五階の窓
合作の二
平林初之輔
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その晩の九時半ごろのことである。
ちょうどその日、宿直の番に当たった会計の野田幸吉は、宵の口の騒ぎもほぼ静まり、ほうぼうからうるさく問い合わせてくる電話の応接もたいてい済んだので、肘掛け椅子をガス・ストーブの傍へ曳きずっていって、疲れた身体をぐったりとその上に乗せた。
彼の様子は妙にそわそわしていた。椅子を立ったり坐ったり、ときどき社長室へ通ずるドアのところへ行って、腰をかがめて鍵穴から中を覗いたりした。ドアには警察の封印がしてあって、警官の立ち会いの上でなければ中へは入れないのである。
やがて、彼はがっかりしたもののようにぐんなりと肘掛け椅子に寄りかかっていると、なんだか大急ぎで階段を駆け上がってくるような音が下から聞こえてきた。彼は全身の注意を耳に集中して、だんだん近づいてくる足音に耳を澄ました。
足音は彼の部屋の前でぴたりと止まった。
こんこんとノックの音がする。
彼はできるだけ冷静な態度を装って、
「どなたですか?」
と訊いた。
「警察の者です、ちょっと急に調べる必要があったものですから、どうぞ開けてください」
野田はぎょっとしたが、相手が警官と聞いては開けないわけにはいかない。ポケットから鍵を取り出して、震える手先で鍵穴へ突っ込んで、ぎりっと回した。
「どうも晩くなってすみません」
と警官にしてはばかに丁寧な挨拶をしながら入ってきたのは、さっきの若い刑事であった。
冬木刑事は野田がストーブの傍へ持ってきた椅子にどかりと腰をかけて、野田と向かい合った。
「急に思い出したものだから、ちょっとお訊ねしようと思って来たのですがね」
冬木は朝日(当時の煙草の銘柄の一つ)の袋をポケットから出して、ガスで火をつけながら言った。
「それよりも前に、社長室のドアはまだだれも開けないでしょうな?」
刑事はちょっとドアのほうへ目をやった。
「はい、そのままにしてあります」
「実は、庶務の北川さんがたいへん不利な立場に立っておられるのでね、そのことでもう一度、あなたからはっきりお訊きしたいと思って来たのですが、北川さんが最後に社長室へお入りになった時刻は、さっきあなたがおっしゃった時刻に間違いありませんね?」
「はい、確かに四時十五分でした」
「それから社長室を出られたのは?」
「それから間もなくでした」
「間もなくというと?」
「そうですね。三分間か、せいぜい五分たったかたたないうちです」
「社長室から出てきたときに、べつに変わった様子はありませんでしたか?」
「いいえ、わたしはべつに気がつきませんでした。たしか、社長はどこへ行ったんだろう? なんて、みんなの者に訊いていたように思います」
「その訊き方にべつに変わったところはなかったですか。たとえば声が震えていたとか、いつもよりもとくに声が大きかったとか、あるいはなんだかわざとらしい訊き方だったとか?」
「そういうことは、べつに気がつきませんでした」
「社長室の中にいる間にもべつに変わった物音は聞こえなかったのですね」
「そうです」
「いや、どうもありがとう。では、ちょっと社長室を拝見しますかな。窓はあのままにしてあるでしょうな?」
と言いながら、冬木刑事は立ち上がった。
野田も同時に立ち上がった。
やがて、ドアの封印を破って、冬木が先になって二人は社長室へ入っていった。
スイッチをひねると、室内は昼のように明るくなった。室内はなにひとつ取り乱されていない。恐ろしい凶行の行われた現場とはどうしても思えない。
冬木刑事は無言のまま、開けっ放しにしてある窓のところへ行って、ポケットから虫眼鏡を取り出しながら言った。
「すみませんが、電気をこちらへ引っ張ってくれませんか」
野田は言われるままに、電灯の紐をゆるめて百燭の球を窓の傍へ持っていって、右手でそれを差し上げた。
冬木刑事は窓枠のあちこちへ虫眼鏡を当ててしばらく熱心に何物かを探していたが、やがてナイフを取り出して細かい塵埃のようなものをかき集めて油紙の中へ入れた。それが済むと、今度は窓枠の下のリノリウムの床の上へ同じく虫眼鏡を当てて、蜘蛛のように這いながら前と同じように熱心に何物かを調べて、やはりナイフで塵埃をかき寄せて別の油紙に包んだ。
「風がなくてよい按配だった」
と彼は腰を伸ばしながら、油紙の包みを大事そうにポケットへしまった。
それからまたもとのようにドアに封印をして、二人は事務室のほうへ引き返して、ストーブの前に向かい合って腰を下ろした。
冬木刑事は朝日を一本ふかすと、
「どうもおじゃましました。いずれ……」
と挨拶しながら帰りかかったが、ふと何か思い出したものとみえて立ち止まって、
「三時ごろに社長室へ行ったタイピストは瀬川艶子さんとか言いましたね?」
野田はこの質問を聞くと、なぜか相手にも分かるほどわなわなと震えた。
「そうです」
と答えた声にも、震えが伝わっていたことは言うまでもない。
けれども、冬木刑事はそんなことはべつに気にもとめずに言った。
「その女が今日着ていた着物の地はなんでした?」
「銘仙だったように思います」
「羽織は?」
「メリンスだったように思います」
「羽織の柄には紫の色は混じっていませんでしたか?」
「ええ、大きな紫の模様がついていました」
会話はこれで終わって、冬木刑事は出ていった。刑事が出ていってからものの五分とたたぬうちに、またもや慌ただしい足音が階段に聞こえて野田をひやりとさせた。やはり、その足音も西村電機商会の事務所の入口の前でぴたりと止まった。
前と同じようにノックの音がする。
「どうも晩くなってから……」
と息を切らしながら、入ってきたのは探偵小説家の長谷川だった。
「さっきはたいへんでしたね。その後、べつに変わったことはなかったですか?」
「べつに変わったことはありませんが、ついいましがた昼間の刑事が来ました」
「ほほう。あの、背の高いほうですか低いほうですか?」
「低いほうでした」
「それじゃ、××署の冬木刑事だな。あの刑事はなかなかあれでしっかりしていますよ。で、どんなことを調べていきました?」
野田幸吉は冬木刑事が、北川が社長室へ入った時間などについていろいろ訊き質したこと、それから社長室の開けっ放してある窓の窓枠や、床の上を虫眼鏡で念入りに調べて、何かごみのようなものを油紙に包んで持って帰ったことなどを詳細に語った。
長谷川はいちいちうなずきながら聞いていたが、野田の話が終わると、
「もうそれっきりでしたか?」
と、念を押した。
野田は刑事が帰りがけに、タイピストのことをちょっと訊いた旨を告げた。
「なにか、着物の地のことでも訊いたのですか?」
「そうです。着物の地や色のことを訊きました」
と、野田はびっくりしながら答えた。
「えらいっ」
と、長谷川は思わずぽんと膝を打った。
「ぼくと同じところへ目をつけている。しかも、ぼくより早く気がついたのはさすがだ。……野田さん、ぼくもこのとおり虫眼鏡を用意してきたのですよ。だが、警官が帰ったあとじゃ社長室へ入るわけにもいかんし、もう調べなくとも結果は分かったようなもんですがね」
こう言いながら、彼はさっき刑事が持ってきたのと同じような虫眼鏡を掌へ載せて見せた。
長谷川がSビルディングを出るとき、ほうぼうの部屋の時計が十一時を打つのが聞こえた。
××署ではつい二、三カ月前にも白昼、住井貿易商を襲った強盗事件でさんざん味噌をつけて、警視庁からお目玉を頂戴している矢先のことでもあるので、西村商会社長の変死事件に対しては近来まれにみる緊張ぶりを示した。署長はじめ事件担当の刑事に至るまで、口でこそ言わぬが名誉恢復はこの一挙にありと期していたのだ。
いましも署長室では、山川署長と恒藤司法主任とが、膝をつき合わして密議をこらしている。話しているほうは主任で、署長はバット(ゴールデンバット。当時の代表的大衆紙巻煙草)をふかしながらときどきうなずきつつ、主として聞き手に回っているようである。
「……で、床から窓枠まで測ってみますと、かっきり二尺五寸(約七十五センチ)あります。いいですか、二尺五寸というと、普通の男でちょうど腰のところまであるのですよ。腰のところまで枠があれば、部屋の中でどんなに滑ったり転んだりしても、過失で墜落するはずはありません。おまけに部屋の中には滑ったり転んだりしたらしい形跡は少しもないのです。してみればこの際、過失で墜落したのではないかという疑いは全然念頭に置かなくてもよいとわたしは思うのです。
次に自殺の疑いですが、これにも何も証拠はありません。だいいち、家族の者や社員の者にいろいろ訊き質してみても、社長の様子に近ごろ変わったところがあったと言った者は一人もありません。なるほど工員のストライキや脅迫状などで心配は心配だったに相違ありませんが、ああいう陽気な気質の人間がそれくらいのことで自殺をしたりするとは思われませんからね。現に、今日もあの事件が起こる前に北川が脅迫状を社長に見せたら、『またかい、根気のいいものだね』なんて、他人事のように笑っていたというではありませんか。それに、部屋じゅう探してみても遺書らしいものはなに一つ見つかりません、充分遺書を書く時間があるのに。また社のことにしたって、家族のことにしたって、相当言い残しておく必要のある身なのに、一つも遺書らしいものを残していないということは、それだけでも自殺でないという立派な反証ですよ。その上、変事のあるすぐ前にタイピストに書かせた山田貿易商会へ宛てた手紙の終わりには、『明朝十時にご来社くだされたく、お示しの条件については拝顔の上ともかくご相談いたしたく候』と書いてありますね。自殺をする人間が、明日の朝会う約束をするなんて考えられんじゃありませんか。……というようなわけで、過失でも自殺でもないとすれば、どうしても他殺と認めなければなりません……」
「なるほど。で、きみが北川に嫌疑をかけたのはどういう理由だね?」
と、署長は恒藤主任の説明に満足しながら訊き直した。
その時、署長室のドアをノックする音が聞こえた。
「冬木です」
と言いながら入ってきたのは、西村商会から大急ぎで引き揚げてきた冬木刑事であった。署長は頤の先で冬木に腰をかけるように命じながら、目は恒藤主任の顔から離さないで質問の答えを待った。
「まず順序を立てて申し上げねばなりません」
と、恒藤主任はちょっと冬木の面に一瞥をくれながら語りだした。
「ご承知のとおり、被害者の死体は開けっ放しになった五階の窓の真下で発見されたのです。そして、発見されたときにはまだ身体に温かみがあったということを、発見者の山本と長谷川という二人の男が証言しております。それから、医師の検案書によると、後頭部と肩胛骨の部分とにひどい打撲傷があるばかりで、火器や刃物の傷痕もなければ毒殺の形跡もまったくないというのです。いいですか、してみるとこういうことになるじゃありませんか。被害者は五階の窓から突き落とされて死んだものに相違ないとね。打撲傷以外に死因と認むべきものがないということ、それから死体──多少温かみは残っていてもまず死体といってよいでしょうね──死体が五階の窓の真下にあったこと、この二つで被害者が五階の窓から突き落とされたものだということは確実ですよ」
こう言いながら、彼はあたかも自分の組み立てた論理が聴者にどんな効果を与えたかを偵察するもののように、あらためて二人の聞き手を等分に眺めた。
「しからば」
と、彼は満足と得意の色を面に現しながら語を継いだ。
「五階の窓から西村を突き落とした者は何者か、というのが次に起こってくる問題です。
わたしの考えでは、これは明々白々な問題だと思うのです。いいですか、あの死体を発見した二人の証人は口を揃えて、死体がまだ温かかったと言っているのですよ。この点が肝腎なのです。いったい、路傍で突然死体を発見した人間はまず頭か、四肢を触ってみるのが順序です。ことに被害者は洋服を着ていたのですから、わざわざボタンをはずして、胸や腹のほうへ手を入れてみることはまずあり得ないとみなければなりません。それから、靴を履いているから足を触ってみることも不可能です。してみれば、証人が温かかったと証言しているのは頭部か手先か、おそらく頭部を触ってみての証言でしょう。ところで、人間があのビルディングの五階の窓からあの敷石道へ墜落したら、ひとたまりもなくその場で即死することは疑問の余地がありませんね。そこで、即死した死体の、しかも外部へ露出している頭にまだ温みが残っていたということは、その死体が即死してからせいぜい十分以内に、あの二人の証人がそこを通り合わせたということになるじゃありませんか」
「なるほど」
と、署長は椅子の上で身体を揺り動かしながら、心持ち前へにじり寄った。
「ところで、あの二人が死体を発見したのは四時三十分です。してみると、被害者が五階の窓から突き落とされたのは、四時二十分から四時三十分までの間であるということになりますね。しかるに、ちょうどその時刻に、あの商会の庶務をしている北川という男が社長室へ入っているのです。そして北川以外に、その時刻に社長室へ入った者はないのです。わたしが北川に嫌疑をかけたのは、いや嫌疑というよりも彼を確定的の犯人だと申し上げるのはそのためなんです」
「ふむ」
と、山川署長はだいたい満足はしたが、少々腑に落ちぬところがあるというふうな態度で言った。
「その北川はまだ自白せんのだね?」
「図々しいやつです。これほど罪跡が明瞭になってるのに、まだ隠しているなんて。ああいうやつにかかると始末に負えません。だが、今晩じゅうには泥を吐かせてご覧にいれますよ」
と、恒藤主任はぷりぷりしながら言った。彼は署長が自分の説明にまだいくぶん物足りなさを感じているらしいのに気がついて、それが不平でたまらなかったのである。
署長は黙って聞いていた冬木刑事を顧みて、
「ときに、きみのほうで何か新しい材料が見つかったかね、冬木くん」
と言った。
「べつにたいしたことでもありませんけれど、少しわたしも調べたことがあります。ただいまの主任のお説はたいへん面白く拝聴しまして大いに参考になりましたが、一、二の点についてわたしには異論があります。それを申し上げてもよろしゅうございましょうか」
「ほほう。そりゃ面白い、言ってみたまえ」
と言いながら、署長はこんどは冬木のほうへ椅子をにじり寄せた。
恒藤主任は嘲るような態度で、無言のまま冬木の口もとのあたりを見つめた。
「わたしはまず、第一に主任が、被害者があのビルディングの五階の窓から突き落とされたのだと断定なさったことに少々疑いを持っているのです」
「ほほう。ではなにかね、被害者は五階の窓から突き落とされたのじゃないと言うんだね?」
「少なくとも、五階の窓以外のところから落ちても、死体があの場所にあり得ると考えるのです」
「なんだ、そんなことか、何かと思ったら」
と、恒藤主任は少なからず軽蔑の色を口辺に浮かべながらそっぽを向いた。
「二階から屋上まで、落ち場所が五カ所ありますからね」
と、冬木刑事は主任のほうは見向きもせずに言葉を続けた。
「で、きみは被害者がどこから落ちたと言うんだね?」
「落ちたと申し上げるのではなくて、落ちたとすれば落ち場所が五カ所あり得ると申し上げたのです。が、わたしは被害者は、おそらく五階の窓からもそのほかの四つの場所からも、落ちたのでも突き落とされたのでもなかろうと思うのです」
「ふん、そりゃまた妙な考えだね」
と署長はもう一度、冬木のほうへ椅子をすり寄せた。
恒藤はばかげた囈語はもう聞いておれんというような様子を露骨に示しながら、椅子を立ち上がって室内を歩きはじめた。とはいうものの耳だけは兎のように伸ばして、一語も聞き洩らさじと冬木の言葉に注意していたことは無論である。
「だいいち、死体の発見された場所はだいたい五階の窓の下ではありますが、あまりにあのビルディングの軒に接近し過ぎています。ほとんど軒の石材とすれすれのところに、あの死体は横たわっていたのです。もし五階の窓からあの死体を投げ出したとしますと、あの建物には二階と一階との間に突出部がありますから、それをよけて、その向こうへ投げ飛ばさなければなりません。もし窓からすぐ垂直に下に落とせば、突出部に触れて外方へ撥ね飛ばされるに相違ありません。そうしますと死体は、いずれにしても少なくも歩道の中央部へ落ちていなければならぬ理屈です。もっとも落ちてからあそこへ転がっていくじゃないかとおっしゃるかもしれませんが、あの高さの建物なら二階から落ちてもたいして転がるようなことはありません。いわんや五階から落ちたとすれば、牡丹餅を床の上へ落としたようにぺちゃんこにつぶれてしまうだろうと思います。少なくも水平な敷石の上を、落ちてから一間近くも転がるようなことは絶対に不可能です」
「なるほど」
署長は少なからぬ興味を面に現した。
主任もわれしらず椅子に腰を下ろして謹聴しはじめた。
冬木刑事は続けて語りだした。
「それからわたしは、死体の発見された場所の敷石道をよく調べてみましたが、高いところから落ちたような形跡はありませんでした。血はついていましたが、静かに流れた血の痕です。五階から落ちたとすれば、肉片や毛髪などが石の上にへばりついていなければならぬはずですが、そういうものは少しも見つかりませんでした。
それから、さっき拝見した死体解剖の検案書を見ますと、なるほど打撲傷以外に傷はありませんから、打撲によって殺されたものに相違ありませんが、打撲傷は必ずしも五階の窓から突き落とさなければできないわけではありません。それに、この場合には、五階から突き落とされたと仮定しては説明のできない点が無数にあります。だいいち、あの死体の打撲傷は後頭部と肩胛骨と二カ所しかありません。しかも、後頭部の打撲傷には後ろから力が加えられており、肩胛骨の打撲傷のほうは上から力が加えられています。もし墜落したための打撲傷なら、同じ方面から力が加えられているはずじゃありませんか?」
「ふん。よく分からんが、聞いてみればそのようだね」
と、署長は大きくうなずいた。
「それに、頭部はだいぶひどくやられていますが四肢の関節は完全ですし、そのほかのどの部分にも強い衝撃を受けた痕はありません。衣類なども大して汚れてもいないのです。もし五階から墜落したのなら、手足の関節などはめちゃめちゃになっていたはずだとわたしは思いますがどうでしょう」
署長も主任も、いまでは完全に冬木刑事の明快な論理に征服されたもののごとく、ただ黙って傾聴しているよりほかはなかった。
「それでも、わたしはまだもしやと思って、いましがた問題の社長室へ行って、窓枠のところを虫眼鏡でよく検査してきました。もしあの窓から突き落としたのだとすると、どんなに不意に突き飛ばしたところで、二尺五寸も高さのある枠の外へ、あの太った被害者の身体がゴム鞠みたいに跳んで出るわけはありません。必ず、窓枠が邪魔になります。そこで、少なくも衣類が強く窓枠に摩擦するはずです。ところで、あの窓枠はペンキが少しはげかかって、ところどころ材木の生地が出てざらざらしていますから、強く摩擦すれば被害者の着ていたメルトン(羅紗の一種)の服地から細かい毛がかすりとられて、窓枠に付着するに相違ありません。ところが、いくら調べてみてもそのようなものは見つかりませんでした。ただ、不思議なことには、瀬川艶子というタイピストの着物の地からとれたらしい糸が一本見つかっただけです。きっとあの女が、最近あの窓にもたれていたことがあるに相違ありません」
「そのことなら」
と署長はちょっと冬木の言葉をさえぎって、
「警視庁のほうから、さきほど報告が来てるんだ。きみにはまだ知らせるのを忘れていたが」
と冒頭して、瀬川艶子がこの物語の冒頭に記しておいた、社長室の内部で起こったことの顛末を逐一証言し、最後に『だれか社長室の直接廊下へ通ずるドアをノックした者があったので、社長さんが慌てて手を放されましたから、その間にわたしは事務室のほうへ帰ってまいりました』と言ったこと、その時にドアをノックしたのはだれか、瀬川は知らないと言ったことなどを語った。
「そりゃ、重大な話ですね」
と、冬木刑事は自分の話を続けることを忘れて叫んだ。
「そうかもしれん。が、まずきみの調べたところをしまいまで聞こう」
と、署長は言った。
「つまり、いままで申し上げたようなわけで、被害者は決して五階の窓から突き落とされたものではなく、またおそらくどの窓からも突き落とされたものではない、という結論にわたしは到達したのです。むしろ、被害者は死体の発見された現場で殺されたか、あるいはその近くで殺されてあそこまで加害者が運んでいったものか、いずれかだとわたしは思うのです」
「それから、主任は死体が発見されたときにまだ温みがあったということをたいへん重要視しておられましたが、あのお説にはわたしもまったく敬服してしまいました。たとい、五階から落ちたのではないとしても、あれだけの重傷を負った死体に温みが残っていたとすれば、殺されてからほんの二、三分、せいぜい五分くらいしかたっていなかったものと想像されます。主任は十分とおっしゃったが、わたしはせいぜい五分と考えるのです。わずか五分の差ですけれども、死体が冷却していく速度の問題ですから、五分どころか一分だって大切です。現に、そのためにわたしは主任と正反対の結論に達したのです。主任は北川を確定的な犯人だとおっしゃいましたが、わたしは彼を確定的な無罪だと考えるのです。
主任は北川が四時二十分から四時三十分までの間に社長室へ入ったと申されましたが、それは間違いで、北川は四時二十分までには社長室から出てきています。北川は社長を突き落としてすぐに出てきたとしても、死体が発見されたときまでに十分以上経過しているのです。それにもかかわらず死体がまだ温かかったというのは不合理だとわたしは考えるのです。そこで、被害者はどうしても四時二十分以後、たぶん四時二十五分から四時半までというきわどい時刻に殺されたと考えねばなりませんが、そうすると北川には完全なアリバイが立っているわけです。あの男は四時十五分からせいぜい四時二十分まで社長室へ行っただけで、その後はずっと事務所のほうにいたのですからねえ。
しかし、この点はなおよく専門家の意見を聞かねば断定はできませんが、それよりももっと北川の無罪を証明する有力な証拠は、社長室を出てきたときの北川の様子にちっとも変わったところがなかったことです。どんな大胆な人間でも、すぐ隣の部屋で主人を殺しておいて、平気でいられるはずはありません。必ず、人目につくようなへまなことをやるものです。それに、隣の部屋からいつだれが入ってくるかも分からぬのに、ドアに鍵もかけないで大胆な凶行を演ずるなんてことは考えられません。また、いくら下に人通りがないからといって、東京の真ん中のことです。いつどの街角からひょっこり人が現れてくるかもしれないのに、窓から突き落として人を殺すなんてことは、まるで舞台の上で人殺しをするような危険な芸当です。しかも、それほど大胆なことをする人間が、窓を開けっ放しにしてわざわざ嫌疑を受けるようなことをする道理はないと思います」
「北川が無実だとすると、社長の留守の部屋へ入って三分も五分もいるということは不思議だね。ドアを開けて見りゃすぐ社長のいないことは分かりそうなものだ。わざわざ中へ入るにも及ばんじゃないか?」
と、恒藤主任は言葉をはさんだ。
「それもそうですが、会社員などというものは社長とか、上役の身の回りのことについてはちょっと外部から想像できないほどの好奇心を持つものです。北川が証言しているように、実際あの男は社長のデスクの上に置きっ放しにしてあった葉書の差出人や文面などを、ひっくり返して読んでみていたに相違ありません。現に、いくらか葉書の文面を覚えているじゃありませんか? ことによると、デスクの抽斗くらい開けて見ていたのかもしれません」
「そのくらいで議論はよしとして」
と、署長は乗り出した上半身を真っ直ぐに伸ばしながら言った。
「冬木くんにも、だれか犯人の心当たりでもあるのかね?」
「いいえ。まだ、わたしには犯人はだれとも見当はつきません。が、それよりも前に、さきほど署長のおっしゃった、瀬川艶子が証言したという社長室の廊下へ通ずるドアを叩いた人間を一刻も早く捜さねばならないと思います。それから、今夜宿直で事務所に残っている野田幸吉という男をさっそく拘引して、もっと取り調べなければなりません。あの男は会計のほうをやっていて、おまけに今日、社長に二千円の現金を渡したと言っています。ところが、その現金が鞄と一緒に紛失しているのですから、はたして野田が社長に二千円を渡したかどうかも一応疑ってみる必要がありますし、そのほかにもあの男は何か知っているかもしれません。もちろん、あの男は犯人ではありますまいが、瀬川が社長室へ行っている間、あの男が廊下へ出ていたというのも変ですね。ことによると、社長室のドアを叩いたのもあの男かもしれません。それから、脅迫状の筆跡鑑定は大至急を要すると思いますね。はたして工員の悪戯か、それとも別に被害者に恨みを持っていた人間の仕業かよく調べてみなければ分かりませんが、それによって捜査方針がよほど変わってきますからね。それから、死体を発見した二人の証人がエレベーターの入口で行き違ったという男の行方を捜索すること、紛失した鞄の行方を捜すことなどもぜひとも必要ですね。それに、わたしの申し上げたように、被害者がはたして墜落によって死んだものでないとすれば必ず凶器があるはずですから、それを早く発見しなければなりません」
そのほか、署長と、司法主任と、冬木刑事との間にはなお若干の会話が交わされた。そして、××署の捜査方針が決まって三人がひとまず解散したときは、時計は一時をだいぶ回っていた。
「とうとう野田が拘引されたじゃないか」
「そういえば、昨夜──というよりも今朝だが、解雇工員が争議団の本部へ集合しているところを一網打尽に捕まったそうだよ、新聞にはまだ出ていないがね」
「ははあ。で、筆跡でもとってみたのかい?」
「うん。ところが、脅迫状の筆跡らしいのはないそうだ。もっともまだ専門家の鑑定を受けんとよくは分からんそうだがね? ときに、きみはだいぶこの事件に深入りしているようだが、何かきみのほうでもその後見つかったかい?」
「なに、小説家が道楽半分でやっているのに、たいしたことが分かってたまるもんかい。そんなことがあったら、その道の刑事の鼻の下が干上がるじゃないか?」
「でも、多少見当はついたろう?」
「犯人のかい?」
「うん」
「まったくつかんね? ただ、被害者は五階の窓から突き落とされたんでないことだけは分かったよ」
「そりゃ大発見だね、どうしてだ?」
「大発見なものか? ××署じゃぼくより先にそんなことは分かっているんだぜ。あの冬木という刑事ね、ちゃんとぼくの先手を打ってるよ。きみは死体の写真を撮ったはずだね。ありゃ大切にしまっときたまえ、あとで有力な証拠になるから。あの死体の恰好をよく研究してみりゃ、それだけでも被害者が五階から突き落とされたんじゃないってことは分かるんだがなあ」
新聞記者の山本と、探偵小説家の長谷川とはその次の朝九時ごろ、まだウエートレスたちが尻端しょりで部屋の掃除をしているカフェー『すみれ軒』の隅っこのテーブルを囲んで、熱いブラジルコーヒーを啜りながら、こんな会話を取り交わしていた。
「ときに、もう九時過ぎだね。きみはまだ出勤の時刻にゃ早過ぎるが、どうだ、これからぼくと一緒に少し歩かないか? 妙なものが見つかるかもしれんよ。ことによると、新聞種になるかもしれないぜ」
「そりゃ耳よりな話だね。なんだい、その妙なものというのは? やっぱり、昨日の事件に関したものだろうね?」
「もちろんさ。道々ゆっくり話すが、あの殺人に用いられた凶器を捜しにいこうと思うんだよ。まあ、そんな驚いた顔をせんでついてきたまえ。ただやたらに捜しまわるわけじゃないんだ。ちゃんと根拠もあり、捜す範囲も限定されてるんだから、きっと見つかるよ」
二人は五十銭銀貨をテーブルの上に置いて『すみれ軒』を出た。空は朝曇りがしていて寒かった。
長谷川は道々、山本に被害者が五階から落ちたものでないと断定するに至った筋道を話した。それは冬木刑事の推理と大同小異だから、ここでは全部省略する。ただ最後に、彼はこう言った。
「打撲傷の痕から推察すると、凶器はそうとう大きな鈍器に相違ないね。しかも、金属ではなくて棍棒か、野球のバットみたいなもの、あるいはもう少し大きいものに相違ない。してみると、そんなものを加害者が遠くまで持っていくとは考えられん。きっと、現場からあまり遠くないところに捨ててあるに相違ないんだ」
もう一つ、冬木刑事の言わなかったことで、長谷川が山本に語ったことがある。
「あのエレベーターの入口で擦れ違った男ね。あの男は将校マントを着て、一見工員風な様子をしていたね。きみはあの男の手を見なかったかい? ずいぶん細い、白い手だったよ。あんな手は労働者には珍しいね。ことによると、ぼくは変装じゃないかと思うんだ。きみに言わせると、あんまり小説家の空想じみていると言うかもしれんが」
こんなことを低い声で語っている間に、電車は△△停留所に着いた。二人は急いで飛び降りた。停留所からSビルディングまでは一町半ぐらいしかないのである。
「さあ、そろそろ捜索をはじめるんだ。Sビルディングを中心にして半径一町くらいの円の中の溝渠とか塵芥箱とか、そのほかちょっと人目につかんようなところは残らず捜してくれたまえ。ことに、人通りの少ない路地などはもっとも念入りに捜さんといかんぜ」
それから約三十分、二人は区域を分担して物陰という物陰、溝渠という溝渠、塵芥箱という塵芥箱を残らず捜したがついに徒労に終わった。
「だめだ!」
長谷川はがっかりして言った。
「やっぱり、きみの考えが小説家の空想だったのかな?」
と、山本は笑いながら答えた。
「そんなはずはないと思うがね。だが、ことによると、はじめからすっかり方針を立て直す必要があるかもしれん。しかし、ぼくは念のためにもう一度捜してみるよ。きみは社のほうが遅れるといけないから、もう出勤したまえ」
こう言いながら長谷川がひょいと向こうを見ると、背の低い男が外套の襟を立て、ハンチングを眉深に冠って、しきりに何かを捜しながら二人の立っているSビルディングの方角へやって来た。
「おいおい」
と、長谷川は山本の肩を叩きながら言った。
「見たまえ。あそこへ冬木刑事が来るよ。驚いたな。やっこさん、やっぱりわれわれと同じ推理をしてるんだ。夢中になって何か捜しているじゃないか。きっと凶器に使った棍棒ようのものを捜しているんだぜ。賭をしてもいいよ」
「驚いたね。きみたちの考えがそこまで符合してるなんて。だが、先生もやっぱりまだ捜し当たらんとみえるね」
二人は足音をしのばせて冬木刑事の傍へ行った。
「冬木さんじゃありませんか?」
と、長谷川はいきなり後ろから声をかけた。
「ずいぶん早くからご精が出ますね」
「こりゃお珍しい、お二人連れでどちらへ? 昨日はどうも失礼しました」
と、冬木はびっくりして顔を上げた。
「あなたと同じように、捜しものに来たんですよ。昨夜はすっかりあなたに先手を打たれましたね。わたしも虫眼鏡を持っててくてくあの五階まで行ってみましたが、下手の考え休むに似たりで、もうあなたがすっかり調べてお帰りになったあとでしたよ。その代わり、今日は少しわたしのほうが早かったようですな。もうこの辺を捜してもだめですよ。われわれ二人で手分けしてすっかり捜しましたが、いたずらに溝渠鼠の安眠を妨害したに過ぎませんでしたよ」
「わたしはべつに何も捜しに来たのじゃないのですが……」
と冬木は明らかに驚駭の色を面に現しながら、しいてさりげない口調で言った。
「ちゃんと見ていましたよ。それにあなたの手はどうです。お互いに煙突屋みたいに真っ黒じゃありませんか? もうお隠しにならずに、ひとつ二人でよく相談しようじゃありませんか? わたしもいまちょっと思いついたこともあるのです」
冬木刑事も長谷川との協力を有利とみたものかとうとう我を折って、今後は二人で助け合うことをかたく誓い、互いにこれまで知っている材料や意見を提供し合った。
山本は時間の都合があるので二人に暇を告げ、長谷川に向かって、
「何か変わったことがあったら、差し支えない範囲で社のほうへ知らせてくれたまえ」
と言いおいて、電車道のほうへ急いでいった。
「いま思いついたというのはほかでもないですがね」
と、長谷川は山本の後ろ姿を見送りながら冬木に言った。
「あなたはポー(アメリカの詩人・小説家。代表作『モルグ街の殺人事件』)の『盗まれた手紙』という小説をご存じでしょう。家じゅう捜索しても見つからなかった手紙が、ちゃんと目の前の状差しに差してあったという小説ですね。もっとも、日本にだって灯台下暗しとか足下から鳥がたつとかいううまい言葉が昔からあるんですが、わたしはいまそのことを思い出したんです。凶器はきっとあのビルディングの中にあるに相違ないと思ったのです。これからちょっとつき合ってくださいませんか? 警察のかたと一緒だとなにかに便利ですから」
「そういうわけなら、願ってもお供がしたいですな」
二人がSビルディングの入口を入っていくと、ちょうどその時、茶の中折を冠って鼠色の外套を着用し、着色眼鏡をかけた四十恰好の一人の紳士が、二人と行き違いに出ていった。長谷川はなんだか見覚えのある顔だと思ったが、よく思い出せなかった。
「妙な恰好をしていますね。神経痛でも病むのか、なんだか腰の辺を押さえるような恰好をしていたようじゃありませんか」
「そういえば、ぼくはあの男にはどこか見覚えがあるんですがねえ。どうもよく思い出せないんです」
二人はこんな会話を交わしながら、エレベーターで五階へ上がっていった。
長谷川が先に立ってビルディングの事務所へ入った。
「このビルディングには空室がありますか?」
「ただいま三つばかりございます」
「四階にもありますかね?」
「四階にも一つございますが」
と、事務員はもみ手をしながら言った。
「それはちょうどただいま、ほかのお客さんがご覧になっているところです」
冬木は警察章を示して、すぐにその部屋へ案内してもらいたいと言った。
四階の空室というのは、エレベーターを降りたすぐ右側にある二十七号室だった。錠は下りていないのですぐ開いた。中にはだれもいなかった。
「さっきのお客さんはもうお帰りになったようです。どうぞご覧ください」
と言い残して事務員は立ち去った。
二人は部屋へ入って、中を見回した。しかし、目的物はそこにもなかった。そのうちにふと入口のドアの右手の壁を見ると、葉書大の紙片が貼ってあるのに目が止まった。
二人は無言でその紙片へ四つの目を集めた。と同時に、二人の口からは驚駭の叫びが洩れた。紙片には次のような文句が認めてあったのだ。
凶器はひと足お先へ頂戴していく。いまごろはどこかの暖炉の中で灰になっているだろう。
十二月二十三日午前十時十八分
「十時十八分といえば、まだ十五分しかたたん」
と、長谷川は急いで腕時計を見ながら言った。
「将校マントの男というのは、昨日あなたがたがエレベーターの出口で行き違った男らしいですね。たしか、昨日も四階からエレベーターに乗ったはずでしたね」
「あっ。さっき、入口で行き違った中折帽の男があいつだ。なんだか見覚えがあると思ったが、やっぱりそうだ」
「そういえば、腰の辺を押さえていたのは、凶器を外套の下へ隠して持って出たのかもしれませんね」
「いまこの部屋を見に来たやつというのもあいつに違いない。冬木さん、この事件は思ったより複雑ですよ」
「犯人かもしれませんね」
「とにかく、事件の関係者には違いない」
二人は、しばらく茫然として顔を見合わせていた。
底本:「五階の窓」春陽文庫、春陽堂書店
1993(平成5)年10月25日初版発行
初出:「新青年」博文館
1926(大正15)年6月号
※この作品は、「新青年」1926(大正15)年5月号から10月号の六回にわたり六人の作者によりリレー連作として発表された第二回です。
入力:雪森
校正:富田晶子
2019年4月26日作成
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