源頼朝
吉川英治
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「佐どの」
「佐どのうっ」
「おおういっ」
すさぶ吹雪の白い闇にかたまり合って、にわかに立ち止まった主従七騎の影は、口々でこう呼ばわりながら、佐殿のすがたを血眼でさがし始めた。
「見えぬ」
「お見えなさらぬ」
「つい黄昏時、篠原堤へかかる頃まではたしかに、われらの中にお在したものを」
暗然と、求める術を失った眼は、ただむなしく、十方を掃いてゆく白魔の暴威にばかり奪われてしまう。
「……もしや敵の手に」
誰も皆、ひとつ憂いに囚われて、一瞬ほどは、眉にも睫毛にも、兜の緒にも鞍つぼにも、雪の降り積るにまかせたまま、駒首寄せて声もなかった。
平治元年の十二月だった。
きのう二十七日の朝から、京都に大乱の起ったらしい事は、この近江の国にもはや知れ渡っていた。四明ヶ岳や逢坂の山の彼方に、終日、黒煙が立ちのぼって見えたので、四年前の保元の乱の時よりも、こんどの合戦は大きかったにちがいないと、湖畔の駅路や宿々では伝え合っていたところへ、
(──六波羅殿のお布令ぞ。源氏の与党と見たら、捕えて突き出せ。義朝の一族と見かけたら道を通すな)
と、平家の武士や、宿場の沙汰人たちが布令て来たので、戦争の結果も、さてはと知れ、落人や追討ちに係り合うて憂き目を見るなと云い合わせたように、二十八日の夕ともなれば、どこの宿場でも野辺の部落でも、かたく戸閉して、榾火の明りすらも洩らしている家はなかった。
「……ぜひもない」
やがて。
左馬頭義朝は、憮然と、諦めの声をもらした。佐殿の父である。
年ごろ三十七、八。この中でも、眉目のすぐれていることや、黒桃花毛と名のある名馬に跨って鞍負けせぬ骨づくりなど、一目にもそれと知れよう。諸国の源氏の長者であり、六条河原の合戦にやぶれる最後までは、まだ千余の兵や、旗本の一族に守られて、
(この君なくば)
と、頼みに仰がれていた人だった。
都を落ちる時は、それでも同勢三、四十人は連れていたが、人目立つため、暇をやって別れたり、討たれたり……、深傷のため落伍する者もあったりして──勢多を越え渡った頃には、父子と主従、わずか八騎となっていた。
顧みて今、義朝のまわりを見まわせば、十九歳という長男の悪源太義平、まだ十六の次男朝長の骨肉たち。
郎党では金王丸、鎌田兵衛正清、平賀義信などであったが、このうちにいたはずの義朝の三男で、ことし十三歳になる右兵衛佐頼朝のすがたが、いつのまにか見失われてしまったのであった。
生捕られでもしたか。
雪にでも埋もれ去ったか。
気丈な公達とは郎党たちも信じているが、何といってもまだ十三といっては身なりも小さい。それにまた、義朝にとっては、嫡男義平よりも次男の朝長よりも、最愛な御子であったものを──と人々はこのまま千丈の雪に埋もれようとも、探し出さないうちは前にも進めぬ心地で果てなく立ち迷うていた。
すると義朝は、
「もうよい。先へ急ごう。わしが子だ、生きるものなら独りでも生きて行こう。死ぬものなら死ね、ぜひもない」
云いすてて、心づよくも、黒桃花の手綱を持ち直し、伊吹の麓を見て歩みだした。
──捨てて行け。
義朝の一語には、誰も彼も、意外な気もちに打たれた。
常日頃は、子に甘すぎる頭殿よと云われる父親であったのに。
わけて佐殿は、目の中へ入れても痛くないほどな可愛がりようで、こんどの合戦に際しても源家重代の「源太ヶ産衣」という鎧と、「髯切」の太刀の二品をば、嫡男の義平にも次男の朝長にも与えずに、
(初陣なれば──)
と、わずか十三にしかならぬ三男の佐殿に譲られたほどな愛し方であったのである。
その御曹司のことゆえ、さだめし義朝が先になって、
(後へもどろう)
とか、
(手分けして尋ねよ)
とか、狂おしいばかりな下知をなさるかと思いのほか、吹きすさぶ雪より冷たく、
──捨てて行け!
と、自身もう先へ駒を急がせているのである。郎党たちは、その姿に、なおさら眼を熱くしてしまったのであった。
頭殿──義朝の心は推しはかるに難くない。
六条河原にはたくさんな一族や味方の兵を死なして落ちて来た敗軍の将である。わが子の生命だからとて、それと変る立騒ぎを見せる理由はすこしもない。
なおまた、今、頭殿の胸をいっぱいに占めているのは、ひとり右兵衛佐頼朝やそのほかにもある子等の事などではなく、源氏全体のこの頽勢を、
(どう盛り返すか)
の画策であった。大きな責任感と、やわかこのままには、と思い募る無念さであった。
ひとまず西美濃の海道筋にあたる青墓の宿まで辿り着こう。宿場の長者で大炊という者の娘は、延寿といって、さる年頃目をかけた女性で、自分とのあいだには、夜叉という女の子まで生した仲である。尋ねて行けば親どもも、すげなくは扱うまい。
そして、それからだ。
長男の義平は、東山道の源氏を催して攻めのぼれ。次男朝長は、信州路へ下って、甲斐源氏をよび集めるがよい。自分は坂東一帯の同族を召集して、東海道からふたたび西する。三道から一挙都を衝こう。
あの清盛、重盛の父子などにも、きょう自分たちの歩んだ千丈の雪と敗軍のみじめな道とを、踏ませてやらねば心の済むものではない。武門の長者として生ける面目があるものではない。鬼神ともなれ。
頭殿の胸は、それらの事で、燃えきっておらるるのだ。だから形相もまったく日頃のものではない。心のうちを推し計るも、余りに傷ましく涙ぐましい。
「…………」
郎党たちは、そう分っているだけに、何と慰めることばも知らず、黙々と、黒桃花の尾や馬蹄に煙る粉雪の旋風に、兜の前立をうつ向けがちに従って行ったが、そのうちに一ノ郎党、鎌田兵衛正清が、
「殿っ。──殿っ」
と、前なる無言の人を呼びかけて、そして云うには、あなた様のお胸は知らず、正清としてはどうにも諦めきれぬ、一足お先へ行って下さい、自分ひとり駈け戻って、佐殿のご生死を見届けて追いつきまする。
聞くと、義朝は、
「そうか。ムム、そうか」
吹雪の中に、駒首を向け返して、満足そうに、しかも大きく頷いた。
鉄甲に鎧われた氷の皮膚の下にも、やはり親の血は熱く沸っているのだ。そう覚ると、郎党の金王丸もまた、鎌田正清につづいて、
「殿っ。てまえにも、ここでお暇を下さい」
と、何思ってか、突然さけんだ。
義朝は、しばし考えているふうであったが、金王丸がかさねて、
「おねがいです。もいちど京へ立ち戻り、かの御方達の安否をたしかめました上で、再びお後を慕い東国へ馳せ下りますれば──」
何か、眸も燃ゆるばかり、切な情をこめて訴える声に、義朝も、
「よしっ、行け」
と、遂にゆるして、わずか四、五騎の残る面々と共に、雪けむりのうちへ遠く駈け去ってしまった。
見送ってから。
鎌田兵衛正清と金王丸のふたりは、すぐ道を西へ取って返し、途々も、
「佐殿ようっ」
「佐殿はおわさずや」
と、人影は見なくても、もしや、雪の下に埋もれておりはせぬか、田にでも転び落ちておいでではないかと、雪へ呼び、風へ呼び、野面へ呼び、やや二、三里も探して来た。
「兵衛どの」
「おうっ。何か」
「残念ながら佐殿のほうは、あなたへお探しを任せますぞ。ここは森山宿の追分、てまえは京へさして急ぎますれば」
別れて行きかける姿へ、
「金王。金王」
「はい」
「しばし待て。あの山陰に、小屋らしき物がある。猟師どもの獣小屋かも知れぬ。あれまで──」
兵衛正清はそう云って先に駆けた。獣小屋を窺ってみると人気はなく、土間には土を掘った炉穴に榾の燃え残りがいぶっている。辺りの薪をくべ足し、腰をおろして、
「金王。おぬしは、京へ戻るというが、都の内には、平家に降を乞うて、生き長らえておるような腰ぬけはいざ知らず、源氏と名のつく者は、一人だに、陽の映す下は歩けぬ世となり終ったが……そうした危うさを合点で行くのか」
「元よりです。乱後まだ一日か二日、洛内の余燼もいぶっておりましょう。勝ち誇った平家の武者ばらの気も立っておりましょう。けれど十分、心して、敵の目をぬけて紛れ入るつもりであります」
「そして?」
「その先の事ですか」
「されば……おぬしの仰せつかった使命の的は、およそ察しはついておるが」
「いや、そのお使いは頭殿から仰せ出した儀ではありません。お口にだに洩らさぬだけに、お胸のうちを察して、この金王から途々何度も申しあげ、ようやく、ではとお許しが出たので参るのです」
「よくぞ気づかれた。われら源氏という者の一門は今日亡び去っても、明日へながれる血は亡びぬ。その一脈のお血につながる可憐しきお人や幼い方々が、まだ都には残されておざったな」
土間炉の榾が燃えてきた。
燦として、二人の具足や太刀金具が光を放つ。それにつけて満身の雪も滴々としずくして落ちた。いや二人の涙はそれにまさるものがあった。
「…………」
頭殿にはこんどの合戦に伴った若武者の、男々しい子たちのほかに、まだ母の膝も離れぬ幼いのが、よその館に三人もいた。
その母なる人はもと九条院の雑仕女であった常磐御前で、深窓の女性ではないから、平常でも世間にはつつましく、一族の晴れ事などにも余り姿を見せず、葉がくれの寒椿の花の覗けば紅きがように陰住居していたが、すでに左馬頭義朝とのあいだには、ことし七ツになる今若、五歳の乙若、そしてまだ乳恋うさかりの牛若と、男の子ばかり三人の和子を生していたのであった。
長居は心がゆるさない。焚く榾の火もあまり過ぎては、暖に馴れて、かえって後が辛いし、人目を招く惧れもある。
ふたりはやがてまた、獣小屋を捨てて騎を急がせていた。そして以前の岐れ路まで来ると、
「では、金王」
「兵衛どの」
改めて、無量の思いを、呼び交わしつつ、
「行く先のご無事を祈り申しておるぞ。常磐さま始め、おちいさい公達たちのご先途、くれぐれも頼み参らすぞ」
「心得て候」
金王は、頼もしげに、そう答えてからまた、
「この辺りとて、油断はなりません。お身様にも、心なさりませ。──少しも早く、佐殿とお出会いなされて、先なる頭殿を追い、つつがなく美濃路へお遁れあるように」
「おお。ではまた、いつの日か、東国で会おうぞ」
「はっ。おさらば」
「さらば」
ひとりは西へ。
また、辻を東へと折れた兵衛正清は、琵琶の湖を左に見ながら、ふたたび佐殿の影を彼方此方さがし求めた。
けれど、右兵衛佐頼朝のすがたは、ついに、朝までも見出すことができなかった。
* * *
何処で父や兄や郎党たちの群からひとり下がったのか、頼朝は気がつかなかった。
雪にふさがれたまま凍りついたような瞼を、はっと開いて見ると、いつの間にやら父も見えない。兄や郎党たちもいなかったのであった。
「さては遅れたか」
頼朝は、にわかに駒を鞭打った。
彼の驚きと共に、駒も驚いて、突然、まっ白な旋風を起して狂奔した。
しかしわずか急ぐとすぐ駒は疲れた。彼も疲れた。心細さもない、愛慾もない、怖ろしさもない。
ただ睡たかった。
彼はまだ十三の童子武者であった。源氏重代の紺おどし「源太ヶ産衣」の具足をよろい、髯切の太刀を横たえ、逞しい鹿毛の鞍にあるために、一かどらしくは見られるが、何といっても、まだ十三歳であった。
「……睡たい」
慾も得もなく思う。
鞍腰と手綱の手は、自然、凍りついたように無意識な調子をとっているが、頭脳はまったく行く道になかった。白い天地と同じように、頼朝の頭脳のなかも、ただ白かった。──白い、白い、果てなく白いものを夢みつつ揺られていた。
思うに。
彼はこんな状態を、きょうは何度も繰返していたにちがいない。その間に、父義朝や家人の群から迷れてしまったものであろう。わずか十間か二十間も隔てると、もうお互いの姿も見えない白毫の霏々紛々なのだ。それに道とても、一足おくれれば、西したか、東したか、馬蹄の痕形もないのである。
──佐どのうっ。
──佐殿うっ。
しきりと自分を呼ぶ気がする。頼朝ははっと眼をひらく。きれいだ! 実にきれいなと思う雪ばかりである。
駈けても、人影一つない。止まっても、人間のにおいもせぬ。白一色だ。人の気もない世間とは、こんなにも美しいかと思うばかりである。
頼朝はまたいつか、馬の上で、うとうと居睡ってしまうのであった。
元、いずれの家人の成れの果てやら、森山の宿に、源内兵衛直弘とよぶ怖らしい牢人者が住んでいた。
昼のうちこの辺りまで、六波羅の武士が来て、宿場の長や、沙汰人どもをあつめ、訓示して去ったことばには、
「左馬頭の一族、そのほか源氏の家人どもが、飢えに糧を求め、矢傷に薬を乞いなどして見えたる折は、親切顔して、小屋へ入れよ、入れ置いてすぐ、地頭へ訴え出るなり、沙汰人や地侍たちで力を協せ、縛め捕ってつき出すもよろしい。──いずれにせよ、用捨すな。匿うたら断罪に処するぞ。またよい落武者討ち取って、首を証しに持参なせば、それも由々しい汝らの出世となろう。一代富貴の基ともなるほどなご感賞にあずかるあずからぬも、この折だぞ」
と、あった。
人は待春とか年暮とかいえ、源内兵衛は秋からの布子一袖。洟たれの子、しらくも頭の子、ひかん病みの子、乳の出ぬ乳に泣く子と吠える女房などの住む茅ら屋から、この布令を知ると飛び出して、
「春の跫音が聞えるぞ」
と、裏藪の竹を伐った。
削いだ切っ先へ油を塗り、猪追い眼を光らして、昼間から諸処をうろついていたが、春の跫音は眼には見えない。
夜になった。
吹雪の小やみに、時々、青い月かと思うような空明りが映す。犬のように、宿場端れをのそのそと雪沓で踏んで来ると、
──がさっ。
と、町屋の厩で物音が聞え、馬のうしろで二本の長柄刀の刃が光った。
「……だ、誰だっ?」
すくみ腰は双方でしていた。
やがて、見さだめてから、
「源内じゃあないか」
馬糧の中から出て来たのは、これも宿場の牢人どもで、きょうの布令に、ふだんの懶惰を一蹴して、寒さも睡さも忘れている仲間だった。
「どうだ」
「なにが」
「いい首でも拾わなかったか」
「まだ、まだ」
「はて。……雁ばかり飛んでいやがる」
喞ち合っていた時だった。
その雁の群が、湖畔のほうへ斜めに落ちて行くのをぼんやり眺めていると、三名のすぐうしろを、一騎の武者が、極めて静かに通って行った。
駅路は雪が掻いてある。両側とも廂へまで届きそうな雪の山だった。その雪越しに、馬上の半身だけがちらと見えたのである。
「……やっ?」
「叱」
長柄刀と竹槍は、雪の山へへばりつきながら、後を尾けた。──だが騎馬の武者は余りにも平然としていた。落武者らしい恟々した気くばりも見えないのだ。
「何だろう、あいつ?」
「おや。居眠っていやがる」
かえって三人は躊躇った。
しかし、姿がゆるさない。忽然と下界へ墜ちて来た一つの星みたいに見えた。それが、「源太ヶ産衣」や「髯切」の燦爛とは知るよしもなかったが、何しろどこか粧装が違う。
これだ。由々しい出世のつると云われたのは。春の跫音もこれに出会う虫の知らせだ。──のがすな、ぬかるな。──眼くばせし合って、まず源内から雪の山を躍りこえて往来へ飛び出た。
「待てっ、公達」
「…………」
右兵衛佐頼朝は、がくと、愕いたように振向いた。
見つけない男が、竹槍を向けて何か云った。他にも、長柄刀を持ったのが二人ほど、自分のほうを睨んでいる。
さすがに、遠くからである。うかと、近づいては来ないのだ。頼朝は、
「なにか」
とも云わなかった。
怖いという気もそうしない。槍や長柄刀は血ぬられたのを飽きるほど戦場で見たばかりだからである。それを下人ずれが持って踏ン張ってなどいても、蟷螂のようにしか見えなかった。
「御曹司、耳はないのか」
「…………」
「いずれから来て、いずれへ渡らせられる。無用な事。この先とも、遁れる道などはない。──粥なと食わそう、馬を降り召され」
「…………」
頼朝は、依然、押し黙ったまま馬をやりかけた。
「やいっ、待たぬかっ」
源内兵衛は、もうこの獲物を取った気がした。飛びかかって突っかけた。頼朝は駒の平頸へ抱きついた。駒は高く脚をあげたまま狂いながら後へ退がった。
竹の柄は雪にすべる。どこか突いた気はしたが相手には応えがない。源内兵衛は焦って、竹槍を投げすて、腰の野太刀をひき抜いた。そして狂い旋る駒の鞍わきを追い廻して、
「うぬっ」
振りかぶると、馬上、
「痴れ者かな」
と、頼朝は初めて口を開き、髯切の太刀の抜きざまに、無我無心、源内兵衛の素頭を払った。
眼の前に起った獣のような絶叫と、どす黒い血の噴騰に、頼朝自身すらびっくりした。はっきり眼が醒めた心地だった。
「降りろっ」
まだ云っている。それは、長柄刀片手に、馬の口をつかんで離さない男である。
鞍腰上げて、
「下司っ」
と、馬額をのぞき越しに斬り下げると、男は跳びのいたが、肘から先を失って、わっと転げた。
雪に拡がった血の傘は怖ろしく大きく見えた。残る一人の長柄刀はもう近寄りもし得なかった。その怯み面へ、
「寄るか!」
と、頼朝は叱って、太刀の平は馬の尻を打ちたたいていた。
血を見たせいか、馬もにわかに悍気を震い立って、まるで雪神でも翔けるように、雪風を裂いて走った。
急に頼朝は怖くなった。
父はどうしたろう。兄は、一族たちは。
頼みの乗馬とも、翌る日は別れなければならなかった。雪に脚を折ったのだ。徒歩となれば、具足は重い。それに人目にもつくので、重代の太刀も鎧も、馬と共に捨てて、身軽になって歩いた。
二十八日の夜の頃は、もう自分でも何処を彷徨っているのか覚えなかった。頭も寝不足でしんしんと痛い。耳も頬も触ってみても自分のものの気がしない。父や兄達の事すら、考えられない程だった。ただふしぎに戦場の有様だけは頭脳から消えなかった。眼をふさぐと、六条河原あたりから御所の間近まで焼けたその日の炎や黒煙が見えてくる。じんじんと、太刀ひびきや矢唸りも耳の底から甦って来る。何度も足に躓いた首のない胴だの、足のない屍などもありありと思い出される。
怖くない。怖いなどというそんな浅いものではない。
(戦争って、こんなものか)
と、頼朝は思うだけだった。そしてそんな幻想と思い出に取憑かれながら、彼の夢は、その晩江州浅井の山里の、誰が家の小屋とも知れぬ戸もない廂の下に、柴薪や漬物桶などの間に挟まって、深々と睡り落ちていた。
夜が明けると、その家の主らしいのが、炉にくべる薪を薪納屋へ取りに来て、非常な愕きに打たれた顔した。
「嬶。ちょっと来てみい。……いそいで。いそいで」
彼の妻も、厨から出て来て、主と共に首をならべて、そこをさし覗くと、息も止ったように眼をみはった。
薪の間に臥していた頼朝は、夜明けも知らず睡っていた。破れ廂の氷柱越しに、朝の光がその寝顔にさしていた。
白砡に彫った仏像みたいにその寝顔は気品にかがやいていた。やや面長で下膨れの豊かな相形である。何の屈託もないような鼾すら聞かれた。
「どこの童であろ? ……。何処から来て、こんな所へ」
ため息つくように、やがて主がつぶやくと、妻は、彼の耳へ口をよせて、猫や鳥にも憚るようにそっと云った。
「落人の子じゃろうが」
主は恟っと思い当った顔をした。黙ってうなずくと、足のつま先で歩むように、そこを離れて、妻に計った。
「どうしよう」
「訴えて出なされ」
「かあいそうじゃ」
「そんな事を云うたとて、きのうも何度、平家のお侍衆が、触れて来たことか。匿うたなどと疑われてみさっしゃれ、それこそ……」
「いや、不愍じゃ。わし達の仲にもあの年頃の子があるに」
この家は、膏薬練りを業としているので、母屋のほうでは、伜たちや男どもが、薬研の音や薬練りをしていた。
「飯を握って、味噌など添え、あの童に与えて追ん出してやれ。山路の方角を教えてな」
仏心のある男とみえて、かたく妻にいいつけた。
ゆり起されると共に、頼朝はそこを出なければならなかった。
生れて初めて、人に食物を恵まれた時は、さすがに涙がこぼれた。それも山へ去ってから喰べた。
浅井の北郡は山深い。彼は日が出る方へ出る方へと自然に歩いた。小平という辺で一人の尼に会った。
「どこへ行きなさる」
「青墓へ」
「山越えで」
尼は顔を振った。
不破の関を通るならとにかく、この雪では美濃へ山越えなど思いもよらぬ事だという。
「まあ、庵へ来なされ」
尼は、凡人の子でないものと見て、頼朝を誘った。けれど、何も問わなかった。およそ一月余りも、頼朝は尼寺の天井裏に寝起きしていた。
暗くて、窮屈で、寒かった。
藁や莚を持ちこんで、頼朝は尼がいいという日まで、じっと待っていた。その間、毎日毎日、そらんじる程よく聞いたのは、尼が朝暮に誦む法華経の声であった。
経文の意味は元より酌めないが、天井裏で聞いていると、頼朝は何だか楽しくなった。
経のことばのうちには、世尊とか釈迦牟尼仏とかいう語が無数に唱えられるので、この世には平家一門ばかりでなく世尊という人もいるような気がした。その人は、公明正大、大愛無辺の心の持主で、善心さえ持てば、自分にも味方してくれる人と信じた。
「もう山も越えられよう」
尼に云われて、頼朝は天井裏を出た。
雪の下から樹々の芽は萌えだしていた。眼が眩むほど春先の天地は頼朝の心に美しく映じた。十三歳、初めて母の胎内から出たように、彼は鳥の声も行く雲も、珍しそうな眼で見ながらまた、東へ東へと山路を歩いた。
細谷川の道を、里へ出て行く鵜匠があった。
鵜匠の男は、さっきから頼朝の後を怪しみながら尾けていたが、とうとう言葉をかけた。
「和子。どこへ行くのか」
「青墓へ」
頼朝は、そう答えるしか、知らなかった。
「青墓に知辺でもあるのかね」
「うむ」
「何というお方か」
「行けば分るけど」
「そうか」
鵜匠は口をつぐんだ。それきり何も問わなかった。しかし、絶えず頼朝の容子に眼をそそいでいるふうだった。
人に油断しない事。人の表よりも肚を観ること。そして身を警戒することを、頼朝は、何里か黙って歩いている間に、自然習んだ。
「公達。わしが送ってあげましょう。あなたは誰か、源氏のお子だろう」
鵜匠は、突然云い出して、頼朝の帯びている刀を、自分の携えている山芋の苞へ入れ代えてくれた。
「こうして、わしが持っていて上げる。あなたは女のようじゃ。人が問うたら、女じゃと答えなされ。女のように姿態なされ。よいかの」
悪人か善人か、頼朝には判断もつかなかった。彼はただ漠として、身の運命を、鵜匠の男に託していた。
けれど、そう恐れはしなかった。尼寺に落ちついて、我に回った頃から、戦争の記憶は彼方になった。大きな浪をのりこえて、浪の底からぽかりと顔を出した世界に、彼のたましいは面白さをすら感じていた。
(青墓へ行けば、父義朝がいる。兄たちがいる。郎党どももいる)
道が北側から山を越えて南面へ下がると、少年の心も南向きの明るさになった。時々思い出されるきのうまでの都での公達生活も、父の豪壮な館も、何の未練にも考えられない。こうなるのが自然で、当り前で、飢えも苦しさも、彼の心を感傷へ引きこむには足りなかった。
幾日か経て、青墓へ着いた。宿の長者大炊の家へ行くのだと初めて明かすと、鵜匠は非常に驚いて、
「さてこそ、あなた様は」
と頼朝の面をしげしげ見直し、苞入りの刀を彼の手へもどすと、名も告げずに立去ってしまった。
それまで、鵜匠の肚を、疑いぶかく警戒していた頼朝は、非常にすまない顔して、
「……あ。世尊がいた」
と、つぶやいた。
やがて、大炊の門を訪れてみると、門は閉じてあって、喪中の忌札らしいものが貼ってある。裏の土塀口を押入って、召使の者に、
「義朝の子、右兵衛佐ですが、父君は在すでしょうか」
と、たずねると、やがて奥まった屋の内から、
「あな」
とばかり転び出て来て、彼の手を取り、足を洗ぎ、抱えるばかりにして家の内へ入れてくれた女性がある。
大炊の娘、延寿であった。
「おいたわしい」
と、彼女は涙にくれていたが、頼朝はこの女性が父の何であるかもよく弁えていないし、事実、そんなに悲しくなかったので、彼は涙もこぼさなかった。
けれど、その後で、
「お父君には、ここを去って、尾張の方へ落ちのび給い、正月三日というに、長田忠致に計られて、敢なくお討たれ遊ばしたのみか、その御首は、都へ送られ、平家の者の手にかかって、都の東獄の門前にある樗の木に梟けられました」
と、聞かされた時は、それまでの無表情を破って、声をあげて慟哭した。誰がなだめても泣きやまなかった。
頼朝が泣きやまないので、延寿の父親の大炊は、わざと声を励まして、
「そればかしの事で悲嘆にくれるようでは、この先、どう生きてゆき召さるか。左馬頭義朝様のお子ともあろうものが」
と、叱った。
そして、
「まだまだ怨めしい事がある」
と、語った。
悲命の最期をとげたのは、頭殿ばかりではない。嫡男の悪源太義平どのも、次男の朝長どのも、もはや此世のお人ではない──と云い聞かせた。
頭殿は、ここへ着いて、すぐ再び尾張へ向けて立つ真際に、予ての打合せどおり、義平を木曾路へ、次男朝長を信州方面へ打立たせたが、朝長は前から悩んでいた手創に耐えかねて、途中から父の許へ引っ返して来て、涙ながら云うには、
(もうだめです。名もない平氏の地侍などに、恥ずかしい死目に会わされるより、父上の手にかけて殺して下さい。それを楽しみに苦痛をこらえて戻って来ました)
頭殿には、それを聞くと、
(おまえも義朝の子である)
と云って、手ずからわが子の首を斬り落したのであった。
また、長男の義平のほうは、飛騨まで入って、彼方此方の郷族へ呼びかけ、一時は少数ながら軍隊の編制とまで進みかけたが、折も折、左馬頭義朝が名古屋の辺りで討たれて首を京へ上されたと聞えたので、集まった兵もたちまち四散し、身さえ危うくなったので、
(かかる上は、ただ一人でも、敵の清盛か重盛か、何れかに近づいて、父や一族の恨みをはらし、義朝の子らしい死に方をしよう)
と思い定め、密かに京都へ引っ返して、六波羅の近傍を彷徨っていたところ、たちまち平家の捕吏に発見されて、六条河原に曳き出され、可惜、二十歳の春を、無慚にも首斬られてしまった──と語るのであった。
泣き腫らした瞼を上げて、頼朝は夢かと疑うような面もちで聞いていた。
もう泣いていなかった。
泣け、といっても泣きそうもない顔していた。かえって、
「おわかりかの」
と、大炊は泣き洟をかむし、延寿もすすり泣いてしまう。
「源家の正しいお血すじと云っては、もはや和子お一方とはなったのじゃ。都のあたりに、常磐どのの公達とか、和子とは腹ちがいのご兄弟があるそうなが、まだお乳も離れぬ幼な児ばかりと聞いておる」
ついつい洟をかんだり眼を拭いたり、しどけなく独り語っていたが、大炊がふと、寂として答えもせぬ頼朝の姿を改めて見直すと、何かしら今度は自分がたしなめられているように、恥ずかしい心地がした。
頼朝は、唇をむすび、眼を一方にすえて、血の気も失せたような顔して始終聞いていたが、
「もう泣きたくありません。皆様も泣かないで下さい」
と、云った。
そして、少し頭が痛むと云い、その夜は早く臥床へ籠ったが、翌る日になると、どうしてもこれから東国へ行くのだと云い出し、延寿や大炊がどのように引留めても、かぶりを振って、ただ一人、そこを出て行ってしまった。
「父よ! ……。兄者人っ」
春もまだ浅い関ヶ原あたりの道をぽつねんと歩きながら、頼朝はうつつに時々さけんでいた。雲を仰げば雲の彼方に父やあると思われ、山を見れば山の彼方に兄やあると思われた。
「ない。誰もいない」
そして自分は十四になった。天下の孤である。そう意識し直すのだった。
尾張守平頼盛の家人弥兵衛宗清は、小侍十数名をつれて、京都へ上る途中であった。
頼朝は、道で行き会った。
しかし、うつつな彼は、近づくまで何の危惧も覚えなかった。平然と真っ直ぐに歩いて来た。それだけに宗清等の一行も彼を怪しみもしなかったが、他の旅人や百姓などが、道を避けて、わらわらと路傍に頭を伏せるのに、頼朝は、土下座する術を知らなかった。
少し端へ寄って、街道の樹の根方に立ってながめていた。
「はて?」
宗清は小首を傾げた。
頼朝も、彼の方を見ていた。
「藤三。藤三」
宗清が馬上から呼ぶと、供の中から丹波藤三国弘という小侍が、
「はっ。ご用ですか」
と、側へ駈け寄った。
宗清は、鞭を指して、
「あれに佇んでおる少年は、どこかで見たような気がする。引っ捕えてみい。異相の童形、不審である」
と、云った。
「はっ」
と、藤三は、隼の蒐るような眼をして見廻したが、宗清が指した場所には、もう何も見えなかった。
宗清は、鞍の上なので、すぐ行方を見つけ、
「あっ、並木の堤を跳びこえて、彼方へ逃げおる! 追えッ」
にわかに、烈しく命じた。
藤三を初め、侍たちがわっと並木堤を越えて行った。菜畑やら麦の耕地やら土民の小屋を繞った藪などがその向うにあった。しばらくすると、物々しい声に曳かれて、頼朝は引っ縛られて来た。溝へ落ちたり畑土へ転んだりしたとみえて、酷い姿に変り果てていた。
宗清は、手荒にすな、と制しながら、大地へ抛り出された頼朝の上へ馬首を臨ませて、
「小冠者。そちはわしを見て逃げたな。わしを知っているか」
と、訊ねた。
頼朝は、後ろ手に縛られた手をしきりにもがいていた。解こうとするのではなく、手がきかないので、起ち上がれないためであった。
「わしを起たせてくれ」
頼朝の乞いに、丹波藤三が、
「起たんでもよい。そのままにてお答え申せ」
と、云うと、
「いや、望みのようにしてやれ」
と宗清の言葉だった。
藤三が頼朝の襟がみをつかんで、起たせてやると、頼朝は、地に摺り剥いて、少し血のにじんでいる半面を、屹と、宗清の面に上げて正視しながら、
「馬を降りよ」
と、責めるように云った。
「──わしは、平家の地侍などに、馬上から物を云わるるような者の子ではない。問う事があるなら、馬を降りて云えっ」
虐ぎつけられた少年の、半ば、物狂わしくなった叫びとも聞かれたが、宗清は何か凡事でない感動に打たれたらしく、はっと答えぬばかり正直な態度で、すぐ鞍から跳び降りた。そしてつかつかと頼朝の側へすすみ、叮嚀に頭を下げて、
「お名まえを仰っしゃい」
と、優しく云った。
彼の郎党たちは、たちまちの間にそこらに立った町人や旅の者や女子供などの人だかりを追い払っていた。
宗清の意外に優しい訊ね方に、頼朝はちょっと差し俯向いていたが、やがて素直に回った面を上げて、
「わしは、左馬頭が三男、右兵衛佐頼朝という者です」
と、尋常な声で答えた。
学僧には若い人が多かった。
わけて、この京都八坂郷の清水寺は、東大寺系なので、南都の学生寮もあり、夜になって一所に集まると、論議や談笑で、正月の夜も変らなかった。
「樗の木を見に行ったか」
「樗の木とは」
「五条の獄舎の門前にある巨きな木だ。義朝の首がさらしてある。後からまた、子の義平の首も並んで梟けられた」
訊かれた者は、
「いや、見ぬ」
と、眉をひそめた。
すると一人が、
「いや、おとといからもうないぞ。いつのまにか、葬ったものとみえる」
「盗んだのじゃろ」
「誰が?」
皆、眼をみはる。
「云うまでもない。源氏の残党がじゃ。朝夕、六条の館に伺候し、頭殿と仰いでいた一族だったら、見ていらるる事か」
「そうよな」
あわただしい時勢の変相が、一瞬、若い学生たちの心を通りすぎた。
「罰じゃよ。天の刑罰だ」
抛って投げるように、誰かが呟く。──と、その者を睨め返して、
「何でそう云うか」
と、詰問する者がある。
「──何でと問うも愚かだ。三年前の保元の乱の折に、義朝は自分の父為義を見殺しにしたじゃないか」
「あれは義朝が殺したというよりも、清盛その他の平家が殺させたのだ。朝議ですでに斬罪と決められた人だから、たとえ義朝が庇っても助かりはせぬ。強いて弓矢にかけてもとなれば、朝議へ弓引く事になる。涙をのんでむしろ子の手で処置するしかなかったのだ」
「いや、何といおうが、最初に上皇へ献策し奉って、合戦の口火を切ったのは、義朝ではないか。敗れて、上皇には讃岐へ流され、父為義も、朝議で死罪を宣告されるような失敗をしながら、何で今日まで──」
「待ち給え」
論議の相手は手をあげて、
「君の云うのは、人道論だ。もっと大処から視てやらねば」
「何をいう、人倫の道を外して、人間のどこに誇るものがある」
「そういえば、義朝は非人道の人間に聞えるが、生涯に瑕瑾もないという事は、今みたいな治乱興亡の劇しい中にある武将には、求めても求められない無理なはなしだ。然らば……大きな声では云えないが、六波羅殿はどうだ」
「君はまた、平家方を誹すのか」
「感情でいうわけではない」
「そう聞える」
周囲は、そこへ笑いを交ぜて、
「もう止せ」
と云ったが、一方の雄弁家はなかなか口を噤まないで、
「いったい義朝という人は一箇の武弁に過ぎないのさ。それが政治的な葛藤を持ったりして、平家と戦うから、前の保元の時でも、ことしの平治の乱でも、手もなく敗れてしまったのだ。信西入道などから見たら義朝などはお人のよい乗せ易い人物だろうし、いわんや六波羅殿と比較したら、武力では知らぬ事、政治的な頭のほうでは、較べ者になりはしない」
平家源氏を問わず、ゆめ、うわさ話をしてはならぬ。また、大臣や長者を呼ぶに、たとえ誰が聞いていなくても、よび捨てにする法はない。謹むべき生意気沙汰であると、常々かたく学頭から訓戒されているが、若い同士が集まると、いつかそんな事は忘れていた。
「……おや?」
そのうちに一名がふと、聞き耳を欹てて、遠心的な眼をうつつにした。誰も彼も急に口をつぐんで夜寒の壁を見まわした。どこかで嬰児の泣き声が遠くしていた。
嬰児の声は、黎明の声である。きょうは闇世でも、明日のある永遠の人の中へ告げている声である。
だが。
深夜ではあるし、女人はいない筈の寺院だけに、その泣き声は、妙に若い学僧たちを懐疑させた。
嬰児を怪しむのではなく、当然それに附随している筈の者を、すぐ臆測にのぼせて、種々な疑いを描き、
「誰か、この浄地に女を隠している者があるのではないか」
などと、他人の秘密でも嗅ぎ知ったように、急に声をひそめ合うのだった。
「──見て来ましょう」
すると。隅の方からやがて立って行く一人があった。痩せた影法師が壁にうごいて、廻廊へ出て行きかけた。
「光厳。おい光厳」
室内から呼び返されて、
「はい」
光厳は、顔と半身を見せた。
いつも病身らしく黙りこくって、灰のように無口でいる若い堂衆である。年もまだ十七、八歳でしかないので、古顔の学生たちはすぐからかった。
「おまえ、見届けに行くのか」
「はい」
「何だって、急にそわそわして、見に行くのだ」
「でも、気になりますから」
「さては、子連れの女を、寺内に匿っているのは、お前だな」
「…………」
光厳の顔いろが青くなったように思われた。
けれど、とたんに大勢の学生たちが、声をそろえて笑ったので、
「いいえ、滅相もない事を」
と、真面目に云い訳する光厳の初心らしさを、よけいおかしがるのみで、その顔いろを怪しむ者もなかった。
嬰児の声は、間もなく聞えなくなってしまった。そして見届けに行った光厳も、やがてすぐ帰って来て、
「何でもありません」
と、一同へ報告した。
「何でもないとは?」
意地悪く一人が問うと、
「はい、産寧坂の下の陶器作りの家の老婆が、夜泣き癖のある孫を負うて、子安観音へ夜詣りに来ていたのでございました」
と、生真面目に答えた。
「わははは」
「あははは」
多分そんな事かも知れないという考えもあったので、よけいな心配や臆測を描いていた各〻が、自分を嗤い合って、手をたたいた。
それを機に、
「眠ろう」
「どれ、寝るか」
ぞろぞろ立って大きな伽藍の睡窟へ思い思いに掻消えると、後は三、四人の堂衆だけが残って、喰い散らした麦煎餅の欠けらを掃いたり、短檠を片づけたりしていた。
終りに、蔀を下ろして、この清水寺の一つの灯も消え果てると、もう花頂山から東山一帯には、風の音を聞くだけだった。
遥かな夜霞の底に、加茂川の水だけが、薄氷でも張っているように白かった。戦は熄んだとはいえ、まだ洛内は物騒なのであろう。六条のあたりには大きな焼け野原が出来、六波羅の辺にも、いつも見える常明燈の光も見えなかった。
「常磐さま。お開け下さい、……お案じなされますな。最前来た光厳でございます。……常磐さま」
音羽の滝も氷柱になっていた。木の葉かと思えば、そこらの御堂の蔀や縁にこぼれて来るのは白い霰であった。
「お寝みですか。常磐さま。……ぜひ、まいちど起きて下さいまし。光厳です」
産寧坂の上である。音羽の山を背に負っている。光厳はあたりを怖れながら、子安観世音の御堂の扉をしきりに押していた。
「はい。……ただ今」
御堂の中で答えがした。
低い声であった。けれども麗しい女人の年ばえが、それだけでも分った。
静かな気はいが中でうごく。やがて御堂の扉の隙間に明りがさした。絶えて人など住んでいた例のない堂宇なので、蔀は破れ、煤や雨漏りの荒れもひどいのに、誰が寝泊りなどしているのだろうか。
それからして、そもそも、怪しまれてよい事であった。だから、光厳は、外に佇んで、そこの開くのを待つ間も、気が気ではない様子であった。
「御前様。……ぶしつけではございますが、凡の場合ではございませぬ。どうぞ、お身装など気づかいなく、早くここを開けて、お顔をかして下さいまし」
光厳に急かれて、
「はい、はい。今ほど」
次の返辞は哀れなばかりうろたえて聞えたので、光厳は気の毒やら済まない思いやらに堪えかねて、
「おそれ入ります」
と、つけ加えた。
それと共に、御堂の扉が、そろりと開いた。洞窟のような寒さと薄暗い灯揺ぎの中に、一体の観世音が天井へつかえるばかり高々と端坐していた。
けれど、一足ここに入ると、誰もすぐ遠い昔の自身を思わずにいられない甘い匂いにくるまれた。それは人肌の温かさすら感じられる母乳のにおいであった。
「やっとお寝りになりましたね」
ちょうど観世音の裳のあたりに、台座を屏風のようにして、二枚のむしろが板床に展べてある。その一枚へ坐り直した女性と対いあって、光厳は、その人の懐をのぞくようにして云った。
「ええ。よいあんばいに」
常磐も、わが手に抱いている寝顔を見て、嘆息のように呟いた。
明けて二歳になったばかりの牛若である。たださえ癇のつよい子なのに、年暮の戦から夜も易々寝たことはなく、食物も喰べたり喰べなかったりなので、母乳はすっかり出なくなっていた。それに衾もない夜ごとの寒さである。泣く子が無理ではないと思う。
「ああ、和子たちはまた、他愛ものう、よくお寝みでございますなあ」
光厳は、云い出す急な用向きも忘れて、もう一枚の莚をながめ、心の底から嘆くようにいった。
ことし六歳の乙若と、八歳になった今若のふたりが、寒さに、ひしと抱き合って、無心な寝息をもらしていた。それに掛けてあるのは一枚の母の上着だけであった。
変れば変る境遇と、光厳は胸が迫ってくる。無常ということばは自分等が説法や雑談にも、余りに云い馴れて平凡な感じしか湧かない語であるが、眼のあたりその無常な変相に世をさまよう人を見ては、胸が傷まずにいられない。
この三人の和子は、人も知らぬはない、きのうまでも、源氏の人々から弓矢の棟梁、一族の長者と仰がれて、六波羅の清盛や小松殿の一門とも、肩をならべていた左馬頭義朝の紛れない遺児なのである。
それにまた、母なる人も──
幼い時から九条の女院に仕えて来て、身分は低い雑仕女ではあったが、義朝が彼女を見出すまでには、その権勢を以て、千人の美女のうちから百人を選び、百人のうちから十人を選び、十人のうちから唯ひとりの常磐を選んだと──都の辻あたりでも噂されたほど眉目すぐれた女性である。
十四初めて黛を描き、十五すでに簾裡に裳を曳く──と、玉の輿を羨まれた彼女も、ことし二十三、はやくも両の乳に三児を抱いて、住むに家もなく、大悲の御廂にこの寒空の夜を凌ごうとは、誰かその頃、想像でもしてみた者があろう。
光厳は、それやこれ思うと、何も云い出せなくなって、泣きもせで自分の前に坐っている常磐の瞼が、むしろ不思議にすら思えた。
かくては──
と、光厳は心を鬼にとり直して急に云い出した。
「常磐さま、追い立てるようですが、もはやこの御堂も安全ではなくなりました。和子様の泣き声が、夜更けると、遠く本堂のほうまで聞えるのです」
「無理はありません。あのように泣き出すと、火のつくような声ですから」
「学寮の若い人達が、今夜も怪しみ合って、危うく詮議されるところでした。──半月ほどは裏山の花頂堂にお匿い申しあげ、そこには食物のお運びも出来ないため、おとといの夜からは、ここへお移し申しあげましたが、人目や耳が近いだけ、裏山よりもなおここは物騒でした」
「ご心配をかけました。ぜひもない事です。ほかへ立ち去ることにいたします」
「寔に……申し難いのでございますが」
「いえいえ、大晦日の夜からきょうまでも、母子四人、六波羅の眼をのがれ、生きながらえて来られたのは、あなた様のお慈悲でござりました」
「なんの」
光厳は、かえって辛そうに顔を振って、
「法衣は着ていますが、亡き父も叔父も、源氏の端くれでした。わけて、従兄弟にあたる金王丸は、童の頃から六条のお館に仕え、義朝様が御前様の許へお通いなさる折は、いつもお供について行きなどいたしたものです」
「…………」
常磐のふところに抱かれている嬰児が、ふとまた、むずかり気味に乳をさぐりかけたので、光厳は、自分の声に恟っとしたように、口をつぐんでしまった。
念じるように見まもっていると、よいあんばいに、牛若はすやすや睡った。光厳は、自分の声に気をつけながら、
「──ですから、年暮の二十六日の朝から、ご合戦となって、洛内の町中に、あの凄まじい焔と黒煙が立ち昇り出してからは、お館の安否と共に、御前様はどう遊ばしたか、幼い和子様たちはどう召されたやらと、夜も睡らず、昼は間がな隙がな、ここから一目に見える町の煙ばかり眺めやっておりました。……するとです、ちょうど大晦日の真夜中、従兄弟の金王丸が、和子たちを背負い、あなた様を励まして、これへ上って見えました。……そして、父祖以来の恩返しは今する時だ。光厳頼んだぞ。自分はなお、近江路から美濃へ落ち行かれたお館やご一門の先途を見届けねばならぬ身ゆえ──と、いわれた時は、人に信じられたという欣しさと同時に、途方にも暮れましたが、僧門にいる身の悲しさ、やはり私にはこれだけの力しかございません。これ以上、自分にない義心を持って見ても、それは遂に、御前様の身や和子様たちを、六波羅の捕吏の手柄に供えてしまうだけのものです。明日を待つのも危ないのが眼に見えておりまする」
「わかりました。夜の明けぬうちに、そっとここを立退きまする」
「……ざ、ざん念です」
遂に、光厳は、それまで怺えていた涙をはふりこぼして、法衣の袖で、わが顔を蔽ってしまった。
「わたくしが、病弱な弱法師でなければ、もいちど武士の子に返って、お供をしたいとも思いますが」
病骨の体ほど、かえって、若い血が烈しく咽び上げるらしく、光厳は、法衣の中で嗚咽していたが、また、
「みすみす、行くあて途もないあなた様やその和子たちへ、出て行けと、追わぬばかりに云わねばならない私の辛さ。……御前様、おゆるし下さい、おゆるし下されませ」
光厳はそう訴えると、男泣きに床へ泣伏したが、常磐の眸はじいっと一方の壁を見つめているだけで涙も見せていなかった。氷の張りつめた池のように、その眼は泣く事すら忘れていた。
二月も近い空の寒々と夕冴えした黄昏であった。
吹き寄せられた水鳥のように、伏見の船戸の津には、小さい苫船が橋の蔭やら岸辺にかたまっていた。
旅人をのせて浪華へ通う舟もある。この里の雑穀や炭薪を京の市へ運輸する荷舟もある。鵜匠の鵜舟は繋ぎ捨てられたまま今は顧みられもせぬ。白拍子の住まっている艶いた舟は、昼は留守のようであったが夜となれば苫の外へ紅い灯を垂れて、星のように出て来る気まぐれ男を招いていた。
こうして見ると、河の上にも春秋の運命があり、その日その日の生業も慌ただしい。
「お世話になりました。お情けで子たちもこのように、元気づいて参りました。墨染と尋ねて行けば、これから訪う家も、何とか知れましょう。……お暇を」
常磐は、礼をのべて、身支度をしかけた。
ここも水の上。
狭い苫舟の内であった。
うら若い姉妹の白拍子が、ひとりの病母を養うため、この舟を世帯としていた。今朝、妹のほうが、まだ霜の白い朝まだきに、市へ買物に上がった帰り途、町屋の廂の蔭に凍えている親子四人を見かけて、
──まあ、お可哀そうに。
と、飢えにふるえている二児の手を曳き、乳呑みを抱いて路頭の霜にうずくまったまま、起つ力もなげな上﨟を励まして、ここへ連れて来たものだった。
清水寺の観音堂を出てから幾日幾夜、常磐は、われながら、
──よくぞ生きて。
と思われる日を送って来た。そして、こういう境遇になってみると、自分が生れながら深窓の姫そだちや宮仕えの女でなく、幼い頃は深草の田舎で麦を踏み籾を搗き、十か十一の頃には、頭に籠を乗せて、野菜や果物を売りに、京の町々を歩いたような生活の味をも過去には知っていた事が──今はかえって倖せに思われるのであった。
そうした賤の女が。
常磐は、日頃も思う事には。
雪の日は和歌に暮れ、月の夜は香を聴き、花の昼も恋の何のと、優雅やかな事ばかりを、この世の常と考えている人たちの中へ、ふと、九条の女院へ雑仕女として拾われてから立ち交じって、その上にも、思いも望みもしていなかった源義朝などという武運の長者に愛されて、
(あれ見よ、やぶ椿が、瑠璃の花瓶に挿けられて、長者の几帳の側に置かれた事よ)
などと、以前の友やら身寄りやらに、嫉妬まじりの陰口を云われている間に、いつか頭殿とは、三人の子を生す身となっていたのである。
まったく、娘ごころも知らぬ間に──であった。
だから元より、和歌の道とか、香を聴き分ける事とか、そういう上﨟たちの風雅も知らねば、難しい書読む知識も持たなかった。今の社会とはどんなふうに渦まき動いているのか、自分を又なく愛してくれる六条の頭殿の一族と、六波羅の清盛の一門とが、どう対立し、どう葛藤し、どういう危険な状態にあったのかすら、戦の日が来るまでよく分らなかった程である。
女の二十三。
早くも七ツを頭に三人の子を持って、彼女は、育児の事と、頭殿の愛から見離されないように──念じるの余りに勤める朝夕の化粧としか、常日頃から思いもなく暮して来た。それが精いっぱいの毎日であった。
今日となって、今のわが身を顧みると、悲命な姿にはちがいないが、でも、もし自分が、幼時の貧しい辛い生活も知らない深窓の生れであったら、疾うにゆうべも、おとといの夜も、路頭に凍え死んでいるか、身を投げてでもいるであろうと思われるのだった。
いやその前に、この三児を、六波羅の手へ渡して助かる気になろうも知れぬ──と、常磐は顧みて思うごとに、貧賤であった女童の時代にむしろ今では大きな有難さを知るのであった。
常磐が、暇を告げると、白拍子の姉妹は、傷ましそうに、
「では、お気をつけて」
と、止めなかった。
昼の人目を怖れている容子で、およその身の上は察しられていたからである。
抱かれたり、手をひかれたり、怖々と橋板を踏んで、宵闇の岸へ上がってゆく母子の影を、姉妹の白い顔と並び合って、苫の陰から見ていた病人らしい姉妹の老母が、
「お坊ッちゃま。また来なされよ。尋ねる先のお家が知れなんだら──」
眼を拭い拭いいった。
「……おさらば」
常磐は、岸から舟へ、ていねいに頭を下げた。
人はみな泣いてくれる。
そのために、一椀の粥やら菓子など恵まれて来たが、なぜか常磐自身は、涙が出ない。
ただ、舟を去る時には、ふと瞼が熱くなりかけた。白拍子の姉妹の母親を見て、六条の家から逃げて来る途中、逸れてしまった自分の母の安否が、
(何処に……)
とにわかに胸へせぐり上げて来たからであった。
それも案外、墨染の身寄りの家へ行ってみたら、便りの知れることかもしれぬ。彼女は、孤りでそう思い励ますのだった。先に手をつないで歩いてゆく今若と乙若のふたりを後から見守りながら──
これから尋ねてゆく的の身寄りというのは、伯父伯母の家である。伯父の鳥羽蔵という者は、前は貧しい百姓であったが、縁にすがって、頭殿に願い、六条の館に召使われる身となって、合戦の日までは、中門の牛馬舎をあずかり、牛飼頭として、太刀をも佩く身となった人である。
今では、墨染の里に、かなりな家構えして、何不自由なく伯母も暮していると聞いていたので、頭殿からうけたご恩に対しても──と、ただ一つの身の寄る辺と頼って来たのであった。
「いけないっ」
「いやあん」
「母さま! 乙若が」
「うそだあい」
「お出し」
「うそ。うそっ」
ふいに走り出した幼い兄弟が、何を争い始めたのか、彼方の道ばたで、取っ組まぬばかりに、大声をあげていた。
うつつな──ともすれば、うつつとなって考えるともなく考え事に囚われがちな彼女は、びっくりして、
「これ」
と、小走りに近づいたが、今若も乙若も、喧嘩を止めないばかりか、懐の乳のみは、すぐ虫気を起しかけて、泣き出すのだった。
「おお、よしよし……よし」
こんな所へ、もし平家の侍や宿場の沙汰人でも通りかけたらと、彼女は気もそぞろに縮まる思いで、
「今若さま、これ今若さま。お兄様のくせにして、何を遊ばしますぞ。幼い弟御様をば、そのように打ったりして」
懐には、乳をふくませ、声のない歌拍子に、足をうごかしながら、窘めると、
「だって。──だってね、お母あ様」
兄の今若は、一本の串柿を、弟の手から奪い取って、母の前につきつけながら、口を尖らして告げた。
「乙若がね、お母あ様、あそこの百姓の家に干してあったこれを……」
「どうしやったのかや」
「黙って、取って来たんですもの。人の家の物、黙って取って来れば、盗人でしょ。──お母あ様」
見れば乙若は、兄の今若が母へそんな告げ口をしようが、耳になどかけず、小さな口を大きく開け、串柿を横ざまに持ちこんで、他念なくむしゃむしゃ咬みついているのだった。
「まあ、和子さまの浅ましい……」
とは嘆いたものの、常磐は、叱る気にもなれないのみか、
──無理もなや。
とさえ可憐まれて、自分という者がついていながら、この幾十日のあいだ、子達に、甘い物を胃に摂らせてやれなかった責めを、母の罪とさえ感じるのであった。
事実、彼女自身さえ、「甘味」を思うと、鳩尾のあたりが痛むほど、それが口に欲しくなる。糖分に飢えている事がわかる。弟の行為を罵りながらも、兄の今若も、乙若が心のままにそれを貪っている容子を、羨ましげに見恍れていた。
「乙若さま。お独りで喰べていないで、お兄様にも、その干柿を分けてお上げなさいませ」
常磐が云うと、
「喰べる?」
乙若はもう自分の欲望は足りた顔つきで、串を二つに折り、その半分を兄へ出した。
「いらない……」
「わしは源義朝の公達じゃ、盗んだ柿など誰が喰らおう。……ねえ、お母あ様」
八歳の今若には、もう自分という者の自覚があった。日頃の庭訓も弁えていた。
常磐は、兄弟を側へ寄せて、
「そう仰っしゃらずに、今若さまも貰うてお上げなさい。──弟御様が、黙って持って来たのは良くない事ですけれど、和子達はまだ、物を買うという事はご存知ないのですから無理はありません。串柿を持って来た農家へ戻って、その価を払うておいでなされませ」
常磐は、髪にさしていた一本の金釵を抜いて、兄弟の手へわたした。
兄弟は、黄金の釵を持って、母に教えられたとおり、そっと戻って、農家の軒下へ行った。そして、まだ他にも吊るしてある干菜や柿の縄へ、その釵を挿して帰って来た。
「さあ和子さまたち。柿を喰べたらその代りに、こんどは仲よう歩いて賜もよ。もう一、二里じゃ。墨染の伯母さまの家まで行けば、お美味い物もたんと下さろ。夜の具も暖かにして下さろ。もうすこしのご辛抱ぞや」
励ましながら、駅路の端れからは燈火一つ見えない田舎道を、母子はまたたどたど歩いた。
すこし大人しくなったかと思うと、六歳の乙若は歩きながら居眠っていた。それを醒まして促すと、もう歩くのは嫌だと云う。何と諭しても、
「嫌だ。嫌だ」
と、地べたへ坐って、泣きじゃくッてしまうのである。
やや聞分けもあると、力にしている今若も、まだ八歳だし、生なか物心のあるだけに、乙若よりは恐怖を知っていた。
──明日は、明日は。
と母に賺されて、飢え、寒さ、心細さを怺えて来たのも、ようやく果てしない事と、幼な心にも覚って来たか、両の腕を曲げて顔を埋めこみ、今宵はしゅくしゅく啜り泣いていた。
「もう、どうしょうぞ……?」
子達のそうした姿を眺めると、常磐も坐ってしまいたくなった。ひと思いに、和子たちの喉笛を突き刺し、自分もここに死なんかと思った。
死。
それは絶え間なく襲って来る甘い誘惑であった。今の彼女に、死ほど安らかですぐにも行けそうに思われる所はなかった。そこには、恋しい頭殿もいられるし──
けれど彼女は、
「否!」
と、何の苦もなくそんな迷いを否定し去った。強く生きる気もちをすぐ持ち直した。乏しい母乳を無理に吸われるので、乳くびが疼き痛むたびに、牛若の顔をのぞいても、わが生命を、わが生命とのみは、考えられなかった。
ここらはもう深草村に近い。
宵を過ぎると、野良犬の声ばかりだった。一月ほど前の戦争の脅えは、まだ部落の者から醒めきれていない。
ついそこらの藪や山畑の窪には、斬り捨てられた落武者の屍がそのままになっていて、雪解けの昼となれば屍臭を放っている。名もない雑兵とあっては、六波羅でも片づけもしないし、首の拾い手もなかった。
「誰じゃ。門を叩くのは」
この部落では、今、物持といわれている牛飼頭の鳥羽蔵の家で、ふと、そんな声がした。
声と共に、横窓の小蔀が、すこし上がって、燈りが外へ流れたが、
「要らざる事を。──開けるでない、外など、見るでない」
と、召使を叱りつけた──それは老女の声音らしく慥かに、外へも聞えたのであった。
「おお」
燈りを見たので、門の辺りにさっきから佇んでいた常磐は、柴垣の外を転ばんばかり駈け巡って、
「伯母さま! ……。もしっ、もしっ……伯母御さまえ……今のお声は伯母御さまではございませぬか。京の常磐でござりまする。子たちをつれて、ようやくここまで、辿りついて参りました」
さけぶ間にも、乳のみの牛若までが、泣くのであった。
事々しく訪れては、近所の家の耳へも悪かろう。此家の召使たちへも憚りがあろう。常磐はあわてて乳をふくませ、柴垣の根に身をかがませて待っていたが、そこの窓も他の戸も、盲のように開かなかった。
「今若様よ、今若様よ」
「あい」
「そんな所へ寝てしまうでないと、弟御様を起してよ。──そしての、お許もお睡かろうが、怺えてたも。──今に伯母御さまが家へ上げて下さろうに」
「睡かない。お母あ様、ここは誰のお家」
「母がお親しい身寄りのお方じゃ。よも、素気のうは遊ばすまい。まいちど、門の戸をたたいて訪れて見やい」
今若は、小さい手で、門の戸を手の痛くなるほど打った。
果ては、押したり、垣を揺すって、
「開けてたも。此家のお人。──開けて。開けていのう!」
と、絶叫した。
牛若が、泣きやんだので、常磐も共に、
「もしっ……伯母御さまえ。ご迷惑でも、ここばかりをお力と、辿り着いて参りました。六条の常磐でござりまする。もし、もし……はやお寝みでござりますか」
もう声も涸れかけた。
すると、垣の横側のほうから、のっそりと近づいて来た人影がある。恟ッと、口をつぐんでいると──
「お前どもは、どこの衆か知らんが、むだな事よ。此家の旦那さまは、京都におざるし、お内儀には、遠国へお旅立ちで、わしら、召使の者のほかは、誰もおりはせんがな」
そう云って、じろじろ眺め、
「こんな所で、吠えたり泣かれたりしておられては迷惑じゃ。さあ、とっとと立ちなされ。──去んで下され。去なねば、沙汰人へ告げて、引っ立ててもらうぞ」
「…………」
生涯忘れようとて忘れられまい──そういったような眼で──常磐はその男の顔を見、此家の戸を見つめていた。
「去りまする」
召使の男の足もとへ、彼女はしかしそう詫びて叮嚀であった。ことばも静かに取乱しはしなかった。
「さ、和子さまよ。起って賜も、お眼を醒まして賜も」
ここへ来るなり睡たさに、小犬のように垣の根に眠ってしまった乙若を揺り起して、三人の母はまた、まだ遠方、此方に残る雪明りを頼りに、何処ともなく立去った。
その翌朝である。
「今、戻ったぞ」
牛飼頭の鳥羽蔵は、久しぶりに家に帰って来た。
帰って来るなり、
「温かい物を腹いっぱい喰いたい。湯なども沸かせ、戦の垢を落して、酒をのむのだ。──やれやれ命拾いした事だぞ」
と、足腰を伸ばした。
彼の妻や家族たちも、主人の無事な顔を見て、
「よう、まあ達者で」
と、過ぎた正月をし直したいばかり目出度がった。
「ええ美味えぞ。四十日ぶりの酒だわい」
喉を鳴らして、鳥羽蔵は、杯を手から措かずに、
「何せい、おらの仕えているご主君がよ、目先の見えぬ馬鹿な戦をおっぱじめ、たんだ一日の間に、六条のお館は灰だし、一門は散々だし、義朝様始め、その後、縁につながる奴等は、毎日のように河原で首斬られるし──いやもう生きた空はなかった。なぜ初めから平家の縁故へ、奉公しなかったかと思ったが今さら及ぶ事ではなかったし」
日頃、牛いじりしているせいでもあるまいが、牛の如く横着面の男である。姪の常磐の縁故から、こんな邸を持ったり、太刀の一つも帯びる身になった事などは、前世のように忘れ果てていた。
「そう云えばの」
似た者夫婦の牛の妻が、思い出したように告げた。
「六条の姪が訪ねて見えたぞよ」
「えっ、常磐が」
遽に、眼をすえて、
「いつ? ……。いつだ」
「ゆうべ晩くであったがの」
「で。そ、そして──何処にいるのか」
「家の内へ入れなどしてなろうか。固く戸を閉てて追い払うた」
「追い払ったと」
「縁のつながりだけに、なおさら怖ろしい。留守というて、召使に追わせたのじゃ」
「ばかっ」
「……?」
「たわけ」
「何でいのう」
「ええい、智慧のねえ奴だ。せっかく黄金の蔓をひいて来た福運を、初春早々、追い払う阿呆があるか。飛んでもねえ馬鹿者ぞろいだ」
罵りながら、もう起って、たちまち脱ぎすてた衣裳や太刀を纏い直し、
「ここを追われて行ったからには、大和の龍門にいる身寄りしか、他に頼ってゆく家はない筈だ。……乳呑みを抱いていたか、幼子を手に曳いていたか。よしっ、まだ遠くへは落ちまい」
ひどい意気込みなのだ。彼の妻でさえ、その肚は覚れても、呆っ気にとられた程である。
深草村から大和路の方へ、彼は急ぎに急いでいた。追いつけずに見失う事よりも、無力な常磐母子が、苦もなく人手に落ちることを惧れてである。
鳥羽蔵の懸命が、ついに、常磐の姿を見出したのは、その夜も過ぎて翌日の午近くであった。
路傍から少し横に這入った杉林の中の氏神の縁に、彼女は、疲れ果てた二児をなだめ、牛若に母乳を与えていたところだった。
「おう、いたか。……姪よ、無事でいてくれたか」
鳥羽蔵は、そこへ駈け寄るなり、さもさも胸いっぱいの情愛を洩らすように呼びかけ、そして、無心に母の側で遊んでいた乙若を、
「和子様も、ござったの」
と、いきなり抱き上げた。
きゃっ──と乙若は叫ぶし、常磐もその不意にびッくりして、身でも斬られたような声を出した。
驚いたのは、悲鳴をあげた母子よりも、かえって鳥羽蔵のほうだった。
「黙りなされ、黙りなされ。なんでそんなにお泣きやるか。この小父さんは、和子さまたちのお味方じゃ。和子さまたちの父君、義朝様のご家来じゃがな」
と、乙若を手から放し、母の膝へ返して、
「其女もまた、俺のすがたを見て、なぜそのように顫くのだ」
と、宥めた。
常磐は、ようやく胸の動悸がおさまったように、
「墨染の伯父さまでございましたか。わたくしはまた、六波羅の手先か、この辺の野武士でも来て、やにわに和子さまを奪り上げたかと、気も萎えてしもうたのでございました」
「そうか。──いや無理もない、その子連れで、これまで落ちて来るには、さだめし容易な事ではなかったろう。何とまあ、傷ましい……」
鳥羽蔵は、そら涙を拭くまねをして、洟をすすりながら、
「さてさて、嘆かわしいとも無念とも云いようはない。世も末とはこの事か。ご一門の後を追って、俺も追腹を切ろうかと一度は思ったが、何としても、何としても其女や幼い和子さま方のお身が気がかりでな……」
「では、伯父様には、わたくし達を、探し歩いて──」
「探したの何のと云って、洛内洛外はおろかな事、いやもうひどい憂き苦労をしたぞ。そのうちにも、お館の義朝様には、お首となって、東獄の門前へ曝し物にはなるし」
「…………」
「知っているか、常磐」
「はい。伝え聞いております」
「義平様、朝長様、その他のご一門も、毎日のように、六条河原で首斬られた」
「…………」
「聞いているか」
「おりまする」
「……常磐」
「はい」
「汝れは、泣いてもおらぬが──悲しゅうないのか」
「悲しいなどという事は、もっと世にありふれた場合の事でございましょう。涙も忘れました。ただ今の私には、この三人の和子さま方の母だという事しか考えられませぬ」
「さ。そこでだ」
鳥羽蔵は、息を撓めて、
「それなら、おまえの母親は、どうしているか、知っているか」
「存じませぬ」
「六波羅に捕まっているぞ」
「……?」
「夜ごと日ごと、問罪所の白洲で、拷問にかけられておるそうな。──常磐を匿したに違いあるまい。義朝と生した子供等の行方を云えと」
「……ほ、ほんとですか」
「嘘な筈があるか。都では隠れもない取沙汰だ。かあいそうに、あの年よりが、一枚一枚、手足の生爪を剥がされて、常磐の行方を云え、行方を吐ざけと──」
「…………」
「不愍や、あわれや、他人でも人事とは思えぬに、常磐の前は一体どこにいるのか、生きてはおらぬのか、生きているなら母御を見殺しにもすまいに──などと、都の噂は寄れば触ればじゃ」
「…………」
「え。どうする考えだな」
「…………」
「常磐」
「…………」
「常。……あっ、常磐っ。おいっ、おいっ、どうした」
鳥羽蔵は、うろたえ出した。
聞くうちに顔の血の気も失せて、紙より白く見えたと思うと、常磐は、眼をふさぎ唇をかんで社の縁へ横に仆れてしまったのであった。
その胸の下になって、牛若は泣き脅えるし、今若、乙若のふたりも、母よ母よと、抱きすがって声も涸るるばかりだった。
九条の女院は、以前、常磐が雑仕女をしていた頃、仕えていた御所である。
そこへ、彼女と幼い子たちは、大和路から連れ戻されて来た。
伯父の鳥羽蔵の言によれば、自分が自首して出ないかぎり、六波羅に捕まっている老母は、日ごと夜ごと、地獄の責苦にひとしい拷問にかけられていようとある。──そう聞くだに、今は身も世もなく、最後の覚悟をきめたのであった。
「所詮は、のがれぬところと、悟ったとみえ、常磐の前が、伯父とかいう者に伴われて、御所の内へ、お縋りに来たそうな」
女院の召使たちは、時の大問題が、眼のあたりに移って来たので、物々しげに囁き合ったり、彼女の当てがわれている監禁の一棟を覗き見に来たり、
「おお、嬰児の泣き声がする」
「あれが、義朝殿とのあいだに生した子か」
などと聞き耳を欹てた。
それよりも。
女院をはじめ、侍く女官たちは、べつな意味で、ほっと心を安めた。というのは、陰に陽に、六波羅の詮議や威嚇がここにも及んでいたからである。常磐さえ自首すれば、それで疑いの目も解かれるからであった。
「ようぞ、しやった」
と鳥羽蔵は、その働きを女官から賞めそやされた。この事件に就ての、彼の懸命さはたいへんなものであった。人知れず大和路から、常磐母子を京都へ連れ帰ってくるだけでも、並たいていな気苦労ではなかったろうに、ここへ着いてからでも、
「見張りを厳しゅう頼むぞ。刃物など持っていたら、騙して取上げておいてくれ」
などと寝食も忘れた眼いろして、やがて常磐を一室に監禁して、これでよしと見定めると、
「六波羅へ行ってくる」
と、御所の者に云い残し、気負い込んで出て行った。
それは二月十四日の黄昏で、その夜は六波羅問罪所で、ひと晩、彼自身が源氏の端くれでもあるので、取調べをうけたり口書を取られていたものとみえ、九条へは帰って来なかった。
九条の女院へ、彼がふたたび姿を見せたのは、その翌日の午頃であった。
壺の梅が、咲き匂っていた。呼び立てられて、常磐が何気なくその庭ごしに窺うと、中門の外あたりに、六波羅の武士どもが十人以上も、何やら喚き立てていた。荒々しい声も交じって、
「早くいたせ」
とか、
「中門まで駒を入れよ」
とか、また──縄をかけるには及ぶまいの、いや縄目にかけろのと、問罪所の武士同士で、云い争っている声もする。覚悟はしていたものの、さては迎えかと、常磐は、乳のあたりを刃もので突き抜かれる思いがした。
すると、後ろで、
「姪よ。さあ行こう」
部屋の口へ立った伯父の鳥羽蔵が、もう急き立てているのだった。まるで常日頃の遊山にでも誘うようにである。
「……はい」
答えたが、意志を打っても、常磐は身がふるえてしばしは起てなかった。しかし、瞬間が過ぎると落着いて、
「しばらくお待ちくださいませ」
と、几帳を立てて、そこにある櫛匣を寄せ、牛若を抱いたまま、化粧をしていた。
「お母あ様。どこへ行くの」
「六条のお家?」
今若も乙若も、そこへ来て、鏡の中の母をのぞいた。母が化粧する姿を見るのは、子達も、幾十日ぶりか知れないので、急にはしゃぎ出したのである。
その間に。
院のお側近う仕える女房たちから、この日の騒ぎ事が、お耳へつぶさに聞え上げられたものであろう、九条院のお慈悲なり──とあって、
「不愍な者よ。六波羅まで、真昼の途々を、人目に曝され指さされて送らるるとは、余りにも傷ましい。破れ輦なと与えて牛に引かせてよ」
と、女官を通じて、特べつなお扱いが下ったので、迎えに来た問罪所の捕吏や武士どもも否み難く、
「然らば輦だけはさし免すが、構えて美々しゅうは相ならん。はやはや牛を引き候え」
と呶鳴っていた。
常磐は、鏡をたたみ、櫛匣を仕舞って、乳呑みと、ふたりの児を、両側にひき寄せ、
「何時なと……」
静かに、支度のすんだ旨を外へ告げた。
女は女同士。さすがに、彼女がここの雑仕女から玉の枢へ入って、六条の義朝に愛されていた盛りには、嫉みそねみの陰口に暮していた院の朋輩たちも、
「まあ、あの和子さまたちの、可憐しい」
「何も知らず、母御前と同じように化粧して」
「欣しそうにしているだけ、母御前の胸のうちは、どんなであろ」
「かあいそうに」
「見るだに胸が傷む……」
などと、局々を出て佇み合い、柩でも送り出すように涙を溜め、中にはすすり泣きする者すらあった。
そうした中に、ただひとり泣かない者は常磐のみであった。
中門の外まで立ち出ると、待ちかまえていた武士どもが、荒々しく急きたてたが、
「それへお坐り遊ばせ」
と、子達にも教え、自分が大地へ坐って見せて、
「──では、お慈悲のお輦をいただいて参りまする。女童の頃から雑仕のご奉公を申しあげ、今日という終りの日まで、お廂のご庇護にあずかりました。何とも有難うぞんじまする」
母が両手をつかえたので、今若も乙若も、ふかい意味はわからないが、手をついて、
「さようなら」
と、御所へおわかれを告げた。
「おお、ようなされた」
起つと共に、裏門へ通じる道の岐れに、ぐわらぐわらと牛舎の方から一輛の牛輦が引出されて来た。
それは半蔀の女房輦であったが、余りに用い古されたので、久しく車小舎の一隅へ煤にまみれていたものらしく、前御簾は裂け、轅の塗りは剥げ落ち、ただそれを引くべく付けられた牛ばかりが、逞しい飴色の若牛であった。
常磐は、子を抱いて、破れ輦の内へ潜んだ。それとばかり、武士たちは前後を護る。そして、
「急げよ」
と、牛追を、追い立てた。
鳥羽蔵は、つい先頃まで、六条殿の牛飼宿の頭をしていた者だけに、まどろいと見たか、牛追の男の鞭を奪って、
「おれに貸せ」
と、自身、轅のわきに付いて、びしびしと飴牛のしりを叩いた。
牛輦の轍は、御所の裏門を軋み出るなり、石を噛み、泥濘を傾いで、ぐわらぐわらと揺れ進んで行くのだった。
揺るるたびに、前御簾の裂け目から、常磐の白い顔や、その膝にとり縋っている子達の姿がちらと見えた。
いつ聞き伝えたか、
「あれよ、常磐御前が六波羅へひかれて行く」
「六条殿のお子もか」
と、往来に群れて指さすもあり、輦についてぞろぞろ指さしながら来る雑人たちの跫音も聞える。
「…………」
常磐は眼をふさいでいた。
その間とても、乳を吸い止まぬつよい紲、膝にしがみついている小さい手の紲。この輦を六波羅へ引いてゆくのも老母の紲であった。
紲の中に、彼女は、まだ生きている身心地を持っていた。
非常なご機嫌である。
かなり悪い事つづきで、一族が眉を曇らしている時でも、およその事は、
「ばかな。何を鬱々」
と、陽気にしてしまう清盛が、わけてもこの頃はご機嫌なのであるから、六波羅一廓のことしの正月こそは、寔に、初春らしい陽気に充ちあふれていた。
それと。
清盛を始めとして、ここに住む平氏の一族たちは、その郎党の端に至るまでが、
「われわれの力でなければ、時勢はうごかないのだ」
という自信を新たにした。武家自体の力というものを知って来たのである。
こんどの平治の乱を境としてである。あの戦火の中、主上、上皇の車駕が共にこの六波羅へご避難あった事なども、いやが上に、
「前例もない誉れだ」
と、六波羅武士の誇りを昂めたものであった。
源氏といい、平氏といい、今日までは、公卿の下風について、公卿の爪牙につかわれていたに過ぎないが、時代はだんだん変ってきたぞ。──眼に見えずいつとはなく、そうでなくなった武家同士を、お互いの身振りや眼いろにも、自負に満ちて、見合うようになって来たこの平治二年であった。──いや改元して、この正月からは、永暦元年ということに、年号まで革まった。
その上、同じ弓取の源氏という一派の勢力までが、去年の年暮を限りに一掃されてしまったのである。
だから武門といえば、地方の辺鄙は知らぬこと、都に於いては、平氏のことだ。
平家の初春!
そう云ってもいいこの正月だったのである。
その隆運の気は、この六波羅の地相にも、まるで、絵屏風を展げたように漲っていた。わずか、十年も前までは、清盛の父の刑部卿忠盛が住んでいた土塀まわり小一町しかの古邸が、六条の河原へ向って、寒々とあったに過ぎなかったのが──今はどうして平氏の眷族たちも皆、近くに土木建築を興したので、ひと口に六波羅とはいえ、その地域の広大さは、一指をさして云える事ではない。
北は、六条松原から。
南は、七条のあたりまで。
そして、東と西は、加茂の河辺から山の尾根までを抱き、小松谷の山ふところには、嫡男の重盛が邸宅を新築し、小松殿とよばれてもいる。
一族の館のほか、時の勢いで、ここはそのまま政治を評議したり、庶民の訴訟を裁いたり、租税を督促したり、市中の警備から、諸国諸道の法令を発するところにまで成ろうとしている。
いや、一応は、そうしなければ統治がつくまいと、清盛は、もう、肚を決めているかも知れないのである。
なぜならば。
久しい間、藤原氏が政の権を執っていたが、文化的には功績を残しても、その文化はやがて頽廃的な懶惰と爛熟の末期を生んできたばかりか、藤原一門自体が、ただ自己を栄華し、私腹をこやし、この世は、わが為にあるものみたいな、思い上がりから、諸国の辺土に、大乱続出といったような、収拾できない世相をこしらえてしまった。
天慶年間の将門の乱。
藤原純友の乱。
それ以後の、またその他の、無数の私闘や戦乱は、地方自体の原野から生れたのではなく、腐った物から生じたのである。それは、中央に栄華して、歌をよみ、恋に暮し、政の大計は何もなく、ただ地方の百姓や家族へ、米や絹の租税の催促ばかり知っていた藤原氏自身が、ついに醸したものだった。
清盛は、今年、
「たとえ、自分が権を握っても、藤原氏のような馬鹿なまねは、おれの子孫にはさせんぞ」
と、独り年頭に自粛自戒して、ふかく省みた事であった。
彼は、明けて四十三歳の、男ざかりであった。
その清盛はきょうも、朝廷の出仕からたった今、退がって来た。
しきつめた小れ石のうえを、牛車の厚い轍が、邸内の奥ふかくまで、重々と軋み巡って来るまに、
「おさがりです」
「ご帰館」
と、館の侍部屋といわず、奥まった女たちのいる局といわず、色めき立って、泉殿にせせらぐ水音までが、改まって来るかのようであった。
「やあ」
大きな声をして、窮屈さを放つように、清盛は、出迎えの一統にそういうのが癖なのである。
車の簾を上げると共に、
「大儀」
ひょッこり降りる。
小柄な体なのである。そのくせ武張ってみせるのだ。朝に上っても、柔軟な公卿を、その小柄で下に見る風があるので、見られる者は何となく、
(威張りおる)
と、反感を挑まれる。
けれど決してわざとでない証拠には、館の家人や身近な者は、反対に、
(もちっと鷹揚に、重々しゅうお構え遊ばさねば困る)
と、むしろ彼が余り容態に無関心で、威張らないことを時々、喞っているのを見ても分ることである。
時には、君子風の嫡子重盛などからも、
(お父上は、どうしてそう軽忽でいらっしゃるか)
と、たしなめられたりするくらいなのである。
しかし、持ったが病というか、清盛は自分で意識しても、むかしの貧乏育ちのくせと、書生気のような無造作が直らなかった。
それも、安芸守や播磨守だった時代の一朝臣の頃には、物に関わぬおもしろい殿よ──と似合いもしたがである。
正三位参議という位階は、武人として決して低いものでない。しかも、その勢威の衆望は、実際において、源氏全滅の今日では、彼と対立する何者もいないのである。雲上には数多の大臣や高官がいるに違いないが、清盛自身でも眼中に入れていない事は、一門も郎党たちも知っている。──故に、
(もそっと、鷹揚に、重々しゅう、お構えなさればよいに)
と、望むのであった。
がらは小さいが、声は大きい。彼は大股に館の奥へ、歩を運ばせながらも、何かしゃべってゆく。
「後にせい」
とか、
「待たせておけ」
とか、
「追い払え」
とかいう吩咐けである。
公卿の訪問客が多いのであった。ふしぎな現象である。朝廷へは常に出仕しているので、そこで会えばいいに、私邸を訪ねて来るのが多いのだ。
殊に、先頃の乱に、源氏が一敗地に塗れてから、清盛の鼻息に媚びてくるのがうるさい程だった。
「やれやれ」
清盛は、平服に更えると、そう云って居室に寛いだ。彼の日課も多忙だった。倦まない質だが、朝廷から退がって来た時には、時折、疲れた顔いろを見せる。人にいえない、複雑なものを、いつも朝に上ると抱いて帰るらしかった。
上皇の院政を支持する公卿と、天皇を擁し奉る公卿との対立が、その煩いの禍根だった。清盛は、その一掃にかかっているが、根を抜こうとすれば、花を散らす。花を散らすまいとすれば、根は抜けない。
「久しいこと、お帰りをお待ち遊ばしていらっしゃいます。これへご案内申しあげましょうか」
近侍は、頃を見て、清盛へそう訊ねた。彼の義母にあたる池の禅尼が、何か折入って会いたいとかで、別室に待っているというのであった。
「なに。尼公が」
清盛は、小首をかしげた。
何の用か、思いよりがないらしい。同じ六波羅の池殿に、余生安らかに住んではいるが、めったに忙しない清盛の住居へなどは渡られない禅尼であるのに。
「ま、会おう。これへご案内には及ばぬ。わしの方から出向くのが礼儀だ。……母御前だからの」
終りは独り言のように、ちょっと億劫らしく顔いろを革めて出て行った。
彼は自我のつよい、吾儘ものと他人には云われているが、骨肉には甘いし、わけて親には、孝心が深かった。
貧乏の味を、骨の髄まで、知っていたからである。
よれよれな布直垂一枚来て、冬のからッ風にふかれながら、父の忠盛の無心手紙を持っては、
(嫌だな嫌だな)
と思いながら中御門殿だの正親町殿だのという公卿へ、わずかな金を借りに行って、
(またか)
と、顔をしかめられ、
(もう来るな)
と、厄病神のように、粟一袋に塩一升ぐらい恵まれて、おまえの親は能がないとか、貧乏平家のすが目のと、口汚く云われて帰って来ても、その粟その塩すら見れば、
(おお、これで今日明日の生命はつなげる──)
と、父も母も、無念とは思わず、かえって随喜したりした頃の──みじめ極まる家庭に育まれて、自然、右を見ても不愍、左を見ても不愍という愛情が、天性というよりも、境遇と共に濃くされたせいであろう。
で、父忠盛の死後も、自分には継母にあたる池の禅尼であったが、仕える事は、真の母と変りもなかった。──ああいう所は感心なお人であると、館の召使にいたるまで、その点は敬服していた。
「清盛です。今帰りました。……どうも近頃は忙しくて」
彼は、禅尼の待っている室へはいると、非常にていねいな辞儀をした。威容などはちっとも振らない、昔ながらの息子であった。
「お、ほ」
禅尼は、恐縮する。
あまりに手軽いので。
けれど悪い気もちでなかった。義理の子ながら良い子をもった倖せを思うのである。
老いても、なお美しい眼元を細めながら、
「おつかれであろ」
と、慰めた。
「いや、体の忙しさは、病身な父などとちがい、清盛は頑健ですから、何ともいたしませんが、どうも分らずやの公卿を相手に、半日、朝に上っておりますと、頭が悪くなりそうで」
「癇のお強い参議殿ではあると、いつぞやも誰かいうておりました」
「宮中で呶鳴りましたからね」
「せぬがよい事でしょう」
「自分でも戒めていますが、時々は」
と、笑って、
「時に、何かご用ですか」
「折入っての」
「……はて。母御前から折入ってと申しますと」
「義朝の子のことじゃが」
「義朝の」
「先つ頃、尾張の頼盛が家人の弥兵衛宗清という侍が、美濃路で捕えてきた可憐しい和子がありましたの」
「ムム。義朝の三男、右兵衛佐頼朝のことですか」
「そうじゃ」
「それを……?」
「斬れとの仰せなそうじゃが、慈悲じゃ、助けてあげて下さるまいか」
清盛は、すぐかぶりを振った。親に遠慮はないという膠のなさである。
「嫌です。いけません!」
「いけませんか」
「成りません」
「どうしても」
「母御前などが、お口をさし出す事ではありませぬ」
「…………」
「…………」
禅尼と清盛とは、それなり口をつぐんでしまう。気まずげな沈黙がいつまでもつづく。
中壺の紅梅が、一、二輪ほころびかけている。眼を反らしていた禅尼は、ふと、涙ぐんで、
「ぜひもない事よ。……故殿が世においで遊ばさぬ今ではのう」
ため息と共に呟いた。
清盛は、むっと色をなして、
「また、おひがみですか。父の忠盛が生きていたとて同じです。いや清盛としては、父君がすでにご他界だけに、なおさら、あなたのお頼みとあれば、たとえ逆さま事でも、肯いて上げたいつもりでいますが、義朝の子の処分などは、由々しい問題です。伏見中納言とか越後中将とか、あんな連中なら何十人助けてくれたからとて大事はありません。──が、総じて、弓取の子というものは、性根の恐いものです」
「和殿も、弓取の子ではなかったか。きょうの人の身、あすのわが身」
「だからです。豹の子には、日が来れば、きっと牙が生えるんです。元来、われわれ武門の血は、ついきのうまで、野放しに育って来た人間ですからな。こうして繧繝縁のうえに坐っていても、野に帰れば、たちまち牙を研ぎ爪をみがく性質の甦えってくる者なのです。──その点、平安朝や天平の文化に育てられて来た公卿たちとは、同じ国土の人間でも、血の鍛錬がちがいます」
「そのような事を、尼は嘆くのではありません」
「では、なんですか」
「後世の怖ろしさが思われるのじゃ」
「また。仏法の因果ばなしですか」
「和殿にもはや、沢山なお子があろうに」
「武門の子等ですから、武門のならわしに育てます」
「とはいえ、もし和殿のお子が、今の義朝の子のように成り召されたら、親として、どのように思わるるか」
「あはははは」
「笑い事ではおざるまいが。昨日ともいえぬ、世の移りを眺めたら」
「母御前よ」
「なんじゃ」
「あちらの女どもの屋へ渡らせて、双六か扇投げでもなされては如何。盛姫に催馬楽を見しょうとて、町より白拍子を呼び集め、賑やかに遊んでおるらしいが」
「お暇しましょう」
「そうですか」
先に立って、
「では、南廊の口まで、お送りしましょう」
遠くの屋に、笙や金鈴や鼓や笛の音が聞える。禅尼は、悄んぼりと泉殿の住居へ帰って行った。
禅尼を見送ってから、清盛はひとり橋廊下の角に佇んでいた。東山いったいの眺めは、ここの館の為にあるようだった。北苑を見やれば、加茂の川岸まで、薔薇園の広芝に明るい陽がほかほかしていた。
ぽーん
ぽーん
うららかな音がする。公達たちがまた、鞠を蹴っているのであろう。小松のあいだから時々高く鞠が揚がる。
三男の宗盛やら、従兄弟の経正やら、彼の蔓に生えているたくさんな一族の子等が、鞠を追って、夢中に転げているのが見えた。
「──馬鹿あっ!」
正月このかたのご機嫌は、とたんに一変していた。侍側の家臣も、胆をつぶした。恐らく清盛の頭には、池の禅尼のことばでも、思い出されていたのではなかろうか。
「弓でも射よッ。馬にでも乗り馴れろっ。わいら、公卿の子か!」
宗清は、何処からか今、帰って来た。
乗馬が汗をかいている。
五条松原の末を出端れると、馬場があるから、そこで一鞭当ててきたのであろう。人間ばかりではない、馬もすこし厩に怠けさせておくと、どんな名馬でも、いざ合戦となっては、物の役に立たないものである。だから調馬は侍の日課であった。
「やあ」
「おう……」
行き交う者はみな六波羅武士である。馬上会釈のままで過ぎるもあるが宗清は、陪臣なので、清盛一門の人とか、直臣の名だたる衆に出会えば、いちいち下馬の礼を執らなければならない。
「藤三」
と、口取の小侍へいう。
「はい」
「きょうはまた、わけても多く、ご一門や公卿方が通るの」
「きょうには限りませぬ。いやもう世の中は、正直すぎるものです。源氏滅亡と見えたとたんから、六波羅御門は、牛車、お馬、輿など、千客万来を呈しております。──この大和大路の往来が、そのため以前とはがらりとちがって来たほどで」
「横へ曲がれ」
「裏通を参りますか」
「閑寂でよい」
「遠方此方、だいぶ梅も咲き出しました」
徒然草に見える那蘭陀寺あたりの址である。梅ばやしを透いて、六波羅地蔵の蒼古とした堂が見える。
やや行くと、池があった。
「脚を冷やしてやれ」
宗清は、池の畔まで来ると、鞍から降りた。心得顔に、
「はっ」
と、藤三はすぐ空馬の口を曳いて、池の汀へ馬の脚を沈めた。
つよく乗った後では、こうして馬の脛を冷やしてやるのがよいのだった。馬場から帰る人々が、そのためよくここへ廻るので、この辺の土民は、「馬冷し池」などと称んでいる。
一頃は、この池も、源氏の武士と馬で賑わっていた頃もある。宗清は、ふと手をさし伸べ、池に臨んで咲いている梅の一枝を、花を落さぬように、そっと手折った。
「藤三、後から曳いて、厩へ入れておけよ。──先へ参るほどに」
宗清は、徒歩であるき出した。彼の主人、尾張守頼盛のやしきは、遠からぬ所にあった。頼盛は地方官として、常に尾張に在国している。──でほとんどそこは、空屋敷のていであった。
──にも拘らず、先頃からそこの門は、表にも裏にも、物の具着けた兵が十人くらいずつ立っている。あたりの閑寂に似もやらぬ厳しさである。素槍のどぎどぎした光が、時をおいては、土塀の外を三、四人して巡っているのに、屋敷の中は寺のように森閑として、鶯が啼きぬいている。
「何も、変りはないか」
宗清は、門衛の兵に訊く。
「ありません」
兵の答えにうなずいて、宗清はずっと通って行った。中門にも、兵が屯していた。
「お帰りなされませ」
「むむ」
提げている梅の一枝に、兵たちも眼をとめる。心ない者も、よい枝ぶりと見るのであろう。
奥ふかい一室まで、彼はそれを提げて通った。香の薫りが常時にしていた。
「佐殿。よろしゅうござるか」
云うと、室の内から、
「弥兵衛か」
と、まだ年少な声がした。
関ヶ原で捕えられて先頃からここに幽閉されている囚人頼朝であった。
頼朝は円座を敷いて、木彫のように行儀よく坐っていた。
ふっくら豊頬な面だちであるが、やはり父義朝に似て、長面のほうであった。一体に源家の人々は、四肢逞しく、尖り骨で顔が長い。ちょうど南部駒のような血すじだと、よく平家方で悪口いうが、そんな傾きがないでもなかった。
山繭の白小袖に、藤むらさきの公達袴は、ここへ来てから与えられた物であるが、それも朝夕、自分で畳みつけているとみえ、まだ折目もくずれていない。
「ご退屈でしょう」
弥兵衛宗清は、対い合って、軽くなぐさめた。
頼朝は唇元に、笑靨をつくって、
「いいえ」
静かに、かぶりを振る。
そのふさふさした黒髪が、何とはなく、宗清の眼に沁みた。
髪ばかりではない。
きょうの如月の碧空を見るような眸も、朱い唇も、白珠の歯も、可惜、近日のうちには、土中になる運命のものかと思うと、見るに耐えないのであった。
「なにをしていらっしゃいましたか。今日は──」
「お借りした唐の白居易の詩書だの、司馬遷の史記だのを読んでいました」
「史記と、詩書と、どちらが面白うございますか、どちらがお好きですか」
「詩文はつまりません」
「では、李白や白居易の詩を読むよりも、支那の治乱興亡の書いてある史記などのほうがお心にかないますか」
「え……」
うなずきかけたが、宗清の眸を見て、急に頼朝は口をにごした。
「好きといっても、そんなにも好きではありませんが」
「じゃあ、何がいちばん、読んでお心をうごかされますか」
「…………」
しばらくは答えない。
聡明そうな眼を、つぶらに見はったまま、考えているふうである。室内は香のにおいに湿っていて仄暗いが、頼朝のその眸には、戸外の春の天地が、湖のようにいっぱいに映っていた。
「──お経文です」
やがて、宗清の問いに、あどけない顔して、答えるのであった。
「仮名がきのお経文がありましたら、こんどお貸しくださいまし」
「はて、稚いのに、どうしてお経文などをお好み遊ばすか」
「亡き母者人に連れられて、嵯峨の清涼寺へよう詣りました。中河の上人とも、お心やすうござります。先頃、黒谷へ行って、法然房源空という若い坊さまのはなしも聴いたりしました」
「それで……」
「え、それで、いつのまにか、お経文を解いたおはなしを聴くのが、いちばん好きになりました」
と、うつ向きながら──
「わたくし……。もしかして、首斬られずに、生きていられたら、叡山か、清涼寺か、あんなお寺へはいって、仏さまに仕えていたいと思います。住むところなら、お寺がいちばん好きです」
と、云った。
宗清は、室の一隅にある小机に目をとめた。位牌とてはないが、一碗の水を供えてある。可憐しくも、囚われの身にありながら、父や兄たちの霊に、朝暮の回向をしているものとみえる──
まだ十四歳の童子の言を、いちいち奥底ありげに疑って聞くのは、大人のわるい癖であり人間の邪智というものであるまいか。宗清は反省してみるのだった。──いや、頼朝のすがたに対していると、いつのまにか、そう考え直させられてしまうのだった。
「佐殿。お目なぐさみにと、馬洗い池のそばに咲いていたのを、一枝、携えて帰りました。どこぞへ挿して置かれませ」
宗清は、縁の端から、それを持ち直して来て、枝ぶりを示しながら、頼朝の手へわたした。
「アア」
頼朝は、口を開いて欣んだ。
いかにも、少年らしく、
「もう、咲いているんですね。外には」
「あれに、銅器の瓶があります。水を汲み入れてさしあげましょう」
「自分でやります」
よほど欣しかったと見える。自分の手で、古銅の瓶にそれを挿けると、回向の水の供えてある小机の傍らに置き、
「いい匂い──」
と、花の香を嗅いだりして、歓喜していた。
「弥兵衛」
「はい」
「もひとつ、お願い事があるのじゃが」
「何ですか」
「きき入れてくれるか」
「仰っしゃってご覧じませ」
「小刀と木切れを賜わるまいか」
「小刀を」
「さればよ、明日は、父義朝の五七日の忌にあたる。小さい卒塔婆なと削ってご供養のしるしとしたいが」
「……ああ。はや左様な日数になりますかな」
宗清は、あわれに思い、
「囚人のおん身なれば、刃ものは参らせるわけにゆきませぬが、お心の届くように計らいましょう」
と約束した。
そして自分の部屋へ退がってから、郎党の丹波藤三に、小さな卒塔婆百本を調えさせて、頼朝の牢屋へ持たせてやると、頼朝は非常に満足のていで、
「忘れおかぬぞ」
と、恩に思う由を、藤三の口からまた、伝えてよこした。
「何せい、ご不愍なことだ。何とかお命を助けておあげ申したいが」
密かに宗清は苦慮していた。いや、思案ばかりでなく、そのよい相談相手として、自分の主人尾張守頼盛の母公にもあたれば、また清盛の義母にもあたるちょうどいい手づるの御方として──池の禅尼へも内密に縋っている。
禅尼は大の仏教信者だし、それに慈悲ぶかいお人とはかねがね聞き及んでいるので、数日前に主人の消息を携えがてら伺って、あれこれと、頼朝のうわさを持ち出すと、禅尼には、
(あわれな者よの)
と、涙さえうかべ、
(起臥の様はどうじゃ。気だてはどうか)
と、それからそれへと聞きたがるので、宗清は自分の思いのまま話すと、
(そうか)
と、深く息しておられた。
するとその翌日、日ごとに詣る寺院の帰り途とかで、ふいに子の頼盛が留守屋敷に立ち寄った。
元より公ではないが、そっと頼朝をご覧になった。そして頼朝へ菓子など与えて帰られた。
(この尼が、十七年前に亡うた子の右馬助家盛に、頼朝は瓜二つともいいたいほどよう似ておる。右馬助がもし生きてありなばと、そぞろ思い出されて、涙がこぼれてならなんだ)
とはその後、宗清が泉殿へ伺った時の禅尼の述懐であったが、さらに、
(かなわぬまでも、頼朝の命、何とかお救い賜わるよう、清盛どのへ尼よりおすがりしてみましょう)
とまで云われた。
それを頼みに、宗清は、きのうも待ち、きょうも待ち、すでに死罪打首の日どりは、この月の十三日と、日まで内定しているのも──まだ頼朝へは申し渡さず、ひたすら禅尼からの吉報を心待ちにしているのだった。
待ちきれずに、宗清は、そのあくる日、泉殿へ伺って、禅尼へお目通りをねがった。
禅尼は、宗清が切り出すまでもなく、用向きを察して、
「どうしたものぞ、尼の力ではもはやお縋りの言葉もないが」
と、打ち悄れていう。
そして、頼朝の首斬られる十三日にも、はや間もないが──と、落涙さえして、清盛の無情を喞たれた。
「いやいや」
宗清は、頭を振って、禅尼を励まし、
「清盛様が、無情なお人だなどとは、世評のことで、実は、涙もろくて情には極くお弱い方にちがいございませぬ。──が、それではご一門をひいて、なお、大きくは天下の政治をなされては行けませんから、ご自身で、ご自身の弱いところを知って、強いて無情に構えていらっしゃるのだと、私などは存じあげておりまする」
「……じゃが、今度ばかりは、尼がどう掻き口説いても、うんとは仰せられぬ」
「ひと筆、御書をおしるし賜わりますまいか」
「文か」
「はい。小松殿へ」
禅尼は、眉をひらいて、
「そなたも、そう思うか。尼もこの上は、小松殿のお力をかりるしかないと考えていたが」
「宗清が、ひと走り、お使いに立ちまする」
禅尼はすぐ手紙をかいた。
それを携えて宗清は、程近い小松殿──清盛の長子重盛の館を訪れた。そして禅尼の大慈悲心のあるところを重盛に会ってよく伝えた。いや、宗清自身が胸いッぱい持っている頼朝への同情もみな禅尼のことばとして、重盛には伝えられた。
文を見て、重盛は、
「承知した」
と、云った。
そう難しくない顔に見えた。
「何とぞ、お力をもちまして」
と宗清はつい、わが子の生命の瀬戸際のように、懸命に額をすりつけて縋った。──が、自分は末輩の端でも、平家の武士であることに気づくと、余り熱意を表にあらわしては、かえって頼朝の不為だし、この身も妙に疑われてはと、
「もし助命の儀、六波羅様にお聞き入れない時は、この十三日の打首の太刀取は、てまえが望んで、勤める所存でござります」
などと云い紛らわして、門を辞したが、さてまた、小松殿の門を出てからは、
「あんなよけいな事は、云わずもがなであった。頼朝を助けて欲しいと思っているのは、禅尼おひとりで、世間の侍どもや一般は、冷淡らしいとお取りになられたら小松殿のお考えも、自然、冷たくお傾きになろうもしれぬ……」
と悔いたりした。
従者もつれず、駒も持たず、宗清は小松谷から歩いて来た。夕月が白かった。薫々と袖や面に匂う風がある。月明りより白い道ばたの梅の花だった。
「弥兵衛。──まだ歩いておるか」
ふいに、後ろから声をかけられて驚き仰ぐと、重盛であった。
重盛は、馬上から云う。
「駒の口を取れ。ちょうどよい折。これから父上へ会いに参るが、途中、そちの案内で、幽所におる義朝の子、一目見て参ろう」
宗清は、欣しさに、あっと答えながら駒の口輪へ走り寄った。日頃は内気のように籠ってばかりいる重盛が急も急、自分がお暇するとすぐ出て来たらしい早さに驚きもし、有難くも思って眼がしらが熱くなった。
主はいない邸である。夜はなおさら寂として、燈火の影は遠侍のいる部屋にしか映していない。
長縁を先に立って歩みながら、宗清は、
「おことばをかけてお遣わしになりますか」
と、後から来る重盛へそっとたずねた。
重盛は、ことば静かに、
「その折の様子で」
と、云う。
頼朝のいる幽室へ案内して来たのである。
元より燈火は置かれていない。
春とはいえまだ夜は寒いのに、蔀障子も開け放されていた。大廂からまだ低い宵月が映しこんでいるのに、そこを閉め惜しんでいるかとも思われる。
「ここがお室でござる」
宗清にささやかれても、重盛はそこの広縁に佇んで、ひと目、室内の人を見やると、凝然、身を凍らせたまま頷きもしなかった。
頼朝は坐っていた。
円座に乗せている膝の辺りまで月明りが真っ白にさしている。
きのう宗清に乞うと、宗清に布施してもろうた百枚の小卒塔婆を、傍らにおいて、それを左の手に、右に筆を把って、こよい父義朝の五七忌に、一枚一枚供養の名号をしるし、指の冷たさも知らぬげな容子であった。
「……?」
ふと。
人の佇んだ気はいに、彼は筆をとめて、つぶらな眼を上げた。
月光へ向けた眸が、らんと光って見えた。けれど広縁に佇んで自分を見ている人は、月を背にしているので、黒い影法師にしか見えなかった。
「…………」
今に何か、一言でも、ことばをかけて遣るか遣るかと、宗清は、重盛の足もとに蹲ったまま、じっと、唾をのんで控えていたが、重盛は化石したように、いつまでも物云わなかった。
「…………」
頼朝もまた、無言だった。
無理はない。宗清以外の者の跫音が来れば、自分を殺しに来た人ではないかと思うに違いないのである。
ややあって。
自分に害を加えに来た者でない事が分ったらしく、頼朝はだまって、重盛のすがたへ、頭を下げた。
それに対って、重盛も慇懃にかしらを下げ、そして初めて、宗清の方へ云った。
「夜の具は、お寒うないようにしてあるか」
「はい。寒からぬ程に」
「食膳は」
「魚類は、あがりませぬゆえ、その他は、世の常並に」
「あの瓶の挿梅は、そちが致したか。ゆかしい心入れに思う」
「恐れ入りまする」
「義朝どのの御曹子」
と、こんどは、頼朝へ向ってやさしく、
「おん身、幼いに似ず、よく供養なさるのう。亡き父殿が恋しいか」
「恋しゅうござります」
「死んだら会える。そう思うておられるか。死んで父殿に会いたいと念じられるか」
「そう思いませぬ」
「どう思う?」
「死ぬのは怖うござります。死ぬほど、恐ろしい事はありませぬ」
「でも、おん身は合戦に出たであろが」
「戦の時は、ただ夢中でしたから……」
「生きたら、どうありたいと思うか」
「清涼寺へお弟子入りしたいとぞんじます。お坊さまになれば……」
筆を持ったまま、その肱を曲げて、両眼に当て、しゅくしゅくと泣き出してしまった。
「ゆるせ。心ない事を訊ねた。……ゆるせ」
重盛は、顔をそむけた。その頬に一すじ、白いものが流れるのを月に見て、宗清はひそかに心を強くした。この和子は助かるという気がした。
主の帳内に間ぢかく詰めている宿直たちはもちろん始終を聞いていたし、対屋や遠侍の控えにまで、清盛の声はきこえて来た。
「ばかなっ。ばかな」
これは時々聞くことで珍しからぬことばだったが、
「──親に対ってッ」
という一喝は、かりそめにも正三位参議の六波羅殿の館から洩れてよいものではない。下司雑人なら知らぬことだ。
寝殿を中央に、左右の対屋から北の母屋、奥の局までも、為に、夜空の雲に鵺でも現われたように──鳴りしずまって、しんとしてしまった。
夜もふけてゆくし、それがために一層、清盛の声は、耳だつばかりだった。
「重盛。おまえは子だぞ。わしの子だぞ。いくら賢ぶっても」
「はい。弁えています」
「今のことばは何だ。親を無慈悲無情の羅刹とはなんだ。慈悲がなくて、子が育つか」
「羅刹などと父君を誹った覚えはございません」
「耳ががんとしておった。言葉じりなどとるな。わしはかっとする性だから。──がしかし、云わんばかりに罵った」
「罵りません」
「面倒だ。枝葉はよせ。口では、そちに敵わん。──だが重ねて申すぞ。たとえ母御前の尼が、どう仰せあろうと、ならぬ事はならぬ。もってのほかだ。──頼朝の生命を助けてとらすなどという事は」
「…………」
「和郎にわからんか。つもっても見い。──あれは義朝の三男じゃぞ。上には次男に朝長あり、長男義平があるに、その兄弟頭をさしおいて、父の義朝がわざと三男へ伝家の『髯切』の一刀に、源太ヶ産衣をくれておるところを見ても、頼朝という童の非凡は知れておるではないか。──子を観ること父にしかずだ」
「が……父君」
「だまれ。待て」
押えてまた、朗吟でもするような嘆をこめて、
「子を観ること父にしかずだっ──。重盛、そちもすぐわかってくる」
「さればこそ、そこを憐れと、禅尼様にも」
「何もかも、尼御前のせいにして云うが、由来、若いくせに仏いじりのみして、仏家の真似の好きなのは、そう云う和郎自身だ。──輪廻とやら因果とやら、やれ菩提の仏心のと、生かじりの智慧と小慈悲を、生きた世間へ、そのまま用いてみたいのが、和郎の本心とわしは観る。──過るなよ。世の中はうごいているぞ、人間は生き物だぞ。戦や政治のあいまには、せいぜい仏者遊びもよい。だが伽藍の中か小松谷の館の中でやれ。──清盛のまえへなど持ち出して参るな」
清盛は赤くなって云う。云って云って云い捲ったつもりでいる。
けれど、熱に渇いた唇をなめて重盛を見直すと、初めから刻経った今まで、ささ濁りもせぬ水のように澄みきっているのだった。
「そうです。父君のお察しのとおり、禅尼様ばかりでなく、それは私も望んでいる事にちがいありません。一門の将来と、父君の人望を考えるからです。前に保元の乱の後、敗れた敵方の者を、日頃の悩みにまかせ、老も若きも、敵に有縁の者とみれば、仮借もあわれもなく斬殺した信西どのの終りはどうでしたか。武門に生れ武門に死ぬるさだめの私たちには、きょうの敵の身の上も、他人の運命ではありませぬ」
「何をいう。和郎等を、そうさせたくないばかりに、この父は」
「子への慈悲なら鳥獣にもある天性でしょう。何もお父君のみが」
「談義! やかましい」
清盛は、最後の一喝を放つと、両手で耳を掩ってしまった。
「わしはその慈悲人情が、あまりありすぎて当惑しておるくらいなのだ。申すなっ。もう申すなっ」
他人同士の好き嫌いとは元よりちがうが、わが子にだって嫌いはある。清盛は長男の重盛はどうも嫌いだった。
真っ直ぐなことばかり云うからである。世の中の事々は──わけて政治などに携われば、重盛がいうようなわけにはゆかない。
また、何かにつけ、仏法や儒学など持ち出すのも、清盛は気にくわない。仏様は崇めてもよいし、学問も尊重してよいが、生々しい政争と合戦の巷にいては、そんなものは心の邪げにこそなれ、多足にはならないと決めているのである。政治のために、仏法や儒学を利用するならわかるが、身に奉じて、自分を他人の考えた哲理に嵌めてしまうなんて、とんでもない事だというのだ。
清盛は清盛の生命と性格を生みづけられて、今の時代に此土へ生れて来たのだから、このままに生き通し死に果たす事こそ天の使命を完うするというものである。孔子が不届きだというなら云え。釈迦が外道と嘆くなら嘆け。
おれも天津日子の遠い御末のひとりなのだ。たれが此土の地獄を祷るか。同じ御民の苦しみを計るか。
どうか百姓万民のためにもよかれとやっているのだ。天津日子の弥栄を祈り奉る心にふたつはない。その為には、邪げとなる物は刈り尽す。外道ともなる、天魔ともなる。──また、それくらいな形相を持たなくては今の政争や戦に押しきって勝てるものではない。隠者になって暮したがましというものだが、清盛には、隠者になって月花をながめてだけでは生きてゆくかいもない。隠者にはなれない俺であるからと、彼は正直に、自分の性質を認めていう。
けれど、彼のそういったふうな我説も、それを一族群臣に云う時には、諸人皆、おそれ入って聴くばかりであるが、一箇の重盛に向っては、聡明なひとみから冷蔑の光と微苦笑とを、無言に酬いられるだけだった。
もしその口を開けば。
重盛の叡智、学識は、赤子の手でもひねるように、諄々と熱せず迫らず、父の大ざっぱで浅い我説を反駁して、完膚なきまで覆してしまうであろう。──あくまで孝行を奉じ、かりそめにも冒すことはしない重盛であるが──親の清盛からみると、そうされそうに感じるのである。自分より優れている点を、親でも認めずにはいられなかったからである。──が、親より偉い子というものは、得て、親を楽しませない。
まして、清盛はまだ若い、──自分では若いつもりである。
ようやく、貧乏を脱し、人々を見かえし、他人が若い頃に通った青春を、彼は四十過ぎての今、迎え始めた気もちなのである。燃ゆるばかりの元気だった。途方もない大きな設計図を日本中に画いてみたり、そうかと思うと、小さい衣食住などに恋々として、何かにつけ慾というものが旺んである。
物を喰うにもがつがつと飽食はするし、一族や子等の前でも、平気で女のはなしなどをやったりする。──ふと、その中に重盛が、浅ましげに眉を顰めてでもいると、急に気づいて話をそらしてしまったりはするが。
──とにかく。そういう父と子であったから、頼朝助命の嘆願は、誰が考えても、重盛をおいて他に人はないほど適任らしく思われたが、事実に当ると、かえって清盛の不機嫌と強情を募らせてしまった。
重盛もまた、禅尼と同じように、梅寒き夜更けを、空しく小松谷の館へ、黙々と帰って行った。
その翌々日頃であった。
九条院のうちへ、三児を抱いて常磐がかくされて、やがて自首の旨を、六波羅へ訴えて出て来たのは。
常磐が捕えられて来たと聞いた日から、清盛はしきりと、
「今まで、どこにいたか。どうして遁れていたのか」
とか、
「子は連れておるか」
とか、また、
「窶れておるか」
などと侍側の家臣や、折々見える問罪所の奉行へ、諄いほど訊ねた。
問罪所からは、やがて彼女を取調べたつぶさな口書に、その処分を仰ぐの旨を添えて、一般の罪囚と同じ形式で、清盛の所へまわしてよこした。
すると、清盛は、奉行の仕方をひどく不機嫌に、
「かりそめにも、義朝の想い女。乳のみ児すらあるものを、問罪所の牢などにおかず、なぜ侍どもの一部屋なり空けてやらぬか」
と、その無情を詰って、
「わしが調べる。西の屋で見よう。すぐ曳いて来い」
と、意外なことばだった。
奉行は、その前に、頼朝に対する清盛の仮借ない気もちをそれとなく聞いていたので、常磐に対しては、なおさら主人の旨にかなうように苛烈に扱ったのであったが、案に相違したので非常に狼狽し、やがて彼女を館の下屋まで召つれて来た折には、客を伴うように、宥わり慰めた。
「席を与えい」
清盛のことばに、侍が、階下の庭さきへ藺筵を展べかけると、
「上へ。上でよい」
と、早口に云った。
──上とは? と疑うように清盛の顔を仰ぐと、階の上の広縁を顎でさしているので、奉行は、
「はっ」
と、恐縮しながら、
「お上がりなさい」
と、常磐を促した。
常磐は、顔を上げ得ない。
乳のみは無心だが、今若と乙若の二児は、二夜の牢舎暮らしに怯えきっていた。母の膝から寸分も離れないのである。
「仰せじゃ。上がられて、床の座をいただきなさい」
起たないので、奉行がまた促すと、常磐は二児をあやしすかして、ようやく、俯向きがちに広縁の端まで上がって坐った。
母子三人が、巣の中の小鳥のように、小さく縮まり合った。
見も知らない怖い小父さんたちが、厳然と、清盛の左右に見えるので、今若も乙若も、母の膝へ爪を立てないばかりにしがみついていた。
「…………」
清盛は、その幼い者と、常磐の窶れ果てた顔とを、見くらべていた。
初めて見る常磐ではない。九条院に仕えていて麗名の高かった頃から始終、垣間見ていたものである。
死んだ義朝といい清盛といい、お互いが女には眼の早かったものである。どこの局にはどんな女性がいるとか、なにがしの中納言の娘はどうとか、武将たちの話題がそれになると、源氏も平氏もなく喧しく賑わった。
そして人の恋している花を、横から手折って興がったり、戦の先陣に次ぐ誉れみたいに、見よがしにした。常磐の場合でもそうだったのである。その頃、清盛はまだ見る影もない布衣だったし、義朝は得意のさかりであった。
が──今は。
余りな変りようである。清盛も感慨なしにはいられない面持であった。ややしばらくたってから彼は初めて常磐に云った。
「乳は出るか。……乳はたくさん出るのか」
恐い人と噂にも高い六波羅殿である。その清盛の事だから、どんな激越な吟味ぶりかと思いのほか、
──乳は出るか。
という質問が、最初に出たので、常磐も意外であったろうし、侍側や問罪所の諸人も、あっけにとられた顔して、黙り返っていた。
「…………」
片手に牛若を抱いているので、片手のみを床につかえたまま、常磐がかすかに顔を横に振ると、清盛はうなずいて、
「出ないか。さもあろう」
と、独り喞つようにまた、
「わしの母親も、貧乏の頃は、乳が出ぬので、悩んでおった。女親とは、愚かなもので、ない食べ物も、あるように見せて、良人へ喰わせ、這う子に与え、自分は喰べぬうえに、乳呑児に乳をせびられる。堪ったものではない」
「…………」
「さすがに義朝を、うつつにさせた其女の容色も、あわれや、見るかげもなく窶れたなあ」
彼の歎声は真実だった。可惜──と心の底から出たのである。
「常磐」
「……はい」
「顫いておるらしいが、何も恐がるに及ばぬ。そなたに罪はない。合戦は、清盛と義朝のいたした事だ」
「…………」
「女どもが知った事ではないが、そもそもは、義朝の愚が清盛を幸いさせてくれたようなものだった。彼は、一個の武弁に過ぎない男で、清盛ほどの政略もないのに、公卿の政争に組したのが禍いの因といおうか。──何にしても、武門のならいとはいえ、気の毒なのは、一族門葉、それに何も知らないお前どもだ。──がしかし、清盛は、そなたのような者まで斬る気はない。安心するがいい」
「……も。……もしっ」
常磐は、必死にさけんだ。
「わたくしの生命は、ゆめ、惜しいとはぞんじませぬ。……お慈悲を。どうぞ和子さまたちの一命を」
ことばの終るも待たなかった。まるで別人がどなったかと思われるような、大喝で、
「図にのるなッっ。女ろう!」
「…………」
「あわれをかければ、すぐつけ上がる。女どもの憎い癖だ。そちは元より氏素姓もない九条院の雑仕女、義朝の寵をうけたといっても門外の花だ。しかし抱えておる子たちは正しく源氏の血流、ましてみな男の子。助けておくことは罷りならん」
その形相と峻烈な声に、今若がベソをかきはじめた。乙若も泣き出した。
常磐は、ひれ伏したきりとなっている。その黒髪を清盛は睨めすえていたが、
「ちイっ、よしない事」
と、何か悔いたように、ぬっくと不意に起ち上がって、
「下屋へ退げろ」
役人たちへ命じると、耳でもふさぎたいように、首を振って、正殿の帳台へかくれてしまった。
下屋は長い廊を隔てて、裏園のはるか彼方にあったが、深夜に入るとそこからでも、乳呑みの泣くのが聞えてくる気がした。もっともそれは清盛の耳のせいかも知れなかった。
なぜならば、彼は夜もすがら眠りつけない容子だったからである。いっそ世間の底も貧苦も知らない家に生れていたら、こんな悩みもすまいと、清盛は思った。
いつになく、翌る朝、早く起き出でたと思うと清盛は、
「小松殿を呼んでこい」
と、侍者を走らせて、重盛を迎えにやった。
朝の光の充ちている室で、重盛は、父の顔を見た。
「どうかなされましたか」
「むむ……すこし頭が重い」
「おつかれが溜ったのでしょう。朝へ上ると、いろいろ煩わしい事が多いらしいと、禅尼にも、お案じなされておりました」
「尼どのに、会ったのか」
「はい。いつぞやの儀で──」
「尼どのには、まだあの儀を、歎いておられるか」
「お諦めになりません。亡くなられたご実子の思い出やら、頼朝の事やら、話されたり訊かれたり、よくよくとみえて掻き口説いておられました」
「清盛を、無情者よと、恨んでおいでられたろうな」
「お口には出されませぬが」
「──重盛」
「は」
「前の合戦──保元の乱の後では、信西入道には、ずいぶん思いきって、日頃の政敵や残党どもを狩って、斬り尽したな。……だが、ゆうべも寝ずに考えた事だが──結果はかえって悪かったようだな」
「無用にまで人を斬って、人望のよいはずはありません。信西入道からいつとなく人心が離れたのは余りに果断剛毅にすぎて、そこに涙というものが少しもなかったからでしょう」
「うむむ」
「今度の合戦では、信西入道こそと、憎しみの的にされ、西洞院のやしきも真っ先に火を放けられて、逃ぐるを追われ、源光泰のために、田原の野辺で非業な最期をとげてしまいました。苛烈な人斬りをした酬いよと、弔う人もありません。輪廻とや申しましょうか。業の廻りといいましょうか」
「いや、仏者ばなしは止せ。そんな茶のみばなしではない。深く、ゆうべわしは考えてみたのだ。その信西入道の仕方と、世上の反響やその結果をな。……と、良くないわい。下策だ。人心をつかむ所以でない。これを義朝一族の後始末に照らしてみるとだ」
「ホ……」
重盛は微笑をたたえ、ついうかと──お気づきになりましたか──と云いかけたが、父の性格は、他の忠言でするのを好まない。たとえ他の忠言で行うにも、一応、自分の考慮と意思から出たものとしなければ実行しない──その性癖を知っているので、
「御意のとおりです。まったく、お考えは図に中っておりまする」
と、相槌を打った。
すると、清盛は、
「そうか。和郎にもそう考えるか。大を為さんとすれば、よろしく仁を施さねばならぬ。──幼い頼朝ごとき者、打首にしても、世上に眉をひそめさせるだけだ。一命は助けてとらそう。流罪申しつけろ」
「……えっ。では」
むしろその恬淡さに、重盛のほうが抜駈けされたような心地だった。父の顔はそれを云ってしまうと、さばさばと朝らしい照りを顔脂に見せているのだった。
「大慈悲心を起されました。禅尼にもそれを聞かれたら、どんなにお欣び遊ばすかしれません。……ではさっそくにも、泉殿へ」
「ひとつ孝行したの」
「ああ、寔によい朝でございました」
重盛も清々しかった。父に対してこんな崇高なものを肉親の情以外に、胸に抱いたことはなかった。
さっそくにと、欣んで起ちかける重盛へ、
「あ。それから」
と、清盛はこれも至って簡単に云ってのけた。
「ついでの事に問罪所のほうへ自首して出た常磐御前も放してやれ。ただ子たちはみな男だからな、寺入り申しつけるがいい。──乳のみ児は、すぐもぎ離したら泣き死のう。百日ほども母の手に猶予を与え、鞍馬の山へでも上げてしまえ」
ゆうべ頼朝は、宗清からそれとなく、最期の覚悟を諭されていた。
「さあという時、恥のないように、いつでも死ねる心を、お胸にすえておくのが肝腎です。あなたが世の笑いものとなる事は、源氏の恥のみではありません。侍というもの全体の笑いぐさですからね」
「たいがい、大丈夫に、死ねると思っております。──こうして掌さえ合せれば」
常のような素直さで頼朝は云う。思いのほか動揺も見えないので、宗清は、いくらか安んじた。
頼朝は、今朝も起きると、幽室にぽつねんと坐って、何やら考えている顔していた。十三日は、その日であった。
「──今日は首斬られる日」
と、知っていた。
怖いようなまた、何でもないような──であった。
鶯の声が、今朝も耳につく。
と──
庭さきの陽の光の中を、その鶯の影が征矢みたいに翔けた。あわただしい跫音が長縁を走って来たので、驚いたものとみえる。
「……来たか?」
頼朝の顔が、蝋みたいに白くなった。さすがに眸も恟々しはじめていた。
「佐殿」
宗清であった。それへ見えるなり声を弾ませて云うのだった。
「お欣びなさい。今はまだ申されませんが、きょうは、やがて吉い事がございますぞ。──吉い事が」
それでもまだ遽には顫えも止まらず、何の意味か解せなかったが、やがて今に、これへ小松殿がお見えになられますぞ──と、宗清が、云い残して去ってから、やっと、
「ア。……ことによると?」
頼朝は覚って、急に、体をそこに置いていられないような気持になりだした。
恐くて恐くて、一刻もはやく、この檻を破ってでも逃げたくなったのは、それからの半日ほどの間だった。
午の刻の頃おい。
小松重盛が見えて、池の禅尼のおすがりと、清盛の慈悲とに依って、一命を救ってとらせるとの旨を、頼朝につたえると、頼朝は、嗚咽の声をあげて、幾たびも、
「あ、有難うございます」
と、心から礼をのべた。
心からであったが、自分でも余りはしたなく泣いた事を、すぐ後では恥ずかしく思い出したとみえ、威儀改めて、両手をつかえた。
「どこへ、身は流される事か、分りませぬが、禅尼さまへ、何とぞよろしく、おつたえ置き下さいまし」
「いや、その前に、一度お目もじ申しあげて、お礼をのべられるよう、重盛が計ろうてとらせよう」
重盛が帰ると、その夕、正式の沙汰を携えて、六波羅の役人が見え、
伊豆の国へ配流の事。
三月二十日、京師を立って、配所の地へ、下され申すべき事。
の二つを申し渡した。
その日の来るのを、頼朝はどんなに待ったかしれない。幽室から空ばかり見ていた。
日が近づくと、宗清は、
「伊豆へ下られる道中、六波羅からは、追立役の検使、警固の青侍などがついて行きますが、不親切はいうまでもありません。誰か、せめて途中までも、お付添いしてくれそうな、ご縁故の者はありませんか」
と、訊ねた。
頼朝は小首をかしげて、父の知る辺や、家来の名などを、しきりと思い出しているようだったが、やがて首を振って、
「ありません。──あっても、六波羅どのを憚って、誰も従いて来てくれる者はないでしょう」
高札が立った。
すわ、何か。
という眼いろが、それへ寄り集まった。市の中にも、橋のたもとにも、東獄の門前にも、そういう人だかりが随所に見られた。
「配流とある」
「流罪か」
「伊豆の国へ」
「伊豆へ? ……。ほう」
伊豆とは、どんな遠国やら、京の人々には想像もつかないのである。
「──でも、よかった。また加茂川に、稚い和子たちの首斬られるのを見るよりは」
誰もみな、そこでは、ほっとしたような息をついた。六波羅の処断を、
「情けのある仕方」
と、言外に賞めたたえた。
折ふし、民衆の中には、合戦以後、これから自分たちの司権者として臨みかけている清盛という人が、大きく──忽然と大きく意識にのぼっていたところなので、
「こういう情けのある仁者ならばこれからのご政道もいちだんとよくなろう」
という安心も交じっていた。
けれど、一面のほうで。
清盛の評ばんは、かえって平家の一族のなかでよくなかった。頼朝の処置などは、もっとも悪評で、
「義朝、義平、そのほかを皆斬っていながら、なぜあの童一人を助けたか」
「平常、何事にも、徹しておやりなさるご気性にも似あわぬことだ」
「池の禅尼や小松殿のお口添えによるというが、他からの進言などに、御意をうごかすような殿でもないのに」
などと少壮な武者輩の間には、不平の声が紛々とあった。
武力をかけて、自分等のなした大業に、そういう私情だの、裏面の処置があっては、画龍点睛を欠くものだ。平家のため、将来を思うならば、頼朝は助けおくべきものではない──という強硬な論議がかなり聞えるのだった。
「そればかりではない」
と、一部強硬な仲間ではまた、寄々に云う。
「常磐の罪はどう決まったのか。彼女の抱えている男の子三名のご処分も、高札の面には見えていない。問罪所の沙汰もあれきり聞かぬ。いぶかしい事ではある。闇から闇へのご処置ぶりというべきだ。何かあれにも、裏面があるのではないか」
うわさは、うわさを生む。
その常磐は近頃、獄から下げられて、七条朱雀あたりの小館に、母や子どもらと共に無事にいる。
そして折々、そこの門には、主の知れぬ輦の着く夜などあって、口さがない町の凡下たちは、
(六波羅様が忍ばるる)
などと専ら取沙汰しておるぞ──と、それをまた、事々しく、いかにもほんとらしく、取沙汰して伝えて来たりする者がある。
常磐の美しいことは有名であるし、清盛が女性に脆い人であることも、若い時分の行状からでも、隠れない事実である。
従って、このばかな噂も、案外ばかにはされず、
「ふム。そんな事も、あり得ない事とは云えぬな」
一族の中にすら、半ば、信じる者があったりした。
そうした世間の沙汰や、ようやく、合戦の悪夢を忘れかけて来た巷のうごきの中に、早くも三月の二十日は来た。
頼朝は、前日の十九日から、池の禅尼の泉殿のほうへ身を移されて、遠い配所へ旅立つ支度に、夜もすがら眠る間もなく、暁を待っていた。
表のほうに馬の嘶きが聞えだした。次第にそれは、人声や馬蹄の音も加えてくる。泉殿の門前から広前へかけて、人の寄って来る気はいであった。
「夜が明けたな」
頼朝は臥床から立った。
彼の起き出た様子に、泉殿の使い女たちは、妻戸をあけ、蔀を上げた。
──が、夜はまだ明けきれてはいないのであった。星さえ見える暁闇である。
「あ。もし」
雑仕女のひとりは、頼朝が、自身で臥床を片づけているのを見て、あわてて寄って来ながら云った。
「ここのお掃除などは、私たちがいたしまする。それより身支度を遊ばして、禅尼様のお部屋へおいでなされませ」
「禅尼様には、もうお目ざめですか」
「ええ、ゆうべは遅くまで、あなた様とお物語りでしたが、あれからも、ほんの一刻ほど、お眠り遊ばしたきりでございまする」
頼朝は、云わるるままに、身のまわりを整えて、縁つづきの一室を窺い、
「弥兵衛、起きてか」
と、訪れた。
すぐ、宗清が顔を出して、
「おう、佐殿か」
と、縁に立ち並び、
「お早いお目ざめでしたな。ゆうべは、更けるまで、禅尼様とおはなしで、眠る間はなかったでしょう」
「いや、たくさん寝たよ」
「そうですか。きょうから長いお旅路です。──また、馬の上で居睡りなど遊ばして、連れにお逸れ遊ばさないように」
「はははは。だいじょうぶだよ、今日は」
頼朝は笑った。
宗清も笑い合った。
馬の上で居ねむりしたため、雪の近江路で、父や一族に逸れた時のはなしを──ゆうべ禅尼や重盛や宗清などに囲まれて無邪気に物語ったのを、思い出したからである。
無邪気といえば。
死罪一等を減じられて、伊豆へ流罪ときまってから、頼朝は、口のききようまで、子どもらしくなっていた。きょうまでの毎日毎日を他愛なく暮して、
(待ち遠しい。待ち遠しい。はやく伊豆の国というところを見たい)
と、云っていた。
ゆうべも、禅尼から、
(なんぞ尼からもお餞別をあげましょう。何が欲しいとお思いか)
と、訊かれたのに対して、頼朝が、
(双六が欲しい。伊豆へゆくと淋しいから)
と、答えたので、禅尼はその答えにも、
(あどけないものよ)
と、涙ぐんだりした。
春秋無事に、仏供養のほか、する事もない禅尼には、この善根を施して、きょう頼朝を、東国へ立たせてやることは、人知れぬ大きな楽しみでもあり、生きがいを覚えた事でもあった。
「さ……。お待ちかねでしょう。お部屋へ伺ってみましょう」
宗清は、そう促して、頼朝を連れ、さながら華麗な寺院のような泉殿の廊を渡り、ひろい平庭に向っている禅尼の一室へ、別れのあいさつを告げに行った。
まだ仄暗いので、次の間にも禅尼のそばにも、結び燈台が灯っていた。けれど朝の冷やかな大気は室に満ちていて、灯の色は白々していた。
「おう、佐殿には、もうお立ちか。……お名残り惜しいことよの」
禅尼は、頼朝のほうを向いて、しばしは、その姿を見入っていた。頼朝も、さすがにこの朝は、胸がつまって、何といっていいのかわからないのであろう、いつまでも両手をつかえているだけだった。
やがて、頼朝は、
「ご恩によって、ふしぎな一命を長らえました。生々世々、忘れはしません。伊豆へ下っても禅尼様のお幸を、朝夕祈っておりまする」
さすがに今朝は、大人びて、涙に眼を曇らせながら云った。
他人の子とは思われぬと、常々云っている禅尼なので、頼朝にそう歓ばれると、酬われたここちで、彼女は無性に涙に溺れながら、
「よう仰っしゃった。寔に、そもじのお命は、御仏のお護り、人業ではない。──それにつけ、尼がゆうべも申したよう、仏果をおそれ、菩提に心を染め、行末とも、亡き母者や父御の回向に一生をささげなされよ」
「……はい」
「ゆめ、弓箭の太刀のと、血臭い業は思い絶ち、たとえすすめる者があろうと、耳には入れ給うなよ」
「はい」
「人の口はうるさいもの。二度と憂き縄目などにかかるまいぞ。──伊豆へ下られたら、すぐにもよき導師をたずね、お髪を剃して、この尼が志を無になさらぬようにの……」
「はい」
禅尼は、満足そうに、微笑んで、宗清を顧みた。
「まだ少しは、時刻の猶予があろうか」
「されば、長くは如何かと存じますが、荷駄へ旅行李など積むほどの間は──」
宗清は答えると、気をきかして、その準備にと、先へ出て行った。禅尼は、その後で、頼朝へそっと促した。
「そもじに一目会いたいという者が、あれなる下屋に待っておる。名残りを告げて行くがよい」
誰か? ──と頼朝は、下屋へ行ってみた。するとそこには三名の顔を知った者がひかえていた。
一人は叔父の祐範。
もう一名は纐纈源吾盛安と名乗る源家の牢人。
それと、比企の局。
──そう三人がいた。
局は、頼朝の乳母で二条院にいた頃は丹後の内侍といわれていた女性である。去年三月、母とも死に別れてからは、いっそう頼朝には恋しい乳母だった。
「…………」
頼朝は、つき上げる感情を抑えるように、棒立ちに突っ立っていた。比企の局は、その姿もよく仰ぎ得ないで、泣いてばかりいたが、
「和子様。お髪を上げに参りました。どうか、お名残りに、お髪を上げさせて下さいませ……」
と、云った。
頼朝が、だまって後ろを向いて坐ると、局は涙ながら彼の髪を梳いて結い直した。そして耳へ、
「きょうが最後のお別れではございませぬぞ。東国へお下り遊ばした後も、また、何かと乳母がお側へまいりますれば……」
と、ささやいた。
纐纈源吾盛安もすり寄って、早口に、
「和子さま。和子様。──八幡大菩薩のお計らいで、ふしぎに助からせ給うたお生命ですぞ。いかなる者に強いられようと、そのお髪を剃してはなりませぬ。一心、お髪をお惜しみなされませよ」
「……うん」
頼朝は頷いた。
禅尼から、出家せよといわれればそれにもはいと答え、源吾盛安から髪を惜しみ給えといわれれば、それにも彼はうんと頷いた。
諺にも、
という。
彼は素直な子には違いなかった。
その時、中門のほとりで、大声でどなる者があった。
「佐殿には、何を猶予しておられるぞ。はやお出ましなされ。時刻でござる。──急ぎ候え」
護送の検視役、平季通の組下であろう。仮借をしない声である。
下屋の裡で、髪を上げていた頼朝は、
「乳母、もうよい」
と、比企の局が、名残り惜しげに、いつまでも梳でつけている櫛の手の下から、やにわに、癇を起したように立った。
そして、局や叔父の祐範などが、自分のために泣いている体を見やって、
「なぜ泣く」
と咎めるように云った。
「──常人の配所へ流されるのは、悲しみかも知れぬが、頼朝のきょうの門立ちは、稀代な吉日と、欣んでよいはずではないか」
三名の者は、そう云われて、心に持たない所をふいに打たれでもしたように、ハッと涙の顔を醒ましたが、その時もう頼朝のうしろ姿は、下屋を出て、大股に、彼方の人群れのうちへ入って行った。
泉殿の殿口、廊門、表門にかけて、一しきり混雑の人渦が巻いた。ちょうど花頂山や如意ヶ岳などの東山一帯の線が、暁空にくっきり浮き出して、紅の旗みたいな雲の裂け目から、旭光が縦横に走って見えたが、往来へ出て、北山西山のほうをみると、京の町や加茂の水は、まだ仄ぐらい残月の下に眠っていた。
「──叱いッ」
「前の者、進め」
「しィッ、叱っ……」
列は動きかけて動かない。
頼朝を乗せた駒を取囲んで──護送人の青侍たちの駒と駒はさかんに狂い合う。
馬上から──
「では」
と頼朝はもう一度、泉殿から見送る人々のほうへ、頭を下げた。
とたんに馬蹄の音は、戞々とそろい出した。自分の駒も出ているのである。彼は、幾度も振向いた。黒々と、一群の人影は、いつまでも泉殿の前に見えた。
追立の役人十数騎の中に、特に免しをうけたものとみえ、叔父の祐範と纐纈源吾のふたりの顔も交じって後から従いて来る。
──吉い日だ。歓びの朝だ。こんなめでたい門出はない。
頼朝は、さっき身寄りの三名に云った自分のことばを、鞍の上で、ふたたび思い出していた。紅色に染めわけられた暁空を仰ぐと、何か、からからと笑いたいような──また、大声で歌でもうたいたいような気もちに駆られてならなかった。
──戞、戞、戞、戞
馬蹄はそろう。
十四の少年の心はおどる。あしたの事など考えていなかった。きのうの事も忘れていた。いや、たった今、禅尼から懇々と、出家召されよと諭されて「はい」と答えて来たことも忘れていた。
鞍つぼには、その禅尼から餞別にもらった、美しい双六の筥を、大事そうに抱えていた。そして警固の侍をつかまえて、双六のはなしなどしかけたので、検視役人季通は、
(すこし莫迦かな?)
と疑った。
粟田口へさしかかった。
並木の所々に、路傍の人がたくさん見に出かけていた。白い朝靄にまぎれて、地上に手をつかえて見送っている僧や牢人や市人たちもあった。
その中には、世をひそむ源氏の輩もあったにちがいない。人知れず、涙をながしていた者も尠なくはなかろう。──けれどもその朝、ことしの春の歓びを一つに持ったように輝いていたものは、多くの人々から、あどけない子よ、素直な和子よ、と泣かれて行った頼朝の顔だった。
年々、雪が解けると、彼は遠い奥州から上って来た。
大勢の仲間の商人と、それに附随するたくさんな下僕や男どもを連れ、何十騎という馬の背には、厳しい荷梱や岩乗な箱を結いつけて──駅路の鈴も物々しく、蜿蜒たる人馬の列を作して、この大商隊は、都入りするのだった。
彼は、その商隊の宰領格で、奥州栗原郷の吉次という者だった。四十を越えたぐらいな年配で、逞しい商人魂の持主であった。
「吉次が通る──」
「金売吉次が都へ上る」
と、街道すじで聞えれば、東海道はもう四月頃だし、都は桜若葉だった。
ことしも──
仁安の三年。それは、平治の大乱があってから十年目、頼朝が伊豆へ流されてから九年目である。
彼の商隊は、都へ着いた。
都へはいると、長の旅垢や埃にまみれた人馬は、三条河原の空地にひと先ず屯をして、ここで一行何十人の商人が、各〻の荷物を分け合い、道中の費用の頭割り勘定やら、つつがなく都まで来着いた無事を祝し合ったりした上、
「ではまた、六月に落ち会おうぜ」
と、隊を解いて、思い思いに、市中の旅舎へ、別れるのが例となっている。
道中は一つに来ても、商品と販路の目的はまちまちであった。
奥州産の細布や伊達絹。
矢に需用される鷲の羽。
水豹の皮、その他の獣皮類。
漆。金箔。
木地類。
南部駒と都で歓ばれる駿馬。
などが商品の重なる物で、吉次は、多く砂金を扱っていた。奥州の産金は、無限に都で需用された。
もちろんその代価は物品で、中央の物資が、帰りにはまた、馬の背に積まれるのである。
奥州の文化は今、夥しく都の物を求めていた。名匠の仏像とか絵画などの作品から、生きている美女までを、いくら送っても足りないほど輸入していた。
そこの地には、
「平相国、何者ぞ」
と、遥かに京都の勢力を睥睨している藤原秀衡がいた。
藤原氏三代に亙って、都から吸引した文化と物資は、京都にも劣らない大都府を、平泉とよぶ地方に築き上げているとは──この商隊の商人などから都の人はよく聞かされる事だったが、
「まさか」
と笑って、信じようとはしなかった。
東国の武蔵ノ原とか、伊豆の蛭ヶ小島と聞くだけでも、夢のように、遠い未開地としか想像できない都の者には、
「──そこからまだ、何百里」
などと聞く陸奥に、そんな所があろうわけはないと、頭から嘘にしてしまうのであった。
「──いや、嘘ではございませんよ。まったくです。嘘と思しめすならば、こんど手前が帰国する折、ひとつお供いたしましょうか。いかがですな」
一条大蔵卿朝成のやしきで、吉次は初夏のある日、商用をよそに、むきになって話しこんでいた。
「は、は、は。ははは」
話し相手は、主の大蔵卿であった。笑いが止まらないといったように笑う。
吉次は、口をつぐんだ。──もう話してもばからしいという顔つきで。
葛布の小袴に、縹色の小直垂、道中用の野太刀一腰、次の間においているだけだった。いくら黄金の力を内心誇ってみていても、都の貴人の前へ出ては、みちのくの一商人としか見られないのが、業腹でならなかった。
怒れない。怒ったら商人は損と極まったものだ。──が、そう自分にいい聞かせなくても、吉次はその道の老巧だった。公卿や武将を相手に、その玩具になり、馬鹿になることの名人だった。
「──馬が仔を産みましてな、いやこんどの道中で」
いきなり途方もない事を云い出して、ひとりで、へらへら笑いだした。
「馬の仔を、ご覧になったことがございますか。産れるとすぐ、歩き出しますんで。──どうして、可愛い奴ですよ」
「何をいうかと思えば、馬の仔のはなしか。やくたいもない」
一条朝成は欠伸をして、
「長談義、ちと飽いた。──用がなくば、また来い。まだ当分は、都に逗留であろう」
「はい、こんども、夏ぐち頃までは……」
「商いか」
「左様で。……時に、過日おねがいのご用命は、いかがでございましょう」
「ああ、六波羅殿のご普請のことか」
「それもございますし、小松殿におかれましても、伽藍のご建立があるそうで。──何かと、金沙、金泥、金箔など、たくさんにお要用でございましょうが」
「あるにはあろう」
「お口添えで、この吉次に、ご用命がねがえれば、こちらのお館へも莫大なお礼物をお頒けすることができますがな」
ここで吉次は幾ぶん胸の鬱をはらした。見まわせば、いかにも貧しそうだ。豊かな公卿というものは尠ないが、わけてここの邸には、坐っていても貧乏のにおいがする。
見を飾る出仕の牛車にしてからが、さっき上がりがけに見たところでは、五年も塗更えてない貧乏車で、牛部屋の牛は痩せている。主の粗服は、廂のやぶれと同じ程度の古さである。
「さ。……御所のご用品なれば儂たちの係りだから、どうなとなるが、六波羅殿には、何のご縁もなし、わけて黄金商人の執りもちなどしたら、他の商人から怨まれもするし、世間の口もうるさかろう」
「いやいや。──他様なら知らぬことですが、こちらのお館と、六波羅様との間がらなら」
「なんでそのように親密じゃというのか」
「へへへへ。……存じ上げておりますよ。吉次は、以前からずっと、九条院にも伺って、何かとお出入りを仰せつかっとりましたからね」
「九条の女院」
「へい」
「なんの謎じゃろ?」
「おとぼけ遊ばす事がお上手でいらっしゃいますな。……こちらの奥方様のはなしですよ。世間はもうけろりと忘れておりますが、吉次はお目にかかるたび思い出すんでございます。──九条院にお仕えになっていた頃のお姿を」
「奥のゆかりのことか」
「ゆかり様。──それはご当家に再縁あそばしてからの更名でございましょう。以前はたしか常磐様」
「…………」
「──で、ございましたろ」
吉次が、頭をつき出していうと、朝成は眼を反らして、
「そんな事、だれが世間へ密かにしていた。隠し事でも何でもない。六波羅殿のおことばで、儂に再嫁したことは、隠れもない公の沙汰じゃ。──何を今さら」
朝成は、急に、不機嫌になりきった。話が妻の前身に触れればいつもこうなるのである。世間ずれない公卿の感情を左右することは、吉次のような男には嬰児をあやすより易しかった。
しまった。──ちと薬がきき過ぎたあんばいである。
吉次は、そう思うとすぐ、
「ご免を」
と、部屋を退がって、朝成の前から一時、姿を消してしまった。
「…………」
朝成は、まだ不きげんが去らない。苦虫をかみつぶしたように、眩い初夏の庭面へ、虚に眼を向けていた。
もう九年も前だが──
清盛の口から、不愍な女があるが、後添えに娶ってやらぬかといわれ、六波羅殿の声がかりではあるし、自分が迎えてやれば、その不遇な女性も救われる事情にあるとの事に、
(娶りましょう)
と、三人の子連れのまま、後妻として迎え容れたのだった。それが、常磐であった。
正室としてからは、彼女の名も更え、子供らもそれぞれ、清盛の内意によって、他へ処分をつけたが、世間は、
(もの好きな……)
とか、
(何か深い事情があってに違いない)
とか、
(何もああまで六波羅どのに媚びて、出世を計らないでもよかろうに)
などと、何か私慾のためにでもしたように、ひどく陰口を云われたものであった。
もっとも、世間の通念からすれば、源氏に由縁のある者でも、極力、平家方へ迎合するが時勢に沿うというもので、何も特に、複雑な事情にある子連れの女を、いくら後添えにせよ、持つ要はない。持つからには、何か、それに代る利得があるからに違いない──と、痛くもない腹をさぐるのは、むしろ当り前とも云えるのだった。
一条朝成は、そのために、以前よりも六波羅から足を遠くしてしまった。
たびたび、清盛に近づいて、清盛に好感を得ておくことは、勿論、出世の道であることぐらい、十分に知りぬいていたが、世間が妙な眼で見るような気がして、自分の方からここ何年間も疎遠にして来たのである。──現状のひどい貧乏も、官位が進まないのも、友達が寄りつかないのも──原因はそれだけのものだった。
(まあよいわ。貧しくても、妻には慰められている──)
その値として、彼は、御所の一財務官に過ぎない勤めと、十年一日のような平々凡々を、ひとり愛していた。──六波羅殿の息のかかった者は、みな赫々と、栄進したりすばらしい変化を見せている時流の中で、ぽつねんと、妻と貧乏とを正直に持っていた。
その貧乏をつけ目で、金商人の吉次などは、私邸へ近づいて来たものだった。おととし頃から出入りしているのだ。来るたびに、
(奥方へ)
などと云っては、奥州の土産物など持って来た。つい取っておくと翌年も来た。また、今年もやって来た。そして三年目に、本音をはいた。
(あなた様のお口添えで、六波羅様のご普請のご用をひとつ)
と、虫のよい頼み事だ。それはよいが、常磐の前身など口に出して、暗に、九年前の世間の陰口と同じような口吻をもらしている。いくら人のよい一条朝成にしても、不愉快になったのは、当然であった。
「……どうも、失礼を」
吉次はまた、ひょっこりと、彼のいる室へ、戻って来た。そして、朝成の眼のまえに、例年のとおり十匹の伊達絹と、一提げの漆桶などの土産物をならべた。
「どうか、お気にかけないで下さいまし。つまらぬ事ばかりしゃべりまして。──これは毎年の物で珍しくもございませんが、ほんのごあいさつまでに」
土産物を置くと、吉次は、ふたつ三つ軽口を云って帰ってしまった。
帰った後で、一条朝成が、何げなくその伊達絹や漆桶の土産物を一見すると、意外な物が見出された。
一嚢の砂金である。片手ではちょっと膝に持上がらない程の額だった。
「太々しい男……」
その時は怒ったが、日のたつほど、怒る愚を考えて来た。
しかも吉次は、とうとうその年はそれきり顔を見せなかった。
年暮から初春を越すと、砂金のかねは半分以上も手をつけてしまっていた。──また、雪が解ける。四、五月が近い。黄金売吉次が京へ出て来る頃となろう。
正直者の朝成は、気懸りになり出した。ままよ、彼の頼みを取次いでやればすむわけである。六波羅へも、なんぼなんでも余り、足を絶ち過ぎていた。こんな折こそ、口実にもなる。出向いて、吉次の依頼を、ひとつ懇願してみよう。
年暮に塗更えた牛車を、彼は久しぶりで六波羅へ向けた。
「六波羅へでござりますか」
付いている雑色は、いぶかしげに主人に念を押した。
「うん……六波羅へじゃよ」
だが、西八条の華麗な門をくぐると、彼はいやな気持になった。つい保元平治の合戦の前までは、眇目の子の安芸どのか──ぐらいに下に見ていられた清盛が、内大臣からまたたくまに、太政大臣──嘘のような事実である。あたりの豪壮に圧されて、彼は急に、貧相なわが身が顧みられるのだった。
「ホ。おめずらしい」
牛車を降りたところで、入道殿の三男宗盛に会った。宗盛が覚えていてくれるくらいなら──と何かほっとして、
「相国はおいで遊ばされるか」
「おります」
「あまりごぶさたしたので」
「いや、折角ですが、お訪ね下すってもむだでしょう。何せい父は忙しくて、きょうも御所のお使いを迎え、一族も大勢集まって、何やら評議のようですから」
「……ははあ」
自分の至って閑そうな顔が、朝成は手持ちぶさたになった。
「……では。よんどころありませんが、貴方にまで、そっとお願いいたしますが」
「この宗盛でよければ、折を見て父に取次いでおきましょう」
宗盛は、一室へ迎えて、彼のはなしを聞いてみた。
政治上の問題でもあるかと興を持っていたところが、つまらない奥州の一商人の紹介なので、宗盛は見下げたように、途中からそら耳で扱っていたが、
「いや、それどころでない。貴方の顔を見て、思い出した事がある」
と急に、朝成の思いもかけない事を云い出した。
「ほかでもないが、それは貴方の奥方の以前の子──つまり義朝の遺子のひとりで、鞍馬へ上せてある末子があったでござろう。そうそう山では遮那王とか名づけられているそうだが……あの牛若という童じゃ」
「それが、どうかいたしたか」
「鞍馬寺の僧からも、山役人の方からも、たびたび、よからぬ状書が届いている」
「……どんな?」
「僧をきらって、武道にばかり熱中し、ややともすれば、師僧にまで逆らうという」
「その儀は、かねがね妻も案じておる事で、たびたび意見の手紙をつかわしておりますが」
「意見ならよいが、よも煽動などではあるまいの。何か、源家の系図書のような物を、お内方から山へひそかに送ったお覚えはないか。……何せい父の相国にも激怒しておらるる折だ。そこへ貴所の顔など見たら、油へ火がつくに極っておる。──まあ当分は、不沙汰にかくれ、それよりも鞍馬の童を一日もはやく剃髪させておしまいなさい。髪を下ろしてしまうにかぎる」
六条坊門の白拍子翠蛾の家は、吉次の定宿も同じようになっていた。翠蛾の妹は潮音という。彼は潮音の檀那であった。
七日ほど前、都へ着いて、彼は今年も、そこへ落着いていた。──が、まだ潮音と一年ぶりの想いを果しただけで、世間へはどこへも顔出ししていない。
それをいつ知ったか、
「お文使いが見えまして」
と、一条朝成からの手紙が彼の手に届けられた。
「ははあ、おれに出向かれるのを惧れて、先手と来たな」
披いてみると、吉次の想像にはたがわず、まず先年の金の云い訳である。それから依頼の件は、六波羅殿へも運動しかけたが、ちと相国よりご不興を蒙るかどがあって、当分自分の扱いでは見込みもない。いずれ面晤の折にはつぶさに──とある。
吉次は、意地のわるい返辞を書いて、その文使いに持たせてやった。
相国からご不興をうけたかどとは鞍馬の稚子を繞って、近ごろ諸天狗が出没するという怪聞でしょう。うわさはなかなかあるようですな。てまえも仲間の者から疾く聞き及んでいます。
従って、あなたの方も、もうあてにはしておりません。策を凝らして方向を計っているところです。ひとつてまえも諸天狗の仲間入りをして、人界をあっと云わせてみようかなどと商人にあるまじき空想などに耽っておりますよ。
砂金の嚢など、そんな物に入りきれる夢ではありません。
ご放念、ご放念。
それから彼はひどくさばさばした顔つきで、実は、皮肉や興を交ぜて、認めた返辞の文句を、もう一ぺん胸に繰返して、
「ほんとにそうだ。……奥州から何百里、年々の往還りも生命がけだ。同じ生命がけなら、でッかい事を目企め」
と、空想から自信へ移しかえて、うむと、大きく腕拱みをしはじめた。
いくらでも空想の中に遊んでいられる男とみえる、陽が暮れたのも知らないで瞑目していた。奥州から都まで、年に二度はきっと脛で通っている男なので、自然学識のない禅坊主みたいな、太っ腹だけは出来ているものとみえる。
「おや、何を鬱ぎこんでいらっしゃるんですの」
潮音はそれへ結び燈台を運んで来て、彼の横顔から程よい距離へすえながら、おかしそうに微笑んだ。
「……もう燈りが来たか」
「暗いではございません」
「あ、あアっ」
と、伸びをして、両の拳を天井へ突き上げながら、
「燈りとなったら、また飲んで遊ぼう。翠蛾にも来いといえ。ほかにいる妓たちもみんな呼び集めろ」
「お姉さまは、今夜から明日もあさっても、六波羅様へ召され切りです」
「三日も」
「ええ」
「ばかだなあ。何でそんなに身を縛られに。──生きているかいがあるのか、それで」
「でも、他ならぬお館ですもの。行かなければ、生きてゆかれません」
「じゃあ、おまえと、いるだけの妓たちだけでいい。酒や楽器を取りそろえろ」
「わたしもこれからやがて、化粧を急いで、小松谷の重盛様のお客招きへ伺わなければ……」
「なに。おまえも出かけるって。よせっ、止めちまえ」
「そんな事したら……」
「病気といえ。いくら都の白拍子は、みんな平家の息子や、一族たちの為にあるようなものだとはいえ、まさか招きを断ったからといって、白拍子を死罪にはすまい」
「されるかも知れません」
「ばかを云え。なんだ平家が。なんだ侍が。世の中は弓矢ばかりで廻っちゃいないぞ。黄金の力はだれが廻しているんだと思う。──行くなっ、ここの一軒ぐらい。──いや京都中の妓ぐらい、おれが子指の端でもみんな養ってみせてやる」
潮音は泣いてしまった。
「……無理ばかり云って」
と、わが部屋にかくれると、吉次の部屋へ洩れてくるほど、いつまでも啜り泣いていた。
「おもしろくない」
吉次は、手枕かって、寝そべっていたが、耳についてならないとみえ、むくとまた、起き上がって、
「行って来いっ。そんなに、泣きたいほど行きたいなら」
と、どなった。
彼方の部屋の帳の陰で、
「行きません」
と、泣きじゃくりながら強く逆らって、潮音が云うと、
「行って来いっ」
と、またどなる。
「行きません」
「行けと云うに」
「知らない……」
「そんなら俺から先に出かけてやるっ」
吉次は、癇癪まぎれに、翠蛾の家を出て、どこという的もなく、大路をぶらぶら歩いた。
瑤々と簾をゆるがしてゆく貴人の輦がある。夕風のなかを美しい魚のように歩く美女の群がある。小薙刀を小脇に左の手に数珠を持って織屋の門に立ちのぞいている尼さんがある。
都の繁昌は、洛内九万余戸とひと口にいわれている。保元、平治の乱も十年のむかしとなって、近頃は宵でもなかなか賑わしい。しかし吉次は、奥州平泉の藤原氏の都市とくらべて、
「なにが」
と、すべての物へ、負けない気を呼び起しながら見歩いた。
ただ悲しいかな、平泉は都市であっても、皇都でない。また、いかんせん美人となっては、京都の血を輸入してゆくしかない。潮音のような美しいのはいない。
その他は、どんな貴顕の門であろうと官庁の厳かを見ようと、驚きはしない。彼の叛骨は、かえってせせら笑いを催してくる。
「ふん……いつまで続くか」
今宵はわけてもそういう天邪鬼がこみあげている彼だった。元々彼の郷土の国は、八幡太郎義家このかた密接な関係を血にもひいている藤原秀衡一族によって固められているものだ。いくら平相国が中央に覇を唱えようと、奥州の天地では何ともしていない。強いてその血を源氏か平氏かといえば、源氏の血が濃い。──吉次もその氏子の一人だった。
いつか河原へ出てしまった。加茂の水明りに吹かれると、すこし業腹が宥められたここちである。吉次は堤の若草に坐りこんだ。膝を抱えて、三十六峰と睨めッこをするように黙然としていた。小松谷の灯、六波羅の灯、泉殿の灯、武者屋敷や役所の灯、平家の一門眷族の館々の灯、神社仏閣の灯々々々、宝石でも撒いたようである。──ああ盛んなものだなあと彼の叛骨も、腹の底ではうめくばかりだった。
すると、そのうちに。
「……おや?」
と、彼は眼を近く移した。
誰もいないと思っていたすぐ下の河原に、人影が立ったからである。細っこい法師のように思われるのは誰か、人待ち顔に見まわしたが、誰も河原へ降りて行く者もなかったのでまた、元のように石ころの間へ、河鹿のように、腰を下ろしてしまった。
「誰を待っているのだろ?」
若い法師だけに、吉次は、好奇心を起して、美しい京女でも、相手に現れれば、これは見ものになるが──などと想像を逞しゅうしていた。
彼の期待には反して、河原に待つその法師へ、やがて同じ河原づたいに歩いて来て、小声をひそめ、
「……光厳か」
と、呼びかけた者は、夜目で知る人影だけでもすぐわかる大木刀を横たえた野武士であった。
「ア。──兄さん」
痩せた若僧は、恋人ででもあるように、野武士の胸へ抱きついた。荒くれた野武士の手も、やさしく抱いて、何やら云っているところを見ると、これは真の骨肉らしかった。
やがて野武士のほうが云う。
「……何か、きょうも常磐様からお託しがあったか」
「はい、お手紙を、いつものように、お預かりして参りました」
僧は、辺りを見まわして、兄の手へそっと渡す。──野武士は、その手紙を、額に押しいただいてから懐へ納めた。
「これだけか」
「ええ、きょうはこれだけでした。──が、お言葉の上で、こう仰っしゃってでございました」
「牛若様へ、お言伝てか」
「いや、牛若様には聞かして賜もるな。ただ貴方や他の方々の心得までに──とのお断りで、鞍馬へ折々にする便りも、これが終りと思うてくれ──との仰せでした」
「……ウム。近頃の風説で、一条殿の身辺へも、六波羅の眼が注意を向けだしたようだとは、わしも聞いている」
「そうです。良人のため、良人の一族のためじゃ。悪しゅう思うてくれるな。牛若様をはじめ亡き義朝様の遺子三人の者には、再生のご恩のある今の良人に、禍いをかけては済まぬ。また再嫁する折に交わした、良人との約束もやぶる事になる。そう私の前もなく掻口説いてのお嘆きでした。ほんとに前に坐しているに耐えないようなご苦悶に見えました。よくよくなお覚悟と思われまする」
「ご無理もない……」
ふたり共、黯然と、眼をあげて、星にしばだたいていた。
「光厳、よく分った。もうわしも鞍馬からお便りをいただきには降りて来ぬ。──が、牛若様のお身については、われわれ旧臣もおる事、必ずともお案じ遊ばさぬようにと──今度お目にかかった折、そっと申し上げておいてくれ」
「はい。……けれど、私にも、余り館へ足ぶみしてくれぬようと、きょうはご念を押されましたから、やがて秋にでもなって、知恩院の説教の莚へでもお見え遊ばした折にそっとお耳打をいたしておきまする」
「いつでもよい。……が光厳、おまえも気をつけろよ」
「え、注意しています。……でもよく常磐様には、十年前、六波羅へお引かれ遊ばしたあの時、わたくしに匿われた事などを、役人に責められても、お口に出されなかったものと、今でも時々、あのお方の意志のきつい事には驚かれまする」
「あ。……長話しをしていて人目につくといけない。では光厳」
「山へお戻りになりますか」
「ムム夜のうちに」
「では、いずれまた」
ふたつの影は別れた。
光厳は、堤へ上ってからも、ややしばし遠ざかる兄の影を見送っていた。
「……ああ、よく一条朝成のやしきへ、法話に来る若僧だ。道理で、どこか見かけた覚えがあると思ったら……?」
吉次は、老柳の木陰に潜みながら、すぐ側を通ってゆく光厳のすがたを、それが彼の持っているほんとの物らしい鋭い眼で、じっと、横顔から足のつま先まで見ていた。
光厳は、何も気づかず、やや下流の仮橋を東へ渡っていた。──その影が渡りきる頃、何思ったか、突と、吉次も足を早めて、仮橋の躍る板のうえを大股に踏み出していた。
産寧坂を上りきった頃を見すまして、吉次がうしろから声をかけた。
「──光厳さん」
「え。……どなたです」
「名を云っても、あなたはご存知ないでしょう。奥州上りの金売商人ですが」
「何ぞ用ですか」
「そこの観音堂の濡れ縁にでも腰かけましょう。……先程はついどうも、失礼をいたしまして」
「先程とは」
「つい今し方。加茂河原で」
「えッ、河原で」
「みんな伺ってしまいましたのさ。悪い気じゃありませんが、風下にいたせいか、あなたと鞍馬の使者が、小声で云っているのも、聞くまいとしても聞えて来て──」
「ああ兄上との話を?」
「へい、残らずみんな」
「聞いたと」
「聞きました」
堂の濡れ縁に腰かけこんで、嘯くように顔を見せつけている吉次を、光厳は、怪しみと、恐怖と、殺意と、いろいろな感情に絡まれながら蒼白になって睨めつけた。
密偵か?
強請か?
──天城の悪四郎とかいって、近ごろ寺院ばかり襲い廻る強盗の群があると聞くが、そんな者の手下でもあるか?
光厳には、いろいろに取られたが、そんなふうでもないらしいのは、相手の次のことばだった。
「まあ、おかけなさい。奥州かよいの生命知らずが、がらにもないとお笑いでしょうが、てまえにも人間なみの悩みはあるんで。──ひとつ善智識のお悟しをうけたら胸のもやもやが、いっぺんに解決してしまいはせぬかと、実あ、河原から後を慕って来たわけです。われわれ凡夫の煩悩を救ってくれるのは、あなた方のお勤めと思いますが」
「……?」
「聞いてくれますか」
「云ってごらんなさい」
──しかし光厳の返辞は、沙門らしくもなく、声に針をふいていた。その眉間はすこしも開かず、その体は硬直したままだった。
「──辺りに人もいないお山ですから、開けッ放しに申します。実は、てまえの迷っている悩みというのは、どうしたら今よりもっと大きく儲かるかっていう事なんで。──お蔑みなすっちゃ困りますよ。断っておきますが、てまえは武士じゃございません。根こそぎからの商人です」
「…………」
「坊さんが法の道に。武士が弓矢に。それぞれ徹してゆくように、てまえも徹してみたいと考えると、そこに苦しみが起りました。──今のままじゃあ大した儲けにはならない。世の中を自分の富で動かすっていうようなわけには参りませんからなあ」
「…………」
「じゃあ、どうしたら、てまえなどのような商人が羽ぶりがよくなれるかといえば、こう世間がおッとり静かでは困るんで。もっと騒いで物がどしどし動いてくれなくちゃいけませんや。……戦争ですな。それも保元、平治のような都の内の乱ではおもしろくない。天下が二つにも三つにも分れて戦ってくれると、この吉次には、やりたい大仕事が山ほども出て来るんでさ。武門同士が、血と血を賭けて戦い尽した頃、土は百姓侍で持つがよい。てまえは天下の財宝を持ちますから」
「……何をいうかと思えば、おまえは気でも狂っているのじゃないか」
「なぜですか」
「わしは僧侶です。かねの事とか、財物の儲け事とか、戦があるのないの──そんな俗事は聞いてもわからぬ」
「わからないって? ……。ヘエー。……知らないと仰っしゃるのかな……。ふウむ……。ふふふふ」
吉次は笑いだした。
「光厳さん。──何も、そう恐い顔したり、秘し隠しにゃ及びませんぜ。この吉次だって、商法の上では平家様々だが、血を洗えば、源氏の氏子の端くれですよ。今夜あ一つ、ほんとの事を相談しようじゃありませんか」
「何をいう!」
と、かえって鋭く、
「さっきから黙って聞いておれば、悩みを解く説法を乞いたいの、金儲けの相談をしようのと……。僧のわしへ向って、おまえは揶揄うのか、肚でもさぐる気か」
「いいじゃありませんか、金儲けは商人の吉次がするんです。あなたは貴方の望みを遂げればよろしいでしょう」
「わしの望みは、仏弟子になりきる事だ。おまえなどとは、行く道があべこべだ」
「いいや、同じでしょ。……あなたも、平家の世を覆したいんでございましょ」
「な、なんだと」
「それでなくて、何でお前さん、常磐御前から頼まれたり、鞍馬の天狗と密会したり、知れたらすぐ首の飛ぶような危ない事を、僧侶の身でなさるんですかねえ。……いけませんよ、吉次だったからよかったが、あんな謀叛を、河原で話し込んでいちゃあ」
「…………」
「それに、近頃のうわさがまた、どうも変だと思いましたよ。奥州だって見た事もねえ天狗様が都のほとりの鞍馬にはたびたび出るっていう評判だ。奥州者といえば、熊襲だのえびすだのと、仰っしゃる都会人が、天狗を真にうけているんだから恐れ入っちまう」
「…………」
「奥州の土産ばなしに、天狗にお目にかかりてえもんだ──と、こないだうちから念願にかけていたら、ほんとに巡り会っちまった。しかも天狗が二人して密々ばなしだ。やがて、ひとりの天狗が鞍馬へ帰り、ひとりの天狗は今、吉次の眼の前で、しまッたと云わんばかりな顔をしていらっしゃる。……ね、光厳さん、お前さんも、天狗の仲間の一人でしょ」
指さされた光厳の顔は、青い憤怒の仮面みたいにさっと変った。──おのれッと、その口が焔を吐いたように叫ぶと、法衣の下から抜いた短い刃が、濡れ縁に腰かけている吉次の胸もとへ、いきなり突いて行った。
吉次は、地を蹴って観音堂の縁へとび上がったが、すぐ飛び下りて、光厳のうしろから羽交い締めに抱きすくめ、なお、死力を尽くしてもがき抜く光厳の耳元へ、蚊が啼くような小さい声で云った。
「同士討は止そうじゃありませんか。お味方になりましょう。……てまえも、天狗の仲間へ入れておくんなさい」
こうなっては力ずくで吉次に敵うはずはない。光厳は病身である。吉次は逞しい。
「刃ものいじりなんざ、およしなさい。それこそ、僧門の人のがらにもない事だ」
光厳の手から刃を捥ぎ取って、吉次はまた云いかぶせた。
「お心はよく分る。あなたの身一つだけではないからな。ばれたらこいつは一大事だ。六条河原にまたも首塚が出来上がろう。──だから貴方としたら死んでもここは口を開けないところに違いない。ましてや何処の馬の骨か知れない奥州者の吉次に、おいそれと打明けられないのはごもっともだが──なぜその前に、常磐様から鞍馬へ文の通う事だの、一条朝成なんてお人好しな者までが謀叛の火だねみたいに物騒がられて、いちいち六波羅へ聞えるのか、それを疑ってみないんですか」
「…………」
「光厳さん。注意ぶかいようだが、お前さんもまだ若いな。法衣にかくれ、法話に行くと称えて、一条朝成の奥向に出入りしたところは上出来だが、その常磐様には、切っても切れない伏見の鳥羽蔵という伯父がいることをご存じあるまい。自分も一、二度見かけた事があるが、見るからに眼つきのするどい卑しげな男さ。以前、常磐の前を詮議中、伯父のくせに、しかも源家の恩顧を蒙っているくせに、六波羅へ密訴したかどで、その後は取立てられて、四、五十名の侍を飼い、肩で風を切って歩き、いよいよ平家の問罪所へ、忠義立てているという風上にも置けない代物だ。──こいつが肉親の伯父面して、今も、一条朝成の館へ、時折、酒くさい息をして出入りしているだろうが」
「……あ。……ではあれが、常磐様を以前密訴した伯父でしょうか。よく遊びに見えていられる──金田鳥羽蔵正武という五十がらみの武者がありますが」
「元は、姓も名乗りもない牛飼だったが、主君の子と、肉親の姪とを束にして敵へ売りこみ、その功で厳めしげに、そんな名乗りを取っつけている奴なのさ。こいつが臭い。──前からわしはそう見ていたが、ひとつ、天狗の仲間入りする引出物に──また、てまえが二心ない源氏の氏子だという証拠をお見せする為に──その鳥羽蔵をかたづけてお見せしましょう」
「かたづけてとは?」
「ま。見ていて下さい。光厳さん、その後でまた、会いましょう。──と云っても、商用の都合でことしはもう来ないかも知れませんがね。……そしたら、来年また」
云うともう吉次の姿は闇の底へ──産寧坂から五条の窪のほうへ風のように立ち去っていた。
それは梅雨をすぎて、急に青葉の濃くなりだした六月初めの蒸暑い晩の出来事だった。
佐女牛小路から火事が出た。
その辺りは、七条坊門やら、塩小路、楊柳小路などの細かい人家が櫛比している所だったが、焼けたのは、六波羅勤めの侍屋敷一軒だった。金田鳥羽蔵正武の屋敷だった。
それも不思議だし。
もっと奇怪な事には、鳥羽蔵の一家眷族、みな殺しとなって、すべて灰になっていた事である。──いや、そう思っていたら、六条河原の柳の枝に、焼けていない鳥羽蔵の首だけが、ぶらんと、薬玉みたいに、葉柳の中から枝垂れていた。
久しぶりの血腥い騒ぎに、閑な公卿の牛車までが見物に来た。そしてその柳のすぐ下に、もう十年の昔となって、河原蓬につつまれている平治の乱の首塚にも目をとめた。
夜になると、蛍が、塚にも、柳にも、水にも飛んでいた。
奥州商人の大商隊が、例年のように、三条の空地に集合して、蹴上から大津へかかり、遠い故郷へ帰って行ったのも、その騒ぎのあった頃だった。
木の芽が紅らみ出した。春は来たのだ。鞍馬をめぐる山々の霞は仄紅い。
ことし承安の二年。
牛若は十四になった。
七ツから山で育った山の子である。血は義朝にうけ、気は山巒にうけた。
しかも。
鞍馬法師も、叡山、南都の荒法師にも劣らない聞えがあった。山には武器庫さえある。一山はみな僧兵といってよい。平常でも薙刀をひっさげて歩いた。その中で、山の子牛若は、七年間、庇われる者なく存分に虐めつけられて来た。
降り積っても積っても、雪の下から芽を出さずにいない雪割草のように、彼は十四にまでなった。
体は小粒だった。しかしいじけた小粒ではない。飽くまでかちっとして肉緊りのいい顔をしている。葡萄みたいな丸こい眼をして、髪の毛など、いくら叱られても叱られても鳥の巣みたいにしている。足は常に裸足だ。袴や小袖はのべつ綻びを切る。まるでむささびだと、堂衆たちも持てあましている。
──が、こうなるのは、彼として自然だった。山では誰ひとり、彼の系図に特別な尊敬を払う者もない。生涯、山の飼いごろしとなる宿命の子としか見ていない。ほかにも同じ年頃の稚子はたくさんいるので、その中に交じっている牛若が、ややほかの童子とくらべてどこか異色が見えたりなどする折に、法師仲間で、
「あれは、義朝の子だそうだ」
などと稀に指さす者があっても、
「ふーむ。義朝の胤か」
と、頷くだけのものである。
今の平家に対してすら、山の衆徒は、決して腹まで服従はしていないのである。まして亡んだ源氏のごときは、散った桜ほども眺めていない。
また、牛若も、人々から憐れがられるような子でなかった。小つぶのくせに、面魂を備えているからである。
「あいつ、一度こッぴどく、泣かしてくれねば」
と、憎む法師はあっても、
「あわれなる稚子」
などと可憐がる者はない。
平気なのだ。山には住んでも、僧侶の中には住んでいないと、行動で云っているような牛若の日常であった。
今日もである。
朝から遮那王のすがたが見えない。遮那王とは、近年、師の東光坊蓮忍が与えた名である。
「よし。こんな時だ」
三、四名の法師が、探しに出て行った。つかまえて懲らしてやる気であろう。十王堂の山門で、待っていた。
麓へ下りたものと見てそこにいたが、牛若は、裏山の谷から上って来た。逸はやく一人が見つけて、
「遮那ッ──」
と、呼びとめた。
かぞえ年十四だが、十一、二歳にしかみえない。相変らず裸足で泥まみれだ。鼻を垂らさなくなったのもつい近年である。
「なに……?」
戻って来る何気ない顔へ、
「何っていう言葉があるかっ。稚子もたくさんいるが、貴さまほど長上に対して、小生意気なやつはないぞ」
ひとりが呶鳴りつけた。
「…………」
牛若は、爪を噛んだ。
鼻の穴まで黒くしているが、その鼻すじは、ちんまりと小隆く、どこか母の常磐を思わせるところもあった。
その牛若を睨みすえて、
「どこへ行っていたか」
法師のひとりが詰問ると、他の者も寄って、その小さい体を、頭から覗き下ろして脅した。
「こらっ遮那。なぜ黙っておるか。なぜ返事せぬか」
すると牛若は、叱られるかどもないのにと云わぬばかりの不平を、その口に尖らして答えた。
「何処へも行きはしませんよ。ここにいるじゃありませんか」
「嘘をいえ。いなかった」
「いました」
「こいつ」
右手の薙刀を左に持ち代えて、その手を牛若の襟がみへ伸ばそうとすると、牛若は、退がって、
「ちゃんと、山にいたのに、いないなんて、僧侶が嘘をついてもいいのかい」
あべこべに、喰ってかかった。
法師たちは憤って、
「げんに今、貴さまは裏山の谷から上って来たじゃないか。朝から中堂にも姿を見せず、それでもいたと云うか」
「云う……」
「なに」
「山にはいたんだもの」
牛若は肩を昂げている。
「…………」
唖然たる法師たちの顔だった。二の句がつげないといったふうな呆れ顔だ。
「──この山にさえいればいいんでしょ。麓から先へ行く事ならんと、常々、お師匠様からも六波羅衆からも固く云われているから出た事はない。こんなにおいいつけを守っているのに、どこがいけないんですか」
鷹の子は生まれながら鷹の子の叛骨をそなえている。この叛骨は、母胎を出た年に、平治の乱の兵火を見、あらゆる憂き目と闘った母の強い意志を乳ぶさから吸い、やがて鞍馬の山巒と山法師に揉みに揉まれて、いよいよ烈しいものになりかけていた。──そしてまだそれを優雅に被いかくす社交性もなければ、怖れも知らない年齢なのである。
知らないといえば、彼はこの山以外の世の中さえよく知らない。世間の人中というものは七歳前の淡い記憶しかなかった。だんだんに知って来たのは、
(どうして、わが身は、この山の他へは一足も出て行けないのか)
と、いう疑問だった。
その理由が、うすうす彼自身に解けて来たことは、実は彼自身で自分の生命を、危険な方向へ曝してゆく事だった。きびしい監視はよけい厳しくなって来た。そして生れながらの不敵なたましいも、その環境に育てられるばかりだった。
「ゆるさんぞッ。今日は」
薙刀の柄をふるって、法師はいきなり牛若を撲りつけた。
牛若は逃げ損じて、腰のあたりを強かに打たれ、
「痛いっ」
と、さけびながら転んだ。
「ちと、懲りろ」
法師たちの高歯の下駄や木履が彼の背をふんづけた。牛若はくやしがって、その毛脛へしがみついたが、荒縄で縛りあげられてしまった。
「引っぱッて来い」
一人が一人へ命じて、先へ歩いた。毘沙門堂の下まで彼は曳きずられて行った。泣きもしないので法師たちの気はよけい折檻に駆られた。
「ここがいい」
鐘楼を見上げて一人がいう。担ぎあげて四方柱の一つへ縛りつけた。そして柱の上に板を打って立ち去った。
彼等が去ると、牛若は、身をねじって、その板の文字を見上げていた。──いつもの不敵な眼も、すこし悲しげであった。
許シ無ク縄解クベカラズ。山則ニ依ッテ罰スモノ也
東光坊役僧了範
と読まれた。
了範たちの法師は、中院へもどると、牛若の師、東光坊へすぐ届け出た。
「六波羅からお預かりの者ですが、遮那王の行跡、目にあまるものがあります。懲らしめのため鐘楼へ縛りつけましたゆえ、おふくみ下さい」
阿闍梨は聞いて、
「……ふん。そうか」
笑ったきりだった。
この老僧だけは、まだかつて牛若へ叱言を云ったことがない。
──師の坊が甘やかしておる。
と云う者すらある。
日が暮れてきた。
遮那王が縛られたと聞くと、中院にいるほかの稚子たちは、
「行ってみようか」
と、他人事でないように、連れ立って、鐘楼の上を覗きに来た。
牛若は、柱に倚りかかって赤い夕雲をぼんやり見ていた。
「遮那。縛られたの」
「どうしたの」
「今夜もここにいるの」
「なぜ謝らないの」
だんだんに側へ寄って、彼の友達は、慰め顔に云ったが、牛若は、
「あっちへ行きなよ。──あっちへ行けよ」
自分のすがたを見られるのが嫌らしく、頭を振って、にわかに、強い顔をして見せた。
何処か、遠くで、
「そこへ寄るなッ。遮那へ近寄る者は、共に縛るぞっ。まだ柱が三本空いておるぞ」
法師の呶鳴る声がした。稚子たちは、わらわら逃げ散った。
彼のまわりに人気もなくなると共に陽は落ちて、とっぷり暗くなりだした。
この鞍馬からおよそ三里という京都の灯が、ポチと三つ四つ見えた。
遠く、かすかに、瞬いて。
「ああ……。あの灯のついてる所に」
牛若は、ため息をついた。
「会いたい」
と、思い出した。矢も楯もたまらなくなってくる。
母の常磐に──である。
釣鐘も釣鐘堂も引きずッて、そこへと歩いて行きたいように気が逸る、体じゅうの血が暴れまわる。
が──会えない宿命にあることを彼はよく知っていた。
七歳の時。
それまでも、彼はすでに、鞍馬寺の預け人という表面になっていたが、いよいよ身を鞍馬へ持って行かれたのは、明けて七歳の春だった。
その時、母から云われた別離のことばは、何分、幼心で、よくも覚えていないが、悲しさだけは、何となく忘れ得ない。
前の夜から泣きつづけていた母のすがたも、おぼろに記憶している。
迎えに来た鞍馬の役僧と、六波羅の役人の前で、母から、
(これからは、子でないぞ。母でもないぞ)
と云われた言葉一つは、これは生涯たっても忘れ得ないであろう程、深刻に小さい頭脳へ打ちこまれている。──だから母を思うとすぐ、その言葉が、錐のように心の下から出て来るのだった。
(だけど、母上がお悪いのではない。平家が、わしと母上を裂いたのだ)
こう理解されて来た頃から、彼は凡の子でなくなったのだ。同時に、父なる人の死に方をも痛切に知りたがった。そして遂に知り得た時、彼は、眦を昂げて、
「天め!」
と雲に向かって叫んだ。
その時、彼の幼い胸へ、何かどかんと据ったものがあった。唇をかんでぼろぼろ涙をこぼしながら、反対に肚には天をも怖れない心がわいていた。
枕草子に「近くて遠きもの鞍馬のつづら折──」などと見える。
陽が暮れたら通う者はない。あれば大薙刀を抱えた山法師か猿ぐらいなもの。
それにまた、麓の市原野には、兇猛な野盗が今も出ると信じられている。むかし源頼光が鬼童丸を斬ったとか、著聞集に見える追剥のはなしなどが、みなこの辺りの事となって、里の者や旅人の頭に沁みこんでいるからであろう。
表の麓口さえそうである。道とてない裏山裏谷は、ほとんど想像の世界となっている。わけて鞍馬寺から西北へ十町という僧正ヶ谷には、古くから太郎坊とよぶ天狗が住んでいて、そこから雲間へ光のさしている時は、国々の大天狗小天狗が会合している夜だと、里人は固く怖れ信じている。
近づくな。谷を覗くな。
祟りをうけるぞ。
そうした里の合言葉さえあるのに、これはまた、どうしたうかつ者だろうか、ただ一人、道もない峰を、闇の奈落へ下りてゆく男がいる。
「叱っ……。畜生っ」
男は時々、足もとを探って、梢へ石を投げた。
猿の群れであろう。梢から梢へ、ざわざわと駈け廻る音がひどい。男が、逃げるように崖を辷り降りると、また追って来るのである。
「──ちぇっ、限りがねえ」
舌打ちして、男は崖の途中で坐ってしまった。被っている黒布を解いて汗をふき、それでまた、面をつつみ直した。
奥州の吉次だった。
草鞋ばきに脛当をしめ、袂もむすび上げている。革柄の野太刀を腰にくくって、敏活にうごく眼といい四肢といい、まるで夜盗か何ぞのように向う見ずであった。
猿のさけびが掻消えると、ぐわっ──と谷底の鳴るのが逆しまに、顔をふきあげてくる。そそり立っている岩峭に打つかってくる冷たい風と、渓川のうなりである。
「はてな。宵からお目にかかったのは、まだ猿ばかりだ。やはり光厳が打消したとおり、噂は噂だけのものか」
吉次はつぶやいて星を仰いだ。方角を按じて自分の来た所を確かめているらしい。まちがいなく、この下は僧正ヶ谷だと考える。
僧正ヶ谷ならもう会いそうなものにまだ会わないのだ。──と云っても、彼の期待して来たのは、天狗ではない。人間である。
もっぱら高い世間の噂と、自分の睨んでいる観察と、どっちが正しいか、それを突きとめる為に、彼はこの春、例年の一行よりも先へ都へ来て、去年もおととしも、
(今年こそは。今年こそは)
と念願しながらつい果さずに過ぎて来た宿題を、解決しようと、勇を鼓して、ここへやって来たわけだった。
もう三年も前になるが。
知恩院の光厳をつかまえて、すでにある秘密の端緒をつかみかけた事もあったが、その折、光厳が次の夜ここでもう一度落会った上、一切を打明けるとの事に、うっかり信じて翌晩を待っていると、光厳は次の日、知恩院の裏山で、見事に自害していた。
死人に口なしだった。それなり終るしかなかったが、一度抱いた野望と、鞍馬への疑惑とを、光厳の死ぐらいで、思い止まる吉次では元よりなかった。
渋谷金王丸は、鎌田三郎正近とふたりで、巨きな岩に腰をかけていた。
この僧正ヶ谷で、仲間が落会う時は、いつもここと場所は極まっているようだった。四方の峰は太古のままな松杉だった。天狗の祠という魔王堂はその一峰にある。二人の足もとを行く渓流は、奇岩乱石を噛んで、その吠える声でこの谷間は蔽われていた。
「…………」
ふたり共、黙然としていた。金王丸は星を見つめ、三郎は水を見ていた。どっちも多感な境遇にあった。平治の乱以来、明るい陽の下を大手を振っては歩けない源氏の残党と呼ばるる者だった。
しかし、日陰の蔓は、陽なたへ伸びようとする夢に燃えている。悲嘆や慷慨は、もう遠い過去のことだ。闇の生活も十年の余となれば、自らそこに生きてゆく道もつき、同じ境遇の人々と連絡もとれ、さらに逆境なればこそ抱き得る、逞しい闘志とそして希望があった。
「……来たらしい」
三郎が囁く。
金王丸も眼を向ける。
向う側の沢の闇から、渓流の星の下へ、猿の群れみたいに連れ立った人影が、岩づたいに、水を跳んで渡ってくる。
三人──四人──七人と。
多くは土民の姿で、武士も交じっているが、樵夫か猟師かと見えるのが多い。山法師ていの男もいる。
「遅うなりました」
「根井、荻野など両三名、後より参る由でござります」
先に来ている二人を繞って、大磐石のうえに車座となり、なおそこらの岩へ思い思いに腰をかけた。
「こよいのお迎えには、誰が参っておりますか」
一人が問うと、三郎正近が、
「自分の参る番であったが、渋谷殿を誘うて来た道の都合で、箱田の冠者に行ってもろうた。もうやがてお連れして見えるだろう」
と云う。
その人を待つもののように、人々は雑談に耽っていた。何を云おうとここの天地では憚る事はなかったが、肩をいからして大言壮語する者はない。徒に平家の全盛を誹りちらして身をひがむ者もない。至って気楽な世間ばなしなどである。友だち同士の諧謔を云ったり笑い交わしたりしていた。
ここの谷間の会は、月に何度かこうして集まった。その度ごとに耳新しい事件だの平家方の情報などがそう頻々とあるわけもない。お互いの無事を見合えばまずよいのだった。それと、鞍馬寺にある亡主義朝の遺子牛若を、よそながら護り、よそながら教育し、やがての事は、その牛若の成人の日として待っているのである。
(──この和子様をこそ傅り育てて)
と、牛若という一粒の胚子を培い合って、その伸びるのを見ているのが、一同のたのしみでもあり、盟約の中心にもなっていた。
月に幾度か、ここに幼い君を迎えて、義朝の旧臣たちは、各〻、その長ずる所をもって牛若へ教導の任にあたった。
古来からの史を講じて、牛若に、武将としての英邁を養おうとするもあり、軍学を講義したりまた、源家の起りから義朝の代に至るまでを語って、牛若に、早くから「自分というものは何か」を教え込もうともした。時にはまた、面々木太刀をおっ取って、わざと幼い君一人をつつみ、それに負けじ魂と肉体的鍛錬をも、無理なほど打込んだ。
一同の期待は裏切られなかった。牛若は、厳格な鞍馬の僧院から、人々の寝しずまるのを窺ってここへ来る夜を、楽しみにしているふうであった。
「遅いのう」
「何日になく」
ようやく、人々がつぶやき出す程、この渓谷に話も尽きて、時経つのを覚えた頃、
「見えた、おいで遊ばした」
と巌に立って見張っていた一人が云った。
牛若を迎えに行ったという箱田の冠者は、やがて此処へ駈けて来た。しかし、人々の待ちぬいていた牛若は伴れていなかった。
怪訝って三郎正近や金王丸をはじめ、人々が声をそろえて、
「や。若君は」
と、訊くと、箱田の冠者は、
「さればじゃ。若君には、日頃から憎まれている法師等のため折檻をうけられて、今日は懲らしめの為とか申し、鐘楼の柱に縛りつけられておいでになった。──それ故に、遅くなりました」
「なに、鐘楼に縛られて」
人々は、色を作して、掌中の珠でも傷つけられたかのような不安を漲らした。
「もっと、詳しく話せ。それだけではよく分らぬ。落着いて語れ」
金王丸はたしなめた。一同のうけた衝撃が大きいので、徒に騒ぎ立ちそうな空気が見えたからである。
「はい、仔細はこうです」
箱田の冠者は、その鐘楼で牛若自身から聞いて来たという、ありのままなはなしを伝えて、
「それがしがお縄を解いて、ともかくこれへお供いたそうとすると、若君の仰せには、こよいは谷へ行かぬがよい。なぜならば、夜半にも刻を計って、自らを縛めた法師どもが、鐘楼を見まわりに来るにちがいない。その時、自分の姿が見えねば、六波羅の預かり人が、山落ちして行方を晦ましたるぞとばかり、一山の騒ぎとなり、ひいては谷間に集まる日頃の味方にまで、詮議が及ぼうも計りしれぬ。……わが身だに、一夜の辛抱をしていれば、明日は縄目も解かれよう、生命にかかわるほどの事はない。案じぬように、一同へそう申し伝えてよ。……とのお言葉なのでございます」
「おお、ではご一身の苦痛よりも、一党の発覚こそ、大事なるぞと、仰っしゃってか」
三郎正近も、金王も、感銘に打たれて、一瞬、眸をそこから鞍馬の峰の黒い影へ向けたまま凝然としていた。
大勢の中で、すすり泣く声がした。天与の試煉に会った牛若の偶然に発した言葉が、欣しくもあり、傷ましくもあった。同時に自分等の丹精にも、ようやく苗から一本立ちにまで育てて来た効を見て、急に、胸迫って来たのだった。
「ぜひもない儀。では、またの機を待つとして、若君のお身に、万一のないように、誰ぞ二、三」
「お気づかいに及びませぬ。われわれが、夜もすがらでも、陰身に添うて、お守りしておりますれば」
声を揃えて四、五名がいう。
渋谷、長田などを先に各〻は会を解いて別れかけた。すると、唐突に、一人が呶鳴った。
「やっ。誰だッ。──誰かいたっ」
「何っ」
声の起った所へ、戻りかけた面々も足を回して、真っ黒に寄りたかった。そこの岩陰へ、見つけた者が先へ躍って、猪でも手捕りにするように、一人の男を捉まえて組伏せていた。
「引出せ、引出せ」
辺りが狭いので、近寄れない者たちが云う。心得たと、襟がみを掴んだり、手頸を取って、ずるずると渓流の水明りに近い辺まで、引き摺って出た。
「六波羅の諜者だな」
一同は取り囲んで、そこにへた這ッている一個の男を、天狗のような眼を揃えて睨めつけた。
不覚。逃げ損じた。
吉次は心の奥で、しまったと思いながら、大地へ顔をすりつけ、出来るだけ身を縮めて、小身を装っていた。
そして飽くまで、
(自分の周りにいる者は、人間でなく、真実の天狗である)
と思おうと努めていた。
人間と思うと、持前の恐いもの知らずな性分が出ないとも限らないからである。奥州から京都を股にかけてみて、吉次は世の中で怖いという人間に出会ったことがないと人にも常に語っている。──けれど今、その面魂を見せたら即座に殺されることは分っていたから、
「わ、わたくしは……た、旅の者で……旅、旅馴れない山を過ぎ……道に、道に……ま、まよいましてございます。……はい、平常は正直にやっている人間でございまする」
掌を合せて、拝むまねをした。天狗さま天狗さまを、呪文のように繰返して唱えながら、一人一人の影を拝んで、恐れ顫く振りをした。
金王丸や三郎正近の仲間はクスクス笑った。里のうわさが拡まって、旅人までが、自分たちを天狗と信じている容子が可笑しくもありまた、自分等の思うつぼでもあったからである。
「しっ……」
と、笑う者の袖をそっと引いて、人々はすぐ天狗になった。
「六波羅者ではないとな。然らば汝は、どこより来た」
「奥州の……奥州の商人衆に抱えられて来た、荷駄の男でございます」
「それが何としてかかる御山へは」
「貴船神社へ、ご寄進の事がござりまして、主人の供をして参りましたが、その主人に逸れまして」
「主人をさがし求めるとて、方角ちがいへ迷うたのか」
「はい……。へい」
吉次の誇張がいかにも滑稽に見えたので、もう怺えきれない天狗が吹き出してしまった。それをまた、繕う為に、ほかの天狗は、
「何と、虫のような、心細げな声を出す人間ではある」
と云って、いちどに声をそろえ、谺するばかりどっと笑った。
「太郎坊、太郎坊。この人間、どうしてくれましょう」
ひとりの天狗が、体の巨きな天狗にいう。
大天狗は厳かに、
「取るに足らぬ男とは見えたり。この谷間を犯した罪はゆるし難いが、生命だけは助けて、世間へ抛り返してやれ」
「どう抛り返しますか」
「よいように」
「心得申した」
「いや待った。その前に、裸にして、持物などもよう検めた上で」
「そうだ!」
吉次はたちまち裸にされた。
運よく、怪しまれるような物は、何も持合せていなかった。しかし、誰の携えていた物か、真っ赤な古法衣を頭から被せられて、その上からぐるぐる荒縄で縛られたのには、さすがの吉次もどうなる事かと胆を冷やした。
いよいよ生命に関わりそうになった時は、素姓を打明け、知恩院の光厳とは知っていた間であることを訴えてみる気でいた。けれどその光厳は、世間に原因の知れない自殺をしているので、下手に云い出せば、云わないより悪い結果になるかも知れない。
──世間へ抛り返してやれ。
と、ご託宣の出たからには、痛い思いぐらいはあっても、生命にはかかわるまい。──そう考えて吉次は眼を閉じていた。やがて自分の身は誰かに担がれ、疾風のごとく、谷川をとび沢を駈け、断崖をのぼり、雲間に漂わされているような心地だった。
翌る朝。──貴船神社の宮守や里の者は驚いた。鳥居わきの喬木の梢に、緋の古法衣につつまれた人間が荒縄で吊り下げられていたのを仰いだのだ。勿論、天狗の怒りにふれた人間として、禰宜は神殿に駈けこんで御灯しを捧げ、半刻のまつりをしてから大勢して樹からそれを下ろした。
その年の秋。──奥州の吉次はもう国元へ帰っていた頃である。
鞍馬谷に異変が起った。近郷の者すら何もしらないまに、六波羅の兵が三、四百人も桟敷ヶ岳や雲ヶ畑から入りこんで、僧正ヶ谷をつつんだのである。
天狗の鬨の声と、人間の鬨の声とが、谺して戦い合った。
その後、里の人々は、
(天狗の首がたくさん曝された──)
と、わざわざ遠い加茂の上流まで見に行った。そして帰って来ての話には、
(人間と似ている)
と、いうことだった。
この起因は何者かが六波羅へ投文で密告したに依るとかで、鞍馬の僧院では、一時いろいろ物議ともなり、別当蓮忍の引責まで口にのぼったが、要は、
(牛若を早く出家させないからいけないのだ)
という所に帰着した。将来、彼の行状を一層きびしく監視して、外部との連絡を絶対に遮断するかたわら、折を見て、一日も早く牛若を剃髪させてしまうに如くはない。──そういうことに落着いて、深く六波羅へ謝意と謹慎の意を示し、どうやらそれは不問にすんだのであった。
すまないのは、牛若の得度剃髪の挙式である。本人が熱望してさえ、得度授戒には、年齢や修行の資格や、法門の厳則がある。時の政令よりも法門の規律のほうがむしろ重視されがちに自負をもっている僧徒たちの頭では、
(一日でも早いがいい)
とは思っても、実行にはいろいろな困難が伴った。
そこへもって来て、当の牛若に出家の心はなく、不勉強極まる行状だし、師の蓮忍は、
(まあええ。まあええわ)
という風に相かわらず寛大であるし、外部との交渉こそ、まったく断って、別当の中院から一歩もひとりでは出さない事に以来やかましくはなっていたが、髪を剃ろす問題は、延々になっていた。
が──それも長い事ではない。二年目の春であった。別当蓮忍は、彼をよんで告げた。
「遮那よ、お許も、はや十六とはなったぞよ。ことしは髪を剃さねばなるまい。出家は嫌いと云いおるそうじゃが、生れてより持って出た宿命、生い立ち、今の時勢など、もう弁えがついたであろう。観念して仏門に入り、弥陀のお弟子となって、荒びた心を捨てい。よいか」
「はい……」
「何を泣くか。十六ともなりながら」
「お……お師匠さま」
「どうした」
「わかりました。けれど、悲しゅうございます」
牛若は左の肱を曲げて、顔へ当てがいながら、泣きじゃくった。
「──出家すると、この黒髪にも、こんな美しい袂の着物とも、別れなければなりませんか」
「分りきったことを。いつまでお許は稚子でいる気か」
「おねがいです。鞍馬の山祭りまで待ってください。五月が過ぎたら出家いたします」
「なぜ、その前は、嫌というか」
「祭りの日には、たくさんな参詣人が、お山へ登って参ります。その時、人に見られるのが辛くてなりません。毎年のように、稚子輪髷に結うて、もう一度、綺麗な着物を着て見とうございます。……今年っ限りでかまいません。お名残りにです……お師匠さま。その日の過ぎるまでお待ちくださいまし」
果ては、よよと嗚咽していた。蓮忍はその体をふしぎそうに見ていたが──自分にもあった少年の日の感傷を顧みて、
「では、屹度だぞよ。五月を過ぎたら、否やは云わせぬぞよ」
と、念を押した。
梅雨があがって、山には病葉がしとどに落ちていた。
初蝉の声が静かだった。ふだんは詣る人も極めて稀な貴船山の奥之社に、今し方、誰か柏手を打って拝殿のあたりから去って行く気配と思うと、
「神主さん」
ひとりの旅人が、社家の入口を覗いて、訪れていた。
「……お留守ですか。誰もいないんですか」
しばらくして、
「どなたかの」
昼寝でもしていたらしい老禰宜が、ゆったりと出て来て、
「おう、奥州のお商人か」
「ごぶさたいたしました。今年もまた、上洛って参りましたので」
「ようお越された。さあ、おあがり」
「ごめんなさいまし」
足を洗って、吉次は、一間に通されてくつろぐと、
「早速でございますが、荷になる手土産は、お山の事とて、持っても伺えませんので、ぶしつけながら、社殿のご修繕の費えの端にでも」
と、一封の金を、寄進にとさし出した。
禰宜は眼を細めて、
「これはどうも。昨年もおととしも、莫大なご寄進をいただいておるに」
「どういたしまして、自分に取って、このお社は、生命の守りの神。──思い出してもぞっとしますが、おととし天狗に会いました時は、すんでに一命もなかったところを、お助けにあずかりましたので、こんな寄進ぐらいは、ご恩の万分の一にも足りはいたしません」
「まったく、あの時は、えらい目にお遭いじゃったな」
「半夜ぢかくも、二丈もある樹の空に吊るされていたなんて、まったく生れて初めてでございましたよ」
「誰だって、あのような覚えはあるものじゃない。……だがの、あの後ですぐ、六波羅衆が天狗狩をやって、麓の河原に、たくさんな打首を梟けて、幾日も曝してあったが、その中には相貌も変って、慥とも知れぬほどにはなっていたが、この辺の山に住む炭焼の男や、猟師などの、見たような顔もあった。誰ともなく、あれは天狗ではない、源家の義朝様の旧臣どもじゃなどと沙汰する者もあったがの……。某許が僧正ヶ谷で出会ったというのは、いったい天狗か、残党か、何であったのじゃろな」
「どうしてどうして、人間ではございませんよ」
吉次は、大げさに打消して、
「第一、思うてもご覧じませ、源家の残党なら、何でてまえ如き取るにも足らぬ人間をつかまえて、こちらの鳥居わきの大木へなど引っ吊るしましょう。……ああいう魔性な事をして欣ぶのは、天狗たちのよくやる事でございますよ」
「わしも、里の人々も、天狗の業と、信じてはいるが」
「六波羅衆としますれば、真の天狗は打ち取れなかったとありましては、時めく太政入道殿のご威勢にかかわりますから、山樵や猟師などの、山男にひとしい土民の首を梟けて天狗じゃと触れたものでございましょう」
「なるほどな。お許は、奥州人というが、案外な智者ではある。そのとおりにちがいあるまいて」
「時に……神主さま」
「なんじゃな」
「このたびは少々、お願いの儀がござりますが、おきき下さいましょうか」
「ほ。……わしへ頼みとは」
「京へ参る道中で大勢の仲間の者が、ちと面倒な争い事を起しましてな、うるさくてかないません。半月ほど、ここに避けて、旁〻、ちと養生していたいと存じますが、どこか空いている一間をお貸しくださいますか」
三年ごしの計画だった。いつも難しい大きな商法に運を賭けて、それに打克って来た自分の商才を以てすれば、こんどの計画も、気は長いようだが、そう困難ではないと、彼は信じていた。
それも、念には念を入れてと、十分、後々の問題まで考慮して、おととし奥州平泉へ帰国して後、何かと商法上の用命をうけて、扶持人同様に出入りしている藤原秀衡の側臣を通じ、ひそかに、自分の計画をはなしてみたところ、
(至極、おもしろかろうとの御意じゃ。しかし、ご当家のさしがねと世上へ聞えてはよくない。──飽くまでそち一名の思い寄りとか、牛若自身が平家の手より遁れて、寄るべもなきまま、ご当家を力に頼って来たという体なれば──お館におかれても、ずいぶん庇うて遣わそうとのお言葉である)
そういう藤原家としての意向であった。そこまでを、慥かめた上の仕事なのだ。
また、そこまで突っこんだ言質を取るには、彼には彼の観とおしがあったからでもある。
(──奥州藤原は、表面、自己の勢力範囲のうちで、平静を装っているが、決して、平氏一門の隆昌や、太政入道の独裁ぶりを、欣んではいない。むしろその拡大を惧れている。と云って正面衝突も極力避けたい。ひそかに希うところは、源家と平家の勢力が平衡してくれる事にある。中央で両者が相争っていてくれれば、奥州は内容を蓄え、平和を保ち、なお現状より西へのびてゆくことができる)
これは、藤原一門のみでなく、奥州の天地では、すこし物を考える階級ならば、常識にあることだった。で、吉次の計画は、極めて簡単な一投石で、その目的の波瀾を、中央に捲起すことができるものとして──平泉の館から黙約を得ていたのだった。
「吉次どの。毎日、よう退屈なさらぬのう」
彼に、社家の一間を貸し与えてから、もう半月の余は経っていた。
蝉の声を手枕に、吉次は一人ぼッち、横になっていたが、
「ああ、うたた寝をした」
と、伸びをして起き上がり、
「お察しの通り、そろそろ退屈いたしました。けれど、人間稀には、退屈という事をしてみるのも、悪くありませんな。お山へ泊っていて、考えてみますと、常日頃、てまえどものような商人は、余りに退屈を忘れすぎておりましたよ。寝ても醒めても、賭け事ばかり考えましてな」
「はははは。ここへ来ては、金があっても仕方がありませんからな」
「怖くなりました。ぼつぼつ山からお暇を申さなければ」
「怖いとは、何を思い出されたか」
「今仰っしゃったように、余りに金の事や、俗気から離れますと、菩提心とやらに襲われまして、せっかく持前のあく気が、なくなり過ぎますんで。──それがなくなると、商人魂が弱まりますよ」
「まあ、ごゆるりなさい。そのうちに、鞍馬の祭りもありますから」
「そうそう、あれは幾日でしたっけな」
「この月の二十日ですが」
「ではもう明後日で」
「一年に一度の人出で、近郷の衆はおろか、都からも、参詣人が夥しゅう見える」
「では、それを見物して、お暇するといたしましょう」
その前にも、彼は時折、ひとり出かけてはいた。先頃も龍王の滝を見て来ましたとか、蛍石まで行って参りましたとか、話していたが、禰宜は、彼の言葉どおりに信じて、その行先を疑ってみた事もなかった。
二十日となった。──その日は終日、一間にいたが、祭の中日という朝のこと、
「ことに依ると、鞍馬のまつりを見て、そのままお暇申すかも知れませんが」
と、挨拶して出て行った。
山の祭りで、無性にはしゃいでいるのは、鞍馬の稚子たちであった。
天上の山が、下界同様、人出に埋まって、ここの深山も、世間と変わりない色に塗られたからである。牛若も、その中の一人だった。
「遮那あっ、遮那っ」
大廊下を駈けるひどい足音に、法師のひとりが役僧の部屋から出て来て呶鳴りつけた。
「はいっ。何ですか」
暴れ廻っていた稚子は七、八人も一つ所にかたまって振向いた。稚子輪に結った髪も、曙染の袂も、金糸の繍も、紫濃の袴も、みんなお揃いであったが、元より山家の生ればかりなので、その袂で汗は拭く鼻くそはこする、せっかく化粧して貰った白粉も、黛も、かえってお道化たものになっていた。
「何ですかじゃあないっ。おまえ達は、阿闍梨さまのお次に大人しく控えていて、ご用を承らなければいけないじゃないか」
「阿闍梨さまのお部屋へ今、都のお客さまがお見えになって、わたし達がお次にいたら、うるさいからしばらく遠くへ行っておれと仰っしゃいました。それで、みんなして遊んでたんです」
「遮那。貴さまはもう十六ではないか、稚子の中の年がしらなのに、何だそのだらしのない恰好は。襟元を直さんか」
「はい」
「阿闍梨さまに、ご内談があって退っておれと云われたら、お次から遠く隔てた廊へでも出て、控えておればよいのだ。遮那など年上のくせに、心得ぬはずはない。──お山の祭りはおまえ達のためにあるのではないぞ」
「わかりました」
叱言は、云う方も、云われるほうも、馴れ過ぎている。牛若は、稚子の仲間をふり向いて、
「あっちへ行こう」
指さして、どかどかと駈け去ろうとするとまた法師が後ろで、
「駈けたらいかんと云うのに分らんかっ。静かに歩け」
と怒った。
首をちぢめて、稚子達は、そろそろと廻廊を曲がって行った。
そこを曲がると、観音院と僧正坊の伽藍が広庭を抱いていた。
観音院の縁さきには、太い青竹が幾束も積んである。やがてここで、一山の僧衆が法莚を催し、その後で、竹伐という行事をするその備えであった。
また、夕方からは、僧正坊の本堂に、里の俗をただ一人坐らせておいて、その人間を呪り殺し、また、呪り生かすという法力を公開して見せる。──それやこれやの時刻を待つ群衆と、後から後から登って来る参詣人とで、山はめずらしく人間のにおいに蒸れ返っていた。
すると。
その人渦の中で、鳥の啼き真似をしたひょうきんな男があった。牛若はふと、廻廊の角に立ちどまって、その声をさがすような眼をしていた。
「……?」
鳥の啼き真似をした男は、いちど首をすくめたが、牛若の姿を遠く見ながら、こんどは人浪の上に片手を出した。
吉次の顔がそこに見えた。
牛若は、彼の顔を見つけると、
「──うん。後で」
と、いうふうに一つ頷いて見せた後、他の稚子たちを追って、さっと、おそろしい素迅さで、駈け去ってしまった。
やがて、竹伐の行事も終り、白い夕星に、昼間の熱鬧もやや冷えてくると、山は無遍の闇の中に、真っ赤な大篝の焔をたくさんに揚げはじめた。
毘沙門堂の本堂に、俗の男がぽつねんと坐らせられていた。その男を、法力で生殺自在にしてみせるという荒法師が、念珠を揉んで、一心不乱に何やら呪を唱えているほか、その広い床はがらんとして、微かに燈明のまたたきが、朧に二つの影にゆらいでいるだけだった。
けれど。
一歩外の廻廊から広庭にかけては、夜も蒸れるばかり無数の人影が真っ黒につめ合っていた。しかも、ひっそりと、堂内の法力の試しを見物していた。一山の僧も稚子までも、固唾をのんで、この宵は、すべてそこに集まりきっていた。
呪り殺し、呪り生かし──のこの行事、毎年やる事ではあったが、それでも毎年、法力の摩訶不思議に、群集は酔ったように眼をすえていた。
呪りにかかっている荒法師は、法衣のたもとを背に結びあげ、念珠を押しもんで、今や天狗がのりうつッたように、読経の喉を嗄らし、印を切って、何やら声荒らかに、呪り殺しをうける俗の男を叱咤していた。
すると。
──ぎゃッっ
生きた鷲の股でも裂いたような叫びがした。
その男ではない。
印を切った法師でもない。
異様な声のした方角は、正にこの毘沙門堂の屋根か──いや、もっと離れた裏山の峰道かと思われる遠くであった。
「ア……?」
「……おや?」
せっかく、天狗がのりうつって来かけた法師も、法力に酔わされていた男も、眼が醒めたように、きょとんと、眸をうごかした。
──と思うと、
だだだだッと、堂のすぐうしろ辺りで、峰道から人の足音が雪崩れて来た。
何とは知らず、ただ、
「やっ?」
「なんだっ」
廻廊の僧衆が、総立ちとなると同時に、広庭いっぱいの群衆が、わっと揺れ返って躁ぎ出した。
人間が最も敏に知る血臭いものが、墨のように、何処とはなくサッと流れた。毘沙門堂からすぐ上の峰道には、一つの柵がある。麓の沙汰人が、交代で山番に来ていた。祭中はわけても厳しくというので、六波羅の侍が幾十人か山へ来て、各所の柵で目を光らせていたはずだった。
その番人たちが、血まみれになって、逃げて来たのである。
そして、大声でこう喚いた。
「稚子がひとり逃げたぞっ。──水干を被った稚子がっ」
稚子と聞くと、
「遮那だ!」
一山の法師は、口をそろえて云った。常々考えていたところは誰も同じだったのである。けれど、十六にもなって、まだ駄々っ子そのままな、何の大人げもついて来ない牛若を眼に見ているので、
(いつかはこんな事が)
と予感しながらも、つい彼の腕白ぶりに、余り子供に見過ぎていた。
「それっ、捕まえろ」
騒ぎ立つと傷負の番人たちはまた、
「ひとりではないぞ。腕ぶしの強い男がついている。油断召さるな」
と、駈けゆく法師たちの後ろから注意を送った。
もう、法力試しどころではなかった。
山は吠え、谷は呼ぶ。
松明の火が、ここかしこの闇を走った。
「……とうとう去ったか」
ひとり。
牛若の師、阿闍梨蓮忍だけは、もう誰もいない堂の中に坐って、そう呟いていた。
去った者の未来を幸あれと祈っているのか、また、捕まって帰って来ることを祷っているのか、白い眉は、ただ重げに垂れているだけだった。
歩くという常識では、歩かれた所ではない。ただ遮二無二であった。
断崖、渓流、闇黒と叢林の天地を峰づたいに、生命がけで逃げて来た。
「牛若さま。ここで一息つきましょう。貴船山です。あれに見えるのが貴船の奥之院。……ははあ、奴らは麓を走ってゆく」
吉次は、うす笑いをもらした。
松明の焔が幾つも尾を曳いて、そこから見える闇の底を馳せて行った。
「…………」
牛若は、われに返ると、その辺りを見廻してばかりいた。恐怖している眼ではない。檻を出た歓びのうろたえであった。
「小父さん」
「おうい。──こっちへおいでなさい。この拝殿の階で、一休みしましょう」
「吉次……。はやくお目にかかりたい。ほんとに、お母様に会わせてくれるだろうね」
「きっと、吉次が、お会わせいたします」
「それから奥州へ行こう。──おまえのいう通り、藤原秀衡とやらを頼って」
「都を脱けて、武蔵国あたりまで行けば、もう安心ですが、そこまでがひと骨です。慌てちゃいけません。吉次は大人ですからね、任してお置きなさい」
「……うん」
「あ。素足でしたっけね。血が……。牛若さま、お痛くはありませんか」
「痛くなどない。はやく行こう都まで」
「お待ちなさいよ」
吉次は、そこらに落ちている竹竿を取って、堂の床下から何か掻き出した。
苞にくるんだ土民の衣裳やら草鞋などであった。牛若の衣裳はすべて脱がせ、代りにそれを着せて、汚いぼろ布で顔をつつんだ。背には背荷い梯子とよぶ物を負わせて、短い山刀を腰にさして与えた。
「これでいい」
彼は堂の棟木に掲げてある古弓を外して、小脇に持った。すべてが前から手順がついているように運ばれてゆく。
もっとも彼とすれば、ここまで来るには二年越しの仕事だというだろう。牛若へ近づくにも、去年今年と何度、鞍馬詣りを繰返したかわからない。
また、その牛若を、得心させるまでにも、何度、説いた事かも知れないのだ。
いくら牛若が、人を疑わない性質でも、見ず知らずの吉次のいう事を、そう易々と信じるわけもないが、おととし鞍馬谷へ六波羅の兵が入って、附近に住む怪しげな者を一掃し尽してから、牛若はまったく孤独になっていた。
誰に語るよしもない──その孤独感と絶望の底に沈んでいたところへ、吉次が人目を忍んでは、囁きに来たのである。──少年の気もちは当然、夢に富む方向へうごかされた。
それに、「東国」ということばは、幼少から心に刻みこまれている。そこにはまだ源氏の輩が多くいるという。また、富士山があって、駿馬が多く産まれて、野は際涯もなく広いという。
(──今に東国へお迎え申しあげますぞ)
とは、鞍馬谷の人々からも、明け暮れ聞いていた声である。
日出る東国!
牛若は日の出るたびに、あこがれていた。──月の落ちる頃には都の母のことを、きっと思い出すように。
わざと遠くを廻って、西加茂の大悲山、満樹峠をこえ、応ヶ峰へ出て、やがて夜も白みかける頃、吉次と牛若は、京都の北から町へまぎれ入った。
「おい、起きろ、起きないか」
まだ朝霧も暗い六条坊門の白拍子の翠蛾の家の前に立って、吉次は、門をたたいていた。
この家には、吉次の部屋といってもよい程、彼が見える時だけ使われる一棟があった。
中庭の渡り縁から通うのである。母屋に面したほうは壁囲いになっているので、寝ころんでいようと、飲んでいようと、誰にも顔を見られる惧れもない。
「ここは、てまえの親類の家ですから、安心なもんです」
と、吉次は云った。
牛若を連れて、きのうの朝、そこへ隠れ込んだきり、吉次は母屋へも行かなかった。
牛若は、ぽつねんと、坐ったきりであった。
山は涼しかった。京の町中の暑さはひどい。しかし彼は膝もくずさなかった。
「お暑いでしょう。楽にしておいでなさいまし。寝ころんだり、脚を投げ出したり、ご自由に遊ばして──」
そう傍らからすすめても、
「うん。……うん」
頷くだけで、牛若は口数さえ余りきかないのである。
大人しい。行儀がよい。山にいた牛若とは人間が変ったようにさえ思われた。
けれど、牛若の身になって考えてみると、また無理もない。──こういう世間の音の中に身を置くのは、生れて初めてであろうし、吉次という人間にもまだまだ多分に警戒を抱いているであろう。それに、母屋のほうではのべつ華やかな女たちの笑い声や返辞が聞えたりする。
今いる場所も、これからの行末も、不安と考えたら堪らない不安に襲われるに違いなかった。
「吉次」
「はい」
「いつ母上と会うのだい」
「お待ちください。今その工夫をしているところですから」
「はやくお目にかかりたい」
「お察ししております」
「それから、一日も早く、奥州へ下って行こう。こんな所にいても、むだな日を過すようなものだろ」
「いえ」
吉次は強く否定した。
「決してむだな日は費やしておりません。まだまだ数日は、六波羅の詮索が厳しいことでしょう。躍起となって、あなた様を探している最中と思われます」
「そうかい」
「そうかいって──他人事みたいに仰っしゃって、吉次の耳や眼は、この壁の中にいても、ちゃんと、それが聞えます。眼に見える程、分っています。……ですから、もう少しご辛抱なすって下さい。ご窮屈でしょうが」
「うん」
聞き分けはいい。
そう吉次は感心したが、十日も経つと、山の子はまた、山の子に返って、そろそろ爪を生やして来た。
ふと、昼寝から醒めて、
「牛若さま。何をしておいでになりますか」
隣の間をのぞくと、姿が見えないので、驚いて、翠蛾と潮音の姉妹をよんで訊くと、
「いませんか?」
と、これも知らない顔つきである。
「さア事だ」
物に動じない吉次も胆を冷やしたらしい。血眼で探しに出て行った。──すると灯ともし頃、牛若は、何処からか一人帰って来て、
「小父さんは?」
と、吉次がいないのを、かえって不審顔して、翠蛾と潮音に訊ねた。
姉妹はあきれて、
「まあ、何ていう子だろう。──吉次さんも物好きな子を買ってゆく」
と、呟いた。
姉妹はまだ吉次からほんとの話しは打明けられていなかった。その頃は盛んに都の女や童が、奥州へ買われていったので、吉次がどこからか買って来た奴僕と思っているふうだった。
吉次も程なく帰って来たが、先に戻ってけろりとしている牛若のすがたを見て、
「なんの事だ」
と、探し疲れた呻きの中から、ほっとした顔色やら腹立たしさを一緒に洩らした。
「あれほど、固くお断りしておいたのに、黙って何処へ一体おいでになったんですか」
なかば、咎めるように訊くと、
「だって吉次、そんなにいつまで坐っていたら、脚も心も腐ってしまう。町を見物に行って来ただけだよ」
と、平気で云う。
「いや、それだけじゃないでしょう、何か、お望みがあって出かけたのでしょう」
吉次が、かまをかけると、そこはまだ少年らしかった。
「ほんとはね吉次、母上のおいでになるお館は、堀川のあたりと聞いていたから、そっと行ってみた」
「えっ……一条様のお館をさがして」
「人に訊いたらすぐ知れた。──けれど訪ねて行きはしない。遠くから……堀川の柳の木越しに、築土だの、屋根だのを見て帰っただけだよ」
「……ふうむ」
「この牛若が、お訪ねして行ったら、母上のお身がお困りになることは、わしだってよく知っているから」
「……そうですか。……いや、それならまアよかったけれど」
それさえいけないとは、吉次にも云いきれなかった。しかし、話を聞いているだけでも、吉次は胆が縮まった。
「牛若さま。ではもうそれで、母御様とお会いなされたような気がしたでしょう。もうお気持はすんだでしょ」
「なぜ」
「でもお住居を見れば」
「すむものか!」
唇をかんで、きっと、吉次を睨んだのである。──吉次はびくとした。
少年の眼とも思われない。燃える火の如きものがあった。しかも、そのひとみの炎は、いっぱいな涙にうるんでいたのだった。
「……だがね、吉次」
牛若は、ほろほろと、次には俯向いて、膝へ涙をこぼしていた。
「わしはあきらめて来たよ。おまえを苦しませても悪い。おまえはわしを山から誘い出すために、つい嘘を云ってしまったのだろう──どう考えても、今の場合では、わしと母上とはお目にかかれるわけもない。……また、それが母上のご不幸になることは知れきっている」
「そ、それまで、牛若さまには、お考えになっておられましたか」
「あたりまえだ」
涙を拭いて、
「自分の事より、この先の事より、いちばん考えるのは母上が、どうしたらお倖せになって行かれるかという事じゃないか。子として当りまえな考えじゃないか。……お会いしたい事も無性にお会いしたいけれど」
「恐れ入りました」
吉次は、思わず両手をついて、額を莚へすりつけた。心からこんな頭のひくい辞儀をしたのは、今が初めてだった。
彼は何か自分の荷物が、急に重たくなり出した心地だった。──折もわるくその時、部屋の戸口へ、妹の潮音が来ていた。佇んでその態を見ていたらしいので、彼女へも事情を告げなければ、怪訝がられる惧れがあった。
「潮音、ちょっと坐ってくれ」
吉次はそこで、あらましの事情を彼女へ打明けた。
潮音はそう驚いたふうもなかった。打明けられない前に、牛若とは察していたというのでもない。要するに、男の考えているほど、問題を重大とは思わないのであるらしい。世情に至って無関心なのだ。彼女も、上流人の宴楽に侍る白拍子という妓のひとりでしかなかったのである。
「分ったか、潮音」
「ええ」
「他言するなよ」
「はい」
「もし牛若さまを此家へお匿いしたと知れたら、おまえたち姉妹も同罪だからな」
「誰にも、告げはしません」
「姉にもよう云うておけ」
「すぐ話して来ましょうか」
「待て」
吉次は、声を抑えて、
「おれは今夜立つとする」
「え。今夜のうちに」
「町の気はいも観てきたが、だいぶ余燼は冷めたらしい。六波羅の侍自身が、牛若の失踪は、神隠しだと云っているそうだ。どこまでも天狗が、頭から脱けないらしい」
「わたし達もよく耳にしました」
「どこで」
「諸処のお館で」
「牛若さまのうわさをか」
「ええ。あれが世にいう神隠しというものじゃろうと、平家の大将方も、お公卿方も」
「わずか十六歳の牛若さま一人を、六波羅の威勢をもっても捕まらないとなると、これは估券にかかわるからな。──それに鞍馬の僧院でも、当面の役人たちでも、神隠しという事にしてしまえば、誰にも責任は来ないわけだし、すべてに、その方が無難でもあるからな」
「あなたは、とんだ悪戯な神さまですね」
「おれかい。──いやおれはお使い役の木っ葉天狗さ。ご本尊は奥州の平泉にいらっしゃる」
女に心をゆるし過ぎてよかった例はない。吉次は、自分の口軽い調子を自分で戒めながら急に改まって、
「さっそくだが、おまえの衣裳を一揃え貸してくれ」
「何になさるんですか」
「牛若さまにお着せするのだ。──誰が見ても、女にしか見えないように、翠蛾とふたりして、牛若さまを化粧してうまく装ってくれないか。そのまえにおれはおれの身支度に取りかかるから」
「今、姉さんを呼んで来ます」
やがて、翠蛾も来る。
翠蛾は、妹の檀那が、金にはきれいだが、何となく危険な人物ということは、年上だけに日頃から感じている。その吉次が立ってくれることは、来年の初夏まで、ほっと出来る事だった。
「まあ、今夜お立ちですって。──お名残り惜しい」
それから翠蛾は、自分たちの衣裳を寄せて、あれこれと牛若に装ってみた。また、牛若の髪を解いて女結びに直したり、白粉をつけたりした。
「お綺麗な……」
姉妹は、自分で作った人形に見恍れる人形師のように、牛若をながめた。
牛若は、黙って、身をまかせたきりだった。若い殊に艶やかな白拍子の姉妹に、自由に弄ばれている間、彼の血は、生れて初めて知る大きな動悸に音を立てていた。女のにおいというものが、余りに強すぎて、横を向きたいほど、顔も火照り、胸ぐるしくもなった。
「もういいよ、いいよ」
しまいには堪えかねて、姉妹の手をふり払い、後はひとりで支度した。
吉次の仲間がいつも泊る家へ、馬を一頭取りにやったり、腹ごしらえや弁当など作らせている間に、夜立ちのつもりが、いつか夜明けの早立ちぐらいな時刻になっていた。
まだ町は暗く、霧が深かった。
吉次は、馬の口輪を取り、女装した牛若は、笠や荷物を鞍につけて、馬の背につかまっていた。
振り仰いで、吉次は、
「女らしく、怖々と、そう、そういう風に、乗っておいでなさい」
と、注意した。
「だいじょうぶだよ、わしは、馬に乗るのは初めてだから、怖そうにしないでも怖いよ」
牛若は云う。
だが吉次は、ゆうべからもうこの少年の少年らしい言葉には、めったに油断をしないことに肚を決めている。──怖いというのはこっちのことと云いたかった。
辻を曲がりしなに、出て来た家の方を振向くと、翠蛾と潮音の姉妹が門に立って見送っていた。まだ夜も明けず、人目もないからいいようなものの、どこで見ている者がないとも限らない──吉次はあわてて、手を振った。
──引っ込め。引っ込め。
というふうに。
あわてて、姉妹の影は、家の中へかくれた。それを牛若は、名残り惜しそうに見ていた。自分の顔についている白粉やら衣裳にしみている止木の香りが、何だか、いつまでも姉妹の白い手に触れているような心地を揺らがせてならなかった。
「女ですよ、あなたは。──道中は牛若さまとは呼びませんよ」
吉次は何度も注意した。
「うん、うん」
三条へ出る。蹴上へかかる。
陽が出た。
京の町から朝霧が白々と離れてゆく。
「吉次、待ってくれ」
牛若は、坂の上で、馬を止めた。そして、いつまでもいつまでも、都の町屋根を、じいっと見つめているのだった。
「…………」
吉次も黙って、その顔を下から仰いでいた。べつだん泣いていない。また、去りがてに恋々としている眼でもない。
むしろ、それは、何ものかを睨みつけているようだった。──吉次は、牛若の意中をいろいろに酌んでみたが、十六の子どもだという観念がどうしても先になる。なあに、大人の考えるほど複雑でもあるまい。ついそう片づけてしまうのだった。
宿場帳場も幸いに難なく旅は捗った。美濃路をこえ、尾張の野へかかる頃から、女装の君は、駄々をこね始めた。
「吉次吉次」
「なんですか」
吉次は、道を見まわした。優しげに女を装っているかと思うと、出しぬけに、大人も及ばぬ叱咤を発しるので、そのたびに恟っとさせられた。
「暑いっ。──こんな着物はもう嫌だ。塗笠もうるさい。……ねえ吉次、脱いでもいいだろう」
「脱いで何をお召になりますか」
「そこらの宿場で、何なと、裾の短いすずしげな肌着一重調えてたも。それでいい。百姓の子の着るのでもいい」
「そいつあいけません」
「なぜさ!」
「女が……」
「わしは男だ」
「あっ、彼方から旅人が来ましたぞ。変に思われると、すぐ密告されまする」
「かまわない」
「かまわない事はありません」
「関わないッたら! そちはわしの云う事をきかないのかっ」
自分の頭から塗笠を毮り取ると、牛若は、吉次の顔へたたきつけた。
「あっ!」
彼の呆れ顔を捨てて、牛若はふいに馬の首をぐっと延ばした。馬は疾風を衝いて駈け出した。──驚きあわてて、後ろから追いかける吉次を嗤いながら、牛若の姿はたちまち遠く距ててしまった。
先は、馬の迅さだ。
吉次は息が切れてしまった。へとへとになったがなお駈けた。果ては、肺も心臓も口から吐き出しそうな息をした。
「うっ……もうだめだ」
苦しい。眼に汗が沁みる。
愚を悟ったか、胸をたたいて、道ばたへ坐ってしまった。
後ろに森の宮がある。青葉の日蔭に、蝉しぐれの声が涼しげであった。するとそこの小さい御堂の縁から、
「吉次。どうした」
と、牛若が呼びかけた。
駒を繋いで、彼はそこに腰かけていた。見れば、女装の袂や紐は解きすてて、馬の背から荷物を下ろし、自分ひとりで身軽に扮装を着更えてしまった。そしてにこにこ笑っているのである。
吉次は、この時ほど、腹の立ったことはない。小面の憎い童めと、何か仕返しでもしてやりたいくらいに思ったが、そう苦り切っている間にすぐ、
「吉次。わしの脱いだ女の着ものは、持ってゆくのか。捨ててゆくのか」
「そんな物は……」
忌々しさを、唇に噛んで、吉次がつぶやくと、
「だって、これは潮音の着物だろ。潮音はそちの……」
と揶揄するような笑靨をつくる。
吉次はまた、肚のうちで呟いた。──あんな事を云やがる。何も知らない蜂の子と思っていたら大間違い、どうして、飛んでもなく、早熟ている!
「吉次、吉次」
「なんですか」
「不用ならば、その衣服は、この御堂の床下の奥へ、まろめて突っこんでおくがよい」
「へい」
つい返辞はしてしまうが、吉次は業腹でならなかった。いつの間にやら奉公人のようにこの餓鬼は人を顎で使う。
餌をやったり乳を与えたりしているうちに、豹の子にだんだん爪が生えて来たような形である。鞍馬という檻の中や都という柵の内とちがって、ここはもう野放しの天地だから始末が悪い──と彼は飼い難く思うのだった。
「ああ、やっと少し汗がおさまった。牛若さま、ひどい目に会わせましたな」
「はははは」
「笑い事じゃありませんぜ。恩人の吉次をそんなに困らせると、行末のご武運にも障りますよ」
「怒ったのかい、吉次」
「誰だって怒りますとも」
「わしはね、そんな悪い気持でしたのじゃない。ちょっと、神隠しの真似してみたんだよ」
「…………」
吉次は呆れて、そう云う彼の顔を見ていた。京を立つ朝、馬には乗った事もないから恐いなどと云っていた事を考え合せると、愈〻もって、この豹の子は油断がならない。下手をしたら手を噛まれるぞと、警戒を抱きはじめた。
「この宮の裏に、井戸がある。何か、器をさがして、水を一杯汲んで来て飲ませてくれい」
渋々、吉次が、竹筒に水を汲んで来ると、牛若はそれを飲み乾してから、
「吉次、そちは、わしへ水を持って来る前に、自分が先に、飲んで来たな。卑しいやつだ」
と、叱った。
そしてまた、吉次に二の句を云わせず、次の用をいいつけた。
「馬にも水を飼ってやれよ。暑いのは人間ばかりではない」
もういちいち腹立てている遑もない。吉次が黙々と、馬を井戸へ引いてゆくと、後から牛若がついて来て、
「どこかこの地方に、源氏に縁故のある御社はあるまいか。──そちは毎年通っている道中だから知っているだろう」
と、訊ねた。
だしぬけな質問なので、吉次はまたまごついた。
だが、大人の不用意へ、唐突に質問を出すのは子どもの持前というもので、何もふかい根拠があるのではない。吉次は、そう多寡をくくった顔で、
「さあ? 存じませんね。源氏に由縁のあるお社も、何処かしらに、尋ねればあるにはあるでしょうが」
と、空うそぶいた。
すると牛若は、
「そちは知らぬのか」
と、かえって今度は、教えるような口吻で云い出した。
「異母兄頼朝の母君は、名古屋のほとりとかいう、熱田の宮の大宮司、藤原季範が女にお在したとか聞いておる。──さすれば亡父義朝とも、源家の一族とも、ご縁は浅からぬお宮ではないか」
「誰に聞きましたか。そんな事まで」
「僧正ヶ谷の天狗どもに習うた」
「ヘエ。天狗は何でも教えたんですなあ」
むしろ呆れて投げやりに云うのを、牛若は、真面目にうなずいて、
「まだ見ぬ異母兄じゃが、そこの旗屋町とかには、異母兄頼朝が産湯の井もあるとのこと。異母兄は熱田で生れたとみゆる。──わしも由縁の深いそこへ行って、男になろうと思うのじゃ。吉次、これより熱田路へ参ろうよ」
「え。男になろうとは」
「元服するのじゃ。──十六、あやうく髪を剃ろされるところであったが、その髪を男立ちに揚げ、初冠ないただこうと思う」
「いや。それは」
と、吉次はあわてて、
「もすこし、時を待って遊ばしませ。これよりあなた様が頼って行く先のお方は、富強ご威勢、平相国にも劣らぬといってもよい奥州平泉の藤原秀衡様です。──その秀衡様を、烏帽子親と頼み参らせて、元服なされたがようござりましょう」
「…………」
「お嫌ですか」
「…………」
「元服の事ばかりでなく、何もかも、秀衡様へ縋るのが一番です。秀衡様のご庇護に依らねば、生きても行かれません。杖とも柱ともお縋りいたしまする。──という風に、あわれを見せかけると、人間というものは、ついほだされるものですからね」
「いやだ」
少し気色も直して調子づいて来た吉次のことばを、牛若はまた、膠もなくヘシ折って、
「秀衡を、烏帽子親にして、人となったら、後にわしが源家の一族の上に立っても、秀衡には頭が上がらないだろ。わしにつれて異母兄頼朝も迷惑なさろうし、源氏の侍たちの弱みにもなる。──だから嫌だ」
「そんな事はありません」
「あるよ」
と、肯かないのである。そして牛若は、なおも云った。
「それとまた、秀衡だって、どんな人物か、善悪も知れない人じゃないか。身は寄せても、烏帽子親など、頼まいでもいい。──わしの元服奉行は、熱田の宮の神主さんと決めた。そちが来ないならわし一人で行く」
牛若は、馬の背へ移ると、またも彼にかまわず、道を急ぎ出すのだった。
吉次はもう、謝った──と呶鳴りたくなった。後を追い追い、彼の機嫌をとるほかなかった。
宿場で、吉次も馬を雇い、日を重ねて熱田へ入った。──そこへ着くと、すぐ牛若は宮の森へ駒をつないで、真っ直ぐに、夏木立の神さびた奥へ進んで行った。
牛若は拝殿の下に立って、掌を打鳴らした。いつまでも、合せた掌を胸にあてて祈念していた。
吉次もうしろで、ぽんぽんと柏手を打った。音はいいが拝む真似事に過ぎない。胸に風を入れて、
「こいつは涼しい」
と、つぶやいた。
「吉次」
「はい」
「社家はどこであろ?」
「さあ、どこでしょう」
「元服いたすには、禰宜どのに頼まねばならぬが、社家へ申し入れて来い」
「へ。──何とですか」
「名もなき東国の地侍が小せがれでございますが、神前において、加冠お式をしてたもれと」
「変に思いましょうが」
「なぜ」
「旅の者が、親どもも付き添わず、元服してくれなどと申し入れたら」
「かまわぬ。孤児といえばよい。──それはまた、ほんとの事だから」
「では、てまえが叔父という事にして、頼んでみましょう」
「そのような云い構えは要らぬことだ。家来といえばよい」
吉次はまた、憤かッ腹らしい。社家はどこやらと、知らぬような事を云ったくせに、すたすた大股に彼方へ歩いてゆく。
それきり返辞もしに来ない。しかし牛若は平気である。いてもいないでもいい人間のように、むしろ拝殿の廻廊に、神主のすがたが見えるのを待ち仰いでいた。
やがて、若い神主が、廊の上にひざまずいて、
「神前で元服して欲しいといわれたのは、お前様か」
と訊ねた。
牛若が、そうですと答えると、生国はどこ、父の名は何、また何のために、この社で加冠したいかなどといろいろ訊く。
「父は東国の武士、わけがあって、名は申せません。孤児にひとしい者ゆえ、神垣にて元服する分には、仔細あるまじと思い寄って参りました。──なおこの熱田の宮の神さまは、日本武尊をお祀りしたものとも聞いていますので、日頃より崇い尊ぶ御神の御前にて、初冠ないたすこと、男冥加ぞとも思ったりして参りました」
「では、しばらく」
若い神主は、自分の一存ではゆかないらしく、そう云いおいて、奥へかくれた。
ややあってまた、そこに現れ、
「お上がりあれ」
と、拝殿の床に、青い藺筵を敷きのべ、牛若を坐らせた。
御神灯をともし、神酒を奉りもう一人の神官と二人して、のりとをあげた。そして牛若の頭上に烏帽子を与えた。その紐も、神官がむすんでくれた。
榊枝で、牛若の体をはらった。颯々と、白い注連と緑の風にはらわれて、牛若は何かしら体がぞくとした。
奥ふかい御鏡の影を、きっと見つめて、
「われを男となし給ううえは、われに御神のこころと力の影なりともうつし給え」
と心に祷った。
「ありがとう存じました」
土器の神酒をいただいて三方へ返し、いんぎんに礼を云って立ちかけようとした折、ここの大宮司らしい老人は、ひとりに衣服をのせた三方を持たせ、自身は太刀を載せた三方をささげて、静かに、彼方の渡り廊からこれへ向って歩いて来た。
階を降りかけた牛若を呼びとめて、老宮司は、太刀と一かさねの衣服とを、
「冠者となられたお祝に参らせる」
と、彼の前へ置いた。
牛若は、両手をつかえて、
「あなたは?」
と、その人の面を、穴のあくほど、じっと見た。
老宮司も、牛若の姿を、飽かずながめていた。
何時いいつけたものか、他の若い神官たちは皆去っていた。ふたりの前には、榊葉と神灯と神殿の奥の御鏡しかなかった。
「わしは大宮司藤原季範。……おん身には何のお覚えもあるまい」
やがて、声をひくめて、季範が云うと、牛若は、わずかに顔を横に振って、
「い、いいえ」
「……あるか。何ぞわしについて聞き覚えでも」
「よそながら存じあげております。あなたと私とは、あかの他人ではございません」
「む、む……」
季範は、ほろりとしかけた。
「弁えておいでたか」
「知らないでどうしましょう。あなた様は、わたくしの亡父にはお舅御に当られるお方でしょう。異母兄頼朝の母御には、父にあたるお人でしょう」
「おお──遮那どの。おん身が鞍馬から姿を晦ましたと聞いて以来、よそながら案じておったぞ」
「どうしてお分りになりました」
「社家へ見えた供の男の口うらが不審しいので、そっと物陰からお汝の容子を見たところ、似ておいでるのに驚かされた」
「似ているとは、誰にですか」
「頭殿に──お身の父義朝どのにな」
「あっ……。そ、そうですか」
牛若は、拳で眼をこすった。藺筵にぽろぽろ涙が落ちた。
「無念か」
「いいえ。もう、もうこの頃では……それよりか、父に似た子と云われたのが、何だか、欣しくて」
「これより何処へ身を寄せられるお考えじゃな」
「奥州の藤原秀衡どのを頼って下る途中でござります」
「そこまで行き着けば、後日の策も立とう。しかし途中は心に心をつけて」
「はい。……ではこの賜物、戴いて参ります」
「召してゆくがよい。そう人目立つほどの衣裳ではない」
旅の小冠者にはふさわしい派手派手しくない狩衣だった。牛若は押しいただいて着更え、太刀をも腰につけた。
「む。よい若者振り。亡き頭殿にも見せたいのう。──が、加冠はしたが、名は何と称ばるるか」
「そう。元服すれば、名も改めるのが慣いでした。──源氏の遠い先祖は、六孫王経基と聞いております。──それから義家、為義、義朝と、いう風に、よく源氏の代々のお方には、義の字が用いられていますから、わたくしは、義──経。──義経と名乗ろうと思います」
「して呼び名は」
「義朝の八男ですから、八郎と称ぶところですが、叔父に鎮西八郎為朝があります。その武名を紛らわしては済まない気がしますから──九郎、義経と」
「九郎義経か」
「はい」
「よいお名じゃ。吉い日でもおざった。では、この辺りは平家の衆も多い事、東国までは、すこしも早く急がるるがよい」
「ありがとうございました。──では」
拝殿を降りると、義経は、吉次吉次と、呼びたててその姿をさがした。
「これにいますよ」
吉次は、拝殿のすぐ下に、膝をかかえて、土台柱の根に倚りかかっていた。抜け目はない。上の話は、もうその耳に残らず入れている顔つきだった。
旅は日をかさねて。
真夏の大空に、しかも眉に迫るほど近く、富士の嶺が、頂きからその裾野の線を、大地へ消えこむまで、くっきりと見せていた。
ここは足柄越えの山道だった。
「吉次。休もう」
九郎冠者は、道のべの岩に腰をおろした。頂きに近いので、歩みを止めさえすれば、風は冷たく、全身の汗も、すぐ乾いた。
「九郎様。あなたは存外、何でもお心得ですから、おおかたご存知の事でしょうが、北は碓氷を境に、南は足柄山を境として、これから東が、坂東と申します。いわゆる、東八箇国に入ります」
「ウム。ウム」
九郎は、何度も頷いて、
「とうとう来たな。──吉次、そちにも骨折りであった。忘れはおかぬ」
と、いつになく頭を下げて礼を云った。
今日までの間にない事だった。吉次は、かえってあわて気味に、
「ど、どう致しまして。そう仰っしゃられては、こっちの不行届きは、どうお詫びしていいか分りません」
「いや、礼は礼としていう、恩は恩として長く忘れまい。──けれど吉次」
「はい」
「そちは二度ばかり、人手をかりて、この源九郎を懲らそうとしたな。わしが余りそちの自由にならないし、そちも腹が立ってならないが、自分の手でするわけにゆかないので、宿場の賊の熊坂とかいう男をたのみ、わしの寝ごみを襲わせたり、また、山賊などを唆せて、わしを脅してみたりした」
「あっ、もし……九郎様。もう仰っしゃって下さいますな。吉次は、慚愧いたしております。……熊坂長範などをけしかけたのはまったくてまえの悪戯でございますが、もう、あなた様には、どう頤で使われても、吉次は腹も立たなくなりました」
「立てたら骨折り損になるからなあ」
「お言葉どおりです」
「が、吉次。平泉へ行き着いても、秀衡には、何もいわないでくれ。わしは早く、もう五、六年ほど一ぺんに大人になりたい。その間、ぽかんとしているつもりだから」
「心得ました。秀衡様へも、館のご一族へも、吉次がよいように申し告げまする」
「そのかわり、わしが大きくなったらば、わしの名を用いて、そちも大きな利得をするがいい。小慾はかかぬがよい」
「吉次はずいぶん大慾のつもりでおりましたし、肯かない男を以て自分でも任じておりましたが、あなた様には、どうやら骨抜きにされたようです」
「あ。相模の海が見える。……伊豆の島々も」
九郎はもう吉次の繰言には答えもせず、虹いろに霞んでいる伊豆半島の山を空を、じいっと、飽かぬ眸でながめていた。
異母兄頼朝の配所。
伊豆の蛭ヶ小島とは仄かに聞いているが、その蛭ヶ小島とはどのあたりか。
母のちがう異母兄。まだ見ぬ異母兄。
九郎義経なる異母弟があるかないかも、ご存知か、どうか。
「……でも血はひとつだ。わしも亡父義朝の子だ。またおそらく、志もこの九郎とちがうことはあるまい。おなつかしや、兄者人。──きょうここの足柄道を、あなたの異母弟九郎は東へ越えてゆきます。いつかきっとお目にかかりましょう。その機縁は、亡き父や源家の先祖たちが、きっと導いてくれるに違いありません」
彼は、胸の底で、そう呼んでいた。その思いは宇宙を翔けて、配所の異母兄へ通じるであろうと信じていた。
この国の地殻には、火の脈が燃えている。温泉のわく所が多い。
山もまた、いつ火を噴くか知れない性質をもっている。富士、愛鷹、箱根連山など。──総じて、この半島伊豆の地上では、そうした風土や自然が、人間の容姿や気風にまでよく映っていた。
いったいに、男でも女でも、早熟であった。情熱に富んでもいた。しかし、山地が多く物産が乏しいので、一面には質素で、豪古の風を尊んだ。──また、海に接しているせいか、進取的だった。遠い僻地でありながら、常に都の風聞とか中央の政情などにも、関心を持っている者が多かった。
ことしはもう安元二年。
安元二年というと、元服した九郎義経が、ここから近い足柄山を越えて、奥州へ下って行ったその年から二年後である。
時に、右兵衛佐頼朝は。
指を繰ってかぞえてみると、ここの配所へ送られて来てから、ちょうど今年で十七年目になる。
年は二十九歳。
「三十にして立つ」
という古語を、彼もことしは、人知れず心に呟いていたのであろう。
けれど、彼の十七年の配所生活は、至って穏やかなもので、むしろ平和に倦むくらいなものだった。
その無事と無為の日々は、きょうこの頃も変らない。
ただ、山河には、花の開落があり、鳥魚の去来がある。流人屋敷の畠には、今年もまた、茄子の花が咲いていた。
「オオ、怖!」
瓜畑で瓜をもいでいた女の童が二人して、云い合せたように、耳をふさいだ。
「雷鳴さま」
と、山を仰ぐ。
箱根連峰は、見ているまに、疾風雲につつまれて、すぐ近い函南の中腹には、かっと真っ蒼に陽が映えていた。
ここは、箱根の南裾野といってよい。小高い畑地で、まわりは崖だった。そして崖の根土は、どっちを見ても、狩野川の流れに洗われている。──川のなかの藪島。それで蛭ヶ小島と土着の人は云って来たのかもしれない。
藪をきり拓いて、宅地と畑地にした所に、配所は建っていた。土塀をまわした総坪はずいぶん広いが、建物は元より粗雑で、空地は畑となっていた。
それでも。
流人の住居としては、ずいぶん整っているといってよい。母屋の中心に、持仏堂もあれば、侍部屋もある。寝所、釜殿、女童部屋、奴僕の小屋、殊に目立つのは、厩のあることである。頼朝の外出も、ある区域に限っては、狩猟に出るも、走り湯へ参詣にゆくも、かなり自由にされているらしい。
──ポツ……ポツリ
雨が斜めに落ちて来た。
ここから一里ほどもない駿河湾の静浦、江の浦のあたりまでも、もう一面な低い雲に蔽われて、たった今まで、陽のあたっていた海面が、一尺の水面も見えなくなっていた。
「あっ、夕立」
と、籠をかかえて女童は近くの厩の廂へ逃げこんだ。白い雨が、一瞬翔けて行った。どこかに雷鳴の落ちたような大きな音が近くでした。
「おお、ひどかった」
すぐ霽れた青い雲間を見て、女童たちはほっとした眼をし合っていた。すると一人が、厩の内を覗いて、頓狂な声を出した。
「おや。お馬がいない。殿さまはいらっしゃるのに、龍胆だけが。龍胆はどこへ行ったんでしょう?」
馬を大切にすることは、貨幣以上であった。良い馬は、黄金を以ても、容易に得難いものとして、財宝の一に数えられるほどだった。
殊に、武人は、弓矢太刀などもさる事ながら、名馬を厩に持つことは、心がけの一つだった。けれど、諸国の牧から市へ出る逸駿も、そう数はないので、すこし名の聞えた馬といえば、みな財力のある都へ買われて行った。
だから平家一門の公達輩は、見にして、各〻、名馬を争い持った。名馬を手に入れる事では、屡〻悶着や喧嘩さえ起った。そういう平家人のあいだでは、こんな事すら云われていた。
(人は都。馬も、田舎に名馬なし)
いかにも、思い上がった言葉である。果たして、田舎に人はないだろうか。田舎に名馬はないだろうか。
頼朝が、自ら、龍胆黒と名づけて、ここの厩に飼い、厩舎人の鬼藤次という小者を付けて、鍾愛措かない黒鹿毛は、都にも稀な逸物だといわれているものであった。
しかもその黒は、この西伊豆の豪族でありまた、配所の経済や頼朝の身に就いてなど、六波羅からその世話や監視の役をも命じられている北条時政が、ある折、特に自分の一頭のうちから選んで送ってくれた駒である。
この配所から程近い北条家の館へ招かれた一日、
(馬がないので何かにつけ不自由いたしている)
と、頼朝がもらしたのを、その折、初めて会った時政のむすめの政子が、
(この頃、お手に入れた黒鹿毛は、悍気がつよいと仰っしゃって、お乗りにもならずに厩に繋いであるようですから、あれを差上げてはどうでしょう)
と、暗に父の時政へせがんで、その帰りに、鞍まで添えてくれたものであった。
政子の印象もよかったし、駒を馴らしてみると、案外な逸足なので、頼朝は厩の物音を聞くと夜半でも、紙燭をかかげて、
(蚊に喰わすな。──どこか悪いのではないか)
と、いつもそこに、馬と共に暮している鬼藤次へ、注意しに来るほどだった。
それほど、主人が愛している龍胆黒であることは、召使たちも知りぬいている事なので、今忽然と厩の中にそれが見えないのは、大きな驚きと不審であった。
「鬼藤次さん。鬼藤次さんっ──」
女童のふたりは、厩番の小屋へ教えに行ったが、そこにいつもいる鬼藤次までがいなかった。
草を喰わせに行くのも、配所の外まで曳いて出る例はなかった。朝夕の調馬は、主人の頼朝自身がすることである。
その頼朝は、持仏堂の窓で、きょうも写経にくらしている。その姿は、たった今、瓜畑から見ているので、どうしても不審が去らなかった。
「盛綱様へ、お告げしておこう。盛綱様はどこにおいでかしら」
「また、河原へ降りて、鮠を釣っていらっしゃるかもしれない」
「あ。そうだ。きっと」
駈け出してゆくと、雑木の崖際に行きあたる。下を見下ろすと、夕立にぬれた樹々の間に、狩野川の渓流が白く透いて見える
「盛綱様──。盛綱様アっ」
女童は、口のそばに、手をかこんで呼びたてた。
今の一夕立で、渓流は、すさまじく水音を高めていた。さっきから釣糸をそこの瀬へ垂れていた百姓の若人みたいな男は陽に焦けた顔を、くるりと向けて、崖の上を振仰ぎながら、
「なんだーっ。用があるなら降りて来うっ」
と、粗野な声で答えた。
夕立が霽がったばかりである。崖土はすべる。女童の二人は、ようやく河原へ降りて行った。
「盛綱さま。厩にお馬が見えなくなっていますよ。鬼藤次も、何処へ行っちまったか、呼んでも、いませんよ」
口を揃えて告げた。
「何。龍胆がいないって?」
鮠がかかった。
盛綱は、釣竿を上げながら振向いた。ピラッと、鮠は彼の手の中へ躍ってきた。鈎から魚をはずしながら、
「ほんとか」
「ほんとですもの」
女童は眼をみはって云う。
「鬼藤次のやつ。先頃から不審なところが見えた。あっ……それに今日は四の日」
彼はやがて、崖を攀じて、厩舎人の寝小屋を調べていたが、突然、
「市まで行って来る。兄者人が訊ねたら、晩までには戻ろうと云うてくれ」
と、釜殿の下僕に云い置いて、飛ぶが如く何処かへ駈けて行った。
南条、中之条、北条などと庄田の名は称び分れているが、この辺の町は、北条の端れになる四日市を中心にたて混んでいた。
月の四の日ごとに、市が立つので、そう称ばれていた。三郎盛綱は、今日がその日にあたるのを思い出したのである。
穀物、獣皮、漆、織物などあらゆる物と物が交易されていた。馬市も立っている。鹿毛、栗、月毛、黒などが何十頭も馬繋ぎに首をならべていた。
その中に、一頭、鼻すじの白い黒鹿毛がいた。鞍もあぶみも外してあるので、ちょっと見違えるが、盛綱の眼が見あやまるわけはなかった。
「あっ、龍胆だっ」
手をかけると、ひとりの伯楽が飛んで来て、いきなり咎めた。
「何をなさる」
「何をって。おまえのか」
「きょうの市で、大金を出して求めた馬じゃ」
「それは気の毒なことをした。これはわしのご主人の持馬だ」
「何だと」
「そちは誰から買った」
「誰やら知らぬが、売りに来た若者が、市へ出したので買うたまでじゃ」
「その若者は鬼藤次といいはせぬか」
「名など知らぬが、あれ、あの彼方に見える筵掛の小屋の中で、市の商人や馬買いたちの仲間に交じって、博奕しておるわ」
「さては」
と、うなずいて、
「では、この駒は、しばらくそちに預けておこう。だが、ここから動かしたら承知せぬぞ」
盛綱は、そう固く云いおいて、筵小屋の方へ歩いて行き、そっと中を覗いてみた。
「はて、いないが?」
盛綱は呟いた。
そこの仲間のうちには、鬼藤次の顔は見えない。彼はまた、他を探した。
そういう悪戯に耽っている囲いは、一ヵ所や二ヵ所ではなかった。博奕の流行は、保元、平治の乱以後、平家の繁栄と伴って、上下共に、ひどい風潮となった。日々の業務も抛ってそれに耽る者は、庶民ばかりではなかった。
わが子は二十になりぬらん
博奕してこそありくなれ
国々の博徒に
さすがに子なれば憎からじ
怪我負わせ給ふな
王子の住吉西の宮
孫を負った媼が、そんなうたを謡っているのも、よく聞くことだった。
世の風紀が悪くなったといえば、富士の宿から足柄越えにかかる旅行者のよく云う事にも、あの嶮しい山中にさえ、近頃は、茅の屋根に篠すだれを垂れ、夜見たらむしろ怖ろしげな遊女の宿が何軒もできているそうである。元より怪鳥走獣の声ばかりな深山なので、そこに住む遊女といってはみな年老いたのが多く、旅人たちはそれを「山姥」などと称んでいた。
足柄山の関にさえ、あやしげな女の袖を引く世であるから街道の風儀や国々の府の猥雑放縦な有様も思いやるに余りがある。
まして、市の日、諸郷の小商人やら伯楽やら雑多な人々の集まる市で、悪戯の行われるぐらいは、まだまだ近頃の世相のうちでは、それが白昼、人目を恐れるでもなくやっているだけに罪の軽いほうかも知れなかった。
「おっ。いた」
一つの囲いの中に、盛綱はとうとう彼を見つけ出した。
あそびに夢中になっていた鬼藤次は、盛綱の腕が、自分の襟くびへ来て、襟がみを掴まれるまで気づかなかった。
「不埒者っ」
耳元の声に、あっと、びっくりして後ろへ手をやった時は、鬼藤次の背中は、もう地を摺って、何十尺もズルズル地上を引っ張られていた。
「おゆるし下さいっ。──もしっ。謝ります。盛綱様っ」
「やかましい」
「面目もございません。……つい、つい、出来心から」
「やかましい」
足を上げて、盛綱は、その顔へ一つ喰らわせながら、
「お馬と代えたかねをこれへ残らず出せ」
「かねはございません」
「どうした」
「みな、博奕して、負けてしまいました」
「おのれっ」
盛綱は、赫怒して、
「よくも、洒あ洒あと。あるだけでも出せ」
「もう、まったく、僅かもございません。何とか、取返しますから、どうかしばらくのご猶予を」
彼は懸命に、哀訴したつもりだったが、盛綱の怒りはかえって煽られたとみえる。怖ろしい声で、不届き者っと、叱るや否や腰の太刀をひき抜いて、逃げかける鬼藤次の肩へ、うしろから一太刀あびせた。
鬼藤次は、悲鳴をあげて、転んだが、運よく、周りをかこんでいた人垣の中へ仆れた。
輪を作して見ていた人々は、驚いて逃げくずれた。鬼藤次もその間を、血まみれのまま走って行った。
「これなる黒鹿毛は、わがご主人の乗馬。盗んだ物を求めたのは、求めた者の買損というもの。ともかく申しうけて参るぞ」
以前の馬つなぎから龍胆を解くと、盛綱はとび乗って、あれよと人々の騒ぐ間に、蛭ヶ小島の配所へ矢のように駈け去ってしまった。
まだ山々も霧、野も霧、狩野川も霧の朝まだきからである。
配所の持仏堂では、朗々と、読経の声がする。
十年一日の如く、毎暁、怠ったことのない頼朝の勤行だった。
少年の日、死刑にされるところだったのを、池の禅尼に助けられて、その禅尼から都を立つ日、
(たとえ唆す者があっても、ゆめ、太刀習いなどなさるまいぞ。親兄弟の後生を念じ、髪を下ろして、再び縄目の憂き目など尼に見せてくださるなよ)
と、懇ろに意見されたその折の訓誡を、ふかく心にとめて、今も忘れずに奉じているものの如くであった。
しかしその禅尼も既にみまかって、もうこの世の人ではない。──彼のりんりんたる読経の声のうちには、明らかに、今はその人の後生を念じているのが聞き取れる。
とは云え、尼が生前、くれぐれも彼に云った、髪を下ろす一ヵ条は、決して守っていなかった。二十九歳の黒髪は、ふっさりと束ねて、むしろその艶やかさを誇っている。
また、読経の日課にしても、果たしてそれが、菩提を慕うやみ難い心のあらわれか、単に、非業な最期をとげた父義朝や兄や一族たちへの一片の供養か、それとも、世を欺く音吐か、依然としてこの人の肚というものは、その端麗なすがたを見ただけでは分らない。
彼を観る人、それを聴く人、配所を繞る人々の思うところも、自らまたまちまちであろう。
が、事実は動かし難い。頼朝の肚はともあれ、こういう配所の生活は、至極神妙なものとして、京都へは報告されていた。
従って、年々、彼への監視や拘束は、弛やかになってもいた。給仕の女人として、女性をおくことも黙認されている。──近頃、ひそやかに奥に侍いている亀の前は、彼の二度目の愛人だった。
二度目というのは、今より二年ほど前に、伊東祐親の息女と恋におちて子までもうけた事があり、祐親に知られて、その子は、淵へ捨てられたりなどした事件が、この伊豆では一時、かなり噂に聞え渡っていたからである。
祐親は、伊東の豪族で、北条家とならぶ権門であったから、その事件では親の祐親に睨まれ、流人ずれがと、ふた口めには云われる頼朝は、ずいぶん辛き目にあって、懲々しているはずであるのに、いつか彼の側には、変った女性が侍いて、時には、傍目もない恋を語らい合っている様もまま見かけられた。
亀の前は、伊豆の女に似げなくうち気なほうであった。その頃、下司の戯れ謡に、
男怖じせぬもの
加茂女、伊よ女、上総女
などという詞もあったが、伊豆の女はなぜその中でないだろうか。──頼朝も時には、そんな煩悩に、頭脳を憑まれている日もあった。若い肉体に、無聊といったら実に耐えきれない無聊であったせいもあろう。
そういう煩悩や頭のにごりを清掃するためにも、朝ごとの勤行は、彼自身に必要であった。その声は大きく、彼の声から蛭ヶ小島は暁けるといってよかった。
「亀。──水をくれい」
持仏堂を出てくると、彼は汗ばんだ顔をしていた。亀の前の手から一杯の冷水を取って飲みほすとすぐ股立取って、まだ露の冷たい夏草をふんで厩へ行く。──それも毎朝の事だった。
馬は厩に無事でいるし、きのうの出来事は、誰も告げていないので、頼朝は、そこへ立つと、
「鬼藤次、鬼藤次」
と、彼の寝小屋へ呼んだ。
すると、はいっと答えて、厩の陰から立出でたのは、三郎冠者盛綱で、
「ただ今、曳きまする」
と心得顔に、りんどう黒を厩から解いて、前へ曳いて来た。
頼朝は、不審顔に、
「鬼藤次はいかがなせしか。今朝はそちが厩の世話をいたしたのか」
と、訊ねた。
盛綱は、何気ない顔して、
「昨夜おそく、急病を発したとやらいうて、南条の里へ帰りました。夜中なれば、お暇も告げずに行ったのでございましょう」
と、答えた。
小者の事なので、頼朝は、そうかと、気にもかけない容子で、いつもの朝の如く、りんどうの鞍へ跨がって、野へ駒を調らしに出た。
人も駒も、一汗かいて、野から帰って来る頃に、陽は朝霧を破って山のうえに昇っていた。
「なるほど」
盛綱は、何を感心したか、その帰るさ、駒の口輪をつかみながら、頼朝のすがたを振仰いで、
「兄者人の定綱が、いつも云わるるには、殿のご大食には驚く、あの華奢なおからだで、朝などお汁を何杯もあがるなど、いつも驚嘆していますが、なるほど、これではご空腹もごむりではない……。盛綱めも今朝は、眩くほど、すき腹になり申した」
と、云った。
頼朝は、笑って、
「調馬は未だしもよ、朝夙く法華経二部を、腹のそこから声を出して誦んでみい。五臓六腑、一物もなくなってしまう」
「いや、配所へご給仕に参りましてから、私ども兄弟も、はや十年の余、よい修行に相成りました」
「十年の余にもなるかのう」
「なります。父のいいつけで、初めて上がった頃は、私はまだ洟たれの童、兄の定綱さえ、まだ小冠者でござりました」
露を踏みながら、盛綱は、自分の素裸足な足を見た。百姓と変りはない。
盛綱は兄弟四人のうちの三男だった。父の佐々木源三秀義は、近江の住であったが、平家に屈しなかったので、近江を追われ、武蔵の渋谷庄司重国へ身を寄せた。──そして程近い伊豆にある頼朝へ、音信や贈物を怠らなかったが、遂には、自分の子の長男定綱と三男盛綱のふたりを、配所の家僕として召使ってくれるようにと、ここへ奉仕によこしたものだった。
流人とはいえ、まだまだ多分に貴族的な起居をゆるされている頼朝は、配所の家人に対しても、ずいぶん吾儘なふうがあった。盛綱などは、腹を立てて、何度も渋谷へ逃げ帰った。その度に、父に諭されてはまた帰って来たりした。──文字どおり艱苦を共にして来た主従である。それだけに、今となっては、切っても切れない君と家人のあいだがらにもなっていた。
──思い出すと、長い間には、こんな事もあったりした。
兄の定綱は、父秀義にも劣らない、矢を矧ぐ事の上手であったが、ある夜兄弟して、夜業に矢をはいでいるのを、頼朝が見て、
(おまえ達の作る矢を、一体いつになったら、この手でいっぱいに引く日が来るだろうな)
と、呟いたので、兄弟は急に胸がせまって、何も答え得ずに泣いてしまった。主従、燈火の消え入るばかり、手を取りあって泣いてしまった。
「……何度、この足の指の生爪が剥げたら、その日が来るか」
盛綱は今朝も──そんな事を考えながら、主人の駒を曳いて帰って来た。
すると、配所の門前に、何事が起ったのか、大勢の雑人たちが群れて、わいわい騒いでいた。
「や。流人の主従が」
「あれへ来た」
「戻って来おった」
雑人たちは、露骨な敵意を示しながら、指さしたり、喚いたりした。そして頼朝のまわりへ、わっと寄って来そうな勢いを示した。
「何事ぞ」
頼朝は、盛綱を顧みた。盛綱は、馬前に諸手をひろげながら、
「何事やら分りません。──ただ今、問い糺してみましょう」
と、答えた。
その間にも、雑人たちは、口汚い悪罵をまわりから放っていた。
「馬盗人よ」
「主従、肚を合せて、馬の代を騙り取ったぞよ」
「流人根性!」
「配所の穀つぶし」
「馬を返やせ」
「その馬を渡せ」
何かそんな意味らしい。市の無頼漢や伯楽どもであった。訛りのひどい方言で罵ることなので、初めは何を云われているのか分らずにいた頼朝も、やや面色を改めた。
「盛綱、どうしたものだ」
「はっ」
「何か、間違い事ではないか」
「はい」
「なぜ、黙っておるか、そちは」
「彼等の勘ちがいもありますなれど、すべてが間違いでもございませんので」
「覚えがあるのか」
「少々あります。実は、市の伯楽に払う馬代を、忘れ果てておりましたため、ああ申すのでござりましょう」
「馬の代と?」
「はい」
「どの馬の代?」
「面目もございません。恐れ入りまする」
盛綱は、さし俯向いて、ただ謝るばかりだった。
きのう市で、りんどう黒を求めた男は、仲間の者にケシかけられて、怖々前へ進みながら、
「それだ。その馬だ」
と、頼朝の乗っているのを指さした。
「何、この馬の代じゃと」
頼朝は、鞍を下りた。そして、伯楽たちの云いならべる文句を、黙って聞き取った。──聞いてみれば、敢えて、盛綱の罪というのでもないので、何で彼が面目なげに打悄れているのか、その愚直さがおかしくなった。
「騒ぐな、馬の代を払うてつかわせばよかろう」
「払うてさえくれれば文句はない」
「それに待っておれ」
「おお、待っていよう」
大勢も、配所の鹿垣の根や、そこらの草むらに腰を下ろして、まだ疑わしげに、がやがや云っていた。
彼等が疑うのもあながち無理ではなかった。頼朝の貧しい生活ぶりは、平常ここの柵から覗いて見ただけでも知れていた。流人の給与はおよそ穀物何十石、油何斗、布何反と決った額が渡される他、何の収納もあるわけはないからだった。
「はて。困った事が」
盛綱を外に残して、頼朝は内へ入ったが、馬の代に相当するような財物は何もなかった。
池の禅尼が在世中、年に一度ずつ都から送ってくれた衣裳やら経巻やら高価な数珠などはある。折々に、乳母の比企の局から心づけては届けてくれた身まわりの調度や雑器などはある。──が、それらは皆、人手に渡すに忍びない恩人たちの真心の物でもあるし、また、そのすべてを渡しても、馬の価には足りそうもなかった。
「亀どの、そこの料紙と硯とをこれへ」
縁に腰かけたまま、頼朝は一筆書いて、封の上に、北条どの御内とし、政子の君へと宛名した。
亀の前は、ちらと、その名宛を見たような顔いろであったが、頼朝から、
「定綱を呼べ」
と云われて、素直に、侍部屋のほうへ立って行った。
兄の定綱が、主人のりんどう黒に乗って、あわただしく、配所から出て行く様子に、外にいた三郎盛綱は、
「兄者人どこへ?」
と、声をかけた。
「北条どのまで」
定綱は鞭打って、急いで行った。
政子に宛てた文を携えて、彼はまもなく北条家の館を訪れていた。元より先は深窓の息女である。直かに会えるわけもない。家臣の手を通じて返辞を待っていた。
「これをとのお伝えです」
家臣は政子の返し文と共に、唐綾の小袖一かさねと、唐鏡一面を定綱に渡した。
定綱は、それを持って、また急いで配所へ帰って来た。
頼朝は、政子の文を読むと、すぐ細かに裂いてしまった。そして外にいる盛綱を呼びよせ、
「この二品を、馬の代に、市の雑人どもへ渡してやれ」
と、云った。
「いや、その伯楽どもは、もう外におりません。兄者人が、北条殿へと、馬を打って駈けたのを見て、さては役人でも連れて来る事かと思い、ちりぢりに逃げ去りました」
盛綱は、おかしがって語ったが、頼朝は、それは不愍なことだ、下賤の者を虐げたと聞えては、頼朝が生涯の汚名というものである。すぐ市へ行って、この品を、彼等に与えるなり、金に代えて、彼等に託して来いといいつけた。
盛綱が出て行くと、定綱も、
「ご用はすみましたか」
と侍部屋へ退がって行った。
思わぬ事件に半日は空しく過ぎた。外の炎天は、草いきれと、蝉の声ばかりに焦けていた。
「今から行っては、話す間もなし……帰りも暮れよう。明日にでも行ってみるか」
頼朝は、廂ごしに、夏の雲を見つめながら、胸のうちで呟いた。──この頃、箱根の別当の弟、永実から聞いたはなしに依ると、ここから二里ほど山へ這入った奈古谷という小部落の寺に、高尾の文覚上人という者が、罪を得て都から流されて来ている。
──先も流人、こちらも流人、一度会ってみたら都の消息などもいろいろ知れましょう。そう云った事が、頼朝の胸に、きょうは訪ねようか、明日は行ってみようかと、かなり前から宿題になっていた。
「が。──それも、考えものかな?」
彼の緻密な性分は、考えすぎて迷いに落ちる傾きもあった。一個の文覚を訪ねる事が将来にも今にもいいか悪いかとなると、深窓の息女へ文を通わすより、彼は、細心になるのだった。
「……?」
頼朝はふと、その眸を、廂ごしの空から自分の傍らへ振向けた。よよと、孤で泣いている者があったからである。
亀の前であった。
何で、彼女が泣くか、頼朝にはわかりきっていた。政子へ使いをやった事からに違いない。もっと彼女の胸に入って云えば、なぜ、馬の代の調達を、自分へ相談してくれるなり、自分の父良橋太郎入道へなり申し遣ってくれなかったか。
それを恨みともしているであろう。また、いくら素直な性格でも、女である以上、嫉妬もあろう。それを動作やことばに出せない質だけに、泣くだけしか、表現を知らないのである。頼朝の眼は、そう知りぬいておりながら、やや険をふくんで、邪慳に云った。
「何を泣いておるか。……男の胸、女子には汲めまい。泣きたくば、あちらへ行って泣け。……暑いっ。うるさいっ」
泣くな、と叱られれば叱られるほど、亀の前は、泣きぬれていた。
頼朝は、舌打ちして、
「この暑さに、蝉が啼くだけでもたくさんだ。……聞きわけのない」
と、起ち上がった。
亀の前は、その袂の下へ、初めて小さい声で、咽びながら訴えた。
「しばらくの間、里方へ帰らせていただきまする」
「……帰る?」
頼朝は、問い返した。わざと冷たい眼を注ぐのであった。
「よいとも、しばらくと云わず、いつまででも、いたい所にいるがよい」
わっと、泣き伏す声がうしろでした。彼は、振向きもせず、長い簀子縁を、ずしずし踏み渡っていた。
屋の西に、木につつまれた一棟がある。昼寝でもするつもりか、大股に、つとそこへ這入ると、
「……おっ」
誰か、小机の前から、びっくりしたように振向いた。
都から流浪して来た藤原邦通という旅絵師だった。酒など飲むと、舞をよくするし、剽気たところがあって、おもしろい男だというので、頼朝にひき留められ、この配所に、もう半年の余も懸人になっている暢気な男だった。
「──誰方かと思いましたら、殿でございましたか。びっくり致しました」
「書いておるね」
頼朝は、亀の前に示した顔いろを、すぐ微笑に消して、邦通のうしろに立ち、彼の筆や絵具のちらかっている机の上を覗きこんだ。
「こんな風に、時々、諸方を歩いて、写しを取って来ては、書いておりますので、なかなか果がゆきません」
邦通は、云い訳した。
そこに書きかけてあるのは、ただの画ではなく、伊豆半国の絵図であった。山河から道路や宿駅や社寺の所在など、ずいぶん克明に、一部は出来かけている。
「暑いからなあ。歩くにはたいへんだろう。年内にできればよい」
「年内にはできます。雪が降ると、箱根その他の山々は、道も探れませんから、山のほうを今、先に書いております」
「うむ……」
縁の隅へ、昼顔の蔓が這い上がっていた。白い花が一つ、風にふるえている。頼朝は思い出したように、
「邦通。使いしてくれまいか」
「何処へ参りますか」
「亀の前が、里親の許へ帰りたいという。彼女を連れて、良橋太郎入道のやしきまで」
「え。お帰りになりますと?」
「ひとり帰すも酷い。送り届けてやってくれぬか」
「それはようござりますが、何かと、お身まわりにも、ご不自由ではございませんか」
「大した事はない」
「なんぞ、争いでも遊ばしましたか。──所詮、女子は女子です。ご気色を直して、晩にまた、一酌なされませ。邦通がまた、猿楽でもお目にかけましょう」
「猿楽は、今いたして来た。われながら愚かしき猿楽を」
云い捨てて持仏堂へ籠ってしまった。何かにつけ彼はここへ這入り込んだ。そこにいる間は、写経と読経のほか他念もない彼と成る。鬱勃たる二十九の胆と血しおとは、時折、そうして抹香の氷室へ入れて冷却する必要もあった。
やがて。また日課の読経がそこから洩れた。亀の前は、暇を告げるべく、室の外に手をつかえたが、ただすすり泣きのみして、悄々と去った。
草の穂に、夕風が立ち初めた。
蜩が啼きぬいている──
山の秋は早い。もう霜を見たような蔦や漆の紅さだった。
「兄者人。帰ろう」
「まだ陽が高いのに」
「でも、飽いた」
狩支度で、韮山の奥へはいった定綱、盛綱の兄弟だった。
負って来た矢も残り少ないのに、四、五羽の鳥を腰に獲ただけだった。
「何という日だ。せめて猪の子でも出て来ねば」
「まだ季節が早い」
ふたりは、疲れた脚を、草に投げた。──谷は暮れかけたが、箱根の頂には、まだ赤い陽が見える。
「弟」
「ウム?」
「きのうもそちは、殿のお文を持って、北条殿の奥向へ、お使いに行ったの」
「行った」
「よく参るのう、しげしげと」
「おいいつけだ」
盛綱は、ぶあいそな顔して云う。俺が行きたくて行くのではないと云いたそうである。
すぐ下の山寺で、読経の声が聞える。その経文で思い出したように、
「……困ったものだ」
定綱は、ひとり呟いた。
「何が」
と盛綱は、兄の憂鬱に眼を尖らす。その眼を、定綱はじっと見返して、
「そちは、そのように、暢気者だから、文使いなどには、ちょうどよいのだ。この定綱へ、行けと仰っしゃった事はない」
「兄者人。ひがんでいるのか」
「ばかを申せ」
「わしは暢気者かなあ」
「憂いがないゆえ」
「憂いたって仕方がない。──あれでいいのかしら? とはわしも時々考えるが」
「そちでさえ、そう思うのか」
「思わぬ事はない」
「父上は、わしら兄弟を、とんだお方へご奉公につけてくれたものだ。畏れ多いが、時々、嘆息が出る」
「源家に運がなく、平家の運がいいのだ。ぜひもない」
「盛綱、わしらふたりの配所奉公も、はや十年の余だぞ。諦めきれるか。わしは諦めきれない。……一度、兄弟して、ご意見してみようではないか。あのお方の、本心をたたいてみようではないか」
「意見って。何を」
「前には、伊東祐親入道のむすめとあのような事件を起し、それには、さしもお懲り遊ばしたろうと思っていると、亀の前をいつか配所へお入れあった。──それもいい。ところがまたもやだ。何の科もない亀の前を、ちょっとのお怒りで、里方へ帰しておしまいになった上、この夏頃から、しばらく絶えていた北条殿の息女へ、しきりと文使いの取り遣り。……いったい何たるお行状だ」
「それを申し上げるのか」
「云うのが臣の道だろう」
「わしはいやだ」
「なぜ」
「女のことなど、云えぬ。……誰しものことだもの」
「愚かなやつ。本末を聞き誤るな。何もそうしたお行蹟の端のみお責めするのではない。たとえ、いかに女人には甘かろうと、ご腹中の大事さえお忘れなければよいが、それが、わしの観るところでは」
「覚束ないというのか」
「案じられるのじゃ」
「そうでもあるまい」
盛綱は、物事をすべて、兄よりも、大づかみに観る方らしく、
「難しいものだとよく人のいう、女に対して才がおありなくらいだから、他の事にも、十分、お考えがあるにちがいない。兄者人のように、そう自分で事を挙げるようなわけに行くものでない」
と、かえって、兄の焦躁を笑った。
夕雲へ眸がゆく、兄弟とも黙りこくったままである。ひとつ主に仕えても、ふたりの観方は同じではない。
「……分らぬ」
定綱はまだ云い足らぬように、やがて独り呟いた。
「怠惰なご性質かと思えば、朝夕のご規律、武道文学などには、人いちばいご精進もなさる。涙もない冷やかなお生れ性かと見れば、時には優しい、むしろ情痴なほど、溺れ遊ばす質かとも疑われる。──伊東入道の女八重姫に恋なされたかと思えば、亀の前に移り、北条殿の深窓へも文を通わされる。……何たる痴者。……傍目にすら、舌打ちが出る。……けれどまた、そうした毎日にも、普門品の読誦は欠かし給わず、日に百遍の念仏は怠らず、月々三島明神の参拝もお忘れなどあられた例はない」
「兄者人、行こうか」
つまらなそうに、盛綱は塵を払いながら、草から起ちかけた。──とたんに、彼は、何を見たか、携えている弓を立てて、がっきと、矢をつがえた。
定綱は、矢先を眺めながら、
「弟、何を射る?」
「…………」
盛綱は答えもしない。ひき絞った絃をぷつんと切って放った。──矢は、崖下の山寺を蔽っている木立の梢を通って、後に四、五葉ひらひら舞わせていた。
「──落ちた」
矢を負った鳥影が、山寺の裏あたりへ垂直に降がって行った。盛綱が駈け降りたので、どうせ帰り道ではあるし、定綱もやや遅れて、追って行った。
下の山寺は観音大悲を本尊とするので観音院とも、奈古谷寺とも称ばれている古刹だった。庫裡のわきに近頃建てたらしい一棟の僧舎がある。夕闇の底に、その新木の羽目板や屋根の白さが目に立っていた。
獲物の鳥と矢を拾って、盛綱が去ろうとした時である。──読経の声がやんだ。──そしてぬッとそこの新木の縁ばたへ出て来た大男が、一喝した。
「誰だっ。待て」
盛綱は、振向いた。──坊主だな、と思っただけである。
「なんだ」
すると、大法師は、
「墻の内へ無断で這入りこんでおきながら、何だという挨拶があるかっ」
「此屋には、墻があったのか。裏山から降りて来たので知らなんだ」
「なお、許せぬ。小冠者、ひとの庭へ矢を射込んで、詫びもせいで、立去る気か」
「悪かった」
「──では済まん」
「然らば、どうせいと云うのか」
「両手をついて謝れ」
傲然と、縁の上からいう。
隆々たる筋肉をもち、下腹も肥えているので、わざと反っているくらいに見える。硬そうな無性髯と、僧にしては闘争的な眼光を備えている。──そういう眼に出合っては、元来が、謝りたくても謝れない性分をもつ坂東骨の盛綱は、
「これ以上は謝らぬ。手をついて謝らなかったら如何する」
と、冷笑した。
法師は、毛の生えた鉄拳を、ぬっと突出して、
「小冠者、これが喰らいたいのか」
と、云った。
「何っ」
盛綱が、太刀へ手をかけて寄ると、大法師は、
「田舎漢っ。斬れるのか」
と、大口あいて笑った。
田舎漢っと、彼が弟を罵った言葉に、彼方で見ていた定綱は、思い当ったものがあるらしく、駈け寄って、
「ひかえろ」
弟を叱った。そして法師に向って訊ねた。
「もしやご僧は、文覚殿ではありませんか」
「文覚はわしだが」
「おお、ではやはり」
「お汝等はどこの者か」
「失礼しました。──盛綱、お詫びせい。高尾の上人でいらせられる」
弟へ、そう責めたが、盛綱は下げる頭は持たないといった顔だ。ただ文覚の面を、見まもっていた。
「わかった」
文覚は急に白い歯を出した。盛綱と聞いたのですぐ察したのであろう。げらげら笑いながら云った。
「さては、お汝等は、蛭ヶ小島にいるとかいう、頼朝の召使だの」
「お察しの通りの者です。佐々木源三が子、太郎定綱、こちらは三郎盛綱というがさつ者でござる」
「端近だ、お上がりあれ」
文覚は、炉へ導いて、自分は先に、その前に坐っている。
「弟、どうする?」
小声で計ると盛綱は、上がれと云うのだから上がろうと云う。
「要らざる強がりをするのではないぞ」
定綱は弟を、小声でたしなめながら、室へ入った。
文覚は、炉へ柴を折りくべていた。赤い焔が下からその顔へ映す。この上人の素性に就いてはかねて種々聞き及んでいる事が多い。都でもよく話題の人となり、伊豆へ流されて来てからも、里の人々が何かにつけて噂するからである。
すでにこの人の発心からして世の常の出家とはちがっている。俗姓を遠藤、名を盛遠といい、北面の士から、院の武者所となったが、十八の年、袈裟という人妻を斬って、慚愧の果て、髪を削って僧門に入ったのがその動機だったという。
その後の修行ぶりもまた、人なみ超えていて、那智山の荒行の如きも、諸国の名山大川に亙って、幾度となく体験して来たらしい。人は呼んで、高尾の荒法師といっているが、当人はこの伊豆へ来てから、自分で自分を、
「善相人」
と称している。
善相だろうか。──自分でそういうところなど、人の好さはわかる。けれど、炉の中から映す赤い火影に見える顔は、むしろ怖ろしい。
ここへ流罪となって来た原因なども、凄まじい事である。神護寺の廃毀を修復して、仏法の興隆を喚起し、あわせて父母の冥福をも祈る、という勧進をして、都の市民へ呼びかけていたが、一日、法住寺の法殿に貴紳が多く集まると聞いて、そこへ行って勧進の喜捨を求めたが、誰も相手にしてくれる者がない。
そこで文覚は、無断に庭へはいって、大声で、勧進の文を読みだした。その折から、笙歌に耳を傾けていた殿上殿下の人々は、驚いて彼を、殿庭の外へ、引ずり出そうとしたために、文覚は数名の者を殺傷したというのである。──頭は剃りこぼちても、まだ遠藤盛遠の血は、こんなふうに深淵の龍のごとき本性を喪失していないのである。だから彼の自称する「善相人」というのも、そのつもりで観ていないと、いつ牙を生じ、焔の舌を吐くやも知れない。
やがて、文覚は、
「伊豆にもはや長い月日となるが、佐殿には、つつがなくご成人かな」
と、炉の前の佐々木兄弟を見くらべながら訊く。
盛綱は、いと無愛相に、坐っているだけのものなので、定綱はよけいに主へ気を遣って、いちいち慇懃に、
「されば、配所のお住居も、いつか十七年とおなり遊ばし、至ってお健やかに、為人もまた尋常でいらっしゃいます」
「お幾歳になったか」
「二十九歳におなりです」
「もう、三十か」
文覚は、何やら唸いて、
「早いものだのう。然るにても、平家の衆は、その間の順調と、繁栄に狎れて、義朝の子の年を、数えてもおるまい。一人として、伊豆に佐殿のあることすら、今は杞憂に抱く者がなかろう。源家の輩にとっては、寔に、勿怪の幸いともいうべきだ」
「…………」
「そうではないか」
「はい」
「お汝等、よい若人どもも、まさか草深い配所に、芋粟を喰ろうて、生涯流人の給仕をするために、佐殿に付いておるわけでもあるまいが」
「…………」
どう答えたらよいか。この僧のいうように、そう六波羅とて無関心でない。田舎の世間とて油断はできない。それにこの奇狂な僧には、専ら「ことばあれども徳行の添わざる僧」という定評がある。信じていい者か、信じられぬ者か、定綱には見きわめがつかないのであった。
文覚は、世評を裏切らない──言葉多き僧であった。──相手の顔いろなどは問うところではなく、云いたい事を云っていた。
「佐殿にも、言伝てて給え。聞けば朝夕、読誦のおつとめ正しく、法華経何巻とか、手写の立願あるとか、噂にも承るが、つまらぬ仏道あそびは、京都への策か知らぬが、程々になすったらどうかと。──年も二十九と聞えてはもうそうしている場合でもあるまい」
独り説法のかたちである。そしていつか自身が頼朝であるかのような口吻や熱をその中に交ぜこんでしまう。非常な熱力と頑固な信念は感じられるが、よく聞いていると、自他の立場や、自他の感情を全く混同して、何でも、我観我説を唯一のものとし、人にも説き、世にも強い、それが意のごとくにならないところからまた、よけい常軌を逸した言動になったりするふうの見える文覚であった。
「──いや、日常の行いなどは、いずれでもいいが、佐殿も、この片田舎に、十七年となっては、眼界までが、伊豆半国にとどまり世を大処から広く見る眼を、お忘れありはしまいかな。憂えられる。嘆かれる。──まずよくよく通じておかねばならぬのは都の事情、ひいて諸国の人心だが、それらの事は誰より聞き、いかなる心懸けで備えておらるるか」
「種々と、有難うございます。立帰りましたれば、よく申し伝えまする。……日も暮れましたゆえ、ではこれにてお暇を」
定綱は、程よく、そう云って立ちかけたが、盛綱は兄に促されても、すぐ起とうとはしなかった。
初めからの眼をそのまま、文覚の顔ばかり不遠慮にながめていた。そして彼の多弁にあらわれる皮膚の上の熱情を、むしろ冷やかに見て幾分かの苦笑を唇の端に持っていた。
何か議論でも仕かけたそうな弟の眼ざしである。定綱はなおさらに長座を惧れたらしく、文覚へはまたの日の訪問を約して、無理に盛綱を促してそこを出た。
「そこの柴折を押すと、庫裡の横へ出る。山門を通って降られよ」
文覚が後ろから教えていた。
奈古谷寺の境内をぬけて、兄弟は帰りを急いだ。宵空は、星雲にけむっている。野路まで出ると、闇のかぎり、虫の音だった。
「お案じなされて在ろう。思わず晩うなってしまった」
定綱は、用事の多い夕方の怠りを、気にかけている風だったが、盛綱は、
「兄者人、兄者人」
と、呼びかけて、
「どうせもう宵のご用はすんだ頃。夜道に日は暮れぬ。ゆっくり参りましょう」
と、落着きこんで云う。
云われてみればそうでもある。配所まで道はまだ一里の余もあった。定綱もあきらめて、
「──しかし、殿へのおみやげばなしはあるな。殿にも、一度、文覚を訪ねてみようかなどと仰っしゃっておられたから」
「兄者人は、また参るというような事を、帰りがけに云われて来たが、殿をご案内するつもりか」
「お会わせしてもよい上人とわしは思う。近頃での傑僧ではあるまいか」
「盛綱は、感服せぬ」
「そちは初めから感情であの上人を視ておるからだ」
「それもある」
盛綱は、率直に肯定して、
「けれど、その嫌いを除いても、やはり嫌いだ。あれがわれわれ同様に、太刀を佩いて、武人なら武人と、身を明らかにしているならよいが、僧侶のくせに、僧らしくもない」
「そこがいいのだ。僧らしくしている今の僧に、よい上人があるかしら」
「ある」
盛綱は、ことばを切って、
「都の黒谷には、法然上人などがいます。近頃、法然房の念仏の声は、しんしんと田舎にまで聞えてきた」
「念仏、易行道、他力本願、そんな説法にそちは感心しておるのか。そちらしくもない」
「いや、わし達の行く道とは、まるで西と東ほどちがうが、広い衆生にとって、世の一方に、ああいう人が出てくれるのは、何か、他人事ながら有難い。──文覚のごときは、なくもがなだ。われわれ武士でさえ、好んで修羅を求めているのじゃない。血なまぐさい世は、避けられるだけ避けたい。そこを超えなければ、次の世に出られない時だけ乗り超えるのが武士の修羅道だ。それを、あの僧の如きは、持って生れた痼疾のように、時を選ばず、所をきらわず、猛々しいことのみ吠えておる。──覇気がありすぎて好きになれぬ」
「──が、きょうの言葉は、源氏びいきの余りに、ああ気を吐かれたものだろう」
「わし達、武人にとっては、あんな贔屓は、かえって有難迷惑、また、足手纏いというものだ。殿をお会わせするなどという事は、盛綱は、止めたがよいと存ずる。──口に出して、平家を罵るような狂僧の所へ、佐殿がひそかに行ったなどと聞えては、殿のお為にもよろしくない」
虫の音の闇に灯が見えた。いつか蛭ヶ小島へ帰り着いていた。──と、配所の門に佇んでいる被衣の人影が二つ見えた。兄弟が足を竦めて見まもっていると、やがて、佐殿の室のあたりから、塗りの大笠に面をかくした姫が忍びやかに出て来て、外に待っている二人の侍女らしい影に守られて草ぶかい夜露の道へ消えて行った。
「……あ。今のお方は?」
定綱は、弟の顔を見て、息をのんだ。
北条殿の女とは、いつも文使いにゆく盛綱にはすぐ分っていたが、何事でもないように、
「誰だっていいじゃありませんか──」
笑いながら彼は、兄の先に立って、配所の門へ入るなり、留守居の家人たちと、もう何か大声で、きょうの狩の獲物のない事を話していた。
初冬である。
田の刈入れも終っている。きょうのように、鮮やかに富士の見える日ほど、風ももう冴々と肌ざむい。
「ことしの田の刈入れは、どんなだったな。例年よりは、よい方か」
北条時政は、馬上から振向いて、嫡男の宗時、義時のふたりを顧みた。
「いや、今年も狩野川の出水があったり、ひどい暴風雨もありましたので、上作とはゆきませんが、まあ、百姓の困窮するほどでもありません」
宗時の答えだった。
父の時政はうなずいて視野へ面を向けている。その間にも、父子三名に従う人馬の列から、乾いた道の埃が、うすく空へ舞っていた。
時政は五十ぢかい男ざかりで、骨ぐみの頑健なことは、息子たちより勝っていた。眉毛が濃すぎて、下賤にさえ見えるが、眼のくぼの眸は、一くせあるものを持っている。──それと何といっても屡〻、京都へ出て、中央の事情や知識と接しているので、この田舎にその風貌を見れば、どこか垢抜けもしているし、武骨な顔にも知性の働きがある。
「もう間近です。お館の森、狩野川の水、宿場の屋根。はやあれに見えて来ました」
宗時は、指さした。
さぞ、父の眼も、それが懐かしかろうと思われたからである。
「むむ。ウむ」
時政は、うなずく。
見えるかぎりの山河は自分の領地だった。遠く、平貞盛からの末裔として、伊東の伊東祐親と、北条の北条家とで、その勢力は二分していると云ってよい。子はあり、郎党は強し、一族の不和もまずないし、田の刈入れも年々無事だし、今のところ、京都の清盛入道と、六波羅への覚えさえよければ、家門の安泰は保証されている。──自分からより以上を望んで、他の豪族との境をさえ侵さない限りは、彼の不惑をこえた将来は悠悠と、彼の思うとおりに送れよう。
彼にも、老後の計はある。そろそろそれに就いても、考えていた。その一端が、長女の政子の縁談となって、思いがけなく、こんどの旅の途中で、下話しも纏まっていた。
彼は、先頃まで京都に在って、大番を勤めていた。その任期も終ったので、今は久しぶりに国許へ帰って来たところだった。息子たちは、その父を出迎えるために、早朝から三島まで赴き、健やかに帰って来た父の姿を囲んで、家人や荷駄の行列に交じって、いそいそ引っ返して来たのである。
「政子は、変りないか」
他のむすめ達もいるのに、時政の口から、特にその名だけが出たのは、旅先で纏まった縁組のはなしが、案じるともなく、それ以来、常に胸にあるからだった。
「はい、元気です」
宗時がいうと、そのうしろの黒駒の上から次男の義時が、
「元気すぎますよ。父上がいないので、毎日、奥の局の賑やかな事といったらありません。それでなくても、陽気なほうですからね」
と、つけ加えた。
──そうか、そうか。時政はそれで安心なのである。頷きながら笑っている。幾歳になっても、子どもは皆、子どもに見えるのだった。
けれど、政子にだけは、その観方が少しこんどの下向の途中から変っていた。旅行中に一緒になった山木判官兼隆の妻に、彼女をやろうと約束しているからである。
父親がむすめに対して、それを一個の女として見直すのは、誰しも、嫁入りばなしの時からであった。
旅装を解いたその日は、わけもなく暮れてしまい、それからの数日も、一族の来訪やら、留守居の用務を訊ねたりなどして、時政はまだ家庭の父らしく寛ぐ暇もなかった。
──が、ようやく、その小閑を得た日であった。彼は、息女たちの局へ来て、京都の土産物の数々を披き、息女たちの喜びをながめて、彼も他愛ない半日をすごしていた。
(北条殿はよいお子持で──)
とよく人にも云わるるとおり、時政はまだ五十もこえないのに、妙齢のむすめ達が三人もあった。
十六、十八の姉妹と、それに先妻の子でちょうど二十歳になる長女とがある。そのいちばん姉が政子だった。
容貌は、親の慾目で見ても三人とも、そう人並み優れたほどでもない。ただ政子だけは、幾ぶん亡き先妻の容色を偲ばせるものがあった。
貌の異なるように、政子は、二人の妹とは、気性も甚だちがっていた。自分だけ母のちがうという事を常に心においているせいもあろうが、よく身近の侍女たちを操縦し、今の母の機げんを損なわず、妹たちからも、姉君として尊敬をうけている。
しかし、父の時政は、賢しくて美しいこの政子を、最も重荷に感じていた。政子の気もちを汲めば、嫁ぐなら都の男へと念じているにちがいないと、その知性や日常の好みに照らしても、親の眼から察しるに難くないからであった。
恥ずかしくない家がらで都会の子弟とあっては、伊豆の片田舎からわざわざ妻を娶ろうなどという聟君は、まずないと云ってもよい。豆相の近国でこそ、北条殿の息女といえば、どんな深窓の名花かと、見ぬすがたを、垣間見にでもと、あこがれる若殿輩もあるが、佳麗な容色は、巷にもこぼれているような京都の公達などからいわせれば、
(瓜の花や、豆の花では、どんなに綺麗といっても、土臭かろう)
と、目にもくれる気風ではないのである。殊に、近頃のように爛熟した中央の文化と小役人までが皆、平家の係累をひく者に満たされて、華美に過ぎてむしろ繊細なもののみを病的に愛する官能には、北条家のむすめ達など、一人としてそれらの都人の好みに適うものはいない。
──と云うて、政子の性情や好みは、伊豆、相模、武蔵あたりの近国の土豪の息子では、嫁ぐ心もないらしいのであった。彼女は、自分の聡明と美貌とを、誰よりも大事に持っていた。また、北条家のむすめであるという名門の誇りも、父の時政以上、ひそかに高く持っているふうもある。
ふた口めには、
「坂東武士ぞ」
と、それのみを剛毅に持って、知性に乏しく、武骨と精悍ばかりで、まるで土から生え出たようなのが多い土豪の間には、彼女の心をひくような殿輩は、そういう点でも、見あたらなかった。
二十歳といっては、もう女の春は過ぎかけるように、今の世間では怪しみさえするものを、なお、彼女が嫁がずにいるのは、そんな理由からであった。
父の時政が、もっと負担にしているのは、余り容貌のよくない下の妹たちだったが、それらを他家へ嫁入らせるにも、まず一番上の政子を嫁がせるのが、もう急を要するほどな先決問題であった。
「目代の山木判官様から、ご書面のお使いでございまするが」
折ふし小侍が、時政の手許へ、書面を齎して来たが、時政は、それを機に、
「何。山木殿から。──彼方へ持ってゆけ。いずれご返辞が要ることじゃろう」
あわてて息女たちの局を去って、自分の居室へ移った。
時政から返書をうけた山木判官の使いが、俗にこの辺の土民が「御所堀内」と称している館を出て、そこの堀橋を越えて帰って行った頃である。──時政は妻の牧の方へ、
「先からこのように挙式を急いできたが、山木兼隆なら政子の聟としても恥かしくはあるまい。もう年明ければ、彼女も二十一。自分でもそろそろ焦心ってもおろうから、こんどの縁談には、否やはあるまいと思う。……ただ、婚儀の準備だが」
と今、山木兼隆から来た手紙を示し、にわかに、その日取やらまた、妻の意見など、同時に求めていた。
後添いの牧の方は、当然、義理の仲の政子へ、わが子以上の親心をもって臨もうと努めていた。
「目代の山木様なら、よろしいご縁組とぞんじますが、もうそんなにまで、お進みになっているお縁談なのでございますか」
「京都から帰る途中、山木殿と一夜、旅舎で落合った折、何かのはなしから、政子のうわさが出て、山木判官には、前々から密かに政子を妻にと望んでいたという述懐だ。──然らば、妻につかわしてもよいと、即座に、取極めたはなしなのだ」
「……まあ。でははっきりと、お約束なされましたので」
「なにをいう。帰るとすぐ、そちの耳へも入れてある筈」
「けれどもそんな急のおはなしとは、思いも寄りませんでしたから」
「では、どんな事と、思うていたのか」
「折を見て、そっと、政子の胸を聞いておけというような……仰せつけかと存じておりました」
「好きか、嫌いかなどと、彼女の胸を、いちいち訊いていたひには、そのまに、妙齢も過ぎてしまおう。そちは義理の仲とて無理もないが、わしが少し甘えさせ過ぎた嫌いがある。こんどは訊くにも及ばん。父の眼で取極めた聟だと、云い渡せ」
「でも、女子の一生は」
「だから急ぐのだ」
「でも……。人なみ優れて、先の先まで、考えている娘でございますから、無下に好まぬ先へ嫁がせても」
「嫁けば、後から好きになるものだ。──どこへ輿入れしようと、親の許にいるようなわけにはゆかぬ」
「あなた様から、仰っしゃっていただきとうぞんじます。わたくしから申し告げても、もしこんどの縁談も気がすすまず、種々と、泣いてなど、処女心を申されると、女は女の気もちに組して強いて嫁けとも云われなくなります」
「なんだ……?」
時政は、すこし怪訝って、
「そういうお前からして、この縁組には気のすすまぬ容子ではないか」
「そんな事はございません」
「はての? ……。何か、わしの留守中に、政子の行状に、変ったふしでもあるのではないか」
「いいえ」
「では、なぜ不服か」
「決して、不服などと」
「真っ先に、そちなどが、歓んでよいはずなのに……その当惑そうな顔いろは何事だ。……いや、何か、わしに秘している事があるな」
「滅相もない」
「いいや、そう見える。義理の子ゆえと庇いだてなどする事は、かえって彼女の為にもよくないぞ。良人のわしへも、それが貞節などと考えたら大間違いだ。……よしよし、お前にはもう訊ねん。政子の兄を呼べ。宗時をこれへ呼べ」
時政の声は、勢い大きくなって来た。やがて、総領の宗時は、呼ばれて、父の前に坐った。──そして父の難しい顔いろと、義母の容子を見くらへながら、
「何か、ご用ですか」
と、軽く訊ねた。
「そちに訊くが──」
「はい」
「わしの留守中に、政子に何ぞ変ったことはなかったか」
「変った事と云いますと……?」
「たとえばだな」
時政は、父として、言い難そうに、ちょっと口を歪めた。
「──妙齢だからな、もはや彼女も」
「あ。妹の行状などで」
「そうだ」
「──義母上、その事に就いて、何かあなた様からも、おはなし申し上げたのですか」
宗時は、あっさり云った。
「……い、いいえ」
牧の方は、困った容子で、微かに顔を振った。時政は、妻の立場に、同情もしていたし、彼女がいるのは、うるさく感じたので、
「お前はいないがよい。しばらくあちらへ退がっておれ」
と、退けた。
総領と二人きりになった。時政はよけい厳格な顔を示して宗時に問い糺した。
「実はな……」
「は」
「今も牧と相談していたところだが、山木判官兼隆から、このたびの下向中、政子を妻にと望まれてな──約束を交わしたわけだが」
「そんなおはなしですな」
「聞いたか」
「義母上からちょっと」
「それ、その通り、十分に弁えおりながら、よくも聞かぬなどと、曖昧な答えのみしておる」
「ご無理はありません。義母上にも、政子へは、人知れぬお気遣いがございますから」
「そちなら、何なりと、答えられよう。──どうだな、わしの取極めた縁組は」
「ちと、早まりましたな」
「早まったとは」
「妹は、嫌だと申すにちがいありません。──父上のお眼には、どう見えるか知れませんが、そういう点は、政子はふつうの女子と変っているほうです。はっきり云います。私達へは」
「ふウむ」
「山木の目代兼隆などは、妹の気に添わぬ男と極まっておりましょう。酒くせの悪いのは通り者です。中央へは受けがよいそうですが、目代を鼻にかけて、偉ぶる構え方は、われわれでも、鼻もちがなりません。郷民の評判とても、勿論よくないし」
「そう人間の瑕ばかり数え立てたら、誰にせよ、限りがない」
「父上とは、ご気性が合いましょう。才人には才人ですから」
「では、そちもこの縁組には、同意でないのか」
「私より父上よりも、肝腎な当人が、嫁ぐ心になりますまい」
「どうして政子の胸を、そちはそのように云い断れるのか」
「では──義母上からも云い難いでしょうし、政子に云わせるのも酷い気がしますから、私から、何もかも申し上げて、同時に、私の意見も聞いていただきましょう。──実はその」
と、宗時が、改まると、時政の顔いろは、蔽いようもない困惑にもう曇っていた。──山木判官に与えた約束を、今さら反故にしようもないからである。
「待て待て、宗時」
あわてて彼は顔をふった。われながら頑迷には思われたが、時政は、厳父の威を、振りかざさずにいられなかった。
「断っておくが、このたびの縁組は、いつものはなしとは違う。時政が眼鏡をもって、山木判官兼隆ならば、多少、瑕があろうが、家門の為にも、また、政子の行末にもよかろうと、婚儀の日まで年内にと、すでに内々の支度も運んでいる事なのだ。──今さら、破談とはわしとして云えぬ。──それらの事も弁えて物を申せよ。政子の吾ままや、お前たちの若い考えを、余り云い張られては困るのだ。よいか、わかったか」
語ろうとする前に、父にそう釘を打たれてしまうと、宗時は、何も云えなくなってしまった。
若い情熱と純潔をもって、ひそかに誇っている彼は、父の時政が、何をするにも──わが娘の結婚を考えるにさえ──すぐ閥族の勢力扶植へ持って行ったり、政策の具にしたがるのが、不快でならなかった。そしてその反動は、いつも妹への同情となった。
さっき、山木判官の人物を、俗才に長けた官僚臭の男──といったのは、多少、父へもあてつけて云ったのであるが、時政は、策の多い自己の性格が、自己の人格を少しでも下劣にしているなどとは、毛頭思ってもいないふうであった。
むしろ、そういう風に、心をくだいていることが、親の愛であるとしているかの如くに見えた。
「宗時。……口を噤んだまま、何を、気に入らぬ顔しておるか」
「でも、今のおことばは、もはや私が、何を申す余地もありませんから」
「然らば、わしが取結んだ縁談を、そちまでも、不承知というか」
「私が嫁ぐわけではありませんから、私に異存はあろう筈もございません。けれど、政子は、おうけ致しますまい」
「どうして?」
「政子には、政子が秘かに想うている人がありますゆえ──」
宗時は、自分の一言に、父の顔いろがさっと変ったのを見たが、妹の身になって遣るつもりで、云って退けた。
「──それは、今でこそ、佗しく暮しておられますが、さすがに私たちが見ても、どこか違っている源家の嫡流の佐殿です。──あの頼朝殿へ、妹は、嫁ぎたがっております」
「…………」
ややあってから、呻くように、時政は息子の宗時へ、
「……ほんとか?」
と、乾からびた声を密めた。
宗時が、臆面なく、近ごろ頼朝と妹のあいだに、眼につくほど恋文のやり取りや、忍んで会う夜もあるらしいなどと語ると、時政の面色は、何とも名状しようのない昏惑と憤りに、つつまれた。
宗時は、父の怒りが、そのまま政子や義母にかかるのを惧れて、後から機嫌をとった。
「──山木殿のほうは、何とか、この宗時から、体よく断りましょう。そのほうはご安心下さい。そして、どうか政子の望みをいれて、佐殿へ彼女をお遣わしくださるように兄の私からも、この通りおねがいいたしまする」
両手をつかえて、宗時が、妹に代って云うと、とたんに、時政は、ぬっくと立って、
「な、なにを、そちまでが、痴けたことを云うかっ。──佐殿とは、そも何者か、弁えてものを申せ。六波羅の罪人、配所の流人、そんなものに、この時政のむすめが嫁れるか。──しかも時政は、太政入道殿より、それが監視をさえ仰せつかっているものを……わが息女を、その流人の妻などに……ば、ばかなっ、どう頭が狂おうが、そんなばかな事ができるものか、できぬものか、そちにも知れておろうが」
唾をとばしながら、彼は宗時の頭を睨めつけて云った。しかし怒号しただけでは、なお、当惑は除りのけられなかった。時政は、庭へ出て行った。そして黙々と山林を逍遥していたが、やがて、むすめ達の局へ、小舎人を走らせて、
「大殿がお召しです。政子様お一方で、あちらまで、お運び下さいますように」
と、迎えによこした。
政子は、鏡に向って、髪を梳っているところだった。
呼びに来た父の使いへ、
「はい」
と、頷いてからも、なお、落着きこんで、鏡に向っていた。
ふたりの妹は、帳を隔てて、ひそやかに寄り合っていた。ひとりは文机に向い、またひとりは、先頃父が都から土産にと齎して来た絵巻物の絵詞を、頬づえついて読み耽っているのだった。
──が、今、小舎人が来て、政子へ告げて行った声を聞くと、
「……お姉君だけ?」
「そう。……そう聞えたが」
「お叱りではないかしら」
「どうであろう」
急に、不安に襲われて、末の妹は、そっと、帳のすきまから、政子の容子を、のぞき見した。
「お姉君は、どんな顔していらっしゃるの……。恐ろしそう?」
黙って、末の妹は、首を振った。そして、姉の耳へ、小さな声で云った。
「平気。──ちっとも」
そのまに、政子は庭へ降りた様子だった。侍女を退けてただひとりで、庭園の奥へ笑ってゆく姿が見えた。
母違いの妹たちも、政子とは決して不和ではなかった。
さっき、父の部屋で、総領の宗時から、留守中の政子の行いを聞いて、父が激怒していたことは、もうここへも分っていた。政子も知っていたし、ふたりの妹も知っていた。
「私たちには、お優しい父君が、あのようにお怒りなされたことはない。──それに、わざわざお山の方から姉君だけを呼びにおよこしなされた。何か、きついご折檻でもなさるおつもりではないかしら?」
妹たちは、廊を走って、母のすがたをさがし歩いた。
牧の方は、総領の宗時と、一室の内に、対い合って何か憂いに沈んでいた。もちろん政子の問題に就いてである事はすぐ分った。
「姉君が、お山のほうへ、おひとりで召されて行きましたが、誰も行ってあげないでいいでしょうか」
妹たちが、そこへ告げると、宗時は起って、
「父上も、お山か」
「ええ、長いこと、庭の彼方、此方を、おひとりで歩いていらっしゃいましたが、そのうちに、お山の大日堂の縁に、お休みになっているふうでした」
「そうか。わしが行ってみる。義母上も、其女たちも案じないがよい」
すぐ宗時も庭へ出たが、牧の方はそのうしろへ、くれぐれも、短気な言を吐かないように、また、父の時政を、あれ以上、怒らせないようにと、頼むばかりな口吻で云った。
「お案じなさいますな。──けれどどうしても、一度は知れずにいない事です。父上のお辛い立場も分りますが、所詮、こうなった上は、何もかもお耳へ知れたほうが後の為にもよいでしょう。──すべては、この宗時の科ですから、宗時が責任を負うつもりです」
彼もやや昂ぶっている。そう云うと大股に庭を歩いて行った。後ろから見てもその耳は紅かった。
彼にすれば、これは妹の恋愛だけの問題でもないし、家庭の一争議でもなかったのである。宗時の胸には、もっと大きな時代の波が打っていた。それへ乗り出そうとする壮図の纜が、まだ岸から解かれずに、ただ張りつめていたのであった。
大日堂は、御所之内の丘にあった。時政の父時家の代に、守山の願成就院から、ここの園内へ移したものである。
何か、重大な考え事でもあると時政はよくここへ黙想に来る。ここに立てば、父祖の遺業の地は一望に見られる。また、大日の像を拝すれば、物事に当って、すぐ赫怒し易い自分の短所が、
──そうではないぞ。
と、宥められる心地がする。
「お父様。お召でございましたか」
そこへ登って来た政子が、自分の前にあるのも知らずに、彼は、御堂のぬれ縁に腰かけたまま、拱いて俯向いていた。
「……オオ」
と、時政は、充血した顔をあげた。素直なむすめのやや恟々している眸を見ると、彼は可憐しくもなって、
「政子か。ここへかけるがよい。……何、べつにこれまで呼ぶ程の用でもないが、誰もおらぬ所のほうが、其女もよかろうと思うてな」
「何か、わたくしへ、お訊ね事でも……?」
「嫁入りのことだが」
「……はい」
政子は父の下へ、そっと腰かけて、足もとの散り紅葉を見ていた。
「山木兼隆を知っておろうが。目代の山木判官を」
「ぞんじ上げておりまする」
「ひとかどの男だ。六波羅のお覚えも至極よい。従って将来にも富む人物と見こんで、其女をつかわす事にした。異存はなかろうな」
「…………」
「なかろうな」
時政の眼には、親の威と、愛情とが、矛盾したまま、ぎらぎらしていた。むりやりにでも、自分の意志に靡かせてしまおうとする男親の姿が、時経つほど、逞しく見えて来た。
「返辞は……どうじゃな……。父の眼をもって選ぶむすめの良人、末悪しかれと祈るわけはない。……嫌ではあるまいな」
「…………」
「異存があるか」
「……ありません」
吐息と共に、政子は云った。声は微かであった。蒼白に近い面をあげて見せた。時政は反対に、その瞬間、慈父の顔を他愛なくくずして、
「お。嫁くか」
と、声を弾ませ、
「それで、わしも、ほっといたした。嫁いでくれるか」
「仰せつけならば」
「よう、得心してくれた。そなたも妙齢。いや後の二妹を嫁入らせるにも、先ず、そなたから先に定まらねばなるまいし」
「その事も、悩んでおりました。……ついては、おねがいがございます」
「むむ。何か」
時政は、膝をすすめた。
案ずるより生むが易いといった体で、先刻からの憂いが深刻だっただけに、彼は相形をくずして、子に甘い半面をむき出しに見せていた。
「嫁ぐと、心をきめましたからには、少しも早く嫁ぎとうございます。……それと、わたくしは、きょうまでも、なおお父上様にご苦労ばかりかけて来たように、生れつきの吾儘者ですから、嫁いでも、この吾儘だけは、おゆるし下さいますかどうかを、もう一度、山木判官様へ、念を押して、お訊ねおき下さいますように」
すると、時政は、自分が先の聟でもあるように、手を振って云い断った。
「いや、その事は、親として、わしからも幾度も云った。──事実そなたは、吾儘でない方ではないからな。──が山木判官が云うには、そこがむしろ、ご息女のよい所、大まかな明るいご性質と、わし以上、そなたの短所も承知の上のはなしだ。なお、念はおしておくが、気に懸くるには及ばぬ。……ははははは、嫁君とても、生ける観世音ではないからな」
時政は、腰を上げた。
さがしても苦労らしいものはない幸福な父親という顔になって、
「政子。もどろう」
と、歩み出した。
政子は、まだ御堂の縁にあった。俯向いていたが、
「お後から参りまする」
「風邪ひくな。陽が陰ると、寒うなるぞ」
「はい」
「来ぬか」
「お詣りしてもどります」
時政は、にこと頷き、館の屋根と広い庭を下に見ながら小道を降りて行った。
父のすがたが、樹々の陰へ沈んでゆくと、待ちもうけていたかの如く、御堂の横から総領の宗時が、
「妹っ」
と、駈け寄るなり、政子の手くびを、痛むばかりつかんで云った。
「お許は、お許は一体どうするつもりだ。山木判官へ嫁ぐ気か。ええ、政子っ、おいっ……」
「お静かになさいませ」
政子は、昂ぶる兄をたしなめて、
「お父上の立場もあります。親のいいつけでもあります。義母や異母妹たちの気持もあります。……こんどは嫁くときめました」
と、涙も見せずに云う。
宗時は、この妹が、こんな問題にぶつかりながら、自分に計りもせず、父へあんな承諾を与えたのが、憤懣に堪えなかった。案外なほど、政子が冷静なのを見、なおさら、その澄んだ顔いろが、妹ながら、憎かった。
「ふうム、ではお許は、佐殿を欺いたのだな。遊女のように恋を弄んで来たのか。それで心が傷まぬのか」
「ちと、お口が過ぎましょう。いかにお兄上なればとて」
「なにっ」
「政子をそんな女子と思し召してか。……口惜しゅうございます」
「口惜しいのは、この兄だ。お許は、父の立場と云ったが、宗時の立場は何となるか。──いや、自分の妹だ、わしなど愚痴すら云えまい。だが、そなたと佐殿との仲を庇って、行末の大事まで、秘かに語らい合うて来た仲間の殿輩はどうなるか」
「政子も考えておりまする」
「どう? ……どう考えてか」
「落着いてください」
「ばか、落着いている」
「そんな癇ばしったお声に、わたくしの考えている事は申されません」
「当りまえ。これが癇ばしらずにいられるか。自分の妹とはいえ、次第に依っては、お許を首にしても、誓いを交わした殿輩に対して、詫びをする覚悟でおるのだ。すこしは、声も尖ろう、眼いろも猛々しゅうなるは、むしろ兄の愛情というものだ」
「……ホ、ホ、ホ」
政子は、笑って、正直な兄を愍れむように見た。
「お兄様。あなた方の遊ばしているお企てを見ていると、お心だけは雄々しくても、為さる事は、稚い者の火悪戯のようです。すぐにそう事を壊すことばかり勇ましがっていらっしゃる」
「賢げなこと申すな」
「いいえ、貴方ばかりではありません。ご一味の殿輩は、みな若人なので、若気は常といいながら、それにしても余りに」
「おのれ、ではこの兄や、友達の殿輩は、みな乳くさいと云うのか」
「そう思います」
「云ったな!」
「その通り、ご短気ではありませんか。それでは、政子がおはなししても、むだ事でしょう。──もう一夜、わたくしを、佐殿に会わせて下さい。あのお方に、何もかも、お告げしておきます。お兄上様始め、他のご一味は、佐殿のお口からお聞き下さいませ。それまでは、たとえご兄妹でも、私の心の底は、誰にも云いません。誰にも明かされません」
いちめん芒の穂であった。函南の裾野は弛い傾斜を曳いて、その果ての遠い町の屋根に、冬日は舂きかけていた。
「誰か通るが……?」
ひとりが、芒の中から首をのばして見まわした。
「樵夫だ」
首が沈む。
銀いろの戦ぎが渡ってゆく。──風の後を、老鶉が啼いていた。
「──で。佐殿には、何とお云いなされたか」
仁田の住人四郎忠常、南条の小次郎、天野遠景、佐奈田の余一といったような近郷の若人輩であった。およそ十四、五名もいるだろうか、芒よりも低く、車座になって、声を密め合っているのだった。
「盛長、おぬしから話してくれい。──宗時からは、妹の事、云い難いところもあろうで」
土肥次郎実平が云う。
その側には、北条の総領宗時。そして、配所の家人で、夫婦して常に頼朝の世話をみている安達藤九郎盛長とが並んでいた。
他の若人輩とは、やや離れて、対い合の形になってである。
形の上では、そう三名が、この青年達の会合では、首謀者といった格に見えた。
──北条殿のむすめと、山木判官とが、近いうちに結婚するという噂も、隠れないものとなって、冬も十一月の半ばという頃だった。
かねて、政子の希望としてもう一度、嫁ぐ前に頼朝に会いたい。そして自分の本心も併せて佐殿まで告げておく。──という事が、ゆうべ実行されたので、今日は、その佐殿が、
(彼女と会って、彼女から何を打明けられたか)
を聞こうとて、こうして集まった腹心の友だちどもであった。
友だちといっても、豆相の郷土を共にするこの若い友の群は、平家の公達などのやっている恋の戯れだの歌舞宴遊だのという生温い青春を倣おうとはしなかった。もっと逞しい慾望を、その強健な体に持って、半島以外の天地へ伸び上がろうとしているのだった。
いや、もっと率直に云えば、平家を追って、自身、平家に代ろうとしているのである。しかし、それに代って、それ以上な時代を創り上げてみるだけの抱負や理想は皆持っていた。徒に乱を起こして天下の簒奪を目企んでいるとは決して思っていない。自分たちの出る事が、百姓万民の幸福となり、朝廷のご宸襟をも泰んじ奉る唯一の道であると固く正義づけての上の信念であった。
土着の地侍というに過ぎない者もいるが、このうちの北条宗時はいうまでもなく、土肥次郎実平といい、天野遠景といい、仁田四郎忠常といい、みなこの地方では家系の旧い家がらの子弟だった。
いつとはなく、この若い群は、若い頼朝を中心に結びついて、
(時しあらば──)
と、世のうごきを、見まもっていたものだった。
で、佐殿の事とあれば、彼の浮気な恋の後始末まで、この若い群が陰になってした。とりわけ、北条殿のむすめとの関係には、自分たちの目的をも結びつけて、その恋を繞っていた。──なぜなら、ここで旗を挙げる場合、どうしても北条家の勢力は無視できない。時政を抱き込まなければ、手も足も出すことはできない。
その時政をうごかすには、総領の叡智と情熱を以てしてもだめである。郷土の若人輩が束になって説いたところで、若い、と一笑されるに過ぎないであろう。
が、子には甘い時政、わけて政子には目のない親だった。政子と佐殿との間に、二世の契りが生じれば、嫌応なく、平家へ反いて起ち上がりもしようかと、彼の総領宗時を始め若い群は考えて、配所と北条との通い路を、密かに守って来たものだった。
二世までとも見えた政子と頼朝との誓紙が破られた。政子は、近いうちに、山木判官に嫁ぐという。
──捨てて置くのか。
当然、騒ぎ出したのは、この若い群だった。問題は、佐殿の恋愛沙汰ではない。佐殿は元より浮気者だ。そんな事を歯牙にかけているのではない。
──大事の破綻だ。
──政子どのは、われわれの企てを知ってもいるし。
──目代の妻となれば。
と、当然な杞憂と憤りから発した狼狽であった。
宗時は、個々に訪ねて、今一度、妹と佐殿と会わせた上で、真実を闡明する。もし飽くまで妹の変心であったなら、必ず妹の首級を以て各〻へ非を詫びよう。
そう宥め廻って、辛くも、この数日を事なく過して来た今日の会合であるが──宗時は今、政子の首を持って来てはいなかった。
「では、わしから話すとするか」
藤九郎盛長は、少し遠慮がちに、こう断ってから、一同へ告げた。
「ゆうべさる場所で、政子どのの望みにまかせ、佐殿と密かにお会わせ申した。──その後で、佐殿から承った姫の考えとは、次のような仔細でござった。……お聞きください」
以下は──
藤九郎盛長が、政子と頼朝に代って、腹心の人々へ向って打明けた「嫁ぐ本心」なるものである。
* * *
自分が、あの縁談に、いやとかぶりを振ったら、父の時政は、嘘をいった事になる。向後、山木判官から、どう誹られても、武士らしい言を吐けない者になる。お苦しいに違いない。
それと、義母や義妹たちに対する父の苦衷もある。もっと、大きな理由には、目代の山木判官とは、当然、不和になり、ひいては何かと、うるさい風聞が京都へ伝わるであろう。
彼女はそういうが、より以上な理由としては、政子自身が一刻もはやく、頼朝のそばへ行きたい事だった。
彼女を知る人たちは、誰もみな彼女の聡明を挙げるが、彼女も恋をすれば闇夜をも忍んで配所の人へ通うだけの盲目にもなり情熱にも燃やされる女性ではあった。
いや、境遇や年齢からも、政子の生きがいは、今となっては、唯一人の男性へひた向きにかかっていた。しかもその男性は、彼女の理想に最もかなった高い家門の嫡流である。風采も土くさくなくて、貴公子の香りがある。武事ばかりでなくよく風月を解しもするし、志もまた大きい。
政子の心が囚われたのは、それだけを男が具えているばかりでなく、そうした貴人の胤が、薄命な境遇にいる──という事だった。彼女は、頼朝の薄命にも恋したのである。そして兄の宗時から、
(あのお方を護り立てて)
と囁かれた大事に対して、事実は、兄以上の情熱を彼女は抱いた。恋のみか、その大きな成功をも、政子は、深窓で考えていたのだった。
──だのに。
何で、山木判官へ嫁ごう。
嫁いで、その夜逃げる。
身を潜める。
父のせいにはならない。
父は、不埒な娘と、怒っていれば済む。そのうちに、余燼も冷めよう。
その頃、頼朝のそばへ行って、共に暮す。──当然山木方から挑戦の火の手があがろう。こちらも戦う。
絶好な口火だ。
世上へは、恋の紛争と聞えよう。京都も油断があろう。そのまに、大事の第一歩を踏み出して、同時に旗挙げを宣言する。
* * *
「叱っ……。人が来る」
盛長の話がちょうど終りかけた時である。見張の一名が、彼方の芒の中から手を振った。
「目代の家人だ。山木の郎党が付いてくる」
見張の者から、二度目の声が伝わると、
「なに、山木判官の家人が見えると?」
若人輩は、すぐ険しい目になって、太刀へ手を触れながら起ちかけた。
「起つな。──起っては先へ覚られる」
盛長も制し、宗時もあわてて共に制した。
「…………」
黙り合って、一同はまた、芒の中に蹲り合った。
夕風の渡る穂すすきの間から、彼方へ眼を送ると、なるほど、山のほうから降りて来る馬と人がある。
馬の上に揺られて来る顔は、夕雲に赤く映えて、その白い歯や無精髯まで明らかに見えた。
奈古谷寺の配所にいた僧の文覚である。その前後について来る武士は、目代の役人らしく、何か、馬上へ話しかけたりしている。
「はてな、何処へ?」
「旅へ立つらしい扮装だが」
宗時や盛長たちは、怪しみながら見まもっていた。その間に、彼方の野路を斜めに、馬と人は過ぎかけた。
──と思うと、馬上の文覚が、ふと此方を見た。馬の背からなので、屈んでいても、若人たちの首や背が眺められたものと見える。
「ちょっと待ってくれ」
文覚は、馬を降りて、馬と役人を置き残して、独りざわざわと歩いて来た。
「やあ」
恟っとするような大声だった。ぜひなく、宗時も盛長も実平も立った。
「何してござった。北条どのの息子を初め、だいぶ元気な面々のお揃いだが、よもや女盗みの相談などではなかろう。……これだけの猛者があれば、一郡は斬り奪りできる。一郡を得れば、一国の兵は手に唾して呼び起せよう。一国を占めれば、もはや八州を望むも難くない。……はははは、物騒だな」
何を笑うか。おかしくもない──と云わぬばかりな顔をわざと揃えて、若人輩は、文覚を黙殺していた。
日頃から、この若い仲間では、一人も文覚に心服していなかった。会った者から聞き伝えただけでも好きになれなかった。人を見れば豪語を吐く癖がある。地方の武人はみな無能のように誹り、都会人は蛆のように云うのだ。そして青年を鼓舞する事が急で、余りに煽動に走り、青年に諂るかの口吻が強すぎるために、かえって青年は、みな彼の配所の垣へ寄るのを嫌った。
けれど文覚は、それを淋しいとはしない。人を訪わず、独りならば独りで暮しているだけだった。そしてたまたま路傍でも──今のように──人に会えばたちまち寄って来て、相手の気もちなどにこだわらず、云いたい事を云うのだった。
「起つさ、起たないでどうするか。自然の循環は廻って来ておる。自分等の細腕をながめたらやれまいが、天の運行を熟視すれば、時は近いということがわかる筈だ。天文を説く予言者の言と同一に思ってはいけない。わしは地上の事を指しているのだ。都の有様を見ておるか。地方の豪族、庶民の声なき声を、よく耳をすまして聞いておるか。やるがいい、各〻は若い」
「…………」
文覚は振向いた。目代の役人が伸び上がって此方を見ている。彼はにわかに、自分の行先を思い出したように、
「では。……おさらば」
いつになく叮嚀に頭を下げてから、
「実は、この文覚に対して、どう風のふき廻してか、都より赦免のお沙汰が届いたので、長らくお世話になったこの里を離れ、ただ今、都へ帰る途中でおざる。……遂に、お目にはかからなんだが、佐殿にも、よろしくお伝えありたい。やがて佐殿とも、広い天が下にて、お目にかかる機が必ずあろう。そう文覚が信じておると、お伝えあれよ」
云い終ると、文覚はすたすた去って、待たせてある馬の側へ戻り、やがて芒野の果てに、その姿は、没してしまった。
落日の赤い靄のなかへ、黒い点のように遠く消え去った文覚の影を見送っているまに、若人輩の胸には、彼という人間に対する好悪も感情も掻き消えて、彼の残したことばだけが、妙に耳の底に残っていた。
去ってみれば何か淋しく、
「あの僧も一風骨ではあった」
と皆、惜しむもののように、野の果てを見まもっていた。
それから数日の後である。
この日の一群に、またべつな顔をも加えた若人の一団が守山の西麓、願成就院の境内に寄りあっていた。
北条家の御所之内の地域とは、狩野川の引き水の濠一重しか隔てていなかった。
宗時も、その弟の義時も、その晩は来ていた。
この間の会合に見えなかった者では、三浦一族の和田小太郎義盛が、先頃、京都へ使いに上って帰って来たという三浦大介義明の末子、義連をつれて見えていた。
「どんな状況ですか、近頃の京都の有様は?」
人々は、その義連を中心に、こよいの座を囲んでいた。
誰にもあれ、京都の消息を齎す者があれば、若い群は耳をすました。蜂が蜜へ寄るように、新しい情勢の聞える周りへ集まった。
義連は、大勢の問に答えたり、近年の平家一門の横暴ぶりなどを、何かと例を挙げてはなした後で、こういう注意を一同に与えた。
「こんど父の義明に従いて上洛した折、ちょうど大庭景親も、上洛中で、あちらで幾度か会い申した──その景親が、そっと父へ告げた事であるが、ある折、景親が東国の侍奉行上総介忠清のところへ参ると、忠清の手許へ、駿河の長田入道から書状が上っていた由です。その書面には、近年、北条時政や、比企掃部介などの党が、ようやく成人した頼朝を立てて、謀叛の気運を醸成しているやに見うけられる、六波羅におかれても、ご油断はあるべからず──といったような長文の進言であったそうな」
「ほ。……長田が」
駿河にまで、そんな事がもう洩れかけていたかと、若人輩は、胆を寒くしたり、同時に、自分等の存在が、六波羅の神経へ触れ出したと知る事に、大きな血ぶるいと、団結の意を遽に強めた。
「その手紙を、忠清から見せられて来た。こう大庭景親は、父へ云ったそうでござる。──恐らく東国の侍奉行たる忠清は馬鹿者に組したりして身を過るなよと、暗に誡めて見せたものと思わるる。三浦殿もお子持、一族に若気の殿輩もたくさんにおらるるから、ご帰国の上は、努々、そのような者へ加担せぬよう、お子達へも孫殿へも、篤と訓戒しておかれたがよろしかろう──と、景親は重ねて、父へ忠言いたした由でござる。それやこれ思い合せると、われわれの会合も、あまりしばしばは宜しくないと考えられる。ここは一層自重せずばなるまいと思われる」
義連の意見に、誰もうなずいた。事実、最初のうちは四、五人に過ぎなかった若い群の会が、いつか三十人となり五十人となり、寄合には顔を見せなくても、
(お前方がやるならば──)
と、黙約の裡に、重きをなしていてくれる中年から老人格の土豪もすでに二、三はある。
この若い群が、大祖父大祖父とよんでいる三浦大介義明など、その一人で、老齢すでに八十をこえていたが、孫たちに負けない元気で、こんどの上洛から帰って来ては、よけい反平氏の意を固めて、孫どもの行動を誡めるどころか、
(春は、爛漫たるもよい。けれど春は春の一瞬で去れ。花園の塵を一掃したら、夏の天下は、青々と若い者の腕にひきうけて、土も肥やし、樹々も刈り、天地の気を新たにしなければいけない)
などと激励していた。
昼間、時々、時雨ていた。
──と思うと、雨の霽れ間、かあっと、花嫁の部屋まで、明るい冬陽がさしこんだ。
十二月だった。
吉日と云おう。きょうは政子の嫁ぐ日であった。凶い日を選ぶわけはない。
御所之内の館は、祝いに馳せ参じた人馬で埋まっていた。
曇ると、それへまた、ざあっと白い時雨がそそぎかかる。
「よい雨、おめでたい」
「輿入れの雨は吉と申す」
時政夫婦の前に出て、礼をのべて退る客はみな云った。
夫婦は、さすがに落着かない歓びにつつまれていた。客を客にまかせて、屡〻、花嫁の間を窺いに行った。広やかな三間四間、ほとんど、絢爛な花嫁のしたく物で埋まっていた。柳、桜、山吹、紅梅、萌黄などの袿、唐衣などから、鏡台のあたりには、釵子、紅、白粉など、撩乱の様であった。
政子は、その中に立っていた。
侍女、乳母などに囲まれて、白い絹につつまれかけていた。
ちらと、振向いて、室の入口から見ている父の顔を見た。
「…………」
時政の顔は、いつか大日の御堂で見た折のように、歓びにばかり溢れていない。さびしい影が見える。
「……二十年」
政子は、自分の年だけの恩を思った。眼がうるんでくる。
さし俯向いてしまう。
時政も、茫と佇んでいた。
すると、何かと手伝っていた下の妹たちが、
「父君は、きょうはここにいらっしゃってはいけません。あちらへ行っていてください」
二人して、廊の端まで、背なかを押して行った。
「ははは。いいじゃないか。はははは、よいではないか」
子どもに甘える気もちで、押されて行った時政は、独りぽっち、そこへ置かれると、気の弱いものが、ぽろりと、瞼からこぼれかけた。
──がすぐ、その眼は、御所之内に満ちている一族、近郷の諸侍などの、馬いきれ人いきれの上へ移った。何とたくさんな若い者がいることだろう。自分の持つ手兵、親類の子等、知己の子弟、伊豆には若者がわけて多い気がする。いや世の一般もその通りだろうが、その若い力の全体を何となく握っている老人というものも不思議に感じられる。──時政はまだ自身老人とは思っていないが、さりとてこの若い者の仲間ではない。いつか彼もそこを出て次の人生の事をしきりと考えるふうにはなっている。
「宗時、宗時」
突然、大声で呼んだ。総領のすがたを彼方の廊に見かけたからである。
細い雨の中を駈けて、宗時は、父のいる棟の階下まで来た。
「お召ですか」
「むむ」
と、時政はなぜか口を緘んでしまう。あたりを見ているのである。それから云った。
「韮山の西之窪へ百、山之木郷の南の丘の林へ八十、北の木無山の裏あたりへも五十ほど、日が暮れたら、早速に兵をかくして置け。──それも、ぽつぽつと、人目立たぬように」
「……?」
「分らぬのか」
「……分りましたが」
「武器は、一纏めに、荷駄として、蔽を着せ、要所へ先へ送っておく。そして人間のみを後から配置すればよかろう」
「では、伏勢として」
「武門の嫁入りだ。どんな変がないとも限らぬ。あっては聟殿に申しわけあるまいが。……父親の心添えだ。総領のそちは、婚儀の席に連なるより、陰にあって、不慮の出来事に備えておれ」
宗時が、頭を上げると、父はもうそこにいなかった。
誰も彼も、華やかな忙しさに追われている中に、時政の顔のみは、不機嫌とも見えるほど硬ばっていた。
政子の輿入れに前立って、父親は父親としての、心遣いに趁われてもいよう。今、惣領の宗時に、その一つを託し、召使たちの右往左往している廊を真っ直ぐに通って、わが室の辺りまで来て佇つと、
「牧っ……。牧っ」
と、妻を呼びたてた。
そして、牧の方の姿を見ると、
「後でよいが、政子の支度が終ったなら、広間へ入る前に、これへと申せ」
と、いいつけた。
そのまま、時政は、座に着いて、黙然と、守山の雲の去来を、廂ごしに見ていた。
庭面は暮れかけてくる。広縁や欄に、木の葉まじりの時雨が時々ふきかける。
燭を運んでゆく侍女たちは、袖で灯りをかざしていた。
「もし……。先程から政子がおん前に参っておりまするが」
牧の方にそう云われて、時政は初めて眼をひらき、そして自分の前に、両手をつかえたままでいるわが娘の嫁入りすがたに、じっと、目をとめた。
「…………」
沁々と、見入っていたが、やがて吐息のように、
「もう行くか」
と云った。
政子は、それに、何か答えたようであったが、父の耳へは聞きとれなかった。泣いているのである。
「この折に、改めて父からいう何事もない。ただ嫁ぐからには、女子は、良人のほか、何ものも頼るものはない筈である。父は、平貞盛が裔。いうまでもなく、都の太政入道殿とは、その流れを一つに汲む平氏の一族には違いない。……だがの」
と、声を含んで、
「女子は、嫁してゆく良人に拠って、初めて氏も族もさだまるものぞ。良人が、藤原氏なれば、そちは藤原家の夫人たれよ。良人が菅家なれば、そなたは菅家の内室であるぞ」
「……はい」
政子は、濡れた眸をあげた。
父のことばは、ことば通りのものか、それとも、何か謎をこめての仰せなのか? ──と。
「はははは」
時政は笑い消した。
「泣いているのか。はてさて、まだ子どもよのう」
と、牧の方を顧みて、
「例を申したのじゃ。何も難しい意味ではない。そなたが嫁ぐ山木判官兼隆は、幸いにも、平氏の同族。──末長う、貞節に侍けよ」
「…………」
政子が、頭を下げるのを見ながら、時政は起ち上がって、
「いそいで、顔の粧いを直せ、広間の方に、立ち祝とて、一族大勢の輩がもう待ちうけておる」
牧の方は、彼女を伴って、帳の陰で、何かささやいていた。
一しきり広間はしんとしていた。花嫁の立つ式事が厳かに執り行われた。それがすむと、にわかに大勢の笑い声や、手拍子や、祝歌などが聞え、花嫁は、一門の縁者達に取りかこまれて輿へ移った。
花嫁が輿へかくれてからも、夕篝りの明りの中に、夥しい花嫁の荷と、人馬との混雑は、容易に列がそろわなかった。そして時折、夜に入って一しお肌寒い時雨が、松明や燎火の焔をうごかした。
さすがに彼女も胸がいっぱいで前後もよく分らない程だった。やがてわが輿がかき上げられると、器の水の溢るるように、胸は揺れ、涙はとめどなく流れた。
──不孝の子の吾儘をゆるして下さい。
政子は、何度も胸のうちで繰返していた。父の時政へ、というよりも一族全体へ、祖先からの旧い館の門へ。
嫁ぐ花嫁の心には、奇怪な決心が秘められていたのであった。輿をになう者も、列に従う人々も、見送る一族も、当然、彼女は山木判官が邸へ嫁すものと信じて、疑う者もなかったが、政子の心は、そこへ行くとは思いもしていないのである。
花嫁の列は、生家の門を出る時から、すでに破鏡を孕んでいた。従って政子のなみだは、世の常の花嫁が生家を離れる時のそれとは、まったくちがっていた。
またそれまでの覚悟をするには、女という一身の方向だけではなく、この結果が、どんな重大事をたちどころに招来するかをも、当然、聡明な彼女の考えていないはずはない──北条家も一族を率いる武門、山木判官も武門。すべてのものを弓矢剣の修羅場へ抛つような事にもなろう。吾儘といえば吾儘にすぎない恋一つのために、九族に戟を把らせ、百姓を戦禍へ追いやるなど、何という怖ろしい罪ではあろうと──それらの弁えもないほど無智盲目な彼女でもなかった。
(不孝。ひいては不忠の子)
花嫁は恐ろしい自分の大罪をそう知って戦くのだった。身も世もなく、悲しみもするのだった。──けれどその悲涙のうちには、誰も窺い知れないほど、冷やかな智慧もひそかに働いていた。
(どう逃げようか? ……。逃げた後は、どこへ身を隠そうか)
何も知らない輿入れの列につづく人々は、また一しきり祝歌を謡いはやしながら、やがて御所之内の唐橋から花嫁の輿は揺りすすめられた。濠の水もまっ赤なほど、夥しい松明はそこを渡った。満山の木々も染まるほど、館の燎火は燃えていた。──祝歌はながれて行く──町の民家も軒端軒端に、篝をたいていた。祝歌につづく人馬や揺れ燦く輿の蓋は、その美しい焔の中を流れて行った。
が、宿場を出端れると、道はまっ暗だった。ただ護りの侍どもが振りかざす松明のみがいぶって行く。
さあっと、野を横ざまに、一時雨掃いて行った。
道はひどく泥濘っていた。
晴着を雨にぬらした人々は、寒さにふるえあがった。
けれど、山之木郷の婚家までは、わずか二里ほどしかなかった。行く手の夜空に黒々と望まれる韮山のすそである。
程なく。
その韮山のすそにも、ちらちらと、たくさんな灯が見え初めた。山木判官の邸の森であろう。──そこよりもっと間近に一かたまりの焔が、坩堝の如く、うごいて見えるのは、出迎えの者が、村の口まで出ているものと思われる。
輿は間もなくそこへ着く。迎えの灯と、列の灯とが合流して、目代邸のほうへ押流れた。寺でも神社でも、篝を焚いていた。どこかで、鈴や笛や鉦鼓などの楽が遠く聞えていた。わいわいという人声、人影に、輿の中の花嫁は、眩暈を覚えそうなここちであった。
後から急いだ父の時政や一族たちの騎馬も、同時に、山木家の門前に着いたのであった。
岩石の露出した木の少ない山である。石山の多いのは伊豆の特徴でもある。そうした低い山が、幾つも田野から突兀と聳えている。
「──通る、通る」
「あの松明の列」
「ご息女の御輿だ……」
岩山の岩かどに這いつくばっていた物見の兵が云い合った。二、三人がからからと後ろの谷間へ降りてゆく。
七、八十の兵が、夕方から小雨にぬれたまま、岩の陰や木の下に、じっと、屯していた。
「宗時様っ。宗時様」
物見の者の声に、
「おう」
と、どこかで答えがする。
篝もないし、星もない雨夜なので、ほとんど、声をたよりに、
「どちらにおいでなされますか」
「ここだ、ここだ。杉の木の下におる」
「オ……。ただ今、政子様のお輿と、供の列が、山之木郷へ着きました」
「着いたか」
「すぐ目代邸へお入り遊ばしたように見られます」
「よし。──おまえ達は、以前の所へ戻って、なおもじっと、物見をしておれ。そして山木の邸のほうに、何か変った様子が見えたら知らせて来い」
「はっ」
兵はすぐ、岩を攀じて元の峰へ登って行った。
父の時政のいいつけで、惣領の宗時は、山之木郷の附近の山々に、七十、五十と兵を分けて宵からじっと武器を伏せて万一の変に備えていたが──いったい婚礼の席をも外させて、何の為に、父がこういう備えに自分をさし向けたか──宗時には、父の肚が解らなかった。
父の平常の主張からすれば、今夜の婚礼に、万一の変事などを、予測するわけもないのに、何で、家の子郎党に武装させて、伏兵の手配りなど命じたか、考えても考えてもその矛盾が宗時には解けなかった。
ポタ、ポタと、杉の梢から落ちる時雨のしずくが、宗時の鎧の背から肌着にまでしみてきた。
「……妹は、どんな心地で」
と、宗時は、それをも思い遣りながら、咳声もせぬ兵と共に、雨の小やみになった黒い雲を見つめていた。
「待てっ」
「だっ、だれだッ」
下の狭い渓川のあたりである。突然歩哨していた兵の大きな声がしたと思うと、間もなく、そこから駈け上がって来る足音がする。
「来たな」
宗時は、先に起っていた。そしてそれへ来た歩哨の兵の言葉も聞かないうちに、
「土肥殿や仁田殿が見えたのではないか」
と、云った。
「そうです」
「これへご案内しろ」
待ちかねていたものとみえる。すぐ下からその人々の影が登って来た。土肥次郎実平である。
また、仁田四郎忠常である。藤九郎盛長も、天野遠景も一緒に来た。──が、皆、それとも分らないほど具足には蓑を着たり顔には黒い布を巻きつけていた。
「宗時殿か」
「おう、揃われたな」
「こちらはかねての手筈どおり、かく打揃うたが、宗時殿には、婚儀の席を外して、物々しい人数まで率き連れ、何でかような所へ伏せておらるるのか。……先刻、使いをうけて驚いたが、訊き合せている遑もないし、やむなく道を迂回って会いに来た」
この面々は、時政のさしずに依って動いてもいないし、時政が宗時にいいつけた事も知らないので、まったく不審にたえないもののようであった。
今夜の出兵は、自分の意思ではなく、父時政のさしずに依るものであると、宗時から事情を聞くと、一同はなおさら、
「何、北条殿の御意で、これに勢を伏せておらるるとか。──さては、われわれの謀みが、疾く先方に洩れているのではあるまいか」
と、土肥実平以下、眼を見あわせて、しばしは、疑いに囚われていた。
自分たち若人輩の秘かな企ては、父もうすうすは感づいている筈と、宗時も警戒はしていた。しかし、それは日頃の事である。今夜の事に限っては、いくら炯眼な父でも、知るわけはない。絶対にないとしか、宗時には思われなかった。
で、しきりと不安がる友へ、
「いや、偶然だ。父はただ近郷の土豪とか、万一とかいう、漠然たる要心のために、兵の配備を命じたにちがいない。さもなくば、誰よりも先に、密謀の張本人たるこの宗時を、監禁なさらなければならない筈だから」
信じるまま云った。
宗時はまた、ことばを重ね、
「たとえ山木判官や父が多少感づいておろうとも、この期になって、策を変えるわけにはゆかん。飽くまで、所信を押し通すまでのことだ。間違うたにもせよ、そこ此処に、二百余りの兵はある。遮二無二、かねての手筈をたがえず事を運んでくれい」
と、激励した。
一同の惧るるところは、自分等の危険よりも、宗時と父時政とが、正面を切って衝突となった場合にあったが、宗時の口からそう聞くと、
「よし。宗時殿さえ、そのお覚悟ならば、われわれの躊躇うている理由はない。──では、やがて山木の目代邸に、火の手を見られたら、それと思し召されよ」
土肥実平のことばを機に、藤九郎盛長、仁田、天野など、刎頸の友の一群は、蓑や覆面のしずくに、武者ぶるいを見せながら、また降り出した暗い小雨の中を、どこともなく駈け去った。
「…………」
宗時は、その人々が、彼方にかくれるまで、黙然と見送っていたが、やがて、われに返ったように、岩山のみねへ攀じ上って行った。
そこから山之木郷の目代邸は明々と見えた。燎火や篝の光が低い雨雲に映って、真っ黒な天地の中に、そこばかりがぼうと美しい。
もう妹は輿を降りたろう。どんな心地で山木家の奥へ通ったろう。彼女は、兄や兄の友達を信じてはいるだろうが、それにしても妹の心には、あの華やかな燎火や部屋部屋の灯が、いかに辛く映っていることか。
「……今に。今に」
宗時は、じっと、歯の根をかみながら、政子を思い遣っていた。雨は小やみになった。雁が啼いてゆく。
刻、一刻と、宗時の胸には、婚礼の席にいる妹と同じような動悸を加えてきた。短い時間が半夜も過ぎるように思われた。
すると、突然、
「あっ、火っ、火が!」
と、そばにいた物見の兵がどなった。宗時は、
「叱、静かにっ」
と制しながら、眸をこらしていた。そしてわずかに炎の舌が閃き出した目代邸の火の手を見つめていた。
火は、そこの釜殿か、納屋あたりから燃え出したらしく思われる。立騒いで、右往左往する人影が、火光の中に蚊みたいに見えた。
北条家の両親をはじめ、一門の縁者と、山木家の一族とが、ふた側に分れて、広い華燭の間にひそと居ながれていた。
花聟はまだ着坐しない。
花嫁もなお輿を降りたまま、どこぞの一室に、ひかえている頃だった。
嫁親の北条時政は、聟の父にあたる老翁と、至極、親しげに何かはなしていた。
時政は、社交に長けた口ぶりでその余の一族へも、
「このような欣しい夜はござらぬ。ただ彼女も思いのほか子どもで、家を立つ折、婦道を守れと、訓えを一言申したところ、嬰児のように泣かれたには弱りました。……はははは、てまえも、この後は、がっかりするだろうと存じておる。むすめ一人、二十歳まで生い育てて来たかと、何やら自分の齢が急に数えられましてな」
そんな雑談をしているうちに、広い邸なので、よほど遠くではあったが、火事、火事っ──と駈けまわる召使たちの足音や大声が突然立ちはじめたのであった。
「なにッ」
「失火だと」
すべての人が騒然と立った。わけて山木家の人々は狼狽を極めてみな出て行った。ここかしこの短檠や燈台の灯は煤をふいて暗く揺れ、火元の方の烈しい物音と共に、たちまち物凄い家鳴りがすべてをつつんでしまった。
──花嫁はしずかに四辺を見まわしていた。
そこの室に侍いていた女たちも皆、側を離れてどこかへ走って行った。
「…………」
彼女は、にこと笑んだ。
そして燭台の灯をふき消し、水のごとく人のいない部屋を歩いて行った。
山木家の侍がふとそれを見つけ、怪しみながら花嫁の後をつけて行った。政子は広間の次へ出たが、そこに明りが見えたので、廊を引っ返して、白い衣裳のまま、庭面へ走り出した。
「あっ。どこへっ」
組みついた者がある。政子は声もたてなかった。振向いて、その顔を見ると、山木家の家来なので、
「火を避けに行きます」
と、静かに云った。
「火は、大勢して、消しとめています。大事には立至りません。不審なご様子、邸外にお出し申すわけには参りませぬ」
「慮外であろう」
「何であろうと」
「お離し……」
「いや。お戻りください」
云い終ると共に、その侍は、いきなり政子の肩を荒々しく押し返した。
痛さに、われを忘れて、政子は悲鳴をあげたが、同時に、その侍の口からも異様な呻きが流れた。その侍は、何者かに、刃で脾腹を刺し貫かれていたのである。
「政子さま。私の背に」
片手に、短刀をひっさげた覆面の男が、彼女に背を向けた。土肥次郎実平であった。
釜殿の出火は、元より実平の仲間が放けた火であろう。政子を負って、彼が土塀のほうへ駈けてゆくと、そこの木陰から、他の人影が幾つもつづいて行った。
ほとんどが、火に気をとられて、何を顧みる余裕も持たなかったので、若人輩は、難なく花嫁を奪って、土塀の外の濠をも渉ってしまった。
「厩から馬を奪って来た。実平実平、そして姫をこれへお乗せしろ」
仁田四郎の声である。手柄手柄と、藤九郎盛長が賞める、実平は、姫をかかえて跳び乗った。
駒につづいて、面々も駈け出した。そして、山へかかるとまた、実平は政子を負い直して、半島の背ぼねをなしている伊豆山の裏道の嶮を辷りながら攀じて行った。
治承二年になった。
年は変っても、やがて、伊豆の春とはなっても、花嫁の失踪に端を発した去年からの紛争は、この国の空に、険悪な雲ゆきを持越したままであった。
「北条家で隠したに違いない」
「時政の奸計だ」
「いや、父子狎れ合いの仕事と見ゆる」
山木方が、赫怒したのは当然である。また、当夜の事件をもって、政子の父たる時政へ、責任を問い、
「仕儀によっては」
と、弓矢に賭けても、聟の判官兼隆の面目を立ててみせると、一族どもが息まいたのも当然であった。
「必ずお顔を立てる」
時政は誓った。
そして娘の親として、
「何と、仰せられようとも、お詫びの仕方はない。面目次第もござらぬ。切腹いたしてもと思うが、死は易し、今この時政が相果てなば、いよいよ一家の者の当惑を加うるばかりで、意味はおざらぬ。──むしろ恥をしのんでも、必ず、憎ッくき吾儘娘を成敗して、聟殿のご面目を立てるに如くはない。……唯、しばらくのご堪忍を」
詫びる一手で押通していた。
その間、双方の親類が寄って、幾たびか、善後の処置とか、懸合い事とかの席でも、
「済まぬ。唯々申しわけない」
の一点張りで、時政は、平謝りに謝り通して来たものだった。
そうこうする間に、月日は過ぎて行くが、時政のいう謝罪の立証は、すこしも事実となって来ないので、山木家側の業を煮やすことは甚だしく、
「政子どのの首は、いつご持参あるのか」
「親として知らぬはずはあるまいが」
「それで、北条家の御館といわれるのか、武門の親としてすむのか」
「大たわけ殿。まだ、老いぼれる年でもあるまいが」
あらゆる辱めと、猛烈な催促が、彼を責め立てたが、
「この方においても、極力、探し索めておりますゆえ」
とか、
「もうしばしのご猶予を」
とか。──そして相かわらず、山木家の親類の前に坐れば、身分も恥もすてて、低頭するばかりだし、懸合いの使者を迎えれば、いんぎん辞を尽して、謝るばかりだった。
時には、
「生きるも辛し、死にもならず、かくまでの苦患に虐まるるとは、いかなる悪業のむくいでおざろうか」
と、落涙を見せた事もあった。
──めっきりと窶れた。
──白髪がふえた。
躍起となって、北条家の無能無責任を憤っている山木家の人々すら、近頃は彼を見れば、ふと、そんな同情もわくほどだった。
事実、北条家では、以来、箱根伊豆の山々は元より、近国までも、手分けして、政子の行方をさがしてはいた。
十人二十人と、一組ずつにして、のべつ山狩のように、郎党たちを、歩かせてはいた。
が、何の手懸りも齎しては来ないのであった。
「何たる手ぬるさ」
と、山木方でも、勿論、諸所へ手勢を放って、血眼になっている。わけて、臭いとにらんでいる蛭ヶ小島附近には、道々へ昼夜、見張をしのばせて、そこの人出入りを窺っていた。
すると、三月になって。
伊東入道祐親から、山木兼隆へ一書をよこした。それには、政子のかくれた先が、明らかに書いてあった。
伊東入道からそっと報らせてよこした書面によると、
(政子は、伊豆山権現の一院に匿われている。元より北条一家も承知のうえと思う。婚礼の当夜働いた狼藉者は、ふだん頼朝の配所にあつまる近郷の不良の徒と考えられる)
と、あり、なおまた、
(頼朝という流人は、困った男である。前には、わが家のむすめも彼にたばかられ、今また、貴家の花嫁を奪う。言語道断である。彼のごときを生かしておいては、伊豆の平和は保たれない。よろしく六波羅へ罪状を訴え、一方、伊豆山権現へ兵を上されよ。日頃の誼みなれば、熱海口は、自分の手でうけ持って、ふたりを遁さぬように備えておこう)
とも誌してあった。
文面によると、伊豆山には、逃亡した政子ばかりでなく、頼朝もそこへ移って、同棲しているらしく思われたので、
「おのれ」
と、山木兼隆は、前後の弁えもなく、怒りに燃えた。
「すぐ行け」
とばかり、何百という家の子郎党は、彼の命をうけるや、先を争って十国峠へよじ登った。
一方、早打ちをうけて、伊東入道祐親も、手勢をくり出して、網代をこえ、熱海口をふさいだ。
──が、山木勢は、峠づたい、伊豆山へかかろうとすると、途中一隊の軍勢にさえぎられて、そこから先へ進む事ができなかった。
「通るなら弓矢にかけて通って見よ。ひとりも生かしては帰さんぞ」
と、生命知らずな面がまえが、高原に列を布いて喚くのだった。
旗じるしもない、大将らしい者とて見えない。まったくの烏合の勢にひとしく、得物や物具も雑多だったが、ただ若い肉体は見事に揃っていた。そして凄まじい争闘心がどの眼にもぎらついているのには、山木勢も胆を冷やした。
「各〻はどこの何者の郎党なのか」
そう訊ねても、
「何者の家人でもない」
と云い、
「何故、道を阻むか」
と、糺しても、
「通すわけにゆかぬから通さぬまでの事。通りたければ弓矢で来い」
と、いう暴言ぶりである。
山木方でも、血気なのは、
「押通れっ」
などと人数の中から喚いたが、所詮、敵いそうもなく見えたので、何とか言いくるめて通ろうと、執こく懸合っていた。
そのうちに、山木方の兵が、
「あの中に、北条家の郎党も交じっておるぞ。日ごと、山を捜すと称して歩いている北条の郎党が、暴軍の中に交じって、われらを阻むとは、怪しからぬ沙汰だ」
と、騒ぎだした。
よくよく目を注ぐと、北条家の者ばかりでなく、土肥実平の家来、仁田の縁類、宇佐美、加藤、天野なんどの家僕や、伊豆の土豪の次男三男などの顔が幾つもその中に見出された。
「よし。かく企んでの事ならば、こちらも考えがある。退いては、山木一族の名折れ、目代の威厳にもさわる、斬り死にするまでも懸れ。ふみ潰して押通れ」
遂に、交渉を見限って、味方を抑えていた山木勢の年老った侍どもも、こう叫ぶしかなくなった時、高原の彼方から一群れの僧兵が、何か、手を打振って大声あげながら駈けて来た。
箱根権現の別当行実と、それに続いてくる十名ほどの法師武者だった。
別当行実は、僧兵に囲まれて、両軍の間に立つと、こういった。
「何故の争いかしらぬが、箱根、伊豆の両権現の地域の近くで、みだりに兵をうごかすにおいては、われらとても、黙視しているわけに参らぬ。──まず、山木殿の云い分から伺おう」
すると山木方の人数から、年長けた侍が前へ進んで、
「主人兼隆の命により、伊豆山権現に匿われおると聞く、政子どのを受け取りに参ったのでござる。──然るに、それなる雑人輩の勢が、弓矢をならべて阻むので、やむなく一戦に及ばんとしたまでの事」
と、云い立てると、
「それは近ごろ奇怪な沙汰を聞くものだ。伊豆山権現に、政子どのが潜みおるとは、誰が云った。眼に見た事か、証拠でもあることか」
と、事の理非は措いて、全然一方的に加担した口吻で反問した。
そこへまた、誰が告げたか、伊豆山走り湯の僧兵が一群れ、また一群れと何十人も馳せつけて来て、
「われわれが北条殿のむすめを匿うているなどとは、聞き捨てにならぬ沙汰だ。あらぬ云い懸りをして、山領を踏み荒さんとなれば、われらにも覚悟がある」
と、息まいた。
時経つほど、山木勢は、不利にもなるし、最初の意気ごみも殺がれて来た。下手をすれば、退路を断たれる惧れもある。それにまた、中央でも地方でも、僧兵を相手に喧嘩して、利のあった例はない。
「もういちどよく山木判官の肚を慥かめてこい。弓矢にかけてもというならば、いつでも立会うてくれる」
僧兵たちの罵りを浴びて、山木勢はぜひなく引っ返した。──肝腎な山木勢が退いたと聞いては、熱海口まで出張った伊東入道の兵も、いつまでそこに陣している理由もなくなってしまった。
「──どうしてやろう?」
山木判官は憤怒のやり場がなかった。彼の面目はまったく踏みにじられた形だ。あがけば足掻くほど、恥のうわ塗りを招くに過ぎなかった。
「平家の政道が悪い」
遂には、その恨みを、中央の無能に向けて、独り悶えたりした。
目代という職務からも、彼は何度も中央に訴えを出していた。また、伊豆地方の人心が、何とはなく反平家に傾いて、わけて少壮な土豪の子弟などの思想は極めてよろしくないとも報じてある。
今のうちに、この危険な萌芽を摘んでしまわないと、どんな事態を将来醸すかもしれない。しかし、目代の法令ばかりでは、圧えはきかないし、武力で圧するには兵員が不足である。──何とか火急おさしずを下してもらいたい。
そう矢の如く催促の使者も立ててはある。
にもかかわらず、六波羅からは何も沙汰がないのだった。かえって、近国の武将などへ調査を命じたりしていた。殊に、山木判官が不快としたのは、北条家へ向って、六波羅から事情の上申書を求めたりしている事だった。
北条家に、事情を書かせれば、当然、いいように歪曲して書き出すにちがいない、もうそれは六波羅に提出されているかもしれないのだ。
地方事情にうとい中央の役人は、公平を期するつもりか何かで、山木方の訴えと、北条家の中し分とを、書類のうえで見較べながら、日を過しているらしく察しられるのだった。
「何たることか」
と、山木兼隆は、歯がみをして毎日を送っていた。それが募ると、怏々として楽しまない人間になった。復讐の意志さえなくなって、人に面を見られるのも厭うようなふうに変って来た。
「今までは、庶民の訴訟や争いも、他人事として、よい加減に扱って来たが、わが身の上に降りかかって、初めて吏道の悪弊を知った。これも天罰だろう」
そう反省したりして来ると、彼はもう目代として、権力ばかりで地方民へ臨む六波羅の一吏員という仕事さえも、熱心には勤められなくなってしまった。
世間に何が起ろうと、配所はいつも幽寂な配所であった。知らぬ顔にしんとしていた。
その配所に、変った事が一つ起った。
雲雀が卵を孵した。
可愛らしい雛鳥が育ちはじめていた。
頼朝は、小禽など愛さない。配所は閑日の中にあっても、彼の胸に閑日はなかった。
その閑日も楽しみ、またよく、天下の事を談じたりもする男は、ここへ食客となって長逗留したまま、いつかずるずるべったり頼朝の右筆となってしまい、また、近郷の絵図など根気よく描いている画工藤原邦通であった。
雲雀も、彼が孵したのである。
「邦通、絵図はまだ出来上がらないのか。──雲雀にばかりかまっておるな」
「そんな事はありませんが」
縁に雲雀の籠をおいて、見惚れていた邦通は、頼朝がはいって来たので、あわてて坐り直した。
「あの通り、やってはおりまする」
「すこし急げ」
「はい。……急にご入用で」
「急ではないが」
「まだ一、両年はよいでしょう」
「いつ要るとも限らぬ」
「去年の暮──例の政子様の事件から、山木家のまわりには、常に神経の尖った眼が見張り歩いているので、肝腎なあの附近が、今なお手がついておりません」
「もうよかろう……。だいぶ、余燼も冷めたらしい」
「──とは思いますが」
「いちど探って来い」
「いや、止しましょう。この際、山木家の附近の絵図など写し取りに行って捕まったら、せっかく下火になったものを、再燃させるようなものです」
「それもそうだな」
「ご退屈でしょう」
邦通は、頼朝の顔を見上げた。廂ごしに、夏近い雲が見える。が、頼朝の眼は、雲にはなく、山一重の伊豆山権現の空にあった。
「……いかがです。こよいあたりまた、お忍びあっては」
頼朝の気もちを察して、邦通はそっとすすめた。配所に家人もあり、出入りに人も数あるが、こういう事を平気で頼朝に云えるのは、彼ひとりしかなかった。
だから、頼朝を盟主とし、頼朝を名君としたがる謹厳な一部では、
(邦通をお側におくのはよくない。彼は、遊芸が巧者ばかりでなく口も巧い幇間的な人物だ)
と、蔑む者もあった。
けれど頼朝は、彼が好きであった。尠なくも雲雀よりは彼のほうを愛した。
「……参りたいが」
頼朝は、彼の誘いに、正直につぶやいた。
自分を繞る一味の若人輩が、政子を奪って伊豆山権現の一院へかくした後も、周囲の者の計らいで幾たびか会いに通ってはいたが、極めて監視のきびしい中で、恋というには余りに形だけの面談を遂げただけでしかなかった。
「お供しましょう」
気軽な邦通は、すぐにもと支度にかかり始めたが、頼朝はまだ決しきらず、
「盛長や定綱や、家人どもへ、無断で出ることもなるまい。と云うて告げれば、彼等がまた面倒に申すであろうし……」
「お召使の家人たちへ、何のご遠慮がいりましょう。方々の難しゅう申すのは、途中の変を案じるからの事で、その儀なれば、心配はありません」
と、彼は独りのみこんで、
「山絵図を写しに歩いたおかげで、山には明るいつもりですから、誰の目にもふれずに通える道を、ご案内いたしまする。──家人衆へは、私からお出ましの由、ちょっと申して来ましょう」
彼は飽くまで物事を手軽に考える楽天家であった。
走り湯の法音比丘尼は不犯の聖尼であるといわれていた。男禁制の森に住んで、そこには近くの伊豆山権現の法師等さえ立ち入れなかった。
尼院の庭は平らかであったが、東は伊豆山の絶壁であり、南は熱海の漁村まで、山なりに海へ傾斜している半島の突角だった。
風の日は、風がつよい。──が、よく晴れた日は、見はらしが佳い。
政子は、飽かなかった。
毎日ぼんやり──一見そう見える姿で──尼院の縁にかけて海を見ていた。
夜も昼も、ここでは海鳴りがやまずに聞える。海鳴りの中に、彼女の心はようやくこの頃、落着きを得たようであった。
「政姫さま。おさびしゅうあろうな」
法音比丘尼は、彼女のぽつねんとしている姿を見ると、慰める気か、側へ来ては話しかけた。
この尼は、北条家へも前から出入りしていたし、わけて政子には、幼い時から和歌を教えたり、法華経の読解を授けたりしていた縁故もあって、親しい師弟といったような情愛もあった。
「いいえ」
政子は、顔を振った。
寂しかろと問われた時、政子は「ええ」と答えたことはなかった。気丈なので人に涙を見せないのであろうと、尼はなおさら可憐しがったが、政子は自分を偽ってはいないのである。
正直、彼女は、婚礼の夜、山木家を逃げて来てから、一度でもさびしいなどと無聊な心に囚われたことはない。夜半の海鳴りと共に血の燥ぎの熄まない折はあっても、悲しいとか淋しいとか、今の身を観じたことは一度もなかった。
処女らしい感傷などは、彼女に取って愚かに思われた。彼女の青春は、もっと実際なものに燃えていた。等しく若い夢はあっても、単なる夢に過ぎないことに彼女の血は波も打たないのである。
夢といえば。
いつか妹が、吉い夢を見たというので、政子が戯れに、その夢を買ったことがある。けれど、それは行末の運命を、儚い夢占などに恃んで買ったわけでなく、どこまでも、妹達を遊ばす戯れにした事だった。
今。──こうなっている姉の身を、家にある妹たちは、どう考えているだろう。
(吉いと思った夢占が、ほんとは凶夢だったのかしれない。それで災難を負うておしまいなされた──)と、そんなふうに、あどけない解釈をして、思い侘びているかもしれない。
幾つも年はちがわない妹たちであったが、政子から見ると、まったく他愛ないお人形に見えた。──家を出て、今ここから、思うと、その感じはなおさらであった。世の中を知らない深窓の処女たちが、憐れに思われた。
肉親の妹ばかりではない。世の多くの良家の女はみなそうである。政略に嫁がせられ、武力に奪われ去って行く者であった。それを時風と見慣れて人も怪しまないのだ。少なくとも、政子は早くから、そういう風習に、反感をもっていた。
(自分だけは)
という理想があった。嫁すべきものへ嫁す運命をさがしていた。
頼朝の恋文を初めてうけた時、彼女の気もちは、うろたえなかった。むしろその前から彼女からも頼朝へ志を贈っていたほどだからである。
彼女は、頼朝の貴公子的な人品にも心を寄せていたがまた、頼朝の不遇な──配所の流人という境遇にも恋していた。
──どうしていらっしゃるか?
今も、それを独り思い耽っていたところへ、法音比丘尼が話しかけて来たのである。おさびしかろと問われて「否」と答えたのは、正直な返辞なのであった。
「姫さま」
「はい」
「余り先の先までは、考え詰めぬがおよろしゅうござりますぞ」
「何も考えておりません」
「おつつみなされても、この頃のお窶れよう、尼も胸が傷うなりまする」
法音比丘尼は、眼をうるませて云う。──幼少から手塩にかけた政子なので、いつまでも子どもと思うているらしい。
政子は、何かというと、尼が自分をいたわる為に、涙をこぼすので、いつもかえって当惑した。
尼は、彼女のした事を、まったく処女心の盲目にした事とでも思っているらしい。取返しのつかない過失と、自分が大罪でも犯したように、恐怖しているらしいのである。
政子の心とは遠かった。尼が涙して自分をなぐさめるのを、政子はむしろおかしく眺めて、
(お師さまもお齢を老られた)
と、思うだけだった。
「──お師さま。わたくしの身の事は、どうか、ご心配しないで下さいまし。自分にも、固く思うところがあってした事ですから」
「きついご気性のう」
尼は、見上げて、
「お小さい頃から、お気性は勝っておいでなされたが、何というても、女子の身は」
と、昔からの口ぐせで自然、誡える口調になるのだった。
「女子ほど、弱いものはありませぬ。弓矢を取る男子ですら、今の世に生きて、敵の中に立ってゆくのは、生やさしいものではないに、女子の身に、怖ろしい敵を作られ、身を隠さねば、お生命も危ぶまれるような事になって──どうして、案じもせず貴女を見ておられましょうぞ」
「だいじょうぶです」
「どうして大丈夫ですか」
「兄の宗時が、よそながら護っていてくれます。兄の友達どもも、今ですから申しますが、私を庇うてくれて、この後とも、兄と力を協せてくれる約束ですから」
「相手は誰と思いますか」
悲しみをこえて、尼は、叱るような声になった。
「六波羅の目代でござりますぞ。それに弓をひいたら、天下を敵としなければなりません」
「そうです」
「……そうですとな?」
尼は、疑うように、姫の顔を見すえていた。その眼へかすかな顫きが上ってくる。
政子は、もうこの世捨人の尼とはなしているのは退屈であった。山は青葉時、海も飽くまで青い、肺のなかまで青嵐に染まりそうな心地を、独りぽつねんと楽しんでいたかった。──やがて、事実となって来るものへ、静かに前後の考えを纏めておきたかった。
「老尼さま。日金の牧のお萱さんが見えましたが」
そこへ一人の尼弟子が告げに来た。法音は、きょうは何か、これ以上、政子へ誡える気も挫けたように、それを機に力なく起って、
「姫さまへ、お目にかかりに来たのであろ。庭口からこれへ」
そう云い残して、自分は冷たい尼院の奥へかくれた。
萱は、日金の牧場の主の妻であるが、以前は北条家に仕えていた女だった。三島や五日市などへ出るたびには、その後もよく館へ立寄って、前の朋輩たちとも親しくしていた。
「萱でござります。おかわりもございませぬか」
やがて畏る畏る庭へ来て屈まった女を見ると、政子は、今までの顔いろとは違って、待ちかねていたかのように、
「おう萱か。十日余りも見えないので、案じていました。遠慮はない。そこへおかけ」
と、縁の端をすすめた。
萱は、地に蹲ったまま、
「ここには、姫様のほか、誰もおりませぬか」
と、見まわした。
政子も、あたりを見て、
「なんじゃ?」
声をひそめた。
萱は、すばやく近づいて、政子の手へ、何か渡した。そして、
「お館さまからのお文です」
と囁いて、またすぐ、以前のように地へもどって、手をつかえていた。
政子は、父の文を披いた。
牧場の妻の萱を使いにして、父の時政は、たびたび、ここへ便りをよこした。
表向きは、当然、義絶も同様──あれ以来、父と呼ばせないと、憤っている体にしてあるむすめではあるが──時政の愛には、変りなかった。
いや、むしろよけいに、親としての憐れみで、愛しさは強く深く、明け暮れに政子の身を気づかっているらしいのである。
で、便りのたびに、きっと書いてある事は、
──変りはないか。
そしてまた、
──短慮をすな。じっと、時の到るを待て。
といったような事だった。
もし政子が、絶望を抱いて、自害でもしはせぬか──それをのみを彼女の父は、いつの手紙にでも、ひたすら惧れて、時節という事を、書き忘れていなかった。
ところが、きょうの便りには、それがやや具体的に書いてあった。世間のうわさも、だいぶ薄らいできたという事。また、相手方(山木家)の感情も、ひと頃ほどではなく、従って、自分の考えているように、徐々と、事件の解決も見込みがついて来た──というような事などが、いつもながら、
(短慮すな。短慮すな)
と、言外に諭しながら細々認めてあった。
政子は読み終るとすぐ、細かに裂いて、掌のなかで小さい鞠としてしまった。そして、萱のまえへそれをぽんと抛ると、萱はすぐそれを拾ってどこかへ隠してしまった。
「姫さま……」
彼女は起って、何か抱えて来た土産らしい物を、政子の側に置きながら、
「あまり屋の内にばかり籠っていては、お体にようございませぬ。裏山からわしの牧場の近くまで、お徒歩いなさいませ。お気がはれまする。萱がご案内いたしますで」
とすすめた。
言葉は唯、形式に云っているだけで、彼女の眼は、政子の眼へ、べつな意味を何やら知らせていた。
「…………」
政子は黙ってうなずいた。
その頬に、紅がさしたのを見ると、それだけで、意味を受け取ったものとみえる。
奥の法音比丘尼にも、他の者にも、眼にふれないように、政子はそっと尼院の裏垣から抜け出して行った。
萱は先に立って、
「──こちらへ」
と手招きしては、かなり急な石の多い山の小道を、登って行った。
尼院の屋根はすぐ眼の下になった。走り湯権現の堂閣も下に見えた。岬の断崖の下に搏つ荒磯の白い浪も下に見えた。
「登れますか、姫さま」
「ええ。これくらいな道」
牧場の妻は当然山馴れてもいる。しかし山馴れない政子はと、時折、気遣って振向いたが、政子は、懸命に山椿の枝や笹の根にすがって、後から攀じて来るのだった。
山は深くなった。
一叢の木立の静寂は、そうして来る政子の息の弾みを、先刻からひそと待っていた。
云うまでもなく、蛭ヶ小島の頼朝だった。
彼は政子の姿を見た。政子も頼朝のすがたを見出した。無表情とさえ見えるほど、二人は声も放たず近づき合った。
黙って、そこの木の根の草むらに腰をおろす。寄り添って、そうしてからも、しばらくは言葉もない……。
どういう言葉を以てしても、政子は今の自分の胸を伝えるには足らない気がするからである。
──我とてもそうである。
彼女の沈黙を酌んで、頼朝も同じ心もちで黙っていた。
が、ここはもう、日金の牧のすぐ下である。誰もいない。世間の眼もない。頼朝の供をして来た藤原邦通も、牧の妻の萱も側にいなかった。
何でも云える。そして、滅多に恵まれない機会でもある。
政子は、唇をひらいた。
「お支度はできましたか。毎日そればかりを待ち暮しておりまする。いつ二人の婚儀を挙げて下さいますのか」
「……もう少し先に」
「いつのお言葉も」
と、政子は、彼のにえきらない口吻をやや蔑むように、
「もうあれ以来、半年もこえているのに、まだいろいろなご準備ができないのですか」
「婚儀には何の支度もいらぬが、それを挙げるには、同時に、大きな覚悟が要る」
「分りきっている事です。それはこれから先に持つ覚悟ではなく、始めからの事ではありませんでしたか。……わたくしと、貴方とが、結ばれる始めからの」
「元よりわしとても、その肚はすえている」
「それを、今となってまで、これ以上、何を惧れ憚っていらっしゃいますか。あれもこれもと、気ばかり遣うていたら、起つ日は参りますまい。──一念はきっと通るという事を、わたくしは去年の暮、山之木郷から逃げのびた時、身をもって悟りました。そしてここまで事は進んで来ました。後は、貴方のご決心ひとつです。──それとも、何かまだお迷いになっていらっしゃるのでございますか」
「迷いはないが、機を計らねばならぬ。生涯のわかれ目──二人の恋とだけは考えおらぬ。──それは天下の大事、男の胸にあることだ」
「でも……機はもう熟しているではございませぬか。父の時政も、初めは、わたくし達の大望には、所詮、与してくれない人と諦めて父へも叛く気でおりましたが、今日となってみれば、その父こそ、誰よりも二人を理解してくれた大きな力でありました。──父は世間へ怒って見せながら、裏では、わたくしの身を、庇ってくれておりまする。山木家へ輿入れの夜から今日まで、こういうふうに、事の運んで来たのも、よく考えると、わたくしの勇気というより、何だか、父の目企んでいた通りの道を、父に庇われながら歩いて来たような心地のするくらいです。……ですから、貴方のお心さえ定まれば、父もお味方として、いつでも起つにちがいありませぬ」
「それは、宗時からも聞いた。……しかし、わしは伊豆一国だけを見ておるのではない」
「…………」
「女子には見えない。時政にも見え限れまい。この広い天下のうごきを見極めずして頼朝は起てぬ。……お汝たちは、何というても伊豆そだちよ、まだ眼が狭いというものじゃ」
ふたりはそれからもかなり長い間そこに語らい合っていた。けれど、その話には、恋の蜜もなかった。──頼朝にとっても、時政にとっても、恋は第二義であった。ただ政子は女性であるがゆえ、父よりも、頼朝よりも、純粋であった。初めから生命がけであった。
配所の柿は、あらかた配所の者がたたき落しては喰べてしまった。
手も竿も届かない梢の先に、真っ赤に熟れたのが二つ三つ、鴉の為にでもあるように残されていた。──その梢に、今日も伊豆の夕日が、はや寒々と訪れていた。
「お。……ここか」
ひとりの山伏は、杖を止めた。配所の外に立って、しばし奥の屋根作りの様など窺っていたが、
「ああ、長い年月を、ここに暮しておられたのか」
と、その面は、無量な追憶につつまれていた。
やがて、山伏は、ずかずか通って行った。
柵の内には、畑がある、厩が見える、釜殿がある。
釜殿からは、夕餉のけむりが流れていたが、人影は見えなかった。
「はて?」
玄関をさがして横へ曲がる。
厩の内から、白い人影を見ていた三郎盛綱が、怪しんで駈けて来たのを山伏は知らなかった。
「たのもうっ」
杖を立てて、玄関から訪れているところへ、
「どなた」
と、盛綱が後ろから声をかけた。
「や」
と、振向いて、
「こちらの家人でおわすか」
「そうです。──合力なれば厨のほうへおまわりなさい」
「いや、合力ではない」
「然らば、何者か」
と、咎める。
山伏は容易にゆるさない眼ざしを以て、そういう盛綱を見やりながら、
「佐殿に会えばわかる。お汝、ここの家人なれば取次いでくれい」
と、云う。
「用向きも知れぬ者を、お取次するわけにはゆかぬ。ご姓名を承ろう」
「怪しい者ではない。ともあれ佐殿にお目にかかった上で」
「馴々しげに云わるるが、近国の衆とも見えず、まして山伏すがたなどして、これへ来らるる以上、われら家人として、一応疑いを抱くのは当り前でござる。何とお強いあろうとも、生国姓名を明かさねば、お取次は相成らん」
「お汝は誰か」
「佐々木源三が子、三郎盛綱でござる」
「そうか。源三秀義が子か。かねて聞き及んではいたが、佐殿の身内には、なかなかよい若者がおるとは嘘ではなかった。──然らば、申してもさしつかえはない。儂は、新宮十郎行家といい、佐殿には、叔父にあたる者だ。都から訪ねて来たと通じてくれい」
盛綱は驚いた。
率爾を謝して、あわてて奥へはいって行った。
間もなく、黒光りのしている廊の板敷や柱に、灯の影がゆらいだ。そして端麗なる貴公子といった風采の頼朝が、自身でずかずかと出て来た。
そこに立って、しばらくは、夕闇の中の人影をすかしていたが、
「陸奥の十郎殿か」
と、訊ねた。
山伏は、寄って来て、これもじいっと、頼朝を見上げていたが、
「……佐殿か」
と、云って、
「そうだ。新宮十郎行家とは、近ごろ改めた名、以前の陸奥十郎義盛でなくてはわからぬ筈だった。その叔父の十郎じゃよ」
「おお、あなたが」
「火急、お目にかかりたい儀があって、遥々、かような姿で下って参った。上がってもよいか」
頼朝は、振向いて、
「盛綱、盛綱。叔父上に水を汲んでさしあげい。……さあ、お足を洗がれて、お通りください」
と、頼朝は先に立って、行家を奥へ伴った。
「お疲れでしょう」
頼朝は云った。
それは凡の客に対するような挨拶でしかなかった。行家はちと物足らない顔をした。
なぜならば、彼には、余りに多くの感慨があったからである。
行家は、頼朝がまだ十二、三歳の頃を知っていた。兄弟の義朝が六条に栄えていた時代の家庭に、幼い頼朝をよく見ていたものである。
それから十七、八年。
ひと昔──
実にひと昔である。茫々と年月は過ぎてきた。そして、ここは伊豆の山中、当年の頼朝は、はや三十歳の男ざかりである。父義朝にどこか似て、より以上、気品がある。智的な、温容なふうがある。
「…………」
行家は、感慨なくしてはいられないのである。けれど頼朝は、さほどでもない。朝暮の訪客に接するのと、大して変りもない程度に、
(──ご用談は)
と、促したげな顔である。
しかしよく考えてみると、それは頼朝が情熱に乏しいわけではなく、頼朝には、行家という叔父があったくらいな事しか少年の記憶にはないからであった。行家の追憶と、頼朝の回顧とには、その年齢のちがいと共に、当然、大きな差があった。
「この頃は、都においでですか。それとも、お国元ですか」
余り行家が黙っているので、頼朝は、そんな話題を出したりまた、
「ここにいては、まったく、世上の事は何も分りません。こよいは悠々、都の近状など、伺わせてください。……ま、湯浴みなどなされて、何の馳走もありませんが、お寛ぎの上で」
と、云った。
それも至ってお座なりの歓待にしか聞えなかった。行家は初めのうちは少し不足であったが、十四歳から伊豆にいる頼朝に、いきなり十七、八年ぶりに訪ねて来て、血縁の情を望んだ自分のほうが無理と覚って、
「いや。その前に」
と、彼も他人行儀に、改まって、用向きの口を切って、
「極く内密におはなししたいが、お召使の出入りなきよう、しばらく人を遠ざけていただけまいか」
「お易いことです」
頼朝は、起って、
「こちらならば、誰も入って参りません」
と、持仏堂へ案内した。
今し方、彼は、そこで日課の読経をすましたばかりだったので、壇には、まだ燈明がともっていた。
行家は、そこに入って、義朝や一族の位牌を見ると、すぐ涙を催して、壇に向って礼拝していたが、ふと、べつな小さい位牌厨子の前に、紅と白の打物の干菓子が供えてあるのを仰いで、
「これは、誰方の?」
と、頼朝を顧みて訊いた。
頼朝も、仰ぎながら、
「私にとっては忘れられない池の禅尼のお位牌です」
と、答えた。
頼朝が十四の時の恩人を忘れずに、今もなお、その人の霊に、燈火をあげているのを知ると、行家は、
(やはりこの甥は、義も情も解さない冷薄な人間ではないのだ)
と思って、急に、自分の情熱まで甦って来た心地になった。
それかあらぬか、彼は遽に、炯々たる眼ざしをして、
「──実は、このたび自分が東国へ下って来たのは、わたくし事ではなく、宮方の令旨をおびて、諸州の武人がどんな考えでおるか、密かに東国の動向を糺しに来たわけでおざる」
と、厳かに云い出した。
宮のお使いと聞いて、頼朝も驚いたらしかった。
「お待ちください」
叔父の行家へこう云うと、彼は持仏堂からどこかへ出て行った。
手を浄め、口を漱ぎ烏帽子や衣服も新しく更えて来てから、やがて戻ってそこに坐り直した。
座も遠く退がって、
「この配所へ、そも、何事のご令旨にござりましょうか、仰せ聞けくださいまし」
と、両手をついた。
行家は、肌身に奉じて来た宮の御文を錦襴の嚢ぐるみ、額に拝んで持ち出し、
「お近う」
と、さしまねいた。
頼朝は、にじり寄って、両の手に捧げて受けた。
──が、それを開かぬうちに、行家が注意した。
「一通は、其許へ賜わる勅勘のご赦免状であるが、もう一通は、其許と北条殿の両所へ降したもう令旨でござる。──故に、その方は北条殿とご同席にて拝されたがよいと考えるが」
頼朝は、はっとした。
ご赦免──という一語にも。
それとまた、北条殿と同席でという行家の注意にも。──大きな歓びと、大きな当惑とが、刹那、その面を交叉した。
流人という幽暗な壁は十幾年ぶりで除かれた。けれどその歓びにもまさる当惑は、政子の事件以来、時政とは、未だに会っていない事であった。政子のこの頃のことばに依れば、時政は決して、政子をも頼朝をも憎んでいないのみか、むしろ陰にいて、二人の恋が、完うするように計っている──とは聞かされてもいるが、頼朝としては何となく今以て、甚だその人に会い辛い心地にあるのだった。
で、翌朝。
頼朝は、ゆうべの客が、まだ眼ざめぬうちに、使いを走らせて、時政の総領の宗時をよび、
「どうしたものだろう」
と、何事でも打明けられる彼に計ってみた。
宗時は、若い眼をかがやかし、
「宮のお使いとは、何事かわかりませんが、ご赦免と共にあれば、凡事ではありますまい。時節到来と覚えます。何で小さな感情などに囚われている事があるものですか」
「では頼朝が、突然、北条どのを館に訪ねて行っても、不快はあるまいか」
「何の」
と、自信ありげに、
「私が先に戻って、父時政へ、この由をはなしておきます。宮のご密使を阻む理由は父にもありますまい」
「しかし、もしご令旨を拝しても、時政の考えに、異存ある時は、六波羅に通じられる惧れはないかな。叔父の行家が、山伏に身を変じて、密かというて下って来たことから考えても、ご令旨の洩れてならぬものである事は、ほぼ察しられるが」
「…………」
宗時は、さし俯向いていたが、やがて頼朝を正視して、沈痛な小声で云った。
「大義親を滅すです。わたくし達の為そうとする挙は、上は皇室の御ために、下は万民のためにと──誓って大義を的にしておることではありませんか」
「元よりだ」
「……ならば、ご安心ください。宗時には決する覚悟が持てます。私におまかせおき下さい」
そう云って、彼は帰った。悲壮な顔いろはして戻ったが取乱れた容子もない後ろ姿だった。頼朝は、縁ごしに見送っていたが、彼ひとりあればと思うほど、意を強くした。
その晩、行家は頼朝と共に、密かに北条家を訪れた。
館は清掃されていた。主客は奥ふかい室へかくれたまま、侍たちも遠く退けて、室外には、総領の宗時が見張っていた。
その後で、行家を主賓とした小宴がひらかれた。極めて内輪の者だけで。
夜も更け、話もくだけてから、
「どうですか。この際、いっその事、政子どのを佐殿に下されて、正式に結婚させては」
と、行家が叔父として、時政へ云い出した。
「異存はない。もはや時節もよかろうで」
と、時政は云った。
宗時は頼朝の面を見た。頼朝はふと眼を熱くして俯向いた。自分から申し出たい程の事だったし、恋人の父に、自分たちの恋が正式に認められたのも欣しかった。
行家が齎した以仁王の令旨の内容については、小宴の席では、頼朝も時政も、一言もふれなかった。
畏れ多いことでもあるし、またゆるがせに口にすべき性質のものではないからだった。
けれど、ここで察するに難くない事は、まだ何事か知れないが、密使の齎した重大な問題に対して、時政も同意を示したということである。
その重大な計画に対しては、頼朝の志と、時政の考えとが、少しも喰い違わないで、合致していたということは、杯のあいだに語らっている相互の容子でも見て取れる。
頼朝には、時政がそんな考えでいたのも意外であったが、もっと案外だったのは、政子と自分との関係も、山木家へ婚約した初めの頃から、時政の胸には、
(断っても断れない二人)
なる事を、認めていたらしい事であった。
それを承知しながら、なぜ山木判官へむすめをやる約束をしたかは──時政自身は何をも云わないが──
(彼から求められた以上、彼を拒んで頼朝に嫁がせては、六波羅からも近国からも、北条家の意志として怪しまれよう。恋ならばどんな盲目なことも敢えてやって退けるものと、人もゆるし、世も疑うまい。飽くまで、盲目な恋がなせる業としてでなければ、二人を結ばせる方法はない)
と、考えを極めていたらしいのである。つまり最初から結果を見越して、ただその「方法」として、政子を山木家へ輿入れさせたと思われる口吻があった。
「油断のならない舅だ」
と、頼朝は、彼の遠謀に心では将来を惧れたが、この舅を帷幕に持って、大事へ臨むとすれば、甚だ心強くもあった。
「北条どのがそうご承諾なれば、幸い、自分が参っているうちに、二人の目出度い姿を見て都へもどりたいが」
と、行家が重ねていうと、
「それはよい。ぜひ近日にも」
と、宗時も同意した。
にわかに話は纏まった。いずれ山木家へ知れるにしても、大びらでない方がよい。彼の意気地をこっちから煽動してはまずい。──それに表向きまだ勘当の息女、配所の流人、どこまでも質素がよい。こっそりと挙げるがよい。
時政の忠告どおりな挙式が、それから十日ほど後に、配所の一室で、華燭というよりは、しめやかに挙げられた。
伊豆山の尼院から密かに移って来た政子も至って粗服であった。花聟の頼朝も何の色彩もない姿である。──が、むしろ精彩のないところに清麗があった。配所の寒燈がかえって神々しかった。
時政も密かに列していた。政子の兄妹たちも見えていた。粒々辛苦、長らく仕えて来た配所の家人たちは、ふたりの姿を見て欣し涙を抑えきれなかった。その夜はまた廂に霧の降る音が忍びやかに洩れ、なおさら、去年の時雨の夜が思い出された。
西八条の清盛の別邸も、この秋ばかりは寂としていた。八月、重盛の病が重って、とうとう四十二で死んでから入道相国のさしもの元気も、いたく衰えて来たかに見えた。
「……秋だなあ」
入道は、一室から沁々と、眼を千種の秋にやっていた。園内に蓬を多く植えてあるので、そこの室を蓬壺と称んでいた。
「わしも六十を二つこえた」
自分の老齢を、こう心弱く、自分で肯定したりするようになったのも、重盛を亡くしてからであった。
常日頃は、何かの弾みに、子や一族どもが、
「もはやお年ですから」
とでも口を辷らせると、
「ばかなっ」
と、すぐにわざと若々しげな声を出してみせる入道であったが、この秋は、そんな声も蓬壺に聞かれなかった。
相変らず、抹香のにおいや読経は嫌いである。重盛の死をこれほど悲しんで力落ちしていながらも、持仏堂に籠って一片の読経をしたためしはない。
「よい子だった。わしにとっては片腕であった」
と、人前もなく、泣いたりはするが、回向はしてやらないのである。
そのくせ、剃髪して、浄海入道となり、身にも法衣を着ているけれど、それも彼にとれば矛盾でも何でもなく、
「白髪を蓄えておるよりも剃り下ろしたほうがきれいである。厳しゅう衣冠して窮屈にいるよりも、老いの身には日常も法衣のほうが手軽くて便宜である」
と、いうのである。
しかし彼の抹香嫌いは、仏法の根本原理に異論があるわけでも何でもない。彼の眼に耳にして来た今の仏者の形に対しての反感だった。若い頃から頑固に抱いていたそれが、老いてもなお、強くこびりついているのであった。
(──世に入道相国の御意のままにならぬ事は一つもあるまい)
と、世上の人々は云っているそうだが、入道自身の身になると、
(──世に自分の思う事は一つだに思うように行っていない)
と、嘆じたいほどだった。
山と寺がその一例である。叡山と三井寺にかたまっている僧徒の勢力である。彼は明雲僧正などを巧みにあやなして、表面そこをも事なく抱擁して見せてはいるが、実は事ごとに、腹の虫をころしているので治まっているだけだった。
入道が、入道としての、面目を発すれば、彼等の伽藍堂塔は一夕に焼きつくして、一物の金泥や金襴も残さない焼け跡の灰の中に、
(これがほんとの仏だ)
と、たった一つの阿弥陀如来をすえて見せたら、さぞ胸がすくであろうと常に思っているほど、その勢力と扮装に、内心唾棄したいほどのものを抱いているのだった。
何にせよ、叡山や三井寺の徒は、兵力と財力と、信仰の力とを擁しているので、入道の力を以てしてもどうにもならないものがある。武力や財力にかけては、
「児戯に等しいもの」
と、入道も軽く見ていられたが、信仰の力となると、これは自分の持たないものであることを、入道もよく弁えていた。──信仰どころか、一世の悪評一身にあつまっている現状をも、──入道は決して知らずにいるわけではない。
けれど、彼がそのように忌み嫌った腐敗堕落の末法の世界の他に、真実の仏教を、草間がくれの清流のように、年来、黒谷の吉水禅房でさけんでいる法然という僧なども在ることは、入道も知らなかった。
入道はその活眼で、一面実によく世上を観てはいたが、一面やはりどこか抜けている所もあった。蓬壺の主人は、やはりもう今は貴族で、庶民のひとりではなかった。
入道に云わせると、
(余は宗教を憎むのではない。誤った信仰を唾棄するのだ。信仰もよく導けばいいが、今のように、一般社会に及ぼす弊風の大や、朝廷をも動かす悪因習は、これを黙視しているわけにゆかない)
入道の仏徒嫌いは、そういう達見から来てもいるが、元来が感情の度の昂い、赤裸の性行の人だけに、それが現れるところのものは、人をして頗る恐れさせたり顰蹙させるような形になった。
たとえば、こんな一例がある。
春の頃からひどく旱魃の打ちつづいた承安四年の事、清涼殿で雨乞いが執行われたが、誰が祈祷にあたっても、一滴の雨も降らなかった。
すると澄憲という山門の僧が、最後の祈祷を勤めたところ大雨が降った。三日三晩降り通して、加茂川もあふれるほどだった。
「まず澄憲ほどな名僧は近代にあるまい」
「遉ではある」
万民みな、彼の通力を賞めたたえ、その名声はいちどに鳴り亙った。
「呆れたものだ」
ひとり嘲っていたのは蓬壺の浄海入道のみであった。
「さんざん薬や医者でこじらせた病人が、もう駄目といわれると、生死の煩悩も離れて、諦めの境地に入る。ふと、その心境から病魔が脱しる。そこへ薬を盛った医者は、幸運にも、起死回生の名医といわれる。──春の頃からのひでりを、もう梅雨頃と、空あいを見て祷り出せば、たいがい雨に間に合ってくる。──それを仏力だの神通力だのと──信じる者も信じる者だし、澄憲などという狗鼠坊主もいい加減なものではある」
それが山門に聞えたので、澄憲をはじめ、一山の怒りは、浄海入道にふりかかって、
「上御一人までが、百姓のため、宸襟をなやませられている事を、彼は、われのみの栄華に驕って、かくの如く、民衆のためなど念頭にもしていない」
と、誹謗した。
朝廷の臣も、民衆も、たちまちその声に和して、六波羅殿の無情を怨むので、浄海入道は、それに打って返す手もなく沈黙してしまった。云い負かされた形で終ってしまった。
死んだ重盛も、よく父の入道を云い負かしたが、清盛はまったく口下手であった。彼はいつも宣伝戦で打負かされる男だった。そのために、ついに、自分の正しさが理論で受けいれられなくなると、
「やってしまえ」
と、六波羅の精兵をさし向けてもの云わすので、庶民の同情は少ないし、朝廷の百官からも、
「暴虐なる人」
と眉をひそめられ、そのたびに陰口されるのが、彼の私的生活だった。
六波羅いったいの経営や西八条の別荘の華麗厖大などは、云うにも足りないとしていたが、まず政権の専横ぶりだの、一門を以て高位高官の位置を独占しているのが、何といっても、人のそねみを大きく買っていた。
もっとも藤原氏もその全盛期には、思いきった閥族の独占をやったが、入道は同時に、兵馬の権をも把握していたから、その勢いは到底、
この世をばわが世とぞおもふ望月の──
と、歌った藤原道長などの比較ではなかった。
彼の家弟経盛は参議に、頼盛は権大納言に、子重盛は近衛大将までに──云うも煩わしいが、公卿に上った者十余名、殿上人と称される人三十名の余をこえ、平氏一門の受領国は三十余ヵ国。──そして入道自身は、これも藤原氏の悪い外戚政策を倣ったものと思われるが──わが妻の妹、建春門院から出ました高倉天皇を擁立し奉って、その高倉天皇の中宮に、女の徳子を納れ、ここに臣下でありながら、天皇の外戚という関係と、武家でありながら政権も握っているという、まったく特殊な位置とを、身に併せ持って来たのであった。
必然に、世の人々のそねみは、平家一門の栄華を見て、
(いつかこの反動が)
と、それの来ることを密かに待つようになった。
口に出さないその憎しみはまた、一門の誰彼がした事でも皆、
(入道殿をかさにきて)
と、清盛の罪業に数えたてられてしまうといった風潮であった。
かつて──もうだいぶ以前の事ではあるけれど。
重盛の子の資盛が、往来なかで摂政の藤原基房に出会ったところ、資盛が車から降りて礼をしなかったので、当然、彼より身分の高い摂政家の従者が、
(なぜ、礼をなさらぬか。小松殿のような賢者のご子息でありながら、途上の礼もお弁えない筈はあるまい)
と、咎め立てた。
──それを清盛が聞いて、
(わが孫を往来中で、辱めたのは怪しからぬ)
とて、暴兵を向けて、さんざんに摂政家へ仕返しをした──などという事が、どうした誤りか真しやかに巷間に云い伝えられて、それなども、彼の驕慢の一つに今以て云われているが、事実は、甚だ違っているのであった。
仕返しをやったのは、事実であるが、それをさせたのは、入道ではなく、資盛の父の重盛なのである。
入道殿のお子に似あわぬ君子である、賢者であると、院中にも世間にも、平家のうちでは評判の専らよい重盛のした事であったが、事件の形から見て、
(あれも入道殿の仕業よ)
と、臆測がすぐ真をなして、誰も、君子風な重盛の人品を、疑ってみる者もないのであった。
そんなふうに、重盛ばかりでなく、宗盛の所行でも、維盛の落度でも、悪いことは皆、入道のせいになって、時には耳へも聞えて来たろうが、入道は、子煩悩な上に、総じて骨肉の者には甘いので、
「仕方のないやつ」
と、苦笑するに止まっていた。
身内びいきは、入道の大きな短所にちがいなかったが、それは彼が、幼少から余りに飢寒を骨身に知って来たせいであろう。貧窮を極めた一家が、世間からひどく虐げられて来た時代に成長した骨肉愛の延長と、彼の人いちばい強い煩悩の一面とも観られるものであった。
──と云って、彼の志や慾望が、彼の私生活に見られる如く他へも小乗的なものかといえば、なかなかそんな入道でない事は、彼が前人のやれない政策でも、よいと信ずれば、信念をもってやり通して来ているのを見ても窺える事である。
彼が政治をやり出してから、支那宋代の文化が活溌に流入して来た。物資ばかりでなく、宋代の歴史経済の書物などもとりよせて、朝廷へ献上したりしている。瀬戸内海の航路を開いたり、兵庫港を築修して、和船宋船を賑わしたのも入道の力であった。
その兵庫港の築港をつくる時も、人柱を沈めなければ、海底の礎石がすわらないという工人たちの愚を笑って、石に経文を書かせて沈め、経ヶ島を築きあげて、
(どうだ)
と、迷信を打破して時人へ示したのも入道であった。
その筆法で、寺社の領土を没取して、僧兵の勢力を削ろうとするのも、入道の方針だった。
明らかに、それらの事は、国家に貢献する所のある政策だったが、よい事は、世人からいわれなかった。すべて彼の私生活と、権力のあらわれに対する反感で消されてしまった。損といえば損な人、不徳といえば不徳な人、いずれにしても入道の心事には、寂しいものが一抹常に横たわっていた事は争えなかった。
ひとしお寂しさの身に沁みる秋ではあるし、重盛を亡くした後の気落ちも来ているせいか、入道はいつになく、独りあれやこれと思いめぐらして、
「ああ──」
彼らしくもない嘆息をついた。
そして、われ知らず頬をながれるものを拭わずに、蓬壺の園にすだく昼の虫に心を沈めていると、どたどたっと廊を早足に渡ってくる跫音がした。
入道は、あわてて眼を拭い、常よりもかえって恐い顔を作って、
「誰だっ。静かに歩めっ」
と、叱った。
「わたくしです。早くお知らせしなければと思ったので、つい……」
子息の宗盛と──入道には孫にあたる──資盛とが、揃ってそこに両手をつかえた。
「なんだ? 慌ただしゅう」
「父上。……ここにおる資盛が、当然うけ継ぐはずの越前の所領が、兄重盛が死んで間もないのに、何のお沙汰もなく、没収と、仰せ出されました。お聞き及びでございますか」
「何、重盛の所領を」
「嘘かと思ったくらいですが、糺してみたところ、誤りのない事なのです」
「……そうか」
努めて冷静であろうとしたが、入道の顔いろは抑えきれないものに変っていた。
「そればかりではありませぬ」
宗盛が、なお図に乗って、告げ口しかけると、
「うるさいっ」
入道は、吠えるように叱って、
「つべこべ云わんでもよい。また、例の鹿ヶ谷だろう。退がれ。退がっておれ。──だが、帰るなよ、あちらに控えておるのだ」
彼を大胆とか不敵とか世の知らぬ人は云っているが、事実は小心といったほうが当っている。激発しそうな感情が抑えきれなくなると、身を揺るがすのである。──重盛などは生前よくそれをたしなめて、
(太政入道ともお成りあそばしたら、むかしの貧乏ゆすりの癖はおやめなさい)
と、注意したものであるが、彼の持前は死ぬまで止みそうもない。そして額から頭にかけて、膨れた血管が露わに見えてくる程になると、もう坐ってもいられなくなるらしい。褥を立って室のまわりを歩きはじめる。
もっともその憤りも、落雷のように怒発してしまえば後はさっぱり気も霽れる性であるが、彼とても理性はある。いやその位置の重い人だけに、人いちばい自分の激発が呼ぶ結果もよく弁えていた。
今もそうである。
彼は、面上一杯な憤懣を、紛らわす気か、鎮めるつもりで、廊へ出たり、欄へ立ったりしていたが、次第にその姿は、檻の中をめぐる猛獣にも似て来て、呻いたり、首をあげたり、ぐるぐる廻ったり、傍目にはまるでおかしいような狂態を現わして来た。と思ううちに、彼は、
「おらぬかっ。宗盛っ。──宗盛っ」
と、近くの室にいる侍たちは、胆をつぶして度を失うほどな大声で彼方へどなっていた。
何事かと驚いて、宗盛や資盛もあわててそれへ見えるし、侍たちも挙って、広縁の一方へ畏まった。
すると入道は、
「福原へ赴こう」
性急に云い出したものである。
「──都はおもしろくない。事々に気が滅入るか焦立つか、生命の楽しまぬことばかりだ。福原の荘へ赴いて、遊び船を浮べよう。夜は、宗盛が舞を見、敦盛に笛をふかせ、資盛の鼓を聞こうよ。──すぐにだぞ。支度支度」
もう入道は、室をすてて、先へ歩み出すのであった。
答える間もあればこそだ。侍たちは走り出で、右往左往、
「お出ましであるぞ」
「お車の用意」
と、供触れして駈ける。
これから福原へ行くには夜をとおして明日の朝になろう。松明の用意も要る。少なくも五百人や七百人の武者は従いてゆかねば物騒でもある。──為に、その慌ただしさと云ったらない。
が、入道は斟酌もない。はやくも引出された車の中に移って、揺るぎ出すのを待ち遠しげに坐っている。そして、
「宗盛も行け、資盛も行け」
と、いったふうに、その他の家族たちをも至極簡単に名ざして、後から思い出すまま云う。
入道の気もちとしては、誰も行きたかろう、彼も遊びたかろう、孫や女どもへも、歓びを分けてやる気でいうのであったが、女たちも孫たちも、いや一族の誰でもが、入道と同行するのは余り欣しい事としていなかった。気づまりで窮屈で、もしご機嫌でも損じれば大変だし──折角、福原へ行っても、身にも皮にもならないと一致して陰でこぼしているのである。
そんな心理は、入道は少しも知らないので、
「みな乗ったか。何……まだ化粧していると。化粧などは、車の中でいたせばよいに」
と、独り上機嫌になって──いや努めて機嫌よく気を取り直そうとして、簾の内から、従者に任せておけばよいような事まで、自身で世話をやくのであった。
ようやく支度が揃う。
十輛に余る牛車が西八条の門を出た。侍女や女童の文車だの弓長刀を持った側臣だのがつづいてゆく、大路へ出ればいつのまにか、前後に騎馬武者と千人近い兵がそれを護る列となっていた。
摂津の福原の別荘は、兵庫の海を園の前に、逆瀬川の水を殿楼の階下にとり入れていた。そこでは、都の白拍子や浪華の名ある遊君をあつめて美船を浮かべ、網を打たせ、夜は万燈を廊につらねて、敦盛が笛をふいたり、宗盛が舞ったりして、ついこの夏頃も、一門の公達がその風流やら芸事などを競いあって、入道相国に、
──夏の夜は短い。
と、託たしめた事もある。
ただひとり、その夜の歓楽にも見えなかったのは、もうその頃から体も悪かったが、快くてもいつでも嫌だと断る──長男の重盛だけであった。
世間から君子と見られ、また、燈籠の大臣などと称ばれている重盛がいると、入道相国は誰より煙たがるくせに、その重盛が座にいない時は、やはり何か淋しいとみえて、
「あれは独りで何しているか。また、こよいも、堂籠りして経でも誦んでいるかな。それとも、時鳥でも聞いているだろうか。変り者ではあるよ」
などと、宴の半ばにも、自身から問わず語りを洩らしたりするのであった。
福原へ行くとさえいえば、一門の公達や女人達は元より、もういい年配の息子たちまで、遊ぶことしか考えていなかったが、入道の肚の内には、兵庫の津からその地方一帯に亙っての、大規模な港を擁した都市計画の設計図が描かれていた。
入道は、以前から、
(もっと海外との交易を盛んにして新しい文化を入れ、自分の栄華を、自分一門のみでなく、庶民の中の繁栄ともさせたい)
と、抱負していた。
宋船との交易を盛んにするには、良い港が必要なので、築港の工事を起し、それと共に、都市の計画にかかったが、彼の設計図には、多分に、政治的な考えも入らずにいなかった。
また平家の恒久的な利益もその中へ織りこまずにいられない入道であった。
(いっその事、福原へ遷都すればすべてにいい)
いい──というのは、自己を中心としての考えであるのだが、入道は、その位置、その権力の上に、いつのまにか自己も公人も混同していた。自分の考えをそのまま政治に移すことの危険をそう人ほど反省してみなかった。だから、政治を執る者には稀なほど、彼の政治には、彼の感情までが──何の包装もせず露骨に現れて来たりした。
なぜ入道が、福原へ遷都するのがいいと考えたかといえば、彼にとって、実に、誰よりも畏い──そして苦手でもある、公卿たちが、ややもすれば三井寺や奈良などの僧団の勢力とむすびついて、
(折だにあれば──)
と、平家打倒を画策していることが、多年のいろいろな事件や紛糾でも分りすぎている程なので、
(それを切離すには、京都という因習の都を捨て、新しい都会と文化の中にすべてを遷すのにかぎる)
と、立案したのであった。
そしてどしどし実現へうつし始めて、政治機関の一部さえ、今では福原にあるのである。
海外との交通を促進したり、誰もが認めている僧徒の武力や政治運動に対して、それを撓める工夫をめぐらしたところは大いによいし、国家的な正しい政策ともいえるが、その創案の根本は、何よりも平家一門の安泰の為にあるという事は、誰でもすぐ観破できるので、
(福原へ遷都などとは以てのほかである。いったい何の必要があって──)
と、囂々たる反対や不平を招いてしまった。
藤原氏などの遣口なら、
(一門の栄華を固める為ではない。国富のためまた、庶民のための国策である)
と、政治らしい政治として発表するであろうに、入道は、そんな上手もなく、また厖大な地域には、桑田もあり、塩焼く海女の小屋もあるうちから、もう宏大な一門の別荘などを建て出したものである。
それもまだいいが。
政治機関の一部を移すのと同時に、孫や子や一門の子女など伴れて来たり、浪華や都の遊君等のよい出先とするに至っては、いかに入道が、自己の煩悩と、国政とを、混同している頭の持主かがよく分ろう。
いったい入道の頭脳というものは、時の公卿や僧侶には見られない大理想も革新的な考えもいっぱいにあったが、よく窺うと、その大脳と小脳には壁がなかった。仕切のない大広間みたいな頭らしかった。
「何を思われたか、入道殿には、にわかに福原へ赴かれたそうな」
と、洛中に沙汰されてから、およそ一月余り後の出来事であった。
それは十一月七日の夜、戌の刻とおぼしき頃だったとある。
宵から雲の断れ目は昼のように明るく、冬の夜というのに、妙に温い風がふき捲って、往来の乾いた土ほこりが、戸ごとの燈火へ赤く霞んでいたが──そのうちに乾の方からぐわっと地鳴りが聞えて来たかと思うと──もう大地は発狂したかの如く震れに震れ洛中の人家九万余戸、大地震の惨害に見舞われていた。
幸いに、死者や民家の被害は、思ったほどでもなかったと分って、数日の後には、人々もややほっとして、災後の始末に奔命していたが、陰陽師の安倍泰親は、
「占文の示すところ、ただ事とも覚え候わず」
と、例によって易経をひき、伝奏まで書を上す折にも、ひとり嘆息して涙をながしていたと聞えた。
「まだ、この上にも、これ以上の災害があるとは、いったいどんな天変地異が起るのか」
と、易を信ずる者は色を失い、同じ公卿でも、そう信じない若い人々は、
「怪しからぬ泰親が泣き言かな」
と、笑いとばした。
するとその月の十四日。
「たいへんじゃ」
という声がどこからともなく聞え渡った。何が大変か、よく分らない殿上人たちが専ら先に騒いでいた。
下部の者を町へ見せにやっても、
「何と聞分けた事もござりませんが、ただ町中も凡事ならず上下騒ぎ合っておりまする」
とのみで、真相は皆目知れなかった。
しかし、長い間ではない。──やがて大変の実相は続々参内してくる朝臣たちの口から知れた。
わけても、関白基房などは、真っ蒼な顔色を持ち、足許も危うげなばかりあたふたと参内あって、
「福原の入道相国には、何をまた、思いたがえたか、物々しゅう軍馬を呼びあつめて、彼の地より入洛あるとの報せである」
と、顫きながら披露した。
入道を極度に怖れる者は、百人が百人まであった。だから入道を忌み嫌う者は百人のうち九十の上もあった。
けれど怖れながらも、ほんの一部には、彼の一面を知って、嫌いでない者もいた。もっと今の位置にいて、陽気な政治を布いてくれてもいいと考えていた少数の者もいた。
そういう人たちは、かくと聞くより、さっと顔いろを変えて、
「さても、お持病の癇癖がなせる業には違いなかろうが、そら恐ろしい事を口にし給うものよ。先頃の地震に、心の支柱をとり外し、気でも狂わせ給うたか」
と、惜しみもし、慄きもした。
「ゆめ、厭わしい事を目に見ないように」
洛中の庶民まで、神々を念じ合っていたが、ついに、浄海入道の狂暴は、都の中に事実となって現れ出した。
入道は自分を自分で火の車にのせ、火焔の中から常識の人にはあるまじき指図をした。法皇の近臣三十余名の官職を剥ぎとり、前関白基房をはじめ、藤大納言実国や按察大納言父子など、次々に都から追い出して、遠国へ流してしまった。
「何たる悪行ぞ」
もう百人中の一人も、入道の支持者ではなくなった。
ひどく咳が出る。出始めるとまた、容易におさまらない咳であった。
「閉めよ。……誰ぞ、そこの妻戸を閉めぬか」
咳きの中から苦しげに、源三位頼政は云った。
小侍が走り出て、
「お閉めいたしますか」
と、念を押したが、訊かれるのさえ、息苦しそうに、
「ウむ。……むむ……」
頷きながら、厚紙を唇に当てたまま、しばしは口をきき得ない。
もう四月である。邸のすぐ裏を、今年の花も、加茂の水は日ごとに流し去って、若者たちは、衣更えしている。
──もう河風も冷たくはなかろう。
冬のように閉じ籠っていた頼政は、稀に世間の空も見たくなって、さっきから庭ごしに、河原の水や、京の四山の若葉を見ているうちに、もう老骨に風が沁みて、咳が出る。水洟が出る。
「ぜひもない。わしももう……」
独り年齢を思う。
彼は、七十七になっていた。
年ばかりではない。ここの住居も古びた。平治の乱から二十年、近衛河原のこの邸に、土龍のように住んで来た。──頼政はそう思う。土龍のようなと吾ながら思う。
何といっても、義朝が六条に栄えていた時代は、彼も源氏の名門の一として、共々華やかに暮していた。
では、なぜ平治の乱に、その義朝へ協力を約してあるくせに、合戦が起ると裏切って、身、源氏でありながら六波羅へ奔って清盛へ味方したか。
そして戦後あんなにも沢山な源氏方が、毎日のように、目のさきの河原で斬られたり、各地で掃滅されているのを見ながら、のめのめと、自分のみ助かって来たか。
臆病者よ。
侍にも似げなき人間よ。
禽獣にもひとしい。
禽獣でも恩は知る。情はある。
人扱いすな。
武門の生れ損いよ。
あらゆる蔑みの言葉をもって、源氏を惜しむ人々は云う。いや、平家の武士たちも挙って云う。
それから二十年。彼はその中にじっと生きて来た。
何をいわれても黙々として。
が、彼は、自分の胸には独り慰めも持ち、毅然たる信念を抱いていた。
なるほど、平治の乱には、はっきり義朝を捨て、六波羅へ加担した。一族を裏切った。
けれど、それは武門の道を踏み違えた事にはならない。たとえ一族へ弓をひいても、国家の大本へひく弓ではないからである。
義朝を始め一門の不覚は、源氏の興亡にばかり武者ぶるいして、国家の大本に思いを怠っていた事にある。敗北の因もそれと云ってよい。
清盛はそうでなかった。──晩年の行状とは人がちがっているような頭脳だった。──彼は、都の乱と聞くと、熊野の途中から引き返し、わずか五十騎ばかりで六波羅の邸に入ると、すぐ計略をめぐらして、兵乱の中から上皇と天皇の御輦を自分のほうへお迎えし奉って、その上で戦を開始した。
──何であの時、引く弓があろう。源氏といい平氏というも、私名である。ほんとの弓取の立つところは、私名の中にはない筈だ。
「自分は天地に恥じない」
頼政は、今も、そう思いながら、二十年、無言を通して来たその唇をかむのであった。
世の人々はまた。
(──彼が平家に随身したのは、平家の栄華に随身したのである。節義を売ったものだ。さもしい武将ではある)
という見方から今にも頼政が恩爵にあずかるであろうと、平治の乱後、清盛以下の六波羅一門が、爛漫と咲き華やぐ栄進ぶりと共に、彼へのご沙汰をも注目していたものだったが、頼政は心のうちで、
(否とよ。不遇は覚悟のまえである。死ぬ以上生きるは辛いと知る身に、何の待つものがあろう)
と、ひとり答えていた。
けれど遉に、
(若い仲綱や兼綱や、またわれに従う家の子等は、不愍なものだ)
と、息子や郎党たちが、共に肩身を狭く世間の端に住んでいるのを、憐れまずにいられなかった。
恩爵はおろか、邸宅も扶持も、むかしのままだ。入道相国をはじめ平家一門が、その端くれに至るまで、爵位官職を私して、全盛の余沢に驕り、なおまだこの世に不平をさがしている中にも、頼政だけは、忘れられていた。近衛河原の古邸にただ一軒、置き残されたままだった。
稀〻、思い出されても、
(裏切者のよい見せしめ)
とのみで、栄華の閥は一顧も与えなかった。そして平家人の頭には、何年たっても、
(彼は源家の人間だ)
という観念も除かれなかった。
それくらいだから、長年、禁門の衛府にありながら、彼のみは、昇殿もゆるされなかった。
若年から御所の衛りに立つ弓取の身として、それだけは頼政も、痛恨事としていたとみえて、ある時、殿上の人に、所懐の和歌をそっと示したところ、帝のお耳にはいって、
──あわれな心根、昇殿をゆるしてやれ。
との有難い御諚に、初めて彼も階を踏むことができたのであった。
その時、頼政は一晩じゅう、君恩に感泣して、
(いつかは、この老骨を朝廷の御為に──)
と愈〻、大君の防人たる武士の本道を意志につよめて、同時に、
(犬ともよべ、畜生とも誹れ、われはわれの勤むるところを勤めて後の世に問わん)
と、なお老後を養っていた。
そういう彼に対して、平家一門の中で、ただひとり、ふと同情の眼を寄せた者がある。
(あれも七十にもなって、まだ下位に留まっていたのか。さてさて気の毒した。三位にでも叙せてやれ)
思い出したようににわかに、そう云ったのは、清盛であった。
入道相国の恩命も、余りに遅きに失していたが、たとえそれが一片の出来心でも、年来不遇な頼政には、欣しかったに違いない。
(入道殿も本来は、近年見るような人物ではない筈だが、余りに恵まれた順調と周りの一門に誤られている。──その誤りが入道殿の一身や一族だけの誤りで済めばよいが)
頼政は今でも、人間としての清盛に一片の愛惜を感じている。彼を誤らしめたくない気持を抱いている。けれど、どうにもならないものが遂に入道を、世間から「物狂おしき人」と呼ばせるところまで持って来てしまった。しかし頼政から見ると彼をそこまで有頂天にさせたのも、一半の罪は、非難する世間にあると考えられるのであった。──で、かつては自分に寄せられた一片の気の毒さを、今では頼政から入道へ思い遣っている程であった。
裏門の戸をたたいて、
「ご子息の仲綱殿にお目にかかりたいが、おられますか」
と訪れた色の黒い──顔半分髯に埋めている山伏があった。
日陰日なたのそこらの地上に、毛虫が這っていた。──耳をすますと、頼政の咳きが、庭木の奥の古い棟から聞えてくるほど、そこと母屋は近かった。
「誰だ?」
小舎人が中で腰をのばした。紅い桜の実を烏帽子のなかへ拾っているのだった。
「新宮の山伏が、祈祷に参じたと仰っしゃってくれれば分るが」
「ここは、入口ではありません。ご当家にだって、表門はちゃんとある。あちらへ行って、訪うたがよい」
「いや、厩門を入って、南の空地に向いている小門を叩けと仰っしゃった。その門はここであろう」
「誰が仰っしゃった?」
「仲綱殿が、お手紙の中に仰っしゃった」
「あ。では新宮から、わざわざお招きした山伏どのか。……では大殿のご病気のお加持にでも」
「左様でござる」
取澄ましていると、小舎人は、あわただしく駈けて行った。やがて頼政の子息の仲綱が自身でそれへ来ると、
「おう……これは」
とのみで、お互いに多くも云わず、黙々と木戸を開け、木戸を通り、邸の内のどこかに姿をかくした。
それからだいぶ時刻を措いて、仲綱は父のところへ来て、声密かに、
「新宮十郎行家どのが、旅からお帰りになりました」
と、告げた。
すぐ後から山伏の行家がはいって来た。
頼政は、顔をながめて、
「黙っておられたら人違いするほど、姿も顔もお変りになったのう。……して、諸国の様子はどんなふうでござったか。伊豆へも参られたか。配所におる頼朝様にもお会いなされた事であろうな」
待ちかねていた人であろう。頼政はもう咳もしない。憔悴していた顔色にも、近頃にない元気を取りもどして、矢つぎ早に、訊ね出した。
「ここは、何を申しても、おさしつかえない所か」
と、行家は仲綱へ、室外の気配を糺してから、それに答えた。
「西国は歩きませんが、都から東北はみちのくの近くに至るまで、ほとんど隈なく遍歴しました。伊豆をこえて、亡き頭殿の遺子──この行家には甥にあたる頼朝が成人ぶりも見届けました。宮のご密旨もそっと伝え、同所の北条時政とも語らいました。ほぼ彼の地方の下固めはできておるものと見てよかろうと存ずる。──その他、坂東、木曾、北陸の諸国にも、事あらばと待つ者が、どれほど、唖を装っているか知れません。……ただその連絡がないだけです。また、頼朝をのぞいては、敢然とひとり真っ先に起って、旗を挙げるほどの勇気と力には欠けているだけのものです」
「その人々は」
「申しきれないほどの数です。後で自分の書いた物でお示し申そう。なお、歩き洩れた地方もあるなれど、昨年来、浄海入道の暴状は日に募り、いよいよ地方の武家どもに、平氏討伐の念を固めさせて来たので、機は今ぞと、立ち帰って来た次第です。頼政殿、もうこれ以上待つものは何もありません。後は、もういちどそれがしが伊豆へ打合せに下ると同時に、あなたが起つまでの事です。──時にあなたのお心構えももうできておりましょうな」
夜霞がたちこめていた。若葉の陰の月までが濡れている。四月九日の夜半、三条の大路に人影もない。
「すこし待て。すこし……」
馬上の影が、先へゆく駒をよびとめた。
──何用かと振向くと、後なる古直衣の老武士は、手綱を抑えたまま鞍つぼへ屈みこんでいる。──ごほん、ごほん、と体じゅうを揉んで咳入っているのである。
「父上、お苦しゅうござるか」
嫡子の仲綱が駒を返しかけると、
「行け、行け。……なんの大した事はない」
と、頼政は顔を振る。そして仲綱におくれじとまた急いだ。
三条高倉に、大きな森とも見える一劃があった。後白河法皇第二の皇子、以仁王の御所であった。先に来ていた行家は、御所の小門のほうに佇んでいたが、急いで──と手を振って知らせ、なお四辺を見張っていた。
頼政父子は、御所の内にかくれた。──それからの事は誰知るよしもない。後に思いあわせれば、宮に謁を賜わり、平家討伐の事や、諸国の源氏へ参加の令旨を下さる事など、夜もすがら頼政父子と、諜し合せておられたかに思われる。
宮のご不遇にある事は久しかった。平家の専横に依ることはいうまでもない。
不遇な老将頼政の胸と、不遇な宮の御心とは、いつか同じ志にむすばれていた。
「引けない弓矢を捨てて二十年め、今こそ引く弓矢を取れと、天地がわたくしへ命じております。──あわれ八十になんなんとする老齢頼政の力では、腐え朽ちたる六波羅といえ、覆すには至りますまいが、わたくしが起てば諸国の源氏が奮い起ちましょう。世革めの真っ先に、討死せば、この老骨に花が咲くというもの……」
頼政は、そう真情を吐いて、宮のご決意をうごかし奉ったのであった。──ゆめ、令旨をいただこう為の巧言などではないことを、彼自身の心は神へさけんでいた。宮へそう申しあげた折、頼政は、その老骨をふるわせて泣いた。
新宮十郎行家は、紀州新宮の住人であるが、在京中に、頼政と親しくなり、この計画にもあずかったので、まず諸国の動静を視、伊豆にある甥の周囲なども見届けた上でと、去年からの諸国遊歴となったわけである。
九日の夜の伺候は、その報告と共に、最後の密議が、固められたものにちがいなかろう。
次の日、十日の夜。
十郎行家は、ふたたびその山伏すがたを、京の蹴上から近江路へ急がせていた。
美濃、尾張と出て、伊豆へはいり、頼朝の配所にも、わずか一夜しか泊まらなかったが、北条時政とも会して、すぐまた、甲斐、信濃を駈けまわり、さらに、その時は脚をのばして、奥州平泉の館に、藤原秀衡を訪ね、そこに成人している源九郎義経ともひそかに会った。
──が、この旅の間に都では、大きな破綻ができていた。
行家の国元である新宮の武士たちの動きから、以仁王をめぐる計画の全貌が、すっかり平家へ洩れてしまったのである。
浄海入道は、それを知ると嚇怒して福原から京都に入り、以仁王を土佐へ流さんものと、武将に命じて、御所へ向わせたが、何ぞ知らん、命をうけた武将の中に頼政の二男兼綱もいたのである。
彼はまだ、老将頼政が、密謀の張本人とはゆめにも気づかずにいたのである。──単に、入道はかくの如く半面はお人好しだったというだけでは当らない。彼の頭脳はその行状ぶりの示すが如く、もうその頃から熱病に罹っていたものとしか考えられない。
「政子。──政子」
もう妻として呼び馴れている頼朝の声であった。
配所の晨は相変らず早い。良人が日課の読経をつとめている間、新妻は、居室を清掃し、釜殿にまで出て、いそいそ立ち働いていた。
そこも済み、良人の読経も終る頃と、彼女は、帳の陰にかくれて、朝の身化粧をしていた。
「お召でございますか」
四月の朝の清々しさに、清らかに掃除された室、そこに見る新妻の顔は、頼朝の眼にも、まだ朝ごとにめずらしく、そして美しく思われた。
「──急ではあるが、今日立って、お許はまた、伊豆山の走り湯権現に、しばらくの間、身を潜めていやれ。住居は、法音比丘尼の室がよかろうが、身の警護は、きのう使いに書面をもたせ、すべて阿闍梨覚淵どのに、おたのみ申してある。……よいか」
「はい」
素直な妻である。
──が、いつもその後で、一言がある。この夫人の聡明は、もう時々、頼朝を圧することがある。
「女子は足手まとい、いずれはそうと、先頃、新宮十郎行家様がお立ち寄りの時から、おはなしを洩れ伺って、あらかじめ身仕舞はいたしておりました。わたくしの事は、お案じくだされますな」
「いや、そうか」
──実は、一時でも別れるといったら、涙でも見せられはしないかと、頼朝は、話し出すまで、密かに案じていたが、かえって、
(わたくしなどに後ろ髪を引かれ遊ばすな)
と、励ますような妻のことばだったので、ほっとしたり、何かまた、心に足らないものを覚えたりした。
「それと──これも昨日、書面で伺ったことであるが、この二十年亡き父祖恩人たちの供養のため、法華経千部の転読を立願し、それが今、八百部まで行を積み、残るところ二百部となっておるが……これも早、大事に迫っては、当然勤めておられなくなった。……と云うて折角、これまで懈怠なくお勤めもうして参ったものを、後わずか二百部で、断念するも遺憾であると思い、覚淵御房におはからい申してみたところ、その志だけで、願意は立った。わけて、八の文字は吉兆であるから、八百部転読でよかろうではないか──と仰せられたとある」
政子は黙って聞いていたが、良人がそんな点にまで気を懸けていたり、吉兆をよろこんだりしているのを、何か微笑ましく見ているという風だった。
修養のひとつとして、彼女も法華経は修めているが、良人の朝暮の転読は、そんな立願からであったのかと、今初めて聞いて、その信仰心にはすこし驚いた。そして自分の心の中には、常識としてはあるが、まだそれまでの信仰はないのにも気づいた。
「──ついては」
と、頼朝はなお云いつづけていたのである。
「お許が、あちらへ参ったら、覚淵御房にお会いして、伊豆、箱根、三島の三社へ、頼朝の代りに、素懐の大願成就の願文を捧げていただくように、お願いしておいて欲しい。──なおまた、八の吉字に因んで、米八石、絹八匹、檀紙八束、薬八袋、白布八反、漆八桶、綿八梱、砂金八両。──そう八種の物を、それぞれへ頼朝の名を以て寄進の事を、お計らいを仰いでおくように」
「かしこまりました」
「頼んだぞ」
「はい」
と、いいつけを受けてから、
「──では、けさの朝餉が、しばらくの間の、おわかれの膳部でございますね」
さすが、別れを傷む新妻らしい眸が見えた。頼朝は、凛として頷いた。
「そうだ。共にむかい馴れた膳部も、けさが当分のわかれ。……武運つたなくば、最後のものとなるかも知れない。楽しんでいただこう」
政子のすがたが、配所に見えなくなった頃から、配所の人出入りは急に活溌になった。しかも夜中の往来が多かった。
例の、北条家の総領の宗時をはじめ、佐奈田余一、天野遠景、仁田忠常、大庭景親兄弟などの若い仲間が、入れ代り立ちかわり、生き生きした面をもって大股にあるいて出入りする姿が、この附近の道でよく見かけられた。
北条時政も、時折見えた。
もとより、彼の行動は、この地方では大きな目標となるので、いつも微行ではあったが。
わけて、めずらしい客は、渋谷庄司重国などが、老躯を運んで見えたことである。
──長年、ここの配所に仕えている佐々木定綱の弟の経高を、こんど養子に入れたので、その挨拶に──という事であったが、
「いつのまにか、世も移ったのう。何せい、若い者の時勢じゃよ。夏が来れば、夏が来るのを、人間の誰が遮られるものではない。相模ももうそろそろ夏が近うてな、生き生きと若い新樹が山野に伸びておる。──佐々木家の冠者輩といい、わしの孫義清の妻の兄、大庭景義、景親の兄弟といい、みな羨ましいものどもよ。──これからだ。これからだ」
そんな事を云って帰った。
月がかわると。
京都にある河辺庄司行平から早打ちが到着した。
行平は、下総の住人だが、ちょうど在京中であったので、頼朝に、この急を告げることができたのである。
──書面の内容は、
以仁王、源三位頼政等のかねてからの準備も成って、旗挙げの大事も実現に迫った真際に、その計画は、平家の知るところとなってしまった。
この大蹉跌に、事態は急転直下、悪化を辿って、三条高倉の宮の御所は時を移さず、平氏の軍兵のとり囲むところとなったが、その指揮に向けられた判官兼綱は、僥倖にも、頼政の息子であったので、事前に父のほうへ急を密報しておいたので、頼政は、宮を奉じて、その前に御所をぬけ出し、三井寺へ遁れていた。頼政の郎党どもは、近衛河原の主人の邸へ火を放けた後、宮のお後を慕って、馳せ参じたが、何分、もう戦は後手となって守備が整わないため、そこから南都へ向おうと、僧兵をも加えて宮のお供に立ち、宇治まで来ると、平家の軍勢二万余騎が、地の利をとって包囲にかかり、弓矢のつづく限り悪戦苦闘したが、遂に力及ばず、老将頼政もそこに自刃して果て、宮にも、光明山の鳥居のほとりで、敵の流れ矢に中って薨ぜられてしまわれた。
かくて、せっかくの計画も、一朝に壊滅の惨を見、またしても、平氏輩に「平家に弓をひく者はみなこうぞ」と、いやが上にも思いあがらせてしまう事とはなり終った──。無念とも何とも申しようがない。洛中はなお戦乱の余波に騒擾を極めているが、取りあえずお知らせする。くれぐれも、自重してたまわるように──。
といったような報告で、その長文の文字のなかに、宇治川で死んだという頼政の顔や、幾多の先駆した精霊が、目に見えるような気がした。
その夜は。
頼朝から忍んで、北条家の館へゆき、時政と会って、夜明け前に、彼は配所へそっと帰っていった。
「……ああ」
終日、彼はものも云わず、眸にも力を欠いて坐ったきりでいた。
それから六月にかけて。
乳母の妹の子にあたる三善康信やら、その他の京都にある縁者から、次々と、飛信が来た。
みな、こんどの大変を細々と書いて、そしていい合せたように、
(伊豆とても、安心はなるまいぞ。身を大事に、万一の備えを)
と、それとなく、彼の身辺の危急を注意してよこした。
頼朝自身も、刻々と、自分の生命が、もう草叢の陰に、無事をゆるされない危うさに来ていることを自覚していた。
同時に、また。
その危険が、無事の中からはなかなか奮い起せない──乗るかそるかの出発へ──勇気と決断とを、いや応なく抱かせてくれていることにも、大きな感謝をもった。
自分の本質は、誰よりも自分が知っている。もしこういう四囲の状態が生じなかったら、美しき新妻との生活に、断ちきれない未練も持ち、生来の遊惰や閑に馴れた癖がつい意志を鈍らせて、遂に、千載の機を逸してしまうかもしれない。──彼は自分の一面には多分にそういう自堕落のあることも省みていた。
そう考えると、危険は、生命の外部の事態よりも、生命の内部にあるもののほうが、はるかに危険であったと思う。
──が、もう彼はその心のうちに、果断をすえていた。政子を伊豆山へ移して、身ひとつになった心地の朝から、彼はわれながら、何か、日頃の凡夫でなくなった気がしていた。誰もいない所で、独り坐っているにしても、その「断」を胆において、端厳と威をつくろっていた。
(──あなたは源家の統領でお在せば、いかで平家がこれ以上、見のがしておきましょうぞ。一刻もはやく、身をもって奥州へなりとお遁れあれ)
三善康信から来た二度目のてがみには、もう足元へ火がついたように書いている。
三浦次郎、千葉六郎など、先頃の事変で、京都へ出向いた者たちも、続々と、帰郷して来るにつれ、皆ここへ立寄って、
「頼政の旗挙げに、六波羅の神経は、ひどく過敏になった。頻々と、東国の平家へ、何やら通状を発しておる」
と、告げ、それとなく、
「お心構えを」
と、促して行った。
勿論、こうした空気は、北条の館へも聞えているにちがいない。時政はどう考えているか。
容易にうごかない頼朝は、また、容易にうごきそうもない北条時政のほうの様子を、じっと、我慢するような気もちで眺めていた。
彼は、自分から北条家のほうへ足を運ぶことを、努めて避けていた。時政の態度にも同じ気ぶりが見えるからであった。彼は、口に出してこそ云わないが、
(わしの加担がなくば、御身の力のみでは何もなし得まい)
と、している風がある。
頼朝もまた、人いちばい鋭い感受性に富んでいるほうなので、暗に、
(余と共に起つのを好まないなら、手を拱いて見物していよ。また、望みならば、頼朝の敵に立って、一箭交わしてみるもよい。妻は妻。舅は舅。武門の道に立っては、私情の斟酌には及ばぬことぞ)
と、云わぬばかりな襟度をわざと示しているのである。そのくせ、心のうちには、
(彼なくては)
と、時政の実力や門地を、この際の唯一の力とはしているのであったが。
すると、ついに、六月ももう末頃、時政のほうから真夜半に運んで来た。
明け方近くまで、聟、舅は密議をしていた。その席へ家人の藤九郎盛長も、そっと呼ばれた。
暗いうちに時政は帰った。
夜が白むと、つづいて藤九郎盛長は、軽装して、どこかへ旅立った。
──後で分った事であるが、その藤九郎盛長は、先に山伏すがたの新宮十郎行家が令旨を伝え歩いた国々へ、再度、頼朝の名を以て、
との檄をもって、源氏の武士を狩出しに行ったのであった。
「邦通。何しておるか」
頼朝はまた、奥の棟へ自分から足を運んで、そこにいる懸人の藤原邦通へ話しかけた。
「や。殿ですか」
邦通は、女のように針をもって縫物をしていた。
頼朝も、それを眺めて、苦笑した。
「そちは、縫物までするか。はてさて、器用な男ではある」
「針を持つ業も、武者の心得のひとつでございます。陣中に洗濯物をしたり針を持つ女の群れをつれている場合はようございましょうが、それもいない時は、鎧の袖の綻びや、何かの不自由をどう致しましょう」
「なるほど。さては其方の舞や音曲のたしなみも、陣中の備えか」
「役に立たない物といっては、どんな時でも何一つないかと存じます。ですから、わたくしの如き無能でも、当所にお養い下さるものと存じております」
「いかにも。……時にもう数年前からの絵図面は、出来上がっているだろうな」
「とうに出来ておりまする。──が、まだあれを持てと、お声のないうちは、あれの要る時節が参らぬものと、てまえの筐底にふかくしまい込んでおきました」
「見せてくれい」
頼朝は、そこへ坐って、彼の取出した近郷一帯の図面を見て、非常に満足そうであったが、
「至急、もう一面、図を写してもらいたいが」
「これと同じものを」
「いや、これにないものだ。それは山木判官兼隆の邸の内部。明細にとは望まぬが」
「畏まりました。──しかし、ずいぶん難しいことでございますな」
「生命がけの仕事であるの」
「元よりです。けれど幸い、山木家の郎党にも、兼隆の一族にも、てまえは少しも顔を知られておりません。他国者で、身分のないのが僥倖です。さっそく、取りかかりましょう」
その後、どう手づるを求めて入りこんだものか、邦通は例の人あたりのよい弁舌と、遊芸の才を利用して、山木家へ近づき、目代の判官兼隆の宴席になど現れていた。
すでに、藤九郎盛長が、頼朝の施行状を携えて、諸国の源氏を狩りもよおしに立ってからは、時政の夜中の訪れは、頻々とかさなっていた。
今は、もう起ち上がったのも同じことである。──そうなると、たとえ失敗しても、裸の一流人に過ぎない身軽な頼朝よりは、位置もあり財宝もあり、妻も子も一族も多い──そしてこれから余生を安穏に楽しもうとすれば楽しめる──時政のほうが非常に躍起となって来た。
「時政、いざとなったら、兵はどのくらいできるか。糧食はどれほど続くか。まっ先に襲せて討つべきものは、山木判官として、その後すぐ、どこへかかるか」
頼朝は、いつのまにか、そんな事を糺すにしても、敬称を廃して、
「時政、時政」
と、呼び捨てにした。
舅としてでなく、臣下として扱いはじめた。
時政は、内心、
「この若者、若いに似げなく、なかなか駈引に心をつかうな」
と思ったが、もう彼の立場は、対頼朝との地歩などに、心を労していられなかった。
それに、時政は、伊豆半国に亙る自分の勢力というものを、かなり大きく自負していたが、実際となってみると、自分と共に、生死を賭すものと信ぜられる数は、極めて尠なかった。まだまだこの地方にも、平家崇拝と平家恐怖の観念が、大部分の者の頭に、牢固として抜き難い力を持っているからであった。
秋となった。
今朝、邦通はひょっこり帰って来た。釜殿の者や、厩舎人などに、
「永い事、どこへ旅してござった?」
と問われても、にやにや笑ったのみで奥の棟へかくれたが、いつとはなく、頼朝の手許へ、頼朝が待ち望んでいたものを届けていた。
八月七日の朝。
頼朝は、何思ったか、急にその藤原邦通と、住吉昌長のふたりを呼んで、
「わが生涯の門立ちを決する日は、いつが吉日か、謹んで卜いを立てよ」
と、いいつけた。
二人は、はっと、大きな衝撃をうけた面持で、頭を下げた。──お答えは後刻にと、すぐ退がった。
ふたりは、水垢離をとって、易をたてた。そして頼朝の前へ出て告げた。
「この月、十七日こそ、何のお障りなき吉日と考えられまする」
「十七日」
頼朝は、大きな眸をした。その眸から発したものに、二人は何という事なく驚いた。だが、気のせいでそう見えたのかも知れない。
「十七日か。よかろう」
とまた、口のうちで、凡事のように頼朝は独り答えていた。
その十三日となると、佐々木定綱、盛綱の兄弟は、頼朝の室を退がってから間もなく、
「ちょっと、相模の父の家へ、用たしに行ってくる」
と、厩から馬を曳き出して遽に出て行った。
「郷の家に用事ができた」
「叔父貴から手紙が来た」
「三島まで買いものに行く」
などと、それから続いて、ここの家人が次々に、配所から暇を告げて出て行ったので、配所は急に、無人になった。
けれど、入れ代りに。
土肥次郎実平、工藤介茂光、岡崎四郎義実、宇佐美三郎、天野遠景、加藤次景廉などという人々や、日頃もよく見える面々が、一名ずつ頼朝の室へ招かれて、
「異存なあるや?」
と、十七日を旗挙げと決めている──意中の底を打明けられた。
もとより、将来の大計とか、当日の戦略とかいう機密は、頼朝と時政のふたりだけが、胸にたたんでいた事だった。
「この期に、何の異存がありましょう。あなたがお起ちあれば、今が今でも、日頃の誓いを、陣頭で示すだけの用意はいつでもしております」
誰の答えにも、ためらいは見えなかった。むしろ実行に迫ってから、各〻の意地には、なお強烈なものが加わって来たかに感じられた。──よしっと、頼朝も心のうちで、この計画の可能性が、多分に信じられて来た。
彼は、力づいた。
夜の眠りも、その溢れる力のうずきに、かえって寝苦しかった。
「こんなことでは困る」
と、自分をたしなめてみても、落着かないで仕方がなかった。配所の二十年間に、実にめずらしく、ここ数日だけ、読経の声もしなかった。
十五日のたそがれから雨が降り出した。十六日も降りつづけた。──かなりな雨量で、富士も箱根連山も見えない。白い霧旋風と雨のみが野を翔けまわっていた。
「あすは、愈〻、十七日」
無言のうちに、誰の面も硬ばっていた。その十六日の夕方、頼朝は、蓑笠に身をつつんで、わずかな従者と共に、密かに配所を出、北条家のほうへ、移っていた。
待ちどおしい──しかしまた、恐ろしい気もする一夜を、彼は、北条家の奥に眠った。ふと、眼のあくたびに、瀟々と、雨の音ばかり耳についた。そして夜はなかなか明けてこなかった。
チチ、チチと、小禽の声がする。客殿の戸のすきまから仄白い光がさす。夜明けだ。頼朝は、声なく、叫びながら衾を蹴って起きた。
「──治承四年八月十七日」
衣服をまといながら彼は口のうちで云った。
この日を、想念に刻んで、心のまん中へ、碑として建てた。
「佐殿には、はやお目ざめになられましたか」
誰やら早足に来て、戸の外からこう質す。頼朝が、それに対して、
「おうっ」
と答えると、また、ばらばらと駈け去ってゆく。
館のうちには、すでに物々しい空気がみちている。夜来の豪雨を冒して、馳せ参じている若人輩の顔つきや姿が眼にうかぶ。さてはまた、ここの北条家の家族や郎党、一門の誰彼にとっても、きょうこそは、成るか成らぬか、興亡のわかれ目に臨む朝であった。
「お。……霽れたな」
頼朝は、欄へ出ると、肺にいっぱいの大気を吸った。まだうす暗いが、空は落着いて、美しい晴空が、天の一角から澄みかけていた。
「館には、どこにおらるるか」
廊を奥へと、歩いて行きながら、ふと見た老女に問うと、
「はや、お山の大日堂へお渡りなされました」
と、云う。
道理で、母屋や客殿は、余りに平常と変りがない。大玄関のほうもひそとしている。頼朝は、時政の用意をうなずきながら、小侍に導かれて、庭つづきの小高い山へ登って行った。
おとといからの雨に、木々の葉は地をかくしていた。所々に、生木の折れが目につく。こんな小山でも、方々に水が出て、無数の小さい滝音が、館の濠へ落ちていた。
紫ばんだ暁闇の中に、大日堂の屋根が高くあった。雲を破った朝陽のまっ赤な光が、その廂、その大柱──また、そこの縁からまわりに、ひしと簇っている甲冑の人影に、燦と、刎ね返っていた。
「やあ。みんな!」
頼朝は、そこに立つと、粗野な大声を出して、呼びかけた。
「早いことだな。わしは、ゆうべに限って、深々と眠ってしまった。──今朝、起されるまで、何も知らないほどに」
と、云って笑った。
実際は、そうでなかったが、そう云ったのである。それと、平常の謹厳を解いて、今朝は非常に磊落な、何でもない集まりのように、自身から粗野にくだけて見せた。
反対に、並居る人々は、彼のすがたを仰ぐと、一斉に向き直って、縁にいた者は大地へ降り、佇んでいた者は端へ寄って、地へひざまずき、
「待ちに待ったる日が参りました。おさしずに従って、かねてさし上げおいた誓紙の如く、各〻、伝家の一腰を横たえ、身命も擲って、かくは勢揃いいたしてござります。──わが君にも、疾く疾く、お身じたくを」
と、揃って礼をした。
頼朝は、武者たちが退き開いた間を通って、堂の階をのぼり、大日堂の一隅で、鎧をまとった。
堂の上には、北条時政と、牧の方としかいなかった。縁にいた次男の義時が、母によばれて、母と共に、頼朝が具足をつけるのを、側から共に介添した。
「…………」
時政は、一方にあって、さっきから黙然と、外の頭数のみかぞえていた。彼の予定していた人数よりも、思いのほか集まりが尠ない──という顔いろに見えた。
わけて、今朝の勢揃いには、必ず見えていなければならない顔が見えない。時政は、それを密かに憂えていた。
佐々木太郎定綱を頭として、次郎経高、三郎盛綱、四郎高綱の四人の兄弟である。
いや、四人の数はともあれ、彼等の不参は、その父とか、養父とか、姉聟とか、従兄弟とかいう、相模国の一方の勢力が、早くも、旗挙げに先立って、離反を表示しているのではなかろうか?
そう時政は懸念されてならないのである。
渋谷庄司重国といい、大庭景親といい、どっちかといえば、源氏方より平家に縁の濃い者たちである。ただ佐々木兄弟の父秀義だけが、近江源氏の血を今も頑固に誇っている老人だが、これは平治の乱に、近江を追われて相模へ移住して来て以来、ずっと渋谷庄司の世話になっている関係から、その一族には、叛けない義理あいがある。
一族中の大庭景親などは、もっとも平家色の濃厚な人物である。もし、佐々木兄弟の行動から、今朝の勢ぞろいの事でも嗅ぎ知ったら、これは由々しい手ちがいになる。即刻、六波羅に早打ちが飛んでいるものと考えておかなければならない。
「定綱、盛綱などは、見えておろうか」
頼朝も、気にかけていたとみえて、身支度を終ると、堂の縁近くへ坐して、人数の上を見渡しながら、傍らの義時へたずねた。
「おらぬようだ」
答えたのは、義時でなく、その父の時政であった。
「……はてな」
頼朝も、急に、気色をくもらせた。──時政の考えると同じように、彼もまた、兄弟の不参と聞いて、隣国の大きな一勢力の向背に心安からぬものを覚えたが、それ以上、
(あれ程、多年、自分へ忠実に仕えてくれた家人が、今朝の真際になって?)
と、何かしら、もう、裏切られたように、主従のあいだの信念を挫がれた心地も加わっていた。
「そういえば、どうしたものであろう」
「見えぬのか。佐々木兄弟は」
「来ておらぬが……」
「はや時刻。朝討ちの機は束の間、やがて陽も高くなろうに」
寄り集うた面々は、顧み合って、口々につぶやいた。
頼朝は、心のうちで、
(不覚……。つい彼等の志にうごかされ、大事を告げたのはわが一生の過りであったか)
と、悔いた。
時政は、やや焦躁をその眉にあらわして、
「いったい何しに、佐々木の兄弟どもは、相模まで帰ったのでござるか。……帰るのからして怪訝しいではないか。この大事をひかえた数日前などに」
と、苦りきって訊ねた。
「されば、十二日の夜半、定綱、盛綱のふたりへ、旗挙げの事を打明けたところ、勇躍して、家より甲冑を取って参ると申し──十三日の朝方、相模へ帰ったのであったが」
頼朝が、悔いを洩らすのを聞くと、時政は、いよいよ気の腐った顔して、
「……では、参るまい。いずれ親どもや一族に、問い糺されて、来るにも来られずにいるか、それとも、臆病風にふかれて変心したか、どっちかであろうて──」
暗に、頼朝の不覚を、詰るように云った。
──が、しかし、庭上にある百人足らずの若い若者輩は、そんな問題など、すこしも意としていないらしく、
「いざ、立ちましょう。あの通り、陽も昇りかけました」
と、意気は軒昂であった。
いつの間にか、頼朝と時政は、そこを立って、大日像の壇のうしろへ隠れ、二人だけで、ひそひそ協議していた。
「何を猶予なされているのだ。かかる間に、朝がけの時刻も逸してしまおうに」
堂の外では、気負い立っている人数が口々に云い合いながら、両将の号令一下を待ち焦れているのである。
──が、容易に、時政も立たず、頼朝も出て来なかった。
そのうちに、ようやく、逸りきった将士は、何か不安と疑いを抱き出した。わけて、若い中にも若い佐奈田余一、南条小次郎、仁田四郎忠常などは、
「大事は、はや取止めか。この期になって、北条殿にもわが君にも、何のご評議ぞや」
と、聞えよがしに、怒りさえおびて云い放ったのであった。
むりもない。すでに陽は高くなりかけてゆく。夜討朝がけは敵の虚を衝いてこそ効はあるのだ。これでは堂々たる白昼戦になってしまう。
「しずまれ」
やがて頼朝の声がした。その姿を堂の縁に見せて、一同へ告げ渡した。
「佐々木兄弟その他、なお遅着の者がだいぶ多い。また、兵略上にも、最初の方針をすこし変更の必要もあるので、今暁の朝がけは延期することに決めた。──次の命令の下るまで、一同は、ここを去らずに、静かに休息いたしおるように」
云い終ると、頼朝も時政も、そのまま、館のほうへ歩み去ってしまった。
前の夜から眠りもせず、まだ風雨さえひどかった暗いうちに、三里、四里も距てている諸所の在所から馳せつけて来た面々は、そう聞くと、一時は面に色を作して、頼朝、時政のうしろ姿を見送っていたが──次の一瞬には、気抜けしたように、
「ままよ」
「睡くなった」
「その間に、寝ろと御意か」
などと呟き合いながら、堂を中心として、思い思いに、自由な姿にくずれてしまった。
頼朝も、時政も、いったん館へもどって、休息していたが、その日の午の頃まで、お互いに無言のうちに、
(まだか? ……。佐々木の兄弟どもは、まだ来おらぬか)
と、待ちかねていた。
午も過ぎる。
その佐々木の兄弟はおろか、不参の者も、一人として来なかった。──馳せつけて来るほどの者は、当然、時刻もたがえず、すでに来ていた筈であった。
「どう召さるな」
時政は、頼朝へ、最後の肚を質すように云い出した。
「あれへ集まっただけの人数を以て、ともかく、決然とやりますかな。到着の人員は八十五騎という。……たんだ八十五騎じゃが」
「元より最初から烏合の数は望まぬところ。一人だに、一念神仏に通じれば、世をも動かそう。鉄石の心をもつ、武士の八十余騎もおれば、何事か貫けぬことやあろう」
「それと、朝がけを取止めたからには、当然、夜討となるが、こよいは三島明神の祭、明十八日は、観世音の潔斎日で、あなたに取って、殺生は好まれますまい。……とすると、十九日にもなるが、そう延引しては、ついに事の洩れる心配もあるが」
──すると、そこへ、
「見えられました。佐々木定綱どの、経高どの以下、四名のご兄弟方、ただ今、門前にお着きでございます」
と、館の侍一、二名が、あわただしく廊を駈けて来て、二人のいる室へどなった。
「なに。佐々木の兄弟どもが、今馳せつけて見えたとか」
よほど欣しかったに違いない。頼朝は、聞くとすぐ、告げに来た侍たちと共に、
「どこにおるか。何処に──」
と、大股に廊を急いで駈け出していた。
門内の広間に、疲れきった二頭の痩馬をいたわりながら、四人の兄弟は佇んでいた。
兄の定綱も、次の経高も、三男の盛綱も、末の四郎高綱も、池から這い上がったように、武装した全身、雨と泥にまみれていた。
「オオ」
頼朝が、駈けよると、兄弟たちも等しく、
「おう……」
と、それへひざまずいたまま、しばらくは、ことばもなかった。
(──お前たちのために、大事な今朝の朝討の機を逸したではないか! 何を愚図愚図していたのだ!)
兄弟が見えたら頭から叱るつもりであったことばも頼朝は、眼がしらに滲み出す熱いもののために、どこへやら喪失していた。
やがて、兄の定綱が、こう云い訳した。
「遅着の罪、いかようとも、お叱り下さいませ。──今朝の東が白まぬうちにと、兄弟ども、夜来の風雨の中を衝いて、必死と急ぎましたなれど、豪雨のため、途々、橋が流されていたり、崖くずれに阻まれたり──それに、いかんせん渋谷殿の一族にも、父にも語らわず、密かに参りましたため、良い馬も持ち合せず、二頭の馬に、四人が交〻乗り代っては駈けたりなどして来ましたので、存外、道に手間どりました。……何とお詫びのいたしようもございませぬ」
頼朝は聞いているうちに、滂沱と流れる涙をどうしようもなかった。主従の血はこんなにも濃いものだったかと改めて知った。一刻でも、この兄弟たちの心事を猜疑したのは、済まない事であったと思った。
「よい、よい。……もう云うな。合戦は夜となった。やすめ、疲れたであろう」
彼も、真情を吐いた。
主君の真情にふれると、兄弟たちはもう疲れもわすれて、
(この君の為には)
と、なおさら、心をかため、
(夜となったら、この遅着の罪を、働きの上に)
と、償いを心に誓った。
静かに、十七日の午さがりは過ぎて行った。伊豆の山々も、田も、町の人々も、やがて何事が今夜を待っているか、知るものはない。ただ暴風雨のあとの夏雲が、やがて真っ赤に、西の空を焦して来たのみであった。
やや残光が淡れると、陽は落ちて、山ふところは紫の夕闇をこめて来た。ぽつり、ぽつりと物見の者が、北条家の内へ帰って来た。たっぷり昼寝した八十何名かの武者輩は、蜩の声がいっぱいに聞える山の大日堂のまわりに、再び、今朝のように影を集めていた。
大きな宵月が、狩野川の上流からのぼっていた。木々が光る。時政も頼朝も、やがてそれへ登って来た。夏なのに、ふしぎに皆、肌寒さが感じられた。毛穴をよだてているような顔いろは、月のせいばかりではなかった。
「いざ、行こう」
時政は、先に立った。
八十余騎の黒い影はゆるぎ出した。──頼朝は、時政の意見に従って、後に残ることになった。──佐々木三郎盛綱、加藤次景廉、堀藤次親家の三人だけを側において。
彼は、堂の縁へ跳び上がって、駈けてゆく味方の勢を見送っていた。御所内の裏濠へ降りて、そこの吊橋を駈けわたり、宿場へつづく並木道を反対に、山のほうへ向ってゆく一かたまりがやがて見える。遠くから望むとなおさら心細い小人数に思われた。──この少数な人影が、一世を覆す原動力になり得ようなどとは、考えられない事だった。恐らく、頼朝自身でも、常識としては、そうあったに違いない。
時政は、自分が兵の先に立って、館を立つ前に、
「あいにく今日は、三島明神の祭日ゆえ、大路を進めば、往来の者の目にふれて、逸はやく敵方へ知れよう。──蛭ヶ島の間道を迂回して襲せてはどうであろう」
と、案じて、頼朝や子息たちに計ったが、誰もみな、
「大事の一歩から、裏道づたいはおもしろくない。大道を堂々行こう」
と、いうに一致したので、
「さらば」
と一気に、まだ宵の街道を山之木郷へさして駈けたのであった。
途中、肥田原まで来ると、時政は馬上から定綱をふり向いて、
「山木判官の後見、堤権守信遠は、山木家の北山に居を構えておるが、その信遠は、勇猛な聞えのある男ではあるし、旁〻、この小勢では、一方攻めしているまに包まれる惧れもある。御辺の兄弟たちは、力を協せて、その信遠の住居へ向え」
と、いいつけた。
定綱の兄弟たちは、
「心得た」
と、わずかな別軍をひきいて牛鍬から道を曲った。
時政からつけてよこした源藤太という雑色男は、よく勝手を弁えているというので、堤信遠の邸の裏手へ兵をまわして、そこからふいに矢を射こんだ。
裏の方で、鬨の声があがるのと同時に、佐々木兄弟は、表から躍りこんで、
「信遠やある!」
と、屋内へどなった。
邸の内は、突然の事に、うろたえた人影が、屋鳴りをさせて駈けあるいていた。その大屋根の上に、八月十七日の月が昼のようにあった。
「あっ、そこにか」
兄弟たちの影を見て、六、七名の郎党が、思い思いな得物を持って躍り出して来た。血とも思えない血しおが月の光に黒々と、そこ此処へ無造作に撒きちらされた。
ひとり組み伏せて、
「くッ」
と、上と下で、白刃を奪り合っていた次男経高が、深股へ矢をうけて、
「やられたッ」
と、さけんだ。
その隙に、猛然と、刎ね起きて経高へ迫りかけた敵を見ると定綱は、
「おのれ」
と、飛びついて、うしろから弟の敵を斬り仆した。
矢は滅茶苦茶にどこからともなく飛んで来るが、案外、相手に立って来る敵は少ない。中にひとり凄まじい働きをして、味方を悩ましている男があった。それこそ、主の信遠と見て、
「その首を」
と、経高が、傷手もわすれて、よろ這いながら近づいて行くと、信遠の方から、
「何奴ッ」
と、太刀をかぶって、向って来た。
経高は、危うく見えた。死力をしぼって、渡りあっている間に、屋内を駈けまわって、
「信遠はどこに」
と、血眼で当の相手をさがしていた定綱と、高綱のふたりが、
「やっ、あれだ」
縁を跳び降りて、三方から信遠をかこみ、無性に斬り捲って、ようやく彼を討ち取った。
──その頃。
本軍の時政以下の者は、山木家の山裾を流れている天満橋を押渡って、そこの中腹に見える土塀門へ近づくまでは、正面の石段道を避けて、左右の崖を、徐々と這いのぼっていた。──木の間を洩れる月の斑と、風に降る雫のほか、まだ何の物音も揚がっていなかった。
燭はまたたいているだけで仄暗い。さし込む月のほうが明るかった。手枕で横になっている人の足の爪にまで、その白い光は映していた。
寝ている人の体から酒のにおいが霧のように立っている。ふたりの侍女は、黙然と、側に坐して蚊を追っていた。自堕落な主人のすがたを悲しむかのように、二つの白い顔は、冷たい眉をそろえて沈黙をまもっていた。
「──殿っ。殿っッ」
突然であった。
跫音も、ここの部屋までは来ない間にである。
「狼藉者が」
「夜討っ、夜討っ」
あわただしく聞えて来た。
うつらうつら眠っていた山木兼隆が、愕と、首をもたげて、
「何っ?」
と、酔眼をみはって見廻したとたんに、廂の上を、しゅるしゅるッと、力のない外れ矢の這う音がした。
「──あっ」
跳び起きて、うしろへ、
「長刀。長刀」
早口に呼んだが、侍女はもういなかった。逃げ転びながら、兼隆の足もとで、きゃッと悲鳴を立てたが、兼隆の耳は、もうその声にもうつろであった。
びゅんっ──
どこかで旺んな矢うなりがする。ここへも姿を見せない郎党たちが、はや射返しているのだなと知ると、兼隆は、一族の上にありまた、六波羅の目代という職にある自分の重責を胸によび起していた。
同時に、
「ぬかった」
と、悔いもし、その悔いに、総毛立つような怒りに燃えた。
「遂に、自暴自棄となった流人めが、あぶれ者を語らって襲せて来たか」
そう思った。──その程度にしか、この咄嗟、この事態にぶつかっても、彼には判断されなかったのである。
政子を奪われた事件でも、兼隆が胸をなでて、あのまま紛争の表面化するのを避けていたのは、
(配所の流人ずれと、六波羅の地方官たる自分とが、対等に、喧嘩するのも大人げない)
と、自分を高く持して、頼朝をあくまで卑しんでいたからである。
六波羅の目代という官僚的な気位は、庶民の想像以上、彼自身には、高い位置であった。従って、頼朝をめぐる郷土の青年たちの活動も、まったく知らないではなかったが、
(多寡の知れたもの)
としていたし、また、それらの青年を目しては、頼朝同様に、
(生意気ざかりな不良の徒)
と、いう程度の概念で、法規の末節ばかりをやかましく云い、姑息な意地のわるい虐め方のみをして、肝腎な頼朝をめぐる若い仲間のうちにあった大きな意慾が何であるかなどという点は見のがしていたのである。
平家を仆す。
たとえそんな事を、こん夜の前に、彼の耳元で大きくどなる者があっても、彼は腹をかかえて笑ったに違いないのである。
「小癪なっ──」
と、長刀を押っ取って、表の口へ、駈け出して行くまでも、彼はまだ、そんな暴徒のなかまに、北条時政などというよい年をした分別者が、加担していようなどとは、思い泛んでも来なかった。
ちょうどその夜は、三島明神の祭で、山木家の家人も、大半は参詣に出払っていた。いつもその帰りには、黄瀬川の宿などで遊びに更かすのも常だったから、館に居合せた郎党はいくらの数でもなかった。
攻め矢、防ぎ矢、双方から射る矢うなりの一瞬がやむと、ばらばらと石などが投げこまれ、続いて門扉を打ち壊す音やら、土塀をこえて躍り入る兵の影やら、邸のうちはたちまち死闘の渦に巻きこまれた。
そこへ。
北山の方面から、堤信遠を討ちとめた佐々木定綱や経高の兄弟が、信遠の首を刃の先に刺しつらぬいて、
「討った。討った」
「信遠を討ち取ったっ」
と、口々にさけびながら、ここへ加勢に駈けて来たので、寄手の指揮をしていた時政は、
「北山は、はや陥ちたぞ。味方の幸先はいいぞ。山木兼隆を討ちもらすな。塀まわりへ気をくばられよ」
と、声を嗄らしていた。
甲冑の兵に追いつつまれながら、死にもの狂いに、逃げ、踏みとどまり、また逃げ走っては、また戦いして、夜叉の姿になっていた山木判官は、時政のその声音に、愕然、血ばしった眼をさまよわせたが、
「おッっ? ──その声は」
と、時政のほうへ向って、まっしぐらに、大長刀をひっ提げて駈けて来た。
そして、刮と、大きな眼を、そこにいた人影に向けて、
「ああっ。……時政かっ?」
なおも、信じられないように、呻いたが、最期と、観念したものか、
「欺かれたっ」
と、無念そうに、歯がみをしながら、長刀を振って、いきなり時政の真っこうへ跳びついて来た。
* * *
頼朝は、山の大日堂の縁に、じっと立ったまま身動きもせず、そこから、山之木郷の空を見ていた。
北条家の館は、しいんとしていた。男という男はあらかた時政について、こよいの人数に加わって行ったので、女たちの局に、微かな灯影が、おののいて見えるだけだった。
後に残った者のほうが、戦に出て行った人々よりも、遥かに、大きな動悸を胸に抱いていた。──一瞬一瞬、身を刻まれるように、
「軍は、勝ちか負けか」
と、心配していた。
味方の負けた場合は?
当然、頼朝は、考えていた。──一死あるまで、と初めはそう覚悟していたが、こよいになってから、
(いやそうでない。逃げきれるまで逃げ退こう。若い生命だ。あだには)
と、思い直したりしていた。
その場合、館に残っている時政の妻や娘などを、どうして救って行こうか、そんな事まで案じられたが、どうしても、
「勝ち軍であれ」
と、祷る気もちが、いっぱいであった。二十年来の信仰と修養を心の柱に、じっと、静かな面を保っていたが、ひとりでに、歯の根が緊って来るのをどうしようもなかった。
「まだ、火の手は揚がらぬか。……まだ、煙も見えぬか」
時折、彼が仰向いて、そう声をかける空には、新平太という厩舎人が、大木の梢に坐って、物見をしていた。
首尾よく、山木兼隆を討ち取ったら、直ちに目代屋敷から火の手をあげる──
火の手を見たら、味方の勝ち戦と思われるようにとは、時政が立つ前に、つがえて行った約束なのである。
が、火の手は見えない。
宵の月も高くなって、時刻はあれからだいぶ経つが、いっこう世間は静かないつもの夏の夜に過ぎない。待ちもせぬ時鳥などが啼くだけだった。
「はてな」
遂に、頼朝も身をゆるがし、堂の縁を降りると、焦躁に駆られたその足を、つかつかと彼方の大木の下まで運んで行った。
梢の上を見上げて、また、
「新平太」
「はい」
「まだ火の手は見えぬか」
「見えません」
「よく見い、月光で分らぬのではないか」
「いいえ、何の気も」
頼朝は、大樹の下に、沈黙していた。新平太が上で身うごきするたび、梢の雫が彼の鎧の肩へキラキラと落ちた。
「景廉、景廉。ふたりも来い」
ふいに、後ろを向いて呼ぶ。
堂の傍らにひかえていた加藤次景廉、佐々木盛綱、堀藤次親家──そう三名が、駈け寄って来て、
「何、ご用で」
と、ひざまずいて、頼朝の面を窺う。
頼朝は手に持っていた長刀を、景廉に授けながら語気つよく云った。
「まだ火の手の見えぬは、味方の苦戦とみえる。時移しては、大事は去る。ここはよい、わしの身などに護りはいらぬ。そちたちも駈けつけて加勢せよ。──この長刀に、山木兼隆の血を塗って来い」
「はっ」
三名は、頼朝のことばに、武者ぶるいを覚えながら突っ立った。──さらぬだに、こよいの初の戦に洩れて、疼々と腕をさすっていた折でもある。
──が、顧みて、
「でも、われわれ三名まで、ここを離れては」
と、頼朝の身を気づかうと、
「何を猶予っ。はやく行けっ」
と、かつて聞かないほどな癇高い声で一喝され、三名は、あっと云うなり道を駈け降りて、御所内の濠の吊橋を、飛ぶが如く、もう彼方へ急いでいた。
けれど。
三名が、いかに足の限り駈けても、まだ山之木郷までは到底、行き着いていまいと思われる頃に──青い月空の一方に、炎というよりは、夜明けの美しさに似た曙色の光がうっすら映し初めていた。
「あっ。火っ、火の手が」
梢の上から新平太が、われを忘れたように叫ぶと、
「──おおう」
頼朝のひとみも、それを見ていた。
「殿っ。火の手が……火の手が……あがりました」
狂喜の余り梢の上の声は泣いているのだった。──いつまでも、降りて来ようともしないのである。
頼朝もまた、石のように、じっと、飽かずに空の火の粉を仰いでいた。けれど彼は、さっきからの焦躁と反対に、至って無表情に返っていた。ただ次第に烈々と火色を増してくる空に、その眸は、爛として、同じ光を湛えているだけだった。
「……よしっ」
そういうと、彼は、暗い山笹の小径をひろって、黙々と、館のほうへ降りて行った。あわてて木を辷り降りて来た新平太は、その影を後から追って駈け出していた。
自分では、かたく自分を、
(落ち着いている。どこも、ふだんと異なる節はない)
と、信じているが、きのうの事を今日顧みても、思い出せない事のみが多いのである。
十七日の夜から、ここ七日ばかりというもの、頼朝はそうであった。
頼朝がようやく、
(われまだ死なず)
と、自分の生命を、自分の中の静かな泉に映して、覗き見るように、我という身心地を意識したのは、二十三日の夜から二十四日の明け方に亙る真っ暗な洞窟にじっと坐っていた間のことであった。
その晩は、敵に襲われる惧れもまったくなかった。
また味方から敵へかかろうとする能動的な気もちも、起そうとしても起らなかった。
それほど、人間の存在は、力のない小さいものになって、唯、伊豆山中をふき暴れる豪雨と、風の吠える声と、闇ばかりが、天地であった。
「──十四の時すら死ななかった。それから二十年も死なずに来た。今、旗挙げをして、山木兼隆をその血まつりに討ってから七夜目、わしはまだ死んでいない」
頼朝は、瞑目して思う。
「わたしはよほど、運がよいとみえる。いや、神仏の加護に見まもられている生命の持主とみえる。このぶんなら三十三歳の今年も、いや五十までも、七十八十の先まで、生きとおして行けるかもしれない」
洞窟の口が、真っ白なしぶきになると、瞬間、洞のなかは真空になる。窒息してしまいそうな風圧を面に感じる。
「──生きている」
こんな自然の暴威の中にも、寂として、生きているかと思うと、彼は、何ともいえない爽快を覚えた。──ようやく、日頃の細かい神経や肉体のうちに住んでいる臆病虫が、こよいの暴風雨に、颯然と、相模灘の彼方へふき飛んで行ってしまった心地がする。
「わしの生命は強い。この大自然の中で山野に呼吸している者だ。──平家の生命は、組み立てられた第宅や人智の機構を力とし、しかもそれは腐えかけている末期のものだ。──暴風雨の中に立つ殿楼と、大自然の洞窟とのちがいだ。……勝てる! きっと勝てる。平家のごとき何ものでもない」
彼の意志は、もうこの伊豆界隈の三千や五千の平家を、敵とも数えていなかった。──幼な心に記憶している都の様を脳裡にえがいていて、そこの文化、そこの旧い勢力、そこに想い起されるあらゆる宿怨を、敵とみつめた。
「殿……。殿……」
誰か、洞窟の奥から呼ぶ。
が──滝つぼの中にいるような大雨の音である、翔ける風の声である。頼朝の耳には、聞えなかった。
また。
ふしぎにも、こよいは、頼朝にとって、山之木郷に火の手をあげて以来の心たのしい晩であった。瞑想の快楽も手伝って、風雨のたけびさえ耳から忘れていたのである。
バチャ、バチャ……と水のなかを四つ這いになって、誰か、奥から這い寄って来た。佐々木高綱であった。
「水が溜って参りました。お坐りになっている楯が、舟のように浸っております。もっと奥へお潜みなされませ」
「高綱か……」
「はい」
「まだ眠らずにいたのか」
「水に浸されて眼がさめました」
「ほかの者どもは」
「ずっと奥に、臥しまろんで、前後も知らずよく眠っているようです」
「──ならば、ここにいよう。わしが参って、眼ざめるといけない。みな疲れたろう。わしはゆうべ快く眠った。こん夜はそう眠とうない。ここでよい。ここでよい」
とこうする間に夜が明けた。
白みかけるとすぐ、
「おウいっ」
と、谷間で声がする。
「おうーい」
と、峰で答えあう。
頼朝は、洞窟を出た。
暴風雨は、闇と共に去って、一天雲もなく晴れていた。ただ見る伊豆の海から房総の沖へかけて、まだ夜来の荒天を偲ばせる狂瀾のしぶきと海鳴りのあるだけだった。
「霽れたぞ」
「起きろ」
其処此処の岩間の蔭や木蔭から這い出して、身を伸ばした武者どもが、口々に、そう呼び交わすと、どこに昨夜を凌いでいたかと疑われるほど、見る見る数百の兵と、数十頭の馬とが、頼朝の身辺にむらがって来た。
「時政は、つつがないか。工藤介茂光も老体。何のさわりもないか」
頼朝が、宥ると、
「何の、戦はまだこれから。お案じくださいますな」
と、老年の茂光も、また、その傍らにいた北条時政も、顧み合って一笑した。
時政は、前へ進んで、
「令旨をお濡らしになりはしませぬか」
と、訊ねた。
頼朝は、顔を振って、肌身にふかく護持している以仁王の令旨を出して拝した。そして、時政の手に授け、
「旗竿の先に結びつけて、軍勢のうえに高々と捧げよ」
と、いいつけた。
時政は、畏まって、中平四郎惟重を呼び、
「これは、亡き宮の御心のこもっていた令旨であり、また、われわれの魂でもある。心して持て」
と、捧持の役をいいつけた。
「身にあまる誉れです。一命をかけて」
平四郎惟重は、ひざまずいて旗を押し戴いた。その父、中頼隆は、わが子の光栄に涙ぐんで、
「せがれめに過ぎた大役、父子共々、力を協せて守護いたそう」
と、鎧の背に、大きな御幣を負うて、勇み立った。
「物見は帰らぬか」
頼朝の問に、
「物見の者も、あの大暴風雨では、歩むにも歩めず、どこかへ山籠りいたしたものでしょう。──が、今朝は、見えるに違いない」
時政は、そう云って、
「その間に、肚ごしらえをしておいては」
と、頼朝の眸を見た。
「ム、ム」
頼朝は、荒海のすさまじさを遠くながめていた。飛沫に旭光が映して、磯は金色に煙っていた。
「兵糧を解け」
「馬にも草を飼え」
命令が伝わると、将士は、携えている食糧を解いて、思い思いに場所を取って坐った。
焼米とか、味噌を塗った麦餅の干板とかいうような物を除いては、暑さと雨のために、たいがい腐敗していた。
でも、誰も黙って喰っている。頼朝は何とはなく、熱いものが眼に滲んで来てならなかった。──大事の成ったあかつきには、何を以て、今日の将士の労に酬おうかと、心から思った。
山木攻めの第一夜には、わずか八十余騎の小勢に過ぎなかったが、あれから伊豆を発して、三浦郷をこえ、相模の土肥へかかるまでに、三浦次郎義澄の兄弟や、和田小太郎義盛の一族などが、各〻十騎、十五騎と、家の子郎党をひきつれて参加したので、いつかここに見る味方の総勢は、三百余を数えられた。しかも、その三百余は、ただの一人でも、ぜひなく従いて来たものではない。
その朝。
同じように、夜来の大風雨に、旗を伏せて、声も形もなかった平家方の軍勢は、日の出と共に、ぞろぞろ峰の上に姿をあらわして、
「あれに、敵が見える」
「叛軍が、山へ攀じおる」
などと、小手をかざしたり、指さしたりしていた。
それが、源氏のほうからも、豆粒のように、点々と見えた。
吉浜村へ出る谷間道を隔てて、平家方は、星山の峰つづき一帯を陣地として、翩翻と、旌旗をたてならべた。遠目にも白く燦くのは、その間を歩く長刀や太刀などであろう。また、兜の前立だとか鎧の金具なども、朝陽に映えて、どうかすると、星雲のように煙った。
その陣地は、幾つにもわかれていて、東国に住む平家方として、名ある大将が、それぞれ一族郎党をひきつれ、ここへ会して、
「叛乱の不平分子ども。何ほどの事があろう」
と、ひかえていた。
まず、相模の住人大庭三郎景親とか、河村三郎義秀、渋谷庄司重国、糟谷権守盛久などは、その旗頭格といってよい。
曾我太郎祐信。
滝口三郎経俊。
長尾新五郎為宗。同じく新六定景──といったような侍たちの中には、俣野五郎景久とか、熊谷二郎直実などという豪の者も、羽搏く前の鷲のように、じっと佇んで、谷ひとつ彼方の敵を見つめていた。
「大庭景親どのの兄、景義とかは、頼朝との誓い、とりわけ深く、こんども叛軍のうちにおるそうだが、骨肉同士が、こう谷を隔てて、敵味方と対いあう心地はどんなであろうか。──思いやらるる事ではある」
夜明けの大気を吸ったばかりで、まだどこか、戦気は立って来ない。侍たちのうちでは、こんな話が交わされていた。
「いや、大庭どのばかりか、そういう苦衷は、渋谷庄司重国どの辺りでも、同じ思いを抱いておられよう。敵方にいる佐々木兄弟四人の親、佐々木源三秀義と、重国どのとは、年来の親密、今では、親戚のあいだがら。しかも身は平家の重恩をうけているので、雄々しくも、私情をすてて、老躯をここへ運んで来ておられる」
「それが、当りまえであるに、敵の北条時政のごときは、祖先も平家から出て、代々平家のご恩にあずかりながら、年がいもなく、血気な若者の火いたずらに乗せられたか、それとも、彼が唆したか知らぬが、叛軍の指揮に当っているそうだが、気の知れない馬鹿者ではある」
「七日ばかり存分に暴れまわったから、もう彼等の鬱憤もはれたろう。きょう明日のうちには、この辺の谷間を墓場として、時政も頼朝も、またそれに躍らせられた不運な輩も、みな土中の白骨と、急いで変ってゆくことだろう。──何しても、人騒がせな事をやり出したものよ」
平家方では、勝敗は問題としていなかった。敵の三百余騎に対して、味方の総勢は、三千騎をこえ、絶対の優位を占めているからだった。
また。
きのう今日の山戦が、全日本の戦乱へとひろがってゆく先駆の箭風であろうなどとは、誰ひとり考えてもいなかった。すでに、宇治川で殲滅されている源三位頼政の一類が蜂起した事件よりも、はるかに小さい地方的の一騒擾と見なしていた。
だから、その首謀に、頼朝があっても、敵を呼ぶに、源氏方などとはまだ称ばなかった。平家方たる自軍と対等に、彼を、源氏の軍として認めるのは、おかしいくらいに考えていた。
ただ、北条時政だけは、彼の門地や年配や日頃の人物からしても、その存在を認めないわけにはゆかなかった。それだけに、若い不平分子の火いたずらの仲間などに、何で加盟したものか、分らない心理の持主として、平家方の陣地から眺めると、ただ怪訝られるばかりだった。
そうして、向う山と此っ方山との対陣は、朝から午の刻までつづいた。
戦わぬうちから、勝算歴々なものとして、平家の陣が、いやに落着きこんでいた理由は午の刻を過ぎると、ようやく分った。
それは。
かねて頼朝とは宿怨のある伊豆の伊東祐親入道の到着を待っていたものらしく、伊東二郎祐親の軍勢およそ三百は、ここへさして来ると、わざと、平家の陣地たる星山へは登って来ずに、頼朝、時政たちの源氏の踏まえている陣地からもう一つ先の山へ登ってしまった。
そして源氏の陣所の山と自分等の占めた高地とで、ちょうど、挟み撃ちにする形態をとった。
「伊東の入道が着いた」
「備えは成った」
「いで、一揉みに」
と星山の頂きから、やや戦気がうごき出した頃、はるか丸子河の下流のもう海辺に近い辺りの森から、むくむくと黒煙の揚がるのが眺められた。
「やっ。あの火の手は?」
「大庭どのの館の辺りではないか」
「そうだ。大庭どののやしきが焼けている」
立ち騒いでいるところへ、物見の者の駈け上がって来て云うには、三浦一族の者から大祖父と仰がれている三浦大介義明が、八十余歳という高齢の身をひっさげ、先には、子の義澄を頼朝方へ出陣させてあるが、それでもなお、不安として、留守居の身寄りや召使の端まで狩りあつめ、手勢百七、八十の兵を作って、遽に、海ぞい道を駈けつけて丸子河原に陣し、手はじめに大庭景親どのの館を焼き立て、その勢いなかなか侮り難く見えまする──とのことであった。
「え。あの老人が?」
と、平家方の将は、顔を見合せた事だった。その煙よりも、八十余齢という白髪の老武者が、それ程まで、頼朝の挙兵に、熱意をもっている点が疑われたのである。
どうして、そのような老齢な一族の長や、時政のような分別者が、「若いものの火悪戯」に過ぎないと思われるこんな暴挙に、さまで熱情をもつばかりか、一族の運命を賭してまで組するのか?
今。義明の襲来と聞いてもまだ分らないところに、平家方の軍勢三千余騎の美々しさと、愚かな威容とがあった。
もっとも中には、
(さもあろう)
と、密かに、むしろ会心の事とまでして、肯定していた人もある。
渋谷庄司や、熊谷直実などは、身を平家方に置いてはいるが、火悪戯と人の視る若い者の精神が、決して暴でなく不逞でもなく、必然、このままではいない時勢の先に立って、よく天の啓示をつかんでいる男児たちであることを知っていた。
知っていながら、その時代精神をもった信念の敵へ、弓をひかねばならないのも、複雑な世間の性質やら侍で立つ者のむずかしさだった。
飯田五郎という郎党がある。大庭景親の家来だった。その男なども、
(飛んでゆきたい)
と思うほど、実は、頼朝に日頃から志を寄せ、今も、向う山の源氏の陣地を見ていたが、主人景親という者を持っている身で、どうにもならなかった。
なお、三千の平家軍のうちには、そうした者は幾人かあったろう。──なぜならば、平家は平家の既成勢力しか誇るものはなかったが、頼朝のほうは、誰も頼朝や、一時政の力を恃みとはしていない。
天の味方を力としていた。
天とは、もちろん、時勢のことをいう。大きな時の転回を見とおして、その方向を誤たず、正しく地に立ち上がった姿勢の上に耀く天のことである。
──それはそうと。
谷間は早くも暮れかけた。何か、敵味方大声が谺しあうと、一団また一団、太刀長刀をひっさげた兵が、われがちに薄暮の谷間をのぞんで駈け降りてゆく。
合戦は夕方から始まった。
一日中、睨みあっていた両軍が何のきっかけで、どっちから挑みかけて、接戦の口火が切られたか、分らなかった。
それに、きょうの対峙では、双方とも矢を大切にして、一本のむだ矢も射交わさなかったのである。
谷を距てている空間が、矢の届かない距離だからであろう。──われこそ、などと、晴々しく立って、もし射た矢が、敵のいる峰にも届かず、徒に谷へ落ちて行ったりなどしたら、一代物笑いの種となるから、誰も自重していたものとみえる。
それも、睨み合いの原因になっていたが、もう一つの理由は、敵へ挑むには、どうしても谷を降らなければならない。降ってゆけば、たちまち、岩石の雨や矢うなりを頭へ浴びる。故に、先へ合戦をしかける方が不利という──分りきった兵法の駈引にもよるものだった。
で、薄暮に谷は紫ばんだ陽かげの底になりながらも、まだ根気よく、両軍、静寂のうちに睨みあっていた時、後で思えば、源氏の勢がかたまって見える西側の崖が、暴風雨に土を洗われて、岩石をむき出していたので、自然に、凄まじい土砂岩石の音を交ぜて、ざざざあっと、ひと雪崩に、一角を谷へ削り落したのだった。
「来たっ」
「襲せおったぞっ」
どうっと、その後から、源氏方が駈け降りる、平家方も駈け降りる。──きっかけといえばそれが合戦のきっかけだった。
「ちいッ」
「射止めたっ」
「矢をっ。矢を運べ」
平家方の半数近くはまだ山上に残っていた。手を空しく覗いているのは一部の老将やその幕下に過ぎず、侍たちは弓を立て並べて、またたく間に、背の羽壺のものは射尽してしまった。
「味方を射るなっ。紛らわしいぞ。危ない危ない」
山の中腹で誰か注意する。谷あいの闇は、だいぶ濃い。両軍はもう眉と眉を接しての混乱となっている。
「それっ、行けっ」
いちどに数百挺の弓が下へ置かれた。それだけの数の侍が新手となってまた、ひとつ谷へ真っ黒に降りた。
辷る者がある。
矢に中って、崖の途中から転げ落ちてゆくのもある。
その矢の幾つかは、向う山の上に立つ頼朝が射た矢である。
頼朝が今朝から踏まえているその山を、石橋山とこの辺の土民は称んでいる。
石橋山のうえには、一日中、弛んだ顔は一つもなかった。これこそ天上というのだろう、何の雑念もなく、今は、迷いもなく、三百余人が一体となって、ただ竿頭の白旗と、それに結えつけてある以仁王の令旨とを、時折、無言で見あげ合っていた。
その一体の人数も、今はあらかた谷底で戦っている。頼朝のそばには、加藤次景廉、大見平太、佐々木高綱、堀藤次などのわずか五、六名の影が見えるに過ぎなかった。
「高綱、高綱」
頼朝は、弓を投げすてるとすぐ、堀藤次の手から、長刀をうけ取って、
「面倒。従いて来い」
「あっ、しばし」
高綱や景廉も、弓をおくと、慌てて頼朝を遮った。
「乱軍です。暗さも暗し」
「眺めておる場合か」
「でも、大事のお身に」
「十四の年も死ななかった。二十年来死ななかった。死なば天命、ここにいても死のう。──聞け、あの谺を。味方の一兵は敵の十人にも当っているのだ。──行こうっ。南無八幡大菩薩、頼朝に事を成し遂げさせ給うか、また、ここに生命を召し給うか。今、この谷間へ抛つ身を以て、いずれとも、天意をお示しあれ」
若い肉体は、獅子吼してそう云うとすぐ、鵯のごとく、真っ逆さまに駈けていた。
そこでの戦いは、一瞬で終っていた。源氏方の敗北らしい。
合戦の中に立ち交じると、勝敗は分らなくなる。わけて谷あいの暗闇である。
駈ける者に揉まれながら、頼朝も駈けていた。
「椙山へ、椙山へっ」
声で、味方と知り、戦は、敗けだなと覚る。
そうかと思うと、鎧と鎧をぶつけ合って、お互いの顔を間近に見るなり、
「こいつッ」
いきなりすぐ側の者を斬ったり、斬られたりする程、敵もこの中に入り交じっているらしい。
そういう中で、佐奈田余一義忠とか、武藤一郎とか、頼朝に取っても、世の中にとっても、惜しい若者が幾人となく討死して行った。
石ころと雑草ばかりな河原へ出た。西と南に谷口への道がある。味方の大部分は、そのどっちへ行ったか。
頼朝は、幾度か転び、転ぶたびに、
「討死か」
と、冷やかに思う。
なぜか、ふしぎにも、生きようとする執念が稀薄である。はっと、それを危険と気づいた時、極度な肉体の疲労が思い出された。もう一歩も耐えられないほど喘いでいる疲労が、ややもすると、死の安逸をささやくのである。
「なんの!」
今は、後ろに迫る敵以上の敵が、頼朝自身の中にあった。歯がみをして、起つ、よろ這う。また転ぶ。
兜も捨てた。具足を解こうとした。──その時である。
「しゃあッ」
と、嗄れ声が、後ろでした。
振向くと、馬に乗った敵方の一将である。頼朝を見て、駒をとばして来たのだ。そして、大きな口を刮ッと開き、太刀をふりかぶって、何か云ったのだが、彼もさっきからの戦闘に、士卒を励まして喉をつぶし、その声は、ことばの意味をなさず──、しゃあッと、異様な音声を発したのであった。
「あっ。──景親」
頼朝の長刀は、無意識に縦横の閃光を描いた。その一閃は、敵の馬の鼻づらをかすめたので、馬は愕いて刎ねた。──が、刎ね落されるような敵ではなく、かえって跳躍を迅めて、ふたたび頼朝のまっ向へ、鞍上からすさまじい力をこめた太刀が落ちかけた。
すると、その平家方の武将の郎党らしい男が、いきなり駈け寄って主人の駒の前脚を刀で撲りつけた。もちろん馬は勢いよく前へのめり込み、鞍上の武将は、石ころの上へもんどり打った。
「得たりっ」
と、頼朝が、その上へ、一撃加えようとすると、彼の郎党は、
「佐殿っ、助けて下さいっ。──それも私の主人ですっ」
と叫びながら、頼朝の体を突き飛ばし──そしてすぐ頼朝を扶け起して、遮二無二、椙山谷の方へ向って逃げ出した。
「誰だっ?」
「後で。後でいいます」
「敵か」
「敵ではありません」
「味方か」
「お味方でもありません」
「では。……何者だ」
「迷っている人間です。──たった今までは、大庭三郎景親様の家人でしたが」
「あっ、飯田五郎か」
「そうです」
「五郎か」
「……そうです」
足を止めて、頼朝は、自分の体を扶けている男の顔を見た。たった一度、大庭景親の兄景義に伴われて、配所に来たことがある。また志を共にする若人の会合でも顔を一、二度見たことがある。あれは臭い、怪しい男だと、人々が注意したので、景義もそれきり伴れて来なくなった男であった。
「前々から、心ではお慕い申しておりましたが、主人や妻子を捨ててまで、御旗の下へ奔る気にもなれず、きょうの戦いにも、平家方の陣におりましたが、深く考えてみると、折角のお旗挙げが、ここで挫折したら、腐ったままの世の中が、まだ十年も二十年も続いてゆきましょう。それだけ国土の損です。民の苦しみです。人心を悪くさせるばかりです。──となったら、勿体ない事ですが、朝廷のご存亡まで案じられます」
飯田五郎は、一生懸命で話すのだった。どう云ったら、自分の真心が、頼朝に容れられるかと、覚束ない智識をしぼって語る容子があわれでもあった。
「……で。いろいろと、迷ったり悩んだり致しましたが、大義と小義だと、考えつきましたので、源氏方のほうへ、走りこむ隙を窺っておりましたところ、ご危難を見かけたので、われにも非ず、前の主人景親様を、あのような目に遭わせて、お供に従いて来たわけでございます。──以後、お馬の口取にでも、お召使い下さるなら有難うぞんじまする」
ここまで云うと、飯田五郎は泣き声になってしまった。
「この頼朝の敗れを見ながら、敗軍の将に従いて来たそちこそ、頼朝にとって、真の味方。うれしいぞ」
と、頼朝も涙ぐんで、行末長く主従たることを誓った。
けれど、源氏系でも平家系でも、縁故などはどうでもよい一士卒に過ぎない飯田五郎が、敵方に身を投じて来たのは、頼朝という人間のみに景仰を持ったわけではない。彼が随喜したものは、彼が産も家系もない庶民の一人だけに、かえって正直に理解される現状の世の中の悪さと、将来に渇望されるものにあった。──人よりも、その革新精神の旗じるしにあった。
「あっ。こうしていると、またさっきのような重囲に陥ちそうです。矢が集まって来ました。もう少し、お怺え下さい」
五郎はふたたび頼朝を扶け励ましながら、椙山谷ふかく逃げこんだ。
明くれば、二十四日。
追々と、彼の所在を知って、味方が集まって来たので、頼朝は、後ろの峰へ上って、陣を立て直そうと云う。
元より否やはない。
「きょうこそ、きのうの雪辱を」
と、面々の意気は、すこしも挫けていないのみか、むしろ旺んだった。お互いが、暗黙のうちに、こう顔を見合うのも、今の一瞬が最期か、きょう半日の間かと、散るのをいともさり気なく戦いでいる桜の花のように、あっさり心のうちで袂別を告げていた。そこに、悲壮というような血臭いものもない程、潔かった。
「登れ」
「登れっ」
天上へでもさして行くように、人は峰の肌につかまって攀じ出した。
すると、敵の大庭景親以下、三千余騎が喊の声をあげて迫って来た。
まだ、布陣の整わないうちであったため、またしても、源氏の勢は、個々に力を分散して戦うほかなかった。
それでも、加藤次景廉や大見平太等は、
「ここは、われらで殿軍をいたせば、方々は、もっと奥地へ遠く引揚げて、いよいよ足場を占めて備え立てなされ」
と、味方へさけびながら、もう敢然と、敵の白刃を迎えていた。
退くのが賢明──と思いながら、やはり、そういう味方ほど捨てきれないで、誰しも後ろ髪をひかれるとみえ、頼朝を初めとし、時政父子までが、山の中段に踏みとどまり、矢数のあるかぎり射つづけていた。
景廉の父、加藤五景員は、子を気づかって、最後まで踏み止まる。
大見平太の兄政光も、弟に心をひかれ、殿軍の勢に交じって、乱軍の中へ駈け入った。
そのほか、加藤太光員、佐々木高綱、堀藤次、同じく四郎、天野遠景、同じく平内など、わき目もふらず、敵へ当ってゆく。
「うぬっ」
「おおうっ」
「かッ」
と、いうような喚きと喚きが、甲冑の響きや剣の音に入り交じって、この世のものとも思われない凄愴な谺を呼んだ。そして焦けつくような谷間河原は、見るまに、そこらの石も夏草も血でない所はなくなった。
矢だねも尽きると、みな太刀長刀の接戦になった。平家方は、大庭景親をはじめ、重なる者は騎馬だったが、石ころの多い谷あいでは、名馬の逸足も、かえって敏捷な敵にその脚元を薙ぎられたり、蹄を躓かせないため活躍の自由を欠いたりするので、
「馬上は不利」
と、云い合せたように駒を捨てて戦った。
源氏方一人に、平家方は十人以上を以て当り得る優位にあったが、その優位がものいうまでには、かなりな時を費やした。死者や負傷の数も敵の十倍以上を出し、このままで斬り立てられると、ついには自身が危ういぞ──と切羽つまって来てから初めて、
「くそっ、多寡の知れた敵に。ふがいないぞ、味方の者。死ねや、退くなっ」
と、俄然、平家方も、咆哮を揚げ直して、死にもの狂いになって来た。
組む、組んだまま、水へ転げ落ちる。
首を掻いて、
「討ったッ。──敵の」
と、躍りあがって、血のしたたる物を差しあげながら、何か功名をさけんでいると、
「こいつッ」
と、その後ろから、躍りかかって来た太刀の下に、首を持ったまま、首を掻かれかけている武者もある。
「あっ、殿ッ。──滅相もないっ。あなた様は」
乱軍の中で、名もない敵と、斬りむすんでいる頼朝を見つけて、天野遠景は、腹が立った。
腹立ちまぎれに、
「木っ葉どもめ」
と、頼朝へ挑んでいる敵の、四、五人を、遠景は大長刀で滅茶苦茶に叩き伏せ、薙ぎとばして、
「おッ、お逃げにならなければいけませんッ」
と、恐い顔のまま叱咤した。
敵の武者の乗りすてた駒が、鞍のまま、放牧されてあるように、彼方此方に駈けまわっていた。合戦をよそに、水をのんでいる馬、草を喰っている馬、すこし気が狂れたように嘶いてばかりいる馬──など沢山見えた。
「殿っ。これへ」
一頭の鹿毛をつかまえて、遠景が頼朝にすすめていると、一かたまり雪崩れ合って来た味方が、
「や。殿には、まだここに」
と、その無事を、奇蹟のように驚きながら、駒の前後を被いくるんで、無二無三、山の深くへ索きこんで行った。
景親たち平家勢は、
「逃がすな」
「あれこそ頼朝」
と、後から気づいて、真っ黒に追って来たが、高綱、景廉などの烈しい矢に、ばたばたと死者を出したので先鋒はみな身を伏せ、矢風が熄んだと見ると、猛然立って、追いかけた。
「時政は。──時政父子は、後から見えぬか」
逃げのびて行く道々も、頼朝は幾たびとなく、左右の者に云った。
「駈けもどって、殿軍されているまに、お慕い迷れたとみえまする」
と、供の人々は答えた。
その中に、土肥次郎実平がいた。実平の健在を見ると、頼朝は、
「いたか」
と、やや力づよい顔をした。
椙山の深くまで辿りつくと実平は、戦の帰結に見きりをつけて、こう提議した。
「さて、この大勢では、どこへ隠れ忍ぶにも、すぐ敵の目に見出される惧れがある。これまで、お側を離れずに、尾き従うて参られた各〻のご忠節は、涙ぐましゅう存ずるが、これでお別れしたほうが、かえって殿の御為であるまいか」
「…………」
誰も、答える者はなかった。誰の面も、惨として、上がらなかった。敗戦の無念を唇に噛んでじっと、熱涙をこらえていた。
ともすれば、嗚咽と変りそうな慄き声を、実平は強いて、励ましながら、言葉をつづけた。
「今のお別れが、誓って、後日の倖せとなるように、ここは、一先ず袂を別とうではないか。──殿お一人の身ならば、この実平が、たとい一月ふた月の間は、どのように致しても、きっとお匿い申してみせる。──やがて、計を立て直して、会稽の恥をそそぐ日まで」
誰か、手放しで泣く者があった。一瞬、みな肱を横にして顔へ当てた。
頼朝は泣きたいよりは、自分の不徳を詫びたかった。この惨敗の責任がみな自分にあるものと責められていた。
だが、こうなっても、
(これ限りではない!)
という希望は、誰よりも頼朝の信念にあった。今が初めての荊棘の道ではない。これが最後かと思う一歩前が、実は、次への悠久な道へ出る暁闇の堺であったことを、幼年の頃から幾度も身に訓えられていたからである。
「ぜひ、最後までは、御供を」
と、それは、ここにいる者のすべての希いだったが、頼朝も、他日を期して別れてくれと云い渡したので、人々は、やがて散々に、思い思いに、落ちて行くしかなかった。
頼朝、実平だけを残して、あらましは皆、落ちのびて行った頃、乱軍の中で見失った飯田五郎が、息喘いて、追いついて来た。
「数珠を拾いました。このお数珠は、殿のではございませぬか」
見れば、自分の落した物なので、頼朝は、非常に欣んだ。その飯田五郎も、泣いて供を願ったが、
「きょうが最後ではない。ふたたび旗を見たら来い」
と、頼朝は諭して、無理に追いやった。なぜか、その五郎を追いやるのが、誰よりも辛い心地がした。
一方、頼朝に迷れた時政父子は、道を違えて、箱根路から湯坂を越え、甲斐のほうへ落ちようと志したが、三男三郎は、土肥山から早川へ来る途中、伊東祐親入道の兵に囲まれて討死し、同行の工藤介茂光は、老人なので、精がきれたか、
「もうだめだ。これまで」
と、絶叫すると、腹を切って、最期をいそいでしまった。
峰の背を、実平と共に、逃げのびてゆく頼朝の眼には、遠く、其処彼処で、こうした末路を告げてゆく味方の分散が見えたであろう。
「あの峰だ」
「いや、渓間へ駈けた」
執念ぶかく追いかけて来た敵の大庭景親の兵は、頼朝が、どう晦まそうとしても、においを嗅ぎ知って、狙け纏って来た。
「おウーいッ。味方の衆、この山にはいない。それがしの手勢で探し尽した。向うの山だ。彼方の谷や峰ふところが怪しいぞ」
平家方の一将、梶原平三景時は、どういう思惑があってだろうか、頼朝の潜んだ木暗がりを見届けながら、岩上に立って味方のほうへ大声あげながら手を振っていた。
「こよいも、……赤い?」
政子は、夜空を見つめていた。──ここから幾里もない石橋山、椙山の方の空を。
雲に映る戦火よりも、彼女の眸に燃えるものの方が、むしろ炎に似ていた。
「どうなされて? ……」
と、父を思う。兄を思う。──頼朝の身をひしと気遣う。
先頃の暴風雨の晩には、一夜中、この尼院の仏前に坐ったままで、戦勝を祷っていた。
あらゆる人手を頼んで軍の様子を見せにやってある。
石橋山の味方の惨敗は、もうつぶさに聞いていた。
「──お生命さえあれば」
と、今はただ、それのみが一縷の望みであった。
そして、心の底に、
「うかとは、死ぬまい」
と、固く自分を戒めていた。
良人の頼朝が果てたら、父も死ぬであろう、兄も斬死にするであろう。──当然、彼女も、心の支度は、疾く決めている。
それだけに、軽はずみを戒めていた。良人の思慮ふかい性格をよく知っているだけに、良人も最後の最後までは、生きつづけるであろう事を──固く信じていた。
「政子様よ。夜露はからだに毒。もう屋の内へおはいりなされ。こよいは、お寝みなされたがよい」
走り湯の法音比丘尼は、時折、縁に出て来て、声をかけた。
「はい。……はい」
庭垣の隅の方から、政子の返辞は素直に聞えてくる。けれど、室内へ戻って来る様子はなかった。
「……ご無理もない」
と、法音尼は、草むらの中に佇んで、じっと、天の一方を見ている政子のすがたへ、遠くから掌を合せた。
その人の影へ、掌を合せて念じるしか──老尼には政子を慰めることばもないのである。
更けて行った。
伊豆の海は、戦のせいか、漁火の影もない。先頃の暴風も、嘘のように凪ぎている。
「政子さま。それにおいでなされましたか」
「誰じゃ」
「牧場の於萱でございます」
「萱か。……待っていました。何ぞ変った事でも聞きましたか」
「はい。ようやくのことで、ご先途がわかりました」
庭口から忍んで来た牧場の妻の於萱は、それへ来て、夜露の中にひざまずいた。
彼女も、政子のために、生命がけで戦の後の情報を聞き蒐めに行っていた一人であった。
「──頼朝様には、二十四日の戦に、お味方と、ちりぢりにお別れ遊ばした後、実平殿お一人がお供して、椙山から箱根へお越えなされ、そこで都合よく、舅君の北条時政様とめぐり会い、ひと先ず箱根権現の別当の弟永実様のところへお身を隠し遊ばしました。……もうご一命は、大丈夫でございまする。永実坊も行実坊も、あのご兄弟とも、前々から源家に深く心を寄せている衆でもございますから」
政子は、聞いているうちから、涙があふれて──天佑に感謝する気もちと歓びにいっぱいになって──於萱の労を犒ってやることばすら出なかった。
では、良人もこよいは、戦い疲れた身を、久しぶりに、屋根の下に横たえているだろう。
──そう思うと、彼女も遽にそこへ坐ってしまいたくなった。
「奥方。佐殿の奥方。走り湯権現の覚明でござる。それへはいりかねまするで、垣近くまでお顔をおかし下さい。──戦場の模様、その後の人々のご消息、いろいろ、探り聞いて参りました」
折ふし、垣の外からまた、そう小声で告げる者があった。
ゆうべは、牧場の妻や、走り湯権現の覚明からの報告。──またきょうも、政子の許へは、種々な人たちが出入りして、戦後の模様を、何くれとなく知らせて来た。
それらの帰結は、各〻、人と場所とを異にするが、今仮に、情報を綜合して並べてみると、およそ次のような幾つかの断片的な話となる。
*
有力な源氏の味方と期待されていた三浦義澄の一族は、かんじんな石橋山の戦いに間に合わず、丸子河から由比ヶ浜方面へ出たところ、平家方の畠山重忠の軍と行き遭い、重忠方は郎党五十余人の首を失って退却し、三浦一族も、多くの負傷や死者を出して退きわかれ、三浦郷へ帰って、衣笠城の孤塁を固めているが、そこへもまた、畠山重忠を始め、河越太郎重頼、江戸太郎重長などの平家勢が、ふたたび大挙して、包囲に向っているというから、到底、長くは支えきれそうにも思われない。
*
最初から目のかたきに頼朝を狙うていた大庭景親は、二十五日の夕方、一斉に、布令を発し、
(頼朝を匿う者、木戸の警備を怠った者、等しく断罪に処するであろう)
と辻々に高札を立て、およそ諸国へ通じる宿駅は元より、山伝いの小道から、浜辺の一帯に亙るまで眼を光らせて、詮議はいよいよ峻烈を極めているとある。
*
戦は、富士山麓から、甲州方面にまで波及したようである。甲斐の武田、一条などという土豪も、頼朝と呼応して動きかけた形勢が見えたというので、機先を制すべく、駿河の目代橘遠茂だの、俣野景久などの平家が、二十四日、追討に向ったが、途中、富士山麓で野営した晩にどうした事か、彼等の所持していた弓が百何十張りも、野鼠のため喰い切られてしまった。
折も折。
石橋山へ駈けつけると、この地方を通った源氏方の安田義定、工藤景光、同じく小次郎などの手勢とばったり遭遇したので、
(それっ)
と、たちまち戦になったが、一方は飛び道具がみな役に立たないので散々に射立てられ、逃げるをまた追い捲られて、野鼠のおかげで全軍の三分の一しか生きて還らなかったという噂なども、──半ば、面白げに、宿駅の凡下たちに沙汰されている。
*
一時、箱根の別当の許にかくれた頼朝主従は、急にまた、そこを去って、土肥方面へ落ちて行ったらしい。
原因は、頼朝に組している別当の弟の良暹というのが、前々から山木判官兼隆の祈祷の師で、ひそかに、平家へ通じた気はいが見えたからである。
*
三浦一族の衣笠城には、一族の大祖父と仰ぐ八十九歳の大介義明も立て籠っていたが、砦の運命も、早これまでと迫った日、子や孫を集めていうには、
(古巣の城は焼け落ちてしまう。かえってお前たちの為だ。広い世の中へ、各〻、力いっぱいの巣立ちをせよ。──この義明は、累代源氏の御家人と生れ、八十余歳まで生きのびた効いあって、今、佐殿の旗挙げを見た欣しさ。……これで死んでもいい。落城の火の粉は、孫や子たちの出世の種蒔じゃ。こんなよい往生があるものか)
そして、去りがての孫や子たちが、落ちてゆくのを見届けてから、八十九歳の老将は、華々しく戦死した。
*
佐々木定綱、盛綱、高綱の兄弟三人は、主とわかれて、ひそかに、渋谷庄司重国の館を訪ねてゆくと、重国は、兄弟を庫の中に匿い、食事をすすめて、
(なぜここに、次郎経高は見えぬのか。戦死したか)
との質問に、
(いえ、無事ではいますが、仔細あって、お館には足踏みできぬと、一人どこかへ立ち去りました)
兄弟が答えると、重国は眼をしばだたいて、
(さてこそ、いつぞや頼朝の加勢に行くとて、暇乞いに見えた折、わしが諫めたが、聞き入れずに駈けつけた。それを恥かしゅう思うて参らぬものとみえる)
と、すぐ郎党を四方へやって、次郎経高を尋ねさせた。──かくの如く、平家とよばれ、源氏と称えて、戦場では立ち分れても、血はひとつの国民だった。涙はお互いに持っていた。
彼女はもう庭にも立たなかった。二十六、七日の両日は、ほとんど机の前と、御仏の前にじっと坐っていた。
その二十七日の宵である。
「お傷わしや。……さこそ、この幾日の間は」
と、咽びながら、彼女の前にひれ伏した老武士があった。
「おお、あなたは」
彼女は、眼をすえた。それは加藤次景廉の父、景員であった。
「せがれどもは、甲斐へ落ちのびましたが、年老が連れでは、足手纏いになろうと思い、別れて、この走り湯権現の房へ、きょうの明け方隠れこみました」
見れば、そういう景員は、もう髪を剃ろして、法体になっている。
この老人は、実戦に参加した一人である。さだめし、きょうまでの消息以上、詳しい事を知っていよう。
彼女は何より先に訊ねた。
「父は? ……どうしておりましょうか」
「時政殿には、首尾よう舟を手に入れられて、海路を安房へと、お渡りになりました」
「安房へ」
彼女は、少しも欣しい顔でなかった。──頼朝と一緒にとは、景員が云わなかったからである。
顔いろを察して、老人はすぐ口早に、後のことばを続けた。
「──また、佐殿におかせられましては、明二十八日の未明を期し、一舟後から同じ安房の平北の磯をさして、ご渡海あるはずでござりまする。……が、これは極秘、ゆめ、人にお気どられ遊ばしますなよ」
「……そうか」
初めて彼女の面に、ほっとした容子が漂った。悲痛な別離を知るうちにも、花洩る微かな曙光のような色も見えた。
景員がそこを辞して、僧房へもどると間もなく、彼女も寝所へかくれた。けれど彼女は衾には入らなかった。身拵えもかいがいしく、密かに尼院を出て、真っ暗な伊豆山の上へと、ただ一人で歩いていた。
高原の牧へ出た。
そこの小屋をほとほとと叩き、牧場の妻の於萱を道案内にして、また幾里かを歩きつづけた。
「萱。……ここは何処」
「湯河原の北山でございまする。この下が、吉浜、鍛冶屋郷」
「では、もう少し」
と、また歩いた。
「政子様。もう行けませぬ。……この先は断り立てたような崖ですから」
「そこの磯は」
「真鶴です。土肥郷の真鶴でございます」
「…………」
政子は、黙ってうなずきながら、露や草の実に汚れた身を、そのまま、仆れている朽木へ腰かけて、もう明け近い海面に向けていた。
磯を打つ波音のほか何の物音も聞えなかった。安房、上総の彼方も、雲か霧か海か、けじめもなかった。
──が、いつとはなく、それが水と空と、雲とにわかれて見えて来た。渺として、ただ霧のみであった海面にも、チカッと、黄色の光が刎ねた。
「萱! ……」
政子は立って、にわかに眼をいっぱいに働かせた。
「見えぬか。……見えぬか。……殿のお舟が、今朝のお舟立ちが」
「見えませぬ。何も」
「……あれは?」
「磯辺の巌です」
遠い一連の山影は、上総、安房の半島である。そのあたりから大いなる太陽の端が真っ赤に昇りかけた。
刻、刻、見ているうちに、陽は半島の上に離れた。海はいちめん燦々と揺れた。その輝く海波の沖に──ああすでに沖の方だったが、政子の眸に、一点、黒く見えたものがあった。
政子は、その日から、秋戸郷へ身を潜めて、もう尼院へは帰らなかった。
九月の空も、海の碧も、澄みきった秋の昼だった。
下総の寒川べりを、うろついている旅の商人風の男がある。橋の口を、幾度か行ったり来たりしていた。
七月頃から、橋口には、交代で見張りの武士が立ち始めている。──伊豆半島とこの地方とは、海を隔てているとはいえ、晴れた日には、鮮らかに見えもする対岸にある。
当然、伊豆に揚がった波濤は、ここの岸へも搏って来た。
下総、上総、安房、それぞれ派別を明らかにし始めた。いや、自身はその何れにも偏せず、自重しているつもりでも、もう環境がゆるさないのである。
(某は、源氏くさい)
(誰と誰は、どうなっても、平家方をうごくまい)
そう人々が色別けを押しつけて観るし、また、頼朝の旗挙げなるものが、ここではその実力以上に思われていたので「源氏方」という言葉が、ここでは平家方と対立して、通り言葉に使われていた。
頼朝の人間的評価も、地元の伊豆よりは、この地方のほうが、より高く買われていた。彼が伊東祐親入道のむすめと恋をしたり、配所へ亀の前をひき入れたり、北条家の政子とも同様に浮名をながしたり──そんな半面的な些事がいちいち伝わっていないだけでも、地元の人々よりは、遥かに、尊敬を持たれていた。
そして、六月末の挙兵が聞えてくると、
(ついに、起ったな……)
と、誰もそれに一応の同情を抱いたし、また、
(さすがは、やはり名門の子である。二十年の臥薪嘗胆、よくぞした)
と、彼の系図を革めて思い起し、それに崇拝の念さえ加えて、先頃から寄るとさわると、源氏方、平家方と称び分けた通り言葉で、うわさに持ちきっている有様だった。
その頼朝が、一敗地にまみれて、行方も知れない──と伝わって来た時、はっきり世間に現れた事は、この地方でも、若い人の層に、一様に濃い落胆が見えたことだった。
間もなく、
(佐殿は、安房か下総の辺へ、落ちのびて来られたという噂だぞ)
と知れ渡ると、俄然──といってもよい程、この房総一帯も、人間の顔いろ、人々の眼、話題、生活の仕様、殊に若い層のうごきが活溌に変って来た。
が、ここにもある古い勢力や秩序が、それとは反対な衝動から、
「落武者を入れるな」
と、各〻の地盤を、守り固めて、極力、この颱風から遁れようと努めた。
寒川、五反保を濠として、その郭内に、侍屋敷の門をならべ、丘の猪鼻台に、一族の館を持っている千葉介常胤なども、当然、そうであった。
宿人町から郭内へ通じる橋口に番兵が立ちだしたのも、その現れの一つと云えよう。長元年中、関東の騒乱に功のあった平忠常以来、累代平家の御家人であり、この地方の豪族として、現状のままである事が、最も安泰を希うところの家柄であった。
「はてな、怪しい旅商人だ。これで三度ここを通るが?」
「引ッ捕えてみろ」
橋口の守りの武士が、こう指さすと、その指を振向いた旅商人は、急に足を早めて、町の方へ曲ってしまった。
千葉介常胤の次男胤頼は、何処からか帰って来て、今、濠内へかかろうとすると、橋口をふさいで番の武士十四、五名が、何か騒いでいる。
「おい、何事だ」
胤頼は、馬上から声をかけた。
すると、武士たちに囲まれて、それへ引据えられていた旅商人は、
「おおっ」
と、彼を振向いて、跳び上がらないばかり欣んだ。
胤頼には、ちょっと思い出せなかったとみえ、
「何者だ」
と、近づいたら鞭で打ちすえそうな姿勢をした。
「それがしです。お忘れか」
「……それがし?」
と、じっと見直してから、初めて姿の変っている事に気づいたらしく、
「やあ、藤九郎盛長どのか」
と、眼をみはった。
かつて、その藤九郎盛長は、頼朝の召状を携えて、此館を訪れたことがある。その時、父の常胤は会わなかったが、胤頼は兄の胤正と同席で、彼を迎えたことがある。
「無礼すな!」
胤頼は、武士たちを叱って、
「よく何事もなかったものだ。このお方が本気になって抵抗ったら、其方どもが十人、二十人、かかっても、濠の水を呑んだろうに。──さてさて無事であったは、寔にご堪忍のお情け、辱い」
と駒を降りて、慇懃に挨拶をし直している様子に、橋守の武士たちは、この旅商人、一体何者かしらと、首を傾げ合っていた。
「いやいや落度はそれがしにある。取次を願っても、われらの今の境遇では、尋常にお通しあるまいと、あなた様か、胤正様のお出ましを待とうと、うろついていたため、疑われたのでござる」
「何にしても、ここでは、お話しもならぬ。館まで、お越し下さい」
胤頼は、駒を、侍の手にあずけて、旅商人姿の盛長と、肩をならべて歩み出した。
落着いてから訊くべき事と思いながら、その間も待ちどおしげに、胤頼は、歩きながら言葉短に、もう訊きほじっていた。
「ご無事か。佐殿には」
「は。天佑といいましょうか、おつつがもなく」
「して、今は何処?」
盛長は、後ろを見た。供の侍たちは、ずっと後ろから、胤頼の駒を曳いて来るので、
「安房におられまする」
「安房とは、およそ世間も観ているが……安房のどこに」
「安西三郎景益どのの計らいで、そこの邸に近い寺院を隠れ家に」
「ウム。北条どのは」
「ご一緒です」
「そうか、それ伺って安心いたしました」
「実は、この度も殿のご密書を帯びて使いに来たわけでござるが」
「それは」
と、抑えて、
「後で悠々伺おう。──何よりもお詫びせねばならぬ事は、去年、ことしの春と、二度までも、令旨のお沙汰と共に、佐殿の召状にも接しながら、何のご返事も回さなかったわれらの無礼のかどです。……お察しください」
「いや、その辺のご事情は、よく分っておりまする。……千葉ご一族にとっても重大な分れ目でござる。ましてや、あなた様や胤正様の上にも、お父上常胤様という者がおありなのですから、左様に、手軽く向背を決めるわけに参らぬのも、決してご無理とは存じません」
二人の影は、寺院の登り口でもあるような、森の木蔭と青苔に蔽われた石段を踏んでいた。
「とにかく、会うだけでも、お会いになって下さい」
胤正、胤頼の兄弟は、結束して父にせがんだ。──議論もし、情にも訴え、口を極めて頼んだ。
「それ程に申すならば」
と、父の常胤も、とうとう承知してしまった。
兄弟は、雀躍りせんばかり欣んで、やがて、頼朝の密使、藤九郎盛長を導いて来た。
盛長は、胤頼の館で、すっかり装束を着更えて出た。──意地わるい眼で、その言語動作を見つめていた常胤も、
(よい侍だ)
と、心で呟いたふうだった。
「初めてお目通りを得ます。自分事は、源家の棟梁故義朝様のご嫡男、頼朝様の家人でござりまして、藤九郎盛長と申します者」
と彼の慇懃を、
「左様であるか。儂が、千葉介……」
と、一方は、至ってあっさりと受ける。
藤九郎は、一目見て、千葉介が気さくな老人であるのを知った。年は、当年六十四と、さっき胤頼から聞いてもいた。
味方の北条時政などは、まだ老人というほどな老境でもないせいか、多分に垢ぬけない所だの、我意我説だの、私慾なども旺盛で、よく若い者と衝突はするし、俗にいうかどの取れない所が多分にあるが──この老人は鶴のようだ。それでいて、頬には赤味をたたえている。にこやかで、感じがいい。
「京都へ参られた事があるかの。京都はよいな」
そんな話からはじめた。
合戦がどうの、源氏がどうの、平家が──とそんな噂は噯にも出さないのである。
藤九郎盛長は、足のしびれるほど、長い間、常胤の世間ばなしを聞かされた。
都の女から、恋歌をもらったりした事のある若い時代の秘め事まで、おもしろげに云い出すのであった。
「時に」
幾度か、改まって、口を切り出そうとしたが、外らされてしまう。
そのうちに酒肴が出た。
なおいけない。
宴がすすむと、孫たちから、家人の某、某、某──と次々に出て来ては、
「さあ、お寛やかに」
と杯をすすめた。
盛長は、元来が武骨者である。行儀も長持ちはしないので、もう臍をきめた。ままになれと寛いで、大いに飲み出した。
千葉介も、微酔のよい機嫌になって、
「それでこそ、坂東武者よ。どうも、最前はまだ、佐殿のお使いとはうけ取れなかった。──世も革まって、新しい泰平となったらまた、ずいぶん平家衆のみやびもお真似なされじゃが、きのう今日、伊豆を這い出た坂東者や若人が、今から人の顔いろばかり恐れているふうでは、ちと心もとない。……さあ、存分に、こよいは飲んで」
と、鼓など取寄せて、女たちに打たせた。
老人は、何もかも分っている。──あの言葉の様子では、頼朝様の書面も受け取ってくれる気持にちがいない。
盛長は、そう感じたが、
(待てよ、そうして、自分の為体を見、ひいては、源氏の輩が、どんな士風か、どんな者の寄合か、試みておられるのかもしれない)
とも、密かに警戒した。
警戒しながら、彼は、大胆に飲みつぶれて、そこに眠ってしまった。
海が近いし、しかも夜は秋、丘の上の宏壮な豪族の館なので、寝ごこちは実に快い。
「……盛長どの。盛長どの」
もう深夜。胤頼が、ゆり起していた。
「そっと、奥の間で、父がもう一度、誰も交じえず会おうと仰っしゃる。お越し下さい」
上首尾と、盛長は、血のおどる思いがしたが、
「しばしご猶予を」
と、庭面へ下りて、流れに嗽いし、髪をなで、衣紋を直してから、従いて行った。
「いつまでこうして、安房にじっとしていても仕方があるまい」
頼朝は、焦心っている。
いつまで──と云ってもまだ安房に上陸してから、半月程にしかならないのであるが、頼朝に取っては、永い気がした。
毎日を無為に過しているまに、刻々、眼前の機会が、逃げてゆく気がしてならない。
しかし、その半月の間も、決して手を拱いているわけでなく、下総の千葉介常胤の所へ、藤九郎盛長に密書を持たせて遣ったように、同様の書面を、八方へ送って、
──旗下に馳せつけよ。
──志のある輩は、みな伴れて来い。呼びかけて来い。
と、味方を募っていた。
小山四郎朝政。
下河辺行平。
豊島権守清元。
葛西三郎清重──などという顔ぶれの所は、それぞれ源氏にゆかりのある者、脈があろうと期待されていた。
中でも、葛西清重からは、逸はやく返辞が来たが、
(江戸、河越なんどの平家方に睨まれているので、参るには参るが遅くなる)
と嘆いて来た。
頼朝は、またすぐ返書を送って、
(陸路がむずかしければ、海路を渡って来い。時逸しては、千載までの恨事を遺そうぞ)
と云って遣った。
それほど、彼の胸では、事を急いでいた。──お味方申そうと云って来た上総介広常からも言葉だけで、今以て迎えが来ないのである。
「時政」
「はっ」
「こちらから上総へ出向こうではないか。こんな僻地にいては、馳せ参ずる者どもも不便だ」
「──が、もうしばらく、お待ちなされませ。当所の安西殿が今は旅先にあって留守でもござれば」
「安西三郎の庇護の下に、こうして半月の余を過しながら、無断で去っては悪いが、一日遅ければ一日だけ、味方に利という事はない」
「それにしても、まだ下総へ参った藤九郎盛長も帰らず、その他、諸豪の動向もよう分らぬうちは」
「お許、何を云う」
軍事を語る時の彼は、時政だからとて舅御と崇めていなかった。
「諸豪のうごきと、よく云わるるが、今となっては、誰が参らずとも、何者が敵と立とうとも、頼朝の方針に変りあろう理はない。たとえ身一人となっても、突き進む以外の道を、頼朝は知らぬ」
この頃の彼は、云い出したら肯かなくなった。旗挙げ以後──殊に石橋山以来、彼の温容な貴公子風は、すっかり強靱な皮膚と信念に固められて、時によると、時政でも土肥実平でも、頭から叱りつけたりする。そうした烈しい叱咤は、以前の彼には、まったくなかったものである。
「──では、大勢は人目立ちますれば、五、六騎ほどお連れ遊ばして、密かに、お体だけを先にお移しあるおつもりで、上総介の館へお越しあっては如何でしょうか」
時政も、遂に、妥協してそう云い出したので、何分にも蟄伏している退屈にたえない頼朝は、その夜のうち仮住居の寺院を立って、安房から上総路へ向った。
二日目の晩である。
然るべき家も見当らないので、大きな沼の畔りの百姓家に泊めてもらった。すると真夜中に喊の声だ。──供についていた三浦荒次郎義澄は旅装も解かず、裏の藁小屋の柱に倚りかかったまま、不寝番していたので、すぐ駈け出して見た。
何者か、およそ六、七十人、中には騎馬の影もある。此家を遠巻きにして、わあッわあアと騒いでいる。──そして大した弓勢ではないが、旺んに、矢を送って来た。
この辺に住まう、長狭六郎という平家の侍が、夕方、頼朝の泊ったのを嗅ぎつけて、
「降って湧いた幸運」
とばかり、頼朝の首を取りに、夜襲して来た者だった。
三浦二郎義澄は、
「殿っ、お目ざめ下さい」
と、家の中へ呶鳴ったが、物音がしないのでまた、
「各〻っ、各〻っ」
と、裏口から起した。
起きて騒ぎ立てているのは、此家の百姓の家族ばかりだった。嬰児の泣き声やら、老人のわめき声が、外の矢うなりにつつまれて、哀れに聞えた。
「主っ、驚くな。外へ出るな。泣かずともよい。おまえ達は、一間にじっとしておれば怪我はない。──が、殿と侍たちは、どう召された」
義澄が、早口に問うと、
「お客方は、あれに」
と、嬰児をかかえた女房が、唖のように、舌を吊らせて、わくわくと指さした。
裏の畑の地先は、すぐ沼の汀だった。頼朝はもうそこの小舟にかくれていた。
「義澄っ、はやく乗れ、捜していたのだ」
「あっ、殿ですか。──そのまま殿こそ早く岸を」
「乗れと申すに」
「いや、殿軍します。対岸の部落でお待ちください。それがしは陸路をまわります」
云い捨てると、義澄はもう敢然と、家の前の往来へ出て、近づく敵と斬りむすんでいた。
「義澄を討たすな」
と、頼朝のそばから、二人立ち、三人立ち、五人まで駈け上がって行くと、
「みんな来いっ」
と、頼朝まで、跳び上がって、遂に敵へ当り始めた。
敵は、六、七倍の人数だが、当ってみると、案外弱かった。いや、こっちの皮膚や精神が、伊豆でさんざん鍛えられて来ているので、そう思われたのかも知れなかった。
「追うな追うな。深入りすな」
五、六町先まで、追い崩して、頼朝は引っ返して来た。
「此家の百姓を宥ってやれ」
と、頼朝は、持合せの物など与えて、夜の明けないうち、小舟で沼を越えた。
翌日。
安西三郎景益は、頼朝が立ったと聞いて、近くの旅の途中から、にわかに道を更えて追いかけて来た。そして、
「行く先々、前夜のような狼藉者や、この際、何とか平家の恩賞にあずかろうと、慾にかかっている者も無数にある。軽忽なお旅は、危険極まるものでござる。すぐお引返し遊ばされますように」
強って諫めたが、
「前へ行く道のみがどうして危ういと云うか。後ろへ退く道が必ず安全とどうして云えるか。そう考えるのは、まだ平常に囚われておる其方の観念だけのものだろう」
頼朝は笑って肯かない。
ぜひなく、彼も供に加わり、かくなる上は、とその由を、安房へ報じて、北条時政やその他の人々へ、
(途中で待つ。急いでご参加あれ)
と、云い遣った。
時政以下の者は、安房を引払って、追いついて来た。総勢ここに三百余人となった。──もう忍びの旅行とはゆかない。公然たる源氏の出動だった。安房に上陸して以来、初めて「軍」としての歩みを開始したものだった。
武器、武装、元より安全ではない。三百の小勢は、まったく心もとない人数にちがいなかった。
しかし、頼朝が肯かないので仕方がなかった。時政も晴れない顔であった。この時ばかりは、彼の老練な思慮も用をなさず、ただ頼朝の強情と若さに引っぱられて、ぜひなく歩いているといった姿であった。
──ところが。
前に千葉介の所へ使いに行った藤九郎盛長が、下総から帰る途中、頼朝の出動を聞いて、これへ尋ねあてて来た。
待ちかねていた頼朝は、盛長が帰ったと聞くと、すぐ招いた。
「千葉介が返答はどうであったか。──応か、否か」
「ご書の趣、承知とのお答えでした。最初は、難しいお気色に窺われましたが、ご子息方が、挙ってお味方あるようと、此方をご支持くださいましたため、さしも常胤殿にも、ついに、ご加担申そうと、お約し下されました」
「そうか」
頼朝の胸は、どっと鳴るほど、歓びに開けたに違いなかった。しかし、そう一言、唇をむすんで云っただけだった。
盛長は、なお、復命をつづけて、
「──また、常胤殿が仰せには、安房、上総、何地にしても、佐殿がおらるるご宿所として要害とは申されぬ。すこしも早く、旗をすすめて、相模の鎌倉にお拠りあるが上策かと考えらるる……との事でござりました」
「鎌倉へ」
彼は、天来の声でも聞いたように、眸をあげて、
「──鎌倉へ。ムム、鎌倉へとか」
と、何度も呟いた。
それから盛長に、大儀であった、休むがよいと、犒って、自身は、時政やその他の将を集めて評議し始めた。
評議の結果、急に、軍の方向が変った。
ここまでは、
「上総介広常の館へ」
と、それが目標であったし、次の行動にかかる根拠地と目されていたが、頼朝は、その方針を一変して、
「鎌倉へ進もう」
と、ここで云い出したのであった。
「鎌倉は源氏発祥の地と申してもよい。──後冷泉院の御宇安倍貞任を討ち鎮められた後、祖先源頼義朝臣は、相模守となって鎌倉に居を構えられた。──長子の陸奥守義家朝臣もおられた。──鶴ヶ岡八幡宮は、康平の秋、ご父子が奥州征伐のご祈願に、石清水を勧請なされたのがその縁起であるやに聞いておる」
やや迷いの見える諸将の顔色を見まわしたが、頼朝は、自分の熱意を押しつけるように、なおも、説いた。
「頼義公の威徳は、当時、坂東の武夫どもがみな慕うところであった。民は帰服し、弓馬の門客は、常に諸方より鎌倉に往来して、公に接するのを名誉にしていたという。よく士を愛し、施を好むお方だった。嫡男の八幡太郎義家公については云うまでもない。──それやこれ鎌倉こそは源氏に由緒の深い第一の地と思う。──要害の点も、この地方とは、比較にならぬ」
口を極めて、彼は、鎌倉を主張した。いや、その何れにするかを、諮っているのではない。自分の信念を、諸将にも、自分と同じ熱意まで信念させるために、云っているのであった。
鎌倉と聞いて、誰も皆、
「なるほど」
と、そこの有利なことや、源氏にゆかりのあるという点など、異存はなかった。けれど、頼朝の云うのを聞いていると、頼朝は、そこに拠ることの上策であることのみ極めこんでいて、ここからそこまで進軍してゆく事のいかに至難な業か──可能か不可能かも、まるで考慮していないように見うけられた。
実際、頼朝は考えていなかった。この際、考えてなどいたら一歩も進む地はないからである。彼はただ、良い! と信じ、行こう! と思い立った方へ指さした。──そして、
「来る者は、われに従って来いっ」
と、他を云わず、三百余の兵の真っ先に立った。──鎌倉へ、鎌倉へ。道を更えて、海沿いに出て進んだ。
そのまま頼朝の人数が、下総の国府までかかると、千葉介常胤は、胤正、胤成、胤道、胤頼などの子息たちを初め、一族郎党三百余を従えて、迎えに出ていた。
「手みやげのしるしに」
と、常胤は、頼朝との見参に、一名の捕虜を曳かせて来た。
「これは、何者か」
頼朝が、訊ねると、
「千田判官代親政と申し、当国千田庄の領家でござる。平忠盛が聟にもあたれば、お行先を遮るは必定と、こちらから機先を制して襲せかけ、その折、孫の小太郎成胤が、生捕りました者でござる」
老人は誇らしそうに云った。
「その孫は、いずれに?」
常胤の誇りに花を添えてやるように頼朝が訊ねると、
「小太郎、小太郎」
と老人は、孫の成胤をさしまねいて、頼朝の見参に入れた。
まだ十六、七の若者だった。頼朝は、平治の乱に、自分たち兄弟が初陣に立った時を思い出すなどと語って、次々に、常胤老人の子息を近くへ招いて、
「みな、あっぱれな面魂。競って家名を揚ぐる事であろう。行末、頼朝も目をかけて進ぜるゆえ、老台にご安堵あるがよい」
と、云った。
わずか三百の小勢を引き率て、まだ拠る所も持たない漂泊の亡将にしては、その言葉は、ずいぶん大言であったが、常胤は、むしろその大言を頼母しく見上げて、
「子息も、孫どもも、挙げてお預け申すからには、如何ようとも、お引廻し下されませ」
と主従の約をつがえた。
その日、千葉城からは、頼朝の軍勢一同に、弁当を贈った。
行軍の将士は、それを野外で開きながら、久しぶり飯の味を噛みしめた。──こんな飯を今日ここで味わおうとは、予期しなかったところである。──ある者は、
(きょう下総へ入ったら、早速に合戦となろうも知れぬぞ)
と、弓弦を調べたり、足拵えを確かめて来た程だった。それ程、千葉一族が味方に加わるという事も、ここへ来てみるまでは、まだ半信半疑だったのである。
将士でさえ、そうであった程だから、顔に出さない頼朝の歓びも、内心はどれほどだったか分るまい。──その歓びの溢れがつい云わせたのであろう、頼朝は、その夜、猪鼻台の館の饗宴に臨んだ時、常胤の手を取って、
「何だか、自分までも、あなたの子息の一人かのような心地がする。以後、貴殿を以て、父とも思うぞ」
と、云った。
そう云われた常胤は、頼朝の世辞とは思いながらも、
「よい息子がまた殖えた。日本一の息子どのではあるまいか」
と、心からほくほくしたが、頼朝の側にいた北条時政は、何か、嫌な顔をしていた。──同じような巧い言葉を、かつて、頼朝の口から、自分もうけた事があるので、それが思いだされたのである。
城内に、一夜泊って、十八日の朝、頼朝はここから出発した。
すると、館の出口に、紺村濃の直垂に、小具足を附けて、跪いている若者がある。常胤の息子でもなし、孫とも見えないので、
「あれにおる者は?」
と、頼朝が訊ねると、常胤は、待っていたように、その若者へ、
「近う。──頼隆殿、近う」
と、さしまねいた。
「これは、毛利冠者頼隆と申されて、あなた様の亡父義朝公の伯父君にあたるお方の遺子でお在せられる」
と、常胤は紹介わせた。
亡父義朝の伯父で東国にいた源氏といえば? ──頼朝はハタと膝を打って、
「さては、陸奥六郎義隆が子か」
と、思い出して云った。
「はっ」
と、逞しい若者は、答えて、頭を下げた。
「忘れもせぬ……」
と、頼朝は呟いた。
「平治の合戦に、父義朝は敗れて、都を落ちたが、その折、叡山の北の龍華越えのあたりで、追い来る敵へ駈け戻し、亡父義朝に代って戦死したは──お汝の亡父、六郎義隆殿でおわした。……その年、ひとりの遺子は、生れてまだ五十余日と聞いていたが、さては、その折の嬰児が、お汝であったか」
「永暦元年の二月、私が二歳の春、この下総国へ流されて来ましたが……常胤様のお情けによって、密かに、きょうまで養われて参りました。──そして今日、源氏の御旗の下に、こうして、あなた様のお姿を拝し……欣しくて……何か夢のようで」
と、二十歳ばかりの多感な武夫は、感極って、後は両手をつかえているだけだった。
「常胤。ようぞ長い間、この孤児へ慈悲をかけ賜わったの。わしからも礼をいうぞ。──いざ立とう。頼隆も従けや」
彼は、館から歩み出した。猪鼻台の丘を大股に下って行った。
追いかけ、先立つ武者たちの物の具が、秋の陽に燦々する。城門のほとりや郭内の侍邸の並んでいる辻々には、たくさんの見送り人が佇んでいた。
武者が、旗を振って来るうしろから、頼朝を真ん中に、常胤の一族や、北条時政や、諸将の姿が見えて来ると、辻の人影はみな大地にうずくまった。──そして、頼朝の顔を見た者はなく、わずかに、力づよく運んで行くたくさんの武者草鞋の中に、
「あれが、もしや?」
と、思い寄せて見ただけであった。
陣貝が旺んになってゆく。
頼朝と常胤の兵を併せると、総勢七百からの行軍になった。ただ一色の源氏の白旗につづいて、千葉家の月輪の紋じるしも幾旒か翻っていた。
この日を、味方の数の殖えはじめとして、半日の間に、千を越えた。
「千葉殿がご加勢あるからには──」
と、五人十人ずつの、小さい仲間も俄に駈けつけてくるし、その前に、頼朝から召きの書状が飛んでいる葛西領、豊島領あたりの僧も二十、三十と郎党を率きつれて、途中から加わった。
──鎌倉へ!
──鎌倉へ!
次第に全軍の足なみは大きくなった。そして、武総の堺、隅田川河原まで来た頃は、その河原で、待ち合せていた者や、海のほうから船で遡って来る人数もあったりし、一躍、二千余騎の軍隊となった。
その夜は、河原に陣して、思うさま、人々は、秋の夜空をながめた。
河幅は怖ろしく広かったが、水は渡渉できる程だった。数日、残暑の汗によごれた肌着など洗う兵もあり、魚を漁って、篝で焼いて喰っている仲間もある。
──が、こよいにも、武総の地にある平家が、いつ夜襲して来ないとも限らない。水が蕭々として夜更けを告げるほど、歩哨の兵は眼を光らしていた。
すると、隅田の宿の先まで、物見に出ていた兵の二、三騎が、
「おういっ」
何事かあったように、鞭を上げて、此方へ駈けて来た。
「大軍が来るぞ」
河原で馬を降りながら、物見の兵は、そこらに立っている歩哨へ云った。
「なにっ、敵かっ」
と愕く声へ、答えもせずに、その影はあたふたと、土肥次郎実平の宿営へ駈けこんだ。
実平が、時政を訪れ、時政が常胤を起し、中軍の篝は俄に明々と火の音をはぜ、頼朝の座右には、すでに諸将のすがたが詰め合っていた。
──これへ大兵が来る。
との報らせは、次々に告げて来る者の口から、その装備、兵数、旗じるしなど、すぐつぶさに知れた。
兵数は、およそ二万余と聞えた。
前に、頼朝が安房にいた時、逸早く返書をよこして、
──お迎えに参向する。
と、味方を約し、落魄の頼朝を、第一に歓ばせてくれた上総介広常の軍勢だった。
二万。
という兵数を聞いただけでも、諸将の面上には、包みきれない歓喜が漲って、
「ほ、ほう……」
と眼をかがやかした。
「この有力な大軍が、お味方に加わるからには」
と、きょうの暁天から、源氏の運勢が革まるような思いを誰も抱いていたのである。
その朝空は、隅田川の水ひとつに、うっすらと白みかけていた。
広常の大軍は、隅田の宿あたりを境に、河原から野へ亙って、雲のように、止まっていた。
そして夜明けの光を見ると、その中軍から、赭ら顔で髪の真っ白な老将が、一門の騎馬武者たちに囲まれ、二十名ほどの兵卒を先駆として、ゆるやかに駒をすすめて来るのが見えた。
「オオ。上総介殿が来られる。ごあいさつに見えられる」
頼朝の営外に立っている兵たちは、小手をかざしながら、新しい味方の堂々たる威風を、頼もしげに眺め合っていた。
四、五の将も、そこへ出て、
「道を開け。その駒の群れを、彼方へ移せ」
などと指図していた。
広常は、間もなく、陣所へ近く来て、ゆらりと駒を降りた。──そして士卒を遠く立たせ、嫡男以下の肉親だけを従えて、幕の近くまで進み、
「これは上総介広常でござる。一族、近国の輩など狩り催し、二万余の同勢をひきつれ、ただ今あれに到着いたしました。この由、佐殿まで、お披露なねがいとう存ずる」
朝露に濡れた陣の幕は、雨に晒されたように重たげに垂れていた。──広常のことばをそのまま伝えて、武士は、頼朝のすがたの見える幕の下に跪いていた。
「…………」
いつまでも、頼朝が唇をむすんでいるので、辺りの将たちは、彼の面へ眸をあつめていた。大河の水の前に夜明けの光の白々とした下に見ても、その面は、配所にいた頃とは、別人のような黒さと強靱さを見せていた。
「畏れながら、お耳へ達しまする。ただ今、上総介広常殿には、二万余騎をお味方にひきつれ……」
再び、取次の武士が云いかけると、石橋山の谷間以来、久しく聞かれなかった頼朝の大声がいきなり、
「ならぬっ! 追い返せ」
と、大喝した。
幾条もの幕の彼方に、かなり距ててはいたが、その声は、上総介のいるあたりへも、十分に届く声量であった。
「頼朝が安房より進軍してから、はや幾日になると思う。その間に、合戦あらば、二万十万の兵とて、間にあわぬ味方だ。──遅れ馳せは、武士の第一に忌むところである。左様な者は頼朝と事をするには足らぬ。目通りはならんっ、疾く帰れと云え!」
主従の隔てはべつとして、頼朝とは一心同体と信じている人々にも、頼朝のことばは、実に思いもうけぬ事だった。
千葉、土肥、北条など居あわせた諸将は誰もが皆、ハッと顔色を変えずにいられなかった。
第一に恐れた。
上総介広常の耳へも聞えたであろう事を。
第二には憂えた。
せっかく味方に来た二万の軍勢が、為に、離反して行くことを。
第三には、疑った。
頼朝の頭脳を。怒りを。
そして、茫然の裡に、やや呆れ気味さえ湛えて、頼朝の怒っている──ほんとに怒りきっている苦々しげな面を──生唾のんで見すえていた。
正当だ!
これでいいのだ!
大喝を発して、ぽっと熱した耳朶をしながら、頼朝は大きく唇をむすんだまま、自分の胸へ自分で云っているように黙りこくっていた。
幕の裾から倉皇と退がって行った取次の武士は、陣外に佇んで案内を待っている上総介へ、主君のことばを、そのまま、伝えるしかなかった。
「寔に、お気の毒な仕儀でござるが」
云い難そうな口吻で、そう伝えかけると、広常は、もう聞いていたのであろう、
「ご機嫌がお悪いようでござりますな。ご不興を蒙ったかどは、幾重にも、広常が落度に相違ござりませぬ。──自身、御前に罷り出で、篤とお詫びいたさねばなりませぬゆえ、もう一度お目通りのおゆるしを賜わるように、左右の方々へも、お取做しの儀願い入りまする」
と、頭をさげた。
辞色も静かで、丁寧には云っているが、上総介広常も、土のような顔色をしていた。心のうちの穏やかでない事は当然わかる。
二万の兵をつれて、子や孫や一族どもまで語らい、ここへ見参に来ながら、頭から今のように叱りつけられて、何でそのままこの陣門を退がられよう。老将が、この年まで覚えない恥をさえ感じたにちがいない。──身も顫えてくる、侍の面目をじっと噛んで躁ぐ心を踏み怺えているにちがいなかった。
「……では、暫時」
同情にたえないふうである。武士はまた、幕営の奥へもどって行った。
その姿が、隠れるとすぐ、
「ちッ、父上っ」
「大殿っ」
「広常殿っ。かッ、帰ろうっ」
彼のそばにいた子息や一族の誰彼は、左右から彼の手や鎧の袖を引いて、憤然と促した。
「な、なんだっ、千にも足らぬ小勢を引いて──。伊豆に敗れ、辛くも安房にのがれて、ようやく千葉が組したので、形ばかりの軍勢となったまでの佐殿ではないか。──ちと、慢じているっ。さ、さっ、広常殿、戻りましょう」
同じ年配に近い同族の老人さえこう云って歯がみをすると、なおさら、子息や孫の若武者輩は、もう敵として立つ決意さえ眸に研ぎたてて、
「佐殿が何じゃッ。今の大声を聞けば、思い上がった阿呆に近い。あんな大将に、何で大事がなろう。こんな陣門へ礼を執って来ただに口惜しい限りじゃわッ。──さっ、引っ返そう! お祖父様」
「父上っ」
と、動かぬ広常の体へ寄り集まって、無理にでも、引き戻そうとした。
「…………」
が。広常は動かない。
そのうちにまた、頼朝の座所から前にも増して烈しい声がながれて来た。
「──ならぬっ。いらざる取做しをいたすなっ。追い返せと申すに!」
広常の身をつつんでいた一族の輩は、その声を洩れ聞くと、くわっとなって、
「うぬっ」
一斉に、陣刀のつかを掴んだ。
「何をするっ。推参な」
広常は、叱りつけると、どう考えたか、それへ坐って、両手をつかえないばかり身を慎んで見せた。
二度、三度まで、取次の役目に立った者は、広常と頼朝のあいだを往復したが、頼朝の怒りは依然解けなかった。
三度目には、余り気の毒と思ったか、取次の者と共に、土肥実平も出て来て、
「きょうは一先ずお引取あって、他日、再度ご見参に出られては如何でござる。その間に、われわれよりも、ご気色を窺って、よくお取做しいたして置きましょう程に」
と、慰めた。
しかし、広常もまた、辛抱づよく、これほどまでに叱られながら、なおも、大地に坐ったまま起とうともしなかった。
「いやいや、佐殿のお怒りは重々ご理由のあることでござる。大事な西上のご発向に、馳せ遅れ申したは、広常が一代の不覚と、慚愧にたえませぬ。一たんここを起っては、殿のお憤りに対し、たとえ一時でも、広常が不平を抱いて去ったかと思わるる惧れもござれば、殿のお怒りが解くるまでは、ここに坐して、謹慎しておる所存でござる。どうぞ眼の外にお置き下されい」
いつか陽は高くなる。
馬には糧を飼い、兵は朝の兵站に忙しない。
対岸から伝令が来る。
また、一群れの騎馬が渉って来る。
それらも皆、江戸、河越、甲府、秩父などの諸地へ行った使者の戻りや、或いは、その返書を齎して来る先方の使いなどであった。
石浜宿の住民が、隅田川で漁ったという鮮魚を小舟で献上に来た。それから少し後、附近の神社の神官や土民の長が、連れ立って、拝礼を遂げて帰ってゆく。
陽はいよいよ高くなる。
「聞いたか」
駒寄場の辺りで四、五人の兵が大声ではなしている。
「けさの早打ちによれば、この月の九日に、帯刀先生義賢様のご次男、木曾義仲どのにも、旗挙げして、等しく、以仁王の令旨をかざし、山道の地方から、都へ都へと、所の平家を打破って、攻め上っておるということだぞ」
「ほ! それは初耳だ。──だが、こちらにも吉報がある」
「何か」
「伊豆では、平家方に立って、三浦殿を悩ました秩父の畠山重忠が、一族の衆、数人を使いとして、何やら殿の御前で諜し合せして帰った。──お味方に参会せんとの前触れとおれは見たが」
「武田太郎信義どの以下、甲斐の源氏も、どこかで合流するという。江戸、河越も、きょう明日には向背を決めてくるだろう」
兵のうわさは、単にうわさだけのものとも見えない。その半日の間だけでも、三十人四十人と一隊になって、舟で海口から溯って来る者や、騎馬徒士立ちで、対岸から川を越えて参加し、或いは、随身を願い出る者が、やや大袈裟にいえば、ひきもきらない有様であった。
そうして、随身した兵は、すぐ労役を命じられた。半日の間も遊ばせてはおかないのである。附近の民家を壊したり、小舟を集めて大河を貫く舟橋の架設に向けられたり、軍器の手入れ、兵糧の徴発、あらゆる方面に働いていた。
「…………」
広常は、まだ坐っていた。
つい先頃までの彼は、頼朝の召をうけても、去就に迷っていたのである。が、今暁ここへ来る時には、もう肚は極まっていた。
──味方と見せて、二万の兵をもって包囲し、一挙に討ってしまう──であった。
彼の考えは、三度変った。
──会う要はない追い返せっ。
と、頼朝から案に相違した叱言を聞いたせつなにまた変ったのである。──これは。この人物は。とさすがに長い生涯を通って来た老将だけに、初めて頼朝の人間を見直したものであった。
「誰じゃ。そこにおる爺は」
何かの指図に、陣の外へ歩み出て来た頼朝は、まだ、大地にじっと坐っている上総介広常を見かけて、
「あれは、何者か」
と、もう今朝の事など、忘れているような──その実、忘れていないらしくも見える顔をして──傍らの土肥次郎実平に訊ねた。
「上総介どのにござります」
答えると、
「何。広常か」
「はい」
「まだおったのか」
「お怒りの解けぬうちはと──」
「ああ、それほどまでに」
大きく、頼朝は云いながら、自身つかつかと広常の前へ歩み寄って、
「老人、御足が痛かろう」
と、軽く彼の肩をたたいた。
「──あっ、これは」
あわてて広常が、手をつかえかけると、頼朝は、その手を掬い取って、
「挨拶はあちらにて受けよう。さるにてもご堪忍のつよい事ではある。頼朝は今、ここ生涯の門立ち、死にもの狂いの気と、秋霜の軍律をもって臨んでおり申せば、自然厳かに過ぐるとも、微塵、日頃の私情や妥協は持ち合わさぬが──ようその軍律にお伏しあったぞ。味方どもの心もこれでよけいひき緊まろう。もうよい。──いざ、こなたへござれ」
と自身、自分の幕営のうちへ、手を取らぬばかり宥りながら導いて行った。
で、広常はようやく、源氏のお味方たることを許されて、初めて自分の陣所へ帰った。
けれどもまだ納まらないのは、彼の肉親たち諸将の輩だった。──その夜、営内に広常を取囲んで、無念の涙さえたたえながら、
「いったい何故あって、あんな辱めをうけながら、誰にも出来ぬご堪忍をなされたのですか──それとも飽くまで彼に油断をさせて、後日、頼朝の首をあげて、一度に、ご鬱憤をはらそうというご計略ですか」
と、詰問り寄って彼の真意を打叩いた。
広常は首を振って、
「いやそうではない。わしは今日という今日ほど胆を潰された例はこの年までまだ覚えぬことだった。──で、真実、あの殿には、頭が下がったのじゃ。そち達も、以後二心なく、あの殿をもり立てて行ったがいい」
そして彼はなお、次のように自分の観るところと、一つの例を、一族の後進のために説いて聞かせた。
天慶のむかし、この東国で平将門が乱を起した時、人のわるい藤原秀郷は、わざと彼の人物を視てやろうと、加勢と偽って会いに行った。
すると将門は歓びの余り、結びかけていた髪のむすびも結びあえず、冠をつけて客座に出て来た。その様子の軽率なのに、秀郷は、愛想をつかして戻って来たということが云い伝えられている。
それに反して。
頼朝のきょうの態度は、見上げたものと云っていい。今、天下は平相国の領地でないところはなく、平家の与党の住まぬ地は一郷一村とてない程なのに、一流人から起って、わずか三十余日、麾下の武者とて五、六百の小勢に過ぎぬ微弱を以て、この広常が、二万の大兵をひきつれて加担に罷り出たとあれば、将門が秀郷を迎えたよりは、大歓びに歓ぶかと思いのほか、
遅参の条、緩怠至極。
と怒ったのは、怒られながらも実に快い事だった。将たる器は実にああなければならない。おそらく、こちらの肚も観ぬき、その効果をねらって怒った事かもしれぬが、それにせよ行末頼もしい大将という資格に変りはない。
大事はあのお方の手に依って成し遂げられるにちがいない。そち達も、もはや迷うな。──もっとも誰よりも一番迷っていたのはこのわしじゃが、今日以後、上総介広常はまぎれない頼朝殿の股肱であるぞ。くれぐれ生涯の方向をそち達も過ってくるるなよ──と、広常は、夜更けるまで語りつづけた。
相模の大庭景親から出した注進の早馬が、京都に着いたのは、九月一日だった。
六波羅では、
「片づいたな」
と、軽く見て、すぐ注進の一通を太政入道の手元へ。べつの一通は役人たちで開封した。
それより前に。
流人兵衛佐頼朝謀叛、遽ニ山木ノ館ヲ囲ミ、
判官兼隆ヲ殺戮シ、放火焼失シ終ンヌ。
という飛報はあったが、
兇徒、ワヅカニ三、四十名ノミ。
とあったので、
「なんじゃ、人騒がせな」
と笑った程であった。
次の早打ちには、
──兇徒、勢ヲ得、三百余人、石橋山ニ立籠ル。
と見えたが、その僅少な徒党に対して、伊豆、相模、武蔵の平氏が何千と駈け向ったというので、
「ても、大仰な……」
と、なお、嘲っていた。
今、景親からの三度目の報告を開いてみると、案のじょう、その文には、
二十四日暁天。
頼朝、堪ヘ得ズシテ、遂ニ当所ヲ退キ、不知行方。
或説ニ曰フ。穴ヲ掘テ自ラ埋リタリト。
又、説ヲ為ス者曰フ。
石ヲ抱イテ水ニ入レリト。
巷説多端、ソノ首ヲ見ザレバ確メ難シト雖モ、滅亡ノ条勿論歟。
「はははは。石を抱いて水に入る──はよかったな。火へとびこめば夏の虫だった」
一場の笑いばなしと過ぐる中に、景親に対しては、兇徒というかどで、恩賞の沙汰すら議されていた。
入道相国の身近に出入りする大将のひとりから洩れたはなしでは、頼朝謀叛と聞えた時、入道はひどく不機嫌ないろを示し、
「恩知らずの童めが」
と、口汚く罵ったが、次々の報告などには、一向さしたる関心も持たず、ただ最後の景親の早打ちを見た時は、
「ばか者である!」
と、暑い日に、一杯の冷水でものんだような顔をしたという事であった。
福原の海岸へは、ことしの夏も、知盛、維盛、忠度、敦盛など一門の大家族が、各〻の別荘へ、みな避暑に赴いていたが、秋風と共に、遊び飽きない姫や公達輩も、ようやく、都へもどって来た頃だった。
その都はまた、秋は秋とて、やれ月の宴とか、管絃の会とか、詩歌三昧などはまだ清遊のほうであった。歌えば淫らだし、語れば恋とか喰い物の事とか、官職のあばき合いとか、人の陰口とか、そんな範囲でしかなかった。
この世は遊ぶためにあって、百姓庶民は自分たちを遊び飽かせる為に生きている──そういう公達の頭には、太政入道が空脛の青年時代に、瀕死の親の医者を迎えるため医師へ行っても来てくれず、薬価の算段に歩いても何処でもすげなく断られ、垢じみた破れ直垂一枚で、冬空の下を、
今に見ろ。
今に見ろ。
と、水ッ洟をすすりながら独り力み泣きに鼻づらを赤くして泣いた事もあった──などというはなしは、誰も清盛から二度三度は聞かされている筈だが、まるで遠い遠い昔ばなしの事でもあるように、ひとりとして身に思い出してみる者もなかった。
そんな孫どもや子息やまた、それにつながる係累の救われない生活ぶりを眺めていると、太政入道は、時にひとり憤ろしくなって、
「いっその事、天譴があらわれて、こんな痴児はみな、海嘯に攫われてしまえ」
と、世の為に憂うることもままあったが、時しもあれ、九月下旬、
兵衛佐頼朝、其後モ生存アツテ、武総ノ隅田河原ニ陣シ、千葉、上総、甲信、武相ノ諸源氏ヲ語ラヒ、兵員三万余騎ト聞エ、ソノ勢逐日熾烈。
と、ある諜状を手にすると、勃然と怒りを東へ向け変えて、日頃、唾棄している都の現状や一門の繁栄を擁護する権化となって、すぐ討伐の軍議を命じた。
嘘みたいに皆思った。
信じようとしても、信じられないのである。
石橋山から行方知れずになった頼朝が、わずか一ヵ月の間に、総勢三万余騎で、隅田川をこえ、大井をこえ、徐々、西上して来る形勢だという。
いや。それどころでない。
次々と、情報のはいるたびに、三万騎が五万騎となり、七万騎に近いといい、果ては、十万余騎の軍勢と伝えてくる。
「ばかな」
「あわて過ぎておる」
「理に合わぬ事ではないか」
理に合わなければ、彼等は得心しないのだ。しかもその理論は自分たちの観念を基数として立てたものでなければ肯定できない。
いつしかそういう習性を以て最も優れたる階級の上にあるものと自分たちの知識を誇っていた。
──それと。
もうひとつ、彼等の知性のうちには不思議な病症が漾っていた。
それは。
驚かない!
という奇異な麻痺であった。
どんな事が起っても驚かないのである。
たとえば。
ひどい旱魃がつづいて、諸国窮民にみち、道にあわれな屍臭が漂い、都下の穀物は暴騰し、巷の顔は干からび、御所の穀倉すら貢物なく、人々はどうなるかと嘆息している──と聞いても彼等は驚いた顔もしない。
困る者は困るばかりに追いこまれてゆき、富有な者は、平家一門の風をまねて、世をも人をも恐れない贅沢ばかりして顧みないと聞いても──彼等はべつに驚かない。
日常、事々に、驚くことを忘れ果てた人々は、この春、源三位頼政が、あんな現実的に、血をもって、世の苦悩を示しても、なお、そう驚きはしなかった。
(それみろ、すぐ片づいてしまったではないか)
と、むしろ騒動の後のいろいろな話題を興がって、しばらくは退屈をなぐさめられたくらいな顔していた。
あらゆる角度から観て、世の中の大きな意志は、少しずつ方向を更えている。それは、巷に歌われる童歌にも、力のない百姓の顔いろにも、何か倦み飽いた顔している市人の眼にも、明らかに、現れつつある事だったが、そんな大勢などには、当然、驚くわけもない。
華美に驚かず、美食に驚かず、果ては、あらゆる自分等の生活のまわりにさえ、良き驚きを失っている神経は、とうとうこの月、木曾義仲が挙兵の報を北方から聞いても、頼朝が西上の急を東から聞いても──なお依然として、驚かない評定をつづけていたのであった。
「近頃、おかしなうわさを耳にしたぞよ」
その評定も、ともすれば、雑談にばかり流れ易かった。
「また、うわさか、よくいろいろなうわさが飛び出す。頼政にかつがれて、宇治でご最期遂げられた以仁王が、まだ生きていらっしゃるという巷説ではないか」
「そうじゃ。御身もはや耳にされたか。──生きておられるくらいはまだよろしいが、それが、頼朝の陣中にあって、指揮に当っておられるというのじゃ。そのため、何十万の源氏が立ちどころに寄ったというのじゃ。……さも、真しやかによ。アハハハ」
「はははは」
一方で軍議しているかと思えば、一方では笑いどよめいているといった体たらくである。そして早くも、この席が終ったら、こよいは何館の池殿へ寄って酒を飲もうか、管絃して遊ぼうか、そんな事にもう思いの忙しない顔つきも沢山に見えるのであった。
そういう驚かない鷹揚な顔ばかりの中で、老いてもなお、驚く神経を持っているのは、太政入道の清盛だけであった。
彼の側近くまで進み出て、何かしきりと献言している斎藤別当実盛のことばを熱心に聞き取りながら、清盛は、大きく呻いたり、首を振ったり、重盛を亡くしてから老来とみに悄沈していた彼も、にわかに、驚きに甦って、矍鑠と持前の生命力をてかてかと顔じゅうに光らせて来たかの如く見うけられた。
頼朝頼朝という声が、しきりと喧伝されてから、一般の民間では初めて、
「そういう人が、まだ東国とやらに生きていたのか」
と、気がついたふうだった。
今更のように、彼等は、平治の乱や保元の頃の憶い出を、新たに語りだして、二十年の歳月をふり顧り、遽に、世の中の変貌に目をみはり出した。
「そうそう、あの折、六条の頭殿の遺子という幼な子が、粟田口から押立の役人衆にかこまれて、伊豆の国とやらへ流されて行った──」
「その下の乳呑みは、鞍馬へ追いあげられ、稚子となっていたそうじゃが、いつの間にやら、それも巣立ちして、陸奥へ逃げ走ってしもうたとか」
「鷹の子は、鷹の子よの」
「何しても、早いもの。もう二十年経ったか」
話題には興を抱いても、庶民たちはまだ他人事の気がしていた。それから二年後には、その頼朝の政治下に生活したり、その義経の支配下に京都が守護されたりして、自分等の生活にも今、刻々と変革が近づいているのであるなどとは思いもしていなかったのである。
それでも、民衆は、いよいよ六波羅の軍勢が、五万余騎も編成されて、
頼朝追討
と称して京都を進発した当日には、辻々へ山のように見物に出て、その物々しさに、意外な顔をしていた。
「こんな大軍で向わなければ討てないほど頼朝も大軍を持っているのか」
と、遽に、頼朝の存在と、事態の重大さを感じて来た顔つきだった。
二十年前、十騎に足らぬ押立の役人と、五、六人に足らぬ身寄りにかこまれて、配所の伊豆へ送り遣られた哀れな一少年のすがたは、まだ記憶している者がたくさんあった。
「その日も、この辻でな……」
と、見物しながら、当年の有様をはなしている人々も多かった。
道も同じ六波羅の大路から粟田口──蹴上、大津の関へと、華やかな軍馬の列は流れて行った。
大将は平維盛、忠度のふたりであった。斎藤別当実盛が、東国の事情にくわしいので、案内として、幕僚の諸将のうちに従いてゆくのが目についた。
その一人一人の扮装だけでも、目のさめるような美々しさであった。兜、鎧の華やかさは云わずもがな、黄金の太刀、白銀の小貫、矢壺や鞍にいたるまで、時代の名工が意匠の粋を凝らした物ずくめであった。一すじの箭にしても、羽は鷹の石打、塗りは誰、鏃は誰が作と、切銘してその優美を誇るに足るものだった。──それが坂東武者の粗鉄のかぶとや鎧に射当って、突き貫るか、刎ね返されるかは、別問題であった。
海道を下って、興津の浜あたりに陣した時、維盛、忠度の二人の大将は、案内者の斎藤別当を間近く呼んでから、真面目に質問した。
「いったい、頼朝の手勢の中には、其方ほどな弓勢の武者が、どれくらいいるのか」
問われた実盛は、世にも情けない顔をした。余りにも認識の足らない大将たちではあると思ったが、その認識不足を補佐することが、多年、恩顧のある入道相国から託された自分の任務であったと思い直して、
「何を仰せられまする。この実盛ごときを、よき者と思し召してか」
と、歯に衣きせず云った。
「──弓は三人張り、五人張りをふつうに引き、一矢に二人三人を射仆す者はいくらもおります。日頃の稽古にも、鎧の二領三領は射貫き、総じてあだ矢を射る者などはおりません。馬は、牧の内から心まかせに逸物を選び取り、朝夕、山林や野を駈けて、鍛えに鍛えた駒ぞろいです。──また、坂東武者の習いとして、父が死ねばとて、子は退かず、子が斃れればとて、親も退かず、一族肉親の屍を踏みこえ踏みこえするほど、一念を固め、いやが上にも強くなるのが持ち前であります」
維盛も忠度も、半信半疑に、唾をのんで聞いていた。
鎌倉へ。
鎌倉へ。
一兵卒にいたるまでこの目標は持っていた。分りのよい相言葉だった。
たちまち、それは時の声となり、揃う足なみともなった。軍隊の中だけではない。庶民の生活目標までが、何んとなく、
鎌倉へ。鎌倉へ。
と、意志づけられた。その足なみから外れると、時代の流れに置き去られる気がした。
──京都へ。六波羅へ。
頼朝がそう云ったら、或いは、危なげを抱いて、一斉に従いて来なかったかも知れなかった。──けれど、鎌倉と聞けば、源氏発祥の地──坂東武士の心の故郷──天嶮の地勢──民心はかえってそこの新鮮な土の香と、次の建設を逞しく想像した。
どの顔も、どの顔も、秋の陽に焦けて真っ黒である。眼ばかりが光っている。甲冑も粗末なのが多い。弓も箭も手拵えのただ頑丈なのが多い。──そういう将兵が何万何千か知れないほど通った。
細谷川の水も草間の小川も、すべてを抱擁してゆく大河のそれのように、頼朝の軍は、行く行く投降者を収めたり、迎え出る郷軍などを加えて、十月の六日、鎌倉へ着いた時は、人家もまばらなそこの漁村や農土を、いちどに人と馬で埋めてしまう程だった。
土地の郡司や村の長など、一かたまりになって迎えに出ていた。頼朝は馬上から一瞥を与え、
「亀ヶ谷とはどこか」
と、いきなり訊ねた。
北条、千葉、土肥、その他の諸将も、そんな地名を聞くのは今初めてだったから、ふと不審な顔をした。
「遠くではござりませぬ。ならばご案内いたしましょうか」
「そうだ……ともあれその、亀ヶ谷まで参りたい。先に立て」
そこは侘しい稲田と松並木の南にあった。扇ヶ谷、泉ヶ谷などと呼ぶ山間の湿地と同じだった。頼朝は甚だ自分の想像と違っていたらしい面持で、
「あ。狭いなあ!」
駒を降りるなり、傍らの北条時政、土肥次郎、千葉常胤などを顧みて、いかにも惜しそうに云った。
「お狭いとは……。ご陣地のことで?」
「いや何。わしはこの亀ヶ谷へ、わしの居館を建てようかと、道々も、その殿楼や門造りなど、頭に図を描いて来たのじゃ。……が、来てみれば、案外の狭さに、失望したのだ」
「お住いの地相をお選びなれば、この広い鎌倉中、御意のままでございましょうに」
「いやいや。亀ヶ谷には、亡父義朝が在世の頃、しばし住んでいたと聞いておる。それ故に、住まばここと思うたまでよ……。何ぞ、その頃の遺物らしき土台石でも残っていないか」
「あれに、古い堂宇が見えまするが」
「さてこそ。父の歿後、岡崎義実が建てた一梵宇とはこれであろう」
頼朝は、つかつか歩み寄って前に立った。──無言のままだった。掌を合せるとすぐ退がって来た。
鎌倉の第一夜を、彼は民家に泊って明かした。翌日は彼自身、鎌倉中の地を視歩いて、大倉郷の地を選定した。決めるとすぐその日から崖を切り崩し、小川を埋め、たちまちどこからか巨石や用材を運ばせて、建設の礎をすえていた。
頼朝の口から出る命令には、すべてに亙って、
──息をもつかせじ。
とする気合が見えた。
安房を立ち、隅田川を発し、鎌倉へ着いてからでも、何事にまれ、明日を待って、という事はなかった。
前進。前進。前進! 踏み揃っている打破と建設の足なみを、一歩も弛ませまいとするもののようであった。
もちろん彼自身の生活が、その足なみの先頭にある事はいうまでもない。彼自身が、閑を偸んでいたり、ほッと息をついていたりしていながら、全体の足ぶみだけがある理由はなかった。──鎌倉の府ができ上がった後は知らず、今の彼は、創業の人だった。革新の潮の先頭に置かれた時代志向の権化でなければならなかった。
ただの民家を一時の居館として鎌倉の第一夜を明かした頼朝は、早暁に、十万の軍を閲し、諸将の口から、昨夜来、ここへ馳せつけて加わった新しい兵数の報告を聞き、その部将たちに目通りを与え、また、老将千葉介常胤や上総介広常には、
「土民には、安心して生業にいそしむよう。兵には、軍律を遵守して、よく住民をいたわるよう、令を布き、札を建てよ」
と、命じた。
その足ですぐ、彼は、
「鶴ヶ岡へ参拝にゆく」
と、云い出した。
この事は、きょう明日には、必ずあろうと予測していたので、列伍は立ちどころに整った。畠山次郎重忠を先に、千葉介常胤の隊が後ろに、頼朝のすがたを護って、粛々、道を進んだ。
道は、山之内村の耕地からやがて杉並木につつまれた木蔭にはいった。巨福呂坂の下あたりから水の涸れた谷川に沿ってゆくと、程なく、鄙びた板橋に丸木の欄をつけて赤く塗ってあるのが目についた。
「鶴ヶ岡か」
「さようでござります」
左右の答えを聞きながら、頼朝は駒を降りて、もう大股にその赤橋を渡っていた。
が。すぐ足を止めて、
「……此処か」
と、前なる山の鬱蒼や、木の間に澄む秋空をしばらく仰いでいた。
「静かだのう」
諸将を顧みながらまた呟いた。そして地上に眼をうつした。山清水のにじみ出している其処此処に、小さな池が幾ヵ所かできていた。池には蓮の葉が破れ、赤い沢蟹が戯れていた。
「──祖先、頼義公も、義家公も、また亡父義朝も、この道を何度かおひろいなされた事であろう。わけて義家公には、この宮の祠前で元服なされたので、八幡太郎と名のられた。今頼朝また、ここに詣でて平家を亡ぼさん畢生の願をかけ奉るとは」
心あるもののように、全山の樹霊は青々と喊の声をあげて揺れていた。黄いろ葉、紅の葉は梢を離れて舞ってくる。──頼朝は、歩を移して、池から池へながれて行く小川に寄って手を浄めた。
そこへ、急な使いが来た。
伊豆の秋戸郷から来た侍だとある。頼朝は秋戸と聞くと、
「ここへ呼べ」
と、そのまま待った。
使いの侍は、余りの晴れがましさに遠く平伏したきりだった。御台所のご書面を携えて参りました者ですと云う。眼くばせして、頼朝は、畠山重忠の手を経てそれを受け取った。
──なつかしや妻の文
と、顔にもそれは現れていたが封はひらかず、肌に納めてただ一言、
「政子は無事か」
と、たずねた。
「近ごろはわけてもお健やかでいらせられまする」
と、使者が答えると、
「いずれ沙汰いたせば、それまで待っておれと伝えよ」
そう云うと、頼朝は、出迎えの神官を先に立てて、鶴ヶ岡の社前へ、静々、登って行った。
その夜、頼朝は手紙をかいて、伊豆へ急使を立てた。
妻の政子へである。
女というものの身になれば、この二月ほどがいかに長いものであったか。いかに辛い日ごとであったろうか。──頼朝は、その夜にわかに妻が恋しくなった。女の身を可憐しいものと思いやった。
一日、措いて、
「地形は早できたかな」
と、大倉郷の地ならしを検分に出向いた。
わずか四日目にしかならなかったが、そこの広い宅地はあらまし整理されていた。
「早かった」
作事の奉行大庭景義は賞められた。同時に、また、矢つぎ早に次の作事をいいつけられそうだった。
「景義。あとはもはや石を礎え、屋を建てるばかりだの」
「されば、門石垣の粧いなどいたせば限りもござりませぬが」
「まだ庭を見、出入りの門を飾る遑はない。住むに足ればよいのだ。──左様に急を申したところ、当所の知事兼道の邸を、そのまま山内から移して組めば早かろうと皆が云う。兼道も、あの家は正暦年間より一度も火災に遭うたこともないめでたい家、住み古したれど、当座のご用に献じたいと申し立ておるとか。……そう致したら工事は幾日で出来あがるな」
「七日は要しましょう」
「七日」
頼朝は、そこへ自分がすぐ住もうとは考えていないのである。一日もはやく妻の政子に、自分の手で造った家と安心を与えてやりたかった。
「続いて、そちへ作事を申しつけておく。速やかにせよ」
その日の黄昏から夜にかけて、もう夥しい馬、牛、車などが徴発され、千人をこえるであろう人夫や兵卒が松明をかざし、材木や石の綱を曳き、山内と大倉郷との道すじは、さながら戦場のような喧騒と赤い光でいぶっていた。
「道をひらけ。下におれ」
そこへ、騎馬徒歩で三十人ほどの侍が、ひとりの婦人を乗せた輿を護って、さしかかって来た。
「何じゃ。何者じゃ」
「どこの女性か」
人夫を指揮している将のひとりが咎めると、
「無礼すな。これに在わすは、御台所の政子の方様である。伊豆の秋戸の里よりお渡りあって、今この鎌倉へお着きなされたところだ」
「……あっ、御台所で」
人々は驚いて牛を退け、馬を曳いて、わらわらと土下座した。
輿のうちには、美しい人の気はいが窺われる。簾のうちに在る政子の目には、松明の赤々といぶる中に、無数の武士が列を正し、土民は地に坐って、自分を迎えている有様が、何か、涙なしに見ていられなかった。
そのすべてが、良人の権威に見えた。良人の偉さに見えた。それにしても、わずか数名の兵を連れたのみで、房州へ落ちて行ったあの一孤舟の良人が、ふた月の間に、こんなにも大きな勢力を持って自分を迎えてくれようとは、夢のような気もしてならなかった。
その夜、ふつうの民屋の何ひとつ飾りとてない一室に、政子は、良人を見た。頼朝は、妻のすがたを見た。
夜はやや寒い一室には、白い燭のみがまたたいていた。この夜は、二人にとって、結婚の夜よりも、もっと清浄な情愛と、厳かなものを胸にうけた。
その清らかな魂と魂とを抱いて、ふたりは翌朝、また改めて鶴ヶ岡へ詣でた。──頼朝はこの妻を、亡き父と祖先たちへ見参に入れた心であった。
七日と日限した大倉郷の居館は、一日早く竣工して、その月十五日には、政子も頼朝も初めて──実に、頼朝にとっても二十年来初めての「わが家」に移り住んだ。
しかし、頼朝が、そこにいたのは、たった一日でしかなかった。
維盛、忠度を大将とする平家の大軍は、頼朝が、政子のため大急ぎで建築した仮の館へ移った二日前の十三日に、駿河国の手越の宿に着いていた。
その早打ちを受けとりながら、頼朝が、たった一夜でも、その仮館に妻と共に送ったのは、
──そなたの為に。
と彼は妻に云ったが、男たる者の胸には、べつな計りがあっての事であった。
石橋山から遁れて、甲州その他の方面へ遁れていた味方はかなり多い。加藤次景員、同じく景廉、伊沢五郎、逸見冠者光長などが、甲斐源氏の武田一族や、安田義定などと団結して、これが駿河方面へ出、鎌倉の本軍と合流することになっている。
それと、こんどの京勢との対陣は、今までの部分的な戦とちがって、彼の主体と味方の主体とが初めて相まみえる大事な合戦と思われたので──頼朝も軽忽にはうごき出さない肚らしく見えた。
「二千の兵は、鎌倉に残しておく。三百の兵は、この館の護りに付けて参る。今までのような憂き目はもう見せまい。またしばし、留守をしていよ」
立つ日の朝。──それは十六日であった。頼朝は、妻へこう云いのこして、大倉郷の館を出た。
令は、すでに発しられていた。
鶴ヶ岡を中心として、数万の兵馬は、彼の発進を待っていた。
頼朝は、三度、鶴ヶ岡に上って社前に拝跪した。
この日の出陣の祈願は、この山初めての盛儀だった。
走り湯権現の良暹は、大勢の僧をつれて会し、法華、仁王、軍勝の三部妙典を勤行して、鎮護国家の祷りをあげた。
その日。
鎌倉の海は、波が高かった。しかし、初冬の空はすみ風は冴えて、山下の数万の兵も、その間、粛とひそまり返って、祷りの心をひとつにしていた。
やがて──
進発の貝の音がながれた。
旗が、長刀が、うねうねと、山伝いに遠のいてゆく。けれど、後から後から続く兵馬は容易に絶えなかった。
別働隊の加藤次景廉や甲斐源氏の輩は、駿河国で出会い、いよいよ奔河の勢いを加えた。
二十日。──全軍は駿河国の加島についた。
「おお、見える」
武者たちは、物珍しげに手をかざした。陣地となったすぐ前には、富士川の大河が横たわっている。けれど眼に大河はない。彼方の岸辺にひめられている無数の幕と、そして楯や防材を組んだ塁や、また、遠方此方の森や民家の陰にいたるまで、およそそれの見えぬ所はないほど赤い旗の翩翻と植え並べてある盛観に、
「あな、目ざまし」
と、思わず眼をみはったのであった。
けれど、その感嘆は、坂東武者たちには、すぐ反対な苦笑になった。
「さすがに、派手やか」
「うわさに聞く、福原の船遊びと、間違えているのではないか」
「一矢、挨拶いたそうか」
「待て待て。まだ射よと命令の出ぬうちに、徒らな、弓自慢は、蔑まれようぞ」
その日は、陣の備えに、源氏方は暮れた。
「はて、虚をついて襲せかけて来る様子もないが」
夜になると、陣の囲いを出て、兵どもは、河原へ出て、敵方の陣地のうえに、ぼうっと赤く映している篝を眺めていた。
オーイと呼べば、敵の陣からもオーイと答えそうな気がする。
この十数日は、大雨もなかったので、富士川の水は、星明りでも底がすいて見えそうなほどきれいだった。河の中ほどにも、所々、洲肌が現われているのを見れば、流れのふかい所でも駒の脚で越え渡るに難くはなさそうに思われる。
「おい。……風のあいまに、笛の音がしてくるぞ」
「どこから」
「対岸から」
「嘘をいえ、この合戦に」
「いや、鼓の音らしいものも聞えてくる」
「気のせいだ」
「そうかな?」
そう思えば、そういう気もして、何より明らかに聞えるのは、やはり水の音と、葭の騒めきであった。
そのうちに、何処かで、大きな人声がした。水の中である。馬が陸へ跳ね上がって来た。驚いて駈けてゆくと、早い流れに浮き沈みして、人間が流れてくる。
「ばかっ、どうした」
綱を投げて、救い上げてやると、それは馬を洗いに下りた雑兵で、余り流れが静かに見えるし、浅いとばかり思っていたので、つい深みへ堕ちて溺れかけたのだという。
「あははは。まだ敵へ、矢一すじも射ぬうちに、水に溺れたりなどしたら、故郷の親兄弟も、世間へ顔向けがなりはしないぞ。あわて者めが」
笑い声が高いので、陣地の陰から一人の侍が出て来て、叱りつけた。
「何をしておるっ。身をかくせっ。馬を後ろへ曳き込めろ。この薄月夜に、いい的を出しておくようなものだ」
兵たちは、あわてて陣地へ駈けこんだ。楯や物陰には、むっとする程、汗くさい人いきれがしていた。
「いつ来るか?」
と、敵の夜襲に備えて、夕方、兵糧をつかった後は、身じろぎもせず、弓をにぎり、太刀をつかみ、一刻一刻、息をこらして、更けゆく富士川の水を睨んでいるのだった。
夜が明けた。
敵は来ない。──いや一矢の矢うなりも切って来ないのだ。稀〻、征矢のごとく水をかすめるのは、羽の青い小禽だった。禽といえば、ゆうべ喰べこぼした兵糧の米つぶへ、無数の小禽が群れ下りて、刃の光も、武者たちの跫音にも恐がらないすがたが、又なく愛らしい。
危険を冒して、河の深さを偵察に行った者が帰って来ての報告によると、中の洲から西方の主流の一脈が、最も激流で、また最も水深がある。その水幅は五十間足らずであるが、人馬の背丈であるから押し渡るとすれば、ぜひともそこでは、多数の犠牲者を出さねば渡河は難しかろうという。
「なんのそれしきの激流。海ならば知らぬこと、馬を乗り入れて、一度に越えれば」
と、その日のうちにも、渡河戦を決行しようとの議もあったが、数日前に着いている敵でさえ容易に越えて来ないところを見ると、想像以上、流れは早いのかも知れない。──また、それを利して、敵にも計のあることは明らかでもある。
「あっ、来たっ」
夕方、源氏方は、自分たちの頭の上を越えて行く矢の快い羽うなりに、眼をあげて、どよめき出した。
楯まで届かない矢が二、三十本河原に落ちた。さらばと、源氏方からも、五、六騎河べりへ乗り出して、鞍上からキリキリと満を引きしぼって返し矢を送った。
その弓勢に恐れてか、日没と共に、平家の陣はひそとしてしまった。──今夜も淡い月が出ていた。すこし雨曇りの空ではあるが、雲は断れていて、時折、雁の影がよぎって行った。
その夜、源氏方では、
「河を越え渡るには、未明を計って、敵の寝込みを襲うしかあるまい」
と、朝討の評議がきまって、部将たちは、夜おそく、各〻の陣地へ支度にもどって行った。
武田太郎信義は、次郎忠頼、三郎兼信の二人を連れて、そこから帰る途中、
「あすこそは、甲斐源氏の名に恥じぬよう、人に負れぬ先陣を取りたいものだが」
と、洩らした。
すると二郎忠頼が、
「お味方のうちには、われこそと、腕をさすって、あすの一番乗りを期している面々が余りに多すぎますゆえ、尋常一様なことでは衆に優れた功名を揚げることはできますまい」
「いや、どうしても、あすの名誉は、甲斐源氏のわれわれが克ち取らねばならぬ。──伊豆、下総、上総、相模、武蔵の味方たちは、年来お側にご奉公を遂げた者や、各地で戦って来た人々だが、われらにとっては、あすこそ初の戦場だ。……こんな時こそ、生涯人の下風につくか上に立つかの、分れ目というものだ」
「では、こうしては如何です。……こよいのうちに、そっと、陣所を払って」
「抜け駈けか」
「ずっと上流へ行けば、浅瀬があります。迂回して、平家方の後ろにひそみ、お味方が一斉に、河を渡りかかるや否、同時に、平家の陣中へ突き入るのです。──さすれば、何人よりも負れる気づかいはありません」
「よく気づいた。よしっ──すぐに立とう」
武田兄弟は、走り帰ると、にわかに兵をまとめ、駒に枚を銜ませて、味方にも気づかれぬように、富士川の真夜半を、粛々と岸に沿って上流へ移動しはじめた。
すると、すでに一群の騎馬が、河を渡って、彼方の岸へ、忍び忍び上がってゆくのが見える。すばやいやつ、そも何者かと追いついてみると、それはやはり同郷逸見冠者光長、安田三郎義定などの味方だった。
「待たれよ」
と、太郎信義は、安田三郎へ声をかけた。
「抜け駈けのまた抜け駈けは、同士討に似る。逸り合っては事を破ろう。われも甲斐源氏なり御辺たちも甲斐源氏の一党。ひとりひとりの手功を捨てても、甲斐源氏の名において名誉をあげたら、それで本望ではないか」
と、云った。
義定、光長も、
「元よりの事」
と、武田勢に合体した。──陣所が近かったので逸早く太郎信義たちの行動を知って、彼等も、置き捨てられじと、先へ急いで来たものだった。
夜半も過ぎたろう。渡りきった千余騎は、なおさら行軍をひそかにして、平家の陣のうしろへ迂回った。低い雨雲にも、ふかい夜霧にも、篝りが赤く映えていた。その辺りいちめんが、平家五万余騎の夢をつつんでいる陣地とながめられた。
大きな沼にさしかかった。北方にこの富士沼があるため、平家方では、上流の守りを安心しきっていたのである。もちろん武田太郎信義たちは、葭や葦を踏んで越えられそうな湿地を探って、ざわざわとそこをも渡りかけた。
すると、何千羽とも知れない水禽が、いちどに翼を搏って飛び立った。面々の駒は愕いて、幾頭かは沼水の深いところへ跳ねこんだ。
「すわ、敵の大軍が」
と、あわてたのか、その時、平家の陣所の方で、海嘯に追われた人間の悲鳴を思わすような喊の声があがった。
どんな事が世上に起っても、驚くことを忘れていた平家の人々は気も萎え、腰もぬかすほど、今、一斉に驚きを知った。
頼朝は、侍臣に、呼び起された。
「何事が起ったやら分りませぬが、平家勢が、遽になだれ合って、逃げ行く様子でござりますが? ……」
夜明け前に、渡河を決行する予定なので、彼は、鎧も解かず、身を横たえていただけだった。
「なに。敵が遽にひきあげて行くと?」
いぶかしげに、外へ出て見ると千葉介常胤も、上総介広常も、北条父子も、みな幕を払って、闇の中に佇んでいた。
「さては誰か、軍令を犯して、先駈けした味方があるとみゆる。ともあれ、すでに合戦となったからには、猶予すな」
頼朝は、全軍へ向って、進撃の令を下した。
「誰だ、味方を出しぬいて、先へ渡った者は」
憤激した人々は、争いあって、駒の群れを富士川の流れに駈け入った。
しぶきの列を破って、洲へ躍りあがる。また、流れへ突き入って、真っ白なしぶきを浴び合う。
本流へかかると、元より駒の脚も届かなかった。
一団、また一団。馬は黒々と、先を競って、白波を揉みながら泳ぎ渡ってゆく。
「ふしぎだぞ!」
流れの中で、武者たちは、話していた。
「──一筋の防ぎ矢だに来ない」
「彼方の岸辺にも、敵の影が見えぬのは何故か」
「張合いもない事だ」
しかし、それだからとて、他の戦友におくれていいとは誰も思っていないらしい。一騎が先へ出れば、すぐ一騎が追い抜く。また他の二、三騎がその先を取る。余りに急いで、鞍から身を浮かし、激流に攫われかける者もある。すると、すぐ、誰かが弓か長刀の柄をさしのべて、
「つかまれつかまれ」
と、扶け合う。
二、三百騎、いちどに水を切って上陸った。誰が先、誰が後とも見えなかった。たちまち、千騎、二千騎、なおも後からひきもきらず平家の陣地へ駈けこんだ。
「おうーいっ」
と、呼べば、
「おおういっ」
と答えてくる。どこを駈けている者も味方ばかりだった。平家の旗や幕はあるが、敵らしい者には誰も出会わなかった。
「何で、かくも素迅く、あれだけの大軍が逃げ去ったのか」
源氏方には、ただ不思議でならなかった。そのうちに、
「いたわ、いたわ!」
と、味方の若い一組が、大声で騒いでいた。何がいたかと、駈け集まってみると、平家方の大将の陣所らしい幕舎の隅に、一かたまりの妓の群れが、おののき縮まって、地に伏したり、幕にかくれたり、抱き合ったりして──中でも稚い十二、三の妓は、シクシク泣いていた。
「なんだ、敵ではないのか」
「この近くの宿駅から狩りあつめて来た傾城どもだ。……いや、民家の娘らしい女子もみえる」
「あきれたものだ。──陣中へ」
「ここばかりでない。どこの陣所にも残っているのは女ばかり。──都そだちの平家人は、女子にまで、かくも無情よ。日頃の軽薄は、あたりまえであった」
「あはははは」
「わははは」
遊女たちの話で、平家方の大将たちが先になって、水禽の羽音と共に逃げ出したという始末がわかった。
また、大地を見まわせば、種々な食器やら、楽器やら、化粧道具の類まで、およそ贅沢な日常用品で落ちていない物はないほどであった。
その日、黄瀬川の宿駅には、何万という兵馬が屯した。もちろん宿中にそんな人員が泊りきれるわけではない。頼朝の宿舎を中心として、畑にも野にも河原にも、それぞれ陣を分っていたのである。
富士川の帰りであった。
一戦も交じえずに、京へさして敗退した平維盛、忠度などを追撃して、
「このまま攻め上ろう!」
とは、その折の当然な頼朝の意気ぐみであったが、
「いや、ここが大事でしょう。まだ東国は源氏一色となったわけではありません。まず、一応お味方も鎌倉へ退いて、徐ろに、地盤を固める必要がある」
と、説いたのは、さすがに東国の事情に精通している広常や常胤などの老巧であった。
「……そうか」
頼朝は、自身へ考慮の間を与えて、口をつぐんだ。
彼は老人の言にはいつも一応の考慮は払う。常に、老人の意志など無視して若い意力のまま前進しているかのようであるが、
──これは。
と、耳にとめた事は、老人の意見とて、決して聞き流してはいなかった。
鎌倉に。
という着想も、常胤の云い出した事であったし、今、富士川から退軍するのが利だという説も、その常胤と広常の諫めであった。
だが、いくら東国の事情にくわしい二人の説でも、鵜のみに、そうかと信じないところも、頼朝の性質だった。
「なぜ、退くのがいいか」
そう質問した。
広常は、それに答えて、
「──されば。常陸の志太義広とか、佐竹一族とか下野の足利忠綱など、まだまだ平家に属する豪族は、五指を折るも足らぬほどある上に……です」
と、そればかりではない理由を──味方の弱点を広常は指摘した。
要するに、いかに士気は昂くとも、強靱な軍勢でも、内部の組織は、一夜仕立てである。縦糸は太いが、横糸は極めて粗い。
平家は一見、その組織も士気も早、末期のものとは見えるが──と云って、一挙になどと見縊ったら、存外な惨敗を喫するかもしれない。尠なくも彼には数十年の集積がある。また、頼朝以上の逆境から立って──今日の平家を築きあげた入道相国がなお健在である。
「うむ。そうか」
頼朝は、釈然として、すぐ総軍にひき揚げを令した。──そして今日、黄瀬川に駐屯して、明日は足柄をこえ、鎌倉へ帰って行く途中であった。
彼の宿舎は、土地の旧家であった。鄙びた民屋だが、その門は頑丈であった。日頃から土賊の来襲へ備えが出来ているのである。
「止まるなっ。旅人」
「──通れっ。ご門前で、駒を止めてはならぬ。馬の腹帯など、彼方へ行って直せ」
門を守り固めている番の武士が往来へ向ってどなった。──その往来の人影は、夕闇を織って一通りな混雑ではない。
その中に。
今、馬の背から降りて、何やらまごついている主従七、八名の者がある。番の武士にどなられると、二十歳ばかりの小づくりな冠者が、
「はいっ」
と、振向いて、番の武士たちへニコと微笑をもって答えた。そして、乗って来た駒を路傍へ片寄せよと供の者にいいつけ、二人の郎党を従れて、門の正面へ、真っ直ぐに歩み出して来た。
二十歳ばかりのその冠者は、旅垢にまみれた狩衣の下に、具足を着こんでいた。背は五尺一、二寸ぐらいしかあるまい。肩幅もきゃしゃであるし、総じて小がらな若者だった。
でも。どこか凛として。
左の手を、太刀のあたりに、右の手を握って提げ、ずかずかと、胸を正して門へかかって来たので、警固の武者たちは、
「はて。何者か」
と、眼をこらしていると、
「鎌倉殿のお陣屋はここでござるか」
と、問う。
武者たちは、声をそろえて、
「いかにも」
頷きを与えながらも、眼は、油断なく、冠者のうえに注いでいると、
「──お取次ぎを賜われ。遥々、奥州より駈け下って参った弟の九郎です。兄頼朝へ、九郎が参ったと、お伝え下されませ」
「……なに?」
皆耳を疑った。
聞きちがいではないかというような顔つきを示した。
冠者の語音には、なるほど、奥州らしい訛りがあった。しかし、それも聞きづらい程ではない。ただ、冠者のことばが、余りに感情に満ちていて、平静でないので、役目上、番の武者たちは、すぐ危険視したのであった。
──それとまた。
兄頼朝と云ったのが解せなかった。九郎などという弟御のある事など、話のはしにも聞いたことがない。武者たちは、よけい不審な眼をかがやかした。
「おねがい致しまする」
九郎義経は、ことばを重ねたのみならず、武者たちの眼いろを察して、ていねいにその頭を下げ直して、
「不審の者ではありません。年久しく鞍馬にあり、その後、奥州にかくれて、生い育った九郎義経です。──と、お伝えたまわれば、兄頼朝はご存知のはずです。過ぐる頃、伊豆のご配所より、旗上げの御状をひそかにいただいており、懸命、四囲の妨げを突き破って、夜を日についで、これまで駈けつけて来たのでござる。……一刻もはやく、兄君のお顔を拝したいのです。……どうか、おはやく、この由を」
義経には冷静に云いつづけられなかった。ともすれば、ここの門前で、もう涙が先立ちそうでならなかった。彼の胸には鞍馬以来の──いやそれよりもずっと前の──雪のふる日までが胸を往来していた。その雪の日や平治の戦乱は、記憶にあるはずもなかったが、幼な心に聞いていたくさぐさの事が、後には皆、幼少の体験をそのまま記憶しているように、今でも胸に甦って来るのであった。
「ならぬッ」
番の武者は、水でも浴びせるように、いきなり叱った。
「鎌倉殿に対して、兄の弟のと、馴々しいことば遣い、聞き捨てにならぬ無礼であるが、多分、人違いであろう。さもなくば狂人か」
と、義経のうしろに立っている二名の郎党へ向って、
「これは、其方どもの主人か。はや召連れて、ご門前を退け。ぐずぐずいたしおると、用捨せぬぞ」
「あいや!」
ふたりの郎党は、義経の前へ出て、さらに大声で何か云おうとした。──その骨柄や眼ざしが、一くせある者と見えたので、番の武者たちは、気押されて、
「狼藉いたすかっ」
と、威圧した。
「いや、狼藉はしません!」
騒然と、ふた言三言、それから双方で烈しく云い争っていた。──折ふし、門のうちを通りかけた土肥次郎実平は、何事かと、外へ出て来てみると、この体なので、
「鎮れ。鎮らぬか」
と、引わけて、さて、一方に毅然として佇んでいる小がらな冠者に眼をとめた。
「おん身は、誰か」
と、彼も不審そうな顔して、その前へ寄った。
土肥次郎実平は背が高い。
小づくりな義経は、上から見下ろされた姿であった。
「…………」
義経は、答える代りに、眼を以て、自分より高いところに在る彼の眼を見つめていた。
実平は、もう一遍、同じことを訊ねた。
「鎌倉殿へお目通りしたいという事だが、あなたは一体、どこの何者だ」
すると、義経は、
「そういうお前は?」
と、訊ね返した。
番の武者には至極ていねいで腰低かったが、実平に対してから彼の態度はまるでちがっていた。
たたみかけて、
「兄の家臣であろうが、姓は何という? 人の氏素姓を糺しながらわが名も告げないのは、礼儀に欠けているではないか」
と、咎めた。
実平は、異様な気もちに襲われた。見も知らない小男から、こんな横柄に臨まれたのは初めてだった。けれど、不思議にも冷笑できない威圧をうけた。──兄の家臣。そう頭から云われた一言に、何か、抑えられてしまった気持なのである。
「申し遅れました」
実平は、思わず頭を下げ、改めて姓名を告げたが、その上で、さらに厳しく、
「して、貴方は」
と、問いつめた。
かりそめにも疑わしいふしがあったら免さぬぞという眼ざしが、こんどは明らかに、実平の眸から燃えていた。
「儂は亡き義朝が末子、幼名を牛若といい、兄頼朝とは平治の乱にわかれ、鞍馬に育ち、奥州の秀衡が許にて人となり、今、源九郎義経と名のる者。──時来って、兄上の旗挙げと聞き、夜を日についで馳せ下って来たのです。……常磐が腹の末の異母弟牛若と披露あれば、必ず兄上にも思い出して下さるであろう」
と、義経は、篤と相手の胸に落ちるよう、一語一語に、心を労って述べた。
「よく分りました」
実平は、前よりも低く頭を下げてから、しばらくお待ちを──と云い残して門のうちへかくれた。
ちょうどその時頼朝は、奥の間で夕餉の膳にむかっていた。この家の長者の娘が盛装して給仕に侍っているのが目についた。北条、千葉、その他の群臣が、居ながれて皆、杯を手にしていた。
「お食事中ではありますが、ちょっとお耳まで」
実平は、席のすそへ坐って、こう取次いだ。彼は、自分で取次ぎに出た事柄に、自分でもまだ慥と信が持てない容子であった。
「なに九郎が。……あの奥州の九郎が訪ねて見えたとか」
頼朝は、口のうちで呟くように云いながら、茫然と、その眼は、二十年前の思い出をあわただしく心の奥で索っていた。
「……はい」
実平は、遠くから、その気色を窺っていた。並居る人々も、思いがけない事をふと耳にして、一様に、頼朝の面を見まもっていた。
「……オオ」
頼朝は、声と共に、ハタと膝へ手を落して、
「さては、正しく血縁の異母弟、九郎義経にちがいあるまい。──なつかしや、すぐ通せ。すぐこれへ」
と、声を弾ませて云った。
土肥実平は、はっと起つと、顔いろを変えて退がった。──さては、やはり骨肉の弟君であったのかと、うろたえと、緊張とに、跫音も大きく、駈けて行った。
「一同はしばらくここを退がっておれ。──そうだ、別間へ宴を移して、寛ぐがよい」
頼朝は、左右の人々へ、そう告げて、膳も酒器も、片づけさせた。
一穂の灯火のほか、そこには何もなくなった。清浄な灯かげだけが静かにゆらいでいた。──そうした気持で、彼は、二十年ぶりの、いや、生れて初めて会う骨肉を迎えたかった。
やがて、広縁の外で、
「どうぞ、此方へ」
と、案内に立つ実平の声がきこえた。つづいて、静かに、縁を踏んでくる跫音がする。──その気配にさえ、頼朝は、あやしく胸が顫えて来た。
どんな弟であろうか。
会って、まず、何といおうか。
ふしぎな血がしきりと胸に鼓動してくる。この音こそ、争えない血しおのつながりを証拠だてるものではあるまいか。きょうまでの二十年間、胸をさびしく閉していた孤独の扉を、ふいに叩かれた驚きと歓びには、幾分の狼狽さえ交じっていた。
「兄君でございますか」
──と、見ればその義経は、実平に誘われた、燭から遠い下座に着いて、ひたと、自分の方へ向ってひれ伏していた。
「…………」
頼朝は、義経の云った最初のことばを、よく聞き取っていなかった。
義経の声も、おののいて、情の昂ぶりのみが、ことばの上に嗄れていたし、頼朝の耳も、徒に熱していた。
「お会い申すのは、今初めてでござりますが、物心つき初めてから、人と成るまで、一日だに、世に、一人の兄上ありと、伊豆の空を憶わぬ日とてはありませんでした。──兄上にも、お心の隅に、奥州に九郎という一人の弟ありと、他ながらでもお覚えでござりましょう。その弟義経にござりまする。源九郎義経にござりまする! ……」
「覚えている」
頼朝は、云うと、われを忘れて、手をあげた。
「なぜ、そのように、遠くにおるぞ。他人のように隔てておるか。──もそっと、間近う寄って、面を見せよ」
義経は、なお遠慮して、側にいる実平の顔をそっと窺った。実平は、その意を酌んで、
「おことばですから、ずっとお近くへ行って、ご悠りと、お物語りなされませ。──実平は、次に退がっておりますゆえ、ご用の時は、お呼びくださいますよう」
と、小声で云った。
義経は、一人となると、なお、生れて初めて会った兄に対して、処女のような羞恥いと、遠慮を抱いた。
──よい骨柄の若者。これが、自分の弟だったか。
頼朝は眼をほそめた。
自分も席をすすませた。義経もすり寄って出た。
「おなつかしゅうございました」
相寄ると、そこには、もう身分の隔ても、権力の相違もなかった。家臣や儀礼の形式もなかった。おたがいが親なき子であった。また、逆境から芽生えて、ふしぎにもここまで、無事に成人して来たと思うばかりな──運命の子と運命の子であった。
「よくぞ、訪ねて参られた」
頼朝は、手をさしのべて、義経の手をつかんだ。義経は、欣しさに、顫いていた。
この温み。
この骨肉の手。
それは、生れて初めて知ったものである。母こそちがえ、血は正しくひとつの父からうけている。
「夢にまで。──夢にまで。……幾たび兄君のことを夢みたか知れませぬ。……会いとうござりました」
「わしとても」
頼朝は、はふり落つる涙を、拭いもせず、義経の背をかかえた。
「風のたよりに、遠いうわさに、そちの消息を聞く折々、いつ会う日があろうか、どんな健気に成人しているやらと──」
「同じように、私も、年十六の頃、鞍馬をのがれ、奥州へ落ちて行く途中……ついそこの足柄山を越えながら……すぐ眼のさきに見える伊豆の海を、配所のあたりを、どんなに、恋しく思いながら、振り向き振り向きして通った事か知れませんでした」
義経の声も、甘い嗚咽と、うれし涙と、遠い追憶に、途切れ途切れであった。
「──またこのたびも、兄君のお旗上げと伝え聞くなり、矢も楯もなく馳せ参らんものと、秀衡殿に計りましたが、秀衡殿には、まだ時が早かろう、今しばし形勢を見よとばかりで、どうしてもお許し下さらぬため、馬一匹に、供の者四、五名連れたのみで、密かに、平泉を脱け、途中まで急いで来ると──秀衡殿にも、それまでの決心なればと、佐藤継信、忠信のふたりを、後ろより追いかけさせ、私の郎党にと、付き添えてくれました」
義経は、そう綿々と話しかけたが、前後のつながりも欠いて、余りに欣しまぎれになっている自分の話し方に気づいて、
「つい、取乱しました。女々しい弟よと、お笑いくださいますな」
と涙をふいて、少し身を退けながら、礼を保った。
頼朝も、茫然たるここちから自分に返って、
「こよいは、悠りと、語り明かしてもよいが、何せい陣中、いずれ鎌倉へ帰ってから、落着いて話すとしよう。──そちも定めし疲れておろう。こよいは旅の垢でもそそいで寝んだがよかろう」
「はい」
素直な弟の返辞までが、頼朝には、又なく欣しく見えた。これからの家庭に、ひとりの賑わいと、一族のうちに、大きな力とを加えた気がすぐにしていた。
「実平、実平」
呼ぶと、次の間で、
「はっ」
答えがした。そして最前の土肥次郎のすがたが、縁の端にうずくまって見えた。
「弟を、どこぞ一室へ案内してつかわせ。──そして、何かと鎌倉までは、面倒を見てやってくれい」
「畏まりました」
実平も、次の間で、貰い泣きしていたとみえて、すこし瞼が腫れていた。──その眼で義経を招きながら、無言のまま、紙燭をかかげて先に立って行った。
鎌倉の秋は色濃くなっていた。
頼朝は、師をかえし、十月二十三日に、鎌倉へ帰った。
こんどの富士川は──戦わざる凱旋であった。
が、石橋山以来の論功行賞が初めて発表された。
北条時政父子。
何といっても、功労では、この人の筆頭であることに、誰も異存はなかった。
次いで、
千葉介常胤、武田一族。
和田、三浦、土肥などの人々。
佐々木定綱、経高、盛綱、高綱。
などの兄弟や、同じように、配所に長年仕えてきた天野遠景、加藤次景廉など、ほとんど洩れなく、新しい領地をうけ、或いは本領安堵、その他の恩賞にあずかった。
四日措いて、その月の二十七日には、ふたたび常陸へ軍をすすめた。
常陸の佐竹一族を討ちに。
この方面は、地理情勢の明るい上総介広常がもっぱら先鋒に立って奮戦した。
十二月常陸平定の業は終った。
師走の十二日。
風のない冬日和だった。
頼朝はその日、大倉郷の新邸へ移転した。富士川へ出陣のまえに手斧初めをあげたあの館がもう落成していたのである。
その移転の式の日、頼朝のいでたちは水干に騎馬で、前後左右、おびただしい武者を従え、新館の寝殿(正殿)にはいると、美しき御台所とならんで、出仕の武士三百余人に、謁を与えた。
政子は、終始、良人と共に、交〻祝いをのべる武士に、ほんのわずか、黙礼を施しているだけであった。
「きついお性質らしい」
と、初めて謁した老将たちは、その態度に、そっと囁きあった。
館は、頼朝夫妻の館ばかりではなく、そこの政庁、侍所などを中心に、大路小路の邸町も建ち並んだのである。──どこは誰それの館の辻、どこは某の谷と、そのまま地名として、その日から呼び慣わされた。
三日にわたって、祝いが挙げられた。宛として、祭日のようであった。たくさんに酒をのむ事もゆるされた。
その間にも、庶民に対して、次々と法令が出、また、武士たちに対しては、特に厳かに「武士たるの道」と「吏道」を遵奉すべき令が発せられた。
「お忙しくはあらせられましょうが、九郎様にも、折を見てお目通りを賜わりますように。……黄瀬川の夜以来、御曹子にも、悠りとおはなしの折を、毎日、待ちこがれておられますようで」
頼朝の左右のすきを見て土肥次郎は、義経に代って、こう願い出た。
義経はその後、九郎御曹子と称ばれて、家族の一員となり、また、幕将の端に随身して、明け暮れ、兄の側近くいるようではあったが、あれ以来、兄とも弟とも、親しく呼び交わしたこともなかった。むしろ政治や戦略上のことで近づく将たちの方が、彼よりはよほど頼朝と近かった。
で、それとなく、土肥次郎に、頼んでおいたのであろう。実平が今、よい折と見て、頼朝に告げると、
「そうそう。九郎にはまだ鎌倉へ来てから落着いて会う折もなかったの。政子にも、ひき会わせておかねばなるまい。これへ呼べ」
と、早速、ゆるした。
義経は、召されて、程なく兄と嫂の前へ来た。──しかし、黄瀬川の夜とはちがって、
「九郎か。その後は侍勤めにも馴れたか。奥州とは事ちがい、坂東武者はみな気があらい。豪毅勇壮で目ざましかろうが。──そちも人々に負れをとるなよ」
と、あっさりして、妻の政子に向っては、
「これが、いつぞや其女にもはなした九郎じゃ。目をかけてやれよ」
とのみ云って、義経がひそかに胸に湛えていた骨肉らしい親しみや、嫂らしいことばには甘えることができなかった。
するとまた、実平がそれへ来て頼朝の方へ手をつかえながら訊ねた。
「滝口の老母へすでにお目通りの儀を、おゆるしなされましたか。……唯今、訪れて見えましたが」
「お。囚人経俊の母か。……会うてやると云って、庭へ通せ」
頼朝は、目の前にいる義経よりも、むしろその方へ遽に心を惹かれたふうであった。
実平が退がると、彼も立って、席を更え、庭へ曳かれて来る者を待ちかまえた。それを機に政子は奥へ入ってしまうし、手持不沙汰になった義経は、兄の傍らに坐って、侍臣のごとく控えていた。
「……おう、佐殿」
よろめくように庭先へ来て、へたと坐りくずれた老母があった。それは頼朝が幼い頃の乳母であった。
しかし、頼朝はなつかしそうな顔も見せず、かえって、はたと厳しい眼をして、老母が昔のごとく自分へ馴々しくものを云うのを防ぐかのような威厳を示した。
「……あ、あ」
その容子に、とりつく島もなくなって、老母は階下に泣き伏した。
老母の子は、滝口三郎経俊といって、山内ノ庄を領していたが、頼朝が旗上げの際に、藤九郎盛長を使いとして招いたところ、経俊は一笑に附して、拒絶したばかりでなく、さんざんに悪口をついたあげく、平家の大庭景親に加勢して、飽くまで頼朝に楯ついて来た者であった。
ところが。
その景親は、石橋山の合戦では、大いに意気を上げていたが、その後、頼朝の捲土重来に遭って、諸所に敗れ、果ては、身の置き場もなくなったため、とうとう先頃わずかの部下をつれて降参して出た。
景親をはじめ、降人どもは、それぞれ諸将の手に分けて預けられたが、その中に、滝口三郎も交じっていたのであった。
彼の所領は取上げとなり、身がらは土肥次郎の邸へ預けられていた。そして評議の末、近いうちに斬罪と極まっていた者であるが──その母は、かつての頼朝の乳母で縁故があるので、
「どうぞ、彼子が先祖の功にめんじて、このたびの不心得は、お助けおき下さるように」
と、子の可愛さに、これへ嘆願に出たものであった。
──が、彼女はここへ来ると、泣いてばかりいてそれも云えなかった。しかし、嘆願の事はいくたびも頼朝に通じてあったし、傷々しい姿を見、泣きじゃくる声を聞いただけでも、十分、老母の心は、頼朝には分っていた。
「…………」
然るに頼朝は冷然と見ていただけで、何を問うてやろうともしない。──側にいた義経は、いるにも堪えないここちがして、何とか兄に取りなしてやりたい程に思ったが、頼朝の面には、むしろ何か心地よげな苦笑すらあるのではないかと疑われるほど無情を誇示していた。
「……遠い、遠いことではございますが、滝口家の祖は、八幡様(義家)にも、廷尉禅室様(為義)にも、人なみの忠勤は励んだものでございまする。──彼子が、このたび、大庭景親に徒党して、殿へ、抵抗いたしたのは、まったく、一時の魔がさしたのでござりまする。……ほん気な仕様とは、彼子を生んだこの母にも信じられませぬ。……どうぞ、お慈悲に──お情けに助けて賜わりませ。こ、この通りでござりまする」
老母は、懸命に、涙と闘いながらしゃべり出した。──その声は、上わずッたり、かすれたり、顫えたり、人の子の母でなければさけび得ない真実のものであった。
「実平」
頼朝は眼を反らして、老母の横にうずくまっている彼へ、至極、平静なことばで吩咐けた。
「いつぞや、そちの手許へ預けおいた鎧があったな。あの鎧を、これへ持って参れ。……いや、石橋山でわしが着て戦ったあの破れ鎧のことよ。早く持参せい」
やがて、実平がもどると、一領の鎧が、彼女の前に、どさりと置かれた。
「滝口の老母」
頼朝は、そう呼び直して、改まった調子で云った。
「それは石橋山の合戦に、この頼朝が身につけていた物じゃが、後日の証拠にと、残しておいた。──というわけは、その鎧の袖を縫うている箭を見るがよい。たしかに、そちの倅、滝口経俊が射た箭であるまいか」
老母はぎくとしたように、顔蒼ざめておののいた。
「見よ」
「…………」
「手にとって見よ」
頼朝のことばこそ、箭のように鋭かった。
「──鏃だけは取りのけて置いたなれど、箭の口巻を検めて見るがよい。何としるしてある。滝口三郎藤原経俊と──明らかに読まれるであろうが」
「…………」
老母は、鎧のうえに、泣き伏してしまった。
後日の証拠に──
と云った頼朝の意中を窺えば、もういかにわが子の助命をすがっても、云いわけをしてもむだと思いつめたのであろう。痩せ細った頸のあたりの白髪が、鎧にしがみついたまま、ただいつまでも泣きふるえるのみだった。
見るに忍びなくなったのであろう。実平はいつの間にか庭にいなかった。さっきから兄の側にじっと控えていた義経も、許されるものなら座を立ってしまいたかった。
老母はまだよよと泣きじゃくっている。起てないのもむりはない──義経は面をそむけながら思い遣った。
いつのまにか義経の胸は、兄に対する嫌厭でいっぱいになっていた。黄瀬川の宿で初めて会った時とは正反対な兄を見るここちがした。
兄と思うべきではない。鎌倉殿のなさる人事の処置に対して、そんな心を抱いてはならないと思ってみても、どうしようもない嫌厭だった。
骨肉である以上、血はひとつである。兄の血は自分にもある血にちがいない。義経は自分を憎むと同じように兄のそうした冷酷な裁きを憎悪せずにいられなかった。
「……申しわけも……申しわけもござりませぬ」
ややあって──である。
経俊の母は、脱殻のようになって力なく立った。そして両手で面を蔽ったまますごすごと退がりかけた。
十歩。十五歩。
地も見ずに、老母は中門のほうへ、しょぼしょぼと歩きかけた。──義経は、もうそれを、そのまま見送れなくなった。老母に代って、助命をとりなしてやろうという気が、胸をつきあげたが、ベタと、両手をつかえて、何か兄へ向って云おうとした。
その容子を、頼朝は、じろと冷たい眼で見ながら、義経へは何も問わずに、
「乳母。待て」
と、呼びとめた。
乳母──と初めてその時呼んだのである。そして、予め肚の中では、最初からそういうつもりであったかのように、
「こらえられぬところではあるが、先祖の功に免じて、このたびだけは、経俊の一命、助けおいてとらせる。……倅めに、そなたからもよくよく云い聞かせておくがよかろうぞ」
と、云った。
腰がぬけたように、老母は、大地に平たくなって、座を立つ頼朝のすがたを拝んでいた。義経も手をついたままでいた。しかし義経の感情はなお感情のまま胸のすみに澱んでいた。
その年の鎌倉は、石曳き謡や手斧の音に暮れ、初春も手斧のひびきや石工の謡から明け初めた。──鎌倉へ、鎌倉へ。
この相言葉は、もう軍の用語から転じて、民間のものになっていた。
「鎌倉へ行けば仕事がある」
東国から北のほうまで、国々の往来で、旅の者が、旅の者に、
「何処へ?」
と行く先をたずねれば、
「鎌倉へ」
と、極まっていう。
妻子を連れたり、弟子たちを従えたり、道具を担ったりした鍛冶、漆工、指物師、大工、屋根葺き、機織娘、彫刻師、染工などから、馬の群れを曳いた牧の者、僧の群れをつれた寺院の徒、女の群れをつれてゆく何商売か知れない人間たちまでが──相模の新府をさしてみな将来の生計を植えつけるべく流れて行く。
「ふしぎな現象だ」
ある者は、懐疑した。
理由が見出せないからである。
なるほど、鎌倉では目下、さかんに土木を起している。夥しい鎌倉殿の御家人が各〻居館を新築し、それに附随している将士もみな、集団的に住居を建て始めているから、その景気のよさはすさまじかろうとは誰にでも想像がつく。
けれど、よく考えてみれば、危うい事にも思われる。なぜならば、天下はまだ厳然として平家のものである。
東国から常陸、信濃あたりまでは、ともかく頼朝の武力になびいたが、奥州の藤原秀衡は、まだ源氏に与すとは宣言していない。
まして、相模から西はまだ、全面的の平家色である。東国を失っても、京より西にはなお中国、九州があり四国や伊勢方面の地盤もある。
総じて、平家の富力と勢力とは根を東国には置いてない。西国こそ平相国が多年にわたって扶植してきた地盤である。
──こう観る者は、
「鎌倉鎌倉と、みな浮いてゆくが、鎌倉殿の力はまだ知れぬ。うっかり移住して、またぞろ兵火に焼き立てられて、路頭に迷うよりは動かぬがましじゃろう」
と、危うげな眼で、傍観していた。
それは多く、庶民のうちでも、知性に優れた人々だった。知識に照らしては、割りきれない現象だからである。
割りきれないといえば、第一、半年やそこらで、地方的な合戦には勝ったところで、鎌倉殿のふところに、そう財力があるわけがない。──京都へでも攻め上って、然るべく、中枢の政権でも取ったうえなら知らない事だがと、説をなす者もある。
知識顔したそれらの人々のいう事はいちいち尤もで道理が立っていたが──にも関わらず民衆の足は、夜が明けても、夜が明けても、鎌倉へ鎌倉へと向いて行った。一日ましに殖えていった。
それとまた。
鎌倉へ住んだが最後、彼等は各〻の職につくなりむやみに元気に働いた。ここへ来て鬱陶しい顔をしている人間はなかった。ここの地上に遊んでいる人間はなかった。馬も牛も──犬までが働いているように見えた。
なぜだろう?
そんな事を考えている閑人はここにはないが、とにかく働かずにいられないのだ。働くことが愉快にされるのだ。どこの国府よりは明るいのである。──そして、
「これからさ!」
「世の中はこれからだよ!」
みな云うのである。
要するに、人間は建設を好むからである。建設を終って、腐蝕期に入っている平家の地盤で、不安なあくびをしているよりは、粗食と汗と土まみれな中にいようと、これからだと云い合える天地に生きたいのである。
だが、そう一つに、人心をひっぱっている力は鎌倉そのものではない。やはり人である。しかも一人の人であった。
その頃、鎌倉への聞えに対し、厳秘にされていたが、平家方の内部には、致命的な憂いが起っていた。
太政入道の重い病である。
「近ごろ貴顕方の馬、車の往き交いが、何だか、ただ事ではないが?」
とは、京都の庶民たちも、うすうす変には感じていたが、凡事でない騒ぎは、去年から年の暮までもつづいていた──
「また、何かあるんだろう」
鎌倉の民衆とちがって、ここでは庶民と上流の層とが、完全にかけ離れていた。
「驚き忘れた一門」の無反省が反映して、庶民たちも何が起ろうと、驚かない習性に堕していた。
東国には頼朝が。木曾方面からは義仲が。
九州では肥後の菊池。豊後、肥前なども源氏に呼応して大宰府へ攻めかけたという。
──四国の伊予にも、吉野、奈良にも、近江にも畿内にも、騒乱が起った。みな平家に反いて起った。
等、等、等──、今にも天地が覆るようにいう者もあるが、多くは平然。
「ホウ。またですか」
上層の驚かないのと、彼等の驚かないのとは、質はちがうが、いずれにしても、京都のもっている爛熟、懶惰、軽佻の空気はすこしも革まらない。
しかし。そうした中でも、去年の暮、南都の大衆に、不穏のきざしありとかで、清盛入道は、重衡朝臣をして三万余騎をさしむけ、またたくまに奈良の東大寺、興福寺をはじめ、伽藍堂塔を焼きはらい、大乗小乗の聖教やら、国内第一の大仏秘仏など悉く灰燼にしたばかりか、手抗う僧兵一万余を斬り殺し焼き殺したという──
あの事件の時ばかりは、さすがに心なき人々までも、
「南無──」
と、思わず唱えて、その数日は、朝夕の飯も不味い思いがするなどと語り合っていたことだった。
その生々しい記憶のある矢さきなので、明けて今年、養和元年の閏二月、
「入道には、もはや今日か明日のお命じゃそうな」
と、誰からともなく、清盛の危篤がもれ伝わると、みな一図に、
「それ見たか。仏罰はおそろしい」
と、すべてをその罪業のむくいとして、ある事かない事かの判断もなく、入道の病について、たちまち、奇々怪々な浮説が云い囃された。
深く秘せられている入道の容体が、そう下々にすぐ分るはずもないのに、大熱に苦しみ呻く入道の声が侍所まで聞えるとか、百人の人夫に千手院の冷水をくませて石の船に湛えては冷やしているが、水はたちまち湯となって沸りたってしまうとか、ゆうべも、八葉の車を曳いた閻王の使いが、焔をあげて夜空から翔け下り、
(われは、閻王奪魂の使いなり。一門の弓矢も、金銀珠玉も、冥途無常の迎えには塵ぞかし。疾う疾う立ち候え)
と、云うのが大殿の棟に燃えつかんばかり聞えたが、二位殿の看護の真心や、加持祈祷の衆僧が、諸声あわせて唱うる誦経に、やがて夜明けと共に消え去った──とか紛々たる取沙汰なのである。
だが、そんな噂が京中に拡がっていた頃には、実は、すでに清盛は死んでいた。
二月四日の夕だった。
遺言は、何もない。
ただ、臨終の日、こう云ったという。
「みんなおるか。……わしは悔いない事をただひとつ仕残した。頼朝を助けた。おまえたちは、頼朝に亡ぼされるなよ。わしのために、月々の供養などよしてくれ。頼朝と戦え。それがおまえ達の再生だ。また、わしへの供養だ。……頼朝の首をわしの墓前に供えろ。……頼朝の首をだ……」
清盛の死は、さすがに日本中を震駭させた。
よく云う人々も、悪くいう人々も、共々に、大きな感慨に打たれて、
人間。
それを考えさせられた。
鎌倉の海には夏が来た。
河口には、奥州船も、京船も、西国船もついていた。建設まだ半年というのに、ここから陸揚げされた荷は夥しいものだった。
「早いなあ。……一船ごとに見違えるばかりな繁昌だ」
滑川の河口に横づけになっている奥州通いの船に立って、こうつぶやいている男がある。
「おうい、行ってくるぞ。おれは鶴ヶ岡へ海上の祈願にだが、おまえ達は、いずれ化粧坂だろう。悪酒をすごすなよ」
五十をこえていよう。身なりばかりでなく、人間としてもでき上がっているという感じのする人物である。
金売の吉次だった。
吉次は、その日、頼朝が納涼のために、三浦義連のやしきへ招かれてゆくという事を聞いたので、急に、その行列を見るというよりは──頼朝に随身の諸将のうちに、きっと九郎義経もいるであろうと思い、
「よそながら一目」
と、思い立って出かけたのであった。
稲瀬の松並木まで来て待っていると、毛利冠者頼隆が先に、その後から頼朝が騎馬で大勢の武者につつまれて来た。──所詮、その威勢は、路傍になど佇んで見ていられるものではなかったから、吉次はあわてて佐賀山へ上ってしまった。
佐賀山の下の海辺道まで頼朝が来かかると、それを出迎えに出ていた郎従五十人ばかりは、一斉に馬を下りて、砂上に平伏した。
「ご老人、ご老人ッ」
突然、三浦義連が、こう誰にも聞えるような大声で、注意をした。
「わしの事か」
上総介広常は、馬の上から見まわした。
すべての将士が、下馬して、砂上に平伏しているのに、彼のみは馬を下りずに胸も反らしていた。
「お年のせいか。なぜ下馬なさらん。ご前でござるぞ」
義連が重ねてたしなめると、老人は、彼の叱咤にも負けない声を出して、
「広常、まだ年を老らねばこそ、かように致しておるのでござる。三浦殿とは、家風がちがい、われらに於いては、父子三代のあいだ、東国の武門として、まだ下馬の礼はいたした例がござらぬ。──馬上の武士は馬上のまま礼をいたすが、わが家においては、最上の礼儀でござる」
そう云って、彼のみはとうとう馬を下りなかった。
頼朝は、苦笑して通った。
こういう一徹な曲げない風は、老人ばかりでなく、彼の擁す兵ばらには皆あった。坂東の原野と山川が人間のなかに育んだ太いすじ骨というものであろう。鎌倉の新府には今、その骨太い性格の持主ばかりが、何万となくひとつに住んで、事ごとに搏撃しあっていた。喧嘩を気にかけていては、一兵卒でも、今の鎌倉には、一日も住んでいられないほど、剛毅と剛健のよりあいなのである。
「ここは、和殿の父、大介義明のやしきであったか」
義連の亭にくつろぐと、頼朝は機嫌よく、酒を酌みながら、当日の主にたずねた。
岡崎四郎義実は、ひどく酔っていた。酔うて若者のようにはしゃぐ老人で、
「殿の召されてお在す水干を、義実に賜わりませ」
などと云い出した。
頼朝は、笑って、
「これが欲しいか」
と、脱いで、投げ与えた。
「かたじけのうござる。どうじゃ、どうじゃ、身の面目は」
義実は、子どものように、すぐそれを着て、威張って見せた。
岡崎四郎義実は、さっそく拝領の水干を、上に着こんで、
「あら冥加。──どうだ方々。どんなものだ」
と、子どものように、左右の袖をひろげて、吾儘のかなった身の面目を、座中へ向って自慢した。
するとまた、上総介広常が、その口真似をするように、
「あら勿体なや。──いかに各〻。殿の水干を彼に下さるほどならば、この上総介にこそ賜わるべきであるまいか」
と、云った。
四郎義実は、なお戯れて、
「やあ、そねむな老人。どれほどな手柄があって」
「なんじゃ、手柄くらべなら、和殿ごときに、おくれはとらぬ」
老人も、負けずに云う。
酔ってはいるし、聞えた荒武者である。四郎義実は、顔を燃やして、
「なにを」
つめ寄ると、老人は、
「所存あらば、後日を待て」
と、云い放った。
「後日とな。笑止笑止。すぐにとは、なぜ云わん。老ぼれ、海べへ出よ」
君前でもこの始末である。
頼朝も、笑って見ているほかなかった。
すると、こよいの亭主、三浦義連が、ひきわけて、
「どっちが平家か」
と、双方を見くらべながら詰問した。
双方とも、それで黙りこんでしまうと、
「せっかく、涼しゅうご酒興をと、殿のおいでを仰いで、義連が設けた席で、私闘は何事でござるか。おふたり共、少し自分のお年を弁えたがいい」
と、たしなめた。
頼朝は、この日から、わけて義連に目をかけた。さすが三浦大介が子であると思った。
そうかと云って、頼朝は、岡崎四郎や広常老人を、
「年がいもない者」
とも思わなかった。
また、そういう傍若無人ぶりを、咎めだてもしなかった。
むしろ、老人の中にさえ、そういう老人らしくない粗暴、率直、豪放、無邪気といったような性情が、精練されない鉱石のように、善悪ともありのままにあることが、愛すべきものとさえ眺められた。
武士。──鎌倉武士!
訓えたものでもなし、云い合せたものでもない、ひとつの自負心──いや己れを持す気概がこういう新しい社会のうちに今、沸々と醸しかけられていた。
武士──武士の道。
それを、武士道などと、口やさしくは云わずに、各〻が、極めて自然な行為のうちに行い示し出していた。
そのひとつとして。
酔っぱらって頼朝の水干をねだったりした岡崎四郎にも、近ごろこんな佳話がある。
彼は、石橋山で戦死した佐奈田余一の実父であるところから、先頃、その余一を討った長尾新六が捕虜となって来ると、
「子の怨みをはらせ」
と、いわぬばかり頼朝はその囚人を彼の家に下げわたした。
ところが、捕虜の新六は、よほど仏教信者とみえ、牢舎のうちで、夜も昼も、法華経ばかり誦んでいた。
「こよいこそは」
と、余一の父たる彼は、毎夜のように、太刀のつかをしめして、牢舎の戸口まで忍び寄ったが、いつも心静かに法華経を唱える声につい聞き入って、
「いや……?」
と、思い直しては、幾月かを、過してしまった。
そのあげく、ついに、頼朝の前に出て、彼はこう願い出したというのである。
「討ちました。──子の讐にはあらで、わが心の浅慮な怨念を刺しとめてござる。──願わくば長尾新六のなきがらには、法衣を与えてご追放下されたくぞんじまする」
頼朝が、それをゆるした事はいうまでもない。実に、一面には、こういう涙もある鎌倉の人々だった。
奥州船は近ごろ京方面の輸送をほとんど怠って、大部分の物資を、京より近い鎌倉で荷上げしていた。
金銀、鉄砂、織物、漆、紙など、ここで揚陸された量はおびただしい額にのぼろう。時には浅黄いろの同じ小旗を舳に立てた奥州船ばかりで、滑川の河口をうずめているような盛観も見られた。
それらの物資も船舶も、すべて吉次の胸ひとつで動くものだった。彼にとって今こそ待ちもうけていた絶好の「時」であった。一躍、天下の富を積むべき汐どきが、頼朝の旗挙げと同時に、彼にも、商法の旗挙げを促した。
鎌倉には金がない。
坂東武者がいくら寄ったところで、武力だけで大兵を養う経済力といったら甚だ心細いものでしかない。
由来、東国そのものに、財力はなかった。長年にわたる平家文化の絢爛は、それだけ地方の疲弊と枯渇を意味している。
「鎌倉殿も、金をもって立ったのではないからなあ。武者たちの弓にしろ矢にしろ、手作りが多いのを見てもわかる。長刀、太刀でも目につくほどな物を持っているのは大将たちぐらいなもの。……さすがに馬だけは、逸物があるが」
とは、誰もいうことで、すこし商才のある者なら、鎌倉の創業景気が経済的には、いかに不安心なものかは、すぐ考えさせられるに違いなかった。
商人たちの見解もそうだし、平家でも勿論、ここへの輸送路には手配をして禁絶に努めている。
当初、経済方面の奉行にあたった北条時政も、これにはひどく困惑しているとか聞いたが、吉次は、自分の手にうごかし得るだけの物資を、去年以来、すでに、三、四度も鎌倉へ廻送しているばかりか、まだ一度も、
「価を賜わりたい」
とも、何が欲しいとも、申し出ていなかった。奉行の北条時政から召されて用のある時でも、彼自身はまだ出向いたこともない。いつも股肱の者を代人に向けて、時政と会ったこともないのである。
そのくせ彼は、船が鎌倉についているうちは、ほとんど船にいなかった。物売りや職人たちをつかまえては、巷のうわさを拾って歩いたり、下級の兵と親しくなって、化粧坂へ遊びに行って大振舞をしたり、何という事はなく、暢気そうに過していた。
三浦義連の亭で納涼の折、誰と誰とが喧嘩したとか、佐奈田余一の父の岡崎四郎は涙のある武士で、子の讐の長尾新六に、情けをかけて逃がしてやったとか──そういう上層の消息も、鎌倉ではすぐ知れわたるのであった。まず緊密な社会組織がないせいであるよりも、鎌倉の家人階級には、まだそんな事を秘し隠しにしようなどという気もちがないのである。
私行上、面目ない事は、面目ないとし、不覚だった事は不覚だとして、恥を責められることは当然な制裁をうけることとしていた。卑屈な隠しだては、恥以上の恥とした。ふた口目には、
「恥を知れ」
とか、恥をそそげとか、生命の次のものとして、各〻がそれを珠のごとく尊んだ。
法令などよりも、吉次は、そんなところから自然にできかけている新秩序に対して信用を賭けた。彼はすでに夥しい物資を、鎌倉殿へ貸したが、その手形は、時政の証文でもなし、鎌倉殿の墨付でもなかった。
吉次は、どこかで義経に会いたいものと、念じていた。
「ご無事か。どうか」
案じられたのである。
子のように、彼の将来が、吉次には憂えられてならない。
鞍馬から奥州へと、かつて、彼の大きな運命の手綱をひいて奔った吉次は、その以後も、当然、常に義経の成長をよそながら見まもっていた。
彼は、伊豆の頼朝よりも、木曾の義仲よりも、
「この人こそ」
と、将来の大計を、義経に嘱していた。いや、彼にいわせれば、
「九郎殿を措いては」
とさえ思っていよう。
今にして、彼はそれを自分の誤算とも眼ちがいとも思っていない。
「鎌倉殿が先に立たれたのは、地の理、ご身分、年齢からいっても当りまえだ。……だが、要するに、反平家の人々は、鎌倉殿のその好条件を、旗として、持ち上げているのだ。真に、頼朝という人間に尊敬して盛りあがっている衆望ではない」
彼はそんなふうに観る。
そして、どう現状を見ても、
「九郎殿こそ」
と、やがて一世の上にぬき出る実力の人は、彼であるという見込みを変えなかった。
「──けれど、その九郎殿の真価を誰が知ろう?」
と、考えると彼の理想の実現も甚だ遠い気がするのだった。
たとえば、彼と会いたさに、それとなく、行き交う武者などに、
「鎌倉殿の弟君、九郎御曹子様のお住居はどこでしょうか。それとも、やはり大倉郷のお館のうちに、兄君とご一しょにお住いでしょうか」
などと訊ねても、
「鎌倉殿のご舎弟と?」
そんな人がいるのかと云わぬばかり怪訝な顔をした。ほとんどと云ってよい程、義経の存在などは、下のほうには知られていない。
「大倉郷の内にいらっしゃる」
その後、北条家へ出入りする自分の代人から、それだけの消息はさぐり得たが、近づくことはできなかった。何分にも、大倉郷一郭は、鎌倉殿の住居であるばかりではなく、東国軍の本営ともなっているので、家人以外の者が立ち入ることは望めなかった。
──で、今日も。
頼朝が三浦義連の亭へ招かれて外出すると聞いたので、その行列の中に、
「もしや、九郎殿が」
と、期待して遠くから見まもっていたのであるが、義経のすがたは、頼朝の前後にも、たくさんの将士のうちにも、ついに見出されなかった。
それから幾日か後だった。
いつも彼がよく立ち寄る雪之下村の餅などひさぐ媼の店に腰かけて休んでいると、由比ヶ浜のほうから馬を躍らして八幡道へ駈けてゆく二人の若者があった。
「兄者人。兄者人」
後の若者が、先へゆく若者を呼びとめた。そして急に、駒を止めながら、
「餅がある。この家で、餅を売っておりますぞ」
と、軒を指した。
「なんじゃ忠信。子どものように」
兄らしい先の若者は、笑いながら振向いた。忠信と呼ばれた若い武士は、
「ひもじくてなりません。泳いだ後は、餓鬼のように腹がへる。それに汐水をのんだせいか喉も渇いた。──兄者人、休んで行きましょう」
と云いながら、もう鞍からとび降りていた。
兄弟のことばには、どこか奥州訛りがある。吉次の耳にはよく聞き分けられた。なつかしくもあり、不審でもある。
「いったい何処の家人?」
と、眼をみはっていた。
由比ヶ浜へ水泳ぎに行った帰りとみえる。兄弟とも漆をひいたような顔色である。何の屈託もないように、餅を喰い、湯をのみ、笑い興じていたが、
「やれ、腹もできた。弟、参ろうか」
と、軒ばの杭につないである駒の手綱を解いて跨りかけた。
「──あ。もし」
吉次は立ち上がって、初めて兄弟へことばをかけた。
「……なにか?」
と、すでに兄弟は馬上にある。
「失礼ですが、もしやあなた方は、九郎義経様について、奥州より下られた方達ではございませぬか」
「なに。……どうして、左様な事がわかるか」
「てまえも奥州ですから。……おはなしの様子で」
「そういえば、そちも奥州ことば。──奥州はどこだ」
「栗原郷でござりまする。多くは平泉の国府に住んでおりますが」
「ふうむ。……この鎌倉へ商いにでも参っておるか」
「お察しのとおりです」
「名は?」
「ちと、ここでは憚ります。お供をいたしてもさしつかえございますまいか」
「どこまで」
と、兄弟は顔を見あわせて、やや迷惑そうに云う。
「いえ、そこらの、人なき所までで」
「駈けるぞ」
「結構です」
「行こう、兄者人」
駒をならべて、兄弟は炎天へ馳け出した。畦の豆の葉に白い埃が舞う。──吉次は、媼に代を与えて後から走った。
馬上と馬上とで、兄弟は何か談合しているふうだったが、吉次を撒いてしまうつもりでもないらしい。やがて、雪之下をすぎ、八幡の下まで来ると、駒を下りて、杉並木の陰に待っていた。
「さき程は、失礼いたしました。実は、てまえは金売吉次と申す者で」
それへ来て、吉次が改めて名を告げると、ふたりは驚きの目をみはった。京、鎌倉でこそ、吉次の名は小さいものだったが、奥州の国府では知らぬ者はなかった。
「吉次とは、和殿のことか」
その名に比して、何と素朴な男だろうと、兄弟は、しげしげ彼の風采を見直していたが、疑うらしい眼ではなかった。
「して、その吉次が、われらに何の用があって、呼びとめたのか」
「御曹子の九郎様に、ぜひお目にかかりたい事があるので……実は、お手引をお願い申したいのです」
「然るべきご用があるなら、大倉郷のお館へ、願い出たらよろしかろう」
「公でなく、そっとお目にかかった方が、九郎様のお為にも、てまえの為にも、双方によろしいので……。てまえの名を称って、公然と、会って会えないはずはございませんが、そこをわざとさし控えて、きょうまで、よい折を待っていた次第です」
「御意を伺った上でなければ、応とも否ともいえないことだ。──がしかし、同国の誼み、和殿のことばだけはお伝えしよう」
「明日も、由比ヶ浜へ泳ぎにおいでになりますか」
「分らぬが、暇があれば行くかもしれぬ」
「浜で、ご返辞を、お待ちしておりまする。……ついでの事に、ご姓名をお聞かせ下さいませんか」
「それがしは、佐藤継信。これにおるは弟の忠信だ」
ふたたび馬上の人となると、兄弟の影は蝉しぐれの彼方へたちまち駈け去っていた。
吉次は次の日、由比ヶ浜へ来てみた。
約束の人は見えなかった。
翌日、彼はまた、同じところで待っていた。佐藤継信、忠信の兄弟のすがたはその日もついに見当らない。
五日も七日も通った。
「はて。あれきりだが?」
──月もかわって七月に入ってしまった。はや船の荷あげも商用も終ったので、彼の手代は奥州へ帰る日どりを彼に諮った。
「そうだなあ、ついでの事に、この月の中旬には、八幡宮のお棟上げがあるそうだから、それを見物してから帰ろうではないか」
吉次の云った鶴ヶ岡の上棟式には、頼朝夫妻から家人の主なる人々が臨んで、ずいぶん盛大に執り行われるであろうと、近郷の噂もなかなかであった。
「その事は北条殿からも伺いました。せっかくだから、ぜひ当日のご盛儀を、よそながら拝観してゆけ。国への土産ばなしにせよと、時政様からもおすすめ下さいましたが」
「そうか。では、北条殿におねがいすれば当日、どこぞお目障りにならぬ場所で、ご式の模様が拝めようか」
「いとお易いことで。拝殿のお間近は如何か存じませぬが、鳥居内の広場でなら、さしつかえあるまいとのおことばでしたから」
「では、その日にはぜひ、わしも伴れて行ってもらおう。吉次と告げずに、船の者ということで」
吉次は、待ちかねた。
そういう折なら義経も必ず参列するにちがいない。継信、忠信の兄弟が、あれきり浜にも来ないところを見ると、義経のほうにも、四囲の事情、ままにならないものがあるのであろう。そう思いやられもした。
庶民は祭がすきである。鎌倉じゅうがその日を待ちかねていた。新しい宮の屋根が、百年もまつりの絶えていた山の木々を透いて仰がれるのも歓びだった。そして大鳥居から由比ヶ浜のほうへ一条の大路が拓け、また、町屋を縫って山内の方面へも新しい道路ができ上がって、きれいに砂がしきつめられ終った朝、棟上げの式は厳かに執り行われた。
吉次は、鳥居わきの駒つなぎ場に近いところに土下座していた。ここの一かたまりは、特に拝観をゆるされた武家以外の者ばかりだった。吉次は、前の列に、早くから坐っていた。
頼朝夫妻が、群臣にかこまれて、眼のまえを通って行った。新しく築かれた高い石段を踏み登ってゆく姿は神々しくさえあった。眼もくらむばかりとは、その一人一人の装いであった。──が吉次の眼には、その金銀の飾りも絢爛な織物も、太刀の鞘や沓に光っている漆も、みな自分の生産した物を、自分で拝んでいるような気がした。
あたりの人々を見れば皆、なみだを流さぬばかり心から平伏している。自分のような考え方は不幸であると思ってみても、にわかに随喜のなみだも出なかったが、そのうちに、
「……あっ?」
あやうく声を嚥みながら、ばっと面に血のいろをうごかした。
すぐ前を、九郎御曹子が──久しく見ないので見違えるばかり成人したその人が──いつぞやの継信、忠信のふたりをつれて通った。
義経はちらと、吉次のほうを見たようであった。
慥かに、自分へそそがれたと思った眼に、吉次が、はっとしているまに、もうその人は背を見せて、彼方へ歩いていた。
「……ああ、お立派になった」
彼は、眼がしらに、熱いものをたたえた。
──何か、安心した気もちと、自分から遠くなったと思うさびしさにつつまれた。
「物」と「金」しか頭にないかのような彼も、義経にだけは、愚かしいほど、情に揺りうごかされた。──子のないせいかとも思っている。いや、子のような気持を寄せるには怖ろしい対象なのにと、自分の情を疑ってもいた。
しかし何れにせよ、慾と敬愛と、折合わない二つのものを、一つ対象に抱くなどという例は他になかった。義経だけが例外であった。
「……どこかで?」
彼はなおも義経のすがたを見ていたくてならない容子であった。
いつのまにか、彼のすがたは、そこを去って、鶴ヶ岡の山林へ立入っていた。
深い木の間に身を埋めてながめていると、東側の仮屋に、頼朝夫妻のすがたが眺められた。夥しい家人衆は、社域の南北に居ながれている。
以前の瑞籬は、由比郷に面した南の山にあったのだが、頼朝の入国と同時に、ここへ造営を開始され、おとといの八日までに、棟上げまでに運びができた。
きのうは、治承の年号が、養和と改元された日であった。
で、改元の第二日目に、きょうの棟上げの式は行われたわけである。
式が終ると頼朝は、作事に功労のあった二人の工匠に、賞として、馬を与えようと云い、座右を見まわして、
「九郎。──九郎はいずれにおるか」
と、呼んだ。
「はい」
義経は、東側の列の幾人目かに伍していたが、すぐ起って、
「御前に──」
と、兄の座を拝した。
小兵な義経のからだが、いとど小さく見えた。頼朝は、見下ろして、
「九郎か。──大工棟梁に、葦毛の吹雪と、栗毛の星額とを取らせる。そちが行って、その馬を、これへ引いて来い。──馬を引いて、棟梁どもに与えよ」
と、いいつけた。
「…………」
義経は、俯向いたまま、いつまでも返辞をしなかった。
土肥、北条、千葉、畠山など並居る人々の顔こそかえってはっと変った。
馬を引けとは。
しかも、大工棟梁へ、馬を引けとは。
「なんでそんな卑しい役目を、他に仰せつける人もあるのに、御曹子へは?」
人々は、頼朝の心を、推し量りかねた。──また、義経の返辞が、どうか、穏やかであるように──きょうのこの盛大な吉日が難なく終るようにと──手に汗して、念じないではいられなかった。
「…………」
「嫌か」
頼朝の眼は小兵な弟の平伏している姿へ、きびしく注がれたままであった。
「…………」
義経も、無言のままである。
一瞬、せっかくの曠の日が、険しい雲に蔽われてきたように、誰もが胸を暗くした。義経の襟の毛も微かに、わなないているかに思われた。
「九郎。なぜ起たぬか」
二度目の声は、さらにきびしい。
頼朝もまた、その言を吐くために、心のうちでは、非常な努力をしているらしい顔いろであった。
「……はい」
義経は、ようやく起ち上がった。──けれど、曠々しい衆人の中である。恥かしさに面は上げられなかった。
若宮の辻や、寿福寺の並木道あたり、いや鎌倉じゅうが、うすい埃の下に、夥しい人の流れを描いていた。
頼朝の帰館を、今しがた見送った路傍の人々が、行列の通過と共に、静粛をくずして散らかり出した埃である。
「あぶないっ」
「端へ寄れっ」
行列が終ってからも、後から後から二騎、三騎と絶えない蹄の音が、油断している往来を脅かした。
濶葉樹の大木が道の空まで茂り合っている辻の曲り角までその一騎が来かかった時、つと木陰から往来へ躍り出て、
「しばらく」
と、その駒の口輪をつかんだ男があった。
「誰だっ?」
馬上の人は源九郎義経だった。ふたりの従者は云うまでもない継信、忠信の兄弟で、
「やっ、和殿はいつぞやの男よな」
「吉次ではないか、何をするか」
共に、馬前から吉次を押し隔てようとしたが、吉次は、耳もかさず、
「しばらく、しばらく」
云いつづけながら遮二無二、森の小道へと馬を引き込んでしまい、往来の目から離れると、ようやく草むらにうずくまって手をつかえた。
「おゆるし下さい。おなつかしさの余りです。御曹子様、わたしめでござります」
「オオ、吉次か」
義経は、馬を降りて、手綱を継信にあずけ、
「会いたいと思っていた」
と、云った。
そのことばだけで、吉次は胸につかえていたものすべてを宥められてしまった気がして、なにも云えなくなった。
義経は、継信、忠信のふたりへ、ここで待っているようにと云いつけ、森の奥へと、先に歩き出しながらまだ手をつかえている彼を、
「吉次。来ないか」
と、振向いた。
吉次は起って、従いて行った。人目を避けて恋人とかくれに入るような秘密と似たものが五十過ぎた男の胸をそっと揺する。秋に近い森の奥は、黒いほど緑がかさなり合って、蝉の声も喧しいほどではなく、所々、これこそ泉ともいうべき水溜りに、もう秋草の花が鏡の縁の唐草模様のように乱れ咲いていた。
「ここは、寿福寺の森かな?」
「さようでございます」
「ここなら誰も来まい。──吉次、そこらの石へでも腰かけるがよい。そう礼儀を執らいでもよい」
義経は、木の切株に腰かけて、足もとから泉へ注いでゆく水を見ていた。
「奥州におる間も、めったに会う折もなかったが、いつも達者でよいな」
「あなた様にも」
「む、む。……」と、義経は口のあたりで微笑しながら、
「わしなどはまだ乳くさい子どもだからな。育つばかりだよ。どうだ、大きくなったろう」
「お見ちがえ申す程でござります。しかしお恨みにぞんじます」
「何をの……」
「平泉のお館を脱けて、一図にお急ぎ遊ばしたお心はよくわかっておりますが、なぜ一言、吉次にお洩らし下さいませんでしたか。吉次如きは、鞍馬の後は、もはやお役に立たぬ人間と、お見限りをうけたのかと、後では、ひがんでおりました」
「はははは。そうか」
とのみで、義経は、べつに云いわけもしなかった。
「愚痴でした。年は老らないつもりでも、つい、いけませんな。お聞きながしを。……いや、そんなつまらぬ事に時をうつしては勿体ない。きょうこそは、ぜひ一つ、あなたのお胸に、入れておいていただきたいことがございますので」
吉次は、鳥の羽音に、眼をそらした。寿福寺の丹塗の伽藍が、木々の彼方に紅葉のように見えた。
吉次は、すり寄って、じっと、相手の面を見つめたが、その義経は、
「……何か?」
とも訊ねてくれない。
むしろ放心したように前の泉を見つめていた。
吉次は、その様子を見て、ふと瞼を熱くした。
義経の胸には、今なお、澄みきれないものがあろう。その小濁りが、吉次には、泉の底よりもよく透いて見える。
きょうの棟上げの式に、兄の頼朝から、大工の棟梁に馬を引けと──あの曠々しい人なかで──酷い命をうけた時の気もちはどんなであったろうか。
(よくも、お怺えなされた)
と、無事に式の終った後で、多くの家人衆はうわさしていたが、吉次は、そんな傍観者のことばをわざわざ重ねてこの人に告げようなどとは思っていない。
むしろ彼の云おうとするのは、
(あなたは世間知らずだ。あなたは純情すぎる。あなたは余りにお人よしだ。云いかえれば愚人ともいえる。そしてご自分を余り粗末になさりすぎる!)
とまで、歯に衣きせず、直言したいのであった。
「…………」
が、云えなくなった。
云おうとする矢さき、ふと見れば義経の頬に涙がながれていたからである。
突然、吉次も不覚な嗚咽をもらしてしまった。がばと、肱を顔にあてたまま、草のなかへ俯っ伏した。
「吉次。何を泣く」
泣いている人が、冷然と、彼にたずねた。吉次は面をあげて、
「泣かずにおられましょうか。──あなた様とて、あなた様とて、きょうの事は、さぞご無念でございましたろうに」
「兄のことばだ。いや鎌倉殿のおいいつけだ。心外なことはない」
「嘘を仰っしゃいませ」
「なに」
「あなた様が、そんな柔弱なご気質か否か、誰よりも、吉次はよく知っています。それだけに、吉次でさえも、身がふるえました。かりそめにも、源九郎御曹子には、亡き義朝様の血をうけつがれたお一方ではありませんか」
「鎌倉殿は嫡流でおわす」
「とはいえ、いかに何でも、平侍のするような卑しい役目を、しかも御家人たちの打揃っている晴の中で、わざわざ骨肉のあなた様へお命じなさらなくても」
「もう、その事は、云うてくれるな」
「申しますまい。けれどこれだけはお分りになっておいて下さい。──鎌倉殿のなされた事ははっきりと、故意でございますぞ。……これ見よ家人ども、わしは自分の弟に対してすら、かようにする。骨肉の情愛などにはひかれておらぬぞと、そう故意に、あなたの面目を犠牲にして、大勢へしてお見せになったのです」
「…………」
「一面にまた、あなたへも、兄弟とはいえ、わが命令には、平御家人同様、絶対に服従するのだぞ──と、暗に大勢のなかで誓わせたことにもなりましょう。まったく政治のために、あなた様という者を」
「云うなと申すに」
「……で、でも」
「政治には、私心を交じえず、人事には、一点の私情もゆるさぬというお示し。……いいことではないか。有難いお心だ」
「ではなぜ、あなた様は、あの時平御家人のように、歓び勇んで、大工棟梁へ馬が引けませんでしたのか。──二頭まで、馬を引きに、お起ちなされましたが、誰が目にも、あなたのお顔は蒼かった。惨として、泣かぬばかりなご様子であった」
「それはな吉次……」
云いかけて、義経は渇いた唇の顫えを歯でむすんだ。ともすれば今でもまた、あふれかけそうな瞼のものをそっと怺えて。
義経は、自分と兄とのあいだに抱きあっている珠のごときものを、傷つけたくない。──他人から壊されたくない。
珠とは。
兄弟のつよい愛である。骨肉の情である。
(この世に一人の兄あり!)
とは、鞍馬にいた頃から、また、足柄山を奥州へ越えてゆく頃から──それからの長い年月のあいだも、義経の胸にたえず醸されていた血液的な思慕だった。尊い珠玉だった。
「吉次」
「へい」
「おまえは、他人の眼で、また他人の感情で、ひとり無念がっているが、鎌倉殿と義経のあいだは、切れない血と愛情でつながっている兄弟だぞ」
「それ故に、なお」
「だまれ。──兄の鎌倉殿は、愛すればこそ、この義経を、公然とお叱りになったのだ。愚かなわしは、その大愛が、すぐ胸に溶けなかったために、酷いお仕打! 衆人の中で、恥辱をお与えなさるかと、咄嗟には、むっといたしたが……よう考えてみれば、罪はわしにある」
「な、なんの科が」
「誰にも云わなかったが、おまえはわしの巣立ちの親だ。おまえにだけは云う。……聞いてくれ」
「はいっ」
「わしは常々兄の鎌倉殿へ、よい顔を見せたことがない。──黄瀬川の宿で、初めてお会いして、手を取り合って泣いた時以来は」
「どういうわけで」
「まあ聞け。……兄はすでに群臣の上にある顕然たる時の盟主。兄の一指一眄は、世をうごかすものだ。たとえ兄弟なればとて、ゆめ狎れてはならぬ。私の情愛をもって、兄の大志を紊してはならない。……と、戒めながらも、人間は愚か、つい、骨肉のお方と思う。日常の礼儀、形は慎んでも、心のどこかでは、つい、甘えたり、不平を思いやすいのだ。──臣下の如くにはなりきれぬために」
「ぜひない事でございましょう。──が、ご不平とは、いったいどういうご不平ですか」
「なぜ一日も早く、平家を掃滅し給わぬか。平家をうち亡ぼして、父義朝をはじめ亡き源家の人々のうらみを雪いで下さらぬか。また、一鎌倉の繁栄や祭り事などさし措いて、旗挙げの初めにひろく云い触らされたように、この国土全体の為に、旗を中原にすすめ、民みなが望んでいる新しい世態をお築きにならないのか。……それを思い、それを憂いたりなどしながら、兄や嫂の近頃のお生活方だの、御家人どもが争って、宏壮な居館を建てたり、飲んだり遊び明したり、私闘に日を暮したりしている有様をながめると、わしの心は楽しまぬ。怏々と胸が鬱いでくる。──為に、つい兄へも嫂へも、ここ半年余り、嫌な顔しかお見せしないようであった」
「仰っしゃった事がございますか。鎌倉殿へ直々に」
「そういうお話をする折はない。昼は昼で、公務にお忙しいし、夜は夜で」
「御台所の政子様におひかれでございましょうな」
うっかり吉次が口を辷らすと、義経はいやな顔して口をつぐんだ。
──と、いうのは、つい先頃のこと、頼朝がまだ配所にいた時分、側近くおいていた亀の前という女性を、その後、家臣の某の家へそっと隠しておいた事を、政子の母、牧の方が知ってしまった。
牧の方は、娘可愛さに、ついそれを政子の耳へ入れたので、ふたりの愛には、当然、大きな亀裂がはいった。政子は、聡明なので、世のつねの妻女のように、徒らに泣き狂ったり醜い嫉妬は口走らなかったが、一応、夫婦のあいだにはかなり派手な口論が交わされ、さしもの頼朝も彼女の正論には抗し難く、以後、彼の進退は甚だしく、御台所の監視下にあるという──下々にまで隠れないうわさを吉次も聞いていたからであった。
林の外に、駒のいななきが聞えた。義経は、にわかに立って、
「吉次。また会おう」
と、去りかけた。
吉次はあわてた。徒らに時をうつしたが、彼はまだ、云おうとする何も云っていない気がした。
「あっ。もうしばし……」
「きょうは忙しい。折も折、わしの姿が見えぬなどと、義経の心を知らぬ人々は、立ち騒いでおろうも知れぬ」
「では、たった一言」
と、吉次は彼の袖をとらえて、よほど思いきった顔をして云った。
「あなた様は、いつまでも、鎌倉殿の下について、そうしておいで遊ばすおつもりですか」
「……そうしてとは?」
「でも、ご不平でしょう。この鎌倉の現状には」
「わしの不平は、世のうごきに対する大きな不平なのだ。……兄鎌倉殿への不平ではない、そちは混同している」
「いません!」
「うるさい。そちは義経に、なにを云おうとするのだ」
「あなた様は、世間をごぞんじない。人間の複雑な心を見るにお目が若い」
「──だから?」
「失礼ながら、鎌倉殿に利用されるだけでしょう。きょうの棟上げの式でのように」
「歓んで利用していただこう。それが、世のためになる事なら」
「鎌倉殿が栄華をなさるお為でしかないとしたら、如何なされます」
「兄が、平家の二の舞をするというのか」
「なさらぬお方と、誰が保証できましょう」
「吉次!」
「……お気に触りましたか」
「そちは義経に、謀叛をすすめるのか。せっかく兄が建てられた新しい陣営に、もう仲間割れが起るようにと希っているのか」
「希わなくとも、そういう事実はもう起っていますから避けられません。──木曾殿と鎌倉殿との不和はかくれもない事です。おふたりの生い立ちを洗えば、そこに深い旧怨もあります。また、平家という当面の敵をひかえながらも、木曾殿は鎌倉の勢力が伸びてゆくのをよろこばず、鎌倉殿も木曾殿が旭日昇天のような勢いで京都へ迫ってゆくのをながめて、内心お快く思っていないことは争えません」
「…………」
「旗あげの初めに、以仁王の令旨をいただき、伊豆の配所をはじめ、諸国を駈けずりまわっていた叔父君の新宮十郎行家様とも、鎌倉殿には、近ごろ何か仲たがいを生じているとか聞きました。論功行賞の折、行家様へは領地をやらなかったとかで、鎌倉殿を見かぎって、木曾殿のほうへ奔ってしまったとやら」
「……何でもない! そんな小さい私事はみな塵芥だ。世を建直す大きな波へ浮び沈む塵芥よ。……目をくれている要もない」
「まだ仰っしゃるか、九郎様。──あなたも今に、その塵芥のひとつと見なされますぞよ」
「…………」
「悪いことは申しません。臍を固めてお置きなさい。元々、諸国の源氏は、鎌倉殿を中心に、一体として起ったかというに、決してそうではありません。──ただ春が来たので大地が芽を出しただけです。源三位頼政殿も、十郎行家殿も、木曾殿も、鎌倉殿とは根はべつに生えたもので、何の一致もありますまい」
「離せっ」
義経は、いきなり彼の手を袂から払って、
「根はひとつだ! そちのような商人には、武士の心根はわからぬ。義経は鎌倉へ、利を占めに駈けつけて来たのではない。死に場所をこそ求めに来たのだ。いかに、この身をよく死なばやと……」
云いすてると、義経は、蝉のごとく、木の間の小道を駈け去っていた。
それから、わずか二年め。
養和の年号は、一年で更わったので、寿永二年になる。
秋も近い七月二十五日の事である。昼からひどい暑さであったし、雨のすくない後なので、都の屋根は、乾ききっていた。
前の夜の夜半ごろからすでに、
「木曾、北陸の怖ろしげな猪武者の大軍が、もう叡山を占領し、大津山科にも満ち満ちて、今にも洛中へ攻め入って来よう」
と、まるで地震の地鳴りの次々に聞えてくるように、京都じゅうを揺りかえしていたので、きょうの明け方からはもう全市に庶民の影は見えなかった。
逃げたのではない。
近郷へ避難してゆく、病人や年よりや女子どもの、続いて行ったのは、もう三日も前の京都で、今は、そんな光景すらなく、刻々と、気味わるい静寂のうちに、ここの死相は迫りかけていた。
「な、なんじゃろ?」
床下の坑へかくれたり、小屋の戸をたて籠めて、息をこらしている庶民は、何か、大路の方に、物の轟きを聞くと、唾をのみ、眼と眼ばかり見あわせた。
往来まで、恐々と、様子を見に行ってもどって来た若い男は、町屋の裏へかけこんで、手つき物まねで、しゃべっていた。
「──途方もない敗け軍だよ。今朝から逃げて来るのはみな平家の兵ばかりじゃ。今もな、新中納言知盛様、それと重衡様なんどが、みじめな姿で、八条のほうへ逃げて行ったぞよ」
「総大将のおふたりを見たのかよ」
「なんの、どれが知盛様やら、重衡様やら、分るものではない。四、五百ほどの人数が、ごっちゃになって、馬も徒士も、押しあい、揉みあい、われ勝ちにな──」
「三位中将資盛さまも、宇治のほうが支えきれず、午ごろであったか、夥しゅう逃げ帰って来たままじゃ」
「もう防げまい。叡山の衆も、木曾殿と合体して、谷々から、太刀弓矢をとり出し、はや加茂川の上に、喊の声をあげているとやら」
「……どうなるのじゃ」
床下からも、小屋の中の闇からも、悲しげなうめきが洩れた。
すると、裏店の井のわきに聳えている大きな欅の木の洞から、
「どうもなりはしない! どうなろうが、京都は京都じゃ。案じなさるなよ!」
と、どなった男がある。
驚いて、首をのばした人々が、木の洞を指さして、一層、恐怖にかられていると、やがて男は、そこから這い出して来て、空地のまん中へ立った。
「誰じゃろ。この近所で、見たこともない人だが?」
怪しみながら、その男を見まもっていると、男は、
「平家が追われれば木曾殿が京都に入る。木曾殿がよい政事をなさらなければ、また、鎌倉殿が来て代ろう。──その鎌倉殿もいけなければなお、次の軍勢が来て治めよう。ここしばらくの討ちつ討たれつは仕方がない。そのうちに、平家でない次の世は、こう行くのだと、方向を教えてくれる。──お前がたは、その善い人をよいと称え、悪い代り手だったら正直に悪いといい、ここの土と一緒にいればよい。何が起っても、どう上のものが革まっても、京都の土に変りは来ないのだから──」
どこか、奥州訛りのあることばだった。
乳のみを抱いて、小屋の中に交じっていた職人の妻らしい年増の女が、
「あ……。あの人は、見たことがある。白拍子の翠蛾さんの旦那さまや。奥州の吉次とかいう人によう似ているがの」
と、そばの人達へ囁いた。
「ホ、翠蛾さんの?」
「翠蛾さんではなかろ、妹の潮音さんの旦那であろ」
「どちらにしても、あの白拍子の家に五、六年前までは、時折見えたことのある奥州の大商人とやらにちがいない」
しきりと、自分のすがたへ眼をそそぎ、指さし合って、密々いう辺りの声に、吉次も気がついたか、急に間がわるそうにして、
「いや、わたしは旅の者で、どっちみち京都に長居はしていないが、まあ、今の世の大きな変りようは京都だけの事ではない。日本じゅうは地つづきだからの」
そう云って遽に、家と家のあいだの細路地を出て行きかけたが、またふと、引っ返して来て、誰へとはなく訊ねた。
「お前がたのうちで、誰か、知っている者はないか。この表の通りに住んでいた白拍子の翠蛾と潮音の姉妹は、どこへ逃げて行ったろうか」
「…………」
「実はここ六、七年も、あの姉妹の家を訪ねていないので、近頃の様子は知らぬが、姉も妹ももうかなりな年配。しかるべき男でも迎えて、身をかためていれば結構だが、この騒ぎに、どうしているかと、実は案じて立ち寄ったわけだが、住居は空家、猫の子もいない」
「…………」
知らないのか、知っていても、他人事どころではないというのか、誰も皆、黙りこくッて、どこかでけたたましく聞える野良犬の声に気をとられていた。すると、人々の頭の上で、
「あっ? 煙が」
と大声がした。
屋根に上がって這っていた職人らしい男が下へ向ってどなったのである。
「たいへんだぞ。七条、八条、池殿、小松殿、泉殿、東は二条三条のここかしこからも、いちどに黒煙が揚がりはじめた」
「えっ、煙が?」
人々は、どよめき出した。
床下にも小屋の内にもいたたまれなくなって、どやどや空地へ群れ立った。嬰児が泣く、女たちが呼び交わす。──そして見るまに、その人々の上には、疾風雲のような黒煙が、太陽を赤くいぶして、空いちめん拡がってゆく。
「いよいよ、木曾勢がなだれこんだか」
老人たちが、唇をふるわせた。後から屋根へ上がって行った三、四名の男たちは、
「まだ、木曾勢は加茂を渡りもせぬに、大路は、平家衆の馬や車がなだれ打って、西へ西へと落ちて行かれる」
と、手をかざし、
「あれよ、六波羅も火、西八条からも、大きな火の手が立ちのぼった。──平家衆は都を焼きすてて逃げたのじゃ、わしらも、ここにいたら焼け死ぬぞ!」
もう片々と、黒い火の塵が降って来た。
経文切の灰。
燃えちぎれた錦襴。
火の鳥のように、火を曳いて飛んでゆく無数の黒点が、どこへその火を移そうかと、煙の空を、翔けめぐっている。
「死ぬぞっ」
「焼け死ぬぞ」
諸〻の路地からあふれ出た庶民の群れは、悲鳴と号泣をあげながら、大路の辻へ押しあった。
陽の光も煙につつまれたまま、七月二十五日の夕べは、夕方のあいろも措かず、いきなり阿鼻叫喚の夜に入った。
一門の第宅十六ヵ所をはじめ、六波羅の相府、西八条の一郭、そのほか繁昌と権勢をきわめた幾多の栄花の殻に、平家は自ら火を放って、その夜、西国へ立ち退いたのであった。
こうも早く、自分たちの没落が迫って来ようとは、平家の誰も思わなかった。
ことしの四月頃には、まだまだわが世の春と、うららかに、酔っていた。
義仲征伐に、北陸へ向けた維盛や忠度からは、
「戦えば、勝つのみ」
と、いつも連戦連勝が報じられて来るし、鎌倉の頼朝は、あれきり東国にいてうごく様子もないし──と。
それが、礪波山の一戦で、義仲の奇計に、いちど敗地にまみれてから、形勢は急転直下、変ってしまった。
逃げ足立った平家軍を、追いに追って、木曾勢は、加賀、越前を突破して長駆、近江まで追撃をゆるめずに来てしまった。
──と、思うまに、この月二十二日には、もう湖水を渡って、叡山に拠り、平家一門の屋根を、眼の下に見て、
「もう、いつでも」
と、攻略の手配を完全にととのえて、それから二、三日の余裕すら示している敵であった。
維盛、通盛、忠度、資盛などの諸大将も、今はすべて洛中へ逃げもどって、
「どうすればよいか」
を、宗盛以下の一門へ諮ることしか知らなかった。
──知らなんだ!
今となって、彼等は、ため息ついて、後悔の臍ばかりかみ合った。
つい目と鼻のさきに、朝夕栄華の日の手枕にも眺めていた叡山の大衆までが、
「木曾に味方しようとは」
と、怨みがましく、彼方の嶺を見つめるのだった。
平家の敗色が明瞭になると、丹波辺りでも、吉野でも、いちど平定した畿内の反平家分子も、また一斉に、騒ぎ出した。
いや、それらの事々よりも、平家一門の驚愕と、大きな失意は、院のお行方が、ゆうべ二十四日の夜半ごろから、まったく知れない一事であった。
宗盛以下、評議の末、
「このうえは、京都を捨てて大宰府へ立ちのき、あの地にある一族の家貞や貞能等をも併せて後事を図ろう。──瀬戸内海一円には、故入道殿の扶植されたご恩徳も浅からず、平家に加担の豪族も多いから、われらの第二の地盤として、勢いをもり返すことも至難ではあるまい」
と、いうのに意見の一致を見て二十五日はもう洛中から総退去と決していたのであるが、今朝になって、
「法皇には、昨夜おそく、ひそかに院を忍び出られ、鞍馬より横川を経て、義仲の陣営にあてられている延暦寺へ御幸あそばされてしもうたらしい」
との事実が分った。
これも寝耳に水であった。
元より宗盛たちは、自分たち一門の退却と共に、後白河法皇のお供をしてゆく予定でいたことは云うまでもない。
「何たる不覚を」
と今さら、自分たちの不用意に気づいたり、天をうらむが如く呟いてみたが、何もかも後のまつりである。
そこで、この上はと、畏れ多くも建礼門院が手に、まだお幼い主上を抱きまいらせて、ご同輿の出御を仰ぎ、内大臣宗盛父子や平大納言時忠など、重なる人々は衣冠、そのほか、武臣はもとより、公卿殿上人から端仕えの人々まで、すべて、弓矢甲冑を帯し、きょう卯の刻、七条朱雀を西へお供申して行ったのであった。
その後は。
平家は、平家自身の栄華の寝床を各〻の手で焼きはらって、立ち退くだけとなっていた。
──こういえば平家の退却は、予定のもとに、秩序整然と行われたようにもあるが、それは御幸のあった時刻の前後だけでいよいよ残る一門が、各〻の第宅に火を放って、
「それ、お後をしたえ」
と、わが身わが身の始末と、取り残されまいとする先を争う最後になると、
「これが、きのうまで、わが世の春を誇っていた貴顕か」
「これが、きのうまでの都か」
と、怪しまれるばかり、浅ましい喧騒と混雑が、火焔と煙のちまたに描きだされた。
「落ちゆく先とて定かでない。いたずらに家具什器をたずさえても荷になることぞ。何も持つな。ただ弓矢と駒のみを大事に持て」
こういう令は、きびしく達しられていたにかかわらず、いざとなると、馬、車に積めるだけの財宝を積もうと焦心ってみたり、遽に坑を掘って、土中へ金銀をかくしてみたり、井の底へ、家宝を投げ入れて、また京へもどる日もあればと、儚い先のたのみをつないでみたり──為に、刻々と迫っている生命の危険も忘れて、一門の退京は、思い思いに遅れていた。
早くも、素ばやい盗児は、焔をくぐって、空巣をあらし廻っている。
宵になると、洛中数十町のあいだは、焔々と、軒をつらねて、火をふいていた。
そのため、辻の口から押し返す者と、後から押してくる馬、車の人なみとが、殺し合うような混乱を起していた。
「──お館さま?」
「中将様っ」
「どこにお在しますか。いかがなされましたか」
「時移している間に、退き口もみな、焔につつまれますぞ」
「先なるご一門が、お姿が見えぬとて、いたくお案じです。──いずれにお渡りあそばしますにや」
ここは三位中将維盛の第宅であったが、明りもなく人気もない館のうちを、土足の郎党らしい者七、八名が、交〻に声をからして呼び廻っていた。
察するところ、主上に供奉して先発した宗盛の一行が、維盛の安否を憂えて、侍たちを見届けによこしたのであろう。
「ここじゃ。ここにおいでられる──」
暗い寝殿のあたりで、人声がした。近づいてみると、広縁から階の下まで、大勢の人影が、寂として、うずくまっている。
赤い夜空には、いちめん火の粉が舞っている、天体が大きくうごいているように見える。じっと、うつろな眼を上げたまま誰も彼もだまっていた。一つとして、生きているような顔はない。
さがしに来た侍どもは、その気はいに、何かハッとしたように、あわてて庭へ下りた。そして畏る畏る一族の左少将有盛、侍従忠房その他の公達や郎党のかたまっているそばへ這いすすんで、そっと訊ねた。
「いかがなされましたか。もう洛中も、あのとおりで、残っているお館もありませぬが」
すると、ひとりの公達が、寝殿の奥を指さして、
「……お名残りがつきぬのじゃ」
と、囁いた。
維盛卿の北の方は、故中御門大納言のお女で、美人の聞えたかい麗人であった。まだ幼い和子たちもあった。そのため一しお別離のかなしみは深く、北の方のすすり泣く声が、さっきから綿々と洩れ聞えて、人々の腸をかきむしっていたのである。
また維盛も、断ちきれない煩悩にもだえて、女々しいことばを繰返していた。
「かくては」
と、卿の弟新三位資盛や備中守師盛たちは、泣きまどう北の方や、幼な子たちを引き離して、ようやく、維盛を擁してそこを立ち出でたが、こうした別離はひとりここの館だけにあった事ではなかった。
法皇を奉じて、義仲は京都へ入った。
彼は、昇殿をゆるされた。
勿論、政治に参与した。
のみならず、法皇の御意をさえ歪めがちで、もっぱら我意をふるった。
彼の我意が、政治のうえに現われてくる。
期待していた民衆は失望した。──が、旭将軍の権力と威風の下に、暗い顔の唖になっていた。
「平家は朝敵である」
義仲は、西国へ落ちた平家の官爵を奪りあげた。
──天下一日も主なかるべからずと、九条兼実の議によって、高倉天皇の第四皇子後鳥羽天皇がご践祚になった。
「事々に、おれの意見は、朝に用いられない」
義仲は、粗暴をあらわしはじめた。
彼は以仁王のご遺志ととなえて、王の御子北陸宮をお立てしようと主張していたのである。
幾日か、参殿もしなかった。
彼の部下たちも、それぞれ任官していたが、いずれも粗野な北国そだちである。文化に対する理解が浅い。
平家の治下に、これはまた、余りに逸楽すぎる末期的な生活と制度に狎れていた民衆と──武骨一点ばりで、民心の作用も、文化の本質も、よく咀嚼しない我武者の吏とのあいだに、のべつ喰いちがいが起った。反目が醸された。──平家から置き去られた民衆は、源氏へすがってみたが、たちまち、源氏からも望みを失ってしまった。
そればかりか。
洛中に充ちている北国兵は、やがて糧食や物資の不足から、暴を働きだした。
守護するはずの兵が、民家に押入って、酒を掠め、女をいじめ、食物を奪りあげて、
「何を」
ふた言めには、権力で脅しつけた。
──一方。
平家はひとたび九州へ落ちたが、この人々も、多年の生活がまだ身にしみている。ややもすれば、都が恋しい。
殊には、建礼門院をはじめ、婦人たちは一しお嘆く。
大宰府を、第二の根拠地に、とは宗盛以下の最初の決心だったが、徐々、勢力を挽回してくるにつれて、ふたたび、都へ都へと、移動して来た。──その時期の余りに早かったことはいうまでもないが、ぜひもない勢いであった。
南海、山陽の大兵を募って、本営を讃岐にうつし、屋島に安徳天皇の行宮をたて、やがて都へ攻め上ろうとしている──
平家の動静は、刻々、義仲の耳へはいる。義仲は、
「すておけない」
と、遽に軍備して、平家討伐のため、山陽へ下った。
ところが、先鋒の足利義清が、備中の水島で、平家のため、惨敗してしまった。
それに気の腐っているところへまた、京都方面の情報によると、
(法皇には、鎌倉の頼朝をお召になって、ひそかに、何かお諮りになる御意らしい)
と聞いたので、彼は、
(この義仲をさし措いて)
と即日、戦を抛って、都へひっ返してしまった。
帰ってみると、自分の腹心と思っていた新宮行家も、法皇のご信任に誇って、自分へ反目しているようである。
彼の不安は、狂躁を加えてきた──彼が、法住寺殿を焼いたり、公卿の官爵を思いのまま剥ぎ奪ったり、自ら院の厩の別当と称したり、さながら清盛入道の悪いところだけを真似たような、小さな暴王となり出したのは、その頃からであった。
…………
それが十月末頃の京都の実状であったが、以来、鎌倉の頼朝は、何が伝えられて来ても動かなかった。義経もその下にいるのかいないのか、世間に消息も聞えなかった。
いつのまにか、時代の勢力は、三つに分れている。
京都を中心とする義仲と。
山陽、四国にある平家のまだ侮れない旧勢力と。
それと、ここ鎌倉──と。
京都も中国方面も、外交に、政争に、軍備の拡充に、物々しく動いているが、鎌倉の静かなことは、
「どうしたものか?」
一頃の頼朝の迅速ぶりと思いくらべて、怪しまれるばかりであった。
「近ごろは、御台所との御仲も、至極、ご円満そうに見える」
と、いう噂は、その問題を気にしたがる家人衆のあいだでも一致した観測であり、それと共に、
「あのほうのご手腕にかけても、人すぐれた所がおありとみえる」
などという──悪い意味ではない陰口が──臣下のなかでほほ笑ましく囁かれたりしていた。
が、そういう無事と見えるなかに、鎌倉そのものは、実は大きなものを生みかけていたのである。
平家が行って徹しなかった武家政治に、頼朝は、自分の理想を加え、民衆の力も盛って、施政のうえに、今までなかった新しい方法を見出そうと腐心していた。
その一つ二つの現われとして、公問所とか、問注所などという役所を設けた。
そこでは、政治をきき、司法上の裁きをし、役人には、大江広元とか、三善康信などをおいた。
広元も康信も、長く京都にあって、政務には熟練している文官の逸材である。
彼は、自分には難しいと思う部門には、旧勢力のなかからでも、人材を抜いて、重用した。
しかし、彼の信念は、
「野性を失ってはならない。新鮮とか、革新とかいうものは、健全な野性のもつ生活力だから。──と云って、反省も洗練も持たない野性では、義仲のようなものになるし──余りに野性を失えばまた、平家になってしまう」
その中庸に彼の理想はあった。──だから彼は、軍務、警察をかねた侍所などには和田義盛といったような、もっとも剛骨な武人を別当として、
「まず、武士から先に、庶民への模範を、その実生活で示すように」
と、云いわたした。
頼朝は、武士たちへ、武士道を求めた。それを誇り磨きあうように仕向けた。
一面にまた、
「いかに民心を得るか」
を、大江広元にたえず諮った。
だが彼は、この創業期において、大きな見のがしをただ一つしていた。──それは彼自ら東国の一方に拠っていたせいもあろうが、歴史の極りない転変と地上の変貌のみを思って、この国土が、いかに乱に遭っても、いつか帰一し、いかに紊れても、たちまち不滅の体にかえるか──それを政治の力に過信しすぎたことである。
だから、やがて彼の創めた体制は、大いに士風や民心を一時革めて、いわゆる幕府政治としての新味も出し、鎌倉文化なるものをも生みだしたが、その以後、北条、足利などの先例をも作ってしまった。
──といって頼朝という一臣民が、他の国民にくらべて、決して、朝廷に奉ずる念がうすかったわけではない。彼もまた、朝廷への忠勤には、心を傾けた武将といえるひとりである。しかし人間は往々、余りに大きなものは、かえって、うかとし易いものである。
たとえば、人はよく空を仰ぐが、仰ぐたびに、太陽と自己の生命との関係を考えたりはしないように。
「はて。誰がよいか」
頼朝は、考えていた。
彼にとって今、彼自身がいうところの健全な野性が、にわかに必要となって来たのである。
京都、中国、鎌倉と、三分されている天下の勢力を、
「わが手に」
と、考える時、それが容易な事でないにつけ、誰をして、その難事業に当らせるか──見まわすところ多くの武将のうちにも、そう人はなかった。
後白河法皇からひそかなお招きもあったが、彼は、義仲のいる京都へ上る気はなかった。
彼の身はもう鎌倉からたやすく動けないものになっている。
鎌倉を空けて、彼自身が、義仲と平家の二勢力を、一掃しにゆくなどという事は、いかに望んでみても、夢にすぎない。
「……人はないもの」
と、頼朝はつくづく思った。
大軍をまかして、安心できるような老将には、義仲を討つ覇力が足りない。元気に富む若武者ばかりでは、軍令が行われまい。議論倒れになりやすい。旁〻、京都へ入ってから、義仲の二の舞をやられても困る。
「義経なら……」
頼朝は、知っている、見ぬいている。──あの弟の素質を。
久しく鞍馬や奥州に培われてきた健全な野性と、また、血には、自分と同じ父をもって、よく野性と叡智とを一身に調和している彼の性情を。
「彼ならば、自分の代官として、大軍の上に立たせても、みな服従するだろう」
その点もうなずいていた。
けれど、頼朝もまた、義経を考える時、どうしても義経を一臣下として、考えきれなかった。
わけの分らない感情がからむのである。──あまり義経への衆望が、高まりすぎても困ると思う。彼への服従が、彼への忠誠になったりすると、今、ようやく緒についたばかりの鎌倉に分裂の下地を招くようなものと憂えられてもくる。
そうでなくても東国の武士は感情にうごきやすく激しやすい。単純な所がある。征馬遠く東国から離れて、長い年月、戦場で艱苦を共にし合っているうちには、どうしても、
──死なば共に。
と、骨肉以上な、つよい情愛にもむすばれてくるものである。
「どうしたものだろう」
頼朝は、迷っていた。
──が、その事ばかりは、妻の政子へも、舅の時政へも語らなかった。そこにも彼の用意があった。妻の一族の誰彼をふり顧って考えると、
「やはり誰よりも、義経こそ、信頼のできる自分の弟だ」
と、血は水よりも濃いということばに、気がつくのだった。
その義経は今、鎌倉にはいなかった。使いの途中、近江の佐々木ノ庄に逗留していた。
「そうだ。やはり弟に命じるべきだ。思い迷っているも愚か……」
頼朝は、心を決めた。
決意は短時日に迫られていたのだった。なぜならば、彼の手許には、後白河法皇の密勅が、それより幾日か前に人知れず届いていた筈であるから。
義経は、それより少し前に、
(──東国の年貢を朝廷に上るの使)
として、貢ぎの荷駄に、五百騎ほどの従者をつれ、兄の命をうけて、京都へ向っていた。
尾張の熱田の宮前で休息していると、
「源九郎御曹子ではないか」
と、声をかけた旅人がある。
「あ、これは」
義経は近づいて、先の礼儀に、急いで会釈した。
供も二、三しか連れていないし、姿も見ちがえられたが、それは後白河院の北面の下﨟公朝であった。
「いずれへお旅立ちですか」
「東国へ」
「東国は?」
「鎌倉のあたりまで」
と、公朝は、何か意味ありげに、にことして見せた。
振向いて、宮の森を指さし、
「ご参詣は」
「ただ今、参拝をすまして、これに休息しておるところですが」
「では、そこまで、お顔をかして給わらぬか」
公朝は、供の者をそこへ残して、もう先へ歩いてゆく。
問いたい事は、義経にもある。
義経は、忠信、継信の兄弟へ、何かささやいていたが、すぐ一人で公朝の後を追った。
十月末の空は澄んでいるが日蔭はいとど寒い。杉木立のふかい中に、蔦もみじだけが赤く眼に映る。
神前に坐って公朝は、長いあいだ礼拝していた。
義経は、つい今し方、先に参拝をすましていたが、ここに立つとまた、さっきも想い耽った多感な追憶にふたたびつつまれた。
十六歳であった──
ここで貧しい加冠の式をして、吉次と共に、奥州へ下って行ったのである。
吉次といえば。
どこかそこらの物陰から、今にも彼の男がひょいと出て来そうな気がする。
「いや、お待たせした」
公朝は、膝の塵を払って、義経に近づいて来た。そしてあたりを見廻しながら、相手の耳近くへ、
「御曹子、近日のうちに、きっと、あなたのお身の上にも、大きな使命が下りますぞ。……こう申せば、もうお分りでしょう」
「……では、鎌倉へのご用は」
「私事の用向きではありません。……院のお使いとして、それも極く密かに」
と、いよいよ声を落して、
「人になおもらしあるな。実は鎌倉殿へ、御院宣をお伝え申すために下る途中なのです。義仲の暴状は、もはや一日も捨ておかれないまでになっている」
「そうですか」
静かな面でうなずいた。──が義経のそれには、ほの明るい血がさし上っていた。
「貢ぎのお使いにお上りですか」
「そうです」
「ご入洛は待たれたがよい。危険です。──それに、それがしが鎌倉殿へ着く日もまもない」
「…………」
義経の眼は、何か、迷っているように見られた。
「いっそ、それがしと共に、一応鎌倉へお引返しあっては如何ですな」
「そうはなりませぬ」
「──さもなくば、早々、海道の源氏に、用意を命じ、お手勢とあわせて、京へ迫るお支度をひそかに進めておかれるもよい」
「いえ、何事も、兄のいいつけが下らぬうちは出来ません。……やはり貢ぎの荷駄を曳いて、京都へ参るといたしましょう」
云い断ると、義経は、その事にはむしろ触れたくないように、
「──それよりも、あなたにお伺いしたい事は」
と、話を反らした。
「それがしに、お訊きになりたい事とは?」
公朝が問い返すと、義経は、やや面ぶせに、しばらく云い出しかねていたが、
「兄の円済には、無事でおられましょうか」
「オオ、八条宮の坊官円済どのか。お変りもなくお過しのように聞いておるが」
公朝は、答えながら、義経の眸をとおして、この人の血につながる人々をふと思いうかべた。
後白河法皇の皇子八条宮に坊官として仕えている卿公円済というのはそのむかし、平治の乱の雪の日、常磐の手にひかれて生死をさまよい歩いた幼子たち三人のうちの一人なのである。
あの時──五歳であった乙若がその坊官円済で、今では八条の法親王に仕えていた。
いちばん上で、当時七歳であった今若は、その後、醍醐寺に入って、これも出家し、禅師全成と名のっていたが、気が荒いので、悪禅師といわれ、今は醍醐にもいず、消息もよくわからない。
(──やはりそうした兄弟たちが、幾歳になっても、恋しいのであろうな?)
公朝は、思いやった。そして、義経の何か怖れ憚っているような眸へ、もう一歩、立ち入ってこう云ってみた。
「御曹子……。あなたが、お訊きになりたいのは、円済どののお便りもさる事ながら、もっと他のお方のことではありませんか。あなたの生みの母御前常磐どののその後のご消息を知りたいのでしょう」
「…………」
常磐──という一言を聞くだけでも、彼の血、皮膚、髪は恋しさにおののき疼いた。その胸の中のものを公朝に指されたとたんに、彼は何の見得もない一個の痴児となって、
「……そ、そうです。お察しのとおりです。何ぞ、母の身についてご存知なればお聞かせ下さい。兄円済へもよそながら、書状にて、問い合せてはみましたが──出家の身、世事何事も弁えぬ。とのみ、素気ないご返事を一度下されただけでした」
「素気ないのではございますまい。宮のおそば近う仕える身、ご無理はありません。──それにまた事実、常磐どののお身の上とて、京都の大きな変りようと共に、何もかも押流されて、今では平家方について行かれた多くの公卿衆のうちに在るやら、誰ぞの領所を頼って田舎へお引籠りやら、恐らく知る人はありますまい」
「この世に生きておいであることは、慥かでしょうか」
「さあ、それとても、如何なものでしょうか。お互いにいつ知れぬ身ですから」
「嘆きはしません。もし、ご病気か何ぞで、もはや世に亡いものなれば、世を果てたと、お教えください」
「そういう事がないにしても、なお世にあるお方と、あなたがそう恋い慕われるのは、お察しはできるが、おまちがいでしょう」
「……まちがい?」
「牛若どの、乙若どの、今若どの──そう三人の和子が生命を守り終って、母としてなされる苦患も務めをも成し果たされた日から──常磐どのは恐らくご自身でも、すでに世にない身ぞと思い極めておいでではなかったでしょうか」
「…………」
「世間はみなそうお察しして、陰ながらわれわれまでも、美しき前世のお方よ、と密かに称えているのです。──その後、誰の妻になったであろうとか、幾人の子を生したであろうとか、そんな噂はあっても、別人の事としか聞かれませぬ。他人ですらそう思っておりますのに。……御曹子、それでもなお、あなたは強って、もう一度、生ける人にひき戻して、敢ないお苦しみをそのお方にかけたいと思いますか」
測らぬ人に行会って、測らぬ想いは義経の胸に増していた。
その公朝と熱田で別れ、彼は京都へと上貢の旅をつづけていた。
雨の日が多く関ヶ原あたりの河川は氾濫し、旅程は、おくれがちだった。ようやく、不破の関へかかって、湖畔をたどっていた日である。彼の一行を、早馬が追いかけて来た。
鎌倉殿のお使いという。
「何事か」
と、書状を披いてみると、極めて簡略に、
入洛の儀はしばし見あわせ、佐々木ノ庄に滞留あって、再度の沙汰を待つように。
とある。
思うに、院の密使公朝が、鎌倉へ着いたその夜か翌朝にでも、すぐ出した早馬にちがいない。
義経は、心のうちで、
「……時が来た!」
それをどんなに彼は待っていたことか。
彼は小さいもう一つの悩みを──公朝にも打明けた乳児のような心の奥の泣き声を──切り捨てなければいけないと思っている。
大乗をもって、小乗を。
大志をもって小我の迷いを。
まだ見ぬ母を一目でもと恋いわずらう過去への儚い痴児のこの悩みを。
「お目にかかる事が倖せか。お目にかからぬほうが倖せか。──愚かよ。公朝が云ったとおりだ」
義経は湖のうえを行く片雲を見た。道の辺の冬草を見まわした。──在りやなしや。母はそこはかとなく居もする。すでに亡い気もする。
「この世におわすとも、おわさずとも、義経が、人として、為す事を為さば、いずこかでご覧あろう。亡父義朝も……」
近江路は、源氏のもののふに取って、恨み多く、胸傷む思い出の道である。
ここらの草木、ここらの水の辺──何を見ても平治の乱に崩れ去った義朝や一族の当時のすがたを偲ばせぬものはない。
「──が、こんどは」
義経は、身のうちに、血ぶるいをおぼえた。
佐々木ノ庄は、湖畔の安土老蘇、金田あたりの一帯をいう。佐々木源三秀義の旧領で、かの定綱、盛綱、高綱など兄弟たちの故郷でもある。
そこの本郷山に、以前のままな古館がある。義経は貢ぎの荷駄や五百騎と共に駐まって、ひたすら鎌倉から二度目の急使が訪れるのを待っていた。
十一月になった。
まだ来ない。
月も中旬に近づいたが、何の沙汰もないのである。
この間の彼の焦躁は、はた目にも窶れの見えるほどだった。すぐ目と鼻の先の京都では、法住寺殿の焼打ちとか、その他、限りない義仲の狼藉やら秩序の乱脈さが手にとる如く聞えてくるのに、鎌倉の方からの風のたよりには、
「院宣を奉じて、いよいよ鎌倉殿にも、軍勢を催されておらるるが、義仲追討の総大将には、やはり北条殿がお立ちになるらしい」
とか、また、
「いや、千葉介殿か誰か、御家人のうち優れた老将をさしそえて、御弟の蒲冠者範頼どのをお立てになるそうだ」
などと真しやかなうわさが頻々として伝えられ、その噂のうちに義経の事は、義経という名さえ語られていなかった。
鎌倉殿の弟君といえば、誰もすぐ蒲の殿かと合点する。その範頼のあることを知っても、義経という弟もあることは、まだ世間に知る者は稀だった。
あれほど義経に対しては、思慮をめぐらし過ぎるほど気を労う頼朝も、同じ弟でありながら、範頼に対しては、さほどでもない。
「心して参れよ。陣中は、何よりも軍律を厳に。賞罰をあきらかに」
「はい」
「このたびの一戦こそ、大事なうちでも大事な戦ぞ。ひとり源家の興亡だけにとどまらない。天下はここで分れてゆく」
「よう心得ております」
「その心得顔が、まちがいの因だ。常々のごとき心構えではならぬ」
「はい」
「義仲もさる者ぞ。侮るな。──木曾、北陸の猛者が相手であるぞ」
「張合いがあります。死にばえがございます。決してお名はけがしません」
いよいよ義仲討伐の軍勢が出発という朝方である。
頼朝は、華やかに扮装った範頼を側近く招いて、門出の神酒をくみかわし、その後で、こんな事を云いきかせていた。
「そちを瀬田口の総大将に、義経を宇治川のほうの攻め口の大将に命じたのも、頼朝の心のあるところ、不覚をとるなよ」
この弟へは、何をいうにも気の措けない姿である。
範頼もまた、何事にも兄への服従と慎みを怠らない。
故義朝の第六子にあたり、母は池田の宿の遊女とかいう。藤原範季の手に養われてきたが、頼朝の旗上げと聞いて、その翼下に馳せ参じたのである。
「……不覚をとるなよ」
今、頼朝がそう云ったのは、義経に負れをとるな、という意味のものと、範頼はうけ取ったので、
「弟には負けません」
と、温順な彼も、いささか心外なような顔色を示して答えた。
すると頼朝は、そんな顔色を見てもやらず、頭から云った。
「──戦の駈引は、そちより、遥かに、義経の機略がたち優っておる。京に攻入る二つの攻め口では、瀬田より、宇治川のほうが難しい。それ故に、義経をさし向けたのである。不覚をとるなとは、その上にも、名折れをすなと申したのだ」
「はい。……分りました」
範頼は二言もない。
その他、細々と、注意をうけて、彼は出発した。──とはいえ、馬上、大軍の上に立てば、自ら威もある。彼は、将として弱いのではない。気負けというか、兄の前に坐ると弱いだけだった。
義経のところへも、早、飛状が着いている頃である。
範頼と途中で会え。
攻略の軍議して、ふた手にわかれよ。
何事も、仲よく謀り合ってせよ。兄弟の不和は、敗れの因ぞ。
──二人の兄として、頼朝はそういう点まで書き添えた。
範頼の立った後から、なお、続々、関東の大名小名は、令をうけて、西へ上ってゆく。──上る途中にはまた、必ず鎌倉へ立ちよって、頼朝に謁し、各〻、
「生きて、再び帰らん心も候わず」
と、名残りを告げたり、
「屍は何地へ捨て候とも、名こそ惜しく候え。あわれ、口ほどに、よき死に方をしつると、必ず沙汰されてお見せ申さん」
などと、去る者、去る者の姿、悲壮でもあり潔くもあった。
そのうちにも、梶原景季は、頼朝の前へ、別辞をのべに出たついでに、大胆な無心を申し出た。
「ご秘蔵の名馬生唼を、それがしに拝領させて下さい。このたび、宇治川の先陣をいたすに、この景季を措いて誰がありましょう。──それには、生唼が手ごろの乗料とぞんじますので」
頼朝は、やや呆れ顔した。
生唼は、誰も知る頼朝が秘蔵の愛馬である。御家人の面々は、みな目をつけているが、どんな功があって望まれても、それだけは惜しんでやらなかった。
「胆太い無心をいうやつ」
呆れ顔が、やがて苦笑になる。
景季は、そこを押して、
「何とぞ。何とぞ」
と、頭を下げた。
馬を乞うために、頭を下げるのは、どんなに下げても、武士の恥でも卑屈でもなかった。同時に、馬を惜しんでやらない大将も、決して物惜しみとは笑われなかった。
当時の武風である。その頃の戦には、馬の偉力は唯一の器械力であった。心ある武士ほど良馬を持とうとした。世に聞えるほどな名馬とあれば争って自分の料にしたがった。
わけて、こんど義経の手について、宇治川の渡河戦に当るものは、まずあの激流とあらゆる障碍に耐え得るほどな馬をと、心懸けていない者はない。
奥州、東国は名馬の産地だし、坂東武者はみな馬術に熟練している。その中に伍して先陣の名のりを克ち取るのは容易なことではない。
「おれを措いて誰が?」
と、景季の抱いているような自信は、それに加わる五千騎はみな持っているであろう。
人も人だが、馬も馬だ。
「いかがでしょう」
景季は、押強く、面をあげて頼朝へ眉で迫った。
「生唼はいけない」
頼朝は、笑いだした。
「八ヵ国の大小名みな眼をつけおるが、あれのみは許さぬ。蒲冠者にすら与えずにあるのだ」
「さればこそ、たって景季が望みでござる」
「いや、頼朝みずから出陣の日までは、厩におく」
「可惜!」
景季は舌打ちして、
「合戦中は、夜ごと、名馬が厩で悲しみましょう。この千載一遇の秋につながれて置かれては」
「云うわ、憎態を」
頼朝は、愉快になった。彼の押太さに負けてやりたい気がした。
「つかわそう」
「えっ、賜わりますか」
「──が、生唼ではないぞ。生唼にまさるとも劣らぬ磨墨のほうを遣わそう」
「ありがとう存じます」
景季は、満足した。
誇らしかった。
「──宇治川の先陣は、おれのもの」
もう十分な自信があった。
聞くならく、こんどの合戦に、鎌倉殿のお厩から曳き出された逸物には、義経の料にとて薄墨──乗更駒に青海波。
範頼には一霞と月輪。
御家人たちのうちでは、熊谷二郎直実の権太栗毛は自慢の駿足であるから、こんども彼を曳いたであろう。畠山重忠にも、秩父鹿毛とか、大黒人とか、妻高山鹿毛とか、評判な名馬があるので、さだめし選りに選って、競い立って行ったにちがいない。
「だが、磨墨には、どれも及ぶべくもない」
箱根、足柄と、各〻郎党や駒をひきつれて西へ急ぐ他の部隊をながめても、磨墨ほどな逸物は見あたらない。
景季は、途中、駿河の浮島ヶ原に、軍勢を休めて、磨墨に草を飼いながら、自分も草に脚を投げていた。
──すると彼方の道を、何者の部下か、三、四人して、生唼を曳いて通ってゆく。自分の眼のせいではないかと、ぬっくと起ち上がって、
「……はてな?」
眸をこらして見たが、どう見ても紛れのない、名馬生唼にちがいなかった。
何か、景季からいいつかって、駈け出して行った郎党は、彼方の道を、生唼を曳いて通ってゆく者をつかまえて、訊きただしていたが、程なく、景季の前へ、駈け戻って来た。
「やはり生唼であろうが」
「左様でした」
「して、誰の部下だ、あの者たちは」
「佐々木家の御家人と承りました」
「佐々木……佐々木の誰」
「高綱どので」
「馬も高綱のものか」
「鎌倉殿から拝領なされたとかで、この毛艶はどうじゃ、馬品の美しさよ、などと舎人どもまで誇らしげに自慢しておりました」
「高綱はまだ通らぬな」
「やがて後より見えられましょう」
「……よし」
顎を振って、また草のなかへ坐りこんだ。
景季の顔いろは穏やかでなかった。
「あれ程、自分の所望したものを。……賜わらぬはぜひないにしても、佐々木の末弟などにおやりなされるは、当てつけがましい。ご偏頗なお仕打でもある」
死場所へゆく途中である。さなきだに血は荒ぶる。激し易くなっている。
「人の口端にも笑われぐさだ。恥ある侍ふたり刺し交えて、鎌倉殿へ、ご偏頗なお仕打のお返しをして見しょうか。……いや待て。それとも高綱めが、生唼の事を知って、殿を巧みに泣き落したのかもしれぬ。とすれば、殿をお恨みしては相すまぬ。高綱をこそ」
諸将の部隊が過ぎてゆく。
景季は、待ちかまえていた。
そのうちに、佐々木隊が通った。高綱のすがたも馬上に見えた。
「おううい。佐々木殿」
景季が呼びとめた。
高綱は、列を脱けて、歩み寄って来た。
「やあ、其許にも、このたびは源九郎様の手について、宇治川へ懸られるそうな。ひとつご陣じゃ、よろしく頼む」
「むむむ」
先の顔いろが明るすぎるので、景季は、自分の不快な眉や唇を一応処理して、笑いをにじみ出しながら云った。
「おたがいだ。ところで、佐々木殿、先にここを曳かせて通ったのは、生唼と見たが、お上から拝領なされたのか」
「あ。あれか」
高綱は、にっと景季のひとみを見つめながら、自分の頬のあたりを、右の掌で一つ打った。
「見つかっては是非もない。実を吐くが、他言して給わるな」
「戴いたのではないのか」
「どうして、あれを下さろうぞ。──出陣の真際、恥ずかしいが、良い馬に事を欠き、思案にくれたあげく、お厩の御料一匹おねだり申そうかと考えたが、もし、下された馬がさほどの逸物でなかったら、合戦に臨まぬうちから、我のみ負れをとる。……ままよ、後でご勘当うけたら、功名と差引。討死いたしたら、香華の代りと、おあきらめ下さろう。……そう考えてな、盗み出して来たのだ。暗夜、ひそかにお厩の内から」
「えっ、盗んで来たと」
「所詮、われわれ風情では、正直では名馬は得られぬからな。あははは」
「盗みおったとは。──いや、押太さにも、上には上のあるものよ、アハハハ」
高綱は笑う。
景季も笑ってしまう。
手をたたいて、二人は笑った。
もうそこには何のわだかまりもない。
「ご免。──また戦場で」
高綱は先に行ってしまった。すこし彼の方が人が悪い。
実のところ生唼は盗んだのではない。やはり頼朝からもらったのである。けれど頼朝に口止めされていたので、咄嗟に出たらめを云ったのだった。
隙のないように見える頼朝にも、相手の接し方に依っては、あれほど惜しんでいた名馬でも、つい与えてしまうぐらいな甘さもあった。
ひとりの女性は、衣を打被いだまま、燈火から遠く離れて、泣き伏していた。
黒髪のなかに埋めている横顔の白さが、この薄暗くてまたどことなく殺気のみなぎっている殿中には、余りに白くおののいている。
「だまれっ。──妖怪のように細々と泣くなっ。泣くなら大声で喚け」
義仲は、酒を仰飲っていた。
燈火のせいか、どす赤い顔に、眼が大きく光る。
年は三十一。巨躯を持っている。
決して醜悪な容貌の部類ではないが、公卿や宮中の女房たちが恐れることは甚だしい。
「やめないか」
「…………」
そこに泣き伏しているのは、彼の妻というのも、気の毒な──前関白基房のむすめであった。
義仲に懸想されて、強奪されて来た妻である。ここへ来てからは泣いてばかり暮していた。──泣くもよしと、雨中の花を見るように眺めていた義仲も、やや、あぐねて来た眼いろである。
「どうしたな、使者は。……きょうは昼にも立帰るはずだが」
つぶやいて、後ろを見た。
三名の侍が、木像のように、固く坐っていた。
義仲の焦躁から出る──どうしたな──の嘆息とも呟きともつかない問は、夕方からの連発である。
答えようがなく、
「……されば、もはや」
と侍たちも、同じことを繰返すしかない。
「枕。……枕をもて」
ごろりと横になる。
「はっ」
と、侍のうちから一人が起ちかけると、義仲は、強く手を振って、
「いい! 起つな! そちにいいつけたのではない」
と、泣き伏している人の黒髪を指さして、
「おいっ、枕を取って来い」
「…………」
「関白の女だから侍女のするような業はせぬというのか」
癇癖の半分は酒の声である。
こう怒ってばかりいる彼ではないのであるが、きのう今日はわけて、彼の性格の良いところは少しも出さなかった。
いやもう少し遡って彼を観ると、この夏七月、兵を擁して、堂々と、平家が退去した後へ入洛して来た時は、得意でもあったろうが、もっと落着きもみえ、こんな魁異な大将には思われなかった。
それが、日の経つにつれて、狂暴になった。義仲の性格にも、もちろん悪い血があればこそだが、ひとつにはこの京都に平家が、残して行った文化の残滓やら人心の悪気流やら政治の組織やらも、義仲の神経をひどく翻弄したり疲らせもしたのである。
たとえば、院の女房たちにしても、彼が衣冠した姿を見れば、おかしくもないのに笑う。笑いこけて隠れこむ。
公卿堂上人の冷たい目も、彼の前には立たないで、薄暗い物陰からのみ隙見している。
「いかにして笑われまいか」
だけでも、木曾殿の神経は疲れたにちがいない。
それを通り越したので、
「笑わば笑え」
彼は、憚らなくなった。木曾山中の飛鳥走獣がそのまま院中をも洛中をも横行した。
為に、都の文化も秩序も乱脈に陥入ったが、実は、義仲もうろたえに囲まれていた。彼は渇望していた都の文化や中央の府が、こんな厄介なところとは予期していなかったのである。
「こんな厄介ものを、平家も恋々とし、頼朝も欲しがりぬいておる。ばかなやつら」
もう抛り出してしまいたい。ほんとに彼はそう思っている。彼には割あいに偽りはない。
だが、頼朝の権力を入れる事は意地でもできない。平家に負けて押出されるのもなお嫌である。頑としておれは頑張る。──それが彼の肚だったが、刻々、周囲の形勢はゆるしそうもない。それも彼は自覚していた。
夜も更けた。
どこかで馬の嘶きがする。
宿直の跫音が、つづいて聞えた。宵から、うたた寝のまま横たわっていた義仲は、
「なに、覚明が帰ったとか」
がばと起きて、坐り直した。
「ただ今、戻りました」
大夫房覚明は、旅装も解かず、そこへ来て、燭から遠く坐りかけた。
「寄れ。もそっと近う」
待ちかねていた義仲は、さしまねいてすぐ訊いた。
「どうだった、平家方の意向は──。和議は調ったか」
「調えて参りました」
覚明の答えに、
「そうか」
と義仲は、まずほっとしたと云わぬばかりの顔いろだった。
義仲は今、窮地にあった。
東軍は大挙して、瀬田口や宇治方面から迫ると聞えてくるし、平家も水島の大捷に勢いをもり返して、京都奪回を目標に、潮のごとく、山陽を北上して、先鋒の一部はすでに、兵庫に上陸して一ノ谷あたりに集結しているという。
この険悪な象のなかに、義仲は年暮から初春を迎え、何の策もなく、わずかの酒の勢いで、
「なんの、頼朝ずれが」
とか、
「範頼、義経ごときが」
とか気焔のみ上げていたが、朝夕、彼の呶号が多くなって来たのは、もう酒では誤魔化しきれない現実が、ようやく、彼の目にも、さし迫って観えて来たからであった。
──で、義仲は、腹心の大夫房覚明を使者として、平家方へ、和睦を申し込んだのである。
「背後の憂いさえなければ」
と彼は、この苦しい体制で、今の窮地が、打開されるものと信じていた。
われながら、窮余の一策、とは思ったが、武門の醜態とは考えなかった。
彼の擁している北陸や木曾の猛兵のあいだには、まだ新しい「武士の道」が昂揚されていなかった。鎌倉に集まった新時代の若武者たちが、早くも、次の時代をうけもつ資格を自覚して、互いに、節義を磨き、恥を尊び、文化の建設と歩調を一にしているのと較べると、彼等はただ強いばかりを能として、そのくせ、その勇猛をも弱める美衣飽食や女色には、まるで脆い弱点を、余りに多く持っていた。
義仲をはじめ、その部下は、多分に人間的で、赤裸ではあったが、武士としては、匹夫の勇にすぎなかった。軍としては、当然、この京都を維持しきるだけの性能はなかった。
「──やすめ。大儀だった。細かい評議は明日としよう」
覚明の報告をきくと、義仲は、寝所へはいった。
翌る日。──それは元暦元年の正月十日、義仲は、後白河法皇を奉じて、北陸道へ落ちようと企てたが、それは、失敗に終って、その日も、彼の身辺は、酒と、区々な軍議に暮れてしまった。
すると、夜に入って、近江へ入れておいた物見から報らせがあって、
「宇治口へまわった義経の軍勢は、わずか一千余騎にすぎない」
と、いう事が聞えてきた。
次の日の朝、また、
「近江に集結した東軍も、思ったほどの大軍ではなく、士気も至って奮っていない」
との報らせだった。
義仲は、日のたつほど、
「思ったほどでもないらしいな」
と、楽観して来た。
こういう際にまた義仲は、不自然な栄進をした。征夷大将軍の宣下をこうむったのである。
今にもと気づかわれた東軍のうごきも、その後は、思いのほか緩慢である。
「宇治川の急流や瀬田の要害を見ては、坂東武者も、さすがに二の足をふんだにちがいない」
義仲は、そこの天嶮を恃みにしていた。洛中の情勢も平穏だし、院のお覚えもよいし、すべてが好転しているかのように、自分の位置を、ひとまず、安心しきって来た。
その心理が、
「河内を先へ討て」
となった。
河内にも、自分の敵が、蜂起していたのである。
その主謀者は、頼朝を離れていちど自分につき、また、不平を抱いて自分から離反した新宮十郎行家だった。
兵七百を割いて、樋口兼光を、その方へさし向けたのである。
──後に思えば。
この七百の兵力を割いたのは、彼にとって重大な用兵の失策であった。
なぜならば今、洛中にある彼の兵力は、三千に足らなかった。
今井兼平を将として約九百の軍勢を瀬田の防備に向け、また根井行親を大将に、約千二百の兵を宇治のふせぎに繰出した後は、わずか三百ほどの兵しか京都には残っていなかった。
その三百の兵をひいて、義仲自身は、院の御所を守護していた。
心ある者の眼には、
「あの将軍の心には、一体、何を恃むものがあるのか?」
と、怪しまれるほどだった。
また、時の人々は、彼が平家へ和睦を申し入れた心理をいぶかしい事として、義仲の心をいろいろに忖度した。
平家こそは、源氏にとって、石にかじりついても屈しられない累代の仇敵ではないか。何のために源氏の兵は、きょうまで臥薪してきたのか?
そう問いたいのであった。
けれどそれは、血縁というものの特殊な感情を解さない人のことばであるという者もある。
血は濃いものであるが故に、その血の近い同族が争うことになると、他人と他人の憎悪よりは、烈しいのが常である。傍からは窺い知れない血液と血液とが搏撃する。利害にかかわらず共倒れも怖れないところまで行く。
だから、同族中で、その主体たらんとする一人があれば、自分の腕と知りながらも切って取捨てる。自分の指と知りながらも断って、患を除こうとする。──古来、主体の人が、冷血といわれるのは、そういう思いきった事をも敢然となしうる強力な精神が、その覇業のうえでは認められても、民衆の道徳や人情には、受けいれられないためであろう。
そんな公卿たちの評も聞かれるほど、院の御所も平穏であった。洛中の庶民も、戦争に馴れて来たのか、こんどは平常とそう変りなく、商いもしていた。
けれど、眼を転じて。
瀬田口の前線を見れば、そこの水路も道もまったく遮断されて、湖をよぎる鳥影もなかった。
さらに、宇治川方面の防禦のきびしさはいうまでもない。きのうの朝も今日の朝も、雲は低く、ひょうひょうと寒風をふき落して、橋板の引かれた橋杭に、白いものさえ積って、陽が高くなると消えた。
義経は、河辺に立って、
「水練の達者なものは名のり出でよ。河底へ潜って、逆茂木へ縦横に張りめぐらしてある荒縄を断ち切れ。──われと思わんものはないか」
と、味方を顧みて云った。
そのことばも終らないうちに、彼方此方で、
「おうっ」
「おお!」
と、兵ばらの奮いたつ答えが聞えた。
渋谷右馬允のそばにいた一家臣などは、具足を脱ぐのに誰よりも迅速だった。真っ裸になったかと思うと、義経の前を駈けぬけて、もう眼の前の奔流へ跳び込もうとしかけた。
「待て待て」
義経は、手をあげて、後からつづく者へも、注意した。
「春とはいえ、水は冷たい。雪のある山々にも近いゆえ、恐らくここの流れは身を切るほどだろう。そち達、水練には巧者でも、素肌では、寒烈な水底で、長い働きはできまいぞ。肌着のみは、着けてはいれ」
宇治川も変遷している。
当時の宇治川は後の世のそれのように、悠々と穏やかな相をもった大河ではない。河幅もずっと広く、河原は年ごとの洪水にまかせ、流れの迅さ深さ嶮しさ、さながら、原始時代のままだった。
ただ幾分か、人工が加えられてある所は、今、義経が立っているここ平等院の北の辺り──土民が富家の渡しと称んでいる岸だけであった。
ここには、往来のため長い橋が架けられてある。
しかし橋板はもちろん対岸の敵がのこらず引いてしまった。また、渡河の攻め口としては、地形や水勢から見ても、この附近しかない事は分っているので、敵は、ここの橋杭を中心として、上流下流の数町にわたって、あらゆる障碍を水底に設けていた。
「なんの、これしきの河」
坂東武者はみな気負いたって、義経の令をむしろもどかしげに待ち焦れていたが、義経は、
「いや、難しい」
と、正直に自然を怖れ、先に、馬を降りてしまったのであった。
兄の範頼を瀬田にのこし、彼の軍は、伊賀路から笠置を経て、宇治に屯し、きょう正月の二十日、いよいよ渡河を決意して、この富家の渡しまで押出して来たのである。戦略上、兄の範頼のほうでは、
「両軍、合せて四万」
と、称えているが、実数はその十分の一、四千余りの兵数でしかなかった。
それを義経が、正直に、
「瀬田口に二千五百を向け、宇治川へは一千五百をひいて行く」
と、誰にも、ありのまま実数を云いふらしたというので、範頼は腹を立てて、
「九郎殿は、余りにも兵法の弁えがなさすぎる。あんな事で、宇治川の備えを破れようか」
と、陰で怒ったというくらいである。
実際兵力の不足は範頼も義経も苦心していたところだった。
木曾方も、寡兵であるが、守備よりも攻撃する側のほうが、それに数倍の兵力を要することは戦の原則である。
それなのに、義経はなぜ、敵方の士気をよろこばせるような味方の弱点を、わざと云いふらしたのだろうか。
彼の答えは簡明であった。
「──義仲を、都のうちに、繋ぎ止めておくための流言にすぎぬ。兵法は嘘のみと思うは誤り、正直もまた兵法であるのだ」
水中にはいった半裸体の兵ばらの使命は、生死を超越しなければできない作業だった。
ひろい奔流の諸所には、うかとすれば、すぐ生命を捲きこんでしまう恐ろしい死の渦が巻いている。
その水はまた氷の如く冷たくて手足の知覚もたちまち失われてしまう。
彼等は、その寒さや危険を冒しながら、身を沈めては、河底に張りめぐらしてある無数の縄を断ち切った。乱杭を抜いて押し流したり、割竹の堰を破って、柴の束や材木の障碍などを取り除いたり、浮きつ沈みつ、さながら神のような姿で働いていた。
「あれよ、下流のほうへ、また一名流されたぞ。誰ぞ、救ってやれ」
義経は、それらの名もない雑兵の必死な働きを見ていると、眼が熱くなった。
対岸の敵は、
「すわこそ」
と、射手をそろえて、河中の兵へ、箭をあびせかけた。そのために、作業は一しお困難を極め、最初にはいった工兵の半数はもう死体となって流されていた。
もちろん義経の身をも、矢うなりは絶えまなく掠めてゆく。
「楯のお内へ」
と、しきりに、周りの武将たちが、さっきから諫めていたが、耳もかさず、河中の兵に、熱い目をそそいでいた。
「──御大将が見ている」
死も生も考えない決死の兵ではあるが、義経がそこにあることは、勇気を百倍にさせた。
同じ死ぬにも、歓んで死ねるのであった。
孫子の曰う、
用兵の極致は、兵をして、
歓んで死なしむにあり。
意識的でなく、将としての義経の言動には、そのことばと合致するものがあった。
戦に立つ運命はひとつである。ここに立つからには、死は、怯勇無差別に向ってくる。
歓んで死ねる兵は、末代、そのたましいに生きがいの歓びをつないでゆくだろう。
義経は、ひとつひとつ、矢に中って、浮いては流れてゆく死骸に、
「おまえ達のいのちを、この後とも、あだにはせぬぞ」
と、胸に念じた。
「重忠、重忠。──陸からでは手ぬるい。あれまで射手をすすめて、敵の足掻きせぬまで、射て射て、圧倒してしまえ」
矢風の中からいう彼の声は、自分も身を挺して、すでに敵前で戦っているような悲調とあらい語気をおびていた。
「抜かりましたっ」
畠山重忠は、そう云われて、初めて味方の掩護が、まだ手ぬるいものであった事に気がついた。
「橋桁へ立て。あれなる橋桁の上を進んで近々と射よ」
と、自分の隊へ、大声で命じながら、手を打振った。
すると、熊谷直実の部隊も、渋谷右馬允の隊も、平山武者所の手の者も、いっせいに弓を持ったまま、橋板のない橋桁の上を、先を争って駈けて行った。
弦音をそろえて、そこから対岸の敵へ、猛烈に射返した。
そこからの掩護は的確にききめがあった。たちまち、敵の矢数は減って来た。飛んでくる矢にも最初ほどな弓勢はなくなった。
河中の兵たちは、ほとんど、目的を達して、瀬や淵の水深まで測ったうえ、紫いろの顔をして、やがて続々陸へ這いあがって来た。
その機に、対岸でも、布陣を革めているらしく、しきりに兵馬の移動がながめられたが、やがての事、前にもまして弓勢が、河面も晦くなるばかり箭を射かけて来た。
「箭道に立つな。上流へ寄れ。一様に各〻駒の列を、もそっと、上流へ並べ立てい」
義経は、馬上から指揮に声をからしていた。われこそ一番にと、流れを前に、河原へむらがり立った各部隊の騎馬武者たちは、ひとしく鐙からのび上がって、彼の高く振る手を横にながめた。
「上流へ寄れ」
「もそっと寄れ」
千余騎の横列は、馬首をそろえたまま、順に横へ横へ押しあった。そして約半町ほど陣列が移ると、
「それっ、押渡れ」
と、各隊の将が、義経の手を遠く見て、一斉に令を下した。
ざんぶと、一列にしぶきが上がった。
大きなうねりの波が河面を岸から拡げてゆく。味方の鐙と鐙、鎧の袖と袖とが揉み合い、もつれ合い、真っ黒に、激流を埋めて行った。
「──今だ!」
平等院の小島ヶ崎から、一騎、鞭を打って駈けて来た侍があった。
するとまた、一方の森陰からも、征矢のごとく河原へ向って駈け出した一騎がある。
二騎は近づいて、駒足をそろえた。そして、顔を見あわせた。
「やあ、梶原どのか」
「オオ、佐々木どのよな」
さすがに、今日のみは、にこと笑みあう余裕も持たない。
景季は、ひそかに、
「高綱におくれてなろうか」
と、思っているし、高綱も、
「彼に名はなさしめぬ」
と、この宇治川へかかる前から固く自分に誓っているのである。
わざと、部隊を離れて、ほかに渡る戦友の影もない下流の水路を選んだのも、約束したように、ふたりの考えが暗合した。
馬の力が弱ければ、勢いこの激流では、河のまん中まで進むうちにも、かなり下流へ流される。それ故に、障碍物をとり除いた水路よりもだいぶ上流へ移動して大勢一かたまりに渡河にかかったものであるが、佐々木高綱と梶原景季のふたりは、十分、馬の力に自信があった。
──で、むしろ味方同士の邪げがない下流を選んで、自分一騎だけはと、やにわに丘の陰から駈け出したのであったが、何ぞ計らん、そう考えた者は、自分だけではなかった。
「景季もやりおる」
「高綱もぬからぬ男」
無言のうちに、ふたりは負れを誡めた。もっとその感想を露骨にいうならば、お互いに自分の相手を、さすがと尊敬し、小癪なと憎み、そして油断ならじと怖れ合った。
悍気の立った生唼も磨墨も、水面から立つ狂風に吹かれると、たてがみを強く振って、いななきぬいた。
生唼は、水をきらって、どうしても河へはいらないのである。
景季の磨墨は、駈け足をもったまま無造作に浅瀬を蹴だててもうざんぶと平首のあたりまで流れに沈んでいた。
「しめた」
景季は、巧みに、水馬の技術をこらして、楽々と馬を泳がせながら、後ろの岸をふりかえった。
高綱はまだ、焦れ狂う生唼の鞍上に、歯がみをしながら手綱をさまざまつかいわけていた。
強く、一鞭加えると、生唼は勢いよく水へ向って駈けこみ、高綱は、真っ白に飛沫をかぶった。
──が、すでに景季の磨墨は、数十間先をとって、あざやかに泳ぎ渡ってゆく。
「不覚。おくれては」
と、高綱はあせった。
「あれほど、広言吐いて、ご愛馬を賜わっておきながら、先陣は景季に取られたりと聞えては、一代の名折れ」
と、恥を思った。
兜の眉庇を俯向けて、高綱は必死の唇をむすんでいた。
河波は、横ざまに搏ってくる。岸を離れるほど流れは激してくる。怖ろしいのは、渦まくそれよりも、寸断された障碍の縄が、なお藻のように浮游しているので、それが馬の四肢に搦みつくことであった。
「おおうい」
「えええい」
「おうい」
その時、上流から乗り入れた千余騎は、一団また一団、乱れ合って、波濤とたたかう無数の筏のように、河面を埋めて、次第に下流へ下流へと流されて来た。
景季、高綱の二騎も、やがてその馬群のなかに巻き込まれていた。もうこの大河の一番乗りは景季ひとりが相手ではなかった。高綱ひとりが目標ではなかった。──三浦、熊谷、畠山、足立、平山などの諸将をはじめ、その部下にいたるまでが、われ負れじと、競っていた。
義経もその中にあった。
畠山庄司重忠は、自分の功名は捨てて義経のそばへ、ひたと駒をよせ、義経の司令と共に、声を援けて、渡河中の全軍へ、始終、水馬戦の注意をさけんでいた。
「──馬と馬とは、寄りおうて、馬筏を組みて渡せよ。健き馬は上流手に泳がせ、弱き馬はゆるやかに、その尾について、無理さすな」
矢うなりは、風をきる。波しぶきは、声を消してゆく。
義経と重忠とは、時折、渦まく濁流のなかに駒を止めて、全軍を見まわした。一兵でも惜しむように、溺れる者や、矢に斃れ去る者を、眼に傷みながら、なお声をふりしぼって、水馬に馴れない兵たちに教えた。
「──馬の足の届くまでは、手綱をゆるめて泳がせよ。手綱強めて、誤ちすな。尾口沈まば、前輪にすがれ、水あし急に塞がれなば、馬の三頭に乗下がり、鞍つぼ去って水を通せ」
重忠が声を疲らせてしまうと、義経がまた云った。
「──敵は射るとも、河中にて、弓は射返すな。うち俯すぎて、兜の頂辺を射られるな。水のうえにて身づくろいすな。物の具に透間あらすな。──弓と弓とを持合うて、前なる馬の尻輪に、うしろの馬の頭を持たせて、息をつがせよ、息つぎ合えよ。──人の馬にからみて二人ながら押流されるな。逆渦のながれに溺れかけたる友を見ば、弓を差伸べて救け合えや!」
こたえる諸声は、雲に谺し、いななく馬の声は、宇治川の瀬々に、白い波がしらを寄せに寄せて行く。
先だつ群れ、後れてゆく群れ、たくさんな馬筏は、はやくも河のなかほどまで押し襲せた。
敵は射る。
まるで驟雨のような矢であった。
──と見れば、一騎は、すでに馬筏の先鋒を離れて、はや、敵の顔もあざやかに見える岸近くまで進んでいた。
梶原景季の磨墨である。
「オオイっ。梶原っ」
高綱は、そのうしろに迫りながら、呼びとめた。
うしろの高綱は、また、
「やあ、危ういぞ梶原。この大事な河渡しに、鞍踏み返して溺れたら、敵味方の笑われぐさ。──腹帯を締め直さぬか。御辺の馬の腹帯が弛んで見ゆるに」
それには景季も、ためらわずにいられなかった。
彼は、弓を口にくわえて、鐙に足を踏んばった。そして鞍腰を上げながら、腹帯の結びめを詰め直していたが、その間に高綱は、先を取って、河を打渡ってしまった。
生唼は、水を切って、対岸へおどり上がった。
「──佐々木四郎高綱先陣。──この宇治川の先陣、佐々木四郎高綱っ」
呼ばわる声と共に、そのすがたは敵の中に没していた。
「してやられた!」
景季は、歯がみをしながら、二番目に刎ね上がって、そのまま敵の中に突入した。
三番四番はもう誰とも分らないほどだった。鼻さきを揃えた悍馬の群れは、すさまじい武者声を乗せて敵の正面へぶつかってゆく。
これまでのあいだ、敵もむなしく見ていたわけではない。主将は、木曾方でも聞えのある根井行親だし、部下にも強者は少なくなかった。
けれど時代の黎明を意識した新鋭の若さと、木曾軍の強さとは、比較にならない違いをこの実戦で見せた。
戦う上に全体的な信念を持つ兵と、戦うにただ個々の猛勇と個々の結果しか考えられない兵との相違である。
決死の渡河を行って来た敵を見ながら、前線に射手をならべて、矢ばかり射ていたのも不覚の一つであった。
それに反して、義経の兵は、人馬共、濡れねずみのまま、
「息をつかすな」
とばかり追撃また追撃して──一部は木幡から醍醐路へと追いまくし京の阿弥陀ヶ峰の東に出で、また他の一部隊は、小野から勧修寺を追いかけて七条へ突入した。
深草や伏見辺へ、少数で迷い出た兵もある。何しても、逃げる敵は道を選ばないので、急追した義経のほうも、八方へ分裂して、京都へはいった。
宇治川の敗報を知ると、義仲は、
「すわ」
と、今さらのようにあわて出した。彼の面上には、すさまじい自暴自棄のいろが漲っていた。
その血相をもって、彼は、院の御所へ駈けつけ、法皇に対し奉って臨幸を強請していた。けれど法皇には、お肯き入れがない。とやかく立ち騒いでいるうちに、
「はや、敵の先鋒が、六条河原のあたりまで来ています」
との声に、
「これまで」
と、義仲は大きく喚いて、手勢わずか四、五百騎ばかりで、河原へ向って行った。
そこで散々に敗れた彼は、粟田口から近江へ落ちて行った。瀬田の自軍と合流する考えであった。──けれどもう自分の運命は分っていたものとみえて、蹴上の坂に立った時、洛中を振りかえって、
「幾月あれにいたろうな」
と、側の者にたずねた。いつになく余り素直な義仲の顔いろだったので、侍臣はふと涙を催したそうである。
その日、院の御所はかたく門をとじて、ただ戦の成行きを、戦を外にひそと見まもっていた。
すると門外に、どかどかと蹄の音が聞えたので、近侍の公卿たちは、
「さては、暴兵が?」
と、はや顔いろを失って、法皇のお座近くにかたまりあい、息をこらしていると、何やら外では高声に呼ばわっているので、耳をすましていると、
「これは、鎌倉殿の代官として、御院宣をかしこみ、洛中守護のため、宇治川より木曾勢を破って、ただ今馳せ参じた頼朝が舎弟源九郎義経です。──洛中諸所もはや平穏に復し、火災もこれなく、庶民もみな戸をひらき、町の往来も常のごとく見えますれば、何とぞ、御心やすらかに思し召されまするよう──右の趣、奏聞の儀、願わしゅう存じまする」
すると。
誰とはなく、院に仕える者の下々にいたるまでが、一斉に、わあっという声をあげた。闇の底へ陽の光がさしたような歓声であった。
法皇にも御眉をひらかれた。うるわしい御気色のうちに、御座を立たれた。
院のご門はひらかれ、
「──通れ」
と、ゆるされた。
主従は六騎だった。
義経以下、あわただしく、門外に下馬して、畏る畏る通ってゆく。
中門の外の御車宿の前に、粛として、立ち並んでいた。
法皇は、その骨がらをご覧の上、一同の年齢や姓名、住国などをご下問になって、
「みな若いのう。どれも雄々しき面だましい。恃もしげな益良夫ではある」
と、近側へ仰せになった。
義経主従は、面目をほどこして退出した。そして、当座の兵舎まで戻って来ると、辻々に立ちむらがった民衆は、手をふり声をあげて、彼を歓迎した。
その頃もう、瀬田、石山方面の捷報も洛中に伝わっていた。
義仲の死が、確報されて来たのは、二十三日の晩であった。粟津ヶ原で、今井兼平とわずか二騎となって、あわれな討死をとげたと聞えた時は、何とはなく、戦捷の将士も、儚いものを思わせられた。
宇治川以来、ここ三日二晩というもの、義経以下の将士みな、ほとんど一睡もしていなかった。──で、一夜の眠りは、何よりも大切な急務だった。
ところが、二十五日の朝となると、誰の口からともなく、
「平軍が大挙して来る」
と云いふらされた。
義経は、仮の兵舎に一夜をやすんだが、起きぬけに、ぎくとした。
彼が、心ひそかに、惧れていたものは、味方の兵力に十数倍する彼の一挙に入洛を図って来ることだった。
元より平家の大軍も、彼の武勇も恐れはしないが、義経は、その時機と、攻守の立場の逆になるのをかねてから惧れていたのである。
義経は、どこまでも、
「攻めるに利」
と、信念していた。
またそれが、兵法の原則でもある。この攻勢が、取れない場合、あらゆる味方の不利と苦戦は避けられないものと考えていた。
しかし、周囲の政治的事情は、義経が逸るように、この際、迅速も果断も必要としていないかのように、緩慢であった。
義経は思う。
もし宇治川で手間どって、ここ三日も入洛が遅れていたら、平家の先鋒が自分等より先に都へはいっていたかも知れない。
その惧れは、今も決して解除されていなかった。屋島から兵庫港に上陸した西軍は、一ノ谷に城廓をかまえて、虎視眈々たるものがある。
きのう今日の、微妙な政治的のうごきは、そこまで移動して来た颱風の余波ともいえる。
朝廷におかれては、連夜のご評議と洩れ聞えているが、容易に、範頼と義経に対して、今後の方向をお明示にならなかった。
今なお、勅使を平家につかわして、何とか、両軍の和議の方法を見出しては、と唱える公卿たちすらあるらしかった。
義経は、気を揉んだ。
範頼に諮ってみても、範頼は煮えきらない性だし、何よりは、政治的な機微がわからない。
「鎌倉どのへ、早打ちを立て、そっと兵を上せ給わるように、わしから申し上げてあるから、たとえ平家が襲せて来ようと、ここ半月も固めていさえすれば、そのうちに援軍が着くであろう」
などと云っている。
何たる悠長さ!
義経は、なおさら、東軍の危うさを思わずにいられない。
「いや、今こそ、ここ一日か二日が、源氏全体の興亡のわかれ目だ。時代の峠だ」
と痛切に思う。
こんな急激な転換期を見ながら、十日も半月も、悠々と、空しく待っていられようか。
いや、何事にも大事をとる筈の頼朝は、中央の政治的な雲行きの如何によっては、
(──そう面倒ならば、一応軍を退いて、鎌倉へひきあげろ)
と、云って来ない限りもない。
それやこれや、気ばかり焦心っているところへ、平軍が大挙入洛して来るという今夜のうわさである。
「そうだ!」
彼の座所へ、侍が、燭を運んで来た頃には、彼の面に、何か、悲壮な決意がすわっていた。
「──まだ鞍馬にあった幼年の頃、夜ごと鞍馬谷へわしを誘い出して、わしの幼い魂へ、兵学を教えこんでくれた父義朝の遺臣たちがよく云っていた」
燭の白い灯を見つめながら彼は純白な幼な心に返ってそれを憶い出していた。
(──悪い世をよい世の中に革める。それが源氏の再興でなければなりません。けれど、新しい世をうち建てるには、必然、旧い勢力と、遮二無二戦って、それを打破してゆく人が出なければできない。それは時の潮の真っ先に立つ人だ。その人に降った天の使命だ。打破しては創て、壊しては建て、その人は右顧左眄してはならない。一点の私もなければ民衆はついてゆく。そうしてただ、一名の者がほんとに国の人柱となる気ですすめば、それについてゆく民衆のあとに、自ら新しい世の相も組織もできてゆく。……が、これは賢い人にはできない。なぜならば、いずれにせよ、旧勢力からふるい落される無数の人々から恨みをかう。……故に、英雄の末路はおよそ悲運ときまったものです。けれどもそういう人も出なければ真の建設はできない……。あなたは、生涯の無事をお祈りなさるよりも、甘んじて、人のなし得ない天の使命をうける人とおなりなさい)
ふと、瞑目から醒めると、彼は不意に立ちあがって、
「高綱はおらぬか」
と、妻戸口を出て、辺りへ呼んだ。
ここの仮の兵舎は、かつて平家のなにがしが住んでいた館とみえ、邸内はかなりな兵を入れるに足り、厩の棟も豊かにとってあった。
「お召ですか」
高綱が駈けてくる。暗い地上にうずくまって彼の姿を見あげながら云う。
「景季もおるか」
「おりまする」
「四、五名供をして来い」
「どちらへ」
「蒲殿の陣所まで」
義経は自身、厩の前まで歩いて行って、馬を出させ、もう二条の方へ急いでいた。景季、高綱たち五、六名が、後から徒歩で追ってゆく。
するとまた一騎、追いかけて来た。畠山重忠であった。
「取急いで、お耳にまで」
と、重忠が駒を降りようとすると、
「下馬に及ばん。何か」
義経から駒を寄せた。
「うわさの実否を確かめんものと、洛外遠くまで出向いて参りましたが、平軍入洛の事は、虚報にござりまする。明日とも知れませぬが、こよいはまだ……」
「そうか」
義経は、少し眉をひらいて、
「いずれにせよ、わしはこれから蒲殿へお目にかかりに参る。そちは陣所へ帰ってよい」
別れて、また急いだ。
蒲冠者の本陣を義経が訪れると、範頼は、
「またか」
と、云わぬばかり、傍らの梶原景時の顔を見た。
義経はもう通って来た。
範頼に対しても、義経は異母弟であるし、こんどの軍の編制でも範頼は総大将であり、彼は一方の指揮官でしかない。
当然、義経は、何をいうにも、そういう礼と格から云わなければならなかった。
「平家方の軍勢が、入洛の姿勢をもって、こよいにも、動きかけているという情報は、もうお聞き及びとぞんじますが」
義経が云いかけると、
「風説にすぎない」
と、範頼はすぐ打消した。
「うわさは、虚報だそうです。しかし、それで安心はなりません」
「備えはできている」
「守備は不利です。ましてこの洛中にあって、この小勢では」
「九郎殿にはまた、ここを出て、攻勢に向えと、短気をすすめに見えられたか」
「これで三度、くどいとお思いになりましょうが」
と義経は、自分の主張を、耳の熱するまで説き出した。
けれど範頼は、
「院のお沙汰のないうちは」
と、彼と一致する容子もなかった。そのうちに鎌倉殿のご返事もあろうなどと、依然として、悠長なものだった。
その悠長にかまえている事のいかに危険であるかを、義経は泣いて説破した。ついには、ことばも激越になってくると、範頼は、
「九郎殿。ではお許は、院のお沙汰も待つに及ばぬ。鎌倉殿のご意向にもかかわるなと云うのか。この範頼に、強いて、不逞な行動をとれとすすめるのか」
と、云った。
義経は、口をつぐんだ。
そして悄然と、二条から戻って来る頃、夜は白みかけていた。
この日の朝。
義仲以下の首を、六条の河原に梟けるため、検非違使等の役人は、まだ暗いうちから獄門の場所へ来て、指図をしていた。
その人声を振向きながら、義経の馬は、七条松並木のほうへ曲った。すると、河原の下から、
「九郎様。九郎様っ」
と、にわかに声をあげて、追い慕って来た男がある。
義経はふり向いて、
「やっ、吉次ではないか」
と、眼をみはった。
吉次は、馬前に両手をついて、
「お出ましと窺い知って、昨夜からお帰りの途中を待っていました。何かと、その後の事どもお耳に入れとう存じます。ご陣所まで、お供仰せつけ下さいませ」
前後には、人がいる。義経にも憚られた。
「むむ。参るがよい」
そのまま吉次をつれて、駒は急いだ。──と云っても、七条の陣所はもうそこに見えていた。
人を払って、義経は、戻るとすぐ一室へ吉次を通した。吉次もきょうは十分、義経の立場を察しているらしく、相手にとって無用らしい言は費やさないように慎んでいた。
「ここ数日が、大事な山、何かとご苦衷のほど、陰ながらお察しいたしておりまする」
「そちは、以来、京都にいたのか」
「いえ、ずっと、奥州へ帰っておりましたが、去年、木曾殿の攻め入った頃、ちょうど都へ上る用があって、あの兵燹にめぐり会い、思わず足をとめているうち、軍勢をひきいて、あなた様にも、鎌倉をお発向と聞き、再度のお目どおりを楽しみに、お待ち申していたわけで」
と、吉次はいつも変らない自分の誠意をまず相手に示してから、
「時に、ゆうべ蒲殿とご談合の末、平家の機先を制して、一ノ谷のご進軍の議は、ご意見一致なさいましたか」
と、訊ねた。
義経は、愕いて、
「どうしてそちは、左様な機密を知っておるのか。わしと蒲殿とのはなしの内容は、極く少数な者しか知らぬはずだが」
と、疑った。
吉次は笑って、
「鎌倉ではそうも参りませんが、この洛中の事ならどんな事でも、吉次の耳にはいらない事はありません。公卿堂上方のうごきでも、町々の出来事でも、誰かが吉次に聞かせてくれますから。……けれどゆうべは、そういう手づるもなかったので、実は今朝お目にかかって、お顔いろを拝してから、さてはまたも蒲殿とのご意見が合わずにお帰りだな──と、かようにてまえの胸のうちで、お察し申しあげた次第です」
「でも、わしの胸に今、そうした苦しみのある事は、どうして読めたか」
「お公卿方の一部で、お噂しているのを聞きました」
「はて、誰が、義経の胸を左様に申していたか」
「九条兼実卿。また、院のご近侍たる朝方卿や親信卿なども……」
と、吉次は答えながらすり寄って、声をひそめた。
「今日中に、内々、その方面の方々へ、院宣即降の嘆願をなさいませ。あなたは余りにも、政治のうらを衝くすべをご存知なさ過ぎる。お手引は、吉次がいたします。まず九条殿から先へお説きつけておしまいなさい」
ふしぎな男である。庶民層のなかに住みながら、上層の事情や政局のうごきなどにも実に詳しい。
(どうして知るのか)
と疑うよりも、
(吉次如きが、聞き知るはずはない)
と、義経も初めは、頭から信を措かなかったが、深く考えてみると、彼が、奥州の金商人として、過去の文化に携わっていた力は大きい。
多年の事である。その間に彼は自然、多くの貴紳から知遇を得、また特べつな交わりというものもあったに違いない。
そう考えると、義経はまた、
「嘘とも思えぬ」
と、彼の言に、耳をひかれた。
吉次としては嘘どころではない。彼は、義経に対してだけは、敬愛の心をもって、奴僕の如く、身を粉にしても仕える気であった。その誠意は、義経の多感な胸には、ありのまま映らずにいなかった。
「そちのことばに従って、九条殿へお願いに出てみよう」
ついに、義経が云うと、
「いえ、いきなり九条殿へ、あなたがお訪ね遊ばしては、人目立ちましょう。てまえにお任せくだされば、よいように運びますが」
吉次は自信をもって云う。
彼はその朝、そこを辞して、一日姿を見せなかったが、夜に入ると、約束の時刻もたがえず迎えに来て、
「お身なりを変え、お微行のつもりで、てまえに従いてお越しください」
と、迎えに来た。
そして何処ともなく、彼の駒を導いて行った。
後に、人は種々に云う。
その晩、義経は、九条どのをこっそり訪れたのだとも、また、いや、さる寺院の奥ふかくで、院のお側近く仕える朝方卿や親信卿など反平家の、そして特に義経に好意をもつ一派の人々と会っていたのだとも、取沙汰は区々であったが、誰も、実相は知るわけもなかった。
その翌日、朝議は一変して平家追討となった。紛論は排されて、最初の方針が、ふたたび明示されたわけである。
義経の出発は早かった。
余り早いので、範頼は、
「院宣もこうむらぬうちに、私に兵をすすめ、万一、朝議のご決定にそむくようになったら、何とする心であったか」
と、後に義経をなじった。
しかしその範頼も、院宣をうけては、義経のあとを追って、義経の軍に合流しなければならなかった。
先鋒の義経は、丹波路をとって亀岡から園部、篠山と通過し──篠山から西南の三草越えをさして急ぎに急いでいた。
三草山をこえて、播磨境にはいり、印南野を南へ南へと下がってゆくと、やがて、馬蹄の下に、一ノ谷がのぞかれる。
もちろんこういう大迂回は、大軍ではできない。彼の腹心とその手勢だけである。範頼の本軍は、行動をべつにとって、一ノ谷の東の城戸口、生田方面へ進んでいた。
「一ノ谷へ総攻めは、二月三日ぞ。──三日を期して、総がかりに攻めつぶすのだ」
義経は、そう揚言した。
二日の道を一日に歩くほどな強行軍をつづけながら、道々そう云って、士卒を励ました。
けれど、その三日には、総攻撃もなかった。四日も、何事もなかった。
「──四日は、清盛の忌日である。敵もさだめし仏事供養をしてあろうに」
と、思いやって猶予したかの如くであったが、五日になるとまた、
「きょうは、悪日であるから」
などと云いふらし、幾日かをわざと過して、一ノ谷に楯籠っている平家方の全神経を、まず不安と迷いに疲らせた。
「梶原どのが見廻っておいでになりました」
義経は、そう聞いて、
「景時か」
と、いやな顔をした。
中軍の陣幕は、冬木立のなかに張りめぐらされてある。
その日も、何の行動も起さず、ここの林に駐屯していたので、焚火の煙の立ちのぼる空に、鵙や鵯の啼くのも静かであった。
「おつつがもなくて、まずは祝着」
と、景時は、義経のすがたを見ると、皮肉な語気でまず云った。頭を下げるにも、武骨というよりは、ぞんざいなふうがあった。
景時は、軍監として、こんどの西上には、総軍のうえに、重きをなしていた。
彼は、自分の口から常に、
(蒲殿も、九郎殿も、何分大将としてはお若いので、そちがよく奉行せよと、特に鎌倉殿から仰せつけられて参った)
と、人にも語っていた。
そのことばの裏には、暗に、鎌倉殿の寵を誇っているふうも見える。
そういった人がらが、義経は好かなかった。また、宇治、瀬田と分れて戦う前からも、景時とはよく評議のうえで意見の相違を来した。
義経は、義経の信念で押し通して来た。そうしなければ勝てない戦であった。けれど景時は、
(九郎殿には、事々に、軍監たる此方へ楯をつく)
と、範頼などに向っては、その感情を口に出して云った。
範頼と彼とはよく気が合う。
いや、範頼なら景時の意のままにもなるからと云ったほうが正しい。
だから彼は、あたかも範頼の後見のように、多くは範頼の陣にいた。そして、義経の陣地のほうはほとんど顧みなかった。
先頃も義経が、一ノ谷にある平家の攻勢に対して、
──一日も早く。
と、味方の積極的な行動をいそいで範頼を説いていた折も、いつも範頼のそばには、景時が、黙ってついていた。
口に出して、反駁はしないが、範頼が何のかのと、言を左右にして、動かなかったのも、彼の優柔不断ばかりでなく、その意志は、実は黙っている景時の表現だった。
義経も察していた。
義経はまた、その感情を巧みにつつんでいられない性情である。きらいな人間に対しては、きらいだという顔をする。わけて景時に向うと濃厚にそれが出る。
(自分は、鎌倉殿の弟だ)
というような自尊心から出る威張りかたなどは誰にもした例のない義経であったが、景時に対する時は、意識的にも、
(下臣)
と、いう態度で見た。
それが、景時には、小癪に見えてならなかった。
年齢、経歴、手腕、いろいろな誇りが彼にも募る。主君の異母弟とはいえ、景時には、何の好感も義経にもてなかった。人が義経を尊敬するのさえ不快だった。
「ご老台。この山中まで、わざわざ大儀なことだの。何か、蒲殿のほうに、手違いでも起ったか」
ことばの端にさえ、義経の云うことは、気にさわる。自分をさして、ご老台とよぶのは、義経の揶揄である。景時はもうそんな感情をゆり動かしながら膠もなく云い返した。
「蒲殿のほうには何の誤算もない。いぶかしいのはこの方面だ。あれほど急ぎながら、何で悠々とここへ来て戦もせず日を過しておられるか。──蒲殿にはすでに糺附近の敵を破り、一ノ谷の東の城戸を目ざして、着々進んでおられるのに」
義経は笑って答えた。
「戦うとは、ただ敵に会えばよい事ではない。必勝の機をつかんで当らねばならぬ。また緩急は軍の呼吸で、急に利があれば急に変じ、緩をよしとすれば緩に従う──こうして馬を遊ばせ、兵を眠らせておくのも、兵法のひとつである」
軍監たる梶原景時は、元よりこんな軍事の初歩を義経から講義されようなどとは思いも依らない。心外な顔いろを露骨に示して、
「あいや」
と、遮った。
──自分が云おうとするのはそんな乳くさい論議ではない。実際問題である。すでに京を発足する時から、総攻撃は三日に決行すると揚言している。故に、糺方面では、息もつかず合戦を開始しているのに、それと一致して行動すべきここの陣地が、幾日も空しく送っているという法はなかろう。
三日もすぎ、四日もすぎ、五日も経って、きょうはすでに六日ではないか。
「ご所存がわからん。いったい、戦はお見合せのつもりか。それとも、ここまでは来たが、これから先の難所に恐れをなして臆病かぜに襲われ召されたか」
景時は、自分のことばは、鎌倉殿のおことばも同様であるぞと云わぬばかり、かさにかかって叱咤した。
その威猛高を、義経は、わざと笑くぼで眺めて、
「総がかりを三日と云いふらしたは、敵に攻勢を取らせぬ為の策。四日は、亡き清盛入道の忌日とて、武士のなさけに、わざと過した。五日は暦のうえの悪日、これも避けたがよいと思うて」
「ば、ばかな!」
景時は、唾するように、
「敵が仏事をいとなむ日まで遠慮していたら、攻め入る日などありはしまい。まして、清盛入道など、源氏にとっては、その墳墓をあばいても飽きたらぬ仇敵だ」
「仇敵ながら、あの入道にも、人なみの涙はあったればこそ、幼時この義経も、ふしぎに生命を助けられた。──また鎌倉殿とても、同じように、すでになきはずの一命を、救われたのではあるまいか」
「むむ。なるほど」
厭味いっぱいな頷き方をして、景時は横を向いて云った。
「そういえば、御曹子の生みの母、常磐どのとやらも、入道のお世話になられたそうな。……無理もない」
義経の顔いろがさっと変った。ちらとそれを見ると、景時は、座を起って、
「いや、つまらぬ事のみつい申し上げた。余事はさて措き、要するに、ご進撃はいつの事か。東の城戸へ襲せるにも、手心を合せねばならぬが」
と、云い直した。
それに対して義経はしばし答えもしなかった。彼の血は明らかにかき乱されていた。しかし水の澄むような落着きに帰ると、もとの笑くぼがその面にさびしげに残っていた。
「あすの夜明けまでには」
「え。あすの夜明け」
「蒲殿と一ノ谷で会おう。見事それまでに、東の城戸を打破って、お入りあるよう伝えてくれい」
景時は、無言で去った。
林の外に待たせてある一隊の従者を従え、ひどく急いで駒を飛ばして行った。義経は、その後で、軍議をひらき、静かに、人々の意見を徴していた。
「一ノ谷へかかるには、その前に、平資盛がかためておる三草山の砦がある。──暁に襲わせたがよいか、夜討がよいか」
義経は、一同をながめて、そのいずれが上策かを、訊ねた。
夜討か。明方か。
この問題は、
(奇襲がよいか、正攻法に依るがよいか)
ということになる。
義経はこの問題を、ひどく重大に扱って、衆議にかけて、一同の意見をただしたが、考える余地もない事として、誰もみな、
「夜討」
「無論、夜討」
と、異口同音だった。
世間の称えには、平家方の総軍十万余騎、源氏は約三、四万騎であろうといっている。
が、実数は甚だしく違う。
平軍は少なくも二万はあろう。けれど源軍は、宇治川以来の傷負や病兵をのぞくと、範頼、義経の両方あわせても、三千騎に足らなかった。その後、鎌倉からは、一兵も補充されてはおらない。
しかも義経がこれへ率いて来た兵は、初めから荷駄も後続部隊もなく、軽敏な性格を隊伍にそなえて来たので、多くを範頼の指揮下にのこし、およそ七百ばかりの兵しか持たなかった。
それで敵の中核へと。
三草山の塁をふみ破って、一挙に、一ノ谷へ衝き入ろうというのである。
寡と衆。また、天嶮に拠っている守備の強味。──正攻法で勝てないことは、常識でも知れていることであった。
──それをなぜ?
土肥実平は、ひそかに怪しんで、評議も終って人なき後、そっと、義経にきいてみた。
「きょうの事は、ご評議までにも及ばぬ儀と思われますのに、なお、あのような分りきった問題を、何故、物々しゅう一同の意見へおただしにはなられましたか」
義経は、うなずいて、
「そちなどは、そうも思おう。しかし諸将には諸将の自負心がある。義経の所存は極まっているが、一義二義、わざと問題を出して、皆のものに、味わわせ、また気負い立たせて、一決を執るも、軍の故実ぞ」
と、教えた。
実平は舌をまいて懼れた。
この御曹子は、いったい、いつのまに、こう兵学の真髄を究めていたのだろう。いや兵学を読み習うということは誰もするが、書物や口授から得たことを機に応じて用いることはむずかしい。実にむずかしい。かなり実戦を体験してきた老将でもみな嘆じることである。
よほど感じたとみえて、彼はこの事を畠山重忠に、ありのまま囁いた。すると重忠は、さもあろうと云わぬばかりに、
「われわれが、進んであの君の旗下に従いてきたのは、目ちがいでなかったな」
と、おたがいに本望らしくほほ笑みを見交わした。
重忠も実平も、初めは範頼の指揮をうけていた将たちであった。ふたり共、感じることがあって、途中から義経の陣へ転じたのである。常に、義経のほうは、難攻の敵に向うので、志望者の少ないのを幸いに、進んで義経について来た者どもであった。
物見はたえず放っているが、その日も、黄昏近くに、かなり深入りして来たのが、帰って来て報告した。
「敵は、新三位中将資盛を大将として、およそ二千五、六百の兵を擁し、この三草山の向う側──西の麓にものものしく塁を築いています。山路や沢に柵をゆい廻し、守兵の配備など、きのうと変りは見えません」
夜に入ると、星影の下、義経たち七百の兵馬は、黒々と前面の山を越えて行った。
平家方でも怠らず物見を出していた。物見の報告を聞くたびに、
「さもあろう」
と、資盛以下、三草山の東麓にある将士は、義経の動かぬ様子を肯定していた。
「義経ごとき黄口児が、わずかな手勢をもって、この搦手へかかって来たとて、何ができよう」
と、侮りきっていた。
そこへ山上から急雨のような夜襲だった。闇のなかに狼狽をきわめた平軍は、われがちに潰走し、ほとんど一矢も射なかった程である。
「討ちもらすな」
「ひとりも城戸の内へ生かして帰すな」
急追して熄まない源氏の人々は口々にそう云い合った。逃げるを追って、須磨の方へ駈け下り、そのまま敵の本拠たる西の城戸へ、直ちに迫ってゆく気であった。
「長追いすな。みな集まれ。みな集まって一息いれよ」
義経は、逸る人々を呼びもどして、敵の捨て去った砦の一ヵ所にまとまった。
もう夜半に近い。あすは晴天であろう、星の空は冴え返っている。時は二月初旬、ここらの高地は海風がぶつけてくる、山風もふきおろす。すこし立っていると体がわなないてくるほど寒い。
「篝を焚け。篝を」
この数日は戒めていた焚火をゆるした。思いきった焔が数ヵ所から揚がる。将士の顔はみな赤々と照らされた。
その間に義経は、重忠、実平などの重なる将たちと何ごとか手短に議していた。
ここに立って義経が、改めて一同に云うには、
「敵の逃げ足が早かったのは、あながち敵が弱いためばかりとは思えぬ。ここで戦うよりは、一ノ谷の要害に拠って、存分、戦ったほうが利と考えたからであろう。──地形をみれば、ここを降って須磨に出で、西の城戸を攻めるしか攻め口はないので、先に逃げた敵も一ノ谷の全軍も、ござんなれとばかり、手具脛ひいて、われらの寄せるを待ちうけているであろう」
彼は、そう前提してから、
「この小勢、この地形、味方に勝目のない事はいうまでもない」
と、絶対に尋常では陥ちない敵の要害をまず認め、その難攻の突破にあたっているのだという覚悟を人々にも持たせた。
「──が、いつの世、いかなる場合でも、見た眼からして、易々と陥入りそうな砦はない。戦ばかりか、こういう世に亡んでゆくあらゆるもの皆、一瞬の前までは、難攻不落と見えるものだ。……至難、不可能、それは物の象にとらわれた観念の惑い、一心を賭して成らぬことはない。……ましてやわれらの兵馬は単なる勝負の兵馬ではない。世に求められて時代の潮と共にさきがけている兵馬ぞ」
篝の火は、義経の横顔を燃やしていた。人のなし得ない役割をも甘んじてやりのける人とおなりなさい──鞍馬谷で打ちこまれた信念がその眸にはすわっていた。そこには、私心がない、小さな功名心とはちがうものである。何か、崇厳な感じすら人々はうけた。
「実平」
「はっ」
「ここよりは、全軍をお身の手にあずけるぞ。心して、西の城戸へ駈け向え」
「はっ。……して」
「わしは、なお、山路を深くはいって、鵯越えから敵を真下にのぞみ──」
云いかけた時、うしろの兵のなかで、何か急に立ち騒ぐ声がした。
ひと所にかためておいた七、八名の捕虜が、隙をうかがって縛めを断り、見張の兵を刺してやにわに逃げかけたのであった。
「やっ、どこへ」
たちまち、追いかぶさって、逃げた捕虜もめった斬りにされたり突き伏せられたりして、一瞬ではあったが、血なまぐさい絶叫がそこに聞えた。
「斬るなっ」
義経はあわてて制した。しかし間にあわなかった。無傷にまだ生きていた捕虜はひとりしかなかった。
「大事にせよ。その者を、これへ曳いて来い」
やがて逞しい男が、彼の前へすえられた。
その捕虜は、播磨安田の庄の下司多賀菅六という者だった。
生国姓名だけ聞きとると、義経はすぐ諸将に向き直って、
「では」
と、袂別の眼を与えた。
ここで軍を二分し、そのあらましを土肥実平にゆだね、義経自身は少数の一部隊をひっさげて、鵯越えの嶮へまわるなどという事は、平家方はもとよりの事、彼の帷幕者でさえ、誰も予想していなかった。
「──ちと、無謀だ」
と云いたげな色が、そのせつな諸将の顔にうごいたが、義経の眉を仰ぐと、なぜか諫止することも、それを敢行するだけの成算があるのかないのか、細い事なども、訊ね出せない気もちに打たれてしまった。
それは義経の面に、すでに死を決していることが、明らかに見られたからであった。
──成らねば死ぬまで。
鎌倉武士の心はそこへ飛躍すると華やかなここちになる。理はすてて、信念の究極へ、一気に行ってしまうのである。
それまでは、各〻理念にも惑ってみるが、智も働かしてみるが、死という点に到ると、もう途中の妄智や煩雑な是非はもたない。
さわやかに、潔く、そして誰もみなかいがいしくなる。笑い声のうちに行動へかかる。
「蒲殿が東門へ寄するも、あすの夜明けを期してかかろう。──それにおくるるな。呼応して、明け方までに、西の城戸へおめき寄せよ。義経も、播磨の海の彼方に、陽の昇りきらぬまに、かならず敵のまっただ中に駈け入っておろうぞ」
別れにのぞんで馬上から彼はもう一度こう本軍を励ました。
実平について須磨へ下った本軍のほうはおよそ六百余騎、──義経の手について、そこからなおも、山また山の道もない闇へ分け入って行った数は、七、八十騎にすぎなかった。
「道案内をせよ。一ノ谷のうしろまで出たら生命を助け、放してもくれよう」
捕虜の多賀菅六を馬の先に歩かせて、義経主従は、遮二無二馬をすすめた。
「獣のかよわぬ山はあるまい。獣の通う山ならば、馬とてもすすめぬわけはない」
義経は、うしろに続く人々へ、そう云った。笑い声が答えてくる。誰か、とたんに落馬したらしい。また笑う。
密林の沢をこえると、徒歩でも困難な石山の嶮しい胸に行きあたる。星明りにも光るほど馬は汗にぬれていた。時折、鞍を下りて、駒を休ませた。
「もう、敵地の中」
誰も笑わなくなった。
また進む。いよいよ道はかすかだ。遅れる者、姿の見えない者などができてくる。
「あすは屍か、生身か」
さすがの武者ばらも、名残りのように時々星を見た。しかし義経は、死中に活路の希望も持った。死中の道を避けて、必勝の道はないと信じていた。
「はて。迷ったかな」
そのうちに、人々は、駒をとめて呟き合った。
「方角が違う気がするが」
「そうだ、いくら行っても、山深くなるばかり」
畠山重忠は、道案内の多賀菅六へ向って糺した。
「菅六とやら、この方角に間違いないか」
「はい。たぶん、間違いは、ないつもりでございますが」
今になって、捕虜の菅六はあいまいな口吻で、おどおど答えた。
「さては故意に、われらを道に迷わせたな」
三浦義連は、菅六のすぐ側にいたので、馬上から襟がみをつかんで引寄せ、縊め殺しかねない顔をした。
「待て義連。悪意ではあるまい。生命惜しさに、道案内には立ったが、常には人も通わぬ難所、その男とて、詳しい道はわからぬのがほんとだろう。──誰ぞ、身軽に駈けあるいて、この附近に樵夫の小屋などないか、炭焼、猟師の住居でもないか、手わけして、探してみよ」
人数は少ない。義経のそういいつける声は一隊の端まで聞えた。
たちまち、馬をつないでわらわらと幾人かが駈け去ってゆく、その間を、義経も鞍から降りて休んでいた。
すると程なく、熊谷直実の子息の小二郎直家が、まるで猿か山男のようなひとりの若者を引っ張って来た。
若者はそこまで来ると、恐れたものか、どうしても歩かないので、小二郎は腕ずくで、義経の前へひきすえた。
「あの山のうしろの沢に、小屋の灯が見えましたゆえ、近づいてみると、年老いた猟師とこの伜がおりましたので、親を承知させて借受けて参りました。このあたりの山の事なら知らない事はない息子だと親は自慢でござりました」
直家が云うと、大勢のなかに引きすえられたその若者は、眼が眩みでもするように、ぺたと、顔を地につけたまま、身を縮めていた。
「……ホ。左様か」
と、義経は、やさしく、
「名は、何という」
まず訊ねた。
若者はかぶりを振った。名はないのかと訊くと、頭をたてに振ってうなずく。
まわりの人々が笑うので、若者はよけいに固くなるばかりだった。──年はと訊けば、十七と答える。
十七にもなって、名のない者はあるまい。親たちは何と呼ぶかと訊ねると、せがれとしか呼んだことはないという。
「では、世間の人は」
と、訊くと、自分の小屋のある辺が、鷲尾という地名なので、鷲尾とよばれていると、ようやく心も落着いたか、すらすらと答え出した。
「そうか」
最前からの彼の容子に、義経は始終ほほ笑まれた。愛らしくさえ思われた。武士になるかときけば率直に、なりたいと云う。そして初めて、強烈な眸をして義経のすがたを仰ぎ、幾たびも頭を下げた。
「姓は、鷲尾でよかろう。時は春、わが一字を添えて、経春と名のれ鷲尾の経春と」
義経のことばに、若者は、身のおき場も知らぬばかりな体だった。人々から、
「鵯越えのうえに出る道を知っておるか」
と、案内を促されると、彼は勇躍して、一同の先に立ち、
「そう遠くはない」
と、無造作に歩きだした。
急に、大地は眼のまえで断れている。暗い空に岩角の線がうっすら蜿っている。そこから覘けば絶壁であろうことは疑うまでもない。
「一ノ谷」
「一ノ谷だ」
口々に思わず云う。その面へふきつける風には潮の香がいっぱいにふくまれていた。
人よりも勘のするどい馬は、早、前肢を突っぱって、後ずさりした。
「崖へのぞんで、岩を崩すな。馬を締めて、嘶かすな」
義経は、戒めながら全軍を後ろの木の間にかためた。
そして四、五騎の者だけで、能うかぎり断崖の際の近くまで馬を歩ませてみた。
「お、お」
のぞき下ろすと、敵の本拠はあまりにも眼に近いのではっとした。眼もくらむほど深さは深いが、平家の中枢と、自分等との距離としては、最小限度の近さである。
しかも平家方では、夜来の情勢に緊張して、寝もやらず諸所に篝を焚き明かしている。陣所陣所の仮屋、はためく幕、城戸、逆茂木など、美しいばかり明滅して見える。
そのあたりを一条、白い波の線が走っている。沖にも点々と、兵船の篝が数えられた。耳をすますと、風のまに、波の音、櫓の音、人声とおぼしいものすら微かに聞えてくる。
「どうしてここを降るか」
重忠も、また日頃我武者をもって任じる三浦義連も──凝然と下を見ているだけだった。
義経の馬の口輪をしかと握っていた佐藤継信と忠信の兄弟も、
「これは」
と、五、六歩駒をうしろへひいて、
「如何召さるお心?」
と、主の面を仰いだ。
義経は、しきりと唇をかんでいた。彼もかくまで嶮しい所と考えていなかったかもしれない。
元より彼は、一ノ谷のうしろの嶮峻は覚悟していた。そこへ向う非常識も弁えていた。けれど彼は、敢えて、常識を無視して、非常識へ突進してきた。
平常の常識の程度は、敵にもある常識である。
人の眼と智がみな、
不可能!
と、極めているなかに可能を見出すことこそ、非常な時の常識というものではあるまいか。
「…………」
義経はしきりとまだ唇をかんでいる。ともすれば、平常の常識から不可能としてしまい易い自己の観念に対して、強く唇を噛むのであった。
「鷲尾。鷲尾」
案内して来た例の若者をかえりみて訊ねた。
「この山を鹿は通わぬか」
「鹿? ……。ああ鹿ですか。冬近くなると丹波の鹿が、よく一ノ谷へ越えます。春暖かになるとまた、一ノ谷から丹波へ帰って行くので」
「そうか。鹿の攀じ登れる所なら、馬とて駈け落せぬことはあるまい」
「いえ、鹿なればこそで、馬や人では」
鷲尾の若者さえ危ぶんでいるのに、義経は耳にもかけない眉して云った。
「忠信、継信、空馬を二頭これへ曳いて来い」
「はっ。馬をですか」
──心得て、継信、忠信の兄弟は味方の七、八十騎がひそんでいる後方の林へ駈けて行った。
そのあいだ、義経は鞍のうえに静かな姿を見せていた。今は、もう何も雑念のない姿かに見える。海も空も一色のまま未だ明けない宇宙にむかって、駒を佇ませていた。
「九郎様」
誰か、馬のわきに、ひざまずいたようである。義経は、地を見て、
「まだおったか」
と、不興気に云った。
「へい」
吉次は、頭を下げ直した。京都から強って軍に従いて来て、三草山のてまえでも、ここから戻れと、厳しく叱られたが、なお別れかねて、遂にここまで、慕って来た彼であった。
「……へい。もうここで、帰らせていただきまする。商人の中では、随一の大胆者といわれた私ですが、なるほど、戦の場所とは、こうしたものか、すさまじさに胆もちぢみました。……てまえにはもう残念ながら、これから先のお供はできかねまする」
「帰るがいい。気をつけて。……そうだ鷲尾の若者と一しょに戻れ」
「ありがとう存じます。……が、後へもどるてまえの身よりも、あなた様こそ、どうか、どうか、ご武運よく、戦いぬいて、またお目にかかれますよう、吉次は祈っておりまする」
「何をいう」
声なく笑って、
「吉次、あてにもならぬ事、祈らぬがましぞ。祈れば後がくやまれる」
「くやまれましょう。もしもの事があった場合は。……もうそうなったら、吉次は望みもございません。僧門にでもはいります」
「鞍馬以来、そちにはずいぶん世話をやかせたな。わがままをしたな。礼をいおう。吉次、そちにも一つの恩はある」
「もったいない」
吉次が、あわてて手をふりながら、馬上を仰いだ時である。義経の横顔に、燦と、紅い微光が映した。
東の天が一変していた。水と空とは父母のように、真っ赤な日輪を孕んでいた。
義経の眼も心も、しばしその崇厳な光に溶かされていた。吉次も凝視していた。うしろの木々の蔭を立ち出た将士も、面を焦かれながら粛として見まもっていた。
「あ、吉次。まだいたか」
「はいっ」
「よかった。そちには、そちならでは出来ぬ大役の頼みがあった」
「な、なんでございますか」
「──それも、この断崖の下へ行きつくまで、義経のいのちが無事であったらば──だが」
「ともあれ、仰せ下さい。伺っておきましょう」
「難波あたりに、そちの手持の船は今、どれほどあるか」
「奥州船は、いかほども参っておりませぬが」
「ともあれ、難波へ急ぎ、そちの力で集められるだけの船を、淀の口、渡辺あたりへ寄せおいてくれ。──船底には悉皆、兵糧をつみ入れ、世上には、四国へ渡る商い船といいふらして」
「船数は」
「多いほどよい。いかに多くても余るほどは寄るまい。源氏の兵馬がみな乗るには」
「わかりました」
吉次は、辞儀をして起った。もう義経の胸にできている次の作戦が彼にもおぼろながら読めた。
「たのむぞ。はやく行け」
「では──」
と、吉次は、万一これが最期の別れとなるかも知れないと思うので、なお、すぐには立去りもせず、すこし後へ退がると、待ちかねていた佐藤兄弟が、
「馬を引きました。これでよろしゅうございましょうか」
二頭の口輪をとって、その裸馬を、義経の左右へ寄せた。
義経は打ちうなずいて、
「その二頭を、絶壁の真下へ、落してみよ」
と、命じた。
継信も忠信も、彼の心をはかりかねたように、念を押した。
「落せとは」
「追い落すのだ」
「はっ」
ふたりは、断崖の際へ、馬の首を引っ張った。しかしやや近づくと、馬は恐れてそれ以上は動かなかった。
「誰ぞ、駒のしりを打て」
あわてて兄弟が云うと、おうと、他の者が馬のうしろへ廻って、
「打つぞ」
鞭を鳴らした。
とたんに、継信も忠信も、馬の口から手を離した。あやうく、宙へたてがみを振り立てた馬諸共、人も一しょに落ち込んだかと見えた。
二頭の裸馬は、断崖からまっ逆さまに落ちて行った。下まで、深さは何百尺か眼づもりもつかない。
「…………」
義経以下、大勢の顔が、息もせず、その一瞬をのぞき下ろしていた。白っぽい小石まじりの土砂に、所々、大きな岩石が露出している。土層の段ごとに、雑草や小松がまばらに生い、そしてその土層は、下の地盤から五、六段上に近づいてまた、七、八段の横縞を見せている。
元よりその一つの縞にも、馬は立ちどまらなかった。ひと段ごとに、土砂を蹴りくずし、下まで勢いよく落ちて、一頭は脚を折ったらしくそのまま斃れ、一頭は這い起きると身ぶるいして、そこらの草を喰っていた。
この試みからみると、危険率はちょうど相なかばしている。
「見たか、各〻」
義経は早、断崖にのぞんで、駒を立てならべた人々をかえりみながら云った。
「馬と人一体に、心して駈け落せば、七十の兵のうち、三十五騎は生きのころうぞ。──まず義経が先駈けして見せ申さん。義経が馬の立てようを見習い候え」
彼は、云い終ると、すぐ自身の馬の後脚を折敷かせ、手綱を掻くり、激流へ筏を下ろしてゆくように、ざっと絶壁を落して行った。
「おうっ」
「──おうっッ」
「それっ」
おくれじと、劣らじと、鎌倉武士のたましいは、白熱して搏ち合った。そこの絶壁いちめんを砂けむりにして、山くずれとばかり、下の磯を埋めた。すぐ躍り立つもあり、そのまま起たない馬、起たない犠牲者もすでにあった。
彼のやしきは新たに六条室町にさだめられた。義経が一部の手勢を引いて、そこへ凱旋したのは九日だった。
市中は、まるで祭のような騒ぎだった。その中で、平家のために、
「変れば変るもの」
と、泣いている女もあるし、
「いよいよ時代は革まった」
と、興奮している若者もあり、念仏をとなえて、捕虜のすがたや首桶に眼をそむける尼もある。
一ノ谷で討たれたと聞えた平家の将は、重なる人々だけでも夥しい数にのぼった。
平敦盛、忠度、通盛、経俊、経正、知章──など十指を折っても折りきれない。
首は十三日の頃、巷をわたして、六条河原に梟けられた。
奏聞の儀もすみ、鎌倉へはもちろん次々に早打ちで報告もした。居ながらに、合戦の状況と処理のよく分るよう、義経は特に兄頼朝へ心をつかった。いや鎌倉どのの代官として遺漏のないよう万全を尽した。
──が、その兄からは、
「よくいたした」
という一片の返事もない。
範頼のほうへは、それが来ているらしいと聞くが、義経には沙汰もなかった。しかし義経は、兄から恩賞の沙汰を聞こうなどと期待しているのではない。彼の帰京は、朝廷、鎌倉への報告と共に、平家方の打首や擒人の処分、その他の軍務を果たすためで、心は、一日もはやく再び西下して、今のうちに、平家の全勢力を掃滅しておかなければ後日の大患と考えていたのである。
彼の惧れているのは、瀬戸内海を中心とする平家の水軍の力だった。清盛が生前に宋船との交易をはかるため、各地に扶植しておいた造船力とか水路の開拓とかいう遺業が、今、入道の子孫の没落にあたって大きくものを云って、内海から九州まで、制海権を擁している。
駿馬の快足をほこって、野戦や山岳戦には自信のある源軍も、水上の戦には、ほとんど訓練もないし兵船も持たない。
「いかにして、屋島を?」
彼は、一ノ谷を陥す前から、平家の水軍と、その本営を繞る地形を察して、人知れず苦念していた。
一ノ谷から潰走した大半の敵は、彼の予想どおり、多くは船で水路を逃げのび、屋島附近へ集合している。
しかも、九州をひかえ、中国に接し、日一日、その勢力は増強するに極まっていた。
鵯越えの岩頭から眼の下の敵へかけ下りるまえに、
──もし生あらば。
と、彼が次の作戦のため、吉次にいいつけておいた船の準備も、あの男の事である、もう手配もついて難波の淀の口に、舳をならべて待ちぬいているであろう。
それやこれ。
彼の胸はせわしかったが、鎌倉の指令は、いっこうに急でなく、朝臣のうちにはまた、政治的なうごきが再燃しだした。
源氏に生虜られて都へ帰った平重衡に手紙を書かせて、屋島の宗盛の許へ、
「源氏と和議を講ぜよ」
と、云い送ってあるというようなうわさも聞えた。
とこうするうち、半年の余、むなしく過ぎてしまった。義経は、むなしい日々をどうする事もできなかった。
「──近ごろ心外に存じまする」
と、拳を膝において、ある折、ついに、彼の前で云った者がある。
佐藤継信、忠信の兄弟だった。
義経は、面も静かに、
「心外とは、何を」
と、さりげなく訊ねた。
継信は、いつになく激して、その義経の面を見つめながら、
「おつくろい遊ばしますな。おそらく、われら以上、殿のお胸には、ご無念が抑えられておありでしょう」
「はての……。なぜ?」
「くちおしゅうございます」
兄弟とも、両手と共に、それへ面を伏せてしまった。
「わからぬ。何の事やら」
「……鎌倉殿のお仕打です。疾くに、鎌倉殿のご推挙によって、あの無能な蒲殿さえ、参河守に任官され従五位下に叙せられておるではございませんか」
「よいではないか。──それが何で心外か」
「──にも関わらず殿へ対しては、その後も何のお沙汰もないそうです。露骨なご偏頗──無慈悲なお仕打」
「何をいう。義経は、恩賞をのぞんで戦ったものと、そち達まで思うか」
「いや。……決して左様な心根とはぞんじません。しかし事実上、京都ご守護のお役を奉じながら、何の官職もなくては、朝廷のご用が勤まりません。無位無官では、いかに忠勤をおはげみ遊ばそうとしても」
「そんな事はない。鎌倉殿の代官とし、京都にある身ゆえ、この三月には、高野の僧衆と寂楽寺との紛争を裁き、また五月には、祇園神社の訴訟を聴き、そのほか都下の秩序も、禁門のお護りも、まず落度なく勤めておる」
「それは人々が殿へ帰服を示しているからで、その実績に対しても、鎌倉殿から何らかのおことばがあって然るべきでしょう。ましてや宇治川以来、一ノ谷のあのように迅く陥ちた功績は、いったい誰にあると思し召しておらるるのか。おこころの程が解せませぬ」
云うなと叱っても、二人は云い熄まないのである。また、佐藤兄弟が無念としている事は、この六条の邸に住む義経の麾下が今、挙って不満としていることだった。
で、義経の直臣たちは、先ごろ諮り合って、鎌倉殿へ嘆願書をさし出していた。義経に対して何とぞ一日もはやく官途のご推挙を給わるようにと。
ところが、その願いはかえりみられず、嘆願書は問注所から突っ返され、かえって義経に対して、頼朝の不興と疑いは深まっているという噂さえ鎌倉から聞いたのである。
嘆願書に名を連ねた面々は、自分らの盲動が、予期に反して、主君をより以上の苦境に立たせたという点から、
「申しわけない」
と、悲涙を押しぬぐって、
「──この上はどうする」
という策もなかったが、佐藤兄弟のみは、かねて奥州を去る折、藤原秀衡から云いふくめられていた事もあるので、今は都にとどまって何のかいがありましょう、はや、ご加勢の事は断念して、いさぎよくこの地を去り、ふたたび奥州へさしてお帰りあれと──そう義経のために、真心をもって、諫めに出たのであった。
──と、義経は、ふたりの諫言を、瞑目して聞いていたが、やがて、
「義経は、死しても帰らぬ。そち達、故郷が恋しくなったのなら、二人だけで帰れ。きょうかぎり暇をくれる」
と、きっぱり云った。
平家退去の時、大半、焼払われもしたが、京都の町や、途ゆく人の粧いは、わずかなまに著しく変って来ている。
べつに、法令をもって、
(平家風は相ならぬ)
と、律したわけではないが、一頃のこれ見よがしな華奢な音階や色調は去って、どことなく実質を内容にもとうとする風が見えだして来た。
──と云っても、庶民の心には今、言わず語らず、次の時勢にかけている希望がある。大きな行くてを望んで理想する民衆は、必然、明るい色を好んだ。高い足なみに合う音楽を欲した。地味よりも派手を求めた。
だが。
派手も明るさも、平家の人々が纏った浮薄とはちがう。繊弱ではない。いたずらに贅でもない。
剛健な明るさである。われこそ奉公の道にかけては人に負れじとする派手。──しかも無駄なく、毅然と、清潔を主とした姿をもった、焼跡の新しい町を行く武士を見ると、
(鎌倉風よ)
と、人々はささやいた。
多くは義経の部下だった。その人々から一つの風が興ったともいえる。いつか庶民の風俗もそれに倣う。たちまち、風は風を興して新しい世粧となった。
「ここだな、弟」
「むむ。この寺」
六条坊門から北山のほうへ曲がって、もう農家しか見えない辺りに、一叢の木立と山門が見える。
佐藤兄弟は、そこを通って、寺僧へ何かいうと、僧は顔見知りと見え、すぐ二人を案内して奥の客室へ導いた。
「おう、これは」
腹這いになって、頬杖つきながら、蟻を眺めていた退屈そうな男がいた。あわてて起き直って礼儀をする。
「どうなさいました。おふたり共、いつになくお元気がないが」
寺の食客は、奥州の吉次であった。白拍子の家で幾月もこうしていた彼の都ぐらしも一時代前となった。洛中大火の時、翠蛾、潮音の家も焼けて、どうしたか、あの姉妹の消息もそれきり知れなかった。
「いや吉次。実は、こう両名とも、ご主君からご勘当をうけてしまったのだ」
「ほ。お暇を出されましたか」
「奥州へ帰るがよいと、きついご不興をうけ、お詫びいたしたが、お聞入れもない。……で、悄々、そちに相談に来たわけだが」
「いけません」
吉次は、手を振った。
「この吉次も、一ノ谷でお別れしたきり、ずっと、お目にかからずにいるところです。難波の淀の口に、たくさんの船を借りあつめ、今か今かと、ご出軍を待っていたが、とうとうお沙汰なしで、えらい手違いをやってしもうた。……しかし、その私が、お目にかかりに参上したら、お辛いに相違ない。……手前もまた、あの君の、ご無念なお顔を見てもしかたがない。そのうちには、風のふき廻しも変るだろう──そう気永に考えて、きょうも半日、蟻の争いを眺めていたところです。──せっかくですが、お取りなしの事なら、どなたか、余人にお頼みください。手前はまだ当分、源九郎様へお目通りしたくございません」
「そう出ばなを取られては」
と、継信と忠信は、当惑そうに顔を見あわせて、
「でもまあ、はなしだけでも聞いてくれい」
「おはなしだけなら伺ってみましょう。……が、たいがい分っています。きっとあなた方お兄弟も、むきになって、何か、お諫め言を仰っしゃったのじゃございませんか」
「そうだ。──だが、申し上げたが無理だろうか。わし達は、残念でたまらぬのだ。吉次、そちはどう思う。鎌倉殿のお仕打を」
義経を思う余りに、ふたりの抱いている不平は、元より吉次も抱いている不平だった。
従って、継信と忠信が、泣かぬばかり憤慨して云うところは、いちいち同感であった。共に、貰い泣きしてしまわぬばかりその可憐しい気もちは分る。
だが、吉次は、
「もう、やめましょう」
と、顔を振った。
今は、何も語りたくない、また聞きたくもないと、興のない体なのである。
「それよりは、ご勘当をうけたあなた方は、これからどう召さるお心か。──故郷の奥州へお立帰りなさいますか」
と、訊ねた。
「なんでこのまま、帰られるものか。秀衡様に対しても」
弟の忠信は、兄以上、感情にさし迫っていた。
このうえは関東へ下って、問注所の人々をうごかすか、鎌倉殿へ直訴してもとまでの決心を仄めかした。
「いけません。むだですよ」
吉次はまた、手を振った。
「なぜ鎌倉殿が、あのように、源九郎様に無情いか。原因をよく考えてごらんなさい。──手前の観るところ、お二人のご性質は水と火です。元々合わないものでした。鎌倉殿は単に九郎様を打ッてつけな使い途に利用しているに過ぎません」
「それでいいものか。上に立つお方が、そのような、利己主義の範を示して」
「覇業のためにはぜひもないと──鎌倉殿ご自身に心のうちで冷やかにいいわけしていらっしゃいましょう」
「わし達の心情では、ゆるせない冷酷だ。世人一般に、骨肉の愛というものを疑わせよう。血と血とのつながりに醸される美わしい愛情を、人の上に立たれる御方からして認めぬようなご行為をなされたら、世上人心に、どういう影響を及ぼすか、恐ろしいことだ」
「いや、鎌倉殿とて、まるで血の気のないわけでもございますまい。人しれず、そこは悩んでおられましょう。……が、そうした心の機微へつけ入って、ある事、ない事、努めてご兄弟が離反してゆくように、耳こすりする讒者もあるから薪に油です」
「讒者。……ムム、梶原景時の類か。とはいえ、あれほどご聡明な鎌倉殿が、小人輩の讒言などに動かされてとは考えられぬ」
「聡明なお方に似あわず、猜疑はおふかいと聞いています。偉きな人物にも、小さい愚は誰も持っているものだ」
「──とあればなおさら、死を賭しても、わし達は、鎌倉殿へ直接お訴えしてみるのが、残されたただ一つの道ではあるまいか」
「それも、讒者に悪用されるだけでしょう。鎌倉殿のお憎しみは、九郎様へ深まるとも、薄らぐはずはありません。──それ程、あなた方が、ご主君を思うならば」
と、吉次の眼はそこで急に燃えつきそうに二人へ迫って来た。彼は、からだまでのり出して、声をひそめ、思い入れをしてから云った。
「どうです、いっその事、源九郎様を立てて鎌倉殿の手から離れるように謀っては。──次の時代に鎌倉殿をいただくがよいか、義経様をいただく方が世の為によいか。……そこですよ、手前はひとり考えているので」
「では、鎌倉殿へ弓をひけとそちは、云うのか」
「ま。そういうわけです」
平然と、吉次は答えた。
吉次の謀叛気にも組せない。
そうかといって、鎌倉殿へ直訴のことも、効果は疑われる。
佐藤兄弟は、迷った。
奥州へ帰る気は元よりない。吉次のいる寺に、ふたりもつい幾月かをなす術もなく暮していた。
──が、毎日巷へ出て、主君義経の身辺や源氏の動静は心にかけて聞きさぐっていた。
政治的に、軍事的に、義経をめぐって、事情はよほど変ってきた。
秋、十月の半ばごろ。
六条室町の義経のやしきから美々しい八葉の車がひき出された。
衛府三名、供侍二十騎が、それに扈従して行った。
「判官どのが出られる」
「大夫判官様が、初のご参内じゃそうな」
辻々に人が駈け出て、車のうちなる人を見ようとした。
八葉の車のうちには、平和な装いをした義経が駕っていた。その折、目撃した人々のうわさとして書かれた物にも、
容貌優雅にして、進退のやさしさ、義仲などの類にはあらず。
ことのほか京馴れてこそ見えたれ。
と、あるほど、それは端麗でもの静かな人がらと群衆の眼にも映った。
鎌倉殿との、複雑ないきさつなどは、群衆のあたまにはない。ただ当然なこととして見送っていたのである。
「だが、これは、一体、どうした事?」
と、佐藤継信と忠信は、ひそかに六条のやしきに残った旧友に訊ねてみると、鎌倉と義経とのあいだは、以前にもまして良くないが、特に、後白河法皇の優渥な思召しから、院旨を以て、叙位官職を賜わったものと聞かされた。
いずれその前から、法皇のお耳にも入っていたにちがいない。義経の人間、義経の功労に対して、先に、検非違使へ補任との恩命があったが、義経は、
(兄のゆるしを待たずには)
と、固辞して、ただ恩命のありがたさに涙していた。
が、たっての院旨を、そんな私の理由で、再三拝辞することの畏れ多さに、遂に、任官の由を、鎌倉へ報じると、頼朝は、
(恐らく、義経が内々の所望によって、宣下せられたのであろう。義経が、この頼朝を疎略にいたす事、このたびばかりではない)
と、ひどく不興であったという。
そしてその返辞には、
(頼朝の代官として、平家追討使たるの役目は、今日以後、その任を解く)
と、いう沙汰だった。
義経は、兄の心を知るに苦しんだ。そしてその苦しみを、兄の怒りを解くほうへ向けようと心をくだいた。
そういう心境のままに、この十月、かさねて今度の恩命に接したのであった。──従五位下、大夫判官とよばれることとなり、同時に、院内ならびに参殿をもさし許されたのである。
八葉の車は今日、お礼のため、曠の殿上へと、その人を駕せて行ったのである。
「そういえば、あのお顔に、お欣しそうな影もなかった。秋日の下に、ぽつねんと一本咲いている白菊のように淋しげであった。──独り、あのお胸に、どんなお気もちを抱いて」
継信と忠信は、そう語りあって、断腸の思いがした。
法皇の恩寵と、鎌倉との板ばさみになって、この吉い日を、歓ぶにも歓べない立場が、宇治川や一ノ谷の働きに対する骨肉の人の答えとは。
「──忠信」
「はい」
「わしたち兄弟は、そうあるまいぞ。たとえ行末、どんな事があろうとも」
「あたりまえです!」
吉次のいる寺へと、その日も帰ってゆく途々、兄弟は改まって、兄弟のあいだで交わした例しのないことを云いあった。
──転じて、屋島を中心に、瀬戸内海を抱く国々の動静を見るに、一ノ谷敗退後の平家は、まったく勢いをもり返して、その陣容からでは、
「いったい戦は、源氏が勝ったのか、平家が勝っているのか」
と、疑われるような形を呈していた。
範頼は、いちど鎌倉へ帰っていたが、頼朝の命で八月鎌倉を立ち、
「義経なくとも」
と、中国から九州へまで、源軍の大将として下ったが、むしろ彼を、手に唾して待っていた平家方の謀将知盛のために翻弄されて、その年の末頃には、
「船がありません。兵糧もつづきかねます。兵力も不足で──」
と、鎌倉へあてて、頻々と、窮状ばかり訴えてくるという始末。
義経にはきびしい頼朝も、範頼には甘すぎるほど寛大だった。自身で仮名消息こまごま認めて、誡めたり、励ましたり、泣く子をあやすように督戦し、そのための評議も度々ひらいて、東国の船をあつめ、兵糧をつみ込ませ、範頼の助けに送ろうと用意していた。
正月となる。文治元年。
周防にいた範頼は、平家の圧力に居たたまれず、赤間ヶ関へ移動した。
ここを基地として、平家を攻めるつもりだったが、ここでも兵船が手に入らない。また、糧食もつづかない。
「何たる拙!」
部下さえ感じ出した。範頼の作戦は根本から過っていた。というよりも無方針に近い。
屋島を本拠に、平家は、瀬戸内海の制海権を占めている。それに対して、いたずらに沿岸各地をさまよい、敵の誘導戦術にのって、九州まで南下してしまい、気がついた時は、京都との連絡を、うしろの中国路で敵に見事遮断されていたのである。
「無能」
という衆評が、誰いうとなく源軍のあいだに漲った。
「故郷がこいしい」
大びらに云う者がある。和田義盛すら、鎌倉へ帰ろうとした。兵の脱軍が続出する。
辛くも、そんな状態の折、豊後へわたる八十余艘の兵船と、一時しのぎの糧米が手に入った。──だが、乗りきれない者のうちには、身に着けている甲冑を売払って、小舟を買入れ、それへ部下の兵と共に乗って、後を追った将さえあった。
鎌倉でもさすがに見ていられなくなった。頼朝は急使を向けて、
「九州攻めはよさぬか、敵の本拠は九州ではない。四国を討て」
と命じたが、間にあいそうもない。遠隔の征討軍はすでに全滅のほかはない運命にあった。
京都にある義経に対して、
「急遽、出動せよ」
と、兄頼朝の書状がとどいたのはこの際であった。
義経は、それを見て、
(身勝手な兄)
と思う遑もなかった。いきなり欣しさが先にこみあげて来たのである。
「これで、兄の怒りも解けた。この天下大事の秋に、この身も、死に場所を得たというもの」
真実、彼の考えはとたんに死ぬ事であった。死を誓わずしての今度の出陣などは、彼には、思いもよらなかった。
その日、勢揃いして、院の御所を拝し、いよいよ戦地へ出発という際、彼は、国々の武者どもへ向ってこういい渡した。
「義経、このたび罷り下るうえは、断じて、平家を掃滅しつくさねば、生きて還らぬ所存である。万一にも戦場にて、うしろ足を踏み、命惜しなど思う懸念のある者は、遠慮はない。この場から帰れ。打連れてはかえって源氏の名折れ。──また、かたじけなくも、われらに降しおかれた勅宣に対して畏れ多い。一歩退くは、一歩、勅宣にそむき奉ることである」
隣の部屋の物音に、吉次は寝どこの内で眼をさましていた。
朝、眼をさますと、
「おれの持船も、ことし中には百艘になろう。国もとで抗らせている鉱山も、来年からは黄金を生むだろう。夜が明けて、鳥が啼けば、金が殖える──」
と、全財産を計ってみたり、貨幣の運転を考えてみたりするのが、彼の習性であり、楽しみであり、またその日の生活の始まりだった。
──が、その朝は、隣の部屋のひそひそ声や、微かな音が、妙に気になって、
「侍というものは、底の知れないばかな者だ」
と、冷淡にはしていても、自分の夢だけに楽しんでもいられなかった。
隣には、寺に乞うて去年から佐藤兄弟が住まっていた。その継信、忠信のふたりは、昨夜、
「もう生きてお目にかかる折もあるまい」
と、改まって、吉次に別れをのべ、酒を酌み交わして寝たのであった。
今日、義経の出軍に、何と主君から叱られようが、追いついて戦に参加するのだというのである。
「……それを、あんなに?」
吉次には、不可解であった。侍の心理にあきれ果てた。
「死に行くのが、あんなに欣しいものか」
ゆうべはまだ疑っていたが、今朝は暗いうちに起き、いそいそと、時折、笑いさざめいたりして、この半年、憂鬱そのものだった兄弟が、まるで今日大空へ誕生でもするように嬉々としている気配なのである。
余り楽しげなので、吉次は小癪にさわって、自分も寝床をあげ、妻戸をひらいて、縁へ立出で、
「いよいよお立ちですかな」
と、そこをさし覗いた。
若い者たちの血気の愚を、もう匙を投げて観ているといったような、彼の容子だった。
「おう吉次か、今、声をかけようかと思っていたところ」
兄弟はすでに鎧を着こみ、太刀を横たえた、清々しげな顔をならべていた。
すぐ起って、
「さらば。そちも健固に」
と、方丈へも挨拶をし、駈け出すように、山門から出て行った。
陽が高くなる。
吉次はいつもの如く朝飯の膳についた。まずそうに箸をおく。少しぼんやりした顔つきである。
「…………」
小半日、陽なたの縁で、膝をくんでいた。
北側の藪のむこうに、乱立している卒塔婆や墓石が見える。冷たい陽かげの静寂が、妙に彼の心をひく。陽なたの彼は生物だし、彼方の墓石は永遠の死の群像だからであろう。
初めのうちは、死者と自分は、区別がついていたが、いつのまにか分らなくなって来た。
「……どっちが生きているんだろう? いつまでも」
そんな気がしだして来た。
なぜなら、白骨となっても、生きているものが無数にある。形はないが、文化の流れに、国土のうえに、その仕事や精神を、不朽にのこしている人々の生命力は、過去とはいえ、死滅しないものである。
「……おれは?」
どう生きても十年か二十年にすぎない自己の肉体をながめまわした時、吉次の心は、生きる力とも信じ、歓びともしていた国元の莫大な財産が、そこらの日陰に積もっている落葉の山に思われて来た。
「……変だぞ、今日は」
気を持直すつもりで、起って、本堂のほうへ歩いて行った。すると、わずかな野辺の送り人にまもられて、一つの柩が、お堂へ担いあげられて来た。
「──喃。潮音さんも、ひと頃は、平家の公達衆にもえろう噪がれたほど、美しい白拍子じゃったが、儚いものよの」
会葬者の一群は、寺の縁にかたまって、鐘の鳴りだすまでの間を、のどかに語りあっていた。
その日、四月十二日、頼朝夫妻は、亡父義朝の新廟──南御堂の柱立の式に臨場していた。
式事もすむ頃──
そこへ、義経からの、壇ノ浦大捷の報を齎して、急使が着いた。
「折も折、この快報!」
居あわせた群臣は、万歳のどよめきを揚げた。
藤判官邦通は、注進の状を、高らかに読みあげた。──海戦の状況、相互の死傷、生擒った平家方の諸大将の名までつぶさであった。
「…………」
終ると、頼朝は額ずいて、鶴ヶ岡八幡のほうを伏拝んだ。
政子の睫毛に涙が光った。頼朝の頬にも一すじ白いものがながれた。
「遂に平家も、亡び去った」
扈従の臣も、万感を抱いて、帰館のあとにしたがった。
老鶯が啼きぬいている。花は落ちて泥土に白い。鎌倉の春も更けたかと想わせる──
日を経て。
頼朝は営中の一室に、梶原景時を近づけていた。
「……義経が行状、その後もやはりそうした体か、鎌倉の威力あっての奇功と思わず、すべてを、自力と思いあがって、我儘を振舞いおるよな」
頼朝は怒っていた。
聡明なる覇者も、佞奸の眼から見れば甘い。覇者なるが故の弱点がある。
「幼少生死にさまよい、二十年を配所にひそみ、臥薪嘗胆、ようやくここに至った覇業を、彼一人のため、私情に紊し、禍根を長くのこしてなろうや。主体を保たん為には、手脚も断つ」
だが、こうした言を、彼もまったく苦悶なしには吐けなかった。自身の矛盾に気づかぬほどその理性も偏頗ではない。
世の衆望は今、にわかに、義経を称えているが、まだ二十七歳にしてあの才略ある異母弟の偉さを、誰より早くまたふかく見抜いていたのは頼朝であった。
──が、感嘆は、恐怖にまで変ってきた。たえず自分との比較の対象にした。小心なと、反省もしてみるが、無視するには、義経の天質が偉きすぎる。
わけて法皇の寵遇はいよいよ厚く、義経をご信用と聞く。頼朝の心は穏やかであり得ない。
ところへ、讒者の画策も手伝うように、両者のあいだには種々な事件が頻発した。宿命といおうか不測に起ってくる。
でも、義経は、なお兄を信じて疑わず、
「やがて、よいご消息も」
と、便りを待ちぬいていたのである。
それにこたえた頼朝の沙汰は、同月二十九日に発しられた彼への「勘当」であった。
「おまちがいだ! 何者かの讒言だ」
義経は、火となった。情に悶え泣いた。直接、兄に会って云い解けばと──関東へ急ぎ下った。
が、頼朝は、彼の鎌倉に入るを許さない。
義経は酒匂で止められた。
世にいう「腰越状」──あの言々句々、心血にそめた一書を、兄の吏大江広元に託して、悄然、京へ引っ返した。
その後──
吉野の雪霏々、奥州の秋啾々、巷にも、義経詮議の声の喧しく聞えてきた頃、誰やら、義朝の廟、南御堂の壁へ、こんな落書をしたものがある。
七歩隔千万里
と、題して、
豆ヲ煮ルニ豆ノ箕ヲ燃ク
豆ハ釜中ニアツテ泣ク
本是レ同根ヨリ生ズ
相煮ル何ゾ太ダ急ナル
有名な魏の曹植の「七歩詩」である。山僧の業でもあろうか、書体にも写経風があった。が、壁の墨痕もいつか春秋の雨や風にうすれてゆく。
幕府鎌倉。
それも遂に、長くなかった。この時代、ひとり頼朝のみではないが、自己の手脚の主体を知りながら、同根億生の主体たる国土には深く思い至らなかった憾みがある。
作者はいつも、覇者頼朝に、その一点を惜しみ、人間頼朝に、「豆の詩」を思うて傷む。
底本:「源頼朝(一)」吉川英治歴史時代文庫、講談社
1990(平成2)年2月11日第1刷発行
2012(平成24)年3月5日第20刷発行
「源頼朝(二)」吉川英治歴史時代文庫、講談社
1990(平成2)年2月11日第1刷発行
2012(平成24)年3月5日第19刷発行
初出:「朝日新聞」
1940(昭和15)年1月~10月
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
入力:門田裕志
校正:トレンドイースト
2016年9月21日作成
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