猟色の果
野村胡堂



 女性というものの平凡さに、江島屋宗三郎えじまやそうざぶろうは、つくづく愛憎あいそを尽かして居りました。

 持った女房は三人、関係かかりあった女は何十百人、武家の秘蔵娘から、国貞くにさだの一枚絵になった水茶屋の女、松の位から根引いた、昼三ひるさん太夫たゆうまで、馴れ染めの最初は、ことごとく全身の血をたぎらせるような、魅惑を感じたにしても、一度ひとた手活ていけの花にして眺めると、地味で慾張りで食辛棒くいしんぼうで、その上焼餅やきで口数が多くて、全く手の付けようのない駻馬かんばと早変りするのです。

 宗三郎は全くうんざりしてしまいました。金毛九尾の狐でもい、くずの葉さらに結構、にもかくにも、この女性に飽々あきあきした心をたぎり返らせて、命までもと打込うちこませる魅力を発散する女は無いものであろうか。

 お蔵前札差の若主人として、十何大通とやらの一人に数えられ、馬に食わせいほどの金を持って居る江島屋宗三郎は、根岸の寮の雪の一日を籠って、唐本の「聊斎志異りょうさいしい」を読みふけながら、んな途方もないことを考えているのでした。

 この物語に出て来る、草木禽獣の精の妖しき美しさ、火花の散るような恋の遊戯、透きとおるような清冽な肉体など、江島屋宗三郎は夢心地に考えて居りました。あらゆる女出入に飽き果てた宗三郎に取っては、狐狸こりでも変化でも構わない、現世的な生活から逃離し、物的な慾望を持たない、恋の対象だけが望ましかったのです。


 窓を開くと、冷たい風がっと流れ込んで、宗三郎の熱した頭を心持よく冷やしてくれます。何時いつの間にやら雪は止んで、五六寸つもった庭を、十六夜いざよいの月が青白く照し、世界は夢の国のように、静寂に、神秘的に変貌して居るのでした。

 雑俳ざっぱいや漢詩などもひねりする宗三郎は、立ち上って行灯あんどんの灯を吹き消しました。この冴え渡る月の下に、雪の夜景を満喫しようと思い立ったのです。

「おや?」

 何やら、宗三郎の眼の前に、チラリと動くものがありました。

 灯を入れた雪見灯籠どうろうのあたり、雪を頂いた松の緑が淀んで、池の水の一角が、柔かい雪景色に切り込む刃金はがねのように、キラリと光る物凄い効果だったのかもわかりません。

 宗三郎はゾッと身ぶるいして、障子を締めようとしましたが、フト雪見灯籠の側に、何やら物の動くのを意識すると同時に、満月の皚々がいがいたる白銀の世界に、一点漆のように、真黒に息つくものを見て取ったのです。

 髪だ、──やがてそれは、高々と結い上げた、若い女の島田まげとわかると、その髪の下に、ほのぼのと明るく、池のおもてを見詰めている若い女の横顔のあることに気が付いたのでした。

 かすむ眉、黒い瞳、赤い唇──と次第に道具立がはっきりすると、やがてしなやかな首筋、っそりした肩から、ふくらんだ胸、帯から脚へ流るる線と、くっきり雪の中に浮上うきあがって来るのです。

 見定めると五六寸も積ったはずの雪の上へ、さぎのような真白な女が、ふんわりと立って居るのでした。白無垢のつまをさばいた下からチラリと長襦袢の緋縮緬ひぢりめんが燃えて、桃色珊瑚を並べたような爪先が、雪の上にキチンと揃った美しさは、何に讐えようもありません。

 鈴木春信の描いた鷺娘の妖しい美しさを、宗三郎はフト思い浮べましたが、春信画中の美女は、襟が水色で、帯は漆のように真黒だった筈です。ところが宗三郎の眼の前十数歩のところに立って居る美女は、八朔はっさくの遊女のように、全身悉く真っ白な中に、髪との黒さと、唇ともすその紅さだけを点じたのが、比類を絶した凄まじい効果になって、まさに「聊斎志異」の中から脱出した、一番怪奇な妖精としか思われなかったのでした。

「どなたか知らぬが、へ入ってはどうじゃ、外は少し寒過ぎるようだが──」

 宗三郎は思い切って声を掛けて見たが、女は左横顔を見せたまま、身じろぎもしません。

 四半刻、半刻、いや一刻も経ったことでしょう。月はやがて中天に昇りましたが、雪中の女は塑像の如く立ち尽して、眉の毛一本動かそうとはしなかったのです。

 窓を開けて、この神秘的な活人画に見入って居る宗三郎の心が、妖しくも乱れて行くのをうすることも出来なくなりました。二十八歳になったばかりの、充分に健康で、思い切り冒涜的で、そしてかなり不人情でさえあった宗三郎は、何時いつの間にやら温かい部屋を抜出ぬけだし、庭下駄を突っかけたまま、夢心地に深い雪を踏みわけて、女の側に立って居りました。

 近寄ると、体温をさえ感じさせます。いやそれどころでなく、女は寒さのためか、それとも心の動揺のためか、小刻みな胴ぶるいをさえして居るのでした。

 が、その端麗な美しさは、寒さも怪奇な事情をも超えて宗三郎を驚かしました。左半面しか見せない女は、──雪を払うた庭石の上に立って、雪見灯籠にもたれたまま、凍え死にかけて居るにもかかわらず、その曲線の美しさを燃焼させて、宗三郎の理性を滅茶滅茶にするだけの力はあったのです。

 宗三郎は矢庭に女に飛付とびつくと、庭石からひきおろすように、自分の胸にひしと抱きしめました。無抵抗に宗三郎の腕に倒れた女は、宗三郎の近づく顔の前に、始めてその右半面を見せたのです。

「あッ」

 宗三郎は飛退きました。始めて見た右半面は、左半面の玲瓏とした美しさに似ず、赤黒く焼けただれて、見る眼も恐ろしい引釣ひきつりだらけの顔だったのです。

「あ、おきぬ

 宗三郎は雪の中を這い廻り乍ら、辛くもうめき声をあげました。

 かつては両国の水茶屋の看板娘、国貞の一枚絵になったお絹は、宗三郎に引取られて江島屋の二度目の女房になりましたが、三年前の蔵前の大火事のとき、逃げ場を失って危うく死にかけた宗三郎を、猛火の中から救い出して、自分は半面の大火傷おおやけどを受け、その醜い大火傷の故に、宗三郎に捨てられて、大川に身を投げて死んだ筈です。


 宗三郎──耽奇の猟色に溺れた江島屋宗三郎は、あくる朝庭の池の中から、溺死体になって発見されました。

 白装束の雪女の姿は、根岸の寮の召仕めしつかえ達も確かに見たと言います。それは妖怪でも変化でもなく、確かに人間であったに相違ないが、天保年間の人達は、其処そこまで詮索するほど物事を科学的には考えなかったのです。

 ただ一つ、お絹には、姉によく似たおせんという妹があり、同じ両国の水茶屋に奉公して、艶名を謳われて居りましたが、姉を変死させた江島屋の宗三郎を、ひどく怨んでいたことだけを伝えて置きましょう。火傷やけどの跡などは絵の具と膏薬でどんなにでも偽装が出来ることで、手足に油を塗って凍傷を防ぎ、巧みに宗三郎の好奇心さえ囚えることが出来れば、此大芝居は案外簡単に打てるのです。

底本:「野村胡堂伝奇幻想小説集成」作品社

   2009(平成21)年630日第1刷発行

底本の親本:「娯楽世界」

   1949(昭和24)年2

初出:「娯楽世界」

   1949(昭和24)年2

入力:門田裕志

校正:阿部哲也

2015年525日作成

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