大つごもり
樋口一葉




 井戸は車にて綱の長さ十二ひろ、勝手は北向きにて師走しはすの空のから風ひゆうひゆうと吹ぬきの寒さ、おお堪えがたとかまどの前に火なぶりの一ぷんは一にのびて、割木ほどの事も大台にしてしかりとばさるる婢女はしたの身つらや、はじめ受宿うけやど老媼おばさまが言葉には御子様がたは男女なんによ六人、なれども常住家内うちにおいであそばすは御総領と末お二人、少し御新造ごしんぞは機嫌かいなれど、目色顔色かほいろみこんでしまへば大した事もなく、結句おだてに乗るたちなれば、御前おまへの出様一つで半襟はんゑり半がけ前垂まへだれひもにも事は欠くまじ、御身代は町内第一にて、その代りしはき事も二とはさがらねど、よき事には大旦那おほだんなが甘いはうゆゑ、少しのほまちは無き事も有るまじ、やに成つたら私のとこまで端書はがき一枚、こまかき事は入らず、他所よその口を探せとならば足は惜しまじ、いづれ奉公の秘伝は裏表と言ふて聞かされて、さても恐ろしき事を言ふ人と思へど、何も我が心一つで又この人のお世話には成るまじ、勤め大事に骨さへ折らば御気に入らぬ事も無きはづと定めて、かかる鬼のしゆうをも持つぞかし、目見えの済みて三日ののち七歳ななつになる嬢さま踊りのさらひに午後よりとある、その支度は朝湯にみがき上げてと霜氷る暁、あたたかき寝床のうちより御新造灰吹きをたたきて、これこれと、此詞これが目覚しの時計より胸にひびきて、三言とは呼ばれもせず帯より先にたすきがけの甲斐々々かひがひしく、井戸端にいづれば月かげ流しに残りて、はだへを刺すやうな風の寒さに夢を忘れぬ、風呂は据風呂すゑふろにて大きからねど、二つの手桶てをけあふるるほどみて、十三は入れねば成らず、大汗に成りて運びけるうち、輪宝りんぽうのすがりしゆがみ歯の水ばき下駄げた、前鼻緒のゆるゆるに成りて、指を浮かさねば他愛たわいの無きやうなりし、その下駄にて重き物を持ちたれば足もと覚束おぼつかなくて流し元の氷にすべり、あれと言ふ間もなく横にころべば井戸がはにて向ふずねしたたかに打ちて、可愛かわいや雪はづかしきはだに紫の生々しくなりぬ、手桶をも其処そこ投出なげいだして一つは満足成しが一つは底ぬけに成りけり、此桶これあたゑなにほどか知らねど、身代これがためにつぶれるかの様に御新造の額際ひたへぎはに青筋おそろしく、朝飯あさはんのお給仕よりにらまれて、その日一日物もおほせられず、一日おいてよりははしの上げおろしに、このの品は無代ただでは出来ぬ、しゆうの物とて粗末に思ふたらばちが当るぞえと明け暮れの談義、来る人ごとに告げられて若き心には恥かしく、そのは物ごとに念を入れて、ひに麁想そさうをせぬやうに成りぬ、世間に下女つかふ人も多けれど、山村やまむらほど下女の替る家は有るまじ、月に二人は平常つねの事、三日四日に帰りしもあれば一夜居て逃出にげいでしもあらん、開闢かいびやく以来を尋ねたらば折る指にあの内儀かみさまが袖口そでぐちおもはるる、思へばおみねは辛棒もの、あれにむごあたつたらば天罸てんばつたちどころに、このは東京広しといへども、山村の下女に成る物はあるまじ、感心なもの、美事みごとの心がけとめるもあれば、第一容貌きりようが申分なしだと、男はきにこれを言ひけり。

 秋よりただ一人の伯父がわづらひて、商売の八百や店もいつとなく閉ぢて、同じ町ながら裏屋住居ずまゐに成しよしは聞けど、むづかしきしゆうを持つ身の給金を先きにもらへばこの身は売りたるも同じ事、見舞にと言ふ事も成らねば心ならねど、お使ひ先の一すんの間とても時計を目当にして幾足幾町とそのしらべの苦るしさ、せ抜けても、とは思へど悪事千里といへば折角の辛棒を水泡むだにして、おいとまともならば弥々いよいよ病人の伯父に心配をかけ、痩世帯やせぜたいに一日の厄介も気の毒なり、その内にはと手紙ばかりをりて、身はに心ならずも日を送りける。師走の月は世間一躰いつたい物せわしき中を、こと更に選らみて綾羅きらをかざり、一昨日おととひ出そろひしと聞くそれの芝居、狂言も折から面白き新物しんものの、これを見のがしてはと娘共の騒ぐに、見物は十五日、珍らしく家内うち中との触れに成けり、このお供をうれしがるは平常つねのこと、父母ちちははなきのちは唯一人の大切な人が、病ひの床に見舞ふ事もせで、物見遊山ゆさんに歩くべき身ならず、御機嫌に違ひたらばそれまでとして遊びの代りのお暇を願ひしにさすがは日頃の勤めぶりもあり、一日すぎての次の日、早く行きて早く帰れと、さりとは気ままの仰せに有難うぞんじますと言ひしは覚えで、やがては車の上に小石川こいしかははまだかまだかともどかしがりぬ。

 初音町はつねてうといへばゆかしけれど、世をうぐひすの貧乏町ぞかし、正直安兵衛とて神はこのかうべに宿りたまふべき大薬罐おほやかんの額ぎはぴかぴかとして、これを目印に田町より菊坂きくざかあたりへかけて、茄子なすび大根だいこの御用をもつとめける、薄元手を折かへすなれば、折からの安うてかさのある物よりほかさほなき舟に乗合の胡瓜きうりつと松茸まつたけの初物などは持たで、八百安が物は何時いつも帳面につけた様なと笑はるれど、愛顧ひいきは有がたきもの、曲りなりにも親子三人の口をぬらして、三之助とて八歳やつになるを五厘ごりん学校に通はするほどの義務つとめもしけれど、世の秋つらし九月の末、にはかに風が身にしむといふ朝、神田かんだに買出しの荷を我が家までかつぎ入れるとそのまま、発熱ほつねつにつづいて骨病みのいでしやら、三月ごしの今日まで商ひは更なる事、段々に喰べへらして天秤てんびんまで売る仕義になれば、表店おもてだな活計くらしたちがたく、月五十銭の裏屋に人目の恥をいとふべき身ならず、又時節が有らばとて引越しも無惨むざんや車に乗するは病人ばかり、片手に足らぬ荷をからげて、同じ町の隅へと潜みぬ。お峯は車より下りて开処そこ此処と尋ぬるうち、たこ紙風船などを軒につるして、子供を集めたる駄菓子やのかどに、もし三之助の交じりてかとのぞけど、影も見えぬに落胆がつかりして思はず徃来ゆききを見れば、我が居るよりは向ひのがはをやせぎすの子供が薬瓶くすりびんもちて行く後姿、三之助よりはたけも高く余り痩せたる子と思へど、様子の似たるにつかつかと駆け寄りて顔をのぞけば、やあねえさん、あれ三ちやんで有つたか、さても好いところでと伴なはれて行くに、酒やと芋やの奥深く、溝板どぶいたがたがたと薄くらき裏にれば、三之助は先へ駆けて、ととさん、かかさん、姉さんを連れて帰つたと門口かどぐちより呼び立てぬ。

 何お峯が来たかと安兵衛が起上れば、女房つまは内職の仕立物に余念なかりし手をやめて、まあまあこれは珍らしいと手を取らぬばかりに喜ばれ、見れば六畳一間に一けんの戸棚只一つ、箪笥たんす長持はもとより有るべき家ならねど、見し長火鉢のかげも無く、今戸焼の四角なるを同じなりの箱に入れて、これがそもそもこのいへの道具らしき物、聞けば米櫃こめびつも無きよし、さりとは悲しき成ゆき、師走の空に芝居みる人も有るをとお峯はまづ涙ぐまれて、まづまづ風の寒きに寝ておいでなされませ、と堅焼かたやきに似し薄蒲団うすぶとんを伯父の肩に着せて、さぞさぞ沢山たんとの御苦労なさりましたろ、伯母様も何処どこやら痩せが見えまする、心配のあまり煩ふて下さりますな、それでも日増しにい方で御座んすか、手紙で様子は聞けど見ねば気にかかりて、今日のおいとまを待ちに待つてやつとの事、何うちなどはどうでもござります、伯父様御全快にならば表店おもてに出るも訳なき事なれば、一日も早くく成つて下され、伯父様に何ぞと存じたれど、道は遠し心はく、車夫くるまやの足が何時より遅いやうに思はれて、御好物の飴屋あめやが軒も見はぐりました、此金これは少々なれど私が小遣の残り、麹町かうぢまちの御親類よりお客の有し時、その御隠居さま寸白すばくのお起りなされてお苦しみの有しに、夜をとほしてお腰をもみたれば、前垂でも買へとて下された、それや、これや、おうちかたけれど他処よそよりのお方が贔負ひいきになされて、伯父さま喜んで下され、勤めにくくも御座んせぬ、この巾着きんちやくも半襟もみな頂き物、襟は質素じみなれば伯母さま懸けて下され、巾着は少しなりを換へて三之助がお弁当の袋に丁度いやら、それでも学校へはゆきますか、お清書が有らば姉にも見せてとそれからそれへ言ふ事長し。七歳ななつのとしに父親てておや得意場とくいば蔵普請くらぶしんに、足場を昇りてなかぬりの泥鏝こてを持ちながら、下なるやつこに物いひつけんと振向く途端、暦に黒ぼしの仏滅とでも言ふ日で有しか、年来れたる足場をあやまりて、落たるも落たるも下は敷石に模様がへの処ありて、掘おこして積みたてたる切角きりかどに頭脳したたか打ちつけたれば甲斐かひなし、哀れ四十二の前厄まへやくと人々のちに恐ろしがりぬ、母は安兵衛が同胞けうだいなれば此処に引取られて、これも二年ののちはやり風俄かに重く成りてせたれば、のちは安兵衛夫婦を親として、十八の今日まで恩はいふに及ばず、姉さんと呼ばるれば三之助はおととのやうに可愛かあゆく、此処へ此処へと呼んで背をで顔を覗いて、さぞととさんが病気で淋しくらかろ、お正月も直きに来れば姉が何ぞ買つて上げますぞえ、かかさんに無理をいふて困らせては成りませぬと教ゆれば、困らせる処か、お峯聞いてくれ、としは八つなれど身躰からだおほきし力もある、わしてからはかせなしの費用いりめは重なる、四苦八苦見かねたやら、表の塩物やが野郎と一処に、しじみを買ひ出しては足の及ぶだけ担ぎ廻り、野郎が八銭うれば十銭の商ひは必らずある、一つは天道さまがやつこの孝行を見徹みとほしてか、となりかくなり薬代は三が働き、お峯ほめてつてくれとて、父は蒲団をかぶりて涙に声をしぼりぬ。学校は好きにも好きにも遂ひに世話をやかしたる事なく、朝めし喰べるとけ出して三時の退校ひけに道草のいたづらした事なく、自慢では無けれど先生さまにもめ物の子を、貧乏なればこそ蜆を担がせて、この寒空に小さな足に草鞋わらじをはかせる親心、察して下されとて伯母も涙なり。お峯は三之助を抱きしめて、さてもさても世間に無類の孝行、大がらとても八歳やつは八歳、天秤てんびん肩にして痛みはせぬか、足に草鞋くひは出来ぬかや、堪忍かんにんして下され、今日けふよりは私もうちに帰りて伯父様の介抱活計くらしの助けもしまする、知らぬ事とて今朝けさまでも釣瓶つるべの縄の氷をらがつたは勿躰もつたいない、学校ざかりの年に蜆を担がせて姉が長い着物きてゐらりようか、伯父さまいとまを取つて下され、わたし最早もはや奉公はよしまするとて取乱して泣きぬ。三之助はをとなしく、ほろりほろりと涙のこぼれるを、見せじとうつ向きたる肩のあたり、針目あらはにきぬれて、此肩これに担ぐか見る目もらし、安兵衛はお峯が暇を取らんと言ふにそれは以てのほか、志しは嬉しけれど帰りてからが女の働き、それのみか御主人へは給金の前借もあり、それッ、と言ふて帰られる物では無し、うい奉公が肝腎かんじん、辛棒がならで戻つたと思はれても成らねば、おしゆう大事に勤めてくれ、我が病気やまひも長くは有るまじ、少しよくば気の張弓、引つづいて商ひもなる道理、ああ今半月の今歳ことしが過れば新年はるき事も来たるべし、何事も辛棒々々、三之助も辛棒してくれ、お峯も辛棒してくれとて涙を納めぬ。珍らしき客に馳走は出来ねど好物の今川焼、里芋の煮ころがしなど、沢山たべろよと言ふ言葉が嬉し、苦労はかけまじと思へど見す見す大晦日おほみそかに迫りたる家の難義、胸につかへの病はしやくにあらねどそもそも床に就きたる時、田町の高利かしより三月しばりとて十円かりし、一円五拾銭は天利とて手にりしは八円半、九月の末よりなればこの月はどうでも約束の期限なれど、この中にて何となるべきぞ、額を合せて談合の妻は人仕事に指先より血をいだして日に拾銭じつせんの稼ぎも成らず、三之助に聞かするとも甲斐なし、お峯がしゆう白金しろかね台町だいまちに貸長屋の百軒も持ちて、あがり物ばかりに常綺羅じやうきら美々しく、我れ一度お峯への用事ありてかどまで行きしが、千両にては出来まじき土蔵の普請、うらやましき富貴と見たりし、その主人に一年の馴染、気に入りの奉公人が少々の無心を聞かぬとは申されまじ、この月末にかきかへを泣きつきて、をどりの一両二分を此処に払へば又三月の延期のべにはなる、かくいはば欲に似たれど、大道餅買ふてなり三ヶ日の雑煮に箸を持せずば出世前の三之助に親のある甲斐もなし、晦日みそかまでに金二両、言ひにくく共この才覚たのみたきよしを言ひ出しけるに、お峯しばらく思案して、よろしう御座んすたしかに受合ひました、むづかしくはお給金の前借にしてなり願ひましよ、見る目と家内うちとは違ひて何処いづこにも金銭のらちは明きにくけれど、多くでは無しそれだけで此処の始末がつくなれば、理由わけを聞いて厭やは仰せらるまじ、それにつけても首尾そこなうては成らねば、今日は私は帰ります、又の宿下りは春永はるなが、その頃には皆々うち寄つて笑ひたきもの、とて此金これを受合ける。金は何としておこす、三之助を貰ひにやろかとあれば、ほんにそれで御座んす、常日つねさへあるに大晦日といふては私の身にすきはあるまじ、道の遠きに可憐かわいさうなれど三ちやんを頼みます、昼前のうちに必らず必らず支度はして置まするとて、首尾よく受合ひてお峯は帰りぬ。



 石之助いしのすけとて山村の総領息子、母の違ふに父親てておやの愛も薄く、これを養子にいだして家督あと妹娘いもとむすめなかにとの相談、十年の昔しより耳にはさみて面白からず、今の世に勘当のならぬこそをかしけれ、思ひのままに遊びて母が泣きをと父親てておやの事は忘れて、十五の春より不了簡ふりようけんをはじめぬ、男振をとこぶりにがみありて利発らしきまなざし、色は黒けれど好き様子ふうとて四隣あたりの娘どもが風説うわさも聞えけれど、ただ乱暴一途いちづに品川へも足は向くれど騒ぎはその座ぎり、夜中よなかに車を飛ばして車町くるままち破落戸ごろがもとをたたき起し、それ酒かへさかなと、紙入れの底をはたきて無理をとほすが道楽なりけり、到底とてもこれに相続は石油蔵へ火を入れるやうな物、身代けふりと成りて消え残る我等何とせん、あとの兄弟も不憫ふびんと母親、父に讒言ざんげんの絶間なく、さりとて此放蕩子これを養子にと申うくる人この世にはあるまじ、とかくは有金の何ほどを分けて、若隠居の別戸籍にと内々の相談はまりたれど、本人うわの空に聞流して手に乗らず、分配金は一万、隠居扶持ぶち月々おこして、遊興に関を据へず、父上なくならば親代りの我れ、兄上とささげてかまどの神の松一本も我が託宣を聞く心ならば、いかにもいかにも別戸の御主人に成りて、このの為には働かぬが勝手、それよろしくばおほせの通りに成りましよと、どうでも嫌やがらせを言ひて困らせける。去歳こぞにくらべて長屋もふゑたり、所得は倍にと世間の口より我が家の様子を知りて、をかしやをかしや、そのやうに延ばしてが物にする気ぞ、火事は燈明皿よりも出る物ぞかし、総領と名のる火の玉がころがるとは知らぬか、やがて巻きあげて貴様たちに好き正月をさせるぞと、伊皿子いさらごあたりの貧乏人を喜ばして、大晦日を当てに大呑みの場処もさだめぬ。

 それ兄様あにさまのお帰りと言へば、いもとどもこわがりてれ物のやうに障るものなく、何事も言ふなりの通るに一段と我がままをつのらして、炬燵こたつに両足、ゑひざめの水を水をと狼藉らうぜきはこれにとどめをさしぬ、憎くしと思へどさすがに義理はらき物かや、母親かげの毒舌をかくして風引かぬやうに小抱巻こかいまき何くれとまくらまであてがひて、明日あすの支度のむしり田作ごまめ、人手にかけては粗末になる物と聞えよがしの経済を枕もとに見しらせぬ。正午ひるも近づけばお峯は伯父への約束こころもと無く、御新造ごしんぞが御機嫌を見はからふにいとまも無ければ、わづかの手すきにつむりの手拭てぬぐひをまろめて、このほどより願ひましたる事、折からお忙がしき時心なきやうなれど、今日の昼る過ぎにと先方さきへ約束のきびしき金とやら、お助けの願はれますれば伯父の仕合せ私の喜び、いついつまでも御恩に着まするとて手をすりて頼みける、最初はじめいひいでし時にやふやながら結局つまりしと有し言葉を頼みに、又の機嫌むつかしければ五月蠅うるさくいひてはかへりて如何いかがと今日までも我慢しけれど、約束は今日と言ふ大晦日おほみそかのひる前、忘れてか何とも仰せの無き心もとなさ、我れには身に迫りし大事と言ひにくきを我慢してかくと申ける、御新造は驚きたるやうのあきれ顔して、それはまあ何の事やら、なるほどお前が伯父さんの病気、つづいて借金の話しも聞ましたが、今が今わたしのうちから立換へようとは言はなかつたはづ、それはお前が何ぞの聞違へ、私は毛頭すこしも覚えの無き事と、これがこの人の十八番とはてもさても情なし。

 花紅葉はなもみぢうるはしく仕立し娘たちが春着の小袖、ゑりをそろへてつまを重ねて、眺めつ眺めさせて喜ばんものを、邪魔ものの兄が見る目うるさし、早く出てゆけねと思ふ思ひは口にこそいださね、もち前の疳癪かんしやくしたにえがたく、智識の坊さまが目に御覧じたらば、炎につつまれて身は黒烟くろけふりに心は狂乱の折ふし、言ふ事もいふ事、金は敵薬てきやくぞかし、現在うけ合ひしは我れに覚えあれど何のそれをいとふ事かは、大方お前が聞ちがへとたてきりて、烟草たばこ輪にふき私は知らぬと済しけり。

 ゑゑ大金でもある事か、金なら二円、しかも口づから承知して置きながら十日とたたぬにもうろくはなさるまじ、あれあの懸けすずりの引出しにも、これは手つかずのぶんと一ト束、十か二十か悉皆みなとは言はず唯二枚にて伯父が喜び伯母が笑顔ゑがほ、三之助に雑煮のはしも取らさるると言はれしを思ふにも、どうでも欲しきはあの金ぞ、恨めしきは御新造とお峯は口惜くちをしさに物も言はれず、常々をとなしき身は理屈づめにやり込るすべもなくて、すごすごと勝手に立てば正午の号砲どんの音たかく、かかる折ふし殊更ことさら胸にひびくものなり。

 おははさまに直様すぐさまお出下さるやう、今朝けさよりのお苦るしみに、潮時は午後、初産ういざんなれば旦那とり止めなくお騒ぎなされて、お老人としよりなき家なれば混雑お話しにならず、今が今お出でをとて、生死しようし分目わけめといふ初産に、西応寺さいおうじの娘がもとより迎ひの車、これは大晦日とて遠慮のならぬ物なり、家のうちには金もあり、放蕩のらどのがてはいる、心は二つ、分けられぬ身なれば恩愛の重きに引かれて、車には乗りけれど、かかる時気楽の良人おつとが心根にくく、今日あたり沖釣りでも無き物をと、太公望たいこうぼうがはり合ひなき人をつくづくと恨みて御新造いでられぬ。

 ゆきちがへに三之助、此処と聞きたる白金台町しろかねだいまち、相違なく尋ねあてて、我が身のみすぼらしきに姉の肩身を思ひやりて、勝手口より怕々こわごわのぞけば、れぞ来しかとかまどの前に泣き伏したるお峯が、涙をかくして見出みいだせばこの子、おお宜く来たとも言はれぬ仕義を何とせん、あねさま這入はいつてもかられはしませぬか、約束の物は貰つてかれますか、旦那や御新造に宜くお礼を申て来いとととさんが言ひましたと、子細を知らねば喜び顔つらや、まづまづ待つて下され、少し用もあればときて内外うちとを見廻せば、嬢さまがたは庭に出て追羽子に余念なく、小僧どのはまだお使ひより帰らず、お針は二階にてしかもつんぼなれば子細なし、若旦那はと見ればお居間の炬燵に今ぞ夢の真最中まつただなか、拝みまする神さま仏さま、私は悪人になりまする、成りたうは無けれど成らねば成りませぬ、ばちをお当てなさらばわたし一人、つかふても伯父や伯母は知らぬ事なればおゆるしなさりませ、勿躰もつたいなけれどこの金ぬすませて下されと、かねて見置きし硯の引出しより、束のうちを唯二枚、つかみしのちは夢ともうつつとも知らず、三之助に渡して帰したる始終を、見し人なしと思へるは愚かや。

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 その日も暮れ近く旦那つりより恵比須ゑびすがほして帰らるれば、御新造も続いて、安産の喜びに送りの車夫ものにまで愛想よく、今宵こよひを仕舞へば又見舞ひまする、明日あすは早くにいもと共のれなりとも、一人は必らず手伝はすると言ふて下され、さてさて御苦労と蝋燭代ろうそくだいなどをりて、やれ忙がしや誰れぞ暇な身躰からだを片身かりたき物、お峯小松菜はゆでて置いたか、数の子は洗つたか、大旦那はお帰りに成つたか、若旦那はと、これは小声に、まだと聞いて額にしはを寄せぬ。

 石之助そのはをとなしく、新年はる明日あすよりの三ヶ日なりとも、我が家にて祝ふべき筈ながら御存じの締りなし、堅くるしきはかまづれに挨拶あいさつも面倒、意見も実は聞あきたり、親類の顔に美くしきも無ければ見たしと思ふ念もなく、裏屋の友達がもとに今宵約束も御座れば、一まづいとまとしていづれ春永に頂戴ちやうだいの数々は願ひまする、折からお目出度めでたき矢先、お歳暮には何ほど下さりますかと、朝より寝込みて父の帰りを待ちしは此金これなり、子は三界の首械くびかせといへど、まこと放蕩のらを子に持つ親ばかり不幸なるは無し、切られぬ縁の血筋といへば有るほどの悪戯いたづらを尽して瓦解ぐわかいの暁に落こむはこのふち、知らぬと言ひても世間のゆるさねば、家の名をしく我が顔はづかしきに惜しき倉庫くらをも開くぞかし、それを見込みて石之助、今宵を期限の借金が御座る、人の受けに立ちて判をたるもあれば、花見のむしろに狂風一陣、破落戸ごろつき仲間に遣る物を遣らねばこの納まりむづかしく、我れは詮方せんかたなけれどお名前に申わけなしなどと、つまりは此金これの欲しと聞えぬ。母は大方かかる事と今朝けさよりの懸念けねんうたがひなく、幾金いくらとねだるか、ぬるき旦那どのの処置はがゆしと思へど、我れも口にては勝がたき石之助の弁に、お峯を泣かせし今朝とは変りて父が顔色いかにとばかり、折々見やる尻目しりめおそろし、父は静かに金庫の間へ立ちしがやがて五十円束一つ持ち来て、これは貴様に遣るではなし、まだ縁づかぬ妹どもが不憫ふびん、姉が良人おつとの顔にもかかる、この山村は代々堅気一方に正直律義を真向まつかうにして、悪い風説うわさを立てられた事も無き筈を、天魔の生れがはりか貴様といふ悪者わるの出来て、無き余りの無分別に人のふところでもねらうやうにならば、恥は我が一代にとどまらず、重しといふとも身代は二の次、親兄弟に恥を見するな、貴様にいふとも甲斐かひは無けれど尋常なみなみならば山村の若旦那とて、らぬ世間に悪評もうけず、我が代りの年礼に少しの労をも助くる筈を、六十に近き親に泣きを見するは罰あたりで無きか、子供の時には本の少しものぞいた奴、何故なぜこれが分りをらぬ、さあ行け、帰れ、何処へでも帰れ、この家に恥は見するなとて父は奥深く這入りて、金は石之助が懐中ふところに入りぬ。

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 お母様御機嫌よう好い新年をお迎ひなされませ、左様ならば参りますと、暇乞いとまごひわざとうやうやしく、お峯下駄を直せ、お玄関からお帰りでは無いお出かけだぞと図分々々づぶづぶしく大手を振りて、行先は何処いづこ、父がなみだは一の騒ぎに夢とやならん、持つまじきは放蕩のら息子、持つまじきは放蕩のら仕立したつ継母ままははぞかし。塩花こそふらね跡は一まづ掃き出して、若旦那退散のよろこび、金は惜しけれど見る目も憎ければ家に居らぬは上々なり、どうすればあのやうに図太くなられるか、あの子を生んだかかさんの顔が見たい、と御新造例につて毒舌をみがきぬ。お峯はこの出来事も何として耳にるべき、犯したる罪の恐ろしさに、我れか、人か、先刻さつきの仕業はと今更夢路を辿たどりて、おもへばこの事あらはれずして済むべきや、万がなかなる一枚とても数ふれば目の前なるを、願ひの高に相応の員数いんず手近の処になく成しとあらば、我れにしても疑ひは何処いづこに向くべき、調べられなば何とせん、何といはん、言ひ抜けんは罪深し、白状せば伯父が上にもかかる、我が罪は覚悟の上なれど物がたき伯父様にまでぎぬを着せて、されぬは貧乏のならひ、かかる事もする物と人の言ひはせぬか、悲しや何としたらよかろ、伯父様にきずのつかぬやう、我身が頓死とんしする法は無きかと目は御新造が起居たちゐにしたがひて、心はかけ硯のもとにさまよひぬ。

 大勘定おほかんぢやうとてこのあるほどの金をまとめて封印の事あり、御新造それそれと思ひ出して、懸け硯に先程、屋根やの太郎に貸付のもどり彼金あれが二十御座りました、お筆お峯、かけ硯を此処へと奥の間より呼ばれて、最早この時わが命は無き物、大旦那が御目通りにて始めよりの事を申、御新造が無情そのままに言ふてのけ、術もなし法もなし正直は我身の守り、逃げもせず隠られもせず、欲かしらねど盗みましたと白状はしましよ、伯父様同腹ひとつで無きだけを何処までもべて、聞かれずば甲斐なしその場で舌かみ切つて死んだなら、命にかへてうそとは思しめすまじ、それほど度胸すわれど奥の間へ行く心は屠処としよの羊なり。

    ……………………………………………………

 お峯が引出したるは唯二枚、残りは十八あるべき筈を、いかにしけん束のまま見えずとて底をかへして振へども甲斐なし、怪しきは落散し紙切れにいつしたためしか受取一通。

(引出しの分も拝借致し候     石之助)

 さては放蕩のらかと人々顔を見合せてお峯が詮議せんぎは無かりき、孝の余徳は我れ知らず石之助の罪に成りしか、いやいや知りてついでかぶりし罪かも知れず、さらば石之助はお峯が守り本尊なるべし、のちの事しりたや。

底本:「にごりえ・たけくらべ」新潮文庫、新潮社

   1949(昭和24)年630日発行

   2003(平成15)年110日116刷改版

   2008(平成20)年610日128刷

初出:「文学界」

   1894(明治27)年12月号

※底本巻末の編者による語注は省略しました。

※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。

※このファイルには、以下の青空文庫のテキストを、上記底本にそって修正し、組み入れました。

「大つごもり」(入力:青空文庫、校正:米田進、小林繁雄)

入力:酔いどれ狸

校正:Juki

2015年217日作成

青空文庫作成ファイル:

このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。