百唇の譜
野村胡堂
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二人は葉蔭の濡れ縁に腰をおろして、夕陽の傾くのを忘れて話し込んで居りました。
小田切三也の娘真弓と、その従兄の荒井千代之助は、突き詰めた恋心に、身分も場所柄も、人の見る目も考えては居なかったのです。
千代之助は二十一、荒井家の冷飯食いで、男前ばかりは抜群ですが、腕も学問も大なまくら、親に隠れて、小唄浄瑠璃の稽古所に通ったり、小芝居の下座で、頼まれれば篠笛を吹いたりするような心掛ですから、どんなに間違ったところで伯父の小田切三也が、娘の婿にする筈もありません。
真弓は取って十八、魂を吹っ込んだ人形のように綺麗な娘で、千代之助とは幼な友達、それが何時の間にやら、恋心に変ったのですが、父親の三也は、そんな事に一向お構いなく、これも五六年前から小田切家に引取って居る、遠縁の若侍半沢良平と厄年を嫌って、此秋は祝言をさせる段取まで決って居たのです。
若い二人は、併しそんな事に遠慮などはありません。「男女七歳にして席を同ゅうせず」と言った旧道徳は、徳川幕府の勢威と共に頽れて仕舞って、今は従兄弟同志の親しさに、角目立って物を言う人も無いのを幸い、鎧蔵の前の濡れ縁に寄り添って、もう半日近く何んか囁き合って居ります。
「真弓殿」
「ハイ」
「近頃不躾だが、その懐紙を見せて貰えまいか」
「何うなさいます」
真弓は驚いて、唇を押えた二つ折の小菊を持ち直しました。
「真弓殿の唇は、よく熟れた茱萸のようで、唇の紅さが、そのまま小菊の上へ写りそうでならない。一寸拝見──」
「あれ、千代助様、私は口紅は付けては居りません」
「それは言うまでもない。真弓殿の唇より紅い口紅が何処の世界にあろう」
千代之助はそう言い乍ら、片手を縁の板に突いて、斜下から夢見るような真弓の口許を見上げるのでした。
調子は如何にも冗談らしく聞こえますが、言葉の底には妙に真剣さが溢れて、真弓は思わず、振袖を右手に巻いて、自分の唇を隠したほどでした。
「真弓殿」
「…………」
「真弓殿」
「私はもう嫌、千代之助様は、からかいなすってばかり──」
華奢な撫肩をプイと反けて、島田髷を少し後ろに反らせ乍ら二つの袂を膝の上で揉んで居ります。
「真弓殿、からかいや冗談では無い──この通り大真面目な私の顔を見るが宜い」
千代之助は娘の膝へ手を掛けて、少し邪慳に自分の方へ振り向け乍ら、
「折入って一生の願いがある。真弓殿、聴いてくれまいか」と続けました。
「…………」
「外ではない、真弓殿にはあの通り立派な許婚の夫があり、私のような者が、どんなに思ったところで末始終添い遂げられる筈も無い」
「あれそんな事は──」
「黙って聴いておくれ──せめては、後の思い出に、その優れて美しい唇の跡を、口紅で紙へ捺して私にくれまいか」
「まア」
「半沢氏は、やがて真弓殿の身体も心も自分のものにするだろうが、私は──この私にはたった一枚の唇の捺し形が残るばかりの時が来るだろう」
千代之助は、打ち萎れた風情で、芝居の女形がするように右の掌を懐へ軽く挟んだりしました。
まだ誰も知っては居ませんが、二人はもうそんな嬉しい仲だったのです。
「千代之助様、斯う?」
真弓は一パイに紅を含んだ唇を濡らし、その上から半紙を二つ折にして、堅く押さえました。
二人は、人に見とがめられないように、真弓の部屋の前まで辿り付いて、化粧道具の中から、口紅の皿を取出させて斯んなつまらない悪戯に耽って居るのでした。
「もう宜いだろう」真弓の唇から、そっと半紙を取ると、その上には、紅々と可愛らしい唇の跡が丁度二片の紅薔薇を散らしたように写されて居ります。
千代之助は、それを受取ると、
「有難う、真弓殿」
一寸半紙を開いて、まだ生乾きの唇の跡を見詰めて居りましたが、何を考えたか、不意にその紙を自分の唇に押し当てて、夢心地に吸い入るのでした。
「あれ千代之助様」
「まア、宜い、これはどうせ私が貰ったのだ。誰にも文句は言わせない」
そう言い乍ら千代之助は、半紙を四つに畳むと、そのまま押し戴くように、少しなまめく襦袢の袖の中、内懐深く仕舞い込むのでした。
「千代之助殿」
「真弓どの」
こんなつまらない遊戯が、二人の胸に潜む恋心を、どんなに煽るかわかりません。何時の間にやら二人は手を執り合って、何時ものように夢心地に、お互の唇を求めて居りました。
「不義者ッ」
不意に、障子を蹴開いて、鞠のような感じのする男が飛込みました。真弓の許婚、祝言の盃事をするばかりになって居る半沢良平の、嫉妬に狂う浅ましい姿です。
「あッ」
二人は危うく飛退きました。白刃はサッと間を断って、真弓の振袖の先を劈きます。
「動くな不義者ッ」
「何が不義者だッ」
隙間もなく斬り立てる白刃を僅かに避け乍ら、千代之助はそれでも相手の嫉妬の焔に水を注ぎます。
「己れ、何にをッ」
「真弓殿は俺のものだ、許婚が何んの」
「え、言わして置けばッ」
半沢良平は藩中屈指の使い手、荒井千代之助は役者のように綺麗ですが、前にも言ったように、腕は藩中並ぶ者なき大なまくら、抜き合せる気力もなく、狭い真弓の室を、彼方へ此方へと、蟲のように逃げ廻りました。若し真弓が刃の下を掻い潜って、千代之助を庇ってやらなかったら、二た太刀三太刀目には膾のように刻まれてしまったことでしょう。
「退いた。真弓殿、庇い立てすると、危い」
「あれッ、堪忍して」
わななく二つの掌が白刃を潜って執抛く附き纏うには、半沢良平も悉く持て余しました。千代之助と何んな関係まで進んで居るかは知りませんが、この咲き匂うような美しい娘。やがては自分のものになる真弓──を斬る意志などは毛頭持って居なかったのです。
「えッ、逃がしてなるものか」
激しく斬り下げた良平の一刀、何う間違ったか、深々と長欄に斬り込んでしまいました。
大なまくらでも武士は武士です。それを見ると、一刀抜く手も見せずサッと良平の腕へ──
「あッ」
ひるむところを付け入って、止めの一刀、胸元深く刺そうとすると、何処から飛んで来たか、一挺の小柄、千代之助の小鬢をかすめて後ろの柱に深々と立ちます。
気が付いて見ると、真弓の父の小田切三也、早くも此様子を見て、一文字に廊下を駆け付けて来るのでした。
ものの機みで良平には深手を負わせましたが、伯父三也は藩中第一の遣い手、こんなのに出逢わしては、千代之助如きが、半ダースかかっても追っ付きません。
おろおろする真弓を後に、千代之助の身体は、縁側へ、庭へ、植込へ、脅えた兎のように逃げ込んでしまいました。
半沢良平は大怪我をしましたが、幸い生命には別条なく「不慮の災難」で公向きは済みましたが、昔気質の小田切三也の気持は何うも其儘では済みません。
せめてもの詫心、良平が命に賭けて恋い慕う娘を納得させて、一日も早く祝言の盃を交させようと思いましたが、真弓は、おどかしても、叱っても、宥めても、頼んでも、こればかりは聴き入れることではありません。
「武士の娘にあるまじき不行跡、此上は手討にして良平殿に詫をする」
父三也は刀を捻くり廻してそんな事まで言いますが、素より命を投げ出した真弓は、そんなことで鷺くわけもなく、第一真弓の美しさに打ち込んだ良平は、何に代えても、真弓の命だけはと手を合せないばかりです。
良平のひたぶるに娘を慕うた心を見ると、三也もさすがに心が鈍ります。遂には娘の真弓を土蔵の中に押し込んで、半沢良平が継ぐ可き家も無いのを幸い、手続きも漏れなく踏んで、自分の跡目相続人に直し、二百五十石の高祿を譲って、自分は綺麗に身を退いて仕舞いました。
その間に、荒井千代之助は堕落の淵へ真逆様に陥ち込んでしまったのでした。最初小田切家から逃げ出した足で、友達なり親類なりの家へ轉げ込み、せめては諸方の円く納まる日を待つとか、詑の叶う時期を待つとすればよかったのですが、何処へ行っても鼻ッつまみのせいもあったでしょうが、いきなり飛込んで身を隠したのは、予て出入して居た小唄師匠の家だったのです。
三日たたないうちに、千代之助はその師匠と落っこって、弟子達の眼を聳てさしたことは言うまでもありません。
併し、それも三月とは続きませんでした。美貌で調子の好い千代之助は、間もなく女から女へ渡り歩く一番下等で、一番卑しい生活を始めてしまったのでした。
千代之助は本当に好い男でした。細面の色白で、パッチリした眼、少し高い鼻、引締った唇、これだけを見て居ると、優れた芸術品にあるような魅力を感じさせますが、何うした造化の間違かこの一番立派な顔へ、一番下等な魂を封じ込んでしまったのです。横着で、無恥で、薄情で、少し気違い染みてさえ居る千代之助は、ドンファンや、世之助のような、色魔に共通の、不思議に眼先の利く才能まで用意して居るのでした。
最後に千代之助は芝居者の群に身を落してしまいました。門閥のやかましい社会へ、そう容易く潜り込めるわけは、無かったのですが、勘当されて居るにしても、実家の家柄が光ってくれて、思いの外易々と猿若町の住人になりすましたばかりでなく、何年目かには、名題下の若手で、有望と言われる地位にまで経登って居りました。
この仕事、──白粉を塗って、青い赤い衣装をつけて、毎日舞台の上で恋をしたり、観客の美しいのを、それとなしに漁ったりする仕事は、千代之助には一番打って付けたものだったのでしょう。飽きっぽい日頃にも似ず、こればかりはすっかり腰を据えて、芸名をそのまま、沢村千代之助と名乗って売り出しました。
その間にも女稼ぎは休んだわけではありません。あらゆる階級の、あらゆる年頃の、あらゆる女を、次から次へと漁って五年七年の後には、真弓も良平も何も彼も前生涯を忘れてしまって居りました。
小田切三也は二年目に急病で亡せ、小田切家の家督は名実ともに良平が譲り受けました。
同時に真弓は土蔵の座敷牢から出され、当主良平が、恋人とも妹とも、他所の見る眼もいじらしいほど大事にしますが、何処かに釈然としないところがあるものか、身寄、友達、家来筋のものが何んと勧めても、二人は盃事をして、夫婦になろうとはしません。
「お嬢様、何時までそうして在らっしゃるお積りで御座います。お心の広い旦那様は何にも彼も許して、何時でもお嬢様をお迎えしようとして在らっしゃいますのに、何を思いつめて在らっしゃるので御在います」
母の無い後の母の役目まで引受けて、真弓を我子のようにして居る乳母は、時折こんな愚痴をくり返して聞かせますが、真弓は何時まで経っても、良平と一緒になろうとは言いません。
「乳母や、どうぞそれだけは、言わないでおくれ。よく私にも解って居るけれども、私の心持はどうにもならない」
「まだ、あの性悪の千代之助を思って在らっしゃるのでは御座いませんか」
「飛んでもない、私はあの男が憎くて憎くてならない」
「そんならば、旦那様と御一緒になっても、宜しいでは御座いませんか」
老女の頭脳は単純でした。右でなければ左、嫌いでなければ好き、物事はたったこの二た通りの姿しか映らないのです。
「いえいえあの立派な良平様のお心持を考えると、私は涙がこぼれます──あんな気高い、立派な方と、こんなに汚れた私が何うして一緒になれましょう。もうそんな事は言っておくれでない、強いて言われると、私は淵川へ身でも投げて死んで仕舞わなければならない」
斯う言われると、乳母は二の句が続けません。
一方当主に直った良平は、真弓を妹のように愛撫して、その心持を傷けないように力め乍ら、
「余計なことを言って、真弓殿を苦しめてはいけない」
事毎にそう言って乳母をたしなめるのでした。
千代之助の身を持ち崩した浅ましい姿が、良平の眼に触れないでもありません。ことに、役者になって、元の名を其儘猿若町に顔を晒した時は、知ってるほどの者は、歯噛みをして憤りましたが腕一本斬られた敵同志の良平は、世の後ろ指を背中に感じ乍らも、それを何うしようと言う様子も見せませんでした。
一度、浅草の観音様の門前で、柴羽織の千代之助と避けもかわしもならず、ハタと顔を合わせたことがありました。
良平はさすがに顔色を変えましたが、次の瞬間には左り気ない様子で、足を淀ませもせずにスラスラと通り過ぎました。
千代之助は猟犬の姿を見た野兎のように、踵を返すと一目散に蜘蛛手の路次に、その馬鹿馬鹿しく派手な姿を隠して了いました。
賢いのか、寛大なのか、家祿が惜しいのか、それとも真弓の思惑を憚るのか、良平のこの態度ばかりは、口善悪ない供の者にも、全く推し測りようは無かったのです。
その頃千代之助は、悪魔とも、餓鬼とも、言いようのない惨憺たる堕落振りでした。
或時は、兎口の守っ子に変な様子を見せて町内の鳶の者に尻を持ち込まれたり、或時は名の通った博奕打の囲い者と逢引して牛死半生の目に逢わされたりしました。
千代之助の淫蕩な生活は、そんなことで少しも懲りた様子はありません。唇から唇へと漁り歩く浅ましい姿は、さすがにそんな事には馴れ切っている筈の芝居者も、眼を聳てたり、後ろ指を差したりする有様だったのです。
夏の暑い日、蓮の花の上に突き出した池の端の出逢い茶屋の奥に、千代之助はその何十人目かの女と、恋の果しもない遊戯に耽って居りました。
「ちょいと、お前さんは、もうこの私に嫌気がさしたんじゃないの」
「どうしてそんな事があるものか」
二枚目役者の千代之助は、青々として野郎頭ですが、薄化粧位はして居るらしく、上布の帷子の上に、帰り支度らしく紗の短かい羽織を引っ掛けて居るところでした。
「明日の朝まで此処に居て、ゆっくり蓮の咲くのを見ようって言ったのはどの口だっけ、憎らしい」
女は立膝にニジリ寄って、羽織の裾を掴みました。お梅と言って、柳橋芸者、少し薹は立ちましたが、大姐さん株では鳴らした凄い腕です。
「それは言ったさ、だけど、考えて見ると、今日は二十五日だろう」
「好い加減になさいよ、考えなくたって、今日は二十五日さ、そんな事は昨年の暮、暦を買った時から解って居るじゃないの」
「弱ったねえ、二十五日は解って居るが、舞台稽古のあることをすっかり忘れて居たんだ。今度は盆狂言で、名題下のこちとらも何うやら彼うやら好い役が附いて居るんだ、こんな折を外しちゃこちとらは一生浮ぶ瀬が無い」
「何を言うのさ、お前さんなんかはどうせ面が美いだけのことで、この暑いのにどんなに働いたところで大した出世は出来るわけはない。それより私が達引いて、見事に立て過さして上げるから、これを機に足を洗ってお了いよ」
「思召は有難いが、それじゃ罰が当る」
「ちょいと誰の罰さ畜生ッ、この性悪る男め」
したたかに高股のあたりを抓ると、
「あ、痛ッ、ッ、ッ、ひどい事をするじゃないか」
千代之助は焼火箸を当てられたように大袈裟に飛上ります。
「まア、何んと言う声だろう、聞けばお前さんは、元は侍だったって言うじゃないの、どう間違って又そんな弱いお侍が出来たんだろうねえ」
「侍だって、抓られれば痛いよ。尤もあまり強くないから芝居者に身を落したんだ。これで剣術でもうまかった日にはお前なんか側へも寄せ付けない」
「呆れたねえ」
そんな事を言い乍ら、千代之助の手は羽織の紐を結んで、帰り支度を急しく運び、お梅の手は羽織の裾から、帯へ、胸へとまさぐり上げて、男の細面を双掌に挟んで、帰しも無い執拗な頬摺をくり返すのでした。
「お前さんは性悪だから、斯うしてどの女もどの女も、捨てて行くって言うじゃないの、他の女は知らないが、私を捨てたら承知しない」
「そんな事があるものかい」
「いえ、沢村千代之助の評判を知らないのは御本人のお前さんばかりさ、唇の手形を取られたら最後二度とお前さんに逢った女は無いって言って居るのをご存じかい」
「そんな馬鹿な」
「私は、とうとう昨夜、それを取られたんだから、もうお前さんに捨てられる番が来たんだねえ、それと知り乍ら、断わり切れなかったんだから本当に何んて馬鹿だろう」
お梅は千代之助の胸に顔を埋めて、シクシクと泣き出してしまいました。
「それは皆んな世上の噂だよ。私に構って貰えない世上の女達が、勝手な事を言いふらして、腹癒せをして居るのだよ。私はお前の外に、女を持った事が無いとは言わない──けれども女という者を知ってから、まだお梅姐さんのような女に逢ったことは一度もない、どうしてどうしてこの大事な女を、人の手に渡してなるものか──」
「お前それは本当かい」
「本当にも嘘にも、私の胸は、それ、早鐘を打って、私の頬はこんなに燃えて居るじゃないか」
「嬉しいよ、私は。その言葉を、何時までも何時までもお忘れでない」
「何んの」
二人は犇と抱き合いました。
一方の窓の外は池の端の人通り、夕暮を急ぐ人達の足音をうつつに聞いて、二人は時の経つのも忘れて居ります。
一足先に池の端の往来に出た千代之助は、お梅のことなどもうケロリと忘れて居りました。熟れ切った年増女の執拗な恋は、何んとなく倦怠を覚えさせないではありませんが、夕暮の池の風が──蓮の花の香ばしさを載せて顔を吹くと、そんな疲れも吹き飛んで仕舞います。
「おや」
千代之助はフト立ち止りました。
すれ違った女、それも墨染の法衣を着た若い尼法師の美しさに驚いたのです。
頭こそ青々と丸めて居りますが、柔かい眉の曲線、黒い滴る瞳、真珠色に少し紅味のさした頬──いやいやそれは物の数でもありません。千代之助の心を犇と捕えたのは、尼法師の紅い唇──茱萸のように丸くて、茱萸のように艶やかな唇だったのです。
墨染の法衣を着た、殊勝な姿に、なんの蟠りもありませんが、この美しい唇はどう考えても経文を誦させるにふさわしいものではありません。
千代之助の足は、何時ともなく、その尼法師の後を慕って、上野の山下から、根岸の方へ歩いて居りました。その頃は鶯も梟も鳴いた根岸、日が暮れると滅切り淋しくなるのですが、尼法師はさまで急ぐ風もなく、木立から藪へ、藪から田圃へと、暗くなりかけた道を辿って、根岸の奥へ奥へと入って行ったのです。
ふと尼の姿は見えなくなりました。
道は藪と木立に隠れて、一方はささやかな生垣に突き当って居ります。
「狐にやられたのかな」
そう思うと、臆病な千代之助はぞっとして、逃げ腰になりましたが、次の瞬間、
「────」
思わず足を停めました。
眼の前、ほんの二三間先に、思いもよらぬ灯が入って、鉦の音──やがて静かに読経の声さえ聞えたのです。
見ると生垣の中は、ささやかな庵室で、灯も、鐘も、そこから漏れて来ることは間違いありません。二三間小戻りすると枝折門があり、押せばすぐ開くところを見ると、先刻尼を見失ったのは、多分此辺だったのでしょう。
忍び足で入口に近附くと、覗くまでもなく開け放した正面の仏壇に向って、美しい中音に経を誦して居るのは、池の端から付けて来た先刻の若い尼です。
千代之助は、泥棒猫のように入口の闇に立って、暫らく経の済むのを待ちました。
やがて尼が立ち上るのと、
「お頼み申す」
千代之助の訪なうのと一緒でした。
「ハイ」
「行暮れて、ことの外難渋いたします。暫らく軒の下を拝借いたし度い」
「ハイ」
深山幽谷にでも踏み込んだような、芝居がかりの声に呆気に取られたのでしょう。灯の灯先にすかすように、尼は其儘立ちすくみます。
「早速のお許しで辱けない、御免下さい」
誰も入れとも何んとも言わないのに、千代之助は庵室の入口に腰をおろして居りました。男気が無いと見定めたからの事でしょうが、優形で、無類の美男と言われた千代之助は、何処へ行っても無礼な仕打で通って来たのでした。
「…………」尼法師は鈍い光にすかして、黙って千代之助の顔を見詰めました。帷子に紗を羽織って、薄化粧さえした優姿を見ると、さすがに一度は驚いたようでしたが、警戒する程の物凄い相手で無いと見たのか、そのまま招き入れる形ちに席を開きます。
「これは辱けない、御造作にあずかります」
そう言う千代之助は、もう庵室の中に上り込んで居りました。
相手が女でさえあれば、どんな事をしても、とがめられた事の無い千代之助はこんな時だけは、本当に素晴らしい勇者だったのです。
「何んと言う静かなことでしょう」
「…………」
「お淋しくはありませんか」
「は、いいえ」
「御修業はさること乍ら、若くて美しいお方が、斯う行い浄めて居られるのは、深い仔細が無くては叶いません。御差支が無かったらお話し下さい──」
「いえ、もう」
若い尼は、顔を赤らめて俯向くばかりでした。しなやかな肉付や、美しい肢体は、墨染の法衣にも隠せず、庵室の貧しさにも輝やき渡るばかりでした。
「世を捨てられるまでには、いろいろの御物語もあることで御座いましょう。例えば恋とか──情けとか」
「いえいえそんなものは御座いません。私のは世を捨てたのではなくて、世に捨てられた身の上で御座います」
「ハテ、そんなに美しいお方を、捨てる世の中が憎いでは御座いませんか」
千代之助は優しく尼法師を見上げるように、ズイと膝を進めました。後ろは御仏の蓮台、退きもならず若い尼は、後ろ手に身を反らせるばかり。
不思議な空気の中に、千代之助の冒涜的な熱情は、沸々とたぎり返します。この鼻の良い恋の猟夫は、若い尼の態度に、多少の惧れと疑はあるにしても、少しも自分を嫌う様子の無いことを早くも見て取ったのです。
「私などは──」千代之助はゴックリ唾を呑み乍ら、続けました。
「──私は池の端から、貴女の美しさに牽かれて、フラフラと此処まで来てしまいました」
「え、えッ」
「その貴女、そんなに若くて美しい貴女を捨てる世間がありましょうか」
「…………」
「さア、もう一度世の中へ出て参りましょう。その黒髪を延して、振袖を着て、貴女の美しさを存分に見せて、貴方の前に裾く世間を見返してやろうではありませんか」
千代之助の手は何時の間にやら、尼の手、水晶の珠数を掛けた美しい小さい手を取って居りました。
「あれ、何をなさいます」
「私は何万、何千の女を見て参りました。変なことを言うようですが、世の中の女達は、私の一と目で死ぬの生るのと言う騒をして居ります──が、その私でさえ、猿若町の舞台の上から、毎日、毎日粧を凝らして江戸中の女を見尽して居る私でさえ、まだ貴女のような美しい方に逢ったことは無い」
「…………」
「何んと仰しゃるか貴女のお名前は知りませんが──もう一度髪を延して、此世の歓楽を見尽す為に私と一緒に世の中へ踏み出して参りましょう──」
千代之助の言葉は次第に熱を帯びて双手は何時の間に尼のふくよかな膝の上へ掛って居りました。
「有難う御座います。そんなにまで仰しゃって下さるものを、何うしてお言葉に反かれましょう」
「ええ、それは、それは本当でしょうか」
「何んの嘘を申しましょう。けれども、今はこの通り御仏の御前に仕えて居ります。かりそめにも汚らわしい事があってはなりません。この庵の始末をして、髪を延してお後からお宿へ参りましょう」
何んとした事、美しい尼は思いの外早く珠数を捨てる気になったようです。
「有難う、私に取ってもこんな嬉しいことはありません。それではお言葉を胸に秘めて、後の日を待つとしましょう。が、たった一つ、私の言うことを聴き入れた証拠に起請を書いては下さるまいか」
千代之助は気の変らないうちにと押っかけます。
「え? 起請」
「と言っても筆で書く起請ではない。貴女の唇の紅をこの紙の上へ捺して貰いさえすれば宜いのです──」
「唇で紙へ?」
尼もさすがに驚いたようですが、気を取り直して、
「御仏に仕える私が、口紅など持って居る筈は御座いません」
「…………」
千代之助もハタと困じました。その隙に尼は、前にのべられた半紙綴の分厚い帳面を取上げて見ると、白紙は最後たった一葉であとは一枚一枚、鮮かに描いた花片──と見たのは、紛れなく、口紅で捺した女の唇の形です。
「あッ」
千代之助は、あわてて取上げましたが及びません。数十枚とも知れぬ唇の捺形とその側に記入された年号月日に忙しく目を通した尼の顔は、怒りとも蓋恥とも付かず蒼ざめてワナワナと顫えます。
「見られた上は隠しても仕様が無い、御覧の通りこれは私が今までに契った女の唇を捺したもの、丁度九十九枚だけ溜りました。貴方の唇を捺して下さると、丁度百枚、これで私の『百唇の譜』は出来上ります。浅ましいと思って下さるな、これが昔から男の望みと言われた大願だったのです」
千代之助は、さすがに恥入る風情に首を垂れます。それにしても、この男の美しさももう三十近い筈ですが、打見たところは二十一二、相変らず水も滴れそうで、こんな悪魔的な事をやり乍らも、少しも人に憎まれない不思議な魅力があります。
「よく解りました。そんな人数に加えて下すって、百人目の満願に私の唇を所望されるのは、女冥利というもので御座いましょう。この場ですぐ捺して差上げましょう」
「口紅は」
「これに」
尼の手は側の用箪笥に入りましたが、何やら探し出すと思う間もなく、サッと宙に閃めいて、千代之助の首へ、
「あッ」
尼の逆手に握った剃刀は、ハッと思う間もなく、薄手乍ら千代之助の喉笛を斬ってしまったのです。
「何をする」
「お待ち、私は紅が欲しかったんだ」
尼は投げ出した「百唇の譜」を拾って流るる千代之助の血潮を唇に塗ると、帳面の最後の紙へ茱萸のような二つの唇は、正に紅々と百枚目の紙に印されたのでした。
「御覧、この血で捺した私の唇、お前、見覚えがあるに相違ない」
「何?」
千代之助は、あまりの驚きに傷手も忘れて、流るる血潮を押えるように、尼の手許を覗きました。幸い剃刀は奪い取りましたが、此女は何をやり出すか、うっかり側へも寄れません。
「九十九番目のも、そうじゃない。九十八番目のも違う。九十七番目のも──」
茱萸型、花片型、いろいろの唇の捺し形を、百番目に捺した、自分の血潮の唇形と比べて行く尼の手元を、千代之助は夢うつつに見詰めるばかりです。
尼はバラバラと紙を繰って、最後に一番最初の唇に眼を落しました。
「これに相違ない、この一番最初にある唇の捺形と、今私が血潮で捺したのと比べて御覧。大きさ形ち、ひだの具合、何処に一つ違ったところがあろう?」
「何?」押しやった帳面を取上げた千代之助は、一番目の唇形と、百番目の唇形とを比べて、痛手の外の打撃に真蒼になってしまいました。
「そんな事は無い、そんな馬鹿な事は無い」
「よく御覧、この通り頭は丸めたが、私の顔にはまだ、八年前の真弓のおもかげが残って居る筈」
「えっ」
「お前に弄ばれた私と、お前に斬られた良平様とは、年月の経つにつれて次第に慕い合い乍ら、お前と言うものが間にあってその怨が解けないばかりに、幾年経っても一緒にもなれず、死なず生きずの苦しみをして来た」
「…………」
若い尼──真弓は、恐るる色もなく千代之助の面を指して、怨と怒りとをない交ぜた言葉を浴せかけます。
「それの辛さに、私は髪を下して、斯う行い澄して居るがどうしても忘れられないのは、お前の怨めしさと、良平様の恋しさ」
「嘘だ嘘だお前は真弓に相違あるまい、それは俺が負けてやろうが、この千代之助を忘れて団栗のような醜い良平づれが恋しくなる──ハッハッ、そんなそんな、馬鹿な事があろうか」
「いえ、違う。違う」
「いや違わぬ、俺の目鏡に曇りはない、お前は本当に昔の真弓なら、この千代之助が忘れられないばかりに、髪を剃り落して此処に居るに相違はない、俺は百人の女を弄んだ、他の事は一切解らない人間だが、女の心持だけは、掌を指すように解る積りだ」
「…………」千代之助は手負に屈せず、よろめき乍らも美しい尼姿の真弓へ抱き附こうとします。
「さア、来いよ真弓、俺は生れてから一度も同じ女を振り返った事は無いが、今度という今度は妙にお前に心が牽かれる。幸い傷は浅い、二人一緒に暮してどんな事があっても一生離れないよう──」
血だらけになった千代之助は、執念深く真弓を追い廻して、御仏の御姿までが、斑々たる血潮の汚れに染む有様、その凄まじさは云いようもありません。
「悪魔、悪魔、寄ってはいけない。百人の唇を集める為に、お前はどれほど深い罪を重ねたか解るまい、そんな大それた事を神様も仏様もお許しになる筈は無い──退け、退け、汚らわしい」
「いや、百人の唇は、たしかに集って『百唇の譜』は見事に出来上ったぞ。百人目に血潮で唇を捺したお前は、一生俺とつれ添うのも約束事だ」
「え、汚らわしい、寄るな、寄るな」
さすがに悲鳴はあげませんが、襲いかかる手負の千代之助を逃れて、聖らかな仏具を取っては投げ取っては投げ、暫らくは庵室の中に悪闘を続けました。
「ヒ、ヒ、ヒ、ヒ、さア捕えたぞ、もう逃がすことでない、こう両腕の中に抱え込むと、お前ほど美しく、お前ほど可愛らしい女は無かったことも、ようく解る──もう俺は死んでもいい俺は──」
半死半生の尼姿を膝の下に組み敷いて、妖悪な笑いが引き劈くように千代之助の口辺を横ぎります。
丁度その時でした。
ふと門口にさした人影、中の様子を見ると、飛鳥の如く飛び込んで、
「曲者ッ、何をする」
真弓を組敷く千代之助の肩先を掴んで、庭先に叩き附けざま浴せた一刀、
「わっ」
美しい悪魔千代之助は、ものの見事に引っくり返りました。
「良平様」
「真弓殿、無事であったか」
二人は、それっきり言葉もなく、犇とばかりに手を取り合うばかりです。
真弓は髪を蓄えて、間もなく良平と祝言の盃を挙げました。千代之助はそれっきり斬られ損になってしまったことは言うまでもありません。
「百唇の譜」はその後好事家の手に転々して、いろいろの物語を生みましたが、安政年間の根岸に起ったこの物語が一番確かな筋から出たものです。
千代之助は唇形の蒐集に、一種の狂熱を持った偏執狂だったかも知れません。
世に謂う不良少年には、得てしてこんな狂人があり勝ちのことです。
底本:「野村胡堂伝奇幻想小説集成」作品社
2009(平成21)年6月30日第1刷発行
底本の親本:「百唇の譜」東方社
1951(昭和26)年2月
初出:「文芸倶楽部」
1931(昭和6)年9月
入力:門田裕志
校正:阿部哲也
2015年5月24日作成
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