「ザイルの三人」訳者あとがき
妹尾韶夫
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十三篇の短かい山岳小説を訳して、「青春の氷河」と題して、朋文堂からだしたのは、昭和十七年三月のことだったが、こんどその十三篇のうちから五篇を除外し、あらたに五篇をくわえて、「ザイルの三人」としてだすことにした。
巻頭の「ザイルの三人」は、Edwin Müller の Three on a Rope. で、この作はストランド誌の一九三二年十一月号にのった。原作者ミュラーのことをいろいろ調べてみたが、どんな本にも名前がでておらず、当時のイギリスのフーズ・フーにさえのっていない。だから、この人についていえることは、名前から判断して、おそらくドイツ系の無名作家で、時たまストランド誌に山岳小説をかいていたが、その山岳小説は、読者の胸にくいこむ鋭いものでなかったにせよ、とにかく、そつのない書きぶりで、みな一様にある点まで達していたということだけである。
ストランドという雑誌は、一八九三年ごろロンドンで創刊された、短篇小説ばかりのせる月刊雑誌で、六十年つづいて、大戦後二、三年たってつぶれた。つまり、イギリスの国威がもっともさかんだったヴィクトリア朝から、ジョージ六世までつづいたわけで、この期間は、イギリスにかぎらず、世界の短篇小説というものが、ジャーナリズムと結びついて、もっともおびただしく生産され、もっともおびただしく読まれた時代であった。
いま、私がなんの記録もしらべず、たちどころにその名を思いだせる当時のイギリスの短篇小説の雑誌だけでも、ストランドのほかに、ロンドン、プレミヤー、グランド、ピアスン、ストーリーテラー、トェンティーストーリズ、ロヤル、アーゴシー、マクリュアなぞがあるが、これら短篇小説専門の雑誌は、みな第二次大戦がおわるとともに、ほろんでしまったのである。そして、その後は、ラジオ、テレビに押され、イギリスにもアメリカにも、ショートストリーのよい雑誌というものは、ほとんど本屋の店頭に影をみせなくなったといってもよいありさまとなった。
いま名前をあげたたくさんの雑誌のなかでも、ストランドはもっとも発行部数が多くて、私たち日本人が知っている作家では、オーモニア、ゴルスワージー、キプリング、グレアム・グリーン、モーム、ドイル、オプンハイム、ショーなぞが毎月執筆していたが、面白いのは、この雑誌の表紙の絵が、六十年間ほとんどおなじだったということである。この雑誌をだしている出版社が、ロンドンのストランド街にあったので、雑誌の表紙には、いつも彩色をしたストランドの街の風景が描いてあった。それは、遠景に聖メリー寺院の尖塔のみえる、サザンプトン街との交叉点からみたストランド街で、クリスマスごろに発行した雑誌の表紙には、聖メリーの尖塔の高いところからちらちら白い雪がふっているところを描き、春になるとストランドの街角に花売娘が立っているのを描いてあった。古いストランド誌の表紙をみると、ストランドの街を二頭立ての馬車が走っているが、その馬車の数はしだいに少なくなって、しまいには自動車ばかりとなり、街を歩く女も第一次大戦までは長いスカートをはいていたが、戦後のストランドの表紙をみると、それが短いスカートとなっている。それでいて、サザンプトン街との交叉点からみたストランド街の風景は、六十年一日のように、背景に聖メリーの尖塔がくっきり青空にそびえているのである。私は六十年間おなじ表紙で押し通した驚くべきストランド誌が滅んだときいた時、イギリスそのものの衰亡をみたようで、感慨無量であった。
ピクソールの「山頂の灯火」M. L. C. Pickthall (1993─1921), The Men Who Climbed. これはストランド誌の一九一九年一月号にのったのを、戦前博文館で発行していた「新青年」という雑誌の第二十一巻十三号(昭和十五年)に訳してのせたものである。
ピクソールはカナダの女の詩人、作家、生れたのはイギリスだったが、十七の時両親にともなわれてカナダへわたり、トロントの大学図書館につとめて、詩や小説をかき、三冊の詩集と三冊の小説をのこして、まだ四十にならぬうち、未婚のままで、塞栓症で死んだ。この「山頂の灯火」なぞは、山岳小説としてほとんどクラシックといっていいほど、完成された、後味のいい作だが、ただストランド誌に一度のっただけで、かの女のどんな本にも収録されていないのである。
アルマンの「形見のピッケル」James Ramsey Ullman (1907─), Top Man. これは戦前アメリカの週刊誌サタデー・イヴニング・ポスト誌にのったのを訳したものだが一九五五年に Daniel Talbot の編集した A Treasury of Mountaineering Stories をみると、そのなかに収録されている。
アルマンはドイツ系らしいが、生れはニューヨーク。プリンストン大学のシェリーに関する卒業論文が賞をえて出版されたので、それが刺㦸になって、作家をこころざすにいたったのだという。新聞記者となり、劇の演出家となり、南アメリカやアフリカを探検し、アルプスやアンデスに何度も登り、The White Tower その他のたくさんの山岳小説や冒険探検小説をかいた。先年 Tenzing がエヴェレストを征望すると、すぐネパールに飛んで彼を訪ね、彼の伝記をかいたことは、多くの人の知っているとおりである。
この「形見のピッケル」では、相反する二人の性格を対比させ──イギリス的性格とアメリカ的性格──その争闘をしだいにクライマックスにもっていきながら、しかもそのクライマックスが、人間性の美しさを強調する意外の結末なので、読者は気持のよい驚きを経験するのである。構成の巧みさ、感覚の新鮮さ、私は世界一の山の小説家はアルマンだと思っている。
サキ「第三者」Saki (1870─1916), Interloper. サキは筆名で本名は Hector Hugh Munro. スコットランドの短篇小説家。ビルマ駐在の高級警察官の子として生れ、ロンドンで新聞記者となり、第一次大戦の時、フランスでマラリアにかかって死んだ。サキの短篇の邦訳はたくさんあるので、諸君もすでにご存知のことと思うが、やや皮肉で、ユーモアとウイットに富み、いずれもたいへん短くて、結末にピリッとしたものがきいている。そのへんがちょっとオーヘンリーを連想させるが、オーヘンリーほど組立てががっしりしていなくて、どことなくとらえがたい、幻想的な味がある。
サーデス「山上の教訓」これはずいぶんまえに訳したのだし、原本もいま手元にないので、なにも分らない。アメリカの週刊誌のような、大型の雑誌だったことをうすうすおぼえているだけである。
アルマン「二人の若いドイツ人」これはアメリカのポスト誌から訳した。いまその原本がないので原名は分らないが、ドイツが電撃作戦をはじめて、ズデーテン地方を併合したころに書かれたのだから、そのことを念頭において読まなければならない。この作には「登山の鬼」とでもいうべき山男の究極の姿がよくかけている。
メースン「青春の氷河」これは原名も覚えていないし、この作がのっていた雑誌の名も覚えていない。A. E. W. Mason (1865─1948), はイギリスの作家、オクスフオードを出て、しばらく舞台にたったあとで、つぎからつぎとたくさんの冒険小説や、ロマンティックな小説や、探偵小説をかいた。私も彼の探偵小説「矢の家」を訳したことがある。「四つの羽根」は映画になった。彼は何度もアルプスに登り、七十をすぎても登山とヨットの道楽をやめなかったという。氷にとざされた人間が、永遠に若々しいというメルヘンめいた空想は、氷河をみるほどの人が、いちおうは考えてみるものらしく、アーヴィンの「山」にもそのことがちょっとかいてある。
ミュラー「単独登攀者」原名は Dare Devil. 一九三七年三月号のストランド誌にのっていた。
ビアス「マカーガー峡谷」Ambrose Bierce (1842─1914?), The Secret of Macarger's Gulch. アメリカのオハイオ州の貧しい農家の九人目の子として生れたビアスは、南北戦争に従軍、除隊後、サンフランシスコへ行き、長いあいだ新聞や雑誌の記者をしながら、恐怖や、皮肉や、幻想を基調としたたくさんの短篇小説をかいたが、はじめそれを一冊の書物にまとめる時、あまりその筋が陰惨で、どれもこれも結末が墓場になっているからといって、出版社から出版をことわられたという話がある。七十の時、メキシコへ行くといってでて、完全にこの世から消息をたった。ある者はメキシコで戦死したといい、ある者は自殺したという。だからどの本をみても、彼の歿年は一九一四年となって、そのそばに ? がついている。スピラー編集の「アメリカ文学史」で、レヴィンはいう。「近代宗教や科学文明の唯物主義をきらって、象徴的神秘的なボヒミアの郷愁に走った十九世紀の一群の作家を、ボヒミアニズムの作家というなら、ビアスやラフカディオ・ハーン(日本へくるまえ二十年ほどアメリカで記者をしていた。)は、もっともその色彩の強い作家で、彼らの先駆者として、ポーをあげることができる。作品ばかりでなく、彼らの生活そのものが、ボヒミア的であった。」
雑誌「宝石」の昭和二十九年五月号と、三十一年四月号とに、私の訳したビアスの短篇が九つか十のっている。若い頃の野口米二郎が師事した詩人ホーキン・ミラーは、彼の親友であった。
リディン「氷河」Vladimir Lidin (1894─), Glaciers, 1929. モスコーに生れ、現在モスコーに住む作家。ソ連政府の機関紙イズヴェスチヤの幹部記者。短篇小説の技法はチエホフ、モーパッサンの跡を追っているが、精神はソ連の新時代の作家だといわれている。一九四一年から四四年まで世界大戦のドイツ軍との戦線に新聞記者として従軍し、戦争にかんする短篇小説をたくさんかいた。ソ連作家協会の会員。この話は A Treasury of Mountaineering Stories からとった。
アーヴィン「山」St. John G. Ervine (1883─), The Mountain, 1928. アイルランドの劇作家、批評家、作家、第一次大戦に中尉として従軍、フランス戦線で負傷してびっことなる。戦後はおもに戯曲をかき。時々小説をかく。一九三三年から三年間、英国文学協会で劇文学の講義をする。晩年は戯曲や小説をあまりかかず、もっぱら政治や道徳にかんする随筆や伝記をかいた。この話は A Treasury of Mountaineering Stories からとった。
モーパッサン「山の宿」Guy de Maupassant (1850─1893), The Inn. これは説明する必要もないほど有名なフランスの作家である。若い官吏であった頃、フローベルと知りあい、その感化でたくさんの短篇をかくようになった。一八八七年から神経をわずらい、九二年に自殺をはかり、翌九三年にパリで死んだ。この作も A Treasury of Mountaineering Stories からとった。
ボイル「メークトラインの岩場」Kay Boyle (1903─), Maiden・Maiden, 1946. アメリカの女の作家、詩人、シンシナーチの音楽学校で教育をうけ、二十の時、シンシナーチ大学の工科を卒業したフランス人と結婚、彼にともなわれてフランスへわたりそこで詩や小説をかいた。三十になると彼と離婚し、アメリカの画家ヴェイルと結婚して、フランス、オースタリー、イギリスなどで暮す。一九三五年、短篇小説でオーヘンリー賞をもらう。一九三六年、アルプスのモンブランの麓、サヴォイのメジェーヴのシャレーを買って、六人の子供といっしょにそこで暮した(ボイルの四人の娘と、ヴェイルの前夫人との息子一人と娘一人)。彼らは一九四一年までその山のシャレーで生活し、一九四三年にアメリカへ帰って、ヴェイルと離婚、もとオースタリーの男爵、現在アメリカ陸軍に勤務しているフランケンシュタインと結婚、この結婚で娘一人と息子一人が生れ、いま彼らはドイツに住む彼女自身長いあいだ病気に苦しんだので、好んで若くて死に直面している人を描いた。私はこの人の Rest Cure という短篇を読んだが、南フランスのリヴィエラで病を養うイギリスの作家D・H・ロレンスが、死の数日まえ、亡き父の面影をしのびながら、「お父さん、助けてください、私は死にたくない」と叫ぶところなぞ、じつに鬼気がせまるほどよく書けている。オースタリーのチロルを舞台にしたこの「メークトラインの岩場」は A Treasury of Mountaineering Stories からとった。この作にでてくるグロス・グロクナー山や、ハイリゲンブルートなぞの地名は、みな詳しい地図にはちゃんとかいてある。モーパッサンのゲンミ峠も地図にある。山岳小説は、地図とくらべて読んではじめて面白いのである。
底本:「山岳文学選集九 ザイルの三人」朋文堂
1959(昭和34)年6月30日発行
※底本における表題「訳者あとがき」に、底本名を補い、作品名を「「ザイルの三人」訳者あとがき」としました。
入力:sogo
校正:枯葉
2017年1月12日作成
青空文庫作成ファイル:
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