横山
高濱虚子



 賢島かしこじまから電車に乘つて、暫く來たと思つたところで降りることになつた。今日は横山よこやまといふところに泊るといふ日程であつたので、これからその横山に行くことになるのであらうと思はれた。朝は船越ふなこし村で海女の作業を見、それから多徳たとく島で御木本翁に會ひ、それから賢島から電車に乘つてここまで來たので、もう大分遲く日は西に傾いてゐた。

 これから山に登るらしいのでそろ〳〵と登ることにした。自動車が來るといふ話であつたやうに思つたが、それらしいものは見かけなかつた。來ぬものを空しく待つてゐるよりも、そろ〳〵でも登る方がよからうと登ることにした。

 道は大變こはれてゐて石がごろ〳〵してゐた。私は足が少しむくんでゐるので坂を登るのが一番つらかつた。極めて歩調を緩めて登つた。同行の人々も皆私に附合つてそろ〳〵と登つた。

 暫く登つたと思ふ時分に、上の方からリヤカーを曳つぱつてゐる子供の一群が下りて來た。さうして私の前に來るとその梶棒につかまつてゐる子供は急に體を後ろに反らして足を突つぱつてそれを止めた。周りについてゐる子供達も皆一齊にとまつた。そのリヤカーの上には座布團が一枚敷いてあつて、それは私を乘せるためのものであつた。

 まだ年もゆかぬ子供達の曳いてをる車に乘るといふことは不本意でもあつたが、勇み立つてゐる子供達の好意を無にする氣にもなれなかつたのでそれに乘つた。一人の子供が梶棒の中に入り他の二人は梶棒を曳き其他の子供はあとから押し、又殘りの子供は道にある石ころを飛ばしたり、又大きな石があるとそれを兩手で運んだりした。

 それ迄は人家は無かつたが、漸く一つの茶店の前に出て其處で休むことになつた。果汁のやうなものをコップに注いで出した。子供達には御褒美をやつた。年長の子供は一同を代表して慇懃に謝辭を述べた。他の子供達は皆そのあとについてお辭儀をした。

 そこには又屈強な若者が曳いてをる別のリヤカーが待つてゐた。それはゴム輪の稍々大形のもので、乘つて見ると前のよりは樂であつた。やがてかなり大きな建物に著いた。それは半ば未完成のもので、屋根は葺いてあるがまだ壁などはついてゐなかつた。其裏の方にある家屋に私等は導かれた。其家屋は二階建てのもので、二三十人は集會が出來るやうな處であつた。そこで夕飯の御馳走になつた。

 其家を守つてゐるのは前田敬氏であつて、もう五十を過ぎてをる年配であらうと思はれた。夕飯の料理を拵へた人は前田氏の弟で甘雨といふ、之も五十近い俳句を作る人であつた。其二人と小出幸十郎といふ一番年長らしい人が主人役らしく、率先して私等に酒を勸めたりした。酒は葡萄酒でこしらへた酸味の強い酒であつた。

 志摩しまが國立公園と極まり、この横山が其樞要な場所になるものとして、此等の人々は其日を待つてゐる事が話の模樣から分つた。私等が割當てられた日程の一つにこの横山があつたといふことも漸く合點が行つた。

 先刻から埃のやうに飛び𢌞つてゐるものがあるのを知つてゐたが、杞陽君と公子とが手を握つて十匹とつた二十匹とつたと互に其數を競ひつゝあるのを見た。それは蚊であつた。聞くとこの横山は蚊が非常に多く蚤も多いとのことであつた。そして此等の蚊は齒朶しだの間から出て來るとのことであつた。部屋の前面にある崖には其齒朶が澤山生えてゐた。

 この村を拓いて、始めて家を建てた時には、數限りない蚤が跳梁して困つたとの話であつた。だん〳〵話してゐるうちに、此村は比較的新しく、開拓した村であることが分つた。

 多くの人は此家に泊ることになつてをるらしかつたが、私、年尾、立子、公子、それに杞陽君の五人は小出氏の家に泊ることになつて、私は又先刻のリヤカーに乘せられて若者に曳いて行かれることになつた。外に出ると眞暗な坂道で、少し下りになつてゐるところを急速度に曳いて行かれるのは多少心細かつた。やがて行く手に一點の灯のともつてゐるところが見えはじめた。それが小出氏の家であつた。

 一と足先に歸つてゐた小出氏は、私達を迎へてまづ湯に入ることをすゝめた。ランプの明りで漸くそれとわかる湯槽につかるのも久しぶりであつた。小出氏は國民服の膝をきちんと折つて坐つて、壁の隅に置いてある藥罐やくわんの湯を柄杓で汲んで、煎茶をいれて、それを私等にすすめた。飮み干すと又注いで呉れた。蚊は相變らず多かつた。年尾が其處に掛つてゐる馬の寫眞を見て二人の間に馬の話が始まつた。年尾がもと勤めてゐた會社の重役が馬が好きであつて、其家に騎手として抱へてをつた武田文吾といふ人が話題に上ると、それが小出氏がもと尾張の一ノ宮に居た時分に目をかけてゐた鬼頭といふ騎手の弟子に當るとのことで、二人の間に暫く競馬の話がはずんだ。それから小出氏の身の上話になつて、小出氏は、一ノ宮で機屋はたやをしてをつたが、それは今は子供に讓り、老後は此處に引込んで果樹の栽培をやつてをるとのことであつた。それから又、この開拓村の中で、一ノ宮から來た者が過半數を占めてゐるとのことも話した。察するところこれは小出氏が率先して此地に來てそれから他を勸誘したものであらうと思はれた。それから小出氏は又村會議員などといふ方面にも政治的の交渉を持つてゐるらしく、以前はこの開拓村に反對する村會議員の方が多かつたが、それが此頃はさうでなくなつたと話してゐた。それから又、開拓村の事業もなか〳〵捗らず、今建築中になつてゐる建物も目下中止の形だなどと言つてゐた。それは始終私等の方には横を向けて、藥罐の湯を柄杓で汲んでは、取りかへ引つかへ煎茶を私等の方に勸めつつ話すのであつた。話はなか〳〵に盡きさうになかつたが、いつもの寢る時刻が來たので私等は床を敷いて貰つて寢ることにした。其時細君にも挨拶をした。隣の室には細君と若者がゐるらしかつた。

 翌朝起き出て庭に降りて石の上に置いた洗面器で顏を洗つた。遠く山の果てから昇る朝日が美しかつた。庭の境は低い梨の木で出來てをつた。その梨の木には白い花がついてをつた。杞陽君が雉が啼くと云つた。私にはなか〳〵その聲が聽きとれなかつた。がやうやく一つ其聲を聽いた。大分遠くの方で啼いてゐた。杞陽君の話に、雉の雄は自分の勢力範圍を固く守つて其範圍内に他の侵入することを絶對許さないとの話であつた。其勢力範圍はどれ程の擴がりであらうか。この山又山のたゝなはりになつてゐる遠くの雉の啼き聲は、およそ其領地の範圍を思はせるものがあつた。朝の爽涼の氣が漲つてをるやうな感じがした。

 朝、寢卷を著換へる時分に、床の間に置いてあつた汐汲の博多人形の首がころりと轉がつた。粗相をしましたと言ふと、小出氏は、それはもとからとれてゐたのですと笑つた。私は其首を胴體の上につけてみたがすぐ轉げ落ちるので仕方なしに下に置いた。

 昨夜の若者が又リヤカーを曳いて來て呉れたので、私はそれに乘つてもとの家に戻ることになつた。昨夜は眞つ暗な夜道であつたが、今見ると、うね〳〵した山並はいづれも桃の畑であつて、丁度今が花の盛りであつた。さうして家もとびとびにあることが判つた。

 朝飯をすませてから一同は宿を出て更に又山に登ることになつた。私は椅子に二本の竹を渡したものに乘つかつて急坂をかつがれて行つた。昨夜リヤカーを曳いてくれた若者の他に洋服を著た土地の人も汗を流し息を切らして舁いで呉れてゐるのであつた。やがて志す處に達すると忽ち春蝉がかぶさるやうに鳴いてゐて、涼しい風が松を透かして落ちて來るのであつた。英虞あご灣はもとよりのこと、志摩の南端の卍巴の如く彎入してゐる水は、其等の灣をさし挾んで突出してゐる澤山の堤のやうな陸地の間に美しく光つて見えた。私は言下に、これは松島よりも景色がいゝではないかと言つた。

 暫く其景色を眺めてから下りることになつた。また椅子のかごに乘らんかとのことであつたが、私はそれを辭して今度は歩くことにした。なるべく迂路を取つて勾配の緩い道を撰んだ。が中には近道を取る人もゐた。杞陽君や公子などもその方であつて、雜木の間から突然姿を現して私等のとつてゐる道に出たかと思ふと又雜木の中に隱れて行つた。

 それから一同で俳句を作つた。小出氏と前田敬氏とは俳句を作らなかつた。

 歸る間際になつて前田氏は一枚の繪圖を取り出して見せた。小出氏は傍に在つた。それは國立公園横山發展理想圖であつて、環状道路が完成し、交通機關が完備し立派なホテルが出來てゐる圖であつた。さうして赤や青や黄色で彩色がしてあつた。ケーブルカーもありプールもあり飛行機も飛んでゐた。其圖はもう餘程手摺れて古びてゐた。聞くとそれはこの横山に滯在してゐた畫家が描いたものとのことであつた。

 私等は山を下ることになつた。現在梨や桃の栽培に努力しつゝあるこの開拓村の人々、さうして昨日其子供等をして私のリヤカーを曳かしめたこの開拓村の人々、殊に何くれとなく歡待してくれた小出、前田氏等に敬意を表しつゝ下つて行つた。私の頭には桃の花と彼の理想圖とが美しく淋しく燒きついて殘つた。

底本:「現代紀行文學全集 第四卷 西日本篇」修道社

   1958(昭和33)年415日発行

初出:「ホトトギス」ホトトギス社

   1948(昭和23)年9月号

入力:岡村和彦

校正:高瀬竜一

2019年129日作成

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