剣の四君子
林崎甚助
吉川英治




 母のすがたを見ると、甚助じんすけの眼はひとりでに熱くなった。

 世の中でいちばん不倖ふしあわせな人が、母の姿であるように見られた。

「どうしたら母は楽しむだろうか」

 物心のつきめた頃から、甚助はそんな考えを幼心おさなごころにも持った。

 ふと、何かのはずみに、その淋しい母が、笑うかのような歯をくちにこぼすと、

「母上がお笑いになった」

 と、その日は一日、彼も楽しく遊ぶことができた。

 十二、三歳になると、そんな考えがもっと深くなって、

「なぜだろ?」

 と、思うようになった。

 自分が何をした時に、母の顔がうれしそうになるか、に気がつきだした。

ほんが好く読めた時と、長柄ながえの刀で、樹がよく斬れた時だ」

 少年林崎甚助は、それからよけい声を張って良く書を読み、外へ出ては、身丈に過ぎた長巻刀ながまきって、丈余の樹のこずえを、跳び斬りに斬って落した。

 古い土塀門の外にって、母は時折、微笑んでくれた。

 その母は、またなく美しい人だった。年もまだ若かった。名は楡葉にれはといった。

 楡葉は若後家であった。祖先からの土豪造どごうづくりの家は、羽前の大川たいせん最上もがみの流れに沿い、甑嶽こしきだけふもとにあった。山形から十里余、楯岡たておかとりでから北へ一里、土称どしょう林崎という部落にあった。

 この地方一帯は、足利家の管領斯波しば氏のわかれ最上一族の勢力けん内であった。甚助の父も、最上家の臣だった。

 上杉謙信の越後本庄から最上川をさかのぼれば、最上領東根ひがしね砦町とりでまち、また、黒伏嶽くろぶせだけや高倉の山道を越えれば、一路伊達家の仙台に通じる。武強の隣藩と境を接して、連年、ここにも戦乱は絶えなかった。

 甚助は信じていた。

「わしの父者人ててじゃひとは、いくさで死んだのだ」

 それは、父なき少年の、せめてものほこりでもあった。

 ところが或る時、楯岡たておかとりで町から部落へ来た馬商人あきんどいて来た馬へ、甚助が他の少年たちと共に、悪戯いたずらすると、その中の一人の馬商人が、こぶしを振上げて、逃げおくれた甚助のうしろからこう呶鳴どなった。

「このわっぱめッ。そげな悪性あくしょう真似まねしさらすと、れが父者ててじゃのように、れも今に、闇討ち食ってくたばりさらすぞ」

 その声は、甚助の耳より魂をつき破った。甚助は、色あおざめて逃げて来た。それからもうほかの子と遊ばなくなった。



 長柄ながえという武器は、戦時の用具である。平時の刀では短きに過ぎるので、いざという場合、常の刀へ、常用のつかより寸法の長い特殊な柄をすげ替えて、これを引っちにして、戦場へ働きに出るのである。

 別名、長巻ともんでいる。

 その寸法は、およそ三尺の刀身なかみへ、二尺二、三寸の柄をつける。三尺以上の刀になれば、それに三尺もある長柄をすげる場合もある。

 林崎甚助は、天文十六年の生れで、その年少十四、五歳の頃は、ちょうど永禄年間に当り、戦国の英雄が諸州におこした頃であったから、長柄の流行は、さかんを極めて、戦場ばかりでなく、平時でも引っ提げて歩く者があった。

 織田信長は、その頃、自己の歩兵隊に、刀の長サ三尺、柄四尺という長柄を揃えて持たせて、敵陣へ突貫とっかんさせて、いつも敵の一陣を縦横じゅうおう刺撃しげきして駈けくずしたということである。もっとも、それから間もなく鉄砲が渡来して全国に行きわたったので、後には、第一陣鉄砲隊、第二陣長柄隊というふうに、戦術の編制は変って来たが、とにかく甚助の少年頃には、ふと物置小屋をのぞいても、長柄のびたのが一本や二本は転がっている程だった。それほど普及された兵具であった。

 まき切りに、甚助が持ち馴れたのも、父の代に、戦場から束にして分捕って来た物のような中の一本であった。

 それも、何のためか知らないが、母の楡葉にれはから、

「枯れ木を拾うは百姓の子ぞ、そなたは、こずえの木を、長柄でろして来やれ。長柄も背丈も届かぬ梢も、心して跳んでって見やい。それしきもの斬れねば、殿様の御馬前に立って、いくさにわで人勝りの働きはならぬぞい」

 と、云い聞かされて、七ツ八歳やつ頃からし始めたことであった。雨さえ降らなければ、日課のように、

「甚助。まきろして来やい」

 母は、いいつけた。

 よく斬れると、遠くで、見ている母が微笑んでくれる。それがうれしさに、甚助は、高い樹へ、高い樹へと、次第に望みを大きく育てて、長柄を小脇に、仰いで迫った。



 大同年間からあるという部落でいちばん古い杉木立がある。そこに熊野神社がまつってあった。部落の名をそのまま林崎明神ともよんでいる。

 禰宜ねぎ山辺守人やまのべもりとは、時鳥ほととぎす仏法僧ぶっぽうそう啼音なきねばかりを友として、お宮の脇の小さい社家に住んでいたが、甚助の姿が見えると、かたこと木履ぼくりの足音をさせて出て来た。

 麦餅や、麹飴こうじあめなどつつんで、

「甚助、菓子やろう」

 と寄って来る。そして甚助の、鳥の巣のような頭を撫でて、一話しするのが、禰宜の守人にとっては、一日のうちで、人間と話をする唯一な時間のようであった。

 ところが、そのに限って、甚助は、

「お菓子、要らない」

 と、首をふって、守人をいぶからせた。

「喰べたくない」

 と重ねて云うのである。

 長柄を横に置いて、ちた鳥居とりいの下に腰をおろし、眼すら、ぽつねんと、雲へやって、菓子を見ないのであった。

「そうかい」

 守人は、いなかった。

 顔をのぞいて訊ねた。

「甚助。どうかしたのか。この頃は、樹の梢へかかって、見事に枝をろす姿も、ちっとも見かけないが」

「おじさん、どうしたんだろ」

「わしが訊いてるのだよ。どうかしたのかと」

「おらにも分らない。──この頃は、いくら樹へかかっても、今までは切れたぐらいな高さの梢も、急に斬れなくなってしまった」

「それはふしぎだな」

「だから、もう、樹を伐るのは、いやになった。……だけど、って見せないと、おっ母さんが、笑ってくれない」

「甚助、おぬしももう、十四だな。この頃は、よその子とも、遊ばぬのう」

「つまらないもの」

「考え事が胸にでき宿やどり始めたのじゃろ。何か、人にも云えぬ考え事が」

「ああ、無いこともない」

「そのためだ。わしに話してごらん」

神主かんぬしさん」

 甚助は、ふいに立って、守人もりとの胸へ、抱きついた。しゅくしゅくと泣き出したのである。

「なんだ、なんだ、男のくせに」

「おらの……おらのお父さんは、いくさで死んだのじゃないのかい。神主さんは、年っているから、おらが嬰児あかごの時分のことでも知っているだろ。話して、話して。よう、誰にもいわないから、俺にだけほんとのことを話してよう……」

 守人も、眼を上げていた。

 麦がよく伸びる頃の昼間の月に、とりの音が澄んでいた。



 禰宜ねぎ守人もりとに連れられて、甚助は、家へ戻った。

 守人から何か聞くと、彼の母は、いつにない改まった眼で、わが子を見、

「口をすすぎなさい。手を洗っておいでなさい。そして、お仏間へ来るがよい」

 と、云った。

 甚助は、云われた通り、身躾みだしなみを作って、後から仏間へ行ってみると、母と守人がじゃくとして坐っていた。

 御先祖の壇には、御灯みあかしがあがっていた。

「きょう初めてはなすが、まことは、其方そなたの父は、人手にかかってお果てなされたのです」

 母は、水のような声で、子に告げた。泣いてもいなかった。しかし、泣いている以上なものを、甚助は、その母の眼に見た。

 それきり多くを母自身は語らなかった。

 若くて美しかったその頃の彼女自身が、良人の横死の一原因であったせいもあろう。

 が、あらましは、事情にくわしい守人もりとが、んでふくめるように聞かせてくれた。甚助が生れたその年のことだというから、天文十六年のことにちがいない。

 坂上主膳さかがみしゅぜんという武士のために、楯岡たておかの藩祖の菩提寺ぼだいじのすこししも手町の辻で斬られたのであった。原因は意趣いしゅ、そのつまびらかな事実は、おまえがもっと大人になれば自然分ってくる。母御もまた、話す折があろうと、守人は云った。

「わかったか」

「わかりました」

 甚助は、そこでは泣かなかった。

 青白い栗の花が咲いているうまやの横にたたずんで、独り眼を横にこすっていた。父の林崎重成しげなりが乗用したという馬も老いて、数年前に死んでいた。



 元服したばかりの十五の甚助は、ひたむきに、何ものかを求めて、旅へ立った。

 勿論、母のゆるしを得て。

 世間も知らないそんな若冠じゃっかんの子を遠くへ見送るのに、当時の若い母親は健気けなげであった。しかも戦乱に次ぐ戦乱の世であった。

 その年はちょうど川中島かわなかじまの大戦の翌年であった。

大胡おおごのお城はどこですか」

 上州へ来た甚助は、そこの城主、上泉伊勢守秀綱かみいずみいせのかみひでつなをさがした。

「お城はないよ」

 土地の者は云った。

「伊勢守様も、もう都の空だよ。大胡城は去年、上杉勢に攻め落されて、石垣と木杭ぼっくいしか残っていない。そこに今あるのは、上杉家の侍衆さむらいしゅうのお陣屋さ」

 こう聞いて、甚助はむなしく、常陸国ひたちのくにへ志した。大永年間の人で、鹿島神流の中興の祖松本備前守を初めとして、天真正伝神伝流の開祖、飯篠いいざさ長威斎もすでに遠い古人であるが、常陸の産であると聞いている。近くは、土地の土豪、塚原土佐守卜伝ぼくでんが、そこに住んでいると聞いている。

 だが、訪ねて行ってみると、その卜伝も、

「御遊歴中」

 とて、留守であった。

 戦雲の世には、人も雲のように、諸国を去来していた。武芸者はわけても旅が生活だった。修行は遍歴にあった。

 伊勢守秀綱とか、土佐守卜伝とかは、たとえに在っても、土地の豪族なので、弟子郎党など四、五十人も召連れて、小姓のこぶしに鷹をすえさせ、乗更馬のりかえうまなど美々しくかせて遊歴した。

 しかし、笠一つ、剣一腰で、時雨しぐれに会っても、着更きがえさえも持たない武芸者もある。

 雑多な時代の流れの中に、甚助も、一つの色だった。誰も怪しみはしなかった。この若冠な小修行者が、父の復讐を念じ、将来の大志を抱いているとは誰も見なかった。

 四年経って帰って来た。

 母の顔は、同じだった。

 すぐ禰宜ねぎ山辺守人やまのべもりとが来た。家を立つ時と同じように、仏間に坐って、母と守人の前に手をついた。

「御修行は積んだかの」

 母がたずねた。

「四年だけのことは致して参りました」

かたきの消息は」

「ほぼ知れました」

「どこで見届けました」

「母上が仰せられた通り、やはり京都に住んでいました。松永久秀殿の御内みうちひそんでいるらしゅう思います」

顕門けんもんに隠れていたのでは、近づくすべもないと思うて、故郷くにへ帰って来られたか」

「いいえ、坂上主膳さかがみしゅぜんへ出会うのはやすいことです。けれども強豪主膳を討つことは、決してたやすくはございませぬ」

「まだ、腕に、しかと自信はできぬとお云いか」

「敵に勝つにはまず、敵を知るにあると申します。坂上主膳は、その後、京都にのがれてからも、風評のよくない男ではありますが、彼の武勇は、松永久秀が珍重して召抱えたのでも分ります。さきつ年、久秀が室町の御館おやかたおそうて、将軍義輝公を弑逆しいぎゃくし奉った折なども、坂上主膳の働きは、傍若ぼうじゃく無人ないくさぶりと云われております。いわゆる彼は悪人ながら、最上家もがみけにいた頃から鳴っている通り千軍万馬の士です。なんで甚助のような小冠者の細腕にようこれをたおすことができましょうか」

 母は、子の言葉に、またたきもせぬ眼をして聞いていた。

 守人は、

「ううむ。成人したのう。やはり旅の風は人の子に世を歩む道をおしえてくれる」

 と、云ってうめいた。



 永禄十一年、彼が二十二歳の春だった。その二月中旬なかば頃から、五月末までの間、まる百ヵ日、彼は家に寝なかった。また、おびかなかった。

 林崎明神の神殿の辺りは、真昼、木洩こもがすこしす時のほかは、昼も暗かった。守人もりとの住む社家の勝手元には、黄昏たそがれると、一椀のかゆが出されてあった。それが甚助の食事であった。夜が明けると、また一椀、盆にのせて出されてある。

 守人は、姿を見せない。努めて見せないことにしていた。勿論、母の楡葉にれはも、ここへは近づかなかった。

 ここは今、熊野権現ごんげんの聖地であると共に、林崎甚助にとって、生死を超脱ちょうだつした剣の道場だった。

 彼は、百日の参籠さんろうを誓願したのだった。

 朝夕一椀ずつのかゆを守人から恵まれるほか、何も口にしなかった。七日、二十七日は、まだまだ鋭気もあったが五十日、六十日となると、肉は落ち、まなこは澄み、皮膚はあかを持ちながらろうのように白くのみあった。

 ──アっ。

 ──ええおうっ。

 異様な声が、杉木立にこだました。

 月の晩も。風の昼も。

 ──えやーつッ。

 神殿の広前ひろまえに、彼は、三尺余もある長刀を、革紐かわひもで帯にくくし、われとわが影を、月の白い地上に睨んでいた。

 革紐の帯をなであげて、左手ゆんでが、鯉口こいぐちにふれる。右手めてが、軽くつかをうつ。

 瞬間。

 上体が折れる。満身の毛穴から、のどを破って、声が発しる。

 一、風をつ。

 その時はもう、風か影か、空を一さつした大刀は、彼の腰間のさやに吸われているのだった。肉眼では、そのかんの剣のうごきは、見て取れないくらいはやかった。

 このぎょうを、彼は、暁天ぎょうてんから夕べまで、また、よいから深夜まで、一日何百回、行の熟達につれて、何千回もくり返して行った。

 疲れれば、拝殿の破れひさしの下にある、一枚のむしろの上に、身を横たえた。眠りから醒めると、すぐ大地に立った。

 日の出るたびに、かたわらの大杉の幹へ、一太刀、刀痕を入れた。その刀痕の数が日の数であった。

世上良師多し。    世転せてん縹渺ひょうびょうかん

師縁求めて求め難し  かずただちにしんに会わん

 上泉伊勢守を訪ねて伊勢守に会わず、塚原土佐守を訪ねて土佐守に師事し得ず、そのほか、当代著名の人、富田勢源、戸田一刀斎などの、高名を慕い、住居を追う間に、いつか四年の歳月を空しくした甚助は、翻然ほんぜん

 ──直ちに神に会わん、

 と、さとったのであった。

 自然はみなだ。一冊の書物に師となることばがあれば、一木一草にも師となる声はあろう。そう考えて、彼は自嘲の一詩を旅の記にし、故郷ふるさと産土神うぶすながみの前にぬかずき、嬰児あかごにかえったような心で、

「我に、前人未踏みとうの剣の極理を授けたまえ」

 と、すがった。

 彼の誓願は、

「人の末流を汲まんより、われみずから一流の祖たらん」

 というにあった。

 諸国の剣人の実状を見、また、いよいよ剣磨けんまの時代の必然を、社会に視て来たからであった。

 勝敗は髪一すじである。

 の遅いか迅いかで勝敗はすでに決する。

 剣のあつかい、間あい、心胆しんたんの工夫をした達人はすくなしとしない。

 けれど、勝負に立つ、まず間髪の勝目を電瞬にとる工夫をした者はかつてない。

 とうはすべて鞘にある。

 刀が鞘を脱する時、勝負はすでにつきかけている。いや、勝目をつかおりがあるはずである。

 抜刀の法だ。練磨れんまだ。

 それを研究しよう。究めてしんに入り、そこの極理をつかもう。

 甚助の誓願にかかった端緒たんしょは、実にそこにあった。



 初め、木の皮も喰いたいような飢餓きがに襲われた。それがやむと、時折、胃ぶくろが暴れて苦悶した。それに馴れると、妄念もうねんが起った。肉体の疲労が、自分の踏む足にもわかった。そこを超えると、自己が分らなくなった。

 五、六十日頃から、ようやく、

「苦行のかいがあったか」

 と思われるように、頭脳はえ、心は清澄に、わざもわれながら、見事になって来た。

 しかし、それは、技のみであった。

「心は?」

 と、訊ねてみると、空漠くうばくだった。何も得てない気がした。

「これでいいのか」

 迷い出した。一心不乱がみだれかけた。壁に突き当ったように技も進まない。われとわが身がふがいなくなって死にたくさえなった。

 そこを超えて、

「何を」

 と、魔とも人とも思われない形相ぎょうそうになった頃、大杉の幹の刀痕は、九十を超えていた。

「もう百日」

 とも思わなかった。甚助は発狂していたかも知れないのである。一刀、一刀、また一刀、くうを斬ってはさやにおさめる時のすさまじい彼の気合は、もうしゃれ果てて、何ものか世にあり得ない野獣の咳声しわぶきのようだった。のどはやぶれ手足は血によごれていた。百日もくしを入れない髪には落葉の骨がたかっていた。雨露にまみれたはかま、小袖、それも傷ましくほころび果てている。そこからかなりへだてている甚助の家へまで、近頃は、夜になると、最上川の水音より明らかに、彼の狂わしいしゃ嗄れ声がひびいて行った。楡葉にれはは、共に寝なかった。

 いや遂には、

「百日の間は顔を見せぬ」

 と、子へも、守人もりとへも、固く約した事も制しきれなくなって、守人の家まで忍んで来ていた。しかし、守人は、

「今あなたが、甘い涙などそそいだら、あなたは何のために、甚助どのを、あそこまで、きつい心で育てて来たか、意味のないことになりましょう」

 と、窓を閉じて、固く一室に止めた。

 それでも彼女は、破れ戸の隙間すきまから、時折、彼方かなたうかがったり、耳をすましたり、もだえていたが、そのうちに、何思ったか社家の裏から馳け出して、最上川のほとりに、衣をぬぎ捨て、月よりも白い肌、烏羽玉うばたまより黒い黒髪を、ひるみもなく、川水にひたし、また川水を一心に浴びて、そこから見える神居かみいの森へ、夜もすがら、てのひらをあわせていた。

 まだ五月の末だったので、川水は冷たかった。渓谷の奥ふかくには雪さえ残っている頃である。彼女は、こごえたまま、たおれていた。夜の白んだのも知らなかった。

 同じように。

 その夜明け頃。

 甚助も、大刀を持ったまま、熊野権現の前に、平べッたくなっていた。完全に呼吸もしていなかった。肌も、死人のような色をしていた。

 陽がさし昇った。

 巨杉おおすぎの梢から金色のしずくが、甚助の背へぽとぽと落ちた。美しい毛艶の神鴉しんあが、ふた声ほど、高くいた。

「甚助どのの母御が、最上川の水に浸って、気を失うてござらっしゃる」

 河往来かわおうらいの船子たちが知らせて来た。それはちょうど、朝のかゆいて、守人が、神殿の前に仆れている甚助の姿に気づき、驚いて、手当をしていた時だった。

 幸いに、二人とも、蘇生そせいした。元より母の楡葉にれはのほうが恢復かいふくは早かった。楡葉は気がつくと、寝食も忘れて、子の枕元に坐ったきりだった。

 甚助も日ならずして恢復した。

 とこを払って起きた日に、彼は、身のあかをそそぎ、衣服をえて、

「母上、一緒に行って下さい」

 と、云った。

「どこへ」

「神前へ、お礼まいりにです」

 楡葉にれはは頷いた。そして心ひそかに、わが子が百日の参籠とあの精進の結果、何ものか神霊の示顕じげんを得て、志す剣の工夫のうえに、一つの光明を掴み得たにちがいないと思った。

守人もりと様、神灯みあかしをお願いいたします」

 社家へ声をかけると、守人も来て、神前に菅莚すがむしろべ、母子おやこの坐った端へ、自分も共に坐って、拍手かしわでをうち鳴らした。

「…………」

 祈念をこめて、神へ心からぬかずき終って後、楡葉は甚助へ問うた。

「何ぞ、神さまの、御霊現みしるしをうけたかや」

「いいえ、べつに」

「百日のあいだに、何もなかったかの」

「八、九十日から先は、一切夢中でございました。何も覚えませぬ。精も力も尽き、昏々こんこんと仆れて夢中の霧につつまれたように気を失ったのが、ちょうど百日目の暁方あけがたでございました」

「それだけか」

「それだけです」

 母はやや失望の色をかべた。けれど甚助の胸には、口で言い現し難い何ものかが実は宿っていた。けれどそれを説明する言葉がなかった。

「行って参ります。──母上、もう一度お暇を下さい。こんどは、坂上主膳へ出会って参ります」

 数日の後、彼はふたたび、旅へ立った。腰間ようかんの一水は、伝家の銘刀来信国らいのぶくにの三尺二寸という大剣であったという。



 京都へ上るその途中だった。やがて木曾路へも近い一夜、信州岩村田の土豪北山半左衛門の家に泊った。

「お客様、逃げて下さい。はやく、はやくたいへんです」

 真夜半まよなかのことなのだ。

 あるじの子息北山半三郎が寝室へ来て、甚助をゆり起し、おののきながら云うのだった。

「──茨組いばらぐみがやって来ました。木曾の宿々から善光寺いったいを荒して廻る茨組です。家財や金さえさらってゆけば立去るでしょうが、お怪我があるといけませんから」

 茨組という名は、街道いたる所で甚助も聞いていた。応仁の乱以後、室町幕府の紊乱ぶんらんにつけこんで、京都に簇出そうしゅつした浪人くずれの無頼者ならずものの一団である。

 しかし、その京都や浪華なにわでも、近頃は取締りが厳しくなった。近畿や地方の都会でも、信長とか、朝倉家とか、徳川家などの武将が、自己の領政に厳密な改正を加えている折なので、浮浪人や暴徒の横行する世間はだんだん狭められていた。

 で、自然、武将の勢力や統治の行き届かない片田舎へと、いばら組なども流れて来た。同時に彼等の持前とする殺戮さつりくと兇暴なたちも、野に返った野獣と同じで、とても人間の仕業しわざとは解し得ないことを平然とやって歩いた。

「お静かになさい。騒ぐことはありません」

 甚助は、信国のぶくにの一腰を横たえて、裏戸を開け、かきおどって、表の土塀門のほうへ迫って行った。

 信濃の名物という月がその晩もこうとして中天にあった。外から窺っていると、大槌おおづち棍棒こんぼうで打ち壊したらしい門内へ、およそ三十人ばかりの賊がなだれ込んで、土蔵を破壊し、全家族をくくし上げ、手燭を持ち廻って、大がかりな掠奪りゃくだつにかかっている様子であった。

 どんな人間どもかというと、その頃の世相を見て書いた「室町殿むろまちどの物語」に依ると、いばら組の風俗をこんなふうに写してある。

ソノ装束ハト見レバ、茜染アカネゾメノ下帯、小玉打コダマウチウハ帯ナド、幾重ニモマハシ、三尺八寸ノ朱鞘シユザヤノ刀、柄ハ一尺八寸ニ巻カセ、ベツニ二尺一寸ノ打刀モ同ジ拵ヘニテ仕立テ、ソギタテヤリカイテルモアリ、髪ハ掴ミ乱シテ、荒繩ノ鉢巻ナドムズト締メ、熊手、マサカリナド前後ヲカタメ、常ニ同行二十人バカリニテ押通ルヲ、「アレコソ、当時世ニ聞ユル茨組ゾ。辺リヘ寄ルナ、物言フナ」トテ人々ヂ怖レテ道ヲヒラキケル。

 悪党でも派手を誇る時代だったから、それは洛内の見聞であったろうが、いずれはそんな部類の雑多な扮装ふんそうをしていたにちがいない。それと武器は流行はやりの長柄が最も多く、槍、山刀、まさかりつちなども持ち歩いていたらしく思える。

 やがて屋内の悲鳴や物音が少しやむと、その寂寞せきばくの中から、三人、四人と外へ出て来た。目ぼしい家財を担いで来るものもあり、金や女を盗んでたわむれながら、出て来る男もあった。

 甚助は、ふいに、前へ立って、

「待てっ」

 と、云った。

 待て──と聞えた時はもう、彼の大剣の左右に、二つの死骸が一度にたおされていた。仰天して逃げ込もうとした男も一名は後ろ袈裟けさに、一名は腰ぐるまを払われて、醜い胴を地へ転がした。

 刀をぬぐって、また待った。

 次の三人も、一さつに斬った。

 甚助は、心で、

(母上。これです)

 と、叫びたかった。

 林崎明神の神前にぬかずいて、母から、百日の参籠と精進のうちに、何か、神の御霊現みさとしはなかったかと問われた時、云い現わすべき言葉がないので、

(べつに、何も覚えませぬ)

 と答えたが、その云い現わせないものを、彼は今、まぎれない事実の上に、また、無意識な行動の上に、間違いなく自己のすがたとして、現わしていることを思ったのであった。

「何だ?」

「どうしたと?」

 門外の異変に気がついて、いばら組の総勢一かたまりとなって、やがて甚助の前後へ、真っ黒に躍りかかって来た。

 信国のぶくにの刀は、月下に十数箇の死骸を積み、大地をあおい血に光らせた。

 かなわじと余の者は怖れて逃げたが、その騒動も片づいて、翌日、北山家を辞し去った彼を、道に待っていたらしいその夜の茨組の男三名が、

「しばらく」

 と、並木の蔭から呼びとめた。



 呼び止めた男は、いばら組の沼沢甚右衛門、葦沢あしざわ弥兵衛、桜場隼人さくらばはやとなどだった。見れば大地へ姿を揃えて平伏している。そして誠意を示して云うのだった。

「御門下のはしに加えていただきたい。──とおすがり申すからには、今日以後、悪行をめてまったき武士となるよう志すことを、三名、神に誓い申しての上でござる」

 甚助は、こいを許した。しかし、誓約にとどめて後日の再会を約し、なお行くと、また彼を追って来た者がある。岩村田の近郷に住む田宮平兵衛という郷士だった。

「願わくば拙者をお弟子としてれ給え」

 切実な願いなので、田宮だけは供にした。やがて京都へ着いた。そしてあらゆる苦心と手引を経て、松永久秀の幕下ばっかにいる父の讐敵しゅうてき坂上主膳と出会うことができた。

 主膳を斬った際も、信国のつばが、彼の手に鳴ったせつな、実にただ一刀しかついやされなかったということである。唯、遺憾ながらその場所や、当時の実状など、史録には明確を欠いている。

 居合いあいという言葉は、後世にできたび方であろう。彼の創始した抜刀法──後にとなえたところの林崎夢想流むそうりゅうとは、純正剣道の一流であって、本流の剣に、剣とは不可分な抜刀の神息をふきこんだものにほかならないのである。

 彼に随身した田宮平兵衛は、後に、

 ──つかに八寸の徳、みこしに三じゅうの利。

 という有名な居合の名標語を吐いた人で、抜刀田宮一流の別派を興し、当時の達人ともいわれて、林崎夢想流麾下きかの第一人者と目されるに至った。

 また、いばら組から脱した沼沢甚右衛門は、常陸ひたち真壁まかべに、葦沢あしざわ弥兵衛は武州牛久在うしくざいに、桜場隼人さくらばはやとは三州挙母ころも村に、それぞれ一道場を持って大いに道風を興したとある。

 なお、林崎甚助自身は、各地を遊歴して、自然、門流のひろまる一方、後年またさらに、鹿島神宮の武林ぶりんに入って、天真神道流の研鑽けんさんに身をゆだね、元亀何年かには、越後の上杉謙信の幕将、松田尾張守に随身して、戦場をも馳駆したらしいが、謙信の歿後ぼつごは、ようとして、その足蹟も定かでない。

 晩年は奈良に住んでいたという説もあるし、鹿島で終ったという説もある。五十何歳かで郷里林崎で病歿したともいわれている。いずれにしろ半生は確説もない。しかし、彼の林崎夢想流は、不滅の光茫こうぼうのこして行ったし、その誕生の森、林崎明神は今もそのまま現存している。

 夢想と流名にとなえても、彼の百日参籠さんろうには、何らの奇蹟的なはなしも伝えられなかった。けれど奇蹟のないところに、彼の真実な魂の神化があった。肉体を百日の精進に燃えきらして仆れるまでに至れば、ひとり林崎甚助重信しげのぶのたましいばかりか、誰の精神でも、どんな道に於ても、神の夢想をつかむことができよう。

「甚助。ようしやった」

 彼の母は、京都から一先ず帰郷した甚助を迎えて、初めて、心からほころんだ顔を子へも見せたろうと思われる。

「生涯の満足は今だ」

 母の一笑に、甚助もまた、そう思ったにちがいない。だが、若くして美しかった楡葉にれはは、亡夫の讐怨しゅうえんを子の討ちはらしてくれた報告を聞いてから幾年いくとせもなく、病の床について世を去った。

 甚助重信が、孤剣、白雲の人となって、郷土を離れたのは、そのためであると云われている。

底本:「剣の四君子・日本名婦伝」吉川英治文庫、講談社

   1977(昭和52)年41日第1刷発行

初出:「講談倶楽部 一月号」大日本雄弁会講談社

   1940(昭和15)年1

※初出時の表題は「日本剣人伝(一)林崎甚助」です。

入力:川山隆

校正:岡村和彦

2014年911日作成

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