にごりえ
樋口一葉




 おい木村さんしんさん寄つておいでよ、お寄りといつたら寄つてもいではないか、又素通りで二葉ふたばやへ行く気だらう、おしかけてつて引ずつて来るからさう思ひな、ほんとにおぶうなら帰りにきつとよつておくれよ、うそきだから何を言ふか知れやしないと店先に立つて馴染なじみらしきつツかけ下駄の男をとらへて小言こごとをいふやうな物の言ひぶり、腹も立たずか言訳しながら後刻のちに後刻にと行過ゆきすぎるあとを、一寸ちよつと舌打しながら見送つてのちにも無いもんだ来る気もない癖に、本当に女房もちに成つては仕方がないねと店に向つてしきいをまたぎながら一人言ひとりごとをいへば、たかちやん大分だいぶ御述懐ごじつかいだね、何もそんなに案じるにも及ぶまい焼棒杭やけぼつくいなにとやら、又よりの戻る事もあるよ、心配しないでまじなひでもして待つがいさと慰めるやうな朋輩ほうばい口振くちぶりりきちやんと違つてわたしには技倆うでが無いからね、一人でも逃しては残念さ、私しのやうな運の悪るい者には呪も何も聞きはしない、今夜も又木戸番か、何たら事だ面白くもないと肝癪かんしやくまぎれに店前みせさきへ腰をかけて駒下駄こまげたのうしろでとんとんと土間をるは二十の上を七つか十か引眉毛ひきまゆげに作り生際はへぎは白粉おしろいべつたりとつけてくちびるは人喰ふ犬のごとく、かくてはべにやらしき物なり、お力と呼ばれたるは中肉の背恰好せいかつかうすらりつとして洗ひ髪の大嶋田おほしまだに新わらのさわやかさ、ゑりもとばかりの白粉もえなく見ゆる天然の色白をこれみよがしにのあたりまで胸くつろげて、烟草たばこすぱすぱ長烟管ながぎせる立膝たてひざ無沙法ぶさはうさもとがめる人のなきこそよけれ、思ひ切つたる大形おほがた裕衣ゆかたひつかけ帯は黒繻子くろじゆすと何やらのまがひ物、ひらぐけが背の処に見えて言はずと知れしこのあたりの姉さま風なり、おたかといへるは洋銀のかんざしで天神がへしのまげの下をきながら思ひ出したやうに力ちやん先刻さつきの手紙お出しかといふ、はあと気のない返事をして、どうで来るのでは無いけれど、あれもお愛想さと笑つてゐるに、大底たいていにおしよ巻紙二尋ふたひろも書いて二枚切手の大封おほふうじがお愛想で出来る物かな、そしてあの人は赤坂以来からの馴染ではないか、少しやそつとの紛雑いざがあろうとも縁切れになつてたまる物か、お前の出かた一つでどうでもなるに、ちつとは精を出して取止めるやうに心がけたらかろ、あんまり冥利めうりがよくあるまいと言へば御親切に有がたう、御異見は承り置ましてわたしはどうもあんな奴は虫が好かないから、無き縁とあきらめて下さいと人事のやうにいへば、あきれたものだのと笑つてお前などはその我ままが通るから豪勢さ、この身になつては仕方がないと団扇うちはを取つて足元をあふぎながら、昔しは花よの言ひなし可笑をかしく、表を通る男を見かけて寄つてお出でと夕ぐれの店先にぎはひぬ。

 店は二けん間口の二階作り、軒には御神燈さげてじほ景気よく、空壜あきびんか何か知らず、銘酒あまた棚の上にならべて帳場めきたる処もみゆ、勝手元には七輪をあほぐ音折々に騒がしく、女主あるじが手づから寄せなべ茶椀ちやわんむし位はなるも道理ことわり、表にかかげし看板を見れば子細らしく御料理おんりようりとぞしたためける、さりとて仕出し頼みにゆきたらば何とかいふらん、にはか今日こんにち品切れもをかしかるべく、女ならぬお客様は手前店へお出かけを願ひまするとも言ふにかたからん、世は御方便や商売がらを心得て口取り焼肴やきざかなとあつらへに来る田舎ものもあらざりき、お力といふはこのの一枚看板、年は随一若けれども客を呼ぶに妙ありて、さのみは愛想の嬉しがらせを言ふやうにもなく我まま至極の身の振舞、少し容貌きりようの自慢かと思へば小面こづらが憎くいと蔭口かげぐちいふ朋輩もありけれど、交際つきあつては存のほかやさしい処があつて女ながらも離れともない心持がする、ああ心とて仕方のないものおもざしが何処どことなくへて見へるはあの子の本性が現はれるのであらう、たれしも新開しんかい這入はいるほどの者で菊の井のお力を知らぬはあるまじ、菊の井のお力か、お力の菊の井か、さても近来まれの拾ひもの、あののお蔭で新開の光りが添はつた、かかぬしは神棚へささげて置いてもいとて軒並びのうらやみぐさになりぬ。

 お高は往来ゆききの人のなきを見て、力ちやんお前の事だから何があつたからとて気にしてもゐまいけれど、私は身につまされてげんさんの事が思はれる、それは今の身分に落ぶれては根つから宜いお客ではないけれども思ひ合ふたからには仕方がない、年がちがをが子があろがさ、ねへさうではないか、お内儀かみさんがあるといつて別れられる物かね、かまふ事はない呼出しており、私しのなぞといつたら野郎が根から心替りがして顔を見てさへ逃げ出すのだから仕方がない、どうであきらめ物で別口へかかるのだがお前のはそれとは違ふ、了簡りようけん一つでは今のお内儀かみさんに三下みくだはんをも遣られるのだけれど、お前は気位が高いから源さんと一処ひとつにならうとは思ふまい、それだものなほの事呼ぶ分に子細があるものか、手紙をお書き今に三河やの御用聞きが来るだろうからあの子僧に使ひやさんをせるがい、なんの人お嬢様ではあるまいし御遠慮ばかりまをしてなる物かな、お前は思ひ切りが宜すぎるからいけないともかく手紙をやつて御覧、源さんも可愛さうだわなと言ひながらお力を見れば烟管掃除に余念のなきか俯向うつむきたるまま物いはず。

 やがて雁首がんくびを奇麗にいて一服すつてポンとはたき、又すいつけてお高に渡しながら気をつけておくれ店先で言はれると人聞きが悪いではないか、菊の井のお力は土方の手伝ひを情夫まぶに持つなどと考違かんちがへをされてもならない、それは昔しの夢がたりさ、何の今は忘れてしまつてげんとも七とも思ひ出されぬ、もうその話しはめ止めといひながら立あがる時表を通る兵児帯へこおびの一むれ、これ石川さん村岡さんお力の店をお忘れなされたかと呼べば、いや相変らず豪傑の声がかり、素通りもなるまいとてずつと這入るに、たちまち廊下にばたばたといふ足おと、ねへさんお銚子と声をかければ、お肴は何をと答ふ、三味さみ景気よく聞えて乱舞の足音これよりぞ聞えそめぬ。



 さる雨の日のつれづれに表を通る山高帽子の三十男、あれなりとらずんばこの降りに客の足とまるまじとお力かけ出してたもとにすがり、どうでも遣りませぬと駄々をこねれば、容貌きりようよき身の一徳、例になき子細らしきお客を呼入れて二階の六畳に三味線さみせんなしのしめやかなる物語、年を問はれて名を問はれてその次は親もとの調べ、士族かといへばそれは言はれませぬといふ、平民かと問へばどうござんしようかと答ふ、そんなら華族と笑ひながら聞くに、まあさうおもふてゐて下され、お華族の姫様ひいさまが手づからのお酌、かたじけなく御受けなされとて波々とつぐに、さりとは無左法ぶさはうな置つぎといふが有る物か、それは小笠原か、何流ぞといふに、お力流とて菊の井一家の左法、畳に酒のまする流気りうぎもあれば、大平おほひらふたであほらする流気もあり、いやなお人にはお酌をせぬといふが大詰めのきまりでござんすとておくしたるさまもなきに、客はいよいよ面白がりて履歴をはなして聞かせよ定めてすさましい物語があるに相違なし、ただの娘あがりとは思はれぬどうだとあるに、御覧なさりませびんの間に角も生へませず、そのやうに甲羅は経ませぬとてころころと笑ふを、さうぬけてはいけぬ、真実の処を話して聞かせよ、素性が言へずは目的でもいへとて責める、むづかしうござんすね、いふたら貴君あなたびつくりなさりましよ天下を望む大伴おほとも黒主くろぬしとはわたしが事とていよいよ笑ふに、これはどうもならぬそのやうに茶利ちやりばかり言はで少し真実しんの処を聞かしてくれ、いかに朝夕てうせきを嘘の中に送るからとてちつとは誠も交るはづ良人おつとはあつたか、それとも親ゆゑかとしんに成つて聞かれるにお力かなしく成りて、私だとて人間でござんすほどに少しは心にしみる事もありまする、親は早くになくなつて今は真実ほんの手と足ばかり、こんな者なれど女房に持たうといふて下さるも無いではなけれどだ良人をば持ませぬ、どうで下品に育ちました身なればこんな事して終るのでござんしよと投出したやうなことばに無量の感があふれてあだなる姿の浮気らしきに似ず一ふしさむろう様子のみゆるに、何も下品に育つたからとて良人の持てぬ事はあるまい、ことにお前のやうな別品べつぴんさむではあり、一そくとびにたま輿こしにも乗れさうなもの、それともそのやうな奥様あつかひ虫が好かでやはり伝法肌でんぽうはだの三尺帯が気に入るかなと問へば、どうで其処そこらがおちでござりましよ、此方こちらで思ふやうなは先様がいやなり、来いといつて下さるお人の気に入るもなし、浮気のやうに思召おぼしめしましようがその日送りでござんすといふ、いやさうは言はさぬ相手のない事はあるまい、今店先でれやらがよろしく言ふたとほかの女が言伝ことづてたでは無いか、いづれ面白い事があらう何とだといふに、ああ貴君あなたもいたり穿索せんさくなさります、馴染はざら一面、手紙のやりとりは反古ほごの取かへツこ、書けとおつしやれば起証でも誓紙でもお好み次第さし上ませう、女夫めをとやくそくなどと言つても此方こちで破るよりは先方様さきさまの性根なし、主人もちなら主人がこわく親もちなら親の言ひなり、振向ひて見てくれねば此方こちらも追ひかけて袖を捉らへるに及ばず、それならせとてそれぎりに成りまする、相手はいくらもあれども一生を頼む人が無いのでござんすとて寄る辺なげなる風情ふぜい、もうこんな話しは廃しにして陽気にお遊びなさりまし、私は何も沈んだ事は大嫌ひ、さわいでさわいで騒ぎぬかうと思ひますとて手をたたいて朋輩を呼べば力ちやん大分おしめやかだねと三十女の厚化粧が来るに、おいこのの可愛い人は何といふ名だと突然だしぬけに問はれて、はあ私はまだお名前を承りませんでしたといふ、嘘をいふと盆が来るに焔魔様ゑんまさまへお参りが出来まいぞと笑へば、それだとつて貴君今日お目にかかつたばかりでは御坐りませんか、今改めて伺ひに出やうとしてゐましたといふ、それは何の事だ、貴君のお名をさと揚げられて、馬鹿々々お力が怒るぞと大景気、無駄ばなしの取りやりに調子づいて旦那のお商売を当て見ませうかとお高がいふ、何分なにぶん願ひますと手のひらを差出せば、いゑそれには及びませぬ人相で見まするとて如何いかにもおちつきたる顔つき、よせよせじつと眺められて棚おろしでも始まつてはたまらぬ、かう見えても僕は官員だといふ、嘘を仰しやれ日曜のほかに遊んであるく官員様があります物か、力ちやんまあ何でいらつしやらうといふ、化物ではいらつしやらないよと鼻の先で言つて分つた人に御褒賞ごほうびだと懐中ふところから紙入れをいだせば、お力笑ひながら高ちやん失礼をいつてはならないこのお方は御大身ごたいしんの御華族様おしのびあるきの御遊興さ、何の商売などがおありなさらう、そんなのでは無いと言ひながら蒲団ふとんの上に乗せて置きし紙入れを取あげて、お相方あいかたの高尾にこれをばお預けなされまし、みなの者に祝義でもつかはしませうとて答へも聞かずずんずんと引出ひきいだすを、客は柱に寄かかつて眺めながら小言もいはず、諸事おまかせ申すと寛大の人なり。

 お高はあきれて力ちやん大底におしよといへども、何いのさ、これはお前にこれは姉さんに、大きいので帳場の払ひを取つて残りは一同みんなにやつても宜いと仰しやる、お礼をまをして頂いてお出でと蒔散まきちらせば、これをこのの十八番に馴れたる事とてさのみは遠慮もいふてはゐず、旦那よろしいのでございますかと駄目を押して、有がたうございますときさらつて行くうしろ姿、十九にしてはけてるねと旦那どの笑ひ出すに、人の悪るい事を仰しやるとてお力はつて障子を明け、手摺てすりに寄つて頭痛をたたくに、お前はどうする金は欲しくないかと問はれて、私は別にほしい物がござんした、此品これさへ頂けば何よりと帯の間から客の名刺をとり出して頂くまねをすれば、何時いつの間に引出した、お取かへには写真をくれとねだる、この次の土曜日に来て下されば御一処にうつしませうとて帰りかかる客をさのみは止めもせず、うしろに廻りて羽織をきせながら、今日は失礼を致しました、またのおいでを待ますといふ、おい程の宜い事をいふまいぞ、空誓文そらせいもんは御免だと笑ひながらさつさつと立つて階段はしごを下りるに、お力帽子を手にしてうしろから追ひすがり、嘘か誠か九十九の辛棒をなさりませ、菊の井のお力は鋳型いがたに入つた女でござんせぬ、又なりのかはる事もありまするといふ、旦那お帰りと聞て朋輩の女、帳場の女主あるじもかけ出して唯今は有がたうと同音の御礼、頼んで置いた車がしとてからして乗り出せば、家中うちぢう表へ送り出してお出を待まするの愛想、御祝義の余光ひかりとしられて、あとには力ちやん大明神様これにも有がたうの御礼山々。



 客は結城朝之助ゆふきとものすけとて、自ら道楽ものとは名のれども実体じつていなる処折々に見えて身は無職業妻子なし、遊ぶに屈強なる年頃なればにやこれを初めに一週には二三度の通ひ、お力も何処どことなくなつかしく思ふかして三日見えねばふみをやるほどの様子を、朋輩ほうばい女子おんなども岡焼ながらからかひては、力ちやんお楽しみであらうね、男振おとこぶりはよし気前はよし、今にあの方は出世をなさるに相違ない、その時はお前の事を奥様とでもいふのであらうに今つから少し気をつけて足を出したり湯呑ゆのみであほるだけはめにおし人がらが悪いやねと言ふもあり、源さんが聞たらどうだらう気違ひになるかも知れないとて冷評ひやかすもあり、ああ馬車にのつて来る時都合が悪るいから道普請からしてもらいたいね、こんな溝板どぶいたのがたつく様な店先へそれこそ人がらがわろくて横づけにもされないではないか、お前方ももう少しお行義を直してお給仕に出られるやう心がけておくれとずばずばといふに、ヱヱ憎くらしいそのものいひを少し直さずは奥様らしく聞へまい、結城さんが来たら思ふさまいふて、小言をいはせて見せようとて朝之助の顔を見るよりこんな事を申てゐまする、どうしても私共の手にのらぬやんちやなれば貴君あなたからしかつて下され、第一湯呑みで呑むは毒でござりましよと告口つげぐちするに、結城は真面目になりてお力酒だけは少しひかへろとの厳命、ああ貴君のやうにもないお力が無理にも商売してゐられるはこのちからと思し召さぬか、私に酒気さかけが離れたら坐敷は三昧堂さんまいどうのやうに成りませう、ちつと察して下されといふに成程々々とて結城は二ごんといはざりき。

 或る夜の月にした坐敷へは何処やらの工場の一れ、どんぶりたたいて甚九じんくかつぽれの大騒ぎに大方の女子おなごは寄集まつて、例の二階の小坐敷には結城とお力の二人ぎりなり、朝之助は寝ころんで愉快らしく話しを仕かけるを、お力はうるささうに生返事をして何やらん考へてゐる様子、どうかしたか、又頭痛でもはじまつたかと聞かれて、何頭痛も何もしませぬけれどしきりに持病が起つたのですといふ、お前の持病は肝癪かんしやくか、いいゑ、血の道か、いいゑ、それでは何だと聞かれて、どうも言ふ事は出来ませぬ、でもほかの人ではなし僕ではないかどんな事でも言ふて宜さそうなもの、まあ何の病気だといふに、病気ではござんせぬ、唯こんな風になつてこんな事を思ふのですといふ、困つた人だな種々いろいろ秘密があると見える、おとつさんはと聞けば言はれませぬといふ、おつかさんはと問へばそれも同じく、これまでの履歴はといふに貴君には言はれぬといふ、まあうそでもいさよしんば作り言にしろ、かういふ身の不幸ふしあはせだとか大底のひとはいはねばならぬ、しかも一度や二度あふのではなしその位の事を発表しても子細はなからう、よし口に出して言はなからうともお前に思ふ事がある位めくら按摩あんまに探ぐらせても知れた事、聞かずとも知れてゐるが、それをば聞くのだ、どつち道同じ事だから持病といふのを先きに聞きたいといふ、およしなさいまし、お聞きになつてもつまらぬ事でござんすとてお力は更に取あはず。

 折から下坐敷より杯盤を運びきし女の何やらお力に耳打してともかくも下までおいでよといふ、いや行きたくないからよしておくれ、今夜はお客が大変に酔ひましたからお目にかかつたとてお話しも出来ませぬと断つておくれ、ああ困つた人だねとまゆを寄せるに、お前それでもいのかへ、はあ宜いのさとてひざの上でばちもてあそべば、女は不思議さうに立つてゆくを客は聞すまして笑ひながら御遠慮には及ばない、つて来たら宜からう、何もそんなに体裁には及ばぬではないか、可愛い人を素戻すもどしもひどからう、追ひかけて逢ふが宜い、何なら此処へでも呼び給へ、片隅へ寄つて話しの邪魔はすまいからといふに、串談じようだんはぬきにして結城さん貴君に隠くしたとて仕方がないからまをしますが町内で少しははばもあつた蒲団やの源七といふ人、久しい馴染なじみでござんしたけれど今は見るかげもなく貧乏して八百屋の裏の小さなうちにまいまいつぶろの様になつていまする、女房にようぼもあり子供もあり、私がやうな者に逢ひに来るとしではなけれど、縁があるかいまだに折ふし何のかのといつて、今も下坐敷へ来たのでござんせう、何も今さら突出すといふ訳ではないけれど逢つては色々面倒な事もあり、寄らずさわらず帰した方が好いのでござんす、恨まれるは覚悟の前、鬼だとも蛇だとも思ふがようござりますとて、撥を畳に少し延びあがりて表を見おろせば、何と姿が見えるかとなぶる、ああもう帰つたと見えますとて茫然ぼんとしてゐるに、持病といふのはそれかと切込まれて、まあそんな処でござんせう、お医者様でも草津の湯でもと薄淋うすさびしく笑つてゐるに、御本尊を拝みたいな俳優やくしやで行つたら誰れの処だといへば、見たら吃驚びつくりでござりませう色の黒い背の高い不動さまの名代といふ、では心意気かと問はれて、こんな店で身上しんしやうはたくほどの人、人のいばかり取得とては皆無でござんす、面白くも可笑をかしくも何ともない人といふに、それにお前はどうして逆上のぼせた、これは聞き処と客は起かへる、大方逆上性のぼせせうなのでござんせう、貴君の事をもこの頃は夢に見ないはござんせぬ、奥様のお出来なされた処を見たり、ぴつたりと御出のとまつた処を見たり、まだまだ一層もつとかなしい夢を見て枕紙まくらがみがびつしよりに成つた事もござんす、高ちやんなぞは夜るるからとても枕を取るよりはやくいびきの声たかく、い心持らしいがどんなに浦山うらやましうござんせう、私はどんな疲れた時でも床へ這入はいると目がへてそれはそれは色々の事を思ひます、貴君は私に思ふ事があるだらうと察してゐて下さるから嬉しいけれど、よもや私が何をおもふかそれこそはお分りに成りますまい、考へたとて仕方がないゆゑ人前ばかりの大陽気、菊の井のお力はゆきぬけの締りなしだ、苦労といふ事はしるまいと言ふお客様もござります、ほんに因果とでもいふものか私が身位かなしい者はあるまいと思ひますとて潜然さめざめとするに、珍らしい事陰気のはなしを聞かせられる、慰めたいにも本末もとすゑをしらぬからはうがつかぬ、夢に見てくれるほどじつがあらば奥様にしてくれろ位いひそうな物だに根つからお声がかりも無いはどういふ物だ、古風に出るがそでふり合ふもさ、こんな商売をいやだと思ふなら遠慮なく打明けばなしをるが宜い、僕は又お前のやうな気ではいつそ気楽だとかいふ考へで浮いて渡る事かと思つたに、それでは何か理屈があつてむを得ずといふ次第か、苦しからずは承りたい物だといふに、貴君には聞いて頂かうとこの間から思ひました、だけれども今夜はいけませぬ、何故々々なぜなぜ、何故でもいけませぬ、私が我まま故、まをすまいと思ふ時はどうしても嫌やでござんすとて、ついと立つてえんがはへいづるに、雲なき空の月かげ涼しく、見おろす町にからころ駒下駄こまげたの音さしてゆきかふ人のかげ分明あきらかなり、結城さんと呼ぶに、何だとてそばへゆけば、まあ此処へお座りなさいと手を取りて、あの水菓子屋で桃を買ふ子がござんしよ、可愛らしき四つばかりの、彼子あれ先刻さつきの人のでござんす、あの小さな子心こごころにもよくよく憎くいと思ふと見えて私の事をば鬼々といひまする、まあそんな悪者に見えまするかとて、空を見あげてホツと息をつくさま、こらへかねたる様子は五いんの調子にあらはれぬ。



 同じ新開の町はづれに八百屋と髪結床かみゆひどこ庇合ひあはひのやうな細露路、雨が降る日は傘もさされぬ窮屈さに、足もととては処々ところどころ溝板どぶいたの落し穴あやふげなるを中にして、両側に立てたる棟割むねわり長屋、突当りの芥溜ごみためわきに尺二けんあががまち朽ちて、雨戸はいつも不用心のたてつけ、さすがに一方口いつぱうぐちにはあらで山の手の仕合しやわせは三尺ばかりの椽の先に草ぼうぼうの空地面、それがはじを少し囲つて青紫蘇あをぢそ、ゑぞ菊、隠元豆のつるなどを竹のあら垣にからませたるがお力が処縁の源七が家なり、女房はおはつといひて二十八か九にもなるべし、貧にやつれたれば七つも年の多く見えて、お歯黒はぐろはまだらに生へ次第の眉毛まゆげみるかげもなく、洗ひざらしの鳴海なるみ裕衣ゆかたを前と後を切りかへて膝のあたりは目立ぬやうに小針のつぎ当、狭帯せまおびきりりと締めて蝉表せみおもての内職、盆前よりかけて暑さの時分をこれが時よと大汗になりての勉強せはしなく、そろへたるとうを天井から釣下げて、しばしの手数も省かんとて数のあがるを楽しみに脇目わきめもふらぬ様あはれなり。もう日が暮れたに太吉たきちは何故かへつて来ぬ、源さんも又何処どこを歩いてゐるかしらんとて仕事を片づけて一服吸つけ、苦労らしく目をぱちつかせて、更に土瓶どびんの下を穿ほぢくり、蚊いぶし火鉢に火を取分けて三尺の椽に持出もちいだし、拾ひ集めの杉の葉をかぶせてふうふうと吹立ふきたつれば、ふすふすとけぶりたちのぼりて軒場のきばにのがれる蚊の声すさまじし、太吉はがたがたと溝板の音をさせてかかさん今戻つた、おとつさんも連れて来たよと門口かどぐちから呼立よびたつるに、大層おそいではないかお寺の山へでもゆきはしないかとどの位案じたらう、早くお這入はいりといふに太吉を先に立てて源七は元気なくぬつと上る、おやお前さんお帰りか、今日はどんなに暑かつたでせう、定めて帰りが早からうと思うて行水を沸かして置ました、ざつと汗を流したらどうでござんす、太吉もおぶうに這入なといへば、あいと言つて帯を解く、お待お待、今加減を見てやるとて流しもとにたらいを据へてかまの湯を汲出くみいだし、かき廻して手拭てぬぐひを入れて、さあお前さんこの子をもいれて遣つて下され、何をぐたりとておいでなさる、暑さにでも障りはしませぬか、さうでなければ一杯あびて、さつぱりに成つて御膳あがれ、太吉が待つてゐますからといふに、おおさうだと思ひ出したやうに帯を解いて流しへ下りれば、そぞろに昔しの我身が思はれて九尺二間の台処で行水つかふとは夢にも思はぬもの、ましてや土方の手伝ひして車の跡押あとおしにと親はうみつけても下さるまじ、ああつまらぬ夢を見たばかりにと、ぢつと身にしみて湯もつかはねば、とつちやん脊中せなか洗つておくれと太吉は無心に催促する、お前さん蚊が喰ひますから早々さつさつとお上りなされと妻も気をつくるに、おいおいと返事しながら太吉にも遣はせ我れも浴びて、上にあがれば洗ひざらせしさばさばの裕衣を出して、お着かへなさいましと言ふ、帯まきつけて風のく処へゆけば、妻は能代のしろの膳のはげかかりて足はよろめく古物に、お前の好きな冷奴ひややつこにしましたとて小丼こどんぶりに豆腐を浮かせて青紫蘇のたかく持出せば、太吉は何時いつしか台より飯櫃めしびつ取おろして、よつちよいよつちよいかつぎ出す、坊主はれがそばに来いとてつむりでつつはしを取るに、心は何を思ふとなけれど舌に覚えの無くてのどの穴はれたるごとく、もうめにするとて茶椀ちやわんを置けば、そんな事があります物か、力業ちからわざをする人が三膳の御飯のたべられぬと言ふ事はなし、気合ひでも悪うござんすか、それともひどく疲れてかと問ふ、いや何処も何とも無いやうなれどただたべる気にならぬといふに、妻は悲しさうな目をしてお前さん又例のが起りましたらう、それは菊の井の鉢肴はちざかなうまくもありましたらうけれど、今の身分で思ひ出した処が何となりまする、先は売物買物お金さへ出来たら昔しのやうに可愛がつてもくれませう、表を通つて見ても知れる、白粉おしろいつけて衣類きものきて迷ふて来る人をれかれなしに丸めるがあの人達が商売、ああれが貧乏に成つたからかまいつけてくれぬなと思へば何の事なくすみましよう、恨みにでも思ふだけがお前さんが未練でござんす、裏町の酒屋の若い者知つておいでなさらう、二葉やのおかくしんから落込んで、かけ先を残らず使ひ込み、それを埋めやうとて雷神虎らいじんとら盆筵ぼんござはしについたが身の詰り、次第に悪るい事がみてしまひには土蔵やぶりまでしたさうな、当時いま男は監獄入りしてもつそうめしたべていやうけれど、相手のお角は平気なもの、おもしろ可笑をかしく世を渡るにとがめる人なく美事みごと繁昌してゐまする、あれを思ふに商売人の一徳、だまされたは此方こちらの罪、考へたとて始まる事ではござんせぬ、それよりは気を取直して稼業かげふに精を出して少しの元手もこしらへるやうに心がけて下され、お前に弱られては私もこの子もどうする事もならで、それこそ路頭に迷はねば成りませぬ、男らしく思ひ切る時あきらめてお金さへ出来ようならお力はおろか小紫こむらさきでも揚巻あげまきでも別荘こしらへて囲うたら宜うござりましよう、もうそんな考へ事はめにして機嫌よく御膳あがつて下され、坊主までが陰気らしう沈んでしまいましたといふに、みれば茶椀と箸を其処そこに置いて父と母との顔をば見くらべて何とは知らず気になる様子、こんな可愛い者さへあるに、あのやうなたぬきの忘れられぬは何の因果かと胸の中かき廻されるやうなるに、我れながら未練ものめとしかりつけて、いやれだとてその様に何時いつまでも馬鹿ではいぬ、お力などと名ばかりもいつてくれるな、いはれると以前もと不出来ふでかしを考へ出していよいよ顔があげられぬ、何のこの身になつて今更何をおもふ物か、めしがくへぬとてもそれは身体からだの加減であらう、何も格別案じてくれるには及ばぬ故小僧も十分にやつてくれとて、ころりと横になつて胸のあたりをはたはたと打あふぐ、蚊遣かやりけむりにむせばぬまでも思ひにもえて身の暑げなり。



 白鬼しろおにとは名をつけし、無間むげん地獄のそこはかとなく景色づくり、何処にからくりのあるとも見えねど、逆さ落しの血の池、借金の針の山に追ひのぼすも手の物ときくに、寄つてお出でよと甘へる声も蛇くふ雉子きぎすと恐ろしくなりぬ、さりとも胎内十月とつきの同じ事して、母の乳房にすがりし頃は手打々々てうちてうちあわわの可愛げに、紙幣さつと菓子との二つ取りにはおこしをおくれと手を出したる物なれば、今の稼業に誠はなくとも百人の中の一人に真からの涙をこぼして、聞いておくれ染物やのたつさんが事を、昨日きのふも川田やが店でおちやつぴいのお六めと悪戯ふざけまわして、見たくもない往来へまで担ぎ出して打ちつ打たれつ、あんな浮いた了簡りようけんで末が遂げられやうか、まあ幾歳いくつだとおもふ三十は一昨年おととしい加減にうちでも拵へる仕覚しがくをしておくれとふ度に異見をするが、その時限りおいおいとそら返事して根つから気にも止めてはくれぬ、とつさんは年をとつて、ははさんと言ふは目の悪るい人だから心配をさせないやうに早く締つてくれればいが、わたしはこれでもあの人の半纒はんてんをば洗濯して、股引ももひきのほころびでも縫つて見たいと思つてゐるに、あんな浮いた心では何時引取つてくれるだらう、考へるとつくづく奉公がやになつてお客を呼ぶに張合もない、ああくさくさするとて常は人をもだます口で人のらきを恨みの言葉、頭痛を押へて思案に暮れるもあり、ああ今日は盆の十六日だ、お焔魔様ゑんまさまへのお参りに連れ立つて通る子供達の奇麗な着物きて小遣こづかひもらつて嬉しさうな顔してゆくは、定めて定めて二人そろつて甲斐性かひせうのある親をば持つてゐるのであろ、私が息子の与太郎よたらうは今日の休みに御主人から暇が出て何処へつてどんな事して遊ばうとも定めし人がうらやましかろ、ととさんはのみぬけ、いまだに宿とても定まるまじく、母はこんな身になつて恥かしい紅白粉、よし居処が分つたとてあの子は逢ひに来てもくれまじ、去年向島むかふじまの花見の時女房づくりして丸髷まるまげに結つて朋輩ほうばいと共に遊びあるきしに土手の茶屋であの子に逢つて、これこれと声をかけしにさへ私の若くなりしにあきれて、おつかさんでござりますかと驚きし様子、ましてやこの大島田に折ふしは時好じこう花簪はなかんざしさしひらめかしてお客をらへて串談じようだんいふ処を聞かば子心には悲しくも思ふべし、去年あひたる時今は駒形こまかた蝋燭ろうそくやに奉公してゐまする、私はどんならき事ありとも必らず辛抱しとげて一人前の男になり、ととさんをもお前をも今に楽をばおせ申ます、どうぞそれまで何なりと堅気かたぎの事をして一人で世渡りをしてゐて下され、人の女房にだけはならずにゐて下されと異見を言はれしが、悲しきは女子をなごの身の寸燐まつちの箱はりして一人口ひとりぐちすぐしがたく、さりとて人の台処を這ふも柔弱の身体からだなれば勤めがたくて、同じき中にも身の楽なれば、こんな事して日を送る、夢さら浮いた心では無けれど言甲斐いひがひのないお袋とあの子は定めしつまはじきするであらう、常は何とも思はぬ島田が今日ばかりは恥かしいと夕ぐれの鏡の前になみだぐむもあるべし、菊の井のお力とても悪魔の生れ替りにはあるまじ、さる子細あればこその流れに落こんでうそのありたけ串談にその日を送つて、なさけ吉野紙よしのがみの薄物に、ほたるの光ぴつかりとするばかり、人の涕は百年も我まんして、我ゆゑ死ぬる人のありとも御愁傷さまとわきを向くつらさ他処目よそめも養ひつらめ、さりとも折ふしは悲しき事恐ろしき事胸にたたまつて、泣くにも人目を恥れば二階座敷の床の間に身をなげふして忍びの憂き涕、これをば友朋輩にもらさじと包むに根生こんぜうのしつかりした、気のつよい子といふ者はあれど、障れば絶ゆるくもの糸のはかない処を知る人はなかりき、七月十六日のは何処の店にも客人きやくじん入込いりこみて都々一どどいつ端歌はうたの景気よく、菊の井のした座敷にはお店者たなもの五六人寄集まりて調子の外れし紀伊きいくに、自まんも恐ろしき胴間声どうまごゑかすみころも衣紋坂ゑもんざかと気取るもあり、力ちやんはどうした心意気を聞かせないか、やつたやつたと責められるに、お名はささねどこの坐の中にと普通ついツとほりの嬉しがらせを言つて、やんややんやと喜ばれる中から、我恋は細谷川ほそだにがはの丸木橋わたるにやこわし渡らねばとうたひかけしが、何をか思ひ出したやうにああ私は一寸ちよツと無礼しつれいをします、御免なさいよとて三味線さみせんを置いて立つに、何処へゆく何処へゆく、逃げてはならないと坐中の騒ぐにてーちやん高さん少し頼むよ、き帰るからとてずつと廊下へ急ぎ足にいでしが、何をも見かへらず店口から下駄を履いて筋向ふの横町のやみへ姿をかくしぬ。

 お力は一散に家を出て、行かれる物ならこのままに唐天竺からてんぢくの果までも行つてしまいたい、ああ嫌だ嫌だ嫌だ、どうしたなら人の声も聞えない物の音もしない、静かな、静かな、自分の心も何もぼうつとして物思ひのないところかれるであらう、つまらぬ、くだらぬ、面白くない、情ない悲しい心細い中に、何時いつまで私は止められてゐるのかしら、これが一生か、一生がこれか、ああ嫌だ嫌だと道端の立木へ夢中に寄かかつて暫時しばらくそこに立どまれば、渡るにや怕し渡らねばと自分の謳ひし声をそのまま何処ともなく響いて来るに、仕方がないやつぱり私も丸木橋をば渡らずはなるまい、ととさんも踏かへして落ておしまいなされ、祖父おぢいさんも同じ事であつたといふ、どうで幾代もの恨みを背負せおうて出た私なればるだけの事はしなければ死んでも死なれぬのであらう、情ないとてもれも哀れと思ふてくれる人はあるまじく、悲しいと言へば商売がらを嫌ふかと一ト口に言はれてしまう、ゑゑどうなりとも勝手になれ、勝手になれ、私には以上考へたとて私の身の行き方は分らぬなれば、分らぬなりに菊の井のお力を通してゆかう、人情しらず義理しらずかそんな事も思ふまい、思ふたとてどうなる物ぞ、こんな身でこんな業体げうていで、こんな宿世すくせで、どうしたからとて人並みでは無いに相違なければ、人並の事を考へて苦労するだけ間違ひであろ、ああ陰気らしい何だとてこんな処に立つてゐるのか、何しにこんなとこへ出て来たのか、馬鹿らしい気違じみた、我身ながら分らぬ、もうもうかへりませうとて横町の闇をば出はなれて夜店の並ぶにぎやかなる小路こうぢを気まぎらしにとぶらぶら歩るけば、行かよふ人の顔小さく小さく擦れ違ふ人の顔さへもはるかとほくに見るやう思はれて、我が踏む土のみ一丈も上にあがりゐるごとく、がやがやといふ声は聞ゆれど井の底に物を落したる如き響きに聞なされて、人の声は、人の声、我が考へは考へと別々に成りて、更に何事にも気のまぎれる物なく、人立ひとだちおびただしき夫婦めをとあらそひの軒先のきさきなどを過ぐるとも、ただ我れのみは広野ひろのの原の冬枯れを行くやうに、心に止まる物もなく、気にかかる景色にも覚えぬは、我れながらひど逆上のぼせて人心のないのにと覚束おぼつかなく、気が狂ひはせぬかと立どまる途端、お力何処へ行くとて肩を打つ人あり。



 十六日は必らず待まする来て下されと言ひしをも何も忘れて、今まで思ひ出しもせざりし結城の朝之助に不図ふと出合であひて、あれと驚きし顔つきの例に似合ぬ狼狽あわてかたがをかしきとて、からからと男の笑ふに少し恥かしく、考へ事をして歩いてゐたれば不意のやうにあはててしまいました、よく今夜は来て下さりましたと言へば、あれほど約束をして待てくれぬは不心中ふしんぢうとせめられるに、何なりとおつしやれ、言訳はのちにしまするとて手を取りて引けば弥次馬がうるさいと気をつける、どうなり勝手に言はせませう、此方こちらは此方と人中ひとなかを分けて伴ひぬ。

 下座敷はいまだに客の騒ぎはげしく、お力の中座をしたるに不興ぶきようしてやかましかりし折から、店口にておやおかへりかの声を聞くより、客を置ざりに中坐するといふ法があるか、皈つたらば此処へ来い、顔を見ねば承知せぬぞと威張たてるを聞流しに二階の座敷へ結城を連れあげて、今夜も頭痛がするので御酒ごしゆの相手は出来ませぬ、大勢の中に居れば御酒のに酔ふて夢中になるも知れませぬから、少し休んでそののちは知らず、今は御免なさりませと断りを言ふてやるに、それで宜いのか、怒りはしないか、やかましくなれば面倒であらうと結城が心づけるを、何のおたなものの白瓜しろうりがどんな事を仕出しいだしませう、怒るなら怒れでござんすとて小女こをんなに言ひつけてお銚子の支度、来るをば待かねて結城さん今夜は私に少し面白くない事があつて気が変つてゐまするほどにその気で附合てゐて下され、御酒を思ひ切つてみまするから止めて下さるな、酔ふたらば介抱して下されといふに、君が酔つたをいまだに見た事がない、気が晴れるほど呑むはいが、又頭痛がはじまりはせぬか、何がそんなに逆鱗げきりんにふれた事がある、僕らに言つては悪るい事かと問はれるに、いゑ貴君あなたには聞て頂きたいのでござんす、酔ふとまをしますから驚いてはいけませぬと嫣然につこりとして、大湯呑を取よせて二三杯は息をもつかざりき。

 常にはさのみに心も留まらざりし結城の風采やうす今宵こよひは何となく尋常なみならず思はれて、肩巾かたはばのありて背のいかにも高き処より、落ついて物をいふ重やかなる口振り、目つきのすごくて人を射るやうなるも威厳の備はれるかと嬉しく、濃き髪の毛を短かく刈あげて頸足ゑりあしのくつきりとせしなど今更のやうに眺られ、何をうつとりしてゐると問はれて、貴君のお顔を見てゐますのさと言へば、此奴こやつめがとにらみつけられて、おおこわいお方と笑つてゐるに、串談じやうだんはのけ、今夜は様子が唯でない聞たら怒るか知らぬが何か事件があつたかととふ、何しに降つていた事もなければ、人との紛雑いざなどはよし有つたにしろそれは常の事、気にもかからねば何しに物を思ひませう、私の時より気まぐれを起すは人のするのでは無くて皆心がらの浅ましい訳がござんす、私はこんないやしい身の上、貴君は立派なお方様、思ふ事は反対うらはらにお聞きになつてもんで下さるか下さらぬか其処そこほどは知らねど、よし笑ひ物になつても私は貴君に笑ふて頂きたく、今夜は残らず言ひまする、まあ何から申さう胸がもめて口がかれぬとて又もや大湯呑に呑む事さかんなり。

 何より先に私が身の自堕落を承知してゐて下され、もとより箱入りの生娘きむすめならねば少しは察してもゐて下さろうが、口奇麗な事はいひますともこのあたりの人に泥の中のはすとやら、悪業わるさに染まらぬ女子おなごがあらば、繁昌どころか見に来る人もあるまじ、貴君は別物、私が処へ来る人とても大底たいていはそれとおぼしめせ、これでも折ふしは世間さま並の事を思ふて恥かしい事つらい事情ない事とも思はれるもいつそ九尺二間でもまつた良人おつとといふに添うて身を固めようと考へる事もござんすけれど、それが私は出来ませぬ、それかと言つて来るほどのお人に無愛想もなりがたく、可愛いの、いとしいの、見初みそめましたのと出鱈目でたらめのお世辞をも言はねばならず、数の中にはにうけてこんな厄種やくざ女房にようぼにと言ふて下さる方もある、持たれたら嬉しいか、添うたら本望か、それが私は分りませぬ、そもそもの最初はじめから私は貴君が好きで好きで、一日お目にかからねば恋しいほどなれど、奥様にと言ふて下されたらどうでござんしよか、持たれるは嫌なり他処よそながらは慕はしし、一ト口に言はれたら浮気者でござんせう、ああこんな浮気者にはれがしたと思召おぼしめす、三代伝はつての出来そこね、親父おやぢが一生もかなしい事でござんしたとてほろりとするに、その親父さむはと問ひかけられて、親父は職人、祖父ぢぢいは四角な字をば読んだ人でござんす、つまりは私のやうな気違ひで、世に益のない反古紙ほごがみをこしらへしに、版をばおかみから止められたとやら、ゆるされぬとかにて断食して死んださうに御座んす、十六の年から思ふ事があつて、生れも賤しい身であつたれど一念に修業して六十にあまるまで仕出来しでかしたる事なく、おはりは人の物笑ひに今では名を知る人もなしとて父が常住なげいたを子供の頃より聞知つておりました、私の父といふは三つのとしえんから落て片足あやしき風になりたれば人中に立まじるも嫌やとて居職いしよくかざり金物かなものをこしらへましたれど、気位たかくて人愛じんあいのなければ贔負ひいきにしてくれる人もなく、ああ私が覚えて七つの年の冬でござんした、寒中親子三人ながら古裕衣ふるゆかたで、父は寒いも知らぬか柱に寄つて細工物に工夫をこらすに、母は欠けた一つぺツついなべかけて私にさる物を買ひに行けといふ、味噌こし下げてはしたのおあしを手に握つて米屋のかどまでは嬉しく駆けつけたれど、帰りには寒さの身にしみて手も足もかじかみたれば五六軒隔てし溝板どぶいたの上の氷にすべり、足溜あしだまりなくける機会はづみに手の物を取落して、一枚はづれし溝板のひまよりざらざらとこぼれ入れば、下は行水ゆくみづきたなき溝泥どぶどろなり、幾度いくたびのぞいては見たれどこれをば何として拾はれませう、その時私は七つであつたれどうちうちの様子、父母ちちははの心をも知れてあるにお米は途中で落しましたとからの味噌こしさげて家には帰られず、たつてしばらく泣いていたれどどうしたと問ふてくれる人もなく、聞いたからとて買てやらうと言ふ人は猶更なほさらなし、あの時近処に川なり池なりあらうなら私はさだめし身を投げてしまひましたろ、話しは誠の百分一、私はその頃から気が狂つたのでござんす、かへりの遅きを母の親案じて尋ねに来てくれたをば時機しほに家へは戻つたれど、母も物いはず父親てておやも無言に、れ一人私をばしかる物もなく、うちの内しんとして折々溜息ためいきの声のもれるに私は身を切られるより情なく、今日は一日断食にせうと父の一言いひ出すまでは忍んで息をつくやうで御座んした。

 いひさしてお力はあふいづる涙の止め難ければくれなひの手巾はんけちかほに押当てその端を喰ひしめつつ物いはぬ事小半時こはんとき、坐には物の音もなく酒の香したひて寄りくる蚊のうなり声のみ高く聞えぬ。

 顔をあげし時はほうに涙のあとはみゆれども淋しげの笑みをさへ寄せて、私はその様な貧乏人の娘、気違ひは親ゆづりで折ふし起るのでござります、今夜もこんな分らぬ事いひ出してさぞ貴君御迷惑で御座んしてしよ、もう話しはやめまする、御機嫌に障つたらばゆるして下され、誰れか呼んで陽気にしませうかと問へば、いや遠慮は無沙汰、その父親てておやは早くにくなつてか、はあかかさんが肺結核といふをわづらつてなくなりましてから一週忌の来ぬほどに跡を追ひました、今居りましてもだ五十、親なれば褒めるでは無けれど細工は誠に名人と言ふてもい人で御座んした、なれども名人だとて上手だとて私等が家のやうに生れついたは何にもなる事は出来ないので御座んせう、我身の上にも知られまするとて物思はしき風情ふぜい、お前は出世を望むなと突然だしぬけに朝之助に言はれて、ゑツと驚きし様子に見えしが、私等が身にて望んだ処が味噌こしがおち、何のたま輿こしまでは思ひがけませぬといふ、うそをいふは人にる始めから何も見知つてゐるに隠すは野暮の沙汰ではないか、思ひ切つてやれやれとあるに、あれそのやうなけしかけことばはよして下され、どうでこんな身でござんするにと打しほれて又もの言はず。

 今宵もいたくけぬ、下坐敷の人はいつか帰りて表の雨戸をたてると言ふに、朝之助おどろきて帰り支度するを、お力はどうでも泊らするといふ、いつしか下駄をもかくさせたれば、足を取られて幽霊ならぬ身の戸のすき間よりいづる事もなるまじとて今宵はに泊る事となりぬ、雨戸をとざす音一しきりにぎはしく、のちには透きもる燈火ともしびのかげも消えて、唯軒下を行かよふ夜行の巡査の靴音のみ高かりき。



 思ひ出したとて今更にどうなる物ぞ、忘れてしまへあきらめてしまへと思案はめながら、去年の盆にはそろひの浴衣ゆかたをこしらへて二人一処に蔵前くらまへ参詣さんけいしたる事なんど思ふともなく胸へうかびて、盆に入りては仕事にいづはりもなく、お前さんそれではならぬぞへといさめ立てる女房のことばも耳うるさく、エエ何も言ふな黙つてゐろとて横になるを、黙つてゐてはこの日がすぐされませぬ、身体からだが悪るくば薬も呑むがよし、御医者にかかるも仕方がなけれど、お前の病ひはそれではなしに気さへ持直せば何処どこに悪い処があろう、少しは正気になつて勉強をして下されといふ、いつでも同じ事は耳にたこが出来て気の薬にはならぬ、酒でも買て来てくれ気まぎれに呑んで見やうと言ふ、お前さんそのお酒が買へるほどなら嫌やとお言ひなさるを無理に仕事に出て下されとは頼みませぬ、私が内職とて朝からにかけて十五銭が関の山、親子三人口おも湯も満足には呑まれぬ中で酒を買へとはく能くお前無茶助むちやすけになりなさんした、お盆だといふに昨日きのふらも小僧には白玉一つこしらへても喰べさせず、お精霊しようれうさまのおたなかざりもこしらへくれねば御燈明おとうめう一つで御先祖様へおびをまをしてゐるもが仕業だとお思ひなさる、お前が阿房あほうを尽してお力づらめに釣られたから起つた事、いふては悪るけれどお前は親不孝子不孝、少しはあの子の行末をも思ふて真人間になつて下され、御酒ごしゆのんで気を晴らすは一とき、真から改心して下さらねば心元なく思はれますとて女房打なげくに、返事はなくて吐息折々に太く身動きもせず仰向あほのきふしたる心根のつらさ、その身になつてもお力が事の忘れられぬか、十年つれそふて子供までもうけし我れに心かぎりの辛苦くろうをさせて、子には襤褸ぼろを下げさせ家とては二畳一間のこんな犬小屋、世間一体から馬鹿にされて別物にされて、よしや春秋はるあき彼岸ひがんが来ればとて、隣近処に牡丹ぼたもち団子と配り歩く中を、源七が家へはらぬが能い、返礼が気の毒なとて、心切しんせつかは知らねど十軒長屋の一軒はけ物、男は外出そとでがちなればいささか心に懸るまじけれど女心には遣る瀬のなきほど切なく悲しく、おのづと肩身せばまりて朝夕てうせき挨拶あいさつも人の目色を見るやうなる情なき思ひもするを、それをば思はで我が情婦こひの上ばかりを思ひつづけ、無情つれなき人の心の底がそれほどまでに恋しいか、昼も夢に見て独言ひとりごとにいふ情なさ、女房の事も子の事も忘れはててお力一人に命をも遣る心か、浅ましい口惜くちをしいらい人と思ふに中々言葉はいでずして恨みの露を目の中にふくみぬ。

 物いはねば狭きいゑうちも何となくうら淋しく、くれゆく空のたどたどしきに裏屋はまして薄暗く、燈火あかりをつけて蚊遣かやりふすべて、お初は心細く戸の外をながむれば、いそいそと帰り来る太吉郎の姿、何やらん大袋を両手に抱へてかかさん母さんこれをもらつて来たと莞爾につことして駆け込むに、見れば新開の日の出やがかすていら、おやこんないお菓子を誰れに貰つて来た、よくお礼を言つたかと問へば、ああ能くお辞儀をして貰つて来た、これは菊の井の鬼姉さんがくれたのと言ふ、母は顔色をかへて図太い奴めがこれほどのふちに投げ込んでだいぢめ方が足りぬと思ふか、現在の子を使ひにととさんの心を動かしによこしおる、何といふて遣したと言へば、表通りの賑やかな処に遊んでゐたらば何処のか伯父さんと一処に来て、菓子を買つてやるから一処にお出といつて、おいらは入らぬと言つたけれど抱いてつて買つてくれた、喰べては悪るいかへとさすがに母の心をはかりかね、顔をのぞいて猶予ゆうよするに、ああ年がゆかぬとて何たら訳の分らぬ子ぞ、あの姉さんは鬼ではないか、父さんを怠惰者なまけものにした鬼ではないか、お前ののなくなつたも、お前の家のなくなつたも皆あの鬼めがした仕事、くらひついても飽き足らぬ悪魔にお菓子を貰つた喰べてもいかと聞くだけが情ない、汚いむさいこんな菓子、家へ置くのも腹がたつ、すててしまいな、捨ておしまい、お前は惜しくて捨てられないか、馬鹿野郎めとののしりながら袋をつかんで裏の空地へ投出なげいだせば、紙は破れてまろび出る菓子の、竹のあら垣打こえてどぶの中にも落込むめり、源七はむくりと起きてお初と一声大きくいふに何か御用かよ、尻目しりめにかけて振むかふともせぬ横顔をにらんで、能い加減に人を馬鹿にしろ、黙つてゐれば能い事にして悪口雑言は何の事だ、知人しつたひとなら菓子位子供にくれるに不思議もなく、貰ふたとて何が悪るい、馬鹿野郎呼はりは太吉をかこつけにれへの当こすり、子に向つて父親てておや讒訴ざんそをいふ女房気質かたぎれが教へた、お力が鬼なら手前は魔王、商売人のだましは知れてゐれど、妻たる身の不貞腐ふてくされをいふて済むと思ふか、土方をせうが車を引かうが亭主は亭主の権がある、気に入らぬ奴を家には置かぬ、何処へなりとも出てゆけ、出てゆけ、面白くもない女郎めらうめと叱りつけられて、それはお前無理だ、邪推が過る、何しにお前に当つけよう、この子が余り分らぬと、お力の仕方が憎くらしさに思ひあまつて言つた事を、とツこに取つて出てゆけとまではむごう御座んす、家の為をおもへばこそ気に入らぬ事を言ひもする、家を出るほどならこんな貧乏世帯の苦労をば忍んではゐませぬと泣くに貧乏世帯に飽きがきたなら勝手に何処なり行つて貰はう、手前が居ぬからとて乞食にもなるまじく太吉が手足の延ばされぬ事はなし、明けても暮れてもれがたなおろしかお力へのねたみ、つくづく聞き飽きてもうやに成つた、貴様が出ずばどちら道同じ事をしくもない九尺二間、れが小僧を連れて出やう、さうならば十分に我鳴り立る都合もよからう、さあ貴様がくか、れが出ようかとはげしく言はれて、お前はそんなら真実ほんとうに私を離縁する心かへ、知れた事よといつもの源七にはあらざりき。

 お初は口惜くやしく悲しく情なく、口も利かれぬほど込上こみあぐなみだを呑込んで、これは私が悪う御座んした、堪忍かんにんをして下され、お力が親切で志してくれたものを捨てしまつたは重々悪う御座いました、成程お力を鬼といふたから私は魔王で御座んせう、モウいひませぬ、モウいひませぬ、決してお力の事につきてこのとやかく言ひませず、かげうはさしますまいゆゑ離縁だけは堪忍して下され、改めて言ふまでは無けれど私には親もなし兄弟もなし、差配の伯父さんを仲人なかうどなり里なりに立てて来た者なれば、離縁されての行き処とてはありませぬ、どうぞ堪忍して置いて下され、私は憎くかろうとこの子に免じて置いて下され、謝りますとて手を突いて泣けども、イヤどうしても置かれぬとてその後は物言はず壁に向ひてお初が言葉は耳にらぬ体、これほど邪慳じやけんの人ではなかりしをと女房あきれて、女に魂を奪はるればこれほどまでも浅ましくなる物か、女房が歎きは更なり、ひには可愛かわゆき子をも餓へ死させるかも知れぬ人、今詫びたからとて甲斐かひはなしと覚悟して、太吉、太吉と傍へ呼んで、お前はととさんの傍とかかさんと何処どちらが好い、言ふて見ろと言はれて、おいらはおとつさんは嫌い、何にも買つてくれない物と真正直まつしようぢきをいふに、そんなら母さんの行く処へ何処へも一処に行く気かへ、ああ行くともとて何とも思はぬ様子に、お前さんお聞きか、太吉は私につくといひまする、男の子なればお前も欲しからうけれどこの子はお前の手には置かれぬ、何処までも私が貰つて連れて行きます、よう御座んすか貰ひまするといふに、勝手にしろ、子も何も入らぬ、連れて行きたくば何処へでも連れて行け、うちも道具も何も入らぬ、どうなりともしろとて寐転ねころびしまま振向んともせぬに、何の家も道具も無い癖に勝手にしろもないもの、これから身一つになつて仕たいままの道楽なり何なりお尽しなされ、もういくらこの子を欲しいと言つても返す事では御座んせぬぞ、返しはしませぬぞと念を押して、押入れ探ぐつて何やらの小風呂敷取出とりいだし、これはこの子の寐間着ねまきあはせ、はらがけと三尺だけ貰つて行まする、御酒の上といふでもなければ、めての思案もありますまいけれど、よく考へて見て下され、たとへどのやうな貧苦の中でも二人そろつて育てる子は長者の暮しといひまする、別れれば片親、何につけても不憫ふびんなはこの子とお思ひなさらぬか、ああはらはたが腐た人は子の可愛さも分りはすまい、もうお別れ申ますと風呂敷さげて表へいづれば、早くゆけゆけとて呼かへしてはくれざりし。



 魂祭たままつり過ぎて幾日いくじつ、まだ盆提燈ぼんぢようちんのかげ薄淋しき頃、新開の町を出し棺二つあり、一つはかごにて一つはさしかつぎにて、駕は菊の井の隠居処よりしのびやかに出ぬ、大路に見る人のひそめくを聞けば、あの子もとんだ運のわるいつまらぬ奴に見込れて可愛さうな事をしたといへば、イヤあれは得心づくだと言ひまする、あの日の夕暮、お寺の山で二人立ばなしをしてゐたといふ確かな証人もござります、女も逆上のぼせてゐた男の事なれば義理にせまつて遣つたので御座ろといふもあり、何のあの阿魔あまが義理はりを知らうぞ湯屋の帰りに男にふたれば、さすがに振はなして逃る事もならず、一処に歩いて話しはしてもゐたらうなれど、切られたは後袈裟うしろげさ頬先ほうさきのかすりきず頸筋くびすぢ突疵つききずなど色々あれども、たしかに逃げる処を遣られたに相違ない、引かへて男は美事な切腹、蒲団ふとんやの時代からさのみの男と思はなんだがあれこそは死花しにばな、ゑらさうに見えたといふ、何にしろ菊の井は大損であらう、かの子には結搆けつこうな旦那がついたはづ、取にがしては残念であらうと人のうれひを串談じようだんに思ふものもあり、諸説みだれて取止めたる事なけれど、うらみは長し人魂か何かしらず筋を引く光り物のお寺の山といふ小高き処より、折ふし飛べるを見し者ありと伝へぬ。

底本:「にごりえ・たけくらべ」新潮文庫、新潮社

   1949(昭和24)年630日発行

   2003(平成15)年110日116刷改版

   2008(平成20)年610日128刷

初出:「文芸倶楽部」

   1895(明治28)年9月号

※このファイルには、以下の青空文庫のテキストを、上記底本にそって修正し、組み入れました。

「にごりえ」(入力:青空文庫、校正:米田進、小林繁雄)

※底本巻末の編者による語注は省略しました。

入力:酔いどれ狸

校正:岡村和彦

2014年1114日作成

青空文庫作成ファイル:

このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。