平の将門
吉川英治
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原始のすがたから、徐々に、人間のすむ大地へ。
坂東平野は、いま、大きく、移りかけていた。
──ために、太古からの自然も、ようやく、あちこち、痍だらけになり、まぬがれぬ脱皮を、苦悶するように、この大平原を遠く繞る、富士も浅間も那須ヶ岳も、硫黄色の煙を常に噴いていた。
たとえば、茲にある一個の人間の子、相馬の小次郎なども、そうした〝地の顔〟と〝天の気〟とを一塊の肉に宿して生れ出たような童だった。
年は、ことし十四ぐらい。
かた肥りの、猪肉で、野葡萄のような瞳をもち、頬はてかてか赤く、髪はいつも、玉蜀黍の毛みたいに、結び放しときまっていた。全身、どこともなく、陽なた臭いような、土臭いような、一種の精気を分泌している。
だが、今年になってから、その童臭も、黒い瞳も、どこか、ぼやっと、溌剌を欠いていた。痴呆性にすらそれが見えるほど、ぼやけていた。
父の死後。家に飼っている女奴(奴婢)の蝦夷萩と、急に親しくなって、先頃も、昼間、柵の馬糧倉の中へ、ふたりきりで隠れこんでいたのを、意地のわるい叔父の郎党に見つけられ、
「御子が、蝦夷の娘と、馬糧倉の中で、昼間から、歌垣のように、交くわりしておられた。──相手もあろうによ、女奴と」
と、一大事のように、吹聴された事件があった。どうしてか、後見の叔父たちは、小次郎には、何もいわなかったが、女奴の蝦夷萩は、きびしい仕置にあい、大勢のまえで、鞭で三十も四十も打ちすえられた。
それきり、女奴の蝦夷萩は、小次郎のまえに、一度も、姿を見せなくなった。小次郎もまた、以後はよけいに、家に在る大叔父や小い叔父に対して、気うとい風を示して近づかなかったし、大勢の家人や奴婢たちにも、なんとなく、顔を見られるような卑屈を抱いているのだろう。この頃は、ほとんど、屋敷の曲輪うちには、いなかった。ひまさえあれば、その住居から一里半も離れている──この〝大結ノ牧〟へ来て、馬と遊んでいるか、さもなければ、丘の一つの上に坐りこんで、ぼやっと、行く雲を、見ているのだった。
ここの牧は、坂東平野のうちでも、最も大きな、広い牧場だと、いってよい。
わが家には、こんな牧が、所領の内に、四ヵ所もある。
馬は、土地につぐ財産だ。都へ曳いて行けば、争って人は求めたがるし、地方でも、良馬は、いつでも砂金とひき換えができる。
その馬が、わが家には、こんなにもいるのだ。
下総、上総、常陸、下野、武蔵──と見わたしても、これほどな馬数と、また、豊かな墾田と、さらに、まだまだ無限な開拓をまつ広大な処女地とを、領有している豪族といっては、そうたくさんは、あるものじゃない。
「──いいか、おまえは、その跡目をつぐ、総領息子であるのだぞ」
と、死んだ父の良持が、生前、よくいっていたことばを、相馬の小次郎は、ここへ来ると思い出した。牧の丘に、坐りこんで、ぽかんと、父の声の、あの日この日を思い出しているのが、なにかしら、楽しみでもあったのだ。
そんな時。──行く雲を見るともなく見ている眼から、急に、ぽろぽろと、涙を奔らせ、鼻みずを垂らし、しまいには、顔をくしゃくしゃにして、独り、声をあげて、泣き出してしまうことがあった。
ここでは、いくら泣いていても、なだめてもなし、怪訝る者もいなかった。彼は、自然に泣きおさまるまで、自分を泣かせて、やがて、嗚咽が止まると、忘れたように、けろりと、太陽に顔を乾かしている。
「御子……。御子うっ」
たれか、遠くで、彼をよんだ。
馬舎働きの男が、丘の下から、手招ぎしていた。飯時を告げるのであった。小次郎は、首を振って見せた。
「おらあ、食わねえよ。食いとうねえだ、晩に食う」
男が、なお執こく、くり返して、すすめると、彼は、やにわに、石を拾って、抛りつけた。
「ばかっ。そんなに、食わせたけれや、烏にくれてやれ」
石は、男を外れて、罪もない仔馬にあたった。男は、馬房の方へすッ飛んで行き、仔馬も、沢へ、奔り降りた。
牧の中には、こんな丘が、幾つもある。そして、沢の水を飲んでいる馬、横になって眠っている馬、草を泳いでゆく仔馬の群など──眼をやるところに、馬の影が見られる。
けれど、去年の暮、父の良持が死んでから後は、急に、馬の数が減っていた。
父の家人で、いまも牧の管理をしている御厨の浦人は、その事について、ある折、
「御子。──馬ばかりではありませんぞ。御本屋の、穀倉の物、弓倉の中の物、そのほか数ある土倉のうちに、どれほどな物が残っていましょう。……大きな声ではいえませんが、御後見の叔父方が、みな、自分たちの所領の地へ、こそこそ運ばせてしまわれたのでございます。……ええ、馬もです。決して馬盗人の所業ではありません。浦人が、この目で見ておるところです。けれど、あの三叔父の権威にたいして、私などは、顔いろにも出せません。出せば、一日も、この牧にとどまる事はできないので」
と、小次郎の耳へ、さも、深刻そうに、囁いたりしたこともある。だが、小次郎には、深刻でもなんでもなかった。牧の馬数が、目に見えて、減ってゆくのは、親しい友達が去ッてゆくに似た哀愁にはちがいなかったが、倉の中の物などは、あろうと、失くなろうと、彼にとっては、頭にもない問題だった。
ただ、子ども心にも、深く彫りこまれていたものは、父の死と同時に、常陸や下総や上総など、それぞれの居住地から、彼の家へ乗りこんできた叔父たちであった。
大叔父というのは、父の良持の兄にあたる人で、常陸の大掾、国香といい、これがいちばん威張っている。
そのほか、良持の弟、良兼、良正のふたりも、後見人として、のべつ来ていた。
小次郎の父良持が擁していた広大な土の支配は、この三叔父が、すべて指図し始めた。たくさんな家人も、奴婢も、みな、その三名を、新しい主人とも仰ぎ、陰口一ツさえ、怖れあった。
これを、不当なかたちと、見る者はなかった。なぜならば、小次郎の父良持が、息をひく寸前に、親類、家の子など、大勢を枕もとにおいて、親しく、国香、良兼、良正の三名へ、こう遺言して逝った事実があるからである。
「わしに、七人の子はあるが、総領の小次郎とて、まだ幼い。わしが拓り開いたこの地方の田産や、諸所にある伝来の荘園(官給地)は、お身たちが、管理して、小次郎が成人の後は、牧の馬や、奴婢などと一しょに、そッくり、還してやってくれい。それだけが、気がかりなのだ。……たのむ」
かくれもない事なので、御厨の浦人が、何度もいって聞かせるまでもなく、小次郎もよく知っている。そしてその事に、彼はなんの不平もない。
彼が彼らしい童心の溌剌を急に削がれたのは、決して、そのような物質でもなく、蝦夷萩との、恋でもない。ただなんとなく、生れたわが家が冷たくなり、屋敷曲輪のどこにいるのも嫌で、この丘に坐っているのが、一番いい、ということだけのようであった。
良持が、遺言に、所領の土や馬などと一しょに、奴婢までを、遺産にかぞえているのは、おかしく聞えるが、当時の世代では、まちがいなく、奴婢奴僕も、個人所有の、重要な財産のひとつであった。
後の将門、相馬の小次郎が、十四歳頃の世は、史家の推定で、延喜十六年といわれている。
西暦で九一六年。指を繰れば、今日から一千三十四年前になる。
千年は、宇宙の一瞬でしかない。──が、人間の社会にとっては、こんなにも、観念がちがう。
奴婢といい、奴僕というも、女を女奴とよび、男を男奴とよぶ、それは同じ奴隷にすぎなかった。奴隷制度が、まだあったのである。
どんな苛酷な使役にも、貞操にも、衣食の供与にも、身体の移動にも、絶対に自分で意志の自由を持ち得ない約束の人間が、この国の地上には、まだ全人口の三分の二以上もいた。
それらの無数な生命の一個が死ぬまでの価としては、稲何百束とか、銭何貫文とか、都の栄華のなかに住む女性たちが、一匹の白絹を、紅花で染める衣の染代にも足らない値段だった。いや、牧の馬よりも、人間の方が、はるかに、下値ですらあった。
人買いは、東北地方から、野生の労働力をあつめて、近畿や都へ売りこみ、都の貧しい巷から美少女を買って帰ると、これは、すばらしく、高値を吹いた。
市に出して、物と換えることもでき、質に入れることもできた。
だから、奴婢、奴僕、小者などと呼ぶ者を、数多に抱えている主人は、これを当然、財物と見、その身売り証券は、死に際の目で見ても、大きな遺産だったにちがいない。
小次郎の父、良持などは、それの主人として、坂東八州のうちでも、尤なる者のひとりだった。
かれの家は、この未開坂東の一端に根を下ろしてから、五代になる。
──桓武天皇──葛原親王──高見王──平高望──平良持──そして今の相馬の小次郎。
系図は、正しく、帝系を汲んでいるが、そのあいだに、蝦夷の女の血も、濃く、交じったであろうことは、いうまでもない。
また、帝系的な都の血液と、アイヌ種族の野生の血液とが、次のものを、生み生みしてゆけば、母系の野生が、著しく、退化種族の長を再現して、一種の中和種族とも呼べるような、性情、骨相をもって生れてくることは、遺伝の自然でもあった。
だから、小次郎の親の良持はすでに、その顴骨や、頤の頑固さ、髯、髪の質までが、都の人種とは異っていた。
性情もちがい、処世の考え方も、良持の代になって、ちがって来た。
良持は、先祖からの、官途の職をすてて、土に仕えた。喰うて、税を納めて、余りあるほどな、前からの荘園もあったが、なお多くの奴婢、奴僕、田丁を使役し、上に、家人等の監督をおいて、限りない未開の原始林を伐り拓き、火田を殖やし、沼を埋め、丘を刈り、たちまちにして、野の王者となった。
荘園では、いやでも、課税の対象にされるが、朝廷の墾田帳にも、大張使の税簿にもない未開田は、督税使がやかましくいっても、なんとでも、ごまかせた。
こうして、彼が一代に作った田産と、豊田郡の一丘を卜して建てた柵、本屋しき、物倉、外曲輪などの宏大な住居は、親類中の羨望の的であった。
「常陸の兄も、上総の弟共も、おれを羨むというが、どうだおれの一生仕事は。──百姓でも、大百姓なら、これで結構。国司でも、郡司でも、おれのまねは、よも出来まい。──その下の、守でも、介でも、掾でも、目でも、みんなおれにお世辞をいってくるではないか」
いま、中央では、藤原氏か、藤原姓の端ッくれにでも、縁のつながる者でなければ、人間仲間ではないようにいわれている時の下に──地上の一方に、良持は、そんな豪語を含んで生き、そして間もなく、死んで行ったのであった。
だが、ことし十四の小次郎には、亡父が遺した何一つとて、さほどの物には、見えなかった。
強いて、その中で、彼に役立ったものといえば、アイヌ娘の蝦夷萩が、叔父たちの眼をしのんでは、着る物、喰う物などに、あたたかな愛情を寄せ、
「可哀そうな御子。……御子は、かわいそうなお生れね」
と、自分が、奴隷というあわれな宿命なのをも思わず、しまいには、唇をも、肌をも、惜しみなく与えてくれた──彼女以外には、何もない。
北武蔵から、秩父、上野へわたる長い連山の影が、落日の果てに、紫ばんで、暮れてゆく。
小次郎は、まだ、丘にいた。
曠野は、春の三月だった。
土もあらく、風もあらく、水の質もあらく、それと等しく、人間もあらあらとして、野生のままな坂東の天地であったが、さすがに、春の夕ぐれは、余りにともいいたいほど、何事もない。なんのうごき一つもない。
目に見えないほどずつ、陽が沈み、雲の色相が、変ってゆくだけだ。
「御子っ。そんな所に、何して、ござらッしゃる。はよう、おいでなされ、身どもと、一しょに」
また、誰か、呼びに来た。
いずれ、馬舎の馬丁か、浦人の小者かであろうと思い、小次郎は、
「おらあ、行かぬぞ。飯も食いとうない。こん夜は、馬と寝る」
と、ふり向きもせず、いった。
すると、下の影は、丘へ駈け上ッてきた。──手こずらす童よと、口叱言をいうのが聞え、同時に、小次郎の腕は、抜けるほど、力づよく、引ッ張られていた。
「御子っ、なにをいい召さるッ。そんな悪たいばかり申さるる故、叔父御たちからも、忌まるるのじゃ。大掾さまの、召さるるに、来んという答えが、あろうかやい」
「うるせえッ」と小次郎は、突ッ放して、「そうなら、そうと吐かせば、おらだって、歩ばぬと、いうかやい」
ぷんぷんと、面ふくらせて、先に、歩き出した。しかし、嫌で嫌で堪らない気がするとみえ、眼は、ぼたぼた、涙をたらしていた。
その晩、彼は、大叔父の腹心らしい家臣から、一つの急用を、命じられた。大叔父の国香や、小い叔父たちが、奥で酒もりしているらしい間にである。
「明日、柵の厩の栗毛を曳いて、横山ノ牧へ、行てくだされ。こちらの牝馬の栗毛へ、横山の名馬と評判のたかい牡馬のタネを、もろうて来るのじゃ。タネ付け料も、絹や稲などで、先に払うてあるし、仲介ちの者から、この一月、とうに話もついておること。いまは、春蚕を飼うので、手もない時故、御子ひとりで、行てくだされ。行けぬことは、あるまいがの」
小次郎はむしろ、よろこんだ。幾日かの解放をゆるされたように、いそいそして、母屋から遠くの屋で、独りぼッち、眠った。
すると、真夜中に、蝦夷萩が忍んできて、彼を、ゆり起した。
奴婢長屋は、曲輪の遠い隅ッこで、晩には、逃げないように、空壕の橋は、外される。それに高い柵もあるのに、どうして来たのかと、小次郎は、目をまろくした。
「御子は、あした、横山ノ牧へ、行くんでしょう。そしたら、途中の武蔵野で、殺されますよ。わたしは、叔父御さまたちが、密談しているのを、床下で聞いていた……」
彼女は、一心に、小次郎を想っている。小次郎は、かの女が告げた恐ろしさより、べつなものに襲われた。すぐ取って喰べてしまいたいような衝動に駆られ、アイヌ族の特有な梨の花みたいな肌をすぐ頭にえがいた。
「……ね。ですから、ここは出ても、遠くへ行くのは、およしなさい。武蔵野は通ってはいけませんよ」
蝦夷萩は、それだけ告げると、暗い床むしろを、後退りに、出て行きかけた。
──と、小次郎の鼻に、彼女が日ごろ髪につけている猪油のにおいが、ぷうんと触れてきた。彼の影は、それを嗅ぐと、動物的に、跳びついて、香うものの焦点へ、ごしごし顔をこすりつけた。蝦夷萩は、鼻腔からひくい呻きに似た息を発し、身を仰向けに転ばして、嬉々と、十四の少年が、なすままに、まかせていた。
まだ、人間たちの間には、人間の自覚すら、ほとんど、稀薄な時代であったから、わずかに、夫婦の制度とか、妾の認知とかいう──本能と愛憎と専有欲を基とした、ごく単純な社会約束はあっても、男女生活の、多岐多角なすがたには、なんの思考も持たれてはいなかった。──恋愛はしても、恋愛の自覚はないのだ。原始的なしきたりのまま、肉の意志のまま、振舞うことが、人間として出来る何でもない行為の一つというに過ぎない。
都人の風習は、上下一般に、早婚だった。男は十二、三歳から十五、六歳までに、女は九歳から十二、三歳といえばもう嫁いだ。放ッておいても、小さい彼氏や彼女たちは、童戯のように、肉体の交じわりも、卒業してしまうからである。それは、大人のまねでもあった。男女の大人たちは、その事をそう秘密に、不自由に、恟々として、行ってはいない。いくらでも、童女童子たちは、それを見ることができる。見ればまねするし、まねすれば、喜悦であるし、習性づいてくれば、肉体も性情も、自然の状態に従ってくる。
宮廷の人々から、一般の都人さえそうだから、この坂東地方などは、原始人時代の男女間から、まだいくらも自覚の男女に近づいてはいない。掠奪結婚も、折々あるし、恋愛争奪戦争に、家人奴僕を武装させ、鏃を射つくし、矛に血を飛沫かす場合も稀ではない。
筑波の歌垣のように、夜もすがらの神前で、かがりも焚かず、他の人妻と他の人夫が、闇の香を、まさぐり合う祭りに似た風習など、この豊田郡、相馬郡の辺りにも、広く行われていた。
蝦夷萩は、十六だったから、奴隷仲間で、ただ措かれているはずはないし、二ツ下の小次郎とて、決して、彼女との馬糧倉が、初めてだったわけではない。
厩は、牧のほかにも、本屋の曲輪を中心として、小さいのが、諸所にあった。いつでも、戦に応じられるように、鞍を備え、弓倉や矛倉の近くにあり、それらを柵の厩とよんでいた。
この栗毛は、迅いぞ、矢風や矛の光にも、たじろいだ事はない。名馬の相があるぞ、仔種を絶やすな──と、父の良持が、十年の余も愛乗していた牝馬の背に、小次郎は、なんの感傷もなく乗った。
鞍には、旅の食糧やら、雨具やら、郡司の吏に咎められた時に示す戸籍の券やら、一束の弓矢をも結いつけて、豊田の館を出るとすぐの坂道へ、意気揚々と、降りて行った。
どこかで、蝦夷萩の顔が、自分を見送っているような気がしたが、振向いても、仰いでも、行くてに展けた桑畑をながめても、どこにも見えない。
──殺されますよ。武蔵野を通ると。
と、あんなに熱い息でささやかれたのに、彼の頭には、自分の死が、ちっとも、考え出されて来なかった。水々しい果物のような乳くびだの、すこし縮れている猪油の黒髪だの、キリキリと前歯をきしませたあの時の唇もとだの、そんなものしか脳膜に写って来ない。
沼、川、また沼、葦の湿地。曠野の道でいやなものは、水だった。下総の猿島から、武蔵の葛飾、埼玉、足立の方角をとって歩こうとすれば、大河や小さい河は、縦横無尽といっていい。坂東太郎と敬称する大利根の動脈を中心として、水は静脈のように流れているというよりは、この大陸を、暴れまわっているといった方が実際の相に近かった。
「おうい。豊田の童、どこへ、おじゃる?」
旅の二日目。
小次郎は、誰やらに、呼びとめられた。
彼は、うしろの人を見かけると、彼らしくもなく、あわてて馬を降りた。お辞儀もした。
「景行さまで、ございましたか」
「和子。ただ一人で、どこへ行く」
「大叔父のいいつけで、この栗毛を、タネ付けに持って行きます」
「どこの牧への」
「横山ノ牧まで」
「え、横山へ。和子ひとりでか」
「はあ」
景行も、馬上だった。うしろには七、八名の従者をつれていた。……不愍なと、小次郎を見るように、しげしげと、馬の背からながめていたが、
「横山とは、遠すぎる。もう甲斐に近い笹子山のてまえになる。わしは比企の郡司の庁まで行くところだから、あの近くの菅生ノ牧で、良い馬に、種付けしてもらうがいい」
「叱られます。叔父御たちに」
「庁から、横山ノ牧の者へ、ほどよく、口をあわしておくように、使いを出しておいてやる。大掾の国香どのへは、知れぬようにしてやるから、わしの供に、交じって来い」
「はい。じゃあ、そうします」
菅原景行は、尊敬している人だった。彼にとって、どういう印象があるわけでもなかったが、亡父の良持が、賞めていた人だからである。その亡父のはなしでは、この人は、今でこそ、こんな田舎へ落ちて来て常陸の大掾国香よりも低い身分の地方吏を勤めているが、ほんとは、朝廷で、右大臣にまで昇り、学問では、諸博士でも及ぶ者がなかった。菅原道真公の、三番目の実子だということだった。
菅公の名は、こんな遠い地方でも、知らない者はなかった。今から十三年前、筑紫の配所で死んで以来、なぜなのか、神格化されて、崇めねば、むしろ恐ろしいもののように、鳴りとどろいている。
筑波山の麓には、わずかな菅家の荘園があった。景行は、父の遺骨をもって、筑波のふもとに祀り、そのまま、住みついて、地方官吏の余生を送っている者だという。
一時、もっぱらいわれた郷の噂も、小次郎は、うろ覚えに、記憶していた。──そういうものが、漠然と、かれの敬礼になり、かれの言葉つきまでを、ていねいにさせたのだった。
景行としては、小次郎の旅行を、はて、おかしいがと、すぐに、疑われたものがあったのである。良持の死後、豊田の館にはいりこんで、後見している三名の叔父たちが、なにを、意図しているか、察し難いことではない。殊に自分の上官ではあるが、大掾の平国香なる人物が、どんな性格かということは、吏務のうえからも、よく分っている。
「わしに出会って、おまえは、命びろいをしているのだぞ」
景行は、それとなく、小次郎にいいきかせ、菅生ノ牧まで連れて行って、そこでも、
「わしは、これから公用で、比企の庁へ行って、故郷へ帰るが、おまえは、良持どのの総領、殊に帝系の家の御子なのだから、身を、大事にせねばいかんよ。いいかね」
と、くれぐれも、諭した。
「ええ。……うん。……うん」
小次郎は、幾度も頷いた。だが、どの程度、呑みこめたのかは疑問である。彼と別れた翌日、ここの御厨の下司が、彼の持って来た栗毛の牝と、秘蔵のたね馬とを、契け合せると、小次郎は、我をわすれて眺め入り、終るまで、一語も発せず、満身を、血ぶくろみたいに、熱くして見入っていた。
牧で、幾日かを遊び、横山へ行ったほど日数をわざとおいて、彼は、なに食わぬ顔で、豊田の館の本屋へ帰った。
「……汝れは、たしかに、横山へ行ったのか」
大叔父も、小い叔父も、こぞって、変な顔をした。御苦労とも、いわなかった。
常陸笠間の北方の山岳で、つねに、平野の豪族たちに反抗している蝦夷ばかりの柵の者が、乱を起したという早馬が来、国香、良正たちは、それから九十日ほど、見えなかった。
翌年の春にも、秋にも、同じ乱が多かった。
叔父どもが、多忙だと、小次郎は、羽を伸ばした。しきりに、蝦夷萩と会う機会にも、めぐまれた。家人たちは、彼女の血を賤しむが、彼には、なんの区別もない。当然、その真実に彼女の熟れた肉体も盲目になった。蝦夷萩は、奴婢曲輪から、危険な空壕を這いわたり、高い柵を、跳躍して、真夜中になると忍んで来た。生命を賭していることは、小次郎の鈍な神経にもわかった。彼女の肌に烙かれては、思い知らさずにおられない。
だが、その年の冬の一夜──。いや、夜は明けて、霜にまッ白な凍地の朝だ。
空壕の底に落ちて、烏の死骸みたいに死んでいた少女がある。蝦夷萩であった。
「小次郎。見て来い」
小い叔父に突きのめされて、小次郎は、ぜひなく覗きに行った。崖際から、矛を逆さに植えたような氷柱の簾の下に、一片の雑巾みたいなものが見えた。彼は、顔まで、鳥肌になり、唇のふるえを噛んだまま、その足で、大結ノ牧の方へ、奔馬みたいに、逃げて行った。
正月も、牧の馬と一しょに、馬房の藁の上で寝た。
彼には、人間の家よりは、馬の仲間のほうが、あたたかだった。
二月である。大掾の国香は、館の奥で、毛皮の上に坐りこみ、良兼、良正の両叔父をも、左右において、小次郎へいい渡した。
「都へ、遊学に行け。人間らしくなるように、学んで来い」
小次郎は、むッそり、口をむすんでいた。不服と、とったものか、小い叔父まで、声をいかつくして、
「なんだ、貴様は。桓武天皇からの血を辱めやがって、蝦夷の奴婢と、交くわるなどとは、あきれた呆痴者だ。──死んだ、兄者人にも、相すまぬ。家のため、貴様のため、都へ出て、勉強して来い。立派に、成人して、人らしくなるまで、帰って来ても、家には入れぬぞ」
ただちに、旅費の砂金、少しと、旅装一通りと、そして、一通の書状とが、小次郎の眼のまえに置かれた。
いやも応もない。小次郎は、それを持って、退がりかけた。
「待て待て」と、国香がよびとめた。「──その書状を、途中で、失くすまいぞよ。時の右大臣、藤原忠平公へ、特に、お召使いおき下されと、わしからのお願いの状じゃぞ。よいか、幾年でも、辛抱して、汝れの亡父良持へ、わしらが顔向けのなるように、一かどの男になって帰れよ」
この頃は、この三叔父の腹のなかは、小次郎にでも、すこし読めている。小次郎は、憎まれ口でも叩きたかったが、京都へ放たれることは、意外な歓びだったので、それをいう余裕もない。
一人の野の自然児は、こうして、家郷千里の想いもする京都への初旅を、いそいそ西へ向って立った。延喜十八年。小次郎が十六歳の春である。
叔父どもは、あれほどある一頭の馬もくれなかった。けれど彼は、なんの不平も思わず歩いた。武蔵野の端から端へ出るまでを、三日も四日もかかって歩いた。人の通った跡さえ辿れば、夜々の泊りの草屋にも困らなかった。
近々と、富士を仰いだ日、かれは感激に燃えた。都へ出たら、勉強せよ、えらくなれよと、富士の噴煙に、いわれる気がした。
富士は、近年、また鳴動を起し、さかんに、噴煙をあげていた。そして、風向きにより、武蔵野の草も白くなるほど、灰を降らした。小次郎は、髪の毛の根に溜った灰を、爪で掻いて、不思議なものを見るように見つめた。
東海の汀に出れば、塩焼く小屋や、漁師の生活も、もう下総の辺りとは、文化のちがうここちがした。駿河路となれば、見た事もない町があり、寺院がある。そして、夜となれば、富士のけむりは、炎の華とも見え、海も燃ゆるかとばかり美しい。
平安の都は、これ以上、美しいにちがいない。道ゆく人々は、どんなに気高いだろうか。まだ童形を持つ彼の野性は、人のはなしだけに知っている藤原氏全盛の宮廷や巷を予想して、もうそこへ立ち交じる日の羞恥にすら、動悸していた。
延喜十八年の晩春の一日。相馬の小次郎は、生国の下総から、五十余日を費やして、やっと、京都のすぐてまえの、逢坂山まで、たどりついた。
「そこの、低い山を越えれば、もう眼の下が平安の都だよ」
志賀寺の下で、そう教えられ、彼は、胸ふくらませて、西の視野の展けるまで、汗の顔を真ッすぐに持ったまま、長い登りを、登りつめた。
「……ああ」
と、やがて彼は、胆を天外にとばしたように、茫然と、また恍惚たる面もちで立ちすくんだ。
未知の世界に寄せて来た彼のつよい憧憬は、想像以上な地上の展開に酬いられた。紫ばんだ山々のゆるやかな線にかこまれた広い盆地一帯の事物がすべてただならぬ光彩をおびているように、彼には見えた。街をつらぬいている加茂川も、ただの水が流れているただの川とは思えなかった。かつて寺院の奥で拝んだことのある〝浄土曼陀羅図〟そのままな国が此世にもあったのかと思う。
「ああ。……都へ来た。……都だ」
感涙しやすい少年の純真は、いつか頬をぬらしていた。自分も、今日からは、都人のうちに立ち交じり、あの荘厳な社会の中に生きるのだとする感動の顫えだった。そして、飽くことなく、驚異の視界に眼をやっていた。
東西一里五町、南北一里十二町といわれたその頃の平安の都府は、真珠末を刷いたような昼霞の底に一望された。市街の中央部には、遠くからでも明らかに皇居の大内裏十二門の一劃とわかる官衙殿堂が、孔雀色の甍や丹塗の門廊とおぼしき耀きを放ッて、一大聚落をなしており、朱雀、大宮などを始め、一条から九条までの大路や、横縦三十二筋の道路は、碁盤目のように、市坊を区ぎって整然と見えた。また、それらの辻や溝の辺のものであろう、所々は、柳、桜に染められて、実にや、万葉の詞藻を継いで、古今の調べを詠み競う人たちの屋根は、ここにこそあるべきはず──と、ここに立つ旅人はみな一様に感じあうに違いない。
ましてや、坂東平野の未開土に生れ、朝に那須や浅間の噴煙を見、昼は、牧の野馬を友として育ち、あらい土、あらい風、あらあらした人間たちばかりの中に、およそ文化らしいものの匂いも知らず、十六歳の肉塊となってきた相馬の小次郎が、ここも同じ人間のすむ地上かと忘我のあやしみに打たれたのも無理はなかった。
「和子は、どこの和子やの。どこから来て、どこへ、おじゃるかえ」
ふと、誰かに、こういわれ、彼は、ようやく、われに返った。
尼すがたの、中年女である。やはり同じ長い坂道を登って来たものとみえ、腰を立てて、彼のすぐそばに休んでいた。
孤愁の少年は、すぐその尼の親しさに馴れた。そして、はるばる東国下総から来たことだの、これから大叔父の添え書を持って、藤原忠平公のお館をたずね、成人の日まで留まって、学問修養に専念し、一かどになって帰国するつもりであるなどと、遠い未来夢までを話し話し、道づれになって、いつか、京都の街なかを歩いていた。
「まだかい。忠平公のお住居は。──小母さんは、ほんとに、お館のある所を、知ってるんだろうね」
小次郎は、やや不安になって、尼にたずねた。
「ああ。心配おしでない。そこの御門前まで、連れて行ってあげる」
尼は、初めに、約束したとおり、平然として、うなずいた。
けれど、田舎者の小次郎にも、同じ道を二度も歩いたり、いちど曲がった辻へまた出て来たりすれば、疑わずにいられなくなる。
尼は、よくしゃべった。「和子がこれから訪ねてゆく右大臣家は、小一条のお館だけれど、九条にも御別荘があるし、河原の石水亭も、お住居のひとつなんだよ。そのうちの、どこへ行くがいちばんいいか、私は、ひとに親切をかけるにも、親切を尽さないと、気のすまない性質だから、かえって、迷い迷い歩いてしまったのだよ」──そしてまた、いいつづけた。「和子よ。この辺で、ひと休みしよう。もう御門前も近いけれど、第一、おまえ、右大臣家をお訪ねするのに、そんな、さんばら髪をして行っては、笑われてしまう……」
ほんとに、親切な尼であると思い、小次郎は、彼女のいうなりに、腰をおろして、辺りに見とれた。なんという寺院か知らないが、山門があり堂閣がそばだち、五重の塔の腰をつつんだ一朶の桜が満地を落花の斑に染めている。ただ心ぼそいのは、夕闇の陰影が、自分の影にも、濃くなりかけていたことだった。
「ねえ、和子……」と、並んで足を休めると、尼はすぐいい出した。「おまえが、背に負っている旅包みは、膨らんで見えるが、きっと、まだ食べないお弁当がはいっているのじゃないか。そうだったら、尼のお駄賃に、その弁当を私におくれよ。実をいうと、私は、お腹がへって、もう、ひと足も歩けないんだから」
いともあわれに手を出して乞うのである。
道理で、この尼は、初めから自分の旅包みにばかり眼をそそいでいたことよ、と小次郎も今にして、思いあわせた。それを解いて、食べたかったことは、彼の空腹も変りなかったが、連れの尼にたいして、むしろ我慢して来たところだった。で、彼はさっそく旅包みからそれを出して、尼の手に渡した。
尼は、礼もいわずに、食べはじめた。もとより今朝、木賃でこしらえてくれた貧しい粳の柏巻きが幾ツかあったにすぎないが、尼はその竹の皮づつみを膝へ抱きこんで、黄色い歯をむき出しに、がつがつ食べた。爪の伸びた、汚い指の股にくッついた一粒まで、うまそうに舌で甜め取っては、すぐ次のを食べにかかり、ついに、小次郎には、一つもくれずに、みな食ってしまった。
「寺の者に、湯など乞うて、ひと口、飲んで来るほどにな。和子は、ここで待って給もよ」
尼は、立ち去った。
それきり尼の影は見えず、辺りは暗くなった。彼は待ちくたびれて、体をもてあました。するとさっきから焚火の光が赤々とうごいていた御堂裏のほうから大きな男がのそのそ歩いて来た。そして小次郎の前で小鼻をクンクン鳴らし、そのヒゲ面を突きつけていった。
「おい、旅の童。汝れの体は、いまの乞食尼から、おれが買ってやったぞ。てめえは、倖せなやつだよ。おれが買ってやらなければ、いずれは遠国の奴隷買いに渡されるにきまっている。だが、こっちは、欲ばり尼に、うんと欲ばられ、これ、このとおり、薄着になってしまったぞ。さあ来い、童、こっちへ来い」
御堂裏の焚火には、なお七人ばかりの男どもがいた。猥雑な声で何やらげらげら語りあい、みな獰猛な眼と、そして矛、野太刀などの兇器を持ち、まるで赤鬼のような顔をそろえて、居ぎたなく、炎のまわりに、寝まろんでいるのだった。
「どうだ、みんな、この童は、拾い物だろうが」
小次郎の腕をつかんで連れて来た男は、仲間の者と思われる男共を見くだして、大自慢で、こういった。
「何たッて、黒谷の欲ばり尼が相手だから、安いものしろじゃ、換えッこねえ。玄米一提げに、おれの胴着一枚よこせと、吹ッかけやがったが、値打は、たっぷりと見て、買うてやった。……どうだ、この童は」
むくむくと、みな起き出して、小次郎の顔を見、装いを見、全姿を、ジロジロ眼で撫でまわして、
「安い。これやあ、安いものだぞ」と、ひとりがいえば、他の者も、安い安いといい囃して、口々に罵った。
「なんだ、それじゃあ、たった今、黒谷の尼と、物蔭で耳こすりしていたのは、その取引だったのか」
「童の着けている狩衣と太刀だけでも、物代以上の値はふめる」
「ふてえ奴。ひとり儲けは、よくねえぞ。おれたち八坂組の掟をやぶるものだ」
「酒を買えやい」
「そうだ。やい、不死人。酒を買うて、みなに振舞え。さもなくば、八坂組の仲間掟は要らぬことになる」
仲間といい、組という。一体、これはどういう類の徒党なのであろうか。もとより小次郎に、理解の力はあり得ない。彼は夢みるような顔して、ここの不思議な焔の色と、不思議な男共の会話のなかに、ぽかんと、ただ身を置いているだけだった。多少、途方に暮れた容子は見せたが、一身の不安などとは少しも感じていないらしかった。
相馬の小次郎が、昼、初めて、逢坂山の高所から眺め知った平安の都は、決して、彼の幻覚ではない。王朝設計による人間楽土の顕現であり、世に謳わるる藤原文化の地上にほこる実在のすがたであった事にまちがいはない。
けれど一歩、その市中に、足をふみ入れてみたときは、余りにも、表裏のちがいの甚だしいのに、その頃の旅行者とても、みな意外な思いをなしたことであろう。
いったい、飛鳥、奈良などの時世を経、ここに遷都した初めに、その規模や企画も、唐朝大陸の風をまねるに急で、およそ、現実の国力とは不相応な、ただ広大な理想にばかり偏しすぎたきらいがある。
──というよりも、貴族たちが、貴族たちだけの生活設計と、繁栄の意図のもとに創案して、零細な庶民の生態と、大きな力の作用などは、考慮にいれなかったものといったほうが早い。
だから、年をふるに従って、平安の都なるものは、実にへんてこな発展を描いてきた。
たとえば、宮門や太政官、八省などの建物とその地域は、華美壮麗なこと、隋唐の絵画にでも見るようであったが、そこを中心とする碁盤目の道すじをすこし離れると、もう泥濘は、言語に絶し、乾けば、牛の糞が、埃だち、そして左京の四分の一、右京はなお全区の三分の一強が、田であり、畑であり、湿地であり、ふしだらな小川であり、草茫々たる空閑地であり、古池であり、森であり、また、見るもみじめな貧民たちの軒かたむいた板屋葺の長屋やほッたて小屋だった。いや、中にはまだ、穴居の習慣をもっている一部の極貧者すら、たくさんに住んでいた。
そういう地上に、また、突屼として、あちこちに、宏大な浄土の荘厳をほこっている堂塔伽藍の仏閣が散見できる。そこには、仏教渡来以来、宮中と廟堂に、牢として抜くべからざる根をもった僧侶たちが、依然、大きな生存範囲をかかえて、もう幾世紀にわたる特権の中にわがままを振舞ってきた。
「阿呆よ。何を拝むのだ」と、かれらにたいして、憤る者は、坊主の口まねを借りて、こういった。
「──釈尊は予言している。仏の教えも、功力の光をもち得るのは、せいぜい五々百歳にすぎず、正法千年、像法千年をすぎ、およそ二千年で、滅するであろう──と。あとは闘争腐敗の末法時代に入る──と明らかに現示しているではないか。かぞえてみると、延喜何年という今は、もう末法に入っているのだ。世は、寛平年代から、末世なのであり、今日の世のみだれも人間の堕落も、何のふしぎでもありはしない」
こういう声は、徐々に、巷に聞えだし、上流層も庶民も、ひと頃からみれば、よほど自己の信仰に、懐疑し出してはいたけれど、それでもなお、素朴なる知的水準にあるこの国の上では、およそ仏陀の鐘の音みたいに、無条件に衆を跪伏させてしまうほどな魅力あるものは、他になかった。
天智、天武、持統、聖武天皇などの歴世を通じて、仏教の興隆このかた、全国に創建された寺院の数はたいへんなものである。財も労も精も、国力の──それはみな下層民の汗と税によるものが──限りなく投じられてきたといっても過言ではない。
だが、その中枢の信仰者である王朝貴族たちは、自らの政治や私的生活の中に、その仏教を急激に腐敗堕落させる経路ばかりを追ってきた。藤原閥のここ一世紀余にわたる栄華と専横は、その歴史でもある。
それでも、大化の革新以後、藤原百川や良継たちの権臣が朝に立って、しきりに、土地改革を断行したり、制度の適正や、王道政治の長所を計ったりしていた短い期間は、どうにか、日本の曙光みたいな清新さが、庶民の色にも見えたが、やがて彼等の専横がつづき、皇室、後宮、みな藤原氏の血をいれて私にうごき、中央の官衙から地方官の主なる職まで、その系類でない者は、ほとんど、衣冠にありつけない時代がここ十年も続いた結果は──いまや世はあやしげなる両面社会を当然に持つにいたり──たまたま、相馬の小次郎が遭遇したような、柳桜の綾をなす文化の都と、百鬼夜行の闇の世とが、ひとつ地上に、どっちも、厳として、実在するような状態になった。
そして、そのどっちかに拠って生きている二つの群は、白と黒のように、極めて明瞭な生態別をもっていた。上流貴族階級と、貧民浮浪者層との、ふた色でしかなかった。
中流階級という層は、その頃まだ、日本には見あたらなかった。それらしき知性人や、無産文化人の極く少数が、いることはいても、それとてみな、ボロ衣冠をまとい、藤氏の権力下にある朝堂の八省に、名ばかりの出仕をするか、摂関、大臣家などに禄仕して、ほそぼそ生活を求めるしか、社会は、彼等を生かす機能も余地も持たなかった。社会構成に層を成すほどな中流人士とてはなかったのである。
──だから、相馬の小次郎が、入京の第一日に接触した者はみな、その一方の黒い層に住む人間たちだったことは、もう再言するまでもなかろう。ただ、それにしても、暗夜の寺域に、鬼火のごとき火光をかこんで、更くるも意とせず、勝手気ままな囈言を投げあっているこれらの男共は、いったい何を生命に求め、何を職としているかという疑問になると、これは、小次郎がなお多くの年月を、実際に、この都会において生活してみた上でなければ、そう簡単に、解るというまでの、理解に達するまでにはゆかない。
酒を振舞え、酒をおごれ、と仲間たちからせびられて、不死人と呼ばれていた大男は、腰の革ぶくろから、銭をかぞえて、投げてやった。すると、一人はたちまちどこかへ走って行き、やがて素焼の酒瓶をかかえて来て、
「さあ、豊楽殿の、おん酒宴としようぜ」
と、さらに車座を、睦み合った。
「待て待て、すこし火が、不景気になった。薪はねえか」
「なに、薪か。薪なんざ、あんなにもある」
伽藍を指さした一名の者は、立ちどころに、そこの廻廊へ上がって、すでに壊れている勾欄の一部をもぎ取り、また内陣から、経机だの、木彫仏の頭だのを抱えて来て、手当り次第に、焚火の群へ、投げやった。
「ほい。まだあるが」
「もう、たくさん、たくさん」
かくて素焼の瓶から、どろどろした液体を、酌ぎ交わし、飲み廻している程に、ようやく、火気にあぶられた手脚のさきにまで、酒がまわり始めたとなると、彼等の卑猥に飽きた話ぶりは、一転して、胸中の鬱憤ばらしになってきた。
小次郎は、不死人のそばに、ぴったりと寄せつけられて、立ちも逃げもできないように置かれていたので、ただぽかんと、この光景を見ていたが、彼にとって、実にびッくりさせられたことは、この連中が、時の大臣であろうが、親王、摂家の高貴であろうが、片ッぱしから、穀つぶしの、無能呼ばわりして、まるでそこらの凡下共より劣る馬鹿者視して、罵りやまないことだった。
いや、公卿堂上だけの悪口ならまだしも、はては、天子の暗愚におよび、藤原氏の女を閨門にいれて、かれら一門の非望をとげさせた桓武、嵯峨、淳和、陽成など歴代天皇の御名までを口にして、
「いったい、こんな世の中にした一族めらは、極悪党といっても足りねえが、させた者もまたさせた者で、天子様だから仕方がねえという法はあるまい。むかしむかし、おれたちの祖々から語り継がれて来た天皇というものは、仁徳天皇様を持ち出すまでもなく、こんなはずの者じゃあなかったぞ」
と、怨嗟をこめていう語気は、あながち酒だけのものではない。
かれらは、祖々からの慣わしで、天子というも、父母というも、自分たちのものという同意義に考えていた。だから、子が親に悪たれをたたく場合もありうるように、そこらの天皇や法皇の御名にたいしてもくそみそに悪口をいって憚らないのであった。
だが、小次郎がもっている習慣では、これは、霹靂にしびれたような驚愕だった。かれらの言葉のうらに持つ天皇と庶民との親愛の変形が、そんな言語になって出るのであろう──などという考察のいとまはない。彼の生国たる坂東地方にあっては、天皇のおん名はおろか、国司、郡司の知事級にたいしてすら、到底、おくびにも、いえた言葉ではない。たとえば、都の摂関家や、太政官の名を以て、地方の庁に官符をもたらす使者などに対してすら、慇懃、拝迎、文字どおり、下文の沙汰書を、土下座して、受けねばならないほど、絶対的な、卑下と高貴を、明らかにされている。
「なんだろう? この人たちは」
彼は、入京の第一夜に、第一の疑問にぶつかった。
だが、てんで見当もつかないのである。ようやく、落着き得た眼をもって仔細に連中の風俗を見ても、公卿の子弟かとも思えるような、人品服装の若者もいるし、猟師か、牛飼の親方かと思われる男だの、法師くずれに違いない者だの、野伏り姿の髯面だの、どこにも種族的な一致はない。
仲間同士で呼びあっている名前にしても、八坂の不死人を始めとして、禿鷹だの、毛虫郎だの、保許根だの、穴彦だの、蜘蛛太だのというだけで、これにも職業のにおいはない。だが、その放言の中には、折々、凡下ではいえない知的な批判があったりして、殊に、朝臣のくずれらしい八坂の不死人の言には、小次郎も、耳をそばだてた。
不死人が、一同の雑言を、叱っていうには、
「天子の多くは、愚蒙だというのは、当らない。仁徳帝は、申すも畏い。桓武天皇は、おれたちの世の今、さっそく現われてくれればいいような名天子であった。つまりは、そのときの朝臣輩にもよるんだ。藤原全盛ってやつが、そもそも、天下を紊乱し始めた原因だ。せっかく、行われた大化の革新も、でたらめ制度に堕し、個人が私田や私兵を持つことは禁ずという根本の国政を、てめえたちの栄達を分け取りするために、めちゃくちゃにしてしまやがった」
と、眦をさいて痛罵し、なお、濁み酒をあおっていいつづけた。「さ……。それからの、地方の混乱と、都の腐れ方だ。大臣、関白からして、土地国有を無視し、諸国に私田を蓄めこんで、私に租税をしぼり取ってるのだ。地方の郡司や国司など、もちろんいい事にして、まねするさ。寺だって、神社だって、やらなければ損という気になるのは当りめえだ。いや、都から地方へ派遣された役人でも、公卿でも、親王でも、またその一類の地方吏でも、こいつあ、田舎にいて、しこたま、私田を持ち、私兵を飼い、仕たい放題をやって、一生を暮した方が賢明だとなるから、みろ、押領使だの、権守だのなんだの、かんだのと、任命されて、任地へ下って行った役人共は、みんな、中央から呼びをかけても、口実を作って、都へ帰って来ねえのが、大部分だというじゃねえか。──その結果は、自暴と不平の仲間や、土地を失い、故郷を追われて、うろつき廻る百姓や、ばかばかしいから、やりたい事をして送れと、ごろつき歩く遊民だの、淫売だの、苛税の網の目をくぐりそこねてつかまる百姓の群だの、そして、おれたち八坂組の仲間のように、悪いと知りつつ、世の中に楯ついて、強盗でも切り盗りでも、太く短く、やって生きろと、悪性を肚の本尊に極めこんでしまう人間も、うじゃうじゃ出て来たということになっちまったのだ」
不死人の雄弁は、急に、ぷつんと、口をつぐんだ。
「な、なにか?」と、すぐ怪しんで、浮き腰立てる仲間たちを、彼は笑って、かたわらの小次郎の頭の上へ、自分の大きな掌のひらを載せて、つかむように、揺りうごかした。
「童。てめえは今、大きな眼をして、おれの顔を見たな。おれたちの仕事を知って、驚いたのだろうが。……いいか、仕込んでやるぞ、てめえにも。あしたから俺の手先になって、その道を、覚えるがいい。大臣も関白もあるものか、藤原の一門が、この世を我がもの顔の栄華をやるなら、こっちも、暗闇に、醜原の一門を作って、奴らに、泡をふかせてやる。金殿玉楼の栄華が楽しいか、土を巣にして、魔魅跳梁の世渡りが楽しいか、おれたちは、楽しみ競べをしてみる気なんだ。そこで、仕事の重宝に、てめえぐらいな童がひとり要り用なんだ。恐くはあるまい。こう見えてもみな、ほんとは、いい小父さんばかりだから、そうジロジロひとの顔を見ることはないよ」
彼がまだ、いい終りもしないうちだった。真向いにいた禿鷹が、ぎょッと、突き上げられたようにひとり起ち上がって、
「変だ。やっぱり……、何か、おかしい?」
呟くのを、みな見上げて、
「禿鷹。なにが、いぶかしいんだ」
「おれの勘は、迅風耳だ。……たしかに、遠くから、官馬の蹄の音がしてくる」
「よせやい、おい。いやだぜ、おどすなよ、禿鷹」
「いや! もう近い。来たぞ」
「げっ。ほんとか」
「あっ──検非違使だっ」
一せいに、わっと起ったとたんに、突きのめされて、小次郎は、燃え残りの焚火の上に、尻もちをついた。
「あわてるな。いつもの山の穴へ」と、不死人は、われがちに逃げまどう仲間へ叱咤しながら、一方の腕に、小次郎のからだを引ッつるし、山門を横に、山寄りの地勢へ向って、駈け出してゆくと、彼すら予測し得なかった物蔭から、一陣の人影が、列をすすめ、ばらばらと、虚空には羽うなりを、地には空走りの音を立てて、無数の矢を、射集めてきた。
「あっ。いけねえ」
と、身をひるがえして、方角を更えたとき、小次郎の体は、彼の腕から振り捨てられ、大地に平つく這っていた。
脚に二本、肩のあたりにも一本、矢が立った。小次郎はその後、なにも知らなかった。気がついたときは、猪檻のような、臭い、狭い、まッ暗な、牢格子の中にいた。
そこは、王朝官衙の八省のひとつ、刑部省の門内にちがいない。
省内には、贓贖司、囚獄司、五衛府、京職、諸国司などの部局が、各構内にわかれ、各〻、庁舎をかまえて、衣冠の官吏が、それらをつなぐ長い朱塗り青塗りの唐朝風な歩廊を、のんびりと、書類などかかえて、往き来している。
かつては、弾正台もあったが、今は廃され、代るに、検非違使庁が、設けられ、近頃になっては、刑部省行政のうちで、もっとも活溌な一機関となっていた。
いうまでもなく、ここの管下では、巡察、糺弾、勘問、聴訴、追捕、囚獄、断罪、免囚など、刑務と検察行政のすべてに亘っている。──禁門外の京中はもちろん、畿内、全国の司法も視、地方には地方の検非違使を任命してある。
「おいらは、罪人じゃない。何も、悪い事はしていない」
小次郎は、昨夜から、気がつくと同時に、自分の不安に、自分でいい聞かせていた。
「獄舎だ」ということは、彼にも、ひと目でわかった。彼のほかにも、牢のすみには、臭い動物みたいに、気力なく、ごろごろしている囚人が、幾人かあった。
「童。おめえも、火放けしたか、物盗りをやったのか」
と、それらの者から訊かれたりした。
小次郎は、時々、ぽろぽろと、涙をこぼした。なにか、無念なのである。童心の潔癖が、心外さに、顫くのであった。
「おいらは、桓武天皇から、六代目の御子だ。坂東武士の平良持という豪族の子だ」
みずからの純潔を奮いたたせるために、彼の胸は、ふだんには意識もしてない血液のことが、沸るばかり、呟かれてくる。
「役人の前へ出たら、そういって、威張ってやらなければならない」
唇をかんで、獄舎に、待ちうけていた。
すると昨夜、自分に〝気つけ水〟を呑ませてくれた最下級の捕吏が、覗き窓から、眼を見せて、
「おう、元気だな、童。おまえは、直きに出されるよ」と、教えてくれた。
間もなく、衣冠の囚獄吏が、令史、府生、獄丁などの下役をしたがえて、外にたたずみ、
「出してやれ」
と、顎で命じた。
そして、小次郎を、聴訴門の庭にすえ、どういうわけで、八坂の群盗共の中にいたかを取調べ、理由を聞きとると、むずかしい追及はせず、彼の所持品を、眼のまえに、返してくれた。そして、
「立ち帰って、よろしい」と、いい渡した。
所持品の中には、大叔父、常陸の大掾国香から、藤原忠平にあてた大事な書類がつつんである。彼は、解いて、たしかに、あるのをよろこび、今度は、懐中にそれを持って、白洲を辞した。
すると、獄司は、門まで送って来て、しきりと、小次郎の物腰を見ていたが、
「おいおい、東国の小冠者。おぬしは、ほんとに、忠平公のお館へ行くのか」
と、訊ねた。
「ええ、参るんです。どっちへ行ったらいいでしょう」
「じゃあ、その書状に見ゆる、大掾国香どのの、由縁なのか。ほんとに、そうなのか」
「はい。国香は、私の大叔父です。私は、東国の豪族、平良持の子、相馬の小次郎と申すんです」
こういえば、獄司にも、帝系の御子だということくらいは、いわなくても分るだろうと、小次郎は、ひそかに、晴がましい血を頬にのぼせた。
案のじょう、獄司は、態度をあらためた。そして、初めて都の地をふむのでは、大臣のお館たりとも、方角に迷おう。放免(下級の偵吏、後世の目明し)を一人、道案内につけてやろう──と、親切を示した上で、
「これよ、小次郎冠者。もしな、そのおてがみを、直々に、忠平公へ出す折、何ぞ、途中の事どもを、公のお口からたずねられたら、云々の理由で、刑部省の獄司、犬養の善嗣に、一夜、たいそう心あたたかな親切によく世話してもろうたと……そこは、お聞えよく、話しておくりゃれ。……のう。頼むぞ。わしの名を、忘れずにな」
と、露骨な、自己宣伝の依頼を、平気な顔でいった。
放免は、気がるな男だった。
「東国ッていうと、ずいぶん、遠いだろうな。よく一人ぼッちで、来たもんだね。ゆうべみたいな目に、何度も、道中で遭やしなかったかい」
「ううん」と、小次郎は、かぶりを振り──「あんな目に遭ったのは、初めてだよ。鈴鹿山にも、海道にも、ずいぶん泥棒はたくさんいるそうだけれど、大人の後にばかりくッついて歩いて来たから」
「賢いな、おまえは。都へ出て、何になるつもりなんだい」
「学問したり、いろいろ、一人前の男の道を、勉強したりして、帰郷るんだ」
「とんでもない事だ。いい人間になろうというなら、都から田舎へ、見習いに行った方がほんとだ」
牛輦が、前から来た。悪路に揺れて、輦の簾が、音をたてている。泥濘をよけつつ、それと、すれちがう時、小次郎は、簾のすき間から、チラと見えた麗人の白い容貌と黒髪に、胸が、どきっとした。そして、薄紅梅に、青摺の打衣を襲ねた裳からこぼれた得ならぬ薫りが、いつまでも、自分のあとを追ってくるような気もちにとらわれた。
「ねえ。放免さん」
「なんだい。小冠者」
「へんな事、訊くようだけれど、どうして、都の人は、女も……それから時々の男でも、あんなに、色が白いんだろう?」
「はははは。白粉を、知らないのだろう、おまえは」
「白粉って、何」
「化粧に、顔へ塗けるものさ。鉛華もあれば、糯の粉で製えたものもある」
「なアんだ。顔へくッつけてるのか」
「きまっているじゃないか。女が、白粉をつけ始めたのは、今から二百余年もむかしの、持統天皇の頃からだというのに、まだ、東国へは、行っていないのかなあ」
「見たこともないよ。初めは、ほんとに、色が白い人なのかと思った」
「じゃあ、紅も知るまい。推古朝の頃、僧の曇徴が製え出した物だと聞いているが、おかしな事には、白粉も、観成という僧が、時の天皇に献上したのが始めだということになっている。……女の化粧になくてならない物が、どっちも、坊さんの発明だというから、おもしろいじゃないか」
「うそだい。それは、遣唐使が、支那から船で、持って来たんだ」
「ほ。なかなか、おまえも、知ってるな。けれど、輸入して来たのはやっぱり坊主だったにちがいない。どうして、僧侶というものは、あれでなかなか如才のないものだ。大般若経だの漢籍みたいな物ばかり持って来たのじゃ、色気がなさ過ぎて、仏法弘通の方便でないと考えたにちがいないさ」
「放免さん、まだかい。小一条は」
「あ。もう見えている。……あれだよ、あれに見える長い長い築土、御門、幾つもの大屋根、築山の樹々、そっくり取り囲んだ一郭が、のこらず小一条院のお館さ」
小次郎はもう連れへの返辞もわすれていた。近づくにつれ、彼のひとみは、その宏壮と優雅なる寝殿造りの邸宅の美に打たれて、ただもう驚異と、ある畏れに、身が緊まってくるだけだった。
「あ。……今日はまた、お客人を招いて、御宴楽の折とみえる。……な、ほれ。あの舞楽の曲が、洩れ聞えてくるだろうが」
門前を、やや離れた所で、二人は、ふと佇んだ。──なるほど、連れの放免のいうとおり、築土ごしの樹々を透して、笙、和琴、振鼓、笛などの散楽譜が、天上の雲間からでも降ってくるように、小次郎の旅垢だらけな耳の穴へも、春風とともに、忍びやかに、流れこんできた。
百敷の大宮人は いとまあれや
さくら挿して今日も暮らしつ
自らの生活を、こう詠み誇った人々をきょうも呼び集めて、小一条の対ノ屋から泉殿のあたりには、奏楽がやむと、主の忠平の大きな笑い声やら、客の嬌笑雑語の溢れが、大表の轅門から、垣舎のほとりまで、近々と洩れ聞えていた。
「小冠者。おれが先に、ちょっと、取次を頼んでやるから、そこらに、待っていな」
放免は、轅門をはいって、白砂のしきつめてある広前をきょときょと見まわし、もう一重ある右側の平門をのぞきかけると、一隅の雑舎のうちから、水干姿の小者が、ぱっと、駈けよって、
「こらっ。いけないっ。──出ろ、出ろ」
と、引きもどした。
放免が、小次郎になり代って、はるばる訪ねて来たわけやら、ゆうべからの仔細を、つまびらかに、述べたてているまに、狼藉人とでもまちがえたものか、さらに奥から、家司、侍、雑色たちまで、あふれ出て来て、物々しく放免を取りかこみ、さて、顔見合せたり、訊き直したり、さんざんに議したあげく、やっと放免に、小次郎を、呼び入れさせた。
放免は、出過ぎた親切気を、悔いるように、
「じゃあ、てまえは、これで……」と、辞儀ひとつ残して、匆々に、立ち去った。
だが、後には依然、小次郎を取囲んで、はなしにのみ聞く、蝦夷の子でも見るように、好奇な眼と、疑惑とを、露骨にあびせながら、なお騒々と、諮り合っていた。
そして、結局は、
「御遊宴のさなか。お客人たちもおらるる所へ、ひょんなお取次は、興ざめのお叱りもうけよう。まずまず、童は、そこらに留めて、人目にふれぬようにしておいたがいい」
と、家司(老職)のさしずが下って、小次郎は、そこから更に、外庭を歩かせられ、
「ここで、待っていろ」
と、雑色の指さす所へ入れられた。
そこは、邸隅の輦宿とよぶ供待小屋であった。
たくさんな牛輦が、幾台も曳きこんであり、所々は、牛の糞が、山をなしている。
糞と涎と、牛の尻ッ尾のあいだでは、いろといわれても、いる所がない。晩春なのに、もう銀蠅が、慕って来ている。小次郎は立ちくたびれて、輦宿の横の棟をのぞいてみると、そこには、それぞれの主人に供して来た牛飼やら舎人たちが、十人以上も、屯していて、なにか、血眼をひとつ莚に寄せあっていた。
博奕だった。
〝投銭〟と俗にいう博奕で、その頃の庶民が熱中してやったものである。胴元の男が、幾枚かの穴あき銭を両の掌に入れ、振り音を聞かせて、ばっと、場に投げる。文字の銭面と、文様の銭面とが、どう出るかという点に賭け合うのであった。
小次郎も、覗きこんでいた。博奕は、坂東地方でも盛んである。けれど、もっと原始的な博技で、それに、こんなにもざらざらと銭を賭けることはない。賭けるのも、稲だの、毛皮だの、布だのといった物ばかりだ。
ここでも、彼は、眼をくるめかせた。銭がまるで石ころみたいに扱われていることもだが、もっと彼を昂奮させたものは、赤裸な人間の欲心をつよく描いた彼ら同士の顔つきであり、その語気と語気の火を発するような遣り奪りであり、また、殺気立つばかりな闘争の光景だった。
大人たちのするのを、傍観しているだけでも、小次郎は充分に、血を遊ばせて、退屈をわすれていた。
──が、やがて、銭の手もとも夕闇にまつわられて灯が欲しくなりかけた頃。
「牛飼の衆。お客人方いずれも、お座立ちと見えまするぞ。輦寄せへ、そろそろ、立ちならび候え」
と、奥の者から触れて来た。
それとばかり、勝った者も、負けた者、一せいに出払って、おのおのの牛輦を曳き出して行った。あわただしい轍の啼き軋みに、まだら牛の斑が宵闇をよぎり過ぎたあとは、糞も蠅ももう見えない。どこから紛れてくるのか、遅桜の片々が、晩春の印影を、わずかに描いているだけで、泉殿のあたりであろうか、蛙の声が遠く聞える。
小次郎は暗がりで、何やらむしゃむしゃ頬ばッていた。邸側から供人たちへ出た弁当の余りを拾ったものらしい。あんなに、虫のいい依頼をした刑部省の獄司ですら、食物などは囚人にくれる粥しか与えはしなかった。また、ここでも、いつ供されるとも知れなかったので、大急ぎで、腹を満たした。
だが、心配はない。さっきの家司も雑色も、彼を置き忘れてはいなかった。紙燭の影が揺れて来、ふたたび、以前の平門前の前栽まで連れて行かれた。
すでに、彼がさきに述べた口上と、大叔父国香からの書状とは、家司から取次がれて、右大臣忠平の許に通じられていたことは確実らしい。
決して、客らしい扱いではないが、召使たちから、一部の建物のうちに、まず上がることをゆるされ、草鞋など解きかけていると、中庭を隔てたあなたの妻戸の蔭で、
「やい、やいっ。家司の臣賀は、どこにいやるぞ。臣賀爺、急いで来うっ」
と、不きげんな気色をこめて、大喚きに呼びたてている人影があった。
世に、自分の意志の行われぬことを知らぬ藤原一門の長者たる主人の声癖を、家司の臣賀は、遠くでうける老いの耳でも、聞きあやまることはなかった。
「はいっ、はいっ。臣賀めは、御前でござります。お召は、なんの御意にござりましたか」
「ここな、不つつか者よ。よい年をしおって」
「あっ、なんぞ、お心にそいませぬか」
「おどけ者よ、爺は。なんぼ、客のあとかたづけに忙しかろうと、あれ程、かたくいいつけた事、なぜおろそかにいたしよった」
亡兄の藤原時平も、著名な大声で、よく殿上の論争にも、菅原道真という文人肌の政客を、その声できめつけたという話をのこしているが、その弟の忠平も、豊満な肉体の持ち主ではあり、ことし三十八歳という壮年でもあるせいか、兄に負けない喚きを時々やるのであった。
「お叱りついでに、まいちど、仰せ下さりませ。爺め、やはり幾ぶん、年老りましたものか、今日のような忙しさにあいますると、つい、ふと、もの忘れなど仕りまして」
「東国の餓鬼のことじゃよ。国香の書状を持って来たとかいう童じゃよ。まだ、わからぬか」
「は、はい。その小冠者を、どうせいと、おさしずでござりましたやら」
「ええい、やくたいもない耄碌をば。……わしがいったのは、供も連れず、たったひとりで、国香が旅へ追いやった童。どうせ、ろくな者であるはずはない。──それによ、何よりの注意は、長い遠国からの道中、どんな穢れに触れたやら為体も知れん。いやいや、現に、昨夜は、獄舎に寝、きょうは門前まで、不浄者の放免などに、送られて来たと、われ自身、告げよったことではないか。……いかん、いかん。穢に触れた人間を、館の屋の内の、どこに上げてもよくないぞ。それこそ、大事だ。神禰宜をよんで、穢れ払いをすますまで、土居外の、牛小屋へでも入れておけい。……そういうたのじゃ。……それをばなんぞ、爺、おろそかにも、彼方では、招き上げようとしているではないか」
「や、や。それは、しもうた」
「もう遅いわ。穢れ者を上げた所は、すぐ浄めろ。そして、童の体も、さそくに浄め払いして、水垢離をとらせい」
果ては、肩に顫えを示すほど、忠平は、癇をたてた。
この異様な怒りかたは、病的にすら見えたが、臣賀でも他の召使でも、これを、不自然な嚇怒とは、誰も見ない様子なのだ。
なぜであろうか──というに。ひとりここの藤氏の長者ばかりでなく、禁中でも、朝臣一般のあいだでも、〝触穢〟といえば、おぞ毛をふるって、穢れ払いに、幾日でも、門を閉じ、衣冠を廃して、参内も休め、客を謝すという例を、誰もが知っているからである。
強烈な信仰は、半面に、極端なまでの迷信をいつか伴っていた。禁厭、祭祝、祓除、陰陽道、物忌、鬼霊、占筮など、多様な迷妄の慰安をもたなくては、生きていられない上流層の人々だった。わけても、穢の思想は、根ぶかく、神道とも仏教ともからみ合せて、実生活の一面に、深刻な病的心理を蝕ませていた。
たとえば、死穢に触れたとなると、三十日の忌を最上とし、少なくも、七日は、祓除をしなければならない。
産婦にふれた者、家畜の死にふれた者、火を出した家の者、みな、触穢の者と忌まれるのである。
その一人ばかりでなく、周囲の者、家人、時には、出入りの知人までが、同様な目に遭うこと、少なくない。
史書に、実例を索めれば、枚挙にいとまがないほど、幾らでも、事件が出てくる。二、三例を拾ってみれば──
=朱雀帝ノ天暦元年。左近衛府ノ少将ノ飼犬ガ、死者ノ骨片ヲ咥ヘテ来タトイフノデ、府ハ、三十日ノ穢トナツテ門ヲ閉ズ。
=同月、府ノ井戸ヲ、ソレト知ラズ、修法所ノ童ガ汲ンデ用ヰタト騒イデ、大内裏中、七日ノ穢ニ服ス。
=光孝帝ノ世代、貞観殿ノ南ニ、少女ノ死髪ヲ見出デ、諸司釈典ヲシテ、三十日ノ祓ヲス。
このほか、産児の臍緒が落ちていたというので、辻の通行止めがあったり、火災の出た場所の土をふるわせて、火の神を祀ったり、およそ気病いの厄神が、上流層の心に、これほど悪戯を振舞いぬいた時代はない。
これは、穢とはいえないが、王朝の華奢に彩られた当時の貴族たちが、常日頃には、物の祟りだの、生霊だの死霊だのというものの実存を信じて、ほとんどが、神経質的な性格をおび、中には、狂疾にすら見える者が生じたのは、栄華の独占が、必ずしも、幸福のみではなかった事の一証といっていい。
加うるに、この階級の驕奢淫蕩は、各人の生命を、みな短くしていた。三十歳、四十歳を多く出ぬまに、夭死する者が多かった。──これをまた、物怪の祟りとし、菅原道真の怨霊がなすところであるという説を、かれらは本気で信じたのである。
延喜の当代、その最も陰鬱な実例は、現在の宮中にあった。時の醍醐帝は、道真怨霊説を、心から信じて、ついに不予になられ、その皇太子、寛明親王なども、生れて以来、三年の間、一日も太陽の光にあわすことなく、夜も昼も、帳内に灯をとぼし、衛士を徹夜交代させて、いたいたしい白い一肉塊のあわれな生命の緒を、ひたすら怖れ守っていたという事実すらあるのだった。
峻厳な父基経に似あわず、優柔で姑息で、わがままな嬌児にすぎない忠平が、政治家としては、右大臣の顕職を獲、一門の長者としては、父以上、兄以上な生活の見栄を張っても、心のどこかには、たえず弱い迷妄と狂疾がうずいていたことは、察するにも難くない。
せっかく今日、客を招いて、晩春の陰鬱を、一掃したと思ったのに、遠方の大掾国香などという末端吏から、おもしろくもない厄介者を添え文して向けてよこし、舌打ちをもらしたことではあったが、平良持の子というので、そう素気なく追い払いもできなかった。良持は、生前から、何事につけ、藤氏の門に、臣礼を執り、彼の擁する東国の私田の事務でも勤めたがっていた男だからであった。
だが、その遺児にまで、どうこう考えてやるほどな好意はない。反対に、ふと頭をかすめたのが、日頃から彼の最も嫌忌している穢の心配だった。一日、はしゃぎぬいた疲労の反動も、それに手伝い、いきなり、臣賀爺への、大喚きとなったのである。
臣賀は臣賀で、また、雑色部屋へ来て、どなり立てていた。結果は、いちどそこまで、招き上げられた小次郎の身へ返って来た。小次郎は、横の土居門から、河原へ連れ出され、まる裸にされて、加茂川の水の中へと、突きのめされた。
「──穢を洗うのじゃ、穢を。朝のお陽さまが、東の峯から昇るまで、何度も、沈んでは、祓して、穢を浄めたまえと、諸天にお祈りしておるのだぞ。よいか。昼は、小屋籠りして、夜は夜で、七日の祓をやらねばならん」
臣賀は、きびしくいいつけて、雑色たちと共に、邸内へもどって行った。
小次郎は、さて、なんの事やら、分らなかった。
けれど、これが右大臣家への、奉公初めの一つかと思い、ぽかっと、急流の中から、首だけを出していた。
水はまだ、雪解をもつかと思われるほど冷やっこい。ぎゅっと、流れの中で、四肢の骨が、肋骨に向って凝結した。──が、ほうっと、大きく肺気を空に吐いたとき、朧な月を、平安京の夜空のまん中にふと見つけた。
「……あの月も、都に来ている。ああ、おいらも、都にいる」
彼は、たくさんな、馬の顔を、朧雲の上に描いた。故郷の大結ノ牧の馬房に、こん夜も、うまや藁を踏まえ、平和に眠っているであろう馬たちに、心から告げていた。──おいらの友達たちよ、淋しむなかれ。おいらは幸福だ。都人になるために、加茂川の水がいま、おいらの旅の垢を洗ってくれている。
延喜は、二十二年までで、その翌年から、延長元年と、改元された。
相馬の小次郎も、はや二十一歳である。彼が、右大臣家に仕えてから、いつか、五年はすぎたわけだ。生意気ざかりの年頃といっていい。
もちろん、元服もし、帯刀もゆるされ、もう一人前の男である。小ざッぱりと結髪して、垢のつかない布垂衣など着ていると、よく、東国のえびすの子と、からかわれていた彼も、近ごろでは、どうやら、大臣邸の小舎人として、世間なみの召使には見えるようになっていた。
邸内での、彼の役がらは、車雑色とよぶ小者のひとりだった。主人の外出にあたって、牛ぐるまを曳き出し、そのお供について歩き、また、帰ってくると、牛を放ち、車の輪を洗い、轅の金具までピカピカ磨いて、怠りなく備えておく。
きょうも彼は、参内の供について、朱雀門の輦溜りに輦を入れ、主人の忠平が退がるのを、終日、待っていた。
ほかの納言、参議など、諸大臣の輦も、轅をならべて、供待ちしている。
ここでは、他家の雑色がよりあつまるので、都のなかの出来事は、一として噂から洩れることはない。
「なにがしの大臣の後家の許へ、ゆうべ、さる朝臣がいつものように忍んで行った。すると近ごろ多い群盗の一類が見つけて、おもしろ半分に、男女が、閨むつみの頃をはかって室を襲い、家人をみな縛りあげた上、財宝はもちろん、男女の衣裳まで悉皆、車につんで持ち去ってしまった。そのため、忍び男の朝臣は、着るに着る物もなく、さりとて、裸でわが家へ帰りもならず、雑色の布ひたたれを借りうけて、しかも夜が白んでから、こそこそ帰って行ったが、館には、有名なやきもち妬きの奥方がおらるるし、その奥方は妊娠中で、ほかにもたくさんな子がおらるるし、あとの騒動も思いやられ、あわれにもまた、おかしいかぎりではあった。──ところが、その朝臣が、きょうの宮中集議にも、参議の衣冠をつけて、しかつめらしゅう参内している。なんと、廟議の席が、眠たくて、ものうくて、耐え難くしておわすことであろうよ──」
などと、ひとりが語れば、またひとりも。
「いやいや、色事と群盗のはなしなら、都には、毎日、掃くほどもある。これはごく内密になっているが、内裏のうちにだって、こんな事があった。ことしの五月雨頃だった。弘徽殿の更衣づきの、さる女官が、藤壺のひとつのうす暗い小部屋で、ひとりの官人と、秘か事をたのしんでいた。すると、折わるく、その晩、刑部省の下役のものが、後涼殿に何か見まわる用があって、足のついでに、そこを覗いた。女は、おどろいて、衣うち被いてかくれたが、男は妻戸を蹴って逃げ出そうとしたから、役人は声をあげて、人々をよび求め、とうとう、男をつかまえたが……これが何と、後涼殿の空き部屋から、さる朝臣の衣裳を盗みだして、それを着こんでまんまと官人になりすましていた盗賊だったというのだからあきれるではないか。もちろん、女官は、薄くらがりで、それが、野盗とは知らずに肌をゆるしたのだろうが、かわいそうに、更衣のお耳にもきこえてしまったので、病気といって、宿へいとまをとって、退がってしまったそうだが……」
雑談がわくと、限りもなく、そうした猥らと、物騒なはなしは、次から次へ、いくつも、語り出されるのである。
京師を横行する群盗は、いまや、市中をあらすだけでは物足らなくなり、折々、宮門をうかがって、後宮の女御更衣たちをも、おびやかすばかりでなく、あるときなど、真昼、陛下がおあるきになる弘徽殿の橋廊下のしたに潜っていたのを、陛下自身お見つけになって、騒ぎとなったことさえある。
──そういう、兇悪なものの出没を聞くたびに、小次郎は、かつて十六歳の春、この都の土を初めて踏んだ日の宵に、東山のふもとで見た焚火の群をいつも記憶から呼びもどされた。そしてその仲間たちの顔や、また、八坂の不死人だの、禿鷹だの、穴彦だのと呼び交わしていた彼らの名まえまで思い出された。
いかめしい、八省十二門のうちには、兵部省もあり、刑部省もあり、また市中には、検非違使もいるのに、どうしてそんな群盗どもに横行されているのか、小次郎には、ふしぎでならない。
けれど、供待ち仲間の、諸家の奴僕や舎人たちの放談が教えるところによると、
「こうなるのは、あたりまえだ……」と、みないって、憚らなかった。
「御政治がわるいのさ。……いや、悪いにも、いいにも、今は、御政治なんかないんだから、群盗たちには、こんなありがたい御世はない」
話題が、この理由と、原因ということになると、小次郎は、いつも、肩身がせまくなった。なぜならば、彼の仕えている主人──右大臣藤原忠平が、だれよりも、くそみそに、悪口の対象になるからであった。
忠平は、氏の長者として、いまや藤氏の一門を、思うままにうごかし得る身分であるのみでなく、朝廷の中でも、かれの一びん一笑は、断然、重きをなしている。
それは、さきに、若くて亡くなった、左大臣時平の位置と権勢とを──弟の彼がそっくり受け継いでいるからであるが──兄の時平とは、その政治的な才腕も、見識も、抱負も、人間そのものも、まるで段ちがいに、格落ちしているのが、いまの右大臣家であるというのだ。
すくなくも、前の左大臣時平は、菅原道真を、政敵として、辛辣な政略や、自閥本位な謀略もずいぶんやったが、また、地方の農地改革だの、民心の一新だの、財政と文化の面にかけて、かなり理想ももっていた。それが、惜しくも、三十九という若さで、病死してしまったため──時平の才幹は、まだ、政治のうえに実現はされなかったが──だれも、人物は、認めていた。
ところが、弟の忠平と来ては、比べるにも、おはなしにならない。
〝宮中の狡児〟
という評が、それを尽している。
優柔で姑息。わがままで、華奢放逸。優れているのは、管絃と画だけだ、とみないうのである。
画は、自慢で、かつて扇に、時鳥を画いたのを、長明親王にさしあげた。親王が、なにげなく、扇を開かれると、要が、キキと鳴ったので、
(あ。この時鳥が啼いた──)
と、戯れに仰っしゃった。それをまた、おベッかな公卿たちが、そばから、
(さすがは、お筆の妙、名画のしるし、時鳥は画いても、啼く声までを画きあらわした者は、古今、忠平の君おひとりであろう)
などと賞めたてた。
それを忠平は、自分で、自慢ばなしにしたり、歌の草稿などにも、自ら〝時鳥の大臣〟などと署名している。
また甥の敦忠は、管絃の名手なので、これをあいてに、和琴、笛などに憂き身をやつし、自らの着る物は、邸内に織女をおいて、意匠、染色、世間にないものを製して、これを、誇りとするような風だった。
ちかごろ、宮廷のうちも、際だって、華美になり、むかしは、天皇のほかには着なかったような物を、一介の史生や蔵人も着かざったり、采女や女房たちが、女御更衣にも負けずに艶を競ったり、従って、風紀もみだれ、なおかつ、廟議や政務にいたっては、てんで、怠り放題な有様である。
こういう大官や宮廷のもとに、ひとり刑部省や兵部省の官人たちだけが、精勤とまごころを以て、服務を看ているはずもない。──かれらは彼らの領野において、やはり同じ型の逸楽と役徳をさがして時世に同調している。群盗にとってありがたい御世たる所以のひとつである。
こんなふうに、ここ輦溜りの供待ちで、小次郎が、毎日、見ること聞くことは、なに一つとして、ろくな事ではない。
「下司は、口さがないものというが、まったく、うるさい京雀だ。この人たちは、人間の醜いところと、世の中の汚いところばかりに興味をもっている。そんな裏覗きばかりしないで、もっと、人間と此世の、いい所、美しい所も、少しは、見たらどうだろう」
小次郎は、時には、ひとの放談に、われを忘れて、おもしろがりもしたが、また、折には、腹が立って、なにか、反抗して見たくもなった。
なぜ、というまでもなく。
彼は、今でも、この平安の都を、美しい花の都として、抱いていた。初めて、不毛の坂東曠野から上洛って来て──京都に入る第一歩を、あの高い所において、加茂川や、大内裏や、柳桜の、折ふし春の都を、一望して、
(ああ、こんな天国が、人間のすむ地上にあったのか? ……)
と、恍惚として、憧憬の満足に涙をたらした──あの日の印象を、いまもはっきり持っている。その、幻影でない、現実を、彼はいつまでも信じたい。
そして、自分も、その美しい都人のなかの一人となり得たことを誇っていた。汚したくない。ゆめ、傷つけたくないのである。
さらには、また、
故郷の人々からもいわれた通り、ここに遊学した効いを見せて、都の文化に習び、よい人物になって、ひとかどの男振りを、いつの日かには、故郷下総の豊田郷にかざって帰りたい。──
「だが、勉強のほうは、まるでだめだ。藤原氏の子だと、勧学院にも入学できるが、東国生れの小舎人では……」
彼の素朴は、まだ上京の初志を、わすれてはいなかった。だから、夜間、ひそかに夜学したり、昼も、この輦溜りでつぶす多くの時間を、なるべく、読書することにしていた。
──で、今も、轅と轅のあいだに、ひとり潜んで、近ごろの学者といわれる三善清行の家人から借りた何かの書物を、ふところから取出して、読み耽っていた。
すると、たれやらその側へ来て、だまって、小次郎の手の書物を、共に、見おろしている者があった。
直衣姿の、身分のひくい青侍で、年ばえも、小次郎にくらべて、幾つもちがわない──三ツ四ツ上か──ぐらいな青年である。
「……? やあ」
ふと、気がついて、小次郎は、書物から眼をはなした。
そして、恥かしそうに、あわてて、書をふところにしまいこみ、
「──まだ、陽が高いようですね。諸卿のお退がりには、だいぶ、間がありましょうな」
と、てれかくしに、午後の陽を、ふり仰いだ。
供人宿の廂の蔭では、例によって、なにか、猥雑なこえが喧しい。外の、青桐の花の下で、居眠っているのもあるし、ものうい初蝉の声をよそに、ひそかに、投銭(博奕)をやっている物蔭の一群もある。
「よく勉学されるな。そこもとは」
さきも、初めて、にやりと笑った。小次郎は、顔をあからめた。事実、自分が読んでいたのは、中華の書物ではあるが、ごく初学者の読本にすぎない孔子の一著書であったからだ。
「……いえ。勉学なんて。……それほどなものじゃありません」
「でも、心がけは、嘉すべしだよ。──ところで、お身は、わしを、知っているか?」
「さあ。どこかで、お会いしたことが、あるでしょうか?」
「こっちから訊いているんだよ」
「失礼ですが……覚えがございません」
「そうだろうな。ハハハハ」
「どなた様でございますか。おさしつかえなくば、お聞かせ下さい」
「そこもとの生国は、東国であろうが」
「そうです。あなたは」
「わかるだろ。ことばでも。……わしも東国さ。しかも、お身の生れた下総の豊田郷から程遠くない常陸の笠間だ」
「や。……」なつかしさに、小次郎は、いきなり立ち上がった。
「……じゃあ、常陸の大掾国香どのを、御存知でしょう」
「知らないで、どうするものか。わしは、国香のせがれだもの」
「ああ。じゃあ、この私とあなたとは、従兄弟にあたるわけです。思い出しました。大叔父国香どののお息子──常平太貞盛どのも、早くからこの都へ、遊学に来ていると聞きました。あなたは、その貞盛どのですか」
「ちがう。貞盛は、わしの長兄。わしは弟の繁盛というものだよ」
「では。御兄弟おふたりで、都にいらっしゃるのですか。これは、羨ましいことです。いつから、この京都においでなので」
「お身が、豊田郷から、京都へ出た、翌々年のことさ。もっとも、兄の方は、それよりずッと前に、来ているが……」
「で、今は、どちらに、お住居です」
「兄の貞盛は、もうとくに、勧学院を卒業して、御所の蔵人所に、勤めている。……が、わしは、つい先頃、三善清行博士の門を出て、今では、右大臣家の御一子、九条師輔さまのお館に、書生として、仕えておるのさ。……きょう初めて、宮門のお供について来たのだから、お身と会うのも、初めてなわけだ」
「御舎兄の貞盛どのは、私が、小一条の右大臣家に身をよせていることを、御存知のようですか」
「……うム。知っているらしいが、くわしい事は、何も聞かなかった。会って、話したことがあるかい」
「いえ。一ぺんも……」
小次郎は、ふと淋しい顔を見せた。実は、たった一度、応天門の焼址の附近で、人から、あれが常平太貞盛である、おまえとは同郷らしい──と教えられたことがあり、近づいて、せめて、挨拶でもしようと思ったところが、何か、先が勘ちがいでもしたのか、ぷいと、横をむいて、貞盛は、背を見せたまま行ってしまった……そういう記憶が、ふと、頭をかすめたのである。
だが。──それには触れるいとまもなく、彼は、繁盛から今、ことばをかけられたのがうれしかった。従兄弟といえば、血は他人よりも濃い、いや、他人にしても、異郷千里のこの京都で、初めて、同じ故郷の、同じ坂東平野の土に育った人間に会ったのである。なつかしさ、うれしさ、小次郎は、淡い郷愁と同時に、大きな力強さを感じた。
彼のこの気もちは、決して、誇大な感傷ではない。その頃──人皇第六十代、醍醐帝の皇紀一五九〇年という時代の日本のうちでは、畿内のそとはもう〝外国〟といったものである。東国といい坂東といえば、まるで未開人種の国としか扱っていなかった。
たとえば、陽成帝の元慶の五年五月には、在原行平が、奨学院という学校を新たに興したが、そのときに、物部斯波と連永野という二名の史生が、折から上洛中の陸奥の民の代表者をつれて来て、講堂で、東北語の対訳をして、聴かせたりしている──そして、この二人は、東北語の通訳官としても、朝廷に功があったというので、同年、各〻、従五位を授けられたほどである。
この異郷の空で、小次郎が、たまたま、同じ坂東者に、出会ったのであるから、繁盛を見る彼の眼が、従兄以上な、ある、同血種の親しみとなつかしさを感じたのは、決してむりなことではない。
「小次郎、お身も、勉強したいのか」
「したい」と、小次郎は、率直に、繁盛に答えた。
「奨学院へも、勧学院へも、入らないで、雑色なんかして働いていてはだめだ。体が疲れて、勉学など、思いもよらぬ」
「でも、奨学院へは、在原氏。勧学院へは、藤原氏の子弟でないと、入れないのでしょう」
「校則は、そうなっているが、右大臣家から、たった一言、お声をかけてもらえば、なんでもないさ。博士たちも、学者はみな、貧乏だから、袖の下も欲しがっておるし、方法はいくらもある」
「そうでしょうか……?」
「また、正面からいっても、そうじゃないか。おたがいは、坂東の地方豪族の子に生れ、公卿でも、藤原一族でもないが、系図からいえば、正しく、桓武天皇から六代めの孫たちだ──帝系じゃないか、われわれも」
「そうだ。なるほど……。けれど、右大臣家に、身をおいても、まだ一度も、忠平公からお声をかけられたことすらなし──どうして頼んだらいいだろう」
「わしのいる御子息の九条師輔さまのお館へは、折々、わしの兄が、管絃のおあいてに召されるから、そのとき、兄に話しておいてやろう。兄から、師輔さまへ、師輔さまから、父の君の忠平公へと、頼むようにすれば、きっと、お耳に達するだろう」
「おねがいします。まだ、お会いいたしませぬが、兄上の貞盛どのにも、どうかよろしく、仰っしゃってください」
「よし、よし。心配するな……」と、繁盛は、のみ込んで、別れかけたが、またふと、足をもどして──
「おい、小次郎。近いうちに、もひとり、坂東者が、きっと、右大臣家へ顔を出すぜ」
「へえ。誰ですか」
「九条家の者から聞いたのだが──下野国安蘇郡田沼の土豪で、俵藤太秀郷というのが、なんでも、下野ノ牧の馬やら、たくさんな土産物をもって、お礼に上ってくるとかいうはなしだ……。九条家へも、右大臣家へも」
「下野の秀郷の名は、私の郷のほうへも聞えています。けれど、その秀郷は、私がまだ豊田郷にいた頃に、何か、大きな争いを起して、流罪になったとかいう評判でしたが」
「それが、一昨年、赦免になって、下野に帰っていたのだ。一年は、謹慎していたが、もう、よかろうというので、都上りさ。……もちろん、そのお礼のためにだよ」
その日は、それで別れた。
しかし、繁盛と会い得たことから、彼の希望は、一そう大きく膨らんでいた。ほかの雑人たちと一つに、舎人の屋の板じきに、素むしろを敷き、蚊に喰われ、奴僕生活の貧しい中にあっても、小次郎の夢には、未来が自由に描かれた。学問もし、人間もつくり、はやく故郷に帰って、弟共をも安心させたい。同族の輩にも、よろこばせたい。そして、父が遺してくれた莫大な田産と家門とを経営する身にならなければならない。
ただ、わずかに、不平だったのは、
(従兄たちは、ああして学業を終え、みな、低くても、位置を得ているのに、どうして自分のみ、いつまで、こんな牛部屋の隣に住み、学院へも入れられずに、きょうまで放ッておかれたのか?)
という不審だけであった。
しかし、彼は元来、もの事を、善意にうけとる素朴な本質と、人を信ずる純一な性情がつよい。で、こういう疑問がわいても、彼が彼にする答えは、
(きっと、大叔父の国香が、おれに持たしてくれた添え状に、そんな事まで、細かに書くのは忘れていたからにちがいない。──そして、忠平公も、あんな暢気なお方だから、おれが仕えていることも、迂ッかりしておいでになるのかもわからない。……だが、こんどは、従兄の貞盛から、話してくれれば、ああそうかと、お気がつかれる事だろう)
ひたすら、彼は、その吉報を、待ちかねた。──繁盛から、何かいって来てくれる。あるいは、突然、忠平公から、
(──小次郎。庭さきへ来い)
とでも、家司を通じて、おことばが、かかるかと。
待てば、長い。なかなか、なんの吉事もない。
八月。──秋の初めである。
ある日、小一条のやかたに、一群の訪客があった。
訪客たちは、遠国からの人々らしく、同日、市坊の旅館に、旅装をといて、あらかじめ、使いをもって、右大臣家の内意をうかがい、衣装、髪かたち、供人などが担うて来た土産の品々まで、美しく飾りたてて、いとものものしく門へ佇み並んだものだった。
「これは、東国下野の掾、俵藤太秀郷にござりまする。越し方、かずかずの御鴻恩にも、たえて、親しゅうお礼も申しあげず、御不沙汰をかさねておりました故、いささか、国土産なと、おん目にかけばやと、まかり出てござる」
ひとり、秀郷だけ、内へはいって、ほかの郎党は、平門にのこし、こう、大臣家の上達部へ、申し入れた。
秀郷も、小次郎の亡き父、平良持とひとしく、坂東地方の北辺に、幾代かをかさねている土豪の族長であった。
かれの居館が、下野の田沼に近い田原にあるところから田原ノ藤太ともいわれ、俵藤太とも書かれている。
かれは生え抜きの坂東土豪だが、母系が藤原氏の縁をひいているところから、藤原姓も名乗っていた。それもあって、官職を得、早くから京都へも出て、大番も勤めたり、また近年、下野ノ掾を任ぜられ、その系図、縁故、京都との折衝などにおいて、いよいよ地方的な勢力を加えていた。
ところが。──去る延喜十六年の事である。秀郷の腹心の配下が、国司にタテを衝いて、いたく辱められた。法規と腕力の抗争となり、果ては、血を見るような私闘となった。同族のうけた辱めには、理非を超えて結束することの強いのが、彼等の特質であり、また、族長をいただく者の自然な生態でもあった。
秀郷は、まだ、四十前の、血気旺盛である。いかでか看過し得んというところだ。彼は、家人郎党を糾合して、国司の庁を襲撃した。そして獄をひらいて、同族の囚われている者を奪い返し、凱歌をあげて、わが館へひきあげた。その際、幾人かの司庁の役人を殺傷し、また、火を放って、官倉を焼いたり、騎虎のいきおいとはいえ、相当な乱暴を働いたのである。
これは、直ちに、中央に早打ちされ、朝廷、摂関家でも、由々しき事とし、問罪の軍を、さし向けられようとした。秀郷一族も、それにこたえて、戦備をととのえ、事重大になるかと見えたが、多少、都にいて、中央の地に呼吸し、また、藤原氏のたれかに、縁のつながりもある彼としては、無謀は愚と、すぐ覚った。かれは元来、理性にとみ、部下の意地にのって、伝来の財、田地、官職──まちがえば生命までを賭けるような迂愚ではなかった。それまでの、処世にも抜けめなく、日ごろの行動にも、計算をもつ男で、こんどの事件をひき起した如き例は、かつてない事だし、彼としては、実に、族長のつらさといおうか、若気のいたすところといおうか、大いに悔いていたのである。
(甘んじて、罪に服し、償いを、後の計とすべきである)
彼がすすんで、服罪したので、一族もみな、兇器を捨て、太政官下知に依って問罪の使節として下向して来た将軍の手につながれ、同年八月十二日甲午、同族の兼有、高郷、興貞等──すべて十八人、重罪により配流といい渡され、伊豆の南端へ、流されたのであった。
そして、配所の罪人と月日をすごすこと、およそ三年。
そのあいだには、彼の妻の縁をたよって、都の大官たちの間に、あらゆる赦免運動が行われていたことはいうまでもない。
三年にみたず、赦されたのは、まさに、その効といってよい。しかも、帰国して謹慎後、一年の余で、さきの官職にも復し得たのは、なみならない蔭の声と黄金の力でもあった。
そこで、秀郷は、将来のため、また、その折にあずかって庇護をうけた右大臣忠平へ、かさねて、莫大な音物をたずさえて、はるばる上洛したわけであった。──地方土豪とはいえ、こういう訪客をよろこばぬ大臣家ではない。忠平が、彼を迎うるにも、ほとんど、都の諸卿とかわらない程だった。
小一条のひろやかな庭園には、無数のささ流れを、自然の小川のようにひき、おちこちの泉石のほとりには、燈籠が置かれ、初夏の涼夜は、遠来の客のため、あらゆる風情と、美酒佳肴をつくしていた。そして、主の趣味とする管絃楽も興を添え、土豪秀郷の田舎奢りとは、雲泥の差があるところを見せもした。
「小舎人、小舎人。……おん内庭の御門をひらき、釣殿のおん前へ、遠国の客人が、お館へ献上の馬を、曳いて見せいとの仰せであるぞ。──その、用意な急ぎ候え」
右大臣家の老家司、巨賀は、よく忠平に叱られつけているので、下の者へ、命を通じること、いつも、このように、くどくどしい。
かれの語調をまねて、雑色部屋の者も、
「心得て候う」
と、笑いながら、腰をあげ、なお臣賀老人が、しつこくいうのに、再び答えて、
「御献上の下野鹿毛。ただいま、釣殿のおん前へ、曳いて参ろうずるにて候。しばらく、おん待ち候え」
と、どっと笑った。
臣賀は、さらに、他の小者に、松かがりを、庭に焚かせて、露芝の遠くに、ひざまずいていた。
「小次郎、口輪をもってくれい。……小次郎、口輪を」
雑色たちは、庭門のそばで、騒いていた。駻気のつよい馬とみえ、ちょっと、手におえないらしいのである。
日頃から、召使たちの間でも、馬にかけては相馬の小次郎──と、これだけは、通り者になっていた。実際、かれの手にかかって、おとなしくならない馬はないからである。
小次郎は、性来、馬が好きだ。馬を見ると、肉親の者を見るような気がした。あの、故郷のひろい天地を、馬のにおいに感じる。また、大結ノ牧の馬房で、馬と一しょに、寝藁の中で寝た夜もおもい、馬の腹に枕して、泣き泣き眠った悲しい日のおもい出も奏でられてくる。
「おいっ。心得た。──離してよい」
小次郎は、同僚から、口輪をうけとって、しっかり、つかんだ。
そして馬の駻気を、なだめながら、しずしずと、貴人のまえに臨む歩調をとらせた。
客の秀郷と、主の忠平は、廊の間へ出て、立っていた。
「……ほ。この馬か。なるほど、見事よな」
忠平は、酔眼をほそめて、しきりに賞めた。この大臣は、輦の飾りには、ひどく凝っているが、乗馬には、まるで趣味はない。しかし、こう褒めるのは、馬は、貨幣だからである。殊に、名馬ともなれば、それは驚くべき高価だということは、よく知っているからだった。
秀郷は、贈り物が、気に入ったと見て、さらに、自分で庭へ降りてきた。そして、この馬が、いかに名馬であるかという専門的知識をかたむけて、庭上から説明した。
そのことばつきは、どう丁寧に述べても、いわゆる坂東なまりの粗野な語である。それが、耳なつかしく、心をひかれて、小次郎は馬をわすれて、秀郷の顔ばかり見ていた。
年の頃は、三十八、九か。皮膚の色さえ、小次郎には、故郷のにおいが感ぜられる赭土色の持主だった。眉は、粗で、眼はきれ長であり、面長な顎に近いあたりに、黒子がある。この黒子に、毛が生えていたためか、小次郎の眼には、いつまで忘れない記憶になった。
「これ……小舎人。なんでそちは、わしの顔ばかり見ているか」
秀郷は、彼のぶしつけな視線に、不快をおぼえたのか、やがて、馬の説明を終ると、こう叱った。
「よも、白痴ではあるまいに。ジロジロと、不気味な奴だ」
小次郎は、それが、忠平の耳へもはいったと思ったので、はっと、身をすくめ、われにもあらず、地へ、ぬかずいてしまった。
「おお、どうされたの客人……」と、果たして、忠平は、聞き咎めて──「その、小舎人を、御存知か」
「いや、見も知りませぬが……」
「なにか、粗相いたしたか。その召使は、お汝の国もとに近い、下総の良持の子じゃがの」
「良持? ……と、仰っしゃると、下総の豊田の郷にいた平良持がことでございますか」
「そうじゃよ。知らんかの。常陸の国香から添え手紙あって、生来、痴鈍な童、故あって、郷里にもうとまれ、とかく、肉親たちとも、折合いのむずかしい者故、長く、当家の下僕のうちになと、飼いごろしに、召使うてくれいとあったので──そのまま館においておる」
「これは、亡き良持の、何番目の伜にございますか」
「さあて。三男やら、四男やら、そのほどは弁えぬが、良持の子とは、国香の状にもあった。多分、外の妾の子でもあろうか。ともあれ、鈍な子と、国香の添え状にも、ことわりのあった者じゃ。何か、粗相をしたなら、ゆるしてやれい」
小次郎は、地にぬかずいている耳へ、そのまぢかな声が、何か、ただがんがんと、地うなりのように聞える心地で、満足には、聞きとれなかった。
忠平のことばの途中から、くわっと、血が逆上っていたためである。熱い、充血した面とは反対に、体はさむく、芝の夜露に、身も耐えないほど、がくがくと、ふるえに襲われていた。
常平太貞盛は、もう誰の眼にも、坂東者とは、見えなかった。父の国香に似て、背もすぐれ、面貌も上品だし、都の知性も、身について、公卿真似の、優雅をつねに忘れない。
身だしなみもいい。執務もまじめである。有為な青年だ──と、たれにも、感心されている。
勤めている蔵人寮に、余暇があると、かれは、小野道風の家へ、書道を習いに通っていた。
道風は、紀貫之などとならんで、当代随一の名筆家といわれて、その道においては、名声ある人だったが、家へたずねてみて驚いたことには、その屋敷のひどい貧乏さであった。──が、考えてみると、かれの官における身分は、少内記にすぎないのである。史生や書記生に、毛が生えただけのものである。
それでいて、年はもう六十をこえ、子が多く、孫もたくさんいる。書斎の板縁は腐っているし、蔀や妻戸もガタガタなのだ。そして、邸内の草茫々たる一隅には、幼児のおむつが干してあったり、幼子が、食物をねだって泣きぬいている声までが──やしきは広いが──何となくつつ抜けに、風も一しょに通っている。
だが、道風は、書家である。筆硯のそばに、いつも独自の天地を楽しんでいるふうだ。しかし、この老書家は、行儀がわるく、夏など、冠だけはかぶっているが、羅の直衣の袖などたくしあげて、話に興ずると、すぐ立て膝になり、毛ぶかい脛や腕をムキ出しに談じるのである。
はなし好きで、文学のことになると、すぐ熱しるが、より以上、夢中になるのは、時憤であった。時局や政治について、どこから聞くのか、なかなか事情通である。そして、結論は、いつも、「閥族政治は、不可ん」──である。それから、また、
「君側を、清新にしなければだめだ。もう小手先の、小政策では、どうにもならない。藤原氏が政権を離さないうちは、それも見込みはない。……が、いまに見て居給え。こんなことを、やっているうちに、何が、起るかしれんよ。天を畏れざるも甚だしい。民は、ウジ虫じゃない、人間だからね。この人間が、地の底に、怨みをふくむこと久しいと、やがて、地熱になり、地殻が、揺れ出すよ。地震だな、大地震がやってくる。──道真の死を、怨霊とふるえ上がったくせに、まだ、性コリもなく、政権にしがみついている。こんどは、何が襲ってくるか分らん。わしには分るな。それがどんな怨霊かは分らないが、襲ッてくることだけはたしかだよ」
というふうに、時もわすれ、舌禍の難も知らぬげに、残暑の蠅を、蠅叩きで、叩きながら、藤原氏の華奢我欲をののしり出すのである。
こうなると、いつ果つべしとも見えない気しきなので、きょうも、そこを訪ねていた常平太貞盛は、
「先生。……実は、ちょっと今日は、さるお方の許へ、寄り道しますので……」
と、逃げ腰をうかせた。──すると、道風は、
「アアそう……」とかろく舌鋒をおさめて、自分も、乾いた硯の蓋をしながら、
「寄り道? ……どこのお館。歌の会でもあるかの」と、たずねた。
貞盛が、いつも愛顧をうけている右大臣家の御子息、九条師輔さまの所へ──と答えると、急に、それで思い出したように、道風は、立て膝を上げて、かたわらの書棚から、一帖の書の手本を取り、無造作に、彼に托した。
「長いこと、お頼まれしていたのじゃが、気がすすまんのでね……放っといたが、ついでがあったので、書いといたよ。これを、師輔君に、さしあげてくれい。……書いてあげたところで、どうせ、ろくな手習いもしまいがね」
「かしこまりました。では……たしかに、おあずかりして」
と、貞盛は、匆々に、そこのあばら屋同然な門を辞した。
その夕べ、師輔に会い、書の手本を、渡した。そして、いつものごとく、和琴を合調せ、灯を見てから、帰ろうとすると、ここに仕えている弟の繁盛が、
「兄上。ちょっと、お顔を……」と、自分の小部屋へまねいて、こういった。
「相馬の小次郎が、都へ来て、右大臣家に仕えていますが、まだ、御存知ありませんか」
「……小次郎か」と、ちょっと、いやな顔をして──「おまえは、会ったのか」
「え。いつぞや、宮門の御輦溜りで、会いました」
「あまり親しくせんほうがいいな」
「なぜですか」
「常陸の父上から、そういって来ている。わしも、一度おまえに、注意しようと思っていたのだが……」
「はて。でも、その父上が、右大臣家へ、添え状を書いて、特に修学させてくれと、御依頼申したのではないのですか」
「修学なんて、あの男に、滑稽な望みだよ。田舎にいたときから、粗野で暴れンぼで、人にも、嫌われていた小次郎だ。良持どのの亡いあとは、父上が、あれの大叔父として、あとあと、家のつぶれぬよう、一族や召使の将来も見てあげなければならん立場にある……。そういう点から、小次郎の性格は、おもしろくないと思っておられるらしいな」
「じゃあ、小次郎に、豊田郷の跡目は継がせないおつもりなのでしょうか。しかし、そうはいっても、小次郎は、まぎれもない良持どのの長男だし、私の見るところでは、そう悪くいうほど欠陥のある性格とも見えませんが」
「繁盛、繁盛……」と、貞盛は、兄として、たしなめるような眼で──「めったな臆測を、みだりに、口へ出すものじゃない。何事も、父上のお旨によって、わしはいっているのだ」
「他人には、そんなこと、申しはしません」
「おくびにも……。よいか」
貞盛は、すぐ立った。
いつぞや、小次郎と約束したことなど、何も、いい出さないうちに──である。でも、繁盛は、小次郎への返辞もしなければならないと思い、兄を送って、邸外まで歩いた。そして、それとなく、小次郎の希望をいってみると、貞盛は、ニベもなく反対した。
「そんなこと、師輔様へも、右大臣家へも、お頼みできるすじのものじゃない。よせよ、よけいな、おせッかいは」
それから、こうもいった。
「わしだって、いつか、応天門の附近で、あれに会っているよ。その時、小次郎が、物欲しそうに、何かいいかけて来そうにしたから、あわてて、身をそらした程なんだ。右大臣家でも、雑色の中へ入れて、小舎人ぐらいにしかお用いになっていないじゃないか。それを見ても、わかることだ。あんな者に、親類顔されたり、妙に、親しくなって来られたら、われらまで、同じように、周囲から見られてしまう。それは、出世の障りにこそなれ、なんの益にも足らないということは、おまえにだって、分るだろ」
繁盛は、兄のうしろ姿を、夜霧のなかに見送って──なにか、兄弟ながら、冷たい人だなあと思った。
しかし、彼には、兄の意にそむいてまで、小次郎のために、単独でうごく勇気もない。
ただ、それからは、努めて、小次郎に会わないことのみ、心がけていた。
小次郎の「都への恋」は、ようやく懐疑にかわってきた。
都を知らないがための都への恋は、おなじ夢の子が、みな、いちどはひとしく味わう滅失の苦杯ではあった。小次郎とても、おおむね、多くの世の夢の子たちと、おなじ轍をふんでいたわけである。だが彼自身にとれば、独り自分だけに限っている薄命みたいにうけとれた。
「右大臣家は、おれを、一生涯でも、輦宿の小舎人のまま、飼いごろしにしておくつもりだろうか?」
若い前途を、いたく脅かしたこの不安不平は、以来、小次郎の胸に、癒えがたい深傷となった。
東国の客、秀郷が、右大臣家を訪れたさい、主の忠平が秀郷にもらしていたことばに依って、彼は、自分の運命の前途が──いや、前途も何もない、これッきりなものだという運命を──初めて、身に知ったのであった。
「大叔父の国香も、ほかの叔父めらも、ていよく、おれを故郷から追ったのだ。……右大臣家への、頼み状は、おれを都へ捨て子する、身売り証文もおなじだったのだ」
今にして、それを知ったものの、東国の遠さ、現在の境遇。──うらみは、独りの中で悶々と、独りを燃やすだけに過ぎない。
──故郷の小さい弟どもは、どうしているか。牧の馬は、どうなったろう?
郷愁も、また、不安を手つだう。
殊に、大叔父の国香の、肚ぐろい遠謀が、あきらかに、読めてきた今では、都にとどまって、空しい希望にすがるよりは、いッそ、東国へ帰ろうか──とは、何度も考えたことだった。
「だが。帰ったら、叔父たちが、どんな顔するか。大叔父たちの勢力をむこうにまわして、自分の小さい力が、どれほどに対抗できるか?」
必然な、恐いものが予想されてくる。おそらく、自分の帰国を待つものは、弟と、馬ぐらいなものだろう。たくさんな奴婢、家人とて、信じられない。いわんや、大叔父たちを怖れている一族がいい顔して自分を迎えるはずはない。──こうふりかえると、帰国の途への不気味さは、都にとどまる空しさより、もっと暗い予感と、怨みとを、伴うのであった。
「……いや、今は帰るまい。帰ってもだめだ。おれさえ、一人前に成長すれば、自然、時が解決する。……また、いつかは、忠平公も、事情を知って下さるだろう。辛抱のしどころだ」
小次郎は、思い直した。
かくて、ひとりの輦舎人は、せッせと、輦の輪を洗い、牛を飼い、日ごと、参内する主人の轅に従って、勤勉を旨とした。
そして、大内裏の供待では──
「繁盛どのは、来ていないかしら。あの頼みは、どうなったろう」
と、いつかの約束による彼の返辞を楽しむことも久しかったが、繁盛の主人九条師輔の輦がここに見える日でも、繁盛のすがたは、あれきり見かけない。
年は暮れて、延長二年の春、忠平は、左大臣に昇った。
任官式やら、諸家の賀の参礼やら、春日社参やら、ひとりの大臣の昇格に、朝廷も洛内も、まるで国家の慶事みたいに騒いでいる一日。──左大臣家の玄関へ、〝勧学院の歩み〟が賀をのべるために、練って来た。
〝歩み〟というのは、行列の意味である。
勧学院出身者の、同い年ぐらいな学生や公達が、冠のおいかけに、藤の花を挿し、直衣の色や沓までもおそろいで、華々と列をつくり、祝う館の玄関へ来て、賀詞を呈し、賀を唱歌して、ひきあげてゆく。
藤原氏の誰かが、昇官したとか、朝廷によろこびがあるとかすると、かならずこの〝勧学院の歩み〟を、そこの門に見るのが、例であった。もともと藤原氏が創て、藤原氏の保護のもとに、学院経済も維持されているためである。
それはともあれ、小次郎は、当日、その〝歩み〟の中の一人に、繁盛の姿を見た。また、繁盛の兄──貞盛の姿も見た。
「あ。……従兄たちがいる」
と、気づいたとき、たしかに、二人とも、自分の方を見たような気がしたが、なぜか、貞盛も繁盛も横を向いてしまった。あきらかに、避ける様子が感じられた。
この事についても、彼は、かなり時をおいてから、やっと悟ったような顔をした。
「……そうか。考えてみれば、二人とも、国香の息子だ。大叔父の腹からいっても、おれをよく思っているわけはない。おれは、何たるおめでたい男だろう。そんな奴らを、従兄と慕ったり、頼み事の吉報を、正直に、待ちこがれたり……。ああ、おれは国香の書状に書かれたとおり、ほんとに、愚鈍な生れかもしれない」
彼は、自分の馬鹿にも、気がついて来た。
忠平はよく肥っている。ぶよぶよな餅肌だった。そこで、小一条の左大臣は、夏まけのお質といわれ、宮中の定評にもなっている。当人もそれをよいことにし、よほどな政務でもないかぎり、真夏の参内はめったにしない。
しかし、小一条の館の管絃は、毎晩のようであった。宴楽には、倦むことを知らないらしい。もっとも、加茂川の上流から三十六峰は庭のうちのようだし、泉殿や釣殿の下には、せせらぎを流して、ここでは、暑さをいう遑もあろうはずはない。殊に、紫陽花の壺は、対ノ屋から長い渡り廊下をへだて、内裏の弘徽殿も及ばない構造といわれている。
むかし、河原左大臣源融は、毎月二十石の潮水を尼ヶ崎から運搬させ、その六条の邸にたたえ、陸奥の塩釜の景をうつして、都のたおやめを、潮汲みの海女に擬し、驕奢の随一を誇ったというが、忠平には、それほどばかな衒気もない。むしろ、実質主義である。紫陽花の壺には、たったひとりの佳人しか、かくまっていない。
佳人の名は、壺(庭、建物の称)の名をとって、紫陽花の君とよばれている。天皇をはじめ、総じて、一夫多妻はあたりまえな慣いとされている世なので、この君が、忠平にとって、何番目の夫人というべきかなどは、詮索のかぎりでない。けれど、いぶかるべきは、かりにも、時めく大臣の愛人であるものが、いつのまにか、いつからここに住むようになったのか、邸内でも知る者がないのだった。それのみか、氏素姓を何よりやかましくいう階級において、この君の身元についても、誰知る者もないのである。
この不審が、もっとも露骨にささやかれているのは、下司の陰口といわれる通り、何といっても、下部の仕え人たちである。
「……見たか」と、いい、「……いや、見ぬ」といい。
「おれは、ちらと、垣間見たぞ」というのがあれば、「じゃあ、おれも何とか、いちどは覗いてみなくては」と、秘苑の花に妄想をもつのであった。なべて、高貴な上淫に異様な、妄念にこがれるのは凡下のつねで、そのささやきは、餓鬼が壁をへだてて、隣の食物のにおいに美味を想像するのと異ならない。声こそヒソヒソだが、凄じいの何の、いうばかりもない。
その紫陽花の壺へは、老家司の臣賀のほかは、庭掃除の舎人でも、男は、ゆるしなくは入れぬことになっているが──麗人を見たという幸運なる一人の雑色のはなしによると、「お年ごろは思いのほか、二十四、五に見られたが、それはもう、この世のひととは思えない。夏なので、白絹にちかい淡色の袿に、羅衣の襲ね色を袖や襟にのぞかせ、長やかな黒髪は、その人の身丈ほどもあるかとさえ思われた。櫛匣をおき、鏡にむこうておられたのを、なかば捲かれた御簾ごしに見たのだが……」などと、乏しいかれらの形容詞ではなかなかいいきれない程に、艶なるさまを、説明して聞かすのであった。
小次郎も、それは幾たびか耳にして、ひとしい物好みの血を、彼も人知れず掻きたてられていた。ところが、はからずも──それは、短夜も明け遠い気がするほど寝ぐるしかった土用の真夜半、おもいがけなく、紫陽花の君のすがたを、あらわに、しかも目のあたりに見得るような、一つの事件にぶつかったのであった。
彼は時々、こっそりと、館の裏へ抜け出して、加茂川の中に身を沈め、独りジャブジャブと夜を水に遊ぶ習慣をもっていた。からだの垢や汗を流すばかりでなく、自然なる水の意志や生気と戯れあって、本来の野性と、若い体熱に、思いのままな呼吸をさせる楽しさが、何ともいえぬよろこびだった。
これは、彼ひとりでなく、他の多くの下部でも、たそがれ過ぎには、皆やる水浴であった。しかし彼のばあいは、蚤虱に寝もだえる夜半だの、未明の頃に限っていた。人知れず、寝どこを抜け出し、加茂川と一天の涼夜をわがもの顔に、河鹿と共にあることが、ひそかな愉悦であったのである。
──その晩も。いや、もう五更の頃であった。例のごとく、まっ裸になって、清流に身をなぶらせていると、対岸の糺ノ森の下あたりから、一群の人影が川原の方へ降りて来た。うち七、八名は、浅瀬をこえて、こっちへ渡って来る様子。──はてな? と見ているまに、それらの者の影は、小一条の館の裏手に、ふたりほどの見張をのこし、あとはみな、紫陽花の壺の築土をこえて、中へ掻き消えてしまったのである。……小次郎は、終始、眼をまろくして見ていたが、やがて、愕然と、気がついた。
「あっ……。群盗だ。……とうとう、ここへもやって来た」
およそ、盗賊の跳梁ぶりは、いま、いかなる貴紳の第宅でも、その出没の土足に、まぬがれている館はない。
この夏の、公卿の別荘のさびれは、一つは、その脅威だといわれている。つい五月雨ごろには、内裏の御息所にさえ、不敵な怪盗が、ある行為をのこして去ったという程である。
──が、さすがに、時めく、小一条の左相の邸には、まだその騒ぎが、今日まではなかった。人の盛んなるときはこうしたものかと世間でもいっていた。
しかし、いま、小次郎が眼に見たのは、たしかに、ふつうの人間の群ではない。折ふし、時刻も丑満をすぎて、五更にちかく、しかも見張らしい影は、対岸の川原にも、一かたまり残っているし、築土の下にも立っている。三段がまえの忍びこみである。盗賊にしても、鼠賊ではない。左大臣忠平の紫陽花の壺を目ざして、組織的に、もくろみを果たしにかかった群盗にまちがいない。
「たいへんだっ……。ただ事ではない」小次郎は、水から飛び出しかけた。
だが、両岸に、見張がいる。うかつに、立ったら一矢であろう。彼は、着物をおいた所まで、細心に、這って行った。肌も拭わず、身にまといかけた。一瞬のまに思われたが、その間に、群盗たちは、すでに、ぞんぶんな行動を仕遂げたものとみえる。内から一つの門をあけ放つと、なだれを作して、川原の土手を馳け降りて来た。
小次郎が、すぐ眼のまえに、紫陽花の君を見たのは、このせつなである。
思うに、悲鳴を聞かなかったので、紫陽花の君は、気を失っていたものにちがいない。ひとりの男の小脇に抱えられた彼女の顔は、黛をふさぎ、眼をとじて、何の苦悶のさまもない。白いえり首が、だらりと黒髪に巻かれていただけである。そして一名の獰猛そうな男が、彼女の両足を裳裾ぐるみ持っていた。二人がかりで、ひきあげて行くのだ。ほかの仲間も、離れ離れに、浅瀬をえらんで、ザブザブと、もとの対岸へ、渡って行く──。
「待てっ」といったのか「泥棒っ」と怒鳴ったのか、小次郎には、わきまえもなかった。意識にあったのは、瞬間に見た紫陽花の君の白い顔だけだった。その美しさが、彼を無謀にさせたといえよう。いきなり、賊の毛脛へしがみつき、力いっぱい、持ち上げたのだ。ついでに──彼女の足の方を持っていた男の横顔をも、撲りとばした。
足もとに、石ころや河鹿はいても、まさか人間がいようとは、賊も、思いもしていなかった。──わっと、喚きながら、紫陽花の君を抱えたまま、浅瀬のしぶきへ、よろめいた。そして大声で、これも先へゆく仲間の者へ、何か怒鳴った。
まっ先に、そばへ来たのは、一ばんさいごに、館から引きあげてきた賊の頭目らしい男だった。
「何を騒ぐ。騒ぐこたあない」
と頭目は叱った。さすがに落ちつき払ったもので、すぐ小次郎のうしろへ廻って、襟がみをつかんでしまった。そして、
「こんな小舎人一匹。おれが片づけるから、てめえたちは、さっさと、女をかついで、川を渡ってしまえ」
と、部下へいいつけた。
小次郎は、首をあげて、彼等の行方を見ようとしたが、たった一つの拳を襟がみから離すことができない。……が、ふと見ると、頭目は左の手に、鉾に似た長柄の刀をさげている。小次郎は、その柄をつかんだ。
これには、頭目の男も愕いたらしく、
「小ざかしい奴ッ」
と吠えて、大きく振り放そうとした。ところが、小次郎は両手を懸けてしまったし、男は、左手だったので、勢いは、小次郎を利し、小次郎のからだが、ぶん廻しみたいに廻った代りに、長柄は、彼の手に移ってしまった。
「たたっ殺すぞっ」
頭目の男は、さそくに、野太刀をひき抜いて、炬のごとき眼を、彼にそそいだ。小次郎は大いに怖れた。過って、武器を手に得たことを悔いるように、長柄を捨てて、逃げかけた。
すると、頭目の男は、からからと笑って、
「おい待て。相馬の小次郎。おもい出せないのか。八坂の不死人を」
と、いって、また笑った。
「あっ? ……。オオ、覚えている。……八坂の下で、焚火にあたっていた中の一人だ」
「おぬしは、まるで蝦夷の子みたいな、都上りの童だった。あれから何年たったろう。……しかし、おれは、おぬしが平良持の長男、相馬の小次郎だという事も、おぬしが、常陸の大掾国香の書状をもって、忠平の館へやって来たことも、その手紙の中の文句まで、ちゃんと、覚えているがどうだ。もの覚えがいいだろう」
「ええ。どうして、そんな事まで、知っているのですか」
「はははは。タネ明しをすれば、おぬしを、あの翌日、刑部省の獄舎から、小一条の館まで、送ってくれた放免(目明し)があるだろう。あの放免も、おれの手下さ」
小次郎は唖然たるばかりである。不死人の傲岸さや、悪党口調が、何か、英雄のように見えさえした。──と、不死人は、急に親しみをみせ、
「……が、小次郎。おぬしも、だいぶ都を知ったろう。いい若者になったといえる。いちど、どこかで、ゆっくり飲み合おうじゃないか。そうだ……さし当って、おぬしに一手柄たてさせてやる。まあ、そこの土手の下へでも坐って話そう」
逃げるに急であるはずの賊が落ちつき込んでいうのである。けれど、仔細を聞いてみれば、そうあわてない理由もわかった。不死人は、左大臣忠平の、痛い弱味を、握っている。──今ごろは、おれを、追うにも追えず、泣きベソをかいて、独りもだえているだろうよ。彼は、あざ笑って、小次郎に話すのだった。
紫陽花の君というのは、もともと、女の本名ではなく、忠平が、彼女を奪って、この小一条に、かくまってから後、仮に呼び慣わせているにすぎない。まことの名は、清原の藍子といい、雅楽寮の名手、清原恒成の妻であり、婚して、まだ、二年ともたたないうちに良人を亡くした若後家の君である。
忠平は、かねてから、藍子の容姿に、食指をうごかしていたので、さまざまな手だてをつくして、射落そうと試みたが、藍子は、うるさく思ったか、かえって、紀貫之の甥で、紀史岑という、いとも貧しい一朝臣の家へ、再嫁を約してしまった。──と知って、憤った忠平は、まだ冬の頃の雪の一夜、滝口の武士をつかって、藍子を襲い、一時、洛外に隠しておいて、いやおうなく、この紫陽花の壺へ、やがて移していたものである。──だから、正しい恋愛でもなければ、野合ですらない。暴力と権力で、ひとの妻を、奪ったものだ。それをおれが、また奪うのは、不義ではない。不死人は、そう傲語して、はばからないのである。
「ところで、小次郎……」と、彼は声を落して──「おぬしは、左大臣の召使だ。ここでひとつ、手がらを立てろ。な……こうして」
と、何か一策を、ささやいた。
そして、やおら立ち上がると──
「じゃあ、待っているぞ。八坂の塔で」
不死人は、さいごに、念を押すと、それこそ、燕が川を擦るような迅さを見せて、たちまち、加茂の向うへ渡って行った。
気がつくと、一乗寺の峰のふところから、白い雲が、ゆるぎかけていた。その辺りの白雲がゆらぎ出すと、いつも峰の肩に、夜明けの光がほの白むのが近い兆しである。──小次郎は、肚をきめて、盗賊たちが出た裏門から、紫陽花の壺へ、駈けこんで行った。
「──大臣。大臣」
開け放されてある妻戸のひとつから入って、奥まった一間のうちへ、こう呼ぶと、うめきが聞え、そして、誰じゃ? ……と、恐々いう声がする。次の間あたりから、小次郎が、
「小次郎です。輦宿の小舎人、小次郎にござりますが、裏御門のほとりで、賊を見かけて、戦って来ました。──何も、お怪我はございませぬか」
というと、忠平は、非常に驚いたらしく、かえって、しばらくは、うんもすんも答えなかったが、ややあって、
「たれでもよい。はやく、儂の縛めを、解いてくれい。憚らいでもいい。入れ……早く」
と、あたふたいった。
彼は、まっ裸にされて、柱にくくしつけられていた。あちこち、蚊にくわれたあとが、おかしいほど、腫れている。こよいのみは、この大臣も、わが美味な血を、蚊の歓宴に施していたのである。
「賊を見かけたなら、壺の君が、攫われて行ったのも、見たであろう。……彼女は、どうした。彼女の身は」
「藍子さまのお行方ですか」
「なに……」と、呆れるばかり驚いた表情をして──「ど、どうして、そちは、彼女の名を、知っているのか」
「賊の頭目が、そう呼びました」
「ああ、あの悪魔めが? ……。して、そちは、斬り合ったのか」
「はい、ちょうど、今晩は、いつもより早くに目ざめ、牛に土手の草を飼っておりました。怪しと見て、追いましたところ、大勢は、藍子さまをかついで、先に、川の彼方へ渡りこえ、あとに残った賊の頭目が、こう申すのでございました」
「どういった……。どう?」
「藍子の身が、いとおしかったら、二日のうちに、砂金一袋を持って、うけとりに来い。その日が過ぎたら、女の体は、おれが自由にしていると思え。飽いたら、浪花江の遊女に売りとばすから、探して、買いもどしたらよかろう。……と、かようにいい放って逃げ失せました」
小次郎は、そうしゃべっている者が、自分ではないように、一息にうまくしゃべれた。
たれにもいうなよ。──小次郎はかたく口どめされた。もとより大臣のおん為に悪いような事、何しに口外いたしましょう。小次郎は答えた。ただちに、彼は、信頼を得た。
約束の、翌々日の夕がたである。
彼は、忠平からあずかった砂金の一嚢を携え、八坂の塔の下へ行った。
たれもいない。不死人も来ていない。
清水寺が峰ふところに建立されても、このあたりは夜に入ると、怪鳥の羽ばたきを聞くような淋しさである。老杉の上に、夕月を見た。やぶ蚊が襲ってくる。通る僧侶もない。
「やあ、来ていたのか」
待ちあぐねて、放心していた頃、いきなり木蔭から不死人の声だった。小次郎は、おとといの、結果を告げて、
「お約束の物です」と、すぐ、金を渡した。
不死人は、大笑いして、受け取ると、うしろにいた手下の男へ、
「禿鷹、預かっておけ」と、右から左へ渡して、なお何やらいいのこすと、小次郎を見て、こう誘った。
「そこまで、一しょに来ないか。仕事はうまく行ったし、涼やかな晩だ。約束どおり、飲もうよ、今夜は」
小次郎にとっても、小一条に仕えて以来、かかる自由を得た夜は初めてである。殊には、いまや主人の忠平も、自分に負け目をもっている。それだに、愉快でならないところへ、彼は、不死人という人間に、先夜以来、甚だ心がひかれていた。これが、賊とよばれる悪人だろうか。信じられない程、何か、あたたかなものを感じていた。──そうだ、少年の日、大結ノ牧の馬にも、こういう情愛を感じていた。彼は、およそ父と死に別れてから、そういうものに、飢えていた。馬にすら、盗賊にすら、それを感じると、離れがたいここちになる。
意外だった。不死人に誘われて来た家は、四条六角堂の木立を横にした大きな公卿やしきである。このあたり、おちこちに、門戸のみえる第宅も、みな然るべき朝廷の顕官が多い。──不死人は、大きな平門の袖扉をたたき、まるでわが家のようにはいって行った。式台に出迎えた青侍にも、一瞥をくれただけで、
「おられるか。純友は」
といった風。
はばかる小次郎を、ふりむいて、
「友だちの家だよ。上がり給え」
先に立って、長い渡殿をゆく。廊の間──やがて対ノ屋の広間とおぼしき燭が見えると、大勢の笑い声がそこに聞えた。
「やあ。寄っていたのか」
「おう不死人か。よい折へ」
どれが主人やら分らない。小次郎には、いずれも同じ公卿の公達か、どこぞの御曹子たちに見える。
各〻、円座を敷き、広床もせましとばかり、杯盤を、とり乱していた。貴族の子弟たちにしては、殺伐な光景でもある。しかし、この部屋、人々の服装は、官職のところにしても、朝臣以外な者たちではない。
「これは、左大臣家の小舎人、相馬の小次郎という者……。生れは、東国だが、父は亡き平良持。面がまえを見てもらいたい。なかなかたのもしげな若者だろうが」
これが、不死人の紹介のことばであった。
──そういう不死人も、思い合すと、初めて、八坂の焚火の仲間で見たときも、今夜の姿も、まぎれなく、公卿くずれにちがいなかった。市井の無頼漢とは、趣を異にしている。
「あ。……そう」と、正面にいて飲んでいた青年は、こっちを向いて、すぐ、気がるに杯を、小次郎へさした。
「私は、南海の海賊といわれる藤原純友です。それにおるのは、小野氏彦、紀秋茂、津時成などで……どれも隔意のない友人ばかり。暢気者の集い。気がねな者はひとりもいません。君も気楽に飲ってください」
──海賊とは、冗戯であろう。小次郎は、うち消して、笑っていた。
だが、主はこの人にちがいない。そのうちとけた親しみぶりは、むしろ小次郎を、まごつかせた。彼は、ちがった世界にあるような気がした。
公卿の子弟といえば、笛でもふくか、歌の一つも作るしか、ほかに能のない公達輩でも、みな衣冠を飾り、牛輦にかまえ、人を見ること芥のようなのが、すべてである。ところが、ここには、主の純友始め、たれにも、そんな臭気がない。
虚飾や権力のそれがない代りに、汗や垢のにおいは、誰にもする。直衣、狩衣、布直垂など、まちまちの物を着、袖を捲りあげて、夏の夜らしき、談論風発である。かたわらには皆、太刀をおいていた。
そのはなしも、小次郎には、耳めずらしく、また、事々に、未知への驚異であった。
いまは無人で、いと荒れ古びてはいるが、ここの邸が、宏大なのは、ふしぎではない。純友の祖父、藤原遠経の代に建てられた館である。
遠経は、陽成、光孝の二帝の朝に権威をふるって、大氏族藤原の繁栄をひらいた関白基経の弟である。
基経の次男、時平は、左大臣の栄職にのぼり、菅原道真と、廟堂に権を争って、ついに道真を駆逐したほどな政治的手腕の男であった。
いまの、小一条の左相忠平は、父や兄の余光を継いだものにすぎない。無能とは、いわれながらも、氏の長者、宮廷の権与、ふたつながら、しかし、彼のものだ。
──ところが、おなじ摂関家の孫でいながら、藤原純友は、父良範の代から、地方官に追いやられていた。それでも良範はまだ、大宰少弐ぐらいまでは、勤めたが、純友にいたっては、伊予の僻地で──六位ノ掾という低い官位のまま捨て子みたいに、都から忘れられている。
純友は、不平にたえない。
「なんだ、忠平ごときが」
伊予にいても、中央の政令といえば、私情の反抗心が手つだって、素直に、服従する気になれなかった。
殊に、南海方面には、中央の威も、とどいていない。彼はつねに、
「おれの父は、左大臣忠平の従兄だ。彼の無能は、父はよく知っていた。画や管絃は、器用だが、とても政治などのできる男じゃないといっていた」
周囲の者に語っていた。そして、政令を批判し、悪政を、罵倒していた。
こういう彼に、いつか、一味の党がつくられて来たのも、自然である。
強権を発して、未納税を取りたてにきた中央の徴税船を襲って、税物の奪り返しをやったりし出して、いよいよ、純友の名は、四国では、英雄視されていた。
捨ててもおけず、官では、先ごろ、問罪使をさし向けて、純友以下──五、六名の共犯者を、都へ拉して来たのである。
「おれを、罰するというのか」
純友は、朝に出て、主税や刑部官たちを、へいげいした。摂関家の孫にあたり、左大臣忠平とは、あきらかな、縁につながる彼である。もてあまして、官でもついに、うやむやにしてしまった。説諭は、純友の方から、いいたいほどいって、退きさがった。
「どうだ。そのあとで、おれに、伊予の掾から介へ、一階級ほど、昇格の辞令をいってよこした。……忠平が、うしろにあって、おれの宥め料というつもりなのだろう。およそ、中央の政情とは、こんなところだ。滑稽とも、ばからしいとも、いいようはない」
こよい、不死人や、ほかの人々の前でも、彼は、こういって、笑いぬくのであった。そして、
「どうせ、官費で上洛のついでだ。なお、滞京して、秋までは、遊んで行こう」
とも、語っている。
胆の太さ、人もなげな大言、小次郎は、ただ聞き惚れるばかりである。
いや、もっと小次郎が、驚いたのは、紫陽花の君の藍子を、不死人たちに、盗ませたのも、この仲間うちの、紀秋茂の入れ智恵だったという事である。その秋茂も、小野氏彦も、津時成も、また八坂の不死人も加えて、すべてここに会している二十四、五歳から三十前の公達どもは、その所在と、放縦や悪行ぶりこそ、各〻ちがうが、時代の下の、一連の不平児、反抗児であることには変りがない。
──夜も更けた。小次郎は、主人を、思い出した。
「帰るのか」と、不死人は、彼の容子を見て「──女は、二、三日うちに、紫陽花の壺へ帰してやるから、腑抜けの大臣に、そう告げて、おぬしも、褒美を取ったがいいぞ。氏の長者なんていう奴ほど、肚は吝みッたれだから、よこせと、押しづよく、いわねばだめだ。おぬしは、気が弱い。強くなれ、強く」
と、けしかけた。
すると、純友や秋茂たちが、そういう不死人の横顔をながめながら、意味ありげに、笑いあった。
「女は、返すだろうが、女のからだは、元のとおりでは、返すまい。不死人のことだ。さんざん、楽しんだあげく、空蝉みたいな女のぬけ殻を、持って行くにちがいない。忠平に、そのあとを贈呈するのはおもしろい。……小次郎、おぬしも、あの大臣の顔を、時々、ながめるだけでも、愉快だろうが、しかし、いうなよ、その事は」
小次郎は、晩く、小一条へ、帰った。
次の朝、彼のみそっと、紫陽花の壺へ呼ばれた。ただひとりで、庭さきに、うずくまっていると、忠平は、病人みたいな顔して、廊にあらわれた。
「どうじゃった? ……小次郎。彼女は、返してよこすであろうな」
訊くにさえ、小声である。しかし、小次郎の返事を得て、忠平は、大げさに、眉をひらいた。まるで、よくきく薬でものんだように、機嫌をよくして、
「そうか。……イヤそうであったか。大儀大儀。二、三日あとになっても、ぜひはない。安堵したぞよ。彼女の体さえ、戻るとわかれば」
そして、なお、こういった。
「そちも、当家に仕えて、はや六年ほどにはなるのう。あとで、家司の臣賀に、申しておこう。……きょうよりは、小次郎を、青侍にとりたてて、遠侍の間において、働かせいと」
これは、思いもうけない、恩命であった。小次郎として、これがもし、紫陽花の君の事件がない前であったなら、地にぬかずいて、感泣したかもしれなかった。けれど彼には、ゆうべの純友たちのことばが思い出されて、感涙よりは、おかしさが、こみあげていた。
彼は、主家から、青い狩衣を、賜わった。
遠侍や、召次の士に、取立てられると、みな、その色の物を着るのである。
服色によって、人の位階や身分が、一目で分る時代なのだ。青色階級の若侍は「青侍」とも呼ばれていた。後世の、〝青二才〟〟や〝あいつはまだ青い〟などという言葉の起原かと思われる。
時に、相馬の小次郎は、二十二歳。──上京遊学してから六年目、とにかく、忠平にやっと知られ、その一人となったのである。充分、まだ青くさかったには違いない。
──その年。秋も暮れる頃である。
左大臣家の裏の河原で、口笛が聞えた。小次郎は、すぐ邸内から顔を出した。
もう、人は見えなかったが、いつもの所に、紙きれが、草の穂に、縛ってある。八坂の不死人からの連絡である。──彼は、あれ以来、その不死人とも、藤原純友たちとも、水魚の交わりをつづけていた。
(たそがれ、八坂ノ塔まで参られよ)
文面は簡にして明だ。彼は、約をたがえず、出かけて行った。手下が立っている。そして、黙って、彼を、八坂からもっと奥の──祇陀林の一寺院まで、連れて行った。
むかしは、祇園の末寺であったらしいが、いまは廃寺同様に荒れはて、不死人等の住むにかっこうな、巣となっている隠れ家である。
「やあ、小次郎」と、不死人は、彼を迎え──「ほかでもないが、いよいよ、純友たちが、伊予ノ国へ帰るというので──その送別を、どうしようか、という相談だが」
不死人は、まず、小次郎に、酒を酌した。
この仲間と親しくなってから、小次郎は、急に酒の手が上がった。酒の味と共に、人間同士の肌合いも覚え、都に知己あり、と思いそめた。
「おれの考えでは、いつも、同じ所で、色気もなく、飲んでいても、曲がない。ひとつ、純友の帰国を送りながら、一しょに、淀川を舟で下り、江口の遊女をあいてに、盛んな送別会をやろうと思うのだが……どうだ、一しょに、行かないか」
「それは、いつですか」
「明後日の朝、伏見に落ちあい、舟の中でも飲み、たそがれには、江口に着こうというわけだが」
「すると、帰りは、その翌日の晩になりますね」
「まあ、三日がかりと思えばいい」
「弱りましたな」
「どうして?」と、不死人は、彼の当惑を見て、笑いだした。
「おいおい。まさか、主人の忠平に気がねしているわけじゃあるまいな」
「でも。……やはり、召使われている身では」
「人が良いにも、程がある。──忠平こそ、おぬしに、気がねしていい筈じゃないか。ええ、おい。左大臣忠平だとか、氏の長者とか、思うからいけないのだ。──紫陽花の壺に、騒動があった晩、そこの柱にくくられて、蚊に食われながら、奪られた女の行方に、ベソを掻いていたときの裸の男を思い出してみろ。──いつも、それを頭において、大臣の前へ出るがいい。するとなんでも楽にいえるだろう」
「いや。行きましょう。──主人には、なんとかいって、暇をもらい、ぜひ、同行することにします」
小次郎は、つい、約してしまった。──たびたび、馳走になったり、以後、いろいろな点で、友情もうけている純友への義理からも、その壮行に、欠けるには、忍びなかった。
あくる日。──何かの事で、忠平に召されたついでに、小次郎は、三日の休暇を、願ってみた。
すると、忠平は、言下に、
「そんな事は、家司の臣賀にでもいえ」
と、ひどく不機嫌に、いい放った。
小次郎は、顔を赤くしたまま、平伏をつづけてしまった。嘘が、出ないのである。考えていた口実が、にわかに、口へ出て来ない。
「…………」
だが、この沈黙の間に、忠平も、思いちがいしていた。──家司を通さずに、自分へ、直接申し出るからには、小次郎にも、肚があっての事にちがいない。……とすると、いやな奴だ、ヘタに、紫陽花の君のことを、いいふらされても、世間がうるさい。忠平は、内心の負け目に、そう疼かれて、
「……三日のあいだも、どこへ何しに、参るのかよ。日頃は、よう勤めておるし、暇をくれぬでもないが」
と、自分の方から、いい直した。
蕭々と、目のかぎりの水、目のかぎりの葦と空。
そのむかしの淀川は、後の世よりも、河幅もひろく、そして「大坂」などというものは、まだ、地上に存在もしていなかった。
けれど、都から、西国や紀州へ行くには、ぜひ、この舟航に依ったので、旅船や小舟は、水郷の漁村に、あちこち、苫や帆ばしらを、並べていた。
「──江口は、まだか、江口は」
「右手の岸に見えるのが、鳥飼の里だから、もう、いくらもない。──神崎川と、安治川の三ツ股に、分れる川の洲。そこが、江口の君たちのいます村だよ」
「思いのほか、迅かったな」
「遊び男の心を乗せるにふさわしい急流だ。──けれど、後朝を、また、都へもどる日は、舟あしも遅いし、懶いそうだぞ」
「いや、後をいうまい。明日を思うまい。それが、遊びというものだ」
大河を下る一ツの小舟に、七人ほどの男が乗っていた。
伊予へ帰る藤原純友を始め──小野氏彦、紀秋茂、津時成の四人と、こちらの見送り人は、八坂の不死人、手下の禿鷹、そして相馬の小次郎の三名。
朝、舟の中へつみこんだ酒や弁当も、飲みつくし食いつくし、放歌朗吟に、声もつぶし、果ては、舟底を枕に、思い思い、ひと昼寝して、いま、眼が醒めあったところである。
「……やあ、あれが江口か。岸に、柳が見え、家かずも多く、大ふね小ふねも、おびただしく着いている──」
「やれやれ、江口の里か。日も暮れぬうち、はやく着いた。……オオ、女たちの舟が来る」
俄然、退屈は、けし飛び、遊び心に、たれの顔も、冴えてくる。
殊に、小次郎には、女護ノ国へでも来た思いがした。──彼には、人々のような冗戯も口に出ず、ただ目をみはって、近づく岸の家々と、幾艘もの、遊女たちの船に、見とれていた。
歌人で地方官吏だった紀貫之も、任地の四国から都へ帰る途中、ここを通って、水村の遊里の繁昌を、「土佐日記」に書いている。──まことに、山陽、南海、西国にわかれ去る旅人たちにとって、江口の一夜の泊りこそ、忘れえない旅情を残すものだった。
「おう、喧しいぞ」
「まるで、水禽の囀りだ……」
舟が、岸へ近づくにつれ、待ちもうけていた遊女船が、客をとらえるために、一せいに漕ぎ寄せてきた。彼女たちは、絵日傘に似た物を翳し──口々に客の舟へ何かさけびかけるのだった。──嬌声、水にひびき、脂粉波を彩る──と詩人の歌った通りにである。
いま、この遊里には、こんな話が、人々に語り継がれている──。
つい、おととしの、夏の頃。
ここから遠くない、やはり同じ淀川の岸にある鳥飼の院(離宮)へ、避暑においでになっていた宇多上皇が、ある日、つれづれのまま、江口の遊女を、たくさんに、院へ召された。そして、
「この中に、よしある人の娘もいるか」
と、訊ねられた。
ひとりが、答えて、
「されば、江口の君たちには、中君、主殿、香炉、小観音、孔雀などという佳人もおりましたが、近頃では、大江玉淵の娘、白女の君に及ぶものはありません」
と、奏した。
大江玉淵というのは、大江音人の子であるから、その孫娘にあたるわけである。
音人は、清和帝に仕え、従三位左衛門督をかね、検非違使の別当まで勤めた人であり、その弟の千里は、歌人としても、有名であった。
帝は、さっそく、白女を召されて、
「鳥飼の地名を詠み入れて、一首詠め」
と、その歌才を、試みられた。
浅みどりかひある春に逢ひぬれば
霞ならねど立ちのぼりけり
白女が、すぐ、こう詠んだので、宇多上皇は、彼女が、以前の家がらや身を恥じている心根を察して、
「よしないことを、思い出させた」
と、酔い泣きをさえ、催された。そして袿衣と襲ねを、与えたので、居合せた皇子や朝臣たちも、思い思いに、物を与え、
「何か、生活につらい事があったら、遠慮なく院へ奏聞せよ」
と、なぐさめて帰したということである。
上皇は、それからも、たびたび、白女をよんで、寵幸、ただならぬものがあったが、鳥飼の離宮には、ほんの夏の一ときだけしかおいでがないので、南院の七郎という者にいいつけて、平常にも白女の生活を、何くれとなく、後見させ──庶民の間にも少ない人情をお示しになったという。
これは「大和物語」にも載っている話で、当時、この遊里の、語り草になったことであろうが──純友、不死人、小次郎などが、まみえた遊女たちのうちには、上皇の御感に入るほどなたおや女は、どう見ても、見あたらなかった。
いずれも、白粉まだらで、髪油くさい、そして、呉越の客に、一夜妻として、もてあそばれ果てた──摺れからしの裡に哀愁の影のある──女たちでない者はない。
もっとも、客も客だった。
純友や、秋茂などにいわせると、
「瀬戸内の、鞆ノ津や、室ノ港などの女は、これよりは、もっと、品が落ちる。……やはり、江口の君たちには、どこかまだ優雅なところがある──」のだそうで、いずれも、その夜は、満悦のていだった。
七人は、一楼に上がって、宵から夜半まで、飲みつづけた。
踊りもし、歌いもし、およそ遊ぶ手だてが尽きるほど、遊び呆うけた。
「ああ酔った。こんなに、飲んだことはない──」
小次郎は、眼まいを覚えて、ぶッ仆れた。そのまま前後不覚に寝入った。……そして、ふと眼をさました時は、川や海に近い水郷の常として、そこらの壁や、夜の具まで、じっとりと、水気をふくみ、自分のそばに、もひとり黒髪をみだしたものが寝くたれていた。
夜は白んでいるが、カタともせず、家の中はまだ夜である。──正体なく、そばに寝ている女は、ゆうべ、酒席にいた遊女のひとりに違いあるまい。が、小次郎は、初めて、見る女のように、ぎょっと、寝顔に眼をみはった……。そして、なぜか、睫毛に涙をすら、にじませた。
「……蝦夷萩。……死んだ蝦夷萩と、瓜二つだ。これは、彼女の生れ変りではないのかしら?」
そう思われるほど、小次郎が十四のときに初めて知った、美しい奴隷の娘と、よく似ていた。
彼は、卒然と、寝醒めのうつつに、坂東平野の牧の馬小舎を思い出した。馬の寝ワラの中で、年上の奴隷の乙女に愛撫されたときの匂いが、そばの女からも嗅ぎ出されていた。そっくり、その時のような幻想と野性をもって、いきなり寝顔の唇へ唇を圧しつけた。女は、ア……と軽く驚いて、眼をあいたが、男の遠慮ぶかい四肢を、いきなりふかぶかと抱擁した。そして小次郎の、過去ともつかず、今ともつかぬ、幻覚と妄想を、野火のような情炎で焼きつくした。
霧もふかく、夜も明けきれていないので、柳の木々は、雫をもち、大河の水もまだ眠たげで、江口の岸に、波騒いも立てていない。
「……どこ? 生れた国は」
小次郎は、女とならんで、散りかける柳の水際を、歩いていた。自分たちの宿もまだ寝ているし、同じような屋造りの遊女宿も、商い家も、いまが夜半のように、ひそまっている暁だった。
「……東国ですの」
女は、答えた。年は、十八という。──そして、睫毛の黒さや、小麦色の粗い皮膚。笑うと、虫の蝕っている味噌ッ歯の見える唇もとまでが、蝦夷萩と、そっくりである。やはり、東国の蝦夷の血をもっていたのかと、小次郎は、愛着に、燃えるような眼をして、見直した。
「じゃあ、売られて来たんだね。──東国から」
「ええ。……おっ母さんが」
「あ。そうか。おまえは、何も知らない、子どものうちにか」
名は──と、たずねると、
「草笛といいます……」と、小声だった。
小次郎は、率直に、おれも、坂東の生れだから、何だか、おまえが好きだ。また、きっと、通って来る──といったりした。
草笛も、商売のうそや、おざなりではないらしく、私も、何となく、あなたが好きです、きっと、忘れないで……と、ながし眼に、いった。
幼稚な客に出会って、彼女も、幼稚な娘のときめきを、真実、共に持ったものかもしれない。恋は、幼稚なほど、当人たちには、楽しい筈である。
あたりの、明るくなるにつれ、ちらほら、舟もうごき、人影も見えだして来た。二人は、もとの宿の方へ、帰りかけて来た。
すると、一軒の水亭から、やはり一人の遊女に送られて、舟に乗りかけている都人らしい客があった。男女は、岸と、舟の上で、後朝の惜しみを、くり返していたが、やがて、客の舟は河中に、女は、岸に立ち残った。
「あ。……?」
小次郎と、その客と、思わず、視線をあわせてしまった。──それは、従兄の常平太貞盛に、ちがいない。
貞盛も、小次郎の姿を、しかと、見たように思われる。小次郎は、理由もなく、胸さわぎを、覚えた。
「御存知なのですか」
草笛にきかれて、小次郎は、
「うム、仲の悪い、従兄なんだ。……あの男、たびたび、ここへ来るのかい」
「淡路さんのお客さまです。月に、二度か、三度ぐらいは、きっと、見えているようですよ」
草笛は、小次郎が、貞盛の従兄ときいて、なお、信頼をましたようであった。
宿へもどると、純友を始め、ゆうべの仲間は、みな起きていた。不死人は、しきりに、もう一日、ここで遊ぼうという説を主張したが、それでは、浪華から四国への船便に、また七日も待たねばならぬ。いずれまた、上洛するから──と、純友たちは、ここで旅装を調えた上、やがて、二艘の船に乗り別れ、大河のうえで、西と東へ、袂を分かった。
遊女たちも皆、船の上に、日傘をさし並べて、淀の流れの中ほどまで、一行を送りに出た。その中の、草笛の顔一ツだけしか、小次郎の眼には、残らなかった。
「これ。小次郎──」と、ある折、忠平は、彼にむかって咎め出した。
「聞くところに依ると、そちは近頃、しばしば、公務を欠いて、幾夜も、館を空けるそうだの。──言語道断な」
嘘ではない。小次郎は、恐れ入って、額ずいてしまうだけだった。
「いったい、どこの誰と、江口へなど、通い始めたのか。遊びの物代など、どこから出るのか。怪態ではあるぞ。それを、明らさまに述べねば、捨ておかれぬ。……ありのままを申せ。ありのままを」
「申しまする。……が、大臣には、たれから、そんな事をお耳に入れ遊ばしましたか」
「左様なことは、訊かいでもいい。そちのいう事をいえ。そちの、身の明しを」
「実は……」と、小次郎は、嘘を考えたが、面倒くさくなってしまって、求められる通り、こういってしまった。
「後の月、初めて、江口へ誘われました。それは、親しい友が、伊予ノ国へ帰るので、送別のため、彼処の水亭に、集まったのでございます」
「なに。親しい友? ……そちに、どんな親しい友があるのか」
「はい。伊予の六位ノ掾、藤原純友です。また、紀秋茂や小野氏彦たちとも、滞京中、懇意になりました」
「えっ、あの、純友と」
これは、衝撃であったとみえ、忠平は、穴のあく程、小次郎を、見まもった。
小次郎は、心のうちで、なるほど、純友がいったのは、嘘ではないと、感心した。
純友は、小次郎が、主人にたいし、常に恟々たるていを見て、いつか、その小心をあざ笑っていったことがある。
(こんど、何かあったら、おれの名をいってみろ。純友と、友達だといえば、あの忠平が、きっと、眼を白黒させて、以後は貴様にも、一目措くに、ちがいないから──)
小次郎は、今、その言葉を思い出して、その言の適確さに、おかしさを、かくしきれなかった。彼のそうした容子が、忠平には、なお意味ありげに、取れたものか、
「よいほどに慎め。ほかの青侍共の、てまえもあるに」
と、うやむやに、叱りを収めてしまったが、以後何があっても、小次郎参れ──と、身近くへは、呼ばなくなった。
そのうちに、突然、彼は、小一条の館から、滝口の衛府へ、勤め替えを、命じられた。
衛府は、禁門の兵の詰所である。
左衛門府、右衛門府に、各、六百人ずつの常備兵がいる。
ほかに、内庭に、近衛。外門に、兵衛の各兵部があった。
滝口にも、古くから、防人とか、健児などの、諸国の壮丁が詰めていた。御所内の滝口に兵舎があるので、滝口の衛士とか、滝口の武者などという称呼が生れた。──小次郎も、ここへ来てから、滝口の小次郎と、呼ばれ出した。
暁起の点呼、午前午後の訓練や調馬など、さすがに、皇城内の兵部だけに、きびしさもきびしいし、第一、外出がやかましい。
六衛府の長官は、中納言で、衛門督であり、その下に、金吾、大夫、尉、帯刀などの諸官がいる。
「ははあ、おれを、封じ込めたな」
小次郎にも、忠平のこころは読めた。しかし小一条にいるよりは、はるかに、羽翼が伸ばされて、決して、不愉快な日々ではなかった。ただ、かなしいのは、ふたたび江口へ通う機会のなくなった事だけである。
休暇はあるが、わずか、一日に過ぎない。郷里のある者は、郷里へも帰れるが、それは三年に一度しか、賜暇されない規則である。
「今にして、やっと、わかった。小一条の大臣へ、おれの江口通いを、いいつけたのは、常平太貞盛にちがいない。……畜生、いやにおれを、目のかたきにしやがる」
彼が、こう覚ったのも、滝口へ移って後、偶然、左馬寮の門前で、彼とすれちがったので、はっと思いついたのである。
その時も、貞盛は、
「お。……」
と、遠くから、軽く、小次郎の会釈を、眼でうけたきりで、大容に行くてへ向いたまま、去ってしまった。
以後、禁門の内では、自然、貞盛と行き会うことも多かったが、貞盛はつねに、貴公子然と構えて、滝口の平武者などと、親しみのあることは、恥みたいな顔つきだった。
衛府の武者生活は、小次郎に、苦痛ではなかった。曠野の野性に、むすびついて、彼の体躯は、いよいよ逞しくなった。
さらに、皇城内の生活は、彼の心に、新たな野望をめざめさせた。何をするにも、位官等級の差別がある。自然、小次郎の意中にも、栄達の欲望が、頭を擡げ出した。
精励した、勉学もした。何をしても、他の兵には、劣るまいとした。
特に、調馬──馬をあつかわせては、左馬寮、右馬寮を通じても、滝口の小次郎に及ぶ者はないといわれた。
四年の後、彼は、七位ノ允にまで、登った。
その四年目の春。
久しぶりに、また、伊予の藤原純友が、上洛した。──そして、純友が滝口へ誘いに来たので、連れ立って、遊びに出た。
滝口の允ともなれば、外出も、自由であった。だが、江口の草笛は、水辺の萍に似て、もう、とうにそこにはいなかった。
「どこへ行こう……?」と、純友はいう。小次郎にも、あてはなかった。
「まず、八坂の不死人を誘ってみよう。──衛府に入ってから、実は、不死人にも、あれきり一度も会っていないのだが」
「や。……じゃあ、おぬしは、都にいながら、不死人の最期を、知らないのか」
「不死人が、死んだって」
「──と、聞いているが」
「嘘だろう。うわさにも、おれは耳にしていない」
「捕まって、投獄された事だけは、嘘ではない。これは、諸国へ逃げ散った手下の一人から、直かに、聞いたことだから」
「あの神出鬼没な男が、どうして、検非違使などに、捕まったろう」
「いや、庁の手ではなく、常平太貞盛とかいう男の指揮で、突然、八坂の巣を、寝込みに襲われ──刑部省の獄屋へ投げこまれたというはなしだ。……何でも、それは左大臣家に取入っている貞盛が、忠平に乞うて、進んでやった仕事だと、いわれている」
「……知らなかった。いつの事だろう?」
「つい、この正月のことだという。貴様も知らない程では、世間へも、よほど、秘かにしているものと思われる。……察するところ、忠平としては、紫陽花の君の仕返しを、貞盛に、やらせたものに違いない」
「それが、ほんととすれば、やがては、おれの身にも、何が、降りかかって来るかも知れぬ」
「だが、どんな拷問をうけようと、不死人が、貴様との関係まで、口を割るとは思われない。その辺は、心配するにも当るまいが、貞盛には、飽くまで、気をつけていることだ。何をたくむか、予測はできぬ。──いつか、おぬしの身の上ばなしに、故郷元の事情も聞いたが」
加茂の岸を、いつか、上がって、
「おい、叡山へ、行こうか」
ふいに、純友が、いい出した。
麓で、酒を買い、それを携えて、二人は、四明ヶ岳へ登った。
春霞の下に、京洛の屋根と、皇居の諸門が、望まれた。
「……ああ、平安の都、人間の都」
小次郎は、感慨にたえない。
十六、はるばる、坂東平野から、都へ上って、初めて、京都を見た日の美しい夢や希望と、今、見ている思いとでは、余りにも、ちがいがある。
きょうの歎声は、都への、嘲笑だった。また、人間の地上への、怒りだった。
「小次郎、ひどく、考えこんだじゃないか」
「うム……。ばからしさに、唖然としているのだ。おれは、正直者だった」
「いや、その愚直は、直るまいよ。──お互いにだ」
「君は、賢い」
「はははは。賢ければ、なんで、南海の片隅に、いつまで、六位ノ地方吏などして、くすぶッているものか。とうに、都へ出て、左大臣忠平ごときに、大きな顔はさせておかない。──おれの祖父は、関白基経の弟だ。──陽成、光孝の二帝の朝に仕え、藤原氏の繁栄をひらいた基経の血すじなのだ」
純友の語気は、悲調をおび、充血した眼に、涙が光った。南海の狂児と、いつも、自嘲していう、持ちまえのものだった。
「伊予にいれば、国司の腐敗や、郡司の弱い者いじめが、目にふれて、黙っていられなくなるし、都に出れば、朝廷を栄花の巣にして、明け暮れの猟官、夜も日もない宴楽、小刀細工をして立ち廻る小人輩の讒訴だの、何だの、かだの……。この気もちの、置き場がない」
純友は、杯で、面をかくした。途中の寺院で乞うて来た杯。それを、小次郎に、つきつけて、
「飲まんか。──おぬしも、桓武天皇から六世。正しく、帝系の御子ではないか。しっかりし給え」
「そうだ。おれも……父の生きていた頃までは、故郷では、御子とよばれていた」
「滝口の下﨟ぐらいになって、出世したなどと、安んじていてどうするか。──眼にも、見ないか」
純友は、爪まで赤い手で、彼方なる平安の都を、指さした。
「──あの屋根の下に、どれ程な人間が、きょうを、楽しく、暮しているか。おおむねは、栄花の大樹の下草か、石にひしがれている雑草だ。氏の長者といい、一門の誰彼といい、藤原氏だけが、有ることを知って、無数の飢えを、地に見ようともしない。そして朝廷までを、内部から蝕っている。おどろくべき、存在だ。それを、ふしぎともしていない、この春日のうららかな昼霞に、おぬしは、血も、涙も、わいて来ないか」
「おれには、政治向きのことは、分らないが、毎年の疫痢や洪水でも、都の窮民は、みじめなものだ。──その出水の水が引かないうちに、もう公卿たちの館では、管絃の音が、聞かれ出すのに」
「いや、天災は、まだしも。人災を坐視している法はない。匡すべしだ。おれは、匡してやろうと思う」
「でも、おれたち、身分のない者が、どう思っても、初まらないじゃないか」
「見てい給え、こんど、伊予へ帰ったら、おれは必ず、何かやる。──小次郎、ここ数年のうちに、南海に変ありと聞いたら、そこに、藤原純友ありと、思ってくれ。やる、おれは、どうしてもやる」
純友の、こんどの上洛は、何の為だったか、わからない。彼自身も、その事は、小次郎に、何も語らなかった。
まもなく、彼は、ふたたび、南海の任地へ、帰った。
「不死人の生死が分ったら、分り次第、便りをくれ……」
それが、彼の残して行った頼みだった。
しかし小次郎の聞き探りぐらいでは、刑部省の内秘は分るはずもない。
彼は、一案を思いついた。ある日、手土産を調えて、唐突に、刑部省の獄司、犬養善嗣を、訪ねて行った。
「お見忘れで、ございましょうか……」と、小次郎は、耄碌しているようなその老典獄へ、土産を出しながらいった。
「もう、十年も前になります。私は、東国から上洛って来たばかりで、八坂の辺で、賊に出あい、その夜、賊の召捕りと一しょに、私も、この獄舎に、一晩、置かれたことがありました。その時の、田舎出の小冠者ですが」
「え。……もう十年も前にとな? ……。ふウむ、して、何といわれるの、おん許の、姓名は」
「相馬の小次郎といい、小一条の大臣へあてた叔父平国香の書状を持っていた者です」
「おう……思い出した。あのときの、小冠者でおわすか。思い出せぬはずよ。余りな、お変りではある」
「その折は、獄舎の内でも、また小一条まで、お下役に、案内を命じて下さったり、ご親切を、忘れぬつもりでしたが、つい、ご無沙汰しておりました」
「いや、よう見えられたな。……そして、今も、左大臣家に、お仕えかの」
「近頃は、滝口の武者所に、仕えています。実は、きょうは、ちと、お伺いしたい儀があって、出向きましたが」
小次郎は、ここで「八坂の不死人」の名をもち出した。──近頃、内裏の更衣殿を冒した賊があり、それは、不死人の仕業という者があるが、聞けば、不死人は、刑部省の獄で、とうに獄死したともいわれている。果たして、どっちが真で、どっちが嘘か。貴方なら御存知にちがいない。御内秘ではあろうが、そっと、もらしていただきたい──と、巧みに、かまをかけてみたのである。
「えっ、更衣殿へ、不死人らしい賊がはいったとな。もうそんな大胆を、働きおるか……」
犬養善嗣は、眼をまるくして、自分からしゃべり出した。
「いや、たしかに、不死人の身は、左大臣家から差し廻され、いちどは、獄へ入ったが、二晩と、ここにいず、獄を破って逃げてしもうたわ。……そのため、わしも百日の慎みをうけ、つい四、五日前から出仕したばかりでな」
髭の中から、口をあいて、笑ったが、急にまた、真顔に返って、
「──が、一切、内秘という事になっておるのに、おん許には、どこから聞いて参られたか。左大臣家から、何ぞ、いいつかってのお越しかの?」
と、不審がった。
足もとの明るいうちにと、小次郎は、いい紛らして、すぐ帰った。──そしてただちに伊予の純友へ、書状を送った。
どうしたのか、純友からは、それきり何の便りもない。
翌、延長八年は、世上に、いい事が、一つもなかった。
前年の、近畿一帯の水害で、春から、都の両京は、路傍に、餓死者の空骸がみちた。
小次郎始め、滝口の兵は、毎日、死骸片づけに、忙しかった。死骸捨ツベカラズ──の制札など、何のききめもなく、夜が明けると、あちこちに、また、捨ててあった。
京職は、病人や飢餓の者を、洛外の施薬院と悲田院に、収容したが、すぐ入れきれなくなり、さらに、関をこえて、地方の飢民まで、都にはいり込んでくる。
もう、食物のある所は、寺院と、公卿と、禁裡しかないと、いい騒がれた。
その上、夏、疫痢の流行があり、清涼殿に落雷があって、大火を起した。
人心、恟々などというも、おろかである。暴動が起らないのは、暴動を起すほどな数がみな、飢え臥しているからで、元気な者は、群盗と化し、夜々の洛内を、荒し廻った。
こういう世態のうちに、醍醐天皇は、崩御せられ、まだ八歳の朱雀帝が、皇位につかれた。──左大臣、藤原忠平を摂政として。
改元して、承平元年。──春になっても、京師の群盗横行はやまなかった。
その中に、不死人や、八坂の一味共が、ありやなしやも分らない。うわさに依れば、公卿朝臣の家人すら、それらの仲間にいるという。
にも関わらず、小一条の大臣の館では、盛大な、摂政就任の祝いが、三日にわたって催され、それをしおに、諸家の権門でも、春の淡雪に、また、春日の花に、巷をよそな管絃の音がもれはじめた。
「世の中が、分らなくなった。いちど、元の坂東平野へ帰って、弟たちの顔も見たり、父の遺産も整理して、郷土で終るか、なお都で生きるか、考えてから、人生を出直そう」
滝口の小次郎は、今年になって、こう決心した。
そこで、官を辞し、都門を去って、十三年ぶりで、郷里下総の豊田郷へ、二十九歳で帰って来た。
富士は富士のままである。武蔵野は武蔵野のままである。また、坂東の平野も、丘も、大河も、小川も、十三年前にわかれた旧山河は、そっくり、彼の記憶のままだった。
「……何ひとつ、変っていない」
小次郎は、近づく郷里の空へ、つぶやいた。
流転の烈しい都から、この無変化な、原始の原貌をもったままの天地へ帰って来て、彼は、回顧のなつかしさよりも、不安に似た寂寥にとらわれた。
しかし、さすがに、豊田郷に近づいた日は、生れた郷の土のにおいが、そくそくと、多感を呼んだ。
「おお。兄だ。──兄が見えた」
「小次郎様にちがいない。小次郎様よ」
ゆくての道に、一かたまりの人群れが見え、彼を指さして、がやがやいっていたと思うと、中から三、四人の若者が、駈け出して来た。
「兄上。お迎えに出ていました。弟の三郎将頼です」
「四郎将平です」
──それから、将文、将武などの、末弟まで、みな来ていた。
「あーあ。大きくなったなあ、みんな」
小次郎は、その弟たちの、どの顔を見ても、十三年の空間を、つよく覚えた。田舎武者にはちがいなくても、それぞれ頼もしげな逞しさだ。彼は、一ぺんに、愛情の渦に取りまかれ、
「どうだ。おれも変ったろう。おれも、二十九だからな。長い間、留守にして、おまえ達にも、いろいろ苦労が多かったにちがいない。──が、帰って来たぞ。これからは、共に働いて、父の遺した領野を拓き、仲よく家門の繁栄に努めようぞ。よく、みな揃って、元気でいてくれた。将頼も、将平も、すっかり成人して、見ちがえる程だよ。よかったなあ」
──ありがたいありがたいと、彼は、しきりにいうのである。何へ向ってでもない。ただいッぱいな感謝だった。一人一人の肩を抱き、手を握り、瞼からあふれる涙も知らずにいる。
ほかの、出迎えは、家人たちである。叔父共の顔は一つも見えなかった。人々が曳いて来た馬の背に乗り、弟たちに口輪を把られ、幸福の門へ迎えられたように、小次郎は、その日、自分の生れた家、すなわち、豊田の館へ、着いたのである。
部落の民も、この日は、業を休んで、
「館の御子が、成人して、都から帰られたそうな」
と、祝いあっていた。古い巨大な門の外には、郷の老幼が、むらがって、内を覗き込んでいる。媼や田老が、餅だの、麺類など、献上に来るし──まるで、祭の日みたいだ。古雅な太鼓や笛の音も、どこかで、している。
あたたかい人々、あたたかい言葉、あたたかい家中の酒宴。小次郎は、心も肉体も、愛撫と労りに浸りきって、眠りについた。
だが、翌日。──この巨大な構造の中の一部屋に坐って、あらためて、
「これが、父から遺されて、自分が家長として、これから営んでゆく家だ──」という、覚悟と、感慨をもった時、小次郎は、なぜか、いいしれない、空しさと、佗しさを、洞のように感じた。
父の良持がいた頃の館とは、まるで違う。その父が死に、十六で郷を離れた頃の館ともなおちがう。こう空虚なのは何だろう。
変らないのは山河だけだ。また、古い柱や梁や門だけであった。変りすぎる程、何かが変っている。
起き抜けに、彼は、広い館や柵門を、一巡した。たくさんな土倉ものぞいた。けれど、以前はそこに充ちていた稲もなく、武器もほとんど失われている。
あんなに多かった召使たちも、数えるほどしかいない。それも皆、ほかへ行き場のないような老朽や弱々しい病者ばかりである。
「蝦夷萩のような女奴もいない。……」
彼は、奴隷長屋の前の空壕をのぞいた。逃げる奴隷はいないので、そこは、芥捨て場になっている。
──冬の、崖氷柱の下に、ここへ墜ちて死んだ蝦夷萩のことが、はっきり、少年の日の思い出の一齣として、うかんでくる。忘れ得ない彼女の唇の熱さも想う。小次郎は、ぼんやりしていた。
「兄上。ここにおいででしたか。まだ、お眠りかと思っていました」
「おう、三郎か。よく寝たよ、ゆうべは。──ほかの、弟たちは、どうした?」
「今朝、早立ちして。──四郎は、石田の館の大叔父の許へ。五郎も、六郎も、ほかの叔父御の郷へ、それぞれ、手分けして、兄者人のお帰宅を、知らせに、旅立ちました」
「なんだ。放ッておけばいいに」
小次郎は、無意識にも、いやな顔いろが、出てしまった。
「おれの帰る日が、どうして、先に、分っていたのか」
「その叔父御たちから、報らせがありました」
「うウむ……。じゃあ、おれが都を立つと、追っかけに、貞盛から親の国香へ、早文でも、出していたかな?」
「何か、知りませんが、日を報らせて来ました。そして、小次郎が戻ったら、すぐその旨を、届けに来いと、いいつけられていましたので」
「なに。届けろと。……まるで官庁みたいだな。近頃、叔父共は、ここへ見えるのか」
「ええ。大叔父は、余り参りませんが、良兼様と、良正様とは、こもごもに、よく来ます」
「じゃあ、おれの留守、おまえ達の世話は、その叔父二人が、見てくれたか」
「……いえ」と、つよく顔を横に振ると、三郎将頼は、肱を曲げて、涙の顔をかくした。
「三郎。何を泣く……。おれが、郷土を立つとき、いったじゃないか。おまえは、おれのいない後では、小さい兄弟中の、頭だぞと。──あの頃はまだおまえも、十二、三の洟垂らしだったが、もう、おれに次ぐ、いい若人。何を泣く。泣き面など、見せてくれるな」
「せっかく、お帰りになったばかりの兄上に、ベソは、お見せしまいと、きのうから、じっと、気を張りつめていたのです。──兄上っ。この館には、もう、父が遺してくれた遺産は何もありません」
「見たよ。稲倉も、武器倉も、……が、たいがい、こんな事だろうとは、おれも都にいるうちから、察していた。意外とは思わない」
「私たちは、ここにいても、叔父御たちの、召使も同様でした。多少、物事が分ってからは、不平を抱かずにいられませんでしたが、いえば、言下に──。(何を申す、汝らは一体、誰に育てられたと思う。幼少に親はなく、兄の小次郎もあの愚鈍、もしこの叔父たちがいなかったら、とうの昔に、豊田の郷も、この館も、他郡の土豪に攻め奪られ、汝らは、他家の奴僕に売られているか、命もあるか否か、知れたものではない。それを、無事成人してきたのは、誰の恩か──)と、手いたく、極めつけられては、黙って、涙をのんでしまうしか、なかったのです」
「ううム。……おまえたちには、恩を着せ、そして、おまえ達の為に、父が遺してくれた財物は、みな叔父共が、こそこそ運び去ったのだろう」
「ええ。この館は、空家同然です。もう何も残っていませぬ。兄上、私たちが、失ったのではありませんから、ゆるして下さい」
「ばか。たれが、おまえ達を、疑うものか。気の弱いやつ。泣くなもう……」
「は、はい」
「いいじゃないか、三郎。家財、調度、穀倉の穀、武器倉の武器が、みんな失くなろうと、ここに、おれが帰って来た。なお、父の代に、父が開拓した広大な田野や、血をもって、父が戦い守って来た相伝の土地は、小さい末弟たちに頒け与えても、余りある程な面積だ。気を取り直して、働けばいい。父の一代を、もいちど、おれたち自身が、父になって、やり直すことだ。……なあに、土さえあれば、何が、なくたって」
「ところが、その古くからの荘園も、新田も、兄上が十三年もお留守のまに、みな三家の叔父が、各〻、分けてしまいました」
「たれに? ……。たれの物に」
「叔父たちや、叔父たちの息子の物に」
「ば、ばかな」と、小次郎は、笑い出しそうに──しかし、ちょっと、不安な眉の翳りを見せながら、吐き出すように、自分へ否定した。「そんな事が、あるものじゃない、そんな事が。──家の後継のおれはいないし、おまえ達は、幼かったから、叔父共三家で、おれの帰るまで、預かっていてくれるのだよ。そういう約束になっているのだ。おれが帰って来たからには、当然、おれに返してよこすさ」
「けれど……。そうではないと、人が、いいます。みな、勿体ないことだ。ひどい横領事だと」
「それは、他人の妬みだろう。何しろ、広大な田領だから、官へ租税を納めても、余る収入は、莫大なものだからな。それは、十三年の間、叔父共が、おまえ達の養育料として、ふところへ、入れてはいたろうよ。……ああ、朝ッぱらから、つまらない話に落ちた。おれは、大結へ行ってくるよ」
「大結ノ牧ですか」
「む、む。牧の馬どもにも、おれの帰って来た顔を、見せてやるのさ……」
「馬とても、以前のような、良い馬も、馬数も、今はおりません。老馬、廃馬が、わずかに残っているだけです」
「馬まで、持って行ってしまったのか」
「奴婢、奴僕まで、連れ去ってしまった程ですから」
「いいさ、土さえあれば。──とにかく、行って来るからな」
と、小次郎は、柵を出た。
故郷へ帰ったら、少年の日の多くを過ごした、あの牧の丘へ坐って、もう一ぺん、行く雲を眺め、那須、浅間、富士の三煙を遠望してみたい──と、それは、都にいた頃からの願いであった。憶いであった。
いま、望郷の日の、憶いはとげた。
小次郎は、一つの丘の上に坐り、ぽつねんと、少年の日のとおりの恰好で、膝を抱えた。
──が。充たされてくるなにものもない。
空しい天地。馬のいない牧場。
どうして、幼い日、こんな寂寥の中に、終日、独りでいられたのだろう。また、都にいても、折にふれ、事にふれ、恋しく憶い出されて、いたのだろう。
長くいるにも耐えなかった。
しかし、肚をきめよう。この静かな天地の中で、──この丘に抱いていた夢とは、まったくべつな現実の中に、小次郎は、考え耽ってしまった。──何よりは、一人前の男として帰った以上、これから、いやでも、自分の双肩にかかってくる家長の責任だった。
「──都へ出たのは、ムダではなかった。何は学ばなくても、おれは人間を観てきた。都を知らない弟たちとは少しちがうぞ。おれは、叔父共に、ごま化されはしない。また、怖れもしない」
しきりに、彼は、自分へむかって、呟き出した。郷土の大自然は、やはり、肉親の父に次いでの、無言の慈父であった。正しい勇気と、良心とが、さかんに、彼の若い体を励ますものとみえる。
「そうだ。人間を相手に思うまい。都にいても、人間仲間は、あの通りだ。腹ばかり立って、おれも、純友や不死人のような考えになってしまう。郷里もそうだ。叔父共の肚ぐろさには、業が煮えて、たまらないが、過ぎた事には、囚われまい。──ただ、土をあいてに、黙々と、出直そう。父の良持のした生涯を、この息子も、素直に倣って、行くとしよう。愚鈍というならいえ。お人よしと笑うなら笑え。おれには、総領の任がある。土さえあれば、おれだって、父の一代ぐらいな家門には、きっと、盛り返してみせる。いや、それ以上にもして、叔父共を、見返してやる」
帰り途に、彼は、父の代から牧の番をしていた御厨の浦人の住居をのぞいた。厩は朽ち、馬の影も見えない。ただ、破れ戸の内の土間に、白髪の媼が一人、糸車を廻して、独り、糸を紡いでいた。
──それは、変り果てていたが、浦人の妻だった。彼女は、涙をながして、良人の浦人が、もう世にないことを語って、
「やがて、和子様が、都の空からおもどりになったら、そっと、これをお見せ申しあげろというて、あの人は、息をひきとりました。……それは、もう、おととしの秋のことで、ございまするが」
と、遺書らしい物を取出して、小次郎に渡した。
その夜、小次郎は、浦人の遺書を読んで、灯に、すすり泣いた。浦人は、ひたすら、小次郎の帰国を待ち、あらゆる迫害と、貧窮に耐えつつ、さいごの最期まで、牧を守っていたのだった。遺書の終りには、こうあった。(──三ヵ所の、牧のうち。ほか二ヵ所は、すでに、良兼、良正様たちの、家人方に持たれています。そのほか、相伝の御荘園や開田地なども、どうやら、あやしげな処分になってしまいました。無念ながら、浦人ごとき老骨の力には及ばず、あるまじき非道を見ながら、病に果て終ることは、何とも心残りです。どうか、御帰国の上は、充分に、お力を養って、御家運を、盛り返してください。浦人の魂魄は、世を去っても、和子様を、お護り申しあげているでしょう……)
切々たる末期の文字をつらね、なお、幼い日に、郷家を離れた小次郎のために、当然、小次郎が相続すべき良持以来の所領の地域と、その郡名などが、細々、終りに書いてあった。
しかし、その後に、また、
(これだけは、確かに、御家門に付いている相伝の御領地にちがいありませんが、太政官の地券の下文や、国司の証などは、どなたの手にあるや、聞いておりませぬ)
と、追記してある。
小次郎は、大きな、不安に襲われた。それでもなお、よもや? よもや? ……と、打ち消したい気もちの方が勝っていた。叔父といえば、父の兄弟たちである。自分たち兄弟にも、血の濃い人々ではないか。年もみな、五十、六十という長上の年配であり、しかも、それぞれ家人郎党もたくさん抱え、困るという家柄ではない。歴乎とした土豪ばかりだ。何で、自分たち、親のない孤児の遺産など、掠め奪ろう。他人のひがみだ。邪推である。──と、小次郎には、どうしても、疑いきれないで──しかしまた、一抹の不安も、拭いきれなかった。
二、三日すると、四郎将平や、ほかの弟たちも、次々に、帰って来た。
小次郎は、将平へ、たずねた。
「常陸の大叔父(国香)は、なんといったか。──おれが、帰国したことを」
「そうか……と、いっただけでした。そして、総領の兄も帰った上は、もうわし達を、いつまで、頼っていてはいけない。親戚などは、ないものと思って、働けよ、と仰っしゃいました」
「おまえは、なんと答えたのだ。え、将平」
「……ただ、はい、と挨拶して、一晩、泊めてもらって戻りました」
「ばかにしていやがる」
沸然と、彼の心は、つぶやいた。意地のない弟にも、腹が立ってくる。しかし、将平を見ても、その下の将文、将武を見ても、みなまだ、二十歳そこそこの若者でしかない。老獪な叔父たちの眼からは、まるで、乳くさい赤子にしか見えまい。ムリもない気はするのだった。
「将文は。……筑波の叔父(良正)の所へ、行ったわけか」
「え、よろしく、いいました」
「よろしく? ……。それだけか」
「いえ。兄上にも、落着いたら、遊びに来い。わしも、そのうちに行くと」
「将武。──良兼叔父は、どうした」
「お留守でした。何ですか、新治の館に、およろこびの、招ばれ事があって、お出かけだとか、家人が申しました」
「新治の館とは、誰のやしきか」
「嵯峨源氏の、源護どのです。──兄上のお留守のうちでしたが、良兼叔父は、まえの妻を亡くされてから、その護どのの、御息女のひとりを、お娶いになりました。祝言の宴は、七日つづきで、私たち兄弟も、手伝いに、参りました」
「叔父の嫁娶りなら、おまえ達には、叔母迎えじゃないか。それが、宴にも招かれず、台盤所の手つだいか」
不機嫌な、兄の語気に、弟たちは、黙ってしまった。
──肚を立つべきではない。この孤児たちは、こう意気地なく、しつけられて来たのだ。小次郎は、すぐ思い直した。
「祝言ではないが、わが家でも、人招びを、やらねばならぬ。いつにしような。──おれの帰国披露目だ」
陽気に、いった。弟たちは、眼を見あわせた。老人みたいに、すぐ、費用の思案などするらしい。
「状を廻せ。いいか、叔父共へも。そのほか、父の旧知、もとの郎党、社寺の僧や神禰宜、郡吏の誰彼へも」
文案を書いて、彼は、弟たちへ渡した。
十荷の酒瓶を用意し、干魚、乾貝、川魚、鳥肉、果実、牛酪、菜根など、あらゆる珍味を調理して、当日の盛餐にそなえた。──おそらく、この館の古い厨房が始まって以来の煮炊きであったろう。
これらの材料は、大半、市で物交して来なければならない。小次郎は、そのため、亡父が身につけていた遺物まで市へ持って行かせた。厨の調理も、自分がのぞいて、味の加減をみたり、都風な器づかいを、教えたりした。左大臣家で覗いていたまね事にすぎないが、郷土人の眼と舌を、驚かせてやろうとする、幼稚な衒気が、はたらいていた。
──が、単なる衒気ばかりではなく、人のよろこびをよろこびとする性質は、たしかに、彼の中にはある。その日は、べつに、餅をつかせ、豊田郷の老幼に、餅を撒いた。門前にむらがった土民にも、酒だの、菓子だのを、振舞った。
客は七、八十人も見えた。
亡父の知己は、多くは故人になり、従兄の、姪のという者も、小次郎には、みな覚えのない顔ばかりだった。
むかし、仕えていた郎党たちは、客に来ても、依然、末座にいて、手伝った。その人々の眼ざしや、顔つきに、小次郎はかえって、肉親を感じた。大叔父の国香は、風邪ぎみといって来ず、筑波の叔父も、旅行といって、姿が見えない。上総介良正だけが、叔父組の代表みたいに、席に見え、人々へ、口あたりのいい辞令や杯のやりとりを、ひきうけていた。
その客の中で、小次郎にとって、もっとも、うれしい人が、来ていてくれた。それは真実、忘れ難い人なのである。
「お久しゅうございました」
小次郎は、その人の前へ坐って、いつまで、ほかを、かえりみなかった。
「御成人ぶりだの……」と、その人は、しげしげと、彼を見て、温和な唇もとに、杯をあげていた。
菅原景行である。
少年の日、この人に、あやうい一命を、助けられたことがある。──菅原道真の三番目の実子と生れ、学才もあり、人物がよくても、ついに、こんな遠国の地方吏として、一生を、世にも知られず、しかも不平もいわず、黙々と、終る人もあるかと思うと、中央の顕官権門の存在が、妙なものに思われてくる。
「どうだったね。……都は」
「お恥かしいことですが、何一つ、習い得た事もありません」
「これからは、ずっと、お国元かの」
「総領ですから」
「良持どのが、生きておいでたらなあ。……よろこぶだろうし、お許も、倖せなものだが」
叔父の良正が、じろじろ、見ているせいか、景行は、口かずを、きかなかった。そして、満座の酔が、歌や、手拍子に、崩れ出す頃、いつのまにか、そっと、先に帰ってしまった。
この夜の、帰国披露目を、さかいに、小次郎は、以後、将門と、名のることにした。
元服のときから、将門という名のりは持っていたが、都へ出たので、何となく童名のまま、つい過ぎたのである。弟たちすら、童名はつかっていない。彼は、その頃の、大家族制度のもとに、家長となり、また、将門となった。
将門の帰国が知れわたると、何となく、以前、身を寄せていた郎党や家人が、ぼつぼつ、豊田の館へ、もどって来た。
かれらは皆、大掾国香や、良兼、良正などの叔父組が、肚をあわせて、ここの田産や財物を、将門が在京中に、分け奪りしてしまった非道な事実を、知っている。
「あんな非人情な者を、主人とするのはいやだが、御子がお帰りになったと聞いたので、戻って来たのだ」
いい合わせたように、仲間同士で、語りあっている。
将門は、うれしかった。同時に、よしっ、と何か、力づよい、自信をもった。
むかし程にはゆかないが、市で、奴婢奴僕も購い、馬も買い、附近の耕作や、未開墾地へも、手をつけ出した。
が、人が殖えれば、すぐ食糧がいる。その稲すらも、稲倉にない。
「麦秋だ。毛野川の河原畑は、もう真ッ黄色だ。刈入れして来い」
いいつけて、ここ、四、五日にわたり、刈るそばから、麦束の山を、豊田の館へ、運ばせていた。
その日、将門は、奴僕と一しょに、足場の上で、土倉の上塗りをやっていた。
夏ちかい薄日照りが、この地方特有な土の香を蒸している午ごろだった。物々しい人声に、将門が、ふと、足場の上から、柵門の外をのぞくと、毛野川へ刈込みにやった郎党や奴僕たちが、怪我人をかついで、後から後から入って来る。
「どうしたっ?」
将門の声を仰いで、郎党の一人が、
「やられました。──やられました」と、子が親へ、訴えるような、声を投げた。
「喧嘩か。あいては、どこの、たれだ」
「喧嘩はしません。いきなり、向うから、大勢して、討ってかかって来たのです。──麦は、たれに断わって刈入れるぞ。ここの河原畑は、どこの所領か、知っているかと」
「相手を訊いているのだ。相手を」
「筑波の郎党たちです」
「なに。良正の家来だと」
将門は、足場を降りて、
「どの辺だ。たれか、案内しろ」
と、血相をかえて走りかけた。
「兄上。およしなさいっ……」
三郎将頼や、ほかの小さい弟たちは、抱きついて、ひき止めた。
「毛野川の河原畑は、去年の暮、叔父御の召使が、胚子付けしたのですから──もともとそれを刈入れるのは、こっちが、悪いのです。兄上は、御存知ないから」
「ばかっ、ばかっ。知らないのは、おまえ達だ。あの河原地はな、父上が生きていた頃、毎年毎年の出水を、やっと、堰止めして、それこそ、十年がかりで、麦でも作れるような土地にしたのだ。──おれは、小さい頃、それを見て、覚えている。父上や家人や、たくさんな召使の、血と汗とで、土らしい物になった畑地なのだ。──それを、父の後継ぎのおれが刈入れるのに、何の、ふしぎがある」
将門は、弟たちの耳に聞かすには、必要以上の大声で、そうわめいた。どうしても、いちどは、天へむかって、わめきたがっていたような声だった。
「それっ、お館に、ついて行け。相手は、大勢だ」
奴僕も、郎党も、得物をもって、彼の駈け出したあとにつづいた。しかし、毛野川べりの、長い畑には、どこを眺めても、すでに、相手の影は、見えなかった。
ただ、そこに、制札が立っていた。見ると、こう書いてあった。
「笑わすな。盗人の高札とは」
将門は、それを、蹴仆した。
なお、腹がいえないように、把って、毛野川の流れに、投げ捨てた。
彼につづいて来た十数名の顔は、それを、小気味よしと見るよりも、何か、さっと、血の色をひいたように、口をつぐんだ。殊に、性格のおとなしい三郎将頼は、
「……ア」と、驚きの声すら放って、まっ蒼な顔をした。
「将頼っ」
「はい」
「案じるな。いつかはと、おれは、肚のうちで、いい出す時を待っていたのだ。──ちょうどいい。おれはこれから、叔父共へ、談しに行ってくる」
「な、なんの、お話しにですか」
「知れている。──叔父共が、おれから預かっている広大な土地を、おれに返してもらうのだ。こんな、猫の額みたいな、河原地などの掛合いではない」
「でも。……、ああ兄上。今となって、そう仰っしゃっても」
「だまって見ておれ。将門は、叔父共が、望みどおりに、都へ出て、少しは、育って帰って来た。いちど、石田の大叔父にも、ごあいさつを、したい事もある。かたがた、預けた物を、返してもらうだけの事だ。行って来る。……なに、一人でいい。数日は帰らなくても、心配するな」
歩き出してから、将門は、なお、憂い気な弟や郎党たちを、振りかえって、いいつけた。
「かまわぬから、つづいて、麦を刈れ、麦を館の土倉へ、どしどし運んでしまえ。なにも、他人の物じゃないぞ。天地も照覧あれ、将門は、おまえたちに、ケチな盗み鎌など唆すものか。おれと暮すなら、おれを信じろ」
気の向くまま、心の澄むまま、遊ぶまま、狂いたいまま、しかも無理はしないで、この天地間に、水ほど、領野を自分の物にしきって、自由に暮しているやつはない。
「──羨ましい姿だ。水の心だ。癇癪などは、すこし恥かしいな」
将門は、のべつ、大股に、汗をかいて歩いていたが、ふとそんな考えも起した。
──というのは、歩けば歩くほど、実に、この地方は、水だらけで、およそ、視界や足もとから、水と縁の切れることはない程だからである。
従って、河原だらけで、すこし草の生えている土壌でも森でも、それは河原の中の島にすぎない。そして河原を走る縦横無尽な、幾すじもの水脈が、やがて中心部に相寄って、湖のような幅になる。そこがやっと主流で、いわゆる、下総、常陸の国境をなす毛野川(今の鬼怒川)の大河であり、新治、常陸の平野と、筑波の山が、彼方に見える。
「……はてな。おれが子供の時分には、たしか、この辺に、渡舟があったはずだが」
将門は、芦間の岩に腰を下ろした。さすがに、豊田の館から、馳せ通し、また、歩きとおしたので、少し疲れたものとみえる。渺茫たる大江の水を前に、しばし、行々子の啼く音につつまれていた。
その行々子の声に、彼は、自分がまだ、幼い頃、両親に伴われ、侍女や郎党に傅かれ、常陸の方から、この大河を舟で渡って帰った日のことが思い出された。記憶にある程だから、自分の三ツの祝いではなく、七歳の祝いであったろう。何しろ、行った先でも、舟の中でも、晴れ着を装われた御子様の自分が祝福される中心であった。
招かれた先の、常陸石田の大叔父も、羽鳥や水守の両叔父も、みな家人家族をつれて、わざわざこの川岸まで、見送りに来たものだった。──その頃の、自分の父良持の威勢と徳望は、大したものだったにちがいない。彼らは、父の兄弟だが、父の前では、たれ一人、頭のあがる者はなかった。一族の長上とあがめて、犬馬の労もいとわなかった。
その日、この大河を渡って帰るためにも、叔父共は、殊更、新しい船を用意し、若い女達に、大きな絵日傘を翳させて、酒肴まで、備えてあった。七歳の祝い着に飾られた自分は、その真ん中に、太子様のように、行儀よく、坐らせられていた。……そして、船が、河心にまで出ても、なお、常陸岸の叔父たちの群れは、豆つぶみたいに見えていた。手を振って、坂東の豪族、曠野の王者たる父の良持と、後嗣の御子たる幼い自分を、祝福していた──。
父が、死ぬとき、あの叔父たちの良心を、信頼したのもムリはない。父も神ではない。今日の叔父共が、あのときの人間と同じ者だったということは、神でもなければ、分ろうはずはない。当然、父は、あとの小さい子供らと、一代に開拓した遺産の田領とを、そっくり、叔父共の良心に托して逝ってしまった。
……もし、霊があったら、父は、ここにこうして毛野川の水を見ている今の小次郎将門を、どう眺めていらっしゃるだろう?
勃然と、将門は、また憤りを、新たにしていた。……畜生と、思うそばから、涙が膝にこぼれて来た。
「もし父が生きていたら、奴等を、ただおくものではない。その父が世にいないのをつけめに勝手なまねをしている叔父共なのだ。ようし。父良持は、まだ生きているという事実を、悪叔父めらに、思いしらしてやろう。どこに生きているというか。……問うも愚かよ。おれは平良持の子だ。おれの中に、父がいるのはあたりまえだ」
彼は、ぬっと、突ッ立った。何かに衝き上げられたように。──そして芦荻の間を見まわし、対岸に渡る舟を探し求めていると、一頭の馬を曳いた男が、
「おうっ。お館さま。河の上にも、岸辺にも、お姿が見えないので、どうしたかと、ずいぶん探しましたよ」
と、思いがけぬ声をかけて近づいて来た。
男は、豊田の館の郎党のひとりで、牛久の梨丸というまだ十七、八の小冠者である。むかし家に仕えていた乳母の末子であった。将門が京から帰って来たと聞くと、牛久の里にまだ生きている乳母が、ぜひ、召使うてやって下されと、むかしを忘れずに向けて来た者なのだ。いわば乳兄弟でもある。将門は、乳母の遺物と思って可愛がっている。梨丸も、愛に感じて、生涯を托す主人として働いていた。
「──梨丸か。何しに来たんだ? おれは、常陸へ出かけるのだ」
「ですから、馬がなくては、御不便でしょう。いずれ、水守の叔父御さまか、羽鳥へも、お廻りでしょう」
「うム。……ずいぶんな、道程ではあるな」
「河原畑で、かっと、御立腹なすって、そのまま、一散に、お立ちになってしまったと、ほかの者から聞きましたので」
「館の馬を、曳いて、追いかけて来てくれたのか」
「そして、私も、ぜひ御一緒に、お供をしたいと思って来ました」
梨丸は、将門の眼を、じっと見て、哀願するように、そういった。何しに、常陸へ渡るかを、彼は知っているふうである。将門は、だまって、うなずいた。こんな無言のうちにも、情にはすぐ涙ッぽくなるのが、彼のくせであった。
「渡舟口は、こんな所ではありませんよ」
梨丸は、主人をすぐ馬の背にのせて、そこから五、六町も下流へつれて行った。
馬を乗せ、自分たちも乗り、渡舟は、岸を離れて、河心へ漂い出した。河幅はおそろしく広いが、所々に、浅瀬があり、そのたびに、舟底が、ガリガリ鳴った。舟は、下流へ流され流され、斜めに、対岸を招きよせてゆく。
「将頼や、ほかの者は、あれから、館へ帰ったか」
「お帰りになりましたが、みな、お行先の事を心配して、つつがなく、帰って下さればよいがと、お身を気遣っておいでです」
「そうか。……おれを除くと、まだ、まるで世間見ずな弟たちばかりだからなあ」
舟の上から振向くと、豊田の館や、森や、また館のある辺りの小高い地形が、呼べば、答えて来そうな、彼方に見られる。
(──生きて、ふたたび、ここを渡るだろうか?)
彼はふと、運命観みたいな、明日、あさっても知れぬ人間と思う思いにとらわれていた。その反面には、それほど危険な怒りが、一朝でない怨恨の器が、自分だということも分っていた。
(対岸へ着いたら、梨丸は、帰すとしよう。行く先で、おれに万一があろうとも、乳母の子までを死なせてはすまぬ)
そう考えたがまた、
(いや、おれの骨など拾って貰いたくもないが、梨丸でもいなければ、誰が、豊田の館へ、万一を報らせよう。やはり連れてゆくとしよう。梨丸には、巻きぞえを喰わせないように)
渡舟の舳が、岸を噛んだ反動で、将門は、大きくよろめいた。その踵から我れに返った。
馬の背に移って、梨丸に口輪を把らせながら、東へ東へと道をとった。野路はいつか茜に染まり、馬と人の細長い影が地に連れだって行く。そして、行く手の筑波山は、紫ばんだ陰影をもって、鮮らかに、近々と見えるのだが、これがなかなか歩いては遠いのである。どこかに、泊らなければならないかと思う。
夜に入ると、十方、何もないだだっ広い闇の果てに、蛍屑のようにチカチカとまたたいている灯のかたまりが望まれた。梨丸に訊くと、それは利根川の入江になっている土浦の市だという。
「市があるのか。じゃあ、そこへ行って泊ろうか」
「あんな遠くへ参るほどなら、まだまだ、水守の良正様のおやしきへ行った方が、よっぽど近うございますよ」
「そうかなあ。それならやはり、良正叔父の邸へ行こうよ。なあに、夜半になってもかまうものか。……だが、腹がへるぞ、腹が。……梨丸、何か食い物は持ったか」
「持ちませぬ。それには、抜かりました」
「灯の洩る家をみたら訪うてみい。何とかなろうが」
「なりましょうとも」
主従は表面、気がるだった。どっちも若い賜ものである。不自然でなく、死も、どんな危難も、明日の事を今夜はまだ心のうちで幾ぶんでも遊戯していられるのだった。
「あ。……家が見えます。寄ってみましょうか」
「百姓家か」
「──でもないようです。土塀もあり、門も見えます。ははあ、思い出しました。ここは、野霜の部落です。まだ、あちこちに、小さな家もたくさんある」
「野霜か。……とすると、ここには、むかし、武具を作るなんとかいう古い家があったはずだぞ。ここの部落は、弓師、鍛冶、染革師、よろい師、鞍師。みんな武具馬具ばかり作っている者たちの部落だ」
「ともあれ、そこの土塀門を、訪うてみましょう。──お館は、ちょっと、ここでお待ちください」
梨丸は、ひとりで、門を叩きに行った。なかなか戻って来なかったが、やがて、何かいそいそして飛んで来た。
「主が出て参りまして、実は、かくかくと、事情を語りましたところ、──なに、豊田の御子が、お寄り下されたとか。それは、まことでおざるか。──と、まるで、賓客に訪われたような歓びかたです」
「おい、おい、梨丸。おまえは、家の主へ、おれだということを、触れたのか」
「いい触らすほどには申しませんでしたが、余り先で訊きます故、豊田の将門様だと、つい申しました。すると、主は、にわかに、仕事着を着更えたり、家の者に、あたりを清めよといったりして、どうぞと、門迎えに出て来て、あそこに、立っておりまする。……ですから、お館にも、知らずにとはいわないで、筑波への通り道に、わざわざ立ち寄ったと仰っしゃって下さい」
「でも、おれは、そこの主など知らないが」
「先では、ようく、存じ上げておりますよ。──ともあれ、駒を、おあずかりいたしましょう」
と、梨丸は、空馬の手綱を曳きながら、主人のあとに従って、そこの土塀門まで尾いて行った。
常陸、下総を両岸にして、武蔵へ流れる他の諸川と、上総の海へ吐かれてゆく利根川とに、この毛野川の末は、水口(今の水海道の辺)のあたりで結びあっている。
この大水郷を繞って、結城、新治、筑波、豊田、猿島、相馬、信太、真壁の諸郡があり、その田領の多くは──というよりは、ほとんどが、この地方の源平二氏の分野になっていた。一半は、将門の叔父たち──常陸の大掾国香、羽鳥の上総介良兼、水守の常陸六郎良正など、いわゆる平氏の族が持っていた。
もちろん、その中には、都の摂関家領や、社寺の荘園や、国庁の直接管理している土地や、たれの領とも知れない未開地などが、複雑に、混み入ってはいるが、要するに、勢力範囲といえる形になっており──また、いうまでもなく、将門の亡父良持が、遺産として、将門以下の遺子たちのために、三叔父に托しておいた田領の面積が、少なからず加わっている。そして、それが、今ではそっくり、叔父三家の物となってしまい、所詮、黙っていたひにはいつまで、返してくれそうもない。
分野の、もう一半はというと。
これは、新治郡大串に住む源護に属する所領や管理地であった。その版図は、さきにあげた諸郡のうちの四郡にわたり、武族としても、勢威、国内を圧するという一族である。
一族はみな、嵯峨源氏のように、一家名をもっている。護の子、扶、隆、繁など、それぞれ、領土を分けて、門戸をもち、総称して、この一門のことを〝常陸源氏〟といい囃している。
将門の父良持の健在だった頃には、まさに、常陸源氏に応ずる〝坂東平氏〟の概を以て、両々、相ゆずらない対峙をもっていたものであったが、いつのまにか、良持亡きあとは、叔父三家とも、護の門に駒をつないで、常陸源氏の下に従属してしまった──おそらくは、そうして辛くも、旧門旧領を、保ち得てきたものにちがいない。
護は、肚のふとい、武力もあり、政略もゆたかな男にちがいなかった。常陸大掾なる官職は、実は、彼がもっていた役だが、自分は退いて、平国香に代らせてしまった。また、自分の女子を、良正に嫁がせ、次のむすめも良兼の後妻に与え、さらに、末の姫まで、いまは都にいる国香の子、常平太貞盛の嫁にやっている。
こうして、名利と、結婚政策の両面から、護は、平氏の三家を、手もなく、常陸源氏の族党に加えてしまい、そしていまや、この地方随一の豪族中の長老として、たれも、威権をくらべうる者もない。
──こんな、現状の中に、将門は、何も知らずに、帰っていたのだ。十三年も、都にいて、ただ、親ののこした広大な土だけはあると信じて帰って来たのである。ところが、残っていたのは、何もない豊田の古館と、去勢されたような弟たちだけだった。世の推移と頼みがたい人心を、都では、いやというほど見て来たが、彼はまだ、生れ故郷では──悠々として変化のない大自然にごま化されて──眼に見るほどには、痛感できなかった。どこかにまだ、郷土を信じたい気もちがあった。この美しい水や田野や山に朝夕染められて住む人間には、都人のような軽薄や悪さはないという信念が抜けなかった。──いくら狡い叔父たちでも、これから行って、誠意を訴えれば、案外、はなしはわかるにちがいない。なお、欲は張っても、たとえ幾分でも、返してくれないという話はない。──どうしても、そう思いたかった。
しかし、どうしても、返さなかったら、どうするか。
将門は、もちろん、この場合も、途々、ずいぶん考えた。が、すぐ命をかけても、というような結末の怒りが血に沸ってしまうだけで、事前に、その場合の考慮をもって臨むことは不可能だった。ただ、自分の性格の弱点が、もっとも、危険な羽目にぶつかるのだという反省は、充分にしていた。前もっての反省などが、役にたつ程ならば、なにも、弱点とはいえないし、将門が、怖れているのは、むしろ相手ではなく、自分であった。
「……おう。そうして、おいで遊ばすと、まこと、よう似ておいでなされますぞや。お亡くなり遊ばした良持様と。……血はあらそわれぬ。瓜二つじゃわ」
武具作りの野霜の翁は、客を上座にすえて、さっきから、見とれてばかりいる。見とれてはまた、一言一言、平伏してばかりいる。円座に坐って、将門は、あいさつのしようもなかった。余りに、ここの主も、家族も、自分を拝して、丁重にするからだった。都で、牛輦の輪を洗ったり、滝口へ勤めてからも、禁門で出会う衣冠の人には、いちいち頭ばかり下げていた癖がまだ抜けていない。まるで、これでは、自分があの忠平大臣になったような気もちがする。
実のところ、腹がへっていてたまらないのだ。礼儀よりは、飯を食いたい。そして、先の夜道も急がれる。
「なあ、梨丸」
将門は、きゅうくつそうに、横へ話しかけた。
「何でもいい。ざっと、粟でも稗でも、馳走になって、暇しようじゃないか。──帰り途にでも、また、寄らせてもらうとして」
翁は、以てのほかな顔をした。
「どうしてでござりまする。せっかく、かかる野末のあばら屋へ、わざわざお訪い下されたものを」
泊ってもらうつもりだという。
そのため、もう、湯殿では風呂を焚かせ、厨では、老妻や娘までが、あの通り、炊ぎのけむりをあげて、何はなくとも、野の味、川の味、真心を喰べていただこうとして、大騒ぎをしてもいる。
「すぐ、お立ちとは、余りも、味気のうございまするぞ。豊田の御先代には、どれ程、お目をかけていただいたか知れませぬ。そもそも、てまえが、都から弟子共をひきつれて、ここに部落を開いたのも、良持様のお招きに依るのです。この地方には、よい鎧師ひとりいない。もし、諸職を連れて坂東へ下るなら、一代、仕事は決して手あきにはせぬ。どのような世話もしようと、あのお殿の御親切にもほだされ、また、都にも住み飽いた心地なので、弟子、諸職の者を語ろうて、ここに住んでからもう二十幾年になりました。……その良持様も世を去られ、ふと、稀に淋しむこともおざりましたところ、思いがけない、御子の御成人を今、眼のあたりに拝して、この爺は、思いも千々に、むかし懐かしゅう存じあげておりますものを」
──涙を、拭くのである。
将門は、立ちかねてしまった。腹がへったなどとも、いい出せない。
翁の名は、伏見掾といい、山城の生れだが、この地方へ下り工匠として移住してからは、単に野霜の翁とか、野霜の具足師とよばれている。
唯一の後援者であった良持の没後は、一時、部落の諸職とも、仕事を失って、途方にくれたが、その後、大串の源護が、それに代る以上の註文を出し始め、以来常陸源氏の諸家の武具をひきうけて、年中、手のあくことはないなどとも、話し出した。
「御先代の良持様にお納めした、美々しい御鎧やら、雑兵具足やら、弓、矛、長柄なども、おびただしい数でござりましたが、あれらの品々は、まだ武器倉に、そっくり、お伝えでござりましょうな。いちど、あなたのお体に合せた具足も、ぜひ、作らせていただきたいもので……」とも、いったりする。
将門は、つい淋しい顔をした。梨丸も、それをいわれると、感情が顔に見えた。地方の豪族の頼みとするのは、土の次には、武器なのだ。自分の主人には、その二つとも、今はない。
「明日の朝は、どちらへ向けて、お立ちでございますな」
翁は、もう泊るものと、独りぎめして、そう訊いた。──筑波の叔父共のやしきへ、と将門が答えると、
「ははあ、水守や羽鳥へいらっしゃいますか。やれやれ、それは」
と、なにか浮かない顔をした。
野霜の翁も、将門の今の境遇は、知っているらしい口吻である。自分の納めた武具が、今も倉にありますかと訊いたのは、わざと、将門の口を誘うために訊ねたのかもしれない。
良持の遺子たちへ返すべき広大な土地を、その叔父たちが結托して横領しているという事実は、相当、近郷の土民にまで知れ渡ってかくれない噂になっているらしい。──野霜の翁の歓待は、ただ、むかし懐かしいとする情のみではなく、実は、そうした将門を、哀れがっているのかもしれなかった。
いや、それから、夜更くるまで、馳走になりながら、次第に打ち解けて話しこんでみると、ここの家族が皆、こぞって、将門を、気のどくな、あわれな、御不運な御子として、同情しているものであったことが、なお、はっきりした。翁の妻の、もう五十以上とみえる媼も出て来て、給仕に傅きながら、話のそばで、貰い泣きしているのである。
「羽鳥へお出でなされても、石田の国香様のお館へおこしなされても、ゆめ、お腹をお立てなされますな。ひとは皆、知っております事じゃ。それに、万一、お身に怪我などあってはなりませぬ。それこそ、亡きお父上良持様が浮かばれませぬ……」
媼もいう。翁もいう。
あたたかな人心にくるまれ、あたたかな食物に腹をみたし、将門は、ついにその晩は、野霜の具足師の家に寝た。家はなかなか広く、弟子やら召使やらも多く、ゆたかな感じである。そして、寝屋に導かれるとき、どこかで、若い娘の声もした。その美しい声のぬしを想像しながら、将門は、すぐ眠りにおちた。
夜明けに立ちたい、といっておいたので、まだ、朝霧のふかいうちに起された。食事をし、弁当も作ってもらい、家族たちに送られて、門を出るとき、ふと、将門は馬の上から媼のそばにいる十六、七歳の娘を見た。まるで平安の都で見たような娘だった。将門の視線がゆくと、娘は母の肩の蔭へ、身をかくした。朝の陽が、まばゆげな彼女の顔を、鮮らかに、浮かせていた。
「……お帰りがけにも」
と、家族たちがいった。将門はうなずいたが、実は自信がなかった。土塀門の方へ、馬の尾がめぐると、梨丸はすぐ口輪を把った。梨丸も、この道を、もう一度通るでしょうとは誰にもいわない。
「おさらば」
と、馬が歩き出してから、将門は振り顧った。──と。まだ立っている家族たちの視線が、みな、べつな方へそれていた。将門も、馬上から見まわした。彼方の青芒の上に五、六名の上半身が見えた。中のひとりは、騎馬である。
相互から近づくほどに、当然、その者たちとすれ交った。騎馬の若い武士は、将門の顔を、無遠慮に、白眼で見た。狩衣といい、鞍といい、太刀といい、この地方では、甚だしく目立つ程な装いである。従者たちでも、将門よりは立派である。梨丸は、そッぽを向いて通りぬけた。
やり過ごしてから、将門が訊いた。
「梨丸。いまのを、知ってるか──。誰だい、あれは?」
「あれが、源扶ですよ。大串の源護の嫡男とかいう」
「常陸源氏か。……成程、派手やかなものだな」
「息子たちはもう、御曹子とか、若殿とか呼ばせて、畑にも、森にも、出ませんからね。……けれど、梨丸の御主人の方が、はるかに常陸源氏などより、家がらは上です。桓武天皇から六世の御孫でしょう。里の者でも、あの人たちを、御子とは誰も呼びはしません」
梨丸は、ひとりでしゃべっていた。将門がうしろを振向いているのを知らないのである。将門の眼は、ただ今、自分が別れて来た土塀門の前で、その常陸源氏の御曹子が、馬を降りて、家来たちと共に、威儀づくりながら、家の中へ迎えられているのを──馬の背に揺られ揺られて見ていたのだった。
筑波山の西南のふもと、筑波平野と、毛野川の方へ向って、水守の庄、石田の庄、羽鳥の庄などが、二里おき、三里おきにある。
どれも皆、筑波を背にした麓の人里だ。
その日、将門は、まず水守の良正のやしきへ行ったが、叔父はいなかった。居留守をつかっている様子でもない。
しかし、家来たちの顔つきには、将門を見たとたんに、さっと、うごく色があり、
(来たな!)
といったような反撥が、あきらかに見られた。そして、将門が小冠者をひとり連れただけでやってきたことに、むしろ、気抜けを食ったほどな緊張ぶりが窺われた。
「お留守だ。お館は、昨夜から御不在だ。何ぞ、御用か」
と、家人郎党は、幾人も、大きな櫓門から顔を出して、通しもせず、切り口上でいうだけだった。
おそらくは昨日、毛野川の河原畑で、わが家の奴僕や郎党を傷めつけたのは、この連中にちがいない。あとから、河原の麦畑へ、横領宣言みたいな高札を立てた家人景久とやらいう良正の家来もこの中にいるのかもしれない。しかし、将門は、こういう雑人共をあいてに喧嘩する気になれなかった。かれらの不遜な態度には、腹はたったが、笑い流して、ここは立ち去った。
道程からいえば、大掾国香の居館、石田の里の方が、そこからは近い。しかし、あの大叔父こそは、いちばんの怪物であり、元兇であると、将門は観ている。すでに、都にいたときから、それは国香の子、常平太貞盛の行動でも読めていたし、また、上京の初めから、しまいまで、自分にたいする国香父子の態度は、腑に落ちない事だらけである。
「……後にしよう。さいごの対決として」
将門は、さきに、羽鳥の上総介良兼を訪うことにきめた。
この叔父も、食わせ者かもしれないが、一族の中では以前から、いちばん信仰家であった。仏法に帰依ふかく、館の内にも、寺のような持仏堂を建てているともいう。そうした人ならば、いくらかの仏心はもち合せているだろう。いちばん、手強そうな大叔父へぶつかるよりは、まず、その信心家の叔父と話してみるのが、良策というものだ。将門は、なお、決して、冷静を欠いたり、分別を失ったりはしていないつもりである。
羽鳥の叔父の館は、山荘だった。麓からすこし山へ食い入った高所に構え、屈折した石段の山に、さながら大寺院のような門が、自然の老杉や松を美しく冠っていた。
馬は、麓で降り、梨丸も、下に待たせておいて、ただ一人で、門をはいった。大玄関を見まわしていると、横の家人小屋から、武士が出て来た。初めは、つまみ出しそうな権まくだったが、彼が、毅然として、小次郎将門だと告げると、さすがに気押された気味で、ことばも改めだした。
取次ぎに去ったまま、家人は、なかなか出て来ない。夕ぐれ近い陽が、針葉樹を虹のように透いて、もう裏の山ふかい所では、蜩が啼いていた。どこかに、ふと、水のせせらぎも聞え、将門は、喉の渇きを覚え出した。
「遅いなあ。何をしているのだろう?」
取次にかくれた家人は、主が、いるともいわず、いないともいわなかった。ここにも、昨日の毛野川原の事が、聞えているものとみえる。とすると、ある覚悟はしていなければならない。叔父の館へ来て、危険を猜疑する気もちに努めるのは、将門の性格には、骨の折れることだった。けれど野霜の武具師も、それとなく、注意を与えてくれていた。──何せい、あなたは、まだお若いでなあ、といかにも心もとないように、しげしげと自分を見てつぶやいたことだった。
「よし。何が、突然起っても、おれは決して、驚きはしないぞ。それ程なら、毛野川を渡って来はしない」
将門は、自分へむかって、そういっておく必要を覚えた。大股に、広前を斜めに歩き出していた。さらに、山庭へはいりこんだ。さっきから、喉の渇きが求めている水を──どこかに、岩清水の落ちている音を──探しに行ったものらしい。
きれいに、手のとどいている灌木や、岩苔や、松の巨木は、目につくが、水は、どこを通っているのか、見つからなかった。そのかわりに、彼は、思いがけないものを、ふと、彼方の木蔭に見出した。
先でも、いぶかるように、将門を見ていた。
「あ。……?」
将門は、理由なく、顔をあからめた。いま以て、彼は、美しい女性と感じると、理由の生じない前に、顔はもちろんだが、体じゅうに反射が起った。
彼が、うっかり立ち入ったところは、女の住居のある壺であったかも知れない。都の忠平左大臣の小一条の壺が思い出された。大臣が、そこに秘して可愛がっていた紫陽花の君によく似ていて、それよりはやや小づくりで年も若い女性が、じっと、なおまだ木蔭から、彼の姿を、見すましているのだった。
「ここは通れませぬ」──彼女は好意のある注意を与えてほほ笑んだ。「何か、御用ですの? ……。木戸を間違えたのじゃありませんか」
親しげにこう訊かれて、将門は、また、どぎまぎした。理由のない羞恥を、自分では、見ッともないと思いながら、思うほど、なお、顔を赤くした。
「いえ、水です。水を一ぱい、欲しいと思って」
「お飲がりになる水ですか」
「ええ。朝から、草息れの道を、馬で乗り通して来たので、ここにつくと急に、のどの渇きを覚えたところへ、そこらに、水音が聞えたものですから」
「ホホホホ。それなら、こちらへ来て、おあがりなさいませ。おやすいことです」
彼女は、壺の木の間を縫い、そこの瀟洒な家の水屋へかくれた。
器に水をたたえ、こんどは、廊の妻戸から立ち現われて、将門の前へすすめた。将門は、簀の子(縁)の端に腰かけた。そして、予期しなかった落着きにつつまれたように、あたりのたたずまいを見まわした。
「こうしていると、どこか、都のお住居のようですな」
「都。……あの平安の都を、あなたは、ごぞんじなのですか」
「え。永いこと、あちらへ、行っておりました」
「まあ」と、女性は、大げさな程、なつかしむ表情をして「都は、どちらに、おいででしたの」
「小一条の左大臣家にもおりましたし、後に、御所の滝口にも、勤めたりなどして」
「では、あなたは、豊田の御子の、将門様ではありませんか」
「そうです。小次郎将門です」ようやく、彼は彼女を正視することができて──「私を、御存知ですか」と、心の距離を急にのぞいた。
「いいえ。お会いするのは、初めてですが、おうわさは、聞いていました。それに私も、元は、都の者ですから」
「そうですか。どうも、そうではないかと思いました」
「どうしてです?」
「どこやら、都の風がおありになるし、こんな、土も粗い風も荒い東国の果てに、あなたのような美しい人が……と」
「あれ、あんなことを、仰っしゃって」
彼女は、耳のあたりを、ぱっと染めて、自分の顔を、自分の肩のうしろへ隠した。からだの姿態につれて、長やかな黒髪もやさしい曲線を描いた。将門は、彼女の袿衣の襟あしから、久しくわすれていた都人の白粉の香を嗅ぎとって、何もかも、忘れていた。
すると、さっき奥へ取次にはいった良兼の家人たちに違いなかった三、四人の声がして、しきりに将門を探し廻っていた。そしてふと、中の一人が、ここの廂の下を、木の間ごしに窺って、
「や。いたわ。ここにおる。玉虫どのの局に来て、話しこんでいるわ」
と、あきれたように、ほかの者を、呼びたてた。
将門は、弾かれたように、縁を離れて、自分から家人たちの方へ、歩みだした。良兼の家人たちは、彼と玉虫のすがたを、等分に見くらべて、瞬間、妙な顔をしていたが、
「豊田の小殿。──良兼様が会うてやると仰せられた。こちらへ、渡られい」
と、先に立った。そしてもとの広前に戻り、そこから館の内へ、案内して行った。
京風の建築をまねたのであろう。寝殿、対ノ屋づくりである。しかし、この地方の風雪に耐えるためには、柱もふとく、壁も多くなければならない。自然、頑固であり、粗野であり、薄暗くもなる。──後の鎌倉建築と似るところが多かった。
内の坪(中庭)へ面した広床の間に、藺を敷き、円座に坐って、酒を酌みあっている客と主人とは、さっきから、愉快そうに談笑していた。
上総介良兼と、水守の六郎良正である。
将門の父良持の弟たちだ。つまり叔父共である。ここにはいないが、常陸の大掾国香が、いちばん上で、その下が将門の父、次が良兼、良正の順だった。
「良正。──将門がこれへ来ても、余り嬲らんがいいぞ。嬲り者にして、怒らしても始まらぬ」
「ですが、いちどは、首の根をとっちめておいた方がいいと思うな。……くせになる」
「ま。それもあるが、それにしても」
「きのう、河原畑で、将門の奴僕と、わが家の家人とが、喧嘩の果て、それに怒って、彼自身、ここまでやって来たところをみると、まだ以前の所領地にこだわって、おれ共の処置を、ふかく、遺恨にしているにちがいない」
「その執着は、一朝には、抜けまいよ。手をかえ品をかえ、気長に、諦めさすにかぎる」
「あなたは、よくそういわれるが、将門も、今では、むかしの鼻たらしとちがい、都のかぜにも吹かれて来て、理屈の一つも覚えたろうし、ごまかしのきく年でもない。──力で抑えつけるに限りますよ。ぐわんと、一度、こちら側の、力のほどを、思い知らしておかぬことには」
廊の端に、足音がした。二人は、眼まぜと共に、むずかしい顔を作って、口をつぐんだ。
将門は、ぬっと、室の外に立った。そして、叔父たちの視線に視線をもってこたえた。しかし、努めるように和ませて、
「お邪魔します」と、一隅に坐った。
将門を案内して来た家人たちは、付け人みたいに、彼の背をにらまえたまま、廊の間にかしこまっていた。
「やあ、将門か。もっと、寄らぬか。そんな遠くに、屈まっていることはない」
良兼は、さりげなく、あしらった。──が、良正は、きのうからの事もあるし、嘘にも、仏いじりをしている良兼とちがい、平常でも、武勇を以て、近郷に鳴っている男である。てんで、甥の将門など、眼のうちにもないように、横を向いて、酒をのんでいたが、
「何しに来たのだ。何しに? ……」
と、いきなり将門の方を見ていった。
将門の全身が、感情にふくれて、丸くなったように見えた。が、彼は、手をつかえて、自分の烈しい面色を隠すように俯向いたのであった。
「帰国以来、つい、ご無沙汰しておりました……で、いちどは、ごあいさつに出なければと、思いまして」
「礼に来たのか。多年の礼に」
「……え。……まあ、そうです」
「まあとは何だ。夙くに、石田の大叔父へも、ごあいさつに伺うのは当然だ。行って来たのか」
「いえ。まだ、参りません」
「なぜ行かん。ここへ来るなら、通り道ではないか。すべてのやり口が、和主のは、取ッちがっておる。用でもない郡司や近郷の有象無象を、帰国披露目に、豊田へ招いたりして。──そんな見得より、なぜ、恩義のある大叔父の館へ、永々、留守中には、えらいお世話になりましたと、いって歩かないか」
「……とは、思いましたが」
「将門っ」
「は」
「奥歯に物のはさまったようないい方をするな。貴様は、何か、思いちがいしているな。へんに」
「…………」
「よろしいか。よく聞けよ。十数年という永い間、とまれ、将頼以下の、父なし子、幾人も、あのように、無事、成人させて来たのは、たれの情けか」
「…………」
「そればかりじゃない。もしまた、われら叔父共の庇護がなかったら、兄良持の遺した土地といえ、館といえ、牧場といえ、あの通りに、難なく、今日まで、貴様たち兄弟の手に、残っていると思うのか。──とんでもないやつだ」と、良正は、手にしていた杯の中へ唾するようにいって、それを仰飲した後、またいった。
「そんな甘い考え方だから、ひいては、恩義は忘れて、逆うらみなど抱くようにもなる。──この広い坂東の曠野では、毎日、東から陽が出て、西に陽が沈んでいるだけのように、貴様などの眼には、見えるかもしれぬが、どうして、間がな隙がな、那須、宮城などの、東北の俘囚や、四隣の豪族が、一尺の土地でも、蚕食しようと、窺いあっているのだぞ。──それを十数年の間、防ぎ守ってくれたのは誰だ。いや、たとえ、以前のような宏大な田領、荘園はいささか減ったにしても、都から帰って来て、さっそく、住む家にも困らず、耕す土地もあり、家名も郷土に存続しているという大恩は、たれのおかげか」
「お、おじ上、ちょっと、待って下さい」
「だまれ。それから答えてみろ。たれの力が、四隣の狼から、土地や館を、防ぎ、守っていてくれたかを」
「わ、わかっています。……けれど」
「わかったら、それでいい。分ったといいながら、何だ、その涙は、……ぼろぼろ、何で涙を出すのだ」
「そう、仰っしゃるなら、私も、申します」
「なにっ」
「たれの恩だ、たれの情けだと、仰っしゃいますが、その事は、私ども兄弟が幼少であったため、父の良持が、肉親のあなた方を信じて、死……死ぬまえに……父が、たのむと遺言し……あなた方は、死んでゆく者に、心配するな、かならず、子らが成人の後には、荘園も、拓いた土地も、返してやると、誓って、お預り下されたものではありませんか」
「そうだ。……だから、今日、貴さまは、豊田の館に、住んでいるではないか。ほかの弟どもも、飢えずに、生きているではないか」
「いや。まだ、返って来ないものがあります。──父が、一代をかけてきり拓いた土地、功によって賜わった相伝の荘園。それらに附属している太政官の地券、下文、国司の証など、遺産の大部分は、返していただいておりません」
「つけあがるなッ」呶喝して、良正は、杯の酒を、ぶっかけようとしたが、良兼が、あわてて、手くびを抑えた。
「これこれ、将門。肉親だからいいようなものの、そんな得手勝手は、いうものではない」
「得手勝手でしょうか。──叔父御たちでなく私の方が?」
「何。何だと。これ……おまえはな」と、良兼も、勢い、自己の利得の防禦に立たざるを得なくなった。いや、自分たちで分割横領した土地の正当化を、ここで弁じておく必要に迫られたのだ。
「返せの、返らぬのと、単純に、いっているが、広大な田領を多年、守ってくるには、それだけの、犠牲があるのだぞ。国香殿でも、ここにいる良正でも、その為には、何度、隣郡の侵入者や、俘囚の族長などと、血をながして、喧嘩や、争いもしたか知れぬ」
「それは、それです。お返し下さる以上は、将門始め、弟共も、終生、それは御恩に感じ、また、叔父御たちのお家に、一朝、変乱のあるときには、いつでも、弓矢を帯して、まッ先に駈けつけようというものです。──不幸、将門は幼少で覚えていませんが、母方の親類共のはなしでは、かつて、あなた方が、この常陸、下総の地に、微力で立ち、あまたの敵や、俘囚の勢力の中で、悪戦苦闘されていた頃には、私の父良持が、自分の分身とも思って、あなた方を助けて、ついにこの筑波山以東以北のひろい平野を、あなた方の領野にしたのだと聞いております」
「た、たれがいった、そんな事を」
「たれでも、世間では、知っています。──父が、あなた方に遺孤を托したのも、それがあるからです。よも、間違いはあるまいと信じたのでしょう。私を、忘恩と仰っしゃるなら、その前に、あなた方こそ、死者の遺托を裏切った忘恩の徒ではありませんか」
「生意気なっ」
こんどは、間にあわなかった。呶鳴ったのは、良正である。良兼がとめるすきもなく、突っ立って、良兼のうしろを跨ぎ、
「忘恩といったな。叔父にむかって、悪罵したな。この青二才め」
将門の左の肩へ、彼の大きな足が、蹴ってきた。将門は、その足を、両手でつかまえた。そして、彼が腰を立てるのと、良正が、そこらの高坏や銚子を踏んづけて、仰向けに、ひっくり返ったのと、一しょであった。
「やったなっ、将門」
良正は、吠えた。しかし良正が、起き上がるまえに、廊の間にひかえている家人たちが、おどりかかって、うしろから、将門に、くみついていた。
頑丈な曲輪造りの家も、一瞬、家鳴りに似た物音と、獣じみた人間の呶号に、揺すぶられた。
──が。一瞬にそれは、ハタとやんだ。
そのあとの、凄愴なしじまの下に、将門のうめきが聞えた。いや、断続してしゃくり泣く彼の異様な声だった。また、その周りに、眼や唇を、血だらけにしたり、袖や袴を、ほころばしている幾人が──まっ蒼な顔を持ったまま、しばらく、大きな息を、肩でつきあっていた。
「……ち、畜生め。……甥だとおもって、よいほどにしておけば」
良正は、やっと、口がきけて来たように、呟いた。そして、大勢で滅茶滅茶に撲ったり蹴ったりして、半殺しの目にあわせた将門の姿を、そのもがきを、いつまで、にらみつけていた。
「立てっ。さ。もう一ぺん立って、今みたいな口をきいてみろ。──将門っ。どうした。立てないのか」
良正、良兼、はじめ、人々はようやく、あたりの杯盤の粉々になっているのや、仆れている壁代などに気がついて──自分の鼻血を袖で拭いたりした。
将門は、身を揉んで、まだ、哭きむせんでいた。
「たわけ者が」
良兼は、家人へ、いいつけた。
「せっかくの酒もりも、だいなしだ。つまみ出してくれい。この甥を」
物音に駈け集まっていた家人郎党は、十人をこえていた。将門を、かつぎかけた。よほど、荒っぽく、袋叩きにされたとみえ、将門は、立ちも得ない。無念を、もがくだけだった。
「まてまて、まだ」
良正は、彼をかついで、歩き出す群れをとめて──
「将門。わすれるなよ。きょうのところは、ゆるして帰すが、これが、青空の下だと、おそらく、生命はなかったはずだ。……きのうも、河原畑に、家人の景久が建てておいた高札を、ひき抜いて、毛野川へ抛り捨てたとか。──あの一条でも、ほんとは、豊田の館へ、わが家の郎党が、押し襲せてゆく理由はある。襲せたがさいご、何百騎という荒武者だ、この叔父共が、止せというても、止まらぬぞ。……よいか。この後とも、無分別はいましめろ。つまらぬまねして、下の弟共に、泣きを見せぬがいい」
と、四肢の自由を失っている彼の耳もとへいってきかせた。
将門も、何か、死力をふるって、喚こうとしたが、とたんに、長い廊の橋をこえて、戸外の広前へ、かつぎ出されていた。
「どうする……?」と、そこで、郎党たちの相談だったが、やがて、面倒だとばかり、館の門を出た所の崖際から、下へ向って、将門を、抛り捨てた。
崖は急だが、巨きな杉が、密生しているので、彼の体は、すぐ途中の木の根に、ひっかかった。
「……うごいている。死にはしない」
上で、郎党たちが、いって去ったのが、将門に、聞えていた。が、意識のそのほかの何ものもとらえ得ない。空をさぐっているような気はするが、その手にも知覚がない。
一つの木の根から次の木の根へズルズルと転がった。痛いと、思い、首をもたげることができた。
「……うごいてはだめ。うごいてはいけません。下は、流れですから」
たれか、どこかで、いっている。まったく、時間の経過を無知覚でいたらしい。真っ赤な夕空が、黒杉の梢のすきまを鮮らかにしている。夕露が、肌に沁む。
「いま、行きますからね……。もがかないで」
声が近い。いや近づいてくる。将門は、とろんとした眼を上へ向けた。
一所懸命に、少しずつ、生命がけの冒険に臨んででもいるように、上から降りてくる者がある。昼見た、袿衣の人である。良兼の郎党が、玉虫どのとよんだあの女性にちがいない。
「あ……?」愕然とし、おもわず、将門は下から、
「あぶない」と、さけんだ。
さけぶまでに、意識がはっきりすると、全身の痛みも、熱をおびて、彼を、唸かせた。大きく、何度も唸った。唸ると、楽である。
玉虫は、ついにそばまで、降りて来た。彼女は、彼に気力をかして、ここから上がるようにすすめたが、だめだった。といって、彼女の嫋やかな腕では、将門の体を、どうしようもない。
「つれて来た梨丸という小冠者が、正門の石段の下で、待っています。その梨丸に、知らせて下さい」
将門は、やっといい得た。彼女は、もいちど、袿衣の裳が、綻ぶのもいとわず、崖をのぼって行った。そして、やがて梨丸をつれて来た。空の茜はうすれて、夕星が見え出していた。
ようやく、将門を、連れ上げて、梨丸は、主人のからだを、背にかけた。高い、暗い、石だん道を、玉虫は、途中までついて来ながら、いたわった。そして、その傷ましい主従の影が、麓の夕闇と一つになるまで見送っていた。
──ふと、人の気はいを感じて、彼女は、石だんを、上へ、戻った。ところが、そこには、彼女にとって、ひどく気まずい人物が渋面をつくって佇んでいた。もちろん、彼女を所有している肉体の主人である。その良兼は、仏教信者でもあるが、また、妻以外に幾人もの女を抱えては、この山荘の局に飼っておくのが、無上な道楽でもある人物だった。
玉虫は、かつて彼が、官途の公用で、上洛したとき、左京の常平太貞盛の案内で、江口の遊里にかよい、ついに、莫大な物代と交易して、東国へつれ帰った女なのである。
家人から聞くと、昼も、その玉虫の局に、将門が、話しこんでいたというし、今も、局を覗いてみると、玉虫の姿が見えない。そして、ここのこの有様なのである。
将門も、都にいたのだし、その将門のすがたを、江口の遊里で、見かけたこともあるというはなしを──かつて、貞盛から、聞いてもいたので、良兼は、初老の男の駆られやすい、ひがみと嫉妬に、むらっと、燃えた。しかし、それをすぐ口に出して、安直な気やすめを急ぐような彼でもなかった。
「何しているのだ、こんな所で。……また、良正と二人して、そなたの琵琶でも聞こうと思うて、さっきから探させていたのに」
「…………」
玉虫も、くすぐったそうに、笑うだけで、すみませんとも、いいはしない。彼女には充分彼女の自信みたいなものがあり、おいやならいつでも都へ帰ります、というのが口ぐせなのである。
「おいっ。どこへ行くのだ、どこへ」
さっさと、彼女が、ひとりして、先に、歩き出したので、良兼が、追いかけるように、いうと、玉虫は、投げやりに、うしろへ答えた。
「だって、女には、お化粧がありますのよ。こんな恰好で琵琶をひけの、また、舞えのといっても、ごむりでしょう」
良兼は、にが笑いしたが、彼女が、局に入るまで、彼女の虫籠である住居の小壺にうしろから尾いて行った。
野霜の翁──具足師の伏見掾は、夜業をしていた。
源護の嫡男、扶から、誂えられていた一領の鎧を、きのうも、大げさに、催促されていたからだった。
三ヵ所に、灯皿を架け、その乏しい灯の下ごとに、背をまろくして、老いたる妻や、娘や、二人の弟子なども、膠ごてを使ったり、おどしの糸を綴ったり、みな、精を出しあっていた。
「……どうなすったろうの。豊田の小殿は」
ふと、思い出したように、伏見掾が、つぶやいた。きのうの朝、夜明けと共に、ここを立った将門のことが、きょうは、家族たちの口に、何度も、うわさにのぼった。
「きょうも、ここの道を、まだ、通られはしなんだのう。──たれか、お姿を、見たものは、あるか」
媼もいった。弟子たちは、顔を振った。縅の染め糸を、白い掌に、揃えては、綴じ板にならべていた娘だけは、無関心のように、うわさの、外にいた。
「ここの道を、おつつがなく帰るお姿を見るまでは、何となく、気にかかることではある。……あの叔父御たちの、肚ぐろい企みが、小殿の方にも、うすうす分っているらしいだけにな」
翁のことばについて、弟子達も、水守の良正や、羽鳥の良兼の悪口を、不遠慮に、いい出した。奴婢を、牛馬のごとく、ムチで追い使うことだの、その家来たちまで、市へ来ても、部落を通っても、肩で風を切って、あるいているとか、また、註文の武具を、納めに行っても、一度でも、文句なしに、取ったことはない。工匠の良心などは、わからないで、価の安い高いばかりいうとか……いい出すと、きりもない程、弟子たちは、しゃべった。
「いやいや、あの二人は、まだ良い方なのだよ」
と伏見掾はいった。媼や、弟子が、意外な顔つきをすると、翁は、「そうだとも……」と、自問自答して、仕事の手をつづけ、やがてまた、いい足した。
「──ほんとに、お肚の悪いのは、石田に住む常陸大掾国香さまじゃ。豊田の良持様の大きな御遺産を、あんぐり、呑んでおしまいになって、ほんの僅かを、良兼、良正様へ、くれておやりになっているに過ぎぬ。……だが、御自身は、そ知らぬ顔して、何もかも、良兼、良正のお二人にやらせているという狡さ。よくいう古狸というのは、ああいうお方の事であろうよ」
遠くで、さかんに、犬が吠える。野盗のそなえに、この部落でも、犬を飼っていた。──娘は、白い顔を、灯皿の翳に、ふと下げて、脅えるような、眸をした。
「仕舞えや。眠ろうぞよ、もう」
細工場を、片づけ、あちこち、広い家の戸じまりを、手分けして、しはじめている時だった。
土塀門を、たたく者があった。
弟子が、二人して、覗きに出た。馬のいななきが聞える。雨気をもった低い雲間に、もう夜半をすぎた月が、ぼやっと、ほの白い。
「たれだえ。……どなた?」
「梨丸です。──豊田の将門様の召使で、おとといの夜、お世話になりました、あの主従です。夜更けに、おそれいりますが」
「え。将門様ですって」
「そうです。あのときの、おことばを思い出し、これまで、急いで、戻って来ました」
「やれ。ようこそ」と、翁は、尻ごみしている弟子たちにむかい、
「はやく、小門をあけて、お通し申さぬか」
と、叱った。
やがて、梨丸が、将門を、背に負って、はいって来たのを見て、翁も媼も、初めて、顔いろを、失った。……娘は、茫然と、片すみに、立ちすくんだ。
梨丸は、馬の背に、主人をのせて、からくも、あれから水も飲まずに、野路から野路を、これまで引っ返して来たのである。驚愕してむかえる家族たちに、あらましを、無念そうに語って、将門の体のいたみが、やや癒えるまで、どうか、一室をかして下さるまいかと、頼むのであった。
もとより、ここの家族に、否やはない。挙げて、将門主従に、同情をよせ、その夜から薬餌、手当に、夜も明かしたほどである。
「なに。たいした事はない。だいぶ、心もおちつきましたし」
朝になると、将門は、家族たちに、感謝して、その日のうちにも、豊田郷へ帰るような事をいい出した。伏見掾は、以てのほかな顔をした。
「お気がねなさるのでございましょう。ところが、私共には、よろこびなのです。先夜も、お物語りいたした通り、小殿のお父上良持様には、どんなに、お世話になったことやら知れません。幾年の後、はからず、一夜のおん宿を申しあげるのも、尽きぬ御縁です。良持様のわすれがたみでお在すあなたに、こう、傅き申しあげることが、人の世のよろこびでなくてどうしましょう」
翁のことばは、そのまま、ここの家族の、真心な世話ぶりに出ていた。将門は、気がゆるんだせいか、その日から、大熱を発した。次の日も、夢うつつな、容態であった。
すこし、意識づくと、彼は、無念そうに、泣いてばかりいた。泣くことに、そう、人前をはばからなかったのは、この時代──平安朝期の日本人のすべてであったが、幼少から特に、癇が強くて、泣き虫な将門であった。その将門が、たまたま、こんな奇禍のあとに、思いがけない曠野の家の人情にふれて、すっかり、幼児のような心理に返っていたのかもしれなかった。またそれ程に、日頃から、愛情に飢えていた彼でもあったにちがいない。
けれど彼は、三日目ごろから、意識的に、泣くのをやめた。と、いうのは、いつも彼の枕許に、看護しているこの家の小娘が、彼が泣くと、共々泣いて、果ては、しゅくしゅく、袂に、嗚咽をつつむからである。
娘の名は、桔梗といった。もちろんまだ二十歳をすぎていない。弟子たちは、桔梗さまと呼んでいる。
「桔梗どの。なぜ、お泣きになるんです」
将門は、ある折、彼女にそういった。病人と看護する者の間ほど、心と心との接近を、急速にするものはない。
「だって、将門様が、お泣きになるんですもの」と、桔梗は、はにかみながら答えた。
「ひとが泣くのに、何も、つきあって、一しょに泣かないでもいいんですよ」
「おつきあいではありませんよ。泣きたいから泣くのですもの」
「どうして、泣きたくなるのですか」
「でも……。あなたが、お泣きになるから」
「では、おれが泣かなかったら」
「私も、泣きますまい。けれど、将門様は、心のうちでは、時々、お泣きにならずにいられないのでしょう」
「そうかも、しれない」
「そうしたら、私も時々、心のうちで、泣かずにいられなくなるかもしれません」
「え。どうして」
「なぜでしょう。あなたのお心が、だまっていても、私には、いちいち、月と水のように、すぐ映ったり、揺れたりします」
「桔梗どの。……ほんとに」
「え。ほんとに」
「ほんとなら。……」と、彼は手をのばした。そして急に、むくっと、身を起しかけたが、
「……痛い」と、顔をしかめて、からだを、折り曲げた。
「あれ。いけません。急にお起きになっては」
桔梗は、彼を抱えて、寝かしつけた。それは、弟をいたわる姉のようなしぐさであった。
体は快くなった。もう、身うごきに、不自由はない。
留守をしている豊田の弟共も、さだめし、案じていることだろう。帰らなければなるまいと思う。が、帰りたくない思いもする。
同じ容子が、桔梗にも見える。
うすうす、知っているかのように、野霜の具足師の老夫婦は、なお将門に親切であった。客人としてでなく、家族あつかいの、温かさである。
「自分の館でも、このように、朝夕、揃って、飯時に笑えたら」
羨ましいことに思った。団欒の中でも、彼はふと、箸を持ちわすれたまま、桔梗の横顔を見てしまうことがある。
豊田へは、梨丸を使いに出して、心配するなといってやってたのに、その梨丸について、弟の将平、将文の、二人が迎えに来た。
将門は、それを機に、伏見掾一家の者に、礼をのべて、弟と一しょに、野霜の部落を立った。
「わざわざ、二人も揃って、迎えになど来なくても、よかったのに」
毛野川の渡舟の上で、将門は、いった。
桔梗の面影が、頭から消えない。眼のまえに弟たちを置いても、彼女の顔が、重なって見える。もう一日はいたかったのに。──
未練の不機嫌が、いわせたのである。
「──が、留守中にも、何も変りはなかったか」
「え。べつに。……お留守中は」
弟たちは、兄がこわかった。都から帰って来たこの兄には、自分たちには、量り知れない新知識が備わり、充分な人生体験と、将来の抱負もあるものと、鑽仰していた。父に代る太柱が立ったように、力としていた。
「将頼は、どうしている? ……気の弱い将頼だ。心配し抜いていたろうな。──が、おれはこの通り、何ともない。叔父共ぐらい、束になっても、怖れはしないよ」
叔父の事を、口にすると、将門の眼は、眼の底から、無意識に燃えだした。筑波の山影を、はるかに、振りむいて、しばらく、ものもいわなかった。
ふとまた、われに返って──
「またも途中で、万一があってはと、梨丸がいるのに、お前たちまで、迎えによこしたのは、将頼のさしずだろう。そんな取り越し苦労はするな。お前たちまで、将頼みたいに神経が細くなってはいけないぞ」
「いえ。ちがいます」
「何が、ちがう」
「私たちに、兄上を、早く連れて来いと仰っしゃったのは、都から来ているお客人です」
「都の客人?」
「え。ずっと、泊って、兄者人のお帰りを、豊田の館で、待っておいでです」
「ばか。それなら、そうと、なぜ早くいわないのだ」
「将門を、びッくりさせてやるのだから、会うまでは、黙っておれと、固く、お客人から、口止めされたものですから」
「そういうのを、馬鹿正直と、都ではいうのだ。冗戯をまにうけるやつがあるものか。して、そのお人の名は、何と、聞いたか」
「お名は、伺っておりません」
「将頼からも、聞いていないのか」
「ええ、将頼兄も、知らないようです。けれど、偉い人らしいといっていました」
「年ごろは、幾つぐらい」
「四十ぐらいかと思います」
「一人か?」
「え。お一人です。けれど、太刀も立派なのを横たえ、都の人々でも、左大臣家の誰彼でも、この地方の国司、郡司でも、みな呼び捨てになさいます。──そして、酒がお好きで、朝から飲んでは、将頼兄をつかまえて、一日中、杯を離しません。都はおろか、九州の果てから、この坂東地方の事まで、じつによく何でも知っていると、将頼兄も舌をまいて、尊敬しておりましたよ」
「はてなあ。誰だろう」
将門には、思い当りがない。左大臣の使いなら、供の四、五名は連れているはずと思う。
それにしても、氏も素姓もしれない旅の人間を、館へ泊めておくばかりか、朝から酒を出して、傅いている将頼や、この弟たちの、無批判と、世間知らずには、唖然とした。これでは、あの叔父共が、悪心を起したのも、むりはないと考えられた。彼は、自分を、世間知らずのお人好しとは思わない。それどころか、余りなお人よしは、周りに、悪人を作るものだとさえ気がついた程だった。そして、歯がゆい弟共に、腹が立つと共に、
(都も都だし、田舎もこれだ。正直者が正直に住める地上など、ありそうもない。──その中を、下の弟五人も抱えて、世に剋ってゆくには、叔父共の上を超えた肚ぐろさも、持たねばだめだ。よし、おれだけは)
おれだけはと、将門は、肚にちかった。
豊田の孤児六人で、あの叔父共を見返してやる為には──と、自分の性情にはない性情を持とうとした。──成ろうと思えば、叔父共以上な無慈悲な悪人に成れないことはないと、思いきめた。
良兼、良正を、筑波に訪ねて、彼が肚にもって帰ったものは、それだった。いや、それと、左の眼の下に、うす黒く残った撲傷の痣であった。
豊田の館へ、帰った晩。彼は、よろこび迎える家人や奴僕に、一わたり、無事な顔を見せて後、すぐに、
「都の客人とは、どこにおるのか」
と、将頼にたずねた。
咎めている彼の眼つきも覚らず、将頼は、いそいそと、
「もう、四日も泊って、毎日、待ちわびておられます。奥の客殿で」
と、もう先へそこへ走ろうとする。
「待て待て将頼。おれが、面を見とどけてからにしろ。こんな遥かまでおれを訪ねて来る都の知人など、心当りもない。どうも、うさん臭い」
将門は、奥へ行って、廊の間の壁に身を寄せ、そっと、客の人態を、覗いてみた。
──なるほど、見馴れない奴がいる。
しかも、飲んで飲んで飲み飽いたという風に、杯盤や、肴の折敷を、みぎたなく、散らかしたまま、のうのうと、手枕で、横になっているのだった。
「……?」
将門は、不快と、怪訝りに、思わず左の手で、太刀のさやを握った。燭は、二ヵ所にもまたたいているが、生憎と、あいての寝顔が見えないため、ずかずかと、男のそばまで、歩いて行った。そして、その図々しい寝顔を、真上から覗いた。
「……おや?」
と思ったとき、反射的に、男も眼をあいた。
熟柿のような顔の眼は、まだ、いくぶんか、とろんとしている。が、将門は、錐みたいに見澄ました。そして、彼より先に、思い出したものらしい。その声には、懐かしさをこめていた。
「あっ、不死人ではないか。──八坂の不死人」
「おう、帰ったのか。小次郎」
男は、むっくり、起き上がった。将門の手へ、手を伸ばした。そして固く握りあった。胡坐と胡坐を対い合せ、顔と顔をつき合せ、二人は茫然と、相見てしまった。
「しばらくぶりだなあ。小次郎。いや近ごろは、将門といっているそうだが」
「うム。お久しぶりだ。まさか、客が和主とは、思わなかった」
「驚いたろう」
「正直。驚いた」
「あはははは。まあ、健在で何よりだ。なるほど、都でも聞いていたが、貴様の館は、大したものだな。さすが、坂東の豪族、桓武天皇の御子、葛原親王の末──平良持がいた頃の勢力がうかがわれる。貴様はその総領息子じゃないか。──おいっ、しっかりしろよ」
「しているよ。しっかり、やっている」
「うそをいえ。──留守中、弟たちに聞けば、親の良持が遺した荘園や家産は、あらまし叔父共に分け奪りされてしまったというではないか。しかもまた、数日前、羽鳥の良兼の館で、貴様、袋叩きの目に遭ったとも聞いている」
「知っていたか。察してくれ。残念で残念で堪らない。この無念をどうしてはらそうか。そればかり考えて帰って来たのだ……いいところへ訪ねてくれた。おいっ、将頼、いちどここを片づけさせて、改めて、酒を運べ。おれも飲みたい」
弟たちには、兄と客が、どういう関係なのか、分らなかった。在京中の親友だろうくらいに想像した。家人は、燭を剪り、席を清めて、高坏や銚子を新たに、持ち出した。
その間も、不死人と将門は、ひッきりなしにしゃべっていた。話したい事、聞きたい事が、山ほどあって、何から、纏綿の旧情を解くべきか、どっちも、思いに急かれている姿だった。
まだ、将門が都の左大臣家にいた頃。──一年、藤原純友が、伊予ノ国へ帰るというので、友人ども大勢が、一舟を棹さし、江口の遊里で、盛大な壮行の宴をひらいて、夜もすがら大乱痴気をやって別れたことがある。
不死人と、会わないのも、それ以来の──久しいことだった。
ひとつには、将門が、左大臣家から滝口の衛士へ、役替えされたためでもある。
その間に、左大臣家にあだした八坂の仲間が検挙され、首魁の不死人は刑部省の牢で獄死したと、噂された。
その後、純友が二度目に上洛したとき、将門は、彼と叡山の一角へ登った。酒を酌みながら、共に、青年客気の夢に酔い、平安の都を、眼下に見て、
(みて居給え。いまに、南海の一隅から、大事を挙げる天兵があるぞ。貴族政治の腐敗の府を揺り潰し、天下の窮民に、慈雨と希望を与える者が現われたら、それは伊予の純友だと思ってくれ。──君も坂東の曠野に生れ、しかも、帝系の家の御子ではないか。純友、西に立つと聞いたら、君も、東に立て)
こう、情熱の賦を歌われて、将門も、
(うん。君のいう通りだ。君のいう事を聞いていると、じつに、愉快になるよ)
と、いった。
純友は、片手に杯をあげながら、
(じゃあ、今日の誓いを記念しよう。君も、杯を持て)
といい、二人して、乾杯した。そして、呵々、大笑した。──都の春の一日には、滝口の小次郎に、そんな記憶も遠くあるにはあった。
(不死人の生死が分らない。分ったら、伊予へ、知らせてくれ)
とは、そのとき純友から初めて聞き、また、依頼もされた事だった。そのため将門は、刑部省の獄司、犬養善嗣をたずねて、探ってみたこともある。しかし、八坂の仲間とも、連絡が絶え、不死人の消息も不明のまま、以来、忘れるともなく忘れていた。──殊に、帰国の後は、生活も頭も一変していた。それどころでない事々日々に追われ通している。
「……時に。おれの事ばかり、問われたり話したりしているが」と、将門は、酒景の一新したところで、あらためて、客に杯を呈し、話題を、不死人の身の上に向け更えた。
「いったい、和主は、その後、どうしていたのだ。──獄死もせず、生きていたことは、今、眼に見ているが、この坂東の遠くへまで、将門を訪ねて来たには、何ぞ、仔細がなくてはなるまい」
「それはあるとも。たれが、的なく、こんな遠国へ来るものか。いかに、小次郎将門がなつかしいとて」
「聞こうではないか。まずそれを……」
「ひと口にいえば、藤原純友の使者だ。じつは、この春、瀬戸の室ノ津で純友と落ちあい、いちど東国へ下って、小次郎将門と、往年の約を、そろそろ実行に移す準備にかかってくれと、いわれて来た」
「往年の約とは」
「和主と純友とが、杯をあげて誓ったとかいう──叡山の約だ」
「待ってくれ。べつに、おれは何も、約束はしないが」
「いや、純友は、打ちあけた。おれだけにはと、その秘密を」
「そうかなあ……。そうかなあ? あの時」
将門は、首をかしげた。
共に、酒中、虹のような気を吐いた事は覚えている。純友が、腐敗貴族をののしり、慨世の眼じりをあげて、塗炭の民を救えとか、救世の慈父たらんとか、くだを巻くようにいったのも、記憶にはないことはない。
けれど、それは、純友の十八番なのだ。酔えば必ず出る語気や涕涙であって、叡山の日と限ったことではない。ひとつの慷慨癖だろうくらいに将門は受けとっていた。多少、自分の方にも、世にたいして、彼と同様な、不平や憤慨もあるので、飲むにも、歌うにも、怒るにも、伴奏的な乾杯はしたが、天下顛覆の密盟などを、そんな酔中に、あっさり結ぶわけもない。それを「叡山の約」などと、物々しく、今ごろ持ちこまれては、まごつかざるを得なかった。将門は、返辞に困った。
「むむ。……そういえば、純友は、大望めいた事をよくいっていたが、瀬戸内で海賊を働いた前科もあるから、おれは、その事かと聞いていたのだ。叡山の約とは、何をさすのだろうか」
「あはははは。隠さんでもよい。おれも一味の人間だ」
「でも、それについて、使いに来たというのは?」
「まあ、そう性急に、片づけるにも及ぶまい。おたがい、遠大な計をもつ身だ。当分は、厄介になるつもりだから、折を見て、また篤と、談合しよう。……それよりも、その後はどうだ。……え、将門。あの江口の遊宿の草笛みたいな君には、その後、出会わないのか。あはははは。まだ、独身だというじゃないか。意気地がないな、いつまでも」
かなわない。どうにも、五分に取組めない。不死人と彼とでは、大人と子どもだ。
もっとも、十六の春、将門が都の土を踏んだその日、へんな尼に、誘拐かされて、祇園の森に、連れこまれた晩──そのときすでに──八坂の不死人は、焚火をかこむ、怪しい夜の人種のうちでも、頭目と立てられていた盗賊の大人であった。
(かなわないのも、むりはない……)
将門は、肚の中で、かぶとを脱いだ。と同時に、不死人が都においての神出鬼没ぶりを思い出して、急に、酔が寒気に変った。──都に遊学した最初の日からの妙な機縁で、この男に、酒の味を教えられ、この男の、情的な一面に、親しみ馴れて、いつか、恐さもなく、またなき友みたいに、交わって来たが、考えてみると、これは大変な珍客である。
弟共に、彼がまだ、素姓を名乗っていないのは、倖せだった。彼の前身は、知らすべきでない。まして、仇敵の叔父共に知られたら、ゆゆしい事になろう。自分を葬る悪宣伝には、絶好な事実だ。将門は、とつおいつ、酔えもしない思いになった。
「……おいっ。どうした。酔わんじゃないか、さっぱり」
不死人は、ひとり杯をかさねて、
「女気がない館は、なにやら淋しい。なぜ、北の方をもらわないのだ」
と、眼をすえて、酔わない相手の顔を見つめた。
「いや、そのうちに、娶うよ」
将門は、ちょっぴり笑った。桔梗を、胸に想い出していた。
「娶てよ、早く。青春は短い。未来の大望にでもかかると、馬上、花をかえりみる間もないぞ。……たれか、あてはあるのか。恋人は」
「ない事もない」
「それやあいい。安心した。──安心したところで、今夜は寝よう。愉快さに、おれは、思いやりを忘れていた。和主は疲れていたろうに。勘弁しろ、勘弁しろ」
始末のいい客ではあった。けれど、どこかに、餓狼の風貌がある。薄く巻き上がっている腹の中へ、いつ鶏や兎を貪り入れようとするか知れたものではない。
将門は、翌日、弟たちへ、こう告げた。
「ものいいは、荒っぽいが、おもしろいお人だろう。あれでも、都では、五位蔵人という立派な朝臣の御次男なのだ。ただ大酒と放埒のため、官途が勤まらないで、つい公卿くずれみたいに身をもち崩してしまわれたらしい。……だが、おれの遊学中は、親切にして下すった。皆も、大切にしてあげてくれい。当分、東国巡りをして帰るつもりだろうから」
弟たちは、疑わなかった。
将門は、ただ一つの満足を、この弟たちが、揃って頷く顔に見た。無条件に、兄を信じているその従順さである。兄以上、世間知らずの素朴さだ。責任を感じる。彼は、この顔の一つ一つの上に幸福を持たせてやらなければならないと、重荷を思う。
「兄者人。……お客人の、お名まえは」
末の七郎将為が、ふと、訊いた。
「あ。そうそう。お名は、藤原不死人。──遊んでいるから職名はない」
答えながら、毛穴のどこかが、汗ばんだ。
当の不死人は、昼からもう飲んでいる。将門は、またつかまると、座を抜けられない気がしたので、
「今のうちに、国庁まで行って来るぞ」
と、梨丸と子春丸の、童僕ふたりに、馬の口を把らせ、数日前の事件もあるので、ほかに郎党十人ほど、後ろに連れ、国司の庁へ、出向いて行った。
何か知れないが、留守中に、出頭するようにとの、通達が来ていたのである。庁の所在地までは、一夜泊りの往復だった。悪くすると、大掾国香や良正あたりから、先手廻しをして、訴訟でも出ているのではないかと思われ、将門は、恟々としながらも、相手の虚構をいい破ることばを、途々、無数に用意していた。
予想は外れた。だが、吉い事のほうに違っていた。
太政官下文の示達をもって、中央から彼にたいし、辞令が届いていたのである。
と、ある。
将門は、意外なだけに、歓びが、大きかった。
御厨とは、地方地方の御料の荘園である。そこで取れる魚鳥の類や、果実、植物油、野菜などの大膳寮用の調菜を管理して、四季ごとに、朝廷へ送る職名なのだ。
都の朝臣たちにくらべれば、微々たる地方の一小官だが、地方にあっては、どんなに低くても、官職があるとないとでは、住民の信頼も重さもちがう。将門は、多年、酷使された左大臣家の恨みも忘れて、はるかに、小一条の忠平公へ、心を向け、心から恩を謝して、欣然と、豊田に帰った。
弟たちも、欣んだ。家人奴僕も、あげて祝いを述べた。悪いことつづきの古館に、じつに、将門帰郷以来の、ただ一つの吉事だった。それだけに、召使は、郷の住民にも、すぐ吹聴してあるき、全部落のよろこびとなって、門前は、賑わい立った。
だが、これを聞いて、ひとり嘲笑ったのは、奥にいる狼友だった。
「笑止だぞ、将門。畑や、沼の水鳥の番人を仰せ付かって、何がそんなに、めでたいのだ。もっとも、遠謀の計ならよいが、そう沸いては、おれまでが、世辞にも何か、一言ぐらい、祝いを述べなければならなくなる」
郷土は祭り好きである。猿島も葛飾も、筑波や結城も、この豊田郡も、何かといえば祭りだった。
館の御子が、太政官下文をいただき、御厨の職をうけられたと聞き、五風十雨の喜憂と共に、土着民はすぐ、産土神に集まった。原始的な楽器や仮面を持ちだし、二十五座の神楽を奏し、家々でも餅をつき、黒酒を酌んで歌った。夜は夜で、万燈を一時に消した境内で歌垣の集いをなし、乙女らも、人妻も、胸とどろく暗闇に、男の手を待ち合った。よその良人と、よその人妻と。知らぬ若人と、知らぬ娘と。どう睦み戯れても、祭の庭では、人もゆるし神もゆるし、罪とはしないその頃の習俗であった。太古、この辺の密林に、巨獣が吼えていた頃の人間の遺習を、忘れぬままに、なおしているだけのことだった。そしてそれが無上の楽しみで、都の空も、土にたらす汗も、汗行も思わない土民たちであった。
「じゃあ、将門。自重してくれ。──陸奥の帰りには、また、きっと寄る。冬を越えて、来年になるだろうが、必ず、立寄るから」
この晩。
不死人は急に、別れを告げた。
東北の奥地──まだ蝦夷人種の勢力が多分に強い──平泉あたりまで、行くのだという。
目的は金。事を挙げるには金だ。砂金を手に入れて来るというのだ。将門には、地理的な知識もない。眼を瞠って聞くばかりである
(──盗みにでも行くのか)
よほど、訊いてみたかった。──が、そこまではいえないでいると、顔いろだけで、不死人は、将門の心を読み取ったように、笑い出した。
「都の怪盗も、都を追われてからは、木から落ちた猿だ。田舎は、おれに働きにくい。変現出没のきかない所だ。将門、ヘンな顔をするなよ。盗みに行くわけではなく、立派に物代を携えて、砂金と、交易して来るつもりだ」
「それならよかろうが、しかし、物代は」
「物代は、よその館に置いてある。当ててみろ。何だか」
「分るものか。ひとの館にある物などが」
「ところが、和主は、見ているはずだ」
「おれが。はてな」
「羽鳥の良兼の館に、きれいなのがいたろう。都ぶりの、すこし年はとっているが、二十五、六の女が」
「え。……玉虫か」
「そうだ。いつかの年、大勢して、純友や、紀秋茂や、津時成などが、伊予に帰るのを、江口の遊里まで、送って行ったことがある。和主も一しょによ」
「ある。あるが……玉虫とその事と、何の関りがあるのか」
「打ちあけるが、彼女はおれの馴じみだった。純友と共に一夜騒いだ家とは、べつな遊宿の女だが、常平太貞盛は、よく通っていた。その貞盛が、ある折、上洛した良兼を案内したのが縁で、東国へ身を引かされて行った。それが羽鳥に囲われている玉虫だ」
信じられない。彼のいうが如き女性とは将門に、思えないのだ。高貴な、そして優しい親切な女性であった気がする。少なくとも彼の印象と感銘ではそうである。
「いずれ、わかる。とにかく、来年また訪れよう。おさらば……」
夜というのに、彼は、豊田を立って行った。馬の背を借るでもなく、どこへ泊るつもりかと、曠野に育った将門ですら、彼の棲息の仕方には、驚きを覚えた。梟のように、暗闇と、同化しきっている。むかし、祇園の森の暗がりに、いつも一つの焚火をたいて、怪しい同類をまわりにおいていた彼の存在が思い出された。また、忠平左大臣を裸にし、愛人の紫陽花の君を盗み出して、幾日も、どこかに隠しておき、色も褪せるほどにして、また、大臣の閨へ返してやったことなどもある。凄い男というほかはない。果たして、来年また来るかどうか。将門は、何しろ、その珍客を送り出して、ほっとしたような心地だった。
ところが、半月ほどたつと、いやな噂が、耳にはいった。
常陸の下妻まで用達に行った梨丸が、先頃の礼に、野霜の具足師、伏見掾の家へ寄ったところ、そこでも噂に出たし、ほかでも、聞いたというのである。
──というのは、良兼の寵愛しておかない局の玉虫が、忽然と、羽鳥の館から姿を消した。手分けをして探したが、皆目知れない。その結果、
(これはてっきり、将門の許へ、逃げて行ったにちがいない。怪しむに充分な理由はある)
と、羽鳥の人々が、いい触れたのが動機で、またその憶測に、尾ヒレがつき、
(事もあろうに、豊田の御子は、叔父御の愛妾を、横奪りなされた)
と、もっぱら、遠方此方で、取沙汰されているというのだった。
野霜の具足師の家へ来て、それを将門の行為ときめ、人非人だと罵ったのは、源護の嫡子の扶であることも、梨丸は聞いていた。その通りを、将門に告げた後、梨丸は、なおいった。
「そんな、ばかな事はない。まるで、嘘ッぱちだ。羽鳥の奴らが、それほど疑うなら、なぜ豊田の館へ見に来ないか。見にも来ないで、何をいうか。──と、私は思うさま、野霜の家で、怒鳴ってやりました。が、そこの翁や媼も、そうであろ、そうであろと、共々怒っておりました。お娘御の、桔梗さまも泣いていました。……残念です。この間も、無念でしたが、きょうは、それにもまさる口惜し涙をのんで帰りました」
将門は、黙然と聞いているだけだった。
──余り気にもかけないのかと、梨丸は、木像のような主人をふと見上げた。怒気とも、泣き顔ともつかない面色が、そこにあった。梨丸は、後悔して、口をとじた。そして涙を抑えながら、主人の前に俯向くと、木像の両眼からも、たらたらと、二すじの涙が垂れた。
ある期間、自分だけに誓って、黙々と馬鹿みたいになって働く──ということは、真面目な人物がよく思い立つことである。
一種の自虐だが、当人には、人の窺い知れない自悦もある。
懊悩のまま年は暮れたが、年もあらたまって、承平二年の正月を迎えるとともに、将門は、翻然と考えた。それに似た誓いを独り胸にたたんだ。克己である。馬鹿になろう、馬鹿になろう、である。そして、今にみろ、という目標をたてた。
「これは、気が楽になった」
将門は、自分を、危機から救ったと思った。馬鹿でない自分が、馬鹿みたいになって、その実、孜々と、目的に邁往してゆく。──やがて五年か十年後には、馬鹿馬鹿とばかり思われていた自分が、はっきりと、馬鹿でない実績を見せて、あの叔父共を、見返してやる。
「おもしろい。黙然人になることだ。もう一ぺん、左大臣家の車舎人となったと思えば、なんでもない」
彼は、世間に耳をふさいだ。家人や奴婢が、外から何を聞いて来て告げ口しようと、笑っていることに決めた。
開拓しさえすれば、新たな農田は、無限に獲られた。山林を伐り、沼を埋め、治水に励み、そのとし一年だけでも、豊田郷の面積と農産は、面目を、あらためた。
折ふし、承平二年から三年にかけては、全国的な大飢饉が、日本の緯度を、見舞っていた。
秋には、寒冷がつづき、翌年五月には、杏花の候というのに、各地で降霜を見、その夏にはまた度かさなる颱風の襲来と、洪水の出現だった。
そのため、二年目の秋には、地方の調貢(税物)が、まるっきり都へ送られなかった。
天皇は、詔して、常の御膳部の量を、四分ノ一に減じられた。
(──更ニ、服御ノ常膳ヲ、四分ノ一ニ減ゼヨ)
という、倹約のために諸卿へ範を示された詔は、一年に二度まで、発せられた程である。
おまけに、比較的、被害のない四国、九州などの西海地方では、海賊の蜂起が、頻々として、聞えた。
内海の海賊は、都の官庫へ輸送されてくる調貢船を狙っては、襲った。
「伊予の純友だ。……純友のしわざだ」
と、それも、都の不安に、輪をかけた。
穀倉院の在庫高は、洛内の窮民に、施粥の炊き出しをするだけでも、日々、気がひけるほど減ってくる。大炊寮の廩院では、財務官たちが、青くなって、全国の庄家(荘園役所)にたいし、私田、公田の徴税と輸送とを、督促するのに、眼のいろを変えていた。
当然、各地とも、徴物使(徴税吏)の取立てが、苛烈を極めた。
抗するにも、訴えるにも、何ら、法の庇護をもたないこの時代の無力の民は、どんな苛斂誅求にも服すしかない。膏血をしぼっても、出さねばならない。
平安朝の民の、その頃の民謡に。
挿し櫛は
十余り七つ
ありしかど
武生ノ掾の
朝に取り、夜さり取り、
取りしかば
挿し櫛もなし
わずかな税物の代りに、髪飾りすら、地方の掾の下吏に持って行かれたと嘆いている土民の妻の顔が目に見えるような謡である。そのうらみを、後々まで、地方の子等は、無心に、謡っていたものとみえる。
が、櫛はおろか、自分たちの露命をつなぐ、何物すらなくなってしまうと、彼らは、最後の手段として、小屋を捨て、郷を捨て、一家離散して、思い思いに、自分の身を、奴隷に、落した。
寺院であれ、官家であれ、豪族の家人であれ、どこでも、力のある所へ、奴婢奴僕として、奉公するのである。そういう、無籍の民には、税は負わせられない。つまり、身をすてて、税の負担から遁れるのであった。
そういう逃散の流民が、将門の豊田郷にも、おびただしく、入りこんで来た。
将門は、追わなかった。むしろ、幸いとして、
「食えない者は、おれと働け、働くところに、飢饉はない」
と、かかえ込んだ。そのため、館の大家族形態は、膨脹するし、郷民は殖える一方であったが、急開拓の火田法なども用いて、およそ二年半、死にもの狂いに、結束して働いた。
世は、承平の大飢饉といわれた程なのに、豊田郷は、この期間に、かえって、富を増した。
朝廷から任ぜられていた相馬御厨からの御料の納物は、春秋とも、きちんと都へ送っていたし、租税も完納できた。
また、さっそく、種つけし始めた牧の牝馬は、みな仔を生み、明けて三歳の春駒や、二歳、当歳仔が、大結ノ牧に、群れ遊び、むかしに近い景観を呈し始めてもいる。
いや、もっと、大きな力を加えたことは、隣郡の結城や猿島の小豪族が、帝系桓武の末流という魅力にひかれ、また実際に、彼の努力やら、豊田郷の勃興を見て、将門の館へ、何かと、誼みを通じてきたことである。
それにたいしても、彼は、
「うむ、一つになるか。よかろう。小さく、こせこせ、茂り合うよりは、一門となって、力をむすび、深く根を張って、大木となろう」
来る者は、拒まず、誰とでも、杯をくみ交わした。彼にはどこか、そんな風に慕われる親分肌な人がらがあったとみえる。由来、関東八州は、後世まで、ややもすると、杯によって義を約す侠徒の風習を生じたのも、遠く、平安の世の坂東曠野時代、この辺の原始制度の中で強く生きるために自然に仕組まれた族党結束の名残といえないこともない。
到底、三人の叔父に横領された遺産の大には、及びもしないが、それでも、将門はひとまず、家運を挽回した。
すんでの事に、建ち腐れともなる、父祖以来の、豊田の館を、もりかえした。叔父共の手からは、依然、一枚の田も返されてはいないが、奪られた家産田領の何十分の一かは、自分の努力と汗から取りもどした。
「──天はおれを憐んでくれている。おれには、励みがある、人知れぬ楽しみもある」
黙々三年の間、彼を時々ニタニタさせていた胸中の秘密は、承平五年の正月、初めて、一族兄弟に、披露された。
「ことしは、おれも、妻をもつぞ。……誰だ? 当ててみろ」
と、初春の宴会の夜である。いきなり大勢の前で、こう、彼らしく、いい出したものである。
「ほんとなら、一族の歓びです。お館とて、早や三十五歳にもおなりですもの」
みな、どよめいて、杯を上げ合ったが、さて、将門が正室として迎えようと決意したほどの女性は、誰であろうか? 誰にも見当はつかなかった。
当時、早婚の風は、平安の都ばかりでなく、鄙でも、十三、四、あるいは十五、六歳で妻をもつ者は、幾らもあった。だから勿論、将門が三十五歳まで女性を側におかなかったというわけではない。妻ならぬ妻は、郷内にもおいていた。館の棟のちがう所に住んでいたかもわからない。しかし、正妻はまだ娶っていなかった。
「兄者人。私は知っています。……当ててみましょうか」
いったのは、弟の将頼である。
将頼は、うしろにいた梨丸と、顔を見合せて笑った。
「なに。知っていると?」
「分っていますとも」
「当ててみろ」
「当てたら、何を下さる?」
「おまえには、御厨の御料地をふくむ、守谷一郷をやる」
「え。……まさか、兄者人、そんな、おねだりはしません」
「よいから、いえ。当ててみろ」
「野霜の……桔梗どのでしょう」
「そうだ」
将門は、手を打った。そうだといった声も、途方もない大声だったので、みな、あっ気にとられて、将門を、見まもった。
しかも将門は、あわてて杯を唇へ運び、眼に涙をためていた。そして、将頼に、杯を与えた。
「当たったよ、将頼。分っていてくれたのだな、うれしいぞ。……どうだ、将平も、将文も、将武も、将為も」
ずっと、弟たち、すべての顔を見わたして、
「桔梗どのを、おれが、娶ってもいいか、どうか。それが聞きたい。家人共も、いってくれ、遠慮なくいってくれ。この館の北の方としてよいか、悪いかを」
と、おそろしく真剣になって訊ねた。
将頼を始め、彼の弟たちは、口々にそれへ答えた。
「よいも悪いもございません。兄者人が、お好きな方なら」
「兄者人も、御決意なのでございましょうが」
「うすうすは、将頼兄から、聞いていました。そんな、お好きな方があるのに、いつお娶いになるおつもりかと、私たちこそ、待ち遠い思いをしていた程です」
「…………」
将門は、大きな味方を得たように、弟たちの一語一語を、うなずきで受けては、だらしなく、鼻のあたまの涙を、水洟と一しょに、こすっていた。
「そうか、お前たちが、そういってくれれば」
「なぜ、そのように、私たちへ、お気がねなさるのですか」
「いや。あれを娶うには、お前たちの力もかりなければならないからだ。手ッ取りばやく、結末をいうならば、桔梗どのの親、野霜の翁のことばには、晴れて、嫁入らすというわけにはまいらぬ程に、強っての仰せならば、娘を、盗んで給われ──と申すのだ」
「あ、そうですか。余りに身分が違いすぎると、あの実直な親共は、卑下しているわけですな」
「……とも、ちがう。理由は、まったく、べつにある」
「ではなんで、そんな古風な事を、望むのでしょう。遠い昔には、望むところの家の娘を、聟と、聟の一族が行って、掠め奪って来るのが婚礼であった習慣もあるやには聞いておりますが」
「それも、先方の望みだから仕方がない。おれには、桔梗どのの親共の苦しい気もちは充分にわかっているのだ。そして、お前たちにも、その苦しみが、やがては、累をなして行くことも惧れている。……だが、あきらめられないのだ。おれは……この兄は」
将門は、指で髪を掻きあげた。その手は、いつまで、髪の根をつかんだまま、彼らしくもない溜め息になっていた。
将頼にも将平にも、ふかい事情はわからない。ただ、兄の恋が、四年ごし、胸の中におかれていたことだけは知っている。そして、その兄が、酒興ではなく、大勢のまえで、こう苦悶するのを見、何でわれわれに否やがあろう、と一せいに、兄の恋を励ますような眉色をたたえた。
家人郎党たちにしろ、それは、ここで更に祝杯を重ねてもいい程な思いこそあれ、異議のあるべきはずはない。やがて、異口同音に、
「吉事は早くこそ。花に雨、月に雲のたとえもありますぞ」
と、凱歌のようにいい囃した。
一族の者に、そう祝福され、励まされて、将門も、いよいよ臍をかためたらしく、
「では、二月までには、嫁御寮を、ここに迎えよう。何かと、その心得をしておけやい」
と、宣言した。
酒の強いのは、この時代の、殊に、この原野の人種の特色である。十壺の黒酒(黍酒)を空にしてなお足りぬほどだった。一門、泥亀のように酔った。そして、将門の恋と、併せて、正月の夜を、底ぬけに、祝った。
ところが、ただひとり、不安そうに、これを眺めていた老人がある。将門の父良持の代からいる多治経明という老臣である。
経明は、もう眼もかすみ、腰も曲がって、物の役には立たない老齢なので、御厨の御料の池の番所に詰め、めったに、館へも来なかったが、たまたま、新年の宴に会して、かえってひどく憂い顔に沈んでいた。
何か、彼も一言、いいたげであったが、この若者ぞろいの、逞しい野性に酒気をそそいだ雰囲気に反むくような事は、とても老人の乏しい意力では、よく為しうることではない。
──と、悟ったように、彼のみは、独り、とぼとぼと、暗い遠い道を、御厨の御料園へ帰って行った。
正月中は、賀客が、絶えない。
将門は、坐ったきり、客に接して、のべつ酔っているような恰好だった。
きょうも、菅原景行が来ていた。
「よくぞよくぞ、これまでに励まれた。亡き良持どのがお在したら、いかばかり歓ばれようぞ。──さすがは、桓武帝の末裔たる御子将門どのよ。わしも、どんなにか、うれしいか知れぬ。よい初春を、昔なつかしいこの館で、祝わせて戴いた」
景行は、口を極めて、ここ数年の、将門の克己を賞めた。
この謹直な君子人のまえでは、将門も、かつての洟垂れ童子の頃そのまま、ただ、畏まって、往年の恩義を謝したり、これからの勤勉と、家運の挽回をちかうくらいが、関のやま、口に出る話題であった。
「たのむぞ。この上ともに」
まるで、真の父が、真の息子を、励ますようにいって帰る景行であった。
その人を、館の中門まで、送り出して、ふと土倉の方を見ると、五、六頭の荷駄が着いている。弟たちと、家人が、馬の背から下ろした武具の菰梱を、武器倉へ、運びこんでいるのだった。
「おう、また、野霜から、誂えてある具足が出来てきたのか」
「はい。なお鉾や弓の類も、近日、出来た分から、次々に届けて参るそうです」
「馬具も、長柄も、弓も、もう相当、量は溜ったろうな」
「だいぶ、揃って参りました。いちど、三つの土倉を、御覧なさいますか」
「いや、きょうは止そう。……それより将頼と将平は、ちょっと、おれの居間まで、来てくれないか」
将門は、やがて、後から従いてきた二人の弟を、前において、こういった。
「おとといの晩な。初春の夜宴の席で」
「はい」
「おれは、よほど、心が浮いていたものとみえる。われ知らず、桔梗どのの事を、口に出してしまった。あきらめきれぬ女性ではあり、決して、諦めようとも、思ってはいなかったが、さりとて……ああいうつもりもなかったのだ」
「よいではございませぬか。想いを、想いのまま、いつまで、おつつみ遊ばしているよりは」
「そういって貰うて、おれは、涙がこぼれたよ。──将頼、将平。……打ち明けるが、実は、桔梗どのには、おれのほかにも、いのちを賭けて、恋している男がある。おれにとっては、何しろ、手強い恋がたきだ」
「どうしたことです。兄者人、恋に負けてなるものですか。相手があると聞けば、私たちも、兄者人を、失恋の人にはさせられません。なア将平」
「そうですとも。たれです、相手は」
「それがよ。源護の息子たちだ」
「息子たちとは、おかしいではありませんか。護の嫡男、扶ですか。次男の隆か。それとも、三男繁ですか」
「げにも、笑止なことだ。その扶と、次男の隆とが、これまた、ひとりの桔梗を争いあっているわけだ。そのため、彼ら兄弟も、無下には、桔梗どのを手にいれかねているし、桔梗どのの親共も、それを理由に、どっちの求めにも、巧みに、断る口実を持って来られたのだが……もうそうそうは、その口実も、利かない切迫に追いつめられているらしい」
「──と、仰っしゃるのは」
「扶と隆の兄弟が、やはり兄弟だけに、話し合って、この恋、どっちに幸いするか、籤を引いて、桔梗の所有を決めようとなったらしい」
「ば、ばかにしている。恋する女性を、賭け物にするなんて……」と、気の優しい将頼すら、義憤をもらして、「──それで、野霜の伏見掾は、娘を、そのどっちかへ、与えるつもりなのでしょうか」
「いや、あの翁は、職は具足師でも、心は硬骨だ。もちろん、やる気はない。それはおれにも誓っている」
「いつ、お会いでした」
「ここへ来ては、人目にたつ。そこでいつも、御厨の御料園へ、そっと忍んで見える。あの経明の住んでいる池守小舎のうちで、幾たびとなく、会っていた。──愛娘の桔梗どの可愛さに、あわれ、野霜の翁も、子ゆえに迷う夜の鶴という諺どおり、何かにつけて、おれを訪ねて来る」
「それでは、親御の伏見掾も、兄者人へ、嫁がせたいと希い、桔梗どのも、兄者人を、想うているわけでございましょうに」
「ま。……そうなのだ」
将門は、顔を赤くした。弟たちに、自惚れと笑われもしまいかと、遠慮がちな頷き方をした。
「──ならば、何を、さは、御躊躇なさることがありましょう。扶や隆へ、うまく、いいわけのつくように、翁が、考えた通りの手段を、兄者人が、さっそく、実行しておしまいになれば、それまでの事でしょう」
「いや、おれの惧れるのは、それから先だ。──何といっても、源護一家は、新治、真壁、筑波三郡にわたる常陸源氏の宗族だ。坂東一帯にも、数少ない大族ではあり、嵯峨源氏の与党も各地にもっている」
「だって……兄者人。恋でしょう、問題は。いくら嵯峨源氏の嫡男でも、女ひとりに、そんな表立った権力を振えもしますまい」
「……が、なあ弟。あいにくと、その護の女二人までが、おれたちの叔父共へ、嫁いている。ひとりは良兼どのの室。ひとりは良正どのの内室へ」
「縁は、どうつながっていようともです。──では、兄者人は、桔梗どのを、想い切れるのですか」
「きれない……」
将門は、眼をつむった。
「じゃあ、あとの苦情や、多少のいやな思いは、お覚悟の上でも、思いをつらぬくしかないではありませんか」
「ゆるしてくれるか」
「そんなお気の弱いことを」
「おれに怯みはない。自分の恋だ。命を賭けてもつらぬきたいわさ。──では将頼、おまえは、おとといの夜も、いったように、おれと分家して、近々に、御厨の方へ住め。あの辺、守谷一帯の田領は、おまえに遣る。また、将平は、猿島の岩井を持つがよい」
「この時に、私たちの身まで、そんなにお考え下さらなくても」
「いつかは、将文、将武にも、追々、そうしてやらねばならない年頃にみな来ている。父の亡い家だから、おれが父の仕残しを仕遂げねばなるまいわさ。あははは……。今ごろ、恋にとらわれて、おまえ達にまで、心配させている困った親代りだ。恃み効いなくは思うだろうがな」
弟二人は、しゅくしゅく、俯向いた。共に、幼時の哀愁を呼び起された。将門は、泣かせて悪かったような顔をした。
すると、常には気の弱い神経質な将頼なのに、決然と、涙を払って、いい出した。
「わかりました。お気もちも、御事情も、よく分りました。おいいつけのように、私は、数日中に、御厨へ別れます。将平も、そうせい。──ところで、兄者人。兄者人の恋人は、いつお迎えしますか。野霜へ、桔梗どのを、攫いにまいる夜は、ぜひ私も、連れて行ってください」
「兄者人。──私も」
と、将平もまた、兄へ迫った。
まだ、野も丘も、冬枯れのままだった。如月初めの風は、ひょうひょうと葦の穂に鳴り、夕方、こぼれるほど落ちた霰が、野路にも、部落の屋根にも、月夜のような白さをきらめかせている。
──その日。伏見掾の家は、終日、ひそやかだった。翁も弟子も、仕事についた様子もない。
夕餉の一刻には、親娘して、そっと、土器で杯が酌みかわされ、桔梗の母なる媼は、瞼をぬぐい通していた。
彼女は、化粧した。泣き腫れた顔を、幾たびも、鏡にむかって直した。
弟子たちは、裏表を、見張っている。
──やがて、遠く野の中で、松明を振るのが見えた。
「……では」
と、にわかに、翁も媼も、家中して、ざわめいた。
「しずかに。……静かによ」
涙ながら、桔梗の姿を、土塀門の小さなくぐりから、送り出すのだった。桔梗は、うす紅梅、緑、白、紫と襟色を重ねた小袿を着、つややかな黒髪をうしろに下げていたが、親の家の門を、幾歩か、出ると、その黒髪も小袿の袖も、空へ舞いちぎられるように、赤城颪しに吹かれていた。
すぐ、その辺に、身を伏せていたものだろう。さっと、木蔭や草むらから、十人余りの人影が立ち、桔梗のそばへ近づいた。
さすがに、桔梗が、ア──と、かろい声を流した。ともう、彼女は、馬の背に、押しあげられ、鞍に、布でくくられ、東の方へ、駈け去った。
それを、遥かで待っている者の合図らしく、さっき見えた松明が、またしきりに、野面のうえで、うごいていた。──見ようによっては、野霜の翁と媼へ、何かを、焔で語っているともうけ取れる。
媼と翁は、家のうちへ戻ると、おたがいに、老いの涙のとめどなさを、慰めあった。
「ああ、寂しい。手のうちの珠を失うたような。……けれど、むすめの望みが、かのうたのだ。かなしいような嫁入りではあるが、桔梗の身になって、歓んでやれ。桔梗の心は、もう、豊田へ行っているであろ。いや、遥か野面に見えた松明は、聟殿がみずから振っていた炬かもしれぬ」
夜もすがら、この老夫婦は、桔梗が生まれた時から、きょうまでの想い出を、いくら話しても話しつきないように、語りあっては、泣き沈んでいた。次の日も、この具足師のやしきは、夜のように、ひそまり返っていた。
弟子たちは、部落の同職の人々へすら、
「桔梗さまが、きのうの夕方から、行方知れずにおなりなされた」
と、事実を隠していた。そして、
「平泉の人買いに、誘拐かされたか、野盗の群れに、攫われたやら」
と、わざと大仰に吹聴した。
こういう例はないではない。陸奥の俘囚(半蝦夷領)の勢力地へ行くと、美しい女が高価に売買されるという。また、はるばる都から美女を輸入してゆく人買いはよく北の方へ通って行く。
現に、数年前には、羽鳥の良兼の局にかこわれていた──あんな堅固な館のうちの女人すら、忽然と、姿が見えなくなってしまった実例さえある。
しかもこれは、国司の庁や、郡司の役所へ訴えても、どうしようもない事だった。あの羽鳥の良兼の勢力を以てさえ、ついに、愛妾の玉虫は、あれきり、どこへ行ったか、分らず仕舞いである。一時は、将門が隠したのだと、もっぱら嫌疑をかけて、探りを入れたが、真実、豊田にも、どこにもいないと分って、ようやく、ここ一、二年前に、噂もなくなっていたところだった。
「何、何。──桔梗が行方知れずになったと」
源護の嫡男、扶は、その日、水守の良正の館へ遊びに出向き、まだ良正にも会わないうちの門前で、良正の家来たちから、その事を聞かされた。
「それは、捨ておけん。一大事だ」
彼は、たちまち、馬を回して、野霜の方へ、駈けて行った。
この嵯峨源氏の嫡子も、年はもういい程である。正妻も側室も持っていた。だが、恋は、べつな道としているらしい。地方にめずらしい洒落者で、綺羅やかな太刀、狩衣の装いや、馬具の飾りの美々しさは、つねに草深い領下の土民の眼をそばだたせていた。そして、いつも七人や八人の供は連れている。
「はやく来い。ばかっ。おくれな、郎党共」
追いつき切れない家来たちを、時々、馬上から振り返って叱りながら、まるで、戦場へでも急ぐような語気である。
「隆の仕業かな? ……。そうだ。悪くすると、弟め、それくらいな事はやりかねん」
充分に、疑って、野霜の具足師、伏見掾の部落屋敷へ、駈けこんだ。
ところが、どこで聞いたか、弟の隆の方が、もう先にそこへ来ていた。翁も媼も、その夕から、床について、嘆き沈んでいるといって会わない。弟子たちや、部落の諸職の者を集めて、細々、訊きただしていたのだった。
「どうも、よくわからん。──桔梗がいなくなったのは、事実らしいが、前後のいきさつが、辻つま合わぬ」
「隆。何も、手がかりは、ないのか」
「やあ兄上。これはちと、おれ達の不覚だった。察するに、豊田ではないかと思う」
「将門か。……うム、一度は、そうも考えたが、あの小心者に、大それたまねは出来まい。桔梗の身には、われらの息がかかっていると、彼奴は、百も承知のはずだ」
「そう考えていた隙が、鳶に、出し抜かれた因ではあるまいか。つらつら思うに、ここ一両年、野霜で出来る武具なども、大半は豊田の方へ買い取られている。いつのまにやら、将門と伏見掾との間に、話し合いが出来ていたのかも知れぬぞ」
隆は、ずんぐり短い体を振って、しきりに、かなつぼ眼を、あたりへ動かした。自分の嗅覚に、確信をもって、いいきるのである。
扶は、青ざめた。憤怒するとそうなる性質らしい。
「おい、隆。伏見掾夫婦を、おまえの馬の背に引っ括って、後から館へ、引っ立てて来いよ。よろしいか」
そういいつけて、自分は、不快怏々と、先に自邸へ、帰ってしまった。
まもなく、隆が、後から来た。しかし、野霜の老夫婦は、拉致して来なかった。どうしたかと訊ねると、翁と媼は、一間を清掃し、枕をならべて、眠るように、自害していたというのである。
「豊田領へ、放免(密偵)を入れてみれば、すぐわかる。もう疑う余地などあるもんですか」
隆の言があたっていたことは、数日の後に、立証された。共に、失意となってみれば、この兄弟は、将門を憎むことに於いて、また、報復を期す目的に於いて、どこの兄弟仲よりも、急に、仲がよくなった。
「彼奴にも、家人郎党はある。うかつには、手が出せん。どうしてやろうか」
行ったら完全に将門の致命を扼すような策でなければならないと、二人は智恵をしぼりあった。だが、完全扼殺となると、にわかに名案もうかんで来ない。
すると、二月の末頃である。
石田の大掾国香から、使者が来た。書状をひらいてみると、こうあった。
──長らく在京中のせがれ常平太貞盛が、突然、帰省いたしました。
このたびの帰省は、新たに、右馬允に任官した歓びをこの老父に告げるためと、今春の御馬上せの貢馬を、東国の各地の牧に、下見するための公用の途次との事です。
ここわずか両三日ほど、郷家に旅の身を休める暇をもつのみとか。ぜひその間に、久々ぶり、お会いもして、四方のお物語りなど、日頃の思慕の想いを尽したいと、念じております。
お待ち申しあげる。どうか、おそろいにて、お立ち越しのほどを。
常陸も北と南では、かなり季節がちがう。
石田の館は、南常陸にあった。
二月。筑波の風はまだ冷たいが、宏大な館の築土にも、中門の籬にも、紅梅白梅がもう綻んでいた。
大掾国香は、朝から機嫌である。蓬莱の翁のように、白髪ながらきれいに櫛を入れて結髪もし、直衣の胸にも白い疎髯を垂れている。烏帽子、衣紋も着崩さずに、なにかと、客待ちのさしずをしていた。
やがて、家職や侍たちが来て、準備の出来たことを告げると、
「そうか。客門の辺りばかりでなく、客人の駒をつなぐ厩なども清めたろうな。厩の不精ッたいのは、嫌なものだ」
「藁一つ散らしてないように、清掃しておきました」
「よし、よし。……もうやがてお見えだろう」と、幸福そうに老眼を皺めて恍惚と庭園の春日に眸を細めた──。
「右馬どのには、何しておられるか」
「今し方、お湯殿を出られ、御装束更えを遊ばしていらっしゃいます」
「すっかり、都風よの。あれもなかなか洒落者ではある。支度がすんだら、客人たちのお見えになるまで、これへ来て、父と話さぬかというてくれ」
右馬どのとは、自分の長男、さきの常平太貞盛をいうのである。新たに、右馬允に昇官したので、この老父は、愛情と自慢を併せて、意識的に、家人たちには、近頃そう呼ばせていた。
「父上、これにおいでで」
「お、貞盛か。まあ坐れ。日和にめぐまれてよいあんばいだった」
「きょうの客人は、誰方と誰方ですか」
「正客は、源護どの。水守の良正、羽鳥の良兼など、ごく内輪だけにしておいたが」
「護どのの御子息たちは」
「来るだろう。案内はしておいたから」
「都へ出たまま、久しく帰国もしませんでしたが、以前とは、比較にならぬ程、荘園も拡まり、家人郎党も殖え、このお館など、見違えるばかり華麗になりましたな。これ程な生活は、都でも大臣か督ぐらいの地位でないと出来ません」
「しかし、わしの官位などは、依然として、大掾に止まったままだ。何というても、田舎にいては、分がわるい。お許は、右馬允になり、やがては、衛府の頭にもなれよう。官職では、この老父よりはるかに上じゃよ」
「あちらでは、仁和寺の式部卿宮だの、右大臣家や九条師輔様などに、なんとか、引立てをうけております。中央では、何といっても、摂関家や親王方などにお近づきを得なければ立身は成りません。……あ、それで思い出しましたが、小次郎将門は、この頃、どうしていますか」
「将門か。……ふふふふ」と、国香は下唇を反らして笑った。貞盛を見るときは、眼の内へも入れてしまいたいような愛情に溶ろけるこの老父が、将門という名を聞いただけで、眸の底から呪咀の光を見せるのだった。
坂東にいて、都にも負けない居館や、家人眷族の慴伏の上に坐し、有徳な長者の風を示している大掾国香も、常南の地に、今日の大をなすまでには、その半生涯に、信義だの慈悲だの情愛などというものは、すべて自分のうちに締め殺して、外には敢て、辛辣な手段や方法を、成功の秘訣とえらび、強欲の収得を累積してきたにちがいない。年は、七十余齢、いまでは深くつつんでいる過去のそうした時代の物欲の夜叉だった片鱗も、どうかすると容貌の皺の底からにじみ出てくる。
「いや、弱るよ、あの将門にはな。……ややもすると今でも、良持の遺言だの、荘園の古証文など持ち出して噪ぐ。よほど、根ぶかい遺恨としているらしい。そのため、何か、われらもおちおちしておられぬ。良兼も良正も、一族繁栄の中で、それ一つが、禍いだと申しおる」
「鈍物の一念でしょう。悧巧でないから、なお、始末がお悪いにちがいない。はははは」
「笑い事かよ貞盛。そもそもは、お許もすこし怠慢であったぞ」
「ホ。私にも罪がありますか」
「あるぞよ。──それ、そのように、忘れ顔ではないか」
「はて? 仰っしゃってみて下さい」
「過ぎ去った事だが、将門がまだ都にあるうち、お許への密書のうちに、いいつけておいたであろが。……将門めが、国許へ無事帰って来ては面倒になる。都にいるうちに、何とか、処分するようにと」
「あ、なるほど。思い出されます。──彼の在京中、折あらばと、私も密かに、尾け狙ってはみたのでした。しかしヘタに仕損じたら大変ですからな。つい、殺す折がなかったわけです。また、あの才気もない魯鈍な人物故、帰国したところで、父上や叔父御たちで、どうにでもなろうと、それも、多寡をくくっていた一因でしたが」
「いや、鈍は鈍でも、彼奴を帰国さしたのは、せっかく、都の檻に追いやった野獣の子を、都で育てて、またわざわざ坂東の野へ放してよこしたようなものだ。お許の抜かりよ、それだけは」
「これは、時過ぎてから、思わぬきついお叱りで」
「なにも、改まっていうではないが、いずれきょうの宴には、良正、良兼などからも必ずその話がむし返されて出るにちがいない。あらかじめ、親心でいうておくのだ。もし叔父共が責めたら、よいようにいい解けよ」
貞盛の帰洛の別宴とはなっているが、兼ねては彼が右馬允に昇官した披露目の意味もあろう。夜に入るまでの盛宴だった。
主賓の源護は、老齢なので、ちょっと顔は見せたが、輿に乗って、明るいうちに帰った。一族のほとんども、それぞれ頃をはかって散った。──残ったのは、良兼、良正、それにすこし遅れて来た護の子息の扶、隆、繁の五人だった。
広間の燭を、一隅に縮めて、国香を中心、内輪だけがなお夜を飲み更かしているのは、話題が、将門の事になったからである。
「きょうは、この兄の嘆きも聞いてやって下さい」と、弟の隆は、自分の横恋慕は棚に上げて──
「長年、恋していた女を、兄は、将門に奪われて、悲嘆やる方なし……というこの頃なのです。うんと飲ませて、元気をつけていただかないと、恋死ぬかも知れません」
などと酔いにまかせていった。
貞盛は、かえって、揶揄い半分に、
「そうか、扶どの。──道理で浮かぬ顔よ。したが、失恋は、酒では癒えぬし……医師も匙を投げように」
と、おかしがった。
けれど良正、良兼たちは、わざと深刻な表情を持して笑わなかった。その事は、数日前から聞いていたし、相手が、将門と聞いて、われらも共に、恥辱を感じていたところだ──と、焚きつけた。将門ずれに、見返されては、あなたの男も立つまいが、われらとて、捨ておかれない。無念である。じつに忌々しい限りだ、と、若年でもない二人の年配者にしてさえ、怒りやまずいうのだった。
その間、国香も、むずかしい顔して、疎髯を指でまさぐりながら、チロ、チロと兄弟たちの顔を見たり、良正の煽動的な語気へ、大きく頷いてみせたりしていた。
それでなくても、鬱憤にくるまれていた、扶、隆の血気は、わけもなく誘い出された。そして、激越な語気のもとに日頃の大胆な考えを口にし出した。
「もとより、このまま、私たちも引っこんではいない。どうしたら将門を、必殺の地へ、おびき出せるか──と、じつはその謀をこの間じゅうから考えているのです。何か、よい策があったら、お智恵をかして下さい」
酔いを蒼白なものに沈めて訴えるのである。その若気を、ひとまずは宥めながら、実は、不抜な意志にかためさせているような言葉が、国香や良兼たちの老巧な態度に見られる。
貞盛も、さきに自分の手でやり得なかった事が、扶や隆の手で行われれば、これに越したことはないと思った。それも、それをやる者の如何にもよるが、常陸源氏の嫡子や二男三男らが手を下すならば、周囲や近国でも、その成敗に、苦情をいい出す者はあるまい。国司ノ庁などは、どうにでも動く。──また、中央の聞えは、自分が、都へ帰った上、先手を打って、予備工作にかかればよい。
貞盛も、そんな意見を出した。知性的な態度の彼からそういわれると、扶たちは、自己の考えに、なお確信をもった。殊に、中央の工作を、貞盛が受け持ってくれるとあれば、──と、それも大きな力とした。
とにかく、その夜、一つの密謀が、かためられた事は、確かである。──久しく都にいて、めったに帰省しない貞盛が、居合せたことも、後に思えば、宿命的であった。
その貞盛は、やがて、都へ帰った。
三月から四月への、坂東一帯の春の野の麗かさは言語に絶える。自然美の極致を、際涯なき曠野の十方に展くのである。
将門は、そうした自然に身まで染まって、相変らず、家人奴僕を督励して、働いていた。
わけて、恋人を妻として、館の一棟に、その桔梗の前と、蜜のような楽しい新家庭を奏でてからは、なおよく働き、よい良人になろうとしていた。
すると、五月の初旬。月が更わるとすぐの日である。
石田の大叔父、大掾国香から、いんぎんな使者が来た。そして、将門宛に、書面があった。
披いて見ると、将門の父良持の法要を営みたいという招き状。
「あ。……もう亡父の十七年忌か」
彼はふと、茫として、遠い回顧にとらわれた。
──日は、五月四日。場所は、新治郡の大宝寺。
一族相寄って、良持どのの法要を営み申したい。ほかならぬ故人のこと、其許にも、旧事近情は水に流して、ぜひ御臨席ありたい。
という意味の文章である。
「……参ります。何は措いても」
つい眼に涙が溜った。返事をしたため、また、使者へ口でもことづけた。
桔梗は、四日の事を聞いて、睫毛の翳に、憂わしそうな眸を沈めた。新妻らしく、まだ、良人にも、どこか気がねをたたえている。
「いらっしゃらなければ、いけないのでしょうか……」
俯し目になって、それだけをいい、どこか泛かない姿態であった。
明日となった。
桔梗は、また、
「どうしても、おいでにならなければいけませんの……?」
おとといと、同じようにいった。
将門は、ちょっと、眉を硬めて──
「そんな事より、新しい狩衣は、縫わしておいたのか。袴も」
「ええ……。御装束は、みな、調うていますけれど」
「なぜ、そんな淋しい顔をするのか。──桔梗、よせよ、そんな悲しそうに、睫毛をふるわせるのは。おれまでが、悲しくなって、何だか、行きたくなくなってしまう」
「おねがいですから……」
桔梗は、抱かれた良人の手の甲へ、濡れた睫毛を、ひたと、すりつけた。
「──いらっしゃらないで下さい。四日の御法事には」
「どうしてか。なぜ」
「でも……私、心配でなりません。いいえ、御舎弟たちも、寄り寄り、お案じ申して、私へ、強って、お止めしてくれと仰っしゃいます」
「将頼がか?」
「いいえ。将平様も、将文様も」
「新治の大宝寺というので、敵地へ行くように案じるのだろうが、常陸源氏の息子たちは、この法要には関りはない。羽鳥や水守の叔父共は見えるだろうが、おれさえ、何事にも怺えていれば事はすむ。──それも、余人の年忌ならばだが、亡父良持のと申されては、どう嫌な人間が集まっていても、行かぬわけにはゆかぬ」
「将頼様の御代参ではいけませんか」
「総領のおれがいるのに。……殊には、ほんとなら、法要はおれの名をもって営まねばならないところだ。……な、そうであろうが」
「え、え」
「この二、三年は、おれはただ、家運の挽回に、無我夢中だった。起きれば、田野へ出て、奴僕と共に、土にまみれ、疲れた身を、横たえると……桔梗、おまえの夢ばかりみていたよ。……夢が、昼の働きを励まし、昼のつかれも、夜の夢を楽しみに、ここ三年は暮していた」
「……私も。……私もです」
「二人の夢が、こう結ばれた。その二月の夜からの幸福さ。……おれは今、毎日、いっぱいなんだよ、その幸福で」
「ですから、この愛しい日を、いつまでも続けてゆけるように、じっと守っていたいのです」
「もとよりだ。……ただ、そんな幸福に、ここ百日も、恵まれていたものだから、まったく、亡父の十七年の年忌など、頭のうちに、思い出されもしなかったのだ。不孝といわれても仕方がないが、しかし、死んだ父上は、知っていてくれるよ。……ゆるして下さっているに違いない」
「…………」
「おれは、母とは、顔も知らないうちに別れ、父も少年の日に死なれてしもうた。こういう館住居では、その父へも、甘える日はなくて別れた。死んでから甘えてもいいだろうと思っているのだ。な、桔梗」
「ですから、明日の御法要へも」
「行くなというのか。さあ、今となっては、ちと遅い。行くと、返書もしてあるのに、その日になって、おれが姿を見せなかったら、臆病風にふかれたぞと、満座で笑いどよめくだろう。亡父良持の恥だ。おれは坂東平氏の総領だ。行かいでか」
桔梗はもう止めることばを失った。また、そういう凜乎たる良人の男性らしさにも惹かれた。恐いような魅力に恍惚となっている自分にはっと気がついた。そしてその魅力ある腕のなかに、その夜も、幸福な夜を、ついそのままに明かしてしまった。
「行って来るぞ」
将門は、馬寄せから、鞍上の人となって、館を出て行った。馬の上から振り向いて、家人の中の新妻へ、明るい一言を残した。
小冠者二人に、郎党十人ばかりしか連れなかった。
承平五年の五月四日だった。
早朝の新緑の風が、爽やかであった。──豊田の町家を通って行く。里の老幼が、あわてて馬を避け、朝のあいさつを、ていねいにする。──将門は、
「町家の戸毎も、ひと頃よりは、よくなった。皆のふところ工合も、少しは富んできたかな?」と、ながめた。
大宝寺へは、豊田から下野街道を、毛野川に沿って行く。──と、どの辺から従って来たのか、うしろから甲冑を着こんだ一隊が見え隠れに将門の供みたいについて来た。
「ははあ、弟共の手兵だな」
将頼か、将平か、将文か。それともみな揃ってか。とにかく、おれを一心に案じて、協議の結果、やって来たにちがいない。ありがたい、うれしい奴らだ。それまでの心を無下に叱って追い返すこともない。──将門は知って知らない振りをしていた。
ところが、川西の野爪ヶ原にかかると、葭や芦や、また低い丘の起伏の彼方に、たくさんな弓の先が見えた。鉾の先もきらめいている。
「はてな? ……あれも、弟かしら」
鞍の上から、伸び上がった時、耳のそばを、ひゅっと、へんな音が掠めた。シュッ、シュッ──と、あたりの草むらへも、無数の矢が、矢音をこぼし、矢風に戦ぎ立った。
「やっ、身内じゃないっ」
将門は、仰天して、どなった。
「な、なんだろ。あの人数は、何か、人違いしているんじゃないか。おうーい、豊田の将門だ。間違えるな、おれは将門だが」
彼はまだ気がつかない。身は、平日の狩衣である。矢の一つもうけたらそれまでなのに、彼は、まだ、わざと標的になるように、手を高く振りぬいている。
何たる愚鈍な兄。お人よしな兄。
むしろ、敵の伏兵よりも、それに腹が立ったように、うしろから、鉄甲武者が二騎、
「兄者人、あぶないッ」
と、呶鳴りながら、彼を追い越して、彼方の弓の群れへ向って疾走して行った。
ちらと、二騎の横顔を見て、
「あっ、将文、将平」
と、鈍重な彼もようやく事態のただ事でないのを知った。
するとまた、すぐ後から、将頼が馬をとばして来た。そして、
「兄上、兄上。早く、これをお召しなさい」
と、一領の具足を抱えて、馬をとび降りた。将門も、つられて跳び降りた。
「将頼。いったい相手は何者だ」
「知れきっております。──源護の息子共です。あれ、あの軍勢の装いをごらんなさい」
「なに、扶や、隆だと」
「今頃、どうして、そんなに吃驚なさるのでしょう。桔梗どのを、館へお迎えになる前には、兄上こそ、私たちへ、かかる事もあるぞと、覚悟をお告げになったではありませんか」
「が。……あれは、恋の上の事。……きょうの途中は、ほかならぬ仏の法会の日ではないか」
「兄上を狙っている敵に、何を、そんな憚りがあるものですか。私たちが、人を放って、探らせたところでは、その法要も嘘です。兄上を否やなく誘い出して、一挙に、討ってしまおうという伏兵の謀計です。なお、何を疑う余地などありましょうか。──さ、兄上」
将頼は、具足の着込みを手伝って、兄の体を、元の鞍の上へ、押し上げるように急きたてた。
矢は飛んで来なくなった。しかし、彼方では、将文たちに続いた豊田の郎党が、敵との間に白兵戦を起していた。
将門は、郎党の長柄を把って、
「もう、我慢しないぞ。おれは」
と、曠野へむかって、一声喚いた。
ひとむらのけやき林がある。
整った林のある所には、かならず家があり、部落をなしていると見てまちがいはない。それは原野の住民が初めに防風林として植えた集団生活の墻であり、それ以外の雑木林とは、自ら姿がちがっているからである。
沼地の葦の間を縫い、また、広い野原を駈け、畑を駈け、一すじの土けむりを曳いた騎兵の群れが、今、吸いこまれるように、そこの欅林の蔭にかくれた。
「来るぞっ、来るぞ。将門が」
「やがて、野猪のように、襲って来ようぞ」
「かくれろ。──姿を伏せろ」
毛野川の東を、伏兵線の一陣とし、ここの欅林を二陣として、源扶、隆たち兄弟の兵は、二段がまえに、埋伏していた。
その第一線から戻って来た物見の騎馬たちは、あちこちの味方へこう呶鳴りながら、部落の中の一番大きな家の前へ来て、土塀の中へ、馬をかくし入れた。
「どうした、将門は」
ここには、扶と隆が、物々しい武装をして、報告を待っていた。屈強の郎党を、二十名もまわりに従え、まるで、大将の本営めかした備えであった。
「うまく行ったか。彼奴を、袋づつみにして、戦闘中か」
兄と一しょに、弟の隆も、物見の者へ、こうたずねた。
五、六人の物見の中から一人が答えた。
「はい。合戦は今、野爪の沼と丘の間で起っています。──が、首尾は、思うつぼとは申されません。何ぶん、将門の方にも、用意があったようですから」
「なに。先にも、合戦の備えがあったと。それはへんだな? ……。まさか、こっちの計りを、内通した者もないだろうに」
「どうか、分りませんが、とにかく豊田の郎党も、将門の姿を、遠く離れて、あとから隊をなして従いて来ました。──ですから、第一線の小勢では、遠矢をかけても、袋づつみに、将門を討つなどという事はできません」
「しまった。それでは、やはりあそこ一ヵ所に、総がかりで、伏せておればよかったのだ。──して、戦のもようは」
「何しろ、将門が、怒り出しましたので、豊田勢の強さといったらありません。それに、将頼、将文など、将門の弟たちも一つになり、お味方は、駈けちらされている有様です」
「では、来るな、こっちへ」
「必定、お味方の崩れ立って来る方へ、追い慕い、追い慕うて、襲ってくると思われますが」
扶は、こらえているふうだが、具足の下に、ふるえを見せ、顔も、硬直していた。
隆は、かえって、あざ笑った。
「いいじゃないか。こっちの作戦どおりだ。ここにも二陣の伏兵はひそめてある。わざと、勝ち誇らして、彼奴を、部落にさそい入れ、四方から火を放って、焼き殺してしまえばいい」
そこの屋根より高い空で呶鳴る者があった。三男の繁である。繁は、欅の大木から辷り降りながらいった。
「毛野べりの方から、真っ黒なほど、土ぼこりが、こっちへ向いて、駈けて来るぞ。将門と、豊田の奴らにちがいない」
土塀の中は、騒然と殺気だった。扶たちは、馬の背に跳びつくと、たちまちどこかへ、走り去った。郎党たちも、後につづき、残った者は、巧妙に、家々の蔭に、身をひそめた。
やがて土旋風の運んで来た人声やら馬蹄の音が、欅林の中にもけむり出した。将門とその家人に追われて来た扶方の伏兵共が、狩られる野兎のように、あっちこっちへ逃げまどうのであった。そしてついには、敵の一影も見えず、見るのは、将門につづいて来た将頼や将文、そのほか、豊田の郎党だけでしかなくなった。
さすがに皆、戦いつかれて、血と土にまみれた姿を、かえりみ合った。たれの具足にも、矢が立っている。
「もう追うな。これくらい痛めてやれば、懲りたろう。この広い曠野、どこまで、追い捲くしても、果てはない」
将門は、馬を降りた。水が飲みたかったのである。家々の間を、水の樋が通っている。そこの筧の落ち口へ、顔をよせていた。
将文も、兄をまね、郎党たちも、池のまわりへ、屈み合った。
すると、将頼が、注意した。
「やあ、兄者人。かりにも、馬を降りてはいけませんぞ。あぶないあぶない」
「なぜか。将頼」
「ごらんなさい。どこの農家も、空き家です。空き部落だ。察するところ、今まで、敵がいたにちがいない。四方から火を放たれる怖れがありましょう」
「や、そうか」将門は、急いで、馬を寄せた。日頃は、意気地のない、気弱な将頼と思っていたが、その将頼が、きょうは自分よりも、落着いているし、よく何かに気がつくのには、驚かされた。
「早く、野へ出ましょう。味方も追々、寄って来ましょうが、部落の中にかたまるのは、物騒です。遠見もきかないし」
「オオ、いう通りだ」
急に、人数をまとめて、走りかけたが、将頼が不安がっていたように、もうその行動は、遅すぎていた。
家々の狭い間から黒煙が這い、道を駈ければ、どっちへ出ても、いつのまにか、山のように、柴が積んであり、柴はパチパチと、火をはぜている。
木の間、笹むらへさえ、火が這い出した。また、木の間には、縄を張り渡したり、木を仆したりしてある所もあって、馬を入れるのはおろか、徒歩で駈けるのも、危ういことこの上もない。
「気をつけろ。ここらにも、まだ敵の伏せ勢がいるらしいぞ」
それに答えるように、弦音や矢うなりが、四方に起った。煙を縫い、焔をかすめて、赤々と見える人影に、矢が飛んでくる。
「あ、兄者人っ」
「弟っ。弟っ」
呼びあい、呼びあい、見えぬ敵と戦う彷徨を繰返すだけだった。じつにこの野爪村の陥穽は、以後の将門の性格に大きな変化を来させしめたほど、苦しい苛みと危機迫る思いに追いつめられたものだった。そして彼は完全な罠に陥ちた形になった。いまはこれまでと、観念せずにいられなかったのである。と同時に、きょうまで、上手に企んでいた扶たちの──いや大叔父の国香の名を以て、いやおうなく自分をおびき出しにかけた彼等一連の人間共にたいして、本当の怒りに燃えたのもこの日だった。怒髪天をつくという形容は火中の彼の形相そのままであったろうと思われる。
何しろ彼はここで死ぬ目にあったわけだが、ただ一つの僥倖があった。それは、毛野べりの乱闘で、兄の姿を見失い、そのため、他へ奔って、弟のうちの将平一人が、この火中にいなかった事である。
将平は、べつな敵を追って、方角ちがいへ駈けていたが、煙を見たので、一散にここへ駈けつけて来た。そして道の障碍物や、火の柴を除いて、部落の中の兄たちを、火中から救い出したのである。
「将平か。あやうく、おれは死ぬところだった。よく来てくれた。おれは生きた」
「どこにも、お負傷は」
「矢傷の二つや三つ、何のことはない。──おれは生きた。弟たち、見ておれ。おれがどうするか」
「──が、兄上。ここは一度、豊田へ引き揚げた方がよろしいでしょう。何といっても、敵は、充分、用意をもって襲っている。こっちは、準備のない戦ですから」
将頼の諫めも、将門の怒りをなだめるには足りなかった。彼は、断じて、このまま、豊田には帰れないといい張り、家人郎党を集めて、一たん兵糧を摂り、その間に、偵察を放って、扶や隆等のいる所を突きとめた。
扶、隆、繁たちの常陸源氏の兵は、ここから半里ほど東の野寺に陣していることが分った。また、そこには、常陸方の三兄弟ばかりでなく、将門の叔父水守の良正が、手勢をつれて加わっているともいう。
「みろ。奴らは、おれの叔父共と、与んでいるのだ。どんな手段をもっても、おれを殺さずには措かない気でいるにちがいない。おれが退けば、奴らは、豊田までも、追いしたって来るにきまっている」
将門は、悲壮な語調で、あたりの一族たちへいった。
「館へ、楯籠ったら、こっちの負けだ。それよりも、おれは、豊田の百姓や郷の民が、奴らに、放火されたり、掠奪されて、逃げまどうのを、見てはいられない。──同じことなら、こっちから攻め込め。奴らの土地の館でも民家でも、焼き払ってしまえ」
彼はもう馬上になって、阿修羅の姿を、先に進ませていた。初めは、百五、六十人の小勢であったが、毛野べりの事が早くも豊田本郷へ知れ渡ったので、後から後から、将門の身を案じて駈けつけて来る者が絶えなかった。
館の下僕から、郷に住む地侍といった類の者まで、およそ日頃から常陸源氏の一族に、反感をもっているか、あるいは、被圧迫的な立場におかれている者など、お互いに、呼びかけあって、
「野爪へ行け。将門殿を助けろ」
と、火の手を見て、集まって来た。
それに、もとよりこの地方も、かつては、将門の父良持の旧領であったから、大掾国香や、良正、良兼たちの多年にわたる悪行を憎んで、ひそかに将門に同情をよせていた者も少なくない。
それらの人々も、すべて、
「野爪に、合戦があるぞ」
と聞くと、破れ具足をまとったり、サビ刀を横たえたり、また、鞍もない野馬の背にまたがって、飛んで来る者も多かった。
かくて、やがて将門は、敵の屯と見た野寺をめがけていよいよ攻勢にかかったが、その時、ふと振り向いて、初めよりは当然、減っていてよい筈の人数が、かえって何倍にも殖えているので、これには将門自身が、
「おや、どうして、こんなに、おれのうしろに味方がいるのか」
と、大いに驚いたということである。
将門が初めに挙げた火の手ではない。
嵯峨源氏のせがれ達が、将門の叔父の大掾国香や良正、良兼などに、うまく唆かされて、野爪に待ち伏せした事の──失敗から大きくなった戦火である。
五月四日という夏も初め頃の真澄の空に、ばくばくたる馬けむりや炎が立ったのを見て、坂東平野に住む、多分に原始的性格をもつ人間たちが、
「それっ、合戦だ」
と、こぞり立って、煙を目あてに、野の十方から、駈け出したことは、たしかに、ここの広い土壌にもめったにない大異変であった。
しかも、その駈け出す者のほとんどが、優勢な常陸源氏のせがれ達の陣地へ行かず、豊田の殿の為に──と、将門方へついたという事も、彼にとって、幸か、不幸か、わからなかった。なぜなれば、そのため、俄然、将門は優勢となり、ほとんど、彼の思うままに、戦は勝ってしまったからである。
その勝ち方がまた、じつにひどかった。
扶たちの野寺の陣は、やがて将門について押し襲せた郎党と土民軍の攻勢に会って、一炬の炎にされてしまい、潰走する扶たちの部下も何十人となく討たれた。
その中で、気のつよい源隆が、矢にあたって、討死したし、また、三男の繁も、逃げそこなって、落命した。
こうなると、野獣化した猛兵は、とどまるところを知らないし、第一、将門自身が、憤怒の権化像の如きものであったから、勢い、常陸領へ越境し、野爪一帯ばかりでなく、大串、取木などの郷を焼きたて、常陸源氏の与党の宅舎から、武器を取り出したり、郷倉を破って、兵糧を獲たりして、ついに翌日も翌々日も、敵地を荒しつづけ、その範囲は、筑波、真壁、新治の三郡に及んだ。
しかも、この襲撃で、源護の大串の館をも、焼き払い、そのさい、遂に、護の嫡子扶も、火中の戦いで、討ちとってしまった。
いや。酸鼻は、これだけに止まらない。
大掾国香も、見ているわけにゆかないので、大串へ加勢に馳けつける途中、将門のために、返り討ちになった。その場で討死したのではないが、負傷して、一たん石田の居館まで逃げ帰り、その晩、苦しみにたえかねて、自害して果てたのだった。
そのほか、将門の前を阻めたり、敵対したりした郷吏の小やしきだの、社家だの、民家だの、貯備倉だの、焼きたてた数はかず知れなかった。「古記」によると、焦土となるもの五百戸、人畜の死傷もおびただしく、曠野の空の燻ること七日七夜に及んだという。
以て、いかに、怒れる阿修羅のあばれかたが、ひどいものであったか、想像に難くない。
おそらくは、七日のあと、大雨一過して、さしも、いぶり燃えていた曠野の火も血も洗い消された後では、将門も、凱旋の誇りもさめて、
「……ちと、やりすぎたかな?」
と、自分のした事に自分で茫然としたかもしれなかった。
けれど、これ以後、豊田の館は、家人郎党で、充満してしまった。彼らはもう勝手に将門の股肱であり、郎党であるときめて、野の家には、戻らなかった。将門に臣事すること、先代良持のような礼をとって、
「わが、お館」と尊称した。
もっとも、常陸から凱旋するときに、敵地の馬は、何百頭も曳いて来たし、その馬の背には、財物、食糧など、積めるだけ積んできた。彼らにいわせれば、
「多年、わがお館の先代良持さまの荘園田領を、横どりしていた人間の物だ。これくらいは、年貢としても、取上げてやるのが当りまえだ」
と、いうのである。
野爪の合戦の結果が、やがて四隣にまで聞えわたると、久しく音絶えていた父方や母方の縁類までが、おのおの豊田の一族と名のって、幾組も将門を訪ねて来た。そして口を極めて、
「こうあるのが、当然じゃ。これは、和殿をまもる亡き良持どのの計いであろ」
と、戦捷を祝した。
それら縁類の家族も、またいつか、豊田の館の附近に、門を並べて住み始めた。豊田の郷はもう昔年のさびれた屋並みではなく、商戸も市も繁昌を見せ始め、この地方の小首都らしい殷賑を呈してきた。住民の尊敬もまた、将門の一身にあつまり、いまや良持のありし日がそのまま豊田の館にはめぐり還って来るかに見えた。
戦乱の結果は、たちまち、広い土壌の移動になって、現われた。常陸荘園の大半が、国香や護の支配をはなれて、将門の下に帰属して来たのである。
土と人の流動は、いつもこういう事から、形を変えてゆく。まして、かつては、元々、豊田領であった土地が多く、人もまた、良持に縁故の輩が多かったのであるから、その帰属は、自然な作用であるといえなくもない。
しかし、常陸源氏や筑波の良正、良兼などから見れば、事態は坐視できないものであった。殊に良正のうけた精神的な打撃は、ひと通りであるまい。彼は、この大事件をひき起した蔭の煽動者として、第一に、源護の仮館へ、謝罪に出かけた。
「かならず、甥の将門を討って、御子息方のおうらみをはらします。きゃつめを、八ツ裂きにして、その肉をくらわねば、私の胸もおさまりません」
十遍も百遍も、良正は床にひたいをすりつけて、護に謝罪した。それを、詫びの、誓いとした。
護は、館を焼かれるし、息子たち三人は、一時に、戦没してしまったし、それに老齢なので、焼け出されの仮普請の中で、このところ、ぼうと、虚脱していた。
「わしの身になってくれい。無念じゃ。ただ無念じゃ。嵯峨源氏の兵をあげて、わぬしに委せてもいいが、あの将門が討てるかよ、あの将門が」
「多寡のしれたものです。ただ過日は、御子息がたが、余りにも、彼をあまく見過ぎたための不覚でした」
「それにしても、どうして、なぜ、せがれ達が、将門と、あのように、争わねばならなかったのか。喧嘩は、元々、お汝たち叔父甥の事とばかり思うていたによ。……それだけが、わしにはなお、いくら考えても、判じられぬが」
「いや、そ、その事はですな」と、良正は、苦しそうな顔をして、額を抑え──「いずれまた、折を見て、ゆるりと、おはなしいたします。これには、深い仔細もあり、御災厄は、何とも、お察しされますが」
しどろもどろに、いいつくろい、匆々、護の前を立ち去った。
一方。──彼は京都へ、早馬を立て、書状をもって、今度の事件と、大掾国香の横死を、こまごまと国香の嫡子貞盛へ、報らせておいた。
貞盛の驚きは、いうまでもあるまい。
つい先頃、別れて来たばかりの老父の死。
また、自分の右馬允昇進を、あんなにも、有頂天に、よろこんでいた老父。
──だが、考えてみると、余りにも、吉事吉事のかさなりを、思いあがって、人の世の中を、自分らの意のままに、あまく見過ぎていた結果の禍いであったとも、貞盛は、反省せずにもいられなかった。
なぜならば、都へ帰る数日前の別れの宴で、老父の国香や、将門の叔父良兼、良正などが語っていたことは、余りにも、得手勝手な望みであり悪企みであった。いくら同族の父や彼等が憎悪している将門でも、すこし将門が不愍になるくらい、悪意にみちた、陰謀の会合であった。
「あのとき、つよく、そんな企みは、止めておけばよかった。──が、自分も悪かった。自分も、右馬允任官に、まったくいい気でいたところだったから」
何はともあれ、都へ帰ったばかりであるが、ふたたび帰国しなければなるまいと、彼は、倉皇と、官へ賜暇願いを出して、またぞろ、旅装を新たにした。
水守の良正は、都から貞盛が、夜を日についでやって来たと聞いたので、さっそく、石田の館へ、彼をたずねた。そして、何とも気のどくそうに、
「……どうも、このたびは」
といったきりで、ちょっと、なぐさめる言葉が出なかった。
貞盛は、道中で疲れてもいたろうが、良正に会うと、何ともいえない不愉快な顔をしめし、
「叔父上。えらい愚をやりましたな。何とも、ばかな事を──。いったい、良正どのは、老父のそばにいなかったのですか。あんな老人を、先頭にたたせて、あなたや良兼殿は、どうしていたんですか」
と、涙をたたえて、やや突っかかりぎみになじった。
「誤解してはこまる」と、良正は、当時のもようを、つぶさに説明して、「よせばいいのに、源護どのの大串の館があやうしと聞いて、あの御気性だ……止めるもきかずに馬を馳せ、将門めに、射られたのだ」
「射たのは、将門ですか。たしかに」
「そうだ。将門は、叔父殺しだぞよ。──宿命だな。こうなるのも」
「どうして、宿命ですか」
「考えてもみるがいい。将門が、まだ、都におるうちに、幾たびか、お許に、密書が行っていたであろうが……あれが、郷里へ無事に帰って来ては、かならず後に禍いをなすにちがいないから、何とか、手段をめぐらして、在京中に、将門を殺めてしまうように……と」
「それは、老父からもいわれていたし、たしか一、二度、あなたのお手紙にもありましたが、都のうちでは、そうやすやすと、彼を殺すような機会などはあるものではありません。……まして、将門は、左大臣家に仕えていたことですし、後には、禁門の滝口にもいて、武力では、めったに、この貞盛の手にもおえる者ではありません」
「いや、なにも、お許が、それを果さなかったことを、今さら愚痴ったり、咎めだてするわけではない。ただ、そうまで、行く末を考えてしていたことが、今日、こういう結果になったことを、宿命とはいったまでだ……」
「この不幸の中で、私も、今更、叔父上と喧嘩したくもありません。どうくやんでも始まらないことだ。それよりは、後々だが」
「さ。その後々が、容易でない。早くも、あちこちの荘園やお家の私田まで、豊田の将門へ、奪われている。たとえば、野爪あたりの百姓も、以来、まったく、常陸源氏には、背をむけて、何につけても、豊田へ足をむけてゆく」
「それは、困った事ですな。手をこまぬいたら……」
「もちろん、両三年を出ないまに、石田の領は、何もなくなってしまうだろう。柱としていた石田が侵されれば、われらの水守や羽鳥も、将門めに、脅かされてくるのは当然。貞盛どの、しっかりしてくれ」
数日の後。──貞盛の名をもって、大宝寺では、大掾国香の葬儀が行われた。もちろん、将門は来ないし、将門に心をよせる者は、みな顔を見せなかった。
この葬儀の参会者の顔ぶれによって、およそ、敵味方の分類がはっきりついた。これは、偶然だが、葬儀のもたらした効果といえるものだった。
貞盛は、考えこんだ。なぜというのに、あんな愚劣なと、都では思っていた将門に、案外、味方する者の多いことが分ったからである。これでは、うかつに、彼にむかって武力を擬したら手を焼くはずであるとも思った。郷里にいる間に、もういちど、彼の実力とその人間を──そしてまた五月四日のいきさつを、充分、調べてみる必要があると思った。
どうしたのか、貞盛は、いっこうに、積極的でない。
水守の六郎良正は、業をにやして、
「だめだ、都人の風に染みたやつは。ひとりの甥など、恃みにすることはない。よし、おれひとりでも、果してみせる」
と、こんどは、独力、豊田攻めを計って、ひそかに、部下に、鏃を研がせていた。
夏もすぎ、承平五年の十月二十一日である。
水守を出た千人ぢかい軽兵と騎馬隊が、豊田へ向って行った。
将門の方でも、つねに物見を配っていたので、すぐこれを知った。
「郷を焼かすな」
と、将門は、新治まで、駈け出して、陣をした。
六郎良正は、これを見て、
「叔父ごろしの将門を討て」
鼓を鳴らして、味方に、下知した。
将門は、怯むいろもなく、矢かぜの中に、一馬をたてて、
「ばかをいえ。国香をころしたのは、汝らだ。おれが手にかけて討ったのではない」
と、いい返した。
こんな場合でも、将門は、何か、自分の正しさを、大勢に、いい開きをたてたいような気もちが捨てられないのであった。その愚鈍を、嘲り笑いながら、良正は、
「おう、いつまで、そうして立っておれ」
と、自分も、弦を張って、彼を的に、一矢、引きしぼった。
「くそっ、そんなヘロヘロ矢にあたってたまるかっ」
将門は、長柄を横に持って、馬をとばして来た。矢が、彼の体から撥ね、良正との距離が、一気に、迫った。
良正は、あわてて、味方の中へ逃げこんだ。
この日の合戦も、ついに、水守勢の総くずれに終り、いたずらに、豊田の将門一党に、再度の誇りを持たせてしまった。
良正は、さんざんな目を見て、水守のやしきへ帰ると、すぐ筑波の兄良兼の所へ行って、うらみをいった。
「ちと、おひどいではありませんか」
「なぜ、何を、いうのか」
「元々、将門をかたづけようという計は、お互いの密契でしょう。私ひとりに、かくまで、苦心させて、さきに書状もあげてあるのに、一兵も加勢を出し下さらぬとは」
「その事か。……いや実は、なにも、将門を怖れてではないが、わしには、すこし腑におちぬ事があるので、この羽鳥の砦を、めったに留守にしかねているのだ」
「──と、仰っしゃるのは?」
「例の貞盛の行動だが」
「なるほど。不審です。いや、不満です、私も」
「父の国香を討たれているのだ。誰よりも、将門を怒り、まっ先に、義を唱えて、起たねばならないはずの貞盛がよ……」
「ひとつ、御同伴して、彼の真意を叩いてみようではありませんか。私も、内心大いに、あきたらなく思っているところなんで」
二人は、数日の後、つれだって、右馬允貞盛を訪い、その冷静さを詰問した。
貞盛の答えるところは、こうだった。
「……どうも郷里の風聞は、ひとつも、われわれに、いい事はない。たれに糺しても、将門に、同情します。これでは、いくら老父の死を見ても、自分には、勇気が出てまいりません。悪謀の失敗から、将門を恨むのは、逆恨みだと、露骨にいっている者さえある。……老父国香の死も、これでは、自ら求めた災難とあきらめるしかないかと、そろそろ都へ還る準備をしているところでした」
良正、良兼は、そう聞いて、愕然とした。これでは、味方の内から、切り崩しが出たようなものである。喧嘩すれば、また同士討ちだ。そこで、二人は、口を酢くして、その非を説いた。
「何しろお許は、都にいて、常日頃の郷土の実情を知らないからだ。それらの事は、みな将門がいわせている豊田方の流言にすぎない。つまりお許からして、敵の流言の策に乗っている。つい、この間までは、こうまででもなかったが、ひとたび、将門が、勝ち誇って、将門方が強いとみたので、急に、百姓共までが、そんな事をいい出したのだ。……かつはまた、右馬允貞盛ともある歴乎とした嫡男がありながら、父を討たれて、平然と、見過していたりして、お許は、どの顔さげて、以後、郷国の領民にまみえるつもりか」
老獪な叔父二人は、かわるがわる、虚実をまぜて、力説した。責めたり、すかしたりである。貞盛も、ついには、そうかと思い直して、あらためて、将門征伐の加担を約した。
しかし、賜暇の日限もせまったし、また、政治的に、中央において先手を打っておく工作も、大いに必要なので、ひとまず、彼はまた、京都へひっ返す事になった。
こうして、その年は暮れ、翌、承平六年の夏である。
良正、良兼の兵力にあわせて、さらに石田の貞盛の家人や、常陸源氏をも加えた数千の軍隊が、焼きつくような夏野をわけて、三たび、将門を襲った。──初めの、叔父甥喧嘩から思うと、じつに、思いもよらぬ本格的な戦争状態になったものというしかない。
野火は狂う。
狂いだした火は果てもなくひろまってゆく。
四隣の噂もようやくこの戦闘にもちきって、一波は万波、あっちも、こっちも、物騒な動揺が兆し始めた。
──と。その頃、赤城山の裾から遠くない阿蘇ノ庄田沼に、東山道の駅路を扼して、館、砦をかまえ、はるかに、坂東の野にあがる戦塵を、冷ややかに見ていた老土豪がある。
この地方の押領使、田原藤太秀郷である。
その頃、坂東地方から京都への往還には、東海道と東山道の二道が動脈となっていた。
東山道は、碓氷を越えて、信濃高原を経て、木曾路へ出るのである。もちろんこの方が日数はかかるが、右馬允貞盛は、途中、訪うべき人もあったので、こんどの帰洛には、東山道をえらんだ。
「折よく、いて下さればよいがな」
貞盛は馬の上から、供の郎従たちへ、何度もいった。
「いや、おられましょうとも。通る駅路で訊いてみても、近頃は田沼の館にひき籠ったきりで、めったに、お旅立ちなど見かけないそうですから」
供のひとり、貞盛の侍臣牛浜忠太がそう答える。
一行は主従十二名、騎馬は貞盛と忠太だけで、ほかは徒歩だった。いや、もう一人、進物の荷を積んだ馬一頭を、小舎人が手綱で曳いて行く。
まぢかに、赤城の長い山裾が、くっきりと夏空を劃して見えた。田沼の宿は、東山道から横へ数里、北方にはいりこんでいる。押領使、藤原藤太秀郷の役邸がそこにあり、すこし離れた田原には居館がある。そこで、田原藤太秀郷とも人は称んだ。
「ほう。右馬允貞盛。あの貞盛が、訪ねて来たとか。ま、通せ通せ。……何日かは来るだろうと思っていたところだ」
田原の館の宏大な門に、旅人たちの馬は繋がれていた。
主の秀郷は、もう六十に近かった。地方人で、藤原の姓を称えている者は、めったにない。それ程、藤原氏の姓は、中央的な、また貴族階級的な匂いと、特権性をふくんでいた。
しかし秀郷は、都人でも、貴族の流れでもなかった。生れながらの坂東骨──未開地人の野性逞しき男である。
もっとも、母は藤原氏から出た者の女であるから、母方の家系を辿って、都の大官と近親をむすび、母姓の藤原氏を名乗ることは出来たにちがいない。
それをみても、若いうちから、相当な策士でもあり、野心のつよい性質で、地方人特有な〝顔きき〟に成るべく、早くから心がけていたことが分る。そして彼は、まんまと志を遂げた成功者であるといってよい。
この地方における彼の官職は、押領使兼下野ノ掾である。
押領使の任は、治安、警察、司刑などの職権をもち、掾は、徴税を監察するにあった。つまり後世の八州十手預りの顔役を配下にもち、併せて、税吏を督す位置にあったのであるから、これ以上な睨みはない。その上、多くの郎党を養い、眷族もみな、土地、武力を蓄え、東山道から吾妻山脈をうしろにして、坂東の大平原に、南面している形であった。
「じつに、久しいこと、お目にかかりませんでしたが、いよいよ御壮健のようで」
客殿に通された貞盛は、長上の礼をとって、主へ、あいさつした。
「いや、あなたも、さすがお立派になられたの」
秀郷もまた、鄭重に、彼を迎えた。そして、
「……いや申しおくれたが、お父上の国香殿の御死去。はるかに、お噂はきいた。さぞ御無念でおわそう。お悼み申しあげる」
「都にて、報らせをうけ、まったく仰天いたしました。葬儀のため、帰国いたしましたが、その節には、ねんごろな御弔使をさし向けられ、また、霊前へ種々のおん手向け物など賜わり、一族、お心のほどを、みなありがたく存じております」
「なんの、心ばかりじゃよ。──が、困ったものだの。その後も、騒乱はやまず、源護の子息三人までも、将門に討たれたとやら、この地方まで、えらい噂だが」
「何もかも、お聞き及びでしょうが、今は、宿怨に宿怨が積もり、解きがたい争いとなりました。悪くすると、これは、大乱の兆しもみえまする」
「どうして、ひとりの将門を、嵯峨源氏の力や、あなたや、また良兼、良正殿まで揃っていて、抑えられぬのか」
「あいにくと、ここ数年間、飢饉がつづきました。それらの飢民や浮浪の徒を加え、良持殿からの旧領の地ざむらいが、みな、豊田の郷に集まり、将門をおだてあげて、乱によって、利を食おうとしています。ですから、その兇暴なこと、当るべからずです」
「そこで、あなたは、どういうお考えでおられるのじゃ」
「なにぶん私は、右馬允の官職を奉じ、都に在勤の身ですから、父国香の葬儀もすんだ以上は、どうしても、一たん帰洛いたさねばなりません」
「うム。ごもっともだ」
「将門の乱暴、眼に余るものがあり、これ以上、乱の波及を坐視してはおられませぬ故、帰洛のついでに、源護どのの訴状と、叔父良兼、良正の上訴文を携帯して、中央の府に訴え出で、太政官の下文を賜って、征伐いたすしかないと思いきめておりまする」
「なるほど」
「そういうわけで、都へ急ぐ途中ではありますが、先に、御弔使を賜ったまま、つい今日までも、騒乱に暮れて、御音信を欠いておりましたので、途のついでと申しては、失礼ですが、お礼に参じ出た次第でございます。父なきあとも、どうか、以前にかわりなく、何かと情けを仰ぎまする」
と、貞盛は、馬に曳かせてきた数々な弔礼の返物と手みやげとを、次の室に積ませて、秀郷へ贈った。
貞盛は、歓待された。彼の考えにある外交的な意図からも、この訪問は、充分に効果があった。
秀郷もまた、この客をとらえて、多分に、自己勢力の拡充に、利用するのを忘れていない。夜は特に、宴をひらいて、貞盛をねぎらい、老熟した人あつかいのうちに、貞盛の肚を見抜いて、
「何なりと、また御相談にみえるがよい」
と、力づけた。そしてなお、
「苦労負けして、おからだを、こわし召さるなよ。国香殿のない後は、なおさら大事な、あなただ」
と、いたわったりして、貞盛を涙ぐませた。と思うとまた杯を向けては、豪放に気を変えて、その健闘を励ましたりした。
けれど、秀郷は、将門個人については、悪くも良くもいわなかった。貞盛などより、はるかに年上の彼である。将門の父良持がまだ生きていた時代からの常総地方の事情も、各家の勢力分布のいきさつに就いても、貞盛以上、古い事実と、土と人の歴史を知っているのだった。がしかし、この老獪は、知っている風も余り顔には出さなかった。
その辺が、何となく物足らない気がしたのであろう。貞盛は、意識的に、彼が、将門をどう考えているか、ひき出そうと試みた。
「秀郷様。あなたは、将門という人間と、お会いになったことがおありですか」
「いや。将門には、訪ねられたこともなし、会ったこともない」
「むかし、もう十三、四年前になりましょうか。たった一度、おありでしたな」
「どこで」
「都の右大臣家のお壺で」
「……あ。そうか」
思い出した顔つきである。しかし、その頃の小次郎将門の姿よりも、秀郷には、べつな事が思い出された。
あれは延長元年、秀郷は、まだ三十台だった。国司の下の役人と、大喧嘩を起し、国庁を焼いたり、吏員を殺傷し、流罪に科せられ、一族十八人、珠数つなぎに、配所へ送られたことがある。
百方、運動の手を廻し、時の右大臣忠平にも、莫大な贈り物をしたりして、三年で赦免になった。その礼に、上洛したのである。──その時、彼から贈った名馬を、忠平が、小壺のさきへ、曳かせてみた。壺のさきへ、口輪をとって出てきたのが、坂東平氏良持の子、小次郎将門だと、その時、忠平から聞かされたことがある。
あとにも先にも、秀郷が、将門を見たのは、その時かぎりである。今は遠いむかしである。近頃、頻々と将門のうわさを耳にしても、思い出せないほど、記憶はうすくなっていた。
「──左大臣家へ、参られたら、忠平公へ、よろしくお伝え申しあげてくれい。春秋の実り物や、四時のお便りは欠かしていないが」
秀郷はすぐ話をそらした。自分が、前科者だったような記憶にはふれたくないのだ。貞盛も、さとって、
「帰洛の上は、さっそくにも、参上するつもりです。ほかに、御書面でもあるなら、持参して、お取次ぎいたしましょう」
と、いった。
翌日、貞盛が、田沼を立つさいには、秀郷は、屈強な侍を三名、彼の供に加えさせて、
「何しろ、碓氷越えは物騒です。佐久あたりまで、お連れください」
と、館の外まで出て、見送った。
貞盛は、やがて、都へ着いた。
彼は、ただちに、太政官に出向いて、護や叔父たちの訴文を提出し、
「よろしく、朝集にかけて、諸卿の議判を仰ぎ奉ります」
と、なお自分からも、べつに詳細な一文を認めて、出しておいた。
が、それだけではと、彼は、知るかぎりの高貴や大官を訪ねて、将門の非をいいふらして歩いた。
貞盛が、若年から愛顧をうけている仁和寺の式部卿宮の許へも伺った。また、弟の繁盛が仕えている忠平の子息九条師輔にも会って、話しこんだ。
もちろん、その九条殿の父君であり、またかつては、小次郎将門が仕えていた左大臣家──宮中第一座の顕職にある藤原忠平の私邸を訪うことは怠るはずもない。
ところが、どうも行く先々では、彼の訴えを、たれも余り熱心に耳をかたむけて、聞いてくれなかった。
「ほう。ほほ……?」と、都人らしい、いつもながらの、外国事でも聞くように、のどかな眼を、すこしばかり大きくするだけだった。
「時もわるい」
と、貞盛はさとった。──というのは、あいにく、この夏頃からまた、南海に剽盗が蜂起し、騒乱の被害地は、伊予、讃岐、また瀬戸内の各地にわたり、朝議でも、捨ておきがたしとなって、伊予守紀淑人の訴文を容れ、官船十数隻に、兵を満載して、海賊討伐にさしむけ、太政官も各省でも、その事でもちきっているところである。
それでなくても、都人の距離感と、また生活関心は、未開土の東国などよりは、難波津から瀬戸の海につづく南海方面のほうが、はるかに、身ぢかなものだった。
秋になった。
なおまだ訴文にたいする沙汰はない。
この秋、藤原忠平は、摂政をかねて、太政大臣に叙せられた。
一しきりは、その昇任の祝賀やら何やらで、また、公卿たちの車馬は管絃や賀宴の式事にばかり往来し、南海の賊乱さえ、都の表情には、影も見られなかった。
「もし、このまま、放っておかれたら、東国の乱もまた、どんな大事にいたるやもしれません。坂東の諸地方には摂関家の荘園、官田もたくさんあることですし、かたがた、陸奥にはまだ、中央の令に服さぬ俘囚の族も、強力な軍備と富力をもって、虎視たんたんと、御政治の紊れをうかがっております。国家のため、貞盛は、憂いにたえません」
師輔を説くこと、幾度かしれない。忠平へは再度の上訴もした。なお、さまざまな彼の運動が、ついにものをいったか、その年も十月になって、やっと、
という公卿詮議の議定が、公示された。
ただちに、下総の将門へ、召喚状が発せられ、将門は、官符をうけると、まもなく、東国から馳せのぼって来た。そして太政官に、着到をとどけ、しばらく、彼は街の旅舎に泊っていた。
彼にとっては、二度めの上京であり、六年ぶりに見る平安の都であった。
「逆手を打たれた。こっちが、訴人として、出たいところを」
将門は、出し抜かれたと知って、心外になった。
「……だが、白は白、黒は黒だ」
彼は、怒りをなだめた。中央に出て、法官の前に、理非を争うのは、むしろいい事ではないか。正義の者に与えられた好機ではないか。そう、思い直した。
「卑屈になるまい。堂々と、いうところを述べ、けちな袖の下だの、裏から諸卿へ、泣きつきに歩くことはしまい」
在京中も、彼は、行状につつしみ、進退を守った。
緊張の中に、毎日を送っていた。
けれど、官の喚び出しは、その年のうちにはなかった。承平七年の正月が来てしまった。
男の三十五となった元旦を、彼は訴訟中の旅舎で、わびしく迎えた。
妻の桔梗から、便りが届いた。なつかしい彼女の文字。一字一字が、詩のように、将門にひびく。将門は、涙をためて、読み終った。しかし、かなしい事は何一つないのだ。留守はみな無事だとある。そして、彼女は、終りの方に、
(お帰りのころには、あなたと私との、初めての和子が、豊田の館に、生れているかもしれません)
と、書いてあった。
彼女は、彼が上洛のまえから、妊娠っているらしいことを、良人の耳にそっと告げていた。
──と、もうひとつ、用事がしるしてあった。八坂の不死人が、陸奥の旅の帰りに立ち寄って、四、五日滞留しているという留守中の事を。
ちッと、心の奥で舌打ちに似た気もちがうずいた。あの無頼な男が、また将頼や将平などを、手こずらしているのであるまいか。わが家へでも、帰ったように、酒を出せの、どうせよのと、桔梗にも、難儀をさせていることだろう。……酒や我儘だけならよいが、桔梗は、あんな口達者で狷介な人間は見たこともあるまいから、もし、彼の強引なわるさになど懸らねばよいが、などと妙な不安にも襲われたりした。
一月の末。やっと、初めて、太政官のよび出しをうけ、彼は、おととし以来の、親族間の争いのいきさつを、詳しく申し立てて宿へ帰った。
帰ってから、独りで、しまったと、胸のうちでつぶやいた。
「出つけない場所へ出たためか、あんなに、考えていたのに、いいわすれた。おととしからの、喧嘩沙汰だけではだめだ。そもそも、父良持の死後、おれたち、幼いみなし子が、叔父共の手に、ゆだねられ、そして、おれが十六で、都へ追いやられたその時の大掾国香のたくみだの、国香が、貞盛にいいつけて、おれを、都にいるうち刺し殺してしまえといいつけていた内輪事まで、つつまず打ち明けねば、わかるまい」
思いつつ、彼は、刑部卿だの、検非違使だの、別当だの、大中小判事などの公卿が衣冠をつらねている前では、思いの半分も、陳述できなかった。
あるとき、靫負庁の法廷で、右馬允貞盛と彼とが、対決された。貞盛は、ゆたかな辞嚢と、明晰な頭と、そして弁舌とをもって、滔々、数千言に亘って、将門のその日までの陳述を、ことごとく、いい覆して、
「従兄弟の間ですから、情においては、断ずるに忍びませんが、要するに、将門は、叔父たちの厚意を、みな悪意に解し、また飢民や浮浪の煽動にのり、彼自身も、後にはびっくりするような叔父殺しの大罪を犯し、ついに、大それた反官的な悪思想をも抱くにいたったものです。憐れむべき孤児のひがみに発し、性来の兇暴性が、地方の悪民に、利用されたものなのです。──ですから、不愍には、思いますが、もし官がこれを放置しておくなら、乱は、坂東に止まらず、四隣に及び、ひいては、南海海上の剽賊にも響き合って、国家の禍いとならぬ限りもありません」
と、弁じた。
将門は、貞盛の弁論に聞きほれて、敵ながら感心した。時々、なるほどとうなずき顔にさえなった。大判事は、憐れむように、彼を見て、
「将門。おまえの申しぶんを、存分、申したててみい」
と、いった。
だが、到底、彼の呶々などは、聞きづらくて、貞盛のまえには、刃が立たなかった。しかし、貞盛の冷然たる横顔の微笑を見ると、さすがに、憤然と、曠野に燃えた怒気がそのまま口を迸って、貞盛のウソと、こしらえ事を駁し立てた。
しかし、かれの言は、激すほど、彼の粗暴を証拠だてた。情に激して来なければ、ことばも烈々と吐けない性分なのである。だからそれは吼えたり、喰って懸かるだけのものとしてしか聞えなかった。理論は支離滅裂になり、果ては、涙をにじませ、いたずらに、拳をにぎってしまうのである。
「きょうは、退がれ」
靫負庁を出ると、彼はいつも、馬上で戦ったときのように疲れていた。
よび出しは七回、うち二度は、貞盛と、対決された。そして、しばらくまた、沙汰もなかった。
すると、三月の末。さいごの判決が、朝議の末、公卿列座の上、いい渡された。
「将門の罪は、厳罰に値するが、折ふし、天皇御元服の大赦あるによって、赦免、仰せつけられる。帰国して、謹慎を示すがいい」
無罪であった。将門は、夢みるごとく、かえって、ぽかんとしていた。
貞盛への申し渡しには、
「一族内紛の蔭には、何よりも、平良持の遣領が、争いの因になっていると断じる。よろしく、将門に渡すべき荘園の地券や、田領の証書など、一切を、このさい返却して、和解いたすように」
と、あった。
貞盛には意外だった。落胆顔は、いうまでもない。非常な不平である。しかし、返すことばもなく、命を奉じて、その日は退廷した。
将門は、国へ早馬を立て、
「訴訟は、勝った」と、妻や一族へ、便をもって、先に報じた。
それから初めて、彼は、自分の身になったような心地で四、五日、京洛を歩きまわった。妻の桔梗へ、都のみやげをと、都の臙脂だの、香油だの、めずらしい織物など買って、いそいそ、暮した。
きょうも彼は、八坂、祇園林など、遅桜の散りぬく下を、宿の方へ、戻りかけていた。すると誰か、将門将門と、うしろで呼ぶ者がある。振り返ってみると、忍ぶ草を摺った薄色の狩衣に、太刀を横たえ、頭巾をかぶり、さらに頭巾の上から大笠をかぶっている旅人であった。
近づき合って、やっと分った。それは、八坂の不死人である。
「おう。……いつ、どうして、都へ」
「わぬしが、上洛と聞いて、あとを追って来たのだ。ところが、旅舎がわからない。靫負庁で聞いて、やっと知れ、これから不意に驚かしてやろうと思って、訪ねて来たところだ」
「そうか。……もう、都を歩いていても、かまわぬのか」
「かまわぬかとは」
「逮捕の令をうけて、世をしのんでいる身ではないのか。白昼、しかも、靫負庁へ、自分で行くとは」
「はははは。人のうわさも、幾日とかだよ。南海の海賊騒ぎで、それどころか、検非違使も、兵部省も、手いっぱいだ。彼らはとっくに、わすれておる。もうあの頃の事は、時効というものさ」
不死人は、いつも不死人である。変らないし、また、相かわらず、官を官と思っていないし、人を人とも、思っていない口吻である。
「旅舎へ行くか。どこか、ほかで飲むか」
「明日は、国へ立つつもりだ。とかく用事もあるから」
「ははは。将門ともある者が、ひどく、真面目じゃないか。国もとに美しい妻が待っているせいだろう。しかし別杯ぐらいは、つきあえよ。まあ、おれについて来い。いい隠れ遊びの家がある」
不死人と、初めて会った時から、彼はすでに大人であったが、以後全く成長もない。幾年たっても、会えばすぐ遊蕩を考える。ほかに能はないかのように見える男である。
しかし、まがりなりにも、将門は、成長している。内容の変化もある。どうも、この男とは、これ以上、つきあいきれない気もするのだった。
そのくせ、彼はやはり、拒みきれず、不死人について、洛内の遊女宿へ、はいって行った。
酒の座になると、不死人は、一だん不死人らしく、冴えてきて、
「まず、君の訴訟の勝ちを祝そう」
と、いい、杯を、眼の高さに上げた。
「え。知っているのか。貞盛との、訴訟のことを。いやそれは、豊田の留守の者に聞いたろうが──おれが勝った事を、一体、たれに聞いたのか」
「おいおい、将門。おぬしは、自分の力で勝ったつもりでいるのか。こんどの訴訟を」
「正しい者は、ついに勝つさ」
「あははは。アハハハ」不死人はいよいよ笑って──「まあ、いい。まアいい」と、ひとりして、頷いた。
「何が、まあいいのだ」
「余り、滑稽だからだ。いつまでたっても、君は、大人にならない。天然の童子だ」
「おかしな事をいうじゃないか」
「じゃあ、実を明かすが。──貞盛が訴えたと聞いたから、これはいかん、貴様の負けと決まっている。悪くすると、死罪かもしれない。おれは、そう直感した。──おぬしの豊田を訪ねたが、急いで、あとを追うように、上洛して来たのもそのためだ」
「そして」
「貴様は知るまいが、おれは、陸奥から持って来た砂金の大半を、その為に、費ってしまった。刑部省、靫負庁の主なる役どころの公卿や、殿上の参議たちに、手を廻して、裏口から贈っておいた。──貴様の勝ちは、その効き目だよ。うそだと思うなら、いまに分る。まあ、飲むがいい。飲んでいれば、いまに分る」
いっているところへ、
「やあ、不死人。もう始めたのか」
ひょっこり、一名の公卿がはいって来た。どこかで、見たような公卿だがと、将門は、小首をかしげた。そして、やがて杯を交わし始めてから、愕然とした。
それは、靫負庁の法官のひとりだ。たしかに、自分の裁きに立った公卿の一名にちがいない。
「いま、仔細を、将門に打ち明けているところだが、この男、どうしても、おれのいうことを、真実と思わないのだ。あんたからも、話してやってくれ」
不死人は、突っ放すようにいって笑った。そして、交情蜜のごとく、その公卿と、酒を酌みあい、そして、裏面にとってくれた公卿の労を、謝しているふうであった。
やがてなお、三人、四人と、公卿たちが、寄って来た。彼らは、不死人の前では、拝跪するばかり、卑屈だった。みな砂金の分け前にあずかっている者共であることをいわずして自白していた。
「こういう、馬鹿正直な男ですからな、将門とは」
面とむかって、不死人はいった。まるで、将門の迂愚を、皆が、酒のさかなにして、飲んでいるような光景であった。
夜が更けると、彼らはそれぞれ遊女を抱いて、ほかの寝屋へかくれた。泊ってゆけと、しきりにいうのを、断って、将門は、旅舎へ帰って、独りで寝た。
「なるほど、おれは、ばかだった」
将門は、自分の愚を、今はみとめていた。
官府の腐敗も、大宮人の貧しい裏面も、都会のどんなものかという事も、かつて、長い遊学中に、ずいぶん、知っていたはずなのに、もうそれを、忘れはてて、正しいものは必ず勝つと、信じていたほどなばかであった事を、自ら覚らずにいられなかった。
「──今朝は、立つのか」
不死人は、早朝にやって来て、彼の帰国を見送った。そして、別れ際に、これだけは、声を、ひそめて、真面目にいった。
「南海の藤原純友が、いよいよ、暴れはじめた。官庫の財政も、出費で、火の車だ。討伐の官兵たちは、いくら増派されても、鎮まるまい。──ところで、将門、御辺の方も、そろそろ、時機だぞ」
「時機とは」
「まだあんな事をいっている……」と、あきれ顔に「純友との約を果たすことだ。呼応して、兵を、東北の地と、南海で挙げることだ」
「おれにそんな力はない。叡山の約束なら、あれはもう反古にしてくれ」
「そうはなるまい。天下の大事を約しておいて」
「身内の喧嘩にさえ、精いっぱいだ。天下に、何を野望しよう。おれは、くたびれた。ただ、国へ帰って、平和な燭のそばで、妻の顔が見たい」
将門は、馬上になって、それきり振り返らなかった。三人の従者をつれ、蹴上へさして、駒を早めた。不死人はなお、逢坂口までついて来て、
「いずれ、純友に会ってから、秋ごろにはまた、東国へ下ってゆく。なお、ゆるりと、そのとき話そう」と、告げて別れた。
家郷を離れてから、いつか半年はたった。以前の帰国とちがって、こんどは、はっきり、豊田の家には、自分を待っていてくれる妻がある。壮気、孤独の頃、ふと藤原純友と会って、血のけの多いことを語りあった頃と今とは、まったく、心のありかたが、違っていた。
まして、訴訟にも勝った。その訴訟が、後には、自分の正義によって剋ちとったものでなかったのを知ったのは、淋しいことだし、何だか、心の負担にたえないが、しかし、勝ったことは、事実である。間違いはない。
新緑の豊田の館では、もう先に、彼の便りで知っていたので、彼がここに着く日には、一族郎従が出揃って、門に、凱旋の主を待っていた。
桔梗は、産屋を離れたばかりであった。でもその日は、化粧を新たにして、母となった腕に、珠のような男の子を抱いて、旅の夫を、中門のほとりで待ち迎えた。
この晩春ほど、妻の桔梗が、良人の眼に美しく見えていることはない。
すこやかな初産を見て後、一しお血色を浄化され、ちょうどその年齢や肉体も女の開花を完全に示してきた風情である。爪のさきから眸の奥にまで産後美の熟れを透きとおるほど象徴している新妻だった。
「わたくしは倖せです。あなたは愛してくださるし……。けれどあんまり幸福で、こんな幸福な日が、いつまでつづくかと思って」
彼女はまったく幸福の繭の中にいた。しかし、豊田の館の奥ふかい所にも、何となく、世間のうわさは聴えてくる。殊には、これまでの数年が、たえず彼女の心を脅かしていた毎日であったから、繭の中に守られていても、ややもすれば、風を恐がる花のように顫くのだった。
「そんな取越し苦労はしないがいい。どうも、おまえはちと苦労性すぎるよ」
将門は、強いて、笑って、
「そういう不安は、いい替えれば、おれが余りに頼りにならない良人だと、おまえがいっていることにもなるぞ。なぜ、おれの腕につかまって生きてゆくのがそう不安なのか」
「もったいない。私は満足しきっています。──見てください。母の私の腕に、こんなに、安心しきって抱かれているこの乳のみ子のように……です」
「おお。よく寝ているね」
「やがて、あなたの、お世嗣ですのよ」
「おかしなもんだな。おれもいつか、父となったか」
「……ですから、どうぞもう、お心を練って、世間がどう騒ごうと、なにを企んで来ようと、お辛くても、じっと、堪忍してくださいましね」
「そうか。おまえはまた、羽鳥の叔父や貞盛などが、何かやり出して来やしないか──とそれを心配しているのだな」
「折々、いやな噂も聞きますので」
「聞けば聞き腹で、おれも時には、むかつくが、しかし、奴等が何を策動しようと、先頃の上洛により、おれは正しく、太政官の法廷で、訴訟に勝っているのだからな。中央の政府がすでにおれの正当を認め、法律に照らして──叔父共が横領をくわだてた領田の地券は、これを一切、将門に返せ──と判決を下しているのだ。奴らとしても、これ以上、どうにもなるまい」
「けれど、人の心は量れません。それでなお、叔父御さま達が遺産を返してよこさなくても、もう決してお腹を立てて下さいますな。私は、何も要らないと思います。これ以上には」
「そうだ、これ以上にはな」
将門も、共に、思う。妻のことばは、聡明であり、また生命を愛する者の声だと思う。
事実、今ほど幸福に盈たされている時はない。訴訟に勝って、彼が、郷土に帰って以来、彼の人望は、郷党たちから、いやが上にも高められている。
(良持殿のあとを嗣いで、良持殿にもまさる坂東平氏の棟梁よ。ゆく末、東国の諸州を締めくくる人物は、あなたを措いてはありませんぞ)
四方の小地主や地侍は、招かずして、豊田の門に馬を繋ぎに来、そろそろ、将門の耳には、甘い世辞や、彼をもちあげる阿りが、集まりかけているのである。
しかし、すぐいい気になる彼でもない。彼は、それらの者のおだてには乗るまいとして、
(いや、とても、おれは父の良持どのには、似もつかない、不肖の子だ。おれはおれの馬鹿をよく知っているのさ。けれど、正直者が虐げられて、悪智恵のある奴が、威張りちらしたり、巨富を積んで、ぜいたくするのを、免してはおけないからな。そういう勢力とは、戦うよ。あくまで戦って、坂東の天地を、ほんとの平和にして、住もうじゃないか。それだけの事さ、おれのたてまえは)
と、誰にも一様にいうのである。しかし、その単純で開け放しな人がらが、かえって、魅力でもあるように、四隣の客は、よけいに絶えない。
そうした四隣の客はまた、かならず、豊田の館の内部から、領下一般の勤勉と和楽が稔らせている繁昌を見て帰った。
養蚕も農作も、水産も林業も、この地方の進歩はじつに目ざましい。市は諸方に立ち、交通もよくなり、農家の一つ一つを覗いても、飢えているような顔はない。祭りといえば、どこの地方より、賑うし、酔って、土民が唄うのを聞けば、唄にまで、将門の徳を、頌えている。
将門自身も、よい妻を得、よい子を生み、いまは何の不足もないのだ。──だから彼はこれ以上、むりな搾取を領下の百姓に求めはしない。
また彼には、少年の頃、自分を熱愛してくれた女奴の蝦夷萩の死が、いつも思い出されるので、奴隷長屋に飼っている男女のたくさんな使用人にも、常にあたたかい主人だった。
「あ。わかったよ。何が起っても、堪忍しよう。だからもうそんな取越し苦労はおよし」
子どもの寝顔をのぞきに来たついでに、彼は、妻の唇にも、唇を以て、愛撫を与えた。
日に、何度となく、こんなふうに、館の北の殿をたずねて、繭の中の平和と愛情に浸りに来るのが、このところ数ヵ月の、彼の唯一な楽しみであった。
けれど、この館の平和も、春から秋ぐちまでの、わずか半年ほどの間でしかなかった。桔梗の予感は、不幸にもあたっていた。
八月。
爽涼な秋が訪れはじめたある日の早暁である。
将門の弟──去年、分家して、葦原に一邸を持っていた大葦原四郎将平は、
「兄者人っ。ただ事ではない」
と、馬を飛ばして、豊田へ報らせに来た。
「なんだ、あわただしく」
その朝も、将門は、乳児のにおいのする妻の部屋にいた。外の小鳥の音と、桔梗の明るい声が、いつもの朝のように、良人の笑顔をつつみ、これから近くの領下へ検見に出かけようという供揃いを、門外に待たせたまま、時を忘れていたのである。
「ゆうべ晩く、筑波の者が、門を叩いて、告げに来てくれたのです。──羽鳥の良兼が、山に兵を集めて、水守の良正の方と、さかんに、早馬を交わして何か目企んでいる様子だと」
「また、叔父共のカラ騒ぎか。頼みもせぬのに、わざわざ、何だかだと、報らせて来るのもいるから困るな」
「困ることはありません。お館を大事に思い、兄者人に、好意を寄せていればこそ……」
「が、なあ四郎。おれはもう、いつまで、叔父甥同士で、浅ましい血みどろ喧嘩はしたくないんだ」
「それは、私たちでも、同様ですが、叔父たちは、今でも、豊田のわれら兄弟を、あくまで敵として、やじりを研いでいるのだから仕方がありません」
「相手にするな。どう悪声を放とうと、企もうと」
「充分、こっちは避けています。しかし、羽鳥や水守の衆は、この半年、いよいよ武器馬具を集めて、戦備に怠りなく、しかも、太政官の訴訟では、自分等の方が、正しく勝ったと、いい触れています」
「何といおうが、おれの手には、おれの勝訴となった文書がある。そして、羽鳥や水守の叔父達へは、わが家の正当な遺産である田領の地券を、ただちに、将門に返還せよという官の通達が届いているはずだ」
「そんな物は、彼らにとって、何の威令でもありません。──むしろ、そこまで、追いつめられたので、なおさら、策謀と武力に、邪心を集注し、一挙に、豊田を破って、中央の敗訴を、うやむやにしてしまおうという肚なんです。それに極まっています」
「……ま、待てよ。四郎」
将門は、弟の憤激がやまないので、口を抑えるように、ふと、語気を変えた。
そばにいて、息をつめながら聞いている妻の顔に、はっと、聞かせたくない思いをつきあげられたからである。
「おれは、出かけるところだ。郎党たちも、馬をすえて待っている。話は、あっちで聞こうよ。道々、駒を並べて聞いてもよい」
桔梗の顔は、もうまっ蒼になっている。母の恐怖はすぐ乳腺にひびいて、抱かれている子までが、乳の味にそれを知るのである。急に、彼女のふところでムズカリ始めた。──四郎将平の胸はこの朝、早鐘をついている思いだったが、兄の気もち、あによめの心を覚って、
「あ。そうでしたか。では、ともかくその辺まで、ご一緒に出かけましょう」
と、さりげなく、桔梗の部屋を先に出た。
将門、将平のふたりが、館の表の、家人部屋の廊のあたりまで出て来ると、もうそこらの家僕や女たちの跫音が、いつものようでなかった。
「何を騒いでいるのか」
将門が、郎党のひとりを、叱ると、
「いえ、郷の者が、騒ぐので。そして、それを聞いた女奴や下僕どもが、あらぬ事を、口走るものですから」
「あらぬ事とは?」
「今朝、豊田を通ってゆく旅人が──豊田は何と暢んびりしておるわい。今にも、常陸勢や筑波勢が、こっちへ来るのも知らぬ気に──と、あきれ顔に、この辺を、笑って通ったとか申します」
四郎将平は、それを聞くと、
「それ、ごらんなさい。旅人や百姓まで、もう聞き伝えているでしょう。──察するところ、羽鳥の叔父は、昨夜のうちに、筑波を発し、水守の兵を合せて、この豊田へさして急いでいるにちがいない」
「いやだなあ、売り喧嘩か」
「兄者人! 備えてください」
「四郎」
「はいっ」
「何とか、交わす法はないか。戦わずに」
「ば、ばかな事を仰っしゃって。──それなら、豊田を捨てて逃げるしかありません」
「逃げもしたいが」
「冗談じゃありません。あなたを、豊田の主とも、土地の親柱とも頼んで、ここへ眷族をつれて寄り合った多くの者、また、たくさんな郷の者を、どうにもなれと、振り捨てて、逃げられますか」
そこへ、守谷に住んでいる御厨三郎将頼も、馬にムチを打って、駈けつけて来た。
将頼は、下の弟の四郎将平よりは、気もやさしく、兄の将門よりも、めったに、激さない性である。──が、その将頼すら、もう武装して、矢を負い、弓をひっ抱えていた。
「良兼を大将に、二千以上の大兵が、子飼の渡しをさして、続々と、向かって来るそうです。──良兼、良正たちは、去年の敗れに懲りて、このたびこそと、軍備作戦をねっているとかいう事は、夙くから聞えていましたが──やはり本当だったとみえます」
三郎将頼は、息をはずませて、いった後、
「もし、子飼の渡しを、彼らに断たれると、こちらは、豊由一郡に、追いつめられ、戦うに、不利となります。兄者人、すぐ駈け向ってください。一刻を、争いましょうぞ」
「……ちいっ。ぜひもない」
将門も、肚をきめた。
しかし、彼の命令を待つまでもなく、あたりにいた郎党は、館、柵内の味方へむかって、事態をどなり歩いていたので、馬を曳き出し、武器を押っとり、前後して、甲冑の奔流が、諸門から往来へ、溢れ出ていた。
将門も、大急ぎで、具足を身に着けた。その間とて、彼の心のどこかでは、
(いやだなあ、血みどろは、見たくないが……)
と、しきりに疼く弱気があった。妻の白い顔や、乳のみ子が、眼にあって、いつになく、鎧の重さが、身にこたえた。
その間に、五郎将文、六郎将武なども、大結ノ牧や、附近の邸から、駈けあわせ、またたくまに七、八百騎。
「子飼の渡し口へゆけ」
「子飼を守れ」
と、まっ黒に、駈け出した。
後から後から、なお駈け続く兵も多い。曠野の兵は、その頃まだ、みな「半農半武」か、「半農半猟」か、とにかく、館の郎党から散在している地侍にいたるまで、純然たる武士という者は一般にごく少なかったようである。「今昔物語」などには、〝合戦ヲモツテ、業トナス──〟人種のようには書いてあるが、匪賊のように、それのみが目的ではない。武門といえど、荘園や開墾や、土の経済の上に、立っていた。それだけにまた、土の争奪には、血を惜しまず、骨肉の相剋も、辞さなかったわけでもある。
こういう兵団。こういう原始的な武力。──従ってまだ軍律や、秩序ある陣法もなく、ただ極めて幼稚な作戦知識と、大ざっぱな階級別とがあるだけだった。
とはいえ、蛮夫の勇に近い敢闘精神と、野性そのものの血は、もうすでに「坂東猛者」と天下に著名なほど旺んであった。この自然下にあった特性が、史上、将門がよび起したものといわれて来たいわゆる〝天慶ノ乱〟なるものを、ひどく凄惨なものにしたに違いないことは、疑いの余地もない。
「やや。遅かったか」
「しまった。もう遅い」
子飼へ殺到してみると、敵はそこの渡し口を、もう完全に、扼していた。
羽鳥の良兼を大将としたこんどの奇襲は、じつに、彼らにとっては、四度目の来攻である。
地の理も、将門の戦い方も、経験によって、彼らは、相当、研究をつんで来たらしい。
まず、前日から、変装した散兵を放ち、この辺に、隠密な予備工作をとげてから、一挙に、筏や船や、また、浅瀬を求めて、押し渡ってしまったのだ。
将門は、遠くから、敵勢のかたちを見て、
「畜生」
と、体じゅうに、たちまち、彼らしい滾りをもった。そして、
(やはりおれは、暢気すぎていたのだろうか。どうしても叔父共は、おれの首を見ないうちは、止めないつもりだろうか)
と、悲涙して、悔い悶えた。
すごい矢ひびきが、風を切って、左右を掠めてゆく。
彼の弟たちはもう部下と一しょに、敵のまっただ中へ、肉迫していた。ゆとりをもって、充分に、待ちをかけていた敵の弓は、序戦において、多くの犠牲を、豊田兵に払わせた。
「やや、敵は、ここだけではないぞ」
将門は、すこし狼狽した。というのは、加養、田下、宗道などの附近の部落から、煙が立ち始めたからだ。それらの小部落は、戸数は大したものではなくても、みな豊田郷の内である。朝夕に、将門も見ている屋根だし、将門にとっては、常に自分を、「力づよいお館様」と頼みきって、鍬をもち、漁業をしている、可憐しい領民なのだ。
「やったな。糞叔父めら」
耐えている忍辱の横顔を、いきなり撲りとばされたように、将門は憤然と、まなじりを上げた。
「ひとたび、おれが怒ったら、どんな事になるか、奴らはまだ、思い知っていないのか」
彼は、悍馬と一つになって、敵前に迫り、
「良兼っ、出て来いっ。今日こそは、おれと、勝負をしろ」
と、一騎討ちを挑んだ。
もとより良兼や良正が、彼の求めに応じるわけはない。むしろ、波上にあらわれた大魚の背を見て気負う漁師のように、
「それっ、将門だぞ」
「将門をねらえ。将門を射ろ」
「逃げ口を取って、逸するな」
などと口々にどよめき渡って、一瞬、彼ひとりに、矢をあつめた。
矢風の外へ出るのが重要である。将門は一心不乱の鬼神になった。そして、直接、敵兵に触れ、悍馬の脚もとに蹴ちらしながら、長柄の刃が血で鈍るほど、縦横無尽に、薙いで行った。そして、ついに、主将の陣へ、迫りかけた。
そこが、あきらかに、良兼のいる陣の中核と分ったわけは、いちめんな青芒に蔽われている低地へ、さらに、楯を囲い、一部に、幕を繞らしなどして、ぐるりと、守り堅めている武者も、雑兵とはちがい、見るからに皆、いかめしい甲冑や武器を揃えていたからである。
「良兼は、どこにいるぞ。良正はいないのか。小次郎将門が、今日はここまで来たのに、なぜ、おれの首を取りに出ないか」
「おうっ、将門、来たか」
それは、誰の声とも、咄嗟には、分らなかったが、ばらばらと、一方の楯囲いを開くと、芒の波の上に、ゆら、ゆらと、異様なる二体の木像が、神輿のように、舁ぎ上げられ、左右に数十人の甲冑武者が従いて、
「……おうっ、将門、来たか」
と、唱歌のように、声をそろえて、どなった。
「や、や? ……何だろ」
将門は、思わず、悍馬の手綱をしぼった。
木彫の人間像は、二体とも、坐像である。衣冠束帯のすがたで、台座の横木には、あざらかに、こう書いてある。
家祖高望王、尊霊
故、平良持公、尊霊
──つまり平氏の先祖と、将門の亡父の木像とを、どこからか持ち出して、陣頭に押し進めて来たわけだ。
将門が、ちょっと、たじろいだ様子を見ると、木像陣を作して来たその一群は、また、声をそろえて、
「畏れろ、畏れろ。畏れを知らぬか」
「高望王の尊像に」
「さきの良持公の前に」
「射るや、矢を」
「懸るや、不敵に」
「畏れろ、将門っ」
と、相手の耳もつんぼにしてしまおうと計ってでもいるように、喚き囃した。
そして、ザッザ、ザッザと、草の波を分けて、押し進んで来るのを見て、将門は、急に馬を退げて、意気地なく、ためらい出した。
──と見て、木像の前にいた前列が、
「将門、くたばれっ」
と、急に、弦を鳴らした。四、五本の矢が、将門の青白い顔を的として、びゅっと飛んだ。
がばと、将門は、馬のたてがみに打っ伏した。迅速だった。馬は尻を刎ね上げて、くるりと、廻った。とたんに、将門は、ムチを加えていた。──それこそ、一目散といってよい彼の姿であった。
勝鬨とも、爆笑の嵐ともつかない声が、うしろで聞えた。
「それっ、追い討ちにかかれ」
「焼き立てろ、火攻めに移れ」
良兼の部下は、余勢を駆って、さらに、豊田郷の深くに進攻し、放火、掠奪、凌辱など、悪鬼の跳躍をほしいままにして、その日の夜半頃、筑波へひきあげた。
一夜のうちに、豊田郡一帯は、無数の焦土を、ここかしこに、作っていた。たのみ難い人の世の平和を語るように、余燼のけむりが、次の日も、もうもうと、水郷いちめんを晦くしていた。
「何も知らない百姓の女わらべや老人にまで……。ああ、気のどく。これは、おれのせいだ」
将門は、馬で、あちこち、見舞ってあるいた。その惨状を、眼で見、耳に聞いた。
去年。──敵地へ駈け入ったとき、将門が敵へ与えた通りな惨害が、今日は、彼の領下に、加えられていた。
幸いに、豊田の本拠は、無事だった。館にも、柵前にも、また彼の妻子にも、何事もなかった。
けれど、将門は、辛かった。正しく、自分の精神と肉体に、痛打をうけた感じである。
救い粥の状況を一巡見て、館へ帰ると、彼は、いつになく、疲労の色をたたえていた。今暁、一睡はしているのに、なぜかひどく気力がふるわない。
「どうしたのです、兄者人」
将頼もいい、将平、将文も、彼を囲んでいった。
「いや、どうもせん。ただ少しくたびれたよ、おれは」
「いつにないお顔色ですが」
「そうか……」と、将門は、自分の頬をなでた。知覚がにぶく、何だか、顔の幅が倍もあるような気がした。
「寝不足とみえる。案じることはない。きのうは、まずい戦をやってしまったが……なあに、こっちに、油断がなければ、あんなばかな負け方はせぬ」
「むしろ、私たちは、よかったと思います。──余りにも兄者人は、自分の気もちで、他を量りすぎる。これからは、私たちのことばも、きっと、きいて下さるでしょうから」
「……悪かった」
素直である。将門の、こんな素直も、弟たちにすれば、かえって、どうしたことかと、心ぼそい。
「いえ、決して、兄者人を、私たちが揃って、お責めするわけではありません。──ただ、いかに危険な相手共か、それを、もう一ぺん胆に知っておいていただかないと」
「わかった。もう、不覚はとらん。もういちど、おれの本当の力を、思い知らしておく必要がある。三郎、四郎」
「はい」
「近いうちに、見ておれよ。そうだ、充分に、郎党や馬を休ませておいてくれ」
それから、十日ほど後である。
将門は、一情報をつかむと、すぐ主なる家人や弟たちを寄せて、万全な密議をこらし、夜半、豊田の兵一千余を引率して、子飼の江上を渡った。
ここは、四方の大河、江頭をあわせても、どこより水を渡る最短距離であった。
なおまだ暁天も暗いうちに、彼は、敵領に近い大宝郷堀越の渡し附近に埋伏した。
葦も芒も秋草も伸びるだけ伸びきっている季節である。伏兵には時を得ていた。そして、蛭に喰われたりヤブ蚊にさされたりの沈黙をじっと怺えて、やがての戦機を待っていた。
「……見えぬぞ、まだ」
「はて、来ないなあ」
この日、羽鳥の良兼が、先日の奇襲に味をしめて、ふたたび、豊田へ襲せてくるという密報が、前日に探られていたのである。
──と、果たして。
陽も高くなった頃、筑波、常陸、水守の兵をあわせた大軍が、えんえんと、長蛇の影を見せてきた。
渡しへ、かかった。
筏にのり、馬を、浅瀬に曳き、列も陣も、みだれた時を計って、将門が、
「射ろ」
と、急に命令を下した。
敵は、狼狽した。江の水は、赤くなった。
しかし、良兼の部下は、先頃にもまさる大兵であり、あらかじめ、途中の伏兵には、要心もしていたらしく、たちまち、勢いを、もり返して、
「ござんなれ。きょうこそ、将門を生擒りにしろ」
と、反撃してきた。
どうしたのか、この日、将門は、ややもすると、逃げ廻っていた。
「はて。いぶかしい」
「おかしいぞ、兄者人の容子は」
彼の弟たちも、それが、一抹の憂いとなって、充分に、戦えなかった。
──理由は、後になって、分ったことだが、将門は、すでにこの夏頃から、この水郷地方に多い風土病ともいえる〝脚気〟にかかっていたのである。
この前の、子飼の渡しの合戦でも、何となく、全体がだるく、そして、頭も冴えない心地がしていたのだ。
──殊に、その日は、暗いうちから、沼地の葦や水溜りの多い湿地に半日も浸っていたので、急激に容態が悪くなっていた。いかに、阿修羅になろうと思っても、気も猛くなれないし、第一、操馬が自由にならなかった。
このため、積極的に、ここまで敵を迎え討ちに出陣しながら、彼の軍は、ふたたび、みじめな退却を、余儀なくされた。
「将門の勇猛も、底が見えた。もう彼の腰はくだけているぞ」
良兼は、そう観た。
「きょうこそは、さいごのところまで、豊田を攻めろ。おそらく、夜には、将門の首が、わしの前にすえられるだろう」
そういって、堂々と、鼓手をして、鼓を鳴らさせ、あたかも、もう占領軍の入城のように、豊田へ迫った。
そして、この前のように、行く所の民家屯倉などを焼き立て、ついに将門の本拠にまで迫った。ここは郡の中心地であり、将門館の門前町なので、人家も建て混んでいる。煙の下を、逃げまどう女子供の悲鳴が、たちまち、阿鼻叫喚を現出した。
一ノ柵に、火がついた。
二ノ柵門も、館の正門も、はや炎にくるまれ、領下の火ばかりにとどまらず、将門の妻子が住んでいる北ノ殿まで、炎は、余すなく狂い出した。
「どっちを見ても火だ。火ばかりだ。弟。豊田の館の運命も、今日が終りとみえる」
敵の攻勢がゆるむと、かえって、将門も気がゆるむ様子だった。路傍の木蔭へ、流れ矢を避け、さも、疲れきったように、馬の背で吐息をついた。
「兄者人。頑張ってください。いつもの兄者人らしくもない」
弟の五郎将文は、兄の無気力に、苛々していった。具足の腰に付けていた革の水筒を解いて、馬上から馬上へ、
「水がありますが、ひと口、水をおあがりになりませんか」と、手渡した。
「あ、ありがたい」
将門は、ごく、ごく、と喉を伸ばして飲みくだした。ほっと太息をつく。そして、その雫や顔じゅうの汗を、鎧下着の袖で横にこすった。
「将文。──三郎や四郎たちは、どうしたか。姿も見えなくなったが」
「ほかの兄達は、奮戦して、鎌庭の外へと、敵を退けています。もう、御安心なさいまし」
「いや、敵は新手を持っている。ここまで、攻め入られては」
「どうして、今日に限って、そんな弱音をおふきになるんです。兄者人からして、お気を挫いたんでは、士気はどうなりましょう」
「だが、見ろ。父からの館も、門前町も、御厨の建物も、みな火や煙にくるまれている。退いては襲せ、退いては襲せて来る敵に、こう防ぎ疲れてしまっては……」
「どこか、お体でも、お悪いのですか」
「なに。体?」
「お顔が、常の二倍にも、膨れています。いま、気がつきましたが」
「そうか。……いや、おれは、何ともないぞ。体は、常の通りだよ」
いわれるまでもなく、将門は自覚していた。自分の顔を撫でても、まったく知覚がなく、全身は重く、勇気の欠如が、われながら、もどかしかった。しかし、病気のことだけは、まだ、弟たちには秘して、今も、さあらぬ態を持つのだった。
一方。御厨三郎将頼、大葦原四郎将平、そのほか六郎将武などの弟たちは、さんざんに戦って、敵を、ともかく遠くまで撃退したので、
「長追いは」
と、いましめ合い、
「兄者人のお身の上こそ、案ぜられる」
と、戦線をさげて、将門の姿を、あちこち求めて来た。
そして、ここに長兄の無事を見て、よろこび合ったのも、つかの間、敵はまた、潮の返すように、新手を立てて、襲せて来た。
「ここは、われらして、防ぎます。兄者人は、館にある味方を励まして下さい。館へ籠って、女子供らを、お守りください」
弟たちのすすめに従って、将門は郎党二、三十騎をつれて、さいごの砦と恃む豊田の本邸へひっ返した。
しかし、東西の柵門から、母家下屋まで、火の手は大きく廻っている。家人や奴婢長屋の男女まで、総がかりで消火に努めているものの何の防ぎになろうとも見えない。ただ幸いな事は、火は、飛び火によるものらしく、敵勢の影は、まだここまでは侵入していなかった。
「桔梗っ。……桔梗はどうした。桔梗よっ……」
将門は、広い柵内を、走り廻り、走り廻り、炎へ向って呼びぬいた。彼女のいる北の殿も、火をかぶっていたからである。
「おおっ、お館っ」──煙の中から泳ぐように、郎党の梨丸が、彼を見つけて、駈け寄って来た。
「北の方様を始め、女房衆も老幼も、みな、大結ノ牧へ、立ち退かれました。この有様です。もう、炎も矢も、防ぎはつきません。──殿にも、大結へお落ちあそばしますように」
「ついに、だめか」
狂風は、炎をあおり立てて、眼の及ぶかぎりを、火の海としている。しかも、敵影は見えないが、どこからとなく、敵の矢は、巨大な明りを目標に集中されていた。
父の良持が、生涯をかけて、土とたたかい、四隣と戦って、築きのこした物も、今や一ときに灰燼に帰すかと思うと、将門は、自分も館と共に灰となるのが、正しい死に方みたいに思われた。
けれど、桔梗を思い、乳のみ子の顔をえがくと、このままには、死にきれなかった。
豊田一帯の火は、夜になると、いよいよその範囲を、燎原のすがたに、拡げていた。
桔梗は、乳のみ子を抱いて、牧の馬小屋の中に、身をひそめ、
「わが良人は。将門様は」
と、そばに従いている老臣の多治経明にのべつ訊ねていた。
経明は、折々、丘へのぼって、赤い夜空をながめ、自分の生涯と、自分が仕えて来た前代良持からの半世紀に亘る土の歴史をふりかえって、
「ああ長い年月だった。また、短いつかの間の夢でもあった。空の星だけは、何も知らぬげに、悠久と、またたいていることよ。──何百年、何千年、今夜のような業火をくり返して、ここの土が、ほんとに、禍いなく安楽に住める土になることやら? ……。到底、限りある命では、それは見極め得ないものを、わしは余りに長生きをし過ぎたようだ」
八十をこえた老臣は、さして烈しい感情に衝かれることもなく、また、折々に、桔梗のそばへ戻って来て、
「まだ、お館様は、必死に、御合戦と見えまする。敵を追いしりぞけて後、かならず、お見え遊ばしましょう。余りに、お気づかいなされると、和子さまの、お乳の出にも障りましょうず。何事も運命におまかせあって……」
と、落着き切った語調で彼女の暴風のような不安をなだめていた。
そのうちに、負傷した味方やら、防ぎ口を破られた人々が、いい合せたように、この大結ノ牧へ、逃げ退いて来る。
やがて、将門も。また将頼、将平たちも、「残念だ」「無念だ」と、口々にさけびながら、雪崩れ合って来た。
「こうなっては、一時、ちりぢりに身を潜めて、再挙を図るしかありません。兄者人は、お体もすぐれぬ御様子ゆえ、どうか、ここを落ちて、御養生に努めてください」
彼の弟等も、老臣の経明も、また主なる郎党にしても、すべてが、それを目睫の急として、
「桔梗さまも、御一しょに」
と、いや応なく、疲れていない馬を選んで、馬の背へ、押しあげた。
それと、経明のさしずで、ここまで、火中から運び出した財宝の品々も、十数頭の馬に積んで、
「一刻も早く」
と、大結ノ牧の丘から、南の曠野へ、急がせた。経明はその後で心静かに自刃した。
将門には屈強な郎党が四、五十騎ほど従いて行った。彼と桔梗を乗せた二頭の馬をまん中にして、行くあてもなく、その夜の危地を脱したのであった。
その、わずかな郎党と、妻子をつれて将門は数日のあいだ、彼方此方、逃げまわった。
初めの四、五日は、芦ヶ谷(安静村)の漁夫の家に、妻子を隠して、近くを警戒しながら潜伏していたが、偵察に出した梨丸や、走り下部の子春丸などが、立ち帰って来て、
「ここも、物騒です。良兼の兵が、あちこち、農家の一軒一軒まで、豊田の残党はいないか、将門を匿ってはいないかと、吠え脅しながら、調べ歩いているようです」
と、報告した。
翌日。また六郎将武も、十騎ばかりつれて、ここへ加わり、
「三郎兄や四郎兄は、他日を期して、遠くへ落ちて行きました。兄者人も、こんな近くにいては、物騒です。──敵は豊田を占領して、勝ちほこり、草の根を分けても、こんどは、将門の首を持って帰ると豪語しておるのに」と、将門の油断をいさめた。
将門も、それを、覚らないではない。けれど、乳のみ子を抱いた桔梗が足手まといなのである。それと、自分の病も懶く、なお、妻子との別れ難い気もちも手伝う。
が、危険は、そのほかにも、いろいろ、身近に、感じられてきた。
「しかたがない。しばしの間、さびしい思いを忍んでくれ。きっと、冬の初霜が降りぬまに、以前にまさる味方を募って、羽鳥、水守の敵に、逆襲せをくわせ、そして、そなたを迎えに来るから……」
桔梗は、良人のこの言葉に、涙ながら、うなずいた。いや、乳の香ふかく、ふところに眠っていた幼子へ、母の頬をすりよせたまま、涙の面を上げなかった彼女のほんとの意志は、
「嫌です。……死んでも、離れるのは……」
と、つよく面を振っていたのかも知れないが、将門の眼も、あたりに、深刻な眼をそむけていた郎党たちも、彼女が、豪族の妻らしい覚悟のもとに、けなげにも、頷いたものと、皆、見てしまった。
三艘の漁船が用意された。
漁船の上は、すっかり、苫を敷きならべ、中に、食糧や、夜具や、そして豊田から運び出した重宝の一部だの、すべてを積み隠した。うち一艘には、桔梗と女童や女房たちが乗り、べつの二艘には、十余名の郎党を乗せた。そして芦ヶ谷の入江から、海のような湖上へと、先に、逃げのびて行けと、いいつけた。
彼の妻子をのせた三艘の苫船は、なるべく、葦や葭の茂みを棹さして、臆病な水鳥のように、まる一昼夜を、北へ北へ逃げ遡り、やがて広河の江のあたりに、深く船影をひそめて、ひとまず、そこを隠れ場所としていた。
将門は、陸路をたどって、妻子の落着きを、見とどけた後。
「わずかの間の船住居だぞ。長くは、待たさぬ。つつがなく、病気をせぬよう、いてくれよ」
遠くから祈った。その辺りの秋の蘆荻にたなびく霧の寂寞に惜別の眼を、焼きつけた。そして彼自身は、手勢をひきつれて陸閑岸(下結城村)附近の山中へかくれ込んだのであった。
じとじとと、長い秋雨がつづいた。
山蔭に、横穴を掘り、穴の口に、丸木を組み、木の皮で屋根を葺いたような小屋が、彼の当分の隠れ家だった。
同じような物を、その附近に、土蜂の巣のように作って、主従六、七十騎が、一種の山寨を構成し、しきりに、密偵を放ったり、離散した味方との連絡を計ったり、また食糧の猟り集めなど、営々として、とにかく、再起の意気だけは、持ち耐えていた。
けれど将門は、ここへ落着いた日から、まったく、病が重って、寝ついたきり、身うごきもできなくなった。
脚は、樽のように太く、指で圧すと、ふかく凹む。顔のむくみも、いっこう退かないし、全身のだるさも、気が張っていた間はまだしも、山へかくれてからは、わが身をさえ、持て余すばかりだった。
「桔梗は、無事か。……和子も、変りはないか」
呻きながらも、そればかりは、日に何度も、訊くことを忘れない。
「お難しいかもしれない……」
末弟の将武は、郎党たちが、ひそひそ声で、そう呟くのを、何度も聞いた。──ほかの将頼、将平などの兄と、何とか、連絡をとりたいと思ったが、へたに、盲動すると、なお豊田附近に充満している敵の目にふれて、ここの山寨を、さとられる惧れがある。
「もし、ここへ、敵に襲せられたら──」と、考えると、将武は、身の毛がよだった。何とか、長兄の病気を、一刻も早く──と、そればかり祈るものの、その薬餌すら、手に入れ難い。
すると、どうして、知ったものか。亡父良持の友人で、蔭ながら、将門の身に、非常な同情をもっていた菅原景行が、ある日、見舞に来て、将門の病状を見、
「これは、癒らぬ病ではない。わしも、かつて同じ病にかかったことがある。その薬を届けて進ぜる」
と、いって帰った。
将門は、その人のうしろ姿を伏し拝んで、
「ああ、申しわけがない。あの人には、何事も怺えとおせと、いつも、堪忍が大事だという御意見をよく伺っていたのに……。ついに、こんなみじめな自分の姿を見せて」
と、病床に、涙を流していた。
数日の後、景行の使いが、薬を届けてよこした。薬草袋を煮ては、毎日何度となく、その薬を飲みつづけた。驚くほど、尿がよく出る。それに比例して、気分が際立って爽快になってきた。
将門は、ひとり語に、
「おれは癒る!」
と、大声でいった。すると、空洞の木霊がグワンと(おれは、なおるっ)と、それに和すように、もう一ぺん聞えた。
肉体に、健康がよび返され、その健康が、彼の彼らしい意志気力を、恢復してくると、
「はて。おれはどうして、こんな目に遭っているのか。相馬小次郎将門ともある者がだ。おれは、決して、喧嘩に負けて凹むような男ではない。……そうだ、おれは合戦に敗れたのではなく、おれはおのれの病気に負けたのだ」
むらむらと、こんな考えかたが、頭を擡げてきた。身のみじめさを、鮮らかに、見廻すにつけ、最愛の妻子の、あわれな船住居を思うにつけ、彼は、心に、遺恨の弓を、ひきしぼって、満を持すような眉を示した。
「どうだ、おれの顔は。……もうすっかり腫れもひいたろう。滅法、粥もうまくなって来た。何を喰っても、餓鬼のように美味い」
──その朝は、わけて将門は、気分が快かった。穴住居には耐えなくなり、早暁に鳥の音の中を歩いて帰った。そして大勢の郎党たちと共に、雑穀や木の実をつき交ぜた異様な粥に、小鳥の肉など炙って、賑やかに、食べていた時である。
誰か、麓から、駈け上ってくる。本能的に、みな立った。しかし、味方の物見の者とわかったので、すぐにまた、腰をすえかけると、近づいて来た味方のその物見たちが、口々に、たいへんだっ──といきなり喚いた。その声にも、表情にも、たしかに、一同を愕然とさせる──ただならぬもの──があった。
「北の方の船が襲われた」
「敵に知られて、桔梗さまや、和子様まで」
舌がひッつれて、多くを、正しく、いえないのである。口々の声はみな、報告というよりは、ここへ来て、とたんに、息ぎれと一しょに吐いた絶叫であった。
「なにっ」
将門のそれにたいする声も、ふるえを曳いて、あとは、
「桔梗や、和子が」
と、いったきりである。
唇のほか、血のいろもない顔を、じっと、持ち耐えながら、
「もっと、詳しくいえ。敵に見つかって、どうしたのだ?」
と、やっと次の語を吐いた。そして、物見の三名を、睨みつけた。
「無残や、お姿も見えません。……血にそんだ船や、あなたこなたに、御衣の袖やら、味方の郎党の死骸は、捨てられてありましたが」
すべてを聞き終らないまに、将門は、山を駈け下りていた。もちろん、すべての彼の部下が、山つなみのような勢いをなして、彼に駈けつづいたことはいうまでもない。
麓に近い平地に、味方の馬十数頭が隠してある。彼は、その一頭へ、とびのった。うしろに、兵が続いて来ようと来まいと、問題ではないらしい。彼はただ、彼の魂が翔けたい方へ、駈けている。
陸閑岸から、彼の妻子の船のある湖辺まで二、三里はある。その間、将門は、道も眼に見えなかった。
蘆荻と、水が近づいた。
晩秋の大気は、水も空も、ひとつの物みたいに、しいんと、澄みきって、そこに、何があったかを、疑わせる。余りにも、自然は、平和であったし、美しすぎるほど、美しい秋を深めている。
「……桔梗っ」
馬を降りた将門の声が、水へひびいた。同じ叫びを、彼は、白痴の児のように、何度も、水へむかって、繰り返した。
「き、き……桔梗……」
やがては、ただ咽び、ただ涙となり、そして、おろおろと、あたりを、行き暮れたように、歩き廻って、突然──
「おれだぞ。将門だ。……桔梗よ」
と、水の中へ、ざぶざぶ、這入って行こうとした。
すでに、後から駈けて来た面々も、そこらの地上を、物色したり、そして、芦間に、血に染みて、沈みかけている破れ船を見つけたりして、地だんだを踏んで、呪いや不覚を、口走っていたのである。
「あっ。どこへ。……お館様、どこへ」
将門の異様な行動を見て、郎党のひとりが、抱きとめた。将武も走りよって、手をつかまえた。
「離せっ、おいっ。……離さぬか」
将門は、恐ろしい力で、二人を刎ねとばした。
将武は、足に、しがみついて、
「あ、あぶのうございます。兄者人っ、あの船には、誰も、おりません。桔梗さまも、誰も……」
「いる。……いる……。おれには、見える。……桔梗が、和子が」
「おういっ。み、みんな、ここへ来てくれ」
と、将武は絶叫した。
「──兄者人が、発狂なされた。……あ、兄者人を、どこか、よそへ、担いで行ってくれ」
たれか、密告した者が、あったのかも知れない。
羽鳥の良兼は、将門の妻子が、湖上の苫船に、潜んでいるのを、ついに、何かの手懸りから、知ってしまった。
すでに彼は、豊田郡の本拠を、占領して、狼藉、掠奪、破壊、やりたい放題なことはやった。
しかし、彼の本来の目的は、それにあるのではなく、じつに将門の首を見ることにあるのだ。
かんじんな将門を逸したことは、良兼にとって、なお一抹の不気味をのこしている。いつ彼が、兵を糾合して、報復に出てくるか分らないし、何よりは、筑波羽鳥の自分の留守が、不安になった。
「もういい。ぞんぶん、腹は癒えた。ひとまず、羽鳥へ引揚げよう」
凱旋の途中で彼は、将門の妻子の居場所を知ったのである。で、そのため急に、道を変えたのだ。鴻野、尾崎、大間木、芦ヶ谷と水路に添って来るうち、ふと、湖の東岸に近い芦の中に、三艘の苫船が、舳を入れているのを見つけた。しかも、その一艘の苫には、嬰児の褓が干してあった。
「あれへ、射込んでみろ」
良兼は、兵に、弓を揃えさせた。
数百箭の矢かぜが、一せいに、苫へむかって、放たれた。堪るものではない。苫の下には、何とも、名状しがたい人間の悲鳴が起った。
桔梗の守りについていた十数名の郎党は、いちどに、船を躍り出して、
「これまで」と、船を近づけ、阿修羅になって、斬りこんで来たが、多くは、矢にあたって、水中に落ち、岸を踏んだ者も、なぶり斬りになって、討死にした。
その一艘に、良兼の部下が乗って、すぐ他の二艘を、岸へ曳いて来た。一艘は、女房や女童ばかりである。良兼は、
「桔梗を搦めろ。ひきずり上げて、縄をかけろ」
と、わめいていた。しかし、船が、岸近くへ、曳かれて来るまでに、桔梗は、将門との中に生じた──この春、生んだばかりの愛しい──あれほど夫婦が珠と慈しんでいたものを、眼をとじて、母の手で刺し、自分もその刃で、自害していた。
良兼は、何か、彼女の行為が、非常に面憎い気がした。──彼はなお今でも思いこんでいる。かつて、自分の愛妾玉虫が姿をかくしたのは、将門が盗んだものとしているあのときの感情だ。その報復をなすべきものを失ったための業腹であったにちがいない。桔梗の死骸を、水底に蹴落し、なお罪のない女童や傅きの女房たちまで、部下の残虐な処置に委して、羽鳥へ引き揚げて行ったのだった。
──それが、きのうの、夕暮であった。
酸鼻をきわめた辺りの状は、なおそのままで、余りの生々しさに、鴉も近づいてはいなかった。
将門は、一たんは、たしかに、狂いにちかい発作をやった。哭くとも喚くともつかない怒号をつづけて暴れ狂った。醜態といえば醜態なほど嘆いた。けれど、この時代の曠野の人間は──いや、たしなみある都人の間でも、喜怒哀楽の感情を正直にあらわすことは、すこしもその人間の価値をさまたげなかった。将門の部下は、むしろ、将門がだらしのないほど、哭いたり狂ったりするのを見て、心を打たれた。そして彼らもまた、おいおいと手放しで泣き、洟水をすすりあい、そして遥かに筑波の山影を望んで、
「みろ、みろ、おのれ鬼畜め。わすれるな良兼」
と、拳を振るもあり、眦を裂いて罵る者もあった。
彼らのような半原始人のあいだにも、なお女性や幼い者への愛しみはあった。いや弱くて美しいとなす者を虐げる行為を憎む感情は、道徳概念ではなく、本能のままな強さを帯びていた。従ってこの結果は、当年の史実を伝える唯一の原典といわれる「将門記」の記事にも、
とある程、将門にとっては、致命的な暗黒を生涯に約されたものではあるが、しかし、彼の部下が、彼と共に哭き、彼の一身に、心を結束させたことは、非常なものであったろう。あらゆる犠牲と同情をあつめて、将門の傷魂をいたわり慰めたであろうことは、想像に難くない。
いちど、姿をかくした三郎将頼や四郎将平たちは、叔父の良兼勢が、筑波へ帰ると、ただちにまた、豊田の焦土へ、帰って来た。
さきの敗北で、味方は半分以下にも、減っていたが、これが諸地方に聞えると、かえって、以前の数に倍するほどな人数が、山川草木まで、焼けいぶっている豊田郡へ集まって来た。
「ひとまず、石井ノ柵をひろげて、石井にたてこもろう」
石井は、豊田の隣郡で、猿島郡の内になる。
将門もやがて、ここに帰って来た。
この石井時代から、彼の性格、彼の人間観は、たしかに一変を来している。その原因が、この秋の湖上の悲劇にあることはいうまでもない。
ぽかんと、馬鹿みたいに、惚けた顔つきを、うつろにしていることがあるかと思うと、些細なことにも、激怒したり、また哄笑を発したりした。
「兄者人は、あの日から、まだすこし変ですぞ」
と、将武は、上の将頼や将平にささやいた。
弟たちには、思いやり深い長兄であったが、この頃は、どうかすると、その弟たちすら、頭ごなしに、どなりつける事がある。そして、ともすると、
「飲もう」と、いい出すのであった。酒量は、以前のようなものではない。大酔を欲しながら、いくら飲んでも、酔えないふうであった。
「怒っても、怒っても、おれはまだ、ほんとに、捨て身で怒ったことはない。それはおれに、生命を惜しませる愛しい者があったからだ。……が今は、何もない。堪忍ぶくろもズタズタだ。今日までは、受け身に廻って戦っていたが、これからは、おれから戦いを布告してやる。──歯を以て歯に酬う──」
彼は、それを、何度もいった。
気のせいか、将門の相貌までが、前とは、違って来たように、誰にも思えた。らんとした光をもち、しかも、あたたかさが、失われている。眸だけでなく、眉が、けわしく、唇は、何ものかを強く結び、桔梗に見せていたあの微笑や、わが子をあやしていたあの和やかな父の笑くぼは、もう永遠に、彼の面上に回って来ないものであった。
冬の初め。ああ、冬の初め。
彼は、初霜を見ると、思い出した。
桔梗と、別れて、落ちるときに、
(さびしくても、しばらくの耐えだよ。初霜の降りるまでには、きっと、迎えに来るからな)
そういって慰めたあの最後のことばを──である。将門は、石井の営兵を数えた。部下は二千をこえている。以後、まったく積極的に鍛えてきた精鋭である。
「よし、備えはできた。妻子のとむらい合戦ぞ」
将門は、兵千八百人をつれて、筑波へ立った。なお六、七百の兵を、石井の営に残して、弟たちには、留守をたのんだ。
羽鳥の良兼は、これを知ると、
「そういう鉾先は、かわすに限る」
と、一族をつれ、逸早く、筑波をこえて、弓袋山へ逃げ籠ってしまった。
「ええ、存分に戦って、夏以来の思いをそそいでやろうとしたのに」
将門は、羽鳥へ来てみて、無念がった。あらゆる手段をつくして、良兼をおびき出そうとしたが、さきは老獪である。決して、こういう場合は、相手にならない。
ぜひなく、彼は、それが目的ではないが、豊田郷の館や自分の領民に与えられた通りな、狼藉、放火、掠奪を、良兼の領下に振舞って還って来た。まさに、歯を以て歯に酬いたのである。
こうして、その年は、暮れかけた。承平七年も、十一月にはいった。坂東平野は、赤城颪しや、那須の雪風に、冬が翔けめぐる朝夕となった。
すると、突として、朝廷から、官符をもって〝将門追捕ノ令〟が関東諸国へたいして、発せられた。その内容は、
(平小次郎将門事、徒党を狩り、暴を奮い、故なく、官田私園に立ち入り、良民を焚害し、国倉を掠奪し、人を殺すこと無数。──すなわち、同族良兼、源護、右馬允貞盛、ならびに、公雅、公連、秦清文等に協力して、暴徒を鎮圧、首魁将門を捕え、これを、朝にさしのぼすべきものなり)
と、いうのである。
ところが、諸国の郡司や押領使は、この官符をうけながら、いっこう朝命を奉じる様子はなかった。中央の命なるもの自体が、それほどまでに、地方には行われなかった証拠でもあるが、また一面、
「どうして、将門に、追捕が発せられて、良兼やその他には、何の科もないのか。──まして、この春の訴訟では、将門が、勝訴となって、帰国しているのに?」
という疑いも、多分にあり、お互いが、隣国の出方をまず見ているという態度であった。
官符の通達された範囲は、武蔵、安房、上総、常陸、下野の国々である。ところが、偶然にも、同じその年十一月末に、富士山の大噴火が起った。そのため、ちょうど官符をうけた諸地の地殻が、幾回となく、地震のように鳴動した。天地いちめん、ふしぎな微蛍光をおびた晦冥につつまれ、雪かとまごう降灰が、幾日となく降りつづいた。
すぐ翌年は、天慶元年(改元)である。いわゆる天慶ノ乱の、それが前兆であったよと、後にはみな、思い合せた事であった。
右馬允貞盛は、ちぬの浦(江戸川尻)の沖を行く便船の上に、坐っていた。
ほかの沢山な旅客とはべつに、艫の一部を囲い、従者の長田真樹と牛浜忠太の二人を相手に、弁当をひらいて、小酌を交わしている。
土民的な地方人は、この主従に、眼をそばだてたが、
「都の堂上人が、東下りして、歌の旅でもしているのか……?」
と、いったような観察しか持てなかった。
便船は、今朝、上総の浜を出て、武蔵の芝崎村(後の浅草附近)へ向っていた。──で、船がいま、ちぬの浦をよぎる頃になると、旅客はみんな騒然と一方の天を見て指さしあった。──はるか西方に豊島ヶ岡や飯倉の丘陵(後の芝公園附近の高台)が半島のような影を曳いて望まれ、その方角に、富士の噴煙が、あざらかに眺められた。
「おお、西の空、えらい黒煙だ。数日前から、富士山が爆発したという噂だったが、あれがその煙だろうか。……まるで、雪雲のような灰ではないか」
貞盛は、杯を片手に、ふしぎな天変の相貌を、見上げて、いった。
従者、二人も、
「ごらんなさい。この辺の海まで、何やら、霧のようなものが、立ちこめています」
「や。……杯の酒の上まで、灰が降ってくる。これでは、相模、武蔵などは、灰に埋まってしまうかも知れませんな」
「まさか……」と、笑って、「富士の噴火は、初めてではない。噴くだけのものを噴き上げ、燃えるだけのものを燃やしてしまえば、自ら、熄むだろう」
貞盛は、杯を覗きながら、ひと口に飲みほした。そして今、なにげなく出た自分のことばが、常総平野に大乱を捲き起している将門の猛威を、無意識に、予言したように思った。
「……そうだ。あわてることはない」
飯を噛みながら、彼は、自分へいって聞かしていた。正直のところ、彼は、将門が想像以上、屈しないし、まだ幾らでも、彼への味方が出てくるので、先頃来、あわてていた。
京都へ上っては、政治的工作に奔走し、常陸へ帰っては、国々の郡司や、国庁の役人たちを、説き廻って、
(すでに、中央では、将門の罪をみとめ、将門追捕の令が、発せられている。──四隣の諸国は、協力してこれを討つべし──と官符もそれぞれ届いているはずだ。なぜ、兵を出して、筑波に拠り、良兼殿を助けないか)
と、それの督促に、常陸、下野、上総、安房、武蔵などを、歴訪している彼であった。
夏以来──将門と良兼との戦闘はじつに激烈を極めていたのに、たえて、戦場には貞盛の名すら聞えなかった。──意識的に、彼自身、表に立つのを、避けていたものにちがいない。
彼は、将門とは正反対な、理性家であり、良正、良兼などという老獪以上に、若いが悧巧者なのだ。野蛮な喧嘩や殺し合いは、良兼に、受け持たせて、自己の姿を巧みにぼかしていたものと思われる。
だが、このところ、賢明なはずの彼も、少々、慌て気味だった。折角の〝官符ノ令〟も、いっこう威令が行われない。国々の国司や郡司は、みな傍観的である。貞盛として、これは晏如たり得ない。──やがて。
船は、芝崎の入江にはいった。船を降りると、彼の前に、
「やあ、日和もよくて、お早いお着きでしたな」
と、早速、駒を曳いて、一群の郎従と共に、貞盛を、出迎えて来ていた人物がある。
武蔵介経基だった。
経基は、秋ごろ、都からこの武蔵へ赴任して来たばかりの、新任の「介」であった。
前の武蔵介藤原維茂が、常陸へ転任したので、その後へ──貞盛のあつかいで──任官して来た者である。
「お疲れでしょう。ともあれ、こよいは、私の渋谷の館へお泊りください」
「御好意に甘えよう。先に出しておいた書面は、もう、お手許へ届いていたかな」
「拝見しました。……出兵の儀も、権守殿と、寄り寄り、相談はしておるのですが」
と、経基は、口を濁して、
「仔細は、後でお耳に入れましょう。何せい地方事情というものは、地方へ居着いてみると、想像外なものですな。着任半年で、ほとほとその難しさが、やっと分って来たぐらいなところです」
と、駒をならべて、嘆息した。
郎従たちは、途中で松明を点した。そして、渋谷山の経基の邸へついたのは、もう夜更けであった。
貞盛は寝坊した。──翌る日、起き出てみると、もう館の母屋に、客が来ていた。
「お目ざめですか。権守殿が、早朝から来て、客殿でお待ちいたしております」
主の経基に、紹介されて、貞盛はやがて、その人と、客殿で対面した。
「──武蔵権守興世王です」
と、彼は、名乗った。貞盛も、都人らしい態度で、
「右馬允貞盛でおざる。お名まえは、疾くに、太政官の省内でも、よく伺っておりました」
と、片言にも、すぐ相手をよろこばすような挨拶をした。
酒宴となった。
都の官人を迎えれば、必ず、饗宴となるのは、この時代からの、地方吏の風習だった。
しかし、興世王という男は、どこか、癖の多い、傲岸な面がまえをしていた。日頃、無力な地方民を虫ケラのように見下している土くさい権力型の人物であることは、少し飲み合っていると、すぐ分ってくる。
(好もしくない人間だ)
貞盛が、そう思うせいか、興世王の方でも、
(いやな、やつだ。都風を吹かせやがって)
と、観ているらしい。
けれど、新任の経基は、貞盛が推薦した者であるし、興世王の次官である。──で、貞盛は、経基のために、
「ひとつ、よろしく、ひき立てていただきたい」
と、心にもない機嫌をとっていた。
その後で、彼は、
「時に、当国もまだ、出兵の御様子がないが、もし、官符の命に反くような事があっては、乱後、由々しいお咎めがあろうも知れんが、御所存は、どうなのであろう」
と、これは、太政官の名においてであるから、貞盛も、相当強く、二人の真意を糺した。
「いや、決して、朝命を軽んじるわけではないが……。ま、仔細は、経基からお聞きとり下されい」
と、興世王は、次官たる彼の方へ、ちょっと、顎をしゃくって、自分は、空うそぶいていた。
経基が、代って、事情をのべた。
──その理由というのは。
経基も新任だが、興世王もまた、一年ほど前に、「権守」を拝命して、この武蔵へ来た地方長官なのである。
ところが。
この武蔵の国には──牟邪志乃国造──以来の子孫であり豪族たる、土に根を張っている先住がいる。
足立郡司判官代、武蔵武芝という人物だ。
これが、新任の「権守」や「介」を、
(おれは、認めない)
と、拒否して、税務その他、一切の行政に、嘴も容れさせないのである。
武芝のいい分は、こうなのだ。
(──おれの治績と撫民の功は、一朝一夕のものではない。累代、地方のために、貢献して来たのだ。然るに、何の落度もなく、また調貢、収税も怠っていないのに、いきなり民情も知らぬ人間が、中央の辞令など持って、「権守」だの「介」だのと、大面して赴任して来たところで、そんな奴等に、おいそれと、武蔵一国を任せられるものか。──この武芝を、ふみつけにするも程がある)
武芝は、郡司。
興世王は、権守だから、国司ノ代であり、郡司より、上役である。
それも、気に食わない一つらしい。
とにかく、武芝は、いろいろ苦情をつけて、新任の「権守」と「介」を絶対に排斥しつづけていた。そういう実情にあるので、官符の命による出兵の実行などは、今のばあい、思いもよらぬことである──という経基の釈明であった。
「ははあ。……そんなわけがあるのか」
貞盛は、一応は、うなずいた。
とはいえ、あるまじき事だ、と呆れもしなかった。
後世の国家のすがたから観れば、驚くべき国家への反抗だし、無秩序なはなしであるが、ひとり武蔵一国に限らず、遠隔の地方ほど、中央の政令は、まだまだ行われていなかったのである。
自分たちに、都合のいい政令なら、受けるが、不利な政令なら、無視する、あるいは、反撥する。
まして、一片の太政官辞令などは、古くから地方に根を下ろしている者にとっては、権威でも何ものでもない。それも、自己の地位を冒さない者ならば、容認するが、天降り式に任命されてくる上官などには、決して、易々として、その下風には従わなかった。
「じつに、不埒極まる武芝です。上命を無視し、中央の辞令などは、てんで歯牙にもかけません」
経基は、憤慨して、貞盛がこの地方へ来るのを待っていたように、いきさつを訴えた。
貞盛は、裁きに、困った。
自分の目的は、将門退治の出兵の督促である。こういう紛争の中へとびこんで、訴えを聞こうとは思わなかった。
「仔細を、中央へ上申し、武芝へ対し、何らかの措置をとって貰ってはどうです。──摂関家の御名を以て、再度、武芝へ厳達していただくなり、さもなくば、朝議にかけて」
「いや、だめです。そういう手続きは、何度、くり返したか知れません。ところが、朝廷でも、太政官でも、かえって、武芝をおそれて、何のお沙汰も返って来ない。理由は──今や、南海方面には、伊予の純友一類の海賊が、頻々と乱を起しており、また、坂東平野には、将門の伴類が、四隣を騒がせている折から、この上、武蔵に事端をひき起しては──という堂上たちの、消極的な考えだろうと思われます」
「いや、事実、南海の賊は、年々、猛威を逞しゅうしていますからな」
「……といって、われわれ両名が、官の辞令を持ちながら、空しく、都へ帰れましょうか」
「何とか、足立武芝と、そこの折り合いは、つかぬものか」
「それもずいぶん、辞を低うして、試みましたが、府中の国庁へ参っても、兵を以て、われわれを拒み、一歩も入れないのですから、妥協のしようもありません。──ただこの上の一策は、こちらは、太政官任命の辞令を持っているのですから、官命を称えて、武芝を、一度、武力で叩いてしまうことですが」
「兵力は、どうなんです。充分、彼を圧する実力があればですが……」
「それは、充分に、勝目がある」
興世王は、初めて、ここで口をあいた。──それ以外に、方法はないので、ひそかに、先頃から武力は準備しているというのである。
「しかし、徒らに、武力を用いたと聞えては、かえって、こっちが暴徒の汚名を着せられる心配がある。もし、貞盛殿が、中央へ対して、われらの正義に、証人としてお立ち下さるなら、このさい、思い切って、武芝を処分してしまいましょう。──そして、将門征伐の出兵へ、必ず協力申し上げるが」
「なるほど。──その上ならといわれるか。いや、尤もだ。よかろう。おやりなさい。官辺や摂関家にたいしては、貞盛が証人に立ち、上洛のさいには、委細を上申いたしておく」
彼は、それを約した。
同時にまた、その紛争が一決次第、将門退治に、武蔵の兵を、必ず、協力させる確約も取った。
貞盛としても、官符を仰ぎながら、その官命にたいして、諸国、いい合せたように、一兵も出さないとあっては、中央にたいして、面目が欠けるばかりでなく、自身の立場も危うくなる。
それには、多少、恩を着せてある経基に手つだわせて、興世王に、それくらいな冒険はやらせても仕方がない。出兵を確実にさせる為には、彼等の内部にある異分子の一掃は、むしろ、急がすべきであるとすら考えたのであった。
興世王と経基は、
「いや、これで、此方共も、武芝にたいする決意がつきました。貞盛どのが、官辺への証人として、お立ちくださると聞く以上」
と、俄に元気づいて、飲み始めた。
数日の間、貞盛は、渋谷の館へ滞在して、彼等の密議にあずかっていた。──武芝の邸宅を奇襲して、国庁を占領し、武芝を監禁してしまおう──という手筈がその間に進んでいた。
しかし、貞盛はなおこれから、下野、上野の諸国を廻り、田沼の田原藤太秀郷にも会う予定であるといった。郎従の牛浜忠太、長田真樹の二人を連れ、やがて数日の後、この渋谷山から東山道へ立って行った。
以来、彼の消息は、また、杳として、何も聞えて来ない。
貞盛の性格と、その行動は、あくまで、陰性であり、惑星のごときものであった。
けれど、こういう間にも、将門を中心とする常総の野にも、また一波瀾が起っており、更に、貞盛の去った直後には、武蔵の国庁に、予定されていたところの騒乱が表面化されていた。
富士山噴火は、こうして、いたる所の地表と、そこに住む人間の生理にも、何か、狂噴的な作用を、鳴々動々、伝播していたのかも知れなかった。
足立郡司判官代武芝のやしきは、後世、江戸時代には三田聖坂といった芝の高台にあった。
古文書には、武芝はまた、竹柴村とも書かれ、あの辺の高地は、すぐ断崖の真下を、打寄せる東海の波が洗っていた。
そして、磯を、武芝ノ浦とよび、牟邪志乃国造以来の豪族──武蔵大掾武芝は、見晴らしのよい山の上に、宏壮な居館をかまえていた。
当時。
ここから、彼の管領している武蔵一国を、鳥瞰してみるならば──。
まず、いまの東京都の下町一帯は、ほとんど、海であったと観てよい。
浅草の森、根津、本郷辺の原始林、そして、太やかな大河が、高地の鬱林の間から、海へ吐け出し、その河辺に沿って、所々、自然に土砂が溜って出来た洲が彼方此方に葭や芦を生い茂らせていたであろう。(それらの洲や沼や自然なる泥土が、後の千代田区、中央区などである)
武蔵は、江戸時代で二十二郡といわれたが、中古では、武蔵十郡に分れていた。そして、その内の中武蔵は、北を豊島郡といい、南を荏原郡と称し、芝の赤羽川をその境界としていたのである。
で、武芝の居館は、時代的に観ると、やはりその頃にあっては、領下の荘園を管理するに都合のいい枢要地にあったものにちがいない。
そして、彼は折々、ここから、多摩の府中にある国府ノ庁へ、通っていた。
「近頃、都から、右馬允貞盛が来て、経基の館に、逗留しているようです。──いちど、お訪ねなされてはどうでしょう」
武芝の家人は、市で聞いて来た噂というのを、主人につたえて、そう勧めた。
「ばかをいえ、おれから出向くことがあるものか」
武芝は、武蔵の国主をもって、自ら任じていたので、
「──右馬允風情が、来たからとて、なにもおれから膝を曲げて、御機嫌伺いに出向くことはない。用があるなら、彼の方からやって来るさ」
と、ほとんど、眼もくれていなかった。
ところが、やはり気には懸るので、内々、入れてある密偵をよび寄せて、探らせてみると、貞盛の滞在中、興世王も加わって、たびたび、密議がひらかれ、また、ひそかに、兵備も進められているらしいという。
「……はてな?」
と、武芝が、警戒し出した時は、もう遅かったのである。ある日の早暁、約二千ほどの兵が、ここを急襲して来た。
武芝には、応戦の備えがなかった。
彼は、伝来の家宝や財を、そっくり居館に残したまま、妻子を、磯から船で落し、自分は、わずかな郎党をつれて、丘づたいに、多摩河原を辿って、調布にのがれ、府中の国庁には、異変はないと知ったので、府中へ逃げて行った。
しかし、翌日にはもう、府中へも、興世王と経基の兵が襲せて来ると聞えたので、
「よし。国庁にたて籠って、さいごまで、戦おう」
と、俄に、戦備を触れ出したが、庁の地方吏たちは、日頃から彼の暴慢を憎んでいたし、領民もまた、多年、武芝に反感をいだいていたので、進んで、彼と共に、難に当ろうという者もない。
「ええ、ふがいない奴らだ。今に見ておれ」
と、捨てぜりふを残して、ぜひなく、武芝はまた、そこを落ちのびた。そして、はるか多摩の西北地方──狭山の辺りに、身を隠した。狭山には、彼の別邸があったらしい。
興世王と経基の示威運動は成功した。
二人は、武芝の居館の財物を没収し、国府に君臨して、訓令を発し、武芝に代って、新たに時務を執った。
「うぬ。どうして、くれよう」
武芝は、鬱憤やる方なく、日夜、報復を考えた。
国庁の内には、なお彼の方へも、二股かけて、色気をもつ小吏も多い。
それらを操って、内部の時務を怠らせ、外部からは、流言や放火やさまざまな不安を起して、攪乱を計った。武芝のこの逆戦法も成功した。結局、国庁は蜂の巣のような存在になり、貞盛が意図した筑波への出兵などは、到底、望みもされないてんやわんやに陥ち入ってしまった。
筑波の麓の柵に、同族を糾合して、羽鳥の良兼は、石井ノ柵の将門と、この冬中、対峙していた。
「いっこう消息もないが、一体、貞盛はどうしたか?」
彼が待つものは、諸国の援兵である。──貞盛の画策に依って発せられた官符の効果だった。
さきには、将門の復讐に会って、弓袋山へ逃げこみ、からくも彼の襲撃から遁れたが、帰ってみると、羽鳥の館も、附近一帯の民家から屯倉まで、一夜に、焼野原と化している。
加うるに、この前後、彼が恃みとしていた水守の良正が、病死してしまった。これも大きな精神的打撃だった。
「官符は降ったが、諸国とも、兵は出さないし、貞盛は陣頭に立ちもしない。──こうして、この身一人が、将門の目の仇に立ってしまった。……考えてみると、当初の発頭人たる大掾国香は死に、源護も逝き、その子の扶、隆、繁も相次いで戦歿し、今また良正も病死した。……生き残った者の災難とはいえ、こんな大争いを自分一個にうけ継いで、一体、どうなることだろう」
良兼も、もう、いい老年である。
それに、深い堅固な信仰ではないにしても、元々、多少仏教に帰依して、この地方に寺の一つも建立したことのある男だけに、さすが無常を観じて、そう考えずにもいられなかった。
「貞盛こそ、怪しからぬ。──本来、誰よりも、貞盛自身が、矢表に立つべきではないか」
その不合理にも思い至って、ようやく、右馬允貞盛の狡る賢い立ち廻り方にも、気がついていた。
しかし、今にして、こう気づいても、すでに遅い。
彼の部下は、将門の豊田郷に侵入して、穀倉、御厨、門前町、民家にいたるまでを焼き払い、ついには、将門が自分の生命ともしている最愛の妻子までを捜し出して、みなごろしにしてしまっている。──すべてそれは良兼の所業として、将門から終生の恨みをうけているのだ。今さら、骨肉の血みどろと、領土の荒し合いが厭になっても、将門の方で、このまま矛を収めるはずはない。
しかも、弓袋山から里へ出て来た彼の眷族や伴類たちは、将門が石井へひき揚げたあとで、歯噛みをしあい、
「見ておれ、こんどは、こっちから、ひと泡ふかせてやるから」
と、再挙、おさおさ怠りはない。
げにも、歯ヲ以テ歯ニ酬ウ──の報復をくり返せば、人間の野獣化と残忍な手段は、とどまるところを知らなくなる。復讐に対して、復讐を返し、その復讐にまた復讐を思うのである。
ここに。
将門方の走り下部に、子春丸という童上がりの郎党がいた。
もと、水守附近の、百姓の小伜である。
良兼の家人景久が、この子春丸を誘惑して、利を食らわせ、石井ノ柵を内偵させた。
「柵は、手薄です。大した兵力はありません。ちょうど、年暮の三十日には、炭倉へ千俵の炭を送り入れますから、その時、馬子や百姓の中に交じって、柵の内へ筑波の兵をお入れになれば、内と外との両攻めに会わせて、難なく、ぶち破ることができましょう」
子春丸は、欲に目がくらんで、羽鳥方に内通し、ついに、こんな計略の手先を働くことになった。
彼の奇策は用いられた。
為に、その事の行われた夕方、石井ノ柵は、炭倉から火を発し、同時に、内から内応する者と、外から奇襲した筑波勢とに囲まれて、まったく、一時は、危急に陥ちかけた。
しかし、将門は、その年の夏から秋へかけてのような脚気患者ではなかった。もう彼の健康は、恢復していたし、かつは妻子を失い、豊田の本拠を失ってから、一念、鬼のごとき復讐に燃えていた。
「ござんなれ、良兼」
という意気である。
慌てはしたが、たちどころに、営中の郎党から兄弟たちも団結して、それに当った。奮戦力闘、攻め寄る敵を殱滅して、かえって、良兼の筑波勢に、手痛い損害を与えて、見事、追い返してしまったのである。
「裏切り者は、子春丸です」
彼をよく知る仲間の梨丸が、その後ですぐ将門に訴えた。
「幼少の時から、眼をかけてくれていたのに、憎い童め」
将門は、弟の将平にいいつけて、ただちに、彼を引っ捕え、首を打って、羽鳥の良兼へ、わざと、送り届けてやった。
子春丸には、老いたる母があった。羽鳥ノ柵へ、その首を貰いに来て、良兼の前で、首を抱いて慟哭した。
「わしの伜を、このようにしたのは誰じゃ。誰が、わしの子を……わしの子を! ……」と、老母は、泣き沈んでいるうちに、突然、発狂したらしく、わが子の首のもとどりをつかんで、おそろしい形相をしながら立ちよろめくと、良兼へ向って、
「おまえじゃろ。おまえにちがいない。わしの子を、元のようにして返せ!」
と、いきなり、抱いていたわが子の首を、抛りつけた。その首が、良兼の胸にぶつかった。そして、彼の膝の上に、どすんと、重たく落ちて坐りこんだ。
良兼は、その晩から発熱した。
ついに正月中も、床を上げられなかった。
「……癒ったら、出家したい」
そんな事をいい出したのも、気の弱りであろう。二月に入ると、病はなお重り、彼も良正のあとを追って逝くかとさえ思われた。
「この上は、どうしても、右馬允どの(貞盛)を表面に立てねばならぬ。自体、あのお人が、妙に、蔭にばかり隠れているので、四隣の国々も、連合して来ないのだ」
良兼にも、いい息子がある。
下野介公雅、安房の庄司公連などだ。──それと、子息ではないが、安房の要吏に、秦清文などと有力な味方もいた。家人景久、常行、昌忠などの重臣も加えて、協議の末、俄に四方へ使いを派して、貞盛の居所を探しまわった。
貞盛の所在をたずねていたのは、羽鳥方の良兼一族だけではない。
将門もまた、八方、手をわけて、
「大叔父の大掾国香以来、おれを亡き者にしようと、幼少、都にいた頃から、おれの一命をねらっていたのは、あの白面郎貞盛という食わせ者だ。彼奴こそ、おれの生涯の仇、貞盛を尋ね出せ」
と、部下の者へ、厳命していた。彼の弟たちも、坂東平野の草の根を分けてもと、血眼になって、行方を嗅ぎあるいていた。
安房、上総から、武蔵へ渡り、そして両毛を徘徊して、田沼の田原藤太秀郷を訪うたということまでは、うすうす分ってきた。
しかし、秀郷の所では、ていよく援助を断られて、どこかへ立ち去ったという噂なのだ。それは、どうも真実らしい。
ただ、その以後が、わからない。まったく、杳として分らない。
「──もし、また、ふたたび、都へ上ったものとすると、ちと厄介だ。いずれ、摂関家などを立ち廻り、ろくな事は、ふれ歩くまい。それならそれで、おれとしても、何とか、都へ手を打たねばならぬが」
と、将門は、それのみを、苦にやんでいた。
彼は、都を知っている。十数年の生活を、都人の中で送り、摂関家の何たるものか、朝廷のどういうものかを、地方人としては、知悉している人間である。それだけに、中央政府というものに、地方の豪族らしくもなく、余計な気をつかうのだった。
天慶元年の二月末──山も野も春めいてきた矢さきである。
「兄者人! 知れましたぞ。貞盛の居どころが」
と、弟の将平、将文のふたりが、石井ノ柵へ駆けこんで来て告げた。
「常陸にいる彼の姉の良人、藤原維茂の家に隠れていたんです。そして昨夜、急に、そこを立って、郎党四十騎ほどに守られ、山越えで、東山道から碓氷を越え、都へ帰って行ったそうです。──追えば、追いつけるにちがいありません」
「なに、碓氷越えに出て、都へ向って行ったと」
「まちがいなく、それを眼に見とどけた者の知らせです。──このときを逸しては、再び、彼奴を、手捕りにする機会はありますまい」
「しめたっ──」と、将門は、手を打ってさけんだ。
「天の与えだ。貞盛の運の尽きだ。直ぐ追おうぞ」
具足を着こみ、矢を負い、馬を曳き、将門は、広場に立って勇躍した。
居合せた家人郎党は、百名に足らない。
「柵は、空き巣になってもかまわぬ。一人のこらず従いて来い」
砂ぼこりを揚げて、この日、柵門から出払った。
今は、愛する子も妻もない仮の館といえ、ここを羽鳥の敵に明け放しても、ただ一個の貞盛を逃がすまいとする彼の決意であった。
その意気ごみから見ても、いかに彼が、貞盛という賢くて陰性な敵にたいして、日頃から、いや都に舎人奉公していた弱冠のむかしから、心中の怒りを抑えていたか、また、近年の憤怒をつつんで密かに今日の機会を待っていたことかが、察しられる。
高原の二月は、まだ残雪の国だった。
春は、足もとの若草にだけ見えるが、遠い視界の山々は、八ヶ岳でも、吾妻山脈でも、雪のない影はない。
「──なに、将門が追い慕って来たと?」
右馬允貞盛は、そう聞いても、初めはほんとにしなかった。
けれど、ゆうべ碓氷権現の境内に、その将門、将頼、将文などの手勢が、宿営したという噂は、途々、何度も耳にした事だし、また佐久ノ御牧でも今、
(およそ百数十騎の兵が、今日は、佐久高原から小県あたりを、何やら血眼になって、狩り捜している様子です)
と、そこの牧夫たちから聞かされたので、今は、疑う余地もなかった。
「──真樹。どうしたものだろう?」
貞盛は、馬上から振り向いた。長田真樹、牛浜忠太を始め、従者はおよそ四十騎しか連れていない。
「彼奴に、追いつかれては大変だ。──というて、この信濃路、山越えして諏訪へ抜けるか、千曲の川原を渡って、更級、水内から越後路へ奔るか、二つのうちだが……忠太はどう考えるぞ」
「さ。山に雪さえなければですが」
真樹も忠太も、暗澹と、行き暮れたような顔つきである。将門と聞いただけでも、彼等は、胆のすくむ思いがする。まして味方はこの小勢、しかも都へ向って、常陸からそっと落ちのびて来た旅装のままだ。何しろ逃げられるだけ逃げるに如くはないと思う。
貞盛にも、万夫不当の勇があるわけではない。真樹、忠太の考え方は、そのまま貞盛の分別でもあった。
「さらば、善光寺平へさして、ひた走りに、急ごう。あとは、夜の匿れ家でも見つけた上の思案として」
騎馬、徒士、あわせて四十人ほどの主従は、この日、小諸附近から小県の国府(上田近傍)あたりまで、道を急いでいた。
そして、千曲の河畔へ出たと思うと、何ぞ計らん、渡船小屋らしい物を中心に、一かたまりの人馬が、こっちを見て、俄に、弓に矢をつがえたり、矛、長柄の刀などを構えて、何か、喊声をあげ始めた。
「や。将門の豊田兵らしいぞ」
「それにしては、小人数ですが」
「先廻りして待伏せていた一小隊にちがいない。後の人数が来ぬうちに」
「そうだ。将門さえいなければ、あのくらいな小人数の敵は……」
急に、貞盛たちも、戦備をととのえた。
まったく何の陣形の用意も偵察もなしに、突然、双方の間に、猛烈な矢戦が始まった。──十五、六人の豊田兵の中にいて、指揮している若い騎馬武者は、たしかに、将門の弟の将頼か将平にちがいない。
「怯んだぞ、敵は──」と、貞盛は、初めの優勢に、奮い出して、「この隙に、千曲を駈け渡ってしまえ。多寡のしれた将頼の手勢、恐れることはない」
と、自身、真っ先に、しぶきをあげて、浅瀬へ、駈け入った。
ところが。
そこから二町ほど上流を、一群の騎馬が、先に対岸へ渡ってゆくのが望まれたし、また下流の方からも、黒々と、一陣の兵馬がこっちへ襲せてくる。
「あっ。いけないっ。──将門だ」
貞盛は、そう叫ぶと、仰天のあまり、あやうく馬から河中へ落ちそうになった。
山岳地帯は、まだ雪融もしていないとみえ、千曲川の水は少なかった。渺として広い河原に、動脈静脈のような水流のうねりを見るだけである。
将門の手勢は、三ヵ所に分れていた。将門にとって、この日ほど、快味を感じたことはなかったろう。貞盛はもう網の中にはいった魚だ。あとは網をしぼって、手づかみに捕えるだけのものである。
しかし、貞盛とて、こうなれば、やみやみ坐して敵手にかかるほど怯者でもない。
「しまった」
一度は絶望的な叫びをもらしたが、たとえ敵の半数以下にしろ、四十人の郎従は連れている。これだけの者が死を決すれば──と思い直した。
彼は、戦にも、勇よりは智が働いた。
「あの渡船小屋に拠って戦え。小屋の蔭や楊柳を楯にとって、めったに出るな。物蔭からただ矢を放て」
何の掩護物もない戦場では、これは有利にちがいない。しかし、将門方は戦備して来た兵だし、貞盛たちは、旅装である。また何よりも、持っている矢の数にも限度がある。
当然、矢が尽きてきた。
頃はよしと、将門の兵は、渡船小屋を中心に、取り巻いた。将門、将頼、将文、将平と、兄弟、駒をそろえて、
「貞盛。出ろっ」
と、呼びかけた。
「おうっ──」と、小屋の蔭から、悍馬を躍らせて、出て来た者がある。
貞盛と見たので、将門が、
「手捕りに、手捕りに──」
と、弟たちへ注意した。
その一騎はなかなか勇猛だった。彼のために傷つく者が少なくない。
いやここばかりでなく、乱闘乱戦、さながら野獣群の咆哮となった。誰か一人が小屋へ火を放つ。その炎と黒煙も双方の殺伐を煽り立てた。
やがて、勝つ方が勝った。討ち洩らされた貞盛の郎従は、蜘蛛の子みたいに、山地の方へ逃げ散った。将門は血ぶるいしながら、敵の屍を辺りに見て、
「将頼、将平っ。……どうした、貞盛の身は」
と、弟たちの姿へいった。
「惜しいことをしました」と、将頼が答えながら馬を寄せて来た。「──生け捕りにして、郷里へ曳いてくれんと思いましたのに」
「なに。逃がしたのか」
「いや、自害してしまいました」
「自害したか──」と、将門は悵然と歎声の尾を曳きながら、
「憎い奴だが、さすがは、恥を知っている。自害したものなら仕方がない。将頼」
「はいっ」
「首を挙げろ」
「心得ました」
将頼は馬の背から飛び降りた。
将門以下、豊田の将兵は、そのとき、粛として、心に、凱歌の用意をしていた。
ところが、次の瞬間には、じつに計らざる事実が起っていた。
「や! こ、これは貞盛ではない」
と、首を挙げてみた将頼もいえば、また、周囲の者も、騒ぎ出したのである。
「太刀、具足など、貞盛の物を着けているが、貞盛の郎従、長田真樹だ──。長田真樹が、身代りに立ち、貞盛らしく振舞っていたのだ」
「では……当の貞盛は?」
と、将門の眼には、涙がこぼれかけて来た。
「供の郎従たちの中にまぎれて逃げ失せたか。それとも?」
乱戦のあとを思い出してみれば、小屋が黒煙を吐いたとき、中にいた渡船の老爺だの、土民らしい者が何人か、こけつ転びつ逃げて行った。
ひょっとしたら、その中に、姿を変えていたかもしれない。
いやいや、そんな隙があったとも思われぬ。あるいは、亡骸になって、べつにそこらに仆れているのではあるまいか。
将頼、将平たちは、兄の茫然たる面を見るに耐えないように、辺りの敵の死骸を一個ずつ見て行った。が、すぐにその徒労を覚った。
「残念だ。しかし、落胆しているばあいでない。……この上は、手分けをして、たとえ、貞盛がどこへ潜もうと、尋ね出さずにおいていいものか」
将門は面を蒼白にして、弟たちへ命令した。百余人が八組に分れ、里、野末、山岳方面など──思い思いに捜索に向った。
が、その日はついに手懸りもなく暮れた。
翌日もその翌日も、山里の部落や道という道を捜し廻った。こうなると、不利なのは、かえって大人数の方だということになる。いちいちの行動がすぐ遁走者には覚られているにちがいない。それと、土地の郡司は、「下総の将門の手勢らしい──」と聞くと、邪魔はしないまでも、すこぶる冷淡な態度を示した。むしろ、右馬允という肩書をもち、中央政府にも、公卿社会にも関係のある貞盛の方へ、暗々裡な庇護がうごいていた。当然、貞盛もその方面の手に隠れて、危地を脱していたにちがいない。
それにしても、貞盛は、惨憺たる苦労をしたもののようである。
おそらく、身一つで木曾路へのがれ、やがて京師に辿りついたものであろう。さっそく、帰洛届と共に、将門の暴状を、太政官に訴え出た。その上訴文の一部に、彼自身、千曲川の難をこう書いている。
この年(天慶元年)の頃、京都には、僧の空也という者があらわれて、辻に立ち、念仏をとなえ、念仏をすすめ、念仏即浄土の説教をし始めていた。
空也は、諸国を歩いて、貧者を見舞い、病人を扶け、橋を架し、道をつくろい、また地相を見ることに長じていて、どんな水の不便な所でも、空也が行って、井戸を掘ると、そこから水が湧いたという。
都の中にも、空也の掘った井戸が幾つもあって、その井を、街の人々は〝弥陀の井〟と、名づけたりした。
とにかく、彼は、庶民の中の庶民の友人であった、師であった。
だから、街の人々は、彼を呼ぶのに、
「市のお上人」
といって、親しんでいる。
いや、何かこの人が、自分たちの力であるように、空也が夜の辻に立つと、みな彼のまわりに集まった。そして、説教に耳をかたむけ、念仏を唱和し、やがて誰ともなく静かに叩く鉦の音律にあわせて、群集の輪は、市の上人のまわりを踊るが如く巡りあるいた。
空也念仏──空也踊り──
春の星が、都の空を、妖しい光に染めている。民衆の中に、こういう事象が起るときは、民衆の中に、何か、不安があるときだった。──空也踊りの輪は、念仏と鉦の音の音律は、それを語っていた。
「きょうも、西の早馬が、太政官の門へはいった」
「いや、きのうもだ」
「伊予の純友一類が、南海ばかりでなく、近頃は、つい淡路や津の海まで、荒し廻っているというぞ」
「いったい、官の追討は、何しているのであろ?」
こういう不安な囁きは、絶えず聞く。
ここ数年、中央政府は、純友一類の海賊征伐には、まったく、手をやいている。
小野維幹、紀淑人などは、いくたび宣旨をいただいて、純友一類の海賊征討に、瀬戸内海を南下して行ったか知れないが、都人はただの一度も、凱旋軍を見たことはない。
「行けば行くほど海のもくずよ」
誰とはなく、敗戦は知れるものである。ついには、兵を徴しても、応じる壮丁もないような有様である。
その最もひどい一例は、天慶元年からいえば、つい二年前の承平六年三月、
という太政官日誌の一項を見てもわかる。貢税の物資を載せた官船が、海賊たちに狙われた例は、一度や二度の事ではない。甚だしいばあいは、船ぐるみ、孤島へ運び去られ、裸にされた官人が、幾月も後になって、都へ逃げ帰って来たという嘘のような話すらある。
天下の乱兆は、純友一派の海賊ばかりでなく、山陽北陸地方には、国司や土民の争乱がのべつ聞え、殊に、出羽の俘囚(蝦夷の帰化人)が、国司の秋田城を焼打ちしたというような飛報は、いたく堂上の神経をついた。おまけに、洛中名物の放火沙汰や群盗の横行は毎晩の事で、それはもう珍しくも何ともなくなっている。
こういう洛内。こういう上下の不安が満ちていたところへ、右馬允貞盛が──山ヲ家トシ、薪ニ枕シ、艱難漸ク都ニ帰リ着クコトヲ得タリ──という姿で関東から逃げ帰って来たのであるから、
「すわ、何事かある?」
と、遠隔の事情にうとい大臣、参議たちが、彼の上告文なるものを、重視したのもむりではない。
上告文には、坂東一帯の騒擾は、すべてこれ、彼の野望と、中央無視の反意によるものであるとなし──為ニ、荘園ハ枯渇シ、農民ハ焦土ニ泣涕流亡シ、ソノ暴状ハ鬼畜モヨク為ス所ニアラズ──と、誇張した文辞で、将門の反官的行為を、ある事ない事、針小棒大に書き出してある。
「すててはおけない」
太政官は、これを取り上げた。
しかし、先年、将門上京のとき、貞盛との訴訟の対決では、将門の申したてを正しいとして、「彼に罪なし」という判決を下してあるばかりでなく、「将門が父以来の遺産田領はこれを直ちに、将門の手に帰すべし」という宣告を貞盛へ申し渡してある。要するに、そのときの官の裁判は、将門を正当とし、貞盛の訴えを、不当としたのだ。
──それを今また、敗訴の貞盛の上告文を取り上げて、軽々しく、将門を朝廷の罪人視するのは、どういうものであろう。すこしヘンなものではあるまいか。──というような正論も、公卿の一部にいわれていた。
「一応、貞盛を召して、つぶさに、貞盛の口から、坂東の実情を、訊き取ってみるべきであろう」
堂上の意見は、それに一致した。貞盛はその日、衣冠して、朝廷の南庭に畏まった。
殿上には、三卿以下の大官が、列座して、彼の口から、東国の実情を聞き知ろうと、居並んでいた。
その中には、太政大臣忠平(前左大臣)の子息──大納言実頼、権中納言師輔などの姿も見える。
貞盛は、庭上から仰いで、
(お。見えておられるな……)
と心づよさを、ひそかに抱いた。権中納言九条師輔は、弟の繁盛が多年召仕えている主人であるし、また、その兄君の実頼も、自分に好意をもっているお人であることを、常々、繁盛から聞いていた。
「上告文は、あの通りに違いないか。将門にたいし、右馬允は、謀反人なりと断じてあるが、それに、相違ないのか」
実頼が、質問した。
「ちがいありません」
貞盛は、すずやかに、答えた。
こういう所で、思いのまま智弁をふるうことは、貞盛として、得意中の得意である。まして、実頼が質問に当ってくれるなど、願ってもない事だと思った。
貞盛の地方事情の説明は、徹頭徹尾、彼自身のための巧みな弁護であった。同時に、将門にとっては、拭うことのできない「反逆者」「乱暴者」という印象を、堂上公卿の頭に烙きつけてしまったものであった。
ことばは爽やかで、理念はよく通っているし、第一、貞盛の態度がしおらしい。こういう印象には、わけもなく、好感をもつのが、公卿心理でもあった。
「……なるほど」
「そうしたわけか」
殿上の諸官は、みな、貞盛の説明に、肯定した。実頼は、さいごに、訊ねた。
「しかし貞盛。お汝は、すでに先に、将門追討の官符を請うて、その令旨をたずさえて東国へ下っていたのではないか」
「左様であります」
「なぜ、令旨を奉じて、将門を捕えぬか──前には、久しい月日、東国においては、お汝の所在も知る者なく、そのため、将門をして、ほしいままに、暴威を振わせたとも聞き及ぶが」
「その儀は、申しわけもありません」
貞盛は、素直に、庭上へぬかずいて、罪を謝した。
「けれど、それには、仔細がないわけではございません。──理由は、すでに、私の父国香、叔父良正、良兼、また源護の一家までが、ほとんど将門のために、滅されております。それ故、今や将門一人が、勢威を占め、四隣の国々も、将門の仕返しを恐れて、官符の令旨を奉じる心にならないのです。すべて、将門を恐れるところから来ております」
「けれど、その害を除かん為の、官符の令ではないか。なぜ、努めぬ」
「されば、私としては、武蔵、下野、常陸、安房、上総と、国々を歴訪して、官命にこたえ、各〻、出兵せよと、説いて歩きましたが、そのうち、身辺に危険が迫って、やむなく常陸に嫁いでいる姉の良人、常陸介維茂の許へ、しばらく身を潜めていた次第でした」
「世間も歩けぬほどに始終、将門が狙うておるのか」
「刺客、密偵を放って、この貞盛をつけ廻し、折あらばと、諸道を塞いでおります故、常に、生けるそらもありません。……加うるに敗残の叔父、羽鳥の良兼も、将門のため、居館、領土を焼きつくされ、ついに、悲憤の余り、病床に仆れ……敢なく……」と、貞盛はここにいたると、声をかき曇らせ──「敢なくも、先頃、病歿いたしました。ここにおいて、ついにわれらの九族は亡び去り、残るは、貞盛一名となりました。……今は、果てなく他国に潜伏して、空しくこのままあらんよりはと、維茂と計って、ひそかに東山道より信濃路を経、都へ、再上告のため、急ぎ上って来たようなわけでございます」
「む。千曲川の難は、その途中の事であったよな。やれやれ、将門の執念の烈しさよ」
と、実頼は歎声と共に、訊問を終った。──こうして、貞盛はその日、まもなく退出したが、殿上の反応にたいして、彼は、
「まずは、上首尾」
と、心のうちで、独り満足して帰った。
そしてまた、数日の後、彼は大納言実頼の私邸を訪ね、また九条の権中納言師輔の邸宅へも伺って、
「いまや私は、東国の郷里では、父祖以来の家園も将門に蹂躪され、まったく孤独無援の心細い立場になりました」
などと雑談にまぎらせて、若い師輔の同情をひくような事をいった。
若いといっても、九条師輔は三十二歳。長兄の実頼はもう四十歳である。
むかし、将門が仕えた藤原忠平は、すでに六十からの老齢であり、太政大臣の顕職にあるが、政治面からはもう実際的には身を退いていた。朝廷の政廟で、実権をもっているのは、子息の実頼と師輔なのである。
「いや、さは案ずるな、お汝の弟繁盛に、わしの内意は申してある。ただ、父の忠平公がどうも、将門にたいして、多少、お愍れみをかけておられる。……多分、むかしわが家に仕えていた小者という御憐愍からではあろうが……容易に、彼を朝廷の謀反人とする儀には、御同意をなされぬのだ。しかし、それも、お汝の訴文に偽りがなければ、時と事実が、証拠だてて来るにちがいない。もうしばらく、時を待て」
師輔は、貞盛を力づけた。
貞盛が、表向きの訴文や裏面運動によって、官に求めているものは、将門を朝敵として、決定づける事にある。──けれど、朝敵の詔が発せられれば、当然、これが討伐には、正式な征賊将軍を任命し、また都から官軍を派遣しなければならない。
「たとえ、貞盛の上告文の通りであろうと、朝敵と断ずるのは、由々しいことである。将門を喚問しても、猜疑して上洛せぬとすれば推問使を下向させて、将門の真意と、実情を、たしかめて見るべきではあるまいか」
廟議は今、こういうところで低迷しているとも師輔は貞盛に洩らした。──貞盛としては、その廟議の帰決を、あらゆる方法のもとに、自分に有利に誘かなければならなかった。
今や、彼にとって、中央の方針の如何が、生涯の運命をひらくか閉じるかの分れ目でもあったのである。
天慶二年の夏中は、夜毎夜毎、空也念仏の称名の声と、夢中でたたく鉦の音と、妖しいまでに踊り更ける人影に、都の辻は、異様な夜景をえがいていた。
「戦がある」
「大乱の兆しが見える」
「宮門の戌亥に、虹が立った」夜の人出に紛れこんで、こう囁き廻る者がある。むかしから、宮苑の森に虹が立つと戦があるということを、洛中の民は信じていた。
秋の頃には、念仏の声よりも、流言の方が多くいわれ出して来た。
「伊予の純友と、たくさんな海賊兵は、もう瀬戸内を上って、摂津、難波ノ津あたりに時を窺っている」
また、こういう者もあった。
「──それは、東国の将門が、攻め上って来るのを待っているのだ。純友と将門とは、十年も前から、世直しをやる約束を結び、天下を二分して、分け取りにする黙契まで出来ている」
いったい、誰が、そんな事をいい流すのか。
天に口なし、人をしていわしむ──というそれなのだろうか。
「……なあ、弟。まるで、わしたちの為に、誰か、代弁してくれているようなものじゃないか」
貞盛は、ある夕べ、弟の繁盛と共に、辻の空也念仏の群れを見物に出かけながら、途々、そういって、微笑しあった。
──そして、夢に憑かれて踊っているような人影の輪を眺めていた。
すると、烏帽子の下に、また、面を布で包んでいる狩衣姿の男が、ふと、兄弟のそばに寄って来て、
「もしや、あなた様は、右馬允貞盛どのではありませんか」
と、馴れ馴れしく話しかけて来た。
「? ……。そうだが、おぬしは誰だ」
「数年前まで、東国の源護殿のお館に仕えていた者にございます」
「おお。護殿の家人だったのか」
「御一族、みな、あの通りになりましたので、流浪の末、都へ来ておりましたが、思いがけない所で、お姿をお見かけいたし、おなつかしさにたえませぬ。……おお、それよ、あなた様に、お訊きすれば、確かな事が分ると思いますが」
「わしに、何を訊きたいというのか」
「いえ、自分一人だけでなく、ここらに黒々と踊っている者や、都じゅうの民は、それが嘘かほんとか、知りたがっておりましょうよ。──おういっ、みんな寄って来い」
貞盛が、びっくりしているまに、男は両手を振りあげて、こう呶鳴っていた。
「ここにいらっしゃるのは、右馬允貞盛様だ。東国の事情なら、このお方ほど知っているお人はない。……みんなして、お訊ねしてみろ。この頃のいろいろな噂が、嘘か、ほんとか」
「これ、何をいうぞ。町の流言など、貞盛の知ったことか」
「だって、あなた様は、この春、東国から御帰京になるやいな、太政官へ長い上告文をさし出して、将門に謀反が見えるというお訴えを出しておられたでしょう」
「や。どうして、そんな事を、おぬし如きが知っているのか」
「いくら、つんぼにされているわれわれ下民でも、それくらいな事は、いつか、聞きかじっておりますよ。……流説流説と仰っしゃるが、その流説、何ぞ計らん、堂上方から出ているんですよ。いや、張本人は、あなた様なんです。……さあ、大勢に答えてやって下さい」
すると、群集の中から、姿は見せないが、貞盛へ、こう質問の声がとんで来た。
「東国の将門が、常陸の大掾国香や、叔父の良正、良兼などを滅ぼして、あの地方に、急に猛威を振い出したというのは、噂だけではありませんか」
「…………」
「嘘ですか」
貞盛もつい答えてしまった。
「決して、嘘ではない」
「じゃあ、ほんとなんですね」
「ほんとだとも」
「すると、兵をあつめて、諸地方を焼払ったり、乱暴狼藉を働いている事も」
「むむ……」
「じゃ、将門は、あきらかに、謀反人なんで?」
「そうだ。官符の令旨にも、服さぬから」
「今に、大軍をつくって、都へ上って来ましょうか」
「放っておけば、燎原の火、どこまで、野望をほしいままにして来るかわからぬ」
「するとやはり、海賊の純友と、噂のような、示し合わせがあるのですな」
「知らん。そんな事は」
「まあ、はっきり、仰っしゃって下さい。凡下の私たちは、心配なんです。海と陸の両方から、この都へ、火を放って、どっと暴れこまれては堪りません」
「つまらぬ流言を申すな」
貞盛は、群衆を叱って、繁盛と共に、そこから逃げるように、辻の暗がりへ曲がりかけた。
すると、一部の人影が、
「やい待てっ。──その流言は、誰がいい出したのだ」
「馬鹿野郎っ」
ばらばらと、彼の影へ向って、礫が飛び、同時に、蜘蛛の子のように逃げ散る跫音が、夜の街へ散らばった。
「わははは。あははは。……いや、今夜はうまく彼奴を利用してやったな。こんなおもしろい目を見たのは久しぶりだ」
同じ夜の事。
六条坊門附近の娼家の多い横丁を曲がって行きながら、傍若無人な高声でこう話し合ってゆく四、五人の遊蕩児らしい男がいた。
その中の年上な一人は、たしかに、八坂の不死人らしい声だし、また特徴のある彼のするどい眼であった。
この六条坊門附近は、娼家の巣であった。近くに市があり、細民町だの盛り場もある。八坂の不死人は、この辺を根じろに、官憲を翻弄していた。やりたい放題、都の秩序を乱している。もちろん、彼の下には、八坂時代の手下が前より多く集まっていた。そして検非違使をテコずらせたり、根のない風説を撒きちらしたり、公卿堂上を動揺させては──また当分、市や娼家の雑民街へ、泡つぶのように、消え込むのである。
夏の末頃。
不死人は、海の仲間から、連絡をうけとった。
(いつもの会合を、江口でやるから、江口まで出て来てくれ)
という純友の手紙である。
そこへ出向く日、不死人は手下の穴彦、保許根、禿鷹などへかたくいいつけた。
「──ぬかりはあるまいが、例の右馬允(貞盛)の門の見張りだけは、怠るなよ。それに弟の繁盛の方もだ。このところ、奴らと官辺のあいだに、何やら往来が多いようだし」
不死人は、穴彦に送られて、淀から小舟で、摂津へ下って行った。
江口の一楼には、もう大勢の友人が来ていた。──藤原純友、小野氏彦、津時成、紀秋茂、大伴曾良、伊予道雅などといった顔ぶれだ。
公卿の果てや、地方吏のくずれである。
そして、南海の任地で、海賊に変じ、数年前から、公然と、瀬戸内の海を、わがもの顔に横行している連中である。
それも初めは、伊予の日振島を中心に、ある限界を出なかったが、海賊の経験が、訓練を経てくる一方、官辺の無力さがだんだん分ってきたので、近頃は、四国の北東から、淡路、摂津の近海まで、悠々と横行したり、そして時には、この淀川尻の、江口、蟹島、神崎あたりへも、陸の酒を飲みに上っていた。
彼等は、江口、神崎の上客だった。往来の旅人や、公卿などとは、散財ぶりがまるでちがう。
何か、密議をやったあとは、妓たちを交じえて底ぬけの大遊びだった。それも一日や半夜ではない。二日も三日もぶっ通して、酒、女に飽くのであった。
すると、早舟に乗って、六条の留守の巣から、禿鷹が、知らせに来た。
「貞盛が、急に、東国へ立ちましたよ。それに、太政官では、いよいよ、将門を叛逆者とみとめて、征討の令を出すとか、征討大将軍を誰にするとか、評議が始まっているそうですぜ」
不死人は、聞くと、
「そいつは大変だ。こうしてはいられない」
と、俄に、あわてた。
「じゃあ、都では、将門討伐軍が、もう出発すると、騒いでいるんだな」
「いや、まだ、そこまでは行っていません。だらしのない公卿評議ですから、そいつもまた、いつ、立ち消えになるか知れませんがね、まあ、探ってみたところでは、九条師輔や大納言実頼などが、そう運ぼうとしているということなんで」
「貞盛は、その約束を握って、東国へ下ったんだな」
「それだけは、確かでしょう。──ところが、おかしい事には、誰も、将門討伐の大将軍になりてがないっていう噂です。何しろ今、東国じゃあ、将門と聞くと、ふるえ上がって、立ち向う奴もないほどな勢いだと……公卿たちも皆、聞いていますからね。こいつあ、右馬允貞盛が、堂上衆を焚きつけようとして、余りくすりがきき過ぎちまった形なんで」
不死人は、このままをすぐ、純友に話した。
純友は、そう聞くと、杯の満をひいて、
「機は、熟して来たな。──前祝いだ」
と不死人に、酌して、
「じゃあ、おぬしも、貞盛を追っかけて、東国へ下ってくれ」
と、いった。
もとより不死人もその気らしい。東国においては、将門に大乱を起させ、海上からは、純友一党が、摂津に上陸して、本格的な革命行動へ持って行こうというのが、この仲間の狙いであった。
「将門とおれとは、叡山の約がある。──いまや、その誓いを、ほんとに見る日が来たのだ。彼に会ったら、そういってくれ。……おたがいに、都へ攻めのぼって、志をとげたあかつきには、あの思い出の叡山の上で、手を握ろうと。……純友がそう申したと、忘れずにつたえてくれ」
純友は、将門が帝系の御子たるところに、魅力を寄せている。つまり利用価値なのだ。けれど彼は賢明な打算家ではなく、いわば一種の狂児である。飲むと、その狂児の眸は、虹を発し、いつも、詩を歌うような語調になる。
じつをいうと、不死人の心のうちに、まだ不安があった。
その〝叡山の約〟なるものを、将門の方では、てんから問題にしていないのだ。いつかも、口に出してみたことがあったが、ほとんど、忘れたような顔つきだったし、まったく一時の酒興の言葉としかしていない。
──だが、そんな空漠な言葉の上よりも、運命は将門をして、思うつぼに、また思う方角へ、彼をとらえている。不死人はそこが恃みだった。
まさか、純友へは、彼が叡山の約などは、一笑に附しているとも、いえないので、
「そいつは、劇的だ。そういう事になれば、すばらしいもんです。将門に会ったら、そういっておきましょう」
と、答えた。
「うム。叡山の約は、おれの恋なんだ。それを実現して、劇的な再会をとげたい。──そうだ。彼も今では、むかしの滝口の小次郎とはちがう。こんど、おぬしが下るついでに、純友からの貢物だといって、ここの妓を四、五人連れて行ってくれ」
「あ。……あの草笛ですか」
「草笛もだが──もっと若いきれいなのも三人ほど加えて行った方がいい。ケチなと思われては、おれの沽券にかかわるからな」
草笛は、ここの妓である。
もう三十にちかいが、水々しさが失せていないし、素朴といってよいほど、都ずれがしていない。
流連の酒のあいだに、この仲間が、ふと、将門のむかし話をしているのを聞き、
(あの人なら、わたし、よく知っています。東国にいるのなら、会いに行きたい。ええ、どんな遠国でも、行きますとも)
と、その小次郎が、まだ小一条の右大臣家に、舎人としていた頃、自分の許へ通っていた〝好ましい初心なお客〟であったことを、酔いにまぎらして、さんざんのろけちらしたのであった。
不死人も、当時の悪友のひとり。いわれてみれば、なるほど、そんな事もあった──と思い出されはする。
純友は、この里に、小次郎の古馴染みを見つけた事を、興深くおもって、ひとつ彼を驚かしてやろうと、草笛の身代を、楼の主にわたして、不死人と共に、東国へ連れて行ってやることになっていたのである。
だが、それだけでは、興がない。草笛は、いくらむかしの彼の恋人でも、三十といっては年をとりすぎている。──どうせの事、もう三人も、若いのを、連れてゆけ。むかしは知らず、今は南海の純友が、東国の平将門へ貢するのに、(何だ……)と思われては、おれの面目にもかかわる、となったのだ。
女人の貢とか、女人の贈りものとか、女を物質視する風習は、その頃の人身売買を常識としていた世間では、ふつうの事としていたのである。純友は、莫大な物代を払って、江口の妓三名と草笛の身を、不死人に托し、そして将門へ一書をしたためて、持たせてやった。
それから幾日かの後。
不死人は、妓たちを、駒に乗せ、自分も馬の背にまたがり、陸奥の商人が国へ帰るものと称えて──手下の禿鷹、蜘蛛太、穴彦などに馬の口輪を持たせ、都から東海道を下って行った。
妓たちや不死人が、旅の木賃を重ねて、ちょうど、富士の降灰が雪のように降りしきる秋の武蔵ノ原を行く頃──折ふし将門は、他へ、旅に出ていて、石井ノ柵にはいなかった。
武蔵ノ国の府中へ出向いていたのである。
弟の将頼、将文を留守におき、自身は将平以下、一族郎党を数多ひきつれて、深大寺の境内に、宿営していた。
この物々しい行装は、まるで出陣のような兵馬だが、将門としても、それだけの用意をもたなければ、出向かれない危険を感じての事である。──何しろ、旅の目的というのが、戦争の仲裁をすることであったし、しかも武蔵ノ国は、彼にとって、いわば敵地にひとしい土地である。
「この将門の顔で、うまく和解がつくかどうか。まず、相手の武芝に会ってみよう。──話は、その上の事として」
彼は、深大寺まで迎え出て来た武蔵権守の興世王と介ノ経基へ、そういった。
「よろしくお願い申しあげる。──武芝の方さえ、兵をひけば、こちらはもとより、乱を好むのではない。いつでも、彼を国庁にむかえて、共に、庁務に努める寛度はもっているつもりなので」
「よろしい。将門にお委せあるなら、ひとつ、武芝を、説いてみよう」
「もとより、お出向きを願った以上、何のかのと、条件めいた事は、いい立てぬ」
「では、府中へ帰って、吉左右を、お待ちなさい」
将門は、こう呑みこんで、二人を帰した。
問題は小さくない。
しかし、争いの根は、簡単だ。
「──これは、治まる」
将門は、そう見越していた。また──確信をもったので、口ききをひきうけて、敵地とも味方とも分らぬ武蔵へ出向いて来たわけでもある。
この武蔵地方には、先年、彼にとっては、不倶戴天の仇敵ともいえる右馬允貞盛が、立ち廻っていた形跡がある。
うすうす、彼も、それは偵知しているのだ。
ところが。
その後、武蔵地方を注意していると、貞盛が、協力を求めて、出兵を説いて廻ったにもかかわらず、ここの国庁を中心に──内紛、また内紛をつづけたあげく、近頃では、ついに、毎日の小合戦に、双方、まったく疲れてしまったらしい。
双方というのは。
例の、足立郡司判官代という肩書のある武蔵武芝と、新任の権守興世王、介ノ経基との対峙である。
この連中のいがみ合いは、さきに、貞盛がこの地方へ来たとき、貞盛の策と、加担に励まされて、興世たちは、竹柴台の武芝の居館を襲撃し、そのとき、一応は、彼らの勝利で、終っていた。
けれど、武芝も、牟邪志乃国造──という古い家がらの豪族である。その後、ちりぢりになった一族をかりあつめ、多摩の狭山に、砦をかまえて、朝に夕に、府中の国庁をおびやかし、放火、第五列、内部の切りくずし、領民の煽動、畑荒し、暗殺、流説──などを行い、そしてはわっと兵をあげて奇襲してくるので、以来、国庁では、吏務も廃れ、税物も上がらず、まったく無政府状態に陥ってしまった。
で。その困憊のあげくが興世王から、将門へ、
(ひとつ、仲裁の労をとっていただきたい)
と、泣き込む羽目を余儀なくさせたものだった。
将門は、そう聞いたとき、おかしくて堪らなかった。
本来は、貞盛が始末するものだ。
貞盛が、あとの事を保証し、貞盛にケシかけられて、武芝追放をやったような興世王と経基の二人と彼は知りぬいている。
だが。その貞盛は、さきに自分が、信濃の千曲川まで、追い捲くし、ついに、長蛇は逸したが、おそらく、骨身に沁むような恐怖を与えて、都へ追いやってしまった。おそらくはもう二度と、この将門がいる東国へは、足ぶみも出来ないはず──と、彼は、ひそかに、うぬぼれていた。
いわば、貞盛から離れて、木から落ちた猿みたいな興世と経基だ。──そう見たので、その二人が、自分を頼って来たことが、何とも、おかしくもあり、哀れにも見え、
(よし。おれが、話をつけてやる)
と、侠気を出して、乗りこんだものである。
要するに、これが将門の性格だった。
彼の甘さであり、彼の人の好さでもある。
もし、将門に、もうすこし、人のわるさがあるならば、この機会に乗じて、武蔵一国を併呑してしまうのは何でもない。
後に、世上でいわれたごとく、彼に、心からな謀叛気と、大きな野望があるならば、こんな絶好な機を、つかまないでどうしよう。得にもならない仲裁役に、危険を冒してまで、のめのめと、敵地にひとしい武蔵へ出て来るなどは、そもそも、よほど人を疑わず、また、頭を下げて頼まれれば、嫌といえない人間のすることで、まことに──いわゆる後世の関東者、江戸ッ子人種の祖先たるに恥じない性格の持主ではあった。
数日の後。
将門は、武芝と、会見した。
多摩川上流の山岳をうしろにし、武蔵の原を、東南一帯に見わたした一丘陵に、武芝は、別荘をもっていて、その附近を、砦造りに、かためていた。
(なるほど、この天嶮と、地勢に構えられていては、興世などが、手こずるのは、むりもない)
と、将門すら、来て見て、いささか驚いた。
「よく、遠路もいとわず、来て下すった」
と、武芝は、酒食をもうけて、歓待した。
「いや、自分の労などは、何でもない。ただ貴公が、大度量を以て、この将門に、まかせるといってもらえれば──だが」
「おまかせしてもよい。……けれども、相馬殿(彼は将門をそう呼んだ)──この武芝が、興世や経基のために、祖先代々の居館も財物も、悉皆、焼き払われたことは御存知でしょうな」
「それは、聞き及んでおる」
「──と、いたしたら、その償いは、どうしてくださる。ただ彼らと手を握れと仰っしゃっても、むりだし、また此方の一族が、承知するはずもないが」
「もとより、その財物や居館は、償わせようではないか。……相互に、明けても暮れても、今のような泥合戦をやり合って、焼打ちだの田畑の踏み荒しをつづけ合うことを思えば、国庁の損失はたいへんなものだ。いや、かわいそうなのは領民だ。──貴公さえ、うんというなら、そのくらいな償いは、何ほどの事でもない。きっと、興世王と経基に、承知させよう」
将門は、こういった上に、
「自分の身に代えても、その儀は、ひきうけた」
と、断言した。
第三者たる彼に、こうまで真心を以ていわれては、武芝も、渋ってはいられなかった。
「然らば、相馬殿に、御一任いたそう」
となった。
「ありがたい」
彼は、ほんとに、歓んだ。その笑い顔には、何のくもりもない。虚心坦懐そのものである。──そう聞いてから、大いに飲み出した。
そして、府中の国庁で、日時をきめて、和解の式を挙げようとなった。その日どりと時刻も約束して、やがて狭山の砦を辞した。
休戦の協約はできた。
ただちに、興世の許へ知らせてやる。
興世王と経基の方でも、異議のあろうはずはない。
将門が、指定の日を待ち、その日は、国庁のある府中の六所明神を、手打式の庭として、相手の武芝と、仲裁者の将門を、待った。
たれより歓喜したのは住民である。
「やれやれ、これで商売もでき、夜も寝られる」
と、その日は、祭のような賑いを呈した。
将門は、隊伍を作って、町へはいった。そして、部下は町屋の辻に屯させ、自身は弟と主なる者だけをつれて、六所明神の式場の森へはいってゆく。
時刻近くに、武芝もやって来た。
幔幕を打ち廻した神前で、将門立会いの下に、双互の者が居ながれ、禰宜、神職の祝詞、奏楽、神饌の供御などがあった後、神酒を酌みわけて、めでたく、和睦がすんだ。
「よかった」
将門は、一同へいった。
一同の者も、
「おかげを以て」
と、彼の労を、感謝した。そして、以後の親和を誓った。
さて、それからの事である。
もちろん祝いだ、大祝いの酒もりだ。一時に、心もほどけたにちがいない。
ここでは、巫女の鈴が鳴り、笛や鼓が、野趣に富む田舎歌に合せて沸き、町屋の方でも、神楽囃しに似た太鼓がとどろく。
泥酔乱舞は、武蔵野人種のお互いに好むことである。これあるがための人生みたいなものだった。しかも、平和がきたのだ。──殺し合いと焼打ち騒ぎが熄んだのだ。──今日こそは飲むべかりけり、と酌みあい、差しあい、泥鰌のように、酔いもつれた。
──すると。日も黄昏に近く。
境内のそこここや、町屋の辻にも、かがりの火が、ほのかに、いぶり始めた頃。どこかで、
「喧嘩だっ」
と、いう声が、つき流れた。
急雨のような人の跫音、つづいて怒号。
「喧嘩だっ、殴りあいだッ」
「いや、喧嘩じゃない。斬り合いだ。いや、合戦だ」
「武芝の兵と、こっちの者と」
「──武芝方が、不意討ちを仕かけたぞ。油断するなっ」
きれぎれに、そんな大声が、飛び乱れる。
「──素破」と、六所神社のうちでも、総立ちになった。
何しろ、酔っていない者はない。おまけに、陽も暮れはじめた夕闇だ。
「騒ぐな」
と、将門は、声をからして、制したが、鎮まればこそである。
あわてた人影は、その将門を、後ろから突きとばして、武器を小脇に、駈け出してゆく。
「将平。──見て来い」
兄のいいつけに、将平は、飛んで行ったが、はや森のあちこちでは、取ッ組みあいや、白刃のひらめきや、数百頭の闘牛を放したような乱闘が、始まっている。
誰が、やったのか、町屋の一角には、もう火の手だ。
未開土の住人の習癖として、すぐ火を闘争の手段に使う。火つけを、何ともおもわない。
「興世王。いるか」
将門は、呼んでみた。
「──経基どの。介ノ経基どのは、おらるるか」
それも、返辞はない。
「武芝どの。武芝どの」
あたりへ向って、彼は、そう三名を、さっきから呼び廻っていたが、いずれも、部下を案じて、駈け出して行ったものか、いい合せたように、みな見えない。
将平が、やっと、帰って来た。
「兄者人。もう、手がつけられません」
「どうしたわけだ。一体」
「よく分りませんが、何でも、興世王や経基の家来が、町屋の辻で、祝い酒をのみながら、大はしゃぎに、騒いでいたらしいのです」
「ウム。……武芝の家来も、一しょにか」
「もちろん、武芝の身内も、また、私たちの郎党も、その辺に、小屋を分けて、酒もりをしていたものでしょう。──ところが、つい今頃になって、また、甲冑に身をかためた百人ばかりの武芝の郎党が、狭山から──主人武芝の帰りを案じて、迎えに来たらしいのですが──それを、経基の家来が邪推して、町の入口で立ち阻め、入れる入れない、といったような事から、乱暴が始まり、ついに、本ものの戦闘になってしまったものです」
「ば、馬鹿な奴等め! こんなに、骨を折って、やっと和睦のできた日に」
「馬鹿です。まったく、馬鹿者ぞろいです。──兄者人、もうこんな馬鹿者喧嘩に立ち入って、こけの踊りを見ているのはやめましょう。一兵でも損じてはつまりません」
「そうだ。もう腹も立たない」
「決して、馬鹿合戦に関うなと、私たちの郎党は、町の外へ、立ち退かせておきました。──兄者人、お帰り下さい」
将平は、あいそが尽きたように、遮二無二、兄を引っ張って、六所の森から、外へ連れ出した。
そして府中の火光と叫喚を見捨てて、夜どおし馬を急がせ、下総の領内へ向って帰ってしまった。
また。──あとの府中の方でも、その晩、一椿事が、なお加わっていた。
たしかに、椿事といっていい。
新任の武蔵介経基は、どう考えたか、任地を捨てて、この夜かぎり、都へ逃げ帰ってしまったのである。
彼は、その夜の部下同士の争いを、武芝の計った〝不意討ち〟とかたく思い込み、また、その武芝と将門が肚ぐろい密約をむすんで、自分たちを殺そうとした〝計画〟であったのだと、悪推量をまわしたのだ。
それが誤解であったことは、彼がもすこし落着いていたら、充分、すぐ翌日にも分っていたはずだが、何しろ、よほど仰天したか、慌て者だったにちがいない。
即夜、命からがら、任地を逃亡してしまったので、都へ着くやいなや、太政官へ出て、
「将門の野望は、ついに、武蔵ノ国まで、魔手をのばしてきました。武芝と心をあわせ、われらを追って、国庁の奪取をもくろみ、府中はついに混乱に陥入るのほかない有様となり果てましたゆえ、こは大事と、御報告に上洛した次第にござりまする」
と、自分の不ていさいを隠すためにも、極力、将門の野望を主題とし、武芝との紛争は二義的なものとして訴え、また堂上の諸公卿にも、吹聴して廻った。
俄然。──将門にたいする中央の疑いは、この事件にも、火へ油をそそがれた。いまや将門謀叛の沙汰は、確定的なものとされて、あとはただ、東国の大謀叛人を、どうして討ち平げるかが、朝議の重大問題として、上卿たちの悩みであったに過ぎなかった。
あとの出来事などは、将門は、何も知らない。
もとより彼は、一片の義侠から、乗り出したまでの事だ。
「馬鹿を見たよ。なあ、将平」
「それはもう当りまえです。馬鹿を相手にすれば、きっと馬鹿を見ますよ」
「上には上のあるものだ。……おれもずいぶん馬鹿の方だと思っていたが」
「何しろ、あんな馬鹿仲間は、見たことがありません。将平には、いい見学になりました」
「痛い事をいうなよ。それはこの兄のことだ。おれが十年余りの上洛中なども、今思えば、馬鹿世界の見学さ。何の役にも立っていやしない。……あはははは、そういうと、やはり自分は馬鹿とは思っていないようだな」
馬の背と、馬の背とで、兄弟はこんな気軽い話を途々にしていた。
「そうだ、途のついでに、豊田の普請でも見て行こうか」
豊田は、羽鳥の良兼に、焼打ちされた廃墟の旧邸だ。その後、大工事をさせている。以前にまさる大館が、もう八分どおり竣工しかけていた。門前町も、復興していた。
彼は、それを見て、石井ノ柵へ帰り、将頼に会って、笑いばなしをした上、鎌輪の仮屋敷へはいって、旅装を解いた。
すると、家人や弟の将文が、
「お留守中に、都からお客人が来て、べつな棟で、お帰りを待ちますと、毎日、賑やかに滞留しておられます」
と、告げた。
「なに、賑やかに。……誰と誰だ。いったい」
「数年前にも見えられた八坂の不死人殿と、そして今度は、幾名もの下郎と、なお四人の女性をお連れになって、同勢、十人ほどもございましょうか」
「ふうむ? ……あの不死人がか」
不死人と聞けば、妙に、なつかしくもあり、重くるしい圧迫も感じてくる。──年少、都へ遊学に出た日の第一夜から、八坂の暗闇で知己となった悪の友。ニガ手という先入主も抜けないのだ。
「どの壺か」
と、彼は、将文を案内に、その棟へ行ってみた。
なるほど、廊を渡ってゆくまに、もうたいへんな声が聞える。不死人や連れの者のだみ声に交じって、キャッキャッと笑う女たちの嬌声やら何やら、まるで旗亭の一室といったような騒ぎである。
「おう、不死人。来ていたのか」
彼が、そこに現われると、男たちの顔、女たちの眼、一せいに、彼を振り向いて、そしてやや居ずまいを直した。
「やあ、戻ったか。おん主」
と、不死人は、さっそく、杯を洗って、
「まず、ここへ」
と、席をすすめて、一応の辞儀やら、一別以来の旧情をのべてから、さて、にやにやといった。
「ときに、相馬殿(彼も、以前のような呼び捨てをやめて、世間でいうように、そう呼んだ)──そこにいる女性をお見忘れはあるまいの。……おい、何を黙って、はにかんでおるのだ。はるばる連れて来てやったものを」
と、草笛を指さした。
将門は、さっきから彼女の横顔を、まじまじ見ていたところである。眸が合った。女の顔は、ぱっと紅くなった。
「おお、おまえは、江口の……」
「お覚えでございましたでしょうか。江口の草笛でございまする」
「ああ。これは意外な」
将門は、心から、そういって十余年の過ぎた日を、思わず詠歎した。
「──女はいつまで、変らないものだなあ。わが身の方は、こんなにも変ったが」
「いいえ。あなた様も、すこしもお変りになりませぬ。ほんとに、そうお変りになっていらっしゃいません」
「いや。そうでもあるまい。まだ都では、あの頃、右大臣家の小舎人か、滝口の小次郎であったはずだ。以来、坂東の野に帰って、悲雨惨風に打ち叩かれた将門。顔も心も、むかしのようではない」
「お心が変られたと仰っしゃるなら、それは私には分りませんが……」
草笛は、ふと、拗ねたような、そして、淋しさに泣きたいような顔になった。それを、やにわに、酒にかくそうとするもののように、杯をとりかけると、不死人が、
「おいおい。さっそくの痴話口説はよしてくれ。杯を、相馬殿にお差しせぬのか。──将門、いや相馬殿。なつかしいなあ、江口の里は」
「忘れてしまった。もう……まったく遠い夢のようでしかない」
「そうであろう。じつは……さもこそ、淋しくお在さめと、純友殿から、その草笛と、ほか三人の遊君たちも、其許への、貢としてお贈りになったものだ。どうか受けとっていただきたい」
「貢物とは、おかしいではないか。贈り物なら、お受けしてもよいが」
「いや。純友どのは、あなたを、いつも帝系の御子として、尊敬しておられる。そこでついそんな言葉をつかわれたのであろうが、贈り物には、ちがいないのだ。どうです、坂東には、野の花々は、繚乱でしょうが、こんな都の花を、お内にあって眺めるのも、まんざら悪くはありますまいが」
「いや、ありがたい。そういう贈り物なら、折ふし、将門の身のまわりは、冬荒れのように淋しいところ。さっそく、その杯をまわしてもらおう。……草笛、注いでくれい」
と、将門は、彼女の方へ手をのばした。草笛は、年ばえ過ぎた花嫁のように、恥じらいながら、銚子の柄を把った。
──その姿態に、その横顔に、将門はふと、少年の遠い遠い日、厩舎藁の蒸れるなかで、童貞の肌に初めて知った館の奴隷の女奴──蝦夷萩のおもかげを、心に思い出していた。
由来、武蔵野人種は政治的性格にはまったく欠けている。先天的に、狩猟の武勇を得意とする野性の民で、これの撫民は容易ではない。
その後も──
武蔵一国は、混乱のまま治まりがつかなかった。
せっかく将門が仲裁に出向いて、武芝、興世王、経基の三者のあいだに、和睦ができ、手打ち式にまでなりながら、その日の平和を誓う酒もりから、また大喧嘩をひき起し、もとの泥合戦へ返ってしまう始末である。将門さえも、見限りをつけて、
「いや、あきれたものだ。もう再びあんな馬鹿共の馬鹿合戦に立ち入って、仲裁の口きき役などは真ッ平だ。まあ、やるところまでやっていたら、眼がさめるだろう」
と、以来、どっちから仲介を頼みに来ても、笑って相手にしない程だった。
しかし、この武蔵の内乱も、将門の運命にとっては、そう笑って見ていられる対岸の火災ではなかったのだ。
任地の官職を擲って、京都へ逃げ帰ってしまった源経基は、
「まったく、将門の謀みに依るものです」
と、中央の官辺へ、吹聴して廻った。
「──和睦の仲裁に立つと称して、じつはいよいよ喧嘩を大きくさせ、その虚に乗じて、国庁を荒らし、ひいては武蔵を自己の勢力下に抱き込もうとしたものにちがいありません」
と、太政官の答申にも、口を極めて、述べたてていた。
何しろ、さきには、貞盛の訴えがあったところだし、将門の人気は非常にわるい。将門を悪しざまにいいさえすれば、実相を深くも見ないで、
「……さもありなん。さもそうず」
と、肯定してしまうような公卿一般の先入主であった。
放置してはおけないという朝議である。
「武蔵へ下す国司には、誰ぞ、よほど不屈な人物をさし向けねばなるまい」
として、新たに選ばれたのが、百済貞連であった。
この貞連が、武蔵の新任知事として、東国へ下向してから数ヵ月の後に、将門の旧主たる太政大臣家──藤原忠平は、余りに紛々たる将門の悪評と、そして朝議がすでに彼を謀叛人視している事からも、
「すておけまい」
とあって、忠平は特に、中宮蔵人多治真人に、教書をさずけて、
「なお一応。事の実否をあきらに糺してまいれ」
と、東国へ立たせた。
真人が、糺問使として、東国へ向うと聞いたとき、忠平の子息の九条師輔や大納言実頼たちは、口をそろえて、
「おそらくは、真人が下っても、何の益にもなりますまい。さきには、貞盛の訴えもある事です。彼が、尊属を殺して、所領をひろげた結果、勢いに誇って、ついに今日では、朝廷も憚らず、官に抗しても、なおその暴欲をほしいままに伸ばそうとしている事は、余りにも明白です。──今さら、御教書などを下して、調査をお命じになるなどの事は、かえって、将門をして、増長させるだけのものでしょう」
と、反対した。
けれど、忠平の心の奥には、まだ小次郎時代の将門が残っていた。──あの小次郎がと疑われるのである。
「いや、念のためよ。何事にも、念を入れ過ぎて悪いということはない」
忠平は顔を振って、初めの考えを変えようとはしなかった。彼も今では、小次郎が仕えていた頃の色好みな風流大臣ではない。年も七十に近く、氏の長者として、また朝廷の元老として、何事にまれ、この危うい世を、どうしたら穏やかに治め得るだろうかと、さすがは、憂慮にたえない立場にあった。
糺問使の多治真人は、約二ヵ月ほどに亘って、武蔵、下総、その他の地方を視察し、そして将門にたいしては、直接、面談して、その釈明を、求めた。
将門にとっては、すべてが歪曲された無実である。
貞盛の讒訴であり、経基の虚構にすぎない。
彼は、それをさらに確証づけるために、武蔵、上野、下野、常陸、下総など、五ヵ国の国衙から、解文(官庁の証明)を取り寄せて、
「かくのごとく、中央は知らず、坂東地方では、自分を非なりと認めている者はありません。すべては讒者の作り事です。そしてその讒訴にたぶらかされて、ありもせぬ幻影に悩まれておるのが、堂上の諸卿ではありますまいか」
と、自身の認めた弁明の表と共に、これを多治真人に提出した。
「神妙です」と、真人は、彼を好意に見た。
表と解文を携えて、やがて彼は、ありのままを忠平に報告すべく、京都へ帰って行ったのである。
ここまでは、まず、無事であった。
この約半年ほどの短い無事の期間こそ、将門の一生涯を通じても少ない〝無事の日〟であったかも分らない。
豊田の新邸も、竣工していた。
彼はそこに移り、人数の一部は、鎌輪ノ柵に残った。また石井ノ柵にも、大葦原にも、守谷の御厨にも、彼の弟たちが、家人郎党を分かって、それぞれに定住した。
初めは、客分として、将門の館に身を寄せていた八坂の不死人も、いつか将門の家臣同様に、彼に仕え、
「相馬殿──」と、彼を崇め、また内にあっても「お館」と敬称して、もう以前のような悪友ぶりや非礼は決して現わさなくなった。
将門自身の貫禄もまた、自ら以前とはちがって来ている。
今や、彼の衆望は、たいへんなものであった。かつての常陸大掾だの、源護だの、羽鳥や水守の叔父たちの下にあった土地と人間とは、招かずして、草木のなびくように、彼の門へ、彼を慕って、集まって来た。
野の王者であり、野人の中の親分であった。
けれど、こういう順調な、そして隆運の日が巡って来ても、彼には、どこか虚無的な影が拭いきれていなかった。──こういう変り方が彼の人間に見え出してきたのは、最愛の桔梗と、彼女との仲に生まれた一子とを、叔父の良兼の兵のために、芦ヶ谷の入江で惨殺された時からの現象である。
あのときの、彼の絶望感と、人間の残虐性への烈しい憤怒とは、今もって、鑿で彫りこんだように、彼の相貌に、深い陰影をとどめている。
顔ばかりでなく、その陰影は、もちろん、心の壁にも、カビみたいに、染みついていた。
酒は、年と共に、量を増した。いまでは大酒の方である。鯨飲すると、心の窓がひらけ、自然、からりと気が晴れるらしい。
「おい、蝦夷萩。……おまえはもう都へ帰さないぞ。それとも江口へ帰りたいか」
将門は、草笛のほそい腕くびを握っていった。ある夕べの酔いの中であった。
「まあ、私を、蝦夷萩だなんて……。私は江口の草笛ですよ。そんな名ではありません」
「拗ねたのか」
「だって、ほかの女と間違えられたりすれば、どんな女だって怒るでしょう」
「怒るなら怒れ。……都にいた頃、初めて、おまえと馴染んで、心をおどらせたのも、おまえがその蝦夷萩と瓜二つといってよい程、よく似ていたからだった。──おれにとっては、忘れ得ない初めての女。それが蝦夷萩なのだ。そう呼ばせてくれ」
「ひどいお館ですこと。私は私でないんですね」
「いや、おまえは、蝦夷萩だ」
「いいえ、草笛ですよ、わたくしは」
「うそをつけ。これでも蝦夷萩でないか」
抱きすくめて、息がつまる程、草笛の唇をむさぼった。薄い肩をふるわせ、眉をひそめて、三日月形に身を反らした女の姿を、将門は、遠い日に死に別れてしまった蝦夷萩が、今も在る姿と見るのであった。
「……や、これは……。悪い折でしたかな」
廊の外に、不死人の影が、立ち淀んでいた。
「おう、不死人か。べつに見られて悪いほどな事じゃない。這入ったらどうだ、こっちへ」
「では、お取次だけここから申しておきますが」
「うむ、何だ?」
「武蔵の興世王という者が、今、御門前へ、同勢二十騎ばかりで見えましたが」
「あ、また泥合戦の末、仲にはいってくれとかなんとか、仲裁事の頼みだろう。おぬしが会って、用向きを訊きおいてくれ」
「では、先年、府中へ出向かれて、和睦にまで成りかけたものを、当夜の喧嘩で、またぶち壊してしまったあの一方の者ですな」
「そうだよ。前の武蔵権守興世という男だ」
「心得ました。何を申し入れて来たか、会ってやりましょう」
不死人はのみこんで、すぐそこを退がって行った。
客といっても、二十騎の同勢である。馬は厩に預かり、人間は控えに通し、そして興世王だけを、客殿に案内した。
「てまえは、相馬殿の御内の者、八坂の不死人ですが」
と、彼は、将門に代って、応対に出た。そしてさっそく、来意をたずねた。
興世王は、亡命して来たのである。
ついに武蔵にいたたまれずに、一族をつれて、国外へ逃げて来たのであった。
前から不和な武芝とも、なお抗争をつづけていたところへ、都から新たに赴任してきた百済貞連とも合わないで、
「ここばかりが天地ではない」
と、夜陰に乗じて、武蔵を立ち退いて来たのである。
──が、ひろい天地とは思ったが、さて見まわす所、坂東十州の平野では、頼む木蔭も多くはない。
「どこへ行っても、昨今、相馬殿の名を聞かぬことはない。将門殿とは、かねて御面識も得ておるし、仁侠寛懐なお方とは、夙に、お慕い申しておる。甚だ押しつけがましいが、自分以下、一族ぐるみ、お館の端へ、身内の者としてお加えくださるまいか。……推参申したお願いの儀とは、じつはそんなわけでおざるが」
興世王は、こういった後で、かさねて、
「ひとつ、御辺からも、相馬殿へお取りなしを頼む。かくの通りおねがい申しあげる」
と、両手をつかえた。
不死人は、考えた。
これはおもしろい鳥が舞いこんで来た。──こういう人間は、どしどし傘下に集めなければいけない。
不死人の画策からいうと、この館の余りに無事なのは本意に悖る。なぜならば、かくては、南海にあって烽火を待っている純友との黙契が、いよいよ空しいものになる公算が大きいからである。
富士は噴煙を吐いている。
坂東の平野も、あの如く荒れよ、と彼は思う。
彼は何か、機会をつかんで、点火役を演じなければならない。そして、将門の身辺をつつんでいる無事と安易を吹き飛ばしてしまうことを考えていた。そうしたところへの客である。亡命者興世王が同勢を持ち込んで来たのである。
(これは歓迎すべき窮鳥だ。何とか、将門を説いても、仲間に加えてやろう)
不死人の肚はそうきまったが、これを将門に取次いでみると、彼の助言などは不必要であった。なぜならば、興世王の事情を聞くと、将門は、旧事も忘れて、率直にその境遇に、同情して、
「それは、可哀そうだ」
と、いうのである。
「ひとたびは、権守まで勤めながら、一族をつれて、他国へ流亡し、おれの門に頼って来るとは、よくよくな事だろう。西ノ柵の内に、一構えの屋敷が空いているはずだ。あれへでも入れてやれ」
数日の後には、興世王の妻、女、童、下郎たちも辿りついて、彼の一家族だけでも五十人近い人間がまた、豊田曲輪のうちに住むことになった。
いわゆる風を慕って集まるというものであろうか。相馬殿の門へ頼ってゆけば、何とかしてくれる──と伝え聞いた者共が、興世王のほかにも、幾組もあった。
しかし、そういう類の者は、いずれも曰く付きに極まっている。もっとも、それを承知で、禍いも共に、ひきうけたと、呑み込んでやるのが、後世のいわゆる仁侠の親分であり、その性情は、武蔵野人種のあいだには、将門時代から持ち前のものであったらしい。
天慶二年の秋、十月初めの頃だった。
常陸の国から、また、この下総豊田へ、流亡して来た人間がある。
藤原玄明といって、常陸の官衙で、少掾の職にあった男である。
これも大勢の妻子や召使を連れ──
「どうか、お匿いねがいたい」
と、泣きこんで来たのであった。
玄明は常陸の下官として、余り評判のいい男ではない。
彼が、下官のくせに、つねに上司に反抗し、粗暴で冷酷な官吏だということは将門もかねてうすうす耳にしていたので、
「玄明が職を離れたのは、いずれ自業自得というものだろう。そんな者、匿まってやるわけにはゆかぬ。追い払ってしまえ」
と、彼だけには、いつもの寛度も仁侠も示さなかった。
「いかにも、仰っしゃる通り、狡智に長けた官僚くさい男ですが……ただ彼奴は、常陸の内情をよく知っているはずでしょう。そこでいろいろと訊いてみると、お館にとっては、ゆるがせに出来ない一大事をふと口走りましたよ。じつに意外な事を」
不死人はこういって、人を焚きつけるような眼をかがやかした。将門は、つい引きこまれて、
「なんだ。おれにとって、ゆるがせにならぬ一大事とは」
と、早口に訊き返した。
「右馬允貞盛が、とうから常陸へ帰って、密々に、また策動をめぐらしているらしいので……」
「なに、貞盛のやつが?」
貞盛ときくと、将門はすぐ鬼相を現わした。骨髄から滲み出して面にたたえる彼への憎悪と、警戒と、そして忘れ難い怨みに燃える眼は、到底、不死人がいたずらに努めている煽動の眼などとは比較にならないものである。
玄明の妻子や召使も、また、豊田の内に匿まわれた。
同時に、この人物の密告が、将門を驚かせたことは一通りでない。
いや豊田、御厨、大葦原、石井などにある彼の一族をして、
「油断はならぬぞ。……いつのまにか、貞盛めが、また常陸へ潜りこんでいるというぞ」
とばかり、すべてに、ただならぬ緊張を持たせた。準戦時体制に入ったように、川すじには哨兵を立て、夜は夜警の兵を布いて、
「──ござんなれ、貞盛」
という将兵の眼光であった。
では、藤原玄明が、どういう密告をここに齎したのかといえば、それはただ、右馬允貞盛が常陸にいるというだけのことでしかない。
しかし、常陸との国境は、一衣帯水だ。将門にすれば、それだけでも、枕を高うしてはいられない。警戒の理由は、充分にある。
さらに、その後、玄明の手によって、貞盛が常陸で何を企んでいるかという輪郭は、追々に、明らかになった。
常陸の国司(長官)藤原維茂と、貞盛とは、切っても切れない間である。──貞盛の姉は維茂の妻だった。
この義兄の子息に、為憲という者がある。貞盛とは、叔父甥仲だ。
為憲は、文官の父親には似ず、弓馬の達者で、常に、国庁の兵を、私兵のようによく動かし、わが家にも、子飼いの武者をたくさんに養っている。──玄明のことばによれば、もし為憲が指揮をとれば、少なく見ても、三千の兵馬はいつでも自由に駆使する力があるという。
貞盛は、相変らず賢明だ。決して、表に自分は立たない。
そして、為憲を、抱きこみ、
「もし、あなたが、わが家の恥辱をそそいで給わるならば──そして大きくは、治国と平和のために、兇暴将門を、討ち取ってくれるならば、亡父国香の田領の一半は、お礼として、あなたに献上しよう。……また、国家への功労としては、私から太政官へ申請して、かならず相当な官位叙勲のあることを、お約束申してもよい」
と、ことば巧みに、説きつけていた。
さなきだに、弓馬にかけては、自信のある為憲である。心を動かさないはずはない。
「私の言は、決して、空言ではありません。──かくの如く、いつにてもあれ、将門討伐の官命はあることになっているのです」
と、貞盛はなおも、官符の写しや、訴状に関する書類を示し、また中央における堂上の空気なども、つまびらかに、為憲に語って、
「いま、大功を立てようとするならば、将門を討って、太政官の嘉賞を賜う事が第一でしょう」
と、この血気なる地方武者を、煽動した。
「やるとも」
と為憲は、功に燃えた。
「わしにとっても、将門は、縁につながる人々の仇敵だ……やらいでか、いつの日にか」
「しかし、先へ行くほど、将門の兵力は、強大になります。いつの日にかといってはいられません」
「味方は、誰と誰か」
「群小の族は、頼むに足りません。もしあなたが、かたく誓うならば、私は、これこそと思う胸中の一人物を、三寸不爛の舌頭にかけても、きっと起たせてみせますが」
「ふウむ……。そんな大人物が、どこにいるのか」
「ここから遠くない下野の田沼におります。あなたとは、姓も同じ藤原氏ですが、所の名を称えて、田原藤太秀郷とよばれている人ですが」
「ああ田原藤太殿か。……だが、あのような人物が、味方に起つだろうか」
「私が説客として参るからには、かならず起たせずには措きません。……かつはまた、秀郷自身にも、充分、色気はあるのです。彼が欲しいものは、何であるかを、貞盛は知っていますから」
「どうして、それが分る?」
「かつて、田沼の館に、一夜を過ごした事がある。その折の彼の語気で、彼は決して、今の下野の押領使ぐらいで、満足しているものではないことを見抜いています。むしろ、野望満々たる人物です。けれど老獪ですから、将門のような下手はしません。──将門に、野を焼かせ、芦を刈らせておいて、後から、麦や麻でも植えようと考えているのが、藤太秀郷であると──私は見ました」
「怖ろしい人物だな。ちと、小気味の悪い……」
「それ程な者でなくては、味方に寄せても寄せ効いがありますまい」
「それはそうだ……。相手は将門だし」
事態は、こういうところまで、密々に進んでいたのである。
そして貞盛は、常陸から山越えをしては、幾たびか、下野の田沼へ往来していたのであったが、将門方には、まだそれまでの機密は探り得ていなかったらしい。
玄明にしてもそうである。
彼の齎した情報そのものが、極めて不充分なものだったし、それに玄明自身、うしろめたいものがあるので、そのいいつくろいに、強いて、事実を歪曲している傾向もある。
だが、不死人にすれば、何はともあれ、おもしろくなって来た。思うつぼへ向いて来たといってよい。
「不意をついて、相手の狼狽のうちに、虚実を見る、という計略でしょう。ひとつ常陸へ乗り込んでみようではありませんか」
その年の冬、十一月のことである。
不死人は「時来れり」と考えたので、こう将門へ、献策した。
「え。……乗込む? おぬしが常陸へ行くというのか」
「いや、そんなケチな小策ではありません。堂々と、兵馬を立て、陣容を作って、相馬殿が国司維茂に見参せん──と公言を払って行くのです」
「口実がないではないか、口実が」
「表面の理由は、いくらでもあります。──藤原玄明なる者が、豊田へ哀訴して来たによって、これを助けてやって欲しい、玄明の追捕を止め、彼を、旧職に復してもらいたいと申せば、世上への聞えもよいでしょう」
「やろうか。不死人」
「やるべしです。そして、われわれが常陸に入れば、彼らの狼狽ぶりがどうか、すぐ分る。また、貞盛も慌て出して、尻っ尾を出すにちがいない。──場合によっては、その途端に、貞盛めを、生け捕るなり、首にして凱旋するような事にもならない限りもありません」
この策には、興世王も、口を極めて、賛同した。将頼、将平、将文なども、
「さあ、そう巧く行くだろうか?」
と、多少の二の足をふんだが、まったく不賛成でもない。
そして、その年、十一月二十一日のこと。
将門はついに肚をきめた。部下の将兵一千名を従え、豊田から常陸へ向って出発となった。
後に思い合せれば、この一歩こそ、彼にとって、致命的なものであり、これまでの私闘的な争いから、天下の乱賊と呼ばれる境を踏みこえたものであったが、その朝の彼の行装や人馬は、意気揚々たるものであった。──すべての場合、人間が他の陥阱に落ち入る一歩前というものは、たいがい得意に満ちているものである。
常陸の国庁には、先頃から太政官の巡察使が来ていた。そして数日間、中央との行政の打合せやら、貢税の状況などを、府官から訊き取ったりしていた。
弾正忠藤原定遠と、その随員たちであった。
その弾正忠定遠は、昨夜、国司の藤原維茂の邸に招かれて、盛大な饗宴の主賓にすえられた。
歓をつくして、旅舎にひきあげたのは、かなり深更のことであった。もちろん、彼の随員たちも、それぞれ酒食の饗応をうけ、みな飽満して眠りについた。
公務は、終ったのである。
ゆうべの宴は、送別の意味でもあった。しかし、わずかな残務と旅支度のために、翌一日は休養していた。
すると、荷駄に山と積ませた土産物をもって、維茂とその従者が、早朝に彼の旅舎を訪ねて来た。
「昨夜は、お疲れでしたろう。ろくなおもてなしもなくて」
「いや、それどころではない。あんな御饗宴には、都でも滅多に出会えません」
「やがて、伜の為憲と、そして昨夜御一しょになった貞盛も、ちょっと、御挨拶に伺いたいとか申していました。何かと、旅のお支度に、お心もそぞろな中でございましょうが」
雑談しているうちに、その為憲と貞盛が、連れ立って、またここへ来た。──この二人も、餞別の品々を、定遠の前に供えて、
「何かまだ、お名残が尽きぬ気がしますな。今夜はひとつ、お気軽に、私の家へ遊びに来てください」
と、為憲がいったりした。
「伺いましょう。旅の支度さえ調えば、もう用のない体ですから。……もちろん維茂どのや貞盛どのも御一しょでしょうな」
「出かけます」と、貞盛は答えて──「自分の邸も、以前のようなら、ぜひ一夜は泊っていただきたいのですが」と、いった。
「そうそう。お父上の大掾国香どのも亡くなられ、以後の御災難で、お館なども焼かれておしまいになったとか」
「さだめし、醜い噂ばかりがお耳にはいっている事でしょう。いやお恥かしい次第です」
「して、お住居は近頃?」
「那珂郡のさる所に、仮に妻子と家人共は置いております。──が、自分は京都とこの地方を往来しているので……まあ、萍のような境遇ですな。はははは」
貞盛の自嘲していう顔には、複雑な影があった。それに昨夜から同席して打ち解けたふうは示していても、自分の住所にしろ、近頃の進退についても、どこか話に明瞭を欠いていた。秘密をもつ人間のような、誰にでも細心な気をつかって物をいっているふうが見える。
しかし、弾正忠定遠が、何もそんな観察をくだしていたわけではない。彼も、貞盛と将門との険悪な葛藤や、またこの地方を含めた坂東一帯の積年にわたる闘争なども、中央を立つときから耳にしていた。けれど、それに触れたら厄介な話になるのをよく弁えていたのである。馬鹿ばなしや、冗談には興じても、それには触れないに限るときめていた。──そして今は、官用も果たし、別宴にも臨み、慣例の郷産物の贈り物を受けたので、ただ、さりげなく宿を立ち、早く都の妻子の顔でも見ようという欲望を余しているだけであった。
ところが、その日。
為憲や貞盛たちも、まだこの旅舎で定遠と話しこんでいる間に、国庁の早馬が、長官たる維茂を、ここまで、探し当てて来て、
「兵変です。隣国の侵入です。下総の将門勢が、大挙して、常陸の国境を踏み越えて来たとの報らせがありました」
と、二騎三騎と、相次いで、急に維茂に訴えて来た。
──まあ、一献、と旅舎の者に命じて、酒肴の支度をさせ、定遠がしきりに、三名をひき止めていた折であったが、途端に、そんな主客のくつろぎは消し飛ばされてしまった。
「なに、将門の軍勢だと」
と、まず貞盛が蒼白な顔をして、浮き腰を立てたし、為憲は、予期するところもあったので、
「来たな! 機先を制して」
と、眦を上げて、突っ立った。
けれど、誰よりも、責任上、仰天したのは、維茂である。維茂は、息子の為憲と貞盛とが、ここ数ヵ月にわたって、何か、将門を牽制すべく、軍備の充実をはかっているくらいなことは知っていたが、そうまで、将門を刺戟していたものとは思っていない。もとより両国間に戦闘が起ろうなどとは、夢想もしていない人だった。
「ど、どういう事なのだ。これは一体」
貞盛を見、息子の顔を見、彼はその狼狽ぶりを隠すこともなく狼狽して、二人に正した。
「何か、間違いではないのか。……あの一徹者の将門を相手に、事を起したら、必ずやまた、かの国香や水守の良正や羽鳥の良兼と同じ轍を踏むだろう。──構えて相手にするなと、おまえ達にも固くいっておいた」
貞盛は、眼をそらした。眉間に、彼らしい神経を青白く漂わせて、廂ごしに、十一月の空を見ていた。
維茂と為憲との父子の間に、ちょっと感情のもつれが露骨になりかけた。父の文治主義と息子の覇力主義との食いちがいが、はしなくも表面に出たのである。
「まあ、御父子でありながらの議論はおやめなさい。そんな場合ではないでしょう」
定遠がいったのはもっともである。たしかにそんな事態ではない。そして定遠もまた、急に座を立っていい出した。
「明朝と思っていたが、私もこれから直ちに宿を立ちます。──貞盛どのには、都でお会いする折もあろうが、御父子には、いつまたお会い出来るやら分らぬ。……どうぞ御機嫌よう。……私に構わず、どうか国庁の方へ、すぐお駈けつけ下さい。一刻も早く、どうぞ」
半日のまに、国庁は、城塞のように固められた。
常陸の行方、河内、那珂郡などの諸方からも、なお続々、国境の変を聞いて、国府の官衙や官倉を守るべく、兵馬が駈けつけているとも聞えた。
一時、騒然と紊れ噪いだ住民も、やっと落着いた。国司藤原維茂以下、すべてが甲冑に身をかためて、
「いざ来たれ。ひと泡吹かしてくれん」
と、弓を張り、楯を並べて、待ち構えた。
一軍を柵から遠く出して、始終、物見を放ったり、馬の脚を馴らしたり、闘志満々たる意気を示していたのは、いうまでもなく為憲で、
「あわれ将門も、ここへ迫らば網の魚だ。この為憲の下に、常陸には常備の強兵三千が、いつでも事に備えて錬られているのを彼は知らぬとみえる」
と、あたりの味方へ、豪語を払っていた。
しかし、諜報によると、将門の軍勢は、およそ四、五里も先に兵馬を止めて、どうやらそれ以上には前進して来るもようなく、夜営の準備までしているという。
「兵数は、どれ程だな」
と、為憲は物見へたずねた。
「ざっと、千騎程かと見えます」
「なに、千人。なんの事だ」
と、為憲は大いに笑った。他国へ侵攻するには、少なくもその国の常備以上な兵力を以て向うのが常識だ。こけ脅しな──と若い為憲は、それだけで、もう将門の力を、充分に見縊っていた。
以後の物見は、夕方に迫っても、何の変化も告げて来ない。
彼は、兵を分けて、要地要地に埋伏させ、やがて郎党数騎をつれて、国庁の本営へ帰って来た。
すると国庁の広場に、覊旅の人馬が一群れ、夕闇の中でまごまごしていた。見ると、その中に、今朝旅舎で別れた弾正忠定遠も、ぼんやりした顔をして佇んでいる。
「やあ、弾正忠殿。どうなすったのです」
「お。為憲どのか。合戦のもようは、どうなのです」
「合戦。そんなものは、どこにも起ってはおりませぬよ。それよりも、御出発はどうなされたので」
「いや、かくの如く、荷駄供人も旅装をさせて、宿は立っては来たのですが、途中、戦に巻き込まれては大変だと思うし、維茂どのも貞盛どのも、そこは保証の限りでない、危険は充分に考えられると、しきりにお引き留め下さるのでな」
「ははは。初めの驚きが大きかったので、父もちと狼狽しているのでしょう」
「街道は無事に行けましょうか」
「まだ一本の矢も射てはいません。明日の事は知れぬが、今宵は平穏です。もしお立ちを急ぐお心ならば、途中、安全な所まで、部下の兵を守りにつけて送らせましょう」
為憲にいわれてから、急に定遠は腹を極めた。両軍の矢交ぜを見ないうちに、何しろ、常陸を離れてしまうに限ると、気が急かれたのだ。
貞盛は、昼間から国庁の内にあって、維茂や府官の中に立ち交じり、いわゆる帷幕の内の助勢をしていた。本来、彼はここの吏ではないし、公にも、庁政に関われという任命は帯びているわけでもないから、官衙の内部に姿を現わして、国司へ助言したり指図がましい振舞いをなすなどという事は、違法でもあるし、越権な沙汰だが、事態が事態なので、誰も怪しむ者はいない。
「弾正忠様には、やはり夜にかけても今のうちに、御出発になりたいと仰せられますが」
府官の一人が、維茂に知らせて来た。
貞盛も、聞いて、
「それは、物騒だが?」
と、ひき止めるつもりで、慌てて庁の庭へ出て来てみると、定遠はもう馬に乗って、従者に口輪を取らせていた。
「大丈夫ですよ。御心配はありません……」
そう告げたのは、出発して行く当人ではなく、側に見ていた為憲である。
「私の部下にいいつけて、途中まで、送らせますから」──と、父や貞盛の杞憂を笑っていうのだった。
ぜひなく、二人も、
「では、お気をつけて」
と、定遠の一行を、庁の門外まで、見送った。
すると、その夜も明けないうちに、弾正忠定遠とその随員を送って行った国庁の兵が、逃げ帰って来て、
「一大事です。途中、将門の兵に取囲まれ有無もいわせず、弾正忠様には、捕虜として、敵の手に奪われてしまいました。──その他の随員も、みな縄目をうけて、将門の陣中へ引っ立てられた様子に見えます」
と、意気地のない報告であった。
しかも、二十名も付けてやった兵のうち、帰って来たのは四、五名にすぎない。
「すわ、将門が挑戦して来る前ぶれとみえるぞ」
為憲は、暁のうちに、陣頭に立ち、国府の内も、色めき立っていた。
──と、その朝。将門方から、騎馬甲冑の一団が、進んで来て、
「これは、下総の平将門が使者です。常陸の国司維茂どのに物申す事のあって推参して候。──維茂どのの営へ導き給え」
と、為憲の陣前に向い、まんまると寄り合いながら、大声にいっていた。
常陸側の首脳部と、将門方の軍使とが、国庁の広庭で会見したのは、その日の昼で、冬の冴えきった空に、陽がらんとして燦き、双方、いかめしく、床几を並べて、対峙した。
「せっかくのお申し入れだが、その藤原玄明という男は、当庁にあって、府官にあるまじき悪行を働き、ついに身の置き所もなくて、他国へ奔った人間でおざる。──いわば当国としては、追捕中の前科者と申すべき者だ。──左様な人間を、いかに将門殿のお扱いでも、罪を解いて、旧職に復すわけには参らぬ。お断りする。明確にお断りする」
維茂の返答である。
その返答でも分るように、将門方の軍使は、将門の扱いと称して、玄明の無罪と、彼への追捕を止めることを、常陸側へ、求めたのだった。
「御宥免は、出来ないでしょうか」
こういったのは、将門方を代表して、ここに使いとして来た御厨三郎将頼で、
「……さて、困ったのう」
と、副使格で付いてきた藤原不死人の横顔を見て呟いた。
将頼は、初めから、この出兵に、反対だった。それに、藤原玄明の人物も分っていたし、その罪科も知っている。どう聞いても、先方のいい分の方が正しく思えて仕方がない。
だが、副使役を買って将頼について来た不死人はまた違う。穏和な将頼とは、人間も違うし、その目的も肚も違っている。
彼はさっきから不逞な面構えをして、顔から飛び出すような眼を以て、相手の維茂、為憲以下の者を睨まえていたが、
「や、お待ち下さい。お言葉ですが」
と、このとき初めて口を開いた。
「なるほど、仰せの如く、玄明には、多少の罪もあるでしょう。たとえば、国外へ逃亡するさい、行方郡、河内郡などの官倉の物を持って逃げたとか、また、在職中にも、貢税の者の頭を刎ねたとか、訴訟を聴くのに、一方から収賄を受けたとか。……だが一体、常陸の国庁には、そんな事は一切しない良吏ばかりがいると仰っしゃるのか。他の府官には、一点の罪悪の蔭もないと仰せかな。その辺は、どうです。念のため、承っておきたいが」
為憲は、ぴりっと、眉をうごかした。
貞盛は、ここに姿を見せていない。──もし、為憲が発言してはと、問題のもつれを怖れて、維茂はあわてて答えた。
「お訊ねは、少々、お門違いではないか。そんな事は、貴公へ御返辞する限りではない」
「何を……いや何で門違いといわれるか」
「ここは常陸の国ですぞ。下総の領下ではない。他国の内政に、いらざる御懸念は止めて欲しい」
「なるほど。そう出る事であろうとは心得ていた。しかし、常陸の国庁に勤めていた府官が、主人相馬殿(将門)にすがって、豊田の館に泣きこんで来ていることを御存知か。──国司たる御辺の不始末が、隣国へまで、迷惑をかけたものとは思われぬのか」
「これは思いもよらぬいい懸りだ」と、維茂は、顔じゅうに不快な皺を描いて──「元々、常陸においても、日頃から悪評の高かった人物。わけて官舎を荒らして逃亡したような者を、匿わるるこそ、当方から見れば、怪しからぬ思いがしておる。……何で、御門を頼って行ったなら、突ッ刎ねて下さらんのか。また、隣国の誼みを思わるるならば、一応、常陸の国庁へ、御通諜でもして給わらんのか。こちらこそ不満でおざる」
「窮鳥懐に入れば──という事もある。主人将門殿は、弱者にたいし、そういう事は出来ないお人柄なのだ」
「ならば、それでもよい。しかし、そんな小我の情を以て、玄明を赦免せよの、追捕を解けのと、他国の内政へ、お口出しなどは、大いに困る」
「いや、その内政が紊れておるため、かく隣国へまで人騒がせをさせたのではないか。国司として、謝罪もなすべきに、傲然、余計な口出しはするなと、いわんばかりな態度は何事だ」
「当国として、詫びる筋はないゆえ詫びぬまでの事、べつに傲慢なお答えはしておらぬ」
「何せい、そんな一片の挨拶で、追い返されたなどといっては帰れん。玄明の罪を解いて、謝意を表すか、あるいは、一戦も辞さんと仰せられるか。明白な御返辞を聞こう」
「貴公の態度こそ、まるで喧嘩腰だ。よう思うてもみられい。明らかな罪人を罪なしとして免したり、その上、国司が膝を曲げて詫びるなどという馬鹿げた事がどうして出来ますか。そんな事をしたら藤原維茂は、府官の長として、明日から庁務を執ることはできません。──何と威嚇なさろうと、お断りのほかはない」
「なに。威嚇だと。いつ威嚇したか。──御辺の部下のために、わざわざ、穏便な話し合いをつけに来たものを、威嚇とは、何事だ。おいッ、何とかいえ、維茂どの」
不死人は、だんだんに声を荒らげた。努めて、相手の激発を誘おうと仕掛けてゆく。
しかし、さすがに、国司の維茂は、その手には乗って来ない。怒りの代りに、にゅっと、無理な笑いをたたえて見せる。──老練だな、と不死人は見たので、ついに暴言を承知で「……おいッ、何とかいえ」と、一喝を放ってみたのである。そしてわざと、語気にふさわしい眼気も示して、為憲の顔を見ていったのである。
果たせるかな、為憲はすぐそれに引っ懸って来た。維茂が何かいうまもあらず、火を呼んだ油壺のように、くわっと口を開いた。
「だまれっ。先刻からいわしておけば、好き勝手な小理屈をひねくり廻す奴めが。──わずか一小吏の扱い事に、仰山な兵馬を進め、しかも、挨拶もなく常陸の国土へ踏みこんで来るとは何事だ。それでも、威嚇でないといえるか」
「お。いわれたな。……いわれたのは御子息為憲どのか」不死人は、その不気味なほど動じない面構えに、ニコと冷笑をうかべた。彼にとって、この血気らしい息子は、好餌に見えたにちがいない。どうしても、ここで事件を紛糾させ、ここに戦端を切らして、坂東一面を燎原の火に染め、遠く、南の海に拠って、大挙の機を待ちかまえている藤原純友たち一味に、答えてやらなければならない時が来ていた。
で、不死人は、舌なめずりして、為憲の憤怒を、弄んだ。
「やあ、為憲どの。父上とはちがい、あんたなら耄碌もしておるまい。──兵馬を従えて来たのが悪いというが、それ程、常陸は物騒な国だから、要心に如くなしと考えてのことだ。主人や自分の身を守るのがなぜ悪い」
「なに、常陸は物騒だと」
「白ばッくれては困る。お若いくせに」
「事々にいい懸りをつけるな。かつて常陸から下総へ理不尽な兵など一兵も入れた事はないぞ」
「だが、一挙にそれをやろうと、密々、謀んでおられるではないか」
「ば、ばかな事を。何を証拠に」
「証拠呼ばわりなどはおかしい。聞きたくば、ここへ右馬允貞盛を呼んで来い」
「えっ。……貞盛などが」
「さ、連れていらっしゃいっ。どうだ。貞盛がこの国庁に折々姿を現わし、しかも数日前からいることも、こっちでは既に偵知している」
「問うに落ちず語るに落つ。汝らこそ、その通り、常に密偵を使って、犬の如く、他領を探っているのであろう」
「探っておらんとはいうまい。それも自領の安全を護るためだ。何となれば、貞盛こそは、年来、相馬殿を亡くさんと、都と坂東の間を往来し、あらゆる虚構と奸智をかたむけて、主人将門殿を呪咀している卑劣者だ。──その貞盛が、常陸に潜伏している。……何でこれが、黙視できるか」
「…………」
「しかも、貞盛にそそのかされて、御辺父子も、兵力を増大にし、弓馬の猛訓練をさせて、虎視眈々と、下総の境を窺っている者ではないか」
「…………」
「なお、武器を蓄え、兵糧を積み、庁の政務などは、怠っても、軍備を第一に努めているとは、玄明の告げ口に聞くまでもなく、われらの諜報には確かめられている。……そのため、貢税の時務を滞り、領民も怨嗟の声を放っているとは、つい今日の夜明け方、わが陣中へ立ち寄った弾正忠定遠どのの話でもあった」
「何を申す。その定遠どのは、汝らの兵が、捕虜として引っ立てたのではないか。そのような暴力と脅迫を以ていわした言葉が、何の証拠になろう」
「あはははは。こうすべて内部が分ってしまっては、さすが維茂どのも、二の句があるまい」
「分った。……すべては、喧嘩を売るために、そして常陸へ兵を入れる口実を作るために、よくよく企んで来た事だの。そうだ、売る喧嘩なら買ってやる。ただし、口幅ったい名分をいうのはよせ。汝らは明らかに暴賊だ」
「暴賊と申したな」
「いった。土の暴賊だ。しかし、われにも備えはある。常陸の寸土も、汝らに渡すことではない」
「よしっ。話は終った」
不死人は、そういって立ち上がった。そしてさっきからしきりに何かいおうとしている将頼には、ついに何もいわせず仕舞いに帰ってしまった。
右馬允貞盛は、国庁の内から、庭上における下総と常陸側の談判を、息をこらして覗いていた。
「……はてな。甲冑は着ているが、あのよくしゃべっておる将頼の側の男は、たしかにどこか見覚えのある顔だが」
彼は、それのみに、気を奪われていた。
「そうだ。──八坂の不死人。あの純友一味の不死人にちがいない」
そう思い出したせつな、彼は、身の毛がよだつような気がした。
ひと頃、都では、群盗の首領として、魔魅のような跳梁をほしいままにし、刑部省の獄中で死んだというような噂のうちに、その姿は洛中から掻き消えていたが、年経つと、また現われて、空也念仏の人だかりへ、夜毎に不穏な流説を撒いたり、南海へ行ったり、またこの坂東地方を徘徊していたり──そして今日は将門方の軍使の一名となってこれへ臨んでいる。
何という不可解な、そして変現に巧みな男だろう。天地を飛行するとか、神出鬼没とかいうのは、あんな男の事ではあるまいか。
「恐るべき奴が将門に味方している……」
やがて、相互のいい分は、決裂したとみえ、維茂父子は、昂奮の醒めきれない面を硬めたまま、国庁の内へ戻って来た。
「帰りましたな。将門の使者共は」
「じつに乱暴ないいぐさだ。談合でも何でもない」
維茂は、憤然と呟き、為憲は、充血した眼で、貞盛を見ながら、強いて苦笑して告げた。
「矢は放たれたも同じだ。一戦あるのみですよ」
「が、為憲どの。大丈夫か」
「その為に、ここ数ヵ月、兵馬も鍛えてある。奴らに負けをとるものか」
「きょうの使者のうちで、ひとりでしゃべっていた男があったでしょう。あれに油断はなりませんぞ」
「藤原不死人とか、名乗っていたが、あれが何だというのです」
「南海の乱賊、藤原純友とも交わっている人物です。一時は、検非違使の手に捕われて、刑部省の獄中で死んだはずだが、それがまだ東国へ来て生きている……」
「純友の……?」と、維茂父子もその噂は聞いていないでもないが、南海の賊だの、純友といわれても、それは千里も先の別世界なものとしか心に響いて来なかった。
「そうだ、自分は……」と、貞盛は俄にその冷たい眉宇に意識的な意気を描いて、「──これから山越えして、下野の田沼へ参ろう。かねてお味方を頼み入れてある田原藤太秀郷どのに、急をお告げして、援軍を仰がねばならぬ」
半ばは、独り語のようにいい、庁の廊を急ぎ足に出て行った。
従来、どんなばあいでも、決して、戦場には立たないで来た貞盛である。この日も、その要心が働いたのであろうが、彼としては、やや姿を消すのに、時を失したきらいがないでもない。
なぜならば、時すでに、国庁の内は、すわ戦ぞ、将門が襲せて来るぞという声々に、何ともいえない恐怖の波がうねっていた。夜来、戦備は固めているはずなのに、いざとなると、やはり〝将門恐怖〟の心理が、騒然と、府官や兵の中に作用を起した。
貞盛は、従者の控えへ駈けて行ったが、そこには牛浜忠太も他の郎党の影も見えない。
庁の四門を見歩いても、恟々たる守りの兵が、そそけ立った顔を鉄にくるんでいるのが騒めいているのだ。それを眺めると、彼も〝将門恐怖〟に囚われ出した。将門の敵愾心の執拗さ、その駆使する兵馬の迅さ、それは、かつて信濃路の千曲川に追い詰められたときも、いやという程、身を以てその経験を舐めさせられている貞盛であった。恐いと思い出したら、世に誰よりも、将門の恐さというものを彼ほど知っている者はない。
おびただしい兵馬や町の庶民が逃げ廻る間を、彼は心もそらに、仮のわが家まで帰ってみた。そしてしばらく休んでいると、忠太と郎党たちとは、かえって彼の姿が見えないのを憂えて、ここへ探しに帰って来た。
「旅だ、旅だ。山越えして、下野の田沼へ行くぞ。大急ぎで、旅装をせい」
慌ただしい事だった。彼も従者も、すべて狩衣の上に、甲冑を着こみ、平常とちがい、弓、長柄など、物々しく掻い持って、同勢二十余名、山の方へ急ぎ出した。
するともう町の一角には、将門の兵が乱入していた。
寡兵を以て、常陸の大軍へ当って来たので、その攻勢には、堤を切って落ちて来た濁流のような勢いがある。
貞盛は、矢の中を、行き迷い、彼方此方と、西の山道へ出る安全な落ち口をさがし歩いた。
そのうちに、民家の一部から、黒煙が揚がった。煙の下には必ず精悍なる将門方の兵馬が駈けてゆく。
激戦は半日以上もつづき、やがて暮色も迫る頃だった。どうしたのか、まだ守りは崩れず、常陸勢の鉄兵の中に、安泰と見えていた国庁の内部から、味方の失火か、めらめらと、真っ赤な焔が上がり始めた。
それは見るまに、官衙の廂から廂へ、大きな焔の波濤をなし、常陸勢は、たちまち混乱に陥ちてしまった。大書庫や貢税倉の棟からも、どす赤い焔が、唸りをたてて噴き始めた。
「──裏切だ。味方のうちから、寝返った者があるぞ」
火焔に染まった赤い大地を、こう呼ばわり呼ばわり、戟を躍らせながら、駈け廻っている、七、八人の兵があった。常陸方は誰あってそれを敵の忍びと疑っていなかった。ところが、やがて打ち破られた門から外へ向って、火旋風と共に走り出して来たのを見ると、それは不死人が都から連れて来た手下の禿鷹、蜘蛛太、穴彦などという一連の出没自在な剽盗仲間であった。
国庁の兵火を見捨てて、山づたいに、常陸から下野へ逃げ奔った貞盛の主従が、秀郷を頼って、やがて赤城山麓の田原の館に辿り着いたのは、十二月に入ったばかりの寒い日だった。
押領使藤原秀郷は、家人からそう聞くと、
「──おう。来たか」
と、予期していたもののように頷いた。
だが、すぐに会おうとはいわなかった。
右手の中指を、頬のクボに当てて考え込む容子は、たとえば、狡智に長けた老獣が、餌物を爪で抑えながら、さてどう肉を捌いて食おうかとしているような余裕とほくそ笑みをつつんでいる。
「いるといったのか」
主人の意外な受け方に、取次の家人は、まごついた。
「は。つい、御在邸と申してしまいましたが」
「そうか。……ならば」と、秀郷はここでまた、老獪そうな眼ざしを、じっと沈めて、
「風邪で臥せっておるといっておけ。──しかし、ていねいに犒えよ。粗相にはするな。よろしいか。西の屋の客殿に請じ、酒肴をさしあげて、よくわけを申せ。秀郷はお会い申したく思うておるが、何せい老齢ではあり、この寒気。深く寝屋に閉じ籠っておりますれば……と」
「心得ました。お旨のように、粗相なく致しておきまする」
家人は引き退がった。
翌日、秀郷は、饗応に当った家臣の一名を呼んで、そっと様子を訊ねた。
「どうした。客の貞盛は……」
「手厚いおもてなしに、たいへん恐縮しておられまする」
「立帰るような口吻はないか」
「何か、容易ならぬ事で、ぜひ、お縋り致さねばならぬとか申されて──お風邪の癒える日まで、御逗留のおつもりらしゅうございます」
「そうだろう。……ま、もう二、三日は待たせておくもよい。秀郷に会わずに帰る筈はない」
彼は、何もかも見抜いていた。貞盛の来意ばかりではない。およそ坂東平野の出来事なら、知らない事はないほどである。わけても、常総方面の将門旋風にたいしては、これを対岸の火災と見てはいなかった。いつ、下野へ火の粉が飛んでくるかもしれないと警戒していたし、また、あわよくば、虎視眈々たる野心もひそかにいだいていた。
そういう秀郷の眼から見ると、いかに才賢く立廻っているようでも、貞盛などはまだまだ青くさい一若輩に過ぎなかった。
ましてや今は、将門に追われて、空しく都にも帰れず、常陸にも止まれず、いわば五尺の身を容れる所もない窮鳥であるのだ。──秀郷ほどな男が、これに対して、五分と五分の取引を考えているはずはない。
数日の余も、貞盛を焦らしておいてから、さて秀郷は、やっと床を上げたような顔をして、貞盛に対面した。
貞盛は、焦躁から解かれただけでも、ほっとした顔つきだった。当然、主客の応対は、あべこべとなる。つまり秀郷は尊大に構え、貞盛はそれに阿るのほかはない。
「わしに兵力を貸してくれといわれるのか」
「ぜひ、御助勢を願いたいのです」
「したが、あんたは中央の命を持ち廻っておられるのじゃろ。官符を布令て、なぜ相模、武蔵、上野などの諸国に号令し、また一刻も早く、朝廷からの追討軍を仰がぬのか」
「仰せまでもなく、都へは、幾たびも早馬をのぼせております。……が、いつの場合でも、こんなとき、征夷大将軍が任命されて、兵が下って来るまでには、数ヵ月を要しまするので」
「はははは。堂上の公卿集議と来ては、戦も花見も、同じものにしておるからの」
「いや、このたびだけは朝廷でも、天下の大事と、いたく驚きもし、諸令を急いでもおるのです。しかし、何せい時を同じゅうして、またぞろ、伊予の純友が、内海に乱を起したため、都は、海陸からの腹背の恐れに会い、まったく、狼狽の状にあるものらしく思われます──」と、貞盛は、自分の苦境はいわず、ただ中央のそればかりを説いて、「──すでに、御当家へも、いくたびとなく、官符の御催促は来ているはずですが、正義のため、また朝廷の御為に、枉げて御出馬くださいませ。貞盛はその為、敵地を脱して、これまで、お迎えに参りました。もし、おききいれなき時は、将門の威力は、坂東八州を併呑し、やがてこの地方はいうもおろか、甲、信、駿、遠の地まで、威を振って来ることは間違いありませぬ」
と、畢生の弁をふるって、秀郷を説いた。
「うム……。むむ……。なるほど」
秀郷は、いちいち頷いてみせる。肚のうちでは、貞盛の弁舌ぶりを、よくしゃべる男だわいと、べつな意味していた。
「だがのう、右馬殿(貞盛のこと)──年を老ると、何をするのも、懶くての。……これが若い頃なら、一旗挙げるによい潮と、血もわこうが、秀郷には、もうとんと名利の欲もないのじゃよ」
「……が、乱賊将門の悪業ぶりは、お聞き及びでもございましょうに」
「知っている。……しかし、なにも将門だけが悪人でもあるまい。あんたの前だが、常陸の大掾国香どのといい、羽鳥の良兼、水守の良正など、どれもこれも相当なお人じゃよ」
「それは……」貞盛は、赤面した。貞盛自身にも、後ろめたいものが多分にある。秀郷の細い眼に、眼皺の中から、それを見すかされているような気がするのだった。
「何分、多年にわたるもつれなので、お聞き苦しい事も数々お耳に入っておりましょうが──詮ずるところ、近年、将門は思い上がって、近隣の領土を奪い、また、不平の輩を門に集め、その旧主の領へ攻め入る口実とするばかりか、彼の左右には、南海の賊で、純友と気脈を通じ合っている者もおるとか聞いております。──明らかに、天下を窺う野望があるに違いありません」
「……かも、知れんなあ」
「さすれば、押領使たる御職務からも」
「わしが起つのは当然だといわるるのか」
「ま。理屈になっては、失礼に存じますが」
「いや、それは、ほんとじゃよ。……だが、朝廷にせよ、太政大臣家にせよ、こんな騒ぎになると、すぐ忠誠をもち出すが、一体、わしの官位はどうだ。何十年、一介の押領使のままで、捨ておかれて来たことか。年々、貢はさしあげても、絶えて、恩爵の命などうけたこともない」
「いや、ごもっともです。しかし、もし将門平定の後は、必ず、こんどこそは、中央でも、すておかれますまい」
「それがさ……。勲功勲功と、匂わせておきながら、血をながして、さて、乱が鎮まったとなると、けろりと、忘れ去るのが、公卿たちの前例じゃよ。ばかな話さ」
「貞盛が、こう罷り出て、御出馬を仰ぐからには、誓って、左様なことはないように致しまする」
「ふム……。あんたが、誓うというのか」
「誓紙をさしあげても」
「おう、誓紙とあれば、受けようか。──そして、秀郷を総帥に立て、三軍の指揮を委すというなら、出向いてもよいが、さもなくて、ただのお手伝いなら、まあ、ごめん蒙りたいものだ」
実際に貞盛が誓紙を入れたかどうかは不明である。しかし、それ程な礼をとって懇請したことには違いない。秀郷は、相手にさんざん気を揉ませておいてから、やっと「うん……」と承諾したのだった。
永年の間、下野一帯の治安、警察、徴税の監察などに当って、秀郷一族がこの地方に培って来た勢力は、いよいよ彼が将門征伐に起つとなった時、初めて表面に現れた。
四千騎の兵が、田沼に糾合され、武庫を開いて、鏃をみがき、刃を研いだ。
けれど、その行動はまだ極秘のうちに行われていた。あくまで用意ぶかい秀郷は、なお田原の居館を出ず、ただ密偵を派して、将門の以後の行動をさぐり、周到な情勢判断だけを握って、ひそと、出撃の機会をうかがっていた。
将門は捷った。大いに捷った。
彼の部下は、声をからして、勝鬨をあげ、狂せんばかり、常陸の国土を、蹂躪し廻った。
「捷つには捷ったが、これはちとやり過ぎたな」
将門がそう気づいた時は、すでに狂兵の乱舞も終っていた後である。
たれが火を放ったのか、将門さえ知らないまに、常陸の国庁は、焼け落ちていた。そのほかの官衙官倉と、あとかたすらない。
敵の死屍は、累々と、辻にみだれ、町を舐めつくした炎は、遠い野を焼いて行き、土民の小屋や寺や森までが煙を吐いている。
「何という脆さだ。これが強兵を誇っていた常陸勢ですぞ。いや、こちらの兵が強過ぎるのかも知れん」
「あははは、いうもおろかよ。今や、わが相馬殿の御威勢の前に、立ち得る敵があるものか」
将門の耳に、そんな声高な話が、ふと聞えて来た。
彼が、振り向いてみると、相馬軍の帷幕の将星として、自ら任じ合っている興世王や不死人や玄明などが、国庁の焼け跡に、早くも幕を張って、祝いの酒瓶をあけ、各〻意気軒昂と、杯をあげている。
将門もいまそこで、一杯、勝祝いを飲み干して来たところだが、余りに、荒涼たる戦火の焼野原に対して、何か、自分のした事ではないような気もちにつつまれながら、茫然と、独りそれを眺めていたのである。
(……しまった。何も、これ程までに、やる事もなかったのに)
彼の心は、呟いていた。
淡い悔いに似たものが、心の底からにじみ出してくる。
明らかな侵略行為だ、官衙や官倉の焼打ちは、官への叛乱である。乱賊といわれても弁解の余地はない……。
「殿。将平様の兵が、生捕った敵を、曳きつれて来ました。すぐ首を打って、領民の見える所に梟けましょうか」
興世王が勢い込んで、彼の前に告げた。
「待て待て。──そう、やたらに、首ばかり斬りたがるな。どんな捕虜か、おれが見る」
将門は、幕の内へ戻った。
二人の縄付の敵が、悄然と、地上にうなだれていた。
将門は、弟の将頼や将平や、また不死人、玄明などの幕僚をふり顧って、
「この敵は、誰だ。──敵の何者だ」
と、たずねた。
「ひとりは、都の使者、藤原定遠です。そして、もう一名は、常陸介維茂にございまする」
と、誰かが答えた。
すると、将門は、急にいやな顔をして、まるで唾を吐くようにいった。
「なんだ! 為憲でもなければ、貞盛でもないのか。おれが、斬らんと欲しているのは、第一に右馬允貞盛、次に、為憲なのだ。こんな者に、用はない。縄を解いて、追ッ払え」
「えっ。免すのですか」
「貞盛こそは、八ツ裂きにしてもあき足らぬが、都の巡察使や、維茂ごとき老いぼれを斬ったところで、何になろう」
将門は、いよいよ憂鬱な顔をした。そして、
「豊田へ帰ろう」
と、俄に、引揚げの命を出した。
このとき、退軍のさいにも、不死人の手下や、興世王の部下は、さんざんに常陸領を掠奪して行った。掠奪隊の指揮には、いつも玄明があたっていた。
将門は、そういう末端の行動には気もつかずに、豊田へ帰った。領下の民衆は、彼を凱旋の将軍として迎えた。下総四郡は、万歳の声で沸き返り、門には、祝賀の車馬が、毎日、市をなす有様だった。
帰来、将門は飲んでばかりいた。
彼のそばには、いつも草笛を始め、江口の妓だの、妻とも妾ともわからない女たちが、幾人となく侍っていた。
そうした乱酔の日が続くうちに、十二月となった。しかもまだ、毎日の酒はつづき、門には、媚びと諂い客が絶えず、興世王や玄明は、彼を称えて、
「相馬の大殿」
と、呼び奉っていたりした。
醒めれば、沈湎と暗くなり、酔えば、眼に妖気をふくんで、底も知れない泥酔に陥ちて寝てしまう。──女たちが、体に触れると、
「うるさい」と、罵り、そして時々、
「……桔梗よ。……桔梗は……桔梗はいないか」
と、まなじりを濡らして呼んだりするのであった。
そうした師走のある日。
例のごとく、大ざかもりとなって、将門がそろそろ爛たる酔いを眸に燃やしかけたときである。
「何と、わが大殿は、情にもろく、そして、女子のように、お気が小さい事よ」
と、興世王が、やや意識的に、将門へ戯れた。
将門は、果たして、かっと怒った。
「おい、興世。どうして、おれが女みたいに、気が小さいというか」
「でも、いつまでも、桔梗さまの愚痴を仰っしゃいますから」
「笑え。笑わば笑え。おれは、忘れ難いのだ。……愛しい桔梗を。……そればかりか、あのような酷い目に遭わせて死なせたと思うと、泣かずにいられない」
「天下には、桔梗さまにも勝る美女は、星のごとくおりますものを」
「天上の星を何かせん。……おれはただ一輪の桔梗が恋しい。だが、踏みにじられてしまった」
「敢ない事でございます。けれど、死んだお方が甦るはずもありません。お心をふるい直して、どうか、桔梗さまに勝るお方を、天下の野辺におさがし下さい」
「それほどな女性が世にいようか」
「あははは。おりますとも」
それは、満座の笑い声だった。将門は、はっと、われに返ったような顔をした。まが悪そうに、大杯で顔を隠した。
「──大殿」と、興世は、膝をすすめた。同時に、不死人や玄明も、左右から、つめよるように、将門に迫った。
「なお、申し上げたい儀があります」
「なんだ」
「すでに、わがお館の兵は、国庁を焼き、官倉を破り、多くの官人を撃ちました」
「たれが、あのような、乱暴をやれと、命じたか」
「騎虎の勢いというものです。誰の命でもありません。……が、すでに、常陸を侵した以上、一国を奪るも、乱賊の汚名をうけ、八州を討つも、公辺の問責をうくることは、同じものです」
「だから、どうだというのだ」
「このままでは、やがて、中央から必然に下るであろう問罪の軍を、神妙に待っているようなものではございませんか」
「おれに縄を打つなら、打たれて、都へ曳かれて行こう。そして、太政官の諸公卿の前で、ふたたび、自分のやましくない肚をぶちまけて見せるまでの事よ」
「滅相もない!」
三人は、異口同音に、反対した。
藤原不死人は、前々から、まず興世王を手なずけ、玄明や、そのほか、目ぼしい諸将を、悉く、自分の説く所に、抱きこんでいた。
要するに、不死人の使命は、将門を立てて、天下の大乱に、突入させることにある。
その混乱に乗じて、彼がつねに気脈を通じている藤原純友が、海上から摂津に上陸しようという計画である。
もちろん、彼らは、累代の摂関家と、一連の朝廷貴族に、うらみはあるが、それを以て、朝廷をどうしようという考えはない。目企むところは、革命にはちがいないが、摂関政治への私怨であり、その改革であった。
ところが、将門には、そんな気もちは、毛頭もない。彼はただ郷土の平和の中で、凡々たる幸福の子でありたいだけなのである。しかし、事々に、その小なる願いも妨げられて来たのだった。──事ここに到ってもまだ彼は、恋々として、桔梗を想い、酒に悲しみ、なろう事なら、このまま、酔い死なんとさえしているふうに見える。
──かくては、と三人は眼まぜを交わして、(一国を奪るも、八州を奪るも、乱を問わるる公責は同じですぞ)
という前提を以て、将門に、こうすすめたのである。
「このさい、唯一の策は、権力を拡大することです。たとえ問罪の軍が、中央から下って来ても、われに、十万の兵も恐れぬ強大な結束があれば、どうする事もできません。かえって、公卿共の方から妥協してくることでしょう。力です、武力です。──一刻も早く、坂東八国を掌管して、善政を布き、諸民を手なずけてしまうに限ります」
「そうか。……いや、おれも、死を待っているわけにはゆかぬ」
将門は、ついに、毒杯を仰飲った。
ふたたび、馬上の人となって、十二月十一日、豊田の館を発向し、下野の国府へ攻めて行ったのが、彼として、今や公然たる叛軍の旗を挙げた第一歩だった。
とは「将門記」の描写である。大陸的な誇張であることはいうまでもない。しかし、この頃の相馬殿の勢威は、そんな風にいっても、おかしくない程、いわば破竹の勢いであったろうとは想像できる。
坂東占領の挙は、将門としては、窮余の一策であり、常陸侵入の暴挙を、それで埋め合わせようとしたものだった。けれど、死中に活路を得ようとした彼の意図は、客観的には、
(いよいよ、将門大乱を謀る)
という大旋風の序曲となってしまったことはいうまでもない。
下野の国府へ、軍勢が着くと、一戦を交じえる者もなく、勅司藤原公雅、大中臣定行などが、門を出て、地上に伏し、将門を再拝したといわれている。
それを見ても、相馬軍の勢威と、そして、将門のうごきが、いかに四隣を恐怖させたものかわかる。
その月十五日には、もう彼の大兵は、上野へ侵攻していた。
ここでも、ほとんど、抵抗はなかった。
介ノ藤原尚範は、国庁の印を、使いを以て、将門の陣へ送り、自分は妻子をつれて、風のように都へ逃げのぼった。
行くところ、まるで草木もなびく勢いである。そして国司は国庁の印を捧げて、彼の軍馬を迎えるのだ。その領民はいうまでもない。
彼は、だんだん八州の大将軍のような気になった。これは悪い気もちではない。しかも彼は、乱暴を働かない。一時は、逃げ惑った領民も、彼を礼拝した。
将門は、また、国司たちの都へ帰りたいと乞う者には、兵を付けて、その家族を守らせ、信濃路の境まで、いちいちこれを送らせた程である。
武蔵、相模の国司などは、
と古記に見えるとおり、ほとんど、八州の官衙は、空き家になってしまったらしい。
まさに、無人の境を行くようなものだったろう。こうして、坂東八国の掌握は、難なく、その年のうちに成ってしまった。
将門の部下は、威風堂々と、豊田に帰った。
そして、その凱旋と、八国掌管の祝典を、大宝郷の大宝八幡の社前で開いたのは、明けて、天慶三年の一月、将門が三十八歳となった新年の事である。
この日に、彼はまた、はからずも大酔のあとで、生涯の大失態を演じてしまった。
失態といえば、弱冠の帰郷以来、将門の生活は、ほとんど、次から次へ、失態の連続ばかりやって来たようなものだが、この日の失態だけは、取返しのつかないものとなった。終生、いや千年の後までも、そのために、彼としては所謂のない、そして拭いようもない憎しみをこの国の人々から受けてしまうものとなった。
なぜならば、彼は、肚ぐろい一分子と、酔狂な周囲の者から、無理に、天皇にされてしまったからである。
大宝八幡の地域とか、宮前町の戸数や概況が、どんな程度の土地であったかは、今では、想像に拠るほかはない。
地理的にいえば。
真壁、結城、新治と、三郡の境にあたっている。現今の小貝川をへだてて、筑波山麓の石田ノ庄(以前、大掾国香の邸宅地)があり、またすこし東南の街道には、大串(以前、源護一家)があった。
こう見てくると、この辺が、数郡の中心をなす国庁の所在地であったことが窺われる。また、かつては源護一族や、大掾国香のような豪族を始め、多くの府官の邸宅、屯倉、民家なども軒を並べていたにちがいない。そうした大部落と大部落とが、数里のあいだに接し合っていた。そして聚落の殷盛な炊煙が朝夕に立ち昇っていたものと思われる。
こういう郷里に、国分寺時代の創建にかかる大宝八幡があるのは不自然ではない。境内も広かったであろう。大宝沼の水が、社前の木立の間から眺められ、楼門の外には、門前町の賑わいが見られ、いずこの郷にもあるように、ここにも酒亭や遊女が住んでいた。また、緋の袴、白絹をまとい、髪をすべらかして、面を白く粧った怪しげな巫女たちも、社家や町の辻に、ちらちら姿を見せていたに相違ない。──とにかく、坂東特有な土くさい新開地的な文化と、神祭的な色彩と、そして附近の官衙に住む支配族の取りすました雰囲気とが、ごみごみと、人里の臭いと騒音を醸しあっていたものといっていい。
ここへ。
戦捷の誇りに昂ぶりきった数千の兵馬が、こみ入って来たのである。
しかも、時は、正月でもあったし、大宝八幡を中心として、おそらく未曾有な混雑と活況が、この土地を沸きかえしたことであろう。どう分宿しても、夜営しても、収まりきれないほどだったろうし、夜は、酒や女を漁る将兵の影が、うす暗い、しかし、俄に激増した人家の灯を、あちこち覗き歩いて、夜もすがら、怪しい嬌笑や、悲鳴に似た悪ふざけや、酔っぱらいの濁み歌などが、寒さも知らずに沸いていたかと思われる。
大串や石田ノ庄の豪家の邸は、これまでの戦いで、ほとんど、瓦礫と化し去っている。将門は、大宝八幡の社家を宿営とし、さて、新年宴会をかねた戦捷祝賀の大饗には、
「ひとつ、常総の諸氏が、あっと驚くように、盛大にやろうではないか」
と、彼らしい豪放さで、左右の者に計った。そして、彼の弟たちを始め、帷幕の興世王、玄明、不死人などの輩も、
「──新たに東八ヵ国を、お館の一手に、掌管し給う政令始めの祝典でもありまする。坂東八州の人民に、こくごとく、業を休ませ、貧しき者には、あまねく施し、富みたる者には、五穀を献じさせ、万民楽土のすがたを、眼にも見せるように、未曾有の祭典を営ませましょう」
と、各〻、奉行を承って、その準備にとりかかった。
準備には、おそらく、十数日を要したにちがいない。何しろ、凱旋早々、軍旅をここに駐めて、挙行したことでもあるから。
で。その日は、天慶三年の一月も、半旬を過ぎていたのではあるまいか。
とにかく、布令は、新領下の八ヵ国に、早馬を継いで、公達された。
伝え聞いた諸郡の人々は、
「相馬殿の御威勢を以て、どんな大祭典をやるのか」
と、ここ大宝郷へ、蝟集して、肩摩轂撃の人波をその日には見せた。
大宝八幡の祭典は、三日にわたって執行された。第一日は、東八ヵ国掌管の戦捷を告げて、楽土安民を祈願し、第二日目には、新たに、各州の庁に任用された百官の礼拝と、神前の宣誓式があり、さて、三日目には、
「軍功を賞し、祝酒を給わるであろう。全軍の将兵も、弓を袋に収め、このよき新春を、寿ぎ合うがよい」
と、あって、早朝に、恩賞の沙汰が発表され、社前の満庭を、大宴会場として、神楽殿における奏楽と巫女たちの舞楽のうちに、万歳、万々歳を三唱して、いよいよ大饗の酒もりになったのであった。
神楽は、夜神楽、朝神楽と、三日間というもの、たえまなく奏されていたが、特に、大饗楽となると、土俗的な俚謡や、土地の土民舞なども、演じられて、早くも、酔狂な将兵たちが、各〻扮装をこらして舞殿にあがり、将門を始め、帷幕の諸将の喝采をあびていた。
その将門は、というと。
拝殿前の広庭に、臨時に出来た大桟敷が見える。そこには、彼の一族や諸将の顔ぶれはもちろん、新任の府官や吏生など、数百名が、群臣の礼をとって、陪席していた。
そして、彼自身は、将台と称える一だん高い座に、大きく坐った。そこだけは、幄舎形に、屋根や袖部屋の設けもあった。うしろは、橋廊下から社家の住居へも通えるのである。さながら、殿閣の王者みたいであった。
その上に、彼のそばには、彼の侍妾かと思われる十数名の美姫が侍っていた。──また、諸将諸官の席には、緋の袴の巫女やら、舞衣を着けた門前町の妓たちが、入り交じって、銚子や杯の乱れあう間に、嬌声をながしていた。
「なんと、これほどな大典と盛宴は、大宝八幡はもとより、この土地開けて以来、初めてのことだろう。──いや、こう上から下まで、一堂に会したことも、諸郡の百姓が、群集した例も、かつて、坂東八ヵ国になかったことだ。めでたいではないか。じつにめでたい春だ」
興世王は、もう赤面の舞楽面みたいになって、しきりに、泰平を謳歌していた。
すると、藤原玄明だの、藤原不死人だの、将門の股肱を以て任じている一連の首脳部たちも、
「めでたい。万歳」
と、何度も、杯を高く上げたりして、
「しかし、ほんとの事をいうと、これでもまだ、何だか、祝い足らんな。もっと、何か、わんわと、沸かしてもよかった」
などと、呟いた。
将頼や、将平、将文なども側にいて、
「それは、奉行役の諸公にすれば、いくら盛大に運んでも、多少、不足はあろうが、ま、これほどにゆけば」
「ところが、ちと、淋しいことがあるので」
玄明が、将門の弟たちに対して、なおいった。
「──というのは、百姓万民、また神前の式事、昼夜の神楽なども、あのとおり賑々と、箪食壺漿の歓びに沸きたってはおるが、かんじんな相馬の大殿将門君が、なんと、ややもすれば、お淋しそうな、お顔つきではあるまいか。……しきりと、御酒は参られておるらしいが、自分は、それが気になってならぬ」
「あれは、兄のもちまえですよ」
と、将頼は、あっさりいった。
「──酔わねば、どこか、うつろな影があるし、酔えば酔うで、淋しげなお顔の彫りを濃くしてゆく。お若いときは、ああでもなかったが、先年、陸閑岸の入江で、桔梗どのを亡くされ、ひとりの和子をも死なせたでしょう。……たしかに、あの頃からの変り方です。まあ、兄の癖ですな。お気にかけることはない」
「ですから、われわれ共が談合して、豊田のお館から、草笛やらそのほか、お気に入りの女性も招いておき、またなお、お目にとまる美女もあらばと思って──八州の内から選りすぐった美姫も何人か、お側に侍らせておきましたのに」
「そのためでしたか。あんなに、女性がたくさん来ていたのは」と、将頼は、兄の将門の座を振り仰いで、「折角の配慮だったが、しかしそれは無駄であろう。兄上にとっては返らぬ愚痴であっても、悟りの悪い未練と笑われても、桔梗どのでなければ、いけないのだ。たとえ、桔梗どのより美しい女性でも、桔梗どのでなくては駄目なのだ」
「そうでしょうか。はて、そんな男というものがあるだろうか」
「あっても、なくても、兄上は、そういうお人だ。だから、お酔いになると、なお、心の寂しみが、滲み出てくる。その滲みをお顔から酔い消すには、まだまだよほど召上がらなければ……」
すると、さっきから、黙々と、杯をかさねていた藤原不死人が、
「やあ、はなしが、ちと理になった。第一、この辺の座がいけない。われらからして、浮かねばいかん。御舎弟方も、まじまじと、畏まっておられずに、すこしお過ごしあれ、お過ごしあれ」
と、妓たちをさし招いて、杯を、改めさせた。
ここばかりではない。歓声酔語は、あちこちに沸騰している。酒気は、満堂に漲り、誰の顔にも、すぐ燃えそうな脂がてかてかし出した。羯鼓を打つ、笛を吹く、鉢をたたきちらす。そろそろ、酒戦場風景である。──この頃になって、将門も、ようやく、眸の中に、虹をあらわし、
「たれか舞え、舞わぬか、陽気に」
と、わめき出した。
こんなに大陽気なのに、将門はなお、陽気に陽気にと、不足らしくいっていた。肌の悪気が、強欲に布を纒いたがるように、寂しさを打ち消すものが欲しかった。
忘れかねる桔梗の面影やら、死んだ愛児のことばかりでなく、もうひとつ、彼の心には、孤独な怯えが潜んでいた。
それは、およそ彼の表面の言行とは、正反対な、小心さで、人知れず、くよくよしているものだった。──後悔、反省、中央への憂い、弟共への未来の心配など、すべて、愚痴といってよい種類の凡情と、愚直ともいえるほどな、持ちまえの正直さから来るものだった。──それをかりに彼の良心とよぶならば、彼の良心は、こんな時、酒漬けにされる蝮のようにもがいて、日頃よりも意地悪く、彼の胸に噛みついているのであった。
それゆえに彼は、十一月の末以来、常陸へ攻め入り、官衙穀倉を焼き払い、貞盛、為憲を追い、転じて、破竹の勢いで、上野、下野、相模、武蔵、伊豆、上総と、いたる所の国庁を占領し、降人を容れ、軍の威容を、数十倍にもして、ここに凱旋しながらも──またこの大祝典を挙行しながらも──それを悔いる気もちのほうがしきりであった。戦っては悔い、勝っては悔い、八ヵ国の官民に、万歳を以て迎えられるや、いよいよ、人知れず、後悔の蝮に、腸を噛みちらされていた。
将門は楯の両面を持っていた。一面には暴兵の首将として、八州を席巻しながら、また、一面のそうした小心さにはのべつ破れていた。そしてその正直な自己をなぐさめるべく、年の暮、この大宝郷に滞陣すると共に、一夜、大宝八幡の神殿に、ひとり燭をかかげ、寒机に向って、一文を草した。
それは、真実の身分を披瀝して、中央に訴えんとする上告文であった。
むかし、十六歳の弱冠から、車舎人として、都で仕えた藤原忠平を、心にたよって──摂関家への、上訴と、そして情状の酌量をも仰いだ──彼としては、一字一行も、涙なきを得ない、衷心を吐露した文書である。
それは、かなり長文ではあり、かつ、古文の態を、そのままに見るのでなければ、将門の心底の声は響いて来ないであろう。──で、次に、その全文を、原文(将門記ニ拠ル)のまま載せておくことにする。しかし、煩わしいと思われる読者は、その一項を省略して先へ読み進まれても、この小説への筋の関連にはたいして支障はないと思う。
将門、謹んで言す。
閣下の貴誨を蒙るなく、星霜多く改まる。常に渇望の至り、造次も忘れず、伏して、高察を給へ。
先年、源護等が、愁訴によりて召さる。将門、官府を恐るゝがゆゑに、急に上京して、天裁を仰ぎ、事実、明白となつて、帰国をゆるされ、旧堵に帰る。
すでに、旅憊いまだ止まざるに、叔父良兼、みだりに将門を攻め襲ふ。われ又、やむをえず、防禦す。
良兼が為に、人を損じ、物を掠めとられたる次第は、つぶさに、下総の国庁より、さきに、解文を註して、言上せり。朝家においても、隣国合勢して、良兼等を追捕すべきの官符を下さる。
然るに又、翻へつて、将門を罪に召すの使を給ふ。心、甚だ安からず。誠に、鬱悒の至りなり。
さらに、咄々怪事にこそ。平貞盛が、将門を召すの官符を奉じて、常陸国へ至れるをや。
右、貞盛はかつて追捕を脱し、跼蹐して、上京せる者なり。官府において、その事由を、糺せらるべきに、何ぞはからん、彼が理を得るの官符を下し賜はんとは。
これ全く、彼がために、矯飾せらるゝに依るもの。また、右少弁源相職よりも、仰せの旨とて、書を送り来る。今般、武蔵介経基の告状によりて、将門を推問せらるべきの由なり。よつて、謹で、詔使のいたるを待つ。
然るに、常陸介維茂の息、為憲、みだりに公威をかり、冤枉を逞しうす。ここに将門の従兵、藤原玄明の愁訴により、その実をたゞさんと、彼の国府に赴く。
為憲、明に、貞盛と協謀し、三千余の兵を発し、恣に、兵庫の器仗をとり出して、戦ひを挑む。こゝにおいて将門、やむをえず、士卒を励まし、為憲等が軍を討ち伏せたり。これ、介ノ維茂が、子息為憲に、訓へざるの致す所なり。
将門、本意に非ずといへども、すでに是を討伐す。罪科、軽からず、自首に及ぶところ也。たゞし、将門とて、柏原帝五代の孫、たとひ国庁を領するも、豈、当らずとせんや。
将門が武芸天授、たれか、将門の右に出づるものあらん。公家、さらに褒賞の典は無くして、しばしば、譴責を下さるゝこと、かへりみれば恥のみ多し。面目、いづこに施さん。推して、察し給はらば、甚だ以て幸なり。
抑〻、将門少年の日より、名籍を太政大殿に奉ずる今に十数年、相国摂政の世に、思はざりき、かゝる匪事を挙られんとは。
まことに、歎息の至りにたへず、将門、立身の計を思ふといへども、何ぞ旧主の貴閣を忘れんや。
太政大殿少将閣賀 恩下
この上告文を持たせてやった使者は、暮のうちに立っているので、とうに都へ着いているはずである。しかし、使者もまだ帰って来ないし、摂関家の沙汰も、中央の反響も、皆目、まだ、分っていない。
将門が、怏々と、ひとり案じていたのは、その事だった。
衷情を訴えた血涙の文字だと思っているのは、彼自身の感傷が、彼自身を、悲壮にさせていたのだともいえる。
なぜならば、正直な彼にも、やはり文には、偽飾がある。すべてが、真実ではない。また、憐憫を仰ぎながら、その筆ですぐ強がりもいっている。
だが、中央の紊乱はもとよりのこと、地方の民治は、支離滅裂な時代ではあった。強い者があくまで勝ち、虚構が正直者を圧し、中央の公卿仲間に如才ない者が、ややもすると、官符を受けて、国庁の権や、土地の政情をも、私にうごかし得たのだ。そういう濁流の中の一文としては、まだまだ将門の文字の如きは、あわれむべき小心さと、正直者の光を、紙背にもっていたものといってよいかもしれない。
誰よりも、飲んでいるように見えて、じつは、誰よりも酔っていない男がいた。つねに、将門の気色や、また満座の雰囲気に、ひそかな注意を怠らずにいる藤原不死人だった。
「おい、おい、玄明。こら、玄明。おぬし、きょうの大役をひとつ、忘れておりはしないか」
「なんだ、不死人。いきなり、おれの腕くびなどをとらえて。これ、離せ」
「おれは、酔うた。……だが、おぬしはまだ、酩酊してはおるまいが」
「呂律を、はっきり申せ。何が、何だと」
「わからぬか。いや、忘れ惚けたのか、この、老いぼれは」
「老いぼれとは」
「まあ、怒り給うな。おんめでたき吉日ではないか。──なあ、興世王どの」と、不死人は、両手で両方の者に、絡みついた。
「これは、いかん」興世王は、酒豪である。性根は、たしかだ。「──玄明どの。不死人が、くだくだ申しておるのは、それ、三名して、昨夜ひそかに仕組んでおいたあの神降りの宴遊戯を、なぜ早く演らぬかと、催促しているのではないか。のう、そうだろう、不死人」
「そうだ、その事よ。何たるうつけ者ぞや、玄明は」
「や。なるほど」玄明も、そういわれて、急に、思い出した顔つきである。大仰に、頭を掻いた。
「まこと、酔いにまぎれて、うっかりしておったよ。……だが、せっかく、仕組んだ宴遊戯の筋書ではあるが、こう満座が酔いみだれてしもうては、ちと遅いな。まあ、やめておくか」
「ばかをいえ、ばかな事を。──祝宴はこれからだ。いままでは、大饗のほんの前酒盛と申すもの」
「だが、おぬしも、興世王どのも、その酩酊ぶりでは」
「なんの、おれは、酔わぬ。どこに、酔うているか。さあ、演れい。おれもおれの役割は、しゃんと、勤めるぞ」
「演れというても、かんじんな、巫女の森比女が見つからぬわ。はて、どこにおるやら」
「森比女は、かしこに、人と戯れておる。それ、立ち給え、そして筋書通り、演らせ給え」
不死人は、玄明の尻を、押し上げた。
玄明は、よろめき、よろめき、酒間を泳ぎ渡った。そして、武将たちをあいてに、杯を持って、何か、おしゃべりしていた森の巫女という女を横から拉して、橋廊下を大股に、社家の住居へと、渡って行った。
興世王と、不死人とは、それを見届けると、
「はははは。あはははは。連れて行ったわ、行きおったわ。どれ、それでは、こっちも、こうしてはおられぬぞ」
二人も起って、こっそり、橋廊下の彼方の建物の内へかくれた。
社家の住居は、大混雑であった。母屋も釜屋も、料理人やら饗膳の支度に立ち働く男女で足のふみ場もない有様だ。その騒ぎをよそに、さきの玄明と森の巫女も、また後から来た興世王と不死人も、小部屋にはいりこんで、神楽殿の伶人たちを呼びにやったり、巫女を集めて来たり、そして自分たちも、しきりに演技の扮装を凝らしている様子であった。
「よいか。そろそろ」
「よかろう。さきに出て、榊払いをやり給え。それを合図に、天楽を奏し、天女の舞楽を見せ、つづいて、森の巫女が、神降りを演る段になるのだから」
「では……」と、小部屋の帳を払って、玄明が、先に、橋廊下から、おごそかに、
「しいッ……。静まれ、ひそまれい」
と、警蹕の声を発しながら、酒席の中央に、立ち現われた。
玄明は、冠をかぶり、笏を、装束の襟にさし、両手に、榊を捧げている。面には、何か、白い粉や青隈を塗り、付け髯であろう、胸の辺まで、白髯を垂れていた。たれの眼にも、玄明とは、わからない。
「おや。何を演るのか」
「八幡の神職か」
「いや、ほんものの神主にしては、すこしおかしい。誰かの、酒興だろう。何か、戯れ事を、始めるつもりだろう」
満座の顔が、玄明の方を見た。彼は、いよいよ、しかつめらしく、何か、祝詞のような事を、いい始めた。おかしいような、おかしくもないような声が、くつくつ流れる。
颯っ、颯っ、颯っ、──と、榊が、風を鳴らした。彼の祝詞が、一だんと、声を高める。
すると、物々しい雅楽が、一せいに吹奏され出した。笙だの、ひちりきだの、笛だの、胡弓だの、竪琴だの、竪笛だの、大鼓だのあらゆる高級な楽器が、田舎伶人のあやしげな感覚によって、交響楽を奏で出したものである。本来は、粛然たる趣のある雅楽のはずだが、酒興の乱痴気を沸かせるだけの目的であるから、呂も律も譜もあったものではない。宛として、神楽調である。
ところへ、また、どたどたと、橋廊下を走り渡って来た役者がある。一方は、背に箙を負い、弓をもち、左大臣の扮装をした興世王である。もう一人は、不死人で、これも、緌を付けた冠に、右大臣の装束をつけ、太刀を佩いて、裳を長く曳いていた。
そして、二人は、裳と裳を、曳き合って、
「……ああら、ああら、ふしぎや、奇瑞やな」
と、唱歌しながら、
「ひんがしの、空の曠野を、ながむれば──むらさきの、雲はたなびき──春野の駒か、霞むは旗か、つわものばらの、盈ち満つところ……」
と、眼の眩るほど、舞い連れ、舞いつづけ、
「おお。あれは……」と、仰山に、鑽仰の所作をよろしく演じて、「──まさしく、八幡大菩薩」と、ひれ伏した。
鈴の音が、堂を揺すぶった。たくさんな鈴の音の数ほど、天女に扮した巫女が現われ、綾羅の袂や裳をひるがえしながら、大勢の頭の上へ、五色の紙蓮華を、撒き降らした。
そして、風のように、天女たちは姿をかくし去ったが、たったひとり、あとに、森の巫女だけが、立ち残っていた。それが、趣向の眼目とみえ、彼女は、高貴な神の使わし女のような化粧と扮装をし、笏を胸にあてて、眼をとじたまま、息をしているのか否かも分らないほど、肉感のない形相をしていた。──よく神降りをやる巫女が、いちど悶絶して、それから、うわ言のように、神のことばをしゃべり出す──あのときの凄味をもった顔なのである。
森の巫女の姿と、そしてその顔を見たものは、誰もが、酒の気をさまして、一瞬、しいんと、満堂、水を打ったような鬼気にとらわれてしまった。
迷信は、都の貴族ばかりにあった病弊ではない。未開土にはまたもっと素朴な原始教そのままの祟りとか、禁厭みとか、仏罰神威などが、盲信されていた。
これは、たれかが演出させた余興である、茶番狂言にすぎないのだ──とは、満座のすべては知っていたが、森の巫女の魔芸は、そう知りぬいている人々をも、ひっそりさせてしまったのである。
彼女はまた、こういう魔芸にかけては、神に入るの妙技を持っていたにちがいない。かすかに、体の線や黒髪の端に、波のようなけいれんを描き、まったく、人々の魂魄を自分の唇元に吸いよせたと思うと、天性の美しい音声に、金鈴のような威をもたせて、やおら、こう、神の託宣を告げたものである。
「──こはこれ、われこそは、八幡大菩薩の御使にて候うぞや。朕が位を、蔭子将門に授く。左大臣正二位菅原朝臣の霊魂に托して表せん。それ、八幡大菩薩は、八万の軍をもって、新皇将門を、助成あらん。……須らく三十二相の音楽を以て、これを迎え奉れ」
どういう心理やら分らない。けれど、演技者に溶けこんで自分も一しょに演技する心理は、酔っぱらいにはよくある事である。──さっきから失神していたように平べッたく身を伏せていた左大臣、右大臣が、しいッというと、満座の酔っぱらいが、一せいに頭を下げた。将門も彼女を再拝した。──そしてその奇妙な一瞬が、すべての人間の頭脳を、風のように掠め去ったとたんに、誰ともなく、わっと、喝采のあらしを捲き起し、つづいて、
「万歳っ」
と、どなった者があったかと思うと、負けない気で、また、何者かが、
「新皇、万歳っ」と、さけび、もう次には、「わが君、万歳」と杯をもって、起ち上がる者があったり──「相馬の御子は、もともと、正しい帝血をひいておられるのだ。帝位をとなえても、何のふしぎがあろう。相馬の新皇、万歳」などと、演説する者が現われたり、いちど、毛穴から内に潜んでいた酒気が、反動的に、爆発したかたちで、その狂態と、乱酔の旋風は、いつやむとも見えない有頂天をつつんでいた。
さて、それからの悪ふざけであった。
将門の座を、高御座に擬し、天皇の拝をまねて、叙位除目の奏請をやる。
興世王や、玄明などが、ちょうどよく、衣冠束帯をしていたので、これが執奏となって、
「宣旨──」
などと、とりすまし、
「舎弟、平朝臣将頼を、下野守に叙せらる。御厨別当経明の子多治員経を上野守に。──文屋好立を安房守に。まった、平の将文を、相模守に任ぜられる」
などと、出放題なことをいうのが、いちいち拍手を呼び、爆笑を起し、将門までが手を打って、興じぬいている様子なので、彼らは、いよいよ図に乗っていた。
「右大臣。王城はどうする。新皇が即位されながら、王城の地も定まらないでは」
「いや、王城は、下総国、亭南の地とする。南面して、皇居を作り奉らん」
「やよ、左右の大臣。納言、参議を始め、文武百官、六弁八史の叙目は、到底、一日には任じきれぬ。したが、かんじんな内印外印の玉璽は、鋳てあるのか」
「たった今、八幡大菩薩の神告があったばかりだ。まだ、そこまでは手がとどかん。それに、玉璽には、古文を正し、鋳印には、寸法の故実も考えねば」
「わははは。もっともらしい事をいうわ。左大臣も、右大臣も、それらしい。したが、暦日博士には、誰がなるか」
「さあ、暦日博士は、ちょっと、見つかるまいぞ」
「何の、上総の浜から、漁夫の翁でも連れて参れば……」
将門はもう泥んこに酔いつぶれていた。乱舞の声も狂酔の歌も、遠いものにしか聞えていなかった。そこらにいる女と女たちの間に横たわって、眼じりから涙みたいなものを垂らしていた。
──ふと、醒めたのは、暁天の頃である。たれに、どこへ運ばれ、どう寝たのかも、まるで覚えはない。
「……水をくれい」
がばと、起き上がりざま、そういった。
ほの暗い燭と、帳の蔭に、黒髪を寝くたらして、幾人もの女が、木枕をならべていた。──何たる寒々しい光景だ。将門は、水を飲み終ると、ぶるっと、骨も鳴るばかりな胴ぶるいした。
「出かけよう。いや、豊田の館へ、引揚げよう。……もう、桔梗のいた奥の館も、和子の乳の香がしみていた部屋も、あとかたはなく新しい木の香になってしまったが、それでも、豊田の家に眠っていると、そこはかとなく、在りし日のことが夢にも通ってくる。──さあ、ここを立つぞ。女ども、下着を出せ。具足を出せ」
それは、独り言なのか、そこらの女たちに命じているのか、分らない口調であったし、起き抜けだというのに、ひどく腹立ちっぽい荒々しさがこもっていた。
「まだ、きのうの酔いが、宿酔となって、よくお醒めになっていないらしい」
女たちは、畏怖して、ささやき合った。
侍臣を、呼び立て、将頼や将平たちにも、出立の用意を伝えさせる。
兵は、愕いた。──朝の兵糧をとれという命令はなく、すぐ、馬を立て並べろとある。
将門は、恐い顔をして、馬上になった。──頭上には、まだ、朝の月がある。
でも、ようやく、三軍が揃って、大宝八幡の社前から、蜿々と、四陣の兵が、序に順って、ゆるぎだしたときは、もう春らしい朝の陽が、大地にこぼれ出していた。
将門は、諸将の馬にかこまれて、むっそりと、苦々しい眉をひそめながら、門前町の辻を、街道の方へ、ゆらゆら、馬首を向けて行った。
道の端や、軒下に、黒々とうずくまって、彼を送迎しているかたちの土民たちは、口々に、新皇様だ、と囁きあった。いつもより恐ろしそうに、そして、上げることもゆるされない首のように、地に低く垂れたまま、じっと、馬のつま先だけを、上眼で見ていた。
「……はてな?」
将門は、へんに思った。
けれど、その日の行く先々の路傍で、彼は同じような庶民を見、また、自分をさして、新皇様と、恐れ囁く声を聞いた。まるで、悪夢を見つづけているような思いである。そうした彼は、やっとわが家の門を見た日、初めて、自分のものらしい息を、ほっとついた。
坂東、大乱に陥つ。
という公報が、都へとどいたのは、暮もおしつまった十二月末である。
東八ヵ国の官衙から、蜂の子のように叩き出された国司や府生たちが、やがて、命からがら、都へ逃げ上って来ては、
「いやもう、大変というも、おろかな程だ。まさかと思っていたが、やはり将門の謀叛気は噂だけではなく、ほんものだった」
といい、
「あのぶんでは、相模、遠江と、順に国庁を焼き立てて、都までを、騒乱に捲きこむかもしれぬ」
などと、恐怖的なことばを、火の粉のように、ばら撒いた。
武蔵の百済貞連を始め、諸国の介や掾も、前後して、太政官へ駈けこみ、
「いまさら、将門謀叛などと、上訴に及ぶも、事古しです。事態は、そんなどころか、もう天下の大乱で、駿河以東には、朝廷も中央の命もあったものではありません」
と、極力、言を大にした。そして吏事根性の常でもあるが、自己の無能を、天災時のような不可抗力のものに、見せようとした。
それだけでも、洛中は、不安に明け、不安に暮れた。上下、恟々と暮も正月もない有様だった。すると時も時、こんどは、南海の剽賊藤原純友を討伐に向っていた官軍が、大敗戦をまねき、備後介藤原子高が、海賊軍の捕虜になった──という不吉な報がはいって、堂上輩を、仰天させた。
「南海の賊と、坂東の大乱とは、別なものではない」
「純友と将門とは、かねてから気脈を通じ、軍を同時に挙げたものだ」
公卿百官の驚きようと、そして恐怖の声は、もう頂点という有様だった。
勅使は、奈良へゆき、叡山にむかい、また洛中洛外の山々寺々に命じて「逆賊調伏」の祈祷を修せしめた。
祈祷。──じつに、祈祷以外の処置も政策もない政府だった。
時に、太政大臣の藤原忠平も、もう齢六十をこえ、政務は多く子息の大納言実頼と、権中納言師輔にまかせきっている。しかし、将門問題については、この父子の意見が、一致していなかった。
「わしは、将門という人間を知っておる。愚直だが、佞奸ではない。よく、人に訴えられてばかりいるが、何かのまちがいであろう。いわんや、大それた謀叛などを企む男とは思えぬ」
これが、忠平の観ている将門であり、従来からの、彼の情勢判断の基調となっていたのである。
ところが、子息の実頼や師輔の考えは、まったく違う。
この二人は、貞盛の報告や、貞盛の訴えに、まったく同調していた。
「父君は、あまい。どこやら、もうろくしていらっしゃる」
「いや、むかし、わが家の青侍に置いたことのある将門なので……」
「うむ。人情、やはり肩を持ってやりたいのであろ」
「それもあるし、とかく、時勢にも、どこか、おうとくなられてもいるし」
そんなふうに、忠平の判断は、将門の肩持ちにすぎないもの、そして、老父が一片の私情であると、頭から決めてかかって、従来、幾たびかの対将門方針を選ぶばあいにも、「まあ、まあ」と、片づけておくだけで、これを朝議のうえでは、採らなかった。
で。──これまでの間、糺問使を派すにも、処断を下すにも、つねに、煮えきらないような中央の東国対策の裏面には、執政父子のあいだの、こういうもつれや、意見のくいちがいも、多々、原因をなしていたものにちがいない。
ところが、こんどは、捨ておけない。坂東の将門は、皇位を僭称し、みずから、いる所を、王城に擬し、左右の大臣を任命したり、一夜拵えの文官武官に、勝手な除目を与えて、その勢威は、ほんとうの天子のようだという噂が、都じゅうに拡がった。
これには、忠平も、暗然として「……ば、ばかな奴だ」と洩らしたのみで、もう将門については、一言も触れる容子はない。
「純友の平定には、さらに、援兵を急派し、摂津から兵船百艘をさし向けました。……が、将門には。……やはり討伐の軍には、誰かを以て、征夷大将軍に任命しなければなりますまいな」
兄弟が、老父の意見を求めると、忠平は、そっけなくいった。
「なに、軍の編成。そのような手続きは、分りきった事であろうが」
「しかし、征き人がありませぬ。誰も、それを望んでいないらしいので」
「朝命でもか」
「いえ、まだ、綸旨が下ったわけではありません。今は、人選に、迷っておるので」
「何を、ぐずぐずしておるか。廟議に諮れ。廟議に」
やがて、藤原忠文に、白羽の矢が立った。
すでに、一月に入っていたのである。忠文へたいし、征夷大将軍として、賊を平定せよとの勅命が降った。天皇おんみずから、南殿に出御され、忠文に、節刀を賜い、任命式が行われた。侍立の百官は、
「首尾よく、凱旋あれよ」
と、万歳を唱えて、それを歓送した。
副将には、藤原国幹、平清基など、東国の守や介が、任命され、そのほか筑波の羽鳥の良兼、良正の子や甥など──あの平公連、公雅といったような顔も、軍のうちに、見えていた。
征討軍が、都を発向したのは、一月二十七日であり、二月上旬には、もう大行軍の列が、東海の駅路を、東へ東へ、蜿々と、急いでいたはずである。
ところが、大将軍忠文を初め、副将国幹にも、全軍の将士にも、将門にたいして、どれ程な自信と意気があったか、甚だ疑わしい。
──というのは、都を立つ前から、かねて貞盛がいいさとしたり、また、坂東の国司たちが、逃げのぼって来ては、吹聴しちらした〝将門禍〟の誇張が、余りに効きすぎていた結果、将門旋風の波長は、今や、極端な〝将門恐怖〟をひき起し、将兵たちは、家を立つにも、駅路の軍旅のあいだも、将門将門と、口にするたび、悪魔に憑かれたような怯えを募らせていた。
いや、これはひとり、彼等の臆病風ばかりではない。西海には、純友、坂東には、将門が、暴れ出したと聞えてから、北越、信州地方にも、頻々と、騒乱の噂が立ち、現に、忠文以下の征討軍が行く道にさえ、その無政府状態が見られた。
駿河の国府は、炎々と、焼けていた。
「もう、将門の兵が、こんな方にまで、進出している? ──」と、一時は、大動揺をきたしたものだが、物見を出して、調べてみると、それは将門とはまったく無関係な富士の人穴辺に蟠踞している賊が、官衙や駅路の混乱につけ入って、働き出し、
「この分なら、俺たちにも、一国や二国は伐り取れるぞ」
と、急拵えの名分を唱えて、地方の叛兵と化したものであることが分った。
同国の袖ヶ崎の関や国分寺も、襲われている。
旅行者は絶え、駅路の長や役人も、みな逃げ去ったか、姿も影も見せない。──こんなわけなので、征夷大将軍忠文自身が、足柄ノ関へかかるのさえ、容易でなかった。
後に、彼らの軍が、いったい何をしていたのかと、大いに、世論から責められたのは、こんな理由からである。
こういう状勢は、けだし、東海道だけではなかったろう。文字どおりな「天下大乱」を、天下の人心が、自ら醸し、自ら求めていた。夜も昼も、いたるところに、暴徒騒ぎと、掠奪、焼打ちが、行われ、
「どうなるのか?」
と、善良な民をして、ただ右往左往、働く土地も、住む家も、食も失わせるような、悲しむべき日がつづいた。
「時は、来ました。これを救う者は、あなた以外にはありません。かねてのお約束を、今こそ、眼に見せてください」
下野国、田沼の郷、田原の館では、右馬允貞盛が、年の暮から正月にかけて、さいごの決断をうながしに来ていた。
秀郷は、なお、容易に、「うん」とは、いわなかった。老獪な彼である。完全な勝算の立つまで、腰をあげるはずがない。
──また、出兵するとしても、朝廷から任命されたわけではないから、彼としては、大きな思惑なのだ。火中の栗を拾うまいとするならば、恬然と、傍観してもいられる位置にあったのである。
その藤太秀郷が、どう思ったか、
「貞盛どの、常陸へ帰れ。そして常陸の維茂、為憲の父子と語らい、残兵を狩りあつめて、わしの出兵を待ち給え」
と、詳細なる策をさずけた。
貞盛は、そのとき、よろこびの余り、泣いて、老獪の姿を拝したという。
そして、貞盛は、押領使秀郷が、檄を発して、その一族と、下野一円にわたる兵力を、田沼へ召集するのを見届けてから、
「よし、この味方を、得るからには」
と、常陸へ、舞いもどった。──けれど、さきに、将門のために国庁を焼かれた藤原維茂、為憲などは、どこへ逃げ隠れたか、捕われたか、その兵も、全く四散し尽して、消息すらわからない。その間を、東奔西走して、とにかく、短時日のあいだに、常陸勢の再編成を遂げ、下野勢の新手を加えて、将門へ当ろうと計っていた貞盛の根気のよさと苦心の程も、また、生やさしい軽薄才子のよくなしうる業ではない。陰性な理智と、舌さきで立ち廻って来た彼も、今や一生を賭けた、底力をここにふるい出している姿が見える。
将門は、大宝八幡から、豊田の新館へ帰った後、二、三日というものは、馬鹿みたいに、寝てばかりいた。
まったく、身心ともに、疲れはてたという態である。
まる三日にわたる戦捷と、新年の大饗宴にも、余りに、飲みすぎていたが、何よりは、周囲の有頂天な雰囲気に、悪酔いしたにちがいない。
天皇にされ、新皇万歳だの、王城をどこにするの、左右両大臣以下の任官式──などという悪ふざけが、まだ、彼の後頭部に、むうんと、重たく、祟っているらしい顔いろである。
「さっぱりしない。どうも、気分が冴えぬ。岩井へ移ろう」
岩井の館は猿島郡だ。相馬から渡船で一水を越える地にある。船中で酒を酌みあい、寒いが、気は晴れてきた。昼も消えぬ霜の蘆荻の白々とした上に、筑波の山を──遠くをふり返れば、富士も見えた。
「兄者人。──常陸の蒜間辺に、敵方の残党が隠れて、何やら目企んでいるといいますぞ」
猿島へ上がると、将平、将文の兄弟が、彼を迎えるやいな、そう告げた。
「なに、残党が、うごいていると」
将門は、このところ、ひどく神経質になっていた。誰か、麾下の将をやっても足りそうな事なのに、
「すぐ、陣揃いを触れろ。おれも赴く」
と、いい出した。
豊田にいるより、岩井の館で、冬日を楽しむよりも、彼の心理は、今や、馬上の曠野の方が、かえって心が休まるもののようだった。──その日に、猿島へ立ち、南常陸方面の、那珂、久慈郡などを巡遊した。
事実、残党のうごきなどは、見られなかったので、庶民の眼からは、新皇の巡遊ぐらいに、見えたのであろう。そしてその行く先々では、将門が好むと好まないに関わらず、沿道の民が、道に平伏していた。郡司や府官は、堺まで出迎え、宿舎には、砂を撒き、白木の御所を調え、ここでも新皇あつかいである。
ところへ、彼の部下が、吉田郡の蒜間ノ江で、敵の一船群を見つけた。
といっても、戦闘にかかってみると、手にあう敵兵はいくらも出て来ず、それらの者を射尽して、あとの船を調べて見ると、女子供や老女みたいな者ばかりが、苫の下から曳き出された。
しかし、その中には、源扶の妻がいたし、貞盛の妻も、潜伏していた。一夫多妻の世なので、貞盛の妻は、都にもいるはずだが、この地方にも、妻室があったとみえる。
「これは、思いがけない獲物であったわ。貞盛の行方は、とんと、知れぬが……その妻とて、正しく、仇の片われ」
と、部将の多治員経や坂上時高などは、大いに誇って、彼女らを辱め、やがて、将門の前へ曳いて来た。
将門は、そうした敵将の女たちを見ると、どうしたのか、眼のふちを充血させ、鼻をつまらせたきり、ろくに、ものもいわなかった。──思うに、彼の愚痴な性情が、ふと、何かを思い出していたのではあるまいか。
彼の最愛の妻と、最愛の子も、かつて、陸閑岸のほとりで、同じような運命に漂い、敵兵の手にかかって、惨殺された。──はからずも、その敵の妻が、こんどは、自分の前にひきすえられている。
(桔梗よ、わが子よ、因果は、こんなものだ。お前たちだけが、悲運なのではない)
しかし彼は、眼のまえの敵将の女たちを、桔梗が受けたごとくに、また、わが子がされたように、刃を以て、なぶり殺しにする気にはなれなかった。
むしろその正反対な、憐れみすらわいて、つい、彼らしくもない一首の和歌をよんで、恨みの代りに、彼女らに示したと、伝えられている。その和歌は、
貞盛の妻は、泣きぬれながら、
と、返歌し、また、源扶の妻も、将門の情に、一首の和歌をよみ、共に、縄を解かれて、放たれたという、一挿話がある。
将門のような坂東男でも、多年、都に遊学し、右大臣家のみやびも真似ていた時代もあるのだから、生涯に一度や二度の彼の作歌があっても、べつだん、それだけを怪しむことはないが、しかし、この話は、たれか後世の将門びいきが作為したものではあるまいか。彼の歌も、貞盛の妻の歌も、何となく、そらぞらしい。巧拙はとにかく、そんなばあいの真情らしい余情もひびきも感じられない。
といって、将門が、彼女をゆるして放した事までを、すべて、虚伝とするのはどうであろうか。貞盛や扶の妻が、身のおきどころもなく、蘆荻のあいだを、漂泊していたなどの事は、当時の実情として、甚だ、ありそうなことだし、将門がこれを殺さなかったという郷土の伝説には、多分に、それらしい事実もあったものと思われる。
とにかく、彼は、こんな事で、むなしく一月末頃までを、空虚に暮していたのである。その間に、偽宮の造営を計ったとか、貪欲に人民の財物を集めたとか、兵馬の拡充を急いだらしい痕跡もない。うかつといえば、じつにうかつな限りだが、周囲や世上の渦が、どう彼を大野望家に仕立てようとしても、彼自身が内面に、そんな大それた企画もなければ、欲もないのだから、何とも仕方がない。おそらく、彼はなお、都へやった長文の自己弁解の上申が、忠平父子にとりあげられて──やがて朝廷から慰撫の使いでも来るものと、ひそかにそんな期待でもしていたのではあるまいか。そのため、貞盛の妻や、扶の妻なども、助けてやったのではないかと思われるふしもある。
ところが、彼にむくわれて来たものは、
「貞盛に、呼応して、田沼の藤原秀郷が、下野の兵四千をひっさげて、山越えに進軍してくる」
という寝耳に水の報らせだった。
「え、秀郷が。……間違いだろう? ……どうして秀郷が、この将門の敵にまわるわけがあるのか」
初め、将門は、信じなかった。
第二、第三の早馬がはいっても、疑っていた。
が、事実と、わかるや、彼は見得もなくあわて出した。秀郷の老練や、下野の武力には、脅威も抱いている。また、押領使たる彼の地位へも尊敬を払って、従来、秀郷の職能と一族の田野は侵害しないことに努めても来たのである。
それが、その秀郷が。
彼は、自分の敵と考えられる以外の人間は、すべて、味方ではなくても、善なる人間として、少なくも、万一のばあいとか、応変の危害など感じないで通して来た男である。──だから、こんな時、狼狽の色もつつまず、あわてふためいたり、極端に、こんどは、感情をあらわして、罵ったりするのを見ると、部下の眼にさえ、彼の魯鈍と、愚直さえ、はっきり見えた。頼みがいなき人物と、見えもした。
さきに、敵将の妻を放してやったことといい、この仰天ぶりを見て、その涙もろさや、人のよさに、いっそう心を彼に協せて、生死も共にという気を強めたのは、彼の一族中や、将士のうちでも、極く少数にかぎられていたろう。
ともあれ、急遽、対戦の策をたてた。
そして、多治員経、坂上時高らが、逆に、秀郷の本拠地に近い──阿蘇郡へむかって、進撃した。
出ばなを、叩かれた形で、下野勢の先鋒は、敗れては退き、戦っては破れ、後方へ潰走した。
員経や、時高らは、
「秀郷の手のうち見えたり」
と、気負い込んで、敵地へふかく這入りこみ、将門の本陣との連絡も欠いてしまったので、やがて、孤軍のすがたとなった。
秀郷は、部下に、やおら命を発した。
「さあ、これからだ。まず、目前の賊を、存分に、包囲して、一兵も余すな」
彼の、予定の作戦は、思うつぼに、はまったのである。──それからは、蓆を捲くような勢いで、下総へ、攻め入った。
一方。
貞盛と、為憲は、常陸、上総から同時に起った。序戦において、秀郷の術中に陥ちたがための、将門勢敗北の声は──その他の国々のうごきにも、大きな作用を起した。
「新皇は、しょせん、本皇には敵わないものだ」
「官軍につけば、他日、恩賞もあろうが、賊兵につけば、かならず、首はあるまいぞ。九族まで、重罰に処せられようぞ」
貞盛は、声を大にして、百姓のあいだにも、こういい触れさせた。
一戦ごとに、将門は、敗退をかさね、ついに、岩井ノ館一柵が、彼の余す防塁となってしまった。
猿島の館は、自分の手で焼き払い、ここにたて籠って、さいごの一戦を──と計ったのであるが、なんと、営中の兵をかぞえれば、わずか四、五百騎しか余していない。
これが、二月一日以来、わずか十日程な間の転落ぶりであった。
そして、二月十四日の朝。
将門は、その岩井を、すこし離れ、北を背に、陣を布いた。──敵は、われより八、九倍の大軍と見て、
「待つよりは、機を計って、敵の虚を衝け」
と、奇襲の構えを取ったものである。
その日は、ひどい烈風だった。日光颪が江の水にさえ、波濤をあげている。二月半ばの、蕭殺たる芦や荻は、笛のような悲調を野面に翔けさせ、雲は低く、迅く、太陽の面を、のべつ、明滅させていた。
と「将門記」にも見える通り、いわゆるこの地方特有な空ッ風の日であった。──将門が、奇襲法をとろうとしたのは、この天候の利用を考えたものと観てよい。
申の刻(午後三時)といわれている。
将門は、その手兵、全部をあげて、敵の大軍に近接し、射戦を仕懸けた。風向きは、彼に有利であった。いかに、十倍の兵力と、弓勢をつらねても、この烈風が味方しない以上、秀郷、貞盛の連合軍も、いたずらに矢を費い、手負いや死者を、積むだけであった。
乱れ立った敵陣のさまを見て、
「かかれっ。──貞盛の首、秀郷の首、二つを、余すな」
将門自身、馬を躍らせて、敵の怒濤のなかへ没して行った。あんな、涙もろい、鈍愚な、しかも事に当っては、うろたえたりする彼が、どうして、あんなに強いのか。強いという事と、日頃の侠気や魯鈍とは、べつなものであるのだろうか。将門の兄弟も、麾下も、驚いた。いや、励まされた。
貞盛は、馬をとばして逃げまどい、秀郷勢も、右往左往、荒野の雁の群れ、その物のような影を見せ、四散するのに、逸かった。
まさに、乱軍の状である。
いや、坂東の土が生んだ、将門という一個の人間の終末を、吹き荒ぶ砂塵と風との中に、葬り消すには、まことに、ふさわしい光景の天地でもあった。
将門はもう、将門という人間ではなくなっている。一個の阿修羅である。睫毛から髪の毛の先までの生命が、みな焔のごとく燃焼していた。勝ち誇った双眸である。血も血と見えない顔つきである。──せめてその前に、もう一個の貞盛という者を見たがっていただけである。荒ら駒の躍る背に、彼は、それだけを、探していた。
刹那──彼の顔に、矢が立った。
「…………」
何の声もなかった。
戦い疲れた顔が、兜の重みと、矢のとまった圧力に、がくと、首の骨が折れたように、うしろへ仰向いたと──見えただけである。
馬から、どうと、地ひびきを打ってころげ落ちた体躯へ向って、たちまち、投げられた餌へ痩せ犬の群れが懸るように、わっと、真っ黒な雑兵やら将やらが、寄りたかっていた。あっけなく、天下の騒乱といい囃すには、余りにも、あっけなく、相馬の小次郎将門は、ここに終った。
その陣没は、天慶三年、二月十四日。時に、年歯はまだ三十八歳であった。
何があっけないといって、史上では、将門の死ほど、あっけないものはない。
が、彼としては、精いっぱい、生きるだけ生き足掻いた事ではあった。
だが、彼が生存していては、自分の生存に都合のわるい人々が、彼を死へ急がせた。なぶり殺しにしたといってもよい程に。
この日、彼に殉じて、斬り死にした者、百九十七人というのが、後に、下野の国庁から都へ報告された数である。
彼の首が、都へついたのは、四月二十四日といわれ、遺骸は、江戸の庄芝崎村の一寺や、あちこちの有縁な地で、分骨的に葬られ、それが後世の塚や遺跡などになっている。死後には、案外、彼を慕い、彼を憐れむ者が、坂東地方には多かった証拠といえよう。
弟の御厨三郎将頼は、相模へ落ちのびる途中、追捕の手に打たれ、藤原玄明も、常陸で殺された。興世王は、上総の伊南で、射られた。
将平は、陸奥へ逃げ入ったともいわれ、将武は、甲斐の山中まで落ちながら、やはりまもなく命を終っている。しかし、それらの将門の弟たちの没命地にも、土地の人々の手厚い埋葬があったとみえ、みな地方地方で祠とか村社みたいな森にはなっている。
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江戸の神田明神もまた、将門を祠ったものである。芝崎縁起に、由来が詳しい。
初めて、将門の冤罪を解いて、その神田祭りを、いっそう盛大にさせた人は、烏丸大納言光広であった。寛永二年、江戸城へ使いしたとき、その由来をきいて、
「将門を、大謀叛人とか、魔神とかいっているのは、おかしい事だ、いわれなき妄説である」
と、朝廷にも奏して、勅免を仰いだのである。で、神田祭りの大祭を、勅免祭りともいったという。
旧、大蔵省玄関前には、明治頃まで、将門の首洗い池があった。また、日本橋の兜神社、鎧橋などの名も、みな将門の遺骸とか、遺物とかに、因みのあるものと、いい伝えられている。
そのほか、将門伝説は、関東地方一円にあって、挙げきれない程である。けだし、将門の子孫とか、坂東平氏の末流とかいうものが、この地方の土壌には、草分けの家々として繁殖して来た関係によることはいうまでもない。
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ここで、乱後、おかしなことは、征夷大将軍忠文の、凱旋ぶりと、論功行賞などの取沙汰である。
彼の正統な討伐軍が、坂東へ着いたときは、もう戦乱は、終っていた。それにたいし、秀郷が、どんなあいさつを以て、朝廷から節刀を受けて来た征夷大将軍をあしらったであろうか。前後の事情を想像してみても、興味ぶかいものがある。
忠文のばあいは、凱旋ともいえない帰還だった。そのせいか、都に帰っても、朝廷からは、忠文以下に、何の論功行賞もなかった。
忠文は、公卿の衆議にふんがいし、それを怨みに、憤死したなどという記事が「古事談」などに見える。
彼の憤死も、また、忠平の子息実頼が、その後、とかく多病がちになった事も、関係者の凶事は、みな、将門の祟りだといわれ出した。いや堂上ばかりでなく、一般が、将門天魔説にとり憑かれ、悪疫が流行っても、将門の祟り、風水害があっても、将門の祟りだと、一時は、口ぐせに、怯え慄えたものだった。
しかし、純友については、余り、あとの祟りは、いわれていない。彼も、やがて西海のもくずと消え、さしも、猖獗を逞しゅうした伊予の巣窟も、陥落してしまったが、あとの世まで、妙な陰影は残さなかった。──なぜか将門にたいするような人心の恐怖は残していない。これを見ても、将門の事件には、何かの無理があり、裏面的な事が行われ、あと味のわるいものが、世人の眼にも、うすうす、分っていたのではあるまいか。
忠文の始末は、さきにいった通りだが、押領使藤原秀郷には、将門の首が、まだ、都へも着きもしないうちに、彼への勲功叙位が、発せられている。
しかも、貞盛よりも、数等上の従四位が与えられたのだ。貞盛は、従五位下をもらった。
とにかく、神皇正統記などに、「平将軍貞盛、宣旨を蒙るによつて、俵藤太秀郷の官軍を引率して、下総へ発向──」などとある記事は、総じて後の粉飾である。後世の武門武家が、系図の上で、その家祖を、秀郷としたり、貞盛とあがめたりした関係から、箔に箔をつけてゆくうち、史上の英傑のように称えられて来たものといってよい。
だから、秀郷、貞盛などは、今日まで、どんな美名をもって来たところで、それは偶像であって、ほんとの人間そのものではなかった。しかし将門は、今でも人間そのままを感ぜしめる。天慶以来、一千年。大逆人の濡れ衣を着せられて来たが、もう彼の偽官だの僭上説を、真にうける人はいない。やはり、さいごは、裸の彼が、残ったともいえる。裸は尊い。いや、裸以下には正味の価値は下がらない。
世に弄ばれた将門とは反対に、世を弄んだ不死人のごときは、どうしたろうか。南海の賊も、討伐されたので、彼の帰る塒はもうなかったろう。都の秩序も、いつまで、彼らの跳梁に都合のよい状態を持続してもいなかったであろうから、そのはてはおよそ知れている。世を弄ぶつもりの彼や純友一味の輩も、結局は、時代の風に、片々の影を描いては消え去る落葉の紛々と、何ら異なるものではなかった。
底本:「平の将門」吉川英治歴史時代文庫、講談社
1989(平成元)年5月15日第1刷発行
1989(平成元)年7月20日第3刷発行
初出:「小説公園」六興出版社
1950(昭和25)年新春号~1952(昭和27)年2月号
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
入力:川山隆
校正:トレンドイースト
2014年4月24日作成
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