錢形平次捕物控
影法師
野村胡堂
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「親分、變なことを聽きましたがね」
ガラツ八の八五郎は、薫風に鼻をふくらませて、明神下の平次の家の、庭先から顎を出しました。いとも長閑な晝下りの一齣。
「お前の耳は不思議な耳だよ、よくさう變つたことを聽き出せるものだ。俺の方は尋常なことばかりさ、蒔いた種は生えるし、借りた金は返さなきやならねえし」
平次は氣のない返事をしながら、泥鉢に出揃つた、朝顏の芽をいつくしんでゐるのでした。
「あつしの方はまた、變つたことばかり、手紙をやつてもあの娘は返事をくれないし、借金は溜つても、拂ふ氣になれないし」
「あんな野郎だ、──ところで、その變つたことと言ふのは何んだえ」
平次は手の泥を拂つて、椽側に腰をおろし腹ん這ひになつて、煙草盆を引寄せるのです。
「こいつは變つてますよ。影法師に憑かれた話なんですが──」
「影法師に憑かれた?」
成程それは話が變り過ぎてゐます。
「四ツ谷の與吉が、淺草へ行く道序に、半日無駄話をして歸りましたが、その時の笑ひ話ですよ」
江戸中にまかれた何百人の岡つ引は、八五郎に好意を持たないものはなく、わけても腕に自信のない者は自分の繩張り内に起つた事件の匂ひを、八五郎の耳に入れて置けば、親分の錢形平次が乘出してくれないものでもなく、平次が動き出せば、自分も飛んだ手柄のお裾わけくらゐにあり付けないものでもありません。
そんなことで、江戸中の面白い噂は、自然八五郎の耳に入り、八五郎の口から、斯う平次に取次がれることになるのです。
「影法師に憑かれたといふのは、何處の誰だえ」
平次もいくらか好奇心を動かした樣子です。
「市ヶ谷柳町の菊屋の伜彦太郎といふのが影法師が怖くて、月夜の晩などは、外へも出られないといふから可哀さうな話ぢやありませんか。あつしなんかは戀敵が多いから、怖いのは闇夜の晩だけで、へツ」
八五郎は自分の洒落に堪能して、長んがい顎を突き出すのです。
「自分の影法師が怖いのか」
「自分のなら、素性がわかつてゐるから、怖くも可笑しくも何んともないが、不思議なことに、彦太郎といふ若い男の眼には、何處の誰とも知れぬ、怪しい影法師が附き纒つてゐるといふのですよ」
「はてね」
「外を歩いてゐると、影法師だけが、フラフラと自分の前を歩いてゐたり、前の方が無事だと思つて、振り返つて見ると後ろから、ヒヨコヒヨコと影法師だけがついて來るといふんで」
「自分の影法師ぢやないのか」
「そんな事はありませんよ。彦太郎は十九になつたばかり、隨分出來のやはな息子には違げえねえが、自分の影法師と正體のない影法師を間違へる氣遣ひはありません。それに影法師の方は間違ひもなく女で」
「フーム」
「その影法師も、月夜の往來へ出るうちは良かつたが、この節は横着になつて、時々彦太郎の部屋の障子に映つたり、雪隱の窓から覗いたり、おかげで彦太郎は近頃少し氣が變になつたといふ話で」
「その影法師は誰かに似てでもゐるのか」
「因果ですね、彦太郎には義理の父親、菊屋市十郎の二人妾のうちの、若くて綺麗なお袖そつくりといふから嫌ぢやありませんか」
「そのお袖といふのは」
「彦太郎と同じ年の十九、菊屋の親父が金に飽かして買ひ取つた妾で、飛んだ人身御供だといふ話で」
「いやな話だな。その話は、もうそれつきり忘れてしまえ」
「親分には、こんな話は面白くありませんかね。あつしなんか、影法師でも生き靈でも構はねえから、若くて綺麗な娘につき纒はれて見たいと思つてゐるんで」
「生憎、そんな野郎には、氣の弱い生き靈なんか取りつかないよ」
「有難い仕合せで。その代り羅生門河岸へ行くと、青大將臭いのが五、六人首つ玉に噛りつく」
八五郎はそんな打ち壞しな事を言つて、あまり持てさうもない、長い顎を撫で廻すのでした。
この影法師事件は、十日も經たないうちに、思ひも寄らぬ大發展をしました。
五月に入つて、山の手の町に躑躅が赤く燃えた頃、四ツ谷の與吉──八五郎と馬の合ふ若い岡つ引が八五郎を引つ立てるやうにしてやつて來ました。
「親分、たうとう大變なことになりましたよ。與吉の野郎が、どうしても錢形の親分を引つ張り出してくれといふんで、あつしでは不足なんださうですよ」
八五郎はニヤニヤしながら、たいした不足らしい顏もせずに、與吉に押し出されて木戸の中へ入つて來るのです。
「八五郎なら不足はねえ筈だが、自惚れも腕つ節も、お小遣ひだつて、人に負けねえくらゐのたしなみはあるわけだが」
平次は面白さうでした。八五郎の相手でもしてゐたいほど、暇で〳〵仕樣がなかつたのです。
「からかはないで下さいよ、親分。柳町の影法師は、たうとう人を害めましたぜ」
「何んだと?」
「詳しいことは、現場を見て來た與吉に訊いて下さい。御存じの通り、この野郎はあつしの倍も口が達者だから」
八五郎は身をかはしました。
「よし、それぢや歩きながら聽くとしようか」
お靜が丹精した新しい袷、十手を懷ろに忍ばせて、おろし立ての麻裏の草履をトンと踏みしめると項から、切火の鎌の音が冴えます。
明神下から神樂坂へ、柳町へ拔ける道々は、すつかり夏でした。薄着になつて、急に活々とした娘達の囀りや、遠い祭太鼓の稽古の音などを聽くと、江戸つ子達の胸はときめきます。
「殺されたのは、市ヶ谷柳町の金貸しで、萬兩の身代を持つてゐると言はれる、菊屋の市十郎。妾のお袖を相手に、裏二階で呑んでゐるところを、椽側から障子越しにズブリとやられたんで」
「フーム、凄いなア」
「障子の側でふざけた恰好なんかするものぢやありませんね。魔物は何處にゐるか、わかつたものぢやない」
與吉はそんな註を入れます。
「下手人の見當はつかねえのか」
「怪しい奴ばかりで、──尤も女房子のある市十郎が、同じ屋根の下に二人も妾を飼つて、籤引で毎晩伽をさせるなんざ、助平なお大名のやりさうな事で、見せつけられる者は、誰だつて腹を立てますよ」
「その妾は無事だつたのか」
「階下へ、お銚子の代りを取りに行つたとき、ギヤツと來たんですつて、二階にゐれば、金づくで人身御供に上がつてゐる妾だつて、無事ぢや濟みませんがね。お袖と言つて十九になつたばかりの綺麗な娘で」
「もう一人の妾はどうしたんだ」
「年増の方は蛞蝓を甘鹽で三日ばかり煮込んだやうな女で、お吉と言ひますがね、自分の部屋で宵からの放樂寢で」
四ツ谷の與吉は、腕はたいしたこともありませんが、口だけはなか〳〵に辛辣です。
「外には」
「伜の彦太郎、こいつは一番怪しい男で、影法師に憑かれて、青くなつてゐる若僧ですが、實は親父の妾のお袖に惚れて、氣が少し變になつてゐるから、何をやり出すか、わかりやしません。──仲間の者に頼んで氣をつけて見張らせてありますがね」
「伜が、親父の妾に何うとかするのは、少し不穩當ぢやないか」
「十九の青瓢箪が、穩當な惚れやうばかりはしてゐませんよ。それに、彦太郎は市十郎の本當の子ではなく、實は甥も甥、義理ある遠い甥なんださうで。市十郎は義理があるから、自分の娘のお染と、行く〳〵は一緒にして、跡取りにしようといふ話ですがね。一萬兩の身上を背負つてゐても、十六になつたばかりの、薄あばたの家附の娘のお染より、親父の妾のお袖の方がよかつたんでせう。──このお袖といふ女はまた──」
四ツ谷の與吉はゴクリと固唾を呑みました。口こそ達者だが、精々二十七、八の與吉は、さり氣ない調子では、市ヶ谷中に響いた、菊屋の妾お袖の噂は出來なかつたのでせう。
「家の者はそれつきりか」
「まだありますよ。内儀のお世乃さんは諦めきつた中年者で、人間は悧巧に違げえねえが、女らしい匂ひの拔けた、氣の毒な人で」
「あとは?」
「番頭の才八はちよいと男つ振りの好い三十男で、遊び好きで如才がなくて、金さへありや、新宿の大門を一と晩でも閉めて見たいといふ、のぼせた野郎で」
「新宿の大門てえ奴があるか」
「吉原までは及びもつかねえ」
「落し話を聽かされてゐるやうだ」
「もう一人厄介なのがゐますよ。菊屋の主人と無二の仲で、猫又法印佐多田無道軒」
「大そうな名前だな」
「本人は山伏崩れだと言つてはゐますがね。野伏せり見たいな野郎で、八卦も祈祷も禁呪も心得てゐる上に法螺と武術の達人で」
「妙な取合せだな」
「菊屋の用心棒に入り込んだのは一年前、おべつか將棋の敗けつぷりが上手で、主人市十郎の御機嫌に叶ひ、今では菊屋の支配人のやうな顏をしてゐますよ。尤も金を借りて拂はないのがあると、ノコノコ出かけて行つて、門口で法螺の貝を鳴らして調伏を始めるから、大概の無理をしても拂ふんださうで、良い術があつたもので」
四ツ谷の與吉は達辯にまくし立てるのでした。
柳町へ行つたのは、もう晝を過ぎてをりました。菊屋といふのは、店構は至つて小さいしもたや暮しですが、住居の方は全く宏大極まるもので、ケチな大名の下屋敷ほどもあり、それを巧みにカムフラージユして、お上の眼に觸れないやうな贅澤振りは、人を喰つたその頃の町人の増長です。
平次の一行は、番頭の才八に迎へられて、奧へ通りました。與吉の朋輩や子分で、土地の御用聞が二、三人、眼を光らせてゐるのと、御檢屍が遲れて、葬ひの支度も出來ないので、家の中は火の消えたやう。彼方此方の隙間から、白い眼で見送つたり覗いたりするのが、棘でも刺されるやうに、敏感な平次に感ずるのでした。
世の中を敵にして、贅澤と淫蕩との中に住んでゐた人間達の生活が、人殺しといふ、一番露骨で決定的で、殘忍な事件に直面したために、銘々が自分自身の保護のために、堅い殼の中に閉ぢ籠つてしまつたといふ心持です。
殺された主人市十郎の部屋は、恐らく何も彼もが、昨夜のまゝだつたでせう。梯子を登ると、磨き拔かれた四尺の廊下、それが眞つ直ぐに通つて、中程にある主人の部屋の外は、障子を染めた血が、クワツと眼に沁みます。
「この通り、主人は障子にもたれて、妾とふざけながら酒を呑む癖があつたんだ。中は町人の住居の癖に、お上を盲目にした書院風の作りで、床の前の柱に凭れると、丁度背中が此處に來る──」
與吉は血に染んだ障子と、その障子の下から二尺五寸ほど上に、突つ立てた刀の跡のあるのを指すのです。
「それにしちや、──」
平次は何やら考へてをりましたが、思ひ直した樣子で、障子の中へ入りました。中はまことに慘憺たる有樣で、檢屍前の死骸は、僅かに隣りの部屋に取込んでありますが、盃盤と血潮と、手のつけやうのない混亂です。
「この通り、呑んでゐる最中、妾のお袖はお銚子を直しに階下へ行つて、下女のお萬と無駄を言つてゐる間にやられたらしい」
「下女のお萬もさう言つてゐるのか」
「其處までは訊かなつたが、お袖のやうな綺麗なのに言はれると、ツイそれ以上せんさくをする氣がなくなる」
與吉は酢つぱい顏で正直のところを言ふのです。
「灯りが一つしかないやうだが」
平次はフト、これほどの贅を盡した部屋に、燭臺が一つしかないことに氣がつきました。
「その代り百目蝋燭が、晝のやうに點いてゐる。尤も、お袖は階下へ降りる時、手燭くらゐは持つて行つたらしい」
與吉の説明は思ひの外行屆きます。
「それにしても、障子越しに刺されたにしては、あまり血が飛沫いちやゐないやうだが」
平次は先刻から、それが不審でならなかつたのでした。ひどい血には違ひありませんが、一と太刀に急所を刺されると、血飛沫はこんな事ではなかつた筈です。
それは兎も角として、與吉と番頭の才八の案内で、次の部屋に移してある、主人の市十郎の死骸を見せてもらひました。その頃の檢屍は後の世ほどはやかましくはなく、末期の手當てのためと言へば、死骸を移したくらゐのことはうるさくは言はなかつたのです。
市十郎の死骸は、絹物の布團の上に寢かしてありました。見たところ背の低い脂肥りの五十前後、顏は死の苦惱もなく穩かで、何んとなく愚鈍にさへ見える表情です。恐らく物慾と女漁り以外は、何んの興味も持たない人柄でせう。
傷は背後から一と突き、左肩胛骨の下に、素袷を通して、恐ろしい正確さで叩き込んであります。
「刄物は?」
「隣りの部屋にあつた脇差、──こいつは何んとかいふ名作で、主人の市十郎が質に取つたが氣に入つて買ひ取り、押入に投り込んであつたのを使つたといふから、曲者は間違ひもなく家の中の者だね」
與吉は相變らず行屆き過ぎるほどの註を入れるのです。
「それは何處にあるんだ」
「椽側に捨ててあつたのを、そのまゝにしてある筈だ。持つて來させようか」
「いや、宜い。後で見よう」
平次は立ち上がつて、二階の樣子を念入りに調べました。部屋は三つ、居間と次の間と納戸で、廊下は表と裏とにあり、表の樣子は店の方に連なり、北側の狹い廊下は、お勝手へ降りる梯子に連なつてをります。妾のお袖が手燭を持つて、銚子を代へに行つたとすれば、裏の梯子を降りてお勝手へ降りたことになり、その間に曲者は、表の梯子を登つて、廊下傳ひに近づき、百目蝋燭の灯に寫し出された、主人の影法師をたよりに、背後から障子越しに突いたものでせう。
「どうだ、番頭さん。お前の見當で、下手人は誰だと思ふ。錢形の親分に、申し上げて置いた方が宜いぜ」
四ツ谷の與吉は、お節介らしく口を挾むのです。年は若くて、貫祿もたいしたことはありませんが、八五郎などとは反對に、恐ろしく才氣走つてゐるので、やがて良い御用聞になるだらうと、世間でも言ひ、自分もさう信じてゐるらしい男です。
「私にはそんな事は見當もつきませんが」
才八はモヂモヂしながら答へました。三十前後の、これはちよいと好い男で、この柄と年輩で、毎日金を扱ふ商賣をしてゐるのですから、隨分遊びもし、罪を作つてゐることだらうと思はれます。苦味走つて小作りで、愛嬌がある癖に、何處か拔け目がなささうでもあります。
「そんな事はあるまい。お前さんは、菊屋第一番の智慧者の働きものだといふ評判ぢやないか」
「飛んでもない、──尤も旦那は少し敵を作り過ぎました。良い方でしたが、金貸しといふ商賣は、どんな慈悲善根を積んでも、人樣によくは申されません。お寺や社に、寄進を一つなすつても、菊屋から金を借りてひどい目に逢つた方は、自分の拂つた利息で、石燈籠が立つたり石垣が出來たやうに思ひ込んでをります」
「成程ね」
平次はツイ合槌を打ちました。才八といふのは、さう言つた、物の考への皮肉な男だつたのです。
「昨夜、あの騷ぎのあつた時、お前さんは、店にゐたと言つたね」
與吉は重ねて訊ねました。
「まだ宵でした。亥刻(十時)前だつたと思ひます。その日の帳合ひの殘りをして、これから寢ようといふ時」
「お前の部屋は?」
「店二階で。へエ、此處からは別棟ではございませんが、この二階から店二階へは、梯子を降りて又登らなきや參られません」
「店にはお前さん一人でゐたんだね」
「夜になると、店は私一人でございます。源介どんは日が暮れると、自分の家へ歸つてしまひますので」
源介といふのは、菊屋の通ひ番頭で、この事件には何んの關係もあるまいと、あとで與吉が説明してくれました。
この番頭と一緒に、菊屋で幅をきかしてゐるのは、法印の無道軒で、あれは猫又と綽名のある強か者、一と筋でいける男ではありません。
「何? 岡つ引きが逢ひたい? 俺は町方の岡つ引などに用事はない。用があるなら、寺社の御係りにさう言へツ」
四ツ谷の與吉が迎ひに行くと、階下から怒鳴る聲が、二階まで筒拔けます。
「あんな事を言つてをります。口ほど人の惡い男ぢやございませんから、氣になさらないで下さい、親分」
番頭の才八が取りなし顏に言ふのを、
「いや、あんなのは反つて扱ひいゝよ。此方から行つてお目通りを願ふとしようか」
平次は氣輕に立つて階下へ降りました。と、驚いたやうに隣りの部屋へ姿を隱したのは、二十二、三の好い年増、踊りの下地があるらしい身のこなしは輕快ですが、身體を動かす毎に撒き散らしたらしい艶めかしい體臭と、激しい掛け香の匂ひが、芬々として隱しやうはありません。
「あれは?」
「お吉さんと言ひます」
才八は首をすくめました。が、續けて、
「主人を殺したら、あの匂ひではすぐ足がつきませう」
平次もツイ、苦笑ひをしてしまひました。この場合でも笑つて見たくなるやうな、それは厄介な匂ひでした。
階下へ降りると、梯子の下の六疊に、與吉と法印無道軒が、まだ何んか言ひ合つてゐます。が平次の姿を見ると、
「錢形の親分、お聽きだらう。この男は大層威張つてゐるが、大概こんな野郎は臭いに極つたものだ。遠慮なく洗ひ出して見てくれ」
四ツ谷の與吉はすつかり興奮して、事と次第では、法印無道軒を引つ括りさうにするのです。
「まア、宜い。與吉兄哥の前だが、岡つ引を相手に大きな口を叩く人間は、大概馬鹿か底拔けの正直者にきまつたものだ。ね、御坊」
「御坊?」
佐多田無道軒は振り返りました。總髮に無精髯、眼が細くて蟲喰ひ眉で、鼻がシラノ・ド・ベルジユラツク風で、唇の厚い、首の短かい、まことに怪奇な風貌です。こんなのは商人や職人にならずに、金貸しの用心棒になつたといふのは、まことに己れを知るもので、平次はツイ吹き出さうとするのでした。
「色氣のない呼名で氣の毒だが、そんなことで勘辨してくれ。──ところで、お前さんはこの家の何んだえ」
「主人市十郎の相談相手さ。用心棒と言つても宜い」
「その市十郎が殺されたんだぜ。下手人を搜しに來た俺達に手傳つてくれるのも、主人への義理といふものぢやないか」
「生きてゐるうちは主人市十郎に智慧と腕を貸したが、死ねば用事のない俺だ」
「金貸しの手先きか相談相手か知らないが、そいつは薄情過ぎるぜ」
「何? 死んだ者に智慧や腕は要るまい」
「だがね御坊、變なことを言つたり、妙な素振があつたりすると、與吉兄哥は氣が短けえから、お前さんの法螺貝くらゐぢや驚かないかも知れないぜ。素直に話に乘つたらどうだ」
「この無道軒に、妙な素振りがあるといふのか。聞き捨てにならぬことを吐かすと、錢形とは言はせぬぞ」
猫又の無道軒はいきり立ちます。
平次のからかつたのに對して、斯う眞面目にいきり立つたところを見ると、この法師一度は本物の修驗者だつたのかも知れません。と同時に、この法師、思ひの外臆病で人が良ささうでもあります。
「親分ちよいと」
八五郎が庭の方から聲を掛けます。
「何處へ行つてゐたんだ、暫らく見えなかつたぢやないか」
「與吉兄哥がついてゐるから、あつしは外廻りの噂を手一杯に掻き集めましたよ」
「さうか、そいつは有難かつた。下手人の見當はついたか」
「へエ、少しはね」
平次は庭下駄を突つかけて外に出ました。與吉はまだ、猫又法印と、揉み合つてゐる樣子です。
「どんな事を聽き出したんだ」
廣い庭の植込みの蔭へ來ると、平次は菊屋の全景を眺めながら、八五郎を促します。
「曲者──といふほどの代物ぢやありませんが、どうもあつしの見當ぢや、伜の彦太郎が怪しくなりますよ」
「フーム」
「若い妾のお袖と同じ年の十九、身體がひ弱くて、氣性だけは激しい男ださうですが、どうも、前々から、お袖との間が怪しいやうだ」
「いやな事だな」
「それに、殺された主人の市十郎と、伜の彦太郎は、親子と言つても、實は敵同士見たいなものですよ」
「?」
「彦太郎は先代の本當の甥で、市十郎夫婦の方が養子ですよ。默つてゐても、物事が順當に行けば、菊屋の身上は彦太郎のものになるかも知れないのに、お世乃といふ貰ひ娘に、ズルズルべつたり養子に入つた、番頭の市十郎が、菊屋の身上を自分のモノにして、世間や親類の手前、先代の主人の甥の彦太郎を伜といふことにし、幸ひ男の子がないから自分の娘の薄あばたで不きりやうのお染と一緒にしようといふ企らみだつたんで」
「成程、世間によくある術だな」
「彦太郎だつて、嬉しくも何んともありませんや。その上、自分と仲の良かつた、町内一番の娘お袖を、召使ひといふ名儀だが、金づくで引入れて、妾にしてゐるんだから、彦太郎がモヤモヤしてゐるのも、無理はないぢやありませんか」
「そんな事で親殺しをしたといふのか?」
「待つて下さいよ、親分。あつしは親殺しの肩を持つわけぢやねえが、その上影法師といふ惱まし事があつたとしたら──」
「何んだえその影法師といふのは。矢鱈に、この家は影法師が附き纒つてゐるやうだが」
「附き纒ひたくもなりますよ。殺された主人市十郎といふのは、脂ぎつて女好きで、恥といふものを知らない上に、人を困らせるのが大好きといふ、飛んでもない道樂があつたんです」
「フーム」
「毎晩籤引で、夜の伽をする妾をきめると言ふことになつてゐるが、近頃は若い妾のお袖を可愛がり、お吉を追つ拂つて、日が暮れるとお袖を二階の自分の部屋に呼び入れ、夜中まで呑みながら勝手な振舞ひをするんださうで」
「──」
「もたれたり、ふざけたり、叩いたり、下手な小唄を歌つたり、見ちやゐられないんださうですよ」
「誰がそれを見てゐるんた」
「近頃は生暖くて障子一と重だから、意地が惡くその惡ふざけが、町内何處からでも見えるんださうで、──ね、親分。その築山の上に立つと、植込みの上から、主人の部屋は眞つ直ぐに目の前でせう。毎晩障子に映る惡ふざけを、この築山の上から、誰が見てゐたと思ひます」
「お前ぢやあるまいな」
「伜の彦太郎ですよ。自分と仲がよかつたお袖が、父親と言つても敵同士のやうな市十郎のものになつて、勝手な事をされてゐるのを、毎晩見せつけられて、一體どんな事になると思ひます」
「俺に訊いたつて仕樣があるまい」
「市十郎はまた、そんな圖を人に見せるのが好きで〳〵たまらなかつた。部屋の中にはわざと百目蝋燭を一本だけ、自分は床側の柱にもたれて、前へお袖を引きつけると、二人の影法師は、閉めた障子にくつきり、描いたやうに寫るといふから、惱ましいぢやありませんか」
八五郎の話はいかにも重要ですが、噂のかき集めにしては、いかにも微に入り細を穿ちます。
「お前はそれを誰から聽いたんだ」
平次は靜かに反問しましたが、話が少しうま過ぎて、彦太郎を陷入れるための拵へごとのやうでもあります。
「家中の者は皆んな知つてゐますよ。番頭の才八も、下女のお萬も、猫又法印も、内儀のお世乃も、その土塀があつても植込みがあつても、あの二階は見晴しが良いから、町内何處からでも見透しだから、夜になるとその見物人で、裏通りは押すな〳〵の繁昌で」
「お前の言ふことは少し馬鹿々々しいな」
「嘘も掛引きもありません。聽いたまゝ、元金をきつての話ですよ──そこで病みつくほどお袖に惚れてゐる彦太郎は、影法師に取り憑かれたのも、無理はないぢやありませんか。寢ても影法師、起きても影法師だ。障子一重の向うで、自分と言ひ交したお袖が、父親とは名ばかりの獸物のやうな男の餌になつて、勝手なことをされてゐるんだ」
「何んだ、お前まで影法師に憑かれてるやうだぜ。氣をつけるが宜いよ、八」
「すると、彦太郎の眼には、自分の部屋の窓にも、歩いてゐる往來にも、不意に影法師が現はれた。女の影法師ですよ、髮振り亂した野暮な女の姿ぢやない。島田に結つた、細つそりした影法師」
「彦太郎から聽いたのか」
「いえ、下女のお萬がさう言ひます。最初は本人の彦太郎も隱してゐたが、近頃は自分でも持て餘して、氣の置けない者には、さう言ふんださうですよ。──影法師はもう澤山だ、近頃は庭の築山へも行かないやうにして、夜になると外へ遊びに出たり、自分の部屋に籠つたりしてゐるが、お袖さんの影法師が二階から脱け出して、私に附き纒つて來る──と」
「フーム」
「何んでもこの節は、半病人ださうですよ。可哀さうに」
「ところで、その彦太郎が、親殺しの下手人だといふのか」
「さう言ひきつちや可哀さうですが、どうもそんな匂ひがするぢやありませんか」
「おや、あれは誰だ」
平次は不意に植込みから出て、裏の物置の蔭を覗きました。
「噂の彦太郎が、お袖と逢引してゐるぢやありませんか」
「主人の市十郎が死んだといふのに、まだ二人は、そんな事をしてゐるのか。若い者を脅かしちや惡いが、行つてみよう、八」
二人は庭をグルリと廻つて、裏の物置を左右から覗くやうに取り詰めました。
「あツ」
平次と八五郎に包圍された形になつて、お袖は立ち竦みました。
美しいといふよりは、これは透き通るやうな清潔で、玩具の姉樣人形のやうな可愛らしい娘でした。
「お袖と言ふんだね。誰と話してゐたんだ」
平次は靜かに訊ねます。こんな清潔な娘が、十九やそこ〳〵で、狒々のやうな五十男の玩具になつてゐることに、平次は十手捕繩を離れて義憤を感じます。金に物を言はせて、どんな冒涜的なことでもやり遂げようといふ男は、現に蟲のやうに殺されたのですが、その痛々しい犧牲者が、無邪氣な清潔な顏をさへして、目の前に立つてゐるのです。
「ハ、はい」
お袖はひどくあわててをります。
「昨夜のことを、お前の口から聽きたいが──」
平次の調子の穩やかなのと、その顏には柔かな思ひやりの色があつたためか、お袖の口は思ひの外簡單に開けて行きさうです。
「旦那にさう申し上げて、お銚子を直しに、裏梯子を降りて參りました。お燗のつくうち、お勝手でお萬さんと話し込んでゐると、二階からあの、變な聲が──」
お袖は自分の肩を抱くやうに、その時のことを思ひ出したか、ぞつと身を顫はせるのです。
「お前は好きでこの家に奉公に來たわけぢやあるまい──家は何處だ」
暫らく經つて平次は、外の話題に入りました。
「ツイ少し先の、裏にあります、──半年ほど前からこの家へ──」
そんな話になると、お袖の話はひどく澁ります。
「で?」
「亡くなつた父さんの借りたお金を、お母さんがどうしても返せなかつたので──」
さう言ひかけて、お袖は默つてしまひました。可愛らしいピンク色の唇が、心持ち顫へてをります。
「これからどうするつもりだ」
「彦太郎さんは、旦那が死んだから、誰に遠慮もない、此處にゐてはろくな事はあるまいから、直ぐにも家へ歸れと言ひますけれど──」
「──」
「あの人は怖いし、後で何んとか言はれると、又お母さんが困るに極つてゐますから」
「あの人といふのは誰だ」
「──」
お袖は答へませんでした。が、それは番頭の才八ではなくて、猫又法印の佐多田無道軒を指してゐるやうです。
「もう宜い、──が、この家には暫らく俺達がゐるから、心配することはない。何處へも行かないやうにしてくれ」
「はい」
お袖は素直にうなづいて、家の方へ行つてしまひました。それと入れ代りに、
「逃げちやいけないよ、おい、女の子さへ素直に話してゐるぢやないか」
母屋の方に逃げて行つた、伜の彦太郎をつかまへて、八五郎はやつて來ました。
「八、手荒なことをするな」
平次は脅えきつてゐるらしい彦太郎を、撫めるやうに迎へました。
十九と言つても、同じ年のお菊よりは、反つて年弱に見えるほどのひ弱い男で、端麗な顏立ちも心配やら恐怖やらに歪んで、まことに痛々しい少年でした。
「私は逃げたわけぢやありません。この人が──」
「宜いよ、この男は少しそゝつかしいだけなんだ。蔭ぢや、お前の味方で、氣の毒がつてゐたよ」
「──」
「ところで、主人の市十郎──と言へはお前の父親だが、大層仲が惡かつたさうだな」
「あれは、私の父親なんかぢやありませんよ。この家へ入込りんで來て、勝手にふるまつただけで」
「フーム、それは手嚴しいな。兎も角死んだ人間だ、惡口を言つちや濟むめえ」
「──」
「お前とお袖は、わけがありさうだね。互ひに約束でもしたことがあるのか」
「──」
彦太郎は頑固に默り込んでしまひました。青白い顏、キラキラ光る眼、引締つた唇など、少し病的なものを感じさせます。
「打ち開けて話した方が宜いぜ。早く下手人を擧げなきや、お前も困るだらう」
「そんな事言ひたかありません、──あの人を殺したのだつて、誰だか私が知るものですか。尤も、私も、何べん殺してやりたいと思つたか──」
純情らしい彦太郎は、前に立つてゐる者の素姓も忘れて、こんな事を口走るのでした。
「昨夜、お前は何處にゐたんだ。丁度あの頃だ」
「自分の部屋に寢てゐました。布團を被つてゐたのに、恐ろしい聲が──」
「お前の部屋は何處だ」
「母屋の西の端」
「主人の部屋へ遠いのか」
「遠くたつて行かうと思へば、裏梯子を登つて、直ぐ行けますよ」
この少年は自分から進んで、岡つ引の手綱にも飛び込まうとするのです。
「お前は影法師に取り憑かれてゐるといふ話を聽いたが、それは本當か」
「──」
彦太郎は又默つてしまひました。
「その話を詳しく聽きたいが、どうだ」
「近頃は滅多に出ません。でも」
「何時頃から、そんなものが見えたのだ」
「二た月ばかり前、月の良い晩でした。用事があつて加賀樣御屋敷の御馬場を通つて來ると、目の前(藥王寺前)をスルスルと影法師が動くんです」
「どんな影法師だ」
「女の影法師です。大きな島田で」
「空を見なかつたか」
「何んか雲の影でも映るのかと思つて、空を見上げました。でも、上には木の枝一つなかつたんです。良い月でしたが」
彦太郎は憑かれたやうに言ふのです。
「それから何うした。續けてくれ」
「その影法師が、時々出るやうになりました。私の歩いてる時、前を歩いたり、後ろから跟いて來たり、──私は氣味が惡くなつて、夜分は外へ出るのを止してしまひました。すると、今度は家の中で──もう止して下さい。私はもう、こんな話をするのも嫌になります」
彦太郎はプツリと話をきつて、頑固らしく口を緘すのです。
影法師に憑かれる──そんな馬鹿なことと思ひながらも、彦太郎の顏や樣子を見ると、それを一概に笑ふわけにも行きません。
「その影法師の話は大事なことだ。詳しく話してくれ」
錢形平次は、この臆病さうな息子を追及しましたが、
「でも、私は」
彦太郎はひどく脅えてゐる樣子です。
「心配することはない。影法師がいくら暴れたところで、噛みつくわけぢやあるまい。それどころぢやない、父親の市十郎を殺した奴と、お前を脅かしてゐる影法師とは、どうも掛り合ひがありさうな氣がしてならないのだよ」
平次は噛んで含めるやうに言ふのでした。
「どんな事を話せば宜いのでせう」
「影法師のことなら何んでも」
平次は言葉少なに誘ひます。
「さう言へば、變なことがあります。影法師が出ると、きまつて、ものの焦げる匂ひがするんです」
「焦げる匂ひ?」
「木の燃える匂ひと言つた方が宜いかも知れません」
平次は深々と考へました。影法師に匂ひがあるといふのは、想像もつかないことです。
「その影法師が誰かに似てゐるといふぢやないか」
「そんなことはありません。大きな島田に結つた、若い女の姿です。──私がさう言ふと、お袖さんに似てゐるだらうと、からかつた人もありますが、影法師の方は島田髷がひどくこはれて、兩手を前へダラリと下げてゐるんですもの、お袖さんとは似ちや居ません」
「誰がそんなことを言ふんだ」
「番頭の才八どんです」
あの悧巧者の才八が、彦太郎がお袖に氣があるのを知つて、ちよいとからかつて見る氣になつたのでせう。
「他に氣のついたことは?」
「最初は外を歩いてゐると、私の前を、ヒヨロヒヨロと、影法師が歩いてをりました。ハツと氣が付いて、見定めようとすると、掻き消すやうに見えなくなりました」
「どんな具合に?」
「大地がポーツと明るくなつて、その中に黒い影法師が映るのです」
「お前の影ではなかつたのか」
「飛んでもない──髮を振り亂した影法師ですもの」
「成る程」
「最初に見たのは、藥王寺前の御馬場で、それから、店の前や、路地の中で二、三度見ましたが、近頃は外へは出ずに、障子へ映つたり、椽側に現はれたり」
彦太郎はさう言つて、精も根も盡き果てたやうに、蒼白く痩せた顏を垂れるのです。
「それを誰かに相談したのか」
「相談に乘つてくれる人はありません。親父は相手にしてくれず、才八どんは笑ふだけ、無道軒さんにきかせると、反つて脅かされるにきまつてをります」
さうして彦太郎は、影法師の憑きものに惱まされながら、次第に憂欝に絶望的になつて行つたのでせう。
「猫又法印は修驗者ではないか。話をしたら、憑き物を拂つてくれさうなものだが」
「二、三度頼んで見ましたが、あべこべに脅かされるだけでした。──お前さんは若い女の生き靈に憑かれてゐる。加持も祈祷も力及ばない、いづれはその憑きものの爲めに命を奪られるに決つてゐる──などと、怖いことを申します」
「厄介な法印だな」
平次は苦笑ひに濟ませましたが、腹の中では明確に猫又法印の惡意を感じた樣子です。
「あの人は誰にでもさうなんです。人を脅かしたり、怖がらせたり、調伏したり、──そんな事ばかりやつてをります。親父があんな人を手なづけてゐるのが不思議でなりません」
彦太郎は猫又法印の無道軒に對しては、並々ならぬ反感を持つてゐさうです。
「その法印の身性を知つてゐるのか、お前は?」
平次は靜かに、極めて自然に問ひ進めました。
「誰も詳しいことは知りません。でも、亡くなつた親父は上方で懇意になつた樣子で、いろ〳〵のことを知つてをりました」
「例へば?」
「法印は今でこそ修驗者のやうな顏をしてをりますが、もとは長崎あたりで拔け荷を扱つてゐたさうで」
「フーム」
「南蠻人からいろ〳〵の術を教はつて、いつの間にやら修驗者になりすました樣子です」
「──」
「一年前にフラリとやつて來て、それから客分とも用心棒ともなく、此處に踏留まつてしまひました」
「法印とひどく仲の惡いのは誰だえ」
「番頭の才八で、かげでは惡口ばかり言つてをります。あんな山師をお店に置いては、ろくな事はあるまいと」
口がほぐれて來ると、彦太郎は臆病らしさに似ず、なか〳〵よく話してくれます。
「親分、ちよいと」
八五郎は椽側から顏を出して、顎で合圖をしてをります。
「何んだ、何處へ行つてゐたんだ」
「親分が、あの伜と掛け合つてゐるうち、あつしは二、三人達者な奴と逢つて來ましたよ。何しろあの青瓢箪野郎と來た日にや、煮え切らなくて、欝陶しくて、話をしてゐると、痺がきれるでせう」
「それでどうした」
その煮えきらないのに口をきかせて、平次はいろ〳〵の手掛りをつかんだことは、八五郎の分別に想像もつかないことです。
「猫又法印に當りました。主人の殺された部屋の眞つ下に陣取り、下手人を斬り殺すんだと言つて、馬糞臭い抹香を一升五合ばかりも焚き、獨鈷を横喰へに、揉みに揉んでの荒行ですよ」
「道理で煙いと思つた。それからどうした」
「祈祷の合間を狙つて、あつしも少し禁呪をきかせましたがね」
「何んの禁呪だ」
「御坊の法術には、自分を祈り殺す術もあるのかえ──とね」
八五郎の目にも、下手人の疑ひは、彦太郎から、猫又法印に移つて行く樣子です。
「怒つたらう」
「怒つたの怒らねえの、あの生腥法印、洒落や皮肉は通用しさうもないと思つたら、身に覺えがあると見えて、ピンと來ましてね、『岡つ引奴、何を言うやがる。俺に何んの怨みがある』とね」
「當り前だ」
「──菊屋市十郎殿は、大檀那だ、死なれて困るのは誰だと思ふ。つまらねえ事を言やがると、岡つ引から先に祈り殺してやるぞ──と、大眼玉をクワツと剥いて、閻魔大王ほどの睨みをきかせましたよ」
「まア、宜い。それからどうした」
「番頭の才八を呼び出して、あの猫又法印の素姓を調べましたが、たいしたことは知りませんね。長崎で拔け荷を扱つて、主人の市十郎と懇意になり、貸した金の取立てが名人で、調法がられたといふことです。尤も大阪にゐる頃は、品玉使ひのやうな妙な祈祷で人を騙し、散々金も儲けたが、所の役人にも睨まれて江戸へ逃げて來たといふことでした」
「フーム、話はそれだけか」
「もつと大事なことがありますよ」
「何んだ、出し惜しみをせずに、いつぺんにブチまけなよ」
「番頭の才八が言ふには、主人市十郎が殺された時、伜の彦太郎は、自分の部屋で布團を冠つて、寢て居たと言つたやうですが、あれは眞つ赤な嘘だといふんで──」
「フーム」
「あの時、彦太郎は、自分の部屋には居なかつたさうで。丁度その時才八が覗いて見たんださうで」
「そいつは容易ならぬことだ。まさか才八が嘘を言つたのではあるまいな」
「あつしも突つ込んで訊きましたが、才八は斯う言ふんです。私の言つたことが嘘か本當か、若旦那に訊いて下さい──現に親旦那が死んだ騷ぎの時、駈けつけた若旦那は、衣紋も崩れない平常着を着てゐたと言ひますよ」
「兎も角も、若旦那の彦太郎はその邊にゐる筈だ。もう一度呼んで來てくれ」
八五郎は店の方へ飛んで行きましたが、やがて、ひどく澁つて居る彦太郎を、引摺るやうにつれて來ました。
「もう一つ訊きたいことがあるんだ」
平次はそれを、穩やかな調子で迎へました。
「へエ?」
「親旦那が殺された時、お前は自分の部屋で布團を引冠つて寢てゐたと言つたが、あれは嘘だつたね」
「?」
「大騷ぎになつて、驅けつけた時のお前の姿は、寢卷ではなくて皺もつかぬ平常着だつたと言ふぜ」
「?」
「あの時お前は自分の部屋に居なかつたに相違あるまい」
「──」
彦太郎は、いぢめられつ兒のやうに、眼を白黒させて默つてしまひました。
「その言ひわけを訊きたいが、──どうだ」
「──」
平次は暫らく片意地らしい彦太郎の樣子を眺めてをりましたが、何時まで待つても、返事をしてくれさうもないので、
「八、若旦那は、誰かに見張らしてくれ。四ツ谷の與吉兄哥の子分衆がゐるだらう」
「へエ」
八五郎は若旦那の彦太郎を促して、店の方へ行きました。頑固に默り込んでゐるその後姿を見て、平次は何やら考へ込んでしまひます。彦太郎の樣子には憎々しいといふよりは、寧ろ物哀れなものがあつたのです。
「親分さん、少し申し上げたいことがありますが──」
妙に物柔かい女の聲が、平次を呼びとめました。振り返ると、三十五、六の少しひねた大年増、濡れ手を前掛けで拭き〳〵、言はうか、言ふまいか、まだ迷つてゐる恰好です。
「何にか用事かえ」
それは下女のお萬──と、先刻四ツ谷の與吉に引合された筈です。
出戻りの達者な女、よく働く代り、お節介で、おしやべりで、毎々主人や番頭や、妾達にうるさがられてゐる存在でした。
「若旦那が可哀さうで、私はもう、我慢がなりません」
多血質らしい中年女、お節介なだけに、人が良いことでせう。
「若旦那がどうしたといふのだ。知つてることがあるなら、話した方が宜いぜ」
「私もさう思つて、ツイ口を出してしまひました。考へて見ると、親旦那樣が亡くなつたことでもあり、誰にも遠慮もないわけで」
お萬の言葉にも妙に含みがあります。
「さう〳〵、誰にも遠慮もないよ、若旦那がどうしたといふのだ」
「あの時──親旦那樣が二階で殺された時、──若旦那樣が、母屋の西の端の御自分の部屋にゐなかつたわけです」
「?」
「若旦那樣とお袖さんが、お勝手の隣りの私の部屋で、──逢つてゐたんですもの」
「逢引か」
「逢引といつた──そんないやらしいもんぢやございません。二人は默つて手を取り合つて、顏を見合せて、ヂツとして、涙ぐんでゐるんです。可哀さうに」
「──」
「二人はずつと前から、好き合つてゐたんです。でも、お袖さんが、親旦那の持ち物ときまると、それをどうしようといふ若旦那ぢやございません。二人は死ぬほど惚れ合つてゐるくせに、ろくに口もきかずに、顏を見合せて、心で泣いてゐるんですもの」
三十五の出戻り、存分に醜い中年女は、この若い二人のやる瀬ない戀路を、格子に獅噛みついて、大向うから濡れ場を見るやうな熱心さで眺めてゐたのでした。
「二人は時々逢つてゐたのか」
平次も妙に引入れられるやうな心持ちで問ひ返しました。
「少しの隙を見て、誰にも見付けられないやうに、そつと、二人は逢ひました」
「誰も、そんな事に氣がつかなかつたのか」
「隨分、氣をつけました。でも、何時ともなく、誰かが二人の素振りを見付けて、口に出して言ふ者もありました」
「例へば?」
「あの猫又法印などは、生涯女に持てたことのない人間だけに、妬きやうも大變で」
お萬はなか〳〵辛辣なことを言ひます。
「主人の市十郎は?」
「法印がつまらないことを告げ口したかも知れません。近頃は若旦那を見る眼が變でした」
「よく、それで彦太郎を追ひ出さなかつたな」
「だつて、若旦那の方が、この菊屋の心棒ですもの。大旦那が若旦那を追ひ出したら、親類方が承知しなかつたでせう。さうでなくてさへ、妾狂ひがひどいので、親類方の噂になつてをりました」
「ところで、お前はなか〳〵目が屆きさうだ。もう一人の妾のお吉には、惡い噂はなかつたのか」
平次は話題を變へました。引出せば、いくらでもこの女から手掛りは引出せさうです。
「新宿で勤め奉公をしてゐる時、あのお吉さんと番頭の才八どんは、深間だつたさうですよ」
お萬の口邊には、深刻な笑ひが漂ひます。
「お吉は商賣人あがりか」
「どう見たつて、あれは素人ぢやありませんよ。匂ひ袋を身體中にブラ下げて、さはれば、脂で手がべつとりと濡れさうですもの。氣味が惡くて、私なんかは、同じ盥でも顏を洗はないやうにしてをります」
「手嚴しいな」
「男の方は、どうしてあんなヌラヌラした女が好きなんでせう。才八どんなんか、ひとかど通なことを言つてる癖に、あのお吉さんを見る目は尋常ぢやありません」
さう言はれると、そんな素振りがあつたかも知れませんが、微妙な消息は平次にも判斷がつきさうもありません。
「ところで、死んだ主人は、妙な癖があつたさうだが、夜分、自分の部屋へ引取つてからは、誰も他の者を寄せつけなかつたことだらうな」
平次の問ひは次第に核心に觸れて行きます。
「そんなことはありません。誰でも用事があれば呼びつけられて、隨分いやなところを見せつけられました。私はお銚子を運んで行きましたし、才八どんは店の勘定が濟むと、一應その日の金の出し入れを、旦那樣に申し上げましたし、──旦那樣は帳尻にはやかましかつたさうです」
「法印は?」
「あれは自分の部屋でお仕着せの寢酒をやつて、獨りで寢てしまひます。旦那がお妾とふざけるところなんか、汚らはしいなどと言つて覗かうとはしません」
「お吉は?」
「お袖さんが居る時は、滅多に覗かなかつたやうです。決して顏を見せないのは、お内儀さんとお孃さんくらゐのもので」
「有難う、そんな事でよからう。お蔭でいろ〳〵のことが判つたよ」
平次もお萬の饒舌には、お禮を言ひたい程でした。中年女の舌を活溌に動かせる動機が何んであらうと、それは問題外として。
「八、二人の妾と、奉公人達の荷物を調べてくれ。飛んだところに、極め手があるだらう」
平次は、八五郎と與吉を手傳はせて、家中の者の荷物を調べさせました。
驚いたことに、内儀のお世乃は一番纒まつた金を持つてをり、その次は下女のお萬が物持ちで、番頭の才八と、法印無道軒は殆んど百も持つて居ないことがわかりました。
妾のお吉は、買ひ食ひの小遣くらゐ持つてをり、お袖は母親に貢ぐせゐか、何んにも持つては居りません。
「へエ、あの内儀が百兩と纒まつたほまちを持つて居たには驚きましたよ。下女のお萬も十兩近く持つて居たのは、身分不相應ですがね」
八五郎は酢つぱい顏をするのです。
「十兩と纒まつた金は、一本立ちの御用聞の八五郎兄哥も身につけたことはあるめえ」
「口惜しいがその通りで」
「尤も、浮氣をする男の配偶は、何時捨てられるかもわからないから、大概無理をしてもほまちを拵へるものだよ」
「そんなものですかね──亭主に張り合つて、パツパと費ひさうなものですが」
平次の哲學が、八五郎には急に呑込めない樣子です。
「才八が空つ尻なのは、遊びがひどいからだらう」
「正直者だとも取れますね」
「死んだ主人がやかましくて、妾とふざけながらも、毎日の帳尻は見たといふくらゐだから、思ひの外奉公人達には收入がなかつたのかも知れない」
「ところで、あの猫又法印が、百も持つて居ないのは何んと判じます」
「あわてて隱したのかな」
「へエ?」
「いや、そんな事はあるまい」
「それから、あの猫又法印は威張り返つて、自分の部屋の押入を開けさせませんよ。幸ひ、財布を投げ出してあつたので、念入りに調べましたが」
「兎も角、與吉兄哥に見張らせることだ。俺は通ひ番頭の源介に立ち會はせて、主人の手文庫と帳場を見る」
平次と八五郎は、源介を呼んで來て、主人の部屋から手文庫を持出させて調べましたが、それは金錢の出入帳と證文の外には何んにもなく、土藏の中に思ひの外の現金が隱されてゐた外には、たいした收獲もありません。
「親分、妙なことがありますが」
八五郎と番頭の源介は、帳場格子の中に首を突つ込んで不思議がつてをります。
「何が不思議なんだ」
「この大福帳ですよ。半紙横綴の分厚な帳面ですが」
「それがどうした」
「お終ひの三、四日分のところを、挘り取つてあるんです」
番頭の源介は、腑に落ちない樣子で、大福帳を撫でてをります。
「枚數にして、どれくらゐだ」
「三枚もあつたでせうか」
「何にか、變なことでも書いてあつたのか」
「そんなことは御座いません」
「御禁制の品でも仕入れるとか何んとか」
「飛んでもない」
番頭の源介は躍起となつて手を振るのです。
才八より少し老けて見える、同じ中年者ですが、女房持ちで通ひで、遊び癖のひどい才八に比べると、ひどく地味な男です。
「金の出し入れに怪しいことはなかつたか──そのために主人が命を落すといふことも、ありさうに思ふが」
平次は念を入れました。
「金のことになると、やかましい主人でございました。五文十文の違ひでも、決して容赦しなかつた方で」
「才八が費ひ込みでもしてゐなかつたのか。大分遊びがひどかつたといふが」
「いえ、金の間違ひはなかつた筈でございます。──尤も才八どんには結構な貢ぎ手もありましたが」
「それは誰だ」
「御主人樣が、しつかり給金を出してをりましたから──へエ」
番頭の源介は巧みに誤魔化してしまひました。才八の遊びの金は、ケチで勝手で、奉公人の遊びなどを、決して容赦しなかつたであらう、主人の貢ぎでないことはあまりにも明らかです。
才八のパトロンは、主人の市十郎でないと、それは多分、あのベタベタした妾のお吉あたりでせうか。
「その才八が、亡くなつた主人市十郎の身寄りにでもなつて居るのか」
「いえ、そんなことは御座いません。尤も御内儀のお世乃さんの遠縁に當るやうには伺つてをります」
それは平次にも初耳でしたが、亡くなつた主人市十郎より十幾つも年の若かつた才八は、子供の時から、唯の奉公人でやつて來たのでせう。
「親分、お願ひしますよ」
又、八五郎が飛んで來ました。
「何がどうしたんだ」
「猫又法印が威張り出して手がつけられません。與吉親分は弱つてますよ」
「よし〳〵」
平次は氣輕に身を起すと、猫又法印の部屋になつてゐる、奧の一と間に入つて行きました。其處では輪袈裟をかけた無道軒が、腕を捲りあげて威張り散らしてをります。
「やい、岡つ引奴、俺が向うの部屋で、下手人調伏の祈祷をしてゐる間に、俺の部屋へ入つて、手當り次第に掻き廻すとは何んといふことだ。この六疊は苟くも佐多田無道軒の城廓だ、中が見たかつたら、寺社の御係りを呼んで來い。町方の不淨役人などが入ると、唯は置かないぞツ」
お經で鍛へた凛々とした聲が、家中に鳴り渡ります。
「御坊、大層な勢ひだな」
平次はヌツと入りました。
「何んだお前は、錢形とか何んとか言はれて、近頃増長した野郎だな」
「お互ひに増長するのは結構なたしなみぢやないよ。ところで、御坊はこの家の何んだ」
「主人市十郎の用心棒だ」
「用心棒といふと、一期半期の奉公人か」
「ブ、無禮なことを申すな」
「主人市十郎は死んでしまつたぜ。奉公人なら居据つても構はないが、強請や居候なら退散するのが本當だ。新しい主人は跡取りの彦太郎、お前のやうな法螺吹には用事はないとさ」
平次も我慢がなり兼ねました。
「言つたな野郎」
「口惜しかつたら、調伏でも何んでもやるが宜い。第一、ふた言目には寺社々々といふが、お前なんか何處の寺にも人別があるわけはない。望みとあらば、寺社の御係りを呼んで來ようか」
「何、何んだと」
「そんな法螺吹き坊主に驚く奴がどうかして居るよ。その押入の中に、何にか忍ばせてあるに違ひない。俺が承知だ。八、構はないから搜せ。大きな聲を出す外には能のねえ野郎だ、怒鳴つたら此方でも怒鳴り返せ」
平次は無道軒を乞食坊主と見破つて、裁きはきび〳〵してをります。
「何んにもありませんよ、親分」
八五郎は押入から首を出しました。
「それ見ろ、後の祟りが怖いぞ」
力づくでは叶はぬと思つたか、猫又法印、眼ばかり光らせてをります。
「いや、きつとあるに違ひない。若旦那の彦太郎を脅かした、影法師の手品は、この部屋に隱してあるに違ひない」
「待つて下さい親分」
四ツ谷の與吉は疊をあげて床下を這ひまはつた揚句、やがて泥棒龕燈を一つ見付け出しました。
「何んだそれは?」
「泥棒龕燈ですよ。この中に小さい蝋燭を立てて、口のところに、切拔きのお化けを貼つたら、影法師が映りやしませんか」
四ツ谷の與吉はすつかり得意になつてをります。
「いや、そんなことでは自分の姿を見せずに、影法師だけを、遠くの往來や椽側に映すわけには行くまい」
平次はさすがに思慮深く、與吉の假説を押へました。
「ザマあ見やがれ」
猫又法印は面白さうにわめきます。側に平次と與吉と八五郎が居るのでは、力づくでは叶はぬかと思つたか、どうやら神妙に控へてをります。
「親分、妙なものがありましたよ」
八五郎は押入れの隅を這ひ廻つてをりましたが、やがで何やら一と掴みほどさらひ出しました。
「蝋燭の屑が五、六本、あとは桐の薄板で拵へた、何んかの仕掛物と、──おや、おや? これはギヤマンの鏡の、水銀の剥げたのぢやありませんか」
それは不思議な判じものでした。平次はそれを疊の上に列べて、默つて考へ込んでをります。
「御坊は以前、長崎に居たことがあつたさうだな」
「それがどうした」
猫又法印は肩を聳かします。
「長崎で拔け荷を扱つたといふが、オランダ人から、寫し繪くらゐは手に入れたことがあるだらう」
「?」
猫又法印は默つて眼を光らせました。
「彦太郎を脅かした影法師は、月の良い晩でも、往來の上に明るく光つたものが映り、その中に眞つ黒な影法師が現はれたといふことだ」
「──」
「そして、その影法師が出る時、木の焦げるやうな匂ひがしたといふことだ、──寫し繪に違ひあるまい。オランダ風の寫し繪は、清國の商人が持つて來て、長崎には澤山入つてゐるといふことだ。法印はそれを手に入れて江戸へ持ち込み、何んの仔細かは知らぬが、彦太郎を脅かして、自滅させようとしたのだらう」
「──」
「八、天井が怪しい。箱型になつたものを搜せ」
「よしツ」
八五郎はいきなり天井にもぐり込みました。此處に言ふ『映し繪』又は『寫し繪』は、後の世の幻燈で、享和年間には、江戸の寄席藝人都樂なる者が興行用に使用したことが武江年表に記されてをり、それが近代に及んで、淨瑠璃などを用ひ、劇的な筋を持つた影芝居、又は錦影繪として、明治初年に至つたことは古老がよく知つてゐる筈です。
猫又無道軒はそれを一臺江戸に持ち込み、最初は愚民を欺く道具にして居りましたが、後にはわけがあつて彦太郎脅かしの道具に用ひ、錢形平次に見出されたのです。
天井裏から、怪し氣な幻燈器械は直ぐ見付かりました。
「サア、坊主、カラクリの寫し繪が出て來たぞ。望みの通り寺社の御係りに引渡さうか」
八五郎はその煙突のある眞四角な黒い箱を差し上げて踊り出します。
「いや、この上は、何んであんな事をしたか、ワケを訊かう」
平次は問ひ詰めました。
「知らない〳〵、知るものか」
猫又法印は大きく頭を振ります。
「よし〳〵、宜い心掛けだ。何んにも言ひたくなきや、菊屋の主人市十郎殺しの下手人として、送つてやるだけのことだ。──どうせ本當の下手人はお前ぢやあるまいが、この平次が手を引けば、お前を助ける者はないぞ。それも承知か」
「いや、言ふ。斯うなれば皆んな言ふ。頼んだ相手は死んでしまつた。もう默つてゐる義理もない」
猫又法印はペラペラとしやべつてしまひました。それによると、彦太郎が臆病で神經質なのを知り、それをウンと脅かして自滅させようとしたのは、何んと、殺された菊屋の主人、彦太郎には義理のある仲の、市十郎だつたのです。
彦太郎は憎くもあり邪魔でもありましたが、世間や親類の手前、表向きはそれを追つ拂ひもならず、その上彦太郎とお袖は幼馴染で、今でも清らかな逢引を續けてゐると知つて、腐肉のやうな色餓鬼の市十郎は、彦太郎の清純さが憎くてたまらず、無智の狂信者を騙してゐる、猫又法印の寫し繪の詐術を利用して、彦太郎をジリジリ殺さうといふ、恐ろしい計畫に卷き込んだのです。
「といふわけだ。皆んな主人の言ひ付けで俺の知つたことぢやない」
と、この期に臨んでも猫又法印は惡あがきを續けます。
「親分。すると、主人殺しの下手人は誰でせう」
「矢つ張り、猫又法印ですか」
「いや違ふ」
平次が家の廻り、わけても風呂場やお勝手を念入りに調べるのを、八五郎は追つかけるやうに訊ねるのです。
「すると、あの弱さうな伜」
「いや、あの彦太郎ではない──俺には下手人はわかつたつもりだ。キメ手になる程の證據がない」
「縛つて行つて二、三十引つ叩けば──」
「お前は亂暴でいけない。證據のない者を縛つて、拷問にかけるのは、町方役人の恥だよ」
「相變らず、弱氣ですね。何を搜しや宜いんで」
「紙の片だよ。血の附いた半紙だ」
「紙屑籠ぢやありませんか」
「曲者はそんななまやさしい人間ぢやない。土竈か風呂の焚き口でなきや──兎も角、與吉にさう言つて、鼻の良い犬を搜し出し、ちよいと借りて來てくれ」
「親分は?」
「俺はもう一度市十郎の殺された二階を見るよ。お前も後から來てくれ」
八五郎は四ツ谷の與吉を搜しに飛んで行きましたが、やがて、二階の主人の部屋で、何やら考へ込んでゐる平次のところへ戻つて來ました。
「犬は良いのがあるさうですよ。次は何んです、親分」
「お前は背が高い方だが、主人の市十郎は小柄だつたな」
平次は妙なことを言ひます。
「その代りよく肥つてはゐました」
「ところで、お前は、この主人を突き殺した、障子の側、刀の穴の前に坐つてくれ。膝を崩して、さう〳〵」
「斯うですか」
八五郎は血飛沫の障子の前に坐つて、氣味惡さうに胡坐を掻きました。
「ところで、廊下から主人を突いたと思はれる障子の穴は恐ろしく高い、──丁度お前の首のあたりに當るぜ」
「主人の傷は、後から背中の左、肩胛骨の下をやられた筈ですが」
「蝋燭の灯で障子越しに突けば、少しは見當も狂ふだらうが、それにしてもあんまり違ひ過ぎる」
「それはどういふ者なんです、親分」
「穴が高過ぎるし、血飛沫も少な過ぎる。曲者は障子越しに突いたと見せて置いて、實は、主人と話をしながら、素知らぬ顏で後へ廻つて、見當をつけて一と突きにやつたのさ。酒に醉つてゐる主人は、相手のそんな素振りをとがめる氣もなかつたんだらう」
「誰です、それは?」
「主人市十郎に信用されきつてゐる者、主人と妾のふざけてゐるところへ入つても、不思議にも思はれない者──尤もその時お袖は、お燗を直すといふことにして階下へ降りて、彦太郎と逢引ごつこをして居た」
「誰です」
「毎晩この部屋へ來る奴、──主人の市十郎を、怨んでゐる奴、──彦太郎が自身の部屋から拔け出して、お袖と逢引をしてゐるのを見極めた奴」
丁度その時でした。階下の方では何やら、騷ぎが始まつた樣子、四ツ谷の與吉の聲が突貫けます。
「親分。犬は裏の柔かい土を掘つて、血染の半紙を見付けたさうですよ」
椽側から階下を覗いて八五郎は怒鳴りました。
「よし、これは店の大福帳から挘つた紙だ」
平次はそれを承けて立ちました。
「どうしてそんなところに」
「曲者はその大幅帳を主人に見せに來たのだ。主人の市十郎が、それを覗いて見て居るところを後ろから刺した。血は大幅帳に飛沫いたことだらう。曲者はその汚れたところを、半紙二枚だけ引き挘つた、が燒く隙がなかつた。捨てる場所もなかつたので、畑の柔かいところに埋めたのだ」
「すると曲者は?」
「その男だ。與吉兄哥、その男を縛つてくれ」
平次は二階の椽側から、逃げて行く一人の男の後ろ姿を指さすのです。
それは言ふ迄もなく、手代の才八。土地の御用聞與吉は、飛び付いて自分の手柄にしたことは言ふ迄もありません。
主人市十郎に、曾ては菊屋の家付の娘お世乃を奪はれ、更に新宿の女郎だつたお吉を奪はれた才八は、主人市十郎が猫又法印を使つて、彦太郎を自滅させようとしてゐるのを見て、自分もついドサクサ紛れに主人の命を狙つたのでした。
× × ×
猫又法印の佐多田無道軒は、唯の山師坊主とわかつて遠島になり、お世乃とお染は、淋しく菊屋の跡を立てました。
妾のお吉は、多分の手當てを強請つて行方不知、もう一人の若い妾のお袖は、身一つで母の許に歸りましたが、間もなく、あらゆる物を振り捨てた彦太郎が、お袖の長屋へ訪ねて行つて、存分に泣きも口説きもしたことは言ふ迄もありません。
お袖は身を恥ぢて尼になるなどと言ひましたが、彦太郎は市十郎の眞實の子でなく、市十郎が死んで、菊屋から身を引けば、誰も文句を言ふ者もありません。
「文句を言ふ野郎があつたら、俺が引受ける」
などと八五郎までが乘出して、若い貧しい二人を一緒にしてやりました。
「良い心持ちだね、親分」
三十男の八五郎は、自分がまだ獨り者のくせに、こんな呑氣なことを言つてゐるのです。
底本:「錢形平次捕物全集第三十九卷 女護の島異變」同光社
1955(昭和30)年1月15日発行
初出:「キング」
1952(昭和27)年
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
※題名「錢形平次捕物控」は、底本にはありませんが、一般に認識されている題名として、補いました。
入力:特定非営利活動法人はるかぜ
校正:門田裕志
2017年6月30日作成
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