?」
ここはその月の中なのではあるまいか。宋江は疑った。故郷宋家村の近くに、かかる所があったとは、生れてから老父のはなしにも聞いたことはない。
「星主さま。さあどうぞ」
銀柳、金花、楼を繞る翠靄の苑。
登れと誘うこの玉階は、いったい、たれの館なのか。
ふと、天上の仙館が思われた。
「……そうだ、童女も仙童にちがいない」
心の奥で思いながら、宋江は楼台を上ってさらに深い所の殿前にぬかずいていた。どこやらに聞える仙楽も喨々と世の常ではない。朱の柱に彫られてある龍鳳もともに嘯くかとあやしまれ、やがて珠の簾のうちに、薫々たる神気がうごいて、
「星主、お久しぶりでした。ここへおいでの上は、おへだてには及びませぬ。どうぞこなたへ」
きれいな声が、さも親しげに呼びかけて、そこの簾をさらさらと高くかかげさせた。
宋江は身をすくませて、一そう懼れた。
「これは下界の、はしたなき男にすぎませぬ。なんでかような神界へ、まぎれ参ったものでしょうか。どうぞ、ご憐愍をもって、お帰し下さいますように」
「ホ、ホ、ホ、ホ」
女神は玉をまろばすようにただ笑った。そして四人の仙童に命じ、たって宋江に御簾内の席をすすめた。錦繍の椅子であった。
やっと、ややおちついて四壁をみると、龍燈、鳳燭の光は、碧と金色を映え交わし、二列となっている仙童女は、旌、香瓶、笏、供華などをささげていた。
そして七宝の玉座のお方こそ女神のきみか。おん鬘に高々と、飛ぶ鳳凰、九ツの龍、七彩の珠などちりばめた金冠を載せ、天然無双の眉目のおんほほ笑みを、まばゆいばかりに、こぼしておられる。──その雪のおん膚、美妙な薫り。また纒い給う銀紗のおん衣から、藍田の珠の帯やら白玉のかざりにいたるまで、光燿そのものの中にあるおすがただった。
「星主には、おつつが無うて」
と、女神のきみは、あくまで、宋江を初めてみる者とはしていず、お久しぶりゆえ、と祝いで、すぐ侍女に酒を命じた。宋江は酌がるるままに三献ほどいただいた。女神はまた、
「おさかなに、その棗を」
と、仙界の棗の実などすすめられる。宋江はそれも食べ、核子は捨てる所がないので、掌のなかに握っていた。
口中は麝香をふくんだようである。ほのぼのと、身のうちはかろく、
「身は、蝶になって、花のあいだに在るようなここちです。思わず過ごしました。もういただけませぬ」
と、瑠璃の杯を侍女へ返した。
「あまりおすすめしても……」
と、女神は黒曜石のような眸を侍女へやって、
「では、天書の三巻を、これへ」
と、いいつけ、すなわち、宋江への贈り物とした。
それは黄紗にくるまれた三巻の書で、たてよこ五寸、厚さ三寸。──女神はそれを彼へさずけてから告げた。
「星主。どうぞ天に代って天書の道を人の世に行ってくだされませ。あなたのほかに、その人はありませぬ。青人草にあわれをかけ、国の毒と、世の邪をのぞき、なべて義と情けと、信と誠とを、濁り世にも失わないでください。それを行うところに、お怯みはいりませぬ。ここに四句の天の言葉がございまする……
宿ニ遇イテ重ネ重ネ喜ブ
高ニ逢イテ是、凶ニアラズ
外夷、及ビ、内寇
幾処カ、奇功ヲ見ス
きっと後々思いあたることがございましょう。一生お心にとめて、おわすれないように」
宋江は心耳を凝らし、九拝して、ただただ聞き入るのみだった。女神はかさねて、
「──天上の玉帝さまは、あなたにはまだある魔心やら〝道〟の未熟を研かさんとの思し召から、わざとあなたを下界へお流しなされましたが、天縁あらば、ふたたび天の紫府へお呼びもどしになりましょう。とはいえ、下界において、万一にも冥府の獄簿に載るような罪科にお落ちなさればもうわたしの力でもお救いはできません。……三巻の天書を以後の友となされて、それをお研究めなされませ。同学のお相手には天機星(智多星呉用をさす)一人とかぎり、ほかの者には一切他見ご無用です。ゆめ、ご懈怠はなりません、……おお、お名残はつきませぬが、天上界と下界のへだたり、そういつまでもお引きとめはなりませぬゆえ、はや、すみやかにお帰りくだされませ」
宋江は、はっと、ひれ伏した。その姿へ、もういちど、女神の声が、こう聞えた。
「いつかは、いずれまた、天上の玉帝さまの御園でお会いいたしましょう。くれぐれも、下界のご宿命を、つつがなくお果たし遊ばしますように」
……とたんに。
宋江は心のどこかで「あっ」といった。あたりは碧黒い波間にみえ、二匹の龍が、自分に戯れからんでくる。自分は恐くて、逃げもがき、もがくうちにゴク、ゴク、ゴクと水を呑んだ……。……と思ったせつなに、はっと眼をさましたのである。
すべて、南柯の一夢であったのだ。
「……ああ、夢だったのか」
ぐったりと現し身を見出したが、夢にしても不思議であった。黄紗にくるんだ三巻の天書は膝にのっている。またしかも、掌には三粒の棗の核子を握っていたし、口のうちにも、馥郁たる酒のかおりが残っていた。
「はてな。おう、夢にして夢にあらずだ。これこそ、霊験とか、また、よくいう夢想のお告げとかにちがいない。──すると自分の宿命は?」
彼は、もう何か、怖れるものもないように、そこの厨子を転び出て、廟の外に立ってみた。そしてそのとき初めて、廟の額に、金碧あざらかな四文字をはっきり見たのであった。
と、それは読まれた。
玄女、九天玄女。彼は口のうちで唱えながら、眼を天にやった。時刻は、はや真夜中らしい。月は中天にかかっていた。小さく、遠く、かかっていた。
宋江は環帯を解いた。そして腰の肌身へじかに、天書の三巻をくくって持つと、すぐ月の小道を馳け出していた。
ところが、玄女廟を去ることまだいくらでもないうちに、早くも彼の影は、人目につけられていたらしい。彼につづき、樹林の間を豹の如く追っかけていた六、七名の男がある。
「おおういッ。おういッ待てえ」
後ろばかりではない。三方でその呼ぶ声は谺し合った。宋江はたちすくんで、
「しまッた」
と、叫んだ。前面の断崖に、滝の音がする。ここは行きどまりの滝道であったのだ。
しかるに、天来の援けともいうべきか。わらわらと背後に迫って来た男どもは、意外にも、
「おうっ、宋先生じゃありませんか」
「そうだ、宋江さまだ」
と、口々に言いつつ、茫然とあきれ顔の彼の前に、
「ご安心なさいまし。梁山泊から来た赤髪鬼の劉唐でございまさ」
「てまえは、石将軍の石勇」
「催命判官の李立」
つづいて欧鵬、つづいて陶宗旺と、各〻が口を揃えて名のりつらねた。そして最後に──ややおくれて飛んで来た二挺斧を持った男も、
「やっ、宋先生か。やれやれ! これでおれたちもほっとした。おいっ劉唐、峠へ出て、早くこのことをみんなに知らせろ」
と、血ぶるいして言った。これなん黒旋風の李逵だったのである。二挺斧は生々しく血塗られていた。
宋江はほっと、蘇生の思いにくるまれたものの、まだ夢に夢見る心地を、たゆたわせて、
「どうしたわけです。いったい、どういうわけで、諸子がここへは?」
と、面々の姿を見まわすばかりだった。
「いや、よくこの李逵をお叱りなさるが、先生くらい、人に世話を焼かすお方もありませんぜ」
と、李逵は例のごとき打ッつけ調子で、ざっと次のようなわけを話した。
さきに宋江が、ただ一人で梁山泊を立つや、軍師呉用も晁統領も、そのあとからすぐ一隊を組織して、おなじ鄆城県へ潜行していた。
かならず宋江の身に事が起る。悪くすれば官の罠に陥ちる。さすれば、兇変を聞いてから馳けつけたのでは間にあわない──という見通しからである。そしてその観測は外れなかった。
この夜、彼らは宋家村で同勢を三手に分け、一手は宋江の急を救うため還道村の山中へ分け入り、また一方の隊は宋家の屋敷から、宋江の弟宋清と老父の二人を助け出し、これはその場から警固を付けて、まっ先に、梁山泊へ送ってしまったものである。
「ですから先生……」と李逵は、まず宋江にとって第一の憂いに、こう安心を与えたうえで、
「──次には、県の追手頭の趙能と趙得ですが、そいつもかくいう黒旋風が、玄女廟の近くでたった今、この二挺斧でかたづけてしまいました。ですから、もうご心配はございません。……が、峠の方では、一同が案じ合って、吉左右を待っているにちがいない。さあ先生、そっちの方へ急ぎましょうぜ」
と、もう先に立って馳け出していた。
まもなく宋江は、一団の黒い人影を嶺の上に見いだしていた。すでにその人々も劉唐の知らせで宋江の無事を知り、月下、こぞって歓びの手を振っている。
すなわち統領の晁蓋以下、花栄、秦明、黄信、薛永、蒋敬、馬麟らの寨友たちであった。そこへまた李俊、宋万、穆弘、張黄、張順、穆春、侯健、蕭譲、金大堅らも加わり、李逵の一と組をあわせると、約三、四十名の顔合せとなったわけ。
「まことに、よけいなご心配をおかけしました」
と、宋江は一同へ深く詫びて、また特に、
「老父と弟も、はやお手配のもとに、梁山泊へお引取りくだされたよし、ご温情は忘れません」
と晁蓋の手を拝して、しばらくは、うれし涙にくれる風だった。晁蓋もまた無事をよろこんで、この上は一刻もはやく引揚げるが得策と、みな騎馬となって、駒首を東へ回した。──宋江も一頭の馬を与えられ、その馬の背から、ひそかに玄女廟の青瓦を山腹の森に見おろしながら、
「いつかはきっと、今日のお礼詣りにうかがうでしょう。また三巻の天書、四句の天言、それもあわせて心に銘じ、終生決して忘れますまい」
と、胸の奥でくり返していた。
時に、有明けの空翔ける夜鳥の声か。あるいは山家の牧童でも歌っていたのか、ふと古調ゆかしい一篇の詩が月魄のどこからともなく聞えていた。
ぜひなけれ、天地の巡環、いましも
麻のみだれを、世に見する。
見ずや、微賤に起つ、英雄ども
波となって、山東の一角に怒るを。
天罡星はいまし、天に宿さず
地に降りて、それ、百八の業をえがく。
中に瑞気あり、鄆城の一人
知らざるは無けん、及時雨の宋江。
こよい、九天玄女の天書を賜うて
月兎、梁山泊へ その人を送る。
見るべし、以後の仁と義と、礼知の風
また天に代りて、人が天兵を行うところを。
李逵も人の子、百丈村のおふくろを思い出すこと
呉用智多星は、このたびは留守をして梁山泊にいたが、宋江の無事を聞く以前に、宋清と老父が寨城へ送られてきたので、さっそく宋家のために、梁山泊中のほどよい所に、小ぢんまりした一邸を宛てがって、一同の帰りを待っていた。
日かずも待たず、金沙灘を渡って来た舟列は、歓呼の中に、晁統領以下の姿を見せた。また、つつがなく戻って来た宋江の明るい顔に、山も水も沸き返りそうな迎えをみせた。
わけて人々が眼を熱くしたのは、迎えの中から走り出た老父と、走り寄った宋江とが衆目も忘れて、ひしと相抱いたまま、しばし泣き濡れていた姿だった。この日を期して、弟の鉄扇子宋清も、寨城の一員となったのはいうまでもない。
かくて宋江は、年来望んできた〝父子同棲〟の願望を達したが、ここにそれからの余波がつづいて生じた。──というのは、それを祝うべく行われた、翌る日の大宴会において突如、起ったものである。
「お願いがあります。統領、また寨友の諸兄。ぜひ、ききとどけ下されい」
声を誰かとみれば、それはかの道術の達人一清道人、すなわち公孫勝なのだった。
「じつは私にも、長らく不孝のまま、故郷に置き放してある一人の老母がおりまする。また〝道教〟のお師にも、以来、便りすらしておりません。併せて、一度ふるさとを訪い、日頃の詫びをすましたい思いで胸がいっぱいです。どうかこの一清に四、五ヵ月のお暇をいただかせてくれますまいか」
「ほう……。あの人が泣いて言っている!」
一同は感に打たれた。異議なく、彼の願いは、
「それや無理もない。一清先生、行ってらっしゃい」
と、その場で衆議一決となった。
公孫勝は大いによろこび、翌々日はもう以前の雲遊の道士姿となり、腰に戒刀、頭には棕梠笠、そして白衣、白の脚絆に、笈を負って、わが故郷薊州へさして立って行った。
すると彼を見送った帰り途からのことである。何を考え出したか、黒旋風李逵が、がらにもなく時々拳で目をこすっていた。仲間たちはおかしがって、
「李逵、蜂に刺されたのか」
「ははん、赤辛子を噛みつぶしたな」
などと、からかってはいたが、しかし奇妙なことには、日ごろ腹立ちッぽい李逵が怒りもしない。のみならず、その晩の聚議庁の集いでも、飲まず、笑わず、酔いもせず、ベソベソ泣いてばかりいる。
「どうした? 李逵」
宋江がそばへ寄って訊いてみると、訊いてくれた人が宋江であったせいにもよるだろう。彼は手放しでわんわん泣き出して、そして吠えるように訴え出した。
「お、おれだってよ……木の股から生れたわけじゃねえや。こう見えても、故郷には、年とったおふくろがいらアな。一清が羨ましいや。先生が羨ましいんだ。……なんとか、おれのおふくろも、梁山泊へ連れて来て、ちったあ、楽をさせてやりてえもんだと。……つい、それを考えたら、泣けてきて、泣けてきて」
「じゃあ、おまえも故郷へ帰って、母親をここへ連れて来たいというのか」
「先生、何とかしておくんなさいよ。後生だ……こ、このとおりお願いですから」
「さあ?」
宋江は当惑した。同情の念、禁じえぬものはあったが、周囲すべての面は、不賛成の色をたたえている。目と目で顔を振りあっている。
それも無理ではないのだ。何ぶんにも、黒旋風李逵の名は、その暴勇の聞えは、江湖に高い。
ことに〝江州大騒擾事件〟のあとでもあるから、故郷へも、官の手が廻っているにきまっている。そんな所へ、こんな男を、と誰にしろ危ながるのは当然だった。
だが、言いだしたらきかない李逵だ。ついそれを訊いたほうが悪いようなものである。李逵は墨をなすッたような涙を顔じゅうにこすッて、果ては宋江へ食ってかかった。
「いけねえンですか先生。あっしは人間の子じゃねえんだろうか。べら棒め。先生の親や弟は一つにいるくせによ。なぜ俺だけには……」
「まあ、まあ」と、宋江はその背をたたいて「そう泣くなよ、李逵。その気もちは、他人のわしにもうれしいものだ……。だが、統領、軍師以下、みな難色を示しておられるのは、万一のばあいを怖れるからだ。……もしきさまが、わしのいう三つの条件を、かたく守ると約束するなら、宋江からご一同へたのんでやるが」
「ど、どういう約束ですえ? 三つの条件とは」
「第一には、道中一滴の酒も飲まないこと」
「ようがす! やめよう!」
「第二、きさま一人では、何をやらかすか分らぬゆえ、蔭の者一人をこっそり尾行てやるとする」
「それも合点だ。して第三は」
「君がお得意の得物──あの二つの板斧だが──それは帰泊の日まで、呉用軍師のお手許へ預けてゆくことだ」
聞いていた一同は、大いに笑った。おそらくそれだけは手放すまい。李逵にすれば、抱いて寝もしたい子みたいなもの。と思っていたが、李逵はそれもまた約束した。こうなっては、宋江の口添えにもなることだし、彼の願いは一同で承知してやるほかはない。
こういういきさつから李逵もまた、やがて大寨の友としばしの別れを告げ、その故郷、沂州沂水県へと、野太刀一本の身軽な姿で、旅立って行ったのだった。
さて、そのあとではすぐ、
「誰を、奴さんの用心に尾行てやったらいいか」と、なった。
杜選が言った。「──それはここの対岸で、見張り役の酒店をやっている朱貴の兄哥にこした者はありません。朱貴も沂水県の生れで、李逵とは同じ在所の出ですからね」
「いかにも」
と、宋江はうなずいた。
「そうだ、そんなはなしは、いつか潯陽江の白龍廟でも耳にしたことがある。誰か、速舟で朱貴を呼んで来てくれまいか」
朱貴はすぐやって来た。そして命じられた使命にも否やはなく、こう呑みこんで、なお言った。
「現に、てまえの弟の朱富は、いまでも沂水県の西門外で、居酒屋をやってますし、李逵の田舎の百丈村とは、たいして離れてもおりません。……へい、李逵の家ですか。左様、たしかにおりましたよ盲の老婆が。よく縁先の日なたで糸を紡ぐ小車を廻していましたが、それが李逵のおふくろでしょう。盲の世話には、一人の息子がおりましてね、ええ、李逵の実の兄なんで。……なにしろひどい貧乏百姓でしたから、今でもそれに変りはありますまい」
「なにしろ頼む」と、宋江はくれぐれ朱貴に嘱した。「よもやわしとの約束は破るまいが、なにせい、あの奴さん、なにを仕出来すかわからんからな」
「お蔭で手前も久しぶり故郷が覗けます。李逵については、充分、注意いたしますから、ご心配なく」
この役は、朱貴にとっても、好都合なものであったから、勇躍して、彼もまた李逵のあとからすぐ沂水へ出発した。
あとの梁山泊は、しばし平穏無事だった。大寨の初秋は、水清く、山麗わしく、また酒が美味かった。宋江はよく晁蓋と時事を語り、また涼夜の灯火を剪っては、書窓の下にかの三巻の天書をひもどき、呉用とともにその研鑽に耽っていた。
こちらは李逵。
「おれも偉いもンだな。とうとう、約束は破らなかった。これへ来るまで、まだ一滴の酒も……」
なつかしい故郷沂水県は目の前にある。そしてここは町の西門だった。人だかりがしているのは、県城のどこにもあるおきまりの高札場だナと、李逵も何気なく、立ち交じっていた。
と、物識り顔が、声を出して読んでいる。
一ツ。正犯ノ極悪ハ鄆城県ノ者。
共謀ノ戴宗ハ、モト江州ノ
牢屋預リナリ。
同ジク、牢卒ノ李逵ナル者ハ、
当所、沂州沂水県ノ産ニシテ……
「な、なにってやんで……」
李逵が鼻で笑っていると、
「おい、こっちへ来な」
ぐいぐいと、突然、腕を引っ張って辻の角まで連れ去った男がある。
「おや? おめえは金沙灘の見張り茶店の亭主、旱地忽律の朱貴じゃねえか」
「叱ッ。……ば、ばか。人が聞くじゃねえかよ。いま、なにを馬鹿面して見ていたんだ」
「そう馬鹿馬鹿と言いなさんなよ。ここらは何年ぶりか、見るもの聞くもの、なつかしくってさ」
「ちっ。阿呆もほどにしろ。あの高札には、宋江を捕えた者には銭一万貫、戴宗なら五千貫、李逵は三千貫と、てめえの首のお値段までが、触れ書になっているんだぞ」
「へえ、俺のが一番安いのか」
「そういうおめえだから、宋先生も心配なすって、この朱貴をお目付役に、おめえの後を尾行させたんだ。……ま、立ち話も物騒だ。そこの店へ入りねえ」
「冗談じゃねえ」と、李逵は自分の鬼門のように尻込みした。
「──そこは居酒屋じゃねえか。うむむ、たまらねえ匂いがしやがる。罪だよ、あにき」
「まあいいから入れッてえに」
朱貴はずっと奥の小部屋へ先に入ってしまった。酒肴の註文も馴々しい。そして独りでチビチビ飲み初めた。李逵は汗拭きの布を出して、鼻と口を抑えていた。
まもなく、店の亭主が、あいさつに来た。それが朱貴の弟、朱富だったのである。李逵にしても、同郷人なのですぐ打解けた。ただ打解け難いのは、みすみす目の前にある酒、杯だ。
「なあ、あにき……。お目付のあにきが見ている前だけなら、ちっとぐらいは、いいだろうじゃねえか。俺アもう目が眩みそうだ、死んじまいそうだよ。飲ましてくれよ」
朱貴は吹き出してしまった。聞いてはいるが、李逵の酒くせも猛勇ぶりも、彼はまだほんとには知っていない。で、つい同情負けして、
「ちくと飲きねえ、ここだけだぜ」
と、杯を与えてしまった。
舌つづみを打って、李逵は目を細めた。もう自分でも歯止めがきかない。もう少し、もう少しで、夜も丑満の真夜半ごろまで、ついつい話と酒に興じてしまった。そして亭主の朱富にもせきたてられて、やっとおみこしを上げたのは、五更(夜明けがた)の残月が淡く町の屋根に傾いていた頃だった。
「だいじょうぶか李逵。足もとは」
「へン、これっぱかしの酒が何でえ。笑わしちゃあいけねえよ。おっと、笠を忘れた」
「それ見やがれ。ま、手を出すな。かぶせてやるから」
「おふくろに会ったら何ていやがるだろうな。ああ、あしたの晩は、おふくろのオッパイに頬ッぺたをつけて寝るかな。……ははは、あばよ。あにき」
「おいおい李逵。そっちじゃねえぞ。そっちは近いが山越しの裏道だ。本街道を行けよ本街道の方を」
「やだよ」
「知らねえのか。子供の時分から、虎が出るんで、虎の名所といわれてるんだぞ。近頃はまた、追剥ぎも出るッてえ噂だ」
「そいつあ、おもしれえ。化け物も故郷のやつならなつかしいや。あにき! あさっては、おふくろを負ぶッてここの店へ帰ってくるからな。たのむよ」
「……あ。行っちまやがった」
朱貴と朱富のあきれ顔も、酒の入っている李逵には、振向かれもしなかった。ひょろりひょろりそれでもいつか、朝まだきには、霧深い山路の奥へかかっていた。
ぴ、ぴ、ぴ、と何の鳥か、けたたましく密林のうちに谺を呼んだ。新秋の木々は早や紅葉していてやがてそこから突然躍り出してきた一個の人間も紅葉の精か、鬼かと見えた。赤い角頭巾に、おそまつな革胴を着込み、足は素わらじ。
「おやおや、何か出て来やがったな。はアて面妖な? ……」
李逵はまだ酔っている。酔眼もうろうではあったが、しかし相手の顔が分らないほどではなかった。道をはばめて突っ立った大男は、墨で顔を塗りこくり、手には二本の板斧を引ッさげていたのである。
「お早う。誰だ? おめえは」
「やいっ。知らねえのか。このおれさまを」
「むりをいうなよ。知るはずがあるもんか。つらに鍋ズミを塗って、赤帽子ってえ恰好から見ると、ははん、百丈村の村祭りにござッた旅芸人の道化役者か」
「野郎、酔ってるな。身ぐるみおいてゆけ。これを見たら分るだろう」
「ほう、両手に二挺の板斧とおいでなすったね。えらい物をお持ちだなあ。して、お名まえは」
「百丈村の鉄牛を知らねえのか。いま名の高え、黒旋風李逵たあおれのこった」
「へエ。おまえさんが?」
「おうさ。そう聞けば、十人が十人腰を抜かすのに、てめえは馬鹿か、よそ者か」
「俺はいったい誰だろう、さあ分らなくなっちゃった。ひとつ、当ててみないか、偽鉄牛、いやさ偽李逵」
「何だと、偽李逵だと」
「だって、よくこのつらを見てくれよ。俺の在所も百丈村、あだ名は鉄牛、もひとつの名は、黒旋風の李逵っていうんだ」
「ひぇっ」
「おもしろい。どっちが真物か、賭けと行こう。さっ命を賭ったぜ」
「ご、ごめんなさい。……だ、旦那」
追剥ぎはヘタッと露の中に坐ってしまった。そして腹を抱えて笑いやまない李逵の姿を仰いで、米ツキ蝗みたいにお粗末な手をあわせた。
妖気、草簪の女のこと。怪風、盲母の姿を呑み去ること
「野郎。──よくもおれの名を騙って、しかもおれの故郷で、追剥ぎなどしていやがったな。さあ、偽名代を支払え、真物のおれ様へ」
李逵は言いながら男の二挺斧の一挺を取って、あわやその細首を打ち落しそうにした。
男は哀号して命乞いの必死をみせた。泣いていうには、ことし九十になる老母がおり、老母を養うための出来心であったと口説く。そして追剥ぎをするほどな力や度胸がなくても、「黒旋風李逵」とさえいって脅かせば、みな金や持ち物をすてて逃げ出すので、つい面白半分にもご高名をつかって、母子二人の露命をつないでいたもので──と平蜘蛛のようにあやまりぬくのであった。
「ふうむ、おふくろがいるのか」
李逵はたじろいだ。自分も多年の不孝が詫びられ、故郷の母をひき取るために、梁山泊の仲間からひまをもらって、この故郷へ帰って来た途である。かたがた、自分の名が売れていればこそ、自分の偽者も出るのだったと考え直すと、こいつも一個の愛嬌者と堪忍されて来たことらしい。やがて彼は、銀十両を男の鼻面へ投げやって、
「やい、これをくれてやるから、とッとと失せろ。正業について、おふくろを大事にしろよ。こんど悪さを見つけたら命はねえぞ」
「えっ、これを。オオ大人、ご恩は一生忘れません」
「何ッてやんで。おらあ、大人なんていうお人柄じゃねえ。おう、だが一応名だけ聞いておこうぜ。てめえの名は」
「李鬼と申しますんで。へい」
「ほんとかい。苗字から名まで似ていやがる。ま、それも同郷人なら仕方がねえや」
午後の道もまだ山だった。李逵は七月の山路に歩きつかれた。酒はさめ、喉は渇く。考えてみると、前夜、朱富の店でも、酒ばかりで飯はたべていなかった。
「オヤ、小粋な女がいやがるぜ」
山の一軒家だが、酒の旗が立っている。女はざっかけ結びの髪に、草の花を挿し、李逵を見ると、その朱い唇が笑った。
「姐さん、酒はあるかい」
「おあいにくさま」
「ひどく素気ねえな。じゃあ飯を炊いてくれ。飯の菜ぐらいあるだろう」
「お客さん、待ってくれるかね」
「よかろう。一ト昼寝、涼んでいる」
小屋の横へ縁台を持ち出して、李逵はいつか蝉の声にくるまれてトロとしていた。もしこのとき、梢の栗鼠か何かが彼の顔へ胡桃の実を落さなかったら、彼の命はどうなっていたかわからない。
何しても、彼はふと小用をたしに立って行った。それで気づいたことなのである。すぐ裏の台所口の外で、ひそひそ囁きあっている男女があり、女は草簪の先刻の女であるのはいいが、男の方にハッとしたのだ。今朝、峠で、おっ放してやったあの李鬼にまちがいなしだ。
「……そうかえ、まあ、危なかったわねえ!」
と、女は山猫のような眸をくるっとさせて、そして仰山に、あとの声はしばらく唾呑んでいる。
「じゃあ、本物の李逵が帰って来たんだね。あの黒旋風がさ」
「そうだよ、驚いたの何のッて。だけど口から出まかせに、ありもしねえおふくろを称って、哀れッぽく持ちかけたら、馬鹿な野郎さ、何とおれに十両くれて行っちまやがった。あははは」
「しっ……。その李逵に違いないのが、飯を炊いてくれといって、さっきから店の横で昼寝して待ってるんだよ。静かにしないと」
「えっ、奴がここへ来てたのか。そいつあたいへんだ。ど、どうしよう」
「なにさ、男のくせに、いっそ、ちょうどいいじゃないか。飯のおかずへ、しびれ薬をしのばせて眠らせてしまえば、いくら黒旋風だって」
「ア、なるほど。金はまだたんまりふところに持っているふうだった。そいつと、身ぐるみの物を合わせれば、おれたち二人が里へ出て小商いをやる資本にはなるッてものだ。しめた、こいつア運が向いて来たのかもしれねえぞ」
ここまで物蔭で聞いていた李逵は、もすこしいわせておく我慢もできず、ついそこから躍り出してこう呶鳴った。
「やい。なにがそんなにありがたい?」
「あっ」
女は、崖の下へ逃げころんでゆき、飛鳥もおろか、すぐ谷川のすそへ見えなくなってしまったが、李逵は、あきらめた風である。──といっても、その血刀は、雫をたらし、李鬼の首は、胴体から五尺も先に飛んで、ころがっていた。
「ふざけやがって」
李逵は、大きな魔の息に変っている。家の中へ入って、二つの行李をひっくり返し、目ぼしい物をふところへねじ込んだあげく、ちょうど炊きあがった釜の飯までたいらげて悠々とそこを立ち去って出たのである。そして、その血ぐさい身なりが、西の麓へぶらぶら降りて行った頃、彼の貧しい生れ故郷百丈村にも、はや遠方此方、幾つもの小さい灯が、ぼやっと、霧の宵闇のうちに滲んでいた。
「ああ、昔のまんまだ。貧乏もそのまんまだ」
李逵は、生れた家の前に佇んだ。赤土の泥小屋、石の破れ囲い、屋根を越すひょろ長い松、何一つ変っていない。
「……おっ母あ」
彼の声は、土間の一隅に糸車をすえて、他念なく、糸を紡いでいた老母の耳を怪しませた。
老母は、まったくの盲である。
だから日が暮れたのも知らず、糸笊や糸車の手元に、灯を必要ともしなかった。
「おっ母あ。どこかね、おっ母あ」
「おや。……誰かい?」
「おらだよ」
「そ、そのお声は」
「李逵だわな! 鉄牛がいま、帰えって来たんだわな!」
「ひぇッ、せがれだか」
「あ、あぶねえ」
あわてて李逵は抱きとめた。小ッこい老母のからだは、もう彼の体にしがみついて、ただぶるぶるふるえているのである。
「わ、われはまあ、何年も何年も、いったい、どこに何していただよ。ええもう、生きたやら死んだやらさえ、日頃には……」
「ま。……ま、おっ母あ、おちついてくれ。ほんとにすまねえ、勘弁してくらっせ。だがの、こんどは、一生一ぺん、おっ母あにも、なんとか、安心して貰おうと思って、わざわざ、遠くから迎えに来たんだ」
「ほ。遠くから、わたしを連れに? ……それやいったい、どこぞいな?」
「梁山泊といって。いや、違ッた、そ、その梁山泊のある山東という地方へ、じつアこんど、おらあ役人になって行くわけさ」
「ほんとけ?」
「ほんとだとも。そこで、おっ母あにも、こんどこそ、そばにいて一生安楽にしてやれよう。さ、おれの背なかへ負ンぶしなせえ。どこか本街道まで出たら、車を一丁買っておっ母あを載せ、おらが自分で押して行く」
「あれま、そんなに急なのかえ。でも、われの兄がもどってから、とっくり話し合わざ、悪かろうに」
「兄きか。ま、兄きには途中で手紙を出すからそれでいいやな。何しろこっちは急ぐ体だ」
ところへちょうど、外から、兄の李達が帰って来た。李達は李逵とちがって、根ッからの正直者。十年このかた、音信不通の弟だが、江州奉行所からはこの原籍地へ〝お尋ね者〟の手が廻っているし、近ごろ梁山泊の仲間へ入ったという風聞もとうに聞いて知っていた。
「なんじゃと? 野郎がおふくろを連れに帰ってきたって。とんでもねえこったわ。何で極道野郎にそんな殊勝な料簡が」
「まあ兄さん、極道極道と頭ごなしに言いなさるが、おれだって人間の子だ。親を思い出すことだってあらあな」
「いかねえ、いかねえ。餓鬼の頃からおふくろ泣かせのわれが、急に生れ変ったような親思いになるものか」
「嘘だと思うなら兄さん、おめえもいっそ一緒に梁山泊へ行って、おらやおふくろとともに、山で暮しなすったらどんなものだね」
「この悪玉め。この兄までを、悪党仲間へ引き込むつもりでいるのか。おお、お尋ね者を届け出なかったら、後日、村の衆までみんな罪に問われよう。たとえ弟野郎でも、このままにはしておけぬ。おふくろっ、李逵を逃がしなさんな」
いうやいな、兄の李達は、外へ走り出して行った。日頃、雇われている地主屋敷へわけを告げて、荘家の若者大勢を引きつれ、再び、わが家へ引返して来たのであった。
ところが、すでに老母の姿も李逵の影も家には見えない。そして銀子五十両が、詫びるように、仏壇においてあった。これには李達も心を打たれ、さては弟もほんとに前非を悔いて来たものとみえる。このぶんでは老母を托しても心配あるまい。──そう思い直したとみえて、
「みなさん、せっかくお助太刀を願いましたが、弟野郎は、逸早く風を食らって、ごらんのように、もうここにおりません。なにしろ素迅い奴ですから、きっと、他県へ高飛びしてしまったんでしょう。いまいましいが、今夜のところは、ひとまずおひき取りなすって」
と、一同へ詫び、一同もまたぜひなく、やがてぞろぞろ帰ってしまった。
──げにや、一方の李逵は、その跳ぶこと、まさに飛獣のようだった。背に老母を負い、星影青い夜を衝いて、またたくまに、隣県との山ざかい、沂嶺のいただきへかかっていた。
「せがれや。……せがれよ」
「どうした? おっかあ」
「く、くるしい。もう、そう馳けんでくれい」
「おう、わるかったな。おれでさえヘトヘトだもの。だが山向うへ越えれば人家もある。人里へ出たら、美味い飯やら汁もたんと食わせて上げるでな」
「水がのみたい。……せがれや、のどが渇いて渇いて。飯よりは、水がほしいだ、水をよ」
「水か」
彼もまた、火みたいに、喉の渇びを覚えていたところである。さっそく大きな平たい青石の上へ、背の老母を下ろして言った。
「おっ母あ、ちょっくら谷へ降りて、竹筒へ水を汲んでくるが、ここから一歩も這い出しなさんなよ。目の見えねえおっかあを、独りぼッちでおいとくのは心配だが、いいかね」
「ああいいよ。……李逵や、ちょっとおまえの手を握らせておくれよ」
「なんだい、あらたまって」
「どうして、わりゃあ、そんな優しい子になったんだか。わしゃ、うれしゅうて」
「よせやい、おっかあ。人が見てねえからいいけれど、こんな不出来な伜の手を取って拝むやつがあるものか。……泣くなんて、縁起でもねえ。……じゃあここを動かず待ってなせえよ」
星明りをたよりに、彼は谷川の水音を心あてに降りて行った。谷底は地殻の割れ目みたいな乱岩大石の状をなし、走り流れる奔湍の凄さは、たちまち、夏を忘れさせる。
一石につかまって身を逆しまにし、彼はまず、がぼ……と心ゆくまでそこの谷水を飲んでから、
「ああ、美味え。氷のようだ」
と、腰の竹筒へも汲み入れた。そしてもとの絶壁を、蔦に攀じ、岩にすがり、一歩一歩登りつめて、以前の青石のところへ戻って来てみると、はて、どうしたのか? 老母の破れ沓と杖はあったが、老母の姿はどこにも見えないではないか。またさらに、呼べど叫べど、谺ばかりで母親のこたえはない。
「や、や、や。血がこぼれている?」
李逵は総毛立った。泣きそうになった。
「おっかあ。……おっかあ!」
血しおのあとを辿って、くるくる、地面をあるき巡った。どこまでも、その血まなこを、さまよいつづけた。
するうちに、大きな洞穴があった。前に草原をひかえた台地の蔭である。見ると二匹の虎の子が、人間の片足をしゃぶっていた。猫がまたたびを持ったようにジャレ戯れながら舐り食らっている様子なのだ。──李逵は怒りに燃えた。──畜生っ、畜生っ、おれのおふくろをあんな啖ってしまやがった! ──。一躍、彼は野太刀の下に、その一匹を叩き斬り、次の一匹を、洞穴の奥まで追いつめて突き刺した。しかし、そこで怨みは癒えもしない。彼は慟哭し、なお、おふくろを呼びつつ、もがき泣いていた。
──と、洞穴の外で異様な唸り声がした。わが棲家のうちの怪しき気ぶりに鏡のような眼を研ぎすまして帰って来た小虎の親の牝だった。
「うぬ、おらのおっかあを、初めに、餌食の爪にかけたのは、この牝親だな」
李逵が息をつめていると、やがてのこと、牝は要心ぶかく、まずその尻ッ尾で洞壁を一ト払いしてから、徐々と後ろさがりに、奥へ躄りこんできた。──脇差を抜き、狙いすましていた彼の一閃はとたんに、大虎の肛門をグサと鍔元まで突き刺していた。せつな、ウオオッという吼え声とともに、牝の巨体は、その臓腑の中に短刀を入れたまま、ころげ出て草原をまろび、彼方の林へザッと躍り込んだ。それを逃がさじと、李逵は追ッかけ、林の全体も揺りうごくかと思われた。するとその時、
「あっ、べつな虎だ。また一匹出て来たぞ」
李逵は身を反らした。こんどこそは、彼もその身構えをかたくせざるをえなかったらしい。一陣の風に、牙を剥いて、新たに出て来たのは、額の白い巨大な雄の虎であった。李逵がじぶんの老母を啖い殺された怒りをそのままこの雄虎も、人間の残虐を怒ッていた。一吼一震、うらむが如く、かッと赤い口を裂いて、その復讐に挑んでくる。
「くそっ」
一刀、虎のどこかを搏ったが、その虎尾は、李逵の体を、はるかへ叩き飛ばしていた。虎は彼の上へ、腹を見せて、すぐ躍ッてくる。山が鳴り谷が吼え、黒風、飛葉、つむじとなって、一瞬は何もかも目になど全くとまらない。
しばらくして、李逵はわれに返った。雄虎は朱になってすぐそばに仆れている。自分も五体のどこかを咬み破られたかと思ったが、どうやら立てる。いや歩いてみると歩けもした。……とはいえ、節々の痛さ、綿のような疲れ、野太刀を杖に、それからの彼は、まるで亡霊が歩いている姿に異ならない。そしてどこをどう歩いたやらの覚えもなかったが、夜の白々明け頃、
「ひゃっ? 旅の者、どうしたぞい、その姿は。そしてどこから来なすった?」
と、四、五人連れの猟師に驚かれて、彼自身もはっと自分に返った心地であった。
「お……。ここは麓の降り道か。じつアな土地の衆、ゆうべ沂嶺の上で、連れていたおらの大事なおふくろを、虎に啖い殺されてしまってさ」
「げえっ、沂嶺を越えて来たって。それじゃあ、啖い殺されねえ方が不思議なくらいだ。沂嶺の虎といったら、泣く子も黙るによ」
「そいつを、牝雄二匹、子を二匹、叩っ殺して降りて来たところだ。おふくろ様のかたきを打って」
「やいやい、黙ッて聞いていりゃあ、ほらもいい加減に吹くがいいや。むかしの李存孝や子路だって、たった一匹の大虎を退治してさえ、一世にその名が売れたんじゃねえかよ。なんで四匹の虎を……。あはははは。この旅人は気が変らしい。気狂いだんべ」
「勝手にしやがれ。嘘だと思うなら、嶺の上にある泗州大聖の祠からひがしの、林や洞穴の近所をよく見て来てから物をいえ」
李逵は腹が立った。腹立ちッぽくなっていた。老母を亡い、五体に虎の生血を浴び、妙に、虚脱と空腹の中間にあったのだろう。関っているのも馬鹿馬鹿しくなり、蹌踉として、なお、麓道を降りつづけていた。
ところが、麓の村を見た頃である。さっきの猟師たちに、なお里人数名を加えた一団が、
「おうい、旅の人、旅の人」
と、彼を追っかけて来、たちまち、彼を前後から敬い奉って、なんとしても離れもしない。──のみならず、やがてそのあとからは、李逵が退治した虎四匹を、縄からげにして、村人三十人ほどが、神輿のように肩架に担ぎ、
「さあ、大変だわ大変だわ。沂嶺の虎を四匹、しかも、たった一人でこの通り退治した豪傑が、この村を通らっしゃるぞ。曹の大旦那のおやしきへもすぐ知らせておけ」
と、触れて通った。
村の曹閑人というのは、ひどく因業で欲張り者という評判で有名な小長者だが、これを聞くと、自身、門を開いて、
「豪傑。どうぞまあ、ご休息でも」
と、彼をわが家へ請じ入れ、そして李逵から夜来のいきさつを聞くにおよび、いよいよ舌を巻いたことだった。そこで日頃はケチで因業な曹旦那も、これはよッぽど大したお方に相違ないと、庭園に酒食を出して、李逵から猟師たちまでを家人一同でねぎらった。
「ところで、大人、あなたさまのご尊名は?」
「おれかね。おらあ豪傑だの大人なんていわれるような者じゃねえよ。……むむ、名はあるさ。姓は張、名は大胆」
「へえ、張大胆と仰っしゃいますか。なるほど名は体を現わすとか」
こんなうちにも、曹の屋敷の外は黒山の人だかりだった。虎見物にと押しかけてきた村々の老幼男女は家人の制止もきかばこそ、内門の墻の辺まで混み入って来て。「あれだあれだ。沂嶺の大虎二匹、子虎二匹」「なるほど凄いもんだぞ」「いや凄いのは、ただ一人で四匹の虎を退治なすった人間の方だよ」「その人間様は、どこにいるだか」「あのお方らしいて。あれあれ、曹旦那のそばでお酒を呑んでいる。あの色の黒い豪傑がそのお人じゃげな」などと、いやもうまるでお祭り以上な弥次馬騒ぎ。
と、その中に交じっていたのが、かの草簪を挿した李鬼の情婦であった。つい昨日、山の居酒屋で見たばかりの顔だし、自分の情夫を殺されたあげく、行李の底の物まで盗まれた恨みも深い。その李逵の姿であったから、
「あっ、あいつだ」
と、一ト目見るやいな、すぐ名主の所へ密告に走った。驚いたのは村名主で、かねて布令の廻っている江州荒らしの大逆人で首に三千貫の賞金が懸かっている梁山泊の黒旋風が、村に現われたとあっては一刻も捨てておけない。
すぐ使いをやって、曹旦那を呼び、かくかくと耳打ちすると、曹もまた仰天して、
「えっ? ではあれが、お尋ね者の黒旋風だったのか。そいつはたいへんだ。もし暴れだされたら一大事」
と、ふるえあがったが、しかし官へ突き出せば、三千貫の賞金にありつける。名主と山分けにしてもこれはまた大金儲けと、この因業旦那はたちどころに慾心の炎にもなった。
諺にも〝芥子は針の穴にも入る〟とか。はしなくも草簪の女の眼から事は重大になって行った。沂水県の県役署では、その日、村名主の密訴に接して、ただならぬ動きを俄に見せだしている。知事はただちに、捕手頭の李雲を呼び出し、屈強な兵三十人を附して、
「犯人は四匹の虎と戦って、ひどく疲れているそうだが、それにせよ音に聞えた黒旋風であるぞ。衆を恃んで不覚をとるな」
と、すぐさま沂嶺の麓村へ急派を命じた。
「なんの抜かッてよいものでしょう。かく申す青眼虎がまいるからには」
と、李雲は馬にまたがって先頭に立ち、沂嶺の近道を抜けて急ぎに急いだ。──この青眼虎の李雲という人物は、あだ名の如く、碧眼で羅馬っ鼻の若い西蕃人である。従って、ひげは赤く、四肢長やかで、しかも西蕃流撃剣の達人として沂州では評判な男であった。
虎退治の男、トラになること。
ならびに官馬八頭が紛失する事
いまや李逵はすっかり宋江との約束も忘れていた。梁山泊を立つさい、あれほどかたく、道中では一切酒を禁じ、杯を持たぬと誓って出てきたのに、持ったが病か、性来の単純さか、酒を見たがさいご、何ともはや、自分で自分の処理がつかない。
加うるに、曹旦那の胸には一物のあることなので、あれからもなお「豪傑豪傑」と、一家あげての歓待だった。虎の血だらけな衣服もかえられ、席を曹家の客楼に移して、灯を新たに、宵からまた飲みだしたのだから、もう幾箇の酒瓶を空にしたやらわからない。
「どうぞ豪傑、幾日でもご滞在なすって。そのうちに、虎の皮を剥がせ、お土産として呈上いたしたいと存じまする。また県役署からも、往来の害を除いたかどで、いずれご褒美のお沙汰もあろうと存じまするで」
世辞も過ぎては何とやらだ。曹旦那の口から、うっかり〝県役署〟の一語が出ると、さすが大酔の李逵もギクとした容子であった。
「な、なんの沙汰だって。県役署。そんなところのご褒美などは要らねえよ。虎の皮も欲しい奴にくれてやらあ。よかったらお前さんの褌にでもするがいいや」
「ありがとう存じまする。ま、今夜はだいぶお疲れでもございましょうから、ひとまずどうぞご寝所の方へ」
「ど、どっちだい? ……いったい、おれの寝るところは。いやに、だだッ広い屋敷だな」
「は。ただ今、ご案内させまする。おいおい何をウロウロしている。豪傑のお手をとってあげないか。おっとあぶない……。お足もとをよく気をつけて上げなさいよ」
曹旦那も自身、中廊下の角まで、世話を焼き焼きついて来たが、そこから奥は召使いたちの手にまかせ、あとはただ見送っていた。するうちに、李逵の姿は、大勢の影に囲まれて、一室の内へころげ入った。──いや内へ突きとばされたのだ。──そしてそこの扉が外からすばやく閉められた途端である。どすんっ! と異様な物音が響き、つづいて、ず、ず、ずしんっ……と不気味な震動が一瞬、床下から家の中を揺すり渡った。
「よしっ。うまくいったな」
曹旦那は、ほくそ笑みをたたえて、自分の部屋へ引っ返した。そこには宵の頃から、村名主と李鬼の情婦が連れ立って、首尾いかにと待ちぬいていたのである。
まもなく門前には、捕手頭の李雲の人数がどやどや到着した気配らしい。三人はさっそく首を揃えて、李雲を出迎え、
「これはこれは、ご苦労さまに存じます。お訴え申し上げたお尋ね者の黒旋風は、大酒を食らわせたうえ、寝所へ引き入れ、一室に仕かけておいた床板落しの陥し穴へぶち落しておきましたゆえ、どうぞ、官のお手にてお召捕りをねがいまする」
と、申し出た。
「どこだ? その部屋は」と、李雲は先に立って、奥へすすみ、兵を指揮して、床下穴へ喚きかからせ、まだ酔の醒め果てていない黒旋風李逵の体を、高手小手にふん縛らせた。そして、生ける大虎を搦めるような大騒動の下に、やっと外まで曳きずり出した。
すでに夜は白みかけており、村中はまたぞろ、昨日にまさる噪ぎである。そんな中を、李雲の捕手隊は、縄付きの李逵と証人の曹旦那、名主、草簪の女などを引っ立てて、意気揚々、沂嶺越えの向うにある県城の町へひきあげて行った。
一方、この噂は狭い田舎町のことなので、たちまち一般にひろがっていた。わけて西門外で流行っている朱富の飲屋にこれが聞えていないはずはない。前夜もう、客の口からこの事を知った朱富は、奥に隠れている兄の朱貴に諮って「どうしたものか?」と、まったく顔色も失っていた。
「弟、なんとも、おめえには、飛んだ飛ばッちりを食わせたが」と、朱貴も今となっては慰めることばもなく、
「こうなっちゃ、気のどくだが、ここの店をたたんで、女房子ぐるみ、おめえも梁山泊へ行って、暮らして貰うほかあるめえ。やがてここへも江州奉行所の差紙が来るにきまってるし」
「兄き。そいつは覚悟だが、兄きの立場としても、みすみす、李逵がお縄にかかったのを見ちゃ、このまま、山寨へは帰られまいが」
「さ。それで俺もどうしたものかと、まったく思案投げ首だ。こんな弱ったことあねえ。いまさら言っても追いつかねえが、返す返す、あの酒好きの黒ン坊野郎(李逵をさす)を、たった一晩でも、目を離したのが俺の落度だ」
「いっそ兄き、こういう手だてはどうでしょう。どっちみち、店をたたんで土地を売るなら五十歩百歩だ。すこし荒ッぽいが、ぜひもねえ」
「というのは?」
「さいわい、捕手頭の李雲さんは、日ごろ店のお客だし、それとまた、あたしにとっては、剣術の師匠なんです。その人を騙すッてえのは辛いけれど、平常、青眼虎とあだ名のある李雲さんも、官途の者にはよく思われず、とかくいまの腐れ役人や宋朝の悪政には、鬱勃たる不満を抱いているお人なんで」
「うむ、そいつはすこし、都合がいいな」
「ですから、一時は李雲さんを陥し入れても、後ではかえって、よろこばれるかもしれません。……とまあ、こっちの腹をきめといて、さて、こういう計略に出て、そいつが巧く中ればしめたもんですがね」
朱富は酒店の一亭主だが、稼業柄、日常よく人間に接して、世間や人間の機微本質によく通じているせいか、どうして、なかなかな才気だった。彼が朱貴へささやいた窮余の一策とは、果たしてどんな計略であったかは後として、とにかく、店を閉めたその晩の遅くから人知れぬまに、ここでは俄な夜逃げ支度が始まっている。
すなわち、店の若い者を督して、朱富は、自分の女房や子供らを一台の箱馬車に乗せ、また家財手廻り一切を、その馬車や手押し車に積みこんで、夜の明けぬまに、町端れの森の辻まで送り出していた。
こうして、翌日となるや、飲屋の店はまた、平日通りに店を開け、入口を掃き清めて、西門外の賑わいの中に、さりげないお愛相ぶりを一ばい明るく、午下がりの陽ざしを待ちすましていたのである。隣り近所、多少、変な物音も明け方に知ってはいたが、まさか、梁山泊への引っ越しとは、だれも気づいてはいなかった。
「黒旋風が捕まったとよ」
「うそをつけ、沂嶺の虎の間違いだろう」
「うんにゃ、四匹の虎を退治したあげく、こんどは自分が虎になって、あの因業旦那の曹に密告され、たったいま、県役署へ曳かれて行った」
町は七月の猛暑。その乾いた町は一日中、こんな噂で、わんわんと沸いていた。
ところが、たそがれ早めに、当の李逵だの証人たちは、再び県城の門から街道へ列をなして曳かれて来た。早くも刑場で処刑になるのかと、早合点な声もあったが、そうではなく、江州府送りの船積みとなるらしく、江岸に繋いである一船の船牢へ移されることになったのだった。
「もし、もし。李雲先生」
いましも列の先頭が、西門外の辻へかかった時である。飲屋の亭主朱富が、飛び出して来て、李雲の馬の前に腰をかがめた。
「どうもこのお暑いのに、ご苦労さまでございますね。沂嶺の往来を悩ました虎族は退治されるし、あげくに、お尋ね者の黒旋風をお召捕りくだすって、町のものにとっちゃ、こんなありがたいことはございません。祭りをやって、お祝いしてもいいほどでございますよ。ま、どうぞ店さきじゃございますが、冷やッこい酒を一杯おやりなすって、ちょっくらご休息でもどうぞ」
「いやいや朱富、気もちはありがたいが、明るいうちに大事な極悪人を船牢まで移し終ってしまわんことには、何せい肩の荷が下りんでな」
「ま、そう仰っしゃらないで。せっかく、町の衆に代って、およろこびのため、あれに朝から冷やしておいた酒瓶を、もう口まで切って、お待ち申しておりましたので」
「せっかくだが、役儀柄、その志もいまは困る。帰りに寄ろう。さあ、歩け歩け」
李雲は列を振向いたが、意地の汚い兵や獄卒たちは、酒の匂いに吹きくるまれて、もうテコでも動きたがらない。のみならず、店の若い者に唆されたか、一端の列をくずして、物蔭に隠れ、素早いとこをと、酒の碗をあばき合っている一ト群れさえある。
「ち……。しようのねえ奴どもだな」
李雲もついに馬を降りた。このまま行き過ぎては一部の兵へは不公平になる。飲み食いの恨みでは、あとあと、いつまで深刻な根をもって、意趣を上役にふくむなどの例は決して少なくない。そのためには、李雲もまた彼らとともに、飲んでやらねばならなかった。
「いかがです、先生、もうお一杯」
特に、彼への杯には、朱富自身が、酌をしていた。──ほか数十人の兵ときては、酌の面倒や愛相はいらない。蜜へたかった蠅のような黒さである。一杯でもよけいに飲もうと、仲間喧嘩さえ起りかねない噪ぎであった。
すると、その間、路傍の槐の木に縛りつけられていた李逵が、悲しげな声で叫んだ。
「やいやい捕手。後生だから、俺にも一杯のませてくれ。こうしているから、この口へ、一杯流し込んでくれ」
それは朱富の方へ言ったのだった。朱貴は見えないが、朱富がいる以上、何らかの計で、自分を助けてくれるつもりだろうと、暗に、反語をわめいてみたのである。
「ふざけるなッ極悪人め。飲みたければ、てめえにはあとで、溝の孑孑でも飲ましてやるから静かにしていろ」
朱富はわざと罵声を投げた。それを聞くと、兵どもはゲラゲラ笑って、口々の呶罵を肴にまた飲んだ。李雲が、列へもどれ、と命じてもなかなか酒瓶の周りを離れようとはしない。
するうちに、一人の兵が「あッ、野郎っ」と街路樹の蔭で絶叫した。いや、とたんに仆れていた。振り向いた大勢の眼もすべて一瞬「──あっ?」といっただけで、あとは異様な静寂がみなぎり渡っていた。──なぜなら、李逵のそばへ寄って行った一人の男が、彼の縄目を解き、その手へ野太刀をわたしていたのである。これは猛虎の檻を開けてやったようなもの。さらにはまた、野太刀を抜いた猛虎も、男とともに、のっそり、のっそりこっちへ歩き出している。
「朱富。行こうか」
李逵の縄を解いた男は、朱貴であった。弟の朱富は、ふふんと、辺りの顔から顔をあざ笑って、尻目にくれながら、
「おお、出かけよう。──が、待ちなよ、李逵」
「え。なんです」
「どうだ、まだ酒瓶の酒が余っているぜ。一杯ひっかけて行かねえか」
「とんでもねえ、そんな麻薬の入っているやつは、いくら俺でもまっ平ご免だ」
なるほど、すでにその麻薬の効き目だったのか。店の内や外、満地の兵たちはことごとく、ぶっ坐ったり横になったり、また或る者は、口から泡吹くをふいて、ただすこし手や足ばかりを海鼠のようにもがき合っているだけだった。
「ちッ……畜生。……謀ったな。や、やられたか」
ただ一人、こう叫んでは、起ちつ、また、こけまろびつ、必死に、あとを追おうとしていたのは、捕手頭の李雲一人だけだった。しかしすでに黄昏れそめた町の灯をかすめて、李逵、朱貴、朱富、若い者一群の姿ははや遠くのものになっていた。
町もここから先は一望の野原でしかない追分に、一ト叢の暗い夏木立の木蔭がある。そこに今朝から、家財を積んだ数輛の手押し車と、朱富の家族を乗せた箱馬車とが、心ぼそげに、待ち暮れていた。
「さあ、もう大丈夫だ。もう逃げるばかりだぞ」
朱富は飛んで来て、車上の女子らをそう励ましながら、
「ところで、手押し車なぞは、打捨ッて行け。目ぼしい物だけ箱馬車の方へ移して、無二無三、馬の尻をしッぱだき、ここから山東の方へ、車輪が壊れるまで急いで馳けろ。おれたちは、追手を要心しながら、すぐ後からつづいて行く」
「合点です」
朱富の店の若い者は、言下に、馭者台や馬車の尻へ飛び乗って、ムチを振鳴らし、またたくまに、野中の街道を、遠くへ没し去ってしまう。
……じっと、見送りすましてから、李逵は初めて、頭を掻いてあやまった。
「兄弟、この通りだ、かんべんしてくれ。ついまた酒の上から、とんだ心配をかけちまって」
「覚えていろよ、李逵」と、朱貴はわざと、懲らしめのために脅して言った。「山寨へ帰ったら、統領はじめ、宋江先生や呉用軍師にもありのままに言いつけてやるからな」
「後生だ兄き、そいつだけは、ゆるしてくれ。あんなにまで、道中禁酒の誓いを立ててきたのに、男としての面目玉もまるつぶれだ。悪くすると山寨を破門になるかもしれねえ」
「それほど性根には分っていながら、なんで因業旦那と有名な曹家の酒なぞ食らやがって、いい気になってしまったのか」
「よしてくれ。そんないい気なもんじゃねえよ。じつあ、せっかく連れに来たおふくろを、沂嶺の上で、虎に啖われてしまってよ、それからのやけのやん八、四匹の虎を叩っ殺した勢いで、ついまた大酒を飲った始末さ。……むむ、それにつけ、いまいましいのは因業野郎の曹って奴だ。兄き、ちょっくら引っ返して、あいつの首を引ン捻じって来るからここで待っていてくれ」
「いや、おれも行く──」と、朱富もまた後ろを振り向いて「おれにとっては、師匠にあたる李雲さんを、あのままには捨てておけねえ。いや、李雲先生の酒だけには、しびれ薬を軽く入れておいたから、今頃はもう麻薬も醒めて、これへ追っかけて来る途中だろうぜ」
「そうか。もし李逵とぶつかって、間違いを起しては大変だ。それでは俺も」と、朱貴までが、二人とともに元の道へ一目散に引返した。
果たせるかな、途中、彼方の闇から韋駄天の如く走って来た者がある。それなん、青眼虎李雲であった。
「おのれ、曲者。よくも最前は」
と、李雲はたちどころに長剣を抜き払って立ちむかって来たが、
「待った! お師匠。これには深い事情のあること。まあお腹もたちましょうが」
と、朱富は彼の前に身を投げ伏せてまず詫びた。そして縷々と、李逵の帰郷のいきさつを語り、また朱貴が梁山泊の命で彼の付人として付いて来たことから、李逵の孝心もむなしく、老母を亡くしてしまった恨みなど、逐一を物語って。
「師匠、そんなわけで、ここはどうしても、李逵を助けて山寨へ帰らねば、兄の朱貴も一分が相立ちません。そのため、恩人のあなたまで、苦計の毒酒を飲ませたりしましたが、でもあなたのお杯へは、麻薬もほんの少ししか、入れておかなかった次第です。いわば心ならずものこと。どうかひとつお怺えなすって」
「ふふむ……」と、李雲はうめいた。「……そんなわけか」と、いまは逮捕に出る気力も、満面の怒りも、俄にすうっと体から抜けてしまった感を自身どうしようもない態だった。
「したが弱った! おまえらを見逃してやれば、この李雲も同類とみなされる! 拙者は県城へ帰ることもできぬ」
「ごもっともです。ですが師匠、幸いにと申しては勝手ですが、あなたはまだ妻子も何もいらっしゃらないお独り身でしょう」
「だから、なんだと申すのか」
「いっそのこと、手前ども三名とともに、このまま梁山泊へおいでくださいますまいか。常日頃から、いまの悪政と官人の腐敗にはあいそがつきたと、よく仰っしゃっていたあなたのこと。梁山泊の漢どもとは、かならずおはなしが合うだろうと存じますが」
「しかし、山寨には名だたる晁蓋、呉用、宋江などのほか、ふた癖も三癖もあるのが大勢いるだろうに、おいそれと、この李雲を仲間へ入れてくれるだろうか」
「そりゃもう、おいでくだされば」と、朱貴もそばから助言を加えた。「──梁山泊では、双手を挙げて、一同お迎え申しますよ。まして朱富が多年お世話になった、剣術のお師匠でもあると聞けば」
とっさ、談合いはここで急転直下ときまったが、いざ行こうとなると、いつのまにか李逵の影が見あたらない。「はて、あいつがまた、どこへ行ったのか?」と、怪しみ合っていると、そこへ疾風のごとく戻って来た李逵が、片手には曹旦那の首を提げ、また片手には、かの草簪の女の首の黒髪を引っさげて、
「おれを苦しめた奴は、こいつとこいつだ。腹癒せにかたづけてきた。──沂嶺の虎をあわせれば都合これで六匹だ。畜生に身を啖われて、六道の辻で迷っているだろうおふくろも、これで浮かんでくれるにちげえねえ」
と凄烈な笑い顔を見せて、その両手の物を三人に示すと、李逵は切れ草鞋でも捨てるように、それを路傍の藪だたみへ抛り投げてしまった。そして。
「さ。もうこの土地に名残はねえ」
「オオ、おさらばだ。急ごうぜ」
各〻、踵を回して、急ぎかけると、
「いや、ちょっと待て」
李雲はなお、辺りを見ていたが、何か耳打して、三名の先に立ち、藪の横道へ走り込んだ。そこの突当りには、州の牧場管理所がある。李雲は牧夫小屋の牧夫を呼び出し、八頭の駿馬を目の前に揃えさせた。そして、李逵、朱貴、朱富、自分──と四人四頭の背にまたがったうえ、
「拙者は山寨へ初めてのお目見得だ。みんなが乗った馬のほか、べつな一頭ずつを手綱で曳ッ張って行こうじゃねえか。どうだな、この手土産は」
「こいつはまたとねえ土産だが、しかし師匠、四頭もべつなのを曳ッ張って行くのは余計物じゃありませんか。第一急ぐ道中には邪魔くさい」
「いや邪魔にはならん。先に行ったという箱馬車には、朱富の若い者が幾人か付いてるだろう。すぐその若い者たちに乗せればいい」
聞いていた牧夫たちは驚いて叫びあった。
「捕手頭! 馬は県城の御用に持って行くんじゃないんですか」
「おおさ、われわれは、こよい万里の外へ馳け去るのだ。追ッつけ県城の軍隊がやって来るにちがいないが、もしこれへ来て、李雲は何処へ行ったと訊ねたら、名の如く、雲に乗って消え失せましたと告げておけ」
「だめだっ、捕手頭ッ、それじゃあ、ここの官馬はお渡しできねえ」
前へ廻って大手をひろげ、俄に立ち騒ぐ牧夫の群れを、朱貴、朱富、李逵のそれぞれは、
「なにを言やがる、邪魔だてして、蹴ころされるな」
と、鞭をふるッて、払い退けた。
どうしてこれを、遮ぎられよう。あッというますらありはしない。茫々たる牧の平原を、東へ、ただ見る四騎、八頭の駒は、もう星の夜の彗星のごとく遠く小さくなっていた。さらにはこの四人が、その夜、またたくうちに先の箱馬車に追いついたことも間違いなかろう。かくて万里の外ほどではないが、日ならずして、彼らは、山東梁山泊の江畔に行き着き、そこの生々たる夏の風に、初めてほッと旅焦けの顔を吹かれていたことだった。
首斬り囃子、街を練る事。並びに、
七夕生れの美女、巧雲のこと
無頼の徒、さすらいの子、いわば天涯無住の集まりでも、なにか心の拠りどころは欲しいものか。
いつとはなく梁山泊の聚議庁の奥所には、星を祠った一宇の廟──
と額を打った道教まがいの祭壇ができていた。そして一味の同志を星になぞらえ、その数だけの燈明をつらねて、なお新入り仲間を迎えるごとには一燈一燈の数を加えてゆくを例とし、その星数もやがてはここに、天罡星、地煞星、百八星の宿業を、地上のまたたきとして見る日も近いかとながめられる。
さて、それはともかく。
「やあ李逵か。朱貴も無事に帰ったか」
山寨一同の者は、ふたりの帰泊を迎えて大いによろこび、二人もまた、旅先のいちぶしじゅうを報告したすえ、伴って来た青眼虎の李雲と、笑面虎の朱富とを、
「どうぞ、よろしく、ご一統のお仲間内へ」
と、推挙した。
もちろんこれは即決でみとめられた。いまや梁山泊が大となるにつれ、不遇不平な天下の才と侠骨を、いよいよここへ募ろうとする意志は仲間一同にも熾だったのだ。
「そうか。笑面虎は朱貴の弟。また青眼虎は、西蕃流の撃剣の師だというならなおもって頼もしい。聞けば……沂水県の沂嶺で、黒旋風(李逵)のために、四匹の虎が殺された代りに、ここへ二匹の虎がふえたわけだな」
ここに。地契廟の星燈は、また二ツの新たな灯を加え、例のごとく、新党員の紹介の盛宴もまたその廟前でおこなわれた。
ときにその席上で、軍師呉用が総統の晁蓋と、副統の宋江へ、一案の書類を見せていた。何かといえば、それは山寨の「職令」だった。
こう人材もふえ、ここも宛たる一小国となってきては、対官憲の備えからも、もはやただの浮浪山賊の群れ集まりではいられない。秩序も立たず守備も不安だ、ということからのかねがねな懸案だった。
すなわち。
渡口の見張り茶屋は、従来の朱貴の店のほか、三ヵ所をふやす。
童威、童猛の兄弟とその手下に、西口の道に店をひらかせ、おなじく李立には山の南で。また北山の口には、石勇をして新たな一店を設けさせる。
これで梁山泊四道の見張りはまず充分だろうから、次には、この宛子城そのものの大手、中木戸、内門の三壁を堅固にする案だった。運河をつくり、内濠をめぐらすなど、工事監督一切は、杜選とそして陶宗旺の任とする。
また、もっとも大事な倉庫方──金品出納の事務などは──蒋敬を部長とし、蕭譲には、通牒や文書のほうを司らせ、金大堅に兵符、印形、鑑札などの彫刻係を。さらに侯健は、旗、よろい、かぶと、兵衣、すべて足拵えまでの将士の軍装を調製する。
馬麟は、大小いくさ船の建造係。宋万は金沙灘の一寨に住む。王矮虎と鄭天寿もまた、ずっと下の鴨觜灘へくだって、おなじく出城の一寨に就く。
銭糧の収入係には、穆春と朱富がえらばれ、呂方、郭盛のふたりは、聚議庁番。──宋江の弟宋清は酒庫の監理をかねた宴会支配人に擬せられていた。
「どうでしょう、こんな配置では。あとの水陸は別表にしてありますが」
呉用の案に、晁蓋、宋江ともに異議はない。そしてその場で発表された。もちろん、それ以外な細かな職目もかなりあった。
かくて泊内は、いちばん強力な態勢となり、水寨では水軍の調練、陸地では騎馬、弓、刀槍のはげみはいうもおろか、陣鼓鉄笛の谺しない朝夕とては一日もないくらい。
ところが、ここにただ一人、
「はてな? あれきり消息もないが」
と、不安視され出した仲間があった。
百日の期限をきって暇を乞い、薊州の地へ母をたずね、また老師へ会いに行くといって去った公孫勝の一清である。
「よもや仲間を裏切ったのでもあるまいが、いまだに帰らないのはいささか不安だ。だれか探りにやってはどうか」
こんな議が持ちあがったその翌日。──遊軍の一星、神行太保の戴宗は、みんなから選ばれて、
「戴君。君ならおそらく十日もあれば、たちまち、薊州中を見てこられよう。一つ調べてくれないか」
と、その探索使にさしむけられた。
「こころえた。行って来ます!」
戴宗はただちに走った。こんな時こそ、〝神行法ノ咒〟がものをいって、梁山泊中、飛走の術ではこの人の右に出る者はない。脚には例の甲馬符を結び付け、精進潔斎、三日目にはもう沂水県の境に入り、一山の嶺を疾駆していた。
すると山坂道のすれちがいに、腰は女みたいに細く、肩は隼のような角張った目のするどい男が、
「あっ、神行法の戴宗?」
と、手の管槍を地に突いて振返った。
風のごとく、そばをスリ抜けた戴宗だったが、ふと気になって呼び返した。
「おーいっ、若いの、ちょっと待った。どうしておれが戴宗と分ったかね」
「あっ、ではやはりあなたは戴宗どので」
「そういう、おまえさんは?」
「彰徳府の楊林と申す者で、あだ名は錦豹子。……じつは二た月ほど前に、公孫勝先生に行き会い、おまえもいつかは梁山泊へ行けと、お手紙までいただいておりましたようなわけで」
「拙者のことなども聞いていたのか」
「そうです。一日八百里を走る戴院長さまも、今では山寨にいらっしゃると」
「いい者に出会った。じつは云々な仔細で、その公孫先生のあとを尋ねに来たわけだ。教えてくれんか、今おいでになる処を」
「いや、行きずりの居酒屋で、お別れしてしまったきり、さっぱり以後の消息は聞いていません。しかし、薊州管下なら隈なく地理は存じていますから、なんならご案内いたしましょう」
「たのむ。そしてまた、望みとあれば、拙者が君を梁山泊へ連れて行ってやる」
「そう願えれば大倖せです。ですが戴院長、かなしいかな、てまえは神行法の術も呪文も存じませんが」
「心配するな。拙者について、こうして行けば、自然に身も心も軽く、一日八百里の飛走ぐらいは何でもない」
戴宗は、彼にも呪符を持たせて、大きく腹中の気を空へぷっと吐くやいな、楊林の腕を拱んで飛走しだした。楊林は驚いた。馳けているとも、喘いでいるとも思えないのに、道も草木も急流のごとく、後ろへ後ろへと去って行く。そして肩が切る涼風、面にあたる爽気、なんとも堪らない快感だった。
山上は照り、山下は雨らしい。
そして濛々と白い蒸雲のたち繞る千山万水。大陸の道は、その中を羊腸と果てなくうねッているが、村里人煙は、それを見ぬこと、二日であった。
「戴院長。あれが有名な飲馬川です」
「おお、絶景だな」
「ひとつ訪ねてみましょうか」
「どこを」
「こんな絶景の中ですが、裴宣、鄧飛、孟康といって薊州きっての三賊長が住んでいます。昔、てまえも知っていた仲で、三人三様、みなひとかどの男ですし、それにひょっとしたら、公孫先生の消息もそこで聞けるかもしれません」
「お。どんな山寨か叩いてみよう。ひとしく緑林(盗賊仲間のこと)の者なら、同じ毛色の旅烏がどこへ来ているかなんてことも、ちゃんと見ているかもしれぬ」
だが、この心あては、むなしく終った。そこの賊寨で訊いてみても、公孫勝の居処は、杳として誰ひとり知っていない。知れず仕舞いとなったのである。
しかし決して、訪ねたのは、むだではなかった。そもそも、ここの三賊首も、地契廟の星の数に入るべき宿命であったものに違いない。これが、はからず天のひきあわせとなって、飲馬川の山寨上における一夜の盛宴から、たがいに志をかたり、身素姓を名乗り合い、ついに義を結ぶこととはなった。
まず、目玉が血みたいに赤い、鄧飛から順に、こう名乗った。
「ご高名な戴院長にお目にかかり、こんなうれしいことはございません。あっしは嚢陽生れのやくざ者、人肉を食らったむくいで、火眼の狻猊とアダ名され、分銅鎖の使い手と、自分ではウヌ惚れておりますが、そちらの兄貴二人にくらべたら、けちな野郎でございます。どうぞ兄貴の素姓をおききなすっておくんなさい」
「いや弟分から、そういわれちまうと、晴れがましくてちと後が困る。──が、有態に申します。自分は真定州の生れで、苗字は孟、名は康、あわせて孟康といい、本職は船大工で、それも大江を上下するような大船造りが得意です。……ところが、朝廷の官船奉行と気が合わず、大喧嘩の果て、緑林なかまへ落ちころび、生れつき、こう肌の白いところから、玉幡竿の孟康なんて、人から呼ばれておりますんで」
「いや、ごていねいに」
戴宗は、礼を返して、さてもう一人の頭目へ向い直った。その人たるや、一見、どこか傑出している。年配もまた、三人のうちではいちばんな年かさだった。
裴宣。またの名は、鉄面孔目。
孔目とは、裁判所づきの与力の職名である。もと京兆府の司法部に勤めていたが、公事訴訟には、いつも人民の声を正しくきいて、少しも、よこしまないところから、逆に上司の奉行や腐敗役人からツマはじきされ、いささかな落度を大きく罪せられ、顔に金印(いれずみ)を打たれて沙門島へ流された。──いや流される途中を、ここにいた鄧飛、孟康などの輩が、義心のもとに、護送役人を斬って助け出し、わが山寨へかつぎ上げてしまったのだった。
「はははは。どうもあまり自慢にもなりませんな」
裴宣は、自嘲をふくんで、多くは語らない。
けれどそれがなお床しかった。すでに戴宗は連れの楊林からも聞いていた。──剣を持たせれば双手に二刀を使う達人であり、孔目の職に在った日は、曲事ぎらいの生一本で、どれほどこの人の公事扱いに救われた者があったかわからない、と。
これは人物だ!
戴宗は惚れこんで、切に、梁山泊への入党をすすめた。周囲八百里、宛子城、蓼児洼を中央に、それを繞る軍船、充つる兵馬、天下四方の奇材は、いまやそこに集まっていることなどを熱心にはなして誘った。
すると、裴宣は、
「いや、よく知っています。四百余州にかくれもない梁山泊のことですからな。じつをいえば、いつかこんな機縁はないかと待っていたところなんで。……烏滸な言いぶんですが、この山寨にも兵三百、財物十車、そのほか武器馬匹もかなりある。それを土産に、ぜひお仲間入りをえたいものと存じます。よろしく一つおとりなしを」
と、どこまでも謙虚であった。
戴宗はよろこんだ。そしてさて。
「これを聞けば、梁山泊の一統も、錦上さらに花を添えるものと、双手をあげて迎えるでしょう。……がいまは公孫先生をさがす旅の途中、その役目を果たしてから、帰途、もいちどここへ立寄って、ともに山東へお連れしたいと思うが、どうでしょうか」
「けっこうです。お待ちしている。だが、もう一日は」
と、裴宣は切にひきとめ、次の日はまた、飲馬川の眺望をさかなとして、断金亭の楼台で、終日、送別の杯と、また義兄弟の誼など酌み交わされた。──こうして、ここは去り、日ならずして、戴宗、楊林の二人は、薊州城内の街通りをあるいていた。
胸に小太鼓、腕には銅鑼を掛け、手にも喇叭を持って吹き、一人で三人楽の〝道囃子〟をドンチャン流して来る男があった。身装、ひと目で分る獄卒だった。
もうひとりの獄卒は処刑用の大きな〝鬼頭刀〟をささげている。すこし離れて、柄の長い青羅の傘を、べつな獄卒が、かっぷくのいい堂々たる男の上に翳しかけて行く。
それぞ町中で囁かれている首斬り楊雄──またの名を病関索の楊雄ともいわれている牢役人だろう。なにしろすばらしい羽振りである。
わけて今日みたいに、人民泣かせな悪党の処刑が行われての帰り途には、町の老幼が、紅絹だの、花束だの、緞子だの、種々な祝いを感謝のしるしに首斬り役人へ投げるのだった。それを拾い拾い、持ちきれないほど肩や胸に抱えて行く獄卒もべつにあった。
「おっと! 首斬り役人、ちょっと待たんか」
「誰だ。おれを呼ぶのは」
「軍の張保さ。踢殺羊の張保さまだよ」
「やあ、どなたかと思ったら」
「いやな奴に会ったと言いたいような顔つきだな。この薊州の治安はおれの手で守られていながら、おれをよくいう奴は一人もねえ」
「どういたしまして。今日、処刑してきた悪党もお蔭さまで捕まったようなもんでさ。……ひとつ、そこらで御酒でも一献」
「うんにゃ、酒はいらねえ。銭で百貫、用立ててくれまいか」
「ご冗談を」
「せせら笑ったな、やいっ。てめえは元々土地者でもなく従兄弟にあたる先の奉行にくっ付いて来て、いつか今の奉行にも巧く取入っているだけのもんじゃねえか。軍のわれわれに、時折の挨拶ぐらいは当然だろ」
「てまえは、いくらでも、ご挨拶いたしたいが、なにせい、背中の一字がいうことをききません」
「背中の? ……背中の一字たあ何だ」
「これですよ」
楊雄がくるりと後ろを見せた。
猩々緋の服の上に、もう一重草色繻子の肩ぎぬを着ていたが、その背には「劊」の一字が大紋みたいに金糸で刺繍してあるのであった。
「どうです、とっくりお目に入りましたかね」
依然、後ろ向きのまま、楊雄は薄ら黄ばンだ特有な皮膚に嘲侮の笑みをたたえて見せた。
──根は河南生れの俊敏なつらだましい。その眼、その唇、鬂にもつながるばかりな長い眉、くそでもくらえといった風貌がある。
「しゃらくせえッ」
いきなり、踢殺羊の張保は、楊のからだを羽ガイ締めに締めあげながら、四ツ辻の蔭へ向って大きく吼えた。
「それっ、おれがこうしているまに、たたんじまえ!」
どっと馳け寄って来たのは張保の部下だった。初めからの計画か。獄卒たちを蹴仆し撲り仆し、彼らの持っていた祝い物をみな奪り上げ、さらにこんどは、もがいている楊雄一人へかかって来た。
「あっ。……ひどいことをしやがる」
さっきから辻の一角に立ちどまって、これを眺めていた戴宗と楊林は、もう見ていられず、ひとつあの悪軍人めを、懲らしてやるかと迅い眼くばせを交わしかけた。
ところが途端に、その二人の足許へ、大きな薪木の束が、どさっと、抛り投げられてきた。──見ると、ついそばにいた若い下郎風の薪木売りが、もう喧嘩の中へ割って入り、兵隊どもを手玉にとって投げ飛ばしている。さらには、楊雄に加勢して、ひょろ長い踢殺羊の脛、腰、所きらわず、足攻めに蹴つづけていた。
「やあ愉快なやつ。身なりは粗末だが、たいした若者だぞ」
戴宗は、わざと控えて、形勢をみていた。そして、
「不義、非道、弱い者いじめ。そんな跋扈をゆるさぬ街の鉄火の意気はまだ廃っていなかったな。……おお悪軍人のかったい棒め、とうとう、不ざまな恰好で逃げ出してしまったぞ。あっ、人斬り楊雄がこんどは追ッかけて行く。薪木売りも一しょになって」
いつかあたりの見物人も散らかって、あとには薪木売りの薪木の束だけが残っていた。
「楊林、そいつを持って、向うの酒屋で飲んでいよう。そのうちにあの若いのが商売物を取りに返ってくるにちがいない」
案のじょう、やがて薪木売りは戻って来た。
それを酒屋へ誘い入れて、戴宗は彼の侠気をたたえたり、その身の上などを聞きほじりながら、心ひそかに、
これもまた頼もしそうな。
と、はや一思案を抱いていた。
「そうですかい。……金陵(南京)のお生れで、そんなに諸国を歩きなすったか。そして、馬買いの叔父御に死なれて、生業を失ったとはいえ、薪木売りとはまた、お若いのに、思いきったものに成ンなすったな」
「ええ、資本もありませんし、根ッからの鈍物。死に別れた叔父貴からも、今みたいな時世に、おまえみたいな馬鹿正直じゃあ生きてゆけねえぞッて、よくいわれていた私ですから」
「だが子供の頃から騎馬短槍には熟練なすっておいでとか。さいぜんも篤と拝見していたが、あれほどな腕前がおありなら、官途に志願しても」
「いや、そいつがですね、持ち前、いッち嫌いなんですよ」
「どうしてです」
「朝廷はでたらめ。政閣は奸臣の巣。ここら薊州あたりの安軍人までが、あんなざまじゃございませんか。私みたいな凡くらでさえ、何クソっていう気が底にありますからね」
「同感だ。いや全くそのとおり。しかし、そうばかりでもない天地もある。たとえば山東の梁山泊とやらいう男の集まりもあるしさ」
「失礼ですが、あなた、お名前は」
「ここに連れているのは弟分の楊林。そして拙者は……苗字が戴、名は宗」
「えっ、じゃあもと江州の戴院長、あの有名な神行太保の戴宗さんは、あなたなんで?」
「叱っ」
と戴宗は振り向いた。そのとき酒屋のかどから二十人余りの人間が、どやどやとここへ混み入りかけて来たからだった。しかも捕手目明し態の者ばかりである。彼は慌てて銀子十両を取出して、薪木売りの手に握らせた。
「お若いの、いつかまた会おう……少ないが当座のしのぎに」
「と、とんでもない。こんなものを」
しかし、袂をつかむ瞬間もなかった。とたんに、店の中は人間でいっぱいになり、戴宗、楊林の二人は、そのドヤドヤ紛れに、風の如く外へ出て行ってしまった。
「おお、恩人。ここにおいでなすったか」
一ト足おくれて入って来たのは、さいぜんの首斬り役人──病関索の楊雄だった。
「どうも思わぬお助太刀を。……お礼のことばもございません。お蔭で野郎は街中で大笑いを曝したので、ここ当分は、大きな面では歩けますまい。けれど、しがない薪木売りのお前さんが、あの腕前たあおそれ入りました。さしつかえなければ、お名を伺わせてくれませんか」
「苗字は石、名は秀。──金陵は建康府の産で、あだ名を𢬵命(いのちしらず)三郎とよばれています」
「石秀さんか。これを縁に、不足でしょうが、この楊雄と、義の兄弟になっておくんなさいませんか。……てまえは当年二十九だが」
「わたしは二十八。ではどうぞ、弟同様に」
「おい、酒屋の御亭。別間で杯だ。そして手下のやつらにも、今日はぞんぶん飲ませてやってくれ」
ところへまた、楊雄の岳父、潘の爺さんというのが、これへ馳けつけてきた。娘聟の一大事と聞いて、近所合壁の加勢を仰いで飛び出して来たのだが、わけを聞いて、
「やれやれ、ほっとしたわい。ご近所の衆、まアこっちへ入って飲んでください。……いや申しおくれました。おまえ様が娘聟を助けておくんなすった石秀さんで」
「はい、よろしくどうぞ。ただいま、楊雄さんから兄弟のお杯をいただきました石秀と申すものです」
「豪気な男ぶりだの。わしにも、聟の義弟、こんなうれしいことはありませんがな」
「おじいさん。どうぞ一つ、お杯を」
「はい、はい。ところでお前さん、もとのご商売は」
「死んだ叔父貴について、つい去年まで獣いじりをしておりました」
「じゃあ、豚や羊の肉を解くことも上手なわけだの。じつはわしも元は肉屋稼業。ところが一人の聟どのが、牢屋勤めのお役人となったので、いまでは隠居しておりますのさ」
いつか、もう灯ともし頃。──まだこれからと飲んでいる連中は、あと勘定として亭主にあずけ、三人は町端れに近い楊雄の屋敷へひきあげた。酔歩まんさん。楊雄は上機嫌で、
「女房、女房。出迎えないか。弟を連れて来たんだよ。弟を見ろ、おれの弟を」
「あら、……あなた」
厨房の珠すだれを掻きわけて、良人の前に、あきれ顔を見せた細腰の美人がある。三日月の眉、星のひとみ、婉然と笑みをふくんだ糸切り歯が柘榴の胚子みたいに美しい。
「ホホホ。またわたしをかつぐんでしょ。まあ、たいそうなごきげんですこと」
「嘘なもんか、ほんとだ。巧雲。おまえもよく面倒を見てやってくれ」
巧雲とは、この新妻の名であった。七月七日、七夕の生れという珍らしい生れ性。そのせいか天性の肌には何ともいえない潜みがただよい、ものいえば息も香ぐわしい風情がある。で、早くから艶色無双の評判がたかく、十六、前髪を剪るや剪らぬまに、薊州の押司、王に娶われたが、つい二年ほどで先立たれ、やがて楊雄に嫁してからでも、まだ一年にもなっていなかった。
美僧は糸屋の若旦那あがり。法事は色界曼陀羅のこと
一方は、かの戴宗と、錦豹子の楊林。
以後、いくら歩きさがしても、ついに公孫勝の消息は知れなかった。
そこで一おう引っ返そうということになり、約束のある飲馬川へ立ち寄って、裴宣、鄧飛、孟康を誘い、偽官軍の列をなし、蜿蜒、梁山泊へむかっていそいだ。
いわば戴宗としては、主目的の使命には失敗したが、代りに、錚々たる新党員四名と、三百の兵力、十車に余る財などを、みやげに連れて帰ったわけである。
賀莚に歓迎の楽に、また新たな気勢を加えて梁山泊の山海は沸いた。しかしここにはしばらく語るべき事件もない。
話はもどって、薊州の街、楊雄の屋敷における或る日のこと。
「どうだの、石秀さん。退屈かね」
「や、潘のおじいさんですか。退屈よりも、義兄さんや義姉さんに、余りよくしていただくので、なんともはや相すまなくて」
「そんな遠慮はいらないよ。ただ、お前さんは官途の仕えは大嫌いだそうだから、そっちへはお世話もできないと、聟どのがいっている」
「ええ、どうも役署づとめは向きません」
「じゃあひとつ、肉屋を開いてみたらどんなものだろ。──屋敷の裏口は袋小路、そのとッつきに一軒、手ごろな家があいている。わしの隠居所とも斜向いだしさ」
「あ、あの空家ですか。そいつはぜひ働かせていただきましょう。ご恩返しに」
「とんでもない。こっちでいうことばだよ。儲けは仲よく歩合で頒るさ。じゃあ聟どのが役署から帰ったら、さっそく相談するとして」
しかし、話はもう出来たも同様。楊雄夫妻も大賛成で、日ならずして〝開店大売出し〟の爆竹(花火)、ちらし、慶祝の紅挑灯などが、どんちゃん、ここの街角をにぎわした。
よく売れる。石秀もよく働く。それに潘爺さんが、あきない馴れた肉切り職人をひとり探してきて、石秀にはもっぱら仕入れ経営の方をやらせたので、この方もとんとん拍子。
こうしてまたたく二た月ほどは過ぎ、冬ぢかい秋の頃だった。
「ちと遠い村だが、豚、羊のいい売り物が出た。三日めには帰ってくるから店をたのむぜ」
「へい、行ってらっしゃい。旦那、そのお頭巾も着物も、さすがお屋敷の若奥様のお見立てで、よくお似合いになりますぜ」
「ばか。なにってやんで。肉切り職人は、暇があったら包丁でもよく磨いていろ。つべこべと、つまらねえ世辞などいうな」
出がけに、これが気色にさわった。そんな辻占も悪かったし、仕入れ向きはおもしろくなく、ついでに隣県まで足をのばして四日目に帰ってみると、なんと、店の戸は閉まっている。
「ああやっぱり? ……古の人はいいことをいっている。〝人に千日のいい顔なし、花に百日の紅あらじ〟と。……無理もねえ。兄貴は欠かさず役署づとめ。家のことはお構いなしの性分だ。そこへもってきて独り身のおれが、とかくあのきれいな義姉さんから、帯よ、頭巾よ、やれ肌着よと、あまやかされているのを知っちゃあ、近所の蔭口もそらおそろしい。そうだ、こいつを潮に身を退こう」
中へ入って、持ち金残らず精算書にして帳場におき。またべつに、ざっとした遺書一本書きのこすやいな、さっとそとへ飛び出しかけた。だが、その袂は、とたんに物蔭にいた潘の爺さんにつかまれていた。
「あっ、待たっしゃれ。勘違いしないで、ま、もいちど中へ戻って──この一両日、ぜひなく店を閉めたわけを、とっくりと聞いておくんなされ。どうも石秀さん、あんたもまた、おそろしい短気じゃな」
わけを聞いてみれば、まったく石秀の思い過ごしで、むしろ石秀は赤面して頭を掻くのほかなかった。
「じゃあ、おじいさん。今日はご法事があるってわけでしたか。まさか、それでとは思わなかった」
「じつは、うちあけたおはなし。むすめの巧雲は、いちど押司の王さんにかたづいていましたのでな」
「うかがっています。そのことは」
「ちょうど今日が先夫の王さんの一周忌にあたりますのじゃ。そこで娘がたってご法要を営みたいと言いますのでな、報恩寺のお坊さまもお招き申してありますのさ」
「それじゃあ、肉屋を閉めたのは当然だ。店の者も見えず、肉切り包丁までかたづいていたんで、さてはもう、わたしから身を退いた方が世話なしかと考えましてね」
「めっそうもない。わしはこの年で、夜はカラ意気地がないし、聟どのは忙しい体、どうでもおまえさんに、法要の手伝いやらお接待のさしずなどもして貰わにゃならん」
「わかりました。何でもやりましょう」
「もうもう、ここを出るなんてことは、夢々考えないでくだされ。わしもさびしい。聟どのもまた嘆きますわい」
楊家の内では忙しない物音である。はや菩提寺からは、法事の諸道具、仏器一切が運び込まれていたから、石秀は寺男とともに、祭壇をくみたて、仏像、燈明、御器、鉦、太鼓、磬、香華などをかざりたてたり、また台所のお斎の支度まで手伝って、頻りに、てんてこ舞っていた。
「やあ、すまんね、石秀」
「オヤ兄貴ですか。お帰んなさいまし」
「いやほんとに帰って来たんじゃない。役署の手すきにちょっと様子を見に来たまでだ」
「じゃあまた、ご出勤ですか」
「こん夜は泊り番さ。いま女房にもいっといたが、万事君にお願いするよ。法要の執事なんてしたこともあるまいがね。はははは」
「何も経験です、どうかご心配なく」
「よろしく頼む」
主人の楊雄は、女房への義理立てみたいに、午過ぎ、ちょっと顔を見せたが、またすぐ出かけてしまった。すると、ほとんどそれと入れちがいに、一挺の法師轎が、供僧二人をしたがえて、玄関さきの前栽へしずしずと入って来た。
潘じいさんが、慌てて迎えに立ち。
「これは、方丈さま。ようこそおせわしいなかを」
「おお、ご隠居か。いつもお変りのうて」
轎の内から立ち出でた主僧は、まだ三十そこそこか。ぷーんと、麝香松子の香が立つ剃りたての青い頭から、色の小白い唇もとすこし下がったところの愛嬌黒子など、尼かとも見紛うばかりな美僧であった。
「さ、どうぞ……、どうぞこなたへ」
「ご隠居。珍らしい物でもありませんが志ばかりです。どうぞ王押司のお供え物に」
「おおこれは、貴重な香苞やら京棗やらで……。石秀さん、さっそくご霊前へ」
「はい、はい。お茶もただいま、いいつけます」
石秀がそれを持って、奥の法要の間へ急ぎかけると、二階の階段から、花兎の刺繍の鞋に、淡紫の裳を曳いた足もとが、音もなく降りて来て。
「あら、秀さん。それいただき物なの」
「義姉さんですか。あちらへもう、ご方丈さまがお越しになっておりますよ」
「いま行くのよ」と、巧雲はどこやら容子が浮々している。法事姿なので、強い色彩や濃粧は嫌っているが、一点の臙脂は唇に濃く、ほんのりと薄化粧を刷いた白珠のおもむきが、むしろ日頃の艶姿よりはなまめかしい。
「どれ。ちょっと見せてよ、それ」
「この香苞ですか」
「まあ、いい匂い。ねえ秀さん、これきっと沈香とか栴檀とかっていうものよ。あの方丈さまは、お生れは都で大きな糸屋の若旦那だったんですとさ。だから気がきいてるわね、こんなおみやげ一つにしてもさ」
「世間で報恩寺の裴如海……また海闍梨ともいわれているお方ですね」
「そんなむずかしい法名なんて、わたし呼ばないわ。ただ師兄さんて呼ぶのよ。だって、うちのお父っさんは、古いご門徒でしょ。だから如海兄さんが方丈さまの位置にすわるときなんかも、ずいぶんお世話したものだしさ」
こんな立話のまも、彼女はそわそわと鬂のおくれ毛や唇紅の褪せを気にして、また、つと鏡の間へ入って、身粧いを見直し、それからやっと如海の前へ出て、婉然と、あいさつしていた。
「これは」
と、裴如海は、生き仏のようにすうと椅子を立ち、いんぎんに、頭をさげる。
福州みどりの法衣、紫印金のケサ、その縧も西域唐草の凝ったもの。
──ことば少なに、あとは流し目で、
「いつも、おすこやかで」
と、ひとみに、えならぬ情気をトロと焚いてみせる。巧雲は、すぐ打解けて言った。
「いやよ師兄さん、そんなおかたいこと」
「ご主人は」
「こん夜は、宿直なので、失礼させていただきますって」
「それはそれは。じつはこんど、山内に施餓鬼堂が建ちましたので、ぜひご主人のおゆるしをえてあなたにも一度ご参詣をねがいたいとおもっていましたが」
「ええ、ぜひ伺いますわ。いまの主人、わたしの出歩きなどは、頼りないほど、ちっともお構いなしですもの。……それ母が亡くなったときも、血盆経を上げていただいたままでしょ。その願ほどきだってしなければなりませんしさ」
そのとき、女中が茶を運んできた。巧雲は茶碗を受けて天目台に乗せ、碗の縁を白絹で拭いた。そして、如海へささげ出すと、如海の指と女の白い指とが、碗を媒だちにして触れあった。そのあいだ、とろけるような眼にとらわれた女の眼もとは茶わんの中の茶の揺れみたいに何とも危なッかしい春情気だった。
「……ははアん。これだな、法事の目あては」
石秀は覗いていた。
客間の窓の掛布が隙いている。ひょいと、如海がそれへ気がついて。
「や。あれは、どなた?」
巧雲もビクとした。
「ま、いやな人ね。石秀さん、おはいり。そんな所に立っていないで」
「ご家人ですか」
「ええ、主人の義弟ですの」
「そうですか。どうぞご遠慮なく。わたくしが報恩寺の住持如海でございます」
「申しおくれました」と、石秀はそれへ来て──
「金陵生れで、またの名、𢬵命三郎というがさつ者でございます。どうぞよろしく」
「ではお時間もせまりますから、外に待たせてある衆僧をひきつれ、改めて、ご法莚へ参じ直すといたしましょう」
如海はいちどおもてへ立ち去った。
門外にはおくれて来た法要坊主が大勢時刻を待っていたのである。──ひとしきりは何の支度か、饒舌の囀りがただガヤガヤとかしましい。また何ともいえずなまぐさい。
古人も言っている。
「暴ナラズバ僧ラシクナイ。僧タラバ益〻暴。暴ナラバ愈〻僧ラシイ」と。
またこんな洒落た古言もある。
一字でいえば「僧」
二字でいえば「和尚」
三字でいえば「鬼楽官」
四字でいうならば「色中餓鬼」だと。
なぜ色事と坊主とが古来こんなに観られているのか。といえば、金持は金持で財貨や内輪事のなやみが多く、妻妾何号の数はあっても、とかく色情海の底までは溺れきれない。また貧者では、労働のつかれ、あしたの米ビツ、また、せまい屋根の下では、病人やら子供やらで、しんそこ女房に春情をゆるし、うつつを抜かすわけにもゆかない。
しかるに坊主はどうか。
その肉体はやはり父情母血によって作られたもの。諸人とちっとも変ってはいない。そのうえ、身にきんらんを着、施主檀家のふところで三度のお斎に飢えは知らず、坐する椅子は高く、人に施すところは至って低い。住む伽藍は殿堂をしのぎ、密房の時間はあり余る。自然、あたまのうちには念々、門外の娘、参詣の人妻、あれやこれの女、女、女、女ばかりの妄想がその有閑な肉体に住む。しかもほかに消耗のない体なので、それの沸るや、女肉へ没するや、さだめし精力絶倫だろうという一般的な見方がなされやすいもぜひがない。
というわけで、石秀が男女を見る目もちがっていた。そしてまた、義兄の楊雄の身にもならずにいられない。業腹が煮えてくる。面罵してやりたくなる。
「こいつはあぶねえ。おれの性分がむらむらと出て来そうだ。といって、現場をつかんだわけではなし……」
このとき、はや衆僧は、如海に引率されて、奥の法要の道場へ乗込んでいた。香煙るると磬を合図に礼拝する。そして壇には「王押司霊位」の位牌があかりにまたたいているが、この法要を何と見るやら受けるやら、と石秀は末座で見ていながら滑稽でたまらない。
献斎の礼、茶湯の供養。そして一座首十坊主がいっせいに歌詠讃揚するお経の仰々しさ。それが、おごそかなればなるほど、石秀にはくすぐったかった。──と、そのうちに施主の巧雲が、楚々と、前へすすんで香を拈じる。誠しやかなその合掌の長いこと。それと白襟あしのなまめかしいこと。たちまち、お経はみだれてきた。どの坊主の目もみな巧雲の乳だの小股のあたりを愉楽想像しているらしい。いや香よりも匂いのたかい女脂の薫がふんふんと如海和尚の打振る鈴杵もあやふやにし、法壇はただ意馬心猿の狂いを曼陀羅にしたような図になってしまった。
たそがれ、やっと終って。
「どうも皆さま。こんにちは、ありがとうございました。さだめし、仏もよろこんで、成仏得度したことでございましょう」
巧雲のお礼の辞につづき、石秀、潘じいさん、召使が先に立ち、
「どうぞ、あちらのお席へ」
「ゆっくりお斎なと召上がって」
と、別室のほうへみちびいて行く。
如海は、いちばんあとから、上気した青い頭に湯気をみせながら歩いていた。すると側へ寄り添って行った女が、そっと匂う手帕を袖から渡した。
「師兄さん。お汗が……」
あたかも、舞台を下りてきた俳優と、贔屓の女客のごとき観がある。汗にぬれた手帕を、巧雲は、さもいとしそうに、それで自分の唇をつつむ。紅蘭に似るその瞼にもいっぱいな春心をいわせながらである。
お斎は一刻。やがて般若湯(酒)もすっかり廻ると、また祭壇へ出て宵のお経。また休息、またお経。明け方ぢかくまでそれがつづく。
次第にお経は乱調になる。坊主もみんなへべれけなのだ。猥談猥語も出かねない。巧雲はおとりもちを人にまかせて、いつか小部屋の暗がりに如海をひきいれて口説していた。
「ねえ師兄さんてば。……おちつかないのね」
「だって、檀家先へ来て」
「あらいやだ。水くさい。わたしそんなつもりじゃありませんのよ。わからない」
「どう? ……。なにを」
「まあ、憎い。わかってるくせに。血盆経の願ほどきに、きっと行きますわよ。いいこと」
「しかし、昼にちょっとみた、あの義弟さんとかいう若いの。あの眼が気になるね」
「ち、あんなの、何でもありゃしない。いわば居候も同様なのよ」
「楊雄さんだって、そうそういい顔ばかりもしていまい」
「だいじょうぶ。うちの良人ときたら、お勤め第一の道楽なし。それにわたしのいうことならさ、なんだってもう」
「そんないいご主人があるくせに、どうしてこの身のような者へ」
「いけませんか。あなた、わたしをころす気、死んでもいいというの。いったいこんな心にしたのはだれなんです。ええ、くやしい」
「あ、しずかにおしってば。ほんとにおまえは」
「こまり者」
「なにさ、もう可愛くって」
「うそっ。ほんとなら、どうかして」
「そんなむりを」
「いや、いや。いや。……くるしい。あたし、どうかしてしまったのかしら」
甘いすすり泣きに一瞬しいんとなったかと思うと、あまりにも早いうちに、廊のどこかで衆僧の呼ぶ声がここの男女を驚かせた。
「海闍梨さま、海闍梨さま、紙銭をお焼きください。暁天でございますぞ」
有明けの空とともに、祭壇の紙銭を焚き、それで回向一切も終るのだった。
煙とともに、如海の轎と十坊主の列は、山寺へ帰って行った。あとは乱脈、あとかたづけがまた大変である。そんなところへ、楊雄はなにも知らず、役署から帰ってきた。
「やあ、ご苦労ご苦労。石秀、君がいちばん骨折りだったろう」
「お、お帰んなさい。なあに何でもありゃしません。まずまず、無事にすみました」
「女房のやつは」
「え。義姉さん、そこらに見えませんでしたか。じゃあ二階の寝室でしょう。ずいぶんおくたびれなすったろうから」
「すまんね。あとかたづけまで君にまかせ切りで。何しろあれは余り丈夫な体質でない方だからな。気だてはいい女なんだが、心でわびながら寝たんだろ。かんべんしてくれ」
わが女房である。恋女房でもある。義弟の石秀へも悪くは見せたくないのであろう。楊雄は女房に代って言いながら、二階の階段をのぼって行った。……ああ、何だッてまた、あんな気のいい男が選りに選った女をお持ちなすったのかと、石秀は階段の下からその後ろ姿を見上げて、ふと義憤の眦を熱くした。
秘戯の壁絵もなお足らず、色坊主が百夜通いの事
路次の角店──一度は閉めた例の肉屋をまた開業して──石秀はもうくだらないムシャクシャなどは、努めて忘れようとするものか、今日は早くから店頭に顔を見せ、客へもお世辞をふり撒いていた。
すると、午すこし前のこと。
路次の奥から美しい女轎がぞろと出て来た。お供は小婢の迎児と、舅の潘爺さんとで、二人とも清々した外出姿、常ではない。
「おや、おじいさん、どちらへ?」
「石秀さん、留守を頼むよ。今日はの、それ……わしの死んだ家内の血盆経の願解きでな」
「へえ。報恩寺へですかい」
「先だってのご法要の晩、お住持の海闍梨さまと、むすめの巧雲がお約束をしたとやらで、聟どのの楊雄も、そんなことなら行って来いと、機嫌よくゆるしてくれたというわけじゃ。帰りは晩になるかもしれないが」
「そうですかえ。行ってらっしゃい」
石秀は腕を拱み、睨めすえるような眼で女轎の巧雲を見送った。淫婦め! と口のうちでは言っている。そして、
「……気のどくなもんだなあ。何も知らずにいる気のいい兄貴(楊雄)は!」
と肉切り台へ吐き出すように呟いた。
うちの良人が拾って来て、店まで持たせてやっている厄介者の石秀──と見、巧雲は彼の眼のいろなど、気にしてもいなかったろう。心はただイソイソと先にある。むかしは糸屋の若旦那、いまは報恩寺のお住持となりすましている海闍梨の裴如海──その女にしても見ま欲しい姿へと、もうたましいは飛んでいる。
そこは薊州城外の古刹、さすが寺だけは山巒松声、いかにも苔さびた閑寂な輪奐だった。
「オオようこそ。ようおいでなされました。さ、さ、ずっとすぐ御本堂のほうへ」
山門で待ちかねていた海闍梨の如海は、衆僧とともに、先に立って内へ導く。
巧雲はもうぼウとしていた。彼女も今日は思いきり化粧をこらし、楚々とついてゆく姿は、欄間彫の吉祥天女が地へ降りていたかのようである。
だが諸僧のてまえ、お互いは、眼と眼でものをいっているだけでしかない。由来、お寺の〝逢曳き〟というものは、妙に秘かな春炎と妖情を増すものだった。釈迦の経、華厳の呪、真言の秘密。それと本能が闘って燃える。かつまた、世間離れした反逆の快いときめきなども手伝うものか。
客堂では、まず蘭を浮かした茗煎(茶)一ぷく。
ほどなく設けの施餓鬼堂に入り、一同、神妙な回向の座につく。看経二タ刻、巧雲は、御本尊の地蔵菩薩までが、いつかしら裴如海の色白な顔に見えてきて、るると乱れる香煙の糸も妖しく、心は故人の願解きどころか、わが生身の願結びで、うつつはなかった。
やっと、やがて終って──。
「さあ、どうぞ奥院で、ご休息を」
と、一僧にいわれたときのありがたさ。潘の爺さんも、やれやれと腰をのばして、廻廊づたい、奥の小座敷へひき移った。
ここでは、精進料理のお斎がある。轎かきの者、お供の迎児までが、別室でご相伴の振舞いにあずかり、潘の爺さんは、持参の銀子や織物などを差出して、
「ほんの、軽少ですが」
と、寄進におよぶ。
「まアまあ、そのようなお堅いことは」と、如海は収めながらも、すぐ一方で「どうぞ、今日はごゆるり遊ばして。さ、いかがです、おじいさん、もう一杯」
「いやもう充分いただきましたよ。海闍梨さま。これはいったい何という御酒で」
「山門自醸の銘酒でございますが」
「……道理で。こんな美味いお酒はついぞ飲んだことがありませぬわい」
「ホ、ホ、ホ。いいんですか、そんなに召上っても」
「巧雲。まアおまえも、一ト口いただいてごらんよ」
「いえ」と、如海はべつな銚子を取って。「奥さまには、こっちのを差上げましょう。お弱いご婦人にはこの方が」
「ま。……酌いでくださいますの。もったいないこと」
そろそろ巧雲の沸る思いは姿態にもなって、眼もともとろり、肌の凝脂も匂い立つ。
淫僧、裴如海のこころもそこは同じ焦々だったに違いない。いつぞやの晩はむなしい交唇だけで別れたこと。今日こそはの機会を外すわけはなかった。さればこそ潘爺さんの酒へは微量な眠り薬を混じ、巧雲へすすめたお銚子のものへは媚薬を入れてあったのだ。薬法もまた仏家でいう〝未見真実〟なら、色坊主が女体開眼の方便として用いるのもまた、彼らには、いわゆる女人済度の慈悲のひとつか。
「ま。嫌アねえ、おじいさんは。……すっかりいただき過ぎたとみえ、よだれを垂らしてしまって」
「奥さま。そっとしてお置きなさいまし。よろしいじゃありませんか」
「だって、あまり遅くなっても。……あ、わたしも何ですか、こう、少し酔ったみたい」
「ちょっと、こちらへ出て、風にお吹かれなさいませ。ここから先は、めったに、どんなお人も入れない所でございますが」
「ま。お静かですこと。まだ廊の先にお部屋があるんですの」
「私の部屋です」
「見せて。……いけません?」
「奥さまならば」
「嫌。……奥さまなんて。ねえ師兄さん、こないだの晩は、おまえといってくれたじゃありませんか」
煩悩の火は鉄も溶かす。ましてや以前は糸屋の若旦那とか。出家沙門となったのも、因は女からで、色の道と借金づまりの世間遁れ。──という前身の裴如海であってみれば、煩悩などは、今が今のものではない。女の良人楊雄の目を偸む恐ろしさは封じえないが、それにもまさる秘密な悦楽の唆りは熟れた果実のように巧雲の体から嗅がれる。巧雲もまた、いまは触れなば落ちん風情で、男の手へ。
「ごめんなさい、師兄さん。……わたし」
「おや、どうなすったえ」
「……なんだか。もう」
「そんなに飲みもしなかったのにね。いやすぐ醒めますよ。ちょっと、そこでお横になっては? ……ね、そうなさいよ」
次の間の帳を引けば、当然、山僧が孤床の寝台は、五戒三帰の菩提の夢、雲冷ややかなはずであるが、どうして、迦陵頻伽の刺繍の襖、紅蓮白蓮の絵障屏も艶かしく、巧雲は顔を袂にくるんだまま、身を捻じ曲げて、
「アア」
と、練絹のようにそれへ横たわると、もう身も世もない姿だった。同時に、彼女の肌の蒸れでもない妖しい香気、それも薫々と身悶えを感じるような匂いの底に焚きくるまれる。
枕床にある宋青磁の小香炉から、春情香のけむりの糸が目に見えぬ小雨の一ト条ほどな細さに立ち昇っていたのである。それさえあるに、さきの酒には媚薬が混じてあったことゆえ、彼女の体のうちのものは正常な位置と唯のひそかな呼吸にあきたらず、誰かその唇を窒息するほど吸ってくれて、そして体の奥所のものに肉の縛めと血の拷問を加えてくれるような力を望むらしく、ウームとくるしげに眦さえも吊ッて、身もだえして見せるのだった。
「おくるしいんですか。え、お寝れませんか。上の着衣など、お脱ぎになっては」
「ひどいわ。薄情ねえ」
「あれ、泣いていらっしゃる」
「だって、泣かすんですもの」
「どうして」
「わたしをこんなにして」
「どうもいたしはしませんのにさ」
「だからよ。もう師兄さんていうひとは」
「ア、いた」
「食いころしてやりたい。わかっているくせに。ええもう、わたしを焦らして。離さない。離さない。もうどんなになっても」
「いいんですか」
「なにが」
「ご主人の楊雄さんにさ」
「そんなこと、なんでいうの」
「それにあの、なんといいましたっけ。そうそう、石秀とかいう眼の恐い男もいるでしょ」
「あんなやつ。……ああわかった。あなたは恐いのね。恐くなったから、逃げ口上を仰しゃるのね」
「憎い?」
「そのまあ平気なお顔。悪魔。白い悪魔みたい」
「いま知ったんですか、この如海を。私は色魔なんですよ。ほんとの私という者はね。だから自分が恐ろしいのだ。それでもいい? ……。それでも」
「知らない」
ついと、顔を横にする。翡翠の耳環が充血した頸で小さく揺れ、その眦のものは、喜悦を待ち焦れる感涙に濡れ光り、一種の恐怖と甘い涙の滴りが、グッショリと、もみあげの毛まで濡らしている。
如海はおもむろに女の羞恥をとりのけていった。巧雲の肌は、そのまさぐりに絶えきれず、いくたびも白雪の乳房をのけぞらしては頸椎骨を前へ折り曲げ、そして唇を求めるらしい喘ぎをみせた。だが如海の方はあわててその唇にすぐ唇を与えるでもなく、
「ネ……。いつも、楊雄はどんなふうにするの」
と、海棠の花みたいな耳たぶを、噛むでもなく舐ぶるでもなく、歯で弄びながら囁いた。
「酷いわ」
と巧雲は拗ねて少し怒った。
「だから断っておいたじゃないか」
のしかかっていた如海の体は、後半身を揚げて顔を女の腋の下に埋め、そのあたりから徐々に乳部を残して柔軟な肌を舌で探って行った。女は縒切れるように身を縒じる。苦痛の火にちかいうめきを歯の根にかんで熱い息をあらく吐く。それがとつぜん死んだように熄んだ。如海の青い入道頭の頸すじあたりに女の雪をあざむく太股が挙げられて、男の顔のありかもない。ただ津々と地下泉の湧く渚に舌をねぶる獣のうつつなさといった姿態。そしてそのうちに女の鼻腔が昏絶のせつなさを洩らしたと思うと、彼はやにわに胸をのばして巧雲の唇へ移った。女は夢中で女自身の津液をふくんだ男の口を奪い、刹那、狂奮して顔を烈しくふるわせた。むしゃぶり啖らう勢いで如海の舌のその奥の根元までを痛いほど吸った。なおかつ如海は加えるものを与えず、女の蘭瞼をむごたらしく上から見すえる。女は眸も気も霞み、怨めしげに重なっている上の眼を見すえた。細めているが艶を超えて生き物の極美を放つような虹が女の眼の中に沸るとみると、如海ははじめて心に誇りきっていたものを悠々と女の望むところへ充たした。
叫絶一喚、これは唐風な彼国の表情表現法で、わが国の春語のごとく、哭くとはいわない。
きょきょとして泣く。すすり泣く。などというのは特有な日本的閨房語で、極まるとき、一叫また一叫、叫ぶというのがあちらの男女の感受性らしい。「阿呀一声、身子已是酥麻了」といったような文字がよく見られる。前技、後技のことも、万国色道哲学における人類の研鑽はどこといっても変りはないが、その執拗度やねばりにおいては、多少、国情や体力の相違もあろうか。一研一擦、三深九浅、緊々縮々、などという表字法にみても、別してこの裴如海ひとりがそう傑出した色坊主であったわけでもあるまい。むしろ四囲の環境と、姦通の秘味と、またその折の巧雲のからだの条件とにこのさいは問題がある。
なにしても巧雲は、この一ト出会いに頭の芯まで忘れられないものに焦かれてしまった。となると、大胆さは男よりも女にある。彼女は別れ際に、次をせびった。しかし寺である。そう口実をみつけて通って来るわけにはゆかない。そこで次のような一策を案出した。
良人の楊雄は、月のうち半分は宿直で、勤め先の牢役署から家には帰らない。──だから召使の迎児を裏口に出しておき、楊雄が不在の晩は、門口に線香を焚かせておく。
しかし、ひょっとして、逢曳きの寝疲れなどで、鴉の声にも目覚めずにすごしたら大変だから、朝まわりの頭陀(朝勤行に町の軒々を歩く暁の行者)をたのみ、朝々裏口で木魚を叩いて貰うことにしておけば、まず万一の心配もない。
「おいや? そうするは」
と、巧雲はながし目で言った。
「よいとも」と、如海もまた、この女の湿潤な肌の奥行きが忘れえず。「──寺に一人、気のきいた寺男がいる。それにたんまり握らせて、頭陀の役をやらせよう。だが、きっとだね」
「いやよ、あなたこそ、忘れては」
艶笑一顧、女は、もいちどおくれ髪を調べて寺を立ち去った。そして屋敷へ帰ると、次の日は小婢の迎児に珠やら着物やらを買ってやり、これも手のうちにまろめこんだ。わずかな鼻ぐすりですぐ忠犬に変る〝奴才〟の婢は、どこの家にもあるものか。──かくて、楊雄が家に帰らない夜といえば、線香の火と、この小婢の手びきで、頭巾を眉深にかぶった色坊主が、不敵にも、ほとんど一晩おきに、人妻の秘室へ忍び通うという不義の甘味を偸んでいた。
友情一片の真言も、紅涙一怨の閨語には勝らずして仇なる事
世間、どこかには、眼があるものだ。
まして石秀はかねがね、臭いと見ていたことなので、ここ一と月もたつと、
「……ははん。やってやがるな」
と、感づいていた。
頃は十一月初め。朝々はもう真っ白な霜なのに、夜明けまぢかというとよく、わざわざ袋路次の奥へ入って来て、ぽかぽか、木魚を叩きぬく頭陀がある。今朝も今朝とて、まだうす暗い外で、
……普度衆生
救苦救難
諸仏菩薩
「……また、やってやがる。ちッ、気になって、これで目が覚めるともう寝られやしねえ」
肉屋の裏木戸から、路次を覗いて、一喝くれてやろうと思っていると、なんと、奥の楊雄の家の裏門から、ひらっと、べつな頭巾姿の大男が出て来るなり、頭陀と一しょに、すうっと、表通りへ消えて行った。
「ああ、やっぱり、あいつだ。……お気のどくだなあ。奥の兄貴は」
彼には、もう見て見ぬ振りは出来なかった。第一気がクサクサして店の客へお愛相も見せていられない。ぶらっとその日、州橋の街通りを行きつ戻りつ、なんとか楊雄を役署から呼び出す法はないものかと考えていた。
「おいっ石秀。どうしたんだい。浮かぬ顔して」
「あ、兄貴か。いや今、思いきって、役署の誰かに頼んでと……考えていたとこなんで」
「おれにかい。おれに会いに?」
「へえ、折入ってね」
「いつだって、家で会える仲じゃあねえか。なんだって、わざわざ外で」
「兄貴。ここじゃ何ともおはなしが出来ません。ちょっと、一杯つきあっておくんなさい」
「君に奢らせる手はないよ。ここらは縄張り内だ。おお、そこへ登楼ろう」
橋畔に見える一亭。顔ききの楊雄である。先に入る。楼中の者、下へもおかない。
「料理も酒もそれだけでいい。呼ばないうちは、誰も来るなよ」
そこで楊雄は、あらたまって訊ねた。
「石秀。義の杯は、伊達に交わしたわけじゃあない。君の憂いは俺の憂いだ。さ、何でも打明けてくれ」
「いや兄貴。自分のことじゃあないんだ。じつは兄貴の女房──義姉さんのことにつきましてね」
「なに。巧雲のことで?」
「へ。……言い難いなあしかし……。だが、いわずにもいられまい。兄貴、怒ッちゃいけませんぜ」
「ふーむ。何か巧雲に、おもしろくないことでも」
「大有りなんで。じつあ、お耳に入れるのも遅いくらいなんですが、報恩寺の色坊主と、とうにお出来になっておりますぜ。……さ、さ。そう目の色をお変えなすっちゃいけません。おちついて、私の眼玉が間違いか真か。あなたはご亭主。冷静にご判断なすっておくんなさい」
と、そもそも海闍梨の裴如海が、一周忌法要で屋敷へ来た夜のことから、以後の不審や、ちかごろ気づいた頭陀のことまで、またこの眼で、怪しい頭巾男が明け方抜け出る姿を目撃したことまですっかり並べたてて忠告した。
「ねえ兄貴。兄貴にとっても恋女房。せっかくなご夫婦仲を裂くようで、なんとも口が硬ばりますが、どうも義姉さんというおひとは、いい心のお方じゃあありませんぜ」
「……。ありがとう!」
「やっ、急に。……兄貴、いったい何処へ?」
「知れたこと。離してくれ」
「だから言ったじゃありませんか。ここは胸にたたんでおきなすって、まあまあ、現場を抑えてからになさいまし。ご身分もある。世間態もある。男のつらいところでさね」
なだめているところへ、役署の組下が、楊雄を探しに来た。その夜は非番だったが、奉行の自宅で、祝いに呼ばれていたのである。
石秀と街で別れて、彼はそっちへ出向いたが、鬱々と、腹が煮えてたまらない。またいつにない彼の悪酔に、奉行や朋輩も目をそばだて、もう飲ませるなと警戒したが、止めればこそだ、なおさら意地になって飲む。
結局、彼は配下の者に舁がれて、ぐでんぐでんになって帰った。玄関は大騒ぎである。潘爺さんやら迎児やら、妻の巧雲もまた出て来て、さらに二階の寝室までかつぎ上げるといった騒ぎ。
「どうなすったの、あなたはまあ……」
「なんだと! この売女め」
「あら恐い目。ま、着物を脱いで、寝床へお横になりなさいよ」
「触るなっ。けがらわしい」
仰に寝たまま、楊雄は足をあげて、どんと彼女を蹴とばした。
「臭いっ、男臭いっ。あっちへ素去れ!」
「酒臭いのはご自分じゃありませんか。どうかしてるわ、この人は」
「よけいなお世話だ。面を見るのもムカつくわ。すべた、私窩子、消えて失せろ。この部屋に寝るのはゆるさん」
「じゃあ、勝手になさい。知りませんよ、風邪をひいても」
巧雲は唇の端をチッと鳴らしながら扉を排して隣室へ行ってしまった。楊雄は大ノ字なりにふんぞり返っている。しかし眠れない。眠らんとすればするほど心炎はカッカと冴えてくるばかり。ついにまた、脚を床にドタバタさせて呶鳴りだした。
「巧雲、巧雲っ。……離縁状をくれてやるからここへ来いっ。やいっ、出て来いッていうのに、髪の毛を切って梵妻にしてくれるからここへ出て来いっ」
寝てもいられない。巧雲はまた良人の部屋へ恐々と入って行った。するとすぐ、彼女の悲鳴がヒーッともれた。しかしまたしばらくするとそれは、甘いようなすすり泣きに変り、夫婦らしい密語にしいんと密まッて、なお、しゅくしゅくと、五更の残灯もともにまたたき哭いているふうだった。
「……じゃあ何か、巧雲、おれがいったのはみんな根もない嘘だと言い切るのか」
「く、くやしい、わたし……。嘘ッぱちにも何も、まったく身に覚えなんかありませんもの。みんなあの居候めの、つくり言です、濡れ衣です」
「てえと……石秀の讒訴だというわけだな」
「そうですとも、元々はあなたが、どこの馬の骨やらしれないあんな男を連れて来て、義の弟だの、やれ私を義姉さんだなンて、呼ばせるからツケ上がってくるんですよ。もう私だって、我慢はならない。言ってしまう! ……」
「何を」
「今日が今日まで、じっと我慢していたんですけれど。……畜生、わ、わたしにこんな汚名を着せて、あなたとの仲を裂こうとするなら」
「ま、まさか、夫婦仲を裂こうなんて、そんな石秀じゃあるまいに」
「いいえ、あなたのその人の好さ。それをあいつは、ちゃんと見抜いて、私までを誑らかそうとしてるんです。女の口からは、つい言えもしない言い難さから、今まで黙っていたのは、私も良くはありません。けれどそれは、かんにんして下さるでしょ。もう言ってしまいますから」
「何をおまえにしたというのか」
「はじめのうちは、うるさく艶書なぞをそっとよこしていましたけれど、しまいには図ウ図しくなって」
「えっ、艶書を」
「それどころじゃあないんですよ。あなたが非番の夜だというと、裏庭から忍んで来てさ」
「ここへか」
「いちどなぞは、私を手ごめにしようとさえしたので、私も覚悟したほどです。見てください、そこの化粧台の抽斗を。いつも魔除けの短刀を入れておくんです。つい、こないだの晩だって、私は刃を抜いて見せてやりました。乱暴するなら自分の手で死んでやるって。そしたら良人が仇を取ってくれるだろうといったら、こそこそ消えて行きましたけれど……」
「泣くな。……悪かった」
楊雄は、ごくっと、乾いた口に、息を呑んだ。元来が一徹である。真にうけると、急傾斜する。
ど、ど、ど、と足音あらく階段を降りて行った。そして隠居所の潘爺さんを呼び起し、ふた言三言、何かいっていたと思うと、まだ空も暗いのに、役署の方へ行ってしまった。
潘爺さんはまごついた。「──今日限り角の肉屋をたたんじまえ、店の諸道具も、豚も羊も物置へ叩ッ込んで店仕舞いの札を出せ」と、いいつけられたのである。またすぐ役署からは牢屋勤めの楊雄の配下の者がやって来て、たちまち外から戸をコジ開け、潘爺さんの手も借らず処理してしまった。そして豚の股を何本も肩にかついでゲラゲラ笑いながら退散した。
事の急変と、その荒ッぽさに驚いたのは、店の一室で寝ていたあだ名、𢬵命(命知らず)三郎の石秀である。むらむらッとしたが、すぐ否と、胸をなでさすった。
「……兄貴に科はねえことだ。現場を抑えぬうちは決して言いなさんなよと、あれほど堅く断ッといたのに、つい女の顔を見た業腹まぎれ、責めなすったに違いない。そこで淫婦の持ち前、逆手と出やがったものとみえる。ふふん、考えてみりゃあ、世間ありがちな犬も食わねえことかもしれねえ。まずは大人しく引き退がろうかい」
元々、気らくな流浪三界の身、すぐ荷物を取りまとめ、店の現金、出入り帳、きれいに揃えて、潘爺さんの隠居所へ抛り込み、朝飯も食わずにぽいと飛び出した。そしてそのまま薊州の地を去ろうとしたが、
「いや、待てよ」
彼は町端れの木賃宿に泊りをとって、その日一日考えた。
性来の淫婦といっても、ひと通りな巧雲ではない。かつは情夫の裴如海がしたたか者。わるくしたら行くすえ邪魔者の楊雄に一服毒を盛らないものでもない。そんなことにいたらないまでも外聞がある。楊雄の面目はまるつぶれだ。薊州の男が一匹すたる。
「一宿一飯の恩はさておき、かりにも、いちどは義を結んだ兄弟を」
彼は思い直した。一思案に向ったのだ。楊雄が宿直の日はわかっている。──その晩、丑満ごろに木賃宿を出て、五更の前から以前住んでいた袋路次の角にひそんで期すものを待ちかまえていた。とも知らず、例の乞食頭陀が、やがて木魚を叩きながら、路次口へ入りかけて行く様子。しめたとばかり──いきなり跳びかかって「やいッ、声を出すな」と頭陀の襟元を引っつかんだ。
「いるんだろうナ。ゆうべから」
「な、な、なんでございますか。てまえは、何も」
「しらばッくれるな。密夫の如海坊主が、巧雲の寝間にもぐり込んでいるだろうと、訊いているんだ」
「へ、へい……。よくは存じませんが、その」
「まあいい。着物を脱げ。頭陀袋も、木魚もそこへ置け。裸になれ、裸に」
頭陀はふるえ上がった。いわるるままに、章魚のような物が出来上がり、ガクガク歯の根をならして地に坐りこむ。石秀はすぐ自身の衣類を彼のと着替えて、
「てめえはちょっと眠っていろ」
と、喉の辺を、ひとつ締めた。頭陀はかんたんに目を白くして仮死してしまう。それを肉屋の裏口へ抛りこんで、彼自身頭陀その者になりすまし、奥の屋敷の塀に添って、裏門の辺をうろつきながら……普度衆生……救苦救難……諸仏菩薩……ポクポク、ポクポク、木魚をたたきぬいていた。
薊州流行歌のこと。次いで淫婦の
白裸、翠屏山を紅葉にすること
「お。頭陀の木魚が聞える。もう夜明け近いのか」
前夜からの濡れ事に、ぐっすり寝込んでいた裴如海は、あわてて法衣を着込み、長頭巾をかぶり出した。
白粉の痕もないほど、巧雲も性を失った姿で寝入っていたが、後朝ともなれば、まだ飽かない痴語も出て、男の胸へ纒いつく。
「何さ、またすぐ会えるじゃないか。幾日もの別れじゃなし……」
如海ひとりがスッと出て行くと、階下の廊では小婢の迎児が提洋灯をさげて待っている。──手筈は毎々の順序どおり。カタンと裏門の閂を迎児が外すと、とっさに如海がひらと表へ抜けて出る。
ポクポク、ポクポク、頭陀の影は塀の角で、しきりとまだ木魚を叩いてるばかり。「──おや、頭陀のやつ。どうしたんだろ、いつになく?」と如海は、自分から馳け寄って行き、
「よせ。木魚はもういい。帰るんだよ、帰るんだよ」
と、一ト声叱ッた。そして、先にそこの路次から表へ走りかけたが、とたんに何かがその襟がみをぐんと後ろへ引きもどした。
「和尚っ。ちょっと待て」
「げっ?」
「じたばたするな。こう、ふん捕まえたら逃がすこっちゃあねえ。俺の面には覚えがあろう」
「ヤッ。おぬしは」
「この世の見おさめによっく見ておけ。楊雄の義弟分、𢬵命三郎の石秀だ。よくも兄貴の面に泥を塗りゃあがったな。うぬっ」
「あっ、た、たすけて」
「してえ三昧な真似しやがって、虫のいいことをぬかすな。この極道坊主」
「わ、わかれる! いつでも、女と別れますから」
「くそ。もう間に合わねえ!」
石秀は相手のもがきを後ろから抱きしめたまま、右手の短刀で如海のわき腹を深く刺した。抉りまわし、抉り廻して、どんと捨てた。
霜の路次を、さっと鮮血が流れ走る。彼は、如海の頭巾や法衣を剥ぎとって手に抱え、路次から往来へ飛鳥のごとく躍り去った。……と、まもなく夜は白々明け。世間のあちこちでは、戸を開ける音。車の往き来。
「たいへんじゃ。人殺しじゃ。裸のお坊さまが殺されている!」
いちばん先に、路次の死骸を見つけて騒ぎ出したのは、毎朝これもきまってこの辺へ手車の鈴を鳴らしながら廻って来る、餅粥売りの爺さんだった。さあ騒動である。往来はすぐ人の山。役署からは検死が来る。目明しが近所一帯を洗って聞き廻る。
死体は、報恩寺の如海とすぐ知れた。もう一人の頭陀、これは気絶していただけなので、すぐ息を吹っ返し、裸のまま拉致された。頭陀は報恩寺の納所、胡道人というやつ。彼の白状で事はあらまし奉行所の調書にのぼった。
ところがまずい。事件は牢役署勤めの官人楊雄の妻の姦通沙汰だ。おそらくは楊雄がそれを知って、他人の手で姦夫如海を殺させたものにちがいなかろう。と奉行所では観たのである。
奉行は処置に窮した。巧雲が、楊雄の恋女房とは日頃の私交上でわかっている。彼に同情せずにいられない。かたがた、頭陀の白状でも、如海の悪行はあきらかなので、これは極小に内輪扱いとしておくに限ると考えた。で、報恩寺内の全坊主の呼び出しや犯人捜査の令は、型どおり行ったが、楊雄には、一片の証言を取っただけで、おかまいなしとなった。
巧雲は、ぞーっとしたろう。潘の爺さんも、きもを冷やしたにちがいない。だが、娘のことである。爺さんも、ぷつんと、口を閉じて、以後これについては、何も世間へ語らない。
けれど、世間には目がある、口がある。
妙な俗謡が、薊州の町では流行りだしてきた。
羅傘 さんさん 銅鑼 どんどん
肩で風切る病関索(楊雄のアダ名)も
惚れた女房は 斬りよもないよ
惚れた弱味じゃぜひもない
和尚ヌクヌク 頭陀ポカポカ
如法闇夜の 玉門じゃもの
いちど潜れば 忘られないよ
泳ぐ血の池 ぜひもない
町の酒場の妓も唄う。辻でも子供が唄って囃す。楊雄の耳に入らぬはずはない。楊雄は囃されている自分をあわれむとともに、以来影を消し去った義の弟石秀を思い詫び、
「どうかして、もいちど彼に会いたいもの」
と、ここ毎日、役署の行き帰りには、彼の居所を探していた。そしてついに、町端れの木賃宿に、彼のいることを突きとめ、会って、とたんに、はらはらと涙をたらした。
「石秀! ……。すまなかった。君の忠告をアダにしたこの腑抜け者。わらってくれ、ゆるしてくれ給え」
「なんの、兄貴が分ってくれさえすればそれでいいんだ。もしかしてまたも女房の口に言いくるめられて、逆にこの石秀をお恨みなすっているんじゃないかと、私もついこの土地を去りえず、もういちど兄貴に会い、そして動かぬ証拠もお見せした上で立ち退こうと思っていたんで……。ま、念のため、ごらんなすって」
と、石秀は血の乾いた如海の頭巾法衣などを取出して、彼の前に示し、これでもう今は心残りもない。義の杯はお返ししよう。これをもって自分は他国へ退散すると言い出した。
「いや待ッてくれ」と、楊雄は色をなして。「義兄弟の杯とは、そんな軽薄なものではあるまい。君はそれで気がすんでも、俺の心はすまない。また楊雄の男が立たぬ。もう一日待ってくれ」
「兄貴。待ったら、どうする気なのだ」
「女房の巧雲から、君へむかって、詫びをいわせる。すまないが、明日の午、城門外の翠屏山へ来てくれないか」
「翠屏山? あの人里離れた山の上か」
「そうだ、きっと待ってるぜ。久しぶりに一杯というところだが、お互い胸のつかえを持っていては、美味くもあるまい。あしたをすませた上でとしよう。じゃあ石秀、間違いなく」
と、楊雄は再度念をおして、帰って行った。
あくる日、石秀は、旅包みを背へ斜めに結び、
「おやじさん。お世話になったね。また旅烏さ。あばよ」
と木賃のはたご代を払って出て行った。いずれともなれ、もう薊州にはいないつもりらしい。
翠屏山は、薊州東門のそと、郊外二十里のところ。全山は墓地であり、丈なす草、樺、白楊の茂み、道は磊々の石コロで、途中には寺も庵もなく、ただ山上に荒れ朽ちた岳廟があると聞くばかり……。
「ほ。轎屋か。そこにいる連中は」
「へえ、轎屋です。楊家の旦那と奥さまをお乗せ申して来たんで……。するってえと、岳廟のお詣りをすますから、麓で待てと仰っしゃいます。そこでこう、暢気にみんなで御酒を頂戴しているという寸法でござんして」
「そいつアいい。めずらしいお日和だからな。酒も風流に飲めるだろう。……じゃあ楊雄さんご夫妻は、もう先にお着きだね」
「とっくに山上でございますよ」
「ちと、遅かったか」石秀は足をはやめた。
谷も、鳥の声も、目の下に沈む。
「おう、兄貴」
「やあ、来てくれたか、石秀」
「待たせたらしいな。すまない、すまない。が、どうなすったんです。義姉さんは」
「巧雲か」
「どこにも見えないじゃございませんか」
「いや来ている。いま会わせるよ。……が、まず寂かな景だ。一杯、息やすめに飲まないか」
「麓で轎舁きたちも飲んでいた。じつあそれを見てから、急に喉がグビついていたところでさ。一杯いただきましょうか」
岳廟の前に並んで腰をかけ、楊雄がたずさえて来た二箇の瓢酒も、たちまち二人でカラにした。
「どれ……」と、楊雄はさきに腰を上げ、「じゃあ、石秀。巧雲に会ってもらおうか」
「お。どこにいるのか」
「この裏だ」
数歩。──石秀はそこで、ぎょッと立ちすくんでしまった。
巨木の幹に、半裸とされた女が縛り付けられている。
巧雲だ。すこし離れて、小婢の迎児も縄目のまま、灌木の中に打ッ抛らかしてある。
「兄貴、いったい、これは? ……」
「約束どおりさ、巧雲から君へあやまらせるのだ。……ここまで、女房を連れ出すにも、なかなか、なんのかのと言い渋るので手拈ずッたが、俺の夢見に二タ晩も岳廟の神があらわれて、きょうまでの魔邪は水に流し、以前の夫婦仲を誓い直せと、お告げあったから行こうじゃないか……と、うまく誘い出して来たわけさ」
「それはいいが、なんでまた、こいつは余りに酷い仕置じゃないか」
「酷いって。……うむ、それは君が、この楊雄へ義理立てに言ってくれるのだろうが、石秀、君のほんとの腹では、八ツ裂きにしても飽き足らない思いに違いあるまい。町の俗謡を君だって聞いてるだろう。病関索の楊雄は、もう薊州では男がすたッた。君ももうそんな義理立ては捨ててくれ。……やい、巧雲」と、彼は一歩、女へ迫って。
「さ! 一切を懺悔して、おれの義弟にあやまれ。てめえは、二重三重に、亭主を誑らかしただけでなく、あらぬ罪を石秀にも着せ、始終、石秀がうるさく自分に口説き寄って困るなどとぬかしたろうが」
「……すみません! あれはまったく私の一時のつくり言。……石秀さん、うちのひとに詫びてくださいよ。後生だから」
「ふざけるな。女房の不始末は亭主のおれが始末する。石秀が何といおうと今はこのおれが堪忍ならぬ。……石秀、証拠の品は持って来てくれたろうな」
「これですかい」
石秀は、背の包みを解いて投げ出した。如海の法衣と頭巾である。ひと目それを見ると、さすが巧雲も真白な肌を鳥肌にし、髪の根もよだてて顔を横にした。
「覚えがあるな。知らぬとはいえまいな。巧雲」
「か、かんにんして。あなた……あなたとも、一度はあんなにも想い合った仲。後生、それを、もいちど思い出して」
「思い出すからこそ、ゆるせねえのだ。よくも俺の男を泥ンこにしやがったな。また、男と男の義を裂こうとしやがったな。もうこんな物は、てめえの髪には不要な物だ」
と、楊雄は、彼女の珠櫛、金釵、簪などことごとくムシり奪って地へ投げ、その手で腰の剣を抜き払った。
白刃を見ると、巧雲はヒーッと悲泣しだした。そして、遁れ得べくもない縛めをもがき抜いて、半裸の白い肉体に縄目が食い込むばかりムチムチと波打ちもだえた。
「石秀。この刀を君に渡す。ぞんぶんに恨みをはらしてくれ」
「いやだ!」石秀は首を振って。「──いくらこの人が悪婦でも、兄貴の女房、まして自由のきかない女ずれを」
「まだ憐愍を持ってくれるのか。そこは君のいいところか。しかしこんな女を生かしておいたら、後日また、世間で毒をなすのは知れたことだ。よしっ、おれの手でする」
白い刃の切っ尖をつきつけられ、巧雲は髪ふりみだして悲鳴をあげた。足の指を曲げて爪さき立ち、眉をひそめ、喉を伸ばして叫絶する。その狂える様は、淫蕩な女体が、焚きこめられた春情香の枕を外して、歓喜の極に、一喚、死息を怪しましめ、一叫、凝脂を汗としてうるおす、あのせつなに見せる摩那識の全くうつつない貌とそっくり似たような態でもあった。──おそらくはふと、良人楊雄の脳裡には、そのとき、他人の覗きえない幻影が彼女の姿態に重なって見えていたのではあるまいか。
「やかましいっ」
大喝、こういったが、その剣の先は、彼女の悶動する乳くびのへんを、わずかに、ちょっと突いたのみである。血が走った。紅い絹糸のような血の条だ。でも彼女は仰山なうめきをあげ、
「助けてーッ。死にたくない。人殺しっ。誰か来てえーッ」と、声をからして叫びつづけた。
このさまを見て、小婢の迎児は、縄目のまま灌木の中を跳び出して逃げかけた。一閃、楊雄は躍ッて迎児を斬り伏せ、返すやいな、その血刀で、
「阿女、思いしれ」
と、巧雲の心部を刺しつらぬいた。血を見るや彼自身も、その濛気に酔ってきたのか、女の半裸から裳の下までをズタズタな朱に斬りさいなみ、あとは憑かれたものの如く、茫然、血刀をさげて我に返らぬことしばしであった。
「……兄貴、やんなすったね、とうとう」
「覚悟の前だ。今朝、家を出て来る前から」
「もう薊州にはいられませんぜ。たとえ女房でも小婢でも」
「おお、人を殺したからには、そいつも覚悟さ。いさぎよく自首して出る」
「めっそうもねえ。そんな愚はおよしなさい。あなたほどな男が、こんな淫婦のいたずら事と、自分の一生を取りかえたりして埋まるものか」
「じゃあ、この楊雄はいったい、どうしたらいいのだ。俺もまだ若い。世間へ何も尽していず、世間の端ッこを覗いただけだ」
「どうです。梁山泊へ行こうじゃありませんか」
「えっ、梁山泊へ」
「山東の及時雨宋公明をはじめ、義胆の男どもが、雲の如く集まっていると聞くし、かたがた、近ごろ仲間を求めているとも言いますぜ」
「だって、何の手引きもなしでは」
「いいや、いつかあなたと兄弟の約をしたとき、町の居酒屋で、ちょっと行きずりの会釈を交わした二人がいます。ひとりは梁山泊の神行太保の戴宗、もひとりは錦豹子の楊林。あの二人を頼んで行きましょうや」
「確かか。それは間違いない人か」
「じつはそのとき、戴宗その人から、銀十両もらっていました。その十両もまだここにある。ねえ兄貴、こうなったのも、思えば何か不思議な糸が私たちの運命をどこかで引いているような気はしませんか」
「行こう! 深い話は途々として」
「じゃあすぐここから」
「長居していると、麓に待たせておいた轎舁きが、ひょっと登って来るかもしれない。オオ女の櫛、簪も路銀の足し、そいつも拾って」
と、血刀を拭って、鞘におさめ、石秀もまた旅包みを背に結び直して、峰づたい、道をほかへ探ろうと歩き出したときである。
「見たぜ、見たぜ! こう薊州牢役人の楊のおかしら。──ここに人ありだ、すっかりこの耳で聞いちまいましたぜ! 梁山泊落ちのご相談もネ。へへへへ」
何者だろう、どこかで不敵な笑い方をした者がある。いやに横着な言い廻しでもあった。
祝氏の三傑「時報ノ鶏」を蚤に食われて大いに怒ること
折も折である。誰か? と楊雄と石秀はぎょっとして、後ろの木蔭を振りむいた──。が、その目の前へ、颯ッと、泳ぐがごとく出て来た男の魔性めいたお辞儀振りを見ると、
「なアんだこの野郎、ひとを脅しゃあがって」
と、楊雄は怒るにも怒れぬように、かえってゲタゲタ笑いだした。
「だれかと思ったら、てめえは小泥棒の鼓上蚤じゃねえのか」
「へい、蚤の時遷です。ひょんな所でお目にかかりましたね。牢屋のお頭」
「てめえ。何もかも、物蔭で見ていたんだな」
「いけませんでしたか。──これから梁山泊へ落ちのびようッていうご相談事も、ついそこで残らず聞いてしまいましたが」
「いまさら、いけねえといってみたって、仕方がねえや。……石秀、どうしたもんだろう。この蚤男を」
「蚤男とは、巧く言いなすったな。一体何者です、その男は」
そこで楊雄が、こう説明した。
──昨日までの職掌柄で、自分も多年いろんな囚人を手がけて来たが、この時遷アダ名を鼓上蚤という蚤みたいな人間は、めったに知らない。
生れは、高唐州というがもとより前身不詳の無宿者で、よく捕まって薊州の牢屋へ入って来るが、すぐにまた牢から出て行く。──なぜなれば、たいがい軽い微罪だからで、ほかの罪人のように、被害者も訴え手もないのである。
じゃあ何で食ってるかというと、あちこちの墳墓を掘って、殉葬(死者に副えて埋めた生前の遺愛品)の珠だの金銀を見つけては、市でこかしているものらしい。もちろんそれとて重罪だが、現場を見つかった例しはないので、ほかの微罪で捕まえて来る。ところが牢にいても牢中の愛嬌者だし、また、牢舎に飽きると、いつのまにか、自分の意志でぷいとどこかへ消えてしまう。──というと獄屋の境もないようだが、そうではなく、元々この鼓上蚤ときては稀代な〝忍び〟の達人で、骨はやわらかく、体は海鼠のように、緊縮自在なのだった。──それにまた気が向けば、獄を我が家のように心得、自分から帰って来ることもあるし、世間の生きている人間へは、かつて加害者となったことのない男だけに、牢番と相牢の仲間も、すべて笑ってこれを見ているという変り者でもあるのであった。
「なるほど、変ってますな」
石秀は、聞き終って、もういちど時遷の風態を見直した。なるほど妙に愛嬌があって小ッこい顔だ。目は細く、常に、日光をおそれるごとく眩そうであり、顔じゅう、茶色の生ぶ毛を持ち、笑うと不気味な歯並びが刃物のように真白だ。
「兄貴」
と、石秀は楊雄の耳へ口をよせて、
「……これも一能のある男。殺すのはもったいない。といって、生かしておけば、ここで見られた俺たち二人の所業から落ち行く先まで世間へむかって喋べられる惧れもある。……どうでしょう、いっそのこと、梁山泊へ誘って一しょに連れて行っては?」
すると、聞こえもしないはずなのに、時遷は跳び上がってよろこんだ。
「どうか、お連れなすッておくんなさい。あっしにとっても、願ったり叶ったりだ。──この山から薊州を通らずに梁山泊へ行ける抜け道だって知っていますぜ。どうかこの時遷に道案内をさせておくんなさい」
「げっ? ……」と、二人は驚いて、「時遷。おめえには、二人のこんな小声の耳打ちも、そこにいて聞えるのか」
「へエ、どういうものか、子供の時から耳のいいことといったら、蟻の足音も聞こえるほどなんで」
「気味のわるい。まアいいや、これも何かの縁だろう。ともあれここに長居はできねえ。おい、抜け道というのはどっちだ」
「そうきまったらこうお出でなせえ」
と、時遷は間道へさして、先に立った。──かくてここ翠屏山における〝潘巧雲殺し〟の一場面は、そのあとで、薊州じゅうの大評判となった以外に話はない。
旅の日をかさねて、先の楊雄、石秀、時遷の三人づれは、はや鄆州ざかいにかかっていた。──その日、香林洼という一村をすぎて、舂く彼方に、一座の高山を仰いだ頃だった。
「おや、ここらにしちゃあ洒落た旅籠があるぜ」
足もくたびれ加減である。三人が近よってみると、やはり田舎は田舎で、街道を前に、崩れ築土の茅葺き屋根。しかし、百樹の柳にくるまれて、それも画と見えるばかりか、入口の聯(柱懸け)には、
庭ハ幽ニシテ夕ニハ接ス五湖ノ賓
戸ハ厰ニ朝ハ迎ウ三島ノ客
と、左右一行ずつの詩句が読まれる。
「……おい、お客さんよ。そんな顔して、その聯が読めるのかね」
門を掃いていた宿の若い男が言った。
「読めなくてさ……」と、いまいましげに、楊雄が逆にたずねた。「なかなかいい書風だが、これは一体誰の字だい?」
「祝朝奉さまのご直筆だよ」
「書家かね」
「冗談じゃない。このあたり三百里四方きッての、荘のおあるじだアね。つまり地頭の大旦那さまだ。よく拝んでおきなせえ」
「はははは。こんな宿屋は初めてだ」
三人は笑いながら部屋へ通った。おおむね当時は自炊ときまっていた。米、味噌、肉、菜、飲みたいだけの酒、すべて現金買いである。
それを旅籠で借りた鍋釜で煮炊きする。
──楊雄はさてと、巧雲の髪から抜き取ってきた釵を出して、前払いの物代とした。そしてさっきの若い男が何か面白そうなので、それをも加えた車座の四人でやがて飲みはじめた。
するうちにふと、石秀は、妙な物に目がつきだした。──厨房(料理場)へ入るてまえの細土間に、ずらと野太刀が十数本ならべてある。気になって仕方がないので、つい若者に訊いてみた。
「いい刀がありますね。道中、腰淋しくてならなかったところだ。一本売ってくれませんか」
「とんでもねえ」と、若者は一笑した。「──あれには一本一本、みんな番号がついてるからね、失くしたら大変なのさ。第一売り物じゃありませんよ」
「じゃあ何だって、飾り立てておくんですえ」
「知らねえのかい、お客さん。ここらはもう名うてな梁山泊に近いので、いつなんどき、やつらが襲って来ないとも限らないから、その要心に備えてあるのさ」
三人はそっと目顔を見あわせた。
宿の若者はそれとも気づかず、酒の機嫌も手つだってか、喋々と〝わしが国さ〟のお郷自慢だの、また、自分らの上にいただく地頭の〝わが殿自慢〟を一席ぶった。
それによると。たそがれ。
ここの軒から彼方に見えた一座の高山を、独龍山といい、その中腹に、この地方を統治している祝朝奉という豪族が代々住んでいる。
その祝家には、世間で、
と、敬称している三人の優れた子があり、麓のあちこちには、百戸、二百戸、また六、七百戸といった按配に、部族部族の村があった。さらにはまた、百里二百里の外にまで、小作百姓の聚落を擁しているので、その勢力と財富とは、宛として、一国の王侯もおよばぬほどのものだというのであった。
「……ああ、いけねえ。すこし喋べり過ぎの飲み過ぎとござった。お客さん、ごめんなさいよ。どうか、ごゆっくりと」
若者は自分の寝間へひっこんだ。これでこっちも大人しく眠りについてしまっていたら、後日の騒動はなかっただろう。──ところが、いつのまにか居なくなっていた蝙蝠男の時遷が、ふらと帰って来たのを見ると、手に一羽の鶏──いや羽ネをむしッて赤裸としたのを、どこで焼いたのか丸焼きにして提げてきた。
「オヤ鼓上蚤、どこでそんな物を」
「へへへ。実はさっき厠へ立ったとき、小窓から覗いてみたんで。……すると鶉籠かと思ったら、なんと鶏が一羽入れて飼ってある。ちょうど辺りを見れば人もいず、ちょっくら締めて、一ト焙りして来ましたのさ」
「失敬して来たというわけだな。はて、こいつアまた薊州の牢屋戻しだぜ」
楊雄が冗談をとばすと、石秀もつづいて笑った。
「いやムダだよ兄貴。奴にとっては、お家の芸だもの。この癖は止みッこない」
さてまた絶好な肴を見ると、新たに興を催してくる。鶏の丸焼きをムシりあって、三人、さらに飲んで飲み更かし、やがてグッスリ寝こんでいた。
すると五更の頃。
「おいっ、客人、起きてくれ。起きねえかよ、やいっ」
と、声にどすをきかせて枕元で呶鳴っている男があった。三人、同時に眼をさまして、ひょいと仰ぐと、例の宿の若者で、手に棍棒をひッさげ「──大事な鶏を食っちまったのは、てめえらだろう」と、怒っている。
「知るもンか、そんなものを!」と、時遷は下手人なので、慌てた色を隠せない。「おい、客へむかって、変な言いがかりをつけるなよ」
「おや、この野郎。居直りやがったな」
「知らねえことは、知らねえというしかねえや」
「ふざけるな。頭かくして尻隠さず、そこに食い散らした鶏の骨が残っているじゃねえか」
「あ。これか」
「これかもねえもんだ。さあ、どうしてくれる」
「じゃあやっぱり、酒の上で食っちゃったのかな。とんとゆうべは覚えもなかった。だが、たかが、鶏一羽、代を払ったらいいだろう」
「うんにゃ。この鶏は、ただの鶏とはわけが違う。時報ノ鶏といって、狂いなく五更を告げるんで、この界隈での共同の物になっているのだ。さあ生かして返せ」
「無理をいうなよ。おれたちは魔法使いじゃねえんだから」
「それじゃあ、梁山泊の下ッ端だろう。探りに入って来やがったな」
「なんだと」
「そうだ、そうに違いねえ。こないだうちから胡散な奴が、この祝家荘にうろついているから用心しろと、山荘からもお触れが出ていたところだった。ようし! 三人ともに引ッ搦げて、独龍岡の大旦那の御門へ送りこむからそう思え」
「何を」
と、時遷が平手打ちを食わした弾みに、若者はどんと外へよろけた。──しかし部屋の外にも、はや近所の仲間が加勢に来ていたものとみえる。ど、ど、どッと得物を持った一群の男どもが、とたんに、躍りこんで来た。
凄まじい格闘となり、楊雄と石秀とは、からくも相手を投げとばしながら、細土間の槍掛けにあった野太刀一本ずつを奪って外へ逃げ出していた。──けれど馳けても馳けても、蚤の時遷は後から追いついて来そうもない。──捕まったらしい? と心配になってきた。振り返ると、旅籠の一軒は、朝火事を出して炎々と燃えているのだ。しかもそこからなお数十人の喊声がこっちをさして追跡して来る。
「あきらめよう。蚤一匹に関ずらって、おれたち二人までが、祝家荘のやつらに、がんじ縛めの目に会わされては堪らない」
街道を外して、わざと横道へ走りこんだ。それがかえって悪かったともいえばいえる。さんざん方向に迷ったあげく、また一軒の居酒屋にぶつかった。朝飯前の空き腹ではあり、ままよという気も手つだっていた。「──ごめんよ」とばかり入り込み、そ知らぬ顔をして、腹を拵え、道など訊いていたものだった。
そして。「どれ、出かけようか」と、立ちかけると、あいにく、入れちがいにぬうっと入って来た、片目〝目ッぱ〟の大男がある。その半顔から瞼まで引ッ吊れている恐い顔が、
「おや?」
と、楊雄の背を振り返ったと思うと、さらに声を大にして呼びとめた。
「おお! 薊州奉行所の牢役人。そうだ、そこへおいでなさるのは、たしかあだ名を病関索とおっしゃる牢頭さんじゃございませんか」
彼を呼びとめたのは、中山府の人で、片目の醜いところから、鬼臉児と異名のある、杜興という人間だった。
その杜興は、薊州の地に暴動があったとき捕まって、後日、免囚となってからも、しばらく楊雄の世話になっていたことがある。
楊雄はすっかり見忘れていたが、何やかや、話のうちに、やっと思い出し、
「ああ、あの暴動の時の一人か。こいつア妙な所で会ったもんだな」
「へえ、その鬼臉児の杜興ですよ。こっちは暴動仲間の一人。旦那は薊州の首斬り役人。もう病関索の刀のサビかと、素直にあきらめをつけていたら、なんと、免囚の後々まで、えらいお世話になりまして」
「そんなことがあったかなあ」
「旦那はお忘れでも、こっちは忘れたことはございません。……が、その病関索の楊雄ともあろうお人が、こんな所で何をそそくさなさっているんで」
「じつあ、おれはもう薊州の役人じゃあない。仔細があって、女房の巧雲を手にかけ、二人の連れと一しょに落ちてきたんだが、その道連れの時遷ってえ奴が、ゆうべ祝家荘の旅籠で〝時報ノ鶏〟を盗んで食っちまったという騒ぎさ」
「ははあ。聞いていますよ、朝火事のことは。聞けば、そいつがまた、竈の火を、家じゅうにぶり撒いたんだっていうことじゃありませんか」
「どうなのか、後はよく知らねえが、野郎一人、どうやら大勢に捕まってしまったらしい」
「捕まったのは確かでしょう。ここへ来る途中、毬くくりにされた男が一人、独龍山の方へ差立てられて行くのを見ましたからね。……だが、ご安心なさいまし。恩人のお連れの人なら、なんとか、救ってあげる工夫がないでもありません」
「ふうむ、そして君はいま、この土地で何をしているのか」
「言いおくれましたが、お蔭でその後、当地へ流れて来て、今では独龍山の地頭一族の一荘に、まあ浪人の用心棒格といった名目で、召抱えられておりますんで」
「するとやはり、祝朝奉の一族の家なのか」
「そうです。──詳しくいうと、祝朝奉というのは、土豪の本家で、その西の麓に扈家荘、東に李家荘、三つの部族でこの地方三百里四方をかためているんで」
「えらい勢力なんだな」
「それに、祝朝奉には、祝氏ノ三傑といわれるいい息子が三人も揃っているし、また西の部族の扈家荘にも、飛天虎の扈成というたいした腕前の一子やら、またその妹には、一丈青の扈三娘といって、日月の二刀を馬上で使うという稀代なお嬢さんもおりますしね……」
「そして、おまえさんが抱えられている主人というのは?」
「もう一ヵ所の、東の麓に居館をもっている同族の当主で、つまりその人が李家荘のおあるじ……。みだれ焼きの槍の上手で、また、戦場では、五本の〝飛閃刀〟を背にかくし、百歩離れて人を仆すという神技の持ち主です」
「では、その李家の旦那というのは。……もしや世間でもよく噂にのぼる撲天鵰の李応ではないのか」
「そうです!」と、彼は自慢していった。「大人物です。世にいう侠漢です。ぜひ、いちど会ってごらんなさい。そして、お連れの人のことも、事情をいって頼めば、呑みこんで下さるにちがいありません」
「でも、こっちは見ず知らずだし、君は一介の食客、どうだろうな」
「いやいや、じつをいえば、主人李応とこの杜興の間は、深く将来の心契で結ばれているんです。古くからいる召抱えのてまえ、表面は用心棒の食客としておりますが、吉凶、どんな相談事でも、私だけには打明けてくださる仲。……ともあれ、李家荘までおいでください。ご思案はまたその上でも」
と、杜興は恩人楊雄と石秀をうながして、そこからわが住む主家の李家荘へ案内して行った。
「なるほど」
と楊雄も石秀も、ここへ来てみて驚嘆した。
山の根に拠って、広い濠をめぐらし、千松万柳、門への道は、吊り橋だった。正門の次に内門をひかえ、白壁高く、楼に楼を層ね、武器庫、厩長屋、およそ備わらざるはない。
さらに、李応その人も、噂にたがわぬ風貌の持ちぬしで、
「おはなしは、ただいま、杜興からよく聞きました。ほかならぬ杜興の恩人。杜興に代って、旧恩にお報いいたさずばなりますまい」
と、客殿にあらわれるやいな、まず言って、楊雄と石秀を安心させた。
そしてすぐ祐筆を呼び、
「本家へだぞ。ていねいに書け」
と、頼み事を口授して、一通をしたためさせた。終ると、自身署名して封緘をし、べつな家従の者に持たせて、すぐ本家祝朝奉の居館へと、いそがせてやった。
「ま。……お連れ人は、すぐ貰いうけて帰って来よう。何もないが、その間、おくつろぎを」
李応のいいつけで、午餐が出る。──李応は、杜興のはなしで、楊雄の義気を愛し、また石秀の人となりをみて、これを好漢と見たものか、しきりに棒術や鎗のことなど持ち出して、感興、飽かない容子だった。
ところが、──やがて帰って来た使者の報は、ひどく彼の眉を掻きくもらせた。──彼のいんぎんな書簡も、本家の息子たちの手に握りつぶされ、その返答としては「配下の者の旅籠屋で搦め捕った曲者は、梁山泊の廻し者ゆえ、他人の手にはまかされぬ。わが家から奉行所へ突き出す」と、剣もほろろに突ッ刎ねられ、むなしく帰って来たとある。
「これはどうした間違いだろう。祝家を中心に、西の扈家荘、東のわが李家荘、三家は一族同体の仲なのに。……そうだ、杜興、使いの口不重宝のせいかもしれん。ひとつ今度はおまえ自身が行って、朝奉に会い、直接、よくかけあってみたらどうだ」
「は。おゆるしとあれば」
「待て、念のためだ」
と、李応は花箋紙を取って再度、前より丁重な手紙を直筆でしたため、さらに印章まで捺して、杜興に持たせた。
杜興は馬に乗って、山腹の祝氏の本拠、独龍岡ノ館へいそいで行った。あとでは、浮かぬ顔いろながら、李応はまた、酒茶をかえて、二人を相手に、四方山ばなしをつないでいたが、しかしそれも、
「遅いのう。どうしたことか」
と、やがてはまた、一抹の不安と、時たつほど、重たい焦慮になっていた。
すると。あわただしく、召使の一人がここへまろび込んで来た。──杜興が馬を飛ばして帰って来たというのである。李応がすぐ、
「二人でか?」
と、訊くと、
「いえ一人で」
と、顫えていう。
「さては」
と一同、座を立って、中門まで行ってみると、なるほど、袋叩きにでもなって戻って来たのか、杜興は、紫いろに顔を腫らし、歯ぐきからも血をたらして、悄然と、馬のそばで、衣服の泥を払っていた。
窮鳥、梁山泊に入って、果然、ついに泊軍の動きとなる事
独龍山は、梁山泊を去ること、さして遠い地方ではない。
自然、対峙のかたちだった。
しかも梁山泊の勢いは、日に日に旺となりつつある。疑心暗鬼、つねに祝家荘一円が、彼から蚕食されはしまいかと、厳に警戒しあっていた。
特に、祝朝奉の総領の祝龍、二男の祝虎、三男の祝彪──この三人兄弟は──梁山泊を眼前の敵とみなし、配下一帯にわたって、うさんな奴が立ち入って来たら、容赦なく捕まえて来いと命令していた。
二度目の使い、杜興は、そんな意気込みでいるところへ重ねて行ったものである。もとより祝朝奉は会ってもくれない。出て来たのは〝祝氏ノ三傑〟と呼ばれる前述の三兄弟だった。──それも李応が自筆の書簡など目にもくれず、
「渡せぬといったら渡せん!」
の一点張りで、あげくには、
「きさまも梁山泊の仲間か。でなければ、梁山泊から鼻ぐすりでも貰ったのか」
という暴言。
杜興は口惜しかったが、祝氏のおん曹司たちが相手では怒りもならず、唯々、わけをはなして、哀願と陳弁とにこれ努めるほかなかった。
「くどい!」
三男の祝彪は、短気者か。帰れとばかり、いきなり杜興を蹴とばした。杜興もつい、かっとなり、独龍山三家の誼みと、同族の義を知らな過ぎるなどとつい理を述べた。それがまた、若気の兄弟たちを、逆に煽ったものとみえ、二男の祝虎が、こんどは李応の手紙を引き裂いて叩き返したものだという。
「……余りな仕打ちに」
と、杜興は今──紫いろに地腫れした顔の火照りを抱えながら、李応、楊雄、石秀の前に、哭いて、そのくやしさを語るのだった。
「……てまえも黙ってはいられません。第一、主人李応さまを侮辱されたも同様な仕儀では、このまま立ち帰れぬと申しますと、ならば馬に帰してもらえと、家来大勢を呼んで袋叩きとなし、遮二無二馬の背へくくし上げられてしまい、ぜひなく一応恥をしのんで戻ってまいったような次第でございまする」
一ぶ一什を聞くと、ついに李応も怒髪を逆立てて言った。
「いまはもう堪忍ならぬ。近ごろの宗家の小伜どもは祝氏ノ三傑などといわれていい気になり、われら同族の長上までを軽侮している風がある。──やいっ、馬を曳け! 者ども」
たちまち、彼は武装して、馬上となった。獅子面の胸当に、鍍金鋼のかぶとをいただき、背には五本の飛閃刀をはさみ、またその手には長鎗をかいこんだ。そして怒れる鳳凰のごとく、独龍岡へむかって馳け出した。
「すわ、おあるじの一大事だぞ」
と、荘兵二、三百も馳けつづいて行き、楊雄、石秀もまたこれをただ眺めてはいられない。ともにあとから追っかけて行った。
山腹の総本家、祝氏の門では、はやくも偵知していたとみえる。三重の城壁と二つの荘門を堅め、銅鑼、鼓笛を鳴らすこと頻りに急であった。──そしてたちまち、城門の吊り橋をさかいに、同族李応の人数と睨みあいの対峙となった。
「申すことあり! 祝の小伜ども、これへ出て来い」
李応が呼ばわると、
「オオなんだ! 麓の伯父」
と、三男の祝彪が、これも縷金荷葉のうすがねの兜に、紅梅縅しのクサリ鎧を着し、白馬紅纓の上にまたがって、三叉の大鎗も派手派手しく、部下百人の先頭に立って城門の外へ出てきた。
「彪だな、きさまは。こらっ、いつのまにきさまはそんな生意気口を覚えたか。その口にはまだ、おふくろの乳の香が消えておらんじゃないか。そもそも、きさまのおやじとこの李応とは、切っても切れぬ同族であるのだぞ。家柄として、祝家を宗家と立てているが、血からいえば、きさまらはわが輩の甥ッ子と申すものだ。……しかるに、何ぞや」
「はははは。李家の伯父。無理をしなさんな。セイセイ息を喘っているじゃないか。その先の文句は彪からいってやろう。──おれたち兄弟の手に落ちた梁山泊の廻し者、時遷という蝙蝠面をした小盗人を、返してよこせというのだろうが。どうしておめおめ返せるものか。梁山泊はわが祝家荘の敵国だ」
「だまれ、ばかもの」
「ばかとは何だ。さては李家の伯父も、欲にかかって、いつのまにか、ぬすっとたちの後ろ楯に廻ったな」
「よく聞け。あの時遷という男は、決してさような者ではない」
「ないといっても、当人が白状している。道づれの楊雄、石秀の二人に誘われ、梁山泊へ行く途中だったと、拷問にたえきれず、白状しているんだから疑いはない。──それを戻せというからには、李家も臭い。梁山泊の手先になって、宗家のわが家を乗っ取ろうという腹か」
「青二才。いわしておけば」
「何を、老いぼれ」
祝彪の朱い姿が、飛焔のごとく、李応へせまった。──李応の長鎗、彼の三叉の鎗が、からみあって、音を発し、閃々といなずまのような光を交じえ、とたんに、両勢入りみだれて陣鼓、喊声、一時に鳴りとどろき、いずれも早や、退くに退けないものとなったが、そのうちに、城壁の高櫓から、二男の祝虎が狙い放した一すじの矢が、李応の姿を、どうと、馬の背から射落した。
「や、や」
楊雄と石秀とは、仰天して、馳けよってゆき、「こいつは、しまった。おれたちのために、この人を死なせては」
と、馬の背へ抱き上げ、なお何か、気丈な李応は、叫んでいたが「──ひとまず退け」と、麓へさして、総人数、なだれて帰った。
李応の矢傷はかなり深く、ただ、幸いに致命傷は外れている。石秀、楊雄は夜ッぴて、その人の病室にかしずいた。そして唯々「申しわけない」を繰り返していると、病床の李応もまた、
「……何の。こっちこそ、うんといって頼まれながら、その義も果たせず、おまけに、同族仲間の醜態をさらすなど、何ともはや面目ない」
と、顔をしかめて、苦吟するばかりであった。
げにも、不測な禍いは、どんな小事から生じるものやら分らない。鼓上蚤の時遷が、ふと、宿屋の〝時報ノ鶏〟をちょろまかし、それを三人して酒の肴に食ってしまったなどの一些事が、かかる大事におよぼうとは──と、楊雄、石秀も今はただ臍を噛んで悔やむばかり。
しかも事件はこれきりですみそうもない。祝氏と李家との同族の仲には大きなヒビが入ってしまった。そのうえまた梁山泊というものが、相互の感情対立を事難かしくし、祝氏の三兄弟は、その疑念のまま、さらに二段三段の追撃策を取って、徹底的な圧迫を、李家へむかって下さんものと、密々、うごいている風だった。
「ああ、何とも困ッた。二人がここで身を退けばいいというだけのものではなくなった。どうしよう。石秀。おれたちとしても坐視していられまいが」楊雄が頭をいためての嘆息に、石秀もついに、自分の考えを持ち出した。
「このうえは、君と俺とで、梁山泊へ行って〝馳け込み願い〟と出てみようじゃないか。なにしろ、相手が相手だ、おれたち二人の力では歯も立たぬ」
「む。……馳け込み願いか。よかろう。だが一応は、杜興にも相談し、李応大人にも、計ってみた上でなければ」
と、さっそくこれを、杜興から病床の李応にはなしてみた。李応は一日じゅう考えていたが、このままでは、李家の自滅と彼も観念したものか。反対はしなかった。そしてただひたすら、時遷助け出しの一義が果たせなかったことを、深く病床から詫びているだけだった。
ここ梁山泊の聚議庁では、その日、山寨の群星が居ながれて、大評議がひらかれていた。
楊雄、石秀、ふたりの〝馳けこみ訴え〟が議題にとりあげられていたのである。
総統の晁蓋が、まず最初の〝決〟を取った。
「よろしい、わかった。二人の入党はみとめるとしよう。しかし、楊雄と石秀の身素姓や、その人間の保証は、たれの推挙になっているのか」
「戴宗です。──先ごろ戴宗が薊州へ旅したとき、石秀を知り、その石秀の義の兄として、楊雄もつれて来たわけで」
と、軍師呉用が、そのそばで、説明をあたえていた。
「だが」
と、晁蓋は、議事をもどして、
「そのほかに、もう一人、鼓上蚤の時遷っていうのが、連れじゃあないか。その連れの男が、気に食わんな。……〝時報ノ鶏〟を盗んで食っちまうような小盗ッ人……公徳心のない乞食野郎……そういう人物は梁山泊へ入れたくない」
「ですが、仔細を聞くと、一芸一能はあり、性根もいたって好い奴だそうですが」
「しかし君」と、晁蓋はやや色をただして、呉用のとりなしに反駁した。「──われわれ梁山泊一味の者は、かつて王倫をここで断罪にしていらい、義をとうとび、世間へは仁愛をむねとし、かりにも非道の誹りや恨みを民百姓に購わぬよう、仲間の内は、古参新参のへだてなく、和と豪毅の結びで、一家のように生き愉しもうと、天星地契廟の前で、かたく誓いあってきているのじゃないか。……そんな、鼓上蚤とかいう蚤虱みたいな奴は、入れるわけにはゆかんよ。……ましてやだ! そんな人間を助けるために、ここの人数をくり出すなどはもってのほかだ。取り上げるわけにはゆくまい」
「いや、おことばですが」
と、それまで黙っていた及時雨の宋江が、ここで初めて口をひらいた。
「あながちには申せません。鼓上蚤といえ、やはり一個の人命ですから。……それに捕まッた原因は〝時報ノ鶏〟をムシリ食ったつまらん悪戯にすぎませんが、これを捕えた祝家荘では、梁山泊の廻し者として、声を大に、われわれを誹謗しているとのことです」
「副統──」と、晁蓋はつねに一目おいて敬愛している宋江のことなので唇もとに微笑をみせながら「いつになく、このことでは、さいぜんから、ご熱心なお顔色ですな。どうしてですか、こんな小事件に」
「いや、事は小さきに似ていますが、なかなかこれは将来の大事を孕んでいる問題です。──なぜならば、祝氏ノ三傑をはじめ、かの独龍山三荘の勢力というものは、こことの距離、地勢、その他いろいろな条件からみて、どうしても行くすえ、わが梁山泊と、雌雄を決せねばならぬ運命をもっておりますよ」
「む、む」
と、かたわらに居並んでいる呉用、戴宗、秦明、林冲、みな大きくうなずいた。
「のみならずです。……祝朝奉は、その身、土豪の長として、領下の民百姓の汗をしぼり取り、財を富庫に充たして贅に倦んでいますが、なおその欲望の底では官職の栄位を求めています。……折あらば、官軍を手引きして、梁山泊を攻めつぶし、それを手柄に官へ媚びんとしているもの。──機先を制して、われから彼を挫くとすれば、今は絶好な潮時ですし、また鼓上蚤の出来した些事も、かえって、いい機ッかけと名分に相成りましょう」
「…………」
「かつはここの梁山泊も、爾来、群雄が集まり、兵馬舟船なども厖大になってきたものの、あえて、非道な掠奪はやっていませんから、ここへ来てようやく、庫中の糧秣や予備の財もとぼしくなってきています。そこでもし祝家荘を襲って、彼の富をここへ移せば、まず数年はゆたかに兵馬を練っていられましょう。まざに一石二鳥三鳥です。……さらに私には、もひとつの望みがある。それは李応を味方に招きたいことです。祝氏の一子のため、不覚な傷を負ったようですが、同族の小伜と、つい控え目に、甘くあしらっていたせいでしょう。撲天鵰の李応は一人物です。なかなかそんな者ではありません。辞を低うして迎えるべき人物でさえあるのです。それだけでも大きな意義があるではありませんか」
満座、すっかり耳をすました。統領晁蓋もいまは黙ってきいていた。衆判すでにそれと一致した色である。晁蓋はついに言った。
「わかりました。一切は先生におまかせする」
「ありがとうございました。では、かくまで主張を通したのですから、このたびのことには、率先、自分が陣頭に出て当りましょう。出陣のしたく、隊伍一切の編成は、統領から軍政司の裴宣へお命じ出しください」
これで大綱はきまった。
あくる日は、出陣祭が催され、そして楊雄、石秀の入党も、同日、披露された。
相手は、一国の王侯にも比せられる勢力の祝氏である。五、六千の兵は持ってゆかねばならない。──で、山寨の留守には統領晁蓋のほか、劉唐、呂方、郭盛など、本営のかために残ることとなったが、出陣の方には、名だたる男ども、あらましの豪傑が、宋江の麾下にしたがって征で立った。
すなわち、宋江を総大将に。
そして、呉学究の呉用を軍奉行に。
花栄、李俊、穆弘、李逵、楊雄、石秀、黄信、欧鵬、楊林。これが三千人一軍。
また、第二軍は。
林冲、秦明、戴宗、張横、張順、馬麟、鄧飛、王矮虎、白勝などの三千余人。
それと遊軍の騎兵三百ずつが、両軍のあいだを、漠々と、駒の蹄を鳴らして出た。
すべては、糧秣船とともに、金沙灘の岸と、鴨嘴灘の桟橋とから、ぞくぞく船列にのりこんで対岸へ押しわたり、そこでもういちど、戦闘態勢を組んで西へいそいだのだった。
日をへて、早くも祝家荘の領内へ着く。
敵の本拠、独龍山の影も、その日、空の彼方、昼靄のうちに早や指させた。
「まず、偵察が先だが」
と、宋江は、司令部とする幕舎を張らせて、粗末な椅子につくとすぐ、花栄とふたりで、仮に独龍山三荘図と称する、軍用絵図をひらいていた。
「花栄君、どうもこれだけでは、よくわからんしまた、信用して、実戦の指針とするわけにはゆかないね」
「もちろんです。何しろ、実測した絵図ではなく、俄か作製の案内図に過ぎませんからな」
「特に、世間では、祝家荘の魔の道とかいわれている。万一の日の防ぎに、周到な用意がなされているのだろう。めったに、この線から先へは乗り込めまい」
「まず、物見隊を入れてみましょう」
「いや大勢はいけない。さりげない、探りを放してみるにかぎる」
すると、幕舎の幕の間を割って、ぬっと、赭黒い面をつき出して言った者がある。
「こころえた。あっしが行って、悉皆、道をしらべて参りましょう」
「ああ、李逵か。きさまではいかん。ひっこんでおれ」
「なぜです、先生」
「おまえの二挺斧がものをいうのはまだ早い。人には人の能がある」
「黒旋風では役に立ちませんか」
「いざ斬り込みとなったら出て来い。──そうだ石秀と、そして錦豹子の楊林をこれへ呼んでくれ」
やがて、二人は呼ばれて、宋江の幕舎へ入って来た。
楊林は、管鎗の使い手とか。先ごろ神行太保の戴宗が、その旅路から裴宣などとともに、梁山泊へつれて来た新入り仲間の一人である。
その才を試してみようとするものか。宋江は、この男と、𢬵命三郎の石秀とに、探りの役をいいつけた。
「かしこまってござる」と楊林は、選ばれた身を誇り顔に「じゃあ、てまえは短刀一本、ふところに呑み、旅の祈祷坊主に化けて行きますから、石秀、貴公は錫杖の音を目あてに、俺のあとから見え隠れについて来給え」
「いや、ただついて行くのも芸がない。この間までは薊州で、薪木売りを生活としていた私だ。薪木売りに身を窶して行きますよ。いざッてえときには、天秤棒も役に立つ」
二人は、その夜、身仕度を拵え、明ける早暁に村道へ入って行った。
ところがである。──山の中へ深く入ってしまった。オヤ? と慌てて取って返し、里へ出たつもりでいたが、さて一軒の家にもぶつからない。
「変だなあ?」
石秀は首をひねった。李応の館のあった所などは、方角の見当もつかないのである。半日以上、それからも、足を棒にして歩いたものの、まるで知恵の環か、迷路の藪にでも入りこんでしまったよう……。果ては路傍の大樹の下に、天秤をおろして、ヘタッと足を撫でていた。
すると後ろの方から、ジャラン、ジャランと、錫杖の音がしてくる。石秀はその者の影を見るとおかしくなった。これもまた狐に憑まれたような恰好なのだ。破れ笠のひさしに手をかけ、元気もなく、ただキョロキョロと道ばかり見廻して来る。
「おう、楊林。どうしたね?」
「やあ石秀か。ヘタばりそうだ……。いくら歩いたって、並んでいるのは並木ばかり。犬の子にも出会わねえ」
「いったい俺たちは、どこを歩いているのだろう。こんないい道があるのだから深山でもあるまいに」
「ひょっとしたら、梁山泊の襲来ときいて、人間から豚や犬コロまで、さっと逃げ散ッてしまったものか」
「そんなら部落の跡があるはずだろうに」
「それもそうか……。するってえと、おれたちは魔魅に化かされているかな?」
「よしてくれ。何かこう、ゾッとしてきた。……おや、へんだな。いま風に乗って聞えてきたのは人声らしいぜ」
半信半疑、また歩き出して、一叢の森道を抜けてみると、なんと、そこには忽然と、かなり賑やかな田舎町の一聚落がガヤガヤと喧騒していた。
それはいいが、二人がぎょッと、目くばせをつい交わした。往来の人間は、すべて黄色い袖なしの〝袍〟を着て、袍の背なかには、大きく「祝」の字が染め抜いてある。──のみならずみな非常時らしい足拵えをかため、町通りの肉屋、酒屋、寺子屋、何かの細工屋、髪結い床の軒先にまで、鎗立て、刀掛けが、植え並べてある。
いやもっと、物々しいのは、町会所の柵門で、刺叉やら鳶口のごとき物まで並べたて、火事櫓には、人間が登って、四方へ小手をかざしているふうなのだ。──すべてこれ、町じゅうが戦時態勢で、また、町じゅうの若い男女が、みな民兵と化しているすがたであった。
不落の城には震いとばされ、迷路
の闇では魂魄燈の弄りに会うこと
「こいつは、おかしい。うっかり町へは物騒で踏み込めないぞ。気をつけろ、石秀」
「いや楊林。おめえはそこらの物陰で待ってるがいい。おれ一人で探って来るから」
「いいか、一人で大丈夫かよ、おい」
「おれよりは、おめえの方こそ、ちょこまかして、化けの皮を剥がれるなよ」
石秀は言い捨てた。楊林に荷担を預け、ひとりカラ身で町中へまぎれ込んで行ったのだった。そして人の好さそうな老人が町中の軒ばに佇んでいるのを見ると「……すみませんが、水を一杯」と、小腰をかがめて近づいた。
「ああ、水かね。おあがり。土間の甕から勝手に汲んで」と、老人はともに中へ入って来ながら──「オヤおまえさんは、旅の者だね。この町じゃ見たことのない人だ」
「へい、山東から出て来た棗商人でござんすが」
「そうそう、棗漬は山東が本場だったな。だが、荷物はどこへ置きなすったえ?」
「それがさ、おとしより、途中でどえらい目にあいましてね」
「ははあ、梁山泊の寨兵にぶつかったんだろ」
「まるで戦争支度でしたよ。いきなりそいつらに脅されたので、荷物も何も押ッぽり出して一目散ッていうわけでさ……。おとしより、ご存知ですかえ」
「知らいでかい。見さッしゃれ。この町でも、町会所から火ノ見櫓にまで、ああして武装した若い衆が詰め合っているところだよ」
「道理で……どこの軒にも槍や棒が立てならべてあると思ったら」
「ここは祝家荘といってね、うしろの岡が独龍山だ。つまり岡全体が、ご領主の祝朝奉さまのお館さ、梁山泊のやつらは、そこへ攻めよせて来たんだな、恐れも知らずに」
「ヘエ、じゃあほんとに戦争じゃありませんか。こいつはまアえらいところへ舞い込んじまった。たいへんですね、守る方も」
「なあに、梁山泊の寄手ぐらいに、ビクともするご領主じゃありませんよ。ここらのご城下だけでも一万戸の余もあるし、岡の東西にはまだ二つの村があって、東には撲天鵰の李応さま一族がひかえ、西には扈の大旦那をかしらに、あだ名を一丈青といって、ひとり娘だが、扈三娘というたいした腕前の女将軍もおいでなさる」
「ほ。お嬢さんでいながらね。それにひきかえ、てまえなどは、さっきからもう足のふるえがガクガクとして止まりませんや。いったい、無事な所へ出るにはどう行ったらいいでしょうか」
「道かね」と、老人はすこし口を濁し気味だったが、「……ま、こっちの部屋へ来て、飯でも喰べて行きなさい」
「どうも、とんだお世話にあずかって相すみません。おじいさん、失礼ですが、お名まえは」
「わしかね、わしは二字名の苗字で、鐘離といいますのさ。この地方には、祝という姓が多いんだが」
「祝氏でかためられているわけですか。ところで、その祝家荘からほかの土地へ出るには一本道でしょうか」
「どうして、ここらの道は蜘蛛手になっていて、迷い込んだがさいご、皆目、出道のわからぬ何とかの藪知らずも同然だ」
「ヘエ、そんな迷路なんですか」
「いざッてえ時の要心に備えてあるのさ。だがの棗屋さんよ。おまえにだけはそっと耳打ちしてあげる。──なんでもいいから、道の曲がり角へ来たら白楊樹(ポプラ)を目あてにお曲がり。白楊のない方へうッかり行くと、行けども行けども同じ藪か、ふくろ路次。どうかすると落し穴だの、針金の茨だの、猪罠なども仕掛けてあるぞ」
こう聞かされていた時だった。とつぜん往来をガヤガヤと人騒めきが流れてゆく。「密偵だ、いぬだ」「梁山泊の密偵が一匹捕まッた」という喚きなのである。
石秀はぎょっとした。さては楊林が捕まったか。「さあ、どうしよう?」彼は老人とともに表へ出てみた。そして民団の槍や棒の中に、裸にされた縄目の楊林が追ッ立てられてゆくのを見ても、さて、どうにも手出しは出来ずにしまった。
ところへまたも、一群の正規兵が、隊伍粛々と、目の前を通りすぎた。総つきの立て槍を持った騎馬隊と鉄弓組の中間には、雪白の馬に跨がった眉目するどい一壮士の姿が見えた。老人は敬礼で見送っていたが、あとで石秀にこういっていた。
「ごらんなすッたろ。いま行ったのが祝朝奉さまのご三男、祝彪さまだよ。そして扈家荘のお一人娘、一丈青という女将軍とは、お許娘になっている。なにしろ祝氏ノ三傑といわれる中でも、兄弟中で一番の偉者だそうな」
かかるうちに、町はいよいよ戦時態勢の沸騰ぶりだ。これでは道も危険だからと、老人は裏の草小屋を石秀のために開けて、この騒ぎがおちつくまで、泊ってゆくがいいといってくれ、石秀もまた「では、ご親切にあまえて」と、その晩はついにそこへもぐり込んでいた。
すると宵の口だった。領主からの布令だろうか。一軒一軒大きな声で触れ歩いてゆく声がした。いわく「今夜半には、例の紅い挑灯、魂魄燈に従いて、民団の壮丁すべて行動せよ。梁山泊の賊将宋江以下を、迷路へ引き込み、期して生け擒りにしてくれるのだ。よろしいか! 魂魄燈を見失うなよ。日ごろ訓練の魂魄燈の合図に従って動くのだぞ」と。
一方、祝家荘の入口に駐屯していた梁山泊軍七千の上も、暮天ようやく晦く、地には刀鎗の林を植えならべ、星は殺気に白く研がれていた。
「ああ、二人とも捕まったか」
宋江はいま、帰ってきた細作(しのび)の報をきいて、楊林、石秀を物見に出して、つい深入りさせたことを、わが罪のように悔いていた。
「こうなっちゃ、捨ておけますまい。あっしが先陣して斬り込もう。宋大将はおあとから進んで、二人を敵から助け出しておくんなさい」
大言はいつも黒旋風李逵の専売といってよい。これが日頃ならその逸りを制すところだが、いまは宋江も「よし!」といって起った──。すなわち先駆の一陣は李逵と楊雄。──しんがりは李俊ときまった。
そして宋江は、ひだりに穆弘、みぎには黄信、さらに花栄、欧鵬らの兵幾団を、二陣三陣と備え立てて、戦鼓、陣鉦、トウトウと打ち鳴らしながら、独龍岡へじかに攻めのぼった。──まさか石秀一人は、難をのがれて、その晩、麓町の一軒の草小屋に、息をこらしていようとは想像もされていなかったのだ。
さらにはまた、祝朝奉家の本拠、独龍岡の山館の前へも、何らさえぎるものなく来てしまった。──見れば濠の吊り橋を高く上げ、門扉かたくとざして、山城一帯は寂として声もない。
「ざまを見やがれ、恐れやがって」
先鋒は、猛夫の李逵だ。なんでただ見ていよう。例の二挺斧を諸手に、濠へ下りて、浅瀬から馳け渡らんとする様子に、楊雄はおどろいて、連れもどした。
「暴勇は笑いぐさだぞ。敵には計があるらしい。とにかく、引っ込め」
「ばかをいえ。ここまで来て思い止まれるものか。臆病風に吹かれたなら、きさまは後ろで見物していろ」
言い争っているところへ、宋江の中軍もぞくぞく着いて来た。宋江は二人の争いを見て言った。
「楊雄のいうのが正しい。これへ来てからわしも思い出した。──敵ニ臨ミテハ急ニ暴ナルナカレ、と彼の天書にも載せてあった。こよいの急襲はちと暴だったぞ。すべてみな兵を退げろ」
「えっ、退げるんですって、何もしずに」
「そうだ、命令にそむくやつは、罰するぞ」
言には峻烈なするどさがあった。が、それでさえ間に合わないほど、とたんに、轟然と一発ののろしが天地をゆすッた。もちろん彼方の城中からである。それと百千のたいまつが赤々と満城にヒラめき立ち、門楼、やぐら、石垣の上などから、火矢、石砲、弩弓の征矢などが雨とばかり射浴びせてきた。
「しまった!」
宋江はこの深入りを転じるべく、声をからして、
「全軍、元へ引っ返せ。行く行く伏兵にも気をくばれ!」
しかし、ひとたび崩れた人馬の混乱は容易でない。さらには、意外な方角からも、石火矢の唸りが火を噴いて樹林を震わせ、そこらの巨木の上からも乱箭が降りそそいでくる始末だ。
「伏兵は四面にいる。慌て惑うな、四散するな。ただ一道をさしてつき破れ」
ところが、たちまち全軍の足はバタと止まり、逆に先の方から押し戻されて来る。「なぜ進まん?」と後ろでいえば、前方は行き止まりの袋路次だという。「では、べつな方へ」と転進すれば、そこでもまた行く手にあたって、カラ濠があり針金の柵があり、小道を探ッてみてもソギ竹だらけで歩けもしない大藪の闇だとある。
「ああ、惨たる敗北! これがこの宋江の最期とは」と彼は嘆じた。だがそのとき、天来のような騒めきが殿軍からつたわって来た。「石秀だ」「石秀が来た!」というのである。「はて?」と疑うまもなかった。まぎれもないその石秀が宋江の馬前へ来ていた。彼は昼からの仔細を早口に告げ、そしてなお、ここの迷路についてこう呶鳴った。
「ただやみくもに歩いても、迷うばかりで荘の外へは抜け出られませんぞ。白楊樹が正しい道の目じるしです。曲がり角へ出たら、なんでも白楊の立木を目あてに折れ進んで行ってください」
やがて方向はそれによって駸々と支障もなく流れだした。しかしその進路にはまた伏兵のうごきが見え、その動きはいよいよ執拗に、いよいよふえるばかりだった。そこで宋江はかさねて石秀にただしてみた。
「なぜだろう。行けども行けども、伏兵がつきまとうのは。いかに祝朝奉の勢力でも、こう手兵の多いはずはないが」
「そうです。正規の兵ではありません。あれは祝家荘の民兵が、魂魄燈の合図にあやつられて、あっちへ動き、こっちへ廻り、いわゆる変現を見せているので大勢に見えるわけです」
「なに、魂魄燈の操作だと?」
「ごらんなさい。あの高藪の上に、ふらふらと、人魂のような赤い挑灯がしきりに暗号を振っているでしょうが」
「オオあれがか。花栄、花栄」
「なんですっ、副統」
「いまの話を聞いたろうが。君は空行く雁をさえ射落すほどな弓の達人だ。あの遥かな赤い灯を射消せまいか」
「造作はありません。こころえました」
キ、キ、キ……と引きしぼった花栄の弓弦がぶんと鳴ったと思うまに、遠い所の一点の火光が、とたんにぱっと掻き消された。それからは、もとより訓練もない土民兵のこと、闇はしどろな気配だけだった。いや、するとすぐ一颯に散り去った木の葉のような跡を、一隊のひづめが地を打って近づいていた。遊軍の李俊と秦明の隊が、彼らを駆けちらしつつ合流して来たものだった。
いつか朝となっている。全軍は村はずれの一丘に集合して、からくも死地をのがれえた無事を見合い、さて、人員点検の段になると、
「黄信がいない!」
「黄信は討死にしたらしい」
と、俄かにみな悲しみだした。
すると、黄信の手についていた手下の兵が言った。
「いや黄将軍は、死んではおりません。ゆうべ葦の中で、伏兵の熊手に馬の足を攫われ、落馬したところを、大勢の敵にのしかかられていたような様子でした」
「きさま、なぜ今まで黙っていたか」
宋江は怒ったものの、最下級の兵ともいえない手下のことだ。怒るよりは、さて、いかにその黄信を取り戻すか。また昨日捕われた楊林の身も──と、朝の野天兵糧をみんなしてすますやいな、評議にかかった。
すると、病関索の楊雄がすすみ出てこう献策した。
「独龍岡の強味は、三家鼎足の形をなしているからです。けれどいつかも申しあげた通り、東麓の一族、撲天鵰の李応だけは、本家の祝氏と気まずくなっているだけに、こんどは加勢に出ていません。……だのに、副統にはなぜ、そこへお目をつけられませぬか」
「なるほど、それはわしの一失だったな」
宋江は彼の策をいれ、さっそく東の李家を訪ねて、李応を味方に抱きこむべきだと思い立った。
二刀の女将軍、戦風を薫らして、
猥漢の矮虎を生け捕ること
宋江は自身その使いに立った。
楊雄に道案内させ、花栄、石秀など二百騎を後ろに連れて、李家荘の濠端まで来てみると、はやくも門楼では非常太鼓が聞こえ、吊り橋もひきあげられて、寄せもつけない厳たる警戒ぶりにみえる。
「これは梁山泊の宋江と申す者です。ご当家に敵意はない。ただひとえに、ご主人撲天鵰李応どのへ拝姿をえたく伺った事、なにとぞお取次ぎを。お疑いなく、お取次ぎをねがいまする」
濠越しに、馬上の宋江は、こう大音声をくりかえした。──と、まもなく、彼方の石垣から一そうの小舟が渡って来た。これなん、楊雄とは親しく、また楊雄を恩人ともしている、李家の食客、鬼臉児の杜興だった。
「おう兄弟」──と、楊雄はさっそく、彼を引いて、宋江にひきあわせたが、杜興は何ともすまない顔つきで、こういった。
「せっかくですが、主人李応は、病中でもあり、なんとしても、お目にかかれん、とのみで苦りきっておられます。またの折もございますこと、今日のところはどうぞ一つおひきとりのほどを」
「矢傷をうけて、ご療養とは伺ッておる。だが、会えぬというのは、それだけの理由でもありますまい。ご本家、祝朝奉にたいするご遠慮か」
「それもありましょう。それとまた、主人は直情の士です。梁山泊の人間は、いわば、無頼の集まりで、しかも天下の叛逆人だと、卑しむ風がないでもございません」
「ごもっともだ!」と、宋江はいった。「それでこそ撲天鵰その人らしい。さるを、しいてその人に義を曲げさせようとしたのは心ないわざだった。ご面会はあきらめましょう」
「申しわけございません」
「なんの。……この上は李応どのの援助を待たず、祝家荘の敵は、自力で討つ。……もしその以後に、ご縁もあらばお目にかかる」
「主人李応も本来ならば三家一体で、独龍岡の守りに立つところですが、こんどのことでは、本家の仕方をいたく怒ッておりますので、加勢には出向きません。──とはいえ、西の扈家荘の女将軍一丈青は、日月の双刀をよく使う稀代な女傑ですし、独龍岡そのものも、不落の城、充分お気をつけなさいまし。わけてその荘門は、前と後ろ、前後同時に攻めなければ、破れるものではございませぬ」
杜興はなお、知るかぎりの地理やら、攻め口、城中の内状などを、宋江に助言した。──宋江はふかく謝して、さて、以前のわが陣地へ帰るやいな、云々であったと、むなしく戻って来たわけを、帷幕の面々へはなして聞かせた。
「ふざけやがって──」と、話の途中で、怒り出したのは李逵である。「副統も副統だ、なんで唯々諾々とお引っ返しなすったのか。李応とかいう奴、二タ股者にちげえねえ。まずその李家荘からさきに蹴ちらそうじゃございませんか」
「いや、李応は立派な人間だ。彼を敵にしてはならん。それよりは、囚われの味方二人の生命が心もとない。諸君、もういちどこの宋江の令をきいて、祝朝奉の本家へ向ってはくれまいか」
言下に、鎧響きを立てて、帷幕のかしらだった者、ざっと、一せいに起立をみせた。
「おことばまでもありません。して先陣は誰としますか」
「もちろん、この俺だ」と李逵が買って出るのを、宋江は、一眄の下に叱った。
「ひかえろ。李逵の先鋒はまま事を破る。君はこんどは後陣に廻れ」
李逵はむくれる。──しかし宋江は、馬麟、欧鵬、鄧飛、王矮虎の四名を指名し、
「わし自身が、先陣に立つ」
と、言った。
第二隊には、戴宗をかしらに、秦明、楊雄、石秀、李俊、張横、張順、白勝。
第三隊は林冲、花栄、その組の中に李逵も入っている。つまりは、総攻撃である。赤地に「帥」の大字を白抜きした大旗をさきに、陣鼓鼕々、祝朝奉家の山城へせまった。
ここ独龍岡の城門の大手には、巨大な青石に、一篇の頌が刻んである。
森々の剣
密々の戟
柳花 水を斬り
草葉 征矢を成す
濠を繞る垣は是れ壮士
祖殿には在り 三傑の子
当主の朝奉 智謀に富み
事しあらば 満城吠ゆ
独龍山上 独龍岡下
窺う外賊は仮にもゆるさず
一触 霏々の虫と化し飛ばさん
「おや、まだ何か、そこの杭に?」
宋江が近よって見ると、それには新しい墨気で、こう詩句めいた文字が読まれた。
〝水泊ヲ填メ平ゲテ晁蓋ヲ生擒リ〟
〝梁山ヲ踏破シテ宋江ヲ捉エン〟
馬麟、王矮虎らは、これを見るなり怒髪をさかだてて。
「うぬ、小癪な唄い文句。ようし、ここを踏みつぶさぬうちは、梁山泊へはひきあげぬぞ」
しかし、宋江は冷静だった。
三軍のうち、第二隊だけを、ここの前門にのこして、自身の本隊と第三隊は、道を潜行して、搦手の裏門へかかった。
ところが、はしなくも今、敵側からも搦手の坂を、馳け下りてきた一勢がある。──それぞ大手の寄手の背後を突くべく、兵五百ほどをひきつれて裏門を出た扈家荘の秘蔵むすめ、あだ名を一丈青という女将軍であったのだ。
宋江は、見るやすぐ、左右へ言った。
「オオ、あれなん噂の扈三娘にちがいない。誰かあの蝶の如き戦士を、手捕りにして連れて来ないか!」
すると、言下に。
「おう、まかせておくんなさい」
馳け出したのを誰ぞとみれば、槍を取っては無敵と号する王矮虎その者だった。「矮虎だ、矮虎が行ったわ」と、やんや、やんやの声援である。それに応えて、敵方でもワアアッという鬨の声。はやくも扈三娘はその青毛の駒をのりすすめ、単騎、ござんなれと待ちすましている姿。
しかも、涼霄の花も恥ずらん色なまめかしい粧いだった。髪匂やかに、黄金の兜巾簪でくくり締め、鬂には一対の翡翠の蝉を止めている。踏まえた宝鐙には、珠をちらし、着たるは紅紗の袍で、下に銀の鎖かたびらを重ね、繍の帯、そしてその繊手は、馬上、右と左とに、抜き払った日月の双刀を持っているのであった。
「……これは、いけない」
はるかに見ていた宋江は、一丈青へおめきかかった王矮虎のいつにない槍のにぶさに、すぐある一事を思いあたっていた。
元々、矮虎ときては色情に目のない性分である。その彼をして、窈窕たる美戦士へあたらせたのは、けだし人をえたものではない。事実、王矮虎は近づいて彼女の二刀に接するやいな、すでに戦意と色欲とは半々だった。でも、隙をみせれば斬られるから必死は必死におめきかかって、丁々閃々、ひたいに汗をかいて、幾十合と接戦のおめきはあげつづけているものの、ともすれば、ああ美しい女だ! とつい思い、刃がねの火花にも、何か、べつな精気をふと漏らしてしまいそうだった。同時に、一丈青もそこは女の直感で、
「ま、なんていう敵だろう。ふざけた男よ」
と、いちばい、憎さも憎しと柳眉を立てて、綾なす二刀の秘術をきわめ、魔術とも見えるその迅い光の輪のうちに、発止と、相手の槍を見事、巻き取ッて搦め落していた。
「──あッ、しまった」
鞍の上から矮虎が思わず身を泳がせる。すかさず、一丈青の一刀が、片手なぐりに肩をなぐった。カンと金属的な音がそれにこたえたのをみれば、幸いにも、鎧の金具が、矮虎の一命を救っていたものとはみえる。だが、よほどな衝撃だったのだろう。そのまま矮虎の体は鞍からもんどり打っていた。
「だれか。はやくこの敵を、搦めておしまい!」
一丈青の涼しげな声だった。そう後ろの味方へいうとすぐ、彼女の二刀はもう次の敵を迎えている。矮虎危うしとみて、救いに出て来た欧鵬だった。
だが、間に合わず、矮虎はたちまち、城兵方の縄目にかかり、どっと敵に気勢をあげさせている。欧鵬はあせッた。挑みかかった彼の鉄鎗もまた、蝶になぶられているようで、いたずらな、空を感じてきたからだった。「いまいましさよ」と、猛れば猛るほど、自分の呼吸も馬の息も、ただ荒ぶのをどうしようもない。
宋江は、これ、ただならずと見て、
「鄧飛も出ろ。馬麟も助太刀に行け」
と、躍起になった。
もう一騎討ちを見物している場合でない。
敵の搦手門からは、祝朝奉の長男、祝龍の一手三百人が現われて、宋江の側面へ狙い寄っている。──果然、宋江の身辺にも殺気が立つ。ところへ、大手の秦明が一部隊をひッさげて応援に来た。宋江はよろこんでそれへもすぐ命じた。
「ここはいい! 馬麟、鄧飛とともに、あれなる扈三娘へ当ってくれ。矮虎は早やあの手の者に生け捕られている」
「こころえた」
秦明の一隊が、猪突をしめすと。
「待った」
とばかり、その途中で、祝龍の手勢が横からぶつかってきた。
だが、秦明の狼牙棍(棘立った鉄棒)にあたりうる敵はない。もしこのとき、城中から祝家の武芸指南番、欒廷玉が助けに出て来なかったら、祝龍もあぶなかったとさえいえる。
「拙者が代る。あなたは退いて、一ト息入れておいでなさい」
欒廷玉は、その新手をひきいて、秦明の前に立ちふさがった。そしてさんざん戦い疲らせたあげく、偽って、逃げ出した。そこに埋伏の計があるとも知らず、秦明は騎虎の勢いのまま追っかけて行き、草むらの落し穴へ馬もろとも顛落した。伏兵がいたのである。
そればかりか、鄧飛も同じ計にかかった。
鄧飛は、一丈青の部下を蹴ちらしていたのだが、ひょいと振向いたせつな、
「ああ、秦明が?」
と、戦友が陥ち入ったらしい危難の姿に、われを忘れてそこへ飛んで行ったものである。いわばわれからかかッた罠のようなもので、近づくやいな〝馬縛めの縄〟と呼ぶ陥穽に引ッかかって、たちまち伏兵の好餌になってしまったのだった。かさねがさねというほかはない。
一方、欧鵬と馬麟とは、
「これはそも、人か天女の怪か」
と、なおまだ、女の一丈青ひとりを、男ふたりして、もてあましていた。
ただ強いといっただけでは言い足りない。身の迅さは浪をかすめる燕のようである。また、白雪の屑がひらめく風と戦っているようなものだ。そしてうかとすればすぐ繊手の二刀が斬りこんでくる。息もできぬほど、みぎ、ひだり、と斬りきざんで来る。それさえ、受け太刀ぎみで喘々いっていると、そこへ、
「お嬢さま、一匹はひきうけましたぞ」
欒廷玉が、加勢に飛んで来たのである。はッと、欧鵬は馬を交わした。けれど、欒廷玉が振り下ろしたくろがねの鎚は、せつな、欧鵬のどこかにぶつかったらしい。欧鵬は落馬し、ウームとそのまま起ちもえない。
このとき、宋江もまた、全軍のさきに身をさらして、乱軍のなかにいたので、
「それっ、欧鵬の体を、馬の背へ拾い上げろ」
と、とっさの指揮はしたものの、その欧鵬を、助けとるだけが、やっとであった。馬麟も一丈青に追われ、すべての敗色はどうしようもなく、味方が味方を押して、坂下遠くの、ま南まで逃げなだれた。
ここには第二隊の楊雄、石秀、花栄らがいた。この惨敗に歯がみして、
「夜叉ではあるまい。よしっ、小癪な女戦士を」
と、代って進み出たが、すでに一丈青や祝龍の姿はない。敵の新手は、名だたる祝氏の三男坊、祝彪の五百余騎となっている。
こんどの敵は、みだれ矢をあびせてきた。近づきもえない矢ぶすまである。そのうち槍組二百人が突進して来るし、駿馬にまたがって祝彪が、これまた雷光のごとく出没して、ひとつ所になどとどまっていない。
陽はたそがれ、夕雲赤く、まったく、乱戦のかたちをおびてきた。──大手のかたの、李俊、張横、張順、穆弘らも、濠水に入って、敵塁に取りすがろうと企てたが、つぶて、乱箭、石砲などに会って寄りつけず、陸上の戴宗、白勝も唖然たるばかりで、手のくだしようもない様子である。
「ああ、過った。戦の指揮などは、この宋江のがらではなかった。これ以上の死者を出すのは見ていられぬ」
宋江は急に退軍の銅鑼をうたせた。彼らしいところである。薄暮の下に総勢をまとめて、泣いてくやしがる猛者どもをなだめて、村口の方へひきあげ初めた。といっても無事には退けない。敵の追撃に、返しては戦い、戦ってはまた、退路をさがす、といったようなくるしみだ。
しかも敵は、地理に明るいし、急追、また急追の気負いをゆるめない。宋江の軍は、闇夜彷徨のすがただった。そのうち、行くての道に先廻りしていた一勢の敵が現われた。夜光虫のような燦々たる一騎がその先頭を切って来る。胆、驚くべし、女将軍の一丈青であった。
小張飛の名に柳は撓められ、花の
美戦士も観念の目をつむる事
一丈青の扈三娘は、あれからいちど、城へ入って、息をやすめていたものか。粧いまでもかえている。
嵌玉のかぶと、磨銀のよろい、花の枝を繍い出した素絹の戦袍すずやかに、
「宋江とやらのおからだを戴きましょうか」
と、言い払い、ホホとその白い花顔が闇を占めて笑っているかのよう。……宋江以下、修羅という修羅の場かずをふんできた梁山泊の男どもも、思わず馬列を恟み立てて、
「や? 一丈青」
と、何とはなくぞくとした。
だが、そんな神経を持たないのもある。黒旋風の李逵だ。
「なにを、阿女っちょめが、洒落くせえ」
と、薄刃金の二丁斧をひッさげて、彼女の前へ挑みかかった。しかし、かたわら疎林のうちで、ザッと、風の通るような音がしただけで、一丈青の影は、もう李逵の目のとどく所にはいなかった。
かえって、李逵は求めもしない敵の雑兵の中に置かれ、二丁の斧は、大いに怒った。そしてそこはたちまち一団の乱戦と化した。
「後ろからも、敵が尾けてくる」
宋江は、敵の詭計を怖れた。周囲も彼へ、ここにかまわず、落ちろとすすめる。
ところが、先へ落ちて行くと、またもや行くての闇のうちから、こう美しい音声が揶揄うように響いてきた。
「逃げようとて逃がしはせぬ。──宋江とやらのお体をいただきましょうか」
「あっ?」
と、駒をひるがえすまもなかった。
日月二刀のひらめきが彼の身をかすめ、それを庇おうとした誰か一人は馬上からずんと斬り下げられていた。戛然と、戟の柄がつづいて斬られた。暗さは暗しである。宋江は危なかった。
すると、さらに一陣の突風がこの渦の中に渦を加えた。キラと夜目にもしるき獅子頭の兜巾と、霜花毛の駿馬にまたがった一壮漢の姿を、その一勢のうちに見て、宋江はおもわず地獄で仏のような声を発した。
「豹子頭か。加勢に来たのは豹子頭の林冲か」
「林冲です、林冲ですっ。ここは打ちすててお落ちください」
聞くとすぐ、宋江ならぬ一丈青のほうが、颯ッと、駒の背に身を沈めて横道へ馳け出した。
林冲といえば、梁山泊以外でも、「当代の小張飛」という勇名がある。それには一丈青も女ごころの脅えにふと吹かれたものか。
「待てっ。女将軍」
林冲は逃がさない。馬の速さがてんで違う。観念したものか、一丈青はふいに馬を向けかえた。林冲の打物は、丈八の蛇矛であった。彼女の二刀もすぐその一剣は搦み落され、ひッきりなしに、睫毛へ迫る白い焔のような蛇矛の光を交わしながら、彼女のしなやかな腰から胸はまるで柳の枝を撓めるように何度も反ッた。
彼女は死を忘れて恍惚とした。林冲に翻弄されるのが甘美でさえあった。気づいたときは、手にさいごの一剣もなく、林冲の猿臂にかかって、鞍の上から毟りとられていた。宙を飛ぶ巨大な男の腕のなかに、彼女はあきらめの目をつぶっていた。窒息の境が甘い夢のようだった。
「副統、生け捕ってまいりました」
投げ出された所は、すでに村口の梁山泊軍の幕舎だった。宋江は無事一ト足先に着いていたし、ほかの幕僚なかまも、続々、たどりついて来つつある最中らしい。
「林冲。まったく貴公のおかげだ。これでいささかは梁山泊の面々へも申しわけが立つ」
しかし宋江は、終夜、浮かない容子だった。明け方までは寝もしていない。──三々伍々、逃げおくれた部下の着くのを、いちいち迎えて人員のまだ不足なのに心を傷めていたのである。
おびただしい損害だった。翌日は帳に入ったが、なお輾転と自責にもだえた。そしてやがて、おもい瞼をして帳を出ると、
「女はここにおけぬ。組の頭四人、兵三十人で、一丈青の身を馬の背にくくし付け、即刻、梁山泊の内へ、送りとどけて来い」
と、命じた。
また、欒廷玉のために、重傷を負ってうめいている欧鵬の身を案じて、それも同時に、山寨へ送らせるようにした。
「はてね?」
使いに選ばれた小頭たちは、快馬をそろえて村口を離れるとすぐ、顔見合せてクスと笑いあったものである。
「どうも、ただじゃないよ。宋副統も元は女のしくじりで山寨入りしたお方だからな。このみちはまたべつさ。きっと一丈青におぼしがあるにちげえねえ。……ふ、ふ、ふ」
戦には勝ち誇ったが、祝氏一族の側にすれば、独龍岡の花、一丈青の扈三娘を敵の手にゆだねた一事は、
「ざんねんだ、千慮の一失」
と、あとの悔やみを、地だんだにしたに違いなかろう。ましてや、彼女の許嫁、祝朝奉の三男祝彪の心中はなおさらだろう。──それの腹いせには、天に誓って、宋江を生け捕る。そしてさきに捕えてある黄信、鄧飛、秦明、また楊林、そのほか多くの捕虜とを一トまとめにして、開封東京の朝廷へつき出し、それによる恩賞と名誉とをもって、このうらみを晴らさねば──と、期して、矛、鏃を研ぎ直したにちがいなかった。
が、一方の宋江にしろ、
「これぞ」
と、案を打って、三たび起つべき策もなかった。
怏々と、昨日も今日も、彼は帳をたれて深く考えこんでいた。
ところへ、はからずも、
「山寨の軍師、呉用先生がお見えです」
と、村道の見張りから報らせて来た。
「えっ。呉学究どのがお見えだと?」
折も折である。
宋江は丘を下って、そも何事かと、呉用を迎えた。
一行は五百人。呉用をかしらに、阮ノ三兄弟、呂方、郭盛なども加わっていた。そして一行中の車には酒、乾肉など多量な物資まで持ってきたので、その夕は、これが全軍にねぎらわれ、久しぶりに陣地には生色がよみがえった。
「総統の晁蓋どのを初め、山寨では、えらくあなたのお身を案じていますよ」
呉用のことばに。
「いや面目もありません」
宋江は、一そう沈んだ。
「して、ご近況は」
「二度も惨敗をかさねました。のみならず、楊林、黄信、さらに秦明、鄧飛と四人までも、敵の囚われとさせてしまうほどな始末で」
「それも途中でききました。一丈青を差立てて行く味方の者から」
「もし、林冲がなくば、あの功もなかったところです。何たる愚将でしょう。わらって下さい。晁総統には、もはや会わせる顔がありません」
「は、は、は。そうご卑下にはおよぶまい。誰が来て指揮をとっても、ここの祝氏の独龍山の備えでは、同程度の損害は避けえられん。……しかし、宋副統、機会は来ていますぞ」
「え、機会とは」
「かならず陥ちる」
「独龍岡が」
「そうです。仔細をいわねば、そうかと、おうなずきもあるまいが」
「いったい、それはどういうわけで」
「山寨に残っている石勇をご存知であろう」
「石勇。もちろん、知っています」
「それの縁故の者が、ごく近ごろ、山寨へたよってやって来た。──なんと、その者がまた、祝家の指南番、欒廷玉と仲がよい」
「ほ?」
「かつまた、味方の楊林や鄧飛とも、親交があった間柄とか。……ところで、その者が、ここ祝家荘におけるあなたの苦戦を聞いて、自分からすすんで一つの計略を申し出てきたというわけだ。奇縁、また奇計ではありませんか」
「なるほど、奇妙ではあるが、奇計とはまだ何のことか、わかりませんが」
「ごもっともだ! 順を追って、ひとつ今夜は酒酌みながら、それの吉報をおはなししよう。……当人どもは、すこし遅れ、追ッつけ五日以内にはここへ参るはずですから」
以下、呉用の物語るところであるが、呉用のことばを仮るにはちと長すぎる。項を分けて、しばしその由来ばなしへ舞台を移すことにしよう。
× ×
山東の一角に、地名登州とよぶ海浜の村がある。
海に近いくせに、いやなものが名物だった。州城外の山には、虎、豹、狼などの猛獣が多く、年じゅう人畜の被害が一ト通りでない。
ところで。近日この地方を諸国巡閲の大官が通るという沙汰がある。登州奉行はそのために、令を発して、
「期限付き、虎退治の指令を、村々の百姓猟人へいい渡せ」
と、土地の庄屋や村役場へ厳達してきた。
ここに、兄を解珍、弟を解宝という猟師がいた。父もなければ母もない兄弟暮らし。
解珍はあだ名を両頭蛇といい、解宝は双尾蝎とよばれている。いずれも名のごとき七尺ゆたかな壮漢であり、州中の猟師らは、
「解氏の二雄士」
といって、おそれたてまつっているほどだ。わけて弟のほうは、その太股に飛天夜叉の刺青を持ち、嶺を駆ければ、鹿狼は影をひそめ、鳥も恐れ落ちなんばかりな風があった。
「兄貴、行って来たよ、村役場へ」
「日限りの厳達書か」
「しようがねえやな。お上のいいつけじゃあ」
「どうだっていうんだ、一体その文句は」
「日限までに獲物を出せとよ。日限すぎたら受付けねえってんだ。罰として、しばり首にするとさ。……だが、いい獲物には、褒美を取らす。……まあおきまり文句さね」
「首はいやだな。褒美といくか」
「かねがね狙っていたあのツボだ。あの嶺のやつを狩り出そうぜ」
「合点だ。弟、今夜のうちに、罠弓、毒矢、それから弩弓、そうだ刺叉も持って行こう。揃えておけよ」
日限は三日とある。
明くるや早くに、二人は薄刃の山刀を腰に、手には必殺道具を抱え、しめたる帯は虎の筋、豹の皮の半袴といういでたちで、雲を踏み、風にうそぶいて、「ここらは出るところ」
と、日ねもす歩き廻っていた。
さがすときには、ぶつからない。虎の糞を見ただけである。あくる日もまた、乾飯、牛骨を舐ぶり舐ぶり、この日もまた駄目。
「兄貴、あしたで日限れだぜ」
「知ッてやがるのかな、虎のやつ」
「意地のわるいもんだ。手ぶらで歩いている時にゃ、よく、のそついて来やがるくせによ」
「弱ったなあ。考えると寝つかれねえや」
野宿の夜半もすぎていた。
火の気は禁物。霧が寒い。抱きあって二人は寝ていた。いつかぐうっと深い鼾声をかきこんで──。
「あっ?」
刎ね起きたのは夜明けまぢかだった。
「兄貴、まちがいねえ。今のはたしかに、罠弓が弾ぜた音だぜ」
「しめた。行ってみろ」
転び出てみると、暗中にもがいている巨大な物がある。かねがね狙ッていた大虎が、見事、罠弓にかかっていたのだ。
だが、近よって、これを刺叉にひッかけようとすると、いわゆる猛吼一声というやつ、ウオオッと背を怒らし、矢を負ったままな大虎の影は、彼方の谷崖の下へ、どどどと雷雲のころがるように落ちて行った。
「いけねえ、こいつアしまった」
「なにさ、弟、あわてるこたあねえ。毒矢の毒がまわっているんだ。落ちた所でおだぶつさ。それ以上は逃げッこねえよ」
「だって兄貴、この崖下は、たしか因業旦那と伜の毛仲義のやしきのうちだぜ」
「べらぼうめ。毛旦那に借りがあるわけじゃなし、ちょっとお庭うちを踏ませておくんなさいぐらいな頼みに、何の苦情があるもんか」
道を廻って、二人は山腹の豪勢なお大尽やしきの門を叩いた。まだほの暗い早朝だ。荘丁らは渋い目をこすッて何かと出て来る。毛旦那もやがてあとから現われた。
「なんだえ、一体お前らは、こんな早くから」
「あいすみません。とんだお騒がせをいたしまして。じつあお上の厳命で、三日と日限りの虎を狙ッていましたんで」
「ああ、あのお達しだね。そして巧く獲物を仕止めたのかい」
「と思ったら、罠弓を外しゃあがって、お庭つづきの地内へころげ落ちてしまったわけでさ。おそれいりますが、裏庭を通していただき、ご地内を探させて貰えませんでしょうか」
「何かとおもったらおやすいことだよ。いいとも、いいともよ! だがの解の兄弟、まだ外は暗い、そこでお茶でものんで話していなよ」
「でも、ごやっかいの上に、お世話をかけては」
「なんの、わしも一緒に行ってみたいし、朝茶は何を措いてもだ。まあお待ち」
これが案外に悠長だった。やっと毛旦那が荘丁に鍵を持たせて、裏庭の木戸へ出て来たときは、はや嶺の端に、朝陽が出ていた。
「旦那、めったにここは開けたことがないので、錠前が錆付いていて開きはしませんぜ」
荘丁の声を聞くと、毛旦那は言った。
「なに開かない。開かなかったら金鎚を持ってきて叩きこわして入るがいい」
そうして入って、裏山じゅうを探してみたが、どうしたか、虎はどこにも見あたらなかった。
牢番役の鉄叫子の楽和、おばさん飲屋を訪ねてゆく事
おかしい? と解珍、解宝の兄弟はともに首をかしげ合う。しかし毛旦那が住む屋敷地域の裏山一帯、これ以上は歩き探す余地もなかった。
「おい、解の兄弟──」と毛旦那はくたびれ顔をしぶらせて。
「どこにも虎の死骸などはころがっていないじゃないか。他山だろう。大迷惑だナ、当家にとっては」
「いやそんなはずはございません。この上の高原で罠にかけ、罠を引っ外して逃げる虎を、たしかに一本は狙いたがわず毒矢を射当てていたんですから」
「だって見えまい。見当らんものはどうしようもない」
「旦那。お待ちなすって。……ちょっとここをごらんなすっておくんなさい。滴々と血がこぼれていますぜ。オオ上の方から崖の灌木や草までが折れなびいている。毒矢を負った虎はここへころげ落ちて来たにちげえねえ」
「ふざけちゃいけないよ。野獣猛禽、何が咬み合った血やら知れたもんじゃない。おまえ方は朝ッぱらからわしの家へ因縁をつけに来たのかよ」
「とんでもない。そんな道楽半分の騒ぎじゃござんせん。こちとは命がけです。今日のうちに登州のお奉行所へ虎をさし出さなければお布令どおりの厳罰ッてことは、旦那もこの村の庄屋ならご存知のはずでございましょうに」
とかく言い争ってみたが、前とは打って変って毛旦那は解の兄弟の言いがかりだと言い張って相手にしない。兄弟の方ではまた「これは毛旦那も今日中に役署へ虎を出さなければならないので、自分の地内へ逃げこんだやつをこれ幸いと横奪りして口を拭いてやがるのだな」と、早くも腹の中ではにらんでいる。
あげくの果ては、喧嘩腰になって「家探しでも何でもしてみろ」「オオしてみなくて!」と、行くところまで行ってしまった。けれど村一番の大尽屋敷だ。広さは広し、それに荘丁雇人らが二人のあとに付いて廻って離れない。ついにその家探しでも得るところはなく、兄弟はやけのやん八、
「みていやがれ、出る所へ出て白黒をつけてやるから!」
と、捨て科白を吐いて、毛家の門を飛び出してしまった。
そして出るとまもなく途中で毛家のせがれ毛仲義にばったり会った。仲義は一群の見知らぬ男どもを連れていたが、兄弟の訴えを聞くと、
「よしよし、俺と一しょに来い。親父は何か悪い雇人に欺されているのだろう。おれが帰って家じゅうを調べてやる」
という同情的なことばだった。やれ有難えと二人は仲義に従いてあとへもどった。ところがこれはなお悪かった。なぜなら仲義はこの日の五更(夜明け前)ごろ、わが家の裏山で拾い獲た大虎を、さっそく奉行所へ届け出た上、なお予防線をしいて、こう訴えておいたものである。「この虎に難クセをつけ、村の悪猟師の兄弟が、家へ火を放けるの、毛家の奴らをみなごろしにするなどといっています。ひとつ諸人の迷惑、虎以上な両名を、お召捕りのうえご処罰ねがいたいもので……」と。──そしてことば巧みに、その場から役人捕手を連れて戻って来た途中だったのだ。
解の兄弟は、これではまるで、われから求めて縄目に陥ちたようなものでしかない。元の門内へ入るやいな、捕手と荘丁らに組伏せられて高手小手に縛られてしまった。毛の大旦那は二人が家探しをした狼藉のあとを役人に示し、なお出まかせな訴状を書いて子の仲義とともに、後刻、登州奉行所へもッともらしい顔をして出頭におよんでいた。
村の小事件とみなされ、奉行自身は白洲には顔もみせない。
一切は奉行名代の第一与力、王正という者が係となって処置された。ところがこの王正は毛家の女婿にあたる者。なんでたまろう解兄弟の調べもほんの形ばかり、拷問、爪印の強制、大牢送りの宣告と、わずか二日ほどのうちにかたをつけられ、
「いずれ流刑の地は後日申し渡す」
と、揚屋入りに附されてしまった。
ここの牢屋あずかりは苗字を包、名を吉といい、牢屋中の囚人からは、もちろん閻魔の如く恐れられている。のみならず毛家の鼻グスリは奉行以下、すべてに行きとどいているうえ、与力の王からは「……いずれ一服(毒薬)ものだ」と囁かれていたので、
「やいっ、土下座するんだ。ええいっ、面を上げろ」
と、のッけから噛みつきそうな権柄で、身柄、罪状の書類を片手に。
「……ええと、なんだって、両頭蛇の解珍と、双尾蝎の解宝だと。蛇が兄きで、蝎が弟か」
「へい」
「へいだけじゃ分らねえ。どっちなんだ」
「仰っしゃるとおり、兄の解珍が両頭蛇と呼ばれておりますんで」
「てめえが、弟で蝎か。覚えとけ、おれのつらを。ここへ入ッたからにゃ、蝎も蛇も、のさばらしちゃおかねえぞ。おい牢番」
「はっ」
「こいつらを一番湿めッぽい奥の大牢へぶち込んどけ」
「こころえました。さッ起て」
引っ立てて行ったが、人前のきびしさに似ず、その牢番は人なき牢屋まで来ると急に声をひそめて兄弟へいった。
「……わしを知らんか。わしをよ」
「えっ?」
「おまえ方は、提轄(憲兵)の孫さんとは?」
「あっ、あの人なら、いとこです。母かたのいとこですが」
「わしはな、その孫提轄の小舅にあたるもんですよ」
「へええ? ……」と見すえて。「ではもしや、楽和さんてえのは」
「それだ、その鉄叫子の楽和ですわ。もうクヨクヨしなさんな。わしがここにいる!」
天は兄弟を捨てず、だ。悪庄屋の方に毛家の女婿がいたのは運の尽きであったようだが、ここには解兄弟の遠縁のひとりが牢番としていたのである。
楽和はもと茅州の生れで、生れつき悧発で器用なたち、わけて耳の官能がすぐれていた。ひとたび聞いた唄はすぐ覚え、しかも節まわしが巧みで、すこぶる美音だった。
鉄叫子というアダ名は、すなわち、それに由来する。
登州城の東門外、十里牌とよぶ地に、盛っている飲屋があった。ここの帳場にいつも見えるおかみが、
という気ッぷしのいい年増女で、ただたんに、「おばさん。おばさん」で通っている。しかしこのおばさんはただ女ではない。奥でのべつ開かれている常賭場の連中も一目おいているし、店の者はもちろん、客の呑ン兵衛も毋大虫の臼みたいなお尻がでんと帳場にござる日はゴネもきかないし踏み仆しもできなかった。
「ごめんよ。こちらは孫さんのお店で?」
「はい、はい。いらっしゃいまし。孫はわたしの亭主ですよ。飲屋の看板は、おかみのわたしだと思ってたら、変ったお客さまですわね。さあ、どうぞお好きなところへお掛けなさいまして」
「では、ちょっとここを拝借しましょうか」
「ホ、ホ、ホ。お堅いこと。お酒ですか、お肉? それとも博奕なら奥の方ですが」
「いいえ、おばさん。てまえはあなたのお連れあい孫新さんの兄、孫提轄の妻の弟にあたるもんですよ」
「へエ。それじゃあ楽和さんとかいう? ……」
「はい、その楽和で」
「これはまあ、おめずらしい。ついご城内の奉行所にお勤めとはうかがっていたけれど」
「こちらこそ、ご無沙汰のままですみません。……じつはその、今日は折入ったことでね」
「なにか急な御用ででも」
「急も急、人命二つに関わることで出てまいりました。しかもあなたの、お従兄弟さんにあたる者ですから」
「えっ……。じゃあ、ことによったら登雲山の麓村で猟師をしている解の兄弟のことじゃございませんの? わたしは小さい時にあの人たちの親御さんの手で育てられ、そしていまの孫新に嫁いてきたわけなので、ほんとの弟みたいに思っている仲なんですが」
「兄弟も言っておりました。じつは十里牌で居酒屋をやっている姉さん同様な人がいるんだが……と、牢の中で、涙をたれて」
「げっ。入牢ですって?」
「はあ。じつはこんなわけがらでしてね」と、鉄叫子の楽和は、そのいきさつと、密かに、自分が二人から頼まれて来た仔細を告げ、「……なにしろ、上は奉行から下は牢預かりにまで、毛家の袖の下がとどいていますからヘタをするとここ数日中には一服盛られてしまうかもしれません」
「ま! ……。どうしたらいいんだろう」
おばさんはサッと顔色まで失った。毛の薄い描き眉、かなつぼ眼。しょせん美人の内ではない。それをご当人は承知か否か。大きな頬の黒子一ツ残してそのほかは真ッ白けに塗りたくり、半裸同様なあらわな腕には金無垢の腕環デカデカ。髪にも色気狂いのような釵子やら簪やら挿して、亭主はおろか、股旅でも、呑み助の暴れン坊でも、まちがえばちょいと抓んで抛り出すなどお茶の子だといわれているこのおばさんにしてさえ、しんそこは、やはり女であったらしい。大粒の涙をこぼして早やオロオロの容子だった。
やがて、店のすみにいた若いのへ。
「何さ! 何でポカンと口を開いて人の顔を見てるんだよ! はやくどこか探して良人を連れておいで。急な話があるんだからといって」
幾人もの若いのがすぐ表へ飛び出して行く。その間におばさんは楽和にむかって礼をのべ、またくれぐれ兄弟のことを頼み、きっと助け出してみせるからと涙を拭き拭き誓って言った。
楽和は牢屋勤めの身、すぐ城内へ戻って行ったが、入れちがいに、おばさんの亭主孫新が、何事かと息せき切ッて帰って来た。この人、眉目奇秀、体躯は長くしなやかで、どこか元、武士の風がある。
祖先は瓊州の出で、軍官の裔であり、いまでも実兄の孫立は、登州守備隊の提轄隊長の職にある。兄弟ともに〝尉遅恭〟──唐代の勇士──の再来だと称され、この弟孫新の方は小尉遅とよばれていた。
「……ふうむ。そいつはえらい災難にひッかかったな」
と、孫新は女房から聞く一ぶ一什にただ唸って、深く腕ぐみを結んだままだったが、やがてこうぼそっといった。
「なにか。楽和さんには、吝ッたれずに、たんまり銀子を預けてやったか」
「そんなことを抜かッてはいませんよ。地獄の沙汰以上、牢屋まわりは金ですからね」
「よし。じゃあこっちから助けに行くまで、何とか工合よく計っておいて下さるだろう。あとは思案ひとつだ」
「思案ていったって、おまえさん、どんな思案をお持ちなのかえ」
「べらぼうめ。そうおいそれといい智恵が出るものかい。毛家はあの財力と勢力だから、しょせん地道な手だての賄賂じゃ敵いッこはねえ。まず腕ずくだ。その腕ずくには、鄒淵、鄒潤の叔父甥を、こっちの者にしておきてえが」
「あ、あの登雲山から降りて来ては、よくうちの賭場で遊んでゆく山の衆かえ」
「そうよ。なんとかならないかなあ」
「来るよきっと。今夜あたりは」
「あてがあるのか」
「丁よ半よには目のない二人だもの。おとといだったか。一日おいたらまた来るぜ、といって山へ帰ったからね」
「ならば奥へ酒さかなを用意しておけ。奴らもいつか俺にむかって、酒の上だが、今の世の鬱憤やら上役人の非道を鳴らしていたことがある。存外、こいつア乗ってくるかもしれねえ」
はたしてこの夕、異相の大男二人が、のそっと店へ姿をみせた。賭場の常連だから黙ってスウと奥へ通ってしまう。おばさんは良人の孫新へチラとすぐ目ばたきを見せる。世辞を撒き撒き孫新があとから奥へついていく。──店いッぱいの客あしらいの隙をみて、おばさんもまた、やがてのこと、奥へ消えた。
賭場でない別室では、鄒淵と鄒潤を上座に、そして孫新が取りもち役で、酒酌み交わして飲んでいたが、毋大虫の顔を見るなり孫新が、
「オ、女房、お二人さんへまずお礼をいえ。解の兄弟の救い出しに、腕を貸そうと、ご承知してくんなすったぞ」
「えっ、では。……ああ、これで」
「おばさんよ……」と、鄒淵がすぐその傍らから。「そんなにうれしいのかい、おれたちの助太刀がよ。こんな可憐しいおばさんなんて、ついぞ見たことはねえの。なア鄒潤」
「まったくだ。それだけに俺たちにしろ、うんと張合いがあるッてもんだ。叔父貴、いま孫新へ言ったことを、もう一ぺん話してやりねえ」
「おう、じつはおばさん、おれたちの腹もこうなんだ」
と、ここにこの叔父甥二人も、日頃の意中をうちあけた。
というのは、彼らはいま登雲山に、八、九十人の手下を持ち、近郷は避けて当りさわりのない街道で盗ッ人稼ぎをやっているが、元々これが彼らの素志でもない。
山東の梁山泊には、旧友三人がその仲間へ入っている。錦豹子の楊林、火猊の鄧飛、石将軍の石勇、その三人だ。──かたがた、宋公明以下の漢たちの会盟をきき、羨ましくてたまらない。いつかはケチな街道稼ぎなどすてて一党へ身を投じたいと願っていたものの、さて踏ン切りをつける機会もなかったという述懐なのだった。
さもあろうと、これは信じられる。
叔父と甥だが、年ばえは二人とも大しては違っていない。叔父の淵には出林龍とアダ名があり、甥の潤は、あたまの後ろに瘤があるので独角龍と世間で異名されている。
ともに莱州の産れだが、武芸はいずれ劣らない。慨世の気があり過ぎてかえって世に容れられぬ狷介の男どもだ。わけて甥の方はムカッ腹立ちの性分で、かっとなると何へでも頭でぶつかッて行く癖がある。かつてその瘤頭で松の木をヘシ折ったなどの話さえ持つ独角龍であった。
しかしこの淵、潤の二龍にも、苦手な者がないではない。それは城内の守備隊である。「そいつに出て来られたら……」と、いささか怯む風が見えなくもなかった。すると孫新が胸をたたいて請け合った。
「その心配はまず無用だ。じつは守備隊にはてまえの実兄孫提轄という者がいる。その兄も呼んでひとつ事を打明けてみましょう。切るに切れない血肉の仲、敵に廻る気づかいはございませんよ」
その夜。孫新は店の若い者を城内へ使いにやった。──女房の毋大虫がとつぜん発病して危篤におちた。一ト目会いたいといっている。夫婦ですぐ見舞に来てくれ。──こう出たら目な迎えをやって兄の孫立と嫂とを驚かしたものなのである。
登州大牢破りにつづき。一まき山東落ちの事
それは孫立の綽名だ。
いろ青白く、青粘土みたいに沈んでいるが、まなこは鯉の金瞳のごとく、黒漆のアゴ髯をそよがせ、身のたけすぐれ、よく強弓をひき、つねに持つ緋房かざりの一鎗も伊達ではないと、城内はおろか、守備隊の中でも、こわがられている孫提轄だ。
弟の女房が危篤と聞いて、
「わからないもんだな。鬼のかくらんということはあるが」
と、妻を車に乗せ、自身は騎馬で、兵卒十人ばかりを供につれ、急遽、休暇願いを出して、明けがた十里牌へ急いで来た。
だが、弟の店へついて、奥へ迎えられてみると、なんと出て来たのが危篤のはずなその毋大虫で、弟の孫新もけろりとしたもの。──孫立夫婦は、呆ッ気にとられるよりはまず腹が立った。
「おい、おばさん。孫新もだ。悪洒落はいい加減にして貰いたいな。こっちは官の勤務が忙しい体なんだ」
「なんともすみません。嘘もよほどな口実でなければ、すぐ来てはくださるまいと思いましたので」
「ひとを驚かすにも程があらあ。いったい何のためにこんなまねして呼んだのだ。俺ばかりか妻までを」
「じつは兄さん。不慮の災難が持ち上がッて、この弟夫婦はよんどころなく店を畳み、不日、梁山泊へ仲間入りいたします」
「なに?」
と、病尉遅孫立は、きッと、軍人になった。
「おれは州城の提轄を奉職している者だぞ」
「わかってますよ兄さん。だからこそわざわざお断りしておくわけなんで。……弟のわたしが州城の牢屋をぶち破り、あげくに梁山泊へ落ちのびて行ったとあれば、当然、肉親のあなたへも累がかかり、後日の咎めはのがれぬところでございますからね」
「きさま、いよいよ聞き捨てならんことをいうが、一体どういうわけで、そんな大それた暴挙をせねばならんのか」
「ゆるしてください。じつは女房のやつが幼少に養われた恩人の子二人──猟師渡世の者ですが。──それがいまむじつの罪で牢内にいるばかりか、悪庄屋の毛に買収されて、その女婿の与力から奉行、牢屋あずかりまでみながグルになって、解の兄弟を闇から闇へ殺そうとしているんです」
「ふウ……む」と、孫立はうめき出し。「解珍、解宝のふたりなら、おれにとってもまんざらあかの他人ではない」
「聞いてませんか。いまいった事件は」
「知らなかった。奉行も与力も、よほどこっそりやったんだな」
「そのはずです。みんな毛家の賄賂に買われている仲間ですから」
「ひどいもんだな今の役署は。いやおれも官の禄を食んでいるその中の一人だが、こうまで腐ッているとは思わなかった」
「兄さん、天下到る所、今の役署ッてえなあそんなもンですぜ。上は宋朝の宮府から下は与力、岡ッ引の小役人まで」
「孫新! おまえが梁山泊へ行こうってえ気もちはよく分るよ。だが、あそこへ入るには誰か手づるがなければむずかしい。見込みはあるのか」
「あるんです! おい女房、鄒淵と鄒潤さんをここへお呼び申して来い」
「あ。待った」
「なんです兄さん」
「その二人は登雲山の草寇じゃないか。登州守備軍に籍をおく俺とは日頃からの仇敵だ」
「ですからさ兄さん。一つ会ってみてお互いの腹をぶち割っておくんなさい。彼らもただの草寇ではありません。私たち同様、慨世の恨みをもつ者。そして梁山泊の中には、石勇、鄧飛、楊林ていう三人の知己を持っている。──そこでまずともに落ち行くさきは梁山泊と腹を決め、城内から解兄弟を救い出すことにも腕を貸してくれる約束になっているんです。兄さん、この通りだ。お願いします。私たち夫婦が一生のお願いだ。どうかお力をかしておくんなさい」
「……むむ。一つ考えさせてくれ」
孫立は深く腕をくんだ。大きな運命の岐路に立たされた容である。しかし他人の鄒淵、鄒潤さえも弟に組みしてくれたという。実兄として見ていられようか。かつは奉行所内部の腐敗にもほとほとあいそがつきてくる。彼はついに意を決した。
事。こうまとまると段取はバタバタついた。
彼と、鄒との会見も、心地よくすみ、さっそく大牢襲撃の密議に入り、鄒淵はいちど山へ帰って行った。山寨の人馬財物を一ト括げにし、子分のうちから二十人を選り抜いて、ふたたびここへ戻って来る約束だ。
また孫新は、そっと城内へ行って、楽和に会い、これとも密々な手筈を打ちあわせ、さらに孫立の屋敷へも寄って、目ぼしい貨財を若い者に運ばせる。「兄のいいつけで」という弟の行為なので、屋敷の召使もなんら不審を抱くふうでもない。
かくて勢揃いの朝が来た。
その朝、おばさんは外出着に着かえて、おめかしも念入りに、何か進物籠のような物を若いのに持たせて一ト足さきに城内へ立って行く。
残る一同、孫立、孫新。また鄒の叔父甥二龍、その子分、店の若い者、孫提轄の士卒十名。すべて四十名余りは、店を閉じて、夜明けまえから酒をくみ合っていたが、やがて、おばさんが立ったのを見とどけてから二隊に分れ、裏と表の口から風の如くここをすっかり出払っていた。
「さて。……今日は一つやっちまおうか。小面倒だが、毛家の女婿のあの与力が、まだかまだかとまたうるさく言って来やがるにちげえねえ」
包吉。
例の、登州牢預りの閻魔面だ。
監視亭の机の小ひきだしから、独りこッそり毒薬袋を取出して、それを二人分の量に薬紙へ小分けしていた。やりつけているに違いない。薬剤師のような手つきである。
「……おや?」
あわてて、毒薬を元の小ひきだしへ仕舞い込むと、窓から外を覗き、何を見たのか、あたふたと早足に出て行った。
いま彼方の牢路次の角を、スウと見つけない大女の派手ッぽい姿が消えて行った。それから奥は解兄弟が入っている大牢があるだけである。そこで包が急いで行ってみると、そこには牢番の楽和が水火棍を持って立っていたので、出合いがしらに、包は呶鳴ッた。
「ええい、あぶねえ。女はどうした?」
「あ。差入れに来た女ですか」
「差入れに? ……。差入れならなぜきさまが預かって、一応監視亭へ届けに来んか」
「いま行こうと思っていたところです」
「だって女が見えんじゃないか」
「え、見えませんか。待てといっておいたんだが……。はてな、小用にでも行ったのかな?」
そこへほかの牢番人が走って来て。
「おかしら。ただいま孫提轄がお目にかかりたいとかいって、どんどん表門を叩いていますが」
「何の用か用だけを聞いておけ。ここは守備隊の管轄じゃねえんだからな」
言い捨てるやいな、大股に大牢の獅子口へ駆け寄って行き、またも後ろの楽和へ、かみなり声を叩きつけた。
「やいっ。錠前があいているじゃねえか。大事な錠前がよ」
「へえ、そんなはずはございませんがね」
「ばか野郎。きさまあ、何のためにここへ立っているんだ、何のために」
「でも、開けた覚えはないんでして」
「けッ。まだ言ッてやがる。──それっ、見やがれ」
包は癇癪まぎれに獅子口の厚い戸をドンと押し開けた。とたんに何か内部の異様を見たにちがいない。及び腰に上半身を中へ入れるやいな、
「あッ。女?」
と、叫んだ。
いやその叫びは、彼が前のめりにそのまま牢内へ転がり込んだ驚きとも一つであった。後ろの楽和が力まかせに彼の尻を押し飛ばしたによることはいうまでもない。すかさず、楽和もすぐ飛び込んで、
「畜生っ」
と、その巨体へ起たせもやらず組みついたが、猛然、でんとばかり投げ飛ばされた。
しかし刹那、おばさんの毋大虫は、包のふところへ深く入って、そのワキ腹へ明晃々のあいくちを一ト突き加えていたし、解宝は後ろから抱きついて動かさず、また解珍は、包の佩剣を抜いて包の胸元を刺しつらぬいた。
「うまくいった!」
「さ、早く外へ」
このときもう牢営中は蜂の巣をついたような騒ぎとなっていた。孫立と孫新は牢門を破ってあばれこみ、おばさん、楽和、解兄弟とひとつになり、また、べつな一手の鄒淵、鄒潤の二龍は、はやくも奉行所を突いて、毛家の女婿の与力王正の首をひッさげて合流して来た。
「さ。ひきあげろ!」
「目的は遂げたというもの」
「これ以上の殺生は無用無用」
町中はもうたいへんだ。軒並みバタバタ店を閉じている。しかし追って来た奉行所役人も州兵も、馬上、弓をつがえて殿軍していた相手が、
「やや。孫提轄だ?」
と分ってからは、たれひとり近づこうとはして来ない。そのまに、おばさん、解の兄弟、そのほかみな、辻風のように、城門の外へ奔り出していた。
孫立もあとから馬で十里牌へ追っ着いた。店の前には貨財を積んだ馬、車、旅支度をした若い者。すでに立退く準備が待ちかねている。
「わたしは馬車より馬がいいよ」
おばさんは一頭の馬に乗る。孫立の妻は、馬車の上だった。馭者はさっそく鞭を鳴らす。
すると二十里も行かぬうちに、解宝、解珍が言い出した。
「すでに一命のないところを、こうして助けていただきながら、なお勝手な妄執を吐ざくようですが、毛家のおやじと、せがれの毛仲義、あいつら親子を思い出すと、どうでも腹がおさまりません。てまえどもはあとから山東へ追っつきますから、どうぞ皆さんは一ト足先へ落ちてください」
「いや、解の兄弟。おまえたちがこのまま立ち退けぬというのは無理もねえ。この孫立も一しょに毛家へ乗り込んでやろうぜ」
すると、鄒の二龍も、
「あそこは登雲山の麓村。いわばおれたちの古巣に近い。おれたちも行ってやる」
と、途中で馬を向け変えた。
こんな一隊に寄り道されては堪ッたものではない。その晩の毛家の惨状は目もあてられなかった。毛の大旦那も伜の仲義もずたずたに斬りさいなまれ、あげくに家屋敷はあッというまに焼き払われた。荘丁雇人も多かったが身を挺して殉じるほどな者もない。だから蓄えの金銀も鄒の叔父甥が「残して行くのも、もったいない」と、馬の背に付け放題な始末であった。そして炎の空をあとに、一行は道四、五十里を急ぎに急ぎ、やがて先の仲間に追いついた。
かくて、日ならず道は山東に入り、やがて行きついたのは、梁山泊を彼方に見る江岸の一酒店。すなわち見張り茶屋の石勇がいる孤亭だった。
鄒と石勇とは旧知の仲。くどいことはここでは略す。──ただ石勇が一同へ話したことばは重大だった。
「まことに、せっかくでござんしたが、あいにく宋公明さまは、先頃からお留守で、ここんとこ、泊中にはおられません。同様に一味の楊林も鄧飛もいないんです。……というわけは、ご承知かどうか。祝家荘の祝朝奉をあいてに大戦の最中なんでして……。しかもこっちは敗け色です。楊林と鄧飛も、じつは敵のとりこになっている始末。なにしろ先には、祝氏の三傑だの、鉄棒つかいの欒廷玉なんていうのがいて、どうにも手に負えないんだそうで、いやもう梁山泊も、今はただの日じゃあねえんですよ」
宋江、愁眉をひらき。病尉遅の
一味、祝氏の内臓に入りこむ事
この日、軍師呉用は、泊中を立っていた。
呂方、郭盛、阮の三士など、五百人の新手をつれ、祝家荘の苦戦へ、応援に行く首途だった。
同勢、船から上がって、隊伍をととのえていると、江岸の酒店から石勇がとびだして来て、
「軍師。ちょっと、お立ち寄りねがわれますまいか」
と、兵馬発向のドサクサ中なので、手ッとりばやく、云々の人たちが、梁山泊入りの望みで来ていることを告げ、
「そのうちの一人、病尉遅の孫立と申すものが、もし陣へお連れくださるなら、一策を献じたいといっておりますが」
と、つけ加えた。
「なに、病尉遅? ……。ではその弟は、小尉遅孫新じゃないのか。よろしい会ってやろう」
かねて彼らの名は聞いている。
やがて山林龍の鄒淵、独角龍の鄒潤、解珍、解宝らすべて呉用の前に姿をならべた。──わけて鉄叫子の楽和、毋大虫のおばさん、孫立の妻など、みな呉用の眼には善良に見えた。
「病尉遅は、あなたか」
「は。てまえ孫立です」
「なにかよい策があるとか聞いたが」
「もし陣中へおつれ下さればです」
「もちろん、同気を求めて来た諸君。大いに歓迎する。が、その計略とは」
「てまえがまだ武芸修行中のころ。欒廷玉とは、師を一つに同門であったことがあります」
「ほ。……相弟子だな」
「ですから彼の気性、彼の手のうちはほぼ分っております。かたがた、ここずいぶん会っていませんが、このたび、登州守備隊から鄆州の駐屯へ移動を命じられた途中、なつかしさに、顔を見に立ち寄ったといって行けば、這奴、必ず自分をよろこんで迎えるでしょう」
「内へ入って、外のわれわれへ、機脈の便を与えるという計か」
「内臓に入って、内臓を切り破る策です」
「おもしろい」
呉用は見抜いた。これは使える、と。
しかし孫立たち八人へは、一日おくれて後から来るがよいと命じておき、呉用とその軍勢は、即刻、現地へ向けて先発した。そして祝家村の陣営──宋江の幕舎へつくやすぐ、まず事情とこの一計とを呉用が参陣の手土産として、彼に語りつたえたものなのだった。
× ×
次の日、孫立たちの男女一行も、ここの陣所に着いた。すぐ、ひきあわせの小宴。そして、各〻身素姓を名のり合う。
宋江は眉をひらいた。
ここ不利な戦いをつづけ、面目を失ったのみか、四人の味方の将を、敵の手に捕虜としてゆだねている。
かつは多くの部下も死なせ、日夜、やるかたない悶々を抱いていたところである。が、いまはまったく心身も冴え返った。呉用が来た。また思わざる味方が加わった。彼らのもたらしてきた奇計なども、まさに天来の救いともいうべきか。宋江は天の星を拝した。
「戴院長」
と、あくる日、呉用は陣中の戴宗をよんで、急使を托した。
「ご足労だが、一ト飛び梁山泊まで行ってもらいたい。──至急、泊中の四名の者をこれへ急派して欲しいのだ」
「こころえました。誰と誰ですか」
「鉄面孔目の裴宣。聖手書生の蕭譲。通臂猿の侯健。玉臂匠の金大堅」
「みな一芸の者ですな」
「む。それと、仮装用のこれこれの服飾をたずさえ、すぐ駆けつけてくれるように頼む。なお、詳しくはこの中に書いてある」
一封を彼にさずけ、踵をめぐらして来るところへ、柵の哨兵がつたえて来た。
「扈家荘の扈成という者が、陣見舞の酒肉を持って、お目にかかりたいといってまいりましたが」
「扈家荘とは、敵の独龍岡を繞る三家の一つではないか」
「はっ。西の麓にいる祝氏の一族で」
すると、幕舎の内から宋江が出て来て。
「いやさしつかえございません。伝令、ここへ通せ」
扈成は、司令部の前まで来ると、膝をついて、宋江を再拝した。
「自分の妹は、ご存知の扈三娘こと、一丈青というものにござりますが」
「あ。あの凛々しい女将軍の兄上か」
「女だてらに、乱軍の中を駆けまわり、ついに尊軍のとりことなってしまいました。めんぼくもございません」
「なんの、擒人を出したのはお互いだ。恥じることはない」
「が、じつは……」
「何を言い難そうにしておられるのか」
「妹がとりのぼせて、尊軍へお手抗いいたしたのも、じつは祝氏の一男と縁組みの約があったからでございまして」
「それで?」
「なにとぞ一つ、若い娘のこととおぼしめし、ご寛大なおなさけの下に、彼女の身柄を、てまえにお返しいただけますまいか。どんな償いでもいたしまする。また向後は決してお手抗いはさせません」
「よろしい」
「えっ。ご承知くださいますか」
「代りに、こちらの取られた捕虜、王矮虎をお返しください」
「さ。その矮虎どのは」
このとき、呉用が口を入れた。
「どこにいます。矮虎は現在」
「独龍岡の本城に、鎖でつながれてますので、さて、われらにはどうすることもできません」
「ははは。ではお話になりませんな。だが、こういう約束ならばしてもよい。今後一切、扈家荘からは加勢をくり出さないこと。そして祝朝奉から入り込んだ者は、そちらの手で捕えておくこと。──その約条が守れるなら、後日、妹さんの身はきっと返す。ただし妹さんは早や梁山泊へさしたててあるが、あちらでは絶対安全にさせてある。それだけはご安堵なさい」
扈成は、約を誓い、拝謝してすごすご帰った。──陣中こんな風景もあったりするまに、一方、孫立の組は、呉用のさしずの下に、着々とそのはかりごとを進めていた。そして一日、
と大書した旗じるしを作り、馬卒二十余り、同気七名を伴い、昨夜ひそかにここの陣をはなれ、わざと道を遠く廻って、やがて独龍山の裏がわ、祝氏の城の搦め手道へかかって行った。
「御指南」
城兵の一人が駆け込んで来て告げた。
武芸指南役の欒廷玉は、ちょうど城内の弓の広場で、祝氏の三傑──朝奉の息子、祝龍、祝虎、祝彪らと、なにか立ち話していたところだった。
「なんだ、あわただしげに」
「はっ。ただいま登州守備隊の孫立と名乗るお人が、同勢二十七、八名で御指南をたずねてまいられましたが」
「どこへ」
「搦め手門の濠の外へ。中に女人も二人ほど連れております」
「おかしいなあ。ほんとか」
そばで、ふと聞きとがめた祝龍が。
「何者です、先生。それは」
「以前、おなじ師匠の許にいた同門の者ですが」
「ならば会ってみたら分るじゃないですか。女連れだとか。まさか物騒な者じゃあるまい」
「ではおゆるしを得ましょうか。兵卒、濠の吊り橋を下ろして通せ」
孫立の一行は、まもなく郭門でみな馬をおりて、これへ来た。相見るや、欒廷玉もオオと双手で迎え、孫立もまた手をさしのべ、かたく握り合って、お互い久闊の情を見せた。
「しばらくだったなあ」
「ほんとに」
「君が登州にいることは知っていたが、どうしてこれへ来たのか」
「急に鄆州駐屯の任へ就けと、総管辞令でいやおうなしに廻されてさ」
「鄆州だとすると、梁山泊に近いな」
「それだ。このごろやたら暴徒の数がふえ、おだやかならん風聞もある。移動もそのおかげらしいよ」
「じつはここも今、やつらと一戦の最中なのだ。よく途中で、梁山泊の者に遮られなかったな」
「いや聞いている。だからわざわざ道を変えて搦め手から訪ねて来たんだが……。いまあちらへ行ったお三人は誰なのか」
「祝氏のご子息がただろう。見たか」
「いや、先様でチラと俺たちの方を流し目にして行かれただけだが、さてはあれが有名なご当家の三傑だったか」
「君っ」
と、欒廷玉は、孫立の肩へ手をのせて。
「どうだ、ここで一ト働きしてみんか。君の受けた移動命令にも添うものだ。寄手の賊のなかには宋公明がいる。彼を生けどって都へ差立て、さらに梁山泊をも突き破れば、一躍大功名、将軍の印綬はかたいぞ」
「む。同門の友が宋朝廷の禁軍に臨み、白馬金鞍を並べるなどの日がもしあったら、そいつあ、どんなに愉快だろうな」
「さ、本丸へ通ってくれ。ご子息がたへ、紹介する」
そのあいさつ、儀礼もあって、当夜の晩餐には、めずらしく当主祝朝奉までが席に姿を現わした。
終始、弾んでいた欒廷玉は。
「大殿。これです。昼、お耳に達しておきました旧友の病尉遅孫立というのは」
「孫立です。初めて御意を拝しまする」
「やあ、あんたか。こんど総司令部の命で、近くの鄆州へ移駐して来られたと聞くが」
「さようです。何かと以後は、ご教導のほどを」
「とんでもない。当家こそ、ご支配の区域になる。よろしくおちかづきを願わねばならん。そして、そちらのお方は?」
楽和は、とたんに、まごついたが、すぐ孫立が仲をとって言った。
「これは鄆州の役署の方で」
つづいて鄒淵、鄒潤、孫新、解の兄弟らをさしては、
「いずれも、登州の軍人でして、てまえには腹心の部下どもです」
と、機転をはたらかせたものである。このあざやかな紹介に疑いを抱いたものは誰ひとりもなかったらしい。
祝朝奉といい、三傑の息子といい、決して凡庸な人物ではなかったが、孫立一行のうちに、孫の妻と、おばさんのいたこととが、なんといっても、女づれと視る油断の一因を醸していたのは争えない。そして行李を積んだ馬やら馬車やら、どう見たって、これは赴任軍人の引っ越しだった。
「女は女同士がよかろう」
と、朝奉は彼女らを伴って奥へみちびき、自分の夫人、側室、そして侍女たちと一しょに遊ばせ、さらに元の席へ返って来て、
「ひとつ、乾杯しましょう」
と、たいしたご機嫌ぶりだった。その歓談のあいだに、孫立は隣の席の祝龍へ、ちょっと、こんなふうに当ってみた。
「さすが、磐石なお城ですな。敵が攻めているのかいないのか、まったく何もわかりません」
「でも梁山泊の寄手は、昼夜、歯がみして、どこかを突ッついているんですがね」
「及びもつきますまい。しょせん、やつらの力では」
「しかし勝敗は逆睹できません。また一気に勝負もつけかねますよ。這奴らは逃げるだんになれば、水を渡ってあの蕭々たる芦の彼方へ隠れこんでしまうでしょうから」
「いやそのときには、官でも水軍を押し出しますよ。不肖が鄆州に駐留しているからは」
「よろしくどうぞ」
かくて、三日目のことだった。城楼や城門でただならぬ動揺めきがわき揚がったとおもうと、鉄甲、花やかな味方一騎が、
「宋江みずから、一軍をひきいて、近々と攻めよせてまいりましたぞ」
と、城庭を駆け巡り駆け巡り、報じていた。
「なに、宋江が」
すぐ立ちかける祝龍を抑えて、三男の祝彪が、
「いや、おれが行く。まかせてくれ。おれが捕まえて来る」
と、言い争った。いや言うやいな、そこの床几場を躍り出し、濠の吊り橋を下ろさせて、部下百騎ほどの先を切って駆け出して行く彼だった。
百年の悪財、一日に窮民を賑わし、梁山泊軍、引揚げの事
城楼、城門、城壁。その中の無数な顔という顔がみな大きな口を開けッ放しに開けていた。鬨の声である。それに合せ銅鑼や金鼓も万雷の音を揺すッてやまない。
城外へ出た味方への声援なのだ。
──と見るまに、祝彪の一隊は、勝ちほこッたかの如く、濠の吊り橋を渡って、とうとうと荘門の内へひきあげて来た。その車仕掛けの吊り橋は味方を収めるやいなキリキリと高く巻き揚げられる。
「ざまはねえ! 宋江の臆病者めが」
祝彪は大勢のいる荘の床几場へ来るなり言った。
「宋江と聞いたので、ござんなれと討って出たが、なんのこと、相手に出て来やがったのは、梁山泊では弓の上手とか聞く小李広の花栄という奴。相手にとって不足だが、そいつもまた、手もなく逃げてしまってさ……。いや張合いのねえことといったらない」
ここ一郭の陣座には、祝朝奉をはじめ、祝氏の三傑とよばれる息子の祝龍、祝虎、また武芸師範の欒廷玉、そのほか祝一門おもなる者、ぞろッと甲冑をならべていた。
そしてまた一隅には。
これは巧みに、欒廷玉との旧縁をつかって、荘内の客となり澄ましていた連中がいる。すなわち病尉遅の孫立、孫新、また鄒淵と鄒潤、それに解の兄弟や鉄叫子楽和などの七名で、なるべく目立たぬようにと、さしひかえている姿だったが、
「いや、ご三男さま」
と、その中から孫立がめずらしく口を出した。
「敵の宋江が、姿を見せないのも、弓の花栄が尻ッ尾を巻いて逃げたのも、そいつは無理もありません。自然だろうと思いますな」
「なに。それはどういうわけだ、孫立」
「だって、みすみす死を求めに出て来るばかはありますまい。音にひびいた祝氏の三傑の中でも、わけて勇猛のお聞えあるあなたが、いきなり陣頭に出て行っては、ご自身、木の葉を掃いてしまうようなもので、それでは合戦になりッこもないでしょう」
「わははは、なるほどな」
祝彪が大笑すると、父の朝奉も、満座の面々も、みな手を打って、
「これは考えものだ」
と、しばし笑いに揺れ合った。
酒宴になる。いろんな作戦上の策が話題に出る。
鉄叫子の楽和は、頃あいをみて、
「余興に一つ」
と、得意の歌をうたい、さらにまた、求められて、諸葛孔明の〝五丈原ノ賦〟を指笛で吹いて聞かせた。
「これはうまい! 素人芸ではないぞ、おもしろい客人だ」
と、楽和はすっかり人気者にされ、やんや、やんやの喝采をあびた。
こんなことから、孫立一味の七人客も、また、朝奉夫人が住む大奥へ入りこんでいた孫の妻と毋大虫おばさんの二人も、すっかり信愛をうけて、いつか城内ではなにへだてなく扱われていた。
するとまた、七日ほど後のこと。
「すわ! 梁山泊の賊軍が、前にもました勢いで、濠の彼方へ襲せかけて来ましたぞ」
と、郭門一帯にどよめきを見せ、朝奉以下の陣座へ、頻々と指令を仰いできた。
再三、敵将の宋江をとり逃がしているので、今度はと、祝氏の三傑は口をそろえて、
「騒ぐな、放ッとけ、しばらく、敵がなすままにして、出方を見ていろ」
と、号令した。
だが、放ッておいたら、たいへんである。城外の寄手は、火箭を撃ちこみ、堤をくずし濠を埋め、また巨木を伐って筏となし、どうなることかわからない。
かくと聞くや、祝龍、祝虎、祝彪の三兄弟とも、
「小癪な」
とばかり癇癪に駆られ、吊り橋を下ろさせて、突風のごとく、荘門から討ッて出た。
敵がたには、
「豹子頭の林冲!」
と名のる一将がいた。
祝龍、祝虎はそれへむかって、おめいていたが、豹子頭の影は、まるで乱軍の間に明滅する陽炎のごときもので、追い疲れ、戦い疲れ、兄弟がハッと思ったときは、
「あっ、こいつはいかん」
と、余りに城を離れた深入りに気づき、ついに駒を返したことだった。
三男の祝彪もまた、ただ敵の怒濤の中を泳ぎ暴れただけで、宋江の姿も見ず、むなしく郭の内へひきあげていた。──翌日も、また次の日も、変りない襲せつ返しつの膠着万遍といった戦況だった。
すると三日目のこと。大陸的な夕空いちめんまさに灼奕と真っ赤に燃え映えている頃だった。──寄手の後ろの方から車輪陣の象をなした一団が近々と濠ばたへ押し進められてきた。一旗高々と夕風にひらめいているのを見て城内の兵は、
「や、や、あれこそ宋江だ。宋江の本軍が出てきたにちがいないぞ」
と、言い騒いだ。
「ござんなれ宋江。さあ決戦だ」
と、郭門を押ッ開き、吊り橋を下ろし、手に唾して逸りきる祝氏の三傑三兄弟にむかって、このとき、
「ま。お待ちなさい」
と止めたのは、荘の客、病尉遅の孫立だった。
「──率先、あなた方が躍り出たら、またもや折角な大魚を獲り逃がしましょう。まずそれがしと孫新が一隊を拝借して討ッて出ます。お三方は郭門の蔭にひそみ、われわれが、宋江の退路を断ッたとみたところで、いちどに吊り橋を渡って包囲したらどんなものでしょう?」
「む。いい考えだ。では先陣を切ってくれ。おう、この馬をそちに遣る」
長兄の祝龍は、みずからの愛馬を、孫立に与えた。それは〝烏騅〟と名のある漆黒の馬だった。
陣鼓、喊声の沸く中を、孫立と孫新の一隊は、敵の前面へ馳け出しざま、
「梁山泊の盗ッ人ども、この祝朝奉家の内には、登州守備隊の提轄、孫立以下の者が、先頃から客となっていたのを知らぬのか。どいつもこいつも引っ縛げて、御用とするから覚悟をしろ」
と、敵のみか、後ろの城門へも聞えるような大音声でまず呶鳴った。
たちまち戦塵が煙り立ッた。
無数な人渦のなかに、無数な剣戟がひらめきうごく。
宋江の陣からは、せつな。
「おうッ、捕れるものなら生け捕ってみろ、没遮攔の穆弘とはおれのこった!」
つづいて、また。
「いぜんは薊州の刑吏、今は志を変えて梁山泊の一人、病関索の楊雄もこれにいる!」
さらに、次の一騎も、猛然、突き進んで来ながら名のった。
「──𢬵命の三郎石秀!」と。
これは手強い。陣も堅い。
石秀と孫立とはただちに鎗を合せ、両々譲らず、火をちらし、鎗身を絡みあい、激闘数十合におよんだが、勝負、いつ果てるとも見えなかった。
一方の孫新もまた苦戦だ。
穆弘、楊雄の二隊に取りまかれ、かつはそれらの豪の者に迫られ、あわや危ういかとさえ思われた。
その戦況を、郭門から眺めていた祝氏の三傑は、
「もう見てなどいられるものか」
まず祝龍が、先頭を切って、た、たっ! と濠の吊り橋を馳け渡って行った。
するとそのとき、孫立は馬の鞍わきに、敵の一将石秀を生け捕って来て、
「やあ、ご長男さま。こいつを城内へ縛っといておくんなさい」
と、祝龍の前へその者を抛り投げた。
「なに、生け捕りか。出来したぞ孫立」
と、祝龍はただちに部下へいいつけて、石秀を縄からげにし、郭門の内へ送りこむやいな、ふたたび馬を回して敵の中へ突入して行った。
祝彪、祝虎も、もちろん兄におくれてはいない。突然、宋江の陣は総退却をおこした。しかし時すでに薄暮。勝つには勝ったが、またもついに、宋江は取り逃がした。
城内は赤々と凱歌にかがやく篝火の晩を迎え、荘の本曲輪では一同、
「また一人、擒人がふえた」
と、酒壺を開いて、陣宴の歓に沸いていた。
祝朝奉もすこぶる上機嫌で、
「お客人の大手柄だわ」と言い、「──せがれども、合戦いらい、これで梁山泊の捕虜は幾人になったかの?」
と、酒の肴みたいに訊ねていた。
二男の祝虎が答えて言った。
「今日の捕虜、石秀という者を加えて、ちょうど七人になりますよ。──まず最初に捕まえたのが時遷、次に間諜の楊林、それから黄信、王矮虎、秦明、鄧飛──どいつもこいつも梁山泊では一トかどなやつばかり」
「うむ、いずれみな、檻車に乗せて、開封東京の朝へ差立て、皇帝からお褒めをいただくわけだが、しかしそれまでは、傷物にしてはならん。大事にしておけよ」
「さよう、さよう。捕虜も見ばえをよくしておかなければいけませんな」と、相槌を打ったのは、客卓にいた孫立だった。
「──ご子息がた。あとは宋江を生け捕ることです。これに宋江が加えられれば、祝氏の三傑の名は都の大評判となりましょう。ところで、押送までの監視は、充分、お抜かりなくしてあるでしょうな」
「大丈夫だとも。郭北の倉庫十八棟のうちの三番蔵に一人一人檻車に入れて押し籠めてある。何しろ戦騒ぎで手が廻らんでな。しかし、なるほど奴らを都へ送るにも、見ばえをよくしておく必要はあった。あしたからは肉もたっぷり食わせておこう」
このあと数日は、梁山泊軍の襲来もなかった。
そのあいだに、孫立一味は城郭中の通路、隠し道、奥との連絡、すべての探りを遂げていた。毋大虫のおばさん、孫立の妻も、ひそと心得顔である。楽和はまた、人目を忍んで、折々城壁の堤から濠の彼方へむかって、のん気な指笛を吹いて逍遥していた。が、これが決して暢気な遊びでないことはいうまでもない。
ついに来る日が来た。
宋江はこの日、いつもと攻め手をかえて、全体を四軍にわけ、城の四面から迫って来た。そのうえ四隊個々の上に中軍旗をひるがえし、さかんに陣鼓喊声をあげさせ、どの隊も宋江がいる本陣かの如くに見せかけていた。
しかし、梁山泊方にそんな大兵はあるはずもないから、これは宋江が土地の農民や雑夫を狩り集めて兵鼓を振るわせた擬勢であったに相違ない。けれど城中の驚きは一ト通りでなく、
「すわ。寄手は梁山泊から援軍をよんで、いちかばちかの総攻撃をしかけて来たとみえるぞ。やよ欒廷玉、せがれどもと力を協せ、一挙にこれを屠り去れ」
と、祝朝奉みずから、将台に立って指揮にあたり、城方もまたその全力を四面の防ぎに投入した。──すなわち祝氏の三傑は一人一人にわかれて荘門外に奮戦してゆき──また、いつもは総大将朝奉のそばを離れない欒廷玉まで、一隊をひきいて搦手からつい討って出てしまったものであった。
必然、いまや郭内はまるで手薄。──と見るや、どこかで、
「おおっ、お待ち遠さま! お膳立てはととのったぞ。先頃から逗留中のお客衆、それっ、思い思いの膳につけ」
と、病尉遅孫立の大音声につれて、とつぜん、鉄叫子楽和のするどい指笛が祝朝奉の耳を驚かせた。
「な、なんじゃあれは?」
朝奉は怪しんだ。いや狼狽のひまもない。彼のいる将台の階を目がけて、だ、だ、だッと馳け登って行った孫新、楽和、鄒淵、鄒潤の四客は、手に手に剣をひッさげ、
「朝奉、観念しろっ」
と、斬りつけてきた。
左右の兵は仰天して、乱刃の下に防ぎ戦い、朝奉は欄を躍りこえて将台の下に逃げ転んだ。──が、下には孫立が、一鎗を構えて待ちうけていたから、朝奉はいよいよ逃げ戸惑い、ついに女曲輪の境まで走ッてそこの深い石井戸へ身を投げてしまった。
追って来た孫立は、井戸べりに片足かけて、中を覗き込み、
「おあつらえ」
とばかり手の一鎗を逆にかざし、ドボンと投げ突きに井戸底の物を突き殺した。──そして、あとから来た楽和にむかい、「鉄叫子。すぐ奥へ行って、毋大虫やおれの妻に助太刀してくれ。そして祝夫人や侍女などは殺さぬように、どこか一つの女房(女部屋)へ押しこめておくがいいぜ」
と、早口に言い渡し、そして彼自身は、郭北十八倉の一つ三番蔵の方へ宙を飛んで行った。
すでに、蔵番の哨兵一隊は、そこらじゅうに叩きつけられてしまい、三番蔵の鉄の扉は、滅茶苦茶に破壊されてしまっている。
ここを襲ったのは解珍、解宝の二人を先頭に、さきごろ一行の供人に仕立てて一味の中に入れ共に泊りこんでいた仲間の手下たちだったのである。いうまでもなくここに囚われていた時遷、楊林、黄信、矮虎、秦明、鄧飛、石秀の七人の救出のためにだ。
「火を放けろ」
「いや倉庫はよせ。あとでは、こっちの頂戴物だ」
「ならば櫓を」
「そうだ、まず荘門からぶッ潰せ」
「馬糧を撒いて、将台も焼き払え」
これだけの屈強が突如、城の心臓部から暴れ出したことである。鼎が沸くなどという形容も充分ではない。同時に奥の方からは毋大虫おばさん、孫立の妻、そして、楽和そのほかも馳せ集まる。
驚愕したのは、城外に戦っていた欒廷玉や祝兄弟それぞれの隊と、その戦場であった。
「や、や。あの煙は?」
と吊り橋を引っ返して来た欒廷玉は、そこの口を塞いでいた孫立以下の者と、後ろからの追撃に挟まれて、橋上の立往生を遂げてしまい、祝龍、祝虎の兄弟は、おなじく城の火の手に驚いて戻る途中、寄手の呂方、郭盛の埋伏隊につつまれて、これまた最期の是非なきにいたってしまった。
ひとり三男の祝彪は、
「こいつはてッきり城中の裏切り?」
と見、死地を脱して、扈家荘へ逃げた。
──例の一丈青の兄、扈成が支配している一族の一荘だ。
ところが、扈成はすでに、妹の一丈青の身の保証と交換に、宋江とのあいだに、不戦密約をしていたので、門を閉じて、彼を入れず、為に、戦い疲れた祝彪は、それを執拗に追いまわして来た黒旋風李逵の二丁斧の下に、ついに命を終ってしまった。
ところで李逵は、これだけにしておけば、いい男であったものを、宋江と扈成の密約などは頭におかず、つづいて荘門をぶちやぶり、家族召使いを、みなごろしにしたあげく火をかけてしまったものである。そのため、扈成は、命からがら延安府へと落ちのびてゆき、やがて後にこの人は、宋朝中興の業にひとかどの将として働いた。
だが、それは後のはなし。宋江はこの日、本陣にいて、この伝令を聞くやいな、
「李逵をよんで来い」
と命じ、彼を見るや、いつにない烈しさで怒った。
「この蛮夫め、無知め、扈成は先頃、陣見舞のみやげを持って、降を申し入れてきた者ではないか。その肉を食らい酒も飲んだきさまは、這般の約も知っているはずだ。だのになんで、降人の家族をみなごろしにいたしたか」
「こいつア恐れ入った。いけませんでしたか。──扈家荘の一丈青という女郎には、あなたからして、ひでえ目にあった怨みがあるじゃございませんか」
「怨みも捨てるのが降というもの、また和というものだ。祝彪を討ったきさまの手柄はそれで帳消しだ。後陣へ退がッて謹慎しておれ」
「ふへえ! また謹慎ですかい。どうしてだろ。おれが働くと、ご褒美はいつも謹慎だ」
李逵は口をとがらした。うそぶきながら引っこんでゆく。が、こんな悄然たる姿は彼ひとりだった。
はやくも孫立、孫新をさきに、長らく城中の捕虜となっていた面々も、宋江の前に来て立ちならび、「めでたい」
と、生きての再会をよろこびあい、また、
「ひとえにこれは、病尉遅以下、君たち一同の奇計がもたらしてくれた大功だ」
と、宋江はひとかたならず、孫立たちの労を謝した。そしてただちに、城内の財宝を外へ運び出させることにした。
なにしろ万戸の王侯にひとしい祝朝奉家の蓄えである。武具、爆薬、穀物、車輛、また奥の調度品には、絹、糸、油、金銀、それと牧場にも、牛、羊、騾馬、家鴨などまであって、その集荷には、七日も要したほどである。
「すべてこれは梁山泊へ運び入れよう」
軍師の呉用は言ったが、宋江はそれに反対な色をみせた。
「われらは世から盗ッ人といわれています。だが人は言っても、われらの内では盗は盗でも、ただの悪には終るまい、何か一善は、世間にお返ししようぜと、これは鉄則にしていたはず。──いま、多年苛烈な鞭の下に農奴を泣かせて富み栄えてきた祝家をここにぶッ潰したのも、天に代ってしたものとしなければなりません。さすれば当然、分捕りの財は、それの大半を窮民へ分け与えてやるべきかと思いますが」
「よかろう。もとより徳を施すことならこの呉用から梁山泊の面々も、異存のあろうはずはない」
「では。……先に石秀が敵地へ探りに入り込んだとき、何の利も得もなく、一夜を親切に匿ってくれた鐘離という老人がある。あの老人を窮民布施の奉行役にして、それをやらせてはどんなものか」
と、さっそく石秀を使いにやり、鐘離をよんで来て、分捕り物分配の任にあたらせた。それもしかしなかなか大仕事だった。何しろ穀物糧米だけでも五十万石の余にのぼる量だった。が、これで独龍岡支配下の何万戸という荘民は、まるで夢みたいなお助けに潤され、かれらはまた、
「できることなら何でも」
と、労力をもって、そのよろこびを、宋江らの義軍にこたえてきた。
かくて、残余の分捕り品輸送なども難なく進み、宋江らの全軍は、ほどなくここを総引きあげに引揚げた。一路、山東梁山泊へと、凱歌に沸く蜿蜒の列を作して──。
ところが、ここにまだ不遇なる賢人が残っていた。
かの撲天鵰の李応である。
彼は、亡び去った祝朝奉家の親戚だ、つまり祝一族の一軒だ。
事の始めに。彼は宗家のためを思い、極力、事を穏便にと、相互のあいだに立っていた。──が、逆に、それが族長の息子どもからは疑われ、以来、門を閉じたきり、今度の騒ぎには全く圏外にいて静かに矢傷の身を療治していたのである。──しかし今や、本家の朝奉初め、息子の三傑も、旧家の城とともに、死に絶えたとつたえ聞き、
「ああ、ぜひもない。驕る者久しからず。これも輪廻か」
と、惆然と独り嘆じていたところだった。
ところが、はしなくこの李応の家の門へも、禍いの波は、禍いから余さじとするかの如く、或る日、どやどやと七、八十人一隊で押しよせて来た。
宋江、約を守って花嫁花聟を見立て。
「別芸題」に女優白秀英が登場のこと
「このほうは登州与力の裴鉄面だが、奉行の逮捕状を帯びてこれへ参った。当家のあるじ李応を出せ。有無を申さば、官権をもって召捕るまでだが」
威猛だかである。
屋敷じゅうは慌てふためいた。
李応はまだ片手を繃帯して首に吊っている。かくと聞くや衣服を着かえ、静かに病床を出て、官憲との応対に当った。
「てまえが李応ですが、何かのお間違いではないか。逮捕されるような覚えは身にない」
「だまれ。四散した祝家の夫人や家来から連名の告訴が出ておる。それによれば、汝は祝一族の者でありながら、わざと梁山泊との間に紛争を作り、彼らを手引きして、宗家を亡ぼし、後日、荘の土地や金銀の分け前をとる内約していたということだ。言いわけがあるなら奉行閣下の前で申しのべろ」
「これは奇ッ怪な。察するに何者かの讒言と思われる。ともあれ念のため未亡人の血迷ったその讒訴状とやらまた、お奉行直筆の逮捕状などもお示しいただきたい」
「オオ見るがいい。どうだ、返答あるか」
「なるほど……。ううむ、これは紛れもない登州の官印、また、告訴状もそれらしいが」
「はや言いぬけもあるまいがな。それッ縄を打て」
つづいて、与力は、
「当家の食客の杜興とかいう奴。そいつも搦め捕ったか」
と、後ろの人数へ言った。
杜興はすでに縛られている。それを見て、李応も観念した。覚えのない冤罪だ。公の法廷で堂々申し開くに如くはない、と。
馬に乗せられ、与力、捕手、獄役人などの大勢にとりかこまれ、泣いて見送る老人女子供らの家族へは、
「なあに、すぐ帰って来るからな」
さりげない笑顔すら見せて郷門を去って行った。かくて李家荘をあとに、急ぐこと八、九十里、一叢の雑木林の中にかかった。
「待てっ」
一声が静寂を破ッた。
立ちふさいだのは、豹子頭の林冲だった。つづいては宋江、花栄、楊雄、石秀などである。口ほどもなく、奉行与力以下の者は、
「あッ、梁山泊の奴らだ!」
と白昼の妖怪でも見たように、李応、杜興の護送馬もそこへ捨てて、蜘蛛の子のごとく逃げ散ってしまった。
「とんだご災難でしたな」と、宋江はただちに二人の縄目を解かせ──「じつは、お待ちしていたんです。撲天鵰先生、どうぞてまえどもと一しょに、ひとまず梁山泊へお越しください。決して悪くはいたしません」
「お。あなたが、著名な宋公明か」
「そうです。お恥かしい者ですが」
「いかにもな。そのご卑下はよく分る。この李応もまだそんな日蔭者の仲間におちぶれるほど身を持て余してはおりません」
「でも、今日は遁れても、いつかは必ず官憲はあなたを不問にしておきますまい。──梁山泊の軍勢が、みすみす自分らの管轄下に、こんな大騒動を起したのです。いわば彼らの落度になる。その罪はみんなあなた一人に被せようとするにきまっている」
「いやどんな難儀がかかろうとも、だ」
「それはご潔癖もちと強情に過ぎはしませんか。しばらくここの余熱をさまし、周囲のおちつきを見とどけてから、世間へお帰りある方が、諸事、無難でございましょうに」
杜興もそれをすすめ、呉用もまた、呉用一流の弁で、切にすすめる。そこで李応もついに我を折って、一行の中に入って行をともにし、やがて梁山泊の人となった。
といっても、正道の士、撲天鵰李応のことだ。あくまでここは仮の宿と見、毎日の聚議庁における酒宴のもてなしにもついぞ打ち溶けた風もない。──その日もまた彼は、梁山泊一統の統領晁蓋の姿を見たので、
「総統、おねがいです。はや今日で五日目になる。家族らも気がかり。ひとまず、ここを出して、家へ帰して下さらんか」
と、やや哀調をもって嘆願した。
すると晁蓋は、かたわらの宋江、呉用らの顔を見て、意味ありげに笑って諮った。
「どうでしょうご両所。撲天鵰先生には、頻りにああいっていますが」
「はははは。李大人。そのご心配は、すこぶる変なものですな」
「どうしてです。呉学究どの」
「だって、あなたのご家族は、もはや李家荘にはおりませんぜ」
「えっ、いない。ではどこにいますか」
「ここにです」
「こことは」
「もちろん梁山泊。ついさっき、金沙灘の対岸の茶店から報らせがありました。ほどなくやって来るでしょう」
何をいうか、人を愚弄するにもほどがある。──李応はそう取ったものの如く不快な色を閉じてしまった。けれどこれは嘘でなかったのである。ほどなく山寨の下からこれへ登って来る群れの蟻行列のごとき人影が見えだした。近づくに従い、李応は、アっ! とばかり驚いた。その中にはわが妻子が見える、舅や年来の召使いまでがいる。いや覚えのある家財道具までが百人余りの人間と数十の驢馬や牛の背に積まれてやって来るではないか。
「なんとしたことだ?」
彼は走り出して、まず妻にたずねた。妻や老人たちは、口をそろえてこもごもいった。
「旦那さま、ようもまあご無事で。あなたが、州の奉行所へ連れて行かれると、その晩でした。またぞろ百人ほどな者が来て、否やもいわせず、この通りにしてしまい、なんでも来いというままに、これへ曳かれてまいりました。──もう帰るにも帰る所はございません。荘を出るやいな、屋敷は炎になってしまいましたから」
聞く李応は、唯々、あきれるばかりだった。すると、後ろから追って来た宋江が、彼の前に膝をつき、両腕を交叉して、地に伏さんばかり詫びて言った。
「おゆるし下さい。まったくは、あなた方をあざむいたのです。それも久しい間、撲天鵰李応というお名を聞き及び、その為人をお慕い申していたからのことで、われらの内に、あなたを引入れたい一心のほかでしかありません。どうかひとつご堪忍を。またわれわれの切な願いをば、ぜひおきき入れのほどを」
「では一体、あの官人どもは、何者であったのですか」
「州奉行の与力とみせたのは、仲間の鉄面孔目の裴宣という者です」
「あ、あの有名な」
「ふたりの警吏は、偽筆の名人蕭譲と、篆刻の達人金大堅でした。そのほか捕手頭には李俊、馬麟、張順などが付いて行ったもの。──それらすべても、仮装仮面を脱って、今夜はあらためて酒宴の席でお詫びすることになっています。──夫人やご家族の老幼には、決して、ここではご苦労をかけません。平和な村作りをしていただくまでのこと。李応先生、なにとぞ、お覚悟をすえてください」
「ああ、それほどまでにこのほうを」
李応はついに、腰をかがめて、宋江の手を取った。その手を押し頂いて。
「士は己れを知る者のために死す。ぜひもありません。死にましょう。死んでここに生れおちたものと思いましょう」
「いまにわかりますが、これや天星宿地の宿縁なので、紛れなくあなたも仮に地へ生れ墜ちる約束事による天星の一つに違いありませぬ」
このことばは、李応にはただ奇に聞えただけであろう。いやひとり宋江のみが悟っていた宿命観であった。かつて見た不思議な夢告と、そのとき授けられた天書を播いてから彼はこの梁山泊中の奇異なる生命のよりあつまりを、不可思議、かくのごときものかと、おぼろに信じだしていた。
山も酔い、波も歌い、馬や羊や家鴨までも踊り出しそうな〝遊びの日〟が、一日ここの泊内を世間知らずな楽天地にした。
李応を迎えたよろこびと、十二名の新入りとを、山寨中へご披露におよんだためである。かつは祝家荘から移してきた大量な分捕り物の豊年祝いという意味もなくはない。
新入り十二人とは誰々か。
李応は別格とし。まず孫立、孫新、それから解珍、解宝、鄒淵、鄒潤、杜興、楽和、時遷。また女人では一丈青の扈三娘、おばさん飲屋のおかみ毋大虫、楽和の叔母にあたる孫立の妻。以上である。
これらの新顔を入れた大宴の席で、宋江がふと言い出した。
「どうでしょう。この吉日に、私は一組の新郎新婦を立てて、その媒酌人をつとめたいと思うのですが」
「えっ、誰と誰で?」
満座は色めいた。とかく色香のとぼしい泊内では、これは時なら花見にひとしい。
「花嫁は一丈青の扈三娘です。そして花聟は」
しんとなった。どこからともなく、熱い男臭い、溜息の波がつたわる。
「花嫁にくらべると、武芸人柄、少し品は落ちるが、花嫁には目をつぶってもらい、曲げて一つご亭主に持ってもらいたい男とは、あれにいる王矮虎です。……女好きの矮虎です。……じつは彼の欲望をいましめるため、かつて清風山にいた頃、よく自戒するなら、いつかきっと私がよい女房をとりもってやると約束したことがある。男の一言は金鉄です。けれどなかなか山寨では良縁もなく、平常心の重荷としておりました。いかがでしょうか、扈三娘さん」
人々は今さらながら宋江の義の堅さに打たれた。わけて扈三娘が生け捕りになって来てからは、宋江にたいして、とかくな蔭口もなくはなかった。──きっと宋先生だッて思し召しがあるにちげえねえ──といったような囁きがである。それが今、かくと披露されたので、思わずヤンヤヤンヤの拍手だった。矮虎はうれし涙を拳にこすり、扈三娘は頬を紅葉にしてただ俯向いているのみ。しかし宋江の真心には深く感じたもののようでついに素直にうなずいた。
折も折。こんな慶事にわいていたその日の午下がり。はるか対岸の見張り酒店から、例の朱貴の使いが、一舟を飛ばして告げてきた。
「鄆州の捕手頭、雷横さんてえお方が、旅の途中とかで、統領や宋江さまに会いてえといっておりやすが」
「なに鄆州の雷横さんだと。それはわしたちの恩人だ。すぐていねいにお迎えして来い」
晁蓋も宋江もまた呉用も聞いて、大いによろこんだ。──きっと彼の人もまた、官途の腐敗にいびり出され、ついに梁山泊入りを決意して来たものに違いあるまいと。
だがこれは糠よろこびに過ぎなかった。会ってみると、少々、はなしの勝手は違っている。
「じつは県知事の命令で、東昌府へ出張しての帰り途だが、ここへ寄る気もなく、朱貴の茶店で一杯飲ってると、こいつ臭いと思ったか、いきなり子分どもをケシかけて俺を撲りにかかったので、ぜひなく名のッたついでに、各〻の消息をちょっと聞いてみたまでのことなのさ」
「それはどうもはや……。あれいらいはお目にもかかれず、常々、お噂もしては、おなつかしく存じておりました。朱貴の無礼が、かえって倖せ。思わぬ日に、ご壮健を拝し、こんなうれしいことはない」
宋江がいえば、呉用、晁蓋も共々に、
「どうぞ、ごゆるりなすってください。こんな時でもなければ、お心のあらわしようもない」
「ありがたいが、何しろ急ぐ公用なのでな」
「ま、そんなことを仰っしゃらずに」
「じゃ、せめて、一ト晩、厄介になるとしようか」
「いや幾日でも」
「そうはゆかない」
「ゆきませんか。残念ですな、どうも」
歓待の間々に、それとなく、仲間入りの水を向けてみるものの、雷横にはいッかとそんな気はないらしい。「おふくろの年が年なので、郷里は離れられない」
と、老母思いな方へ話は移ってしまう。──で、結局、中一日いただけで、翌々日には、
「また、縁があったら」
と、雷横はサッサと草鞋をはきだして別れを告げた。いまはぜひなく、三名は舟で金沙灘を送って行き、街道に出て、袂をわかつに際し、
「なんぞ、ご老母さまへの、おみやげにでも」
と、一嚢の金銀を彼に贈った。いやこんな物はと、断るのを、三名が強ってのことばに、ついに懐中におさめて去った。
あと見送って、三名は朱貴の店を覗き、
「そうだ、ここの店へは、もひとり楽和を手伝いによこそう。こんな間違いでよかったが、何か事件を起しては困る」
と、呟いた。
それにつづいて、三名の主脳は、金沙灘から帰る舟中で、新党員のふえたのを機とし、山寨の配備がえを協議した。東西南北、四つの見張り茶屋の一つには、ぜひ、毋大虫おばさんに孫新を付けてやろうと、これもきまった。
新夫婦の矮虎と一丈青は、裏山の牧の馬監とする。
杜選、宋万は、宛子城の二の木戸の守備に。
劉唐、穆弘は本丸ざかいの三の木戸。
南山の水寨は、阮の三兄弟にあずける。
その他、造船廠、鍛冶房、銭糧局、織布舎、築造大隊、酪乳加工所、展望台組、倉庫方、邏警部など、あらゆる適所に適材をおき、水際巍然、少くもここの寨では、遺賢をムダに遊ばせておかない智恵が自然な地と水の如く繞りよく思い巡らされていた。
一方。かの雷横は、
「母上、ただいま帰りました」
と、鄆城県のわが家に入るやいな、まず老母の室をみまい、あくる日はさっそく、県役所へ出て、出張先の要務を復命し、これでやっと、いささか身軽となった夕心地を、町辻の風に吹かれながら戻って来た。
すると、土地の遊び人で李小二という奴さん。出あいがしらに、
「おお旦那あ、お珍しいじゃござんせんか。いつお帰りで」
「いや帰ったばかりなのさ。まだ旅疲れだ」
「そいつあ、ちと、さっそく過ぎますが、どうですえ旦那。ひとつ面白れえ小屋掛け演劇を……いや演劇でもねえナ……水芸の太夫さんですがね、ちょっとご見物になりませんか」
「ふうむ、そんな旅芸人が土地へ来ているのか」
「聞きゃあ東京者ですとさ。別嬪ですぜ。いや何よりは、唄、弾奏、軽い茶番、何をやっても田舎廻りにしちゃあズバ抜けてるんで」
「たいそうな惚れ込み方だな。そんなにいいなら、ぜひおふくろに観せてやりたいもんだ。そのうち弁当でも拵らえて、おふくろと一しょに観に行こうよ」
「……旦那、旦那。あれ、行っちまうんですか。……けッ、よしゃあがれ。捕手の先頭に立つと鬼にも見える雷横だが、へんなものだナ。自分のおふくろには、目も鼻もありゃあしねえ。ふん、つまらねえ人間だよ」
おふくろ思いな雷横だが、老母の眼から見ればこの子にもたった一つ心配はある。悪癖がある。ほかでもない、酒癖がよくないのだ。
「ま。そうクヨクヨ言いなさんなよ、おっ母さん。雷横だって、いつまで心配をかける年頃でもねえさ。ましてや役署勤めの身だ、それに新しい知事さんに代ったから、このさいきっぱり禁酒ときめ、旅先から帰ってからも、杯は手にしたこともねえんだから」
雷横は母へ言っていた。事実、家では飲んでいない。また外でも禁酒を公言していたが、友達はまったく違う。てんで信用してくれないのだ。
その夕も、役署帰りの辻酒屋で、彼はつい悪友どもに飲まされてしまった。というよりは土根性から好きなのである。禁欲意識がふと破れると、逆に度を過ごさせるものでもある。さあいけない。苦労性なおふくろに、このグデングデンは見せられないと頻りに悔やむ。だが、友達と別れてからも、なかなか酔は醒めないのだった。
すると賑やかな演劇囃子が耳の穴へ流れこんできた。ははあ、いつぞや李小二が噂していた掛小屋だな。木戸の呼び声、旗幟のはためき。それに釣られてふらふらと雷横は泳ぎ込むように木戸口を通った。役署の「顔」が無意識な習性にある。小屋者たちも心得ていて、
「ほい、県の旦那だよ」
とばかり、客席の中でも上等な桟敷へご安座を奉る。といっても板の腰掛け、丸太の手欄。どっちみち雷横は〝酔ざまし〟が目的なのでもうすぐそれに頬杖かけて、居眠ッていた。
舞台では今し水芸の女太夫白秀英が観客の大喝采をあびてサッと緞帳のうしろに姿をかくしたところらしい。
胡弓、長笛、蛮鼓、木琴、鉦などの合奏にあわせて真っ赤な扮装をした童女三人が炎の乱舞を踊りぬいてしばらくお客のご機嫌をつないでいる。──それが引っ込む。曲が変る。──と今度は、孔雀扇を胸に当てた白衣黒帯の老人が尖ンがり靴をヒョコヒョコ舞台中央まで運ばせて来て、オホンと一つまず客を笑わせ、
「あいもかわりませず連日のお運び。てまえ白玉喬も大御満悦の態とござりまする。ただいまご喝采をいただきました娘白秀英の水芸はまだほんの序の口。いたらぬ芸にはございまするが開封東京は花の都の教坊で叩きあげた本場仕込み。いささか、そんじょそこらの大道芸とは事違いまする。ご当地では初のお目見得。吉祥のご縁結び。当人も大張り切りで、精を根かぎりに一代の芸を尽してお目にかけたいといっておりますれば、ゆるゆるとひとつご観覧なあって永当永当ご贔屓のほどを乞いねがっておきまして──さて」
と、ここで口上の調子をかえ、次の芸当の筋書を述べていたが、雷横は夢か現で、あぶなく居眠りの肱を外しかけ、はっと、居場所を思い出したように、急に舞台へ、赤い眼をしいて瞠りだしていた。
すでに舞台では、花の精か、白鳥の霊か、満場、人なきような焦点に、舞い歌っているものがあった。これなん人気女優の秀英であろうか。雪の羅衣に、霞の風帯、髪には珊瑚の簪花いと愛くるしく、桜桃に似る唇、蘭の瞼。いや蘭の葉そのものの如き撓かな手ぶり足ぶり。その手には左右二つのカスタネットを秘し持ち、戦う鳥となり、柳の姿態となり、歩々戛々、鈴々抑揚、下座で吹きならす紫竹の笛にあわせ〝開封竹枝〟のあかぬけた舞踊の粋を誇りに誇る。
「なるほど。評判だけなものはある」
雷横もふと、目を拭われた心地であった。ひとしく満場の観客も、万雷のような拍手を一せいに送る。するとこのとき、待ッてましたというように、尖ンがり靴の白玉喬は、秀英のそばへ来て、お約束の肩を一つぽんと叩いた。
「おっと、太夫。何か忘れてやしないかね」
「あらひどい。わたしの踊りが何か間違ってたというの」
「なにサ。都一の花の太夫。天女が雲から落ちることはあっても、太夫さんの芸にソツがあるものか。お忘れ物というのはね」
「あ。あのこと」
「芸に無我夢中なのは結構だがさ、稀にはお客さまの顔いろも見て、お心もちを汲んで上げなければいけないやね。いまのご喝采の中には、祝儀をやれ! 祝儀の盆を廻せ! ッてなありがたいお声もあったじゃござんせんか。次の芸題にかかる前に、どうですえ、ここらで一つお志をいただいては」
「ま。うれしいわね」
「では、御意にあまえて!」
と、白玉喬は片手を腰に、また、片方の尖ンがり靴をぴょんと前へ投げ出し、手にしていた薄手な盆を翳すなり見物席を眺め渡して、
「いやお待ちかねお待ちかね。さすがご当地のお客様は品がちがう。アレもう大様にご懐中物を解いていらッしゃる。ヘイっ、ただいまご順にそちらへ頂戴に伺いまする。なんと太夫さんよ、かッちけねえご見物衆じゃないか。おまえさんは舞台から精いッぱいその眼でいちいち御礼を申し上げるんですよ。……ヘイっ、唯今。おやじは唯今お盆を持って順ぐりそちらへ廻りまするで。ほい。これはお嬢ッちゃん坊ッちゃんまでが。……へえい、おありがとう。おありがとうぞんじまする」
盆廻しは旅芸人の常套である。お客の方でも心得たもの。祝儀は見得坊な桟敷の上客がハズむものと知っていた。やがて雷横の前へ盆が廻ってくると白玉喬は、いちだん愛想よく腰をかがめ、残り物には福、お大尽様は総括り、ヘイ一つお弾みをとうながした。
はっと当惑したのは、雷横だった。今日は友達の奢りだが、禁酒いらいは、酒の虫を封じるため、外でも紙入れは持たぬときめていたのである。祝儀はやりたいが無一文だ。なんともかとも間が悪い。「あっ、いけねえ」と、その袂さぐりはテレ隠しと誰にも分るような、下手い仕ぐさで「うっかり、紙入れを家に忘れて来てしまった。二、三日うちに、おふくろを連れてまた見物に出直すよ。そのときにはうんと色をつけるからな」
「テヘヘヘヘ。……ありがとうござんすといいてえが、と、いったお客に二度お目にかかったためしはねえや」
「何てえ笑い方をしやがるんだ。そうムキ出さなくても、てめえの出ッ歯は見え過ぎらあ」
「大きに悪うござんしたね。笑っているのはお客衆だ。ねえご見物、どうですえ、こんな桟敷の上席に、セセラ楊子で一杯機嫌の旦那がですよ、大きな面をしていながら、祝儀の出し惜しみに事を欠いて、人の顔の棚下ろしでゴマ化そうてえんだから恐れ入っちまうじゃありませんか、ねえ、この吝ッたれなご面相でさ」
「なに、なに、吝ッたれだと」
「いいえね、旦那。不粋な文句はよしなせえ。意気で生きてる芸人だよ。気は心だ。一文二文の投げ銭でも、贔屓とあって下さる物ならありがてえが、おまはんみたいな野暮天の袂クソなんざ、くれるといってもお断りだ。けッ、とんだ物に蹴つまずいて、すっかり場内のお客さんを白けさせてしまったい。さあ、その脚の先を引っ込めておくれ。通行の邪魔にならあ」
「だまれ、この野郎」
「おや、大きく出なすったね」
「な、なんとぬかした」
「二度いうと風邪を引かあ。おまはんみたいな人がよくいう見かけ倒しという代物だ。犬の頭に角が生えても、こんな朴念仁からカビも生えやしねえってことさ」
「いったなッ」
雷横の母親がつねづね心配していたのはつまりこれだったにちがいない。ぐらっと彼のこめかみの辺をいなずまが走ったと感じたときは、もう白玉喬の体などは彼の一拳の下に素ッ飛んでいてそこらには見えもしなかった。そしてただ見る掛小屋じゅうの見物がわアっと総立ちになって沸き、舞台の上の白秀英はといえば、演劇ならぬ悲鳴の演舞をクルクルさせて、下座や楽屋裏の者たちをかなきり声で呼び廻っていた。
木戸の外でも猫の干物と女狐とが掴み合いの一ト幕の事
いつも朝は機嫌もよく二十日鼠みたいにクルクルと小まめな雷横の母であるのに、今朝はどうしたのか、しいんと南廊の小椅子にふさぎこんでいた。──ゆうべおそく泥酔して帰った息子の官服を膝にくりひろげて、泥を払い、ほころびを縫い、またふと、血らしい汚染に老いの目をしばだたいて、
「ああ、あの子はまた何をしたんだろ? ……あんなにまで、かたく、ふッつり禁酒しましたからと、この母へは優しく誓ってくれていた子なのに。……やっぱり男の子というものは幾歳になっても」
と、独り胸を傷めている姿だった。
ところへ、玄関の方でどやどやと大勢の声がした。出てみると、伜の雷横が勤めている役署の朋輩たちである。さあさあどうぞと、老母は色をかくして愛相よく内へ請じた。けれど役署の同心たちと捕手たちは、外に突っ立ったまま気のどくそうに、
「じつは、知事の公命ですが」
と、まず断わって、やんわり言った。
「雷横君は、どうしていますか」
「なんですか、伜はゆうべ、たいそう晩く帰ったものですから、まだ今朝はぐッすり眠っておりますが」
「すぐ起して下さい。公命です。猶予はなりません」
「はい、はい」
老母はあたふた奥へ馳けもどった。そしてしばらくすると、当の雷横が、衣服を着け、やや腫れぼったい瞼をもって、
「やあ」
と、そこへ立ち現われた。いや、挨拶の間もあらばこそである。左右からパッと寄った同僚がすばやく彼の両手へ手錠をかけてしまった。
「おかしら。われわれ下役の者に、こんなまねをされちゃあ、さだめし心外でしょうが、知事の命令なので、どうも仕方がありません。目をつぶって、とにかく、ゆうべの小屋掛けの木戸まで歩いておくんなさい」
「え。小屋掛けってえと?」
「おかしらがゆうべ、派手なことをなすッちまった旅芸人の女太夫白秀英の演劇小屋でございますよ」
「ああ、あの……」
雷横は、がつんと、しびれた頭を吹き醒まされた。が、さあらぬ顔で老母の姿へ言っていた。
「なあに、おっ母さん、じつはゆうべ、ちょいとした弾みから、その小屋者と、ひょんな喧嘩をしちまったんで。……なにもべつにそうご心配なさるほどのことじゃありませんよ。すぐ帰って来ますからね」と、一方の下役達へも、わざと笑顔を作って見せながら、
「さあ行こう。こんど来た新任の知事さんも、物わかりのいいお人だ。話せばわかって下さるだろ」
と、すずやかに、我れから先にわが家の門を出た。
しかし例の町端れまで来てみると、事態の空気は容易でない。──ゆうべの騒動で太夫元の白玉喬は片腕を折ッぴしょられ、下座出方の連中も、あたまを繃帯したりビッコを曳いたり、かつはまた、舞台もあれで中止となってしまったので、今朝はそれらの客までが小屋前へ押しかけて、
「木戸銭を返せ! 銭で返すなり、今夜の木戸札を、もう一度無料で配れ」
などと昼からそこはもうたいへんな騒ぎなのだった。
県役署からは、べつな役人が来て、それらの群集をとりしずめていた。そして手錠の雷横は、大勢の前で、知事の戒告文を読み聞かせられ、木戸口に立っている幟旗の竿の下に曝し物としてすぐ縛しつけられてしまった。その懲罰の文にいわく。
県ノ与力、雷横
身、治安ノ警吏ニテ有リナガラ
大酒乱酔ヲ恣ニシ
劇場ヲ騒ガセ、人ヲ傷ツケ
公安ヲ紊スノミカ
官ノ民望ヲ墜スコト甚シ
依而
十二刻ノ「立チ曝シ」ニ処シ
是ヲ、諸民ノ指弾ニ委ス
立て札の文字が雷横を射すくめている。雷横は恥かしかった。文の通りであったと思う。──だがゆうべのことは半分以上覚えがない。──覚えているのは太夫元白玉喬に人中で侮辱された刹那の憤怒だけである。
だが、あれがいけない。性来の自分の悪い酒癖だ。母にも禁酒を誓っていたのに。……要するに不孝の罰か。あまんじて十二刻の恥を民衆の前にうけよう。身の薬だ。と彼は観念の目をふさいで幟竿を背負っていた。
ところが本来なら、群集の弥次馬心理や日ごろの反官意識が当然、彼への唾ともなり悪罵や石つぶてになるべきなのに、
「おや、雷横の旦那が?」
「どうしてまた?」
と、気のどくそうに、目をそらす者はあっても、いい気味だと嘲るような副作用はほとんど見られなかった。これというのも常日ごろ、捕手頭としての雷横には、多年の間、なんら諸民の怨みは買ったようなこともなかったのみでなく、官権を振廻したり私腹をこやすなどの不正もなく、親孝行者と知られ、弱い者には親切で男気なということが、ふかくこの町一般の者に根ざしていたからにほかならない。
かつはまた、下役や同僚の間にも、人望があったから、今日の懲罰の番人に当った者も、じつは、心ならずもとしている風がありありと見えていた。そのうちに、人もまばらな午過ぎになると、番の一人が、そっと幟竿の下へ寄って来て、
「おかしら。……我慢しておくんなさいよ。今夜一ト晩だけのことだ。……それにしてもおかしらは、何もご存知なかったんでございますね」
と、思いがけないことをふと雷横に聞かせてしまった。
「えっ? 俺が何も知らなかったとは一体どういうわけだ」
「こんど赴任して来た新知事と、ここの女とのわけ合いでさあね」
「女」
「ええ。女太夫の白秀英と、こんどの知事とは、もうだいぶお古いレコなんですぜ。何しろ美い女でさあネ。こんな田舎へ小屋掛けに来る芸人じゃあねえ。それが来たっていうのは、つまり自分の情夫旦那がこの土地の知事さんになって来たからのことなんでしょ」
「そうだったのか」
「なんでも、お互いが開封東京にいた頃からの古馴染みですとさ。そいつを知ってたら、おかしらもね」
「遅かった。いやしかし、それなら知事さんもかえって小屋側の者をなだめて、事を内輪におさめてくれるだろう」
「さ、どうでしょう。ゆうべも晩く官邸の裏門をくぐって、白秀英と親父の白玉喬が、何やら訴えていましたし、今朝の知事の様子ッ振りじゃあ、どうやら女に泣きつかれたあんばいで、凄いけんまくでござんしたからね。……あ。いけねえ、白玉喬が来やがった」
太夫元の白玉喬は、繃帯した片腕を首に吊り、足も少しビッコを曳いて、木戸口へかかって来たが、ふと幟竿の下の雷横を見るや、
「ふ、ふん。そこにいたのか。どうしたい、ゆうべの元気は。……ざまア見やがれ」
と、青啖を吐きかけて、小屋の内へ入ってしまった。──と、まもなく、やぐらの太鼓がしばらく鳴った。今夜も開場いたしますの町触れだろう。小屋者総出で木戸前の打水や清掃がはじめられる。わざと箒のさきで雷横へ砂をぶッかけたり水を浴びせてた奴もある。だが雷横は一切に耐え、唇を噛んでうなだれたままでいた。
いつか夕風がそよめいている。女太夫の白秀英は、小屋前で輿から下りた。それを見ると、さすが人気者の楽屋入り、近所の女子供がわっと周りへたかって来る。──だが秀英はそんな者に見向きもしない。舞台姿とはまた違う艶な装いに脂粉の香を撒きこぼしながら、ツツウと幟竿の下へ歩いて来て、雷横の顔をさも憎しげに睨めすえていた。そしてとつぜん、ホ、ホ、ホ、ホ……と大げさな表情のもとに笑い抜いて、
「ま。これが県の町与力とは呆れたもんだこと! よくもおまえさんゆうべは私の舞台を滅茶滅茶にしてくれたわね。なにさ! その眼つきは。……そんな顔を人が恐がると思ってるのかい。ばかにおしでないよ。根ッからの田舎廻りなら知らぬこと、開封東京の芸人には、おまえさんみたいな三下に小屋を荒らされて、縮み上がってしまうようなお人よしはいませんとさ。ふウん、おかわいそうに」
なるほど美人だ。なるほど、開封ッ子の切れのいい啖呵でもある。知事の古い情婦だというのもこれでは嘘ではないだろう。
雷横はついそんな気もちでじっと女を睨め返していたのだが、秀英にすればその眼光も憎悪の挑戦と受けとれたにちがいない。それに人気者の思い上がりやら、背後には知事がひかえている驕り心も手伝って、
「なにをにらむのさ。口惜しいのはゆうべの木戸銭をみんなフイにしたわたしの方だよ。こんな仕置ぐらいではまだまだこっちの腹が癒えるもんかね! そうだ、そこらにいるご贔屓の皆さん、さだめしあなた方も、このヘボ警吏には日ごろ憎い恨みがあるんでしょ。石でも泥でもみんなしてこいつにぶっつけておやんなさいよ。手を叩いて笑ってやるがいいわよ。こんな生れ損い!」
と、紅唇をひるがえしてケシかけた。
するとふいに、走り出て来たひとりの老婆が、彼女の胸をどんと突いて、泣き声交じりに烈しく叫んだ。
「売女め! 自分の臭い身をかえりみたがいい。人の子をつかまえて、生れ損いとはよういえたもんじゃ」
「あらっ。……あら、あら、よくやったね。いったいおまえはどこの山出し婆さんだえ。いいえさ、どこの馬の骨なのさ」
「わが身はこの雷横の母じゃ。生れ損いを産んだ母じゃ。けれどな女子、わしはまだそなたのような淫な売女風情を子にもったことはないぞえ」
「なんだって。もういちどいってごらん」
「言わいでか。紅白粉を塗りたくって、さも艶めかしゅうしていやがるが、一ト皮剥けば、その下は貉か狐とも変りはなかろう。舞台の夜は前芸で、奥の芸は女の淫を売る女狐じゃわ」
「おだまりッ、くそ婆。よくも人前で、私のことを売女だといったね。さ、いつ私が淫売したのさ。何を証拠に」
「もっと言うて欲しいのか。おお言うてあげようとも。わしはここへ来るまでに、伜のおゆるしを願うため、方々のお知り合いを訪ねて来たのじゃ。ところが、誰も取り合うてはくれん。よくよく訊けば、知事さまとおまえとは、昔からの深間な仲で、その知事さまを焚きつけたのは、おまえの親とその紅い唇じゃそうな」
「悪かったわね。知事さんを情夫に持ってはいけないなんて掟は女芸人の仲間にはござんせんのよ。大きなお世話じゃないか。猫の干物みたいな婆のクセにして、お妬きでないよ」
「ち、ちくしょう」
「なんだって」
「そんな沙汰でここへ来たのではないわ。わが子を返やせ!」
「目の前にいるじゃあないか。お悧巧さんでご器量よしの曝しものがさ」
「いいえ、おまえの手で縄目を解いて、この母の許へ返やせ。讒訴したのはおまえら父娘じゃ。そして知事さんの情婦のおまえが解くならば、知事さんも怒れはしまい」
「知ッたことかい、そんなお世話焼きを」
「知らぬとはいわさぬぞい」
老母には子に賭けた一図な盲愛の血相があったし、女には裏をあばかれた捨てバチと人気稼業の驕慢があった。われを忘れて老母が先の胸にしがみつくと、白秀英は邪けんに相手の骨ッぽい体を振りとばし、さらにかかって来るところを、その白髪あたまの毛をつかんで、
「ま、執こいね、この猫の干物は。いいかげんにくたばっておしまいよ」
と、地上をぐるぐる引きずり廻した。いや、このせつな事は急転直下していた。きゃッといったのは、なんぞはからん、白秀英の方だったのだ。ぱッと唇からも鼻腔からも血を噴いて、花顔むなしく、虚空をつかむようにのけ反ッてクルと仰向に仆れてしまったのであった。
「あっ、た、たいへんだっ」
さっきから、手もつけられん、といった顔をしてただ眺めていた番役人も、仰天して雷横のそばへ馳け集まって来、
「お、おかしら、やりましたね、白秀英を蹴殺してしまいなすった!」
「さ。お逃げなさい。手錠も外しました。逃げなければ、お命はない」
と、衆情一致、あとの落度もかえりみず、さあさあと、急きたてた。
がしかし、雷横はうごかなかった。蒼白い凄惨な顔のうちにも、はや覚悟をみせ、
「いや、みんなに迷惑はかけられん。これから県役署へ自首して出る。ただ、おふくろだけを。……何ぶんとも」
と一顧、老母の姿へ胸中一ぱいな慚愧の眼を伏せて、わんわんと立ち騒いでいる群集の中を同僚の手で曳かれて行った。
折ふし、小屋の木戸は、これから灯も入れ客も入れようとしていた汐時だった。だが今はそれどころか、降ッて湧いた椿事である。ただ一人しかない花形の女太夫が横死とあっては、演劇囃子も幕開けのしようもない。太夫元の白玉喬は、裸足でとび出して来たが、娘の死骸を見るや、号泣して、何か、あふ、あふ……とわけのわからぬことを口走りながら県役署の方へ素ッ飛んで行き、町辻という町辻は、すべてこの噂で宵も夜半も持ちきりになってしまった。
蓮咲く池は子を呑んで、金枝の門にお傅役も迷ぐれ込むこと
ここに鄆州県城の町与力では、雷横とならんで古顔でもあり人望家の、美髯公の朱同がある。
女太夫殺しの件もややしずまった一週間ほどの後のことだ。
済州奉行所へと差立てる一囚人に付いて、朱同の人馬は、旅途にあった。囚人はきのうまでの刎頸の友、同役の雷横なので、馬上の、彼の顔も怏々として、つね日ごろのものではなかった。
するとその途上、一旗亭を見かけ、彼は護送の部下に、酒を振舞った。また彼らの好きな袖の下をたんまり握らせ、そのあいだ囚人の雷横を、そっと裏の雑木林へつれて行き、手鎖を解き首枷を外してやった。
「朱同。どうするのだ俺を」
「わかっているじゃないか。君とおれとは十年の友だ。なんできさまを獄へ送れるものか。逃げてくれ」
「ばかをいえ。あとで君の難儀は知れたこと。舎利(骨)になっても、男として、そんなまねができるものか」
「うんにゃ、雷横。ここは考え直せ。きさまには、大切な老母がある」
「……言ってくれるな。そのことは」
「この朱同は独り身同然だ。しかもな、君は獄へ行けば殺される。けれど俺が君を逃がした落度を背負ッて帰っても、知事は俺までを殺しはせん。……なぜならばよ、知事は自分の情婦を殺された怒りでかっとなったものの、知事にも世間への弱みがある。俺もそこを突いてやる。さあ、あとはいいから梁山泊へ突ッ奔れ」
「え、梁山泊へ」
「おう、かつて俺たち二人が年来のご恩返しにお助けした名主の晁蓋さんは昨今あの山寨の統領。宋江先生もおいでだと聞いている」
「かたじけない。じつは先頃の旅帰りの途次、はからずお目にかかっていたのだ。そのことは、君にもちょっと話したと思うが」
「だからよ。君が行けば一も二もなく匿ってくれよう。さあ行き給え。あとはおれがひきうけた」
「だが、老母の身が」
「いや心配するな。県城を立つときからおれは腹をきめていたので、確かな者に、君のおふくろの身を頼み、すでに先へ山東の旅へ立たせてある。ここから急げば、きっと途中で追いつくだろう。ああ、長いつきあいだったな雷横、達者でいてくれ」
「すまん! ……この恩は忘れぬぞ。では朱同」
「おお、銀はあるか」
「持っている、持っている。じゃあ、いつかまた」
友の情に涙しながら雷横は疎林を走ッてたちまち東へ姿を消した。
朱同はぶらんと居酒屋へ戻って来て、
「さあ大変だ。雷横に逃げられちまった。だがあわてるな。罪はおれ一身が着る。飲むだけ飲め。どうせこれから帰りは空身だ」
と、カラカラと打笑った。さてはと、部下は暗にさとっていたが、誰あって雷横に憎しみを抱いていた者はなく、またみな朱同の友情も知っていたので、黙々と彼のいうがままに元の道へもどって行った。
ただこの報告に釈然としきれなかったのは女の情人でもある新任の知事殿だった。不快至極であったには違いない。しかし事件は自己の情事にもふれてくるので、これをあっさり済州奉行所の処置に廻してしまった。ところが済州奉行所でもこれは困った。罪跡といってもすこぶる不明瞭でただ単に「公務怠慢」というだけな差紙なのだ。そこで即時これをまた滄州の苦役場の方へ七年の刑期付きで送りつけた。──七年という刑期は滄州の大苦役場としては、もっとも軽罪のほうなのである。
「ほ。美髯公。この髯男は、鄆城県では評判のいい与力だったはずじゃないか。よろしい、苦役には就けんでもよい。わが屋敷で雑用に使ってみよう」
滄州牢城の牢営長は、公文の差紙を見た日すでにこう呟いた。そしてなお、じっさいの人間を白洲で見るにおよび、いちばいその骨柄に惚れ込んだ容子で、
「なるほど、髯も見事だ!」
と、大いに唸った。すっかりお気に入ってしまったのである。また日をふるに従い、長官公邸の下役から下僕にまで、お髯さん、お髯さん、と朱同を呼ぶ愛称はその人柄への好意とともにたかまっていた。
或る日の如きは、長官が独り小酌している席へ呼ばれて、身の上を訊かれ、何で流罪になって来たかと仔細をたずねられたので、朱同は、友人雷横のことから女太夫と新知事とのいきさつまで、何のかざりもなく話してしまった。
「ふウむ……」と、長官は苦笑して、「なかなかその知事もやっとるな。よほどな色男だと見える。……しかし何か。君はその雷横の親孝行に感じて、わざと逃がしてやったというのか」
「いえいえ。そんなわけではありません。まったく、役目の落度です、油断からです」
「そうではあるまい。友情だろう。まア何しても、さしたる重罪ではなし、七年間はわしの邸に仕えていろ」
「は。こんなことなら、どうか一生でも」
「はははは。うい奴だ。ま一杯飲め」
ところへ、チョコチョコと、唐子人形みたいな愛くるしい四ツばかりな男の子が入って来て、そこらで悪戯していたと思うと、朱同の髯が童心の好奇をそそったものとみえる。ひょいと、朱同の膝へ乗って、その長やかな黒髯を、おもしろそうに弄びはじめた。
「長官。お孫さんでございますか」
「ばかをいッちゃいかんよ。わしだってまだ若い。わしの末子だ」
「それは、それは。……ア痛。お坊っちゃま、そんな引ッ張ると、この小父ちゃんが泣き出しますよ」
子供はよく大人を観る。さあこれからというもの、この唐子は、おヒゲの小父ちゃんを見かけると、彼のあとを追っかけ廻して離れない。
とんだいいお傅役として、彼はいらい、坊ッちゃん付きを兼任の恰好でもあった。するうちに、いつか一ト月、盆の七月十五日をここで迎えた。
お盆には地獄の釜の蓋も開く。
大牢の城門外にある獄神廟と地蔵寺では、例年盂蘭盆会の当夜、さかんなる燈籠流しの魂祭がおこなわれる。
「さ、お坊っちゃま。お供して参りましょう」
昼からさんざんせがまれていた朱同は、たそがれ、まだ燈籠流しには早すぎるが、主人の唐子を肩ぐるまに乗ッけて、長官邸から遠くもない地蔵寺へ出かけて行った。
いやたいへんな人出である。地獄極楽の見世物やら、刀玉採りの大道芸、皿廻しの掛け声、煮込屋の屋台、焼鳥屋の煙など──。山にはひびく梵音の鐘、池には映る俗衆の悦楽。これやそのまま浄土極楽か、地獄の四生六道か。なにしても、うごきもとれない人の流れだ。
「おヒゲ。おヒゲってば、お待ちよ」
「はいはい、坊ッちゃま。おしッこですか」
「ちがうよ。乳母が見えなくなっちゃったよ」
「え。乳母さんが。……ああいけねえ、どこかへ迷子にしちまった」
探し歩いたが見当らず、施餓鬼から裏の大きな蓮池をめぐり、石の反り橋を渡って来ると、こんどはほんとにお坊ッちゃんが、オシッコだと言い出した。──ここらは余り人通りもなしと、朱同はてんぐるまの坊ッちゃんを肩から降し、橋の欄干に立たせて後ろから抱きささえていた。
「さ。なさいませ……。ホラ、ホラ、ホラ、下は紅蓮白蓮の花ざかりですよ。観音様のオシッコみたいでさ。蓮の花や葉の上に、瑠璃白玉となって、オシッコがすぐ成仏しているでしょ。ネ……お坊ッちゃま。……さあもういい。もう出ないんでしょ」
すると、誰か。
朱同の後ろへ来ていた男が、
「兄弟。ちょっと、彼方の森の蔭まで、顔を貸してくれないか」
「えっ……?」と振向いて。「おおっ、君は」
「叱ッ。ここでは人目につく。話は彼方で」
「うむ、合点だ。そうそうもしお坊ッちゃまえ。いま小父さんのお友達が、御用があって来ましたから、ちょっくら行って参りますからね。……あれ、ベソをお掻きになっちゃいけません。すぐです。すぐ戻って来ますから、ここでおとなしく蓮の花でも見ていらっしゃいよ。ようございますか」
言い残すやいな、池塘を駈けて、彼方の森の中に人目を避け、
「雷横! どうして君はここへ来たのか」
「朱同! よかったなア、まず無事で。──じつはあれから、君の情けで、母とともに梁山泊へ落ちてゆき、お蔭でこちらの身はひとまずおちついたが、しかし忘れられないのは君のことだ」
「いやそんな心配しないでくれ。牢城の長官に目をかけられて、俺もなんとかやっている」
「だが、君の流刑を聞き、また君が俺にしてくれた友誼の厚さに、山泊の頭目連中は、どうしても一度君に会いたいといってきかないんだ」
「だって、俺は牢城の刑囚だ。どうにもならんさ!」
あたかも、彼のこの言を待っていたもののように、そのとき、木蔭から別人の声が、否と答えた。
「美髯公! あなたほどな男一匹が、なにもそんな鎖にとらわれていることはない。ひとつ、まかせてくれませんか。われわれに」
何者か、と朱同は驚いた。その目の前へ、にこやかに出て来た者は、山泊の軍師呉学究、あの呉用学人であったのである。
晁蓋、宋江をはじめ、泊中の一統は、どうしても朱同を仲間に迎えたいとなって、衆議、ここへ雷横をさしむけて来たもので、呉用はその説得役をひきうけて来たことらしい。
だが、呉用のどんな説得の弁にも、朱同は「うん」といわなかった。彼には彼の信条がある。たとえ官憲の手先といわれ、刑囚の身と落ちても、真人間の潔白は維持していたいとする性来の背骨があった。
「どうも、それほど、いやだと仰っしゃるものならぜひもない。……可惜、あなたほどな人物を、七年もこの地の牢城長官の小使みたいに朽ちさせておくのは勿体ないし、また将来とても、とうてい、官界の堕落腐敗のなかに長く晏如としていられるあなたでもないことは知れきっていると思ったからだが……」
と、さすが才略の弁に富む呉用もいまはあきらめ顔して。
「ま。……お話もこれまでとしたら、ひとつ、ぶらぶらその辺まで、ご一しょに歩きましょうか」
と、連れ立った。
そして蓮花の池畔から前の石橋の上までかかると、朱同はアッと顔色を変えた。どこへ行ったのか、主人の子が見えないのである。
彼はウロウロした。気のどくなほどうろたえて探し廻る。それを呉用は他人事に見ながら言った。
「いや朱同さん。探してもムダだろう。じつはもう一人、てまえが供人を連れていたから、その供の男が、気をきかして、どこかへ遊びに連れて行ったものとみえる」
「冗談じゃあない!」と、朱同はなぐさめられているどころか、憤然として。「大事な大事な長官の乙子(末子)さまだ。いったいどこへ連れて行ったんだ、人の気も知らないで」
「ま、お怒りあるな。ご一しょに探しましょうわい」
それから附近を尋ね廻ったが、影も形も見当らない。──のみか、いつのまにやら日はたそがれ、盂蘭盆会の熱鬧のちまたも遠く夕闇の楊柳原まで来てしまった。
「おい、雷横」
「なんだね」
「なんだネじゃあるまい。おかしいじゃないか。なんでこんな方へ探しに来るのだ」
「いや、ことによったら、その供の男ッて奴は、ケタ外れな人間だから、旅宿へ連れて帰ってしまったんじゃないかと思ってさ」
「旅宿へ。──どこの旅籠だ、その家は」
「ずっと町端れの、まだ十里も先だが、軒先に馬繋ぎの杭を打ち並べてある土蔵二階の家さ」
「供の男というのは」
「一見して分る黒奴だ。名は、黒旋風の李逵といって」
「げッ。そいつは、かつて江州城内を暴れ廻り、得意の二丁斧で、人を殺した奴じゃないのか」
「その李逵だが」
「と、とんでもない! そんな野郎にかかった日には、抱かれただけでも、お坊ッちゃんは泣き脅えに泣き死んでしまうだろう。ええもう、乳母には迷ぐれるし、夜にはかかるし、長官もきっとご心配し抜いているにちがいない。……そうだ、こんなブラブラ歩きなどしていられるものか。雷横、おれは先へ行くぞ」
朱同は二人を捨てて教えられた旅籠の方へ馳け出した。すると、行くこと数里、薄刃の二丁斧を持った風の如き黒い人影とすれちがった。てッきりと思ったから朱同はいきなりその男の襟がみを引ッつかんで一喝をくれた。
「やいッ李逵っ。お坊っちゃんをどこへ置いて来た」
「あっ、お髯の朱同か」
「すぐ返せ、大事なお子様を」
「そいつア気の毒しちまったな」
「な、なんだと」
「おれの顔を見たら泣いて逃げ廻りゃあがるんだ、あの石橋の上でよ」
「あたりまえだ、そしてどうした?」
「呉用先生のいいつけだから、どうでも旅宿へ連れて行こうと思ってよ、こっちも夢中で追ン廻しているうちに、あの蓮池へ落ッこちてしまった」
「や、や、や。うぬ! さてはてめえが殺したな」
「とんでもねえ、いくら李逵が鬼だって、あんな可愛らしい子を殺せるものか。しまったと思ったが、あの蓮池にゃあ人間を引きずり込む河童がいるっていうことだ。ぶくぶくといったきりで姿も見えねえ。そこで仕方なしに落ちていた坊やの髪の珠纓だけを拾って来たよ。これで勘弁してくれやい」
「しゃッ畜生っ」
朱同はかッとし、襟がみの掴みを一ばい深く取って、李逵の体を、力まかせに投げつけた。
でんと、九尺も先へ、投げられたかと見えた李逵の体は、ぴょいと蛙立ちに彼方へ立って、へへへへ、と白い歯で笑っていた。
「おやんなすったね、お髯さん……。さあ、やるなら来いっ」
「うごくな、黒ンぼ」
「オオ、二丁斧が見えねえのか。ふん、知らねえな、俺を」
「くそっ。もう生かしてはおかねえぞ」
だが朱同は刑囚の身だった。身に一剣も帯びてはいない。しかるに相手は手練れの二丁斧だ。李逵は充分見すかしている。
ところがその李逵もだんだん持て余した。斧は空振りに空振りをかさね、朱同の姿は飛電の光にことならない。なにせい鄆州随一の捕手頭、乱捕りの達人なのだ。むしろ空手が得意であったとみえる。
「こいつはいけねえ」
李逵は逃げ出した。逃げはじめるやこの男廉恥もない。山坂また山坂をころげ降りた。すると蒼々たる松の林が十里もつづく。松風が耳を洗う。
「はて、どこへ失せたか」
朱同は追いに追った。どうせおめおめ空身では長官邸へは帰り難い身でもある。いつか夜が明けかけ、チチチチと鳥の音はしていたが心にも耳にも入らない。そして彼の血眼はふと奔る鹿のごとき影を見た。李逵だったのだ。ところがそれは村道へ出て彼方のすばらしい土豪の門内へ馳け込んでしまった。いぶかしいとは思ったが、朱同もつづいてその豪勢な大門の内へ、盲目的に、
「野郎っ、待てっ」
とばかり追ッかけて入った。
すると、泉石見事な庭苑の彼方で、すらと、鶴のような姿の人が立ってこなたを振向いた。髪に紫紐金鳳の兜巾をむすび、裾長い素絹の衣を着し、どこか高士の風がある。
「たれじゃ、何者じゃ」
その涼やかにして射る如き眼光も尋常人とは思われなかった。
「あっ。つい、どなたのお屋敷ともわきまえなく、無断立ち入りましたこと、重々の不埒、どうぞお見のがしを」
膝を折って、朱同は詫びた。われに醒めればこの仕儀は恥かしい。
高士はほがらかに笑った。
「美髯公。あんたはまあ、よほどあの黒助にからかわれなすったの」
「えっ? てまえをご存知でしたか」
「されば、山東の及時雨宋江から手紙をもらっていましたのでな」
「そしていま、黒助と仰っしゃったのは」
「李逵のことですわい。……じつはの、かねて宋江からの密書で、この館の内に、呉用、雷横、黒旋風の三名を泊めてやっておりましたのじゃ」
「あっ、ではここが彼らの旅宿で」
「さよう。あんたには、さまざま解けぬご不審だろうが、すべてはただ、梁山泊の輩が、あんたを山泊の仲間に加えたいという願望から出たことじゃ。しかし、その否やなきご承諾をうる手段に、あの長官の和子を、李逵の手に預けてつい死なせてしまったのは、何としてもちと呉用の誤りじゃったな。……軍師にもまた智恵の行き過ぎはあるものか。……」
と、やおら長い袂を揚げて奥なる一閣の人々をさしまねいた。
おうっと答えて、そこからこなたへ歩いて来る三人を見れば、紛うなき昨日の呉用であり雷横であり、また一ばんどんじりから、のそのそ来るのは黒旋風の李逵だった。
呉用と雷横とは、こもごも自分のした偽態を詫び、またかさねて、梁山泊一同の希望を切にくりかえした。ともに、かたわらの高士もそれをすすめるし、ここにいたっては、朱同もついに、その熱意に、冷ややかではいられなかった。
「わかりました。もうぜひもない、梁山泊入りと腹をきめましょう。……ですが、一条件がある。それは叶えて欲しいんです」
「おっ、おきき入れ下すったか。やれかたじけない。して一条件とは何ですか。この呉用一存で出来ることなら何でもしますが」
「ほかでもありません。ご三名お立会いの前で、そこにおる李逵と決闘をさせて下さい」
「ほ。それはまた、いかなる意恨で」
「ひとり自分の意趣だけでなく、たとえ牢城の長官でも、この流囚の身を一時たりと温かに養ってくれたあの人の恩顧を踏みにじッては去れません。いや和子を亡くしたことは重々に申しわけない。せめてその下手人李逵の首をひッさげて、お詫びのしるしにご門前へ呈し、それから山泊へ落ちて行きたいと考えます」
聞くやいな、李逵は飛び退いて、バッと気早な身構えを取り、
「な、なんだとお髯。あんなにも、わけを話してあるのに、まだ俺が坊やを殺したと疑っていやがるのか。勝手にしやがれ。さ、恨むなら恨むでいい、勝負をしてやる」
「こらっ、止さんか李逵」
「だって、先生」
「待てっ。おまえにいいつけたのはこの呉用だった。無知野蛮、李逵の如き者に、子供を預けたなどは、かえすがえす呉用の落度」
「ひでえや、先生。おらは無知野蛮という奴なのかね」
すると、朱同の顔いろを中心に、相互を見すましていた館の主が、
「いや呉用先生。朱同が申した自責の念も、ないがしろにはできません。それはそれで尊ぶべきじゃ。ですから、こうなされたらいかがかの」
「何かよいご一案でも」
「ム。李逵の身は、ひとまず当家で預かりおこう。そして、おふたりは朱同ひとりを伴うて、ひとまず梁山泊へひきあげ、宋江そのほかの一統へ、首尾よく朱同を迎え入れたよしをご披露なすっておいたらどうか」
かくまでの取りなしに会っては、朱同もなおそれでも不服とはいえなかった。ではそうしてと、やがて主客五名、一閣のうちに卓を囲み、
「いずれ次には、お預けの黒猫を、迎えに来ずばなりますまい」
などと、大いに笑い合った。
いや李逵はムクれた。無知だの野蛮だの黒猫だのと、さんざんな玩具である。忌々しさよと、朱同を睨むと、朱同もまた、胸中千丈の焔がほんとにはまだ鎮んでいないので、ぐッと睨み返す。心火の闘いだ。それへ酒が注がれる。物騒なことといったらない。
「これは」
と気づいたので、館の主は、侍女にいいつけて、弾琴をとりよせた。主は七絃琴のたしなみを持ち、朗詠が上手であった。微吟、風流、おのずから荒ぶる男たちをも優しくなだめた。
「はははは。つまらんお耳よごしじゃったな」
一曲を終って、また酒になる。朱同はそこで、さっきから独りしていた自問自答を率直にきいてみた。いったいこの地方などにはあるはずもない宏壮萃麗なこの邸館は、どういう由緒の家なのか。またお主は何者なのか、と。
そのつぶさを知って、朱同はあらたに、一驚を喫した。
ここの家は、五代の末期、宋の太祖の時代に地方へ降りたもので、祖先の柴世祖は、帝位にあった幼君だった。時に契丹との大戦あり。幼君では国政軍事、成り難しとあって、周の一将軍趙氏が、全軍から推戴されて、その帝位を代って即いだ。──これが宋の太祖であり、この史事を世に「陳橋ノ譲位」という。
ところで、帝位を譲った柴氏の先祖へは、以後の朝廷から、丹書鉄券が下賜された。そこで野にくだっても、これが代々皇統の家柄たるを証拠だて、ずいぶん尊敬もされ、特権も持ちつたえて来たことでもある。────けれど、世は滔々と紊れ、宋末の朝廷朝臣もいまはそんな古事などてんで忘れ去っていよう。──そしてただ滄州の片ほとりに、その昔の庭園や館の美に、かすかなる金枝玉葉の家の名残りを保ち、地方人の畏敬と、あるじの徳望とによって、なお門戸に、いくたの客を養い、荘丁を抱えなどしているもので、その今日の当主を誰かといえば、
柴進、あだ名は「小旋風」その人だった。
ここまで聞けば、当然、おもい当って来よう。
いまでは梁山泊にいる一手の旗頭、豹子頭ノ林冲も、かつては滄州の大苦役場に送られて来たさい、柴進の厚い世話になり、また柴進の助けによって、牢城を脱し、やがて梁山泊の人となったものだった。そのほか、泊中には、柴進の庇護をうけ、柴進と相識のある者は、数知れぬほどあるといっていい。
「ああ、さしたるお方とも知らず」
と、朱同はことごとく感動に打たれ、ひとしお、その人を見直した。そしてこういう人物までが、人知れず肩持ちしている梁山泊という男どもの巣をもまた、あらためて考え直さざるをえなかった。
翌日。──その梁山泊へさして、呉用、雷横、朱同の三人はここから立って行った。
しばらくの、別れにさいし、呉用は言った。
「李逵よ。ま、当分はおぬし一人、こちら様のごやっかいになるわけだが、しかしくれぐれ、うぬが持ち前の粗暴だけはつつしめよ。……いいか」
「へい。無知野蛮とかいうやつを、噛み怺えていりゃあいいんでしょ」
「それ、その通りきさまは性なしだ」
「また性なしが一ツ殖えましたか」
「たわけ。困ったものだ。だが何ンといってみても貴様のような人間も縁の端。いずれ朱同の腹もおさまり、晁総統や宋江先生から、よしとお言葉がかかったら迎えに来てやる。おとなしくお庭の掃除でも毎日していろ」
「下がったね、あっしも」
李逵は、黒いお出額を叩いた。
その日、柴家の荘丁は、大勢して、旅立つ客の三名を、関外まで送って行った。関の番卒といい、牢営内の役人までも、柴進の家の者と聞けば、疑いもしない。
それとこの両三日は、城外城内、ひと通りな騒ぎでなかった。牢営長官の愛児が、盂蘭盆会の夜、地蔵寺の池で溺れ死んだ。そして傅役の朱同が当夜からいなくなったという、それの詮議や家ごとの町調べだった。
しかし、こういう捜査の手すら、柴家の内へは決して臨んで来ることはない。治外法権の門といったかたちである。かくてはや四、五十日はいつか過ぎた。その或る日のことだった。──どこから来た使いやら飛脚やら、秋、静かなここの門へ、一封の書がとどけられた。
「大旦那さま。ただ今、高唐州からこんなお手紙でございますよ」
あわただしく、侍女はそれをすぐ、柴進の室へ持って来た。
「おや、火急とある」
柴進は、封を切った。読みゆくうちに、やや手がふるえてみえる。何かよほどな大事でも起ったらしい。
「柴の旦那え。……もし大旦那」
「あ、李逵。そこにいたのか」
「おいいつけで、外から窓框の拭き掃除をしておりやしたが、何か、えらいこッても持ち上がったんでございますか」
「むむ……ちとなア。……だが、おまえに話してみたところで仕方がない」
「李逵じゃお話し相手にならねえと仰っしゃるんで」
「うるさいのう……。ひとが物を思案しているのに。ああ、どうしても、これはひとつ、わし自身、高唐州まで出向いてゆくしかあるまいなあ」
李逵はそれを小耳にはさむと、窓際の踏み台を降り、庭から廊へ廻って、のそっと柴進の部屋へ首を突っ込んで来た。
狡獣は人の名園を窺い。山軍は泊を出て懲らしめを狙うこと
もちろん誇張したことばだが──常ニ家ニ飼ウ食客三千──といったような野の名門、柴家のことである。日ごろ居候はめずらしくないが、けだし李逵のごとき居候は珍しい。まるで黒面猿を家に置いているようなものだった。
ゆるしも待たず、あるじ柴進の室へ闖入して来た彼は、柴進の身に降って湧いた急な旅行がどんな心配事であるかなどは一こうに無頓着で、
「ほい、ありがてえ。お供ができる!」
と、まずまず自分を祝福してから言ったものである。
「ねえ大人。大人が高唐州へお旅立ちなら、あっしだって、いや、あっしもすぐ身支度にかからなくっちゃなりません。ご出発は今日中ですか。それとも明朝で?」
「なに。たれが連れて行くといった。物見遊山とはわけが違うわ」
「でも大人の側を離れたくねえんですよ。それにご当家へ預けられてからもう五十日。あれッきり李逵は一歩だッて門の外を踏んでもいねえ。ぜひ連れて行っておくんなさい」
「ちッ、ひとの心配も知りおらんで」
柴進は、舌打ちした。それどころではないといった憂色なのだ。そしてさっそくその日、旅途についた。荷持ち男三人、家来七騎。それへ交じって黒旋風李逵もついに供人として従いて行った。
旅は半月余りつづいた。やがて高唐州に着く。その城内街もずっと北郊に一叢林の大邸宅があった。土地でも著名な名園でまた名族でもある柴皇城の家である。──が、そこで馬を降りるやいな、柴進は、
「あっ、まに合わなかった。叔父君は早や世を去ったか」
と、茫然、希望のむなしさに、涙となった。門は喪に閉じられていたのである。すなわち、柴進の旅は、叔父皇城の危篤の報に急いで来たものだが、こう早くとは、日ごろ強健な叔父だっただけに、よほど意外であったらしい。
だが、あとで聞けば、皇城の死は、やはりただ事ではなかった。彼を待ちかねていた皇城の妻や一族は、その夜、柴進にむかって、次のようないきさつを涙ながら物語った。
──ちかごろ、この地方の軍司令を兼ねた一奉行が、都から赴任して来た。
時めく宋朝廷の大臣高俅の従兄弟で高廉という人物。
これが地方民を蔑視して、権勢をふるッているのみか、女房の弟の殷直閣という青二才が、これまたいやに貴公子ぶッた官僚臭の男で、いつも大勢の取巻きとともにのさばり歩いているやつだが、或る日「庭を見せてくれ」といって不意にここを訪れ。「──これはすばらしい。庭園もいいが、水亭閣廊、四門の造り、おまけに粋な数寄屋まで、どうしてこんな田舎にあるのか。さっそく義兄に話して、下屋敷におすすめしよう」と、まるで自分の持ち物みたいに言って帰った。
でも、まさか。
と思っていると、ほどなく、十日以内に他へ立ち退けと、殷直閣から言って来た。もちろん、当主の皇城は一笑に附していた。「──他郷者だ。わが家の来歴を知らないのも無理ではない」と。
ところが「なぜ明け渡さんか」と再三な催促である。あげくには直閣自身が呶鳴り込んで来た、で、皇城は親しく柴家の由緒を話して聞かせた。──代々この地方に住んではいるが、祖先は金枝玉葉の出であり、宋の太祖の丹書鉄券も家に伝えられている。──「ご存知ないか?」その迂愚を嘲ったのである。
すると直閣はかえって威猛高となり、ではそれを見せろと迫った。ここにはない、と答えると、いきなり皇城を足蹴にし、「われらは、現朝廷に並びなき高俅閣下の一族だぞ。そんな偽系図に驚くような田舎者と同一視されてたまるか」と、なおも左右の取巻きと一しょになって蹴るやら撲るやらさんざんな侮辱を加えて立ち去った。
皇城の死は、これが因だった。どっとその夜から病床につき、大熱のあいだにも「くちおしい、ざんねんだ、無念だ!」といいつづけ、さいごの息をひくときには「──甥の柴進に告げて、この恨みをはらしてくれ!」とくり返し言い遺して逝ったという。
柴進は一ぶ一什を聞いて腸をかきむしられた。が、取り乱しているときでない。
「いやどうも、お互い、何といっていいか悲嘆のことばもありません」
と、未亡人以下、親族一同へむかって。
「この上は、てまえの滄州の家にある伝来の丹書鉄券をとりよせ、他日、都へのぼって、宋朝の天子へ直々に訴え出ましょう。……朝廷歴代の文書庫には、祖先柴世祖から宋の太祖へ世を譲ッた──『陳橋ノ譲位』──の写シ文もかならず収めてあるはずですから、明判たちどころに、殷直閣の暴を懲らし、おかみも叔父皇城の霊を悼んでくださるにちがいありません」
と、なぐさめた。
すると、祭壇の間の端で、これを聞いていた李逵が、場所柄もわすれて、ヘラヘラと笑い出した。
「そんな手間暇は無駄事ときまッてらあ、訴えの筋が通ったり、ちゃんと、掟が立つようなお上なら、天下に謀反のおきる道理はねえ!」
親族たちは変な顔して、みんな李逵の方を振り向いた。柴進もその人たちの手前、勢い叱らざるを得なかった。
「これッ李逵。駄弁を弄すな。きさまこそ、供部屋へ退がって、ほかの供人のように神妙にしていろっ。どうも仕方のない黒面猿だ」
その日は折も折だった。柴家では故人皇城の七々忌に当たり、典儀のあと、型のごとく、法事の宴に移っていた。──と、そこへ、どやどやと一群の〝招かれざる客〟が門へおしかけて来たものだった。
「当主の病死はわかっておる。だが、誰か口のきける奴は残っているだろう。あいさつに出せ」
と、中の一人が門内でわめいている。
見れば、従者、取巻き、無頼漢、およそ三十人余り、城外へ遊山にでも出た帰りか。半弓、吹矢、笛太鼓、蹴毱、酒瓢などを持ちかざし、おそろしく派手に飾った化粧馬の鞍上には、例の兼軍奉行の義弟、殷直閣がニタニタと乗っていた。
「これは、これは」
と、やがてその前へ家の内から柴進が会釈に出ていた。そしてあくまで下手に。
「何の御用か存じませぬが、あいにく今日、当家はかような取混み中。おかまいも出来ません。どうかまた他日でもお立ち寄りを」
「こら、こらッ。きさまは何者だ。雇人か、家職の者か」
「いえ、柴進と申す親族の一人で」
「では滄州の」
「はい」
「オオその柴進なら話はつけよい。皇城の病死、つづいて葬儀、やむなく今日まで待ってやったが、早や七々の忌も今日で相済もう。さっそく明日はここを明け渡せよ。よろしいな」
「ご冗談を」
「なにッ」
「こんりんざい、当館はお譲りできません。たってお望みなら、天子のご裁可をうけておいでなさい」
「大きなことをいうな、大きなことを」
「いや広言ではない。時代こそ降るが、わが柴家は天子の裔だ。しかも証拠の丹書鉄券も伝わっている」
「見せろッ、それを」
「いま、滄州へ人をやってとりよせている。奉行の威をかさにきて、余りな非道を押すならば、こちらにも考えがある」
「あはははは」と、直閣は馬上で大きく身を反らして笑いながら「こいつも死んだ皇城と同じことをいっておる! 虚構歴然だ! 明日まで猶予しておこうと思ったが、もはや仮借にはおよばん。それッ、法莚の奴らを追っ払って、ここの邸宅に封印をしてしまえ」
あらかじめ、そんな腹でもいたのだろう。従者、手下の無頼漢、同勢わッと土足のままで邸内へなだれ込んだ。柴進さえ防ぐいとまもないほどな瞬間だった。──すると、どうしたのか。
いちど押し入った人間どもが、ど、ど、どッと屋鳴りのうちにまた、外へ転び出して来た。どれもこれも朱に染まり、手足満足なのは一人もない。そして、それを追ッかけ追ッかけ続いて二丁斧を振りかざしながら躍り出して来た黒面の阿修羅がある。──あッと、これには殷直閣も仰天して急に、馬首を向けかえた。
だが、一喝、
「てめえだなッ」
李逵の一斧が、馬の脚を払った。また間髪を入れず、ころげ落ちた直閣の体へ、次の一閃が下っていた。噴血、ひと堪りもあろうはずがない。
あとの手輩はもう蜘蛛の子だった。──柴進は、この瞬間の出来事に、ただもう茫然のていだったが、やがて。
「李逵! きさまは、とんでもない事をしてくれたな。ああ、とり返しはつかん」
「大人。いけませんでしたか」
「知れたことを。いかなるわけあいでも、人を殺していいという法があろうか。だが今は何を言ッてみたところで始まらぬ。きさまはすぐ梁山泊へ落ちて行け」
「どうしてです。こうなる以上、逃げる気なんざありません」
「なんでもいいからここに居るな。あとは柴進がひきうける。万が一、きさまが縄になったら続いては梁山泊一統に禍いがおよんで行こう。この柴進なら出る所へ出ても、堂々と、正しい申し開きは持っておる。早く行け。路銀を持って」
と、ふところの金をつかませ、遮二無二、彼をこの場から落してしまった。そして彼自身は、甘んじて、その直後に襲せて来た捕手の群れに身をまかせ、われから司直の裁きの庭へすすんで坐ったものだった。
しかし、上司の奉行高廉は、直閣の姉の良人である。でもなおその高廉が吏として公平な人物であったら正しい裁判も見られたろうが、いずくんぞ知らん、稀代な妖人だったのだ。やがてそのことは後章でも説くが、ともあれ小旋風柴進が、なお時の政道を信じて身の処置に出たのは、かえって彼一個の大難を求めたばかりでなく、予想もしなかった一大波瀾を逆にこの地方に捲き起すものとはなった。
ここで、視野を一転。──山東の梁山泊へ目を移してみると。
泊中の聚議庁では今、高唐州から山寨へ帰って来た黒旋風の李逵が、衆座の前に、おそれ入った恰好で、目をパチクリさせていた。
「いやもう、あきれた奴だ。またぞろ、その二丁斧で、思慮もない事件を起してしまったのか!」
彼の報告をきいた晁蓋以下の領袖たちは、頭ごなしに、こう叱りつけて。
「ところで、きさまは難をのがれて来たようなものだが、あとの柴進大人はどうなるのか。ただではすむまい」
「すまねえでしょうが、あとはご自分でひきうける。なんでも、きさまはこの場を逃げろ、と仰っしゃるんで、是非もなく」
「はアて、後難が案じられる」
と、呉用、宋江、林冲などもみな眉をくもらせた。これらの者はみな王道政治の糜爛腐敗を身に舐めて知っている。かならずや柴進の主張などは通るまい。一刻もはやく恩人柴進の安否をまずたしかめぬことにはと、さっそく、
「ご苦労だがひとつ、高唐州へ行って、仔細、調べて来てくれまいか」
と、神行太保ノ戴宗へ、一同から声がかかった。で、戴宗は、
「おやすいこと」
と、即日、彼が得意とする神行法を利用して高唐州へ飛び、日時およそ半月ほど経て、ふたたび泊中へ帰って来た。
「さてこそ、やはり! ……」
戴宗の報告を聞きすました満座の眉色は、一瞬、しいんと恩人の受難を傷み、また鬱々たる義憤に燃えた。
果たせるかな、柴進は以後、獄中につながれ、故人皇城の邸館とその名園は、そっくり門の相を変え、〝官没〟の名のもとに、今では奉行高廉の別荘になっているという。
のみならず、高廉の妻は、いわゆる外面如菩薩の美夜叉ときている。そこで弟の恨みを良人へケシかけ、白洲の拷問、獄中の責め、やがては柴進に〝直閣殺シ〟の罪名を着せて、いやおうなく、死にいたらしめるのではないか。──ともあれ柴進の一命は今や風前のともし灯にある──という戴宗のつぶさな話は、いよいよ、聞く者をして、
「うぬ」
と、高唐州の空を睨まえさせずにはいなかった。
「この梁山泊にとって、柴進さまは大恩人だ。その人の受難や柴家の抹殺されるのを、よそに見てはいられまい。まして事の起りは、山寨の一人、李逵から出たこと」
期せずして、この声は一致した。そして軍師呉用の案の下に、七千の泊兵は、二十二人の領袖が将として編制され、ここに柴進救出の軍をくり出すことになった。
七千の泊兵は、寨員の大半である。なぜにこんな山軍をうごかすかというに、相手の高廉はただの奉行ではない。一面軍権をにぎっている司令であるのみならず、その配下には、山東、河北、江西、湖南、両准、両浙、各省の軍管区から選抜された「飛天神兵」と呼ばれる精鋭隊があると──これまた戴宗の探りによって分っていたからだった。
官衣の妖人があらわす奇異に、
三陣の兵も八裂の憂き目に会うこと
高廉とは、まことに不思議な人物というしかない。
宋朝廷に時めく高俅一門といえば、あたかも当時の日本における平家一門に似て、栄花も権勢も意のままな大貴族だった。──だからその高俅の従兄弟とあれば、白馬金鞍で京師の夕風を追って遊ぶも、廟に立って大臣を欲するも、自由だろうに、なぜか彼は、それを求めない。
そして若年頃から、荒公達の名をとり、背には〝太阿ノ剣〟とよぶ長剣を負い、また好んで黒衣黒帽という身装で、
「わが目には、列臣の勲爵も、羨ましい物でなく、禁軍八百万の旌旗といえど、物の数ではない」
と、つねに豪語して憚らぬような変り者だったのである。──で、怖らくは、開封東京でも一門の持て余すところとなり、軍司令官兼民政奉行となって、この高唐州へ地方下りしてきたものではなかろうか。
「なに、梁山泊の賊兵七千が、柴進のため義を唱えて、この地へ近づいて来るというのか。いや。おもしろい!」
高廉は丹い口をあいて笑った。黒紗の帽、黒絹の長袍、チラと裾に見える袴だけが白いのみで、歯もまた黒く鉄漿で染めているのであった。
「いつかは、我れより出向いて、天下の恐れとなっている梁山泊とやらの野鼠の巣、一ト蹴散らしに踏みつぶしてやろうと思っていたに、彼らから旗を掲げて出て来たとは、いや、待っていたと言いたいような誂え向きだ。すぐ城外に出て布陣するぞ。全軍、営を出ろやい!」
と、大号令をもって令した。
黄色な布に黒で八卦を画いた中軍旗も、すぐさま彼の騎馬に先んじて進められた。──装いはといえば、例の、太阿ノ剣を背に高く負い、つねの黒衣へ金帯を締め、豹皮の胸甲に鎖下着を覗かせているのみで──将軍か、公卿か、軍属の道教僧か──得態の知れぬ姿であった。
しかし麾下の軍団は、幾段、幾十隊か数も知れない。そしてそれぞれ金甲鉄鎗の燦然たる部将のもとに楯をならべ──ござんなれ烏合の賊──と弩弓の満を持して待ちかまえていた。
するうちに。
「梁山泊の賊将、林冲、花栄、秦明、李俊、孫立、鄧飛、馬麟など……およそ三千余りが、漠々と、これへ近づきつつあります」
と、物見の者から報らせがある。
つづいては、また、
「本軍は宋公明を主将とし、朱同、雷横、戴宗、李逵。──さらに張横、張順、楊雄、石秀らの部隊など、ぞくぞく到着して、すぐ前面に陣を布いている様子です」
とも急調子に聞えてきて、ようやく迫る緊迫感に、野面の風は不気味に熄み、雲間の雁も行く影を潜めてしまった。──と、たちまちわっと揚がる金鼓、銅鑼、角笛のあらしを分けて、梁軍のうちから丈八の蛇矛を横たえ持った林冲をまん中に、秦明、花栄の二将が、左右に添って、馬を進め、
「高廉高廉。──高俅一門の悪代官高廉はどこにいるか。これは天に代って当今の悪官人どもを誅伐に来た天軍だ。手間ひまかけず、素ッ首をわれらに渡せ」
と、大声で呼ばわった。
聞くやいな高廉もその旗本「飛天神兵」をまン中へ押しすすめ、そのまた中に駒を立てて、
「しゃら臭い草賊どもめ! 泡を吹いて逃げ出すな」
と、まず飛天隊の一騎、于直を出して、林冲にあたらせた。が、とても林冲の敵ではない。矛と鎗、十合とも戦わぬうち、于直はもんどりうって馬から落ちる。──つづいて、飛天神兵中の随一、温文宝が喚いて出た。──しかしこれも秦明と闘ッて斬られ、第三、第四、と猪突して出た者までことごとく打ち果たされてゆくのを見ると、高廉はその青粘土のような面にたちまち吹墨のような凄気を呼んで、
「かっッ」
と、背にある太阿ノ剣をぬきはなった。そして剣の刀背を眉間に立てて何やら一念、呪文をとなえるらしい姿であった。──と見た花栄は、わけもなくぞッとして「あっ、妖人?」と、思わず引きしぼッた弓の弓弦をぶンと切った。その矢はあやまたず、高廉の真額を射た。いや射たと思われたのに──一道の黒気が矢をも高廉の影をも、墨のごとく吹きつつんでしまっていた。そしてとつぜん、大地は鳴り、天もゆすれ、怪しい風が、ゴオッと翔けたあとから、小石のような雹が、人馬の上へ降ッて来た。
「や、や?」
「これは?」
と、梁軍七千の人と旗は黒い風に吹きちらされ、揉み舞わされ、冬の木の葉に異ならない。あれよあれよの、叫喚だった。ただ見る日輪だけが赫く、雹に交じって砂礫を吹きつける。しかもまたその中を、長髪鬼のような飛天神兵の数百が槍を持って馳けまわり、逃げまどう梁山泊軍は、そのため、またたくうちに、千人の兵を失ってしまった。
「退けっ。ひとまず、退けい」
さしもの軍師呉用すら、また宋江も、すっかりこれには狼狽して、ただもう逃げ奔るしか、一時の処置も知らなかった。
さて、残軍六千を、からくも城外五十里の遠くに、陣を引きまとめて。
「軍師。じつに辟易しましたな。いったい、何であったのでしょう? 今日の異変は」
と、宋江の驚き顔に、呉用は沈痛な声で答えた。
「察するに、高廉は妖法を使う術者でしょう。よほど道教の方術──すなわち幻術を──修得した妖人に相違ない」
その夜、宋江は、陣幕に灯を掲げて、独り例の天授の「天書三巻」をひらいてみた。内に〝破邪ノ兵法〟一巻がある。それには〝破術破陣ノ法〟があり、また〝回風返火ス法〟も見えた。
「よし」
彼は自信を持ち、あくる日、さらに鼓を鳴らして、城門へ迫った。
けれど、この日も、次の日も、梁山泊軍はさんざんに破られた。なぜならば、高廉の妖法は、ただ宇宙の天色や気象に異変を呼び起すだけでなく、忽として、炎を大地に生ぜしめ、また大洪水を捲きおこし、そうかと思うと、豺狼、豼貅、虎豹などの猛獣群を、一鞭の下に呼び出して、これを敵のうちへ追い放つなど、千変万化、じつに極まりのないもので、宋江が身の護符としている「天書」の活用も、これには、ほとんど用をなさないからであった。
こう出たら? ああ突いたら?
とかくして、戦い十日、兵は半数に減ってしまった。宋江も呉用も、いまは面目なくて、このまま梁山泊へも帰れなかった。
さりとて、この苦慮苦戦を、あえてつづけていれば、残る三千も、野に白骨をさらすだけのものでしかない。──さらには、開封の都から、官の援兵が馳せくだって来る惧れなども大いにある。
「……どうしたものか」と、宋江と呉用とは、ついに最後の腹のすえどころにせまられていた。
「じつはの、宋先生。ここに、たった一つの残る策がないでもない」
「なに、軍師には、ご一案があるというのか。ではなぜ早く、その一計を」
「いや」と、呉用はあわてて手を振った──「それがさ、すぐ可能と思えるなら、決して猶予はしていません」
「何か、難かしい計略でも」
「いや行方のわからぬ人物を、急遽、探し出して来ねばならん。ところが、その消息といったら、皆目あてがないのです」
「ははあ。では彼の──一清道人とも呼ぶ公孫勝──を、あなたも思いだしておられたか」
「さよう。仰っしゃる通りだ。高廉の妖法をやぶるには、我れにおいても妖法に通じた道者を味方の内に招くしかありませぬ」
「それならひとつ、薊州へ人を派して、八方、探させてみたらどんなもので」
「しかし薊州といっても広い」
「なんの、戴宗が陣中にいる。いずれ一清道人のこと。名山大川の奥深くにいるかもしれぬが、戴宗の神行法で馳け探せば」
「なるほど、むなしくいるよりは」
「それに如くなしです。すぐ戴宗を呼びにやりましょう」
伝令をやると、その戴宗は、何事ならんと、すぐここの帷幕へやって来た。──そして呉用、宋江の二大将から托命の仔細をきくと、彼も、梁山泊軍三千の運命を担う一期の働きはいまだとして、勇躍、すぐ例の神速法の甲馬を脚に結い付けてここを出発した。
いや、彼にはもひとり付いて行った者がある。
例の黒旋風李逵である。──李逵などは無用な相棒、ヘマは仕出来しても、ろくな足しにはならぬと退けられたのだが──事件の起りは自分が殷直閣を殺したことにある。かたがた、柴進大人へのお詫びにもと李逵としてはいつにない神妙な哀願なのでついに連れて行くことになったのだった。
「だが李逵。断わっておくぞ」
「へ。何をで」
「きさまにも神行法を授けるが、わしが呪文をとなえると、たちまち身は雲を踏んで飛行する。呪を解かねば、止まるにも止まれんのだから、心得ておけよ」
「院長(戴のこと)そいつア困るよ。小便する間もなくっちゃ」
「そんなことはどうでもいい。問題は道中では一切精進潔斎だ。守らねば神行の神力が破れてしまう。守れるか」
「酒を呑まず、肉を食らわず、で居りゃあいいんでしょ」
「そうだ。きっと、貪婪をつつしめよ」
かくて二人は、雲を翔けた。
耳に風がうなり、睫毛に霧が痛いほどぶつかッて後ろになる。地の物象すべて──町、森、原野、山波、渓流──点々たる部落の羊や牛の影までが見る見るあとへ過ぎられて行く。
さて、まことに怪奇な談になった。
そもそも水滸伝物語は、その発端、百八星のことからして、いわゆる怪力乱神を「世にあり得ること」として話の骨子にとり入れてあるものだが、中には多少、宋朝の史実も酌みいれ、編中人物の行動などにはかなりリアルなふしもある。──かと思うと突として、高廉の妖術やら戴宗の神行法なども平気で駆使するし──つまりここらが、いわゆる大陸古典の大陸小説らしい筋であって、日本での話なら役ノ行者の伝説でもなければ見られないところである。これは一に道教による幻想らしく、かの白楽天の長詩「長恨歌」の中で、玄宗皇帝が術者の方師をして、夢に、亡き楊貴妃の居るところを求めさせるなどという着想も、民話的な道教信仰を詩化したものといってよい。とにかく、このへんの章は読者も中古大陸の民土を念頭におかれて、風誦するが如く、共に空想を遊ばすことにしておいていただきたい。
「戴院長。今日でもう七日目ですぜ」
「もう七日か。はて、知れんなあ」
「いくら雲霞に乗って、こう空ばかり素ッ飛んでみたところで、これじゃあ、知れッこありませんや。毎日毎日、下に見えるのは、山岳だの大川だの渺々とした田舎ばかり。ちッたあ、人里へも出てみなくッちゃあ」
「きさまのいうのも一理はある。だが、公孫勝は元々薊州の生れで、梁山泊へは入ったものの、田舎の母恋しさに山寨の仲間に別れて、一時郷里へ帰った者だ。それに彼のごとき修道者であってみれば、市井に住まっているはずはない」
「ですがねえ院長、薊州の田舎ときたら、山また山だ。そんな山の襞にいる一人の人間をつかまえるなんてことあ、まるで縫い目の虱をさがし出すより大変ですぜ。やっぱり人を探すには人中を歩かなくっちゃあ」
「きさま、そろそろ美味い物でも食いたくなってきたのだろう」
「そいつも察しておくんなさいよ。いくら精進潔斎だって、この七日ほどは、干団子しか食ッちゃいません。きのうからもう目が眩りそうなんで」
「よし、向きをかえて、ひとつ人混みを探してみよう」
翌日は、脚の咒符を解いて、薊州の城内を一日歩いた。また次の日も、寺院、祈祷所、道行く僧侶、少しでも由縁がありそうなと思えばやたらに訊ねあるいてみた。しかし、手がかりは皆目ない。
そして十一日目のことだった。城外のいぶせき飯屋でひるめしの白麺を二人してすすっていると、隣の床几でも一人の老人がお代りを急いでいた。折ふし客が混んでいたのでなかなかお代りの麺が来ない。出来て来たかと思うと隣の李逵が逸早く横から取って食ってしまう。それが八杯にもおよんだので、ついに老人も腹を立てた。
「なんじゃい、この人はまあ。わしが誂えたのを、そばからそばから、喰べてしまいくさる。馬か豚腹か」
「なに。豚腹だと。やいッ、いい加減にしろとはなんだ。外へ出ろ、この老いぼれめが」
「これっ、李逵。きさまが悪い」
「だって、院長。ものの言い方もあろうッてもンでさ」
「うんにゃ。大体、きさまがガツガツしすぎておる。ご老人、ゆるしてください」
「これはどうも、そう仰っしゃられると、年がいもないことで……。じつはこれからお山へのぼって、羅真人さまのご法話を伺いたいと思いましてな」
「ほ。……山にご法話の会があるのですか」
「はい。時刻におくれると、羅真人さまのお話が聞けませぬ。それでついわしも心が急ぎましてな」
「オ、また一碗、麺ができて来ましたよ。さあさあ、おさきにお喰りください。して何ですか、そのお山というのは」
「この薊州郊外から四十五里、九宮県の二仙山というお山の麓でしてな」
「真人がいらっしゃるほどなら、ほかのお弟子の道人たちもたくさんいるのでございましょうな」
「おりますとも、なんといっても、真人さまは、諸道人のうちでも、いちばん修行を積み、位も一段高いお方ですな」
「もしや、公孫勝という道人を、そこでご存知はありますまいか」
「あああの、おふくろ様と一つの庵に住んでござらっしゃる公孫一清さんなら、わしが家のつい近所じゃが」
「えっ、ご近所なので」
まさにこれ、何かのひき合せと、戴宗は雀躍りしたいばかりだった。なお仔細に道をたずね、老人には厚く謝して、いちど旅籠へひっかえした。そして身拵えをあらためるやいな、四十五里を神行法の一ときに馳けて、まもなく九宮県から五里の奥に二仙山とよぶ幽境を目に見ていた。
羅真人の仙術、人間たちの業を説くこと
「ちょっと、伺いますが」
と、ひとりの樵夫を見かけたので、戴宗が訊いた。
「一清道人の庵室はどちらでしょうか」
樵夫は、白雲のうず巻いている峰と峰との間をさして。
「一条の白い滝が見えまっしゃろ。あの下の細道をめぐって、南へ出ると、山の角に、琴のような石橋がありますわな。そこらでもいちど訊きなされ」
その通りに行ってみると、上の杣道から山の果物を手籠にして降りて来た女があった。女は振り仰いですぐ教えてくれた。
「ほれ。あそこに、柱が十本も並んでいる草舎の廊がある。あの廊の端れに見える小さいお堂がそれでございますよ」
「ありがとう。して、一清道人はおうちでしょうか」
「ええ、今日はたしか、裏で丹薬を練ッてござらっしゃッたが」
思いはとどいた。戴宗は胸もわくわくそこへ近づいた。しかし、李逵は遠くへおいて、彼ひとり草庵造りの家の扉へ寄って行き、
「ごめんください。ごめんください」
と、訪うこと数度であった。
何処かでは、淙々と水のひびき、松籟の奏でがしている。それに消されてか、いつまでも返辞はなかった。するうちに、
「どなたじゃの」
内の葭すだれをサラと掲げて、白髪の媼がふと半身をあらわした。つづれの帯に半上着、貧しげなこと、山姥といってもよいが、霞の目皺、丹い唇、どこやら姿態も賤しくない。
「オ、ご老母で」と、戴宗は一礼して──
「一清どのにお目にかかりたいことがあって、はるばる参った者でございますが」
「あなたさま。お名まえは」
「山東の戴宗と仰っしゃって下されば、たぶんおわかりのはずですが」
「それは、あいにくな。せがれは旅に出て居りませぬ」
「はて。里人のことばでは、たしかにおいでだといっていたが」
「いえ、おりません。どうぞお帰りくださいませ」
すると、いつのまにか、戴宗の後ろへ来て佇んでいた李逵が、腰の二丁斧を引き抜いて両手に持ち、
「うそをつけ! この山猫め。よしっ、居留守をつかうならあらためてやる」
と、いきなり草堂の横から裏へおどりこんだ。あわててそれを遮る老婆の悲鳴やら、李逵を叱る戴宗の声が、ここの静寂を破ッたと思うと、彼方の薬園から身に白衣をつけた一壮士が、
「なんですッ? おっ母さん! 何があったんですか」
と、脱兎のごとく馳けつけて来た。そしてふと、そこの二人を見るや、
「おっ、戴院長。また、李逵ではないか」
「やあ、いなすったね、公孫勝!」
「ひどいじゃないか。おふくろさまを二丁斧で脅すなんて」
「あやまる、あやまる! 毛頭わる気でしたンじゃねえ。こうでもしなければ、おまえさんが出て来ないと見たからだよ」
「戴院長。まずお上がりください。……おっ母さんもご心配はいりません。決して悪い人たちではない。ま、お茶でも差上げて」
と、一房へみちびき迎え、さて、一別以来の旧情なども叙べ終ると、戴宗はあらたまって、
「じつは、かくかくの次第です。もしあなたが起って、高廉の妖軍を打破ッてくださらぬなら、宋江先生以下、三千の泊兵は高唐州の野に白骨となるしかなく、ひいては梁山泊の本拠も総くずれの破目にたちいたるでしょう。……まげてひとつ、廬を出て、お助けくださるまいか」
と、逐一のわけを語って頼みに頼んだ。
公孫勝は、ありありと、苦痛な色を眉に見せた。
「──ひとたび、義友と契った人々の頼みでは」
と、心にもだえるらしかった。で、しばらく頸を垂れていたが。
「いや遠路のお使い、旧友たちの危急、よくわかりました。若年、江湖を漂泊うての果て、はしなく梁山泊の諸兄に会い、幾年月のお世話になったことは今も忘れてはおりませぬ。しかし何ぶんごらんの如き一人の老母がありまする。あわれ母は、ひとり子の私が、唯々たよりなのでして、私もここを離れがたく、かつは師匠の羅真人さまも、どうしてもてまえを山からお手放しになりません」
「ごもっともだ。そこを強っても言いかねるが、梁山泊一期の浮沈です。なんとか、母御にご得心はいただけまいか」
「母は暇をくれましても、いま申したその師匠がどうも」
「羅真人さまへは、われら三名が膝をそろえて、お願いしてみようじゃありませんか」
「ま、よく考えてみましょう。今夜一ト晩」
「──と、仰っしゃらず、すぐご同道くださるまいか。高唐州の戦場は、はや朝々の霜。危機は冬と共に迫ッているのです。一日のまも気が気でないのでして」
戴宗もいう。李逵も拝まんばかりに頼む。ついに公孫勝は身を起した。ともあれ、師の羅真人さまの許へ伺って、そのご意見をきいた上で──と。
遠くはなかった。谷向うの峰ふところ。道をたどるうちに、針葉樹の密林低く、紅い日輪が沈みかけている。やがて羅真人の住す道教寺の石階を踏み、上を仰ぐと、山門の額に、
の三文字が金色もくすんで見える。
廟道は奥深い。つねに道士が寄って経を談じ、山翁は法を説いて、修行三昧、宇宙と人魂とのかたらいをなす秘壇とある。祭るものは、虚空三千大世界の天つ星や地宿の星とか。ここへ鸞に乗って仮に世へ降りてきたような一仙人と、江湖の俗から拝まれている羅真人は、いま、松鶴軒の椅子に倚って、ふと瞑想から醒めていた。
「真人さま。……今朝、仰っしゃっていたお人が、一清道人に連れられて見えました」
一童子が、椅子の前に、拝をしてつたえていた。
「お、来たかの。すぐ連れておいで」
羅真人は、すでにこの日の客を、予知していたらしい。──一方、更衣亭で身なりをただした戴宗、李逵、公孫勝は二人の童子に伴われて長い廊を渡り、やがて、松鶴軒の廂の下にかがまって九拝の礼をした。
「お師匠さま」と、まず公孫勝が──「折入って、この客二名が、尊意をお伺いにまいりました。これは私の旧き友」
言いかけると、羅真人は、鶴の羽衣のような袂をぱっとひらいて、その法冠の星よりするどい眸をきらと三人の上へ射向けた。
「一清。多くをいうな。山東の人々だろう。わかっておる」
「では、はや疾くに、二人がこれへ来た事情も」
「よろしいか、一清、おまえはやっと世の火宅をのがれ、そして母と共に、人生の長養長寿をここで習んでおる者だぞ」
「はっ」
「惑ってはならん」
「もし、老師!」と、戴宗は思わず躄り出るように進み出て再拝した。
「高唐州の悪奉行高廉の妖法になやまされ、いまや泊軍三千、かつての公孫勝の仲間は、死地に立っておりまする」
「悪と悪、業と業との入りみだれ、さようなことは、この山の知ったことではありません」
「ですが……。いや、さもございましょうが、なにとぞ、御弟子の公孫勝に、ここしばし、暇をおつかわし給わりませ。かくのごとく、伏してお願いつかまつりまする」
「いけません。この羅真人の教え子を、そのような血の巷へやることはできぬ」
「では、どうありましても」
「くどい! 一清、客をお連れして、はやはや浄門の外へ退がんなさい」
取りつく術もなかったのである。悄然と三名は〝紫虚観〟の門を去って、黙々と宵の星明りの下を帰って行った。
途中、ムカッ腹をぶちまけて、独り悪態口を叩いてやまなかったのは、もちろん、黒旋風李逵だった。
「けッ、ふざけやがってよ! 羅真人か糞羅漢か知らねえが、オツに取り澄ましゃアがって、教え子も聞いて呆れら。──久米の仙人だって赤い裾を見りゃ雲から落ッこちたっていうじゃねえか。そこが人間のいいところだ。それを義も情も知ッたことじゃねえと吐かしゃあがる。よしっ、人間でねえならば獣だろう。みてやがれ、けだものめ、化けの皮をひン剥いてやるから」
「李逵李逵。いいかげんにしろ。……一清の身にもなってみるがいい。むッそりと顔をしかめているじゃないか」
「ほい。いいお弟子だ。師匠をケナされちゃ癪にもさわろう。だが、こっちの腹もおさまらねえんだ。ごめんなさいよ、公孫勝」
「いやなに、きさまの悪口などいま知ったことじゃないさ。気になどかけるものか。ははははは」
しかし、一清公孫勝の立場はつらい。自然、口かずも少なかった。また戴宗も、このままでは高唐州へ帰りもならず、何かと、思案顔である。──とかくして、その夜は、一清の家の草堂に、床を分けて眠り合った。──眠る前の精進料理と一酌の酒がまわって、三人はやがてぐッすり寝込んだようであったが、かねて思うところのあった李逵は、
「……よし。ちょっくら、いまのうちに」
とばかり室から這い出し、そして二丁斧を手に、風のごとく、峰道から谷、谷から峰のふところへと、馳け躍ッて行った。──それはあたかも一個の黒猿が両手に白い焔を振りかざして行くようだった。
もう勝手は知っている紫虚観の門、松鶴軒の廂。そっと、李逵が法院窓の障子に舌で穴をあけて内を覗いてみると、なんと、この森沈たる深夜なのに、羅真人はなお、椅子に端座したままであり、唇に玉枢宝経を小声で誦している態なのだ。
薫々と匂う糸は香炉のけむりか。二本の赤い絵蝋燭の灯があかあかと白髯の横顔、頬のクボを描いている。李逵はあさはかにも思い込んだものだった。──この糞仙人さえ亡き者にしてしまえば公孫勝もいやとはいわないはずである──と。
だから彼の眼気たるやまさに殺気の炎で、そこの窓障子を蹴やぶるがはやいか、
「けだもの。化ケの皮を剥ぎさらせ!」
と、内へ躍り込んでゆき、かっと、薄刃の斧を振りかざすやいな、羅真人のあたまをめがけ、その脳天から真二つにたちわってしまった。
「はははは。なんてえ応えのねえ化け物だろう。おや、仙人の血は白いのかな? まるでこりゃ水じゃあねえか。うんわかった。ろくな物は食っていず、一ぺんも女を抱いていねえせいだろう。……どれ行くかな」
すると、物音を知ったのか、廊の彼方から、青衣の童子が飛んできて、ひらと彼の前にたちはだかった。
「これっ待て。お師匠さまを殺して、どこへ」
「そこ退けッ。うぬ、退かねえか」
またもや、一閃の斧の下──童子の首はコロコロところがった。そしてころがって行った闇の隅から泥人形のような白い首が、こっちを見た。ニコと笑ったように見えた。
「うへッ」と、李逵もなんだか、へんな気がした。骨の髄をぶるッとさせて。「──くそっ、俺としたことが」と、山門をとびだした。そして後ろを振向くと、山月が青かった。それからはもう一足跳び。──まだ暁にもなっていず、戴宗、公孫勝は夢深々と何も知らない。──彼もまた夜具の中にもぐりこんで、なに食わぬ顔のあくる日をむかえていた。
朝から午まで、その日も、戴宗は公孫勝と対座しづめで、切願、熱弁、情や義にもからませて、どうかしてと、説きつけている。それは李逵には、くすぐッたかった。ちゃんちゃらおかしくてたまらない。
午食の点心をすますと、一清はぜひなげに、
「では、おことばにまかせ、もう一度、松鶴軒へ伺ってみましょう。はたして、お師匠さまが、昨日の言をひるがえして、おゆるし下さるかどうか知れませんが」
と、ふたたび、きのうの如く、連れ立って草廬を出た。──これもまた、李逵の内心ではヘソ茶ものだった。「行ってみれば分るだろう。分った上は、公孫勝もいやとはいえめえ、知らぬ仏だ」と、あとに尾いて行きながら独りひそかに舌を出していたものだった。
やがて、紫虚観をくぐる。訪鉦を鳴らすこと三打。青衣の童子がひとり出て来て、来意を問う。待つことしばし、ふたたび現れて。
「どうぞ、更衣亭で、おきものや手をお浄めください。そして、いつもの長い廊を、ずっとお通りあるように」
李逵はセセラ笑った。が、なお白ばッくれて、更衣亭でかたのごとき身浄をした後、二人のあとに尾いて廊を進んで行くと、彼方からまたも一人の童子が見え、一清と話していた。
「もし、侍童さん。お師匠さまは、いつもの松鶴軒ですか」
「ええ、お椅子に倚って、しずかに、皆さんをお待ちになっていらっしゃいます」
「今日は、ごきげんは」
「おかわりもございません。はやくおいでなされませ」
青衣の童子は、そう告げて、李逵のそばをスレちがった。李逵がしんそこ、ぎょッとしたのはその一瞬であった。童子がニコと笑ったのである。その顔が、いやその首が、ゆうべ斧にかけたあのせつなの童子とまったくおなじなのだった。さらには、やがてまた、「おお、また見えたの」
と、内から聞えたのも紛れなき羅真人の声であり、またその人の姿だった。しかも、きのうよりは、うちとけて、
「ま。すすめ……。そこな、後ろの方に、うずくまっておる黒猿も、ここへ来い」
と、あるではないか。
李逵はただもう度胆をぬかれ、総身の骨もガクガクしていた。元々、この男は天上界における天殺星という魔星であって、かりに人の世に生れ、文明の灯が江湖にかがやくまではと、天帝のおいいつけで、世造りと人革めのため血をながす地獄仕事をしなければならない宿命となっている。──ということが、羅真人の神眼には、ちゃんとわかっているのらしい。この黒面の殺人猿をあつかうこと、まるで子供を観るにひとしかった。
「李逵よ。どうした。なぜ前へすすんで出ぬ」
「へ、へい」
「おかしな奴よの。ところで、両人」
「はっ」
「願いの儀、かなえてつかわそう。一清の母は、わしが見ておく。さっそく下山するがよい」
「えっ、ではこの一清に、おいとまを給われましょうか」
「む。しかし一清、汝はなおその修行も法術も、かの高廉とひとしい程度の者にすぎん。依って、下山に先だち〝五雷天罡〟の秘法をさずけつかわそう。──それをもって宋江を助けてやれ。また民ぐさを力づけ、世の道をただせ」
「は。必ず、お教えを忘れぬようにいたしまする」
「そもそも、汝の宿命は、天にあっては天間星。地にあっては草華の露。人と人との間に情けをこぼす性のものだ。しかし世はまだ溟々の混沌時代。まことの世造りと人拵えの成るまでには、なお五千年もかかるだろう。それまでは地上の人間も鬼畜の業を脱しえず、殺し合い、憎しみ合い、悪と悪との血みどろを這い廻るのもぜひないとするしかない──。それゆえ、今生一生の業ではしょせんおぼつかないが、今も暗溟の世造り時期。そうこころえて汝も修羅へ行くがいい。くれぐれ、人欲に迷うなよ。あやまるなよ」
こう、ねんごろな諭しをうけて、次の日早朝、一清公孫勝は母にわかれ、旅の支度もそこそこ、戴宗と共に、二仙山を降りた。
このさい、李逵はどうしたのか、前の晩からいなくなってしまった。戴宗が不審がってたずねると、一清は事もなげに笑って答えた。
「なあに、ご心配にはおよびません。たぶん羅真人に可愛がられて、当分、紫虚観に居れと、止めおかれてしまったものでございましょう。……あの天殺星に修行を積ませ、もすこし撓めておかねばならんという思し召しから。……いえ、いえ。いくら李逵が嫌のなんのといったって、師の呪縛にかかっては、羽ネを抜かれた禿鷹も同様で飛び立つことはできません。奴もきっと今ごろは、もうすっかり往生して、食堂の粥でも食べているでしょうよ」
法力競べの説。及び、李逵を泣かす空井戸の事
高唐州の城外、一望百里の戦陣は、がらりと模様が変ってきた。
ほかでもない、かの方術師にしてまた州奉行でもある妖官人高廉の妖術がまったくきかなくなってしまったことに起因している。すなわち高廉の魔陣「飛天神兵」の疾駆も、また得意の「太阿ノ剣」の呪文も妙に威力を失ってしまい、戦えど戦えど、軍はヘマばかり踏む始末で、
「これはいったい、どうしたことか」
と、怪しみつつも、ついに総勢を城内へ退き入れて、鉄門堅く、ただ守るのほかない頽勢に傾いてきたものだった。
「お奉行。こいつはどうも方針をお変えにならずばなりますまい」
「やあ薛元輝か。わしの戦法に過りがあるというのか」
「決して間違ッてはおられません。しかし敵の中には先頃からとんでもないやつが一人加わっている。それへお気づきにならんのはご不覚でしょう」
「一清道人の公孫勝だろうが」
「そうです。──二仙山の道聖、羅真人の秘蔵弟子とか。そいつを呼んで来て、破邪の術を行わせているんですから、さしもわがお奉行の方術も、いちいち這奴の秘封で、その効を現わさなくなったものと思われまする」
「そ、そんなことはないッ。そんなことは!」と高廉は、事わが方術にふれてくると青白い焔を眉に燃やして言った。「──紫虚観の羅真人その人がみずから山を下って来たのなら知らぬこと。一清道人なんていう一弟子のために、わしの方術が破られるはずはない。道教界における修行からして、彼と我れとは段がちがう。高廉をそんな底浅い修行の道人輩と同列に見て申すのか」
これはむりもない。
道教の世界にはおごそかな階級があった。修行によって法力の度もおたがいにわかっている。が、このたびだけは羅真仙人が、暗溟時代の世造りの手助いに下山する一弟子のため、特に〝五雷天罡〟の秘法を一清にさずけていた。ということを、高廉は知っていなかったのだ。あくまで自分の方術は上位と信じていたのである。
だからなお、彼が自身に恃んだ妖術戦は、彼を大きなうろたえと焦燥にかりたてた。──そのあくる日の城下戦でのこと。──梁山泊軍三千は、怒濤をなして、はや城壁下に鼓噪していた。時に高廉は、一だんたかい将台にあって、
「おうっ、めずらしや、あれに賊の軍師呉用、賊の大将宋江、またそのわきに一清公孫勝が駒を並べて指揮している。──元輝、一軍をひッさげて、一清の首をねじ切ッて来い。怯むな! 高廉がこれにあって、法力の加勢をするぞ」
と、太阿ノ剣を抜き払い、眉間に当てて咒を唱えた。
するとたちまち、あたりは暗くなり、雲のごとき気流のうちから、数千の豼貅(大昔、中国で飼い馴らして戦場で使ったという猛獣のこと、豼は雄、貅は牝)が敵陣めがけて飛躍していった。──同時にそれに力を得、官軍の猛将薛元輝もまた、城の一門を押しひらかせ、金甲鉄鎗の光り燦々、奔流となって敵中へむかって吶喊して行った。
ところがである。
ほとんどの将士が城へ帰らなかった。薛元輝もむなしく討たれてしまったらしい。
それも道理、妖法が吹き放った豼貅は、梁山泊軍の上まで行くと、みなハラハラただの枯葉になったり紙キレになって、何の加勢にもならずに仕舞ったものである。つまり妖術競べにおいて、完全に、高廉が破れた証拠だ。さすが高廉もこれにはガックリ自信を失って、急遽、隣の東昌と寇州の二州へ援軍の急を求めた。
「二州の奉行は、いずれもわが従兄の高俅大臣におひきたてをうけた者だ。大挙、かれらが援けに来れば」
と、それからは一切、城門の鉄扉を閉じ、壁を高うし、殻の如くただ守っていた。しかし城塁の中ではこんどは不思議な現象がおこりだしていた。冬なのに蛇トカゲの爬虫類がうようよ這いまわり、毒蛾、サソリ、赤蟻、種類も知れぬ毒虫が群れをなして兵の眠りまで苦しめる。さてはこれも一清の妖術攻勢だなと、高廉は必死な咒を行ってみたが、さっぱり自分の破邪の印には効き目がない。──時も時、こんなところへであった。
「──東昌、寇州の援軍がつきましたぞ!」と、望楼番の歓声だった。
「来たか」
と、彼が雀躍りしたのもむりはない。
高廉も望楼へあがってみた。打ち見れば、暁の曠野には、敵の梁山泊軍が、算をみだして騒いでいる。
おそらくは寝込みの朝討を食ったものか。支離滅裂となって逃げまどう中を、あざらかな紅い州旗を朝陽にかがやかせ、約三、四千の州軍がその中を割って、はや城壁の下まで来ていた。
「開けろ、開けろ。疾く城門をあけてやれ」
高廉は上から下知した。
わあっと、城内には歓声がわいた。しかるに何ぞやである。歓呼は、一瞬に阿鼻叫喚と変じていた。「──すわ」といったがもう追いつかない。援軍とみせてなだれこんで来たのは、梁山泊の山兵だったのだ。軍師呉用と宋江の智略によって偽装した山将それぞれ──花栄、秦明、呂方、郭盛、林冲、──また戴宗、公孫勝、孫立、馬麟、朱同、欧鵬などの錚々が指揮するもの。
いやなお、将とも兵ともいえない妙な男もひとりまじっていた。はやくも二本鉞斧を両手に振って縦横無尽城兵を追い廻しているのでもすぐわかる。黒旋風の李逵だった。
李逵はついきのう仲間たちの戦場へ帰っていた。──一清公孫勝を探しに行った行きは戴宗と一しょだったが、二仙山では、羅真人に止め置かれてしまい、彼にいわせると、
「あれから紫虚観で、真人にチクと熱いお灸をすえられて来た」
ものだという。
それがどんなお灸だったかは、李逵はまだよく語っていない。が、おそらくは羅真人のお懲らしめだ。真人の仙術やら妖法を目に見せられたに相違ない。一匹の黒ンぼ猿が十方無限の大宇宙へ抛りあげられ、羅刹金剛の変化にも会って、いやというほど、なぶり者とされて帰されて来たに違いなかろう。だから妙におとなしくなり、また李逵に似げなく、その話だとはにかんでいた。
しかし彼は、帰る途中で、一人の奇異な男を知って連れもどっている。顔ばかりでなく体じゅうに菊石のある銭豹子という鍛冶屋さんだ。
もとより銭豹子は本名ではない。苗字は湯、名は隆、つまり湯隆という者で、父はもと延安府の軍寨長官だったそうだが、軍人の子にもやくざは多い。ばくち、女、かたのごとく流れ流れてきたすえ、武岡鎮の町はずれで、テンカンテンカンやっているところを、こんど通りがかりの李逵と知って、
「ぜひおれも梁山泊へ入れてくれ」
とばかり一しょにここの戦場先へ来たものだった。見るからに一ト癖もふた癖もあるが、たしかにまた一芸の士。呉用、宋江のめがねでも「よかろう」となって、さっそく今日は戦陣に加わっていた。とはいえ到底、李逵のそばにはついて歩けない。李逵もまた、新米の味方の一人など、ふり返ってもいなかった。
いやここでは、李逵を語るよりは、奉行高廉の行動を見ておかねばなるまい。──高廉は望楼から下りるまでもなく、脚下いちめん殺戮の坩堝を見、城中に入った敵の奇功を察し、もうこれまでと観念の目をふさいでいた。
下では、山将の花栄、秦明、林冲など、
「高廉は、どこ?」
「雑兵なんどに目をくれるな」
「高廉をさがせ。あの妖官を逃がすな」
と、弓の弦を引きしぼって喚き求めていたのである。
するうちに。
「──あッ」
誰かが叫んだ。眼を射られたかのように目へ肱を曲げて空を指した。
見ると、一朶の黒雲が望楼を繞って、望楼をスウと離れてゆく。──チカチカッと墨の中で何かが光った。光が眸を拒むのである。だが痛みを怺えて凝視すると、それは一本の剣の剣光にちがいない。しかもぼうっと高廉の姿も見え、太阿の印をむすび、雲を踏んでいるものだった。そしてみるみる西南の空へ移行していた。
「や、やっ」
「妖人め」
矢さけび起して無数な矢が雲を追った。雲を縫った。
しかし、ゲラゲラと雲は笑う。
このとき、これを知った宋江も呉用もまったくあわてた。指揮に声をからしても、ほどこすすべすらなかったからである。そして「一清はどこに。一清公孫勝は何をしているか」とあたりへどなった。
知らぬではない。公孫勝もこれを見ていた。
彼は州城内の一宇、霧谷観と額のある堂の真ン前に佇んで、虚空を仰いでいたのであり、師から授かった〝五雷天罡〟の秘咒に気魂を凝らしていたのだった。そしてたちまち一陣のつむじを吹きおこし、風は空へ翔け揚ッて、黒雲へ挑み、高廉をつつむ妖雲をむしり千断ッた。
すると高廉は口から火を吹いた。それは一道の奔る炎となって城頭城門へ燃えついたが、また、たちどころに、公孫勝が呼んだ沛然たる雨に打ち消され、かえって豪雨は白い電光を孕み、霹靂一声、雲のなかで爆雷となって鳴った。一箇の火の玉が破裂したかと見えたほどである。と思うまに、空は青く冴え、何かふわとした物が城外二里の地へ落ちた。──すぐ兵に拾わせてみると、それは高廉の死骸であった。
町には町を逃げまどう州兵。野には野をどろどろ落ちて行く州兵。散るにまかせて、宋江はこれを追わせなかった。
城内の一掃が終ると、彼はただちに〝布告文〟を辻に立てた。
一 われらは良民を犯さず。犯すあらば斬らん
一 われらは妖官を懲らして法は滅さず、妖民は斬る
一 天に天神、地に地祇、人の土に稼業絶やすな、和を温め合え
住民はこれを見てほっとした色だった。かつては県の押司も勤めたことのある宋公明だけに、法三章の要をえていた。
「各〻、各〻は何はおいても、すぐ柴進どのを捜してくれ。あの人の安否を確かめろ」
宋江は厳命した。急務はそれだった。たたかいの目的はそれだったのだ。
しかし、柴進の安否は全然つかめなかった。城内の大牢雑牢、地下または高楼、監禁されていそうな箇所はおよそ隈なく捜査したが見あたらない。牢番獄卒どもは、逃げ散ッていたし、牢舎中の囚人七、八十人の首カセや鎖を解いてやって、これにも質したが知る者はない。
ただ三日目に、柴進の眷族十数人が、発見された。思いがけない林の中で、急造らしい板屋葺の監房に押しこめられていたのである。ここには番人どももまだ残っており、その中のひとり藺仁という老吏から端なくこんなことが聞かれた。
「……さよう。なにさま、思い当りがないでもございませぬ。……あれはもう七日も前、ここのお城もあぶないような噂でしてな、わしらもオロオロしている日のこと。お奉行の腹心がたが、大牢から引きずり出したとみえる一人の囚人をしょっ曳いて、林のおくの方へ入って行きましたのじゃ。ヤレヤレ斬られるのだナと、怖い物見たさで、そっと遠くから見ておりますると、その辺はひどく昼でも陰気な場所でしてな、きっと首を斬るのが不気味になったのかもしれません……その衆たちで何か囁いていたと思うと、近くにあった空井戸の中へ囚人を抛り込んで、そのまま立ち去ってしまいましたのじゃ。……へい、それだけのことでござりますが」
「それこそ」と宋江は、息ぜわしく「……七日も前か。それを見たのは」
「へい、ひょっとしたら八日前か。でなければ、九日前だったかもしれません。なにせいご布告を知るまでは、生きた心地もございませんでしたで」
「空井戸といったが、深さは」
「それがえらい深い空井戸で、八、九丈もございましょうか」
「水はないな。……いやしかし、もはや柴進どののお命はなかろう。食べ物がないだけでも」
「いえ、だんなさま」と、老吏はこのとき初めて自分の良心を公にいえるよろこびに慄えながら言い出した。「……まだまだ、そこはわかりませぬ。死んでいるとはかぎりませぬ」
「どうして」
「じつはその、多年獄吏をやってきた罪ほろぼしにもなろうかと、獄飯やら何かの食い余りがあるたび、紙にくるんではそっと空井戸の底へ投げやっておりましたんじゃ。……が、それもお城の落ちた日からはそれどころでなくなり、以後はやっておりませんでしたがの」
するとそのとき、頓狂な声の下に、呉用の後ろから躍り出して、言った者がある。
「宋司令。なにをグズグズしてるんだ。そんな老いぼれ相手に、首を傾げてばかりいたって始まるもんか。あっしを空井戸の底へやっておくんなせえ」
「や、李逵か」
「こんどのことの発頭人はこの李逵だ」
「なお、その自責を忘れぬだけは賞讃にあたいする。しかし」
「しかしもくそもねえ。底へ行って見届けるのが一番早ええじゃありませんか」
「いやその方法だ。どうして八、九丈もある地底へ降りて行けるかの」
「まかしておくんなさい」
李逵はどこかへ飛んで行った。と思うと手下の兵に、大きな竹籠や麻縄をかつがせて再び林の奥へやって来た。──すでに牢番藺仁のみちびきで、呉用、宋江、そのほかも空井戸の口をめぐり合い、中を覗いて、その底知れぬ深さに暗澹と顔見合せている態だった。
「さ。退いた退いた!」
李逵は意気込んで言ったものである。
「やいやい。そこらの手頃の樹を伐り仆して来い。そして空井戸の上へ三叉を組め。それへ竹籠の麻縄をかけるんだ。……なに、籠をどうするのかッて。べら棒め、飾り物じゃあねえ。俺がその中へはいって井戸の底へ降りて行くんだ。黙って俺のさしず通りにしろい」
いうやいな、李逵は衣服をかなぐり捨て、顔より真っ黒な丸裸となって、はや竹籠の中にうずくまる。──それを見ると、みんなクスクス笑った。黒面猿がチョコンと揺籃に乗ったような恰好に眺められたからである。しかし宋江のみは、彼にしても罪を償わんとする責任感はかくも強く持っているのかと、ちょっと瞼を熱うして。
「妙案妙案。出来したぞ李逵。──だが百尺の地底からでは声も合図もとどくまい。その辺へ銅鈴を二ツ三ツ括り付けてゆけ。銅鈴が鳴ったら上から綱を引き上げてやる」
「合点だ。たのんまッせ」
はやスルスルと綱は下ろされた。そして降りて行けども行けどもまだまだ底へは達して来ない。そのうちにぶらんと途中で止まってしまった。李逵は仰向いて呶鳴ッた。
「やアーいっ。どうしたんだよウっ」
すると、上では、おそろしく遥かな声で。
「一ト休みしてろやアい。綱が足りなくなったから、いま取りにやったんだよウっ。──繋ぎ足したらまた下げるからなアっ」
やがてやっと、李逵のお尻がどすんといった。──李逵は竹籠を這い出し、そこらの冷やっこい岩肌を撫でまわした。案外ひろい。水溜りもある。するうちに、ぐしゃっとした物に触った。人間にちがいなかった。恩人柴進さまか。大旦那、大旦那と、耳のそばで呼びつづけてみた。
返辞はない。しかし、かすかに呻いた感じがする。
しめた。李逵は夢中になった。吉報吉報。
彼は竹籠の中へもどって銅鈴を鳴らした。スルスルスルスル。えいや、えいや。上へあがるやいな彼はあたりへ向って黒裸の両手を宙へ振ッて報告した。
「柴大人は生きてるぞ。まだ少しばかり体が温かい!」
「では、いたのか。やれ、天はまことの人を殺しはしなかった」と、宋江以下、どよめきを明るくして「──ならば李逵、ご苦労だがもう一度降りてくれ。そしてこんどは柴進どののお体だけ竹籠に入れ、きさまは後から上がって来い」
「ようがすとも。造作はねえ」
勇躍、彼はふたたび井戸の底の人になった。そしていわれたとおり、柴進のからだをそっと竹籠の内へ抱え入れて、銅鈴を振鳴らす。鈴は、りりりん……と暗黒の地底を残して微かな光明の一点へさしてセリ上がって行く。それを仰ぎながら李逵は心から快哉を叫んだ。──ああこれで俺の過失も柴の大旦那の一命だけは拾って幾分かはまず償い得た、と。
一方、空井戸の上ではその騒ぎも歓びもただならなかった。
竹籠の引上げられる前に、宋江は人を走らせて、医師をここへ呼び迎え、すぐ柴進の体を診させた。
「……この脈搏なら」
と、医者は言った。一同いささかほっとする。
五体は傷だらけだが、致命的な深傷はまずないという。まなこは一度開いたが、またすぐ瞼を閉じてしまった。もとより気息もあるやなし。──打ち囲んで案じる人々の顔は、医師の一挙一動、また芥子粒ほどな銀丹(神薬)をその歯の間にふくませて、うまく喉へ落ちるかどうか。それさえ固唾を呑む思いで、時たつのも忘れていた。
いや忘れたのはそれだけではない。まだ井戸の底に残っている李逵のことまですっかり紛れ果てていた。気がついた宋江が、
「そうそう、鈴も竹籠と一しょに上がってしまっている。さだめし李逵が喚いているにちがいないぞ。早く上げてやれ」
と手下どもへ注意したので、急に、ああそうだったと、笑いどよめいたことだった。そこでさっそく次の段取りにかかったが、ほどなく空井戸の口から飛び出して、ここへ立つが早いか、かんかんになって怒ったのはその李逵である。半刻(一時間)の余も井戸の底から上へ呶鳴りつづけていたらしく、精も根も切らして泣きベソを掻いていた焦躁が声の嗄れにも分って憐れにもまたおかしかった。
「やいっ、何がおかしいンだ。ふざけやがってよ。俺を忘れるッて法があるか。俺だって命は可愛いいんだぞ。ひでえや。宋先生も呉用軍師もここにいながら」
「まあまあ李逵、そう怒るな。おまえは人いちばい達者だから、つい安心されるのだ」
「どうせそうでしょうよ。柴大人のお命が黄金なら、俺なんざ、屑鉄だ。虫ケラ一匹とも見られていないにちげえねえ」
「ひがむな、黒旋風の名が泣くぞ」
「もう井戸の底で、さんざッ腹泣いちまッたい」
「わはははは。いや勘弁しろ勘弁しろ」
この日、柴進の療養に万全をつくす一方、城内の倉庫から山の如き財宝を取出させた。すべてこれは先に官へ没取された柴進と柴皇城家の物である。それを奪り返し、また併せて武具馬具などの分捕り品を二十余輛の車馬に積ませて、
「李逵、雷横、戴宗、公孫勝、そして新入りの湯隆の五名は、ひとまずこれを送って梁山泊へ帰れ」
と、あくる日、先発させた。
そのうえで、宋江と呉用とは、高唐州城の処理を終った。窮民には穀や物を施し、旧高廉の部下で、悪評の高い二、三を捕えて町中で斬に処し、また囚われていた柴家の眷族や、病人の柴進は、これを車仕立ての内にいたわり乗せて、やがて全軍をそろえ、凱歌をのこして、山東梁山泊の大寨へ、意気揚々ひきあげて行ったのだった。
泊の山上一帯は、これを迎えるに、どよめき立って、歓呼をあげ、さらに当夜、また、翌日へかけての、慰労の宴など、お祭り気分に染まったのもまたいうまでもない。
柴進のからだも日ごとに元の健康に復し、総統の晁蓋以下は、あらためて、彼にこの累難をかけた罪をふかく謝した。しかし、こうなったのもまた天意によるかと、柴進はあえて咎めず、かえって一同の義気を謝し、一同に請われるがまま、大寨の見晴らしのいい所へ建てられた一邸にそれからは住むこととなった。げにも浮雲の人生、人事測り知れないものがある。
禁軍の秘密兵団、連環馬陣となること
ここは開封東京の首都、汴城の九重。
かつての殿帥府ノ大尉(近衛ノ大将)高俅は、さらに人臣の位階を極めていまでは大宋国総理の地位にあった。──もとはこれ市井の間漢、一介の鞠使い高俅の出世したものである。人事測り難い一証はここにもあった。
景陽宮の深殿は、ここ燿く祗候ノ間だった。出御の金鈴がつたわると、ほどなく声蹕の鞭を告げること三たび、珠簾サラサラと捲き上がって、
「高俅。何事の急奏なるか」
と、そこの玉座から微妙道君風流皇帝、宋朝八代の天子徽宗のまろいお声であった。
「はっ。……」と高俅は伏して。「一ときたりと打ち捨ておかれぬ大事ではありますが、叡慮を騒がし奉るだん、なんとも恐懼にたえませぬ」
「まあ、申してみい。またも禁軍の輩の私喧嘩か」
「さにはあらで、天下の乱兆にござりまする」
「乱兆? それは容易ならん沙汰じゃないか」
「かいつまんで申し上げまする。昨暁来、高唐州及び東昌、寇州の地方より頻々たる早馬や落去の地方吏が門を打ち叩き、梁山泊の賊徒のために、州城は蹂躪され、国財もことごとく奪われ、あまつさえ州の奉行高廉は虐殺されたとの報らせにござりまして」
「なに高廉。高廉といえば、たしかそちには、いとこにあたる者ではないか」
「さようにござりまする。──が、縁者の一個が殉職などは取るに足りません。憂うるところは、これが天下に及ぼす騒乱の緒をなしては一大事と存ずるのです。すでにその水泊の賊徒は、先には済州で官軍に手抗い、江州無為軍でも大騒擾をおこし、以後いよいよ、賊寨を強大にしておるもの。いまにして平げずば、国の大患となりましょう。伏して、ここに聖断を仰ぎ奉る次第にございまする」
徽宗皇帝は、びっくりしたようなお顔だった。──今も今とて、宮中の宣和画院で、当代の帝室技芸員格の画家を集めて、天子ご自身も絵絹を展べ、美しい侍嬪に絵の具を溶かせ、それらの中でご自慢の絵筆に羞魂をうちこんでいたところなのである。──このたのしい平和に盈ちた地上のどこにそんなあぶないことが起っているのかと、むしろ不審にたえぬらしい、おん目をしばだたかせているのだった。
「たいへんだね、それは」
「まことに容易ならん異変にござりまする」
「高俅、どうしたらいい。思うところをいってみい」
「良き将軍に、勅をお降し賜わって」
「良き将軍には、誰がよいのかね」
「目下、汝寧におる呼延灼に如く者はございません。──彼は河東における開国ごろの名将呼延賛の末裔で、兵略に通じ、よく二本の赤銅の鞭をつかい、宇内の地理にもあかるく、梁山泊征討の任には、打ってつけな武人かとおもわれます」
「ではすぐ枢密院へ、朕の旨を申し、汝寧からその者を呼びよせい」
汝寧の地はかなり遠い。なれど俄な勅を拝した呼延灼は、ただちに任地から馳せ上り、着いた日、まず、高総理の衛門府に駒をつないだ。
「ようぞ早くに」
と、高俅はみずから迎え、このたびの大役と聖旨をつたえ、
「足下は、人も知る開国の功臣たる将軍の玄孫だ。再び、朝野に名をあげ給え」
と、その夜は公邸で歓待し、翌日、伴って徽宗皇帝に拝謁の儀をとらせた。
呼延灼をごらんあって、徽宗もたいそう頼もしがられた。風貌、物ごし、音声、まさに万夫不当の骨柄である。「よき手柄せよ、勝利のあかつきには、さらに重賞せん」と仰せあって、とりあえず彼への門出祝に、
と号する秘蔵の名馬を下賜された。
烏騅とは、総身、まるで烏の濡れ羽色していたからで、蹄だけが白かった。馬卒はこれを〝雪踢り烏騅〟ともいっていた。
「総理。あなたのご推挙を感謝します。まことに今日は面目をほどこしました」
「なんの。貴公の面目はこれからでなくてはならん。ところで呼延氏、さっそくご発足だろうが、準備として、何か求められるものはないか」
「大いにあります。聞説、敵の梁山泊も昨今では一大強国ほどな兵備もあるよし。討つにはまず士気の上におく大将、次に装備で」
「その将たる器の者のお心当りは」
「目下、陳州練兵場で指揮官をしておる韓滔。これは百勝将軍とよばれていますが」
「ほかに」
「もうひとり、あだ名を天目将軍とよばれ、今、潁州の練兵指揮をやっている彭玘。この二人を左右の腕にもてば、たとえ水泊の草寇など何万おろうと、不日、きれいにかたづけてごらんにいれる」
朝を退出してきた晩の総理邸での話だった。高俅と彼とはあくる日、禁軍の練兵場で閲兵をすまし、その足で枢密院へ行き、すぐ軍機の相談となったあとで、
「──陳州の韓滔、潁州の彭玘、その二軍人へ、ただちに召致の内命を発していただきたい」
と申し入れた。そしてこの両名もやがてまもなく着京した。あとは兵数如何。また装備如何。それを余しているのみだった。
兵員は呼延灼として、騎兵三千、歩兵八千、輜重工兵二千五百、伝令及び物見組約五百。すべてで一万四千人を要求した。
「よろしい。むしろ少数に過ぎはせんか」
と、高俅はちっとも驚かない。だが一驚を喫したのは装備の方の請求だった。
よろい三千領、かぶと五千箇、かたな、長槍三千余本、鉾、なぎなた五千丁、弓、楯などは数知れずだ。このほか火砲、石砲、戦車。さらに禁軍武器庫に眠っていた大量な〝網鎖の馬鎧〟までぞッくり装備に積んで行った。
そしてこの呼延灼、韓滔、彭玘の三大将軍がひきいる三軍、あわせて一万四千の豼貅(猛兵)がいよいよ都門をたつ日の旺な光景といったら形容のしようもない。凌雲閣上、天子もみそなわし、衛府以下八省の官人、満都の群集も堵をなして、花を投げたり爆竹を鳴らしたりした。あわれむべし、ここの庶民は、梁山泊が庶民の味方とは何も知っていない。ただ聞くがまま残忍無比、鬼畜同様な乱賊とのみ聞いている。
このあいだに、初春をまたいで、野は残雪まだらに、若草の浅みどりを呈していた。大陸の霞は渺として果てなく、空ゆく飛鴻はこれを知らなくても、何で梁山泊の油断なき耳目がこの情報をつかまずにいようやである。
「……ま、ご意見もいろいろ出たが、こんどは一州一県の田舎城を揉みつぶすのとは、ちとわけが違う。熟慮を要そう。慎重が要る」
今日もここでは評議だった。大寨の聚議庁である。晁蓋、呉用、宋江──おもなる領袖と山将のほとんどが顔をそろえている。
「軍師。さっきから再三ここで、軍師軍師と声をかけてるのに耳をすっぽかしておいでなさる」
「李逵か。なんだ」
「禁門軍の一万や二万がなんですえ。あっしを先鋒にやっておくんなさい」
「気のどくだが、きさまの二丁鉞斧ぐらいではの」
「歯が立たねえッていうんですか」
「こんどの歩騎総指揮官は、河東の名将、呼延賛の玄孫灼だ。左右両翼の将軍も名だたる人物。うかとはかかれん。宋先生には、まだご発言もないが」
「いうほどな名智も出ません。しかし待つよりは、野戦に出る。そして野戦は正しく相手の力を見せましょう。一応、そう考えられるが」
「同感です。ならばこの戦法と配列ではどうでしょう」
呉用がさいごの案を出した。
それによれば、まず霹靂火の秦明の隊を先鋒に出す。つづいて豹子頭の林冲、小李広の花栄、一丈青の扈三娘、病尉遅の孫立──などを二番三番と順次に置く。
これが、車輪となって、入れかわり立ちかわり、敵陣の先頭を打つ。
みだれに乗じ。
右翼五将の五隊。
左翼五将の五隊。
つまり十隊二陣が鶴翼となって敵をつつむ。そしてまたべつの二隊は舟軍として水路を行き、敵の想像もなしえぬ地点から上陸して虚をさらに衝くという兵略だった。
大寨の泊兵はただちにこの兵図式のもとに泊を離れて遠く平野に出て行った。見れば、かくあらんと、敵は察知していたかのようである。柵を打ち、木戸を設け、地雷を伏せ、堅陣厚く、
「来たか」
と、剣戟の白いさざ波立てて、一瞬は揺らいだが、びくともしたさまではない。
対陣半日。はやくも気みじかな秦明は、馬を躍らせて、敵前へ立ち、
「ここらは生きた人間のいる所。なまぬるい都の風は吹いておらんぞ。何しに来たか、貢税肥りの盗ッ人めら」
「やあ、賊の一匹か」
と、官軍三大将のひとり韓滔は、その怒りを白馬に乗せ、くろがねの鎧、朱纓の馬かざり、手に長槍をかまえて、
「うごくな、賊」
と突ッかけて来た。
将と将との一騎討は、賭け物である。賭けにはそれ以外な者の手出しはゆるされない。兵はその間、かたずをのんで勝負ノ場をただ見まもっているだけなのだ。声援として折々には両軍どッち側からも、わあああ、という喊声だけは颷風のように巻きあがる。
勝負は果てしなく見えた。
いや韓滔には、百勝将軍のあだ名もあるくせに、どうもそろそろあぶなく見える。りんりたる汗が額から眼にながれている容子など、こころもとない。
「韓滔、さがれ。その相手、おれがもらった」
代って出たのは、主将呼延灼だ。
白蹄烏毛の名馬、〝烏騅〟が泊軍の目をひいたこというまでもない。
二番手にいた林冲はそれを見るなり惚れ惚れした。「あの馬を人手には」と思ったのだろう。彼が得意とする丈八の蛇矛が馬首ひくめて進んで行ったかと見るまに、
「秦明、すこし休め」
と、灼の前にたちふさがった。
「おおっ、むかし禁軍にいた豹子頭か。あわれや、泥棒仲間へ落ちたおちぶれ者」
「なにを、廟堂の冷や飯食いめ」
発矢。
空を切った閃光に何かが鳴った。
しなやかなこと、鯨のヒゲの如き薄銅の長い二本の鞭だった。鞭には西域模様の金銀象嵌がちらしてある。
これを使う妙技は天下呼延灼あるのみなので、不思議な武器と相手に立つものはみな初手に大いに惑う。また防ぎようも見いだせない。──ひゅっと鳴って伸びるとおもえばスッと引く。あるいは輪をなし、あるいは波を描く。──林冲もいくたびとなく蛇矛をからめ取られんとした。しかし、灼にすれば、敵の蛇矛も息つくひまもないものだった。相互、炎の息となっている。
ところへ、第三の控え、花栄が陣をくり出して来た。そして林冲に代ったのである。林冲は一ト息つく。それをしおに、呼延灼もまた、
「おととい来い」
と、林冲をうしろに、自己の中軍へ消えこんでしまった。無視された花栄は癪にさわって、「……卑怯」と、呼延灼の姿を敵の中軍近くまで追っかけて行ったがもう見えない。寄りたかって来るのは、打っても張合いのない雑兵ばかりだ。
「木っ葉どもめ、花栄さまのお通りだ、そこ退け、そこ退け」
蹴ちらしつつ自陣へもどって来る途中だった。はしなくも燦然たる一将を見かけた。天目将軍の彭玘にちがいない。三尖刀と称して四ツの孔に八つの環がさがっている大刀に血のしたたりをみせ、千里駿足の黄花馬をせかせながら、
「ざまを見さらせ!」
と、逃げなだれた泊兵の勢を後目に自陣の方へ帰りかけるところだった。──それを見ると、休んでいた林冲がまた馬を躍らせて来て。
「待った。彭玘」
「や、うぬは」
「林冲」
「げッ、あの豹子頭か。高俅大臣ににらまれて、滄州へ流され、終身刑で刑地にいるはずの、あの林冲かよ」
「悪大臣の番犬めら。驚いたか」
「しゃッ、この日蔭者」
「日蔭者、痩せてはおらんぞ」
「高総理へよい土産だ。かッ、そのそっ首を」
「しゃらくさい」
ふたりは花栄を入れなかった。馬と馬をめぐらし合い、閃々の光芒をまじえ合った。
あたりの残雪は黒い飛沫となって、ふたりのよろい、かぶと、またその面までを胡麻のようにした。
火を降らすこと二十合、また三十合、いずれが劣るとも見えない。そこへあだかも騎乗した飛天女のような戦袍の裳、袂をひるがえして、さっと割って入って来た女戦士がある。
「オ、一丈青か、あぶない、あぶない」
「いえ、林将軍。おさがりください。私の二刀がひきうけます」
「さまでいうなら」
と、林冲も花栄もパッと馬を一ト退げ退げて、
「久しぶりだ。扈三娘の双刀のさばきをここで見物しようか」
と、敵をゆずった。
たかが女とみていた彭玘は案外な思いにあせりを現してきた。しかもである。いつのまにやら勝負ノ場にはぐるりと泊兵ばかりが遠巻きにしていた。第五番手の病尉遅もすでに手具すね引いてこれへ来ていたのだ。「これはまずい!」と、ややうろたえ気味な彭玘のからだが隙を作った。間髪を入れず、一丈青の一剣が飛んだ。それはサッと彭玘の交わすところとなったが、つづいて虹のごとき紅錦の輪索が彼女の手を離れた。錦の蛇が彭玘の首にからむかと見えたのである。せつな、病尉遅の孫立が、
「それっ!」
と、手下の兵へ言った。その声と、どうっと、馬からころげ落ちた彭玘の地ひびきとは、ほとんど、秒の差もなかった。
「捕った。さいさきは吉いぞ。官軍の一将彭玘はいけどったぞっ」
ここでは万雷のような勝鬨が上がった。とりことした彭玘は、ただちに泊兵の手で後陣へ遠く送りこまれる。
ただし、勝ち色に色めいたのは、全く、ここではのことだった。ほかを見れば味方の影は惨としてどす黒い。鶴翼も車掛りの陣形もはやあったものではない。支離滅裂だ。官軍の精鋭らしい中軍は、深く泊兵の陣を裂いて割りこみ、あたりに敵なき猛威をふるいぬいている。
「ああ、これはいけない」
林冲も病尉遅も、おもわず嘆を発した。
「こっちの中軍にも、宋先生、呉軍師、そのほか、日頃の手だれもたくさんいるのに、まるで手込めにされているさまだ」
「どうしたことだ。この崩れは」
すると、先にとりこの彭玘を送って行った一丈青が、馬をとばして引っ返して来た。そしていうには。
「全軍、あとへ帰って中軍をかためてください。こう分散していれば、個々みなごろしになるおそれがあります。呉軍師の急命令です」
「軍師もやきが廻ったのか。いまさらここで陣替えとは」
「でも、まったく思いもよらぬ奇計が敵にあってはぜひもありません。敵の騎兵隊です。敵には特殊な騎兵隊〝連環馬軍〟というのがあって、その三千騎が一せいに馳け入って来たのです」
「なに、なに。連環馬軍?」
「さしも泊中での豪傑たちさえ、それには当りうる者がありません。雷横、石秀、孫新、黄信、いずれも傷を負い、蹴ちらされた兵といったら数えきれず、あの黒旋風の李逵までが」
「李逵までが」
「血まみれとなって、後陣へかつがれて行きました。ここの兵は少数、あなた方も、ひきあげねばあぶないと、呉軍師のご心配です」
「さても口惜しい。連環馬軍とはいったい何だ。まさか鬼神の騎兵隊でもあるまいに」
ともあれと、ここの者もいそいで中軍の陣地へ馳け争ッて行った。だが、中軍のいた地、すでに中軍の陣地でない。
見えるかぎりのものは、残雪の泥土と、るいるいたる死屍だった。破れた旗、いたずらに空しき矢柄、折れた鎗、すべては泊兵の残骸ではないか。そして味方の影は、さらに遠くへまで退却しているのだ。
しかもこの大打撃を与えた官軍の大蹄団は、すでに潮の如く凱歌と共に自陣へ引いてしまったものとみえる。腥風いたずらに寒く、曠野の夕風は青い五日月を無情の空に研ぎすましているのみだ。
わずかに、宋江と呉用とは無事をえていた。しかし、敗陣、寂として声なしの有様である。林冲、秦明、病尉遅などは、なぐさめる言葉もなく、ただ残念そうに、その前で首を垂れていた。
「軍師、勝敗は兵家の常とか、敵を知れば、また勝目を取る智略も出ようというものじゃございませんか。宋先生も、どうぞお心をとり直しなすって」
「林冲。よく言ってくれた。しかしこの敗れは梁山泊はじめての傷手だ。みなにすまん」
「兵略の誤算でしょうか」
「いや、一に連環馬軍の機動力を知らなかったことにある」
「いったいその馬軍というのはどういう性能の騎兵なので?」
「馬自体が鉄甲の戦車だといってよい。三千の騎兵を横列に敷き、三十頭ずつを一ト組みに、鉄の連環でつなぎ合い、自信満々、二十隊三十隊で押してくる」
「それだけなら何も」
「そうだ、それだけなら驚くに足らん。ところが、討ちとった馬を調べてみたら、馬の一頭一頭、その全身は細かい網鎖でつつまれ、すべて蹄のほかは鎧われておる。騎上の兵もまた然りで、面にまで薄金の面頬という物をかぶり、全身、矢も立たぬ不死身の武装──。どうもそんなぜいたくな武装は、禁軍ならでは三千もの武者にほどこし難い。それに比べれば、わが泊兵のいでたちなどは、素裸でたたかっているのも同然だ。たたかえばたたかうほど、連環馬軍は功を誇り、味方はかばねを積むばかり……」
「へえ……」と、初めて知った敵の装備に舌を巻いて「それじゃあまるで鉄仮面をかぶっている動物と素手で取ッ組んでいるようなもの。何かいい作戦はございませんかな」
「ない。まったくない」
ぽつんと、言ったのは呉用である。呉用の口からこれを聞いては、もうお仕舞いかと、林冲、秦明ばかりでなく、幕舎のとばりに影を投げている者、みなただ腕をこまぬいて、黙然たるばかりであった。そのとき、
「おう」
と、ふと思い出したように、
「一丈青。とりこの彭玘はどこへおいた?」
と、宋江がうしろを見てたずねた。
「彭玘の身でございますか。それなら彼の疎林のうちに、きびしく番をつけて、どう暴れても、逃げることはないようにしておきました」
「そこへ案内してくれんか」
「斬るのですか」
「いいや」と、宋江は怪しむ人々の目へ言って、また呉用にむかい。「軍師、あのとりこの処置は、宋江におまかせ下さるまいか」
「おう、どうなと」
「一存でちと試みてみたいことがあります。では一丈青、彭玘のおるそこの疎林へ、みちびきを頼む」
と、彼は女戦士扈三娘を先に、ひとり幕舎を出ていった。およそ捕虜を見るなら、兵に命じて、曳かせて来るべきが作法である。人々はみな宋江の意に不審をいだいた。血迷われたナと、その後ろ姿へ、ひそかな眼をやった者もなくはない。
さらに注ぐ王軍の新兵器に、泊兵も野に生色を失う事
彭玘はおどろいた。また疑った。
捕虜の身だ。殺されるものと観念しきっていたのである。──ところが、これへ来た宋江は、彼の縄を解いてやり、しかも礼を低く告げたのであった。
「将軍、さだめし心外でございましょうな。天子の軍をひきいて下りながら、武人として、こんな辱めに会われては」
「ぜひもない。時の運だ。武将にだって、運命はまぬがれ得ん」
「ですが、ご安心なさるがいい。われらはただ殺戮を好むものではありません。またあなたのような有能な士をいたずらに辱めようとも思いませぬ」
「待ってくれ。わしは擒人だぞ。なんでこんな待遇を君はとるのか」
「元々のこの宋江は、世間の凡の一民です。無事なれば無事で暮らしていたかったのだが、たまたま、世路の難に会い、しばし水泊に拠って、その仲間のうちで、種々雑多な人間と知りあうことになりました。……そして彼らの生い立ち彼らの受難を聞けば、みなこれ、根は素朴善良な野性の民にすぎません」
「ちッ。なにが善良なものか。梁山泊と名のある賊の集まりが」
「いや彼らでなくとも、人たれにも、魔心はあるものです。ただ彼らは賊心を抑える自制に弱く、反骨の方はやたらにありすぎる。そのうえにです。中央から地方末端の官吏にいたるまでの悪政が彼らを闇へ闇へと追いつめていた。──いうなれば、梁山泊という現代の悪の巣は、宋朝政府の腐敗そのものが拵えたといっていい」
「やめてくれ。この彭玘は天子の軍人だ。くそおもしろくもない」
「お聞きづらいでしょう。私とて天子そのひとに恨みもなし、敵対の意があるでもありません。その御方をめぐって天日を晦うしている奸臣佞吏、世を蔽う悪政の魔魅どもが敵であるだけです。それさえ打ち払うなれば、いつでも水泊の巣を焚き、頭をさしのべて、世に罪をわびる覚悟でいるのです」
「……ふウむ。ことばは立派だが?」
「信じて下さい。いやどう言ったってこれはお疑いだろう。ですからあなたを梁山泊へ送ることにします。しばらく泊中にいて、そこの男ども、組織、規律を目で見てくだされば自然判断がつくと思う。いつかまた、その上でお目にかかろうではありませんか」
こうして宋江はその夜ただちに彭玘の身柄に兵を付けて、前線から梁山泊へ送り込んでしまったのだった。
これは宋江らしい処分だが、しかし呉用そのほか、当夜の陣営に、髪をそそけ立てていた泊軍の領袖たちの間には、
「勝ってもいないこの敗け軍に、宋先生も、また、手ぬるいことをやってるものさ!」
と、必然な不満や嘲笑があったのは仕方もない。なにしろ、またもや次に敗北でも重ねようものなら、梁山泊の陸の一線はすでに危ないと観るしかない実状なのだ。
早暁。
ここの陣立てはあらたまった。
きのうに懲りたので今日はいちばい重厚な構えで〝五雲十風ノ陣〟が組まれた。ひだりは林冲、一丈青の隊伍。みぎは花栄と孫立。まん中の先鋒隊が秦明である。
また、それを守る衛星軍としては。
随所に二百人ずつ十組の十風隊が、軍師呉用の指揮一つで変貌自在に敵へあたるという陣形だった。──が、やがてのこと──これほどな堅実さも、ほとんど、木の葉を並べたほどにも値しないことがすぐわかった。
ドドドドッ……遠くで起った地鳴りと共に、味方の頭上には火箭、石砲、薬砲の巨弾が、雨となって落ちて来る。──こういう新兵器は朝廷の禁軍ならでは持っていないもので──実際に見舞われたのも初めてなほどだった。泊軍はただなだれを打ち、はや累々の死屍を出して、
「畜生っ。卑怯だぞ」
「これじゃあ戦にならねえ。官軍め。近寄って来い」
と、呶号し合ったが、しかしこれが官軍の戦である。いかに吠えてみたって始まらない。
「ああ、これはいかん」
宋江は、慄然とした。
さんざんな砲口の吠えが歇んだと思うと、こんどは、精鋭な禁軍の弓箭陣が矢の疾風を射浴びせてくる。さッとそれが分れると、次にはきのうも見た〝連環馬陣〟の三千騎が、雲のごとく、不死身をほこる吶喊を起してきて、こなたの為すなき混乱の中を、戦車にも似た猛威で馳け巡り、また蹂躙し抜く。
ついにまた、この日も泊軍は、総退却などという程度でない滅茶苦茶な逃げを余儀なくしてしまった。
それもである。──官軍の呼延灼と韓滔の二大将に追いまくられ、あわや宋江や軍師呉用すらが、あぶなく、殲滅の危機に見舞われかけたほどだったが、
「軍師軍師。宋先生。逃げ退きならこっちだこっちだ!」
と、瀬戸の葦間から李逵と楊林が救いに現われたので、
「おっ、水軍は来ているか」
と、水岸へ目がけて走り、そこに船を並べていた味方の李俊、張横、張順、阮の兄弟らに助け取られ、いちはやく船へ移るやいな、鴨嘴灘(梁山泊の水寨)のほうへ向って、からくも逃げのびられたものだった。
ふりかえれば、官軍の連環馬軍は、なおも水路の岸に沿って、追ッかけ追ッかけ、執拗に乱れ箭を飛ばしてくるし、しかも船に収容された泊兵はいくらでもない。陸地にはまだ右往左往の捨てられたる味方の影が諸所諸方に望まれる。──宋江は惨として面を蔽った。これは梁山泊始まっていらいの大惨害、また、大危機ともおもわずにいられなかった。
いつも晴天の日ばかりはない。梁山泊にも泣きッ面を見る日はある。という戒心を彼らは今やいやというほど、どの顔にも顰め合っていた。
「なあに! これしきのことに」
「極まり文句だが、勝敗は兵家の常。負けたのは、俺たちの腕じゃねえ。敵にはあって、こっちにはねえ装甲馬だの火砲のせいだ」
「そうだとも! 馬に鎖かたびらを着せた三千騎の連環馬軍さえぶち破る策を考えれば──」
と、お互い、なぐさめ合ってはいたものの、泊中をつつむ悲愁の気、宛子城の一帯をおおう敗色の深刻さ、それだけは、どうにもならない。
戦野へくり出した六千余の山兵のうち、帰りえた者は三分ノ一にも足らず、あまつさえ、頭目のなかの林冲、雷横、李逵、石秀、黄信らまでが、みな負傷して、かつぎこまれて来るという惨状なのだ。
「傷者はみな山へ上げて養生させろ」と、総統の晁蓋は、こんなときこそと、おちつきを示して、
「──宋先生も、おつかれでしょう。こんどはてまえが代って戦闘に当りますから、しばらくは聚議庁で、お休みになってはどうで?」
「とんでもない。敗軍は私の責任だ」
宋江は応じなかった。──事実またそうしてもいられない。次の日には、すでに水泊の対岸には、官軍の旗がいたる所に見え出し、そして埠頭茶屋の石勇、時遷、毋大虫おばさんなども、みな敵に追われて逃げ渡ってくる始末。──まさに、ここ梁山泊も、芦荻一水をへだてるのみで、ぐるりと、彼方の岸は、官軍の猛威に包囲され終った形とはなってきた。
ここに。──この捷報は早くも開封東京の汴城の宮門へ飛脚されたので、天子徽宗は大いによろこばれ、高総理に聖旨をくだして、御感の状と、黄封の宮廷酒十瓶とを、征地の慰問に送らせた。
勅使いたる──
と聞いて、将軍呼延灼は副将の韓滔をつれ、みずから立って、これを陣門に出迎え、かつ戦果の報告では、
「賊どもの生け捕り五百余人は、不日なお宋江、呉用、晁蓋らの賊首を搦め捕ッた上で、あわせて都へ送り、都門大衆の中において、首斬ッてごらんに入ればやと存じております」
と、誇らかに述べた。
「祝着です」と勅使も、讃嘆を惜しまなかったが──「ところで、三将軍の内、彭玘将軍ひとりがここにお見えでないが?」
「さ。それだけが残念なので、……序戦、功を急いで深入りしたため、惜しいかな、賊に生け捕られ、梁山泊に繋がれています」
「や、あの天目将軍が」
「いや必ず助け出してお見せする。ただしかし、梁山泊の地勢は、周囲すべて湖なので、陸づたいには攻めかかれん。……で、ご帰京にさいし、総理府へひとつお願いの儀があるが」
「何ですか。お望みとは」
「禁軍武器庫の副史で、かつ、砲手師範を兼ねている凌振──一名を轟天雷──ともいう廷臣がおります。これに彼が望むところの兵士と砲をさずけて、急遽、戦地へおつかわし願われますまいか。さすれば、賊巣の根絶は、易々たるものにござりまする」
勅使は、帰京するや、さっそくこれを総理高俅につたえ、高俅は帝のみゆるしのもとに、衛府、および禁軍武器庫、それぞれの文官武官に命じて手順をとらせた。
すでに宋朝末には、火箭、石砲のほか、火薬による爆雷術なども発達しつつあったのか。ここに召出されて、即刻、征野へいそいで行った轟天雷凌振の軍隊をみるに、その装備には驚目される。
砲型は三種あり、その第一が風火砲、第二が金輪砲、第三が母子砲。それの砲架は脚立式で、砲身は台座に乗って、どっちへもうごく仕掛けになっている。
そしてこの砲兵隊の半数は、輜重馬車、幌馬車、鉄甲車などだった。戦力、思うべしである。──意気揚々、前線につき、待ちかねていた呼延灼をよろこばせ、その大歓迎のもとに、当夜は陣中で、酒盛りが催された。
あくる日、凌振の手並は、実証された。──湖畔からつづけさまに、轟然、三発の砲口が鳴ったと思うと、二発は水面で水柱をあげたのみだが、一発は鴨嘴灘をこえて、水寨のやぐらを粉砕した。
それからは、命中率もだんだんに増してゆき、夜に入るや、泊中二、三ヵ所に火災が望まれ、終夜、水も燃ゆる紅だった。
「はははは」と、呼延灼は小手をかざして笑った。
「凌砲手。さすがだな。賊の巣は、四面が水、いまに逃げ場を失うだろう」
「いや島は広そうだ。いずれ頃合いを見て、押し渡らねば、みなごろしには出来ますまい」
「どれ、いまのうちに、兵糧でも」
言っているところへ、一角の葭の洲から、物見の兵が「──大変だっ」と、急を告げて来た。暁闇の靄のうちから、泊兵の水軍が舳艫をならべて、これへ接岸して来る模様だ──と絶叫する。
「待っていた」と、呼延灼は言った。「──どうせ、やぶれかぶれと、打って出て来たにちがいない。こっちは船手不足のところ、渡りに船だ。船を分捕れ」
水陸入り乱れての接戦は小半日に及び、大軍の壁にはばまれた賊の水軍は、またぞろ、快艇三ぞう、小舟十七、八そう、大船一隻をそこへ捨て、あと数十そうは、影をみだして、水寨の方へ逃げはじめた。
「今だ!」
と、凌振は思った。砲手の働きは、味方の掩護でしかない。自分にしろ梁山泊を実地に踏んで賊首の二ツ三ツは都の土産にしなければ軍功になるまいと逸ッたのである。
彼のこの逸り気を誘き出しに来た敵の水軍であったとは、如何せん、後で分ったことだった。──とも覚らず、凌振は小舟で追ッかけ、逃げる敵の大船の中へ斬り込んだ。
これを見た呼延灼や韓滔の部下も、
「やあ、凌振にかんじんな戦功を独り占めにさせるな」
と、ばかり、水上へ乗り出し、ぐずぐずしている賊船を包囲して、われがちに乗りこんだ。しかもこの追撃に会うやいな、ぽんぽん、どの船の泊兵もみな蛙みたいに水けむりの下へ消えてしまったから、ほとんどの船上は、たちまち官兵と入れ代わりになり、そして舳艫はそのままなお梁山泊へと進んでいた。
ところが、どうしたことか。
「や、や、や?」
「船底から水が入る」
「船が沈む!」
騒ぎ立ったときはすでにどうにもならなかった。どの船も、どの船もである。いつのまにか、船底の栓が抜かれ、人間を山と盛ったまま傾き出していたものだった。
たねをあかせば、これは呉用軍師の神算鬼謀で、初めからこの一戦で勝つ気はなく、過日らい、さんざんな砲撃に悩まされた結果、
「──砲手の凌振一名をさえ失えば、敵の砲陣は空にひとしい。凌振を湖上におびき出して生け捕れ」
と、李俊、張順、張横などの、揚子江生れの水馴れた者を選んで、この策をさずけ、一挙に出てきたものだった。
すなわち、船を捨てて飛びこんだ水中の影のうちには、水を潜ること河童のごとき阮ノ三兄弟もいたのである。船底へくぐって栓を抜いたのももちろんこの者ども。そのため、溺れ去る官兵はかず知れずだが、そんな者には目もくれはしない。かねて目ざしていた凌振が、覆ッた船から泳ぎ出したのを見るが早いか、
「おッと。この人、この人」
とばかり、阮小五、阮小七、阮小二また張順、張横らまで寄ッてたかって、水中の珠奪り争いみたいに、凌振の体を手捕り足捕り捉まえてしまい、そしてやがてのこと、水寨の岸で水を吐かせると、すぐ山のうえへと、わっしょ、わっしょ、かつぎ上げて行ったのだった。
一時、したたかに水を呑んで、昏々の状におちていた凌振だったが、はっと気づくと、ここは宛子城中の一閣、賊寨の聚議庁、たしかに、虜囚となった自分に相違ない。
「しまった!」
一方の扉を蹴って、外へ躍り出ようとすると、
「轟天雷、どこへ」
と、目の前に立っていう者がある。
「やっ、君は」
「彭玘だ。まあ慌て給うな」
「かねて君も賊の捕虜になっていたとは知っていたが」
「それでだ、話がある。──じつは統領の晁蓋、宋江、そのほかのお頼みで、君を説いてくれとのこと。──どうだ轟天雷、君もここの仲間にならんか」
「ば、ばかな。……では何だな、君は潁州練兵指揮官という光栄ある官職もわすれ、いまでは賊徒に加盟してしまったのか」
「うむ。われながら、こうなろうとは思いきや──だ。しかし、おれは梁山泊をこの目で見て、その一員になったことを悔いていない。晁蓋は重厚な義人だ。宋江は世が世なればすずやかな賢人だ。そのほか、ここの人間は、義にあつく、仁を知って、お互いに情けを尊び、よく飼い、よくこれを養えば、決して悪鬼外道の類ではない。外道はむしろ、王府の都に、充満している」
「どうも変ったことをいうな。それがかつての、彭玘将軍だろうか」
「ともかく、座に着き給え、篤と話そう」
彭玘は、心から言った。さきに自分が宋江から説かれた通りを、今は凌振にむかって説得していた。──その熱意に、凌振も折れて、ついに同意を誓うに至った。──やがて両者は姿を揃えて、晁蓋、呉用、宋江らの並び居る所へ来て、
「今日よりは」と、拝を執った。そして「──おゆるしがあるなら、お仲間のうちへ加えていただきましょう。しかし、心にかかるのは、都に残してある老母や妻子です。この悩みを慰すべき道がありません」
と、悲しんだ。
宋江は、その手を取って、なぐさめた。
「お案じには及ばぬ。彭玘将軍のご家族も、当所へおつれすることになっている。あなたのご妻子も、併せて、かならず無事なご対面を計りましょう」
それからすぐ、呉用は、
「まずもって、彭玘、轟天雷の二傑を泊中に迎え得ては、時しも非常ながら、一夜の祝宴はあってよかろう」
と、この夜は、わざと大祝宴を張って、近来とみに沈衰しがちな山寨の士気に一振の気を吐かせた。
これで、敗北つづきの悲調の底からも、慨然として、奮起の色が沸いた。その熱した頃を見て、宋江が言った。
「──砲手凌振はもうわれらの友だし、敵の陣で、なお怖るべきものは、連環馬軍があるのみだ。たれかあの鎖鎧で不死身にくるまれた馬とその騎兵隊を破る策は持たないか。あれば、いかなる者の言でも、謹んでその意見を聞きたいが」
しばし声はなかった。すると一党中でも、もっとも端の方にいた先ごろ新入りの湯隆が、
「あります! ありますっ」
と、突拍子もない大声で満座一同をおどろかせた。
「おお」と宋江は目をやって「──そう申すのは、李逵の手引きで先頃入った武岡鎮の鍛冶屋銭豹子の湯隆じゃないか」
「へい、その湯隆で」
「あるとは、どういういい智恵があるのか、こっちへ進み出て、一同の方々へ話してくれ」
「では、ごめんなすって。……どうもこう口幅ッたいことを申すようですが、あの連環馬軍ってやつは、どうでも、ある一つの武器と、てまえには従兄弟にあたるその人とを使わぬことには、破れッこはありません」
「ふム。そんな特殊な武器があるのか」
「あっしの親父祖父も、家代々の打物造り、甲、兜に限らず、その道では名工といわれた人。……わけて祖父は、延安府の経略使、种閣下にはかくべつご贔屓にされ、どうして外敵が使っている連環の甲馬をやッつけ得るかッてえなご相談にもあずかって、その結果、苦心工夫のあげく、〝鉤付キ鎌鎗〟という打物を祖父が発明いたしましたんで」
「ほ、それはどんな?」
「絵図では伝わっておりますか、実物はどこにもありません。それにまた、そいつを使いこなす段になると、天下唯一人、てまえの従兄弟しかないんでして」
そのことばの真ッただ中を、横からばっと薙ぎ取って。──林冲が、突如、言った。
「湯隆。……その天下一人の人とは、近衛の金鎗組師範、徐寧のことじゃないのか」
「えっ、ご存知なので」
「知らないでか。拙者も元は禁軍の一人だ。都にいた頃は、よく武を談じ、技を競べあったこともあり、たがいに畏敬していた友人だったが、さあ……あの正真正銘の鉤鎌ノ鎗の一人者を、どうしてここへ迎えうるかだ。そいつがちと、むずかしいて」
「いえ、よんどのことなら、ひとつここで無理な手をつかえば」
「……どんな手を?」と、ここで宋江がまた訊くと、湯隆がここでいうには。
「徐寧の家には、世に二つとない先祖伝来の宝があります。てまえも亡くなった父と東京見物に参ったさい、徐寧の家で見せて貰った薄ら覚えが残っていますが……なんでもそれは〝鎗貫サズノ鎖小札ノ鎧〟……とかいう物で、朱革ノ鎧櫃に入れ、いつも大事に、二階の天井裏に吊ッてある。つまり徐寧にとっちゃア命から二番目の宝。──どうでしょう。そいつを一つ巧くこっちの手に奪り上げて口説いてみたら」
「むむ! 一案だな」
呉用が大きく頷いた突嗟である。またも末座から剽軽な声で、「──ほいッ、御用とございますなら、あっしを忘れちゃいけませんぜ」と人を分けて、こう名のり出て来た者がある。
鼓上蚤の時遷だった。
「おう誰かと思えば、梁上ノ君子(泥棒の意味)か。なるほど、時遷ならお手の物だろう」
「はばかりながら──」と、時遷は鼻うごめかして。「忍びにかけてなら!」
「よしっ、きさま、ひきうけろ」
「のみ込みました。ところで軍師。ほかのお手筈は」
「いまそれぞれに役割を付けて申し渡す。──楊林、薛永、李雲、楽和、それと湯隆。そしてもう一名戴宗も。──ずっと揃ってここへ列んでくれい」
呉用がたちどころに授けた一計とはそもどんな策か。一人一役、各〻の能に応じて割り振られ、ここに〝宝盗み〟の手だてと〝徐寧抱き込み〟の段どりはでき上がった。そして「物置のガラクタでも月日のうちには陽の目を見る」の譬えで、まずは先陣の蚤の時遷、日頃にも似ず張りきって、一ト足さきに山をおり、開封東京の空をさして立って行った。
屋根裏に躍る〝牧渓猿〟と、狩場野で色を失う徐寧のこと
汴城城下、花の都。冬ながら宋朝文化爛漫な千街万戸は、人の騒音と賑わいで、彩霞、煙るばかりであった。禁裡の森やら凌烱閣の瑠璃瓦は、八省四十八街のその遠方此方にのぞまれる。──で、この巷での一人の旅人時遷のごときは、一匹の蚤とも人目には映るまい。
──その日、旅籠を出た時遷は、城内の官庁街をうろついていたが、やがて太衛府の横をぐるっと歩いて来て、
「もしもし、禁門の金鎗組ってな、どこを入って行ったらいいんです?」
と、往来で会った書記風の男にきいていた。
「組ではあるまい」と、書類を抱え直しながらその男は──「組の大きいのを班という。金鎗班なら彼方の一郭で、禁軍鎗隊の軍人ばかり住んでるところだ」
「その金鎗班のご師範、徐寧さんのおやしきもそん中ですか」
「班の門を入って、十字路のひだり側、そのうちで一番大きい黒塗りの門がそのお宅だよ」
「二階がありますか」
「へんなことを訊くな、きさま」
「いえなに。雨が漏るとかで、屋根瓦の葺き換えをたのまれましたんでね」
「なんだ瓦職人か」
「へい、屋根屋なんで」
「二階もあるよ」
時遷は、腹のうちで「まず、目ぼしはついた」と、取ッて返した。その日は旅籠へもどって、忍び道具一式を調べ、さて晩になると、晩飯もたっぷり食い溜め、真夜半、出かけだしたものだった。
巨大な門も築土も、彼にかかっては何の用も果していない。時遷はいつのまにか大きな椋ノ木の梢に、栗鼠みたいに止まっていた。どこかの城楼で時の太鼓がにぶく鳴っている。丑満すぎると何処もかしこも白々と霜がむすび、万象寂として声もない。ただ星のまたたきだけが、一個の黒い怪しい物の行動を見せていた。
その時遷の影も、いつのまにか、木の上にはない。枝から枝を這って、屋根へへばりつき、そこの二階の破風を壊して、もう天井裏にいたのである。
耳を澄ます。あるじの徐寧らしき人の声がする。妻、女中。階下と階上とを行き交う足音。どうもここの家族は夜更かしらしい。
「はてな? いまから飯の支度などいいつけているぞ」
時遷。こいつはおかしいと、考え直した。今夜は瀬ぶみ、どっちみち二晩三晩は、通うつもりでいたのだが、家族はこれから寝るのでなく、いま起きたような様子なのだ。……としたら、ひょッとして、今夜が機会になるかもしれない。さきの不運、こっちの天運と、時遷はなおも息をこらし、天井裏を注意ぶかく、撫で、這い、そして隙間をさがして覗いてみると、
「……ふ、ふ、ふ。……あるぜ、あるぜ。朱革の鎧櫃が、ちゃんと、天井に吊ッてあら。帰命頂来、鼻の先だよ」
と、思わず北叟笑みして、天性の一種声なき快感にくすぐられていた。
「おや? ……」と、下では夫妻が天井を見上げ。
「なんだろ? へんにゴソゴソしなかったかい」
「いいえ、べつに、……鼠でしょう」
「鼠か。つまらん。……ところで飯はまだか」
「外はお寒うございますから、召使たちも、何か温い物を差上げようと、気をつかっているのでございましょう」
「天子さまのお狩猟で、今朝は暗いうちに宮門をお出ましだ。そんなことはいっておれん。早くしてくれ」
「でもまだ、お早過ぎるくらいお早いのに」
「ま、ひと口、酒でもくれ。それそこの瑠璃杯でいい。──これも先ごろの御狩猟で天子から拝領の物だ。──現徽宗皇帝陛下は、絵ばかり描いておられて、とんと軍事には御心をかたむけられぬ。それだから梁山泊のごとき世を怖れぬ大盗の巣窟も出来たりすると、高俅大臣のおすすめでな、このごろは朔風の野に御弓も持たれるようになってきたわけ。われら供奉の武官もいちばいここは励まなければ相成らん」
とかくするうちに、例のこの家の黒門の方で、がやがやと人声がする。班の従兵たちが迎えに来たのらしい。屋敷の召使はそれらの者にも酒飯を与えて待たせておく。こなた二階の一室では、徐寧が早や供奉の盛装を着にかかっていて。
「奥方。留守中は屋敷廻りを気をつけろよ」
「ご心配なさいますな。わけて班のご門内ではありませんか」
「いやそうでない。わが家には、先祖伝来の秘宝があるだけに、たとえ物売りだろうが、よく気をつけてくれねば困る。わけて火の元の要心なども」
言いながら、徐寧は天井をまたふと見上げる。その愛着の容子は、常住坐臥、寝てもさめても朱革の櫃の無事から寸分も心は離れない人かのようであった。
「行ってくる」
綺羅な狩猟扮装の良人に添って、妻も階下まで送りに降りて行った気配だ。──時遷はスルスルと以前の破風の穴から這い出して、こんどは二階の窓を窺い、難なく、戸を外して中へ入り込む。動作の迅さ、まるで守宮としか見えない。
「いけねえや……案外高い」
当然、吊ってある鎧櫃なので、おいそれと、手は届かなかった。そのうちに階下で、
「眠かったろうね。旦那さまももうお出ましずみだから、おまえたちも、もいちどお寝み」
召使へいっている妻女の声がする。しまった。まにあわない。時遷はふたたび窓の外へ出て窓をたてた。果せるかな。奥方はそれから独り二階へ来て、寝台の帳を引き、やがて眠りについた様子。
「夜が明けては」
時遷、気が気ではない。ふところから何か取出した。細い葦みたいな管である。つないでゆくといくらでも長くなる。窓の隙間から内へ伸びて、その先が灯台へ近づいたと思うと、ふッと、ひとりでみたいに灯が消えた。帳の内では気がついた風もない。
それからすぐどこか暗い大地のうえへ、ポト──と何か毬でも落ちたような軽い音がした。と思われてからやや後のこと。
「火事だっ」「火事。火事」と、一ト所の声でなく、あっちこっちで「火事だ、火事火事!」
これは時遷の、みずから名づけて、〝擬遠発声術〟と称する奥の手。幾人もの声みたいに響き合い、それへ犬の吠え声まで交ぜてすることもある。
多くは、見つかった土壇場でやる遁走法だが、今夜の場合はそうでない。あわせて火遁法を使い、所持の油ボロを撒いて、徐家の浴室の裏、厨房の芥捨場、ほか一、二ヵ所に狐火みたいな炎がめらめら撒かれていた。
ドドドドッと、二階へかけあがった召使たちの声は口々にもう逆上っている。「奥さま、奥さま!」「たいへんっ」「お早くしないと」「焼け死にますよ」
けれど、さすがは徐寧の妻だった。
「おまえたち、あわてるんじゃありません。わたしはいい。私はいいから、旦那さまが命から二番目としているあのご宝物。あれを早く天井から降ろしておくれ」
室内はまっ暗闇。うろうろまごまご。それ踏み台がない、いや人間梯子を組んで重ねろ。なんだかんだの大騒ぎで、目には見えずも、見えるが如きものがある。
「あっ、あぶない」
どすん、と聞えた物音は、誰か一人が鉤から外した鎧櫃をささえきれずに、手から離したものだろう。同時にまた、人間梯子となっていた連中も総もンどりを打ち合ってみな尻モチついたことらしい。時遷もまた、その中にいたとは奇怪不思議のようであるが、彼はいつのまにか屋根窓から内へまぎれ入り、そして下男の似せ声を巧みにつかって、
「だめだ、だめだ。階下に火が廻ってたらどうするだ。階段から運び出すよりここがいい。ここからなら一番無事だよ!」
と、わッさもッさを退けて、遮二無二、窓から屋根の外へ持ち出し、共にスルリと屋根上へ脱け出していた。いや出るが早いか、鎧櫃には必ず付いている荷担革に双手をさしこみ、それを背に負ったと思うと、もう例の破風を足がかりとして、大屋根の天ッ辺に立ち、
「はははは。あばよ」
たちまち、椋の大枝に両手を伸ばした。そして、ぶらんと、牧渓猿のごとき曲芸を演じるかと見えたのもほんの一瞬。あとはどこを伝い、どこを跳び去ったか、根が白浪のお家芸の素迅さ、それっきりもう行方は知れない。
開封郊外の離宮〝龍符宮〟から十里の野は、御狩猟の行幸に染められて、壮観な狩場の陣がいちめん展開されていた。
皇帝のお野立ち間近には、総理兼近衛大将高俅の陣と彼の床几がある。そこへ、
「お願いにござりまする」
と、九拝して伏した一武士が見えた。
「お、金鎗班の徐寧ではないか。何だ願いの儀とは」
「ご遊猟中を、供奉の一員として、恐懼にたえませんが、ただいま家より急な使いがございまして、妻が急病の由、告げまいりました。家族とては召使のほか、幼児一名あるのみ。数日の賜暇をおゆるし願わしゅうぞんじ奉りますが」
「なに、妻女が急病だと。それはいかんな。君辺はさしつかえない。すぐ戻ってみてやるがいい」
徐寧は再拝してひきさがり、あとは班の各組頭に頼んで、ひとり汴城の都門へ向って、金鎗を小脇に手馴れの馬を飛ばして帰った。
その間とて、彼の血相はただならない。妻の急病とは、公へのてまえで、じつはかけがえない家宝の紛失を妻から知らせて来たのである。
寝耳に水だ。彼の華やかな紫の狩衣、紅錦の陣半被、纓に飾られた冠といえど、蒼白なその憂いにみちた面には、すべて、悲調を強めるものでしかなく、珠を失った龍か、瑞雲を奪われて荒地に怒る鳳凰にも似て、焦躁、狼狽、哀れといっても言い足りない。
「ち。どうしたことだろう。いったい、どういうわけなのか?」
たちまち、わが屋敷。──この血相で妻をただした。だが、妻も召使も彼の前に打ち悄れ、泣いて詫びるのみである。火事騒ぎとかのいきさつ、前後の模様、事細かに訊き取ってはみたものの掴み得るところは何もない。
「さては、前々から狙われていたか。何奴かが忍者を使って、盗み奪らせたにちがいない」
不覚だった。考えてみれば、日頃に思いあたりはいくらもある。
徐家の薄羽ノ鎧といえば、余りにも有名なので、諸侯の武門や将軍から一見を請われたり、ぜひ譲り受けたいなどの交渉は一再でなく、わけても大将軍花児王からは、銭三万貫の値さえつけて、数度の使者が来ていたほどだ。
「ああ、ご先祖にも申しわけない」
死んだ子の通夜を傷むような一夜が明け、次の日も、徐寧は茫然、腕拱いて鬱ぎこんでいるばかり。すると、思いがけない客が、折も折、ぶらりと訪ねて来たものだった。
「お従兄さまの、湯隆とか仰っしゃるお方で」
と、いう召使の取次に。
「え。あの銭豹子か」
なんと、あいにく浮かない日ではあったが、さっそく通して、久闊をあたため、さて何用でと来意を訊くと、客の湯隆は、旅包みの中から、二タ竿の黄金、おもさ二十両を、そこへさし出して。
「どうも長いご無沙汰をしちまいましたが、願がかなって、やっとこんど東京へ出て参りましたので、今日はこれをお届けにあがりましたようなわけで」
「隆さん。何だね、この黄金は」
「亡くなった親父のかたみでございますよ。臨終のせつ、父の遺言で、これは甥の寧にやってくれといわれ、長いこと預っておりましたが、つい折もなくッて」
「へえ。叔父御から私へだって。──じゃあ叔父さんは、そんなにも、死に際まで、わしを思っていてくれたのか」
「どうぞお納めくださいまし。亡父の遺言を果し、てまえもこれで荷が下りました」
「かたじけない」と、徐寧は納めて。「……久しぶりだ、ともかく一献」
と、その夕は、酒となったが、自然、色にはかくせない徐寧の浮かぬ素ぶりに、湯隆がわけを訊くと、じつは云々、先祖には申し訳ないし、自分にとっては愛児を奪われた悲しみにも勝る、かつは世間に聞えたらいい物笑い、いっそ鎗を捨てて坊主にでもなろうかと思っているところだ──という嘆息。
じっと、聞いていた湯隆は、さも同情の念にたえないように。
「……ああ、そんなわけでしたのか。そいつは飛んだご災難。てまえも小さい頃、親父に連れられてお宅へ伺ったとき、一度拝見させてもらった覚えがありますが、じゃあ、あれですね」
「むむ、今となっては、思い出すのも辛くなる」
「もうウロ覚えになってしまいましたが、たしか立派な櫃に入っていたようでしたが」
「羊皮の紅い革櫃だ。縁は雷紋の金箔押し、四方の横にもまた精巧な彩画で、牡丹の花に、毬遊びの獅子がえがいてある……」
「えっ。紅皮に獅子のもようですッて」
「隆さん。なんだって、そんな眼をするんだ」
「だ、だって。この眼を疑わずにゃいられません。ついゆうべ、見たばかりなんで」
「げッ、見た⁉ どこで見たのか」
「城外四十里ほどの村の居酒屋でしたっけ。……痩せッぽちの、眼の玉のするどい野郎が、のそっと入って来て、そいつもてまえのいた床几の向う側で、オイ大急ぎで、酒と飯をくれと、せかせか呶鳴っていたんでさ」
「ふむ! そして?」
「見ると、その野郎が、いまいった通りな櫃を側へおいて、後生大事に片肱を乗ッけています。はてな? 風態にも似合わねえ立派な物を……と、ついジロジロ見てたもんですから、奴も気がさしたか、酒も飯もがつがつすまして、すぐ街道を東の方へ急いで行ってしまいましたよ」
「それだ! 隆さん。東へ行ったか」
「それとすりゃあ、しめたもンだ。今からでも追ッつける。野郎、足でも怪我をしたことか、後ろ姿を見たところ、跛行をひいていましたぜ」
「奥方っ。奥方っ」と徐寧は俄かに妻を呼んで──「いま隆さんから聞くと、かくかくの次第だ。すぐ旅仕度をそろえてくれ。隆さんも一しょに行ってくれるだろうな」
「行きますとも。男の人相は、ちゃんとこの眼におさめてある。さ……お急ぎなすって」
それよりは前のこと。一方では例の〝梁上ノ君子〟蚤の時遷。あの朝、首尾よく盗みとった一物をかついで、明けがた、早くも城外の草原を低い雁のごとく飛んでいた。
「おーいっ時遷、待った待った……」
「やあ、戴院長(神行太保ノ戴宗)じゃござんせんか」
「さっそく、荷をそこへ下ろせ。呉軍師が書いた狂言どおり、これから先の手順にも、きさまはまだ一ト役あるぞ」
「わかっております。どうか中身の鎧は院長がお持ちなすって」
と蓋を開けて、中の薄羽小札重ねのよろいだけは、戴宗にここで預けた。──戴宗はそれを持って、独自の神行法で、すぐ梁山泊へと急いでしまい、時遷は空櫃だけをかついで、その日、かねて諜し合せていた街道茶店へ入って行った。
ここには、これも呉用の命で、湯隆が彼を待っていた。かくて時遷と湯隆との打合せは、事前に出来ていたのである。──すなわち、時遷は空櫃を負って、梁山泊までの陸路をただの旅人のように旅籠泊りをかさねて行く。泊り先の宿屋の軒には、かならず目印として、白墨でどこかへ丸を描いて残しておく。途中で休んだ腰かけ茶屋にも同様な印を残す。──というだけの段取りだった。
つまるところ、湯隆が徐寧の家を訪ねたのは、すでにこれらの諜し合せをすまし、時遷とも一時別れ、さてあくる日、なに食わぬ顔して城内へ入って行った午後のことだったわけなのだ。そして徐寧の誘き出しも、まずは、ここにまんまと目的の半ばを達しかけていたもの──。
あれから二人は城外の街道を、東へ東へ、急いでいた。湯隆の目はたえず、白い丸印、白い丸印。
「あ。あった……」
「隆さん。何があった?」
「いえなに、その……茶店がですよ。あんまり腹が減ってきたので」
「じゃあ、一ト息つこうか」
ずっと入って、腹ふせぎに軽い物で一杯飲む。その間に、湯隆が茶店の亭主にこう訊ねたものである。
「じいさん。つかねえことを訊くようだが、眼のするどい、ひょろッと痩せた野郎が、朱革の鎧櫃を背負って通るのを見かけなかったかい」
「ヘエ、その男なら、昼、ここで休んで飯を三人前も食って行きなすったが」
「どっちへ」
「たしか東の方で」
徐寧は聞くやいな、先に立って。
「隆さん、急ごう!」
湯隆も思うツボと歩きにかかる。やがて宵のくち。白い丸印をまた見かけた。徐寧が夜道をかけてもというのを、まあまあと、ここで旅装を解いて一泊とする。──そして翌朝の立ちぎわ、あいさつに出て来た女将をつかまえて、湯隆がまた訊ねた。
「一見、人相のよくねえ男が、朱革の櫃をかついで、きのうこの辺を通らなかったかね」
「あらまあ、だんなさま、その人なら」
「どうしたと?」
「暗いうちに、宅を早立ちして行きましたよ」
「えっ、ここに泊っていたのか」
徐寧は地だんだ踏んだ。しかしその日の街道では、何も聞き知るところはなかった。湯隆も丸印を見なかったのである。
だが、次の日は、しばしば見かけた。そのたび湯隆は連れを誘って茶店へかける。すると何となく手がかりも聞く。──けれどそれが、いつも半日かわずか二タ刻遅れだった。かくてついつい幾日かを釣られて歩き、徐寧はいやが上にも、焦ついていた。
「ええ、くそいまいましい。今日ではや七日目。妻の急病と称えて、賜暇はいただいたものの、禁軍への届けもあれきり……。こりゃどうしたものだろうな」
「ま、寧さん。そうご落胆にゃ及びますまいぜ。下手人のホシはついてることだし」
「けれど、こう何度も、鼻ッ先を掠めながら捕り逃がしているようではな」
「こっちも息が切れるが、逃げる野郎の方だって懸命にちがいねえ。ここが辛抱のしどころ。もう一ト息ってえところでさ」
すでに道は山東に入っており、冬の日も薄れだすと、楊柳の並木影は蕭条と肌寒く、街道百里、人影を見ることも稀れ……。
「や、や、やっ? 寧さん、寧さん。体を伏せて隠れなせえ」
「な、なんだ。どうして?」
「野郎がいます。あんな所に」
「げっ、いるって」
「ほれ、街道沿いのひだり側。松林があって、チラと古廟の門が見えるでしょ」
「むむ見える」
「よくごらんなせえ。どうも夕陽のせいで眩しくッていけねえが、廟門の石段に腰をかけ、野郎が朱い櫃をそばにおいて、休んでいる風じゃござんせんか」
「おッ、しめた……」
なんの猶予があろう、もう徐寧はそれへ向ってすッとんでいた。湯隆もあとから一目散に馳けまろぶ。すでに先の徐寧は、ばッと、逃げかけた痩せ男の襟がみをつかんでいた。だが反撃を食ったらしい。とたんにそこの石段を、諸仆れに、ころころ転がりあっていた。
工廠の鎚音は水泊に冴え、不死身の鉄軍も壊滅し去ること
じつは一場の狂言──梁山泊の仲間が書いた偽計とは──金鎗手の徐寧がここで気のつくはずもない。
街道の胡麻の蠅みたいな一方の男は難なく捕り抑えたが、こいつもじつは梁山泊のひとり時遷なのだ。
だが、徐寧をこれまで誘き出してきた徐寧の従兄弟湯隆とは、ちゃんと、筋書が出来合ッていることなので、時遷にしては大いに芝居はやりいいわけだ。
「あっ。……ア痛、痛、痛。……そう首を締めちゃアしゃべれといっても、何もしゃべれやしねえじゃねえか。もう何でもいっちまうから、手をゆるめてくんねえ」
時遷の泣きッ面に、湯隆もそばからいった。
「徐寧さん、もう大丈夫だろうじゃないか。とにかく、そいつの言い分を聞いてみよう」
「よしっ、さあ吐かせ」と、徐寧は突ッ放して──「よくもわが家の宝、薄羽小札のよろいを盗み出しおったな。その朱革のよろい櫃がここにあるからには、下手人はうぬに相違あるまい。さ、白状しろ」
「するがね、大将、こいつは空だよ」
「うそをつけ」
「嘘かどうか、蓋を除ってごらんなせえ」
「あっ、なるほど空ッぽだ。中身のよろいはどこへやった! 隠しだてしやがると、素ッ首をねじ切るぞ」
「よろいはとうに泰安州へ行ってるさ。経略使の种の旦那のご註文でね!」
「ご註文だと。ひとの物を」
「金じゃあ売らぬ宝と聞いて、种の大旦那が李三ていう泥棒の名人にいいつけてお宅へ忍び込ませたのさ。俺アその手伝いとして張番にくッ付いていただけだ。おれが犯人じゃあねえよ」
「でも。何で空櫃だけをてめえ背負ってかえるのか」
「……この通り、逃げる途中で左の足首を挫いてしまい、李三の早足には追ッつけねえので、野郎が中身のよろいだけを持って、先に泰安州へ行っちまったというわけだ……。ア痛。……ちょっと曲げても足が痛む。……よろい櫃はそっちへ返すから、俺もここで押ッ放してくれ」
「待て。そうは問屋で卸さねえぞ。……弱ったなあ、隆さん、どうしよう?」
「そいつを証人にしょッ曳いて、泰安州へ乗り込もうじゃありませんか」
「そして」
「李三を捕ッつかまえる。もし李三が分らなかったら公沙汰にし、経略使の种をあいてに訴訟するしか途はありますまい」
湯隆は頻りにすすめた。その間、チラと時遷の目が、彼の眸と怪しい交叉を交わしたが、考え込んでいた金鎗手の徐寧はもとよりそれに気づきもしない。
「ムム、それしか途はあるまいなあ!」
そこで時遷をしょッ曳いて、さらに街道の旅をつづけた。朝は早立ち、夜も暗くまで歩いて、数日なおも、東へ東へと。
すると、幾日目かの昼である。空樽を積んで街道を行く空馬車を先に見かけて、
「馬車屋のおッさん、どこへ行くのかね」
と、湯隆が追ッついて呼びかけた。
剽軽そうなおッさんである。馭者台から振向いて。
「おいよ、おれかね? あきないで鄭州へ行き、泰安州へ帰るところさ」
「そうかい。そいつアちょうどいい。──こう、連れの一人が、跛行を曳いて、弱ってるんだ。乗せてッてくんねえか」
「また空樽が三ツ殖えるわけかい。ま、乗んなよ。骨が折れるのは、わしではない、馬だからね」
「空樽扱いはひでえな」と、三人、さっそく空樽の間へ割り込んでそれへ乗り込み──「こう見えても、ふところは空じゃねえぜ。向うへ着いたら、駄賃はやるからな、おッさん」
「お礼は先に言っとくよ」
と、おッさんは、鞭を振り振り、口笛を鳴らし初めて、
「なるべく、たんまり酒代が出ますように、ひとつ、退屈しのぎに、ごきげんを伺いやしょうかね」
と、ひなびた山東節など途々歌い出した。これまた地方調ゆたかで、しかもすこぶる美声なのだった。
気は急ぐが、道は捗どり、それに馬車屋がおもしろい。
三日目ごろには、すっかり仲間気分に醸され、馬車屋のおッさんが、こう言いだした。
「おい、旅の衆よ。毎日わしの唄ばかりでも味気なかンべ。その赤丸の印の小樽には泰安酒が半分ほどまだ残っているだよ。飲むなら飲まッせ。じつアわしの寝酒の分だがね」
「ほ……。酒があったのか。じゃあご馳走になるぜ」
ところで、この小樽の酒を、湯隆がどう巧みに、徐寧に飲ませ、時遷にもやり、また自分も一しょに飲んでみせたか。
とにかく、これは麻睡酒だった。──時遷、湯隆はなんでもなかったが、徐寧ひとりには、しびれ薬がまわって、彼は正体もなくよだれをたらしてやがて夢魔にひきずりこまれていた。
以後、どれほどな時間がたったか、彼はまったく知るところがない。──例の梁山泊のこっち岸で降ろされたのも知らず、船へ乗せられて水上を対岸へ送られた間も昏々たる姿だった。──そしてハッと目がさめてみると、あたりには見つけない男が居ならび、馬車屋のおッさんこと、じつは鉄叫子の楽和も、従兄弟の銭豹子湯隆も、また道中で捕まえた時遷もそのなかにいて、みなニヤニヤ笑いながら自分を見ている──
「やや。ここは? ……。隆さん、いったいここはどこなのだ?」
「梁山泊の聚議庁の一房です」
「げッ、梁山泊だって」
「かんにんして下さい、徐寧さん。じつはわたしも今では仲間の一人。──今日までのこと一切は、ここの軍師呉用先生が書いた計略です。そしてわたしがあなたの従兄弟という縁故からあなたを連れ出す〝誘き役〟として参ったので」
「じゃあ、家宝のよろいを盗み出した盗ッ人も」
「そいつは、時遷がやったお家芸で」
「うぬッ、よくも」
奮然と、こぶしを握って、徐寧が突ッ立ちあがったとき、凛として、しかも猛からぬ一ト声が、
「金鎗班のご師範徐寧先生、お腹も立ちましょうがしばらく待ってください。申し上げる仔細がある」
といった者がある。
それなん、座にいた宋江であり、ほか、晁蓋、呉用、公孫勝などもみな居ならんでいたのだった。
宋江は、しずかに、事情を話した。
いま、梁山泊は、官軍包囲の中にある。
戦えど戦えど、敵の呼延灼将軍──というよりは、その装備──連環馬陣の猛威に会っては、何とも抗しうる法がない。
その連環鎖の鎧馬をやぶるにはどうするか。それが山泊の運命を今や決するところまで来てしまった。
「……為に、です」
と、宋江は礼を低うして徐寧へいう。
「あなたは、禁軍における鎗のご師範。そして家にお伝えの一流鉤鎌ノ鎗の名人であるともうかがった」
「…………」
「よく連環陣の鉄騎を破るものは、その鉤鎌ノ鎗を歩兵に持たせて戦うしか破る法はないとも、そこにおる湯隆から聞きました。……で、どうしても、あなたを山泊へ迎える必要となったわけです」
「ばかなッ」と、徐寧は怒ッて。「どんな事情かしらぬが、勝手きわまる無茶な話だ。人の身を。人の運命を」
「その点は重々謝す」
「貴公も、義人宋江と、世に敬われているほどな人ではないか」
「決して、不義不仁を働くのではありません。山寨一同の志はいずれ胸をひらいて話しましょう。したが事は焦眉の急です、背に腹はかえられず、あなたを偽いてこれへ迎え、鉤鎌ノ鎗の製法、またその鎗のつかいかた、併せて二つを、ここの者へご伝授していただきたい」
「しかし拙者は宋朝廷の朝臣だ。妻子も都においてある」
「いやそのご家族も、一味の者が、すべてこれへお連れしてまいりましょう」
「えっ、家族までも」
「もはや開封の都では、あなたを班の脱走者とみなし、徐寧追捕の令が出ている。否といっても、あなたの帰る所はない」
「ああ、それはむごい。余りといえば騙り過ぎる」
「ですが、ここには官軍方の彭玘将軍と凌振将軍のふたりも悪政府の旗を見かぎり、われらの仲間に入っています。……その二人から聞いて下されば、あなたが男の半生を託すに足る山泊であるかないかもご分別がつくでしょう。とまれ、しばらくご休息をとって、後ほどまでにご決意をきかしてください」
宋江は言って立った。
晁蓋以下の領袖たちも、わざとみな一時、座を去った。そしてそれに代るに、彭玘と凌振の二人が入って来た。
互いに、王城の禁軍では、顔見知りだった。意外な邂逅に、相互、唖然とはしたものの、だんだん話しあってみれば、そこには忌憚も何もない。
彭玘は説いた。
ここの賊は決して世にいうただの賊徒ではない、と。
彼ら一人一人の人間が、ここに到るぜひない宿命と、一つの悲願に生き抜こうとする理想とに結ばれており、因をただせば、こんな反逆の徒の巣窟ができたのも、腐爛した現政府や悪役人の罪にある。
それを膺懲し、それを正し、濁世に喘ぐ良民の味方たらんとするのが、ここの者どもの悲願とするところだ。その悲願さえかなえば宋江も晁蓋も呉用も寨を焼いて解散する──といっている、と。
こう聞いた徐寧は、
「知らなかった。そんな人間たちなのか。それが梁山泊というものであったのか」
と本来の義胆から、たちどころに、彼も腹をすえて、仲間入りの一諾を宋江まで申し出た。
山泊は沸いた。
ここに一脈の活路が見いだされ、先に戴宗が持って帰っていた薄羽小札の鎧は、当然、徐寧の手へ返された。またまもなく、徐寧の妻や家族らもここへ届けられて来た。
同時に。
まだ都に残されていた凌振、彭玘、二将軍の家族も山泊へ送りこまれて来、このよろこびも併せて、休戦一日の或る日、徐寧の入党祝いを兼て恒例の山泊祭りが盛んにおこなわれた。
すでにもう、その頃には。
徐寧の指揮のもとに、泊中の鍛冶廠では、テンカンテンカン、昼夜の火花と黒煙のなかで、無数な鉤鎌鎗が製産の作業に乗っていたし、それの出来上がるそばから、一隊二隊と、カギ鎗隊が編制され、その鎗法の調練も、あわせて徐寧が指南の下に、活発に始められていた。
「みな、見給え。──鎗を使うには、こう九ツの変がある」
徐寧みずから一鎗を持って、自由自在にそれをこなして見せ、
「直鎗とちがって、カギ鎗の特長というのは、三手が引ッ掛け、上下左右、四手が撥い、さらに突! また分! あわせて九ツの変という」
と、教えること、じつに懇切だった。
かつはその男振りも見事である。「雨江月」という唄の集にも徐寧をうたった歌詞があって──
六尺ゆたか
身はやなぎ
花のかざしを
かぶとに挿して
いつも行幸の鳳輦に
添うて行くのはありゃ誰か
禁門一の鎗つかい
徐寧
三ツ児も知る徐寧
聚議庁の廻廊に立ちならんで、遠くから彼の教練ぶりを眺めていた晁蓋、呉用、宋江、ほかあまたの領袖たちも、
「……見事だ」
と、見惚れて、頼もしげにみな讃嘆をもらしあった。
かくて七隊七百人の鎗隊が磨き上げられたので、ひそかに泊中では官軍撃破の秘計を練りに練り、本軍、遊軍、騎隊、砲隊、潜行隊、また水寨の水軍などもあわせて無慮八千、或る夜、忍びやかに無月の江灘を渡って総反撃に出て行った。
一方。
官軍がたの呼延灼にしても、この間、むなしくいたわけではない。
あらゆる攻勢をこころみ、偵察も出し、わけて水寨を窺ッて、しばしば船庫の焼打などにも出ていたのだったが、泊の守りはかたく、いつも失敗に帰していたのである。
それに味方の二大将、彭玘と凌振とが賊にとらわれてしまったのみか、梁山泊のために働いているらしい様子なども、自然に官軍方の警戒を神経質にさせ、特に闇夜などは、その攻勢よりはむしろ守りにかたくなっていたところだった。
「や、や。敵だっ。賊軍が江を渡って来たぞ」
「奇襲か」
「そんな小勢ではない」
「おお、いつのまにか。こりゃ凄まじい……」
「水も野も芦のあいだも、いちめんな火、たいまつの火だ!」
歩哨、幕僚たちの立ち騒ぐ声に、
「あわてるな。犀笛を吹け。全軍、即時部署につけいッ」
呼延灼は、ただちに例の〝踢雪烏騅〟の名馬にまたがり大号令をくだしていた。
副将の韓滔もすぐ馳けつけて来た。
「将軍。賊の大兵を見るに、野末をぐるぐる輪をかいて馳け、いまや、ま南へ廻ってますが」
「陽気に釣られて──」
と、呼延灼は、くちびるを噛み、
「久しく穴ごもりしていた奴らが、蛇とおなじで、穴を出て来たものらしい。連環馬軍の一隊をくりだして踏みつぶせ」
しかし、たちまち、韓滔は、さんざん敗れたていで、ひっ返して来た。
「将軍。うかつでした」
「どうした韓滔」
「敵の中心は、ま南とばかり睨んでいたら、わが連環馬が突進して行くと、声は闇の遠くに消え、代るに左右から妙なカギ鎗を持った鎗隊が襲い来たりたちまち、わが連環馬八十余騎を殲滅されてしまいました」
「ば、ばかな……」と呼延灼は耳もかさず「──そんなわけはない。乱軍の誤認だろう。一頭一頭鎖甲で馬体をかためている連環の鉄騎が、そんな無造作な敗をとるわけがあるものか」
「でも……」
ことばも終らぬうちだった。幕舎の附近で、一弾の砲火が、轟然と炸裂した。バッと黒い土砂を持った爆風があたりをつつみ、二弾三弾とまたもつづいて落ちてくる。
「しゃッ、こいつは凌振のしわざだ」
と呼延灼は、いななき狂う馬の手綱をしぼりながら──
「敵のとりことなった砲手の凌振めが、賊の手に加担しておるのだ。油断はならんぞ。韓滔、敵の砲陣へ、新手の連環馬陣をやって蹴ちらせ!」
すでに、敵味方の喊声は、野面を埋め、水に谺し、凄絶きわまるものがある。
その黒い潮の吠えは、南かと思えば北に揚がり、北かと思えば、東にどよめく。
おまけに、つるべ撃ちの砲撃は、ここ中軍の幕舎に集中してきて、母子砲の火の玉が、そこらじゅうを火の海にした。──母子砲とは一名を鼠弾ともいって、一弾が幾ツにも割れ、その中からまた無数の小弾や油ボロが散発するという始末のわるいものだった。
「韓滔はどうしたか?」
ついに彼は帰らない。
いや彼のみか、北へ、南へ、東へ、と兵を引ッさげては出て行った幕将たちも、そのどれ一人、再び本営には帰って来ず、しかも附近いよいよ炎と化すばかりなので、ついに呼延灼もそこに居たたまらず、さいごの親衛隊と、一陣の連環馬軍とを前後に立てて、
「本営をべつな所へ移す。──彼方の小高い丘へ行け」
と、金沙灘の江畔を去り、俄に、後方の平野へ馳けだした。
こうあろうとは、すでに賊の泊軍では、知っていたことらしい。つまりお誂えのツボに嵌ったわけである。たちどころに、その行く手を声海嘯がくるんでいた。
「しまった。伏兵がいる!」
呼延灼は、前面の危急をみて、道をかえた。道なき道へ、ぜひなく馳け込む。芦、水溜り、窪地、また芦。
ところがなお、やがて縦横な蜘蛛手の縄だった。
ばたばたと、兵はつまずき、その上へまた、騎馬が来て折り重なる。
ピューッ、ピューッ、さかんなる賊兵の指笛がどこかでつンざく。──するとたちまち、カギ鎗を持った無数の影が、立ち惑う連環馬の騎隊へむかって猛然と襲いかかッてきた。
カギ鎗に引ッかけられては、さしも鎖甲の馬も不死身扮装ちの騎兵も、一トたまりさえなかった。そばからそばから、ぶッ仆れる。仆れると、あがきがつかず、敏速に起ち上がれないのは連環馬の致命的な弱点だった。
そこへまた、熊手や火煙玉を持った泊軍があらわれて、十重二十重にとりまき、いちめんな阿鼻叫喚を巻きおこした。──あがきのわるい連環馬のほとんどは、火の早い芦原のそこかしこで、蒸し焼きに焼き殺されたかのようである。
「残念っ」
からくも、遁れえていた呼延灼は、ただ一騎で、狂気したような名馬烏騅の背にしがみついたまま何処へともなく馳けていた。
振返れば、天地すべて瞑々だ。つづいて来る一兵だにない。
三軍、ここに壊滅、ことごとく、四散し去ったものとしか思われなかった。
名馬の盗難が機縁となって三山の怪雄どもを一つにする事
梁山泊は、またも一大勢力をここに加えた。
鎗の徐寧、火砲の凌振、それに彭玘将軍などの雄を、新たな仲間に迎えただけでなく、韓滔もまた官軍総敗北のさい、あの闇夜から捕われて来て、先の三名に説かれ、山泊の一頭領となってとどまることを、ついに天星廟の前で宣誓したのであった。
加うるにまた。
官軍総くずれのあとの戦利品も莫大だった。
連環馬三千騎のうち千頭は山泊の捕獲するところとなり、官軍が捨て去った糧秣、よろい、かぶと、武器の一切、ことごとく泊中へ運びこまれ、三日間ぶっ通しの山泊祭りの大祝宴にわきかえった。しかし、げにもこれはおかしな奇現象で、官はわざわざ、この賊巣へ遠くから、武器、武人、糧を送って、その驕りをいよいよ誇らすような結果をみてしまったわけである。
× ×
さて、一方はかの敗軍の将、呼延灼。
いまさら、都へも帰れない。
麾下三軍の兵は、めどを失い、散々逃げ帰りもしたろうが、彼とすれば「何でおめおめ、この面さげて都へ」という感慨だろう。
落武者のみじめを沁々身に味わいながら、あてどもなく、二日ほど落ちて行ったが、
「待てよ。このまま山野に隠れて、郷士となり終るのも智恵がない」
と、そこで、一ト思案に行きついた。
「──青州の奉行、慕蓉氏には、かつて一面識がある。あちらは慕蓉貴妃のお血すじだ、ひとつ朝へおとりなしを願って、もういちど、雪辱の軍をなんとかしていただこう。そうだ。再起の工夫、望みなきにもあらずだ……」
気もちにゆとりを生じると、急に、身心の疲れや空腹をおぼえだした。それにもう黄昏れ頃。見れば路傍に一軒の田舎酒屋がある。
「亭主。今夜は泊めてくれい」
「だんな、うちは宿屋じゃございませぬ」
「わかっておる。どこでもいい。身を休めることさえできれば」
「じゃあ、あんな物置小屋同様な寝小屋でもようございますかい」
「わが輩は出征中の体だ、樹下石上も厭うものではない。……ただ腹が減った、さっそくそこの羊の股でも煮てくれい。そして酒だ、つづいて汁、飯、何でもいいから早くいたせ」
「かしこまりました。ま、こんなお菜で、とにかく一角お飲りなすっていて下さい」
「お、忘れていた。外に繋いでおいたのは、踢雪烏騅と申す名馬。あれへもあとで飼糧をやっておいてくれんか。そして、どこか人目につかん所へ繋いで今夜は大事に守っていてくれよ」
「じょ、冗談じゃございません。だんな。なんでわしらに、一ト晩中の保証ができるもんですか」
「どうして」
「この辺、馬泥棒は名物なんで。ヘイ……。しかもそんな宝物みたいな名馬とあっちゃあ、なおさら目をつけられるにきまっていまさあ」
「ふうむ……。この地方では、そんなに馬の値段がいいのか」
「いいえだんな、山賊村が近けえンですよ。──ここから先に桃花山というのがありましてね」
「桃花山」
「へい、打虎将の李忠、小覇王の周通、その二頭目の下に六、七百の子分がおります。強いのなンのッて、おかみの討手も、寄りつけた例はないほどでして」
「はははは。わしは軍人だ。そんな者に恐れはせんよ。おう酒がなくなった。あとのを、あとのを……」
呼延灼は、ついつい、手酌をかさねて、したたかに酔ってしまった。さいごに、飯をと亭主が揺り起しても、そこの卓に俯伏したまま、どっと疲れも出て眠り入ってしまった態だ。
ところが、亭主の子であろう。吩付けられて、飼糧桶を抱え、裏から軒の外へ廻って行った童子が、そこで、すッ頓狂に、わめいていた。
「馬がいないよ! 馬がいないよ! おとっさんお客さんの馬って、どこにいるのさ」
「げッ、いないって?」
「馬糞だけだよ、ここにあるのは」
「もう盗られたか」
「攫われたんだね」
「風の仕業だ、まるで黒い風の──」
この騒ぎに、呼延灼もガバと目をさまし、
「なに、烏騅が」
と、飛び出して来たが、夜は暗々、地の理はわからず、それに飲んだ酒が、顔には一瞬に冷めながら、こめかみの辺では、ぐらぐら、眸の裏側を、沸らせている。
「亭主、桃花山は、どっちの方だ」
「どっちといっても、とてもだんな、間に合やしません。さきは盗んだ馬で一足跳び。おまけに、そいつが脚の早い名馬ときては」
「恩賜の名馬なのだ。ああ……このうえ烏騅まで盗られたとあっては、いよいよわが輩の面目はない」
数日後。彼は青州へ入っていた。
奉行の慕蓉は、取次から彼の名を聞いたとき「はて?」と大いに怪しむ風だったが、会ってみると、まちがいのない呼延灼なので、
「将軍! いったい、どうしたんです?」
と、仰天した色だった。
「武人として……」と、呼延灼は惨とした面を伏せて「じつに、面目ない始末だが、まあ聞いてください」
と、つつまず、恥を語り終った。そして、仰ぎ願わくは、もういちど、軍のご派遣をゆるされ、この身に雪辱の一戦をなさしめ給わるよう、伏して、おとりなしのほどを……と、男泣きに、九拝して、言った。
「よろしい。将軍は滅多に人へ額ずくべきではありません。将軍は将軍の権威を取りもどすべきだと私も考える」
慕蓉は同情して、さて言った。
「……がしかし、朝廷へ奏するにしても、恩賜の馬まで失ったとは申し上げ難い。それにじつは、この青州所轄の地域でも、桃花山のほか、二龍山、白虎山などの賊塞があり、猛害をふるッて熄まず、わが奉行所でもてこずっておる。ひとつ将軍がここで、烏騅をとり返す事のついでに、それらの賊徒をも掃討してみませんか。さすれば、大いに、朝へおとりなしの儀もしよいと思うが」
桃花山には近来、打虎将李忠が住みついていた。
この李忠の前身は、かつて魯智深がまだ花和尚といわず、渭州の町で憲兵をしていた時代、同じ町の辻で、膏薬売りをやっていたあの香具師の痩せ浪人の崩れなのである。
「いけねえ、いけねえ。兄き、さんざんな目に会ッちまったよ。はやく助太刀に出てくんねえ」
「どうしたい周通」
「どうもこうもねえ。青州奉行の軍隊が来たッていうんで、いつものとおり、山寨の木戸をおっ開いて、ただ一ト蹴散らしと出て行った。ところが、まったく勝手が違った。こんどの討手の大将は凡物ではねえ」
「梁山泊で敗けて来た官軍方の将軍、呼延灼という野郎だろう。……そいつが来ることは、おとといの晩からわかっていた」
「わかってはいたが、ああ強いとは思わなかったよ。双手で薄がねの鞭をつかい、そばへ寄りつくこともできねえ」
「奴のほかに、奉行所の軍兵は」
「ざッと、二千か」
「そいつはだめだ。敵いッこねえ。稀代な名馬は、先の晩に、こっちへ貰ッてあることだし、この上、ヘタな欲を掻くと、資本も子も失くしちまわぬ限りもねえ」
「といって、どうする?」
「仕方がねえ。山じゅうの寨門を堅固に閉めておいて、てめえ、二龍山へ一ト走り行って来い」
「えっ、二龍山へ」
「そうだ。二龍山の宝珠寺にいる花和尚の魯智深へ泣きつくんだ。後々には、きっと貢物をいたします。ですから、ここんとこはどうか助けると思って、ひとつご加勢ねがいます、とな」
「合点だ」
裏山づたい、一日半。
──ここ宝珠寺の破れ本殿では、時に、三人の怪人が、三ツの曲彔に、片胡坐を組みあっていた。
ひとりは花和尚魯智深である。
次が、青面獣の楊志。
もひとりは、虎殺しの名のある「行者の二郎」武松だった。
このほか。──べつに山門の方にも、四人の小頭がいた。
もと孟州の牢番せがれ、金眼彪の施恩。
それに、操刀鬼の曹正。これは二龍山の下で小酒屋をやっていたあの男だ。
あとのふたりは夫婦者で、孟州は十字坡の峠茶店で、凄い商いをやっていた菜園子の張青と、その女房、母夜叉の孫二娘なのである。
これらはいずれもその後、ここに武松あり花和尚ありと知って、身の都合から集まり頼って来た者どもだった。
「……よし、わかった。おかしらたちが、何と仰っしゃるか、ま、お取次だけはしてやるから、俺について来い」
曹正は、いま山門へやって来た桃花山の周通を伴って、本殿の下へ来、使いの口上を彼と共に申し述べた。
耳かたむけていた花和尚たち三名は、何か、囁き合っているふうだったが、やがて。
「わけを聞けば、打ッちゃってもおけまいなあ」
呟いたのは、楊志である。
武松も「……うん」と大きく一つうなずいたが、花和尚だけは、渋ッたい顔をしていた。
「殺生はもうたくさんだ。ほかの山のおせッかいまではいらんことさ。それに李忠も、周通も、根ッからケチ臭え男でしかねえ」
「だが、花和尚」と、武松がいう。「──禁軍で名高い双鞭の名手呼延灼と聞けば、なんだか、ちょっと唆られるなあ。それとだ、奴が梁山泊の不名誉を、ここで取り返す気だとすれば、桃花山を破ッたあとは、かならずここへやって来る」
「それは来る」
と、楊志も同調した。
「それからでは、後手を踏むおそれもある。どうせ一ト波瀾は見るところ。それならこっちから先を取って、桃花山の願いも入れ、呼延灼にも、一ト泡吹かせた方がいい」
「む。行くか!」
と、ついに花和尚も、その重たげな巨躯を、のしッと、腰かけていた曲彔から上げた。
「あ、ご承諾くださるんで。……ど、どうもありがとうございます」
と、使いの周通は、ひざまずいて九拝した。そして連れて来た早足の子分に、これをすぐ桃花山の方へ速報した。
桃花山の李忠は、報をうけると、ただちに二龍山との策応を考え、全山から喊声をあげて、ふもとの奉行勢へ反撃に出た。
さきの呼延灼は、奉行慕蓉から二千の鎮台兵をあずかって、その先頭に立っていたのである。──山上から打って出て来た賊魁の打虎将李忠が跨がっているその馬を一見するなり彼はかっと鎧を蹴ッて進み。
「やあ、それはわが輩から盗み取った名馬烏騅。太々しい盗賊めが。よくも洒ア洒アと出て来おッたな。覚悟しろ、人民の敵」
「笑わすな。貢税の膏血でぶよぶよ肥っている廟堂の豚めが。梁山泊で赤恥かいた上、ここへ来てまで尻の穴で物をいう気か。人民の敵とは、うぬらのことだ」
「ほざいたな、尖ンがり頭の青大将」
「なにを……」
この李忠も馬鹿にはできない。大道で香具師の真似などしていたが、もとは定遠の浪士のせがれで鎗の妙手。その骨ばッた青面とひょろ長い四肢は、呼延灼が言ったように、いかにも爬虫類の皮を鎧うている一個の怪そのものだ。
しかし呼延灼の双手から噴き出す二タ筋の薄刃金の鞭に対しては、とても敵であろうはずもない。──接戦の火花を見せたのもほんのつかのま、たちまち子分どもも破れて、李忠以下、深く山へ逃げこんでしまった。
それを追ッかけて、山腹の寨門までせまッてゆくと、こんどは待ッてましたとばかり、山上諸所から鵝卵石の雨が降ってきた。ところへまた、後方の鎮台隊から伝令の兵があって。
「将軍。たいへんです。なにか、えたいの知れない大人数が、鼓を鳴らして、街道の遠くを迂回し、こっちへ向って来る様子です」
「なに。うしろの平野から」
呼延灼はあわてて山を馳けくだり、そして、一陣の砂煙を彼方に見た。なるほど、えらい喧騒轟々だ。しかもその先頭には、法衣姿に腹巻を鎧った大きな和尚が、戒刀を佩き、禅杖を掻い込み眼のさめるような白馬にまたがって来るのであった。
いうまでもなく、それは花和尚の魯智深で、迫り寄ること、両陣の間隔約五十間。まず和尚の方からいう。
「おういッ。梁山泊でぶちのめされた、だらしのねえヘッポコ将軍てなあ、てめえか」
「だまれ。呼延灼とはわがことだ。義によって、慕蓉閣下を助け、桃花、二龍、白虎の三山に巣食う害虫どもの一掃に参ったり。観念いたせ」
「だまって聞いていれば臍が茶を沸かす。義によってなんて言葉がてめえらの仲間にあるもんか。花和尚の魯智深を知らねえな」
「さては、過ぐる年、大相国寺の菜園から都の内を騒がせたあのずくにゅう坊主か」
「泣く子も黙る花和尚に、こけ脅しなんざ片腹いたい。足もとの明るいうちに、退がれ退がれッ」
「うごくな。そこを」
だッ──と馬を馳け合すやいな、双鞭の唸り、風を切る禅杖、さながら波間の魚紋そのまま、凄まじさといったらない。
ついに勝負は果てなく、どっちからともなく、銅鑼が鳴り、両勢一せいに入りみだれ、やがてまた、さッと両陣とも引き分かれた。
「和尚。こんどは拙者に代わらせてくれ」
買って出たのは、青面獣楊志である。
楊志は、いわゆる〝虎体狼腰〟といった体質。しかも大太刀の名人だ。
ところが、この楊志ですらも、呼延灼の双鞭の秘術には敵の一髪も斬ることはできなかった。
双方、りんりの汗と炎の息の間に、時を費やすのみで、ついに勝負の決を見ず、ふたたび引鉦のうちに陣を遠くへ退き、さて、つくづく、花和尚と共に、舌を巻いた。
「世間はひろい。なンてまア強い野郎もいるもんだろう」
「まさか、おれたちの腕にヤキが廻ったわけでもあるめえにな」
同様に。──一方の呼延灼の方でもまた、陣場の床几で、息を休めながら、
「いや危なかった。あいつら、どっちも、盗ッ人ずれの手並ではない。武芸は禁軍の専売だと思っていたら大間違いだわ」
と、これも胆を寒うしていた。
ところがこの夕、意外な早打が、奉行慕蓉の鎮台から馬を飛ばして来た。
「将軍。すぐ軍をかえしてください。ご命令です」
「えっ。どういうわけで」
「三山の一寨、白虎山に住む孔明と孔亮と申す賊が、城内の手薄を知って、急に押し襲せてまいったので」
呼延灼は仰天して、陣をたたみ、夜どおしで青州へ引っ返した。
とはいえ、いかに城内の手薄を知ったにしろ、白虎山の賊徒が、どうしてそんな積極的な挙に出てきたのか? 途々、使者に訊いてみると理由はこういう次第だった。
古くから、白虎山の下の大庄屋に「孔家」という名門の一家がある。
なかなか人望もあって、兄を毛頭星の孔明、弟を独火星の孔亮といい、壮丁や小作の百姓もたくさん抱えていたが、去年、町の大金持に騙されて、伝来の田地山林をのこらず法的に差押さえられ、その懸合い中に、つい若気の兄弟が、金持の一家を鏖殺するという大事件をおこしてしまった。
当然、土地にいられぬ兄弟は、白虎山へ逃げ込んで、いつか打家劫舎に変じ、官へ反抗をしめしだした。ところが彼らの叔父にあたる孔賓というのが、青州城内で店舗を持っていたので、累はこの叔父に及び、孔賓は以来、官の手に捕われて、奉行所の一牢にぶち込まれている。
「……というわけでして、つまりここんとこ、城内にはいくらも軍隊がいないと見て、孔明、孔亮のふたりが、叔父孔賓の身を、牢から奪い出そうと計って、押しかけて来たものに相違ございません」
「よしっ、わけは分った」
呼延灼は、こう聞いたので、すでに突撃態勢を作って、城下へ馳けつけた。
見れば、果たして州城は賊軍の包囲にあり、奉行慕蓉は、孤塁を守る姿で、からくも城頭に立って指揮している──
「お奉行っ、これへ呼延灼が馳けつけましたぞ。ご安堵あれよ」
彼は、高い所へ向って、こう手を振った。
そしてたちどころに、賊徒をけちらし、かつ、兄弟の姿を追ッて、城外四里の地点で、孔明に追いすがり、ついに闘い伏せ、孔明だけを生捕りとして引きあげて来た。
「将軍。よくぞ、神速に──」
と、慕蓉のよろこびと、賞め称えは、一ト通りでない。
「なんのこれしきのこと」
と、彼はかえって、謙遜して。
「むしろお恥かしいくらいです。なんとなれば、桃花山一つもまだ片づきません。甕の中の泥亀を採るようなものと思っていたのがまちがいで、思いきや、二龍山から花和尚、また青面獣の楊志なんどの、意外な助太刀があらわれましたために」
「悪かった。事前に注意しておけばよかったが、そのほかまだ、景陽岡で虎退治をした行者武松なども、一味の内にたてこもっておる。……それゆえにこそ今日まで、この州城でも征伐し難く手をやいていたわけなのだ」
「いや、もはやご安堵あってしかるべしです。追ッつけこの呼延灼が、ひとりびとり、引ッ縛ってきて、ご面前に据えるでしょうから」
「たのむ。急に心も明るくなった。まずは将軍も大いに休養してください。酒庫を開いて、兵どもにも、ひとつ今夜は勇気づけさせましょう」
──場面は一転して。ここは郊外十里の野。
地は暗く、空には鋭い細月があった。
一隊の黒い流れが見える。──先なる一壮漢は、狭霧の薄戦衣に、虎頭を打ち出した金唐革の腹巻に、髪止めには銀のはちまきを締め、おぼろめく縒絨の剣帯へ利刀を横たえ、騎馬戛々、ふと耳をそばだてた。
「おいっ、物見」
「へい」
「何か地の音が遠くからする。行ってみろ」
「合点です」
すると、走った物見は、またたくまに、戻ってきて。
「親分。やって来たのは、白虎山の仲間のやつらです」
「呼延灼の部下じゃなかったのか」
「その呼延灼にぶち負けて、さんざんな態たらくの孔亮でした。なんですか、親分をよく知ってるそうで、いますぐこれへまいります」
「なに、孔亮が来るって」
武松は、馬を降りて、木に繋いだ。
俄に、呼延灼が青州へひきあげたので、これは怪しいと見、武松は一隊をつれて、今宵、城内附近の敵状を窺わんがため、密かに、これまで来たものだった。
ところへ、その青州城下で惨敗を喫したのみか、兄の孔明を生捕られ、無念やるかたなく落ちて来た孔亮の一勢と、偶然、行き会ったものである。孔亮は、武松と聞くや、なつかしそうに馳け寄って。
「武行者。私です……。お変りもなく」
「オオ、亮君か。まことに一別以来だったな」
「いちど二龍山へ、ごあいさつに出ようと思ってたんですが」
「拙者こそだ。無沙汰の罪はこっちで詫びたい。ところで兄上は」
「不覚にも、生捕られました、呼延灼のために。無念、いや面目もありません」
「あいつに馳け向っては無理もない。稀代な刃がね鞭の使い手だ。だがさ、なんだッてまた、そんな無謀な深入りをしなすッたのか」
「城中の牢に囚われている叔父孔賓を、助け出したい一心につい駆られまして」
「オ。……そんな噂はかねて薄々耳にしていた。叔父御の孔賓とやらは知らないが、あんたがたご兄弟の家には、かつて、たいへんなお世話になったことがある。──いま梁山泊にいる宋先生とふたりしてね」
「なおご記憶でございましたか」
「ご恩を忘れていいものか。宋先生も折には思い出していなさるだろう。いや、今はそれどころではない。亮君。ここは何とかしなくっちゃなるまいぜ」
「もちろんです。ですが如何せん、微力です、白虎山には、もういくらの手下も残っていません」
「亮君、弱音を吹くな。とにかく今夜は拙者について来給え」
武松は彼を力づけて、魯智深と青面獣楊志のいる味方の陣場までつれもどった。
暁の篝火をかこみ、羊の股を裂いて、焙り焙り齧り合いながら、さて、談合の結果、
「よろしい、青州奉行の悪政に、塗炭の民が、愚痴も泣き言もいえずにじっと歯の根を噛んでる姿はすでに久しいものがある。いっそのこと、亮さんの兄上孔明と叔父御の孔賓を助け奪る事のついでに、慕蓉をかたづけ、呼延灼を生けどり、州城の庫の物もそっくり貰って、ひとつ、窮民祭りでもしてやろうではないか」
言ったのは、日頃は腰の重い不性者、花和尚魯智深なのである。
武松はもとより願うところ。それだとばかり異議はない。だが、かつて一ト度は北京軍の大名府に仕えていた日もある青面獣楊志は、さすが小首をかしげて雷同もしなかった。
「むずかしそうだなあ。そいつあ、まあ夢だろうぜ」
「楊志、どうしてそれが夢なんだ?」
「おれが見るところ、青州城ッてえのは、ちょっと不落といえそうな堅固な城だ。かたがた呼延灼も正直つよい。慕蓉ッて奴も、なかなかな出来物。それをろくすっぽ装備もねえ三山の手下ぐらいで、なんで、乗ッ取れるもんじゃねえ」
「いかにも道理だ。いわれてみれば、この花和尚にも一言なし、一言なし」
「では楊志、何かほかに、策はねえか。この武松とすれば、どうしても、孔家兄弟の恩にここで報いてみせねばならん」
「一案はある。ただし大覚悟を要するが」
「それは?」
「孔家の恩を思う人に、もうひとり宋公明があるといったね。どうだ、孔亮さんをここから急遽、梁山泊に使いにやる──。そして云々と事情を訴える。──梁山泊とすれば呼延灼は討ち洩らした官軍の首将だ、それに孔家の旧恩にたいする宋江先生の奮起もかならずありと見てよいと思う」
「うーむ。いい案だが、そうなると、いよいよ俺どもも、さいごは梁山泊入りときまるな」
「どっちみち、こう火の手が大きくなったからには、もうこの辺の小寨に殻をかぶッてはいられまい」
「それもそうだ。では、腹をすえるか」
「すべては、みんな、天星のおはからいさ」
「なるほど。おはからいか。うめえことを言やがる!」
と、花和尚は、腹を揺すって大笑いした。
三山十二名、あげて水滸の寨へ投じる事
孔亮は、その場からすぐ、急使となって、青州を離れた。
日ならずして着いた先の、梁山泊では、すぐ宋江が会ってくれて、
「おい、孔家のご次男ではないか。どうしてこれへは?」
と、彼を見ると、手をとってなつかしがった。……その宋江はまた、彼のはなしによって孔家の主はすでに亡く、孔家はつぶれ、兄の孔明、叔父の孔賓、みな青州奉行の獄中にとらわれているなどの仔細を聞いては、
「ああ申しわけない。ご恩のある旧家の災いを、私は少しも知らずにいた。ゆるしてください」
と、さんぜんと涙を垂れた。
すでに、宋江の忘れない旧情が、このようであったから、孔亮の頼みは、一議におよばず、全山の仲間からも支持されて、たちどころに、
の義挙も異議なくまとまった。
そこには、さきに戦場で見失った官軍の総帥、呼延灼も逃げこんでいるという。
また。味方としては。
二龍山の花和尚魯智深、青面獣の楊志。ほか桃花山、白虎山など、あわせて三山の漢どもも、ひたすら梁山泊の援けを望み、孔亮の使いの吉左右を、首を長くして待ッている場合でもあるとのこと。宋江はすすんでそれに当ろうとした。
「晁総統。おききおよびの通りです。この宋江に三千の兵をおまかせ下さい。義のため青州へ行って来ます」
「いや、宋先生」と、晁蓋は首を振った。「──こんどは、あなたはお残りなさい。ここ度々の陣務。青州へは、てまえがあなたに代って行こう」
「いや目的は、旧恩のある人々の救出にある。それを総統に代らせては、私の義が立ちません」
あくまで宋江は宋江らしい。二十人の頭目と、五隊三千人の泊兵をひきい、率先、青州の野へ出発した。
彼が、かねて江湖に噂のたかい花和尚魯智深と会ったのはこのさいである。青面獣の楊志らとも初対面であった。──三山を代表して二人は途中で宋江の軍を迎え、青州城の模様などをつぶさに話した。時にそれをそばで聞いた軍師呉用は、
「ははあ……」と、うなずきを見せて、こういった。
「青州は有名な嶮城だし、奉行慕蓉の権勢もまた人の知るところだが、要は、その中へ呼延灼という者が入り込んで、いやが上にも気勢を揚げているものと観られる。……宋先生、これはまず呼延灼をいけどってしまうのが、いちばんの早道でしょう」
「呉軍師。そんなうまい方策がありますかな」
「ないこともありません。──陣中につれてきた秦明と花栄とは、共に以前、この青州で兵馬総管をしていた者だったはずですから」
「なるほど」
宋江もいわれて思い出した。そこで第四隊にいたその二将を、第一隊に入れ代え、燕順、矮虎、楊雄、朱同、柴進、李俊などを二陣三陣として、城下へせまった。
もとより秦明や花栄は、ここの地勢や、城内の抜け道にまで精通している。しかし短兵急には寄らず、連日、銅鑼や喊声をあげ、鼓譟して、逃げたりまた寄せたり、巧みに、城兵を疲らせていた。
──ついにその策に乗って、奉行慕蓉は、客将の呼延灼へこう命じた。
「将軍。──あれ、あのように、いつも賊の陣の前に立って指揮している花栄と秦明の二人は、もとこの地で兵馬総管までつとめていた軍人でありながら、官に叛いて賊の仲間へ奔った憎ッくき奴らです。にもかかわらず、日々あれへ出て恥もしらぬ悪口雑言を吐いている様、どうにもはや、我慢がならぬ」
「わかりました。あの賊の二将の首を取ッて来いとの御意ですな」
「そうだ。いちどは敗れたりといえ、禁軍三万の上に指揮をとっていたあなただ。賊将の首二ツぐらい慕蓉の前に供えられぬことはあるまい」
こういわれては、呼延灼たる者、なんで否まれようや、である。精兵八百をひきつれて、城の一門から敵中へ突進して行った。
けれど秦明、花栄は、
「それっ、おいでなすッた!」
と、これは思うつぼの様子だった。決してあわてないし、また驚かない。巧みに陣を開き、また旋回し、チラチラ、自分たちの姿をそのあいだに見せながら、次第に遠くへ退いて行った。
「卑怯っ、卑怯!」
追っかけ追っかけ、呼延灼はつい深入りしてしまった。あげくに、陥し坑へ落ちこみ、搦め捕られて、やがて、宋江のいる本陣へ、大熊みたいに、曳きずられて行ったのだった。
すでに伝令で知っていた宋江は、それを見ると、気の立っている大勢の手下を叱った。
「手荒にするなっ。縄を解け。──縄を解いて、わしに預けろ」
さらに、宋江は、その呼延灼の手をとって、幕舎の内に入れ、しかも礼を執って、こう慰めたものである。
「将軍、無残な目にお遭いなされましたな。ご胸中もお察しできる」
「やあ、きさまがかねて聞く宋公明だな。このほうに恥をかかす気か。早く首を打て」
「いや将軍。まだ人生を見限るのは早過ぎましょう。お互いはまだ若い。あたら命を、そう粗末にすることはない」
「では、生かしておいてどうする気だ?」
「あなたの勇と才能を使いたい」
「だれが」
「天が」
「ばかを申せ。使いたいのはきさまらだろうが、いやしくもわしは呼延灼だ。賊徒の道具には相ならん」
「しかし、人間と生れた宿業の尽きぬうちは、いやでも天はあなたを地上で使い切るでしょう。梁山泊は賊の巣窟とのみお考えのようだが、これなん天罡星の集まりです。天意による世直しの大作用を、この土においてしいるものです。呼延将軍」
「なんだ」
「さきにあなたが盗まれた名馬烏騅は、盗んだ桃花山の周通を納得させて、そこの幕の外につないである。あらためてお返し申す」
「なに。あれをわしに返すと?」
「されば、烏騅に跨がって、ここをお逃げになるならお逃げなさい。──しかし、すでにあなたは朝廷からあずかった三軍を征途に亡い、また三千の連環馬軍を殲滅され、いわば籍なき敗軍の孤将にひとしい。どの顔さげおめおめ都へお帰りになれようか」
「…………」
「おそらくは、慕蓉をたよって、朝廷への帰参をとりなしてもらおうというお腹なのでしょう。ところが、その慕蓉は早や青州城を捨てて、今夜あたりは、首になるか、あるいは、都へ落ちんと、野を逃げ惑ッていることでしょう。そのほうは、おあきらめなされたがよい」
「ば、ばかなッ。いい加減なことをいえ。いいかげんなことも程々に」
「いや、あなたのつれて出た精兵も、あらましは軍師呉用の八陣の計に落ちて、そっくり捕虜にされている。その旗、その城兵を巧みに使って、今夕の宵闇にまぎれ、こちらの秦明、花栄そのほかの部隊が、城中へなだれ込み、一気に青州城を内から占領する手順になっているのです。……ま、事実を待ちましょう。やがて火の手が揚がるはずですから」
宋江の言は、嘘ではなかった。
青州はその晩に陥ちた。炎々たる城頭の火柱は、郊外十里の野づらを染めて夜もすがらな城内の人声が、赤い雲間に谺している──
「炎の下から、獄中の孔賓と孔明の二名は無事に救い出しました。また奉行慕蓉の一家は、みなごろしにいたし、あとは領民の混乱ですが、目下、それを鎮撫中であります」
こう宋江の幕舎へ、伝令があると、宋江はすぐ馬に乗って出て行った。
そして、城内の鎮撫やら指令をすませて、明けがた、再びこれへ帰って来ると、まだ幕舎の片隅に首うなだれて坐っていた呼延灼が、いきなり彼の袖にすがって言った。
「宋大人。きのうまでの自分の倨傲は、慚愧にたえん。まったく、迷いの夢がさめた。わしは梁山泊というものも、また広くはこの社会をも、見損なっていた。いまからはぜひ水滸の寨の一員にお加え願いたい」
「おう、おわかり下すったか」
「じつは昨夜、あなたがここを出たあとで、入れ代りに、旧友の彭玘、凌振、また韓滔も、揃ッてここへやって来ました。……そしてかれらからつぶさに梁山泊の内状を話され、かつまた、泊中の人達の、烈々たる理想をかたり聞かされて、真底、自分の考え方も革められてしまったのです」
「祝着、祝着」
宋江は大いによろこんで──
「では、さっそくお戻しした名馬烏騅にお乗り下さい。轡をそろえて、城内へ参りましょう。そこには、あなたのほかにも、今日あらたに、梁山泊入りしたいと望んでいる同志の新顔がまだたくさんに待っている」
といって、彼をうながした。
城内の街々はまだ余燼濛々の騒ぎである。──だが早くも、街角には、宋江が立てさせた〝撫民ノ制札〟が見られ、一部では城壁の消火につとめ、また一隊の泊兵は、罹災民を他にまとめて、それには米や衣服やかねを見舞にめぐんでやっている。
役署の穀倉は開かれ、奪いとった金や衣は山をなし、良馬二百余頭も、一ヵ所につなぎ出された。宋江はこれの半分を梁山泊へ輸送させ、
「あとは窮民に領けてやれ」
と、土地の長老五人をえらんで、その者たちに処理を托した。──そして、即日、
「長居はまずい。梁山泊へ」
と、すぐ全軍を青州から引き揚げにかからせたが、その途すがらも、秋毫犯すことない徳風を慕って、郷村の老幼男女は、みな道にならび、香を焚き、花を投げて、歓呼した。
「……ああ、うそではない」
呼延灼は心中、つくづく、途上で感じていた──。
「かつては自分も、禁軍三万をひきつれて、征途のみちを、こうして行軍したものだが、まだいちども田野の郷民が、こんなに王軍へ歓呼するような景色に出会ったことはない……。これがまことの野の声というものか」と。
さらに彼は、梁山泊でも驚いた。
その規模の大は、さきに彼が攻めあぐねた時から分っていたが、内部の秩序、また宛子城の大会議に集まった漢どもの、いずれも一トかどな面だましいに、今さらの如く、ひそかな舌を巻いたのだった。
総統の晁蓋以下、従来の名だたる面々はいうまでもない。特にこのたびの凱旋では、新たな降人、呼延灼をはじめ、二龍、白虎、桃花の三山から──魯智深、武松、青面獣、施恩、曹正、張青、孫二娘、周通、孔明、孔亮──しめて十二名の新加盟者も居流れていたことなので、そのありさまは、なんとも壮観のかぎりであった。
「三山の者を代表して」
と、さかもりの最中に、青面獣楊志が起って、一場の挨拶をのべた。
「このたびは、梁山泊ご一同の義にたすけられ、かつまた、新参の十二名へ、かような盛宴を張っていただき、身に余るばかりか、魚が水を得たような新天地をここに見いだしました。どうぞ以後はよろしくお引きまわしを」
それにたいして、晁蓋からも歓迎の辞があった。
「かねがね、お噂のたかい花和尚魯智深、また行者武松。そのほかの方々でも、ご縁があるならこちらから出向いてもお誘いしたいほどな思いでいたのです。──それがはしなく、こんどの事件で、こう一堂にお揃いでご加盟を願えることになったのも、申さば、天のおはからいといえるものかもしれません。われらにとって、こんなよろこばしいことはない」
すると花和尚が、即座に、相槌を打って言った。
「おはからいか! なるほど、ここへ来る前にも、誰かが同じことをいっていた。──では、今日ご馳走の酒も、おはからいによるものとして、存分、遠慮なくいただくとしよう。諸子! ひとつご乾杯を」
彼の音頭に、どっと笑い声が揚がり、満堂一せいに杯をあげ合った。
かくも錚々たる顔ぶれがふえたので、水滸の寨は、いよいよその陣容の充実をみせてきた。──旌旗もこれまでの物では不足し──三歳、九曜、二十八宿の旗、飛熊ノ旗、飛豹ノ旗をも新たに作らせ──山の四面には、狼火台まで築かれてきた。
泊内での、農耕はもとよりのこと。酪農から酒の醸造も今ではここで事を欠かない。老幼は養蚕をして糸を紡ぎ、漆林では漆も採る。──器用者の侯健は、やき物の窯場も設けて、陶器を焼きはじめ、武器の工廠では、連環の馬鎧からカギ鎗、葉鉄の鎧、またあらゆる兵具を、日夜さかんに作っていた。
こんな或る日のことである。
「宋先生──。ひとつ、折入って、ご相談があるんですが」
と、花和尚の改まったことばに、宋江もまたふと、その眼をニッとほそめた。
「ほ。折入ってとは、何事ですか」
「おかげでこの花和尚も、近来になく、身のおちつきを覚えていますが……」と、魯智深は、こう語り出す。「ところが、てめえの身がおちつきを得てみると、思い出すのは、なつかしい、しかも恩のある旧友でして」
「ウむ、それはいいことだ。して、思い出すそのご友人というのは」
「九紋龍の史進ていう奴です」
「史進? ……。それならこの宋江もとうに名前は聞いている」
「以前、わが輩がまだ流浪中、その史進には、瓦罐寺で助けられたことがあり、それッきり会ッちゃおりません。ところが、聞けば近ごろは華州華陰県の少華山にいるッてえはなしなんで、ひとつそこへ出向いて行き、仲間に誘ッて来てえもんだと思うのですが、どうでしょう先生」
「それは願ってもないことだ。ぜひ行ってくれ給え」
「ありがたい。それではさっそく」
「しかし、一人では、万一ということもあるが」
「いや、武松もぜひ、一しょに行こうと言ってくれてるんで」
「それなら文句はない。吉左右を待っていますぞ」
しかし、宋江は要心ぶかい。これでも心中決して安心はしていず、密かに、神行太保の戴宗に耳打ちして、二人の出立後、華州へ放った。
木乃伊取り木乃伊となり、勅使の大臣は質に取られる事
こちらは、旅僧魯智深と、行者すがたの武松との二人。
日をかさねて、はや少華山の山麓へ来ていた。
山寨には、九紋龍史進をかしらに、神機軍師の朱武、跳澗虎の陳達、白花蛇の楊春、こう三人の頭目がいる。──ところが、それに会って訊いてみると、
「どうも、せっかくな時に、おいでなすったな。……じつあ、史の若旦那(彼ハ以前、コノ近県切ッテノ大荘院ノ嫡男)は、あいにく、つい先頃からここにはおいでなさらねえんで」
と、その三頭目が三人ともに、何とも元気なく鬱ぎ込んでいる。
「なに。ここにはいないって。──ここにいなければ、一体どこにいるってんだ」
気色ばんで、花和尚がただしてみると、その仔細がまた容易でない。
ここ華州華陰県のすぐ西の方には、天下に有名な霊廟がある。
西岳の華山といって、いわば天子のご祈願所の一つ。──そこへ或る日──いやつい先ごろ。史進はお詣りに行って、その帰りに、道ばたで泣きぬれていた一人の男を見かけ、あわれに思って山へ連れ帰った。
きいてみると、男は北京大名府の者で、職は画工であるという。画工一代の悲願と、腕みがきのため、御山の金天聖廟の壁画を描くべく娘の玉嬌枝を連れて、数日間、願がけの参籠をしていたものだった。
ところが、この玉嬌枝をチラと見染めて、理不尽にも、妾に出せといって来た者がある。しかもそれが官憲だった。
父娘が泣いてあやまると、ついに一夜、暴力のあらしが娘の悲鳴をつつんで手の届かぬ所へ遠く攫ッて行ってしまった。何者かといえば、華州第一の覇権者〝賀〟という奉行がその当人だった。──たまたま、華山の霊地に詣でた賀が、ふと、玉嬌枝を見そめて「……なんでも、ぜひ、わがものに」と、その淫欲と暴とを逞しゅうしたものだった。
史進はこれを聞いて、義憤やるかたなく、
「よし、おれが懸合って、娘をとりかえして来てやる……」と、ただ一人、県城の奉行所へ出向いて行った。──が、それきり彼も、山へ帰って来ない。今日でもう十日にもなるが何の音沙汰もないのを見れば……その一命も気づかわれる……という三頭目が逐一な話なのだった。
「ふウ……む!」
ひとたび、花和尚がこう呻ると、たちまちその満面も、背の文身の緋桜のようになる。
「おい、聞いたか武松」
「聞いた。ひどい奉行もあるもんだな」
「わが輩がもっとも憎むべき奴としている代物だ。よしッ。行って来るからな。貴公は山泊との連絡もあること。ここにいてくれ」
「えっ、どこへ行く気だ、和尚」
「知れたこと。華陰県の奉行所へよ」
「よせ。そいつア無謀だ。九紋龍の轍もあること。二の舞を踏んではつまるまい」
「じゃあ何か。史進の災難を、この花和尚に、知らん顔でいろっていうのか」
「おい、おい。喧嘩腰はよそうぜ。この武松だってそんな気じゃあない。ともに心配はしてるのだ。だが、ここは大事をとり、いちど梁山泊へ引っ返して、一同のお智恵と協力を仰いだほうがよかろうと俺は考えるのだが……」
「喝ッ……」と、花和尚はもう突ッ立ちあがっている。そして──「ええ悠長な。そんなこんなのうちに、もし史進の一命にまちがいでもあった日には、義として、情として、この花和尚、のほほんと生きてもおれんわ。ぜがひでも、わが輩はこれからすぐ行く!」
朱武や陳達はおどろいて、あわてて子分をよびたてた。そしてたちまちただ一人で、山を降ッて行った花和尚のあとをつけさせた。
だが、そんなものは、眼のすみにも顧みている花和尚ではない。
すでに翌々日の午後である。この異形なる大坊主は、れいの錫杖を片手に、のッしのッしと、華州城内の雑閙をあるいていて、
「こら、ちょっと訊くが、奉行所はどこだ、ここの奉行所は」
と、道行く者をつかまえては訊ねていた。
すでにその権まくからして只ならないものがある。往来の者は、呆ッ気にとられて、
「なんだろう、あの風来坊は?」
と、目をそばだてた。しかもちょうどこの日、当の奉行の賀は、街をお練りで帰って来る途中にあったが、たれも花和尚にそれが奉行だとは教えてやる者もない。
奉行は綺羅な輿轎に乗ッていたのである。輿ワキには護衛の力士が鎗を持ってつきしたがい、騎馬の与力がそのあとさきを守って往来の邪魔者をいちいち叱咤しながら行く──
これがやがて州橋の上までかかると、輿の垂れ絹の内から奉行の賀が、
「ちょっと、待て」
と、急に列を止めさせていた。そして与力の一人をそば近く呼んで。「……途々、異形な坊主が列のあとから尾けて来るようだが知っているか」
「はっ。不審な奴と見、油断はいたしておりません」
「いや、それよりもだ、いッそこうせい。……よいか、抜かるなよ」
どんな策をさずけられたのか、その与力は、馬を力士の一人に預け、あとへ戻って、花和尚の前に立ち、いやにていねいに、こう言ったものである。
「おん僧は、そも、どちらからお出でになられましたか」
「わが輩か。わが輩は見たとおりの旅僧さ。いってみれば、天涯無住だ」
「おそらくは、由緒あるお山のご高徳でいらせられましょう。ぜひ、一夕のお斎なと差上げて、ご法話でも伺いたいと申されますが」
「誰がよ」
「お奉行さまが」
「ははアん。じゃアいま先へ行った輿轎は、やはりここの奉行だったのかい。……どうもそんな臭いがと、思って尾けて来たんだが」
「何かお奉行へ御用でも」
「さればさ。ちょっくら会って、話したいことがあってね」
「それはまことに好都合です。お奉行はいたって仏心の深いたちで、有縁無縁によらず、旅の法師とみれば官邸に請じて、何がな布施のお徳を積まれるのが、まアお道楽といったようなお方。それでは、どうぞてまえとご一しょに」
と、案内に立つ。
こんなうまい機ッかけがあるはずのものではない。けれど魯智深は、渡りに舟とよろこんでしまった。──そして宏壮な一門に入って行く。すると当然、腰の戒刀と錫杖も「……お預かりを」という奥向きの侍に、つい預けるほかなくなってしまい、丸腰となって、さらに中廊下を深く一殿の内へ通された。
「やあ、連れて来たか」
すぐ帳を排してあらわれた奉行の賀は、魯智深には、ただのひと口も物をいわせぬうちに、
「者ども。こいつは梁山泊の廻し者だ。からめ捕れッ!」
と一方の手を颯ッと高く振りあげた。
とたんに、ひそんでいた力士、捕手、何十人もが、どッと出て来て、一瞬のまに、魯智深の体を高手小手にからめてしまった。一吼え、二タ吼え、猛虎の唸きさながらなもがきはその下で聞えたが、山のような人数の岩磐、さしもな花和尚もこうなっては、早やどうしようもない。無念無念と、ただ毒づくばかりだった。
「はははは。よくよく智恵のない奴だの」
賀は笑った。──彼はこれへ帰るやいな、かねて他県の官庁から廻附されている多くの手配の牒を調べさせ、そのうちから「あっ、これだ」と魯智深の人相書を見つけ出していたのである。
かつては渭州の憲兵あがりで、関西五路の肉屋殺し。そしてまた都の大相国寺でも、大暴れをやったあげく、近くは二龍山にこもって、梁山泊の賊とともに、青州一城を全焼にしたという飛報もきている。なんで、奉行の賀が気どらずにいようやである。しかも、賀の底意には、さきにわが手で、九紋龍史進を獄にくだしていた要心もあった折のことだ。かさねがさね、こんな所へわれから踏みこんだ魯智深の不覚は不覚というよりは、浅慮だったというしかない。
またぞろ、梁山泊の内では、
「すわ。ほってはおかれん」
と、俄な大動員をここに見ていた。不幸にして宋江の予感が中ったわけである。──すなわち、神行太保の戴宗が、武松に会って、
云々、かくかく。
と、史進、花和尚、ふたりまでの災厄を聞き、ただちに、これへ注進して来たことからの、騒ぎであった。
例のごとく、宋江を総大将に、軍師呉用が参謀につき、花栄、秦明、徐寧、林冲、楊志、呼延灼、そのほか二十人の頭目、一千の騎兵、三千の歩兵、数百車の輜重、べつに一群の船団、あわせて五千余のものが、
「それッ急げ」
とばかり、疾風雲のごとく、河川を溯り、野を踏破して、昼夜わかたず、華州へ急行したのだった。
ひとあし先に、飛ぶこと鳥の如き戴宗は、すでに少華山へこのことを知らせている。──さっそく、武松は陳達、楊春などをつれて、泊軍を山の麓に出迎えた。
着くとすぐ、宋江はまずまっ先に、こう訊ねた。
「花和尚と史進の生命は、なおまだ、無事でいるだろうか?」
「まだ、おそらくは──」と、陳達が答えた。
「獄中のままいのちだけは、延ばされているんじゃないかと思われます」
「どうして、それが保証できる」
「五日ほど前、都へ向って、奉行の急使が立って行きました。ですから二人の身の処分は、朝廷のさしずを待って、おこなわれるものに相違ございませぬ」
「──軍師」
と、宋江はまた、呉用にむかって。
「何か、よいお手策がありましょうか。ともあれ、二人のいのちは、命旦夕と思わねばなりませんが」
「ま──お急ぎあるな。いちど城下へ出て、とにかく、城中の雲気を篤と窺ッてからのことですよ」
呉用は、一小隊をべつに編制して、宋江と共に、その夜から翌夕にかけ、華州の城下へといそぎだした。そして城下の小高い所に立ち、折ふし時も二月の月夜、月下の城と、城のうしろ、山波の彼方まで、昼かのような、西岳華山のながめにしばし佇んだ。
空には片雲の影もない。地に光るのは水であろう。それは濠をなして、華陰城の城壁の下を稲妻形にめぐッている。
その不落をほこる城楼も巍峨たる姿だが、さすが霊山の華岳はもっと神々しい。仙掌ノ峰、雲台ノ観。斧をならべたような石峰。李龍眠の墨の画筆で〝月夜山水図〟を宇宙へ一ト刷きしたような景である。
「さても。むずかしい地勢」
「きびしい城壁?」
これでは、いかなる策もほどこしようがない感に打たれたらしい。宋江、呉用はやがて少華山へもどって来た。しかし武松へも、まだ何らの方針がついたという相談が出ない。
すると、二日目。──かねて少華山から放ッておいた子分の一人が、県境の遠くから飛んで帰って来て、はしなく、耳よりな聞き込みをこれへもたらして来た。
「いや、えらいこってすぜ。なんでもこんど開封東京の都から、天子さまのお使いで、内殿司の大臣とかいう大官が、霊山へ献納する黄金の吊燈籠を捧げてやって来るんだそうで。へい。……え。嘘だろうッて。間違いッこあるもんですか。……なにしろ、勅願のご代参だッてんで、途々の露払いもえらい騒ぎで、見事な勅使仕立て船で、黄河から支流の渭河へ入り、ずッと華州へ下って来るそうで」
これを聞くと、呉用はハタと膝を打った。
「宋先生。もう心配はありませんな!」
「え、どうしてです?」
「聞くうちに、ふと妙計が胸にうかんできたのです。天来の声とはこれでしょう。さっそく、精密なしめし合せと、その手くばりとを」
すでに、翌朝となると、いちはやく、山を降りて行った三人がある。
白花蛇の楊春を道案内とした、李俊と張順の二人だった。この二人は、一ト足先に渭河の埠頭へ行って、大小幾隻かの船を手にいれ、なにやらそこで待機していた。
つづいて翌日には、花栄、秦明、徐寧、呼延灼の四人とその部隊が来て、これは渭河の両岸に、埋伏の計をとって、影をひそめる。
また、三度めには、宋江、呉用、朱同、李応などが見え、先に来て待っていた張順たちの船に乗り込む。この船は、埠頭へ寄せて、ただの荷船か何ぞのように見せかけていた。
かくて、ふた夜ほどは、何事もない──
三日目の朝まだきである。
まだ川靄もほの白いうちに、しきりと、鴻雁が遠くで群れ立ち、やがて鑼声鼓笛の音と共に、櫓手の船歌が聞えだしていた。近づくのをみれば、花やかな三隻の官船である。特に、勅使船の舳には、
欽奉聖旨
西岳降香
大臣 宿元景
と書いた金繍縁の黄旗がゆるい川風になびいていた。
「あっ?」
と宋江は目をそばだてた。
むかし、九天玄女の夢告をうけたとき宿ニ遇ウテ喜ブ──という一語をたしか聞いている。これかもしれない? 彼と呉用とはそれッと船を少し進めさせて、
「やあ! お待ちください……」
と、やにわに勅使船のみよしをさえぎった。
「や、や、や?」
と官船の上では、騒ぎ立った銀帯金剣、それに紫の短い陣羽織を着た宮廷武官の面々が、二十余名、一せいに、勅使旗の下へ走り出て来て、ののしッた。
「こらッ、なんじらには、この御旗が目に入らんのか」
「おそれ多くも、内殿司の大臣宿元景さまがお座船の水路をば」
「さまたげなすと、ただはおかんぞ」
「推参な下種どもめが、目ざわりだわ。とッとと船を遠くへ避けい!」
いわせるだけいわせておいて、呉用は苦笑をうかべたが、さりとて、慇懃な態度ではあった。
「あいや、お騒ぎ立ちは、なんのご利益にもなりますまい。──これは梁山泊の義士宋江です。義士宋江が折入って、御見を得に参った次第ですから」
「げッ? ……」と、一せいに白み渡って「梁山泊の輩だと! して、きさまがその宋江」
「いえ、宋江はこちらの御仁です。てまえは、おなじく梁山泊の一員、呉学究なので」
「しゃッ。白昼は歩けぬやつらが、首を揃えて何しにここへ」
宋江が、次をうけて、言った──
「お願いのためにです。宿大臣閣下に、暫時、ご上陸いただきましょうか」
「ばかなッ。わが大臣閣下が、なんじらごとき草賊に親しくお会いになるものか」
「はて。ならんと仰せなれば、ぜひもない。──しかし、いかなる難が降ッてわいても、おさしつかえはないのだな」
「な、なにを」
「ま。おちついて最後をお決めなされたがよい。しばし、大臣ご自身の返答をお待ち申すとしよう」
ふたりの後ろには、李応、朱同、そのほかが、鎗を持って、睨んでいる。
陸ではこのとき、花栄、呼延灼などの弓組が、官船三隻を、鏃のさきに見すましていた。対岸にいた埋伏の兵もいちどに姿をあらわしていた。だから効き目は充分こたえたものにちがいない。
「やあ、これは、これは……」
ついに、船屋形の帳を払って、自身みよしに出て来た宿大臣は、今はその沽券もすて、
「義士──」
と相手を呼んだものである。
「そも、何の御用じゃの。儂は朝廷の重臣、かつは聖旨を帯した参詣の途中での」
「わかっています。なればこそ、ていねいに、こうお迎えにまいっておる」
「はて、お迎えとは怪しからんはなしじゃが、いったい何処へ」
「近くの、山寨まで」
「えっ、山寨へだと。ば、ば、ばかげたことを」
「おいやか」
「か、かりそめにも身は……」
すでに歯の根もカチカチ言葉もなさない声音である。そこへ持ってきて、このとき、官船の横ッ腹へどんとぶつかって来た小舟がある。李俊、張順、楊春たちである。船上に躍り込むやいな、二人の警固を川へ取ッて投げた。為に、飛沫は船上をぱッと濡らした。
「あっ、ひかえろ。李俊も張順も、大臣閣下をおびやかすではない」
宋江が、せつなに、こっちの舳で叱ると、その二人はまた、身を逆さまに、どぶんッ……と沈んで行ったものである。なにしろ〝揚子江ノ三覇〟といわれた河童たちのこと。自分で投げ込んだ水中の人間を手玉にとり、水をゆくこと平地のように、やがてひらりともとの船へ上がって来た──。これを見ていた宿大臣はいうまでもなく、官人すべて、ぞうッと、肌をそそけだてた。
衣冠が燿く世界でなければ、衣冠や栄位も、一個の木ノ実、一枝の草花にも値しない。
宿大臣閣下は、供奉の随員、宮廷武官、小者など、あわせて六、七十名と共に、ごッそり、少華山の人質となってしまい、意気も銷沈、粥も水も、喉に通らぬほどな悄ゲかただった。
「大臣、──ここへ来ては、もうご観念のほかありますまい。おいのちは保証する。まあ数日は、ゆるりと、ご静養のおつもりになって」
「宋江とやら。なぶるのも程にしてくれ。たとえ命があったところで、どう朝廷へ、こんな始末を提げてもどれようか」
「いや、すべてこの宋江の罪にして、ご帰還なされたらよいでしょう」
「すでに、立帰る船もない」
「渭河のお船には、李俊、張順の二名に、手下三百名をつけて、お帰りの日まで、守らせておいてありますから」
「なんのそれよりは天子から霊山へご献納の吊燈籠だ。そのほか、貴重な香木やら数々なお供え物など。ああ、どうしようもない」
「それとて、お案じにはおよびません。きっと、華岳の霊廟へ、つつがなくお納めします」
「いッそ、それならわしを放してくれい。儂が霊山へまいらぬことには、どうにもならん」
「いや元々、あなたは天子のご代参。ですからまた、あなたのご代参はわれわれがする。──そのため、大臣のご衣裳、お乗物、供奉員の式服。すべてをそっくり拝借申す」
「いったい、また、なんでそんな道化た芝居を演じねばならんのか」
「いずれ後ではお分りになりまする。たしかにこれは一場の劇。都へのよい土産ばなしになるでしょう」
山寨の一窟で、宋江が彼を揶揄したり慰めたりしているうちに、一方では呉用のさしずで、一切の準備は進められていたのである。
馬子にも衣裳とはよくいうこと。ヒゲを剃るやら、金剣銀帯を佩いてみるやら、宮廷武官の紫袗と称する短か羽織を引っかけるなど、さながら楽屋裏の忙しさと異ならない。
また仲間うちでも、のッぺり顔の漢をえらんで、これには、宿元景の衣服佩刀をそっくり体に着けさせる。そして、
「わあ、似合う、似合う……」
と、まるで子供みたいな拍手かッさい。
すでに儀仗の旗手もできあがり、献納燈籠を入れた螺鈿の塗り箱をかつぐ仕丁の役割もすべてきまる。かくて、これらが一せいにふたたび渭河への埠頭へさして返り、例の、勅使旗の船にひそまり返ったものだった。──するうちに、一方また、武松をかしらとした一軍が、道をたがえて、西岳の下、霊山山麓の総門へ、風のごとく、潜行して行った。
この日。──華岳の中院、雲台観(道教寺)の前に、忽然と、雲から降りて来たような男が立って、こう大声告げて去った。
「観主、観主。院司もおらんか。勅使は早や渭河の河口へお着きになるぞ。なぜ出迎えん。一山の用意は滞りなかろうな」──と。
寺内では、あっと、一同驚き騒いだ。数人の僧がすぐ外へとび出してみたが、もうどこにもその人間は見あたらない。見えないはず、これは神行太保が使いに化けて、一令を触れ、またたちまち、宙を翔け去ッてしまったものであったらしい。
しかし、天子ご名代の入山予告はとうに観へ入ってる。儀式万端奉迎のしたくにおいても手落ちはない。──ただ驚いたのは寝耳に水の、到着だった。あわてふためいて、観主以下、一山の僧、河口の埠頭へ馳せさんじてみる。
──なるほど、香花、燈燭、幢幡、宝蓋などをささげた行列──それはすでに船をはなれて上陸していた。
すると、列の先頭で、すぐ声があった。
「やあ、ひかえろ、ひかえろ……長い水路やら旅のおつかれで、宿大臣閣下には、あいにく、お病気におわせられる。観主、ごあいさつは、あとにいたせ」
いったのは、呉用である。
この呉用も宋江も、もちろん、大臣の近侍に姿を変えており、あたりの武官、警固の兵、献納燈籠をかついでいる仕丁、小者の端まで、すべてお互い常に見ている顔ばかりだったのはいうまでもない。
クスリッ……時折り吹き出しかける奴には仲間の眼がぎょろと光った。もっとも巧妙な役者は、轎の内で、白絹のふとんに倚りかかっていた偽大臣の男である。これはらくな役でもあったがなかなか巧い。すこぶる真面目くさッていた。うつらうつらと揺られて行く。──はや森々たる華岳の参道を踏み登っていたのである。奏楽が起る。喨々と笛の音、金鈴のひびき。そして身は仙境を思わせる香のけむりと一山の僧衆が粛と、整列するなかをすすんでいた。すでにご病中との触れなので、偽大臣はお轎のまま中庭の客院までずッとそのまま通ってしまう。──勅使旗やら内府の官服、献納物の儀仗、だれひとりこれを疑って見るものはない。
「観主」と、呉用は、客殿に大きくかまえて。
「怠りも、はなはだしいではないか。なんでお出迎えにおくれたか」
「申しわけございませぬ。まったく、万端のととのえはして、お待ち申しておりましたれど」
「叱りおくぞ。近ごろ、緩怠きわまる!」
「はっ……」
「それに奉行もまだ見えんようではないか」
「おそらくは、まだご存知なく、当寺より走らせた使いによって、仰天しておらるるものと思われまする」
「使いはやってあるのだな」
「追ッつけお見えになるでございましょう。いや取る物もとりあえず」
「ま。なんじらは、倖せと思うがいい。折ふしご勅使の宿大臣閣下には、ご不快のうえ、いたく今日はお疲れのもようで、あれあのように、まだご休憩の間でも、お轎の内を出で給わず……、為に、何らのおとがめも出ぬが、これがもし、お元気であらせられたら、ご立腹はいかばかりであったと思う」
「げに、なんとも、恐れ入り奉りまする。よそながら、ごあいさつをかねて、おわびなと……」
「ああこれこれ、近寄るまい。うるさく思し召すかもしれん。次の間より、遥拝いたせ。そこでよい、そこからで」
ところへ、あわただしげに、一群の役人が、華陰府の城中からはせさんじて来た。──奉行の賀は、まだあとから少し遅れてまいりますと、三拝九拝、階の下で、詫び入るばかり。
これにたいしても、にせものの病大臣は、轎のままで、ただ轎の垂巾の内から、弱々しげに、手をふって、こたえて見せたのみである。役人一同は「……へへッ」と、それにすら階下で額をすりつけたままでいる。
けれど、奉行の賀が来ると、これに対してはそうもゆかない。宋江が接待役に出て、正殿の廊から内へ案内して通す。そして、まずそれからである。恩賜の献納燈籠の内覧をゆるす──と、宋江と呉用とが、あたまから大きく言って、
「中書の者。御文書を持て」
と、次の間へ大きく呼ぶ。
はーっと、遠くで答えがある。絢爛な公文の箱をささげて、静々と裳を引いて出てきたのは、中書省の一官に化けていた、花栄であった。
宋江が、次を呼んだ。
「御物の燈籠をささげて、殿司寮の者、お鍵番の者、粗相なきよう、これへ出ませい!」
おーと、これもはるか遠くの返辞。やがてのこと。螺鈿櫃を抱えた宮廷人と見える者と、紅錦の袋に入れた鍵を持った鍵番とが、一歩一歩、つつしみぶかく、そこへ来て、奉行の賀の前で、その蓋をはらった。
さんぜん、眼もくらむばかりな八角燈籠があらわれた。地金すべて、黄金なのはいうまでもない。迦陵頻迦のすかし彫である。蓮の花は白金だし翠葉は青金だった。万花の彩りには、琥珀、さんご、真珠をちりばめ、瓔珞には七ツの小さい金鈴と、数珠宝珠をさげるなど、妙巧の精緻、ただ見恍れるのほか、ことばもない。
「げに、ありがたき聖徳にござりまする。かく近々と、拝させていただき、奉行の身にとりましても」
「冥加と思われるか」
「ただただ、かたじけなく」
「しかるに」と、宋江がことばをかえた。「なにゆえ、勅使のお迎えを怠ったか」
「ふしぎや、何の伝令も、城内へございませんでしたので。……どうも腑におちかねまする」
「ふしぎとは何事。ただいま、中書省の公文、恩賜の燈籠、あわせ見て、一点の疑義でもあるか」
「おそれながら、ただひとつ」
「それは」
「次室に見えまする、あの轎の内。失礼ながら、てまえには役儀上のことながら、ちょっと、そのお轎の内のお人へ直接、ものを申したい」
さっきから、じろと、そっちを眼の隅から睨んでいた奉行の賀は、さすが一トかどの者だった。いうやいな、席を蹴って、ばっとそっちへ歩きかけた。
けれど、これは彼みずから敵に絶好な、断刀一閃のいい弾みを与えたものでしかない。
鍵番の吏、すなわち徐寧は、かくし持っていた一刀の抜く手も見せず、賀の首を、斬りおとした。──それっと、これが全活動の合図となって、雲台観中、たちどころに修羅と変り、衣冠式服をかなぐり捨てた梁山泊の男たちの、跳梁の場となった。
この夕、華陰県の城中からも、火の手があがった。──総門にひそんでいた武松の一手が、賀を送って来た供の人数を囮にして、城中へまぎれ入り、一方、城下に待機していた解珍、解宝、楊雄、林冲、石秀のともがらと一致して、全城を乗っ取ってしまったもの。──また、もちろん、獄中にあった史進と花和尚の身は、炎の下から救出された。
けれど、ここにあわれをとどめたのは、絵師の娘玉嬌枝である。彼女はどうしても見あたらなかった。あくる日、城中の小者を捕えてただしてみれば、あわれこのときすでに、玉嬌枝は、父との別れをかなしみ、賀の夜ごとな執拗さにもたえきれず、井戸に身を投げてしまっていたものであったという。
喪旗はとりでの春を革め、僧は河北の一傑を語ること
華州地方の数日間は、まったくの無政府状態、そのものだった。
なにしろ稀代な大騒動ではある。──県城から市街の半分は一夜のまに灰と化し、奉行は霊山の廟で殺され、勅使宿元景は監禁されていた少華山からコソコソ都へ逃げ帰るなど。──どう見ても、これでは政府や法律がある世上とは思われない。
しかし、梁山泊の輩は、これをもって、
ものと称し、風のごとく水滸の寨へひきあげていた。そして例のように、凱旋の宴、分捕り品の披露、新加盟者の紹介などがおこなわれ、ここだけには、独自の〝仲間掟〟も制裁もあり、また彼らだけの〝おらが春〟も醸されていた。
まもなくまた、泊中の大兵は、徐州沛県の芒蕩山へ出撃して行った。そしてこれにも打勝ったすえ、やがて芒蕩山の三魁といわれる三名の賊将をとりこにして帰り、彼らの降を入れて、即日、新顔の列に加えていた。
それを、誰々かといえば。
樊瑞──あだ名を(混世魔王)
李袞──あだ名を(飛天大聖)
項充──あだ名を(八臂那吒)
という者たちで、いずれも投げ鎗や投げ刀の達人だった。中でも混世魔王の樊瑞は、丸型の楯をよく使い、また、道教の術を究めた方術師でもあった。
「なアおい、春だよ。もう当分は、修羅場もあるめえぜ」
「まったく、殺し合いにも、少し飽きたな」
「ごらんよ、水寨の辺を。柳はみどりの新芽を吹き、杏花や桃も笑いかけてる」
「むむ、女衆や年寄りの畑打ちも始まったね」
殺伐な男どもにも、春は人並な多情多感をそそるらしい。あちこちの若草にころがって、ここ、ちょっと途ぎれていた血臭い修羅場を忘れかけていた。
ところが。
例の対岸の見張り茶屋にいる見張り役の朱貴が、ある日一人のひょろ長い痩せッぽちの男を泊内へつれて来た。涿州生れの金毛犬とアダ名のある段景住という者で、
「どうか、お仲間の端に加えておくんなさい。てまえ、なんの能もありませんが、そのかわり天下に二頭とない名馬をお土産に持ってまいりました」
と、いう。
しかし彼は、その名馬とやらを、ここへ持って来たわけではない。途中で横奪りされてしまったというのである。なんのことはない、その泣き言を訴えにここへ馳け込んで来たようなものだった。
──訊けば、事情はこうなのだ。
涿州は金国(旧、満州国)の境に近い。そこに鎗竿嶺ノ牧がある。
牧には、大金国の王子のお召料で、
と名のある雪白の優駿が放牧されていた。金毛犬の段は、これが欲しくてたまらない。それを盗んで土産に持ってゆけば、かならず梁山泊への仲間入りができるにちがいないと、かねがね出奔の望みを持っていたからだ。
そしてついに彼はそれに成功した。──盗んだ名馬の脚にものをいわせ、やがて凌州の西南、曾頭市までやって来た。
するとここに市の長者で〝曾家の五虎〟と呼ばれる五人兄弟がある。段はその輩に因縁をつけられて、せっかくな馬を途中で奪られてしまった。無念、なんとも業腹でたまらない。──どうか奴らを懲らして、稀代な名馬白獅子をお取り返しなすッて下さい。「──お願いの筋はそれなんで」と、金毛犬の段は、百拝した。
始終を聞き終った総統の晁蓋は「こいつ、どこか見どころがある」と宋江や呉用に諮って、ひとまず段の身柄は泊中にとめておいた。そして念のため、戴宗を曾頭市にやって、虚実をしらべさせてみると段のことばにいささかの嘘もなかった。
のみならず、その曾頭市では今、子供の間に、こんな童謡が流行っており、居酒屋でさえもよく囃しているのを聞くという。
曾家の鈴が鳴りだせば
影をひそめる魔魅や鬼
梁山泊など一トならし
都送りの鉄ぐるま
晁蓋とらえて抛りこみ
宋江ひねッて生捕りに
そウれ出て来い
智多星(呉用)来い
あとの小粒はふみつぶす
戴宗はなお、つけ加えて、一同へ告げた。
「──曾家の当主は、もと金国の人間ですが、これは老いぼれていて、問題ではありません。が、油断ならぬことには──総領の曾塗、二男の曾密、三男の曾索、四男の曾魁、五男の曾昇──これらがみな、なかなかの者でして、将来の栄達を誓い合い、いつかは梁山泊を攻めつぶし、その功をもって、朝廷のご嘉賞を得んものとしていることです。ですから武器、戦車、囚人車など、武庫のうちに山と蓄えておることからみても、たえず虎視眈々と、わが水滸の要害を窺っているものとしか思われませぬ」
一同は大いに驚いた。
そればかりではない。──戴宗の言によれば、ほかに史文恭という兵法家、蘇定という武術の師範まで召抱えて、曾頭市四千戸の街そのものが、いつでも曾家の濠を中心に、全市一つの要塞化となるような組織にもなっているとのことだった。
「あぶない、あぶない。いつのまにそんな大敵国が出来ていたのか」
「曾頭市はだいぶ遠地だが、しかし捨ててはおかれまい。いまのうちに、こっちから行って禍根を絶ッてしまわぬことには」
衆議、異口同音に、そうなったのは、もちろんである。
すると、首席から立上がった総統の晁蓋は、宋江の方を見て言った。
「宋先生、毎度毎度、出勢の日には、あなたにばかり戦野のご苦労をわずらわしてきた。しかしこんどこそは、この晁蓋が陣頭に立ってゆきます。どうか今回は留守をおねがい申す」
「なにを仰っしゃる」と、宋江も立って、言をさえぎった。
「──いちいちの戦に、総統自身が出ることはありません。あなたは水滸のおあるじだ。このたびもまた、この宋江と軍師呉用とに、お任せおきあらばよいでしょう」
「いやいや、心ならずも総統の首席にのぼって以来、ただの一ぺんも、自分は戦場に出たことはない。──何も決してあなた方と功を争うわけではないが、余りに何か心ぐるしい。どうかこんどはこのほうの意志を通させてもらいたい」
人々も止めたが、晁蓋は何といってもきかなかった。ぜひなく宋江もついに譲った。──晁蓋は大いによろこんで、みずから二十名の部将をえらび、五千の兵を動員して、その朝、水滸の宛子城を立ちかけた。
すると、突如、一陣の狂風が吹いて、旗の数も多いのに、わけて泊軍の象徴とする大将旗がその竿首のところからポキと折れてしまい。一同は、はっと顔色をかえた。
「あ、これはいかん、不吉な前兆だ」
軍師呉用も言い、宋江もまた、晁蓋へむかって、切に、今日の出陣を止めた。
「首途に旗が折れるなどは──どう考えても吉兆ではありません。──ひとつ、日を改めては如何なものか」
「はははは」と、晁蓋は気にかける風もない。「こんな例はままありがちなこと。いちいち御幣をかついでいたら、そのたび部下の士気を沮喪させるばかり。お案じあるな」
と、ばかり意気揚々、江を渡って、この日征途に立ってしまった。──がしかし、これはやはり悪い前兆であったとみえる。──晁蓋はこの一戦を買って出たばかりに、曾頭市の市街戦で矢にあたり、約一ヵ月ほど後、あえなき重傷者になって、故山へ送り還されて来た。
曾頭市の守備は思いのほか固く、五虎の兄弟と、二人の兵法者の下に、その兵もまたすこぶる強かった。──為に、晁蓋は苦戦をかさね、あげくに、自身も頸の根に一矢をうけて、無念な姿を、送還されて来たものだった。
「……これは重態だ。鏃に毒を塗った毒矢であったに相違ない」
水滸の寨は、このため、一同色をうしなった。さっそく宛子城の病房に入れ、金創の手当やら貴薬を煎じて飲ませるなど、日夜の看護に他念もない。しかし晁蓋の息づかいは、刻々悪化するばかりだったし、加うるに、林冲、徐寧、呼延灼らの部隊も、総大将を失った結果、支離滅裂となって、ぞくぞく、敗戦の戦場からここの泊中へ引きあげていた。
「……すまなかった。賢弟たちの忠告をきいていたら、こんなことはなかったろうに」
そうした一日のこと。
晁蓋は、身うごきもならぬ体のまま、にぶい眸で、枕頭にいた宋江と呉用の顔を見あげ、そして虫の息で……。
「あとを……あとをひとつ、よろしく頼む。……そして誰でも、この晁蓋を射た矢の主を、つかまえたら、その者を梁山泊の次の盟主に立ててやって行ってくれ給え」
と、遺言した。
抜きとったその矢は大事にしまってある。後日のためにだ。矢柄には「史文恭」の三文字が彫ってあったのである。
「総統、しっかりして下さい。そんなお気の弱いことでは」
「いや、もうだめだ。人には天寿がある。わしの天寿はもう尽きたらしい」
言い終るとまもなく、彼は従容として死に就いた。宋江も呉用も、哀哭してとりすがったが、魂魄、ついに還らなかった。
ただちに喪を発し、泊中の者は頭巾に喪章をつけ、また宛子台の上には黒い喪旗が掲げられ──一山、哀号のうちに沈みきった。
日をえらんで、聚議庁の大堂には、霊幃の祭几が安置され、中央の位牌には、
と書かれ、香花、燈燭のかざりはいうまでもなく、特に供えられた一すじの〝誓いの矢〟が人目をひいた。これなん晁蓋を殺した「史文恭」と彫りのある毒矢の矢柄なのである。
大葬の日には、近郷近郡の諸寺院から、たくさんな僧侶をよび、そのさかんなことは、一国の太守の弔いも及ばない程だった。それも一日や二日のことでなく、あとの供養も七日にわたっておこなわれた。
さて、そのあとであった。あらたまって呉用と林冲とが、宋江の前にきて、
「国に一日も君なきあたわず、家に一日とて主なきあたわずです……。どうか今日以後は、あなたがこの水滸ノ寨の上に立って盟主の座について下さい。大寨一同の声でもありますので」
「とんでもないことを」
と、宋江はかたく辞した。
「先生の遺言にも──史文恭をとらえた者を次の盟主に──と仰っしゃっておられ、しかも私には、この大寨を統御してゆけるほどな力も徳望もありません」
「いや、衆望は充分です。また、ご遺言の儀は、今が今、誰と定めるわけにもゆきますまい」
「ですが、私は器ではない」
「というて、首脳がさだまらねば、泊中の取締りがつきませぬ。とにかく、復讐の成るあかつきまで、仮に、一同のあるじの位置につくことを、曲げても、ご承諾ねがいまする」
すでにこのことは、梁党の下部から中堅にいたるまでの者が、当然のように、心で推していたことであり、ついに宋江も否みかねて、
「──では、暫定的に、仮の首席として」
ということで、承認した。
と、聞いた黒旋風の李逵などは、
「そいつはよかった! 宋先生なら、梁党の盟主どころか、大宋国の天子さまに納まッたって、ちっとも、おかしいことはねえ!」
と、放言して、はしゃぎ廻った。
だが、そんな人気的な浮評こそ、宋江がもっとも嫌ったところであり、任に就くと、彼は即日、大寨中のおもなる人物、すべてを聚議庁に呼びあつめて、
「不肖、やむなく、一時の重任をおひきうけしたが、もとより私に神異の才があるわけではない。一心同体、人々の和と結束に待つばかり。──そこで、一そうの団結と、気を一新するため、めいめいの部署と職制をあらためる。──またこの聚議庁も、今日からは、──忠議堂と改称する。すなわち、天ニ代ッテ道ヲ行ウ──お互いの志をここに結ぶという意味で」
と、いい渡した。
そしてまた、
「この忠議堂の壁に、ただいま、新しい職制と部署の人名とを書いて貼り出すから、各〻はよくそれによって、責任を果たしてもらいたい」
とも、つけ加えた。
招くともなく、またしいて、寄るともなく、天命地宿、不思議な縁のもとに、いつかこの梁山泊には、やがてもう百人ちかい天罡星、地煞星の漢どもが、集まっていた。
ちょうど、その全部の名が、忠義堂の壁に貼り出されたこと、いまその全簿名を、ここに写しておくのもムダではあるまい。
主席、宋公明。──次席、軍師呉学究、第三、道士の公孫勝以下──すなわち次のような順位だった。
第四、花栄。第五、秦明、第六が呂方、第七、郭盛。
以上が、船つきの水寨を挟んだ、右がわの山の砦の一軍。
そして、左の関門には。
林冲をかしらに、劉唐、史進、楊雄、石秀、杜選、宋万。
正面の木戸の守りは。
呼延灼を一番に、二番朱同、三番戴宗、以下順に──穆弘、李逵、欧鵬、穆春など。
さらに。二ノ木戸には李応あり、徐寧あり、魯智深あり、武松あり、楊志、馬麟、施恩あり──という堅め。
宛子城直下には、なお、
柴進、孫立、黄信、韓滔、彭玘、鄧飛、薛永。
このほか、水軍のとりでや、船庫の備えもあって、その船手には。──李俊、阮小二、阮小五、阮小七。──それに張横、張順、童威、童猛といったような、大江の河童にひとしい面々が得意の持場にあたっている。
べつに〝山上大隊〟と称する遊軍だの烽火台の哨戒隊などもあって雷横、樊瑞、解珍、解宝があり、またその搦め手の守りは、項充と李袞のふたりだった。
なお、ずっと離れて。
金沙灘のとりでに燕順、鄭天寿、孔明、孔亮の四将がいる。
その後ろ山に置かれた小寨の守備は、王矮虎、一丈青、曹正。みぎの小山にも、朱武、陳達、楊春。──以上があらましの配置であった。
が、この軍に配する軍需や、庶務、主計などの人選も、おろそかではない。
まず、忠義堂の内の、文書課では、蕭譲が主任にあげられ、そのしたに賞罰係の裴宣、印鑑信書の部に金大堅。──また勘定方に蒋敬がおかれている。
大砲の鋳造から指揮訓練の主任。
これは、凌振以外に当る者はない。
造船廠ノ長は、孟康。
衣服、旗、兵甲などの縫工は、すべて侯健の係。造壁、築造の任は、陶宗旺。
雑事、家具、李雲。
鍛冶一切のかかり湯隆。
酒や酢のかかりに朱富。それと縁のある宴会の主事は宋清。什器、つまり納戸役は白勝と杜興のふたりだ。いやそのほかにまだ対岸には四ヵ所の見張り茶店がある。──古顔の朱貴を筆頭に、顧のおばさん、孫新、李立、時遷、楽和、張青、孫の妻などが、それらのことはやっている。
なにしろ驚くべき組織の大世帯ではあった。このまま一小国をなしうるといってもよい。──が、それでもなお足らぬ物はある。油、漆、皮革、薬剤、砂鉄、糖蜜、またいくらあっても欲しい馬匹など。──それらの買入れには、楊林、石勇、段景住らが旅商人に化けて各地へ派出されることになった。
「新しき寨主を迎えて」
と、式が終りかけたところで、一同は起立し、
「われらは、欣舞にたえません。また仰せつけの部署に、各自、異存もありません。誓って責任をつくします」
と、宣誓の拝を執って、一せいに乾杯した。このあとで、宋江はただちに、
「一軍議をここに出す」
といって、先主晁蓋の弔い合戦の議を提出した。──自身、曾頭市へ行って、曾の五虎を打ち、また毒矢のぬし史文恭をもいけどって亡き人のうらみを報ぜん、というものであった。
「いや、お待ちなさい。それを議することすらまだ早い」
と、呉用はのっけから反対した。
そして、反対の理由としては、
「──曾家はいま、日の出の勢いにある。第二に、われから攻めるには遠隔すぎる。第三には、泊中の兵は、冬中からの連戦で疲れているうえ、先ごろも少なからぬ損傷をうけている。以上の裏を返せば、諺にもいう──上リ馬ニハ当ルベカラズ──で我れにとって歩のいい勝目は一つもない。よろしく、ここは他日を期し、まず内を充実しておくべきでしょう」
と、いった。
「お説は正しい。いまの提議は撤回します」
と、宋江は素直に容れた。
全員の色にも同調な容子がみえた。で彼は以後、故人の追善供養をただ旨としていた。すると早や七々忌の営みも近づいた或る日のことである。──泊中にはたくさんな法要僧が逗留していたが、そのうちの一人に大円という僧侶があった。
この大円和尚は、北京は大名府の、龍華寺のお坊さんである。たまたま行脚に出て済寧へ行く途中、梁山泊の近くにかかり、請われて、これへ来ていた者だが。──田舎沙門とはちがい、なかなか博識で、北京の都会話もゆたかだったから、宋江と呉用とは、茶炉に茶を煮ては、よくこの和尚と、風談を興じ合っていた。
そして、ふとした話のはずみから、
「ほう? ……」と、大円が目をまろくした。
「では、おふた方とも、今日まで、河北の玉麒麟をご存じなかったのですか」
「されば、ついぞまだ」
「これは驚いた、いやあきれましたな。ほんとうの姓名は盧俊儀──それまでをいわなくても、玉麒麟といえば、河北はおろか、四百余州知らぬ者はないはずだがの」
「そんな、どえらい人物なので」
「はあ、お家は代々北京の大商人、質屋と物産を表看板にしてござらっしゃるが、当主、盧の大旦那は、そんな銅臭の人とは全く違う。学深く、武芸に長け、わけて棒を使えば、おそらく天下無双じゃろ」
よく天下天下という坊さんである。呉用は苦笑していた。宋江は知らん顔して聞いていた。──全然知らなかったわけではなく、ふと忘れていたのである。しかし、それを思い出させてくれたのは、大円の茶話のおかげだったので、あとで二人だけになると、宋江からすぐ言った。
「軍師。今日ふと、玉麒麟と聞いたら、はっと、記憶をつかれて、思わず身ぶるいが出た。なんとかあの人物を、この梁山泊に迎えられまいか」
「造作はない。大円と話してるうちに、わしはもうそれを腹で考えていたほどだ」
「しかし北京の大名府でも随一の長者。尋常なことでは仲間入りなどしてきますまい」
「いや、人を見て法です。この呉用が三寸不爛の舌をもってすれば」
「説きつけてみせると仰っしゃるのか」
「いや、とてもとても、それだけで来るはずはない。べつに一策を立て、たれか向う見ずな者を一人供に連れて行く必要がある」
すると、物蔭にいたらしい黒旋風の李逵が、やにわに、二人の前へ出て来て言った。
「そのお供には、あっしが適役。軍師、李逵を連れて行ッておくんなさい!」
「いかん!」
宋江は、あたまから、彼をしりぞけた。
「とかく、君の悪い癖で、出場というと、すぐ自分を売り込みたがるが、短気、お喋舌、悪酒、暴力好き、一つも取り柄はありはしない。ましてこんどの行くさきは北京第一の城市。李逵には不向き極まる所だ。引っ込んでおれ。君の出る幕ではない」
売卜先生の卦、まんまと玉麒麟を惑わし去ること
宋江に叱られて、李逵はシュンと頭を抱えてしまった。──呉用は見て笑っていたが、
「李逵、そんなに行きたいのか」
「北京と聞いては、矢もたてもありませんや。あの有名な大名府の城市。ああ行ってみてえ……」
「それほどに申すなら連れて行ってやらぬものでもないが」
「えっ、お連れ下さるって。やっぱり呉軍師だ。話がわからア」
「だが、条件があるぞ。──第一に、道中では一切酒を断つこと、第二には、わしの童僕となって何事もハイハイと服従すること。第三……これはむずかしい。唖のまねして、決して口はきかぬことだ。どうだ、できるか」
李逵にとって、どれ一つ難題でないものはない。だが元来この男たるや、一日でも無事と退屈には居られない性質なので、一も二もなく、
「ようがす、三ヵ条はおろか何ヵ条でも、お約束はきっと守ります」とばかり誓約して、ついに呉用を承知させ、その供になって、翌る日、泊中一同の見送りをうけ、金沙灘を彼方へ渡って、北方の旅に立って行った。
幾山河、行くこと二十日余り、明日は北京の城門を仰ごうというその前夜だった。旅籠のおやじが、呉用の部屋へねじこんできた。
「お客人、どうしてくれる? おまえさんの供の童僕めが、わしんとこの若い衆をぶン撲って血ヘドを吐かせた」
という騒ぎ。──驚いて、呉用がその場へ行ってみると、偽唖の李逵をからかった宿の男が、店の土間にへた這っている。
「この唖めが!」と、呉用はまず李逵を叱っておいて「重々、すみませんでした。きっと折檻してくれます。どうかこれで一つ、ご養生でもなすッて」と亭主と被害者には、なにがしかの銀子を与えて、早々に李逵を部屋へひきとって来た。
「こらっ、李逵」
「へい」
「そろそろ癖を出し初めたな。あしたはもう北京の城内、万一きさまがヘマをやると、わしの一命にも関わってくる。約束が守れぬなら、きさま一人でここから帰れ」
「いえ、守ります。きっと悪い癖は出しません。どうぞお連れなすッて」
ここの旅籠で、二人は入城の身支度をこしらえた。呉用は白地に黒い縁とりの道服に、道者頭巾をかぶり、普化まがいの銅鈴を片手に持ち、片手には藜の杖をついて出る──。またお供の李逵といえば、これは道者の稚子と化けて、バサラ髪を二つに分けた総角に結い、着物は短褐という袖無しの短い袴、それへ交ぜ編の細ヒモ締めて、足は元来の黒い素はだし、そして一本の旗看板を肩にかついだものである。
旗の文字にいわク。
つまり遊歴の八卦見道者と化けすましたもので、宿を立ち出て、ほどなく、南大門にさしかかって見れば、さすが河北第一の大都・紫金の瓦、鼓楼の旗のぼり、万戸の人煙は、春の霞を思わせて、北方の夷狄に備える梁中書が下の常備軍も数十万と聞えるだけに、その物々しさなど、他州の城門の比ではない。
「こら、こらッ。道人、どこへ通る?」
「おう、ご番卒でございますか。てまえは、泰山の儒者ですが、諸国遊歴がてら、占を売って旅費とし、また諸山の学問を究めんとしている者でございまする」
「それはたいした秀才だな。して供の黒ンぼは」
「これは、李童と申す、唖の童僕で」
「唖か。道理で目ばかり光らせておる。旅券は持っておるか。うム、よろしい。……通れ」
呉用はほっとしながらも、わざと悠々、関内へ入って行く。たちまち、目も綾に織られるばかりな大名府の殷賑な繁華街が果てなく展かれ、ともすれば、李逵は迷子になりそうだった。「オイオイ李童。こっちだ、こっちだ」
「ほい! そッちか」
「口をきくな、唖のくせに」
「う。う……。ああくるしい」
「わしのそばを離れるなよ。ただ黙ってついて来いよ」
呉用はやがて、片手の鐸鈴を振り鳴らしつつ、売卜先生がよくやる触れ口上を歌いながら、街をりんりんと流して行った。
甘羅 早や咲き
子牙は おそ咲き
彭祖 ながいき
顔回 わかじに
みんな人物 ひとかどの者
みんな一生 同じでない
かねもち びんぼう 運のつる
明日が知りたくおざらぬか
金一両は お安いもの
さあさ 神易にお問いなされ
ここに紫金大街で一番の大店舗、質、物産屋の招児も古い盧家の内では、折しも盧の大旦那──綽名玉麒麟が──番頭丁稚をさしずしてしきりに質流れの倉出し物と倉帳との帳合をやっていたが、そのうちにふと、
「うるさいな」
と、大旦那の盧俊儀が、舌打ちして、番頭のひとりへ言った。
「なんだい、外のあの騒ぎは?」
「子供ですよ。いやもう、さっきからたいへんなんで」
「ふうむ? 子供が何をやってるんだね」
「いいえ、風変りな占い者が、鈴を振り振り歌って来るのを真似て、ゾロゾロ尾いて歩いているんです。へい。……それ、聞えるじゃございませんか」
「なるほど。甘羅、子牙、顔回など、史上の人物を並べて、生意気なことをいってるらしいな。ひとつ呼び入れて、からかってやろうか」
「およしなさい旦那。見料は金一両だなんて、とんでもない法螺を吹いてますぜ」
「まあいい。ものは試し。連れて来い、連れて来い」
まもなく、あたふたと、戻って来た番頭が。
「大旦那。八卦見をよんで参りました」
すぐうしろから、つづいて入って来た呉用も李逵を後えに、一礼して。
「お招きは、こちら様でございますかな」
「おうわたくしです。ひとつ、わたしの運勢を占ってもらおうと思いましてね」
盧俊儀は言った。──じろッと、呉用のひとみ、盧の眼光。何か、どっちもどっち。言外に、人を観ている。
が、盧はさりげなく、
「ここはみせさき。先生、どうぞこちらへ」
と、一方の簾を排して、客間の鵝項椅(鵝鳥の首の付いた椅子)へ呉用を請じ、そして、いんぎんに訊ね出した。
「ご旅装と拝しますが、先生、ご郷里はどちらですか」
「山東です。姓は張、名は用。談天口とも号していますが売卜は本業ではありません。郷里では儒の寺小屋をひらいており、たまたま、遊歴の旅費かせぎに、好きな筮卜をとって、特にお望みの方だけに見て上げておるような次第でして」
「そうですか。さすがどこか、街の売卜者などとは、どこかご風采も異なるものがあると思いました。ところで、私の運勢をみていただけましょうか」
「まず、お生れ年と、月日を」
「本年三十二歳、甲子ノ年、乙丑ノ月、丙寅ノ日、丁卯ノ時刻に生れました。……が先生、金が入るとか、損するとか、そんな日常茶飯事は、貴筮に伺う必要はありません。ただ男子の三十、生涯の方途如何という、そこのところの運勢を篤とみてくだされい」
「こころえた」
呉用は、香炉台を借り、香を薫じ、おもむろに算木を几にならべ始めた。そして筮竹をひたいにあてて、祈念三礼、息をつめて、無想境に入ったと思うと、その相貌はまったく人間の肉臭を払って、みるみる聖者のごとき澄みきったものに変った。盧俊儀も、はっとその真剣さに打たれてか、共に息をこらして、伏羲神農の呪を念じずにはいられなかった。
するうちに、ばしッと筮竹を割り、算木の表裏を反して、卦を現わすやいな、
「あっ。これは?」
と、呉用があらい息の下に呟いた。
盧俊儀は、横からさし覗いて。
「先生、何と出ましたか」
「はてな。……いぶかしい」
「吉ですか、凶ですか」
「ご主人」
「はっ」
「失礼ながら、てまえはあなたを、ひとかどの人物と観た。しかるに、なんとも神易の告げはよろしくない。もし、お気を悪くなさらぬなら、あるがまま、卦面の告げるところを、歯に衣きせず、おはなししようが」
「おっしゃっていただきたい。なんで気を悪くなどするものですか」
「ならば申すが……卦には〝血光の災〟という大凶が出ている。百日を出ぬまに、当家の財は崩れ、あなたは剣難に遭って一命を終るでしょう」
聞くと、盧は笑い出した。
「なるほど、当るも八卦、当らぬも八卦ですな。家は北京で重代の老舗。私は人に恨みをうけている覚えもない。……今日はとんだ春日の閑戯にお目にかかった。謝金一両、これにおきます。どうか、ゆるゆる、おひきとりを」
「いらん」
呉用は、金を押し戻した。もう身は椅子を起ち上がっている。そして、いかにも憐れむように、こう呟いたものである。
「ああ! およそ世間から大人物だなどといわれているほどな者も、会ってみれば知れたものだ。──みんな自分に甘いお上手を聞きたいだけのものらしい! いやまことに、小人の閑戯をお見せしてお恥かしい。では、おいとま申す。ごめん!」
「あっ、先生」
「何をおとめなさる」
「そう、ご立腹では心ぐるしい。ま、茶でも煎れましょう。もうすこし話して聞かせてください」
「だめです。ひとたび妄に晦んだお人には。──いかなる神占も耳には仇事。つまりは、それが運勢というものでな」
こういわれてみると、人間の弱さ、盧俊儀も何か密かな危惧を抱かずにいられなかった。わけて彼には、人間を観る目がある。その目で呉用を観れば、決してただの凡庸な売卜者ではない。よけい彼がこの手管にひッかかった理由はそこにあったといってよい。
「先生。もし卦面の告げがわたくしの運命だとしたら、何とか、その凶運を避ける術はないものでしょうか」
「ないことはありません。それが易だ。易とは、過去のことをあてて足れりとせず、未来の凶にそなえて、よく身を護るべきためにあるもの。それでなくては易学ではない」
「では、どうしたらよいでしょうか。おっしゃるような厄難を避けるには」
「真実、謙虚になって、おたずねか。……ならば申そう」
と、呉用は、巽(東南)の方を指さして。
「北京から一千里の外、巽にあたる地方へ一時身をかわしておしまいなさい。多少、驚くことにぶつかるが、自然、運が開け、明年以後は、無事なるを得ましょう」
と、いった。
彼はまた、謎めいた一詩を書いて盧に渡した。後日、この詩句にも必ず思い当りがありましょうと言い残したものである。──そして飄然と、ここを辞すや、旅籠においてある荷物をまとめて、次の日にはもうもとの山東への道、梁山泊をさして、李逵と共に風のごとく帰りを急いでいた。
「李固──」と、俊儀は、みせの一番番頭の李固をよんで訊いていた。
「きのうの易者は、きょうも街を流しているかね」
「いえ、あれッきり見えませんよ。あれッきり」
「妙だなあ。じつにふしぎだ」
「何がです、大旦那」
「いや何でもないが……」
しかし、争われないことには、あれから数日。盧は、怏々として、どこか心のおちつきを欠いている。
何か、わが家の守護神が易者となって啓示を垂れてくれたのではあるまいか。──そんな気もしてくるのである。
別れぎわに渡された詩を、彼は自分の部屋の壁に貼って見入ったりしていた。──蘆花叢裡一扁ノ舟、俊傑俄ニ此ノ地ニ遊ブ──口に誦して何べんも読んではみるが、謎は謎で、思い当ってくるふしもない。
そして明け暮れ、気になってならないのは、〝血光の災〟といわれた家運の厄と剣難の禍いだ。煩悩は煩悩を呼ぶ。迷うと果てはない。とうとう彼は意を決して、
「折入って、一同に相談がある。晩飯がすんだら、みんな奥の大広間へ集まってくれ」
と、いい渡した。
さて何だろう? ただ事ではない、と。宵のくちになると、大番頭の李固以下、盧家の雇人四十幾人、二列になって、大旦那の前に出て生唾呑んだ。
わけてこの李固は、十年前、凍えきって店の前に行き倒れていたのを、大旦那に拾われて、その実直をみとめられ、読み書きそろばんも達者なところから、いまでは一番番頭に起用されていた者なので、「お家の大事」には、まず誰よりも真剣になるのは当然だった。
「李固。みんな揃ったかい」
「へい。洩れなく、揃いましてございますが」
「ひとり、あれが見えんようだが」
「お。──燕青さんだけまだ見えていませんな。どうしたのか」といっているところへ、「オオ見えた」という人々の声を割って、
「どうもおそくなりました」
と、神妙にわびながら、李固の隣へ来て、直立した者がある。
小づくりで、肉むら白く、朱唇のどこかに愛嬌をたたえ、年ばえ二十四、五かと見える、生きのいい若者だった。白衫に銀紗模様という洒落た丸襟の上着に、紅絞りの腰当をあて、うしろ髪には獅子頭の金具止め、黄皮の靴。そして香羅の手帕を襟に巻き帯には伊達な挿し扇、鬂の簪には、季節の花。
さらに、これを脱げば、雪白の肌に、目のさめるような美しい刺青ももっている。
生れながらの、北京ッ子だった。
幼少、両親を亡くし、盧の大旦那にひきとられて、わが子同様に愛育されてきた者だ。
かねにあかせた名人刺青師の仕事だけに、どこの刺青競べに出ても、ひけはとらない。笛、琴、胡弓、歌、踊り、天性すぐれざるなしでもある。──かつは一を知って十を知る悧発であるばかりでなく、四川弓と呼ぶ短弓を手挟み、わずか三本の矢を帯びて郊外に出れば、必ず百禽の獲物を夕景にはさげて帰るというのでも、その技の神技がわかろう。──ともかく相撲に出ても、遠乗りの騎にムチを打っても、北京の巷では花柳の妓までが、彼の姿を見れば、
と、まるで酔ったように謳い囃してやまないほどだった。──その瓊の面は、漆のひとみは、今、一同と共にじっと、盧の大旦那のくちもとを見まもっていた。
「おお、燕青も見えたな。……では、これからわしの意中を打ち明けるが、決して誰も止めないでくれよ」
と盧俊儀は、過日来の易の一条と、血光ノ災のこととを、語りだした。──そして、つくづくいうには、思うに、自分は祖先の業と財と徳を継いできたのみで、何の報徳もしていなかった。まことに不信心であった。
易者の言など、あてにならないかもしれない。しかし自分は発心した。ここから千里の外、巽の方角といえば、そこには、泰安州は東岳泰山の霊地がある。一に罪障の消滅を祈り、二に衆生のための浄財を喜捨し、三に、あきないがてらの見物もして廻りたいと思う。……で、李固はさっそく、山東向けの商品や旅の荷を車につんで、わしの供について来る支度にかかれ。そしてまた燕青は、わしに代って、庫の鍵をあずかり、よく家事一切の留守をかたくして欲しいと、縷々、言い渡しを、言い渡した。
「大旦那。いえ、大旦那らしくもない」
と、李固は、第一に反対した。
「どこの風来とも知れぬ、あんな売卜者ずれの言を、そうまで、お気に病むことはございますまい。諺にも『易者の身の上知らず』というではございませんか」
「いや、わしには、べつな発心が生じているのだ。どんな富でも、富は浮雲のようなもの。おちぶれてから後悔しても及ばんからな」
「ですが、ご主人」
と、燕青もまた、黙ってはいられぬように、口をひらいた。
「巽とはまた、方角が悪いじゃありませんか。泰安州へ行くには、どうしたって、梁山泊のそばを通ることになる」
「はははは。噂のたかい梁山泊か。世間は恐れているらしいが、わしからみれば程の知れた草賊だよ。ま、水滸りの蛙も同然さ」
そこへ、楚々と、盧俊儀の妻の賈氏が、屏風を巡ってあらわれた。李固や燕青と共に「──そんな遠出の旅は、思いとまっていただきたい」と、すがるばかりに止めるのだった。
嫁いできてまだ五年たらず、二十四、五の美人であった。
だが盧の大旦那は、この妻のいさめにさえ、意をひるがえす色はない。また燕青はしきりに、旅先の方角が気になって仕方がないらしく、「では、ぜひもございません。が、供人には、ぜひこの燕青を連れて行ってください」と、執こく頼んだ。けれど、これもまた、
「あきないは、李固でなければわからない。おまえは留守しておれ」
と、一言の下に、しりぞけられてしまった。
ところが、選ばれた番頭の李固とくると、どうも彼は、旅の供をよろこんでいる風ではない。主人の身よりは、自分の都合か。「……じつは、このところ、ちと脚気の気味で……」などと渋りだしたものである。そこでついには、盧俊儀の大喝を食って、急に縮み上がり、否やもなくなったようなわけだった。
ともあれ、それから三日後。
十数輛の馬車と人夫と、そして先発の李固とが、貨物の商品や旅の必需品をつんで、盧家の倉前から西南へ立って行った。──ときに、盧の細君の賈氏が、その遠ざかる馬車の上を見送って、ふと、ぽろりとして、あわてて奥へひっこんだ。──ということなど、もとより盧の大旦那は何も知っていない。
あとにのこって、一夜はなお、何かと、家事の始末など留守の者にいいつけ、そして翌朝は早くから、先祖のまつりなどして、さて、旅衣さわやかに、腰には、彼が得意としてほこる棒術の一棒を横たえ、
「では、行って来るからな。火の用心と、体だけを、気をつけろよ」
と、妻の賈氏へ言い残した。
「あなたこそ……」と、妻は打ち萎れて「旅では、食べ物にも、お気をつけてくださいね。そして一日もおはやく」
「うむ、百日もたてば、帰って来る。……おう燕青、おまえにも、たのんでおくぞ」
「はい。行ってらっしゃいまし。どうも早や、こうなっては、お留守のご安心を願うしかございません。お心丈夫に」
「などといっても、おまえは元来諸所方々でちともてすぎる。うっかり色街の妓などにはまりこむなよ」
「これは、なさけないおことば。どうして、ご主人の留守にそんなことを」
「いや冗談だよ。何よりみんな仲よく機嫌よく暮らしていろよ」
彼は馬に乗った。そして馬の上から、さすがあとに残す妻の姿をふりむいた。賈氏も燕青も、その人が見えなくなるまで手を振っている。しかし賈氏のひとみには、前日、先発した馬車を見送っていたときのような瞼の濡れはさらにない──。街の空には、春の雲を縫って、雁の影が、これも巽の方へ消えて行った。
江上に聞く一舟の妖歌「おまえ待ち待ち芦の花」
さきに、一日早く北京府を立っていた番頭の李固は、約束の旅籠で、主人盧俊儀があとから来るのを待ちあわせていた。
「オオ大旦那。お留守中の御用はもうすっかりおかたづきで?」
「む、家内にも燕青にも、わしがいないうちの万端の仕切廻しはすべて申し含めて来たからな。もう何も気がかりはないよ」
「でも、十日や二十日のご旅行ではなし、昨晩はさぞ、お内儀さまも……」
「よけいな心配はせんでもいい。馭者、人夫、商い物の貨車など、なにしろ大勢を連れての旅だ。おまえはその方の係としてそのため連れて来た者だ。気をつかうならそっちへ頭を向けていろ」
旅の毎晩毎朝、旅籠旅籠では大持てだった。
なにしろ北京一流の豪商盧の大旦那が、自身で交易がてらの泰山廟詣りというので下にもおかず、お供の端まで日々、とんだいい目のご相伴にあずかった。
盧、その人もまた、
「ああそろそろ五月だな。新緑の美しさ、谷水の麗しさ。千山万水、いまが一ばんいい季節か。立つまでは、さんざッぱら迷いに迷ったが、やはり思いきって出て来てよかった。旅はいいなあ」
と、これまた一日とて、愉しまぬ日はない様子だ。
はやくも南下二十日余り。或る一宿場まで来ると、その晩、宿の亭主が、おそろしく心配顔して、あくる日の旅を注意した。──これから、二、三日の間の道は、かの有名な梁山泊のほとりに近い。近ごろ寨首となった宋公明(宋江)は決してただの旅人衆に害を加えるようなことはしないが、でも万々、お気をつけなすって、というのであった。
「ありがとう。ご親切に」
ところが翌朝、盧俊儀は何思ったか、同勢出発という間際になって、衣裳箱の白絹を取り出してそれを旗四枚に仕立てさせ、一旒ごとに一行、墨痕淋漓とこう書いたものである。
慷慨ス北京ノ盧俊儀
遠ク貨物ヲ駄シテ郷地ヲ離ル
一心只強人ヲ捉エント要ス
那時方ニ志ヲ表サン
李固は首をさしのばして見ていたが、まっ青に顔色を変えて。
「ど、どうするんです大旦那。そ、それを……」
「お禁厭さ。十二輛の貨車の上に、間をおいて一旒ずつ立てて行くんだ」
「ひぇッ。いいんですか。そ、そんな、かえって盗賊を招ぶような真似をなすって」
「来るものかよ、盧俊儀と知れば──」
広言でなく、これは彼の自信だった。水滸の草賊、北京での噂も高いが、心ではつねに嗤っていたのである。
しかしその朝いらい、彼は家伝の一刀を腰に横たえ、棒は手に持って、ここを出た。そしてまず一日は無事だったが次の日のこと。青い海へでも入ったような原始林の道へかかると、怪鳥の啼き声を思わすような口笛がどこかで聞えた。
「そらッ、出て来たッ」
と、馭者や人夫らはみな車をとび降りて車の下に這い込んでしまう。元々、賃雇いで連れて来たこれらの雑人はぜひもない。だが、李固までが車の下でワナワナ慄えているざまに盧は腹立たしげにどなりつけた。
「たわけめ。きさまは主人がどんな人間かをこの年まで知らずに仕えてきたのか。何が出て来ようと、ここに玉麒麟の盧俊儀がおる! わしが相手を斬り伏せ叩き伏せたら、きさまは人夫を督して、それらの賊どもを片ッ端から車の上に積んでしまえ! 泰山詣での土産として、北京府の官へ突き出してくれようわい」
すると、ことばの終らぬまに、ザ、ザ、ザ、ザッと、躍り出てきた者がある。手に二丁斧をひらめかせた黒人猿のような男だった。
「とうとう、おいでなすったネ、北京の旦那!」
「やっ、うぬは何日ぞやの」
「おおさ。旅の売卜者について、お宅へ顔を見せた唖の童僕だよ。ジツの名、黒旋風の李逵だ」
「さては何か?」
「もうおそい! 気がつくのが遅すぎらあ」
「うごくな、食わせ者」
棒が唸った。二丁斧の一丁がカンと鳴る。
とたんに、両者の戦う影に、ちぎれた草が舞い、梢の葉が雨と散る。だが、ヒラッと黒旋風は次の一瞬に逃げ出していた。それを追って行くとさらにまた、一方の木蔭から黒い薄法衣を体に巻いた大坊主が現われて、
「待った。わが輩は花和尚の魯智深。せめて、わが輩の挨拶はうけてもらいたい」
と、鉄の禅杖をつきつけて道をはばめた。
「なに、あいさつだと」
「そうだ。じつあ、お歴々な山の兄貴たちからいいつかり、おめえさんを迎えにここまで出ばって来たんだ。おとなしくわが輩と共に水滸の寨まで来てくれまいか」
「ばかなッ」
叱りとばすや否、盧は棒術の秘をあらわして跳びかかった。花和尚は逆にその下をくぐって振向きざま一颯するどく風を起す。せつなに、棒は砕け飛び、そして盧俊儀が抜打ちに薙いだ刀は、花和尚のころもの袖を切っていた。
「おッと、あぶねえ、和尚は退け」
また、違った声である。これなん、行者武松である。戦い戦い、密林の奥へつり込まれた。──まずい! と感じて盧はひッ返す。すると、こんどは、赤髪鬼の劉唐と名のる者。没遮攔の穆弘と喚く者。またわれは撲天鵰の李応なりと、みずからいう者。あとからあとから彼を試みるように出ては挑みかかり、戦ってはまた隠れ去る始末に、さすがの盧も、全身、水をあびたような汗になってしまった。
いやそれはまだしも。──彼がその一ト汗を拭くべく小高い丘へ馳けのぼって行くと、すぐかなたなる山坂道を、銅鑼の音ジャンジャン囃しながら遠ざかって行く一群の賊の手下があり、その中には、自分の供の李固も人夫も、十二輛の貨車も、引ッ立てられているのが見えた。
「やあ、賊ども待てッ」
盧は、宙を飛んで、先の一群を追ッかけた。
数珠つなぎの人と馬とそして貨車とを追い立てていたのは、挿翅虎の雷横であり、また美髯公の朱同であった。
二人とも、盧を目前に見ると、呵々と大笑して。
「御用か。御用とあれば、もっけの幸い。この車にお召しあっては如何なもので」
「だまれっ。罪もない召使や雇い人夫。そこへおいて去れ。去らぬとあらば」
「どうなさる?」
「かッ」
と、盧は心火を燃やした。理のほかだ。力で見せ、血で物を解らせるしか、意志のとどく相手ではないと思った。だからこの一刹那からの彼のまさに名にしおう河北の三絶(傑物ノコト)玉麒麟その者の本相だった。日ごろ秘していた武芸と剛胆とをその姿に極限まで描いて雷横、朱同の二人を相手に火花をちらした。──といっても、それはまたつかの間で、彼はいつか当面の敵も手下の群れも見失い、どこか高い所でする簫、絃、鉄笛、板(一種のカスタネット)などの奇妙な楽奏の音に、はっと耳を醒まされていた。
気がついてみれば、自分はせまい一渓路に立っており、渓流をへだてた彼方、硯の如き絶壁の中層には、紅羅の金襴傘を中心に、一座百人以上な人影が立ちならんでいて、上には、
と四大字を書いた繍縁の大旗がひるがえってみえるではないか。
「や、や、や?」
仰天する彼の姿を、彼方では笑うかのように。
「盧員外(盧は大員外トモ呼バレテイタ)どの、盧員外どの。お変りもありませんか」
こういったのは、羅傘の下に見える人物。すなわち宋江であって、右がわに公孫勝、ひだりには呉用。
この呉用へ、ヒタと眸をすえた盧俊儀は、いまや自分がなぜここにいるかも分らぬような夢幻感と憤りの中に燃えた。
「やあ、そこにおるのは、先頃の偽易者、談天口とかいう奴だったか。おのれ、よくも!」」
「だましたと、お怒りか。わはははは」
と、彼方の笑い声は、谷谺に大きく響いて。
「いまは実を申上げる。お伺いした偽易者、まことは水滸の一人智多星呉用です。これにおられる寨主宋公明には、久しくあなたを慕っておられ、梁山泊一同協議のうえ、あなたを仲間にお迎えしようものと、すなわち、呉用が一策を用いた次第でした。──不悪、不悪」
「ばかげた夢ッ、悪戯もほどほどにしろ。山野に巣食う栗鼠や貉の分際で」
「いや、野には遺賢だらけだ。あなたもこの旗の座にきてください。天に代って共に道を行いましょう」
「盗賊の道をか! くそでもくらえ」
「仰っしゃったな。花栄、客人はまだお目が醒めぬらしい。一ト矢、ご馳走申せ」
そばにいた小李広の花栄は、これを聞くと、手馴れの弓に矢をつがえて、はッしと放った。花栄の神技、狙いはあやまたず、盧俊儀がかぶっていた羅紗笠の緋纓をブンと射切った。
これには盧も大いに驚いて、足は無意識に逃げ走っていた。すると突如、山が震い鳴った。鼓声、鬨の声である。──そしてなお逃げまどう先々の途でも、豹子頭の林冲、霹靂火の秦明、金鎗手の徐寧などが入りかわり立ちかわり、彼のまえに立ちあらわれて「見参っ」と叫び、また「ご挨拶──」と呼びかけ、各自が一芸一芸の武技をもって彼をさんざんに悩ませた。どうも、ひどいご挨拶もあったもの。
とまれ、いつか彼は渺たる水と芦のほとりへ出ていた。それや水滸の泊に近い鴨嘴灘とは知るよしもない。微かな星、ほのかな月、小道をかきわけ掻きわけ、茫と、いちめんな芦の花に行き暮れていると、
「旅の衆。道に迷ったのかね」
と、一そうの小舟の櫓音、そして、小舟の上からその漁師がなおもいう。
「……迷ったものなら仕方ねえが、なんだってこんな所にぼんやりしていなさるのかい。ここらは名うてな盗人の巣だ。それとも命の捨て場にでも困っているのかね」
「冗談ではない──」と、盧は言った。「命あっての物種だろうではないか。どこか無事な所へ着いて、ひとまず宿をとりたいのだが」
「そいつは生憎だ。ここらには旅籠もねえ。本街道へ出るまでにしても、三十里は軽くあらあ」
「駄賃はいくらでも出そう。舟で渡してくれないか。灯のある岸まで」
「乗ンなせえ。その代り銭十貫、銀でもいい、前払いで貰おうか」
盧はほっとした。過分な礼を見たせいか、船頭の櫓は気持ちよく水を切る。たちまち芦の洲を幾めぐり、水上十数町も漕ぎ去り漕ぎ来ったと思われる頃──ふと、べつな小舟が行くてに見えて──上には二ツの人影、ひとりは長い水竿を手に唄っていた。
本は嫌いで
詩も知らず
虎のさし身に
茶わん酒
飽きりゃ水滸で
鯨釣る
美い声なので凄味があった。わけもなく盧はハッとした。いや何を思うひまもない。芦の叢からまたも一舟が漕ぎすすんで来る。そしてそれにも二人の男がみえ、ひとりの男がこう唄う。
おまえ待ち待ち
芦の花
色香はないが
欲でもない
梁山泊の上段に
すえてみたさの玉麒麟
つづいてまたも同じような一艘が漕ぎ寄せて来た。盧はギョッとして見廻すばかり……。何のことはない、三ぞう三ツ巴に、こっちの舟へ絡み絡み漕ぎめぐっている按配。
「おい、船頭。早くやってくれ、早く」
「船頭だと。へへへへ、旦那え。……船頭にはちがいねえが、俺を一体なんだと思いなさる。上は青空、下は大江、オギャアと泣いたときから、潯陽江の水を産湯に男となった混江龍の李俊、いやさ今では梁山泊のお一人だ。これほどまでにみんなが手をつくして仲間入りをすすめているのに、まだいやだと仰っしゃるならぜひもねえ」
「どうする?」
「しれたこと。命を貰うだけのもんだ」
「なにをッ」
せつなの一剣は、盧の体まかせに、相手のみずおちを見事突いたかと見えたほどな迅さだった。が、とたんに李俊のからだは、とんぼを打って水中に隠れ、舟は飛沫の中に傾斜し、剣は空を突いていた。
「や、や、や? ちいッ、しまった」
彼は不思議な水の渦を見た。舟は独楽みたいに空廻りし初めている。のみならず、艫端に人間の腕だけが見える。盧は北京育ち、泳ぎを知らない。しかるにそのとき、
「旦那え。ご案内に来ましたよ。水底へさ。……ついでに、この面も覚えておきなせえ。浪裏白跳の張順だ!」
と、河童のような頭が船尾にぬッと見え、そしてその声も終らぬうちに、はや小舟は引っくり覆っていた。淡い星影の下に舟底は仰向いてしまい、青ぐろい渦紋のほかは、もう何も見えなくなっていた。
浪子燕青、樹上に四川弓を把って、主を奪うこと
昏々、一夜は過ぎている。翌日の夕方だったに違いない。気づいてみると、盧は丁重に寝かされていた。肌着衣服、すべて真新らしい。口中には神気薫ばしい薬の香がしきりにする。
「盧員外どの。ご気分はどうです」
「ほ。あんたは?」
「神行太保の戴宗です。ご用意ができておりますが」
「ご用意とは」
「とにかく、あれにお乗りくださいませぬか。ここでは一切、何のお話もできませんので」
すすめられたのは轎である。前後八人の子分が舁ぐ。いうまでもなくここはすでに梁山泊下の一寨であったのだ。
うねうね登って行くほどに、紅紗の燈籠二、三十基が朧に彼方へ見え出してくる。おそらくは宛子城の大手か。外門を入ると、音楽がきこえ、一群の騎馬列が照らし出されている。近づけば、それは宋江、呉用、公孫勝らの出迎えであった。さらに二の木戸、三の木戸と、高く進むほど人数は厚くなり城寨の構造は密層をかさねている。すなわち本丸の忠義堂は盧俊儀の前にあり、轎をおりた彼は、ただ茫然たるばかりであった。
「いざ、どうぞ、こちらへ」
郭中は一面燦々たる燈燭である。中央のひろい一殿に、彼は請じられた。しかし彼は、椅子に倚らず、宋江を見ると、下に坐って、
「お手間はかけたくない。こう囚われとなった以上は、さっそくご処分をしてもらおう」
と、いった。
「なんの! お詫びは私の方ですること」
宋江もまた、下にひざまずく。わけて呉用は、最上の礼をもって、
「切に、ご容赦を」
と、北京以来の罪を平身低頭してあやまった。
宋江は彼の手を取り、起って、数歩を導いた。忠義堂第一番の上座の椅子に彼をすえようとしたのである。
「お名はすでに雷鳴のごとく知り、威徳、お人柄はかねがね深くお慕い申していたところです。さるを慮外きわまるこのたびの謀り沙汰、さだめしご不快、いやお怒りに相違ございますまい。けれどそれも、飢える子の如き、あなたへの敬慕がなさしめたことと、どうかご寛容のうちに、お笑い捨て願わしゅう存じまする」
「はて、合点がゆきません。そして一体どうせいと仰っしゃるのか」
「ここの寨首となって、おさしずを給わり、長く泊中の上にいていただきたいのでございます」
「断る! 毛頭そんな気もちは持ち合していません」
「でも、切にひとつご一考を」
「一考の余地もない。死すとも嫌だ。どうにでもおしなさい」
「さようにご憤怒では恐縮します。ではまた、明日にでも」
すでに酒宴の設えができている。衆の歓語、満堂の和気。ぜひなく盧俊儀も杯にかこまれた。さてまた、次の日も宴だった。馬、羊を屠り、山菜の珍、水産の佳味、心入れでない物はない。幾めぐり杯もまわった時分、宋江はかさねて言った。
「ここは以前、聚議庁とよび、前の総統晁蓋の亡きあと、忠義堂と改めました。そして仮に私が寨首の椅子についていますが、元来、その器ではありませぬ。ぜひどうか昨夜お願いの一儀は、ご辞退ありませぬように」
「む、ご真実の色が見える。それにたいしての礼儀、私も率直に言いましょう。──不肖ですが私、かつて犯した罪とてなく、家は北京に古いし、財にもめぐまれているのです。いうなれば、生きては大宋の人、死すとも大宋国の鬼。それが望みだ。そちらのご希望にはそいかねる」
「伺えば伺うほどお慕いが増す。あなたさまも、大宋国を愛す人。われらといえ国を愛す念では全く変りもない」
「いいや、どうあろうと、かかる所に身をおくことはできません。たとえ殺されましょうとも……。は、は、は」
時を措いては、またべつな者が杯を持ってすすみ、献酬のあいだに説く。或いは情をもってすがる。或いは世情の嘆や官の腐敗を言って口説にかかる。が、盧の拒否はまるで巌のようでしかない。
「ぜひもない。無理にご意志を曲げさせても──」
ついに言ったのは呉用であった。
「しいて体をお留めしたところで、心ここにあらざれば如何せむ、だ。……では盧員外どの、せめて幾日かご逗留を願って、そのうえでお見送りといたしましょう。双方、不機嫌を残さずに」
「ならば、私はかまわんが、家にある留守の者たちがどうも……」
「いやそのお案じには及びませぬ。李固に貨車をつけて先に帰してやり、まずお宅さまへ、無事なご消息さえ伝言させておかれさえすれば」
呉用は、ここへ李固をよんで、初めて盧に会わせた。貨車、人夫、そっくりそのまま無事と聞いて、盧も腹をきめたふうである。李固へ向って、先に帰るように命じ、そしてなおこう言い足した。
「わしも数日中にはここを立つからな。妻にも燕青にも、心配するなと言っておいてくれ」
「へい、へい。かしこまりましてございます。李固がお先に戻りますからには、何のお気づかいは要りません。……へい、お内儀さまへもようおつたえ申しあげておきまするで」
李固はおちつかない。片時でも早く帰りたい帰りたいの一念らしい。翌朝、彼は早くも鴨嘴灘から船に乗りかけていた。すると子分の一人が来て、あちらで軍師さまが番頭さんを呼んでるという知らせ。行ってみるとなるほど昨夜の呉用が楊柳の根に腰かけて待っていた。
「や……李固か、ご苦労だな、こんどは」
「どういたしまして、して何の御用で?」
「じつはだな。深い仔細は知るまいが、もうおまえの主人は、ふたたび北京へは帰らんのだぞ」
「えっ。ほ、ほんとですかえ」
「おはなし合いの結果、梁山泊で第二番目のおかしらの座に坐ることにきまったよ。これはわれらの懇請にもよるが以前からあのお方のお望みでもあったのだ。その証拠には、帰ったら主人の部屋をよく調べてみるがいい。遺書の詩を書いた物が残っているはず。ただし世間には口外せぬ方がお前らにとっても身のためだろうぞ」
李固は「ひぇっ⁉」と呆れたり驚いたりであったが、ぼっと妙な血色を、どこか顔じゅうに騒がせた風でもある。とまれ釣針を抜けた魚みたいに、蒼惶として、この日、江を渡って北京の空へと先に帰り去ってしまった。
よく悪女の深情けというのはあるが、漢仲間の深情けとなれば、悪女どころな絆ではない。前世、いかなる業の縁か、ここに、なお梁山泊にひきとめられた盧俊儀は、まったく、ほとほと弱りはてていた。
「ぜひ、もう一夜」
「もう一夕」
と、宋江や呉用のひきとめ策ばかりでなく、次から次へと、水滸の大寨にある各部門の一将一将から毎夜のような招待なのだ。
──となるとその部署だけでも数十かわからない。忠義堂だけでも、参謀室、文書課、印鑑信書部、賞罰係、勘定方。さらに宛子城の三門やら山上大隊、烽火台、教練隊、哨戒隊。──さてはまた、金沙灘その他の水軍部、造船廠、醸造局、縫工班、糧秣廠、諜報機関、楽手寮など数えていったら限りもないほどである。
だがつい、盧自身も、しまいには、断り切れぬだけでなく、興味をもって、毎日あちこちの招きに惹かれていた。というのは、それぞれの部にある局部長らの人物もみな一トかどの人物だし、それらの者との談笑裡の会飲やら話のおもしろさといったらない。
かつては、禁門の師範だった豹子頭の林冲、五台山を騒がせた花和尚、虎退治のことで世間に名だかい行者武松、あるいは九紋龍、あるいは高士柴進、または名匠気質の金大堅、鉄笛の名人楽和、大砲火薬の智識に富む凌振、といったふうに、これら何か一芸一能の奇才や豪傑は天つ星のようにいたことなので、一夕の歓談に一夕を忘れ、またつい、夜を語り明かして飽かない夜が、毎日延々と心にもなくつづいたようなわけだった。
かたがた、宋江や呉用が、あらゆる言辞で、彼の足どめ策を講じていたのもいうまではない。
だが、ひとたび、北京にある留守の妻を思い、ここに潜む魔力みたいなものをかえりみると、
「ああ、これはいかん。わしの意志が弱いのだ。決然と魔魅の袂を払わぬことには」
と、身の在る所にゾッとして、帰心、矢の如きものに襲われもする。──
家を出たのは晩春五月まぢか。いつか、月日は過ぎて、天地は秋の色だった。
そこで彼は、一詩を書いて、宋江にみせた。どうか帰してくれと改まって切に懇願したのである。
晩春 家郷に別れて いま新秋
朝に家を想い 夜には妻を恋う
恨むらく 身に双翼のなきことを
天風よ 吾を憐んで 水涯を渡せ
「いや、このご心情を見てはもう……」と、宋江は言った。
「これ以上は、おひきとめもなりますまい」
最後の大饗宴をひらいて、莫大な金銀を餞別に贈り、翌朝、全山を挙げて、いよいよ彼を送別することになった。
「家に帰れば、不足なき身、おこころざしはいただきますが、金銀財帛はどうぞ、そちらのお手もとに」
盧はそういって、泊中の見送りを謝し、夢遊一百余日の感慨を、金沙灘の船上に吹かれながら、やがて対岸に渡り、日をかさねて、じつに久しぶりな家郷北京府に帰った。
たそがれ過ぎれば関門は閉まる。あぶなく間にあって、彼は、城内大街の灯をまばゆげに、足のうつつもないような歩みだった。するといきなり誰かその袂をつかまえて、
「だ、だんなさまっ。……ああ、大旦那だ。待ってました。どんなにお待ちしていたかしれません!」
と、果ては大地に伏して、泣きじゃくってしまう男があった。
「なんだ。乞食かと思ったら? ……。いったいおまえは誰なのか」
「こ、こんなボロ、垢面、素はだし。お見忘れも無理ではございません。私は小乙(総領むすこをいう世間の愛称)です。小乙の燕青です」
「げっ……。オオッ、燕青だ。燕青だわえ。だが、その姿はまあ、いったい何としたざまか」
「お留守中に、追ン出されました。何一つ持たせられず、裸のままで」
「たれに?」
「奥さまと、大番頭の李固から、出て行けといわれまして……。ご主人! ここへお帰りなすっては大変です。もういちど、もとの所へお引っ返しなさいまし」
「何をいう。わしがわしの家へ帰るのに」
「でも、夏の初め頃、李固が帰って来ますってえと、その日から李固と奥さまとは夫婦気どり、おまけにご主人は梁山泊に入って賊の副統領になったから再び北京にもどることはない、と雇人一同に触れるばかりか、お上へまで訴え出て、親類がたの証判も取り並べ、財産名義の書き替えまでやりかけているんです。だんなさま、うっかりすると、お命もあぶない……。どんな罠にはまるかしれませぬ」
「ばかをお言い!」と盧はかえって燕青の正気を疑った。「──わしの家内にかぎってそんな不貞の女ではない。しかもだ。わしの家は北京で五代の旧家、家憲がある。番頭の李固にしろ、なんでさような大それたまねができるものか」
「でも大旦那、人間です、人間なんて、一つ狂うと、何をしでかすか、分ったもんじゃないってことを、わたしはこの眼で」
「まだいうかっ。あらぬ讒訴もいい加減にしろ。ははあ、なんだな、何かきさまこそ、わしの留守中に、色街の妓にでもひッかかって」
「めっそうもない! 大旦那、なさけない!」
「ええ、そうに違いないわ。離せっ。せっかくなわしの帰宅を不愉快にさせおって」
廬は、蹴放した。そして燕青がなおも何か後ろで叫ぶ声に耳をふさいで、あたふたと北京府でも目抜きな街中の大構え、質屋と物産交易を兼ねた老舗看板の金箔も古いわが家の宵の大戸をドンドン叩いた。
「俊儀だよ、いま帰ったぞ。開けないか。わしだよ、わしだよ!」
家の中では何かドタバタとあわただしい。変な気配である。大戸はいつまでも開かなかった。
が、やっと大番頭の李固が顔を出して来た。そして、さもさも、ようこそご無事で、とは迎え入れたものの、雇人一同もみな何か狐に憑ままれたような挨拶ぶり、奥に入れば、妻の賈氏は、見るなりすがったが、ただただ泣いて、良人のいない旅の留守の、余りな長さと淋しさを、口説に訴えてみせるばかり……。
「ま、お離し……。燕青はどうしたね。顔を見せないじゃないか」
「そのことでは、大旦那」と、李固はすぐ横から話を取って──「いずれ申しあげますが、あれにはいろいろ不始末などもございましてな。お帰り早々、いやなお話も如何でしょうか。ま……お久しぶりのご帰宅、さっそくお風呂にでもはいって、今夜はまあゆるゆる楽におやすみ遊ばしては」
妻の賈氏もいそいそすすめ、李固も何かともてなすので、盧は自分の小心を辱じ、その晩はわれから機嫌を直して寝に就いた。
ところが、真夜中の頃、盧家のおもて門と裏門から二、三百人の捕手がとつぜん土足でなだれ込んだ。事すでにただ事でない。一瞬の屋鳴りがやむと、はや主人の盧は縄付きとされ、家じゅう大乱脈の中を、深夜、管領庁へと引ッ立てられて行った。
北京の長官、梁中書は、あくる日、白洲にひきすえられた彼を見た。
──呼び出された賈氏、李固の両人も、やや離れて、平伏している。
「盧俊儀!」と、中書はやがて、声あららげて。「そのほう、北京に住むこと五代の由緒ある良民にてありながら、梁山泊の賊徒と通じ、不逞を謀むよしの聞えあるが、言い開きはあるまいな」
「あっ、もしッ……」と、盧俊儀はさけぶ──「覚えなきことにございまする。身の不覚より、偽売卜者にたばかられ、一時は足を入れましたものの」
「通らん。さような言い訳は通るまい。賊と密盟なきものなら、なんで百余日も梁山泊にとどまりいよう。また、賊が解き放すはずもない。すでに、なんじの女房と番頭の李固から夙に訴状も出ており、かつまた、なんじの書斎より常々反逆の意をふくむ一詩も見つけ出されてある」
「あいや、仰せですが、それはてまえの作った詩でなく、偽易者めが、先にわが家を訪れたときに、たまたま書きおいてまいったもので」
すると後ろで李固が、へへへへと、声をころすようなわざと笑いをもらしていた。
「旦那え。……大旦那え。お白洲は浄玻璃の鏡。もうそんなムダな抗言はおよしなすって、神妙にちっとでも罪を軽くしていただきなすった方がおよろしいんじゃございませんか」
妻の賈氏もまた、尾について。
「あなた……。わ、わたくしはもう、あきらめました。もしや、罪九族におよぶなどというお申し渡しにでもなったらどうしましょうぞ。後生です、お願いです、前非を悔いて、素直に洗いざらい、お上へ、ほんとのこと仰っしゃってくださいまし。せめてそれが」
よよと、泣きみだれる彼女の態に、盧は愕然と、伸びあがってどなった。
「なにをいうか、そなたまでが。……逆上したのか、女房っ」
しかし、庁上庁下、居ならぶ役人の目ぼしいところには、すでに李固から廻した鼻ぐすりが効いていたこと。機をすかさず、与力の張が、次にわめいた。
「中書閣下、これは一ト筋縄ではいけますまい」
「ウむ。打てッ」
おきまりの拷問となった。たちまちに唸きの下、凄惨、目もくらむばかりな鮮血が白洲を染め、絶叫がつづく。そしてついに、心にもなき口書が取られ、その夕すぐ死刑囚の大牢へ送りこまれた。
この大牢の牢屋預かり兼首斬り役には、蔡福、蔡慶といって、鬼の兄弟がいた。
凌雲の気 堂々の男
誰とかなす 押牢の蔡福なれ
青鸞の帯 無角の頭巾
歩むところ 草木おののき
声きけば 哭く子もやむ
名けたりな そのアダ名も鉄臂膊とは
これは兄の方だが、弟の蔡慶にも、街詩があって。
らんらんの眼には毛虫眉
衫衣に繍わせた 吾亦紅
あまりに人がこわがるので
鬂に挿したよ 花一枝
彼はつねに帽の鬂傍に何か花を挿す習慣を身につけていたので河北の人は彼を、一枝花の蔡慶とも呼びならわしていた。
「おい蔡慶。新入りはちと大物だ。番をたのむぞ。おれはちょっくら家へ行ってくるな」
その夕、弟にあとをまかせ、蔡福は大牢の路次を曲がりかけた。と、薄暗がりの物蔭から走り出た蝙蝠のような人影が、ペタと彼の前にぬかずいて。
「お慈悲です、ご主人に一ト目会わせておくんなさい。お願いします。こ、このとおりに……」
「や、おめえは、浪子燕青じゃないか。何を手に持っているんだ」
「お粥です。ご主人に食べさせたいと思って。……この小瓶に半杯の粥を、やっと街で工面して来ましたんで」
「ふーむ。主人思いだなあおめえは。……ま、いいや、自分で持って行って、食べさせてやるがいい」
蔡福は言い捨てて行ってしまった。宿なしの燕青には世間の同情があったらしい。蔡福はそんなことを考えながら大街通りの州橋を渡っていたが、するとまた、
「おかしら、うちの二階に、お待ちかねのお客さんが、さっきから見えてますよ」
と、馴じみの女が呼びとめる。
茶館の二階に待っていたのは李固だった。うしろの扉を密閉すると、李固は延金で五十両を卓においた。そして〝闇から闇へ〟の取引きを初め、蛇の道はヘビ、多くはいわないでも……と謎をかけた。
蔡福は、わざととぼけて、
「はてね。なんのおはなしで?」
「いやですぜ、大牢のおかしらが。諺にも、おなじ穴の貉は化かし合わぬ、というじゃありませんか」
「貉になれっていうわけかい。おい李固さん、お役所前の戒石に、こう彫ってあるのをしらねえな。──下民ハ虐ゲ得ルトモ、上天ハ欺キ難シ──と。真っぴら、真っぴら。後日、提刑官(監察)に睨まれて、かかりあいになるなんざアご免だよ」
こいつはいけないと見たので、李固は相場を上げた。五十両を百両にし、百両を二百両、さらに三百両とまでわれからセリ上げてみせると、もう蔡福の顔色もはっきり欲にうごいている。そこで李固が念を押したものである。
「ぜひとも、今夜じゅうに、ひとつ、首尾よくねむらしておくんなさいよ」
蔡福は、金をおさめると、すぐ立ち上がって、あっさり、こう約束をつがえて帰った。
「よし! あした死骸を取りに来ねえ」
ふくふくな気もちで、宵闇、わが家の門口まで帰って来た蔡福はそこでふとギクとした。
たれか見つけぬ人影が佇んでいる。──
それも、どうも常人でない。びろうどの黒い丸襟の服を着、羊脂の珠のかがやく帯には細身な短剣を佩いているのみでなく、金鶏の羽ネで飾られた貴人の冠といい珍珠の履、どう見ても、王侯の香いがする。
「これは。……どなた様でいらっしゃいましょうか」
「ほ。あなたが蔡福か」
「さようで。して何ぞ、御用でも」
「奥をおかり申したい。ちと、折入ってのおはなしなので」
さて、それからの一室での密談だった。みずから名のっていうその人とは、滄州横海郡の名族、遠き大周皇帝の嫡流の子孫、姓は柴、名は進、あだ名を小旋風。すなわち小旋風の柴進とは私であると、まず言って、
「幸か不幸か、性来、財をうとみ、義をおもんじ、天下の好漢と交わりをむすんで来ましたが、それがついこの身をして梁山泊の一員となる契機の因をなしていたのです。……ところがこのたび、当地の盧員外どのが、淫婦奸夫のはかりに陥ち、かつまた貪官汚吏の手にかかって、あえなく獄にとらわれ召された。いやすでに命旦夕の危急と聞く。……で。じつは寨主宋江先生の秘命をおび、急遽、おたすけに参ったわけだ。しかもあなたの一存でここは延ばせる。足下の侠気にすがるほかはない。寸礼のおしるしには、ここに黄金一千両を持参いたした。お受けとり給わるか、あるいは嫌か。もしまたこの柴進を縄にしようというならば、それもよし、眉一トすじも動かすものではございません」
いうことの立派さ。その気魄。蔡福は聞くうちにも腋の下に冷めたい汗をタラタラとたらしていた。くやしいが人間の違いか。この威圧はどうしようもない。
「河北に漢あり、鉄臂膊(蔡福)はそのお一人とうけたまわる。漢は度胸、なんのお迷い。うム、ご返辞は。なさることで見ていよう。とりあえず、持参の黄金はお収めおきを」
すっと立って、柴進は門を出てしまう。入れ代りに従者らしき男が一嚢の沙金をおいて風の如くぷッと去ってしまった。なんたる大人ぶり、いや肝ッ玉だろう。てんで歯の立つ相手ではない。
蔡福はさばきに困って、その暁、ふたたび大牢に帰り、弟の蔡慶に相談してみた。聞くと蔡慶は手を打って笑った。
「運はかさなるもの。いい目と出初めると切りがねえな。どっちも戴いておいたらいいさ。──梁山泊の使いだって、くれたのはあっちの思惑。なにも盧員外の身を生で渡せというんじゃなしさ。……なんとかズルズル延ばしてりゃあ、そのうち片がつこうというもんじゃねえか」
「なるほど。じゃあこうしよう。おめえは盧の旦那にこっそり事情を話せ。そして朝晩の糧も上々な物にしてあげて、おからだを大事になさいと耳打ちしておけ」
もちろん、これには蔡の兄弟にしても、上役から下ッ端までへの心づけがだいぶ要る。しかしおさまらないのは、あくる日、顔をみせた李固であった。
「まあ、李固さんよ、そうふくれなさんな。明け方、盧をねむらしちまおうと思って、獄飯の中へ一服盛ってると、急に、中書さまのご意向が違うッてんで、大まごつきさ。どうも長官閣下か、まわりの者か、そこは知らねえが、盧をころすまでの腹じゃあねえらしいんだな。ひとつ、そっちの方を運動しなせえ、こっちはいつでも、やれるんだから」
李固はてんてこ舞いした。色と欲、生涯のわかれめだ。ここで老舗の財産半分をつかっても、もとはひとの物、安い物、そんな料簡からに違いない。その日まず、管領の梁中書の公邸にちかづいてから、連日、あらゆる手をつくして暗躍にかかった。
ところが一方、副官や与力の張は、蔡福から少なからぬ袖の下をおさめていた。で、何やかやと判決は遷延してゆく。それはいいが自然、北京府内では、おもしろからぬ噂も立つ。盧俊儀その人への日ごろの人望やら同情なども抑え難い。で、梁中書も考えた。
ここで読者は、この梁中書について過去の一事件を思い出されているであろう。かつて、都の蔡大臣の許へ、その誕生祝として、夫人の名義で、時価十万貫にものぼる金銀珠玉を送り出させたあの大官である。そのときの輸送使が、かの青面獣楊志であったのだ。ゆらい梁山泊とは宿怨浅からぬ官憲の大物といってよい。それだけに彼は、盧の処分には慎重をきわめたのだ。盧に同情のつよい北京において、万が一にも、ぼろを出しては、はなはだまずい。
「そうだ、千里の先なら、耳の外だし、風まかせ」
ついに、流刑の断をくだしたのである。さきは終身刑のみが送られる滄州沙門島の大流刑地。護送役の董超、薛覇という二名は、これまた、かつて林冲を都から差立てたことのある端公だ。あれ以後、林冲が逃げた滄州事件のとばッちりから高大臣の不興をかい、この北京へ左遷されていた者たちである。
しかし流刑人送りの練達者として、この二人の端公の腕は、たしかに抜群だったものだろう。管領庁でも彼らが付いて行くからにはと万々途中は安心と公文その他一切の手順もすすめられた。
──首かせは嵌められ、二本の水火棍に小突き立てられ、行くて三千里の道へ、盧は素はだしで歩かせられた。
木賃宿の朝夕、端公は囚人を、奴僕のようにこきつかう。これらはやさしいことである。四、五日も旅するうちには、すでに盧俊儀その人の面影はどこにもない。飢え疲れきッた無力の奴隷、いやいや、そんな形容ではまだ足りない。
「おい。董公。ちょっくら、こいつの腰鎖を代って持っててくれ」
「なんだよ薛公。こんな山ん中で」
「生き物だもの仕方はねえ。用達しがしたくなったんだよ」
「ぜいたくを吐ざいてやがる。垂れ流しに歩き歩きさせたがいいじゃねえか」
「囚人じゃねえッてばさ。おれがするんだよ、おれが」
「はははは、おめえが催したのか。それ、やって来ねえ」
腰鎖をうけとって、ぼんやり立っていると、彼方へ行ってかがみこんでいた董公がギャッと一ト声叫んでころがり伏した。
驚いた薛覇が、上を見て、あッ──といったと思うと、これまた、クルクルッと体を廻してぶっ仆れた。その喉笛にも、彼方の死骸にも、矢が立っていた。秋の深さを告げる黄色い椋や柏の葉が、同時に上からバラバラ降った。
どん! と空から一童子が飛び下りた。いやその紅顔は童子ともみえるが年はもう十八、九の若者で、破れた衣服、鳥の巣のようなあたま、腰には残る一本の矢柄を挿し、手には四川弓(半弓)を持っている。
「ご主人! 燕青ですっ。逃げましょう。燕青の肩につかまってください」
「やっ、おまえは? ……。ああ小乙か。小乙、おまえには、あわせる顔がない」
「な、なにいってるんです、主従の仲で。が、待って下さいよ、二本の矢を抜いて来ますから。……いや先に鎖をお解きしましょう。ちぇッ、この冤罪のご主人をくるしめた首枷め」
と、燕青は満身の力で主人の首カセの鍵を叩き割り、そしてまた、三本の矢をも腰に挿し揃えてから、盧の力なき体を、わが背中に背負い、やがて飛鳥のように峰道、谷道、みるみる、どこへともなく逃げ去ってしまった。
伝単は北京に降り、蒲東一警部は、禁門に見出だされる事
薬草採りの寝小屋らしい。深山幽谷をあるいて仙薬をさがす〝薬種掘り〟の仲間は、幾十日でも山に入っているという。そこらには、欠け茶碗がある。火を燃した跡もある。
「ああ、うまくいった。天のたすけだ。大旦那え……」と、燕青は、肩から主人のからだをズリ降ろしながら言った。「もう、ご心配なさいますな。ここなら人に見つかりッこはありません」
それからの彼は、たとえば、巣に病む親鳥へ子鳥が餌を運ぶような可憐さだった。朝夕、心から主人の盧俊儀をいたわった。仕えること以前とすこしもかわらない。
盧はそのたびに慚愧した。彼の手をとって「……すまない」といっては詫びた。燕青はまた打ち消してそれを笑う。幼少から可愛がられてわが子同様に十九のこの年まで育てられたご恩に比すれば、こんなことぐらいは、謝恩の万分の一でもありません、というのだ。
そして時々、彼は例の四川弓を持って、鵲や雉子を射に出かけた。また谷へおりては、川魚や川苔を採って帰った。しかしいつも木の実やそんな物ばかりでは主人の体に力もつくまいと思って、あるとき、そっと山腹の部落へ粟を買いに行った。
ところが、部落の口にも辻にも高札が立っている。──北京ノ囚人盧俊儀、及ビ、ソノ護送役人ヲ殺害シテ盧ヲ奪イ去ッタ大罪人ヲ訴エ出デヨ、という莫大な懸賞つきの布令なのだ。
「あぶねえ、あぶねえ」
燕は、あわててほかの部落へ行った。しかし、そこにも北京府の捕吏が来て屯していた。ぞっとして、彼は粟も求めずもとの巣へ逃げ戻ったが、これが足のツキ初めとは知るよしもなかったのである。
あいかわらず、鳥を射、川魚を採って、露命をつないでいたが、ある日の夕、小屋へ帰ってみると、盧俊儀の姿がみえない。あたりは狼藉、血しおまでこぼれている。さてはと仰天して、燕は夢中で追っかけた。けれど時すでに遅し。──盧は馬の背にくくられ、二百人からの土民や捕吏の手で麓へ引ッ立てられて行く途中だった。
「ちくしょうッ。ええ、どうしたら?」
しかし、どうすることも早やできない。彼は泣いた。天を恨んだ。断崖から谷へとびこんで死んでやろうか。死んでどうなる?
……ここに。夜の白々明けのこと。
范陽笠に、縞脚絆、腰に銀巻き作りの脇差という身がるな姿。
またもう一名は、古物だが、錦襴の腰帯に、おなじく大刀を帯し、麻沓の足もかろげに、どっちもまず、伊達な男ッ振りといえる旅の二人が、何か、笑い声を交わしながら峠を北へ降りかけて来た。
「オヤ。あれ見や兄哥。へんな野郎が、谷へむかって、泣いていやがるぜ」
「ほ。まだ餓鬼臭え若造じゃねえか。まさか身を投げて死ぬ気でもあるめえに」
「いや何とも知れねえよ。声をかけたら飛び込んでしまうかもしれねえ。そっと行って抱き止めてやろうか」
しかし、彼方の岩頭に腰かけていた若者は、すぐ気づいて、気づくや否、隠し持っていた四川弓(半弓)にバシッと矢をつがえて、こっちを睨まえた。
「あっ──」と、二人は矢面から飛び別れて。「小僧ッ、なにをしやがる! てめえは身投げをする気でいたのとは違うのか」
「おじさん」と刹那に、若者のほうも、落着いたらしく、弦の矢筈を外して。「ごめんなさい。おじさん達は、旅の衆だね。北京府の捕方じゃあなかったんだね」
「や。おめえの言葉は北京語だが、そういうところをみると、もしやおめえは、盧員外(俊儀のこと)の縁故の者じゃあねえのかい。いや、安心しねえ。おれたちは、梁山泊の者だからよ」
「ほんとかい! おじさんたち」
「なにを隠そう。おれは𢬵命三郎の石秀。ここにいるのは病関索の楊雄だ。──仲間の一人、小旋風柴進からの知らせで、これから盧員外をどうして助け出すか。その下探りに出かけて来た途中なのさ」
燕青はこれを聞くと、わっと声をあげて泣きだした。「遅かった! 間に合わない、間に合わない!」といっては、地だんだをふんでまた泣いた。楊雄と石秀とは驚いて、こもごもにその理由をただした。
そしてこれが盧家の小僕、浪子燕青と聞いて、さらに驚きを新たにしたが、しかし盧の再度の大難が、ここでわかったのは、まだまだ、天の加護として、よろこんだ。そこで楊雄は俄に方針をかえ、燕青を連れて、梁山泊へ引っ返し、北京府へは、石秀がただ一人で入り込むことになった。──
もちろん以後の連絡をかたく諜し合せてである。ところが、これがまた第二の奇禍と、次の大波瀾とを招く逆の転機となってしまった。
しかも、その日である。その日とは、姿を変えた石秀が、北京府の関内へ、首尾よく潜入しえた当日なのだ。
わらわら、わらわら、一方へ向って、人が馳けて行く。
「何か、お祭りの花車でもやって来るんですか」
「とんでもない……」と、訊かれた方の者は、眼をとがらせて、石秀の姿をジロジロ見。「知らないのかい、おまえさんは。この北京府であんなに惜しまれている盧員外さんが斬られるんだよ。ついこの先で首斬り役人の蔡福と蔡慶の手にかかるんだよ。なんてまあ、なさけない」
「ひぇっ。断罪ですって?」
たいへんな群集である。黄色い埃りですぐ知れた。空地の草ッ原では、はや執行の寸前とみえ、正午ノ刻の合図を待って、首斬り刀に水を注ぐばかりらしい。
すぐ前は、十字路だった。角の酒館の階上では、たくさんな顔が、鈴なりに見物している。中に、石秀の異様なる双眼も光っていた。
刻の太鼓が、近くの鼓楼で鳴りだした。それッと、役人たちの蟻のような影が中天の陽の下で忙しく動きはじめる。──と、まだ太鼓の音が刻ノ数をも打ち終らないうちだった。酒館の窓から廂屋根の尖端へおどり出した一箇の怪漢が、片手には剣、片手に拳を振りあげて大音声をふりしぼった。
「待てーっ。盧員外に手でも触ると命はないぞ。梁山泊の勢揃いを知らねえのか。そこらには、梁山泊の者が大勢来ているのを!」
もちろん、嘘である。だが、これしかほかに策はなかったのだ。叫ぶやいな、石秀はそこをとびおりて刑場内へ斬りこんだ。そして、うろたえ騒ぐ刑吏や獄卒をけちらして、一瞬の旋風の如く、盧のからだを奪い去った。肩にかついで逃げ出したものである。
たしかに「梁山泊の勢揃いだぞ」といった機智が、功を奏したものにはちがいない。が、一枝花の蔡慶も、兄の蔡福も、全然これを、意識的に見のがしていた傾向がある。──さきに梁山泊の密使柴進から沙金千両をもらっていた礼心でもあったろうか?
けれど、じつは折角なその効いもなかった。なぜならば、石秀はまもなく、高い城壁下のどんづまりに追いつめられて逮捕されてしまったからだ。──いかんせん彼は北京の案内に晦かったし、白昼のこと、隠れ場もなかったらしい。当然、盧と共に、彼も大牢へぶちこまれた。そして、こんどは二人並べて、二頭一断とする、次の用意がなされていた。
するとその日、南区の奉行、王という者が、一枚の伝単(ちらし)を持って、管領庁へ出むいてきた。いや同時に、ここで拾ッた、かしこに落ちていたという伝単が、北奉行や町廻りの手からも、何十枚となく届け出られていた。
長官の梁中書は、それを一読するや、顔の色を失ってしまった。気魂、おののきふるえて、天外に飛ぶの態だった。
伝単の文にいう。
梁山泊ノ義士 宋江。 大名府、及ビ天下ノ人士ニ告グ 今ヤ、大宋国ニアリテハ上ハ濫官、位ニアリ 下ハ汚吏権ヲ恣ニ、良民ヲ虐グ
北京ノ盧俊儀ハ善人ナリ 衆望 人ノミナ慕ウ所ナリ。然ルニ 賄賂ニ毒セラレタル官コレヲ捕エテ 却ッテ淫婦奸夫ヲ殺サズ。抑〻天命ヲ逆シマト為ス者ニ非ズシテ 何ゾヤ 即チ 天ニ代ッテ吾等ノ道ヲ行ワントスル所以ナリ 若シソレ 盧俊儀ト石秀ノ二人ヲ故ナク断刑ニ処サバ 梁山泊数万ノ天兵ハ タチドコロニ北京ヲ焼キ払ワン 且ツ悪吏ノ一人タリトモ 鬼籍ノ黒簿ヨリ除キ ソノ命ヲ助ケオクコト無カラン
銘記セヨ 曾ツテ梁党ノ宣言ニシテ 必ズ行ワザルハ無キ事ヲ。
サラニ又 愕クヲ要セズ 孝子 仁者 純朴ノ善民 マタ清廉ノ吏ニ至リテハ 是ヲ敬イ愛スルモ 誓ッテ是ヲ困苦セシメズ 乞ウ善大衆ヨ 御身等ハタダソノ天誅ヲ見 ソノ職ニ安ンジ居ラレヨ
「さーて? これは容易ならんぞ。のう……王奉行、どうしたものだろう」
「どうも、ゆゆしいことに相成りましたな。何せい、朝廷直々の掃討軍ですら、たびたび打ち負かされて手を焼いているあいつらのこと」
「もし北京軍をあげて、戦うとせば」
「とても、だめでしょう。ヘタをすれば朝廷からの援軍もまにあいません。──ま、愚見をいってみれば、このさい、大牢中の二名は、生かしておくだけの形にしておき、第一には、急遽、都へ早打ちをお出しになること。第二には、北京軍をくりだして、一応、城外遠くの要路を塞ぐこと。──これが手おくれとなりますと、お手持の軍は失い、朝廷からは譴責をうけ、人民は足もとから騒ぎだすなど、収拾もつきますまい」
「む。余も同感だ。さっそく、大牢の番役人、蔡福、蔡慶にも、申しふくめろ」
そしてまた、即日。
北京府の兵馬総指揮官──大刀聞達と天王李成という正副の二将軍──が城外百余里の地、飛虎峪とよぶ山、また槐樹坡とよぶ街道の嶮に、布陣すべく、大兵で出勢して行った。
これがすでに、秋も半ば過ぎ──
梁山泊では、さきに神行太保の戴宗を走らせて、雲の上から伝単を撒き散らさせた直後において、北京出勢のしたくはしていた。
それも、こんどは、かんたんでないと見た用意のもとに、充分な馬匹兵糧を携行し、人数もまた、梁山泊全員を二つに割って、全兵力の半分を出動させた。
宋江の下に、軍師呉用。
ほか、歴戦の猛者が、幾十隊の部将となってくりだしたが、中には紅一点の女頭領、一丈青の扈三娘も、こんどは一軍をひきいて行った。
朱地に「女将軍一丈青」と金繍した軍旗は、やがて敵のあらぎもをひしいだ。
槐樹坡のたたかい。また飛虎峪の激戦。
されば、すさまじいものだったが、結局、北京軍はついにさんざんに打ちやぶられてしまった。そして大刀聞達も、副将李成も、それぞれ、残兵の中に押し揉まれながら、まるで身一つのようなぶざまで逃げ帰って来た。以後、北京の関門に命からがら辿り着いた兵を数え入れても、発向の時の三分の一にさえ足らなかった。
「なんたることだ! これではまるで、殲滅に会ったも同様な惨敗にひとしいではないか」
梁中書は、驚きのあまり、床を踏み鳴らして、その弾みに、沓を飛ばした。沓は飛んで、報告のため、階下に畏服していた李成の顔に当って落ちた。
「どう仰せられても、面目はございません」と、李成は沓を拾って捧げながら──「このうえは、再度の早飛脚で朝廷のご急援を切に仰ぐこと。──次には、近くの各県に合力を下知せられること。──またここは、聞達が第二の新手をくりだしておりますから、一そうそれを強めるため、城壁にはさらに塁をかさね、砲石、踏弓、火箭、目つぶし、あらゆる防禦物を揃えて、守備に怠りないことです」
寄手の泊軍、宋江の指揮下では、もう短兵急な猛攻は止めていた。東、西、北の三門はかたい包囲下においていたが、わざと南大門の一方だけはあけておき、自由に往来させている。──なお交渉の余地あることをわざとそこに見せておいたのだ。──城中の大牢にある二人の者の露命につつがなかれと、切に祈る気もちから。
だがこれは、双方にとっての微妙なかねあいだ。梁中書も、獄中の者を殺しはしない。時を稼ぐためにである。
中書の急使は、その南大門を忍び出て、はや昼夜、都へ向って、馬にムチ打っていた。使者は腹心の王定という者だった。日かずもまたたく、彼は帝都開封東京の汴城に着いた。だが、宮内府の一門にたどり着くやいな、気のゆるみでか、気絶してしまった。
大臣蔡京は、憂いにみちた眉色で、白虎節堂の大臣席に着席している。
ほかに五大臣、また、枢密院長の童貫、枢密院の全議員、各司庁、司署の長官らが、しいんと、満堂にみちて、彼の口もとをみまもっていた。
「みな、聞かれたであろうが」
蔡京が言った。
「……いま、北京府の急使、王定が訴えに聞けば、これを一地方の擾乱とだけでは見過ごせん。天下の兇事、大宋朝廷のご威厳にかかわる」
沈痛な語気だった。
この蔡大臣、かの梁中書には岳父にあたるひとである。つまり中書夫人の実父なのだ。──当然、私の情愛と心痛もある。
しかし、彼が最も胸をいためたのは、現皇帝の徽宗陛下が、夜は管絃、昼は画院の画家たちを相手に絵を描いてのみおられ、いっこう天下の変もよそにしておられることだった。すでに、北京からは先にも禁軍の救援を求める早打が来ているが、それにも早速なご会議のもようはなく、またつづいての、王定の請願を奏上すれば「──よきにしておけ。枢密院の衆議にまかせる」というのみの御諚だけだ。
「諸卿」
と、彼はふたたび発言して、全議員の上を見わたした。彼のわたくしの心配も、国を憂える肺腑のひびきと聞えなくもない。
「なにか、策はないか。第一に人だ。軍を派すにしても、その人を得ざれば、だ。これと思う人物があらば、遅疑なく、推挙してもらいたい」
依然、たれも沈黙している。求めて重大な責任を負うことはない。といったような尻込みなのだ。
するとここに、防禦保儀使の宣賛という者があって、はるか末席から直立して言った。
「大臣。──ご推薦したい人物があります。彼こそ隠れた傑物と信じるからです」
ところが、彼の大真面目な進言も、あちこちでクスクス笑う声にもみけされた。保儀使といえば軍人でも佐官に過ぎない。のみならずこの宣賛は、西蕃との混血児である。ヒゲは赤く、ちぢれ毛で、鍋底のような顔にまた念入りにも雄大なる獅子ッ鼻ときている。
かつては、或る西蕃王の邸にいて、郡馬(王の女婿)となったが、その黒い姫君すらも、彼を嫌って、振り抜いたとかで、自分からそこを追ン出てしまったため、以来、〝醜郡馬〟という名誉あるアダ名すら貰っている宣賛だった。──だから誰もその発言に本気で耳をかそうとしなかった。
しかし、蔡大臣は、宣賛の大真面目なところを買って、
「む! 言って見給え。君が推すその人物とは?」
と、傾聴すべき容子をみせた。
「はっ」と、宣賛は、直立不動のまま──
「目下、蒲東にいて、警部長の現職にある者ですが」
「なんだ、そんな下級の警吏か」
「はいっ。……ですが家系は古く、三国時代の後漢の名臣、関羽のただしい子孫にあたり、苗字を関、名を勝といい、よく兵書を読み、武技に長け、黙々と、田舎警部を勤めてはいますが、もし彼に地位と礼を与えるなら、きっと天下のお役に立つにちがいありません」
と、口を極めて、ほめたたえた。
これは〝掘り出し物〟かもしれない。蔡大臣はやや意をうごかした。が、重大なる任命だ。ひとまずその日の会議は閉じ、人事院をして調べさせた。その結果、ついに宣賛を蒲東にやって、ともかく関勝を宮内府へ呼んでみることにした。
洛外、蒲東は小さな田舎町である。
そこの警部局へ、ひょっこり訪ねてきた宣賛の姿に、
「やあ、これはおどろいた。何年ぶりだろう。いったい何の用で?」
と、関勝は狭い役室の中に立って、友の手を握り、まずと、汚い椅子をすすめた。
「じつは、その……」と、さっそく用向きを切り出しかけたが、関勝のそばには、べつな一人の男がいた。何者だかわからない?
「いや、先に紹介しよう。宣君、ここにいるのは僕の義兄弟で、郝思文という変った姓名の人でね。このひとのおふくろが、井木犴(二十八宿星の一ツ)がお腹に宿ると夢みて産れたというんだから、生れつきからして変っている。しかも武芸十八般の達人だ。以後、よろしくたのむよ」
「それは、どうも。……拙者は関君の古い友人、保儀使の宣賛という者です。いや、ちょうどいい時に居合せて下すった。──どうです、ひとつごいっしょに、帝都の内閣まで来てくれませんか。というのも蔡大臣閣下のお招きなんです。仔細はこのお召状の内にありますからご一見の上で」
関勝はそれを読んで感激にふるえた。郝思文に相談すると、これもまた否やはない。──俄に、家族を呼び、家事のあとを託して、三名はその日のうちに東京へ急いだ。
まず官邸に入る。
蔡閣下との対面は、例の白虎節堂だった。ただし、関勝ひとりだけの謁見で、階の下に、拝を執る。──蔡京がつらつら見るに、なるほどすばらしい偉丈夫だ。身ノ丈八尺余、髥美しく、まなこは鳳眼──。気に入った。
「関警部長。お年は幾つだの?」
「三十二に相成ります」
「兵学、武芸、すこぶる素養に富むと聞くが、どうして田舎警部などで満足していたのか」
「いや蛟龍も、時に会わねば、いたしかたございません」
「その〝時〟を汝に与えよう。梁山泊の暴徒が、先頃から北京府の城をかこんで、良民を苦しめておる。その害をのぞく自信があるか」
「なきにしもあらず、です。水滸の賊が、われから、本拠の泊巣を離れて遠く出たのこそ運の尽き。──北京の難を、直接、救わんとすれば大きな犠牲を要しますが、彼らの留守を襲って、先に、梁山泊を陥してしまえば、元々、烏合の衆、あとは苦もなき掃討でかたづきましょう」
「なるほど。──魏ヲ囲ンデ趙ヲ救ウ──の策か。さすが達見。よろしい、今日以後、君を推して征賊の将軍とする。この一生一期の大機会を君もよく活かしたまえ」
その日に、上奏、また枢密院の任命式なども行われ、ほどなく、一万五千の大軍が、都門を立った。
郝思文が先鋒、宣賛が殿軍、段常が輜重隊。そして総司令関勝は、中軍という編制。──これが満都の歓呼と注目をあびて汴城を立つ日の巷に歌があった。
漢代の功臣
三国の良将の末裔
いま赤兎馬に似たるに跨がり
繍旗、金甲、燦として征く
行く手の雲や厚く
搏浪の水涯は嶮し
自愛せよ、大刀の関勝
関菩薩(関羽ノコト)の名に恥じぬ
義あり勇ある今日の好漢
人を殺すの兵略は、人を生かすの策に及ばぬこと
北京の天地は、そろそろ冬の荒涼を思わせ、遠山はすでに白い雪だった。
城外の野に、軍幕をつらねて、朝夕、ひょうひょうの寒風にはためかれている一舎の内に、宋江は今日しも、深い思案に沈んでいた。
「ああ、どうもすこし戦略を過ったようだ。一気に城中へ攻め込めば、大牢にいる盧員外と石秀の命があぶない。……と手加減しているまに、いつか冬となってきた。いや冬のみならず、各府県の援軍が来て、城壁の守りもいよいよ固い。……もしこのうえ京師の正規軍が大挙して、これへ下ってでも来た日には?」
ところへ、呉用が顔を見せた。
「宋先生」
「お。軍師」
「お驚きになってはいけませんぞ。意外な変となってきた」
「どうしたのですか」
「梁山泊があぶない! 危機に瀕していると、たったいま、神行太保の報らせです」
「えっ。では泊内から裏切りでも」
「いや、東京の蔡大臣が、蒲東の大刀関勝という者を抜擢し、彼に大軍をさずけて差しくだしました。ところが、この関勝は、有名な後漢の名臣関羽の子孫。なかなか勇武奇略があるらしい。北京へ向って来ずに、われらの留守をついて、いきなり梁山泊をとりかこんでしまったというわけなので」
「しまった。それこそ〝魏ヲ囲ンデ趙ヲ救ウ〟の策……。やられましたな」
「だが、まにあわぬことはない。留守の張順、張横、李俊、童威、童猛、阮ノ三兄弟、そのほかも、必死で防戦中とのこと。ともあれ、さっそく引き揚げましょう」
しかし、これがまた一大難事だ。
城中では、すでに京師からの密令で、このことは知っている。──必然、宋江軍の総退陣を見越して、一挙に、追い打ちをかけんとしている気味合いが歴々と見えていた。
それも覚悟の上として退くしかない。
宋江は、小李広の花栄、豹子頭林冲、また呼延灼などに、殿軍を命じて、一角の陣から引き揚げを開始した。……と見るや、敵は城をひらき、どっと飛虎峪の嶮まで猛追撃してきたが、ここにも伏兵がおかれていたので、逆に彼らは大いたでを負って、逃げもどってしまった様子。それからは、一路、留守の危機へと帰りを急ぐ、梁山泊数千の山兵とその頭領の面々だった。
そして早くも水滸の寨を彼方に望みうる近くまでは来たが、偵察によると、
「沿岸は諸所、関勝の陣地で、これから先は、蟻の通る隙もありません」
と、物見はみな口を揃えて、官軍のゆゆしさをいう。
はたと、行軍は行きなやんだ。第一には、どう泊内との連絡をとるかであった。ところが、その晩のこと、細い水路を辿り抜けてきた一そうの〝忍び舟〟がある。捕えてみる、これなん味方の一人、浪裏白跳の張順だった。
「おう張順か。泊内の士気はどうだ。まだ一ヵ所も破られてはいないだろうな」
宋江に問われると、張順は面目なげに言った。
「さ。それが……必死の防ぎで、からくも、鴨嘴灘から金沙灘の岸まで、保ちささえてはきましたが、残念なことに、兄弟分の張横と阮小七の二人が、関勝の手に捕虜とされてしまいました。……で、留守隊一同、首を長くして、お待ちしていたわけなんで」
「なに、張横、阮小七のふたりが敵にいけどられたと。……はて、それは戦法が難しくなったな。下手に出れば、たちまち、陣頭の血祭りにされるだろうし」
なお、仔細をきいてみると、張横は得意の水戦を用いて、敵の攪乱に出かけ、かえって敵の計におちて捕われたもの。また阮小七も、その復讐戦を挑んで、逆に、関勝の奇計に引ッかかったものだという。
「なにさま、敵将の関勝というのは、よほど奇略に富む者らしい。……軍師、なんぞご名策はありませんか」
呉用は、さっきから、髥を撫して、そばで聞いていたが、
「ともあれ、当ってみましょう。その戦ぶり、また、その人物を見てからの上の勝負だ。……いかなる智将といえ、その兵略には、限界もあるし癖もある。彼に得意な戦術があれば、その智を用いて智の裏を掻く……」
次の日の早朝。
まず味方の花栄を先陣にくり出して、敵の堅陣へと、ぶつけてみた。
その手の官軍方の将は例の、醜郡馬宣賛だった。乱戦半日の果て、小李広の花栄と醜郡馬とは、互いに面をあわせての接戦となったが、弓の花栄といわれた彼の射た一箭が、カン! と醜郡馬の背なかの護心鏡にあたったので、
「これは」
と、きもを冷やしたか、さすがの宣賛も陣を崩して逃げなだれた。
しかしそれは〝新手がわり〟の扇開陣かと見えもする。──蜘蛛の子と散ったうしろ側の二段の陣には、旌旗、弓列、霜のごとき矛隊が、厳然として控えていた。そしてその真ん中には、炭火のような赤い馬にまたがり、手に青龍刀の烈々たる冷光をひッさげた偉丈夫が、眼をほそめて、全戦場を見わたしている。威厳、いやその絶妙な陣容、たとえば底知れぬ深淵のごときものがあって、とても、うかとは近づき難い。
──時しも、すでに紫の夕雲が、水滸の蕭条たる彼方に真ッ赤な日輪をのんで沈みかけている。やがて、吹き渡る薄暮の暗い風のまにまに、相互とも、事なく退き鉦を打鳴らしていた。
露営の天幕には、夜の霜が降りた。宋江は、すっかり何かに感じ入っている。彼はよく人を観る。
「さすがは、漢代の功臣の末裔──」
と、一、二度ならず呟いた。
「まことに、関勝とは、聞きしにまさる武人ではある。ちかごろ稀れに見る人品骨柄」
これを、そばで聞いていた林冲は、すくなからず不愉快な顔をして、
「はて、宋統領としたことが、なんだって、敵にそんな気おくれを持たれるのか。自体、宋先生は人に惚れ過ぎる癖がある。ようし、明日の戦いには、関勝をおびき寄せて、統領の目の前で、関勝のだらしなさを、この林冲が見せてやる」
と、心でちかった。
そして翌日の激戦で、彼は思いどおりに関勝をひきよせた。だが、関勝の方は、彼をあしらうのみで、眼中にも入れている風ではない。
「宋江、出でよ」
と、喚きつづけ、
「水溜りの孑孑どもに用はない。宋江、みずから出て、勝負を決しろ」
と、陣前へ来て、近々と呼ばわった。
引き止める人々を排して、宋江はサッと馬を乗り出し、すぐ馬を降りて、関勝へ向い、まるでふだんのような礼をした。
「元、鄆城の小役人、宋江です。漢の代の良臣のご子孫、お見知りおき下さい」
「やあ、汝が宋江か。なんで世を紊し、朝廷にたてをつくぞ」
「世をみだす者は、われらではありません。朝廷ご自体。いや讒佞の権臣、悪官吏のともがらです。されば、私たちは天に代って」
「黙れッ、黙れッ。天とはここに臨んだ錦旗をいう。身のほど知れ、この鼠賊め。ただちに、兇器を投げて、降参いたせばよし、さなくば、みじんにいたすぞよ」
これを見、宋江の卑下と関勝の傲岸に腹をたてた林冲、史進、秦明、馬麟などの連中は、小癪な! とばかり前後から、関勝ひとりをつつんで、喚きかかッた。
いかに関勝の青龍刀たりといえ、これにはおよぶべくもない。もちろん、官軍方からも、
「わが関将軍を打たすな」
と、どっと助太刀には出て来たが、あわや、関勝あやうし、と見えた。
ところが、宋江は急に、鉦を打たせて、味方の猛者をひきとらせてしまった。さあ、彼の身辺は、不平、ごうごうである。中には、
「なんだって、かんじんなところで、いくさをお止めなされたのか。これでは、いくさにも何もなりはしない」
と、突っかかって来る者さえある。
宋江は、屹となって、たしなめた。
「諸君は相手を殺すのが勝ちだと思っているが、私は、人を生かすことをもって勝利としている。われわれの仲間は、世に忠義をむねとし、人に仁と義をもって接するのが、本来の約束ではなかったか。いわんや、関勝は忠臣の子孫、その先祖は神に祀られている者だ。もし彼に徳と智とまことの勇があるなら、宋江はいま預かっている統領の椅子を、彼に譲ってもよいとさえ思っているのだ」
打てば響く。──宋江にあったこの心は、関勝の胸にも何かを呼び起していたにちがいない。──彼はその夜の陣営で、ひとり密かに考えていた。
「はてなあ? 宋江というやつは解せん男だ。おれの危なくなった刹那に、戦を止めさせたのは、なんのつもりか?」
その魂胆が気になって仕方がない。だが解けなかった。で、とうとう部下に命じて、かねて捕虜の檻車へ放り込んでいた囚人の張横と阮小七とを引っぱり出させ、宋江の人となりを問いただしてみた。
ふたりとも、口を揃えて、憚るなく、宋江の人間を称えた。
「いま頃まだ、及時雨の宋公明を、知らねえなんざ、よくよくお前さんは、世事の盲か、軍人なら軍人のもぐりだろうぜ。山東、河北では、三ツ子ですらが知ってらあ。義にあつく、お情けぶかく、だれにも慕われなさる人民の中の光明みたいなお人としてだ」
関勝は、かえって、なにか辱じてしまった。つまらない糺問をしたとは思いながら怏々と、こころも愉しまず、幕舎を出て、独り寒月を仰いでいた。すると──
「将軍、ここにおいでですか」
「歩哨兵か。なんだ」
「ただいま、賊将にしては、いやしからぬ人品の者が」
「なに、敵中から」
「はっ。抜け出して来たものらしく、ひそかに、関元帥にお目にかかりたいといって来ましたが」
「ひとりか」
「はっ。ただ一騎で」
「ふうん……? ま、連れて来てみろ」
密々、この夜、彼をここへ訪ねて来たのは、呼延灼であった。
会うのは初めてだが、関勝もつとにその名は知っている。有名なる元、禁軍の一将軍だ。──禁軍の連環馬軍をひきいて遠征し、敗れて、ついに梁山泊の賊寨に投じ、こんども敵中にいることは分っていた。
「御用は?」
と、関勝の眼は冷たい。
「じつは……」と、呼延灼は、声をひそめ「待っていたのです。今日の日を」
「それは、おかしいじゃないですか。君は今や、賊将の一人でしょう。僕は朝廷の使軍の将だ。いますぐ君に縄を打って、都へ押送することだって出来る」
「いや、それがしとて、本心、賊に降伏していたわけじゃない。──今日、現に戦場であなたの急を救った者は、じつはこの私なのだ。──あのさい、林冲、史進、秦明などに囲まれて、御辺の身、危うしと見たので、突嗟に、退き鉦を鳴らさせたので……あとでは、さんざんに、宋江から怒られたが」
「ほ。さては、そんなわけだったのか」
「なお、疑わしく思われるかもしれんが、機会があったら、官軍へ投じて、帰順したいものと、ひそかに諜し合っている同志の者は少なくないのです。──林冲も秦明も、共に元は都出の軍人。……どうです元帥、彼らにその機会を与えてくれませんか」
要するに、もとこれ同根の誼み。つい、関勝は彼の口車に乗ったのである。だんだんにうちとけて、その夜は、呼延灼と共に、陣中鍋をつッつきあい、大いに飲んで、旧情を、いや偶然なる新情と邂逅とを、よろこびあった。
そして呼延灼のすすめるままに、翌晩、彼はめんみつな布陣を先にととのえおき、身は、単騎軽装となって、呼延灼を案内に、敵中深くへ忍んで行った。
「叱っ……」
と、延灼は、ほどよい地点で、関勝の駒を制した。
彼のいうところによれば。
このへんで、火合図する──
すると、元、青州の総司令をしていた黄信や、また帰順の腹のある林冲、秦明らも「待っていた!」とばかり、賊軍の内から裏切りを起す。
そこを、その機を、かねて、言いふくめておいた郝思文と宣賛の二軍が、敵の両わきから、一せいに、こぞッて出る。さすれば賊の陣は、夜討の不意と、内応の混乱とに、めちゃくちゃとなって、四分五裂するにちがいない。──宋江、呉用、の大物から以下の賊将どもまで、一網打尽とすることは、まさに今夜にあり──という計だった。
しかし、この戦法は、すこぶる妙にして、じつは大あて外れだった。
まさしく、内応のうごきは見えたが、宋江も呉用も、ここの陣中にはいず、一だん遠い彼方の小山の嶺に、紅火点々と、その在る所を見せている。
「しまった。申しわけありません。……這奴らは、何かさとって、襲われる寸前に、彼方へ退がったものとみえます」
延灼は、言って、詫びた。けれど、全然、功がなかったわけでもない。内応によって官軍は勝ったのだし、一陣地は奪取したのだ──そのうえ、内応の賊将、黄信、林冲、史進、秦明などは、挙げて彼の馬前へ来て、投降していた。
「あの山には」
と、関勝は、投降者を見廻しながら訊ねた。
「防備があるのか。かたい防寨でもきずいてあるのか」
「そんな物はありません。裸山で──」
と、延灼はさらに言った。
「あわてて、仮に逃げ退いただけのものです。ですから、四方へ逃げ散った賊兵が、まとまらないうちに、かしこを突けば、宋江を生け捕ることは、明け方までに遂げ得られましょう」
そこで、再度の潜行に出た。もちろん、宣賛、郝思文のふた手も連れて。──ところが、すでにこれが宋江の術に落ちていたものだった。──関勝は途中でとつぜん馬もろとも陥穽にころげこんだ。同時に、周囲にいた黄信、史進、秦明らが、たちどころに、彼の上へおいかぶさり、そのよろいも甲も剥いで、捕縛してしまった。
郝思文もまた、べつな所で、山兵の埋伏に出会って捕われ、例の、醜郡馬宣賛も、翌朝、湖畔に追いつめられて、いけどられた。その湖畔の官軍本営といえば、すでに迂回路をとって出た撲天鵰の李応が、先にもう占領していた。
そして、檻車のうちに放り込まれていた、味方の阮小七、張横の二名も、無事に救い出されている。
かくて、一葦帯水の梁山泊へ向って、その朝、ただちに、
の合図がなされた。水は歓声に沸き、留守の山は、歓呼に震ッた。
金沙灘のあいだを、一日じゅう、大船や小舟の群れが行き来した。官軍の陣跡からめしあげた軍器糧米の量から馬匹などでもたいへんな数量である。
すでに山兵のあらましを、呉用そのほかの頭分も「──まずは」と、無事な泊内を見て帰っていた。宋江は、忠義堂にいて、さっそく、関勝とほか二人の虜将を目の前に曳いて来させた。
「これは、さだめし、ご窮屈でしたろうに」
と、宋江はすぐ、自身の手で、三名の縄を解いてやり、とくに関勝の腕を扶けて、中央の椅子へかけさせた。
関勝は、うろたえた。
「なんでまた、わたくしを」
「いやいや、やむをえずとは申せ、流離亡命の宋江の如きが、錦繍の帝旗にてむかい、あなたへも、さんざんな無礼、どうか平におゆるしを」
そこへ、呼延灼も来て、あやまった。
「関元帥。憎いやつと、お恨みでしょう。ですが、敬愛するあなたのため、また、宋統領の命で、やむなく、おだまし申したこと。どうか悪しからず水に流してください」
関勝はしかし、それに答えず、暗然たるままで、同憂の宣賛と郝思文を見て言った。
「君たち二人には、じつに気のどくなことをした。僕さえいないものだったら、二人とも、この難には会わなかったろうに。……が、かんべんしてくれ給え。こうなったからには」
「いや、あなたのせいではない。朝廷のためだ。世のためだ。なんとも思っているものか」
「では、覚悟をしてくれるか」
「百も覚悟はしているさ」
「ありがたい」と、関勝は身をただして宋江へ、言い払った。
「いまさら、よけいな手間暇はいるまい。わが友はみなかくの如しだ。……さ、はやく首を刎ねてくれ」
「斬れません。生はあなた方のもの、宋江の自由にはできない」
「なんの、こっちは、囚われの身。どうにだって出来ようが。僕も関菩薩の子孫だ。恥をかかせてくれるな」
「なぜ、生きてその言を、身にお示しになろうとはしないのか。関菩薩が哭いていましょう。世のみだれ、官の腐敗、民の困窮、目をおおいたいばかりではありませんか。私たちはそれに義憤を感じる者です。ここの天星廟にちかいをたてて天に代って道を行なおうとしている者です。関将軍、またご両所、篤と、生きても長からぬ漢の一生をお考えください。いまとはいいません。──それなる呼延灼、黄信、彭玘、林冲らとも、よくおはなしあってみてください。その上で、わたくしどもにお力をかそうというお心になってくれたら、泊中一同は、よろこんであなた方を迎え、義の友として、今生を共にするに、やぶさかな者ではありません」
関勝は、いつか、その首を深くたれていた。郝思文と宣賛も、また、沁々と聞いていた。
この三名が、やがて、梁山泊のどんなものかを知って、翻然と、仲間入りを約したのは、いうまでもあるまい。いや、この三者ばかりでなく、官軍の虜兵幾千という者もまた、これに近い寛大な処置に浴した。
老兵やら、年若い少年兵には、かねをくれて、それぞれの故郷へ返してやり、望む者だけを、泊兵の内に入れた。──さらには、薛永、時遷などを、ひそかに東京へ派して、蒲東にある関勝の家族たちをも、ひそかに、梁山泊へひきとる手配なども、忘れられてはいなかった。
こうして、いつか冬も、深くなっていた。
それにつけ、宋江は、いまなお、大牢のうちに幽囚されているであろう盧員外と石秀の身を思いやって、北京の空のみが、たえず胸のいたみであった。
「ま、そうクヨクヨなさらないで」
と、呉用はなぐさめ、
「──今日、関勝の方から申し出ました。一命をたすけられたうえ、何もせず、暖衣飽食にあまえているのは心苦しい。宣賛、郝思文と共に、先鋒をうけたまわって、再度の北京攻めには、ぜひ一ト働きいたしたい、と。ひとつ、それを先手に、春を待たず、出勢しようではありませんか」
と、言った。
「この雪に」
「そうです。雪中の行軍は、困難極まる。けれど、それだけに、北京府では、油断しているだろうとも思われる」
その日も、霏々たる雪だった。水も芦も遠い山も、雪ならぬ所はなく、雪の声と、鴻の啼き渡るほか、灰色の空には、毎日、何の変化もなかった。
はれもの医者の安先生、往診あって帰りはない事
北京の空の下では、そのご、はかばかしい戦果もなかった。
毎日が雪である。なんといっても、厳冬の攻撃はムリだったのだ。守るに利だ、攻めるには困難が多い。──敵を打つには、誘き出して、これを撃つしかない。
そのうえ、城外三十里の野に、朝夕、吹きさらされている露営の凌ぎも容易でなく、宋江はこのところ、風邪ごこちだった。食がすすまず、微熱がある。
──で、ついにその日は司令部の幕舎のうちで横になってしまった。謹厳な彼として、陣中、昼の臥床に仆れるなどは、けだし、よくよくであったらしい。
すると、幕門の衛兵長、張順が入って来て、しきりに彼をよびおこしていた。
「総統総統。ただいま、軍師の呉用大人と、先ごろ梁山泊へ入った関羽の子孫の関勝とが、二人づれで、戦場のご報告にとこれへ見えましたが」
聞くと、宋江は刎ね起きて、すぐさま軍衣の容をただし「──これへ」と、つねのごとく、呉用と関勝の二人に会った。
関勝は、まず詫びた。自分がすすめた出兵なのに、今日までなんらの功も挙げえないでと、恥じるかのように言ったのだ。──すると、呉用はそのそばから、
「いやいや、宋先生、さすがは関勝でした、賞めてやっていただきたい。じつは昨夜来の戦いで、敵を南門外におびき出し、関勝は、敵の急先鋒索超を手捕りにしたばかりでなく、索超を説いて、われらの仲間へ入ることを承知させた。──功がないどころか、見上げたものです。やはり関羽の末裔関勝だけのものはある」
と、報告した。
「それは、すばらしい」
宋江もよろこんで、共に、彼の軍功を賞めたたえたが、どうも調子がへんである。唇の渇きや皮膚の血色も常ではない。呉用は目ざとく、すぐ訊ねた。
「宋先生。どこかお加減が悪いのではありませんか」
「いや、たいしたことはないでしょう。ただここ七日ほど微熱を覚えて、どうも食がすすみませんが」
「そりゃいかん。大熱にきまっている。眼底が赤い」
「眼が赤いのは、じつは今、午睡をとっていたからです。ああそれで思い出した。張順に起されたとき、私は夢を見ていたようだ……」
「どんな夢を?」
「死んだ晁蓋天王が、枕元に立って、ひどく心配そうな顔をしているのです。そして梁山泊の方を指さして、しきりに、帰れ帰れとでも言っているようでしたが」
「そこを呼び起されたわけですか」
「ええ。醒めてみると、ぐッしょり汗をかいていました。妙な夢をみるものですな」
「はアて。ただの夢とは思われん。総統、あなたは大事なお体なのだ。つまらん我慢はしないでください」
「いや、夢は、五臓の疲れ。おそらく、風邪でしょう。ご心配はいりません」
宋江はあくまで軽く言っていた。しかしその晩、降参の索超を加えて一酌汲もうと約していたのに、彼はその席へすら出ず、もうたいへんな苦しみ方だ。人々が驚いて体をみると、なんと、背なかの一部に、大きなはれものができていた。癰だったのだ。癰といえば、命とりである。呉用は愕然として言った。
「夢はまぎれもなく正夢だ。梁山泊へ帰れとのお告げなのにちがいない。ここにいては宋先生の治療もかなわず、全軍もまた危殆に陥ちよう。すわ大事、すわ大事」
俄に全軍、引揚げと急にきまった。けれど、梁山泊にも名医はいない。医師はどうするか? 評議となった。
すると、浪裏白跳の張順が、その役目を買って出た。──自分の郷里、潯陽江のちかい所に、江南随一というはれもの医者が住んでいる。そいつを捜して、梁山泊へ連れて行きましょう、というのだった。
「おお、そんな名医がいるならぜひ行ってくれい。一日も早くだ。手違いのないように」
と、呉用は彼に、かねで百金、路銀三十両をあずけて、その場から西へ立たせた。──そして即日、戦野の幕舎千旗を払って退却に移ったが、北京府の城内では、この変を知っても、たびたび奇計に懲りていたので、
「またも騙しの手か?」
と、狐疑したままで、ついつい、追撃にも出ずにしまった。
一方は、旅を急ぐ一人の男、張順。
幾十日の風雪を凌いで、やっと揚子江のほとりに出ていた。この日も雪は梨の花と散りまがい、見れば、江岸の枯れ芦の叢から、一ト筋の夕煙が揚っている。
「おウウい、舟の衆。渡船じゃねえのか」
「そうだよう。渡船じゃねえよーっ」
「いくらでも駄賃はハズむぜ。潯陽江まで渡してくんねえ。恩に着るよ」
「かねとなら相談にのッてもいいがね。うんと出すかい」
「出すとも、いうだけ出そうじゃねえか」
「よしきた! 乗りねえ」
苫をかぶせた漁船だった。船頭は二人いる。
案外な親切者で、張順の濡れた着物を火に焙ッてくれたり、寒いだろうといって、雑炊鍋の物を馳走してくれ、また自分の小夜着と木枕を出して、
「潯陽江じゃあ、だいぶ間がある。ま、客人、一ト寝み、横になってござらッしゃい」
と、すすめるなど、張順もつい、旅のつかれと、人の情けに温もられて、いつか波上の身をも忘れていた。
──ところが、目がさめてみたときは、もう遅い。体は荒縄でしばられていた。そして、船頭の一人は、自分の肌から抜き取ッた胴巻を口に咥え、手に薄刃のだんびらをひっさげていた。
「やっ? ち、畜生。おれに毒入りの雑炊を食わせやがったんだな」
「あたりめえよ」と、もうひとりの若い者は、張順の体を船ベリに抑えつけて「──縁もゆかりもねえ野郎に、なんで、得もねえ親切気など出すものかよ。……だが兄哥、こんな薄野呂にしちゃあ、存外な大金を持ッてたものだな」
「やいやい。よけいなことはいわねえでもいい。このだんびらで、俺がそいつの素ッ首を叩ッ斬るから、てめえも、すこし船ベリの際へ出て、そいつの背中をぐッと前へ突ン出させろ」
「よしきた! こうか!」
「そうだっ」
言ったと思うと、船頭のだんびらは、意外にも、仲間の男を、一颯のもとに斬り殺し、そしてまたすぐ、張順の頭上へ、次のやいばを振りかぶって来た。張順は体がきかない。振り下ろしてきた相手のものをかわすやいな、相手の腰の辺りを足で蹴とばして、身は、揚子江の流れへむかって飛びこんでいた。
元々、張順は、ここの生れだ。揚子江の水で産ぶ湯をつかい、大江の河童といわれたくらいな者で、水の中に浸ったままでも二タ晩や三晩は平気な男なのである。
縛られてはいたが、流れにまかせながら縄目を咬み切り、やがて南の岸へ、鮫のごとく、波を切って、泳ぎついていた。
「ううッ。陸のほうが、よっぽど寒いや」
張順は、火を見つけた。馳けだして行って見ると、一軒の田舎酒屋だ。
「わっ、助かった。火にあたらせてくれ。凍え死ぬ」
「おや、お客人、どうなすった?」
「じいさんよ。えれえ目にあっちまったよ。船の上で、毒を噛まされ、路銀持ち物、みんな巻き上げられてこの裸さ」
「おまえさんは、山東のお人らしいが」
「ことばつきで分るのかね。元は、この地方の生れなんだが」
「山東から生れ故郷へ帰って来なすったというわけかの」
「ま。そんなわけだが、じつは建康府に、安道全ていう、はれもの医者がいるだろう。……あの先生をお迎えに来たんだよ」
「へえ、どちらから」
「だからよ、山東からだ」
「あっ、そうですかい」と、酒屋のじいさんは、独りで、なにか呑み込み顔して「──そうですかい、それでわかりました。はい」
「何がよ、じいさん」
「おかくしなさるには及びません。あなたは浪裏白跳の張順さんでございましょう」
「げっ。どうして分る?」
「梁山泊へ突ッ走りなすったと、一ト頃はもうえらい評判。それにまた、この寒中、揚子江を泳ぎ渡って来るなんてえお人は、そうザラにあるものじゃございませぬ」
「隠すまい。その通りだ。じつは山寨の大親分さま宋公明というお方が、癰をおわずらいなすッたんで、はれもの医者の安道全を迎えに来たのよ。ところが、船強盗にうッかり嵌められ、路銀から医者に渡すかねまですっかり奪られてしまい、いや、俺としたことが、途方に暮れているところなのさ」
「おやおや、そんなことでしたら、張順さん、ご心配にはおよびますまい。ひとつ伜に相談してごらんなされ」
「じいさんの、お伜かね」
「へい。兄弟中での、六番目のやつで、名は王定六、アダ名を活閻婆といわれております。こいつは毎日、酒桶を担って、揚子江の船着きという船着きを売り歩いておりますから、およそ船頭仲間のことなら何でも耳にしておりますでな」
「そいつは、ありがたい。さっそくひき会わせてもらおうか」
その晩は、ここに泊まり、あくる日、その活閻婆の王定六に会った。そして定六の話によれば、張順をだました船頭は、名うてな悪者、截江鬼の張旺にちがいあるまいとのことだった。
「だがね、もう一人いたよ。若いのが」
「その若い方は、孫五ッてえ野郎でしょう」
「けれど、その截江鬼が、どうして、仲間の孫五を殺したのだろう?」
「知れたことじゃありませんか。だんなの胴巻を奪って、中を見ると、思いがけない大金だ。そこで野郎、急に孫五と山分けするのが惜しくなってきたんでさ」
「なるほど、ひでえ悪党だな」
「きっと、野郎はあっしが見つけ出しますよ。それよりは旦那、急ぎの、御用の方が大切だ。だんなは少しもはやく安道全をお捜しなさい。こいつもまた、医術はうまいが、呑ン兵で助平で暢気坊ときているフラフラ医者。いつも家にいるとは限りませんでね」
王定六は、自分の着物から十両の銀子まで貸して、張順を、一日も早くと、建康府へ立たせてやった。それに力をえて、彼が、城市では槐橋のそばと聞いた、安道全の宅まで来てみると、折もよく、ちょうど店の一ト間に薬研をすえて薬刻みをしている彼の姿が見えた。
「こんにちは。……どうも先生、お久しぶりで」
「はてね。おまえさんは?」
「お忘れかもしれませんが、たった一ぺん、おふくろの腫物を癒していただいたことがございましてね。はい。潯陽江の張順と申すんで」
「げッ、ではあの、梁山泊へ入ッた?」
「大きな声をしなさんな。じつは、宋公明さまが云々なわけで、命旦夕にせまっている。あっしと一しょに、すぐ行っておくんなさい」
「そ、そいつはムリだ」
「無理を承知のお願いです。この通りに」
「でも、じつは、わしの家内も病気でな」
「ご家内は、まさか、命旦夕ではございますまい。帰ったあとで、ゆっくりと、女房孝行して上げればいいじゃございませんか」
「じゃというて、山東の遠くでは」
「おいやですかい。そうですか。ぜひもございません。では仕方がねえ!」
「あっ、な、なにをなさるんで」
「ほッといてくれ。俺ア、この店をかりて、身の処置をつけざアならねえ。俺がここで自害したら、役人が来て、梁山泊の張順だ、さては安道全も一味の仲間かと、おまえさんにも嫌疑がかかるかもしれねえが」
「じょ、じょうだんではない。役所沙汰などはふるふるだよ。金看板もだいなしになってしまう」
「いいや、俺もこのままでは山東へ帰れねえ。気のどくだがおまえさんを抱き込んでここで死ぬ。ここは仲間の隠れ家だと言って死ぬ。観念しろよ、安道全」
「待ってくれ、行くよ、行くよ。覚悟をきめて」
「ええ、では承知してくれるか」
「宋公明といえば、天下の義人。ほかならぬお人のことだ。仕方もあるまい。だがの、今夜一ト晩ぐらいは、待ってくれてもいいだろう」
「そのまに、どろん……か」
「とんでもない。じゃあ、一しょに来なさるがいい」
家内の病気とは嘘らしい。元々この安道全は、医者の女好きという方で、建康府の花街には、大熱々となっている妓がある。
妓は、李巧奴といって、一流の歌妓ではないが、気転がよく、男惚れのする肌合いで、いつも濡れているような睫毛は濃くて翳が深い。
「……いいわ、もう。知らないわ、わたし」
と、妓は拗ねる。
絃の音に更けた新道の路次の一軒。夕方から飲みはじめて、すでに安道全先生は、海鼠のようになっていた。
ここは李巧奴の妓家で、通い馴れてもいるらしい。口説、いろいろあって、先生はひそかにうれしくもあり、持て余し気味でもあった。
「おい、巧奴、どうしたんだよ、飲まないのか」
「知りませんよ。どうせわたしなんか、あんたにとって、何でもない女なんだから」
「なにをいうのじゃ。山東といったって、一ト月か、ふた月の旅。すぐ帰って来るからと言ってるんじゃないか。さ……きげんを直して、きげんよく立たせてくれ。心にもない女なら、なにもわざわざ別れになど来やせんよ」
「じゃあ、山東行きなんか、お止めになったらどうなの」
「それができるくらいなら、何も苦労は」
「……おや、まあ」
と、巧奴はこのとき、座敷のすみの一卓に、独りぼっちで飲んでいた男の方へ、その流し目をジロとやって、
「忘れていた。そこにはお差合いの人がいたのね。もし、お連れさんえ」
「なんだい」と、張順は空嘯ぶいて、ニヤニヤ笑う。
「ご親切ね、あなたは。人の心を知らないで、うちの先生を、一ト月もふた月も、遠いところへ、ご案内して下さるなんて」
「そうお礼ではいたみ入りますよ」
「ふン。真にうけてるよ、この人は」
「どうか、ゆっくりと、今夜一ト晩は、噛みつくなりとも舐めるなりとも、痴話口説のかぎりをおやりなさるがよい」
「よけいなお世話というもんよ。……そんな粋に気がつくなら、おまえさんこそ、さっさと消えて行ったらどう?」
「なるほど、そいつア一本参った。……では安道全先生、また明朝」
と、眼で念を押しながらひきさがった。男として胸くその悪さといったらないが、ここが我慢のしどころと、婆やにまで、小馬鹿にされされ、火の気もない小部屋にもぐって、寝込んだのだった。
すると、ま夜中すぎである。いちど、しいんと寝しずまったはずなのに、どこかで人のささやく声がする。そして中庭越しの向うの部屋には明りが灯いた。
「……はてな?」
油断のできる体ではない。張順は中庭へ潜んで窺ッていた。情人でもないらしいが、酒肴が運ばれてゆく。客はつまりこわもての客とみえ、婆やもなかなか気をつかっている。
「あら、いやだ。張旺さんたら、妬いてるんだね。いいえ、巧奴姐さんは、すぐ来ますからさ」
「だれだい。奥へ来ている旦つくッてえな、巧奴の情人か」
「とんでもない、ほれあの……槐橋のそばの、やぶ医者ですよ。なんでもあしたから二た月ほど、旅に立つとかいって」
「ああ、安道全か。あいつは小金を持ってるからな。だが婆さん、この截江鬼の張旺だって、いつもそうそう、素寒貧じゃねえんだぜ。巧奴にも言っといてくれ。これだけあったら当分は通いづめでも費いきれめえッて」
「おやまあ、たいしたお金を……」
「叱ッ。大きな声を出すない。それよりは、はやく巧奴を呼んで来な。あいつも、眼を細くするにちげえねえ」
婆やがいそいそ出て行くと、入れ代りに、しどけない女の影がちらと部屋へ入って行った。張順は引っ返して、厨所から料理庖丁を手にかくして来た。江上稼ぎの悪船頭、截江鬼をここで見てはもう見のがしておけないという気になっていたのである。
だが、彼が部屋の扉を開けたとたんに、灯は消されて、一方の窓から、当の張旺はすばやく外へ逃げてしまった。「待てッ──」と、追わんとするのをまた、女が、必死にしがみついて来たのである。弾みで、張順はつい、殺す気もなく、女を刺し殺してしまった。──こいつはまずい! と一瞬、悔いたがすでに追いつかない。
「婆や、ばあや。……巧奴、巧奴」
と、奥ではこの物音に目をさまして、安道全がうろうろしていた。腰でも抜かしたか婆やの声も返辞もない。やがて聞えたのは張順の声だった。
「先生、お目ざめで?」
「何だい? 今の物音は」
「その蝋燭を持って、先生、あっしの後からついておいでなさいよ」
「どこへ。なにしに」
「ひと目、巧奴に会って、きれいに、お諦めをつけて行った方がいいでしょう」
「えっ。巧奴が、どこにいるって?」
何気なく尾いて行ってみると、そこには男の飲みちらした卓があり二つ枕が帳台に見える。
いや安先生が、仰天したのは、当然、女の血まみれな死体であったが、もっと驚いたのは、張順が書いたらしい部屋の壁に見えた一行の血文字であった。
〝コノ淫婦ヲ殺シテ去ル者、槐橋ノ安道全也〟
元宵節の千万燈、一時にこの世の修羅を現出すること
ここは江畔の一軒。例の田舎酒屋のじいさんと、せがれの王定六とが、いまし方、店を開けたばかりのところだった。
「お早う。先日は、どうも、何かと」
「おや張順さんか。オ、首尾よく、安道全先生のお供をして来なすったね」
聞くと、張順の後ろにいた旅姿の安先生は、首を振り振り、痛嘆した。
「ああ、分らんものだ。わしも多年病人の脈は診てきたが、自分の運命が一夜にこう変ろうとは、予見も出来なんだわえ」
「先生、どうして、そんなに悄気るんですえ」
「どうの、こうのッて、おまえたち。これが悄気ずにいられるかい。わしの可愛がッていた妓を亡くすし、おまけに、その女を殺した下手人みたいにされてしもうたんや。もう二度と故郷へも帰れはせん」
「いいじゃありませんか」と、王定六はヘラヘラ笑った。「槐橋先生といえば、はれもの患者も癒しなすったが、ずいぶん、女遊びや極道もやり尽しなすったはず。ここらが年貢の納めどきですぜ。やがてわたしたちも店をたたんで梁山泊へ行くつもりですから、以後よろしくお頼み申しますよ」
「なに、おまえらも、梁山泊へ」
「へい、先日、張順さんにもお願いしてあるんです。そうそう言い遅れたが、張順さん、ついさっき、截江鬼の張旺のやつが、ここをあたふた通って行ったぜ」
「ふウむ、野郎、通って行ったか」
「一ト足ちがい、まったく惜しいことをした」
「いや、俺は大事な使いの途中、けちな仕返しには関ッていられねえよ」
「でも、あんな悪党を、みすみす逃がすのは、天道さまのおはからいに反くから、オイ截江鬼、今日は酒の仕入れに、北岸まで行きてえんだ、おめえの船で渡してくれろと、巧くだまして、彼方の渡口に野郎を待たせておきましたよ」
「そうか。そいつアほんとの渡りに舟。じゃあすぐ出かけよう」
もちろん、張順も安先生も、頭巾や笠で面を深く隠したから、一見、誰とも分らない。これを店のお客と偽って、王定六とじいさんとは、やがて待っていた截江鬼の船にのりこんだ。
ほどなく、大江のまん中へかかる。張順、帆綱の加減を取っている截江鬼のそばへ来て、着ていた蓑笠をかなぐり捨てた。
「張旺っ。ちょうど、この辺だったな。いつかの晩、てめえが俺に、うまい雑炊を食わせてくれたのは!」
「あっ、うぬは」
「覚えていたか、俺の顔を」
野太刀の抜打ちに斬り下げて、張順はその死骸を、ごみのように江の流れへ蹴おとした。
北岸へ着くと、王定六の親子は、いちどその船で元の住居へ返り、店や世帯の始末をすまして、後から追いつきますと言ってすぐ去った。
「待ってるよ、じいさん、王定六。おめえさんたちは恩人だ。きっと、梁山泊でみんなにひきあわせて、こんどのお礼はするからな」
張順は、手を振って別れ、あとは安先生とふたりきりで、道を急いだ。が、さて急いでも急いでも、山東までは前途遥かだ。
ところが、梁山泊の方では、宋江の病状がいよいよ重く、それも昼夜の苦しみなので、ついに神行太保の戴宗を、迎えに出したものであろう。──二人はこの戴宗と途中で出会った。そこで安先生ひとりだけは、戴宗の飛行の術に抱えられ、先に、山東の空へと翔けた。
水滸の泊では、人々、わんわんという出迎えである。それッとばかり、すぐ宋江のいる一閣の病室へ彼を通す。色街では海鼠のような安先生も、ひとたび重病人の生命に直面するや、さすが別人のように、どこか名医の風がある。
「なるほど、あぶないところだったな。しかし、手おくれではない」
診断がすむと安先生、委せておいてくれといわぬばかりな態である。その自信ぶりを見て一同ホッと安堵の胸をなでおろした。
吸出し膏ともいうべき物か。まっ黒な練薬の貼布。爪の先みたいな医刀による手術、灸治の法、強壮剤らしい煎薬などで、宋江の容体は、みるみる快くなり、二十日もたつと、元の体になりかけていた。
この間に、張順も、王定六とじいさんを連れて帰山し、泊中は、一時に雪も氷も解けてきた観がある。
事実、冬もすでに終りに近い。かつは体も本復してみると、宋江はまた、北京の空に思いを馳せ、
「──ああ、獄中の盧俊儀、石秀は如何にせしぞ。二人の身こそ案じられる」
と、ついに呉用に胸を語って、自身、再度の出陣を言いはじめた。
「とんでもない、まだ瘡口もふさがったばかり、もし再発でもしたら」
と安道全が、たって止めれば、呉用もまた、かたく止めた。
「こんどはひとつ、ご養生かたがた、大寨の留守を願うといたしましょう。獄中の者の生命は、お案じには及びません。関勝の投降いらい、開封東京の蔡大臣は、北京府へたいして、とかく弱腰な指示をとっているようです。おそらく、梁中書もまた、獄の二名を、よう殺しきれますまい。──機会があれば、それを交渉の囮に使うつもりでいましょうから」
それから半月ほど後だった。
「冬が去り、春のはじめ。ここに一案が立ちました」
呉用が、宋江へ、その秘を語った。
「──春となれば、元宵節もまぢかです。北京府では毎年、年にいちどの大賑わい。その夜を期して、城市の内外から、一挙に事を果たそうという計ですが」
さらに、ことこまかな計略の内容を聞き、宋江は手を打ってよろこんだ。規模の大、敵の意表外を突くの策など、すべて兵法の、天の時、地の利、人の妙用などに、かなっている。
ここで所は北京府の公館、管領庁の一殿に移る──。
長官の梁中書は、兵馬総指揮の天王李成、大刀聞達、そのほか、南北の両奉行、以下の役人らを、ずらと目の前において。
「そうかなあ。わしは禁止がよいと思ったが、聞達、李成はじめ、多くの意見は、その逆か」
「はいっ……」と、李成が一同を代表していう。「ご高見にも、一理はありますが、なにせい、昨年から人心は極度な不安に落ち、政府の威信をすら疑っております。……そんなばあい、もしここで、彼らが一年の楽しみとしておる元宵節の行事までを、禁止すると発令したら、またも不景気の様相を一倍にし、怨嗟、蔭口、果ては暴動にもおよばぬ限りもありません」
「厄介なもんだなあ、じつに人民というやつは」
「ですが、その人心も、政治の持って行き方では、案外、他愛のない一面もあるものです。思うに、むしろ今年などは、前年よりも、元宵節は盛んにすべし、とご布告あってしかるべきかと存じられまする」
「なるほど。それもいいな」
「すなわち、祝祭は陰暦一月十三日から十七日までの、五日間となし、ご城内でも、高楼に百千の燈籠をかざり、門という門は、これを花と緑でうずめ、閣下もまた、吉例の〝春祭りの行列〟へおくり出しあるなど、人民と共に楽しむ事実をお示しあらねばなりません」
「大きに、そうだった。北京市は河北第一の大都会。四方の県や州へたいしても、威信を失わぬことが肝要だったな。よろしい。元宵節は例年以上にも盛大なる規模のもとにこれを行え」
ここに、はやくもその日は、あと幾日と、せまっていた。
わけてことしは、大々的な元宵節になる見込みということが、四隣の州や県にも響いていたので、各地方の商人は、はや、ぞくぞくと、北京一都に雲集してくる。
旅館、小旅籠、素人宿。これもまたすごい前景気で、およそ五日間は、すでに予約ずみとなり、近県からの見物目あても、田舎土産をさげたりして、親類縁者、あらゆる手づるの家へもう泊りこんでいる。
こうして、いよいよ、当日となれば、つねの人口の倍にもふくれ上がったかと見える北京中の街は、万戸、花燈籠を軒にかざりたて、わき立つ歌や、酒の香やら、まさに歓楽の坩堝と化す。
たとえば、
富豪の家などでは、表へ向って、五色の屏風をたてならべ、書画の名品や古玩骨董の類を展観してみせたり、あるいは花器に花を盛って、茶を饗し、または〝飲み放題〟の振舞い酒をするなどもあって、この日に限り、日頃のケチンボといえど、よろこんで散財する風習がある。
また各町内ごとに踊り輪をつくって、これがジャンジャンドンドン、夜も昼も音頭と囃子で練りあるく。子供らは花火に狂い、わけて投げ爆竹の音は絶えまもない。
すべて祭りに暮れ祭りに明ける五日間なので、盛り場の人出はいうまでもなく、州橋通りの賑わいなどは言語に絶し、社火行列(祝いの仮装行列)だの、鰲山(燈籠で飾った花車)の鼓楽だの、いやもう、形容のしようもない。銅仏寺でさえ山門をひらいて、百千の花燈をとぼし、河北一のお茶屋と評判な翠雲楼ときては、とくに商売柄、その趣向もさまざまであり、花街の美嬌と絃歌をあげて、夜は空を焦がし、昼は昼で彩雲も停めるばかり……。
しかもこれらは城下だけのことで、北京城の城には、五色の祝旗が立ちならび、大名府、管領庁楼以下の官衙にも、例外なしに、緑門が建ち、花傘が飾られ、そして辻々には、騎馬の廂官(左右・南北の奉行役人)が辻警戒にあたり、ひどい酔ッぱらいは拉して行ったり、押し合う群集の交通整理などにもあたっている。
こうして、すでに、まつりも五日目。
遊び疲れ、飲みくたびれ、人も街も爛れ気味の黄昏れとなっていたが、なおまだ、
「ほれ! 今夜かぎりだ。あしたは知れぬぞ」
「踊れよ、踊れ」
「踊らにゃ、損だぞ」
「踊る阿呆に、見る阿呆」
と、熱に憑かれた男女の群れが、社火行列の仮装とも一つになって、北京全市の辻々に狂舞の袖と輪を描き、いよいよ、爆発的な本能図絵に地を染めていた。
すると、踊りの輪をツイと抜け出した若衆姿のひとりが、道ばたで籠を仕舞いかけていた物売り男の背を一つポンと叩いて耳もとへささやいた。
「青面獣。そろそろ、行くかね」
「あ。花栄か」
「叱ッ。廂官がこっちへ来た」
ふたりは、籠を抱えて、飛燕のごとく、たちまち、人波の中へ消え込んで行った。
すると、ふいに、
「御用だ」
と、そのうしろへ、追ッかけて来た者がある。
「ええ、びっくりした。蚤の時遷じゃねえか」
「ははは。楊雄もあすこにいるぜ」
「みんな俺について来い」
と花栄は言って、また先へ走り出した。
時を一つにして、銅仏寺の前では、雲水姿の花和尚魯智深と、行者武松が、人待ち顔にたたずんでいた。
そこへ、乞食すがたに身を窶した劉唐だの、飴売りの王矮虎だの、また、小粋な茶屋女に化けた一丈青と、顧のおばさん。さらにお上りさんに変装した鄒淵、鄒潤。ほか十人以上もの人影がいつのまにか集まって、これもほどなく、夕闇まぎれ、どこへともなく消え去った──。
ところで、これはやや宵の口に入ってからのこと。
おなじく梁山泊の一員で、元来、貴人の風格のある例の小旋風柴進は、衣冠帯剣の身なりで、九紋龍史進と浪子燕青のふたりを供人に仕立て、大名府の小路の角に、さっきから、かなり長いことたたずんでいた。
折ふし、この夕、華やかに扮装った鉄騎五百人と軍楽隊との〝元宵の行列〟にまもられて城中の〝初春の宴〟から退がってきた梁中書の通過を、男女の見物人とともに見送っていたものらしいが、やがて群集が崩れ散ると、早足に、管領庁の門を、颯爽として入って行った。
「…………」
はっと、門衛はそれに敬礼した。
怪しむにも怪しみえない大官と見えたものにちがいない。
だが、庁内もずんと奥の、大牢門と呼ぶ獄界の境まで来ると、ここではふとスレちがった男が、
「おやっ?」
と、巨眼を光らして、振返った。
柴進も、ぎょっとして立ちどまる。が、それは死刑囚あずかりの押牢使蔡福だった。──かねてこの蔡福、蔡慶の兄弟には、その私宅で柴進から莫大な砂金が賄賂されていたことである。──蔡福はジッと相手を睨まえてはいたが、
「…………」
何もいわない。
いや、黙って行ってしまったばかりでなく、足もとへ何かチンと落として去った。
拾い取ってみると、それは大牢の鍵だったのである。「よし! 事すでに成る」と、柴進はよろこんだ。そして燕青、史進をひきつれて、死刑囚ばかりのいる大牢長屋へ馳けこんだ。
「あっ待てッ。通るのは、何者だっ」
「蔡福の弟。蔡慶か」
「いかにも一枝花の蔡慶だが」
「わしは梁山泊の柴進だ」
「げっ、柴進? ……。かねて兄貴から、名はきいていたが」
「ならば、委細のいきさつも聞いていよう。また、これにいる浪子燕青も顔見知りのはず。すぐ大牢を開けて、獄中の盧俊儀と石秀のふたりをわれらに渡してくれい」
「そいつはだめだ。鍵はいつも兄貴が肌身を離したこともねえ」
「いや、鍵はここにある」
「えっ? オオほんとだ。どうしてこれを」
「蔡福はもう梁山泊入りと覚悟をきめ、今頃は家に帰って、家財家族の始末をしているにちがいない。君もすぐ家へ帰り給え。そして、兄と共に身支度を急げ。まもなく、北京全市は炎の海と修羅になるぞ」
いかに柴進が言っても、ことばだけでは、蔡慶には信じられなかったが、しかし、じつにこの時といっていい。夜空にあたって、奇怪な火の粉と、魔の雲に似た黒煙が見えだしていた。
城楼からの出火だった。按ずるに、火の原因は、昼、初春の宴に、たくさんな花籃が持ち込まれており、上には、蝶花の祭り簪がたくさん挿してあったが、籃の底には、硫黄、焔硝末、火薬玉などが、しこたま潜めてあったのではあるまいか。
そして、これを繞ッて、余興を見せたのは、掀雲社(遊芸人のクラブ)の連中だったが、中には地方芸人も交じっており、たとえば、解珍、解宝、鉄叫子の楽和といったような人物が、そのうちに紛れ込んでいなかったとは限らない。
かつは、方術師の公孫勝がいるし、火薬の智識にかけては凌振もいる。それに、蚤の時遷も、得意の忍びを用いて、あれから後、城の天主へ忍び入っていたかもしれない。
いずれにせよ、こんどの元宵節を機して、梁山泊の輩が、その一芸一能と変幻出没な化身のもとに、上下、あらゆる面の人中へ浸々と紛れ入っていたには相違なく、北京城頭の三層楼にあがった炎は、その目的行動の合図をなす第一火だったものであろう。
これを望み見るや、城外の闇の遠くにあって、鳴りをひそめていた梁山泊軍は一せいに、鼓を打ち、声を合せて、野を馳け出した。
第一隊、豹子頭の林冲。馬麟。
第二、鄧飛。孫立。
第三、大刀の関勝。宣賛。郝思文。
以下、第八隊までには──秦明、欧鵬、黄信、燕順、雷横、施恩、穆弘、鄭天寿、黒旋風の李逵──。上には、軍師呉用の左右に、裴宣、呼延灼、韓滔、彭玘らが付きしたがい、
「無辜の庶民は殺すな」
「放火はつつしめ」
「一隊はすぐ、盧俊儀の家へ向って、淫婦、姦夫を捕り逃がすまいぞ」
「ほかは、梁中書」
「また一手は大牢の獄へ」
と、呼び交わしながら、たちまち南大門を突破し、さらに東門西門を打ち破る鬨の声も一つに、すべて、五千余人の歩騎兵が、どっと、その夜の六街三市へ洪水の逆巻くかと見えるばかりに流れ入った。
万戸の燈籠は一時に消え、歌舞の絃歌は、阿鼻の叫や悲鳴に変った。逃げまどう乙女、母を呼ぶ子など、目もあてられず、炎は路を照らして赤く、その中を、疾駆、馬上に人を抱えて馳け去った二騎の影と、それを守護して行く十数騎とが、あたかも、天から降りて来た十二神将の像のように見えた。
それこそ、後に思い合せれば。
盧俊儀をかかえた浪子燕青と石秀を助け出してきた柴進、史進らであったらしい。
盧俊儀のかつての店舗と住居の一廓は、あれよというまもなくぶち壊され、番頭の李固と、盧の妻の賈氏は、逃げも隠れもできないうちに、どこへとも拉致されて行った。──これを見ていた近所界隈の住民は、身の恐ろしさも忘れたように、わっと快哉の声をその人旋風の行方へ送っていたという。
ここにまた、九死に一生を得たともいえる者は、かの梁中書であった。一時は狼狽の極、あぶなかったが、李成とその部下に守られて、からくも死地を脱し、満都の火光をあとに西へ西へとやみくもに逃げ走っていた。かえって、あとに残った中書夫人や、官邸の召使いたちの方が、よほどひどい目に会っていたろう。
この夜、蔡福と蔡慶の兄弟は、家族を先に山東へ立たせたあと、軍師呉用のいる所をたずねて来て、こう頼んだ。
「軍師。北京の民に罪はない。なんぼなんでもこの犠牲は大き過ぎましょう。一般の者は助けておくんなさい」
「もちろんだ」と呉用は言った。「庶民を泣かす気などは毛頭ない。むしろこのあとは、よくなるように祈っている。もう目的は達したから、あとは、全軍に命じて、諸所の消火にあたらせよう」
かくて、夜明け方には、市中の火は、あらかた消しとめられたが、なお焔々と燃えてやまないのは、北京城の瑠璃の瓦、黄金の柱、官衙の建物などだった。
呉用は命じて、城中の財宝、穀物、織布などを取り出させ、これを罹災の民と貧民に頒けてやり、また残余の物と軍需品は、馬や車輛に積んで、梁山泊へ持ち帰った。
水滸の大寨は凱旋した仲間を迎えて、歓呼に沸いた。なにしろ、北京の府は、四百余州中でも屈指な城市であったから、これを陥すには、じつに多くの犠牲と困難があった。それだけに、泊中全山の沸き返り方といったらない。
大宴、三日のあと。
宋江は、盧俊儀を、忠義堂の上座に厚く迎えて。
「あらためて、おわびします。すべては水にお流しください」
「いまは何をか申しましょう。何事も水の流れと観じて忘れております」
「では、私どもの初志をいれて、大寨の頭領の位地にお就き下さることも、併せて、ご承知くだされようか」
「それはいけません。自分の才にないものは」
「いや。呉用以下、われらすべての望みなのです」
「何と仰っしゃられても、その儀ばかりは」
どうしても、盧の意志は、うごきそうもない。で、ぜひなく当分は、客分の名で別格な座にあがめ、そして何かの相談にはあずかるということで、ひとまずここはおさまった。
「ところで、番頭の李固と、その李固と密通していたご家内の賈氏は、どうご処分なさいますか」
「見たくもありません」と、盧はいった。「──とるに足らない虫ケラども、燕青の手にまかせておきましょう」
後日、浪子燕青は、この淫婦姦夫の身柄を貰って、水寨の畔へ連れて行き、楊柳の幹にしばり付けたふたりを、短刀のただ一ト突きのもとに成敗した。
また蔡福、蔡慶の兄弟は、裏山の一端に耕地をもらって、家族らと共に住みついた。かつては、大牢の囚人たちから、鬼と呼ばれて恐がられた兄弟だったが、ここでは牢というものがなく、自然、牢屋の用もなかった。
直言の士は風流天子の朝を追われ、
山東の野はいよいよ義士を加える事
飛報が都へはいったのは月のすえで、まずその詳細を第一に知ったのは、宰相官邸で早打の使者を引見した大臣蔡京であったこと、いうまでもない。
書翰は、彼のむすめ聟、梁中書の筆である。
北京府の大半は匪賊のために灰燼となり、官民の死傷は万を超え、自分たち夫妻が助かったのもまったく奇蹟なほどで、いまもって恐ろしい悪夢からさめきれないほどである──と書面は委曲をつくしていた。
「これはいかん。梁山泊の賊とは、そうまで強大なものだったのか。これではもう伏せてはおかれまい」
驚愕も驚愕だが、蔡大臣があわてたのは、ほかの理由からでもあった。北京の乱も彼だけは夙に知っていたのである。だが、わが聟に鎮圧の功をあげさせてやりたいとする私情から、今日まで援軍の派遣をはからわず、朝廷へも「──いや、梁中書がおりますからには」と、半ば嘯き、半ばフタをしていたものだった。
蒼惶と、彼が参内するとまもなく、景陽楼の鐘が鳴り、祗候ノ間には、ぞくぞくと、文武の群臣があつまった。
やがて玉階の御簾が高々とまきあがる。道君徽宗皇帝の姿は珠の椅子にあった。逐一を聞きとられると、さすが風流天子の眉もふかい憂色に沈んで見える。……と、諫議ノ大夫趙鼎が、列座からすすみ出て奏上した。
「これはもはやただごとではありません。いまにして大策をめぐらさねば、一波は万波をよび、全土の兇乱ともなりかねますまい」
「ゆえに、いかにせよと、諫議はいうのか」
「暴を伐つに、武をもってしては、火を消すに火をそそぐようなものでしょう。加うるに、彼らは水滸の要寨に拠って、野性放縦、とても手におえないことは、これまでもしばしば差向けられた討伐軍が、いたずらに損害また損害のみうけて、いちどの勝利も得てないのに見てもその愚がわかると思います」
「だから、どうせいというのだ、諫議」
「よろしく慰撫の沙汰を降し給うて、彼らの罪を赦され、彼らの不平をして、逆に世のための意義ある仕事に役立たしめるよう、ここに皇徳の無辺をお示しあらば、元来が単純一片の草莽、なまなか闕下の恩寵に狎れている都人士などよりも、あるいは世の公に役立つ者どもかとぞんじられます」
諫議はすずやかに述べた。いかにも直言の士らしい。
ところが、大臣蔡京は、
「なにを申す! 諫議ノ大夫ともあろうものが」
と、満面に怒気を発して叱りつけた。
「水滸の草賊どもを朝に入れて、官人なみの扱いをせよというのか。ば、ばかな意見を。──かりそめにも宋朝廷が匪賊に降っていいものか。あいや皇帝」
と、彼は玉階のほうへ、身を一揖して。
「おどろき入った諫議の献言です。かかる悪思想を抱くやからは、一日も参議の列に加えおくわけにゆきますまい。列臣の心を荼毒するもの、怖るべきものがありまする」
「職を剥げ。──免職する。──趙鼎、堂を退がれ」
即座に、彼は官爵を解かれて、悄然と退場した。
蔡京は、つづいていう。
「私の愚見を申しあげます。凌州の団練使、単廷珪と魏定国という二大将は、とみに近ごろ勇名のある者、これに郷軍の大兵と、禁軍の精鋭をそえ、水滸討伐の勅命をくだし給わらば、よも敗退をふたたびするようなことはなかろうと存じまするが」
「大宋の下、英雄は無尽蔵だな。よきにいたせ」
徽宗皇帝は立つ。
議は枢密院に移り、勅を奉じた使いは、すぐ凌州へ馳けた。
事は、はやくも風のごとく、梁山泊の早耳にきこえている。
だが、さきにここへ仲間入りしていた蒲東の関勝は、自信をもってそれに当る先鋒軍の役を買って出た。
「なにさま、凌州の団練使(師団長)単廷珪は有数な大将ですし、魏定国も人物です、……ですがその志や人間はよく分っている。なぜならば共に少壮軍人であった頃、自分とは都で一つ釜の飯をくったこともある仲です。きっと彼らを説き伏せて、われらの仲間へ投降させてみましょう」
彼のこの広言は、なかなか広言どおりにたやすくはいかなかったが、しかし凌州の野で、二箇月にわたる戦いのすえ、ついに呉用そのほかの助勢もあって、関勝はそれに成功し、魏と単の二大将を、とうとう梁山泊の仲間へ誘い入れてしまった。
それのみでなく、この凌州の戦いによる副産物として、黒旋風の李逵が、枯樹山の山賊、喪門神の鮑旭と、相撲とり上がりの没面目の焦挺という二人をも仲間につれて帰って来た。
「めずらしいこともあるものだ」
泊中の仲間は、みな笑った。
「李逵ときたひには、人間も鶏も見さかいがなく、つぶすことは知っても、卵から殖やすなんて芸当は知らねえ奴だ。そいつが仲間を殖やしたんだから、こいつは一つの天変地異だぜ」
この年。
梁山泊では、もひとつ一大快事を仕果たして、凱歌をあげた。
なにかといえば、それは春も半ばの頃、かねてから遺恨鬱々と時をうかがっていた曾頭市の豪族、曾一門を討って亡き前の総統晁蓋の無念ばらしをしたことだった。
その曾頭市は曾一家の勢力で私領化され、ほとんど全市一大要塞をなし、武術師範の史文恭をかしらに、曾塗、蘇定、曾密、曾索、曾魁などの一族でかためられ、じつに苦戦は苦戦だったが、しかし初めに、
「ひとつ、てまえに働かせてみて下さい。山へ来てから、まだいちども、これという働きもせずにいるこの盧俊儀に──」
と先陣の苦闘をあえて自分から買って出た彼の努力に、その帰結は大いに負うところが多かったのだ。
で、曾一族のことごとくを殺し、また、生け捕った史文恭はこれを山寨にひきあげてから斬に処した。そして一同して首と生肝とを亡き晁総統の祭壇にそなえた。
そのさい泊中のおもなる頭目は、みな喪服をつけて居ならび、宋江は、聖手書生の蕭譲に命じて書かせた〝晁蓋の霊を弔う〟の祭文を壇にむかって読んだ。しゅくしゅくと、男泣きの悲哭をもらす者さえある。──終ると、宋江は座について言った。
「ここの者はみな、お忘れではあるまい。晁天王の遺言には、誰でもあれ、かたきの史文恭をとらえてわが妄念をはらしてくれた者をもって、次の梁山泊の統領にせよとあった……」
盧俊儀は、はっとして、宋江のことばも終らぬうちにあわてて言った。
「いけません、いけません。曾頭市を陥したのも、てまえ一人の力ではない。かつは私は徳もなし才もない」
「いや!」と宋江もまたそれを抑えて。「盧大員には、いくたび言っても、いつもご卑下あるが、この宋江をごらんなさい。正直、私は三つの点であなたのお人柄には及びもつきません」
「どうしてですか」
「第一に、私は色が黒く体も小さい。風貌において、あなたの大どかな貴人の相とはくらべものにならぬ。第二には、私はもと小役人の出身で罪を犯して逃亡のあげく自然ここに身をよせているに過ぎない人間。しかるにあなたは北京府の富家に生れ、かさねがさねの天祐を蒙っている。天運おのずから衆に超えているものです。──第三には、私は浅学、あなたは学古今に通じておられる。のみならずじっさいの武技もあり智略勇胆に秀でています。すべてその才徳は大器というもの。あなたを措いて誰がここの上座にすわる者がありましょうか」
「ああ、迷惑です。ご過賞に過ぎる」
「いや、ここの者どもも、生涯このままではいられません。いずれ時あればおかみに帰順して、世に功業を捧げねばならぬ。罪ほろぼしの善を地に植え、時により官爵を帯ぶる身となるやも知れぬ。だが私はすでに分にあらずとかたく腹はきめているのです。どうか山寨一同の願いを入れて、いまはおききとどけ下されたい」
しかし、盧はついに、椅子を降りて、身を下に置いてしまった。
「どのように仰っしゃられても、それだけはお受けできません。死すともできません」
あとは座中、私語騒然と、思い思いな声や囁きになってしまった。
要するに、ほとんどの者の本心は、やはり宋江に主席となっていて貰いたいのだった。軍師呉用からしてそうらしい色に見える。人情、心服、信頼感、そして盧よりも古い一つ釜の飯。どうにも理屈ではなかったのである。
これはいけないと見たか、宋江がここに一案を提出してみなに諮った。
「このうえは、天意に訊いてみようではないか。あくまで盧大員を主座に仰ぐべきか、不肖、どうしても私がよいのか」
「天意。それはまた、どうなさるので」
「ここからひがしに、東昌府、東平府の二城市がある。ゆたかな城街だが、かつてわれらもそこだけは侵したことがない」
「なるほど」
「城戸の民はみな沃土と物産にめぐまれ、官民和楽してよく暮らしていると聞いていたからだった。ところが近年、奉行が変ってからはひどく苛烈な税をとりたて、賄賂悪徳の風が幅をきかして、ために良民は汗に痩せ、無頼のやからと小役人だけが肥え、一般はもってのほかな困窮だという」
「そこで?」
と、呉用は宋江の面を見つめた。
「二府へたいして、銭糧を借りたいと申し込む」
「もちろん先は断りましょうな」
「知れている。だがそれは口実。それを名分にうたって二途二軍勢で同時に二つの城市へ攻めてゆく。つまり一方の首将には盧大人になっていただき、一方の指揮には私があたる。──そしてどちらでも先に相手の府を降伏させた方を梁山泊のあるじとするのだ。この案はどうであろうか」
「さあ、それもよいでしょうが?」
と、呉用は盧俊儀のほうばかり見て、可否をいわない。当の盧俊儀もまた、ひとえにそれは逃げて、うんという気色もなかった。
で、せっかくな一案もお流れに終って、現状そのまま、つい半年余を過ぎてしまったが、晩秋の頃、どうしても、銭糧借款の申し入れをせねばならない状況が再燃していた。
というのは、その夏の旱魃やら秋ぐちの大洪水で、特に、水滸の周辺は五、六百里にもわたってひどい飢饉を来したのである。で、宋江はこんな時とばかり泊内の穀倉をひらいて難民の救済にあて、蓄えの物は糠もすくい出し、羊、鶏、耕牛までも食いつぶしていたのだった。
「このうえは、東昌府と東平府を食うしかない」
「もう銭糧を貸せなどと手間暇かけているのは愚だ」
「さもなくば、この梁山泊の者もみな乾あがってしまう。こんなところを官軍に見舞われたら一トたまりもないぞ」
事実、泊中の炊煙がもう細々になりだしていたのである。馬糧、兵糧、少しでもあるうちにと、全員の声が高い。
ここにおいて、盧俊儀もついに一方の大将をひきうけ、また一軍は宋江が首将となった。そしてかつての一案にしたがい、どっちでも先に向う所の城市を陥落させた者が、梁山泊のあるじとなることもまた約束された。
「では、先だってまず、先主晁蓋の霊堂で、いずれがいずれへ向うか、籤を引いてきめましょう」
これも宋江の発言だった。
その結果。
盧俊儀が東昌府をひき、宋江は東平府をひきあてた。
盧の麾下にしたがうもの、呉用、公孫勝、関勝、呼延灼、朱同など水陸七千人──
宋江の下には林冲、史進、花栄、劉唐、徐寧、燕順ら、これも水陸七千人──
日をかさねて、めざす汶上県へも、はや七十里という、安山鎮の嶺まで来ると、
「では、盧大員君」
「宋公明先生」
「おたがいの前途を祈って、ここで再会までのお別れとしよう」
「よきご武運を」
「あなたも」
と、両将は、手を握って、西と北、二た手に道を別れた。
そうして宋江の軍は、東平府へ打ち入り、日かずにして約二十日あまりで、東平府を陥してしまった。
もっとも、それは決して易々なんていうものではなく、東平府の総指揮には、双鎗将の董平という万夫不当な将軍があって、よく兵を用い、二本の短鎗を使い、戦のかけひきには神出鬼没で、これには寄手の宋江軍もさんざんな目にあったのだが、そのうちに敵にはひとつの〝隙〟──つまり弱点──があることを知ったのが勝因だった。
奉行の程万里。
これはもと都の大官童貫の邸で家庭教師をしていた者で、根ッからの佞官型であるうえに、着任いらいは、私腹を肥やし、権勢をかさに着、人民泣かせをただこれ能として省るところもないのであった。
ところで、この上官を迎えた双鎗将の董平はといえば、これは軍人気質の生ッ粋だったが、しかし程万里には一人のきれいな娘があって、それに想いを寄せていたため、程奉行の悪政には不平も、つい心からの意見もいえずにいたのである。
狡獪な奉行の程は、またそこを見抜いていて、
「董将軍。まずよく防ぎ、よく戦い、賊兵を追ッぱらって、宋江の首を持って来給え。それを聟引出として、君にわしの愛娘をやろうじゃないか」
と、猛獣使いにひとしい狡さで彼を戦場へとケシかけていた。
ために董平は、たびたび、身を死地に抛ッて奮戦した。宋江はこれをながめて、彼を惜しんだ。密書をやって誘ったのである。
〝──董将軍。この地で聞けば、あなたには風流将軍の別名もあって、その純潔を尊ばれている。
しかるに惜しむべし、将軍の若さは騙されておいでだ。
奉行の程が、真に、あなたを愛し、愛する娘を、あなたにくれる心なら、なんで将軍をかくもたびたび、死地の苦戦に駆り立てるのか。
見給え。程自身は一ぺんも、危険な陣頭へは姿を見せたこともない。
われら梁山泊のうちではそんな不義卑劣はゆるされない。天に代って良民の塗炭の苦しみを救うのが梁党の目的だ。もし君がわが党へ来るなれば、よろこんで迎えたい。
のみならず、君の欲する女性を共に城中から奪って、水滸の平和郷に、ささやかだが、新しい一家庭を、君のために贈ろう。賢判、いずれを君は選び給うか。〟
董平は、夢のさめたように、宋江の陣門へ来て降った。
宋江も弓を払って、他意なきを示し、共に、謀計をしめし合せて、奉行の程を城外へ誘い出した。そしてこれを殺し、程の娘を、城中から奪ったのだ。
──こうして、首尾よく東平府を陥したので、宋江は官の倉庫を開かせ、また程の私有財物なども、すべて沢山な米や穀類と共に、これを車馬に積んで梁山泊へ運ばせた。
そして、先に盧俊儀と別れた安山鎮までひき揚げて来たが、盧の軍はまだ、凱旋してここを通った形跡がない。
「諸君。道をかえる!」
と、宋江はそこでとつぜん鞭を西へさした。
「東昌府はまだ陥ちていないらしいぞ。われらはまだ山へ帰るわけにはゆかない。宋江につづいて来給え」
七十余里、それからまた息もつかずに、
「盧俊儀の籤運のわるさよ! 万一を思って、呉用や公孫勝までつけてやったのに、いかなる難戦へぶつかったのか?」
と、加勢に急いだ。
行ってみると、むりはない。この日もまだ、東昌府全面の空は、戦煙濛々で、地は喊声のまっ盛りだ。しかも敵方の旗色のほうが断然いい。
「どうしたのです? 呉軍師」
「やあ、宋先生か。東平府の方は」
「はや、かたづきました。ところで、ここの戦は?」
「ごらんの如く、東昌府は、すっかり捏ね損なッてしまった形だ。序戦に二度も失策をかさね、あげくに、おそろしい傑物がいた」
「傑物が」
「もと彰徳府にいた虎騎隊の指揮官で、あだ名を没羽箭といい、苗字が張、名は清」
「ああそれは有名な軍人です」
「しかも、部下には中箭虎の丁得孫。花項虎の龔旺などという猛者もいて、あたるべからざる勢い。……しかしきのう、巧々と陥穽におびき込んで、その二人だけは生け捕ったが、なおまだ、かんじんな張清のほうは、あれあのように、戦塵漠々と乱軍の中を馳け廻って味方をなやまし、ほとんど、彼の前に立つ者はない」
「ひとつ、見たいものですな、どういう男か」
「いや、それよりも、敵はまだ、ここへあなたの援軍が加わったとは知らぬようだ。すぐさま、新手を間道から敵の後方へ廻していただきたいが」
「こころえた」
と、宋江はただちに、部下の花栄、史進、林冲、一丈青、解珍、解宝らの麾下あらましを、敵のうしろへ潜行させた。
一夜は明け、ふたたび、曠野は戦塵と鬨の声で埋まッた。
が、その凄烈さは、前日の比ではない。
敵将、没羽箭の張清は、はや決死のかくごだったとみえる。たのみにしていた両翼の龔旺と丁得孫のふたりはすでに毮ぎ捕られていた。──のみならず賊軍の数は倍加している。──きのうまでは何の異常もなかった後方にあって、万雷のとどろきがするのもみな、それは梁山泊軍の鼓噪ではないか。
だが、彼は決して、猛獣が度を失った如き者ではない。
ついには仆れるまでも、山東の兇賊ども、一人でも多く、あの世へ連れて行くぞ、としているようだった。
次の日である。いよいよ、彼の馳駆をゆるす戦線も圧縮されてきた。──宋江はたのしんでいた。「今日こそは、張清の阿修羅な姿を、近々、この目で見られようか」と。
はや黄昏れ近い。
張清は一河川の岸に追いつめられ、突如、河中の船からおどり上がった泊兵の水軍にどぎもを抜かれた。湿地を脱するだけでもやっとだった。しかし、奮然このときに最期のはらを決めたのだろう。あたりに残る部下の精鋭わずかと共に猛然たる勢いで、
「盧俊儀に見参ッ。呉用はどこに?」
と、泊軍の本陣を目ざし、そこの旗門へ真ッ向に突進して来た。
「むむ、なるほど、ただびとでない!」
宋江は見た。
その没羽箭張清の勇姿をたたえたものには、「水調歌」という時の流行曲に、一ト節の詞がある。
鍍金兜に、照り映える
茜の纓は、花に似て
狼腰を、鞍つぼに
片手づかいの左太刀
右手には持てり、石つぶて
つぶて袋の底知れず
打つや流星
放てば飛電
矢つがえ無用、強弩も要らぬ
たてがみ青き、駿足に
靡け行く、雉子の尾羽ネの駒飾り
葵花のあぶみよ、揺れ鳴る鈴よ
没羽箭、ああ、去るところ
風は蕭々たり、敵屍あるのみ
「ころすな! 討つな! 手捕りにしろ」
宋江は、旗の下から馳け出して叫んだ。
けれど、すでに味方の群雄も、門旗をうしろに、必死だった。なかんずく盧俊儀は、
「この敵に背は見せられん」
と、あわや馬を張清へ向って駆らんとしている。
むらがる諸将は「盧大将を討たすな」と、これまたわれがちに彼を庇う。そして代って躍り出た金鎗手の徐寧は、近づきもえぬまに「あッ──」と眉間を抑えたまま落馬し、つづいておめきかかった錦毛虎の燕順も、相手の投げたつぶてにどこかを打たれたらしく横ッ飛びにあらぬ方へ馳けてしまった。
そもそも、没羽箭張清の得意とする〝礫〟ほどやっかいな物はない。近づけば左手の閃刀が片手使いのあしらいを見せ、離れればたちどころに、一塊の小石を発矢と飛ばしてくる。しかもその石たるや小さいけれど鉱石みたいな稜角と堅質を持っているので、中り所が悪ければ死ぬ。あるいは骨もくだける。
次々に、この礫でやられた。
彭玘、韓滔、醜郡馬の宣賛。
また、呼延灼。花和尚の魯智深。
わけて、劉唐などは、片目をつぶされ、青面獣楊志さえも、かぶとの鉢に、ガンとこたえた弾丸力に驚いて退きしりぞいた。
みるみる梁山泊の部将格、前後十五、六人というものが、傷を負ったのだ。
宋江はこれを見、舌を巻いて、そばにいた呉用や公孫勝へこう言ったものである。
「五代の頃、大梁の王彦章は、日影のまだうつろわぬうちに、唐の将三十六人を、矢つぎ早に射て仆したというが、張清のつぶては、王彦章には及ばぬまでも、たしかに当代の神技、ひとかどの猛将といってよいのではなかろうか」
しかし、こう話を向けられても、人々は苦々と口を緘したきりだった。──とはいえ、それほどな張清でも、天を翔ける鬼神ではない。ついにこの夕、力つきて、まっ黒な人間の怒濤の下に生け捕られた。
百八の名ここに揃い、宋江、酔歌して悲腸を吐くこと
宋江が、彼を営中に見るや、これを迎えるように、みずから縄を解いてやったことはいうまでもない。
しかし、営内から旗門のそとでは、ごうごうたる不平と抗議の呶罵だった。
「宋司令。没羽箭を渡し給え。ずたずたにしてくれねば腹がいえん!」
と、わめくのである。
頭を繃帯している花和尚、片目をつぶされた劉唐。そのほか、生け捕るために、傷を負ッたり、またクタクタに骨を折らせられた連中だ。無理はない。
だが、宋江は叱って言った。
「君らは自分以上な者を敬うことを知らないのか。思うに、天罡星が相会する重大な機運が来ているものと思う。諸君の望むわたくしの成敗などはゆるされない」
すでに、張清も観念の色だった。彼も、東平東昌二府の奉行、程万里の悪行には、ひそかな同情を人民によせ、決して官途に安んじていたのではなかったのである。
「ですが、東昌府には惜しい人間がひとり残っています。なろうことなら、その者も共に、梁山泊へひきとっていただけますまいか」
張清は、推薦して措かなかった。
訊けば。
姓は二字の皇甫、名は端。
年ひさしく府城の馬寮に勤めてきた実直なる馬医師であるという。
「本来は幽州の生れで、ひげは、黄色く、眼は碧く、どうみても西蕃人そっくりなので、あだ名も紫髥伯といわれています。……が、稀代な伯楽で、馬相を観ること、馬の病をなおすことでは、まず天下一品の馬医といえるでしょう」
宋江はよろこんで、さっそく彼をやって、城中から皇甫端を招きよせた。なるほど碧眼紅毛の異人種だがりっぱな風采は見るから神医の感をうける。──張清から途々、話は、きいていたとみえ、これへ来ると、拝をして、彼もただちに仲間入りの誓いをたてた。そして、「これは私のみやげです」といい。馬寮から曳いて来た吐蕃の斑白月毛、北地産の捲毛駿の二頭を献じたりなどしたのである。宋江は、そこで一同へまた告げた。
「はからずも、東平、東昌の二府を討って、幾人もの人傑を新たに迎え、また、稀代な神馬が二頭も手に入るなど、まことに天の冥助、奇瑞としか思われん。されば天をおそれて、無辜の民を、このことで苦しませてはなるまい。良民の助けを急ぎ、そのうえで山へひきあげよう」
異論はない。全軍は府へ入って、城中の官倉を開放し、民生を励まし、窮民をいたわり、余るところの銭糧はこれを車馬に積んで水滸の寨へ持って帰った。
かたのごとく、山では山じゅうの凱旋祭りと、忠義堂では、主なる頭分だけの祝宴がもよおされ、乾杯にいたって、宋江が、そのあたまかずを数えてみると、まさに百零八人となっていた。
「百八人!」
彼は、この数にふと、なにか、天扉の神鈴を聞く気がした。
そこで彼は一同へ告げた。「何かは知れず、油然といま、いま胸に抑えがたい感慨がわいた。天意が私を通じていわしめるものかもしれない。──しばらくご静聴ねがえようか」と。
「おう、仰っしゃってください。なにごとでしょうか」
一同は、襟をただした。
「ほかでもありませぬが」
と、宋江は満座を見ていう。
「いまふと、かぞえてみるに、いつかここに相寄ッてきた数奇なる運命の漢どもは、まさに百八人に達している。宿縁、まことに奇と申すしかありません」
「…………」
ああそうだったのか。百八人になっていたのかと、急に自他を見まわして一同もまた粛と、感慨に打たれたようなふうだった。
「……が、このうちには、ただひとり欠けた人があった。前の統領、托塔天王ノ晁蓋です。しかしいま思えば、それも上天の意だったものでしょう。われらを冥界から見まもってくれるために……。さもなくんば、白業黒業、さまざまな難を経つつかくも百八人がつつがなく一堂に揃うようなことはないでしょう。ひとえに神明の加護によるものと私は思う」
「…………」
「しかるに、われらは暗黒の世とはいえ、ぜひなくも、いくさの都度にはたくさんな人をころしています。その罪業は怖れねばなりません。で、ここらでひとつ、敵味方のわかちなく、戦没した者、横死した者、水火の難に厄死した者、無数の霊をとむらうために、羅天大醮を、とりおこない、あわせて、兄弟分諸君の義魂と正義のいよいよ磨かれんことをいのり、また二つには、朝廷におかせられて、よく今日の政治の濁悪に目ざめられ、われらの罪をゆるして、このわれらをして、天下鍛ち直しの大善業に向けしめ給わるよう。思いを下天に凝らし、誓いを上天にささげ、七日七夜、つつしんで祈りの行に服したいと思うのですがどうでしょうか」
「おう」
みな太いためいきの下に賛同した。
「なんで異存がありましょう。大追善です。大供養です。やりましょう」
しかし、越年もすぐまぢかにひかえていた。で、年明けから、春の四月までにそれは準備された。すなわち、その月の十五日から、七日七夜の長きへかけて──。
一切の司祭は、道教において一位に次ぐ道位をもっている一清道人の公孫勝がつとめた。忠義堂の前には四ながれの旛がつるされ、堂上には三層の星辰台がみえ、三聖の神像をなかに、二十八宿、十二宮辰の星官たちの像も二列にならんでまつられている。
ちりばめたような無数の灯やら香のけむり、花、花、花。そしてくだもの、五穀、くさぐさなお供え物など、いうまでもない。
いよいよ、まつりの第一日。
月白く、風すずやかな夜から始まる。
公孫勝を大導師に道士四十九人、立ちならぶ中を、まず宋江、盧俊儀、呉用の順に、長いこと壇下にぬかずいて伏し拝む。
そして瑤の台に願文をささげ拈香十拝、花に水をそそいで静かに退がる。
順次百八人のものみなこれに倣って、壇を巡り、そして、あかつきへかけては、導師以下の修法になった。
修法は日ごと二回おこなわれる。このあいだ、一同は穢を厭み、口をきよめ、念誦一心、一歩も忠義堂を出ることはない。そこに寄りつどったきりなのである。
こうして七日目の満願の三更だった。誰もが神気朦朧としているうちに、宋江は夢とも現ともなく一炬の白い光芒が尾をひいて忠義堂のそとの地中に墜ちるのを見た。それこそは上天の啓示にちがいない、すぐそこを掘らせてみようと、公孫勝以下の道士が鋤鍬をもって掘ってみると、はたせるかな、一面の石碣が掘りおこされた。
「これはおそろしく古い物らしい」
「神代文字だ。何か彫ってあるが、てんで読めぬ?」
すると道士のうちに何玄通という者があって、自分はつねに太古の蝌蚪文字古代文字を解読する一辞書を持っているが、これに照らせばどんな古代文字といえど読み解けぬことはないという。そこでさっそく何道士にそれを取寄せさせて、読ませてみると。
「──わかりました。碑の左右にある二聯の文字の一方には〝替天行道〟とあり、一方には〝忠義双全〟と読めるのであります。そして上にずらりと書いてあるのは、すべて南斗、北斗の星の名まえ、下にはその星の性をもった人間の名が記されておりまする」
「や。しかも? ……」と宋江は碑に顔をよせて「碑のうらおもてにかけて、それはちょうど百八行だが」
「そうです。おもての蝌蚪文字三十六行は天罡星でして、うらの七十二行もまた、すべて地煞星の名。そしてその星それぞれの下に、すなわち性を個々の身に宿した宿命の人名が書いてあるのでございまする。もしお望みなれば順にそれを読み上げてみますが」
「オオ願おう。一同もこれに集まって粛と下にいて聞くがいい。そうだ、蕭譲は筆をとって黄紙にそれを書き写せ」
ここで読者はすでにお読みになったはずの序編水滸伝第一章〝百八の星、人間界に宿命すること〟のくだりを想起していただきたい。
いま、何道士が読むにしたがって、蕭譲が黄紙に写しとっていた石碣の星の名は、すなわち幾世前の天変地異でそのときに地にこぼれ降った百八星であったのである。──すなわちその星の生れ代りなる梁山泊の天罡星三十六人とは、
天魁星 呼保義の 宋江
天罡星 玉麒麟の 盧俊儀
天機星 智多星の 呉用
天間星 入雲龍の 公孫勝
天勇星 大刀の 関勝
天雄星 豹子頭 林冲
天猛星 霹靂火 秦明
天威星 双鞭の 呼延灼
天英星 小李広 花栄
天貴星 小旋風 柴進
天富星 撲天鵰 李応
天満星 美髥公 朱同
天孤星 花和尚 魯智深
天傷星 行者の 武松
天立星 双鎗将 董平
天捷星 没羽箭 張清
天暗星 青面獣 楊志
天祐星 金鎗手 徐寧
天空星 急先鋒 索超
天速星 神行太保 戴宗
天異星 赤髪鬼 劉唐
天殺星 黒旋風 李逵
天微星 九紋龍 史進
天究星 没遮攔 穆弘
天退星 挿翅虎 雷横
天寿星 混江龍 李俊
天剣星 立地太歳 阮小二
天平星 船火児 張横
天罪星 短命二郎 阮小五
天損星 浪裏白跳 張順
天敗星 活閻羅 阮小七
天牢星 病関索 楊雄
天慧星 𢬵命三郎 石秀
天暴星 両頭蛇 解珍
天哭星 双尾蝎 解宝
天巧星 浪子 燕青
といった人々であり、また裏面にあった地煞星の七十二名とは、次のような面々だった──
地魁星 神機軍師 朱武
地煞星 鎮三山 黄信
地勇星 病尉遅 孫立
地傑星 醜郡馬 宣賛
地雄星 井木犴 郝思文
地威星 百勝将 韓滔
地英星 天目将 彭玘
地奇星 聖水将 単廷珪
地猛星 神火将 魏定国
地文星 聖手書生 蕭譲
地正星 鉄面孔目 裴宣
地闊星 摩雲金翅 欧鵬
地闘星 火眼狻猊 鄧飛
地強星 錦毛虎 燕順
地暗星 錦豹子 楊林
地軸星 轟天雷 凌振
地会星 神算子 蒋敬
地佐星 小温侯 呂方
地祐星 賽仁貴 郭盛
地霊星 神医 安道全
地獣星 紫髥伯 皇甫端
地微星 矮脚虎 王英
地急星 一丈青 扈三娘
地暴星 喪門神 鮑旭
地然星 混世魔王 樊瑞
地好星 毛頭星 孔明
地狂星 独火星 孔亮
地飛星 八臂那吒 項充
地走星 飛天大聖 李袞
地巧星 玉臂匠 金大堅
地明星 鉄笛仙 馬麟
地進星 出洞蛟 童威
地退星 翻江蜃 童猛
地満星 玉旙竿 孟康
地遂星 通臂猿 侯健
地周星 跳澗虎 陳達
地隠星 白花蛇 楊春
地異星 白面郎君 鄭天寿
地理星 九尾亀 陶宗旺
地俊星 鉄扇子 宋清
地楽星 鉄叫子 楽和
地捷星 花項虎 龔旺
地速星 中箭虎 丁得孫
地鎮星 小遮攔 穆春
地稽星 操刀鬼 曹正
地魔星 雲裏金剛 宋万
地妖星 摸着天 杜選
地幽星 病大虫 薛永
地伏星 金眼彪 施恩
地僻星 打虎将 李忠
地空星 小覇王 周通
地孤星 金銭豹子 湯隆
地全星 鬼臉児 杜興
地短星 出林龍 鄒淵
地角星 独角龍 鄒潤
地囚星 旱地忽律 朱貴
地蔵星 笑面虎 朱富
地平星 鉄臂膊 蔡福
地損星 一枝花 蔡慶
地奴星 催命判官 李立
地察星 青眼虎 李雲
地悪星 没面目 焦挺
地醜星 石将軍 石勇
地数星 小尉遅 孫新
地陰星 毋大虫 顧大嫂(顧のおばさん)
地刑星 菜園子 張青
地壮星 母夜叉 孫二娘
地劣星 活閻婆 王定六
地健星 険道神 郁保四
地耗星 白日鼠 白勝
地賊星 鼓上蚤 時遷
地狗星 金毛犬 段景住
聞き終って、みな、おどろいた。
すでにこの身この名まえが、古代文字の古い世頃の石ぶみに誌されていようとは。
「ふしぎ、ふしぎ。これで見れば、宋江さまには、すでに上天の星の上座とさだめられている。そしてわれらの順位まで」
「これによれば、もう順位には何の文句もいざこざもないはずだ。天地の理数に決まっていたもの。従うほかないではないか」
この日、公孫勝をのこす以外、道士一同は飄として去り、翌日、宋江は軍師呉用や朱武たちと諮って、忠義堂の扁額のほかに、こんどの一奇瑞を記念して「断金亭」という大きな額をかかげることにした。
また、一座の霊廟が、断金亭のうしろ、小高き所に築かれて、晁天王の位牌がまつられ、その御殿のみぎひだりから周囲の八地域にわたって、宋江以下、諸将の住む甍がいっぱいに建て並べられた。もちろん、各所の水寨や望楼台などにある部将の住居はべつでここにはない。
かくてその年の秋ともなると、山上の景観はいよいよあらたまって、断金亭の大廂のまえには、つねに刺繍金文字の二旒の長い紅旗がひるがえり、一つには、「山東呼保義」一旒には「河北玉麒麟」としるされていた。
また、総司令部のたてものを中心としては、各営に、朱雀玄武旗、青龍白虎旗、白旌、青旌、黒旌、黄旌、緋纓の大幡など、へんぽんと梁山のいただきから中腹までを埋め、北斗七星旗から八卦旗、一百二十四流れの鎮天旗まで、およそここになびいて見えざるはない。
こうして象だけでなく、陣容もきまった。
すなわち、山寨の最上位──総司令の地位には、宋江と盧俊儀のふたりがつき、軍師も呉用と公孫勝のほかに、副軍師として、神機軍師朱武があらたに加わった。
銭糧部の主宰には、柴進、李応。──五虎ノ大将、騎兵八彪隊の将、歩兵、斥候、輸送、情報、水軍など、すべての役割に、その人と特技とを配して、
「義にむすばれた大小の兄弟諸君、おのおの命ぜられた役目をもって、おたがいに誼みを傷つけないで自重して欲しい。そむく者は容赦なく衆判にかけて処断する」
宋江は、その表を断金亭に貼りだした日、一同をまえにこう誓わせた。
表の終りには、
とある。
誓いの式がすむと、みな異口同音に、ねがいをともにし、生々世々、生き代り死にかわり、この土の友となって、この再会を、よろこびあわんと言い合った。
九月九日は重陽の節句である。この誓いの式は「菊花の会」につづき、山も風流な宴にいろどられた。月明の下、馬麟は簫を吹き、楽和はうたい、また燕青は箏を奏でた。
──菊見酒
汲めかし兄よ弟よ
こころ温めん座を分けて
黄なるを折らん 白妙の
香もまたよけれ 愛ずるべし
さあれ弟よ 友垣よ
黄がねや玉の 何かせむ
醜の醜ぐさ世に満ちて
そとに夷のうかごうを
ああ やる瀬なの わが胆や
など この憂いのとどかざる
鴻雁告げよ 大ぎみの
御夢に通え 野の心
もし 天日の雲洩れて
汲ませ給うの詔
野の子を招きあらしめば
酒ほがい──
わが祈ぎ事のかなえる日なり
菊をや簪し 舞い酔わん
舞うて向わん 御代の御為に
燕青の箏にあわせ、この夜めずらしく大酔した宋江が、こう自作の即興を歌ったのであった。
すると、宴の末席のほうにいた武松、李逵などが、突として、宋江の歌にたいして、野蛮な憤懣をぶちまけた。
「ちぇッ、くそおもしろくもねえ。また宋司令の天子さま礼讃が始まったよ。いったい、詔だの、お招きだのと、何を待とうッていう寝言なのか」
「そうだとも、武松兄哥のいう通りだ。おれっちは根っからの野育ち野郎。そんなものには、縁もゆかりも持ッちゃあいねえや。へん、おもしろくもねえ! 誰か、陽気な唄でもうたえよ!」
俄然、せっかくな菊花の会は、白け渡った。
翠花冠の偽役人、玉座の屏風の
四文字を切抜いて持ち去ること
「武松、もののわかっている君までが」と、宋江は菊見の杯を下において──「李逵と一しょになって〝大義〟の何であるかも解さないとは余りに情けないことではないか。ああ、じつに困ったものだ」
と、暗い顔をして心から嘆いた。
「いや、宋司令」と、魯智深はその横から「たれも天子を馬鹿にはしていませんが、しかし、天子のお招きなどをあてにしている奴はこの梁山泊にはいますまいぜ。李逵や武松の悪態はお耳ざわりかもしれねえが、また、むりでないところもある」
「どうして」
「だって、現朝廷の腐敗、悪政、その下に泣かされている辺土の民、いまさらでねえが、ひでえものだ。それはみんな天子が悪いからじゃあありませんか」
「いかにも、世の怨嗟はみな天子に帰する。だが」
と宋江は、坐り直した。
「いい機会だから今日は一つみんなにもいおう。たしかにそれは天子のご不徳ではある。けれど宋朝の今上、徽宗皇帝は元来お人のよい公正なおかたなのだ。文雅風流の道に傾きすぎるきらいはあるがまず聖明な君と申しあげてよい。ただ困るのはその君側の奸だ。奸佞な侯公や悪臣のみが政治を自由にしている」
「だから、それの分らねえ盲天子じゃ飾り物じゃありませんか」
「といって、だれを一天の至尊と仰ぐか。ともあれ宋朝の御代はこんにちまで連綿と数世紀この国の文明を開拓してきた。その力はじつに大きい。しかるにもしその帝統がここで絶えるようなことにでもなったら、それこそ全土は支離滅裂な大乱となり、四民のくるしみは、とうてい、今のようなものではなかろう……。いや、もっと心配なことさえある」
宋江のことばには、ようやく、国を思う熱意のほとばしりと憂いとに荘重なひびきをおび、彼をのぞく百七人の、耳をすまし心を打たずにおかなかった。
大宋国の北から東の大山脈をさかいとして、その彼方の蕃地には遼(韃靼のわかれで契丹ともよぶ)という大国がある。
遼は、南下の野望がさかんで、つねに辺疆を侵しては、山東、山西をおびやかし、河南、河北を掠め、またあらゆる手段の下に、いつかは物資文化の花ゆたかな宋へ攻め入って、これを併呑してしまおうと侵略の機をうかがっているのだ。
ところが、それも思わぬ大宋の朝廷やこの国の上下は、めぐまれた土壌と文化の上で、腐敗と乱脈をみずから演じ、長夜の夢を貪ッているが、こんな現状をなお長くしていたら、ついには蕃土の遼から攻め入られて、あっというまに、宋は遼に変ってしまうにちがいない。
それでいいのか。生を宋の国にうけたわれらが、それでいいとしていられるか。
「誤解しないで欲しい」
と、宋江はさらにいった。
「──いつの日か天子のお召があれば、欣舞してそれにお応えしたいと私が歌ったのは、私の多年の宿望には違いないが、しかし、一身の安穏や栄達を願うためでは決してない。ただ国を思うからだ。そしてわれらの称える〝天ニ替ッテ道ヲ行ウ〟その志を遂げるには、天子の大赦をえて、勅の下に働かねば、どうしても、誠の働きは発揮しえないからでもあるのだ。諸君、わかってくれたであろうか」
「……なるほど」
百七人、みな、うなずいた。
それきり宋江の至誠を嘲うどころか、みな恥じる色だったが、いかんせん、せっかくな重陽の宴は理におちて、浮かれず仕舞いの散会となってしまっただけはぜひもない。
が、梁山泊にとって、記念すべきこの重陽の会は、決して無意味ではなかった。それは宣和二年九月九日のことで、明ければ、
宣和三年一月。
宋江は、思うところがあって、俄に、宋朝廷の都、開封東京へ行くことになった。
もちろん、人目を忍んでの旅行である。
同行は十人。──二人一ト組となって、戴宗は浪子燕青と、武松は魯智深と、朱同は劉唐と、史進は穆弘と、そして宋江は柴進と連れ立ち、年暮うちに山を出て、正月十五日の元宵節を前に、一行は帝都の万寿門外の旅籠に着いた。
宋江の目的が、燈籠祭りやただの都見物でないことは明らかで、要は他日のためだった。輦轂の下の人心も知っておきたいし、王城内外のじっさいも見ておきたい。
元々、彼は山東に古い地方官吏の子であるが、まだ一ぺんも東京は見ていなかった。それにしても、いちど冤罪の罪でも兇状持の金印を額に打たれた身が、どうして京師の人中へ出られたろうか。これは名医安道全が山にいたおかげだった。
〝美玉滅斑〟という道全の外科手術と神薬でいつか人目にはわからぬほど巧みに消されていたのである。
宋江と柴進とは一見、非役の地方官吏のような服装して泊っていたが、万寿門の外の旅籠で一夜を過ごしたあくる日のこと、
「宋先生、万一があってはいけません。てまえがまず燕青一人だけ連れて入城し、あなたは明十四日の晩、元宵節の人出にまぎれてお入りになってはどうでしょう」
と、柴進が言い、宋江もまた、
「そう願いたい」
となったので、柴進は燕青とふたりだけで、まずその日、ひと足先に、帝都東京の街中へ下見に入った。
州は汴水と号し、府を開封とよぶ。
黄河の上流にあたり、渭水の下流に位置し、旧き呉や楚の国と隣りあい、遠くは斉と魯の境につらなる水陸の要衝だった。──山河の景勝はいうまでもなく、郊外千里に霞む起伏の丘を四方に、古都の宮城は朝映え夕映えの色にかがやき、禁門の柳、官衙の紫閣、大路小路、さらに屋根の海をなす万戸の庶民街にいたるまで、さすが宋朝の古き文化の色や匂いは、道を行く婦女の姿の一つにもわかる。
「燕青、ひとつ、どこかで休もうか」
「ここは東華門のそと、すぐこの中はもう宮城のお苑でしょう」
「なにしろ、人に酔ったよ。田舎者はな」
「あそこに、静かそうな酒楼がみえる。ひとつ昼寝でもなさいますか」
二人はそこへ上がったが、欄干から往来をながめていると、内裏へ入って行く宮内府の役人がしきりに目につく。──みな頭巾や冠のはしにこの日は〝翠葉花〟という簪を挿していたからである。
「オッ、燕青。いいことを思いついた」
「なんですか」
「耳をかせ。……どうだ。……この一案は?」
「なるほど。ひとつ、やってみましょう」
燕青は、なにか、のみ込み顔をして、往来へ出て行った。そして、東華門へかかる一人の役人をよびとめて、いと丁寧に。
「これは、張先生でいらっしゃいますか」
相手は、怪訝な顔をして。
「何をいう。わしは王だが」
「あ、失礼を。そうそう王先生と申されました。じつは私の主人がそこの酒楼でお待ち申しておりまする。さ、どうぞこちらへ」
「これこれ、お下僕。いったいそのお方とは誰なのだ」
「お目にかかればお分りでございましょう。とにかく、たいそう旧い時分のお友達だったそうで」
一方、こなたの柴進は、酒肴をととのえ、簾を垂れてとりすましていたが、そこへ燕青が連れて来た一官人を見ると、
「ほう、ようこそ」
と、立って席へ迎え、
「王君でいらっしゃるか。実にお久しいことだ。いや。ご出世を見て私までがじつにうれしい」
と、眼を細めてなつかしがった。
「はて? どなたでしょうか」
「おわかりにならんかな?」と、いよいよ親しみをこぼしながら「どこか幼な顔というものはお互いにあるものです。思い出してみて下さい」
「では郷里の」
「そうです」
「あなたも楚州のおかたですか」
「だんだんご記憶が浮かんでこられましたな。とにかくあなたが都で進士の試験に通ってめでたく官途につかれたということは、私は遠い北京にいて聞いたのです。いやお別れしたのはそれいぜんお互いにまだ一つ童塾へ通っていた頃ですからな」
「ああ、ではあの准安の小学塾で」
「ま、一献まいりましょう。なにしろ、話がそこへ行ったら限りがない……」と、さっそく杯をすすめ、話の綾を巧みに縫いながら、柴進がふと問いかけた。
「その冠の花は、元宵節の何かですか」
「そうです」と、王は得意になって「班にして二十四班、五千八百人の官吏に洩れなく、天子さまからお祝として、時服一ト襲ねと、この翠葉金花の簪が一本ずつ下賜されます」
「なにか小さい金の小牌が付いておりますな」
「四つの文字に『与民同楽』と彫ってあるので」
「なるほど、今上の大御心は、そこにあるのでしょうな。お……小乙(燕青)。熱いのをもひとつ持っていらっしゃい」
「はい」
その小乙といい柴進といい、どう見ても人品のいい主従なので王もすっかり安心してしまったらしい。ところが、さいごの酒瓶には痺れ薬がいつか混ぜてあったのである。たちどころに、王は麻酔におち、柴進は王の着ていた錦袍、帯、剣、はかま、たび、そして花冠まですっかり自分の体に着け換えてしまった。
そして王が持っていた御用包みの何かまで小脇にはさんで。
「燕青、あとはたのむよ」
「行ってらっしゃい。こっちは、どうにでも巧くごまかしておきますから」
柴進は、すうっと出て行った。店の者も気がつかない。
しかも実物の王よりは柴進のほうが、鞋の運びまでが立派であった。東華門、正陽門の二衛府を通ると、内裏もいわゆる鳳闕のまぢかで、瑠璃のかわら、鴛鴦(おしどり)の池のさざなみ。生々殿の長廊はその果ても知れず、まったく、ここもこの世かを疑わせる。
いつか彼は、文徳殿の庭から紫宸殿のほとりへ来てたたずんでいた。禁門のいずこでも咎められはしなかった。けれど深殿のおもなる所はみな錠がおりているので立入ることはできない。そのうちに凝暉殿の廻廊の橋からふとみると、
という金文字の額が仰がれ、ふと見れば、そこだけは朱の障子が開かれている。
「あ。天子のご書見の間だ」
柴進は、われも忘れて、人なき玉座を巡ってみた。お机には、端渓の硯、龍華紋の墨、文房具の四宝、いずれも妙品ならぬはない。そして「大宋国山川社稷之図」という大きな構図の絵屏風が立てめぐらしてあり、屏風の裏面は白無地だったが、ふと、柴進がそのうしろにまわってみると、何と、国内四人の大寇(むほんにん)として、天子直筆で、四名の名がしるされていた。
山東宋江 淮西王慶
河北田虎 江南方臘
「……ああ」
柴進は、眺め入った。
「われわれが国をさわがすので、つねにこうまで、み心にかけておられるのか」
彼はすばやく短刀をぬいて「山東宋江」の四字だけを切り取り、さっと内苑から姿をくらまして、元の酒楼へと帰って来た。
「燕青、階下の帳場へ行って、すぐ勘定をすましておけ。そして、みせの者たちに、祝儀をやって、あとに一人残しておくが、こうこうなわけでと、そこはおまえの口でうまく」
「わかりました」
万端、のみこんで、燕青が店の者をまろめ、元の二階へ戻って来てみると、もう柴進は自分の衣服に着かえて、借物の花冠や官服などは、そっくり王の体の上にかぶせてある。──王はまだ、昏々と、麻酔からさめていないのだった。
彼が正気がついたのは、日没の頃である。何が何だか分らない。また何一つ失くなっている物もない。恥かしいのか、給仕人のことばもそら耳に、衣服や冠を着直すやいな、あわてて店のそとへ出て行った。
その王は、あくる日、自邸で客の口からふとこんな噂を聞かされた。
「なにしろ奇ッ怪なこともあるもので、叡思殿のお屏風から『山東宋江』の四文字だけが、何者かに、切りとられているというのです。いやもう禁門の内外は、そのご詮議でたいへんらしい」
「ほほう?」
さてはと、王は、背すじの顫えにぶるッとしたが、一切、口には出さなかった。
一方の柴進は、はたごへ帰ると、さっそく宋江へ「山東宋江」の宸筆を見せ、またつぶさに、禁裏の様子もはなして聞かせた。
宋江は、宸筆を見て、ああ……と浩嘆してやまなかったが、明ければ十四日、この黄昏れを外してはと、まつりの人波にまぎれて、城内の中心街へ入りこんでみた。
連れは、柴進と戴宗と、そして浪子燕青だけをつれ、あとは自由行動にさせておいたのである。いわゆる六街三市の人口やその殷賑は、さすが大宋の帝都で何とも讃えようがない。空には月があり、ぬるい人いきれも匂うようで、封丘門、馬行街などはわけて灯の海か燈籠の花園さながら、不夜の城とはこれかと思われるばかりだった。
「おや、ここは色街ではないのか」
「ええ、たぶん廓でしょうよ」と、燕青は根が北京育ちのいなせで伊達な若者だったので粋な道にも通じていて──「道の両側をごらんなさい。ずらと木札に四季の造花を飾って女の名前が書いてあるでしょう。みんな花魁の廓名であれを〝煙月牌〟と申しますのさ」
「ほ、一軒のこらず、いずれも両側はお茶屋らしいの。こころみに、どこかへ登楼って、ちょっと一酌いたそうか」
宋江にしてはめずらしいことだ。燕青が小粋な若党姿であるほかは三名ともみな歴乎な非役の武家か官人といった風な身なりなので、茶屋では上客と見たか、下へもおかない。
しばらくは、妓をよんで、いわゆる通な〝きれいごと遊び〟に時をすごしていたが、そのうち斜向いの、わけて一軒すばらしい大籬の揚屋に、チラと見えた歌舞の菩薩さながらの人影に、
「おや、豪勢なお取巻きだね、あの花魁はいったい誰?」
妓と妓は、顔見合わせて、まるで耳こすりでもするように、宋江へ囁いた。
「あれが廓一番の、李師々大夫さんですのよ」
「へえ、李師々大夫」
「だめですよ、岡惚れをなすっても」
「どうして」
「だって、今上の天子さまがお馴染みで、毎度毎度、お通いになっている高嶺の花、いいえ、お止山の花ですもの」
「はははは、じゃあ何ともわれわれでは仕方がないね」
「だから、妾たちにしておきなさいよ」
「どういたしまして、君たちでも、もったいない」
「うそばッかり。お杯もくれないで」
いつのまにか、燕青はここの席から消えていた。何事かを宋江から耳打ちされて、斜向いの大籬の門へ、すうっと、入って行ったものである。
内は前栽から玄関もほかの青楼とはまるで違う上品な館づくりだ。長い廊から廊の花幔幕と、所々の鴛鴦燈だけが艶めかしいぐらいなもの。
「あら哥さん、あんた誰? どこへ行くの?」
「オ、禿さんか。じつはね、ご内緒のおっかさんに会いたくって来たんだが」
「おっかさんなら、あそこでお客さんと話しているわよ」
「ほ。……あの肥えた女のひとがそれかい」
内庭の向うを覗くと、なるほど、斑竹のすだれ越しに、花瓶の花、四幅の山水の掛軸、香卓、椅子などが透いてみえる。──燕青は禿の女の子の手へ、そっとおかねを握らせた。
「たのむから、べつな部屋へ、ちょっと、おっかさんを呼んでくれないか」
やがてのこと、ご内緒のおかみは、燕青が待っている前へやって来たが、もとより知っているはずはない。まじまじと、ただ怪訝顔である。
「ああ、お久しぶりです、おっかさん。ひと頃より、少しお肥りになりましたね」
「たれなのさ、いったいおまえは」
「張ですよ。いやだなあ。忘れちゃっては」
「張って? ……張だの、王だの、李なんて名は、世間にありすぎるよ」
「ですからさ、幇間の張のせがれの、張二なんで」
「じゃあ、太平橋のそばにいた、あの唐子髷でチョコマカしていた子がおまえかい」
「へえ、そのご東京を飛び出しましてね」
「どこへ行ってたの」
「北京府の紫雲楼で一ト修業してまいりました」
「紫雲楼といえばおまえ、北京では一流のお茶屋じゃないか。だけど去年、焼けたというはなしじゃないか」
「へえ、それで田舎茶屋を稼ぎ歩いていますうちに、燕南から河北では一番の大金持ッていう旦那のごひいきになりましてね、久しぶりに、旦那のお供で、当地へやってまいりましたようなわけ。……ところでひとつおっかさんにも、よろこんでいただけることがあるんですが」
「なんなのさ、いってごらんよ」
「その千万長者が、たった一度でよい、そしてなにも、泊めてもらわなくてもいいから、李師々大夫と話がしたいというんです。ちょっと手土産がわりという纏頭でも、百両千両はきれいにお撒きになるお大尽。おっかさん、どうでしょう?」
欲には目もないのが廓の慣わし。わけてここのご内緒ときては、強欲の名が高い。おかみはさっそく、李師々をよんで、燕青にひきあわせ、李師々はまた、品よくおかみのはなしを聞き終って、
「お話し相手でよいことなら、いつでもお渡りくださいませ」
と、いう返辞。ではさっそくと、燕青はすぐ走り戻って、向いのお茶屋から宋江、柴進、戴宗を迎えて来た。
席は、李師々の部屋か、すばらしい一亭である。楽器の供え、芙蓉の帳、そして化粧室の華美など、いうばかりもない色めかしさだが、しかし酒は出さない。茶を煮て、金襴手の茶碗に、それもほんの少し注いで、彼女の手で各〻の前に、すすめられたのみだった。
「おおこれは四川の名茶。田舎者の私たちには、めったにいただけない玉茶だ。なんとも、すずやかな香味ですわい」
「さる高貴なおん方の賜り物です。これがお分りなれば田舎者どころではございません。お目にかかれてうれしゅうございます」
「てまえこそ、近頃の倖せ。お名の高い大夫には、こうしてお話ができたし、またお手ずからなお茶までいただいて」
「ごゆるりと遊ばしませ」
李師々大夫は言ったが、折ふし、わらわらと禿や新造が小走りにそとまで来て。
「大夫さんえ。お上が、裏の御門へお成りでござんすぞえ」
「ま。あいにくな」
と、李師々は、宋江へ、気の毒そうに、
「あすならば、お上も上清宮へ御幸なされて、ここへはお渡りもございませんのに。──どうぞ、これにお懲りなく、また」
と、その雲鬂花顔に、一顧万金の愛想笑みをこぼして、金簪瑶々と立って行った。
宋江たちは、やがて外へ出て、小御街から天漢橋を渡りながら、
「さすが、目にのこるような美人だったな」
と、李師々の噂をしながら、橋畔の樊楼のまえまで歩いて来た。
すると、樊楼から出てきた二壮士がある。酔歩まんさんと、何か歌って行く。歌は、三尺の剣、志をえず、いたずらに泣く──といったような物騒きわまる悲歌だった。
「おや、史進と穆弘じゃないか。こんな人中の大道で」
宋江は舌打ちをならし、柴進はかけ出して、
「おい、ご機嫌になるのも、程にしろ」
と、二人の肩をどやして、たしなめた。
二人は恐縮して、あとに尾いて、旅籠へ帰った。ところが留守のうちに一人部屋へ入ってふて寝をしていた奴がある。こんどの行に洩れた黒旋風の李逵で、無断であとから追ッかけて来たものらしい。
「ごめんなさい」と李逵はあたまをかかえこんで言った。「お叱言はかくごの前だアね。だけどさ、宋先生、もう来てしまったものは仕方がないでしょ。ねえ、来てしまったものは」
「この、黒猿め」
宋江も苦笑のほかはなかった。百八の性は、百八人、その容貌の異なるように違っていたが、まったく、集団生活の規律はおろか、箸にも棒にもかからないのは、この男ひとりだった。
徽宗皇帝、地下の坑道から廓通
いのこと。並びに泰山角力の事
翌晩は上元の佳節、一月十五日の月は、月さえふだんよりも大きく美しく見える。
「おやまあ、よく来たこと。ゆうべの張二さんじゃないか」
「これは、おっかさん、昨晩はどうも……」と、燕青は揚屋構えの朱壁の大玄関に、つつましく腰をかがめて、
「おかげさまで、てまえもすっかりいい顔になり、お大尽もまた、えらいおよろこびでしてね、へえ、都一の李師々大夫にも会えて東京へ来た効いもあったと、たいそうなご満足。ですが、ゆうべは、つい、おっかさんにお礼もせずに戻ったし、いずれ郷里からも何か珍しい物を送らせるが、これはほんの寸志、よろしくと、おことづけを頼まれてまいりました」
お内緒へと、こがねで二百両。楼中へと、べつに五十両、帛紗にのせてそれへおいた。
「あら、これを」
「どうか、お納めなすって」
「まあ、お義理がたいお大尽さま。いまはどちらにいるのだえ」
「河岸を代えて、廓の入口のお茶屋に休んでいらっしゃいます」
「なにサ、まあ水臭い。そこまでお出ででいながら、顔も見せてくださらないなんて。張二さん、はやくお連れしておいでよ」
「だって、いいんでしょうか」
「上元のおまつりだもの。大夫もこん夜はつまらないお客は断わって、あとであたしと飲もうと言っていたところなんだよ」
燕青は、しめたとばかり、飛んで帰って宋江に首尾を話す。もちろん、初めから宋江のさしずであったのはいうをまつまい。
この夜、宋江は、例の柴進と戴宗のほかに、もひとり厄介者を連れていた。李逵である。
だが、その李逵と戴宗は、玄関の供待ち部屋へ残しておいてずっと奥へ案内された。こよいのやかたは、また一だんと、ゆうべの席よりは奥ふかい。
とくに今夜は酒も出て、おかみのとりなしはもとより、李師々の艶めかしい廓言葉も、すっかり打ち解けきっている。
「これも宿世のご縁でしょうか。大夫と口がきけるなんて、夢にも思いませんでした」
「まあ、いやですわお大尽さまは。さっきから妾をまるで天人みたいに仰っしゃって」
「どう見ても、あなたの美しさは、あたりの模様、ここは下界とも思われません」
「銀のお杯はお飽きでしょう。おっかさん、瑠璃杯か、金盃をもって来て」
そこへ、女が小走りに来て訴えた。供待ち部屋にいる〝奴さん〟と、もひとりのお供が、なぜ俺たちも座敷へ通さんかと、当りちらして、手がつけられないというのである。
柴進は聞いて、これは危ないと思った。宋江もすぐ目くばせする。燕青が心得て、すぐ二人を連れて来た。
「あら……」と、李師々は、李逵の風貌に恐れて、宋江の腕にすがった。
「まるでお閻魔さまに仕えている小鬼のようね」
「なあに、あれで気がいい奴だから、なにもこわがることはない。李といって、子飼からのわが家の下僕さ」
「おや、苗字は妾とおなじなのね。わたしはよいが、李太白(唐朝の大詩人)さまは、さぞ……ホ、ホ、ホ、ホ」と、その花顔を袂の蔭につつみながら「ご迷惑がッていらっしゃるでしょうね」
「うまい、よく言った!」
みなどっと笑ったが、ご当人の李逵だけには何の意味か分っていない。
もう次の間で飲み初め、嫉けてくるのか、すこぶるご機嫌がななめである。戴宗も大杯で仰飲るし、柴進も負けてない。いや宋江もめずらしく大酔し、酔うと彼の癖で、筆硯を求め、楽府(絃にのせて歌える詩)の一章を、墨も、りんりと書き流していた。──するうちに、突然、
「お上が、いつもの御門からお見えなされましたぞえ」
と、楼中へ告げまわっている声がした。聞くと、李師々大夫の心はもうここにない容子ですぐ立って行ってしまうし、あとの座敷をかまっている女もいない。
「……叱っ。静かに」
宋江と柴進とは、これを機に、台臨の間の中庭へ忍んでゆき、ほかの面々も、影をひそめた。巷間、その当時の隠れない取り沙汰では、時の風流天子徽宗は、禁中から廓まで地下道を坑ってしげしげ通っていたものと言い伝えられている。
蘭燈の珠の光や名木のかそけき香いが、御簾ごしに窺われる。やんごとないお人の影と向いあって、李師々の白い横顔も紗の中の物みたいだった。そして折々、中庭の暗がりへ男女の囁きだけがこぼれていた。
「天子さま。きょうは、上清宮へお詣り遊ばしたのでございましょう」
「そうだよ、宣徳楼では、毎年、万民の福祉と四季の天候を祈る式があるのでね」
「さぞ、おつかれでいらっしゃいましょう」
「終日、群臣にとりまかれて、くつろぐひまもないからなあ。せめてここへ来て、そなたとこうしている一刻ぐらいが」
「あれ、もったいのうございます。わたくしはうれしゅうございますが」
「いや、ほんとだ。でなければ、画院にこもって、絵筆を把っている日だけだね。自分が自分なりに居られる時は」
「いつかお絵を拝見させてくださいませね!」
「おおそのうちに何か描いてやろう。ま、いつもの葡萄の美酒に瑠璃の杯。ひとつそなたの白い手で酌いでくれぬか……」
中庭の木蔭にかがんでいた宋江は、このとき、胸もはずむ思いで、柴進の耳へ諮ってみた。
「天の与えだ。咫尺へ進んで、直々に、われらの微衷とみゆるしを、おすがりしてはどうだろう」
「いいや」柴進は顔を振った──「まずいでしょう、いい機会ではありますが、ここはその場所でない」
すると、このせつな、どこか別な部屋の方で、
「あっ、何者だッ」
という大喝と共に、どたんと、床を打ったような響きが聞えた。
これは、天子の侍者として、廊のそとにいた楊大臣が、何気なく一室の扉をあけてみたところ、そこに大酔した李逵がふンぞり返って寝ていたので、驚いてとがめると、とたんに、躍り起った李逵が楊大臣の巨きな体を、いやというほど床へ叩きつけたための物音であったのだ。
「しまった」
宋江と柴進とは、とっさに、やかたの外へ走り出したが、時すでに、李逵は楊大臣以下の宮廷人らを相手に例のごとき持ち前の暴勇をふるい出し屋鳴り振動のうちに、過って、どこかでは火を失し、焔、黒煙、その中を、帝は、裏の坑道を、あわただしげにご帰還となった様子──
「火事だ」
「李師々のやかただ」
廓内は、一瞬のまに、大騒動となり、かえりみれば、月の夜空は、火の粉をちりばめ、どこかでは早や、軍隊がうごいている。
かねて、内裏の叡思殿に起った一怪事から、禁軍の警戒は、密々諸方へ手配されていたもので、その総指揮には、かの高俅──すなわち徽宗天子の無二の寵臣、高大臣がみずから当っていた。
「燕青、李逵はおまえがあとから引っ張って来い。ぐずぐずしていると、東華門の脱出もむずかしい」
事実、城門は諸所で閉めかけられていた。宋江の身を案じて、史進、穆弘は血まなこで探しており、朱同と劉唐とは、例の旅籠で待っていた。なにしろ一刻もはやく、城外遠くへ逃げるしかない。
ところが、高俅の兵は、すでに八道の関門から街道の旅籠旅籠の詮議にまで手をまわしており、宋江はいくたびか逃げ道を失った。で、ぜひなく裏街道の陳留県へ道をかえてくると、はからずも、
「宋司令、お迎えに来ました」
という梁山泊からの味方に出合った。
山の五虎ノ将──関勝、林冲、呼延灼、董平など──の一軍で、どうせこんなことも起ろうかと、軍師呉用が、変を見越して、かくは差し向けてよこしたものだという。
「やれやれ、せっかくな都さぐりも……」
宋江は大いに悔やんだ。しかし、あとの魯智深や武松なども、やがてみな、虎口をのがれて、無事に揃って山へ帰り得ただけでも見つけものと思わなければならなかった。
「何事も時が熟さぬうちは成り難い。自然、深く慎んでいれば、やがて天子のみゆるしと招安の沙汰もあるだろう」
そのご梁山泊は、いと静かだった。が、ただひとりこの春日を檻の中で、もがいていたのは李逵である。李逵は罰として、百日の禁足を食い、それが解けて、檻から外へ出されてみると、春は弥生(三月)の花の霞だ。
「あ、あ、あ、あア……。ひでえ目にあわせやがったな……」
李逵は、思うさま大きな欠伸を一つした。
すると、ちょうど、その日のこと。
腰に柄太鼓を挿し、肩から斜に、包みを背負ったいなせな旅商人ていの若者が、すたこら、麓の方へ降りて行くのを見つけ、
「はて。山では見かけねえ身装だが、誰だろう。おやっ、燕青だ。おうい、どこへ行くんだよ。小乙」
と、李逵は飛ぶがごとく追っ馳けて行った。
この三月二十八日は、例年、泰安州東岳廟の大祭で、また例年きまって、有名な「奉納相撲」がおこなわれる。
ことしもまた、その奉納相撲には、鳳州生れの力士で、アダ名を擎天柱といい、相撲名を〝任原〟という者が、弟子、贔屓の旦那など、数百人に打ちかこまれ、
「どうせ、三年勝ちッ放し。今年も山と積まれた懸賞はただもらいさ。すまねえこッたなあ」
と、人もなげな大言を払って、すでに乗り込んでいるという。
燕青は、李逵へ話した。
「癪じゃあねえか。泰州といえば、山東の鼻ッ先だ」
「むむ、そいつは生意気な野郎だなあ」
「だから宋先生と盧俊儀さまにお願いして、おゆるしを得、俺はこれから、その泰岳へ出かけて行くのさ。二十八日の奉納相撲で、天下無敵とかいってやがる任原の野郎を、数万人の見物の中で投げ飛ばしてやったら、さだめし胸がスーッとするだろうと思ってね」
「ちょ、ちょっと待ちなよ」
「なんだい」
「おめえは、浪子燕青とかいって、四川弓を持たせちゃ、巧いもんだそうだが、体ときては、山ではいちばん小ッけい方だ。先はいずれ仁王のような大男だろうに、自信はあるのかい」
「黒旋風、見損なッちゃいけないよ、これでも北京の春相撲、秋相撲には、一ぺんだって、負けたことはないんだぜ」
「よし。万一ッてえこともあらあ。おれが助太刀に行ってやろう」
「まっぴらだ。みんなも言ってたよ。李逵が顔を出すと、ろくなことは一度もないって」
「いや、こんどは俺も考えたさ。百日もお灸をすえられれば沢山だろう。連れて行けよ。なあ燕青。まったくこのところ、世間の匂いも嗅いでいなかったんだ」
すがられると、燕青はあわれにもなって、つい条件付きで、連れて行くことになった。
日をかさねて、泰州に入る。
四山六岳のお社廟を彼方に、泰山街道はもうえんえんと蟻のような参拝者の流れだった。多くは相撲の噂でもちきりである。そして麓町まで来ると「太原之力士、擎天柱任原、茲有」と大幟が立ててあり、幟の下には「拳ハ南山ノ虎ヲ打チ。脚ニ北海ノ蒼龍ヲ蹴ル」と二行に書いた立て札まで建っている。
「ちッ、目ざわりな……」
と、燕青は札を引ッこ抜いて、発矢と、かたわらの岩へ打つけて、叩き割ってしまった。
「やあ、たいへんだ。えらいことをしやがったぞ」
「ことしは、札を叩き割った相手が出てきた」
この噂は、嵐のように、大岳じゅうの人から人へつたわった。
それも、どこ吹く風かの顔をして、燕青は一軒の講中宿に寝ころんでいた。
初めからの条件なので、李逵は病人をよそおって、頭から夜具をかぶったままで口かずも余りきかない。そして相撲の当日も、一切、見物の中でおとなしく見ているという約束なのだ。
そこへ、どやどやと近づいて来た大勢の足音と共に、案内して来た宿の番頭らしいのが、
「へい、へい。関取のお弟子さんがた。その、腰に柄太鼓を挿した若い旅商人というのは、この部屋のお客でございますがね」
「うむ、ここか。おうっ、若いの」
「なんです。人の部屋へ」
「てめえだろう。町の入口で、親方さまの立て札を、叩き割った野郎というのは」
「知りませんね、そんなことは」
「嘘をつけ。見ていた者が大勢あるんだ。大それた真似をするからにゃ、たしかに、任原関取の向うに立って、勝負を挑むつもりだろうな」
「へへへへ」
「何を笑う。やいっ、そいつを確かめに来たんだよ。相撲名は何というんだ。その日になって、どろんをきめ込もうとしても、そうはさせねえ。俺たちの眼が光っているんだぞ」
「もし、お弟子衆──」と、番頭はそばから言った。
「なにか、お間違えじゃありませんか。どう見たって、こんな小柄なただの若造、そして旅商人風情の男が、あの任原親方の、小指にもさわれたもんじゃございますまい」
「ウム、そういえば、そうも見えるな。……おやもう一人、隅で蒲団をかぶっている奴がいるじゃあねえか」
「おうっ、引っ剥いでみろ」
と、ほかの一人が、飛びかかって、夜具をめくッた。
「……?」
李逵は、ぬうっと、顔を上げて、坐り直した。黒奴特有な油光りのしている皮膚に、ギョロと、眼が白く、唇は厚くて赤い。
燕青との約束で、彼は口をきかなかった。それがまた不気味に感じられ、任原の弟子たちはタジタジとした。「どうせ、相撲の当日には、分るこった」「まあ、今日は見のがしておけ」「覚えていろよ」などと口々に言いながら、ごそごそと、いちどに外へ出て行ってしまった。
「ふ、ふ、ふ」
「あははは」
そのあと、二人が手を打って、不敵に笑い合ったのを見て、宿の番頭は、胆をつぶしたように帳場の方へ素ッ飛んで行った。
翌朝燕青は、その番頭をつかまえて。
「任原は、どこに泊っているんですか」
「関取のお宿は、迎恩橋のそばで、門前町でもいちばんの大旅館ですが」
「その迎恩橋というのは」
「もっとずっと、お山に近い中腹なんで。へい、なんでもお弟子衆の二、三百人を、毎日に半日は、えいや、えいや、揉んでやっているということですよ」
「おもしろそうだな。ひとつ見物してくるかな」
「お連れの、黒いお方は?」
「あれは病人だからね、今日もふとんをかぶって留守番だ。そっと寝かしておいてください」
なるほど、迎恩橋まで来てみると、旅館は任の一行で貸切とみえ、旗、幟、牌、造花で縁どられた絵像の額など、たいへんな飾りたてである。
それに裏庭では今、さかんに稽古をつけているところとみえ、歓声、拍手、見物の笑い声など、人の出入りも自由と見えたので、燕青も大勢に紛れて中に立ちまじっていた。
「あれだな」
燕青の眸は、任原だけしか見ていない。
さすが、ちから山を抜く、という形容も不当でなく、大力士らしい貫禄は充分だ。弟子どもに大汗を拭わせながら、床几でひと息ついている様子は、そのまま巨大な金剛像といってよい。
するうちに、弟子のひとりが、彼に何か耳こすりしていた。燕青の顔を見おぼえていた者だろう、任原は聞くやいな、やにわに、砂場の真ン中まで歩き出して来て、猛虎の吠えるようにこう言った。
「片腹痛いが、ことしは俺の牌を割った奴がある。健気な奴だと賞めておこう。あしたはきっと姿を消さずに出て来いよ」
そして、じろと、燕青の方をにらみ、大地も揺るげとばかりしこを踏んでみせた。
燕青は、さっさと、自分の宿へ帰って来た。顔を見ると、さっそくに、李逵は愚痴と不平で、とめどがない。
「もういけねえよ、もう辛抱はできねえよ、いったい、俺は何しに来たんだ」
「いや、あしたは、いよいよ奉納相撲。こんどは、柄になく、よく辛抱をしなすったね」
「じゃ、今夜一ト晩か。飲もうじゃないか」
「うん、飲むのもいいが、少しにしてくれ。はれのあしたを控えている身だ。俺は精進潔斎をしなけりゃならねえ」
宵のうちに寝て、夜半をすぎると、燕青はもう起き出していた。裏へ出て、水をかぶり、湯をもらって、髪に櫛を入れ、持ってきた練絹の白いさるまた、新しい腹巻、襦袢、縞脚絆、すべて垢一つない物にすっぱり着代えて、朝飯をすますやいな、「黒旋風、さあ、行こうぜ」
と、立ちかけた。
李逵もまた、
「そうだ、俺もこいつを持って行こう」
と、例の二丁斧を、取出して手に持った。しかしそれはいけないと、燕青が切に言って止めさせた。──梁山泊の黒旋風と人に感づかれたらすべてぶちこわしになってしまう。
「そうかなあ?」
不承不承、李逵は布にくるんで、それは旅籠の帳場に預けた。──すると番頭を初め、泊り客の三、四十人が、ふたりが鞋の八ツ乳を結んでいる間じゅう、口を揃えて言い出した。
「ねえ、お若いの、悪いことは言いませんぜ、相手は、なンたって、無敵の任原だ」
「あいつに、ぶつかるなんて、犬死にだよ」
「いっそ、物笑いになるだけのことだ。若気だろうが、考え直して、ここから姿をかくしたがいいぜ」
燕青はニコとして言った。
「大勢さま。ありがとうございます。ですがたぶん、山のような懸賞の褒美は、こちらの物になるでしょう。そしたら皆さんにも、晩には、おすそ分けをいたしましょうかね」
「あっ、あんな大口を叩いて行っちまった。……かわいそうに、ちょっと、愛嬌のあるいい若者なのに、またことしも一人、血ヘドを吐くのか」
唖然として、そのたくさんな顔も、やがて鞋やわらじをわれがちに穿き込んでいた。そして泰岳の上ではもう暁をやぶる一番の刻の太鼓につづいて、玲々と鳴る神楽が霞のうちにこだましていた。
飛燕の小躯に観衆はわき立ち、李逵
の知事服には猫の子も尾を隠す事
泰山はこの日、人間の雲だった。わけて東岳廟を中心とするたてものの附近は社廟の屋根から木の上までがまるで鈴なりの人である。
奉納大相撲はそこの嘉寧殿とよぶ高舞台でおこなわれ、例年のごとく、ことしも州の長官閣下とその妻女やら役人だのが桟敷に見え、波のごとき群集はのべつ揺れ騒ぎながら一ト勝負ごとにさかんな喝采や罵声を舞台の力士へ送っていた。
土俵はない。
勾欄を繞らした高舞台そのものが土俵である。
やがてばんかずも進むうちに、勾欄の一角に錦繍の幟が立った。わアっと同時に四山六岳もくずれんばかりな歓声が揚がる──。いよいよ天下無敵と称する擎天柱任原の出場なのだ。見れば嘉寧殿の宝前にも山とばかりこの一番へ贈られた賞品が積み上げられた。
「退いた、退いたア」
露払いの声につづいて、弟子や介添えの大勢をうしろに、やおら任原は舞台の一端に登場した。すぐ腹巻や頭巾を解く。そのそばから弟子は蜀錦の半被を着せかけ、手桶の神水を柄杓に汲んで任原の手に渡す。
がぼ、がぼ……と二タ口三口うがいして、あとの一ト口をがぶりと飲みほした任原は、社廟の奥の灯へむかって一礼するやいな、ばっと蜀錦の半どてらをかなぐり捨てて、
「いで、ござらっせい! 今年のお相手」
と、掌につばして二ツ三ツ打鳴らしながら舞台の真ん中へ歩み出してきた。
髪は紅元結で短くしばり上げ、金の型模様をした薄革の短袴に玉の胡蝶の帯留を見せ、りゅうりゅうたる肉塊で造り上げられたようなその巨体は生ける仁王とでもいうほかはない。
行司役の年寄りがそばからいう。
「東西東西、四百余州の国々からご参詣の皆さまがた。任原関にはご当地でもすんでに二年間の勝ちッ放し。ことしで三年目。来年はもう泰山には見えられませぬ。腕に覚えのある新顔のお相手には、今日一番がさいごの機会だ。さあ、出たり! 出たり、幾人でも名のッて出なされい」
任原もつづいて言った。
「不戦勝ちの只貰いでは、あっしも張合いがねえし、あれへ山と積まれた賞品のお贈り主にも申しわけがごわせん。誰か、この任原へ当ッて来るご仁はないか」
行司がまたいう。
「ここには、南は南蛮、北は幽燕の境におよぶ所までの、相撲好きという相撲好きはお集まりのはず、従って、われと思う大力の衆も必ず中にはいようというもの」
「ええ、焦れッてえ!」と、任原はついに持ち前の豪語のありッたけを吐いた。
「こわいのか。たった一人の角力取りが。なるほど、天下無双の任原と聞いては、皆の衆のオジ毛立つのもむりはないが、なにも、相手と見たらみな腕を折ッぴしょッたり血へどを吐かすとは限っていねえ。よい程にもあしらッて進ぜますだ。こんなに言っても出て来ねえのか。いやさ相手はいないのか」
すると、どこかで。
「ここにいる!」
「やっ、何か言ったな?」
「ここにいるといったのだ。やい任原、あまり世間に人もないような大言を吐ざくなよ」
そのとき、舞台横の小高い所から、人のあたまから頭をまたいで、泳ぐように進んで来た者がある。はやくも床下柱から勾欄をよじ登って来て、
「さあ来い、任原」
とばかり彼の応戦者として立った。
これを見ると、わあっと全山は笑いに揺れた。肉のひきしまった色白な若者だが、背は任原の三分ノ一ほどしかない。しかも一個の素町人らしい。しばらくは嘲声がやまなかった。しかしそれが止むのを待って、やっと行司は真顔で訊いたものである。
「お若いの。お名まえは」
「山東の張ッていう旅商人だよ」
「どういうお覚悟で出なすッたのか」
「覚悟。べつにそんな物ア持ち合わせねえさ。ただあそこにある賞品が欲しいのでね」
「げっ。正気か、哥さん」
「行司さんよ。おめえは行司だけが役目だろうぜ」
「退いた」と、時に任原も横手を振って行司の年寄りを遠くへやって。「──おお若いの。よく出て来た。角力とはどんなものか、望みとあるなら味をみせてやろう。ただしだぞ、首の骨が折れたの、血へどを吐いたのと後でいっても、角力道に泣き言は追ッつかねえのが約束だ。おふくろは合点なのか」
「ふざけるな。勝負はしてみなければわかるまい。てめえこそ、死顔にベソを掻くな」
「よし、いったな、支度をしろ」
「おお、いわれるまでのことはねえ」
燕青は、頭巾を払った。今朝、櫛目を入れておいたきれいな髪──。脚絆、肌着、わらじまで、一瞬のまに解いて丸めて隅の方へ投げすてる。
とたんに海騒のような観衆の鳴りはハタと唾を呑んでやんだ。燕青の真白な肌に藍と朱彫のいれずみが花のごとく見えたからである。任原もまたそれを見て、「──おや、こいつ、ただ者ではないぞ」と、ちょっと、怯気に似た警戒を心に生じたかのようだった。
さて。どうしたのか。
土俵上の、いや舞台のうえの両力士は、いざと見えながら、なかなか取組となる様子もない。なぜかといえば、州長官閣下たちの見える桟敷からとつぜん役人や近習の一ト群れが走り出して来て、
「待った」
と、上意の声がかかっていたからである。
要は、州長官夫人の胸から出たものらしい。健気ではあるが見るからにまだ少年といってもいい花の若者。虎の前へ投げられた一片の肉ほどな歯ごたえも任原には感じまい。不愍すぎる。むごたらしい。若者にはその意気に愛でて賞品の一部だけを与え、退き下がらせよ──というありがたい仰せつけであるという。
「どうじゃな任原、そちに異存はなかろうな」
「ごわせん。だが命冥加な野郎でごわすな。おい若造、お桟敷の方へ向って、三拝九拝して引ッ込め」
「たれが」
「知れたことを」
「気のどくだが、いちど上がった舞台、てめえを叩きつけて、ご見物に得心をつけるまでは、ここを退がるこっちゃあねえんだ。……ええ、お侍さまたち」と、一方へ向っては小腰をかがめ「まことにお情けはありがとうございますが、殿さまにはよろしくお伝え下さいまし。こんな薄汚ねえ獣を、天下無敵の何のと吐ざかせて、この日下を人もなげに歩かせておくわけにはまいりません。へい、男はここに一匹いるのですから」
燕青はどうしても承知しない。のみならず、騒ぎだしたのは数万の見物である。「やらせろ!」「よけいな水はいれるな!」「役人どもは引っ込め」と、喧々囂々、木の実を投げる、石が飛ぶ。まちがえば暴動にもなりかねないような狂気めいた騒ぎだった。
桟敷からはまた、追ッかけの使者が走ッていた。「ぜひもない、引きさがれ」という旨らしい。で一同は颯と桟敷の方へひきあげる。見物はこの様子に、わが意を得たかのごと万雷の喝采を起して、よろこぶこと限りもない。すでに舞台では、任原があらためて屹立していた。対するは、花の刺青。山の如き相手にたいして、なんと小さく見えることか。
行司は、観衆へ向って、もいちど開催を告げ直し、両力士に対しては、相撲道の宣誓文を読み聞かせた。「遺恨を残すまじきこと」「卑怯の手を用いまじきこと」等々、七ヵ条ほどな誓約である。終ると、再び観衆の方へ、
「片や、任原。片や山東の張」
と、名のり触れを触れ渡し、
「用意ッ。見合ッて!」
と、先がササラになっている青竹で舞台の床を大きく叩く。さっと、それが阿呍のあいだに上がるのが合図だった。
いちめん、狂瀾のような声がわき起った。見物はまったくもう酔ッているのだ。任原の巨体はいきなり飛込んできた燕青の体を脇の下に抱きこんだまま身ゆるぎもしていない。ジリと二、三寸は踵がうごくかと見えただけである。刻々と、燕青の皮膚の色が変っていた。見物はそろそろ案じだした。このまま息のねを止めてしまわれるのか。相撲もこれだけのもので終るのかもしれない、と。
が一瞬に、二つの体は相搏ッて反りあっていた。燕青の仕掛けが効いて、さしもの任原も腰をちょっと浮かせたらしい。間髪、さらに隙を突いて、燕青の肩か頭が、相手の鳩尾へ体当りを与えたかと思うと、任原は二ツ三ツしどろ足を踏んでよろけた。観衆がわーッとよろこぶ。任原は吠えた。猛虎の勢いで、
「うぬっ」
と、つかみかかったものである。
しかし燕青はむしろ相手自体の動力を待っていたのだ。身を低めるやいな任原の体を肩ぐるまにかけて投げとばした。が、任原もさる者、片足でよろめき止まって、奮然とふたたび躍りかかる。するとまた一方は、飛鳥と交わす。そして戸惑う大きな臀を突き飛ばした。もう任原は逆上気味だ。何度目かには、燕青を腹の下につかまえた。燕青は盤石の下の亀の子にひとしい。ところが、岩盤は四肢を伸ばして宙へ持ち上げられていた。燕青が担ぎ上げたのだ。信じられぬような怪力である。ダ、ダ、ダッと燕青の足が床を鳴らして走った。そして高舞台の勾欄の端から下を臨んで、
「勝負あった! 勝負は見たろう! くたばれッ任原」
と、叩きつけた。
そこは最も高床の懸崖だった。投げられた任原はクシャッと一塊の肉と血飛沫になったきりで動きもしない。仰天したのは万余の見物だけではない。任原の弟子数百人は、一瞬、呆ッけにとられていたが、
「野郎っ。逃がすな」
たちまち、燕青のまわりをおおいつつんだ。素早い奴は、早くも懸賞品の山へむかって掠奪に殺到する。また桟敷そのほかも総立ちになる。
あとの格闘と混乱はもう形容のしようもない。──燕青危うしと見るや、さっきからすぐ舞台わきにいた黒旋風の李逵が、
「さあ、こんどは、俺の出番だ」
とばかり躍り出して、以来、我慢に我慢をしぬいていた持ち前の暴勇を奮い出したからでもある。彼と燕青が駈け廻るところ、まるで人間の木の葉旋風が飛ぶようだといっても決して過言でない。
すると、どこからともなく、
「梁山泊だ、梁山泊の人間だ。さっきの若いのも梁山泊だったに違いないぞ」
という声が嵐のように立ち初めた。それも当然で、この時、群集の中を割って、かねて燕青の身に万一があってはと案じて山寨から密かにこれへ来ていた──玉麒麟の盧俊儀、九紋龍の史進、魯智深、武松、解珍、解宝などの男どもと手下が、いちどに姿をあらわして、「もうよい、ここの目的は達した、一時もはやく山泊へ引きあげろ」と、殺傷を避けるべく、ふたりを守り囲んで泰岳の麓へ走り出していたからだった。
けれど燕青と李逵とは、旅籠に預け物をおいてあるので、
「それを取ってすぐ追いつきます」
と、途中で別れ、そして燕青だけは、すぐ仲間の一行に加わったが、どうしたのか、李逵だけは後ろに見えない。
すでにこの時、州長官の手勢と役人たちは、梁山泊の徒とあっては聞き捨てならず、全山の警邏を招集して、四方に配備を布いていた。ぐずぐずしていれば県道の城門を閉められる惧れもある。盧俊儀は李逵一人にかまってはいられないと思った。
「どうぞ、ご一同は先へ行ってください」──言い出したのは穆弘である。「どうせ、李逵のこと。何か道草を食ってるに違いない。てまえが探して連れ戻ります」
「たのむ」
と盧俊儀たちは、穆弘にあとをまかせて、一ト足先に梁山泊へ引き取った。
ところで一方の李逵は、例の、二本の斧を旅籠から受け取って両手にぶらさげ、いつか道を間違えて、寿張県の役所の前へ来てしまった。まるで方角ちがいへ来たのだから後から慕って来る捕手もない。それにちょうど午飯時か、役所の門を覗いてみると、ここはいたって、しんかんとしていた。
「ほ……。飯時か。道理でおれの腹も減っている」
のそりのそり、彼は中へ入って行った。
「ここは空家か。人間はいねえのか」
李逵は、両の手の二丁斧を卍形に持って、役所の玄関口に突っ立った。
出て来たのは受付の小吏らしい。一ト目見るや腰を抜かしかけた。寿張県は梁山泊の所在地から最も近い町なので、黒ン坊猿の李逵といったら誰知らぬ者はない。何もいわず、もんどり返しに小吏は奥へ逃げこんでしまった。
「ちぇっ……」と、李逵は舌打ちして「なんで俺を見て逃げやがるのだ。おういっ、役所中の小役人ども、黒旋風李逵さまのおいでだぞ。なぜ首を揃えてお出迎えに出てうせねえのか」
廊下をずかずか、右、左をねめ廻して通って行くが、李逵と聞いただけで、書記室も登録局も白洲の控えも、急にそれまでの笑い声や雑談を消し、猫一匹いるような気配もしない。
「よしよし、どいつもこいつも、挨拶に出て来ねえな。……ふうむ、ここが知事室か。知事はいるだろう」
扉を排して、内へ入った様子である。
あっちこっちの隅に、ふるえ上がって隠れていた役人たちは、そっと首を外へさしのばして、
「おや、黒ン坊猿、何かごそごそやってるぞ」
「知事閣下はどうしたろう?」
「いやな奴が来たとばかりすぐ裏門から馬に乗って官舎の方へ消えちまったさ」
「そいつはよかった」
「よくはないよ。李逵のことだ、ただは帰るまい。こっちはどうする?」
「そうだな、放っておいたら暴れ出すかもしれないぞ。いや、呼んでる呼んでる。余り怒らさないうちに誰か三、四人行ってみろ」
恐々と逃げッ尻を揃えて李逵のいる一室を窺ってみると、なんと李逵はそこらにあった革梱のふたを引っくり返して、緑袍の知事の官服を出してすっかり着込み、腰に革帯佩剣を着け、足にはこれも官人用の皀靴、そして手に、槐の木の笏をにぎって、
「はてな? まだ何か足らねえな。そうだ帽子帽子」
と、冠掛けに見えた冠をつかんで、無理に頭へ冠っていた。そして、がたんと足で次室の扉を開け、
「ははあ、これがいつも知事がいる卓だな。なるほどこいつア悪くない」
と、椅子にかけて、頬杖ついた。
見ると、印鑑筥がある、書類がある。李逵は官印の一つを取って、ぽんぽんと書類を問わず次から次へ捺し初めた。しかしそれにもすぐ飽きて官印を抛り捨てると、
「こらっ、誰かおらんか。書記、監察、どいつでも目通りへ罷り出ろ」
「うへっ。な、なにか御用で」
「なんだ逃げ腰を浮かせやがって。やいっ、弁当を持って来い、弁当を。わが輩は空腹なのだ」
「へいっ」
と役人たちはむしろほっとした。まずまずそんな程度ならとさっそく昼飯を卓に供える。すると李逵は、一目見て、
「気のきかんやつだ。酒を持て、酒を」
と、呶鳴る。その量がまた、ちょっとやそっとの酒量ではない。運んで来るそばから碗を傾けて、およそ一斗も飲んだろうか。気がすむと今度はたちまち飯をがつがつ平らげて、ゆらゆらと立ち上がり、
「こら一同の者、法廷へ出ろ。一匹でも逃げ隠れなどすると、引きずり出して首を捻じ切るぞ」
と、破れ鐘のような声でこうご託宣をくだしたのである。そして彼は広間の法廷に出て、壇の中央にある知事席に腰をすえ、大真面目で、槐の笏を胸のまえに構え込んだ。
炊事場の爺や婆やから小使、書記、諸役人らは仕方なしに、みなぞろぞろ来て壇下の床に首を揃えて平伏した。李逵は突如、本ものの県知事閣下になったような気がして来たらしい。睨み渡して、
「一同っ」
「へへい」
「どうだ、似合うか。俺の官服姿は」
「ようお似合いでございます」
「ところで、これから裁判を開くぞ。みんな面を上げろ。この中に泥棒がいるだろう」
「じょ、じょう談ではございません。てまえどもはみな役人で」
「わかっておる……だが泥棒がいなくては裁判にならん。うむ、前列の四番目におる奴、きさまは人相が悪い。召捕れッ。こら、なぜ縄をかけん。庇う奴は同罪だぞ」
「あっ、ど、どうぞおゆるしを」
「だまれっ。おかみのご威光もおそれず、なんじは到る所で強盗を働いたろう。そもそも法律を何と心得るか。この生れ損いめが! 盗ッ人野郎、きさまのような奴を人間の屑というのだ……」
と、威猛高に卓を叩いて罵ッたが、
「いけねえ、どうも少し俺に縁がありゃあがる。放してやれ。泥棒ばかりが悪党じゃねえや。裁判は止めたよ。さあ退け退け」
蹌踉と彼はその身なりのまま往来へ出て行った。空腹へ入った昼酒がまわって、すこぶるいいご機嫌のていである。──役人や捕手は物蔭から首を出して見送っていたが、ゆらい梁山泊の近県では泊中の手なみを知っているしまた飢饉などの時には逆に助けられてさえいるので、官民ともに積極的な敵意は持たず、いわば触らぬ神にたたりなしとしていたのであった。
「おや、寺小屋だな。こいつはなつかしい」
童蒙村塾とある一家屋を見かけると、李逵はそこへも酔狂に入って行った。驚いたのは先生であり学童たちである。蜂の子みたいに騒ぎかけたが、
「しずまれ」
と、李逵は槐の笏で号令をかけながら教壇へ上った。
「おい、きみが教師か」
「はっ、さようで」
「俺がわかるか」
「へ?」
「わかるかよ、この俺が」
「どこかの、知事さまで」
「そうだ、そうだ。今日は一つ小学塾の視察に来たんだが、なにを今、教えていたのか」
「神農の話を聞かせておりました」
「神農とは何だ」
「天地の始めに人間たちへ病を癒す薬草や喰べ物を教えてくれた仙人なので」
「古い古い。そんな講釈よりは、おお、みんなの机の上に筆硯がおいてあるじゃないか。習字をさせろ」
「はっ、いま習字は終ったところですが」
「いいからさせろ。そうだ、そこの壁に大きく黒旋風とお手本に三字書いて、子供らに書かせるがいい。おれも習うから」
「へえ。黒旋風とは」
「俺の名だよ。俺はまだつい自分の名が書けずにいるから、ちょうどいい。ここで一つ覚えて行く」
李逵は空いている一つの机に向って本気で手習いをし始めた。それを見ると子供たちは忽ち組しやすいおじさんだと見たか寄ッてたかってキャッキャッと笑い出した。字にも何にもなっていないからである。
「こいつら、なにを笑う」
李逵は墨をぶッかけた。すると学童たちは、俄然、このおじさんへ向って恐い物知らずに筆や墨汁を投げ返して来た。椅子、机はひっくり返る。
李逵は足を拯われて転ぶ。先生は右往左往する。
子供らは手を叩く。近所では何事かと往来へ飛び出す。──こんなところへ、ちょうど穆弘が通りかけて、ここにいたかと、李逵を塾から引っ張り出して、酔歩まんさんたる彼の腕を小脇にかかえ、遮二無二、山寨へ連れて帰った。
「なんだい、李逵か、あれは?」
「まるで知事の化け物だ」
泊中では、彼を見る者、笑わぬはなかった。
すでに燕青もまた盧俊儀以下の者も、みな山上の忠義堂に帰っており、そこへ穆弘に伴われて来た李逵を見ると、腹が立つよりはまず腹を抱えて笑わずにいられなかった。
「李逵か。百日の禁足が解けるやいな、誰にも無断でどこへ行っていた?」
宋江から一喝の叱言をあびると、もう酔いもさめはてていた李逵は、さすがに悄れ返って平あやまりに謝りぬいた。また百日の禁足でも食ってはと、いつもの彼の元気もない。燕青は見て気の毒になり、しきりにとりなしをしてやると、盧俊儀もまたそばから言った。
「穆弘の話を聞くと、珍しく李逵は一人の人間も殺めず、いつもなら血を誇って帰るところを、今日は学童たちに墨汁を浴びせられ戻って来たそうです。彼としてこれは善行の方でしょう。賞めるわけにはゆきませんが、まあ、今日のところはゆるしてやってください」
初めて、一同は目をみはった。なるほど、よく見ると、李逵の顔は墨だらけだ。しかし、ちょっと分らないほど彼の地膚も黒いのである。宋江はつい吹き出した。すると李逵も白い歯を出して笑った。
これでは罪を責めて折檻のしようもない。
珍しいのは李逵の神妙さばかりでなく、ここ梁山泊の浅春二タ月ほどもめずらしい。泊中はなんとも毎日なごやかで、水寨に矢たけびなく、烽火台に狼煙の音もしなかった。しかし、中央から地方へかけて官軍のうごきは、決して万里春風の山野、そのままではなかった。
底本:「新・水滸伝(一)」吉川英治歴史時代文庫、講談社
1989(平成元)年6月11日第1刷発行
2013(平成25)年2月1日第41刷発行
「新・水滸伝(二)」吉川英治歴史時代文庫、講談社
1989(平成元)年6月11日第1刷発行
2012(平成24)年8月1日第39刷発行
「新・水滸伝(三)」吉川英治歴史時代文庫、講談社
1989(平成元)年7月11日第1刷発行
2011(平成23)年5月6日第38刷発行
「新・水滸伝(四)」吉川英治歴史時代文庫、講談社
1989(平成元)年7月11日第1刷発行
2011(平成23)年6月1日第37刷発行
初出:「日本」講談社
1958(昭和33)年1月号~1961(昭和36)年12月号
※「おしッこ」と「オシッコ」、「ちぇっ」と「ちぇッ」、「ひぇっ」と「ひぇッ」、「暮らし」と「暮し」、「二挺斧」と「二丁斧」、「灯火」と「燈火」の混在は、底本通りです。
※「玉麒麟」に対するルビの「ぎょっきりん」と「ぎょくきりん」の混在は、底本通りです。
※底本各巻末の註解は省略しました。
入力:門田裕志
校正:トレンドイースト
2018年12月24日作成
2019年2月16日修正
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