牢獄の花嫁
吉川英治
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あの座敷に寝ころんで見たら、房総の海も江戸の町も、一望であろうと思われる高輪の鶉坂に、久しくかかっていた疑問の建築が、やっと、この秋になって、九分九厘まで竣工た。
お茶屋でもなし、寺でもなし、下屋敷という造りでもない。一体、どんな大家族が住むのであろうと、下町では、話題になっていたが、さていよいよ、引っ越しの当日、ここへ移って来たものは、痩躯鶴にも似たる老人が、たッた一人。
尤も、召使いは、四、五人ほど来たらしいけれど、荷物と言っては、古びた書箱と机と、いと貧しい世帯道具が一車、ガタクラと、その宏壮なる新屋敷へはいったのみである。
孤独な、老い先のない身で、こんな大きな建築をやって、彼は一体、何が満足なのだろう。単なる、普請狂とも思われない。
彼は毎日、家のまわりを、ひとりで逍遥して、独りでニヤニヤしていた。そういう時の彼の笑い顔は、実に柔和で、明るいかがやきが溢れている。人の性格や境遇が、その時々に依って、ありのままに人相にあらわれるものならば、彼は現在、よほど幸福であるにちがいなかった。
「おう! これや初客じゃ! 富武五百之進殿が、初客にござったとはかたじけない。──なに、花世さんもご一緒か、これはいよいようれしい」
「これ花世、何が恥しい、こちらへ参って、ご挨拶を申さぬか。──どうも、いつまでも、子供で困る」
「なに、子供どころか、貴公よりは、背丈が高い。それに、しばらく見うけぬうちに、たいそう美人になったのう、あはははは。……何せい、よく訪ねてくれた。──ま、早速だが、見てくれい、わしの建てたこの家を」
人恋しいのであろう、意外な訪問者を迎えて、老人のよろこびかたは非常なものであった。
「……ほう、部屋数が二十七もあっては、たいへんだな。どうじゃ花世、広いものではないか、ウム……眺望もすばらしい」
富武五百之進とは、誰も知る、番町の旗本、四十四、五の年配で、見るからに、几帳面そうな人物。
いわゆる、御番衆というと、いったいに、風儀の悪い方だが、江戸城でも、書院詰のものだけは、悪風に染まず、品行が正しいといわれている。
わけても、五百之進などは、その代表的な人物で、学才もあり、思想も健全で、私行上にも役目にも、かつて曲がったことがない。剛直、竹の節のような性格だった。
──に、ひきかえて、娘の花世は、女性的な上にも女性的な、嫋やかな、可憐な、松の根に咲いた山桔梗にもたとえたいほどに──潔く、ういういしい。
いい父娘だ。
誰も、この父と、この娘の、正しさ、優しさが、上品な愛を醸しているのをながめて、褒めぬものはない。
鶉坂の老人は、五百之進とは、刎頸の交際があった。そして、わが子郁次郎の許嫁である花世を、ほんとの子みたいに可愛がッていた。
一巡すると、老人はまた、わら草履をはいて、
「さ、こんどは、わしの住居を見てくれい」
と、二人を伴って、外へ出た。
やはりこの大きな建物は、老人の塒ではないらしい。彼は、先に立って、崖庭を歩き出した。しばらく行くと、同じ向きの崖に、これはまた、ばかに小さな一つのお堂が立っていた。
「愛縄堂」
三井親和の贈った隷書の木額が、かかっている。
「……愛縄堂」
五百之進は、つぶやきながら、中をのぞいた。
堂の内部は、畳二十枚ほど敷ける。炉と、机と、書箱のほか、何もないが、奥の方に、小さな棚が幾だんもあって、それに、さまざまな姿態をした木彫人形が、五百羅漢のように並んでいる。
僧形の雲水、結綿の娘、﨟たけたる貴女、魔に似たる兇漢、遊女、博徒、不具者、覆面の武士、腕のない浪人、刺青のある百姓、虚無僧、乞食、鮓箱をかついだ男、等、等、等──一つ一つ見てゆくとあらゆる階級の諸相諸悪のすがたをもった人間が、呼べば、答えそうに、うす暗い壁へ、無数の影を重ねている。
「ウーム、おびただしい数だな」
「三十年のお役目は、ふり顧れば、一瞬の間、自分でも、こんなに多かろうとは思わなかった」
「……怖ろしい! 拙者はこれを見ていると、世の中が、怖くなる」
と、五百之進は、潔癖な眉をして、気味悪そうに、顔をそむけた。
そこへ、下男の姿が見えた。一通の飛脚をもって、
「──老先生、長崎から、お手紙でござります」
「さあ、郁次郎から参ったか」
と、老人は、また一つのよろこびを受取って、ほとんど、その手紙へ涎を垂らさんばかりにホクホクしながら、
「ちょうどよい折。五百之進殿、郁次郎からの便りでござる」
「どれ、どれ」
と、五百之進も、顔を寄せて行ったが、花世は、桜貝のように耳を紅くして、父と老人が、低声で読む手紙の内容を、うっとりと、鼓動の胸へうけ容れていた。
「いつ着くな、郁次郎殿は」
「この手紙では、九月の末──十月には相違なく帰るじゃろう。帰府の上は、早速にも、婚儀を挙げたいと思うているが、そちらのご都合は」
「師走ではいかがかと考えておる。──十二月、そして、新春を迎える」
「なるほど。郁次郎めも、こう早く帰府いたすというのは、一日千秋の思いで、一刻もはやく、花世さんの顔が見たいのじゃろう」
聞かない振りをして、空を見ていた花世は、火のようになって、父のうしろに隠れた。
「はははは。恥しいことはない。郁次郎が帰れば、あの屋敷は、二人のもの。わしはこの草堂の主になって、仲のよい若夫婦を眺めて暮す。……それが唯一の希望じゃ。オオ、そういえば五百之進殿、お願いしておいた公辺へのお届けは」
「そのことなら心配はない。御老中方も、趣旨を聞かれて、さすがは塙老人、殊勝であると、すぐにご聴許になった」
「それで安心いたした。公儀のお許しがすめば、もう世間へ知れてもよい」
「では、いずれ近日に、改めて、結納を持って出直して参る」
「左様か、では、婚儀の日どりは、その時のご相談としようか」
五百之進は、花世を連れて帰った。
老人はふたりを送り出してから、大工に大きな欅の板を削らせ、それへ太筆に墨をふくませて、「塙蘭医養生所」と書いて、
「きょうは欣ばしい日だったせいか、ばかに、文字も気持ちがよく書けた」
と、愛縄堂の中に立てかけて、墨を乾かしておいた。
これで分った。鶉坂の大きな建物は、病人を容れる養生所になるのだ。幕府の施薬院としては、小石川養生所と青山に一個所あるが、それは、両方とも漢方医の病院。老人は、ここで本朝最初の蘭医の施療所をやろうという思い立ちらしい。
では、彼は医者かというに、否、否、否、たいへんな職業ちがいだ。
この老人こそ、享和、文化、文政の三時代にわたって、十手捕縄をとって三十年、目明し小頭の下役から、同心、与力と出世して、歴代の江戸町奉行をたすけ、その非凡な大眼識と巨腕は、近代稀れな鬼才と称された名探偵──塙隼人であった。
が、数年前に、その道を隠退してからは、好きな木彫や読書に耽り、号を江漢漁史といって、外へ出るのも、書画会ぐらいなもの。
あの柔和な相、明るい笑い顔、その何処にも、彼がそんな鋭利な眼と才と腕とをもって、社会のあらゆる悪と戦って来た人とは見えない。
四、五日すると、富武五百之進が、正式に結納を持って来た。
婚儀は、十二月ときまる。
江漢老人と五百之進とは、心と心をゆるし合った莫逆の友。その子と娘とは、おさない頃から親の目にもわかっていた初恋の仲──。何も改めて、仲人も要るまい──で、事は至って簡略にすすんで、もう郁次郎の帰りを待つばかり。
「きょうで、五日経った、もう長崎をだいぶ離れた頃だろう」
老人は、指ばかり繰っている。
「彼も、出島の蘭医館へ遊学にやってから、まる五年、二十七歳になる。手紙を見ても、学業はすすんだようだ。──わしは生涯、十手捕縄をつかんで、悪党とはいえ、数百名の人間を獄門へ送って来たから、伜には、世人を救う仕事をさせたいと考えて、医学を習ばせ、自分が多年のあいだの蓄積と、諸家から礼に贈られた金とをあわせて、貧者や、出牢しても寄るべのない病人などを救う施療所を建て、それを新しい若夫婦にまかせて、わしは愛縄堂で、余生を自適するつもり……。ああ、はやくそうなりたいものだ。そうなれば、初めて自分は、生涯の重荷が下りた気がするだろう」
彼は、希望にみたされていた。
と、そのうちに──「江漢老先生が、ご子息が長崎の遊学を終えて帰ると共に、貧者のために、蘭医養生所をひらくそうだ」と、その噂が、ぱっとひろがった。
何しろ、あらゆる方面に顔はひろい。隠退してから七、八年になるが、いまだに町奉行所でも、何か重大な難事件に行き悩むと、老先生を訪ねて、探索の方針について教えを乞うのが常だった。それが、神眼で指すようにいつもキッパリと謎の核心をつかむ。──それくらいであるから塙江漢の名声は、まだ少しも落ちてはいない。
毎日、鶉坂へは、たいへんな贈り物が来る。
江漢老人は、大迷惑な顔で、
「わしは、今日まで、殺生をした罪ほろぼしに、これからは、伜と共に、人だすけをやるつもりじゃ。それを、人様迷惑になっては、大いに困る」
と、怒らんばかりに断ったが、次々にやって来ては、怒りきれない。たちまち、養生所の家具一切から、庭、門、垣根まで、寄附で出来てしまった。
「あの、愛縄堂とは、どういうわけですか」
と、来る客は皆、必ず、その木額の意味と、奥の変な木彫人形の由来をたずねた。
老人は、きまって、こう話した。
「──十手捕縄をもつ人間は、鬼のごとく無慈悲なものと思われているが、人間皆悪、人間皆善、情涙には誰も変りはない」
「成程、そういうものでしょうか」
「で──わしは、ひとりの罪人を獄門へ送ると、必ず、一つの木像を彫って、朝と夕に、供養しておった。──それが三十年のあいだなので、いつのまにやら、あんな数になったんじゃ」
世間は、奇を好む。
この話が伝わると、誰が発起ともなく、養生所の新築披露目をかねて、一つ、希有な大与力の隠退を記念する捕縄供養をやろうではないか──イヤ、やらせようではないか、と他から騒ぎだした。
席は、愛縄堂で、あの悪像を回向し、その後で酒もよし、三味もよし、席画もよし。
老人に指導をうけた八丁堀の若手や、難事件に墜ちて手にかかった人々などが、相談をまとめてから、この話を、鶉坂へ持ちこんだ。
「なんじゃ、捕縄供養とは?」
「前例のないことですが、老先生のようなお方も、前後に珍しいことですから」
「で、どんな事をするというのか」
「こちらの愛縄堂を拝借して、名月の夜は、心ある者が集り、あの老先生の手彫りの悪霊どもを供養しまして、序ながら、ご隠退を惜しみたいと存じますので」
「でも、わしはもう、とうにお役退きをしておるンじゃ」
「けれど、世間では、こんどのご普請で、初めて老先生のお覚悟をはっきりと知ったのですから、古いお馴染がいに、一夕ぐらい、ゆるゆると、お膝を合わせて語りたいと熱望しております」
「そうか。……じゃ皆のよいように、やって貰おう」
拒みかねて、老人も遂に、任した。
やがて、案内状は、知人の間へ配られる。そして間もなく、捕縄供養のその日が来た。
仲秋の名月──八月十五夜。
実にいい月であった。盛会であった。
しかし、この晩! ああこの晩!
彼が、塙隼人の若い時代から、多年の間、十手にかけ、捕縄にかけて、獄門台へ罪人を送るごとに、一体、二体と刻んで来た無数の手彫の悪像どもが、こぞって祟りを初めたのだろうか、これから愛の余生にはいろうとする老先生をして、三十年の体験にもなかった苦闘の熱地に立たせ、塙家の幸福を、暴風的に覆えした大悪魔は、この夜、皎々と冴えた名月の巷に、初めて、ひょいと顔を出したのであった。
「いい十五夜だなあ、昼のようだ」
「オイオイ波越」
「なんだ、加山」
「月にばかり見惚れていないで、少し急ごうじゃないか。公用で少し遅刻したが、吾々は、今夜の世話人の中にはいっているんだ」
「そうだ、こん夜の捕縄供養は、老先生が生涯に一度の思い出だ。おれも貴様も、老先生には、訓育のご恩をうけている師弟のあいだ。それが遅く参っては、参会者も不都合な奴と怒っておるかも知れん。早く参ろう」
南町奉行所の同心、波越八弥と、加山耀蔵の二人だった。どっちも元気がいい、鋭敏な眼ざしをもち、若手として、働きざかりである。
土橋を渡ってから、ふたりの影は足早になった。大股を争うように急いだ。四ツ辻へ来ると、その町口から、左の方に月の海が光って見えた。
やがて、その息で、増上寺の山内へはいった。
ひろい御成道は、白と黒の寂地だった。白は月、黒は巨木の影、その中を急いでゆくと、顔にも肩にも、袴にも、ちらちらと、海月のような光線がたかって、後ろへ飛んで行く。
「しッ……耀蔵」
釘を踏んづけたように、ぎくと足をとめて、
「待てよ、ちょッと」
「どうした?」
「あれに、妙な奴が佇んでいる。……今、ホウ、ホウ、と口笛を吹いた」
「いや、そう聞えたのは、梟だろう」
「そうか、しかし、怪しい風態じゃないか。……オヤこっちへ来た」
蟋蟀のように、カサリと、草の中にかがみ込んで見ていると、静かに、雪駄を摺る足音が近づいて来る。
夜目にも色の白い侍だ。が、惜しいことに、その白さは目と鼻のあいだがちらりと見えるだけで、眉深に頭巾に隠されている。服装も黒ずくめで、刀の鐺が羽織の裾を蝙蝠のつばさのようにぴんとさせていた。
静かに──チャラリ、チャラリ、と眼の前を通り過ぎて行く。
「なんのこった、山猫をひやかして帰る御家人か、どこぞの次男坊じゃないか」
二人は、草の中で、黙笑を見合ったが、すぐに飛び出すわけにも行かないので、跫音をやりすごしていると、また一つ、御霊廟のうしろの方から黒い人影が来るのを見た。
月の斑が、チラチラと視覚を紛らわして、はっきりと判らないが、脚絆手甲をかけている百姓態の大男だった。背中に、何やら重そうな物を背負いこみ、手には、杖みたいなものをついて、ずんぐりした体を屈み加減にして、歩いて来る。
「や、あいつ、御霊廟のうしろから出て来たぞ」
「あの裏は、往来でない筈だが」
「鎧櫃を背負っているじゃないか」
「ウム……おやっ? ……こいつあ、臭い」
二人の六感は、何ということもなく一致した。近づくのを待って、ばらッと、露を蹴って躍り出すが早いか、左右から打つかるように駈け寄って、
「待てッ」
「何処へ参る!」
と、右の腕、左の腕、両方からグイと捻じ上げた。
「? ……」
男は、呆っ気にとられた顔をして、目や、鼻や、口を、異様に動かしたが、うんともすんとも言わなかった。
そして肩越しに、団栗のような大きな白眼を、ギョロリと後ろへ送っているので、波越八弥が、はッとその視線を辿ると、先へ行った黒ずくめの服装をした侍が、足をとめてぎょッとしたようにこっちを振り顧っていた。
「おッ──あいつの連れだ!」
八弥が、そう気がついて、駈け出そうとした途端に、侍の影は、唐門道の真っ白な月下を、夜烏のように、躍りながら、右の手をひるがえして、何か投げた。
「わっ」
くらくらとして、八弥は、思わず自分のこめかみを抑えたまま、よろめいた。──風を切って来た小石は、彼の頭から刎ね返って、地上へ小さい音を転がせた。
すると、同時に、鎧櫃を背負ったまま利き腕を捻じ上げられている百姓男は、耀蔵の手を振り放ッて、猛然と、杖みたいな棒を、横に構えた。
「耀蔵、油断するな! そいつは、三本錐だぞ」
八弥は、こう呶鳴って、注意せざるを得なかった。杖の先には、鋭い三つ股の錐がついている。それを横に構えて、ぶんと投げるか、突ッかかって来るつもりか、男の眼は、殺気に燃えあがっているのだった。
「生意気な!」
と、加山耀蔵は、八弥の注意を聞きながしながら、敢然と、男の手もとへ飛びこんだ。
──男は、野獣のように、体を屈曲して、三本錐を自由自在に使い出した。それは、棒にもなり、槍にもなり、どうかすると、手を離れて飛んで来そうにもなる。
こんな奴に、十手を翳すのは大人げない、というような気もしたが、耀蔵は遂に、武器を持たずにはいられなくなった。無論、八弥も側面から力をあわせて、息もつかせずに、挑みかかったが、男は容易に屈伏しない。
いや、かえって二人の方が、しばしば、三本錐に見舞われて、どこともなく、血まみれになってしまった。
そのうちに、男の運の尽きだったことには、背負っている鎧櫃の片紐が切れたため、それが、ずるッと背中を辷った途端に、仰向けに足を浮かしたのである。しめた! と耀蔵はその浮き腰を蹴とばした。八弥の十手は、男の頬骨をイヤというほど撲りつけた。
よほど強情な人間とみえて、それでも男は、わッとも、すッとも言わなかった。二人は呼吸を弾ませながら、男をがんじ絡めに縛り上げておいて、番屋の者をよび、鎧櫃と三本錐をかつがせて、急いで、一たん奉行所へ引っ返した。
そしてすぐに、報告だけをしておいて、二人はまた捕縄供養の席へ、出直すつもりだったが、短い道のりを、駕で飛ばしている間に、耀蔵は頭がふらふらとして来るし、八弥は、薄黒くあせた唇を噛みしめて、意識さえ、あやしくなる。
奉行所の医者に、熱い薬湯の茶碗を手に持たせられ、喉を焼かれるように感じた時、ハッと気がついてみると、八弥は自分の体も、側にいる耀蔵も、白い布に巻かれて、蘇鉄のようになっているのを見た。駕にのるまで、さほどに感じなかった三本錐の傷が、腕や股に、ずきずきと激痛の脈をうつ。
「気がついたか」
前を仰ぐと、吟味所の床に、奉行と与力がいる、書記が机をひかえている。獄吏が六尺をかかえこんで取り巻いている。──そして、鎧櫃と、三本錐の兇器を、怨めしげに睨みながら、百姓男は、棒立ちに、立っていた。
「どうじゃ、両名、苦しいのか」
「いえ、なんの、面目ない儀です、不覚を仕りました」
「不覚どころではない、これや、案外な大罪人かも知れぬぞ。暫時傷手をこらえて、召捕った時の模様を、話して聞かせい」
時の江戸町奉行は、榊原主計頭。
その晩の立会与力は、東儀三郎兵衛、奉行所中の上席であった。
二人の申し立てが終ると、奉行はうなずいた。係りは、東儀与力の手にうつる。
捕われて来た百姓男は、よく、田舎から江戸へ出て来る黒焼売りのような泥くさい風態をしている。
「おいッ、坐れ!」
東儀与力の吟味の峻烈さは有名なものである。いきなり、雷声を発して、光を放射する窓のような眼をもって、男を睨んだ。
「ひかえろ!」
割竹が唸る。
獄吏が叱りとばす。
だが、男は、ぽかんとしたまま、無感覚であった。そして、両方の手で、耳を引ッ張ってみせた。妙な、張合い抜けが、瞬間ではあったが、吟味所を白けさせた。
「これや、一筋縄で恐れいる曲者じゃない。お奉行、あれに口を開かせるには、だいぶ時刻がかかります。てまえに、お任せ下さいましょうか。……では其奴を、ひとまず、湯灌させておきますが」
湯灌とは、何の意味か、奉行がうなずくと、獄吏たちは、男を拉して、暗い棟と棟とが重なった獄舎の露地へ引っ立てて行った。
と──すぐに、東儀与力は、眼くばせをして、鎧櫃のそばへ寄った。八弥と耀蔵とは、苦痛をこらえながら、燭を持った。
「怪しいのはこれだ。……ウーム、かなり重い、どこかの武家屋敷から盗み出した贓品だな。や、入念に、定紋まで削り落してある」
錠前を打ち壊して、ぽんと、蓋をあけた。
「あっ?」
とたんに、誰もが、思わず面をそむけた。
鎧櫃の中からは、むうっと、霧のような血腥いものが立って、かざしている蝋燭の灯が、墨のように、またたいた。
「死骸だ!」
「──女じゃないか」
白い仮面のような女の顔──バラリと黒髪がかかって、簾越しの月のように、やわらかい絖と長襦袢の中に埋まっている。その髪の毛を、掻きよせてみると、どうだろう、白蝋みたいな女の頬は、ニッと、笑靨が泛かんでいるのだ、いかにも、死を満足しているように──。しかも、まだ死んでから幾時間も経ってはいない。口紅の色さえ、光っている。
東儀与力は、手をさし込んだ。引き摺り出してみると、ああ、やっぱり駄目だ! 女の体は、鼓のように、細紐で巻き締めてあって、左の乳の下に、鮫柄の短刀が、根まで突きとおして、抜かずにある。
簪、櫛の紋、はこせこ、帯留、何か手がかりとなる一品でもないかと検めてみたが、装身具は、すべて毮り取ってあって、素性を暗示するものは、一点もない。
一つ、短刀であるが、それは道具屋にでも、ざらに転がっているような物で、何らの特徴もなかった。ただ──幾度見ても、つくづく嘆息の禁じ得ないのは、女の美貌なことである、死顔とはいえ、実に美しい、肌といい、眉目といい、麗玉のようだ、もし、これで生きていたら──と、思わずにいられない。
奉行は、ここで退席した。
そして、この事件の専役を東儀与力に命じた。同時に、八弥と耀蔵も、力を協せて、一日もはやく下手人を召捕るように言い渡された。
「幾歳だろう、女は」
東儀与力は、腰をすえて、考えこんだ。
「十九か、二十歳ぐらいに見えますが」
「ウム、おれもその辺に見当をつけているが、身分は、何者だろう」
「さあ、髪はこわしてあるし、帯はないし、当りがつきませぬが、ただどこか上品な面影があるように見うけますが」
「いかにも、公卿の娘といっても、恥しくない」
「ことによると、どこかご大身の方の寵妾ではないでしょうか」
「鎧櫃に入れてかつぎ出された点からみても、武家屋敷だという推量はつく」
「しかし、どうして、女の死顔が笑っているのでしょう」
「眠っているところを、一突きに、刺し殺されたものと思う。──情痴の遺恨だな、これは」
「お説に同感です。けれど、ここに不審があります」
「何か」
「死骸の左の手を検めてみると、人差指が一本切り取ッてあります」
「情痴の下手人が、持ち去ったものだろう」
「それならば、髪の毛とか、小指とかを、切りそうなものですが」
「いや、争う場合に、切り落されるという例もままあるから、その指は、あまり証にはならぬ。もっと重要なことは、女の髪油の匂いだ。──江戸の女は、上つ方で、伽羅油、町方では井筒か松金油と限っている」
「なるほど、少し、薫りが違いますな」
「その匂いは、長崎土産の薔薇香という舶載油にちがいない。まだある、その長襦袢の模様は、唐人船ではないか。してみると、この女の情人か、主かは、長崎の方に知行所を持つ武家か、縁のある男と見て、大体、間違いはあるまい」
「それだけ伺えば、だいぶ目星がつけ易くなりました。両名して、きっと女の素性を洗って参ります」
「いや、その手傷じゃ、二、三日は無理だろう。充分に加療して、それから働いてもらいたい」
翌日、東儀与力は、引っかかりの仕事をすべて他の者に受けつがせて、役室で、一ぷく吸いながら、
「おい、ゆうべの男は、何かしているか、ちょッと覗いて来い」
と、獄吏に言いつけた。
獄吏は、すぐに戻って来て──
「呆れた奴です、寝ております」
「なに、寝ている」
「正体なく、鼾をかいておるので」
「よし!」
彼は、煙管をぷッといわせて、首斬場へのぞむ時のように、硬ばった顔をして出て行った。
蟋蟀、みみず、陰湿な虫が昼間でもチチと啼いている牢露地をぬけると、塀際の隅に、低い、石倉がある。
そこには人間の、悲鳴や呻きを作る機械──血や肉をしぼる拷問道具の、あらゆる種類の物がはいっているので、一通りの強情者は、一晩泊らせられれば、参ってしまう。
それを獄吏のことばで、湯灌をするというらしい。──ところが、東儀与力の耳には、近づくに従って、象のような鼾が聞えた。
「起きろ! おいッ」
彼は、石責め道具の台のうえに腰を下ろした。中はうす暗く、小窓一つしかない。妙な木製車のついている柱には、血汐の斑痕がありありと分るし、大きな銅鍋には、硫黄色の鉛が蚯蚓のようにこびりついている。
「こらっ、起きないかッ」
肩に足をかけて、ぐりぐりと小突くと、男は、けろりと見上げて、東儀与力と同じように、拷問道具へ腰を下ろした。
──蟇のように口をむすんでいる。
まったく不解な男だ。古沼からひきずり出した山椒の魚の化け物みたいな人間だ。神経の反射とか、感覚とかいうものがまるでない。
(この野郎、拙者を呑んでかかっているな。面白い、唖にもなれ、聾にも化けろ、おれも南町奉行所に彼ありといわれた東儀三郎兵衛だぞ)
肚にたたみながら、しばらく、睨みくらべの形である。
「これ、町人。貴様は手足の皮があつい所を見ると、田舎者に相違ないが、どこの国の者だ。黒焼売りか、百姓か」
「…………」
蟇然とした口は、相変らず、への字のままである。
「ゆうべの鎧櫃には、何がはいっていたか、知っているだろうな」
男は、眼と鼻をクシャクシャと歪めて、両方の腕を天井へ上げた。喉仏の見えるような大きな口から、欠伸が出た。
東儀与力は、じりじりする忿怒を抑えて、
「おい大将、唖聾のまねなんざあもう古手だぞ。この石倉の中の道具は何に使用するものか知ってるだろう。そんな無駄な世話を焼かすもんじゃない。奉行所で貴様を下手人と睨めば、なにも、こんな生ぬるい吟味をしてはいない。下手人のホシは他についているのだが、しかし漫然と放免は出来ぬから、役目の手前として、一通りだけのことを訊ねるのだ。はやく済まして、貴様も今夜は、女房のそばへ帰って、晩酌でもやった方がいいじゃないか」
「…………」
「どうしても、口を開かんな! いつまで猫をかぶっていると、為にならんぞ!」
「…………」
彼の顔いろに、男は少し硬直した。
(こいつ、本物かしら?)──そう思わざるを得なかった。それじゃ、唖として対話しない以上は、通じる理はない。
彼は、紙と矢立を出して、筆談を試みようとしたが、全然、盲目だ。冗戯を書いてみせても、笑いもしない。
こんどは、手や、指や、顔の表情で、いろいろに問いかけた。白洲に唖聾をひき出す場合も稀にはあるので、唖の手話には馴れている彼であったが、この男には、それすら通じなかった。いや、通じない顔をしているのかも知れない。まるで生壁へものを言っているようだ。
彼は、煙草を吸うと見せて、いきなり、そばに隠しておいた短銃をつかみ、轟然と一発天井へ向けて放した。
「あっ!」
と、初めて吃驚したような声を聞いた。
「ざまを見ろ! 偽聾!」
彼は、自分の機智に凱歌をあげた。
男には、耳がある、声が出る。
だが──東儀与力のよろこびは早すぎた。男は決して、ビクリとした様子もない。怪訝な顔をして、煙を見まわしているのみで、依然たる聾唖を守りきっているのだ。
では、あッといった声は、誰の口から出たのだろうか。
その錯覚は、次の驚きで、瞬間にケシ飛ばされた。鉄棒の嵌っている石倉の採光窓の外へ、白い女の顔が、落ッこちたように隠れた。
「やっ?」
東儀与力は、愕然として、外へ駈け出した。彼の声に、獄吏は棒をかかえて飛んで来た。だが、八方への狂奔は、雲をつかむような騒ぎに帰した。一つのお笑い事で終りを告げた。
「何か、お見違えではござらぬか。ここは、奉行所の中、ことには白昼。あんな所から、まことに婦人が覗いたとすれば、それは、狐でしょう。……なに、この辺でもまだ狐はおるので、諸侯の屋敷のお庭などには、昼でも啼いていることがままござりますからな」
と、小役人たちは、彼の渋面を慰め顔に囀った。
× × ×
ゆうべの雨で、道には、団栗や萩の花がこぼれている。十五夜をすぎると、秋は急に深まってくる。
「──ぜひ老先生の、ご名断を仰ぎたいと存じまして」
東儀三郎兵衛は元気がない。まったく、あの唖聾の吟味に根気をつからしたものと見えて、数日の後、とうとう兜をぬいで、鶉坂の大先輩、塙老人のまえに辞を低くして、教えを仰いだのである。
老人はひと通り聞いて、
「それやあ、惜しいことをした。実に、惜しい」
「えっ、何か、ぬかりがあったでしょうか」
「だが、貴公の落度ではない。最初に、唖聾を捕えた時の二人の手ぬかりじゃ。まだ若いからしかたがないようなものの、残念なことじゃった」
「ははあ? ……とは何故で」
「唖聾は、何者かにあやつられている手先とわしは観る。張本人は、その折、先へ行った黒衣の侍だった」
「あっ、なるほど」
「いちど懲らした魚は、なかなか二度針を食わぬ。これや、難事件になるな」
「殺害された女が、万一、ご大身の部屋方であっては、後日に、大失態と、お奉行も心痛はしておりますが、皆目五里霧中の状態なので、ほとんど、困惑しております」
「いまだに、何処からも、届けも出ねば、騒ぎ出しても来ぬ点をみると、よほど身分のある婦人か、でなければ、巧みに現場を伏せてあるものとみえる」
「何しろ、捕えた男が、稀代な変物で、それに根気を摺り減らしました。一体、彼奴は、ほんとの唖聾でございましょうか、それとも偽者でございましょうか」
「それや、立派な、ほんものじゃよ」
「では、女の素性に就いては」
「まだ、どうとも、断言ができんが、下手人には充分に余裕があった。死骸から端緒を求めようとするのは徒労じゃな」
「髪油の薔薇香は」
「ちょっと、面白いな。だが舶載の化粧油が江戸にないとは言いきれん」
「短刀は」
「それも、下手人の周密な用意、出来心でない証拠だ、痴情の殺人と申すのは違っとる」
「左様でしょうか」
「下手人は両刀を帯びた侍、なんで、そんな短刀を選ぶ必要があろう。後日の鑑定を紛わすからくりさ」
「そのために、故意に、突き刺したまま、抜かずにおいたものでござりましょうか」
「いや、突かれた時は、声をあげぬが、抜く時には、悲鳴を発しるものだ」
「怖しいほど細心な曲者とみえまする」
「なにせい、殺した現場をつきとめる事に急ぎなさい。悪くすると、この下手人の大胆さでは、後の証拠まで、きれいに掃除してしまうじゃろう」
「さ。そこでござります、神の如きご眼力で、何とかこの迷霧のうちから一活路を見出すご思案を仰げないものでござりましょうか」
「そこじゃて……」
と、老人は半眼をふさいで、考えこんだが、その時ふと、東儀与力の眸を、稲妻のように脅ろかしたものがある。
それは、鶉坂の門から、ここへ上って来た痩せぎすの美しい小娘だ。何か、重箱のような物を胸にかかえて、愛縄堂の方へ来かけたが、客がいたので、ついと、養生所の方へ戻ってしまった。
「や。や。あの女だ! あの女だ!」
彼は、あぶなく口走るところだった。──一昨日、唖聾を石倉で調べた時、鉄砲の轟音といっしょに、窓から消えた奇怪な女の顔!
その女と、今の娘。
どこと言って違うところはない。確かにあの顔だ。これが自分の眼の狂いだったら、与力の職を抛ってもかまわない。
彼は、昂ぶる動悸を、丹田で抑えつけながら、
「老先生──」
「なんじゃ」
「妙なことを伺いまするが……」
つとめて平静を装っても、舌がかわく、眉が硬ばる。ごくりと、唾を嚥んで、
「今、あちらへ参った美しい処女は、ご当家の召使いにございましょうか」
「いや」
と、かぶりを振りながら、老人は、堂の窓から木の間を透かして、
「違う。わしの手元に、女子はおらん」
「では、出入りの町人の娘か何かで?」
「いや」
「どちらのお女中でございますな」
「あれや、実を申すと、長崎表に遊学中の伜郁次郎の許嫁、花世さんじゃ」
「えっ、では、ではあの……」
「まだ内聞じゃから、そのおつもりでな」
「はい、ご吹聴はいたしませぬ。左様でございましたか……あのお方が、御書院番、富武五百之進殿のお嬢様でございまするか、ウーム……」
「どうした、たいそう考えこんでしまったが」
「イヤ、何、余りお美しくいられるので……」
老人は、自分のことを褒められたように、相好をくずして、
「近頃はまた、めッきり艶やかになって、水が滴るようになった。みなが言うよ、花世どのは美しい、富武氏の娘御は気質がよいとな。……む! そこで、前の話に戻って、名案という一件だが」
「は。……はっ」
彼の返辞は、どこへ向って投げているのか、自分でも分らなかった。老人は、猫のように、肩骨を尖らして、眼まで活き活きと、
「あるよ! あるよ! たった一つの鍵が。思案と申せば、まず、それをやることだな」
と、徐に口を開いた老人、さてどんな名案を彼に授けようとするか?
だが、塙江漢も、やはり神ではなかった。何ぞ知らん、やがて南北両派の捕物戦となり、江戸、上方まで沸き立たせたこの怪事件は、他人の禍いではなかった、江漢老人自身の運命を孕んでいた。
隠退した名与力塙江漢のために捕縄供養の催された十五夜の晩である。
重そうな鎧櫃を背負ってさまよっていた妙な唖男──波越八弥、加山耀蔵のふたりの同心の悪闘──そして名月の夜更けに闇から明るみへ出た花のごとき妙齢の死骸──ふしぎな彼女の死笑靨──おまけに蝋細工の欠けたように左手の人さし指がない、酷くも切りとられている。
その時、三本錐をもっていた唖男が、激しく暴れたので、加山、波越のふたりは、数ヵ所の傷さえうけて、やっと召捕った者であったけれど、吟味にかかると、かんじんなその男が、唖でつんぼと来ている。どう責めてみても、生壁に問答をしているようなもので、一向に通じない。
手懸りも皆無である。文字どおり事件は迷宮にはいってしまった。
そこで弱りはてた南町奉行所の与力、東儀三郎兵衛は、高輪鶉坂の大先輩塙江漢老人をたずねて、謹んで教えを乞うたところが、耳かたむけていた老人が、やがて口をひらいて、たった一つの鍵がある! と言う。
──そこまでが発端であった。
× × ×
「えっ、ありますか」
「ある!」
と、老人は、重く、つよく言った。
東儀三郎兵衛は、もう事件の曙光を見せられたように、わくわくと、頼もしげに、
「して、その鍵とは?」
「やはりあの唖男だな」
「老先生のお考えもそこにござりましたか。して、その唖男を、何といたしますか」
「獄から出してやる」
「出して?」
「む」
「出して、それから?」
分らん男だなあというように、江漢老人はちょっと舌うちを鳴らして、
「逃がしてやるんじゃ」
「げッ!」
東儀与力は身ぶるいをした。そして、呆れ返ったように老人の顔をながめてしまった。一世の名探偵といわれた塙隼人も、老ゆれば駄馬に劣る麒麟にもひとしい。──ははあ、老先生もひどく耄碌をしなされたわい、とここへ訪ねてきたのが今さら悔やまれてくる。
「東儀」
「は……」
「何をわしの顔を見ておるのか」
「でも、奉行所としては、唯一の手懸りとしている唖男を放免せよとは、老先生にも似あわぬお考えかと……」
「ハハハハ、早合点をいたしておるな。放免せよといっても、それは一つの策、その前に、加山と波越に旨をふくませておいて、唖めが、牢を放されたら何処へ帰ってゆくか? ──その先をつきとめる。つまり唖は、傀儡じゃ」
「あ。──なるほど!」
と、東儀与力は、間がわるそうに膝を打って、
「恐れ入ったご深慮、凡智の及ぶところではございません」
「しかし、放してやっても、唖めが、尾行られていることを覚ればもう効力はないから、すぐにその場から縛りあげて、牢へ戻せ」
「早速、立ち帰って、そういたしましょう。──ついては老先生」
「何かまだ話があるのか」
「これは、お奉行からの伝言ですが、この度の難事件は、死骸の女の身元次第では、容易ならぬことになるやも分りませぬ。従って、ご迷惑ながらこの後も何かと手懸りのあり次第に、ご意見伺いに出ますゆえ、よろしくお指図を願いまする」
「わしは町奉行じゃないから、越権なことは言えんよ。ま、困ったらおいで」
「は。そのお町奉行が、只今、ご承知のとおり、御評定所の月番にあたっており、また柳営お目付も兼役しておりますので、ほとんど、町方の事件はてまえが任されております」
「だから、しっかりやンなさい、出世のしどころじゃ」
「老先生のお力にすがるほかはございません」
「できるだけの相談相手にはなって上げたいが、わしも、知っての通り隠退をするような老年、近いうちに、伜郁次郎が長崎から帰り次第に、花世と婚礼もさせねばならぬ、また蘭医養生所の方もひらかねばならぬ。そうなると、いくら隠遁の身でもなかなか忙しいから、これはひとつ、八丁堀にいる捕物の上手、岡倉鳥斎を抱きこんで、あれに頼んだらどうだ」
「その岡倉殿は、数ヵ月まえに、幕府のおいいつけに依って、蝦夷松前の漁場公事のお調べに出張中でございます」
「ハハア、そうかそうか、そんな噂だったな。では? ……」
と老人、しばらく眼をふさいで考えていたが、やがてある人間を思いうかべたらしく、
「む、ちょうどいい人物がある。あれならば、年は若いし、頭脳はすばらしくよいし、決してこの江漢にも負けはとらぬ名捕手と思う。わしが推挙すれば、彼よりほかはない」
と口を極めて、賞めた。
南、北の両奉行のうちで、今、老先生にも負けをとらない名捕手とはいったい誰であろうか、と東儀与力は、首をひねった。
達眼は達眼を知るという。江漢老人の眼識で見て、あれほどに賞める人物ならば確かなものであろう、と東儀与力は、はやくその誰であるかを聞きたい気もちに駆られた。
「だが東儀、それは江戸詰の人間ではないぞ」
「や、それでは困りますな」
「なに困りゃせん。折よくも彼は、永らく公暇をいただいて、目下東都へ遊歴に来ておるんじゃ」
「いったいそれは、どこの何人でござりますか」
「名をいえば、お前も知っていよう、大坂町方役では錚々の聞えある若与力、羅門塔十郎だよ」
「えっ、羅門塔十郎が、いま江戸表へ来ておりますか」
「あれや、大塩の洗心洞出身で、いわば、藍より出でて藍よりも濃い男、その上にまだ勉強する気で、こっそりと東都に居をかまえ、お膝下の奉行所の組織、番屋川筋見張等の配置から、江戸流捕物術と上方流との比較など、なかなか研究しているらしい上に、余暇には聞えのある学者を訪ね、谷文晁の画塾へ通ったりして、絵などもやっているという話、わしの所へも一、二度やって来たが、どうも若いに似あわん落着きのある人間だよ。ああいうのが鬼才というのだろう」
「ちっとも存じませんでした」
「礼をつくして、いちど相談してみるがよい」
「そういたしましょう」
「じゃ、わしはあちらに、伜の許嫁花世さんが、何か用事があって来ているらしいから、これでご免をこうむるよ」
と、老先生は愛縄堂を出て、
「オオいい秋日和じゃの。……郁次郎もこのぶんでは、道中つつがなく、帰府の旅をいそいでおるじゃろう」
と空を仰いでも、親心に、やがて長崎から帰るわが子のことを思いながら、歩調ゆるく、養生所の方へ行ってしまった。
花世? ──
東儀与力はまたしても、さっきチラと見た怖ろしい疑惑に囚われ出したが、いやいや、と自分の錯覚をうち消すように首を振った。
そんなことは疑ってみるだけでも罪悪である。あんな人格者である老先生が選んだご子息の許嫁ではないか。また大番組のうちでもわけて実直家な富武五百之進の愛娘ではないか。
──それをたとえどう顔が似ているにしても、白昼、奉行所の奥へしのびこんで、唖男を吟味している拷問倉などをのぞいた奇怪な女性、大胆な女性と誰がいいきれようか。
「よそう、よそう、そんなくだらぬ迷いは」
と、東儀三郎兵衛は思い直して、いそぎ足に奉行所へ帰った。
そして早速、同心の加山と波越のふたりをよんで、江漢老人の鬼策を話すと、
「なるほどそれは妙案だ」
と、ふたりも手を打って、それぞれ手配にかかった。加山耀蔵は鉄砲笊をかついで紙屑屋に化け、波越八弥はどこから見つけて来たかと思うほどひどいボロを着こんで、頭から酒菰をかぶり、うまうまと非人に変装した。
時刻をしめしあわせて、その晩、伝馬町の牢役所の外にひそんでいる。
星空の仄あかり青く、こういう尾行仕事には、あつらえ向きな晩。
むろん、唖男をつかまえた時に、ひどい手抗いをされて懲りている例があるから、二人のほかにも辻々には捕手がびっしりと影を沈めこんでいる。
──一方では東儀与力、彼も伝馬牢へ出張して、最前から役室の自鳴鐘をじっと睨みながら、
「おい、牢番」
「は」
「唖聾のやつは、どうしておるか」
「さっき晩の獄飯を与えました」
「ウム」
「それをガツガツと食べ終りますと、手真似をして、もっとくれいと強請みましたから、いかん、と首を振ってみせたら、さまざまなあだをいたして、いやはや手古摺りました」
「吟味にかかると、まるで腑抜けのように、目鼻もうごかさんくせに、そんな振舞をいたすのか」
「只今のぞいてみると、またぐうぐう鼾をかいて寝ております」
「なぜ獄則どおりにせんか。割竹をもって牢鞘をぶッ叩け」
「つんぼですから、びくともいたしません」
「あ。そうか」
と、微苦笑をもらしながら、しばらく、腕をこまぬいて黙想に耽っていたが、やがてジジジジジと机の自鳴鐘が鳴り出すと共に、
「お、支度だぞ」
と、九番という木札のついている牢の合鍵をはずして役室を出て行った。
常闇の牢長屋の奥で、ガチャンと冷たい鉄の音がする。
寝ているところを揺り起されて、牢鞘の外へ引っぱり出された唖男は、きょとんとした顔で、
「? ……」
東儀与力の顔を、顔負けがするほど、じいっと、見ている。
放免状を読んで──といっても形式だけであるが、手真似と表情とで、牢を出して帰宅をゆるすからどこへでも行け、という意味を呑みこませてやる。
が──唖はうれしそうな顔もしなかった。
張合いのないこと夥しいが、こっちには計画があるから、予定を運んで、召捕った時に、彼が持っていた穢い財布──むろん沢山ははいっていないが──それと叺の煙草入れ、鼻紙などを、返してやる。
それで唖も、やっと少しわかったらしく、ぺこんと一つお辞儀をして、伝馬牢の裏門から突き出された。
さて、どこへ行くだろう?
老先生の妙智、果たして中たるかどうか。──と東儀与力も気が気ではないのである。だが、その姿のまま、後ろから尾いてゆけば、加山、波越のふたりの潜行に邪魔をするようなものだから、いったん門を閉めて、雨水溜めの天水桶を踏み台にして、高い塀の上にすがり、首が生えたようにして、見送っていた。
「ウム……紙屑屋の加山がうまくからんで行くな。オ、波越も横丁から出て尾けて行った。あのすがたでは唖も気がつくまい」
と、少し安心していたが、そのうちに何を見て驚いたのか、
「ややっ!」
と、東儀与力は絶叫して、そこから辷り落ちそうになった。
彼が、愕然としたのは何だろうか?
東儀与力として、それを驚かずにいられるものではない。なぜかならば、不意に牢を出されて、夢みるように歩いてゆく唖男の影が、ひろい草原を斜めに抜けて、向うの片側町の灯を見ながらのろのろと進んでゆくとすぐに、頭巾をかぶっている一人の女が、すっと、草むらから伸び上がったのである。
そして、ちょうど近所に住む者が、買物にでも出るように何気ないさまをして、唖男のそばを摺り抜けて、彼の背中へ、手でもふれようとしているらしいが、屑屋と非人の眼が光っているので、怪しまれてはと、しきりに苦心をしているらしい様子。
そのうちに、ひょいと振り顧って、塀の上から見送っている東儀与力の首に気がつくと、いかにもぎょッとしたように、小走りに横へ駈け出したのである。
オオその夜目にもわかる白い顔よ。
きょうもきょうとて鶉坂の老先生の庭で、ちらと見たあの花世にそっくりな輪廓だ。
また、つい二、三日前には、拷問倉の窓から唖男の吟味をのぞきこんでいた、あの妖美な顔ではないか。
「畜生ッ」
そのまま、ひらりと、東儀与力は塀の外へ跳び降りたのであった。
唖男の鈍重きわまるのにひきかえて、女はまた怖ろしく鋭利な感覚と、すばしッこい動作力をもっている。
──来た! と気がつくと女はすぐに目的をあきらめて、元来た草原の小道をススススッとまるで低く飛ぶ雲雀のように。
「うぬ、今夜こそは」
と、東儀与力もまた、歩速のあらんかぎりを出して、つんのめるように追い駆けた。
男の歩速と、女の歩速──
またたくまにその距離は迫ったけれど、もう一歩という所で、女は、混み入った裏町の露路へまぎれこんでしまった。
うす暗い職人町の露路を、彼の眼がせわしなく光って、隈なく歩き廻っていたが、どうしても、姿が見あたらない。
そのうちに、川端へ出た。
右手をふり向くと、京橋口の大通りの灯がチラチラ見える。ああいう敏捷な女だから、かえってこっちの裏をかいて、明々と町家の灯が往来を照らしている中を、洒然とあるいているかも知れない。
こう考えて、彼は、仲通りを大股にあるき出した。──すると、ものの三町も行かないうちに、彼は、動悸を衝つような欣びに遭遇した。
いた! 女はいた!
しかも大胆にも、かぶっている頭巾まで解いて、丸八という大きな呉服屋の暖簾の蔭に腰かけこんで、帯地か何かを見ているのである。
この女が、姿の優美なのにも似あわない不敵者だということは、真昼中、奉行所の拷問倉までしのんで来たことだけで充分に分っていたが、まさか、こうまで機変に富んで巧妙に澄ましこんでいようとは、思いのほかだった。
「ウーム、要りもしない物を出させて、わざとここで時刻をつぶしているな」
彼が、袖暖簾のかげに身をすくめて、出て来るのを待っているのも知らずに、女はやがて、頭巾に顔をくるんで、
「では明日にでも、それと、あの帯皮を、届けてくださいましね」
と、腰を上げた気ぶり。
しめた、呉服屋へはもう女の住居まで洩れている、捕まえる機会といっしょに、自白させる端緒まで揃ってしまうとは、何という恵まれた晩だろうか──と彼が欣びの笑みをもらしていると、すうと、細っそりした頭巾のうしろ姿が、眼のまえをさえぎって、およそ、十歩ばかり大通りの方へ向いて。
今だ! 夢とも知らない女。
東儀与力は音もなく近づくが早いか、
「女。待てッ!」
と、するどい一喝に相手の耳を衝って、跳びついた両腕を、うしろから胸へ廻して締めつけた。
びっくりしたに違いない、女は、顔いろを失って、じっと、肩越しに黒い眸をながしたが、気を沈めるように、
「あっ……貴方は、東儀様ではございませぬか。何をなされます、こんな場所で」
「えッ……拙者を東儀と? やや、貴女は」
「ごぞんじの筈ではございませぬか、富武五百之進の娘、花世でござります。……何かお人ちがいでも」
「こ、これは、飛んでもない失礼を仕りました。……ウウム、やはり貴女は花世殿だ、花世殿にちがいない」
と、恐縮と疑惑と、迷いと否定と、交〻な気もちに乱れて、まるで心の滅走した人間のように、茫然と手を離した。
花世の寒いほど麗輝な顔ばせは、ようやく、驚きからホホ笑ましげに和んで──
「東儀様、ご得心が参りましたか」
「は、は、よく相分りました、まったくの人違いで」
「他人のそら似ということもままございますから……」
「面目ない失礼でござった。どうか、お父上にはご内聞に」
「はい、私も女子のくせに、夜の外出は父に知れれば叱られますから」
「しかし、供もお連れ遊ばさずに、おひとりでどちらへ」
花世は、もじもじと、答えかねていたが、東儀与力の眼ざしが、まだ何か、充分に疑わしげに見ているので、
「貴方様も、老先生から、ほぼお聞き及びではございませぬか。……あの、塙様のご子息郁次郎様が、もう近いうちに、長崎からお帰りでございまする」
「む、それならば承りました、こちらへご帰府になるとすぐに、貴女とご婚儀をおあげになるそうで」
「で……お恥しいことでござりますが、道中おつつがのないようにと、毎晩、白魚橋の水天宮まで、そっとお詣りをいたしております」
「が、今何か、その辺でお買い物をなされておられたようですが」
「はい」
と、花世はいよいよ恥かしそうに、
「娶ぐにつけて、永らく世話をしてくれました乳母と召使いに、心ばかりの品をやりたいと存じまして」
「成程。いや、なかなかお手廻しのよいことですな」
こういわれてみると、事毎に、疑う点は微塵もないのである。だが、心の一隅には、まだ探索心理が虫のようにうずいてやまない。
「お送りいたそう、お屋敷の前まで」
「いえ、もうどうぞ」
と、花世はいたく迷惑そうに、
「今もお話しいたしましたように、父には内緒でございますから」
「言いようのないご無礼をして、このままでは心苦しい、お詫びのつもりで」
と、構わずいっしょに歩きだした。
橋を渡って、八官町の旗本町まで来ると、花世は礼をのべて、とある門の袖潜りを静かに開けて、中へ姿を消してしまった。そこはたしかに、大番組御書院方、富武五百之進の邸にちがいない。
「むむ……どうも解せない。あの美しい姿は、いったい一人なものか、二人なのか、何だかおれには分らなくなってしまった。といって……この事ばかりは老先生に訊くわけにも行かないし……」
塀にもたれて、考えこんでいると、奥ふかい邸の木の間からみやびた八雲箏の音が、良人恋しと弾くように洩れてきた。
「お! この事にばかり心を囚われていては果てしがない。唖の方の結果も心配だ」
彼は気がついて、大急ぎで、伝馬牢へ引っ返してきた。──詰所をのぞいてみると、
加山も波越もまだ戻っていない。
「さてはうまく行ったな」
と、いささか慰めていると、そこへ牢番同心がのっそりとはいって来て、妙な顔をして鬱いでいる。
「おい、どうした」
と、少し弾んだ声で慰問すると、牢番同心は、初めて気がついたように、
「あ、東儀様でございますか、今し方まで、加山殿と波越殿が、非常にさがしておいでになりましたが」
「えっ、では一度ここへ立ち帰ったのか」
「はい、戻るとすぐに、身なりもあのままで、よほどなご急用とみえて、ご両所とも町駕を飛ばしてどこへかお急ぎになりました」
「はてな? ……そして唖男の行く先は首尾よく突き止めたようか」
「まるで目的が外れました」
「やつ、逃げ失せたか」
「いえ、その唖奴は、ご両所の帰るより前に、ひとりでのこのこと伝馬牢に舞い戻って来て、あげくの果てに、ひとりで牢へはいって澄ましこんでおるのです。──何でも波越殿にお話を承ると、唖めは、おふたりが尾行ていたことは全く知らない様子で、ここを出ると、しばらくうろうろ歩いていたそうですが、やがて、一軒のけんどん屋で、饂飩をしこたま食べこみ、また町の辻々をうろついて、今度は饅頭を買ってそれをふところに入れたと思うと、前と同じ道を真っ正直に戻って、再び伝馬牢の中へのこのこと帰って来てしまったというわけでござります」
なるほど、それでは全然大目的はずれだ。東儀与力は開いた口がふさがらないように、
「ウーム怖ろしい奴だ。いったい彼は、稀世の大馬鹿者か、それとも、天下の大智者か。江漢先生の裏を掻くほどの代物じゃ、とてもおれの手におえんのは当りまえだ」
と、匙を投げるように、嘆息を放った。
すると、そこへ、同心の加山耀蔵と波越八弥のふたりが、あわただしく帰って来て、東儀与力の顔を見ると、
「あっ、ここにおいででしたか」
「今、話を聞いていたところだが、唖への計略は、すっかり目的が外れたそうだな」
「お聞きになりましたか。吾々も随分いろいろな罪人を手がけましたが、あんな奇怪な男には初めてぶつかりました」
「して、すぐ町駕で飛ばしたそうだが、どこへ行って来たのか」
「一応ご相談の上と思いましたが、結果が余り意表外なので、鶉坂の老先生をお起ししてご意見を伺ッて参ったので」
「ム。よく気がつかれた。して老先生は何と言われたか」
「それは手順が足りない。今夜のうちにやり直したがよかろうと仰っしゃるので」
「どの手順が抜けているのだろう」
「奉行所で吟味をした上、外の見えない盲目駕で伝馬牢へ差送りましたが、それが第一いけない、唖は全くの愚鈍で、その上、江戸の地理にうといと見えるから、元の奉行所へいちど戻し、また、初め召捕った増上寺の境内へ連れて行って、そこで放せと仰せられます。で、帰りがけに奉行所の方へ寄って、すべての打合せを済まして参りました」
「してみると鶉坂の老先生は、飽くまで唖を、大愚者と見ておられるのだな」
「何しろ世話の焼ける奴です」
「ともかく、その手順どおりに踏んでみよう」
夜は更けているが、一日経てば一日だけ捜査は至難になるばかりだ。呆っ気に取られている唖を、再び牢から出して盲目駕の中に括りつけ、奉行所に納めて、最初の晩のように、増上寺の境内まで連れて来た。
ちょうど、この辺が彼を縛め捕った場所だという所で、駕から出して、行け! という手振りを示して押っ放すと、
「? ……」
唖はしばらく、四方を眺め廻して考えていたが、やがて黙々と、御霊廟のうしろの方へ向って歩き出した。
「おや、あそこは通り道ではないのに」
「鎧櫃を背負ってきた晩も、あの御霊廟の裏から出てきたのですから」
「ははあ……では今度こそ、その晩、出て来た所へ戻るつもりだろう。では、両人、ひと足先へ」
と、東儀与力は、物蔭に頃あいを計っている加山と波越へ眼くばせをして急がせ、また、ふところからは一通の書面をとり出して、
「先刻、密使をつかわしてあるから、委細はお聞き及びの通りであるが──と申し添えて、これをお奉行の手へ届け、羅門塔十郎に交渉をつけること、よろしくご配慮を仰ぐと申して、来い」
と、ひとりの部下に耳打ちをして、すぐにその場から走らせた。
増上寺の五重の塔を見上げたり、伽藍の横の松の樹を撫でて見たり、塀のそばに近づいて見たりしながら、唖は、空疎に、鈍々とした歩調で、御霊廟の裏へ曲がって行く。
屑屋の加山と、非人に変装した波越とは、見え隠れに尾いて行った。その二人の影を目あてとして、また東儀与力が尾いてゆくから、ちょうど三段尾行である。
「おや、また石燈籠のそばへ顔を寄せているぞ」
曲がるたびに、唖は、必ず何かの物体へ眼を近づけて考えこむ風なので、波越八弥があとからいちいち検察してゆくと、あの晩携えていた三本錐の尖で傷つけたらしく、道の覚え印しが引っ掻いてあった。
「うむ、やっぱり老先生のお眼鑑どおり、唖のやつは、全く田舎のぽッと出で、江戸の地理は皆目知らないのだ……」
そうしている間に、幾曲りして、御霊廟の裏から僧房の裏まで突き当ると、道はもうないはずであるが、唖男は、がさがさと、一方の雑木山へ登り出した。
「あっ、成程」
常識はいつも探索に失敗と迂遠な笑いを招く。道とばかり考えているから思いつかなかったが、そこは増上寺の寺領で、遠く麻布の台町まで林つづきである。人目にかからずに歩くには、屈竟な道だ。
やがて、そこの地域をぬける、淋しい溜池下である。それを右手に、唖は、霊南坂を登って、やがてまた、飯倉の屋敷町の方へだらだらと降りた。
大きな銀杏だの欅だのが落葉している閑静なしもたや町の一軒。
「? ……」
唖は、その前に、突っ立った。
──大蔵流京笛御指南、鷺江ゆき女。
かなり隔てている波越八弥の眼にも、その家の風雅な小門にかけてある看板の文字が、ありありとこう読めた。看板の木が新しいからである。
唖は、小門の戸に手をかけて、がたがたと揺すり始めた。──もうそれだけで充分である。
「それっ」
と、東儀与力が手を振ると、加山、波越、そのほかの捕手がすぐ唖を縛り上げて、用意して来た盲目駕に抛り込んで、すぐ伝馬牢へ送り戻してしまった。
「さ、いよいよ兇行の場所はここと極った」
三人だけは残って、静かに門の戸をコジ開けにかかる。
「どなた様ですか」
すると、生垣隣りの、しもたやの窓が開いて、四十前後の女が、寝衣すがたで外を覗いた。
よい者が起きてくれたと、東儀与力は窓の下へ寄って、
「静かにしてくれ、吾々は、奉行所の者だから」
「えっ、あのお奉行の……」
と、女はふるえ出した。
「いや心配することはない。ただ用意として聞いておきたいが、そちの家は、何商売だな」
「駿河町の三井に通っております」
「通い番頭か」
「は、はい」
「平常隣家と懇意にいたしておるか」
「口をきいたこともございません」
「主は女で、笛の指南だな」
「そうらしゅうございます。ほかに、小間使い風の玉枝さんという女もいたようでございますが、十日ほど前から、ちっとも見えません」
「門が閉まっているな」
「はい、その頃から、上方へでも行ったような様子で、女主人のお雪様も見えませぬし、笛の音もしたことがございません」
すると──小門を開けて先へはいった加山耀蔵と波越八弥のふたりが、何を屋内に見出したのか、
「東儀与力! 早く、大変です!」
と、絶叫して呼んだ。
何事かと、あわただしく駈けこんでみると、京普請の小間どりな奥の一室、そこに、当夜の兇行を物語るすべてのものが、八弥と耀蔵のかざす紙燭のもとにまざまざと照らし出されているのだった。
部屋は、十六畳の客間、或いは、指南間ともいえるであろう、まず床には狩野派の清洒な細軸、江月の書額、螺鈿彫の千鳥棚、隅には琉球朱の机、中ほどには華やかな鍋島絨毯が敷かれてあって、その上にすばらしく巨大な花梨の客卓がどっしりとすえてある。
家具の配置は、ざっと、こんな按配であるが、そこに散雑している物は、薩摩焼の茶碗だの、笛だの、血みどろな女の衣裳だの、燃えさしの蝋燭だの。……目も向けられない惨状。
そして、まだまだ驚くべきものがあった。
それは、商人態の、四十前後の、男の死骸である。
男の死骸には、刀痕はなかった。絨毯やふすまや障子に乾びついている黒い血しおの斑痕は、すべて十五夜の晩に、鎧櫃に入れて運び出された死笑靨を泛かべていた美人──ここの女主人のお雪様の血しおと見ていい。
「どうでしょう与力、この態は」
「案外だな。……しかしなかなかいい暮しをしていたとみえる、すべてが大名道具だ」
「だが下手人の思慮にも似あわしくなく、どうして今日まで、このもう一つの死骸や、兇行のあと始末をつけないのでしょう」
「あの晩、鎧櫃に入れて、二度にして運んで隠すつもりだったろうが、その最初に、唖が捕まったので、余燼をさましているのだろう。今に必ず、気がかりになって、ほんとの下手人が覗きに来るにちがいない。ウム……こうしよう」
東儀与力が一代の智慧をしぼって、ふたりに何か囁いた。──以来この家の小門は、前のとおりに閉めて、森としたまま、二、三日を経過した。
無論、隣り近所にもかたく口止めをしてある。そして二人は外に、東儀与力は屋内にひそみ、指南間の大きな花梨の客卓を衝立のように立てかけて、その蔭に、息をころして張りこんでいた。
三日目……四日目……何事も起らない。
すると、五日目の夜半である。少しつかれてとろとろしかけたところへ、よほど勝手を知っているらしい男が、庭の網代門をこじ開けて、こっそりと雨戸の外に忍び寄り、
「玉枝……玉枝……。ここを開けてくれい」
と、四隣を憚るような声で、ほとほと、軽くそこをたたいた。
「む、来たな……」
と、東儀与力は、自分の鼓動を聞きながら、じっとがまのように、客卓の蔭にかがみこんでいた。
「……いないのか、玉枝は」
すうっ、と風が流れこんで来たので、曲者が戸を開けたことは察しられた。──東儀与力はとたんにハッと息がつまッた。
のっそりとそこにはいって来たのは、眉深な黒の頭巾に、黒の羽織、すべて黒ずくめに装った色の白い武士である。まさしく、加山と波越が増上寺で逸した、唖男の連れだというあの武士にちがいない。
が──黒衣の武士は、そこに立つとすぐに、はてな? という風に嗅覚を働かせた。真っ暗であるが、なんとなく屋内の空気のうちには、新しく蝋燭の燃えた匂いと、人間の息とも臭気ともいえないものが、感じられたと見える。
はッとしたように、武士が左足を退いたので、おのれ逃がしては、と焦心ッた東儀与力が、
「曲者ッ」
と、怒鳴りながら、大客卓の蔭から立とうとした。
とたんに、びゅッと白い切ッ尖が刎ねて来た。あっと、思わず首を竦めたせつなに、黒衣の武士が、足をあげて、鉄板のように重い花梨の大卓を蹴たおしたので、東儀与力はその下に押しつぶされて、
「うッ」
と、何か叫ぼうとした。
曲者は、絨毯をつかんで、ばっと、その上に押しかぶせると、冷蔑をこめた笑みをにやりと投げて、ふところ手をしたまま、表から出て行ってしまった。
「残念ッ、残念。──おいっ、加山、波越ッ、二人ともおらんのか!」
卓の下から、手足をもがき出しながら、彼が罵り騒いでいると、その声に吃驚して、裏口と表から、二人が駈けこんで、盤石のような大卓を持ち上げた。
「与力、どうなされました」
彼は、部下に対する間の悪さを、憤怒に変らせて叱りとばした。
「どうなされたじゃない、今、出て行った曲者をなぜ捕えぬのだ。居眠っていたのであろう、たわけ者め」
「曲者? 与力こそ何をとぼけているのですか、そんな者は、出て来ませんが」
「幽鬼ではあるまいし、姿を見せずに出てゆけるか。たしかに表から出て行った。──それもたッた今ではないか」
「なるほど、今、一人の武士が出て行きましたが、あれは与力がお呼びになった奉行所の使いでございましょう」
「ええ、何をたわごとを言う。拙者が曲者を呼ぶ理由があるか」
「でも、その武士を糺すと、そう言うのです」
「貴公、同心のお役をご辞退したらどうだな。曲者の言い訳を、そのまま信じるようじゃ勤まらん」
「でもその武士は、袂の中から、南町奉行の烙印のある与力鑑札を立派に示したのです」
「作り物だ、それは」
「いや、奉行所鑑札が作り物かどうかぐらいはてまえにも分ります。決して、偽鑑札ではありませぬ」
と、折角、罠にかかった本体の曲者を逸して、その口惜しさと、気まずさと、異様な昂奮とに、三名は、地だんだを踏んで、後の祭りをくり返した。
夜は、いつのまにか、白々と庭の樹々に明けている。東儀与力はまだ余憤がしずまらないで、
「こんな馬鹿な目にあったとは、老先生にも話が出来ぬ。以後はきっと気をつけろ!」
と、どこまで、部下のせいのように、加山と波越を叱りとばした。
「おはよう。──南町奉行所の東儀殿はここへ来ておられますか」
客の来べきところでない暗黒な血の家に、朝の明るい客の訪れ。
誰かと思って出てみると、ふし糸の茶無地の羽織に、ひだのきちんと通っている袴をはき、朝、梳いて来たばかりらしい水々とした髪に、浅黒い、そしてつややかな面、眉眼くちびるに至るまで、何となく非凡な風格をそなえた三十歳前後の武家。
「やっ、貴方は」
「拙者は、お奉行榊原主計殿のご懇望もだしがたく、若輩の烏滸がましいとは存じながら、ご助勢に参った、羅門塔十郎と申しますもの」
「オオ、では貴殿が、有名な羅門氏でござったか」
「拙者がおひきうけをして、浅学ながら口出しをする以上は、一命を賭しても、必ず処理してごらんにいれるが、そもそも、江戸流の捕物術と上方流の捕物法とは、根本から手ぐちの違うところがござるが、その辺もご異存なくご服従くださるであろうか」
「それはもう、ご方針のままに。──吾々にもよい後学に相成りますから」
「では、ご免──」
と、草履をぬいであがるとすぐに、羅門塔十郎のするどい眼は、もう何ものかを観破したように、ぴたっと、部屋の一隅に吸いついた。
唐木細工の小さな棚には、無数の笛が、架けてあった。
「ほう。……さすがは女笛師の家だけあって、たいそう種々な笛が蒐めてあるな」
室内に立った羅門塔十郎の第一歩は、迷うことなく、すぐに床脇の棚へ向ってすすんでいた。
何か、ひとりで頷くと、彼は、笛掛けに架けてある無数の横笛へ手をのばして、上から順々に、緻密な眼ざしで調べはじめた。
上方流の捕物では、関東の塙江漢と並び称されている活眼家羅門塔十郎が、今、初めてこの事件に一指を染めはじめたのである。
──やがてどんなことばが、その引き締まった唇から洩れるであろうか、と東儀与力も、加山、波越の二同心もかたずを嚥んで彼の一顰一蹙を見まもっていた。
だが、塔十郎はべつに奇言も吐かない。何の発見もなかったように、無興味にやがてそこを離れて、
「この現場は、当夜のままでござろうな」
と、室内を見廻して、東儀与力にたずねた。
「左様。ただ死骸だけを庭へ移しましたが」
「死骸? 誰の?」
「素姓不明の町人でござるが、この屋内に絶息しておりました者で」
「そういう大事な被害者の位置を移してしまっては詮議の上に非常な不便を来すが……」
「いや、正確な図取を写しておきましたゆえ、そのご懸念には及びませぬ」
「あ、そうか。……どれ、その図面をこれへ」
と塔十郎は、写しを取り寄せて、仔細に室内の器物の位置や血痕などを見くらべて、
「三井の通い番頭とかいう隣家の夫婦者は、無論、禁足を申しつけてありましょうな」
東儀与力は、自分の手落ちを意識したように、
「いやまだそれは」
と、軽い狼狽を見せた。
「隣家の夫婦者に足どめを命じておかれぬのはご不覚であった」
と、塔十郎は一本釘を刺して、
「留守かも知れぬが、いたらば、主人でも女房の方でもよろしいが、すぐにこれへ呼んで戴きたい」
「承知いたしました」
と、東儀はうしろを向いて、
「八弥、ご苦労だが」と、顎を拯う。
「はっ」
と、波越八弥はすぐに塀隣りの隣家へ行って、やがて、ひとりの年増女を連れて戻って来た。女は薄い髪の毛を櫛巻にしていた。美人という程ではないが、ふだん着のままでいても、ちょっと魅力のある顔容で、どこか世間馴れた風があった。
羅門塔十郎は、庭先へ膝をついた彼女をじろりと一眄しながら、
「おまえか、隣家の女房は」
と、縁へ腰をおろした。
「はい、お蔦と申しまする」
「主人は不在かの」
「毎日、駿河町の三井様へ、通い番頭をつとめておりますので、夜分でなければ宅にいたことはございませぬ」
「そうか」
と、塔十郎はうなずいて、
「ではお前でもよいが──いやお前の方がむしろくわしく承知しておるであろうが、この家の女主人──殺害された鷺江ゆき女という者は、いつ頃から当家へ移って参ったのか、それからの事情を細かに話してもらいたいものだが、どうじゃ」
「存じているだけの事は、何なりと申し上げまする」
「む」
と、塔十郎は、ふところから覚え帖と矢立を取り出して何やら誌しはじめた。
女は、お蔦という名からして、それしゃの上りらしく、世事馴れていることばづかいで、問わぬ先までをしゃべり出した。
「たしかこの夏の初め頃かと存じます。はい、こちら様が移って来ましたのは。──そのうちに大蔵流京笛御指南という看板をかけたので、ははあ、女の笛師かと知ったようなわけで、隣り交際もいたしませんから、間に、女主人のお雪様と、口を交わしたこともございません。それでも、塀隣りのことなので、ちょいちょいとご様子を見たり聞いたりしておりましたが、暮しは至って裕福らしく、男気はなく、玉枝さんという若い小間使と二人きりで、お弟子衆の来るたびに、よく笛の音が洩れて参りました」
「玉枝?」
と、東儀与力は思わず横から口を出した。
「では玉枝と申すのは、雪女の小間使をしていた女だの」
「はい、なかなか別嬪さんでございました」
塔十郎は隙かさずに、
「して、その小間使は、いつ頃から見えぬのか」
「ちょうど十五日の夕方、その玉枝さんが、風呂敷づつみを抱えて宅の前を通りましたので、オヤどちらへ? と声をかけますと、急に田舎の身寄りに不幸ができて、一月ほど宿下がりをして帰るところと、挨拶をして行きました」
疑惑は、誰の胸にも起った。同じように玉枝という小間使を疑った。──十五日といえば女主人のお雪が殺された名月の晩である。それにゆうべ、ここを訪れた例の覆面の侍も、玉枝玉枝と二度ほど呼んだ。
塔十郎は、隣家のお蔦のことばを細かに覚え帖へ筆記していたが、ふと、その筆の先で庭前の筵を指して、
「では、その男の顔を見たことがあるか」
と、訊ねた。
「まあ! その人も、殺されたのでございますか」
波越八弥が、死骸にかぶせてある筵の端を少し剥って見せると、お蔦は、肩をすぼめて顫えた。
そして、十五夜の晩以来、お雪の家の中に隠されていた疵口のないこの町人体の男の死体は、本石町で金座用達をしている両替の佐渡屋和平、俗に佐渡平という商人にちがいないと申し立てた。
「どうして、お前は、それを知っているのか」
と、塔十郎は筆をうごかしながら訊ねる。
「主の勤め先と、ちょうど近い所に店がございますので。それに、この佐渡屋の旦那様が、どのお弟子さんよりも、いちばん足繁く此家へ通っておりましたから、自然顔を見かけることも多うございました」
「では、この佐渡平も、雪女の所へ笛を習いに来ていた弟子の一名なのだな」
「左様でございます。佐渡平さんが来ると、いつも夜遅くまで笛の音がして、時には、笛と三味線を合奏せて、睦まじくお酒でも飲んでいるかと思われることも度々ございました」
「む」
と、塔十郎はうなずいて、
(さては、お雪はこの佐渡平に囲われている女かも知れぬ)と、呟いた。
だが、不思議なのは佐渡平の死骸で、一ヵ所の突き疵も、切り傷もない。また、毒を嚥んだような斑点や絞殺された痕も見えないのである。
お蔦を隣家へ返してから、塔十郎はおもむろに東儀与力に向って、
「どうです。これでほぼ見当がついたでござろう」
と、言った。
東儀は首をひねって、
「さ? ……」
と、考えこんだ。
「事件は簡単です。殺害の原因はありふれた男女の痴情にすぎぬ。つまり佐渡屋和平と女笛師のお雪とは、よほど前からの仲で、何かの事情から此家へ妾宅を移して来たものであろう。ところが、女にはほかに男がある」
「なるほど」
「それが覆面の侍です」
「あっ……そうですか」
「その男女が密会している所を、佐渡平に見つけられたので、覆面の男が、柔術の手で打ち殺したものと思う」
「しかし、その覆面の男が、何で好きなお雪を、ああまで酷く斬り殺して、その上、鎧櫃に入れて唖男に運び出させたのであろうか」
「男の無残な行為を見て、女が嫌気をさして逃げることに同意をしなかったか、或いは、殺された夜に佐渡平が巨額な金子を持っていたので、女よりは金と、急に男の気が変って、飽くまで秘密をまもり遂げるために、お雪までを、斬り殺したものかも知れぬ」
「ところが、そのお雪の人差指が斬り取られてあるが、それはまたどういう意味でしょうか」
「狡智な下手人は、よくそんな用もないことをして、わざと詮議者の眼を惑わそうとたくむものだ。何の意味もないことでしょう」
打てば響くがごとく、塔十郎の答えは明晰であった。だが、彼の言を信じれば、痴情でないと言った江漢老人の鑑定は根本から覆ってくる。
ただ江漢老人の説と一致する点は、唖男は偽片輪ではなく真の唖聾にちがいないということと、覆面黒衣の奇怪な侍が、この罪悪の裏にひそむ重大な人物であるという点だけであった。
「その覆面の男が捕まる日も遠くはありますまい。これ、この通り曙光は見えておる」
と、塔十郎は前の笛掛のところへ戻って、二本の京笛をつかんで来て東儀与力に示した。
「ごらんなさい、この笛の銘を」
一本には、「野分」と切銘があって、下に小さく佐渡平と誌してある。
「あ、これは、殺された佐渡平の持ち笛ですな」
「そうです。あれにある笛は、みなお雪の所へ習いに来た弟子たちの笛でしょう。が、それはとにかく、この方を早く一見して下さい」
もう一本のものには、「時雨」という銘があって、そのわきに、虫のような細字で「郁」という一字が彫ってあった。
「郁?」
と、口のうちで呟きながら、東儀与力は不審そうに、
「これは一体、何者ですか」
「すなわち、佐渡平を殺し、お雪を殺害した下手人、かの覆面の男の名です」
「えっ、どうしてそれが分りますか」
「吹いてごらんなさい、その笛を」
「鳴りません」
「鳴らぬはずです。叩いてみれば分りましょう」
妙なことを言うと思いながら、軽く、掌でたたいてみると、笛の中から細く巻いた一枚の紙片が出て来た。
羅門塔十郎は、最前、調べるうちにすばやく一読していたので今さら驚きもしなかったが、東儀与力をはじめ、波越も加山も、披かれたその文字へ思わず眼を瞠った。
それにはこう書いてあった。
かねての事、こよいを最後に、御談合参らせたく、九刻頃、そっと忍び行き候まま庭裏の木戸へお心たのみ置候
余事すべて、お逢いの上にて
八月十五日お雪の君へ
「どうです」
「ウーム成程」
「しかも男からその手紙を出した日は、お雪の殺害された十五夜と同日です。女は、男が何か最後の相談に来るというので、男の大事にしている『時雨』というその笛の中へ、手紙を巻きこんでおいたに違いない。たえず旦那という者の眼を怖れる囲い女には、ありがちな行いです」
「ご炯眼のほど驚き入りました。下手人はこの笛の持主、郁次郎という者に相違ござるまい」
「姿や顔容は、拙者よりはかえってそちらの方がおくわしいはずじゃ。では、今日はほかに急ぎの私用もござれば、これにて失礼いたします」
と、羅門塔十郎は、切り際よく別れを告げて、さっさと、草履を突っかけて、外へ出た。
「あっ、羅門氏」
と、東儀与力はあわてて、門の外まで追いかけて来て、
「──しばらく」
「何ですか」
「いろいろご明断を授けられて、暗夜に曙光を見たように存じます」
「いやいや、まだこんな事では、ご参考にもなるまいが、いずれ拙者も心がけて、吉左右をつかみ次第に、ご通知いたしましょう」
「ところで、このままお別れいたしては、何となく心残り、ご迷惑でなければ、奉行所までご同道下すって、お雪の死骸についておった証拠品やら書類などをご一見下さるまいか」
「さあ……実はこれから、少し私用を帯びて、八官町まで立ち寄った上でなければ体が空きませぬが」
「八官町ならば、どうせ自分にも戻り道、おさしつかえなくば、同行してもよろしいけれど」
「では、ご一緒に参りましょう」
「そう願えれば、何よりの好都合で」
と、東儀与力は忙しげに後へ戻って、加山耀蔵には、ここの後始末をいいつけ、波越八弥には、本石町の佐渡平の店へ行って、彼の家を出た日の前後の事情を調べてくるようにいいつけて、
「や。お待遠でござった」
と、すぐに引っ返して来た。
血の異臭につつまれた犯罪の家を出て、明るい秋の陽の下に歩み出ると、常に、闇の魔ものを相手に暮し馴れている東儀三郎兵衛も、さすがに腰が伸びて、ああ、と深く息を吐きたいほど朗らかな気もちに返った。
ふたりは、肩をならべて、我善坊の窪から市兵衛町へ出て、だらだらと霊南坂を降りて来た。
「お立寄りになる先は、八官町といわれたが、誰か、ご友人のお住居でもござりますかな」
「いや、ちと、調べたいことがあって、初めて参る屋敷です」
「ではやはり、何かのご詮議なので」
「と申しても、公のことではなく、もう七、八年来取りかかっておる個人的な探索なのです。大坂奉行所に勤めて、公禄を頂戴いたしている間は、そういう、私人的な依頼に応じて、自分の猟奇心を満たすような仕事にはあまり没頭されませんでしたが、今では禄を辞して、こういう自由な身になっておる某、これからは、大いにやろうと考えておる」
「それは結構なことじゃ。まったく捕物の探究ということも、ほんとは、お上の禄に縛られていては思うように働けませぬ。して、其許が七、八年の間もかかっておるその面白そうな探索とは、一体、どんな仕事でござりますな」
「丹波亀山の龍山公をご存じかの?」
「亀山の龍山公? ……お、あの、松平周防守殿のご隠居ではござらぬか」
「そうです」
「その龍山公がどうしたのですな」
「実は、拙者が一代の事業としている探索というのは、その亀山のご隠居龍山公から密かにご依頼をうけていることなのです」
「ほ。それでは、大名から秘密に頼まれている仕事なのですな」
「ま、そういったわけです」
「どんな内容か、お差支えなければ、話して下さらぬか。また場合に依っては、吾々のようなものでも、一臂のお力になる折がないとは限りませぬ」
東儀与力は、自分より若い羅門塔十郎が、そんな自由な境遇にあって、大名の信望までかち得ている身分を羨しいものに思った。まったく、裕福な大名から秘密な詮議を依頼されて、それに成功すれば、極りきったお上の年扶持を捨てても一代安楽に暮されたものであった。
で、そういう仕事は、尠なくも、東儀与力などには羨望ものである。あわよくば、話に乗って、幾分の一の報酬でも約したいと考えた。
塔十郎は、彼のさもしい眼には気づかぬように、鷹揚に、隔意のない容子で、
「いや、差支えがあるどころか、それはぜひ聞いておいて戴きたいと思う。そして、何かの時には、貴公たちのお力添えも仰ぎたいし……」
「どうか、ご遠慮なくおっしゃって戴きたい。こんどの難事件で、其許のご出馬を願ったからには、いわば、相身互いと申すもの……」
「では、その辺で一服いたそうか」
塔十郎は莨入れを取り出して、見晴らしのよい坂の途中に、切株を見つけて腰をかけた。
………………
彼の打明けた話によると、亀山六万石の城主松平龍山公はもう齢七十に近い老体であって、とうから、京都の洛外、四明ヶ岳の山荘に風月を友として隠居しておられる。
ところが、龍山公には、世継がない。
複雑な家庭の事情もあったり藩の内争もあったりしたが、とにかく現在では、家老の大村郷左衛門の一子大村主水を仮に藩侯の準養子として、幕府に十年の猶予をねがい、ほんとの世継を決定することになっている。
しかし、その期間も、はや八、九年過ぎて、余すところは、一年ばかりしかない。──その期間が終れば龍山公は、いやでも、藩地を幕府に返して大名の籍をぬけるか、でなければ家老の子の大村主水をそのままほんとの養子に迎えて世継に立てるほかはないのである。──が、こういう場合にはどこにでも起るお家騒動の例にもれず、藩論は家老派の大村組と、飽くまで、龍山公の血すじを世継とするを主張する正統派との二つにわかれて、足かけ十年ちかく紛争している。
というのは──この世に龍山公の血すじがまったくないのではないという事実が、ある時、老公の口から、藩論の席で、洩らされたからであった。
老公は、懺悔された。その昔まだ部屋住の壮年ごろ、江戸表に在府中、人知れず向島の小梅に囲っておいた愛妾があったということ。そして、その愛妾にはひとりの男子が生れ、やがてその男子は素姓をつつんで小普請組の石川某にもらわれて行ったが、その後、ひとかどの武士となって後、何かのまちがいで同役と争いを起し、四人の遺子をのこして切腹して果てたということ。
むろん、家名は没取である。
離散した一家、杳として、あとの消息はわからない。
龍山公も、時には、思い出すこともあったが、いつとはなく、血縁のうすいものと、忘れ果てていたのである。
正統派の家臣たちは、それこそ正しい龍山公のお孫である。といって俄に小普請組の石川某の遺子たちを探しはじめた。お孫であればまだみんな、若い、稚い、お方たちに相違ない。その四人のうちの一人を見つけてお迎えしてこそ、初めて、お家は万代である、亀山六万石は初めて明るい甦生をするのだといっていい! こう正統派の家臣たちは主張してやまなかった。
そこで、羅門塔十郎のところへ、ある時、非公式の使者が訪れた。
(龍山公のご落胤であるその四名のお孫たちを、ぜひとも、探し出してもらいたい)
と、いう依頼であったことはもちろんである。
頼みては大名である。事件は重大である。その報酬の額がいかに莫大であるかも想像がつく。
「ウーム、成程……」
と、東儀与力は、羨ましそうに聞き終って、羅門塔十郎が、役禄を辞して、悠々と東都に遊び暮しながら、しかも、ぜいたくな服装をしているのは、そんな金の出所があるからだろうとうなずいた。
「そのご依頼をうけてから、もう八、九年にもなるのでござるか」
「大坂奉行所の方で、なかなかお暇をくれぬので、思わず年月を過しましたが、もう猶予もあと一年ばかり、これからは、励みをいれてかかる覚悟です」
「して、きょうこれからお訪ねになる八官町というのは」
「さ、それです」
と、塔十郎は草埃を払って、腰を上げながら、坂を下りはじめた。
「さるところから聞きこんだのですが、小普請の石川某から貰われた娘が、そこに住んでおるということなので、ちょっと、小あたりに訪ねてみようという所存なのです」
「ほ、すると、龍山公のお孫でござるな」
「まだ、真実か、嘘かは、充分に探ってみた上でなければわからぬが……」
「しかし耳よりなことじゃ。そして、その娘と申すのは、今、八官町のどこにおるのでござるか」
「あの辺は、多く、旗本町ですな」
「左様。大して、家格の大きなお旗本はおらぬが、だいたい御直参の多く住んでいるところなので」
「そのうちの一軒です」
「するとやはり、武家屋敷なので?」
「いかにも」
「何という者の屋敷でござりますな」
「江戸城の書院番頭富武五百之進という人物です」
「えッ、あの、富武五百之進」
「そこに、花世という一人娘はおりませんか」
「お、おりまする。……が、あの花世が……ふウむ……これはどうも、ふしぎ千万だ」
「ご承知ですか、その花世を」
「知っているどころではござらぬ」
と、東儀与力は意外な愕きに衝たれながら、花世について、自分が知っているかぎりの事実を塔十郎に話し出した。
塔十郎も意外だったらしい。
あれは貰い娘である、龍山公の落し胤であるらしい、ということを他から聞きこんで、これから探りに行こうというその娘が、江戸流の捕物名人塙江漢老人の一子塙郁次郎と許嫁の間がらであるというのは奇縁である。
いや、そればかりではない。
東儀与力にいわせると、その花世の行動には、こんどの女笛師のお雪が殺された事件以来、いろいろな奇怪なことが多いというのである。
唖男を捕まえて、奉行所の拷問倉で吟味をしている時、そこの石倉の窓から覗いた女の顔は、彼女に、そっくりであった。
また、つい二、三日前の晩も、江漢老人の計りごとで、その唖聾の男を牢から放してやると、どこからともなく頭巾すがたの女が出て、唖に近づこうとした。そして、東儀与力が追いつめて、さる呉服屋の中に見出して捕まえてみると、それは、富武五百之進の娘の花世であった。
まさか、江漢老人のご子息の許嫁であり、また書院番頭のご息女が──と自分の疑惑を無理に制して、その晩は、八官町のやしきの門まで、送り届けてやったともいうのである。
「ははあ……そういう女性ですか」
と、羅門塔十郎は、すこし失望のいろを泛かべて、聞き歩みに現な足を運びながら、腕を拱いた。
「お、ここの角屋敷でござる。……いつのまにかもう八官町で」
「成程、この家ですな」
「左様。──てまえは、ご用事のすむまで、外にお待ち申しておりましょう」
「いやいや、貴公と花世とはご面識があるとのことですから、かえって、ご一緒にはいって貰った方が好都合です」
「では」
と、東儀三郎兵衛も、塔十郎のあとにつづいて、何がな、気構えを緊めつけられながら、つかつかと門内へはいった。
庭垣も、式台も、至って質素な玄関である。ふたりは静かにそこに立って、
「たのむ」
と、奥へ言った。
静かに、ふすまの辷る音。
小間使である。手をついて、
「あの、どちらさまでござりましょうか」
「花世どのは、ご在宅かの」
と、東儀与力が代って、軽く、ふたりの姓名を告げる。
「お嬢様はただ今、よそにお出ましで、お留守でござりますが」
「ははあ、それではまた、白魚橋の水天宮へご日参ではござらぬか」
「ま。よくごぞんじで……」
「いつぞやも、その途中でお目にかかりました。では、ご主人の五百之進殿は」
「その旦那様は、ちと前から、お知行所の下総の方へお旅立ちで、まだお帰りがござりませぬ」
「やれやれ」
と、塔十郎の顔をふり顧って、眼で、何か語らいながら、
「ではお留守中をぶしつけながら、花世殿のお帰りまで、玄関脇のお部屋でも拝借して、お待ちうけしたいと思うが、どうであろう」
「さ、私には計らいかねますが……」
「用人はおらぬのか」
「至って、無人なおやしきでございますから」
「案じることはない。お目にかかればすぐわかることじゃ」
と、草履をぬいで、
「羅門氏、そうしようではないか」
と、上がってしまった。
若い小間使は困った容子であったが、東儀が誰であるか、どんな役目の者かは、知っているので、恐々、奥の客間に通して、茶を出しておいた。
と──二人がことばもなく、寂然と、坐り合って、花世の帰るのを待っていると、二間ほど隔てた奥の室で、人の咳ばらいが聞えた。
「? ……」
二人は、無言の裡に、眼を見あわせた。
無人だといい、主人も知行所へ旅立ちをして不在だといったのに、今の声は、たしかに男の咳ばらいである。
同じような疑問を抱きながら、しばらく、羅門も東儀も耳を敧てていると、やがて、そこの部屋の襖があいた。そして、すすすと、辷るような跫音が廊下づたいに近づいてきたかと思うと、隣の部屋をのぞいて、
「花世どの、花世どの……」
と、呼んだ。
つづいて、独り語が洩れた。
「おや、お部屋にはおらぬのか。……ははあ、花を挿けておられるな、では、客間か、花世どの」
と、こんどは、二人の控えている客間の境を二尺ほどすうっと開けた。
「やっ?」
東儀三郎兵衛は、倒れるばかりに驚いて、思わず大きな声を発してしまった。
開けた方の者も、吃驚したのであろう、はッと、顔いろを変えて、
「お! これはご来客、失礼を!」
と、ピシャリッと、閉め切るがはやいか、跫音あわただしく、たたたたと奥の方へ隠れこんでしまった。
羅門塔十郎は、呆ッ気にとられた顔つきで、
「東儀殿、どうなすった」
「ウーム、意外だ。いよいよ分らない」
「一体、今そこへ顔を出した若い武士は、あれは何者ですか」
「羅門氏にはまだご承知あるまいが、拙者は、しばらく見なくとも忘れはせぬ。あの若者こそ、先刻お話しいたした、塙江漢先生のご子息じゃ」
「えっ、では今のが、塙郁次郎ですか」
「たしかに郁次郎だ。──だが解せぬのは、その郁次郎は、長崎遊学から帰府の途中にあるはずで、まだ父の江漢先生の許にも帰ったという話も聞かぬ。然るに、いつのまにかこの屋敷の奥に隠れこんでおるというのは、どういうわけであろうか」
「今の一瞬、彼がさッといろを変えた眼ざしといい、あの妙な挙動、自分にも何とも不審に映ったが……」
と、羅門塔十郎は、その活眼から燃えるするどい洞察力のあらんかぎりをこめているように、腕を拱んで、じいっと、奥の方を見つめながら呟いた。
同時に、東儀与力の脳裡には、つい先程、「時雨の笛」の中から出た手紙の署名──あの郁次郎という文字を、焙り出しのように思いうかべた。
「え、お客様がお待ち遊ばしておいでになるって? ……どちらのお部屋に?」
そこへ、障子の外に、帰って来た花世の声が、明るくひびいた。
明るい微笑みに、いっぱいな愛嬌をたたえて、花世は、客の待つ室の障子をしずかに開けた。
「これは東儀様でござりましたか、いつぞやは飛んだお間違いをかけた上に、わざわざ送って戴いたりなどして、まだお礼も申しあげず……」
「いやいや、その折は、拙者こそ大きに失礼いたした。時にこれにおるは、其許もご存知であろう、噂のたかい、上方の羅門塔十郎殿で」
「ま。……ではこのお方が、あの有名な」
「お初にお目にかかります」
と、塔十郎は不躾にならない程度に、花世の顔を正視しながら、初対面の挨拶を交わして、静かに、品よく、四方山の座談に移る
──まず彼女の父の消息をたずね、江漢老人との旧交ぶりを語り、床の間に見える八雲箏から、琴の話、挿花の批評、東都の感想、江戸と上方との流行の差などほとんど尽くるところがない。その話がまた、いちいち該博で、蘊蓄があって、そして衒わず媚びずである。惚々と人をして聞き入らしめる魅力がある。
(さすがに知名な士、羅門様ではある)
と花世も、さもさも感じ入ったように、彼の巧みな座談にひきこまれて、初対面から打ち溶けた風であった。──東儀与力はまた、二人の話が合ってゆくので、羅門の社交的な才にも密かに敬服していたが、わるくするとこんな動機に二人の間に恋愛でも生れはしまいか、と余けいな心配を持ってみたりした。
「おお、つい話しこんで、思わず長座をいたしたが、時に……」
と、塔十郎はやがて思い出したように、
「貴女は松平周防守のご隠居──亀山の龍山公をご存知ありませぬか」
と、さりげなく、本題を訊ねだした。
急に、話題が変ったので、花世はすこし不審な顔をしながら、ぱっちりと眼を向けて、
「いいえ、ちっとも……」
「ではお父上の五百之進殿から、何かその龍山公について、話されたことでも」
「それもございませぬ」
「ははあ。では……不躾なことばかり伺いますが、貴女の母上は、ご生存ですか」
「母は幼い時に亡くなって、父の手一つで育てられたと聞いておりまする」
「して、五百之進殿は、ご実父ですか、ご養父でございますか」
花世は、すこし憤っとしたように、
「はい、血をわけた、ほんとの父でござります」
と、語尾まで、はッきりと言った。
その間に東儀与力は、郁次郎の隠れこんだ奥の方ばかり気にしているので、花世に気どられてはまずいと思ったらしく、また雑話に紛らして、いずれ五百之進殿のいる時に──と再訪を告げて席を立った。
花世は、玄関まで送って出ながら、
「父も四、五日うちには、ご用先から戻るでござりましょう」と言った。
「あっ……」
塔十郎は何と思ってした事か、式台を降りて、草履を穿くまでの間に、右手の拇指で、腰の印籠をわざと袴の間から落した。それは東儀与力でさえ気づかないほど自然に落したのである。
花世はすぐに拾い上げて何気なく、
「もし、ご印籠が落ちました」
と、手をさし伸べた。
ちょっと、自分の腰を探ってみて、
「オオ、これはどうも、憚りさまです」
と、彼は、初めて気づいたように礼を言いながら受け取ったが、その極めて短い咄嗟に、羅門一流の鋭い眼ざしは、印籠を渡す彼女の手を、いや、その五本の指を──ちらッと眸の中に調べこんでしまった。
富武家の門を辞してから、二人はまた、八重洲河岸を歩きながら首を傾げていた。
「いかがですか、貴公のお眼に映った花世という女性は」
と、東儀がまず意見を訊いた。
「賢く、優婉に、そしてなかなか教養もあるらしい」
と、羅門は答えた。
「父娘仲のよいことは世間の定評じゃが、しかし、その奥の奥、裏の裏には、何か? ……あると思われるが」
「それは、疑ってみれば多分に疑える点はある。第一、まだ長崎表から帰府していないはずの塙郁次郎を屋敷の奥に匿っているなどという事実は、たしかに、あの父娘の秘密を証拠だてておるものだ」
「ひとつ!」
と、東儀はぴりっと眉を昂げて立ち止まった──
「五百之進の不在こそかえって倖せ、今夜にでも、ふいに捕手を向けて、奥に潜りこんでいる郁次郎を、召捕ってみるといたそうか」
「いや、それは早い」
「しかし、時雨笛から出た立派な証拠もあるではござらぬか」
「他人の偽筆といわれればそれまででしょう。もう少し証拠がためをする必要がある。──殊にほかならぬ塙江漢先生のご子息、もし間違いだった場合には、拙者は元より、幾十年来功労のあるお方に対して、奉行所としても申し開きが立ちますまい」
「なるほど……」
と、東儀与力はほとんど昏迷そのもののように鬱ぎこんで、
「あの醇朴な老先生の風貌を思い、そのご子息郁次郎が下手人の覆面だと考えて来ると、公私両面に種々な私恩や情実も絡まって参るわけだな。これやどうも、迂闊に手出しをすることもならなくなったわい」
と、足さえも重く、捗らなくなってしまった。
羅門塔十郎も同じように吐息をついて、
「この事件は、局外からちょっと観ると、至って簡単なように察しられるが、さて、手を着けて一歩はいって見ると、古沼へ足を踏み入れるようで底の知れない秘密がありそうだ。所詮この塔十郎の如き不才の者の及ぶところではないし、また、最も疑わしい人間が江漢先生の子息となると、私情としても、手を下すには忍びぬことだ。……頼まれ甲斐もないようだが、願わくば、拙者もこの辺で手を引きたいものです」
と、匙を投げてしまった。
東儀は驚いて、縋らんばかりに、
「今、貴公に手を引かれては当惑至極じゃ。そんな事を仰せられずに、何とか一つ、打開策はござるまいか」
「拙者に一つの案がないではないが……」
「それは?」
「さ、それも上方流の詮議法ですからな。世上にはすぐに、羅門がやったな、という事が知れる」
「知れてはお差支えになるのでござるか」
「大先輩たる江漢先生のお耳にはいれば、決して、お快くは思われますまい」
「何、そんなご斟酌がいりましょうや。ま、そのご名案をお聞かせ下さい」
「では、申してみるが、鷺江ゆき女の死体はまだ奉行所に保存してありましょうな」
「十五夜の晩以来、だいぶ日数は経っておりますが、証拠がためのつくまではと、工夫を凝らして、死体蔵にとってあります」
「日本橋の薬研堀に、平賀鳩渓が長崎から招いた岡本亀八と申す人形師の住んでおるのをご存じか」
「あ。あの蝋細工の亀八で」
「そうです。その亀八に雪女の死体を見せて、同一の死人形を亀八独特の蝋細工にて作らせ、折からちょうど平賀鳩渓が神田のお火除地に於いて博物会をひらく催しがありますから、その会場の一隅に出陳して、これを広く世間の人々に見せるのです」
「ははあ。では奉行所内の極秘な物を、世上へ公開いたすことになるが」
「さ。そこが江戸流と上方流の相違なのです。拙者の流儀で行くならばむしろそれが世間の評判になるのを欲する。そして、博物会の会場に目明しを紛れ込ませ、当日蝋人形の前に立ち寄る見物の噂や囁きに注意させるのです」
「成程」
「評判が高くなれば、鷺江お雪の門人たちも、それとなく見に来るであろうし、第一彼女を殺害した下手人が気にかかって、見にこないではおられぬと思う。これは、上方では幾度か試みているが、いつも奇功を奏している事です」
東儀は一も二もなく同意をして、すぐその奇計にとりかかる決意を洩らしたが、羅門はまた考え直して、それをやるにしても、一応は江漢先生の意見を求めるのが順当でもあり、また礼儀であろうと言い加えた。
智に富むばかりでなく、礼にも厚い彼の床しさに、東儀はいよいよ敬服して、
「では早速、手前は鶉坂へご相談に参り、帰り道には薬研堀の亀八を訪ねて来るといたしますから、羅門氏には、また、明日でもここへご足労を願われまいか」
奉行所へ立ち寄って、与力部屋のぬるい茶を喫むとすぐに、彼はこう告げて、忙しげに出て行った。
鶉坂の塙老人は、東儀与力の顔を見ると、相変らず、平和に恵まれた柔和な相をくずして、
「おう東儀か、どうじゃなその後は。……なに少しも探査が捗らんと申すか。それもよかろう、貴公たちには難事件にぶつかる程よい修業じゃよ。……わしか? ははは、わしは無為無病、いつもこの通り頑健じゃ。そのうちに、郁次郎も長崎表から帰るのでな。子息の帰るまでに、なるべく養生所の準備もしておいてやりたいし、帰ればすぐに、花世との婚儀じゃ。イヤ、これでなかなか忙しいんじゃよ」
と、頗るな機嫌である。
世に「親馬鹿」という俗言があるが、老先生ほどな人物も、子に甘い余り、やはり盲愛の例に洩れないで郁次郎に騙されているをご存じないわい、と東儀は心の裡で、おかしくもあり気の毒にもなって、それには触れずに、掻いつまんで用件の意見だけを求めると、江漢老人はしばらく考えていたが、
「ははあ、それは上方流の羅門の献策とみえる。あの方法も、幾度も繰り返しては効がないが、江戸では珍しいから或いは意外な拾い物があるかも知れん」
と、可もなし不可もなしという口吻。
東儀は早速、その帰り足で、亀八の家を訪ね、万事手筈をきめて、いよいよそれから数日の後の博物会に「亀八作、蝋細工死人形」と題して出陳することになった。
それが、名月の夜に殺された女笛師鷺江お雪の死体を模型したものだという噂がぱっとひろまったので、今年の博物会では第一の呼び物となって、昌平橋際の火除地にできた小屋がけの会場は毎日割れ返るような人出である。
この博物会というのは、本草学者の田村藍水や鳩渓平賀源内などが、長崎の蘭人から伝え聞いた方法で、協力して明和以来すでに十何回を重ねている催しだった。後年の博覧会は、本邦では、平賀鳩渓のこの催しが濫觴となったものである。
「やあ、あれか、評判の美女の蝋人形は」
「凄いな、生きているようだ」
「ばかをいえ、鷺江お雪の死体を写すと書いてあるじゃねえか。死人形が生きているようじゃ、下手いことにならあ」
「だが、あの血の色の生々しさッたらねえな。触ると、指につきそうだ」
「オヤ、指といえば、左の手の人差指が一本切り取られてあるぜ」
「ほんとだ。殺した上に、指を一本切ったんだ。ひどい真似をしやがる。奉行所ものろまじゃねえか、なぜ早く下手人を捕えて、逆磔にしてしまわねえんだろう」
「叱ッ、叱ッ……。そこらに、八丁堀の手先がいるぜ」
会期の七日間、毎日の人気はその死人形に蒐って、そこばかりは朝から夕刻まで黒山のような人だった。
と──明日はもうこの催しも終ろうという六日目の夕刻に迫ってからであった。人混みの中に揉まれて、舶載の物産や、諸国の織物、工芸品、会主鳩渓の出品になる珍しい火浣布とか、エレキテルの機械とかをよいほどに見流してきた、黒羽織黒小袖という目立たない服装をした一人の武士が、深編笠のつばに片手をかけながら、いつのまにか、死人形の飾ってある青竹の手欄の前にぴたと足を止めて、
「オオ……」
と、何か強い感動に衝たれている様子だった。
「…………」
編笠はかろく顫えていた。彼は、いつまでもそこを去ろうとはせず、釘付けになったように、じっと立ち竦んでいた。──と思うまに、ほろり、ほろり、とその笠の裡から涙のような光がこぼれた。
絞りの半手拭をチャンチキかぶりにした鳶のような男と、江戸見物のお上りさん然とした男とが、人混みに押されながら、湯呑場の隅で接待茶を飲んでいた。
と、絶えず、会場の中に、眼を配っていた一方の男が、ふいに袖を引いて、
「おっ波越、上役が招いているぜ」
「そうか」
と、あわてて接待場へ茶碗を返して、
「どこに?」
「例の蝋人形の飾ってある場所の横に」
「お、手を上げているな。さては何かあの前に、変った事があると見える」
鳶の者に変装した加山耀蔵と、江戸見物の男に窶した波越八弥の二同心は、群集の中を潜って、出陳場の囲いの蔭に手合図をしている東儀与力の側へ近づいて行った。
東儀は、人と人との間から、じっと、昂奮に燃える眼を据えていたが、
「加山か、おう波越も、あれにおる編笠の侍のどこかに見覚えはないか、どうだ」
と、密かに指を向けた。
「さあ? ……」
と、二人が考えていると、
「顔は見えぬが、肩とか、身丈とか、どこかに記憶があるだろう。毎日こうして張込んでいても、一目でピンと勘に来ないようでは、まだ貴公たちもお若いぞ」
「畏れいりました。……成程、そういわれてみるとどうやら」
「思い出したか。いつぞやの晩、麻布のお雪の空家へ吾々が張込んでいた時に、玉枝玉枝と、二度ほど呼びながら這入って来たあの覆面だ。また貴公たちは、十五夜の晩、増上寺の境内でも見かけておるはずだのに……」
「ウム、似ています!」
「最前から四半刻も、あれに立って慄然としたまま、動き得ないように竦んでいる様子からして何とも不審な挙動だ」
「いかにも、ただの見物人ではありませぬな」
「万が一にも、大丈夫とは思うが、万一、腰の刀でも引き抜くと、この混雑の中で多数な怪我人を出すから、充分に、気をつけい」
「承知しました」
二人は目くばせを交わして、さっと、見物人の中へ姿を隠した。
東儀はその位置を離れずに、疑問の編笠の人物と、二人の部下がそれへ近づいてゆく間隔とを、三角線に見つめながら、掌脂を握って捕縄の飛ぶのを待っていたが、加山も波越も、人波の中に屈み腰になったまま、いつまで経っても、侍の背後へ迫ってゆく様子が見えない。
「ちいッ、愚図め。何を怯んでおるのだろう」
と、じりじりした東儀は、堪らなくなって、そっと、加山のうしろから、肩を突いて言った。
「なぜ早く側へ行って、彼奴の右手を捕らんのだ」
「…………」
加山は黙ってかぶりを振った。
舌打ちをしながら、東儀はまた、波越の袖を引いて、
「今だぞ」
と、強く囁いた。
「駄目です」
と、田舎者に変装している波越は、投げるように、肚の息を、ふッと吐いた。
「なぜっ?」
と、東儀の声は、低いが、鋭く咎めた。
「あの侍のわきには、先刻から、妙にぴったりとついている町人がいて、それが邪魔になって、何としても手出しができぬのです」
なるほど、そう言われて、東儀も初めて気がついた。藍弁慶の素袷に算盤縞の三尺帯をきりっと横締めにした小粋な男である。それが絶えず鋭い眼配りを撒いているので、ちょうど編笠の侍を庇っているような風に見える。どうしても、その町人が邪魔でならない。
しかたがないので、しばらく隙を計っていると、やがて人混みの間に、編笠がくるっと横に向いた。
「オ、出て行くぞ」
東儀があわてて注意するまでもなく、忠実なふたりの同心は、手具脛を引いて、彼の後を左右から尾けて行った。藍弁慶を着た町人のすがたは、やはり、影の形に添うように、それへ絡んで博物会の外までも付いている。
「ははあ、いよいよ側にいる町人は、彼奴の用心棒にちがいないぞ」
加山と波越は、目で語りながら、火除地の道を木蔭から木蔭へ縫っていた。江戸の火除地には、梧桐がたくさん植え付けてあって、俗に、桐畠ともいうくらい樹が多かった。
そのうちに筋違御門の前まで来た。そこは三ツ叉の交叉路でまた人通りが混んでいる。編笠の侍は、目の前を突ッ切る四ツ手駕をやり過ごして、ついと、燕のように、向う側へ駈け出した。
「あっ!」
と、加山耀蔵は、思わず上ずッた声を上げて、波越の姿をふり顧った。波越は、隠していた十手を手裡につかんで、隼のように、肩を落して、走り出している。
ほんの眼ばたきをする瞬間だった。藍弁慶の町人と編笠のふたりが、辻の中ほどで何かに蹌いた。──と思うまに、ぱッと、二人は左右に駈け別れているのだった。
しかも、波越の眼に映ったのは、その咄嗟に、町人のすばやい手が侍の懐から何物かを受け取っていたことである。
(さ! どッちを追おうか?)
ふたりの足は、刹那にちょっと譲り合ったが、波越が一散に深編笠を追い捲って行ったので、加山耀蔵は、いきなり横ッ跳びに逃げ出した、藍弁慶の町人を、遮二無二、息もつかずに、追い詰めて行った。
横丁から横丁へと、町人の脚は、鹿のように迅かった。けれど、何度ふり顧っても、すぐうしろに加山耀蔵の姿が迫っていたので、すッかり呼吸を疲らしてしまったらしい。
「──旦那。くたびれるだけ損だ。あっさりと、お縄を頂戴いたしやしょう」
と、立ちどまって、紅く上気した顔に、にっこりと笑靨を泛かめて、神妙に、二本の腕をうしろへ廻した。
「ウム、男らしい!」
と、加山耀蔵は跳びかかって、すぐに、熟練した縄さばきで、ぴったりと、縛り上げた。
「歩け」
「真っ昼間です。旦那あ、あっしも神妙にしたんですから、なるべく、人通りのねえ所を歩いておくんなせえ。──こんな姿は、可愛い女にゃ、見せたくねえ」
耀蔵は、附近の自身番へ、縄付を抛り込むように預けて、すぐに前の四つ辻まで駈け戻った。そして、そこらの大通りを中心に縦横に駈け廻って、僚友波越八弥の吉左右をさがし求めた。
と、その波越は、神田川の堤の上に、唇を噛んで、無念そうに川面を睨んでいた。
「オイ、波越、どうした」
駈け寄って、肩を叩くと、
「加山か。……残念だ!」
「逃がしたのか」
「これを見てくれ」
と、波越は腕につかんでいる捕縄を、わなわなと見せて、口惜しそうに、叩きつけた。男泣きに泣くように、顔の筋をふるわした。
「ここまで追い詰めたから、しめたッと思って、分銅を投げつけると、編笠の首に絡みついた。で、もうこッちのものだと、力まかせに絞り込むと、そのとたんに、これだ! 見てくれ! いきなり脇差を抜いて捕縄を切ッたんだ。あっ、と今度は、十手で打つかってゆくとどうだろう、川の中に待っていた小舟へ飛び降りて、矢のように、大川へ出てしまったじゃないか」
「残念なことをした」
「一度ならず、二度三度だ。おれはもう同心が嫌になった。おれには、捕縄を持つような業は適さないとみえる」
「まあ、そう落胆するな。……また上役の東儀氏が、ぶつぶつ苦いことをいうかも知れないが、その代りには、おれがもう一人の怪しい町人を捕まえたから、いささか埋め合せがつくというものだ」
「オオ、彼奴を召捕てくれたか。何か、大事らしい品を、編笠の侍から受け取ったから、それは、時にとっていい獲物だ。それなのにこの俺は、何というへまをしたんだろう」
「おい僻むな。俺の功は、貴様の功だ。お互いにこの事件には、発端から偶然にも二人がいっしょにぶツかって、しかも、九死一生の目にまで共に遭っているのだ。これからも、そんな隔てを捨てて、お互に、励まし合おうじゃないか」
「加山、よく言ってくれた。おれはともすると、意志の脆い性質の弱点が出ていけない。これからも、鞭を打ってくれい」
「おれこそ、欠点の多い人間だ。頼む」
二人は、敗地に立つたびに、友情を強めた。感激の手を握り交わして、難路の踏破を誓った。
「さ、すぐに彼奴を調べてみよう」
「無論だ」
と、自身番へ戻って、錆ついた捕物道具が並べてある狭い部屋へ、預けておいた藍弁慶の男をひき据えた。
「おい! 顔を上げろ」
「ヘイ……」
と、男は素直に顔を上げた。
「貴様は連れのあの侍と、どういう縁故のある人間だな。まず、それから申せ」
「連れ?」
と、すこし変な顔をして、
「旦那、あっしに、連れなんざありませんぜ」
「偽りを申すな。あの博物会の中から一緒に出た侍は、貴様の連れに相違あるまい」
「うふッ」
と、彼は吹き出しかけたが、二人の怖ろしい眼に出会って、ぐっと、その笑いを嚥みころしながら、
「冗談じゃございません、あれや、あっしが朝から目につけて来た鴨なんで。……へへへへへ、旦那方だって、よくご存じのくせに、お人が悪うございますぜ」
「鴨? ……して一体貴様何者なのか?」
「こうなっちゃ、何もかも、神妙に申し上げます。あっしゃ、何を隠しましょう、中国筋からこの江戸表まで、あの侍の懐を狙って付いて来た、道中稼ぎの掏児で、別府の新七というもんです」
「じゃ掏児か」
「へい、これでも、中国筋では、少しは知られているチボでございます。花の江戸へ出て、お縄を戴いたなあ、かえって、本望でございます」
二人は、唖然として、顔を見あわせてしまった。二の句がつげなかった。
最初は、その自白も疑ってみたが、彼の掏児であることは、いくらでも証拠だてられた。また、筋違御門で編笠の侍から掏り盗ったという紙入れまで、そこへ、吐いて見せた。
「貴公たち、また、最前の怪物を逃がしたそうではないか」
そこへ、東儀与力が、不きげんな色を眉に漲らしてはいって来た。それに尾いて──
「何と言っても、きょうは場所が悪かった。まあ、そう咎めてもしかたがないでしょう」
と、取做して言った声は、羅門塔十郎であった。
そして二人は、狭い、薄暗い、自身番小屋の隅に腰をかけた。
ちらと、二同心の仮吟味をしている様子へ横目をくれて、
「肝腎なシテを逃がして、そんなワキ師を捕えてみたところで大したことはあるまいが」
と、冷笑した。
「面目次第もございませぬ」
と、加山は、俯向いている波越に代って、
「しかし、意外な獲物がございましたからご一見下さいまし」
と、別府の新七が自白したことばと共に、彼の掏りとッた紙入れを羅門と東儀の間に差し出した。
「やっ、これは、莫迦にはならぬ」
と、手に取り上げた羅門は、中をひらいてすぐに言った。
「東儀氏、ごらんなさい、失策どころか、これこそ二人の苦節を哀れんだ、神の賜うた天祐です。──この紙入れは塙郁次郎の所持品だ」
「えっ、ど、どうしてそれが分りますな」
「ここに一札がはいっておる。これは、郁次郎が長崎表から江戸へ送り金をした為替札です。即ち本石町の両替屋佐渡平の扱いで、この金札持参の者へ、五十両相渡すべきものなりと書いてあります」
「ウーム成程」
「まだある」
と、次の一札をひろげて、
「これは手紙ですが、見らるるとおり女文字、しかも、宛名は郁様へ、雪女よりとしてあるのを何と見らるるか」
「オオ!」
と、東儀与力は、それをつかむと飛び上がらんばかりに驚いて、
「こ、これは、鷺江お雪が生前に、男の郁次郎へ送った恋文ではござらぬか。もう彼が、覆面の怪武士ということは、一点の疑いをはさむ余地がない。──こうして、女笛師の鷺江と密通しておりながら、一方には、何食わぬ顔をして、花世とも恋をし遂げようという図太い企みが、ようやく歴然として参った。最前の深編笠は、たしかに塙郁次郎! もう事件は解決したも同様だ! 一刻も、猶予は相成らん、目をつぶって、私情を捨てることだ」
と、意気込んだ。
然り、事件は一歩すすんだ。
自身番の番太郎に手伝わせて、掏児の別府新七を、奉行所の揚屋へ差送った後、東儀与力は、もはや暗黒の迷宮から曙光をつかんだような気持で、さらに、次の電撃的な飛躍の手順を立てた。
一 今夜のうちに、両替屋の佐渡平の店を訪れて、為替札の実否を調べておくこと
一 同時に、主人の佐渡屋和平は、鷺江お雪の笛の門人であり、かつ彼女の殺害された十五夜の同日、麻布の家で死体となっていた町人に相違なければ、この件も、同時に、再吟味をとること
一 夜半には、加山、波越の両名にて、ふたたび博物会の蝋人形の囲い場を見張ること
一 明朝、寝込みに、或いは都合によって夕刻、すべての証拠がため整い次第に、東儀与力自身、奉行直筆の差紙をふところにして、富武五百之進の屋敷に赴き、塙郁次郎を御用拉致すること
なお細かい手配りや注意については、羅門塔十郎が剃刀で断つように、きびきびと、抜け目なく、頭脳のいい指図をした。
「ゆるせ」
軒の紺暖簾が卸されてから間もない宵のうち。
佐渡平の店は、大戸をおろして、店のひとみ障子の潜りが二枚だけ、黄いろい灯を往来に映していた。
東儀与力はずっとはいった。
「内儀はおるか」
「どなた様でござりましょうか」
──と店の者。
「八丁堀の者じゃ。東儀三郎兵衛」
「あ、お見それいたしました。……まず、どうぞこちらへ」
と、帳場のわきへ、座蒲団をすすめる。
「内儀に会って、ちと、密談したいことがあって罷り越したのじゃ。取次いでくれい」
「それはどうも、わざわざ、恐れ入りまするが、実はお内儀様は、昨日、ご親類の老人を連れて、相州の塔の沢へ、入湯にお出ましになりまして……しばらくはその」
東儀は眉をひそめた。主人の佐渡平が非業な死を遂げてからまだ間もないのに、その妻が入湯に行くなどとは、不貞とも不埒とも、言いようのない悪妻だと憤った。
その顔いろを、畏る畏る仰いで、店の者は、
「何か、ご用の筋がございますならば、奥に番頭もおりますゆえ、すぐにこれへ」
「待て待て」
「へい」
「公用じゃ、殊に、密談を要すること、番頭などに洩らすわけにはならん。内儀に飛脚を打って、立ち帰り次第に、奉行所に出頭させい。世間憚らぬ不貞な行状、きびしく叱りおくぞ」
用の足らぬ腹立ちも交ざッて、苦々しげに立ち上がると、奥と帳場の境をかくしている数寄屋暖簾を分けて、小肥りな、四十がらみの男が、あわただしく、それへ出て、細縞の羽織をさばいて彼の前へ、ぺったりと、両手をついた。
「しばらく、お待ち下さいませ」
「誰だ……其方は」
「当家の主、佐渡屋和平でござります」
「な、なんだと!」
東儀は愕然とした余り、思わず足を退いて、
「佐渡平? ……あの、そちが、死んだ佐渡平だと申すのか」
「鷺江お雪の家で殺されていた町人は、あれは、私の弟、忠三郎でござります」
「それをば何で、先頃、部下の者が当家へ調べに参った時には、そちの内儀を初め家族一同が、悲嘆の涙にくれ、なお、其方が死んだものと申し立てたか」
「まったくの思い違いでござりました。その間違いの原因は、実に十五夜の当日、高輪の月見茶屋から友達と外れて、そのまま、大山へ詣り、箱根熱海と遊び廻って立ち帰りますと、死んだ主人が戻ったというわけで、私の方こそ、呆っ気に取られましたような次第で。……だんだん様子を訊ねてみますと、土蔵二階に居候をしている弟の忠三郎めが、その前から戻りませぬ」
「ふム、成程」
「この男は、以前は、肥前の唐津、堺、長崎などにも出店を持ち、相応にやっていた木綿問屋でござりますが、どうした心の狂いか、酒を飲みはじめて、店もたたみ、妻子もすてて、江戸表へ来るなり、私共の土蔵の二階に、為すこともなく遊び暮しておりました」
「では、お雪の家に取り捨てられてあった死骸は、その忠三郎の方じゃな」
「兄弟のことゆえ、人様がよく間違えるほど似ておりますので、こんな事になったのではないかと存じまする」
「それならそうと、なぜすぐに、届け出んのじゃ」
「私が帰ったのも、つい昨日で、帰ってみれば、今申し上げたような大騒動、女房は急に病の枕を上げる、親類は来る、こんどは忠三郎が見えないといったような取込みようで、つい、お届けを怠りましたが、明日は、自身で出頭いたすつもりで、今も今とて、お越しとは存じながら、奥に、謹慎しておりましたのでござります」
と、改めて、奥へ招いて、酒肴を出した。
東儀はそれへ手もつけないで、すぐに、為替の調べにかかった。その方の話は、店のことだけに簡単に分明した。
けれど同様な組為替は、同一人から同じ長崎表から、二枚送られていることがその晩の帳簿で知れた。そして、一枚の方が金額が多く、その額面三百両の金は、つい昨日のこと、若いお屋敷風の頭巾の女が受け取りにきて、封金で三ツ、受取って行ったというのであった。
若いお屋敷風の女と聞くと、東儀は、習性のように、拷問倉の窓からのぞいたあの白い顔と、花世の名を思い出すのだった。
佐渡平の店へ金を取りに来た妙齢の女についても、店の者たちにつぶさに糺すと、やはり、その二つを出ない輪廓なのである。いや、気のせいか、それも花世らしいのである。
「何か、これという、たしかな特徴がその女になかったか」
と、訊ねると、若い手代が、隅から答えた。
「私の目に、はっきり残っていることがございます」
「ウム、申してみい」
「雪のように、白い、襟あしの奥に、お金をかぞえる時、ちらと、かなり大きな黒子があったように覚えております」
「襟あしの奥に」
「へい、俯向かなければ見えません」
「ほかには」
「さあ?」と、店の者たちは、羞恥み笑いを見合して──「何しろ、余りご縹緻がよいので、それにばかり、気を奪られておりましたんで……へい、正直、左様なわけで、ついどうも……」
と、揃って、頭を掻いた。
昼は人いきれと熱鬧の埃に割れ返りそうな博物会の巨大な小屋も、夜は、物の怪でも出そうに真っ暗だった。丸太組のたかい天井を蔽っている暗灰色の布が、象の皺のような浪を立てて、はたはたと深夜の空にうごいている。昼の見物人が捨て散らした紙屑が、洞然たる無人の会場に、生きもののように、ひらひらと、飛んでいる。
淋しい、夜番の灯が、ぽちッと、隅の方に二つばかり……。
それも、何かの、眼みたいに見える。
「なあ、波越。なんだってこんな真夜半、蝋人形の張番をさせるのだろう。羅門塔十郎も時々、奇功に逸って、分らない指図をするぜ」
「いや、あの頭脳のいい先輩のことだから、何か、狙いどころがあるんだろう」
「しかし、窮命されているようだな。……オヤオヤ、夜番に貰った火種も消えてしまった」
「寒いなあ、そこに蓆があるから、それでもかぶっていよう。やがて、夜が明けるだろう」
と、霜除けをかぶった寒牡丹のように、ぶるぶると、歯の根を噛んでいるのは、今夜の見張をいいつけられた加山、波越の二同心だった。
しばらくすると、こんどは波越の方から──
「だがなあ加山、おれはまた、しみじみと奉行勤めがいやになって来だした」
「また、そんな弱音を吐くのか」
「と、言われちゃ、少し心外だが、考えてもみろ、若年からいろいろお世話になっている恩師の江漢先生のご子息が、いくら大悪党だって、貴様、イザとなって、縛れるか」
「それは俺も、自分が錆槍で抉られるよりも辛く考えているのだが、捕縄十手は飽くまで正大公明でなければならぬ。いわば、神の裁罰に代って人間がお預りしているものだ。私情に囚われてはなるまいと覚悟をしている」
「そんな講釈は、おれだって知っているが、いくら法縄をつかむ職業でも、やはり人間は人間だ、泣くなといわれても、泣かずにいられるか、貴様あ」
「おられまい、恐らくおれまい! 殊に、老先生の胸中を思うと」
「それ見ろ、貴様だって、血はあるだろうが」
「しかし、やはり、裁きは裁きだ。おれたちは、天に代る、征悪の使徒だ。貴様も、小さな私情に負けてはならんぜ」
「おれは苦しい。何という、いやな職業を択んだのだろう」
「そう考えるから辛いのだ、弱いのだ、天の使徒! 征悪の使徒! そう思うんだな」
ぎょッと、二人は何かの物音に、本能的に立ち上がった。──と、すぐにその気配が、大きな音響になって、二人の耳を衝った。
「やっ、蝋人形の囲い場だ」
「竹の柵を破ッた音だぞ」
物陰から躍り出して、そこを透かして見ると、ああ何たる怪だろう! 小豆縮緬の頭巾に深く顔をかくした白い眼元が、じっと、壇の上に屈み込んで、二人の影を見つめている。そして、彼女の腕には、そこに陳べてあった亀八作の蝋細工の死人形が、今しも、横ざまに、抱え込まれているではないか。
「待てッ!」
と、耀蔵は思わず呶鳴ってしまった。
ぐわらぐわらと凄まじい物音が、飾り壇の下へ種々な物を落した。鎧櫃、血みどろな片腕、白いぶらぶらな脛、簪、立て札──
「曲者め!」
耀蔵は、跳びかかって、女の帯際をつかんだらしい。キラリッと、短い刃が、空にきらめいた。耀蔵の手が絡んだ。がしかし、彼の手に倒されたのは、人形の胴中だった。すばらしい敏捷に生れついているような彼女の姿は、サッと、うしろの幕を懐剣で裂いて、消えこむように、囲いの裏へ飛び下りた。
「波越、逃がすな!」
と、友へ応じながら、加山はつづいて追ッた。追いかけながら見た彼女の胸には、たしかに、鷺江お雪の蝋細工の首が大事そうに抱えられていた。
しかも、その迅さは、風のようだった。加山が、二、三度も、丸太の根につまずいたのに、彼女は女らしい細心さと敏捷な速度で、外の、桐畠の闇に、かくれ込んでしまった。
先へ廻った波越八弥は、ふいに、彼女の前面へ出て奇襲した。それには、彼女もあわてたらしく、あッ、と軽い声をあげて戻りかけたところを、波越は、腕をのばして、むずと、頭巾をつかんだ。
有明けの空のような、仄白い、脅えた女の顔が、斜めに頭巾から剥くり出されたが、そのとたんに、波越八弥は、ほとんど、喪心するような驚きをあらわして、
「やっ! 貴女は」
と、叫んだ。
同時に、手を離した。──引き合っていた頭巾の手を。
放たれた小鳥のように、彼女の姿が、真ッ暗な風のなかへ、ばたばたと消えてゆくとすぐに、そこへ、息を喘いて来た加山耀蔵は、憤然と、友の腕くびを引っ掴んで、
「波越ッ、に、にがしたな貴様はッ」
「ウーム、逃がした」
「故意だ! たしかに故意だ」
と、彼の不甲斐なさを怒るが如く、つかんだ手を捻じ上げて、
「な、なんで、逃がしたかッ……。こらっ、波越! き、きさまは」
「ま、待て」
「ええ、癪にさわる、腹が立つ。待てもくそもあるものかッ。残念だ、残念だ」
「俺を……俺を打ってくれ」
「貴様を打って何になるんだ! ……ええ、ものの道理の分らんやつじゃ! 弱い男め! 意気地なしめ!」
と、泣きながら友を打った。
「すまない、加山、ゆるしてくれ。……おれの不覚だった」
波越は情の人だった。加山はどっちかといえば理性家だった、天職の意志のつよい好捕手だった。反いた性格であって、二人の友情は肉親も及ばないほど濃密なのである。互いに、激した感情を衝き上げられて、加山は、無意識に友をぶん撲りつつ組み合ってそこへ泣き倒れてしまった。
路傍の草の色に、ぱっと、明るい光線が射したので、二人は、驚いて跳び別れた。桐畠の小道を、静かに歩んで来た人の提灯の明りだった。それは、与力の東儀三郎兵衛である。
じっと──穢いものを見るように、ひれ伏している波越八弥を見下ろして、東儀のことばは、皮肉なくらい、静かだった。
「波越。──暇を遣わすぞ。お役儀を剥いで遣わす。どこへでも去れ! さだめし、満足だろう」
「えっ、波越に、お暇を」
と、吃驚して、加山がすがりついてゆく眼を、東儀のむずかしい顔が、避けるように、無言で、横にうごいた。
彼のうしろには、彼の硬ばった峻厳よりも、もっと冷々として理智的な、羅門塔十郎の眼が蛍いろに光っていた。
近国の知行所へ主が立ってしばらく留守中の富武家には、その夕方も、まだ、五百之進のすがたは見えなかった。
で、夜ははやくから、屋敷の数ある戸を閉め切って、灯も、微かだった。
そう風があるわけでもないのに、庭まわりの樹木が、時折、梢までうごいた。白い宵の星が、裏河岸の火の見櫓から、寂とした留守の空気をのぞいていた。
「おや? ……」
奥の部屋へ今、行燈を運んで行った花世は、ふと耳を澄ましながら、仄暗い隅の机に向っている若い侍へ、眸を向けた。
「何か、裏の方で、人の跫音がしたようではございませぬか」
「気のせいでしょう」
と、若い侍は、疲れた眼を、書物の上から離して、
「お父上からは、まだ、飛脚が参りませぬかの」
「オオ、夕方の用にまぎれて忘れておりました。あなたのご依頼の用もすみ、ほかの公用も片づいたから、もはや、間もなく帰る、郁次郎どのに、何事も、心配せぬように、とくれぐれも書いてござりました」
「お礼の申しようもござりませぬ」
「そんな、他人行儀なことを……」
灯にかこつけて、行燈と共に、郁次郎のそばへ摺り寄って、
「どんな苦しみをしても忌いませぬ。ただ、末かけて、お忘れくださいますな」
「お父上にも、そなたにも、婚儀の前に、こんなご苦労をかけながら、何で、薄情でおられましょうか。ただ、郁次郎がきょうまでの行状を、貴女が疑ってさえ下さらねば……」
「私は、信じておりまする。この信念をうごかしたら、私は、女ではございませぬ」
「そういう心を娶って、自分のものにする郁次郎は恵まれた人間です」
「お見捨てくださいますな。ほんとの、父ひとり、娘ひとりの、私です……」
恐々と、すがる手を、郁次郎は自分の手へ拯い取った。彼女のいじらしい恋は、爪のさきまで、桃いろに燃えていた。熱い、火のような手だった。
「ね、ようございますか、郁次郎さま」
ふるえている。……甘えている。
郁次郎は甘い感激に閉じていた眼を、ふっと、熱い息といっしょにひらいた。そして、何の気もなく、自分の手にある、花世の爪の先に眼を落したのである。
「あ、これを見ては、嫌です」
何か、慌てぎみな羞恥が、花世の頬を走った。ついと、左の手を引ッ込めて、袖の下に隠してしまった。
「はははは」
と、郁次郎は笑った。彼女の他愛なさを、他愛なく笑ったのである。
「ホホホホ」
と、花世も笑った。
油の滲みた燈心が、ぽっと、部屋の中を明るくした。春雨のような光線が、ふたりの静かな姿へ、幸福なかがやきを注いだ。
と、そこの、火燈口の小襖を、外からかろく叩く者があった。
「塙氏、塙氏」
ぎょっとして、男女は、跳び離れた。
「誰ですッ?」
「誰でもありませぬ」
すっと、開いた所に、東儀与力のすがたがいっぱいな巨きさに見えた。
「やっ、其許は」
と、郁次郎が、そばの刀に手をのばすまに、東儀は駈けこんで、その利腕を、ぐいと捻じ上げた。
「な、なんとなさる?」
「多言は要しますまい。手前の態度をもって、武士らしく、お覚悟あっては如何ですな」
「無断で室へ踏みこむのみか、いきなり縄をかけて、武士らしくとは、何たる暴言。この郁次郎には解せませぬ、理由を仰っしゃい」
「ともあれ、南町奉行所までご同道願おうではござらぬか。こう穏当に申すのも、江漢老先生のご子息と思えばこそじゃ。見苦しく振舞われては、父上のお顔に、泥の上塗りでござろうぞ」
「父の顔に泥を塗る! これや、いよいよ聞き捨てにならん」
と、郁次郎は色をなして、真四角に、膝を正した。
「逃げも、隠れもいたさん、どういうわけで、拙者をお召捕りに相成るか、それを承ろう! またそれが、武士に縄をかける作法ではないか」
「ウム、それまでにいうならば、花世どのをここにおいて申すが、差支えないか」
「無論!」
と、強く言い放ったが、ちらと彼女の白い顔を見た郁次郎の眼ざしは、何ものかに脅えていた。
「では訊ねるが、貴公、鷺江お雪という女笛師と、よほど深い間がらでござろうな」
「知らぬ! 存じませぬ!」
きっぱりと言って、横を向いた。
「卑怯じゃ」
と、東儀は嘲笑って、きのうの恋文と、笛の中から出た例の紙片とを出して見せた。
郁次郎の顔は、見る間に、血の気を失った。──が、彼以上の驚きと悲しみとは、むしろ花世の方に強かったかも知れなかった。今も、たった今、心の全部をあげて、信じていると言ったばかりのその人に、自分以外の女があろうとは、誰が、思っても見たろうか。
突然、花世は双つの袖を手に拯って、わっと、そこへ泣き伏してしまった。郁次郎の蒼ざめた唇は、口いっぱいに血を含んでいるかのように、固く閉じ切ッたまま、けいれんしていた。
東儀は、勝ち誇ったように、
「神妙になさるならば、ほかならぬ老先生のご子息、途中の縄目だけはゆるして進ぜる。さ、お立ちなさい」
脆くも郁次郎は、両刀をすてて、力なく、蹌々と立ち上がった。──花世は、爛れた眼を、あげて、その姿にまた泣いた。情けない、丸腰になった、男の姿を──。
「お屋敷の前後、途中、辻々、手配りは充分ですぞ。見苦しい事はなさるだけ野暮じゃ、よろしいかの」
こういって、東儀は、郁次郎の反撥のない腕を、自分の逞しい腕の下にぐいと抱え込んだ。
──引ッ立てて、廊下へ出る。一枚の戸が外れていた。
そこから、庭先を見ると、植込の間には、いつのまにか、多勢の捕手がなだれこんでいた。そして一組は、提灯をかざして、築山の裏の新しい土の色を見つけて、そこを、掘り返している様子だった。
「ああ! ……」
と、花世の絶望的な声がうしろで聞えた。
振り顧って、郁次郎が、何かことばをかけようとするのを、東儀は、腕を締めつけて、すこし大股に、玄関まで引ッ立ててしまった。そこには、土まみれになった四、五名の捕手が、
「探り当てました、これでしょう、昨夜の紛失物は」
と、てがら顔に、築山の裏から掘り出したという、蝋人形の首をかざして待っていた。
郁次郎は、慄然として、顔を反けた。
「さ、お歩きなさい」
彼は、幾たびとなく、背中を突かれた。しかし、足の関節が外れたように、歩みが乱れていた。恐怖と煩悶に、目のいろまでうつろであった。
後にしてゆく家には、花世の低く泣く声が洩れて、いつまでも、彼の耳にこびりついた。彼は、ともすると、仰向けに倒れそうになっては、東儀の腕に支え止められた。
「東儀殿、武士の情けです。しばらく、ま、まってください……」
京橋河岸まで、四、五丁歩むと、郁次郎は、渇いた声で、こう哀願した。何たる、悲惨な、哀れむべき眸だろう。
「まだ疲れる程は、歩いておらぬが」
「いや……少々、お話があるのです」
「話なら奉行所で承ろう」
「いや、秘密に」
「何じゃ」
「……後生です、情けです、恩に着ます、逃がして下さい拙者を」
と、郁次郎は四辺を見廻しながら、東儀与力の袂へ、何か、ずしり、と重い物を落した。
「や、これは、金ではござらぬか」
「そうです、それを寸志の礼としてさし上げますゆえ、拙者を」
「だまンなさい!」
と、東儀は一喝して、
「オオ、しかもこの金には、佐渡平の刻印が打ってある。あの両替屋から、為替として受け取った金であろうが」
「そうです」
「悪党にも似合わぬ見下げ果てた未練者だ。東儀三郎兵衛は不肖ながら、罪人のけがれた金を受けて富もうとは思わぬ。但し、これもよい証拠にはなるから奉行所まで預っておく」
と、そのまま、懐中に収めた。
隙を見て、郁次郎は、ぱッと、彼の手から腕を抜いた。おのれッという声といっしょに、夕闇の底から、どぼウん! と真っ白な水煙が上がった。
濡れねずみになって、河の中に立った東儀与力は、無念そうに陸を見上げて、息いっぱい、呼子笛を吹いた。──身ぶるいをしながら、急を陸に告げた。
郁次郎の影は、白魚橋の中ほどを、いッさんに駈けていた。
もがけば踠くほど、彼の脚は、河の底泥土へ食い込んで、胸──肩の辺まで、黒い河水にズブズブと浸ってしまうばかりだった。
「残念だ。──あれ、郁次郎めが、橋を越えて逃げて行く。追えッ、追えッ、誰か、あれを追え」
と、叫んでは呼子笛を吹き、もがいてはまた、河の中で、笛の壊れるほど吹き鳴らした。
「東儀殿じゃないか」
と、陸の上の夕闇で、ひたっと、駈けて来た跫音が止まった。
「お! 羅門先生」
東儀は、自分の力で、河から上がろうと努めたが、上がれなかった。
「それっ」
陸から風を切ッて来た捕縄の端が、ぴゅっと水面を打って、白い筋を描いた。
「や、忝い」
と、東儀与力の真っ黒に濡れた姿が、木像蟹のように、岸へ這い上がった。
「あれに、井戸がある」
と、羅門塔十郎は、彼を抓んで来て、頭から釣瓶の水を浴びせかけた。そこへ、部下たちの提灯が、遅ればせに、集ってくると、彼はかえすがえすの失策に、何か、持ち前の呶号を発したくなッた。
「うろたえ者め、ここに用はない。郁次郎を追えッ、郁次郎を」
「えっ」
部下たちは、初めて知ったように、
「──彼奴! 逃げたのか」
「たった今だ、ふいを狙って、此方を河へ突き落すと、白魚橋を越えて、北河岸へ疾走した。すぐに行け」
白魚橋の藍い空を、乱れた提灯の影が点々と駈け出して行った。──むろん東儀が河の中からそこに認めた郁次郎は、とうに夕闇の深くへその姿を晦ましていた。
そこへ、同心の加山耀蔵が、自身番から一襲ねの小袖を抱えて飛んで来た。
「与力。お着更えを持参いたしました」
「加山じゃないか」
「は」
「何をしておったのだ、何を」
と、東儀は誰の顔を見ても八ツ当りである。
「──貴公、わしが河へ突き落されたのを知っていたなら、なぜ、衣類を取りに行くよりも、郁次郎めを先に追いかけなかったのだ」
「はっ……」
と、加山は暗涙をのんでうな垂れた。
東儀は、あわただしく、体や髪の雫を拭いて、衣服を着更えながら、
「郁次郎めが老先生の子息であるという点から、さては、十手が鈍ったのであろう」
「……決して、そんなわけではございませぬ。拙者は富武家の裏門を見張っておれと申し付かっておりましたので、忠実にそこを固めているうちに、組下の者から様子を聞いて、驚いて駈けつけて来ましたが、もうその時は遅かったのです」
「いかん! どうもいかん」
と、東儀は、すべての喰い違いがみな部下の怠慢からでも起ったように、首を振ッて、
「いつぞや退役させた波越といい、また貴公といい、みな江漢老先生とは師弟の誼みがあるから、いざとなると、公私の境に惑乱して、十手の公明正大を誤っていかん」
「いや、それは無理もないことです」
と、羅門はそばから取做すように、
「拙者にしても、きょうが日までは、いくら証拠に証拠が重なっても、まさか、女笛師を殺害した下手人が、老先生のご子息であるとは、思いながらも、よもやに引かれて、惑っていたくらいなもの。──まして当代の人格者塙老先生の指導を直々にうけた門人ならば、なおさら、そう考えるのが当りまえでしょう。加山殿の苦衷もお察しする」
羅門のさばきは、いつも奥床しかった。得手勝手な東儀与力とは、その実力はもちろん、人格においても、雲泥の差である。
加山はひそかに、こういう立派な人物を上役に戴いて働いたなら、どんなに、働きがいがあるだろうと思った。
が──東儀のこじれた気もちはまだ納らない。
「加山ッ」
「は」
「は、じゃあない。何をぼんやりとしているのだ。もう組下の者さえ先に手配に廻っておるではないか。早く善後策を講じて、郁次郎めを引っ捕えて来い」
「はっ」
「郁次郎を召捕らぬうちは、断じて、奉行所に帰って来るな」
「……ご免」
と、悲痛に、無情な上役へ向って、低く会釈をすると、加山は、冷たい十手と捕縄をつかみ直して、何処と、あてどもない夕闇の街へ、いっさんに、駈け出して行った。
その、うしろ姿を見送って、東儀はすぐに、
「この上は、花世の方を」
と、羅門を眼で促した。
「そうだ、郁次郎が逃げたと知ると、あの鳥も、逃げるかも知れぬ」
二人は、踵をめぐらすと、再び、富武家の門前へ、急いで、引っ返して来た。
見ると、一挺の駕がそこに横着けになっている。二人はハッとしながら、
「もしや、花世が?」
と、疑って、すぐに、駕のタレを刎ねのけてみると、中は空ッぽだった。提灯の裏側には、下総臼井宿宿問屋と、小さく書いてあるが、その駕かきは、どこへ行ったか、門前には見当らない。
「おや、これは下総から、ぶっ通しで来た駕らしいが」
「主人の五百之進が帰ったものと見える」
「じゃ、花世もまだ奥にいるだろう。──羅門氏、こんどこそは、逃がさぬように、ご助力をたのむ」
「心得た」
二人は、ばらばらと、邸内へ駈けこんだ。
たった今、大勢の捕手が踏みあらした屋敷の中は、まだ、土足の痕も、拭かれていなかった。
「──郁次郎殿は? 郁次郎殿は?」
その中へ旅から戻ってきた五百之進であった。屋内の有様に、さっと顔いろを変えて、そう叫びながら、奥へ、駈け込んで来た。
が、そこには、もう郁次郎の姿はなかった。
寂しい夕暮を守る一つの灯の下に、彼のはいって来たのも知らずに、畳に顔を沈めて、泣き伏している花世の傷ましい姿だけがあった。
「これ! 花世」
「あっ……」
と、びっくりして、
「お父様」──と縋りついた。
「何としたのだこの有様は。郁次郎殿は、いかがいたした?」
「お……お父様……」
「泣いていては分らぬ。郁次郎殿は?」
「たった今、南町奉行所の東儀様や、大勢の捕手が雪崩れこんで、無態にひ、ひッ立てて」
「なに」
と、五百之進は、よろよろと、倒れそうになった体を、柱に支えて、
「では、当家に隠れていることが、早くも、奉行所の知るところとなって、引っ立てられて行ったと申すか」
「は……はい。なんとお縋りしても、東儀様には、役目とあって、仮借をしては下さいませぬ」
「ウーム、しまった。一足遅かった。せめてわしがいたならば、むざむざと、郁次郎殿を渡すではなかったのに。……娘! この上はぜひもない、そちも早く、屋敷を遁れて、何処へでも行って、郁次郎殿と添い遂げい!」
「でも、お父様を独り残しては……」
「な、なにを、猶予しておるか、そんな場合ではない。飽くまで、良人に侍くのが女の道じゃ。郁次郎どのを助け出して、時節の来るまで、どこにでも、身を隠せ。……ただ、ああ、ただ……老先生に対しては何と申し上げてよいやらお詫びのことばもない」
「私も、それを思うと、この胸が、張り裂けるようでござります」
「よいわ! 今日まで、老先生を偽っていた罪は、五百之進が改めてお詫びの道をとるであろう。……この上に、そちの身までが捕われてはならん、早く行け。はやくこの屋敷を出て、郁次郎殿を救い出す工夫をするがよい」
「は……はい……」
「そして、時節を待て。よいか! 強くなれよ! 添い遂げろよ! それが、この父へ対しても、老先生へ対しても、ただ一つのそちの婦道であるぞ」
五百之進は、そう言って、あわただしく、自分の居間へはいって、手文庫の中から、路銀や、印籠や、何かの書類や、餞別の物をそろえていた。
と!
「あれッ、お父様ーッ」
と、花世の救いをよぶ声が、悲しく、奥の間に劈いて聞えた。
「あっ」
と、五百之進が仰天して戻ってみると、彼が去った瞬間に、入れ代りに、そこへ踏み込んだ羅門塔十郎と東儀三郎兵衛が、両方から、彼女の腕を抱きこんで、いやおうなく、庭先へ引き下ろそうとするところだった。
「わっ、まッ、待てッ」
と、五百之進は、われを忘れて、東儀と羅門の袂をつかんだ。その顔いろは、武士でなければ大声で泣きたいように、引ッ吊れていた。
ふたりは冷然と、鳥肌にそそけ立った五百之進の顔を振り顧って、
「おうご主人には、いつの間にお帰りか。ご息女の一身について、少々不審のかどがあるに依って、奉行所までお供を仕る」
「いや、お待ち下さい」
「待てというのは」
「何の理由をもって、花世を、お召捕なさるのか、それを、承りたい」
「その儀ならば、追ッつけ、貴殿も奉行所までご足労を願う場合があろうから、その時に、お糺し下さい。きょうは町奉行の権限をもって、ご息女をお連れ申すだけのことだ」
「それだけの理由では、娘を渡すことは相ならん」
「公命に楯を突き召さるか」
「拙者も、柳営の御書院番、富武五百之進です! 武士でござる! 娘が不浄役人に縄打たれて、屋敷から拉致されたとあっては、どの顔を下げて、公儀のご奉公がなりましょうや」
「その辺もお察しはするが、何もかも、不運とおあきらめなさるよりしかたがあるまい。郁次郎の身にも、花世どのにも、怪しからぬ証拠は山のごとくある。──よほど手加減いたしていたが、もはや、きょうとなっては、退ッ引きならぬところです」
と、羅門は、こんな場合にも、多少は五百之進に同情を持つらしく、そのことばも物柔らかであった。
東儀は、ぐずぐずしていてまた機を逸しては、と焦立つように、
「不服があるならば、奉行所へ、奉行所へ」
と、叫んで、
「さっ、お歩きなさいッ」
と、花世の背をとんと突いた。
深い穽へでも墜ち込むように、彼女のすがたが、闇を泳いだ。──とたんに、辺りに居残っていた四、五人の捕手が、ばらばらと寄って、その取り乱れた美しさを、無残に引ッ掴んで、
「御用!」
と、呶鳴り浴びせた。
「それっ」
と、東儀と羅門とは、すぐその一塊りの人影を急き立てたが、同時に、うしろで、異様な物音がしたので、はッとして振りかえって見ると、
「ウウーム……」
と、五百之進が前伏せに苦悶して仆れていた。
「ヤ、ヤッ、これは!」
「ご、ご両所。……」
と、五百之進は、血みどろな片手を上げて、ふたりの影を、拝むように振りうごかした。自殺たな! 直覚に、そう見た二人は、意外そうな眼いろを見合せた。五百之進は、脇差の切ッ尖をふかく左の腹部に突き立てて苦悶していた。その紫いろの痙攣を、前歯で、じッと噛みしめていた。
「お、おねがいでござる」
「自害とは、短気な。五百之進殿! しっかりなさい!」
「……おねがいでござる、ご両所。……む、娘を」
「えっ」
「見のがしてやって下さい。これには、深い仔細があること。そ、その……仔細を言えぬあの娘じゃ、弱い、この父親じゃ。時節が来れば何事もわかる。羅門氏、東儀殿、武士の情けです。見のがしてやって下さい」
「ウーム」
と、東儀もさすがに、死をもって、子の破滅を救おうとする親心の前には、太い息をついて、腕を拱んでしまった。
羅門は、さも同情に堪えぬように、
「ああ、ご無理もない」
と、横を向いて、暗涙を拭った。
そして、低い声で、
「東儀殿、見のがしてやったらどうだ」
と、囁いた。
そう言われると、東儀は、捕縄役人の冷厳な本心が、かえってピクリと醒めて、
「いや! 断じて相成らん。──切腹してまで、子を助けたいというのは、なおさら花世に深い秘密のある証拠ともうけとれる」
さすがの羅門も、呆れたように、
「貴公は怖ろしい法の権化だ」
と、呟いた。
「いかにも、十手をとる以上は、飽くまで私情を殺さねばならぬ。花世の罪科が明白になれば、五百之進殿も、当然、切腹の運命は遅かれ早かれ来るものに決まっておる。──見のがすなどとは、もってのほかだ」
五百之進は、俯つ伏せていた顔を、がばと上げた。もうその顔は、青い死相に変っていた。逆手につかんでいる脇差のつばが、がたがたと顫いて、板縁に鳴った。
「で、では、これほど、お縋り申しても」
「くどい」
と、東儀は心づよく言い放って、
「罪がなければ、ご息女の身も、無事に帰されるであろうし、犯した科があれば、いかに、非常なご手段をもって哀願されても、むだな事だ。それが、法の公明正大と申すものじゃ」
「ちぇッ。……情けを知らぬ武士め!」
「なんだ!」
と、東儀は、憎々しげに睨み返して、
「法の前には、何ものもないわ!」
「ええ、しまった。──娘ッ」
脾腹から抜いた血の刃が、無念そうに持ち直された。よろよろと立つと、それを杖にして、庭先へ転げ落ちた。
「──娘ッ。──花世」
「おおっ……」
捕方の手を振り払って、花世は、狂女のように、父の方へ、しがみついて来た。と、五百之進は、その手へ、ふいに、血みどろな脇差を渡して、
「斬りやぶッて逃げろ! 父も、助勢してつかわす」
と、つよく言い含めた。
「あっ」
羅門塔十郎は、身を退くや否、うしろへ廻って、抜き打ちに、五百之進の肩から背にかけて斜かいに斬り下げた。──同時に、狼狽した東儀与力も、花世の方へ、十手をつかんで、飛びかかったが、びゅっ、と刃の先から飛んだ血が顔へかかって、思わず怯んだ途端に──
「逃げたッ」
と、不意を衝かれた捕手たちの慌てた声が、ばらばらと彼方へみだれた。
「外へ出すな」
と、東儀は呶鳴った。
羅門は、死骸を見すてて、塀際の方へ駈けた。東儀もむろん追い捲くした。──だが咄嗟に、女性の嫋かさをかなぐり捨てた花世は、翼をひろげた雉子のように迅かった。裾をひるがえして、泉水を跳んだ、追いすがる捕手たちを、片手なぐりに斬ッて払いながら、築山を越え、樹の枝にすがり、そして塀の外へ跳び降りてしまった。
呼子笛のつんざき!
疾風のような跫音!
辻に、橋の袂に、河べりの樹蔭に、彼女の走るところに人影がみだれた。彼女の手にある脇差は、いつのまにか柄だけになっていた。目釘が折れて刀身はどこかに落してしまったのであろう。しかし、彼女はそれにも気がつかずに、柄だけの刀を握って、ひた走りに逃げて行った。
闇、闇、また闇。──行く手は暗い、彼女の運命のように暗い。
はやくも襲われた呪いの暴風に、愛人との隠れ巣、父との愛の家、そしてその一人の父の非業な最期すら見捨てて、どこへ、どこまで、おわれて行く彼女であろうか。
まだ東風が肌寒い。翌年の二月初旬である。
今し方まで、宿端れの撞木橋の上で、金毘羅詣りの男と、気のはやい三度飛脚が、つまらぬ間違いから喧嘩を起して、往来の旅人が、足をとめて、真っ黒にたかッていた。
宿役人が来る──見物の旅の者が追い払われる──。やがて、駅馬問屋にも、名物の石餅屋にも、灯火がついた。
「あら、ちょっと、美い姿だこと」
「お武家さま──」
「編笠のご浪人さん」
「泊っていらっしゃいな」
この東海道──わけて戸塚の宿には、飯盛女がたくさんいた。灯がともると、街道の安旅籠の軒ばに、白い蝙蝠みたいな白粉の女たちが出て、旅の者を悩ました。
「これ、離せ」
おぼろ笠をかぶった浪人だった。どこか窶れた線の細い影だった。しかし、たえず鋭い眼光りと、気配りとをもっていた。その若い浪人が宿の白蝙蝠たちに捕まって、当惑していた。
「放さんか、放せ」
「でも、どうせお泊りでございましょう」
「いや拙者は、この戸塚の宿に知り人の家がある。それを尋ねているのだ」
「うまいことを」
「通せ」
「いいえ」
争い合っていると、町の万屋から、何か買物をして出て来た五十近い田舎者の女が、
「あれ、若様ではございませぬか」
「おう、乳母やか」
「まあ、どうして! ……」
と、老婆は駈け寄って、淫らな白蝙蝠たちを睨みつけて、
「おまえらは、何をさらすんじゃ。このお方はわしが若いころに、乳母に上がっていたお屋敷の若様で塙郁次郎様と仰っしゃるお人じゃ。めっそうもない飯盛女たちじゃ」
と、自分の子でも庇うように、
「さ、郁次郎様、貧しい家でございますが、どうぞお寄り下さいまし」
「乳母や、あまり人の前で、郁次郎郁次郎と、わしの本名を言ってくれるな」
「おや、なぜでござりまする?」
「すこし仔細があって、身を隠している体だから」
「長崎へご勉強においでになったというお話ですが」
「その長崎の修業中に……」
と、何か言いかけたが、急にそわそわと、
「乳母や、とにかく家へはいって」
と、急ぎ足に歩き出した。
乳母のお杉は、昔、自分の手で育てた郁次郎が、何かふかい秘密をもって、身を隠す地を頼って来たと聞いて、深い理由もたださずに、ただ盲愛にちかい気持で、
「よろしゅうございます。お杉が、きっとお匿いいたしまする」
と、ひきうけた。
だが、お杉の亭主は、宿場人足のあぶれ者だった。呑ンベの繁といって、戸塚でも鼻抓みの男である。
で、昨日。
お杉は一挺の駕を雇って来た。
「宅では、不安心でございますから、私の縁者の者が、ここに神官をしておりますゆえ、これを持って、ひとまずそこへ」
と、文字は拙いが、真心のこもった一通の手紙を添えて、行く先も、繁には内緒にして、先の隠れ家へ立たせた。
「やい、お杉、いつぞやの居候は、どうしたんだ」
五、六日見えなかった呑ンベの繁が、帰って来ると、果たして、こう呶鳴りだした。
「居候って、誰のことを言うんだえ」
「あの、郁次郎っていう、色の生っ白いやつよ」
「勿体ないことをお言いでない。あの方は、私にとっては、昔のご主人様だよ」
「何でもいいが、おれに黙って、何処へ行ったのだ」
「急用がおできになって、江戸表へ、お帰りになったのさ」
「嘘をつけ」
と、繁は、あざ笑って、
「てめえ、あの若蔵の嘘っぱちを真にうけて、何か、小細工をしていやがるな」
「何で私が、お前に隠して、そんなことを」
「やかましい! おれの耳は、地獄耳だぞ。この間、野郎の泊った時、夜の更けるまで、おれが酔いつぶれていると思やがって、ひそひそしゃべっていたなあ何の話だ。よし、夫婦の仲で、そんな水くせえ真似をするなら、おれにも、量見がある」
ぷいと、飛び出して行ったが、そんな行状は、珍しくもない亭主なので、お杉は、悲しい顔をしながらも、抛っておいた。
繁は、桝酒を飲みあるいて、宿場の駕舁だまりへよろけて来た。
「こう、この中に、安はいねえか、安は」
「安は、ここにいら。よく眼をあいて見ろ」
「うむ、なるほど」
「何が成程だ。相かわらず、いつも、呑ンだくれていやがるな」
「よけいなお世話だ、やい、安」
「なんだ」
「てめえ、うちのやつに頼まれて、今朝、何処へ駕をやったんだ。あの、色の生ッ白い武士を乗せてよ」
「知らねえ」
「ふざけるな、相棒の兼に、聞いて来たんだ」
「あいつ、もう、しゃべったのか」
「ふてえ奴だ。ぬかさなけれや、てめえと、一騎打だ。さ、首を洗って、外へ出ろ」
「いいじゃねえか、何も、兼に話を聞いているなら」
「いや、てめえの方が、詳しい話を知っているはずだ。去年の十月頃に、問屋のお役人から、宿触れの出ているお尋ね者を知っているか」
「塙郁次郎とかいう、江戸で、女笛師を殺した下手人だろう」
「そうよ」
「それがどうしたんだ」
「けッ、頓馬なやつッていうものは、しかたのねえもんだ。てめえの肩に乗せて、五里も十里も、歩いていながら、気がつかねえのか」
そう言われて、安も、はッと何か思い当ったふうだった。しかし、そのために、彼に打明ける気にはよけいになれなかった。自分の口から密訴すれば、その報酬も自分のものだ。
「やい、ぬかせ」
「知らねえッていうのに、くどい奴だ」
「どうしても、言わねえな」
「あ、おら、義理がてえから」
「何を言やがる」
繁のふり上げた拳が、ぐわんと、安の横鬢にひびいた。
「野郎」
安のこぶしは、繁の鼻を突いた。
「やったな」
「やったとも」
駕屋だまりの羽目板には何本もの、艶の出た舁き棒が、立てかけてあった。それを持つと、繁は、九紋龍のように、躍り出して、
「さ、出てこい」
「おッ、へどをつくな」
安も、その一本をふりかぶって、魯智深みたいに、往来へとび出した。
と、たまりの軒先に、最前から一挺の駕がおいてあった。駕のうしろに、江の島土産の貝細工や漬物樽が下げてあるから、この宿で、一息いれて、仲継ぎの人足が来るのを待ち合せているらしい。──その駕の中で、声がした。
「両人とも待て。──立ち騒いで鎮まらぬと、ふたりともに、成敗いたすぞ」
鍔の鳴る音。
ぱらりっと、駕のタレが、刎ね上がった。
羅門塔十郎その人であった。
「来い」
塔十郎は、どぎもを抜かれた繁と安へ、こう顎を引いて、
「──来い、仲直りをしてとらせる」
と、先へ雪踏を鳴らして、歩き出した。
「どうしよう兄弟」
「成敗するって言ったぜ」
ふたりは、醒めた顔を見あわせた。
ぶきみな、雪踏の音に、引きずられるように、ついて行った。
「おや?」
と、見ているまに、羅門は、小料理屋の暖簾口を割って、
「ゆるせ」
と、はいってしまった。
すぐ、女が出て来て、外でまごまごしている二人を連れこんだ。
「飲むがいい。喧嘩よりは、酒の方が、うまかろう」
塔十郎は、鷹揚にいって、充分に飲ませた上、ぼつぼつ、本題にはいりだした。
「お尋ね者の郁次郎が、この辺に、徘徊しておったということだが、人違いではあるまいな」
「へい、たしかに、宿触れの人相書ともぴったりでございます」
繁は、しゃべりだしたが、自分の家に一晩泊ったということは、関り合いを惧れて、いわなかった。
「行く先は、こいつが、よく存じております、へい」
と、安の顔を指さした。
羅門は、黙って、小判を一枚ずつ、二人のまえへ投げた。
「こりゃ、お上で下さる密訴の褒美よりは少し多いが、取っておくがいい。──で、安とやら、その駕は、何処へやったか」
「江の島の、江之島神社でございます」
安も、小判の前には、すぐ泥を吐いてしまった。
二人を帰すと、羅門は、その晩、江戸へ帰る予定を更えて、急に、手紙を書いて江戸表へ早飛脚を立たせ、べつに、宿をとって、翌日、江の島へ引っ返した。
彼は、非常に旅行好きだと常に人に話しているとおり、暇があると、旅へ出かける癖があった。尤も、上方から下って来た目的が、龍山公の血統さがしの件もあるが、表面は、東都遊学というのであるから、誰も、怪しむ者はない。
史蹟に、名所に、旅行癖はそうした人にはありがちである。ことに、彼は江の島の海色がまたなく好ましいといって、相州附近からあの島へは、度々、旅をしている。
ちょうど、春先。湘南は、梅もはやい。
遊心をそそられた彼は、この四、五日まえから、鎌倉江の島めぐりをして、ちょうど、戸塚まで帰って来たところだった。──江戸の方で、関り合いになった今度の事件も、下手人が、江漢老先生の息子という点から、奉行もやり難いところが多く、おまけに、すべての秘密をのみこんでいたらしい富武五百之進は自刃してしまうし、かんじんな花世と郁次郎は逃走してしまったので、ここ三月ばかり、事件は、一頓挫のかたちになってしまっている。
「旅もしてみるものだな」
と、羅門の頬には、意外な拾いものに欣ぶ笑みが、波紋のように時々泛いた。
その翌日、七里ヶ浜をいそいで、江の島への渡舟に乗った彼が、島へ上がるとすぐだった。
「旦那」
と、呼ぶ者がある。
ふり返った羅門はすぐに、
「鮑か。鮑はいらん。帰りに買ってやる」
と、すたすた歩きだした。
「羅門先生」
「や?」
「私です」
と、鮑売りの漁師は、かぶっていた磯くさい手拭をとって、むじゃむじゃな髯の中で笑った。──郁次郎を捕えぬうちは奉行所へ帰ってくるな、と酷い上役の東儀からいわれた同心の加山耀蔵だった。
さすが炯眼な羅門も、彼の巧みな変装にはいッぱい食って、思わず、恥じたいろをした。
「おう、加山か」
「羅門先生には、きのう、江戸表の方へ街道をお急ぎとお見うけいたしましたが、どうして、お戻りなされたので」
「貴公こそ、どうしてここへ来ているのだ」
「はい、拙者は、あれ以来、奉行所へ戻らずに、遂に、郁次郎の足跡を見つけて以来、彼の影を離れたことはありません」
「では、郁次郎がこの島へ来ていることを、貴公はもう知っているのか」
「そのために、早速、こんな姿に化けているわけです」
「ご熱心だな」
と、言ったが、羅門には、ちょっと、自分の功をさらわれたような不快さが、軽く走った。
「この島へはいったのは、郁次郎も、自分で自分の墓穴を掘ったようなものだ。江戸表へは、早飛脚を打って、すべての手配をたのんでおいたから、三日のうちには、東儀殿も人数を連れて乗りこんで来るでしょう」
「あ、もうそんなに」
「羅門の手を下す以上には、電瞬の間です。ご安心なさい」
そう言って、少し誇らしく、
「だが、その手配の来るまで、何より不安なのは、この渡し口です。貴公は、その身なりがちょうどよいから、昼夜、ここの海辺を離れず、見張っていてもらいたい」
「承知いたしました」
そういって、羅門は、島の中腹にある町中の旅籠へはいった。彼の好きな相模の海色は、裏二階の窓から一望に見え、目ざす郁次郎の潜んでいる江之島神社の青銅の甍は、表二階から木立のあいだに見えた。
「ああ父にすまない。あの老いたる父は、鶉坂に養生所を建って、自分が、こんな身でいるとも知らずに、長崎から今帰るか、今帰るかと、待っていることだろう」
机に凭れて、郁次郎はもがいていた。そこは、江之島神社の社家の離れである。
「花世は、どうしているだろう」
苦悶は、すべてを苦悶にする。
──波の音、木の葉の風。
彼にはすべてが、恐怖と、苦悩の音響だった。罪の人にありがちな、神経質な顔に、おそろしく、若い明るさを傷つける立て皺が、眉のあいだに、針のように立っている。
りん……鈴の音だった。……りん、りん、と錆びた古鈴のひびきが、彼の離れのすぐうしろで聞えた。
江の島見物の旅人たちが、なにがしかの賽銭を神楽料として献げるたびに、この社家にいる一人の若い巫女が、白の綸子の小袖に緋の袴をつけて、舞楽殿で湯立舞の一節を舞うのであった。──その鈴が時々ひびいてくる。
気を紛らそうとするように、郁次郎は、机の前を立った。そして、ぶらぶらと、拝殿へつづく橋廊下へかかりながら、見るともなく、庭を見ている……。
光琳が屏風にでも写しそうな、かたちのよい、一株の老梅があった。
「あら、咲きましたこと」
誰か、話しかけたのである。
ぼんやりしていた郁次郎は、うしろに、人が立ったことすら知らなかった。振り顧ってみて、何か、薫り木のような香わしさが、その老梅のものではなく、自分のうしろに立っている巫女の直美であることを知った。
「あ……」
「ホ、ホ、ホ」
直美は笑った。
いつも化粧をしているせいか、表情のある仮面のように美しい。
「……何を驚いたのでございますか」
「べつに」
と、郁次郎も、淋しく笑った。
「ご退屈でございましょう」
「なに、書物に親しんでおりますから」
「お江戸だそうでございますね」
「江戸です」
「私も……」
と、言いかけたが、巫女の直美は、急に、悲しそうに、
「七歳の時に、覚えたきりです」
「そんな幼少からこの江の島に?」
「え、巫女に貰われてまいりました」
「孤児かの」
「舞を舞っている間にも、それを思うと……」
涙が目にいっぱいだった。
「直美、直美──」
拝殿の方で、禰宜の呼ぶ声がした。
彼女が、顔いろを改めると、涙がぱらぱらと落ちた。
「はあい」
と、返辞をしてまた、
「お客様、晩に、江戸のお話をうかがいに行ってもようござりますか」
「え。おいでなさい」
「じゃ、きっと、参りまする」
また呼ばれたので、彼女は、あわてて走りかけたが、胸に挟んでいた檜扇が落ちたので、戻って、拾いかけた。
「あっ」
と、何を見て驚いたのか、郁次郎は、発作症でも起きたように、いきなり、彼女のその左の手をつかんだ。
「……いけません、人が見ます」
直美は、耳まで紅くなった。彼女がひそかに抱いていた恋心は、それを、自分の都合のよいように勘ちがいしていた。
が──郁次郎の眸は、それに、燃えているのではなかった。恋ではなかった。
彼女の左手の中指である!
なんと、奇異な暗合だろう。郁次郎は顫きながら彼女の中指の爪を見つめた。その爪は、烏の嘴のように、黒い艶をもっている。
「おお……花世と、同じ爪だ」
「おはぐろ爪」
と、直美は手を引っこめた。
そして、
「晩にね」
と、媚びた眼をのこして、緋と白との、鮮らかな艶姿を、拝殿の蔭へ、消してしまった。
「巫女が死んでいる!」
江の島の山の雑木林には、まだ、海霧が乳色にからんでいた。朝はやく、峠を越えて、裏磯へ出る鮑捕りが、こう騒ぎ出したのだった。
江之島神社から四、五丁奥の林の中である。
巫女の直美は、一太刀で、むざんに殺されていた。みんな、その美貌を惜しがった。
島役人が来て、検死帳へ書き上げた一ヵ条には、死骸、証拠品などのほかに、直美の左手の中指が斬りとられてあることが特記された。
指を切られて殺された女。
それと同じ事件は、去年、江戸にもあった。
女笛師の鷺江雪女の死骸も、左手の指が切られていた。
いや、あの時の雪女は、同じ左の手でも、切られた指は、人さし指だった。こんどは、中指だ。
指切りの悪魔。ふしぎな殺人だ。下手人は誰だろう? 何の目的で殺したのだろう。
島の者はむろん、旅の者まで集って、山の林には、凄惨な、ものものしさが騒いでいた。そのうちに、神社の掃除男や、社家の人々が、色をかえて、駈けて来た。
その人々のことばを綜合すると、きのう灯ともし頃、
(直美どの、海を見に行かぬか)
と、若い侍が、誘いに来て彼女を連れ出した。居あわせた者が、
(誰か)
と、訊くと、直美は少し恥かしそうに、
(離室のお武家さま)と、答えてうれしそうに出て行った。
で、深く注意もしなかったが、外に待っていた男は、編笠をかぶり、背丈もすがたも、離室に逗留している若い武家とちがいなかった。殊に、その紋までが、同じ、丸の一羽雁であった、という。
「よしッ、他言するな」
島役人は、その書上帳をつかんだまま、いっさんに島の山から降りて行った。そして、海辺の渡し口に立っている鮑売りの加山耀蔵に何かささやくと、嬉色をみなぎらして、すぐにまた、羅門塔十郎の宿所へ引っ返して行った。
同じ宿には、ゆうべ江戸から着いた、東儀与力をはじめ、屈強な部下が七、八名、姿をかえて泊っていた。
「もう、猶予はならん」
断乎として、羅門のくちびるから、決断の一句がつよく走った。
「すぐにだ!」
各〻、そのままの姿で、ばらばらと別れて江之島神社の裏をとり巻いた。──見ると、今起きたらしい郁次郎は、裏崖の下の清水をためてある石井戸のふちに立って、物思わしげに、釣瓶を持っている。
しきりと、何か、考えごとをしている顔つきだった。──或いは、それから四、五町奥の山林の声を、微かに、耳にとめたのかも知れぬ。
やがて、水を汲み上げて、顔を洗い出した。血でも落すように、神経質に、手を、幾度も幾度も洗っていた。
たたたたッと、犬のように迅い男の影が、附近の木蔭から走り出したと思うと、
「郁次郎ッ。御用だ」
と、うしろから締めた。
ぱッと、白い水が、五尺も高く上がった。
腰を落して、捕手を投げつけながら、手にかけていた釣瓶の水を、ざッと空へ撒いたのであった。──だが、低く、地を飛んで来た捕縄の分銅は、もう彼の右足へぐるぐるっと蛇のように粘って絡みついた。
「──郁次郎殿、郁次郎殿。もう遁れる途はありませぬぞ。貴公のためにも、お父上の老先生のご名誉の上にも、神妙に、法の捌きをうけた方が得策であろうと存ずる。卑怯なまねはなされまいぞ、其許も、江戸の名捕手塙大先輩ともいわれる人物のご子息ではないか」
凛として、厳かなことばが、郁次郎の動作を、ぴたっと抑えた。
木立の蔭から、そう言って近づいてくる、羅門塔十郎と、そして東儀与力のすがたを見ると、郁次郎の顔いろは、もう生ける屍のように青白くなってしまった。
人も知る山城国の四明ヶ岳にある含月荘は、前の黄門松平龍山公の隠居所であって、そこの怖ろしく高い物見櫓か塔のような楼上に、夕雲の纏る頃、一点の灯火がポチとつくと、京都の方からそれを望む者も、琵琶湖に舟を泛べて夜網にかかる漁師たちも、ひとしく、
「あ。黄門様の窓に灯火が点いた」
と、寂しい夜になったのを知るのであった。
それがまた、この九年間、少しも時刻を違えずに、暮六ツに点いて明六ツに消えるので、里人たちには時刻を知る便宜にもなっていた。しかし誰もその高い楼上に九年間も、まったく風月を友としている黄門龍山公のすがたを見かけた者はないということであった。彼等はただ、亀山六万石の豊かな人領を顧みずに、そこの雲中に独り住んでいる黄門様を遠く想像して、
「ご不幸な殿様だ」
「お世継がひとりもないので、自分もこの世に何の希望もなくなっておしまいなすッたんだろう」
「それにしても、九年もあの上に住んでおいでになるとは、根気のいいことだ」
「何しろ、よほど変り者の殿様とみえる」
と、密かに噂するくらいな知識しか持たなかった。
すると。
春も二月の末頃、その四明ヶ岳の麓に近い湖畔の宿場に、三度笠をかぶって小風呂敷を腕頸に結びつけた商人ていの男が、ふらりと坂本の茶店をさし覗いて、
「姐さん、少し休ませて貰うぜ」
と、葭簀の蔭に腰を下ろした。
「いらっしゃいまし。叡山へご参詣でございますか」
「叡山へ? あ、成程、ここは叡山の登り口だね」
「はい、中堂からお薬師様の道順を書いてあるお山案内もございまする。横川巡りをなさいますならば、白木の杖や草鞋、お弁当のお支度もいたしまする」
「なに、あっしは叡山へ参詣に来た者じゃないのさ。この通り、忙しなく諸国を駈け歩いている木綿屋の註文取りで、名所を踏みながら名所知らずで、ちッとも閑のねえ旅商人だよ」
「おや、お急ぎでございますか」
「これから北国へ廻らなけれやならないが、せめて、掛金でもよく集るように、麓から拝んでおこう」
「ホホホホ。それはどうも」
「姐さん、もう一つ」
「お茶でございますか」
「菊ヶ浜から休みなしに急いで来たので、すっかり喉が渇いちまった。……したが旅もだいぶ楽になったね」
「ほんとに、春めいて参りました」
「ところで姐さん、矢走の渡船場から四明ヶ岳の方にはいるには、この街道一筋だろうね」
「はい裏道はございません。大津を越えて、京都へはいればべつでございますが」
「それじゃ途方もねえ遠廻りだ。……妙に、いろんな事を訊くようだが、今朝から今までの間に、年のころ二十歳ぐらいな、背のすらりとした美い女が、やっぱり旅支度で、ここを通ったのを見かけなかったかい」
「ひとり旅のお若い方でございますか」
「色が白くって、柳腰。無造作に手拭で髪を包んでいるが、都者というのは一目でわかる」
「さあ? そんなお方は、お見かけしないと思いましたが」
「はアてね」
と、旅商人の男はひたりと、頬へ手をやって、
「そんなはずはねえんだが」
と、しきりと、湖畔の街道筋へ眼を送っていた。
と、一挺の駕が、彼の眼を揺すッて通った。
唐崎や浮御堂の景色へ、駕屋は、指をさしながら何か大きな声でしゃべッて行った。湖水の案内をしているらしい。で、そッちへ向っている駕のタレは捲り上げてあったが、茶店の方の側からは、誰が乗っているのか、中は見えない。
「──おい姐さん、少ないが、ここへ置いたぜ」
「オヤ、もうお立ちでございますか」
旅商人の男は、小風呂敷の中に包んでいた紺合羽を、ひらっと、燕みたいに引っかけると、前かぶりに笠を抑えて、
「あれだ! 駕の上に、女笠と女草履」
呟いたと思うと、もう駕の速度と同じぐらいに急ぎ出していた。
道中にはいかものが沢山いる。旅を廻る木綿屋の註文取りにしては眼をつける者が少し商売違いである。──と思ってよく見ると、その旅商人、実は、江戸表の南の同心、かの博物会の蝋人形に変事のあった晩に、当然、捕まえ得る花世を捕まえ損ねて、組頭の東儀与力の勘気にふれ、即座に役名を剥がれて江戸をおわれた波越八弥であった。
では──尾けられている駕の女性は誰だろうか。
しかもその八弥が、江戸の品川口から東海道を経て、遥々とここまで尾けて来た以上は、誰かよほどな大物にちがいはない。殊に女の方も、途中からそれを勘づいて、泊りの間も油断なく、隙さえあれば彼をまこうとして互に智と策とを暗黙に闘わせつつ、遂にここまで来たのだった。
女が、矢走の渡船場で、道を訊ねたのを知った八弥は、一船あとから上陸るとすぐに、同じ渡船小屋へ行って、今行った女が何を訊いて行ったのかを抜目なく糺してみた。
「四明ヶ岳の含月荘へ行くのだが、ほかに裏街道がねえかと訊かれましたで、山はかえって遠廻りになるから、この北国街道をよい加減な所まで駕で行かっしゃいと教えてやったのでがす」
小屋の老爺は、ありのままに、そう答えた。
(よし!)
と、八弥はすぐに足を向け直したが、その寸間に、もう先に見えた女はどこにも姿が見えないのであった。さては、飛んだなと、叡山の下の坂本まで、急いで来てみたが、一向そんな女が通った様子もないとの事に、茶店にはいって、一息やすめていると、何のこッた、やがて、名に負う八景の風光を流し目にして、新駕の中に揺られつつ、湖岸を打たせて来た一挺こそ、先へ行ったはずのそれではないか。
「あっ、また一杯食った」
八弥は口癖のように、叫んだ。
永い道中、女の小智に翻弄されて蹴躓くごとに、彼は、そのみじめな狼狽の舌打ちを重ねて来た。
だが、今日はもう必ず女の全部を突き窮めずにはおかない。八弥には、信念があった。自信があった。
四明ヶ岳へ──四明ヶ岳へ。
やがて女は、あの駕を、どこかで降りるにきまっている。──すべてはそれからのことだ。
しかし、そこの含月荘といえば、前黄門龍山公の隠遁地ではないか。
今、自分が遥か江戸からここまで尾けて来た怪女性が、いったい、何の用事があってあの山荘を訪ねるのだろう?
これが分らない。
それと八弥には、もう一ツ、その女が江戸表から姿を隠した花世か、或いは、彼女と似ているが実は全くの別人なのか、どうしても明確に判断しきれなかった。
花世か? 別人か? という一個不思議な女性は、女笛師殺しの捕物にかかって以来、幾たびとなく、事件の表裏に登場して、東儀与力をはじめ、南の捕手たちを翻弄した美魔であった、陽炎であった。
今──それは小半町ほど先の並木を、駕を打たせて、急いで行くのだ。
「ああ! きょうだ」
彼は、尾け慕ってゆく間も、いつになく、大きく胸が躍った。
花世か? 別人か?
また、彼女が含月荘へもたらす用向きが何であるか。
その二つの疑問が解かるるならば、女笛師殺しの用意ぶかい犯行と目的が、どういう巧妙な機構と伏線とに蔽われて行なわれたものか、急転的に闡明されて来るかも知れない。
やる! 俺はやる! 命がけでやる。
たとえ、不幸にして彼女が、自分の願わざる花世であっても、再び私情に囚われまい。別れた友、同役の友人加山耀蔵よ! 見ていてくれ。
おれは今、大きな功名の機会にぶつかっている。きっと、そいつを掴む。──上役の勘気にふれて、役名を剥がれても、俺は俺として、前の不名誉をそそぎ、東儀与力を見返してやるくらいな働きをするつもりだから、見ていてくれ。
若い八弥の心は、情熱燃えるような血のなかで、そう遠くへ、叫んでいた。
「おやっ。降りたぞ」
突然、八弥は並木の蔭へ跳んだ。──そして傘を伏せたように、すぽっと、合羽の裾をひろげて屈まりながら、鋭い眼を、彼方に向け直した。
いつのまにか、道は湖岸を離れて山蔭の道にはいっている。
駕は、道祖神の石の前に止っていた。
「ご苦労でしたね。……尠ないけれど」
女は、駕屋の卑しい眼に背を向けて、淋しそうな風もなく、ひとりで深い山ふところへ向って歩み出した。風のない山蔭は、二月の草萌えが匂って、寒くなかった。
「おそろしく気前のいい女だな。だまって、二朱金と来た。近頃の客にゃ、珍しい」
「ふふん……」
と、駕屋は、掌の上の金の色と、女のうしろ姿を見くらべながら、
「あんなのなら、ただで乗せてやってもいいと思ったのによ」
「さ、戻ろうぜ、金が木の葉に化けるといけねえや」
「こう山ン中で見直すと、何だかよけいに美しいな」
「これ! 駕屋」
「ヘイ」
二人は、吃驚したように振り向いた。
「──な、なんでえ、てめえはさッき坂本で休んでいた旅商人じゃねえか。侍みてえな声を出しゃあがって、恟ッとするじゃねえか」
「ははは、どうも相済みません」
と、八弥は煙管を咥えながら屈み腰に、
「おそれいりますが、お火を一つ」
「おまけにご拝借ときやがったぜ。図々しいやつだ」
借りた燧打石で、すぱっと吸いつけて、
「今のお女中は、含月荘へ行ったんでございましょう」
「よく知っているな」
「へい、てまえも、御番士方にお出入りをしておりますんで。──だが駕屋さん、あれや山のお屋敷じゃ見たことのない女ですぜ」
「江戸表の上屋敷から使いに来たという話だから、多分、あっちの者だろう」
「それにしても、女一人の使者というのはおかしいじゃございませんか。どういう用事で来たんでしょう」
「なあ、相棒、なんだか小さな筥を持っていたようじゃねえか」
「む、香筥のような……。そいつばかりを、ひどく大事そうに抱えていたよ」
駕屋に別れると、八弥は足を早めて、遅れた距離を取り返した。街道とちがって、こういう山道では、先に自分の姿を気づかせないということは至難だった。
しかし、それより前から女はちゃんと知り抜いているらしかった。そして何の恐怖にも襲われずにあたりまえな歩調で登りを辿っている。ただ、駕屋のことばに依って初めて知ったのは、その手に抱えている帛紗づつみの四寸ばかりの小筥である。
(はてな、何か、よほど大事な物らしいが、道中ではあんな小筥を持っていなかった。……ははあ、してみると帯の背に隠していたのを、きょうはいよいよ目的の含月荘へ着くので、手に持ちかえて参るんだな)
八弥は、そう判断した。
しかし、気にかかる。小筥の中に何を入れてあるのだろう。路銀? 手紙? イヤどうもそんな程度のものじゃない。
(そうだ、これや一つ、含月荘へはいらぬうちに、あれを奪って、同時に、花世殿か別人か、それも同時に確かめてしまうのが何よりだ)
八弥は、そう肚をきめた。
彼はさらに足を早めて、女の後ろ姿へ迫った。半町の距離は、二十間になり、十間になり、もう四、五間の近くにまで追い着いた。
「今!」
と、八弥の胸は昂く衝った。
とんと、膝を落すとともに、彼の手裡には白い十手が隠れた。──が、途端に、女も感覚的にくるりっと振り向いて、
「──見えませんか」
と、白い片方の手を真ッすぐに伸ばした。
「あっ」
と、八弥は思わず、地へ、首を竦めた。女の手には、十手よりも遥かに短い短銃がつかまれていた。その白い拳の蔭からじっと見すえている眼は、少し笑いをさえ含んで揶揄的に光っていた。
八弥は、一歩も動き得なかった。跳びつくには、間があり過ぎるし、身を起せば、同時に弾が来るにちがいない。その全神経をつかっても足りない気構えのなかで、
(花世か? 別人か?)
と彼の思判は騒ぎみだれた。
かなり近い距離だ。そこで、瞬間に見た判断では、やはり実によく似ているという以外一歩も出なかった。花世とも言いきれないし、別人とも思いきれない。
「──見えませんか」
女が、もう一度そう言ったら、その声こそ、花世か花世でないかを明確にするかも知れないと待ち構えたけれど、女は、それっきり、無言であった。
八弥は、畸形な爬虫類のように、肘、膝、肩までを地に摺りつけたまま、眼だけを相手の筒口に向けて、ジリジリと前へ迫り出した。
しかし、彼が一尺にじり出すと、女も、一歩後へ退いた。彼が横へ身を曲げると、短銃の筒もそれについてうごいた。
が、八弥のそうした準備は、一気に女へ迫るためではなかった。四、五尺先にある樹木の楯を得たかったのである。彼は、ふいに躍り立つと、その樹の幹を楯として、
「花世ッ、神妙にせい!」
澄んだ沼のような謎へ向って、初めて、大きな試みの石を投げつけてみた。
女の表情は、花を打つけられたほども動いて見えなかった。いや、ひとつはまたその大切な瞬間が、ズドウン! と彼女の指から突然に発した轟音のために、濛ッと、硝煙に包まれてしまったのでもあった。
弾は、八弥の耳を掠った。
「しめた」
と、彼は、走り出した女を追いかけながら意気が昂った。怖ろしい武器の消失を待ッていたのだ。女は無益な荷を捨てるように八弥へ短銃を抛りつけた。
からりと、その時、地上に物の転がったような音がした。女の左の手から弾み落ちた帛紗づつみの小筥が、八弥の足元から四、五間先の地上に踊った。
「おうっ」
彼は、全身をもって掴みとるように、それへ向って跳びついた。
スッと、女の白い腕も、恐ろしい速度でそれへ伸びた。
双つの手!
それがほとんど同時に、小筥の帛紗をつかもうとした刹那に、一本の槍の穂が、横あいから風をふくんで、キラリと八弥の眼を遮ったと思うと、うしろの崖へ、ぶすりっと突きとおった。
「あっ、投げ槍」
咄嗟のまに、地上の小筥はもうなかった。それを胸に抱いて、ひた走りに跳んだ女の姿を見つつも、八弥は再び樹を楯にして、居辣まなければ危険だった。
その意外な敵は、もう彼の踏んでいる地上を遠くもなく、榛の木の疎林を縫って、ばらばらとこっちへ駈けて来る。もう含月荘に近いから、或いは、そこの番士かも知れない。いかにも、山詰めの武士らしい膝行袴ばきの影が十人ばかり、各〻短槍を引ッ提げて、獣群を放したように草ぼこりを立って来た。
× × ×
峰の襞には、白い仔猫がかたまって首を入れているように、動かない雲があった。
七刻を過ぎているが、空はまだ浅黄いろに明るかった。
「お願いの者でござります」
小筥を抱えた女は、あれから程なく、少し息を喘ぎながら、含月荘の黒い門の前に立っていた。
門といっても、巨大な自然木を組んだ風流門である。塀といっても、古代の山城のように木柵を結いめぐらしてあるのである。しかし広さは何万坪あるか、山そのものの林石をありのままにとり容れてあるのだからほとんど見当がつかない。
ただ、一際高い中腹の林の上に、前黄門公のいる櫓のように高い建物が聳えているのが門の外からも仰がれる。
その内側から、革袴をつけた侍が、いかめしい声で、
「何者じゃ」
と、いうのが響いた。
女は、ことばを嚥んで待っていたように、
「はい、江戸表から参った玉枝でござりまする。お国家老大村郷左衛門様か、ご子息の主水様にお取次をねがいまする」
「おう、その玉枝殿ならご家老から伺っておる」
と、すぐに小門の方をギイと開けて、
「さ、おはいんなさい。只今この下で、短銃の音がしたが、あれは其女ではないか」
「江戸を立つ時、よほど巧みに来たつもりでございましたが、品川口から一人の男に尾けられて、ほんとに、難渋いたしました」
「多分、そんなこともあろうかと、ご家老のお計らいで、途中に侍たちを置かれたが」
「それで助かったのでござります。して、大村様は」
「お待ちかねだ。こっちへ」
彼女をさしまねいて、侍は、そこからまだ三、四町もある中門を潜って、更に楓林の奥に破風の見える深い玄関へはいって行った。
廻廊から廻廊へ。その奥の一室。
「オオ玉枝か。遠路をよう参ってくれた。女の一人旅、疲れたであろう。まあ、風呂にでもつかって、休息したがよい」
国家老大村郷左衛門である。五十以上であろうが骨格も太く、皮膚も若い。小鬢にすこし霜の見えるくらいで、六万石の国家老といえるだけの風貌は充分に出来ている。
女は、もう埃っぽい手拭も、旅上衣も脱いで、明らさまにほほ笑んでいた。これは正しく花世ではない。富武五百之進の娘の花世とはまったくべつな女性だった。
「はい、体より、気疲れもしましたが、何よりも先に、大事な用事をすませてしまいませぬと、心の方が休まりませぬ」
玉枝とよばれたこの女は、その美貌や肉づきでは、ほとんどあの花世と変りがないほど瓜二つであるが、ただ口をきくと、その語音はまるで花世とは違っている。花世のあの優雅かな女らしさとは相違して、どこか猛々しく、気持も非常に強いらしい。しかもこの女特有な頭脳のよい明敏さもまた、そのキビキビした言葉つきによく出ている。
「そうか」
と、郷左衛門は頷いて、
「では早速だが、持参の品を一見いたそうか」
「はい、これをお渡しせぬうちは、肩の重荷が下りませぬから」
と、玉枝は、携えて来た帛紗づつみを膝に乗せて、その結び目を解きかけた。
と、唐突に襖が開いて、
「父上」
何か、どきッとしたように、玉枝も郷左衛門も同時にふり向いた。
「えい、吃驚いたすわ。誰かと思えば、主水ではないか」
贅沢な絹物と大小に飾られた若い侍であった。父に叱りつけられて、顔を紅めたまま、
「お宥し下さい。でもただ今、楼上の大殿から父上を呼べというお伝えがございましたので」
「殿がお召しになっておるのか」
と、郷左衛門は苦い顔をつくって、
「──じゃあしかたがあるまい。あの四層楼の梯子を上がり降りいたすのはやりきれぬが、ちょっと先に行って参ろう。これこれ、主水」
「はい」
「その間に、玉枝を寛がしてつかわせ」
と、席を立ちながら、今度はその玉枝に向って、
「また殿様の愚痴を聞き飽いて来ねばならぬが、その小筥の品は、立ち帰って来てからゆっくり見ることにいたそう。その間でも、うかつな場所へは置かぬように」
言い残して、橋のように永い廻廊を、白足袋で踏んで行った。
奥から奥へと、その廊下づたいに進むと、やがて突当りの欄間に、「花園猥入不可」と白字彫の木額がかかっている。またその下の柱には小さな欅の板に、
──錠口番の許可なくして入りたる者は死罪。
と、誌してある。
扉もまた、それから先に、国家の大罪人でも入れてあるように厳重だ。──がしかし、
「開けい」
郷左衛門が一声呼ぶと、左右の部屋から、屈強な侍が、ばらっと出て、すぐそこを開けて両方に膝まずいた。
「変りはないか」
「は。べつに」
鷹揚に頷いて、ついと、闇の中にはいった。
土蔵の中みたいである。隅に、上から落ちて来る光線が月のように見える。そこに鉄の梯子がかかっていた。
老公のいる含月荘の高楼は、この四層めの一室だった。三つの鉄の梯子を登って、国家老の大村郷左衛門は、やがて、いちばん上の一室へ畏る畏る伺候した。
「ヘヘッ」
と、次部屋の襖ぎわに手をついた途端から、彼はもう地上の人間とは別者みたいに変っていた。
「──大殿、大殿。お召しの郷左衛門めにござりまするが、お襖を開けても苦しゅうござりませぬか」
「郷左か」
と、温雅な老声が聞えた。
「はいれ」
そーっと、音もなく襖を開けて、郷左衛門は、ぺたりと、遥かに退がったまま、
「いつもながら、麗わしいご機嫌を拝しまして、郷左、何よりもうれしく存じ上げまする」
「人間も、天空におると、健やかになるの」
老公は膝にあまるくらいな美事な白髯を、童児のような美しい掌でまさぐっておられた。
一切の国政をみな家臣にまかせて、光風霽月を友とし、九年の間も、この高楼から降りないせいか、老公の耳朶、眦には、童顔のうちに一種の仙味がある。
が──ただ眸には、何か一つ、言うに言えないような憂いが底を流れていた。
「時に、郷左」
「はっ」
「今年もはや二月になるのう」
「御意にござりまする」
「数えておるか」
「胸にこたえておりまする」
「幕府のご猶予は秋までだぞよ。この秋までに、世継を届け出ねば、わしの家名は、幕府へご返上せねばならん。永劫に、わしの血統というものは、この地上に絶えるのだ」
「郷左も、その儀ばかりを、実に心痛いたしておりまする。ひとたび、思いをそこにいたす時は、夜の眼もろくに眠られませぬ」
「まったくか!」
「何で、私が」
「いつもいつも、汝は左様申してはおるが」
と、老公は幅のひろい声量に少し怒りをふくんで、
「待てど暮せど、いまだに、身の落胤の行方について、さらに手懸りがつかぬのはどうしたものじゃ」
「いや」
と、郷左衛門はあわてて、恐懼そのものとなった手を振りながら、
「大殿が左様にお思い遊ばすのは、ご無理ではございませぬが、それに係っておる者は、誰も彼も、寝食を忘れ、身を粉にくだいてご落胤のお四名様を、探し歩いておりまする。決して、一日たりと、それを忘れている臣下はございませぬ」
「わしの血をうけている四人の孫、それは正しい側室の血統でないために、いずれも民間に流離しておるであろうが、一国の主の力をもって、数年間も探し求めて、いやいまだに一人もわからぬという法はない」
「おことば、重々ご尤もでござりますが、ほかならぬお世襲の問題、幕府や他藩へ対しても、公にはできませぬ」
「あたりまえじゃ」
「が故に、ずいぶん手配は尽しておりまするが、ご勢力をもって、大がかりにお探しはできぬのであります。何とぞ、この郷左をお信じあって、もうしばらくの間、おまかせ下さいませ。はい! お四名様のうち、きっとお一人やお二人は、郷左が命にかけてもご期限までに探し出して、お心を安め奉ります」
彼が、声にまごころをこめ、眼に涙をうかめて、こうまでに言うと、時折、歯がゆくなられるらしい老公もだんだん顔いろを和らげて、やがては、臣下にせよ、信じてこそ国家老の重職においてある彼へ向って言い過ぎたことばを、悔ゆる色さえあらわして来るのだった。
「郷左、何分にもたのむぞ」
老公は、そう繰り返して、峰の夕雲に眼を移した。孤寂にうるんだいとも淋しげな眸であった。いつか、四山の峰の襞は、ふかい暗紫色を彫りこんで、水の見えない琵琶湖の方に、厚ぼったい雲が下がっていた。
西側の窓の方からは、遥かに、京都の町の灯がチラチラ見える。郷左は、畳に貼りついた蜘蛛のように、いつまでも、顔を伏せていた。そのまに、蘭之助、杉太郎と呼ぶ愛くるしい小姓が二人して、机のそばの金行燈へ灯を点した。
ギリギリギリと何処かで時計が鳴る。
「郷左、退がれ」
老公は立った。蘭之助、杉太郎の二人に手燭を持たせて、静かに、次の間の書庫へ書を取りにはいられた。
「稀々のお召しというやつがないと、ここにいても、随分わるくはないが、あれが、苦手じゃて」
湯から上がって、軽い着流しで寛いだ郷左衛門は、仮面を摺りかえたように変って、あたかも、この含月荘の主のように、傲然とつぶやいていた。
山の屋敷にしては、贅沢な膳部が、燭の媚に見まもられていた。側には、彼の子のすこし出来の悪い主水が、時々、玉枝の顔ばかり見ながら、銀の銚子をとって、父の酌をしていた。
「亀山のご城内とちがって、こちらの方には、美しい女中達がおりませぬから、それでお父上は気づまりなのでございましょう」
と主水は、主水らしい戯れを父に言った。
「たわけた事を申せ。おまえなどは、父が誰のためにこういう苦心をしておるか、知らんのじゃろう」
「それは不肖ですが、分っております」
「分っておったら、冗談にも、左様なことは申さぬものだぞ」
「けれど、私が立身すれば、父上も同時にもっとお好きな事ができるわけですから」
「老後には、それくらいな埋め合せがなくてはやりきれん。……お、忘れていたが、玉枝、そちをこの山まで尾けて来た男は、あれから侍たちが捕まえたか、それとも、斬って捨てたかどうか。復命はなかったかどうじゃ」
「最前その事を、表の侍から、申して参りました」
「お、そうか」
「けれど惜しいことに、逃がしてしまったそうでござります」
「それはまずいな」と、郷左はすこし眉をひそめて、
「わざわざ江戸表から害虫を連れて来て、山へ、追っ放したようなものだ」
「いいえ、たいした者ではございません。まだ青くさい同心の端くれでございます」
「同心ならばなおいけまい」
「いくら江戸の同心であろうと、十手を持って、お大名の奥へ立ち入ることはできませぬから」
「む。大きに」
と、郷左は、自分へ頷いて、
「ところで、最前の品は」
「側に持っておりまする」
「酒の肴に、検めようかの」
「よろしゅうございましょう」
「主水、おまえは、退がれ」
「なぜですか、父上」
と、主水は露骨に不平のいろを示した。
「見てもつまらぬ物じゃ。あっちへ行けと申すに」
「よいじゃございませぬか。つまらぬ物ならば、見ても差支えないわけでしょう」
「そちが見ても、益にはならぬから立てと言うんじゃ。わからん奴め」
「まあ、それまでに仰っしゃるならば、お見せした方がよいではございませぬか。他人とは違いますからね」
玉枝は、父子喧嘩を取做すようにそう言って、帛紗から出した小筥を、卓の端にのせた。古代蒔絵の溶けそうな筥である。
「何ですか」
と、主水は無遠慮に顔をつき出した。
玉枝は笑いながら、
「当ててごらん遊ばせ」
「香筥」
「いいえ」
「琴の爪入れ」
「あれはもっと小さな物でございますよ」
「では、笄筥じゃ」
「あたりました」
「何だ、つまらぬ」
「中は?」
「中身は違うのか」
「まさか江戸表から、櫛や笄などを入れた物を、護っては参りませぬ」
「わからぬ。開けてみい」
玉枝は、指をかけて、蓋を開いた。
「おや、中はただの白木の箱じゃないか」
返辞を与えぬ代りに、玉枝は、さらに次の木箱の蓋を取り除けた。主水の顔は、見るまに、まっ蒼になって、
「? ……」
ごくと、生唾を嚥んだまま、その妙な、小さな物体に、驚きの目を奪られてしまった。
やがて……
「父上」
「む」
郷左衛門も、余り、気味がよくはないように、小筥の中へじっと眼を落していた。
「こ、これやあ、父上、女の人さし指じゃございませんか」
「そうだ」
「斬ると、こんなに、爪の色が、鉄漿を塗ったように、真ッ黒になるものですか」
「そりゃ、日数が経ち、血の色が失せれば黒くもなろう」
「だって、こんなに黒いのは」
「何でもいい、そちの関わることではないから、気が済んだら次へ立て」
「でも、不思議だなあ」
「何が不思議?」
「父上は近頃、妙な物を蒐めることを道楽になさいますな」
「蒐める?」
「昨日も、相州の江の島から、江之島神社のお神札箱にはいった物が飛脚で着いたのでございましょう。するとすぐに父上は、その日のうちに、京都の為替問屋から、千両という大金を、何処かへお送りなすった様子。これや怪しからん、神社のお札一枚に、千両も払うわけはないがと、そっと、お留守に開けてみると、中は人を馬鹿にした木屑がいッぱい、なお変になってよく見ると、ちょうどこの小筥と同じくらいな密封した箱の中に、やはりこれと同じ女の指が入れてあるではありませんか」
「…………」
郷左衛門は、わが子の饒舌を、黙って、睨みつけていた。
「だが、これと違って、昨日の指は、斬ッたばかりのように生々しかった。それに、これは人さし指だが、あの方は、たしか中指で」
「主水」
「だめですよ父上、そんな難しい顔をしたって」
「貴様は、見たのか」
「はい、ちょっと、失礼いたしました」
「どうもしかたのない奴だ。しかし、見た者がおまえだからよかった」
その、ほっと吐いた溜息のあいだに、玉枝のことばがキビキビとはいった。
「えっ、また後の指が着いたんですって。──このあんばいでは思いのほか、早くすべてが片づくかも知れませぬ」
「どうか一日もはやく、そうしたいものだ」
「私も江戸表の方が気がかりですから、一刻もはやく、帰るといたします。では、私の持って来た分の金子は、どうぞ後から為替でおねがいいたします」
「よろしい、金子の方は、相違なく送るであろう」
主水は物好きに、父の隠しておいた文庫の中の小筥を、もう一つ出して、蓋を取ってそこへ並べた。
二本の女の指!
生々しい中指と、血の干乾びた人さし指。
「あと、もう二本でございますね」
玉枝は、小判を見いるような眼で、呟いた。
「ウーム、もう二本。……はやく並べて見ぬうちは、心が安まらん」
「揃いましたら、お約束のように」
「ム。四本目の最後の指には、倍額の二千両与えよう」
三人の眼が、ひたっと、そこに打つかった時、玉枝は、ふいに蛇のような襟頸を伸ばして、
「ふッ……」
と、側の行燈を吹き消した。
「あっ、何をする」
と、郷左衛門の声が、闇の中で空虚にひびいた。しかし、すぐにはっとして立ち上がった。
いつのまにか、襖の境が、一寸ほど隙いて、外の星明りが針金のように透いている。そこの蔭から、どかどかッと、廊下へ向って、誰か逃げた。
「──あっ、見られました。聞かれました。ご、ご家老様ッ。あれを、逃がしては大変です! 早く、早くッ」
その跫音へ、玉枝の声が、甲走ッた。
どんな敵と真向きになっても揶揄的に笑っていられる彼女が、常の不敵さを取りみだして、そうまでに、絶叫したのだった。
黄門公のお眼覚めとみえる。
高楼の窓に灯が消えた。白い朝雲が、峰にも、谷にも、含月荘の屋根にもゆるぎ出した。
──四明ヶ岳は夜が明けたのである。
「江戸表までは長い道だ。──では玉枝、ずいぶん気をつけて行くがよいぞ」
「玉枝どの、お名残惜しいが、それではここで……」
小禽の声。雨のような朝の光線。
人の姿は霞んでいる。
国家老の大村郷左衛門と主水の父子であった。そして、まだ朝まだきの裏門から送り出されて出たのは、昨日、この山荘に着いたばかりの女客──女の密使──人間の指を入れた小筥を持ってここを訪れた怪美人玉枝であった。
玉枝は、昨日と同じ旅装いに、杖、菅笠を片手にして、
「お別れいたしまする。それでは、郷左衛門様にも、主水様にも、ご機嫌よう……」
「ム。次の吉報を待っておるぞ」
「はい、きっとまたすぐに、指を入れた小筥をお送りすることになるでしょう」
ニッと意味ありげな笑靨をつくって、そのまま、二人に別れて歩み出した。
道が、山陰に曲がる時、玉枝は、もういちど含月荘の方をふり顧って見たが、大村父子の姿はもう見えなかった。
「……そうだ、同じ道を歩いて戻るのは智恵がない。きょうは、この四明ヶ岳から峰づたいに、大文字山の裏を通って、三井寺から大津へ抜けて見ましょう」
独り語に、こう呟いて、山の空を見上げた。
つうッと、色羽ネの矢のように、小鳥の尾が、碧い空から谷間へ掠ッて行く──
陽がのぼる。陽炎が立つ。
旅は、朗らかであった。
西──一乗寺より白河を経て京都へ。東──叡山道を越えて大津東海道口に至る。
所々にある道標の石をたよりに、彼女は、中山越の峰にかかった。
「オオ! 佳い見晴らしだこと」
だいぶ登って来たので、冠り手拭いの下のおくれ毛が、花の露ほど、微かな汗を含んでいた。
ほっと、深い息を吸い入れながら、彼女は、風に向って、眼を細めた。──その眼は、何かを笑っているように。
すると!
うしろの灌木の葉がガサッと動いた。──ぎょッとして、振り顧った玉枝の眼は、そこから躍り出した男を見るや否、
「あっ! いけないッ」
と、叫んだ。
ほとんど、倒れんばかりな驚き方だった。
ぽーんと、男の影へ向って、菅笠と杖とを投げつけるが早いか、狼狽して、ざざざッと、道もない崖へ逃げ下りた。──いや! 転げ落ちたと言った方がいいくらいに。
その上から、びゅッと、烏蛇のような、黒い捕縄が躍ッて行った。
「玉枝ッ──御用だ!」
男は、波越八弥であった。
「あッ」
玉枝の体は、崖の中腹に転がっていた。猟師のように、跳びかかッて行った八弥は、欣ばしさの余り凱歌をあげて、
「ざまを見ろッ。よくも昨日は、存分に拙者を愚弄したな!」
と、玉枝の背ぼねを踏みつけて、仮借なく、彼女の両手を後ろへ廻して縛り上げた。
「さ! 歩けッ」
と、八弥は、昂奮した語気で、縄尻を絞った。──玉枝は、不貞腐れ気味に、
「ちッ、やかましいじゃないか」
と、口惜しそうな流し眼を向け返して、
「猫が鼠を捕ったように、余り騒ぐのは大人気ないでござんしょう。ご自分様の足ですからね、気が向けば、歩けと言われなくったって、歩くのさ」
「減らず口をたたくな。もう貴様の悪運も尽きたのだぞ」
「ヘン……よくお分りでございますこと」
「大津口まで出れば、問屋場からすぐに軍鶏籠に乗せてやる。さ、歩け歩け」
「山の中だからちょうどよかったよ。町中でこうされちゃ堪らない。……ねえ八弥さん」
「何だ」
「私もずいぶん多くの手先や同心にも尾けられたけれど、お前みたいな、執ッこい、根気のいい人間は、見たことがないねえ。恐れ入ったよ」
「さすがの妖婦も、天命を知ったと見えるな。いつの世にでも、悪運の永く続いた例はないのだ。獄門になったら、次の世には、善人に生れ代って来い」
「ご親切さま……」
と、玉枝はうすら笑いを泛かべながら、白い糸切歯で、唇を噛んで──
「けれど、私は死んだって、悪事は止められない性分なのさ。悪事を働くくらい、面白いことはないからネ」
「毒婦だな、貴様は。──その美しい容貌を持って生れながら何という情けない心だろう。薊の花だ。茨の花だ」
「何とでも仰っしゃいましとサ」
八弥はこの女に、何らの同情も湧かなかった。それだけに、気が楽である。びしびしと引き摺り上げて、崖の中腹から元の道へ登った。
──そして、縄尻をつかんで、叡山道の峰を辿りながら、ぼつぼつと訊ね出した。
「玉枝」
「…………」
「オイ玉枝」
「うるさい人だね。私に何か訊くことがあるならば、その辺で、水でも飲ませて、少し休ませてくれなければ駄目だよ。息が喘れて、返辞なんか、できやしない」
「そうか、じゃ少し休ませてやる。そこへ腰をかけろ。──その代りに拙者の問に答えるのだ」
「オヤ、もうお白洲かい」
「貴様は、江戸表から小筥を持って来たな。そしてそれを、含月荘の大村郷左衛門の手へ届けたな」
「そんな事は、お前さんの方が、とうにご存じじゃないか」
「あの中には、人間の指がはいっていた」
「それも昨夜、私達が密談をしているところを、お前さんが忍び込んで、次の間からすッかり聞いて逃げたじゃないか」
「あの人間の指は、誰の指だな?」
「…………」
答える代りに、玉枝は、噤んだ唇でうすく笑った。
「おいッ」
「なんですか」
「誰の指だと訊いているんだ。言え」
「もう見当がついてるじゃありませんか」
「よし。それではべつな事を訊くが、あの亀山公の国家老大村父子と其方とは、いったい、どういう縁故があるのか」
「…………」
「また、あの奇怪な家老は、なんの為に、莫大な金を費って、其方たちを手先に、女の指を蒐めているのか」
「…………」
「これッ、なぜ言わんか」
「…………」
「言わぬな。よしッ」
八弥が、捕縄の端を鞭のように振り上げた時である。──玉枝の小ばしッこい眸が、何ものかへ向ってキラリと動いた。
その眼ざしに釣りこまれて、八弥は、ひょいと後ろを見たが、途端に、
「あっッ!」
と、五体を捻ッて、仰向けに反った。
しいんと、氷の棒で打たれたような痛烈な感じが、眉間から背骨の髄を走りぬけた。と思うと、八弥は、ただ草の根を掴むばかりで、自分で自分の体をどうすることも出来なくなっていた。
「わははは。一撃ちだ」
倒れた八弥の上へ、樫の六角棒を抛り捨てて、ひとりの逞しい侍が、こう大声で笑った。
「オイ、みんな出て来い!」
手をあげると、四方の笹むらや、木蔭や、岩の蔭から──
「何だ、もう済んだのか」
「少し呆ッ気ないぞ」
含月荘の武士どもであった。山いでたちに、革襷を締めこんだのが、十四、五人ばかり、わらわらと飛び出してそこに集った。
不意に、八弥を昏倒させた侍は、
「この通りだ」
と、得意げに地上を指さして、
「ご家老は?」
と、見廻した。
「先に、主水様とご一緒に、如意ヶ岳の作兵衛の小屋へ行って、お待ちうけになっているはずだ」
「そうか。じゃすぐに其奴を引ッ担いで行け」
「心得た」
首を持つ、足を担ぐ、腰を支える。
八弥の体は、人間の波の上に浮き上がった。彼は、宙に足を振って、何か叫んだが、すぐに、昏々と仮死してしまった。
「──それッ、急げ」
と、真っ黒に、そのまま走り出そうとすると、玉枝の笑い声が後ろでひびいた。
「もし、私を忘れちゃ酷いでしょう」
「あ、玉枝どのを」
「そうだ、縄を解いてやれ」
彼女は、麻痺れた両つの腕を空へ伸ばした。
「上手くいったね。──同心なんていう者は、悧巧そうで、案外馬鹿なものさ。ゆうべ、こっちの密談を偸み聞きして、とうとう捕まえ損ねたから、きょうは、わざと私が囮になって、この叡山道の奥まで釣りこんだとは知らないで、人のことを、悪運が尽きたの、何だのと、いい気になって講釈を言うから、肚の虫が可笑しがって困りましたよ」
「でも、少しは酷い眼に会ったでしょうが」
「何、これで胸が清々しました。──けれど、どうしてこの同心を、すぐこの場で殺さずに、作兵衛小屋とかへ持って行くのですか」
「そこが、ご家老一流の、細心なところなので」
「じゃ、死骸の始末をするためにですか」
「左様。死骸をこの辺に埋めておいて、万一、強雨の後などに、土中から洗い出されると、ここは叡山道で人通りもあることゆえ、世上へ洩れる惧れがある」
「なるほどネ」
「江戸の上役人が、含月荘の領内で、殺されていたと分ったひには、こいつ、大破綻になりますからな。──そこで、如意ヶ岳の作兵衛小屋へ持って行って、炭焼竈の中で焼いてしまおうというお考えなので」
「それなら、衣類も大小も、みんな灰になってしまうから、世間に分るはずはない」
郷左衛門の細智に感服しながら、玉枝も、一同の後に尾いて、そこから細い山道づたいに、谷一つ彼方の如意ヶ岳へはいって行った。
山の主といわれる炭焼の作兵衛はそこに住んでいた。
作兵衛はもう六十近い老人だが、腰も曲がらず病というものを知らない。楢薪で組んだようなほッたて小屋に住んで、三つの竈で焼く炭は、すべて含月荘の台所へ納まることになっている。
そこへ、今し方、ぶらりとはいって来たのは、大村郷左衛門と主水の父子で、
「作兵衛。──作兵衛はおるか」
と、小屋を覗いて、声をかけた。
「おう、これやご家老の息子様だの。また、鳥撃ちかね」
と、竈場の前から真っ黒な顔をして、のそのそと立って来た作兵衛は、
「あっ、これやぶったまげた、ご家老様まで一緒にござったね。こんな山小屋へ、何しに来たんだね」
「作兵衛、お前に少し頼みたいことがあって、それでわざわざ父上までご一緒にお越しなされたのだ。これは少ないが、手土産の代りだ、取っておけ」
「ほ。……おらに、この金をくれるのかね」
「見たことがあるか、それは、小判というものだ」
作兵衛は、膠もない顔をして、
「こんな物は要らねえだよ」
「なぜ」
「おらには、もっと欲しいものがあるだがなあ……」
「何なりと望んでみるがいい」
「去年の夏ごろだ、おらの伜の唖野郎が、大津まで買物に行ったきり山へ帰って来ねえでがす。何しろ、あの伜めは、唖で聾で、ぼんやり者。もしや、河にでも墜ったのじゃねえか、人に斬られたのじゃあるまいかと、そればかりが苦に病まれて、この頃は、仕事にも張合いが出ない。──何もいらねえでがすから、どうか、伜の唖野郎が、一日も早く山へ帰って来るように、探しておくんなさい」
主水は、父の郷左衛門と眼を見合せて、ちょっと苦笑を洩らしたが、無智な者を欺すように、軽っぽく頷いて、
「よしよし、案じることはない、唖の岩松は、今にきっとお前の手に返してやる」
「えっ、返してやる? じゃおめえ様方が、隠したのじゃねえのかい」
「ば、ばかなことを申せ。あんな、薄野呂な唖聾を隠したって何になるか」
「それやそうだ……」と、作兵衛はがっかりした顔で、
「ところで、おめえ方の頼みというのは、何だね」
「きょうは竈に火を入れる日か」
「あ。今、三番竈に火を入れる支度をしているところだ」
「それや好都合だった。ほかじゃないが、そちの炭焼竈で、人間の体を一箇、こんがりと焼いて貰いたいのだが……」
「えっ、人間を焼いてくれって」
純朴そのものに出来上がっている作兵衛老爺は、眼をまろくして驚いた。
「嫌か」
主水は、彼を睨みつけて、刀の柄に手を乗せながら、
「嫌と申すか」
「い、いえ、嫌とは、言わねえでがすよ」
「そうだろう、常々のご恩顧を忘れて、嫌だなどと言えばただはおかん」
郷左衛門は、小屋の横から谷道を見下ろして、
「主水主水、やって来たぞ」
「おお成程、引っ担いで参りましたな」
「作兵衛、火入れを用意しておけ」
そこへ、南の同心波越八弥を肩にのせた大勢の武士たちが、ぞろぞろと登って来た。
玉枝は、郷左衛門父子の姿を見ると、ニッコリと駈け寄って、
「ご家老様、首尾よく、ゆうべの曲者を、罠にかけて参りました」
と、言った。
郷左衛門は、武士たちへ頤をしゃくッて、
「すぐに、裏の竈場へ運んで行け」
「はっ」
と、山いでたちの武士の群は、八弥を引っ担いだまま小屋の裏へ廻って、
「老爺、どの竈へ抛り込むのだ」
と、訊ねた。
そこには、真っ黒に煤った三つの炭焼竈が、毛を毮られた巨獣のような粗い肌をして、火口を並べていた。
作兵衛は、気のない顔をして、
「きょう火入れをするのは、三番竈だよ」
「こっちの端か」
「へい」
「どれ……」
と、一人の武士が火口から中を覗き込んで、
「ム、いかにも、楢の炭材がいっぱい詰め込んであるわ」
「それでは、すぐに抛り込め」
「よいしょ!」
と、肩から下ろした八弥の体は、たちまち、真っ黒な竈の胎内へ、薪を押し込むように、無理無態に、詰め込まれてしまった。
ぽんと、土蓋をして、粘土の目塗りをした上に、僅かな火口だけを開けておいた。
郷左衛門は、玉枝や主水と並んで、一同のうしろでその様子を眺めていたが、まず、これでよかったというように頷いて──
「作兵衛、すぐに火を入れい」
と命じた。
「まだちッとべい、早うがすよ」
「火入れにも時刻があるのか」
「へい。未の刻に火入れをして、暁方の六刻に、竈開けをすることに、何十年もの間極っているんでがす。小屋のめえに砂時計があるだから、それを見ていておくんなさい」
「未の刻か。では、もう半刻ほどだな」
「その間に、茶でも入れますべえ」
作兵衛は小屋の中から藁筵を出して、見晴らしの佳い場所に、それを敷いた。
「これや絶景だ、酒が欲しいな」
と、主水は口を辷らしたが、父の顔いろを惧れるように、
「いや渋茶でもいい。おい、一同、ここへ参って休息せい。ご苦労だったな」
玉枝はうしろを向いて、乱れた髪を梳いたり、腰紐を締め直したりしていたが、やがて、容を改めて、
「それではご家老様、これで安心いたしましたから、こんどはほんとに出立いたします」
と、挨拶をし直した。
郷左衛門はふり向いて、
「まあもう少し休んで参ってはどうだ。ついでのことに、竈へ火がはいるのを見届けてから出立するがいい」
「そうですね、人間の蒸焼きを見るのは初めてですから、それじゃ、見物してから立ちましょうか」
「そうせい。……これこれ、誰かその砂時計を睨んでおれ。──まだか」
「もう暫時でございます」
そして、時が経つ──
耳を澄ますと、四山の樹々には、さまざまな小禽の群が万華の春に歌っている。空は深碧に拭われて、虹色の陽が熔けそうに燦いていた。誰か、この平和な春の陽の下から、程なく、人間を焼く惨虐な煙が立ち昇ると思う者があるだろうか。
やがて──
「ご家老、ちょうど未の刻です」
と、砂時計のそばに立っていた武士がさけんだ。
「む!」
と、郷左衛門はつよく頷いて、
「作兵衛はいかがいたした」
「竈の前につぐなんでおります」
「そうか」
と、再びぞろぞろと裏へ来て見ると、炭焼の作兵衛は、その跫音にも気づかずに、三番竈の目塗りをしきりに弄っている様子なので、
「こらっ、何をする?」
一人の武士が呶鳴りつけると、作兵衛は、びっくりしたように振り向いて、
「何をするかって、見たら分るだろう。目塗りを繕っているのでねえか」
と、不平そうに、反抗した。
「目塗りは最前に充分いたした筈ではないか」
「中のやつが暴れくさッたで、この通り、破れが来てしまったのじゃ」
「げッ、それでは、息を吹ッ甦したのか」
「そうらしいぞ。竈の肌へ、耳をつけて見さッしゃい、中で、呻いているだから」
「ウーム……何かそんな物音がするようだ」
「どれ、どれ」
好奇な眼をした武士たちは、代る代るに、竈の肌や火口へ耳を寄せ合った。
なるほど、作兵衛のいう通り、中では烈しい物音が暴れている。異様な呻き声が洩れる。
「さ、退いた退いた。愚図愚図しておると、この竈を壊されてしまうわい」
と、作兵衛は、忌々しそうに、手を振って、侍たちを、退けた。
郷左衛門は、叱咤した。
「老爺! 早くせい! 火を入れろッ」
「合点でがす」
枯枝の先に襤褸をつけて、どっぷりと油を浸し、それを、火口から幾つも抛りこんで、ぱッと、燐木の焔を投げこんだ。
ぱちッ、ぱちッ、ぱちッ……とたちまち焔は竈の胎内を真っ赤にした。
一同は、生唾をのむ。
さすがに、幾ら悪人でも、余りいい気持はしないのであろう、郷左衛門も顔を硬直させて、じっと、鋭い眼をすえていた。
ごうッと、竈は巨大な焔の心臓を膨らませて、火口から強く風を吸いこんだ。
見るまに、粘土質の竈肌は、赤土のように熱し出して、武士たちは、煙に咽せた。
「わあ、堪らん」
「臭い! 人間臭い」
作兵衛も、面をそむけた。
何で堪ろう! 波越八弥は、今や狂炎の真ッただ中におかれた一本の薪と等しく燃えているのであろう。
その爪も、その髪の毛も。
聞える! 聞える! ああ聞える!
異様な苦鳴が竈の中から劈いて聞えた。
──人間最大の断末苦である。生きながら心臓を焼かるる者の狂炎乱舞だ。
「わははは。わははは」
と、主水は突然、手をたたいて笑いながら、父の袖を引っ張った。
「父上、父上、屈んでごらんなさい。見えます、見えます、竈の中で、江戸の同心めが、のた打っている有様が!」
胸さきに、生唾を痞えさせていた武士たちも、その図に乗って、いちどきに、わッと凱歌をあげて引揚げた。
ああ、若き名捕手、情熱的な南の同心、波越八弥もかくて遂に死んだか。折角、臥薪嘗胆して、含月荘の怪殿に入りこみ、女の指を蒐める奇怪な国家老のあることを見届け、さらに、怪女性玉枝の仮面までを剥ぎかけて、さしもの難事件に一縷の光明を見たと欣んだのも束の間であった。
それを、江戸に報じる遑もなく、空しく、狂炎の鬼となったとすれば、彼の胸のうちは、そもどんなだったろうか。
彼の捕術の恩師、江漢老先生。
彼の刎頸の友たる同じ南の同心加山耀蔵。
その人々は、その夜、どんな夢も見なかったであろうか。夢、夢、せめて夢にでも通え!
彼の無念極まるこの最期を、彼の味方に告げるものは、夢よりほかには頼みがない。
江戸の笛師殺し、江の島の巫女殺し、指切りの殺人魔と目されて、遂に、江之島神社の境内で召捕られた塙郁次郎は、何故か、すぐに江戸表へは護送されなかった。
島役所の納屋蔵は、さしずめ、彼の仮吟味所となった。郁次郎は毎日毎夜、東儀与力と羅門塔十郎のふたりが交代になっての調べに、拷問され続けていたのである。
四日──五日──七日と──
相手は、交代して休息するが、郁次郎は少しも寝かされなかった。夢、うつつである……。そして割竹の苛責、折れ弓の拷問。
皮肉はやぶれ、精神はもうろうとなってしまった。
「しめた! 自白したぞ」
明け方から根気よく、納屋蔵に籠って責めていた東儀与力は、口書を引っ掴んで、羅門のいる役室へ飛び出して来た。
「なに、自白したと」
と、羅門も緊張して乗り出した。
「ム。ずいぶん強情な奴だが、とうとう笛師のお雪を殺害したのも、巫女殺しも、みな自分の所業だからはやく死罪にしてくれと泥を吐きおった」
「それは貴公の大手柄だった。──して、何の恨みでそんなに人命を害めたのか」
「何しろ、怖ろしく疲労しておるので、一遍に細かいことまでは訊きとれないが、他人の頼みをうけて殺したと申しておる」
「金のためかな?」
「そうらしい。何でも、江戸表の方の調べと綜合してみると、花世の父、富武五百之進には非常な借財があるらしい」
「ほう、それは初耳ですな」
「彼は御書院番頭を勤めておったが、その部下のうちで、ある者が、公金を費い込んだことがあった。その時に、部下の者を助命したいために、非常な工面をしてその公金を償ったのが、いまだに残っていると申すことじゃ」
「ははあ、それで婚儀の費用にも窮し、また、養生所の創業にも金が要るので、江漢老人だけには内密で、富武五百之進、花世、郁次郎の三人で、悪意を起したものとみえますな。なにしろ、一日ごとに事件の迷霧が晴れて、こんな欣ばしいことはない」
「昨日、お奉行の榊原主計頭様からもご来状があって、このたびのご尽力には、心から感謝している文面でござった。もう何事も尊公におまかせすると、信じきっておられるようじゃ」
「いや、かほどの功を、左様に誇称されては面目がありません。郁次郎から自白の口書をとった上は、すぐに、江戸表へさし立てましょう」
「やっかいな下吟味がすんで、なんだか、肩の重荷が半分以上も下りた気がいたす。それではすぐに、用意を申しつけましょう」
その準備は早かった。
いつでもというように、部下の者は、七日も前から待ち構えていたので。
わずかな間に、げっそりと衰えた塙郁次郎は、やがて、軍鶏籠の人となった。警固は、二十人余りの捕手。
羅門塔十郎と東儀与力が先頭に立った。加山耀蔵は駕わきに付く。そして、江の島の渡舟から腰越街道の方へ渡ってゆくと、もう海辺も路傍も人で埋まって、
「指切りの郁次郎だ」
「江の島の巫女殺しだ」
と、たいへんな騒ぎである。
中には、
「憎い奴だ」
と、軍鶏籠を目がけて、石を抛りつける者がある。唾を吐いて、罵る者がある。
「ばか者ッ」
と、そんな時、加山耀蔵は思わず腹の底から呶鳴りつけた。──恩師の息子を縛げて警固してゆく彼の心には、人知れぬ悩みがあった。道中も、怏々として勝れない顔いろ。
その晩は、保土ヶ谷泊り。
神奈川の陣屋に着く予定だったが、ちょうど、国元へ帰る備前岡山侯が滞泊しているので、わざと、囚人駕を避けて、一つ手前の保土ヶ谷に泊ったのである。
保土ヶ谷には、本陣めいた大きな旅籠はなかった。青砥屋という商人宿の泊り客を残らず他へ移して、
「今夜は、ほかの合客は一切まかりならんぞ」
と、いう言い渡しで、総勢二十四、五名、ぞろぞろと、草鞋を解いた。
軍鶏籠は、籠のまま、炉部屋の次の煤けた板敷の隅へ担ぎ上げられた。無論、郁次郎は食い物も寝るのもそのまま、閾際には、寝ずの番が三名、夜どおし眼を光らしている。
宵のうち、宿場の通りを、細い尺八の音が、流れて行った。
籠の中に、瀕死の病人のように、昏々と呻いていた郁次郎は、その音を聞くと、針で神経を突かれたように顔を上げたが、すぐにまた、ぐったりと首を垂れて、
「人違いか……」
と、呟いた。
更ける。──深々とその夜は更けて行く。
たった一つ、消し残された行燈の燈芯皿にも丁字が霞んで、軒ばの夜露が、雨だれのように淋しく夜を刻んでいる。
屋の棟も三寸下がる──という時刻である。
郁次郎の軍鶏籠の置かれてあるすぐうしろの窓の外で、何者か、しめやかに歌口をしめして、尺八を吹く者があるではないか。
鈴慕の曲。夫を恋う女鹿の想いを憐々と竹枝のほそい孔から聞くような鈴慕の哀譜であった。
「あっ、花世! ……」
ギシリッと、軍鶏籠が少しうごいた。
郁次郎は、くわッと、血走った眼をして駕の穴から外を見廻した。三人の男は、寝ずの番の名にそむいて、ぐったり柱に倚りかかって居眠っている。
「ああ、花世だ。……あの鈴慕の曲の節廻しは、たしかに、花世に違いない。小さい時から、あれは、尺八が好きだった。五百之進殿も好きだった。そして、いつのまにか、二人して、習うともなく吹き覚えたのが、あの鈴慕の曲一つ……」
彼はもがいた。
体の自由は利かないので、眼ばかりがいらいらとうごく。いらいらと、眼が悶える。
「花世だ……ええ会いたい! ……ひと目でいい! たった、ひと目でも」
──その時、裏口から、そっと抜け出して行った者がある。それも、懊々として眠らずにいた南の同心加山躍蔵であった。
「はてな? この深夜に」
耀蔵は、寝衣を解かなかった。
不思議な尺八の音に、跫音を偸んで、そっと表の方へ廻って見ると、閉め切ってある窓の外に、尺八を持って、じっと、俯向いている細腰の──白い人影。
かしらには天蓋、身には、袈裟掛絡。
「オヤ、虚無僧だな」
四、五間ほど離れた天水桶の蔭に、耀蔵は、じっと屈み込んだまま、様子を見ていた。
とも知らずに、虚無僧は、やがて尺八を袋に納めて、しばらく、屋内の空気に耳を澄ましていたが、
「もし……」
と、軽く、爪の先で、そこの戸をたたいてみる。
「…………」
静かである。──丑満の星明り。
屋内からは微かな人の寝息が洩れるばかりだった。すると突然、虚無僧は、天蓋の顔に両手を当てて、さめざめと、泣き出した。
(ふしぎだ、いよいよおかしな奴だ、死罪になる囚人へ曲を手向けている奇特な虚無僧かと思ったが、あの様子では、何か郁次郎に縁の深い人間に違いない)
彼は、まさかその虚無僧が、花世の化身とは夢にも気づかない。──先の視線の隙を狙っては、じりじりと、十手を密めて、這い進んでいた。
虚無僧は、涙をふいて、何かはッと気をとり直したように、四辺を見廻した。そして、窓の雨戸へ懐剣の尖を差し入れた。
すっ、すっ、と短い刃の先に木屑が白く舞った。見ているまに、手を入れて、錠を外すぐらいな隙があいた。
耀蔵は、思わず、あッと口走った。──振り向いた天蓋は、そこに、彼の姿を見て、ほとんど、滅心的な悲しい表情を投げた。
「ああ、もう少しだったのに!」
こう、口惜しげに叫ぶがはやいか、風のように、走り出したのである。
「待てッ、曲者」
四、五丁跳んでゆくと、青木川の岸に出た。耀蔵は、追いつくや否、虚無僧のうしろから組みついて、
「御用ッ」
と、叫んだが、何か怖ろしいものにでも触ったように、手を竦めて、
「やっ、あなたは」
と、相手の天蓋の人を見直した。
「──頼みます! 見遁して」
「その声は、花世どのだな」
「情けじゃ」
跳び退きながら、天蓋の人影は、彼に向って、白い双つの手を合せた。
そして、青木川の土橋を、白鷺のように、ばらばらっと渡って行くのを見送りながら、
「ウーム……」
と、耀蔵は空しく見送っていたのである。
だが!
彼はふと、いつか同僚の波越八弥に言ったことばを思い泛かべた。
法縄は公明に! 十手は正大に! およそ社会の清浄と幸福のために、征悪の兵士となって働く捕手は、いかなる場合にも、いかなる相手にも、それが悪である以上は、断じて、仮借をしてはならない。私情にとらわれてはならない!
──と声を大にして、友を叱ったあの言葉を。
「おお、逃がしてはならぬ」
耀蔵は、吾れと吾が心を叱咤して、すぐに、花世を追いかけて行ったが、もう、彼女の行方は分らなかった。
仄白い光が、行く手にひろがっていた。それは神奈川宿の海だった。
「おう、夜が明けた」
彼は、花世が逃げてほっとした心と、その心を非とする慚愧とに責められながら、街道の松の根に腰を下ろした。
もう、ぼつぼつ旅人が通る。
どうせの事に、軍鶏籠がここまで来るのを待ち合せていようと、そのまま、明け放れてゆく海面を眺めていると、彼方の並木から、朝の春風爽やかに、馬の鈴が鳴って来る。
煙草の火──耀蔵はさっきから、火のない煙管を持っていた。それが、近づいて来るのを待ちかまえて、
「馬子」
と、呼びとめた。
馬の背には、早立ちの女客が乗っていた。
「──火を貸してくれぬか」
「おやすいことで」
だが耀蔵の眼は、その途端に、あらぬ方へ奪られていた。馬の背にある旅の女が、ちらと、冠り手拭の下から涼しい眼で彼を見下ろしたせつなに、
「あっ」
と、煙管を足もとへ落した。
「おのれ! 花世ッ」
女も、はッと何かに搏たれたように、
「何をするのさ」
掴みかかった耀蔵の手を、菅笠で振り払って、ぱっと、馬を躍らした。
不意を食らって、手綱を離した馬子を尻目にかけながら、女は、元の東海道の方へ、まっしぐらに引っ返して行く。
「花世! 花世! たしかにゆうべの花世に違いない。──だが、ゆうべは虚無僧、今朝は女の旅姿、それに、声も少しちがっていたが」
馬蹄のほこりを浴びながら、韋駄天と追ってゆく加山耀蔵。
彼もまた、波越八弥と同じような疑問にぶつかった。──二人の花世? ゆうべの花世? 今朝の花世?
それとも、すべてが同一人なのかと。
必死になって、十町あまり追いかけた。しかし、先は馬、こっちは徒歩である。殊に女の手綱があざやかなので遂に見失ってしまった。
「加山!」
どんと、肩を支えられて、
「あっ」
「どこへ参るのだ」
「これは、羅門氏でしたか」
息を喘ぎながら見廻すと、ゆうべの宿、青砥屋を立って来た東儀与力以下の人々と軍鶏籠とが、列をつくって、眼の前をふさいでいた。
「ただ今、この道筋を、若い女が、馬に乗って逃げたはずですが」
「ウ、見かけたが、それがどうしたのですか」
「怪しい女です。花世かも知れません。五、六名ほど手をお貸し下さるなら、すぐに追いついて、引っ捕えて参ります」
「待て待て」
と、羅門は逸り立っている彼の袖をつかんで、
「貴公は、何か手功焦りをしているな」
「ど、どうしてですか」
「上ずッておる。まあ落着き給え。──拙者もたしかに今の女を見かけたが、花世とまるで別人だ。なあ、東儀殿」
「まるで違ッておる」
そう言われると、加山耀蔵も、人違いな気がして来るのだった。もし今の女が花世と別人であるとすれば、これは、こんどの事件の上に、由々しい問題でなければならない。
きょうまで、事件の裏を縫って、陽炎のように幾たびとなく姿を見せている女は、して見ると、花世ともいえるし、また花世ではなかったということにもなる。
(はてな……こいつは?)
と、耀蔵は、考え直した。
黙々と、警固の行列について歩いてゆく間に、彼は、塙郁次郎の軍鶏籠を見つめて、この時初めて、怖ろしい大難関にぶつかったのであった。
(これや変だ)
という気もちが、何か、微妙なものの暗示のように、胸をかすめたのである。そして、心しずかに、眼をふさいで数里の街道を歩いて来るうちに、
(そうだ! これは一つ)
と、密かに、ある決心を固めて、不意に、列を脱して、八ツ山口から単独に、何処かへ、ぷいと姿を晦ましてしまった。
「ああ、物憂い春だ……。わしはこの頃すこしどうかしとる」
鶉坂の江漢先生は、愛縄堂の縁に、ぼんやり腰をおろしていた。自分で呟いているとおり、ほんとに、少しどうかしている顔いろであった。
「……どうしたぞ、何処におるぞ! 郁次郎は。……なぜ親にそう心配をかけるのじゃ、秋から指を繰って、こうして毎日、長崎から帰るのを待ちわびている親心がわからんのかなあ」
雲に嘆く老人の白髯には、蕭々と、春も、秋めいた風がうごく。
「──途中で怪我でもしたのではないか。それとも、学友どもに誘われて、京か大坂にでも、浮かれておるのではないか。それにしても、手紙ぐらいはよこしてもいいではないか。わしもこの頃は気が弱くなった」
しみじみとした述懐である。だが、孤独な老人には、それを聞いてくれる人も側には誰もいない。
「──妙なことには、近頃はまた、この鶉坂へ、さっぱり人も訪れて来ぬ。富武親娘もどうしたのか、音沙汰なしじゃ。……といって、この門から世間へ出かけるのも何となく物憂いでのう。……郁次郎! 郁次郎! わしは、お前さえはやく戻ってくれれば幸福なんじゃよ。そして、はやく花世と婚儀を挙げてふたりの姿をならべてみたい。それが、わしの今持っているたった一つの望みなんじゃ」
愁然として、老先生の頬に、寂しい影がさした。子供に返って、おいおいと、泣きたいような沈黙であった。
すると、珍しく、この養生所の裏山の方で人の跫音がした。昨年来、まったく訪客の絶えたこの鶉坂には、よしやそれが、花盗人でも珍しい跫音だった。
老先生は、耳ざとく、
「誰じゃ──」
と、愛縄堂から立ち上がった。
ばたばたばたっと、犬のように迅く走り寄って、老先生の足元に、ペタリと額いた人間があった。
「おやっ、おい……お前は加山耀蔵じゃないか」
「老、老先生ッ……。お久しゅうござりました」
「なんじゃ、泣いとるのか貴様は。……ああ止してくれ、それでのうても、わしは泣きたくってならないところだ」
「ご胸中のほど、深く、ご推察いたしまする。波越もてまえも、事件と同時に、一刻もはやく、お慰めに推参いたさねばならなかったのでござりますが、いかに、師弟のあいだなればとて、老先生のご子息を、縄目にかける役目に立って、おめおめと、お顔を拝すことも心苦しく……」
「これ。これ。……な、なんだって、ちょっと待て」
「今日までご不音の罪、どうぞ、おゆるし下さいまし、この、この通りでござりまする。どうぞ、憎い奴と、お叱り下さいましょう」
「おい待てというのに。……何じゃと、今聞けば、わしの伜をどうしたと?」
「郁次郎様のあのお始末、こうして、老先生のお顔を見ると、涙ばかりが……涙ばかりが先に立って、この胸が、張り裂けるようにござります」
「はて、分らんぞ。伜の始末とは」
「あ、あの……」
「何のこッた。はっきり申せ」
「指切りの郁次郎と、世上の評判も、もうお耳には入っていることと存じますが」
「こ、これッ加山、指切りの郁次郎とは、それや一体、なんのこッちゃ」
「ではまだ、何事も、老先生にはご存じないので」
「この鶉坂から一歩も出ぬわしじゃ。なにか、郁次郎の身に変事があったのか」
「あったのかどころではござりませぬ。女笛師のお雪を殺したのも、江の島の巫女殺しも、みな、郁次郎殿の所業と睨まれ、ご本人もまた、それに相違ないと自白をなされて、昨日、江戸表へ差し立てと同時に、南町奉行所の仮牢へ入牢なされました」
「げッ」
老先生は、喉を破るほど絶叫して、
「ほ、ほんとか? それは」
と、驚愕にふるえて、倒れそうになった。
耀蔵は、その顔いろが、死者のように蒼ざめたのを見て、
「老先生、お危のうござります。どうぞ、お気をたしかにして下さい。お気を、お気を」
「ウウム、だ、だい丈夫だ加山」
「先生ッ」
加山は、老師のふところへ、涙の顔を埋めこんで、わなわなと肩をふるわせた。
「加山、加山」
「は、はい」
「今のことばは、真実か」
加山は、老先生の心臓が、肋骨のやぶれるほど膨れているのを感じた。怒濤のように吠えている血潮の音を聞いた。
「なんで偽りを申しましょう。思えば、今日まで拙者を初めすべての人々は、ただ、老先生のこのお悲しみが見たくないために、似而非同情の心で、お訪ねもせず、お耳にも入れずに、過ぎて来たのでござります」
「では、伜は、もうとうに、江戸表へ帰っていたのか」
「はい、昨年の名月の晩──あの女笛師の死骸が見出されたその晩には、もうこの江戸表に潜伏しておられたのでござります」
「待て待てッ」
と、老先生は激越な声で、
「そちまでが、伜の郁次郎を下手人というのか」
「四面の事情、すべての証拠、一として、郁次郎殿を明るくするものはござりませぬ」
「ええ、馬鹿を言えッ、馬鹿を言えッ。わしの子だぞ! 塙江漢の生んだ子だぞ」
「ご尤もです! 誰あろう当代の名与力、塙老先生のご子息とは、私ごとき者まで、胆にこたえて、悶えてはおりましたが、すべての推移は、郁次郎殿を極悪人に決めてしまいました。……で、そのご最期まで見るには忍びないので、とうとう、無断就役中から脱走して、すべてのご報告だけに参りました」
「遅いッ、遅いッ、その真心があるならば、なぜもう少し早く聞かせてくれなかったのだ。して富武五百之進殿は、この大変事をご存知なのか」
「ことの発覚と同時に、自刃して、割腹なされました」
「えっ、割腹した」
「のみならず、ご息女の花世どのも、今では、きびしい追捕に追われて、お屋敷にもおりませぬ」
「ああ知らなかった!」
老先生は、地だんだを踏んで──
「それでは、いくら待てど暮せど、来ないはずだ、音沙汰のないはずだ。──ええこうしてはおられぬ。加山! 案内をせい」
「ど、どちらへですか」
「わしの伜のいる所じゃ! 南町奉行所の仮牢じゃ。わしが参って、奉行の主計頭、与力の東儀三郎兵衛、それに羅門塔十郎の三名をならべて説破いたすから、其方も立ち合え」
「手前は、無断脱走いたしたので、奉行所には参れません」
「かまわんッ」
と、老先生の声はいよいよ激しかった。耳は、炎のように赤く、唇は壮者のように燃えていた。
「かまわん! 罪もない人の子を、極悪人と誤るような上役に従いておることはない。わしの蔭に添って付いて来い」
「しかし、或いはもう今頃は、郁次郎殿をひき出して、刑刀の錆としてしまったかも分りませぬ」
「そんなはずはない! そんな理屈はない」
「でも、吟味はすべて、江の島の方で済まし、自白の口書まで取った上に護送したのでございますから」
「その遣り口からして言語道断。たとえ、伜の自白があろうとも、あれは、わしが血をわけた子だ! あれの五体に盛ってある血は、父たるこの江漢が誰よりもよく知っているのだ! さ、一刻も、こうしてはおられん、加山、町へ出て、馬をさがせ」
ひらりっと、愛縄堂の中へ駈けこんだ老先生は、若者のごとく、袴の股立をからげ、鞭を咥えて、そこから走りだした。
わが子よ! 待て!
父は今行くぞ。──側へ、行ッてやるぞ。
おまえの血は父の血だ。わしはおまえに兇悪な血を頒けたとは信じない。
もし! わしがおまえにそんな悪の血を生みつけたとすれば、この父も、獄門の根に坐って、わが子の罪に殉じて舌を噛む。それが、社会へ対して、当然なるわしの申し訳だ。
だが、おまえはわしの子だ! わしは、わしを信じる如くおまえの正義を信じるよ!
待て! 父は今行くぞ。
胸に叫び、心に誓って、鶉坂をいッさんに、狂者のごとく駈けて出た江漢老先生。加山耀蔵が、車町の問屋場から曳き出した裸馬の背へ、ひらりっととび乗るがはやいか、
「──郁次郎よ、郁次郎よ」
と、わが子の名を呼びつづけながら、夕雲の赤い巷へ向けて、雄々しくも涙ぐましい、父性愛の鞭をつよく、高く、振り上げて行った──。
ひらりと、老先生は馬の背から跳び下りた。馬は鼻腔をひらいて、肌に汗をかいていた。
手綱を、奉行所の駒止めに繋ぐとすぐに、老先生は、つかつかと門にかかって、
「──鶉坂の塙江漢、火急、奉行に面談があって罷り越した。門番、門番! ここをたのむ」
と、息を喘いて、激しく叩いた。
今しがた門限の六刻が鳴って、役所の中には、疲れた暮色が沈みかけていた。嵐がぶつかッて来たようなそこの物音に、革袴の番士は、びっくりしたように飛び出して、
「どなたでござるか」
と、訊き返した。
「塙江漢じゃ。はやくたのむ」
「えっ、鶉坂の先生ですか」
「そうだ、早くせい、一刻を争うのじゃ」
「しばらく」
と、言い捨てて、番士は、あわてて奥へ駈けこんで行った。
ちょうど、役宅の一間では、奉行の榊原主計頭、与力の東儀三郎兵衛、そして、羅門塔十郎の三名が、額をよせて、何事か凝議しているところだった。
門衛の知らせを聞いて、
「なに、江漢老人が来たと?」
意外そうに、顔を見あわせて、どうしたものであろうというように、三名は、ちょっと、当惑に曇った眼をして、黙りこんだ。
「さては、郁次郎が召捕られたと聞いて、最後の別れを告げに来たものと見えまする」
と、東儀与力はそう言って──
「お奉行、会わせては事面倒ですぞ。ていよく、追い払った方が、上策ではござるまいか」
「いや」
と、冠を振ったのは、羅門塔十郎であった。
「江漢先生といえば、ほかならぬ人物です。隠退はしても、この南町奉行所にとっては、過去の功労者、そうはなりますまい。武士の情けとしても、この際は、是非、会わせてやるのが当然でしょう」
「いかにも、言われるとおりだ。番士、老人を表書院へ通しておけ」
主計頭はそう言って、なお、何か打合せをすました上、ふたりを連れて、書院へ出た。
江漢老人は、肩の骨を尖らせて、そこに坐っていた。顔は、石の如く硬ばって、眼は、爛々と燃え上がッている。
その、ただならぬ気色に、三人は、はっとした。
「老人、珍しいのう」
主計頭が言うと、江漢は、その真っ四角に坐った膝を、きっと、向け直して、
「火急、談じ申したいことがあって」
と、厳しく、改まった。
その眼! その語気! 既に火のようである。
「ほ、談じたいこととは」
「伜郁次郎の儀について」
「では、この度のことはもうお聞き及びであるな」
「承った」
と、息を嚥む。
「なんとも、お察しする。悪事をする子ほど可愛いとは、俗にもいうことば、さだめし、ご愁心であろう。しかし、もう今日と相成っては、如何とも、いたし難い。お諦めが肝要であろう」
老人の面は、見るまに、朱を注いだ。その灼きつくような眸は、憤ろしい涙にうるんでいる。
「あいや、奉行のおことばではあるが、伜郁次郎は、決して、左様な極悪人ではない。子を見ること、親に如かずじゃ。この親たる江漢が断じて言う、断じて言う! 郁次郎を罪人というお眼識は違っている」
「親子の情愛、そう思われるのは無理もないが、すでに、動かし難い幾多の証拠が蒐まっている」
「証拠? その、証拠とは?」
「いちいち、ここで述べ立てるよりは、これを一見した方が早かろう」
主計頭が、調書をそれへさし出すと、老人は、顫く手に取り上げて、それを、最初の第一項から、血走ッた眼で読み始めた。
読み終ると、老人は憮然としながら、白い顎の髯をいらいらと指に捲いて考え込んだ。
「どうじゃ、老人」
「ウウム……」
「それで、確と、得心がついたであろうが」
「いや!」
と、烈しい眼を上げると、老人は、さっと、白髯を横に振って、
「まだ分らん! まだ分らん!」
「なぜ?」
と、主計頭がだいぶ激した。
「この調書のうちに、しばしば認めてある、覆面の浪人とは、何者のことか」
「それが即ち、おてまえの息子、郁次郎のことじゃ」
「事実、その覆面を剥いで見られた場合がござるか」
主計頭はグッと詰った。
「また!」
と、老人は調書を叩いて、
「女笛師の死骸、江の島の巫女の死体、そのいずれも、左の手の指が切り取られてあるようじゃが、この下手人が、何のために、死骸の指を切りとるのか、そこの調べが一向についておらん。奉行はそのことについて、何ぞ、明白に吟味をお遂げなされたか」
「さ……それは」
「まだある!」
老人は、敵の陣へ迫る猛将のように、膝をひらいた。
「この事件の発した当夜、即ち、十五夜の晩以来、各〻方が、いわゆる郁次郎の化身と目されておる覆面の男と、例の唖男とは、明らかに、連絡のあることに相成っておるが、その唖男と、郁次郎とを、対決させておられたかどうじゃ」
「あ……」
と、主計頭も、自分の手ぬかりに、思わず弱い音を洩らした。
「どうじゃ、奉行殿」
と、老人の舌鋒は、銘刀のように鋭かった。
「さ……実は、その点もまだ……」
「はて、怪しからん! 左様な点も充分に確かめずに、ただ、罪悪を作るため、ただ、下手人を作るための調書が、何の役に相立とうか。かようなものは、反古同然」
と、調書を抛り投げて、
「これを見ても、郁次郎の冤罪なることは明白じゃ。あれはわしの子だ! 塙江漢の子だ! そんな極悪人であろうはずがない!」
と、俯仰天地に恥じないように、大きな声で、呶鳴った。
すると、老人の態度を、じッと、冷智な眼でながめていた羅門が、
「老先生」
──と、少し、膝をすすめた。
「なんじゃ!」
「では、お上の調書はすべて信じられぬ、作り物であると、仰せられますか」
「おまえ何じゃ?」
「はっ」
と、羅門は、老人の威圧に押されて、
「お忘れでござりますか、以前、どこかで、お目にかかっておりますが」
「ウム」
と、老人は思い出したように、
「上方の羅門──殿だったな」
「そうです」
「これや、しばらくじゃった」
「いつも、お健やかで」
と、慇懃に、会釈をし直すと、
「長命のわずらいじゃ」
と、老人は嗟嘆した。
上方の名捕手羅門塔十郎と、江戸の大先輩塙江漢とは、ここに初めて、この事件を介しての初対面を交わしたのであった。両雄の眼光、双方の立場、自然と、穏やかでないものがある。
「羅門」
と、老人はすぐに開き直って、
「──今、わしが言ったことばに、何ぞ、異論があるようじゃが……」
「いかにも、大いにござります」
「何、大いにあると」
「さればです!」
と、羅門も容を正して、真っすぐに、胸を張った。
「調書について、三つのご反説、いちいちご尤もにはござりますが、まず第一に、覆面の男が郁次郎なりや否やのお疑いは、ご無用にござります。何となれば、それは、自分をはじめ、同心の加山、波越らも、しばしば目撃しておるところで」
「待たれい。──覆面なれば、顔容もよく分らぬはず。殊に、それはすべて夜陰ではないか」
「のみならずです!」
「ウム」
と、老人はあらい息を抑えて、羅門を見つめた。
「先頃、平賀源内の博物会があった折、老先生のお知慧を拝借して、女笛師お雪の蝋人形を出陳いたしましたところが、その前に佇んで、人知れず涙を拭いていた浪人がございました」
「それが、郁次郎であったと申すか」
「いかにも」
「それがどうして、覆面の男であるという証拠になるか」
「一時の痴情で、お雪を、殺害したものの、後になって、悔いの涙を流したものと推察いたします。唖男の申し立てもその通りです」
「さて、浅慮千万な。いかに、彼がうつけ者でも、自分で殺害した女の死人形を見て、何で、涙を流そうか。犯罪人の心理とは、決して、そうしたものではない」
「然るに、天運の尽くるところか、その折、郁次郎の懐中物を狙っていた掏児があったのです。捕えてみると、別府の新七という道中稼ぎ、掏った紙入れには、郁次郎が長崎表から江戸へ送金した為替札と、また、女笛師のお雪と、取り交わした恋文などが、中に秘されてあったではござりませぬか」
「えっ、あの、殺された女笛師と、郁次郎との恋文があったと」
「何か、よほど、複雑な仲だったとみえまする」
「ウーム……そうか」
と、老先生の唇が微かにふるえた。
「して、掏児の新七は」
「入牢させてあります」
「この儀は、江漢が、後になって、闡明いたそう。しばらく、宿題としておいてもらいたい」
「次に、第二のご質疑──。なぜ、下手人が死者の指を切取るか、その目的が、吟味の上に明白でないという仰せですが、これは、犯人が捜査の目を晦ます奸手段にすぎません。──と、お奉行も認められて、深く糺さぬまでのことです」
「見解の相違じゃ、くどく申せば水掛論、ぜひもない」
「第三のおことば、唖男と郁次郎を、なぜ対決させぬかという点は、近頃、ちとご難題かと存じます。何となれば、一方は、唖で聾、文字も読めぬまったくの明盲、何をもって、白洲の対決がなりましょうか、よろしく、ご賢察をねがいます」
羅門の弁舌は水のながれるように爽やかだった。さすがの江漢老人も、なるほど、この男は頭がいいと、心の裡で舌を巻かずにはいられなかった。
が、老先生は、その時初めて、うすい苦笑いを唇にながして、
「なるほど、唖で聾、しかも無筆では、どうにも吟味のいたしようがあるまい。これはわしも失念であった。──だが、最前おてまえは、郁次郎が覆面の男と同一人であるということは、自身の推量のみならず、唖男の申し立てもそうであったと言われたな」
「あ……」
と、羅門の眉間に針が立った。
「貴公、どうして、その唖男にものを言わせたのか」
「い、いや、あれは失言です。──失言でした」
「お間違いか」
「ことばの弾み、お聞き流しをねがいたい」
「してみると、どッちにしても、ちょいちょい吟味の手落ちがある。今宵、江漢が押して推参いたしたのは、敢えて、わが子可愛いのみではない。私情のみではござらん」
と、つよく言って、主計頭の方へ、
「司法の明鏡に、曇りがあっては、ご聖代の汚辱じゃ。万一、わが子が真の罪人ならば、六十年の生涯を、司法の庁に生きてきたこの江漢は、わが子と共に、舌を噛んで、同じ獄土に死ぬべしじゃ。頭を、わが子の獄門台にぶち割って、不徳の罪を、天下の親に、謝さねばならんのじゃ。お奉行! お奉行! 一目、郁次郎に会わせてくれんか。父たるこの江漢が、自ら、彼を打って、最後の吟味をいたしてみたい……」
「おお、それはよかろう」
と、主計頭も、老先生の真心にうごかされたように、
「東儀、牢の合鍵を持って、先に」
と、眼くばせをした。そして、老先生を従れて立ち上がった。
郁次郎は奉行所内の遥か奥に隔っている藪牢にはいっていた。そこにある厳重な一棟は、明和の大獄以来使ったことのない番外牢であった。
そこには、明和の大獄の折に、屍を積んだ国士たちの血のにおいが、いまもまだ陰々と漂っているかのような闇があった。四辺は、樹木につつまれている。時々、高い梢の上で、ほう、ほう、と梟の啼く声がする……。
真っ暗な床の上に、乾し鰈のように、俯ッ伏していた郁次郎は、悪夢からさめたように、ふと、頭だけをもたげた。
「? ……」
青白い顔、尖った頬骨、そして、やや狂に見える眸のうごき。
ああ。この変り果てた姿を、老先生が一目見たらどんなだろうか。
「…………」
がくりと、彼はまた、頭を垂れた。
深々と、井戸の底にでも墜ちてゆくような眠りが、疲れた神経をすぐに昏睡させた。といってもそれはほんとの眠りではない。
「おや?」
彼はまた、窪んだ眼を、剃刀のように、キラキラさせて、
「……誰だ、誰だ」
と、枯木みたいな体を這わせて、牢格子に縋った。
すると──
外の星明りに、ふわりと、白い顔がうごいた。忍びやかに、樹蔭をぬけ出して、自分の方へ近づいて来るのである。
「あっ……花世!」
彼が、思わずそう叫ぶと、近づいて来た女の影は、かえって、驚いたように飛び退がって──
「あっ、違ッた」
と、木立の暗がりへ走りこんでしまった。
「花世、花世」
郁次郎は狂わしげに、その、腕を、肩を、牢格子へぶつけて、もがいた。肩の肉がやぶれて、獄衣に、血がにじみ出すのも知らずに、及びもない力を、獄壁へぶつけた。
「ええ、どうして逃げるんだ。──人違いじゃない、おれは、郁次郎だ。おれを、救いに来てくれたのではないのか」
彼は、冷たい床の上へ、仰向けに倒れて、輾転ともがき廻った。──保土ヶ谷の宿で聞えた尺八の鈴慕の譜が耳のなかに甦ってくる。
ああ、それもこれも、気のせいかも知れない。会いたい会いたいと思う一念が幻を描くのかも知れない。
もう、有明けの燈芯皿ほども、精気のない彼の肉体は、すぐに、綿のようにつかれてしまった。なんの気力さえないように、ぐったりと、動かなくなった。
ただ、涙だけが、その青い頬を止めどなく流れていた。
がちゃりと、錠を外す音がした。
同時に、黄いろい提灯の明りが、牢格子の間からさして、
「老先生、こちらでございます」
と、先に、案内をして来た羅門塔十郎の声がした。奉行の主計頭、東儀与力の影も、そこに映した。
「おう」
老先生は、開かれた牢内へ、よろぼいながら駈けこんで、
「郁次郎! 郁次郎!」
と、呼び立てた。
「──郁次郎はどこにおる」
「えっ」
むっくりと、起き上がった我が子! 我が子の影。
「おう!」
と、老先生は、とびつくように近づいて、ひしと彼の腕を、握りしめた。
「これ! 伜!」
「あっ?」
「伜」
「…………」
「伜……」
郁次郎は、思いがけない父の姿を見て、白痴みたいに、ただ茫然とした。夢ではないかと、疑った。梟のような眼を見ひらいたまま、ぼうと、しばらくは、言うべき言葉を忘れているのだった。
老先生は、握りしめた我が子の手をつよく揺りうごかして、
「わしじゃ! 父じゃ」
「おう……おう……」
「来たぞ、おまえの父は来たぞ」
老先生は、滂沱とあふれ出る涙を抑えて、
「もういい、もういい! おまえの冤罪は、きっと、この父が雪いでやる。気をしッかりせい、心をつよく持て」
「ち、父上……」
郁次郎は、いきなり抱きついて、わッと、泣いてしまった。生れながらの幼い者のように、声をあげて、オイオイと泣いた。老先生もまた泣きながら抱きしめた。
羅門塔十郎は、胸が迫って、見ていられないように、懐紙を出して、涙を拭いながら、
「──失礼いたします」
と、老先生のそばへ、提灯をおいて、牢の外へ、しばらく避けていた。
何という痛ましい邂逅だろう。奉行も、東儀も、さすがに、父子の情熱に涙をゆたぶられて、羅門と同じように、貰い泣きを隠していた。
老先生は、はっと、気がついたように、睫毛の露を払って、
「これ、郁次郎。そちはなぜ、長崎表から帰って来たら、すぐに、この父の許へ来なかったのじゃ。それが第一に、こんどの災禍を招く因になったのだ……」
「お年を召されている父上に、大きなお嘆きをかけました。ふ、不孝の罪! ……どうか許して下さいまし」
「何ごとも災難だ。わしは、おまえ一人の愛によって生きている。長崎へ勉強にやったのもその為だ。養生所を建てたのもそのためだ。そして、おまえの花嫁になる人と、首をのばして、待っていたのだよ!」
「あ、ありがとうございます。父上、郁次郎の不孝の罪、重ね重ねおゆるし下さいませ。その酬いは、やがて、獄門の上に乗って、世の不孝者の見せしめとなりまする」
「な、なにをいうか。おまえを見殺しにするくらいなら、父は、こんな苦労はせぬ。わしはおまえの潔白を知っている。おまえは決して、大それた、悪事などは働きはしまい」
「ああ、もう、もう、取り返しがつきませぬ……」
「それを、おまえはまた、なんで心にもない自白をしたのだ。女笛師や巫女を殺したのは、自分の所為に相違ないなどと、なぜ、そんな飛んでもない偽自白を申し立てたのじゃ。……あれは皆、おまえのしたことではあるまい。な! 郁次郎」
「父上ッ……」
「む。……言え。明らかに、その冤罪なることをここで言ってくれ」
「駄目です! やっぱり、私が殺したに相違ないんです」
「な、なんだと!」
老先生は、脳心を、打ちのめされたように蹌いて、
「これッ、そちは、狂気いたしたか。長崎で立派に医術の修業を習得して、江戸には、新築の養生所や、やさしい花嫁や、この父や、人間のあらゆる幸福が待っておるのに、それを捨てて、益もない、悪事に走るはずはない。何かの誤解だろう、さ、この誤解を解け、ほんとのことを言ってくれ」
「父上、もう、おたずね下さいまするな。不孝の子を、獄門へ、送って下さい」
「馬鹿ッ、馬鹿。貴様はどうしてそんなばか者になったのだ。今、ほんとの事を言わなければ、後になって、いくら父の名を呼んでも及ばないぞ」
「もう……覚悟をいたしております」
「ええ、親の心子知らず、わしは気が狂いそうだ。まったく、自分の所為だと申すのか」
「すべて、羅門殿と東儀殿へ、申し上げたとおりでございます」
「あ、あ……」
と、老先生は、頭をかかえて、よろよろと、獄壁へ倒れかかった。絶望的な大きな息が、その肋骨に波を打った。
「おからだに触るとよろしくない。老先生、ご子息も、ああ言って、固く覚悟をしているものを、この上、おことばが過ぎるのは、かえって、最期を苦しませるようなものではござらぬか」
東儀与力にそう言われて、老先生も、悲しげにうなずいた。
「取りみだして、面目ない。……がこの上には、親として、もう一つ、最後の手段を講じてみたい。それは例の唖男と、郁次郎の紙入れを掏った別府の新七という掏児をここへ呼んで、対決させてみたいと思うのじゃ。何と、ゆるして下さらんか」
「でも、唖男は、あの不具者でござるが」
「江漢が多年の経験による一つの吟味法をもって、きっと、唖にも口を開かせてみせる」
「では、あれは、偽唖なので」
「いや、偽唖ではあるまいが、その本体を、調べ上げて見せるというのじゃ。両名をすぐにここへお曳き下さい」
主計頭は、それをも許した。
だが──二人を曳き出すべく、彼方の棟割牢の方へ走って行った東儀与力は、すぐに、顔いろを変えてそこへ戻って来るなり、
「お奉行! また奇怪なことが持ち上がりましたぞ」
と、呶鳴った。
「何事じゃ。奇怪なとは」
「破牢いたしました」
「だ、だれが?」
「唖も、掏児も」
「や!」
と、そばにいた羅門は、袋の水が洩れたように驚いて、
「して、いつの間に」
「たった今らしい。──拙者がゆくまで、見廻りの六尺さえ、まだ気づかずにおったくらいだ」
「ちぇッ、ぬかった」
──と、羅門が地だんだをふんで走り出そうとすると、
「あいや、待たッしゃい」
と、老先生も牢の外へ出て、彼を、こう呼び止めた。
「──今、駈け出しても、及びますまい。二人の破牢には、外部から、誰か、手を貸したものがある」
「どうして、そのご推察がつきますか」
「掏児と唖とが、同じ時刻に、牢を破ったというのが何よりの証拠、外部の者でなくて、誰が、その連絡をとろうか」
「ウム、成程」
「のみならず、ここにわしは、新しい大疑問を見出した。信念をつかんだ。下手人は飽くまで郁次郎でないことを信じる。八幡照覧、下手人はほかにある!」
「老先生、この期になって、まだそんなおことばは、ちと、ご過信がすぎましょう」
「過信とはなんだ。──よく思念を澄ましてみるがいい。郁次郎が真の悪人どもの謀主ならば、唖や掏児などという小さな手先を破牢させるまえに、まっ先に、謀主たる彼をここから救い出す工夫をするのがあたりまえではないか。それをせぬのは、悪人どもと郁次郎とは、まったく、深い縁のない証拠だ」
「証拠証拠と仰せられるが、すでに、あの通り、当人が自白しているのが、何よりの証拠ではありますまいか」
「では、羅門──」
と、老先生は、一歩迫って、
「其許も、やはり、東儀と同じく、あくまで伜郁次郎を、罪人と断定なさるおひとりじゃな」
「いかにも!」
と、羅門はつよく言い切った。
「情に於いては忍びぬものがありますが、是非もないことです。明らかに申します。笛師殺し、巫女殺しの謀主は、塙郁次郎に相違ないと断言する」
「ウーム、面白い」
老先生は、締めつけられて腸の底から、肩をゆすって、無理に笑った。
「面白い。──貴公とわしとは、江戸流と上方流との、見解の相違じゃ。これから、幾日の間と、日限を切って、その間に、どっちがはやく悪人どもを一縛げにするか、命を賭して、競ッてもよい」
そう言って、壮者のように、眼をかがやかせる老先生を、これも、愛子を救いたい一念に、常の落着いた隠者の態度をとりみだしておられるのか──と羅門は気の毒そうに眺めて、
「折角ですが、老先生。もはや事件はあまりに片づいております。もう、そんな時刻はありません」
「なに、時刻がないとは」
「されば、今夜ももうだいぶ更けました。実をいうと、郁次郎の生命も、この、星の光が滅するまでです。──夜明けと共に、この藪牢の前で、断罪になることになっています。すでに、御老中のご印可が、きょうの午すぎには下りていたのですが、武士の情けに、一晩だけ延ばしてあるわけなので……」
「えっ! じゃあ何というか、あの、もう御老中たちの、印可まで、下りているのか」
「ごらんなさい」
羅門は指さした。
「──あの樹蔭には、あしたの朝の荒むしろ、水桶、柄杓、血穴を掘る鍬の道具まで、運んで来てあるのです」
「罪だ! 罪だ! 何のうらみがあって、それを、一晩、牢内から見せておくのだ」
「先生──老先生──お気をたしかにしてください。気を、落着けてください」
「離せッ、わしは、こうしてはおられない」
羅門の支える手を、突き飛ばすように払って、彼は、ふらふらと走りだした。
「星よ。星よ」
老先生の白い髯に、深夜の風が、冷々とながれた。わが子を奪う冥途の扉から洩れて来るような風である。
「──明けるな、明けるな、朝になるな。星よ、もういちど、わしが郁次郎の所へ帰って来るまで、その光を失ってくれるな」
蹌踉として、彼の影は、奉行所の外へ歩き出していた。月があれば、その細い影は、骨ばかりにも見えたであろう。
「どうする? どうする?」
老先生は、よろよろと地を踏みながら、突然、自分の頭を、コツコツと、拳でたたき始めた。
「だが、夜明けまで。──時刻はない。──何をする間もない。ああ、いかなる鬼神でも、その間に、どうして、真の下手人が捕えられよう」
ぼろぼろと、涙が飛ぶ。
拳が、頭をたたく。──足が大地を蹴る。
どう見ても、狂者である。あわれや、塙江漢も、とうとう、気が狂ったのではないかと思われた。
「あっ、老先生だ」
と、加山耀蔵は、あわてて、塀際の闇から、立ち上がった。
老先生の懸合いの結果を案じつつ、宵からの長時間を、奉行所の門外にかがみ込んで、じっと、待ちぬいていた耀蔵であった。
──と今。
力のない、人影が、そこの門を、ふらふらと、出て来たと思うと、自分には声もかけず、魂のぬけ殻みたいに、蹌踉として、歩み去って行くので、彼は、オヤ? と怪訝りながら闇を透かして、
「──老先生、老先生。どうなさいました」
と、手をあげて、駈け出したのであった。
だが、塙江漢は、忘れていた。
一緒に伴って来た彼のことも。いや、すべての現実も。いやいや、自分の身をすらも。
彼の魂に今あるものは、きょうの夜明けと同時に、無残な刑刀の錆となる運命にある一子郁次郎のことばかりだった。鬼となっても、我が子を、冤罪の獄舎から助け出さなければならぬという、燃えるが如き父性愛以外に、何ものもなかった。
「ああ、朝までに、朝までに」
彼は、狂わしく、拳を振って行く。
「郁次郎、郁次郎」
と、遠心的な、叫びを投げたり、うるんだ眼をして、訴えるように、星を見たり……。
そして、その足すらも、大地につかぬように、暗い河岸を、的もなくひょろひょろと、彷徨い出した。
「もしッ、老先生」
追い縋った耀蔵に、その片袖をつかまれて、江漢は初めて、余りにも取りみだした自分の態度に、はっとして、われに返った。耀蔵の顔を、じっと、異様に光る眸の中にいれた。
「おうっ、加山か」
「如何なさいました、奉行所でのお話の結果は。──もしや、ご気分でもどうかなされたのではありませぬか」
「わしの、顔色は、そんなにも悪いか」
「真っ蒼です。恐い、仮面のようです」
「ああ……ああ……」
と、江漢は、さめざめと泣くように、そう言われた自分の顔を両手で掩って──「面目ない! わしは恥かしい! 法縄を司る公人として三十年、江戸与力の先輩といわれ、めでたく、公職を完うして、去年の秋、名月の夜には、その隠退祝いをかねて、世間の人々から、捕縄供養までして貰った身であるのに、その塙江漢が、今宵という今宵ばかりは、闇夜の鳥も同様、眼も見えねば、心も見えぬ。──ああ耀蔵、この闇は、わしに智力のない闇か、子ゆえの、煩悩の闇か。……手を取ってくれ、手を引いてくれ、わしの足もとは、真っ暗だ。わしは迷う! わしは迷う!」
「もしッ。しっかりなすって下さい」
耀蔵は、彼の手をかたくつかんだ。老人の指先は、死人のように冷たかった。
その冷たさが、耀蔵の熱い手にはっと感じられた。──もしや? ああもしや、老先生は発狂したのではあるまいかと、彼は、声がわなないた。
「どうなすったんです! 郁次郎殿は、どういうことになりましたか」
「郁次郎?」
「私とても、案じられて堪りません。老先生の申し分が届いて、ご子息の黒白が立てばよいがと、祈っておりましたが、はっきりと、談判のご様子を承らぬうちは、胸さわぎがしずまりませぬ」
「ウーム、そ、それだよ」
と、老人は、あらい息を吐いて、
「わしは、敗北したよ。見事に、羅門塔十郎のために、言い負かされてしまったんじゃ」
「えっ、では、老先生の明智と熱とをもって、ご子息の冤罪を主張なされても、やはり、郁次郎殿は、罪人ときまったのでございますか」
「形のうえでは、わしが言い敗れた。真の罪人の出ぬうちは、伜の罪は拭われぬ。たれが仕組んだ仕事か、悪人ながら、よくもああまで巧みに、人に罪を着せたものじゃ」
「して、老先生には、獄中の郁次郎殿と、ご対面はなさらなかったのでございますか」
「会った……」
老人は、ほろりとして言う。
「会って来たよ。──見違えるばかりに窶れた伜の姿を、あの藪牢の中で見たとたんに、わしはいっぺんに、十年も年を老った気がした」
「その節、ご子息には、何と仰せられましたか」
「伜も伜だ、逆上しておる、あいつは、幼少の時から、気が小さい、それに、柔順だ。──だから、もう運命に負けきって、笛師殺しも、巫女殺しも、みな自分が犯したことに相違ないと、言うておる」
「えっ、それでは何ですか、あの、お父上たるあなたに向って、郁次郎殿は、そう言っておりますか」
「いくら、わしが励ましても、彼はもう、死ばかりを望んでいる。……親の心子知らずにもほどがある。父は子の冤罪を救おうとしているのに、子は、根もない自白をして、死にたがっているんじゃ。ば、ばかなやつじゃ……ばかなやつじゃ……」
と、老先生は、やり場のない愛熱と、やり場のない憤ろしさとを、暗涙のなかに光らした。
「……そうですか」
耀蔵も、それを聞いて、がっくりと首をうなだれた。父たる人が、面責してさえ、当の本人が、犯罪を自白しているという以上は、もう、奉行所の吟味を疑う方が間違っている。事件は、これ以上、明白たることを必要とはしないのである。
──だのに、老先生は、本人の自白まで否認して、飽くまで、ほかに犯人があるような口吻だ。かほどな人物でも、やはり、肉親の愛にからまると、こうまで煩悩になるものか。それとも、心のうちでは、郁次郎の犯行を認めてはいても、面目なさに、どこまで、つじつまの合わない我説を言いとおしているのかも知れない。
耀蔵は、老先生が、たまらなくあわれになった。何か一言、今の苦しげな彼を慰めることはないかと、頭のなかでもだえたが、かほどな大不幸に対して、その気持によする気持を言いあらわす適当なことばはあり得なかった。
「……ご心中、お察しいたしまする」
わずかに、そう言うと、
「加山! 朝までだ」
と、老先生は、突拍子もない声で、だしぬけにさけんだ。
「──夜が白むと同時に、郁次郎は、藪牢のまえで刑刀の錆になるんじゃ。朝までだ、朝までだ」
「ああ、それまでの、お命でござりますか」
「死なしてたまるか。わしは、殺さん」
「──と、仰っしゃっても」
「まだ時刻はある。夜明けまでは、間がある」
「でも、今鳴ったのは、もう石町の九ツ(十二時)です。老先生、ちょうど、きょうとあしたの境、今が、真夜なかでございます」
「……ああ、そうか」
老人は、熱した頭を、時間の観念にさまされたように、力なく、声を落した。
「いくら、わしが、捕物の名人でも、半夜のうちに、この難事件は片づかん。……だが、加山」
「は……」
「およそ……」
と、彼の態度は、俄に、ぴたりと落着いた。ふいに、耀蔵は、厳粛な気に衝たれて、その顔を仰いだが、老先生の眸は、眼の隅に片寄って、あらぬ方を、じっと見ているようだった。
おや?
と、耀蔵も、思わず、その方へ首を曲げかけたが、老人は、それを、あわてて遮るように、
「加山、聞いておるか」
と、腕くびを、つかんで、振った。
「は。聞いております」
「いつも、鶉坂の講義の席で、いうたとおりじゃ。いかなる難事件にぶつかろうが、捕吏たるものは、事件に呑まれて、自分を失ってはならん。自ら、だめと、匙をなげたら、おしまいだ。最後の一瞬まで、斃れる土俵ぎわまで、全能全力で、活路をさがす。──それが同心の精神だ。与力の魂だ。いわんや、江漢は、その子たるものの命を、救うか否かのどたん場じゃ。わしはやる! 最後までやる!」
耀蔵の眼の睫毛は、涙をささえきれなかった。ああお気の毒なことである。やはり、老先生はすこし気がおかしい。そのいうことがどうも妙だ。ふいに、捕物学の講義をはじめたり、前には、嘆息に暮れていたと思うと、こんどは、敢然と、最後までやるという。
第一、やるとは、何をやるという意味なのか?
耀蔵には、それすら、疑われた。
と思うと──老人はまた、急に、ことばの調子まで悲しげに、
「やる! やる! 四、五年前の江漢ならば、きっとやる! だが、わしは、愛縄堂の捕縄供養の時に、もう生涯、十手はとらんと、誓ってしまった。世を捨て、十手を捨てた人間。……それに、あまりに、時間がない。名人でも鬼神でも、夜の明け方までに、何で、真の犯人を捕えることができるものか。わしは、平常、後輩の者に教えた自説に対しても面目ないが、諦めた。同時に、これが、わしの生涯の終結じゃ。……加山、わしは死ぬ。なんの面目あって、のめのめと、生きていられるものか。おまえも、共に死んでくれい。意気地のない、老先輩を師と仰いだのが、身の不運と思うて、共に、死んでくれい。……よ。加山」
耀蔵は、考えてもいなかったことをふいに言い出されて、はっと、恥しい怯みに衝たれたが、枯木のような老人の腕は、彼の帯ぎわをずるずるとつかんで、河岸の柳の樹の下に、共倒れに、よろめいて行った。
「加山! 死んでくれい……」
老先生は、もう、右の手に、短い前差を抜いていた。
人間の心理は複雑だ。死ぬまぎわまで、複雑だ。
老先生が、はやくから言いたかったのは、その死だったのである。だが、死を決行するまえにも、彼は、父として、わが子を、真の犯人であるとは言いたくないのであろう。
耀蔵は、そう察した。
同時に、彼も、死を考えた。
自分も、無断で、公役の途中から脱走してしまった体だ。のめのめと、今さら、奉行所へは帰れない。
また、この不幸な老先輩の死を見すてるのも忍びないが、生きていよとは、なおさらすすめ難い。当然、老先生は死ぬべき人である。
(殉じよう。師の大不幸に殉じるのも、ふかい因縁だ、運命だ)
彼は逃げなかった。
江漢の手は、もう、耀蔵の胸元をつかんで、右手の刃を、向けていた。
じいっと、眼をふさいで、耀蔵の心支度を待っていた。耀蔵も、黙然と、刃をぬいて、師の襟もとをつかんだ。
「……死んでくれるか」
「お供をいたしまする……」
「おう」
江漢は、にいっと、笑った。──白髯を払って、喉を示しながら、
「刺せ」
と、言った。
「ごいっしょに」
「む」
と、江漢の刃は、耀蔵の喉のそばを、ひやりと、とおりぬけた。はっと、思う途端に、真っ正直に突いて行った耀蔵の刀の切ッ尖は、江漢老人の喉ぶえに、ぐざっと、突きとおったかと思った。
だが──老人は、その切ッ尖を、ついと、交わしてしまったのである。そして驚く耀蔵の耳へ口をよせながら、ううーむ……と作り声をあげて、彼のからだに絡みながら、諸倒れに、俯ッ伏して首を垂れた。
「ううむッ……うーむ……」
と、ふた声、三声。
そして、その影が、さも、苦しげに、しばらくの間、けいれんしていた。
すると、やや間を措いてから、四辺の深夜の空気が、どことなく、うごいた。そうかと言って、べつに、何の物音もしたわけではない。
ただ、五、六間先の、柳の樹の蔭から、白い女の手が、路向うの軒先へ向って、しきりと、手招きをしているのが、ちらと、見えた。
と──そこの天水桶の見える軒下から、ひとりの、男のすがたが、のっそりと、歩いて来た。暗やみから牛を曳き出したという形容は、この男のためにできていると言ってもいい。肩の肉の厚い、顔のまろい、足の太い、ずんぐりとした田舎漢だ。
同時に、柳の蔭から、それにあわせて、忍び足で、そろり、そろり、と前へすすみだした女は、夜目にも鮮らかな、美人だった。顔は、頭巾につつんでいるが、蛍のような眸が、その蔭から、怖ろしい微細な注意力をもって、刺しちがえて倒れているふたりの影を見まもっている。
死を粧って、大地の下から、そっと、薄目でそれを見ていた加山耀蔵は、思わず、あっと、声を出しそうになった。
花世だ。いや、花世とそっくりな女。──いつぞや、郁次郎を江の島から護送して来る途中、捕まえ損ねた怪美人だ。
しかし、それよりも、もっと彼を驚かしたのは、路向うから、怪美人の手招きにつれて、のそのそと、側へ寄って来た田舎漢だ。──それは、奉行所の牢内にいるはずのあの唖聾ではあるまいか。
われを忘れて、彼が、ぴくッと、起ち上がろうとすると、同じように、死んだまねをしている老先生の手が、胸の下で、ぐいと、抑えた。
(ああさすがは老先生だ。捕物にかけては、まったく神だ。どうして、この二人が、あとから尾いて来るのを知って、巧々と誘き寄せたのだろうか)
と、耀蔵は、ときめく胸の中で、今さら、塙江漢の六感のするどさと、その鬼謀に、舌をまいていた。
怪美人の玉枝は、まさか、さっきからの老先生の狂態が、自分をひきずる操りの糸だったとは夢にも気がつかない。──彼女は、今夜、彼女たちが奉じる悪の一党の首領が、その黒幕から指令するところがあったので、奉行所内に忍びこんで、唖男と、掏児の新七とを、外部から、牢の合鍵をもって、やすやすと、破獄させて来たのであった。牢をまちがえて、郁次郎の藪牢に近づいて、その姿が、花世に生き写しなために、あわれな、明日は斬られる獄人の彼の眼に、恋人の幻覚をえがかせた罪なわざも、まったく、この玉枝だったのである。
「……ホ、ホ、ホ、ホ。来てごらん」
玉枝は、一間ばかり側まで、近づいて来て、唖男の臆病を嘲るように眼で招いた。唖男も、やっと、安心したように、ぬすみ足で、彼女のそばへ寄ってきた。
玉枝は、地上を、指さした。唖聾は、うなずいて、首をふりながら、下品に、クククク、と家鴨が喉を鳴らすように、笑った。
「──かあいそうに、この老いぼれさんは、若い同心を道づれにして、とうとう、死んじまったんだよ。……だが、こっちにとれば、これで、大安心というものさ。ねえ、唖」
「…………」
唖聾は、きょとんとして、彼女を見つめた。
「そんなに、人の顔をお見でないよ。おまえに、うっかり口をきくと、いつまで顔を見ているから困ってしまう。……と言ったところで、これも、分りゃしないけれど」
と、苦笑しながら、河岸すじを振り顧って──
「だが……どうしたんだろう、新七は。もうお首領を連れて来そうなものだが」
と、つぶやいた。
とたんに、息をひそめて、死骸そのもののように、地上に俯ッ伏していた老先生は、いきなり、猿臂をのばして、怪美人玉枝の袖をグイとつかまえた。同時に耀蔵も、唖男の片足をつかんで、ぱっと、身を起しながら、
「捕った!」
と、拯いあげた。
「あっ! ……」
と、ふたりは、雷に衝たれたように、絶叫した。狼狽と驚きに、色を失ってよろめいたが、玉枝は、咄嗟の手に、短い刃を閃めかせて、彼につかまれた袂の根を、ふつりと断ッて、逃げ出した。
「おのれッ。女狐!」
手には、断られた片袖を。そして、夜風のなかに、腮の白髯をふたつに割って、奮然と、追いかけた老先生。
逃がしてなろうか?
顔、すがた、頭巾まで、花世に瓜ふたつなこの怪女性こそ、あらゆる謎を解く魔術師の銀の鍵だ。
今も、女は、首領ということばを呟いたが、そも、彼等のいう悪の一味の首領とは何者であろうか。その黒幕の首領が、ここへ見えないうちに、女を召捕ってしまわなければ、機は、ふたたび、遠く去るであろう。
老先生は必死だ。
この女さえ捕縛すれば、急転直下な事件の解決は望み得ないまでも、ともかく、夜明けと共に、刑場の露となる愛子郁次郎の一命だけは、しばらく、先へのばすことに、有力な生証拠とすることができる!
駈けた! 老躯をわすれて、彼は駈けた。
──だが、若い女の、柔軟性に富んだ跳躍とは、比較にならない。玉枝は、柳の樹から柳の樹を縫って、美しい水禽のように、河に添って、すばやく、走りつづけた。
二間──一間──三、四尺──
伸ばした腕の指さきが、魔女の、白い襟もとへ、触れんばかりに、幾たびも近づいては、巧みに、さっと、交わされてしまった。気は、逸っても、もう幾年か、職を捨てて隠退していた塙江漢、老いと若さの相違である、やむを得ない精力のちがいが、駈ければ駈けるほど、必然、出てくる。
(ちぇッ、捕縄があれば)
と、江漢は、歯がみをした。
(なぜ自分は、捕縄を捨てたろう)
とも悔いるのだった。三十年来、肌身を離したことのない捕縄も、公職を退くと同時に、生涯、二度と手にとるまいと誓って、愛縄堂に祠ってある四百余体の悪像と共に、今は、塵の中に古びてある。
「えいッ」
老先生は、突然、小石をひろって、投げつけた。礫は、彼女の鬢にあたった。
ひイッと、声をながして、鬢へ、手をやりながら、彼女の影が、よろめいたと思うと、老先生は、
「あっ、しまった」
と、さけんで、一足跳びに、踵を蹴った。
どぼうん! ……と真っ白な飛沫が、駈け寄った老先生の足もとから顔、胸いたへ、びッしょりとかかった。
彼女のすがたは、瞬間に、消えてしまった。暗い水面には、いちめんに、白い泡つぶが、わき立っていた。
「いかん! これや、いかん」
老先生は、水面を見つめて、ひどく、いらいらした顔いろで、
「女狐め! 逃げる気で飛びこんだならばよいが、のがれぬところと見限りをつけて、身を投げたのだとすると、一大事だわえ」
と、呟いた。
彼の狼狽は、その点にあった。折角、召捕っても、それが死骸で揚がったのでは、郁次郎を救う有力な反証を自白させることができない。
老先生は、せわしい眼で、うしろを見まわした。
「御つり舟師、舟辰」
と、文字だけがかすかに読めて、灯の消えている軒行燈が、ふと、眼にとまった。
どん、どん、どん──
そこの戸を、あわただしく叩いて、
「これ! これ! 釣舟屋。ここを開けい、火急だ。火急だ」
──家のなかで、答えがあったと思うと、老先生は、突然、その腮の白髯を逆しまに上げて、
「うっッ」
と、虚空をつかんだ。
「な、な、なに者ッ? ……」
よろよろと、彼は、うしろ倒れになりながら、自分の喉を締めつけた強い拇指の主を、吊り上がった眸で、肩越しに睨んだ。
「…………」
うしろから、ふいに、老先生の喉を締めた男は、息をのんだまま、口をきかなかった。そして、断末苦にガタガタと骨をふるわしている江漢の四肢の爪から、だんだんに、その生命力が滅消してゆくのを、楽しむように、抱えていた。
「うーむ……」
と、老先生は、ひらいた鼻腔から、最後のうめきをもらして、だらりと、敵の肩へ、仰向けに、首を寝かした。
だが、一心はおそろしい。よほど、無念だったに、ちがいない。
老先生の脈は止まったが、眼は、くわっと開いて、敵の顔へ、すわっていた。
ああ、彼は、生と死との、瞬間に、その相手の顔を、眸に映したろうか?
それこそ、悪人の首領だった。去年、十五夜の晩以来、黒幕にひそんで、巧みに、部下をあやつるほかは、きょうまで、数えるほどしか、事件の表面に、すがたを現わさない、覆面の男だ。
だが──老先生の眸はもう死魚のようにどんよりとしていた。瞼の皮が、死のせつなの一念で、みひらいているだけのものであった。
黒い覆面は、にやりと、笑った。
そして、とどめの拇指を、蝮の首のように、ふかく、頸動脈へ突っ込もうとした時に、老先生のからだは、がっくりと、泥人形が折れたように、彼の手からすべり抜けた。
「どなたですえ?」
──とたんに、眼の前の、釣舟屋の戸があいた。
夜魔! 夜魔!
それは、蝙蝠に似ている。
するどい眼をもって、覆面をして、黒衣に身をつつんで、そして、二本の塗鞘を長やかに、うしろへ、刎ね上げて飛ぶ。
ふいに、舟辰が戸を開けたので、彼は、あっと声を発して、老先生のからだを、戸口に抛りすてるや否、さっと、隠れた。
迅い!
蝙蝠の変化みたいに、身がかるい。
──一方では、同心の加山耀蔵と、あの唖男が、河岸ぷちの砂利場で、組ンず、解れつ、争っていた。
唖の侮りがたい力量は、波越八弥と彼とが、二人がかりでも、さんざんに、三本錐で傷つけられた覚えがある。だが今夜の耀蔵は、そら死にをしている間に、充分な、準備と覚悟があった。反対に、唖は、ふいを食らって、だいぶ面食らっている。
鍛えぬかれた小具足術の秘力は、機先を制して、のっけから唖を圧倒した。隙間を与えない鉄拳と張手の攻撃は、唖の、頭、頬げた、向うずね、所きらわずにいためつけた。
砂利山のうえで、ふたりは取っ組んだ。ずぶずぶと、足もとがくずれるので、すぐに、同体にころがったと思うと、耀蔵は、すばやく、十手を口に、捕縄を解きかけた。
唖は、縄に、しがみついた。
その手を、十手で、二つ三つなぐりつけると、さすが、強頑な唖も、手を離して、逃げかけた。
「こいつめ、どこへ行く」
うしろから、こんがらかった捕縄を、そのまま、浴びせかけて、首にひっかけて、引き倒した。
唖は、二本の足を、宙に上げて、ぶっ倒れた。──得たり、と耀蔵はその胸いたへのしかかった。唖は、足業をして、二、三度、彼を蹴とばした。
三度めに、今度は、耀蔵の方が、仰向けに倒れた。ひとりと思っていた敵は、いつのまにか、二人になっていた。──いや、たちまち、三人にふえて来た。
があんと、何か頑丈な得物で、脳心を打ちこまれたように、耀蔵は、気が遠くなった。ごろごろと、耳の鼓膜が鳴ったと思うと、彼は、それきり、意識を失ってしまった。
「あ。お頭領……」
唖に加勢をしていた掏摸の新七は、そのまま加勢に駈けつけて来た覆面の男を見て、そう言った。
「はやく、片づけろ、そいつを」
「河へでも、蹴込んでおきゃあいいでしょう」
「奉行所の近くだ。すこし、まずいな……」
「では、どうしますか」
「そこらの、小舟を攫って、運んじまえ」
「え、どこへ?」
「品川沖へでも持って行って、沈みをかけてしまえば一番いい。……それに、てめえたちだって、破獄したばかりの体だから、しばらくの間、海風にでも吹かれて、ほとぼりを、さましていろ」
「なるほど、一挙両得というわけで」
「おい」
と、唖へも、顎を向けて、手まねで、耀蔵のからだを縛れと命じた。そのまに、新七は、舟を見つけて、先に乗る。──耀蔵のからだも、まるい物体のように縛りつけられて、その中に、運びこまれた。
「何か、物を落してゆくなよ。血は、こぼれていやしめえな。……おう、いけねえ、こんな所に、十手が落ちていやがる。こんな物も、後のあしにならねえように、気をくばって、一緒に、沈めてしまえよ」
「じゃ、お首頭、そのうちに」
「む」
と、覆面は、うなずきながら、出てゆく舟を見送っていたが、また、岸を追いかけて、
「忘れていた。──おうい」
「なんですか」
河のなかで、新七が答えた。
覆面は、橋を渡って、その中ほどの欄干から、下をのぞいて、舟が、潜りぬけて来るところへ、低声で言った──
「四、五町先へ行ったら、櫓をゆるめて、玉枝を、拾い上げてやってくれ。あいつ、蟹みてえに、石垣の穴でも見つけて、寒がっているにちげえねえ」
──重くるしい寂寞。夜靄の丑満。
櫓韻は、ぎい、ぎい、とやがて遠く河下へ消えて行った。
「や。もう七刻だ」
覆面は、ふと、耳をすました。
鐘の音が消えた空に、五位鷺が、つばさを搏った。──深夜の感じは、刻々、明け方ぢかい空気に変ってくる。
「かわいそうに……」
彼は、反りの橋の欄干に、頬づえをのせて、つぶやいた。そこから、奉行所の建物や森が、黒く見えた。
「郁次郎の命も、あと、たった一刻だ。ここから、お念仏でも、唱えてやろうか」
だが、彼の顔に現されたのは、哀傷の表情ではなく、深悪な苦笑だった。
「どれ、俺も、明けねえうちに……」
すたすたと、彼は、歩き出した。と──橋のたもと。
鷺のように、ひとりの、うす鼠色の宗服を着た虚無僧が、柳の下に佇んでいた。じいっと、水のながれを見つめていた。
ぎくとしたように、覆面は、足をとめた。
さっと、迅い歩足が、その後ろをかすめたので、虚無僧は、くるりと、天蓋をふり向けて、
「おや?」
と、見送った。
「気のせいかしら? ……」
つぶやきながら、歩き出して、そしてまた、
「よく似ていらっしゃる。だが、奉行所の獄中においで遊ばす郁次郎様が、外をあるいているはずはない」
と、自分の迷いへ、打ち消すように、言った。
虚無僧は、花世であった。
彼女の足は、いつとはなく、奉行所の方へ、人なき夜をさえ忍びやかに、運ばれて行った。恋人のいる獄舎の塀の外を、夢遊病者のように、めぐって歩いた。郁次郎が、ここに護送される途中から、影の形に添うように、隙をうかがっている彼女ではあったが、救い出す術はおろか、近づくことすらむずかしい。
だが、花世はまだ、恋人の命が、あと一刻(二時間)の明け方に、終るものとは思っていなかった。──せめて、自分が、夜ごと夜ごとに、この外にまで訪れていることだけでも、恋人の胸に、知らしたいと思うのだった。
もし、怪しまれたらとも、思うのであったが、彼女は、どうしても、会えぬ恋人の胸に、自分の訪れを知らしたかった。心と心とだけでも、会わせてやりたかった。
裏は、森がふかい。塀ごしに、獄舎の塀がのぞまれる。──花世は、そこに立って、尺八を吹き出した。
この曲を聞けば、恋人は、必ず自分と知るであろう、あの、鈴慕の曲を。
彼女のたましいは、尺八をとおって、七孔から空へ翔けだした。そして、自由に、思うままに、獄舎の、牢格子のなかにさえ、やすやすとはいって、昏々と、疲れ臥している恋人の肩にすがって、その、寝顔をのぞいて、
(郁さま、郁さま。……郁次郎さま)
と、すすり泣くのであった。
甘えている。
嘆いている。
そして、眼をさました郁次郎の心と、彼女のたましいとは、手をとり合って、夜もすがら、語り尽きないのであった。抱擁してやまないのであった。
彼女は、何もかも忘れていた。今の辛酸も、かくまで呪われた恋の不幸さも、忘れていた。──現実に恋人と会っているような陶酔のなかに尺八を吹き耽っていた。
聞くや、とどくや。
獄中の郁次郎は、果たして、その音を、聞いたろうか。──ともあれ彼の生命は、あと、一刻に足らないものとなった。獄卒たちの長屋に飼われている鶏が、無残、まだ暗いのに、たかい声で、ひと声啼いた。
× × ×
「わっ、ひでえ悪戯をしやがる! みんな、起きて来い。やい! 眼をさませよ!」
舟辰は、土間に、腰をついて、呶鳴った。
「どうしたんです、親方」
同居している船頭たちが三、四人、とび起きて、眼をこすりながら、出て来た。
「どうもこうもあるもんか、寝耳に水だ。誰だか知らねえが、おそろしい勢いで、戸を叩くもんだから、びっくりして、戸をあけると、そのとたんに、人間の死骸を、人の足もとへ抛りつけて、逃げてしまやあがった。──縁起でもねえ、いまいましい畜生だ」
「おや、老人じゃありませんか」
「これが、美い女ならば、まだ、我慢のしようもあるけれどよ」
「いくら美い女だって、死人じゃ話にならねえ。しかも、お武家のようですぜ」
「どこのご隠居だろう。知らねえか」
「見たような人ですね……」
と、ひとりが行燈を向けかえて、
「あっ、これや大変だ。親方」
「どうした」
「その人は、今じゃお役退きをしたそうですが、元は、捕物の神様だといわれたくらいな名与力ですぜ。あの、あの……ええと……何と言ったッけなあ、ちょっと、思い出せねえが」
「えっ、じゃ、鶉坂の先生か」
「あっ、そうだ、その塙江漢様なんで。──いつか、八丁堀の旦那方と一座して、中川尻へ、投網のお供をして行ったことがあるから、たしかに、覚えています」
「そいつあ、大事だ。ど、どうしよう」
「どうしようたって、死んでいちゃ、まあお上がンなさいと言うわけにもいかねえや」
「やい、やい、下らねえ軽口をたたいているない。はやくしろ、はやく」
「何をはやくするんで」
「何とかしろってンだ」
「困ったなあ、そういう親方からして、まごまごしているんだもの。自身番へ持って行くんですか」
「そうじゃねえ、脈を見ろっていうんだ。そして、助かるものなら、はやく、お手当をして上げなけれや」
「脈はありませんぜ」
「ばか、そんな所に、脈があるか。はやく槙町の外科の先生を呼んで来い」
ひとりが、飛び出す。
ひとりが、台所から、柄杓で、水を持って来る。その柄杓の水が、枕もとにこぼれて、嬰児が泣き出す。寝ぼうな女房が、やっと、眼をさまして、これも、寝みだれ姿で、狼狽する。
舟辰の家では、家内じゅうの騒ぎになった。そのうちに、起されて来た外科医が、あたふたと、訪れたが、その外科先生も、寝巻に刀を差していた。
──喉の骨が挫けたように痛んだ。
しかし、その苦痛によって、塙江漢は、医者が帰るとまもなく、はっと、意識をひらいた。
「ああ、ここは」
気が甦ると、すぐに、老先生は、ぱッと、蒲団を刎ねて、立ち上がったが、窓の白い明りに、ぐらぐらとしたように、
「ちぇッ、しまった!」
と、腰をついてしまった。
彼は、舟辰の二階に上げられて、静かに、寝かされていたのだった。だが! だが! ああ何としよう! 夜は明けてしまった。
窓は明るい。静かに、朝のいろを映している。
「ウーム」
と、老先生は、ふとんの上に、どっかり、坐った。ふたつの腕をつよく拱んで、暴風のように荒れ燥ぐ胸を、締めつけた。
じっと、天井をにらむ。眼をふさぐ。
喉には、紫いろの痣が見えた。だが、そんな苦痛は、もう彼にはまったく無感覚であった。
「オオ。いまこの家の前の川すじを触れて行った船頭の声は、明けの六刻までに、大川筋の川番所へ、交代役人をのせて行く見廻り船だ。──してみると、まだ奉行所の牢開けまでには、わずかな間がある」
どんな名案があるのか、老先生は、決してゆうべのように、狂躁して、取り乱してはいなかった。
やがて、むっくりと、立ち上がると、二階の窓障子を、開けひろげた。──白みかけたばかりの夜明けの風が、今や、刑場の筵にのって、刃の露に散ろうとするわが子のそばから吹いて来るように、冷々と、老先生の顔を衝った。
幕閣のうちでも、奏者衆といえば、若年寄の次席である。小笠原左近将監は、その奏者衆たるうえに、寺社奉行の重職をかねていた。
上屋敷は、八重洲河岸の川ぞいにある。禄は四万石、そして、彼はまだ若かった。時勢の新人で、俊才で、未来の老中をもって嘱目されていた。
この人の習慣として、毎朝、起きぬけに百射百振をことかかなかった。百射とは、まだきに起きて、弓を百本射る。百振とは、大剣を払って、居合の素振りを試みることである。──そして、陽を拝し、登城の支度にかかるのが例であった。
──今朝も、的場に出て、采女という小姓を相手に、ヒュッ、ヒュッとしきりに矢うなりを切っていると、
「あっ、誰だ?」
と、突然、びッくりしたようにその采女が、松の幹を見あげた。
ぷつんと、一本の矢が立ったのである。
それは、主人の左近将監が放した矢とは違っているし、また、左近将監が、的を外して、そんな所へ射るはずもない。たしかに、裏の門を越えて、塀のなかへ飛びこんで来た流れ矢にちがいなかった。
「たれの仕業か。不埒な奴」
と、采女が、駈けだそうとすると、
「待て待て。それは矢文のようだ。これへ持て」
と、左近将監が、彼方で、声をかけた。
「え、矢文?」
手をのばして、抜き取ってみると、なるほど、妻羽白の矢羽の下に、ほそい、書状らしいものが、結びつけてあった。
「殿。なにか、訴文のようにござりますが」
「ははあ、さては、寛永寺の訴訟に関係のあるものが、何か、言い分を、矢文に托してこの屋敷に射込んだものとみえる。──然るべき手続きもふまずに、左様なものを取り上げては、この後の悪例となる。よし、よし。そのまま、射返してやるから、矢を、これへ持て」
と、築山のうえに登って、そこから、手に取るように見える数寄屋川の向うの河岸へ手をかざした。
「はてな? ……それらしい人間も見あたらぬが、采女、そちの眼では、どうじゃ」
「わかりました。……あれにおります」
「どこに」
「川向うの民家の屋根に、ひとりの老人が立って、じっと、こっちを見ております」
「見えん。どこに?」
「もすこし、私の方に寄ってごらんなされませ。あの河岸添いの釣舟屋の屋根に、ひとりの老人が立っておるではございませぬか」
「あっ。これは妙だ!」
と、左近将監は、采女の指さきへ視線を向けるとすぐに、びっくりして、こうさけんだ。
「あれは、江戸の大捕手といわれた名与力、今では、鶉坂に隠退したはずの塙江漢にちがいない」
「や、や、殿。ごらんなさい。お屋敷の方へ向いて、拝んでおります」
「ふしぎなこともあるものだ。よもや、江漢老人、気が狂ったわけでもあるまいに、当屋敷へ矢文を射込んで、拝んでいるとは心得ぬことだ。……オオ何はともあれ」
と、左近将監が、にわかにそれを開いて一読してみると、まさしく、塙江漢の手蹟である。彼が、今朝の目前に迫っている郁次郎の命を救いたい一心に、一代の熱と愛と涙とをもって、舟辰の家の二階で、咄嗟に、書き綴った願文であった。
「采女、馬を曳け」
「はっ」
采女は、その、唐突さに、うろたえた。
しかも、主人の左近将監の眼には、涙がいッぱいに溜っていた。彼は、読み下したその書状を、袂に、まろめこむが早いか、采女が、急いで曳き出して来た駒にとび乗って、通用門から、まっしぐらに、駈け出した。
──町にはまだ、朝霧があった。
またたくうちに、彼の駒は、三宅坂の松平信明の屋敷を訪れたが、折悪しく、信明はその前夜、代々木の別業へ移って静養中ということなので、すぐ引っ返して、そこからほど近い麹町の方へ馬を飛ばした。
「御老中は、お目ざめでござるか。奏者番、小笠原左近将監です。早朝なれば、お寝衣のままにても苦しゅうござりませぬ。それほどに、一刻を争うのです」
次席老中太田備中守は、幸いに、もう書院に出て、朝の苦茗をすすっていた。
面談は、五分間と、かからなかった。
備中守から、一通の書付をとると、左近将監は、ふたたび悍馬に鞭を打って、真一文字に、南町奉行所の正面のまえまで走って来た。
ヒラリと、降りて、馬繋ぎの柵へ、駒の手綱を結いつけていると、物蔭から、ばらばらと駈け寄って、彼の足もとに、ぴたりと、両手をついた老人があった。
「おうっ、塙ではないか」
「へへへ」
と、老先生は、地上に額をすりつけてしまった。滂沱としてあふれ出る涙に、胸が迫って、すぐに、顔も上げ得なかった。
「老人、久しぶりじゃのう。──そちが在役中には、何かと、寺社奉行の方にも助力を得たが、隠退したと聞いて、左近将監もかげながら惜しんでおったぞ。その後、健在か」
「無為に、余生を過しておりまする」
「最前の矢文の願意は、左近将監、たしかに承知いたした。安心せい」
その一声に、老人は、張りつめていた気が弛んだように、ぽろぽろと、大地に、涙をこぼして、
「あ、ありがとうござります」
と、肩で、咽んだ。
「事情は、書状に依って、篤と承知いたしたが、郁次郎の冤罪なることは、たしかであろうな」
「もし、それに相違ある時は、郁次郎のみか、父たるこの江漢も、老腹を掻きさばいて、天下に罪を謝す覚悟。──ただ、その冤罪を訴え出る道と、時刻の猶予もなきために、お役違いとは存じながら、直訴の矢文、その大罪は、何とぞおゆるしのほどを願わしゅう存じまする」
「よし、よし」
と、左近将監は、かろく頷いて、
「したが、老人、ひどく窶れたのう」
「一夜のうちに、白骨になるほど心労いたしました」
「そうあろう。誰しも、わが子の愛に変りはない。いわんや、一代の名与力、塙江漢の一子が、極悪人として断罪にされては、末代までの恥辱、いや、天下の人心に及ぼすところも尠なくはない。──おお、こうしている間に、郁次郎が刑に処されては相成るまい。老人、これを携えて、はやく、町奉行の榊原主計殿に、願いの旨を、申し入れるがいい」
と、一通の書付を手わたした。
「あ。これは?」
と、老先生の手は、指は、つよい感激にふるえを刻んでいる。
「御老中太田備中守様のお書付。時刻がないゆえ、何かの手続きは後にゆずるとして、とりあえず、郁次郎の処刑に対して、百日のご猶予をおゆるしあったのじゃ」
「えっ! あ、あの、百日」
──鐘が鳴った。朝の六刻である。
郁次郎の刑される明けの鐘は、郁次郎の生命に一縷の光明を投げた黎明の鐘となった。
「オオ!」
と、老先生は、狂喜の手に、老中太田備中守の書付をつかんで、奉行所の門内へ走りこんだ。
「──鳴った。六刻の鐘だ」
藪牢の外で、声がした。
そこに、筵や、水桶や、さまざまな死刑の具をならべて待っていた刑吏たちは、ふり顧って、いちどに、わかれながら、
「ご大儀に存じまする」
と、頭を下げた。
「各〻にも」
と、軽く、会釈を返しながら、その中へ、ずっと通って来たのは、羅門塔十郎と、東儀与力だった。
東儀はすぐに、頤を上げて、
「罪人を曳き出せ」
と、命じた。
そして、羅門と肩を並べながら、刑場の一方にある椎の木の下に、床几をおかせて、腰をおろした。
獄卒たちは、牢の鍵をあけて、躍りこむようになかへはいった。──そして、糸のように痩せ衰えた郁次郎を引き立てて、死の筵にすわらせた。
「太刀取り!」
「はっ」
「すぐに斬れ」
羅門のこう言ったことばの下に、刑吏は白鞘の大刀を抜いて、桶の水を、刃渡りへ、さらさらとながした。
ヒュッと、一振り、水を切って、刑吏は郁次郎のうしろへ廻った。東儀与力は、かたく肘を張って、口をむすび、羅門はじっと、深い眸を澄まして、唾をのんだ。
尊いかな、一秒の時間。
江漢老先生が駈けつけたのは、実に、その一瞬の時であった。それと見るより老先生は、両手をふりあげて、
「待てッ」
と、呶鳴りながら駈けて来た。
「こらッ」
わらわらと、その後から、奉行所の番士たちが追いかけて来るのを、老先生は阿修羅のように振りとばして、
「刑吏! その太刀を下ろすことはならんぞッ、待てッ」
と、叫びつづけて、郁次郎のそばに、両手をひろげて立ちはだかった。
「やっ、老先生」
と、東儀は、床几から飛び上がるほど驚いて──
「な、なんで、大事な執刀の邪魔を召さるか。狂気されたかッ。役儀の遂行を邪げるに於いては、何人とて、用捨はいたさぬぞ」
と、こめかみに、青すじを立てて言った。
「だまれ、東儀!」
老先生は、厳然と、
「──狂気したかとは何たる放言だ。老いたりといえど塙江漢、まだ、気狂うほどの耄碌はせぬ」
「ではなんで、郁次郎の愛に溺れて、刑の執行を邪げなすか」
「いや、邪げるのではない。止めるのだ」
「止める?」
と、鸚鵡がえしに、東儀はあきれたような眼を瞠って、
「いかに老先生でも、法の命ずる下に刑罰する罪人を、お止めなさる権利はない。近ごろ、血迷われたとみえる」
と、嘲嗤った。
老先生は、きっと向き直って、老中太田備中守の執行猶予書を、羅門と東儀の眼のまえに向けて、開いて見せた。
「見られたか、ご両所。郁次郎の刑を、百日のあいだ延期いたすということは、この江漢のことばではない。老中のご命令でござるぞ」
「あっ?」
と、ふたりは、それへ、疑惑の眼を研ぐように、顔を近づけて、
「これは、不審だ。すでに、老中ご一統の裁可に依って、郁次郎の断罪をお認めあったものを、ふたたび、延期せよとは心得ぬお沙汰じゃ」
「──ではこのお書付を偽筆といわるるか」
「よしや、直筆なるにもせよ、一老中のご意見で、法をうごかすなどという例はない。もってのほかな僭上というものであろう」
言い争っているところへ、役宅の方から、あわてて、それへ駈けて来たのは、奉行の榊原主計であった。また、奏者衆の小笠原左近将監であった。
「ひかえろ」
奉行の声に、
「はっ」
と、東儀と羅門は、それへ、片膝を折って、指を地についた。
左近将監は、厳かに、
「今日、処刑するはずの塙郁次郎、吟味不充分のかどあるによって、証拠がためとして、百日の延期を命じる」
と、ことば短く言い渡して、
「追って、くわしくは、上様のご印可をいただいて、後刻、公の書状をもって当所へお達しするであろう」
そう言って、すぐに、ひき揚げてしまった。
「意外なことになった」
と、東儀は、羅門と顔を見合せて、不平そうにつぶやいたが、羅門は、
「いや、ご念のいったことです」
と、皮肉な笑いかたをした。
そして、老先生の方へ、ちらと、その眼ざしを投げ捨てながら、
「とにかく、これでご子息の命は、百日のあいだ生き延びたわけ。吾々の眼が違っているか、ご老人の眼が、子の可愛さに眩んでいたか、百日目の朝、ふたたび、ここで、お目にかかる場合には、決定するでしょう。……せいぜい、それまでの間に、冤罪の反証をお挙げなさるがよかろう」
と、いつにもなく羅門は、やや挑戦的だ。
「もちろん!」
と、老先生は胸を張って──
「天に誓って、反証を挙げて見せる。郁次郎にあらぬ、真の犯人を引ッ捕えてみせる」
軒昂として、羅門に、いや、天に向って言った。
「ご健闘を祈っておこう」
と、羅門は、さり気なく答えたが、クルリと振り向いて、
「お奉行」
と、一歩すすんだ。
「──かく御老中から急なお沙汰が出たのは、必定、塙老人の熱心な策動によるところと心得ます。しかし、それは少しも、郁次郎が冤罪という反証にはなりません。吾々は初信どおり、飽くまで、彼を真の下手人として、これから百日間に、東儀殿と力をあわせて、いっそう、証拠固めに全力をあげるつもりですぞ」
「もとより、そうなくては、羅門塔十郎ともある名捕手の一分が相立つまい。また、老先生の立場としても、お上より、かくご猶予のある以上は、ただ、言い分や議論に止まらず、ぜひとも何人が、女笛師お雪を殺したか、巫女殺しの下手人なるか、その真犯人をつきとめて、百日の日限までに奉行所へお示しをねがいたい。──かりに一日遅れても、万一、その期日までに、真犯人の出ぬ時は、奉行所は、奉行所が今日までの推定によって、郁次郎を処刑いたすことに、何らの仮借を持つものではないから、その場合には、お恨みなきように断っておく」
「よろしい──」
と、老先生は、大きく、白髯をしごいて、
「これで、わしはわしの信念に向ってすすむこと以外に、なんにも言うことはない。郁次郎は、それまで、獄舎に預けておく」
「はははは」
と、東儀は、強いて笑って、
「だが老先生、万一、その百日めになっても、他に犯人が出ぬ時には……」
どうする? ──というように、眼で詰問した。
老先生は、ふと、傷ましいわが子の姿に目を落しながら、
「各〻のお手数は待たぬ。郁次郎めが刑刀の錆となる時刻に、わしも、どこかで老腹を掻ッ切って相果てておろう。……だが、そんなことはない! 断じて、この世は、まだそれほど暗黒じゃあない……」
と、語尾の二言を、昂くさけんだ。それは、郁次郎に向って、百日の別れを告げることばでもあり、また、その間の忍苦に耐えよと励ますようにもひびいた。
──こうして、郁次郎は、ふたたび牢獄の中へ、戻された。
さて。
ここに事件の解決までに、百日の期間はできたが、老先生には、そもどんな策戦があるか。やがて、一刻の間も惜しむように、飄然として、どこかへ立ち去った。
明けがたには、ひと盛り鯔が釣れる。すこし陽が出てからは、鱚釣り舟が、笹の葉を撒いたように、釣竿をならべて、糸をあげていた。
品川の海は、いい凪ぎだった。──それに、五月の初旬、季節もいい。遊び半分の太公望が出かけるには絶好である。鎌倉船は、初鰹をつんで朝から何艘も日本橋の河岸へはいった。
「こいつあ大アテ違いだ。海は人目のねえものと思っていたが、陸よりは、人間が出ていやがる」
小舟の櫓をあやつりながら、艫へふり顧って、こう言ったのは、別府の新七だった。
艫には、唖聾が、生れてはじめて海を見たように、ぽかんと口を開いて、めずらしそうに見まわしていた。無論、彼の耳には、新七の声が聞えるはずもない。
「ほんとに……。捨て場がないね」
こう答えたのは、苫を敷いて、舷に、身をもたせていた怪美人の玉枝であった。
「しかたがねえから、グッと沖へ出て、沈め込むとしましょう。だが、船番所の見廻り舟にでもぶつかると面倒ですから、気をくばっていておくんなさい」
「大丈夫だよ。わたしが、こんな顔をしていれば、舟遊山としか見えやしまい」
「女の乗っているところが安心だが、その唖聾が、キョロついているのが困りものだ」
「なあに、これだって、人が見れば、山出しの下男だろうと思うから心配はない。それよりも、うでに縒をかけて、沖へ漕いでおくれ」
「おッと、そのことだ」
新七は、わき目もふらずに、漕ぎ出した。──玉枝の坐っている舟底のまえに何やら、筵をかぶせたものが隠してあった。その筵が、海風にめくれるたびに、紫いろをした人間の足の先がちらと見えた。
玉枝は、それを気にして、めくれるたびに、すぐに、筵をかぶせた。そして、
「おや、まだ息があるんじゃないか。いっそ、匕首で、一突きにしてから沈みをかけたらどうだえ」
と、言った。
「飛んでもねえこった」
と、新七はあわてて、首を振りながら、
「こんな所で、人間の血脂をながしたら、すぐにあしがついてしまう。そのまま、錘りをかけて、沖の深くへ抛り込んでしまうのがいちばんだ」
「なるほどネ」
と、玉枝は、笹いろに光る紅唇のあいだから、細かい歯を見せて、遠心的に、
「やっぱり、あの人は、要心ぶかい……」
と、つぶやいた。
「もう、ここらでよかろうじゃねエか」
ぐっしょりと、汗をかいて、新七は、疲れた腕から櫓を離した。左に遠く見えるのは、江戸川尻を抱いた浦安、行徳あたりの浜辺である。
「さ、おまえも、手伝わなくっちゃいけないよ」
玉枝は、唖男の膝をつッついた。
「…………」
唖は、眼をさました猛獣のように、筵の上に眼を落すと、もっそりと、身を起して、無造作に、筵をめくッた。
足も、手も、胴も、ギリギリ巻きに縛られた一箇の人間が、その下に、仰向けになって伸びていた。いうまでもなく、それは、まだ夜の明けぬ暁闇の数寄屋河岸で、悪人たちが首領とよぶ覆面の侍と、ここにいる新七や唖男などのために、無残な敗北を遂げてしまった江漢老先生の片腕の同心加山耀蔵であった。
「ひ、ひ……」
と、唖男は、妙な声を洩らして、耀蔵の顔を指さした。無念をのんで昏倒した時の眉が、ふかい針を立ったまま、仮死状態の青ぐろい皮膚にとッついていた。
「はやくしろ」
と、新七は、頤を拯って、唖といっしょに、石を詰めた網ぶくろを、彼の縄目に幾つも結いつけた。
「それ、いいか……」
手と、脚とを持ち合って、舷から、青い波底へ沈めかけようとした時である。とんと、舟げたの角で、背ぼねを打たれたとみえて、耀蔵は、偶然にも、呼吸をふき甦した。
とたんに、双つの眼を、くわッと開いて、舟のなかの三名を睨みつけたので、
「わっ……」
と、吃驚したため、唖も新七も、同時に、あわてて、手を離した。
どぼッ──と、白い飛沫が低く立った。無数の泡が、いちめんに、もくもくと、音を立てて、舷にはじけて消える。──玉枝は、舟げたにもたれながら、石の重みに沈んでゆく耀蔵の体を美しい魚の影でも見るようにのぞきこんでいたが、突然、
「おやっ? ……」
と、さけんで、顔いろを変えた。
ふしぎ!
耀蔵のからだが、およそ、四尋ほども沈んで行ったと思うと、まっ蒼な海藻のなかから、ぬッと、人間の腕がのびた。そして、いきなり耀蔵の帯をつかんだと思うと、鱶のように、さッと、横へ攫ってしまった。
「あっ、いけない!」
玉枝は、飛びあがって、
「たいへんだ。わたしたちは、いつのまにか、誰かに、尾けられていたにちがいない。はやく舟を、引っ返しておしまい!」
と、手を振った。
新七も、何かは知らないが、うろうろして、櫓をつかんだ。同時に、唖男は、ひと声、ヘンな絶叫を発しながら、ザブーンと、身を躍らして、海のなかへ、飛び込んでしまった。
「ちぇッ、しまった」
──新七は、唇を噛んだ。
──見ると、彼方の洲の先から、矢よりもはやく近づいて来る一艘がある。
まさしく、どこからか尾けて来て、自分たちの行動を、見ていたものと思われる。舟のうえには、屈強なふたりの船頭と、ひとりの町人が乗って、櫓も折れるほど、ギッギと漕いで来た。
「ええ、だめだよ! 新七ッ、舟が廻ってばかりいるじゃないか」
玉枝は、やっきとなって、自分も、棹をつかんでついてみたが、それの届くような、浅瀬ではなかった。
掏摸は本職らしいが、もとより、舟にかけては素人に違いない別府の新七。いそげば急ぐほど、櫓がはずれる、舟がまわる。
そのまに、見事な舟脚で、サッと、水を切って来た一方の小舟は、いきなり、対手舟の胴なかへ、その舳をぶつけるがはやいか、
「ざまをみやがれ」
「いくら逃げ足の迅いてめえ達でも、水のうえじゃ、どうしようもあるめえ」
三人いちどに、身を躍らして、玉枝の舟へ、とび込んで来た。
「何をしやがる」
新七は、匕首を走らせて、ひとりの船頭へ突いてかかった。
匕首は、飛魚のように、空を泳いだ。
ひとりが、そのうしろを拯って、彼の喉を締めると、ひとりがすぐに、足をつかむ。
「ちッ、くそうッ」
盲目的な閃光が、やたらに、前の空を斬った。ぎりぎりと、歯ぎしりを鳴らして、足と喉の束縛を、ふり解こうとして踠くのだった。
「親方、面倒だ」
「殺っちまおうか」
ふたりが言うと、見すましていた町人は、脇差を抜いて、新七の脾腹へ刺しとおした。なんの苦もなく、鋭利な刀の尖が、七、八寸ほど、人間の胴へはいった。
「ううッ……。うーむッ……」
真っ赤な、血あぶらの漲った海のうえに、小舟は、大きく揺れ返った。
──玉枝は、その揺れうごく舳から、身を躍らしかけていたが、咄嗟に、それを見つけた町人の腕にひき戻されて、仰向けに、転がった。
「この女狐め!」
町人は、足蹴にかけて、
「だいじな汝を逃がしてたまるものか」
と、自分の舟へ、ひき込んで、捻じ伏せた。
「痛いッ、手をゆるめておくれよ」
「何を言やがる、痛えのは、あたりめえだ。……おい、はやく来い」
「親方、どうします、こいつの死骸は」
「魚の餌にしてしまえ」
「合点。──水葬式」
と、新七の死骸を抛りこんで、
「舟は?」
「舟もそのまま突っ放してしまえ」
「もう一匹、ヘンな男が、まっ先に海のなかへ逃げこんだが、どうしやがったか、浮いて来ねえ」
「ム、下男みてえな男か。雑魚だろう」
「じゃ、ぶんながしますぜ、この舟は」
と、自分たちの舟へ返って、突き離した。
と、主のない血まみれなその小舟が潮に乗って流されてゆくそばに、ぽかりと、西瓜のような物が浮いた。ふたつの人間の頭である。ひとりは、一人の体を、横にかかえて、水のなかから手をあげながら、
「──やあい。何してやンでい」
と、潮を吹いて呶鳴った。
「あ。千吉だ」
「待てやアい」
あわてて、漕ぎよせてゆくと、千吉とよばれた若者は、
「はやく綱を抛れ、綱を。いやに、落着いていやがる」
「船頭のくせに、弱音をふくな。こっちだって、大仕事があったんだ」
「いくら、稼業が稼業でも、そう永く、水の底にゃつづかねえ。それに、生き物をかかえているんだ」
「おう、どうしたものは」
「ものは、首尾よく、このとおり……」
「ご苦労、ご苦労」
と、舟のなかへ助けあげて、千吉のかかえて来た加山耀蔵の縄をすぐ解いた。
海へ沈みかけられる時に、すでに、呼吸もかすかだったので、水はほとんど飲んでいなかった。用意の薬をふくませたり、濡れた衣服をかえたりしているまに、舟は、帆を張って追い風をうけていた。
玉枝は、度胸をすえてしまった。
ふてくされた、凄艶な頬を、海風に、鬢の毛が嬲っている。
帆ばしらの下に、立て膝をして、もう逃げられないと覚悟をきめた眼に、誰のとも知れない、かます莨入れを見出すと、それを、指さきで寄せて、すぱりと、のどかな顔をして燻らしはじめた。
加山耀蔵の手当をしていた船頭たちは、莨のにおいがするので、彼女を、ふり顧った。
「親方、あきれてものが言えねえじゃありませんか。ごらんなせえ、人の、莨を吸ってやがる」
指さすと、彼女は、不敵な、そしてまた、ひどく蠱惑な、あの笑靨を、海月のように、頬に、チラつかせて、
「オヤ、おまえさんの?」
「勝手にしやがれ」
「しみったれたことをお言いでないよ、莨の一ぷくや二ふく、いいじゃないか」
「あれだ……」
と、あきれ顔に、
「親方、世の中にゃ、こんな不敵な女もあるもんでしょうか」
「どうせ、ひとすじ縄で行く女じゃあるめえ。逃げられねえように、要心していろ」
「はばかり様。おまえ達みたいな、町人根性ならしらぬこと、こうと度胸をすえた以上は、見ぎたなく、じたばたするような玉枝さんとは違うんだからね、安心おしよ」
「……親方、似ていますね、まったく」
「誰に」
「八官町の富武様のお嬢様と」
「ム、鶉坂の老先生も似ているとおっしゃったが、まったく、瓜ふたつだ。……だが、形は似ていても、心ときたひにゃ、雪と炭だ」
玉枝は、横を向いて、うす笑いをうかべながら、
「じゃ、おまえたちは、鶉坂の老いぼれに頼まれて、私たちの仕事の邪魔をしたんだね」
「それがどうした」
「おぼえておいでということさ!」
「けッ。この期になっても、まだあんな憎まれ口をたたいていやがる。──親方、また海へでも飛びこむと、探すだけでも手数ですから、ふン縛ってしまいましょう」
若い船頭たちから、親方とよばれている町人は、数寄屋河岸の釣舟師、舟辰だった。
明け方、老先生から事情をうちあけられて、焦眉の一策をさずけられると、侠気に富んだ舟辰は、一も二もなくひきうけて、若い者三名と共に迅舟をとばし、品川沖の鱚舟の群にまぎれこんでいたのである。
老先生の機智は、矢文の方も、これも、二つながら成功した。加山耀蔵のからだから解いた縄は、そのまま、玉枝を縛るものに使えた。舟辰と、若い船頭三人に捻じ伏せられては、彼女も、どうすることもできない。観念の眼をふさいで、自由になっていた。
すると、そのなかの千吉が、棘にでも触れたように、
「オヤッ?」
と、手を引っこめた。
「なんだ? 千吉」
「親方、ふしぎなこともあるもんですね」
「どうして」
「この女、左の手を見ておくんなさい。──烏爪だ、あっしの妹のお半と同じだ。お半の小指の爪も、お鉄漿を染めたようにまっ黒なんで、奇妙な生れつきだと思っていたら、この女にも、同じ爪がある」
「ウム……なるほど」
「妹も、こんな毒婦にならなけりゃいいが」
「あの娘はやさしいから、なれと言っても、こんな不敵者になるはずはねえ。今は、家かい」
「いえ、……お恥しいわけですが、ちょっと、事情があって、この春から柳ばしのお紺姐さんの家に、仕込みに預けてありますんで」
「ヘエ、じゃ、雛妓にしたのかい。……それやかえっていいだろう、今のうちから、柳ばしの水で洗い上げれば、さだめし、江戸前の芸者衆になるだろうよ」
話が、思わぬほうに外れているまに、どんと、船の舳が、何かにぶつかった。
中洲の女橋である。──舟は、大きな橋杭を摺って、橋の腹を上に見た。
「あ、いけねえ。その女を、むき出しにして置いちゃ、陸からも、橋の上からも、人目について、怪しまれる」
舟辰は、気がついて、帆を下ろした。
ほかの三名は、あわてて、玉枝のからだを俯向けに倒して、その手足を、板子へ縛りつけた。そして、上から、帆をかぶせてしまった。
間もなく、舟は、数寄屋河岸へついた。病人の客でも連れ戻ったように装って、すぐに、耀蔵だけを、店へ、かつぎ上げた。
「おう、帰って来たか」
土間のもの音を聞くと、待ちかねていたように、二階の梯子口から、老先生の白い髯がのぞきおろした。
「あ、鶉坂の」
「シッ」
と、老先生は手を振って、
「首尾は」
「ただ今参ります」
一同で、耀蔵を、そっと、二階へたすけ上げて、隅へ寝せつけたうえで、
「老先生、ごらんのとおりでございます。四、五日、静かに、養生をしていたら癒りましょうから、ご安心なさいまし」
「大儀、大儀」
老先生は、ななめならず欣んで、
「して、悪人どもは」
「ひとりは、海へ逃げこまれてしまいました」
「小人数だ、やむを得まい。それは誰だ」
「下男みたいな野郎」
「ははあ、唖聾だな。──して、もうひとりの、掏摸の新七は」
「あいつはうまく行きました」
「召捕ったか」
「いえ、殺してしまったんで」
「なに、殺した」
「死骸はそのまま突き流してしまいました。今ごろは、鱶の腹ン中で、あぐらをくんでいるかもしれません」
「それは惜しいことをしたなあ。……アア残念なことをした」
「どうしてですか」
「生かして引ッ吊して来れば、泥を吐かせる手段もある。後日になっても、唯一の生き証拠となったものを」
「あ、成程。……ですが、その生き証拠には、女の方を、ふん縛って、連れて参りましたから、これでどうか、埋めあわせをつけて下さいまし」
「えっ」
と、老先生の耳は、若者のように、ぽっと紅くなって、
「ゆうべ、わしが捕り逃がしたあの妖婦を、おまえ達の手で、捕えて来たと申すか」
「どうです、老先生、こいつあ、褒めていただく値打があるでございましょう」
「ある! ある! イヤでかしたぞ舟辰。事件の解決いたしたうえは、きっと、充分に褒美をとらせる」
「なに、あっしは、そんなものを目あてに、した仕事ではありません」
「失言じゃ、ゆるせ。おまえの侠気はよくわかっておる。──して、女は、どこへ連れて来た」
「近所の眼がうるそうございますから、舟底に縛りつけて、帆をかぶせておきました」
「ヤ、ヤ! それやいかん! それやいかん」
老先生は、愕然として立ち上がった。
舟辰は、怪訝な顔をして、
「なぜいけねえんですか」
「あの女には、たえず、覆面の首領の眼がついているはずだ。一刻たりと、見張を抜いたのは大きな手ぬかり。或いはもう遅いかも知れんぞ」
まさか──と舟辰は多寡をくくっていたが、老先生があまりにくやむので、あわてて、草履を突ッかけて、河岸の桟橋へ駈け出してみた。
舟は、そのまま、繋いであった。
帆布も、そのままかぶせてあった。
──だが、それを剥くッて見たとたんに、舟辰は、あっといったきり、開いた口がふさがらなかった。
玉枝のすがたは、魔術師の籠にはいった鳩のように、きれいに、消されてしまっていた。
「ど、どうしたんだろう」
「すこしも、不思議はない」
老先生は、がっしりと、腕を拱んで、鼻腔からふとい息を吐いた。
「……惜しいことをした」
「なんとも、相済みません」
「あやまることはない。わしがはやく、気をつければよかったんじゃ」
「オイ、そこにいる若えの」
舟辰は、忌々しそうに、近くの河岸に繋っている船頭へたずねてみた。
「──今、この船の中から、若い女を連れ出した奴があるんだが、誰か、そいつを、見かけた者はねえかい」
「女?」
と、附近の舟の者たちは、顔を見あわせて、
「──知らねえなあ。ただ、いつも見かけねえウロ舟(物売り舟)がそこへ寄って、何か、していたように思ったが、そのうちに、いなくなってしまったなあ」
「それだ」
と、老先生は、きっぱりと諦めて、
「──もう追うのは愚だ。それよりは、何か手懸りになるような物でも落ちていないか」
「おや? ……老先生」
舟辰が、しゃがみ込んで眼を瞠ったので、老先生も、腰をかがめて、視線を寄せた。
一枚の紙片が、小舟の横に、貼りつけてあった。見ると、それは、老先生の眼ですら違う点を見出せないほどそッくりな字だ。わが子郁次郎の手蹟にそっくりな筆癖なのである。
父上よ。──
父上はなぜにかくまでわが子を苦しめ給うや。
わが子の愛を思し給わば、益なき妄動をやめ給え。年寄の冷水、夢、妄動をやめたまえ。
子たる余は、老父と闘うにしのびずといえども、老父、なお余を苦しめたまわば、余の悪霊はその時ごとに獄内をしのび抜けて、泣きつつも、闘わざるべからず。泣きつつも、闘わざるべからず。
老先生の眸は、いちどは、ぎょッとしたように竦んだけれど、すぐに、明朗に澄み返って、
「あはははは。まず、彼奴の悪智も、この程度ならば、底はおよそ測られる。──たわけた小細工」
と、はがし取って、細かに裂き破ったそれを、掌にまるめて、ぽんと、川へ投げ捨てた。
夜半でも、眼を開いて、じいっと、天井を見つめていることがある──
「ああ、お苦しいことだろうなあ」
そうして老先生の胸のうちを察しると、舟辰の二階に、枕をならべている耀蔵も、熱いものが、眼じりにながれて、思わず、夜具の襟で、顔を掩ってしまった。
たちまちである。──あれから二十日の日はすぎた。奉行所で誓った百日の期間は、確実に、あと八十日に詰って来たわけである。
鶉坂の住居にも戻らず、用達にも出ず、毎日、黙々と、何事かを調べ、何事かを考えている老先生だった。たまたま、手拭をぶら下げて、町の風呂に出かける時には、侠気に富んでいる舟辰が、主人を守る番犬のように、必ず一緒についていた。
その老先生が、めずらしく、
「加山、ちょっと出かけて来るよ」
と、気軽に、壁の編笠をはずして言ったので、加山耀蔵は、眼を瞠った。
「え、お出かけですか」
「む。日和もよいしな……」
「どちらへ」
「あてもないが、戸外でも歩いたら、またよい智慧も出ようというものだ」
梯子段を下りかけると、茶菓子の盆と土瓶を持って、上がって来た舟辰が、
「あ。老先生、今、お茶を入れて参りましたが」
「出先じゃ。帰ってから馳走になろう」
「では、手前がお供をいたしましょう」
「きょうは、よい」
「よかアありません」
「よいと申すに」
「いいえ、独りじゃ物騒です。あっしでいけねえなら、加山さんを連れておいでなさい」
「耀蔵はまだ、体の回復が充分でない。きょうは、独りで行くよ。心配せんでもいい」
「そんなことを言ったって、心配しずにゃいられません。老先生は平気のようだが、家の女房や若い者まで、どんなに、案じているかわかりません。──恐ろしい悪党の仲間が、夜となく昼となく老先生のお命を狙っているんだ。この頃は、野良犬みたいに、家の裏口から覗いたり、夜半に、真っ黒な人間が、物干しに屈みこんでいることも、幾度だか知れませんぜ」
「それやあしかたがないよ。わしの方から、挑戦したんじゃ。昔の塙隼人に返って十手をつかみ、あくまで闘うという宣言をしたからには、悪党どもも自衛上、わしを殺そうとするのは当りまえじゃ。そんな脅しに慄えあがっておっては、一日も、征悪の戦には立てん。……そんなどころの沙汰か。今に、もっと! もっと! 恐ろしい暴風が朝にも夜にも、わしの体にぶつかってくるじゃろうよ。だが、江漢は仆れはせん。決して仆れはせん。悪人ばらを勦滅して、人間の生きる地上に、明るい裁きの陽を見るまでは、わしは、血を吐いても、屈しはせん。──まあ見ておれ、百日のうちじゃ。いや、もうあと八十日か。日の経つのは早いなあ。何しろ、今日はちょっと思い立ったことがあるから行って来る」
と、笠をかぶって、戸外へ出た。
年は老っても、気もちは壮んである。それだけに、なかなか、人のいうことも肯かない。
もう四、五日で六月にはいる気候だ。町はすっかり夏めいている。
──老先生は、何処へ行く?
壮者のような迅い足で、彼はまもなく、白金台から目黒の行人坂を歩いていた。
「泰雲院──。ははあ、ここだな、俗に、紫陽花寺ともいう寺は」
門内にはいると、なるほど、境内にも、墓地にも、紫陽花の樹が多い。腺病質な藍いろの花が、月の朝みたいに咲いている。
老先生は、裏の墓地へはいった。
まだ新しい一基の墓の前に寄ると、老先生は、襟を正して、額いた。
「さても、お変りなされたお姿ではある。何と、お慰さめ申そうやら、何と、お詫びをいたそうやら、江漢の胸はただただいっぱいで、張り裂けるようじゃ……。五百之進殿! 定めし貴殿の霊はご無念であろう。現世に、心残りなことでござろう。したが、世に、永らえて生き老いることも、辛うござる」
老先生は、そう言って、大地に手をついた。はらはらと、落涙した。
さながら、生ける人にでも、言うように。
冷たい──黙せる石──。それは、花世の父、富武五百之進の墓標であった。
「郁次郎の身に秘密があったばかりに、ご息女の花世どのには、意外な苦労をかけ、貴殿には累を及ぼして、あたら自害をさせてしまった。──ああ! わしは、何という迂濶者だ! 伜の秘密を、未然に、処置してやらないばかりか、伜が、江戸表へ帰って、貴殿の温かい手に匿われていることも、貴殿が、そのために、腹を切って、果てたことも、当時は、夢にも知らずにおッた。面目ない! ここに会わせる顔もない。五百之進殿、勘弁してくだされい」
大地は、老人の、さんさんたる涙を吸った。
僧院の人のすさびであろうか、どこかで、ほそぼそと、尺八の音がながれた。
だが、老先生には、その音も耳に入らなかった。強い、自責の念に、肩をふるわして、燃えるような眼をあげて、
「わしは今日、誓いに来た! 五百之進どの、わしはここで誓う!」
無言の石に──無言の友に──こう、訴えるのだった。
「ご息女の花世どのの身は、身にかえても、この塙江漢がおひきうけ申す。同時に、郁次郎との許嫁の約束も、もちろん、変ることはない。時は遅れたれど、郁次郎が青天白日の身となり次第に。──オオそうだ、その吉日は百日目、今日からかぞえて八十日目の夜をもって、きっと、華燭の典をあげることにいたそう。悪人勦滅のその日を黄道吉日として、冤罪の獄舎から出た花聟と、悲嘆のどん底から救われた花嫁とを、この江漢が、一命にかけても、必ず、めでとう手を握らせてお見せする。──それが、貴殿への、何よりのお詫びだ。何よりの供養であろうと思う」
と、思わず、嗚咽を嚥んで、しばらく瞑目してから──
「もしまた、不幸にも、百日の期間のうちに、それの成らざる時は、ここへ来て、老腹を掻ッ切り、江漢も、泉下に参って謝罪をする」
と、自分の吐くことばに疲れるほど、老先生は、真摯であった。言い終って、かすかに、肩で息をついていた。
──すると、何者か、墓石の蔭で、わっと、泣き伏した声がした。
「や? ……」
眼を瞠ると、白紫陽花の戦慄くような女の姿が、ちらと、そこの蔭に見えた。
「あっ! 花世じゃないか」
叫ぶや否、老先生は、跳びつくように、虚無僧すがたの彼女のそばへ。
そして、痛いほど、手をつかんだ。
「五百之進どのの引合せか。どうしてこんな所におったぞ。これ花世! 花世!」
「おお、お舅父様」
「なに、お舅父様と? ……ああお前はもう、わしをお舅父様と呼ぶほど親身な気でいてくれるのか。それでは今、ここで五百之進どのに誓ったわしのことばも、そなたは、残らず聞いていたな」
「……思わず泣いてしまいました。ご恩は死んでも忘れません」
「何を言うのだ。親子の間で。……それよりも、そなたは、どうして、ここへ来たのか。まさか、亡き五百之進殿の墓守をしていたわけではあるまいが」
「はい、実は、この紫陽花寺は、富武家も、檀家の一家でござります」
「ム。この縁故は分っておる」
「で。方丈様へお縋りして、ずっと、あれ以来、身を匿っていただいておりましたのです」
「アア。それではいくら尋ねても、行方が知れんわけだ。何の罪も、後ろ暗いところもないのに、御身はなんで、身を隠してなどおるのか。なぜ早く、鶉坂のわしの所へは、尋ねて来てくれんのじゃ」
「参りたいのは山々でしたが、その前に、郁次郎様から、これだけは、父にいうてくれるなと、固く、口止めをなされていたこともありますし……」
「前代未聞の曲者だ。そもそも、こんどの間違いは、郁次郎がわしに包んでいるその秘密一つから起っておるに相違ない」
「それに、私の身には、絶えず怖ろしい人間がつき纏っておりますので、昼間も、油断をして歩けませぬ」
「そうか、悪魔は、そなたまでを、狙けているか」
「今も、方丈様が、尺八を聞かせて欲しいと仰っしゃるので、うつつに、吹いておりますと、覆面をした妙な男が、庫裡の横をうろついていたというので、そっと、墓地の中へ、抜け出してきたのでございます」
「覆面の男?」
「寺男のいうには、若い、浪人ふうの男だそうです」
「それが、悪魔の首領だ」
「えっ、悪人のかしらですか」
「しかし、案じることはない。おそらく、彼は、この江漢のあとを尾けて来たに違いない」
女である。花世は、そう訊くと、さすがに、唇のいろを、雨に褪せた紫陽花のように、失った。
「……どうしましょう。寺には、年老った方丈様と、小坊主ばかりで、力の強い寺男は、風邪をひいて、臥せっているし……」
「案じるな。老いたりといえど、塙江漢、対手が、あらわに姿を見せて参れば、方円流二丈の捕縄は、この袂から走って飛ぶ──。まさか、悪魔の首領も、そんな愚か者ではあるまい。ただ、油断をして、彼に乗じられぬよう、隙を見せぬことが第一じゃ」
「はい……私も、お舅父様のおそばにこうしていれば、何となく、気が強うござります」
「ム。大船に乗った気で、安心しているがよい」
と、老先生は、可憐な、未来のわが子の嫁を、愛しそうに、見まもって、
「時に、花世」
「はい」
「そなたは、わしに、渡さなければならん物を持っている。ここで会ったのはいい折だ。わしにくれい」
「ええ、何でしょう?」
花世は、首をかしげた。
老先生は、微笑して、
「鍵じゃよ」
「え、鍵。……どこの鍵でございますか」
「鍵といっても、ことばの鍵だ。たった、一言か、二言で済むことだ。おまえはわしに、それを渡す義務があろう」
「はい」
「では、訊くが……」
「何なりと、お訊き下さいませ」
「郁次郎は、長崎表に遊学中、何か、若気の過ちで、わしに言えぬ秘密を抱いて江戸へ帰って来たのではないか。……それを、五百之進殿とそなただけには、打ち明けたものと考えるが、どうだな」
花世の顔は、紙のように白くなった。ほつれ毛が、顫いた。
「い、いいえ……」
「それ、それ、それがいけない。郁次郎を、未来の良人と思って、庇ってくれるのは、うれしい人情だが、早い話が、わしに苦労をかけまいとして、すべてを、秘密にしていたために、こんな大事が湧き上がったのじゃ。間違いはそこからだ。禍根は、毛ほどな食い違いから起る。こうなった以上、何事も、包み隠しは、厳禁じゃ。話してくれい。渡してくれい。──鍵を。ことばを」
詰問るようでも、老先生のことばの底には、よい舅父らしい、優しさ、温かさが、あふれている。
花世は、その優しいことばに、かえって、激しい感情を揺たぶられたように、わっと、老先生の膝に泣きすがった。
「す! すみません! ……お舅父様! もう何もかも申しあげてしまいます。ですけれど、今は、心が取りみだれて、何からお話してよいやら分りませぬ。あとで、心静かに、書き認めてお手元までさし出しまする」
「ム。それでよい。それで結構だよ。……ところで、ついでのことじゃ。もう一つ、わしの問いに答えてくれるか」
「はい、どんなことでも、もう決して包み隠しはいたしません」
「おう、よい嫁じゃ」
と、老先生は、眼の中へでも入れてしまいたいような愛撫を眸の奥にたたえながら、彼女の左の手首をかろく取り上げて、
「ほかではないが、そなたのこの爪だ。薬指の真っ黒なこの爪の色だ……。これはいったい、生れつきか、それとも、幼い時に怪我でもしてこうなったのか。婦女子の爪紅をさしたのはいくらも見かけるが、こんな烏の嘴みたいな黒い爪は見たことがない。何ぞ仔細があるのであろう、それを、話してもらいたい」
「…………」
花世は、羞恥にわななきながら、じっと、その手を、そのままにしていた。白い頸を、折れた百合みたいに、垂れていた。
老先生には、彼女の心臓の音が、ありありと聞えた。
「……どうじゃな、花世」
「…………」
「もし、これも、口で言いにくければ、前の問題といっしょに、書いて見せてくれてもよいが」
「こればかりは、死んだ実父の五百之進も、胸を痛めていたことでござりますが、遅からず、一度はお打ち明けせねばならぬこと。あとで、詳しく書いておきまする」
「これで、だんだんに、夜明けが近づいてくるような気がする」
「私の、こんな、恥しい爪の事などが、何か、事件のお役に立つのでございますか」
「立つどころか、秘密を開く鍵になる。その代りに、気をつけぬと、その爪のために、一命を縮めることもあろう」
「まあ? ……」
と花世は、不思議そうに、自分の薬指を握ってみた。生みつけられた宿命の指を、改めて、見つめるのだった。
「たしか、その黒い爪を持つ女が、そなたのほかにも、この世に、幾人かおるのではないか」
と、老先生は、呟くように言った。
「はい、私を入れて、四人はいるはずでございます」
「ウム、とにかく早速、今訊ねた二つの問の答えを、書いてくれんか」
「では、ちょっと、お待ち下さいませ」
と、花世は、立ち上がって、少し丘になっているそこの墓地から、寺の方丈の方へ向って、小走りに、駈け降りて行った。
と──その後ろ姿を見送っていた老先生の眼のさきを、きらりと、星のような、白い光が、横切って行った。
「あっ、小柄だ!」
老先生は、絶叫した。
とたんに、その鋭利な手裡剣の飛んで行った墓地の下で、キャッと、人間の最期を告げる異様な絶鳴が、静寂を破った。
ざらざら……と、老先生の足もとへ、崖の赭土がくずれて来た。
はっと、うしろを振り顧ると、紫陽花の繁茂っている崖の中腹に、黒い、覆面の魔物が、肩先を見せて、逃げかけた。
おお! 悪魔の首領。
「待てっ」
老先生は、叫んだ。
紫陽花の花の中から、悪魔の眼は、ちらと、こっちを睨んだが、笑い捨てるように、かすかな表情をうごかしたと思うと、また一本! 老先生の眉間をめがけて、小柄を投げるや否、ざざざッと、崖の上へ、走り上がった。
「おのれ!」
と、塙江漢。
その一喝こそ、塙隼人の壮年時代から、鍛えぬかれたところである。「悪の仲間」をして戦慄せしめた、威力と正義の宣言である。
だッと、走り寄って、崖の下へ──。
同時に、
「ええいッ」
と、投げ上げた二丈の捕縄は、崖の上へ這い上がりかけた曲者の首すじへ絡みついた。旋回した分銅は、彼の首から、胴なかを、蛇のように巻いた。
が──曲者は慌てない。
太刀を抜きざまに、捕縄を斬り払った。そして、犬の如く跳躍して、附近の森のなかへ、姿を消してしまった。
いちどは、なおもと、追い足を飛ばしかけたが、老先生は花世の方が、気がかりでならなかった。
──キャッと、耳を劈いたあの絶叫、あの人間の断末の知らせ。
「しまった!」
老先生は、地だんだを踏んだ。──今。彼女の一命に、もしものことでもある場合には、永遠の闇に、この事件の心臓は活動を停止してしまうほかないのである。
「──ちぇッ、先手を打たれた」
と、老先生が、慌てたのも、決して無理ではないのである。事件の鍵とする「二つの問」は、まだ、花世の口から語られてないのであるから。
しかし、僥倖にも、彼女は助かった。彼女はもう寺の一室へはいって、一心に、「二つの問」の答えを書き綴っていたのである。
そのかわりに、墓地の下の日蔭で、手づかみで、めんつうの残飯を食べていた一人の女乞食は、その背に、一本の小柄を突きとおされて、血を吐いて、死んでいた。
「やッ、親方。人が死んでる!」
「また死人か」
「女乞食だ」
「おや、たった今、殺されたばかりのようじゃねえか」
「山門をはいってくる時に、ギャッと、いやな声が聞えたと思ったら……これだ」
「でも、老先生でなくってよかった」
と、舟辰は、ほっとしたように、胸をなでおろした。連れているのは、店の若い者──船頭の千吉だった。
うしろから、跫音がした。
不安な焦燥をもった老先生の姿である。
「おう、辰じゃないか、何しに来た」
そう言いながらも、死骸をのぞいて、ほっと安心したように、
「あ。花世じゃなかったか……」
と、呟いた。
舟辰は、すぐに、
「老先生、たいへんです。すぐに、来ておくんなさい」
と、手を引っ張った。
「どこへ」
「深川まで」
「深川へ。……まあ落着いて話せ。どうしたんじゃ」
「ゆうべ、この千吉の妹のやつが、殺されたんです。いつぞやお話し申し上げた、柳橋から雛妓に出ていたお半という美い娘です」
「なに、お半が殺された!」
と、老先生は、さながら、自分の子でも失ったように愕然として──
「あれほどわしが、固く、注意しておいたのに」
「……へい、どうも、何とも面目のねえことで」
と、お半の兄の千吉は、取り返しのつかない悲嘆と悔いに、顔を曇らせながら、
「あっしの妹のお半のことについて、先日、くわしく身の上ばなしを申し上げたところ、ことに依ると、お前の妹は、人に殺される惧れがあるから、気をつけいと、老先生が仰っしゃって下さいました。……それを、あっしゃ、実は肚ン中で、嗤っていたんです。ところが、どうでしょう、あれからまだ半月と、経たねえうちに、この災禍だ」
と、拳で、眼をこすッて、
「妹のやつが可哀そうで……。あっしゃ、死骸を一目見たとたんに、意地にも我慢にも、泣かずにゃいられませんでした。元はといえば、老先生のご注意を、うわの空で聞いていた罰ですが、もうこの上は、しかたがありません。どうか、お力をもって、妹の敵をとってやって下さいまし」
「よし、すぐに、行ってやろう」
「有難うございます」
と、舟辰と共に、そう言って、
「実は、老先生の出先も心配になるので、店の者を、後から尾けさしておいたので、此寺と分りましたから、すぐに、駕を持って参りました」
「あ、そうか、深川の何処だな。その、兇行のあった場所は」
「櫓下の河岸ッぷちです。──ゆうべ柳橋の五明庵というお茶屋から、妹を招んだ侍があったそうです」
「む」
「上品な、どこかの、若殿様でもあるような美い男で、お忍び遊びという寸法らしく、黒縮緬の頭巾をかぶったまま、酒をのんでいたというんです」
「……ははあ……」
老先生の眼が、くるりと、うごいた。
「で? ……それから」
「あっさりと、遊んでから、屋根船を雇って、妹を連れて行きましたが、五明庵でも、抱え主のお紺さんも、安心して手放したほど、その客は、金ぎれもよし、人品もよかったんだそうで」
「そいつが食わせものだ」
と、老先生は、千吉のことばを切って、
「──分った。あとは現場に当ってみよう」
「では、すぐにお供を」
「イヤ、ちっと待っておくれ」
と、老先生は方丈の窓から、寺の室へ、
「花世、花世」
と、低い声で、呼んだ。
「はい」
と、花世の顔が、すぐに、そこの窓に見えた。
「また一事件もちあがった。わしはすぐに、行かねばならん。最前、頼んだものは、まだ書けぬか」
「書いておきました」
「オオ、これか」
と、窓の間から受け取って、
「舟辰」
「へい」
「千吉にも、申しつけることがある。今日より、向う八十日間のあいだ、この花世どのの一身を、おまえ達ふたりに預けるぞ。命がけで、間違いのないように、守ってくれい」
「…………」
二人は、返辞を忘れていた。
「どうじゃ」
「…………」
「嫌か」
「……不思議だあ」
と、呻くように、二人が、同時に言った。
「なにが」
と、老先生は、彼等の顔つきが、変なのに気がついた。
「なにが、そんなに、不審なのか」
「でも、そのお嬢様は、いつぞや品川沖でふん捕まえて、また、悪党どもに奪り返された、あの玉枝っていう、凄い女と、瓜二つじゃございませんか」
「似ているというのか」
「誰が見たって、別人とは思いませんぜ」
「いや、あれはまったく、べつな女だ。そのからくりも、化けの皮も、やがて近いうちに、江漢が曝いてみせる。──とにかくこの婦人の一命は、何ものより大切なのだ。どこか、無事な所へ移して、おまえ達で保護をしてくれい。そこに、心配があっては、この江漢も、思うさまに、働き難い」
「よろしゅうございます」
と、舟辰は、もちまえの侠気を出して、ひきうけた。
「きっと、あっしが、お嬢様をお守り申しておりますから、老先生には、そんなご心配なく、どうか存分に、腕をふるっておくんなさいまし」
「よし、それでわしも、晴々と、征悪の戦に立てる。今日から百日の期限の日まで、そちの家へ、顔を見せぬかも知れぬ。だが、江漢は仆れても仆れても、必ず起つ! 必ずどこかに生きている! では、花世の身を頼んだぞ、くれぐれも」
山門の外には、駕が待っていた。
老先生の体は、宙を飛ぶように、揺られていた。──その駕の中で、彼は、花世が細々と書いた「二つの問」の答えを、繰り返して、読み終った後。
「む!」
と、大きく、独りで頷いた。
眼をふさいで、腕を拱む。
彼の胸には、紛雑した事件が、もつれ糸を整理するように、順々に、解けて行った。切れたところは結び、解けないところは、切り離して考えてみた。
が──どうしても、腑に落ちない点が一つあった。疑問の烏爪の女は、花世のことばによると、この世に、四人あると言ったけれど、江漢が指を折ってみると、どうしても、五人になる──
第一には、殺された、女笛師の雪女である。
第二には、江之島神社の巫女である。
第三には、つい最近、舟辰の口からふと聞き出した船頭の千吉の妹で──柳橋の雛妓のお半。
──それと、花世。
これだけならば話は合うが、先日、舟辰と千吉が目撃したところによると、花世と生写しの怪美人玉枝という女にも、同じような黒い爪があると聞いた。すると──どうしても、五人になる。四人に、一人余る。
「はて? ……」
と、老先生は、もういちど、花世の「二つの答」を、読みなおして、考えこんだ。
どんと、駕が弾んだ。
同時に、ぎしっと、地上に感じた。
「──旦那、櫓下の現場です」
と、駕屋が、タレを刎ねた。老先生の眼には、すぐ、無数な人間の足許が映った。
無数な足の向うには、川の水が見えた。
喧騒が耳を衝つ。弥次馬が、追われる。
そして、足の数が減ると、砂利場の地上に、麻の葉絞りの扱帯で首を縊め殺されている十五か、六ごろの、痛々しい、雛妓の死骸が、うごかない酷さと、冷たい美しさを持って、老先生の眸のなかへ、反射的に、飛びこんで来た。
「これは、塙先生ではございませぬか」
駕の外で、いんぎんにこう言った人物がある。
老先生は、すぐ、その誰人であるかを、声で知って、
「やあ、羅門氏か。──お役目とはいえ、お早いことで」
と、駕から立った。
「──拙者も、今、駈けつけたばかりです」
羅門塔十郎は、検死役人の手帳をのぞきこみながら、
「また、同じ策に、してやられました」
と、かろく、舌打ちを鳴らした。
「同じ策とは」
「ごらん下さい」
と、老先生を、眼で誘って、お半の死骸のそばへ近づいた。──附近を追われた弥次馬たちは、遠くから、
(塙先生だ。鶉坂の先生だ)
と、囁き合っていた。
羅門は、腰をかがめて、友禅の袂の下に隠されてあるお半の左の手を示して、
「また……小指が斬り取られています」
「なるほど」
老先生は、予期していたことのように、
「これで三人めじゃ」
「そうです。……例に依って、犯蹟には、何の証拠も残っておりません」
「殺る方も、だんだん熟練して来るとみえる」
「大きに」
と、羅門も、苦笑して、
「手口は、まったく、同じです」
「むろん、巫女殺し、笛師殺しと、同一人であろう。──しかし、これを見ても分るのは、前の犯罪は、郁次郎の所為でないということだ。現在、奉行所の獄中に囚われている郁次郎が、雛妓のお半を、何しに、殺害するいわれがあろう」
「まあ、表面は、そうも見えます……」
羅門は、相変らず、冷静な笑みをもって、老先生のことばを聞き流していた。
「ちょっと、素人考えで申すと、いかにも、獄中にいる郁次郎が、世間へ出て、人を殺すはずはないと思われるが、事実は、たいへんに違います。……あの奉行所の牢獄などは、やり方一つで、いくらも、外部との連絡がとれる。また、金次第では、身分の軽い獄吏などを買収する方法もある。その辺も今調べ中です。ことに、老先生に対して、百日のご猶予をいたした後は、郁次郎の身も、非常に、寛大にしてありますから、手段に依っては、一夜ぐらい、外部へも出られないことはないのです」
「相変らず、貴公も、自信がつよいな」
「いや、自信のつよ過ぎるのは、老先生でしょう」
「いまだに、郁次郎を犯人と見ているなど、奇抜じゃ」
「不肖ですが、羅門塔十郎は、まだこうと睨んだ事件を、一度も、外したことはありません」
「まあ、やってくれ」
「やります! どこまでも、上方流で。──老先生の江戸流のお手なみも、よそながら、拝見いたしています」
「は、は、は。あぶない」
と、老先生は彼の語気を軽く避けて──
「また、議論になるのは、お互に、よそう。何事も実行だ。今日は、検死の立会いだけをすればよいんじゃ。……どれ」
と、老先生は、独りで、犯行の手口、時刻、地理、そのほかを、ずっと、胸にたたみこんで、一足先に、現場から退いた。
そして、相川橋の袂まで来ると──
「老先生」と、追いかけて来るものがある。
「や。加山か。お前も来ておったのか」
「弥次馬のなかに隠れていましたが、奉行所の旧友たちが多勢来ておるので、つい、顔を出さずに、見ておりました」
「よい所で会った。おまえは、これからすぐに、本石町の為替屋、佐渡屋和平の店へ飛んで行ってくれんか」
「承知しました。そして?」
「そして、こう……」
と、老先生は、彼の耳に口をよせて、何事かを、低声で、さずけた。
「よいか」
「分りました」
「こんどが、恐らく、事件の峠だろう。ひとつ、働いてくれい」
「死身になって、やってみます」
「すべて、わしの言った手順どおりにな」
「心得ました」
まだどこか、体の傷手が、癒え切っていないような彼ではあったが、もうその影は、夕闇の往来へ、紛れこんでいた。
その晩──
本石町の佐渡屋の店へ入って行った彼は、夜が更けても、そこから帰った様子がなかった。翌日も、出て来なかった。彼が奥へはいる時に脱いだ草履は、店の者の手に紙包みにされて、下駄箱に隠されてあった。
そうして、櫓下のお半殺しが、江戸の町に喧伝されて、まだ噂も消えない四日目の黄昏れ頃である。
「こんばんは……」
と、やさしい女の声で、灯がついたばかりの店の蔀障子が開いた。
「誰かいないんですか」
女は、土間にはいって、帳場を見まわした。
帳場には、生憎と、誰もいない。
ただ、暖簾をたたんで、店の地袋へ、仕舞いこんでいた小僧が、金行燈の明りに、振り顧って、
「あ……」
と、何かに、恟っとしたように、女を見た。
「誰も、店の衆は、いないのですか」
「へい、おります」
その声までが、妙に、ふるえていた。
「呼んでくださいな、分る人を。──この小さな荷物を一つ、京都へ送って貰いたいんですが」
と、女は、胸にかかえている小さな小箱を示して言った。
「──へ。ただ今」
お掛けください、という世辞も忘れて、小僧は、奥へとびこんで行った。と、すぐに、如才のない、中年の番頭が、
「どうも、お待たせいたしまして、とんだ失礼を。……さ、お敷き下さいませ。オイ、幸どん、まだ、お茶が出ておりませんよ」
手をたたいて、奥と客とへ、等分にしゃべりながら、座ぶとんをすすめる、茶を出す、世辞を撒く。
誰がふんでも、一人前の、商人気質である。──だが、それは巧妙に変装した老先生股肱の同心、加山耀蔵だった。
「ええと……お嬢様」
耀蔵は、もみ手をしながら、畏る畏るのぞき上げて、
「ただ今、承りますと、何ぞ、お荷物をお送りになるとか、為替のご用だとか、伺いましたが」
「はい、いつもの所へ」
と、女は、頑丈な二重箱を打ちつけた上に、渋紙と、麻縄をかけた小荷物を、そこへ出した。
「……送って戴きたいんですが」
「へい、畏りました。ええと、いつもの所と申しますと?」
「毎度、あちらから、金子を為替で送ってもらう……」
「あ、そうそう、つい、お見それいたしまして、只今、台帳を調べまするが、先様のご姓名は、なんと仰っしゃいましたでしょうか」
「山城国、四明ヶ岳」
「あ、山城で。……では台帳がちがいました」
と、幾冊もあるうちから、一冊とって、ぱらぱらと、風を起てる間に、女は、
「前黄門、松平龍山公のご隠居所、含月荘のご家老、大村郷左衛門様へお送りいたすのです。粗相のないように、扱ってください」
と、誇らしく、ひと息に言った。
そのとおりを、送り状に、さらさらと書いて、
「これでございますな」
と、耀蔵は、女のまえの、小箱へ手をのばしかけた。
「あ、お待ち!」
と、女の眼は、急に、不安にみちて、彼の手を抑えた。
「待っておくれ。大事な、大事な、この小箱の中の品物……」
と、女は、自分の腕でも切って渡すように、その小箱を、愛惜の手で抑えたまま、
「粗略に扱われては困るのです。──よいかえ」
と、幾度も念を押した。
うまうまと、為替屋佐渡平の店に、手代に化けすましている加山耀蔵は、
「へい、それはもう」
と、軽くうけて、
「──大丈夫でございます。当家の暖簾をご信用くださいまし」
と、言った。
が──女はまだ、疑い深く、
「では、私の見ている前で、二重箱にして、荷造りして貰いましょうか」
「お易いことでございます。──これよ、誰かここへ来て、荷箱を造っておくれ」
耀蔵が手をたたくと、ほかの者が、彼女の見ている前で、外箱を造り、二重に入れて、桐油紙づつみに縄をかけた。
それへ──
山城国四明ヶ岳含月荘御内、大村郷左衛門様
こう書いた送り状をベタリと糊で貼った。
「これで宜しゅうございましょうか。これよりはもう厳重にいたしようがありませんが」
「結構です」
と、女は初めて、安心したように頷いて、受取書と為替料とを引き換えに出て行った。
女の姿が、店の外へ消えるとすぐ、
「しめた」
と、耀蔵は、それを掴んで、先刻から店土蔵の蔭に、首尾いかにと、息をころして覗いていた主人の佐渡平の前へ、駈けて来た。
「これだ! 佐渡平」
「ほう、その小箱で」
「うまく奪ってやった。もうしめたものだ。この中には、櫓下で殺された柳橋のお半の小指がはいっているのだ」
「どうしてそれが、前から、お分りでしたか」
「老先生のご明察、おれにも分らぬ。あの玉枝が、小指のはいった小箱を持って、この店へ、荷為替を頼みに来るということを、ちゃんと、見抜いて俺を差向けられたんだから、まるで、神のようだ」
「あなた様の仰っしゃる老先生というのは、鶉坂の塙様のことで? ──あの白い髯を胸に垂れた品格のよいご老人のことで」
「そうだ」
「そのお方ならば、数日前に、店へお越しになって、殺された手前の弟忠三郎と、女笛師のお雪との関係や、また、金為替や荷為替などの台帳を、事細かに取調べて、お帰りになったことがございます」
「ほう、それでは老先生には、いつのまにか、玉枝がこの店から金や荷の送り受けをしていたことを調べ上げていたのか。──オオ、ついしゃべりこんでしまったが、俺は、こうしてはおられない。佐渡平、ではやがて近いうちに、貴様の弟忠三郎の仇もとってやるぞ」
たちまち、前垂れをはずし、縞の着物をかなぐり捨てると、そこにあった、ぼんてん帯に、仲間法被、真鍮こじりをうしろに差し込んで、
「一走り、行って来る」
と、小箱をふところに、裏口から飛び出した。
表通りへ、駈け出しながら、頬冠りをする。
かねての手筈とみえて、町角の辻には、店の者が立っていた。
黙って、右を指す。
その先の辻へ行くと、やはり佐渡平の店の者が立っていた。こんどは、左を指している。
すると、たった今、店から出て行ったばかりの怪美人玉枝の姿が、つい、半町ばかり先を小急ぎに戻って行く姿が見えた。
「見ろ、今夜こそは」
仲間に早変りした耀蔵は、軒下を小走りに尾けて行きながら、心の裡で叫んだ。
「──きっと、巣を、突き止めてやるぞ! 彼奴らの巣を!」と。
だが、賢い、すばやい、彼女の六感は、たちまち背後の不安な空気を感じたらしかった。数寄屋橋の袂まで来ると、
「駕屋さん──」
と、白い手をあげた。
「あっ」
と、耀蔵があわてる間に、彼女をのせた町駕は、山の手の方へ向って、もう風のように駈けていた。
「駕屋、駕屋」
と、耀蔵もすぐに、手を振ったけれど、風態の悪い仲間の呼び声に、おうっと、すぐに応じて来る駕屋はない。
「面倒だ」
耀蔵は、駈け出した。
足と足である。向うは駕籠、こっちは空身である。
宙を飛んで、後を尾けて行った。
──と先の駕は、外濠に添い、増上寺の山内に隠れ、白金台を一気に駈けて、やがて、目黒の行人坂の途中、紫陽花寺の門前で止まったと思うと、女の影は、駕を脱けて、ひらりっと、山門の中へ隠れ込んでしまった。
「さては、悪人どもの巣は、この寺内か」
と、耀蔵もつづいて、山門を潜った。
庫裡の窓に、明りが映している。彼は、その下へ忍び寄った。
途端である。
「この野郎っ」
ばらばらッと、左右から躍り出した若者が、有無を言わさず、彼を組み伏せて、
「親方! 怪しい奴を捕まえたッ。はやく提灯を貸してくれ」
と、呶鳴った。
「なに、怪しい奴?」
すぐに、一人の男が提灯を持って来て、彼の顔へかざした。
「やっ? 加山さんじゃありませんか。野郎ども、慌てるな。これや耀蔵様だ」
「えっ」
と、一同も驚いたが、耀蔵もびッくりした。
「オオ、お前は舟辰じゃないか。どうしたんだ、こんな所へ」
「あっしは、老先生に、花世様の守護をいいつけられて、此寺に見張をしているんですが、旦那こそ、どうしたんです」
「俺は今、怪美人の玉枝を此寺まで追いつめて参ったんだ」
「だって、誰も、この寺へはいって来た者はありませんぜ」
「イヤ、たしかに今、駕から降りて、この寺内へ駈け込んだ筈だ」
「筈だと言っても、ねえものはしかたがない……」
「そこの窓に、ちらと見えた女の影は?」
その声を聞くと、方丈の窓を、さらりと開けて──
「加山耀蔵様ではありませんか。まことに、しばらくでございました」
と、麗しい女の声がした。
はっとして振り仰ぐと、富武五百之進の娘の花世である。あの怪美人の玉枝と、瓜二つの花世である。
またしても耀蔵は、妙な疑惑に囚われて、茫然としてしまったが、舟辰や、他の若者たちの話を聞くと、花世は、昨日も今日も、一歩も寺から出たことはない。ああやって、方丈の窓の下で、机に倚ったままだというのである。
すると、玉枝は?
耀蔵は狼狽した。
「女狐め! また一杯食わせたか」
いいながら、山門の方へ、駈け戻ろうとした。
すると──江漢老人の声だった。
「加山。もう駄目じゃよ」
「あっ、老先生、いつの間に」
「玉枝は、山門の側の、楠の木蔭に隠れていて、お前がまっしぐらに境内に駈けこむと、風のように、自分のほんとの塒へ、飛んで帰ってしまったんじゃ」
「や、や。そんな次第でございましたか」
「だが、慌てるには及ばん。どうしたかと、只今、佐渡平の店へ寄ってみたところ、云々と聞いて、まずよしと、その足でこの寺におる花世の安否を見舞に来たのじゃ。花世も、今宵かぎり、ほかへ移すことになっておるのでな」
「残念です。どうも、不覚をいたしました」
「なに、よいわ」
と、老先生は、決して部下の罪を深く咎めたことがない。
「それよりは、例の小箱は」
「首尾よく、奪り上げました」
「うム、上出来上出来」
と、受け取って、舟辰の若い者、千吉へ、
「これと、同じような荷を、すぐに、もう一つ作ってくれ」
「へい」
と、千吉は振ってみて、
「老先生、何がはいっているんですか」
「殺されたお前の妹──お半の指がはいっておる」
「えっ、妹の指が」
「だが、今開けてはならん」
「へ、へい……」
と、千吉の手は、怪しくふるえていた。
すぐ同じような小箱を造り、油紙をかけ、縄で括げて、佐渡平の店から持って来た印つきの送り状へ、同じ宛名を書いて貼りつけた。
「加山」
──老先生は、彼に、その、偽箱の方を授けて、沈痛に、
「では、かねてお前に詳しく言いふくめてある通り、これを持って、山城国の含月荘へ」
「はっ」
「急いで行ってくれ」
「心得ましてござります」
「そちの吉報が、一期の浮沈だ。──まことに、今日はもう六月二日。百日の期間までには、後七十三日と相成った。一日とてゆるがせにはならん、道中も、急いで頼むぞ」
「必ず、一刻もはやく、吉報をつかんで立ち帰りまする」
「オオ、早く発て」
「ではご一同、ご免を」
「あっ、待て加山」
「はっ」
「その仲間態ではいかん。早飛脚の支度を」
「それは、途中で、脱ぎ代えます」
「ウム、そうか。まだある、路銀が不足じゃろう、それから、わしのこの印籠には、種々と薬がはいっておる。体を大事に」
と、老先生の温か味。
押しいただいて、
「では、ご機嫌よく。──しばらくのお別れを」
と、加山耀蔵は、その夜、その場から、目黒行人坂を振出しに、大山街道から東海道へ。
──そしてやがて、白雲つつむ秘密の松平家、山城の国四明ヶ岳の含月荘へと、急ぎに急いで行ったのであった。
彼がとった道筋は、この前、玉枝が自身で、秘密の小筥を抱えて、含月荘を訪れたあの坂本道と、変らなかった。
途中で、姿はすっかり、飛脚屋に変装して、例の小箱を、棒の端に括り付け、手拭を巻いて、肩に担いでいる。
色の褪せた紺の脚絆、陽に焦けた、皮膚は黒いし、髪は埃にまみれている。誰が、どう見ても、飛脚屋である。江戸の同心と観破られッこはない。
ただ、まずいのは、足に、草鞋摺れの水腫ができて、それが痛むことだった。何しろ、こっちへ来る前は、病臥の床に横たわって、寝癖のついていた足なので、たちまち傷めてしまったのが、道中十六日の間によけいにひどくなっていた。
そのために、着く日も、予定よりは、四、五日遅れてしまった。出立の際、老先生に言われた言葉を思い出して、彼は、一日の日も、一刻の時間も、黄金を費うように惜しんで歩いた。
やっと辿り着いた四明ヶ岳──そこの中腹にある山荘の黒門の前に、彼が立ったのは、ちょうど六月の十七日。
「飛脚でございます。江戸表から参りました急飛脚の者で──」
門内へ向って、呶鳴ると、
「飛脚か」
と、門番ではない、厳めしい山侍が、柵の間から覗いた。
「へい、荷為替です」
「書状ではないのか」
「送り状に、ご直手とございます。宛名のお方に、じかにお渡し致して、ご印判を頂戴いたします」
「誰だ。宛名人は」
「大村郷左衛門様とござります」
「ご家老か。──品物は」
「三寸角ばかりの小箱で」
「問屋は」
「為替元は江戸本石町佐渡屋和平」
「待っておれ」
山侍は引っこんだ。
しばらくすると、出てきて、
「飛脚屋、はいれ。──脇差は、門番小屋へ預けて、拙者のあとに尾いて来い」
檜並木の奥まった玄関である。そこを、横へ廻ると、書院の縁先が見える。
「おう、江戸の飛脚屋か。遠路大儀であったぞ。その品の着くのを待ちかねていたところじゃ」
と、前黄門亀山公の家老、大村郷左衛門は、そこにいて、うしろにいる子息の主水へ向って、
「これ、早速あれを受け取って、直手とある送り状へ、わしの印章を捺してつかわせ」
「父上、また小箱が来たんですか」
「よけいなことを申さずともよい。はやく捺してやらんか」
「飛脚屋、ここへ持って来い」
「へい」
と、耀蔵が、何気なく縁の側まで寄って、それを主水の手へ渡すと同時だった。
「廻し者め!」
床下から、ふいに、伸びてきた手が、彼の脚をつかんだ。うしろに立っていた山侍は、同時に、彼の襟がみを掴んでいた。
「あっ! ……な、なんとなされます」
「黙れッ」
大村郷左衛門は、ぬッくと立って、怖ろしい眼で彼を睨めつけた。
「其方は塙江漢とやらいう老いぼれの無役者に加担いたして、畏れ多くも、前黄門龍山公のご隠居所を窺いに来た犬であろう」
「やっ? ……」
耀蔵は、あまりのことに、口がきけなかった。──どうして、こう早く、自分が着かないうちに、自分の素性が観破されてしまったのだろう?
「それっ、縛めろ!」
悠々と、郷左衛門が、第二の喝声を吐いた時には、もう山扮装の侍たちが、蟻のように、彼の周囲を取りかこんでいた。
「チェッ、残念」
彼は、地だんだを踏んだ。
「ばか!」
「たわけ!」
「間抜けめ」
あらゆる罵詈と乱打が、彼を、地上に蹴ころがした。それを、大村父子は心地よげに見下ろしながら、
「わははは。智恵なし同心め、自分の来るよりもはやく、江戸の方から、種明かしの密書が、宿場次ぎの早飛脚で、飛んで来ているとも知らずに、化け澄ましてきたのは笑止千万だ。──それっ、霧谷の岩牢へ、こやつを抛りこめ」
山扮装の侍の群は、耀蔵のからだを引っ担いで、四明ヶ岳と如意ヶ岳のあいだにある、谷間へ降りて行った。
俗に、霧谷とよぶくらい、そこは、二六時中、霧の霽れたことのない陰湿な沢だった。
ばり、ばり、と枯木や、落葉を踏みしめて来た谷間の岩窟──陽あたらずの岩壁──魔の口のような真っ暗な岩屋牢。
耀蔵は、その中へ、抛り込まれた。
暗い! 夜よりも暗い! 外は絶えずぼやっと霧が煙っている。
「番人なしで大丈夫か」
侍たちは、しばらく、外で騒めいていた。
「なに、この厳重な鉄の柵が破れるものか。──それに、見張は、如意ヶ岳の山の主が、ちょうど、真向うから見張っているんだ」
「ウム、炭焼の作兵衛か。なるほど、あの炭焼小屋からは真正面だ」
「しかし、幾日で死ぬだろう」
「まあ、十日も保つか」
「水があるから、案外長く生きてるぞ」
「それにしても、二十日か、二十四、五日もたてば、この湿気だけでも、余病を起してくたばるに違いない」
「では、三十日目に来てみるか」
「その頃には、白骨になっているかも知れん」
そんなことを言い合って、ぞろぞろと、立ち去ってしまった。
──話の様子では、明らかに、自分を餓死させるつもりであることが、耀蔵にも分った。
案の如く、それっ切り、訪れる人間はなかった。絶対に、一粒の米も運ばれなかった。無論、岩窟の中には、何ら口に入れるような物はない。
ただ、滴々と、からだを打つものは、岩壁の肌から乳のように絞られる清水である。
三日──四日──七日──九日──彼は上を向いて落ちてくる清水を口にうけて、生きていた。
ある夜は、凄い暴風があった。ある夜は、谷の霧が、海の底のように見える月夜だった。──そして半月、そして二十日。
死は、一日ごとに迫って来た。
湿気のために、皮膚いちめん、妙な腫物ができて、瀕死の彼を苦しめた。胃も腸も、空ッぽである。胃液は、もう消化する何物もないのに、まだ主体を生かさんために、胃壁そのものを溶かしはじめた。自壊自給作用である。それは堪らなく不快な嘔吐気と激痛とを発作的に起した。──眼はくぼみ視力は衰退し、爪は白っぽくなって、肉の削げた細い指の先に、一枚一枚、ぽろりと落ちそうについている。
「死んではならぬ! 死んではならない!」
彼は、その一念で、生きていた。
また、栄養なく、ただ剃刀の刃みたいに鋭くなった頭脳の中は、一日一日と、暗黒に空虚に、消えてゆく日のことだけでいッぱいだった。彼は、岩窟の外の光線によって、毎朝、岩壁へ爪の先で深く一筋ずつ印を彫っていた。
「ああ……今日でもう二十二日」
岩壁の暦の筋は、今朝で二十二本になった。
江戸を立った時からの日数を繰ってみると、もう四十日近い時間が空しく、まったく空しく、消えているのだ。
「ええ、どうしよう!」
彼はもだえた。いや、悶える力すらも、今は一刻ごとに、その肉体から失くなって行くのだ。彼は、コツコツと、自分の心臓をたたく死の音に恐怖した。
「俺は生きたい! 俺が生きて、もういちど江戸表へ帰らなければ、老先生は自滅だ。──ああ、それもわずかのうちに」
岩壁の暦は、また一本、数がふえた。
──二十三。
今朝まで、からくも、彼の生命を繋いで来たのではないかと思われる岩肌の青苔も、すべて、彼の爪に掻きとられて、牢内に、青いものは失くなった。
彼は、土を削って、口に入れたが、しばらくすると、胃の激痛と共に、吐いてしまった。
暦を記録すると、一日の仕事は、何を食うべきかということだった。彼は、すばらしい僥倖を掴んだ。一念になって、牢の中の石ころを剥っているうちに、一匹の蟇を見つけたのである。また吐くといけないという要心から、その日は、蟇の片股を食い、晩には、皮を食い、翌朝は、すべてを食べた。
──岩壁の暦、二十四。
蟇に味をしめて、彼は、夕刻になると穴の奥から外へ出て行って、また帰って来ては穴の奥に貼りついている蝙蝠を捕る工夫をこらした。蝙蝠が食えるか、食えないか、そんな常識は、彼にとって問題ではない。
──岩壁の暦、二十五。
今日まで、生きていられるのは、水と苔と、蟇のおかげである。蝙蝠はなかなか捕れないが、彼は、牢の鉄柵のそばまで這い出して、数匹の昆虫を捕って食べた。また、柵から手を伸ばして、石楠花の葉を五枚ほど毮り取った。それは、口のなかで噛みしめていると、何か、非常に力になる気がした。
──岩壁の暦、二十六。
「やっ、まだ生きてるぞッ」
「えっ、生きてる?」
「ほれ、ごらんなさい。主水様」
「なアるほど、眼ばかりぴかぴかさせておるな」
「強情な奴ではある」
「飢え死になどは面倒くさい。父上に言って、翌日は、長槍を持って来て、外から突き殺してしまったがいい」
「槍では、奥へ逃げると、届きません」
「では鉄砲がよかろう」
「そんなに、楽に殺しては、この後の見せしめになりません」
「なに、もうたいがい、見せしめにはなっている。翌日は、わしが撃ち殺してやる」
郷左衛門の子息、大村主水の声だった。四、五人の山侍たちと、中を覗いて、こんなことを言いながら立ち去った。
その晩は、電光雷鳴、山も谷も樹木も、押し流されるような暴風雨だった。
──岩壁の暦、二十七。
颱風の後のせいか、めずらしく、霧がなく、谷間にも少し陽が射した。
「やっ?」
眼をさますと共に、彼は、気絶するほど吃驚した。
誰だ? 誰の仕業だ?
鉄柵の内側に、何者か、一箇の白い握り飯を入れて置いてある。彼は、驚喜してとびついたが、はっと、手を竦めた。
「止そう! 鉄砲のかわりに、俺を毒殺する計略だ」
──岩壁の暦、二十八。
今日はもう、また、深い霧だ。
昨日の握り飯がないと思うと、また、新しい握り飯が置いてある。見ると、それを乗せた竹の皮に、一枚の紙片が挟んである。何が書いてあるのかと思うと、
後三十一日也。
と、謎みたいな六文字が記してあるだけだった。
「はてな? ……後三十一日也? 何のことだろう」
と、耀蔵は首をひねった。
「後三十一日也……後……あっそうだ。今日は日をかぞえれば七月の十五日、老先生の百日の期限までには、ちょうど後三十一日だ。不思議、不思議、誰がどうして、そんなことまで知っているのだろう。そしてこの握飯をおれにすすめるのだろう」
彼は、怖々と、十粒ばかりの飯を、奥歯で糊のように噛んだ。べつに、毒の作用も起らなかった。しかし久しい間、空っぽの胃ぶくろに、一箇の握り飯をふいに入れることは危険だった。時折、幾つぶ宛かを根気よく噛んでは、そっと喉へ通した。
──岩壁の暦、二十九。
朝、昼、何事もなかった。
夕方である。不意に訪れた跫音だった。
「なるほど、生きてるぞ」
「執念ぶかい奴だ。──では殺ってしまおうか」
「鉄砲は」
「三挺持ってきた」
「ここへ並んで、筒口を揃えろ」
大村主水を先頭にして、ぞろぞろと尾いてきた含月荘の山侍、ざっと、十人ほど。
中の三人が、鉄砲の筒をならべて、折敷に構えた。三ツの火縄が、牢の中にいる耀蔵の方からも赤く見えた。
「駄目だ!」
耀蔵は立った。
「老先生ーーっ。おゆるし下さい。遂にご使命を果たさず、加山耀蔵はここで殺されます。この無念は、夢枕に立って、お詫びをつかまつります」
と、潸然と泣いて顔を掩った。
「見ろ、何か、喚いているぞ」
「発狂したんだろう」
「撃てッ」
と、主水が命令した。
どかん! と並んでいる銃身の筒口から、三つの弾が、同時に、鳴った。
だが──岩窟の中の耀蔵は、仆れなかった。一発は彼の脚を掠め、一発は、岩窟の肌にぷすッと通った。──そしてあとの一発は、不発だった。火縄もろとも、銃は侍の手を離れて、宙へ躍り上がっていた。
「やッ、斬られた!」
血汐である、血煙である。夕闇なのと、深い霧で、よくは分らないが、温い血液のかたまりが、ぱッと、側の者へ刎ねかかった。
どさっと、続いて、誰か仆れた。
「わっ、誰だッ」
「何者だッ」
「一同。──気をッ、気をつけろ」
大村主水は樹の上へ逃げ上がった。それはすばらしい迅さと鋭さを持った一本の山刀だった。いきなり、横合から斬ッてかかって、その人影の誰なるかを問わず、滅茶滅茶に、振ッて振って、振り廻すのであった。
ところへ、更に、また一人。
野獣のような怪老人が、鉞を振りかぶって、山侍の頭蓋骨をたたき廻った。主水の逃げ上がっていた樹は、たちまち、怪老人の鉞で根元から伐られた。めりッと、彼の体を乗せたまま樹の倒れて来るところを、雷撃一閃! 鉞はおどって、
「この! 悪党の餓鬼め」
と、打ち下ろした。
主水の顔は、柘榴のように割れた。
「みなごろしだ! わははは」
怪老人は笑って、次に、岩窟の鉄柵を打ちくだいた。
その間に、一人の若者は、早くも中へおどり込んで、まだ茫然と、棒立ちになっていた耀蔵を背中に背負って、谷から峰へと、一目散に駈け出した。
振り顧ると、谷間は、炎々と焼けていた。
「あっ、山火事」
「なに、渓川があるから、ひとりでに消える。あれで含月荘の侍たちが消しにくる頃には、死骸はみんな灰になる」
怪老人──それは如意ヶ岳の山の主といわれている作兵衛爺と、もう一人は、何ぞ知らん、この炭焼小屋の竈で、かつて大村父子と山侍たちのために、蒸殺しの刑にかかって、とうにこの世に生命のないはずの江戸表の同心、加山耀蔵とは同役であり、無二の親友だった波越八弥が、昔に変る樵夫姿で、まだ立派に生存していたのであった。
「さ、八弥様。病人はそのまま、小屋の中へ寝かせたがいいだ」
作兵衛小屋へ着くと、山の主の爺は、すぐに小屋の中へ筵を敷いた。
耀蔵は、八弥の背中で、刎ね返って、
「いや、俺は寝ない。俺は病人なんかじゃない」
と、呶鳴った。
「おや、えらい元気じゃな」
「誰だ! 誰だ! 俺を救ってくれたのは、俺は、それが知りたい。俺を背負っているのは誰だ」
「加山!」
と、波越は、彼を下ろして、痛いほどな力で、その腕を握りしめた。そして、眼ばたきもせずにじっと見つめる彼の眸の前へ、自分の顔をつきつけて、叫んだ。
「加山! 俺だ! 波越八弥だ」
「げッ」
と、耀蔵は驚倒した。
「波越ッ」
「加山ッ」
「ど、どうして貴様は」
「奇遇だ! どうしたって、悪人ばらの往生を見ぬうちに、死んでたまるか」
「そうだ! 死んでたまるものか。──だが貴様が生きているとは思わなかった。イヤ、俺さえ助かったのが夢みたいだ」
「何を隠そう、今だから言うが、実は拙者は、この春、単身この含月荘へ乗りこんで、見事に大村父子や玉枝の秘密をつかんだのだ」
「ウム、ではここの先陣は、貴様だったのか」
「ところが、かえって、悪人ばらの陥穽に墜ちて、この炭焼小屋の竈の中に抛り込まれて、彼奴等の眼前で、蒸焼きにされてしまうところだった。──それをここにいる作兵衛が、際どい瞬間に、拙者の体を、竈から出して、人間の身代りに、この小屋に飼われていた猿を抛りこんで火を放けたのだ。猿が、中で暴れるのを、俺が苦悶するものと思って、彼奴等は、凱歌をあげて引き揚げた。それから後、おれはこの小屋に、樵夫となって同居しながら、含月荘の探索をつづけていた……」
「だが、どうして、老先生の百日の期限のことまで、分ったのか」
「江戸の事情は、また審さに、問い糺す人間が、この小屋へ戻って来たのだ。今、それにも引き会わせるから、こっちへ来い」
加山は昂奮して、疲労も何も忘れていた。
八弥と作兵衛爺の後に尾いて、薪小屋の中へはいってゆくと、そこに、一人の男が、後ろ手に縛りつけられていた。
一目、その男を見ると、耀蔵はまた、愕然として、
「やっ、この男は、江戸にうろついていたあの唖聾じゃないか」
「そうだ。吾々は、名も分らないので、唖聾と呼びつけていたが、今日では、彼の名は、岩松ということが分った」
「岩松?」
「そうだ。そしてこの岩松こそ、実に、そこにいる作兵衛爺の伜であった。──生れつき愚鈍のために、何者かに強迫されて、江戸くんだりまで、連れて行かれ、つい五、六日前、神隠しに遭ったように、ボンヤリと、この小屋へ戻って来たのだ」
「じゃ、矢張り、悪人たちの手で、傀儡に使われたのだろう。しかし、そのわが子を、作兵衛は何でこんなに窮命するのか」
「作兵衛は、この山の主といわれる正直者だ。不正なことは大嫌いな頑固者。だから、わが子の岩松が、悪人どもと何かしたのではないかと見て、三日三晩、この薪小屋に縛りつけて、何もかも白状するまでは許さない。で、とうとう、唖の岩松も、知ってる限りのことを、爺の前で懺悔してしまった」
「待ってくれ、岩松は唖で聾。どうしてそんな白状をしたり、訊ねたりすることができるのか」
「それは、作兵衛爺だけには出来る。なぜと訊くのも野暮ではないか。作兵衛爺は、岩松の親だ。乳呑児の時から男の手一つで育てて来た親だ。眼のいろ、唇のうごき、手真似、身振だけでも、話は立派に通じるんだ」
「なるほど」
「その結果。貴公がこっちへ来たらしいということ、また、老先生が百日の期間のうちに、事件の解決を約して、それが果せない時は、郁次郎殿も処刑をうけ、ご自分も、腹を切って死ぬお覚悟だということも分った。──しかもそれが、一昨日の雷雨の晩のことだ。夜明けと共に八方、貴公の行方を尋ねたところが、つい谷向うの、岩窟牢に抛り込まれているじゃないか」
「ああ、有難い! 神はまだおれ達を見捨てない」
「そうだ。正義はきっと勝つよ」
「すぐに、江戸へ行こう」
「ばかを言え、その体で」
「なにくそ! 行ける! 歩ける!」
「いかんいかん。そう気ばかり立っても、肉体が承知しない。まあ、二、三日、静かに寝て、体をこしらえろ」
「愚図愚図していると、もう日がない」
「何、まだ一月はある」
そんなことをいってる間に、山火事はひろがった。作兵衛は、含月荘の山侍がここへ来ては大変だからと言って、二人を、べつな薪小屋の中へ匿し、自分は何食わない顔をして、火事を消す手使いに駈けて行った。
間もなく帰って来て、
「奴らも、今日はよほど慌てている」
と、言った。
「なぜですか」
と、八弥がたずねると、
「どうやら、含月荘の高楼にいる黄門様が、翌日は、江戸表へご発足になるらしい」
「えっ、あの、九年間も高い櫓の上に住んで下界へ降りたことのない龍山公が、江戸表へご出府になるって」
「そうじゃ。偉いこッちゃ。亀山六万石のお家も、とうとう、お世継なしで、この秋は、絶えるかも知れんでのう」
「それは一体、どういうわけで」
「いつかも、八弥様には、話したことじゃが、黄門様のお側女の血すじの者が、この世の何処かに、四人はたしかにいるはずだが、もう幾年となく尋ねても、それが分らぬ。──とこうする間に、この秋ではや十年。その十年のご猶予が切れれば、六万石にのしを添えて、幕府へ、家名をご返上せねばならんのじゃ。──で、いよいよ、お血統探しは諦めて、幕府へ家名のご返上に出府することになったんじゃろう。何としても、お傷ましい」
「ははあ……」
と、加山は初めて聞いた話に、何か、じっと考えこんでいた。
と、──改まって、急に、
「波越」
「なんだ」
「まことに済まないが、貴公、これから俺を背なかにかけて、発足してくれ」
「どこへ」
「無論、江戸表だ」
八弥も何か考えていたが、
「よし! 命がけで出かけよう」
「爺、水みたいな粥を煮て、竹筒へ入れてくれ。それを吸いながら、俺は江戸表へ行く! 這っても行く!」
「まあ待て。もう半日寝て」
「半日は重大な時刻だ。寝てなどいられるものか」
「いやその間に、粥が煮える。また、拙者もその半日を、無駄には費さん。少し考えがあるのだから」
と、何か密談を凝した後、八弥はやがて耀蔵と連名して、一通の書面を認め、その署名の下へ、血判を捺して、
「じゃ、行ってくる。その間だけでも、体を休めてくれ」
と、飽くまで友達思いのことばを残して、薪小屋から一本の矢と、竹弓を持って、それを小脇にかかえるが早いか、何処ともなく飛び出して行った。
前黄門松平龍山公の世にも薄命なる隠遁の高楼、含月荘の楼上に今宵もまた、ポチと夕ぐれの燈火が哀れに点いた。
──と、どこからともなく、風を切って飛んで行った一本の矢文が、ぷすっと、その灯のついた窓の柱に立った。
矢文!
気がついたらしい。
お小姓の蘭之助か、杉太郎か、それとも黄門公自身の手か、窓がほそく開くと、抜きとって、すうっと、内へ引き込んだ様子であった。
「しめた、お手もとに届いたな。──あれをご覧になったお答えは、灯でご合図を願いたいと書いておいたから、あの窓の灯が、消えればご不承知。左右にうごけば、こっちの計略を、ご承認くださることになるわけだが……」
と、峰の一角に隠れて、片唾をのんで見つめているのは、いま矢を放した波越八弥。
やがてしばらく──
高楼の窓の灯が、左右に、静かにうごいた。
「あっ、ご承諾だ。ありがたい」
それを見届けると、八弥は一散に、作兵衛小屋へ帰って来た。
重粥をすすり、久し振りに、藁の上で一睡した耀蔵は、だいぶ元気になって待ちかねていた。
「波越、遅かったじゃないか」
「一刻でも、貴公が体をやすめるように、わざと日暮れまでぶらついていたのだ。しかし欣んでくれ、矢文の願意は、お聞き届けになった」
「そうか。ここまで事を運んで帰れば、老先生もさだめしお欣びだろう。夜にまぎれて、早速立つとしよう」
作兵衛は、松明を持って、ふたりを叡山の近くまで送った。そして別れ際に、自分も、もうあの住み馴れた山にもおられなくなったと言って、老いの眼をうるませた。
× × ×
この頃、急に評判が立った。──よく中たる、実によく中たる。そういう噂で、ひどく流行りだした乾坤堂という売卜者。
毎日は出ないが、三の日、五の日、七の日に出る。場所は蔵前の閻魔堂の境内。九尺二間の借家が出張所で、今日は、月の三の日にあたるので、もう朝からだいぶな客があった。
「先生、もう今日はこれぐらいでいいでしょう」
下足番の男も疲れたとみえて、暮六刻が鳴って客足が少し途切れたところで、こう言い出した。
「開けていたひにゃ、限りがありませんぜ」
「そうだなあ。七刻仕舞いが規則だが……。きょうはだいぶ見料が上がった。早仕舞いとして、一杯飲もうか」
「たまには、そんなことがあって、ようがすよ。先生のように、金を儲けちゃ、仕舞い殺しにするばかりが能じゃありませんぜ」
「あははは。では、ぼつぼつ片づけるか」
と、筮竹を袋に入れかけた時である。
「あの……乾坤堂の易者様は、こちらの先生でございますか」
門に、女の声がした。
下足番の男は、舌打ちをして、
「もう今日は、仕舞いました。また明日じゃねえ、次の、五の日にでもおいでなせえ」
「あ……これこれ」
と、奥の机から首をのばした乾坤堂は、四十をやっと、二つか三つ越したくらいな年配、総髪をきれいに後ろへ撫で、髯の手入れもとどいて、すこし赭ら顔に、鼈甲ぶちの眼鏡をかけている好色家らしい人物だ。
「まだ七刻前じゃ、観て進ぜる」
「あれだ……女というと」
下足番は、呟いて、不承不承に女を通した。女は、秋には早い、頭巾をかぶって、そのまま机の前に坐った。下足番が嫉ましげにつぶやくほど、眩しい若さだった。
「ははあ……」
と、乾坤堂はじッと見つめて、
「観てもらいたいというのは、男女のことでござるな。恋でござろう。そうらしい」
「ま……それもございますが」
と、女は顔を紅めて俯向きながら、
「ほかにも、もう一つ、大きな願い事が」
「ウーム、その願望ならば、かないましょう。いやきっとかなう。ご安堵なされい」
「ほんとに、かないましょうか」
「今に、西の方から、福音が訪れましょう」
「西の方から。──していつ頃」
「遠くはござらぬ。ここ一月ばかり以内」
「少々、思いあたることがございます。ですが、その願望が成就した後、私はある男から、去られることはないでしょうか」
「今の良人……とは言えぬ、まあ、約束をしたお相手じゃな」
「はい」
「手をお見せなさい。──イヤ、左の手」
と、女の手相をしげしげと眺めていたが、ひょいと、指の爪を調べて、
「おや、貴女には、妙な爪がある。この黒いのは」
「あ……そ、それですか。それはあの……何でもございません。鉄漿を解く時に、指を入れて、汚したまま、つい拭きもせずに置きましたので」
「あ、そうか」
と、乾坤堂はつまらなそうに、手を離して、
「あなたは、愛してござる男と、絶えず離れておる象じゃ。それがよくない。去る者うとしという例に洩れぬ方じゃ。なるべくその男の側を離れぬがよい。殊に、土地を離れたらこの縁は切れますぞ」
女は、くどく様々な問を出して、やがて帰って行った。下足番の男は、すぐに戸を閉めて、
「老先生、何だって、網にかかってきたあの玉枝を、みすみす返してしまったんです」
と、食ってかかるように問詰った。
同時に、隣の部屋からも、
「惜しいことをした。今に、老先生が、それっと言ったら、ふん捕まえてやろうと腕をさすっていたのに」
と、言いながら、出て来た者がある。
それは舟辰であり、下足番の男は、千吉だった。
四十二、三の好色家らしい売卜先生は、実に、白髯を剃り落して、頬綿をふくみ、音声まで巧みに変えた塙江漢なのであった。
「いや、それはいけない。──あの女の住居の近くに、こんな売卜をはじめたのも、玉枝を誘きよせる手段には違いないが、今ここで女に縄を打てば、すぐ一方の敏感な悪魔の首領を逃がしてしまう。玉枝の烏爪は見届けた。まずそれだけで結構としておこう」
「ですが、老先生、もう今日は八月の三日ですぜ」
「そうだ、百日の期限も、あと十二日になった」
「一体どうなさるおつもりなんで……」
「天なり命なり、今に、加山から何とか吉報があろう。それの便りが来ないうちは、いかに江漢でも、手の下しようがない」
「あの耀蔵さんも、一体、何をぐずぐすしているんだろう」
こう言い合った翌々日である。
加山耀蔵、波越八弥、二人は江戸へ帰って来た!
すぐその翌々日は、前黄門公、松平龍山公微行の列が江戸表へはいった。
相前後して、たった二日ちがいである。
だが、その黄門の龍山公は、どこを宿所に定められたか、まだ、辰の口へも届け出がない。江戸の上屋敷も下屋敷も、あるにはあるが、十何年間も閉めっ放しで、到底、一時の宿とするにも足りない荒れかたである。
奉行所では、しきりに、たずねていた。
それは、南町奉行自身ではなく、所内にいる羅門塔十郎が、龍山公の出府を機会に、ぜひ拝謁したいというので、あっちこっちと訊き廻っているのであった。
東儀与力は、またこのところ、老先生のすがたが、消えたように江戸から見えなくなったので、しきりとそれを気にしては、
「もう近いぞ、近いぞ」
と、口癖のように言っていた。
そのうちに、とうとう、期限の百日もあと一晩、九十九日目が来てしまった。
羅門も、この日は、何事かあるかと緊張した面持で、奉行所につめていた。
ところが──昼──夕刻──になっても塙江漢の方からは音も沙汰もない。
「なあ羅門氏。江漢はとうとう、夜逃げをいたしたらしいぞ」
「いや、そんなお方ではない」
と、羅門は、この間際になっても、決して相手の老先生を侮らなかった。尊敬の気もちを、ことばにも、忘れなかった。
「しかし、今に至っても、沙汰のないのは如何したものだ。拙者の考えでは、吾々に会わす顔がなく、逃亡したか、でなければ、老腹を切って、今夜あたりは何処かで死んでおるんじゃないかと思うが」
「まだ分りますまい。明日の晩──そして夜明けの鐘が鳴るまでは」
「あと一日や半日で、どうなるものではない。もうそろそろ、郁次郎の首斬り道具を、並べておいても間違いはない」
「それはそうと、亀山の龍山公は、どこへ宿所をおとり遊ばしたかなあ。ぜひご拝謁を願いたいことがあるのだが……」
「羅門氏は、そればかり気になすっているが、何か火急のご用事なのか」
「お世継の問題で、六万石のお国許の浮沈にかかわる一大事なのです。この羅門も、かねてご依頼をうけていることゆえ、安閑と、よそごとに眺めてはおられません」
「そうそう、いつか承った。龍山公のお血統を探すについて、尊公が内々その詮議を仰せつかっているというような話を──」
「されば、それについて、非常に心をいためておるが、昨年来当奉行所に関り合って、意外な難事件に携わったため、その方がすっかり捗らずにいるのです。こんどのご出府には、まず何よりまっ先に、そのお詫びからいたさねば気がすみません」
「ご尤もな心配じゃ。しかし、幕府の方は、御老中や要路の役人方へ、相応な黄白をもってご挨拶いたせば、まだ二年や三年のご猶予はして下さると思うが……」
話しているところへであった。
「羅門様、ご書状です」
と、下役の者から、届けられた一通の密封。──はっとして、羅門の顔が紅くなった。
「オオ、龍山公から。たった今、噂をしていたところ……」
と、押しいただいて、封を切った。
紛れもない、直筆。前黄門の品位のたかい書風であり、それに、有名な能筆なのですぐに分る。
「お使者の方に、相違なく、明夜は参上いたしますと、お答えしてください」
こう返辞を伝えているのを聞いて、東儀は、
「明夜? 明夜は郁次郎の首を斬る日だのに、尊公が、立ち会わぬのは甚だ困る」
「いや、夜明けまでには、立ち帰ります」
「して龍山公は、どこにおられるので」
「ご親戚だそうで、八重洲河岸の小笠原左近将監様のお屋敷に、ご滞在ということです。ご隠居のお身ではあり、ご微行のことなので、よほど、質素にお住居と見えます。──折から、明夜は八月十五日、ご邸内に名月の宴が催されるから、月見がてらに、訪ねて参れという有難いおことばなので」
「あ。なるほど、あしたは十五夜だ」
東儀は、去年の名月を思い出して、なんとなく、戦慄された。
翌日の夕刻になると、羅門は、常になくいそいそとして、黒龍紋の裃、袴、身扮も隙なく、若年寄小笠原左近将監の邸へ出向いて行った。
龍山公は、待ちかねておられた。──彼の通されて行った月見の大広間、松洩る月の影が、銀波のように、百畳の間いっぱいに映っていた。
廊下に照る月、泉水に映える月、庭の夜露にかがやく月、燭はなくとも、明るかった。
「へへっ……」
正面の老公を仰いで、羅門は、ぺたりと平伏した。それは、君臣の礼儀に等しかった。
「羅門」
と、老黄門は、厳かに会釈をうけて後、その白銀を植えたような長髯の先を指でまさぐりながら、
「余が今度の出府、なんの為か、存じておろうが」
「恐察申しあげておりまする」
「いかがいたした、詮議の事は。──かねて国家老大村郷左衛門より、そちの技倆を見込んで、篤と申しつけてあったに、遂に今にいたるまで、何の効もあがらぬではないか」
「不肖羅門塔十郎、不才をもって、老公のお眼鑑を身にうけ、ここ数年来、寝食を忘れて苦心はしておりますなれど、何せよ……」
「その言い訳は、郷左衛門からも聞き飽きておる。しかも、すでにそれは遅い。幕府へのご誓約に対しても、この秋には、亀山六万石の家名はご返上せねばならぬ時機に迫っておるのじゃ」
「しかし、羅門の承知しますところによれば、それは要路の大官方へ、何らかのご方法をもってお願いいたせば、まだ両三年の……」
「だまれ、だまれ!」
老黄門は、千軍を叱咤するように、声をあらげて、
「九年の間、雲閣に坐して、身は老衰隠居いたしても、前黄門松平周防守であるぞ。左様なこそくな手段ができると思うか、うつけ者め!」
「ヘヘッ」
と、さすがの才人羅門塔十郎も、威圧されて一言もなかった。
「数年の間、身が落胤をたずねるために、国家老郷左衛門の手を通じて莫大なる手当を与えておいたに、汝は、それをよいことにして、空しく、徒食しておったのであろう」
「滅相もないおことば」
「では、今日まで、何をいたしたか」
「実は、まだ確証の揃うまではと、ご披露はいたしませぬが、たった一人、ご落胤の女性を、見出してはござりますので」
「なんじゃ? ……」
と、龍山公はたちまち、喜悦を満面にみなぎらして、脇息から乗り出された。
「羅門、それは真か。なぜ、そうならそうと早くいわぬ。──この際じゃ、きびしい証は多く要らぬ。何ぞ一つでも、たしかに、この龍山の血統じゃといえる印さえあればよい。してその女は、いずれにおるか」
「ただ今は、蔵前片町のほとりに、侘しくお住居でござります」
「ほう……何をして」
「鷺江雪女と申す笛師の弟子となって、舞曲を習っておりましたが、てまえが、それと知りました後は、世間に知れては悪しと存じて、何事も遊ばさずに」
「年は。また名は」
「ちょうど二十四歳。お名は、玉枝様と申しまする」
「何か、血統という証拠は」
「ご系図一巻」
「なに系図書、それは立派な証拠だ。ほかには」
「そのご系図に書いてあるのを見ますると、四名のお孫様は、みな女性でござりました。そして、ご姉妹の年順に、まだ乳呑児のうちに、左の指の爪へ、漆のごとく、お鉄漿の入墨をなされました」
「爪へ、入墨をしたとか。それは、何の為に」
「恐らくは、高貴のご血統たることを、子孫から子孫へ、遺すためではないでしょうか。尤も、小普請の石川家には、昔から女子は夭折するという遺伝があって、それには、左の指の爪を、歯のように、鉄漿で染めれば育つという申し伝えもありましたのです」
「ふーム……。さては、わしの正腹の嫡子のないことを、石川家の方でも薄々心にとめていたものと見える」
「まさか、その石川家が断絶して、ご姉妹がみな、離散なさるとはお考えなく、ただ後日に、何かの証ともなろうかという親心から、なされたことではあるまいかと考えまするが……。その黒い爪が、てまえの見出した、玉枝様にもあるのでござります」
「とにかく、その女性に会いたいものじゃ。たしかに、血統とわかれば、他家より養子を迎えても、亀山六万石は安泰なわけじゃ」
「では、折を伺って」
「いや、早いがよかろうぞ。……今宵のうちに」
「したが、大事なご対面です。今夜というのも、余りにご性急、わけて、本人は寝耳に水でもござりましょうゆえ」
「いや、苦しゅうない。羅門、孫へ手紙を書け」
龍山公はもう有頂天な喜びかたである。何でもすぐに、ここへ迎えようと言う。
羅門もやむなく、玉枝へ宛てて、手紙を書いた。
小笠原の家臣は、華麗な鋲乗物を支度して、月下を燦々と、龍山公のお孫を迎えるべく蔵前片町へ出向いて行った。
月はいよいよ冴え、月はいよいよ天に高い。
一点の雲もない仲秋。
宴は別間にひらかれた。そして、龍山公のお孫の着くのを、名月の席に待つのであった。鼓は鳴る、笛は鳴る、酔はめぐる。──ただ羅門塔十郎だけは酔えなかった。余りに厳粛な龍山公の前では、窮屈に坐ったきり、膝を崩すこともゆるされない。
迎えの駕は、なかなか帰らない。
「まだか」
と、龍山公は、幾たびも、近侍に訊ねた。
二更は過ぎた、やがて、三更──
羅門はそろそろ、明け方が気がかりになって来た。郁次郎の処刑──そのことである。
塙江漢は、果たして、今夜のうちに、郁次郎を救うべき確証と罪人を挙げて、奉行所の門を叩いたろうか。
東儀は、立会いの自分が戻らぬため、さだめし、気を焦っているだろう。
あれや、これ、彼の面持は、落着かなかった。
ところへ──
「ご老公に申しあげます。只今、お血統の玉枝様を、お伴れ申して参りました」
と、小笠原家の用人が、それへ来て、うやうやしく両手をついた。
「オオ、これへ。すぐにすぐに」
と、龍山公は、待ち焦れていた気持を制しきれなかった。ほとんど、他愛がないほど、うれしさを表情して、
「褥を。脇息を」
その位置まで、近侍たちへ、指図した。
やがて、伴われて、楚々としてそこへはいって来たのは、月夜の衣裳には余りに寒い! 白絹の小袖に、白絹のかいどり、帯までが白い──死装束の麗人であった。
ただ黒髪が、ふっさりと、うしろへ垂れたほかは、その頬、その手、雪よりも白く、ちらちらと姿にうごく、月の斑よりも、まだ白かった。すらりと、そこに坐る。
「羅門! 玉枝とは、この女か」
「はっ……左様にござります」
「相違ないか」
「相違ござりませぬ」
「たしかに見よ」
あまり老公が念を押すので、羅門は、形ばかりに、そっと上眼をあげた。
「──たしかに、玉枝様にござります」
「はははは」
と、老公は、何を考えられたか、白髯をゆすぶって、大きく笑いだされた。
「羅門。おまえの眼も、今宵にかぎり、少々どうかいたして来たな」
「えっ」
「もういちど見直すがいい。玉枝はおまえの情婦ではないか。いくらふだん、他人に似るように、作り化粧をさせているにせよ、情婦の顔を見違えるたわけがあるか。明皎々たる名月の光をもって、よく、胆と眸をすえて見るがよかろうぞ!」
雷の吠えるような老公の声に、羅門はハッと竦みながら顔を上げた。
とたんに、彼は大地から大きな震動で刎ね上げられたように、
「あッ、違ッた!」
と、絶叫して、膝を立てた。
「うごくな! 下郎ッ」
こはそも何たる凛絶な声だろう。
突然、はッたと巨眼をいからして、羅門を睨みすえながら、ぬッくと立ち上がった眼前の人は、龍山公その人と思いのほか、白蛾の眉、長い腮髯、鬘、被布、ふくみ綿、すべての仮面を一時にかなぐり捨てれば、それは父性愛の権化か、捕物の神かとも見える老先生、塙江漢なのであった。
「あっ」
と、羅門はまたも、胆を挫がれて、思わず、ほとんど意識なく、ばッと身を退くと、老先生は手をあげて、
「卑怯!」
と、呶鳴った。
「──逃げるか羅門。イヤ、覆面の男、悪魔の首領!」
「な、なにッ」
「汝が生涯の智恵をしぼって劃策した悪の大事業は、なんの因縁か、名月の晩にはじまって、名月の晩に崩れた。敗軍の将兵を語らずというから、その口では申されまい。この江漢がすべての魂胆を割ッて申そう」
「ウーム」
と、羅門は蒼白になって、全身をぶるぶると顫わせながら、ただ、呻くばかりだった。
「聞け! 花世」
老先生は、やさしく、声を落して、雪のかたまりのように、坐っている、花世に向って言った。
「まるで、お前の分身のように、瓜二つに似せて、悪の手先になって働いていた玉枝という女は、あれは、故意に、そなたの姿や顔に似せて、作り化粧をしている妖女だ。──なぜそんな真似をしたろう。それはおまえが真の龍山公のお血統であるからだ」
「えっ、私が、私があの……」
「おう、そなたは、自分の爪を見るがよい。また、亡き養父の五百之進殿の日記を後で検めてみるがよい」
花世はわッと泣き伏した、なぜかなぜか、いっさんに、悲しさがこみ上げて来たのである。自刃した父の気持が、余りにも強く、余りにはッきりと、胸を衝って衝って熄まないのであった。
老先生は、厳かな語調をついで──
「しかも、そなたのほかの姉妹は、三人とも、皆この悪魔の首領、羅門塔十郎のために殺められた。お半を殺害したのも羅門のしわざ、江の島の巫女殺しも羅門のしたこと。──また溯って、女笛師の雪女を殺したのも羅門塔十郎以外の何者でもない!」
「だまれッ、江漢」
鋭く、ふるえを帯びて叫ぶのを、老先生は子供の頭を抑えるように、静かに、沈痛に、
「余人の眼はくらませても、この江漢の眼は晦まされん。──なぜ殺したか、その証拠は歴々と数えることができる。しかし、わしは吟味役ではない、ただ重要なところだけを抉っておけば足りる」
「えいッ、老耄め。汝の子の罪悪を、口賢くも、この羅門に塗りつけようとするか」
「羅門よ。それはおまえのことだ」
「証拠があるか」
「ある!」
「なにッ、聞こう!」
「おう、言わずにおこうか。抑〻、其方が大それた悪事を目企みはじめたのは、いうまでもなく、龍山公のお血統の詮議を依頼されてからのこと。次に、その血統の四人を、すべてこの世から亡い者にして、玉枝一人を代え玉につかい、亀山六万石を乗っ取ろうとしたのは、国家老大村郷左衛門のふところに抱き込まれてからのことじゃ」
「見たような嘘をいう奴だ。なんでそれが証拠になる。世囈言も、ほどにいたせ」
「だまれ、静かに聴け」
と、一蹴して、
「その密約が成り立つと、汝は、指一本を、千金に売った。郷左衛門は、その指一つを手にするごとに、龍山公の血統が絶滅してゆくのをよろこび、やがて、伜の主水を、主家の世継に立てる悪謀を夢みていた。その悪謀につけ入って、汝は、おのれの情婦としている玉枝を、偽落胤に仕立てあげて、主水の正室にすることを約束している。──そして亀山六万石を、あの愚か息子と、芸人上がりの玉枝とで、二つに頒ける魂胆であった」
「う、うぬ。──まだ申すか」
「汝に代って、懺悔をしてつかわすのだ」
「懺悔? 片腹いたいことを申すな。おのれの一子郁次郎の罪悪はつつんで」
「あれにも落度はある。しかし、法を犯したものではない。女笛師のお雪が、旅芸人であった頃、彼はふと、遊学先の長崎で、その美貌にひき込まれて、恋に落ちたまでのことだ。彼は、気が小さい、そして善人すぎるために、わしにそれを打ち明け得なんだ。そして、この江漢には、まだ江戸表へ帰らぬていにしておいて、許嫁の花世どのに、苦しい胸を打ちあけた。それが、五百之進殿の耳にはいったため、すべてを婚儀の前に、内密に済まそうとしたのが間違いだった。──長崎以来、雪女の女中弟子になっていた玉枝が、羅門へ仔細を通じたので、悪の首領たる其方は、得たり賢しと、善人の郁次郎を、誰が目にも、すべての下手人であるように仕組んで、まず第一に、雪女を殺した」
「待てッ、江漢」
羅門は、かつて彼が吐いたことのない呶号で罵った。
「貴様は、驚くべき嘘の天才だ。大山師だ。よくもそう根も葉もないことを、すらすらと言えたものだ」
「これでも根も葉もないことか」
老先生はからりっと、羅門の眼の前へ一箇の小箱を投げ出した。血の干乾びた雛妓の小指が、はいっていた。
「これは何だ!」
羅門は傲然として冷笑した。
「何だ、この子供騙しみたいな物は」
「そうだ、いかにも子供騙しにちがいない。しかし汝は、これを玉枝の手から大村郷左衛門へ送らせては、数千金の金を取ったではないか」
「覚えはない! 左様なこと」
「佐渡平──」
と、老先生は右わきの襖へ向って呼んだ。
「為替台帳と、荷為替の送り状帳を揃えて、この素浪人に見せてやれ」
「へい……」
佐渡屋和平は、畏る畏る、数冊の台帳を持って羅門のそばへさし出した。
「見たらどうだ、羅門、遠慮はいらん」
「知らん!」
きつく、首を横に振って、
「拙者は、上方の与力羅門塔十郎だぞ。江戸の無役者に、吟味をうけるいわれはない」
「そうか」
老先生は微笑して──
「しかし、まだ生き証拠はいくらもおるぞ。──波越八弥、隣室にいる作兵衛爺と、唖の岩松を連れて出い」
羅門はその方をじろりッと一眄して、
「どこの乞食を買い集めて来たか」
と顔を歪めて、苦笑した。
「では、乞食と言わさぬ生き証拠を出そうか」
「おう、見よう!」
と、羅門は、血走った眼をつり上げて、じりじりと、老先生の方へ、開き直った。その血相! まるで、眉間から、蒼白い燐が燃えあがっているようである。
老先生は、もう完全に、羅門の心理を掴んでしまっているように、
「いや、こっちではない」
と、彼の殺気の先を、自由自在に翻弄する。
「あちらを見よ」
と、庭を指した。
羅門は、研ぎ澄まして行く気を折られて、
「え?」
と、思わず、うしろを振り向いた。
見ると庭上の松の樹に、いつのまにか、玉枝が縛りつけられていた。最前の迎え駕は、実は、召捕りの駕であり、それに代る花世は、今宵の最後の対決一つで、死か生かの運命の極まる老先生と郁次郎のために、すでに、殉死を覚悟して、死装束でこの屋敷の一間につつしんでいたものに違いない。
「ううむ……ここまでふかく計っていたのか」
羅門は、絶望の闇へ、どっかりと観念の腰をすえた。そして、ぎゅッと、無念そうに噛んだ唇から、たらたらと、血の糸がたれた。
「もう、これまでだ」
「恐れ入ったか」
「勝手にしろ」
眼を閉じて、無言。呼吸は大きく、肩に波を打っている。硬ばった顔の筋だけが、青白い蚯蚓のように、ぴくぴくと、うごいていた。
勝手にしろ! 何というふてくされた、悪覚らしい一言だろう。それが悪人のすべてを終局にした最後の声だった。
老先生も、ずいぶん悪人は手にかけたが、こんな不敵な曲者はまだ見たことがない。呆れたように、彼の態度を眺めていた。
無言と無言──
もう何をいう余地もない。正邪、明らかである。これ以上追及はいらない。と──老先生が眼を反らしかけると、突然、しゅくッと、男泣きの声が、足もとで聞えた。
「老先生! 慚愧にたえません! 事ここに至っては何事も及ばないことですが、羅門塔十郎、今初めて、多年の迷夢がさめました」
裾にすがって、言うのであった。
ああ、かほどな悪人も、遂に、性は善であったかと、老先生は憎いうちにも、ふと、哀れを感じた。
「この上は、獄門、逆磔、いかなる極刑も甘んじてうけまするが、どうせの罪ほろぼしに、公儀の大事にかかわるもう一つの陰謀を、併せて自白したいと存じます。そして、心涼しく刑をうけたい願いにござります」
「神妙じゃ。──したが公儀にかかる陰謀とは」
「党類も数多あって、諸藩へもかかわることですから、願わくば、別室を拝借して、ひそかに申し上げたいと思いますが」
「フーム」
と、老先生は、ちと、むずかしい顔をしたが、羅門の悔悟が、偽りではないらしいと見て、
「よろしい、何事か知らんが、ここで言われぬ事とあれば」
と、別室へ連れて行って、二人きりで、対座した。
さすがに、恥を知るか、羅門は、両手をついたまま、いつまでも、ひれ伏していた。けれど、余りにそのもじもじしている間が長いので、老先生も、少し、焦れッたくなって来た。
すると──ギリギリギリ、と遠い書院か何処かで、時計の音がした。老先生は、はッとした。今のはもう、夜明けに近い、六刻前の時計ではないか。
さては、この底の知れない極悪人は、わざと、最も深刻な故意と用意をもって、自分の時刻をつぶしているのではあるまいか。やがて程なく、夜明けの六刻が鳴るとたんに、郁次郎は奉行所の牢獄の前で斬られるであろうことを心のうちで、待っているのだ。
それは、間接の刺し殺えになる。羅門は、そう計っているのだ。そうに違いない! これは一大事だ。
老先生は、居たたまれなくなった。
「羅門、その話は、いずれ白洲で訊くといたそう」
と、言い放って、立ち上がった。
「あっ、しばらくッ」
と、顔を上げたとたんに、羅門は、つつつと、老先生のそばへ摺り寄って──
「おのれッ、老耄」
と、前差の短刀を、抜くがはやいか、老先生の脾腹を目がけて、柄も、拳も、突き通れと、刺し込んだ。
「ウームッ……」
と、老先生の苦しげな絶叫が、血しおと共に、障子を震わした。
「あッ──お父様が」
花世がさけんだ途端に、夜叉のように、血刀を持った羅門が、
「えいッ、汝も」
と、彼女へ向って、躍って来た。
「出合え!」
「羅門を召捕れ」
すぐ隣室には、万一の場合にと、七、八名の武士が詰めていたのにこの不覚だった。武士たちは、八方から、どかどかと、羅門へ集った。そこから、再び血が飛んだ。二人ほど仆れるのを見て、羅門は発狂したように、刀を振り廻して、大広間へ出た。
その途中、彼は、幾つもの燭台を蹴倒した。騒ぎに乗じて、火災を起すつもりらしい。残月の庭は、たちまち、入りみだれる剣と、人影と、そして時々、それを掠める蛍火のような火の粉と、黒煙が流れた。
「八弥! 波越八弥! 八称はおらぬか。八弥を呼べ……」
脾腹の血汐を抑えながら、老先生は、必死な声で、求めていた。
「オオ!」
と、色を失って、駈けこんで来た八弥は、苦悶に転々する彼の老躯をかかえ起して、
「老先生、八弥です! 波越です!」
「八弥……。わしの傷は浅いぞ。わしは死なぬぞ」
「は、はい、浅うござります」
「縛れ。わしの傷口を、かたく、かたく、縛れ。──そして大急ぎで、わしのからだを、南町奉行所まで連れてゆけ」
「うごいてはお悪うございます。老先生、どうか、静かに」
「ええい、たわけめ。そんな場合ではないわ。花世はおるか、花世、花世」
「はい……お父様。わたくしが、しっかりとこう手を握っているのがお分りになりませんか」
「オオそうか……。分る、分る。わしはまだ死なんぞ。花世、わしはこれから、夜明けまでに、目出度い、目出度い、おまえ達の婚礼の席にのぞまねばならんのじゃ。おまえの死装束は、幸いにも、そのまま目出度い晴れ着になる。……わしを抱いて起してくれ。そしてわしを歩かしてくれ」
「だ、だい丈夫ですか。先生。老先生」
「八弥は、右の肩を助け、花世は左を貸してくれ」
「それならば、お駕を、お駕を」
三つの駕に、小笠原家の武士たちが従いて、駕は、南町奉行所へいそいだ。
そこには、手筈をうけて、加山耀蔵が門前に立っていた。駕を見ると不審そうに、
「波越、どうしたのだ」
「老先生が、斬られた」
「えっ! だ、だれに」
「羅門だ」
「畜生ッ」
と、足ずりをして、
「よし、俺が、召捕ってくる」
と、駈け出した。
「ご門番!」
波越は、割れるように、門をたたいた。
ほとんど、乱入するように、開けると同時に、駈けこんだ駕は、奥の藪牢の前まで乗り入れて、
「郁次郎様、郁次郎様」
と、声をあわせて、叫んだ。
見ると、その郁次郎の獄舎は、開いていた。四、五人の獄卒が中へはいって、今や、彼をふたたび百日前の死の筵に、坐らせようとしている瞬間だった。
とても、江漢老人の方からは、音沙汰のないものと、多寡をくくっていた東儀与力は、水桶の支度や、血穴を掘らせて、煙草をくゆらしていたところであったが、それを見ると、
「何者だ」
と、呶鳴った。
「老先生です」
と、八弥が答えた。
「なに、江漢老人が? ──」
と、一度は恟ッとして、狼狽したが、彼の癖として、すぐに虚勢を張った。
「誰であろうと、駕のまま、奉行所へ乗り入れるとは不埒である。駕を戻して、歩き直して来い」
「いや、老先生は、ご重態です。一歩も、歩行はできません」
「やっ、病気か」
「太刀傷です。仔細はあとでお聞きなさい」
八弥は、対手にしなかった。何よりも、老先生の容体が気づかわしい。荒い呼吸づかいは、ここへ駈けてくる間にも、聞きとれたくらいである。
「郁次郎、郁次郎はいるか。郁次郎は達者でいるか……」
花世と八弥に、抱え出される間にも、老先生は、囈言のように、口走っている。
「オオ! 父上」
「伜か」
「ど、ど、どうなされました。この血は、おお、この血は!」
「驚くな、伜よ。こんなことは、四十年間十手をとっていた生涯の間に、とうにあってよいことだ。……おまえと、花世の婚礼に、わしは、世の中の何ものよりも強い、何ものよりも真実な、真っ赤な、神の美酒をここへ湛えて来たんじゃ。驚いてくれるな」
老先生は、だんだんに落着いて、左に、花世の手を握った。右の手に、郁次郎のほそい手を握った。
「ふたり共に、わしの見ている前で……わしの息のあるうちに、婚儀をあげてくれ。おお! 一献の酒も、一荷の祝いもないと、嘆いてくれるな。わしはどうしても、ここで、そなた達二人を、若い未来へ、幸福な生涯へ、見送らねばならぬ義務がある。それは、富武五百之進殿に対して誓ったことばがあるからだ。瀕死の老人でも、まだわしが呼吸をしているうちに、二人を結ぶことは、どんなに心強いか知れまい。……よいか」
「お父様……」
「父上……」
「なぜ泣く。強く生きよ。いいか。幸福に行けよ! いいか」
「は、はい……」
「郁次郎は、気が小さい。世間に弱い。社会にうとい。それを直せ、修業しろよ」
「ご苦労をかけました。父上、この、不孝の罪を、何とおわびしてよいか分りませぬ」
「花世! いや、伜の嫁よ」
「はい……」
「いじらしい、牢獄の花嫁よ! そなたは、何という薄命だったろう。だが、これからは幸福になれる。きっとなれる。わしが、あの世からも守ってあげる。よい嬰児を生みなさい。よい母になっておくれ……。そうしてくれれば、五百之進殿へ、わしは心の責めが幾分かすむ」
「わかりました、お父様! どうぞ、安心してください。安心して……」
多くの、みだれた跫音が、黎明の陽と共に、牢獄の中へ駈けこんだ。小笠原左近将監のすがた、奉行の榊原主計のすがた、舟辰、千吉のすがた、また加山耀蔵のすがたも、そこにあった。
人々は、血の垂るる、一箇の生首のもとどりを掴んで高くさし上げながら、正義の凱歌を揚げるように、声をあわせて告げた。
「老先生! 老先生! 羅門塔十郎は自殺しました。羅門は遂に自刃しました」
──だが、一代の名与力、塙江漢は、その人々の声も、今は遠いところに聞くように、片手を、郁次郎の手へあずけ、身は、雪のごとく真っ白い花嫁の膝に抱かれたまま、さも幸福そうに、すやすやと、死を迎えているのであった。
底本:「牢獄の花嫁」吉川英治歴史時代文庫、講談社
1990(平成2)年6月11日第1刷発行
1993(平成5)年11月19日第5刷発行
初出:「キング」大日本雄辯會講談社
1931(昭和6)年1月~12月
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
※「蟋蟀」に対するルビの「きりぎりす」と「こおろぎ」の混在は、底本通りです。
入力:川山隆
校正:トレンドイースト
2016年12月9日作成
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