夕顔の門
吉川英治
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『はてな。……閉めて寝た筈だが』
と、若党の楠平は、枕から首を擡げて、耳を澄ました。
──風が出て来たらしい。
海が近いので、庭木には潮風が騒めいている。確かに、寝しなに閉めたとばかり思っていた庭木戸の扉が、時折、ばたん──ばたん──と大きな音を立てている。
楠平は、手燭を灯けた。そして揺れる灯を庇いながら、庭へ出て行ったが、主人たちの住む南側の母屋を見て、眼を恟めた。
『あっ、お市様の部屋が開いている?』
口走りながら、楠平はそこへ寄ってみた。雨戸が二尺ほど開いているし、縁の内をそっと覗くと、暗くてよく分らぬが、何か取乱れている気配がする。
『──お嬢様、お嬢様』
ふた声ほど呼んでみた。
返辞はない。
楠平はすぐ、はっと或る予感の的中を思って、体が顫いた。
明日は、家中の人、曾我部兵庫へ嫁ぐというので、きょうも一日、曠れの荷物や、何かの支度に、忙しく暮れたこの部屋だった。
『旦那様っ、旦那様っ。──お嬢様のお部屋が開いておりますが。そして、お嬢様のお声もしませぬが』
雨戸の外から、主人の寝所をたたいて彼が告げると、
『なにっ、娘が居ないと?』
田丸惣七の夫婦は、刎ね起きたらしく、遽に家の内には、狼狽する気配が聞かれた。
娘のお市の行状に就ては、田丸惣七夫妻も、薄々は一抹の気懸りを抱いていたものとみえて、
『さては、格之進めに唆かされて、明日を前に、立ち退いたものとみえる。……不! 不埓者めが!』
と、狼狽の中に、惣七の怒りの声が洩れたと思うと、軈て、
『おまえが悪いっ。女親として、知らずにおる事があるものか』
と、彼女の母親を、恐しい声で叱りとばした。
──わっと、泣き伏す声がした。お市の母が悔い泣くのである。
その泣き声を、惣七は又叱りながら、
『ば、ばかめ! 泣いていて済む場合か。遺書を見い、上方へ行くとある。わし達が寝む迄は、何の気振も見えず、この部屋の灯影に姿が見えた彼奴だ。──差しずめ、一刻も早く、手配をするのが肝要じゃ。まず斎地どのへ報らせに行け。岡村へも、野坂へも。──早く、早く』
──まだそう遠く迄は走っていまい。
それに夜半は、浜から出る船はない筈だから、足どりも、山越えを指して行ったに違いない。
楠平は、自分の若党部屋へもどって、慌しく身支度をする間に、そう考えた。
『旦那様。ひと足先に、てまえが追いついて、お嬢様を抑えて置きますから、お後からすぐ』
出がけに、外から云うと、惣七は、窓から顔を見せて、
『楠平か、楠平か』
『はい。はい』
『よく気がついた。早く行ってくれ。──浜ではないぞ。道どりは山の方らしい』
『てまえも、そう考えます』
『わし等も、手配をして、すぐ後から行く程にな──』
楠平はもう外へ駈け出していた。主人のおろおろした声が耳に残って、いつまでも心が傷んだ。
中津の城下は、もう何処も寝しずまっていた。小笠原家八万石のお城にも、ポチと小さい灯が仰がれるだけだった。
道は、山国川の流れに添って行く。町から離れ、村から遠去かるに従って、登りにかかった。
宇佐まで六里。小倉まで十五里半。
峠の追分まで来て、ほっと楠平が汗を拭っていた時である。もう戸を閉てて人気もない筈の山茶屋の陰から、人影が二つ──寄り添って彼方へ行くのが見えた。
『あっ? ……やっぱり相手は格之進』
楠平は、覚られないように、身を屈めて追いかけた。
もう一人の方は、紛れもない主人の娘の──お市であった。
『お待ちなさいっ。──お嬢様、格之進様っ』
不意に馳け寄って、楠平は、男女の袂をつかまえた。
男女は吃驚して、彼の手を振払ったが、楠平は先へ廻って、道に立ち塞がった。
『何とした事です。お嬢様もお嬢様なら、格之進様も又、武士にあるまじき為され方。──さ、お帰りなさいませ』
『…………』
若い男女は、恟んだまま、楠平の甲だかい声に、顔いろを顫かせていた。
『今のうちにお帰りなされば、誰もまだ知らぬ事、お嬢様も傷がつかず、格之進様も御無事で済みましょうが。……おふたりの仲は、楠平も以前から、薄々はお察し申しておりましたが、お嬢様には、親御様のお口から、嫁に遣ろうと誓った歴乎とした良人のある身。──それを、明日は御婚礼という今夜、こんな事を遊ばしては、親御様のお立場は何うなりましょうぞ』
──すると、それまで黙っていた深見格之進は、
『これ楠平。若党の分際で、いらざる事に出洒張るな。もう御城下を出奔したからには、男女の恋は命がけ、ここは二人が、恋に勝つか死ぬかの峠だ』
『では、何うあっても』
『知れたこと!』
『……でも、お嬢様は、よもや御両親を苦境に捨てて、後は何うでもなれというお考えでは御座いますまい。口の巧い、容貌ちの美い男に限って軽薄なもの。──永い行末に、御後悔をなされますなよ』
『おのれ、今の言葉は、誰を指して? ──』
と、格之進は不意に刀を抜いて、楠平の横顔へ斬りつけた。
楠平は、わっと両手で顔を抑えながら五、六歩ほど蹌めいた。
そして一度は、腰をつきかけたが、血を浴びた刹那に、彼にも武士の性根が勃然と眼を醒まして、
『もうこの上は!』
と、刀を抜合せて、烈しく斬返して来た。
格之進は、彼の鋭い切っ先を、何度もかわしながら、彼の弱るのを待って、滅多斬りに刀で撲った。
お市は、自分の幼い時から、背にも負われ、手にも抱かれた召使なので、さすがに面を向けていられなかった。
『──もう、もう、止してください。格之進様っ。止して下さい。……あっ、誰か彼方から人が来ました。はやく此処を』
『えっ、追手が来た?』
彼女のことばに度を失って、格之進は血刀を提げたまま、お市の走るのに尾いて駈け出した。
だが、その翌々日、男女は、門司から赤間の関へ行く便船の中で、追手の者に、捕まってしまった。
然し、連れ戻されたのは、お市だけで、男の深見格之進は、島の多い海峡の瀬戸口で、追手の隙を見て海へ飛びこんでしまった。
勿論、この事は、田丸家の内輪の者だけで、極秘にされ、お市の婚礼は、急病という態で、延期された。
若党の楠平は、重傷だった。けれど生命だけは取止めたので、彼の義兄で、身分の低い同藩の侍──尾形周蔵を呼んで、懇篤に引き渡した。
その後、半年以上も過ぎて、お市の結婚は、極めて質素に執り行われた。──かねて正当な婚約のあった同藩の曾我部兵庫が、その日からの彼女の良人であった。
× ×
× ×
享保二年から八年までの歳月は、またたく流れた。
十九の年の過ちも、六年前の夢となって、お市は今なお水々しい二十五の御新造ぶり、良人の曾我部兵庫は、四十近い寡黙な侍であった。そして明けても暮れても、静かな海騒と、長閑な陽あたりの他、何事もない城下町では、この一家庭も、勿論、平和に見えた。ただ夫婦の仲に、子がないだけが淋しく思われる位なものであった。
七夕も近い──夏の或る日の黄昏れだった。
お市は、ぽつねんと、雑草に委されている庭に立って、夕方の星を仰いでいた。まだ、外も、窓も、仄明るかった。
『お市っ。──鷹はどうした?』
良人の書斎から、兵庫の声が、その姿へ、鋭く投げられた。
『…………』
星を見ていたお市の眼は、そこらの木を梢から梢へ移されたが、良人の方は見もしなかった。
『……居りません』
と、冷ややかに云ったのみで。
兵庫は、書き物に疲れた眼をあげて、筆架へあらく筆を擱いた。
彼の周りは、書物に埋っていた。
伸びるままに委せてある庭の雑草のように、彼の身のまわりも、独り者のように、散らかって、塵が積っていた。
『居ない? ……。それは当り前だ。そんな所に立った儘、庭木を見ていた所で、見える筈はない。外を歩いて探して来い』
『…………』
彼女は然し──その立っている所から動かなかった。
今し方、良人に代って、鷹小屋の中へ這入って鷹へ餌をやる時、過まって、鷹を逃がしてしまったのである。
鷹の糞だの、羽虫のにおいだのがして、その中へ這入ると、彼女はいつもむっとする。だから彼女は鷹が嫌いであり、鷹に不親切であった。
飼い馴れている鷹であるから、本来逃げる筈のものではないが、彼女の姿を見ると、鷹も怒るのであった。過失ちの因は、そこにあった。
それを良人の兵庫は、叱りはしなかったが、
(探して来い)
と、先刻から云っているのだった。
(馴れた者が、口笛をふくなり、手をあげて呼べば、鷹は拳に降りてくる。おまえも、鷹匠の妻ではないか)
とも云うのである。
だが──彼女はその命に従がえなかった。
星を見ていた……。
ここに居ない、遠くの人が思い出された。
そして現在の自分に、ほろほろと理由なく泣けて来る──
『まだ其処に居るかっ』
兵庫の声は、烈しくなった。
『もう年老いて、猟には使えぬ古鷹だが、年来、わしが餌飼いして来た鷹だ。それに人に馴れ過ぎているので、この家を離れれば、すぐ心ない童たちに捕まるか、猟師に撃ち殺されてしまうだろう。──余り暗くならぬうちに、早く見つけて来い』
『……御無理です』
『なに、なぜわしの吩咐けが無理か』
『女などに、鷹を捕まえて来いなどと仰っしゃっても』
『其方が逃がしたのではないか』
『逃がしたから、その咎を責めて、困らしてやろうというお考えですか』
『誰が、妻の困るのを見て嬉ぶものがあろうぞ。そなたも鷹匠の妻でないか、もう五、六年も朝夕わしのする事は見て手心も知っている筈。──今渡した鷹笛をふいて、彼方此方と、庭木の多い屋敷を歩いて居れば、きっと鷹が聞きつけて降りて来る』
『……そ、そんな、見ッともないことが』
『何が見ッともないのか』
『御自身で探していらっしゃれば、よいではございませぬか』
『十日以内には返上すると約束して、他家から拝借した「放鷹故実」を、こうして今、懸命に写しておるので手が離せぬ。……アア行燈もまだ灯いていないの。燈の用意はわしがするから、さがして来い、鷹を探して来い』
すぐ側にある行燈を引き寄せたが、掃除の届かない油皿にも塵が溜っていて、付木の火を移すと、バチバチと火花が刎ねた。
いつのまにか、お市の姿は、庭から消えていた。
鷹を探しに外へ出て行ったものとばかり思って、兵庫は又、机に屈みこんでいたが、ふと、彼女の部屋に物音がするので顔をあげてみると、お市が鏡台に向って、いつもの夕化粧をしている姿が、萩戸を透かして見えた。
『居るのかッ、未だ!』
こう呶鳴ると、彼は無意識に、机の上の物を掴んで、彼女の部屋へ抛りつけた。
それは、朱墨を卸ろす丸硯だった。萩の簀戸を突き破った硯は、箪笥にぶつかって、彼女の坐っている側に躍った。
『──今、行きかけている所です』
お市は、見向きもせず、櫛の手をうごかしていた。くわっとした兵庫も、彼女の声の底に、何日にない冷たさと落着きぶりを感じたので、黙って、見まもっていた。
──次に、お市は箪笥を開けていた。閉めたり開けたりする抽斗の環の音がだんだん荒っぽくなる。
着物を更え、帯を締め、そして何か手廻りの物を包み初めた様子に──兵庫は、
(又、始まったな)
と、覚って、舌打した。
『……お話がございますが』
と、彼女は、改まって、良人の前へ来て坐った。
『……なんだ』
『お暇をくださいまし』
『…………』
『貴方は、妻よりも、鷹の方が可愛いいお人なんですから』
『…………』
『この部屋も、鷹の書でいっぱい。家の中も鷹の抜毛や餌でいっぱい。何処を向いても鷹臭いほどです。──貴方がいちばん御機嫌のよい時は、餌をやりながら、鷹と独り言に話しをしている時でしょう。──鷹になさる程な優しい顔を、妻にはした事のない貴方です』
『わしは、藩の鷹匠だ、書物を見るも、鷹を飼うも、わしの天職──わしの御奉公。──当りまえな勤めではないか』
『ですから、わたくしは、此家を去って参ります。どうか、お暇を下さいまし』
『易い事だ。……おまえが来てからも、この家の行燈の灯皿には、いつも虫の死骸や塵が沈んだままだ。居ても居なくても、何の変りはない』
『よ、ようござんすね。……では』
『だが、待て』
『御未練ですか。武士のくせに』
『はははは。──イヤそう思って居てもよい。其女の出て行く出て行くもこれで何度か』
『はい、今日こそは、出て参ります。此の家へ嫁いで来てから、わたしはただの一日でも、倖せだった事はないのですから』
『仕方があるまい……』
『ど、どうしてですか』
『そうして、一日一日でも、親に為した不孝の罪を償うのが、せめて其女のとる道ではないか』
『…………』
お市は、ちょっと青ざめた唇を、きりっと噛んで、詰め寄りながら、
『それは一体……何の……何ういう意味ですか』
『自分の胸に問え』
『父の惣七も、私の母も、実家は無事に暮しています。何が、わたくしが不孝をして、親たちを』
『やかましい』
『いいえ、いいえ』
『だまれ。惣七殿が御無事なのは、わしたち夫婦が、何事もなく、いや何の風波も無いように、世間へ見せているからではないか。──あの好人物な惣七殿を初め──其女の一家が、わしの胸一つで、気の毒な事になると思えばこそ、わしは彼の時、何事もいわずに婚儀をしたのだ』
『そ、そんな、偽った気持──わたくしは嫌いです』
『何を云う。誰が、偽った気持など抱きたかろう。──だが、わしはお前の両親に、頼むと、手をつかれた事があった』
『知りません。父が貴方と婚約した事すら、わたしに黙ってしたのですから』
『いや、まあ聞け。武士として、頼むと、手をつかれる程、辛い事はない。其女はいつも口癖に、わしには愛がないように申すが、それは僻みというものだ。いちど自分の持った女──無智なら無智で不愍と思う──まして惣七殿が泣いて手をつかえた親心もある。きょう迄わしは、一度でも、其女を憎いとはしていない。飯櫃でも使い馴れる迄はクセのあるもの。わが妻と成しきる迄は、そのクセも抜こう、磨きもかけよう。──そう考えて努力して来たが、その大きな愛が其方にはまだ分らぬ』
『分りました。──そうです、わたくしなどは、どうせお飯櫃ぐらいにしか、貴方には考えられていないのですから』
『今に分る。もっと長く長く、わしと生活ているうちには』
『そんな辛抱はもう……。思うだけでも、身がふるえます』
『不幸が其女を誘惑するのだ。惣七殿の為にも、其女の為にも、わしという者は、大樹の陰ではないか。──逃げた鷹はぜひもないが、不幸になる人を見のがすわけには行かぬ』
『そんな事を云って、又わたくしの気を鈍らせ、真綿で首を縊るように、じりじりと、復讐なさるので御座いましょう』
『──復讐?』
『そうです! 貴方の優しいのは、芯から優しいのではない。針をかくした莿茨。なぜ胸にあることを、男らしく云って、打つとも蹴るともなさらないのです』
『……はははは、もう落着け、鷹も探しに行かいでもよい。よく落着いて、もういちど考え直せ』
『いいえ、嫌です、嫌です。何と云われても、もうもう私は……』
良人が冷静な眼ざしを澄ましている程、彼女の眼は、涙に吊り上った。そして物狂わしく、自分の居間へ駈け戻ると、包んでおいた身のまわりの物を抱えて、玄関から外へ出て行った。
前の日、一人の仲間は、諫早の家に急用が起って帰り、勝手元にいる老婆は、耳が遠いし、気がついても、何日もの事だと思っているらしい。
兵庫は又、机に向い直して、筆を執りかけた。
──すると、彼女の跫音が、門を踏み出したか、未だかと思われるのに、
『あれッ』
と、消魂しい叫びが一声、そとから聞えた。
『……?』
兵庫は、執りかけた筆を擱いて、耳を澄ましたが、ふと眉をひそめて起ち上った。
この界隈の屋敷はみな小さい。
従って、狭い小路が、幾筋も曲がっていたし、どの家も、簡素を超えて、貧しげな侍ばかり住んでいた。
今──ばたばたっと夕闇を蹌めくように駈けて来た旅の浪人者があった。物に衝き当った蝙蝠のように、お市が、門を出て来た出会い頭に、そこの土塀にぶつかって、ばたっと仆れたかと思うと、
『た、助けて下さい。──お縋り申す! ……何、何処へな、お匿い願いたい』
と、彼女の裾をつかんで叫んだ。
赤土の肌の崩れている土塀には、夕顔の蔓がいちめんに這って、白い花が無数に宵の微風に息づいていた。彼女の側にも、浪人の体にもその弱々しい蔓や白い花が、千断れて落ちた。
『あっ……?』
と、お市が身を退くと、若い浪人は、固くつかんでいる裾の手を、猶更かたく、
『お、お、お慈悲に──暫くの間、御門内に』
と、這って来る。
見ると、その若い浪人の背筋は、割いた魚の背みたいに真っ赤な肉がはじけていた。仄暗いので、血とも見えない液体が、黒々とそこから満身にながれて、手をついた跡にも、血しおの手型がべったり残っている。
──きゃっと、彼女が思わず悲鳴を揚げて、門の内へ逃げこんだのは、その時だった。ウーム、ウームと、外には、気息奄々な傷負の呻きが、不気味に昂くなっていた。
良人には、出て行くと云って、踏み出した閾だし、門の外には、その不気味なものが仆れているので、お市は、そこに立ち恟んでいた。
──と。手燭の明りが映して、
『何うした? ……』
と、兵庫の声が後でする。
さっきも今も、兵庫の声には、少しも変りは無かったが、お市は、未練に思われるのが口惜しかったので、
『ええ今……今行くところです』
と、云った。
兵庫は、薄く苦笑したが、門の外の呻き声に、
『やっ? ……誰じゃ』
と、傷負の影へ、手燭をかざした。
もう意識を失いかけて、昏倒していた傷負の若い浪人は、兵庫のことばと、手燭の明りに、又びくびくと全身の肉を痙攣わせて、
『武士のお情に! ……お、お匿い下さいませ』
と、絶叫する程な力で、微かな声をしぼりながら、兵庫の足もとを、血しおの手で拝んだ。
兵庫は、夕顔の花より血の気のない──その浪人の顔を見て、愕然としたが、
『斬合か』
と、一言、訊ねた。
『そ、そうです。相手は……相手は五、六人もの人数』
『ひとりか、おん身は』
『…………』
頷くと、其儘、がくりとしかけたので、兵庫は急いで手を伸ばした。そして、傷負の体を、引っ抱えるなり、庭の奥へ、駈けこんで行った。
お市は、その隙に、もう二度と兵庫とは顔を合せない覚悟で──ついと門の外へ踏み出しかけたが、途端に、ばらばらと駈けて来た跫音と共に、
『あっ、この家だっ』
『血しおがこぼれている!』
と、口々に喚いて、門の前に立ち塞がった侍たちの白刃を見て、今度は、より以上、恟ッと竦んでしまった。
『──それっ』
と、五人の中のひとりが云った。その男の白刃には、ありありと血しおが塗れていた。
他の者も、総て抜刀を引っ提げているのだ。どの顔も皆、眦をつりあげ、革襷をかけ、股立を括って、尋常な血相ではなかった。
その儘、彼等はどやどやと、門の中へ押し込んで来ようとした。すると、飛鳥のように、庭の奥から引っ返して来た兵庫が、
『待てっ、何処へ行くか』
と、門の口いっぱいに、両手を拡げて、立ち塞がった。
『やっ?』──と、その姿に初めて、
『ここは、曾我部どののお住居だったか』
と、気着いたように、一同は、土塀の夕顔を見まわした。
『されば親代々、お扶持を賜わって、ここに住居しておる曾我部兵庫。小さくとも、貧しくとも、侍の家は一城廓です。誰のゆるしを受けてこの門内へ、踏み込もうと召されるか』
『ただ今、この内へ、傷負の浪人が逃げ込んだ筈──討たでは措かれぬ憎ッくい曲者、お渡しください』
頬に古い大傷のある男が喚くと、それに続いて、他の侍たちも、
『年来尾け狙っていたところ、漸く、時節が参って、この中津の御城下へ立ち入ったことを知り、唯今、笠懸け松の辻で見つけ、一太刀浴びせて、取り逃がした者でござる』
『どうか、その曲者を、突き出していただきたい』
『吾々の手に、お渡しください』
『それがお手数とあれば、われわれが勝手に引っ捕えます故、暫時、お住居の中を捜す事、御用捨にあずかりたい』
と、口々に云う声も、殺気立っていた。
兵庫は、依然として、手を拡げた儘、
『いや。その儀は成らぬ。お断りする』
と、云った。
断乎とした言葉でそう答えた。
兵庫の一蹴に会うと、さなきだに気負い立っている五名は、
『なに! なぜ成らぬか』
と、詰め寄った。
『何とあろうが、いちど侍の廂の下に、助けてやると、抱え入れたからには、それを渡しては、武士の信義に外れる』
『異なことを申される。あの曲者と、抑、何の縁故があって、そのような庇い立てを召さるか』
『縁も、由縁もない路傍の人間なればこそ、猶更のこと。各〻の手に、委ねるわけにはゆかぬ』
『分らぬ!』
と、頬に大傷のある男は、味方の者たちを顧みて、絶叫した。
『この曾我部兵庫どのが──あんな事を仰せられる。わし等と共に、あの曲者を、一太刀恨んでもいい人なのに!』
『きっと、われわれが何者か、この門内へ逃げた浪人が誰か、まだ何も御存知ないのだろう。格之進も変っているし、おぬしの顔も、その大傷で変っているからな』
『そうだ。名乗れ名乗れ。──そして、仔細をよく話してみろ』
顔に大傷のある男を中心に、五名の侍は、がやがや云っていたが、軈て、
『あいや兵庫どの。これにおる男は、顔の大傷のため、お見違いなされたか知らぬが、以前、田丸様に若党奉公しておった楠平と申すもの。それがしは叔父の太左衛門でござる』
『てまえは、楠平の義兄の尾形周平というもの』
『拙者は、従兄弟の中根倉八』
『友人の沢井又兵衛』
と、順に名乗りかけてから、
『逃げ込んだ卑怯者は、六年前、御当所を逐電した深見格之進でござりますぞ。楠平にとっては、云わずと知れた年来の怨み重なる奴なれど、旧主の田丸家に取っても、又、其許にとっては猶のこと、捨ておかれぬ畜生ではござりませぬか。──それを匿う尊公の量見が分らぬ。いざ、お渡しください』
と、前にも増して強硬だった。
云われる迄もなく、兵庫は疾くから知っていたので、その間も、何の表情もうごかさない。──そしてただ一言、
『いや、成らぬ。何と云われようが、武士の然諾、傷負を渡すことは断じて相ならぬ』
と、同じ言葉を、重ねただけであった。
楠平の義兄、尾形周平は、さっきから眼を燃やして、兵庫の顔を睨めつけていたが、
『もう、こんな分らぬ人間に、物を云うな。云うだけ無駄だっ』
と、罵って、
『駈け落ち者の片方を、女房に持って、何ともせぬ神経へ、われわれの武士道を、云って聞かせても始まるまい。──この上は、刀にかけても、渡さぬというのか否か。それだけ聞こう』
と、身を開いて、ぱっと刃を構えながら云い放った。
周平が、そうしたので、他の者も、さっと身構えを変えた。当然、相手がふいに、抜打ちに来るものと計ってである。
だが兵庫は、眉も動かしてはいない。ただ微かに苦笑を唇元にながして、
『元より、刀にかけても!』
と云った。
『──う、うぬッ』
周平が振り込んだ一薙ぎは、斜めに、門の柱へ斬りこんでいた。──途端に、中へ隠れた兵庫の影の代りに、門の扉が、風を孕んで、どんと閉まった。
『叔父御、背を貸せ』
と、周平は、太左衛門の背に足をかけて、直ぐ塀の内へ躍り込もうとした。
『まあ待て、まあ待て』
太左衛門は、背をかわして、彼やその他を、抱き止めながら、
『理不尽に乗り越えては、兵庫めが云う通り、此方の落度になり、彼奴には思うつぼに篏るわい。忌々しいが胸を撫でて──。な、これ……此処は胸を撫でて』
と、何か囁いた。
四名は、地だんだを踏みながら、門を睨めつけて、
『──かッ』
と、唾を吐きかけ、そして、何処ともなく立ち去った。
楠平やその友達や、尾形一家の者が立ち去って行くらしい跫音に、曾我部兵庫は、ほっとして、家の中へ這入りかけたが、ふと、暗い大地を振向いて、
『お市』
と、呼んだ。
お市は、そこに居るか居ないか分らないように門の脇に、身を沈めたまま、平たく俯っ伏している。
『──冷えるぞ』
それも常の声だった。
『…………』
突然、お市は、嗚咽しはじめた。肩は波を打って、泣きじゃくった。
『──泣いている間に、傷負はことぎれるぞ。はやく鷹小屋へ行って手当をしてやれ』
云い捨てて、兵庫は家の中へかくれ、又、机の前に、黙然と坐った。
──坐ったが、然し彼もさすがに、筆は持てなかった。
地の下に、蚯蚓が泣きぬいて、星の美しい夜となった。夜となれば暑い夏も、ずっと冷々して、人間の心からも、焦々したものを拭ってゆく。
『……うううむ。……ううム……』
庭の隅の鷹小屋から、時折、苦しげな太い呻きがながれてくる。それは、お市と兵庫の、六年間の苦しみを、一時に踠がき苦んでいるような呻きだった。
お市の耳へも、それは聞えてゆくに違いない。捨てて置けば、出血は止まるまいし、刻一刻と、生命が縮められてゆくことも知れきった事である。
そのうちに──がたんと、裏の方で、物音がした。
兵庫は、すぐ窓を開けて、
『誰だっ』
と、咎めた。
『あ……吃驚いたしました。仲間の由松でございます。諫早の病人が快くなったので、唯今戻って参りました』
『オ……由松か』
『御用を欠いて、相すみませんでした』
『いい所へ戻ってくれた。早速だが、金創薬の有合せがあるか』
『ございます』
『それと、片口注へ焼酎をなみなみ注いで、晒布と一緒に、鷹小屋の前へ持って行ってやれ。──外へ置いてくればいいのだぞ、中へは這入るなよ』
『へい』
由松は、不審な顔をしながら、とにかく吩咐けられた品を揃えて、裏庭の奥へ運んで行った。
そこに一棟の鷹小屋がある。
這入るなとは主人に云われたが、戸が開いているし、何やら、人の気配がするので、由松は暗い中を覗いてみた。
白い顔が、傷負の側から振向いて、あっと、軽い声を洩らした。
由松も吃驚して、
『ヤ。御新造さまでは御座いませんか』
と、さけんだ。
お市は、手を振って、
『叱っ……静かにしておくれ』
『そこに、誰方か、怪我人が居らっしゃるのでございますか』
『わたしの襦袢を裂いて今、手当てしているところです』
『晒布も、金創薬も、焼酎もここへ持って参りましたが』
『え? 何うして』
『旦那様のおいいつけで……』
『……あ。……そう』
凝と、首をたれて、お市は俯向きこんでいたが、もう女の特有な度胸がすっかりすわったように、言葉のふるえも消えて、
『ここへ持って来ておくれ』
『へ、へい……。けれど、旦那様が、中へは這入るなと仰っしゃいましたが』
『かまいません』
『では──』
『それから、夜半になったら、済まないけれど、駕を二挺、そっと裏口の木戸へ呼んで来ておくれでないか』
『畏まりました』
『竹筒に水を入れて、駕へ括っておいておくれ。それから中に、油単や小蒲団をかさねておくようにね』
『では、その怪我人のお方を』
『別府の温泉まで、療治にお連れするんです』
『旦那さまのお耳へは』
『何もかも御存じなのだから、云うには及びません。──もうすぐにお寝みになるだろうし』
『……ほんに』と、由松は庭木を透かして、
『いつのまにか、お部屋の明りが消えております』
『じゃあ、今のうちに、はやく駕を頼んでおいておくれ。間際になって、無いと困りますから』
由松は、何処かへ、出て行った。
もう九刻(十二時)過ぎ──
海騒もない、静かな夜半だった。
沖の水平線だけが、月光色の帯のように、ぎらぎら明るかった。
『御新造さま。……参りました』
『駕?』
『へい』
『旦那さまは』
『あれなり、ずっと、お寝みのようでございますが』
『……じゃあ、ちょっと、手をかしておくれ。……そっと、そっと抱いて上げないと』
『かなり深傷の御様子でございますな』
『でも、すっかり洗って晒布巻をしましたから、だいぶお顔が快くなって来ました』
由松は、何気なく、傷負を抱き起して、自分の肩に負いかけたが、ふとその浪人の顔を見て──
『あっ、この男は』
と、思わず口走った。
お市は、顔を反向けながら、
『お前も、この人の顔を、見知っているのかえ』
『知……知らねえで、何としましょう。……御新造さま! お、おまえ様というお方はなあ……』
『もう、何も云っておくれでない』
『──云いますめえ、追つかねえことだ』
由松は、肱を曲げて、顔の涙をこすりながら、傷負を肩に、とぼとぼと歩きだした。
『……ア、由松や。表門ではなるまい。駕は裏の木戸へ来ているのでしょう』
『うんにゃ』──と由松は首を振って、
『宵から、裏の浜辺に、不審しな人影が、張番みてえに立っているので、わざと、表へ廻しておきましただが』
『えっ、外に誰か、立っているって?』
『仕方がござりますめえ。この塀の中にいれば、誰にも、指一つ触らせる旦那様ではねえのに……おまえ様が好んで出て行かっしゃる地獄の道だに』
『……いいよ! ……もうわたしは、覚悟をしているのだから』
門の前には、駕が二つ、忍びやかに待っていた。それも由松の気くばりとみえて、提燈には、黒い布が巻いてあった。
傷負は、そっと、一挺の内へ寝かされた。由松は、鼻をすすって、地を見つめていたが、
『さ、御新造も、はやく……』
と、人目を惧れて促がした。
『ありがとうよ──』
彼女は、奉公人へ対しても、初めて、心からそんな礼を云った。そして、
『もういいから、中へ這入っておくれ』
と、云った。
由松が中へ姿をかくして、門の扉を閉めても、彼女はまだ、六年住んだ家の屋根や廂や樹を見まわしていた。そして、駕屋の眼にも触れないように、門の土塀に這っている夕顔の蔓を、そっと千断って、袂へ入れた。
『駕屋さん──やってください。一挺は病人ですから、揺れないように』
駕は、傷負を劬りながら──でも軽い弾みをつけながら──駈け出した。
お市は、駕の中から、もういちど、草だらけなわが家の門を振り向いた。
中津の城下から南へ向って、道が町屋から離れると間もなく、嫌でも応でも、浜辺の並木へかかるしかなかった。
『待てーッ』
いきなり横合の樹陰から跳び出した人影がある。しゃ嗄れ声ですぐ老人であることは分ったが、手には、槍を引っ提げ、袴を高く括し上げて、まるで夜叉のような権まくだった。
『お市! これへ出ろっ。他人手を待つまでもない、肉親の父惣七が成敗してやる。──出ろっ、出ろっ。その後で、不義者の相手も刺止を刺してくるるから』
惣七の後ろには、宵の五名も、その儘のすがたで、ずらりと立ち並んでいた。
もう霜になった鬂の毛を顫わせて、惣七は、
『ようも家名を汚し、良人の顔に泥をぬりおったの。──うぬ、出てうせねば!』
槍を繰り引いて、垂れ籠めている駕の内へ、ずばっと突き入れようとした時、並木の陰から、閃っと迅い人影が、彼の側へ跳んで槍の手元をつかんだ。
『御老台。あなた迄が、何をなさる』
『あっ──お身は兵庫どの』
『あなたに、こんな事をさせる程なら、拙者も永い忍苦はしませぬ。こうした事の生れる初めに、あなたも父として何も落度はなかったか、拙者も良人として足らぬ所はなかったか。それも考えてみなければなりますまい』
『ない、わしに落度はない。町人なら知らぬ事、武士の娘に──又武士の間に、そんな斟酌はないことじゃ』
『武士。──仰せられたその武士へ、では何で、お市を嫁がせる前にあなたは、頼む! と拙者に手をついたか』
『……む?』
『武士には、一諾を重んじるという事がござりますぞ。事情を打明けて、この娘、頼むと仰せられたあの涙を、なぜ今お持ちなさらぬのか。よろしいお娶い申そうと、その時云った然諾を、拙者はまだ、胸から捨ててはおりませぬ』
『…………』
『いや一諾の、信義のと、肩肱張った理窟ばかりではない。瑕のある玉も、身に帯び馴れれば捨て難る。ましてや何れに動くもただ感情に動く女、無智なれば無智なほど不愍にも存じて──今日までは何とかして、あなたに与えた然諾を、裏切るまいと努めて来たのに』
『もう、仰せられな。──勿体ない、勿体ない。そう云われては、この惣七、何う詫びてよいやら、途方にくれる』
『お詫びは、今も申した通り、兵庫からせねばなりませぬ。折角の一諾も、お引き請け効いもなくて』
『な、なんの。──お身から詫び言など』
『この上は、お慈悲です。二人の然諾も、恨みも解いて、この駕を、行きたい道へやって下さい。──それが縁あって一時良人と侍かれたそれがしが、お市への唯一つの餞別』
『いや、わしの一量見にはゆかぬ。あれに居らるる五人の衆の心も訊かねば』
惣七は、親心に、もう槍の向け場を失っていた。
兵庫は慇懃に、五名の影に向って、
『この通りお願いしまする』
と、云った。
そして又、
『その中に、楠平どのは居るか』
と、訊ねた。
『はい、これに居りまする』
と、楠平は一足前へ出て云った。
『おぬしが受けただけの傷は、いやもっと心にまで深く、格之進に与えたではないか。その上、刺止まで刺すのは武士の情ではない。──のみならず、それでは、旧主の惣七どのを、是が非でも、わが娘を成敗せねばならぬ破目に立たせてしまう』
『……分りました。貴方のお言葉で、小さい意地や男の体面のほかに真の武士道とは、大きな而も優しい愛のあるものだと分りました。──もう何事もわすれます。どうぞその駕、お通しくださいませ』
『かたじけない』
兵庫は、それを惣七に伝えるつもりで、駕のそばへ戻って来たが、ふと見ると、お市の乗っている底から、血しおのながれが、無数に地を走っていた。
『しまった!』
兵庫は、駈け寄るなり、駕のたれを刎ね上げたが、もう間にあわなかった。吾儘で、容易に意志を曲げない女だけに──自ら喉を突いた短い刃も、襟へ抜けるほど深く貫いていた。
そして膝には、夕顔の蔓に、まだ萎れていない二、三輪の白い花が乗っていた。
『……兵庫どの。娘はやはり武士の娘に違いはなかったのじゃ。わしが悪かったかも知れぬ。いや悪かった、悪かった。……ゆるして下され』
大地へ手をつかえた惣七は、怺える嗚咽を、脆くも老の肩骨にふるわせて、いつ迄、顔を上げ得なかった。
『──それ』
と、眼くばせ交すと、楠平を初め五名の者は、すぐもう一つの駕を取巻いて、中を覗いたが、その格之進は自刃もしていなかった。
──すでに、ここ迄来る途中で、彼の生命は終っていたからである。
底本:「吉川英治全集・43 新・水滸傳(二)」講談社
1967(昭和42)年6月20日第1刷発行
初出:「婦人倶楽部 臨時増刊」大日本雄弁会講談社
1938(昭和13)年6月
入力:川山隆
校正:門田裕志
2014年2月14日作成
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