魯迅さん
内山完造
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私が初めて魯迅さんに会ったのは一九二七年の十月五日であったことは魯迅日記の次ぎの記入ではっきりと解ったのです。
五日雨上午寄静農 霽野信 寄季市信 寄淑卿信 欽文来 伏園 春台来并贈合錦二合 午邀欽文 伏園 春台三弟(建人)及広平往言茂源飯 訪呂虞章未遇 往内山書店買書四種四本十元二角下午往三弟寓 夜小峰邀飯于全家福(菜館)同坐郁達夫 王𣅡霞(郁夫人)潘梓年 欽文 伏園 春台
小峰夫人 三弟及広平 章錫琛 夏丏尊趙景深 張梓生来訪未遇 夜朱輝煌来
とある。実は魯迅さんは広東の中山大学の文学部長であったのだが、蒋介石の乱暴にとても堪えられないで脱出して上海へ来られたのであって、十月三日に着いて共和旅館に宿泊中であったのだが、それからは八日、十日、十二日と店へ来られたらしい。しかも十二日には二度も来たようです。しかし私のぼんやりは、ただのお客様として扱っておったのですが或る時買った本を東横浜路景雲里二十三号の宅へ届けて呉れといわれた時にお名前はと聞いたら周樹人といわれたので、私はビックリして
「おやあなた魯迅さんですか」
というた。これからが私との十年の親しい交りとなったのです。
その頃魯迅さんは中国作家として或る地位をもっておられたのですネ。私が魯迅という名を知って居ったのですからネ。
私は今もいうように日本の本を売っておったのです。魯迅さんが毎日のように来られて何冊かの本を買って帰られるのを見ると、先生が永らく日本の書物に飢えて居られたことが解りますので私はとても嬉しかったですよ。
だから魯迅さんの体内には随分たくさんの日本の文学、思想、哲学等が蟠居していたことと思いますネー。これは或るいは私の自惚れかも知れませんが、何日も魯迅さんのことを話しているとそんなことが頭に浮んで来て一人で微苦笑することがありますネー。
魯迅さんという人は実にきちょう面な人で積上げてある書斎の本はまことに整然と整理されておりました。日本の雑誌などでもきちんと積んであって一冊一冊の重要記事は一冊一冊に題名を書いた見出しがはさんでありました。単行本にも同じようにしてありました。
景雲里生活の間に、北京から師弟として同行しておった許広平女史と遂に結婚されたのです。そして間もなく子供が生まれた。お産される時は日本人の病院(福民病院)であったと思います。上海で生まれた子供という意味で海嬰と命名されたのです。魯迅さん晩年の子供でしかも初児というのでとても嬉しそうでした。
実は魯迅さんには北京に奥さんがおられたのですから、これでは二人の奥さんということになるのですが、先生はチャンと割り切っておられたようです。
「北京の方はお母さんの嫁さんです」
というておられた。つまり旧式の親と親とで勝手にきめた結婚であることを指して言われたのだと思います。その通り北京の奥さんはお母さんとお二人で此世を終られました。
だから許広平女史は魯迅夫人ということですネー。
魯迅さんの上海生活は三人でしたが、北京のお二人の生活費も毎月送っておられましたから、全くの原稿生活の魯迅さんとしてはナカナカ大変だったと思います。
私が一番魯迅さんに引きずられた一つは、先生の真正直な人柄でしたネー。たしか創造社の人々との論戦の時であったと思いますが、
「プロレタリヤ文学を書けといわれても僕は労働したことがないのでプロレタリヤ文学は書けない」
というておられたことがあったですが、流石に魯迅さんだと思いましたネ。
それからどんなことをおたずねしても、はっきり解ってることはスグに教えて下さったのですが、どんな小さいことでもはっきりしていないことはキット一つ調べて上げましょうと言って調べてチャンと書いて下さいました。
私はそうした紙をたくさんもっておりましたが、魯迅さんの死後、中日両方の人々から何か筆蹟があったら下さいといわれて、小さい紙切れまでみな分配しましたよ。たった一つ私の家内がお頼みした時に書いて下さった書がありました。それは今上海の記念館にかかっておりますが、
廿年居上海毎日見中華
有病不求薬無聊纔読書
一滴臉就変所砍頭漸多
怱而下野南無阿弥陀
鄔其山仁兄教正
辛未初春為請 魯迅
と書いてあります。これは実は私が見ておると中国の政治家というのは役人になるとよく人の首を切るが、失脚するとスグにお寺にはいって南無阿弥陀仏を唱えて居士になる、ということをいうたことをとりあげて、書いて呉れたものらしいですが、この書には魯迅さんが拇印を押して呉れてあるのです。
魯迅さんはアメリカのチョコレートが嫌いであって、度々私が頂戴したことがある。
「老板またアメリカのチョコレートが到来したから一つ片づけて下さい」
という御挨拶であってそして日本製や時々はロシヤのチョコレートをワザワザ買って帰られることもあった。
日本の政治に対してはとても悪感をもっておったが、しかし日本人に対しては非常な親しみとともに一面高く買っておったのです。
それは魯迅さんが日本に来ていたころ魯迅さんの頭に映った日本人は、藤野先生を初めとしてまた明治維新当時の人々の真面目さが烙きつけられておったことにもよると思うのですが……。
病中の一日私がおたずねした時に今日はとても好いからというて色々の話をされた。
「ナアー老板。僕は今度臥ている間に一つ面白いことを見つけた。今度起きたら僕はこれを言うつもりだ」
といって面白いことをいわれた。
「ナアー老板。今中国人は四億人が病気にかかっておる。それはマーマーフーフーということだ。この病気を治さねば中国は救われないよ。その病気の薬を僕は見つけたのだ。それは日本人が持っておるのだ、日本人のあの真面目ということが特効薬だ。全日本を排斥してもよいが、あの薬だけは買わなくてはならんのだよ」
といわれた。魯迅さんのいうマーマーフーフーというのは、実は文字では馬々虎々と書くのですが、その意味は、はっきりしちゃいけない、きっちりしちゃいけない、ぼんやりぼんやりでおけ、つまりいいかげんにしておけということです。それが膏肓にはいってやりっぱなしになり、どうでもいいやということになっておる。これを先生が四億の民のかかっている病気だというてるのです。
この病気を治す薬は日本人の真面目というものだというているのですから、魯迅さんは日本の政策には極度に反対しながら、日本人の生活に対しては、とても高く買っておったのですネー。誠に赤面の至りです。
魯迅さんの生活は全く原稿生活でしたが、あんまり思うことをズケズケパッパッというものですから圧迫が来るのです。
そのころ、宋慶齢、蔡元培、楊杏仏、林語堂、魯迅などで人権同盟というものができて、蒋介石にたてついた。ついには白莽、柔石等の魯迅の弟子の若い人たちがいっぺんに六人まで殺された。魯迅初め皆んなが憤慨して、そのことを人権同盟でとりあげまして、ドイツ語、フランス語、英語、ロシア語などで世界中にむかって訴えた、それが蒋介石にとって大きな傷手になった。そこで蒋介石がC・C団といわれた陳立夫陳果夫の特務隊をつかって、弾圧を加えようとしている。その時のことを先生が話されるのに、今彼らは考えている。誰れをやっつけるのがもっとも有効であるかということをネ。そして魯迅を片附けるのがいいと思ったらしいが、魯迅をやると青年の反対を受けるからということで魯迅をやらずに楊杏仏を殺したのだといわれた。人権同盟から電話で楊杏仏が殺されたと魯迅に伝えてくれといってきた。魯迅に知らせると、すぐやってきて、これからすぐいくという。それは危いからといってとめたんですが、きかなかった。その後魯迅はひじょうに圧迫を受けるようになった。蒋介石は自分の名前を出さないで、浙江省の警察署長の名前で魯迅の捕縛命令を出させ、浙江省の名前において、魯迅の書いたものを発売禁止にした。そのうえ魯迅に逮捕状が出たので、ぼくは心配して、魯迅にしばらくかくれた方がいいだろうというて無理から匿れさせた。ぼくの家の近いところに、花園荘というぼくの友達のやっているアパートがある。そこの小使部屋をあけさせてワザワザボーイの部屋に魯迅親子三人をかくしたのです。そのときは何事もなかったのですが、魯迅に対する圧迫はますます加わり、とうとうそれ以来魯迅の名前では文章を発表できなくなった。魯迅が今までに使ったペンネームは百三十いくつあったということですが、私の知っていたのは百九です。
魯迅さんは私のところへ、ほとんど毎日来てました。大陸新邨に住居が変って、部屋が狭いものだから別のところに書斎を借りており、そこに毎日いく。午前中勉強して、大体二時か三時ごろ帰って来る。その途中でぼくのところへ寄る。しばらく漫談して帰っていくわけです。日課のようになっていました。
魯迅さんは圧迫を受けていたけれども呑気で明るかった。逮捕命令が出ておるのだから、呑気にしていてはいかん、といっても、いや大丈夫だよ。捕縛命令が出たということは、ちっと黙っておれということだよ、ほんとに捕縛する気なら命令など出さずに、だまって連れていくはずだ、心配ない、心配ない、という。
こんどは魯迅さんの家庭のことですが、先生のことだから、金の余ることはない、北京には母堂がいて、そこへ金を送らなければならないし、学生たちがしょっちゅうやって来たりするでしょう。ときにはこんなことがあった。或る日、一人の婦人がぼくのところに来て魯迅先生に会いたいという、ちょうど魯迅さんはそこに来ておるんだが、婦人は知らない。ぼくがどんな用事で来たのかときくと、私の亭主というのは魯迅先生の弟子なのだが、今、警察にひっぱられている。出してくれと頼みにいったら、三百円もって来たら出してやるといわれた。ものを売ったり借りたりして二百円はできたが、あとがどうにもならない。その足りない百円を魯迅先生に頼みたいのだというんです。そこで魯迅さんにぼくが、会いますかどうしますか、ときいたら会いましょうという。そこでこの方が魯迅さんですというと、三拝九拝の礼をしてから話を繰返した。すると魯迅さんは、その正月に朝日新聞に「上海雑感」というのを書いて、それの原稿料がちょうど百円届いて、ぼくが現金でいま渡したばかりのところだったのです。それをそっくりその婦人にやってしまった。婦人が喜んで帰ったあとで、ぼくがあの人はだまされているんですよというと、そうだよ、だまされるのはわかっている、三百円とられちゃうのはわかっているけれども、わたしがどんなに説明してやっても、魯迅は金を出すのがおしいからああいうのに違いない、と納得しないにきまっている。彼は今無くて困っている。わたしは今、金があるから、それをやる。彼はお金をもっていって警察にとりあげられ、だまされたということを知るだろう。それでいいじゃないかというのです。偉大なる教育者と思いましたネ。
いつでも家庭は苦しいんです。そして、人に金を貸せとは断じていわない人でした。中国人でも日本人でも、魯迅は内山というパトロンがなかったら、ああ活動はできなかったに違いないという。しかしぼくは金銭上において魯迅さんを助けたことは一度もないのです。それが魯迅さんのほんとに偉らいところですネ。
魯迅さんは日本の本をたくさん買った。何を買ったか一々おぼえていないが、一つ面白いと思って忘れられないのは、川柳全集を買っていることです。自分ではよくわからんとはいっていたけれども、大よそわかったらしい。川柳全集を買ってから、こういうことをいっていた。日本人は漢詩を作らんがいいね、それはわたしに川柳を作れ、俳句を作れといわれても駄目なのと同じことだよ。日本人は漢詩を作るのはやめたらいいね。それからバーナードショウに会ったときに、魯迅さんはこういうことをいった。バーナードショウのことを、中国人でも日本人でも皮肉家だというが、あれは皮肉家ではない。最も豊富な内容のあることを、最も短い言葉で言おうとするだけだ。けっしてあれは皮肉家ではないといった。私は英雄英雄を知るという言葉をあの時知ったですネ。
支那事変以後、魯迅さんはぼくに日本のことはなんにもめんとむかってはいわない。ぼくもなんにもいわない。由来私は政治や軍事のことは魯迅さんだけではない、誰れとも話したことがない。しかし文章では随分ひどいことを書いているのを見ることがあった。魯迅さんは人間と政治とをはっきりわけていた。ぼくのところへ来るのも前と少しも変らない。ぼくの方でも変らない。日本の軍部も、さすがに露骨な圧迫はしなかった。ときどき領事館警察の特高が、ぼくを狙う結果として、魯迅さんとの連絡を考えたものもあるらしいけれども、魯迅さんと話しているのを立ち聞きしてなにも問題がないので、しまいには来なくなってしまった。
上海で小報という小型新聞があって、それが魯迅をさかんに攻撃する。内山完造は、日本の外務省の最高のスパイだ。あいつの月給は五十万円、一年の機密費は五百万円。必要に応じていくらでも出る。それで彼はたくさんの伝書鳩を飼っている。その中で一番大きな伝書鳩は魯迅だ、魯迅は毎月十万円ずつ餌をもらっている、などと書く。そういうときに魯迅さんはぼくに、こういうものを相手にしてはいかんよ、嘘というものはいくらでも書ける、真実は一つしかない。長い年月の間には真実が勝つ、目前の闘争では真実の負けることもあるから相手になるな。そういう魯迅さんは一年に一回か半年に一回、攻撃された文章をまとめて返事をする。これのいってることはでたらめだと、ピチピチと釘を打ってしまう。喧嘩の仕方が実にうまかった。或るとき、半年くらいの食いしろあるかなとききにきた。それは魯迅さんの金をぼくが預っていたからです。ある、というと、そうか、ちょっと喧嘩しようと思うが、喧嘩すると半年くらい収入がなくなるのでね、という。食いしろをきめてから喧嘩をはじめる。ですから魯迅さんの喧嘩は強いですよ。
魯迅の好きな詩人は李長吉。それから魯迅は新しい版画を取り入れて盛んに宣伝した。われわれも一緒にやったのですが、世界中の版画を集めて来て美術学校の生徒に教えた。それが新しい中国の版画のはじまりです。その狙いは、油絵も、中国画も本物は一枚だ。これでは或る一部分の人しか鑑賞することができない。特に油絵などは画材が舶来品で高いから大衆向きでない。版画は多勢の人に、同じもので鑑賞させることができるし、値段も安い。日常茶飯事を彫るから誰れにも了解出来る、ということでした。
うどん屋を彫ったり、散髪屋を彫ったりする。戦争中にむこうが宣伝に使ったのはみんな版画です。版画で、中国人は命をすててるのです。最初に習った十八人で、一八芸術社というのを作っていた。その中の数人は殺されている。魯迅はドイツのコーロウィッチの版画集を取りよせて、複製を上海で自分で作って、人々が版画に興味をもつようにした。みんなが版画を彫ったのを集めて、その中からいいものを選んで版画集を作り、木刻紀要第一集が出た。また、その一方に古い版画、明代の小説の挿絵とか、詩箋、便箋の技術を残す必要があるというので、鄭振鐸と一緒に、北京の栄宝斎など十軒ばかりの文房具屋の便箋の版木五千ばかりのうちから、四百六十何枚を選んで北平箋譜というのを拵えた。それのつぎに十竹斎箋譜の翻刻をやり出し、第二集を印刷中に死んだのです。
魯迅は中国の長い歴史の中の、すぐれたものを大事にしなければならない、これはこういう独特のものだ、これは中国人だけのものだ、これは保存しなければならない、つまり標準的なものの保存ということはしょっちゅういっていた。
魯迅さんはずっと長い間寝ておったのですが、日本人の医者で須藤五百三という人がいつも診ていた。十月十八日の日でしたね。毎日新聞の松本槍吉君だったと思う、が魯迅さんに会いたいといって、十八日の午前十時に会うことにしておった。そうしたら朝、魯迅さんが手紙をよこして、昨夜から喘息がおこって、松本に会えないよろしくたのむ、須藤さんにすぐ来てもらいたいということが書いてある。魯迅さんは奥さんが広東人だから、ぼくには広東語は通じないと思うので、いつでも手紙をきちんと書いてよこす。それがこの朝の手紙は字がひじょうに乱れているので、これはいけないと思って、須藤さんに電話をかけておいて、すぐかけつけた。大変な苦痛で、籐の寝椅子にもたれて、それでもまだ煙草をもっている。呼吸をみていると吐くばかりで吸う力がない。これはいかんと思った。どうかな、というと、どうも苦しい、という。横になったらいいだろうといって、背中をなでていたが、やめてくれという。そのときぼくは卵の油からとった喘息の薬をもっていっていた。これをのむとちょっとおさまると、今までもすすめたことがあるんだが、そんなものはいやだといってのまなかった。ところがその日はのんでみようというのでのませたが、ちっともきかない。そうしていると苦しいだろう、寐たらどうかといってベッドへ寐かせる、そこへ須藤さんがやって来た。ドアをあけるなり、じっとそこから見ていて、もう駄目だとみたらしい。中へ入って来て、脈をとって見て悪い、という、松井博士をよんでくれというのですぐよびにやったんですが、松井博士は日曜なのでゴルフにいっておらん、ちょうどそこへ石井政吉というドクターが来たので魯迅さんが悪いといったらすぐに見に行ってくれた。そして酸素吸入をしなければいけないというので、それを取りよせた。そうして酸素吸入をかけながら、十九日の夜明けまでもって、亡くなったのです。
遺言はなかった。しかし、前に「死」というのを書いている。その中にちゃんと遺言を書いているんです。わたしの知っているどんな人からも香奠をもらってはいけない。但し老朋友はその限りでない(仲のいい友達はかまわない、というのです)。供養もしてはいけない。わたしのことは忘れてしまえ、食うことに働け、子供はなまなかの文学者にするな。まだあったかな、四つ五つあったのですけれどもそれが遺言です。
その晩、十八日の晩の夜中に、どうも形勢がいよいよ悪いので、三人目の弟の周建人をよびにやって、奥さんと子供とその三人がついていた。ぼくはちょっと家へかえったその間です。魯迅さんは死んだ。
魯迅さんの最後の手紙は記念館にありますが、
「老板几下、意外ナ事デ夜中カラ又喘息ガハジマツタ、ダカラ、十時頃ノ約束ガモウ出来ナイカラ甚ダ済ミマセン。御頼ミ申シマス、電話デ須藤先生ヲ頼ンデ下サイ。早速ミテ下サル様ニト。L拝 早々頓首」
これが絶筆なんですよ。この朝、まだ、日記をかきかけているんです。日附だけでしたが。
最後はそう苦しまなかった。平塚雷鳥さんの良人奥村博さんが上海に来てましてね、その朝ちょうどぼくの店へ来た、魯迅さんが死んだといったら、それはぜひ一つ、お悔みにいきたいというので一緒に連れていった。スケッチをしました。それが今、あちこちに出ている色彩の入っているスケッチなんです。
魯迅さんの遺骸は十九日の午後、膠州路の万国殯儀館にうつされて二十日朝から二十二日出棺まで告別の行列がつづいた。しかし政府の役人とか自動車で来るような富豪は一人もなかった。二十二日午後二時殯儀館を出た葬列はおよそ六千人の青年男女が粛々として万国公墓に向った。順路の両側には騎馬巡査が警戒してボーイスカウトが交通の整理にあたったのでなんの問題もなかった。万国公墓の霊堂で八人の葬儀委員によって極めて厳粛な墓前式があった。蔡元培の式辞があり、沈鈞儒の略歴朗読があり、宋慶齢女史の告別の辞があり、章乃器、郁達夫、田漢その他の告別の辞があった。私も葬儀委員として話した。式が了ると共に棺の上に黒いビロードに白い民族魂という大きな文字の幕がかけられて、棺は墓穴に送られた。埋葬の終った時には空高くとがまの様な月が皓々と人々の嗚咽を照らしておりました。
底本:「エッセイの贈りもの 1」岩波書店
1999(平成11)年3月5日第1刷発行
底本の親本:「図書」岩波書店
1955(昭和30)年8月
初出:「図書」岩波書店
1955(昭和30)年8月
入力:川山隆
校正:岡村和彦
2013年8月8日作成
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