篝火の女
吉川英治
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箱根山脈の駒や足高や乙女には、まだ雪の襞が白く走っていた。そこから研ぎ颪されて来る風は春とも思えない針の冷たさを含んでいる。然し、伊豆の海の暖潮を抱いている山陰や、侍小路の土塀のうえには、柑橘の実が真っ黄いろに熟れていて、やはりここは赤城や榛名の吹きおろしに曝されている上州平野よりは、遙かに気候にめぐまれているなと、石田大七は何事につけてもすぐ自分の国土と比較して考えずにいられないのであった。
畑をみれば、まだ、上州あたりでは冬草も除れてないのに、この相州では、麦が三寸も伸びている。土民の家をのぞいても豊らしく見えるし、往来人の風采をながめても文化の差がわかる程、ここは、上州よりもずっと都会色が濃いのであった。
『さすがに、北条早雲以来三代を経た関東一の覇府だ──』
石田大七は、感心したが、すぐその後から、
『──然し、兵にかけては、北条が強いのではなく、ただ、この天産と地の理が強いだけなのだ』
と、肚のそこで、見くびってしまう。
酒匂川を越えると、並木の風にも、北条氏三代のきびしい秩序が、颯々と、威厳をもって、旅人を襲ってくる。
この小田原の城下は今や、八州はおろか、海道随一の大都会だった。海には、唐船が帆ばしらを並べ、街には、舶載物を売る店舗や、武具をひさぐ商人が軒をならべ、裏町には、京や堺から移住して来た工匠たちが、糸を染め、鏃を鍛え、陶器を焼き、殷賑な煙がなびいていた。
『文化は進んでいるが、そのかわりに、人間は甘いぞ』
と、石田大七は、すたすたと、城下へ向って足を早めながら、愈〻、北条を見くびった。
酒匂の木戸は、往来人の検めに厳密をきわめていたが、誰あって、彼を敵国の乱波者(間者)と見やぶる者はなかった。
だが、その彼の姿を見ると、町の洟たらしや、しらくも頭や、悪童たちが、
『やあい、ぼんやり飴屋』
『唖か』
『唄を忘れたのか』
『胸の人形が欠伸しているぞ』
と、ぞろぞろ尾いて来て、揶揄った。
大七は、ぎょっとした。
ここが北条氏康、氏政の本拠かと、事々物々に思わず眼を奪われて、うっかり歩いていたのであるが、気がついてみると、自分の姿は、阿波人形を飴箱の上に乗せ、それを首に掛けている飴売なのだ。その飴売が無口になって、眼ばかり光らせて歩いていては、なる程、唖と思われよう。
『子どもは、怖い』
と、呟やきながら、大七は、朱い横笛を持って、城下の辻で、ひゃらひゃらと吹き初めた。
『さあ、お出でお出で。飴を買う子には、阿波人形の上方踊りを見せようず。買わない子には、見せぬとは云わぬが、遠慮して、後のほうに立っておくれ。──さあ、初めは槍舞じゃ、槍舞じゃ』
『萩乃や。──来てごらん』
『なんですか、姫さま』
萩乃は、八雲によばれて、侍女部屋から縫物を置いて立った。
紅い糸屑がその裾についてゆく。
錦小路の邸だった。千貫以上の禄取りが住む古い武家構えの窓先なのである。裏も表も、いつも門扉はかたく閉まったままで人の住んでいる気配もない家なのであるが、めずらしく、こういう声がして、巌畳な手斧削りの窓格子に、美しい顔が二つ並んだ。
二十歳か、二十一、二ぐらいな、一方の気品のある明眸の麗人は、おととしの秋、武州野火止の合戦で、甲州勢のなかへ駈け入って戦死した東郷五郎左衛門直広のわすれがたみ──母もなく今はただ独りでこの広い屋敷に取り残されている八雲なのである。
萩乃は、彼女の小間使であり、忠僕であり、又、片刻もそばを離れないただ一人の護衛の士でもあった。──と云っても勿論、萩乃は女性なのである。そして、年ばえもそう大しては違わない、一つか二つほど上であろう。色が白くて、笑靨が深かった、笑うと、すこし齲の蝕っている糸切歯が唇からこぼれて見える。
『姫さま。めずらしく、外をごらん遊ばして、何がお心にとまりましたか』
『おまえには、聞えない?』
『なんですか』
『あの笛の音が──』
『飴売でございましょう』
『ちがう』
八雲は、首を振った。
萩乃は、黒い糸切歯を、ちらと笑んだ唇元から見せて、
『──では何の笛と仰っしゃいますか』
『あれを、ただの笛と聴くのは、おまえの耳がどうかしていますよ。あれは、杜鵑管です』
『えっ』
萩乃は、耳を欹てながら、
『どうして、それがお分りになりますか』
『いちどでも、自分が、この唇を歌口に当てたことのある笛の音を、何で忘れてよいものか。しかも世間に幾つとは無い名笛でもあるし……』
『そういえば、ただ子ども寄せに吹いているようでも、どこか、余韻がちがうような気もしますね』
『私の耳に、間違いはない』
自信をこめて、八雲は云った。
その杜鵑管という笛は、先おととしの事、まだ彼女の父が壮健で、近国の乱も小康を得ていた折、京都へ上洛って、清水へ詣った時に、稀〻一度父の手に入ったことのある品なのである。
八坂の下の古い古物屋に埃にまみれてあったのだ。彼女の父は、舞楽にも嗜みのある人だったので、すぐ、
(これは──)
と眼をつけて買い求めた。琉球朱で赤く塗ってあって、銘には、「杜鵑管」と、金の針金を象篏したように、細く小さく記してあった。
(いずれ、由緒ある若武者か、氏のよい公達かが鍾愛したものにちがいない)
彼女の父はそう云った。
そして、加茂の流れに近い旅舎で、彼女にそれを吹けと云った。八雲は、興に乗って吹いた、その折、侍女の萩乃もそばに居てそれを聞いていた筈なのである。
すると──
その名笛が、縁になって、同じ旅舎に泊っていた越後の士と懇意になった。身分は、その士のほうが高いくらいであった。卑しくない父子なのである。
(てまえは、春日山の上杉弾正少弼謙信の家来、安中越前守長房、これなるは伜の三郎進と申すもので)
と、その父子は名乗った。
安中父子は又、
(主人謙信より申し遣わされて来た菊亭右大臣家の御用もはや済みましたので、この数日を、都見物にくらして居るところです)
とも話した。
縁というものであろう。それからの七日ほどを、この父子と父娘とが、打ちつれて洛中洛外の名所あるきをしている間に、北条家の東郷五郎左衛門と、上杉家の安中越前とは、すっかり気心が合って、
(其許の娘を、伜に賜わらぬか)
(当人さえ、よいならば──)
と云うような談になって、それでは、帰国した上で、双方の主君の許可を得て、改めて、日もきめよう、結納も交そうとなった。
で、三郎に訊くと、
(是非)
と云うし、八雲の心をただすと、これも、
(お父さまの思し召しのままに)
という答え。勿論、わるくないのである。二人の父は、この幾日かのあいだに、若い息子と、若い娘とのあいだに、どういう感情がながれていたか位は、充分に知っていたので、
(そうだろう……)
と、老後の楽しみを予想するような和やかなほほ笑みを見交した事であった。
そればかりではない。
愈〻、別れに臨んでは、口約束だけでは心もとないとあって、三郎進は、
(何か、御息女のおしるしを戴きたいが)
と、自分の意志のかたい所を見せて、こう希望を述べると、
(御もっともな仰せ。しかし、旅先のこととて、何もござらぬが、それでは、娘が吹いた笛の音が、この御縁をむすんだこと故、途中で求めた品でござるが、この杜鵑と銘けた一管を、お誓いの証がわりに、お持ちくださるまいか)
東郷五郎左衛門のことばに、
(それは、何よりの品)
と、三郎はよろこんで、携えて帰ったのである。そして、後に届いた彼女への便りには、
──お身の唇に濡れたることもある笛と思えば、わが唇の触るるごとに、音もおののき、身も慕わしゅうおののき候て。
などと書いてあった事もある。
云う迄もなく、八雲の思慕も同じだった。いや、女ごころは、外にあらわさないだけに、もっともっと、埋め火のようにつよいものがあったかも知れない。
所が、その誓いは、果されなかった。
なぜならば──
まず第一に、北条家の主君、氏政がゆるさなかった。越後の上杉家とは、それから間もなく、上野国の国境で、小競あいがあり、甲州の武田信玄は、久しく鳴をひそめていた鼓を鳴らして、
(わが甥、氏政のために)
と出兵の口実を藉りて、上杉勢の退路を断ち、沼田、吾妻、碓氷の各所で、烈しい合戦が繰りかえされて来たのである。
甲斐の武田信玄は、小田原の北条氏政にとっては、母の弟にあたるので、この叔父は、天文十六年の冬以来、越後の上杉謙信と干戈を交え始めてから、互いにその領土を侵したり侵されたりしつつ、幾度か川中島に両軍から出張って雌雄を決しようとしたり、また幾度か和睦を議しては和せずに立ちわかれて、宿命的に、越後と睨み合っている仲なのである。
北条家としては、「金持喧嘩せず」という諺のとおり、自分の領地が侵害をうけない限りは、精鋭無比な越兵とも事を構えたくないし、尚更、叔父信玄の持つあの精悍な甲州軍とも争いたくない。
けれど、上杉勢としては、何うしても三国の嶮をこえて、上野国から相武の海へと、その覇力を伸ばして来るのが自然の勢であったし、その志を遂げさせては、自分の大望に邪げありとしていつも、横槍を衝き入れるのが武田信玄なのであった。
北条家の領土は、そうして、幾度か越兵に蚕食されては、その度毎に武田勢が奪回してくれていたが、年々、越後の上杉勢は、上州から武蔵へと、一城一城、羽翼をのばして来て、近年では北条勢も武田勢も、まったく、手を拱いて、越後から三国山脈をこえて襲う燎原の火のような侵略を見ているほかない状態であった。
然し、それをいつまで黙って見ている信玄ではない。時機を見ていたのだ。
ふたたび、所々で合戦が始まった。
戦が起ると、
(西からどこを攻めよ。東からどこを衝け)
と、甲州の叔父からは頻々と、甥の氏政へ軍勢の催促がくる。
甲斐の敵とする上杉謙信は、同時に、北条家の敵ともなるのであった。そういう三国三すくみの一時的な平和のやぶれる気運が見えたので、主君の北条氏政が、東郷五郎左衛門の娘と、上杉家の家士との縁ぐみを、
(ならぬ)
と、黙殺していたのは、当然なのであった。
願い書を主君の手もとへさし出してから、一年とも経たないうちに、東郷五郎左衛門は、甲相聯合軍の陣にあって、武州の平野戦で討死にしてしまった。
以来、甲越相三国の戦は絶え間がない。
おととし──去年──今年と。
東郷家には、五郎左衛門の死後、何の沙汰もなく、もちろん八雲の縁ぐみ届けも、そのまま永劫に闇から闇への運命になっている。
親戚の者が、彼女に対して、
(あの届け出は、殿も、もうお忘れであろうから、誰か、同藩士の子息を、聟にむかえて、東郷家の名跡をつがせ、家督再興のお願いを出してみたらよいと思うが……)
と案じて計る者もあったが、八雲は、
(でも私には、いちど誓った良人がありますから)
と何日も、きっぱりと首をふって云う。
従って、彼女の立場は、だんだんに不利になって、禄も途絶え、外出も制限され、他から来る書状もいちいち監視をうけて、北条家の城下に住みながら、北条家の臣からは、まったく、他国者扱いにされていた。
──そうした彼女自身の心と、彼女を繞る事情とが、この古い武家屋敷に、女ふたりの主従だけを取り残して、他目にも勿体ない程な若さと美しさを、空しく鋲打の門の中に閉じ籠めさせて来たのであった。
『──でも、姫様、おかしいではございませんか』
萩乃は又、考え直して、八雲のことばに疑いを挾んだ。
『なぜ?』
『なぜと云って、あの杜鵑管を、どうして、飴売りなどが、持って居りましょう。安中三郎様が、かりそめにも、人手にわたす筈はございません』
『そうとは限るまい。きっと、あの飴売りは、三郎様の密使でしょう』
八雲は霊覚者の宣示のように、信念のあることばで云った。
『そうでしょうか?』
『そうです』
『じゃあ、そっと出て、どんな飴屋か、見て参りましょうか』
『……え』と、欣しげに、
『だけど、家中の者に、気づかれないように』
『抜かりはございませぬ』
萩乃は、裏門の潜りから、往来の眼をしのんで出て行った。
召使もずいぶん多かった中で、たった一人、今日まで残っていて、寝る間も、主人の身辺に細い気くばりをしている萩乃だった。──うしろ姿を見送って、八雲はふと、
(彼女も若いのに、私のために──)
と、済まないような心持に、ふと、瞼を熱くした。
けれど、萩乃は、元気者だった。いつも、愛嬌のある黒い糸切歯を見せて、愁わしげな顔をしたこともない。
今も、やがて、いそいそと戻って来て、
『姫さま!』
と、息を弾ませて寄り添った。
『どうでした』
『やはり、姫さまはお偉いと、つくづく頭が下がりました』
『そんな事より、笛の持主は』
『上杉家の乱波者で、安中三郎様の手勢についている石田大七殿でございました。──そして、笛もやはり、姫さまのお察しどおり、あの杜鵑管でございました』
『では、三郎様が、私へお便りを下さりたい為に』
『そうです。この笛を携えてゆけば、お疑いもあるまいし、又、姫さまの居所をたずねるにも、何かの便りになろうというお考えで、石田大七殿へ、お預けなされたのだそうでございます』
『そうか……』と、八雲は、あれ以来毎日、思いつめている三郎進の姿を、今も濃く瞼に描いているように、
『──してお手紙は』
『これに』
萩乃は窓を閉めて、なお屋敷の庭や次の間なども注意ぶかく見まわしてから、帯の間に秘して来た密書を、そっと、主人の手に握らせた。
八雲は、封を切ると、
『おなつかしい』
と口の裡でつぶやいた。もう、処女らしい涙をいっぱいにたたえて。
『お読みになったらすぐ火に燃やしてくれと使の大七殿が申しました』
『そうですか……』
焼くのも残り惜し気なのである。彼女はなんども読みかえして、吐息をついた。
『姫さま。お便りの中は、何んな事でございますか』
『──御覧』
萩乃にそれを渡して、彼女は、自分の小机のまえに坐りくずれてしまう。
この悶えを、この情熱を、遣り場なく喘いでいるようなそのうしろ姿──
萩乃は、彼女と背中あわせに、許されたその秘密の文を読んでいた。
八雲どの。
去ぬる年の都の誓いを、この身は忘れてはいない。神かけて、あの誓いは胸に刻みこんでいる。
然し、乱れ世の若人の儚さよ。戦と恋は両立しない。しかも、弓矢の捨てられない武人であることを、君もゆるせ。──ただここに、二人の希望をつなぐ一途がある。
それはおん身が、城地の監視をやぶって、私の城へ逃げてくることだ。幸にも我れ等は今、安中城に立てこもって、武田の遠征軍を蹴ちらしている。
貴女に、その勇気があるかどうか。幸にも、もし来給うならば、使の者に、その旨を齎らしたまえ。われは、死を冒して、古河の利根川べりの辺りまで、手勢をひいてお迎えに参ぜん。
必ず吉報のお返しあらなんことを、信じて待つ。
永禄六年二月
二度ほど繰返しているうちに、紙のうえに黄昏れが漂った。燭を点けて萩乃はその燈に手紙をかざした。ぼっと、音をたてて紙は一片の焔になってしまう。
『姫さま! ……』
後へ摺り寄って、八雲の耳もとへ、強い──低い声で、ささやいた。
『お書きあそばせ、御返事を──。その御返事を、大七殿が、今夜、御幸浜で待っているはずでございます』
『なんと書こうぞ、あの、真実なおことばに対して』
『真実なおことばには、真実を以てお答えするよりほかはありますまい。姫さまの真実とは、常に仰っしゃっているように、女の道を踏むという事でございます』
『では、この小田原を』
『お逃げあそばせ、萩乃が、一命をもって、お供いたしまする』
『でも、御先祖からの主君の地を』
『では──女の道はどう遊ばしますか』
『ああ……』
と、泣き伏したが、すぐ、
『萩乃。──硯へ水を』
と云った。
筆と紙とを持った八雲の面には、つよい意志が坐っていた。燭の明りがその横顔の情熱を明々と焼いている。
『──行って参ります』
夜は出やすかった。
梅花の多い城下である。錦小路のくら闇には、ほのかな香がうごいていた。町をまっ直ぐに突きぬけると、松の樹の間が青白く光っている。そして、ざあっと濤の階音が裾を吹いてくる。
萩乃は、浜を見まわした。
『大七様あっ……』
約束の人影は見えないのである。ここでと云った巨きな松の下にも。その附近にも。
『どうしたのだろう?』
行きつ戻りつしていた。──すると、浜に曳きあげてある一艘の漁船の中から、
『おう、東郷家の召使か』
と、人の声がした。
思わず、はいと答えながら側へ走って、
『大七殿か』
寄ると、途端に、
『捕れっ』
と、苫を刎ねて云った者がある。
萩乃は、その顔を見て、
『あっ──』
と、身ぶるいして蹌めいた。
どこに潜んでいたのか、砂を蹴って、真っ黒に彼女をつつんだ人影が、彼女の必死な反抗をたたみ伏せて、後ろ手に縄をまわしてしまった。
× ×
× ×
帰ろう筈はない。──帰らぬ萩乃を、八雲は、不安な胸をいだきながら待っていた。
『どうしたのであろう? ……。もう夜も更けるに』
つい窓を明けてみた。
すると、誰やら、笠をかぶって、窓の外の夜更けを通って行く人影が、扇を口に当て、
はや潮の──
うしおに巻かれて
迷うよ
友の千鳥は。
はや潮の──
寄せくる磯ぞ
立てよ
残る千鳥は。
夜霞の小路の辻へ、謡いながら消えた。
『あっ? ……。今の謡は』
しきりと、海鳴の音が先刻から胸底に騒いでいる所である。八雲は、はっとして、そこを閉めた
間もなく、燭もふき消した。奥で、物音だけが暫く密かにしていたが、やがて庭境の塀のやぶれを潜って、隣地の大宗寺の林から丘へ逃げのぼった。
ほっと、息をついて何気なく、わが家の方を振返って見ると、何とあぶない一刻の差であったろう。表門裏門から提灯や松明をかざしてなだれ込んだ奉行所の手勢の声が、そこまで風に送られてくる程だった。
『丑蔵……。開けておくれ。……丑蔵』
そぼ降る小雨のあいだに、こう人声がして、誰か憚るように戸を叩く者がある。
酒匂川の上流で、井細田村と足柄村に跨がっている小さい部落だった。五、六軒しかない筏流しを職とする土民の家もみな寝ているうちに、そこの一軒だけが、微かに、破れ窓から灯影を見せている。
『──誰だい?』
丑蔵の女房のお菅らしい返辞である。やがて、がたぴし、内から戸をあけると、
『あっ、御城下のお嬢様?』
吃驚したのであろう、大きな声で云った。
『叱っ……』
霧のような雨を巻いて風が屋内の燈を暗く揺りうごかした。八雲は、脱いだ蓑をお菅の手にわたして、
『静かにしておくれ。やっと、人目をしのんで来たのだから──』
『ようお出でなさいました。こんな暗い雨の道を』
『雨の道より、方々に、私を捕えようとする奉行所の立札が廻っているので──。お前も、噂をお聞きでしょう』
『はい、きょうもうちの良人と、噂をしていた所でございますよ。さあ、炉ばたへお寄んなすって』
お菅は、薪をくべ足して、
『生憎、うちの良人も、小荷駄衆のお侍から出頭しろといわれて、夕方、酒匂のお役所まで行きましたが、もう間もなく戻りましょう』
そこに坐って、濡れた袂や裳を乾かしていると、小雨の音はしなかったが、酒匂川のすさまじい河鳴が遠く聞えてくる。
ここの主の丑蔵というのは、父の死ぬ頃まで、長年、東郷家の仲間をしていた者なので、この夫婦ならばと見込んで、八雲は、訪ねて来たのだった。
あれからの数日は、茨の路そのものだった。奉行所の者が、頻りと立ち廻って自分を詮議しているらしいので、昼間は当然、危険で歩けなかった。
『お寒うございますから、こんな物でも──』
と、お菅が雑炊をこさえてすすめる。
『ありがとう』
八雲は箸を取った。そして、変らない人の情を心のうちで拝んでいた。
間もなく、丑蔵が帰って来た。仲間をしていた頃から、よく力自慢をしていた体のいかつい男ざかりの漢である。どこかで飲んで来たとみえ、酒のにおいを持っていた。
八雲の姿を見ると、丑蔵は、酒で濁っていた眼を醒まして、
『これは──』と、朴訥らしく、畏まった。
『お前に、頼みがあって来たのです』
『わしのような者でも、思い出して下さいましたか。この丑蔵にできることなら』
『ほかではないが、筏を出して、私を、今夜のうちに、河向うまで渡してくれませんか』
『お易いことで──と云いたいが、お嬢様も知っての通り、又、甲斐の武田方からの督促で、御当家からも御軍勢が続々と出ているところだ。この辺りの筏は残らず徴発げられて、一艘だって有りはしませぬ。往来は、御城下の橋と、この井細田の舟橋との二口に限られて、それも、手形がなくては渡れまぬ』
『では、無理ではあろうが、お前の家には、その手形があるでしょう。それを私に譲って下さい』
必死な光をたたえた八雲の眸である。
丑蔵は、考え込んでいたが、
『よろしゅうございます、永年の御恩返し──』
と、重くうなずいて、
『実は、こんどの御合戦に、わしも小荷駄の軍夫に召募れて行くことになりましたから、その手形を失っては、組頭に云い開きが立たねえが、なあに、間違ったら、この首をやると思えば大した事はない。お待ちなさいまし』
と、懐中から小荷駄奉行の焼印が捺してある小形な木製の鑑札を出してそこへ置いた。
『ありがとう、この恩は忘れませぬぞ』
押しいただいて、八雲は、もう起ちかけるのであった。
『──だが、お前の首にかかわるような事があってはならないから、私が、舟橋を渡ったら、河向うにある地蔵堂の絵馬額の裏へ、この手形を返しておく故、誰か、そなたを裏切らぬ友達にたのんで、そっと取って来てもらえば無事に済むでしょう』
『なる程、それはよい思案だ。──だが、舟橋の関所で、見破られないようにしておくんなさい』
丑蔵は、彼女に蓑を着せかけながら云った。大丈夫──と答えはしたけれど、八雲はそこが生死の境であることを覚悟していた。裳を高く括げあげて、草鞋をはき、竹の子笠を被り、短い小脇差を差しているのである。
『戦の後には、きっと、便りをよこします。お菅も、無事で暮してください』
白い雨の光が、軒先に光った。
泥濘の闇へ消えてゆく跫音を見送って、丑蔵はそこを閉めたが、上にはあがらなかった。お菅が見ると、良人も、草鞋の緒を結んで、蓑を被ろうとしているので、
『おまえさん、これから、何処へ出かける気だえ』
と、咎めた。
丑蔵は、笑って、
『金儲けだ。──密訴した者には、銀五十貫をつかわすと、御高札に出ているのを知らねえか』
数百頭の馬の背が暗い河原にならんで雨に打たれていた。夜が明けたら川を越えるばかりにして兵も将も甲冑をつけたまま小屋や幕の蔭に眠っている。
舟橋の入口には、大篝火が二ヵ所に焚かれ、その赤い光をよぎって、軍夫や、商人や、農夫や牛馬などが、夜どおし往来していた。誰の眼にも、戦時だという緊張した光があった。
『組頭っ。──お頭っ』
濡れた陣幕の中へ、首を入れて、丑蔵がどなった。
軍夫頭の魚住十介が、すぐそこの番小屋で、番士たちと共に、戦の話をしていた。
『なんだ?』と振向いて──『貴様は、筏方の丑蔵じゃないか』
『へい』
『何か用か』
『ちょっと、お顔を拝借したいんで』
『俺に?』
と、魚住十介は、そこから出て来た。丑蔵は息を弾ませながら、東郷五郎左衛門の娘が、自分の鑑札を持ってここを通る筈だから捕まえてもらいたいと密告した。
『いつ頃だ、それは』
『もう二刻ほどばかり前で』
『すると、宵の口じゃないか』
『へい』
『たわけ者が、今頃云って来て何になるっ』
十介は、嶮しい顔いろをして怒った。
この対岸にも、あした出陣する兵が千人以上も屯している。そこへの用を帯びて、すでに宵から幾人かの家中の女が舟橋を通っているから、その中には、詮議中の八雲が居たかも分らないのである。丑蔵の密告は、遅蒔だった。
『なんですぐ云って来なかったか。左様な事を申し立てるが、実は、肚をあわせて、逃がしたのだろう』
『ど、どういたしまして、遅くなったのは、女房の奴が、あっしの事を、恩知らずだの糸瓜だのと、逆らいだてして狂うので、そいつを物置小屋へ叩っ込んで来るために手間どってしまったんで。──忌々しい畜生だ』
『しかし、捨てては措けん』
魚住十介は、番小屋の番士たちへ、早口に仔細を告げていた。
すると。
小屋の側手に積んである兵糧だの陣具だの濡らしてならない品を囲んである中に、紺糸縅しの鎧に、黒革の具足をつけた武士が、幕を引っ被いで眠っていたが、むっくりと起きあがって、
『おい十介、あわてるな』
と、声をかけた。
十介は、振り顧って、
『おう、相木殿か』
『ああ、よく眠った。……戦のまえに寝ておくのは、働く前に飯を食べておくのと同じだ、そちのように、御城下を立つ時から眼を光らしていては、戦場へ着いてから碌な働きはできんぞ』
『ですが、慌てずに居られない大事が出来いたしたので』
『今、うつうつと、眠りながら聞いていた。──東郷五郎左衛門の娘八雲が河を越えたというのだろう』
『さようで』
『はははは』
肩をゆすぶって、相木熊楠は笑った。
まだ三十歳にもならない武士であるが、戦のたびにこの男の名は北条家のうちに重きをなして光っていた。人の為し得ない軍功をきっと土産にして凱旋するのだった。つい数年前までは、槍組の軽輩であったのに、今度の戦ではもう先手組の侍頭として、五百人の兵をあずかって出陣を命じられている。
彼に、戦の極意を問う者があると、
(死ぬことだ。他にない)
と、いつも笑って云う。
戦焦けとでもいうのか、顔の皮膚は南蛮鉄のように黒くて艶があった。冑の緒のあとが薄白く焦け残っている程なのである。豪快な性質で、いつも軍功帳の筆頭には坐るが、決して小才には立ちまわらない、むしろふだんは眠たげに口を結んで、底光りのする眸を濃い眉毛の下に欝陶しそうに半眼に塞いでいるといった風だ。
『多寡の知れた女ひとりに、そう立ち騒ぐこともあるまい。誰よりもよく八雲の顔を見知っている此方が、一鞭当てて捕えてくる』
そう云うと、相木熊楠は、自身で一頭の駒を曳き出して来て、舟橋の架け板のうえを巧みな蹄の音に躍らせて、忽ち、河彼方へ飛ばして行った。
『なんだ、人を制めておいて、自分は怖しく気早に駈けて行く。いつも、先陣をやるのはあの手だな』
魚住十介が呟いて見送っていると、
『それアその筈だよ』
と、番士のひとりが、小屋の中で相槌を打った。
『なぜ? ……。何か、意味があるのか』
『あるとも、知らないのか』
『知らん』
『迂遠いな。御家中で知らぬものはない位な話だぞ。──あの相木熊楠という男は、以前、東郷五郎左衛門に就いて北条流の軍学を学んでいたことがある』
『それは、俺だって知っている』
『それだけ知っていても何もならん、話はその先だ。相木熊楠、あんな明珍鍛えの面頬そのままな顔しているが、あれで、色気があるのだ』
『それアあるだろう』
『軍学を習いに通っているまに、五郎左衛門の娘、八雲どのに、こッそり恋をしたものらしい』
『ふウむ』
『おかしいだろう』
『すこし、おかしい』
『で──師匠の五郎左衛門に、自身で、申し込んだというのだ』
『なにを』
『八雲どのを妻にくれと』
『はははは。……ウム成程』
『その頃、彼はまだ槍組の足軽、先は千貫取りの侍だ、格がちがう、当然ことわりを食った。──だが、東郷五郎左衛門も、ただは断らなかった。熊楠を励ますためか、口実に過ぎなかったか、そこは分らぬが、とにかくこう云った。──貴様もはやく一かどの武士になれ、よい妻を持ちたいと思うならば、恋よりは、男は、仕事が先だ。よい軍功をあげさえすれば、嫁などは、三国中の好きな女を選ぶことができるではないかと。──それからだ、熊楠が、岩櫃山の城で、一番槍一番首の名のりをあげ、又、野火止の合戦では、大将首を取ったりして、合戦の度ごとにぐんぐんと足軽組から抜けだして立身して来たのは』
『すると、彼に苦言を与えた東郷五郎左衛門は、熊楠にとっては、鞭撻の恩人だな』
『ところが、人間、そうとる奴はないからな』
『恨んでいるのか』
『そういう噂だ。もっとも、先もよくない。出世したら、娘をやってもよいような事を云っておきながら、五郎左衛門父娘は、その後、旅先で、今度、御当家と合戦になった上杉家の家臣と、婚約を取り交している。──相木熊楠もいい気持ちはしなかったに相違ない』
『ははあ、それですっかり読めてきた』
『わかったろう、熊楠の意中が』
『道理で、先頃から、八雲のことというと、今夜のように自分が先に立つ。──東郷家の小間使、萩乃を捕まえて拷問にかけたのも、熊楠だった』
『それも腹癒せなのだ』
『まだある。敵の安中三郎進から八雲のところへ密使をよこしたのを、逸早く知って、その乱波者を召捕らえ、八雲の邸へ奉行所の討手を向けたのも、後で聞けばみな熊楠のさしがねだという』
『恋の意趣は、古来からおそろしいものに極っている』
『まして、あの男のことだからな。八雲も、とんだ人間に想われたものだ』
『想われただけならよいがさ……。後が怖いて』
『はははは。いくら剛勇な熊楠でも、恋は戦のような腕ずくでは勝てぬからの』
『安中三郎進のため、戦の軍功帳の誉れは見事奪られたわけか』
『そのかわりに、見ておれ、こんどの安中攻めの合戦では、熊楠が、いつもの戦以上に強いから──』
笑い興じていると、すぐ下の河原のふちで、馬蹄の音が、戞っ──と石に響いた。
『あっ、戻って来たらしい』
『熊楠か』
魚住十介を初め、ぴりっとして、口を緘んでしまう。
陣幕の外の士卒に、駒をあずけて、相木熊楠はずかずかと入って来た。鎧の鍛具や太刀の柄に、雨のしずくが燦々と溜っている。
『残念なことをした』
床几へ、ずしりと、腰をおろして、
『喉がかわいた。十介、水をくれ』
と、よほど無念らしい。
魚住十介は、水柄杓へ一掬い汲んで渡しながら、
『八雲は、捕まりましたか』
『ばかを申せ』と、怖しく不機嫌で──『八雲がこの舟橋をこえたのは、すでによほど前ではないか。余りに時刻が経ち過ぎている為、いかに駒をとばしてみても見当らぬ。それに国府津の郷から先は、岡本勝政の陣所となる。いったい、この密告は、何者から出たのか』
『筏方の丑蔵と申す者ですが』
『不届きな奴、八雲を落しておいて、時経てから、忠義がましく訴え出るなど、食えぬ下郎ではある。ここへ連れて来いっ』
『はっ』
恩賞を夢みながら、陣所の陰に、腕拱みして佇立んでいた丑蔵は、十介のすがたを見ると、
(呼びにきたな)
にやりと、白い歯を見せた。
いきなりその襟がみを引っ掴んで、十介が、
『丑藤、ちょっと来いっ』
ずるずると、引摺ると、
『あっ、だ、旦那。何するんで?』
腰を蹴放されて、泳ぐように陣幕のうちへ跟け込んだ丑蔵は、相木熊楠の厳しい眉を仰ぐと、あわてて逃げかけた。
熊楠は、その背へ向って、
『仔細を存じおりながら、訴えを怠りおった不埓者、軍律に照らすっ』
丑蔵は何か喚いて跳びあがった。とたんに、熊楠の陣刀が戞っと鳴った、鞘から噴いた白い光の下に、丑蔵の大きな体は紅殻樽をあけたようにころがった。胴を離れた首は、雨にたたかれて、見ている間に臙脂色のあぶらを泥濘みにひろげ、蝋よりも青いものになった。
『十介、三軍の見せしめだ、首を、河原へ曝しておけ』
もとの板囲のうちへ入って、干飯俵や軍梱のあいだに熊楠は又眠ってしまった。魚住十介たちは、ゾッとした気持に襲われながら、
(気をつけろ、機嫌がわるいぞ)
と、囁き合った。
矢来の竹を一本抜いて来て、十介は、その先を刃物で尖らせ、無造作に丑蔵の首を突き刺して黙々と河原へ下りてゆく。
丘も馬も暫しを眠っている、明日はどこに陣をすることか、水かさの増した大河を蕭条と打って、雨はいよいよ暗い。
南部馬だの、鉄だの皮革だの、又砂金などを小田原へ売り込みに来る奥州船は、帰りには、織物雑穀などを仕入て、御幸浜から碇を抜く。
それへ、大勢の旅客も、ごたごた便乗していた。
雨が霽ったので、
『晴れましたぜ、いい按配に、波も穏かで』
客は、船底から這いだした。
『よく降りましたな。あなたは、どちらですか』
『石巻で』
『そちらは』
『わしゃあ、塩竈だが』
『御遠方だな。どうです、儲かりましたか』
『戦のお蔭で、今年はこれで二度目の行商でさ。百姓衆にはお気の毒だが』
『こんどの軍も、大きくなりそうですぜ。さしもの武田勢も、信州武州までは、一捲きにして来たが、上州箕輪の城が落ちない。松井田城と安中城のふたつも、安中越前守と、三郎進という父子の両大将が守っていて、これも頑としている。北条様からも五、六千人繰り出しましたが、どうも、長引くでしょうな』
そんな話声に背を向けて、先刻から荷梱へ倚りかかって居眠っている百姓娘があった。草鞋ばきでもんぺを穿き、無造作に束ねた髪へ、藁ごみがたかっている。
時々、帆の音に眼をさますと、退屈そうに、その眼が陸の影をさがしていた。
『娘さん、何処まで行くんだい』
側にいた三十がらみの──この船の客のうちではいちばん都会人らしい──手甲脚絆で身軽に装った町人が話しかけた。
『おらかい?』
娘はぶっきら棒に、
『古河へ帰えるのさ』
『じゃあ、江戸の庄で降りて、後は歩くのだな』
『ああ……』
と、鴉のような返辞をする。
そして袂から煎豆を出して、ぽりぽり食べ初めたが、時々、愛くるしい唇の間から、虫蝕いで黒くなった糸切歯が見え、あまり歯が丈夫でない質とみえて固い豆がよく噛めない。
『わしも、古河から上州の方へ出ようと思うのさ。ちょうど、道は一緒だな』
『おめえさんは、何屋だね』
『御城下の外郎屋の若い者さ』
『あ。薬売さんか』
『血どめだの、陣中膏だの、種々な薬種を持っちゃあ、方々の御陣所の御用を聞いてまわるのさ。生命がけの商売だよ』
『…………』
返辞がないと思ったら、田舎娘は、顔に笠を当てて、また居眠っていた、よく眠る娘である。つよい陽が、雲間から急に射してきた。誰か、大きな欠伸をする。
その春の陽が、真っ紅に沈むころ、奥州船は、右を見ても左を眺めても、芦ばかりな入江にはいっていた。怖しく広い川幅を、帆を垂らして徐々に溯って行く──
客のひとりが、原始林の如く欝蒼としている左岸の森を指さして、
『あそこの森ん中に、観音様の祠ができて、この頃、時々人が詣るそうな』
『この辺は、何てえとこですか』
『江戸の庄のうちで、浅草というのでさ。あの丘が、汐見山とも、待乳山ともいう』
『じゃあ、ここが、梅若が人買に殺されたという隅田川か。……さびしい所だなあ』
白い川霧が降りていた。
漁村の灯が、チラと二つ三つ見える。そこが橋場の宿だった。外郎売は起ちあがって、
『やれ、着いたか。……皆さんお先に』
船に残る人々も、
『気をつけて行かっしゃれよ』
淡い旅情が漂う。
宿場といっても、ひどい茅ら屋が、薄暗い燈芯の明りを洩らして、三、四十軒ほどあるに過ぎなかった。
『おや?』
外郎売は、さがしていた、その眼を避けるように、船から降りた田舎娘は、一軒の木賃宿へついとかくれた。
『む、……あそこか』
見届けておいて、外郎売は何処へか立ち去った。
その晩である。もう、夜半に近い時刻。
この宿場を、十人、二十人位ずつ、具足だけ着けた兵が、疲れた足で駈けて行った。
馬の駈けてゆく音もした。
『なんだろう?』
旅人は眼をさましたが、木賃宿の家族などは、近頃は、兵馬の音に馴れてしまって、豚のように眠っていた。──すると軈て、
『この辺を一応さがせ』
がやがや引っ返して来た北条方の兵が、一軒一軒、たたき起して、ここの木賃宿へも三、四人入って来た。
『怪しげな奴は泊っていないか』
外の兵が、軒下から呶鳴ると、
『居ない居ない』
と、首を振りながら、木賃宿へ検めに入った連中は出て来た。
『とうとう逃がしたか』
『女で、あんな巧みに、馬を操るものがあるだろうか』
『それや、兵学家の東郷五郎左衛門の娘だもの。馬術ぐらいは』
『その馬も、陣所から、隙をうかがって奪って行った馬だぞ。不敵さの底が知れぬ』
『一心だからたまらない。──親のゆるした──しかも自分も愛している未来の良人の立て籠る城へさして行こうという女ごころ。──これには、男が戦にのぞむ勇気もかなうまい』
『男と生れたら、そういう女に、一度は想われてみたいな』
『足軽では、まず見込みがない』
『ははは。だが、相木熊楠ほどな軍功のある男をも振り向かないところを見ると、身分や、男振りには関わるまいぜ』
断念したとみえて、人数をまとめて、引揚げて行くのであった。
木賃宿の亭主は、
『せっかく寝たところを、起されてしもうた』
ぶつぶつ呟いて、後の戸を閉めたが、ふと、女房や子ども達の寝ている夜具のすそに、見馴れない田舎娘がもぐっているのに気がついて、
『あれ? ぬしゃあ、誰だ』
『おら、宵に泊った客だがな』
と、田舎娘は笑った。
『なんじゃ、お客か。ここはわし達の寝るところじゃ。戸惑いするも程がある』
『でもな、怖くて怖くて。もうお士たちは去んだかの』
『去んだわ、起きなされ』
亭主は、蒲団をめくった。
要心のいい娘である、足ごしらえもちゃんとしていて、
『御免して下され』
謝まって出て行った。間がわるいのか、翌朝は、この娘が一番早く宿を発った。
隅田河原で、娘は、もんぺの下紐を括りあげていた。
『──深い所もあるから気をつけな。負ぶってやろうか』
馴々しい声に、振り顧ってみると、きのうの外郎売である。
ざぶざぶと、外郎売は、先へ渡って行ったが、娘が、草加並木まで来ると又、
『女にしては、脚がはやいね』
並木から腰をあげてついて来た。
『ゆうべ、宿場のお検めがあったが、知ってるかい』
『あ、知っていたよ』
『よく陣屋へ連れて行かれなかったね』
娘は、ちょっと顔いろを変えて、
『ばかな云うて、おらは何も、連れて行かれるような悪い事はしないもの』
『だがサ、怒っちゃいけねえよ、ゆうべ北条方の足軽が探していたのは、女だと聞いたから、それで心配してやったんじゃないか』
『女なら誰でも捕まるという法があるもんじゃない』
『けれど、その女も美麗な女だという噂だし、おめえも、美しい方だから』
『知らないよ』
『あ痛っ』
外郎売は顔を抑えた。煎豆が一粒、その手の指のあいだに挾まった。
娘は、ぷんぷんと、怒り顔に、足を早めてゆく。
だが、どう侮辱されても、外郎売は離れない。後になるか先になるか、きっと彼女の影から半町とは距たない間にあった。
『ちっ……』
舌打ちをして田舎娘は何か思案していたが、次の日、古河の町へ入ろうとすると、ここはもういっぱいな軍馬であって、北条方の里見義介や、千葉新助などの率いて来た房総の兵が、約七百ほど屯しているのであった。
いや、ここばかりではない。
附近の部落や利根川べりの要所要所、いたる所に兵が居、馬が嘶いていた。平野には、母衣を負った伝令の騎馬武士が駈けているし、畑には、茶褐色の具足をつけた足軽が、槍を伏せて、夜となく、昼となく、西の方を見張っている。
戦線は近いのだ。
田舎娘は、辺りをながめて、
(ああ、遅かった……)
当惑の眼をみはってしまったが、それから幾日か経つと、どこで仕入れて来たのか、餅だの飴菓子だのを入れた竹籠を腕にかけて、畑や河原の兵たちの間を売り歩いていた。
甘い物にも、女にも飢えている足軽組の兵は、
『天人が餅売りにきた』
と噪いで、
『天人餅か、買ってやろう』
『こっちへもくれ』
軍目付の眼をしのんで迄、争って、彼女の竹籠を軽くした。
然し──どの兵も、この田舎娘の黒いやえ歯を見覚えている者はなかった。萩乃は心の裡で、これは八雲の側に侍いたきりで、あの小田原の邸に幾年も閉じこめられていた恩恵だと思った。
『だが、油断はできない。──あの外郎売だけは、何だか、自分の素姓を知っているような気がする』
──小田原から奥州船に乗るまでの苦心は、まったく危い橋であった。今考えると、よくもと思われるほどだった。然し、ほんとの危難や艱苦は、おそらくこれから先の道であろう。これから先、安中城までの道だと萩乃は覚悟している。
安中三郎進から八雲へきた手紙のうちは、
と、書いてあった。
萩乃は、それを唯一の目的に来たのであるが、その頼りは、絶望に近い。
『いつぞやの夜、橋場の宿を追われて通ったのは、たしかに、八雲様らしかったが?』
萩乃は、餅売をしながら、それとなく北条方の足軽に訊ねてみたが、八雲の捕まったという噂は聞かない。それにつけ、
(お嬢様は、萩乃がこうしてお後を慕って来ているとは、夢にも御存じないであろう。……ああ早く行き会いたいが)と、念じた。
あの時。──もう過ぎし日であるが。
小田原の御幸浜で、萩乃を捕えた武士は、萩乃がふだんから北条家のうちで誰よりも憎く思っていた相木熊楠だった。
熊楠は、その時、さも快よげに云った。
(この小賢しい女には、俺自身で、糺したいことがある)
彼女は、それから数日、熊楠の屋敷のうちの仮牢へ抛りこまれていた。幸なことに、熊楠には上州攻めへ出陣の命が下ったので、邸は、ごった返していた。
すると。
熊楠がいよいよ出陣した晩だった。混雑まぎれに、家来でも落したのか、牢の前に、鞘を抜けた短刀が落ちていた。天祐か、それがやっと手の届くところにある。萩乃はその晩、仮牢を破った。そして、風雨の中を夢中で逃げ、身寄の漁師の家の床下、干鰯倉の闇、釣舟の中の幾日と、覚えきれない程な惨苦をなめて、やっと、奥州船へ乗り澄ましたのであった。
『──そういう事とは知らない八雲様は、もう、私は獄舎の人間か、死んだ者とお思いになって、一図に、先へお出でになってしまったのではないか?』
萩乃は、果なく迷い歩いた。
春はくれて五月──六月──
桑がしげり、麦はのびてくる。
然し、古河から利根川一帯の兵馬は、雲の峰の下に、じっと備えたまま、動かなかった。
安中城からの迎えも見えない。
八雲の消息も皆目知れない。
餅の籠を腕にかけて、彼女は炎天の下を、
『──足軽さん、買うて下され』
桑畑の蔭を、呼んであるいた。
ところが、その日に限って、
『要らん』
『餅など頬ばっていられるか』
どこへ行っても、売れなかった。
すると後で、
『おい、天人餅を一つくれ』
久しく、姿が見えなかった外郎売が、ひょっこり、顔を見せて呼びとめた。
『──どうだい、売れるかい』
『ええ。陣中薬は、どうかね』
『薬のほうは、大変な景気さ。もうこの間の荷を売り切って、小田原まで荷を取りに行って来たんだ』
『戦もないのに、よう傷薬が売れるだな』
『戦がない? ……何を寝ぼけているんだ、深谷、本庄、秩父の鉢形、この一月余りは、修羅の巷だ。──そして今は、武田方と北条勢が、一手になって、安中城を遠巻きにしてるじゃねえか』
『えっ、安中城を』
『そうさ。たいそう吃驚しなさるね、何か、おめえの色男でも、安中城にいるのかい』
『い……いいえ……そんな訳じゃありませんけれど』
萩乃はあわてて田舎言葉も出なかった。
餅を食べ終ると、外郎売は
『どれ、俺も、稼ぎに御出陣としよう』
大股に歩みかけたが、ふと、足をとめて、笠のつばに手をやりながら、
『おや、ここの陣所だけは、後詰でうごくめえと思ったら、これやあいけねえ、此っ方まで戦が拡がって来やがった。今夜あたり、敵が、襲せてくるか、此っ方から出てゆくらしいぞ』
独り語にしては、大きな声だ。外郎売は、そういうと、道を更えて立ち去った。
『──今夜あたり? ……。ほんとかしら』
萩乃は、胸を躍らせた。──安中勢の迎えかも知れない。だが、それも八雲様が居なければ何になろうか。
真っ赤に灼けた陽が、夏草の蔭に沈んだ。
宵は、風も月もなかったが、やがて二更の頃になると、わあっと、鬨の声が、野や畑をゆるがした。
萩乃は、利根川の堤へ、駈けて上ってみた。
北条方では、かねて今夜の襲撃を、知っていたものとみえ、
『安中勢だ、蹴ちらせ』
堤の蔭から、雲のように、兵馬や薙刀の光や、槍や太刀が、躍り越え躍り越えして、どっと、河にかかった。まるで、雨なき夕立のように。
小銃の音が、ひろい闇の中で、パチパチと鳴りはためく。ひゅっ──と矢うなりが、萩乃の顔を何度もかすめた。
『おお! ……』
対岸に見える黒い小さい何百名かの人馬──正しくそれが安中勢であろう。あの中には、安中三郎進も来ているにちがいない。
『──お嬢様あっ。八雲様あっ』
声かぎり呼びながら、萩乃は、河へ向って、狂女のようにざぶざぶと入って行った。
北埼玉の多門寺に近い方角である。この辺、桑の木ばかりだった。その広い桑園のなかに、いつも、筬の音をのどかにさせている一軒の機屋がある。
多門寺の僧が、そこの戸を烈しく叩いていた。
『合戦ですよ、御主人。かねて待っていた安中勢らしゅうございますよ』
──それから暫くすると、
『では、御無事に』
『お気をつけて……』
一人の女の旅人が、機屋の者に送り出されて、裏口からそっと出て来た。
八雲であった。
『永い間、お匿いくださいました上、皆様の御親切……。たとえ、この儘野辺の土になっても忘れはいたしません』
別れもそこそこであった。もう、この近くへまで、鉄砲の音は聞えている。
東郷家にとっても、八雲にも、何の縁もない機屋であったが、多門寺の住職と道で口をきいたのが縁になって、彼女は、ここに今夜の折を待っていたのであった。
その酬われる日は遂に来た。今夜こそ愛人に会える。愛人の兵馬はもうすぐそこの利根川原へ来ているのだ。自分のために、幾多の兵馬を犠牲にし、自分の一命をも陣頭に置いて、闘ってくれているのだ。
(勿体ない!)
黄金の輿、珠玉の輦もおろかである、女一人に、あまりに冥加にすぎた迎えであると八雲は思った。闇を走りながら、瞼の熱くなるのを覚えた。
そのかわりには、自分が、妻となったあかつきには、この千倍も良人の為に尽そう! この万倍も部下の兵たちを愛してやろう!
『わあっ……。わあっ……』
八雲はもう鬨の声の中だった。
弾丸が来る。──誰とかもわからぬ槍が突っかけて来る。腸を出した馬の腹が、横たわっていたり、旗差物の竿だけをつかんでいる兵が、
『畜生っ、畜生ッ』
虫の息で、死骸の中を這っていた。
『三郎様あッ……』
彼女の黒髪は、血なまぐさい闇を衝いて駈けまわった。
ざ、ざ、ざ、ざッ──と真っ黒な一群の騎馬武者が、夕立のように此っ方へ向って駈けてくる。北条勢に備えをくずされた前線の旗本らしかった。
『あれだ!』
八雲は、奔馬の群を待っていた。そして、先頭の華やかな武者のあぶみへ縋って、
『三郎様ではございませんか』
『ちがう!』
武者は、弓で、彼女を払った。
卯の花縅しの草摺をゆりうごかして、戞々と、退いて来た強者がある。
『もし! 安中三郎様は、どこにおいで遊ばすか』
『知らぬ』
駒の尾が、彼女の顔を払って通った。
彼女は怯まなかった。続々と来る後続隊の将に又すがって、
『おたずね申しまする。あなた方は、もしや安中城の方々ではございませぬか』
『いいや』
訊かれた部将は、かぶりを振るだけなのである。
『では、あまり急いで、陣をまちがえたか』
と、八雲は、戦場に捨てられてある駒をひろって、半里ばかり鞭を打ってとんだ。そこにも、累々たる死骸と、先の兵馬とは比較にならない意気を持った将卒が、八方へ敵を駈けちらして首をあげる毎に、名乗り揚げ、勝鬨をあげして、しかも整々と陣形をすすめていた。
『──これこそ、上杉家の家人、安中三郎進様の御本陣』
彼女は疑いを容れなかった。
まっしぐらに、その本陣とも思える旗本の中へ馬を乗りいれて、
『八雲です! お迎えをいただいた八雲でござります! 三郎進様にお取次ぎくださいませ』
鞍をとび下りていうと、七、八名の旗本がどっと取り囲んで、
『東郷五郎左衛門の娘八雲どのか』
と、念を押した。
『はい、かねて、三郎進様から御密書をいただいた八雲に相違ございません』
答えるが早いか、
『天命だっ』
甲冑の旗本が、背中をどんと突いた。
鉄の桶でもぶつけられたように、八雲は前へよろめいた。左右からも前からも、途端に、物の具の固い腕が、彼女の嫋よやかな腕くびをつかみあげて、
『ここは、北条方の里見義介が陣だ。よくも、八雲と、自分から名乗ってきたの』
『げッ……。では……先に崩れて行った騎馬武者たちは』
『あれも、安中三郎の兵ではない。常陸下妻の上杉方の一党で、安中城の危急を聞いて、援兵に馳せつけようという途中を、こっちで先に出鼻をくじいてやったのだ』
『アア……』
石に挫がれた白い花のように、八雲は地に顔を横づけた儘、その両手を荒縄にまかせてしまうほかはなかった。
馬蹄や、具足をつけた草鞋が、ぱくぱくと埃を持ち上げる。真っ黄いろに空は汚れて、太陽が黒く見える。
大利根からうごきだした北条勢の一部が、灼きつくような三伏の道を、蛇形になって、安中城の方へいそいでいた。
『仆れる奴など捨てて行けっ。暑さで参るような人間が、物の役に立つかっ』
騎馬の将が、鞍から喚いてゆく。徒歩の足軽は、日射病でばたばた落伍する。歩いている者でも、熱病のような呼吸づかいである。どの顔も、眼ばかり光らし、汗を流している荒壁にひとしい。
『くそうッ! 歩べッ!』
牛車が十輛ばかり、荷駄が三十頭ほど、軍のいちばん後から続いて行ったが、牛と馬も、暴れたり反れたりするので、遙かに、遅れていた。
『牛方さん、お休みよ』
その一輛の軍梱のあいだに、萩乃は乗せてもらって来た。足軽や、荷駄の者と、すっかり懇意になったおかげである。
『甘いものでも食べてさ。体がたまるまいよ』
『ばか言けっ、首が飛ぶわッ』
『気の毒だなあ、戦する男はよ』
『よう、女は見ておけ』
何うしても動かない馬を、足軽たちが槍の柄でなぐりつけると、馬は気が狂ってしまったらしく、田の中へ飛びこんで、ひとりで暴れ廻った。
『抛ってゆけ、抛って行け』
それも捨てて進みに進む。
おとといの夜、利根の川向うに現われた軍馬は、安中勢でなかったことを、萩乃は、翌朝この人たちに聞いて知った。
あの戦の後、間もなく、この一部隊は、安中へ行けと本陣から命をうけて出発したのである。萩乃は、ことによると主人の八雲はとうに安中城に入っているかも知れないと考えたので、急にこの軍旅へついて来る気になった。──然し、それも儚い恃みのような気もする。
やがて、並木の口にかかると、
『おっ、うしろから黄母衣が来たぞっ、道を寄れ』
足軽頭が、槍をふって呶鳴った。
黄母衣は使番の目印だ、急な使者は陣中でも駈けぬけをゆるされているし、列も横切る場合すらある。その黄母衣組の士が一騎に、ただの騎馬武者が五名ほど、一頭の裸馬を中に囲って、黄塵の中から次々に姿をあらわし、驀っしぐらに、眼のまえをよこぎって彼方へ駈け去った。
その一頭の裸馬の背には、ひとりの女性が、荒縄で縛りつけられていた。前後の武士は、相木熊楠の手の者だった。
『おう、女だ』
『おとといの夜、御本陣で捕まった女じゃ』
一瞬だが、足軽たちは、女という声だけで、わいわいわいとはしゃぎ合った。萩乃も、それをチラと見た一人であった。はッと思うと、全身の血がのぼって、起ちかけた頭に、ぐらぐらと眩いが来てしまった。
『やっ、餅売りが、牛車から落ちたぞ』
『病気が出たか』
『抛ってゆけ』
『いや、女は、かあいそうだ』
荷駄の小者が三、四人駈け戻って行って、埃の中から彼女をかつぎあげて来た。
──絶え間なく、牛車の轍は廻って行く。
夜になると、行軍はずっと楽になった。萩乃は、人にかくれて、泣いてばかりいた。
翌る日の朝早く、安中の城下に人馬は着いた。そこでも萩乃は、真っ暗な絶望にぶつかった。なぜならば、安中城の城壁のうえに見える旗差物は、すべて、北条勢と、武田勢のものであった。
甲相両軍の寄手をうけて、半年近く、孤城をささえていた城将の安中三郎進は、きのう暁がた火を放って、父越前守が立て籠っている松井田城へ落ちのびて行ったといううわさであった。
夢でもみたのか、相木熊楠は、
『八雲っ』
と、大きな声で云って、自分の声に驚いたように、がばっと、楯のうえに起き直った。
青い月の光が、陣幕に射している。──真夜半は、具足のままでも肌寒い。
幕のすそへ、身をかがめて、魚住十介が片手をついた。
『お呼びでしたか』
『いや……呼びはせぬ』
『お声がしましたが』
『知らぬ』
『耳のせいですかな』
十介が、立ち去ろうとすると、
『待て待て。何か俺が云ったか』
『戦のお疲れでしょう。囈言のように──』
『な、なんと云った?』
『八雲と、仰っしゃったようで』
熊楠は、苦りきって、大きな男性的な唇を声なくうごかしていたが、
『そうか……いや、そうかも知れない。……折角、味方の里見義介が捕えてくれたあの女を、吟味の都合上、俺の陣屋へ受け取ったはいいが、もしも亦、逃げられでもしたらいい恥をかくと、それを常に気がかりにしているから、夢にまで、八雲が逃げた夢を見てしまった。ははははは』
『もう、二十日あまり、仮屋に寝かしてありますから、体もすっかり癒ったはずです。今夜あたり曳き出して、お調べになっては何うですな』
『まあ急ぐことはない』
と、かぶりを重く振って、
『──今日は俺も戦につかれている』
『それもそうで』
『ただ、逃がさぬ様に、逃がさぬように』
『十名ずつ、交る交るに、番を立たせてあります故、それはお案じなく』
十介が立ち去ると、彼は又、楯のうえに、具足の音をずしりとさせて、手枕をかってまどろんだ。
ここは、妙義山を後に負って、碓氷川を前にした丘の陣地だった。敵の安中越前守と三郎進の父子が立て籠っている松井田の城は、川を距てて此処から指さすことのできる要害な地にあった。
妙義、浅間、榛名の三山のふところに囲まれているようなこの城の地の理には、武田勢も手をやいてしまったらしい。攻め口はわずかに、この河原と、安中から下後閑の山道を経てかよう二口しかないのである。何万の兵馬を集めてみたところで無駄だった。
武田勢は、箕輪城を抜くと、
(後は北条にまかせる)
と、云わないばかりに、抑えの軍馬だけを残して、あらかた凱旋してしまった。相木熊楠は、この難攻不落な城の正面にあてられて、甲州方の諸将からも、小田原の味方からも、今や、その器量を試されているような立場にあった。
(落す! きっと落してみせる!)
彼の眉宇には、無言のうちに、その信念がほの見えるが、もう八月に入っている。やがてこの碓氷川に、秋風の立つのはすぐだ、秋風がふくかと思えば、赤城、榛名の頂きに雪を見るのも又すぐだ。
とこうする間に、謙信自身が、上杉勢の精鋭をすぐって、三国越えから潮のように、上毛の野に殺到したら何うなることか。
部下は、彼の顔を仰いで、
『すこし、痩せたぞ』
と、心配して咡き合った。
たしかに、相木熊楠の頬には、痩せが見えてきた。──今、手枕をかって、楯の上に、うつらうつらと眠っているその顔を月明りに眺めても。
うかと、相木熊楠は、眠り落ちてしまったらしい。
轡虫が、いい音で啼きぬく。
陣幕のすそにたかっている蟋蟀の影までが、透いてみえる程に月は冴えていた。
と──その虫の音が、はたとやんだ。幕の外へ、いつのまにか、小猫のように這い寄って来て屈み込んでいる人影がある。
短い刃をうしろに秘して、陣幕のすきから寝息をのぞく──。黒髪をうしろへ長く垂れた田舎娘の刺客だった。
『熊楠ッ。──思い知ったかっ』
陣幕を刎ねあげて、躍りこむと、
『あっ、何するんだ』
と、そこに寝ていた町人がとび起て、彼女の腕をつかんだ。見ると、いつか古河の畑で別れたきりの外郎売だった。
『や? お前は、どうしてこんな所に』
『何のふしぎがあるものか。いつも薬を売りに来る御陣屋だもの』
『熊楠は、熊楠は』
『あぶねえ物を持ってるな。まあ離せ』
『お嬢様の御無念ばらし、刺しちがえて死ぬる気じゃ。おのれも、熊楠の手の者か』
『面倒くせえっ』
外郎売の男は、萩乃を組みふせて、声を出さないように、顔を布で縛った。そして、もう一重、内側の陣幕を上げて、
『相木様』
『おう、憎ッくい奴だ、八雲の召使いだな』
『どういたしましょう』
『その成敗は、貴様にまかせる。──今夜のうちにだぞ』
『はっ、では──』
目礼して、外郎売の男は、萩乃の体を横抱きにすると、魔風のように、何処かへ立ち去った。
その頃から何処となく、深夜の空気がさわがしかった。熊楠は、眼をかがやかせて、大地の音でもあるようなその気配を聞き澄ましていたが、愕然と起って、
『十介っ。魚住十介はおらんかっ』
十介は駈けて来て、槍と一緒に身を屈めた。
『なんだっ、あの遠い物声は』
『お味方です』
『味方?』
『されば、何者かが松井田の城を、相木勢にまかせておいては、百年経っても落ちるはずはないなどと申し触れる者があって、その為、御本陣氏政公からの御命で、里見義介、そのほかの手勢が、下後閑の間道から、急に、総攻めにかかったそうでございます』
『なに、この相木熊楠をさし措いて、総攻めにかかったと。ううむそうか……』
唇を噛んで、凝と、考えこんでいたが、突然、
『陣鉦、陣鉦っ。総がかりの鼓を打てや。夜の白むまでに、松井田の城は相木勢が乗り破った』
鎧を着こむと、
『十介、篝火を焚けっ、あるかぎりの篝火を焚けっ』
と、命じた。
十介は、それぞれの部将に、熊楠の命をつたえて駈けまわった。霹靂のように急なのである。陣屋の裏から荒駒が狂いだして、まだ夜のふかい河原で嘶いた。
松井田城の山絵図をひろげて、相木熊楠は秘策を描いた。そして、肚はきまった。
鉄砲組、槍、弓、長太刀、それぞれの部将をあつめて、
『城を抜くか、斬り死にするか、この二つを、夜明けまでに決めるのだ。相木熊楠もきょうかぎりの一命と思うてかかる。──祖先以来の君家の御恩に酬うはきょうを措いてない。よいか』
云いふくめて、手配を授けた。
それが終るとすぐ、
『八雲を曳き出せ』
と十介に云った。十介は疑って、
『えっ、今ですか?』
『そうだ』
熊楠の肚がわからなかった。何で、一刻を争っているこの総がかりの間際になど曳き出せというのであろうかと。
『連れて来ました』
十介の声に、又、山絵図を繰ひろげて後ろ向になっていた相木熊楠は、ふり顧って、
『うむ……』と、ふとく呻いた。
八雲は、二人の武士に、左右の手をうしろへ捻り気味に取られて、烈々と燃える篝火の前にひきすえられているのである。窶れてこそいるが──素服こそ纒っているが、この二十日余りを、仮屋の牢獄に投げこまれたまま陽の目も見ずにいたので、頬の紅はやや青白く褪めているが──生れながらの美質はすこしも変らない。──いや相木熊楠がその以前、師の礼をとって、東郷家へ出入していた頃から見れば、さらに、清純な処女美は増しているようにすら彼には見える。
『八雲! ……』
『…………』
『八雲っ! ……』
沈痛な恨みのひびきをこめた熊楠の声であった。おそろしいような眉の表情である。歯は唇のわななきを固く縛っていた。
『……相木熊楠の名をよもや忘れはしまいな。俺は、夢寐の間も忘れていない。男が、この胸へ、生涯焼きしるされたものを……。それが何であるかは、やがて、思い知るがよい』
八雲は、きっと顔をふり上げた。その顔に、その眸に、赫々と赤い篝火が燃える。彼女の心をそこで焚いているように。
『見さげ果てたお人ではある! それが武士の心根ですか! 私にはあなたの心の裡などわかりませぬ。ただ卑劣な武士よと、蔑まれるだけのこと。もう、この期になって、何もいうことはない。ただ、そなたも人間なら、力の弱い女子が、この戦国のみだれた世の中で、女子の道のために戦うことのどんなに苦しいかぐらいは分るでしょう。一粒の涙でもあるならば、私を松井田城の下へ立たせてください。たった一言、私は自分の心を──女子の心根を──あの孤城のうちにいる安中三郎進様に呼びかけて死にたいのです。遠くからでもよい、お互の姿を、一目見合って、死にたいのです』
『よしっ!』
熊楠は全身をもって大きくうなずいた。
『望みどおりにしてやる。自分の未来の妻が、城下の敵に──しかもこの相木熊楠に──斬りさいなまれるのを、三郎進に見せてやることは俺から望むところだ。十介、この女に縄を打てっ』
× ×
× ×
丑満から明け方にかけての激戦だった、山が鳴り、谷が吠え、碓氷川はさけぶ。
『今が最後』
と、城将の安中三郎進は、いちど、木戸をひらいて斬って出たが、その朝のすさまじい相木勢に斬りたてられて、城門のうちへひくと、八方を閉め切って、矢弾丸のあるかぎりを、寄手へ送った。
『──卑怯、卑怯っ、城将の三郎進にものを言う。しばらく、鉄砲を置け、弓をひかえろ』
その時、城の空壕へ近々と駒をよせて、こう大音にどなっているものは、いうまでもなく相木熊楠である。
黒鹿毛の鞍つぼへ踏み跨った自分の胴脇へ、遠目にも派手やかな古代紫の太紐で、八雲のからだを確乎とくくりつけていた。片手をさらに八雲の身にまわして、抱えるようにささえ、右の手に、軍扇をかたく振って、
『──三郎進どのはいかがせられたか。かねてのおん誓いを果さるる吉日、お支度はまだかっ』
すると、城の狭間から、髪の白い一人の老武士が顔をだした。見ると、物の具をすっかり解いて、麻裃に平服を着ているのである、白扇を振って答えながら、
『初めてお目にかかる。某は、三郎進の父、安中越前守長房でおざる。このたびのお取計らい、なんと申そうやらただ感涙にくれてござる。今暁、頂戴いたした密使のお言伝てによって、われ等父子、死すとも北条家には渡しがたきこの松井田城ではあれど、貴公の義心に、向くる矢もはや尽きた。三郎進の身は、仰せにまかせてござるが、この越前守は、はや老い先なき身、この城の熨斗がわりに添えてただ今進上申すであろう。見たまえや、老武者の最期を──』
『おお』
熊楠が、扇子を駒のたてがみへ下げた刹那に、狭間に見えた安中越前守のすがたはもうそこになかった。そして、真っ赤な炎が、すべての狭間からいちどに噴きだしていたのである。
『落ちたっ、──城は落ちたぞ。里見、その他の味方に越されては、相木勢の恥辱ぞ、武士の名がすたるぞ、かかれ、乗れやっ』
云うが早いか、抑〻、どうした事なのであろう、相木熊楠は、そのまま鞭を駒にあてて、戦場から鷹のように何処かへ翔け去ってしまった。
後閑の間道から風戸峠へと、やがて、悍馬は死にもの狂いでのぼってゆく。──一面の鏡のように、やがて遙かに榛名の湖が見えてくると、
『おうっいっ。……おうっいッ……』
あらんかぎりの声をもって、峰へ、谷へ、高原の彼方へ、呼ばわっている。
すると、もう秋草の繚乱な高原の彼方で、旗差物を打ち振るものがあった。──二百人ほどな軍馬があった。
その列から歩みだして、相木熊楠を迎えるもののように、粛然と立ちならんでいたのは、安中三郎進であり、又、先に小田原の城下へ密使として行った乱波者の石田大七であり、又その側にいるのは萩乃であった。
『待ちかねておざったろう』
駒を寄せると、熊楠は、紫の太紐を解いて、絶えず宥るもののように抱えていた八雲の体を、鞍つぼからそっと摺り下ろした。
『おうっ……』
三郎進と、八雲とは、手をとりあって、秋草の中に埋まった。すべてが、八雲にはまだ夢のようだった。見れば、自分を数尺離れて、きのう迄、彼も恨み、自分も憎んでやまなかった相木熊楠が、両手をついて、顔もあげ得ずに──しかもこの荒々しい強者が、涙で顔をいっぱいに汚して、その顔も上げ得ずにひれ伏しているではないか。
『……どうしたのでしょう、これはいったい?』
八雲はうつつのようだった。うつろな眸が、この意外な人間の姿を、眼に見ても信じられないのであった。
『ごもっともです』
熊楠は、いつものような重い声でいう。
『すべてが、自分一存で為したこと、おわかりになりますまい。かような智謀は、あなたのような清純なお人には、分らぬままがむしろよい。ただ、末ながく、お倖せであれ、よいお子をもうけて、八雲様は、恩師五郎左衛門先生へ、又、三郎進殿は、厳父越前守どのへの御供養をあそばされい。──そして、この熊楠は、ただ欣ばしさでいっぱいでござる、決して、誇言ではない、衒いでもない、欣しいのです、欣し涙が出てならないのでございまする』
『どうしてでしょう、私は知りたい。熊楠、何がそなたは欣しいのですか』
『男の為ることを為し事が……』
『では、初めからそなたは、この八雲も、お父様をも、恨んではいなかったのですか』
『なんでお恨み仕るすじがありましょうか──熊楠の今日あるも、恩師のお陰、一日とて、忘れ申したことはない。ただ、世上の詭弁者が、とやこうと、某の心を測ったり、あなた様の身辺に、危い風聞をしきりに沙汰いたしまする故、いわゆる、兵学の逆策をもって、まず自分より先に、あなた様の敵に立って、あなた様にかかる矢を、すべてこの身にうけて参っただけの事です。──例えば』
と、乱波者の石田大七に、眼をやって、
『それにおる大七が、初めに、小田原の城下へ入りこまれた折も、すでに、奉行所の目付たちは、挙動をあやしと見ていたのでござる。万一にも、大七の携えてきた三郎進殿の密書が、余人の手に入ったら、八雲様は、即日に殿より首級を召されよう。そう考えて、自分が捕えた。又、萩乃を召捕ったのも同じ考えであったし、八雲様の邸へ、捕手を向けたのも、この熊楠に相違ないのです』
『まだようわからぬ、それ程、この身を庇うてくれるおん身が、なぜ、捕手を使嗾して、私を苦しめたのですか』
『その夜の事、お覚えはもうないか。──捕手のかかる少し前に、お邸の窓下を、編笠かぶって、それとなく謎ことばを、謡曲声にまぎらして、お告げして行った侍のあったことを』
『あっ……。ではあの編笠の人は、熊楠、おん身だったのですか』
『又、萩乃には、出陣の混雑を、幸に、牢の前へ、わざと、短刀をすてておいた。──そして、かねて、自分の屋敷にかくしておいた石田大七を、巧みに貌容を化装させ、外郎売に仕立てて萩乃の身をまもらせたのも某の策。──その他、いちいちは申しあげぬ。すべての事は、きょうの夜明けに、大七から越前守御父子へ申し告げてやった……。そして、ここに自分の心の底をのべて、恩師の御息女におわびすることも能うた。本懐です。では、萩乃、忠義をつくせよ、この熊楠の御手伝いは一時、そちの奉公は末が長い。……たのむ』
云い終ると、もう駒の背に返って、
『御一同、おさらばです』
黙然と、うなだれていた安中三郎進は、
『暫くお待ちください』
と、前へ駈けまわって、口輪をつかんだが、涙ばかりがあふれて、俯向いていて何も云えなかった。
熊楠は、その心もちを察して、
『おわかれ申したい、お離し下さい』
『相木殿。……す、すまなかった。拙者は、あなたに負けた! 敗れたのだ!』
『恋は、戦ではないはずです。そんなお考えは持たぬがよい。某の気持が徒労になる。──又、そこもとの厳父、越前守殿の死もむだになる』
『やっ? 父は、討死しましたか?』
『それも、お愁みあるな。お父上も、必ず御満足であったと思う』
『ああ、八雲っ。二人はどうしたらよいのか』
『三国峠に道がある。あの山の背をこえれば、おん身が祖先の国土だ。その国土を踏めば、八雲様も、そこもとも、自ら御決心が成るものだ』
『そうだ、女は女の道に、侍は侍に成りきることだ。熊楠どの。又会おう! 戦場で』
『来年は、信濃か、上野か』
と、熊楠は、十方の山脈をふと見わたして、一滴、侍の道のさびしさを、大きな欣びの後の睫毛にたたえた。
霧まじりの冷たい風が、もう、越後境の山々から、瀟々と秋を鎧の袖に告げてきた。
底本:「吉川英治全集・43 新・水滸傳(二)」講談社
1967(昭和42)年6月20日第1刷発行
初出:「キング」大日本雄辯會講談社
1935(昭和10)年8月
入力:川山隆
校正:門田裕志
2014年2月14日作成
2015年1月15日修正
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