新奇談クラブ
第一夜 初夜を盗む
野村胡堂
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「久し振りで此の会を開きました。さぞ皆様は奇談、怪談、珍談を山の如く用意して下すったことと思います」
奇談クラブの集会室、幽幻な感じのする真珠色の微光が、承塵の裏から室全体を海の底のように照して居る中に立って、幹事の今八郎は斯う口を開きました。
「世の中が斯う平凡に組織立って来ると、私共の生活は極めて安全ではあるが、その代り面白味も可笑味も無くなってしまいます。何方を向いても常識と規則ずくめの中から、魅惑と刺戟とを求めようとするのは、丁度沙漠の中で清水を求めるようなもので、なかなか容易の事ではありません。──そこでこの会の会長吉井明子嬢が、無事と平凡とに苦しめられて居る皆様を救う為に、巨万の富を賭けて、皆様の中から血の滴るような奇怪を求めることになったのであります」
十何人の会衆の眼は、期せずして、今八郎の直ぐ側、安楽椅子に埋まり加減に凭れて居る、黒っぽい洋装をした麗人に注がれました。言うまでもなく、これは想像も付かないような大財力を擁する、吉井合資会社の女社長で、猟奇に耽る特殊の人達を集めた、奇談クラブの会長を兼ねた、シエヘラザーデ姫の如く賢こく、シエヘラザーデ姫の如く美しい──吉井明子嬢だったのです。
今八郎は、そんな事に構わず、落ち付き払った調子で話を続けました。
「ところで、その方法と言うのは、此処に集った十二人の会員が、銘々一つ宛秘蔵の話を持ち寄って、一と晩に一つずつ、十二日間に亙って競技を続け、最後の十三日目の晩に、十二の話のうちから互選投票で一等二等三等を定めるのです」
巨万の賞金と聞いて、会員達の間には、さすがに不思議な亢奮と、囁きが起りましたが、教養のある人達だけに、間もなくその亢奮も鎮まって、今八郎の話は静かに続きます。
「但し要求するお話は、架空の物語ではいけません。お話なさる事には、一々確かな証拠又は文献のあることで、話が極めて怪奇であるばかりでなく、本当に切れば血の出るような真実性と、聴く者の魂を揺り動かすような、魅力を持って居なければならないのです。お話の順序は、用意の都合もあることでしょうから、なるべく御申出順に従うことにし、差し向き今晩は、江柄三平君が驚天動地の奇談を御用意下すったそうですから、第一話として、それをお願いすることにいたしました。江柄氏を御紹介いたします」
江柄三平は、さし招かれて卓の前に立ち上りました。名前は弱い武者修業見たようですが、人柄はまことにいきな一九三一年型の好青年紳士です。
「私は江柄三平と申します。鉄工場に技師をいたして居ります。腹の底からの機械士で、小説や物語を作る才能は絶対に持ち合せませんから、此の物語も正真正銘の事実で、今さんのお言葉を仮りて言えば、切れば血の出るような真実性とやらは、フンダンに持って居る積りであります。──いや、事実か事実でないか、本当の事は私にも解りません。兎に角、思いもよらぬ事から、十一代前の祖先、当時三百石を食んだ、旗本江柄三十郎宗秋の書き遺した記録を発見して、あまりの不思議な物語に、私自身すっかり面喰って居る次第で、今晩此の席で申し上げるのも、実は皆さんに聞いて頂いて、こんな奇怪なことが、本当にあるものかどうか、それを判断して頂き度い為であります」
話は大分大袈裟です。奇談には馴れ切って居るクラブの人達も、江柄三平の真剣な態度には、思わず引き入れられて聞耳を立てました。
「率直に申し上げると、私の祖先の江柄三十郎宗秋と言う旗本が、明暦年間、その頃八百歳以上になる美女と契ったというのであります。十八歳の間違いではありません。確かに八百歳です。ハガードの小説に、三千年以上生きて居た美女の話がありますが、それは全く架空の小説で、事実ではありません。
尤も支那は昔から練丹とか仙術とか、長生不死の術とかを研究した国で、仙人伝などには想像もつかぬ長生の例が書いてあります。日本にも貞観年間に京で箸を売って居た老人が、齢数百歳であったらしいとか、宝暦年間、若狭の国の白比丘尼が、東国の高崎の比丘尼と、五百七、八十年間の源平時代の話をして来たとか、この種の例は沢山あります。併し、私は決してこんな事を衒学的に並べるのが本意ではありません。早速本題に立ち還って、江柄三十郎宗秋の経験した、恐ろしい物語をお伝えすることにいたしましょう」
明暦二年正月、江柄三十郎宗秋は、同じ旗本の坂本佐市の娘お夏と祝言の盃をあげました。
この時三十郎は二十三歳、お夏は十八歳、すぐれた美男と美女で、まことに絵に描いた一対のお雛様のようであったと言うことであります。
江柄三十郎の屋敷は小石川の茗荷谷で、不気味な切支丹屋敷の藪の直ぐ下、右手の高台には、その頃江戸中に騒がれた女修験者の道場、崇巌院と言うのが建って居りました。
二人は親同士の決めた許嫁で、子供のうちからの知り合いでもあり、この婚礼はどちらから言っても芽出度い限りで、初夜の睦言も蜜の如く濃やかでしたが、朝起きて見ると、何うも腑に落ちないことがあります。
というのは、新嫁のお夏の様子が、三十郎の眼にも何んとなく変って居るのです。自分が知って居るお夏よりは、容貌がいくらか美しく、取なしが巧みで、様子がヒドく妖艶に見えるのです。
これは可怪いと思いましたが、昨晩の今朝で、そんな事を詮議立てするわけにも行きません。それに三十郎は早く両親に死に別れて、若党一人、草履取一人、女中二、三人という、全くの独り者です。相談を仕ようにも相手がなく、不審があったところで持って行きどころもありません。
「お夏」
「ハイ」
「お前はどうも様子が変だ」
「あれ、何を仰しゃいます」
「昨日のお夏よりは、どうも美しい」
「マア」
これ位のことは言えますが、さすがにこれ以上の事は言い切れません。それに醜くなったのと違って、輝くばかり美しくなったのですが、少々位こってりした取り廻しをされたところで、三十郎悪い心持はしません。其の儘朝の膳に付こうとすると外から飛び込むようにやって来たのは、舅の坂本佐市老人です。日頃沈着過ぎるほど落ち付き払った人ですが、何をあわてたか、ろくに挨拶もせずに通って、
「イヤ、何んとも驚き入った、一応仲人を差し遣わすのが順序だが、あまりの事に、私がやって参った次第じゃ。娘の奴、何を寝呆けたか、婚礼の当夜無断で抜け出して、勝手に家へ帰るという法はあるものでは無い。手討にもすべきところだが、兎に角、一度は連れて参った、先代と私との仲に免じて、勘弁してもらい度い」
立てッ続けに斯んな事を言います。
「何を仰しゃるのです。お夏は此方に居ります。何んか間違いでは御座いませんか」
「イヤ、そう言われると穴へでも入り度い、今朝起きて、心淋しい気持で娘の部屋を見ると、昨夜此の家へ送り込んで、確かに祝言の盃までした娘が、角隠しのままの花嫁姿で、自分の部屋に正体もなく寝込んで居るではないか、驚いたの驚かないのではない、叩き起して聞くと、三々九度の盃を済ませたまでは知って居るが、仲人に手を取られて立ち上った切り、あとは夢のようで一向覚えが無いと言う始末だ。何んとも申訳が無い──」
聞かん気の老人ですが、娘の不始末に恥じ入って、禿げ上った額へ冷汗を掻いて居る有様。
「…………」
江柄三十郎は全く当惑してしまいました。そっと立ち上って次の間を見ましたが、そう言えば今までいた筈のお夏が何処へ行ったか、舅の姿が見えると同時に消えて無くなってしまいました。玄関には本当のお夏が、ションボリ坐って居りますが、顔形ち、着物の様子まで、昨夜自分と添い伏した新嫁とはまるッ切り違います。此方は採り立ての果物のように純潔ですが、その代り妖艶な美しさは無く可愛らしくいじらしいというだけで、先程まで此処に居たお夏ほどは心牽かれません。
「いずれにしても、右の始末じゃ、これが世間に知れると、私は腹でも切らなければならん、先代からの顔に免じて、勘弁してもらい度い、里の近いのも良し悪しじゃ、いや早」
舅の佐市は婿にはあまり物も言わせず、
「二度と斯のような事があると、許しては置かんぞ、死んでも帰ってはならん、解ったか」
日蔭の花の如く萎れて居る玄関の娘を叱り飛ばして、そそくさと帰って行ってしまいました。
それから三日過ぎました。お夏は事もなく落ち付いて居りますが、三十郎にしては、初夜に契ったもう一人のお夏の、輝やくばかりの美しさと、妖艶な取りなしが、どうしても忘れられません。婚礼当夜の不思議は、自分の失策と思い込んで、脅々として居る本当のお夏もいじらしいには違いありませんが、一度烙印を捺された三十郎の記憶は、そんな事では拭い去る由もなかったのです。
三日目になると、使い走りの者が一通の手紙を持って参りました。天地紅の結び文で、武士の手に取るには、如何にも艶かしいものですが、そんなものが来るのを予期して居たような心持で、押し開いて読むと、仮名書きの恐ろしく巧い手蹟で、
「あの夜の不思議を解き度くば、崇巌院の主を訪ねられよ」
とだけ書いてあります。眼と鼻の間に建った新しい修験の道場で、女主の梅仙女と言うのが、江戸中の人気を集めて居りますが、江柄三十郎、そんなものには用事も無かったので、今までは振り仰いで、軒の甍を見ようともしなかったのです。
「成程これはいい事を教えてくれた、近頃評判の梅仙女に聴いたら、一切不思議が解けるかも知れない──何んでも非常な長命な女道者だという事だが──」
と思った三十郎、早速衣服を改めて、小日向台の崇巌院を訪ねて参りました。
近頃出来ながら立派な普請で、参詣の善男善女踵を接する繁昌振り、禁呪、祈祷、占い、何んでも効験が無いことは無いというので、主の梅仙女、近頃は一部の人達から神様のように信仰されて居ります。
玄関へ立って名前を言うと、待ち構えたように奥へ通されて、女の童が褥をすすめる、茶や菓子を運ぶ、まるでお大名のような応対振りです。
ほんの暫らく待って、正面の襖を両方から開けさして、静かに立ち現われたのは、噂に聞く梅仙女でしょう。紫の被布、同じ襦衣に、白襟を重ねて、豊かな黒髪は後ろへ結び下げて居りますが、その美しさは全く輝くばかり、江柄三十郎眩暈がするように思いましたが、顔を合せるや否や、不思議に活々した記憶を呼び覚されて、思わず、
「あッ」
と驚きの声をあげてしまいました。
「江柄様、おなつかしゅう御座います」
女は品位も我慢も振り捨てた様子、走り寄って華奢な身体を投げかけるように、三十郎の膝に手を掛けて、下から差し覗くのでした。
紛れもないあの女です。
お夏になり済して、婚礼当夜に契った女、三十郎が忘れようとして忘れることの出来なかった、妖艶無比な毒の花のようなあの女だったのです。
「あっ、お前は、お前は」
と言うばかり、三十郎暫らくは後の言葉が続きません。
膝に置いた華奢な手を取り、消えも入りそうな柔かい肩をさすり乍ら、この妖女の不思議な美しさに見入って、武士のたしなみも、日頃の心掛けも、家に居る筈の可憐な新嫁のお夏も忘れ果ててしまいました。
「お許し下さいまし、ね、ね、あまりの恋しさに、最初の夜の契りを盗みました。どう思い直してみても、他の女には、許して上げられなかったので御座います」
「矢張りそうか、そうであったのか」
「お夏様にお気の毒でしたが、これには深い因縁が御座います。先ず一献差し上げ乍ら、ゆるゆる懺悔話をいたしましょう」
手を叩くと、心得て居たように、贅を尽した盃盤が運び込まれます。
「サア召し上れな。此処には何んな物でも御座います。灘の生一本、血のようなオランダの赤酒、乳のようなスペインの白酒、無いものは御座いません」
梅仙女は寄り添うように、膝を少し崩して、ビードロの徳利を上げました。
三十郎は最早性根もありません。
この女の透き徹るような真珠色の肌からは、蜜のような甘い香りが流れて、その霞む眉の下に、深潭の如く凝った瞳には、熱と力と、魅力と美しさが、男の骨まで溶かすように輝やいて居ります。
匂うような頬、滴るような唇、精練され切った、銀鈴のような声、この女の全身は、卯の毛で突いたほどの瑕も無い、千乗の璧の如く清らかに、美しかったのです。
「貴方の祖先、荏柄平太様とは、割りない仲で御座いました」
「エッ」
三十郎は余りの事に自分の耳を疑いました。物語本にある荏柄平太は、今から五百年も前の人で江柄は元其の人から出たが、憚ることがあって、荏柄を江柄と変えたと伝えられて居りますが、その荏柄平太と割ない仲は少し話が変り過ぎて居ります。
「ホ、ホ、吃驚なさいましたか、私はもう八百歳を起して、若狭の国の白比丘尼と、東西の長寿を競って居ります。嘘と思召すならば何んな事でも聞いて御覧遊ばせ、源平の戦い、藤原氏の栄華、皆此の眼で見て参りました。まあ、あのお顔」
全く驚かないわけには行きませんでした。八百幾歳の老婆と聞くと、江柄三十郎はお化けと一緒に居るようで、ゾッと背筋から寒気立ちますが、思い直して見ると、それにしても又、何んと言う美しさでしょう。若狭の白比丘尼も若いと聞きますが、これはサナギから出て来たばかりの蝶のように美しく、枝から取り立ての果物のように清らかです。
「私はその後、天竺や支那や、世界の隅々までも廻って、久し振りで帰って見ると、貴方というものが此の世に生れて居られたのです。小日向台の上から、貴方の成人するのを、どんなに楽しい心持で、待ったことでしょう」
「…………」
「その大事な殿御を、お夏様に譲ってなりましょうか、お夏様は僅か十年の許嫁なら、私の方は五百年越の契りでは御座いませんか、お腹が立つなら、存分に遊ばせ、サア」
梅仙女は斯んな事を言って、その柔かい身体を、クネクネと三十郎に凭れかけます。
「私には判らぬ、何が何んだか少しも判らぬ」
少し酔の発した額を叩いて、三十郎は恐悦するばかりです。
「ですから、何うなと遊ばせ、サア、何うなと」
両手を三十郎の首に巻いて、香ばしい唇が、三十郎の眼の前に、毒の花のように咲きこぼれます。
二人は爛酔と溺惑とに性も他愛もありませんでした。八百歳の妖女は、女郎蜘蛛のように三十郎を囚えて、その綾糸ですっかり巻き込んでしまったのです。
「野郎、起きろッ」
枕を蹴られて、江柄三十郎はハッと眼を覚しました。
「何者ッ」
押っ取刀で起ち上ると、鼻の先に立ったのは、背の高い若い武士、
「お疲れだろう、お前もそうして、精気を吸い取られて死んで行くのだ」
皮肉な冷笑が、武士の口辺に小波の如く漂います。
「何を言う、無礼をすると許さんぞ」
「ハッハッハハ、まだ眼が覚めないか、梅仙女の長寿の秘訣は、血気盛んな若い男をたぶらかして、その精魂を吸い取るのだ、一年に三人位ずつ、犠牲にされた男は、蜘蛛の巣に掛った虫のように、カラカラに乾いて死んで行く、お前もその一人に選ばれたのだ」
「お前もその一人だと言うのか」
「その通り」
「それ程解ったなら、何故お前は逃げない」
「逃げられない、蜘蛛の巣は幾重にも幾重にも俺の身体を包んで、此の道場からは一歩も出られない」
「馬鹿な奴だ」
「馬鹿と言ったな」
「言ったが何うした」
一刀を引き抜き様、サッと横に払うと、武士はヒラリと庭に飛び降りて、
「手向いするなら此処へ出ろ」
「応ッ、行かなくって何うする」
「何をッ」
続いて飛び降りた三十郎、跣足に冷たい芝生を踏んで、二人の刃はチャリンと合います。
斯うなるともう、一匹の雌犬を争う雄犬と雄犬でした。二人は嫉妬に眼がくらんで必死と争いました。朝の道場は森閑として、誰も止め手は無く、深刻な切り合いが、暫らくは続きました。
「己れッ、不埓な奴」
「何をッ、馬鹿奴ッ」
理由も怨みもあるわけではありません。今まで梅仙女の愛を壟断して居た武士から言えば、闖入者に対する許し難き敵意、一夜の歓楽に、悪魔的な淫蕩さが骨まで沁み込んだ三十郎にしては、自分の眼の前に出しゃ張った邪魔物に対する敵意、二人は刃がサラサラになるほど斬り合いましたが、業が匹敵して居る為か、容易に勝負が付きません。
「エッ、面倒、組み討で来いッ」
「何をッ」
二人は刀を投げ捨ててガッキと四つに組み、上になり、下になり、捻じ合い、むしり合い、引っ掻き合い、噛り合いました。血と泥とがはね飛んで、二人は見る影もなき浅ましい業体になりました。
何時の間にやら組み敷いた相手が、死んで居ることに三十郎は気が付きました。見ると、誰が何うして投ったか、一條の小柄が相手の武士の首筋を縫って、血は庭石も浮くばかりに其辺をひたして居ります。
四方を見廻しましたが、誰も居る様子はありません。いや居ないではないが、三十郎に気が付かなかったのです。書院の窓を細目に開けて、其処から覗いて居る残忍極まる眼、──血の笑いを笑った眼の異常な光を、三十郎は見のがして居るのでした。
一方は新嫁のお夏、
婚礼の三日目に、フラリと出て行った夫の三十郎が、何時まで待っても帰って来ません。後に落ち散った結び文を拾って、行先は崇巌院と言うことは解りましたが、若党や草履取を迎えにやっても要領を得ず、堪え兼ねて、三日目には自分で迎えに行って見ましたが、崇巌院の玄関番は、剣もほろろの挨拶で、まるで要領を得させません。
その内に、崇巌院に出入する程の人達から、此の頃女修験者の梅仙女は、若い武士と眼に余る淫楽に耽って、祈祷も禁呪もろくにしてくれないという噂が伝わりました。お夏は身内を掻きむしらるる思いですが、元々自分の不覚から起った事と信じ切って居るだけに、それを何うしようと言う心も起りません。
第六天町に居る父親、坂本佐市老人のところへ訴えたところで、あの調子では、手討にすると言って脅かされるのが精々でしょう。
当惑し切ったお夏は、毎晩毎晩空閨を守り乍ら、居ても立っても居られない恐ろしい焦躁に痩せ細るばかりでした。
フト思い出したのは、五年前に死んだ母親のことでした。
「万一お前の思慮に余る大難が起った場合には、これをソッと開けて見るがよい、きっとお前に好い智慧を授けて下さるものが中に入って居るが、その代り、決して決して人に見せてはならぬぞ」と臨終の床で渡された小さい手筐があります。
箪笥の奥から取り出して見ると、朱の打紐で厳重に結んだ上に物々しく封印までしてありますが、女の身として、今より思慮に余る大難があろうとも思われません。思い切って封を破って蓋を払って見ると、中から出て来たのは、銀の十字架と、半紙を二、三十枚綴じた本が一冊、これはポルトガル語を仮名にして書いた祈祷書で、その第一頁目を開くと、
「イン・ノウミネ、バアチリス・エツ・ヒイリイ・エッスピリッス・サンチ・アメン(父と子と精霊の名によりてアーメン)」
と読めます。
お夏はハッと驚きました、母親は若い時、転び切支丹であったということは聞いて居りましたが、表向は死ぬまで阿弥陀様が御信心で、まさかこんな物を持って居ようとは夢にも思わなかったのです。
言う迄もなく切支丹の宗門は重大な国禁で、今頃こんな物を持って居ることが判ると、立ちどころに磔柱に掛けられることだけは間違いもなかったのです。
これでは工夫にも相談相手にもなりません、人に見られては大変と、祈祷書と十字架を手筐に入れようとして見ると、手筐の底にもう一つ、小さい紙切が入って居ります。取り上げて見ると、紛れもない母親の手で、
「生死の苦しみに逢った時は、切支丹屋敷のアルフオンゾ様に相談して見るが宜い、良い智慧を貸して下さる」
と書いてあります。切支丹屋敷と聞いただけでも、ゾッと身震いのする位ですから、多くの同心や小者の眼をかすめて、何うして彼の中へ入って行けるでしょう。お夏は首を振って、悲しくも思いあきらめなければなりませんでした、色の褪せた朱い紐を結ぶ手には、不覚の涙がハラハラと散ります。
それから又三日経ちました。お夏は毎日崇巌院の四方を徘徊しましたが、夫三十郎に逢う手蔓もなく、玄関から行けば、剣もほろろに追い返されるばかり、何べんか死のうと思い詰めましたが、其処まで行くと、最後に取り出すのは、何時でも、母親の形見の不気味な手筐でした。
「いっそ、死んだ気で、アルフオンゾ様に逢って見よう、切支丹宗門として磔柱にかけられるのは、斯うして夫のお帰りを待つよりは、まだしも楽だろう」
と思い定めたのは、夫三十郎が家出をしてから十日目でした、決心が付くと、若い女ほど強いものはありません。その夜のうちにお夏は、今までは塀の側へも寄り付かなかった、切支丹屋敷へ忍び込んでしまったのです。
若い女が切支丹屋敷へ、そんなに無造作に入れるわけは無いと思う人があるかも知れませんが、それは大変な間違いで、明暦二年というと、元和元年の切支丹大殺戮から三十年余り、天草の乱からは十年も経って居りますから、切支丹屋敷に押し籠められて居る異人は幾人も居りません。それに世の中の人が切支丹屋敷と言うと恐れて近づかないから、同心小者の警備はあっても、人の出入こそやかましく言いましたが、生垣も塀ももぐり放題、それでも誰も近づく者が無いから、結構済んで居たわけです。
お夏は界隈に住んで、その辺の事をよく知って居りますから、わけも無く中に忍び込んで、イスパニア人のアルフオンゾに近づくことが出来ました。この人は元和の殺戮に殺されたように伝えられて居りますが、仔細あって命だけは許されて切支丹屋敷に囚閉され、それから三十年、この時はもう八十近い老宣教師です。
座敷牢の小窓から、よく澄んだ月を眺めて、故郷イスパニアの事を考えて居ると、フト影が射して、窓の下に立った者があります。
「誰じゃ」
「ハイ」
「誰じゃと申すに」
「坂本クララの娘、夏で御座います」
「何、坂本クララの娘、夏と申すか」
アルフオンゾも驚きました。窓から差し覗くと、青白い月光に照し出されて、水を浴たように美しい若い女、思案に余る風情でションボリ佇んで居ります。お夏の母親の本名は楽と言い、切支丹名をクララと言ったことは手筐の中の遺書で知った事でした。
「何用があって来た、此処は女子供の来る場所ではない」
アルフオンゾの真白な毛が月の光に揺いで、碧色の眼が慈愛に満ちて瞬きます。
お夏は窓越しに、涙と倶に訴えました、自分の知ってること、人から聞いたこと、色々取り交ぜて、教父アルフオンゾの前に何も彼も打ち明けてしまったのです。
「教父様、何うしたら夫が還って参りましょう、あの恐ろしい女の手を免れて、私のところへ還らせる手だてを教えて下さいまし、教父様、お願いで御座います」
「可憐そうに、お前は本当に辛い試練を受けて居るのじゃ、一生懸命、神様にお縋りなさい、それより外には無い」
「ハイ」
「その梅仙女こそは、噂に聞いた人の精血を吸って生きるという、長寿の悪魔であろう、それを退けるのは容易の事では無い」
「教父様、私はどんな事でもいたします、どうぞ教えて下さい、どうぞ」
「教えずに居られようか、喜んで教えようが、その代りお前の身体は、磔柱にかけられることになるが、それでも恐れぬか」
「何んの、この苦しみに比べれば、磔も火焙りも怖いことは御座いません、夫の命を救って、私の魂が母様のお傍へ行けば、この上の本望はありましょうか、教父様、その祈りとやらを教えて下さいまし、お願い」
か細いお夏の手は、窓格子を潜って、アルフオンゾの枯木のような手にすがり付きました。
「ベル・シイヌン・サンテ・クルシス・デ・イニミシズ・ノウスチリス・リベラ・ノウス・デウズ・ノウステル(我等が天主、聖十字架の御標を以て、我等の敵より我等を遁し給え)」
教父アルフオンゾは、小さい声で斯う囁きました。そして、
「解ったか、これが怨敵退散、悪魔調伏の尊いお祈りの言葉だ。それからパレストリナの尊いミサとグレゴリアンの和讃も教えてやろう、私の歌う通りに歌うがよい」
サンクトス・ドミヌス・デウス・サバオス・プレニ──
羅典の聖なる祈りの歌を、老宣教師が最低音で歌って行くと、その後を縋けてお夏の最高音が、霜空に静かに静かに響きました。
窓の内と外、格子から両手を取り交して、白髪の老異人と、赤い手柄をかけた、美しい婦人とが、立っては歌い、坐っては祈りました。月の光は水の底の世界のように澄み渡って、寒さは更くる夜と加わりますが、老異人も、美しい婦人も、少しもめげる色はありません。
祈りも歌も、すぐ涙になりました、遠くイスパニアの故郷を思う涙、近く崇巌院の夫を思う涙、格子の内外からそれが散って、散る下から氷になってしまいました。
街の人達は、暁方まで続いたこの異国的な祈りと歌に耳を欹てました。そして魂を揺がすような、悲痛な敬虔な声に引き入れられて、何んとはなしに涙を流して居りました。
翌る朝、切支丹屋敷の小者は、三十年来此処に閉じ籠められて居た、イスパニアの老教父アルフオンゾが、座敷牢の中に冷たくなって死んで居るのを発見しました。同時に、窓の外の凍る大地の上に崩折れて切支丹の和讃を細々と口吟んで居る、半死半生の若い美しい女を見付けたのは、それにもまして大きい驚きでした。
「あれは何んだ、あの声は?」
江柄三十郎は、急に眼が覚めたように、ギヤマンの盃を投げて立ち上りました。
「なんでもない、あんな乞食巡礼の歌か何んかにビクビクするものはありゃしない」玉山将に崩れて、紅い裳を乱した横坐りの梅仙女は、泳ぐような手で男の裾を押えました。
「何? 乞食巡礼の歌? それにしても、腹の底から掻きむしられるような、物悲しい声だ、方角は、切支丹屋敷の方かな」
「切支丹屋敷なら尚の事、行ったところで仕様があるまい、黙って坐って、何時ものように浮々と、もう一献過しなさいまし」
「いや、今晩は家へ帰ろう、丁度此処へ来てから十日目だ」
「あれさ、お前」梅仙女は犇々と三十郎の身体に絡み付いて、その邪悪妖艶な魔手の中に溶かし込もうとします。
二人の淫楽は埓も際限もなく、十日間ブッ通しに続きました、それは言語に絶した、猥雑妖淫なものでした。ヴィナス窟のタンノイザーの宴楽よりも、殺生関白の荒淫よりも、吉田御殿の歓楽よりも猛烈を極めました。二人の歓会は悪魔的で、奔放で、疲れも知らず、羞恥も良心も知りませんでした。
恐ろしい九日間は、斯うして夢のように過ぎましたが、十日目の晩、歓楽が漸く酣になろうと言う時、不意に切支丹坂の方から、澄み切った夜の空気に響き渡って、凛々と聖なる歌と尊い祈りの声が、いとも高らかに聞えて来たのでした。
梅仙女は恐れ慄き、江柄三十郎は石に打たれたように打ちひしがれました。併し歓楽の余燼は、その下から情火を煽って、恐れと疑いとの中にも、二人の宴楽は暁方まで続きました。──それは本当に惧れも恥も知らぬ悪魔の戯れでした。
切支丹屋敷に忍び込んで、聖歌と祈祷を口吟んで居た婦人は、旗本江柄三十郎の妻と知れましたが、その懐から十字架とポルトガル語の祈祷書が現われた為に、狂人と言う身寄りの者の申立も通らず、明暦三年松が取れると間もなく、鈴ヶ森で磔刑にあげられることになって終いました。実に電光石火の審きですが、切支丹宗門を極度に迫害した当時では、決して珍らしい事ではなかったのです。
白無垢を着て罪状を書いた高札を前に立て、裸馬に逆に乗ったお夏の美しい姿は、切支丹を悪魔鬼神の如く恐れた当時の人も、何処までも何処までも蹤いて行って、涙を流して別れを惜んだと言うことです。やがて引き廻しが済んで、鈴ヶ森へ着くと、手当を加えた上、前から用意した磔刑柱に掛けて矢来の中におっ樹てます。お夏はその時までも、少しも悪びれる色もなく、首に母の形見の銀の十字架を掛け青白く引き緊った美しい顔を挙げて声高らかに、
「ベル・シイヌン・サンテ・クルシス──」
と称え続けて居りました。竹矢来の外を十重二十重に囲んだ見物は、雪模様の灰色の空を背景に、磔柱に高々とかけられた美女の──祈りと聖歌とに浄められて、埃も止めぬ神々しい──顔を仰いで、声をもらし涙を垂れました。
やがて祈りは聖歌に変って「サンクトス・ドミヌス・デウス・サバオト──」凛々と銀鈴の如く響き渡りました。
妻のお夏が切支丹宗徒として処刑されると聞き乍らも、妖女の側を離れることの出来なかった三十郎は、この日になって始めて、悪夢から覚めたように、本心に立ち還りました。そして、お夏の歌う聖歌に引き摺られるように、小日向の崇巌院を立ち出でて、鈴ヶ森へ駆け付けました。最早梅仙女の妖しい艶色も、奔放無恥な淫楽も、これを引き止める力はありません。
三十郎は真に韋駄天の如く駆けました、小日向から鈴ヶ森、ざっと四里、それをたった一刻の間に飛んで、刑場近くなった頃はもう綿の如く疲れ抜いて居りました。
性も根も尽き果てて、幾度か往来へ引っ繰り返りそうになると、此の間から耳について離れない祈りと歌の声が、大気を鳴らして、「サンクトス・ドミヌス・デウス──」といとも美妙に聞えて参ります。
それで漸く辿り付いて、刑場の見物を掻き分け、
「身寄の者で御座る──一目逢い度い、通して下され」
竹矢来に飛び付いた時は、非人の槍が二本、
「アリャ、リャン」
両方から突き出されて、お夏の胸に白々と交叉した時でした。
磔柱の上のお夏の目隠しは、あるまじき事ではあるが、何うした機みか、此の時バラリと解けて落ちました。
アッ。眼に入ったものは、胸に交叉した槍の穂ではなくて、矢来の外へ息せき切って飛び付いた夫三十郎の悔悟と失望に歪んだ顔でした。
「お夏」延び上る三十郎、
「あ、到頭帰られた、私は嬉しい、マリヤ様のお蔭で──サンクトス・ドミヌス──」
お夏の頬には、始めて血潮が美しく上りました。同時に槍はサッと引かれて、もう一度突き出すと、槍の穂はお夏の両脇から肩へ抜けて、白無垢の上へ流れる血潮──万事は終ってしまいました。
「お夏、許せ、お夏」
江柄三十郎は、武士姿も恥じず、竹矢来に縋り付いたまま男泣きに泣き入りました。
動揺み打つ群衆、
睦月の風はサッと腥く吹いて過ぎます。
× ×
私の話はこれで終りました。
江柄三十郎は其の儘諸国行脚の旅に上りましたが、頭を円めて、腰衣を着けて居るのに、口吟んで居るのは、妻のお夏の末期に称えた切支丹の祈りの歌だったということです。
梅仙女はそれっ切り行方がわかりません。八百歳の妖女が千歳まで生きないという法はありませんから、何うかしたらまだ此の世に生きて居るのかもわかりません。美し過ぎる女を見たらお互に用心することです。近頃の人は常識にこだわり過ぎて、こんな話を信じられないかも知れません。が、私は証拠をいくらでも用意して居ります。お望みとあらばお目にかけましょう」
斯う言って江柄三平はピョイとお辞儀をしました。
底本:「奇談クラブ(全)」桃源社
1969(昭和44)年10月20日発行
初出:「朝日」博文館
1931(昭和6)年1月号
※「あっ」と「あッ」の混在は、底本通りです。
入力:門田裕志
校正:江村秀之
2019年3月29日作成
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