剣の四君子
林崎甚助
吉川英治
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母のすがたを見ると、甚助の眼はひとりでに熱くなった。
世の中でいちばん不倖せな人が、母の姿であるように見られた。
「どうしたら母は楽しむだろうか」
物心のつき初めた頃から、甚助はそんな考えを幼心にも持った。
ふと、何かの弾みに、その淋しい母が、笑うかのような歯を唇にこぼすと、
「母上がお笑いになった」
と、その日は一日、彼も楽しく遊ぶことができた。
十二、三歳になると、そんな考えがもっと深くなって、
「なぜだろ?」
と、思うようになった。
自分が何をした時に、母の顔が欣しそうになるか、に気がつきだした。
「書が好く読めた時と、長柄の刀で、樹がよく斬れた時だ」
少年林崎甚助は、それからよけい声を張って良く書を読み、外へ出ては、身丈に過ぎた長巻刀を把って、丈余の樹の梢を、跳び斬りに斬って落した。
古い土塀門の外に佇って、母は時折、微笑んでくれた。
その母は、またなく美しい人だった。年もまだ若かった。名は楡葉といった。
楡葉は若後家であった。祖先からの土豪造りの家は、羽前の大川最上の流れに沿い、甑嶽の麓にあった。山形から十里余、楯岡の砦から北へ一里、土称林崎という部落にあった。
この地方一帯は、足利家の管領斯波氏のわかれ最上一族の勢力圏内であった。甚助の父も、最上家の臣だった。
上杉謙信の越後本庄から最上川を溯れば、最上領東根の砦町、また、黒伏嶽や高倉の山道を越えれば、一路伊達家の仙台に通じる。武強の隣藩と境を接して、連年、ここにも戦乱は絶えなかった。
甚助は信じていた。
「わしの父者人は、戦で死んだのだ」
それは、父なき少年の、せめてもの誇りでもあった。
ところが或る時、楯岡の砦町から部落へ来た馬商人の曳いて来た馬へ、甚助が他の少年たちと共に、悪戯すると、その中の一人の馬商人が、拳を振上げて、逃げおくれた甚助のうしろからこう呶鳴った。
「この童めッ。そげな悪性な真似しさらすと、汝れが父者のように、汝れも今に、闇討ち食ってくたばりさらすぞ」
その声は、甚助の耳より魂をつき破った。甚助は、色あおざめて逃げて来た。それからもう他の子と遊ばなくなった。
長柄という武器は、戦時の用具である。平時の刀では短きに過ぎるので、いざという場合、常の刀へ、常用の柄より寸法の長い特殊な柄をすげ替えて、これを引っ提げ持ちにして、戦場へ働きに出るのである。
別名、長巻とも称んでいる。
その寸法は、およそ三尺の刀身へ、二尺二、三寸の柄をつける。三尺以上の刀になれば、それに三尺もある長柄をすげる場合もある。
林崎甚助は、天文十六年の生れで、その年少十四、五歳の頃は、ちょうど永禄年間に当り、戦国の英雄が諸州に覇を興した頃であったから、長柄の流行は、旺を極めて、戦場ばかりでなく、平時でも引っ提げて歩く者があった。
織田信長は、その頃、自己の歩兵隊に、刀の長サ三尺、柄四尺という長柄を揃えて持たせて、敵陣へ突貫させて、いつも敵の一陣を縦横刺撃して駈け崩したということである。もっとも、それから間もなく鉄砲が渡来して全国に行き亙ったので、後には、第一陣鉄砲隊、第二陣長柄隊というふうに、戦術の編制は変って来たが、とにかく甚助の少年頃には、ふと物置小屋を覗いても、長柄の錆びたのが一本や二本は転がっている程だった。それほど普及された兵具であった。
薪切りに、甚助が持ち馴れたのも、父の代に、戦場から束にして分捕って来た物のような中の一本であった。
それも、何のためか知らないが、母の楡葉から、
「枯れ木を拾うは百姓の子ぞ、そなたは、梢の木を、長柄で伐ろして来やれ。長柄も背丈も届かぬ梢も、心して跳んで伐って見やい。それしきもの斬れねば、殿様の御馬前に立って、戦の場で人勝りの働きはならぬぞい」
と、云い聞かされて、七ツ八歳頃からし始めたことであった。雨さえ降らなければ、日課のように、
「甚助。薪を伐ろして来やい」
母は、いいつけた。
よく斬れると、遠くで、見ている母が微笑んでくれる。それが欣しさに、甚助は、高い樹へ、高い樹へと、次第に望みを大きく育てて、長柄を小脇に、仰いで迫った。
大同年間からあるという部落でいちばん古い杉木立がある。そこに熊野神社が祀ってあった。部落の名をそのまま林崎明神ともよんでいる。
禰宜の山辺守人は、時鳥や仏法僧の啼音ばかりを友として、お宮の脇の小さい社家に住んでいたが、甚助の姿が見えると、かたこと木履の足音をさせて出て来た。
麦餅や、麹飴などつつんで、
「甚助、菓子やろう」
と寄って来る。そして甚助の、鳥の巣のような頭を撫でて、一話しするのが、禰宜の守人にとっては、一日のうちで、人間と話をする唯一な時間のようであった。
ところが、その日に限って、甚助は、
「お菓子、要らない」
と、首をふって、守人をいぶからせた。
「喰べたくない」
と重ねて云うのである。
長柄を横に置いて、朽ちた鳥居の下に腰をおろし、眼すら、ぽつねんと、雲へやって、菓子を見ないのであった。
「そうかい」
守人は、強いなかった。
顔をのぞいて訊ねた。
「甚助。どうかしたのか。この頃は、樹の梢へかかって、見事に枝を伐ろす姿も、ちっとも見かけないが」
「おじさん、どうしたんだろ」
「わしが訊いてるのだよ。どうかしたのかと」
「おらにも分らない。──この頃は、いくら樹へかかっても、今までは切れたぐらいな高さの梢も、急に斬れなくなってしまった」
「それはふしぎだな」
「だから、もう、樹を伐るのは、嫌になった。……だけど、伐って見せないと、おっ母さんが、笑ってくれない」
「甚助、おぬしももう、十四だな。この頃は、よその子とも、遊ばぬのう」
「つまらないもの」
「考え事が胸にでき宿り始めたのじゃろ。何か、人にも云えぬ考え事が」
「ああ、無いこともない」
「そのためだ。わしに話してごらん」
「神主さん」
甚助は、ふいに立って、守人の胸へ、抱きついた。しゅくしゅくと泣き出したのである。
「なんだ、なんだ、男のくせに」
「おらの……おらのお父さんは、戦で死んだのじゃないのかい。神主さんは、年老っているから、おらが嬰児の時分のことでも知っているだろ。話して、話して。よう、誰にもいわないから、俺にだけほんとのことを話してよう……」
守人も、眼を上げていた。
麦がよく伸びる頃の昼間の月に、禽の音が澄んでいた。
禰宜の守人に連れられて、甚助は、家へ戻った。
守人から何か聞くと、彼の母は、いつにない改まった眼で、わが子を見、
「口を嗽ぎなさい。手を洗っておいでなさい。そして、お仏間へ来るがよい」
と、云った。
甚助は、云われた通り、身躾みを作って、後から仏間へ行ってみると、母と守人が寂として坐っていた。
御先祖の壇には、御灯があがっていた。
「きょう初めてはなすが、真は、其方の父は、人手にかかってお果てなされたのです」
母は、水のような声で、子に告げた。泣いてもいなかった。しかし、泣いている以上なものを、甚助は、その母の眼に見た。
それきり多くを母自身は語らなかった。
若くて美しかったその頃の彼女自身が、良人の横死の一原因であったせいもあろう。
が、あらましは、事情に詳しい守人が、噛んで喞めるように聞かせてくれた。甚助が生れたその年のことだというから、天文十六年のことにちがいない。
坂上主膳という武士のために、楯岡の藩祖の菩提寺のすこし下手町の辻で斬られたのであった。原因は意趣、その詳らかな事実は、おまえがもっと大人になれば自然分ってくる。母御もまた、話す折があろうと、守人は云った。
「わかったか」
「わかりました」
甚助は、そこでは泣かなかった。
青白い栗の花が咲いている厩の横に佇んで、独り眼を横にこすっていた。父の林崎重成が乗用したという馬も老いて、数年前に死んでいた。
元服したばかりの十五の甚助は、ひたむきに、何ものかを求めて、旅へ立った。
勿論、母のゆるしを得て。
世間も知らないそんな若冠の子を遠くへ見送るのに、当時の若い母親は健気であった。しかも戦乱に次ぐ戦乱の世であった。
その年はちょうど川中島の大戦の翌年であった。
「大胡のお城はどこですか」
上州へ来た甚助は、そこの城主、上泉伊勢守秀綱をさがした。
「お城はないよ」
土地の者は云った。
「伊勢守様も、もう都の空だよ。大胡城は去年、上杉勢に攻め落されて、石垣と焼け木杭しか残っていない。そこに今あるのは、上杉家の侍衆のお陣屋さ」
こう聞いて、甚助は空しく、常陸国へ志した。大永年間の人で、鹿島神流の中興の祖松本備前守を初めとして、天真正伝神伝流の開祖、飯篠長威斎もすでに遠い古人であるが、常陸の産であると聞いている。近くは、土地の土豪、塚原土佐守卜伝が、そこに住んでいると聞いている。
だが、訪ねて行ってみると、その卜伝も、
「御遊歴中」
とて、留守であった。
戦雲の世には、人も雲のように、諸国を去来していた。武芸者はわけても旅が生活だった。修行は遍歴にあった。
伊勢守秀綱とか、土佐守卜伝とかは、たとえ野に在っても、土地の豪族なので、弟子郎党など四、五十人も召連れて、小姓の拳に鷹をすえさせ、乗更馬など美々しく曳かせて遊歴した。
しかし、笠一つ、剣一腰で、時雨に会っても、乾す着更えさえも持たない武芸者もある。
雑多な時代の流れの中に、甚助も、一つの色だった。誰も怪しみはしなかった。この若冠な小修行者が、父の復讐を念じ、将来の大志を抱いているとは誰も見なかった。
四年経って帰って来た。
母の顔は、同じだった。
すぐ禰宜の山辺守人が来た。家を立つ時と同じように、仏間に坐って、母と守人の前に手をついた。
「御修行は積んだかの」
母が訊ねた。
「四年だけのことは致して参りました」
「仇の消息は」
「ほぼ知れました」
「どこで見届けました」
「母上が仰せられた通り、やはり京都に住んでいました。松永久秀殿の御内に潜んでいるらしゅう思います」
「顕門に隠れていたのでは、近づく術もないと思うて、故郷へ帰って来られたか」
「いいえ、坂上主膳へ出会うのは易いことです。けれども強豪主膳を討つことは、決してたやすくはございませぬ」
「まだ、腕に、確と自信はできぬとお云いか」
「敵に勝つにはまず、敵を知るにあると申します。坂上主膳は、その後、京都に遁れてからも、風評のよくない男ではありますが、彼の武勇は、松永久秀が珍重して召抱えたのでも分ります。先つ年、久秀が室町の御館を襲うて、将軍義輝公を弑逆し奉った折なども、坂上主膳の働きは、傍若無人な戦ぶりと云われております。いわゆる彼は悪人ながら、最上家にいた頃から鳴っている通り千軍万馬の士です。なんで甚助のような小冠者の細腕にようこれを仆すことができましょうか」
母は、子の言葉に、またたきもせぬ眼をして聞いていた。
守人は、
「ううむ。成人したのう。やはり旅の風は人の子に世を歩む道を誡えてくれる」
と、云って呻いた。
永禄十一年、彼が二十二歳の春だった。その二月中旬頃から、五月末までの間、まる百ヵ日、彼は家に寝なかった。また、帯を解かなかった。
林崎明神の神殿の辺りは、真昼、木洩れ陽がすこし映す時の他は、昼も暗かった。守人の住む社家の勝手元には、黄昏れると、一椀の粥が出されてあった。それが甚助の食事であった。夜が明けると、また一椀、盆にのせて出されてある。
守人は、姿を見せない。努めて見せないことにしていた。勿論、母の楡葉も、ここへは近づかなかった。
ここは今、熊野権現の聖地であると共に、林崎甚助にとって、生死を超脱した剣の道場だった。
彼は、百日の参籠を誓願したのだった。
朝夕一椀ずつの粥を守人から恵まれる他、何も口にしなかった。七日、二十七日は、まだまだ鋭気もあったが五十日、六十日となると、肉は落ち、眼は澄み、皮膚は垢を持ちながら蝋のように白くのみあった。
──喝アっ。
──ええおうっ。
異様な声が、杉木立に谺した。
月の晩も。風の昼も。
──えやーつッ。
神殿の広前に、彼は、三尺余もある長刀を、革紐で帯にくくし、われとわが影を、月の白い地上に睨んでいた。
革紐の帯をなであげて、左手が、鯉口にふれる。右手が、軽く柄をうつ。
瞬間。
上体が折れる。満身の毛穴から、喉を破って、声が発しる。
一揮、風を断つ。
その時はもう、風か影か、空を一颯した大刀は、彼の腰間の鞘に吸われているのだった。肉眼では、その間の剣のうごきは、見て取れないくらい迅かった。
この行を、彼は、暁天から夕べまで、また、宵から深夜まで、一日何百回、行の熟達につれて、何千回もくり返して行った。
疲れれば、拝殿の破れ廂の下にある、一枚の莚の上に、身を横たえた。眠りから醒めると、すぐ大地に立った。
日の出るたびに、傍らの大杉の幹へ、一太刀、刀痕を入れた。その刀痕の数が日の数であった。
世上良師多し。 世転縹渺の間
師縁求めて求め難し 如かず直ちに神に会わん
上泉伊勢守を訪ねて伊勢守に会わず、塚原土佐守を訪ねて土佐守に師事し得ず、その他、当代著名の人、富田勢源、戸田一刀斎などの、高名を慕い、住居を追う間に、いつか四年の歳月を空しくした甚助は、翻然、
──直ちに神に会わん、
と、悟ったのであった。
自然は皆師だ。一冊の書物に師となることばがあれば、一木一草にも師となる声はあろう。そう考えて、彼は自嘲の一詩を旅の記に賦し、故郷の産土神の前に額ずき、嬰児にかえったような心で、
「我に、前人未踏の剣の極理を授けたまえ」
と、すがった。
彼の誓願は、
「人の末流を汲まんより、われ自ら一流の祖たらん」
というにあった。
諸国の剣人の実状を見、また、いよいよ剣磨の時代の必然を、社会に視て来たからであった。
勝敗は髪一すじである。
間の遅いか迅いかで勝敗はすでに決する。
剣のあつかい、間あい、心胆の工夫をした達人は尠しとしない。
けれど、勝負に立つ、まず間髪の勝目を電瞬にとる工夫をした者はかつてない。
刀はすべて鞘にある。
刀が鞘を脱する時、勝負はすでにつきかけている。いや、勝目を掴む機があるはずである。
抜刀の法だ。練磨だ。
それを研究しよう。究めて神に入り、そこの極理を掴もう。
甚助の誓願にかかった端緒は、実にそこにあった。
初め、木の皮も喰いたいような飢餓に襲われた。それがやむと、時折、胃ぶくろが暴れて苦悶した。それに馴れると、妄念が起った。肉体の疲労が、自分の踏む足にもわかった。そこを超えると、自己が分らなくなった。
五、六十日頃から、ようやく、
「苦行のかいがあったか」
と思われるように、頭脳は冴え、心は清澄に、技もわれながら、見事になって来た。
しかし、それは、技のみであった。
「心は?」
と、訊ねてみると、空漠だった。何も得てない気がした。
「これでいいのか」
迷い出した。一心不乱がみだれかけた。壁に突き当ったように技も進まない。われとわが身がふがいなくなって死にたくさえなった。
そこを超えて、
「何を」
と、魔とも人とも思われない形相になった頃、大杉の幹の刀痕は、九十を超えていた。
「もう百日」
とも思わなかった。甚助は発狂していたかも知れないのである。一刀、一刀、また一刀、空を斬っては鞘におさめる時の凄まじい彼の気合は、もうしゃ嗄れ果てて、何ものか世にあり得ない野獣の咳声のようだった。喉はやぶれ手足は血によごれていた。百日も櫛を入れない髪には落葉の骨がたかっていた。雨露にまみれた袴、小袖、それも傷ましく綻び果てている。そこからかなり距てている甚助の家へまで、近頃は、夜になると、最上川の水音より明らかに、彼の狂わしいしゃ嗄れ声が響いて行った。楡葉は、共に寝なかった。
いや遂には、
「百日の間は顔を見せぬ」
と、子へも、守人へも、固く約した事も制しきれなくなって、守人の家まで忍んで来ていた。しかし、守人は、
「今あなたが、甘い涙などそそいだら、あなたは何のために、甚助どのを、あそこまで、きつい心で育てて来たか、意味のないことになりましょう」
と、窓を閉じて、固く一室に止めた。
それでも彼女は、破れ戸の隙間から、時折、彼方を窺ったり、耳をすましたり、悶えていたが、そのうちに、何思ったか社家の裏から馳け出して、最上川の畔に、衣をぬぎ捨て、月よりも白い肌、烏羽玉より黒い黒髪を、怯みもなく、川水に浸し、また川水を一心に浴びて、そこから見える神居の森へ、夜もすがら、掌をあわせていた。
まだ五月の末だったので、川水は冷たかった。渓谷の奥ふかくには雪さえ残っている頃である。彼女は、凍えたまま、仆れていた。夜の白んだのも知らなかった。
同じように。
その夜明け頃。
甚助も、大刀を持ったまま、熊野権現の前に、平べッたくなっていた。完全に呼吸もしていなかった。肌も、死人のような色をしていた。
陽がさし昇った。
巨杉の梢から金色の雫が、甚助の背へぽとぽと落ちた。美しい毛艶の神鴉が、ふた声ほど、高く啼いた。
「甚助どのの母御が、最上川の水に浸って、気を失うてござらっしゃる」
河往来の船子たちが知らせて来た。それはちょうど、朝の粥を炊いて、守人が、神殿の前に仆れている甚助の姿に気づき、驚いて、手当をしていた時だった。
幸いに、二人とも、蘇生した。元より母の楡葉のほうが恢復は早かった。楡葉は気がつくと、寝食も忘れて、子の枕元に坐ったきりだった。
甚助も日ならずして恢復した。
床を払って起きた日に、彼は、身の垢をそそぎ、衣服を更えて、
「母上、一緒に行って下さい」
と、云った。
「どこへ」
「神前へ、お礼詣りにです」
楡葉は頷いた。そして心密かに、わが子が百日の参籠とあの精進の結果、何ものか神霊の示顕を得て、志す剣の工夫のうえに、一つの光明を掴み得たにちがいないと思った。
「守人様、神灯しをお願いいたします」
社家へ声をかけると、守人も来て、神前に菅莚を展べ、母子の坐った端へ、自分も共に坐って、拍手をうち鳴らした。
「…………」
祈念をこめて、神へ心から額ずき終って後、楡葉は甚助へ問うた。
「何ぞ、神さまの、御霊現をうけたかや」
「いいえ、べつに」
「百日のあいだに、何もなかったかの」
「八、九十日から先は、一切夢中でございました。何も覚えませぬ。精も力も尽き、昏々と仆れて夢中の霧につつまれたように気を失ったのが、ちょうど百日目の暁方でございました」
「それだけか」
「それだけです」
母はやや失望の色を泛かべた。けれど甚助の胸には、口で言い現し難い何ものかが実は宿っていた。けれどそれを説明する言葉がなかった。
「行って参ります。──母上、もう一度お暇を下さい。こんどは、坂上主膳へ出会って参ります」
数日の後、彼はふたたび、旅へ立った。腰間の一水は、伝家の銘刀来信国の三尺二寸という大剣であったという。
京都へ上るその途中だった。やがて木曾路へも近い一夜、信州岩村田の土豪北山半左衛門の家に泊った。
「お客様、逃げて下さい。はやく、はやくたいへんです」
真夜半のことなのだ。
主の子息北山半三郎が寝室へ来て、甚助をゆり起し、顫きながら云うのだった。
「──茨組がやって来ました。木曾の宿々から善光寺いったいを荒して廻る茨組です。家財や金さえ攫ってゆけば立去るでしょうが、お怪我があるといけませんから」
茨組という名は、街道いたる所で甚助も聞いていた。応仁の乱以後、室町幕府の紊乱につけこんで、京都に簇出した浪人くずれの無頼者の一団である。
しかし、その京都や浪華でも、近頃は取締りが厳しくなった。近畿や地方の都会でも、信長とか、朝倉家とか、徳川家などの武将が、自己の領政に厳密な改正を加えている折なので、浮浪人や暴徒の横行する世間はだんだん狭められていた。
で、自然、武将の勢力や統治の行き届かない片田舎へと、茨組なども流れて来た。同時に彼等の持前とする殺戮と兇暴な質も、野に返った野獣と同じで、とても人間の仕業とは解し得ないことを平然とやって歩いた。
「お静かになさい。騒ぐことはありません」
甚助は、信国の一腰を横たえて、裏戸を開け、墻を躍って、表の土塀門のほうへ迫って行った。
信濃の名物という月がその晩も煌として中天にあった。外から窺っていると、大槌や棍棒で打ち壊したらしい門内へ、およそ三十人ばかりの賊がなだれ込んで、土蔵を破壊し、全家族を縛し上げ、手燭を持ち廻って、大がかりな掠奪にかかっている様子であった。
どんな人間どもかというと、その頃の世相を見て書いた「室町殿物語」に依ると、茨組の風俗をこんなふうに写してある。
悪党でも派手を誇る時代だったから、それは洛内の見聞であったろうが、いずれはそんな部類の雑多な扮装をしていたにちがいない。それと武器は流行の長柄が最も多く、槍、山刀、鉞、槌なども持ち歩いていたらしく思える。
やがて屋内の悲鳴や物音が少しやむと、その寂寞の中から、三人、四人と外へ出て来た。目ぼしい家財を担いで来るものもあり、金や女を盗んで戯れながら、出て来る男もあった。
甚助は、ふいに、前へ立って、
「待てっ」
と、云った。
待て──と聞えた時はもう、彼の大剣の左右に、二つの死骸が一度に薙ぎ仆されていた。仰天して逃げ込もうとした男も一名は後ろ袈裟に、一名は腰ぐるまを払われて、醜い胴を地へ転がした。
刀を拭って、また待った。
次の三人も、一颯に斬った。
甚助は、心で、
(母上。これです)
と、叫びたかった。
林崎明神の神前に額いて、母から、百日の参籠と精進のうちに、何か、神の御霊現はなかったかと問われた時、云い現わすべき言葉がないので、
(べつに、何も覚えませぬ)
と答えたが、その云い現わせないものを、彼は今、紛れない事実の上に、また、無意識な行動の上に、間違いなく自己の相として、現わしていることを思ったのであった。
「何だ?」
「どうしたと?」
門外の異変に気がついて、茨組の総勢一かたまりとなって、やがて甚助の前後へ、真っ黒に躍りかかって来た。
信国の刀は、月下に十数箇の死骸を積み、大地を碧い血に光らせた。
かなわじと余の者は怖れて逃げたが、その騒動も片づいて、翌日、北山家を辞し去った彼を、道に待っていたらしいその夜の茨組の男三名が、
「しばらく」
と、並木の蔭から呼びとめた。
呼び止めた男は、茨組の沼沢甚右衛門、葦沢弥兵衛、桜場隼人などだった。見れば大地へ姿を揃えて平伏している。そして誠意を示して云うのだった。
「御門下の端に加えていただきたい。──とお縋り申すからには、今日以後、悪行を止めて完き武士となるよう志すことを、三名、神に誓い申しての上でござる」
甚助は、乞を許した。しかし、誓約に止めて後日の再会を約し、なお行くと、また彼を追って来た者がある。岩村田の近郷に住む田宮平兵衛という郷士だった。
「願わくば拙者をお弟子として伴れ給え」
切実な願いなので、田宮だけは供にした。やがて京都へ着いた。そしてあらゆる苦心と手引を経て、松永久秀の幕下にいる父の讐敵坂上主膳と出会うことができた。
主膳を斬った際も、信国の鍔が、彼の手に鳴ったせつな、実にただ一刀しか費やされなかったということである。唯、遺憾ながらその場所や、当時の実状など、史録には明確を欠いている。
居合という言葉は、後世にできた称び方であろう。彼の創始した抜刀法──後に称えたところの林崎夢想流とは、純正剣道の一流であって、本流の剣に、剣とは不可分な抜刀の神息をふきこんだものに他ならないのである。
彼に随身した田宮平兵衛は、後に、
──柄に八寸の徳、みこしに三重の利。
という有名な居合の名標語を吐いた人で、抜刀田宮一流の別派を興し、当時の達人ともいわれて、林崎夢想流麾下の第一人者と目されるに至った。
また、茨組から脱した沼沢甚右衛門は、常陸の真壁に、葦沢弥兵衛は武州牛久在に、桜場隼人は三州挙母村に、それぞれ一道場を持って大いに道風を興したとある。
なお、林崎甚助自身は、各地を遊歴して、自然、門流のひろまる一方、後年またさらに、鹿島神宮の武林に入って、天真神道流の研鑽に身をゆだね、元亀何年かには、越後の上杉謙信の幕将、松田尾張守に随身して、戦場をも馳駆したらしいが、謙信の歿後は、杳として、その足蹟も定かでない。
晩年は奈良に住んでいたという説もあるし、鹿島で終ったという説もある。五十何歳かで郷里林崎で病歿したともいわれている。いずれにしろ半生は確説もない。しかし、彼の林崎夢想流は、不滅の光茫を遺して行ったし、その誕生の森、林崎明神は今もそのまま現存している。
夢想と流名に称えても、彼の百日参籠には、何らの奇蹟的なはなしも伝えられなかった。けれど奇蹟のないところに、彼の真実な魂の神化があった。肉体を百日の精進に燃えきらして仆れるまでに至れば、ひとり林崎甚助重信のたましいばかりか、誰の精神でも、どんな道に於ても、神の夢想をつかむことができよう。
「甚助。ようしやった」
彼の母は、京都から一先ず帰郷した甚助を迎えて、初めて、心から綻んだ笑顔を子へも見せたろうと思われる。
「生涯の満足は今だ」
母の一笑に、甚助もまた、そう思ったにちがいない。だが、若くして美しかった楡葉は、亡夫の讐怨を子の討ちはらしてくれた報告を聞いてから幾年もなく、病の床について世を去った。
甚助重信が、孤剣、白雲の人となって、郷土を離れたのは、そのためであると云われている。
底本:「剣の四君子・日本名婦伝」吉川英治文庫、講談社
1977(昭和52)年4月1日第1刷発行
初出:「講談倶楽部 一月号」大日本雄弁会講談社
1940(昭和15)年1月
※初出時の表題は「日本剣人伝(一)林崎甚助」です。
入力:川山隆
校正:岡村和彦
2014年9月11日作成
青空文庫作成ファイル:
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