名なし指物語
新美南吉



 南のほうのあたたかい町に、いつもむっつりと仕事をしている、ひとりの年とった木ぐつ屋がありました。目はぞうのように小さく、しょぼしょぼしていましたが、それにひきかえ、はなとてのひらが、人一ばい大きく、そのうえぶかっこうでした。

 けれど、そのぶかっこうな両手が、なんという、かっこうのよい木ぐつを、つぎつぎとつくったことでありましょう。まるで魔法まほうつかいの両手が、小さな生きものをうみだすように、つくったのでありました。

 子どもたちは、いつも店先の日よけの下にしゃがんで、おじいさんの仕事を見ていました。あんまりうまくできあがるので、子どもたちは思わず、ためいきをつくこともありました。

 けれど、そんなに器用きようにうごく手でさえも、うっかりして、あやまちをおかしたことがあったのでしょうか。なぜなら、おじいさんの左手には、名なし指がありませんでした。おじいさんがまだ、木ぐつ屋の小僧こぞうだったころ、夜おそくまで、いねむりしいしい仕事をしていて、うっかりすべらせたノミの先が、きっと、その指を、とっていってしまったのでしょう。

「マタンじいさん。木ぐつ屋になるのは、むずかしいの。」

 木ぐつ屋になりたいけれど、指を落とすのはおそろしいと考えていた、ひとりの子どもが、ある日、こういってたずねました。すると、マタンじいさんは、

「どうして?」

と、ききかえしました。

「おじいさんの名なし指、ノミで切っちゃったんでしょう。」

「うん、これかい。」

と、マタンじいさんは、左手をひろげて見せながらいいました。

「こいつは、ノミで落としたんじゃないよ。」

 それを聞いた子どもたちは、今まで、そうだと思いこんでいたことが、まちがっていたとわかって、ふしぎな気持ちにとらわれましたが、それといっしょに、新しい好奇心こうきしんがわいてきました。

「じゃ、どうしてなくしたの。」

と、さっきの子が熱心ねっしんにききました。

「ふん。」

 マタンじいさんは、口のあたりに、かすかなわらいをうかべながら、名なし指のない大きな手を、二度三度ひろげたり、げんこつにしたりしました。それから子どもたちのほうへ顔をむけて、

「おまえたち、手を出してごらんよ。」

と、いいました。

 子どもたちは、すこし不気味ぶきみになって、だれも出そうとするものがありませんでした。

「なんだい。どうもしやしない。」

 そういわれて、さっきの熱心ねっしんな子どもが、そっとかた手をさし出しました。おじいさんは、その小さな手を大きな手でとって、

「そうだ。わたしが名なし指をなくしたのは、わたしのこの大きな手が、この小さな手のくらいのときだったな。今では、木の根っこみたいに、ごつごつになったけれど、そのころは、この手のように美しく、やわらかだった。」

といいながら、なつかしむようにマタンじいさんは、子どもの手を見つめていました。

「わたしが名なし指を、どうしてうしなったか、そのわけを聞かせてあげようかな。」

 そういってまた、ノミをにぎり、前かがみになって、木ぐつのあなをほりはじめました。


 マタンじいさんも、五十年ほどいぜんには、ほっぺたの赤い、かわいい少年でした。そのころマタンは、北のほうの、古い小さな村に、たったひとりのかあさんの手で、そだてられていました。村にはリンゴの木がたくさんあって、明るい夏には白い花がさき、村にはリンゴのかおりが、いっぱいに流れました。そしてその花が、寒いころになると、たまのような美しい実になるのでした。少年のマタンが、ある日、道ばたで、一つのクルミをひろったのは、ちょうど、リンゴの実のれるころでした。

「なんだ、つまんない。」

 マタンは、ひろったクルミをすてました。なぜなら、そのクルミは、実がはいってない、ただのからだけでした。けれど、すててはみたものの、落ちているのを見ると、またほしくなって、ふたたびひろいあげました。

〈なにかにならないかしら〉と考えながら、いろいろ、ひねくっていると、左の名なし指の頭に、ちょうどうまく、かぶさったのでした。

「ああ、ぼうしだ、ぼうしだ。」

 マタンは、ひとりでおかしくて、ひとりでわらいました。そして、

名なし指、名なし指、

ぼうしかぶった名なし指、

たららん。

 そんな、でたらめな歌をうたって、クルミのからのかぶさった名なし指を、まげたりのばしたりしながらやっていくと、いかめしい石のへいの下で、女の子がひとり、しょんぼりすわっていました。

「おい、ジュリーちゃん、ごらんよ。」

といって、マタンは近づいていきました。

「ほら、この指が、おじぎするよ。はい、ジュリーちゃん。こんにちは。」

 女の子は、クルミのからをかぶった名なし指におじぎされて、にっこり、ほほえみました。けれど、その大きなみどり色の目は、なみだでうるんでいました。しかし、どうしてないているのか、マタンはきこうとしませんでした。なぜならマタンは、ジュリーのおかあさんが、病気でながい間ねていること、おとうさんは酒飲みで、めったに家へ帰ってこないこと、ジュリーはパンを食べないで、水ばかりでがまんすることもあること、たまに、よっぱらったおとうさんが家へ帰ってくると、ジュリーは家からおっぽり出されることなど、よく知っていたからでした。

 きょうも、たぶん、おとうさんが家へ帰ってきて、ジュリーをおっぽり出したぐらいのことでしょう。マタンは、いつものように、ジュリーをなぐさめてやりたくなりました。けれどいったい、なんでなぐさめたらいいでしょう。ビスケットでも持っていれば、たといそれが一つでも、半分ずつ食べることができるのでしょうが。

 ふと、ふりあおいだマタンの目に、まっかにれたリンゴの実が、四つ五つ、うつりました。木は、石のへいの中にはえているのでしたが、実だけは、へいの上に見えているのでした。

 マタンは、その一つをもいで、ジュリーにやろうと思いました。マタンはなぜ、そんなよそのリンゴを、もごうなどと考えたのでしょう。家へ帰りさえすれば、庭にりっぱなリンゴが、ほしいだけ実っていましたのに。マタンだって、よそのリンゴをもぐのは、わるいことだと知っていましたろうに。

 けれど、ジュリーをなぐさめてやりたい気持ちがいっぱいで、そのほかのことを、考えてるひまがなかったのでありましょうか。

「待っといで。」

 そういっておいて、マタンは、車かじやのほうへ、かけていきました。車かじやの横には、たがのはまった古いがたくさん、もたせかけてありました。そのうちの一つを、マタンは、ごろりごろりとまわしてきて、石のへいにもたせかけました。

 白いずきんで、まるいほっぺたをつつんだジュリーは、マタンがなにをするか、だまって見ていました。マタンは、もたせた車のこしきの上に、よじのぼりました。そして、リンゴのほうへ、手をのばしました。

「あ、いけないわ。」

 ジュリーは、あわててさけびました。

「マタンちゃん、いけないわ。そんなことしちゃ。」

 そして、マタンの右手をひっぱったのでしたが、そのときにはもう、マタンの左手は、一つのリンゴをつかんでいました。

 へいの中ではさっきから、はさみを持ったお金持ちが、おじょうさんにかごを持たせて、色のよいリンゴをえらびながら、チョキンチョキンと切ってまわっていました。そして、マタンがリンゴに手をかけたとき、お金持ちはちょうど、その木の下にいたのでありました。

「マタンちゃん、いけないってば。」

 ジュリーが右手をひっぱりますと、マタンはひっぱられるままに、おりてきました。けれど、どうしたことでしょう。左手をおさえて、その場にしゃがんでしまいました。顔色は、まっさおでした。

「あっ、マタン。」

 ジュリーは、ものにおびえたようにするどくさけぶと、前だれで顔をおおってしまいました。


「わたしの名なし指は、そうしてなくなってしまったのさ。」

といって、おじいさんはもう、かたほうのくつをつくりあげてしまいました。子どもたちは、大きく目を見はって、聞いていました。

「クルミのからをかぶったまま、なくなってしまったのさ。」

と、ひざの上にたまった木くずを落としながら、おじいさんは、いいたしました。

「いたかったでしょう。」

と、ひとりの子どもがききました。

「いたかったさ。おまえたちなら、とびあがってなくな。」

「おかあさんにしかられやしなかった?」

と、ひとりの子どもがききました。その子は、外でけがをして帰ってくると、きっと、おかあさんにしかられるので、そんなことをきいたのでした。

「おかあさんにかい。しかられたな。よくしかられたな。けれど、しかったあとでおかあさんは、いつもわたしの手をむねにおしあてて、かわいそうに、かわいそうに、だれがこんなかわいそうなことをしたのって、ないたな。」

「お金持ちのほうから、あやまってきたの。」

と、なかでいちばん年上の少年がききました。

「あやまっちゃこないさ。よその家のリンゴをとろうとしたのがわるいのだって、いってたそうだ。」

 子どもたちは、だまってしまいました。

 なるほど、よその家のリンゴをとろうとしたのは、わるいことにちがいありません。けれど、一つのリンゴをとろうとしたからって、指を一本切り落として、それがあたりまえだといっているのは、あまりにざんこくであるとも考えられました。

「それで、その名なし指は、どうなっちゃったんでしょう。」

 木ぐつ屋になりたい子どもが、いちばん前にしゃがんでいてききました。その熱心ねっしんなようすに、マタンじいさんは動かされました。

「まだ聞きたいのかい。それじゃ、聞かせてあげようかな。ちょっと、待っといで。」

 もう、日が西のほうへうつっていましたので、マタンじいさんは、子どもたちの上にかぶさっていた日おおいのまくを、しぼりあげました。それから仕事台にこしをおろして、つぎのかたほうをほりはじめました。


 マタンは小学校をおえると、木ぐつになりたいと思いました。ほんとうは、山の美しいスイスの国へいって、ひつじいになりたいというのがのぞみでしたけれど、かなしいことに、それはあきらめねばなりませんでした。というのは、ひつじ飼いはふえを、うまくふかなきゃならないのだと、少年のマタンは思っていました。ところで、名なし指のないものに、どうしてうまく笛がふけましょう。

 マタンが、木ぐつになりたいと思ったのにも、わけがありました。それは、ジュリーがおかあさんの木ぐつの古ばかりをはいて、歩きにくそうに、かっこかっこ歩き、すこしいそいだりすると、木ぐつがとんでいってしまうのを、かわいそうに思ったからでした。マタンはじぶんで、ジュリーの足に、ちょうどよい木ぐつを、つくってやろうと考えたのでありました。

 村からなんキロも去った、ある川口にのぞんだ大きな町には、りっぱな木ぐつが住んでいました。少年のマタンは、その木ぐつのところへ、小僧奉公こぞうぼうこうにいったのでありました。

「指が一本ないからには、こいつあ、いい木ぐつにゃなれぬかもしれん。」

 親方はそう思って、マタンの左手を、じぶんの手にとって見たのでありました。けれどマタンは、おどろくほど熱心ねっしんでした。仕事をしてるとき、その小さな目は、青い宝石ほうせきのようにかがやいていました。かべにかかったランプのしんが、たよりなく細く、きえかかってくるころまで、マタンは仕事場のすみで、こつこつ、仕事をしつづけました。

「マタン。もうねよう。」

と、親方のほうからいい出すのでした。

「親方、おいら、まだねむくない。」

と、マタンは顔をあげていうのでした。

「おまえの目はねむくなくても、ランプの目がねむいってさ。」

 マタンが、はじめてじぶんの手ひとつで、木ぐつを一対いっついほりあげたのは、この町にきてから、三年後でありました。

 はじめてつくりあげたもの。こんなになつかしく、こんな美しく、こんなによいものが、この世にあるでしょうか。マタンは、その木ぐつをむねにだきしめたり、両手にそろえてのっけ、その手をいっぱいのばして、首をかしげてみたり、夜はまくらもとにきちんとならべておき、それでもなお、ネズミにひかれはしないだろうかなどと、心配したのでありました。

「ジュリー」と名前をほりつけて、マタンははじめてつくったその木ぐつを、村のジュリーのところへ送ってやりました。

 きっとジュリーは、なみだをこぼして喜んだことでしょう。長いおれいの手紙が、マタンのところにとどきました。

「マタンちゃんのつくったものかと思うと、足にはくのが、もったいないような気がします」とか、「市日と祭日と、日曜日に教会にいくときしか、はかないことにします」とか、「マタンちゃんのお手々のように、大切にします」とか、そんなことが長々と書いてあって、「ありがとう、ありがとう」が、なん度もくりかえされてありました。

 けれども、市日や祭日にはいてるばかりでは、木ぐつもなかなか、すりへるものではありません。それから三年もたったある日、マタンのところへとどいたジュリーの手紙には、こんなことが書いてありました。

「マタンちゃん。どうしましょう。あたしの足が、すこしずつ大きくなるのに、あの木ぐつは、大きくなってくれません。きのうもがまんして、教会まではいていきましたら、まめつぶが二つ、できてしまいました。」

「おお、かわいそうに。おいらは、ジュリーのあんよが大きくなることを、すっかりわすれていた。」

 もうそのころは、ひとかどのりっぱな職人しょくにんになっていたマタンは、さっそくふしのない、まさめのよい木をえらんで、新しい木ぐつをつくりはじめました。そして、それができあがったとき、親方から、ながかった奉公ほうこうのおひまをいただきました。

「マタン。おまえがはじめて、わしの店へやってきたとき、わしはおまえの手を見て、指が一本かけているんでは、まあ、ろくな職人しょくにんにゃなれまいと思っていたが、おまえは一生けんめいに仕事をはげんで、今じゃ、親方のわしより、よいうでになってしまった。わしはおまえを手ばなすのが、おしくてたまらない。」

 親方はそういって、たくさんのかねをマタンにあたえ、わかれをおしんでくれました。

 マタンは、お金と木ぐつを大切に身につけて、川のふちのにぎやかな町を去ったのでありました。それは秋のすえごろのことで、はだ寒い風が東からふき、野には人のかげさえ見えず、マタンはさびしさを感じながら、けれど、心のおく深いところには喜びをわきたたせつつ、いそいそと道をたどっていきました。いくつもいくつもの、おかを通りすぎました。どの丘の上にも、四本の手をもった風車が、はてしない秋の空の下にあって、キリキリとまわっていました。そして、風車の手によってまねきよせられるように、雲は東の地平から、つづれ綿わたのように流れ出してきて、いずこともなく流れ去っていきました。

 一つの風車の下を通りかかると、風車のかげから、ひとりの男があらわれました。

「もしもし。」

と、その男は、マタンによびかけました。

「旅のお方のようだけど、ゆくさきはどこかね。」

 マタンは、顔のつるりとしたその男を、なんて、いやな感じのやつだろうと思いましたが、正直に、これから帰っていこうとしている、じぶんの村の名をつげました。

「え、そうかね。」

と、男はさも、うれしいことを聞いたというようすでいいました。

「そいつは、さいわいだ。じつはわたしも、その村へ帰っていくところですよ。旅は道づれとかいいます。では、ごいっしょにお願いしましょう。」

「あなたは、どこの人ですか。」

「わたしは、その村生まれですよ。」

「え?」

 マタンは、もういっぺん、その男を見なおしました。けれども、ちっとも、見おぼえのない男でした。するとその男は、マタンの心にわいたうたがいを、ちゃんと知ってるというように、

「生まれは生まれだが、なにしろ、三十年もまえに、あの村をとび出したっきりだから、村のことは、あんまり知りませんね。わたしの知らない人も、たくさんできたことでしょう。」

と、ぺらぺらいうのでした。そしてふたりが、だまったまま、しばらく歩いたあと、

「三十年もまえにとび出したんだから、ひょっとすると、あなたのおかあさんがわかかった時分じぶんを、知ってるかもしれませんね。おかあさんのお名前は?」

と、男はききました。

 マタンは、興味きょうみがわいてきました。

「わたしのおかあさんは、ローザといいます。」

「ローザ?」

とつぶやいて、男はなにか、遠いむかしのことを思い出そうとするように、考えこみました。そして、しばらくすると、

「あ、そうだ。思い出しました。思い出しました。ローザ、ローザ。」

と、なつかしむようにいって、マタンの亜麻あま色のかみが、ぼうしのふちからのぞいているのをちらっと見て、

「あなたのおかあさんは、亜麻あま色のかみをしていましょう。」

といいました。

「いいえ。金髪きんぱつです。」

と、マタンは答えました。すると男はあわてて、

「ああ、そうそう、金髪きんぱつでした。そういおうと思っていて、うっかり、まちがったことをいってしまいました。」

と、いいわけをしました。そしてこんどは、マタンの目の小さいのを見て、

「あなたのおかあさんは、小さい、かわいい目だったと思いますが。──」

といって、こんどはまちがっていないだろうというように、マタンの顔を見つめました。

「そんなことは、ありません。ぱっちりした大きな目です。」

と、マタンは答えました。

「あ、そうそう。大きな美しい目でした。そういおうと思っていて、つい、まちがったことをいってしまいました。わたしの口は、きょうはどうか、へんになっていますね。」

と男は、そんなふうに、ごまかしました。そしてさいごに、

「あなたのおかあさんは、世界にふたりといないほど、やさしい、よいおかあさんでしょう。」

といいました。

 なるほど、それにちがいありませんでした。マタンにとっては、おかあさんほどやさしい人は、世界じゅうに、ひとりもありませんでしたから。

 だれでも、じぶんのおかあさんをほめられれば、うれしくなるにきまっています。マタンはこうして、その男を信用してしまいました。

 そこでふたりは、その日の夕方たどりついた道ばたの宿屋やどやに、いっしょにとまることになりました。一日の旅につかれてしまったとみえて、相手の男は、とこにもぐりこむとすぐに、大きないびきをかきはじめました。そこでマタンも、それに負けないつもりで、大いびきをかきはじめました。ところが、ほんとうにねむってしまったのはマタンだけで、つれの男はさいしょから、うそのいびきをかいていたのでありました。

 ま夜中のころ、宿屋やどやのまどを、中からおしあけて、こうもりのように、ひらりととびおりた人かげを、ぎんのフライパンのようなお月さんは、高いところから見たのでありました。その人かげは、明るいところをおそれるように、いけがき、やぶ、馬小屋、へいのかげなどの暗いところをもとめながら、ひらひらと見えかくれしていましたが、やがて、森の深いやみの中に、すいこまれるようにきえていってしまいました。

 朝になってマタンは、木ぐつとお金とは、つれといっしょになくなっていることに気がつきました。世の中には、なんというひどいやつがいることでしょう。せっせと長い間はたらいて、あせとあぶらのかわりにえたとうとい金を、悪魔あくまのように、こっそりとぬすんでいくなんて。

 しかし、なくなってしまったものを、いつまでもなげいているのは、おろかなことでした。マタンはまだ、宿賃やどちんをはらってありませんでした。それは、わずかな金ではありましたが、どろぼうがすっかり、うばっていってしまった今、そのわずかな宿賃やどちんも、はらうことができませんので、マタンは一さくを案じ出して、宿屋やどやの主人からノミとツチを借り、木ぐつをつくって、金のかわりに、それではらうことにしました。

 やせっぽちの主人の木ぐつ、気球のように大きなはらをしたおかみさんの木ぐつ、それから、小さいかわいいむすめさんの木ぐつ、そう三足をつくってやると、主人は大喜びで、もうこれでけっこうですといいました。

 ところがこの村には、木ぐつ屋がなくて、村のお百しょうさんたちが、たいへん不自由ふじゆうしていたので、宿屋やどやにとまっている、じょうずなわかい木ぐつ屋のうわさを聞くと、われもわれもと、木ぐつの注文をしに、やってきたのでありました。

 夕方になっても、仕事はかたづきませんでした。そこでマタンは、もうひとばん、そこの宿屋やどやにとめてもらうことになりました。夜がふけてねるときになると、マタンは宿屋の主人にいいました。

「ゆうべのへやは、わたしひとりには広すぎるから、ほかにもっと、小じんまりしたへやがあったら、うつらせてください。」

「いいですとも。ちょうどさっき、ろうかのつきあたりの、小さなへやがあきましたから、あそこへうつりなさい。」

と、主人はいって、ローソクをマタンの手にわたしました。マタンは「お休み」をいって、教えられたろうかのつきあたりのへやへ、やっていきました。

 天じょうのひくい、まどの一つついたその小さなへやの中で、マタンはねるまえに、まだしばらく仕事をしました。カシの木のはめ板に、コオロギが一ぴきとまっていて、マタンに話しかけるように鳴いていました。

 さていよいよ休もうと思って、マタンがテーブルの引き出しをあけ、その中へ、ノミとツチをしまおうとしたとき、マタンは引き出しの中に、ふっくらとふくれたさいふを一つ、見つけたのでありました。

 思いがけないことでした。マタンは、ぼんやりしてしまいました。だれのさいふでしょう。ゆうべこのへやにとまった人が、あわててわすれていったものでしょうか。ならばマタンが、このさいふをもらってしまったら、どうなるでしょう。だまって、じぶんのふところへ入れてしまえば、それまでのことではありませんか。いや今にも、わすれていった人がひきかえして、さいふをとりにくるかも知れません。今からすぐまどをおしあけ、にげてしまえばよいのです。

 ぼんやりと、さいふに目をおとしているマタンの頭の中で、たくさんの声が、いろんなことを、めまぐるしいほど、しゃべりあいました。はめ板から、ゆかに落ちたコオロギまでが、なにかいっているようでありました。

「それはわるいことだ。それはわるいことだ。」

と、コオロギはうたっていました。するとマタンの頭の中で、一つの声が、

「この世じゃ、みんながわるいことをするのだ。おまえも、ひとに金をぬすまれたのだから、こんどは、ひとの金をぬすんでやるがいいのだ。」

と、ささやきました。

「そうだっ。」

と、マタンは思いました。そこでマタンの左手が、さいふの上におずおずとのっかりました。

 コオロギは、だまってしまいました。ローソクのほのおは、油のようにすんでしまいました。さっきまで、カルタでにぎわっていた台所のほうも、もう、ねしずまっていました。チョロチョロと、小川の水の流れる音だけが、この深いしずけさの中から聞こえてくる、ただ一つのものでありました。

 マタンの左手が、ちょうど、引き出しの中のさいふの上におおいかぶさったとき、かれは、コツコツとたたく音を聞きました。それは、すぐやんでしまいました。マタンは、空耳そらみみだったのだと思って、さいふを手にとろうとしました。すると、またしても、コツコツとたたく音がしました。だれがどこを、たたいているのでしょう。ドアをノックしているようでもありませんし、まどを外からたたいているようにも、思えませんでした。だれかまだ、こんな夜ふけに、起きていたのでしょうか。

 マタンは、じぶんの周囲しゅういを、そっと見まわしました。火のない炉棚ろだなの上の古いさら、天じょう、黒いふしあな、かべにえぐられたくぼみの中のキリストのぞう、かべとゆかのさかいで、二つにおれているじぶんのかげぼうし、かげぼうしの横にいる鳴かないコオロギ、それからそれへと、目をうつしていきました。それらのものは、無言むごんのうちに、マタンのしようとしていることをとがめていましたが、いったん、マタンがそのことをしてしまったら、そのことはひみつにしていてやるよと、約束やくそくしているようにも思われました。そこでマタンは、三度、さいふをとろうとしました。すると、またしても、コツコツと、たたく音が聞こえたのでありました。

「だれだろう。」

 マタンは、じぶんにつぶやきました。するとマタンの耳に、答えるものがありました。

「わたしです。」

「わたし?」

 マタンは、びっくりしました。

「わたし? わたしってだれだ。」

 すると、その声が答えました。

「わたしは、名前がありません。わたしは生まれたときから、名前なしでした。」

「そんなへんてこな話は、ありゃしないよ。ネコだって、プスとか、ミイと、名前をもっているもの。」

と、マタンはいいました。

「ほんとうに、へんな話です。わたしには、四人のきょうだいがありました。かれらはみんな、それぞれ、名前をもっていましたが、わたしだけ、名前がありませんでした。」

と、声はいうのでした。

「きみは、ドアの外に立っているのか。さっきから、ノックしていたのはきみか。」

と、マタンがききました。

「わたしはさっきから、ノックしていました。」

と、声は答えました。

「けれど、わたしは、強くノックすることができません。四人のきょうだいたちと、いっしょにするときは、もっと強く、ノックできるのですけれど。」

「ところできみは、今じぶん、こんなところへなんの用事があってきたのだ。」

(未完)

底本:「新美南吉童話全集 第一巻 ごんぎつね」大日本図書

   1960(昭和35)年620日初版発行

   1975(昭和50)年51031版発行

入力:江村秀之

校正:疋田みどり

2017年112日作成

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