錢形平次捕物控
血塗られた祝言
野村胡堂



發端篇


「親分、大變ツ」

 八五郎の大變が、神田明神下の錢形平次の家へ飛び込んで來たのは、その晩もやがて亥刻半よつはん(十一時)近い頃でした。

「何んだ八、お前の大變も聞ききたが、夜中は近所の衆が驚くから、少しは遠慮をしてくれ」

 これから寢ようとしてゐた平次は、口小言を言ひながら格子戸かうしどを開けてやります。

「それどころぢやありませんよ、大變も唯の大變ぢやねえ。お膝元の佐久間町で、花嫁が一人、新枕にひまくらの床の中で殺されたんだ。あつしの家の近所だから、親類衆がたばになつて飛んで來て、錢形の親分の首へ繩をつけても連れて來てくれと、──」

「よしわかつた。繩にもひもにも及ぶものか、さア行かう」

 平次は氣輕に支度をすると、八五郎と鼻面を並べて、夜の町を飛びます。

 押し詰つた二十七日、寒空一パイに星をちりばめて、二人の息は眞つ白。

「ところで、そんなに驅けて大丈夫ですか、親分」

「お前ほどは達者ぢやないが、あんまり寒いから、おのうの足どりぢや反つてやりきれないよ。息がきれなきや、お前の知つてるだけ、道々筋を通してくれ」

「佐久間町二丁目の伊勢屋、──親分も知つてるでせう、界隈かいわい一番の物持で、兩替屋の組頭。しちも扱つてゐるが、こちとらが腹掛や股引もゝひきを持ち込むやうな店ぢやねえ」

其家そこなら知つてゐるが、男の跡取あととりはなかつた筈ぢやないか」

「娘が二人、姉のお君に若い番頭の彌八を娶合めあはせることになつて、今晩は祝言。三々九度のさかづきが濟んで、彌八とお君は型の通り、別間に引取ると、思ひも寄らぬ騷ぎだ。お床入り前に婿の彌八が小用に立つて、戻つて見ると、嫁のお君さんが血だらけになつて、床の中でこと切れてゐる」

「なるほど、それは大變だ」

「でせう。殺す相手に事をいて、祝言の晩に嫁を殺すなんてえのは、殺生過ぎて腹が立つぢやありませんか。ね、親分」

 八五郎はまた八五郎相應の義憤に燃えるのです。

 暮の二十七日と言つても、眞夜中近い町々は、さすがにひつそり寢靜まつて、平次と八五郎の足音だけが、霜夜しもよの靜肅を破つて、あわたゞしく響き渡ります。

 佐久間町二丁目の伊勢屋は、物々しさにハチきれさうでした。恐怖と不安と疑惧ぎぐと、わけのわからぬ混亂とが、この世の終りまで續きさうでしたが、土地で名を賣つた、名御用聞の錢形平次の顏を見ると、煮えこぼれる鍋に一片の氷を投り込んだやうに、忽ち壓迫的な沈默が支配して、無氣味な空氣が、家の隅々にまで行亙ゆきわたります。

「これは、錢形の親分、飛んだお手數をかけます」

 老番頭の品吉が、寒空の冷汗を拭きながら、よく禿げた頭を店口に持つて來ました。

「飛んだことだつたね」

 平次は多勢の眼に迎へられて、明るい店に入りながら、一應八方へ氣を配つて見ましたが、唯もうこの事件に顛倒てんだうしてしまつた人達の、硬張こはばつた顏からは、何んにも讀み取りやうはありません。

「こちらでございます」

 老番頭の案内で、二階家の奧、取澄したやうな六疊の間に平次と八五郎は通されました。其處には、枕屏風まくらびやうぶを取拂つて、鴛鴦ゑんあうの床はあふれるばかりの血汐にひたされ、明る過ぎるほどの明るさの中に、のどをゑぐられた、花嫁お君の淺ましい死骸が、おほう物もなく横たはつて居るのです。

「ひどい事をするぢやありませんか、親分」

 女夫枕めをとまくらに靜かに横たはつた花嫁の死骸は、紅絹裏もみうらの夜の物をはね退け、緋縮緬ひぢりめん長襦袢ながじゆばんのまゝ、血汐の中にひたつてゐるのです。この淺ましく痛々しく、艶めかしくさへある姿が、八五郎の眼にみます。

「傷は、左の首筋へ一カ所、──聲くらゐは立てられた筈だが──」

 平次は死骸の傷口の、すさまじくはぜてゐるのを見て、すその方に默然と控へて居る、若い男を振り返りました。言ふまでもなくそれは、今宵の新婿になつた、手代の彌八でせう。小綺麗な平常ふだん着らしい木綿物のあはせ、帶もきちんと締めて、華奢きやしやな肩を落したまゝ、やゝ蒼白い顏をうな垂れてをります。大家の伊勢屋の娘に望まれて、その婿養子にされただけに、利發さうな好い男で、この騷ぎの中にも去りもへず、一夜のちぎりをさへ果さなかつた、嫁の死をヂツと見詰めてゐるのでせう。

「二階の騷ぎが大變で、聞えなかつたのかも知れません。何しろお開きになつた後まで、呑む方が殘つて、藝づくしまで始まりましたから」

 椽側の暗がりから口を容れたのは、中年輩の夫婦者、それは當夜の仲人なかうどの、かはら町の荒物屋笹屋佐兵衞と後でわかりました。

「私は小用に立つて、戻つて來るとこの有樣でございました。ほんの一寸で」

 彌八は恐る〳〵顏を擧げます。

「刄物は?」

「それがその、床の間に置いた、私の脇差わきざしが、さやだけになつてをりました。中身はどうなりましたことか」

 彌八は益々小さくなるのです。

「お前さんは、何んにも氣が付かなかつたのか」

 平次は障子の外を覗くやうに、仲人佐兵衞に聲を掛けます。

「お盃事が濟んで、お二人を此處へ案内したのは私と女房と、下女のお富さんの三人。それからお二人を床に入れ、上からそつと押へて、私と女房は隣りの部屋へ引下がりました。暫らく樣子を見るのが、仲人の務めでございます。萬一に間違ひ事があつてはなりません」

「で、何事もなかつたといふのだな」

「あるわけもございません。今晩祝言したばかりの婿と嫁と申しても、同じ屋根の下に住んでゐて、氣心をよく知り合つた二人でございます。何んか、靜かに話し合うのを聞いて、私と女房は安心しきつてそつと二階へ戻りました。二階はまだ、呑めや歌への大騷ぎで」

「それつきりだな」

「暫らくすると、階下したの方から、彌八さんの恐ろしい聲が聞えます。押へ付けられるやうな、大變な聲でございました。驚いて飛んで來ると、この有樣で」

「灯りは點いてゐたのか」

有明ありあけの二本燈心が、枕許に點いてをりました」

「その時彌八さんは」

「お孃さん──いや、嫁のお君さんを抱き起してをりました」

「外には」

「私が裏梯子うらばしごを降りて來ると、お店の方からお内儀かみさんが飛んで來て、もう少しで鉢合せをするところでした。それから、下女のお富さん、妹のお糸さん、番頭の品吉さんなどが來たやうで、あとはもう滅茶々々で、よくわかりません」

 仲人笹屋佐兵衞は斯う話し終つて、これも寒空に冷汗を拭くのです。

「親分、誰が斯んなむごたらしいことをしたんでせう」

 隣りの部屋──昨夜ゆうべ仲人夫婦が居たといふ四疊半から、たまり兼ねたやうに聲を掛けたのは、三十八、九の大家たいけの内儀らしい上品な女、それは伊勢屋の後家で、今は女主人のお常でした。

 その後ろから、そつと覗いてゐるのは、十七、八の娘、これはお君の妹で、お糸といふ評判の美しいのと──八五郎が囁きます。ちらと見ただけでも、非凡の綺麗さと、透き通るやうな清潔な感じの娘です。

「お内儀さん、お力落しでせう。ま、待つて下さい。下手人はこんなむごたらしいことをして、百まで生きられる筈もありません」

「どうぞ、お願ひいたします」

「ところで、お内儀さん。お孃さんのお君さんは、今晩の祝言をどう思つてゐたでせう」

 平次は場所柄も考えずに、突つ込んだことを訊ねます。

「それはもう、今日といふ日を待ち兼ねてをりました」

 さう言ふお常の顏には、凄慘な空氣のうちにも、母親らしい感激が動きます。

「彌八さんの方は?」

「この人も異存がある筈はございません。彌八は亡くなつた主人の遠縁で、十二の年から引取り、二十四の今年まで育てました。娘とは、主人が生きてゐる時からの許婚いひなづけで、節分が濟むと直ぐ、暮の忙しい中に祝言させました」

 年の内に春が來て、十九のやくのお君は、正月を迎へる前に二十歳はたちになつたつもり、二十四の彌八の方は、正月になると二十五の厄年で、これは節分を無視して、押し詰つた二十七日に祝言の盃事をさせたのでせう。

 その時、八五郎は、平次のたもとを引いて、何やら囁きます。同じ向う柳原に住んでゐる八五郎には、内儀の言つたことの外に、いろ〳〵の事がわかつてゐるのでした。

「お内儀さんと、お君さんは義理ある仲だと聞いたが」

 八五郎の乘出すのを、眼顏で押へて、平次は斯う訊ねました。

「ハイ、それはもう、誰知らぬものもございません。お君は先の配偶つれあひの子でございますが、二つの年から私の手で育てて、自分の生んだお糸と、何んのわけへだてもなくして來たつもりでございます」

 この問題は、内儀のお常をひどく刺戟したらしく、顏を眞つ直ぐに擧げ、ピタリと膝に手を置いて、ハツキリ言ひきるのです。

「他に、お君さんには縁談などはなかつたのかな?」

「彌八と許婚といふことは、町内で知らぬ者もございません」

 さう言へばそれつきりのことです。

 平次は内儀との問答を切上げて、もう一度死骸を調べました。祝言の當夜と言つても、言はゞ奉公人の彌八との祝言で、お君の氣持にも充分のくつろぎがあつたのでせうが、たいした綺麗といふ程ではないにしても、念入りにこらした花嫁化粧は、半面血潮にまみれて、淺ましくゆがんで見えるのも哀愁あいしうをそゝります。

「あ、口の中に、何んか入つてゐるぢやありませんか」

 八五郎は目ざとくも何にか見付けた樣子です。

「噛み切つた夜具の袖の布だよ、──下手人はお君の喉笛のどぶえを切つて、直ぐ夜具の袖で口を押えたのだ。聲を立てさせないためだつたと思ふ。お君はすぐこと切れた。が、苦しまぎれに噛んだ夜具の袖は、千切れて口に殘つた」

「これだけのわざをしたら、下手人はさぞ血塗れになつたことでせうね」

「いや、直ぐ夜具で押へたからたいしたことはあるまい。──兎も角、血飛沫ちしぶきを受けた者を調べるのは、惡いことではないな」

 しかし、それは無駄なことでした、騷ぎの後でドカドカと部屋の中へ入つた人達は、多かれ少なかれ、血に塗れないものはなく、わけても一番先に飛び込んで、まだみやくの殘つてゐるお君を抱き上げた、新婿の彌八などは、半身浴びるやうな血を受けて、咄嗟とつさの間に着換きがへをしたほどのひどい姿になつてゐたのです。

「八、夜も更けたやうだ。手分けをして一人々々の話を聽いた上、兎も角も、一應歸すことにしようか」

「そんな事をしても大丈夫ですか」

「大丈夫とも、花嫁を殺すやうな人間は、身近なものでなきや、騷ぎにまぎれて、外から忍び込んだ曲者に違ひあるまい」

「──」

「ほんの少しのすきわざをしたんだ。醉つて騷いでゐる二階の客人ではあるまいよ」

「さうでせうか」

 平次と八五郎は、二つの梯子はしごの下に分れて、上から降りて來る一人々々に聽いて見ましたが、いづれも不意の事件に顛倒してゐるだけで、たいした役に立つほどのことも知つてはゐません。

 さて、多勢の客を歸した後で、平次と八五郎と老番頭の品吉は、店の隣りの、長四疊にひたひに集めました。

 もう子刻こゝのつ(十二時)を廻つて、夜は重つ苦しくけて行きます。部屋々々の火鉢には存分に火を起させ、灯りも思ひきつて掻き立てましたが、眞冬の寒さはシンシンと背に迫つて、息を殺し足音を忍ばせて、寢もやらずにあかつきを待つてゐる人々の心持を暗くするばかりです。

「番頭さん、隱さずに話してくれ。本當に内儀さんとお君さんの仲は好かつたのか」

 平次は靜かに、だが退つ引させぬ膝を進めました。

「それはもう、町内の評判でございました。八五郎親分も御存じでせうが、あんな仲の好い繼母に繼子といふものはございません」

「妹のお糸さんとは?」

「世間並の御姉妹でございます。いさかいをなさることもありませんが、それかと言つて、格別仲が好いといふわけでもなかつたやうで、氣風が違ひすぎましたから」

「どんなに違つてゐたのだ」

「お姉樣のお君さんの方は、まことにおとなしいが、根が確かりした方で。お妹のお糸さんは、氣性はさつぱりして居ますが、はげしいところのある方で」

「お君さんに言ひ寄る男とか、仲の好い男はなかつたのか、──彌八の外に」

「それはないとは申されません。これだけの身上しんしやうの跡取り娘ですから──でもお孃さんは彌八どんに夢中で、他の男を振り向いても見なかつたやうでございます」

 彌八の男つ振りは、平次も歎賞の眼で見ました。質、兩替の番頭といふよりは、歌舞伎役者にありさうな、柔かいなめらかさ、十九娘のお君が夢中になつてゐたのも無理のないことです。

「立ち入つた話だが、お君さんと彌八は、祝言前から親しくしてゐたことだらうな。今晩のお客樣方も、前々から二人の仲を薄々知つてゐるやうだが」

「へエ、何分、お若い同士のことで」

 老番頭は自分のことのやうに恐縮してひたひを撫で上げるのです。

「ところで、この伊勢屋の身上は、お君と婿の彌八が、皆んな繼ぐことになつてゐたのか」

「それがその變なことで──」

 老番頭は一寸言ひ澁りました。

「何が變なんだ」

「二年前に亡くなつた大旦那樣が、遺言状ゆゐごんじやうをお書きになつて、お妹のお糸さんに、身上を半分差し上げることになつてをりました」

「?」

 大きい身上を二人の娘へ半分づつ分けてやるといふことは、この頃の町人には考へさうもないことです。長子相續といふ封建的なやり方が、家の財産を保護する上の、一つの道徳のやうに思はれてゐたのです。

「何んと申しても、お姉さんのお君さんは、今の御内儀の生んだ子ではなく、その方にかまどの下の灰までやるといふのは、旦那樣にも遠慮があつたわけで御座います」

「成程ね、その遺言状は何處にあるのだ」

「何處かにあるには違ひありませんが、私共奉公人は拜見したこともございません。唯旦那樣の亡くなる少し前、私と御内儀を枕許に呼んで、妹娘のお糸が可哀さうだから、有金、地所、家作など身上は半分わけてやり、店の暖簾のれんは、姉のお君に繼がせるやうに──といふお言葉でございました」

 それは後添ひの女房に對する、主人忠右衞門の氣兼ねであつたにしても、世間にはよくある例の一つでした。

「その妹のお糸さんには、まだ縁談の口などはないのか」

「あの通りのごきりやうで、隨分人樣に騷がれますか、まだ定まつたお話はないやうで。何んと申しても十七では」

 老番頭は斯う言ひきるのです。

 その時、二階の方から、騷がしい人聲が聞えます。何んとはなしに聞き耳立ててゐた八五郎が、梯子はしごを二つづつ飛び上がるやうにして行きましたが、やがて、

「親分、見付かりましたよ」

 深夜の家中を掻き立てるやうに怒鳴どなりながら戻つて來ました。

「どうした、八」

「刄物が見付かりました」

 平次も腰を浮かしました。

「二階の窓の下のひさしに、これが捨ててあつたんで」

「どれ」

 八五郎が持つて來たのは、紺糸こんいと柄卷つかまきをした、手頃の脇差が一とふり。血だらけの拔刄ぬきみのまゝで、その血がにかはのやうにねばり附いてゐるのも無氣味です。

「あれは、誰の品だ」

「今夜の婿むこの差料だつたさうで、さや階下したの死骸の側にありましたよ」

「誰が見付けたんだ」

「小僧の佐吉が、彌八どんに言ひ附けられて、雨戸を締めようとして、屋根の上に光るもののあるのを、見付けたんださうです」

「二階の窓から捨てたのかな」

「そんなことでせうね」

「何んだつて死骸の側に捨てて來なかつたんだ」

「さア、其處まではわかりませんね、下手人に訊かなきや」

 ケロリとして、斯んな呑氣なことを言ふ八五郎です。

 平次が明神下の自宅へ歸つたのは、もう曉方近い頃。一と寢入りして起きるともう晝近い日射しで、お勝手口へは、疲れを知らぬ八五郎がやつて來て、平次の戀女房、何時までも若々しいお靜と何にか話してをります。

「何んだ、もう八が來てゐるのか」

「お早やう──と言ひてえが、もう晝ですぜ、親分」

「それを言ひたくて來たんだらう。まア這入れ、豆ねぢで朝茶でも入れよう」

「ところで、面白いことを聽きましたよ」

「何にか、新しい聽き込みでもあつたのか」

「殺されたお君の産みの母親がわかつたんで」

「フーム、誰だえ、それは」

「三味線堀の手踊りの師匠ししやう紀久榮きくえ──親分も御存じでせう。あの色つぽい中婆さんが、昔は伊勢屋忠右衞門の内儀で、お君といふ娘まで生んだが、わけがあつて不縁になり、その後へ來たのが、今の内儀のお常さんで、翌る年妹のお糸が生れたといふんで」

「フム、十八、九年も前の話だな、俺達が知らねえわけだ」

「伊勢屋を追ひ出されてから、紀久榮のお菊は川崎あたりへ流れて行き、十五、六年も姿を見せなかつたが、伊勢屋の主人忠右衞門が死ぬと、娘の顏でも見たくなつたのか、手踊りの師匠に化けて三味線堀に住みつき、それからもう一年くらゐになるといふことですよ」

「亭主はないのか」

「伊勢屋を追ひ出されたのは、男のもめ事だつたといふから、いづれ筋の良くねえヒモが附いて居たんでせうが、その男とも死に別れたらしく、近頃は一人つきりで居るさうです。もつとも若くは見えるが、もう四十二、三にはなるだらうといふ評判で」

「フーム、逢つて見たいな」

「放つて置いても、向うからやつて來ますよ。今朝あつしが乘込んで行つてお君が殺されたことを話すと、目を廻して内弟子に介抱かいはうされて居ました。くはしい事が聽きたかつたら、明神下の錢形の親分のところへ來いと言つて來ましたから」

「よく手の廻ることだな」

 八五郎のこの報告は、事件の解決に一つのかぎを與へてくれました。厄介な仕事の渦中に飛び込むと、眠さもひもじさも忘れて飛び廻る八五郎は、錢形平次に取つては、なくてはならぬ『見る目、嗅ぐ鼻』だつたのです。

「お客樣ですが」

 女房のお靜が、師匠の紀久榮を取次いだのは、それから間もなくでした。

「親分さん、お初にお目にかゝります」

 入口から見透しの六疊ににじり入つて、つゝましく挨拶した紀久榮は、四十二、三といふ年配としよりは、一世代も若く見える、非凡の女でした。それは目鼻立ちの美しさではなくて、身體に色氣のあるのと、踊りできたへ拔いたポーズの美しさで、相對した平次も、ゾツと寒氣立つやうな感じです。

「お師匠は、昔伊勢屋のお内儀さんだつたさうだね」

 平次も居住ひを直しました。

「何も彼も八五郎親分からお聽きのことと存じますが──」

「昔の話で、この私も知らないが、何んだつてまた、お前はあの結構な家を飛び出したんだ」

「若氣のあやまちでございます」

「と、いふと?」

「私には伊勢屋へ嫁入りの前から、男があると──伊勢屋の方では申すのです。そりや一人や二人、親しく口をきいた男がないでは御座いません。その中には私の嫁入り先まで附きまとつた者もございましたが、子までなした私を、そんな言ひがゝりで追ひ出した伊勢屋の主人も、隨分なことをしたものでございます。御蔭で私は、あたら若い身を宿無し同樣になり、一生日蔭者のやうに暮してしまひました」

「お前さんにも配偶つれあひがあつたさうぢやないか」

くさえんで、この間まで一緒に暮した男もあるにはありましたが」

「で、お前さんは、どんな用事で私のところへ來なすつたのだ」

 平次は少し開き直りました。紀久榮の調子から、何んか斯う激しいものを感じたのです。

「娘の敵を取つて頂きたいのです、親分」

 紀久榮は到頭本音ほんねを吐きました。

「そいつは無理だよ。私にはまだ、お前さんが生んだといふ、あのお君さんを殺した下手人がわからないので」

「そんなことはございません。錢形の親分さんにはとうにわかつてゐる筈です」

「いや、それは無理だ。俺には何が何やら、少しもわかつては居ないのだ」

「錢形の親分さんに、わからない筈はございません。私の娘お君を殺したのは、伊勢屋の身上しんしやうを狙ふあの女」

「女?」

「伊勢屋の後家のお常さんに間違ひはありません。お君をさへ殺してしまへば、伊勢屋の大きな身上は、自分の生んだ、お糸といふ娘に、間違ひもなく轉げ込んで來るぢやありませんか」

 紀久榮はグイと膝を乘出します。まゆ剃跡そりあとがやゝ薄くなつて、卵形の面長、鐵漿かねふくまず、白粉も嫌つて、紅だけ差した片化粧が、この女の場合は、あやしい色つぽさになつて、相手の男に、自分の意志を押しつけようとするのです。

「そんな手輕な推量、人殺しの下手人はこしらへられるものぢやない。灯りの點いてゐた新夫婦の部屋へ、親がノコノコ入るわけもなく、それに、あの時伊勢屋の内儀のお常は、お勝手で指圖をして居た筈だ。彌八の聲に驚いて、娘の部屋へ飛び込んだのは、下女のお富と一緒だ」

「そんな事を仰しやるけれど、あの女は狐のやうに惡賢わるがしこいから、どんな細工さいくでもやり兼ねません。誰が何んと言つても、娘のお君を邪魔にするのは、あの後家のお常の外にあるわけはございません」

 紀久榮の聲は次第に甲走かんばしつて、平次の胸倉くらゐは掴み兼ねない劍幕でした。

「ま、ま、師匠、さう夢中になつちや」

 八五郎は立ち上がつて留めました。が、その丸い肩に載つた手は、自暴やけに振り拂はれて、

「錢形の親分は、もう少し物の道理のわかつた人かと思へば、何んだえ、これ程わかりきつた惡人を縛らなきや、十手捕繩は、案山子かかしの弓ほどの役にも立つものか」

「師匠、無理だよ、お前さんは」

「止しておくれ、畜生ツ」

 後ろから抱きしめた八五郎は、踊りのこつで身體を一つ揉むと、見事に前に泳がされてしまひました。

「あツ、危ないよ、師匠」

「何を言つてやがんだ、女の子に抱き附いて役得の氣で居やがる」

「女の子も四十幾つとなれば、抱附きばえもしないよ。まア、氣をしづめて親分の話を聽くが宜い」

「そんな申しわけや逃げ口上を聽いてゐられるものか。伊勢屋の身上に恐れて尻尾を卷くやうな岡つ引に用はない、娘の敵は私が討つから覺えて居やがれ」

 十七年前にむしり取られた、たつた一人の娘戀しさに、三味線堀に獨り住居して居る、大ヒステリーの四十女は、もう十手も捕繩も眼中になく、大泣きに泣き濡れて足袋跣足たびはだしのまゝ、外へ飛び出してしまひました。

「お師匠さん。待つて下さいな、お師匠さん」

 後から追つて行くお靜、手には紀久榮きくえの下駄を持つて、これも少し涙ぐんでをります。

「八、あの女を見張つてゐろ。半氣違ひになつて居るから、何をやり出すかわからない」

 平次は八五郎をかへりみて、そつと言ひ附けました。

 半日八方に飛び廻つた八五郎は、平次のところで腹を拵へて、戌刻いつつ(八時)過ぎになつてようやく向柳原の自分の巣、──仕立物をして、細々と暮してゐる叔母の家へ歸つて來ました。

「八、お客樣だよ」

「へエ?」

「女のお客樣だよ」

 叔母さんの聲は妙にとがります。この世の中のたつた一人の肉親、明けても暮れても、八五郎の嫁のことばかり心配してゐるこの叔母に相談もせずに、勝手に女などを呼び寄せる、八五郎の仕打ちが氣に入らなかつたのです。

「そんな筈はないんだがなア」

「お前に覺えがないのに、若い女が夜中ノコノコやつて來るものか。下でうんと土竈へつゝひいぶしてやるから、まゆつばでもつけて應對しろ。お前は人間が甘いから、少しも氣が許せないよ」

「狐と間違へてやがらア」

 八五郎は苦笑しながら、馴れた梯子を足早に驅け上がりました。二階はひさしの下がつた六疊、萬年床はハネ上げてありますが、疊は穴だらけ、火鉢はあつても火の入つてゐた例しはなく、土瓶どびん一つ、湯呑一つ、綿の出た座布團一枚の身上で、熊坂長範ちやうはんが親子連れで押込みに入つても驚くことではありません。

 が、すゝけた行燈あんどんの下、俯向いて若い女が八五郎を待つてゐたのにはきもを潰しました。地味な身扮みなりですが、何處かに赤いもののチラ付くのも、埋火うもれびをかき起したやうな魅力で、第一、部屋の中が若い女の膚に温められて、ホンノリ匂ふのも、八五郎をクラクラとさせずには措きません。

「お前は?」

「八五郎親分、お待ち申して居りました」

「あ、伊勢屋のお富さんか。恐ろしく尋常だぜ、おどかしつこなしにしようぜ」

 顏を擧げたのを見ると、まさに顏見知りの間柄。

「濟みませんね。でも、私は是非八五郎親分に聽いて頂きたいことがあつたんです。伊勢屋の方は人目が多いし、散々迷つた末、お湯へ行くことにして、此處までやつて來ました。惡く思はないで下さいね」

 ちよいと首を曲げてしなを作ると、この娘なか〳〵の良いところがあります。年は二十歳はたちと聽きましたが、色白で少しふとじしで、媚態びたいを作ると、年相應の愛嬌があり、それに齒切れの良い調子や、切れの長い表情的な眼に、なか〳〵の風情があるのです。

「何を話したいといふのだ。聽かうぢやないか、え?」

 八五郎はその前へ、火鉢を挾んで無手むずと坐りました。女と差向ひになると、妙に固くなる八五郎です。

「ま、そんなに開き直られると、うつかり口説くどかれないぢやありませんか」

「?」

 八五郎は呆氣あつけに取られました。堅氣かたぎの家の下女にしては、年齡にも柄にも似ぬ媚態コケテイツシユなところがあります。

「ね、八五郎親分、驚かないで下さい。私は母親の代から伊勢屋に奉公して、何も彼もあの家のことを知つてをります。母親は五年前に木更津きさらづの故郷で亡くなり、私はその翌る年伊勢屋に引取られましたが、母が生きてゐるうちに、何も彼も私に打ち明けてくれました」

「どんな事を打ち明けたといふのだ」

「早い話、殺されたお君さんは、伊勢屋の本當の子でないと言つたことなど」

「な、何んだと」

「ね、驚くでせう。伊勢屋の先の内儀はお菊さんと言ひましたが、伊勢屋に嫁入りする前から、深く言ひかはした男があつて、お君さんを生むと間もなく、伊勢屋から追ひ出されてしまひました。お君さんの生れたのは、お菊さんが嫁入りしてから八カ月目、誰の子だかわかつたものぢやありません」

「フーム」

「でも、それが世間に知れると、伊勢屋の暖簾のれんにもきずが付くと、大旦那の忠右衞門さんは胸をさすつて、生れたばかりの赤ん坊は、伊勢屋に留め置いて、乳母うばをつけて育てました。それからお菊さんは、好きな男と一緒になり、隨分苦勞をしたといふ話ですが、男にも死に別れ、又江戸に舞ひ戻り、三味線堀に踊りの師匠をして、紀久榮きくえといふ看板かんばんを擧げて居るとは、八五郎親分も御存じないでせう」

「それは知つてる」

「まア、さすがは御役目柄ね」

「それからどうした」

「大旦那樣が死ぬ時遺言ゆゐごんして、お君さんを彌八どんと一緒にし、身上を半分やると言つたのは、ひよつとしたら、お君さんは自分の子かも知れないといふ、迷ひがあつたためでせう。十七になるまで身近に育ててやれば、誰しもそんな氣になるものでせうね」

「──」

 八五郎も默り込んでしまひました。この女は思ひも寄らぬ事を知つてをりますが、それにしても何んの目的があつて、斯んな事を教へに來たのでせう。

「大旦那樣が亡くなつてしまへば、お内儀さんとしては、何處の子か素性すじやうもわからぬお君さんに、伊勢屋の身上を半分やるのが、惜しくもなるぢやありませんか」

「ぢや、お前は、お君さん殺しの下手人は、伊勢屋の内儀だと言ふのか」

「飛んでもない、私はそんな事を言ひに來たわけぢやありません」

「では?」

「八五郎親分に、手柄をたてさせたいばかり。まア、これほどの氣持がわからないのかねえ、親分」

 お富は何時の間にやら火鉢の角を廻つて、八五郎の側にピタリと寄ると、肩にひじとで、グイグイと押して來るのです。

「八や、茶を上げなよ」

「へツ」

 顏を擧げると、あのミシミシする梯子段はしごだんを、どう工面して音もさせずに登つて來たか、叔母さんは段の上へお茶盆を押しやつて、妙にニヤニヤし乍ら降りて行くのです。

「びく〳〵しなくたつて宜いぢやありませんか、話はこれからが大事」

「よし、性根を据ゑて聽かう。それからどうしたといふのだ」

 八五郎はお茶盆を引寄せて、照れ隱しに澁いのをガブリとやりました。

「お君さんが伊勢屋の子でないといふことは、皆んな知つてるわけではなく、お内儀さんと番頭さんと、お糸さんくらゐは知つてる筈です。でも、その中でも、自分に轉げ込んで來る伊勢屋の大身上を半分横取りされる上、何年越し戀ひこがれて來た男まで奪られる身になつたらどんなものでせう」

「誰のことだえ、それは?」

「まア、八五郎親分の察しの惡い。手代の彌八の男つ振りに、心も身も打ち込んで、火のやうに焦れてゐるのは、妹のお糸さんぢやありませんか。あの人はもう十七、子供ぢやありませんよ。それどころか、氣の多い彌八どんは、間がなすきがな、──お君さんの眼を盜んでは、お糸さんの氣を引いてゐるんですもの」

「そんな馬鹿なことが」

「これが馬鹿なことでせうか、妹のお糸さんの方は、姉のお君さんの、百層倍も綺麗なんですもの。浮氣な彌八が、何時までも眺めて居る筈はありません」

「それぢやお前は、あの可愛らしいお糸さんが、姉殺しの下手人だといふのか」

「言やしませんよ、私はお奉行でも岡つ引きでも何んでもないんですもの。唯、ちよいと、八五郎親分の手柄になつて、人一人蟲のやうに殺した、──何んとか言ひましたね、それ、外面如菩薩内心如夜叉の下手人が縛られたら、さぞ溜飮りういんが下がるだらうと思つただけのことですよ」

 お富の辛辣しんらつな舌は、斯うして内儀のお常と妹娘のお糸を、疑惑の渦の中におとし込んで行くのです。

「八、もう遲いよ。明日の御用に差支へないのかい」

 階下したからは、高々と叔母の聲。

「あれ、叔母さんが氣を揉んでるぢやありませんか。──いつそのこと、此處へ泊つて行かうかしら。ね、ね、八五郎親分」

「冗談言つちやいけねえ、布團は一と組しかないぜ」

「まア嬉しい」

 いきなり八五郎の首つ玉にかじり付く女を、ようやく引離して、梯子から突き落すやうに、寒い表へ送り出したのは、もう亥刻よつ(十時)過ぎでした。

「覺えていらつしやい。若い女に恥を掻かせたわねえ、フ、フ、フ」

 含み笑ひが木枯しを縫つて、町の向うへ消えて行きます。


解決篇


「八、昨夜ゆうべは面白かつたさうだな。叔母さんから皆んな聽いたよ」

 翌る日の朝、平次の方から、向柳原の八五郎の巣へ聲を掛けたのです。年の暮によくある素晴らしい冬晴れ、江戸の町は、少し高いところへ登ると、坂の上からでも、火の見やぐらからでも、眞つ白な富士の見えやうといふ時分でした。

「へエ、叔母さんにうんといぶされて、尻尾を卷いて退散しましたよ。もつとも伊勢屋の下女のお富に化けて通ふやうぢや、餘つ程間拔けなおコンコン樣で」

 八五郎は前褄まへづまを直して、十手を打ち込んでお待ち遠樣とも言はずに平次の待つてゐる路地へ出ました。

「あの娘はなか〳〵のきりやうぢやないか。松葉燻しにされちや、お富の方が役不足を言ふだらう」

あつしもさう思ひますがね。叔母さんと來たら、色つぽい娘が大嫌ひで」

「お前とあべこべだ」

「ところで、今朝は何處へ行くんです。──實はあつしの方にも、ちよいと心當りを搜つて見たいところがあるんですが」

 八五郎は路地の外に足を淀ませました。

「わかつて居るよ。叔母さんの眼の光らないところで、伊勢屋の下女のお富に逢つて見たいといふ下心だらう」

「どうしてそんな事が」

 八五郎は愕然がくぜんとしました。まさに平次得意の天眼通です。

「わかるぢやないか。かりにも親分とか何んとか言はれる俺を路地に待たせて置いてよ、不精者の八五郎が、まげを直したり、びんでつけたり、襟を直したり、帶を締め代へたり、大變なおめかしだつたぢやないか。近頃お前にそんな苦勞をさせる相手は、昨夜此處へ押し掛けて來て、散々毒氣を吹つ掛けて行つた、あの伊勢屋の下女のお富の外にあるものか」

 口惜くやしいがそれは圖星でした。八五郎はテレ隱しに小鬢こびんのあたりをポリポリ掻きながら、

「でも、あの女は何んか大變なことを知つてるに違ひありませんよ。先代から母娘二代の奉公人だつていふし」

「わかつてゐるよ。あの女が夢中になつてゐるのは、お前ではなくて好い男の手代てだいの彌八さ。お氣の毒だがお前はダシに使はれてゐるだけのことだよ」

「へエ、そんなわけはないんだが」

「いづれ伊勢屋へも廻つて見るが、その前に一寸、三味線堀の師匠に逢つて行きたいのさ。附き合つて見るか、八」

 二人はそんな事を話しながら、三味線堀の師匠の家へやつて參りました。

 小女に取次がせて、二人の顏を見ると、師匠の紀久榮は昨日の劍幕とは、打つて變つた愛想のよさです。

「ま、錢形の親分。もうお目にかゝれないかと心配をしてをりましたよ。昨日はすつかり上氣のぼせてしまつて、どんなことを申し上げたか、自分でもよくは覺えちや居ません。こんな性分の女ですから、勘辨してやつて下さい。惡い犬に吠えられたと思つて」

 う言つた調子でした。昨日の醜態しうたいを口ほどには氣にしてはゐない樣子で、小女を叱り飛ばしながら、座布團を直したり、お茶を持つて來さしたり、その邊のことは如才もありません。

「いや、飛んだお邪魔をするぜ、師匠。昨日の劍幕ぢや、今日は噛みつかれるのを覺悟でやつて來たが」

「ま、親分」

「風向きが變つて何よりだ。ところで、打ちとけて師匠に訊きたいことがあるんだ。隨分突つ込んだ話だから、斯んなことを言つたら、又腹を立てられるかも知れないが、これも伊勢屋のお孃さんを殺した相手を搜し出して、師匠に敵を討たせたい一心からだと思つて、このことばかりは嘘も隱しもなく、正直たうに話してもらひたいが」

「それはもう、親分。娘の敵が討てるものなら、どんな事でも」

 紀久榮は膝を乘出すのです。昔は界隈かいわいに鳴らした綺麗さで、身分のやかましかつた時代に、先代の伊勢屋忠右衞門が、きりやう好みで貰つたといふ女だけに、二十年後の今にも殘る、四十女のあだめかしさは非凡なものがあります。

 紀久榮は小女を外へ出して、座に戻つて來ると、さてと改まるのです。

「外でもない、──これは人から聽いた、ほんの噂なんだが、師匠は二十年前に伊勢屋忠右衞門のところに嫁入りして、娘のお君を生んだのは、その翌る年の夏、かぞへて八カ月にしかならなかつたといふが──」

「それですよ、親分」

 紀久榮はこの恐ろしい問ひに對しても、かねて覺悟でもしてゐたやうに、たいして取亂した樣子もなく、少しばかりせき込んで受けるのです。

「ま、聽いてくれ。お君さんが月足らずの兒とわかつて、師匠が伊勢屋に居にくゝなり、嫁入り前からの男があつたとかで、それと一緒に、到頭飛び出したか追ひ出されたか、生れて間もない娘のお君さんを殘して、大阪とかへ駈落ちをした──と聽いたが、それは本當かえ。何しろ二十年も前の話で、俺も見當はつかねえ」

 それはその頃の女に取つては、致命的な問ひでした。平次の言つたことが皆んな本當なら、紀久榮のお菊は伊勢屋に對して、何んの權利もなく、今更文句を言へた義理でもなかつた筈です。

「親分、私もその言ひ譯がしたいばかりに、二度目の亭主に死に別れると、恥を忍んでこの土地に舞ひ戻り、伊勢屋の居廻りをウロウロして、後添のちぞひのお常にいやな眼で見られながら、──それでもようやく伊勢屋の旦那に逢ひ、言ふだけの事は皆んな言つてしまひました。伊勢屋の旦那が死んだのは、それから半歳も後のこと──」

「──」

「聽いて下さいな、親分。私の生んだお君は、間違ひもなく、嫁入りしてから丸九ヶ月以上も經つた兒、その間にうるふが一と月もあつたので、世間では八カ月兒だとか何んとか言ひましたが、お君は少し早産ではあつても、伊勢屋忠右衞門の子に間違ひはありません」

「──」

「一體、腹の中の兒は閏月うるうづきなどを勘定に入れるでせうか。閏があつてもなくても、生れ月が來れば、生れるに決つてゐるぢやありませんか。それに、昔から世間で言ひならはしてゐる、子供の生れるのを、十月十日と言つたのは大嘘で、それを本當にしたばかりに、どれだけ嫁が難儀をさせられたことでせう。現に私も月足らずの兒を生んだと評判をされる口惜くやしさに、いろ〳〵の醫者にも學者にも訊き、子供が母親の胎内たいないに宿るのは、丸十月(太陰暦たいいんれき)足らずと知りました。誰が何んと言つても、本人の私が言ふのですもの、お君は伊勢屋の子に間違ひもありません」

「そんなわけがあるのに、どうして師匠は、他の男と大阪などへ突つ走つたのだ」

「死んだ人の惡口になりますが、伊勢屋の旦那には、私が嫁に來る前から、言ひ交した女があつたのです」

「何んだと」

「その女といふのは、今でも伊勢屋に下女奉公をしてゐる、お富の母親、お徳と言ひました。二人は二、三年前からの仲でしたが、若旦那の跡取あととりを奉公人のお徳と一緒にすることは、どうしても伊勢屋の隱居が許さず、到頭生木なまきを割いて、私が伊勢屋の嫁になつたのです。──伊勢屋の嫁にはなつたけれど、肝腎かんじんの夫の忠右衞門はお徳と手を切つてくれず、その上お徳には子供まであると聽いて、私は散々揉みぬいた後、嫁入り前から私にからみついてゐたやくざな男の口車に乘つて、お君といふ娘まであるのに、伊勢屋を飛び出して、大阪まで逃げ出してしまつたのです。──それから十何年、私は自分の心得違ひから、隨分ひどい苦勞をしました」

「それから」

「亭主に死に別れて、昔戀しさにこの土地に舞ひ戻り、三味線堀に住みついたのは二年前。幸ひ伊勢屋の旦那に逢つて、昔のことを散々詫びもし、娘の行末も頼んだとき、伊勢屋の旦那は、『よしわかつた。お前も輕率かるはずみだつたが、俺も確かに惡かつた、世間の思惑おもわくは兎に角、今の配偶つれあひのお常の手前もあるから、夜逃げまでしたお前の娘のお君を跡取りにして、丸々身上しんしやうも渡せまいが、せめて伊勢屋の身代の半分はお君にくれてやらう。この事は、お常にもよく言ひ聽かせて、遺言状に書いて置くから、心配するな』と斯う言つてくれました」

「──」

「これだけ深いわけを聽いたら、親分だつて、私の娘のお君を殺したのが、誰だかわかりさうなものぢやありませんか。ね、親分」

「敵は取つてやるが、──さう手輕にきめてしまつては、俺の役目が勤まらねえよ。ところで、二十年前の下女のお徳には子供があつたと言つたが、それが今のお富か」

「それは私にもわかりません。一度や二度はお徳の娘といふのを見たこともある筈ですが、二十年も前のことですし、その頃お徳は隣り町にかこはれてゐて、滅多に顏は出さなかつたし」

「それも調べさへすればわかることだらう。イヤ、飛んだ邪魔をしたね、お蔭でいろ〳〵の事がわかつたよ」

 平次は八五郎をうながして、三味線堀の往來へ、暮近いあわたゞしさの中に飛び出しました

「親分、こいつは矢張り、あの尤もらしい内儀が、繼娘殺しの下手人ぢやありませんか」

 道々、八五郎は、何やら考へ込んでゐる、平次の氣を引いて見るのです。

「それは、わからねえよ。師匠の言ひ分を、そつくりその儘受取ると、下手人は繼母のお常さんといふことになるが、あの内儀は見かけは華奢きやしやだが、胸のうちは飛んだ確かり者らしい。繼娘が憎いなら、番頭さへ見たことのないといふ夫の遺言状を、一年も二年もそつと温めて置く筈もあるまい。その遺言状には、お君に伊勢屋の跡を取らせて、身代を半分やると書いてあるさうぢやないか」

「さうでせうかね」

「あの内儀は、生涯人に文句を言はせない女だよ。お君の氣持を察して手代の彌八と一緒にしてやり、遺言状を破りも燒きもせずに──おや、俺達はその遺言状をまだ見なかつた筈だね」

 平次は急に道を變へて、佐久間町二丁目の伊勢屋に向ひました。

「へツ、あの娘は眼が早い。裏口から顏を出して、ニツコリしてゐますぜ」

「何んだ、下女のお富か。デレリとしてゐると、又叔母さんに松葉燻まつばいぶしをかけられるぞ」

 平次と八五郎が、わざと店口をけて、そのお富が顏を出した裏口の方へ廻ると、早くも奧へ注進したものか、番頭の品吉と、内儀のお常が、

「ま、親分さん、店から入つて下されば宜いのに」

 などと丁寧に迎へてくれました。堅氣かたぎの町人の家へ、店暖簾みせのれんをくゞつて入るのは、とむらひのゴタゴタの時だけに、岡つ引には岡つ引の遠慮があつたのです。

 取つ付きの四疊半に通された平次は、

「内々で少し訊きたいことがある。お内儀さんだけ殘つて下さい」

 番頭とお富を追つ拂つて、その足音の遠のいた頃、靜かに口をきりました。

「ところで、あの晩は聽き落したが、先代の忠右衞門旦那の書いた遺言状、──この家の身上を、娘二人に半分づつ分けてやるといふ書面は、お内儀さんの手許にしまつてあることでせうな。それを一寸見せて貰ひたいのだが」

 平次は切り出します。

「困つたことに親分、それが見えなくなつてしまひました」

「どこで、何うして?」

「あの晩、──お君の部屋で」

「それは?」

 平次もあまりのことに、暫くは二の句が繼げません。

「聽いて下さい、親分さん。私はあの遺言状を、身に代へて守り通しました。私とはまゝしい仲のお君に渡すまでは、私は夫の遺言状を、誰にも見せずにそつとしまひ込んで、萬々一にも落度のないやうにしました」

「──」

「あの晩、私の役目も濟んだやうな心持で、三々九度の盃の後で、父親の遺言状を、娘のお君に手渡し、『私はもう、これで隱居をする氣持だから、この遺言状を、明日とも言はず、今夜のうちに婿むこの彌八に見せてやり、身上のことを安心させた上、お前達夫婦の手から、妹のお糸の手に、やるべきものはやつておくれ。若しまた、お糸に半分やつては分に過ぎると思ふなら、このまゝそつくりお前達夫婦のものにして、お糸には世間並の嫁入り支度をしてやるだけでも、私は少しも異存はない』──と斯う申してやりました。それが」

「──」

「あの騷ぎのあと、遺言状は何處へ行つたか見えなくなつてしまひました。死んだ娘が隱す筈もなく、──婿の彌八も一向知らないと申します。これは一體、どうしたことでせう、親分」

「念入りに搜したことだらうな」

「それはもう、あの部屋は申す迄もなく、家中くまなく」

「ところで、遺言状がなくなれば、この身上はどういふことになります」

「遺言状があつてもなくても、私の心持に變りは御座いません」

「遺言状の通り運ぶにしては、お君さんがくなつたわけで」

「──」

 内儀のお常は默つてしまひました。

「兎も角、遺言状は何處からか出て來ることでせう。今となつては、お糸さんの他に、跡取りはないのだから」

「さうでせうか、親分」

「ところで、もう一つ訊きたいが、下女のお富のこと」

「──」

「あの女の母親のお徳といふのは、もと伊勢屋に奉公したことがあるさうぢやありませんか」

「それは私もよく存じてをります」

「亡くなつた主人と好い仲になり、子供まで出來たといふことだが、それがお富ではなかつたのかな」

「さア、その邊のことは私にもわかりません。二年前に亡くなつた主人の忠右衞門も、それを氣にしてをりました。お徳といふのは心掛けのよくない女で、誰の子ともわからぬ娘のお富を、主人の子といふことにして、押しつけようとしたのではあるまいかと、う申してをりました。でも萬一、お富が自分の子であつては氣の毒と、母親のお徳が木更津きさらづで死んだ後、娘のお富を引取つて、掛り人とも、奉公人ともつかず、あのやうに働かせてをります。本人は氣轉者で、利發な娘ですから、皆んなに調法がられ、いづれはよい婿でも搜して、暖簾のれんを分けてやらうと、私一存できめてをります」

 お常は斯う行屆いたことを言つて、靜かにまゆを伏せるのでした。お徳とお菊の紀久榮きくえと、それから自分の生んだ子と、三腹の娘に對する氣兼ねや處置振りは、この内儀の半生の苦勞だつたことでせう。

「おや、お富さん、八五郎が何んか用事があるさうだよ」

「あら、さう、嬉しいわねエ」

 さう言つて、一陣の薫風くんぷうを殘して、庭の方へ飛んで行くお富を見送りながら、平次は手代の彌八──お君の婿になる筈だつた若い彌八を、四疊半にさそひ入れました。

「へエ、何んか御用で?」

 中肉中背で、あまり陽に當らない蒼白い顏もお店者たなものらしく、悧巧さうな眼、赤い唇など、何んとなく女性的な感じはするが、いかにも好い男振りです。

「あの晩のことをもう一度くはしく訊きたいが、──お前さんは、祝言が濟めば、嫁のお君から、父親の遺言状を見せて貰ひ、それを引出物に渡される筈だつたさうぢやないか」

「へエ、お内儀さんからも、お君さんからも、さう聽いてをりました」

「その遺言状はどうなつたのだ」

「枕許の小箪笥こだんすの上へ置いて、これから二人で見ようと言つてをりました。私はそのまゝ小用に立つて戻ると──あの有樣で」

 その時のお君の死を見た驚きを思ひ出したのか、心持顏がかげつて、ゴクリと固唾かたづを呑みます。

「すると、遺言状の中は一と眼も見なかつたわけだな」

「見る前にあの騷ぎで、氣の付いたのは大分經つてからでした。はつと氣がついて小箪笥の上を見ると、何んにもありませんでした」

「その時、多勢の人が部屋の中へ入つてゐたあとだらう」

「私が大きい聲を出すと、皆んないつぺんに入つて參りました。──尤もお君さんの死んでゐるのを見て、私も氣が顛倒てんたうしてゐたかもわかりません。小用場から戻つてから、箪笥の上に置いてあつた、白い物には氣が付かなかつたやうです」

「部屋へ入つたのは誰が先だつた」

「最初はお内儀さんで、次はお富どんのやうに思ひます。それからお糸さんに、御仲人おなかうどが二人、あとはもう」

 それが後から辿たどり得る、彌八の記憶の全部でした。

「ところでお前さんは、一番ひどく血を浴びてゐたさうだが、俺が此處へ來た時は、平常着に着換へてゐたやうだね。他の人は多かれ少なかれ、血だらけになつてゐたと思ふが」

「それが私の性分でございます。よごれたものは、少しの間でも、ヂツとして着てはゐられません。それに血のついたものなどを何時まで着てゐると、反つてわざとらしく見えて、私には我慢がなりませんでした」

「もう一つ訊きたい。これは突つ込んだ話だが、──お前さんは、殺されたお君さんより妹のお糸さんの方が好きだつたさうぢやないか」

「──」

「こいつは大事なことだが」

「そんな事も申し上げなきやなりませんか」

「是非打ち明けて貰ひたいな」

「でも、私は奉公人でございます。十何年もお世話になつた」

 恐ろしい屈從です。その卑怯ひけふにさへ見える諦めの姿を、貧乏人の平次は、胸を惡く眺めてをります。

「その癖お前は、下女のお富などにちよつかいを出したのはどういふわけだ。あれは義理も何んにもなかつた筈だぜ」

「──」

 平次の容赦のない言葉に、彌八はハツとうな垂れました。眞つ向微塵みぢんの素つ破拔きで、暫らくは辯解の言葉も見當らない樣子です。

「忠義面もほど〳〵が宜いぜ。姉妹三人に手を出して、兼合ひの色事を樂しむなんざ、よくねえ心掛けだ」

「──」

 平次は默つて立上がりました。いかにも胸が惡さうです。

「親分、下手人の見當はつきましたか」

 其處へヌツと顏を出したのは八五郎でした。

「まるつきりわからねえのさ」

「あの野郎ぢやありませんか」

 八五郎の長いあごは、彌八の後ろ姿を指します。

「いや、そんな氣もするが」

「ちよいと小耳にはさみましたが、ひどく親分にやられてゐたぢやありませんか」

「あれは男つ振りが良過ぎるよ。飛んだ罪をつくるわけさ」

あつしとは大變な違ひで」

「遠慮するなよ、お前の方が好いといふ人もあるぜ」

「有難い仕合せで」

 それから平次は八五郎を助手に、家の中から庭へ、精一杯調べ始めました。が、平次が搜してゐた、先代伊勢屋忠右衞門の遺言状は何處にも見えず、彌八を始め奉公人達の荷物の中にも、何んの不審ふしんもありません。

「親分、あつしは矢つ張り、養子の彌八が、下手人のやうな氣がしてなりませんが──」

 二階の方を調べてゐるうち、人の姿のないのを見すまして、八五郎はそつと平次に囁きます。

「お富がさう言ふのだらう」

 平次は先を潜りました。

「お富は、下手人は妹娘のお糸に違ひないといふんです。でもあの可愛らしい小娘を見ちや、縛る氣がなくなりますよ」

「どうして、お富はお糸が下手人だといふのだ。證據でもあるのか」

「證據は山ほどあるんださうで。第一に、お糸は姉のお君が許婚いひなづけになつてゐる頃から、手代の彌八に首つたけだし」

「それは誰が言ふんだ」

「お富の言ひぐさで」

「首つたけは彌八の方で、お糸は氣のない顏をしてゐるぜ。何んと言つても、まだ十七だから」

 お糸の清らかな美しさが、平次の眼にも申し分なく可愛らしく映つてゐるのです。

「それから、先代の遺言状も、お糸が持つてゐるに違ひないと言ふんで」

「はてね」

「姉のお君への嫌がらせに、新夫婦の部屋へ忍び込んで盜んだか──」

「そんな事は出來なかつた筈だ。現に彌八は小用に立つ前には、箪笥たんすの上に遺言状は置いてあつたと言ふぜ」

「でなきや、騷ぎの後で多勢飛び込んだ時、そつと隱したに違ひないと」

「それは出來ないことではあるまいが、姉のお君が死んでしまへば、伊勢屋の身上は、嫌も應もなく丸ごと妹娘のお糸に轉げ込むのだから、父親の遺言状などを隱すのは、馬鹿氣たことぢやないか」

「其處がそれ、女の淺ましさで」

「淺ましさなら、お富の方がどうかして居るよ。嘘だと思つたら、あの色つぽい年増のお富と、一本の娘姿のお糸を比べて見るが宜い」

「さう言へばさうかも知れませんね、──兎も角お富は、お糸さんに直々話し込んで、今晩のうちには、遺言状を取り上げて見せると斯ういふんです」

「まあ、當てにしない方がよからう」

 調べは綿密に進みました。が、番頭の品吉が、しこたま溜めてゐた外には、何んにも變つたことがなく、平次の骨折りも、全くの徒勞になつたかと思つた時、

「親分、妙なことに氣がつきましたが」

 八五郎はまた題目を出しました。

「何んだ、八。お糸があやしいといふ話ならもう澤山だよ」

「いえ、若しかですね、妹のお糸も内儀のお常も下手人でないとすると、外にあの部屋へノコノコ入る奴もない筈だから」

「ひどく手輕に片付けるぢやないか。世の中にはお前のやうなたしなみの良い人間ばかりはないぜ」

「でも、花嫁花婿の床入とこいりといふ時、その部屋へノコノコ入る人間があるでせうか」

「お前が遠慮するくらゐだもの、誰が入るものか」

「だからあつしは、下手人は思ひも寄らぬ人間、お君さんなどを殺しさうもない人間で、あの部屋に平氣で居られる奴に違ひないと思ふんですが」

「早い話が、その晩の婿の彌八が、花嫁を殺した下手人だ──とお前は言ひたいんだらう」

「圖星ツ、流石さすがは錢形の親分」

「お前が考へるほどのことを、俺が知らずにゐると思ふか。俺は、あの晩現場を見た時から、それを考へてゐたよ」

「それぢや、どうして」

「彌八を縛らないか──といふのか。お君を殺した脇差が、婿の彌八の婿入り道具だつたんだ」

「そんな事だつてあるぢやありませんか。わざと自分の脇差で殺して、疑ひを他へ向けるですね」

「ところで、その脇差が、二階の窓外のひさしの上から、間もなく見付かつたぢやないか」

「嫁のお君を殺して置いて、直ぐ手洗場てうづばへ行つて、格子から庇の上へ投り上げたらどんなものです。──これなら彌八に出來ることで」

「良いだ。が、あの狹い格子をくゞらせて、二、三間先の庇の上へは投れないよ。首尾よくやつたにしても、格子へ一パイに血がつくだらう。三日がゝりで念入りに見たが、格子はおろか、手洗場のどこにも血の跡なんかないぜ」

「へエ」

「その上、庇の脇差は、投り上げたのでなくて、上から滑り落したのだ。二階の窓の敷居に、少しばかり血が付いてゐるし、屋根のトントンきのまさにも、血の跡があり、滑り留つたところが、庇の雨樋あまどひの上だ」

「へエ、成程ね」

「ほかに、彌八に疑ひがあるのか」

「お君を抱き起して、血だらけになつた彌八が、それから間もなく、あつしと親分が來た時は、もう手足も綺麗に洗つて、平常ふだん着に着換へして居たのは變ぢやありませんか」

「俺も、それを變に思つたから、彌八に訊いて見たよ。すると、彌八は自分で『私は癇性かんしやうでそんな樣子をして居たくないからすぐ身仕舞ひをした、身にやましい事があれば、反つて血によごれたまゝにしてゐたに違ひない』──と斯う言ふのだ」

「へエ、圖々しい野郎で」

「ところでな、八。お前には覺えのないことだらうが、人間が甘く出來てゐて、男つ振りだけが好い若いのは」

「さう言はれると、あつしにも覺えがありさうで」

「まア聽け、あの彌八のやうな人間は、たしなみが良いと言へばそれに違ひないが、どんな騷ぎの中でも、身づくろひだけは忘れないものだよ。男つ振りが何よりの身上だから、長い間の馴れやうで、何時でも、どんな場所でも、身綺麗にはしてゐるものだよ」

「成程ね」

「花嫁が殺された後、うつかりすると自分に疑ひが來るかも知れない中でも、血だらけになつた着物を脱いで、眞新しいものと着換へることは、少しも不思議ぢやないかも知れないのだよ」

「へエ、そんなものですかね。あつしなんかは、生れ變つても色男にはなれつこはありませんね」

「まア、諦める外はあるまいよ」

 二人の調べも話も、それでおしまひになりました。そして平次は、八五郎だけを伊勢屋に殘し、何やらくれ〴〵も言ひふくめて一人で歸つたのは、もう二十九日の夕暮れでした。

 明日は大晦日おほみそかといふ、ギリギリに押し詰つた江戸の夜は、吹き千切るやうな風に吹き捲くられながらも、時刻かまはぬ人足に刻まれて、あわたゞしく、荒々しく更けて行きます。

「お、さむ。まだ寢ませんか、親分」

 八五郎は彌造やざうの肩で、平次の家の格子戸を小突くのです。

「待つて居たよ、八。其處を開けて入るが宜い」

 平次の聲を聞くと八五郎は急にいきり立ちます。

「あんまり寒いから、もう向柳原へ歸つて寢ようと思ひましたがね」

「まア、寢るのは夜が明けてからでも仔細しさいはあるまい。どんな事があつたんだ」

「何んにもありませんよ。少しなさ過ぎましたよ。お糸坊はチンマリと綺麗にひかへてゐるし、お富は少し浮つ調子に、色つぽく持つて廻るし」

「お前は若い女のことばかり氣にしてやがる」

「それから親分に頼まれた、あの晩の人の動きを、事細かに訊き出しましたが、何しろ祝言の後の酒盛りで、まるで人間がうづを卷いたやうで、訊き出しやうもありませんよ。それでもお床入りの場はさすがにシーンとして、お仲人夫婦が引取つた後は、あの邊に寄り付いた者もありません。もつとも下女のお富は、心安立てに新夫婦の世話まで燒いて、それから二階の酒の席の跡片付けに、裏梯子から登り、お君さんが殺された騷ぎの時、裏から降りて來て、彌八と内儀と三人、鉢合せするやうに嫁の部屋へ入つたさうです」

「内儀は何處に居たんだ」

「少し離れた自分の部屋に、妹娘のお糸と一緒に、疲れきつて横になつてゐたんですつて」

「フーム」

「それから、腹の立つのはあの野郎ですね」

 八五郎はまた、妙な事を思ひ出した樣子です。

「何をまた腹なんか立ててゐるんだ」

「あの色男野郎の彌八ですよ。許嫁のお君が殺されて三日目、魂魄たましひがその邊に迷つてゐるのに、もう、變な素振りをするぢやありませんか」

「相手はまさか、お糸ぢやあるまいな」

「お富の阿魔あまですよ。──彌八をそつと物置に呼んで、『今晩正子刻しやうこゝのつ(十二時)裏の物置の前へ忍んで來ておくれ。お前の欲しいものを、きつと渡してやる、──欲しい物といふのは、先代の遺言状さ。あれがなければ、お前はこの家から握りこぶしで放り出されるに決つてゐる。あの遺言状さへあれば、一度はお君さんと祝言の盃までしたお前だもの、まさかはだかでは投り出されまい。──遺言状は何處にあるつて? それは内證さ』そんな話が、意地の惡いことにあつしの耳へ入るぢやありませんか。遺言状をゑさにして、あの色娘が何をやり出すかわかつたものぢやない」

「──」

 平次は何やらひどく驚いた樣子です。

「その上惡いことに、二人の話を聞いたのは私ばかりぢやなく、もう一人女の人が──誰ともわかりません。お富と彌八が向うへ行くと、チラリと動いて何處かへ消えてしまひました。樣子合ひでは若さうで綺麗で、どうも妹娘のお糸さんぢやないかと思ふんだが」

「そいつは大變なことになるかも知れない。今は何刻だ」

「先刻亥刻半よつはん(十一時)の火の番の太鼓が通りましたよ」

 女房のお靜は隣りから聲をかけました。

「それぢや一と走りだ。八、酒も用意してあるが、歸つてからにしよう」

「へエツ、お預けか」

 さう言ひながらも二人は、もう霜夜の街を、佐久間町へすつ飛んでをりました。

「あ、親分。ありや火事ぢやありませんか」

「佐久間町二丁目か、あの見當だ。八、急げ」

「一體これはどうした事でせう、親分」

 八五郎はスタートに並んだまゝ、鼻ばかりふくらませてをります。

「さア、わけは後で話す。手つ取り早く言へば、お君殺しの下手人は、お前がひいきのお富だよ」

「エツ」

 二人は眞にちうを飛びました。早くも火事と氣の付いた暮の町は、くわつを入れたやうに騷ぎ始めましたが、その時はもう、佐久間町二丁目の兩替屋伊勢屋の大物置、土藏代りの板圍ひの建物が、大分ほのほに包まれ、中には煙に卷かれた娘──まぎれもない妹娘のお糸が、逃げ場を失つてたくましい格子戸の中から、助けを呼んでゐるのです。

 鳶の者と彌次馬と、近所の衆とが力をあはせて、それをようやく救ひ出した時、平次と八五郎は若駒のやうに、泡を噛んで飛び付きました。

「お富は、お富は?」

 平次は斯う言ふのが精一杯です。

「居ない。何處へ行つたんだ、お富は」

 その間に町の人達が驅け付け、物置一つを燒いただけで、火は漸く消しとめましたが、驚いたことに物置の蔭の、土藏と接した少しばかりの空地に、手代の彌八が、紅に染んでこと切れてゐたのです。

 翌る日、お富の死骸は兩國の橋架はしげたの下に浮びました。お糸は少し驚いただけで、たいしたこともなく元氣を回復しましたが、その話によると、お富が彌八にさゝやいた言葉に釣られて、ツイ物置の蔭に忍んで行くと、彌八がお富に散々うらみを言はれてゐるところへ出つくはし、ハツと驚いて立竦たちすくんだところをお富に見付けられ、いきなり物置の中に押し込められたといふのです。それをさまたげる彌八を邪推じやすゐに狂つたお富は一と突きに殺した上、物置に火をつけて、何處ともなく逃げうせてしまひました。

        ×      ×      ×

 曉方近い街を、明神下の家に辿たどりながら、平次は八五郎のために斯う説明してやるのでした。

「お富は伊勢屋の先代の眞實ほんとうの娘だつたかも知れない。下女の子に生れたばかりに、お君お糸とは別な世界の人のやうにあつかはれ、日頃ムシヤクシヤしてゐるうち、彌八といふ大變な色師いろしと仲よくなり、彌八がお君と祝言して伊勢屋の跡取りがきまると、口惜しまぎれにお君を殺したのだらう。脇差はうつかり二階へ持つて登つたに違ひあるまい。カツとなつた女などが、大それた人殺しをすると、手に持つた刄物さへから離れないことがあるものだ。二階へ行つてハツと氣が付き、窓の敷居で自分のこぶしを叩いて脇差をひさしに滑らせたことだらう。丁度その時階下したで彌八の騷ぐ聲を聞いてすぐに飛び降り、彌八と内儀と三人鉢合せをしたわけだ。下手人は彌八でなく内儀でなければ、お富の外にはない」

「恐ろしい女ですね」

「その時、これも口惜しまぎれに遺言状を握つて行つたが、後でそれが彌八をおびき寄せるゑさになつた。お富に取つては、彌八も憎いがお糸も憎い。彌八をおびき出して逃げようとしたが、彌八が聽かない上に、お糸が不意に現はれたので物置に放り込み、火をつけて彌八を殺してしまつた」

「あんな顏をして居て、惡い女ぢやありませんか」

「いや、惡いのは先代の伊勢屋と、手代の彌八だ。金のあるに任せて女をあさるのと、男つ振りを餌に女を漁るのは閻魔樣えんまさまの前に行けば同罪だよ」

あつしなどは極樂行の方で」

「それもこれも親の恩だと思へ」

 二人は聲を合せてカラカラと笑ふのでした。

底本:「錢形平次捕物全集第三十九卷 女護の島異變」同光社

   1955(昭和30)年115日発行

初出:「キング」

   1952(昭和27)年

※題名「錢形平次捕物控」は、底本にはありませんが、一般に認識されている題名として、補いました。

※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。

入力:特定非営利活動法人はるかぜ

校正:門田裕志

2017年620日作成

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