大岡越前
吉川英治
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「犬がうらやましい。ああ、なぜ人間なぞに生れたろう」
冗戯にも、人間仲間で、こんなことばを聞くことが近年では、めずらしくもなくなった。
笑えるうちは、まだよかったが、この頃ではそんな冗戯が出ても、笑う者もなくなった。
「何しろ、怪ッ態な世の中になったものです。お犬様には、分るでしょうが、人間どもには何が何だか、わけが分りませんな」
これは、庶民とよぶ人間の群の、一致していうことばだったが、人々のあたまの中は、言葉どおりに、一致してはいなかった。こういう時代の特徴として、各〻の思想も、人生観も、三人よれば、三人。十人よれば、十人十色にちがっていた。世にたいする考えも、自分というものの生かし方も、皆、まちまちで、ばらばらで、しかも表面だけは妙に、浮わついた風俗と華奢を競い、人間すべてが満足しきッてでもいるような妖しい享楽色と放縦な社会をつくり出していた。
夏の夜である。──元禄十四年の盆すぎ。
蛍狩りでもあるまいに、淀橋上水堀の道もないあたりを、狐にでも化かされたような三人男が歩いていた。
「おいおい、大亀。待てやい。待ってやれよ」
「どうしたい。阿能十」
「味噌久のやつが、田ン圃へ落ちてしまやがった。まっ暗で、引っ張り上げてやろうにも、見当がつかねえ」
「よくドジばかりふむ男だ。味噌久はかまわねえが、背負わせておいた御馳走は、まさか田ン圃へ撒いてしまやアしめえな」
べつな声が、闇の中で、
「ええ、ひでえことをいう。ふたりとも身軽なくせに。すこし荷物を代ってくれやい」
と、田の畦を、這い上がっているようだった。
大亀と阿能十は、おかしさやら、暗さやら、わけもなく笑いあって、
「まあ、そういうなよ。目ざす中野はもうすぐだ。辛抱しろ、辛抱しろ」
「だが、着物の裾をしぼらねえことにゃあ、どうにも、脛にベタついてあるけもしねえ」
「阿能。泣きベソがまた泣いていら。そこらで一ぷくやるとするか」
小高い雑木林の丘に、男たちは腰をおろした。
三人とも、二十歳から三十前。ふたりは、浪人風であり、ひとりは町人。そしてその味噌久だけが、何やら臭気のつよい包み物を首に背負っていた。真夜中、街道もあるのに、わざわざこんな闇を、この変な荷物をたずさえ、一体どこから来て、どこへ行くのか。これも時代の生んだ〝分らない物づくし〟のうちに入る巷の一組とでもいうのだろうか。
どう人間を信じたらいいのか。どう世の中を考えていいのか。また、どう自分を生かしてゆくのが真実なのか。元禄の当代人には、厳密にいって、たれにも分っていないらしい。それを明らかにしてよく生命を愛しんでいる人間などは、寥々たる星のごときものであろう。
ことに、若い者には、刹那的な享楽をぬすむほかは、なんの方向があるでもなく、希望もなかった。いまよりはまだ健康な世代といわれる寛永から万治までの世を知っていないかれらには、前期との比較がないので、慨嘆もなく、煩悶もせず、易々と、自堕落な世に同調してゆけるのもある。町で売っている刷り物の〝当世分らない物づくし〟などを見ても、ある年齢層以下では、その分らない物づくしの諷刺がすでに分らなかった。
「こう、阿能十、あれ見ねえ。こんな御府外からでも、堺町の夜空がぼうっと赤く見える」
「ほんに、今ごろは、芝居小屋も蔭間茶屋も、灯の色に染まっている頃だろうて」
「よせやい阿能。アアいけねえ、ここらは虫の声ばかり、女の顔をおもい出すと、今夜の先が急に恐くなってきた」
「兄貴らしくもねえことを。……なあ、味噌久」
「そうだとも。そっちが弱音をふいたひにゃ、この久助なざ、なおのこと、ここらでお別れと願いたくなッちまう」
「ばかをいえ」
阿能十は、ここぞと強がった。
あばた顔の大亀が、この仲間では、年かさで、体つきも頑丈だが、小柄ながら阿能十には、武家息子らしい風骨と敏捷さがある。
「今夜のことは、おれの発議だ。まちがっても、大亀にもてめえにも、ヘマを喰わせてすむものか。おれがいる。さあ行こうぜ」
阿能十は、頬被りを解いて、ぽんと払って、顔に被り直しながら、長い刀に反りを打たせて立ち上がった。
色街でもない真ッくら闇を、いつもの癖で、阿能がイヤに気取って歩くのをうしろから見て笑いながら、あばたの大亀も、のそのそと味噌久を中に挟んで歩き出した。
だん畠の傾斜地を下り、谷をわたって、向うがわの丘へ上がる。そして雑木林の細道を半里ほども行くと、いんいんとして犬の遠吠えが聞えてきた。一頭や二頭ではない。何百、何千ともしれない群犬の声である。それが谺して、一瞬この世の声ともおもえぬ凄味に夜をつつんだ。
「お、あれだ、お犬小屋は」
「ちがった人間の臭いがしてくると思ってか。もう吠えたてていやがる。気をつけろよ」
遠吠えは、まもなくやみ、三人はまた道をさぐった。
林を出端れると、高い板囲いにつき当った。夜目にはただ長い長い塀の線が果てなく闇を縫っているとしか見えない。世に聞えた中野の原のお犬小屋というのがこれらしい。
「しッ。もどろう。そっちへ行くと、番所の明りがさしている」
「いや、犬になって行け。犬になって」
「ど、どうするんだ。犬になれとは」
「こうよ。こうやって……」
と、阿能は、四ツん這いになって、柵門の際を、先に通ってみせた。
大亀も、味噌久も、それに倣って、通り越し、番所の灯をふりむいて、声なく笑いあった。
目的にかかり出した。味噌久に背負わせて来た風呂敷には、犬どもの食欲をそそるにちがいない魚肉の揚団子が大きな魚籠にいっぱい入っていた。味噌久を踏み台にして、阿能十が板囲いの内をのぞく。そして大亀の手から揚団子をうけ取っては、つぶてのように中の広場へそれを撒いてあるくという段取だ。
「阿能さん、もう品切れだぜ」
「なくなったか。よし」
と、味噌久の背をとび降りて、
「──夜明けを待とう。どこかそこらの木の上で」
と、あたりの喬木を見まわした。
「ここらが、手頃」
と、阿能十は、高い赤松の梢をめがけて、もうよじ登っていた。
大亀も、隣の大木へ登りかけたが、ふと、味噌久のうろうろ姿を見て、
「おい、久の字。ここらで帰るがいいぜ。あしたの午まえにゃ、いつもの所へ、阿能とふたり、空ッ腹で行くから、お袖にいって、美味いもので、飯のしたくをさせといてくんな」
するすると、彼の影は、もう木の上の梟だった。
ここまでのつきあいが、精いッぱいの辛抱だった味噌久は、大亀にそういわれると、元気づいて、
「ほい、心得た。じゃあ、お袖のうちで、待ちあわせているぜ」
彼のすがたも、夜鳥に似て、江戸府内の方へいちもくさんに消え去った。
夏のみじか夜とはいうが、梟のまねして、木の上にとまっているふたりには、それからの空がひどく長い気がした。
「阿能。寒いようだなあ」
「ウム。洒落た涼みだ」
「寝られるかい。少ッたあ」
「寝たら落ッこちるだろうと思ってよ」
「おれたち、人間の先祖は、穴に住む以前は、木の上に寝たんだそうだ。寝られねえわけはねえが」
「それで読めた。いまの地上では、お犬様をはじめ、畜生どもが、人間以上にあつかわれ、おれたち人間は、木の上で寝る。──なるほどなんのふしぎもありゃしねえ。これやあ、大昔に返っただけのことだ」
「ははは。そうかもしれねえ」
この暗天の笑い声も、もし聞く者があったら、異様な感にうたれたろう。しかし、これも世が人にさせてる一つの業にはちがいなかった。
いわゆる元禄若衆姿というものは、風俗画的に見れば優雅にして艶なるものだが、社会史的に見れば、時の不良青少年の競った伊達にほかならない。
何しろいまは不良が多い。というよりは、天下不良に満つである。柳営の大奥にすら、不良少女不良老女がたくさんにいる事実を江戸の人々は知っている。
ときの将軍家、五代綱吉。この人の不良も庶民は知りぬいている。
いま、閣老随一のきけ者といわれ、同じ老中の酒井、阿部、大久保、土屋などをも、意のまま操縦しているという柳沢吉保なども、側用人の小身から、破格に成り上がった不良の大なるものだという。
とまれ、上下とも、多少の不良性をおびない者はなく、真ッ直に世を歩けば、この春の、浅野内匠頭になるとは──あの事件についても、世間のよくいったことだった。
そして、いまの世間の特徴は、どんな政令が出ても、もう悪政には驚かない──という麻痺状にあることだった。
慨嘆の聞かれる時代は、まだ多少健康な時代といいうる。それを聞くには、時人はもう余りにも現世的な快楽主義に惑酔し、成りゆき主義に馴れすぎていた。──だから、寛永、慶安などの前期をおぼえている古ぼけた老人などが、時に、抜け歯のあいだから、ぼそぼそこういうぐらいにすぎなかった。
「まだまだ島原の孤城に、十字架旗をたてて、天下の軍勢をひきうけるのがいたり、由井正雪とか丸橋みたいな男が出て、成らないまでも、徳川に叛骨を示してみるような輩がいた時代は、世の中が、何かを求めて、人間の自堕落を、ゆるさぬとしていたのじゃよ。腐るものに、腐らぬ作用をしていたのじゃ。──それが、元禄となっては、人間が犬より下におかれても、蓆旗一つ振るやつもない。上も下も男も女も、狎れあって、みじかい命のあるかぎり、この世を畜生道にたたき込みおる。悪政家には、わが世の春じゃろう」
悪政のうちでも、新貨幣への切り換えと、生類御憐愍みという二法令ほど、急激に世を悪くし、時人を苦しめたものはない。
さしもの幕府の庫の金塊も、放漫な経理と、将軍綱吉や、その生母桂昌院の湯水のごとき浪費とで、近年は涸渇に瀕してきたのである。そこで、通用中の古金銀を、すべて禁止し、一たん民間から回収して、金には銀を加え、銀には錫を混ぜて、新貨幣を発行すれば、手つかずに、天下の通宝が、幕府の手にあつまる。──という献策をして、俄然、登用され出してきたのが、勘定奉行の荻原近江守重秀であり、かれの背後には、柳沢吉保があった。
柳沢、荻原らが、その間に、私腹をこやし、新貨幣の威力をもって、さらに悪政閥を活溌にしたのはいうまでもない。悪貨の増発は、物価をハネあげる。物価の狂騰はまた貨幣の濫発をやむなくする。それにたいし、幕府は追っかけ追っかけ節約令や禁止令をもって、庶民生活を抑圧した。食うこと、寝ること、住むこと、着ること、観ること、歩くこと──極端にいえば一ぱいの飯茶碗の中にまで制令を布いた。
そのくせ、五代綱吉は、臣下の柳沢吉保の招待をよろこんで、年に何回となく、その邸へ臨み、その宴楽がまた──この世をばわが世とぞおもふ──と歌った藤原道長の栄華もおろかな程なものであった。
その日は、綺羅盛装の諸侯も相伴の列に伍し、蜿蜒の遊楽行は、忙しい都人の往来を遮断した。吉保は、一門一族をあげてこれを迎え、歓楽つきて、秘室、伽羅を焚きこめた屏裡には、自分の妻妾でも、家中のみめよき処女でも、綱吉の伽に供するのを否まなかったとさえいわれる。
綱吉の〝柳沢お成り〟は、五十数回にも及んでいたが、吉保はなお、将軍の生母桂昌院をも、いくたびとなく招待した。
しかし彼女には、そこの御能見物や、美酒美女よりも、護国寺詣りのほうが、はるかに興味があったらしい。虚栄と、迷信と、綱吉にたいする盲愛ほど、彼女をとらえるものはなかった。
なべて、彼女は盲情家だった。
綱吉を盲愛し、吉保を盲寵し、また、護持院隆光を盲信した。
護持院の七堂伽藍は、彼女が黄金にあかせて、寄進したものである。その普請中、不念入というかどで、最初の奉行、棟梁、小普請方など、幾人もの者が、遠島に罪せられたほどやかましい建立であった。そのときまだ一側用人だった吉保が、次の奉行となって、お気に入ったのが、彼の今日ある立身の緒であった。それにみても、かれと隆光と桂昌院との、大奥における女謁政治が、以後、どんなかたちで育ち、三人のみの秘密が愛されてきたかがわかる。
暗君、暴君は世界にも少なくないが、まだかつて、どこの国の悪政史にも見ない──生類御あわれみという、奇異な法令が、とつとして、発せられたのも、それからのことであった。
〝生類御憐愍令〟
この発令は、貞享四年正月であった。以後、この法律は、綱吉の死ぬまで、足かけ二十三年間解かれなかった。人間が畜類の下におかれた受難期である。
いま、元禄十四年は、その発令から十年めにあたっていたが、まだ人間は、その法に、馴れきれなかった。
猫に石を打つけた、鼠を河へ捨てた、蛇の黒焼をかくれて服んだ、雀の巣を落した、うなぎの蒲焼を密売した、病馬に薬をのませなかった、犬医者に奉公するのを嫌がった──無数の罪科罪名によって、立法以来、今にいたるまで、都下全国にわたって、一日何百人という人間の打首、遠島、入牢、重追放が科せられない日はなかった。
「いったい、蚊をいぶしたり、たたいたりは、どうなるんだい?」
「きまってら。いぶしたやつは、松葉いぶし。たたいたやつは、百叩きよ」
「じゃあ、蚤もつぶせねえの」
「そうさ。へたに蛍やきりぎりすなんぞ飼うと、永牢だろうよ」
江戸の庶民は、法の重圧や、疾苦を、こんな冗戯や洒落でまぎらす術のみ知って、「なぜ人間が」とは考えなかった。
そして、落首や戯れ絵で小さな反逆の中に遊びながら、犬を、犬と呼び捨てにせず、「お犬さま」と敬称するのを忘れなかった。
幕府も、お犬さまは、諸生類の最上級において、禁令条項のうちでも、特別に犬は重視した。
将軍綱吉が、戌年生れだったからである。また、綱吉の若年の名は、右馬頭といっていたし、館林侯から出て、将軍家を継いだ天和二年も、戌の年だった。
こんなつまらぬ暗合も、護持院隆光にとっては、大いに用うべき偶然事だった。かれの献策は、まず迷信家の桂昌院を信じさせ、桂昌院は将軍を説いて、ついに法令化となったのである。
時の人、太宰春台は、その著「三王外記」のうちに、這般の事情を、こう書いている。
法令は、人間どもを、驚かせた。いや、まごつかせた。しかも、徹底的に厳行され、寸毫も、仮借されなかった。
違犯第一にあげられたのは、その年の春さき、持筒頭の水野藤右衛門の配下が、門に集まった鳩を礫で落したという科を問われ、藤右衛門は免職、与力同心はみな蟄居させられた。
同じ年の二月、御膳番の天野五郎太夫は、遠島になった。これは本丸の御膳井戸へ猫が落ちて死んだのを問われたのである。
また、夏の初めごろ。
秋田淡路守の下屋敷の軽輩が、吹矢で燕を射たことが発覚し、しかも、将軍家の御忌辰に、法令を犯したとあって、夫婦ふたりとも、斬罪に処せられた。
あとで沙汰にされた噂によると、この軽輩の士には、まだ幼い愛娘があり、その娘の重病に、燕の黒焼をあたえればよいと人にきかされて、親心からつい禁を犯し、この酷刑をうけたものということだったので、聞くひとはみな悪法を呪い同情のなみだを禁じ得なかった。
これらの例は、法令が出たばかりの僅々四、五ヵ月のうちに起ったことで、その一年だけでも、江戸市中や諸国であげられた違犯者の数は何千人かわからない。
〝生類おんあわれみ〟は結果的に〝人民虐待令〟であった。
法令は、年ごとに、微に入り細に入って、小やかましい箇条を加え、鷹匠、鳥見組の同心は、ことごとく御犬奉行や犬目付へ転職になり、市中には、犬医者のかんばんが急にふえた。
石を投げた子供が、自身番へしょッ引かれて、その親が、犬目付の告発にあい、手錠、所払いになるような小事件は、一町内にも、毎日あった。
日常、牛馬をつかう稼業の者からは、特に多くの違犯者があげられた。牛馬に鞭を振ったとか、病馬を捨てたとかいうだけの理由で、死罪、遠島になった者も少なくない。
幕府の主旨は、すべて人民は、将軍家のみならず畜生にも仕え、もし畜生の病み傷つくときには、人間の子に喰わせる糧はなくとも、女房に着せる衣はとぼしくとも、質をおいてでも、犬医者をむかえ、薬療手当をしてやらなければ、掟に問われ、厳科に処せられるぞ──といわぬばかりである。
──犬になりたい。犬がうらやましい。
疾苦の民は、心からいった。
死罪、遠島、重追放などの、家を失った数々の人間の子は、必然、浮浪者のなかまに入り、また、良家の子弟ではあっても、世のばからしさ、あほらしさから、犬になりたい仲間も殖え、両々相俟って、糜爛した時粧風俗とともに、天下不良化の観をつくった。
深夜。中野の原のお犬小屋をうかがい、揚団子を撒いて、木の上に夜を明かしていた大亀や阿能十なども、いずれは、こうした時代の子にはちがいない。
お犬小屋は、大久保、四谷、その他、府外数ヵ所にあったが、中野が最も規模が大きかった。
犬は仔を産むし、多産だし、しかも十数年来、太鼓の製皮も禁ぜられてきた程なので、その繁殖率は、たいへんなものになっている。
世上の違犯数も、当然、それに準じて増すばかりなので、さすがの幕府も、犬目付も、法の厳励を期すには、いまや悲鳴をあげないでいられない。
そこで、市中の飼い主のない犬は(官に媚びる者でもない限り犬を飼う物好きもなくなったが)──見つけ次第、これをお犬小屋にあつめて、官費で飼育する案をたて、もと鷹匠番の尾関甚左衛門を支配に、犬与力、犬同心などの役職をおき、その下に、お犬仲間百余名を使役して、この中野に一大犬舎を新設し、数千頭を飼育しているのである。
このため、勘定奉行の荻原近江守は、八州の代官に下知して、高百石について一石ずつの犬扶持を課し、江戸の町民へは、一町ごとに、玄米五斗六升の割で、徴発を令した。
犬一疋、一日の供食には、白米三合、味噌五十目、干鰯一升ずつ──日によって物はちがうがこの程度である。だから中野より規模が狭かった大久保小屋の消費高でも、犬に喰わせる一日料の米、三百三十石、味噌十樽、鰯十俵、薪五十六束という記録がある。その大久保の所用地面積は、二万五千坪で、中野は十六万坪もあったというから、ここでの犬の消費料は知るべきである。
家なき人間の子は、市井にも山野にもみちているが、もし一頭の犬でも病んだらものものしい。「時世風土記」の記事など見ると、
悪政にたいする世間沙汰をあげたら限りがない。──とまれこれは、人間が人間を苦しめていることだったが、一介の浮浪人、大岡亀次郎にも、阿能十蔵にも、その人間に抗議する力はない。意気もない。
(ひとつ、お犬小屋を、ひッくり返すような目にあわせて、犬公方や犬役人どもに、泡をふかせてやろうじゃねえか)
と、いうのが、今夜の目的であり、そこらが精いッぱいの義憤だった。
これは阿能十──阿能十蔵のいい出しである。かれの父、阿能静山は、朱子学派の一儒者だったが、あるとき聖堂の石段で、いきなりワンと噛みついてきた赤犬を、意識的にか、思わずか、蹴とばしたので、家に帰るやいな、捕手を迎えぬうちに、切腹してしまった。息子の十蔵は、出先で捕まり、遠島送りになったが、途中、夜に乗じて、遠島船から海へとびこみ、江戸へ舞いもどって以来、自暴自棄な野性の生活力を逞うしている男だった。
大亀の──大岡亀次郎のほうは、ちと身の上もちがうが、いまの境遇と気もちとは、まったく同じだし、どうせかれも、何をやってもやらなくても、ひとたび捕吏の手にかかれば重罪は知れきっている体なので、
(おもしろい。──知らアん顔して、あとの騒ぎを見てやろう)
と、すぐ相談は、まとまったのだ。
親は深川の味噌問屋だったが、古金銀の隠匿で闕所になり、浮浪の仲間入りしている味噌久を、口のかたい男と見て、鼠捕り薬を入れた揚団子を背負わせ、人目につかぬ道まで苦労して、はるばるその決行に来たのだった。
……チチ。チチ。チチ──
「おい。大亀、大亀」
「なんだい、阿能」
「見や。うッすら、東の方が、明るくなりかけて来たぜ」
「明けたか。おれはとろりと、寝ていたらしい」
「いい度胸だの。……あっ、おい。出て来た、出て来た」
「えっ、何が」
「何がって、犬の群れがよ」
「おお……。ふふん、来る来る」
樹上のふたりは、一望に見える囲い内へ、そこから眼をこらしていた。
十六万坪の原には、数多い犬舎も、点々と、朝霧の海の小舟みたいでしかない。
──と、官舎から出て来た膝行袴ばきの犬役人や犬仲間が、諸所の犬舎を開け放った。驚くべき犬の大群は、朝の運動に堰を切ッて流れ出し、やがて戯れ狂いながら、朝霧の土を嗅ぎまわりつつ散らかった。
「あっ、食った。大亀、見ろ、見ろ」
「叱ッ」
「あ。ほんとだ。食ってる。食ってる」
「阿能、静かにしろよ。あんまり伸びあがると、おめえの松の木がゆさゆさ揺れて、遠くからでも気どられるぞ」
かれらが夜のうちに撒いた揚団子は、あっちでもこっちでも、犬どもの嗅覚に争われ、むさぼり合う闘争の吠え声がつんざいた。
そのうちに、けんッ! と異様な啼き声とともに、二、三頭がくるくると狂い廻って、あらぬ方角へ、矢のようにすッ飛んで行ったかと思うと、バタ、バタとつづいて仆れた。
「やっ。やっ?」
犬同心も、何か、絶叫し出した。
「阿能っ。──逃げろ」
「ええっ、畜生。胸がすうとした。──大亀、逃げッこだぞ」
ふたりは、猿のように、辷り下りた。
もうことばを交わしてなどいる暇はない。どこをどう駈けたかもわからない。
大亀は、練馬へ出てしまっていた。板橋街道から本郷森川口の方へ向ってくる所で、初めて阿能は? ──と見まわしたが、どこでわかれてしまったか、かれの姿は前にも後にも見えなかった。
久しい殺生禁断で、河岸すじの稼業はあがったりである。魚鳥の禁令は、犬ほどではないが、川魚までが、美味なのはたいがい禁制項目に入っている。漁師、漁具屋、釣舟屋など、みな商売にならない。
が、裏には裏があり、闇舟屋も闇漁師もいるらしい。屋敷すじへもそっと入るし、料亭はみな精進を看板にしているが、すずき、鯛、ひらめなどの鮮魚を欠かせる家はない。
で、京橋尻の河岸ぞいなどは、一時はさびれ果てたものだが、近頃では、また、たそがれれば裏の川面へ、かぼそい灯のもる家もぼつぼつふえていた。
「久助さんてば、嘘ばかりおいいだね。ふたりとも、影も形も見せやしないじゃないか」
お袖は、行燈へ灯を入れながら、ふと、朝からそこにおいてある蝿除けをかけたままの膳を見て、味噌久へ、舌打ちしていった。
味噌久は、三ツになるお袖の子のお燕をあいてに遊び相手になりながら、物干し台で川風にふかれていた。
「ほんとに、どうしたんだろう。もう、日が暮れるっていうに」
ゆうべ別れた大亀と阿能のあれからを想像して、味噌久はふと夕雲に、不安な眼をあげた。
「さ、お燕ちゃん、お行水を浴びようね。いいお子だから。……ネ。ネ。おしろいつけてきれいきれいに、お化粧しましょ」
お袖は、子どもを抱きに来た。そして台所の軒下に、雨戸を横にして囲った盥の湯へ、自分も帯を解いて白い肌をかくした。
夕闇にこぼれる、湯の音にまぎらして、
「オオ、きれいにおなりだこと。こんなよいお子になったのに、お燕ちゃんのお父さまは、なぜこんな可愛いお顔を見に来ないんでしょ、お燕ちゃんも、お父さんに会いたかろうにね」
聞く人もなしと思ってか、若い母親は、無心なこと神のような肉塊をあいてに、心のうちのものを、戯れのようにいいぬいていた。
物干しのてすりに暮れ沈んでいた味噌久は、小耳にはさんで、身につまされ、
「……むりもねえ。そうだろうなあ」
と、口のうちで呟いた。
「十七で、あの子を産んで、あの子がいま三ツ、お袖さんは、まだ十九歳。──かわいそうだなあ、母親になるのは、若すぎらあ」
膝の蚊を、ぴしゃっと叩いて、かれはまた、やかましい禁令のことを思った。もしや、ゆうべの二人は、やり損なって、捕まったのではないかとおもい、じっとしていられなくなった。
「オヤ、久助さん、どこへ出て行くのさ」
「ちょっと、見て来ようと思って」
「行水が空いたよ。ざっと、ひと浴びはいらない?」
「それどころじゃねえ」
久助が出て行ったので、彼女は夕化粧をし、お燕の額にも、天花粉をたたいてやっていた。
そのとき、門口で、コツコツと、杖の音がした。
「あ。お父さん、お帰んなさい」
「帰ったよ。暑かったのう、きょうも」
導引の梅賀は、頭巾をとって、お袖にわたした。六十にはとどくまいが、年のわりに、頑健な骨ぐみをしている。とくい先から帰って来たつかれも見せず、すぐ行水の盥に身を浸け、ああ極楽──と、ひとりごとを洩らしていた。
「お袖さん。ちょっと、もういちど耳を」
小声だが、あわただしげに、外から戻って来た味噌久が、土間の暗がりに、身をすくめてさし招いていた。
「なにさ。顔いろを変えて」
「なんとなく、気になるので、その辺まで、ちょっと出てみたら、いやもう町はえらい騒ぎなんで」
「なにがさ。よく落ちついて話しておくれな」
「だから……今朝、あっしが、極密に、お袖さんだけにはと、そっと話したじゃありませんか」
と、うしろの戸口をキョトキョト見て──
「お犬小屋の一件さ」
「あ。あのふたりのことかい」
「やったらしいんで。……もう町じゃ、その噂やら落首やらで、あっちでもこっちでも、近頃にない気味のいいことだ、やったのは、町奴か、旗本か。イヤ、ふだん空威張りばかりしている奴らにそんな気のきいたまねができるもんか、これは天狗業だろうなんて、町の衆は溜飲をさげてみんなその話で、持ちッきりに沸いているのさ」
「そうだろうね」と、お袖も、ニコと笑った。
「じゃあ、この春殿中で、浅野様が吉良上野介を刃傷したときのような騒ぎかえ」
「まさか、それほどでもありませんがね。しかし、腹ん中じゃ、あの時よりも、こん夜のほうが、誰でも胸をスウとさせていましょうよ。──だが、戌年の犬公方も、戌年の柳沢吉保も、面当てを喰ったようなもので、どんなに怒ったかもしれますまい。そのせいか、町はどこの番所も、犬目付や町奉行の手が総出で、往来を睨んでいるし、川口はどこの川筋も、夜明けまで、船止めだといっている。──あっしも、足元の明るいうちに、堺町の盛り場へ行き、楽屋者の中へまぎれこんでいますから、もし二人がここへ来たら、そういっといておくんなさい」
「アア、いいよ。……だが、そんなに手配が廻っては、あの人たちも当分、ここへは寄りつけまい」
「梅賀さんにも、耳打ちしておいておくんなさい。じゃあ、そのうちまた」
いちど飛び出したが、味噌久は、また、あたふた戻って来て、
「お袖さんお袖さん。なんだか町調べの役人や手先が、こん夜は、川筋の軒並みを洗ってあるいているそうだ。気をつけねえといけないぜ」
早口に注意して、どこともなく、宵闇のうちへ掻き消えた。
導引の梅賀は、湯から上がった体を拭き、浴衣、渋団扇のすがたになって、
「お袖、阿能と大亀が、とうとう馬鹿を、やったらしいな」
「いまのを、聞いていたんですか」
「なあに、客先の茶屋で療治をしているうちにもう、噂は聞いていたのよ」
「捕まったら、獄門でしょうね」
「油煎りになるかもしれねえ。金にもならねえことを。粋狂なやつらだ。──お袖、飯をくれ」
飯茶碗を持ちながら、梅賀は、ちらと、そこにうたた寝しているお燕のあどけない寝顔を見て、
「こいつの父親というやつも、気のしれねえ男のひとりだ。今どきの若いやつらは、お犬様にかぶれて、生ませッ放しをあたり前にしていやがる」
「ま。そんな、ひどいこといわないでも」
「ふ、ふ、ふ。……お袖。こんなに薄情にされても、てめえはまだ市十郎を待っている気なのかい」
「だって、しようがありませんもの。あちらはやかましいお屋敷の部屋住みという御身分だし」
「笑わせやがる。市十郎は養子だぜ。きまった家つきの娘もある」
「でも、わたしとは子を生した仲。わたしに誓って下すったことばもあります。五年でも、十年でも……」
「待つというのかい。おそれ入った貞女だなあ」
「大亀さんとは、従兄同士、きっと今に、連れて来てやる、会わせてやるともいってくれていますから」
「そいつあ、当てになるまいよ。なるほど、大亀と市十郎とは、親戚かもしれねえが、身寄りはおろか、どこへだって、拙者は以前大岡亀次郎と申した者でござるとは、名乗って歩けねえ日蔭者だ。……といやあ、お袖もおれも、同じ日蔭の人間だが」
畳に落ちた涙の音が、ふと耳を打ったので、梅賀も、箸と悪たれを措いてしまった。
近所の者でも、梅賀は盲とたれも信じているが箸のさき、またさっきお燕の寝顔を見た眼ざし──少しは見えるらしいのである。
ふたりの話しぶりも、どこかほんとの親子らしくない水くささがあった。これは近所でも感づいているが、養女と聞いているだけで、深い事情を知っている者はない。
お袖のまことの父は、秋田淡路守の家来で、わずか五十石暮らしの軽輩だった。お袖がまだ五ツの年、大病して、医者にも見離された折、その病の薬には、燕がよく奇効を奏すと人から教えられ、吹矢で燕を射たことが発覚し、あいにくその日が、将軍家の忌辰にもあたっていたので、夫婦ともに、斬罪という憂き目にあった人だった。
縁につながる身寄りもみな、それぞれ罪に問われて、世を去り、離散して果てたが、お袖はかえって人の手に病も癒え、その代り、身は転々と世路のつらさを舐めて、早くから水茶屋の茶汲み女に売られたりした。
十七。かの女は、恋を知った。
その頃、よく水茶屋へ通って来た、若い武家息子たちのうちの一人に。
赤坂辺にやしきのある大岡市十郎と名も初めてのときから覚えた。
その市十郎を連れて来たのは、従兄の大岡亀次郎で、亀次郎の方が、二つ三つ年上でもあり遊蕩も先輩だった。
(とり持ってやる)
と、亀次郎が、あの夜ついに、導引の梅賀の家を借りて、灯もない一間へ、若い男女を置き放しにして帰ってしまった。
梅賀は、おもて向きは、按摩療治をしているが、実は、したたかな悪党で、世間の信用を利用して、ここかしこの穴を見つけ、悪い仲間にゆすらせたり、泥棒の上前をハネたりしているような男だった。
が、老賊の老巧で、やりたい贅沢は、年に何度か、伊勢詣りの、検校の試験に上洛るのだと称して、上方へ行って散財し、江戸では、導引暮らしの分を守り、決して尻ッ尾をあらわさない。
しかしその家は、自と、悪い仲間の巣になって、不良の若いのが、彼を頭目のようにしてよく集まった。
亀次郎は、疾くからここの仲間であり、若い命を、女、酒、ばくち、悪事の火遊びにすり減らしていた。
従弟の市十郎も、うかと、ひッぱりこまれたのである。気がついたときはもうおそい。お袖とはできていたし、養子の身なので、養家にたいし、それは怖ろしい弱点であった。
悔いは、かれの良心をさいなんだが、お袖との逢引は、苦しむほど、悪を伴なって偸むほど、楽しさ、甘さを、深くした。
市十郎も、嘘をおぼえ、悪智をしぼり、教養を麻痺せしめ、あらゆる惑溺を、急速にして行った。極道にかけては、ずっと先輩の亀次郎にも舌を巻かせて、かれはお袖との恋一つ抱いて一気に堕落のどん底まで行ってしまうかとさえおもわれた。
ところが、幸か不幸か、大岡市十郎がお袖と知りそめた翌年、一族の亀次郎の家庭に、兇事が起った。
いや、同姓の大岡十一家に、みな難のかかって来た事件だった。
それは、亀次郎の父、大岡五郎左衛門忠英が番頭の高力伊予守を、その自邸で政治上の争論から打果したのである。五郎左衛門も、その場で、伊予守の家来に、斬り殺されてしまったが、不埒とあって、家名は断絶を命ぜられた。
親戚の他の大岡十家も、みな閉門謹慎の厄に会った。
市十郎の養家、大岡忠右衛門の家も、まぬがれなかった。家族みなが、共にかたい禁足である。どんな恋も、この厳戒の眼と、この鉄扉は破り得なかった。
この期間──閉門一年四ヵ月のあいだに──市十郎はわれに返った。かれの素質は反省にかえる一面をもっていた。幽居の日を、読書に没し、禅に参入し、若いいのちを、自らたたき醒ますにつれ、ひとりとめどなく涙した。
──が、横死した五郎左衛門忠英の一子亀次郎には、そんな機会がなかった。かれら骨肉は重追放となり、召使の田舎を頼るやら、遠国のうすい縁者をあてになどして散らかったが、亀次郎はすぐ江戸へ舞いもどった。もちろん、容貌をすっかり変えて。
かれのあばたは、灸や薬で、自ら焼いてこしらえた作りあばたなのである。
「市十郎さま。お薄茶など一ぷくおたていたしましょうか」
家つきのお縫は、きりょうこそ美くはないが、明るくて純な、そして教養もよく身についている処女だった。
ふたりは、ふたりが許嫁であることを、もうもちろん知っている。お縫は二十歳。市十郎はすでに二十六歳。
「茶ですか。さあ、よしましょう」
市十郎は、読書からちょっと眼をはなしたが、体は机から向きを変えず、お縫には、すぐ去って欲しいような顔に見えた。
が、彼女は、市十郎が十歳のときから、共にひとつ家に暮らしているので、恋人同士のあいだに触れあうような、細かい神経の奏では、その性格からも感じなかった。
「おつかれでしょう、そんなに、御本ばかり読んでいらっしって」
「いいんです。抛っといて下さい。秋の晩は、燈下書に親しむとき。夜が更けるのを知りません」
「お父上も、お母様も、市十郎は、まるで変った。閉門の事などから、どうかしたのではないかなどと……陰で心配していらっしゃいますよ」
「出かければ、出かけるで、やかましいし」
「ほんとにね。でも、三、四年前は、いくら何でも、あんまりでした。毎晩のように、夜遊びにばかり出ていらしって」
「…………」
うるさげな彼の顔いろにもかまわず、お縫はひとりで話しかけていた。
「いちどなんか、夜明け近くに、塀をこえて、お帰りになったことなんかあったでしょ」
「縫どの。お寝みください」
「まだ、御書見ですの、──戸は」
「自分で閉めます」
「じゃあ、おさきに、寝ませていただきまする」
もういくらか、かれの妻らしくさえしている風に見える。
市十郎には、感興がない。きらいではないが、好きでもない。
読書。かれは常に、今でも、その中に潜入していないと、自分の心が、なおどこか危うげでならない。
三年前の閉門は、まこと、自分の危うい青春のわかれ道を、一歩前で救ってくれた事だったとおもう。
古人の書に、素直に訊こう。子どもになって、大人の体験に訓えられよう。要は、生命の問題だ。人と生れたという意義を、どう享けるべきか。人間の世。おもしろいと観るべきか。憂しと観るべきか。また、くだらぬ泡沫と観るべきか。
「……おや?」
かれは、ふと、庭面の秋草へ、ひとみをこらした。はたと、虫の音が一ときにやんだからである。
「おい。……市の字。おぼえているかい。おれを」
袖垣のあたりの萩叢を割って、ぬうッと、誰やら頬被りをした男の影が、中腰に立ち、こなたの書院の明りに、顔をさらして見せた。
「た、たれだ、そちは? ……」
息をつめて、凝視したが、分らなかった。
「わかるめえ。わからねえはずだよ、於市。四年ぶりだもの。ああ、なつかしいなあ、この部屋も」
蟇のように、のそのそと近づいて、沓石へ腰をすえ、かぶっている布を脱ると、縁に肱をつきこんで、ヘラヘラ笑った。あばた顔だが、その笑い癖は、市十郎の遠くない記憶を、ギクとよび醒ました。
悪友仲間のきずなほど、宿命的なものはない。
兄弟のきずな、主従のきずなは、なお断ちえても、悪い仲間の籍を抜けて、正しきへ返ろうとする道はむずかしい。
かれらの、仲間心理にいわせれば、
(ナニ、真人間へ。それやア誰だって、考えねえ馬鹿はあるもんか。だがいまさら、てめえひとりで、いい子になろうったって、そうはゆかねえ。虫がよすぎらあな)
そういうにちがいないのである。
その夜──
この秋を、書に親しんで、燈下しずかに、過去の非を心から洗っていた市十郎の書斎へ忍びこみ、眼ざしすごく、四隣のしじまを憚りながら、ささやき寄って来た従兄の亀次郎の姿にも、そんな考え方が宿っていた。
「ふん、勉強か、於市。……ええ、おい。いやに学者ぶッて、なにを読んでるんだい」
と、亀次郎は、縁がわから身伸びして、市十郎の倚っている机の上をのぞきこみ、
「なアんだ、論語か。いまさら、論語でもあるめえに、子曰クなんて寝言をおさらいして、どうする気だい。自体、孔子なんて野郎は、正直者を食いものにする大嘘つきのいかさま師だ。何より証拠は、世の中を見ろ。どこに孔子のいッてる〝道〟なんてものがある?」
日ごろ憎悪する相手にめぐりあって、いきなりその面の皮へツバしてかかるように、彼は罵り出した。
「孔子だの、釈迦だの、法然だの、どいつもみんな、鹿爪らしい嘘ッ八の問屋じゃねえか。そのまた受売り屋の講釈を真にうけて、したいこともせず、窮屈に、一生を棒に振ッちまった阿呆がどれほど多いかを、おれなんざ、身に沁みて、知ってるんだ。──第一が、おれの親父の大岡五郎左衛門。正しい政治が立つとか立たぬとかいって、高力伊予守を斬り、自分も殺され、家は断絶、おれという息子にまで、こんな日蔭の一生をのこして死んでしまやがった。いったい大岡一門には、正直の上にバカのつく侍が多いが、ここのおやじの──おめえの養父忠右衛門なども──」
「亀次。……し、しずかにしてくれ」
たまりかねて、市十郎は、哀訴の手を振りながら、眼で、奥の部屋をさした。
亀次郎の大亀も、首をすくめて、ペロと、舌のさきを見せ、
「まだ、起きてるのか。……奥は」
「寝たが、もし、養父が目をさまして来たら、ふたりともただではすまぬ」
「おらあ、いいよ。かまわねえよ」
大亀は、わざといって、
「──だが、おめえは養子。気をつかうのもむりはねえ。しずかにしよう」
「亀次。いったい、あれから、どうしていたのか」
「長いはなしは、あとでする。とにかく市の字。匿ってくれ、今夜から」
「え? ここへか」
「ほんの当座だ。二十日もたてば、十手風もきっと緩むとおれは見ている。どこか、そこらの、押入住居で我慢しよう。……たのむぜ、当分、おれのからだを」
かれは、のそのそ上がって来た。そして書斎のすみの戸棚をあけ、もうわが住み家と、そこへ、尻の方からもぐりこんだ。
大岡家の紋は、稲穂の輪だった。家祖が、稲荷の信仰者で、それに因んだものという。
そのせいか、赤坂のやしきの地内には、昔から豊川稲荷を勧請してあった。秋も末頃となり、木々の落葉がふるい落ちると、小さな祠が、小高い雑木の丘に、透いて見える。
丘の西裏から、一すじ、ほそい道がついていた。これは、聞きつたえた町の信心家が、いつとはなく踏みならしたお詣りの通い路で、地境の柵のやぶれも、やしきでは、塞ぐことなく、自然の腐朽にまかせてある。
「……まあ。いい気もちそうに、寝てしまって」
稲荷の祠と、背なか合せに、木洩れ陽を浴び、落葉をしいて、乳ぶさのうちに寝入った子を、俯しのぞいている若い母があった。
そっと、乳くびをもぎ離すと、乳のみ子の本能は、かえって、痛いほど吸いついて、音さえたてた。
「……もう、いや、いや。そんなに」
若すぎる母は、身もだえした。からだじゅうの異様なうずきが、そのあとを、うッとりさせて、官能のなやましさと、こころに潜む男心への恨みとが、眸に、ひとつ火となっていた。そして眼の下の──大岡家の大屋根を、じっと見つめているのである。
「お袖さん。……たんと、待ったかい」
ひょっこり、そこへ味噌久がのぼって来た。きょうは、本屋の手代となりすましていた。蔦屋と染め抜いた書の包みを、背からおろして、お袖のそばに坐りこんだ。
「見附辺から、くさい奴が、あとを尾けてくる気がしたので、道を廻って、遅くなったのさ。やれやれ、逢い曳きのおとりもちも、楽じゃあねえて」
「あんまり待ったので、もう帰ろうかしらと、おもってたところさ」
「ウソ。嘘いってらあ、お袖さんは。──市の字と会わねえうちに、帰れといったって、帰るもんかな」
「そんなに、わたしの気もちが分ってるなら、さあ、あそこへ行って、市十郎さまを、はやく、呼び出して来ておくれなね」
「まア、そうセカセカいわなくても……」
と、久助は、煙草のけむりを、ぷウと、輪にして、彼方の大屋根を横目に見ながら、
「市の字を、連れて来るッたって、お袖さんのいうように、そう易々とゆくものじゃアねえ。やり損なったら、あぶないものだ」
「臆病だね、久助さんは」
「その久助に、手をあわせて、後生、たのむ、一生恩にきるからと、あんなに泣いて、かき口説いたのは、誰だッけ」
「そんなこと、いいからさ」
打つ真似して、追いたてると、久助はやっと腰をあげ、ひと風呂敷の和本を、肩から脇にかかえ、
「じゃあ、ここを去なずに、待っておいでなさいよ。うまくゆけば、おたのしみだ」
「おねがい……」
お袖は、拝むようにいって、味噌久を見送った。もとの道からそこを下りて行ったかれは、丘のすそを巡って、やがて大岡家の表門のある赤坂筋の広い通りを歩いていた。
大岡家は、十一家もあり、ここの忠右衛門忠真は、本家格ではないが、お徒士頭、お先鉄砲組頭、駿府定番などを歴任し、いまは、閑役にあるといえ、やしきは大きなものだった。
男子がないので、同族の弥右衛門忠高の家から、七男の市十郎(幼名は求馬)を、十歳のとき、もらいうけた。むすめのお縫にめあわせて、家督をつがせるつもりなのは、いうまでもない。
ところが、養子の市十郎も、年ごろになるにつれ、近頃の若い者の風潮にもれず、おもしろくない素行が見えだした。
で、お縫との結婚を、こころに急いでいるうちに、同族五郎左衛門忠英の刃傷事件で、一門の蟄居がつづき、それが解かれた今日でも、なお、公儀への拝謁を憚っている関係から、ふたりの婚儀ものびのびになっていた。
──とはいえ、家つきのお縫はまだ二十歳、決して晩いわけではない。むしろかの女は、雨を待つ春さきの桜のように、綻びたさを、姿態にも胸にも秘しながら、毎日、午すこし過ぎると、江戸千家へ茶の稽古に、なにがし検校のもとへは琴の稽古に、欠かすことなく通っていた。
きょうも。──その時刻に。
お縫は、門を出て、薬研坂の方へ、降りかけてきた。
と、道の木蔭にたたずんでいた味噌久が、
「あ。お嬢さま。……大岡様の御息女さまでいらっしゃいましたな。どうも、よいところで」
前へまわって、頭を下げた。
「まいど、ごひいきになりまして」
「たれなの。そなたは」
「石町の蔦屋という書肆でございまする。おやしきの若旦那さまには、たびたび、御用命をいただいては、よく……」
「お目にかかっているというの」
「はい、はい。今日も、実はその、かねがねお探しの稀本が、売物に出ましたので、お目にかけに、出ましたのですが」
「おかしいこと。市十郎さまは、このごろ……もう一年も二年も、まったく外へお出になったことはないのに」
「いえいえ、お嬢さま」
と、味噌久はあわてて前言を打消し──
「よくお目にかかったのは、以前のことで、近頃は、おてがみなどで、これこれの書物が、もし売物に出たら、ぜひ持参せいと……。はい、おことづてを、いただいておりましたんで」
「そうかえ」
──お縫は、小首をかしげたのち、
「じゃあ、御門をはいって、左り側の脇玄関から、用人にいって、取次いでおもらい」
「そこを、お嬢さまからひとつ、もう一ぺん、若旦那さまへ、じかにお取次を、おねがいできませんでしょうか」
「おや、なぜ」
「あの御用人のお年寄が、何か、勘ちがいなすったとみえて、先程、お取次をねがったところ、市十郎さまは、そんな書肆は知らぬと仰っしゃるッて、お断りをくッちまったんです」
「だって、御存知なのだろう。おまえ」
「ええ、それやアもう、お馴染み顔。お会いいたせば、一も二もございませんが……。こう仰っしゃっていただけば、なお、すぐにお分りでございましょう。──久助と申す者で、以前は、味噌屋のせがれ、京橋尻の梅賀さんのお家などで、チョイチョイお目にかかっていた者だと」
「じゃあ、待っておいで」
お縫は、かれをおいて、気がるに、やしきの内へもどって行ったが、やや暫くして、ようやくすがたを見せたとおもうと、
「久助とやら、市十郎さまは、やっぱり、そなたのような者は知らぬと仰っしゃる。そして、蔦屋へ書物など註文したおぼえもないということです。おまえ、どこぞのお客さまと、やしき違いしているのじゃありませんか」
いい捨てると、かの女は、おもわぬ暇つぶしを取りもどすべく急ぐように、薬研坂を小走りに下りて行った。
忠右衛門忠真は、親類じゅうでの、律義者で通っていた。元禄の世の、この変りようにも変らない、典型的な旧態人であった。
が、その忠右衛門も、子のためには、意志を曲げて、きょうは、老中の秋元但馬守の私邸を訪うて来たとかいって、気だるげに、夕方、帰っていた。
「来春には、婚儀のおゆるしが出るように、何とか、その前に、お目通りの機会をつくる──と、但馬どのの、仰せじゃった。多分、あてにして、まちがいあるまい。……権門へ頭をさげて通うくらい気のわるい思いはない。やれやれ、さむらいにも、世辞やら世故やら、世渡りの要る世になったの」
風呂を出て、夕餉の膳にむかいながら、かれは、述懐をまぜて、きょうの出先の結果を、常におなじおもいの、老妻に告げていた。
──そんなに、養子の市十郎とお縫との婚礼をはやく実現したいなら、なぜ手をまわして、柳沢吉保に賄賂をつかい、将軍の御前ていをよろしく頼みこまないのか──とは、同族の縁類が、かれに忠告するところだったが、忠右衛門には、それができない。ききめのあることは、分っているが、かれの気性が、ゆるさないのである。
(おぬしも、浅野内匠頭じゃよ。いまの世間を知らな過ぎる)
親戚でも、その愚をわらう者が多かった。──が、忠右衛門は、ついに一度も、柳沢家の門をくぐらなかった。
秋元但馬守は、去年、老中の欠員に補せられたばかりで、この人へなら近づいても、自分に恥じないような気がした。そこで、思いきって、出かけたのである。結果はよかった。近いうちに、拝謁の機会をつくってやろう、そしてその後に、婚儀のおゆるし願いを出したがよかろう、といってくれた。
──と、聞いて、かれの妻も、良人とともに、眉をひらいて、
「ちょうど、むすめも二十歳をこえ、市十郎も、お役付きしてよい年配になりまする。では年暮のうちに、何かと、支度しておいて」
と、日数をかぞえたり、若夫婦のために、奥の書斎と古い一棟を、大工でも入れて、すこし手入れもせねばなどといいはじめた。
夕食のしらせに、お縫も来て、むつまじい膳の一方に加わった。けれど、お縫には、食事のたびに、近ごろ、物足らないおもいがあった。
十日ほど前から、市十郎が、朝夕とも、食事を、奥の書斎に運ばせて、家族のなかに、顔を見せないことだった。
「どうなすッたんでしょう、市十郎さまは。……ねえ、お母あ様。呼んで来ましょうか。たまには、御一緒におあがりなさいッて」
「いや。気ままにさせておけ」
忠右衛門は、顔を振った。
「夜も昼も、読書に没頭しておる様子。多少、気鬱もあろうが、若い頃には、わしにも覚えがある。抛ッとけ、抛ッとけ」
「でもお父さま。たまに私がのぞいても、とても恐い顔なさるんでございますの」
「よいではないか。勉強に熱しておると、女など、うるさいのだ」
そうかしら? ──かの女には、もっと不審もあったが、告げ口めいた事を挙げて、ほんとに父を怒らせてはならない、とも惧れた。
その不審で、いまも胸につかえている一つは、きょうの昼、薬研坂で声をかけられた──蔦屋という書肆の手代。
市十郎も、知らぬというので、あんなにニベなく断ってやったのに、夕方、帰宅して召使にきくと、押しづよく、あれからまたもやって来て、「お嬢様にも今そこでお目にかかりまして……」とか何とかいって、小間使いを通じて、とうとう市十郎の書斎に通り、何か、だいぶ話して帰ったというのである。
市十郎にきくと、市十郎は、「会わぬ」と首を振ッたきり、きょうは特に気色がよくない。──お縫はあまり物事にくよくよしない性格だが、「なぜ、私に嘘を……」と思いつめると、食後の白湯も、胸につかえた。
こんな時には、琴でもと、部屋にもどって、昼、習った曲をさらいかけたが、それも心に染まず、絃に触れると、わけもなく泣きたくなった。
窓の外にも、冬ちかい時雨雲が、月の秋の終りを、落葉の梢に傷んでいる宵だった。かの女は、燭の下に、琴を残して、庭へ降りた。
この屋敷ができない前からあったという古い池がある。茂るにまかせた秋草が水辺を蔽い、その向うに、灯が見える。──市十郎の書斎である。
かの女は、池をめぐって、知らず知らずその灯の方へ足を向けていたが、ふと、薄月夜のひろい闇いッぱいに、耳をすまして、立ちどまっていた。
「オヤ。幼な児の泣き声がする……? どこであろ。たしかに、小さい子が泣いているような?」
それは、遠くして、遠くないような。夜風に絶え、また夜風に聞こえ、哀々として、この世に持った闇の生命に、泣きつかれたような泣き声だった。
日の短い晩秋といえ、もう昼からのことである。木々の露もうす寒い宵ともなるのに、丘の稲荷の祠には、まだ子を抱いた若い母が、身うごきもせず、草の中にうずくまっていた。
「どうしたのよ、お袖さん。……さ、帰ろう。帰って、またいつか、出直したらいいじゃねえか。……ねえ、おい。お袖さんたら」
味噌久は、そばに立って、しきりと、なだめたり、促したりしているが、お袖は、泣きぬく膝の子と共に、声なく泣いて、立とうともせず、返辞もしない。
泣きベソの久助と、日頃、仲間からいわれている味噌久の方が、今夜はよッぽど、泣きたかった。
「よう、お袖さん。いい加減にもう、おれを困らせないでくれやい。きょうは、ありッたけな智恵をしぼって、市の字に、会うことは会ったんだが、どうしても、ここへ出て来ねえんだから仕方がねえ。いくら、おれが説いても、お袖さんの心をいってみても、奴は、じっと眼をつぶっているだけなんだ。──たしかに、あいつは、人間が変ったらしい」
「久助さん……」
お袖は、紅く濡れた眼をあげて──
「だから、わたしは、あのひとに捨てられても、仕方がないっておいいなの」
「そ、そんな、おッかない眼をして、おれに喰ってかかっても、おれは知らないよ。……が、もともと、三千石の御養子なんぞに、おまえが、かまわれたのが、悪縁さ」
「なにさッ。──三千石が何さ!」
「おや。怒ったのかい」
「あたりまえ……」
と、お袖は、泣く子の顔へ顔を伏せて、泣きじゃくった。
「お、おまえなんか……久助さんなんか、知ったことじゃあるものか。わたしと、市十郎さまとの仲は、そ、そんな水くさいんじゃありませんよ」
「あれ。まだあんなことをいってらあ。……じゃあ、罪だから、いッそ、はっきりいってしまうが、市十郎は、きょうこの久助に、こういったんだぜ」
「あのひとが」
「うむ。おれにいうのさ。──自分は、ふかく前非を悔いて、お袖のことも、今はまったく思い切っている。ふたりの仲に生した子は、どうか、よそへやって、お袖も、他によい男をもってくれ。やがて、自分で金の都合のつく身になったらば、手切れもやろう、子どもの仕送りもするほどに──と」
「えっ。市十郎さまが、そんなことを」
「だからもうお袖さんも、あんなやつのことは、思いきって、ここはきれいに、帰るがましだとおらあ思うがネ」
「ほ、ほんとかえ。久助さん。市十郎さまが、おまえに、いったということは」
かの女は、にわかに身を起した。立ちよろめくのを久助があわてて抱き支えると、お袖は、久助の手へ、子を抱かせて、ひとり、よろよろと歩みはじめた。
「あっ、お袖さんっ。……どこへゆく。どこへ?」
追いすがる味噌久へ、
「うるさいね。もう、おまえなどに、頼んでいられるものじゃない。自分で、自分の男に会いにゆくのがなぜ悪い。市十郎さまの心をはッきりときかないうちは、私は死んでも帰らないよ。──お燕を抱いて、久助さんは、ひと足先に、帰っておくれ」
「ば、ばかなことを、いいなさんな。あいては、大身の武家やしき」
「その御大身ぶりが、癪にさわる。御大身なら女子をだましてもよいものか」
それはもう久助にいっているのではない。かの女は、彼方の灯にむかって叫んでいた。この丘から地続きの広い庭園の木の間がくれに、その灯は、冷ややかにまたたいている。──市十郎の心のように冷ややかに。
葛、くま笹、萩すすきなど、絡むもの、阻めるものを、踏みしだいて、かの女は、盲目的に、駈け下りて行こうとした。けれど、何を見たのか、ギクとして、お袖は急に足をすくめてしまった。そして傍らの榛の木の下へ、よろめくように身を凭せた。
ふと、お袖の見たあいての女性も、祠の横の大きな木の幹に、半ば、すがたを隠して、じっと、射るような眼をしているのであった。
「?」
両女は、息をつめて、黙しきった。眸と眸とは、曼珠沙華のように、燃えあった。
「そなたは、どこの、誰ですか。……そして、どこへ行こうとなさるんですか」
やがてその女性は、しずかに、──けれど底には女性特有のきびしい針をふくんだふるえ声で、こう咎めた。それはお縫であった。
水と火だった。
お袖は、下町ことばの、つよい響きと、竹を割るような感情で、反撥した。
「大きなお世話、どこへ行こうと、わたしの勝手でしょ」
「そうは、ゆきませぬ」
「なぜさ」
「ここは、お庭外でも、大岡家の地内です。ひとのやしきへ、たれに断って」
「市十郎さんに訊くがいい。市十郎さんのいる所へなら、庭はおろかお部屋へも、わたしは上がって行きますよ。行ッて悪いわけはないんだから」
「いけない! わたくしが、そんなこと、ゆるしませぬ」
「ゆるすもゆるさないも、ありやしない。自分の良人に、女房のわたしが会いにゆくのに」
「な、なんですッて」
お縫はもう口惜しさに、いい返してやることばも出ない。紙より白い顔に、その全身に──ふるえを走らせているだけだった。
人中の──しかも十三、四歳から水茶屋にもいて、苦労にもまれ、戯れ男たちに揉まれてきたお袖と、型どおりな、やしき育ちのお縫とでは、ほとんど、太刀打ちにならないのである。
が──言葉の上では強くても、お袖には、嫉たさ、弱さ、恨めしさ、お縫以上のものがあった。
──このむすめが家つきの──そして市十郎と同じ家にいるのかとおもうと──涙につきあげられて、なおいわずにいられなかった。
「そちらは、家つきのお嬢様か何か知らないが、わたしと市十郎さんとは、可愛い子まで生した仲。よけいな水はささないでおくれ」
「おだまりっ──」
と、お縫も、負けていず、
「これから先へ、ひと足でも入ると、屋敷の者を呼びますぞ」
「ああ、お呼び。誰であろうと」
「行っては、いけないっ。──あれッ、たれか、来てえっ──」
それより少し前に。
用人の嘉平という老人。また若党、仲間たちは、お縫の部屋に、お縫が見えないのに騒ぎ出して、こっちへ向って駈けていた。
その跫音と、提灯の光りを見──味噌久は、あわてふためいて、泣きぬくお燕を横抱きにかかえ直し、これは丘の裏の、町へ抜ける方の小道へ、ころげるように逃げ出した。
屈強な若党のひとりが、それと一足違いに登って来て、いきなり、
「この女め」
と、お袖を捉えて叩き伏せた。泣き狂い、泣きさけぶのを、わけも糺さず、二つ三つ、足蹴をくれて、悶絶させた。
お縫もそこに、泣き伏している。
この態に、嘉平はしばらく、狐にツマまれたような顔をしたが、若党仲間たちへ、何事かささやいて、かれはお縫ひとりへ、あらゆる宥りをかけた。そしてお縫は泣く泣く嘉平に伴われ、やしきの方へもどって行った。
その後。
若党と、仲間たちは、気を失ったままのお袖を、粗末な駕籠に押しこんで、丘の裏から夜の町へ担ぎ出した。四谷の窪をひた走りに駈け、茗荷畑、市ヶ谷並木──なお止まらずに駈けてゆく。
何かの弾みに、駕籠のうちで、ふと、息をふき返したお袖が、くやしげな嗚咽をもらすと、
「よしっ、この辺で」
とたんに、仲間たちは、並木の暗がりへ、駕籠ぐるみ、かの女のからだを抛り捨てて、あとも見ずに駈けて返った。
その夜じゅう……。また、次の日も。
大岡家は、家じゅうが、重くるしい苦悩の沼に沈んでいた。十日余りも同じ日がつづいた。
ゆうべからの時雨雲に、きょうは、ひねもす寒々と、雨音に暮れていたが、家の中は、もの音一つしなかった。折々ふと、奥から洩れてくる声は、忠右衛門の憤ろしい唸きに似た声か、さもなくば、かれの妻か、お縫かの、すすり泣く声だけだった。
「おい。……おい。……市の字」
市十郎の書斎には、机の前の、市十郎以外に人は見えなかったが、どこかで、こう低い低い小声がしていた。
「とうとうばれたな。どうする気だい」
隅の戸棚の内側から、その戸の裏を、爪でコツコツ叩きながら、外へむかって囁くのである。
「おたがい、足もとの明るいうちに、逃げ出そうぜ。なあ市の字。世間はひろいよ。しかも、こんな狭ッこくて面白くもねえ世間とはちがう。おれも、二十日はここに辛抱してと思ったが、おめえの尻が割れて来ちゃあ、いたくもいられなくなった。……お袖の身になってみれやあ、こう出てきたのもむりはねえ」
もちろんそれは市十郎に話しかけているのだが、市十郎は、机へ倚り、両手で頭をかかえたきり、返辞もしなければ、ふり向きもしない、背中で聞いているだけである。
眼は、書物へ落していても、もとより市十郎の心は、どこにあるやら、乱れに乱れ、生きているそらもないにちがいない。夜来、家族も、召使も、かれの部屋を、覗きもしなかった。が、一切はかれにも分っていた。かれは、自ら作った牢獄の中に、自ら最大な苦刑にかかっていた。
「おれも悪かったのさ」
返辞はなくても、戸棚の中の小声は外の雨のように、独りぽそぽそと話しかけてやまなかった。
「お袖には、前々から、おめえに会わせてくれ、連れて来てくれと、おれもどんなに、せがまれたかしれなかった。ところが、この間も話したようなお犬小屋一件からは、こッちの身一つも、危くなり、梅賀の家へも寄りつかねえので、女心のやきもちから、お人よしの久助をくどいて、とうとうやッて来ちまったにちげえねえ」
戸棚の声がとぎれると、雨の音が、耳につく。雨は、日暮れに近づくほど、いとど蕭条のわびしさを加えていた。
「……なあ、於市、おめえは、あんなに実意のある女を、かわいそうと思わねえのか。子どもなんざ、ままになれだが、ああまで情の深い女はめずらしい。不憫とも、可憐しいとも、いいようのねえやつサ。お袖が、うんというならば、おれがおめえになり代ってやりてえくらいなもんだ。……ええ、おい。何とかいえやい」
焦れッたそうに、またコツコツと、啄木鳥のような音をさせ、
「あと、十日も経てば、お犬小屋の一件の詮議も、きっと緩むにちげえねえと、おれには考えられる筋があるんだが、もう、ここにはあと一日といられまい。おめえも、元の古巣へ一緒に帰れよ。あそこの巣には、お袖もいるぜ、梅賀もいるぜ、阿能十もやがてどこからか現われて来るだろう。もとの仲間と、またおもしろく、仕たいことをして、遊ぼうじゃねえか」
「しッ……しっ」
市十郎は、うしろ向きのまま、机の下で手を振った。
「おるか」
男の声だ。ふすまの音あらく、入って来たのは、忠右衛門とおもいのほか、市十郎にとっては、その養父より恐い実家の兄の大岡主殿だった。
坐るか坐らぬ、うちにである。
主殿はやにわに、机の上の書物をひッ奪くッて、
「えい、おのれが。なんの為に、こんなものを読みおって」
と、障子へ向って、抛り捨てた。
「弟っ。これっ、面を見せい、その面を」
主殿は、昂奮している。その眼からは、市十郎の沈黙が、いかにも冷然たる姿に見え、主殿の激越な心の波を、いやが上にも昂めるのだった。
「忠右どのからのお使いに、何事かと来てみれば、あきれ返った仔細。いやもう、言語道断。……わ、わしは、御夫婦へも、お縫どのへも余りのことに、いつまでも、この面を上げ得なんだわいっ」
畳を打って、膝を、つめ寄せながら、
「家祖、忠教、忠政様このかた、まだかつて、おのれのような無恥、腑抜け、不所存者は、ひとりも出したことのない家だ。どうして、貴様のような極道者が、大岡家の血から出たことやらと、この兄は、無念でならぬ。……が、いかに大たわけでも、よもやなお恋々と、水茶屋の売女風情に、心を奪われておるわけではあるまい」
声を嚥み……声を落して……。
「さ、そこじゃ。そこのところは、この兄も、刀にかけておちかいする。さほどまでの弟とは思われませぬと──たった今、忠右どののお部屋での、お三名に申して来たのだ。……さ、察してもくれやい、弟。そう申すしか、この兄の立場があろうか。たとえここに、亡きお父上が御存命でおわそうともじゃ」
市十郎は、首を垂れ、潸として、涙の流るるにまかせたまま、両手をかたく膝についていた。
「のう、弟。真実また、貴様の心もそうであろ。……ここに両三年、閉門以後の慎みと勉学ぶりは、兄もひそかに、よろこんでいたことだ。……もう、多くはいうまい。三年前のたまたまの一過失、咎めもすまい。……ただ、兄に一札書いて預けてくれい。貴様からお袖とやらへ宛てて、これ限りの縁ぞと書いた切れ状を」
「あ……兄上」
「まあ、まて」と、抑えて──「むごいことをするおれかい。まかせろ、おれにまかしておけ。たとえ伝来の家宝を売っても、女に手切れの金をつかわし、子どもの始末もつけてやる」
「そ、それがです、兄上」
「なんとした。まだ、未練か」
「未練は、ございませぬが……女が、承知してくれませぬ」
「ばか者っ」と、一喝して、
「だから書けというのじゃ、あいそづかしの切れ状を。──それを見せて、兄が切ってやる。もし、わからぬことを、女々しゅう申して、埒があかねば、最後の手もある」
「最後の手……と、仰っしゃるのは」
「貴様の一生には代えられぬ。ひいては、おととし、叔父五郎左衛門の不首尾にかさねて、またも、公儀の耳にまずい噂が聞えては、大岡十家の安危にもかかわろう。……女ひとりの生命くらいは」
「げッ。……手にかけてもと、おいいですか」
「何をおどろく。さてはなお、未練をもつか」
「ふ、ふびんです、兄上。罪はまったく、この市十郎にあるのですから」
「いいや、貴様は、女を知らんのだ。なんで、水茶屋の女などが」
「そ、それが、お袖ばかりは、ありふれた世間の女とは」
「どうちがう」
「気だても……」
いいかける弟へ、主殿は、いきなり手をのばして、その襟もとをひッつかみ、
「うぬ、のめのめと、まだ眼がさめぬか」
と、満身の力で小突いた。
肉親への、愛情の怒りには、どんな他人の仇に怒るよりも、烈しい本能が加わるのだった。
まッ青になった市十郎の顔は、死首のように、ガクガクうごいた。閉じている眼から涙のすじを描き、兄の力に、何の抵抗もしなかった。
「切れ状を、書くか書かぬか。さ、いえっ。いわぬか」
「……書きます」
「なに、書くと」
「け、けれど、兄上。おねがいです。万一彼女が、切れぬといっても、刀にものをいわすような、罪なまねはよして下さい。決して、そんなことはなさらないと、私へも、兄上から一札書いてお渡しください」
「そんな、ばかな約束を、貴様に与えられるか。忠右どのや、お縫どのにたいしても」
「では……嫌です」
「なにっ。嫌だ?」
「お袖がほんとに倖せになるのでなければ、切れ状は書けません。因はといえば、罪はまったく、この市十郎にあることで、水茶屋奉公はしていましたが、それまでの、お袖は、真白い絹のような処女だったのですから」
「この、大たわけ!」
離した手は、あっというまに、市十郎の横顔を、ぴしゃッと打った。
顔をかかえて、仆れた弟へ、主殿の手は、追うように、またその襟くびをつかんで押した。怒りにまかせて、市十郎の顔を、畳へごしごしこすりつけた。
「養家のてまえもあるに、よくもよくも、そのようなことがいえたものだ。この体を、たれのものと思いおるか。さむらいの家に生れながら、祖先にたいし、御公儀にたいし、身のほどもわきまえぬ奴。こ、この、生れぞこないめが!」
撲られている弟よりも、拳をかためて、打擲している兄のほうが、果ては、泣き顔を皺め、ぽろぽろ涙をながし、疲れきった血相となっていた。
「こう撲るのは、おれではないぞ。貴様ごとき馬鹿者を、おれには、撲るまでの大きな愛は持てぬわい。おれの身をかりて、貴様を打ったのは、亡き父上だ。父上とおもえ、この拳を」
と、突ッ放して、
「もう一ぺん、考えろっ。ようく心を落着けて、考えてみい」
主殿は、いいすてて、室外へ、立ち去った。廊下の外へ、用人の嘉平が来て、大岡兵九郎が来た旨を告げたからである。
兵九郎というのは、やはり大岡十家の一軒で、市十郎兄弟の叔父にあたり、市十郎の養子縁組は、この兵九郎の口ききだった。──で、やがてお縫との結婚にも、媒人役はぜひこの人とされていただけに、逸早く、彼もまた使いに接して、何事かと、馳けつけて来たものであろう。
日が暮れた。……雨はやまない。
たれも彼の部屋へ、燭を運ばなかった。夜ごとの燈火も、彼自身で点すのが、この書斎の習慣であったから。──
蒼白な顔ひとつが、そこに、寂として、暮れていた。机のまわりも、かれの心も、墨のような夕闇が深まってゆく。
「すみませぬっ。……兄上。亡き父上。……また養家の御両親さまにも」
かれは、独りして、手をつかえた。鬢の毛が、みな泣いているように、そそけ立って見えた。
「──生れぞこないの市十郎には、迷いのみ出て、どうしてよいか分りませぬ。ただ、お縫どのに、この上の傷みをかけずに、ゆく末、きょうを忘れて、よい人妻となるように、祈って逝かれるのが、唯一のお詫びです。……おゆるしください」
むくと、かれは面を上げた。そして静かに、短刀の鞘を払った。かれの面はすでに死に澄んでいた。死んで詫びようと決意したのだった。
「あッ。あぶねえ。──と、とんでもねえ真似をするもんじゃあねえ」
あわてたので、戸棚の中の大亀は、頭をぶつけ、戸を外したので、戸と共に、ころげ出して来て、市十郎の手くびを抑えた。
「行こう! 死ぬくれえなら、町へ飛び出そう。どッちみち、おれも、今夜がおさらばだ。──おいっ、お袖のいる所へ行こうぜ」
ぐいぐいと腕を引ッ張った。いちど、短刀を取り落した市十郎の手には、従兄のそういう力に、抗し得ない魅力をおぼえた。その力にまかせて行けば、そこには、お袖がいるのだ。気まま仕たいままな、享楽の灯があるし、苦悩を知らない泡沫のような悪の仲間がおもしろそうにウヨウヨしている。
「おっ、たれか来るっ。早くしろ」
「兄だっ。ああ、兄上……」
「ええ、もう。何を、ベソ掻いて、うろうろするんだ。おれの腕に、つかまって来い。大船に乗った気で──」
腕に腕をかたく組んで、ずるずると、廊下へ出、そのままぱッと白い夜雨の中へ飛び出した。
「ややっ。待てッ弟。──何者だっ、もうひとりは」
声は、主殿であった。すかさず、かれも直ちに雨の中へ飛び降り、ふたりの影の行くてに廻って立ちふさがった。
異様な物音に、愕として、奥から馳けて来た三名のうちの──兵九郎は、長押の槍を押ッ取って来、忠右衛門は手燭をかざして、縁の角から、雨の闇を、くわっと見つめた。
「主殿、ぬかるな。ひとりじゃないぞ」
兵九郎も、ばッと降りて、一方へ槍をつけた。穂さきを、雨に洗わせながら──。
叔父の声に応じて、主殿も、刀へ手をかけ、雨に咽びつついった。
「オオ、何やつか知らぬが、弟を拉して、どこへ行こうとするか、解せぬ曲者。名を名のれっ。──弟っ、その男は、いったいどこの何者だっ」
すると──墨のような闇と雨との中で、ゲラゲラと笑う声がした。
大亀は、自分たちの住む世界とくらべて、いまのふたりの意気ごみ方が、おかしくて堪らなくなったのだった。かれは、白い歯をむき、肩を揺すッて、なお独り笑った。
「おいおい、叔父貴たち、あんまり騒がない方がお身のためだぜ。それを、慮ってこッちはそっと立退いてやろうとしているのに──」
「な、なんじゃと?」
「世間へ分ったら、大岡十家は、また三年前の閉門蟄居のやり直しだ。いや、こんだあそんなお沙汰じゃすむまい。おれにつながる身寄りの奴らは、三軒や四ん軒はぶッ潰れるぞ。わははは」
「身寄りの? ……。と申すそちは」
「知りたいか。知って、腰をぬかすなよ。同族五郎左衛門のせがれ、亀次郎だ」
「げえッ。か、かめ次郎じゃと」
「聞かない方がよかったろう。だが、なにもヘボ親類へあだしたり、同族どもの細扶持を喰って歩こうなんて肚ではねえから安心してもらいたい。ちょッと、悪戯をやったお犬小屋一件が祟ッて、ここ百日は足もとが危ねえので、実あ、市の字の部屋を隠れ家に、十日ほど、戸棚住居を辛抱していたまでのことなんだ」
かれは、市十郎の腕を、いよいよ強く脇の下へ抱きこんで、
「なあ、市の字」
と、すぐ側の顔を見た。
市十郎の手は、無意識に、またも自分の腰の刀をさぐりかけていた。雨は、彼ひとりを、無残に打ちたたくように降った。
「いけねえよ、いけねえよ。死のうなんて、ケチな量見。このおれを、見るがいいや」
傲然と、かれの生命は市十郎の生命を誘った。──本来ならば、共に、ないにひとしい日蔭のいのちを。
「ううむ……世をおそれぬ、不敵なやつ。親類でも手にかけて、そのそッ首を公儀にさし出さねば」
兵九郎の槍が、殺意を示し、こう憎み、罵ると、
「よせやい、叔父貴。おれを殺して、各〻が、お家の無事を計ろうとしても、おれにはおれの仲間がある。そいつらが、きっとしゃべるぜ。中野お犬小屋の犬を、一夜に何十匹も殺した天下の悪戯者は、大岡十家が、知っていながら匿いおいた同族五郎左衛門のせがれ亀次郎だと」
そのとき、ふッと、忠右衛門が、手燭の明りをふき消した。風かのようであったが、次のことばによっても、忠右衛門が意識的に、消したにちがいなかった。
「行け。行くがいい。……もう止めぬ。ふたりとも、迷うだけ迷って来い。若いのだ。──しかし、気がついたらいつでも帰れよ。亀次郎にも、帰ればいつでもあたたかくそちを抱いてやる家はあるぞ」
「ないっ──」
彼は、呶号した。
「おれには、ないっ。だから広い巷であばれてやるのだ」
「いいや、ある。忠右衛門の手もとへ来い」
「そして、縄付きにして、公儀へのいいわけに突き出すか」
「そんなことをするほどなら、ここを去らせず、汝の首ぐらいは、ひん抜いてみせられぬことはない。老いたりといえ、忠右衛門だぞ。──市十郎。そちにもいっておく。帰りとうなったらいつでも帰れよ。帰ってくれよ。……お、お縫も……」
いいかけて、さすがに、ほろと、声をかすらせ──
「お縫も、いつまででも、待っておろう。……さあ行け。あまり更けぬうちに」
と、自身、戸ぶくろから雨戸を繰り出し、一枚一枚、敷居のうえを送り出しながらまたいった。
「さあさあ。兵九郎どのも、主殿どのも、風呂場へまわって、浴衣に更えて来たがいい。一杯酌もう。こんな夜は、雨の夜がたり、酒の味もさだめし悪うあるまいて──」
まだまだ眠たい目を、むりに刺戟されて、市十郎は渋そうに眼をあいた。朝の陽が、破れ障子の穴から射しこみ、かれの寝顔と、もひとつの、白粉剥げの女の寝顔とを──ゆうべの乱痴気を戸閉したままな六畳間に──ぽかっと沼の水死人みたいに二ツ浮かせていた。
「お目ざめ?」
と、女は、寝唾に乾いた唇をすりよせていう。
その口臭、安鬢ツケのにおい、白粉剥げの下から見える粗い皮膚。市十郎は、女の呼吸から、面を外らさずにいられない。夜具の襟には、自分でないべつな男のにおいすら、あきらかにする。
「ううウむ……」
と、かれは伸びをして、何か堪えきれぬ心のものを誤魔化しながら、むくと、起きかけると、
「ま。……なぜだろ、この人は」
と、女は寝たまま、双手を彼の首すじへからませ、いきなり下へ抱き仆した。
すると、蒲団の横に立ててある小屏風の上から、連れの亀次郎が、ぬウと首をのばして、
「おや、お隣りは?」
「あら、覗いちゃいけないよ。それでなくても、この坊やは……」
と、女はその恰好のまま、ことさら、市十郎の首のねを、ぎゅうぎゅう、息づまるほど抱きしめて、
「初心ッていうのか、臆病なのか、それともわたしが嫌いなのか、ゆうべから、わたしを振ッて。……これこのとおり、このひとは、縮まってばかりいて」
「どれどれ。どんなふうに」
ゆうべからの悪遊びだが、大亀はまだ気分を醒ましていない。屏風越しに、肱をのばして、蒲団をめくりかけた。女も市十郎も、とび起きた。とたんにまた、大亀も、屏風と一しょにぶっ仆れて、二人の上へ折り重なった。
「──あら、あらっ。ま。ひどい……」
屏風の蔭だった所からも、またべつな女が飛び起きた。小屏風一つを境にして、そこにも二つの枕がころがっている。
ここは神田辺の汚ない風呂屋の裏二階なのである。湯女がいて、三味線も弾き、酒ものませ、吉原よりも安直に、客も泊めたり、居続けもさせる──遊び風呂の多い横丁の一軒だった。
ふたりは、今朝でもう三日も、自堕落をやっていた。
さきおとといの雨の闇夜、大岡家を飛び出して、二人とも、濡れ鼠の姿で、懐中のあてもなく、ここへ揚がッてしまってからの、続きであった。
「おい、市の字。何をぼんやりしてるんだ。階下へ行って、ひと風呂サッと入って来ようぜ。……これこれ、女房たち、おぬし達はその間に、湯豆腐か何かで、熱いとこを一本燗けておくんだよ。よいかネ。そしてきょうも、きのうの小唄の稽古でもやろう」
大亀は、寝ても醒めても、くッたく知らずだ。天性、遊蕩児にできているのか、女たちを、怒らせたり、笑わせたり、嬉しがらせることに、妙を得ていて、しかも、大風な贅沢をいいちらし、ふところに一文なしとは影にも見せない。
それにひきかえ、市十郎は、ここへ来ても、養父の最後のことばがなお耳から去らなかった。あの後での、お縫の心根を察してみたり、兄や一族の怒りを考えたり……また、赤い蒲団の中に寝てさえ、何かに、夜どおし自責されたり──身をここにおいているだけで、怏々として楽しめない。従兄の大亀の徹底ぶりに、ハラハラしているだけだった。
「短い命で、この世を、楽しみきろうッていうのに、そんな気の小ッせいことでどうするか。──くよくよするなッてことよ。お袖にも、今にきッと逢わせてやらあな」
風呂場の流しで、市十郎に背中を洗わせながら、大亀は、傲然と、説教した。その背中には、刀傷が幾ヵ所もあった。
「……於市。晩になったら、おれはちょっと、戸外の風にあたッてくるぜ」
──欲望のかたまりそのもののような五体を拭きながら、かれはまた、小声になって、囁いた。
「金さ。金だよ。何とか、金を手に入れて来なくッちゃあ、この先、どこを泳ぎまわるにも、おもしろくも何ともねえやな」
大亀は、ニヤと凄味を見せて笑った。湯から上がったばかりなのに、市十郎は、鳥肌になった。行えばその兇猛をかえりみぬ彼の性情を知っているし、かれの行為は、直ちに、自分の連帯行為となるからだった。
──が、今となっては、あらゆる悔いも慚愧も及ばない。屠所の羊みたいな恰好で、市十郎は、傲岸なかれの姿に従いて薄暗い梯子段を、元の裏二階へのぼりかけた。
すると、下座敷の内緒暖簾のかげから、見るからに威嚇的な長刀を腰にたばさみ、けわしい眼ざしをし、月代を厚く伸ばした四十がらみの武家ごろが、
「おい。雛鳥ッ子たち。ちょっと待ちな」
と、初手からひとを子ども扱いにしてよびとめた。
「雛鳥ッ子たあ、何だ。ばかにするな」
大亀は、梯子の中途から云って、怯みは見せじと降りて来た。
「気にさわッたかい」
──武家ごろはセセラ笑った。歪めた唇に銀歯が見えた。悪旗本のあつまりと聞く銀歯組。こいつあ相手が悪い、と大亀もやや鼻たじろがせた。
「おれは、ここの亭主の友達で、風呂屋町の喧嘩買、赤螺三平という男だ。聞きゃあ、おめえ達は、三日も駄々ら遊びのやり通しだそうだが、たいそうなもンだの。金はあるのか。あったら一度、払いをしてみせろ」
「払うとも、払うさ。なんだ三日や四日の端た勘定」
「ふん、そうか。さ、払え」
「だが、今は。今に払ってやる」
「なにを」
三平は、右の手に、大亀の胸ぐらをつかみ、左の手に市十郎の腕くびを把った。
「このチンピラ奴が。濡れ鼠で舞いこんで来やがって、いうことは大きいが、どうも容子がおかしいと、今、亭主と女たちで、着物持ち物を調べてみたら、ビタ一文、鼻紙一帖、持ち合せてもいねえという。ふてえ奴らだ」
「いや、きょうは屋敷から取りよせるつもりだったのだ」
「屋敷? どこだ、てめえ達の巣は」
「それだけは、訊かないでくれ。きっと、持ってくる。……市の字。すまないが、おまえだけ、残っていてくれ。おれはちょっと、屋敷へ行って、用人に金を工面させてくる。午までには、きっと帰るからな。──赤螺殿、この友人は、さる大身の子息で、遊びの道はまだ初心な若殿。どうぞ、この方の身を質として、わしを出してくれないか」
「きっと、午までには、持ってくるか」
「必ず、持参します。──じゃあ、市の字、淋しかろうが、暫くひとりで」
と、大亀は、その軽い舌先と、変に応じて弱くもなる物腰とで、さすがの赤螺三平をも煙に巻き、支度もそこそこ、朝飯前に往来へ飛び出してしまった。
「こう天気はいいし、朝ッぱらからでは、何とも、金に巡り会いようがねえ」
悪心も、途方にくれた。十月末の清澄な昼。くまなき太陽。かれの悪智も、働き出るすきがない。
「そうだ、梅賀の家へ行って、お袖の小費をゆたぶッてやろう。市の字を連れて来てやるといやあ、質をおいても、三両や五両は──」
ぶらりと、彼はあれ以来の、梅賀の家をのぞいた。
子どもの泣き声が聞える。お燕だな──と思いながら、土間へはいって、裏の川まで見通しの奥を覗き、
「お袖。いるかい?」
「たれだい」
──案外、返辞は男の声。
「おや、味噌久じゃねえか」
「オオ、大亀か」
「どうしたい。子どもを背負って、台所なんぞしやがって、不景気な」
「だって、この子を、干乾しにするわけにもゆくまい」
久助は、背なかで泣きぬくお燕をあやしながら、箸や茶碗を洗っていた。
「ところで、お袖は……?」
「あの晩きりさ。……行方知れずだ」
「え。あの晩きりだって」
「どうしても、市の字に会わせろというので、大岡家へ連れて行ったさきおとといの晩からさ。……ここへも、どこへも、帰って来ねえ」
「はてな。……まさか、身投げをしたわけでも、あるめえが」
「それとも、屋敷の奴らにでも殺されたかと、心配で堪らねえから、実あ、きのう思いきッて、大岡家の仲間にきいてみたのよ。そしたら、何でもあの晩、召使たちが三、四人でお袖を駕籠に押しこんで担ぎ出し、番町辺の濠際へ、その駕籠ぐるみ、抛り捨てて帰ったなんていやがるんだ。──その番町も、さんざん歩き廻ってみたが、かいもく何も分らない」
「梅賀も、留守かい」
「これも四、五日前に出たきりだ」
「久助、とにかく、朝飯をくれよ。飯を食っての、思案としよう」
大亀はすぐ寝そべッた。
頬杖ついて、家の中を見まわしていたが、やがて、飯ができると、悠々と掻ッこんで、
「久助、こんな物はもう洗わなくッてもいいや。それより夜逃げ屋を呼んで来い」
「何だい、夜逃げ屋というなあ」
「道具屋だよ。どこかそこらに、古道具屋があるだろう。ぐずぐずしてると、てめえも、お犬小屋一件の御用風に抱きこむぞ」
味噌久を脅して、古道具屋を呼ばせ、世帯一式、付け値の七両二分で、売り払ってしまった。
そのうち、二両を、味噌久へ渡して、
「これだけやるから、てめえはこれを持って、市の字の体を、遊び風呂の丁字屋から請け出して、どこへでも潜りこめ。──おれはおれで、もう少し、草鞋をはいて、一行脚やってくる。何しろ、まだまだ、お犬小屋一件の下手人が出ねえてンで、町奉行は血眼らしい。たのむぜ、久の字」
風の如く、大亀は、町の辻に、彼を捨てて、その姿を消してしまった。
久助はすぐ丁字屋をたずねた。
市十郎は、裏二階から首をのばして待っていた。大亀とおもいのほか、久助が来て、しかもその背に、わが子が負われているのを見て、ぞくと全身の血を凍らせたふうである。女たちは、ここの内緒へ、久助が勘定を払ったのを見て、
「オオ。可愛い子だ」
と、お燕を抱きとって、あばき合ったが、やがてそれが市十郎の子だと知ると、俄然、邪けんに突ッ返して、
「まあ、憎らしいね」
と、こんどは、市十郎をとり巻き、どうしても、返さないと、執こくひきとめた。
女たちをもぎ離して、市十郎は逃げるように戸外へ出た。うしろで、キャッキャッと、笑い声がしたが、道も見えない心地で、鎌倉河岸まで馳け出した。
「市の字。ひどいよ。逃げちゃあ、ひどいや。自分の子だぜ、この餓鬼は。──待ってくれよ、待てやい」
久助も、うしろから飛んで来た。お燕のくびが、宙へ向いて、がくがく揺られぬいて来る。市十郎は、振り向いて、棒のように立ちすくんだ。
「亀次は? そして、お袖は?」
もう散り初めてきた柳並木を、市十郎は、人魂のように、力なく歩きながら、早口に訊ねた。
そして久助の口から、大亀の突拍子もない行動やら、お袖が、あの夜以来、消息がなくなったことなど聞いて──彼の顔は、お濠の水よりも青くにごった。
「どうする? ……。市の字」
お人よしの久助も、背中の子どもは、持て余し気味だ。市十郎の眼へ、つきつけるように、お燕の顔を見せた。
市十郎は、腕ぐみを解いた。そして素直に、自分の背なかを向けていった。
「わしの子だ。わしが負う。……久助、こっちへ背負わせてくれ」
十一月にはいった。寒さは心へもくいついてくる。
木賃を泊りあるいているうち、ふところの金もなくなってきた。味噌久は、冬空を仰いで、しょんぼり、嘆くようにいった。
「ねえ市の字。どこかで、何かやらなきゃだめだよ。泥棒はできねえの、たかりはいけねえのと、臆病なことばかりいッてたんじゃ、この子が、凍え死んでしまうぜ」
お燕を、交る交るに負って、きょうもあてなく、盛り場の裏町をうつろに歩いている二人だった。
寒さと、空き腹は、悪への盲目を駆り立てるが、大亀や阿能十のような先輩がいなくては、味噌久も、掻ッ攫い一つできない男なのである。まして、市十郎には、その方面の才覚はない。
いや、市十郎は、こうして毎日、泣く子を負って、町をうらぶれ歩くのも、今では何か、楽しみになりかけていた。──お袖、お袖、お袖はどこに。心は、常にそぞろだった。かの女の行方をさがすための、恋の苦労と思うと、飢寒も、ものの数ではない。恥をつつむ破れ編笠も、自分だけには、恥でない気がした。すれ草履の足もとを、霰もつ風に吹きなぐられても、お袖に似たうしろ姿を、ふと人なかに見つけたときは、胸のうちが花火のようにどきと鳴った。走り寄って、人違いと知った後にも、甘い感傷がかなしくのこり、人知れず、自分を、恋の詩人にしていた。
──だが、お袖の行方は杳としてわからない。心あたりをそれとなく問い歩いても、生死すら知れないのである。そして現実は、ふたりの前に、今夜の糧と寝床をどうするか。がんぜないお燕を飢え死なすか、捨て児か。冷酷な決意をたえず強いてやまない。
「アア、良い印籠だなあ。──あの印籠一ツあれやあ」
久助は、前へ行く美少年の腰に気をとられていた。長身で色白な人だった。粗服だが、どこか気稟の高い風が見える。髪から顎へ、紫の布を頭巾結びにたらりとつつみ、革袴、新しい草履、ゆったりした歩様で行く。
芝居小屋の多い堺町に近い抜け道──
から風に鳴る幾すじもの小屋幟の音が耳につき出した。曲がり角まで出るに手間どるほど、そこらからもう雑鬧の雑音につつまれ初める。──と思ううち、いつのまにか、市十郎のそばを離れていた久助が、
「あッ、ごめんなさいっ」
と、人ごみの間で、大きくわめいた。幼な子の悲鳴もつんざき、市十郎の胸をぎょッと衝ッた。
お燕は、久助の背なかだった。子どもを背負っているくせに、久助は、ふらふらと、美少年のうしろを窺い、その腰にある印籠を、掏り取ったのだ。
ところが、美少年は、一人ではなかった。数歩離れて、そのうしろから、同じように、黒布で、頭巾結びに顔をつつんだ侍が、ひそかに随行していたのである。
「おのれッ──」と、ほとんど間髪も容れず、久助の襟がみは、その武士の迅速な手に引ッつかまれ、路傍の煮売屋の葭簀へむかって、もんどり打つばかり叩きつけられていた。
「何とした? 半之丞」
「お腰の印籠がございますまい」
「ほ。……ないわ。盗まれたか」
「こやつめです」
半之丞とよばれた随行の武士は、久助の手から印籠を引ッ奪くって、
「お気をつけ遊ばしませ」
と、主人らしい美少年の手へもどした。
たちまち周りは人間の黒山をつくりかけた。口々に、掏摸だ、盗ッ人だと、罵り騒ぐ。──だが、葭簀のすそに、腰をくだいて、背中の子どもと共にベソを掻いている久助のあえない姿を見出すと、群集の眼は、皆まごついて、腑に落ちない顔を見合せている。
そのとき美少年の明眸も、久助の姿へそそがれた。十八、九歳の豊麗な容貌が、頭巾のうちで微笑していた。何か、おかしくてならないようである。そして、いま手にもどった印籠を、
「これか。……子どもがこれを欲しがるか」
と、久助の膝へむかって、ぽんと投げ与え、翻──と人浪のうちへ隠れ去ってしまった。
ゆうべは、寺の縁へ寝た。こん夜はお竹蔵の竹置場に、むしろを被って、夜霜をしのぐ父と子だった。
久助は夕方からあの印籠を売りにゆき、人目もないので市十郎は、抱いているお燕の顔に頬ずりした。どこかに、お袖の肌を思わせてくれる。
「お母あちゃまは、どうしたろうな。おまえも母をさがして泣くか。おお、よしよし。飢もじいか。いまに久助が、何か買って来よう。泣くな。泣くな」
折々、立って歩いたり、小声で子守唄をうたってやったり……そしてそのわが子守唄に、若い父は、感傷になって、独り涙をたれていた。
なんのために屋敷を出てしまったか。あやしい自分の気もちを今さら疑わずにはいられない。
従兄の誘惑に負けたのか。家つきのお縫とつれ添う将来が厭わしいのか。屋敷生活や武家階級のいつわりと空虚にいたたまれない気持からか。
──と、数えてきても、どれもこれも、それ一つが理由ではない。やはり最大の原因は、自分の内にあった。何かに吐け口を見なければやまない物騒な青春の火──その火が運命の燎原をみずから焼いているのだ。最初の小さい一つの過失が、次第に、罪から罪を生み、果てなく罪業をつんでゆく。それにも似た青春の野火だ。
この火悪戯は、元より自分の好奇心にもあったことだが、火つけ友達は、まぎれなくあの従兄だ。従兄の亀次郎さえいなかったら、この運命もなかった気がする。
だが、この境遇を、自分はほんとに悔いているだろうか。真に、後悔しているなら、養父はいった(──迷うだけ迷って来い。そして目が醒めたらいつでも帰れよ)と。……今からでも前非をわびて帰れないやしきでもない。
にも関わらず、自分はこの子を捨て児にもしきれないのだ。こうしていれば可愛さはますのみである。本能というか、愛というか、われながら分らない妄執がつのっている。──いや、その妄執の真の相は、この子にあるのではなく、お袖にあるのであろう。もしお袖に会う望みがなければ、若い父親は、この子も路傍の捨て児としてかえりみないにちがいないから──。
あらゆる理由はあるに似て、実は何もないのである。あるのはただお袖だけだ。もしお袖との相愛に祝福される境遇を得たら、ほかの理由はことごとく泡沫のようなものだったことを悟ろう。青春の問題の多くがこれだ。──市十郎の場合も例外ではなかったのである。
「オオ寒。くたびれ儲けさ。どうしても買手がねえよ。宝の持ちぐされとはこのことだ」
やがて久助が帰って来た。売りあるいた印籠は、どこへ見せても売れないという。理由は、蒔絵の構図が、葵の紋ぢらしになっているせいだった。
葵の紋は、お犬様と同じだ。さわらぬ神に祟りなし、誰も嫌うのが常識である。まして久助の身なりとそれを見較べては、買手がないのは当然といえる。
「……だがネ市の字。こんな物を、ちッとばかり買って来たから、お燕坊に、やってくんな。この子に罪はねえものを。なあお燕坊。……オヤ、笑ったよ、おれを見て」
飴の袋と、まんじゅうの包みを出し、久助はお燕にそれを喰べさせた。──見れば、久助は、着ていた上着を失って、襦袢ひとつになっている。あの垢じみた一張羅をどこかで脱ぎ、そして、わずかに買ってきたおみやげにちがいない。市十郎は眼が熱くなった。
そこへ、夜鷹蕎麦の担荷が通った。温かそうな葱の香と、汁のにおいが、ふたりの空腹をもだえさせた。胃の疼きが唾液をわかせて抑止しようもない浅ましい意欲に駆られた。
「──おっ、蕎麦屋さん」と、久助はわれを忘れたように呼びとめて「熱いのを、二杯くんな」と、思わずいってしまった。
ふたりは、やがて、かじかんだ手に、夜鷹蕎麦の丼をかかえ、ふウふウいって、喰べあった。五体の血は生命の火を点じられたように活気づいて指の先まであたためた。箸の先に水洟がたれるのも思わなかった。浅ましいというなかれ。無上大歓喜即菩提。人間とは、こんな小やかな瞬間の物にもまったく満足しきるものだった。痛い、痒いも覚えない。名誉、功利、闘争、廉恥、そんなものもなかった。恋、性欲──それもこの次のものだった。
「アア、美味かった……」と、久助は箸と丼を蕎麦屋へ返すと、天にむかって浩嘆した。市十郎は、丼の底に余した汁を、お燕の口に与えていた。
「お代りは? ……」と、蕎麦屋がいった。久助は、よほど、もう一杯といいたそうだったが、心のうちで、闘っているらしい顔をした。そしていいにくそうに、蕎麦屋の屋台行燈の下へ、例の印籠をひょいと出した。
「蕎麦屋さん。実あ、金はないんだよ。これを抵当に、もう一杯喰べさせてくれるかい」
「え、何です、これやあ……」蕎麦屋は、じっと、手にも取らず見ていたが、
「これやあ、紀州様の御紋章つきの印籠じゃございませんか」
「そうだよ。盗んだ物じゃあない。堺町の抜け裏で、紫頭巾をなすった立派なお若衆からいただいたんだ」
「へえ、なるほど、それじゃあ嘘ではありますまい。あのお若衆は、赤坂のおやしきからよくお微行で町へお出でなさる紀州様のお三男、徳川新之助様だってえ噂ですからね。……が、どうして印籠なぞを、お前さんたちにくれなすッたろ」
「この子のおもちゃに抛って下すったんだ」
「そうですかねえ。そんな気まぐれもなさるかもしれない。何しろ変った御曹司ですよ。──つい、この間もね、こんなことがあって、それからあのお若衆が、紀州大納言様の三男で、まだお部屋住みの新之助様だってことが、初めて、あの界隈にわかったんでさ」
と、蕎麦屋は煙管に一ぷくつめて、天秤棒にもたれながら話しだした。
やはり柳沢閥の、さる老中の息子らしく、これも微行姿で、よく堺町へ来るが、いつも大自慢の土佐犬を、銀の鎖でつなぎ、わざと、盛り場の人混みを引きあるいていた。そして、この獰猛なお犬様に、雑鬧の露ばらいをさせて、人々が恐れまわるのを、愉快としていた。
かれが、芝居を見物中は、これを小屋の木戸番へ預けて入る。木戸番は、お犬様のために、特に、入口に別席をもうけ、地上に緋氈を敷いて、青竹につないでおいた。
すると、ある日、賎しからぬ若衆が、その前に佇んだ。そしてふと足の先で、お犬様を愛撫した。権門の猛犬は、常に人間を猫、鼠以下に見馴れているせいか、この人間の無礼にたいし、土佐犬特有の牙をいからして、猛然と、その若衆の出した足くびへ食いついた。──あッと、見ていた群集の方が胆をひやした。さだめし、足を引くのも間にあうまいと思ったからだ。ところが、豪胆といおうか、大気といおうか、若衆は、刹那に、わが足のつま先を以て剣の如くにし、引くべきを反対に、いきなり土佐犬の口の中へ──腹まで通れとばかり強く突ッ込んだのであった。
さしもの猛犬も、これには牙を立ついとまもなかったとみえ、ぐわッと五臓を吐くような唸きと共にぶっ仆れ、死ぬまでには至らなかったが、けたたましい吠え声をたてて、まったく尻ッ尾を垂れてしまった。
犬の声よりも、見ていた群集の歓声が、小屋の前を揺すったのである。権力と悪政の法規のまえに、いかんともし難い屈辱と隠忍を強いられていた庶民は〝お犬様〟の暴力にたいし、若衆が毅然たる正当防衛を示したので、おもわず溜飲をさげ、またうれしさの余りというような狂喜の態を発したのだった。
老中の息子と、その家来たちは、血相を変えて、小屋の内から出て来た。さきの若衆はそのときまだ悠然と去りもやらずにいた。木戸番は責任上、すぐすッ飛んで行って町役人をよんできた。もちろんこんな盛り場にも、お犬目付は随所にいる。──御法規をおそれぬ不埒な奴、しかも御老中の飼育あそばすお犬様を足蹴になどいたすからには、前例にてらしても、死罪獄門は知れたこと、縛め捕れという大騒動とはなった。
しかもなお、若衆は沈着を極めていた。役人捕手が取り囲んだ。が、風采を見て、犬目付が何かふた言三言、訊問した。と思うと、役人たちがみな犬の如く初めの気勢を失ってしまい、老中の息子等と共に、こそこそ協議の上、何事もなく退散してしまった。
その事があって以来、若衆の素性は、この界隈でかくれないものとなった。紀州大納言頼宣の孫、貞光の第三男、まだ一介の部屋住みだが、越前丹生の地に三万石を領して、近年、将軍綱吉に謁見し、その人もなげな天性を愛顧されて、幼名源六を新之助と改め、加冠して、従四位下に叙され、左近衛少将に任ぜられたという──厄介なお坊ちゃんであると知れたのである。
──蕎麦屋は、巷の迅風耳とみえ、よくしゃべっていたが、急に、担荷に天秤をさし入れて、
「葵御紋の印籠なぞは、夜鷹蕎麦屋には、風鈴の代りにもならないやね。願い下げだよ、これは。……だが、見れやあいい若い者のくせに、幼な子を抱いて、この霜夜に、どうしたってえことだ。お嬶に間男でもされて逃げられなすったかね。蕎麦代はその子に奢っておこう。──風邪をひかせなさんなよ」
と、そのまま行ってしまった。
夜が明け、夜を迎え、それでも何とか、人間は喰べつないでゆく。久助が、食物を漁りまわっては持って来るのだった。そのうちに、銭など持っていることもあり、それのある時は、木賃の薄蒲団に寝た。
葵ぢらしの印籠は、お燕のよい玩具になったが、市十郎が、そのお方の好意にたいしても、勿体ないといって、以来、お燕の腰紐に、守り袋と一しょに提げさせていた。
「あっ、泥棒ッ。──泥棒泥棒っ」
礫のように逃げ走ってくる男がある。追いかける方は二、三人。ひとりは暖簾棒など持っている。
町中はちょうど夕餉の炊ぎ時、靄みたいに煙っていた。それと黄昏を窺って、すぐ見つかるようなのでは、いずれはコソ泥にちがいあるまい。
「曲がッた。──そっちへ抜けたッ。──捕まえてくれっ。泥棒だ泥棒だ」
コソ泥は必死に逃げ、石町の鐘つき堂をぐるぐる廻り、また追いつめられて、瀬戸物町の方へ馳けたが、折ふし通りかかった二人づれの同心に、番所に居合せた捕方の三、四人も加わり、逃げれば逃げるほど、追えば追うほど、由々しい大物でも懸かるような騒ぎを伝えた。
京橋尻の、もと梅賀がいた家の近くに、河に添って広い空地があり、伐り残された団栗林のわきに、軒傾いた木賃宿が二、三軒ある。
市十郎は、そこの破れ窓から、何気なく首を出した。──どこか近くで、どたどたっと、烈しい跫音がひびいたと思うと、団栗林の方で、久助によく似た声が、何か突然、わめいたように思われたからだった。
「おやっ?」
捕手らしい人影に囲まれて、ひとりの男が、むごく引ッ張られて来るのが見える。撲られるたびに、泣くような喚くような声も聞こえ、その一群れは、この木賃長屋と船玉神社のあいだを通って、往来へ出て行った。
「久助だっ」
愕然とし、──かれはうしろにお燕が泣くのも捨てて、木賃の土間から飛び出した。
夕闇せまる往来には、黒々と人立ちがして、縄付を指さしあっていた。悄然と、腰縄で首うなだれてゆく小柄な男──やはり久助にちがいなかった。
「……オオ!」
久助──と喉まで出かかる声を嚥んで、市十郎は暗澹と、胸のふるえを両手で抱いた。南無三、何とか救う手段はないか。罪はかれが犯しても、罪の責任は、自分にある。──この頃、かれが持ってくる小銭や食物は、何に依って得てくるかを、自分も知っていたのではないか。
かれが本来持っているあの親切気、あのお人好し、そして他人の子のよろこびを見るのをもって、無上に自分も他愛なくよろこぶ性質は──どうして悪人といえよう。
だが、あきらかに彼は、泥棒を働いた。いかなる罪をもって律せられても苦情のいえない縄付にちがいない。市十郎は、苛責された。もし気がつく者があれば、怪しまれるほど、苦悶の状を、その面に深く描いた。
──その時、久助の方でも、彼の影を認めたらしい。ふと、足をすくめて佇みかけたが、歩けッと、たちまち縄尻で打ちすえられ、ふし眼がちに、市十郎の方を見ながら、すごすご宵の辻を曲がって行った。
出来心の軽い罪。長い牢舎でもあるまい。出て来たらどんなにも詫びて──と市十郎は、自責のつぐないを後日に期して、その後もその木賃から子を負って、毎日、どこともなく出歩いていた。
が──お袖のたよりは皆目聞くこともなく、ふと、会いもすまいかと、そら恃みの偶然もなかった。
それが彼の今では第一の目的だったが、日毎の木賃の払いにも金がいる。かれは、背にお燕を負い、面を破れ編笠にふかく隠して、素謡をうたいながら、恥かしそうに人の軒端に立った。──それもなるべく人目立たぬ浅草、下谷あたりの職人町などをえらんであるいた。
行方さだめぬ道なれば
ゆくへ定めぬ道なれば
こし方も、いづくならまし
もう町は師走に入っていた。年暮の忙しさ。その中を、金春流の素謡の節を、浮世離れた悠長さにながしてゆく。──が、咎める者もなく、また、芳捨の銭も、稀にしか、彼の扇子に乗らなかった。
──しかもこのほど、雪ふりて
仙人に仕へし雪山の薪
〽かくこそあらめ
〽われも身を──
〽捨人のための鉢の木
切るとても、よしや惜しからじと
雪うち払ひて見れば
おもしろや、いかにせん
きょうも〝鉢の木〟の一節を流しながら、鳥越から浅草見附の方へ出てくると、わらわらっと町中に人の跫音が沸き、かれの側をも馳け抜けた一群れの者に、あぶねえッと、呶鳴られた途端に前へ突きとばされていた。
「なんだなんだ。何が行くんだ」
「さらし者だ。罪人だ。──曳き廻しが、裸馬で通るんだ」
「この夏の、中野のお犬小屋荒しが捕まったんだ。江戸中引きまわしの上、小塚ッ原へ引ッ立てられてゆく途中だ」
「え。中野のお犬小屋荒しだって。そいつあ、拝んでおかなくッちゃ、申し訳ねえ」
口々にいい交わしては、争い走ってゆく人々の足に、乾ききった十二月の昼は、馬糞色に埃立ッて、もう両側はたいへんな見物人であった。
この日、江戸町奉行は、懸案の難問題を解決して、百数十日ぶりの明るさを取りもどしていた。おそらく、現江戸町奉行丹羽遠江守は、年内に切腹するだろうと、取沙汰されていたくらいだからである。
中野お犬小屋のお犬が、一夜に十数頭も斃死した事件は、当然、将軍の綱吉、母堂桂昌院を初め、柳沢吉保の耳にももちろん入って、
(事態、容易ならず)とされ──(天下の椿事)と驚愕され、さらに護持院隆光のごときは、これを、思想的犯行とも見なして、(必定、将軍家の御威徳を呪い、御治世ぶりにたいし、不逞なる不満と反逆をいだく者の所業にちがいござりませぬ。かかる者は、草の根を分けてもひッ捕え、世人の見せしめに、極刑に処しおかねば、次々、いかなる不心得者が現われるやもしれますまい)
と、例のごとき献言まで行った。
さなきだに、激怒していた綱吉は、老中を通じ、町奉行丹羽遠江守へ、犯人の逮捕を、日限きッて、きびしく催促した。しかし、容易にその検挙は実現しなかった。理由は、事件がまったく無欲の行為に依るからだといわれた。そのために、ほとんど、足どりとか贓品の経路とかいう常套的な捜査法はまったく用をなさなかった。──ただ、毒揚物を入れたらしい一箇の魚籠が中野の雑木林の中に捨てられてあった──それだけであった。
期限の百日が、老中の説明で、やっと猶予され、さらに犯人逮捕の日限は、五十日延期された。それ以上は、奉行の無能を謝して、切腹でもするしか、丹羽遠江守の立場はないまで、さし迫っていたところなのである。
町の情報通は、虚と実のけじめもなく、そんなことをガヤガヤ話しあいながら、裸馬の三途行列を、首を長くして、待っていた。
──やがて、錆槍をかついだ刑場人夫を先頭に、罪状の高札をさし上げて来る者や、裸馬の前後に付いてくる警固役人の笠などが見えて来た。
裸馬、三頭。その一頭一頭に、囚衣の罪人が、縛りつけられている。みな、きりぎりすのように痩せ細り、眼をくぼませ、髪も髯も、ぼうぼうと生いはやして。
白い弔旗のような幟ばたにも、何か、かれらの罪悪がくろぐろ書かれ、一番あとから、数珠をもった坊主が二人、何のつもりか、足駄ばきで従いてくる。──この世、あの世、どっちのものともいえるような一列の寒々とした灰色の行列であった。
市十郎は、眼を疑った。──かれも、路傍の人なかに立ち交じっていて。──そして、さきに来る三頭のうちの一頭の裸馬の背を見て。
なんとそれは、姿こそ変れ、ひと月ほど前に、微罪で捕まった味噌屋の久助ではないか。
「よもや?」と、眸をこらし、心をしずめて、さらにすぐ眼の前を通ってゆくのを見定めて、かれは危うく、背に負うわが子もわすれて──その側へ走り寄ろうとしたくらいだった。
「……久助だ! おお、何として?」
何か、わけのわからない疑念で、頭がぐらぐらした。阿能十なら知らぬこと。大亀なら知らぬこと。久助とは? ……信じられないのである。──が、すぐ次の裸馬が通った。その上の者は、まったく見も知らない人間だ。更に、三番目の裸馬が通った。その上の者も見覚えがない。──久助のみである。久助のみが、彼のあたまの中を、いつまでもいつまでも、果てなき死出の道へ通って行く。打消そうとしても、そのあわれなる姿は、もう一生消えまい。
だが、見物人の声の中には、よくある強盗、放火、殺人などを犯した者にたいするような悪罵も怒りも聞かれなかった。むしろ、かれらは暗黙のうちに、裸馬の背に同情していた。ある者は、お念仏をとなえたりした。ある者は、ひそかに合掌していた。またある者は、よくやッてくれたと、いわぬばかりな眼をもって見送っていた。
それらの人影も、師走らしく、たちまち蝟集して、たちまち散った。あとには、路傍の枯れ柳と、大岡市十郎だけが残っていた。
「めずらしいじゃねえか。市十郎。おめえはたしか、於市だろうが」
思いきや、まだ柳の木蔭に、もひとり人影が佇んでいた。長刀をぶっこんで、熊谷笠とよぶ荒編みの物を、がさつに顔へひッ被った浪人である。
「えっ。……ど、どなたでござったろうか」
「ござったろうかもねえもんだ。おれを忘れちゃ困る。その子を生んだお袖なざあ、おめえよりは、この阿能十蔵の方が、早くから目をつけていたもんだぜ」
「おう、阿能十か」
「於市。ちか頃、お袖に会ったかい?」
夜になるとよくこの辺の売笑婦たちが集まってくる茶めし屋の葭簀囲い。お厩河岸にはこれが多い。──市十郎はそこへ連れこまれ、
「まあ、掛けねえ」
と、阿能十のさす一つの床几へ、腰をかけた。
「お祝いだ。きょうはおれにも祝っていいことがある。──おい、亭主、熱いのを燗けてくれ。そして何か美味い肴をな」
かれも、床几に片胡坐をかきこんで、前屈みの小声になり、半分口を抑えながら語った。
「かわいそうなのは、お人好しの味噌久だが、これで一件は、めでたく落着だ。奉行なんてやつあ、自分が切腹とでもなると、何をやるか分らねえ。──さっきの裸馬を見たろうが。あの三人の下手人のうち、久助は、半分下手人といってもいいだろうが、後の二人は、奉行の身代りだよ。どこかの唖乞食か、半馬鹿の罪人をつかまえて、お犬殺しに仕立てたにちげえねえ。ふふふふ、こッちにとっちゃあ勿怪のしあわせ。いずれ根よく潜っていたら、大概、こんな片付きかたをするんじゃねえかと思っていたのさ」
そしてまた、不敵に、こうもいった。
「なあに、老中だって、将軍だって、柳沢次第の世の中だアな。奉行も、切腹と来ちゃあ堪らねえから、そこはそれ、柳沢の御簾中筋へ、廻すものを廻しさえすれやあ、どんなにでもなることさ。──どうだ。世の中は、面白かろう。わけて、裏街道をあるいてみると」
酒が来たので、ちょっと、黙ったが、またすぐ小声と、前屈みになり、こんどは、お袖のことをいい初めた。
「──そんなに、捜していたのかい?」
と、ここへ来る途々から、かれはいったことなのである。
阿能十にいわせれば、
「お袖にゃあおれはちょいちょい会ってるんだ。先月あたりは、毎晩のようによ」
と、いとも易々、匂わせて、市十郎が、さっと顔色をかえたのを横目で見てから──後でゆっくり話すがね……と、ここまで来てしまったのである。
「会わせてやるぜ。いつでも」
阿能十は、ぐっと一杯ほして、その杯を、市十郎に持たせ、
「はやくおれにぶつかれば、いつでも連れて行ってやったものを……」
と、まだ明らかには、居場所を口に出そうとしない。
市十郎は、てもなく焦らされた。かれは、阿能十の語った幕府の上層や奉行所の腐敗に、おもわず義憤の眼をかがやかしかけたが──お袖の居所が知れる緒をにおわせられては、心何ものもなく、あらゆる矜持も失って、阿能十の前に何度も、頭を下げた。
「よし、きっと、会わせてやろう。おれは、大亀のような、ずぼらは嫌いだ。約束する、かたい約束を」
「この通りです。何とぞ」
「そう、いんぎんになるなよ於市。こっちも武家出、つい固くならあ。──じゃあ、その約束がわりに、おめえにひとつ、持って来てもらいたい物があるんだが」
「何ですか。自分に持って来いというものは」
「おめえの親戚に、たしか大岡兵九郎とかいうのがあったなあ。屋敷は牛込だ。小普請奉行の古手の方だ」
「あります。自分を養家の大岡忠右衛門へ世話いたし、その折の仲人でした」
「そうかい。ううむ……。その兵九郎のやしきへ行って、江戸城のお金蔵の絵図面をひとつ持って来てくれねえか。なあに、あるさ。小普請組の家にゃあるに極まってるものだ。──なに? 借りには行けぬと。ばかアいえ。どんな親しい仲だって貸しなどするものか。忍び込んで、黙って拝借して来るのよ。おめえなら、屋敷の勝手は知ってるだろう。金なぞ盗めというんじゃねえ。やってみろ、やってみろ。度胸試しにゃいい仕事だ。……そして、お袖にも会わせようじゃねえか。なんの、金輪際、それに嘘いつわりがあるものか」
ひそひそ声の雄弁に、市十郎は多くを答えるいとまなかった。この阿能十には、従兄の大亀とはべつな、陰性にして強い牽引力がある。どうしても同じ闇の住人なら、魔の淵の底まで覗かせないうちはやまないという同化力だ。また非常な誘惑上手でもある。市十郎の迷うあいだにも、お袖のうわさをチラチラ交ぜ、かれの背のお燕を降ろさせて、食べ物をやったり、あやしたり、そして母を慕う子への不愍を、市十郎に、いやが上にも、つのらせたりする。
眼をつむって──
「では、いつ?」と、ついに市十郎はいってしまった。「お袖に会わせて下さるか」
阿能十は、いつでもと答え、ただし、その絵図面は、年暮内もなるべく早めに手に入れたい。この月の十三日の晩、もいちどここで会おう。そしてその時、図面を手に入れてくれたら──すぐその足で、お袖のいる所へ行ってもいいと確答した。
「持って来ます。十三日の晩までに」
「では、おれもここで、待っているぜ」
「承知した。……だが、困るのは、この子ども。この子を連れては、身のうごきがつきかねる」
「そこは合点だ。おれが預かって行くよ。おれが」
と、阿能十は、もう自分の膝へ抱きとった。が、なお市十郎には、かれへの不安がいっぱいで、馴れない男手にはどうであろうと、危ぶんで見せると、阿能十は、もうほろ酔いきげんの大口をあいて笑っていった。
「これからすぐ駕籠に乗って、遠くもねえお袖のいる所へ行くんだ。おめえの背中で寒風にふかれているより、あの色のいいお母あちゃんの乳ぶさに抱かった方が、この子だって、どんなにいいかしれやしめえ。あはははは。……といったら、お燕坊よりは先に、おめえの方が、その乳が恋しいところだろうな」
市十郎は、ほんとのことをいわれた気がした。やがて、かれと連れ立って、茶めし屋の葭簀の外へ出た頃には、ふしぎに、良心のありかもわすれ、かえって、お袖に会えることのみが心を占めて、久しぶり心にかすかな明るみさえ覚えていた。
「その間の、お小費」
と、阿能十は、銀子を二粒三粒、かれの手に渡し、すぐ橋袂の町駕籠を自分でよんで──
「おい。番町まで」と、お燕を抱いて、一しょに乗ってしまった。
「番町まで? ……。はて、番町までといったようだが」
市十郎は、いつまでも、遠ざかる町駕籠の影を見送っていた。そして、こよい子に抱きすがられるであろう白い乳ぶさを思いえがいた。──まだ陽はたかい真昼の闇に。
「主殿、やめよう。わしも気がのらぬし、そちも、なにやら冴えぬ容子──」
兵九郎は、ざらと碁石を掻きおさめて、盤を横へ押しやった。
召使をよび、
「持って来い」と、鈍くいった。
待たせておいた夕食の膳である。酒もあたため直し、燭も灯して、
「ひとつ、ゆこう」
「まあ、叔父上から」
と、初めたが、碁のあいだに、おたがい感じあっていた寂寥の空虚が、やはり、膳にも、杯の中にもあった。
牛込の赤城下に抜ける坂の途中。この辺には崖へ倚って、小普請組の小屋敷が多かった。大岡兵九郎もその一軒で、歳暮のあいさつに来た甥をつかまえて、この頃の侘しさを、碁にまぎらしてみたのだった。
「──主殿。赤坂へは、折々、訪れてくれておるか」
「はい。昨日もちょっとお見舞い申しましたが」
「そうか。気の毒さに、つい訪れも欠いておるが、このところ、忠右どのの容態は、どんなふうか。少しは、快い方かの」
「それが……どうも今度は、日にまし御病状が快くないようで」
「ずいぶん剛毅で通った忠右どのだが、年も年だし。市十郎のことも、憂いに嵩み、さすが、こたえたものとみえる。……お縫も共に、病まねばよいが」
「お縫どのの姿を見るたび、拙者も、市十郎の兄として、申し訳なさに、腸を掻きむしられ、ただ、心のうちで、詫び拝むばかりでございまする……」
折々、廂を打つ落葉の音が、雨かとおもう錯覚を起させる。
雨。雨を連想すると、主殿も兵九郎も、同じ思いに沈み入った。
──やがて二た月前にもなる。あの夜も真ッ暗な雨の夜だった。
養父の忠右衛門や、許嫁のお縫もおいて、赤坂のやしきを出て行った市十郎の──あの悪魔に憑かれた市十郎の姿が──その時の悲雨や悲涙のむせびを交ぜて、今でも耳によみがえってくる。惻々と、胸を傷くしてくる。
(この年の暮を、どこをどううろついていることか。悪い仲間に、深入りしておらねばよいが。そして、此家の戸を叩いて、悔いてでも来ればよいが)
憎い弟、憎い奴と、口に出せば、たちまち憤りとなるが、心の底では、主殿も兵九郎も、──こう祈る気もちに変りはなかった。
「あまり夜更けぬうちに、おいとまいたします。どうやら雪でも催しそうな寒さ。叔父上も、この歳暮へきて、お風邪でも召さないようにお気をつけ下さい」
「もう帰るか。……ひき止めても、何やら今は、おたがいに心も楽しまん。わしは達者だが、公務のひまがあったら、折々、赤坂を見舞ってやってくれよ」
「おことばまでもございません。では……」と、兵九郎に送られて、主殿は、玄関を出た。そして門までの暗い飛石づたいを、足さぐりに歩いてゆくと、がたっと、袖垣の蔭にあたって、不自然な雨戸の音がし、たしかに人間らしいものが、そこらの庭木をくぐって、塀のミネへ登っていた。
「賊だッ。叔父上っ、叔父上のお部屋へ、何者か、忍びこみましたぞっ」
大きく家の内へ告げておいて、主殿はすぐ往来へ躍り出ていた。
まるで、凩の中の一葉にも似て、賊の影は、もう坂下へ向って、逃げ走っている。──おのれっと目がけて、主殿も飛ぶように追いかけた。またたく間に距離をつめた。
賊は、鼬のように振向いて、これは──と明らかに狼狽を見せ、いよいよ馳けたが、坂下を曲がると、うしろから追ッて来る者の跫音も声も耳にとどいて来た。
「待てッ。盗賊!」
声に射られたように、賊は一瞬、ぎくと足をすくめたようだったが、近づいた主殿の方が、もっと大きな愕きに打たれた。
「あっ、弟っ。──市十郎だろう、貴様はッ」
賊は、よろめきかけながら、うしろを見、手を合せるような恰好をした。──が、主殿の意外さは、一そうな憤怒を加え、足は砂を蹴って、もうわずかで、賊の襟がみへ、その手が、とどきかけた。
しかし、とたんに主殿の体は、烈しい弾みをもって、路傍の木の根へ仆れて行った。──理由は、不意に、物蔭を離れた荒編笠の人影が、横から彼にぶつかッて行き、どんと、兇器か拳で、突き仆すと、そのまま風のように──賊の影とは反対な方へ──走り去っていたのだった。
雪もよいの夕だった。川千禽が何ときょうは多いことか。
約束の、師走の十三日。
市十郎は、いつも着通しの袷に、古編笠、窶れ刀の寒々とした姿を、お厩河岸の茶めし屋の前に見せ、よし簀をのぞいて、
「来ているかしら?」
と、この前、ここで別れた阿能十蔵の姿を、奥の床几にさがしていた。
「於市。やって来たな」
背を叩かれて、ふり向くと、その阿能十が、この前と同じ荒編笠を眉深に、この男の癖として、意味なくニタニタ笑っていた。
「あ。もうお先に来ておられたので」
「なあに、今さ。ちょうどよかった。まア、一杯やって、暖まろう」と、中へ入って、型のごとき煮込や熱燗をとって、ほどよく酒も腸にまわってきた頃──阿能はさっそく口をきり出した。
「ときに、どうしたい、約束の物は」
「持って参りました」
「なに、持って来た。そいつあ豪儀だ。どれ、見せてくれ」
「……が、ここでは、人目もありますから」
「なんの、おめえ、傍の者にゃあ、何を見ているか、分る気づかいはねえ」と、眼で強いて、市十郎が、恐々、内ぶところから取出した物を、くるりと後ろ向きになって、入念に拡げて見ていた。
「よし、確かに、貰ったよ」
幾つかに折畳んである一片の図面だった。それを自分のふところ深くおさめてしまうと、阿能は、またニタニタ笑っていった。
「市の字。ゆうべの逃げッ振りはよかったなあ。あれで、もすこし度胸がつけば、おめえもそろそろ素人じゃあねえ」
「え。ゆうべの……?」
「よせやい、於市。もしやヘマをやりゃあしねえかと、救いに出ていた恩人を、お見それ申しちゃ困るじゃねえか。──赤城下でよ。すんでに、ふん捕まるところだったろうが」
「あっ──」おもわず出る驚きを顔いろのうちに抑えて、
「……で、では、あの時、うしろの方で、ふいに、兄へぶつかッて、兄を仆して行った人影は」
「オオ、おれさ。あんな事もあろうかと、夜毎、小普請屋敷の近辺を、見まわっていてよかったよ。……だが、あの男は、おめえの兄貴だったのか」
「夢中でしたが、二度ほど、背に浴びせられた大声が、どうやら兄の主殿のようでした」
「そいつア、しまった」
「えッ。しまったとは──な、なにかあの折」
「いいや」と、阿能十はあわてて首を横に振り、「何でもありゃしねえがネ」
「もしや、何か、兄の体に?」
答えもせず、阿能十は、手を叩いた。茶めしやのおやじに、銭を払い、早くも笠をかぶり出している。
外へ出た。市十郎も、追いすがるようにそこを出て、忘れたような顔をしている相手の素振りへ、つよく迫った。
「約束だ、阿能。お袖の居所を教えてくれい。──約束ではないか」
「わかッてら、於市。あわてるなよ」
阿能は、そッ気ない大股になって、厩の渡しの方へ歩き、そこにうずくまっていた駕籠屋溜りへ手をあげた。
「二挺だよ。──番町まで」
駕籠賃を先に渡し、道順か何か、細々といっていた。そして、前のへ自分が乗り、後の駕籠を、市十郎に与えて、
「約束どおり、お袖に会わせざなるまいが、余り見せつけてくれるなよ」
と、からかって、駕籠の内へ、乗り分れた。
駕籠の内で、夜となった。──あしたは雪だろうと走りながら駕籠屋はいう。市十郎は、膝の冷えも覚えなかった。ゆうべ犯した罪の怖ろしさもわすれていた。さっき、兄の主殿の身にチラと危惧された不安も掻き消されていた。心はただお袖に会えることだけにあった。恋する者でなければ、刻々、昂まるのみなこの歓びも、この盲目的な一途の気もちもわかるはずがない。
「あ。……駕籠屋。なぜ降ろす。なぜ止める。先の駕籠を、見失うではないか」
「旦那あ」と、駕籠屋は、落ちつきこんでいった。
「相棒が、草鞋の緒を切ッたんでさ。──すこし待っておくんなさい」
「待つはよいが、先の駕籠は?」
「行く先は伺ってありますから、後から行ったって、御心配はありません」
「いや、いけないっ」
「ま。一ぷく、お吸けなすって。その間にゃ」
「呼びとめろ。先のを」
「──もう、見えませんや、旦那」
「な、なに」
市十郎が、飛び出すと、とたんに駕籠屋も逃げてしまい、外濠の水と、枯れ柳の影のほか、前後に何も見えなかった。
「騙された──」と、覚ると、彼は、騙した者への怒りよりも、一瞬にお袖の姿が、星のような遠さになってしまったことに、地だんだふんだ。
鬢の毛が、疾風を切った。彼の足は、草履もはきわすれ、凍てた大地の冷めたさも痛さも覚えず走りに走っていた。──決して、まだそう遠く離れてはいないはずの、先のブラ提灯を目あてに追って。
追いついた。果たして先にチラと見えた。たしかにそれだ。──だが、市十郎もこんどは阿能のウラをかいた。やがて駕籠の灯がとまった荒れ屋敷の門を見届け、そこの崩れた土塀の横に身をひそめていた。そして阿能が中へ入ったのを見すましてから、彼も、土塀をとび越えた。
中は広い。すくなくも千石以上の家らしいが、無住の山寺といっていい程な荒れかただ。戸締まりなどはまるでありそうもない。──市十郎は易々と屋内に入っていた。
どこの部屋からも、明り一つささないが、家の中央の広間からは、晃々と灯影が洩れていた。そればかりでなく、一種異様な人間臭さがむうと、そこから温くながれてくる。
「オヤ。……ここは」
細目に開いていた杉戸の隙からのぞきこんで、市十郎は怪しみにとらわれた。そしてすぐ、こんな所に、お袖がいるだろうかと危ぶんだ。
すさまじい博奕場の光景が、彼の眼に映っていた。旗本くずれ、雑多な武家ごろ、医者風、旦那てい、坊主、女など──円座を作って、なぐさみごとに、血眼を闘わせている。だが、その幾人かの女のうちには、お袖は見えない。見覚えのある顔は、今しがた、ここへ入った阿能十ひとりだけである。
阿能は、この群れの中でも、もっとも傲岸に見える男のそばへ寄って、勝負をのぞきこんでいた。
男は、五十がらみ。おそらくこの荒れ屋敷の主人だろう。場中の者が、その者を呼ぶには特に「番町様」といったり「刑部様」と敬称したりしている。
刑部様は、稀代な醜男だが、屈むにも骨が折れそうな、隆々たる筋肉をそなえ、ごろ武家、ぐれ旗本をも、よく威伏せしめる金力と腕力の保有を、その風貌は実証して余りがある。そしてまた、太い猪首をうごかし、脂ぎった赤ら顔から、眼をうごかすとき、火傷かほうその痕か、片方の瞼の肉がひッ吊れて、眉が半分欠けているのが、ひどく人に獰猛な圧迫感を与えるのでもあった。
そのうちに、阿能が、
「刑部様。……ちょっと、お手のあいたところで」
と、耳打ちして、彼と共に、市十郎が覗き見している杉戸の方へ、連れ立って来た。
市十郎は、戸惑った。あわてた。
だが、出て来た二人は、すぐ暗い中で、立ち話をしはじめた。
「……どうです。こいつあ」
「お。二の丸の金蔵図面か。よく手に入ったなあ、阿能」
「その代り大骨折りでさ。褒美は、うんと貰わなくッちゃ埋まりませんぜ」
「ケチな欲はかくな。仕事はこれからだわ。……だが、これを持ち出す手先に使った、市十郎とかは、どうしたい?」
「お袖に会わせてやる約束だったが、七面倒くせえから、駕籠やに酒代をくれて、途中で撒いて来てしまいました」
「可哀そうに、会わせてやれあいいに。……何も、おれに遠慮はねえんだぜ、阿能」
「でも、会わせずにすむものなら、刑部様だって、やっぱり会わせたかあねえでしょうに」
「なに。そうとも思わない。ぶつけ合してみたい気もして、連れて来るなら来いといっておいたのだが。……まあ、どうでもいい。とにかく、図面はおれが預かっておく。何かの相談は、ゆっくり後のことにして」
「じゃあ、たしかに」
「うむ、受け取った。……おや。また土蔵の二階でピイピイ泣いているらしいが、阿能、この間、てめえが背負いこんで来たあれだけは、余計もんだったなあ」
「まさか、お犬小屋へ持ってゆくわけにもゆきませんでネ。そのうちに、里子へでもやってしまいましょうよ。何だって、人間の子になぞ生れやがったか。犬ッ仔にでも生れればよかったろうに……」
二人は、廊下窓から土蔵の方をながめていたが、すぐ元の広間へ姿をかくした。
市十郎は、小部屋の蔭から這い出した。そして、二人が立った窓口へすがりつき、墓場のようなここの裏庭を見廻した。二棟の土蔵がある。一ツの土蔵口の大格子から、かすかな灯影が──灯影と意識しなければ気づかれないほどの薄明りが──ゆらゆら外へさしている。
幼い者の泣き声は、そこから聞えてくるものだった。お燕にちがいない。その泣き声は、直ちに、肉親の血を搏ッてくる。父なる人間の良心を責めてやまない。市十郎は狂おしい影をさまよわせ、またたびに酔える猫のように外へ出て行った。そして、土蔵格子へ顔を押しつけた。
「──誰? どなた?」
土蔵二階から女の声がとがめた。
階下の重い欅扉が、少しずつ、ガラ、ガラと開くような物音がしたのに、そのまま上がって来る者もない不気味な気配に、お袖は、添乳していたお燕の寝顔をそっと離して──
「たれなの?」
と、白い胸肌をつくろいながら、身をもたげて、今度は暗い梯子の穴へ、覗きこむように、もいちどいった。
「おっ。お袖っ……」
谺のような声が返った。次の跫音も、度外れに大きかった。お袖は、のけ反るように面をそむけ、全身は一瞬に白い戦慄だけを見せて、丸く屈まりこんだ。
──茫然と、そこに立ち、涙をたれたまま、市十郎は暫く大きな呼吸をなだめていた。そうしているうちに、彼は目のまえにある恋人のすがたをありありと夢ではなく事実に見、これまでの一念に、よくもと、自分で自分をいたわらずにいられなかった。──と共に、あらゆる飢寒や辛酸との闘いも心ゆるんで、骨も肉も、筋も、いちどにばらばらに解れるかのような気もちになり、どたっと、そこへ坐ってしまった。
「お袖。わしだ、市十郎だ。……ここ幾十日。どんなにそなたを探したことか」
「…………」
「ああ、それでも、こうして会えてよかった。よく無事でいてくれた。もう離れまいぞ、別れまいぞ。のうお袖」
「…………」
お袖は、俯伏したまま、顔を見せない。さっきから返辞もしない。しかし市十郎の一言一言に、その背は、烈しい感情の波を見せている。果ては、見せない顔の下から嗚咽がもれ、黒髪の一すじ一すじがみな泣くかのようにおののいた。
「……どうしたのだ。お袖。そなたは、うれしくもないのか。さ、こんな所に、好んでいるのではなかろう。お燕はわしが背に負って行こう。そなたも支度をせい。ふたりして──この子を育てて──これからは楽しく暮らそう。どんな生活をしようとも」
すり寄って、背へ手をまわし、その横顔へ、横顔をよせて、紅い耳もとへささやくと、お袖は、いきなり身を起して、市十郎の肩を、烈しく突きとばした。
「なにさっ、今頃になッて──。これからは、離れまいも、別れまいも、あるもんか。……い、い、いま頃になッて……。な、なにしに来やがッたんだ……」
「あ、あっ。お袖、そなたは、何をおもいちがいして」
「──市十郎さん」
もう泣くまい、としているように、お袖は歯の根をぎりぎりかんだ。まなじりの紅と、耳だけをのぞいて、皮膚の表から爪の先までの血をすべてどこかへ失った一個の女像であった。なお、唇だけはかすかにワナワナ泣いているものの、そのどこにも、市十郎の気もちを容れる何ものもなかった。触れれば針のさきか、氷の肌が感じられそうであった。
「──そんな気もちがあったなら、なぜ、秋の末頃、わたしがお燕を抱いて、赤坂の豊川さんの丘まで会いに行ったときに、ひと目、会ってくれなかったんですえ。……あ、あの日の、くやしさ、なさけなさ……。おまえさんにはわかるまい。──いいえ! あの時、おまえさんは久助へ何とおいいだッたえ。もう思いきった。市十郎のことは忘れてくれ。よその男へ縁づくがいい……そういったじゃありませんか」
「お袖。わしが悪い。あの日の心は、そうであった。あの部屋から一足出て、そなたに顔を見せもしなかった。……けれど、市十郎の」
「ああ、うるさい。よして下さいよ。こっちは女の一生をかけて、しかも、子どもまで生まされて──男といえばこの世に市十郎という男のほかにないものとしているのに……ば、ばかばかしい。何たるわたしはお馬鹿だろう。──わしが悪い、あの日の心はそうであったッて。……ふふん。よくもまあ、いえたもんですねえ。おぼえておいでなさいよ。その薄情をね」
「あやまる。お袖。……ゆるしてくれ」
「ええ。見たくもない、そんな恰好。……今さら、百まんだらあやまられたって、破れた恋がどうなるんだ。わたしはもう、前のお袖じゃありませんよ」
「えっ。前のお袖でないとは」
「その日その日に気が変るあてにならない男ともおもわず、あの赤坂の屋敷まで、おまえに会いに行ったのが、魔の辻やら、夢の辻やら、あの晩、屋敷の召使たちに、まるで囚人あつかいに、括り駕籠へ押しこまれ、半蔵御門の近くまで担がれて来たあげく、外濠あたりへ捨てられたんです。……気も失ってしまおうじゃないか。ふと、気がついた時には、わたしの体は、もうわたしの体でなくなっていた……」
お袖は、また、さめざめと泣きぬれた。袂を顔に押しあてて、そのときの苦悶と、苦悶から抜け出るまでの、幾夜幾日かの心の経過を、みじかくて強いことばで、市十郎へいおうとするらしかったが、いえないのであった。涙になってしまうのであった。
かの女のからだは、外濠並木の括り駕籠から、この荒れ屋敷へつれ込まれて以来──その夜からもうここの主の自由なものにされていた。なんの意志も抵抗も示さないうちに、かの女の運命は大きく変っていたのである。それを自分の知性で割りきって、自分の運命は自分でのみ作ってゆく女の力の欠けていた時代でもあり、ゆるさない社会でもあった。かの女は、恋の墓場から、べつな女に咲き変った。
この化物屋敷は、銀歯組の巣であった。刑部様なる者が、つまりここの主であり、銀歯組の旗本、武家ごろの頭領でもあった。素性はよくわからないが、悪の世界においては、人を抑える怪腕の持主であるにはちがいない。まだかつて、銀歯組の刑部様とのみよんで、人が姓をよんだことのあるを聞かない。何しても、お袖は、その刑部様の強靭な肉情から飽かれない限り、ここを出ることはできないであろう。──この運命に、女としての怒りが燃えつのるたび、かの女のうらみは市十郎へ帰った。市十郎を怨みの対象とすることが、今では、市十郎への愛だとさえいえる。恋い焦がれる市十郎なるが故に、夜も日も怨みに恨みつめなければ、それを胸に持てなかった。ときには、その市十郎と、お縫との、ふたりを呪咀の像にえがいて身も心も炎にした。
この陰湿な土蔵二階で、厭な厭な心にもない夜を、あの醜男の化物刑部のもてあそびになって重ねながら、かの女の肉体のうちには、かの女の本心とはかかわりなく、べつにふしぎな変化が醸されていた。どうにもならない屈服の下に、今ではまったく、お袖は、化物刑部のものになりきってしまっていた。──その手へ、ふと、お燕が戻されてきて、かの女の心に、突然、母なるものが呼び醒まされて来てからでも──その子に添え乳しては涙ながら思うことは、市十郎へのうらみであった。世の無情ではなく、男の無情であった。刑部への憎しみよりは、市十郎への募りに募る憎しみであった。
「……思い直してくれ。ゆるしてくれ。お袖、わしは余りに自分だけのことにとらわれていた。わるかった。……どんな償いでもする」
市十郎は、そうしたかの女の前に、どんな悪罵をもうけるのが当然だと思った。
「何さ。……ちッ、うるさい」
お袖は、自分の体へ纏ってくる男の手を、心にもなく、癇癖に振り払いながら、いってもいってもまだ罵り足らないように、
「償い? ……ふん……償いって、どうするんですよ。償えるものなら償ってごらん。この子を、わたしを、元のとおりにして返してください」
と、お燕を抱き上げて、突きつけた。
無心に眠っていたお燕は、びっくりして、泣き出した。その声も、父を責めた。
「オオ、堪忍してくれ」
市十郎が、腰を浮かして、手をさし伸ばしたのと、お袖が、烈しく彼の胸を突いたのと、一しょであった。
「嘘つき。おまえなぞに、そんなやさしい心があるものか。畜生のくせにして」
「お袖っ……」
うしろへ、手をささえ損ねて、市十郎はひッくりかえった。
「あ、あんまりだ。酷すぎる。わしが、わるいといっているのに」
父の悶え、母の悶え、血のつながりは、それが直ちに、子の泣き悶えともなるものか。この時の、お燕の泣きかたは、ただ事ではなかった。火のつくようなその声が、不審を起させたにちがいない。その時、どかどかと、土蔵梯子をたれか上がって来た。
阿能十だった。また、広間の博奕場に見えた顔のごろ侍や得態のしれない男や女たちであった。
市十郎とお袖のまわりに六、七名もの顔が、屏風囲いになり、その中に、一きわ幅の広い顔を持った主の化物刑部の眼が、市十郎の姿をとらえて、またたきもせず見ていた。
「阿能。──こいつか、市十郎というのは」
「そうです。どうしてここへ来ていたか」
「まあ、いい」と、刑部は大きくゆるすような頷きをして──
「ひと目見たら、気がすんだろうし、かえって、これで片づいたというものだ。……おい」
と、うしろの連中をふり向き、顎を上げて、いいつけた。
「こいつを、つまみ出せ。二度と、寄りつかねえように」
それからの狼藉は、お袖にも見ていられなかった。市十郎はたちまち連中の私刑にかかった。土蔵梯子を引きずり降ろされ、外へ出てからも、ふくろ叩きの目にあった。そして裏門か表門かわからないが、とにかくこの荒れ屋敷から正気もなく突き出された。
それから。どれほどな時が経ったか──彼には、はっきり意識がない。
……ふと、気がついた。
われに返ってみると、自分は、真っ白なものの中に俯ッ伏していた。白いものは、手も袖も胸も埋ずめていた。身をうごかすと、髪の毛からも肩からもサラサラ落ちた。すべて、真っ白なものだった。
「ああ、いいあんばい、気がつきましたね。お侍さん。……このままでいたら、凍え死んでしまう」
市十郎は、おもいがけない女の声に、顔を上げた。
自分の上に、蛇の目傘が、ひらいている。
世間は静かな雪の夜になっていた。傘の下をのぞいては、その美しい柔らかな冬の華が、降りしきっているのである。まだ、五体に何の感覚もよみがえらない市十郎の眸は、ぼうとその幻光に見惚れていた。
「起てますか。……起てなかったら、わたしの腕につかまって」
傘の柄を持ち代えて、女は、彼へ肱を向けた。市十郎は、初めて、お高祖頭巾の顔を見つめて、
「あ。どなたか知らぬが、ありがとうございます。かたじけない」
と、頭を下げた。
「その辺まで、お歩きなさいな。どこまでお帰りか、駕籠を見つけて上げますから」
いわるるままに、市十郎は、女の肱につかまって起った。そして、傘の下に、援けられながら、やっと歩き出した。
ゆうべからの雪は、今朝もまだチラチラ小やみを見せたり、降ったりしていた。
年暮も十四日と迫っていたが、この雪に、世間の朝はひっそりして、どこかで朝稽古の三味線の音さえする。
市十郎は、夢うつつに、糸の遠音を、寝床の中で聞いていた。身をつつんでいる夜具の友禅模様も、何か、不思議な世界のものであるような気がされる。
「おや。お目ざめ?」
枕屏風の横から、こうさし覗いて笑った顔は、ゆうべの人であった。お高祖頭巾の女──あとで分ったことであるが、名はお島、年頃は市十郎より幾つか上らしく、そしてこの家のある所は、南八丁堀の、とある新道で、小粋な二階家造り。障子明りに、雪を持った松の影が映っていた。
「昨夜は、思わぬお世話になりました。お礼の申しあげようもありませぬ」
市十郎は、あわてて、床を出、真四角に、両手をついた。調った家居や調度の中に置かれると、屋敷生活の躾がよび起され、たちまち、今の彼らしくない彼にもどるのであった。
「ホホホホ。まあ、ごあいさつに困ッちまう」
と、お島は唇へ手をあてて笑った。もとよりかの女は、そんな肌の女とはちがう。化物刑部のやしきへ行くと、銀歯組やごろ男を相手にしても、折には、勝負に勝って来ようという女である。
きのうも、広間の賭場仲間のひとりだった。しかも、目が向いて、勝っていた機だったので、土蔵二階の出来事を、ちょうどよいきッかけに、お先へひとり帰って来たのが──あの雪の道だったのである。
──どちらまで? と訊かれても、帰るに帰る先のない市十郎の口吻と、髪のみだれ、衣服の綻び、血のにじみさえ見える手足に、お島の方から、私の家でよければとすすめ、途中で拾った二丁駕籠の灯をつらねて、ゆうべ晩く、この八丁堀の家へついたのであった。
「お礼なんて、もう、そんな、窮屈なお行儀ずくめは、おやめにして下さいな。家には、婆やのほかには、たれも気づまりな者はいないんだし……それにこういう私は、正直、蓮ッ葉の女なんですからね」
お島は、気性そのまま、さばさばといって、柄のいい男ものの丹前に下着をかさね、うしろから着せかけて、
「まだ、体が痛うござんすか」
「なに、今朝は大したことはないようです。何かと、お世話かけて」
「また、そんな……」と、軽く背をたたいて、肩ごしに、市十郎の襟元を、指先でかき合せてやりながら、顔と顔をふれあうばかりに、
「雪ですよ、今朝もまだ。……お風呂へでも、おはいりなさいな。その間に、朝の御飯をしたくしておきますから」
雪のささめくように耳元へいった。
湯から出ると、かの女は、自分もまだ食べずに待っていたといい、朝の膳からもう帆たて貝の小鍋を立て──そして酒さえつけて杯をすすめる。
つい、うけて、また飲んで、市十郎は雪の日を酔いつぶれた。いやその酔を強烈に強いるものは、お島の白い手ではなく、彼自身の心のうちにあるものだった。自分を怨むお袖を怨みかえす理由は毫も見つからない。帰するところ、自分への怨みでしかないのだ。それはかれの心態を、一挙に、自暴自棄の淵へ抛りこんだ。
人間の正味には、もともと賢人も愚人もない。善人と悪人の差もない。が、それは動物と原始の社会へ人間をひきもどしての話であるのはいうまでもない。そして人間はまだその当時の尻尾の痕跡や牙の名残を持っているように、心のうちにもそれを持っている。牙や尻尾のあとは退化したままでも、心のうちのそれは、何かのはずみに、解放されると、たちまち、原始の野へ放たれたごとく、その性能を働かし始める。
自暴自棄は、その状態である。他からでなく、自ら、原始の人間に近いものへ、自分で自分を追いもどすことだ。ここへ自分を蹴陥すことが、誰にもいちばんなし易い、やけくその境地であり、凡愚の立命でもあった。
市十郎は、よく飲んだ。お島もつよい。しかし、そのお島より飲んだ。そしてふたりとも、屋根に重たく雪の降り積んだ二階の小座敷に酔い臥したまま、灯ともし頃まで、降りても来なかった。
灯を見て起き出し、また風呂に入り、出ると、婆やがもう晩飯の膳。──お島は、鬢櫛をつかいながら、鏡台にむかっていった。
「市さん、どう。……今夜も飲ける?」
「酒か。飲けなくてさ」
ふたりの言葉つきは、朝とちがっていた。
籠行燈の下に、小鍋の湯気をたて、酒の燗もそこでしながら、ふたりは、その晩も、しめやかだった。
すると、誰か、用のある者が、階下へ来たらしく、お島へ、ちょっと顔をかしてくれ──と婆やがいって来た。お島が、なかなか腰を上げないでいると、婆やは何度も、梯子だんを通って来て、いかにも、困ったような顔を見せた。
「好かないねえ。──こんな晩に」
お島は、舌打ちして、降りて行った。そのうちに、かの女の奔放なことばつきと、男のすご味をもった大声が、喧嘩でもし初めたように聞えて来た。
それが、時たつほど、荒っぽくなって来たので、市十郎も落着かず、厠へゆくふりをして、そっと、廊下から隙見してみると、男は、いつか神田の丁字風呂で、大亀と一しょに溺遊していたとき、自分たちへ脅しをかけた風呂屋町の地廻り、銀歯組のひとりと名のる赤螺三平だ。
狼の影を見た兎のように、市十郎は、足音をぬすんで、こっそり二階へ逃げもどった。
階下の口喧嘩は、なかなかおさまらない。
化物刑部が叩き出した青二才を、てめえはここへ咥えこんだろう。たしかに見たという者がある。──三平の声で、そんな言葉も聞えて来た。
また。──よし、てめえがそういう量見なら、てめえの本当の渡世は、女掏摸だということを、その筋へ吹ッこんでやるからそう思え。この家にも、この町内にも、いられねえようにして見せるぞ。──と、そんな凄い脅迫文句も、二階までひびいて来た。
(甘くお見でない。女掏摸がどうしたッていうのさ。そんな脅しに驚くようなお島じゃないとさ。わたしがお白洲へ坐る日には、赤螺三平こそ、ひと足先に、獄門台へお出かけのはずだよ。それを承知なら、何でもやってごらん)
これはお島の方のたんかである。
この手の脅しが効かないとおもうと、三平は、こんどは、方向を変えて、
(二階にいるだろう。おれに会わせろ)
(会わせたら、どうする気さ)
(女を奪られて、黙っていられるか。男と男の勝負をつけてみせる)
(ばかなことをおいいでない)
(いや、赤螺三平の男がたたねえ。銀歯組の名折れにもなる。野郎を出せ)
そのうちに、どたどたという物音がひびき、すぐ梯子だんの下から、赤螺三平が、二階へ向って、吠え出した。
「やいっ、市十郎。よくもおれの女を奪ったな。さ、表へ出ろ。男なら勝負をしろ」
市十郎は胆を冷やした、察するところ、三平はお島の情夫だったにちがいない。しかも、お島が、女掏摸とは気づかなかった。どうしよう? ──と、彼は、逃げ口を見まわした。
だが、三平の猛吼は、たッた一吠えだけだった。おそらくお島が抱きもどしたものであろう。ふすまの音や、わめき声が、なお、わずかな間、聞えては来たが、そのうちに、シーンと家の中が、妙にひそまり返ってしまった。階上も階下も、人なきもののようになった。
「帰ったのか? ……」
と、市十郎は心を安めかけたが、門の格子の音もしない。いや、よくよく耳を澄ましていると、階下にはなお、時々、男女の極めて低い声がする。雪にささめく笹の葉ずれにも似たささめきである。
市十郎はそこにある酒を独りで酌いで独りで飲み初めた。一本つぎ、二本つぎ、なお飲みつづけた。長い長い時間を独りそうしている気がした。
──ようやく、三平は帰って行った。二階でそれを物音で察した市十郎は、ほッと、得態のしれない吐息をついた。そして、やがてお島が梯子だんを上ってくるのを知ると、ごろんと、仰向けに寝ころんでいた。
お島の顔が、彼の顔へ重なった。──怒ッたの? と、子どもでもあやすようにいい、
「それとも、わたしが女掏摸とわかって、急に厭になったんですか」
と、かの女も手酌で二、三杯たてつづけに飲んだ。
「なに。掏摸がどうしたッて。……そんな事に、今さら驚くか」
市十郎は、赤螺三平に対したお島の口真似みたいなことを口走って、
「よし、おれも飲むぞ」
と、起き直った。
ふたりは、どろんこになるまで飲んだ。そのあとの行為も本能にまかせた。どっちの心が、どんな心でもよかった。獣と獣だ。精神や潔癖があってはおかしいのだ。やけくその市十郎が、これが人間の真実だなどと考えてもみない。人間を捨てているのだ。いや、人間の肉体だけを保ち、その中の善智や良心めいたものを、自己から放逐してしまいたがっている狂乱だった。──倖せなことに、お島は、この期になって、今さら、肉と心との分離に苦しむような人間ではなかった。なぜならばかの女は、天性にも教養にも、こんなとき邪魔ものになるような良心めいたものは元々持っていなかった。
──どろんこの夜が明けた。
今朝は、まばゆい雪霽れだった。
市十郎は、重い、鈍い、そしてどこかずきずき痛む頭を起した。お島が寝ざめにふかす煙草のけむりが顔に来て、何か、吐きたいような疼きを、胃へ手をやって、抑えていると、
「おやっ? 何だろう」
ふいに、お島が煙管を放り出した。さすがに、悪の世界に住む女だけに、敏捷な身ごなしの要意が、窓へ立ってゆく間にも見え、長襦袢の上へ、小袖を着、帯を締め締め、そこを開けた。
朝の陽と雪との反射が、部屋いッぱい映しこんだ。市十郎もハネ起きた。近所の屋根の下から、ただならない人声がわき起っている。そして、八丁堀の往来へ向って、わらわらと駈けてゆく跫音がつづく。時々、廂の雪が解け落ちる地ひびきの中に、後から後から絶えないのである。
ここの二階のすぐ下でも、駈けてゆく者、佇んでいる者、さまざまらしいが、その人々の口から口へ、異様な口吻で、語られていた。
「──まだですか。まだ、通りませんか」
「なんです? 何ですえ、いったい」
「赤穂の浪人たちが、今にここを通るとさ。それ、去年の春、松の廊下で大騒動を起した、浅野内匠頭様の御家来たちだよ」
「あっ。やったんですか。……ヘエ。じゃあ、うわさは、噂じゃなかったんですね」
「四十何人とかですとさ。ええ、松坂町でしょう、吉良上野様のおやしきはね。えらいこッてすなあ、どうも」
「やりましたなあ、とうとう。ウーム、どうも、何ともいいようがねえ。胸がいっぱいになっちまった。そういえば、夢かな、と思ったが、ゆうべの太鼓は、その陣太鼓だったのか」
「うそをおつきなさい。松坂町からこんな所まで聞えるもんかね。あれや、こんにゃく島の火事さ」
「そうか。……まだ通りませんか。道すじは、どう来るんで?」
「何でも、きょうは柳営の御礼日にあたるとかッてんで、両国橋は通れないので、本所一ツ目から深川へ入り、お船蔵前から永代橋を渡って、次に、稲荷橋、湊町、南八丁堀──と、こういう道順に来るってんだ」
「たいそう詳しいねえ。まだ、通っても来ねえ道順を。まさか、おめえさんは、大石内蔵助の親類でもあるめえが」
「なアに。夜明け方、自身番の六兵衛さんに、こうこうだと、早耳に聞いたから、それッ行って見ろってンで、経師屋の安さんや棟梁の吉さんなんかと、松坂町のすぐそばの回向院前まで行って見て来たんだ。だから、朝飯もまだ喰ッちゃあいねえ」
「道理で……。今にここを通るんじゃ、おれたちも、飯どころじゃあねえ」
お島と市十郎は、近所のそんな声々を、ちぎれちぎれに聞きながら、二階の窓に、姿をならべて立っていた。
──お島は、独り言のように、笑っていった。
「びッくりさせるよ。わたしゃアまた、ゆうべのことがあったから、てっきり、捕手がお出でかと思ったのさ」
そして、市十郎の横顔を、ながし眼に見たが、市十郎は、凝然と、あらぬところへ眼をやったまま、うつろな身を、石のようにしていた。
やがて、往来は真ッ黒になった。人垣ばかりでなく、屋根の上にまで、人間が見えた。
赤穂浪人の何十名かが、静かな列伍をなして、いまそこの往来を芝口の方へ向って通行してゆくらしい。
静かである。久しぶりの青空が、雪に映じて、明るい、和やかな光を、町々へそそいでいた。今しがたの、あれほどな騒音も、一刻、雪解の雫や、雀の声さえ聞えるほど、しいんとなって、浪士たちの列が、まだ往来には続いているらしい。
「…………」
二階の窓口にいた市十郎は、ぺたっと、そこに坐ってしまった。
お島は、いつか側にいなかった。捕手でなかった安心と、婆あやまで飛出して行ったので、かの女も、往来まで、見物に行ったものとみえる。
──市十郎は、肩の間へ、ガクリと首を垂れ、いつまでも、そうしていた。
元禄という今を、時代の中を──ある見えざるものが、大きな黙示をもって静かにながれてゆく様が──市十郎の閉じた瞼にも映ってゆく。
ふと、かれの心は、べつな心のなかで、シュクシュク泣き出していた。ひとつの人間の中に、二つの心があったのである。
が──その一つの方の心を見出すことは、かれにとって、恐かった。致命的である。生きていられなくなる。
狂気したように、市十郎は、どどどどッと階下へ駈け降りて行った。そして、台所へ突ッ立ち、ただならぬ眼つきを動かした。一升徳利を見つけた。徳利の口をつかんで顔の上へ逆さに持って行った。……眼をつむり、喉を太め、グビ、グビ、グビ──と息もつかない。
「いねえのか。……お島」
がらりと、そこの腰障子を開けた者がある。
市十郎は、軽くなった貧乏徳利を、ゆっくり顔から離した。
見ると、赤螺三平だ。後ろにも、同じ恰好なのが、四人ほど首をのばしている。
「やッ。てめえは、市十郎だな」
「……市、十、郎なら……?」
市十郎は、虹のような酒気を、ふーッと吐き、またやや苦しげに、たじたじと、踵へ力を入れた。
「そうだ。市十郎だ。……だ、だッたら、どうするッてんだ」
「出ろっ」
「ど、どこへ」
「きょうは勝負をつけてやると、お島へもいってある。聞いたろうが」
「知らぬ」
「ええい、四の五を聞きに来たんじゃねえ。そこの空地まで出ろ。出て来いっ」
「よしっ。死んでやる」
「な、なんだと」
「死ねっ、死ねっ、こんなもの!」と、かれは自分の体を振りもだえながら、ひとり歯がみを鳴らして──
「あってもなくッても、ゴミみたいな生命。そんなに欲しいかっ。──よウしっ、欲しくばくれてやる。待ッていろ」
二階へ駈け上がった。そして寝巻のうえに、丹前を着かさね、帯もぐるぐる巻に、大小をつかみ、まずその小刀を差し、大刀を次に差そうとしたが、もう全身に酔いがまわっていて、手もとも怪しく、刀のこじりが、帯に辷る、帯から外れる。
──が、その酔眼にも、ふと、金象嵌の鍔が、何か、ものいうように、キラと映った。ゴミのような生命でも、意識にかけられない生命でも、生命自身のいのちはあるにちがいない。それが、彼の酔眼を、大刀の鍔に吸いつけて離さない……。
その赤い眼は、すぐ熱湯のような涙を沸らせた。──この後藤祐乗の鍔は、子供のころよく聞かされた遠い祖先のもの語りもあり、父が生涯の愛品であった。それを兄の主殿がゆずられ、兄が又なきものとしていたのを、自分が、同族の忠右衛門の家へ養子に行くとき、ねんごろに、由来をかたり、兄のあたたかい気持をそえて、自分にくれたものである。
市十郎の頭は、その思い出を、ふと、泡つぶのように呼び起して、もう階下に待たせておいた者をわすれていた。
──階下では、その時、お島の声がしていた。
三平のどす声と、お島の癇性な声が、また、ゆうべよりも烈しく、何か、争い出している。
「そ、そうだ。……どこで野たれ死にするまでも、せめて、兄上だけには。──兄上だけには一ぺん会って」
階下へ行かず、彼は、そこの窓口を跨いで、雪の屋根へ、這い出した。
雪をつかんで喰べた。
往来の方からは、ぞろぞろと、崩れて帰って来る人たちが見える。その人々は、ふたたび、たったいま眼に見て来たものの感動を、口々にいい囃し、語りあいしてやまないのである。
市十郎は、耳をふさいだ。そして、もう一つかみ、雪を喰べ、人の流れる横丁は避けて、北屋根の方へ、四ツン這いに這い出した。
厠の出廂へ、足をのばし、恐々と、塀のみねを、猫づたいに渡って、家と家との間の、狭い路地へ飛び降りた。
──とたんに、勢いよく、足を前にして辷ッた。厚い雪が、彼の腰を埋めた。
歳の市は、一年中の人出だ。浅草の観音堂を中心に、雷門も、横丁横丁も、人間の波、波、波である。
茶屋女たちに、おだてられ、男の意地みたいに、大羽子板だの、初春の櫛だの、やれ下駄だの、扱帯だのとねだられたあげく、小料理屋で飲んで喰って、すっかり財布の底をハタいてしまったいい気な客は、
「じゃあ、また、お正月に、顔を見せて下さいよ。お年玉をわすれずにね」
と、態よく、女たちから身限られて、忽然と、雑鬧の中で、独りになった。
「ばかにしてやがら。費わせるだけ費わせておきあがって」
男は、舌打ちして、観音堂の横に腰をおろした。たちまち、鳩が、寄って来た。その一羽を彼の足が蹴とばした。パッと、たくさんな砂つむじが舞い、観音堂の大廂に、鳩の傘がひろがった。
(なんていう気狂いだろう? ……)
その辺りにごろごろしていた無数の浮浪者たちは、懶げな眼を、彼の姿へあつめたが、またすぐ元の無力と惰眠のかたまりに返って、黒々と陽なたに闇を作っていた。
──すると、その中に、莚を体に巻き、木の葉虫みたいに眠っていた男がある。ふとこっちへ、擡げた首をぎょッと伸ばして、
「あっ。亀次」
と、口走った。鳩を蹴とばして、ぽかんと膝を抱いていた男も、振向いて、莚の木の葉虫と、顔を見合せ、びっくりして突ッ立った。
「於市じゃねえか。こいつア驚いた。おめえ、いつからお菰になったんだ!」
歩み寄るなり、手を取って、人影まばらな五重ノ塔の裏へ、むりやりに連れて行った。
神田の丁字風呂で、市十郎に置き去りを食わせて以来の対面である。だが大亀は、そんな友情の前科にテレてるような男ではない。かえって従弟の市十郎の余りにも変り果てた見すぼらしさを、蔑み嘲った。
「どうしたい。すっかり痩せ細って、まるで法界坊そッくりじゃねえか。おたがい、米の虫同士が、ウヨウヨと米の喰いつぶしッこをしている世の中に、何も粋狂な、お菰にまでなり下がッてるこたアなかろうによ。ええおい、市の字。しっかりしろやい」
「あ。ありがとう……」
「なに? ありがとうだッて。べら棒め、誰に礼なぞいってるんだ。まるでおめえの声は、幽霊の声だ、腑抜けの面だ。おい市十郎。久しぶりだと、笑い顔ぐらいして見せねえか」
「めんぼくない」
市十郎はいよいよ俯向いた。年暮へきて、小春日のような太陽だったが、心の眩しさに耐えないような姿とも見える。
「聞けば、おめえは、いつぞやお袖にも会ったというじゃねえか」
「えっ。亀次。どうして、それを知っているのか」
「おととい、化物刑部のやしきで、阿能十に会ったら、そんなことをいっていた。そればかりじゃねえ。八丁堀のお島に可愛がられて、お島の情夫の赤螺三平に、あぶなく叩ッ斬られるところだったそうだが、三平が怖くて、逃げ廻っているのか」
「いや。三平ごときを怖れているわけではない」
「ホ。元気が出たな」
「ただ一目、兄上に会いたさ。兄上に会いたいばかりに、生きているのだ。亀次。わしの兄、主殿の消息は知らないか」
「主殿に会ってどうする気だい」
「今生のお詫びを申して……身の始末をつけるつもりだ」
「今生の? ……あははは。今生というと、来世もあるつもりか。よせやい。来世なんてものはありゃしねえ。あったにしても、あてになるもんか。人間の世の中なんてものは、来世も、来々世も、こんなもンだよ。──と、すれやあ、今生の根かぎり、楽しむしか手はねえじゃねえか。何を、せッかちに、死ぬ気になどなったもんだ」
「わしには、どうしても、おぬしのような気になれぬ。なろうと思って、やってみても」
「ハハハ。素人だよ、おめえは。そこがまだ悪党になりきれねえ初心を残している証拠だ。悪党になるんだって、修行が要らあ。度胸も要れば、智慧もいる。坊主になるよりは生命がけだぜ。まア、辛抱し、辛抱しろ」
と、なぐさめて、
「時に、腹はどうなんだ。まだ朝飯も喰っていねえんだろう」
市十郎は、黙ってうなずいた。大亀は、ちょっと懐中へ手を入れて考えたが、ままよという顔つきで、
「とにかく、どこかで温ッたまろう」と、彼をつれて、また歳の市の人波の中へ歩き出した。
──この月の十五日。あの大雪の朝。
お島の家をとび出してから、市十郎はふたたび、飢えの巷を、迷いあるいた。
兄の主殿に一目会って──と、実家の近所を幾日もうろついたが、ついに主殿の姿は見られなかった。のみならず、どうしたことか、実家の門は、昼も夜もなく閉まっている。
赤城下の叔父の屋敷を窺ってみると、ここも同様、昼なのに門が閉まっている。さては何か、起ったかと、自分の顔を見知らない新参の仲間が、外へ出て来たところをつかまえて訊ねてみると、
「半月ほど前、賊が入った時、公儀のお城図面の一枚が紛失したので、旦那様はその申しわけにと、遺書して、御切腹なさいました。何とも、お気のどくなわけで」
と、いい、また同夜の盗賊については、
「ちょうど、その晩、来合せていた主殿様が、賊を追って、かえって、賊の仲間に、闇打ちをくい、右の脚に、お怪我をなされ、兵九郎様のお葬儀がすむまでは、ここで手当てをしておいでになりましたが、何でもお上へ二た月ほどのお暇を願って、叔父御さまの御遺骨を、高野山へ納めに行くと仰っしゃって、つい両三日前、お旅立ちなさいましたよ」
この大変を新たに聞いて、市十郎はいよいよ、生きていられない自分を知った。その夜の賊は、自分なのだ。自分が、叔父を殺したのも同じである。
苛責と懊悩に、のべつ追い廻されているように、彼は、死に場所を探し歩いた。だが、死を考えているうちは、まだ死ねなかった。
お袖のことさえ、いまだに未練があった。よその子を見ればお燕を考え出す。──そしてまた、赤坂の養父を思い、お縫にもすまないと思い、心で掌を合せたりした。
煩悩は、煩悩を生み、その間だけは、死を忘れている。そして、飢えと、寒さに打たれながら、夜は、浮浪者の中に交じって寝た。飢えに迫って、食物を獲るためには、彼も、浮浪者と同じような行為をやった。
かくて、いまの市十郎は、市十郎であって市十郎でないような人間に変っていた。
人間は簡単に変るものだ。彼という一個もそれを実証している。
人間の肉体には、いまでも、尻ッ尾のあった時代の痕がある。人間の遠祖は、まぎれもなく動物だった。その動物が、人間らしい社会をもち、文化をもち、道徳や宗教や文学や美術や音楽を誇る人間となるまでには、何千年もの時と、そして全体の努力が、かかって来ている。
けれど、数千年の進歩も、実はまだ、尻ッ尾の痕のある人間だけに、大きな社会的堕落を来すと、一足飛びに、もとの原始人へ還元してしまう可能性は多分にある。
悪政の社会のどん底をのぞけばわかる。そこにうようよしている群れは、今日の人間から原始の人間へ逆もどりした本来の生態にすぎない。あれを見て一般人が、他人事と思うなら間違いである。自分にも、尻ッ尾の痕があることを考えてみなければならない。
──その点で、大亀も市十郎も、正直者だといえないこともない。二人とも自分の尻ッ尾を充分にむき出してしまった人間だからだ。しかし、市十郎はそれを苦悶し、大亀はむしろそれを得意にしていた。
「於市。飲めよ。もっと飲まねえかよ」
「酒。……酒は、もう、たくさんだ」
「飯は」
「飯も」
「いくら食ッても、おれのふところ勘定は同じだ。たらふく詰め込んどいた方がいいぞ」
二人は馬道の馬子茶屋へはいっていた。濁り酒が名物だった。肴や汁をとりちらして、大亀は、市十郎へ、やたらにすすめた。
「アア、温ッたまった。じゃあ、出ようか」
ちょうど灯ともし頃となり、吉原通いの客や駕籠屋が混み初めて来た。大亀は、市十郎の耳へ、囁いた。
「──おめえは、先へ出て、二天門の前で待っていてくれ。後から行くから」
市十郎は、先に出て、二天門で待っていた。──と、間もなく、ばたばたと大亀の影が駈けて来て、
「それ、逃げろ」
と、市十郎を突きとばした。何の事かも、わけが分らず、市十郎は、大亀と一緒に逃げ走った。やがて大亀は、暗い町筋を振りかえって、
「もういい。於市、もう追ッ駈けて来ねえようだ。食い逃げも楽じゃあねえな」
と、胸をさすった。
だが、市十郎は、せっかくの胃の物を、ゲッゲッと、路傍の溝へ吐いていた。空腹の急変と、余り駈けたので、胃ぶくろが、どうかしたとみえる。
「世話のやける男だなア」
大亀は、うしろへ廻って、市十郎の背をさすってやりながら……「ええ、勿体ねえ。どうだ。落着いたかい」
「いや、すまぬ。かたじけない。もう、だいじょうぶ……」
「今夜は吉原へシケこもうというのに、なんと不景気な面だろう。吉原の馴染みが泣くぜ」
暗い田ン圃道を渡って、根岸から三輪へ出た。
この辺には、江戸の商家や吉原の楼主の寮が多い。ここもその一軒か、船板塀に冠木門。大亀は小声を出して指さした。
「さ、これから金の算段だが、宵強盗は荒仕事ときまっている。おめえはしばらく外を見張っていねえ」
ふところから、黒布を出し、市十郎にも渡して、強盗被りに顔をつつんだ。そしてそこの塀をおどり越えた──と思うと、内から、潜り戸を開けて、また顔を出した。
「オイ……。見張を抜かるなよ。這入ッて来るときは、あとを締めて来るんだぞ」
市十郎は、いわれた通り、しばらく外で立番していた。
宵なので、折々、通る人影がある。そのたび彼は恟々と、獣じみた眼を光らせた。その眼はまったく一月前の彼ではない。市十郎はたしかにどうかしている。
ひとつには、奥へ、大亀が這入って行ったとたんに、異様な物音と、女の叫び声が起り、それが一瞬に止むと、不気味な静けさに返ったので──外にいた市十郎の気も逆上ッていたにちがいなかった。
宵強盗は荒仕事──といっていた通り、大亀は、家人がまだ起きているのを承知の上で押し込んだ。前々から、女ばかりの寮と目をつけていた家であったのだろう。
宵強盗は、凶器を突きつけて、まず家人を縛りあげ、金のありかに案内させているらしい。奥の燈火は消え、物音も止み、墓場のような闇が屋の棟に降りている。……その間、市十郎はそわそわして、潜戸の内を覗いたり、外を見廻したり、ついにはいたたまれずに、
「か、亀次……」
と彼も、手探りで、家のうちへ四ツン這いにはいって行った。足の裏から総身へかけて、ふるえが走った。
「ま、まだか、亀次」
廊下のつき当りに、奥座敷が見え、そこから、灯影がゆらいでいる。大亀だなと思い、及び腰で、立ってゆくと、ぬるりと何か、足がすべりかけた。
「おや? ……」思わず手をついて、身の毛をよだてた。人間の死骸である。いうまでもなく血の池である。
うしろの柱に、もうひとり家人が縛りつけられている。大亀は、抵抗したひとりを斬り伏せ、ひとりをここに縛りつけて、家探しにかかっている様子なのだ。
だがなかなか現金が出ないらしい。大亀の影が、障子の間から顔を出した。
「於市か……」
市十郎は返辞の声が出なかった。するとまた、
「何をしているんだ。そこらの部屋から金を探せよ、金を──」と、いらいら急いた。
だが、市十郎は、歩こうにも、歩けないのである。恐ろしさに、足のつがいが外れたように動けなかった。しかし事実は、死骸と思った瀕死の傷負いが、苦しまぎれに、市十郎の裾をつかんでいたのであった。
焦れ気味の大亀は、こんどはやや大声で、またどなった。
「やいっ、何を愚図愚図してるんだよ。早くそこらの部屋を掻き廻して、金を見つけるんだ。金を。──荷物になる物なんぞ持っても駄目だぞ」
夢中の市十郎は、傷負いの手をもぎ放した。ウームという唸きが足もとでもれた。彼には何の識別もない。泳ぐように部屋へ入り、また次の間へ伝って行った。
そこには薄明りがあった。行燈に、女の羽織が被せてある。まだうら若い母親は、白い肌に乳呑み児を抱きしめ、蒲団の上に、おののいていた。
「…………」
かの女の白い顔は失神していた。けれど眸の光は強い母の本能に燃え立ッていた。
アッ──と市十郎は、居竦んでしまい、奇妙な胴ぶるいが、ガタガタと骨を鳴らした。
女は、手をさしのばしていた。見ると、その手に幾枚かの小判がのっている。そして、血の気のない唇は、
(これを上げるから助けて……)と、声なくいっているようだった。
市十郎の頭の中には、ぼやっと、お袖とわが子の姿が、夢みるように、そのまま映っていた。
お袖とわが子を、ふと思い出したことは──彼自身がハッと我れの一部を取り戻したことでもあった。
彼は、自分を、オヤ? ……と怪しんだ。
──自分は今、どこへ来ていたのか? ──と、いぶかッた。そして、何を、行為しようとしているのかとも、瞬間に考えた。
まッ暗な冥府の底に落ちて、もがき嘆いているような亡霊が自分のように感じられた。彼は、両手で顔を蔽った。──眼のまえの女と乳呑み児を、見るにたえないでそうしたのか、こみあげてくる泣きたさを抑えたのか、彼自身にもわからなかった。
「あっ、金ッ。金じゃねえか。……ええばかめ、なぜ早くその金を、こッちへ取らねえか」
うしろへ来て、小判を見た大亀は、いきなり市十郎を突きのけて、餌にかかる野獣のように飛びついた。
女は、咄嗟に、小判を投げだして、子を抱きしめ、
「助けてーッ」と、俯ッ伏した。
市十郎は、その上へよろめき倒れ、大亀は、散らばッた小判を、無我夢中で拾いかけた。
女の肌の下で、幼な子が、わーんッと、泣き出したのも一しょだった。おお、その天真の声の何と、お燕の泣き声とそッくりなことだろう。父を責める子の声に、市十郎は耳をふさいだ。彼の本心は幼い者の叫喚に、鞭打たれ、叩き出され、動顛して、その部屋から転び出した。
「おッ、於市っ。何か、来たのかっ。ま、待てッたら」
大亀も、あわてた。二人のうち、どッちの足がつまずいたのか、行燈が蹴仆され、灯皿の油と、火の粒が散った。
どたどたっと、そこから逃げ出す跫音のうちに、なお大亀の叫ぶ声がしきりにしたが、市十郎は、夢のようにただ走った。苛責に追われて逃げ狂った。
「火事だっ。三輪の方が」
「火事。火事。寮らしいぞ」
わらわらと人が駈けてくる。彼の走ってゆく反対の方から駈けてくる。にもかかわらず、市十郎には、その沢山な人影の疾風はみな悉く自分ひとりを追い廻して来るものみたいに思われていた。
雪の多い年である。明けて、正月二日も雪だった。
どこに寝、どこを歩いたかも、覚えのない市十郎。
彼は、そんな雪の夜も、道で拾った酒菰を頭から被って、蹌踉と、軒下から軒下を歩いていた。
正月の晩なので、家々はみな、早くから戸を卸し、あたたかな燈火の下で、歌留多をとり合い、笑いさざめき、酒を酌み、餅を焼いていたが、市十郎には、もうそんな人生は、想像にもえがけなかった。
色街に近いのか、堀の雪見舟から洩れてくるのか、三味線の水調子も、どこやらで聞えたが、彼の耳には、何の音でもなかった。
ただ真ッ白な夜の道を、彼の影は、迷い犬のように歩いていた。──が、やがて彼方に、一団の火のかたまりが、赤々と見え出し、彼の眼をひきつけた。
近づいてみると、そこは大きな伽藍の境内であり、山のように薪を積み、大釜からは熾んなる湯気が立ちのぼっている。
傍らの、古木綿の幟には、墨で──
慈眼視衆生 例年正月大施粥
同苦坊
と、書いてある。
問うまでもなく、これは施粥の大焚火だ。
餓鬼草紙の絵に見るような、無数の浮浪者が、その大焚火をとりかこみ、地獄の正月みたいに賑わっている。
年暮のうち、あの浅草観音堂裏や、市中の諸所に、黒々といた浮浪者の群れとは、まるで別な世界の人々のように、みな火照ッた顔をそろえ、喜々として語らい、大きな口をあいて笑い、さながら一大家族の団欒に似ていた。
そして、市十郎が、そッとその中へ交じっても、誰も、邪視する者はなく、側の者は、膝をゆずった。
「なあ、お上人さま。みんなの腹の虫が、ぐウぐウ鳴ってるぜ。待ち遠いなア」
ひとりがいった。
浮浪者たちから、お上人さまと呼ばれている者こそ、幟旗に書いてある同苦坊という僧侶であろう。
同苦坊は、もう十年以上も、毎年の正月には、この深川八幡の境内を初め、市中の諸所で、大施粥を行って来た。それがすむと、江戸から姿が見えなくなり、盆になるとまた全市の浮浪者へ、粥や薬を施して、どこへ帰るのか、ふたたび江戸にいなくなった。
年々十余年間も、それが続いているので、浮浪者たちは、彼に、慈父のごとく親しみ、彼のすがたを見ることを、盆正月の楽しみとしていた。
──が、同苦坊は、あべこべに、去年見た者を、また見ることを悲しんだ。五年経ッても、七年経ッても、なお大焚火の集まりに見る顔を、特に嘆いて、意見したり、励ましたり、甦生の道を共に考えてやったりした。
「辰が、阿呆いッてら。ぐウぐウ鳴ってるのは、腹の虫じゃあねえわ。大釜の粥が、煮え出して来た音だによ。なあ、お上人さま」
「そんなこた、おらだッて知ってらい。だが、施粥を楽しみにしてる者は、深川八幡だけにいるんじゃないぞ。江戸中にゃ、何万人いるやら知れやしまい。何万人の腹の虫が鳴くとしたら、この大釜の煮える音より、もッと大きな声がするわい」
「あんな負け惜しみをいう」
「だって、正月からいい負けたら、縁起がわるい」
「どん底のおら達に、縁起が吉いも凶いもあるもんか。これより下はありやしない」
「いや、病気と、死ぬことだけが、まだ残ってるぞ」
「あはははは。それもそうか」
みんなは笑いどよめいたが、死──という一語が出た時、夢うつつに、膝を抱いていた市十郎の首が、ビクッと上がった。そしてまた、とろんと俯向いてしまった。
また、子を抱いた女のひとりが、頓狂にさけんだ。
「あら、いやだ。安さんてば、虱を取ッちゃ火にくべてるよ。おらの方へよこしちゃ、やだよウ」
すると、安の隣りにいた老人が、
「安。正月じゃないか。殺生は止せよ。いまに温ッたけえ粥を喰ったら、虱にも正月させて、粥を喰った人間の肌を、たんと喰べさせてやるがいいだ。虱にくわせたからッて、寿命が縮みやアしないよ」
と、いった。
薪の束に腰をおろし、大勢の者の他愛ない冗戯を、同苦坊はニヤニヤ笑って聞いていた。虱にも正月を──と、今ひとりがいったことばに合掌していた。
同苦坊は、四十がらみだが、寺の名も、素姓も人に語ったことがない。強いて訊く者があると、
(寺かい? わしの寺は、ほウれ、いつもみんなのいる社会寺さ。またの名は、浮世山どん底寺と申し、御本尊は、こっち持ちでなく、そっち持ち。つまり皆さん檀家の各〻持ちさ。誰にだって、ここんところに、弥陀光如来は住んでいらっしゃる筈だからね)
胸を指して、いうのである。
しかし、いつとはなく、この風変りな僧は、もと塗師屋職人で半さんといい、道楽という道楽はし尽したあげく、吉原の花魁と心中し損ね、日本橋のたもとで晒し者にまでされたこともある──ということなどを、いつか彼等は知っていた。
この半さんが、発心して僧となったのは──ある年、宇治黄檗の鉄眼禅師という坊さんに会ったのが機縁だという。
鉄眼は、人も知る通り、一生涯のうちに、大蔵経の版木を完成して、後世の文化に伝えようという悲願を立てた僧である。幕府の力でも朝廷の財でも、成し得なかった〝大蔵経開版〟の大業を、民衆によびかけて、血みどろな忍苦の生涯をささげ、ついに成しとげた人であった。
半さんは、その鉄眼の弟子となり、多年、苦難を師と共にした。路傍に立っては、山師と罵られ、門に立っては、水をかけられ、嘲罵、迫害、飢寒、あらゆる行を共にした。その鉄眼はまた、飢饉の年でもあると、そんなにして集めた大蔵経のための浄財を投じて、買えるだけの米を買い、大坂、京都、江戸の三都で、飢民を救った。
鉄眼が、大往生をとげた後も、半さんは、救民の草鞋を解かなかった。
寺におさまれば、当然、住職ともなれように、半さんは、十数年来、いまだに樹下石上をつづけてきた。世は、お犬様時代、人間が人間にあいそをつかし、牢舎は罪人に埋められ、路傍には、浮浪者の群れのみちているこの現世地獄を──そのままわが住持する寺なりといって──寒暑もなく、師鉄眼のやった通りな血みどろの勧化をつづけ、その布施を蓄えては、盆正月ごとに、江戸にあらわれ、貧しき人々をあたためて、また諸国へ去るのであった。
彼が、語らなくても、浮浪者たちは、いつか知って、語りつたえ、それらのことを知らない者はないくらいである。
で、今夜も──
こうして大焚火をかこみつつ、彼等は、粥が煮えるのを待ちながら、時には法話に耳をすまし、時には、女ばなしに笑いあい、また時には、同苦坊の身の上なども、訊いたりして、正月の夜の楽しみを満足しきっているのだった。
これはこれ、見方に依っては、浄土の光景であり、菩提の相であり、人間即仏の曼陀羅であるともいえる。
「…………」
市十郎は、抱えていた膝がしらを、びッしょり涙でぬらしていた。
「ああ……」呻くように、われしらず、大きな息をもらしては、また膝がしらに顔を埋めた。
慈愛の炎は、凍えきッていた五体を、母のふところのように温くめてくれた。閉ざされていた氷心は春に逢い、人心地をよびさまされた。赤々と見える周りの顔は、みな美しい好い顔に見えた。その中で、自分だけが、羅刹か、餓鬼のような相をもっている気がされた。
「オ。……東が、明るくなってきた」
「明け鴉が啼いた。晴れだぞ、きょうは」
「粥も、煮えた」
人々が立つ頃、八幡鐘も明けの報らせを撞いた。大太鼓が鳴りとどろき、施粥が始まった。
世話人を買って出た者が、大勢を行列に就かせ、粥を汲んでやる者、後の米を研いで、二番釜の支度をする者、器のない者に器を貸してやる者など──まるで戦場のような騒ぎになる。
うらうらと、朝日がのぼる頃には、これを知って、集まってくる老幼の貧しい群れや病人などが、蜿蜒と、八幡前の町まで溢れる行列となって、今の世の怖ろしさを、まざまざと地上に描いた。
市十郎も、群れに交じって、白い温い粥を、ふウふウいってすすった。その美味さに、またも、涙がこぼれた。舌の味覚などというものではない。溶かした生命そのものを空虚な肉体へ充たしている感じだった。たちまち内に充溢してくる生命力が茶碗を置かないうちにありあり分った。
「……そうだ」
箸と茶碗をもどすと、彼は、たれに命じられたのでもなく、勃然と、思い立って、そこに落ちていた空俵の縄を拾った。
同苦坊や、ほかの世話人たちがしているように、彼もそれに倣って、縄襷をかけ、施粥の手伝いをし初めた。
誰も、咎めもしない代りに、礼もいわない。市十郎は、汗になるほど、働き廻った。
大施粥は、午までに、予定の米俵の数を、みんな空にして、終った。
終ると、ゆうべの人々も、みな何処ともなく立ち去った。
ただ一人、市十郎だけは残って、同苦坊と共に、手伝っていた。
「……?」
同苦坊は、チラと、彼の顔を、注意して見た気ぶりもあったが、べつに何も訊ねもしなければ、御苦労と一言いうのでもなかった。
どこからか借りている貸車に、同苦坊は、大釜を積んだ。市十郎も、手を貸した。
「さて。あしたは蔵前の不動堂か」
ひとり言に呟いて、同苦坊は、車を曳き出した。
市十郎は、その後を押して行った。──蔵前の不動堂についたのは、夕方ちかくであった。
大釜をそこへおくと、同苦坊は、またすぐ深川の佐賀町の米問屋まで、幾俵かの米を取りに行った。
彼が、一年中の托鉢に得た浄財は、ほとんど、自分が樹下石上の生活につかう極く微少な費えのほかは、みなこの米問屋へ送っていた。
──それが十年以上もつづいているので、佐賀忠とよぶここの主人も、彼の帰依者のひとりとなって、大施粥の行事には、便宜と、喜捨と、あらゆる援助を与えていた。
「今まで見ないお方だが、こんどお弟子さんになられたのか」
その佐賀忠に、市十郎はたずねられた。
市十郎は、顔を振った。
車に、米を積み終って、佐賀忠と同苦坊が、茶のみばなしをしている間に、車のそばへ寄って来た老番頭が、やはり彼を同苦坊の新弟子とおもいこみ、
「何しろ、あんなお坊さまは、今の世にはありませんな。寺へ、隠し売女をおいて、遊女屋のお株をとったり、うまい手づるをつかんで、大奥の女中衆でも咥えこんで、入れ上げさせよう──といったような色坊主ばかりが多いんですからなあ。同苦さまのような上人がもし十人も世間にいたら、どんなに世の中が明るくなるかもしれやしません」
それから、老番頭はまた、自分が知るかぎりの、同苦坊と師鉄眼との、因縁やら、逸事やら、人間愛に富んだいろんな見聞ばなしをして聞かせた。
市十郎はただ鞭打たれるように聞いていた。
「どれ、行こうか。またみんなが待ちかねていよう……」
やがて、同苦坊が出て来た。かれの姿を見、市十郎は、こんどは自分が車の梶を持った。同苦は、黙って、後を押した。
荷車を曳いたのは初めてだし、米俵は、重量がある。市十郎は、よろよろしてばかりいた。しかし同苦坊は、代ってやろうともいわない。
やッと、蔵前へもどり着いた。──
前の夜にも増して、附近の浮浪者が、真ッ黒に寄っていた。そして、薪を積み、釜下を築き、火をつけるばかりにして待っていた。
「お上人さんが来た」
「お上人さんが見えた」
子どもらが、慈父の姿を見たように、浮浪者たちは、彼を迎え、山と降ろされた俵をながめて、
「お上人さんは、どうして、どこから、こんなに米を持ってくるのだい?」
と、よろこびと、怪しみと、それが大勢なので、歓呼の声みたいに聞こえた。
「わしは、田を持ってるさ。人間なら誰でも持っている慈悲の田だよ、善心の田だよ。わしは、日本中にまたがる大地主じゃから、あちこち、諸国のその田から、一穂ふた穂と、いただき集めてくるんだよ。──今にな、みんなも、自分自分の田から穂を咲かせて、何年後でもよいが、わしにお分け穂を与えてくれよ。いいかい」
ゆうべのような大団欒が始まった。
あくる日は、芝の神明。次の日は、本所のどこと、毎日つづいた。市十郎は、同苦のそばを離れなかった。──いや、離れたらすぐ絶壁から谷底へ、ふたたび、一気に落ちてゆきそうな気がして、大釜と荷車に、しがみついている姿だった。
七草までという──その終りの正月七日だった。
その日の場所は、下谷の広徳寺前で、ここは歓楽街の吉原裏に近いのに、なぜか窮民の混雑は、ほかよりひどい。
その尽きない飢えの行列も、やっと残り少なになった頃である。──杖に身をささえ、跛足をひいた一人の若僧が、網代笠に面をつつみ、施粥の列に交じっていたが、やがて自分の順番になると、鉄鉢を出して、僧侶らしく、ていねいに頭を下げた。
市十郎は、大釜の粥を、柄杓で汲んでやっていたが、
「あいや、その鉄鉢では、召上りにくい。御遠慮なく、こちらの器でお上がりなされい」
と、僧侶のいんぎんな礼を見たので、つい彼も、武家ことばが出て、べつな器へ、粥を入れて、さし出した。
──すると、その若僧は、手も出さずに、何か、凝然として、かすかな顫えを全身に走らせたと思うと、ふいに、網代笠の内からさけんだ。
「弟ッ。これっ、市十郎」
「げっ?」
「兄の主殿だ。きょうは、逃がさぬぞ」
あッ──と、市十郎は、粥の茶碗を地へ落した。そして、つかまれた手頸の手を、必死にもぎ離そうとした。逃げるつもりどころか、会いたさに、市十郎こそ、兄の屋敷附近をうろついたり、探し求めていた程なのに──咄嗟の心理は、彼をして無意識に、兄の手を、突き退けて、だッと逃げる姿勢をとらせたのだった。
「お、おのれ」
主殿は、よろめいた。片脚の怪我が癒えていない。
もし、そのままだったら、心ならずも、市十郎は姿を消し、主殿もその脚では、追いきれなかったろうが、幸いにも、途端に、同苦坊の腕が、ぱッと、市十郎の襟がみをつかみ戻していた。
「御僧は、この者の、お兄上か」
「左様でござりまする」
「これ、市十郎とやら。そこのお人は、そなたの兄か」
「そ、そうです。ああ……」
市十郎は、総毛立ッた襟がみをつかまれながらも、両手を顔へやったまま、潸然と、泣き恥じていた。
「骨肉の兄弟でありながら、相見たとたんに、仇敵のように、逃げようとするのは、どうしたわけじゃ。不幸な人間たちではあるよ。──が、ともあれ、施粥の中途じゃ。市十郎、やりかけた善奉行のお手伝いを、折角、ここで止めるのは、惜しくはないか。さ、仕舞いまで、手伝いなさい」
同苦坊は、手を放して、主殿へ告げた。
「お案じなさるな、逃げはしません。御舎弟の胸のうちは、この幾日かで、わしにはわかっている。ま、その辺りに腰かけて、休んでおいでなさい」
市十郎は、粥汲みをつづけた。
それをしているうちに、彼の心は、かなり平調にもどってきた。この数日の間に、稀れには、同苦とも口をきいていたし、苦悶の一端も訴えていた。その都度、同苦の、みじかい言葉は、深く彼の本心にふれ、喪失した彼自身を、彼のうちに、呼びもどしていたところでもあった。
その夕方。──施行のすべても片づいてから。
兄弟は、同苦坊を信じて、同苦の前に、一切をうちあけた。
市十郎も、家出以来、きょうまでのことを──語り難いお袖のことも、お島のことも、それからの自堕落も、今は兄への謝罪として、つつまず話した。
けれど、彼の真摯な懺悔にも似ず、年暮のうちの幾日かの話には、つじつまの合わない箇所が多かった。
彼にいわせると、決して、つつみ隠すのではなく、まだ、本当の自分に立ち回っていないのか、どうしても、所々の行為が、われながら思い出しきれないのだというのである。
そして、最後に、彼はいった。
「今は、いささか自分に返っておりまする。決して、取り乱して申すのではございませぬ。お慈悲をもって、兄上にも、上人にも、私をここでお見放し下さい。──さき程、恥をしのんでお話し申したお島の家を出たときの気持は、ひと目、兄上におあいして、罪をお詫びし、その足で、大岡家の菩提寺、相模堤村の浄見寺へまいり、祖先のお墓のまえで、割腹して果てるつもりであったのです。……私は、直ちに、これから浄見寺に行きまする。おわかれを、おゆるし下さいまし」
主殿は、久しぶりに、弟らしい弟を見て、思わず、熱い眼をそむけた。
この弟のために、叔父兵九郎は切腹した。養家の義父は病床につき、許嫁の愛娘は、生涯の女の不幸を約されてしまった。──そのほかの罪は、数えれば限りもないくらいだ。見つけ次第、首にして、まず彼の養父忠右衛門どのに詫びねばならぬ──一族大岡十家の人々の胸をなで下ろさせなければ申訳ない。
そう、思いつめていたのである。
けれど、前の弟に返った弟を見ては、そんな悲壮な覚悟もくつがえっていた。何とかして、連れもどしたい。元の養家へ、詫びが入れたい。そして、以前のように、兄よ弟よとよび合いたい。
しかし、それには、難問題がありすぎる。お袖との仲に生した子ども。兵九郎叔父の肉親たちが、承知するかどうか。また、これほどまでに、一時でも、堕落し、荒みきった弟をも──なおあのお縫どのが、良人として、待つかどうか。
「な、なに。御先祖の墓所へ行って割腹するつもりだと。いや、そのようなこと、わしの量見ひとつではゆるせぬ。──」迷いのうちにも、主殿は、あわてて遮って「……ともあれ、この兄の屋敷へつれ戻る。そして、……赤坂の忠右衛門殿。そのほか一族の御意見をきかねばならぬ。……わしが、このような僧形となり、叔父兵九郎様の御遺骨を、高野へ納めにまいると称して、公儀をいつわって苦しいお暇をいただいた上、毎日江戸中を歩いていたのも、何のためと思うぞ。……ともあれ、わしの屋敷へ来い」
「…………」
市十郎は、答えなかった。──本心がさめてくれば来るほど、何で、皆に、合わせる顔があろう。生きておめおめ、実家へもどることができよう。そう責められるのみだった。
「死なせたがよい。望みどおりにしてやりなさい」
同苦坊はいった。それがむしろ、慈悲であると説いた。
主殿の考えは、そういわれると、敢なく崩れた。──連れ戻っても、果たして、忠右衛門や兵九郎の肉親たちが、自分に、同意してくれるかどうか、それは多分に疑わしい。
また、かれを、一族の囚人とし、もしまた、勃然と、反抗を起して、ふたたび従兄の亀次郎のあとを追うようなことでも起ったら、もう取り返しはつかない。
「……そうだ」
主殿はひとり期するところがあった。
「弟に代って、この不具の身を……」と、ふと思ったのである。
それには、市十郎のいう通り、大岡家の菩提寺へ行こう。祖先の前で、この身を捨て、さいごの一言をもって、この弟の心を、根柢から鍛え直してやろう。
そう決意したので、主殿は、同苦坊のことばに従った。同苦坊は、これも宿縁、自分も浄見寺まで同行して、一片の回向を送ろうといった。
その晩は、広徳寺に一宿し、次の朝、三名はうち連れて、相模国高座郷堤村の浄見寺へ旅立った。
浄見寺は、藤沢の宿から在へはいった田舎だった。
「江戸から墓参に──」
と、寺の住持には告げて、やがて、三名は、大岡家代々の墓所へ行った。
すっかり落着き、また覚悟しきった市十郎は、見ちがえるほど、顔いろもよくなり、眉も眸も、清々としていた。
野梅が咲いていた。
やぶ鶯が、どこかで啼く。
市十郎は、そこに坐った。祖先の石にむかって、端然と。
「…………」
うしろに立った同苦坊は、傍らの主殿をかえりみ、何か、眼でいった。主殿の眼も、うなずいた。
こう二人のあいだには、旅の間に、広徳寺で約したこととはちがう新たな黙契ができていたのである。──が、市十郎は、知るよしもない。
かれはもう、土に、ひれ伏して、長い詫びを、石へむかって、心のうちから告げていた。
静かに、もろ肌をぬぎ、短い刀の鞘を払った。
そして、その右手が、袂で巻いた氷のような切ッ先を、拳の端から余して、われとわが脾腹へあてようとしたせつなである。
うしろから見すえていた同苦坊は、ふいに、主殿の杖を取って、びゅッと振りかぶるやいな、
「──死んで来いっ」
と、大喝して、市十郎の体を、撲りつけた。
おそろしい本気な力だったにちがいない。市十郎は、ただ一打の下に、気絶した。
「あ……」と、主殿はすぐ寄って、打ち所をあらためたが、同苦は笑って、
「御心配はない。わしも一度は、師の鉄眼和尚からこれを食わされたものだ」
と、何の事もないように杖を返した。
「では、おさしず通り、即刻、江戸へ急ぎます故」
「ああ、気をつけて」
「何かと、お礼のことばも、今は……」
「何の何の。それどころじゃない。早く、行かっしゃれ」
主殿はすぐ、杖にすがった不自由な足を、せかせかと急がせて、門前へ出て行った。
早駕籠を雇い、江戸へ帰ったのである。──そして、まず赤坂の大岡忠右衛門を訪い、また同族の主なる人々に集まってもらって、親族会議をひらいた。
主殿の真情は、みなの心を打った。異存はない、任すと一致して、彼はまたすぐ早駕籠で、藤沢在へひッ返した。
しかし、こんどの時は、早駕籠二挺づれであった。
一つの方には、お縫が乗っていた。
市十郎は、浄見寺の一室に、寝かされていた。
杖で打たれた痕が痛む。それに、一夜、熱が出て、まだ幾分か余熱がある。
けれど、気分は、爽快であった。──たしかに一ぺん死んだ覚えがある。記憶がふっと断れている。そして、二十七歳の初春をもっていま生れ甦った感じである。
この嬰児にたいし、同苦坊は、半日枕元にすわり、諄々と、生命の何ものなるかをはなしてくれた。
「ひとの生命を愛せない者に、自分の生命の愛せるわけはない。──自分の生命すら粗雑に持ち扱う人間が、何で、ひとからその生命を祝福されようか、愛されようか。……不幸なことはきまっている。ひとのせいでも、世の中のせいでもない」
そんな事もいったりした。
兄の主殿が着いた。お縫も、そっとうしろに添って、ここの明るい病室へ通った。
──が、そこにもう同苦はいなかった。その日の朝、すでに彼は旅立っていた。
お縫のすがたを見ると、市十郎は、さすがに、慚愧と苦悶を、眉にみせた。同苦から幾たびもいわれた──死んだ自分を──また疼きかけた。
お縫は、ただいっぱいな涙を眼に見せただけで、何もいえなかった。しかし市十郎の枕元には、その時から常に彼女の姿があった。
数日の後、市十郎は床を払った。
お縫が、養家から持って来た新たなる衣服や身のまわりの物。市十郎は、風呂場で、髪を洗い、伸びた髯もきれいにし、姿まで生れ変った。
その年の四月頃。
養子の大岡市十郎は、正式に、家付きのお縫との結婚の届けを幕府へ出した。──養父の忠右衛門は同時に隠居し、市十郎に、役付きの下命があった。
初め、寄合衆の一員になり、すぐ、書院番に更わった。
定日の非番ごとに、彼は、赤坂の家庭へきちんと帰った。
お縫もよい新妻すがたであった。
年は終りかけた。冬となり、新家庭に初めての正月も送った。出仕の日々も無事に、また一年近い月日がたった。
すると翌年十一月の二十二日の夜半、大地震が起った。
天災史のうちでも特筆されている元禄の大地震である。
四谷塩町から出火し、下町は火の海、山の手も、青山、赤坂、麻布と焼け、芝浦まで焼け抜けた。家屋の倒潰は数知れないし、津波もあり、火死、水死、圧死など、この時の死傷は三万七千余人といわれた。
市十郎は、ちょうど非番の日で、家に泊っていた。
すぐ、わが家もかえりみず、馬を出して、お城へ駈けつけた。本丸、二の丸、どこにも火災はなかったが、半蔵方面からの火の粉をふせぐに、必死の働きだった。
夜が明けると、ひとまず柳営は無事と安心がついて、
「御城外を見聞し、報告を蒐めるように」
と、老中から命が出た。
若い旗本ばかりが選ばれ、彼もそのひとりとなって、まだ余燼のもうもうたる市街へ騎馬で出て行った。
行くところ、凄惨を極めて、目もむけられない。
「あ。……ここも」
彼はふと、番町の一角に、馬を立てて、思うまいとしても、思わずにいられないものに胸を衝たれた。
お袖はどこに。わが子のお燕は? ……と。
あの化物刑部のやしきもあとかたもないのだ。土蔵らしいものも崩れ果てたあげく、そこらも焼けて、荒涼たる一面の灰でしかない。
──が、あなたこなたの、屋敷あとの大樹の蔭には、むしろを張り、雨戸をひろい、生き残った避難者たちが、遠方此方にあわれな一時凌ぎをしているのが見える。──もしやそこらにでも? と、彼は、われを忘れて、駒をとばした。
「お袖っ……。お袖っ」
かれは、満目の焼野原へむかって、こう声かぎり呼ぶことを、ただ一度だけ、我にゆるしてと、心に詫びながら呼んでみた。
たれの答えもしなかった。
彼は、灰にまみれた黒い涙のすじを頬に描いて、ヒタ走りに馬を返した。
以後、かれは人知れずにでも、お袖の名はさけばないと意志した。けれど、なおその後も、ともすれば、お燕の泣き声はおもい出された。登城下城の道すがらも、幼な児を見、幼ない者の泣くのを聞けば──はっと意識なく胸をつかれた。
わが子のそれは、胸のうちから呼び起すのではなく、胸の底から呼ばれるのであった。──血の所為であろう。罪の父は、なお、ゆるされないのだ。意識は、一度死んで、生れ変った自分と思っても、血は、意識で作り更えることはできない。
けれど、歳月の流れは、そうした血の責めも、少しずつは薄れさせてくれる。
殊に、お縫とのあいだにも、子が生れ、彼自身も大人の域へ近づいていった。宝永元年、徒士頭にすすみ、同五年、目付役に累進した。
かれの栄進は、著しかった。いつも職務に、誠意と熱がうちこまれた。これは生れ変らない前の彼の体験がむしろ下地になっていたようだ。彼には、どんな困難も、辛いという気もちは出なかった。忍苦、辛抱といったようなことでは、どうやら不死身になったようである。
評定所出仕の命をうけてからも、精勤賞をもらった程だった。そして翌年すぐ、山田奉行となって、伊勢へ赴任した。
能登守に叙任され、任地では、地方奉行として、抜群の実績をあげた。法を護持し、管下の民を愛することにおいては、治領の境を接しあっている紀州家をあいてに屈しなかったことすらある。
山田奉行としての彼の名は、剛毅と、厳正と、果断で鳴った。
「彼は、稀れな名判官だ」
と、公事にやぶれた紀州家の内部でさえ讃える者があった。ここでの在職は、五年ばかりでしかなかった。
やがて、この人の上には、
──江戸町奉行に任ず。
という重命が待っていた。彼は、その辞令をうけ、山田地方の人々から惜しまれて、江戸へ帰った。──江戸城へ一書院番として仕えてから、十二年目のことである。
同時に、越前守となった。人間が人間を喪失して、末世的な悪と腐敗にみちている時、法官として、民衆にのぞむ至難はいうまでもない。人間が人間を裁く根本からな矛盾がすでにこの重任に困難を約束づけているといえよう。
が、その時に、この人が出る、宿命といってよい。大岡越前守忠相は、素直に、宿命の職に坐ったのである。
大江戸の深夜は、江戸人がよくいう〝烏羽玉の闇〟そのままの──巨大な暗さである。
ただ大通りの要所要所に、自身番の柵門があり、番屋の軒に、高張提灯の明りが、柳のそよぎに明滅していた。
「おたつ、まだかい。夜半すぎると、どうも、何か腹へ入れねえと、冷えてならねえ。早くしてくんな」
番太郎の庄七は、番小屋の土間で股火をしながら、台所の物音へ、うどんの催促をしていた。
おたつは、七輪の土鍋をおろしながら、ふり向いた。
「おや、警板が鳴ってるよ。おまえさん、外の高張提灯が消えてるじゃないか。また、町方に大叱言をお食いでないよ」
「ほい。気がつかなかった」
庄七は、それへ蝋燭をつぎ足して、もどるとすぐ、熱いうどん鍋へ、箸を取って、ふウふウいっていた。
その時、ガラッと、油障子があいて、
「庄七、木戸触れだぞ」
と、目明しの安が顔を見せた。
「えっ、木戸触れですッて。また何かあったんですかえ」
庄七は、箸をすてて、すぐ外へ出、番屋と並んでいる木戸の小門を閉め切った。
江戸の警備には、江戸三十六門と俗にいう見附や城門のほか、市中の要所要所にも、こうした木戸があって、暮れ六ツから明け六ツまでの間は、大門が閉められ、夜中の通行は、せまい小門に限られていた。
そして何か市中に事件が起ると、警板が鳴り、木戸締めのふれが廻って、ただちに、ここが非常線となった。
「何かあったのかッて。べら棒め、江戸の丑満時に、事件のねえ晩などが一晩だってあるものか。またおれたちの眼を抜きやがって、堀留河岸の呉服問屋へ、五人組の押込がはいったんだ」
「へえ。五人組ですか。悪いものが流行ってきたものだ。でも、怪我人はなかったんで?」
「いや、まだ御検死も来ねえからよく分らねえが、今夜の奴ア、思いきッて酷い手をやったらしい」
安は、いいすてて、ほかの自身番へ駈けて行った。すぐ、そのあとで、
「おたつ、由蔵も起してくれ。小ッせい騒ぎじゃないらしい」
と、庄七は、喰べのこしのうどんをあわてて、啜りこんだが、ふと、初午祭りの地口行燈に、
と、物騒なこの頃を諷してあった不気味な絵と句をおもい出して、ぶるッと、背すじをふるわせた。
「ええ、うどんは冷えちまうし、何だか、よけえ寒くなっちまった。おおい、由っ。お固めだぞ。早く木戸へ立ってくれやい」
六尺棒を持って、彼も、外へ出て行った。
やがてまた、同心、捕手の一組が、
「怪しげな者は、見ないか」
と、見廻って来て、立ち去った。
事件の全貌も、追々、わかってきた。呉服問屋の山善は、間口十八間、雇人も何十人といる大店だが、賊は、堀留川の裏河岸から、石垣づたいに住居へ押し入り、主の善兵衛や妻に重傷を負わせ、召使の幾人かは、無残に殺害されたとある。
ちょうど晦日なので、店の帳方から、一ヵ月の仕切帳と四百両余りの現金が、宵には、奥へ届けられていた。それも手文庫ぐるみ、また、用箪笥その他の有金など、あわせて七百何十両が盗まれていた。
金以外、品物は何一つ持ち去られていない。襲うことも疾風なら、去ることも疾風だった。家人を縄目や猿ぐつわにかけたりするような、手間どることもせず、目的を迅速に達するためには、無用な兇刃を用うることも、意としなかった手口がわかる。
で──証跡らしいものは何一つとどめていない。ただ、生き残った召使のことばでは、五人組の五人がすべて一様の黒衣を着こみ、もちろん覆面もし、刀の目貫を見覚えられないためか、大小の柄まで黒布で巻いていたという。
「なあ、由。いったい、どういうもんだろう?」
庄七と由。二人の番太郎は、木戸に立ちながら、それッきり往来もない深夜の無聊に、どっちからともなく話しかけていた。
「──将軍様もお代がわりになり、十何年も続いた〝生類おん愍れみ〟なんていう御政令も解かれて、どうやら人間も、犬以下でなくなったと思うと、この頃はまた、いやに血なまぐさい押込強盗やら、昼日中の悪党も跋扈し、奉行所も手におえねえかたちじゃあねえか」
「まったく。……きっと、人間に、クセがついてしまったんだろう」
「何の癖が?」
「十何年もの間、お犬様を崇め奉って来たんで、いつのまにか自分自身で、おれたち人間は、畜生以下の者なんだと、スッカリ頭に沁みこんでしまった癖がよ」
「そうかもしれねえ。何しろ、おれたち人間は、ひねくれたね。自分を考えても、どうも、むかしのように、真ッ直にものをうけとれなくなった」
「真ッ直に歩けば人につき当り──サ。浅野内匠頭は大馬鹿だという者もたくさんあった」
「思い出したが、その家来たち四十七人が、切腹を命じられたあとで、おもしろいことがあったな」
「ヘエ、どんな?」
「忘れたかい。いや、もう赤穂騒動も、十年以上も前の事になるからな。──その四十七士が切腹したあとで、日本橋を始め、江戸の要所に立っていた御制札が、どこのも、泥や墨で塗りつぶされたり、川ン中へ叩き込まれたりして、いくら立て直しても、三日と無事に立っていなかったことがある」
「ウム、あの頃の、御高札荒しか。あれやあ一体、下手人は捕まったかしら」
「一人だって、捕まっているもんか。今だからいうが、捕まえる方の俺たちまで、一緒になってやったんだからな。あはははは」
「そして、どうなったんだろ。しまいには」
「とうとう、お上も手をやいてしまい、高札の文言を改めたのさ。──それまでの御高札には、第一条に、忠孝文武ヲ相励ムベキコト──とあったのを、今のように、親子兄弟、相睦ミ、各奉公ニ、精出スコト……と書き直して、御高札が、頬冠りしてしまったわけだ」
「ヘエ。どこかへ、忠孝を仕舞いこんでしまったわけだね。もっとも、お犬様をお駕籠にのせて歩いた人間どもには要らねえ文句だが」
「その元禄の世も、宝永、正徳と変って、ことしは享保三年だが、人間の悪さは、ちッとも、変って来ねえ気がするんだ。……こうなってみると、やっぱり、お犬様以下という値段が、人間の本当だったかもしれねえな」
立ちしびれて来ると、二人は地にしゃがみこみ、そっと、なた豆煙管をとり出して、煙草をつけ初めた。
木戸触れ中の煙草は、見つかると厳罰の定めだが、こんな規律も今は紊れ、かれらは、ふところ煙草と称して、まったく火の光を見せずに吸う習熟をもっていた。
「大きな声じゃいえないが、こんな物騒や、暮し難さがつづくと、今にまた、由井正雪みてえなのが出るんじゃないかという者もある」
「それやあ出るだろうよ。由井正雪には、よい口実になる」
「オイ、洒落か。よせやい」
「ははは。勘弁しろよ。洒落でも稀にはいわなければ、こんな阿呆みたいな勤めができるかい。……どうだい、去年、伊勢の山田奉行から移って来た南のお奉行なんてものは」
「まず、お歴代の江戸町奉行にもないだろうよ」
「ないだろうな。あんなにまで能のないお奉行もめずらしい」
「山田の案山子──だと皮肉った落首なぞも貼られているが、数寄屋橋御門内は、うららかなものさ」
「それにひきかえ、北町奉行の中山出雲守様は、いよいよ凄腕を揮って、江戸の悪党をちぢみ上がらせている」
「北と南とでは、余りちがい過ぎて、勝負にも何もなりはしない。あんな田舎奉行を、大江戸の南町奉行になど、何だってもって来たものだろう」
「新将軍吉宗公のお眼鑑だというじゃあないか。紀州にお部屋住みの頃から、今の大岡越前どのに、ひそかに、傾倒しておられたのだとかいう噂だが」
「……あっ、庄七。来たぜ」
二人は、六尺棒を持ち直し、棒のように、屹となった。そして、馬蹄の音を交じえた跫音が深夜の大地を打って近づいて来ると、木戸の大門を左右から開いた。
「北町奉行所」の提灯を振り、検死役人と騎馬与力が二名、それに同心たちの一団が、さッと、通り抜けた。
大門は、ふたたび閉まった。
雲の切れ間に、傾いたおぼろ月が、ちょっと顔を見せた。──だが、春の夜明けにはなお間がある。町から町は、墨のような濃い夜気を曳き、いまの馬蹄におどろいたか、しきりに犬が吠えていた。
「──やっ、誰だっ」
「こらっ。木戸の通行はならんぞ」
二人は突然、六尺棒で大地を叩いた。そして半ば、恐怖にみちた眸を、じっと番小屋の横へ向けあった。
自身番小屋の間口の半分は、庄七の女房が内職にしている駄菓子屋の店になっていて、雨戸が二枚ほど閉まっている。──いま、二人が見たのは、そこの暗がりから柳の樹蔭へ歩み寄って、そのままジッと佇んでいる人影だった。
「おいっ、何でそこに立っておるかっ。木戸止めだ。夜明けまでここは通れん。戻れ戻れ」
庄七が、こう二度目に呶鳴ったときである。
──人影は、柳を離れ、番屋の油障子のそばまで、おずおず近づいて来た。
白い面を俯向き加減に、むらさきの野郎頭巾、細身の蒔絵鞘の大小をさし、小姓袴をはき、しょんぼりと、影絵のような姿をそこに見せた十七、八の小づくりな若衆は、
「はい。わかっております。……どうも、相すみません」
姿も姿だが、声も、まるで女である。幾度も、頭を下げているものの、あとへ帰る様子もない。
由と庄七は、顔見あわせた。もしやと、握りしめた六尺棒の力も抜け、なアんだと、急に除かれた恐怖と緊張が、反対なおかしさをつきあげた。
「おい、おめえは、蔭間屋の色子じゃねえのか。身装で分らあ、蔭間だろう、おめえは」
「はい、左様でございます」
「身装もいいし、縹緻も美い。まさか、野天の辻野郎でもあるまいに、何だッて今頃まで、町をうろついているんだい」
「ええ、もっと宵の内に、帰らしていただくつもりだったんですが、浜町まで送って行ったお客様に、またおやしきでひきとめられ、お酒をのませられたりなぞしていたものですから……」
「客を送って行ったのか。駕籠でも貰って帰ればいいに」
「まさか、お屋敷のお駕籠で、蔭間茶屋へ帰るわけにもゆきませんし」
「先は、御大身なのか」
「お名前は申しあげられませんが、立派なお下屋敷もあり、御家来衆もたんといて、歴乎とした……」
「はて、誰様だろう」
「それだけは、どうぞ、訊かないで下さいまし……。後生ですから」
と、白い手を合せて拝むような姿態をした。
「いや、何もむりに、訊こうたあいわねえよ。当節のお大名や旗本たちが、ただのお部屋様や妾遊びにも飽いて、遊廓通いや蔭間買いに憂身をやつしているなんて事は、ちッとも珍らしいはなしじゃねえ。だが、おめえは何家の色子かね」
「葭町の万字屋にいる姉崎吉弥といいまする。番屋のおじさん……後生おねがい──この木戸さえ通れば葭町の家へ帰れるんですから、そっと、通してくれませんか」
「と、とんでもねえこッた!」庄七も由も、眼を剥いて、急に、番太精神をよび返した。
「そんな事が、ひょッと知れたら、おれたちの首は、すぐコロリだ。おれが生きていてさえ喰いかねる女房や子供はどうなると思う」
「では、御迷惑でしょうが、夜の明けるまで、お宅のすみへでも、泊めて下さいませんか」
「なるほど、色子ずれがしていやがる。いろんなことをいうなあ。……番屋は土間だし、畳は六畳一間しかねえんだよ。おめえのような綺麗なのを、女房のそばに寝かせるのはおもしろくねえし、女房は女房で、ヘンに亭主へ気をまわすかも知れねえしよ……。断るよ」
「そんなこと、いわないでよう、ねえ、おじさん」
「よせよ、人の手にしなだれ掛ッたりするのは。……なあ、由、どうしたもんだろう」
「お兄さんからも、おねがいして下さいよ。もう夜明けにも、間がないことでしょ」
「庄七。こいつあ、おれにも、手がねえや。おめえの方が、惚れられているらしいから、いいようにしたがいいや」
由は笑って、木戸の端から端を、行ったり来たり、六尺棒を突いて歩いた。
「弱ったなあ」と、庄七は、油障子をあけて、中をのぞいた。そして、
「おい、吉弥。そこでよければ、寝てゆきねえ」
と、炉の掘ってある土間の隅を指さした。炉には、自在鉤に大薬缶が懸けてあり、隅の空箱の上には、さん俵が敷いてある。
「おお、暖かそうな……」
と、吉弥はよろこんで、それへ腰をかけ、板の間の框にもたれて、すぐ眠るような姿を取った。
庄七は、六畳の方をのぞいて、何かいっていたが、女房のおたつは、乳のみ子を抱いて、もう性もなく寝くたれていた。
「夜明け前は、寒いからな、これでもかけて……」と、庄七は、壁の合羽を外して、吉弥の体へ、そっとかけてやった。──その時、ふと、吉弥の腰に、葵紋をちらした高蒔絵の印籠が、燦と、提がっているのを見て、
「あっ……?」と、口に出るほど驚いた。
三家か将軍家のほかは、似せても用いられなかった葵の紋に、こういう畏敬とも恐れともつかない衝動をうけるのは、徳川治下に土下座をしつけて来た一般民には生れながらの習性だった。
庄七は外へ出ると、由の耳にこのことをささやいて、吉弥のお客というのは、ひょッとすると、案外な貴人かもしれないといった。──と聞いて、由もまた好奇心を新たにし、油障子の穴からそっと覗いてみた。吉弥は、壁にもたれて、もう心地よげに居眠っている。それは、奥村政信が画くところの、紅絵の中から抜け出て来た男のように見えた。
北町奉行の中山出雲守は、峻辣、敏腕の聞えが高い。
この人にして、この部下ありで、彼の股肱とする配下には、鬼与力といわれる佐藤剛蔵があり、同心では、北の三羽烏とも、中山の三十手ともいわれる早川逸平、河越権兵衛、倉橋剣助などの腕ききが揃っていた。
正徳四年に就役して以来、出雲守は、行政警視の両面に、大いに見るべき実績をあげていたが、去年の享保二年二月三日附で、新たに、大岡越前守忠相が、南町奉行として、伊勢山田から栄転してきて、ここに江戸の治安陣を双璧することとなった。
由来、北と南とは、唇歯の関係にあるわけだが、内実では、どうしても対立的になった。
一つ都府に、二人の警視総監がいるのである。しかも大江戸といううるさい人種の中なので、勢い競争意識に駆られないわけにゆかない。それに揶揄、批判、諷刺などの得意な観察と表現をもって拍車をかけることは、ここの小市民たちがもっとも好むところのものだ。がただし、江戸人士は、悪罵や皮肉は呈しても、めったに讃辞を送らない。殊にかれらは常に反官的であり、武士階級への反感がその底意となっている。
そこで、大岡越前が、南にすわると、たちまち、
(こんどの南町奉行は、新将軍のお目がねで、山田奉行から御抜擢になった、えら者だそうだ。北の中山出雲守とはいい取組み、何か今にやるだろうぜ)
巷の声は、すぐそれを期待した。北の奉行組も、巷の声に刺戟されて、
(何の、田舎出の奉行ごときに)
と、例に依って、対立意識を燃やしたのはいうまでもない。それかあらぬか、昨夏以来、北の鬼与力や三十手の面々は、俄然、腕によりをかけて征悪活動を展開し、その検挙数は、ここ何年にもない目ざましさといわれた。
──で。今夜の、伊勢町の五人組強盗の突発にも。
北の鬼与力、佐藤剛蔵は、すぐさま現場へ駈けつけていたし、三十手のひとり倉橋剣助は、逸早く、現場附近から、逃げおくれた賊の一人らしい曲者を狩り出し、捕手をさしずして、江戸橋詰の木戸近くまで、その影を追いつめていた。
すると、どこかの袋路地で、捕手の声がわっと揚がった。獲物を捕ったどよめきにちがいない。──やがて、一かたまりの人影に囲まれた縄付が、番所の方へ引っ立てられて来るのが見えた。
「女だ。……女だった」
捕手たちは口々に、その意外さをいい交わしていた。黒衣黒覆面の賊のひとりは、自身番の明りの下にひきすえてみると、何と、年頃三十二、三の、抜けるばかり色の白い、そして眼に張りをもった、見るからに凄艶な年増女であった。
「ウーム、なるほど、女だ。……はてな、今夜の酷い手ぐちは、とても女の業じゃねえが、さてはほかの四人から逃げはぐれたな。よし」
と、同心の倉橋剣助は、大きくうなずいて、番太の由と庄七を呼び、
「この縄付を、自身番へ預けたぞ。しっかり見張っておけよ」と、いいつけた。
剣助は、捕手の二、三へ何かひそひそ耳打ちをした。女は他の同類の女房か情婦にちがいない。必ず、逃げはぐれたこの女の為に、同類の男がなおそこらに潜伏しているものと見たのである。
捕手は、三組に分れ、荒布橋方面や、安針町、小田原町の方へも、狩立てに散って行った。そして剣助は、残る七、八名をひきつれて、
「もう一度、堀留から瀬戸物町、伊勢町なども一巡して、すぐここへ戻って来るが、その間、少しの油断もしてはならねえぞ」
と、自身番へいいのこし、大股に、立ち去った。
庄七と由は、預けられた縄付を、番屋の前の大柳の根もとへ、必要以上にまで厳重に縄を廻して縛りつけた。
──だが、それでもなお、不安な気がして、二人とも、六尺棒を立てて、油障子をうしろに、立ちッきりで番をしていた。
「おどろいたなあ、由。これが強盗のひとりたあ」
「そうよ。今までにも、何人組というなア随分あったが、女が交じっていたのは初めてだ」──下役者の常として、少し倦むと、すぐしゃべり出していた。
「だが、北のお奉行衆が、いくらこう必死に働いても、南が、ああ無能じゃ、とても江戸の悪党は、狩り尽くせめえぜ。女の悪党までが、南を甘く見て、こんな真似をしやがる程だもの」
「まあ、南ばかりを、そう悪くいうなよ。いい評判だって、ちッたあ、あらあな」
「何か、挙げたかい、南の方でも」
「いや、捕物じゃねえが、この間、大工町の仕出し屋太郎兵衛が失火を出し、その罪で、五十日の手錠をくッた。手錠は、微罪だが、もし手錠を自分で外したりしたら重罪だ。……それを太郎兵衛のやつ、どうした量見か、毀してしまやあがった。さア大変だ。軽くても、遠島は免がれまいと、町名主、五人組につれられて、白洲へお詫びに罷り出ると、大岡様は、てんで一同の詫び言を耳にもかけてくれねえッてんだ」
「ヘエ、そして」
「粗忽者めが、転ンだらなぜその通り申し立て、もしまた、膝に怪我でもしたら、医者の診立書をも添えて、申し出ないか。──太郎兵衛、転んだに相違あるまいと、叱って下すったので、一同は、はっと気がついて、へい、仰せの通りでございますと、大岡様の御仁慈を、みな心からありがたがって、何事もなく帰って来たというこった」
「なアんだ、そんな事かい」
「まだ一つ、この頃、聞いたことがある。下谷辺の魚屋が、八軒もの寺へ、貸しが溜り、どう責めても払ってくれねえので、八軒で二百両近くになる貸分の帳面を証拠に、大岡様へ願い出たんだ。すると、大岡様は、八寺の坊主へ差紙をつけて、白洲へならべ、朝から夕方まで、調べもせずに待たせたままにしておいた」
「ヘエ。気の長いものだね」
「まあ、聞けよ。坊主たちは、退屈はする、腹はへる。交る交る厠へは立つ。──すると、訴人便所の壁に、下谷の魚屋の帳面づらが、何寺へは、何月何日に、いくらいくら貸売と、明細に勘定書が貼ってある。坊主どもは、おどろいて、ヒソヒソ談合していると、やがて日も暮れ頃に、御用人が出て来て、越前守様には、腹痛のため、ついに今日は、御出座がなり難い。明日は早朝よりお調べがあろう故、まず今日のところは、引き取ってよろしいという。坊主どもは、やれやれと立ち帰ったが、毎日こんな目にあわされては堪らぬとばかり、翌日、各寺とも揃って、魚屋の借金を返したということだ」
「なるほど、悠長なお白洲で、江戸の悪党には、ありがたいお奉行様にちげえねえや」
由は嘲って、立小便にでもゆくつもりか、番屋の横へ曲がりかけた。
すると、うしろの庄七が、突然、異様なうめきを発して、前へ屈んだ。──オヤ? と吃驚した由は、駈け戻って、六尺棒を投げた手に、庄七のからだを抱き起した。
「わっ」
仰天して、由は、庄七を抱いたまま、尻をついた。番屋の油障子は二尺ほど開いていた。そして、土間の内から、さっきの蔭間茶屋の色子──姉崎吉弥が、きっと、由の顔のまえに、血刀をつきつけながら出て来た。
由は、声を立て得なかった。吉弥は、柳の根方へ寄り、あざやかに、黒衣の女の縛めを切り解いて、
「さっ、おっ母さん、今のうち……」
と、扶け起して、走りかけた。傷を負って、虫の息だった庄七は、由の体も一緒にズルズル引きずって、
「ち、畜生っ」
と、吉弥のすそへ、しがみついた。
吉弥の刀は、片手なぐりに、うしろを払った。それは、庄七の身を反れて、由の肩さきをサッと薙いだ。由は、笛のような声をつまらせ、ぐわッと地へ俯ツ伏した。
倉橋剣助をはじめ、町々を洗い歩いた捕手たちが、網をしぼるように、やがてここに戻って来たのは、それから半刻も後だった。
春はあけぼの。──その頃やっと、江戸橋、日本橋の欄干に、ほんのり、暁けの紅が染まりかけていた。
そして、霞のほかは、まだ大通りに一軒の大戸も開け放たれていなかったが、ぽかっと、魔の通った口のように、ゆうべの木戸の小門だけが、誰の手に依ってか、開いていた。
また。
ここの自身番から一町半ほど先の路傍に、たれが脱ぎ捨てた物か、極めて薄布地を用いた黒衣の小袖に、黒頭巾、黒の膝行袴などが、ひとまとめにして、捨ててあった。
上げ汐時だ。海口の方から市街の河すじへさして、夜明け雲の下を、無数の芥を浮かべて汐臭い流れが、ひたひたと土手や石垣へ満ち初めていた。
堀留川を下って、楓河岸、箱崎河岸と、河岸づたいに、二つの影が一つのように、まだ川面の靄も暁闇も深い道を、ひた走りに馳けてくる。
「おうっ。お燕ちゃんじゃねえか。ここだよ、ここだよ──」
無数の苫舟が繋っている岸辺から、やや大川筋へ下がった所に、また一艘の小舟が、苫をかけて、泊まっていた。
手をあげて、苫の蔭から、こう陸へ向って呼んでいる顔を見つけると、
「ああ、よかった。おっ母さん、阿能たちは、あそこにいたよ」
と、ゆうべの姉崎吉弥は、江戸橋詰の木戸を破って救い出して来た黒衣の女と一緒に、苫舟の方へ、ニコと頷いてみせた。
苫の蔭から出て来た男は、すぐ舟に立って、棹を突いた。
小舟はゆるやかに寄って来る……。
その間に、陸の女は、黒衣や頭巾や膝行袴などの化身の皮は、吉弥も手伝って、ぬぎ捨てていた。
脱ぎすてると、彼女は、ただの堅々しい御寮人さまか、武家の奥さんという風の女としか見えない。
髪は、あっさりと結い、あられ小紋の着もの。
舟が寄って来るひまに、彼女は、きりりと、帯を直し、髪のほつれをなであげて、男まさりの──というよりは、何か、烈しい風雪と闘っている花のような、きかない眼と唇もとに、春の夜明けを、油断もなく、見まわしていた。
ああ、十数年の歳月は、あの夕顔の花のように弱々しくて、初心で、若い母でもあった水茶屋のお袖をして──こんなにも変らせていた。
そのお袖を、おっ母さんと呼ぶからには、自身番の庄七に、万字屋の色子、姉崎吉弥だといっていた若衆も、蔭間ではなく──お袖の実のむすめ、お燕であるにまちがいない。
数うれば、ちょうど、あの頃、母の乳ぶさによく泣いてばかりいた乳呑み児のお燕も、十六、七の娘ざかりとなっているはずである。
「どうしたい、お燕ちゃん。とても、おめえのおふくろが、心配しちまッてよ。──おかげで、おれ達も、仕事は上首尾に行ったものの、あと白浪と、逃げるに逃げられず、とんだ目に遭ッちまったぜ。……さ、乗んな。跳べるかい、そこから」
と、小舟の上で、しゃべりながら、どんと舳を寄せて来たのは、これも今では、四十男の分別ざかりとなりながら、今もって、いや愈〻もって、自分を悪党の一人前に仕立てすました阿能十こと、阿能十蔵であった。
「あら、だめよ。もっと、舟のゆれないように、抑えていてくれなくッちゃ」
お燕は、岸から覗いて、ためらった。──すると、まだ苫の下に潜りこんでいた他の浪人者二人が、げらげら笑って、
「黒衣を着こめば、おれ達悪党も、三舎を避けるお燕ちゃんだが、女に返ると、やっぱり女だから妙なものだ。お燕ちゃん、下手に跳ぶと、お小姓袴の下から、水神様が拝めるぞ」
「いやだあ」
お燕は、侠な声を出して、母の肩につかまり、一緒になって笑いこけた。
しかし、刻々に、空は白み、朝は賑わい立ってくる。
小舟は程なく彼女たちを苫の下にかくして、矢のように、三叉の洲から、大川へ漕ぎ出て行った。
櫓を把っている阿能十のほか、苫の下に、なお二人の男がいた。大亀と、赤螺三平だ。
いうまでもなく、堀留の山善へはいった五人組は、この顔ぶれだ。往来の不良児や御家人ごろの単なる放埒者の群れは、当然な麻痺や自暴自棄をかさねて、今や純然たる強賊化していた。どの顔も、年をとったというよりは、強悪な仮面を貼りつけたように人相まで変っていた。
しかし、悪と悪とは、その犯す罪の大きく数を重ねている仲間ほど、仲間内だけでは、骨肉みたいに仲がよかった。一家族のように他愛がなかった。
「お燕ちゃん。おめえは一体、みんなが約束した手筈を、よく呑みこんでいなかったのかい。ひどい心配をかけるじゃねえか」
舟は、大川を溯っていた。
もう大丈夫と、落着くと、三平も大亀も、お燕にむかって、しきりに質した。
──というのは、ゆうべ、かれらの目的をとげて、いざ、引き揚げとなって、堀留川へ繋いでおいたこの小舟のうちへ、一斉に逃げ降りてみると、お燕ひとりが、見えないのだった。
(あの娘がいない?)と知ると、いちど舟まで逃げたお袖は、また、あとへ引っ返し、もう警板が鳴り、非常太鼓の聞える町を、身の危うさもわすれて、探しあるいた。
北の同心や捕手にその姿を見つけられ──お袖は、子を探しつつ、追いつめられた。そして、江戸橋詰で、縄を打たれたのであった。
「まさか、自身番の中に、お燕がいようとは、わたしだって、夢にも思えないだろうじゃないか。だから、何が何だか、夢中で逃げて来たけれど……。ねえお燕、いったいおまえは、どうしてあんな所にいたのさ」
お袖も、同じ不審を、訊ねてやまなかった。
「…………」
お燕はただ笑っているのだ。なぜか、答えたがらないのである。
だが、訊き取らずにはおけないとばかり、三平も大亀も、根ほり葉ほり、なお訊きほじった。
「出かける前からの諜し合せを、お燕ちゃんは、よく知らなかったのかい?」
「いいえ」
「じゃあなんでおれたちが引き揚げの合図をしたのに、手筈どおり、山善の裏河岸につないだこの舟へ、すぐやって来なかったのさ。……そいつが、どうもわからねえんだよ」
「だって……」
「だって、どうしたのさ」
「わたし……大事な物を、どこかへ、落しちまったんだもの」
「へえ。何を、落したの?」
と、お袖は、眼をみはって、お燕の顔を、ふかく見つめた。
お燕は、なお口しぶっていたが、問いつめられて、ついにいいだした。
「わたしが、ものごころもつかないうちから、肌身離さず持っていた大事な大事な印籠を、山善から逃げ出すときに、どこかへ落してしまったので、それを探しているうちに……みんなにはぐれてしまったんです」
「ヘエ。印籠を落したのかい?」
「やっと、印籠を見つけたと思ったら、もう近所では非常太鼓。わらわらと、人は馳けつけてくるし……。これはと、町中へ走り出してしまったの。そして、江戸橋前まで来ると、自身番の灯が見えたので、頭巾や黒衣を道ばたへ脱ぎすて、蔭間茶屋の色子だと出たら目をいって、番太郎の小屋へ泊めてもらったわけなんですよ」
「ふーむ……」と、大亀も三平も、そういうお燕の顔を、今更のようにしげしげ見て、「いい度胸だなあ。イヤ驚いた。こいつあ、おふくろにも勝る鬼ッ娘にちげえねえ」
と、舌を巻いていいあった。
だが、お袖は、気にくわない顔色を見せて、
「まあ、あきれたお馬鹿ちゃんだよ、おまえは。──何さ、あんな印籠一つを」
「でも、わたしには、わたしの生命と一緒に、大事な物でしょう」
お燕は、打って変って、つよい口ごたえを返した。母と娘のことばの裡には、ちょっと他人の三平や大亀には、察しのつかない語気があった。
「お出しなさい、その印籠を。いッそのこと、大川へ捨ててしまってやるから」
「いやですよ。そんな事したら、いくらおっ母さんでも……承知しないからいい」
「じゃあ、おまえは」
お袖は、ことばの下に、お燕の腰から、印籠を毮り奪くった。
「いやっ──」と、お燕は、その手に、しがみついた。手と手の間に、珠を争うように、印籠が、揉まれた。
ぱんと、重ね蓋が、口をあいた。そしてその中から、お守護札のように小さく畳んだ紙きれが膝のあいだに落ちた。
お袖は、印籠を離して、それへ手を走らせた。だが、お燕の手の方が、骨牌の札をとるように、すばやく拾って、袂の蔭に手をかくしてしまった。
「まあ、よしなよ。舟が揺れるじゃねえか。母娘喧嘩なら、帰ったあとで、ゆっくりやるさ」
大亀と三平は、むりに、ふたりをひき離した。
お燕は泣く。お袖も涙ぐむ。
「一体ぜんたい、泣くたあどういうわけなんだい」
わけがわからない他人同士は、顔見あわせてそういった。
お燕はまだ小さい紙片を、袂の蔭でにぎっている。理由は、印籠そのものよりも、あるいは、紙片の方にあるのではないかと、大亀が、試しにそッと、お燕の手へ触れてみると……お燕の指も、強いて拒みもしなかった。指を解いて、
「なんだい? それは」
赤螺三平も、顔をよせた。幾つにも折れている小さな紙は、大亀の手でひらかれた。それには、仮名書きの墨あとも淡い文字のあとが、こう読まれた。
あめつちの、かみ、ほとけに、
いのりたてまつる。
この身の諸悪罪業のむくい、この身ほろぶまで、責苦あらせたまうとも、あわれこの子に、科あらせ給うな。
この子の罪みな父にあり。この子のすこやかを、守らせたまえ。
「なんだろ。大亀、おめえには、わかるか」
「わからねえの。何の、お守りやら」
すると、櫓の手をやすめた阿能十が、苫の上から、隙見して、中の者へいった。
「わかってるじゃねえか。それやアそれ、お袖さんの初恋のよ──そしてお燕ちゃんにとっては、実の男親の……市の字が書いたものさ」
「あ。むかしの市の字。今じゃあ、大岡越前とかいって、江戸町奉行になりすましている、あの男が書いたものか」
と、赤螺三平は、好奇心を眼に燃やし、阿能十は、まだ上からしゃべっていた。
「いつか、お燕ちゃんが、そっと、おれにだけ見せて、父親があるのに会えないというのは、何たる因果者だろうッて、涙ながら嘆いたことがあるんだ」
「おいおい、阿能。よけいな事を、上からいうなよ。見ろ、お袖さんの眼が、見るまに、夜叉みたいに、恐くなった」
「ほい。いって、悪かったかな」
「悪いにきまってら。市の字のいの字を口にふと出しても、さっと、顔いろの変る人だ。──女の一生をこうされた恨みを、生きているかぎり、思い知らしてやるのだと、いつもいっているのを、てめえだって、知ってるじゃあねえか」
「いや、すまんすまん。黙って舟を漕いでいよう。──ええと、お乗合の衆、舟はただ今、両国橋の下をすぎて、首尾の松へさしかかっておりますよ。そろそろお上がりの支度をなさいませ」
阿能十は、櫓声のあいだに、そんなひとりごとをいって、独りふざけちらしている。
舟の着く所へ、近づいたのか、それなり苫の下も、静かになった。
お燕は、母の顔いろに頓着なく、父の生きがたみとして持っている筆蹟を、また、ていねいに折り畳んで、印籠底へそっと秘めた。
お袖は、「もういいたくもない──」としているように横顔を研ぎ澄ましていた。だが、大亀もいった通りに、市十郎のいの字をおもい出しても、すぐ変る顔いろは、まだ容易に、心の底波をしずめてはいない風だ。
阿能や大亀や三平などの、有象無象に、余りにも深い悲しい胸のうちを訴えてみる気にもなれないが、かの女はつねに、自分へ向っていっていた。──男に裏切られた女の真実が──真実に生きようとして敢なくふみにじられた女の一生が──いかに大きなこの世の苦患をうけ、苦患は次の苦患を生みかさね、永劫の非命にもがき悩まねばならないかを。──そしてこのむくいを、男におもい知らさねばと、呪咀に燃えつつ誓っているのであった。
化物刑部の土蔵二階で泣き暮らさなければならなくなってから後。あの元禄十六年十一月の大震災にあい、以後の十三年のあいだも、かの女は一日とて、自分の運命を、自分で歩いて来たものと思ったことはなかった。境遇は、幾変転しても、初恋の大岡市十郎をうらみに思う心に変りは来なかった。
わけて、お燕が、ふと「父」ということばでも洩らそうものなら、かの女の、呪咀の埋み火は、すぐ炎になって、全身を焦いた。
久しいあいだ、かの女の愛は、お燕ひとりに、かけられて来た。お燕が生れていたばかりに、かの女は、人間の中に愛というものがあるのを知っていた。母娘喧嘩も、「父」のこと以外ではした例はない。どんな仲間の悪党たちでも、お袖がお燕を愛する深さとやさしさには、見る者をして、
「ああ、おれにも、母親があったっけ」
と、思わず、嘆じさせるほどだった。
それなのに、お燕が、ともすると、母以外なる「父」を求める気をひそかに抱くので、かの女は、いよいよその父の憎さを年と共に強めるばかりだった。
お燕は、成人するほど、父恋しさを、意識に育て、お袖は、年経つほど、その父を、うらみの鑿で心に彫りあげていた。
だが、その父なる人間が、遠い地方で、田舎奉行をしているとか聞いていたうちは、まだ、かの女の胸の火は灰のうちにあった。──それが、去年、江戸南町奉行の任について、大岡越前守忠相として、市中の警政にのぞむと知ってからは、男の虚偽に、宿年のうらみをも併せて、朝に夕に、忘れるという間もない呪いに燃えた。
(ふん、いくら裃をつけて、偉そうに、君子ぶッても、わたしはちゃんと知っている。あんな男、嘘のかたまりだ。偽せるのが上手なけだものだ。──わたし達のまわりにいる連中のほうが、いくら正直者か知れやしない。それを、お奉行面して、わたし達を悪党として捕まえるなら捕まえてみるがいい。生命かぎり、悪いことして、手古ずらしてみせてやる)
ともかく、悪の巣の中に生きているかの女は、むかしの市十郎から、あたかも、挑戦をうけたように思ったのだ。
(大岡越前なんて名は、嘲いぐさの泥まみれになるまで、こっちも、生きとおして、闘ってやる。──そして、さいごに捕まって、南の白洲へひき出されたら、それこそ、一生涯のうらみをいっていいぬいてやろう。偽せ君子の皮を剥いでやろう。男の罪を、あべこべに裁いてやらずにおくものか)
かの女は、たった一つの生きがいを、ここに見つけ、そして、
(そしたら、どんなに胸がせいせいとするだろう。そのあとなら、死んでもいい)
と、かたく思った。
ゆうべの五人組へ交じって、あぶない薄氷を踏んで来たのには、べつに理由もあったが、かの女が、男にたいする返答の一つでもあったことは間違いない。
「──ええ、いらっしゃいまし。これはこれは御寮人さままで、御一しょで。きのう、お報らせをいただいておりましたので、お座敷を取ってございまする。さあ、どうぞ」
舟は、せまい山谷堀へはいっていた。
吉原帰りの朝の客がよく立ち寄る堀の茶漬屋では、そこの内儀さんが、すぐ桟橋へ姿を見せて、迎えあげた。
朝風呂にはいって、軽いもので、朝飯をたべて、舟はそこへ預け、町駕籠を雇って、お袖とお燕は、先に帰った。
駕籠は、下谷から根岸の里へ。──根岸もずっと淋しい寛永寺裏の一軒の小屋敷、まず、上野の寺侍の住みそうな門のまえで降ろされた。
近くには、同じ寺侍のやしきが多い。お袖はここの御寮人さまである。お燕は、お嬢様とよばれながら、折々、男装したりして出るが、近所の者は、怪しみもしなかった。上野ばかりでなく、僧院に、男か女かわからない者が出入りするのは、時風の当然で、ふしぎはない。
ここは、しいんと、冷やッこい。うす暗い中庭を抱いたどの部屋も、剥落した金泥絵の襖だの、墨絵の古びたのばかりである。奥の方で、喘息もちらしい咳の声がして、
「お袖。もどったのか」
と、その痰持ちが、痰の間にいった。
お袖は、部屋をのぞいたが、坐りもしなかった。
「帰りましたよ」
「どうだった、首尾はうまく行ったか」
むくりと、蒲団の上に起きたのは、すでに六十ぢかい怪異な大男。持病にくるしむとみえて、白髪まじりの髪を蓬々と月代にのばしているが、眼光はむかしのままな化物刑部だ。
「お袖。まあ、坐ったらいいじゃねえか。そして、山善じゃあ、どのくらいな金が攫えたな」
「七百両ほどだとさ」
「それッぱかりか。前々から、おれの授けた智恵をもって、あれだけの頭数が押込みに出かけ、それで千両と持って来られねえたあ、どいつも、腕の細い奴らだ」
「何さ、御苦労ともいわないで……。病人のくせに、能書ばかりいっている」
「いや、おめえには、御苦労だったが、おれが達者で出かければ、千両箱の二つは欠かすこッちゃあねえ。……江戸の御金蔵からさえ、千両箱の四つも担ぎ出した刑部だが、ああ、病気にゃ剋てねえ」
と、すぐ仰向けに寝てしまった。
みじんの愛情も感じないのに、もう十何年も、お袖は刑部のそばに暮してきた。今もって、厭で厭でならないのに、どうして一緒にいるかも、かの女自身、わからなかった。
お燕を、育てたいために。それもあった。だが、何よりは、刑部にそむくときは、すぐ生命に危険があった。こう喘息もちで病臥しているが、この男には、今でも、江戸中にたくさんな同類や手下がある。
江戸城の金蔵絵図を手に入れて、根気よく、機会をうかがい、ついに城内から莫大な金を盗み出したことは、同類中の畏敬をあつめている所以で、刑部は、その金をもつと、仲間をも賑わしたが、
(もうこれで、一生食うんだ)
と、寺侍の株を買い、以来、ぷつんと、ひき籠ったきり、世間のうわさを避けていたが、その坐食の資本も、去年あたりで、涸渇してしまい、同時に、病気がちになっていた。
金がなくなると、一度しめた味が思い出された。刑部は、寝床の中で、悪智をえがき、堀留の山善へ目をつけた。まずお袖とお燕を、大身の奥の女性に仕立てて、二度ほど、山善へ買物やら注文に出かけさせた。そして探りを取り、その上でやった仕事なのである。
阿能、大亀、三平などは、夜に入ってから帰って来た。かれらも、とうに刑部の腹心だった。悪の上では段ちがいなので、悪の世界に籍をおくかぎり、どうにも頭が上がらないのだ。
刑部は、かれらに金の分け前を渡して、寝ながらにして大金を眺めた。そして、お袖をまたよんで、
「おまえもいいだけ取るがいい」
といったが、お袖は、手もふれなかった。
次の日。たんまり小費いを持って、どこかへ遊びに行った三人のうち、大亀だけ、午ごろ急に帰って来た。
「おい、気をつけな、お燕ちゃん。今朝も出がけに、寛永寺の横で、同心くせえ奴が目明しを連れて歩いていた。こいつア、いやな勘がするがと、道を更えて、鶯谷へもどって来ると、またあの辺でも、羽織裏に、十手の見えるやつが、うろついていやがる。それがどっちも、南の手下だ。世間じゃ北を恐がるが、どうも俺には、南風がいやだ」
お燕は、黙っていたが、南と聞くと、お袖はすぐ反抗を眼に燃やして、
「何さ、意気地のない」と、叱った。
「大亀もこの頃は、すっかりぼけ亀になっちまったね。大岡越前は、おまえの従弟じゃないか。この体を、持ッて行くなら持って行ってみろと、太ッ腹でいたらどう。十手を見るたびにおろおろしていたひには、古道具屋の前も通れやしないだろ」
「やられたね。恐れ入った。いつまでも、以前のお袖さんと思っていたら、いつかおめえも大姐御だ。──いや女の度胸にはかなわねえよ」
お袖に小胆をわらわれて、大亀は、首を振り振り、またどこかへ甲羅を干しに出かけて行った。
吉宗は、ことし三十二歳。八代将軍の職についてからも、なおどこやらに、紀州家の三男坊徳川新之助時代の野性と若さとを多分にもっていた。
まだ部屋住み頃には、堺町の盛り場などもよく歩いていた彼。祖父大納言頼宣に似て、剛毅で果断、しかし丹生三万石の貧乏家来をひきいて、生涯を終るかにおもわれた彼。
──その彼自身も、五代綱吉には、少年頃から愛されたが、まさか、八代の職をついで、将軍座に坐ろうとはおもわなかったことであろう。
彼は、中興の革新児をもって、自ら任じた。将軍様らしくない将軍家だった。旧来の弊政にして、悪いところは、どしどし革廃を命じた。宦官的な側用人、腐敗しきった無能吏、つべこべ出入する阿諛的儒者、大奥と表との見えざる穴道を往来する城鼠奸人の輩など、仮借なく、罷免させた。
着物は、紬じま、袴は唐桟、いつもごつい紀州の田舎好みを、千代田城の奥へ来てからも用いている。
「藪八。おいおい、藪、藪」
吉宗は、吹上のお庭茶屋の内から、外の者を呼んだ。
紀州から連れて来た家来のひとりに、藪田助八なるものがあった。略して、吉宗は、藪八とよび、これを庭番に用いていた。
庭番頭は秘役である。隠し目付ともいわれている。将軍家が密かにお庭茶屋へ誰かをよんで密談を聴く場合でも、庭番頭だけは、近くにいて、見張りをつとめている。
「お召ですか」
「おお、水を汲んで来てくれい」
さっき、坊主がたててさし上げた薄茶茶碗を、助八につき出して、
「坊主のくれる水では美味うない。どこぞの、流れへ行って、活きたような水を一ぱいもって来い。のどが渇いた」
やがて助八が、紅葉山から流れて来る清水をたたえて、捧げて来ると、
「越前はまだか。遅いではないか」
と、それを美味そうに飲みつついった。
「いえ。ただ今、見えられました」
「や。来たか」
亭の内から首をのばして、吉宗は、入口の数寄屋廂の下にうずくまっている裃姿をちらと見、
「呼べ」
と、助八へゆるしを伝えさせた。
やがて、助八は、表に立ち、越前守忠相は、吉宗のまえに平伏していた。
「表では、会うが、そちと、親しく寛いだことがない。きょうは、それだけの事だ。この後は、折々、ここへ招くであろうが」
「いつなと、お召し給わりませ」
「山田では、紀州の家臣どもが、そちの正しい裁決に、ひねられたそうだな。紀州領と山田との境界争いやら、紀州材の流木事件などの公事で」
「お聞き及びでございましたか」
「聞いたとも。あの頃、吉宗も、紀州に帰国して、魚漁りや鳥撃ちばかりしておった。──そして、はからずもまた、江戸城のうちで、そちと会うとは……。越前、よほど、縁があるな」
「おそれいりまする。この凡庸を、いかなるお眼がねによってか、破格なるお取立てにあずかり、何をもって、おこたえ申し上げんやと、越前、身のほどもおそろしく存じまする」
「いやいや。儂の取立てなどではないぞ。そちが、紀州家などの権に屈せず、あっぱれ、法の純正をまもって、よく紀州家の家臣どもの、思い上がった鼻をヘシ折ったその正しさが、誰ともない衆を通じて、そちを、江戸町奉行に任ぜよと、儂にすすめたにすぎん。これからも、頼むぞ」
「身命をなげうちまして──」
「が、越前。江戸ではだいぶ不評を聞くぞ」
「越前も、もっともな事と、恐縮いたしております」
「いや、よろしい。町奉行は、人気商売とはちがう。思うようにやってみい」
「おことば、百万人力にぞんじまする」
話は、そんなものだった。吉宗は、もう越前の職にはふれず、茶をのむかとたずね、のみますと彼が答えると、助八に命じて、茶坊主をよび、薄茶を与えた。
「ときに越前。堺町はこの頃、どんな賑わいじゃな。知らぬか」
「はい」と、越前は、突然、何かに打ち挫がれたようなものを背におぼえながら──「まだ、町奉行の職にも、甚だ、馴れませぬ故、つい近頃の堺町を見ておりませぬ」と、答えた。
吉宗は、わらって、
「折には、見てあるけよ」
と、軽くいった。
越前は、お庭を辞して、下城の途々も、(折には、見てあるけよ)といった吉宗のことばの真意を、考えさせられた。
おもい出すだに、彼は、体の組織がすぐ変るような気がした。その頃の実感を、また自分を、今の身によびもどした。
あられ降る飢餓の町のさまよいを──あの堺の抜け裏の雑鬧を、おもい出した。
味噌久の背に、お燕を負わせ、木賃を出ては、巷に、食物をひろいあるいた日を、瞼に、えがいた。
駕籠が、数寄屋橋門内に入り、役宅の玄関に、降ろされるまで、ふと、心をとられていた。
もう、黄昏れていて、役宅の部屋部屋は、退けていた。が、常に彼を補佐している吟味役の市川義平太と、目安方の小林勘蔵のふたりだけは、越前の用部屋に、燭をそなえて、待っていた。
越前はすぐ机により、その日の公事、市政、獄務、消防、道路、市井事故などのあらゆる件にわたる書類に目を通し初めた。
ふと、山善の一件書類が、かれの眼をひきつけた。
当夜の押込み五人組の強賊の──かおだちや年頃やらが、山善の召使や、重傷を負った夫婦の口書などにより、かなりな輪廓が、それには、浮かび出ている。
そのほか、江戸橋自身番の、庄七と由蔵の証言も、つぶさに、書きあげられてあった。
「……?」
越前は、数回、蝋燭の芯を剪った。
夕食をわすれていた。──いや、常ならばもうとうに、家庭に帰って、妻のお縫や、わが子の中に、一個の私として解かれている時間なのに、それすら忘れはてていた。
「葵紋ぢらしの蒔絵印籠……? はてな、葵紋ぢらしの……?」
越前は、愕として、何度も、そこを読みかえした。
「万字屋の蔭間といつわって自身番に夜を明かしていた十六、七の若衆が、それを所持していたとあるが。……十六、七?」
彼は、膝の上で、指を繰りながら、瞑目した。
お袖との仲に生したひとり子が、ぼうっと、彼の瞼にうかんだ。あの時、幾ツ、ことしで幾年と、数え来ると、年ごろも合う。
「だが、調書には、若衆とある。……お燕にしては、その点が」
迷っては、他の部分を読み、また、思いあたる点に、触れては、
「もしや? ……」
と、胸を衝かれた。その心の壁を烈しく打ち叩いて、幼い頃のお燕の泣き声が、久しぶりに、この父の腸をかむように、甦って来た。
お縫は、いま、幸福であった。
いまはむかし、結婚前のひと頃の、涙にばかり明け暮れした日をかえりみると、良人は、まるで生れ変った人のように、妻にやさしく、子にあたたかく、灯ともれば、役宅の駕籠に一日のつかれを乗せて、
(いま、帰ったぞ──)
と、公務から解かれた姿を玄関に見せ、部屋に入れば、なお心から、家庭のまどいを楽しんでくれる。
結婚後に生れた長男の求太郎は、もう九歳にもなり、長女の雪子は十二。次女の園子は三ツ。「一姫二太郎」という順に、人にも羨まれるような子持でもあった。
「父に見せたい。父が生きていたら……」
と、お縫は、この幸福に感謝するたびに、亡き忠右衛門を、思わぬ日はない。
その良人がめずらしく、今夜はおそい。
「どう遊ばしたのか」
お縫は、奥の寝間で、園子に添乳しながら、案じていた。
まだ、乳もはなれない園子には、乳母もつけてあるが、きのうから風邪ぎみで、熱もたかく、母の肌を恋しがって、離さないのである。
「──お月番でもないのに」
と、彼女は、気をもんだ。家にあっても、良人の職とする町奉行というものの重責に何か、大事が起ったと感じると、彼女の母乳の出方にもすぐひびいた。
「殿さまのお帰りでございます。──奥方様」
廊下のそとで、いつものように、女中の知らせる声がした。
お縫は、ほっとした。
園子を、乳母にあずけ、いそいで、鏡台の前へ寄ってから、迎えに出た。
駕籠をおりた越前守は、ちょうど、玄関の式台へ上っていた。
「お帰りあそばしませ」
「きょうは、ちと晩うなってな」
いつもの気色と、かわりもない。
公服を解き、風呂に入り、やがてお縫の給仕で夜食の膳につきながら、
「子どもたちは、もう寝たか」
「はい、宵のうちまで、求太郎も雪子もしきりと、お父さまをお待ちしておりましたが」
「園が、寝所で泣いておるようだの」
「きょうは、咳が出るので、むずかってばかりおります」
「医師の楽翁は、どういうておるのか」
「きょうは、晩くなっても、お見舞すると仰っしゃっておいででしたが、まだお見えになりませぬ」
「あれ、呼びぬいておるわ。行って見てやれ」
かの女は、いそいそと病児の部屋へ。越前守は、いつものように、書斎にはいった。
読書は、かれの夜の日課であり、趣味であったが、その夜は、園子の泣き声が、耳について、何としても、心がみだれがちだった。
「……あらそえぬもの」──と、彼は、自ら責められた。
父の罪は、まだ、消えていない。お燕の幼いときの泣き声と──奥の園子の泣き声と、余りにも、よく似ている。
いや、それは決して、ちがったものであるはずはない。
「……母こそ、ちがうが」
罪の父は、苛責にたえかね、ついに書物もとじふせて、しんしんと傷む心を、両腕に拱んでいた。
奉行所にあるときは、日々、白洲へ曳かれてくる無数の人間を裁く法官の彼であったが、静夜、独坐のうちにある彼は、自分で自分を裁かずにいられなかった。
──ふすま際へ、小侍が来て、そっと、たずねた。
「お医師の楽翁どのが、お戻りがけに、ちょっとお目にかかって帰りたいと仰っしゃいますが?」
「さしつかえない。通すがいい」
越前は、彼を待った。
麹町の町医者、市川楽翁は、役宅に勤めている与力の市川義平太の実父だった。
楽翁は、洒落人で、肩がこらない相手である。これへ通ると、まず、御息女のお風邪は心配ありませんと、医者なみの説明をし、それから、せがれ義平太が、つねに、お引立にあずかって──などと雑話に時を移して、
「ときに、先頃はまた、堀留河岸の山善とかいう呉服問屋へ、女まじりの五人組強盗が押入りましたとやら……いやもう、町のうわさは大変ですが……お奉行様にも、ご苦労がたえませんな」
と、あちこちでの、聞きかじりを、茶のあいだに、語りはじめた。
衆の知覚というものは怖い。
どんな政治の裏も、大奥の秘事も、大衆は、いつのまにか知ってしまう。
あざむけないものは、衆の嗅覚であり、衆の判断である。
大衆は大智識である。大衆こそ、世事の名判官ではあるまいか。
越前守は、いつも、それを痛感している。
──だから、楽翁の世事ばなしといえど、おろそかには、聞いていない。
「五人組のうちの、女ふたりは、何でも、母子だそうでございますな。しかも、むすめは、花羞かしい年ごろの美人だそうで、それが、たいそうな人気になっておりますよ」
楽翁の言を、町の声とすると、庶民たちはもう、そんな事まで知っているのだ。
越前守は、心のうちで、
(ああ、裁かれている者は誰か)
と、自問自答していた。
楽翁は、かれの胸中に、何があるか、知るはずもなく、
「それにまた、町の者は、この事件の犯人を召捕るのは、北か南か、というところに、例によって、興味をもってもいるようです。……せがれ義平太も、南に出仕しておりますので、南の悪評を耳にすると、年がいもなく、腹が立ってなりませぬわい。……どうぞ、お奉行にも、御健康を第一に、こんどこそ、北の中山出雲守どの以下を、見事、鼻をあかせてやっていただきたいもので」
老人がいいたかったことは、この点らしい。町の者より、楽翁自身が、ひどくこの「北か南か」に、肩入れなのだ。──そこで自分の激励を終ったように、かれは処方の強腎剤一袋を、見舞において、帰って行った。
翌る日。──また、それからの毎日。
越前守は、平日どおり、奉行所に出仕し、白洲の訴訟を聴き、市政万般の公事を裁決して、変哲もない、平凡な忙しい日を送っていた。
就任以来、世評のとおり、この南町奉行所は、悪党狩りの方では、検挙の成績がわるく、数寄屋橋の揚屋や牢獄は、すこぶる閑散なものだったが、市政方面には、着々と、行政の効果をあげていた。
かれは、何とかして、江戸に火災をなくしたいと、考えた。
「火事は江戸の花」──などというものの、明暦の大火には、全市の半分が焼け、死傷十万という災害を生んでいる。
万治三年の年などは、正月二日から三月末までのわずかな間に、百五回という火災数の新記録を出している。
越前守が、自分の幼いときから、今までに、覚えている大火を憶い出してみても、何十回か知れないほどである。
(捨てておけない)
と、かれは、市井の悪党以上、この災魔をなくすことの方を、急務と、信じたのであった。
そこで彼は、火災を起した火元の罰則を立て、大火となったときは、さらに、町名主以下、家主、地主たちにまで、連帯の責任を問う法令をもうけた。
──が、むしろ、火の出ないうちの、予防策に、かれは重点をおいた。
市中にたくさんな、火防地を設けた。
家屋の構造に、それまで制約されていた条件(たとえば、大名武家以外は、瓦葺きの屋根はできなかったなどの──)を撤廃し、自由に、防火本位の家を、たれでも建てられるように、市政を改めた。
また、消防組を、新たに、組織させた。
全市の、各町ごとに、常備の駈付け火消しを、三十人ずつおいて、ジャンと鳴れば、競って、鳶口、まといを振り出して、消火に協力する。いや、これを競わせて、功ある組を、表彰した。
江戸〝いろは〟四十八組の創案は──このときからといわれている。
だが、土木だの、交通だの、風紀だの、火事だのという地味な行政は、なかなか、市民の注目をひかない。
(南は、無能だ)
という非難にひきかえ、北の奉行、中山出雲守の配下は、
(腕ききぞろい)
という一般評のたかい所以は、そこにあった。
そこで、一般の悪評は、南町奉行にあつまっていたが、越前守は、すこしも意にかけていなかった。ただ、そのたびに、無念がったのは、与力同心以下の、かれの配下であった。
きょうも、同心部屋の昼飯のあとでは、ちょうど、聞き込み歩きから帰って来た二、三名の目明したちを交じえて、
「こんどこそ、何としても、おれたち南の手で、犯人を揚げてみせなくっちゃ、十手をさして、昼中歩くにも、気がひける。辰、何かホシはつかねえか」
と、中のひとりが訊ねていた。
目明しの辰も、松も、勘十も、いいあわせたように、首をふった。
「てんで、耳よりなと思うようなことは、何ひとつ、ありやしません。毎日、犬もあるけばの空だのみで、北組の方だって、その後は、調書以上の聞き込みは、何もつかねえはずです」
「油断じゃないか。北ではまた、南のやつらを、あっといわせようなどと思って、ひっそり、手繰をつけていねえとも限らねえ」
「いや、こんどだけは、金輪際、こっちも、北に抜かれるようなドジを踏んじゃおりません。……だが、何度、現場を調べても、江戸橋の番太郎ふたりを吟味しても、また堀留界隈を、訊きほじッてみても、さッぱり、手懸りがつかねえんです。北組だって、同じことをやっていまさあ。今んとこ、どっちも、暗やみの手さぐりで、時々、北と南と、鉢合せしたり、腹の探りッこという恰好でさ」
かれらの言も、誇張ではない。
もともと南北町奉行所には、各、与力五十人、同心二百四十人が、所属されていて、それらの大半以上は、一般市政や、所内の事務に就いており、犯罪の検挙にあたる与力同心の実数は、一部の人員にすぎないが、それにしても、大きな事件ともなれば、奉行所の機能の最高度なものがそれに集中することになっている。
にもかかわらず、事件以来、二十日もたって、しかも、南北のその機動力をあわせてもなお皆目、犯人のあしはついていない──というものを、どうして一個半個の目明しが、オイソレと、端緒を拾って来られるものではない。
──というのが、正直、かれら下役の、いい分らしいが、さりとて、泣き言をいうのは、中山出雲守の北組にたいし、なんとも、小癪だという意地もあって、忍んでいる顔つきだった。
「──山本はここに見えんか。山本左右太は」
そこへ、吟味役の市川義平太が、与力山本左右太をさがしに来た。
「左右太どのなら、いまし方、湯呑み所で、弁当をつこうておられましたが」
「いや、与力部屋も、湯呑み所も、のぞいて来たのだが」
「何か、急な御用ですか」
「お奉行が、呼んでいらっしゃるのだ」
「じゃあ、さがしましょう」
と、みな同心部屋を出払って、ひろい役宅、吟味所、各詰所、揚屋、仮牢、不浄門の裏の空地など、おもいおもいさがし廻った。
奉行所の西門前に、俗に、石焼豆腐とよばれている「訴訟人休み茶屋」がある。
公事訴訟の手つづきやら、牢内の知人へ差入れ物をする身寄りの人々などが、ここで書類をかいてもらったり、時刻を待ったりしているので、いつも繁昌していた。
山本左右太は、与力のなかでの若手で、年はまだ三十がらみ、苦みばしった男前もわるくなく、石焼豆腐の評判娘といわれるお次と、とかくの噂があった。
目明しの辰三は、うすうす知っていたので、
「まさか……?」とは思ったが、念のため、そこの住居となっている店横の一部屋をのぞいてみると、左右太が、お次をそばにおいて、昼から酒をのんでいた。
「こいつあ、あきれた」
辰三は、ためらったが、役所の急用というのに、姿が見えず、同僚たちも心配しているところなので、
「左右太様。みんなが、探していましたぜ」
窓の外に立って、気がねしながら注意した。
「なに、おれか」
左右太は立つ様子もなく、
「飯休みに、ちょっと、ひと昼寝していたのだ。たいした用でもあるまい」
「何か知りませんが、お奉行がおよびだとかいうことで」
「うそをつけ。おれはここ三日間の報告を午まえにすまして、もう御用ずみの体だ。少しは、息をつかなくてはやりきれぬ」
ところへ、義平太も、嗅ぎあてて来て、辰三から、それと聞くと、
「怪しからぬこと」
と、共に声をあららげて、窓からどなった。
「左右太。何をしておるッ、お奉行のお召しだぞ、すぐに来いっ」
これには、山本左右太も、疑ってはいられなくなったとみえ、
「ほんとか。義平太」
「たれが、わざわざこんな所まで来て、嘘をいうか。いま、何刻だとおもう」
「では、今すぐ行く」
左右太は、店の方へまわって、そこの土間から、二人より先に外へ出た。そして、礼もいわず、すたすたと役宅の裏門へはいって行く姿を見て、
「あんな男じゃなかったが、近頃どうかしているな」
と、市川義平太は、辰三をかえりみていった。辰三も、小首をかしげて、
「ヘンですなあ?」と、つぶやき──
「いくら、恋は熱病だといっても、まだお役宅も退けぬ時刻に……そして昼酒をのんでいるなんて、穏やかじゃありません」
「なにか、自暴自棄のような、ふうも見えるが」
「もっとも、この間うちから、しきりに、町の非難をかりて、暗に、お奉行を誹謗したりしていましたからね。何か、不平がたまっているんでしょう」
「では、そんな陰口が、越前守様のお耳にでもはいったのではないか」
ふたりが、元の同心部屋へもどってくると、他の同僚たちも、声をひそめて、何か、左右太のうわさをしていた。
するとまもなく、当の山本左右太が、ここへ姿をあらわした。──顔色がかわっている。人々は、かれが越前守の室へよばれて、何かいわれたな、と直感した。
あんのじょう、左右太は、ここへ来ると、噛んではき出すように、すぐいった。
「各〻にも、日頃、お世話になったが、山本左右太は、きょう限り、お奉行からおいとまを申し渡された。……どうも、名残りおしいが、ぜひもない」
「えっ。免役になったのか」
「うム。当分、ぶらついているつもりだ」
「どうしたのだ、いったい。──何か、お奉行のお気もちによほど逆らいでもしたのか」
「逆らわずにおられんからな」
「……どうして」
「貴公たちは、南の不評を、世間で耳にしないか。──いやもう、いうのはよそう。さんざん越前守様へ、面を冒していったことだ。善言耳に痛しの喩えで、容れられなければ、身を退くのが、古今の通例。……各〻も、せいぜい、善言は慎み給え。じゃあ、またいつかお目にかかろう」
左右太は、同僚に鬱憤まじりの別辞をのべて、やがてひとり通用門から立ち去った。
「あの足で、またすぐ石焼豆腐へ寄るんじゃないか」
同心のひとりがいうと、たれもが、そう思ったことらしく、みな笑った。
目安方の小林勘蔵を通じて、越前守から、山本左右太の解役が、各役部屋へ公表された。
行状、粗暴放埒ニ依リ──という理由だった。
たれも、ちか頃のかれを見ては、不当なる免職とおもえなかった。
しかし、左右太と同室のごく親しい人々のあいだでは、
「どうして、このところ急に、あんな自暴のやん八になったのか」
と、不審がられもしていた。
越前守は、そんな中を、定例の辰の口評定所の出仕日とあって、午すぎ、駕籠内の人となって、つねより早く奉行所の門を出た。
たそがれと共に、役宅は退けて、宿直部屋の灯と、牢舎長屋のほかは、墨のように、とっぷり暮れ、大門も西門も通用口も、みな閉まった。
小林勘蔵と市川義平太のふたりは、たれより晩く、そこを出て来た。
ふたりは、立ちどまって、
「では、義平太。貴公ひとりで行ってくれるか」
「その方が、人目にたたないで、いいとおもう」
「では、たのむ」
「いずれまた、役宅で、何かと、そッと連絡する」
勘蔵は、自宅へかえり、義平太ひとり、あとにのこった。
その義平太は、もう夕暮と共に、葭簀を巻き、戸を卸してしまった石焼豆腐の住居の横へまわっていた。
「お次さん。おるかね」
「オ……。市川さま」
「さっき、左右太が、立ち寄ったろう」
「ええ、お寄りになりました。そして、あなた様がお見えになったら、これを渡してくれと仰っしゃって」
お次は、帯のあいだから、左右太に托された手紙代りの紙片を出して渡した。義平太は、その短い文字をひと目に読んで、「ありがとう」と、さりげなく、すぐ立ち去りかけたが、お次によび返されて、またふと足をとめた。
「何だね。お次さん」
「左右太さまは、どうかしたんですか。お役向きか何かで」
「聞いたか」
「ええ、夕方、目明し衆が、お店の床几で、そんなうわさをチラとしておりました」
「じゃあ話すが、左右太は、免役になった。もう奉行所へは来ない」
「……わたくしが悪かったんでしょうか」
お次は、袂の端を咬んで、涙の眼をそらした。
「ははは。なんで其女と、奉行所の任免と、関りがあるものか。左右太の免役は、越前守様と、意見たがいのことから起ったものらしい。なあに、そのうちにまた、復職するさ」
軽く、笑いまぎらして、義平太は、どこかへ足を早めて行った。
その頃、山本左右太は、楓河岸の橋袂にたたずんで、人待ち顔をしていた。
「左右太か……」と、やがて宵闇からよびかける声に、
「オ、義平太。来てくれたか」
ふたりは、河へ向って、石置場の石へ腰かけた。
「左右太。辛かったろう、今日は」
「察してくれい。それを知っているのは、貴公と小林勘蔵と、あわせてこう三人きりだ。……すべての同僚下僚から、蔑みと、冷めたい眼で見送られて、御門を出るときは、いい気持はしなかった」
「だが、それも皆、おれ達三名が、親とも、御主君とも思って、御助力申しあげている越前守様の大難に当るのだとおもえば。……なあ、左右太、何でもあるまい」
「うム。何でもない」
ふたりは、夜の川面に、眼を落しながら、しばらく、沈黙しあっていた。
義平太は、町医師の市川楽翁の子。
左右太は、もと上総の農家のせがれだったが、越前守に、ふとみとめられて、奉行所の端役から、抜擢された者だった。
前々から、与力として、立派に資格をもっていたのは、もう一名の同僚、小林勘蔵だけである。
勘蔵は、前の江戸町奉行、松野壱岐守の部下だったのを、大岡越前守が就任のとき、たって壱岐守に請うて、越前守が、自分の与力の中へ、もらいうけたものだった。
他にも、与力同心は、ずいぶん多いが、とまれ、越前守を中心に、世上の悪評のあらしにもたちむかい、
(この人のために尽すことは、即、世のために報ずることだ)
と、信念して、かたく結びあっている三人なのである。
もとより、きょうの左右太の免役は、ある必要のために、越前守と、腹心三名とが、かねて相談の上で、ああやったことで、その心契は、すこしも変ってはいないのだ。
「ところで左右太。──おれたち三名を、頼む者と、お見こみあって、越前守様が、御自分の若い日の過ちを、あんなにまで、かざり気もなく、お打ちあけして下すったが、それについて、貴様がひきうけたことは、実際に、何とか、目ぼしの手懸りをもってお答えいたしたことか」
「それは、もとよりだ。──こうして、わざと、免役まで蒙って、役宅の門を出たからには、遠からず、きっと、あの一件をつきとめて見せる」
「だが、その間に、北町奉行の手で、先を越されなければいいがなあ。万一、北組に、さきに手をつけられると」
「そこは、生命にかけての合戦だ。同心、目明しを、役宅からさしずしての闘いよりは、左右太一個が、身がるになって、自由自在にやった方が、どれほど勝ち目が多いかしれぬ」
「当座の住居は、どこと極めたか」
「あの、二階──」と、左右太は、ふり向いて、一軒の釣舟屋の灯りを指した。
「覚えておいてくれ。楓橋の舟源という家だ。しかし、何かの連絡に、いちいち奉行所の者が来ちゃあまずいが」
「お次ではどうだ。なお、まずいか」
「貴公まで、からかってはいけない。わざと、ここ数日は、入り浸ッて見せたが、石焼豆腐のむすめになど、心まで許しているわけじゃない」
「……おや?」と、そのとき、義平太は、あたりの河柳を見まわして、
「たれか、泣いたような声がしたとおもうが、おれの耳のせいか」
と、耳をすまし、そして、ふいに、うしろの樹蔭へ立って行った。
「あ。お次さんだ……左右太、お次さんが、こんな所で、いまの貴様のことばを、立ち聞きしていたのだ」
「いつのまに?」
と、左右太は、当惑そうな顔をした。だが、かの女へ頼んでおいた紙片に、ここの場所を書いておいたことをおもえば、お次が、それを読んでいて、義平太のあとから、そっと来ていたことも、娘心として、そう驚くほどなことでもない。
いや、義平太は、むしろそれを友のためにも、これからのある策の上からも、好都合だとよろこんだ。
「お次さんの気性もわかっている。あれを、打ちあけてやってもいいだろう」
義平太はいったが、左右太は、さあ? と、考えこんで、
「女は、口がかるいからなあ」
と、難色をみせた。
お次は、信じられない自分を、恥じるように、ただ泣いていた。きのうまでは、人のうわさの、いわゆる浮名にすぎなかったものが、きょうの事から、かの女の心は、一どに、火ともなる恋の相を表にしてしまった。
「いいよ、泣くな。義平太が、のみこんでおるよ。──それに、誰よりは、お次さんが信じられるし、お次さんのほかに、奉行所内のわれらと、左右太とのあいだを、うまく連絡してくれる者はほかにない。左右太にはなせぬなら、おれから話す。……お次さん、ちょっと、こっちへ顔をかしてくれ」
義平太は、少し離れた所へ、かの女を誘って、ある秘密を、うち明けた。
ある秘密というのは、現町奉行越前守の、若き日の過失だった。
堀留事件の五人組の賊のうちには、その若き日にむすばれた──越前守とは宿命の人間が、犯罪のうらにひそんでいる。
越前守は、それを覚った。
人間越前として、幾夜か、悩んだことはいうまでもない。
が、より以上、かれの職は、町奉行だった。人の罪を裁く法官であった。
勘蔵、左右太、義平太の三人は、かれにこのことを、率直に、語られたのである。
(お奉行には、それを、どう御処置あそばすお覚悟ですか。私どもは、ただあなたの手足となって働きましょう。腹心となって、秘密裡に思召しを運びましょう。──ただ、お命じください。命のままいたします)
これが三名の一致したそのときの答えであった。
きょうのことは、人間越前守へかかって来た大難打開の一着手なのだった。仕事は、すべてこれからなのだ。
「お次さん、手伝ってくれるか。いや、もうこう打ちあけた以上、いやとはいわせない。」
「うれしゅうございます。……どんな事でも」
「左右太。うしろで聞いたろう。仲よく、手助ってもらえよ」
三人は、それからも、一刻ほど、何事か諜しあって、別れた。
左右太は、舟源の二階を借り、役所をしくじッたのを自慢のように、浪人ぐらしを初めていた。
舟源の夫婦は、かれと同郷の上総者。こんどのことは、さしつかえない限りにおいてはなしてある。
「旦那、やっと分りましたぜ。──あの晩の舟が」
この二階へ来てから七日目。舟源の亭主は、仲間のばくち場から飛んで帰って来て、かれに知らせた。
「やっぱり、旦那のカンは中たっていました。五人組の賊へ、舟を貸したのは、木更津船の岩五郎という船親方でした」
「どうして分った」
「岩五郎の乾分が、ばくち場で、ちらと、妙なことを口走りましたから、帰りを誘って、蛤鍋屋へつれこみ、かまをかけて、訊いたんです。岩五郎の持っている苫舟を、堀の茶漬屋のお客に、貸したっていうのが、何と、指を繰ってみると、ちょうど堀留にあの大い騒ぎが起った前の晩です」
「大金をとったのか。貸しちんは」
「何でも、茶漬屋のおかみが、仲へはいっての相談だというこってす」
「木更津船は、大川へ、何度はいる?」
「さ、親船は、月にいちどぐらいなもんでしょうが」
「分っているだろうな、岩五郎の木更津の家は」
「網元もやっているし、かくれもねえ船持です」
「まず、あしはついたな」
「おめでとうございます」
「ばかを申せ、これからだ。……が、他言は無用だぞ」
「仰っしゃるまでもございません」
「褒美に、吉原へ連れて行ってやろう」
「ごじょうだんを。……旦那も一しょに、うちの女房に、追ン出されますぜ」
「いや、今夜一ばん、貴様は借りものだ。女房にはおれから渡りをつけておく」
「ほんとですかい」
「ただし、舟だぞ。──酒に、火桶、座ぶとんなど、入れておけ」
左右太は、階下へ降りて、源吉の女房と、何か、笑い声で交渉していた。諒解がついたとみえ、
「源吉、おゆるしが出たぞ」
笑いながら、軒端を出た。
──と。出あいがしらに、
「左右太さま。どちらへ」
何か、お重箱につめた食べ物らしいものを抱えて、折々、ここの二階を訪れるお次が、ちょうどそこへ来あわせた。
源吉はふりかえって、大げさに、手を打ってわらった。
「旦那あ。こんだあ旦那の番ですぜ。どうです、おゆるしが出そうですか」
もう遅桜も褪せて、夏隣り。
釣舟も、猪牙舟も、屋形舟も、これから川へぞめき出る季節である。
舟源の猪牙舟は、お次ものせて、客ふたりに、船頭ひとり。火鉢を中に、さし向うには、頃あいな舟のひろさだ。
「おい、源吉、待った待った」
「なんです。忘れ物ですか」
「いや、まだ宵だろう。すぐ大川へ出さないで、逆に、堀留の方へ漕いでみてくれ」
「ヘエ、堀留へ」
「なんでもよいから、舟を向け直せ」
「わかりましたよ。何もいいますまい」
源吉は、櫓をねじッて、ぎっぎっと、川を溯った。
川幅は、だんだんせまくなり、岸は高くなって、両側に、土蔵や荷揚げ桟橋ばかりが見えてくる。
「……ここだな。山善の裏は」
土蔵印に、それと知って、左右太は、舟をとめさせ、しばし川の中から山善の住居や路地を見上げていた。
かれは、疾くに、賊の襲った足どりは、この川筋からと、見ていたのである。
「いいよ、源吉、やってくれ」
「どっちへです」
「吉原へさ」
お次は、聞えないような、顔をした。
源吉は、わざと、
「いいんですか、お次さん」
「そんな野暮ではないよ。なあ、お次さん」
左右太が代って、答えてしまった。
初夏の夜の川風になぶられながら、猪牙舟は晩く、山谷堀へついた。
三人は、遊廓を一まわりして、引手茶屋の巴屋へ揚がった。
「ま。おめずらしい」
と、茶屋の内儀は、左右太を知っていた。お次は、身のおき場がないように坐っていた。
「もう、桜も散ったな」
「ごぶさたでござんすこと。やがて、仲の町は、菖蒲でございますよ。その節は、おわすれなく」
「こん夜は、上総の身寄りの娘が来たので、見物につれて来た。……が、しらふで帰るのも曲がない、何かで、一杯もらいたいな」
かろく飲んで、時刻をはかり、帰りがけに、
「おかみ。堀の辺で、何か、朝めしを、おつに喰わせる家はないか」
「茶漬屋はいかがです。流行っているようですよ」
「ふりの客でもいいのか。……ちょっと、ひと筆、巴屋からとして書いてもらいたいな」
「おやすいこと」と、おかみは、客の送り文を書いて、源吉にあずけた。
猪牙舟が、堀へもどって来たのは、まだ夜明け前で、いくら朝帰りの客にしても、ちと早すぎるきらいがあった。
だが、茶漬屋の座敷の灯は、堀の水に影を映して、さすが夜明かし商売を誇っている。
三人は、座しきをとって、隅田堤のまだ明けきらない水と空をながめた。
「いまのは、ほととぎすの声だろう」
「君はいま駒形あたり──ですか」
「源吉。味なことを、知ってるな」
そこへ、女中が、お風呂をといってくる。
左右太が、さきに入り、次に源吉が上がって来た頃、空が、美しく映え出した。
「お次さんも、さっぱりしておいで」
かの女を立たせてから、女中をよび、ちょっと、おかみに顔をかしてくれといった。
巴屋の送りをもって来た客なので、お内儀はすぐあいさつに来た。
「おい、おめえは、ちょっと、外していてくれ」
左右太は、源吉も遠ざけてから──
「おかみさん、うしろをお閉め」
「え。……なんでござんすか」
「ふすまも、障子も、閉めたがいい。此方はかまわぬが、奉公人も多勢の様子。おまえのためだ」
左右太は、ふくさに包んで持っていた十手を、おかみの前においた。
おかみは、顔いろを失った。立って、うしろを閉めるのがやっとだった。
「驚かしてすまないな。だが、おまえを召捕に来たのじゃない。十手は、奉行所の者だという証だけにおいたのだ。知っていることを、知っている通りにいってくれれば……そうさな、極々、軽いところで、済まそうじゃないか」
「いったい、何のお訊ねで……」
「ほかじゃあないが」
左右太は、静かに、たずね出した。
堀留の事件の前夜に、ここで木更津船の岩五郎から、苫船を一艘借りた者があるはず。その人態、その他の事だった。
おかみは、つつまず話した。──だが、あくる朝、その苫舟から、男女五人の連れが、此家へあがって、朝めしをたべ、そして帰ったさきは、いいたがらなかった。
「じゃあ訊くまい。実あ、分っているのだから。……だが、同罪に陥ちるなよ」
もちろんこれは左右太のおどしだった。
おかみは、ふるえ上がって、一切を告げた。その朝の様子も、つぶさに話した。──ただ、この場合、かの女の心理には、化物刑部といわれる悪の元兇から、後々、あだをされることを、極度に恐がっているのである。
「刑部も、苫舟から、一緒に降りたのか」
「いえ、あの化物刑部は、ぜん息病みで、床についているということですが、それでも、すごい睨みがきくとみえて、悪党仲間では、刑部をおそれない者はございませぬ」
「案内してくれないか。刑部の家へ」
「そればかりは、どうぞごかんべんを」
奉行所以上に、刑部といえば、恐れるのだった。
左右太は、笑って、
「よしよし。……その代りに、これから折々、この家を、使わしてもらおう。今のことは、他言するなよ」
朝めしを喰べ、左右太と源吉は、枕をかりて一寝みした。
いつも、この家から、刑部の家へ、通いつけている駕籠屋というのを頼んでもらい、左右太は、源吉とお次へ、
「舟で、さきへ帰るがいい。おれは、思うところをぶらついて、いつか、楓河岸の二階へ帰るから」
と、支度をした。
何日か帰る──。お次は、心ぼそくなった。
「何か、お奉行所の方へ、おことづけはありませんか」
物蔭で、そっというと、左右太は、いつのまにか認めておいた密封のものを、お次の手にあずけて、
「市川義平太か、小林勘蔵か、御両所のうち、どちらへか、しかと、手渡してくれ」
と頼んで別れた。
駕籠は、上野の山裏の方へ、いそいでいた。
鶯谷の御隠殿ちかくへ来た。
「かご屋。まだ遠くか」
「いえ。もう、このすぐ先の、だらだら坂の中途です」
「じゃあ、降ろしてくれ」
「いいんですか、旦那」
「その家の門さえ分ればよい」
かご屋は、かれを連れて、だらだら坂をすこしのぼった。
古い寺侍の家ばかりがある。その一軒の、わけても古色な冠木門を、かご屋が指さした。
──すると、その門や、あたりの様とは、余りにもふさわしくない艶やかな絵日傘が、門の蔭から、牡丹の咲くように、ぱちんと開いた。
「……おや?」
と、物蔭へ、とび移って、ひとみをこらしていると、その牡丹日傘につづいて、紺地に、燕のもようを抜いた地味な日傘がまた開いた。
日傘と日傘は、連れだって、坂をのぼり、鶯橋に姿を見せ、上野の寛永寺裏の方へ渡ってゆく。
「……お袖と、お燕の母子だ。ああ、あの美しい姿が、どうして、世を呪い、江戸町奉行を、苦患の底へ、もだえさせている悪魔だと、たれの眼に見えよう」
左右太は、眼に見てさえも、もしや、人ちがいではないかと、自分の行動を、いくたびも、疑ってみた。
「どこへゆくのか?」
かれも、あらゆる気をくばって、しかも、そ知らぬふりを装いながら、鶯橋の半ばへかかった。
美しい母子の日傘は、もう向うがわの上野裏の坂へ、のぼりかけている。
──と。その日傘が、くるりと、まわって、白い顔が二つ、あざらかに、こっちを見てホホ笑んだ。
「あ、いけない」
気づかれたかと──身を欄へ寄せて、顔をそらしかけたときである。たれか、ふいに、左右太のうしろから組みついて──いや、そんな手ぬるさではなく、がッと、いきなり締めつけられたような呼吸の逼迫を感じると、もう、うしろの人間の五本の指が、食いこむように左右太の喉笛を、圧していた。
橋の下は、深い、谷だった。
左右太は、一とき、毛の根が、熱くなったが、それを忘れたとき、実は、気を失いかけていたにちがいない。
訴訟の裁きは、月番奉行の役宅で、月々、まわり持ちの定めである。
今月は、南が、月番だった。
目安方の小林勘蔵も、吟味役の市川義平太も、下役たちも、そのため、めッきり公務がふえ、湯沸し部屋で、同僚たちの世間ばなしも、めったに聞けなかった。
「おお、ずいぶん早い御出仕だな」
「やあ、義平太か」
「今朝ばかりは、自分がいちばんの早出だろうと自負して来たら、もう、役宅の机にむかっているとは、驚いた」
「いや、ちと調べ物を、仰せつかってな。──昼中は、白洲が多くて、出来ぬので、二、三日、明け方出勤をつづけておる」
「なんだ、調べ物とは」
「いや、やっていると、おもしろいぞ。色気の方だからな」
「ふウむ……なるほど……」
同僚のなかでも、兄弟以上にも、親しくしている間なので、市川義平太は、小林勘蔵の机のうえをのぞいて、そこらの書類を、手にとって見た。
江戸じゅうの隠し売女(私娼)の統計やら、身元分けやら、宿の調査などだった。
中に一通、享保初年調べの、江戸の人口表もある。
それによると、いま、江戸の総人口は、
──五十万一千四百四人
と、いうことになっており、男女に分けると、
(男)三十二万三千二百八十五人
(女)十七万八千百十九人
の分類になる。
「小林。この表は、ほんとかな。余りに、男の数が、女に比して、多すぎるじゃないか」
「いや、その表は、市民だけの数だから、大名の家中、お抱え町人、能役者、その他、参覲の各藩邸の者をいれると、どうして、とてもとても、そんな数ではない」
「もっと、男の数が、多くなるわけか」
「もちろん、江戸詰の諸大名の大家族は、ほとんど男ばかりだからな」
「そうかなあ。そんなにまで、江戸の男と女の数が、片ちんばだとはおもわなかった。──なるほど、これでは、女飢饉から、いろいろな犯罪が、のべつ起るのも、むりはないな」
「諸大名の家中は、どうも調べにくいが、少なくみても、参覲交代制で、常時に、二十万人以上は、江戸にいることはたしかだ。それがみんな、妻子は国元だから──それらを計算すると、ざっと、江戸の男と女は、男三倍、女三分の一ぐらいになる」
「ふうむ。しかも、少ない女の目ぼしいところは、大奥やら大名やら金持にもたれて……」
「あははは。朝から変な話になったな」
「だが、お奉行は、そんなことを調べさせて、何をなさろうというおつもりだろう」
「でたらめな市民の風紀を、何とかなさりたいものと、先頃から、御思案して、おられるようだ」
「何ともなるまい。こればかりは」
「うム。いまもいったような、男女の数の均衡が、まったく偏しているのだから、その矛盾の上ではな。……けれど、犯罪の湧くゴミ溜は、ここにあると仰っしゃって、梅毒の流行やら、いろいろな不幸の禍因を、捨ててはおけぬと、考えておられるようだ」
「だが、むずかしかろう」
「うム、これも、至難なお望みだ。──どうも、わがお奉行は、至難なことのみ探しては、御苦労しておられるかたちだ。苦労性というものだろうか」
まだ、早暁なので、役宅の机にも、たれも出仕していない。
ふたりは、顔をあわせると、奉行越前守の身を、心から案じていた。
越前守自身の身にも、ほかにも、山ほどな難問題が、山積しているのに、この上なお、私娼整理などに手をつけ出したら──と、ふたりの眉は、すぐ、その難を思って、越前守の、健康までを、心配した。
これまで、歴代の奉行のうちでも、私娼の整理や、風紀粛正の問題に、手をそめた者がないわけでは決してない。
しかし、それを、やり遂げた奉行は、ひとりもいなかった。
実際──江戸の夜の暗さのように、その頃の、風紀の紊乱というものは、ちょっと、今日からでは、想像もし難い。
舟まんじゅう、蹴ころ、夜たか、比丘尼、山ねこ、呼出、躍り子、白人、脚摘、地獄、蔭間、等々々の名は、みなそれらの闇の花の代名詞だった。
これを、取り締ると。
影は、消える。
けれど、たちまち、琴や小唄の稽古所、しもたやの貸二階、寺院、寺やしき、果ては、旗本の邸内までが、人肉の市になり、弊害は、なおひどく、病毒や犯罪のあり方も、陰性の度を加えるばかりだった。
特に、寺院や旗本やしきに、隠し売女をかくまって、ひそと、労力のない利をむさぼる習慣は、以来、抜けきらないものになって、これが、柳営の大奥とも、いつのまにか、肉欲の地下道をつくり、奉行所の力でも、今では、牢固として、触れ難いものにすらなっていた。
──手をつければ、自己があぶない。
しかし、手をくださなければ、町奉行として、雑草を抜きながら、実は、雑草の根は抜いていないような、おろかなる繰返しを、お役目にやっているだけのものになる。
「お。……はなしに紛れてしまったが、辰は、あの後、何か報らせて来たか」
「いや、何も」
「では、山本左右太からも、なんの、便りなしか」
「ありそうなものだと、心待ちしているのだが……」
勘蔵の心待ちは、共に、義平太の心待ちでもあった。こう二人にとっては、越前守が、寝食をわすれてやっている江戸火消しの創立や、橋梁交通の改善や、風紀問題などの市政改善のことよりも、もっともっと、越前守自身にとっての、致命的な宿題に、ここ一月余りは、身も痩せるような、蔭の苦心をしているのである。
その打開について、越前守も了解のうえで、役所を罷め、奉行所の外にあって、堀留の五人組強盗の巣を探索しているもう一名の刎頸の友──山本左右太の便りこそ、朝に夕に、こう二人が、いわず語らず、待ちぬいているものだった。
差入れ茶屋のお次は、ゆうべ、左右太と船頭の源吉について、堀の茶漬屋へゆき、きょうの午少し前に帰っていたが、
「人に頼んでは、もしやのことが心配になるし、自分が、奉行所の中へ行くわけにはゆかないし……」
と、例の、左右太から頼まれて来た連絡の手紙を、帯のあいだに持って、気が気ではない容子だった。
店の石焼豆腐は、与力部屋や同心部屋へも、折々、出前に入るので、もし註文があったら、自分が、岡持をさげて──などと考えていたが、午もすぎたせいか、店には客がいッぱいだが、役宅からは、お誂えもない。
すると、たそがれ近く──
「お次さん。いるか」
偶然、小林勘蔵が、四、五日前に、かの女の手からよそへ頼んでくれた袷の仕立代を払いに、顔を見せた。
「まあ、そんなもの、よろしいんですのに」
「いや、取ってもらわないと、これから吾儘が頼めないから」
「そうですか。じゃあ、いただいておきますが、家のお店も、奉行所に御用のあるお客さま達のために、こう繁昌しているのですから、せめて、何なりと、御不自由な御用は、遠慮なく、仰っしゃってくださいまし」
そこには、人がいたので、お次は、庭向きの小座敷の方へ、茶を運んで、
「どうぞ、こちらで一ぷく遊ばして」
と、敷きものを、すすめた。
勘蔵も、実は、人なき所で、お次の口から、以後の左右太の動静を知りたくて来たらしく、すすめられるまま、腰かけて、
「ふッさりと、藤が咲いたね。白と紫と……そよ風にうごくたび、いい匂いがする」
かれが独り言をいっているまに、お次は、あたりを見て、帯の間から、小さく折った手紙を、そっと、勘蔵の手のそばへおいた。
勘蔵は、黙って、庭向きに腰かけたまま、眼ばやく、読みくだしていたが、はッと、顔いろも変え、声も落して、
「お次さん。……おまえも行ったのか。堀へ」
「ええ。茶漬屋のおかみさんの口から、すっかり分ったと、左右太さまは、ひどく、武者ぶるいしておりましたが……。何か、そのお手紙にも、よい手がかりがあったと、書いてございましたか」
「うム。端緒は、つかめたらしいが、左右太ひとりで、その先の御隠殿下まで行くとあるのが、気がかりだ」
「どうしてです?」
「そこは、悪党の巣。ヘタをしたら、生命があぶない」
「えっ……左右太さまの、おいのちが」
お次は、唇を白くした。
かの女のまえで、無造作に、左右太の生命が、危ないなどといって、いじらしい恋仲を脅やかしたのを、こころない業とは思ったが、勘蔵の直感は、いつわりなく、
(左右太、危うし)
と、彼の心をも、ただならず、急きたてていた。
「お次さんも、一しょに来るか」
「どこへです」
「牛込の市川楽翁の家……義平太の父のやしきだ。きょうは二人とも、明け方から、役宅へ詰めたので、少し早目に帰ろうと、一緒に役宅を出たが、彼は、思案にあまる相談事もあるから、父の屋敷へまわるといって別れたのだ」
「お邪魔でなければ」
「いや、お次さんこそ、ゆうべに続く今夜、疲れていなければ、来て欲しいが」
「お供いたしましょう。ゆうべも今朝も、舟の中では、たんと居眠りましたから、そんなでもございませぬ」
お次は、店の裏から出た。
その間に、小林勘蔵は、もいちど役宅の同心部屋へ馳けてもどり、夜詰番へ、何かいいのこして、数寄屋橋のたもとへ出て来た。
「人目に立つ。駕籠を拾おう」
お次も乗せて、牛込の柳町へいそがせた。
町医者らしい門造り。刺を通じると、楽翁自身が、式台へ出て来て、
「よ。これや、おめずらしい。さあ……」
と、奥へ招じてゆく。
友達の父なので、小林勘蔵も、かねてから親しくしている間。お次を、ひきあわせ、さて、その事件についてですがと、早速、
「義平太どのも、こちらへ、参っておられるはずですが」
「いや、伜は、しばらく見えんが」
「じゃあ、今夕、まだ見えておられませんか」
「来ることにはなっておるが、まだ見えん。……何か、例の事件について、目鼻がおつきかの」
「明日をも待っておられないので」
「やれ、それはめでたいな」
老人はすでに、南の手で、事件の解決は見たもののように、よろこびぬいた。
そこで、夕飯の馳走になっていると、息せいて、額に、汗をにじませた市川義平太が、あらあらと、入って来て、
「やあ、来ておられたか。こっちから、訪ねようかと思っていたのだ。おお、お次さんも」
共に、膳へついたものの、義平太は、いつになく、酒もひかえ、早飯に喰べ終って、
「実は、きのうも立ち寄ったばかりだから、ムダとは思ったが、ふと、気になって、目明しの辰の家をのぞいてみたところが、──彼から、沙汰が来ていた」
「えっ、辰の方にも、何か、手がかりがあったのか」
「辰三が下に使っている半次というのが、ちょうど、おれのいる時にすッとんで来て、たいへんだというのだ」
「えっ、大変とは」
「左右太の一命が、今夜中にも、あるかないか、知れないという報らせだ。……何しろ、こんどのことは、一切、役宅へは、表立って、連絡に来るなといってあったものだから、辰三も弱ったらしい。──どこへこの急を知らせようかと」
「むりもない。しかし、お次さんの手から報らせをうけたのも今だし、辰の方から聞くのもたッた今だ。何を、どうする遑もありはしない」
「急転直下というやつだ。何しろ、左右太が若い。手がかりをつかむやいなや、待ちも、準備もしていられないで、直ちに、ただ一人で、敵地へ踏みこんで行ったらしい」
まず、義平太から、半次のもたらした知らせを、語った。
目明しの辰三は、その長い経験と、老練でしかも、実直なところを、二人に見こまれて、こんどの事件と、裏面の秘事も、のこらず打ち明けられていた。
──辰が、頼まれた役は、左右太の身に、万一がないように、つねに左右太の出入りを、見守っていてくれということだった。
大きな事件、あるいは、悪の仲間へ、挑戦を示すときは、必ずその者へ、怖ろしい毒手、迫害、あらゆる魔の手が、伸びてくるものだ。
二人の友情は、左右太のために、その危険を、何よりも、案じたのである。
だから、昨夜の左右太の舟にも、辰と半次との乗ったもう一艘の小舟が、たえず守るように、あとから漕いでいたわけだった。
辰は、左右太の知ったことを、同時に、すべて知った。左右太が、堀の茶漬屋から、根岸の御隠殿下へいそがせたことも。──そしてまた、そこの寺やしきの門を出た二つの絵日傘を尾けて行った左右太が、アッというまに、鶯橋のうえで、ふいに、うしろから締めつけた三名の兇漢のために、息の根を止められたように引きずられてゆき……そのまま寺屋敷の一軒のうちへ、吸いこまれるように隠れてしまった瞬間の出来事までを──辰は眼に見ていたのである。
──なぜ、助けなかったか。
を、連絡の半次になじってみても、むりであった。
相手は、腕力の強そうな浪人ばかり三名だったというし、しかも、側にいたわけではないし、アッというまに、事はすんでしまっていたという。
今夜中にも、左右太の一命が危ういという事態は、一刻も、ふたりをそこに落着かせなかった。
すでに、魔の全貌は、あきらかにされた。
義平太と、勘蔵とは、すぐ手入れの諜しあわせを遂げた。
もう、夜だったが、半次は指令をうけて、奉行所へ、飛んで行った。
二人は、身仕度をそろえて、十手をたばさみ、
「お次さんも、左右太の身が心配で、帰るにも帰れまい。ひょっとしたら、行った先で、ひと役、頼むことがあるかもしれない。怪我はさせないから、一緒に来たがいい」
勘蔵は、楽翁へも、
「お騒がせしましたが、これでまず、堀留の一件は、南の手で揚げてしまう確信ができました。いずれまた」
と、そこそこに辞して、お次と共に、玄関へ立ちかけた。
つねに、北町奉行との競争心にもえ、南びいきに、躍起となる市川楽翁が、なぜか、二人の門出にも、浮かぬ顔して、
「せがれ。ちょっと待て」
と、義平太を、よび返した。
「なにか、御用ですか」
「どうも、わしには、不安がある。──勘蔵どのを待たせてすまぬが、ちょっと、そちだけでも、別室へ顔をかせ」
「お易いことです」
義平太は、一間にはいって、坐るとすぐ、怖い父の顔を、真ん前に見た。
「これっ、伜。……不心得いたすなよ」
「何がですか。何が、不心得で」
「いやさ、功に逸って、二人とも、うかつなことをいたすなというのだ」
「どうも、お父上のことばが、腑に落ちませんが」
「じゃあ、いうが、貴様たちは、越前守様を、犠牲にしても、五人組の賊を揚げる気かの」
「心得ぬことを仰っしゃいます。山本左右太も、小林勘蔵も、またかくいう義平太も、三友、血をすすりあって、大岡越前守様のお身を、何とかして、守りぬきたい一心でいるのです。お父上のおことばは、心外です」
義平太は涙をうかべて、語気を昂めた。
老齢の父親も、涙によわく、子の眼を見ると、すぐ自分の瞼も、赤くした。
しかし、頑固に、首を振ッて、
「それでは、そち達の誠意と、やっていることとが、矛盾しはせぬか。……最前からのはなしを聞いておると、賊の五人組のうち、女ふたりは、越前守様がお若い頃に犯した過ちの──悪縁をもつ母子ではないか」
「きょうまで、お父上にすら、秘くしておりましたが、まったく、その母子は、越前守様が、放埒の時代に、ふと契った女性と、その女とのあいだに生した御実子なのでございます」
「め、め、めッ相もない……」と、楽翁は、わが子の口から聞くのすら、身ぶるいして、世間の耳をおそれた。
そして、土のような顔色に、吐息をたたえて──
「伜よ。おそろしい事だぞ。ほかのお役儀ならば、まだ知らぬこと、人を裁く、大岡どのが、何ぞはからん、自身にそんな過去をもっていたと知れたら……世間の者の怒りはどうじゃ。お上のお咎めはもちろんじゃが、わしは、裁かれる人々の怒りが恐い。──止めい、止めい。この事件に手をつけることは、断じて、止めたがいい」
「では、北町奉行の者の手へ、あずけますか」
「ば、ばかを、申せっ。そんな、卑劣なわしではない。この楽翁とても、大岡どのの、得難い町奉行であることは、たれよりも存じておる。──かつての歴代の町奉行にはなし能わぬ市政や旧弊改革も、あの御仁は、やると信念しておられる。……だから、惜しいのだ」
楽翁も、息子におとらず、耳をあかくして、ことばも熱していた。
「たまたま、出ずべきときに出た得難い名奉行を、可惜、お若いときの一過失のため、むざんな敗北者として、地位を退かせ、さらにまた、世相の悪を、手を拱いて見ておるのは、かなしむべき良民のなげきだ。──五代綱吉公の代から、十数年ものあいだ、犬の下にもおかれて、やっと、吉宗公の御代替りを見……やれやれと長雨の雲の切れ間を見たように、ほっとしかけた今においてじゃ。どうあっても、大岡どのの如き人物を、腐った古池のような吏事の中に、生かしておかねばならん。存分に、働いていただかねばならん」
「だ、だからですよ! 父上──」と、義平太は、のり出して、確乎と、父の手をにぎりしめ、
「われわれ、若い市吏どもが、久しく渇望していたお奉行を、この人こそと、越前守様の人間に見たのです。……だから、自分たちの若い力では出来難いことを、越前守様に、やりとげていただかねばなりません。その同じ気持から、左右太、勘蔵、義平太の三名は、かたい約束をむすび、志のうえにおいて、義の兄弟ともなったのです。お父上、御安心ください」
「けれど、もし、そちたちの手で、事件の一味を縛め捕ったら、これや当然、越前守さまの過去が、白日に出ることになる。……そんな馬鹿をやってどうする」
「では、お父上のお考えは」
「知れたことじゃ。汝等、浪人して、賊の五名を、斬ッちまえ! どうせ、白洲となっても、獄門と極まっておる奴らではないか」
「だめです。その策は」
「なぜじゃ」
「その考えは、初めに、私たち若者が、すぐ思いついたことですが、越前守様には、断じて、おゆるしになりません」
「なに、大岡どのが、ゆるさぬ。──では、大岡どのは、そんな死罪の賊のいのちと、自身の大事な身とを、取り替える気でおられるのか」
「そう単純なお考えでもありません。──越前守さまのお覚悟は、御自身も、裁かれることを、望んでおられ、いかに遠い過去の過ちでも、自分のなした罪にたいし、苦しむだけ苦しもうと、敢て、天の処罰を、身に待っておられまする」
「じゃあ、折角の、お奉行の職も、退かねばならぬではないか。大岡どのの、御謙虚はわかるが、自身の使命の大を、自覚しておいでにならぬ。残念じゃ。わしが、御意見申して、さような小乗的なお考えはひるがえしてもらおう」
「そうは参りませぬ。あのお方が、ひとたび、こうと思い極めたこと、決して、うごくものではございませぬ」
いわれてみれば、楽翁にも、自信はない。
「しからば、そち達は一体、この難問題を、どうして、越前守様のお身にも、つつがなきよう、始末いたす考えか」
「何の、考えも、ありませぬ」
「思案なしか⁈」
「ただ、越前守様の御意志のままに、誠意をつくして、やるだけです。──決して、私心に眩むなよとは、平常もですが、このことについても、固く申し渡されたことでした。……ですから、もし越前守様の御面目上、御切腹とあれば、まことに不孝の罪をかさねますが、私も、また小林勘蔵も、山本左右太も、座をならべて、自刃いたすつもりです」
「よろしいっ」
楽翁は、もう反対しなかった。非常に大きな眼と、おもわず出た声とに、かれも覚悟をこめて、いい渡した。
「それ程まで、公明に、自己の裁きも、天の処罰もというなら、大いにやれ。止めはせん……わしとて、止めはせん、はやく行け」
「では、心急きます故」
義平太は、立って、ふすまから廊下へ出た。そして、そこに佇んで、心を打たれていた友の小林勘蔵と、はっと顔をあわせ、おたがいの熱涙を、睫毛に相見て、濡れた手をかたく、にぎり合った。
──ふと、気がついてみると、自分は、荒縄で鞠のように縛られている。
陰湿なにおいにみち、あたりは、まッ暗だ。
どこかの床下にちがいない。
左右太は、何を考えるよりも先に、無意識に、すぐ立ちかけた。けれど当然、床板の裏か何かに、ゴツンと、頭をぶつけて、また腰をついてしまった。
「……あっ」と、眼まいをおぼえて、左右太はふたたび、気が遠くなりかけた。だが、そのときすぐ、かれの頭の上で、人声が聞えたのである。
「おや。へんな物音がしたぜ。ごとん──と」
「なあに、野郎が、正気づいて、もがき出したのにちげえねえ」
「そうか。うっかり、忘れていたが、逃げやしめえな」
「大丈夫、がんじ絡めに、土台柱へ、くくり付けてある」
室内の声は、三、四人らしく聞える。──左右太にはみな聞き覚えのない声ばかりだ。
「どこだろう? ……ここは」
ようやく、左右太は、前後の記憶を、辿りはじめた。
お袖とお燕とが連れ立って、寺屋敷の門から出てゆくのを尾けて──鶯谷の橋の上までさしかかったとき──その刹那からの記憶がプツンと断れていた。
「そうだ。あのとき、ふいに、何者かが、自分のうしろから組みついて、いきなり喉ぶえを締めつけて来た。──たしか、相手は、三人ほどと覚えたが、不覚にも、そのまま自分は、昏倒したものとみえる」
──それから、どこへ運ばれて来たか。その間の径路は、まったく思い出せないのである。
しかし、山本左右太は、案外、うろたえもせず、絶望的な容子もない。
かれは、かりに自分の生命が、これきり終るとしても、もう使命の大半は果たしているという──安心と見とおしを抱いていた。
堀の茶漬屋で、船頭の源吉とお次に別れるとき、お次の手へ、
(これを奉行所の市川義平太か、小林勘蔵に、渡すように)
と托しておいた走り書の一通が、いまとなってみれば、天祐だった。外部との唯一の連絡となり、光明ともなっている。
あの一通には、堀の茶漬屋で探り得た──事件の伏在人物や、径路や、また、自分が単身で、化物刑部たちの巣へ、これから行くことも認めておいた。
「来る! いまに義平太か、勘蔵かが、きっと手配して、やって来る」
彼は、信念して、眼をとじた。今になって、体じゅうの痛みが知覚されてくる。夜か昼か、何刻かもわからない。──が、鶯橋の上から、そう長い時間が、過ぎたとは考えられない。
遠くもない鐘の音が聞えた、寛永寺の鐘だ。とすれば、ここはやはり上野に近い御隠殿あたりだろう。あの化物刑部の寺屋敷か。そうだ、そんな気がされる……。
その、時の鐘を、何度か聞いた。やがて、暮れ六ツが、かぞえられた。
「旦那……。山本の旦那」
ひくい声が、どこかで呼ぶ。肚をすえて、居眠っていた山本左右太は、夢か、と疑うように、見まわした。
「旦那……。辰です、辰三ですよ。わかりますか」
聞きとれないような小声だが、たしかに、床上の声ではない。左右太は、闇に馴れたひとみを、一方へこらした。
蟇のように、腹這いになった人影が、もうひとつ先の土台柱の下に屈まッている。南の同心部屋から目明し部屋を通じても、いちばん古顔といわれる目明しの辰──その辰三にちがいなかった。
「おっ。辰か」
「しッ……」と、辰は手を振った、そして、しきりに、手招ぎしている。
地つづきの同じ床下ではあるが、よく見ると、左右太のいる所は、太い木材を横に廻し、桝形に区切られていて、内から出ることも、外から近づくことも、出来ないようになっていた。
──ギイ、ギイ、ギイ……と、ゆるい低い、異様な音がすぐし初めた。
辰の手もとで、鋸の歯がうごめいている。
床上の室内で、何か、わずかな物音がしても、辰はすぐ鋸の手を止めた。──耳をすまし、眼をくばり──そしてまた、忍びやかに、ギイ、ギイ、と挽き初めた。
十数軒もある寺侍の屋敷町のうちの一軒だが、その一軒も、なかなか広い。
すべてが、寛永寺の輪王寺宮に附属し、宮家をかさに、特権をもっている。
日が暮れると、あっちの門には、密会の男女がかくれ、こっちの門には、博徒や悪旗本が、公然と入って行く。
中には、隠し売女をおき、板前をもち、あやしげな小唄や、三味の水調子が、植えこみの奥から洩れてくるのもある。
だから、輪王寺の寺侍の株は、ふつうの御家人株の売買よりも、はるかに高値い。また、滅多に、売り物は出ない。
化物刑部と、その一類の者は、もうここに住んでから、久しい年月になるが、株に資本を出しておいたお蔭はあって、きょうまで、この悪の古巣に、不安を覚えたことはなかった。
──ところが、今朝。
お袖とお燕が、堺町の歌舞伎見物にゆくというので、大亀や阿能十や赤螺三平などで、あとを見送っていると、物蔭から、異様な敏捷さで、二つの絵日傘を尾けて行ったものがある。
三人は、すぐ、覚った。
悪の直感だ。──鶯橋の上で、その男を、取ッ締めた。そして、非常な迅さで、寺屋敷へかつぎこみ、
(たしかに、こいつは、北か南の、同心か与力にちげえねえ)
と見極めて、さんざん、足蹴や棒切れのノシをくれて、室内の畳を上げ、床下の生け洲とかれらが呼んでいる桝の中へ、抛りこんでおいたのである。
「親分。なぜ野郎を、ひと思いに、たたっ殺しちゃいけねえんですか」
赤螺三平は、不平面だった。阿能十や、大亀よりも、かれは残忍性につよく、殺人癖をもっていた。
「ばかあいえ」
刑部は、坊主枕へ、脇息がわりの肱を支えて、万年寝床に、あぐらを組んでいた。
「生かしておけば、何かの、懸け引にはなろう。殺そうと思えば、今でも殺せる」
大亀は、今朝からしきりに、動揺していた。もうここにいるのが、不安でならない顔つきなのだ。
「どうも、堀留以来、すこしここの古巣も、安心できなくなった。親分……」
「なんだ、亀」
「もう江戸もよい程に見限りをつけて、いつも親分が、時節が来たらと、口ぐせにいっている西国の何とか島へ、もうそろそろ落ちて行こうじゃありませんか」
「うム、今年ゃあ、行こう。だが、もすこし、持病の喘息が快くならねえことには、おれの体がうごけねえ」
「いったい、その島っていうなあ、どこなんです」
「そいつあ、たれにも、口外できない仲間の約束になっている。彼方へ行くまで、勘弁しねえ」
「いつも、そういうから、訊かずにいるんだが、仲間掟と仰っしゃって、いったい、ここにいる三人などは、仲間内には入らねえわけなんですか」
「島の仲間というのは、密貿易だけの仲間をいうんだ。悪くとるなよ。あの仲間の頭領というのは、ケチな江戸や浪華を稼ぎ場としているのとはちがって、ちっとケタちがいの大物だ」
「なるほどね。それじゃこちとらは、陪臣の又家来ぐらいなとこなんで」
「まあ、そんなわけだろう。だが、将軍家が代替りもせずに、もうすこし、犬公方綱吉の、人間失格時代と、おめでたい自滅世相の代がつづけば、おめえたちにも、一役買わせて、もっともっと、おもしろい時世を見せてやれたんだが……惜しいことに、馬鹿将軍が死んでしまい、今の、八代吉宗になっちまったので、その方は、もう見込みがねえ」
「その方っていうと」
阿能十蔵は、かねてからうすうすそれに多分な興味をいだいていたらしく、この時と、突ッこんで、刑部にたずねた。
「いまだから、いってしまうが……」と、刑部は、もちまえの咳を、痰と共に、鼻紙につつんでから、こう話した。
元禄の半頃から、西国方面の密貿易仲間は、急激に、数と力を加え、莫大な利をしめて、巨財をもつと共に、外国製の武器、火薬なども、ひそかに、諸所の島へ貯え出した。
利に飽くと、人間は、名と地位である。国禁の密貿易では、白昼、晴れて金費いもできず、祇園、島原で大尽遊びも、すぐ足がつく。
犬公方の悪政の下で、天下、不平の声にみちている。世相はくさり、道義は乱脈だ。いまなら、やれるぞ──と、類をもって集まる浪人どもやら、西国大名の野心家の家臣なども気脈を通じて、ここにいつか、もっともらしい幕府顛覆の盟約書などが、起草されていた。
刑部は、江戸表における、一謀員だった。
かれの任務は、時節のくるまで、世相を不安と頽廃とに、能うかぎり、腐え爛らせてしまうことにある。
家は、旗本だったが、すぐに廃家を命ぜられ、家財は飲みつぶし、およそ旗本悪のうちの典型であった彼には、ひと山、これに張りこむには、もって来いの、壮挙だった。
「……というわけさ。ひと頃は、おれもひそかに、一城一国を、夢みたが、自堕落のたたりで、世が腐るより先に、こっちの体が、喘息病みの、万年床に臥す身となってしまった。悪の生涯も、やって通って来てみれやあ、あぶくみたいな儚さだ。こんなことなら、達者のうちに、魂を入れかえて、善人になっておいた方が、まだ、往生際が楽だったのにと、後悔もされる。──人間、病んじまっちゃあ、金も色気も、あったものじゃねえ。おれも、あの世のお迎えが、遠くねえとみえるよ」
かつて、おくびにも吐かなかった過去の秘密をいってしまったせいか、刑部にしては、めずらしくも、ふと、あわれな人間的述懐をもらした。
「ええ、縁起でもねえ」
「鶴亀鶴亀。──つまらねえことを、親分ほどな悪党が」
と、三人は、手を振りあったが、悪党性の深い者ほど、実は、たえ間なき死に際のおもいに憑かれ、折あれば、あわれな人間本来の本音を聞いてもらいたいのであった。
「いやに今日は、湿ッぽく暮れてしまったぜ。景気直しに、一杯やろう」
たれか、出て行って、てん屋物を誂え、燈火をつけると、刑部の枕元で、酌み交わした。
酒をふくむと、すぐ咳になるので、刑部は、杯も、手にふれない。なんのために、生涯、日蔭におくり、自らの魔夢にうなされ、こんな万年床の主になって終るのかと──刑部はまたも、ぐちになる。
「親分も、やきが廻った。どうかしたぜ」
「あいにくと、お袖さんは、側にいねえし」
「いれやあ、また、悪たれをいわれるさ。以前のお袖さんたアちがって、二十歳ごろの毎日の泣き暮らしを、今じゃ、病人の親分が、なしくずしに、かたきを取られているようなもんだ」
「それにしても、お燕さんも、晩いじゃねえか」
「なんの、堺町の芝居見だもの、まだまだ二番狂言という頃、駕籠で帰っても、この根岸までじゃ、夜半近くにもなる」
「何か、みやげがあるだろう。それまで、飲んでいるとするか。……親分も、どうです。お一杯」
「だ……だめだ」
刑部は、力なく手を振って、その手が、間にあわないように、また咳を抑えた。
そのとき、何を感じたか、大亀が、
「あっ、変だぞ」
杯を、落して、ふいに突ッ立った。
気永に、半刻もかけて、辰三は、横の角材を、鋸で二ヵ所も切った。
這いよるやいな、脇差で、山本左右太の縄目を切りはらい、その脇差を手に持たせて、
「さ……。はやく、そっと」
掻い抱くようにして、左右太のからだと一緒に、切り破った床下の生け洲から出ようとした。
するとその時、外の明るい星明りに、誰か、二本の足だけの影が見えた。
はッと、身を返したその肩が、ひとつの土台柱へぶつかると、自分でも、驚くような音がした。
「しまったっ」と、辰三はとたんに、頭上の光へさけんでしまった。ふいに、畳一枚分の床板が、上から取り除かれたのである。
阿能十、三平、大亀と、三つの顔が、一しょに覗いた。
「野郎っ」
なぐり落しに、三本の刀が、四角な闇の穴を、乱打した。──が、左右太も辰も、白い切ッ先の雨を、からくも避けて、咄嗟の進退を、考えた。
二人にとっての、この瞬間は、まさに絶体絶命に思われた。なぜならば、さきに見た外の脚だけの人影は、いつか五人となり十人となり、さらに数を増して、この床下へ、包囲形に、這いすすんで来たのであった。
──だが、辰三は、それらの黒い影が、這いつつ来る各〻の手に、白い短い光り物を携えているのを知って、
「おお、半次か」
と、ひとりへ呼んだ。
答えはないが、彼の声を知ると、無数の影は、一せいにそこの桝土台を破って、光の下に集まり、猛然と、御用御用の声を、叫びかけた。
室内では、それにも勝る物音が起きた。
「三平っ、三平。床板を、その畳を、早く圧ッ伏せろ。床口を、閉めてからにしろっ」
刑部の喚きにちがいない。彼も、寝床を蹴って、猛然と、大刀をひき抜いた。
だが、赤螺三平が、そこへ戻って、床口をふさぐ遑もなく、すでに三人、五人、十人と、躍り上がッた同心と捕手は、そこらの部屋に、充満していた。
ふすまの倒れる音。格闘する屋鳴り。
どどどどっ──と、刑部は縁に馳け出して、
「うぬらっ」
もの凄い眼光を、追いしたう捕手たちに、かッと投げた。
化物と、異名のあるかれが、最期と知って、怒った顔は、近づき得ないものだった。
「それっ、巨魁を、のがすな」
同心のひとりは、体あたりに、十手を躍らせた。刑部が牙をかみ鳴らした声と共に、初めてそこに、血の犠牲を見、同心のからだは、宙へ、かかとを上げて、庭さきへころげ落ちた。
ばりばりッという物音は、逃げ足の早かった大亀が、台所部屋の竹窓を破って、遮二無二、逃げ出そうとしているものだった。
「こいつ」
跳びかかった二人の捕手が、かれの両足を引ッ張った。大亀は、畳の上に、もんどり打って、仰向けになり、足業をつくして刎ね起きると、必死の勢いで、勝手の雨戸を、体で突き破った。
「おっ、阿能っ」
「亀か。だめだぞ、こっちも」
「えっ、潜り戸は」
「外にも、いっぱいな捕手の群れと、御用提灯だ」
「じゃあ、裏門か、隣へ、塀越しに」
「そこも、捕手だ。大亀、無念ながら、年貢の納め時が来たようだ」
「なんの、おれは、死ぬのはいやだ。──おお、あの御用提灯は、南町奉行所のものじゃあねえか。南のなら、おれは助かる。おれは、大岡市十郎の──いや大岡越前守の従兄にあたる者だ。そうだ、おれは越前守の従兄、亀次郎だぞ。召捕ってみろ、町奉行越前の旧悪も、白洲でしゃべりたててやるから」
かれは、うわ言のように、罵り罵り逃げまわっていたが、
「その亀次郎、御用」
と、隣家へ塀越しに逃げようとしたところを、小林勘蔵の手で、組み捕られた。
かれは、まだ吠えた。
「越前守に会わせろっ。──越前守に、いい分があるんだぞ。さ、曳くならどこへでも曳いてゆけ」
一方、赤螺三平も、裏の井戸端で、包囲され、ついに、縄にかかった。
阿能は見つからない。
「納屋か。床下か。……おお屋根を見ろ」
捕手たちが、あなた此方、視索を乱しあっていたとき、屋内の一室から、赤い火光がぱっと映した。
「巨魁だ」
「刑部っ」
それを、求めていた市川義平太が、馳け上って、すでに、火となっている障子際に近づくと、
「寄るな、馬鹿野郎」
さすが、大悪である、自ら火を放って、立ち腹を切りかけていた。
赤不動の怒相を見るような、かれの一瞬の顔は、正視もできないものだったが、義平太は、火をくぐって、敢然、その悪像へ、組みついて行った。
──だが、縛げてみると、刑部は、舌を噛んでいた。
「駕籠屋さん、火事じゃないかえ。空が、赤いが」
「ほんとに、火事のようですぜ」
「どこ?」
「さあ」
「ちょっと、駕籠から降ろしておくれ」
鶯橋の崖坂を下に見て、ちょうどその頃、二挺の駕籠が、女の客をふたり、降ろしていた。
お袖とお燕であった。堺町の歌舞伎飴のみやげを持って、星と火との、散りまじる夜空を仰いで、しばらく、何か考えていた。
「駕籠屋さん。御苦労さん、ここでいいのよ……」
お燕と一緒に、坂を下って、鶯谷の橋袂まで来ると、かの女の六感は、何かをもう覚ったらしく、
「お燕、いけないよ」
急に、もとの上野の裏山の方へ、走りかけた。
「──待てっ」
するどい声が、あとを追った。しかし、あたりの山木立は、彼女たち二つの影を、すぐ何事もないようにどこかへ隠した。
寛永寺の森だった。暗さと、下草の茂りに、ふたりは幾たびも、夜露に転んだ。
夜風が捕手の声をなすのか、捕手の声が夜風をなすのか、恐怖に吹かれ、不安に狩りたてられ、逃げても逃げても、すぐうしろに、何かが迫っている気がした。
「お燕っ。どうしたの。こっちだよ。お燕──」
「おっ母さん。待ってえっ。……何かが、袂にからみ付いてしまッて」
性の善もない悪もない。この場合、このふたりには、ただ母と子の本能があるだけだった。
お袖は駈けもどって、茨にからまれたお燕の袂を、無性に引ッ張った。袂の八ツ口はやぶれた。おそらく、お袖の手の皮膚もやぶれて血に染まったろう。しかし、なんの痛さもおぼえない。
「しッかりおし。大丈夫かえ」
「おっ母さん、いったい、どうしたんでしょう、今夜の騒ぎは」
「まだ分らないのかえ。御隠殿下へ、手が廻ったにちがいないのさ。もうわたし達も、覚悟をしなけれやならないんだよ」
「そしてこれから、どこへ逃げてゆくつもり」
「さあ? ……」
お袖は、途方にくれた顔いろを、お燕に見せまいとするように、くちびるを噛みしめた。
「なあに、心配おしでない。大内不伝様は輪王寺の宮の御家来だから、その不伝様に頼んで、別院のどこかへ匿ってもらえば、町奉行でも寺社奉行でも、手を入れることはできやしない。──不伝様は日頃から、おまえが好きで、内々わたしにも話をもちかけているくらいだから、きっとひきうけて下さるだろう。……そうだ、おまえ、どこかそこらで待っておいで。すぐ戻って来るからね」
上野は東叡山三十六坊といわれている。ふかい木々と夜霧のあなたに、中堂の廻廊の灯や、文珠堂の欄などがかすかに見える。
「いいかえお燕。わたしが来るまで、そこを動いてはいけないよ。捕手に勘づかれないように、もっと、木蔭に身を寄せて──」
お袖は、何度も振り向きながら、やがて中堂の裏門の方へ走っていた。
ここは幕府の祈願所であり、輪王寺の宮が座主としている格式から、すべて別格扱いになっている。お袖の思いついた通り、一歩でも寺内にはいってしまえば、町奉行の十手も、寺社奉行の関与も及ぶところではない。
「うまく承知してくれるかしら? ……おっ母さんは思い込んで行ったけれど」
あとに、お燕はひとりで、気をもむだけだった。──どうぞ、お慈悲で、と身の科をわすれて、神仏に祈る気もちがわいた。
けれどまた、お燕の胸のどこかでは、
「もし、不伝さんに助けられるのだったら……?」
と、助けられたくないような気もしていた。次の難儀、次の悩みが、すぐ想像され、それは、十手に追われる今よりも、もっと辛いものに考えられた。
寛永寺の僧や寺侍のうちには、不伝ばかりでなく、知った者は幾人もいる。かれらもまた、近頃の寺侍に劣らない自堕落な裏面を内部にもっているので、御隠殿下の一群の寺侍町では、お袖母子とも、ほかの仲間とも、よく遊び場所で顔をあわせていた。
大内不伝は別院執事の次席で、一山でも顔のきく男だし、母のお袖には、日頃、親しみを示しているが、お燕は虫がすかなかった。その不伝に、救われたら、どうなるだろう。考えるまでもないことだった。
「ああ、死にたい!」
ほんとに、かの女はそう思った。捕手も恐いし、救われるのも怖ろしい。何たる宿命の生れかと、そのときふと、かの女は、世間なみの感傷的な一処女になって、独り、顔じゅうを涙にぬらして、佇んでいた。
ひそかに、実に細心に。さっきから彼女たちの後を尾け、そして徐々と、うしろへ這いよっていた黒い人影があった。
お袖も気がつかず、お燕もなお知らずにいた。
ふいに、お燕が、悲鳴に似た驚きをあげたとき、男の黒い影は、
「捕ッたっ」
と、おどりかかって、もがき闘う美しい鳥を、羽交い締めにしながら、
「もう、もう、遁しはせん。御用じゃ。御用じゃぞ、お燕」
と、必死の息をはずませた。けれど、妙なことには、その声も、捕手らしくない低声だし、組みついている体力にも、どこか脆いところがあった。
それに反して、いざとなると、お燕はただの処女ではない。生れながら悪と野性の中に育てられた敏捷と不敵をもっている。
「ちいッ、おまえたちに捕まって、たまるものか」
凄艶な死力の手は、脆いあいての捕方を、振りほどいた。また組みつくのを、突きとばした。けれど、仆れ、仆れ、何度仆されても、黒い人間は、かの女の裾か、袂か、帯か、どこかをつかんでいて、離さなかった。
「あッ。おっ母さん──っ」
やはり処女は処女。かの女はついに、叫んでしまった。何かに、つまずいて仆れた途端に。
だが、その声は、思わず敵をよんでしまった。ざざざッと、すぐ馳けよって来た者を見ると、これは明らかな奉行所与力だ。手に「南」の提灯をかざしている。
「やっ。あなたは?」
「おッ。おまえか。早く、手伝え」
お燕を、上から抑えつけて、持て余していた黒ふく面の老人は、喘ぎ喘ぎ急きたてた。
市川義平太は、すぐお燕を搦めてしまった。
起き上がった黒ふく面の老人は、命じるようにいった。
「せがれ。うるさいから、ついでに、猿ぐつわをかけてしまえ」
義平太は、さらにお燕の顔の半分を、布でしばった。
そして初めて、驚きを、驚きとして、表情した。
「意外です。父上が御出馬とは、実に意外だ。まッたく、思いもかけぬことで──」
「さもあろう」
と、楽翁自身すら、医者として、また、この老年を、よくやって来たものと、自分を疑っているように、
「ま。わしの心や、今夜の仔細は、あとで話すことにしよう。……何よりは、そち達の向った、御隠殿下の方の捕物は、どうじゃった。うまく行ったか」
「首魁の化物刑部めは、火を放って、自殺をとげました」
「そいつは惜しいな。して、ほかの賊徒は」
「赤螺三平も、大亀も召捕りました。阿能十蔵は、その場から逃げ出し、鶯橋から下の谷へ飛びこみましたが、追ッつけ、これも搦めて参りましょう。次々と、それらを差立てました故、あとは、ふたりの女賊のみと、われわれひとつ心の者だけが残って、辺りを張りこんでおりましたのに、老体の父上に、功を先んじられようとは」
「いや、わしは与力でも同心でもないからな。わしの召捕った者は、奉行所へはやらんぞ」
「それは困ります。父上、違法になりますぞ」
「なってもいい。そちも、奉行所与力として、今度の事に身命を賭しているなら、わしも越前守様の個人の知己として、こよいは一身を賭して参ったことだ。お燕は渡さぬ」
楽翁は、深く思うところがあってか、頑として肯かないのみでなく、急にどこかへ馳け出して行ったと思うと、彼方にあたって、おういっと呼び、おういっ──と答えあう声がした。
やがて、二挺の町駕籠が、森の木蔭へ寄せられた。
見ると、牛込柳町の駕籠寅の主と若い者。楽翁の家のすぐ近所で、つねに楽翁を先生先生と慕っており、楽翁も病人というと、何はおいても、すぐ馳けつけて診てやっている仲だった。
「おい、かご寅。この若い女の方をな、先に乗せて、一足先に、わしの申しつけた所まで、急がせてくれい」
「へい、承知しました。おや、義平太様もこれにおいでで……。今夜は、お手柄なことでございましたな」
「これこれ寅。よけいなことをいわんでもいい。早くせい、早く。……そして、その方ばかりでなく、若い者達にも、くれぐれ口外いたすな、と口どめを固く……よいか、頼むぞ」
「御念には及びません。先生が生涯かけてのお頼みというんで、若い奴らも、欲得なしに、一肌脱いでいる意気ですからね」
その間に、お燕は駕籠へ移され、かご寅もそれに尾いて、先に急いで行ってしまった。
「義平太」
「はっ……」
「何をぼんやり見送っておるのだ」
「父上。いったい、あなたはお燕の身を、どこへ差立てられたのです」
「まあよい。わしにまかせておけ。──悪いようにはせん」
「ですが、てまえも、十手を帯びている身です。このままには」
「たれが、そちの十手を辱しめたか。わしは大処から考えてしておること。そちは、職分のてまえ、眼前の苦情をいうとるのじゃ。しかし将来になってみれば、そちの誠意も、わしの苦慮も、同じだったことが分ろう」
いいながら、楽翁もすぐ駕籠のうちへ、身をかくした。そして、駕籠の中から、赤坂へやれ、といったような声を、義平太は耳にした。
「赤坂へ?」──義平太は小首をかしげ「はてな? ……」と、いよいよいぶかった。越前守のやしきへ父が急いだとすれば、なおさらわからないことになる。
けれど、義平太は、父を信じる。単なる子としてでなく、正しい人間としての楽翁を信じる。互に心をゆるし合っている越前守のために、事件以来、いかに憂い、いかに心をくだいていたか。それは一与力の職を固執すれば足る自分などよりは、はるかに深い深いものがあるかもしれない。
腕拱いて、立ちすくみに、独り考えこんでいた彼の肩に、パラと、大樹の夜つゆが冷たく降った。はっと、われに返って、襟すじを撫でながら、
「そうだ。同僚たちも、何しておるかと、案じていよう。ともあれ今夜は、奉行所へひきあげよう」
思い返して、一方の小道へ、歩み出したときである。
がさっと、闇が揺れた。木の間の暗がりを、白い顔が、泳ぐように、逃げ去って行く。
「あっ、女?」
お袖だ。お袖にちがいない。義平太は身ぶるいに衝き上げられた。与力という使命感。十手を持つ身。御用っと、無意識のうちに叫んでいた。そしてのめるが如くその影を追ったものの──かれはしどろに迷いみだれた──搦めたものか、見遁したものか、いずれが是、いずれが非か、と。
お袖と越前守。
こうふたりの関係が、公となったとき、果たして、越前守の地位が、なお不動であり得るだろうか、世上の非難にたいしてどういい解くか。また、それがふたたび、越前守個人の生涯を禍いせずにいるだろうか。
(──何事に当ろうと、私心に負くるな。そちたちは公吏である。越前守一個の家臣ではない、公臣なのだ)
こんどの事が起ってから、越前守は町奉行として、自分たちへ、いい断っている。そうした言葉を吐くときの、語気や眉に接しただけでも、越前守の決意はよく分っている。
けれど今、目前に、その女性の影を見たとき──そして捕縄に手をふれた刹那には、さすがに、義平太も、惑わずにいられなかった。しかも、惑い、悩みながらも、彼はなお逃げる影を、追ッて追ッて追いやまなかった。
白い光が──それは十手にちがいない──あわや、魚のように、お袖の後ろへ跳びかかった。
捕えた、と慥に見えたときは、彼自身も、捕ったと思いこんだであろう。ところが、二つの影の折れ重なっているそばへ、ふいに、物蔭から駈け寄った人影が、義平太の横から彼を突きとばした。
義平太は、勢いよくよろめいて行ったが、反転して、その人間をふり向いた。
「こらッ、思いちがいするな。拙者は奉行所の者だ、奉行所の者だっ」
「わかっておる。奉行所役人が、何とした」
「やっ。承知しながら、邪魔いたすかっ。──あっ、逃がしては」
義平太が、また、お袖へ向って、躍りかけるのを、
「ここを何処と思う。寛永寺の境内であるぞ。輪王寺の宮のおそば近くへ、不浄役人が十手をたずさえて立ち入るなどは、以てのほかだ。奉行以下、馘を承知でやって来たか」
寺侍らしいその男は、傲然と、壁のように遮った。
義平太は、かっと、ひとみを燃やして、
「な、なに。不浄役人と、申したな」
「奉行、町与力、同心、岡ッ引。それらを一束に、世間では、不浄役人といっておる。おれひとりがいって悪いはずはない」
「余事は措こう。そんな場合ではない」
「おお、場合とは、どんな場合だ」
「ここは俗称、寛永寺の森とはいっているが、まだ、山内の御門内ではあるまい。平常、往来もしてよい地域、われらが立入ったとて、いっこう、さしつかえはないはずだ」
「だから、ここまでは、ゆるしておく。これから先はまかりならん。眼をあいて、よく見るがいい。ついそこは御門境──」
男の指さすうしろを見て、義平太はおもわず、しまったと、歯がみをした。十六弁の裏菊の紋のついた大提灯がほのかに明りを投げている寛永寺裏門の袖塀をかすめ、小さい潜り門のうちへ、お袖のすがたは、吸いこまれるように逃げこんでいた。
「や、や。お袖を」
「お袖とは、何を、たれをいうのか」
「怪しからぬ庇い立てを召さる。いまの女は、悪党の一味として、こよいわれわれが捕縄をもって追跡して来た者。宮の御祈願所ともある地内へ、左様な兇状者を匿われるとは心得ん」
「おいおい町方」と、冷ややかに──「何か貴公は血まよっておりはせんか。いまの女は、この大内不伝の身寄りの者だが」
「いや、そんなはずはない。たしかに」
「黙ンなせえ」と、不伝は威圧を利かせて──「おれの身寄りを、おれの眼が見違えるか。世間には、他人の空似ということもある。ヘタな真似をすると、奉行以下、詫状ぐらいではすまさんぞ」
「ううむ……残念だ。が、致し方もない」
「帰れ帰れ。なおなお不審なら、改めて出直して来い。此方は、別院の大内不伝と申す人間。ついでに、貴公の姓名を聞いておこうか」
「てまえは南の与力、市川義平太」
「そうか。南は余り評判がよくないな。あははは。近ごろ、少々、あせり気味か」
不伝は、傲岸な肩幅をうしろに見せて、のッそりと、裏門の潜りへ近づいた。そして、凝然と、あとに立ち残っている義平太の影を、そこからもいちど振り向いて、ニタと、白い歯を見せたと思うと、内からどんとそこを閉める音がした。
ここ十数日の南町奉行所は、異様な緊張にとざされていた。
まだなんの発表もなされたわけではないが、たれいうとなく、堀留五人組強盗は、南の手によって、召捕られたと、江戸中に聞えて、北町奉行との対立に、興味をいだいていた市民たちは、
「南も、やりましたね」
「やッたねえ。大岡様も」
と、黒ボシつづきの負け組に一点入ったような、新しい感興をもって、噂まちまちであった。
しかし、南町奉行所自体の内部には、決して、そんな浮わついた昂奮もなく、凱歌もなかった。むしろ何か、その日以来、一抹の墨気を刷いたような冷たいきびしさが、古い巨大な建物の全面にただよい、内部の吟味所、書記溜り、与力控え、また奉行の居室を初め、どこを窺っても、しいんと、張りつめた静けさだった。
きょうも越前守は、一室を閉てきっていた。
うずたかき書類を、身辺に置き、そばには、目安方の小林勘蔵、吟味方の市川義平太の二与力をおき、この二人も、各〻、小机に倚って、調書の整理や探究に他念がない。
宛として、ここは一つの犯罪研究室。
三与力の一名、山本左右太は、なお外部にあって、目明しの辰三や半次を手足に、ここから命ぜられる多方面な調査の資料蒐めと、探索とに、あれ以来も、休みなしに活動している。
「夏が近いの」
越前守は、書類につかれた眼を、ふとあげて、
「勘蔵。うしろの障子をすこし開けんか」
と、いった。獄舎、白洲のあるこの役邸にも、中庭があり、ぬれ縁の外には、若楓のみずみずしい梢に、夏近い新鮮な木もれ陽がそよいでいた。
石の井筒井から、掛け樋が小流れへ落ちている。その小さい飛沫のさきに、小鳥が降りて、戯れていた。
「静かだのう。義平太も、一ぷくせぬか。唐詩選であったか、たれやらの詩に──林泉市ニ近ウシテ幽ハ更ニ幽ナリ──という句があった」
「お奉行。どういう意味ですか」
「幽。……つまりほんとのしずけさというものは、人もない山野の中のそれよりは、かえって、騒然たる市中のふとしたうちに、真の寂があると申すらしい」
「ははあ。詩人の逆説ですか」
「逆説といってはあたるまい。理念ではないのだから。──だから理くつでは逆になるが、ようく考えてみると、理くつ以上の真実にちがいない」
「では物事も、理づめでは、絶対な真実には、達しませぬな」
「そうもいえようか」
「御法令は、理でございましょう」
「理のたたぬ法律はない。しかし、理が法令という考え方はどうかの。非理をもって正理をたばかる市井の智者がたくさんおる」
「では、法令は、道義でございますか」
「法は、法それ自体が、道義の規矩じゃ。法を愛するは、道義を愛することになる。剣の人、宮本武蔵のことばにも、その独行道の第一に──我レ世々ノ道ニ違フナシ──とか申しておる。剣の道とて、法をはずしては成りたたないのだ。しかしまた、道義を口に、良民を威圧し、道義をかんばんに横行して、悪の押売する俗志士、偽君子も世間に多い。法は道義などといえもせまい」
「では、情でしょうか」
「法は人の情を主として裁くべきかと訊くのか。かまえて、左様な量見では、判官として正しい裁きは相成るまい。情は、学ぶべきも、白洲においても、どこに於いても、意識してはならぬ。なぜならば、裁く我が身も、情の器、凡愚煩悩の人間であるから」
「じゃあ、何と考えてよいでしょう、法の真体は」
「人間にはなし難いことを、人間がする。示し……とでも申そうか」
「示しとは」
「神の意じゃ。──神ならねば、裁き得ぬはずのものを、人間が代って、それを示す。おもえば、難かしい……。おたがいは、人間すぎる」
「けれど、人間を裁くには、人間なればこそ、よく裁き得ることもありましょう」
「そうだ」
越前守は、交〻、二人から訊かれているうちに、かえって、その質問に、ほっと、救われたような顔をした。
「所詮、神の裁きはなし得ない。人間はついに、人間の裁きしかできぬものと──初めから神仏に詫びておくがまず無難だろう」
「法の理想は何でしょう」
「法のいらない世間。囚人のいない牢屋」
「すると、獄舎に罪人を溢れさせて、手柄顔を誇っておる北町奉行のごときは、ちと、滑稽なことになりますな」
「いやそうもいえん。こういう世相の時代では」
「でも、あのように、ほこりを叩いて、細かな罪人までを、びしびし牢舎に投げ入れては、いまに、世間が獄舎か、獄舎が世間か、分らなくなりましょう」
「いうな。ひと事は」
越前守は、それを機に、ひと口、茶をすすって、また調べ物に没頭していた。
かれは、掏摸、窃盗、詐欺などの小さい吟味や、民事の訴訟事などは、いくら数があっても、余り多忙顔はしなかった。白洲にのぞむ時間は、水のながるるような快断をもって、処理して行った。殊に、かれの民事の裁判は、判決でなく、仲裁のかたちをとることが多かった。かれの一声で、和談となった紛争では、いつも、喧嘩の双方に、充分な得心を与え、片手落ちがなく、双方によろこばれた。
その点で、この頃は、江戸の町名主や五人組の町年寄たちのあいだに、
(和合大岡。鬼出雲)
などという隠語がつかわれたりしていた。
北の中山出雲守の白洲へ持ち出した公事は、たいがい喧嘩が大きくなり、その一方が、徹底的な悪人になった。
──だが、越前守の真意は、そんな功や成績にはなく、ひたすら、法のいらない世間、罪人のいない牢舎の実現が、理想であった。もとより、それは、理想にはすぎないとしても、それに近い社会をのぞむことが、法官の任としていた。
それにはどうしても、現実の罪悪の府から大罪小罪の人間どもを狩りあげるよりも、まず、罪悪の苗床からその素因をのぞいてゆかなければ──と考えられ、そのためには、市政、わけて社会政策に、心をくだかずにいられない。
とはいえ。志すのは道は遠く、いまや、かえって、かれ自身が、かれを裁かなければならないような──複雑な難題が、かれを囲み、かれの机にも、のっている。
かれは、屈しなかった。不撓の勇をふるいおこして、日々、自己の裁きに、対っていた。
「お奉行」
と、そこへ次室からの声。
「たれだ」
「左右太めでございます。おさしつかえございませぬか」
「オ、左右太か。はいれ、心待ちにしておったところだ」
一時、表面の解職をうけて、舟源の二階に浪居していた三与力のひとり山本左右太は、御隠殿下の手入れに功があった者として、ふたたび、現職の復帰ではないが、奉行所出入りをゆるされ──町方勤めとして、折々、ここへ顔を見せていた。
かれの姿を見ると、義平太も勘蔵も、
「やあ、左右太か。ひどい汗ではないか。まっくろな顔をして」
と、机から顔をあげて、共々、いたわるような眼をむけた。
左右太は、手拭で、ひたいを拭いながら、
「いや、もう往来を歩くと、陽が暑い。──苗売り、すだれ売りの声をきくにつれ、月日のはやさに、鞭打たれる」
と、ふところから、手控えを取出して、越前守のまえに、膝をあらためた。
「まことに、日かずを費やしましたが、お袖の幼少から生い立ち、水茶屋時代のこと、ようやく、調べ上がりました」
「そうか」と、越前守は、お袖の名にも、無表情のまま──「勘蔵。それに、お袖に関する書類が一綴あるな。その中へ、いま左右太の述べることを、明細に、書き入れてくれい」
「かしこまりました」
と、勘蔵は、筆をとる。これも、冷然たる書記の態度だ。
「多くのことは、お袖の父までの、代々の墓所のある日暮里村の湧泉寺で、過去帳をしらべ、和尚にただし、また遠い縁家などをさがし歩いて、聞きまとめたもの故。──それらを合せて、先に、あらましだけを、申しまする」
左右太は、覚え書を、読みながら話した。
「お袖の父親、今村要人は、秋田淡路守の家中で、禄五十石、役はお徒士。性は温良で実篤。藩のたれかれにも、評判はよい人物のようでした」
「…………」
大岡越前は、しずかな半眼に、縁先の若葉のいろを映して、黙然と、聞いている。──勘蔵の筆は、音もなく、左右太のはなしを、追っていた。
「その、今村要人の子お袖が、五ツの折、大病をわずらい、医者にも見はなされたとき──ある知人が、その病には、燕の黒焼しか癒す薬はないと、教えられたのです。子の可愛さに、子煩悩な要人は、吹矢をもって、邸内の長屋に巣をつくっていた燕を射落し、そっと、薬に作って、子に服ませました。たれか、密告した者でもあったのでしょう……当時、畜類おん憐れみの政令で、犬に限らず、殺生を犯した者を訴人するときは、公儀から褒美を下された頃でしたから……」
「うむ」と、越前は、大きく、うなずいた。
「あいにくまた、その日が、将軍家の御生母様が、護国寺へ仏参の日にもあたり、燕を黒焼にし、子に服ませたなど、極罪なりと、要人夫婦は、断罪に処せられ、家名は取潰し、縁類も離散。お袖は、それから人手に育てられ、子守奉公やら辻占売りなどもして、その果てに、水茶屋の茶汲み女に売られたものにございます」
「…………」
「十六の春ともなれば、夜も客をとらねばならぬことは、水茶屋渡世の通例ですが、その頃、大岡亀次郎と、同苗市十郎と申す従兄同士の遊び客が折々見えるうち、お袖は、その市十郎と、恋仲におち、いつしか、市十郎の胤を宿していたものにございまする。──やがて、ふたりの仲に生れたのが、お燕です」
無心に語ろうとし、無心に書きとめようとしても、かれらの筆はみだれ、語音には、切なげな、いかにも、辛そうな乱れが、かすれる──
ひとり越前守は、ひと事みたいに、それをうけ取っていた。
「うム、お燕という、世間にすくない名は、さては、そうしたお袖の生い立ちから、由縁をとって、名づけたものとみえる。それのみは、初めて知った。──いや、お袖の素姓も、武家出とは、聞いていたが、そうした身の上とは、知らなかった。……して、それからきょうまでのことは?」
越前から、あとを、なお訊ねた。
当然、越前守のその頃の放埒、悪友仲間、家庭事情。また、お袖とはどうしても、添えなかった理由も出る。
お袖が、女の一生を、めちゃめちゃにした一歩の動機は──男のためだ、市十郎のためだ──と、呪咀し初めたのはそれからで、以後も、今も、呪いの火は、かの女の胸に、かき消えていない。
左右太が、諸所で、調べ蒐めて来たところを、順を追って、一方で語り、一方で書きあげている間に、市川義平太は、そのお袖を、死ぬまで、魔の爪牙から離さなかった化物刑部の素姓しらべと、かれら一味の、幕府顛覆の陰謀を諸方からあつめた資料によって、その全貌を、えがき出そうと、努めている。
刑部が、多年にわたって、西国の密貿易仲間とむすび、各地の浮浪人とともに、大陰謀をもくろんでいたということは──これはこんど獄舎につないだ阿能十蔵から明るみに出たことだった。
また、その十蔵の、もとの身分、悪の仲間へすべり落ちた動機。それも、明白にされている。
大岡亀次郎といい、阿能十といい、死んだ味噌屋の久助といい、お袖といい、およそ、それらの人間たちが、青年期に、岐路を過った動機と、周囲と、社会条件は、帰するところ、みな一つだった。
もし、当時の犬公方、徳川綱吉が、その生母や悪僧の言を容れて──生類おんあわれみ──などという悪法律をもって、人間を、犬猫以下におくようなことをしなかったら、これらの人間は、決して、かくまで暗い半生は通って来なかったろう。少なくも、動機となる罪は犯していなかったはずだ。
大亀でも、阿能でもそうであるが如く、化物刑部すら、そういえる。もし、社会がもっと明るく、庶民に不満不平の声がなかったら、かれらとて、一世をひッくり返して、
(おれたちでも、これよりは、ちッとはましな政治ぐらいはやってみせる)
と、無謀な乱をたくませるようなことはなかったろう。
弱い、女の一生をもつ──いとけないお袖の生い立ちなどは、あの悪い政治、あの腐った世風の下では、犠牲というほどな力さえない。まして、あとに生れた、お燕の運命までが、禍いされても、その悪宿命を断つことが、どうして出来よう。母の愛をもっても断れず、母子して、悪業の中に漂ってきたのもむりはない。
──そう、聞いているのか、否か、越前守の面上には、何も、はたから読みうるほどな顔いろも見えず、この一室は、かくてこの事件の全貌を、個々にも、外廓からも、根本的に洗いあげるべき、一大吟味室とはなっていたのである。
長いこと、左右太の報告はつづき、更に、べつな報告を出して、机上の資料に、いろいろな、新材料を加えていた。
いつか、中庭の西陽もかげり、冷ややかな夕風のおとずれと共に、役宅の書記、その他の役人も、ぼつぼつ退いていた。
すると、どこやら、遠くに──
「ばか野郎っ。やいっ、牢番どもっ。なぜ寄って来ぬ。恐いか。おれが恐いのか、奉行が恐いのか。わはははッ。馬鹿奉行のどこが恐い」
吠えるような大声である。
暮れかけている牢長屋の屋根をこえ、柵を越え、役宅の幾棟をもこえて聞えてくるのである。
よほどな大声で喚いているにちがいない。
越前守は、はたと、耳をすました。
つぶやくように、三人へいった。
「また、亀次郎がわめきおる。あれでは、体が保つまい。薬はやってあるか」
「よく、獄医に、気をつけさせておりまする」
と、勘蔵が、答えた。勘蔵やほかの者たちの方が、胸をえぐられているような眉根を見せている。
「獄医では、何かと、届かぬふしもあろう。義平太」
「はい」
「いちど、其許の父、市川楽翁どのにも来診を乞うて、よく診てつかわすとよいな」
「申し伝えておきます」
──するとまた、聞えて来た。暮れるにつれて、四辺のひそまるのと、夕闇の濃くなるままに、前よりも、鬼気をまして、この一室を脅かした。
「越前っ。やあいっ、偽せもの、くそ奉行っ。なぜおれに、姿を見せねえのだ。なぜ、大岡亀次郎を、吟味しねえかっ。うぬっ、ここへ来い」
とぎれとぎれ、喉もやぶれそうな彼方の声だが、聞いているここの者たちの耳も、ついに、よそにしているに耐えなくなった。
「お奉行。ちょっと、行って見てまいります」
勘蔵、義平太が、立ちかけると、
「ま。すてておけ」
越前は、馴れたという顔つきである。
「けれど、牢番どもが、いつも閉口いたしております。少々、なだめておかないと、今夜また、寝ずに、狂うやも知れません」
「そうだの、体にこたえよう。……が参っても、逆らうなよ」
「決して。その辺は」
ふたりは、立って行った。
そのあとで、山本左右太は、思いきったように、膝をすすめた。
「最前からの、御報告のうち、一つ申し残しがございまする」
「お袖、お燕のふたりの行方であろう」
「お明察のとおりです」
「同僚のふたりにたいして、そちは、明らかに申すのを、憚っておったが」
「よいか……わるいかと……」
「あれ程、越前の虚心を、いっておいたが、まだそち達には、解りきれぬものか」
「いや、御心中は、よく相分っておりますものの。……お察しくださいませ」
「おたがいは、人間じゃ。その心づかいは、うれしいと思う。しかし、それを超えねば、おたがい、奉行役人たる生命はない。左右太、何なりと、申してくれい」
「実は……。お燕の身は、ただ今、牛込柳町の町医、市川楽翁どのの隣家に匿われておりまする」
「義平太が、隠したか」
「いえ、楽翁どの自身、あの夜、寛永寺附近に、見張っていて、近所のかご寅という者をかたらい、御子息の義平太とは、論争のあげく、遮二無二、連れ去ったもののように思われます」
「して、お袖の方は」
「これは、楽翁どのも、手が廻らず、取り逃がしたらしく、あの後、組下の辰三、半次のふたりが、必死に探索しましたところ、どうも、寛永寺別院の副執事、大内不伝の手によって、山内にかくされているらしゅうございます」
「宮御住持の別院にとか。……ちと、うるさいの」
「何よりの、心配です」
「案じるな。越前の心さえ、しかと、最初の覚悟のままであれば、いかようなろうと、あわてることはない」
「この事、てまえからお奉行のお耳に入れたと、義平太に、申したものでしょうか。また、つつんでおいたがよろしゅうございましょうか」
「かくさぬがいい。しかし、義平太の苦衷はうれしい。察しられる。すまぬのう……各〻に、かような思いをさせて」
ばたばたと、中庭の方から、前のふたりが、馳けもどって来た。
「お奉行。ちと、変です」
「どうしたっ?」
「亀次郎が、余りに、狂い廻ったせいか、突然、牢のうちで、仆れました」
「なに、絶命したか」
「いえいえ。一時の、発作とはおもわれますが、苦しげに、口に泡をふき、眼をつりあげ、顔色蒼白となって、転々と、もがき抜いている有様。いつもの、容体ともおもわれません」
「獄医を呼んだか」
「牢屋づきの中根杏庵が、折わるく、きょうは自宅にもおりません。どこやらの病人を、遠くまで、診に行ったとかで」
「万一があってはならぬ──」越前は、すぐ立って、中庭の草履をはき、
「義平太、義平太」
「はいっ」
「大急ぎで、楽翁どのを、迎えて来てくれ。駕籠で、飛ばしてゆけよ」
「は。承知しました」
義平太は、すぐ走り去った。越前は、ふたたび、自室へもどって、文庫から、印籠をとり出し、またすぐ降りて、中庭門から、役宅庫の路地を抜け、幾廻りもして、柵門から獄舎の世界へ、通り抜けた。
揚屋牢、百日牢、重罪牢──猛獣小屋のような棟が、幾側にもわかれており、路地はひろく、長屋と長屋との向いあわせの間には、所々に、牢番小屋が建っている。
「や。お奉行さまが」
と、ここの獄吏たちは、めったに見ない人のすがたに、何か、恐怖的な目をしたり、うろたえたりした。
「亀次郎の牢は」
かれのあとには、勘蔵と左右太が、従っていた。牢番頭は、
「こちらで」
と、恟々として、先に立つ。
吠えるので、他の牢長屋とは、まったくかけ離れた一隅にあった。
うしろは藪。前には、雑木が五、六本。あたりは、乾からびた、土しか見えない。
「ここか……」
「左様でございます」
「しずかだのう。落着いたか」
越前守は牢格子の前へ寄った。外はまだ、夕明りが、ほのかでも、牢のうちは、まっ暗である。
むくむくと、何か、闇にうごいた。
「だ、だれだっ。覗いていやがるのは」
大亀は、床板から、半身を起して、じいっと、眼だけを光らした。
そして、ず、ず……と少しずり寄って来たかとおもうと、
「やっ、ち、ちくしょう!」と、いきなり牢格子へ、がりっと、噛みつくように、口を当てて来た。
「越前だなっ。──いや、ちがう! てめえは、大岡市十郎だ。於市だっ……」
「亀次郎。いかがいたした。体は、よいのか」
「な、な、なにを、いッてやがるんだ。笑わかすな、この偽者め」
「苦悶しておると聞き、薬を持って来た。服むか」
「服んでやる。さあ、服ませろ。おれは、きのうから、体じゅうが、炎のように燃えている。おぼえておけよ。これはみんな、てめえの恨みだぞ」
「──牢番。これを服ましてやってみい。神功丸だ。熱にもよい」
越前が、印籠を手渡すと、亀次郎は、羅刹のようになって怒った。
「ばかにするなっ。おれを、毒殺しようなどと思っても、その手は食わねえ。やいっ、市十郎、ここへ来い、牢の中へはいって来い。いい分がある」
「いずれ、白洲で聞こう。白洲で、存分に申せ」
「いやがったな。やいっ、おれを白洲で、貴様が、調べられるのか。ちゃんちゃら可笑しい! わははは……。おれに、旧悪があるならば、貴様にも、旧悪があるぞ。いってやろうか。イヤ、いわずにおくものかよっ。──さあ、今からでも、白洲へ曳けいッ。牢番、開けろッ、ここを」
「その気がしずまらぬうちは、吟味もなるまい。白洲に出たくば、早く、落ちつくがいい」
「おれを、気狂いあつかいする気だな。ウム、分った、おれのことばを、みな、狂人のたわ言だと、調書をごまかし、世間をうまく、飾ろうというんだろう。くそでもくらえ、おれが獄門なら、てめえも獄門へ抱いてゆく。おれが磔なら、てめえも磔柱までつれてゆく。──もともと、てめえと俺とは、切ッても切れねえはずの縁だ。それを、自分ひとり、いい子になりゃあがッて、畜生、ふざけるな」
昂奮のあまり、ほんとに、額を牢格子へぶつけたらしい。タラ──と血の糸が、かれの片目を通って、あごに垂れた。と、亀次郎は、うーむと、うめいて、また昏倒した。
「それっ」と、牢番は、すぐ中へはいって、水を与え、薬をのませた。気がつくと、亀次郎はまた吠える。また、牢格子へ、噛みついてくる。
そこへ、義平太の迎えに行った市川楽翁が、薬籠を持ってやって来た。すぐ、亀次郎の容体を診る。亀次郎は、いつもの獄医とちがうせいか、それとも、実はやはり生命の愛執がさせるのか、急に、子どものように素直になって、脈を診させ、胸も背も、足のうらまで、診察させた。
「たいそう、お丈夫だの。このぶんなら、心配なし。ただ、風邪ぎみにすぎん。熱がたかい」
笑いながら、楽翁は出て来た。そして、薬を取りに来いと告げて、牢番頭を伴って、役宅の一間へもどった。
調剤を渡し、手をそそぎ、
「お奉行は」
と、義平太に、たずねた。
「奥で、お待ちしておられます」
「ちょうど、近日、お目にかかりたいと思っていたところ。折入って、暫時、お会いいただけるかと、お伺い申してくれい」
やがて、さしつかえないとの返辞が来、こんどは、小林勘蔵が、案内に来た。
従いてゆくと、越前守の私室。それは、かれが時折、ただひとり、忙中の閑をぬすんで、黙想にこもる奥まった小部屋であった。
「用があったら呼ぶ。みな、休息して、与力部屋へ、退がっておってくれい」
越前守も、こよいは、かれと自分とだけで対坐して、何か、はなしたい一宿題をもっているようなふうだった。
「さ。楽翁どの。くつろごう」
「終日。おつかれでおわそう。くつろがせていただきます」
敷物をとり、それに、ぺたと膝をのせて、楽翁は、小さい床の間へ眼をやった。
と、細軸の一行書が懸かっている。
「ほ。どなたの書で」
「おはずかしい。自分の手習いです」
「同苦和尚とは」
「越前の再生の恩人でござる。いまはいずこにおらるるやら……慕わしさに、和尚の日ごろのおことばを、自分で書いて、ながめておる」
「──慕わしさ。まことに、人間の世界は、そうした情のうるおいや張りあいのみが、助けでおざるし、いささか人間を善くもするものでございましょうな。……で、お目にかけたい物があります」
楽翁は、小さい紫のふくさ包みを取出して、あいての膝のまえに置いた。
「何か、あらたまっての御容子。なんですか、これは」
「ま。お手にとって、ごらん下さいまし」
楽翁は、手をのばして、遠くの燭を、そばへ寄せた。
越前守は、ふくさを披いた。
紫のしずかな色の上に、一箇の蒔絵印籠が乗っていた。葵紋をちらした研出し蒔絵の金色が、見る眼を射た。
「お奉行……。御記憶がありますか」
「あります」
眼を、印籠に吸われたまま、声ひくく、越前守は、答えた。
覚えがなくてどうしよう。この紋ぢらしの蒔絵印籠は、いまの将軍吉宗がまだ紀州の部屋住み時代、徳川新之助といっていたころの持ち物であった。
いやいや、それは忘れ得べくも、この印籠を、路傍に得て、飢餓の巷に、幼いお燕を、背に負いながら、木枯らしの日、みぞれ降る日を──一椀の食にも窮して、さまよいあるいたあわれなる父のすがたを、子の泣き声を、どうして忘れ得よう。判官越前守と、心を公なるものに、きびしく固めても、官衣の下は、かれも人間の皮膚、血肉をもつものである以上、あれから二十年後にちかい今日とて、燈下に、これを見て、無情でいられるわけはない。
睫毛に支えられている涙が、あやうく、あふれ出て、越前守の頬を、濡らしかけた。
楽翁は、たしかに、越前守の眼にも、それを見た。
──と思った時、かれ自身が、自分の頬をつたわるものに気づいて、あわてて、顔をそむけてしまった。
越前守も、面を横に、懐紙を、そっと使ったが、すぐいつもの彼にもどって、
「楽翁どの──」と、燈下の印籠に、なお眼を落しながら静かにたずねた。
「いったい、この印籠は、どうして、老兄のお手にあるのでございますか」
「それをお質し召されて、お奉行には、如何なされるおつもりか。まず、それから先に、伺わせて下され」
「されば、この印籠の所持者は、越前が、ただ今、詮議中の女賊のひとりです。御承知の五人組強盗のうちに交じっておった若い女の持物ゆえ。……それで、お尋ね申すわけで」
「では……越前どの」と、楽翁は、あいてを正視して、何か、いおうとするらしかったが、唇ばかりわなないて、ことばは洩れて出ないのである。
かれの正視に対して、越前守もまた眼をそらさず、その唇元を見ていた。ふたりの眸と眸とは、たがいに涙を克服して、意志と信念に燃えていた。
「では、お奉行には、もしこの印籠の持ち主の居所がわかれば、召捕るお考えですかの」
「もとよりです!」
かれは、かれ自身へ、断乎、命じるごとく、いった。
「自分の任として、当然、すぐさま捕手をさし向けまする」
「しかし、お奉行。いや越前どの。もしそのために……仮にといたそう。大岡忠相という人間が、その一犯人との、しかも遠い以前の関係などから、町奉行の現職も、生涯をも、滅茶滅茶に失うであろうとしても、なお貴方は、御法令一点張りで、解決しきるお心かの」
「心得ぬおたずねじゃ。越前は、不肖ながら、江戸町奉行の現職にあります」
「いやさ、越前どの、人間としての、あなたのお気もちを、伺うのでおざる。……人の子の親として」
「これは、迷惑なおたずね。越前が、親であり、良人であり、家庭の一私人として、気まま気楽にいる間は、赤坂のわが家のほかにはございません。──ここは、南町奉行の役宅です」
「公と私との、けじめくらいは分っておる。なれど、愚老のいうのは──公な大事のためには、私ごとの小事は是れを天も咎めず人もゆるす──と申すのでござる。たとえば、現職町奉行のある者の過去に、多少、人間にありがちな小過や小罪があったにせよ」
「お待ち下さい。……仰っしゃることは、自己の弁護にはなりましょう。けれど、世間から見れば、醜いもの頬かぶりといいましょう。世人は、釈然としますまい」
「いや、あなたの場合は」
「私に、それほどな世人の信頼や徳望はない」
「いまはなくても、あなたを措いて、たれが将来にも、世間を良くする人がありましょうか。お犬様政治以来の、久しい世人の自暴や懶惰──それから生じた不安や道義の乱脈さは、まだまだちょッとやそッとで、立ち直るものではありません。将軍家がお代りになっても、実際に、庶民の中に立ち交じって政治をする良いお奉行や良吏がなくては」
「決して適材とも存ぜぬが、越前も、なしうる最善はつくす所存でござる」
「それなのに、なぜ、この度のような些事に、お心を労し、あまつさえ、その職も御一身も、自ら破り去るような短慮な道をえらばれるか」
「もう止めましょう……」
越前守は、ふと気を更えて、楽翁の一徹を宥めるように──
「御老人。ま、安心していて下さい」
「いや。安心どころか。愚老は寝られませぬ」
「はははは。忠相のごとき、小吏の代りは、いくらでも、世間に人がおりますよ。──ただこの際、幸い、自分が先に歩む者の立場におかれておりますから、久しい間のぬかるみを、道普請して参るつもりです。道さえよくしておけば、天下の賢者、良才も、世間にいないわけではなし、人物はあとからいくらも出て来ましょう」
「おいとま、いたす」
楽翁は、何か、思いきったように、起ちかけた。そして、二人の間に置いていた印籠を、帛紗につつんで、仕舞いかけると、
「あいや。これは、置いて行かれい」
と、越前守も手をのばし、印籠を持った楽翁の手を抑えた。
「いや、これは預り物。当人の胸を訊かねば、お渡しできん」
楽翁は、越前守の手を払って、さっさと、懐へ仕舞いこんだ。そして、
「愚老には愚老の信じるところもござれば、悪うお思い下さるな」
と、もいちど、礼をほどこして、室外へ出ようとした。すると、越前守は、大喝して、
「老人。待てっ」
と、うしろからいった。楽翁は、ふり向いて、
「お奉行。何ぞ御用かの」
「その印籠を持って、ここを出ては、御辺のお身にも、禍いがかかろうではないか。──詮議の上に必要な兇状者の証拠品じゃ。禍いを捨てて行かれい」
「いや。時の奉行たるおん身すら、職のためには、身にかかる禍いを避けようとはなさらない。医は仁術とか。愚老も、仁愛のためには、身の禍いも、厭いますまい」
暗い廊下を、楽翁の足音が、遠くなって行った。──越前守は、残された燈火のまえに、さし俯向いていた面を、きっと上げると、
「たれかおらぬか。勘蔵っ、左右太。……はよう来いっ」
与力部屋の方で、はっという返辞がした。けれど何か、その三名で、押し問答でもしているらしい。そんな声がしながらなかなか誰も来ないのである。
越前守は、やや甲高く、また、呼んだ。
「与力部屋にはたれもおらんのか。……義平太でもよいっ。すぐ来い」
「はっ、ただ今っ」
ばたばたと、窓の外に、足音がとまった。そこから、ひざまずいて、
「──御用は?」
「お。義平太か」
「義平太にございます」
「…………」
越前守のことばは、容易に、かれの口から出なかった。が、押し出すような語気で。
「うむ。そちでもよい。今、医者の市川楽翁が立ち帰って行ったが、見たか」
「はっ。承知しております」
「楽翁を追いかけて、いま越前に示した印籠を、受け取って来い。……もし、あくまで渡さぬときは、必然、かれは当奉行所で詮議中の犯人を、承知のうえで、匿っておる者と見て、召捕らねばならぬ」
「あっ。……では」
「渡さぬ時はだ。……義平太、そちの手では、心もとなく思われるなら、左右太か、勘蔵の手をかりるがよい」
「な、なんの……。てまえの腰にも、十手は帯びておりまする。御免っ」
と、市川義平太は、役宅の裏玄関まで──長い暗い大廊下を幾曲りもする間──唇に浸みる辛い涙に顔をしかめながら夢中で駈けて来た。
夜なので、同心部屋にも、そこらの小者部屋にも、たれも見えない。かれは、誰のとも知れない草履へ足をのせた。──と、すぐ後から駈け続いて来た同僚の小林勘蔵と、山本左右太とが、
「おっ、おいっ、待て」
と、抱き止め──
「貴様が、行くことはない。──肉親の父親を、子の貴様が、召捕りに立ちむかうなんて」
「いや、離せっ。離してくれ」
「こらっ、義平太。貴様まで、お奉行と同じように、そう頑固を申して、どうするんだ。おれ達に、まかせろ。……な、な、義平太。おれたちで、何とか、扱ってくる」
「よけいな真似をしてくれるな。お奉行から拙者へ申しつかった役目を」
「ばか。市川楽翁は、貴様の、親だぞ。父親ではないか」
「公務の上では、父も子もない」
「お奉行のお立場はわかるが、その御苦境をお助け申さねばならん股肱のわれわれまでが、一途に、そんな純理にばかり走ってしまったらどうなるんだ。ま、落着けい」
「おれは落着いている。狂っているわけじゃない。法の正しさを守るためには、わが身も、裁かれ、わが子といえど、ゆるさぬとしているお奉行の胸をおもえば」
「まあいい。ひっこめ」
「退かん。おれは、役目を果たす」
振りほどいて、義平太は、たった今、ここを出たはずの、楽翁の駕籠を追って、裏門を走り出た。
数寄屋橋門内の夜は人通りも稀である。例の石焼豆腐の灯が見えるほか、その辺からお濠端へかけては、もう夏草の伸び初めている一めんな草原だった。
「待ッた。待ってくれ」
義平太は、追いついた駕籠の前へ廻って、両手をひろげた。
「南の与力でござるが、駕籠の内のお人に、ちとお質し申したい儀がある。ちょっと、降りていただきたい」
さすが、声のどこかに、ふるえが帯びる。
義平太はその慄えを叱咤して、自己の私心から、追い出すように、語気をはげまして、さらにいった。
「……お出しなさいっ、楽翁どの。御所持の印籠をお渡しあればよし、さもなくば、やむを得ず、十手にかけて引立てますぞ」
──すると、駕籠の内から、
「なに、十手にかけてもだと。……おいおい人違いしては困る。いったい、誰にむかって、何を渡せといっておるのか」
かごの垂れを刎ねて、そこへ出て来た人影を見ると、父楽翁とおもいのほか、黒い夜露頭巾を被り、黒つむぎの袷に、袴もきちんと着け、年ごろ四十五、六の堅々しい感じの中に、どこか眼には鋭さのある武家だった。
「……あっ。こ、これは?」
人違いと知って、義平太は、自分の不覚に狼狽した。
さっき、二人の同僚に向っても、自分は、落着いている、決して、逆上してはいない──と広言したが、やはり心が錯乱していたのか。
──と。かれは、駕籠の棒先にさげてある提灯を見直したが、それは、市川家の紋の三ツ鱗だし、また、駕籠かきの顔を見れば、それも父が常に乗りつけている近所のかご屋──かご寅の若い者にちがいない。
「はてな。おかしい」
人違いには相違なかったが、駕籠違いでは決してない。
どうして、父楽翁の駕籠に、見知らぬ武家が、乗っているのか。
義平太は、深い夜霧にも似た疑いの中につつまれて、依然、駕籠の前から、身を退けなかった。
「南の与力殿とやら。何を、まじまじと、不審そうに見ておるのだ。──失礼したと、謝罪もせずに」
「まことに──」と、あわてて一礼しながら、
「人ちがいの儀は、お詫び申すが、この駕籠は、どこから乗っておいでになったか」
「差入れ茶屋の石焼豆腐で一酌かたむけ、待たせておいた駕籠で、ただ今、帰るところ。──それが、何の不審か」
「その辺で、拾ってお乗りなされたのか」
「いいや。家から乗って出た雇い駕籠じゃ」
「いよいよおかしい。これは、牛込柳町のかご寅の若い者と見うけるが」
「拙宅も、その柳町の附近。べつだん異なこともあるまいが」
「それにしても、この提灯の紋は、柳町の町医、市川楽翁の家の紋でござるが」
「何をいうか」
と、侍は一笑に附した。
「それがしの家の紋も、三ツ鱗だ。江戸中に、三ツ鱗は、あの医者一軒でもあるまい」
義平太は、ここぞと、迫って。
「そうはいわさん。貴公の小袖には、鷹の羽がついておる」
「なに、鷹の羽。これは表紋だ。俗用には、裏紋を使用しておる。──一家に二つの紋があってもふしぎはない。……いや、それよりも、先程から人の通行を阻めて、役目とはいえ、人違いと知れておるのに、無礼であろう」
「……ウウむ。何とも、卒爾いたしました。しかし、事のついでに、御姓名だけ、伺わせていただきたい」
「疑いがはれたからには、貴公から名乗んなさい」
「申しおくれました。南町奉行付きの、市川義平太という者。して、あなたは」
「藪八と申す」
「御姓は」
「藪」
「お名は」
「八でござる」
「おふざけなく」
「たれがふざけておりますか。姓は藪、名は八──相違ござらん!」
ひどく、語尾に権威があった。何か、ぴしっと、その語気に打たれた感じで、義平太が口をつぐんでしまうと、その侍は、
「はやく、やれっ。……とんだ道くさ」
と、駕籠の者を叱咤して、たちまち草間隠れ、灯は、濠端の闇を小さくなって行った。
「──義平太。いつまで、ぼんやりしていても仕方があるまい。さ、帰ろう一度」
茫然としている彼の側へ寄って来て、さっきの同僚二人は、左右から義平太の腕を組んで、一しょに歩かせた。
「なあ、義平太。実は、おれたちも、物蔭で聞いていたのだが、世間には、ふしぎな人間もあるものだ。左右太は、今の男を、何だと思う?」
「拙者にも、てんで見当がつかぬ。まるで、人を愚弄しに出て来たような奴」
「狐かな」
「まさか」
「ともあれ、お奉行が、お待ちにちがいない。楽翁どのの行方が知れず、その駕籠には、別人が乗っていたとあっては、また考えものだ。ありのままを、お答えするとして、一たん御復命しておくがよかろう」
「いやっ、おれは」
と、義平太が、もがいて、友の腕から脱けようとするのを、二人は、しっかと抑えて、
「おいっ、どこへ行く。どうする気だ」
「もいちど、今の駕籠を、追ってみる」
「よせッ。ムダだ」
「でなければ──牛込柳町の」
「自分の家へ、自分で捕物に乗りこむ気か。いい加減に、友達に世話を焼かすなよ」
その言葉には、義平太も、いッぺんに顔じゅうを涙にしてしまった。
「泣くな。見ッともない」
左右太が、背をたたくと、義平太はなお、咽びあげて、子どもみたいに泣き出した。
左右太も顔をそむけてしまい、勘蔵も肱を両眼へあててしまった。三人は腕を組んだまま泣き泣き歩いた。
黒い奉行所の裏門が、地を見ない三人の前へ、打つかりそうに近くなっていた。皆、はっと、自分に返った。いや、この門から社会にむかって吏事としての職誓をもつ、奉行与力たるわれに返った。
「はははは……。おい、顔を拭けよ」
「アハハハ。どうもいかんな、ちか頃の、南は」
「みんな泣き虫になって」
「気を取り直そう。……おい、左右太、鼻紙があったらくれよ」
「鼻紙か」
三人はそこで、何とはなく、意味もなく、笑い合ってしまった。
そして、小林勘蔵は、左右太から鼻紙をもらっていたが、何か、ちらと、眼くばせをした。左右太は、うなずいて、石焼豆腐の方を、振り向いた。勘蔵は、義平太にも、紙を分けてやり、顔を拭かせて、門内へ連れて入った。
越前守は、まだ同じ部屋の、同じ燭の前に、寂然と、独坐していた。
まるで、肖像画のように、かみしも、袴のヒダも、さっきのまま、くずれもしていない。
そして、瞑目していた。眉宇、顔いろは、すっかり和やかな彼にかえっている。
かれは常に、かれ自身の精神を平調に癒やす医師であった。肉体の医師は外から迎え得られるが、心の医師は、自分が名医となるしかない。
「勘蔵に、義平太でございます。行って参りました」
「お……。御苦労。印籠は、受け取って来たか」
「いえ。もどりませぬ」
「では、楽翁を、召捕って来たか」
「急ぎましたが、とんと、帰りを見失いました」
「なんじゃ。知れぬと……」
「おいいつけを果たさず、立ち帰っては、お叱りをうけようかとも惧れましたが、実は、ふしぎな事にぶつかりましたため、一応、御判断を仰いだ上でも遅くないと存じまして」
勘蔵は、何もいい得ない義平太に代って、人違いした怪しげな人物のことを──また、駕籠だけは、まちがいなく、楽翁の駕籠だったことを──ありのまま、話した。
だが、これは、越前守の判断にも及ばないとみえ、かれも眉を沈めて、ただ聞き入るのほかはなかった。
「解せぬことよの……」しきりに、つぶやいて、
「もう一度、話してみい」
と、かれは更に、慎重になって、耳をかたむけた。
「──あ。そうでした。申し忘れましたが、義平太が、その武家の姓名をたずねましたところ、姓は藪、名は八。姓と名とで、藪八と申す者であるなどと……まるで人を愚弄するような言を吐いて立ち去りました。世の中に、左様なふざけた姓名はないとは存じましたものの、さりとて、その人間には、どこか謹直な風も見られ、それ以上、故なく嫌疑をかけることもならず、ぜひなく立ち別れましたような次第でござりました」
藪八──という名が出たとき、越前守の面には、あきらかに、ぎょっとしたような、心の一波が、かすめて通った。
が、ふたりには、見えもしなかった。
「ウーム……そうか」と、越前守は、頸の毛が二人に見えるほど深くさし俯向いた。──沈思、ややしばらくの後、こういい渡した。
「……ま、いずれにせよ、市川楽翁、逃げかくれする者ではない。明朝、ふたたび両名して、柳町のかれの自宅を訪れ、先刻、義平太に申しつけた通りにいたして来い。──印籠を差出さすとも、召捕って参るとも」
「かしこまりました」
義平太も初めて、勘蔵と一しょに答えた。
ここずッと、毎夜のように、越前守が公務から解かれることは遅かったが、今夜もまた、もう更け沈んだ時刻だった。かれは、二人の部下にも、夜ごとの労を詫びて、自身もやっと駕籠に移り、間もなく赤坂の私邸へ帰って行った。
「お次さん。……お次さん」
差入れ茶屋は、夕がた、奉行所の門が閉まるのと一しょに、ここもみな、葭簀を巻き、床几を積み、表戸は、閉じてしまうのが慣いである。
だが、名物石焼豆腐の裏口には、明りが洩れていた。──そこの戸を軽く叩いていたのは、今、奉行所の裏門際で、義平太や勘蔵と別れて来たばかりの、山本左右太だった。
「……お次さん。おい、ちょっと、顔をかしてくれんか。晩くなってからすまぬが」
左右太とお次の仲は、雇いの小女まで知っている。かれは家人に気がさすらしいのである。
やっと、家のうちに、返辞があった。戸のあいだから、お次の白い顔。──愛人の顔は、書物のようにすぐ読めるものだ。左右太は、かの女の眉が、いつになく冴えないのがすぐ見えた。
「急に、訊きたいことが出来てな……。いいか、入っても」
「あの……左右太さま。今夜は……」
「たれか、奥に、客でもいるのか」
「いえ。……お客っていうわけでもないんですが」
「都合がわるければ、外で、立ち話でもいい。ちょっと、抜けられないか」
「待ってくださる?」
「うん。どこにいよう」
「いつもの、船小屋は」
「じゃあ、そこにおるぞ」
左右太は、先に、遠くもない河岸ぷちの──堤をうしろにした、ほッ建て小屋のそばへ行っていた。まもなく、お次もあとから来た。堤の蔭だし、前は川なので、落着くのだった。
「なんです。急なお話って」
「だしぬけに、妙なことを訊くが、店が閉まってから、今夜は、たれか客がいただろう」
「え……。夕方、楽翁さまを乗せて来た駕籠の衆に、店はもう閉めたんですが、断れずに、商いをしていましたが」
「もう帰ったんだね。その駕籠かきたちは」
「ええ、帰りました」
「つい今しがた?」
「そうですの」
「──誰をのせて」
「お奉行所の御用がすんだので、楽翁さまをお乗せしてです」
「はて。どこから乗ったのかなあ」
「うちの前からです」
「うそをいってはいかぬ。ははあ、お次さん……口止めされたな」
見つめられると、お次は突然、ぽろぽろと、涙を見せた。
「左右太さま。なんで私が、あなたに、嘘をいいましょう。……私を……左右太さまは、まだ、そんな女だと、思っていらっしゃるんでしょう」
「あ。どうしたことだ。それッぱかしのことにもう泣くなんて。……失言は取消す。疑って悪かった、じゃあ、おれの想像が、ちと違ったとみえる」
「どうして、そんなことを、お訊きになるんですか。あなたも、ほんとをいって下さいよ」
「大きにそうだった。そなたが左右太を信じてくれるのに、おれが真実をいわぬ法はない。実は、今夜、こういう事があったのだ」
奉行所以外の者で、先頃からの事件を、ほのかにでも知っている者は、市川楽翁と、かの女あるのみである。また同僚二人も、そのことは、諒解の上だ。打ち明けて、さしつかえない。──と思ったので、左右太は、相愛の感情とは、関りなく、楽翁と義平太父子の、切ない立場を、つぶさに話した。
感傷になり易いのは、恋している女性の常だが、今夜のお次は、わけても涙もろい。どうしたのか、しきりに泣いて、なかなか肝腎な答えには、触れて来ない。
「え。お次さん……。その藪八という奇怪な武家が、石焼豆腐で夕方から一酌やっていたと、自分でいっていたわけだ。思いつきの出まかせにしては、乗っていた駕籠との縁がありすぎる。……何か、思いあたることはないかね」
「そのお武家なら、たしかに、うちにおりました」
「えっ。ではやっぱり、夕方から来ていたのか」
「楽翁さまを乗せて来た駕籠の衆よりは、すこし遅れて、やはり同じかご寅の若い衆が、駕籠でお連れして来た方です」
「へえ。……そして」
「楽翁どのと、ここで落ち合う約束をしてあるので、夜中、すまないが、座敷を貸してくれいと仰っしゃって」
「楽翁どのを待っていたわけだな」
「──ですが、楽翁さまのお声が外ですると、ここでは、何も話さずに、すぐ御一緒に、戸表へ出て、一つの灯は、お濠端の方へ。一つは数寄屋橋御門外のほうへ、別れ別れに、お帰りになりました」
「あっ。わかった。……読めたぞ、それで」
左右太は、思わず手を打った。二人が、二つの駕籠をスリ更えて乗り、道もわざと、北と南へ、別々に帰ったのだ。
しかし、藪八とは何者か。どうして、そんな行為をとったか。これは依然として、彼にもわからない。
お次にも、それ以上は、分りッこないが、なお次のような事実は、左右太の判断を、一そう深い謎にした。
お次がいうには。──先ごろの御隠殿下の捕物以後──市川楽翁と藪八という武家とは、いく度となく、
(ちょっと、奥を貸してくれい)
といっては、石焼豆腐の店へ見えて、店では話ができぬといい、そのたび狭い母屋の一部屋で、ひそひそ話して帰ったことがしばしばだとある。
また、折には、藪八ひとりで来たこともあり、来ると、お次をよび、南の補佐役たる三与力のうわさをしたり、それとなく、奉行所内の実状を細大もらさず訊き知ろうとする様子は、よほど越前守の一身と、こんどの事件に、深い関心をもっている者にはちがいない──ともいう。
「いよいよ分らなくなってしまったが、……ま、お次さん、おかげで、今夜の謎の駕籠だけは、楽翁と藪八の、馴れ合いと、明白になった。──そこで、もひとつ、訊きたいがなあ」
「なんです、左右太さま。……じいっと、ひとの顔を見たりして」
「どうも、いつものお次さんとは見えないもの。何か内輪事の、心配でも起ったのか。……え、お次さん。それとも、どこか気分でも」
左右太は、そっと、かの女の肩を抱いていった。その肩も、おくれ毛も、すぐ泣きふるえ、訊ねられた二つのうちのどっちかに、触れたことは確かである。
「わ、わたくし……。もう、あなたとは」
「えっ、何。……あなたとは? ……どうしたって」
「左右太さま」と、いきなり彼の胸へ、しがみつくように、泣き顔を押しあてて、
「……あ、あなたと、交わしたお約束は、どうか、水に流してくださいませ。お次はもう左右太さまとは、夫婦になれない身になりました」
「な、なにをいうか」
と、左右太も、気色ばんで、ぎゅっと、お次の肩の両方を、わしづかみにして、その泣き顔を、揺すぶった。
「わけをいえ。泣くのが、いい訳ではあるまい。わけに依っては、どこへでも、好きな所へ、嫁にゆけ」
「ほかへ、お嫁になんか、行くので泣いているのではありません」
「では。……どうした仔細だ」
「ね、姉さんが……。家出していた姉さんが、急に家へ……帰って来たんですもの」
左右太は、笑い出した。──何のこッたと、わざと、表情していった。
けれど、お次は、かれが笑うほど、悲しんだ。泣きじゃくッてやまない程に。
そう思いつめた理由も、聞いてみれば、無理もない。左右太は、笑ったことを、すぐ悔いた。
かの女に、お島という、ひとりの姉があった。
お島は、浮気性で、まだ肩揚げもとれないうちから、町の男たちと、ほッつき歩き、親をすてて家出してからも、十幾年という間、風の便りも断っていた。
それが、前の月。──あの御隠殿下の手入れのあった翌日。ぶらと、
(ここが、私の生れた家だッてね)
と、物珍しそうに帰って来た。
お島が、家出した頃は、まだ石焼豆腐はしていなかった。日本ばし裏の、ただの豆腐屋だった。店を、こうしたのは、死んだ父親である。母は、中風で、いつも寝ていた。
──父が死んでも、店が繁昌しているのは、お次が、かんばん娘として、たれにも評判がよいからだった。
(おまえは、私を覚えていまいね。私は、おまえの姉だよ。あんまり、邪魔者あつかいにしないでね)
帰った日のその晩から、こんな言葉で、お次を悲しませた。そのお島は、もう四十ぢかい年だったが、どこかまだ水々しく、さっそく髪を洗ったり、箪笥からお次の着物を勝手に出して着こんだり、化粧するといったら、ずっと年下のお次よりも厚く塗って、時々、奥から、店さきの男客をのぞき見したりして、
(やはり江戸には美い男が多いね)
と、平気でそんなこともいう。
──が、お次は、そんなことを、左右太へ悲しんでいるのではない。
姉のお島は、久しい前に、上方へ流れて行って、女掏摸の兇状で、遠島になり、まだ、刑期の満たないうちに、島名主をだまして、脱走して来た身の上ということが、やがてお島自身の口から打明けられたからである。
(だがね、お次。わたしは、どうせ助からない体。いつまでおまえの厄介になってはいないよ。……ただ、離れ島で一生あのまま送って死ぬより、ひと目、もいちどお江戸を見て、したいことをやって、さッさと、おさらばしようと思って逃げたんだよ。その間だけ、頼みますよ。──奉行所が、つい目と鼻の先だからといって、密告なんかしたら、ただはおかないよ)
こういう姉が、肉親として、現われてみると、お次は、どう考えても、与力の御新造様になる資格は、もう自分にはないものと、心に、ひとりきめてしまった。
それを、左右太に、いつ打ち明けようかと、この間うちから悩んでいたが、姉のお島は、島破りという兇状持ちだけに、何事につけ、疑いぶかく、自分がちょっと他人と低声で話していても、ふと外へ用に出ても、すぐ目にかどを立てて、訊きほじる始末なので──ただ独り胸を傷めていたところでした──と、話すのでもあった。
「ああ、ここにもまた、一難が」
左右太は、ふたりの恋だけは、醜悪な世間の外に、小さな花野として、心に持ち合っていられるものと思っていたが──ここもまた、人間の罪悪と見惨めを見ない花野ではなくなったか──と、憮然としてしまった。
が、かれは、心のうちで、
(これは、お奉行のお立場や、義平太の苦しみなどとは、大いに、事情がちがう)
と、すぐ自信をもって、割りきっていた。恋人のお次にたいして、こういい断っても、決して、職分を裏切り、自己をあざむくものではないと思った。
「よしっ、分った。嘆くのは、むりもないが、おれとの約束を、水に流すなどと、狭い考えは、起さぬがいい。──何も、そなたには、罪もないこと」
「でも、奉行与力のあなたのお名に」
「障らば障れ、おれ自身には、後ろ暗いことは、何もない。もしふたりの恋が、禍いされるならば、それは二人の心が弱いからだ。恋は二人次第のもの……。お次さんも、しっかりせい。いいか」
「左右太さま。……うれしい。ほんとに、そう思って、ようございますか」
「ただ、弱ったことには、島破りの女掏摸が、奉行所のすぐ鼻っ先に、隠れているということを、与力の左右太が知ったことだ。──これは、捨ててはおけない。恋のために、見て見ぬ振りをしていたら、おれはお奉行が今、一身を賭しておられる御精神を裏切り、二人の友をも、欺くことになる。どうしても、捨ておかれぬ」
「では、どうしましょう。……どうなさるおつもりですか」
「お島を、召捕るだけのことだ」
「えっ……」お次は、そんな結果を、予想もしていなかったように、急に、唇のいろを失ってふるえた。
すると、船小屋の横から堤の上へ、たれか、人の足音がして行った。ふと、耳にとめた左右太が、オヤと、お次の胸をつき放して、伸び上がってみると、油けのない水髪のぞんざい結びに、横櫛をさした女が、流し眼に、下を振り向いて、にこと、夕顔のように笑った。
「あっ……。姉さん」
「なに、お島か」
左右太が、堤へ、駈け上がろうとすると、お次は、われを忘れて、かれの腕に、しがみついた。たった今、恋と職分との、明白な差別と、心がまえを、理非をわけて、聞かされたばかりであっても、お次には、眼のまえで、姉が縄目にかかるのを、見てはいられなかった。また、中風で寝ている母の気もちになっても、必死に、この場だけでも、姉に、逃げてもらいたかった。
「お次ちゃん、倖せ者だね。……おまえは、女の道を、大事にお歩きよ」
なんという大胆さだろう。駈け出しもせず、お島は、下のふたりへ、そういって、ふっと、姿を消した。
その夜、お島は、帰らなかった。どこへ行ったか、そのまま姿は見えなくなった。あくる日、お次は、いつものように、石焼豆腐の店さきに姿を見せ、多くの客に、世辞をこぼしていたが、そのほほ笑みには、苦悩を伴う淋しい影が、前の夜よりも、濃く見えた。
朝──早かった。
牛込柳町の町医、市川楽翁の門へ、
「御免──」と訪れた二人の与力がある。
ひとりは、市川義平太、この家の子だが、きょうの彼は、南の与力だ。──同様に、もうひとりの小林勘蔵にしても、親しい仲の家ではあるが、それだけに、眉には、きびしき決意を、きっと、示していた。
「どうぞ、こちらへ」
楽翁自身、すぐ出て来て、奥の客間。──用談は、多言を要さない。
「あ。……印籠のことで、お奉行のおさしずをうけて来られたか。それは恐縮」
と、楽翁は、あっさり、こういった。
「──その印籠は、昨夜、駕籠で急いで帰る途中、どこかへ、取り落してござる。いや、しもうたと、気がついたが、夜道の暗さ、駕籠の早さ。どこへ落したことやら……いやはや、何とも」
二人は、茫然と、二の句がつげない。
ここに臨むからにはと、死の座につくような気持でやって来たのである。そういわれても、にわかに二人の硬直は解れもしない。
「よろしい」
小林勘蔵は、きっぱりいって、膝を、つめよせた。
「しからば、ムリに印籠をとは申すまい。その代りに」
みなまでいわせず、楽翁の方から、覚悟のていで、先にいった。
「お連れください。──ありがたくお縄をいただいて、御一しょに参る」
「いや、老台を連れてゆくまえに、隣家の空家に匿うてある女賊に縄を打ちますが、お覚悟でござろうな」
「女賊とは」
「五人組のひとり、お燕という女」
「知らん……。そんな者」
「知らぬとはいわさぬ。証人がある」
「どこに、そのような証人が」
「これにおる御子息の……」と、いいかけたのを、慌てて、勘蔵は、いい直した。
「──これにおる同僚が、先夜、上野の寛永寺の森で、たしかに、其許がお燕を駕籠へのせて逃がしたのを見とどけておるし……。またそのお燕を、以後、当家の隣へ匿いおることも、南町奉行所の捜査により、のこらず分っていることです」
「ははあ、あの夜の、若い可憐な娘が、お燕というのでおざるか。たれかは知らぬが、寛永寺の帰途、救いをさけぶ女があったので、不愍と、助けて、連れもどっては来たが……」
「よく、仰っしゃった。その女が、お尋ね中の、大事な犯人のひとりでござる。お引渡しも、面倒でおざろう。二人して、隣家へまいり、召捕って帰りますから、御承知ねがいたい。さすれば、自然、老台には、奉行所まで御足労を煩わさずとも相済みましょう」
「あ、もし。起って、どこへ行かれるのじゃ」
「いま、申した者を、縄打ちに」
「それや、ムダじゃ」
「どうして」
「あの女子は、投身いたした」
「えっ、投身したとは」
「裏の井戸へ」
「あっ……井戸へ……」
起ち上がった二人は、楽翁の意中が、あまりにも、鏡を見るように読めたので、突然、こみ上げて来る涙を抑止する理性のいとまなく、ありのまま、泣いてしまった。
越前守も、一身を賭し、まったく私心を断ちきっているが、この老人も、その越前守を生かしきるため、あきらかに、老いの生命を、投げ出している。
印籠のいい分といい、お燕の匿い方といい、いかにも、苦しい策、見えすいた口実──ではあるが、たとえそれを、白洲でいかに追求したところで、一命を投げ出して、主張するものを、どうしようもない。
(よくぞ、お燕を逃がして下された)
勘蔵も、義平太も、心のうちでは、伏し拝みたいほどだった。
実は、おそらく、こうもあろうかと、密かにそれを期待して、二人は、お燕のことを、迫ってみたのだ。
義平太の顔には、複雑な、よろこびと、父を案じるこの後の危惧とが、こぐらかっていた。
「──井戸へ投身したとは、腑に落ちぬが。それは、いつの事でござるか」
「腑に落ちぬは、ごもっともじゃ。あの娘は、狂気しておった。大岡越前守様を、自分の父であるなどといい、父に会いたや、会いたやと、呼びつづけたりしておった。……と思ううち、数日前の夜、身を投げおった。隣家の庭は広いし、近所の者すら古井戸でおざれば……たれも幾日も知らなんだ」
ひとり語りである。いや、作り語りにちがいない。しかし聞き入る二人にとっては、切実だった。少なくも涙をとどめ得ない嘘であった。
「……わしの手に預っておいた印籠一つが、遺物となった。あわれな狂女の死。根もない狂女のたわ言にはすぎぬが、越前守どのを、かりそめにも、父恋しやと、いうて果てたものをと……。実はの、昨夜、笑い話にいたすつもりで、ふと、印籠をお目にかけたところ、以てのほかな、お気色じゃ。──詮議中の女、縄打つと、仰せられ、断じて、法の外で済ます御容子は見えん。愚老も、悪かったが、ちと、憎まれ口をたたいて帰宅してしもうた。……ははは、そんな仔細じゃ。念のため、その井戸なと、検分して、よしなに、御報告ねがいたい」
楽翁は、先に立って、隣家の庭へ、案内した。
井戸は、なかった。
あったという、新しい土盛りの上に、
〝狂女お燕之碑〟
と、朱書した小さい石が、ただ一つ、載せてある。
「これですか? ……これが井戸で」
「そのまま埋けて、そのまま墓としたのでおざる。……不気味な古井戸、あと、飲めもせぬしな。ははは」
「ともかく、この通りを、越前守様に、御復命はしておくが、御得心なき時は、掘り返すやも知れませんぞ」
「おおいつでも。……なお御不審があれば、楽翁に縄打って、いかにお白洲で糺問あるとも、また、拷問もいとい申さぬと、……お伝え下されい」
長くもいたたまれない気もちで、二人は、庭の木戸から往来へ飛び出した。そして、おもわず、顔を見合せて、
「義平太。よかったなあ」
「よかった……。ほんとに、よかった」
「だが、貴様には、気のどくだな。楽翁どのの申し立てを、そのまま左様かと受けて、御自分の窮地をのがれるようなお奉行ではないからの」
「父は、すべてを背負って、死ぬつもりかもしれぬ。どうも、今朝の様子は、余りにも洒々落々、物事を、ちっとも苦にしていない」
「あっ……。おいっ、義平太。あれを見ろ」
「えっ、な、なんだ?」
急に、勘蔵にそういわれて、勘蔵の見ている方を、何気なく、振り仰ぐと、いま出て来た楽翁の隣の二階に、頬づえついて、窓から往来を見ている男がある。
「わからんか、あの男……」
「ううむ、ゆうべの、藪八といった武家」
「そうだ。その藪八だぞ」
「はてな。どうして、この家に……?」
余り、見ているので、気がついたか、彼方の藪八も、ぴたと、そこの窓障子を閉めて、首をひっこめた。
小林勘蔵は、義平太に何か囁いて、かれ一人、奉行所へ、帰って行った。
義平太は、根気よく、附近の寺の境内から、その家の出入りを、監視していた。
果たして午近い頃、庭門の方から、ゆうべの藪八が、出て行った。──見えがくれに、義平太は、尾行した。さきは、気がつかないらしい。
だがやがて、何処までもと思って尾けてゆくうちに、驚くべし、このふしぎな人物は、堂々と、江戸城の一門から、奥ふかい城中へ通ってしまった。
唖然として、義平太は、お濠の外に、取り残されていた。それから先は、一歩もはいれる所ではない。
それから約、半刻ほど後。
例の、江戸城本丸の深苑、吹上の奥のお茶屋で、将軍吉宗は、紀州部屋住み時代からの側臣で、今も、お庭番の役名のもとに、股肱の者として召使い、時々、この場所だけで、またいつも必ず、人交ぜなく直接に会うことにしている──隠し目付の藪田助八と、きょうも、会っていた。
「藪八。調べは、ついたか」
「は。いささか」
「どうじゃ、越前の身は。……何とか、救えそうか」
「なかなか、むずかしい事のようでございます」
「はて。至難かの」
吉宗は、眉をひそめ、何か、意志のうずく時にする癖のように、右の膝を、かろく叩いて、
「やはり、北町奉行の輩が、越前を追い陥すため、誇大にいいふらしおるせいか」
「いやいや、左様ばかりでもございませぬ。越前自身が、敢て、自分の過去を、つつもうともせず、飽くまで、事件の真相を、洗いたてておるからでございます」
「さすれば、かれ自身、失脚するのみか、ふたたび世に出ることはできまいに」
「法の正明を守るためには、失脚などはおろか、おそらく、死を決して、当っておるものと思われます」
「おそろしい奴のう……」と、苦笑しながらも、何か、内心の焦躁を、眉にたたえ、
「──藪八。よくないな」
「何がでございますか」
「老中どもや、寺社奉行などの噂を通じ、それとなく、吉宗の耳へ、越前の過去の非行を、大げさに伝えてくる者は、常に、越前を功名争いの敵としておる北町奉行の輩と思わるるが」
「御明察のように思われます。が、その辺のこと、まことに微妙で」
「……と、いたせば、左様なことで、かれらに凱歌をあげさせるのは、役人根性の助長というもの。後々の、弊害も大きい」
「てまえも、心をくだきおりますものの、何せい、明らかな、事実があるので」
「藪八は、智者ではなかったかの。……頼もしからぬ奴ではあるよ」
「おそれ入ります。……が、もう少々、長い目で御覧じくださいませ」
藪田助八は、頭を掻いたり、平伏したりした。けれど、真底から恐懼しているふうでもない。かれは、吉宗もまた新之助とよばれていた部屋住み時代には、一個の町の不良児だったことを、たれよりもよく知っていた。
十日ほど後。──藪田助八はまた彼の仮住居へもどっていた。
近頃、かれが折々すがたを見せる仮住居というのは、例の牛込柳町の市川楽翁の隣家である。家主も隣の楽翁なら、留守中の戸締りも、食事の世話も、一切、隣賄いというわけで、彼にとれば、こんな気楽な借家はあるまい。
その代り、彼の咳ばらいか声でもすると、案内なしの庭づたいに、すぐ楽翁がやって来る。病家の迎えか、患者でも来ない間は、この医者は、隣家に入り浸りで、碁を打ち、世事を語り、時にはひそひそと何事か膝づめで密談していた。
「楽翁どの。南の与力たちは、あれきりかの」
と、今日も二人は、二階の一室で話しこんでいた。
「されば。あれきり、やッて来おりません。お燕は井戸へ身を投げたし──その墓石はこの通り──といい張ったので、あの深い井戸の址を、掘り返して見ることもならず、余儀なく、手を引っこめたものとみえます」
「だが。なお目明しなどが、この家の出入りを、見張っているような事もないとはいえぬから、油断はできぬぞ」
「注意は充分にいたしておる。──南はともかく、北町奉行の方でも、だいぶ動いている様子もおざれば」
「それよ」と、藪八は、膝を打って「──われらの手で、一日も早く、遮二無二、事件の落着を急がねばならぬ理由は、その北町奉行の策動こそおそろしいのじゃ」
「ところで、お燕の身は、あなたのお力添えで、ひとまず世間の外へ、葬いましたが。……なお、あれの母親、お袖という女の始末を急がねばなりますまい」
「それには、この藪八が、一案をもっておる。──楽翁どの、きょうは一つ、彼女を借りて、ちと外出したいが」
「どちらまで?」
「それ、いつぞやのお話の、寛永寺の別院へ」
「あ、なるほど」
と、楽翁はすぐうなずいた。その事についても、二人は、もうある打合せをすましているらしかった。
いや、お袖、お燕の始末に限らず、楽翁と藪八のあいだには、今度の越前守をめぐる問題のすべてに亙って、ある関与をもっていた。
その関与が、実は、将軍吉宗の意に出て、隠し目付藪田助八へ、
(こうせい。かくいたせ)
と、ある結論を与えて、先頃からしきりに奔走させているものであることは、もう疑う余地はない。
またその藪八こと藪田助八が、ひとたび将軍直々の隠し目付という特異な職能をもって、活溌に働き出すとなれば、かれの動かし得る捜査網や機能は、町奉行でも寺社奉行でも及ばないものがある。要するに、役名は一お庭番にすぎないが、駿河台の伊賀組甲賀組はみな彼の手足だし、時には、老中や若年寄へ機密な連絡をもつことも可能だし、たとえば、絶対な不可侵境といわれている大奥でも、輪王寺の宮の内事にでも、かれが刺を通じて、質問にのぞむ場合は、これを否むことができない。──それを拒むことは、将軍家の直意を拒むことになるからである。
「では、間もなく、お出かけかの」
「ウム。せがれ采女にも支度させ、ともかく、上野あたりまで」
藪八は、言外の意味を、笑顔に見せて、二階の窓から、庭の離室をのぞき下ろした。
「采女。──采女」
かろく手をたたいて、その屋根へ呼んだ。
離室は、階下の母屋の渡り縁から縁つづきになっていた。
「はいっ」と、やさしい声の返辞がきこえ、そこの小窓があいたと思うと、
「お呼びでしたか」
と、前髪姿の若者が、白い顔を振り上げて見せた。
おおその顔。いや、藪八に采女とは呼ばれたが、また、前髪立ちの小姓姿こそしているが──かつて山善に兇悪な強盗事件の起った当夜、江戸橋の自身番にふと姿を現して、万字屋の姉崎吉弥と名を偽って、そこに捕われていた母のお袖を助けて逃げたあの男装の妖女と、まるで瓜二つともいえるではないか。
──と、すれば、その後、御隠殿下の手入れの夜、寛永寺の森へ追いつめられた母子のひとり──お燕がそれにちがいない。
当夜、医者の楽翁が駕籠にのせて、何処へかへ隠し去ったお燕の身は、やはりこうして、楽翁の手で、ここに匿われていたものとみえる。
二階の藪八は、離室の顔へ、眼でうなずいて、
「うム、呼んだよ。今日はな、日和もよし、わしと一緒に、上野でも、ぶらつこうと思ってな。──はやく身支度をしておいで」
「え。上野へ……ですか」
「うれしいか。采女」
「うれしゅうございます。いますぐ支度して参りまする」
窓が閉まった。
藪八は、楽翁と、顔見あわせて、
「おもえば、不愍な者……」
と、呟いた。
が、楽翁は、後から首を振って、
「いや。不愍と申せば、彼女よりはまだ、越前守と申すお人こそ、世にもいたましいお方ではなかろうか。……そうそう、其許がお出かけなら、手前も赤坂のおやしきへ、お小さいのを、往診に参っておこう」
「赤坂の御病人とは」
「越前守さまのお末の子──お三ツになられるのが、春には重い風邪を病み、また梅雨すぎから疫痢にかかって、まだ捗々しくないのでしてな」
「やれやれ。それは越前どのにとって、まことに内憂外患だ。今の苦衷は、お察しに難くない。──にも関らず、毎日、平然と奉行所に出仕して、あらゆる四囲の逆境と、おのれに打ち剋とうとしている姿は、何とも雄々しいものでおざる。……吉宗様が、紀州御在国の時からすでに眼につけて、将軍職につかるるやいな、すぐ山田奉行から召し出された御眼識もさすがと頷かれる」
──その時、しずかに、梯子段を上がって来る跫音がした。
お燕であった。いや、采女といっておこう。
采女は、上品な武家の子息のような身装をし、前髪姿もつつましく、そこに両手をついた。
「あの……。支度して参りましたが」
ああいけない。身装を男に作っても、名を采女とよんでも、声、身ごなし、どうしても、女である。
かご寅の駕籠に乗って、藪八と采女は、牛込柳町から上野へ向った。
「ここらでよかろう」
山下で降りて、藪八は、祝儀をやり、見知らぬ者に何か問われても、一切、いうなと、口止めした。
かご寅の若い者は、楽翁との関係から、その辺のことはのみこんでいる。
「お案じなさいますな。その事あ、親方からも、堅くいわれておりますから」
「御苦労。帰ってよい」
まだ不忍池の蓮見には少し早いが、夏めくと、山内から池畔へかけて、何となく、そぞろ歩きの男女が多い。
が、寛永寺坂の森近くまで来ると、ここらは、根岸へ抜ける稀な人影のほか、往来人もめッたにない。
「采女。くたびれたか」
「いいえ……べつに」
「おお。花見の頃の、茶店の空家がある。茶売りも見えぬが、そこの蔭で休もうか」
「腰掛けもございます」
采女は、チリを払って、藪八にすすめた。
「そちも、かけたがよい」
「はい……」
「ところで、きょう出向いて来た目あては、そちにも、およそ察しがついているだろうな」
「ええ……」と、采女はさしうつ向いて、
「この寛永寺の別院に匿われている、私の母を、お訪ね下さるのでございましょうが」
「その通りだ。輪王寺の宮の寺侍、大内不伝という者が、お袖を匿っていると分っていても、そこは町奉行でも、手を入れることができない。──けれど、この藪田助八の申し入れは、宮御自身といえど、むげに拒めぬことになっておる」
「藪田様。……どうぞ、おっ母さんに、会わせて下さいませ」
「会いたいか」
「会いたくて会いたくて。夢に見るほど、会いとうございます」
「よし、会わせてやる。……だがお燕、いや采女。会いたいのは、母だけか」
「いいえ」と、采女は、ありのままな、女になって、しゅくしゅく啜り泣いた。
「──まだ見ぬ父親には、もそッと会いたいことであろうが」
「どうぞ、お慈悲に……、そのお父さまにも、会えるように、おはからい下さいませ。そして父と母とが、私の眼のまえで、ただ一度でも……手を握りあって……そして、私の口から、お父さん、おっ母さんと呼ばせてくれたら、私はすぐ死んでもよいと思います。ああ自分も、双親を持った人の子ぞ……と思って、どんなに嬉しかろうと思います」
「望みは、キッとかなえてやる。しかし、柳町の隠れ家でも、何度もいいきかせておいた通り、それにはそち自身がまず、楽翁どのへ誓ったように、堅い堅い決意をもって、その時を、待たねばなるまい。いや、自らその幸福を、剋ちとるほどな覚悟をもってかからねば、むずかしいぞ」
「はいっ……」と、采女は、涙の瞼を拭って、誓っている意志を、眸にきッと証だてた。
「楽翁様やあなた様から、じゅんじゅんと、深いお話を伺って、父の立場も、よく分りました。母の恨みは、もっともでも、父の立場は、それ以上大切です。そして、母が父を呪っているかぎり、子の私も救われませぬ。……きっと、私の真心で、母の思いちがいも、改めさせます。人を呪い世を呪う、あの怖ろしい心の修羅から、母を助け出さねばなりません」
「おお、よくいった。それでこそ、そちもたしかに大岡どのの血につながる者といえる」
「あの隠れ家に閉じこもって、毎日、じっと、身の宿命を考えてみてから、悲しいうちにも、一つの希望が、何やら心にさして参りました」
「生い立ちから今日までを振り返って、そぞろ空怖ろしい気もいたそうな」
「……でも、よくも母が、これまでに、私を育てて来てくれたと思います。長い年月、悪党仲間に交じって来ても、母はやはり心のきれいな人にちがいありません。……その母を、一日も早く、悪の泥田から助け出しとうございます」
「うム。きょうこそ、その目的で来たのだから、母に会っても、必ず、一時の情に引かれてはならぬぞ」
「だいじょうぶです。おっ母さんも、情のつよい人ですが、私にも、母を想う子の愛がありますから」
「では、行こうか」
「ちょっと、お待ちくださいませ」
采女は、物蔭へ立って、ふところ鏡を取出し、涙によごれた眼元を、直していた。
愛をもって愛と化す。──これが藪田助八の着想だった。
お袖が、いかに、呪咀に燃えて、越前守を恨もうとしても、その越前との仲に生した子の愛をもって説かせれば──と、彼はその成功を信じていた。
それにしても。
実に、意外だったのは、お燕の心の変化だった。ほとんど、生れ落ちたときから、悪の巣の中で育てられた娘。どんなに、手を焼かすかと思いのほか、ひとたび、父越前守に会わせてやるというたッた一つの希望を与えただけで、その日から、まったく、素直な、純情な、そして善を楽しむよい娘になってしまった。
そう説教したり、脅したりもしないのに、嘘のような、変りかたである。
おもうに、かの女が、母と共に、いろいろな悪事をして生きて来たのは、むしろ辛い努力の継続であったにちがいない。いや、母のお袖もまた、男を呪い通さねばやまないという誓いのために──ひいては世を悪く悪くと観る習性のために──実は、ほんとの自己の善を圧しかくして──本心にはない悪の表現に自ら身を苦しめている者かもしれないのだ。
(いや、おそらくそうだろう。そうとしたら、これは、あわれむべき純情な女のひとりだ)
藪八は、心で、そう見極めていた。
元来、藪田助八ほど、道楽者はないのである。侍のくせに、極道をし尽し、勘当もされ、浪人の味も知っている。──という妙な資格がみとめられて、徳川新之助(将軍吉宗の若年時の名)の父、紀州大納言光貞から、その傅役を命ぜられたものだった。
藪八はまた、その命を恥かしめずに、よく新之助に従いて、江戸中をほッつき歩いた。岡場所、吉原はもとよりのこと、盛り場という盛り場を遊んで歩き、当時まだ部屋住みの徳川新之助をして、あっぱれ、一かどの不良少年にお仕立て申しあげた。
世に、悪友というものはあるが、こんな悪主従という仲はあるまい。しかし藪田助八には、かたい信念があってのことだった。──朱に交われば赤くなる──なんていう諺は、素質を措いてのはなしで、真の素質というものは、決して、そんな脆いものではないというのである。
だが後に、しかも、間もなく、自分の仕立てた部屋住みの不良児が、天下の将軍に坐ろうなどとは、夢にも、予測していなかった。しかし、なってみてから考えた結論では、
(やはり、あんな下々の修行も、おやりになっておいてよかった)
と、自分では確信しており、吉宗もまた、少しも悔いているふうはない。
そんな下世話の世界のことは、まるで覗いたこともないような顔して、吉宗は、むしろ従来のどの将軍家よりも厳格で豪毅一点張りのごとく臨んでいるが──どうかすると、たった二人きりの、例の吹上の庭などで、ふと思い出ばなしが出ると、
(……藪八。もういちど、行ってみたいな)
などと戯れることがある。
藪八も、戯れ半分に、大げさに、手を振って見せ、
(いけませんいけません。もう、生れかわっておいでにならぬ限りは、とても、いけません)
大真面目にいって、ひそかに、笑いあったりする、主従だった。
──こういう、因縁つきの主従なので、吉宗に附するに、彼の隠し目付は、たしかに適役にちがいなかった。そして、今度という今度の事件に当っては、いよいよもって若い頃、君臣一致してやっておいた極道の妙が、実際政治の活用のうえに、大きく役立っていることを、吉宗も感じているだろうし、彼も内心、ムダではなかったと、ひとり得意に思う程だった。
──それは、さて措いて。
藪田助八は、お燕の采女をうしろに連れ、寛永寺の正門を、ずっと、通った。
そして、輪王寺の宮の、別院を訪れ、
「大内不伝どのに、お会い申したい」
と、だまって、寺役人に、刺を通じた。刺とは、名刺のことである。
「おられませぬ。ただ今、お出まし中でござる」
と、いう返辞。
どこへ? ──とは訊かず、藪八は、
「しからば、おそれいるが、宮家ご直々に、ちと、御内談申しあげたい儀がおざる。お取次ぎ賜りたい」
と、いった。
寺役人は、おどろいたような眼で、もう一度、かれの名刺を読み直した。
江戸城お庭番、吹上お茶屋付、藪田助八とある。
執事が出て来た。そして、いんぎんに、宮家にはあいにくと御病中なので──と、さすがに、面接をわびて、
「何事の御用向きか、もし執事の私でおさしつかえなくば、お取次ぎ仕りますが」
と、自身、客殿にみちびいた。
藪八は、采女を別室に待たせて、かなり長い間、執事と懇談していた。そしてさいごに、執事は、宮家の内意を得るために、奥まった所へ立ってゆき、程なく、座にもどって来て、確答した。
「大内不伝の素行については、平常、おもしろからぬ風評もあり、旁〻、仰せのような事実があれば、御遠慮なく、お取糺しのこと、何ら、さしつかえなしとのおことばにござります」
「では、念のため、別院の内を、調べさせていただくが」
「どうぞ。よろしきように」
藪八は、そこを去って、別院内の不伝の部屋へ案内を乞うた。
もちろん、不伝は留守。和書の本棚や、机や経巻などが、冷々と、備えてあるほか、ふつうの住僧の部屋とかわりはない。
「はて。彼の帰るまで、ここで待つといたそうか」
わざと、独り語をいって、藪八は一応そこに坐りこんだ。
将軍家の隠し目付がここに臨んだという囁きは、たちまち、全院の僧侶や寺侍につたわって、蔽いきれぬ動揺をよび起していた。
僧侶の秘事や、寺侍たちの悪風は、市中に露呈しているもの以上である。ここもまた、決して、それらの腐敗寺院の例外ではない。いや、寺社奉行も町方も足ぶみ出来ない一種の絶対権のある所だけに、実は、想像以上なものかも知れないのだ。
廊下の隅、大台所、講堂などの、あちこちに首を寄せて、恟々と、何か、声ひそませて協議していた役僧の寺侍たちは、やがてその中から一名の代表を出して、畏る畏る藪八の前へ、やって来た。
「何か、御詮議でございましょうか」
と、代表がいう。
「さればで──」と、藪八は、思うつぼへ来た者の顔を、ニヤリと見ながらいった。
「当別院のうちに、大内不伝が女を隠しておると聞き、その女に、用があって参ったのでござる」
「その女なれば、もうここにはおりません。……実は、われわれどもへまで、御嫌疑がかかっては迷惑と思い、ただ今、院中の者を呼び集めて、自発的に取質しましたところが」
「それは御好意」
「先頃、不忍池の蓮見茶屋の株を買い求め、不伝どのには、その女を、そこへ住まわせておるとか申す者がございます」
「蓮見茶屋とな。……なるほど。では、そこの女将にでもしているのか」
「いえ。女将か、どうかは、分りませぬが」
「場所は」
「中の島の弁天堂の側。そこには、一軒しかないそうで」
「いや、かたじけない。では、そこへ参ってみよう。采女、来い」
彼は急ぎ足で、寛永寺の門を出た。
途中、連れの采女をかえりみて、
「母に会っても、わしが、何か申すまでは、ひかえておれよ。不伝を見ても、同様に」
と、いいふくめた。
池の端から弁天島の灯のそよぎは、夕方からの夏景色だが、まだ陽が高いし、蓮の花にも、早かった。
「この家だな」
それらしい門をのぞいて、
「部屋はあるか」
「さ。どうぞこちらへ」
蓮見茶屋の女は、心得顔に、二人をいちばん奥の、池に臨んでいる小部屋へ通した。
酒、小皿物など、四、五品ならべると、
「御用があったら、お手をならして下さいませ」
と、気をきかすような口吻をのこして姿を引っこめた。采女を、蔭間茶屋の色子と見たにちがいない。
その蔭間茶屋は、池の端にたくさんあって、俗称には、いろは茶屋とも呼ばれている。客の多くは、上野の坊さん達だった。そして寺侍の株持もあり、夜となれば、紅燈にわく絃歌猥笑が、池の水を、あくどく彩った。
(いるか、いないか。不伝とお袖のそれを、確かめてからの上としよう)
藪八は、そう計っているもののように、おっとりと、杯をもち、時折、采女と、さりげない話をしていた。
──すると、池に臨んだ並びの二間ほど隔てた先の部屋で、
「何だッて。わたしの名をいっても、ここの女主人は、そんな者は知らないッていうのかえ。──そして、お勘定をだッて。じょうだんおいいでない。お金がないから、わざわざ此家のうちへ飲みに来たんじゃないか。それどころか、むかし馴じみのお袖さんに会って、拾両ほど、時借して帰りたいのさ。……もう一ぺんそういっておくれ。遠い以前だが、番町でちょいちょいお目にかかったお島でございますがとね」
女の声だが、声でも分るほど、酔っている。
さっき、藪八がここへ通った時、つまらなそうに、独りぼッちで、池を見ながら手酌で飲んでいた四十がらみの女がちらと見えた。境のふすまを、女中がすぐ閉めたので、よくも見えなかったが、その年増女にちがいない。
ひどく啖呵の切れる──そして酒がいわせるのか、妙に自暴をふくんだ女のことばに──困りぬいた女中はまた奥の内緒へもどって行った。
奥ではさっきから、爪弾きの低い絃の音がもれていたが、ふッと止んで、女中の声やら男の声も交じり、何か、ひそひそ揉めていたが、やがて女将らしいのが、年増の客の部屋へはいって来た。
「だれだえ。私を、知っていると仰っしゃるのは」
「まあ、やっぱりお袖さんだったね。ほんに、久しぶりじゃないか。ま、一杯おあがりな」
「たれかと思ったら、むかし八丁堀にいたスリのお島さんだね」
「おまえさんも、変ったこと。化物刑部のお仕込みで、その後は、たいそう凄いお姐さんになったんだってね。……実は、仲間に会って、ついこの頃のおまえさんの様子を聞いたから、お祝いに来たのさ」
「ご親切さま。だけど、生憎と、お祝いをいただくようなこともないよ」
「おかくしでない」と、お島は、また独りで酌いで、独り飲みながら──
「寺侍の大内不伝とかに、茶屋の株を買わせて、すっかりここに、納まっておいでじゃないか。……それにひきかえ、私の末路ッたらありゃしない」
「八丈島へ保養においでだと聞いていたが、その様子じゃ、おおかた島破りという筋だね」
「あんな所で、長生きしてみても仕方がないから、ひと思いに、舞い戻って来たのさ。この世の見おさめに、したい放題な事をして──と、そッちこッちで、手出しをしてみるけれど、十年も島暮しをしていたせいか、むかしのように勘も働かないし、体もしなやかに動けないので、稼ぎはさッぱり上がらないし、厚化粧して、盛り場を歩いても、もうこんな年増には、釣られるような男もない。……ああ、考えると味気ない。女も、四十の声を聞いちゃあ、もう悪事や色気の裏街道じゃ暮せなくなるものだよ。おまえさんも今のうちに、色香も失せた後の自分を、よく考えておいたがいいよ」
その言葉には、女の晩秋におののいている女の真実がこもっていた。酒がいわせる一場の戯言ではなさそうだ。胸いッぱいな自暴と、虚無と、泣きたいような悔いを吐くために、お島は、酔えるだけ酔おうとしているらしいのである。
初めは、つまみ出すつもりで来たものの、お袖も、お島と似たり寄ったりの、はぐれた女の生涯を歩いている。ふと、身につまされて、晩秋の女の末路を、眺めないではいられなかった。
──で、急に、やさしく、
「わかったよ、わかったよ。ネ……お島さん、お勘定はいいから、帰っておくれ。夕方になると、客商売で、断われないお客様も見えるんだから」
「いいじゃないか、まだ。……おまえさんの顔を見たら、気易くなったせいか、急に眠たくなった。寝かしといておくれ、すこしここで」
「こまるじゃないか、お島さん」
「困らないよ、私はちっとも。……花のお江戸も、私にとっちゃ、枯れ野の芒しか見えやしない。どうせもう、近いうちに、自訴して出るつもりでいるんだ。あわれと思ったら、今のうちに、飲ましておくれ。……ああ、のどが渇いた。冷酒でもう一本ほしい」
「あら、そんな所へ、寝てしまって。……ま、困った人だね」
「このまま、南町奉行所へ、かつぎ込んでおくれな。ね、後生だから」
「南町奉行所へだって」
「あ。自訴するなら、私あ南へ、駈けこむつもりさ。本望だものね」
なぜか、お袖は、むかっと顔いろをうごかして、急に、お島の手を抜けるほど引ッ張った。
「さ、出ておいで、出ておいでよ。そして、さッさと、南へ自訴して行くがいいじゃないか」
物音を聞いて、奥の内緒から、男の足音が、あらあらと、近づいて来た。
そして、お袖と共に、お島を外へ引きずり出そうとする時、それまで物静かに杯をなめていた藪八は、つと立って、
「ちょっと、そなたに会わせたい者がある。こっちへ顔をかしてくれい」
お袖の手を横から捉えて、自分の部屋へ連れて来てしまった。
「あっ……おまえは?」
お袖は、お燕の姿を見ると、本能的に走り寄った。だがお燕は、藪八の顔ばかり見ていた。かれの許しのないうちは、何もいってはならないと、ここへ来る前の約束をかたく守って──。
「お燕! どうしておまえは、ものをいわないの。お燕! わたしだよ。おっ母さんですよ。そんな取り澄ました顔をしてさ。一体、どうしたわけなんだえ。……そして、そこにいる人は?」
と、かの女は、わが子の膝を揺すぶッた。そしてふと、後ろを振り顧ると、そこにいた藪八と、あとから入って来た大内不伝とが、どっちも無言のまま立ちはだかって、じっと、睨み合っていた。
「貴公が、寺侍の大内不伝か」
藪八が、とたんに、口を切った。
「いかにも、おれが不伝だが。──それがどうした」
「すると、その女は?」
「なんだ、貴様は。それからいえ」
「わしは、こういう者だが」
と、名刺を示し、すぐ次に、輪王寺の執事から取って来た、不伝への追放状を見せた。
「あっ、こ、これは……」
「不伝っ。まっ直ぐに申さぬと縛り上げるぞ」
「いけねえ」
と、いうやいな、不伝は、駈け出して、ばっと、往来へ逃げ出した。
藪八はすぐ往来へ向いた縁の障子を開け、そこから弁天堂の方へ呶鳴った。
「おーいっ、蔭の者、その男を、ひッ捕えろ」
蔭の者とは誰なのか。供の者という意味だろうか。だが藪八に供が従いていた例がない。
けれど事実は、かれの行くところ、必ず、見えない供の者が、従いて歩いた。江戸城の隠し目付藪田助八に、手となり足となる助力者が附随していないわけもない。
果たして、不伝が駈け出した先に、二人の武士が、横から躍り出していた。大手をひろげて、難なく捕まえ、藪八の次の命令を、耳澄まして待っていると、
「いや、よせよせ。どうせ其奴は寛永寺の追放者。捕えたところで、足手まといだ。押ッ放してしまえ」
そう聞えて来たので、二人の蔭の者は、不伝の背中を突き飛ばして、苦笑しながらその影を見送った。そしてまた、もとの木蔭に腰をおろし、悠長に、煙草のけむりをふいていた。
「采女。もうよいわ。……何でも話すがよい」
藪八は、部屋の障子、ふすまを閉めきって、そういった。
だが、許されても、涙ばかりで、お燕は母に、何もいえなかった。
お袖の猜疑は、藪八をすぐ、敵と見てしまった。かの女の眼じりはもう非常な決心と敵意を示していた。お燕をさえ、その眸は、憎々しげに、見てくるのだった。
「ああわかった……。お燕、おまえは、町奉行の囮になってここへ来たんだね。畜生、おふざけでない!」
「ま。おっ母さん、何を仰っしゃるんです。私が何で、おっ母さんを、釣り出そうなんて」
「じゃあ、そこにいる人間は誰さ。やはり南の与力か何かにちがいあるまい」
「いいえ、ちがいます。私の大恩人です」
「恩人だって。どうして、恩人なのか、いってごらん」
「でも、私を、まだ見ぬ私のお父さまに、会わせて下さると、仰っしゃいますもの。また、おっ母さんのお身についても」
「おだまりッ。お黙りっ。聞きたくもないよ、わたしは……」
お袖の声は、叫びに変った。お燕が──父──と呼んだたった一言からである。
「それごらんな! おまえはこのおっ母さんを裏切って、あの人非人の父親に付いたのだろう。そして、甘いことばに乗って、わたしを捕まえに来たにちがいない。さ、明らさまに、いったらいいじゃないか。おっ母さんに縄を打つなら打ってごらん。……わたしは、わたしは、死んだって」
お袖は、たちまち、顔じゅうを涙にしながらも、呪咀の火、そのもののように、眸も、頬も、耳までも燃やして、なおいいつづけた。
「死んだって、あんな男に、おまえを、わが子なんて呼ばせるものか。また、あの血の冷たい人間が、どうして、おまえなぞを、わが子と思ったりするもんかね! ……お燕、おまえは騙されているんだよ。このおっ母さんが、おまえぐらいな年の頃に、あいつに、騙されて、おまえを産み……そ、そ、そして……一生涯を、こんな滅茶苦茶にされたように……」
「いいえ、いいえ。落着いて、よくわけを聞いて下さいよ、おっ母さん。……ここにいらっしゃる藪田様も、あのお医者の楽翁様も、決して、私たちを、そんな不幸にしようと、御苦労なすっているのではございません。……おっ母さんが、そう思いちがえておいでになっては、おっ母さんも、遂には、獄門台にまで上らなければなりません」
「ホホホホ。今さら何をおいいだえ。獄門台。ああ私は、そこがさいごの私の笑い場所だと思っているのさ」
「よしてくださいっ。怖ろしい!」お燕は、母の膝へ、爪を立てるように泣き慄えて──
「おっ母さんには、まだあの化物刑部たちの、悪魔のたましいが、憑いているんです。もし、そんな事にまでなったらば、お燕の一生は、どうしましょう。あの、南町奉行のお役にあるお父さまの身はいったいどうなりますか」
「ええ、何さ、いわしておけばいい気になって。──南町奉行か何か知らないけれど、あんな仮面を被った偽せ者の畜生みたいな男が、どうなろうと、知ッたことか。いいえ、私はこれからも、あの男が奉行でいる限り、もッともッと悪い事をして、白洲へ出たらいってやる気だよ。そして獄門台の上までも、抱いて行きたいくらいなんだ。だけど……ただただおまえがいるだけに」
燃えては歇み、燃えては歇む、明滅にも似て、お袖はまたふと泣きくずれた。どんなに呪い狂うときでも、子の行く末を意識に映すとき、その瞋恚は、一瞬、火から水のような冷静に返った。
その激情の機微なる息づきを見て、藪田助八は、横からことばをさし挿んだ。
「お袖。くわしいことは、ここでは話しかねるのだ。わしと共に、静かな所まで来てくれぬか」
「牢屋へですか」
お袖の尖りきった神経は、すぐ猜疑の刃を、研いだ。藪八は、やわらかに、笑い消して、
「いや、この藪田助八の屋敷だよ。わしは、南町奉行所とは、何の関係もない者だ。むしろ、越前守の過去の素行を、さるお方のいいつけで、つぶさに調べ上げておる者じゃ」
お燕も、拝むようにいって、共に縋った。
「おっ母さん。藪田様のおことばに、決して決して、偽りはありません。私も一緒にまいりますから。……ね、ね、おっ母さん」
でもなお、お袖は疑っていたが、そのとき、あなたの空き部屋で、酔い伏しているとばかり思われていたお島が、這うように、身をもたげて、ふすま越しに、こういうのが聞えて来た。
「ああ、羨ましいねえ! ……お袖さんには、そんないい子があったじゃないか。余りぜいたくをおいいでないよ。わたしなら、わたしを騙して捨てた男のでもいいから、わが子と名のつくものが欲しい。──もし、そんな子があって、子に引かれて行くならば、針の山へでも登ってゆくよ。……何を迷っているのさ、お袖さん。行っておやりなね。ああ、欲には限りがないものらしい」
湯島天神の縁日でもあろうか。切通しの森を透いて、紅提灯や虫売りの灯が、夜空の星と争って、風のふくたび、戦ぎ立って見える。
「お燕。──遠いのかえ、行く先は」
「いいえ。牛込の矢来ですから、そんなにも……」
母と娘は、こうして、連れ立って歩くことの久しぶりを、さすがに、なつかしまずにいられなかったであろう。お袖もお燕も、ひたと身を寄せ合って、湯島の切通し坂を登っていた。
けれど、すこし離れた後からは、お袖にとって、まだ何となく心のゆるせない藪田助八が尾いて来る。それが気になって──お袖はなお、お燕にさえ、心も口も閉じているふうである。
(いったい、矢来の家とやらへ、自分を連れて行って、どうする気だろう?)
かの女には、この猜疑が、実はまだ、溶けてはいない。──お燕も泣いていうし、藪八も懇ろにすすめるので、蓮見茶屋から一しょに出ては来たものの、なお、不安はしきりなのである。
(自分にとって、敵か味方か)
こう考えると、お袖は急に、しまッたという気がした。
悪の仲間に住んで来た通念からいえば、この世の中に、真実の味方などはない。ほんとに、お互いを思い合う者は、悪の仲間の悪同士だけで、世間の善人面には、ただ一人の同情者もあるわけはないと信じるのだった。
「お燕。……これっきりだよ」
「あ。おっ母さん。どこへ」
「叱っ。……」
お袖は、自分の袂の端を持ったわが娘の手を、袂の蔭で、そっともぎ離しながら、きつい眼をして囁いた。
「おまえは、あの藪八とかいう手先に騙されて、すッかり囮になってしまったんだね。そうだろう。あれは越前守のまわし者と私は見たよ」
「ちがいます。ちがいますよ。おっ母さん」
「いいえ。わたしには、もう読めた。お燕。これっきり、おまえとも、会わないからね」
小声でいったと思うと、お袖の影は、ふいに縁日の辻へ、ツイと走りこんでしまった。
ちょうど、暗い切通しを登りきって、そこらの灯影人影に、立ち紛れた途端なので、後から歩いていた藪八も、お燕が、あれッ──と、泣くが如く叫んだので、初めて、はっと気がついた程だった。
「やっ。お袖は? ──」
「あ、あの、人混みの、露店の蔭へ」
お燕も走った。
藪八も追いかけた。
また、藪八に従いて、見え隠れに供していた「蔭の者」二人も、一しょになって、風鈴や虫売りなどの灯の巷を、躍起となって探しまわった。
隣家の市川楽翁は、夜が明けるのを待ちかねていたように、庭づたいにやって来て、藪田助八の隠れ家をたたいていた。
「や。藪八どの、もうお眼ざめか」
「何の、いま帰ったばかりだ」
「ほ。それでは、寝もやらずに?」
「されば。昨夜は、えらい目にあってな。藪八一代の不覚をやってしもうた」
「……では。お袖は、お連れにならなかったので」
「首尾よく、居どころを突きとめて、途中までは、連れて来たのだが……」
きのうの出先から昨夜までの始末を──そして湯島天神の辻で、ふと、そのお袖の姿を見失い、ついに空しく探しあぐねて帰って来たことなどを──藪八は、いかにも、疲れはてた面持ちで、つぶさに話した。
そう聞いて、楽翁も、
「はて、これやいよいよ、事難かしくなりおったわい」
と、額に手をあててみたり、腕こまぬいて考えこんだり、藪八と共に、果てなく憂いに沈みこんだ。
「……して。お燕は今朝、どうしておりますか」
「いや、あれは、戻るとすぐ、そっと離室へ寝せておいた。生なか、母にひと目、会ったあげく、その母の口から、世を呪う声ばかり聞かされたので、ひどく心を傷めたものか、まるで重病人のようになっておる。……あとで、脈を診て、煎薬でもやっておいて欲しい」
「やれやれ、病人ばかり出る。今に、こっちも、病みつきそうじゃ」
「きのうは、赤坂のやしきを見舞われたか」
「うム。越前どのの小さい息女(次女、園子)もまだ癒えぬうちに、こんどは御内室のお縫様が──なんとまた二、三日前から大熱じゃ」
「え。奥がたも、病床か」
「聞けば、むりもない次第じゃ。お奉行どのは、あの御気性ゆえ、御家庭に帰っても、一切、公務については、おくびにも、家人にお話しになるようなことはないらしいが──ここ幾月となく、何となく、家にあっても気色のすぐれぬ良人の容子に──奥がたのお縫様にも、いつか、こんどの事件を、お知りになったものらしい」
「さもあろう。妻として」
「あいにく、この春以来、末の息女が、風邪とも、麻疹ともつかぬ御病気。その看護に、お疲れの上に、良人の大難と聞かれて、先頃から夜ごと、水垢離とって、神信心など、なされたものらしい。そこで、親子そろって、枕をならべておる始末じゃ」
「越前どのは、毎夜、やしきには、帰っておられるか」
「いや、ここ十数日も、役宅に泊りづめで、おやしきへは、戻っておらぬ。奥がたへも、ある重要な事件が起きたゆえ、それの決着をみるまでは、家には戻らぬぞ──と、それとなく、覚悟のほどをいい遺しておかれたとか」
「……ううむ、さては」
藪八は口のうちで思わず唸いた。
察するに、越前守の肚は、いよいよ堅い。妥協、回避、頬かむり主義、あるいは、もみ消し運動など、公吏の処世では常識とする──それらのどれ一つを選ぼうともしていないのだ。
放っておけば、帰着は明白だ。町奉行の失脚──自己の滅亡。わかりきっているその事を、今や、かれはかれ自身の手で、孜々として、急いでいる。
「これや、いかん。もう、策はないぞ、楽翁どの」
「貴公ひとりが、頼みの綱じゃ。そう、サジを投げては困る。愚老の力もつきはてておるのに」
「この上は、さいごの、一案しかない。好むことではないが、今は、その一案を仰ぐしかあるまい」
「さいごの、案とは」
「将軍家のお声をもって、一切、この事件を、闇に葬り去ることだ」
「はーて。それができればな」
「吉宗公の御代になっては、そんな例は一つもないが、前代、前々代の綱吉公の頃などには、例は、枚挙にいとまのない程ある。大官の違法、大奥の醜事など、おたがい、闇の見て見ぬ振りに、驚くべきほどな非行も、それなりに済んでおる」
「それに較べれば、越前どのの事件などは」
「軽い軽い。それ故にこそ、上様が、この藪八に申しつけて、何とか、表面に出ぬように済ませろ──と御内意あったくらいなのだ。しかし、われらの才覚では、到底、越前どのの、決意を曲げられず、また、北町奉行の攻勢を防げぬとあれば」
「そうだ、藪八どの。……こうなれば、鶴の一声。それを仰ぐしか、術はなかろうて」
「うム。申しあげてみよう。上様にも、おそらく、思し召し違いはあるまい」
その日、藪田助八は、お燕の身や、あとの要心を、楽翁に托して、ひそかに、江戸城の吉宗へ、会いに行った。
しかし、その手順も、難かしいのか、あるいは、吉宗の容れるところとならなかったか、藪八は、次の日、また次の日も、この隠れ家には帰って来なかった。
その五、六日の間に──である。
江戸の町々には、毎夜、奇怪な事件が、幾つも起った。
〝女の追剥ぎ〟
〝女の高札斬り〟
夏の夜々の涼み台では、その噂でもちきりだった。男女の心中とか、幽霊が出るとか出ないとか、陳腐な夏の夜ばなしとちがい、これは耳あたらしい事件なので、涼み台には恰好な話題ではあった。
上野を追放になった寺侍の大内不伝は、さっそく、下谷の練塀小路の裏に借家して、その日のうちに、蓮見茶屋の世帯道具を、運ばせていた。
すると、それで知ったか、すぐ翌る日、お袖もここへ尋ねて来た。
「お袖、こんな句があったじゃねえか。──お手討の夫婦なりしを衣更え。……どうだ、いっそこのまま、夫婦になろうか」
「ふ、ふ、ふ……」お袖は、紅皿を持ちながら、唇を反らして、鏡の中で笑っていた。
「なにを笑うんだ」
不伝は、浴衣がけの体を、寝そべらして、頬づきながら、女の化粧をながめていた。
「だって。お燕がいれば、お燕を口説くし、あれがいなくなると、私だなんて。あほらしくって」
「いや、真面目にさ。こう見ていると、どうして、其女もなかなか捨て難い」
「やめておくれ。こう見えても、お燕をあの年まで育てて来たきょうの日まで、男に目をくれたことはない私なんだから」
「へえ……」と、嘲い返して、
「化物刑部は、おめえの、旦那だったのとは、ちがうか」
「男のはなしをしてるんでしょ。あんな獣を、私あ、男とも何とも思って来たわけじゃないもの」
「じゃあ。その前の、大岡市十郎ってなあ、どうなんだい」
「うるさいね」
「うるさかねえさ。男ぎらいだなんていうからつい訊きたくなるんだ」
「知らないよ!」
お袖の眉が、鏡の中で、ぴくとうごいた。怒るとも泣くともつかない眼であった。そして、手の紅皿を無意識に、
「畜生。こうしてやるから、見ておいで」
と、庭石へ投げつけた。
紅と白の砕片が、粉になって、発矢と飛んだ。不伝は、刎ね起きて、
「お、おい。どこへ行くんだ?」
と、かの女の狂的な姿を、呆ッ気にとられて、次の間へ、見送った。
「大きに、お世話」
お袖は、箪笥のひきだしを、がたがたいわせていた。夕化粧して、紺の風通織の単衣を着、一本の団扇を持つと、かの女は、毎夜のように、どこかへぶらりと出て行った。
男があるな。──と、不伝は気をまわした。それまでは、お燕がかれの目標だったが、急に、嫉妬が出てくると、お袖にもまだ捨て難い年増の魅力があると思い初めた。
「こう。どこへ行くんだ、どこへ。……また出かけるのか」
「だって、こう暑いのに、家にいても、退屈ですもの」
「他人の世話になりながら、退屈はおそれ入るな。おめえみたいな吾儘者は見たことがねえ。おれを、刑部とまちがえちゃ困るぜ」
──お袖はもう仄暗い門口にいなかった。
「そうだ」と、不伝は遽かに、腰をあげて、裏口から草履をつッかけた。どこへ行くのか、あとを尾けて、お袖のきいたふうな口を、封じてやろうと考えたのである。
大川端の方へ行く。やがて、厩河岸をぶらぶらゆく。
涼み船、涼み床几。水の上も岸の上も、夏をたのしむ和やかな人影ばかり。お袖の影も、その一人としか見えなかった。
「はて。やはり涼みだけに歩いているのかしら?」
不伝は、折々、うしろも振向いた。蓮見茶屋での出来事は、かれにとって、まだ生々しかった。お袖、お燕の素姓は、うすうす知っていたが、何となく、不気味なものは拭いきれない。しかもその不気味さが、かれにとっては、ただの町女よりは、一そうな魅惑でもあったのである。
「おや?」
不伝は、立ちどまった。夜になると、大川端には、たくさんな闇の女が出る。夜鷹、舟まんじゅう、麦湯売り、比丘尼、山ねこ、雑多な名でよばれているが、闇に咲く白粉の女たちであることに変りはない。
柳に葭簀を立てかけたその一囲いにお袖はかくれた。──と思うとそれから、ついと、蝙蝠のように、早足に、出て行った男の影がある。
黒い薄衣に、同じ薄ものの露頭巾をかぶり、大小をさし、草履ばきで、すたすたと行くうしろ姿が──肩のやさしい線が──どこかお袖と似ているようでもあった。
「おいっ、今、ここから出て行ったのは、客か、誰だ。嘘を申すと、承知しねえぞ」
不伝は、葭簀の蔭にいた闇の女を、脅しつけた。
女は不伝を、町方とでも思ったか、顔いろを変えて、すぐしゃべった。
どこの御新造やら知れないが、何でも、淋しいお寺へとか、百夜詣りに通ってゆくと、いうことで、途中、お菰たちが、女と見るとわるさをするので、わざと男の身なりをして行くのだと聞かされていた。
「じゃあ、毎晩ここで、今のように、身なりを変えて行くんだな」
「ええ。わたしは、そのお着物と大小を預かって、駄ちんをお貰いしているだけです」
「そうか」不伝は、すぐそこから駈け出した。そして、また、お袖の影を先に見つけた。
あなた、こなた、お袖は、夜の物蔭ばかりを、さまよった。
そして、深夜を待った。
かの女のひとみは、夜の更けるほど、美しい野獣の眼に似た。五体は、敏捷を加え、世間にたいし、不敵になった。
「こん夜は、どこのを?」
呪咀に燃えるその眼は、路傍の高札を見つけると、仇に出会ったように立ちすくんだ。
町奉行所の名を以て、政令や禁令の〝べからず〟を箇条書きした高札は、江戸の橋々や見附や盛り場の辻などには、必ず立っている。
幕府の法度令もある。町内五人組の布令もある。
しかしお袖は、それらの中でも〝南町奉行所〟の名のある高札だけに挑戦した。かの女の挑戦とは、その高札を、斬ッて捨て、踏みにじり、あるいは、附近の溝へ捨てたり、明らかに、南町奉行への反抗とわかる行為をして遺すことだった。
その夜も、かの女は二ヵ所の高札にいたずらした。いや、かの女にとれば、生命を賭けての、法への挑戦であり、南への嘲侮であり、男への復讐なのだ。──高札を切り仆して、それを、踏みにじり踏みにじり、果ては、泣けて、自分の身も、高札と共に、地へ泣き仆れそうになった。
「お袖……もう帰らねえか」
竹屋河岸の人通りもない所で──かの女はふと呼びとめられた。
「あ。……たれかと思ったら」
「大内不伝だ。はははは……気がつかなかったか。ずっとあとを尾けて来たのを」
「そう……」お袖は、水のようにとり澄まして、驚いた気ぶりもなかった。宵のうちのかの女と、深夜のかの女とは、不伝の眼にさえ、別人のようだった。何か、寄り難い凄気に吹かれた。
「おいお袖。この頃、町で噂の高札斬りは、おめえの仕業だったんだな。つまらねえ仕返しをやったもんだ。越前守を恨むなら、もっとほかに、方法もあろうじゃねえか。──たとえば、男道楽よ。自堕落の仕放題をやって、こうなったのも、あの男のせいだといいふらしてやった方が、おもしろくもあり、おめえにとっても、身の為だろう」
「身の為……」と、お袖はほほ笑んで、「身なぞはとうに捨てている私ですよ」
「ばかをいいねえ。御用を食ったら、それッきりだぞ」
「ああ、いつでもと、待っているのさ。白洲や獄門が恐くて、こんな真似ができるものかね」
「よせ。ばか」
近づいて、不伝は、お袖の肩を抱いた。そして、もし夫婦になる気なら、世帯道具を売り払って、暫く、旅暮らしに出ようじゃないか、金はあるぞと、囁いた。
お袖の手が、不意に、不伝の胸いたを突きとばした。不伝は、うしろの竹束に辷って、
「やっ、何をしやがる。恩を仇で、返すつもりか」
と、わめいた。起ち上がろうとする弱腰を、お袖はまた突き飛ばした。うしろはすぐ河だった。あっという不伝の声と水音が、河の下から水玉になって刎ね上がった。
お袖は一とき、ひた走りに駈けたが、すぐもとの歩調にもどっていた。──これでもう練塀町の不伝の家にも帰れないと思い、何かしら、自分の歩いている突き当りが、もう近づいている気がした。
──江戸ばし。
橋の欄干にある文字に、お袖は、何かぎょっとした。その文字の読めるほど、近くの番屋の腰障子から、明りが流れていたのである。
自身番があると知れば、自分から近づくわけもなかったが、何か、もの思いしながら、うかと、橋の前まで来ていたのだった。──当然、かの女は本能的に、びくッと、身を翻しかけたが、またふと、危険も忘れて、立ちどまった。
ここにも、高札が立っていたのだ。
わけて、南町奉行とある墨のあとは、かの女の眸を、ひきよせた。
「おい。……何か、遠くで、へんな水音がしたぜ。じゃぼーんと」
自身番小屋に寝ていた庄七は、寝床の中から、由蔵にいった。
「耳のせいだろう。俺には、聞えなかったが」
「そうかな。うとうとしていたところだったから、そういわれれば、夢だったかもしれねえ」
「庄七。気を休めろよ。気を暢んびりしていねえと、いつまで体は癒らねえぜ」
「有難う。だが、すこし熱が発ると、すぐ、夢に見て仕方がねえ」
「この春の……黒装束の女の親子か」
「ウム。堀留の山善に、押込み強盗がはいった晩よ。……思い出してもぞっとするが、思えば、おめえも俺も、よくもまあ、命拾いをしたもんだ」
「俺は、思いのほか、浅傷だったので、ひと月も経つと、もとの体に回ったが、何しろ、おめえの傷は、場所がわるい」
「でもなあ、由。あれが、女の力だったから、これくらいですんだが、男の腕でやられていたら、その場で、命はなかったろうッて、お医者がいった。……欲には限りがねえよ。日ごろ正直に勤めていたので、神さまが、お助け下すッたものだと俺あ思ってなあ──寝床の中にいるうちに、この頃おれは、すっかり信心家になったよ」
話しこんでいると、その時、たれか番屋の裏を、通り抜けたような気配がした。
「おや? ……由。どうもおかしいぜ。ちょっと、裏を廻ってみな」
「脅しちゃいやだぜ。……どうもあれ以来、臆病ぐせがついちまった」
「おめえの臆病は、この頃のことじゃアあるめえに」
「だが、あんな目に遭えば、誰だって、当分、オジ気は直るもんか。ああ、はやく番太稼業なぞは、やめてえもんだ」
やっと腰をあげて、土間の隅から六尺棒を手に持った。そして、油障子を開け、外へ、顔を出したと思うと──どうしたのか、由蔵は、ぶるッと、胸をふるわせて、そのままそこに、声をのんで、自失してしまった。
すぐ目と鼻の先の橋のたもとに、黒い人影を見たのだった。しかも夜目にも白い覆面のうちの横顔は、この春の、恐怖の夜を、思い出させるに、充分だった。
──お袖は、自身番の灯も、辺りの気配も、否、あらゆる怖れをすでに忘れていた。
奉行! 南町奉行……その文字へ、かの女は、唾したいような憎悪をおぼえた。
なんたる権威の嘘。そらぞらしい掟の箇条書。コケ脅し。そんな偽善に、私だけは、騙されはしない──と、かの女の憤りは燃えやまない。
しかし、その根底にある悲恋の傷痕が生々と傷んで来ると、恨みは、純然たる女の復讐だけになった。女の一念と呪いを、眦にえがいて、咬み裂くような声を咽喉につまらせ、
「ちッ、ちくしょうっ」
と、刀を抜き、脳裡の人間像を斬るように、高札の脚へ斜めに斬り込んだ。
斬れない。腕の弱いせいか、一打ちには、斬れないのである。かの女は、一撃ごとに、夜叉の相になった。
──と。その手もとへ。
ひゅッと、何か、飛んで来た。
「あッ──」と、よろめいた時、かの女はそれが、一条の麻縄であることを知った。いうまでもなく、捕り縄だ。
搦んだのは、刀の鍔だった。かの女は、無意識に、刀を投げ捨て、泳ぐようなかたちで、逃げかけた。
「それっ、左右太。早くっ、早く召捕れ」
「えい、おぬしこそ、なぜ捕えぬ」
たがいに、躊躇い、たがいに譲り合っているような、ふしぎな声が、番屋と橋の間の木蔭に聞えた。──その隙に、お袖の影は、橋の上を、夜魔のごとく、駈けてゆく。
「義平太、来いっ」
さきに、そこから捕り縄を抛ッた山本左右太は、とっさに、叫びながら、身を橋上に躍らせていた。
「──鬼になれ、鬼になれっ。ここでまた、見のがしては、お奉行の心を、踏みにじるのも同じだぞ」
「オオ。もう迷わん。おれが召捕る」
二人の脚の迅さは、もちろんお袖をしのいだ。
「観念っ」
「お袖。御用っ」
ふたつの喚きが、同時に、お袖のかぼそい影を圧し伏せた。もろ手を、後ろへ捕られながら、お袖はさけんだ。
「南の役人かえ。北の人間かえ。どっちなのさ。どっちだか、それを、聞かして」
答えず、あともいわせず、二人は、お袖をからめ上げて、すぐ自身番の方へ、引ッたてた。
その縄尻を持つ市川義平太も、山本左右太も、見るにたえないもののように、お袖の姿に、眼をそらして歩いた。いや、二人の眼には、涙すらあった。暗然と、唇をかみ、またあわてて、肱を曲げては、両眼を拭った。
「番太郎っ、ここを開けろ。腰障子を」
ふたりは、縄付のお袖をそこの土間へ連れこむと、ほっと、炎のような大息をつき、番屋の中の片隅へ、へなへなと、崩れるように、腰をついてしまった。
「…………」
左右太も義平太も、もう何もいう気力はない。
これで、越前守様の運命も、はや、決まったと、思うだけであった。
どうしても、泣けてくる。泣くまいとすればするほど、こみあげてくる。
いかに、江戸町奉行という重職にあるとはいえ、これほどまでに、しなければならないだろうか。
義平太の父、市川楽翁が、いつも激越な自信をもって、その非をいってやまない声が、たちまち、二人の耳に、甦っていた。
──とはいえ、もうお袖に縄をかけた今夜、何を今更、考える余地があろう。おそらく、これを知ったら、市川楽翁は、自説の破れを悲憤して、自刃するかもわからない。いや、慥にするといっていた。あの老人のこと、言を、ひるがえすはずはない。
「……自分らも、生きてはおれぬ」
ふたりはもう言外に、それを誓いあっていた。もう一名の同僚、小林勘蔵とて、いさぎよく、自決の道をとるだろう。
「……何たることだ。人間、いかなる貧しさや、辛い職業に生きようとも、法をかかげて、法を執り行うような公吏になどなるものではない。──ああ何で、法官の下に、与力などと呼ばれる者になったものか」
義平太は、自分さえ、南町奉行所に職を奉じなければ、医者の父までを、こんな渦中に捲き込みはしなかったろうにと、身一つならぬ悔いに打たれた。
実に、きょうまでの間には、幾たびとなく、この者たちは、お袖について、
(召捕るべきか。見のがそうか)
を、迷いに迷い、悩みに悩んで来たあげくだった。
越前守は、ここ十日余りも、赤坂の邸へも帰らず、役宅に泊りづめで、
(他の者の調査は一切すんだぞ。お袖ひとりを召捕れば、直ちに、白洲はひらかれる。私心を払って、一刻もはやく縛ってまいれよ。越前に、早う安堵させてくれい)
と、朝に夕に、部下の者を、鞭撻してやまないのである。三与力の行動に、やや鈍さでも見ると、
(さてさて、おろかな愚痴どもよ。そちたちの手にあわぬとあれば、越前守自身、捕縄をたずさえて、ひっ縛って参ろうか。かくばかり申す越前の真意が、なお分らぬとは、情けない配下ではある)
とまで、痛烈な叱咤をあびせた。
殊に、諸所において、毎晩のような高札仆しが報ぜられると越前守は、
(そち達は、日ごろ、何かにつけて、北町奉行に劣るまいと努めながら、この下手人のみは、北に渡すつもりか)
と、左右太、義平太、勘蔵たちを、並べていった。
左右太と義平太が悲涙の眼を、奉行の面へ、じっと向けて、誓って、数日のうちに、お袖を縄にいたします──と、答えたのは、その日だった。小林勘蔵に役部屋の諸務をあずけ、ふたりは、お袖を縄にしなければ、ふたたび、この数寄屋橋門内には戻るまい──と決心して出た。
それが四、五日前のことだ。
わざと、捕手の手を借らず、二人はあくまで、二人の手で──と祈った。
目明し組では、辰三と半次だけが、折々の探りを、知らせてよこした。お袖の足どりはすぐ分った。練塀町の家、厩河岸の夜鷹小屋、そこらを、出入りすることも、おとといから分っていた。
が二人は、その影を見、そのあとを尾けつつも、どうしても、縄を投げられなかった。
いや、夜ごとの、お袖の行動を見るにつけ、また遠い以前からの、かの女の運命を考えあわせても、こうなるのは無理もない。決して悪人、毒婦などとよべる者ではなく、むしろ世にも憐れむべき善なる女性──と、いつか同情さえ持たれて来たのだった。とても縄を打つには忍びなくなったのだ。
(──とはいえ、それでは越前守様お心にそむき、まちがえば、北町奉行の手にあげられて、取返しのつかぬことにもなる!)
こころを鬼に、励まし合って、ついに今夜──たった今、ふたりは、江戸橋自身番の内へ、ひとまず縄付として、お袖の身を、土間へ引きすえたのであるが、さて、非情有情こもごもに、胸へせまって、しばしは、面をあげる気力もなかった。
驚いたのは、庄七と由蔵だった。
「やっ、こ、これは、いつかの晩の、あの女だ。山善へはいった押込み仲間の──」
「オオ……。万字屋の色子だと詐って、おれたちに大傷を負わせ、この女を、助けて逃げた娘の母親……」
その夜の恐怖を、眼のまえに、再現して見せられたように、寝床の中の庄七も、油障子をうしろに、棒立ちになっている由蔵も、茫と、大きな眼をうつろにして、お袖の姿を見まもっていた。
左右太は、やっと、われに返ったように、義平太へ、よびかけた。
「義平太。どうしよう」
「しようかとは」
「駕籠で送るか、引っ立てて歩くか」
「縄付を、町駕籠でやっては、あとで世間の口がうるさかろう。深夜だ。引ッ立てよう」
「では、貴公、ひと足さきに、奉行所へ駈けて、お奉行と、勘蔵どのに、報らせてくれい」
「心得た。……だが、一人でよいか」
「案じるな、早く行け。──こうなれば、寸時も早く、お奉行のお耳へ入れたがいい」
「じゃあ、先に」
と市川義平太は、深夜の底を、走りに走った。
数寄屋橋御門をはいる。また、奉行所の西門の潜りを通る。幾棟もの暗がりを、うねり曲がると、一つの窓に、うす明りがさしていた。
脇玄関をあがり、そこの役部屋を、そっと覗くと、まだ起きて、何かの吟味書を調べていた小林勘蔵がふり顧った。
「おう、義平太。どうした」
「……め、めし捕った。お奉行は、こん夜も、役宅にお泊りだろうか」
「宵に、一睡なされたようだが、また起き出られて御書見の後、お客と、お話しになっておられる」
「こんな深夜にお客とはいぶかしい。たれだ、それは?」
「いやいや、お客の見えたのは黄昏だが、妙な客で、夜半に起き出し、それからお話がはずんでいるのだ。……見たこともない、旅の老僧だ」
「ともあれ、お袖を召捕ったむねを、すぐお耳に達したいが」
「義平太。……やったか」
「うム。おたがいに、覚悟のときだぞ」
「法に殉じ、あの奉行に殉じるのだ。悔いはない、よくやったなあ。……して、左右太は」
「あとからお袖を引ッ立てて来る」
「では、すぐこれへ来るか。これや、あわただしい」
「おれは、お奉行のお部屋へ、仔細を申し上げにゆく。左右太が着くまでに、手順をたのむぞ」
義平太は、さらに、長い廊下をあるいて、奥へ通った。
「義平太にござります。お眼ざめでございましょうか」
室外に、膝をついて、越前守の答えを待った。
勘蔵がいっていたとおり、中では、話し声がする。それも、めったに聞かれないほどな越前守の笑い声と、誰やら、対坐している客との、無遠慮な哄笑だった。
義平太はふと、氷のような気をくだかれた。はりつめていた胸の感傷を、その余りにも楽しげな主客の笑い声に、思わず、戸惑いさせられた。
「お奉行さま。義平太です。いま戻りましてござりまする。おさしつかえなくば、火急、お耳に入れたい儀がございますが」
「お。義平太か……」と、やっと気づいたような越前守の声が、すぐ、内からいった。
「かまわぬ。はいれ……」
義平太は、室内へはいって、まず越前守の方へ、両手をつかえ、
「深夜ではございますが、かねてお申し付けの者を召捕りましたので、即刻、お耳にまで……」
と、平静を努めていった。
「そうか」
と、越前守は、うなずいた。
義平太はつづいて、越前守と対坐している客へ向って、無言で一礼した。
「…………」
客も黙って、頭を下げた。
客は、粗末な法衣に、枯木のような身をつつんだ老僧であった。義平太には、見覚えもなかったが、越前守の室で、このように打ち寛いでいるからには、よほど親密な間がらにちがいない。
──と、思って、義平太は、
「縄付は、すぐ後から、左右太が曳いて参りますが、直ちに、お白洲へお臨み下さいましょうか」
と、客に気遣いせず、公務の急を、奉行にただした。
越前守も、ためらいなく、
「おお、白洲へ曳け。すぐ下吟味をいたすであろう」
と、答えた。
「はっ。……では、用意の調い次第に、お声をかけますれば、今しばし、御猶予を」
義平太は、異常な緊張をもって、その部屋を退がって行った。
じっと、眺めていた客の老僧は、義平太の姿が、襖の外にかくれると、越前守と、眸をあわせ、
「来たの。……遂に、来る日が」
と、つぶやいた。
「参ったようです」と、越前守も響きに応じるようにいった。二人のあいだに、一瞬、厳粛な沈黙が措かれた。
「禅師。……白洲へのぞむ前に、何か、越前へ一言、御叱咤を下さいませ」
弟子が、師へ求めるように、越前守は、謙虚にいった。
「はははは。お奉行、何を仰っしゃる。あんたは、江戸町奉行じゃないか」
同苦坊は、燭が揺れるほど笑った。
いや同苦坊というのは、かれの遠いむかしの名であり、今では、宇治黄檗山の一院の住持で鉄淵禅師と称ばれていた。
十数年前、年ごとに、江戸の窮民の群れの中に姿をあらわして、大釜に粥を焚き、無数の飢えを救って、浮浪者たちから慕われていた彼も──例の犬公方の悪政がやんだ頃から、いつともなく、その便りを絶っていた。
けれど、あの折、路傍の一機縁から、かれの喝棒を食って、今日の更生を得た大岡市十郎──いまの越前守は、その後も、文通の上で、正覚の道をたずね、身は市井の公吏と劇務の中にあっても、心は在家の居士、鉄淵の弟子として、つねに音信を欠かさなかった。
ところが、この鉄淵は、先師鉄眼の遺業である開版大蔵経の恒久的な保存法を朝廷や幕府の援護にも、仰ぐため、京都にゆき、次いで江戸表に出て、要路の人々を説きあるいていた。
そして、老中、若年寄などを歴訪しているうち、寺社奉行の本多伊予守から、
(大岡越前どのは今、ある事件のため、非常な苦境に立っておられるそうだ)
という噂を聞いた。
鉄淵は、それだけで、およその事態を、すぐ察した。前々から書簡の往来で、越前守から、それとなく訊かされていたことなど、思い合わされたからだった。
「慰めてやろう」
かろい気持で、彼は今夕、越前守を役宅に訪ねたのである。
ふたりは、久し振りに会って、心から久濶の想いを、慰め合った。越前守は、この人にだけは、隠すことなく、何でも話せた。自分をまだ未熟な一凡人として、人間通有の弱さも、何の虚飾もなく、打ち明けていえるのだった。
「よくよくな宿縁じゃの、あんたと、わしとは」
鉄淵は、やがていった。
「──あんたにとって重大な人生の岐れ路というと、かならず、あんたの前に、わしが現われる」
「まことに、有難い仏縁です」と、越前守も微笑して、
「一度ならず二度までも。……きっと、三度目には、亡き骸となって、さいごの引導をさずけて戴くのかもしれません」
「すぐに、死を意識するのは、好くない。さむらいの口癖だが」
「はい。べつに、急ぎもしませんが」
「なるべく、生きる道をとった方がいいからな。ある境を生き抜くと、それから先の生き味はまた違ってくる。──生きてみなければ分らぬ先が人間には無限にあるからの。そう、四十や五十で、生き飽いてしまう程、浅い、薄ッぺらな、世の中でもない」
「……では、白洲の用意ができると、出なければなりませぬ故、ちょっと、中座さしていただきます」
「いや、御苦労だな。わしも物蔭で、聴かせてもらいたいと思うが、いいかの?」
「……どうぞ」
越前守は、そういって、用部屋へはいった。白洲に出るための制服──裃、袴に着更えるためであった。
奉行所へ罪人が曳かれて来る場合、それを牢舎に下げるには、どんな軽罪な者でも、即座に「仮吟味」を開き、一応、奉行自身が冤罪や偽構の事件であるかないかを確かめた上、奉行の口から、入牢申しつける──という法的な言明が下されるのでなければ、獄に繋ぐことはできない。
これは奉行所規約の大事な法例になっている。
しかしこの慣例も、近頃はくずれて、仮吟味を、自身番での下調べで済ませてしまったり、奉行に代って、与力の宣言で下獄させたり、いわゆる人権の扱いを極端に粗雑にする傾向が強かったのを、越前守が就役以来は、せめてそんなところに、庶民たちのささやかな人権が少しでも庇護されてあるものをと、務めてこの手続きは怠らないように、厳戒してきた。
(ああ、それも、今はわが身に)
おそらく、彼は、多感であったろう。表面、淡々と、平常の罪人に接するときのように、裃、袴を着けて、用部屋に身支度はしていたが、それだけに容易ならない自制心を努力していたにちがいない。
「お奉行。……お白洲の用意はすべて調いましたが」
小林勘蔵の声である。外から告げて、奉行の出るのを、廊下で待っているらしい。
「いま、参る」
越前守は、すぐ吟味所の方へ歩いた。うしろから、勘蔵が、書類を抱えて、尾いて来るのを意識しながら──。
夜に入って一応、諸所の役部屋も退け、人も灯の数も減って、寂として暗かった奉行所も、今し方──山本左右太がお袖を曳いてここの門内へ入ってから、
(すわ、最後の時が来た──)という空気が、人々の跫音や、深夜の灯にも色めき出して、江戸市中は何も知らずに眠り落ちていた頃だが、この南町奉行所の内だけは、空前な緊張を呈していた。
事件の解決までは私邸に帰るまいと、奉行がずっと役宅に起居していたので、補佐の与力や下役たちも、大半は交代制をとって、泊っていた。
白洲には、はや燭台が燈され、正面の奉行の席、左に、書記の机、また目安方、吟味与力などの着座が見える。
「…………」
越前守がそれに坐ると、日頃にしてもそうだが、きょう特に、静粛な──というよりは、もっときびしい、法廷のもつ一種の神聖が、人々の気をひきしめた。
白洲には、一人の女性が、縄付のまま、据えられていた。
いうまでもなく、お袖である。
縄取の与力は、山本左右太。控え同心には、今夜の宿直の岡弥一郎、桜間勘八、狩野右馬吉、石原十蔵、舟崎曾兵衛の五人が詰め、白洲木戸には、陸尺たちの影が大勢見られた。
また小林勘蔵は、目安席に。書記の机には市川義平太が着席し、なおその与力席に、上杉政形、加藤直枝など三、四名も居並んでいた。
仮吟味とはいえ、日頃の白洲にもまさる物々しさである。──越前守は、それらの奉行所付きの所員のほかに、なお、見かけない二名の武士が、奉行席から一段低い所に坐っているのを眺めて、
「あれは、誰か」
とでも訊ねているのか、目安の小林勘蔵へ、何か、小声を向けていた。
「……?」勘蔵にも、分らないらしく、小首をかしげて、横の義平太の机へ、囁きを伝えた、が、義平太も、不審な顔をするだけだった。
──と見て、反対側の与力席から、加藤直枝が、越前守へ向って、
「陪席におられる御両所は、公儀お目付の松平藤九郎殿と、有馬源之丞殿の御配下の由でございまする」
と、知らせた。
すると、初めて、その二名は、奉行の方へ一礼して、
「てまえは、松平殿の組下、横目付秋山左内でござる」
「それがしは有馬源之丞殿の内、同じく横目付を勤める太田喜左衛門と申す者……」
と、同時に、名乗った。
さらぬだに緊張していた仮白洲は、二名の横目付の立会を加えたので、一層、ただならぬ空気をみなぎらした。
目付は、千石程度の旗本格から選ばれ、身分は大した者ではないが、老中、勘定奉行、若年寄、両町奉行も、すべてその監察下に置かれてあり、将軍家へ直言する権能も持っていたので、うしろ暗いものをつつんでいる武家たちには、目付といえば、怖れられていた。
俗に〝横目〟というのは、目付役の組下である。そして目付も、横目の者も、町奉行所へなども、突然、随時随意に出入りすることができたので、市民には恐がられて、恐い者知らずのように見える町奉行所の者でも、
(横目が来た)
と、囁かれると、たちまち、警戒して、皆いやな顔をしたものだったという。
だが、その横目たちが、どうして今夜の事をもう知ったのだろうか。いかに〝見る眼、嗅ぐ鼻〟と綽名されているかれらにしても、この仮白洲へもうやって来るとは、余りにも早すぎる。何か、意地悪くさえ思われないでもない。
与力、同心たちなどの、奉行所付の人々は、内心、そう思ったにちがいないが、しかし、かれらの傍聴を拒む理由は何もなかった。
「御苦労にぞんずる」
越前守は、二人にそう答えた。そしてこころもち微笑をふくんだ。むしろかれらの公的な傍聴を本懐とするようにである。──そしてやや居住いをあらため、白洲にすえているお袖の影へ眼を向けた。しずかな、穏やかな眼であった。
おそらくはこの一瞬のかれの眼を、満廷の者は、たれもみな多分な不安と危惧をもって、見まもったにちがいない。──ここには姿を見せていない物蔭の鉄淵禅師にしても、
(さて、いざとなったら、どうあろうか)
と、片唾をのんで、越前守がいかにお袖を裁くか──いや彼が彼自身に裁かれるかを──耳澄まして聴いているにちがいない。
「お袖というか」
と、越前守は静かに口を切った。そして、
「面を上げよ。お袖とやら、面を上げい」
と、かさねていった。
「…………」
お袖はここへ据えられてからじっと俯向いたきりであった。雨の中の濡れ鷺のように黙っていた。
越前守は、ふと、眸をうごかして、
「左右太。縄を解いてやれ」
と、命じた。
左右太は、自分が救われたように、すぐ縄を解いて、うしろへ退がった。
「先頃来、夜々、市中をさまようて、公儀の御高札を仆し、狼藉を働きおった曲者は、たしかに、その方であろうな。こよいも、その現場から召捕られて来たということだが」
「…………」
「また、この春、堀留の呉服問屋山善へはいった五人組強盗の中に、そちもおったな。そちもその仲間であったな」
「…………」
衆目の中に置かれた、ただ一つの石のように、お袖は、何一つ答えもせず、何の表情も見せなかった。
「勘蔵。ちょっと、その調書を」
と、越前守はふと手を伸ばして、目安の机から一綴じの書類を取って、膝の上でひらいた。与力の一名が、燭台をかれの横へ寄せた。
冷々と、夜霧が白洲に下りている。夏の夜は明け易い。とこうする間に、東の空が白み出すのではあるまいか。
越前守は落ちつきこんで調書をめくり返していた。やがてそれを目安の手に返して、また、お袖に糺し初めた。
「仮吟味の事ゆえ、仔細の取調べは、他日といたしおく。──ただ、その方の父母の素姓や、きょうまでの径路について、ざっと聞きおかねばならぬ。……まず訊くが、そちの両親は?」
「…………」
「調書に依れば、そちの両親は、小石川水道端の秋田淡路守どののお長屋に住み、徒士を勤め、禄五十石。──父の今村要人と母みつとの仲に、ふたりの子があり、要人夫婦が死亡のとき、姉のしまは九歳、妹の袖と申す者……すなわちその方は五ツの年であったというが……その通りか、覚えておるか」
「…………」
お袖の姿は、石ではなくなった。あきらかに感情のうごきを見せ、ぽろりと、涙をこぼしたようだった。それは、父母の名が出たときであり、それから、ほんの一瞬だったが、急に顔を上げて、また俯向いてしまった。──おしまという姉があったと、聞かされた刹那であった。
「妹の袖は、五ツの年、大病に罹り、その病には、燕の黒焼がよいと人から教えられ、父の要人が、吹矢で燕を射たことが発覚して、当時、五代将軍家のお布令による厳しい〝畜類おん憐れみ〟の禁令にふれ、夫婦ともに、断罪に処せられた。一家は離散、縁者どももみな追放となり……袖は、後、水茶屋奉公に。姉のしまは、日本ばし裏新道の豆腐屋伝兵衛に貰われたが、年頃となって家出したまま、その後の消息は絶えておる。──右様のことは、慥と覚えておるかの。袖……」
「…………」
「どうじゃ、相違の箇所があらば申せ」
「…………」
お袖は、何かいおうとした。しかし、声が出ない。意志がまとまらない。
かの女が、必死にいおうとすることは、そんな質問の答えではないのだ。日頃から──いや十何年間も、思いつめてきた無情な男への復讐を、今こそいわずにおくものかと──心のうちで思い燃えているのであった。
──にも関らず、体じゅうを血の音ばかり駈けめぐって、頭はいたみ、手足の先は冷え、髪はそそけ立って、何一ついい出せなかった。
こうして、その憎い男と、上下にむかい合って坐りながら、お袖はまだ、その男の姿をすら、顔を上げて見ることができないのである。
だが、越前守の声は耳にはいってくる。その声こそ、以前の市十郎の声ではないか。白々しい偽善者、皮をかぶった嘘つき、何が奉行だ、奉行面がどこにある、畜生っ──と彼女は耳の鼓膜の入口に、全身の憎しみをこぞってその声と闘っていた。石のような無言は、反抗の標榜だった。もちろん、奉行のいう言葉の意味などは、心の堤防をかためて、一滴でも、内へ入れようとはしていない。
「それらの事も、覚えないか。むりもない。五ツの頃から、両親に死別し、以後は、人の子にして、人の子の情けを知らず、世間に生きながら、世間の何かも知らず、ただ人の世に漂うて生きて来ただけの女だ。……追ってまた、白洲へ呼び出すであろう。立て!」
と、越前守は、あっさり仮吟味を終って、目安、書記、同心たち一同へむかって、
「女を、仮牢へ下げい」
と、宣告した。
そして越前守が、つと、席を立ちかけると、それまでは、自分と自分との闘いに、唖のように悶えをかかえていたお袖が、突然、盲目的に身を起して、
「お待ちッ。お待ちよっ。市十郎!」
と、絶叫を浴びせた。
「すわ」
と、何事かを予期していた山本左右太は、まっ先に、お袖のうしろからその片腕を抑えた。
「何するんだえ、お前たちは」
お袖は、振りほどいて、奉行の席へ、飛びついて行きそうにした。しかし、たちまち大勢の同心たちが、彼女の狂いまわる力を、もとの白洲の上に、捻じ抑えた。
「…………」
越前守は、振り向きもせず、さや形模様の襖の内へ、退席してしまった。
人々もすぐ立つべきであった。また、傍聴の横目たちも、退席すべきである。しかし、その後、いつまでも、白洲は人影にみだれ、騒然たる気配の中に、お袖の叫び声がやまなかった。しかしそれも悲痛な泣き声に変り、やがて揚屋路地の方へ引っ立てられて、程なく糸のように遠くなって消えた。
暁に就寝して、目をさましたのは、午近くであった。
越前守は、熟睡した。
嗽い、食事、着服などをすまして、すぐ役部屋に臨む。
ここに坐ると、所内の空気が、すぐわかる。
今朝の奉行所内は、ただならぬ動揺をもっていた。中に、幾つかの部屋は、氷室のように、しいんとしている。
小林勘蔵、山本左右太、市川義平太など、それぞれのいる役部屋だ。
奉行の周囲にも、一般の公事訴訟の事務は山積している。同様に、各与力部屋も、忙しいはずだった。事件は決して、お袖のこと一つではない。
「勘蔵を──」
と、越前守は、まず目安方の彼をよんで、今日の処理すべき日程を聞き、程なく、平常のように白洲へ出た。
幾つかの、裁決をすまし、午後、独りで茶をたてて、静かに一ぷく服んでいると、医師の市川楽翁が、訪ねて来た。
「来たな……」と、思いながら越前守は、老人の坐るのを待った。
「お奉行。ついに、やられましたな」
楽翁は、坐るとすぐ、そういった。越前守は、茶をたてて、彼にもすすめた。
「……お蔭で、まずすこし、目鼻がつきかけました。御老人にも、お心を煩わさせたが」
「何といおうか、申す言葉もおざらぬ」
楽翁は、憮然として、相手の面を見つめた。しかし、もう何をいっても、後のまつりだと、諦めたように、茶わんを静かに戻して、
「ときに、きょうお伺いしたのは、赤坂のおやしきの方のことじゃが」
「や。何か、留守の家族どもが、だいぶお世話になっておるとのことですが」
「それはかまわんが、越前どの。御内室の病状が、ここ二、三日、とてもお悪い。……御危篤というてもよいほどお悪い。いちど、御帰邸になって上げてはどうかの」
「縫が……」と、さすがに、越前守も、胸の傷む面持ちを見せた──「縫が、そのように、重体ですか」
「ずっと、園子さまと御一緒に薬湯をさしあげておき、折々、お見舞いしても、さしたる御容体にも見えなかったが……急に大熱を発しられたので、家人に訊いてみると、殿の御一身にも関る事件ということを、誰からかお聞きになり、夜毎、水垢離などして、神信心されておられたそうな。……堪るものではない。どっと、重うなってしまわれた」
「ば、ばかな……女ではある」
眼には、涙をもちながら、越前守は、吐き出すように呟いた。
楽翁は、さっと、顔いろを変えた。この老人は、すぐこうなるのである。
「あいや、お奉行。ばかとは、お言葉とも思えぬ。ばかでしょうか、奥方の心事は」
「あわれむべき、おろかさです。女ほど不愍なものはござりませぬ」
「不愍はよいが、愚かとは、どういうわけじゃ。良人の大難を想い、身の病もわすれて、神に祈る心根を」
「ですから、愚かというのです。神に祈って、何になりましょう。なぜ、園子や子等のために、薬餌をとって、温かに眠り、身を安楽にしていてくれないかと」
「良人たるお奉行が、今日、苦熱の釜の中で煮られるような立場にあるのに、妻として、安閑としていられないのは当然じゃ。女の力の及ばぬ世界のことだけに」
「でも、私は、一切の前非と、後々の事までを、妻にだけは、隠すことなく話してあるのです。たとえば、お袖という一女性のことまでも」
「なお悪い。なおさら苦悩するのは女の常じゃ。そしてあなたは家庭にもお帰りがない。成程、お奉行としては、立派だろうが、一体、それでよいのかな。人間として、良人として」
「まことに、不出来な人間であり、無情な良人であると、越前自身、詫びております。……が私事はさて措き、楽翁どの。あなたは、お燕をどこへ隠されたのか」
「お燕。……ああお燕は、宅の隣家の古井戸へ身を投げて死にましたよ。小林勘蔵どのと義平太もすでに見届けて帰った通りじゃ」
「越前には、腑におちかねるが」
「と仰っしゃっても、公儀へのお届けはすみ、お目付、寺社奉行への手続きも滞りなく、愚老の菩提寺に埋葬して、戒名までついてしまっている者を……はて、あの世から、呼び戻すこともできますまい」
越前守は口をつぐんだ。この老人は、強い好意からではあるが、自分の所信とは全く対立している。まるで善意の敵という立場にある。好意、善意、こんな抗し難い敵はない。
「お役宅において、私事を申しては恐れ入るが、愚老は医者としての職務上、ここで申し上げねば相成らん。……では、事件の落着までは、どうしても、お邸へお帰りはないのでござろうか」
「妻にも篤と申しおいてござれば、覚悟の事とぞんずる。ただ……何分、最善のお手当を、おねがい申しあげる」
「万一、奥方が、御危篤とあっても」
「貴老におまかせ申しておく」
「ぜひもない……」と、楽翁も匙を投げた。
「──が、あなたはお奉行、愚老は医者。どちらも、天職のため、仆れるまでは、最善の任を尽し合いましょう。やれ、お忙しいところを長座いたした。御免」
と、楽翁は、いつになく、あっさり引き退がって、ほかの役部屋をあるき、小林勘蔵や山本左右太などと、何事かひそひそ話しこんで立帰った。
それと前後して、鉄淵禅師も、
「今夕は、老中の土屋相模どのと、会う約束があるので」
と、飄然と帰って行った。
一日措いて、次の日、越前守はふたたびお袖の白洲を命じた。
そして今度は、これまで一回の下吟味しかしていない大亀こと──大岡亀次郎、赤螺三平、阿能十蔵なども、次々に白洲へ呼び出し、いよいよ本裁判にかかるであろうと、奉行の名をもって言明した。
その朝。──石焼豆腐のお次と、山本左右太は、まだ朝霧のふかい裏河岸に、人目を忍んで会っていた。
「お次さん。きのうわしがいった事。そなたの母親に、訊ねてみたか」
「え。訊いてみました。やはりあなたの仰っしゃったように、お島姉さんは、実の子ではなく、日本ばし裏にいた時分、死んだ父が御懇意にしていたお武家様が夫婦とも亡くなったので、身寄りなしの子を引取って、養育して来たんだそうです」
「その、貰い子の実家先は、何といったか、訊かなかったか」
「あの……秋田淡路守様の御家来で、今村要人とかいう人ですって」
「では、間違いなしだ! ……。お次さん、おまえの姉だといって、いつぞや家へ帰って来た島破りのお島は、いま、越前守様の苦悩の中心になっているあのお袖という女と、実の姉妹だぞ」
「えっ。ほ、ほんとですか」
「そなたとは、ただ、名だけの、姉妹にすぎないが、お袖とは、血もひとつ、両親もひとつの、真実の姉──妹だ。お袖は、お島の妹だった」
「どうしてそれが分りましたの」
「仮吟味のお白洲で、お奉行が、調書の表からそういったのだ。おれも愕然としたが、お袖もそのとき、びくっと顔をあげた。おそらく、自分にそんな姉のあることなんか知らなかったに違いない」
「まあ」と、お次は、ありッたけな瞼をみひらいて、心の驚きを、左右太の顔へ映しながら──
「どうしましょう。それでは?」
「どうしようかって? ……何を」
「そのお島姉さんが、また、使い屋に手紙を持たせて、どうしても、もう一ぺん、お前に会わなければならないことがあるから、三叉の菖蒲橋まで私に来てくれといってよこした……その返辞を」
「あ、きのう相談されたあの事か。もうお島が、お袖の実の姉と、はッきり分ったからには、ぜひ、会いに行った方がよい。どういう用かわからぬが」
「では今夜、約束の時間に行ってみます。そしてまた、あしたの明け方、ここで会って下さいます」
「うむ。御用の前に、来ているからな。……しかし、こうした儚い逢う瀬も、あと幾日のことやら」
「いやです。そんな悲しいことを仰っしゃっては」
お次は、男の胸にすがって、痩せの目立って来た白い頸をふるわせた。──抱きしめて、左右太も、じっと瞼をふさいだ。
「河原に咲いた朝顔みたいに、ふたりの恋は短か過ぎるなあ。けれど、あきらめてくれい、お次さん、おれたちは、お奉行の死に殉じる覚悟だ。義平太、勘蔵なども、堅く約束してあるのだ」
「どうして、越前守様は、死ななければいけないのでしょう」
「お奉行とて、決して、好んで死をえらぶわけはない。……が、四囲の事情、法のきびしさを、身を以て、お示しになる為にも、おそらく、自決以外のことは考えておられまい」
そのとき、もう大根河岸や魚河岸を中心に、烈しい朝の往来が流れ初めている中を、ひとりの男が、瓦版の呼び売りを呶鳴りながら通った。
「瓦版瓦版。──さあ、たったいま刷り出した大椿事の瓦版じゃ。高札斬りの曲者は、召捕られましたぞ。しかも、女自雷也と名乗る稀代な女賊じゃ。南町奉行所のお手にかかって、近いうちには、獄門でお目にかかれましょうぞ。……サア瓦版瓦版。ところが、その女賊と、南の大岡越前様とは、むかしむかしの恋仲であったとかなかったとか、近頃、ありもしない噂も飛んでいるとやらいないとやら。サアサア瓦版。火のない所に煙が立ったか。煙の立つところに火があったか。瓦版は十文、たッた十文。さあ、読んでごろうじ、読んで御ろうじ」
噂は、一日のまに、江戸中にひろがった。
瓦版の呼び売りは、うまく逃げて書いているが、噂の根は、突いている。
「北町奉行の手輩が、さかんに、いっているんだから、嘘ではあるまい」
市民は、そういい足して、いい伝えた。これも、事実に近そうである。
何しても、お袖の逮捕をきっかけに、これまでは、南北両奉行の間にも、暗闘として、伏せられていた事件の全貌が、白昼の話題にされ、五人組強盗の始末から、高札斬りの下手人、そして、越前守個人の過去につながるすべての問題まで、余すところなく、世間の耳に伝わった。
世間の表情と、人心のうごきは、すぐ奉行所内に、反映してくる。
越前守は、相かわらず、日常どおりに執務しているが、その事では、むしろ本懐であり、望むところとしているふうであった。かれの顔は、数日前より、よほど明るくさえ見えた。──白洲を前に、奉行席へ、着座したとき、そう見えた。
きょうも、例の二名の横目が、傍聴に来ている。
与力席、目安、書記方など、前の仮吟味のときより、一層、粛として、頭かずも幾人か多い。
「袖っ。面を上げい」
越前守が、まずこう口を開くと、おとといの夜とはちがって、お袖は、すぐ顔を上げた。
そして、越前守の顔を、下から凝視した。
「…………」
おそらく牢舎の一日二晩のあいだに、お袖は、一時混乱した頭をとり戻して、いかなる官力の圧迫にも、いかめしそうな裃の人間たちにも、気負けしまいと、心を夜叉のように持って、これへ曳かれて出たものに違いあるまい。
越前守の顔を射た、眸が、それを物語っている。何と、形容すべき眼だろうか。怨みのこもった、憤怒に燃えた、そして呪咀にみちみちた異様な光をもちながら──その底にはなお、あわれ、女であるための、どこか弱き者の涙がいッぱいに溢れかけている……。
越前守も、さすがに、その眼にたいし、一瞬、自分がいかなる人間として対すべきかをふと忘れかけた。満身に呼び起される人間当然な凡情をどうしようもなかった。
「な、なんですか。顔を上げたじゃありませんか。私にも、いい分がたくさんあるんですからね。……さっさと、訊くことがあるなら、訊いて下さいよ」
次に、いい出したのは、お袖の方からであった。きょうのお袖は、わずかな間の沈黙にも耐えないほど、瞼も耳も、充血していた。
「なんですえ! こんな仰山な白洲へ私を曳き出しても、私を見たら、何もいえないのじゃないか。……いえなければ、私からいってあげよう。市十郎さん、覚悟だろうね」
「袖。ここは裁きの庭だぞ。わたくし事をいう所ではない。この身も、むかしの市十郎でもなければ、越前守個人でもなく、天下の眼の中に公儀の信任を負うて、一奉行としてそちを取調べるのじゃ。ただ此方の問いに答えればよい」
「ホホホホ。人をばかにおしでない。だれがお前なぞの調べをうけるものですかえ。何も知らぬ世間の衆は、お奉行さまと恐れ入るかしらないけれど、お袖は、そんな手には乗りませんとさ」
「だまれっ。なお分らぬか」
「分るはずがあるもんですか」
お袖は、食ってかかった。戦いは今日こそであるというように、眉は女の必死を描き、眦は、朱く裂けた。
「いいえ! いいえ。……分らない女なら、分らして貰おうじゃありませんか。そんな高い所に、糊のこわい物を着て、しゃちこ張ッている得態の知れない人間は、いったい全体、どこのどういう男なんですか。以前、大岡市十郎といって、何も知らない女をだまし、揚句の果てに、子を産ませて、その女房子も捨てッ放しに、自分の立身出世ばかり心がけて来た、嘘つきの野良息子とはちがうんですか」
余りにも、聞きかねて、もずもずしていた縄取の山本左右太が、われを忘れて、
「こ、これッ。黙りおらんかっ。黙れっ。ここを、何処と思う」
と、うしろから呶鳴りつけると、越前守は、こころもち上気したような顔をわずかに振って、
「いや左右太。止めるな。──いわせい、いわしておけい」
「ええ。いわずにおくものですか」
と、お袖の容子は、ほとんど、自分を失っていた。弱い者と、自分を意識する女の──女の一生を賭けた戦いの日と思うのであろう。そういいつつ、眦からは、血ともまごう涙のすじが、のべつ頬へ描かれていた。
裁きの白洲は、俄然、前代未聞な異観を呈した。傍聴の横目たちも、白洲木戸の小役人たちも、慎むべき法廷とは心得ながらも、騒然として、何事かを、囁き合って、不安にみちた眼を──裁く者と裁かれる者──そのどッちが裁かれているのか分らない二人に注ぎ合っていた。
その日の白洲は、お袖のために与えられたようなものだった。越前守に向って、お袖はいいたい限りのことがいえた。積年の恨みを、思いのこすこともなくいってのけた。あとの心に、もう止める何物もないほど、いい尽した。
──にも関わらず、かの女は、その後で、どっと、せきあげる涙と淋しさとを、どうしようもなく、俯ッ伏してしまった。
「袖。──もう申したいことはないか」
越前守は、かの女の狂舌がやむのを待ってそういった。かの女は、それに反撥する一語の気力すら残していなかった。白洲のすすり泣きだけが答えだった。
「では、越前の方から問うぞよ」
傍聴の横目も、下役の人々も、越前守が奉行の位置や法廷という場所も忘れているのではないかと疑った。──余りにも、奉行らしくないからである。そして、先刻から女の怨み罵る情痴の裁きの前に、まるで彼の方が、被告の位置におかれ、じっとそれに耐えていた揚句になお──生ぬるい今の言葉であったからだ。
「先頃から、夜毎、諸所の高札を仆して歩いたのは、そちが越前に、それをいいたいためであったか。袖、どうじゃ」
「…………」
「そうに違いあるまい。特に、南町奉行所のみの高札に狼藉を働いていたところから見るも、そちの真意は明白だ。よし、その儀は、分った」
書記机の市川義平太は、終始、筆を走らせて、吟味書を速記していた。越前守は、次に、
「堀留の山善へ押込の際には、そちは堀留川の舟の中に残っていて、屋内へ入って、強盗を働き、家人を殺傷した者は、男の三人だけであったと、阿能十蔵も申し、赤螺三平も自白しておるが、相違あるまいな」
お袖は、答えもせず、否定もしない。越前守はもう一度念を押した。そして、次の質問へ移った。
「そちが、江戸橋自身番に、捕われたのは、その折、連れていた娘のお燕を案じ、お燕を町に捜しに出て捕方の手にかかったものと──自身番の番太庄七、由蔵も申し立てておるし、十蔵、三平の自白とも合致しておる故、これも相違ないものと認めるが、異存はないか」
「…………」
「ないの。では、この事は、どうじゃ。俗称化物刑部こと元公儀お旗本の長坂刑部と申す者に、そちは十数年の間、身をまかせ、かれらの仲間同様に暮して来たが、それはそちの意志であったか。そちが好んで刑部と連れ添うて参ったのか」
この時、お袖は、反射的に、顔を上げた。きっと、越前守を睨めすえたものの、もう怨みや悪罵は吐き尽している。涸れて汲むもののない空井戸に似た心が、空しさを、ただ唇にわななかせ、涙と身悶えに、声なき反抗を、示すだけだった。
「──いや、越前守の調書には、初め、刑部はそちを番町の土蔵二階に監禁し、恫喝と暴力のもとに従わせ、そちは抱えている乳呑みの父なし子いとしさに、以来、心にもなく刑部の虐げに耐えつつ、その子を養うて来たものとある……。袖、この方が真実であろうな」
白洲は、しいんとして、かの女の嗚咽だけが、際だって、満廷の人の耳を打った。
「よろしい。相分った。要するに、そちは刑部の妻でもなく妾でもなく、もとより何の愛情もなく、蛇蝎の如く怖れながらも、ただ、わが子の成人を見たさに、同棲して来たものに過ぎまい。──とすれば、刑部一味が、西国方面の密貿易者や浪人どもの野望とむすんで、江戸表の秩序人心の破壊をたくみ、ひいては、幕府の御治世をくつがえそうとしておった秘密などは、刑部から打明けられもしまいし、一切、存ぜぬことであったろうな」
勿論、そんな秘事は、お袖は今聞くのが初めてだった。越前守は、かの女の眸のうつろを見つめていった。
「袖。そちが申し立てた最前からの怨みつらみは、すべてこの白洲の吟味上には、何の関りもない、私事じゃ。が、おそらくそちの叫んだ一念は、そちのいう相手の大岡市十郎とやらの胸にも、一個の人間として、ずんと胸の底の底までこたえたことであろうよ。……さあれ、ここには市十郎はおらぬ、同席の同役、また陪席のお目付たちと、奉行越前守がおるだけじゃ。そちの怨みに答える市十郎は、やがて公の職を解かれ、一個の私に返った時、きッと、そちの前に詫びに参るにちがいない。そちが十余年の怨恨は、なおその時に存分にはらしたがいい。……いや、かく申すなども、白洲にはあるまじき余事。もう取糺すべき事もない。吟味は相済んだ。立て 立て」
その日の午過ぎには、続いて、大岡亀次郎の白洲が開かれた。
大亀は、ぺたんと、白洲に曳きすえられると、越前守の姿も見上げず、終始、うな垂れたままだった。
「面目ねえ。もう、どうにでもしてくれ……」
と、彼の姿が、すでにそういっているふうだった。
しかしこの大亀も、初めは、猛烈な反抗をもって、越前守の悪罵を昼夜牢内でわめき狂っていたのである。仮吟味の時も、その後一、二回の本白洲の折も、奉行の席に向かって、毒舌、嘲罵、揶揄、あらゆる狂態と唾を以て、食ッて懸ったものだった。
──が、越前守は、あくまで、かれの飽悪の餌に、自己を与えきった。大慈悲を以て、かれのひねくれた快感に充分なる満足をさせてやった。すると三、四回目の白洲には、大亀はもう意気地もなく、
「於市、すまねえ。おらあ考えた。もう何もいわねえ……。火あぶりにでも、獄門にでもして、おめえも、存分、おれに恨みをはらしてくれ」
と、いい出した。
きょう五回目の白洲は、越前守から、むかし、かれの父大岡五郎左衛門忠英が、幕府番頭の高力伊予守を、その私邸で刃傷した事情について、大亀の記憶している限りの証言を求めた。
大亀は、知っている限りの事を、素直に述べた。
この事件も、五代綱吉時代の、腐敗政治の裏面につつまれた佞吏と正吏との衝突に他ならなかった。正吏大岡五郎左衛門の一徹が、佞吏の誹謗と圧迫にやぶれて、遂に、相手を斬った事件だったのである。
しかし、当時にあっては、勘定奉行の荻原近江守や柳沢一門の権勢に蔽われて、佞吏派は極力、事実を歪曲し、五郎左衛門の家は断絶、大岡十家はのこらず閉門禁足の久しい厄に封じ込まれて、事件は過去へと忘れられていた。
事件のかたちは終って、事件が生んだ災厄の家の、一人一人の運命は、それから新たな長い地獄の旅に立った。大岡亀次郎などの転落もまさに、その一つである。いや、大岡十家のうちの一人であり、また亀次郎とは、従弟にあたる市十郎──すなわち越前守忠相もまた、あやうくも、同じ危険な崖ぷちを人生の道として歩いたうちの一人だった。
同じ、大きな時代的災厄の悲運から突き出されて、同じ危険な谷や崖を歩いて来ながら──従兄の大亀は今、白洲の縄付として、人生の悲惨な最後に直面し、自分は、高き座にあって、人間の裁きをしている! ──この相違を、越前守は、そら怖ろしい心地で、彼と自分との間に見た。
彼と、自分と、どこがどれほど違うだろう。
人間として、何も、違いはしない。
彼の生活力や、一部の才智などは、むしろ彼の方が勝っているくらいなものだ。
違ったのは、ただ、どこかの道の岐れ目で──ふと自分は、良心の指さす方へ従って来たことだけだ。ほんの、一歩の岐れ目でしかない。
それも、全部が自分の意志力ではなかった。兄主殿の愛と、師の同苦坊から大喝棒の大愛を受けたのが契機だった。
(思えば、自分の今日は、ただそれらの機縁と一歩によく恵まれたというだけの者でしかない。……あわれや、亀次郎)
かれは、従兄の亀次郎に、こういう同情を心からいだき、また、偽りなく自分にもある亀次郎と同質な人間性を認めていた。
で、亀次郎が初め、呶号して、自分を嘲罵するのも、もっともな事だと、聞いていた。その素直さがまた、やがて亀次郎の方をも、素直に返らせたことに違いなかった。
大亀の吟味や聞き取りは、かくてすらすら運んだ。翌日、また翌々日にかけ、赤螺三平や阿能十蔵の調べもどしどし進捗した。
阿能十蔵の吟味中には、越前守の方から、こういう事件が、質問され出した。
「以前、大岡市十郎なる者を、存じていたか」
「もちろん、知っている」
「市十郎にたいし、化物刑部の土蔵に監禁されていたお袖に会わせてやると約し、市十郎の親戚、小普請組の大岡兵九郎の屋敷から、幕府お金蔵の絵図面を、盗み出させたことがあるな」
「ある」
「その絵図面は、その後、いかがいたしたか」
「刑部に、売りつけた」
「刑部はそれを?」
「一時はよろこんだが、後に、役に立たねえ絵図と分り、金蔵破りは、やらなかった」
「それも、幕府顛覆の軍用金にするつもりであったか」
「その辺、刑部の腹は、おれたちには分らねえ。刑部が西国浪人や密貿易仲間と、そんな陰謀をもっていたと、俺たちに打明けたのは、あいつが死んだ、その日の事だったのだから」
この申し立ては、三平、大亀、みな一致していた。
阿能十は、初めから、さっぱりしていた。もう年貢の納め時と──中野お犬小屋荒しの遠い事から今日までのこと、何でも、あッさりと記憶を述べた。
総括的に越前守の意図していた調べはここ二十日ほどであらまし終った。あとは彼の〝断〟による判決のいい渡しだけが残っているにすぎない。
しかし彼は、全事件の重点を、長坂刑部と西国浪人や密貿易者たちの治世破壊の陰謀に置いて、ひとり一町奉行の白洲では裁決し難いものとなし、一切の下調書や吟味書上げの厖大な書類つづらを、そっくり龍ノ口評定所まわしに附した。
評定所は、最高裁判所組織である。老中、若年寄、勘定奉行、寺社奉行、目付など、すべての幕府首脳と部門の要路者とが衆判合議のうえで重大な公事を決する所なのだ。
だが、越前守は、自己の問題をもふくめたこの全事件を、龍ノ口へ廻して、評定所の大白洲がひらかれる前に──その前提として、一つの希望条件を、必要欠くべからざるものとして、申請書と共に、添えて出した。
その条件というのは。
(この事件は、ただ市井の無頼や押込みなどが頻々と起した些々たる小事件とのみは観られず、またその小事件だけを、切り離して、裁決することは出来ないし、なお将来の治政上にも、何の戒めにも、善策にもならないと信じる。要は、根本からこれらの社会悪と個々の罪のありどころを突きとめ、ふたたびかかる人心の害と不安とが起らぬように、抜本的に、禍根を断ち、もって、政道の公明を期さねばならぬ。しかも、そうなると、これらの悪の連鎖が世を毒して来た歳月は長く、その本は、遠い前々将軍家の御代にまで及ぶことになり、なお地域や関わる人間は、西国の不平浪人の徒から、海外国内に足をかけている密貿易者の群にまで及んで、一挙に、これらを皆、犯罪者として検挙することは、到底、一町奉行の力をもっても、公儀の御威光を以てしても、覚つかないものと思う。しかし、篤と、越前の所存いたすには、本の罪悪の禍根を断ち、将来の御政道に公正を示し、人心を明るくして、庶民の生業をここに楽しませる裁決は決して不可能ではないと存ぜられる)
こういう意見書の内容であった。そして、終りに、かれは、こういう一条を明記していた。
(元兇を捕り抑える必要がある。実はまだ、元兇を揚げていない。元兇を糺すなく、末端末梢の鼠輩をからげて、天下の評定所を煩わしても、火災の火元に水をかけずに、火光の火影に水をそそいで、消火の大事をすましたとするようなものである。──願わくは、越前守が、ここ数日間に、その元兇を召捕って、積年の罪府の首魁をあきらかにいたすまで、評定所開きはお待ちしていただきたい)
以上の、主旨であった。
前例にないことだ。評定所規定にもまったくない。老中、諸奉行は、極秘の会議をつづけた。
その間にはまた、越前守をうたがい、彼の個人攻撃や誹謗が、公然と、あるいは隠然と、さまざまにいわれた。
(おそらく、その間に、越前守は、自己の立場を守るため、あらゆる虚構の工作を、あわててやっているのだろう)
(白洲と、職能を、彼は私事に、紊乱させてかえりみない)
(越前守一人のため、町奉行の権威は、地に堕ちた。かれは今や瓦版の人気者だ)
(おどけた町奉行も出たものよ)
中には、お袖と彼との遠い私行上のことに尾ヒレをつけ、聞くにたえない悪口のたねにする者もある。
それが皆、位置あり、権威あり、相当、要路の人物といわれる者たちの声だから世の中はどこも同じ世の中、同じ人間と世間にすぎないことがわかる。
「お母あ様。お父さまのお帰りっ……」
「お父さまっ。お父さまが、帰った。──お母あ様っ」
もう秋も近い日の庭垣根の辺り。
大岡家の前で、駕籠が降ろされた。
黒い塗り駕籠を出た人は──オオとなつかしむように、玄関前の敷石に佇み、ふと、庭木戸ごしに、この夏は、草も除らなかったらしい広庭の離々たる茂りをながめていたのを、ふと、眼ばやい子供たちが、彼方から見つけて、
「お父さまお父さま!」
と、手に持っていた朝顔や草の花を投げすてて、父の越前守の膝へとびついて来た。
「おお、雪子か。求太郎も、元気でいたか」
抱きよせて──子等の姿を見るのも、幾十日ぶりぞと、父の眼は、熱くなりかけた。
「父の留守中、ようおとなしく、遊んでいたの。雪子は、お稽古を励んでいたか。求太郎も勉強しておったか」
「ええ、毎日、お姉様も、私も、お勉強しています。お父様は……」
「お父様も、お役所で、お勉強していたのだよ。さて、きょう一日は、おいとまが出たので戻って来たぞ」
「うれしい。うれしい」
十二の雪子。九ツの求太郎。ふたりは、父の袂にぶら下がって、式台まで、離れなかった。
供の者の知らせで、屋内の人々は、みな玄関へ出迎えていた。見えないのは、病妻のお縫と、乳のみ児だけだった。
が、越前守は、すぐ、何より先に、その妻子を、一室に見ていた。いや、二月ぶりの自分を、お縫に見せていた。
「……お帰り遊ばしませ。お出迎えもいたしませんで」
お縫は、寝ぐせのついた髪をやや整え、寝床を降りて、手をつかえた。その手の細さ、襟あしの衰え、良人の眼は、正視するに苦痛であった。
「縫。……寝ておれ、無理するな。ささ、寝むがいい。枕元でゆるりとくつろごう」
「いいえ、きょうは、気分もよろしゅうございまする。思いがけないお帰りで、子どもたちも」
「オオ、離れはせぬ」
と、両膝に、雪子と求太郎をかかえながら、
「御用のため、そなたの病を、見にも戻れず、淋しかったであろ」
「なんの、お役儀のためですもの……。お町奉行の妻ともなれば、いたし方もございません。それよりも、お留守の家を、御安心して、御用にお尽し遊ばすようにもできず、私の不つつか……おゆるし下さいませ」
妻は詫び、良人も詫びた。
お縫は、つとめて、ほほ笑みを作り、どうして、久しぶりの良人を慰めようか、自分も、楽しもうか、そぞろ、病の篤いのも忘れて、
「雪子も、求太郎も、さだめし、うれしいことでしょう」
「お母あ様。お父さまは、もう、どこへも行かないんでしょう」
「ええ、そうして、二人を、抱いていて下さるではありませんか。……それよりも、お母あ様が、お台所へ行けませんから、お勝手の者たちに、たくさんに、お父様へおいしい物をさしあげるように。そして、あなた方も、お父様のお部屋を、おきれいにしてお置きなさい」
「はい」
と、二人は、争って、廊下へ走った。
「あれ、あの、うれしげな跫音……」
「不びんなのは、子達であるわよ」
「あなた様のお心も、縫は、お察し申しあげておりまする」
「そなたを信じて、いっておく。越前にも、最後の日が来た。明朝は、別れになるぞよ」
「長い……お別れでございましょうか」
「おそらくは。……縫、そちこそ、かなしい一生を送らせたの。あらためて、わしはそちに、手をついて、詫びるぞよ。ゆるしてくれい」
「め、めっそうもございませぬ。縫こそ……ああ縫こそ、お詫びせねばなりません。──おもえば、私が、悪うござりました」
「そなたが、わしに、わび入ることはない。そなたは何も知らぬ家つきの息女であった」
「……でも、私のまえに、お袖さまという女子に、あなたの生した幼な子のあったことも、私は知っておりました。そのお袖さまにも、私は、会ったことがあるのです」
「えっ。そなたと、お袖とが。──して、それは何日、どこの場所で」
「やしきのお庭の隅の丘で。あの、稲荷の小さい祠の前で。……あなた様は、まだお部屋住みで、奥の書斎にとじ籠っておられました」
「おう、では……味噌屋の久助という悪い遊び仲間がまだいた頃だの。その久助が、お袖をつれて、わしへ会わせに来たときだの」
「稲荷の丘で、幼い者の泣き声がするので、ふと、私が庭づたいに参りますと、お袖さまが、久助とやらをつき退けて、死にもの狂いで、あなた様のお部屋の灯を目がけ、馳け出そうとして来ました。……はッと、私は立ちふさがり、私も、女の一図で、争いました。火のような、ことばの投げあい、ひとりの、自分のものとする殿御を賭けて、女と女との、たたかいは、男同士の剣沙汰などよりは、もッともッと、命がけです。思い出しても、そのときの自分の強さが考えられない程でした」
「…………」
「──が、後には、勝った自分も、折にふれて、いい知れぬ悩みと、淋しさに襲われました。今ですから申します。縫は、あなた様を信じながらも、長い年月、もしやその後もと……良人を疑って見る自分の浅ましさを、どうしようもございませんでした。いつ、お袖さまが、また自分のまえに現われるかと、それを怖れてばかりいました……」
「女だ。それはむりもない。咎ではない。罪は、この良人の若い日の過ちにあったのだ」
「いいえ、縫は、沁々、悔いました。──なぜ私はあの時、お袖さまに、あなたを会わせてあげなかったかと。──なお、な、なぜ私はいッそ、もっと深い心から、あなた様を愛さなかったのでございましょう。そしてお袖さまの幸福をも考えてあげれば、今日、こんな苦境にあなた様を追いつめたり、お袖さまの一生を無残なものにすることもなかったでございましょう」
恋に勝ったお縫もまた、決して、完全な幸福ではあり得なかった。いま長年の人知れぬ苦しみを、良人のまえに、心の隅々まで、涙に洗って告白すると、それだけでも、彼女はかすかな安らけさを覚えた。
たれから見ても、かの女は幸福なはずだった。その彼女にも、心の芯を割れば、不幸な虫が棲み、多年不幸に蝕まれていたという。
人間には、完全なる幸福というものはあり得ないものなのか。いや、一方に絶対に不幸な者が作られるのに、その一方側だけが、いかに満足な目的のかたちを遂げても、それは往々、不幸な蝕みを芯に持ちながら、美事な表皮だけを上に持った果肉のような結果を持つのであった。
ほんとうの幸福とは、多くの場合、他の者の幸福の中に、自分の幸福を見出すのでなければ、完全なそして長い人生の果てまでの幸福にはならないらしい。
お縫の場合は、作為や無理な闘争によるものでなく、自然のままに、かの女の思いがかなったのである。それにしてすら、幸福は、一方に絶対な不幸の人間が作られる場合には、勝者の幸福をもたえず妨げて心から楽しませない。
その夜の団欒は、水入らずだった。例を破って、食膳は、病妻の枕元に運ばれ、子等を交じえて、灯影も賑々と、一しょに喰べた。
子どもらは、はしゃぎ抜いた。越前守は、独り酒を酌んで、ほの紅い微酔を見せ、妻には、良人として体を、子等には、父として体を、
(おまえたちの、ものだぞ)
と与えきって、なすがままに委せた。
肩にのり、膝にもたれ、子等は、自分たちの父を、意志のまま弄ったり愛撫したり、容易に寝つこうともしなかった。病める妻は、良人が案じるので、いわるるまま、仰臥して、その父と子をほほ笑みで見ていた。
けれど、お縫は、越前守が、何で突然、この一夜を家に帰って来たか、余りにも、良人の気もちが分っていた。眼じりから、涙のすじが、枕を打つ。寝返る振りをしては、折々、かの女は、顔をそむけた。
朝。夜が明けるか、明けないうち。
越前守は、湯殿で水音をさせていた。自分の手で、結髪し、髯も剃り、居間へはいった。
前の夜、妻は女中を呼んで、何か小声でいいつけていた。そのとき出させておいたものらしい。良人のための真新しい衣服一切が襲ねてある。
良人は妻の用意に胸がいっぱいになった。かの女は自分の心に何があるかを語らずとても知っている。越前守にとり、これは何より心強かった。幼な子たちの養育にも思い残りのない気がする。ただ彼は、彼女がこれからの孤閨に母としてのみ生きてゆく長い前途に、一日もはやく健康をとり戻すように──と、それだけが祈られた。
万感のうちに、彼は肌着をつけ、上着、麻裃まで、すべてを纏い、同時に、何か心がすわったような重厚感を自分の肚に覚えた。
裃と小袖を除けば、かれの今朝の装いは、白一色の死装束であった。自らも清々しく、他の見る眼にも清潔であった。
妻の病間に来た。お縫は、うす化粧して、床の外に坐り、園子を抱いていた。
「お送りさせていただきます」
と、いった。
朝餉を、ゆうべのように、家族と共にして、
「よい子になれよ」
と、雪子と求太郎の頭を撫でた。
用人が駕籠の用意のできたことを外から告げた。越前守は、袂にからむ子をおいて立った。妻も、立って、従いて来ようとするので、
「ここでよい。……縫、丈夫になってくれよ。子たちの為に」
さすがに、お縫は、泣き伏した。園子を乳ぶさに、雪子と求太郎を、両方に抱えよせて、母子は丸い一つになって俯つ伏した。母が泣くので、わけも分らず、子も泣いた。
その時、たれか馳け込むように、廊下の外まで息せいて来た者がある。目安方の小林勘蔵と、山本左右太だった。
「や、お身達は、何しに来た。越前、不在の間は、寸刻も役所を離るるなと申しておいたに」
「はっ。おいいつけを違背して相すみませぬが、今朝あたりの怪しからぬ風聞に、何とも、じっとしていることが出来ず、市川義平太に、あとを頼んで、両名、御警固に参りました」
「警固に。……はて、越前の身に、何の警固。周章えるでないぞ」
「いや、周章えはいたしませぬ。が、いずこから出た風説やら、越前守は、きょう評定所の指命で召捕らるるであろうとか。いや彼は、旧悪の蔽いようなく、進退窮まって、逐電するであろうとか。何、昨夜、自邸にもどって自刃したとか、騒然たる臆説が町に乱れとんでおりまする。──私どもは、ただ昨日お奉行のお申しつけのまま、御最後の決をお姿に見るまでは、決して、道聴塗説の紛々には動かされまいと、みな自若と構えてはおりましたものの、怖ろしいものは、妄を信じる世間の心理です。朝から南町奉行所の周囲には、何事かあるやと、市民が群をなして集まり、為に、所内の下役、牢番までが、お奉行の身に、変があるものと思いこみ、何としても、説得ができません。きょう、お奉行のお行先こそ解し難いといい合って──」
「はてさて、頼みにならぬ人どもよ。それ故にこそ、篤と、申し残して、越前はただ一夜、やしきに戻って来たものを」
「何しても、今日のお出まし先まで、われわれ二人に、お供をおゆるし下さいませ」
「ばかな。町奉行に、何の警固がいるぞ。奉行自身、独り歩きの出来ぬような世間を、奉行が身に証拠立てて歩いたら、まことに、政道の奇観といわねばならぬ」
「いや、御警固などと申す意味でなく、一同の安心のために」
「なぜ、そち達は、安心できぬか。越前は配下の者にも、さまでに、不信な者となったか」
「滅相もございませぬ。……では、せめて、今日のお行先なと、お聞かせ下されませ。一同に申し告げて取り鎮めまする」
「ウム。さほど、その儀を案じるなら、申し明かしてもよい。聞けよ、越前守は今日、畢生の勇と信をかけて、単身、世上の悪の元兇を逮捕に出向うのじゃ。構えて、立ち騒ぐなよ。やがて、越前の行った先より、何らかの沙汰の知れるまで、汝ら初め、南町奉行所は、庶民の秩序と安穏を守る法の門を厳として崩さず、一同平常のように、ひそと、執務いたしておれ」
それは何か巨像が金剛の信を声に発したように二人の耳朶を打った。はっと、額ずいてしまうしか他の意志のうごくすきもなかった。──と、思ううち、越前自身はもう足をすすめて玄関の式台を降り、駕籠のわきへ、身をよせていた。
啼きすだく虫の秋をこの朝に、露ふかい木蔭草叢に、しゅくと、家人召使たちの嗚咽がながれた。──と、その中から、これは太く明るい声で、
「あ、もし。越前どの、すこしお待ち……」
と、呼びかけた者がある。
「おお、師の御坊」
越前も、振向いて、ニコと笑った。
鉄淵禅師だった。
うしろに、もう一人、僧形の雲水がいた。
「弟、久しいことであったな」
「あっ、兄上でしたか」
「主殿じゃ。いや、いまでは禅師の御弟子、鉄雲。──昨夜、師のお宿へ、おん身から長い書状が届き、わしも披見したので、よそながら、お別れに来た」
「忝のうぞんじまする。顧みれば、兄上には、御苦労をかけたのみでした。……イヤ、その片脚の御不自由なお姿を見れば、いまも胸が傷み、私の若年中の素行が、兄上の御一生まで、かくの如く禍いさせたかと、慚愧の念いにたえません」
「何さ、弟。お蔭でわしは、両刀を捨て、ほんとの人間らしい安住の別天地を見出したよ。仏恩とおもうておる」
鉄淵が、その間に、ことばを挟んだ。
「越前どの。今見ておると、せっかく参った山本左右太を、いたく叱ったので、左右太は、もそッと、いいたい事もあったのを、あんたにいえずにしもうたらしい。……お島という女子のことを、何か、聞いたか」
「えっ、島と申すのは」
「お身自身、過去の白業黒業とも、余すなく、白日に曝して、罪を、天に求め、自身、自身を裁き切らんとしておらるるが……。まだあったぞ、もうひとり、お島がな」
「その島とやらが、何といたしましたか」
「遠島の身を、何としてか、江戸へ逃げ帰っていたが、先頃、義理の妹にあたる石焼豆腐のお次を誘うて、大川へ屋形舟を出し、細々と、心のうちを語って、身を投げて死んだという。……左右太との縁によって、遺骸の始末はわし達がしてとらせた。そのあとで、舟莚の下から遺書が出た。お島の遺書じゃ、見てやんなさい」
泣きぬれている沢山な眼の中に彼は置かれている。鉄淵はそんなことは問題でないらしい。法衣の袂から一片の巻紙を取出して手渡した。風に解れると、女文字が手からこぼれる。
──紙の白さは、遠い遠い雪の夜を越前守に思い出させた。冬の夜の美しい女スリの肌のぬくみや友禅の夜具の檻に、いかにあの頃の、血を荒しもだえたことか。良心と麻痺との境に悩んだことか。
赤穂浪士の列が、雪解の道を、真ッすぐに西へ向って引揚げてゆく朝。──屋根づたいに、魔の窓を脱け出て這った自分のすがたが、昨日の事のようにも、心の底に泛かんでくる。
お島の手紙はたどたどしい。が、大意はこんな意味だった。
──死にます。死ぬしかない女です。自分でも、いとしく惜しくもありません。やりたい事はやりつくした女です。
お次は、私とは、義理の仲だったことが分りました。私のほんとの妹は、お袖というものです。お驚きでしょう。
いたずら女のかりそめ事も、思えば怖ろしい、世の中の真実や、真面目な人たちの運命にも、つながっていました。私がこうなるのも、法のお裁きではないでしょうが、天道のお裁きです。
けれど、病児の愛のために、たッた一羽の燕を吹矢で射たばかりの、私たち両親の非業な罪死が、そのときの幼い姉妹の一生にまで、こんなに祟り廻さなくてもよさそうなものではございませんか。
私は、たれも人には、恨み人はございません。けれど、そんな天道を恨みます。
さいごのお願いです。
実の妹の、お袖を助けてやってください。あれも牢舎と聞きましたから、どうせ無罪にはできないでしょう。けれど、私の遺骸に、お袖の名を着せ、お袖は牢死したものとして、世間から隠してください。
あなた様の、おん為にも。
くわしくは、お次より、山本さまに、一切をおはなしするように頼んで、せめては、一代のいたずら女の成れの果てに、自ら一つのなぐさめとして、この世をおいとましまする……。
「読んだか。越前どの」
「読みました。これは、お手元に、お預りおきを」
「供養してやろう」と、鉄淵は、ふところに納めて、
「……わしの用はすんだ。では、心おきなく、行ったがいい」
身を退くと、待っていたように、市川楽翁が、前へ出て別れを述べた。
「お奉行。いまは、何も申さぬ。……要らざる老人の思いすぎが、かえって、あなた様の御信念を、邪げたようじゃった。お兄上の主殿どのから、きょうお出向き先の御意志を聞いて、何とも、驚き入るばかりでおざった。さまでの、公明正大な御勇気をもって、臨まれるものとは思いも及ばず、先頃から、だんだんの御無礼、楽翁、ただ恥じ入るのみでおざる」
「なんの。御老人。越前ごときに、一命を賭しての御庇護、御知己、身に過ぎて、かたじけない御友情でござった。御温情にあまえ、縫や、子どもの医療、なお後々、よろしくおねがい申しあげる」
「ひきうけた。……御心配なく」
「では、これにて、お別れを」
駕籠は、越前守の姿を、内にかくして、門外へ出た。人々は、悵然として、いつまでも、見送った。
どこへ、行くのか。
その日、彼は、一人の従者もゆるさなかった。世を汚濁する年来の罪府の元兇を、きょうこそは、逮捕すると洩らしてここの門を出た彼。その元兇とは、いったい何者なのか、どこにいるのか。
彼以外、知る者はない。いや、師の坊鉄淵と兄の主殿と、そして極く少数だけは、知っていたらしくもあるが、それと、口に出した者はいない。
「いそげ。──ちと、時刻もおくれた」
途上、彼の声が、駕籠の足をいそがせていた。
濠端へ出た。水辺にけむる葉柳の上に、江戸城の天主の白壁が、駕籠の内からも透いて見える。
「あっ、待たれい。その駕籠」
突として、立ちふさがった武家がある。三人だった。ひとりは、藪田助八。あとの二人は、先頃来の白洲に、その都度、意地悪く傍聴に来ていた〝横目の者〟──公儀目付松平藤九郎、有馬源之丞の両配下の士だった。
その日、越前守は、例の江戸城内の人気ない吹上の深苑で、折入って、将軍家に拝謁を得たい──という旨を、前日から、願い出ていたのである。
吹上で、直々、将軍家に会うときは、いつも、御庭番の藪田助八ひとりが、特に、君側にいるのが例であった。
だが、そういう異例は、町奉行でも、彼以外にまで許されていることではない。
藪田助八の支配する伊賀、甲賀組の者。また、ごく特殊な場合の、公儀目付の者ぐらいに過ぎない。
しかし、越前守は、かつて将軍吉宗から特に、吹上の一亭に招かれた例がある。その時、吉宗は、いつでも、ここでそちの言を聞いてやろうと約した。もちろんその言葉の範囲は、直接、献言の必要ある場合か、何か非常の時に限っていることは、いうまでもない。
「おお、藪田どのか。お迎えをうけて痛みいる」
越前守が、駕籠を出ようとすると、助八はあわてて止めた。
「そのまま、そのまま。お上にも、きょうはひどく、お待ちかねでござる。すぐ、御案内申そう」
助八と目付二人は、かれの駕籠を挟んで、江戸城の隠し門ともいうべき牛ヶ淵の鬱蒼につつまれている橋を渡った。ここの門は常時、閉めたきりで、お庭番か目付のほかは、めッたに、通る者はない。以前、越前守が吉宗に謁したときも、通路はここの門ではなかった。──城外まで、わざわざ助八が、案内に出ていたのも、このためか。吉宗が、いかに、きょうの越前守との会合に、気をつかっているかがわかる。
「ここは、奥庭口の黒鍬部屋でおざる。実は、あなた様をお待ち申している方々があるので、お上が吹上へお立ち出でになりましたら、お知らせに伺います故、その間、ここの奥で、しばしその方達と、お過ごしを」
助八が、去ると、あとの〝横目の者〟ふたりは、どうぞと、越前守の先に立って、だだッ広いだけで、調度も何もない、黒鍬屋敷の奥へみちびいた。
黒鍬というのは、奥庭番の異名である。黒鍬の者といったり、黒鍬衆と呼んだりする。その組屋敷に、自分を待っている者とは誰か? ──越前守はいぶかりながら、がらんとした奥の広間まで通った。
一瞬──彼はハッと足をとめた。
大廂から木洩れ陽の射す廊下を横に、ずらりとそこに居並んでいる顔ぶれを見ると、何と、越前守の知らない顔ぶれは一つもない。それは皆、日常、公務のあいだに密接な関係をもっている者ばかりだ。
寺社奉行の牧野因幡守英成、久世大和守。また若年寄板倉伊予守だの、側用人石川近江守の姿も見える。公儀目付、松平藤九郎と有馬源之丞などもいるし、殊に、越前守とは、同じ町方奉行の職にあり、常に、南と対立的に噂されている北町奉行の中山出雲守もまた同席していた。
(これは? ……)
と、さすがの彼も眼をみはったのである。
宛として、この顔ぶれは、龍ノ口評定所の総員だ。そも、何のために、こんな場所に集会して、自分を待ったのか。
「おう、大岡どの。さ、こちらへ、こちらへ」
寺社奉行の牧野因幡守は立って、彼を迎え、一同の中ほど、彼と隣り合せに、席を占めた。
「いったい、ここのお寄合いは、何の為でございまするか。越前には、とんと不審で、御挨拶のいたしようもござらぬが」
「いや、御挨拶には及びませぬ。われらからすすんで、あなたのお越しを待ちうけたのじゃ。いや、待ち伏せしたと申した方が当っておるやも知れん」
因幡守の諧謔に、人々はみな和やかな笑い声や黙笑を流した。公式でなく、私人的な気もちで寄っていることは、誰もの態度や、役儀の席順にもこだわっていないことでも明らかだった。
「大岡どのの御不審は尤もです。かような前例は、お互いの間にまったくない。しかし、前例のあるないなどは、御眼中に持たれないのが、当代の上様の御特質でもある」
すこし膝を進め、こういい出したのは若年寄の板倉伊予守であった。座中の総意を、この人が代表して、何か、口をきろうとするらしく思われた。
伊予守勝重は、閣僚中でも、温良な人望家といわれていた。で、この場の人々からも、推されて、膝をすすめたものとみえる。勝重のいうところは、こうだった。
昨夜、突然、評定所に席をもつ役員全部が、老中安藤重行、土屋政直の名をもって、龍ノ口の広間に招集され、席には、参考人として、町医の市川楽翁、宇治黄檗の鉄淵禅師、目付役有馬源之丞、松平藤九郎そのほかもいて、深更にいたるまで、実に、龍ノ口始まって以来の難問題として──また誰もがわが事のような熱意とそして真実を示しあって、
(いかに、問題を、よく処理するか)
を、熟議し合ったというのである。
老中の意は、もちろん、将軍家の意にももとづくものに違いない。事の起りを、考えると、ちょうど昨日、越前守が、きょうの吹上の拝謁を願い出た──直後に、吉宗から、
(何とか、善処せよ)
と、老中へ内意が洩らされたものであろう。
吉宗が、どうして、こんな内意を出したか。それには更に、勝重の説明があった。
吉宗が、こんどの事件に関心をもち、同時に、窮地にある越前守の進退について、深く心配し出したのは、すでに事件の表裏や臆測について、噂が、一般的になったこの初夏の頃だった。
そこで、吉宗は、さっそく、藪田助八の手で、問題の真相を、側面から調べさせ、かたがた極力、これが越前守の致命とならないように警戒させた。
吉宗も、まだ新之助といって、紀州家の部屋住みでいた当時は、よく市中に出て、市井の不良と大差のない放縦放埒をやッていた経歴がある。「藪八、藪八」とよんで、藪田助八はその頃からの気のおけない腹心なのだ。また助八も、吉宗の性行はよくのみこんでいる。
で。助八のそれからの暗躍は、つまり吉宗の内命によるものだった。事件がすすむにつれ、詳細、いちいちの実相は、吉宗の耳へはいっていた。
町医市川楽翁のことも、楽翁と諮って、お燕を、世間から隠してしまった事も。──そのほか、彼が、甲賀者や、横目同心たちまで駆って、調べあげた一切の事は、のこらず、吉宗の胸にとどいていた。
つい、数日前まで行われて来た、南町奉行所の白洲におけるお袖の吟味や、大岡亀次郎、阿能十蔵、赤螺三平などの予審ぶりなども、傍聴に立会った横目の二人から細大、洩らすところなく、報告されていたのである。
その結果──
吉宗のあたまにも、くッきり、事件の全貌と禍根のある所がえがかれた。禍因は遠く、前々代五代将軍の綱吉の治下に起っており、人間を畜生以下のものに規定した稀代な悪政治のもとに、お袖という悲命な運命児も生れ、お燕という陽なたを知らない宿命の花の胚子もこぼされ、大亀だの、阿能十だの、三平だの、お島だのという誇悪と社会反逆を快とする不良の徒も、毒茸のように、生え揃って来たものだった。
そういう世代が作った危険な社会地盤の下には、当然、もっと大きな亀裂を知らぬまに作っていた。
中央の眼から遠い西国方面の倒幕陰謀がそれである。不平浪人の謀反は、いつも西国地方を温床にして育ちたがる。西国の経済力と、雄藩の背景と、そして海路や島々の地の利を持っているからである。殊に、密貿易のさかんな横行は、その財力と野心家とを結合させた。うしろに雄藩のうごきを恃み、全国の浮浪の徒を狩りあつめて、脆弱な権力の府を、揺すぶり仆そうという計画をえがかせた。
化物刑部は、江戸におけるその一員だった。彼の任は、江戸にある不平、無頼、野望、自暴、の徒を駆って、さなきだに悪政下にある世相人心へ拍車をかけて、とことんまで、人間を自堕落と不安の底に追い陥し、時をまって、西国の仲間のうちへ奔る予定でいたのである。
はしなくも、かれは、自分のかけたワナに懸って炎の中で、自刃し、かれを通じて、西国方面の陰謀や、密貿易仲間のうごきが、どういう現状にあるかは、ついに今度の調査では、余りにも、広汎に亙りすぎて、知るを得なかったが、この方面の、幕府にとっての危険なる欠陥も、ゆるがせに出来ないものになっていることは、間違いない。
新将軍の職をうけ、前々代からの政治改革と積年の悪弊一掃に、果断で、時には、周囲を唖然とさせるほど勇敢なる吉宗が──これらのものを、一夜、市井の山善に押込んだ五人組強盗事件というだけのものとして、小さな眼孔で、見すごしているわけもない。
また、吉宗にしては、自分が、この改革期に、職を継いだというほかに、二重の責任感もあった。
伊勢山田の一地方吏から、中央の江戸南町奉行という重要な職に、越前守忠相を抜擢した者は、たれでもない、彼自身なのである。
この破格な、思いきった人材登用は、吉宗の前例無視や、弊政一掃の画期的な断行ぶりと共に、当時、一般を驚かせたものだった。
その奉行越前守──吉宗の眼識で、吉宗が、使命目的のために、据えたといってよい者が、いまや、まだ前途に多くの抱負をのこして、事績、いくばくも挙げないうちに、この失脚の危機に瀕したのだ。吉宗として、捨ておけないことには相違ない。
しかも、その忠相は、吉宗のかくばかりな蔭の庇護と、心配とを知ってか知らずにか、いかに彼の不利を、闇につつみ、窮地に助け舟を向けてやっても、渡りに舟とは乗って来ない。むしろいよいよ自らを、自身で追いつめ追い陥して、ついに問題を、龍ノ口評定所にまで提出し、あくまで天下白日の下に、事件をというよりは、自身の裁かれんことを求めているふうなのだ。
(困ったやつ。……おそろしいやつ)
という呟きは、吉宗がいつか、藪八を前においてもらした腹の底からの嘆息だったが、突として、昨日は、その越前守からも、もう一度、吹上において、御拝顔を得たいと、願い出て来た。吉宗には、かれが、何のつもりで、それを求めて来たか、すぐ越前の腹が読めた気がした。
(おそらく、職にある日のうちにと、今生の別れを、それとなく告げに来るものであろう)
こう察したので、かれはいよいよ一刻もすておけないと考え、老中を通じて、事の善処を、急命したのである。内意の要点は、
一、評定所は、越前の持ち出した裁判を、取り上げないこと。
一、問題は、南町奉行の権限において、一切、解決し去ること。
一、北町奉行は、南にたいする対立を抑止し、南と協力して、この際の臆測や風説を解くに努めること。
──などの三ヵ目であった。
板倉伊予守は、以上のいきさつを、諄々と、語り終って、
「そこで、われわれどもの談合は、北町奉行の中山殿や、折ふし、寺社奉行の牧野殿をたずねて、宇治より入府中の鉄淵禅師を加えて、昨夜、深更まで、協議をこらした次第でした。……その結果、かくまで御憂慮あらせらるる上様のお心になって、一同、いかようにも、あなたの御方針にそい、この際の御苦境と難問題の解決に、各〻、力をかし合おうということに一致し──昨夜申し合せた者一同、ここに、貴殿をお待ち申した次第でござる。どうか、御不審をお解きください。そして、早速ながら、この場で、寺社奉行、お目付側、また北の中山殿なども、膝くみ合せて、善後処置のお話し合いをなされては如何なものか。……のう、越前どの。御隔意なく。……よも、貴殿としても、これに御異存ではござるまいが」
と、いった。
いや、伊予守たちには、何かは分らなかったが、ただならぬ決意とだけは分る──越前守の今日の眉宇を、なだめ、諭していう風でもあった。
黙然と、聞き終ってから──。なお、やや時を措いてから、越前守はしずかにいった。
「思いもよらぬ御心配をわずらわし、そのことは、深くおわびいたします。……しかし、お示しの、御内意とやらに、従うわけにはゆきませぬ」
「それは。何として?」
伊予守に、越前のこの返辞は、よほど意外だったらしい。
いや、座中、悉くの顔が、あきらかに、はっと気色をなし、凝視を、越前守の身一つにあつめた。
「せっかくの、御好誼には、越前も、越前個人として、ありがたくお受けはしますが、江戸町奉行の職において、上様の御仁恕も、方々の思し召も、容れることは罷りなりません」
「それは、また……。余りにも、頑なというものであろ。──では、越前どの。事件の始末を、あなたは、一体、どう処置せらるるお心じゃ」
「これは、意外なお訊ねです。すでに、一切の調書、予審経過は、評定所お開きの上、公明な御裁決を仰ぎたい旨を申し添えて、龍ノ口へさし出してあります。御処置は、越前の手を放れ、そこに於いて、越前も、罪をまつ心底でおりますこと──すでにお存知のはずと存ずる」
「──が。その儀、龍ノ口には受け付けるなとの、御内意なのじゃ」
「その御内意に、斟酌は無用でござろう」
「越前どの。暴言ではないか。将軍家のありがたい思し召を、無視せいといわるるのか」
「そうです」と、きッぱり、答えた。「龍ノ口評定所は、何の為にありますか。御内意などによって、うごくものとしたら、法の威厳は、どうなりましょう」
「ば、ばかな」──黙っていられなくなったのであろう。久世大和守が、わきから強い語気で、口をいれた。
「徳川家が制定せられた大法。その大法をもって天下の公事善悪を裁判する龍ノ口。宗家将軍家のおことばがあるに、何のふしぎがある。……以てのほかな!」
「あいや、大和どの、お怒りをしずめられい。越前が尊ぶのは、やはりそこです。法とは、すでに、いささかの〝私〟なきことです。たとえ、その大法を初めに、制定された御宗家であろうと、天下諸民を、律する法として生きた以上、もはや、将軍家の御意志でも、ゆめ、左右されるものでもなく、また、お口出しすべきものでもない。──その、絶対なる尊厳を、上みずから冒すとすれば、上も、法の賊です。世を紊し、秩序をやぶり、ひいては、将軍家みずから将軍家を破るものです」
「……これは、手がつけられん」
大和守は、うしろを振向いて、北町奉行の中山出雲守と、にが笑いを見あわせた。
出雲守も、何か一言、いわなければならない義理を、感じたように、
「まあ、越前どの。そう理屈一図に、仰っしゃるものではない。貴公は、年久しく、伊勢山田のような、暢ンびりした田舎においでられたから、江戸、柳営などの、事情に精通されないのもご尤もじゃが、政治にも、裏と表があり、法の適用にも、そこは、手加減、酌量などがあって、行われているものだ。
──元々、東洋の法は、仁を本とし、苛烈な罰が目あてではござらぬ。なお、朱子の語にもある。
──聖人ノ治ハ、徳ヲ以テ、民ヲ化スヲ本トナス。刑ハ、以テソノ及バザル所ヲ、補クルノミ……
と。まあ、そんなものではござるまいか。越前どの、そうこちこちに、法をたてに把って、御自身まで、法縛りにならんことじゃな」
と、世俗的に笑った。──うなずく顔が多かった。──常識の肯定として。
しかし越前は、答えもしない。黙殺した。
そのとき、牧野因幡守は、鉄淵のそばへすり寄って、何か、小声で話していた。
鉄淵は、先師の遺した大蔵経開版のため、幕府へ嘆願のことがあって、しばしば寺社奉行の因幡守の私邸をも訪れ、因幡守も、かれに帰依していた関係から、自然、越前守のうわさも出、前々から、ふたりは、その問題について、心配し合っていた間であった。
小声なので、因幡守が、何をいったのか、聞えなかったが、鉄淵の返辞は、あたりに遠慮もない大声だった。
「はははは。知らんよ。わしには、政治だの法律だの、そんなことは、分らぬ。わけも分らぬ坊主が、越前どのに、何をいえよう。越前どののやりたいように、やらせて見るわけにはいかんのかなあ。……わしは、見物のつもりで来ておるんじゃが。アハハハ」
むずかしい空気になった。人々の眼は、越前守の態度を、あきらかな我意強情と見、
(そうだ。彼のやりたいように、やらせて見ていたがいい)
とする傾きが濃くなった。
その頃、吹上の裏の密林から、大樹の間のせまい坂道を馳け下りてくる者があった。何か、あわてているような藪田助八の姿である。黒鍬屋敷の内へはいると、牧野因幡守に目くばせして、縁の片隅で、ひそひそ訊いていた。
「越前どのとの、お話し合いは、つきましたかな」
「いや。まだじゃ……」
「まだ、だいぶお暇が要りましょうか」
「あのように皆、気まずい沈黙と沈黙になってしもうた。おそらく、越前どのの承服は、望まれまい」
「では、御内意は」
「妥協はせぬという態度じゃ。ずいぶん諭したつもりじゃが」
「それは、弱りましたな。はて、何としたものだろう」
「上様は」
「きょうの事が、しきりと、お気にかかるのでしょう。仰せ出しの時刻よりもちと早く、すでに、吹上のお茶亭へお渡りになり、ただお一人で、越前はまだかと、再三の御催促なので」
「ありがたい思し召に反いて、彼が、無用な強情をいい募っておろうなどとは、お上にも、ゆめ、御存知ないのでござろうが」
「それは元よりです。さだめし、越前が、御仁慈によろこび、君恩に泣きぬれて、御自身の前に来るであろうに──と、その姿をお待ちかねなのです。それを、どうして、越前どのには」
「この上は、もはや御上意に委せるほかはありますまい。万一、事面倒な時にはと、念のため、これへ招いておいた鉄淵禅師すら、あれ、あのように、すずしい顔して、見物ものじゃと申しておる」
「では、もはや、猶予はならぬし……。是非もない儀。お連れいたそう」
因幡守の前から顔を離すと、助八は、縁にのぼって、厳かに、
「越前どの、お越しあれ。お待ちかねであらせられる」
と、告げた。
さすがに、人々の面上を、サッと、一種の緊迫感が青白くよぎった。上様と聞けば、他人のいう声にも身の緊まる習性なのである。──が、越前守の筋肉は、柔軟なうごきを少し描いたきりで、
「では」
と静かに、助八へ会釈を返し、また一同へ、もういちど、好意を謝して、そこを立った。
吹上の裏は、深山を想わせる。何人も窺い得ないような巨木や密生した熊笹で蔽われ、道は、意識的に、紆余曲折して造られ、案内なしでは、とても辿りつけない。
淙々たる水音を知ると、渓谷そのままな岩盤に、危うげな丸木橋があり、それを渡り終えると、初めて、広い芝生が、眼の前に展開する。
芝生の彼方に、またるいるいたる岩積みが見え、その上に、一亭の数寄屋がある。
亭のうちに、人影があった。
ぴたと、その人は、坐っていた。──と、その顔が、こっちを見た。吉宗である。
越前守は、大歩して、そこへ近づき、亭の前に立った。
「おお、越前か。あがれ、上がれ」
待ちかねていた声である。
これで二度めだが、ここで会う吉宗のそれは冷たい将軍家ではない。どこか、あたたかい徳川吉宗──そのむかしの紀州家のぼんち新之助のにおいすらある。
つねならば、はっと、ひとまず遠く次室で平伏すべきが通例である。ところが、越前守の足は──いや全身は、そのまま押し通るような態度で、吉宗の顔の前まで行ってしまった。
「……?」
吉宗は、唖然として、彼を見あげた。
「──越前。坐らぬか」
ついに、叱った。
しかも、越前守は、なお、突っ立ったまま吉宗を見すえて、不気味なほど、冷静にいった。
「あなたこそ、席をお退がり下さい。お敷物を払って、座をお更えねがいたい」
「な、なに」
吉宗は、耳を疑った。
ここでは、必ず、数寄屋の外に立っているはずの藪田助八も、ふと、その様子を見て、愕然と、越前守のうしろまで跳びこんで来た。そして、驚きと、殺気と、怪しみに満ちた眼で、脇差のつかを握りしめ、万一と見たら、立ちどころに、越前の背から一突きに刺し殺すばかりな身構えを示していた。
越前守は、あくまで冷静である。背すじに、何が、襲いかかっているか、知っていた。──が、見向きもせず、吉宗の眸にたいし、かれも眸を以て、圧して行った。
「おことわり申しておく、大岡忠相は、今日、将軍家の一御家来としてこれへ参ったのではありません。江戸南町奉行の職をおびて推参した者です。お褥に在っては、取調べがならん。法の尊厳をお守りあって、座をお退がりください」
「な、なにをいうぞ、越前。──戯れか、狂気したか」
「いや、かりそめにも、天下の御法令にたずさわる判官忠相です。左様なおたずねこそ、御正気とも覚えませぬ」
「さらば、ゆるさぬぞっ。ゆるし措かんぞ」
吉宗の耳朶が、くわッと、赤くなった。近年は抑えられていた彼の本質にあるもの──紀州時代にはまま放逸に発散されていた癇癖と熱情家らしい血が、久しぶりに満面に出たのである。
むしろ、それを誘発し、その心理的な機会を待ってでもいたように、この時、大岡越前守も満身の気をこめて、大喝を発した。──それはまた、うしろから跳びつきかけた藪田助八の殺気を封じ止めるためでもあった。
「おだまりなさい。罪悪の元兇。──世の罪悪の源ともいえる身をもって、奉行越前守に、左様な言を吐かるるこそ、不遜千万です。身のほど知らずです。──越前守はここに、捕縄十手を携えて来ておりますぞ」
「吉宗にたいし、それを、用に立たせる所存か」
「場合によっては」
「狂気とも思えぬが、この吉宗を、罪の元兇とは、何を考えて申す暴言か」
「構えて、左様な、虚勢を固持しておられるうちは、仔細に、申すわけに参りません。まず謙虚をお示しなくば」
「よしっ。聞いてやる」
と、吉宗は、膝の下の敷物を、抜き取るように、ばっと、外へ投げすてて、
「さ。申してみい。儂が、何で悪の源か。詭弁は、ゆるさんぞ。いささかたりと、口濁したら斬り捨てるぞ」
「いや。ともあれ、この奉行の問いに、御不服あれば、率直に、御反問ください。──まず、お訊ね申すが、祖廟の定めおかれた天下の法令は、その根本義と、箇条箇条を、いったい、世の誰と誰とに適用いたすものでございまするか」
「この国の地上の人間、ひとりも余すものではない」
「では、将軍職といえ、法の外に在ってよいものではございませぬな」
「つ……つまらんことを訊くなっ」
「いや、治世の重大事です。忠相は、必死をもって、伺います。──将軍家は、法の上のものか、やはり、法の下にあるものかを」
「吉宗が、いつ、法を犯したと申すのじゃ」
「左様な、些々たる一個の詮索ではござりませぬ。──溯れば、ここ二十数年にもわたる大罪科を、前々代のときから、当将軍家は犯しておられまする」
「……ううむ。それを、いうのか」
吉宗の激血は、やや面から醒めた。得心の扉が開きかけた容子も見える。
──と、感じると、越前守も、にわかに、心の梁が、弛みかけた。ああ、お解りだ、必ずや、解って下さるとは信じていたが、……もう大丈夫と、思うと共に、あやうく、睫毛が熱く濡れかけて来るのであった。
「……そうか。そちは、それをいおうというのか」
吉宗は、もいちど、心の底からうめいた。
八代将軍の職をうけてから、吉宗はまだ幾年にもなっていない。彼の革新的抱負は、甚だ、果断で勇敢には見えたが、その実績は、なお思うようには、行われていない。
形は、変るが、中は変らないのだ。威令には伏するが、内実の腐敗は、かえって、被る殻を強くさえしている。
悪習の根はふかい。弊政の禍因は遠い。それを、一朝にして、改革しようと意気ごんで職についた三十五歳の新将軍は、近頃ほとほと理想と現実との、遠さを、またいかにその実現のむずかしく、行われ難いものであるかを──敗軍の将のように痛感していた。
宦官的な側用人、無能で佞智ばかりもつ賄賂好きな役人、それにつながる御用商人やら、腐れ儒者やら、大奥と表を通う穴道の雑人やら、どしどし罷免したり、入れ更えたりしたが、それらの前代、前々代からの城鼠が、影をひそめたと見えても、作用は決して止んでいない。むしろ、〝陰の声〟や〝陰の動き〟を複雑にし、吉宗をして、時には、いらいらさせるのが見える。
正面の弊政改革にしてもそうなのだ。改廃の令はしきりに出たが、その精神と実績は少しも生きて応えて来ない。退けられた大物の顕官や一派の学究などから、批判めいた声は町へコソコソ洩れてゆくが、吉宗の眼から見ても、社会がよくなったとは少しも見えない。
吉宗自身、着ものは紬、袴も唐桟木綿、食事も田舎好みときめ、大奥、表とも、質素をむねとし、諸民一般へも、同様な素朴と健康な耐乏を求めたので、その評判も、おもしろくない。
北町奉行中山出雲守の報告によれば、いちど減った市中の犯罪者も、昨年あたりから、急激にまた殖え出しているという。──そして、南は知らず、北の奉行所は、つねにそれらの罪人で充満しており、牢舎の増築は、焦眉の急であるといっている。
いったい、牢舎の増築は、何を意味するものか。
吉宗は、考えざるを得なかった。
北町奉行はそれを誇りとしている。果たして、誇りだろうか。──ということよりも、新将軍たる吉宗自身の安んじられるところだろうか。
彼の年少時代にはあった本来の野性。そして野性から磨きあげられた情熱と理想とは、大きな人間群の実態にぶつかって、近来、手も足も出ないような気もちに追いこまれかけていた。──あとの行く道は、このまま美衣美食に肥えたぬるい神経のもち主となって、大奥に寵姫の数を殖やし、将来、無益で徒食の権利だけのある子どもを幾十人も生ませ、塗炭の民の上に、金殿玉楼の、生ける身の柩をもって老いを待つだけの事でしかない。
とても、吉宗に、我慢のできた生活ではない。一膳めし屋の飯の味や、肉を売る闇の女が夜蕎麦売りの灯に舌つづみを打っている姿も知っている彼だ。どれほどそッちの方が生き甲斐ある人間らしい生命かとも思うのだろう。──何しろ、彼は、その事について、胸を割って語りあえる者は、越前守一人と、ひそかに思っていたのである。
が、その越前を、朝暮に、胸にうかべながら、ここ数ヵ月は、令をもって、招きもできない事情であった。かれが、痛心を深めたのは、越前の為というよりは、彼自身のためでもあった。
いまかれの口から、将軍家こそ罪悪の元兇であるといわれたとき、吉宗は、一とき、嚇としたが、とたんにまた、この日頃、聞きたいと思っていた言葉をいきなり聞かされたような心地もした。──じいんと、鼓膜から頭へかけて、応えたものを瞼にささえて、しばらく、眼をとじているうちに、彼の心は、
(そうだ。その通りである!)
と、叫んでいるのが自分でもはっきり分った。自分とはべつな声を以てである。
だが、吉宗は、間もなく、その声を、自分のものと、はっきり認めた。さすがに、彼はこの時もう、越前守の意中を、充分に見てとった。
伊勢の山田奉行であった時から、すでに二、三の事件で、御三家たる紀州家を相手どって、地方民のため、頑として、法を曲げなかった剛毅なる彼を──まざと、今、目の前に見たからである。
「奉行。よくこそ、そこを問うてくれた。おん身ならでは、幾世にもわたる罪悪の府、将軍家の科を、裁き得る者はない。──吉宗を裁け、吉宗は、白洲に坐した気もちで聞くであろう」
彼は、率直に、座を退がった。
越前守も、下に坐った。
「さきほどからの無礼、何とぞ、おゆるし下さいまし。その御謙虚を見てから申し上げたいためでした。しかし、越前ごとき、前身も自堕落なら、なおまだ欠点や短所だらけな人間を挙げて、片田舎の小吏より、江戸町奉行の任に仰せつけ下されました初めに於いて、不肖ながら、越前は、今日の覚悟をきめておりました。──不才、無学な身にはございますが、無刑録なる書物のうちにも、荀卿の語として、
と見えました。これを以て、就任の折、職の護符と信じたるものでござりまする。また、宇治の鉄淵禅師にも、折々、叱咤をいただき、
一、慈眼、衆生ヲ視ル。
一、無刑、空牢コソ、法ノ理想。
一、人間ニ神ノ裁キハ難シ。人間ガ人間ヲ裁クノ畏レヲ常ニ想ヘ。裁カバ裁カレン。
一、一牢万生──。一刑ヲ施ス毎ニ万祷ノ涙ヲ垂レヨ。
以上の事どもを、反省とし、日々夜々、自分の胸にいいきかせては、おぼつかない町奉行の職を視て参りました。しかるに、何と努力しても、法の上に、法の掣肘をうけない、特殊なる人々があったのでは、所詮、千万ヵ条の法令を掲げても、諸民の上に、それは空文だということが相分りました。──それは、はからずも、町奉行たる越前自身の犯した過去の科からでございまする」
縷々と、越前守が、胸の奥底までをいいつくす間、吉宗は、一語も、吐かず、聞いていた。
歯に衣きせず越前もいう。
五代綱吉が、みずから悪法を作って、諸民に強い、自身は、法の及ばない法以上の上に棲んで、十数年の長きに亙り、億生の人々を苦しめた一世代の政罪は、年月のふるほど、慄然たる結果を見せている。それは綱吉が歿しても、六代、七代と将軍家の名が変っても、絶えることではない。ひとたび、悪い世代に宿命づけられた人間の子たちの悲運は、果てなく、非運非命につながり、これが、社会悪の雑草に、はびこッて行く。
「たとえば……です」
と、越前は、自ら、熱湯を呑む思いでなおいった。
──お袖の悪。お燕の悪。また、大岡亀次郎たち一連の浮浪の徒の発生もみな、それを孵化させた汚水が罪の源である。
化物刑部たち一味に見られる武家自体からの腐敗や堕落も、また西国方面の危険なる陰謀も、海外をかけての密貿易たちの跳躍も、帰するところ、どれ一つとして、腐った池が生む成長物でないものはない。まさに、人間界にとって、幕府とは、人間苦、人間悪を、限りなく作り出してゆく罪業の根源地──罪の府というも過言ではない。
あわれなのは、こんな世代に、宿命づけられた、かよわい女、無智なる人の子、また、やりばない若さをもった鬱血児たちではあるまいか。毒茸のあとには毒茸しか生らない。
こう観じて来れば。
かつての、中野お犬小屋荒しのような稚戯は、当然、無罪となさねばならぬ。
お袖、お燕にも、罪ありとすれば、より以上、大なる罪を、彼女たちの父に加えた、悪政の罪は、これをたれに科してよいか。
大岡亀次郎の父、五郎左衛門の死もまた、同様なる原因による。もし、かれの父が、悪政腐吏の間になかったら、亀次郎も、生涯を過らなかったかもわからない。同様なことは、阿能十蔵にもいえる。その他の者にも、酌量の余地がある。
何で、これらの者を、一越前守が、裁ききれよう。まして、越前自身も、凡愚、放埒な前身もあった身として。
これが、越前の嗟嘆だった。職悩職苦だった。そしてその遂行に行きづまったとき、法の権化ともならん──と誓ったとき、不可抗力な壁を見た。将軍家という存在である。彼は、それを見たとき、憤りの血に駆られずにいられなかった。法の下なる無力な億生のために、阿修羅にもなれと思った。きょうの彼は、阿修羅越前になって、吉宗にぶつかって来たのである。
「ああ、何やら、大きな明りを、見出したように思うぞ。──奉行、吉宗に、たとえ一ときでも、縄を打て、正に、将軍家なるものは、罪の元兇だ。縛れ、そして、天に代って十手でわしの体を打て」
吉宗は、卒然と、叫んだ。
「あ。ありがとう存じまする。おわかり下さいましたでしょうか」
「解らいでか」
と、吉宗は、眼じりに、彼らしい感情の昂ぶりを見せ、なお、打て打て、といってやまなかった。
「当御代には、まだ、さきに挙げたような罪科はございませぬ。強いて、刑を明らかにと申せば、恐れながら、それは御霊廟の地下に及ばねば相成らぬことになります。どうか、お心を安んじてください。奉行越前守が、お糺し申すことは、終りましてございまする」
「いや、吉宗は、安んじきれぬぞ。──越前、十手と縄を、あれへ置け」
彼の身は、縁をとび降りて、真下の、広芝へ馳け下りていた。
何思ったか、芝生のうえに、ぴたと坐った。
越前守は、命にまかせて、彼の前に、十手捕縄をおいた。吉宗は、両手をついて、それに誓った。
「おもえば、怖ろしいことであった。いかに、無辜の民や、あわれなる宿命の者が、いわれもなく、この麻縄や、この白い牙にかかって、代々、次々、呻きの闇へ、投げこまれて行ったことだ。吉宗が生あるうちには、きっと、牢に人なき世を作って見せるであろう。それを以て、過去の怨念の民は、儂をゆるしてくれよ」
そしてまた、吉宗は、膝を、広く展けている空の一方へ向け更えた。
秋の澄んだ空の下には、大江戸の町々の屋根が、また橋や大川や小舟や両岸の柳までが、湖の底のもののように、鳥瞰図をなしていた。それは、その蔭にある、無数の庶民が、きょうを生きるために描き出している膨大な生命の絵図とも見えるのである。
吉宗の心は、たしかに、遠くはあっても、それと向きあっている心持ちをとったものだろう。かれは、大地に、正しく手をつかえ、前とひとしい言葉をもって、民衆に謝罪した。かつての将軍家が冒した大いなる罪を自分の職にかえりみて詫びたのである。そして、自分の信じる人間、大岡忠相を補佐として、かならず、世上にその実証をたてることを、天道も照覧あれ、と誓った。
「…………」
越前守も、遠く、芝の上に坐して、吉宗のすがたへ、随臣の礼をとっていたが、ふと、吉宗が立つと、とたんに、五体の骨がばらばらになったように、畏れおののいて、いつまでも泣いていた。
「越前」
「…………」
「越前」
「は。……はい」
「こっちへ来い──」と、数寄屋の縁へみちびいた。が、越前は、すでに再び、かれの側へも余り近づき得ない一役人を持していた。近づきはしても、平伏した。
「なあ、越前。……そちも、わしも、考えると、えらい居場所を、生涯の坐り場所にしてしまったのう。はははは、人間としては、ちと、やり損なったぞ」
「まことに」と、越前守も、まだ乾かない顔を上げて、泣き笑いをうかべた。
「──が、これは、上様が、私にだけ冒した罪でございましょう。越前は、正直、人間として、たいへん後悔をいたしております」
「勘弁せい。生れ合せた悪縁じゃ。……心を取り直して、きょうは退がれ」
「はや、お暇つかまつりまする」
「が。……待て。……越前、死ぬなよ」
「えっ。おことばは」
「死ぬな、死ぬことは、相成らんと、申し渡しておくのじゃ。そちはさきに、奉行の名をもって、将軍家を裁いたであろう。吉宗は、武門の棟梁の名をもって、命じておくぞ。切腹などいたしてはならんぞ」
「……はっ、はい」越前守は、上げかけた腰を、また、ぺたんと、地に崩してしまった。
年は、暮れ、また、次の年の秋が来た。
南町奉行所の門は、事なく、いや、事しげく、市民の中に、その使命を、つづけている。
大江戸の生業と、夜々の安眠の、守りの門として。また、正直者の味方として。
さしも、噂だった、お袖たち一連の事件も、遠島、その他の重罪で落着し、市民も、いつか忘れ顔だった。
死罪は、一名も、出なかった。のみならず、この一年の間に、大赦の令が出た。特に、五代綱吉の治代に、例の、畜類違犯で獄中にあったり、その起因による罪人は、一人あまさず、赦免になった。
お袖も、その一人であり、中野お犬小屋荒しに発足した亀次郎たちの悪の仲間も、遠島から解かれて帰った。
この秋ぐち。初秋の風と共に、それらの人々は、思い思いに、どこかへ散った。
お袖は、船の上から考えていたように、巷を歩き廻らない足で、すぐ青山善光院へ行って、髪をおろした。馴れない尼院生活も、彼女にとっては、むしろ生れかわったよろこびにみちていた。ただ、夜々の虫のすだきを聞くたび、
「お燕は……?」
と、思い出しては、枕をぬらした。切々と、彼女の身のなかには、以前にもまさる母性の本能が強まっていた。尼院のしじまと、黙想とは、それひとつに、彼女の生命を、いまは燃えあつめさせていた。
「お燕は、つつがなく、暮らしておるよ。会わせてやろう」
それはもう晩秋だった。ぶらりと、訪ねて来て、彼女を連れ出した旅僧がある。──宇治の鉄淵の弟子で、鉄雲という僧。いうまでもなく、越前守の肉親の兄、以前、主殿といった人だ。
鉄雲は、びッこであった。その不自由な足をひきずりひきずり、権田原を抜けて、四谷の灯の方へ歩いた。
何町かは、分らない。四隣はみな、静かな小屋敷ばかりである。そこの辻を曲がり、路地の深まったつき当りの黒塀の下に立った。裏門と見える潜りが開いている。鉄雲はだまって、手招きした。
「はいっても、よいのでございますか」
それにも、鉄雲は、黙って、うなずいたきりである。お袖は、こわごわ、身を入れた。庭を斜めに、露草に濡れながら忍んで行く。
──と、窓が見えた。古風な、短檠とよぶ燭が灯っている。
「……あっ」
立ちすくんだまま、一瞬、身がふるえた。そこに、半身見えるのは、たしかに越前守その人にちがいない。そして、前の机をへだて、それに対して、きちんと、坐っているのは、お燕であった。
机の上には、書物が置かれてある。越前守は、お燕に、その読みと、意味とを、講義していた。寺小屋の先生が、幼い子どもに、教えているように。
お袖は、ひと足、ひと足、いつか、窓のすぐ外まで、身を寄せていた。
「……よし、よし。もう読めて来たな。どうじゃお燕、わかり出して来ると、書物を習ぶということは、おもしろかろうが」
「ええ。この頃になって、やっと、楽しいものになって参りました。初めは、どうしても、頭にはいらなくって」
「そうだろう。そなたは、寺小屋の子も読むような、やさしい往来物一つすら、読めなんだ」
「文字というものを、読む気で見たのは、生れて初めてでしたから」
「いまから、生れたと思えばよい。越前も、古典はあまり詳しゅうないから、やがて、源氏物語でも読むようになったら、たれぞよい師をさがしてやろう」
「いいえ。私は、いつまでも、お父さまを、お師匠さまにしていとうございます」
「はははは。そなたは、どこかまだ、ほんとうに、生れたての赤児のようなところがあるよ。お父さまには、役所の勤めもあるので、そうもゆかぬ。……が、ここへ来る夜は、夜更くるまでも、教えてやろうぞ。……さ、硯を出して、墨をおすり、いつもの、お習字」
「お習字は、好きです。お父さま、もう次のお手本を書いて下さいませんと……」
「もう、そんなに、やっておるのか」
「昼間、ひまさえあると」
「どれどれ、見せい。ううむ。ほんに、すこしの間に、うまくなったの。……が、ここがまだ、すこしいかんな。よし、わしが手を把ってつかわそう」
お燕の一面に、たあいのない純真さのあるために、父の越前守も、ここではまるで、寺小屋のよい先生になりきっている。
彼は、立って、お燕の背なかにまわり、肩ごしに、お燕の筆をもつ手を把って、根気よく、筆法を教えていた。──もう、こんなふうに、いろはのいの字から手を取って教え出してから、一年近くになる。
彼は、心友市川楽翁のすすめにまかせて、世間にもそッと、ここに一軒の別宅をもった。
たれもが、妾宅だと、思っている。うすうす越前の出入りに気づいた近所では、
「お奉行もよいお楽しみができた」
と蔭でいっている。
が、楽翁の養女と称して、野の花からこの家の庭へ移し植えられて来た者は、公にも、すでに死籍の人とされていたお燕であった。
越前守は、彼女にたいして、大きな父の任務を、見出した。それは彼にとって、思いもうけぬ、よろこびと、張り合いだった。
十八というこの年頃まで、まったく、無智と、悪の仲間におかれて、ただ美しい栗鼠のごとく成長して来たこの野性の処女を、自分の真心で、父の愛情で、どこまで、女性としての教養と心性の美しさを与え得るか。
「そうだ、それはわしが、お袖にたいする謝罪でもある」
折々に、ここへ来ては、彼が熱心になり初めたのは、それからだった。教える彼も、習ぶ彼女も、うつつなほど、愛情に結ばれながら、わざと、仄ぐらい短檠を用い、机に、相対して、こよいも、更ける夜長を、忘れはてているのである。
お袖は、その夜の空のように、心にのこっていたかすかな曇りも、今は、きれいに拭い除った。とめどなく、涙はこぼれて、嗚咽を忍ぶのに切なかったが、それは決して、かつてのような、呪咀と悲嘆にしぼるものではない。自身にさえ甘やかな味のするうれし涙であった。また、今にして、男の真意を、拝みたいような、詫びたいような、涙であった。
「さ。……戻ろう。つい、知れては、お燕のためにも、お身のためにも、かえって、苦しいものがまた生れよう」
鉄雲は、そっと、彼女の耳にささやいた。
素直に、うなずいて、お袖は、窓の灯からそっと、離れた。
気づかれもせず、もとの木戸の口まで帰った。振り向いたとき、また一さんに涙があふれた。そのとき、お燕が、窓から白い顔を外へのばした。お袖は、あわてて、往来へ出た。
「雁ですよ。あれ、雁の群が、啼きわたって行ったのです。……では、私は、ここでお別れします。宇治から出て来たら、またお訪ねしましょう。そして、そのたび、二人でここへ、苗の育ちを、見に参ることにしましょう」
鉄雲は、びッこを曳いて、月の色か霧の色かとまごう辻彼方へ、ことことと、何の感傷も持たない杖の音をさせて立ち去った。
底本:「大岡越前」吉川英治歴史時代文庫、講談社
1989(平成元)年8月11日第1刷発行
1991(平成3)年2月1日第3刷発行
初出:「日光」
1948(昭和23)年9月~1949(昭和24)年12月
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
※「2011(平成23)年5月6日第22刷」の底本では「──あっしも、足元の明るいうちに、」は「──あっしも 足元の明るいうちに、」となっています。
入力:川山隆
校正:トレンドイースト
2013年11月5日作成
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