錢形平次捕物控
美しき人質
野村胡堂



發端篇


「親分。あつしはもう、腹が立つて、腹が立つて」

 八五郎は格子かうしをガタピシさせると、挨拶は拔きの、あごを先に立てて、斯う飛び込んで來るのでした。

「頼むから後を締めてくれ。野良犬がお前と一緒に入つて來るぢやないか」

 錢形平次は、不精らしく頭をあげました。相變らず三文植木を眺めながら、椽側に寢そべつて、粉煙草をせゝつて居る、閑居の姿です。

「それが親分、いつもと違つて、今日は本當に腹を立てましたぜ」

「果しまなこになると、お前でも少しは怖いよ。次第によつては、達引たてひいてやらないものでもないが、一體いくらぐらゐ欲しいんだ」

「何んです、それは?」

「財布の紐がふところからはみ出して、その上あわてて居るところを見ると、その邊で飮んだ末、割前勘定が拂へなくて、友達に何んか嫌なことを言はれたんだらう」

 平次はニヤリニヤリと、シヤーロツク・ホームズ見たいなことを言ふのでした。

「圖星と言ひてえが、そいつは大違ひだ」

「さては何處かの新造つ子を口説くどいて、彈かれたのかな」

「そんな間拔けな話ぢやありませんよ。腹が立つてたまらねえ話といふのはうですよ、親分」

「まア坐れ。突つ立つての話ぢや、立つた腹の寢かしやうはねえ」

 平次はさう言ひながらも、八五郎の眞劍さに釣り込まれて、火のない火鉢を挾んで、猫板ねこいたの上に頬杖を突くのでした。

 外は四月始めの良い陽氣、申刻なゝつ(四時)下がりの陽は明神樣の森に傾いて、街の子供達が路地一パイに馳け廻つてをります。

「ね、親分、神樂坂かぐらざか小町と言はれた、十九になつたばかりの娘が一人、人身御供にあげられて、狒々ひゝ見てえな野郎のなぐさみ物にされかけて居るんだ。それを助けに行つた父親はまたお濠へ落ちて、腦天をくだいて土左衞門になつて居たとしたらどんなもんです」

「腦天を碎いた土左衞門は變だね」

「ね、親分が聽いたつて變でせう。現に死骸を見て來たんだから、あつしが腹を立てるのも無理はないぢやありませんか」

 八五郎の話は、妙に含蓄がんちくがありさうです。

「で、俺にどうしろといふのだ」

「錢形の親分でも、相手が三千石の殿樣ぢや、手の付けやうがないぢやありませんか。あつしはもう──」

「わかつた、腹が立つて〳〵──といふせりふだらう」

「何んとかして下さいよ、親分。十九になる神樂坂小町、ビードロでこせへて、紅を差したやうな娘が、今晩にも狒々野郎に手籠めにされるかと思ふと、あつしはもう、この世の中がいやになりましたよ」

「やれ〳〵、八五郎に出家された日にや、江戸中の娘達が泣くだらう。仰せの通り武家の揉め事はこちとらの手に了へねえが、人が一人殺されたとわかれば、放つても置けめえ。最初から筋を通して見な」

「斯うですよ、親分。涙ながらに申し上げると」

 八五郎は語り出すのです。

 神樂坂裏、長屋の入口に、さゝやかな小間物屋をいとなんでゐる市之助、もとより屋號なんかありやしません。女房のお宮が店番をして、亭主の市之助は、高い荷物を背負つて、旗本御家人のお勝手や、金持、大町人の召使達に、安い小間物を賣つて、細々と暮して居る男でした。

 市之助お宮夫婦の間には、たつた一人の娘がありました。八五郎の口から、神樂坂小町と紹介されたお糸で、これはこの土地の口の惡いのが、『裏店小町』と言つたほどの御粗末な身扮みなりで、店番もし、使ひ走りもし、骨身を惜しまずに働いて居る癖に、その美しさは全く非凡でした。

 柄は小さいが、蒼白くさへ見える、白粉おしろいつ氣のない柔かい肌、眼が大きくて、眉が長くて、少し品が良過ぎるくらゐの人形首です。

 それが何んかの拍子ににつこりすると、小さい唇の、上向きの曲線カーブが、とろりとするような媚を含んで、大きい片ゑくぼ、それは實に、思ひも寄らぬあでやかな顏になるのでした。

「そのお糸坊に、モモンガー見たいな野郎が惚れたんだから、親分の前だが、江戸といふ國は穩やかぢやねえ」

 八五郎の話は斯んな調子で進むのです。

「お前の話の方が餘つ程穩やかぢやないぜ。誰が誰に惚れようと、日本中御法度はねえ筈だ。たとへば、お前が三浦屋の高尾に惚れやうと──」

「ところが、あつしはこの通り五體滿足で、男つ振りだつて滿更ぢやないでせう。唯金つ氣だけは少し心細い」

「あれ、本人がそんな氣で居るんだから、お前といふ人間は百まで生きるよ」

「その小間物屋のお糸坊、町内の義理で今年の三月十日、花見船を出して、柳橋から木母寺もくぼじまで漕いで行つたと思つて下さい」

「それがどうしたんだ」

「揃ひの手拭てぬぐひ、叔母さんに達引かしたあはせ身扮みなりは氣の毒なほど粗末だつたが、きりやうは向島一帶をクワツと明るくしたお糸ですよ。その他四、五人の綺麗なところを乘せて、鳴物入りで漕ぎ上がつたが、御町内の武家方も姿を變へて三、四人は交つて居た」

「フーム」

肴町さかなまちの大旗本、三千石の大身で津志田つしだ谷右衞門のせがれ彌八郎といふ、ニキビの化け物のやうな若樣。二十一になつても呂律ろれつの廻らねえのが、殿樣にせがんで、中間の半次といふのと一緒に、同じ船の中に居たからたまりません」

「三千石の旗本の若樣に見染められたといふのか、たいした出世ぢやないか」

「へツ、親分の前だが、くそでも喰へと言ひたいくらゐのもので。二十一になつてニキビだらけで、頭でつかちのよだれくりですぜ。その上、いろは四十八文字が、滿足にしやべれねえ人間だから、神樂坂小町のお糸坊の氣に入るか入らないか、考へて見て下さいよ、親分」

「俺に訊いたつてわかるものか」

あつしは其處を見たわけぢやないが、若君彌八郎、お糸の顏を横から縱から、一日眺め暮らして、涎ばかり流して居たから、柳橋へ歸る迄に、阿伽桶あかをけで涎を三度も掻い出した」

「嘘をきやがれ」

「屋敷へ歸ると、お定まりの戀の病、彌八郎、枕もあがらない騷ぎだ。こいつは醫者にも藥にも及ばず、中間半次の話でわづらひの種はわかつたが、三千石の大身では、まさか背負ひ小間物屋の市之助の娘を、嫁にくれとは言はれない」

「成程ね」

「だからあつししやくにさはるんで、あれ程の娘を人身御供に上げるんだから、三千石くらゐは施米せまいに出したところで、たいしたことはあるまいと──」

「お前の言ふことは亂暴だよ」

「津志田家からは、お糸を召使つてやる、早速奉公に出すようにと、高飛車の申し出だ。驚いたのは市之助夫妻、──たつた一人の娘で、近いうちに婿むこを取ることになつて居るから──と體よく斷わつたが、そんな事で引つ込むやうな生優なまやさしい相手ぢやない」

「フム、フム」

「困つたことに、小間物屋の市之助、仕入れの金に困つた上、昔の借金を催促さいそくされて、柳町の金六郎といふ、名題の因業いんごふな金貸しから、十兩といふ金を借りた。暮までには働いて返すつもりで居たが、津志田家ではその證文を金六郎から買ひ取つて、火のつくやうな催促だ」

「よくあるだな」

「たつた今、十兩に利子をつけた金を返さなきや、娘を奉公に出せ、それが嫌なら──と味噌摺みそすり用人の岸井重三郎といふのが刀をヒネくり廻しての強談」

「武家が金を貸して、町人から利分を取るといふことは、表向きには出來ない筈だ。まして三千石の大旗本がそんな事をして居ると知れると、身分にもさはるだらう。それを書面にして目安箱へ投り込むとか、御目付衆の耳に入れるとか、工夫のしやうがあるだらうよ」

 平次は一應ちうを入れました。

「ところがいけませんよ。それを申し立てて、娘をつれて歸るつもりで、肴町さかなまちの津志田屋敷へ行つた筈の市之助が、死骸になつて、船河原町のお濠に浮かんで居たとしたらどうですえ、親分」

「成る程、それは放つて置けないな」

「その上、市之助の書いた證文は、名宛が柳町の金貸金六郎で、津志田家の用人岸井重三郎が、金六郎から證文を買ひ受けたことになつて居るから、恐れながらとたつくちへ訴へ出たところで、お上は取上げてくれません」

「フム、たくらんだな」

「ね、何んとかしてやつて下さいよ。見す〳〵あのお糸坊が、ニキビの化け物の餌になるんですぜ。その上父親の市之助を殺したのも、間違ひもなく津志田家の一黨だ、言はば親の敵の伜」

「早まつたことを言ふな、──ところで、市之助が死んだのは何時のことだ」

「死骸を見付けたのは今朝、先刻さつき漸く神樂坂裏の家へ、死骸を運び込んだばかりですよ」

「娘のお糸は家へ歸つたのか」

「親の市之助が死んだと言つてやつても、お糸坊を歸してくれないからしやくぢやありませんか。お願ひだから、親分。一寸覗いてやつて下さい」

「お前はまた、何んの引つ掛りで、お糸坊とやらに力瘤ちからこぶを入れるんだ。向柳原から神樂坂ぢや、唯の知合ひにしては遠過ぎやしないか」

「江戸中の良い娘が、皆んなあつしの知合ひ──と言ひたいが、實はお糸の母親のお宮は、あつしの叔母の知合ひなんで」

「そんな事か、お前の腹の立てやうが尋常ぢやないと思つたよ」

 平次は兎も角も、一應この事件を覗いて見る氣になりました。それが武家相手の、容易ならぬ事件にならうとは、素より豫想もしなかつたことです。

 小間物屋市之助の家へ行つたのは、もう夕景でした。路地を入るともう、プーンと線香の匂ひ、小間物屋とは名ばかり、一間の狹い店に飾つた、お粗末な商賣物は片付けて、近所の人が多勢、家の中にウロウロしてをります。

 八五郎の案内で、平次が入つて行くと、

「錢形の親分だ」

 ザワザワと囁やきが傳はつて、人波は一ぺんに店中から引下がり、隣りの部屋に敷いた床の上に、主人市之助の死骸を守つて、泣きれた女房のお宮、近い身内らしい老人が二人居るだけです。

「氣の毒だつたな、お神さん」

 平次は馬糞まぐそ線香をあげて、丁寧に拜むと、膝行ゐざり寄つて市之助の死骸を調べました。

 濠から引揚げて、乾いたものを着せてありますが、八五郎が報告した通り、頭の上に石で割られたやうな、大きな傷痕きずあとがあり、身體の何處にも、おぼれて死んだ樣子はありません。

「ね、親分、水を呑んだ樣子はないでせう。それに、あの邊は水苔みづごけでお濠の底は見えないけれど、近所の人に言はせると、思ひの外淺いさうで、腹ん這ひにでもならなきや、溺れる筈はないといふことで」

 平次は八五郎の説明を默つて聽いてをりましたが、一禮をして佛樣の傍から引下がると、

「ところで、外に變つたことはなかつたのかな。持物とか、何んとか」

 女房のお宮の方に振り向きました。

「いえ、財布には小錢が少し、持物にも變りは御座いません」

「津志田樣と、娘のお糸のことは、一と通り聽いて來たつもりだが、お神さんの口からもう一度聽かしてくれないか」

「若樣が、娘を何んとかしたとやらで、たつて奉公に出せといふ強談です。娘はもう怖氣おぢけを振つてをりましたし、父親も、貧乏はして居ても、娘にめかけ奉公まではさせたくないと、堅いことを申してをりました。それに、娘には芦名光司あしなくわうじ樣といふ、親しい人もありました。いえ、御浪人ですから、身分違ひ釣り合はないからと、私の配偶つれあひは氣が進まなかつたやうで御座います。小商人こあきんどの婿には、矢張り小商人が宜いと思ひ込んでゐた樣子で──」

「成程な、大層なきりやうださうだから、望めば玉の輿こしにでも乘れたことだらうに」

 平次は殺された市之助の小商人らしい堅さと正直さに、妙に好感が持てるのでした。

「津志田樣の仕打ちがあんまりなので、事と次第では、龍の口の目安箱にこの一らつを書いて投り込んでやると、大層な意氣込みで飛び出しましたが、それつきり戻らなかつたのでございます。もし死骸でなくなつたものがあれば、家から用意して行つた、お訴状くらゐなものでございます」

「外に?」

「親が死んだのに、娘を返さないといふのは、いかに御旗本でも、あんまり無理ぢやありませんか。私はもう、あの屋敷へ忍び込んで、庭先で首でも吊つてやらうかと、そんな事まで考へましたが」

「冗談ぢやない。そんな事をしたところで、死んだ者が生き返るわけでもなく、娘が無事に戻るわけでもあるまい」

 平次は精一杯、この氣の立つて居さうな中年女をなぐさめるのでした。

「親分」

 八五郎が、そつと平次の袖を引きました。

「何んだ、八?」

「あの、裏口に立つて居るのは、貧乏富びんばふとみと言はれたやくざで、お糸をつけ廻して居た男ですよ」

「どれ?」

 平次が振り返ると、二十七、八のちよいと男つ振りの好い、が安手な男が、あわてて姿を隱しました。

「ところで、八」

「へエ」

「お前、津志田家に乘込んで見る氣はないか」

「?」

「お糸の叔父さんか何にかになるんだ。父親のとむらひに出さないといふ法はない、年季奉公に出ても、親の法事には歸されるものだ──と津志田へ乘込んで、一つ啖呵をきつて見ろ」

「危ない藝當ですね、親分」

「何を言やがる。命の二つや三つは、何時でも投げ出して見せると言ふお前ぢやないか。それとも急に二本差りやんこが怖くなつたか」

「冗、冗談言つちやいけません。危ないと言つたのは、下手へたな事をしたら、お糸坊に障りやしないか、それが心配なだけで、あつしは命惜しみなんかするものですか、はゞかりながら十手捕繩は伊達だてにや持たねえ」

「どつこい、その十手捕繩をひけらかすのは禁物なんだ。啖呵をきつても手を出しちやならねえ。默つてお濠の中へ投り込まれて、少しはお鉢も割つて見るが宜い」

「飛んでもない、親分」

「さうかと言つて、南蠻鐵なんばんてつかぶとを冠つて行くわけにも行くまいぢやないか」

「驚いたなア、どうも」

 八五郎が小鬢こびんをポリポリ掻いてをりますが、たいして驚いた樣子もありません。

「日本一の臆病者になるんだ。宜いか、八。下手な腕立てをすると、ブチこはしになるぜ」

「いよ〳〵變な役廻りですね」

 文句を言ひながら、八五郎は出て行きました。外はもう眞つ暗です。

「錢形の親分」

 一應調べ了つて、歸らうとする平次は、店先で若い男に呼び留められました。

あつしに御用で?」

 相手は一本落した浪人者、少し自墮落じだらくな風ですが、惡くない男振りです。三十前後といつた年配、少し四角な顏で、一寸凄味があつて、キラリと光る眼も尋常ではありません。

拙者せつしや芦名あしな光司と言ふ、浪人者だが」

「成程、──お糸さんと親しかつたといふ」

 平次はケロリとして斯んなことを言ふのです。芦名某の崩した姿が、平次に遠慮のないことを言はせたのでせう。

「親しいといふ程ではないが、少しは行き掛りがないでもなかつた。そのお糸を留め置く津志田谷右衞門、旗本の大家のすることが、拙者は心外でたまらない。どう思ふな、錢形の親分」

「腹は立つても、町方の岡つ引ぢやどうすることも出來ませんよ」

「錢形の親分と言はれる者が、さうあきらめた事を言つて宜いのかな」

 芦名光司は屹となりました。四角な顏に血が上つて、後ろ腰に、少しだらしもなく差した大刀を、グイと前に廻します。

「致し方もありません」

「この芦名光司は、どうにも我慢が出來ないのだよ。津志田家に思ひ知らせてやるつもりだが、──」

「前以つてお屆けぢや恐れ入ります」

「市之助は人手にかゝつて殺されたに違ひない。その敵を討つてやるのが、お糸への拙者の勤めだ」

「へエ」

 お糸の亭主氣取りで居る芦名光司に、錢形平次も口のきゝやうがなかつたのです。

 この掛合ひが濟んで、芦名光司が歸つて行くと、間もなく肴町さかなまちの津志田家へ行つた筈の八五郎が戻つて來ました。夜はもう亥刻よつ(十時)、貧しい御通夜おつやの衆も、コクリコクリと始める人の多くなつた頃です。

「あ、親分、まだ居ましたかえ」

「何んだ、八か。相變らず騷々しい」

 飛び込んで來た八五郎は、耻も外聞もない姿でした。

「いや、驚きましたよ。危ふく市之助の二の舞ひをやるところを、逃げたの逃げねえの、日本一の臆病者になれと親分が言ふから」

「まア、落着いて話せ。どんな事があつたんだ」

「筋書通り、お糸坊の叔父さんといふことにして、津志田家のお勝手口から、神妙に乘込みましたよ」

「フム」

「お糸坊の叔父さんぢや、役不足だが仕方がねえ、實は兄さんと言ひてえところだが、神樂坂小町はたつた一人娘と、牛込中で知らない者はなし、兄さんなどと名乘ると、それは一寸變に聞えるでせう」

「勝手な事を言はずに早く筋を通せ」

「應對に出たのは、用人の岸井重三郎。五十前後の大鹽辛聲おほしほからごゑ、腕つ節は強さうですが、智慧の方はたいしたことはないかも知れません」

「それがどうした」

あつしの口上を聽くと、──いかにも尤も、殿樣に申し上げて、よきやうに取計らつてやるから、暫らく待つやうに、と思ひの外の丁寧な挨拶だ。こいつは見當が違つたと思つたが、あつしの威勢に恐れて、折れて出たことと思つて、油斷をして居ると」

「?」

「どかんとやられましたね」

「何んだいそれは?」

「當て身ですよ。あつしの背後へ廻つた味噌摺みそすり用人奴、小笠原流で靜々とした起ち居振舞ひだから、うつかり油斷をして居ると、横合ひから、あつし脾腹ひばらへどかんと來た。いやそのきゝの良いということは、その邊中キナ臭いと思ふ間もなく、あつしは氣をうしなつてしまつた樣で」

「他愛がないなア」

「でも、市之助もこのキナ臭いのを喰つたに違ひありませんね。目を廻したところを裏通りから濠端に運び出し、あの邊にゴロゴロして居る石で、生き返らないやうに頭を叩き割つて、お濠へ放り込んだに違ひありません」

「そんな事だらうな」

あつしの脾腹がまだズキンズキンしてをりますよ。ちよいと見て下さい、あとがあるかも知れませんぜ」

「見る迄もあるまいよ。ところで、話はそれつきりか」

「それつきりなら、あつしも頭の鉢を叩き割られて、今頃は眼を剥いてお濠に浮かんで居たかも知れませんが」

「危ないことだな」

 平次もこの冒險に八五郎を驅り出したことを後悔こうくわいして居る樣子です。

「と、眼を開いて見ると、あつしの側に、觀音樣が片膝立ててヂツとあつしの顏を見て居るぢやありませんか」

「觀音樣?」

「觀音樣ですよ。生きて血の通つて居る觀音樣と見たのは、お糸坊の心配さうな顏ぢやありませんか」

「ま、お糸が」

 母親のお宮は乘出しました。

「叔母のところへちよい〳〵來たことのあるお糸坊が、あつしの顏を知つて居たんでせうね。あつしの命が危ないと見ると、お勝手から水を持つて來て、あつしに口移しに──」

「本當かえ、八」

「ま、さう思はせて置いて下さいよ。兎も角氣がついて見ると、お糸坊が、四方あたりに氣を兼ねながら、一生懸命あつしを介抱して居るぢやありませんか」

「で」

 平次もその先をうながしました。八五郎の話はなか〳〵に緊張きんちやうして來たのです。

あつしはお糸坊の手を引つ張つて、雨戸をそつと開けると、いきなり庭先に飛び出しました。サア、歸るんだ、お糸さん、皆んな待つて居るぜ──と」

「──」

「お糸坊が──八さん、私は、とても歩けさうにない。足がすくんで──と言ふのを、あつしはいきなり背中へおんぶしてしまつた。お糸坊は小柄で輕いから、これでへいさへ越せば、何んのわけはないと思つたが──」

「どうした」

「塀を越すところまでぎつけた時、──こら待てツ──と、背後からお糸坊をぎ取られてしまつたんで、──はずみを喰つてあつしの身體は塀を越して向うの往來に轉げ落ち、肝腎のお糸坊は、あの用人野郎の手に生捕られてしまひましたよ。その上一と太刀浴びせられて、あつしの尻のあたりは切られてはしませんか。傷が深さうだから、もうたないかも知れません。長い間親分にもお世話になつたが──」

 八五郎は自分の尻を撫でながら、いともあはれな聲を出すのです。

「何を言やがる。切られたのは、お前の帶ぢやねえか。見るが良い、蚯蚓みゝずばれもありやしまい」

「さうですか、命に別條はなかつたんですね。そんな事なら、もう一度津志田の屋敷へ行つて來ますよ、親分」

「何をしようといふんだ」

「お糸坊を助けに行くんですよ、──あつしはもう、親分の前だが、あの娘を背負つた時は、このまゝ後袈裟うしろげさに切られて、あの娘と一緒に死んでも宜いと思ひましたよ」

「馬鹿野郎。少しは愼しめ、佛樣の前だ」

「でも、かう、お糸坊の頬から髮へかけて匂つて、小さい柔かい手が──」

「止さないかよ、馬鹿野郎」

「もう一度出直して、あの味噌摺用人にキリキリ舞ひをさせなきや、あつしの顏が立ちませんよ、親分」

「わかつたよ。ところで外に氣の付いたことはないのか」

「ニキビの化け物彌八郎が、時々覗きに來ましたよ。それつきりで」

「よし〳〵、兎も角、今晩は歸つて、考へて見よう。三千石の旗本かは知らないが、やることがあんまりだ」

 平次はこれをしをに立ち上がりました。

 それから五日、十日と日が經ちました。小間物屋市之助のとむらひは濟み、事件は一應片付いたやうですが、平次も八五郎も、心の中は納まらないことばかりです。

 尤も、その後八五郎の叔母から聽いたところでは、お糸といふのは、お宮の連れで、市之助の實の子でないとわかりましたが、綺麗な連れ娘に對する養父の愛情は、實の娘にもまさるものがあり、市之助はお糸を、目の中に入れても痛くないと言つた、古い言葉の通り可愛がつて居たといふことでした。實際お糸は竹の中から出た姫のやうな、輝くばかりの美しさと、の上に舞はせたいやうな小柄で、その異常な美しさがまた市之助の鍾愛しようあいの的になつた、一つの特色でもあつたのでせう。

「親分、變なことになりましたよ」

 八五郎がキナ臭い鼻を持込んで來たのは、それから二、三日後、四月も半ばの月の良い頃でした。

「何があつたんだ」

「肴町の津志田の屋敷ですがね」

「?」

「昨夜あの屋敷の中に、曲者が忍び込んで、誰ともわからぬ者の手で殺されて居た──といふ屆出でがあつたさうです」

「ハテな」

 牛込の肴町と神田の明神下では、少し遠過ぎて、平次の耳にも入らなかつたのでせう。

「殺されたのは、誰だと思ひます、親分」

「わかるものか」

やくざの貧乏富、──あのお糸坊をつけ廻して居た、うるさい野郎で、親分も顏くらゐは見たことがあるでせう」

「知つてるよ、ちよいと好い男の」

ならず者には女で身を持ちくづした人間が多いから、どうかすると男つ振りの好いのがありますね」

「妙なことを言ふぢやないか」

「つまり、あつしなんか身を持ち崩しやうはないといふわけで」

「大層諦めたものだね」

「兎も角、ちよいと行つて見て下さいな。引取手も自分の家もないから、まだ津志田家の裏門のところに投り出してありますが」

「それは氣の毒な」

 平次は八五郎と一緒に、兎も角も肴町へ行つて見ました。

「ね、この通り、心掛けの惡い野郎ですね」

 八五郎は肴町の津志田家の裏へ廻ると、むしろを掛けたまゝ路地の奧に投り出してある、貧乏富の死骸を指しました。

「死んだ者の惡口は止せよ、南無なむ

 平次は片手拜みに近寄つて、上にかぶせた筵を剥ぎました。

 二十七、八の、ちよい好い男ですが、土手つ腹をゑぐられて血を失つて、まことに見る影もない姿です。

「誰でせう、こんな事をしたのは」

「お糸に逢ひたさに忍んだところを、──昨夜は月が良かつた筈だな」

「へエ、晝のやうでしたよ」

「この庭はろくな蔭もないから、一緒に忍んで來た仲間にでもやられたのかな」

「へエ──戀にはなまじ連れは邪魔──つて言ひますがね」

「それとも?」

「あの味噌摺みそすり用人ぢやありませんか」

「いや、お前の話ぢや、岸井重三郎といふ用人は、なか〳〵腕が立つらしい。曲者を見付ければ、刀を拔いて斬るだらう。傍に寄つて匕首あひくちで刺すのは、そんな人間ぢやあるまい」

「そんなものですかね」

「用人に逢つて見よう。お前案内してくれ」

「御免かうむりませうよ。あつしはお糸坊の叔父さんといふことになつて居るんですから」

 八五郎はいつぞやの事を思ひ出して尻ごみをしてをります。

「よし〳〵それぢや、俺一人だけで逢つて見よう」

 平次は津志田家のお勝手に廻つて、用人の岸井重三郎を呼び出してもらひました。

「何? 神田の平次、──錢形とかいふ岡つ引だらう、此處へ通すが宜い」

 遠くの方に聲が聞えると、用人の岸井重三郎は椽側に廻つて、平次を待つて居る樣子です。

「へエ、御免下さいまし」

「何にか用事か。庭先に忍び込んで、死んで居た男のことは、何んにも知らんよ」

 岸井重三郎は先をくゞつて平次の問ひを封じるのでした。

「御尤もで、あの曲者の顏も名も御存じないと仰つしやるので」

「何んにも知らないよ」

昨夜ゆうべ何んか、物音でもお聽きになりませんか」

「いや、物音がすれば、拙者せつしやが飛び出して、人手を借りるまでもなく成敗する」

「殿樣は?」

「殿樣は御役勤めがある」

 小普請こぶしん入の殿樣に、たいした勤めのあるわけはないのですが、斯う言はれると二の句がつげません。

「若樣は?」

「武藝學門の御修業でお忙しい」

 さう言ふ若樣の──武藝や學問に縁のなささうな顏が、椽側の向うからのぞいて居るのが見えますが、これも押して訊くわけにも參りません。

「若樣の御縁談など──」

「これ〳〵もう宜からう。武家方の立ち入つた事を訊くのは、不たしなみと言ふものだ」

 用人岸井重三郎は、苦々しくたもとを拂つて立ち上がるのです。

 それから三日目。

「平次親分御在宿か、折入つてお願ひの筋があつて參つた。御取次ぎを願ひたい」

 明神下の平次の家へ、折目正しく案内を乞うて、取次ぎの女房お靜を面喰はせたものがあります。

「へエ、私は平次ですが、どんな御用で」

 と、淺間な家、居間からひ出すやうに、入口へ顏を出すと、

「拙者は岸井重三郎と申すもの。おや平次殿か、先日はとんだ無禮を申した」

 などと、津志田家用人、味噌をることにかけても臆面はありません。

「どんな御用で」

 迎へ入れて座が定ると、

「平次どの、大變なことに相成つたよ。思案に餘つて、親分の智慧を拜借に參つたが」

 岸井重三郎は疊の上へ双手もろてを突くのです。

「まア、御手をお上げ下すつて。一體、何がどうなさいました」

「他聞をはゞかることだが」

「それはもう大丈夫、女房の外には、猫の子が一匹だけ、誰も聽いちや居ません」

「では申し上げるが──實は昨夜、津志田家に曲者くせものが押入つて、下男の半次にを負はせ」

「?」

「奧方、お高樣を突いて逃げうせた」

 岸井重三郎はゴクリと固唾かたづを呑むのです。

「奧方はあへなく御落命、それと知つて曲者を追つた半次は、物置の蔭で肩先をやられ、これも一時は氣を失ひ申した。奧方の傷は、正面から、左乳の下を一と突き、──夜中御手洗おてうづに起きられ、椽側でお手を洗ふところをやられた樣子で」

「雨戸を開けられたのでせうな」

「左樣、奧方は癇性かんしやうで、夜中でも必ず手洗鉢で手を洗はれる。暫らく經つて、庭石の上に、これを置いてあつたのに氣が付きました」

 岸井重三郎は、懷中から取出して、疊の上に半紙のしわを伸しました。有りふれた半紙にあまり上手でない、肩上がりの文字で、

お糸を返せ

 と、たつた五字だけ記してあるのです。

「お糸と申すのは、新規しんきに參つた召使で、無理に引留めたのは惡かつたが、そのために、奧方樣まであやめられては、この儘には許し難い。どんな入費や手數を掛けても、曲者を召し捕つて、思ひ知らせてやるやうに、と、殿樣以ての外の御腹立ちで」

「お糸といふ召使は返されましたか」

「いや、斯うなれば、意地にも返さぬ──と、これは若君樣のお言葉だ」

「で、どうしようと仰しやるのです」

 平次は改めて訊ねました。

「この事、公儀の御耳に入つては、家事不取締の御とがめはまぬがれない。差當り奧方は御病死として屆け出たが、殿樣の御怒りは激しく、三千石のろくの半分を失つても、奧方樣の敵は討ちたいと仰つしやる。これは我々の手では何んとも相成り難く、近頃高名の錢形の親分にお願ひに參つたわけだ」

 あの高慢臭い岸井重三郎は、膝を折り、疊を掃いて頼み込むのです。

「成程、それはお困りでせう。私にも少しは心當りがあります」

「え、心當り」

「なに、ほんの素人しろうと見たいな心當りで。でもお糸さんとやらに逢つて、一應訊いた上で、乘出すことにしませう」

「それは有難い。では早速、御案内いたさう」

 岸井重三郎はホツとした樣子で顏を擧げました。

「たつた一つ、此處で伺ひますが、そのお糸さんの評判はお屋敷でどんなものです」

「至極の評判ぢや。綺麗で悧巧で、人に可愛がられる。ことに若君樣の思召おぼしめしは一としほぢや。召使には違ひないし、至つて下賤げせんの生れだから、急のことにはむづかしいが、いづれ假親でも立てて、若君樣の嫁御寮にもといふ話もあつたくらゐだ──いや、これは内證だ。それに又いろ〳〵差障さしさはりもあつて、急に運びさうもなかつた。奧方の御他界で、それも暫らくは沙汰止さたやみであらう」

 岸井重三郎は平次と一緒に、牛込肴町さかなまちへの途々、こんな事を言ふのでした。


解決篇


 津志田家は滅入るやうな、白晝の靜けさに支配されてをりました。奧方お高樣が、人手にかゝつて相果てたと、大公儀の耳に入つたら最後、三千石の家に、きずがつかずには濟みません。

 從つて、御親類方も奧方御重態といふことで玄關から追ひ返され、僅かに奧方お高樣の里方、實弟の駒木典内こまきてんないが、津志田家の主人谷右衞門と、伜の彌八郎と、人交ひとまじへもせずに、死骸の守をしてをります。

「平次を召し連れました」

 用人岸井重三郎は、次の間から聲を掛けると、中から唐紙が開いて、

「遠慮はいらぬ、これへ」

 主人津志田谷右衞門の聲は、心持しめります。

 大旗本の屋敷は、廣いくせにコセコセして、豪勢な割に陰氣でした。青侍にみちびかれた平次が、椽側に膝をつくと、良い香の匂ひが、プーンと鼻をつきます。

「平次か、大儀であつたな。これへ參つてよく見てくれ」

 主人の津志田谷右衞門は、三千石の格式かくしきもかなぐり捨てて、平次をさし招くのです。

 それは小肥りの立派な殿樣振りで、噂で聽いた、冷酷無殘な樣子はなく、反つて幾分の甘さと寛大さと、身分のある者に屡々しば〳〵見受けられる、打ち解け過ぎた頭の惡さを感じさせるのでした。

「飛んだことでございました。さぞお力落しで──」

 平次は素直に挨拶しました。

 絹夜具きぬやぐに、入棺の奧方の死骸は、淺ましく寢かされたまゝですが、四十を少し越したばかりの品の良い、がきびしい顏立ちで、血の氣を失つても、中年女の美しさは、少しの衰へも見せてはをりません。

 傷は正面から胸を突いたらしく、心の臟を破つて、ひとたまりもなかつたことでせうが、その代り、曲者は容易ならぬ返り血を浴びた筈です。

「椽側の外の手水鉢てうづばちの前へしやがんで、柄杓ひしやくを取つたところを、下から突き上げられたのだ」

「それに相違ございません」

「何んのうらみか知らぬが──夜盜のたぐひではあるまい。何んにも盜られた物はなく、奧の後ろには、手燭てしよくを持つて、糸と申す腰元が付いて居たといふから──」

 その糸を受取りに、八五郎と平次がこの屋敷に乘込んだことのあるのは、殿樣御存じなのかどうか、其處まではよくわかりません。

「お心當りはございませんか。御當家に怨みを持つもの、わけても奧方樣に」

「それはない、ある筈もないのだ。奧は役向きのことにかゝはりがなく、召使の者からも、出入りの者にも評判の良い方であつた」

「お糸さんといふお腰元のことに就て、親許から取戻すやうにと頼まれ、私も一度この御屋敷へ參つたことも御座いますが──」

 平次はたうとう言ひたいことを言つてしまつたのです。

「それは用人の岸井重三郎から聽かぬでもなかつたが、腰元の糸本人が、歸りたくないと申すのぢや」

「へエ?」

 それは錢形平次にも初耳でした。

「奧は、いづれかと申すと、糸を親許へ返さうとしたのぢや。世上の取汰沙もいかゞ、早速糸は親許へ返すやうにと、再三伜にも申し聽けたが、何分一人つ子の我儘で、母親の申すことも聽かない。それほど思ひ詰めたものならば、ゆく〳〵は假親でも立てて、伜の嫁にもしようかと、近頃になつて、わしも決心が付いたやうなわけでな」

 この殿樣の甘さ、尋常ならぬ子煩惱こぼんなうなどは、平次が豫想したこととは全く違つて居さうです。

「で、下手人が知れた上は、どうなさるおつもりで」

「八つ割きにでもしなければ、私の腹がえぬ。奧が人手に掛つたと相わかれば、津志田家の瑕瑾かきんにもならう。惡く行けば、家事不取締のかどで、重いおとがめを受けまいものでもあるまいが、さうかと言つて、よこしまの怨みを構へて、身分あるものを暗討ちにするのは許し難い。何が何んでも下手人を搜し出してくれぬか、平次」

 谷右衞門は折入つて頼むのです。三千石の奧方が殺されたことを、支配や目付のところへ屆け出たところで何んの役にも立たず、むしろこれを伏せて置いて、町方の御用聞、錢形平次に探索させようといふのは、反つて賢い方法とも言へるのです。

「よくわかりました。隨分この探索を御引受もいたしませう──が、その代り曲者を突きとめて、殿樣にお引渡し申し上げた上は、お腰元のお糸さんを、親許に御返し下さるとお約束を願ひたいのですが」

「それも承知いたさう。──だが、伜は兎も角、本人の糸が何んと申すか」

 津志田谷右衞門はむづかしく首をかたむけるのでした。

 津志田家の一人息子、彌八郎といふのは二十一、ニキビだらけの、モモンガーと、八五郎が形容したのは、半分はほんたうで、半分はうそでした。

 それは、ニキビも相當はなやかであり、人間もあまり賢くなささうですが、我儘息子らしい純情と、阿諛おべつか煽動せんどうとで育てられた、手の付けやうのない自惚うぬぼれとがあり、考へやうでは、この頃の大身の武家にありさうな、世間並の若樣でもあつたのです。

「若樣、曲者にお心當りはございませんか」

 平次の問ひは、平凡で無事過ぎました。

「いや、ない。私はずつと離れた裏の部屋に休んでゐた。騷ぎに驚いて驅けつけると、母上は御最期さいご、裏門は八文字に開け放してあつた」

「萬々一、それが、お腰元のお糸さんに係り合ひはございませんか」

「いや、そんな事がある筈はない。お糸をしつこく呼び戻さうとしたのは、義理ある仲の父親の市之助で、母親の方は、決してうるさく申したわけではなく、肝腎の糸は、神樂坂かぐらざかの家へ歸らうともしないのだ」

 彌八郎の言葉は、何處までが本當か、平次も判斷はつきません。

「そのお糸さんにお目にかゝりたいと存じますが」

「よからう、本人の口から訊くのが一番確かだ」

 伜彌八郎が唐紙の中へ引つ込むと、入れ代つて椽側から、障子を靜かにあけて、滑るやうに入つて來たのは、肉體的な陰影かげを持たないやうな、世にも清らかな乙女でした。

 捧げて來た茶を、平次の前に進めて、少し退すさつてお辭儀をした折屈みは、すつかり御殿風が身について、この娘の非凡さを思はせます。

「私に御用と仰しやるのは」

 縱の字に三つ指、つまはづれの尋常さ、これが神樂坂でさゝやかに暮した、背負小間物屋の娘でせうか。平次は妙にチグハグな心持で、この娘をもう一度見直しました。

 美しさと言つても、育ちの貧しい長屋の娘には、凡を限度のあるものです。お品と愛嬌と、こびと簡潔さとは、なか〳〵に兩立しないのが常ですが、この娘ばかりは、生れながらの三千石の跡取りと言つてよく、立居にも節度にも少しの破綻はたんがなく、わけても透き通るやうな清らかさは、八五郎の口から聽いた以上の人間離れのした美しさがあるのです。

「お前さんは、神樂坂の家へ歸らうとは思はないのかえ」

 平次の最初の問ひは、先へ潜つたものでした。三つ重なつた殺しが、この娘に關係があると見れば、娘の心持を確かめるのが、何よりの先決問題だつたのです。

「でも、歸して下さいません」

 片手を疊に落して、お糸は靜かに答へました。僅かにあげた顏は、やゝ小さくて、蒼白さの中に紅をしたのも氣高く、わけても大きく開いた眼の雄辯さは非凡です。

「お前さんは、此處に居たいと思つてる──と、殿樣も若樣も仰つしやるのだが」

「そんな事はございません。父さんが殺されたと聞いたときは、飛んでも歸らうと思ひました。でも」

「それが出來なかつたといふのだな」

「──」

 お糸は僅かにうなづきました。

「お前の父さんの市之助は、本當の父親ではなかつたといふではないか」

「本當の父親なら、あんなことはございません」

 お糸の頬に、僅かに血潮の動くのを、平次は見のがす筈もありません。恐らく、義理の父市之助が、養ひ娘のお糸に、燃えつくやうな愛情を持つて居たことでせう。その心の中には、何にか不純ふじゆんなものがあり、お糸の煮えきらぬ言葉の裏に、それを暗示して居るのではあるまいか──平次はフトそんな事を感じたのでした。

「お前さんが、母親と一緒に、あの小間物屋市之助の家へ入つたのは?」

「三年前でございます」

「お前さんの本當の父親といふのは、──わかつて居るだらうな」

「──」

 お糸は默つて首を振りました。

「わからないのか」

「母は知つて居るに違ひありませんが、私には教へてくれません。たゞ、御身分のある方──とだけ」

 お糸が言ひにくさうにして居るのを見ると、平次は押して訊く氣もなくなります。

「ところで、昨夜ゆうべのことを訊きたいが」

 平次は話題を變へました。

「もう、子刻こゝのつ(十二時)近かつたと存じます。奧樣がお呼びになりましたので、手燭てしよくをつけて、廊下にお迎へ申し上げ、──」

「遠くに休んで居るのか」

「二た間ほど離れてをります。私は女中のおしもさんと同じ部屋に休んでをりますが、奧樣の御世話は、私からお願ひ申し上げて、出來るだけ私がいたしてをります」

 事が、昨夜の話となると、お糸の調子は活溌くわつぱつになつて、父親の事を問はれた時とは、まるで違つた受け應へです。

「で?」

「奧樣は、御氣性がすぐれていらつしやいますので、夜中でも必ず外の手洗鉢てうづばちでお手を清められます。雨戸を一枚開けてあげますと、鞍馬石くらまいしの手洗鉢から、御自分で水をおくみになつて──」

「御自分で」

「私は手燭を持つた上、後ろから奧樣の御寢卷の右のお袖を押へてをりました」

 お糸の兩手は完全にふさがつて居たわけ。

「で?」

「その時でございました。手洗鉢の蔭に、何やら、白いものがチラリと見えたやうに思ひましたが、いきなり奧樣が恐ろしい聲を立てられて、後ろ樣に倒れかゝりましたので、私は驚いて抱き止めました」

手燭てしよくは?」

「確と持つてをりましたが、曲者の姿を見定めるひまはございませんでした。そのうちにお霜さんも驅けつけましたが、手洗鉢の蔭から、上向きに突かれた奧樣の傷は思ひの外重く、殿樣が驅けて來られた時は、もう──」

 お糸は其處で絶句してしまつたのです。

 中間の半次は、物置の隣りの中間部屋に、たつた一人で住んでをりました。三千石の大身ですが、無役の呑氣さで、渡り中間の半次が長い間住み付いて、庭もけば、使ひ走りもし、主人の供もすれば、若樣の道樂指南番もやると言つた、申し分なく融通ゆうづうのきく男です。

「錢形の親分」

 平次が通りかゝると、いきなり中間部屋の戸が開いて、後ろから聲を掛けた者があります。

「半次さん、──とか言つたね」

 振り返ると、三十前後の、苦味走つた男、小博奕こばくちから小格子あさり、渡り中間の惡戯わるさは、ピンからキリまで卒業したらしい男です。

「お骨折りですね、親分。曲者の見當は付きましたかえ」

「少しもわからないのさ。ところで、半次さん、昨夜ゆうべ怪我をしたさうぢやないか」

「昨夜は矢來の酒井樣の賭場とばで、宵から張り續け、尻の毛まで拔かれるほど取られて、夜半に歸つて來ると、出逢ひ頭に曲者と鉢合せをし、思ひきり突き飛ばされて、暫らくは動きも取れなかつたが──なアに、怪我といふほどのことでもないので」

 半次は斯んなことを言つて、極り惡さうにほゝを叩くのです。

「ところで、お前さんも、たしなみ匕首あひくちくらゐは持つて居るだらうな」

 平次の問ひは益々突つ込みます。小博奕に浮身をやつす、渡り中間が、拳固げんこ一つで世過ぎをして居る筈はありません。

「確かに持つて居た筈だが、この間から見えなくなつたよ」

「奧方を刺したのも細い匕首。何處へ行つたか、見えなくなつて居る」

「曲者が外から入つた者なら、持つて逃げるのが當り前ぢやないか」

「さう言へばその通りだが、裏門を八文字に開いて逃げるのは、念が入り過ぎて少し變ぢやないか。ね、半次さん」

「俺はそんな事を知るものか」

「ところで、若樣は、花見船でお糸さんを見染みそめたといふことを聽いたが、その時お前さんはお供をして居たさうだね」

序幕じよまくは見染めの場さ。供のやつこなんか、良い役ぢやないぜ。兎も角、それから若樣はすつかり夢中になつて、お糸さんの養い親の市之助に、人橋ひとばしをかけて口説くどいたが、提灯ちやうちんの釣鐘のと言つて、何んとしても父親は承知してくれねえ。其處で御用人を抱き込んで、金貸から證文まで買ひ受けての強談になつたが、──」

「それは聽いたが、お屋敷の中にも、その事については揉めがあつたことだらうな」

「大ありさ、第一奧方が承知をなさらない。唯の召使なら、身分素姓をやかましく言はねえ。假親を立てて嫁にするなら、相手もあらうに、背負ひ小間物の娘では──とね」

「若樣はどうなすつた」

「毎日の親子喧嘩だ。こちとらと違つて、身分のある方は大きい聲も出さないから、ネチネチと果てしがつかねえ──尤も殿樣は、一と目見るとお糸さんがひいきになり、これは若樣の方の肩を持つた。──お糸さんはあの通り綺麗でお品が良くて、申し分なくポチヤポチヤして居るから、男のきれつ端なら、誰でも一と目で好きになる」

 半次は遠慮のないことを言ふのです。

「すると、お糸さんを追ひ出さうとして居た奧方が殺されたとなるわけだね」

「──」

「若樣の彌八郎樣もあやしいといふことになりやしないか」

「飛んでもない、俺はそんなつもりで言つたんぢやねえ。少々の仲違ひはあつても、母子の間柄は格別だ」

「では、外に心當りがあるといふのか」

「お糸さんをつけ廻してゐる、浪人者があるさうぢやないか。父親の市之助が、お糸さんを可愛がり過ぎて、その浪人者と一緒にしなかつたといふから、隨分市之助を殺す氣になつたかも知れず、お糸さんを張り合つて居た、戀仇のやくざ、貧乏富とか言ふのもその浪人者が手にかけたかも知れないぜ」

「それは、ありさうなことだが、お糸さんの許婚いひなづけと言つて居る、浪人者の芦名あしな光司が、このお屋敷に忍び込んで、奧方を手に掛けようとは思へない」

「奧方がお糸さんを引留めて置くと思つたかも知れないぜ。お屋敷の中のことは、外から見當もつかないから」

「成程な」

 平次は一應合槌あひづちを打ちましたが、半次の言葉をそのまゝ呑込む樣子はありません。

 お勝手を覗くと、お女中が二人、四十前後のはお霜と言つて二十年以上も奉公して居るこの屋敷の古狸。若いのは十七、八の小娘で、お咲と言つて、この三月に來たばかり。これは何を訊いてもわかりません。

「お霜さん、奧方をあやめた野郎は誰だえ。お前さんなら見當が付くと思ふが」

 平次がさう言ふと、

「飛んでもない、私に何がわかるものですか。奧向きのことは、岸井樣に訊いて下さいよ」

 お霜はさう言つて、門前のお長屋を指すのです。其處には用人岸井重三郎夫婦とその子供達、それに青侍が二人住んでは居りますが、この間からの事件には、どうも關係がありさうもありません。

「花見船の中で、若樣がお糸さんを見染めたことになつて居るが、その前からお前はお糸さんの噂を聽いたことがあるのか」

「半次さんが前々からお噂をしてをりましたよ。神樂坂かぐらざか小町と言はれる娘があるが、ちよいと見せてやりたいくらゐだ──とか何んとか」

「半次はお糸さんを前々から知つて居たわけだな」

「それに違ひありません。でも、年に三兩や四兩の身上しんしやうぢや、小町娘は振り向いてもくれません。半次さんは口惜くやしがつて居ましたよ」

「成程ね」

「若樣をさそつて花見船に乘ると、一と目惚れと來たでせう。三千石の施主せしゆが付いちや、橋渡しの渡り中間などは、良い面の皮見たいなもので、へエ、へエ」

 この四十女は、思ひの外惡い口を持つてをります。

「殿樣も大層お糸さんびいきださうぢやないか」

「大きな聲ぢや言へませんが、五十男は箸癖はしくせが惡いから、事と次第では、若樣と鞘當さやあてくらゐはやり兼ねませんよ。無役でお金があつて、丈夫であぶらぎつて、少々ケチでいらつしやるから無理もありませんが」

 この女の毒舌は、まさに平次をも辟易へきえきさせます。

 平次はこの女の毒氣に恐れて、お勝手から外へ出ると、お長屋を一軒々々歩いて見ました。用人の岸井重三郎は、忠義一圖に小金を溜め、その女房のおいくは、正直者らしい醜女しこめで、たいしたたくらみがありさうもなく、その上二人の青侍と一緒に、夜分はお長屋に籠つて、子供の世話に餘念もないことがわかりました。

 其處から引返して、奧方のお高が刺された庭先などを調べて見ましたが、連日のお天氣に乾ききつて、足跡が一つもない上に、手水鉢てうづばちの下の血潮も、大方乾いてしまつて、何んの暗示も殘つては居なかつたのです。

 もう一度庭を一と廻り、木戸もへいも殘るところなく見て歩きましたが、手掛りになるものは何一つなく、僅かに、お勝手の外の平常ふだん使ひの井戸の外に、裏の物置の側にある、もう一つの打水用の井戸のふたを開けると、井戸側に添つて、一本の凧糸たこいとが水の中まで下つて居るのに氣が付きました。

 山の手の井戸で、水肌までは四間あまり、釣瓶つるべは引上げて、井桁ゐげたの外に乾してあるのは、夏場でなければ滅多に使はないためでせう。それにしても、この凧糸のなぞは容易に解けません。

 西瓜すゐくわや麥湯を冷すための仕掛けならわかりますが、それにしては少し糸が細く、水の深さを測るためとしても、糸を下げつ放しにして居るのは意味がなさ過ぎます。

 糸を引いて見ると、何んの抵抗ていかうもなく、手に從つて上がつて來ました。不思議なことに水の下二三尺のところで糸は引き千切られて、下には何んにもついてはをりません。

 大きな舌鼓したつゞみを一つ。

 平次はこのまゝ引揚げる外はなかつたのです。多分この糸の先には、奧方お高の方を刺した匕首あひくちが釣られてあつたかもわかりませんが、それも一時血脂ちあぶらを洗ひ去るための、假の隱し場所で、平次が來る前に匕首は安全な隱し場所に移したとすれば、今更容易に搜し出せる筈もありません。

 明神下の家へ歸ると、もう夕暮れ、椽側に初夏の空を眺めながら、八五郎は欠伸あくびばかりして待つてをります。

「お歸んなさい。肴町さかなまちの津志田家の奧方が殺されたさうぢやありませんか。そんな事ならあつしも行くんだつたと、口惜しがりましたが、──どんなあんべえでした、下手人はつかまりましたか」

 平次の顏を見ると、八五郎は立てつ續けにおつ冠せるのです。

「お前が行つてくれたら、下手人はつかまつたかも知れないが、俺ぢやどうにもならなかつたよ」

「そんな事はないでせう」

「ところで、お前の方はどうだ」

「親分に頼まれた事を、念入りに調べ上げましたよ。先づ第一に殺された小間物屋市之助の女房のお宮といふのは、昔は御殿奉公もしたことがあるさうで、男をこせへて身を持ち崩し、たうとう背負ひ商人あきんどのお神さんになつたが、ちよいと見てくれの良い中婆さんで、あの娘は市之助の本當の子ではなく、お神さんの連れで三年前に轉げ込んだといふ──」

「其處までは俺も訊いたが、娘の本當の親は?」

「大旗本か小大名の次男坊で、腰元に娘を産ませたつきり死んでしまひ、あの女はててなし娘を抱へて艱難辛苦したさうですよ。だから今でも昔の榮華が忘られず、そんな愚痴ぐちをお念佛代りにブツブツやつて、お長屋の衆から嫌がられて居ます」

「外には」

「殺された亭主の市之助は、養ひ娘のお糸を滅法可愛がつたさうで、あんまり可愛がり過ぎて、母親のお宮といさかひが絶えなかつたと言ひます。あんな綺麗な繼娘は、娘のやうな氣がしなかつたんでせうね」

「それから?」

「お糸を追ひ廻した、やくざの貧乏富は人手にかゝつて死んでしまひ、今では浪人の芦名あしな光司が、肴町の津志田家の廻りをウロウロしてをりますが、あの男も氣が變になつて居るから、油斷は出來ませんね」

「お前の調べたのはそれつきりか」

「それつきりですが、何んか外に仕事はありますか」

矢來やらいの酒井樣御下屋敷にまぎれ込んで、昨夜津志田樣の中間の半次が、宵のうちに來たか來なかつたかそれを訊いて貰ひたいよ。若し來たとしたら、何刻なんどきに來て何刻に歸つたか」

「津志田樣の奧方を殺したのは、その野郎ですか」

「其處まではわからないよ。兎も角調べるだけは調べて置きたい」

「やつて見ませう。こいつは智慧や男つ振りだけではむづかしいが、なアに、あつしがやりや」

 八五郎は充分の自信で飛んで行きましたが、その晩は便りがなく、その翌る日も梨のつぶてで、三日目の晝頃、ぼんやり戻つて來て、

「あ、驚いた。あんなむづかしいところへ入り込むくらゐなら、あつしは龍宮城へ玉取りに行きますよ」

 などとつぱい顏をするのです。

「どうした、わかつたか、八」

「わかりましたがね、あの屋敷は名題の地獄ぢごく屋敷で、宵に入つたら、朝まで出られやしません。門番のおやぢだつて、御老中の御家來の見識けんしきだから、一杯買つたくらゐぢや言ふことを聽いてくれません」

「で、あの晩、半次は、酒井樣のお下屋敷に入つたのか」

金輪際こんりんざいそんな事はないといふから、困るぢやありませんか。門番に訊くと、他所よその御屋敷は知らず、當家に於ては、中間部屋で博奕ばくちなどとは以ての外だと、噛み付きさうな挨拶で」

「さア、益々わからなくなつたよ。奧方殺しの下手人は、半次でなきや、伜の彌八郎、──まさか親殺しはしないだらうが、すると、殿樣の谷右衞門か、外から忍び込んだ、浪人者の芦名光司といふことになる、──どれも本當らしくないな」

 平次が斯うまで持て餘した事件も少ないことでした。

「サア、大變、親分」

 八五郎の大變が、平次の寢耳を驚かしたのは、それから又三日目の朝でした。

「どうした八、朝つぱらから」

「肴町の津志田の屋敷に、又間違ひがありましたよ」

「今度は誰がやられた。あの娘か、それとも伜の彌八郎か」

「それが大當て違ひ。あの中間の半次の野郎が、前非を後悔こうくわいして、自分で自分の胸を突いて死にましたよ」

「どうして前非を後悔したとわかつた」

遺書かきおきがあつたんで──くはしいことはわかりませんが、見張るやうに頼んで置いた神樂坂の友吉が、暗いうちに使ひをよこしてくれましたよ」

「よし、行つて見よう。に落ちないことばかりだ」

 平次と八五郎は、朝飯も食はずに、神田から牛込まで飛びました。

「あ、錢形の親分、又困つたことが起つたよ。これが度重なると、自然御目付衆のお耳にも入ららう」

 用人の岸井重三郎は、そんな事ばかり心配して居る樣子です。奧方のとむらひは、病死の屆け出で、どうにか濟ませましたが、渡り者の中間の死でも、斯う重なると病死だけでは濟まなくなります。

「お氣の毒なことで、兎も角も、拜見いたしませう」

 物置の隣りの中間部屋に、平次は案内されました。半分は土間で、殘る半分は至つて粗末な六疊ですが、其處はまだ昨夜のまゝの碧血へきけつまみれて、部屋の中程に、中間半次は自分の匕首──一度紛失ふんしつしたといふ──細身の一口を左乳の下に刺しつらぬき、兩手を疊に突いたまゝ、かへるのやうにへた張つた恰好で死んで居たのです。

 起して見ると、顏はむしろ穩か過ぎる程穩かで、斷末魔の苦惱らしいものもなく、さやは死骸の後ろに捨て置いたまゝ、何より特長としては、匕首のが、心持しめつて居ることと、死骸の側に、半分血に塗れて遺書かきおきのあることです。

 その遺書を取上げると、遺書の下、疊の上には血飛沫ちしぶきがあり、遺書は粗末な半紙に、提灯ちやうちん屋風に、タドタドしい筆蹟でなすつたもので、その文面は、

おくがたはじめ、三人もころしたのは、みんなおれのしわざだ。お糸さんを手に入れかねたのは心のこりだが、つみほろぼしのため、われとわが手で死んでゆく。

半次

 と、斯う書いてあるではありませんか。

「親分、こいつはもう大詰おほづめぢやありませんか」

「何が大詰なんだ、八」

「市之助と貧乏富と、お屋敷の奧方を殺したのが、この男とわかれば、もうお仕舞ひぢやありませんか」

 八五郎はもう、半次の遺書で堪能した樣子です。

「だがな、八。自分の匕首で、自分の胸を突いた達者な男が、匕首から手を放して、踏みつぶされた蛙のやうに、四つん這ひになるものだらうか」

「へエ?」

「まだ變なことがあるよ、──遺書かきおきは、死ぬ前に書くものだらう」

「?」

「匕首を胸に突つ立てる前でなきや書けないのが遺書だよ。その遺書は血に塗れては居るが、下から浸み透つた血だ。そればかりぢやない、遺書の下に血が飛沫しぶいて居たのはどういふわけだ」

「あつ、成程」

 八五郎は膽をつぶしました。遺書が、半次の死んだ後で其處へ置かれたものとわかると、事件がなか〳〵重大になりました。

「そればかりぢやないよ、八。この遺書の字が確かに半次の書いたものかどうか、それを調べなきや、うつかりした事は言へないよ」

「それは大丈夫だよ、親分。半次はもと何處かの問屋場に居たさうで、下郎げらうの癖に字をよく書いて、それが自慢だつたよ。この右肩上がりの走り書きの字は、半次の書いたものに間違ひはない」

 用人の岸井重三郎は、我慢のなり兼ねた樣子で口をれました。

「確かにこの遺書は、半次の書いたものに間違ひありませんね、御用人」

「それは言ふ迄もないことだ」

「でも、御用人、半次は下郎に似氣なく字をよく書いたと申しますが、この遺書の筆蹟を見ると、一字々々が離れ〴〵で、その上字と字の間がゆがみ、一つ〳〵の字が提灯屋さんのなすり書きぢやありませんか」

「フム」

「これが本當に心せはしく書いた遺書の字でせうか」

「?」

 平次の言葉に、用人岸井重三郎は、すつかり考へ込んでしまひました。

「三人殺しの曲者くせものが、中間の半次ときまつてしまへば、物事が手輕にらちがあいて良いやうだが、本當の下手人が安穩に生き殘つて、舌を出して居るのは我慢が出來ないぢやありませんか」

「それは、どういふことだ、平次」

 用人の岸井重三郎は、何にかおびやかされたやうな感じでした。

「この遺書は、半次の書いた字を拾つて、都合よく並べ、それをき寫したものぢやありませんか」

「さア?」

「そこで、御用人」

「──」

「半次の書いたものを、澤山持つて居る人間は誰でせう?」

 平次の問ひの途方もなさに、用人岸井重三郎も默つてしまひました。

「親分、そいつはわかつて居るぢやありませんか」

 八五郎が横合からくちを入れました。

「誰だえ、八。──半次の書いたものを澤山持つて居るのは?」

「半次がれた女ですよ」

「半次の惚れた女? ──お前はそんな事を知つて居るのか」

「知つてますとも。女出入りとなると、はゞかりながら、錢形の親分も、あつし程は眼は屆きませんね」

「誰だえ、それは?」

「お糸さんですよ。──屋敷中で知らないものはありやしません」

「よし、お前は裏門へ廻れ。逃げ出す者があつたら、遠慮はいらない、誰でも縛つて引つ立てるのだ。──岸井樣はあの娘を追ひ出して下さい。町方の御用聞が、三千石のお屋敷で、人を縛るわけには行かねえ」

「よし、承知した」

 岸井重三郎も、大方の形勢は解つたらしく、はずみきつて家の中へ飛び込みました。が、それつきり、何んの合圖もなく、表の方に待機して居る、平次の手に飛び込んで來る者もありません。やゝ、暫らく經つて、

「親分、大變なことになりました」

 血だらけの八五郎が、裏門から戻つて來たのです。

「どうした、八」

「裏門からあの娘が飛び出したから、あわてて追つ驅けて行くと、赤城あかぎ明神裏のがけから轉げ落ちて、足をくじいて動けなくなつて居るぢやありませんか。いやがるのを無理に背負せおつて此處へ歸つて來ようとすると──」

「どうした、八。泣いちやわからねえ」

「隱し持つて居たらしい剃刀かみそりで、自分ののどをきつて、あつしの背中で、死んでしまつたぢやありませんか。親分、あの綺麗な娘が」

「それをどうした」

「近所の自身番に預けて、兎も角も知らせに來ましたよ。親分、あの娘が何んだつて、そんな事をしたんでせう」

 八五郎は血だらけになりながら、片手なぐりに自分の涙を拂ふのでした。この男の神經ではまだ事件の眞相が解つて居ない樣子です。

        ×      ×      ×

 その後暫らく經つて、一件も落着した頃、八五郎にせがまれて、美しかつた人質ひとじちのお糸のことを、平次は斯う説明してやりました。

「あのお糸といふ娘は、綺麗で悧巧りかうで、申し分のない娘であつたが、少し望みが高過ぎたよ。母親は高貴のたねを宿して自分を生んだと聽いて、自分も榮耀の限りを盡し、高い身分になりたいと、命がけで心掛けたことだらう。今時の女が、飛び上がりの出世をするのは、馬鹿でも間拔けでも、身分の良い良人を持つより外に道はない、淺ましい話だが、──」

「成程ね」

「そこで、津志田家の中間半次を取込んで、花見船からきつかけをこさへ、少し甘く出來た津志田家の伜彌八郎をとりこにし、彌八郎に吹つ込んで用人の岸井重三郎を抱き込ませ、嫌々ながら人質にされたといふことにして津志田家に乘込んだ」

「──」

「ところが、津志田家の嫁になるには邪魔が二つも三つもあつた。一つは養ひ親の市之助が、連れのお糸を可愛がり過ぎて、どうしても手離さうとしない事で、次の一つは、ツイ白い齒を見せた貧乏びんばふ富が、からみついて離れないことだ。お糸といふ娘はなか〳〵の曲者だから、貧乏富と内々夫婦約束くらゐして居たかも知れない」

「へエ、ありさうなことですね」

「そこで、お糸に首つたけの中間半次をけしかけて、親と言つても、うるさくてたまらない小間物屋市之助を殺させ、貧乏富も片付けてしまつた。──この二人を殺した手口は、奧方と半次を殺したのと違つて居るから、後の二人とは違つた下手人の仕業だ」

「へエ?」

「いよ〳〵お糸は津志田家へ入り込むことになつたが、奧方のお高樣は、女のかんの良さで、どうしてもお糸を嫁にすることを承知しない。お糸はどう骨を折つても、奧方を味方に引入れることが出來さうもないとわかつて、手洗鉢てうづばちの前で手を洗つてる奧方を、後ろからかゝへるやうにして胸を刺してしまつた。斯うすると、刺したお糸は返り血を浴びないから、曲者は手洗鉢の蔭に隱れて、外から奧方を刺したとしか思へない」

「へエ、恐ろしい娘ですね」

「血だらけの匕首あひくちは、すぐ傍の井戸に仕掛けてあつた、凧糸たこいとで釣つて水の下へおろした。玄人くろうとならすぐ氣がつくが、斯うして置けば、あの屋敷の人間にはわかるまい。──尤も匕首は俺達が行く迄には、井戸から引揚げてもつと大丈夫なところに隱したに違ひあるまい。萬一の事を考へて、その匕首も中間半次のものを借りたのだ」

「?」

「半次はお糸の惡企わるだくみを皆んな知つて居るから、それを種に強引に口説くどいたことだらう。お糸は半次の口から事の露見を恐れて、にせ遺書かきおきまで用意して半次を眠らせる氣になつた。お糸の手には、半次の戀文がうんとある。その中から一字々々、入用の字を拾つて、き寫しにしたのだらう。──遺言の用意が出來ると、お霜の寢息をうかゞつて、夜半に半次の中間部屋に忍び込み、しなれかゝるやうな恰好で、後ろから手を前へ廻し、デレデレして居る半次の胸、心の臟を突いた──奧方をやつた時と同じ手口だ」

「へエ、恐ろしいことですね」

「危なくお前もやられるところさ。──あの時お糸の手には、剃刀かみそりがあつたんだから、──尤も二度までお前におんぶをして、少しは八の野郎に氣があつたかも知れないがね」

「冗談でせう親分」

 八五郎は自分の首筋を、薄氣味惡さうに撫でるのでした。でも、この美しい娘を二度までおんぶした、八五郎の感觸かんしよくは、長い間忘れられない、不思議な思ひ出だつたのです。

底本:「錢形平次捕物全集第三十九卷 女護の島異變」同光社

   1955(昭和30)年115日発行

初出:「キング」

   1952(昭和27)年

※題名「錢形平次捕物控」は、底本にはありませんが、一般に認識されている題名として、補いました。

入力:特定非営利活動法人はるかぜ

校正:門田裕志

2017年628日作成

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