牧野富太郎自叙伝
第一部 牧野富太郎自叙伝
牧野富太郎



幼年期


 土佐の国、高岡郡佐川さかわ町、この町は高知から西へ七里隔ったところにあり、その周囲は山で囲まれ、その間にずっと田が連り、春日川という川が流れている。この川の側にあるのが佐川町である。南は山を負った町になり、北は開いた田になっている。人口は五千位の小さい町である。この佐川からは色々な人物が輩出した。現代の人では田中光顕みつあき土方寧ひじかたやすし・古沢うろう(迂郎が元の名)・片岡利和・土居香国どいこうこく・井原のぼる等の名を挙げる事ができる。古いところは色々の儒者があり、勤王家があった。この佐川町から多くの儒者が出たのは、ここに名教館めいこうかんという儒学つまり漢学を教える学校があり、古くから教育をやっていたためである。佐川には儒者が多く出たので「佐川山分さんぶん学者あり」と人がよくいったものである。山分とは土地の言葉で山が沢山あるところの意である。


 佐川の町は山内家特待の家老──深尾家の領地で、それがこの町の主権者であった。

 明治の代になり、文明開化の世になると学校も前とは組織も変わり、後にはそこで科学・文学を教えるようになった。そうなったのが明治五、六年の頃であった。


 明治七年にはじめて小学校制がしかれたので名教館は廃され、小学校になった。


 佐川の領主──深尾家は主権者だが、その下に多くの家来がいて、これらの武士は町の一部に住み、町の大部分には町人が住んでいた。そして町の外には農家があった。近傍の村の人達は皆この町へ買物にきた。佐川の町には色々の商人がいて商売をしていた。佐川は大変水のよいところなので酒造りに適していたため、数軒の酒屋があった。町の大きさの割には酒家が多かった。

 この佐川の町にかく述べる牧野富太郎が生まれた。文久二年四月二十四日の声を挙げたのである。牧野の家は酒造りと雑貨店(小間物屋といっていた。東京の小間物屋とは異なっている)を経営していた。家は町ではかなり旧家で、町の中では上流階級の一軒であった。父は牧野佐平といって、親族つづきの家から牧野家へ養子にきた人である。牧野家家付の娘──久寿は、すなわち私の母である。

 佐平と久寿の間にたった一人の子として私は生まれた。私が四歳の時、父は病死し、続いて二年後には母もまた病死した。両親共に三十代の若さで他界したのである。私はまだ余り幼かったので父の顔も、母の顔も記憶にない。私はこのように両親に早く別れたので親の味というものを知らない。育ててくれたのは祖母で、牧野家の一人息子として、とても大切に育てたものらしい。小さい時は体は弱く、時々病気をしたので注意をして養育された。祖母は私の胸に骨が出ているといって随分心配したらしい。酒屋を継ぐ一人子として大切な私だったのである。

 生まれた直後、乳母を雇い、その乳母が私をりした。この女は隣村の越知おち村からきた。その乳母の背に負ぶさって乳母の家に行ったことがあった。その時乳母の家の藁葺わらぶき家根が見えた時のことをおぼろげに記憶している。これが私の記憶している第一のものである。その後乳母に暇をやり、祖母が専ら私を育てたのである。


 酒屋は主人が亡くなったので、祖母が代わって采配を振って家の面倒を見ていた。ふるい家であるので、自然に家のきまりがついていて、家が乱れず商売を続けていた。

 家には番頭──この男は佐枝竹蔵といった──がいてよく家のために尽していた。この男は香美かみ郡の久枝村から奉公にきた人である。これがなかなかのしっかり者であり、後に独立して酒屋を営んでいた。こういう偉い番頭がいたので主人亡き後も、よく商売が繁昌していた。

 その頃のことでよく憶えていることは、私はよく酒男さかおとこに押えつけられて灸をすえられたことである。それが病身の私を強くしたとも思う。


 ある時番頭が、その頃極めて珍しかった時計を買ってきたことがあった。私は時計が不思議でその中を見たくてたまらず、時計を解剖してよく納得いくまで中を調べて見た。誠太さんには困ると皆がいった。誠太郎は私の幼名である。


 私は段々成長し、明治四、五年頃寺子屋に行き、習字を習った。寺子屋は佐川の町の一部─西谷に〔あり、〕土居謙護けんごという人がお師匠さんであった。そこでイロハから習った。そうするうちに寺子屋を替えた。

 佐川から離れた東の土地に目細めほそというところがあって、そこに伊藤徳裕のりひろ、号を蘭林という先生がいて沢山の書生を集め、主として習字・算術・四書・五経の読み方を教えた。私はそこへ入門した。門弟は大抵たいていさむらいの子弟で、私のような町人は山本富太郎という私と同名の男と二人だけだった。私がそこに入ったわけは、世の中がこのように開けてきたから町人でも是非学問をしなければいかん、というので入ったわけである。その時分にはまだ町人と士族とには区別があり、士族は町人より上座に坐り、食事の時などは士族は士族流に町人は町人流に挨拶をしたものである。そこに行っておるうちに寺子屋の制度が変わり、寺子屋は廃されることになった。私は名教館に移った。

 その頃の名教館では以前と異なり、日進月歩の学問を教えていた。そこでは訳書で、地理・天文・物理などを教えていた。

 その頃物理のことを窮理きゅうり学といっていた。その時習った書物を挙げると、福沢諭吉先生の『世界国づくし』、川本幸民こうみん先生の『気海観瀾広義』(これは物理の本で文章がうまく好んで読んだものである)、又『輿地誌略』『窮理図解』『天変地異』もあった。ここで私ははじめて日進の知識を大分得た。

 そうしておるうちに明治七年はじめて小学校ができ、私も入学した。私は既に小学校に這入はいる前に色々と高等な学科を習っていたのであるが、小学校では五十音からあらためて習い、単語・連語・その他色々のものを掛図について習った。本は師範学校編纂の小学読本であった。博物図もあった。


 その頃の学校にはボールドはあったが、はじめチョークというものが来なかったので「」で字や画をかいたが、間もなくチョークが来た。

 小学校は上等・下等の二つに分たれ、上等が八級、下等が八級あって、つまり十六級あった。試験によって上に進級し、臨時試験を受けて早く進むこともできた。私は明治九年頃、せっかく下等の一級まで進んだが、嫌になって退校してしまった。嫌になった理由は今判らないが、家が酒屋であったから小学校に行って学問をし、それで身を立てることなどは一向に考えていなかった。


 小学校を退いてからは本を読んだりして暮らしていたらしいが、別に憶えていない。

 私はその前から植物が好きで、わが家の裏手にある産土うぶすな神社のある山に登ってよく植物を採ったり、見たりしていたことを憶えている。こういう風に悠々遊んでいたわけだが、明治十年頃、ちょうど西南の役の頃だったか、私のいた小学校の先生になってくれといってきた。その頃は学校の先生といえば名誉に思われていたので私は先生になり、毎日出勤して生徒を教えた。校舎は以前の名教館のであった。役名は授業生というので、給料は月三円くれた。それで二年ばかりそこの先生をしていた。


 それより少し前に佐川に英学を入れた人がある。高知の県庁から長持ながもちに三つ英書を借りてきたのである。地理・天文・物理・文典・辞書等があった。そして高知から英学の先生が二人雇われてきた。その中の一人を長尾長といい、他の一人を矢野矢といった。二人とも似たような珍な名の先生であった。この二人の先生はABCから教えてくれた。だから私はかなり早くから英学を習った。

 これは新知識を開くに極めて役立った。

 その時分の本は色々の『リイダァ』、文法ではアメリカの本で『カッケンボスの文典』『ピネオの文法書』、『グードリッチの歴史書』『パァレー万国史』『ミッチェルの世界地理』『コルネルの地理』『ガヨーの地理』(その時分フランス語の発音が判らずガヨーをガヨットといっていた)『カッケンボスの物理学』『カッケンボスの天文学』その他色々な地図や算術書もあった。辞書では『エブスタアの辞書』また英和辞書もあった。英和辞書のことは薩摩辞書と呼んでいた。その時分ローマ字の『ヘボンの辞書』などもあった。このように佐川は他よりも早く英学を入れたわけである。

 私はその頃、地理学に興味をもち、日本内地は勿論世界の地図を作ろうと考えたこともあった。

 私は小学校の先生をしていたが、学問をするにはどうも田舎に居てはいかん、先に進んで出ねばいかんと考え、小学校を辞し高知へ出かけた。

 その頃東京へ出ることなどは全く考えなかった。東京へ行くことなどは外国へ行くようなものだった。


 高知で私は弘田正郎という人の五松学舎という塾に入った。その頃はまだ漢学が盛んであった。五松学舎は高知の大川筋にあった。

 入塾はしたがあまり講義を聴きに行かなかった。弘田先生が「牧野という男が入塾した筈だが、さっぱり来んではないか」といったそうである。その頃、植物・地理・天文の本を見て、興味をもって勉強していた。五松学舎の講義は主に漢文だった。ここ〔に〕数ヵ月いるうちにコレラが流行したので、ほうほうのていで佐川に帰った。

 コレラについては面白い話がある。その時分コレラの予防には石炭酸をインキ壺に入れ、それを鼻の孔になすりつけ予防だとしていた。鼻につけるとひりひり滲みた。


 五松学舎時代にはよく詩吟をした。その頃よく詩集を写したりした。吟詩で想い出すが私は現在の詩の吟じ方が気に入らない。詩には起・承・転・結があり、転句で転ずるのがラジオなどで聴いていると転句のところでまるで喧嘩でもしているように怒鳴る。あれではいかん。もっと節廻しをよくやらにゃいかんと思う。吟詩は勢いついていいものだ。その頃の書生は吟詩をやり、剣舞をやりなかなか勢いがよかった。そんな風だったから道楽して芸者遊びをする風は少なかった。しかしいわゆるお稚児ちごさん(土佐ではとんとという)の風は相当にあったと思う。

 私も世の書生と同じく、その頃は吟詩などをやってなかなか威勢がよかった。


 明治十二年に高知へ丹後の人、永沼小一郎という人がきた。この人は神戸の学校の先生で、高知の師範学校の先生になってきたのである。

 西洋語の多少できる人で、科学サイエンスのことをよく知っていて、植物のことにも詳しかった。永沼先生と私とは極めて懇意になった。早朝から夜の十一時頃迄、話し続けたこともあった程である。永沼先生はベントレーの植物の本を訳し、また土佐の学校にあったバルホアーの『クラスブック・オヴ・ボタニイ』という本の訳もし、私はそれを見せてもらった。この人は実に頭のよい博学の人で、私は色々知識を授けられた。永沼先生は土佐に久しくいたが、その間高知の病院の薬局長になったりした。化学・物理にも詳しく、仏教もよく知っていた。永沼先生は植物学のことをよく知っていたが、実際の事は余りよく知らなかったので、私に書物の知識を授け、私は永沼先生に実際のことを教えるという具合に互に啓発しあった。

 永沼先生は後に土佐を去り東京で亡くなった。私の植物学の知識は永沼先生に負うところ極めて大である。


 明治十三年頃、佐川に西村尚貞という医者がいて、私はよくその家に遊びに行ったものだが、医者なので色々のことを知っていた。この医者の家に小野蘭山の『本草綱目啓蒙』の写本が数冊あって色々の植物が載っていた。私はそれを借りて写したが、余り手数がかかるし、欠本もあるかもしれんのでこの本が買いたくなった。それで洋品屋に頼んで大阪なり、東京なりから取寄せて貰うことにした。間もなくこの本がきたが、それについて、今でも想い出すことがある。


 その時分私はよく友人と裏山に行って遊んでいたが、ある時、山で遊んでいると、私の親友だった堀見克礼かつひろという男が駈けつけて「重訂啓蒙という本がきたぞ」と知らせてくれた。私は慌てて山を駈下り頼んだ人の店へ駈けつけた。それが小野蘭山の『重訂本草綱目啓蒙』であった。


 それ以来、私は明暮あけくれこの本をひっくり返して見ては色々の植物の名を憶えた。当時は実際の知識はあるが、名を知らなかったので、この本について多くの植物の名を知ることができた。

 産土神社の山は頂上を長宗寺越えというが、その山を越えて下る坂道で、ちょうど秋の頃だったが、「もみじばからすうり」を採りたくて行った時、丈の高い菊科のもので白い花を付けている植物があった。名は無論知らなかった。その後『本草綱目啓蒙』を見ていたら、東風菜という個所に「しらやまぎく」というのが載っており、山で見たものと酷似しているので、翌日再び山に登り、本と実物とを引合せたところ、やはり「しらやまぎく」であった。私はその時はじめてこの草の名を憶えた。

 私はその頃盛んに山に草採りに行ったが、かす谷という所で面白い繖形さんけい科の植物が水際にあるのを見付けて零余子むかごが茎へ出ていたので、それを採って帰り、「むかごにんじん」であることを知った。また町の外から水草を採ってき、家の鉢に浮して置いたが、その草の名を知りたいと思っていると家の下女が「びるむしろ」だといった。私は『救荒本草』という本を高知で買って持っていたが、その中に似た草があったことを想い出し、調べた結果、この草は眼子菜、「ひるむしろ」であることをはじめて知った。また町の近所で上に小さな丸い実のある妙な草があったので、『本草綱目啓蒙』で調べたところ、それは「ふたりしずか」であった。このように自分の実際の知識と書物とで、名を憶えることに専念した。

 前に述べた親友の堀見は私より年少の男で、父君は医者だったが、私は堀見の家で『植学啓原』という本を見た。この本は三冊あり、宇田川榕庵のつくった和蘭オランダの本の訳本で、西洋の植物学を解説したものであったが、この本について植物学を勉強した。リンネの人工分類(自然分類でない)を習い、植物学の種々なる術語をこの本について会得した。この本は漢文で書いてあったので、自分で仮名混りに翻訳した。

 この時分には植物の本に限らず、他の本も色々買っては読んだものである。

 こうするうちに、もっと書籍が買いたくなり、また顕微鏡というものが欲しくなったりしたので、東京へ旅行することを思い立った。ちょうどその頃東京では勧業博覧会が開催されていたので、その見物という意味もあった。明治十四年の四月に佐川を出発して東京への旅に上った。

 当時東京へ行くことは外国へ行くようなものだったので盛んな送別を受けた。同行者は以前家の番頭だった佐枝竹蔵の息子の佐枝熊吉と、旅行の会計係に一人実直な男を頼んで三人で佐川の町を出発した。佐川から高知へ出て、高知から海路神戸に行った。生まれてはじめて、汽船というものに乗った。

 神戸の山々が禿山はげやまなのを見て最初雪が積っているのかと思った。土佐の山には禿山はないからである。

 神戸から京都迄は汽車があったので京都へ出、京都から歩いて大津・水口・土山を経、鈴鹿峠へ出、四日市に出て横浜行の汽船に乗った。

 その間慣れない様々な植物を見た。茶筒に入れて国へ送り植えて貰った。「しらがし」などは極めて珍しかった。「あぶらちゃん」の花の咲いた枝をとり、東京まで持って行った。

 四日市から乗った汽船は遠州灘を通って横浜へ行くのであるが、外輪船であった。船の名は和歌浦丸と呼んだ。横浜迄三等船室にごろごろしていた。横浜から汽車で東京に着いた。神田の猿楽町に郷里の人がいたので訪ね、下宿を世話して貰い、同じ猿楽町に泊ることになった。下宿の窓から朝、富士の秀峰を見て感嘆したりした。

 東京滞在中は勧業博覧会を見たり、本屋で本を買ったり、機械屋で顕微鏡を買ったりした。山下町の博物局(今の帝国ホテルの辺)へも行った。田中芳男という人にはじめて会った。博物局では小野職愨もとよし・小森頼信という植物関係の人に会い、植物園を見せて貰ったりした。ここで珍しい植物のある植木屋を教えて貰い、そこに行って、色々な植物を買った。

 東京へ来たついでに日光へも行った。千住大橋から日光街道を徒歩または人力車で行くのだが、途中宇都宮に一泊した。日光の杉並木を人力車で通り中禅寺まで行った。

 中禅寺の湖畔に石ころが積んであり、その石ころの間から「にら」に似たものが生えていた。臭いを嗅いでみると「にら」のようだった。今考えるとそれは「ひめにら」に違いないが、その後日光で「ひめにら」を採ったという人の話を聞かない。私が行ったのはちょうど五月頃で未だ寒かったが、五月頃探せば今でも何処かに生えているかも知れぬ。

 日光から帰京すると直ぐ郷里へ帰ることになったが、帰路は東海道を選んだ。横浜迄汽車で行き、後は徒歩・人力車・乗合馬車などで行った。服装は田舎者丸出しの着物姿だった。一週間ばかりで京都へ着くのであるが、私は関ヶ原辺で同行者と別れ単身伊吹山に登ることにして、他の者とは京都の三条の宿で待合すことにした。伊吹山の麓では薬業を営む人の家に泊り、山を案内して貰った。頂上までは登らなかったが(弥高方面であった)色々の植物を採集した。その時分には胴籃どうらんがなかったので、採った植物は紙の間に挟んだりして持ってきた。泊った家の庭に「あべまき」が、薪にして積んであるのを珍しく思い土産に持ち帰った。

 伊吹から長浜へ出、琵琶湖を汽船で渡り大津へ出、京都で他の者と落合い、無事に佐川に帰った。

 伊吹山で採集したものの中には仲々珍しいものがあった。明治十七年に再度上京し大学の松村〔任三〕助手に会った時、私が伊吹で採った「すみれ」を見せたところ、この「すみれ」は大学の標品中にもないもので大変珍しく、外国の文献によりヴィオラ・ミラビリスなることが判り、和名がないので、「いぶきすみれ」と命名された。


 佐川へ帰ると大いに土佐の国で採集せねばいかんと思い、佐川から西南地方の幡多はた郡一円を人足を連れて巡り、かなりの日数を費して、採集して歩いた。


 その頃東京で出ていた農業雑誌に植物のことがよく出ていて、私はそれを見るのを楽しみにしていた。その中に、「ファミリイ」のことが出ており、「科」のことを憶えた。


 私は郷里に科学サイエンスを拡めねばならんと思い立ち、理学会なる会を設け、私が集めた科学書を皆に見せたり、討論会を催したり、演説会を開いたりした。私の郷里の若い人達は皆この理学会に入っていたものだ。場所は小学校を用いていた。私はこのように、私の郷里に科学サイエンスを早く入れたわけである。

 佐川の町の人が科学サイエンスに親しむ風があったについては、佐川が有名な化石の産地であることもあずかって力ある。具石山・吉田屋敷・鳥の巣等には化石の珍物が出るので名高い。ナウマンという鉱物学の先生や、地質学の大御所だった小藤ことう文次郎先生等も、化石採集に佐川にきた。

 小藤先生が佐川に見えた時鼠色のモーニング・コートを着ていられたが、私はその服が気に入り、小藤さんから服を借りて洋服屋を訪ね、それと同じものを註文したことがあった。

 私もよく化石を採集したが、佐川の外山矯という人は化石蒐集家として特に名高く、学者がきた時などは、大変便利だった。

 佐川に出る貝の化石のダオネラ・サカワナというのは、この佐川から出た化石に命名されたものである。


自由党から脱退


 当時は自由党が盛んで、「自由は土佐の山間から出る」とまでいわれ、土佐の人々は大いに気勢を挙げていた。本尊は板垣退助で、土佐一国は自由党の国であった。従って私の郷里も全村こぞって自由党員であり、私も熱心な自由党の一員であった。当時は私も政治に関する書物を随分読んだものだ。殊に英国のスペンサアの本などは愛読した。人間は自由で、平等の権利を持つべきであるという主張の下に、日本の政府も自由を尊重する政府でなければいかん。圧制を行う政府は、打倒せねばならんというわけで、そこの村、ここの村で盛んに自由党の懇親会をやり大いに気勢を挙げた。

 私も、よくこの会に出席した。しかし後に私は何も政治で身を立てるわけではないから、学問に専心し国に報ずるのが私の使命であると考え、自由党から退く事になった。自由党の人々も私の考えを諒とし脱退を許してくれた。

 自由党を脱退した事につき想い出すのは、この脱退が芝居がかりで行われたことである。隣村に越知村という村があり、仁淀によど川という川が流れていて、その河原が美しく、広々としていたが、この河原で自由党の大懇親会が開かれた事があった。私は党を脱退するにつき、気勢を挙げねばいかんと思い、紺屋こうやに頼んで旗を作り、魑魅魍魎ちみもうりょうが火に焼かれて逃げて行く絵を書いてもらった。佐川の我々の仲間は、この奇抜な旗を巻いて大懇親会に臨んだ。我々の仲間は十五、六人程いた。

 会場に入ると、各村々の弁士達が入替り立替り、熱弁を揮っていた。その最中、私達はその旗をさっと差出し、脱退の意を表し、大声で歌をうたいながら会場を脱出した。この旗は今でも保存されている筈である。

 明治十五年、十六年の二年間は専ら郷里で科学のために演説会を開催したり、近傍に採集に出掛けたり、採集物を標品にしたり、植物の図を画いたりして暮らした。

 明治十七年にどうもこんな佐川の山奥にいてはいけんと思い、学問をするために東京へ出る決心をした。そして二人のつれと共に東京へ出た。

 東京へ出て各々下宿へ陣取ることになった。私の下宿は飯田町の山田顕義あきよしという政府の高官の屋敷近くで、当時下宿代が月四円であった。

 下宿の私の部屋は採集した植物や、新聞紙や、泥などでいつも散らかっていたので、牧野の部屋は狸の巣のようだとよくいわれたものである。

 同行の二人は学校へ入学したが、私は学校へは入らずに居るうち、東京の大学へ連れて行ってもらう機会がきた。

 東京の大学の植物学教室は当時俗に青長屋といわれていた。植物学教室には、松村任三じんぞう・矢田部良吉・大久保三郎の三人の先生がいた。この先生等は四国の山奥からえらく植物に熱心な男が出て来たというわけで、非常に私を歓迎してくれた。私の土佐の植物の話等は、皆に面白く思われたようだ。

 それで私には教室の本を見てもよい、植物の標品も見てよろしいというわけで、なかなか厚遇を受けた。私は暇があると植物学教室に行き、お蔭で大分知識を得た。

 当時、三好学・岡村金太郎・池野成一郎等はまだ学生だったが、私は彼等とは親しく交際した。私は教室の先生達とも親しく行き来し、松村任三・石川千代松さんなどは、私の下宿を訪ねてくれたし、私も松村・大久保両氏と共に矢田部さんの自宅に招かれて御馳走にあずかったこともあった。


東京近郊における採集


 その頃、東京近郊の採集は、盛んにやったが、ある時岐阜の学校にいた、三好の同郷の男の森吉太郎という男が、上京して来た折、三好・森・私の三人で平林寺に採集に出掛けたことがあった。その頃は交通は全く不便で、西片町の三好の家から出発し、白子・野火止・膝折を経て平林寺へ出るというコースで、往復十里余も歩いた。

 その時平林寺の附近で、四国では見られない「かがりびそう」をはじめて採集したことを憶えている。

 三好学と私とは、仲がよかった。三好はどちらかというと、もちもちした人づきの悪い男だった。岡村金太郎は、三好とは反対の性格で気持の極めてさらさらした男だった。三好と岡村とはよく喧嘩をした。岡村が書庫の鍵を失くし三好がそれを教授に言いつけたとかで、えらい喧嘩のあったこともあった。

 池野成一郎とも私は大変親しくした。池野は頭の良い男で、フランス語が上手だったが、英語も一寸の間に便所の中か何処かで簡単に憶えてしまった。池野については、別に詳しく述べることにする。

 東京の生活が飽きると、私は郷里へ帰り、郷里の生活が退屈になると、また東京へ出るという具合に、私は郷里と東京との間を、大体一年毎に往復した。

 市川延次郎(後に田中と改姓)・染谷徳五郎という二人の男が、当時選科の学生で、植物学教室にいたが市川は器用な男で、なかなか通人であり、染谷は筆をもつのが好きな男だった。私はこの両人とは極めて懇意にしていた。市川の家は、千住大橋にあり、酒店だったが、私はよく市川の家に遊びに行った。


「植物学雑誌」の創刊


 ある時市川・染谷・私と三人で相談の結果、植物の雑誌を刊行しようということになった。原稿も出来、体裁も出来たので、一応矢田部先生に諒解を求めて置かねばならんと思い、先生にこの旨を伝えた。

 その時矢田部先生がいうには、当時既に存在していた東京植物学会には、まだ機関誌がないから、この雑誌を学会の機関誌にしたいということであった。

 このようにして、明治二十年私達の作った雑誌が、土台となり、矢田部さんの手がそれに加わり、「植物学雑誌」創刊号が発刊されることとなった。

 白井光太郎みつたろう君などは、この雑誌が続けばよいと危惧の念を抱いていたようだ。

 当時この種の学術雑誌としては既に「東洋学芸雑誌」があったが、「植物学雑誌」が発刊されると、間もなく「動物学雑誌」「人類学雑誌」が相継いで刊行されるようになった。

 私は思うに、「植物学雑誌」は武士さむらいであり、「動物学雑誌」の方は町人であったと思う。というわけは「植物学雑誌」の方は文章も雅文体で、精練されていたが、「動物学雑誌」の方は文章も幼稚ではるかに下手であった。

 当時「植物学雑誌」の編集の方法は、編集幹事が一年で交代する制度だった。堀正太郎しょうたろう君などは、横書を主張し、堀君の編集した一ヵ年だけは雑誌が横書きになっている。

 雑誌は各頁、子持線で囲まれ、きちんとしていて気持がよかった。そのうち、何時の間にかこの囲み線は廃止されたが、私は今でも雑誌は囲み線で囲まれているのがよいと思っている。

 小石川の植物園には、中井誠太郎という人が事務の長をしていた。この人は笑い声に特徴があった。現在の植物学教室の教授をしている中井猛之進たけのしん君の父君である。

 私は盛んに方々に採集旅行をしたが、日光・秩父・武甲山・筑波山等にはよく出かけた。

 自分は植物の知識が殖えるにつけ、日本には植物誌がないから、どうしてもこれを作らねばならんと思い、これが実行に取掛った。

 植物の図や文章をかくことは別に支障はなかったが、これを版にするについて困難があった。私は当時(明治十九年)東京に住む考えは持っていなかったので、やはり郷里に帰り、土佐で出版する考えであった。郷里で出版するには自身印刷の技術を心得ていなければいけんと思い、一年間神田錦町の小さな石版屋で石版印刷の技術を習得した。石版印刷の機械も一台購入し郷里へ送った。

 併しその後出版はやはり東京でやる方が便利なので、郷里でやる計画は止めにした。

 この志は明治二十一年十一月になって結実し、『日本植物志図篇』第一巻第一集が出版された。私の考えでは図の方が文章よりも早わかりがすると思ったので、図篇の方を先に出版したわけであった。

 この第一集の出版は、私にとって全く苦心の結晶であった。日本の植物誌をはじめて打建てた男は、この牧野であると自負している。


「破門草事件」


 明治十九年頃は大学では植物を研究していたがまだ学名をつける事はせず、ロシアの植物学者マキシモヴィッチ氏へ、標品を送って学名をきめてもらっていた。私も標品をマキシモヴィッチ氏に送っていた。マキシモヴィッチ氏は私に大変厚意を寄せてくれ、本を送って来るにつけても、大学に一部、私に一部という風であった。

 その頃、「破門草事件」という事件があった。ことの真相を知っているのは今日では私一人であろう。

 それは矢田部良吉教授が戸隠山で採集した「とがくししょうま」の標品を、マキシモヴィッチ氏に送った。ところがマキシモヴィッチ氏は、その植物を研究したところ、新種であったので、これに矢田部さんに因んでヤタベア・ジャポニカという名をつけた。それについても少し材料が欲しいから、標品を送るように手紙が教室にきた。この手紙のことをある時、教室の大久保さんが、その頃よく教室にきた伊藤篤太郎君に話した。大久保さんは、伊藤の性質をよく知っているので、この手紙を見せるが、お前が先に名を付けたりしないという約束をした。ところがその後三ヵ月程経ってイギリスの植物雑誌の「ジョーナル・オブ・ボタニイ」誌上に同じ植物に関し伊藤が報告文を載せ、「とがくししょうま」にランザニア・ジャポニカなる学名を付して公表していた。

 これを見て、矢田部・大久保両氏は大変怒り、伊藤篤太郎に対し教室出入を禁じてしまった。この事から、「とがくししょうま」の事が「破門草」と呼ばれたわけである。

 私は伊藤君は確かに徳義上よろしくなかったが、同情すべき点もあったと思う。「とがくししょうま」は矢田部氏が採集する前に、既に伊藤がこの植物を知っていて、ポドフィルム・ジャポニクムなる名を付し、それがロシアの雑誌に出ていた。だから彼にして見れば自分が研究した植物に「ヤタベア」などと名をつけられては面白くなかったのだろうと思う。


『日本植物志』に対する松村任三博士の絶讃


『日本植物志』第一巻第一集が出たのは、明治二十一年十一月であったが、当時大学の助教授であった松村任三先生は、私のこの出版を非常に讃め称えてくれ、私のために特に批評の筆をとられ、その中には、「余は今日只今、日本帝国内に、本邦植物図志を著すべき人は、牧野富太郎氏一人あるのみ」の句さえあった。

 松村先生は、当時独逸ドイツから帰朝されたばかりで専ら植物解剖学を専攻され、分類学はまだやっておられなかった。


 図篇の版下はんしたは、総て自分で画き、日本橋区呉服橋にあった刷版社で石版印刷にし、神田区神保町にあった敬業社で売らしていた。この図篇は、第二集、第三集と続いて出版された。

 露国のマキシモヴィッチ氏はこれに対し非常に中の図が正確であるといって、遥々はるばる絶讃の辞を送ってきた。


矢田部良吉博士〔と〕の支吾


 図篇第六集が出版されたのが、明治二十三年であったが、この年私には、思いもよらぬ事が起った。というのは大学の矢田部良吉教授が、一日私に宣告して言うには、

「自分もお前とは別に、日本植物志を出版しようと思うから、今後お前には教室の書物も標品も見せる事は断る」というのである。私は甚だ困惑して、呆然としてしまった。私は麹町富士見町の矢田部先生宅に先生を訪ね、「今日本には植物を研究する人は極めて少数である。その中の一人でも圧迫して、研究を封ずるような事をしては、日本の植物学にとって損失であるから、私に教室の本や標品を見せんという事は撤回してくれ。また先輩は後進を引立てるのが義務ではないか」と懇願したが、矢田部先生は頑として聴かず、「西洋でも、一つの仕事の出来上る迄は、他には見せんのが仕来りだから、自分が仕事をやる間は、お前は教室にきてはいかん」と強く拒絶された。私は大学の職員でもなく、学生で〔も〕ないので、それ以上自説を固持するわけにはゆかなかったので、悄然と先生宅を辞した。

 当時私は日本ではじめて「むじなも」を発見していたが、その研究を大学でやる事が不可能になったので、困惑していたが、池野成一郎君の厚意で、ともかくも駒場の農科大学の研究室でこの研究を続行する事ができた。私は矢田部教授の処置に痛く失望悲憤し、自分に厚意をもつマキシモヴィッチ氏を遠く露都にわんと決心した。ところが、幸か不幸か、突然マキシモヴィッチ氏の急死の報に接し、私の露国行の計画は中止のやむなきに至った。当時、所感を次のように綴った。


所感
結網学人

専攻斯学願樹功

微躯聊期報国忠

人間万事不如意

一身長在轗軻中

泰西頼見義侠人

憐我衷情傾意待

故国難去幾踟蹰

決然欲遠航西海

一夜風急雨黫黫

義人溘焉逝不還

倐忽長隔幽明路

天外伝訃涙潸潸

生前不逢音容絶

胸中鬱勃向誰説

天地茫茫知己無

今対遺影感転切


 私がもし当時マキシモヴィッチ氏の下に行っていたならば、私の自叙伝もこの先、全く異なったものとなったわけである。


「むかでらん」の学名発表


 私はここに矢田部先生のそういう圧迫に抗し、如何なる困難も排除し、『日本植物志』を続刊しようと決心し、自分の採集した新しい植物に学名を附し、記載文を書き、これを誌上に発表してやろうと決心した。池野君もこれに賛成し、色々と助力を与えてくれた。

 その頃、わが国では植物に学名を附す事はまだ誰もやっていなかったが、私は『日本植物志』第七集から卒先して植物に学名を附し、記載文を発表しはじめた。この第七集にはじめて学名及び記載文を附して発表した植物は「むかでらん」であった。

 第七集は、明治二十四年四月に出たが、続いてどしどし刊行され、同年十月には、第十一集に達した。これらの出版は、私が民間にあってやっていたもので、全くの自費出版であった。第十二集の準備をしている時、郷里から財産整理のため、一応帰国してくれと慫慂しょうようしてきたので、私は明治二十四年晩秋に高知へ帰った。

 私は帰国に当たり、今度上京したら、矢田部先生と大いに学問上の問題で競争しようと決意した。矢田部先生が、常陸山ひたちやまであるならば、私はふんどしかつぎであるから、相撲としても申分のない対手だった。


菊池大麓・杉浦重剛両先生の同情


 菊池大麓だいろく・杉浦重剛じゅうごう先生は私の同情者であって、矢田部先生の処置を不当として私に対し、非常な好意を示された。杉浦先生は、国粋主義の「日本新聞」及び「亜細亜」なる雑誌を主宰しておられたが、矢田部をたたかねばいかんといわれ、「亜細亜」誌上に牧野の『日本植物志』は矢田部のものより前から刊行されており、内容も極めて優れていると書いて、大いに私を引立ててくれた。


高知における西洋音楽の普及運動


 郷里へ帰ると、ある日新聞社の記者に誘われて、高知の女子師範にはじめて、西洋音楽の教師として赴任してきた門奈九里という女の先生の唱歌の練習を聴きに行った。高知では、当時西洋音楽というものが、極めて珍しかったのである。

 私はこの音楽の練習を聴いていると、拍子のとり方からして間違っていることを感じ、これはいかん、ああいう間違った音楽を、土佐の人に教えられては、土佐に間違った音楽が普及してしまうと思い、校長の村岡某へこの旨を進言した。校長は私の言の如きには全く耳を傾けなかったので、私はその間違いを、技術の上で示そうと思い立ち、高知西洋音楽会なるものを組織した。この会には、男女二、三十人の音楽愛好家が集った。会場は高知の本町にあった満森徳治という弁護士の家であった。そこにはピアノがあった。またオルガンを持込んだり、色々の音楽の譜を集めた。私はこの音楽会の先生になって、軍歌だろうが、小学唱歌集だろうが、中等唱歌集だろうが、大いに歌って気勢を挙げた。ある時は、お寺を借りて音楽大会を催した。ピアノを持出し私がタクトを振って、指揮をした。土佐で西洋音楽会が開かれたのは、これが開闢かいびゃく以来はじめてであったので、大勢の人が好奇心にかられて参会した。

 この間私は高知の延命館という一流の宿屋に陣取っていたので、大分散財した。かくて明治二十五年は高知で音楽のために狂奔しているうちに、夢のように過ぎてしまった。

 後に上京した折、東京の音楽学校の校長をしていた村岡範為馳はんいち氏や、同校の有力者に運動して、優秀な音楽教師を土佐に送るよう懇請した結果、門奈さんは高知を去ることになった。


矢田部教授の罷免


 私が郷里で音楽普及に尽力している頃、東京では矢田部教授罷職事件が起っていた。

 大学当局が、矢田部良吉教授を突如罷職にしたのである。その原因は、菊池大麓先生と矢田部先生との権力争いであったといわれる。

 大学教授を罷職にされた矢田部良吉先生は、木から落ちた猿も同然で、憤慨してもどうにも仕方なかった。私は学問上の競争対手あいてとしての矢田部教授を失ったわけである。

 矢田部先生罷職の遠因は、色々伝えられているが、先生は前に森有礼ありのりに伴われ外遊した事もあり、中々の西洋かぶれで、鹿鳴館にダンスに熱中したり、先生が兼職で校長をしていた一橋の高等女学校で教え子を妻君に迎えたり、「国の基」という雑誌に「良人おっとを選ぶには、よろしく理学士か、教育者でなければいかん」と書いて物議をかもしたりした。当時の「毎日新聞」には矢田部先生をモデルとした小説が連載され、図まで入っていた。

 矢田部先生は、伊豆韮山にらやまの人で、父君は江川太郎左衛門に仕えた人であった。令息は今日音楽界に活躍しておられる矢田部勁吉けいきち氏である。

 矢田部先生は罷職後も植物志を続けねばいかんといい、教室に出てきて『日本植物図解』を三冊出版されたが、後は出なかった。また先生歿後『日本植物編』が一冊出版された。矢田部先生は、大学を退かれて後、高等師範学校の校長になり、鎌倉で水泳中溺死し非業の最期を遂げられた。


月俸十五円の大学助手


 矢田部先生罷職の事があった直後、大学の松村任三先生から郷里の私のところへ手紙で、「大学へ入れてやるから至急上京しろ」といってきた。私は「家の整理がつき次第上京する、よろしく頼む」と書いて返信し、明治二十六年一月上京した。やがて私は、東京帝国大学助手に任ぜられ、月俸十五円の辞令をうけた。

 大学へ奉職するようになった頃には、家の財産もほとんど失くなり、家庭には子供も殖えてきたので、暮らしはなかなか楽ではなかった。私は元来鷹揚おうように育ってきたので、十五円の月給だけで暮らすことは容易な事ではなく、止むなく借金をしたりした。借金もやがて二千円余りも出来、暮らしが面倒になってきた。

 その時、法科の教授をしていた同郷の土方寧君は、私を時の大学総長・浜尾あらた先生に紹介してくれ、私の窮状を伝え助力方を願った。浜尾先生は大学に助手は大勢いるのだから牧野だけ給料をあげてやるわけにはいかんが、何か別の仕事を与え、特別に給料を出すようにしようといわれ、大学から『大日本植物志』が出版される事になり、私がこれを担当する事になった。費用は大学紀要の一部より支出された。私は浜尾先生のこの好意に感激し、私は『大日本植物志』こそ、私の終生の仕事として、これに魂を打込んでやろうと決心し、もうこれ以上のものは出来ないという程のものを出そう。日本人はこれ位の仕事が出来るのだということを、世界に向かって誇り得るような立派なものを出そうと意気込んでいた。

『大日本植物志』こそ私に与えられた一大事業であったのである。


松村任三博士との睽離けいり


 その頃から松村任三先生は次第に私に好意を示されなくなった。その原因は、私が植物学雑誌に植物名を屡々しばしば発表していたが、松村先生の『日本植物名彙』の植物名と牴触し、私が松村先生の植物名を訂正するようなことがあったりしたので、松村先生は、私に雑誌に余り書いてはいかんといわれた。またある人の助言で松村先生も対抗的に、植物学雑誌に琉球の植物のことなど盛んに書かれたりした。このように松村先生は、学問上からも、感情上からも、私に圧迫を加えるようになった。

 ……私は大学の職員として松村氏の下にこそおれ、別に教授を受けた師弟の関係があるわけではなし、氏に気兼ねをする必要も感じなかったばかりでなく、情実で学問の進歩を抑える理窟はないと、私は相変らず盛んにわが研究の結果を発表しておった。それが非常に松村氏のにふれた。松村氏は元来好い人ではあるが、狭量な点があって、これを大変に怒ってしまった。他にもなお松村氏から話し出された縁談のことが成就しなかったので、それでも大分感情を害したことなどあり、それ以来、どうも松村氏は私に対して絶えず敵意を示されるようなことになった。事毎に私を圧迫する。人に向かって私の悪口をさえいわれるという風で、私は実に困った。……

『大日本植物志』は余り大きすぎて持運びが不便だとか、文章が牛の小便のように長たらしいから、縮めねばいかんとかいわれた。そのうち、松村先生は『大日本植物志』を牧野以外の者にも書かすといい出した。私は『大日本植物志』は元来私一人のために出来たものなので、総長に相談したところ、それは牧野一人の仕事だといわれたので、松村先生の言を聴かなかった。『大日本植物志』は第四集迄出たが、四囲の情勢が極めて面白くなくなったので、中絶するの止むなきに至った。

 教室の人々の態度は、極めて冷淡なもので『大日本植物志』の中絶を秘かに喜んでいる風にさえ見えた。

『大日本植物志』の如く、綿密な図を画いたものは、斯界しかいにも少ないから、日本の学界の光を世界に示すものになったと思っている。あの位の仕事は、なかなか出来る人は少ないと自負している。今では、私ももう余りに年老いて、もう再び同様のものを打建る気力はないが『大日本植物志』こそ私の腕の記念碑であると私は考え、自ら慰めている次第である。


執達吏の差押、家主の追立


 大学の助手時代初給十五円を得ていたが、何せ、如何いかに物価が安い時代とはいえ、一家の食費にも足りない有様だった。月給の上らないのに引換え、子供は次々に生れ、十三人も出来た。財産は費いはたし一文の貯えもない状態だったので、食うために仕方なく借金もしなくてはならず、毎月そちこちと借りるうちに、利子はかさんでくる。そのうちに執達吏に見舞われ、私の神聖なる研究室を蹂躙じゅうりんされたことも一度や二度ではなかった。積上げたおびただしい標品、書籍の間に坐して茫然として彼等の所業を見守るばかりであった。一度などは、遂に家財道具が競売に付されてしまい、翌日知人の間で工面した金で、やっと取戻したこともあった。

 家賃も滞りがちで、立退きを命ぜられ、引越しを余儀なくされたことも屡々しばしばであった。何しろ親子十五人の大家族だから、二や三間の小さな家に住むわけにもゆかず、その上、標品をしまうに少なくとも八畳二間が必要ときているので、なかなか適当な家が見つからず、そのたびに困惑して探し歩いた。

 こうした生活の窮状を救い、一方は学問に貢献しようとして『新撰日本植物図説』を刊行した。その序文には次のようにしたためてあった。


『新撰日本植物図説』序文

 余多年意ヲ本邦ノ草木ニ刻シテ日々ニ其品種ヲ探リ其形色ヲ察シ其異同ヲべんジ其名実ヲただシ集メテ以テ之ヲ大成シ此ニ日本植物誌ヲ作ルヲ素志そしトナシ我身命ヲシテ其成功ヲ見ント欲スさきニハ其宿望遂ニ抑フ可カラズ僅カニ一介書生ノ身ヲ以テ敢テ此大業ニ当リ自ラなげうツテ先ヅ其図篇ヲ発刊シ其事漸クちょつきシトいえどモ後いくばクモナク悲運ニ遭遇シテ其梓行しこうヲ停止シ此ニ再ビ好機来復ノ日ヲ待ツノ止ム可カラザルニ至レリ居ルコト年余偶々たまたまぼうヲ理科大学助手ニ承ケ植物学ノ教室ニ仕フ裘葛きゆうかつフル此ニ四回時ニ同学新ニ大日本植物誌編纂ノ大業ヲ起コシ海内幾千ノ草木ヲ曲尽シ詳説しょうせつけいトシ精図ヲトシ以テ遂ニ其大成ヲ期シまことニ此学必須ひっすノ偉宝ト為サント欲ス余幸ニ其空前ノ成挙ニ与リ其編纂ノ重任ヲかたじけのフスルヲ得テ年来ノ宿望漸ク将ニ成ラントスルヲよろこビ奮ツテ自ラ其説文ヲ起コシ其図面ヲ描キ拮据きっきょ以テ日ニ其業ニ従ヘリ而シテ其書タル精ヲ極メひらキ以テ本邦今日日新学術ノ精華ヲ万国ニ発揚スルニ足ルベキモノト為サント欲スルニ在ルヲ以テ之ヲス必ズヤ此ニ幾十載ノ星霜ヲ費ス可ク其間日夜事ニ之レ従ヒ其精神ヲ抖擻とそうシ其体力ヲ竭尽けつじんスルニ非ザルヨリハ何ゾヨク此大業ヲ遂ゲ以テ同学企図ノ本旨ニフヲ得ンヤ此ニ於テカ専心一意之ニ従事センガ為メニ始メテ俗累ぞくるいとおざクルノ必要ヲ見ル」余ヤ土陽僻陬どようへきすうノ郷ニ生レ幼時早ク我父母ヲうしなヒ後初メテ学ノ門ニ入リ好ンデ草木ノ事ヲおさまた歳華さいかノ改マルヲ知ラズ其間斯学ノタメニハ我父祖ノ業ヲ廃シ我世襲せしゅうノ産ヲ傾ケ今ハ既ニ貧富地ヲ疇昔ちゅうせき煖飽だんぽうハ亦いずレノ辺ニカ在ル蟋蟀こおろぎ鳴キテ妻子ハ其衣ノ薄キヲ訴ヘ米櫃べいき乏ヲ告ゲテ釜中ふちゅう時ニ魚ヲ生ズ心情紛々いずくんゾ俗塵ノ外ニ超然ちょうぜんタルヲ得ン耶」既ニ衣食ノ愁アリ塵外じんがいノ超然得テ望ム可ラズ顧レバ附托ノ大任横ハツテ眼前ニ在リ進ンデ一ニ身ヲ其業ニ委スル能ハズ此ニ於テカ余ハ日夜其任務ノ尽ス能ハザルヲうれヒ其公命ニそむクノ大罪ヲおそレ又遂ニ我素志ノ果ス可ラザルヲ想ヒ時ニ心緒しんちょ乱レテ麻ノ如キモノアリ」余今ハ既ニ此大業ヲ執リテ矻々こつこつ事ニ是レ従フト雖モ俗累ぞくるいちゅうヲ内ニ掣シテ意ノ如クナラズ其間歳月無情ゆきテ人ヲ待タズ而シテ人生寿ヲクル能ク幾時ゾ今ニシテ好機若シ一度逸セバ真ニ是レ一生ノ恨事こんじ之ニ過グルナシ千思せんし万考ばんこうすみやかニ我身ヲ衣食ノ煩累はんるいト絶ツノ策ヲ画スルノ急要ナルヲ見又今日本邦所産ノ草木ヲ図説シテ以テ日新ノ教育ヲたすク可キ者ノ我国ニ欠損けっそんシテ而シテ未ダ備ハラザルヲ思ヒ此ニ漸ク一挙両得ノ法ヲもとメ敢テ退食たいしょくノ余暇ヲぬすンデ此書ヲ編次シすなわ書賈しょこヲシテ之レヲ刊行セシメ一ハ以テ刻下教育ノ須要ニ応ジ一ハ以テ日常生計ノ費ヲ補ヒテ身心ノ怡晏いあんヲ得従容しょうよう以テ公命ニ答ヘント欲ス而シテ余ヤト我宿志しゅくしヲ遂ゲレバ則チ足ル故ヲ以テ彼ノ大学企図ノ大業ニ従フヲ以テ我畢生ひっせいノ任トナシ其任ヲ遂グルヲ以テ我無上の娯楽トナスノ外あえテ富貴ヲ望ムニ非ズ今ヤコノ書ノ発刊ニ臨ミテ之ヲ奇貨きかトシ又何ゾみだリニ巧言こうげんろうシテ世ヲあざむキ以テ名ヲもとメ利ヲ射ルノ陋醜ろうしゅうヲ為サンヤ敢テ所思ヲ告白シテ是ヲ序ト為ス」

時ニ明治三十年又二年己亥一月中澣ちゅうかん
結網けつもう学人 牧野富太郎 識


 然しこの書籍も私の生活を救うことにはならなかった。


可憐の妻


 その間、私の妻は私のような働きのない主人にも愛想をつかさず、貧乏学者に嫁いできたのを因果だと思ってあきらめてか、嫁に来たての若い頃から芝居も見たいともいわず、流行の帯一本欲しいといわず、女らしい要求一切を放って、陰になり陽になって絶えず自分の力となって尽してくれた。

 この苦境にあって、十三人もの子供にひもじい思いをさせないで、とにかく学者の子として育て上げることは全く並大抵の苦労ではなかったろうと、今でも思い出す度に可哀そうな気がする。

 こうして過ぎゆくうちにも松村教授との睽離のことがあって、私の月給はなかなか上げてもらえなかった。箕作みつくり〔佳吉〕学長は私に「君の給料も上げてやりたいが、松村君を差置いてはできない」といわれた。

 この苦境の中にあって私は決して負けまいと決心し、他日の活躍に備え潜勢力を貯えるのがよいと考え、論文をどしどし発表した。しかし金銭の苦労はともすれば、研究を妨げ、流石さすがに無頓着な私も明日は愈々いよいよ家の荷物が全部競売にされるという前の晩などは、頭の中が混乱してじっと本を読んでもいられなかった。この苦しい時に、私は歯をくいしばりながら一心に勉強し、千頁以上の論文を書きつづけた。この論文が後に私の学位論文となったものである。


池野成一郎博士との親交


 池野成一郎君は明治二十三年東大の植物学教室を卒業したが、私は彼とは極めて親しく交際した。池野と私とは、自然に気が合っていたというのか親友の間柄であった。東京郊外への採集にも二人で屡々出掛けた。アズマツメクサは、明治二十一年日本に産することが、はじめて判った植物だが、これも私と池野とが大箕谷おおみや八幡下の田圃たんぼで一緒に発見したものだ。池野は非常に学問の出来る秀でた頭脳の持主で、かの世界的発見たるソテツの精虫の発見などは、あまりにも有名な業蹟である。平瀬作五郎のイチョウの精虫発見なども池野に負うところが少なくない。

 池野は、はじめから私に対し人一倍親切であったし、私も池野に最も親しみを感じていた。『日本植物志』の刊行に際しても、また矢田部教授の圧迫を受けた時も、私は同君の大いなる助力を受けた。池野の友誼は私の忘れ得ないものだ。

 大学卒業後、池野は滅多に植物学教室へ見えなかったが、たまには来た。私は他から「僕は牧野君がいるからそれで行くのだ」といっていたと聞き、この上もなく嬉しく感じた。池野が夏に私の家へ訪ねて来ることがあると、早速上衣を脱ぎ、両足を高く床柱へもたせ、頭を下にし体をさかさまにして話をしたりしたものだ。こんな無遠慮なことが平気な程二人は親しかったのだ。


青山練兵場の「なんじゃもんじゃ」


 池野がまだ学生の頃、青山練兵場のナンジャモンジャの木(この木は本名をヒトツバタゴという)の花を採ろうと話し合い、夜中に採集を強行した事があった。樹が高くてとれないので一人の人力車夫を傭うてきて、樹に登らせ、その花枝を折らせた。夜中で人が見ていないから自由に採れたし、練兵場も荒れていて、この樹も後年のように大事がられなかったので、採集に成功したわけである。それに学術資料を採るのだから、そう罪にはなるまいと考えた。この時の花の標品が今なお私のハァバリウムの中に保存されているが、ナンジャモンジャの木は寿命が尽きて、数年前には枯れてしまったので、今では当時の標品がまたと得難き記念標品となっている。また当時本郷の春木町に、梅月という菓子屋があって、ドウランと呼ぶ栗饅頭式の菓子を売っていた。形が煙草入れの胴籃どうらん見たようで、この名があったのだが、大層うまかったので、池野と二人で度々食いに行ったものである。


世界的発見の数々


 昔、徳川時代の学者は木曾や日光に植物採集に出掛け随分苦心したというが、私の採集旅行の足跡に比べたら物の数ではないと思う。

 私は胴籃を下げ、根掘りを握って日本国中の山谷を歩き廻って採集した。しかもそれは昔の人とは比べものにならない程頻繁で且つ綿密なものであった。なるべく立派な標品を作ろうと、一つの種類も沢山採取塑定し、標品に仕上げた。この標品の製作には、私は殆んど人の手を借りたことはなかった。こうした努力の結晶は今日、何十万の標品となって、私のハァバリウムに積まれている。

 私はこれらの標品を日本の学問のために一般に陳列し、多くの人々の参考に供したいと、つねづね考えているが、資力がないために出来ず、塵に埋らせて置くを残念に思っている。

 私はこうして実地に植物を観察し、採集しているうちに随分と新しい植物も発見した。その数ざっと千五、六百にも達するであろうか。また属名・種名を正したり、学名を冠したりした。そのため、私の名は少しく世に知られてきた。

 私の発見中、世に誇り得るものと考え、植物学上大いなる収穫であったと信ずるものの名を次に挙げて見たい。


天城山の寄生植物と土佐の「やまとぐさ」


 明治十六年に、時の東京大学御用掛で、植物学教室に勤務していた大久保三郎氏が、当時大学で発行していた「文芸志林」に、伊豆天城山で珍しい寄生植物を発見した、この種類は、多分ラフレッシア科のものであろうと発表されたが、私がその前後に郷里の土佐で見つけていたツチトリモチ属の一種の標品を大学に送ってみると、はたして私の考え通り同属のものであったので、バラノホラ・ジャポニカ・マキノという学名で発表した。

 同じく十六年に矢田部博士発見のヒナノシャクジョウを土佐の故郷で採集し、露国のマキシモヴィッチ氏に送り学名を得たこともあった。明治十七年に私ははじめてヤマトグサを土佐で採集したが、その翌年に渡辺という人がその花を送ってくれたので、私は大学の大久保君と共に研究し学名を附し発表した。これによってはじめて日本にヤマトグサ科という新しい科名を見るに至った。この属のものは世界に於てただ三種、すなわち欧洲に一、支那に一、わが国に一という珍草である。


小岩村で「むじな藻」の発見


 明治二十一年頃にミゾハコベ科のエラチネ・オリエンタリス・マキノという植物を発表した。


 明治二十三年五月十一日、ハルゼミは最早ほとんど鳴き尽くして、どこを見ても青葉若葉の五月十一日、私はヤナギの実の標本を採ろうとして一人で東京を東にへだたる三里ばかりの、元の南葛飾郡小岩村伊予田ようだにおもむいた。江戸川の土堤内の田の中に、一つの用水池があって、その周囲にヤナギの類が茂って小池をおおうていた……。


 と私の採集記には、その頃のことをこんな風に書き出している。

 その江戸川の土堤内の用水池の周囲にヤナギが茂っているので、その実を手折たおろうとした刹那せつな、ふと水面を見ると異形なものが浮んでいるので、早速とりあげて見たが、全く見慣れぬ水草なので驚いて大学へ持帰り、皆に見せると、皆も非常に驚いたが、矢田部教授は書物の中に思い当たるものがあるといい、その学名を探してくれたが、これは当時僅かに欧洲と印度と濠洲の一部とにのみ産するといわれたムジナモであった。後に黒竜江の一部、朝鮮、満洲にも発見されるようになったが、当時この発見は正に青天の霹靂へきれきの感があったものだ。

 これと前後して私は、ヒシモドキという隣邦支那にのみ産するといわれていた植物を発見し、三十五年には伊勢の本郷というところで、寺岡、今井、植松の三氏の採集した新種を研究したところ、本邦ではじめて発見されたものであったのでこれに学名を下し、ホンゴウソウなる和名を附した。この植物は全体が紫色の小草で、葉がなく生えている様は一寸植物とは思えない姿をしている。

 同じ頃土佐で時久という人が同属のものを一種とって見せにきたが、これにはトキヒサソウ一名ウエマツソウなる和名及び学名を附した。この二種は皆熱帯産のものでこれをわが国に得たことは分布学上に興味ある問題をなげた。

 明治三十六年には、当時、東京博物館の天産課に勤務されていた桜井氏から、恵那山附近でとった標品を送られたが、これもわが国新発見のものであり、美濃出身の三好学君とこの桜井氏に敬意を表するためにミヨシア・サクライイ・マキノなる学名を附したが、その後不幸にしてマレー産に同属のものがあったのを知り、これを改称した。しかるに欧米の学者はユリ科に入れているが、私はこれは新科をつくるものとして研究した結果ペトライア・ミヨシア・サクライイ・マキノとした。

 明治四十年に私は日本の南部にヤッコ草という新属新科のものを発見し、ミトラステモン・ヤマモトイ・マキノとした。これは最も珍しい植物である。


第一の受難


 私の長い学究生活は、いわば受難の連続で、断えず悪戦苦闘をしながら今日に来たのであるが、まずこれを前後二つの大きい受難としてみることが出来る。

 私は土佐の出身で、学歴をいえば小学校を中途までしか修めないのであるが、小さい時から自然に植物が好きで、田舎ながらも独学でこの方面の研究は熱心に続けていたのである。

 それで明治十七年に東京へ出ると、早速知人の紹介で、大学の教室へ行ってみた。時の教授は矢田部良吉氏で、松村任三氏はその下で助手であった。それで矢田部氏などに会ったが、何でも土佐から植物に大変熱心な人が来たというので、皆で歓迎してくれて、教室の本や標品を自由に見ることを許された。それから私は始終教室へ出かけて行っては、ひたすら植物の研究に没頭した。

 その当時、日本にはまだ植物志というものが無かったので、一つこの植物志を作ってやろう──そういうのが私の素志であり目的であった。もと私の家は酒屋で、多少の財産もあり、両親には早く別れ兄弟は一人もないので、私がその家をついだので、財産は自由になるからその金で私は東京へ出たのである。で、植物志を出版するには土佐へ帰ってゆっくりやろうという考えであった。しかし植物志を作るには図を入れなければならぬが、その当時土佐には石版の印刷所がない。そこで一年間石版屋へはいって、石版印刷の稽古をしたのであった。それに自分でいうのも変だが、私は別に図を描く事を習ったわけではないが、生来絵心があって、自分で写生なども出来る。そこで特に画家を雇うて描かせる必要もないので、まずどうにか独力でやってゆけると考えたのである。

 ところが、そのうちに郷里へ帰ることが段々厭になって一つ東京でこれを出版してやろうという気になり、いよいよ著述にかかった。もっとも当時は植物学が今のように発展せぬ時代だから、そんな物を出版したところで売れはしない。で出版を引受ける書店のあろう筈もないので、自費でやることを決心し、取敢えず『日本植物志図篇』という図解を主にしたものを出版した。勿論薄っぺらなものではあったが、連続して六冊まで出した。大学の教室へ行って、そこの書物や標品を参考にしていたことはいうまでもない。

 しかるにこの時になって、矢田部博士の心が変わって来た。ある日、博士は私にむかって「実は今度自分でこれこれの出版をすることになったから、以後、学校の標品や書物を見ることは遠慮してもらいたい」

 こういう宣告を下された。大学からみれば、私は単なる外来者であるから、教授からこういわれてみれば、どうしようもないが私は憤慨にたえないので、矢田部博士の富士見町の私宅を訪ねて、

「今、日本には植物学者が大変少ない。だから植物学に志す者には、出来るだけ便宜を与えるのがわが学界のためである。つ先輩としては後進を引立てて下さるのが道であろうと思う。どうか私の志を諒として、今までのように教室への出入りを許していただきたい」

 そういって、大いに博士を説いてみたが、博士はうべなってはくれなかった。

 私が思い切ってロシアへ行こうと決心したのは、その時である。ロシアにはマキシモヴィッチという学者がいて、明治初年に函館に長くおったのであるが、この人が日本の植物を研究してその著述も大部分進んでいるという事であった。私はこれまでよくこの人に標品を送って、種々名称など教えて貰っていたが、私の送る標品には大変珍しいものがあるというので、大いに歓迎してくれ、先方からは同氏の著書などを送ってよこしたりしていた。この時分には私もかなり標品を集めていたからこれを全部持って、このマキシモヴィッチのもとへ行き大いに同氏を助けてやろうと考えたのである。しかし、この橋渡しをしてくれる人がないので、私は駿河台のニコライ会堂へ行って、そこの教主に事情を話してたのんだ。すると、よろしいと快諾してくれ、早速手紙をやってくれた。

 しばらくすると、返事が来たが、それによると、私からの依頼が行った時、マキシモヴィッチは流行性感冒に侵されて病床にあった。私の行く事を大変喜んでいたが、不幸にして間もなく死んでしまったということで、奥さんか娘さんかからの返事だったのである。それで私のロシア行きも立消えとなってしまった。


博士と一介書生との取組


 こんな訳で、私は独立して研究を進めるにしても、顕微鏡などの用意はないし、参考書は不自由だし、全く困ってしまった。そこで止むなく農科大学の教室へ行って、図などをそこで描かせてもらっていた。日本ではじめて私の発見した食虫珍草ムジナモの写生図はそこで描いたものである。

 しかし、考えてみると、大学の矢田部教授と対抗して、大いに踏ん張って行くということは、いわば横綱と褌担ぎとの取組とりくみみたようなもので、私にとっては名誉といわねばならぬ。先方は帝国大学教授理学博士矢田部良吉という歴とした人物であるが、私は無官の一書生に過ぎない。海南土佐の一男子として大いにわが意気を見すべしと、そこでは私は大いに奮発して、ドシドシこの出版をつづける事にし、今迄隔月位に出していたのを毎月出すことにした。

 植物には世界に通用する学名サイエンチフィック・ネームというものがあるが、その時分にはまだ日本では新種の植物に新たにこの学名をつける日本の学者は殆どなかった。そこで第七冊からは私は新たにこの学名をつけはじめ、欧文で解説を加え、面目を新たにして出すことになった。その時、親友の池野成一郎博士はいろいろ親切に私の面倒を見てくれた。

 その時、今は故人となられた杉浦重剛先生に御目にかかってこの矢田部氏の一件を話すと、先生も非常に同情して下すって、

「それは矢田部君が悪い。そんな事をするなら、一つ『日本新聞』にでも書いて、懲らしてやるがよい」

「日本新聞」といえば、当時なかなか勢力のあったもので、それに先生の知人がいるということであった。それからやはり先生が関係しておられたのであろう「亜細亜」という雑誌で、矢田部の著書より私の方が日本の植物志として先鞭をつけたものであるというような事が載った。これも杉浦先生の御指図であったそうである。

 またある時、矢田部氏の同僚である菊池大麓博士にこの事を話したところ、

「それは矢田部がしからぬことだ」

 と、私に大変同情して下すったこともある。こうした苦難の間にも、私はとにかく矢田部氏に対抗しつつ、出版を続けて十一冊まで出した。ところが、この頃になって、郷里の家の財産が少しく怪しくなって来た。私はこれまでの生活費だとか、書籍費だとか、植物採集の旅行費だとか、また出版費だとか、すべて郷里からドシドシ取寄せては費っていたので、無論そういつまでも続く筈はなかったのである。それで郷里からは一度帰って整理をしてくれといって来るので、やむなく私は二十四年の暮に郷里へ帰った。

 整理をすませたら、また出て来て今度は大いに矢田部氏に対抗してやる考えであった。ところが、私が郷里へ帰ったあとで、矢田部氏は急に大学を罷職になってしまった。もとより私との喧嘩が原因したわけでなく、他に大いなる原因があったのであるが、とにかく当面の敵が大学を退いてみると、また多少の感慨がないこともなかった。これでまず第一の受難は終ったわけだ。


浜尾総長の深慮


 次に来た受難こそ、私にとって深刻を極めたものであった、その深手を負ったその時の瘡痍そういがまだ今日まで残っているものがある。

 矢田部氏の後をついで大学の教授になったのは松村任三氏であるが、私は菊池大麓先生の推挙によってこの松村氏の下で、明治二十六年に助手としてはじめて大学の職員につらなることになった。丁度郷里の財産が無くなってしまった時に、折よく給料を貰うことになったので、大変都合がよかったかに思われるが、実はその時の給料がたった十五円で、私のこの後の大厄もこの時にすできざしているのである。

「芸が身を助ける程の不仕合せ」ということがあるが、道楽でやっていた私の植物研究はここに至って唯一の生活手段となったのである。が、何分学歴もない一介書生の身には、大学でもそう優遇してはくれず、といってそれに甘んじなければならぬ私の境遇であった。

 ところで、私の家庭はというと、もうその頃には妻もあるし子供も生まれるし、その上私は従来雨風を知らぬ坊ッチャン育ちであまり前後も考えないで鷹揚に財産を使いすてていたのが癖になっていて、今でも友人から「牧野は百円の金を五十円に使った人間だから──」なんて笑われるくらいで、金には全く執着のない方だったから、とても十五円位で生活が支えて行ける筈はなく、たといごくつましくやってもとても足りない。勢い借金をせずにはいられなかった。

 大学に勤めておれば、またそのうちにはどうにかなるだろうとそれを頼みの綱として、借金をしながら生活したわけであるが、それでとうとう殖えて遂に二千円程の借金が出来てしまった。

 その頃の大学の総長は浜尾新氏であった。法科の教授をしていた土方寧氏は、私とは同郷の関係もあり、私の窮状に大層同情して、例の『植物志図篇』を持出し、これを浜尾さんに見せて、

「こういう書物を著したりした人だから、もう少し給料を出してやってはどうか」

 こういう相談をしてくれた。浜尾さんはその書物を見て、

「これは誠に結構な仕事だ。学界のために喜ぶべきであるが、本人が困っているなら自費でやることは出来なかろうから、むしろ新たに、大学で植物志を出版するように計画したがよかろう」

 こういう事で、浜尾さんのお声がかりで『大日本植物志』がいよいよ大学から出版される事になった。そうなれば単なる助手と違って、私は特別の仕事を担当するので、自然給料も多く出せるから、一面は学界のためにもなり、他面には本人の窮状を救うことにもなるという浜尾さんの親切からであった。

 ところで、そうなると一方私の借金の整理もしておかねばならぬというので、これも同じ郷里出身の田中光顕伯や、それに今の土方君、今はく故人となった友人矢野勢吾郎君などが奔走して下すって、やはり土佐から出た三菱へ話をして、ともかく三菱の本家岩崎氏の助けで、ひとまず私の借金は片づいたわけであった。

 そこで肩が軽くなったので、これからうんと力を入れて、世界の何処へ出しても恥しくない様な素晴しい書物を出そうという意気込みで編纂に掛った。そしてようやく第一冊を出した。ところが、はしなくもここにまた私の上に大きい圧迫の手が下ることになった。


圧迫の手が下る


 その前から「植物学雑誌」というのがあって、これははじめ私共がこしらえて今でも続いているが、その雑誌へ私は日本植物の研究の結果を続々発表していた。これがどうも松村教授の気に入らなかったと見える。なおお話せねばならぬことは、私が専門にしているのは分類学なので、松村氏の専門も矢張り分類学で、つまり同じような事を研究していたのである。それを私ははばからずドシドシ雑誌に発表したので、どうも松村氏は面白くない、つまり嫉妬であろう。ある時、

「君はあの雑誌へ盛んに出すようだが、もう少し自重して出さぬようにしたらどうだ」

 松村氏からこういわれたことがある。しかし私は大学の職員として松村氏の下にこそおれ、別に教授を受けた師弟の関係があるわけではないし、氏に気兼ねをする必要も感じなかったばかりでなく、情実で学問の進歩を抑える理窟はないと、私は相変らず盛んにわが研究の結果を発表しておった。それが非常に松村氏のにふれた、松村氏は元来好い人ではあるが、どうも少し狭量な点があって、これを大変に怒ってしまった。他にもなお松村氏から話し出された縁組の事が成就しなかったのでそれでも大分感情を害した事などあり、それ以来、どうも松村氏は私に対して絶えず敵意を示されるようなことになった。事毎に私を圧迫する。人に対して私の悪口をさえいわれるという風で、私は実に困った。これが十年、二十年、三十年と続いたのだから、私の苦難は一通りではなかった。

 何よりも私の困ったのは、給料のあげて貰えぬ事であった。浜尾さんの親切で、せっかく仕事が与えられ、従って給料もあげてもらう筈であったが、当の松村教授がこんな訳で前にも記した『大日本植物志』の第一冊が出版せられても一向に給料をあげてくれない。

 前に述べたように一度借金の整理はしていただいたけれども、給料があがらぬ以上依然として生活に困るのは当然である。僅か十五円たまにあがれば二十円で子供が五人六人となる私共では到底生活は出来ない。そのうちには、また子供が生まれるとか、病気にかかるとか、死ぬとか、妻が入院するとか、失費は重なる。子供が多ければ、自然家も大きいのが必要になる。それに私は非常に沢山の植物標品をっていて、これがために余計な室が二つ位もいる。書物が好きでこれもかなり有っている。そんな訳で、不相応に大きな家が必要だった。

「牧野は学校から貰うのは家賃位しか無いのに、ああいう大きな家にいるのは贅沢だ」

 そういって攻撃されたりしたが、これも贅沢どころかやむなくそうしていたのだ。こんな風でまた借金が殖えて来た。金を借りるといっても、各々の仲間にそんな親切な人は少ないから、どうしても高い利子の金を金貸しから借りる。このために私が困ったことは、実に言うに忍びないものがある。

 当時の学長は箕作佳吉先生で、松村氏が私へ対する内情をよく知っておられたので、松村氏が私を密かに罷免しようとしても、箕作先生のいる間はその陰謀が達せられなかった。ところが学長が替って、他の科の人がなった時に、この方は私の事をよく知らないので、とうとう松村氏の言を聴いて私を罷職にしてしまった。しかしこれを聞くと、皆が承知しない。

「牧野を罷めさせることはない。そんな事をしては教室が不自由で困る、また教室の秩序も乱れる」

 こういって反対をした。それ程私は教室では重宝がられていたものと見える。この反対運動がやかましくなって、今度は私を講師という事にして、また学校へ入れる事になった。以来ずっとこれが今日まで続いているわけである。

 これは後の話であるが、停年制のために松村氏が学校を退いた。その時にある新聞に、

「私がどうでもやめねばならぬとすれば、牧野も罷めさせておいて、私はやめる」

 松村氏の言として、こんな事が書いてあった。真か偽か知らぬが、とにかく松村氏が私に敵意を持っておったという事は、なかなか深刻なもので、且つ連続的なものであった。しかし松村氏もとうとう私を自由に処分する事は出来ないで、却って講師にしなければならなかったというのは、全く松村氏の面目が潰れたといってよいわけになる。


池長植物研究所


 大学で出版しつつあった『大日本植物志』は、こうした中でされたのであるが、これが出ると、その精細な植物の記載文を見て、松村氏は文章が牛の小便のようにだらだら長いとか何とかいってこれに非を打つという風で、私も甚だ面白くない。そこでとうとう棄鉢すてばちになって四冊を出しただけで廃してしまった。もしあれが続いていたら、自分でいうのもおかしいが、世界に出しても恥しくなくまた一面日本の誇りにもなるものが出来たろうと、今でも腕をして残念に思っている次第である。その書は大学にあるから誰れでも一度見て下さい。

 大正五年の頃、いよいよ困って殆んど絶体絶命となってしまったことがある。仕方がないので、標品を西洋へでも売って一時の急を救おう──こう覚悟したのであるが、これを知った農学士の渡辺忠吾氏が大変親切に心配してくれて、この窮状を「東京朝日新聞」に出された。大切な学術上の標品が外国へ売られようとしているといって、それをひどく惜しむような記事だったが、これが大阪の「朝日新聞」に転載されて、図らずも神戸に二人の篤志家が現れた。一人は久原房之助くはらふさのすけ氏で、今一人は池長はじめという人である。池長氏はこの時京都帝大法科の学生だという事であったが、新聞社で相談をしてくれた結果、この池長氏の好意を受ける事になって、池長氏は私のために二万円だか三万円だかを投出して私の危急を救うて下された。永い間のことであり私の借金もこんな大金になっていたのである。その上毎月の生活費を支持しなくては、また借金が出来るばかりだからというので、池長氏は以後私のためにそれを月々償って下される事になった。

 この時分池長氏のお父様は既に亡くなっていられたが、この方は大変教育に熱心な人でそのための建物が神戸の会下山えげやま公園の登り口に建ててあった。そこへ私の大正五年までの標品を持って行って、ここに池長植物研究所というのをこしらえた。今でも私はここへ毎月行って面倒を見る事になってはいるが、いろいろの事情があって今は池長氏からの援助は途切れ途切れになっている。然しとにかく縁はつながっているのである。

 右の時に「大阪朝日新聞」には鳥居素川そせん氏がおり、その下に長谷川如是閑にょぜかん氏がいられて、私の面倒をよく見て下すった。また「東京朝日」には長谷川さんの兄さんの山本松之助氏が社会部長をしておられて、共々私の事について種々好意を示されたのであった。渡辺農学士は新聞に筆を執っておられたが、後健康の関係で、房州に去り、今は大網の農学校の校長をしておられるのである。この機会に諸氏の御好意を謝しておきたいと思う。

 こういう風で、とにかく私の困厄は池長氏のために助けて貰い、爾来今日に及んで私は依然大学の講師を勤めているのである。正式に学問をしなかったばかりでなく大学を出なかった私は、まだ教授でも何でもない。しかし私は運動などしてそれを得ようとはさらさら思っていない。また給料にしても、はじめから一度もあげてくれと頼んだ事はない。私はそんな事が嫌いである。それで今日私の貰っている大学の給料は僅かに大枚七十五円である(数年前久しぶりで十二円ばかりあげてくれたとき「鼻糞と同じ太さの十二円これが偉勲のしるしなりけり」と口吟くちずさんだ)。しかも三十七年勤続の私である。大抵給料というものは、三年なり五年なりにはあがるものであるが、私は依然として前記の額で甘んじている、今日七十五円で一家が支えられよう筈はないが、他は皆私が老骨に鞭打ってやっているのである、それ故不断甚だ忙しい。忙しいのはよいが、生活のためにこの物資を得る仕事で私の本来の研究がどの位妨げられているかはかり知られぬ、その点は平素非常に遺憾に思っている。私はまだ学界のために真剣に研究せねばならぬ植物を山のように持っているのに、歳月は流れわがよわい余す所幾何いくばくもない。感極って泣かんとすることが度々ある。

 今こそ私は博士の肩書を持っている。しかし私は別に博士になりたいと思わなかった。これは友人に勧められて、退きならぬ事になって、論文を出した結果である。私はむしろ学位など無くて、学位のある人と同じ仕事をしながら、これと対抗して相撲をとるところにこそ愉快はあるのだと思っている。学位があれば、何か大きな手柄をしても、博士だから当り前だといわれるので、興味がない。私が学位を貰ったのは昭和二年四月であるが、その時こんな歌を作って見た。


何の奇も何の興趣も消え失せて、平凡化せるわれの学問


 学位や地位などには私は、何の執着をも感じておらぬ。ただとして天性好きな植物の研究をするのが、唯一の楽しみであり、またそれが生涯の目的でもある。

 終わりに大学の植物学教室等の諸君は長い間松村氏が絶えず私を圧迫しつつあった時、いずれも皆私に同情して下さった、中にも五島ごとう清太郎博士、藤井健次郎博士は、陰になり日向ひなたになって、私を庇護して下さったので、私は衷心から感謝している。

 左の都々逸どどいつは、私が数年前に作ったものだが、私の一生はこれに尽きている。


草をしとねに木の根を枕、花と恋して五十年


 今では私と花との恋は、五十年以上になったが、それでもまだめそうもない。


全国の植物採集会に招かる


 私は商売上、旅行を何百遍となくしたが、費用がかかるから、地方の採集会に講師として招聘される機会を利用し幾らか謝礼をもらうと、それでまた旅行を続けたりした。そんなことが続き続きして今日に至っていたわけである。九州辺へは六年も続けて行ったこともある。私は日本全国各地の植物採集会に招かれて出席し、地方の同好者、学校の先生等に植物の名を教え、また標品に名を附してあげたりした。私の指導した先生だけでも何百人といる筈だと思う。

 だから、文部省はこの点で私を大いに表彰せねばいけんと思う。

 植物採集会で古いのは横浜植物会であって、創立は明治四十二年十月であり、私はこの会の講師であった。創立当時には原虎之助・岡太郎・笠間忠一郎・松野重太郎・福島亀太郎・鈴木長治郎等の人が熱心にこの会のために尽し、後には和田利兵衛・久内清孝・佐伯理一郎氏等も加わったが、素人であって学校の先生もかなわぬ人も少なくなかった。この会は事務所を横浜市弁天通の丸善薬局に置いていた。

 明治四十四年十月には、東京植物同好会が生まれた。私がこの会の会長となった。この会の方は田中常吉という人が世話人であった。


「植物研究雑誌」の創刊


 私は自分で自由にできる機関誌がなければ不便なので、大正五年四月「植物研究雑誌」を創刊した。五十円程借金して第一巻第一号を出版する運びとなった。私はこの雑誌の編集には相当の努力を払い、他の人の書いた原稿も、自ら仮名使いを訂正し、文字を正し、一々別の原稿紙へ写しとり、写真を張りつけたり、なかなか面倒なことをした。この雑誌は、いわば私の道楽であった。

 その発刊の辞には「本誌は時代之を生めり、我邦の現時は吾人をして寸時も放漫退嬰苟且偸安こうしょとうあんを許さざるなり、吾人は国民たるの名誉として、又学に勤むる者の常道として我大日本帝国をして将来世界の中心たらしめんが為に云々」の句にはじまり、「いたずらに花鳥風月に酔ひ、空文浮辞を弄して閑日月を送るが如きは是れ我輩の事に非ざるなり。余は之が為に実に既往三十余年の長日月間、敢て自家の利害を顧慮せず、敢て自家の毀誉褒貶を度外に措き、悪戦に次ぐに悪闘を以てし今日尚依然として甲装の一卒たり云々」の句がある。私はこの雑誌の巻頭を利用し、植物研究の如何に国家にとって緊急事なるかを説き、第一巻第一号には時の総理大臣大隈〔重信〕伯に進言せる卑見書を発表した。その骨子は、日本土産植物の根本調査の要、有用植物調査の急務、有用植物陳列館設置の急務、有用植物見本園設置の急務、日本有用植物志編成の急務、植物標本蒐集の急務、竹類調査の要等であった。

「植物研究雑誌」には私のいいたいことをどしどし書いた。試みに第一巻からその目次を拾って見ると「植学の語は日本にて作り、植物学の語は支那にて製す」「欵冬かんとうはふきに非ず」「槲か檞か」「はこねうつぎは箱根山に産せぬ」「蘇鉄は熱帯植物に非ず、椶櫚しゅろも亦然り」「きりしまつつじ霧島山に無く、うんぜんつつじ温泉うんぜん岳に産せず」等々の所論が満載されている。


中村春二先生と私


「植物研究雑誌」はその後、池長氏の方から援助を受けることが困難となり、継続的に刊行することが難しくなったが、私はこれを廃刊することなどは夢想だにもしていなかった。ところがこの時私は、成蹊学園長中村春二はるじ先生の知遇を得ることとなり、同誌はその結果枯草の雨に逢い、轍鮒てっぷの水を得たる幸運に際会することを得、秋風蕭殺の境から、急に春風駘蕩の場に転じた。

 当時の私の記録にも次のようにしたためてあった。


 ……枯草ノ雨ニ逢ヒ轍鮒ノ水ヲ得タル幸運ニ際会スルコトヲ得テ本誌ハ為メニ蘇生シ今後続々出版スルコトヲ得ルニ至リ秋風蕭殺ノ境カラ急ニ春風駘蕩ノ場ニ転ジタ是レハ全ク中村先生ガ学術ニ忠実ニ情誼ニ厚ク且ツ仁侠ノ気ニ富ンデ居ラルヽノ致ス所デ私ハ同先生ニ向ツテ衷心カラ感謝ノ意ヲ表スルモノデアル……


 これは全く中村先生が学術に忠実で、情誼に厚く、且つ仁侠の気に富んでおらるるの致すところで、私は深く感謝して止まなかった。私が先生を知ったのは、大正十一年七月で先生のべられておられる成蹊高等女学校の生徒に野州の日光山で植物採集を指導することを依嘱せられ、同先生其他同校職員の方々と共に同山に赴いた時、親炙しんしゃする機会に蓬著したわけである。日光湯元温泉の板屋旅館を根拠として、生徒は別の一棟に、中村先生と私とは二階に間をとったが部屋が隣なので色々な物語を交した。私は従来の身の上話や雑誌の事などを申上げたところ、先生はよくこれを聴かれあつき同情の心を寄せられ、私に対し非常な好意を示された。中村春二先生に関しては次の事を記さねばならない。それはその後同校の生徒と再び日光に行った時、同じ二階に校長の某氏と間をとった時、はじめて知って感激したのであるが、二度目に行った時は、以然中村先生がおられた部屋に私が入り、私のいた部屋に某氏が入ったのであるが、私が前年にいた部屋は、上等な良い部屋だったのに、今度は狭い次の間であった。思えば中村先生は私に客人としての礼を尽され、自らは次の間に下って私を良い部屋に入れて下すったわけであった。私は校長の某氏が良い部屋に収まり、私を次の間に入れ平然たるのを見て、世には良く出来た人間と、良く出来ぬ人間とのあることを、深く感じたのであった。


哀しき春の七草


 中村先生はまた『植物図説』刊行のため、毎月何百円かを私のために支出して下すった。その結果、出来た図は八十枚程あるが、不幸その後中村先生は、二豎にじゅの冒すところとなり、大正十三年二月二十一日溘焉こうえんとして長逝された。

 先生病重しの報を聴き、私は先生を慰めんものと、正月の一日鎌倉に赴き、春の七草を採集し、これに名を付し、籠に盛って差上げたところへ先生は非常にこれを喜ばれ、正しい春の七草をはじめて見たといわれ、七草粥にする前に暫く床の間に置いて楽しまれたということである。先生の長逝は、私の事業にとって一大打撃であったが、それよりも私の最もよき理解者、心の友を失った悲しみは耐え難いものがあった。先生は最後迄私のことを気に懸けていて下すって、先生の後継者たるべき校長の某氏を呼んで遺言された時、「牧野を援助するように」と呉々くれぐれも言われたそうであったが、某氏はしかし私に対しては極めて冷淡であり、援助もやがて途絶えてしまった。

 私は先生遺愛のすずりを乞い受け、今でも坐右に置いている。また大学で同じ植物学を専攻している中村浩君は先生の次男である。

 私は『植物図説』の刊行を断乎としてやり遂げる決心でいる。私はその巻頭に中村先生の遺徳を偲んで、図説刊の由来を銘記し、霊前に捧げようと考えている。


大震災


 震災の時は渋谷の荒木山にいた。私は元来天変地異というものに非常な興味を持っていたので、私はこれに驚くよりもこれを心ゆく迄味わったといった方がよい。当時私は猿又一つで標品を見ていたが、坐りながらその揺れ具合を見ていた。そのうち隣家の石垣が崩れ出したのを見て家が潰れては大変と庭に出て、庭の木につかまっていた。妻や娘達は、家の中にいて出て来なかった。家は幸いにして多少の瓦が落ちた程度だった。余震が恐いといって皆庭にむしろを敷いて夜を明したが、私だけは家の中にいて揺れるのを楽しんでいた。後に振幅が四寸もあったと聴き、庭の木につかまっていてその具合を見損ったことを残念に思っている。その揺っている間は八畳座敷の中央で、どんな具合に揺れるか知らんとそれを味わいつつ座っていて、ただその仕舞際しまいぎわにチョット庭に出たら地震がすんだので、どうも呆気あっけない気がした。その震い方を味わいつつあった時、家のギシギシと動く騒がしさに気を取られそれを見ていたので、体に感じた肝腎要めの揺れ方がどうも今はっきり記憶していない。何といっても地が四五寸もの間左右に急激に揺れたのだから、その揺れ方をしっかと覚えていなければならん筈だのに、それを左程さほど覚えていないのがとても残念でたまらない……もう一度生きているうちにああいう地震に遇えないものかと思っている。

 震災では「植物研究雑誌」第三巻第一号を全部焼いてしまった。残ったのは見本刷七部のみであった。震災後二年ばかりして、渋谷から石神井しゃくじい公園附近の大泉に転居した。標品を火災その他から護るためには、郊外の方が安全だと思ったからである。


博士号の由来


 私は従来学者に称号などは全く必要がない、学者には学問だけが必要なのであって、裸一貫で、名も一般に通じ、仕事も認められれば立派な学者である、学位の有無などでは問題ではない、と思っている。

 今迄も理学博士にしてやるから、論文を提出しろとよくいわれたが、私は三十年間も意地を張って断ってきた。しかし、周囲の人が後輩が学位をもっているのに、先輩の牧野が持っていぬのは都合が悪いから、是非論文を出せと強いて勧められ、やむなく学位論文を提出することにした。学位論文はなるべく内容豊富でまとまったものがよいというので、従来「植物学雑誌」に連続掲載していた欧文の論文千何頁かの本邦植物に関する研究を本論文とし、『大日本植物志』その他を参考として提出し、理学博士の学位を得た。私は、この肩書で世の中に大きな顔をしようなどとは少しも考えていない。私は大学へ入らず民間にあって大学教授としても恥しくない仕事をしたかった。大学へ入ったものだから、学位を押付けられたりして、すっかり平凡になってしまったことを残念に思っている。

 博士号を受けて作った歌には、ややそのころの感懐が表れている。


わがこゝろ

われを思う友の心にむくいんと

   今こそ受けしふみのしるしを


その刹那の惑

何の奇も何の興趣も消え失せて

   平凡化せるわれの学問


おなじ

年寄りの冷水の例また一つ

   世界に殖えし太平の御代


とつおいつ

とつおいつ受けし祝辞と弔辞の方へ

   何と答えてよいのやら


苦しい思い

今日の今まで通した意地も

   捨てにゃならない血の涙


たとえ学問のためとはいえ、両親のなきあと酒造る父祖の業をほしいまゝにめてその産を使い果たせし我なれば

早く別れてあの世にます

   父母におわびのよいみやげ


鼻糞と同じ太さの十二円

   これが偉勲のしるしなりけり


妻の死と「すえこざさ」の命名


 昭和三年二月二十三日、五十五歳で妻寿衛子すえこは永眠した。病原不明の死だった。病原不明では治療のしようもなかった。世間には他にも同じ病の人もあることと思い、その患部を大学へ差上げるからそれを研究してくれと大学へ贈った。

 妻が重態の時、仙台からもってきた笹に新種があったので、私はこれに「すえこざさ」と命名し、「ササ・スエコヤナ」なる学名を附して発表し、その名は永久に残ることとなった。この笹は、他の笹とはかなり異なるものである。私は「すえこざさ」を妻の墓に植えてやろうと思い、庭に移植して置いたが、それが今ではよく繁茂している。


亡き妻を想う


 私が今は亡き妻の寿衛子と結婚したのは、明治二十三年頃──私がまだ二十七、八歳の青年の頃でした。寿衛子の父は彦根藩主井伊家の臣で小沢一政といい、陸軍の営繕部に勤務していた。東京飯田町の皇典講究所にのちになったところがその邸宅で、表は飯田町通り、裏はお壕の土堤でその広い間をブッ通して占めていた。母は京都出身の者で寿衛子はその末の娘であった。寿衛子の娘の頃は裕福であったため踊りを習ったり、唄のお稽古をしたり、非常に派手な生活をしていたが、父が亡くなった後、その邸宅も売りその財産も失くしたので、その未亡人は数人の子供を引き連れて活計のため飯田町で小さな菓子屋を営んでいたのです。

 青年のころ私は本郷の大学へ行く時その店の前を始終通りながらその娘を見染め、そこで人を介して遂に嫁に貰ったわけです。仲人は石版印刷屋の親爺──というと可笑しく聞えるけれど、私は当時大学で研究してはいたが何も大学へ就職しようとは思っていず、一年か二年この東京の大学で勉強したらすぐまた土佐へ帰って独力で植物の研究に従事しようと思っており、自分で植物図譜を作る必要上この印刷屋で石版刷の稽古をしていた時だったので、これを幸いと早速そこの主人に仲人をたのんだのです。まあ恋女房という格ですネ。

 当時私は麹町三番町にあった同郷出身の若藤宗則という人の家の二階を間借していたのだが、こうして恋女房を得たのだから早速そこを引き揚げて根岸の御院殿跡にあった村岡という人の離れ屋を借り、ここで夫婦差し向いの愛の巣を営んだ。そうして私にはまだ多少の財産が残っていたので始終大学へ行って植物の研究をしていたが、翌二十四年ごろからはその若干の私の財産も残り少なになってしまったのです。そこで二十四年から二十五年にかけて家政整理のために一たん帰郷したが、私が土佐へ帰っている間に、当時の東大植物学教授の矢田部良吉博士が突然罷職になり、間もなく大学から私のもとへ手紙が来て君を大学へ入れるから来いといって来たのです。しかし私は只今家政整理中ゆえ、それが終り次第上京するからと返事しておいたが、翌二十六年一月に長女の園子が東京で病死したので急遽上京し、そのついでに大学に聴き合せたところ君の位置はそのままあけてあるから何時でも入れというので、私ははじめて大学の助手を拝命、月給十五円の俸給生活者になった訳です。

 ところで私の宅ではそれから殆ど毎年のように次ぎ次ぎと子どもが生れる。月給は十五円でとてもやりきれぬし、そうむやみに他人が金を貸してくれる訳もなく、ついやむなく高利貸から借金をしたが、これが僅か二、三年の間に忽ち二千円を突破してしまったのです。そこで同郷の土方寧博士や田中光顕伯が大変心配して下さって借金整理に当たることになり、田中伯の斡旋で三菱の岩崎が乗り出してくれてともかく二千円の借金を綺麗に払って下さったのです。それから土方博士が当時の浜尾東大総長に私を紹介してくれ、そこで浜尾総長が非常に心配して下され、総長の好意で私が『大日本植物志』の編纂に従事することになった。つまりただの助手では俸給が決まっていてなかなか上るものではないが、こういう特別の仕事をすれば私の収入もふやすことが出来よう、という浜尾総長の御厚意からであったが、この私の大事業に対して当時の植物学の主任教授松村博士がどういう訳かいろいろな妨害をされた。のち故あってせっかくの『大日本植物志』も第四集のまま中止することとなったのです。従ってまた私の収入はビタ一文もふえなくなってしまったので、そこで私は生活上止むを得ず、私の苦心して採集した標本の一部を学校へ売ってみたり、書物を書いたりして生活上の赤字はどうしても私の腕で補ってゆかねばならなかったのです。ところが子沢山、結局しまいには十三人もの子どもが出来てしまったので私の家の生活が、月給十五円から二十五円(十三人目の子供が出来た時の俸給が二十円から二十五円でした)ぐらいの俸給と、私の痩腕による副収入とではとてもやってゆけるものではなく、また忽ち各方面の借金また借金がふえてその後長いこと私は苦しまねばならなかったのです。

 その時丁度天の使のように私の眼の前に現れて来て下さったのが、当時某新聞社の記者をしていた農学士の渡辺忠吾君──一時京都の農学校の校長をしていて今は確か帝国農会の理事か何かしているはずです──でした。この渡辺君が非常に私に同情してくれて「こんな窮状にあることは思い切って世の中へ発表した方がいいでしょう。きっと何かお役にたつこともあるかも知れないから」と極力すすめ、かつは私を激励してくれたので、私もとうとうこの時はじめてわが生活の内容を世間に発表してしまったのです。すると早速私を救済しよう、という人が二人出て来ました。一人は久原房之助氏、他の一人はまだ京大の学生であって、後の実業家池長孟氏であった。そこで渡辺君の勤め先の新聞社の斡旋で結局池長さんが私の負債を払ってくれることになり、これを綺麗に清算してくれた上で神戸に池長植物研究所をつくられたのです。それのみならず当時池長さんは月々若干の生活の補助を私にして下さったのであり、私にとって終生忘れることの出来ない恩人になっています。畢竟ひっきょう右の池長植物研究所の名も実は牧野植物研究所とすべきであったが、私は池長氏に感謝の実意を捧ぐるためにその研究所に池長の姓を冠したのでした。

 さて私はここで話を最初にもどして、死んだ家内の話を申し上げて見たい。何故ならば私が終生植物の研究に身を委ねることの出来たのは何といっても、亡妻寿衛子のお蔭が多分にあり、彼女のこの大きな激励と内助がなかったら、私は困難な生活の上で行き詰って仕舞ったか、あるいは止むを得ず商売換えでもしていたかも知れませんが、今日思い返して見てもよくもあんな貧乏生活の中で専ら植物にのみ熱中して研究が出来たものだと、われながら不思議になることがあります。それほど妻は私に尽してくれたのです。債権者が来てもきっと妻が何とか口実をつけて追っ払ってくれたのでした。いつだったか寿衛子が何人目かのお産をしてまだ三日目なのにもう起きて遠い路を歩き債権者に断わりに行ってくれたことなどは、その後何度思い出しても私はその度に感謝の念で胸がいっぱいになり、涙さえ出て来て困ることがあります。実際そんな時でさえ私は奥の部屋でただ好きな植物の標本いじりをやっていることの出来たのは、全く妻の賜であったのです。

 寿衛子は平常、私のことを「まるで道楽息子を一人抱えているようだ」とよく冗談にいっていましたが、それはほんとうに内心そう思っていたのでしょう、何しろ私は上述のような次第でいくら借金が殖えて来ても、植物の研究にばかり毎日夢中になっていて、家計の方面では何時も不如意勝ちで、長年の間妻に一枚の好い着物をつくってやるでなく、芝居のような女の好く娯楽は勿論何一つ与えてやったこともないくらいであったのですが、この間妻はいやな顔一つせず、一言も不平をいわず、自分は古いつぎだらけの着物を着ながら、逆に私たちの面倒を、陰になり日向になって見ていてくれ、貞淑に私に仕えていたのです。

 大正の半ばすぎでした。上述のような次第でいろいろ経済上の難局にばかり直面し、幸いその都度つど、世の中の義侠心に富んだ方々が助けに現れてようやく通りぬけては来たものの、結局私たちは多人数の家族をかかえて生活してゆくには何とかして金を得なければならないと私は決心しました。それも煙草屋とか駄菓子屋のようなものではとても一同がやってゆけそうにないが、一度は本郷の竜岡町へ菓子屋の店を出したこともあった。そこで妻の英断でやり出したのが意外な待合まちあいなのです。

 これは私たちとしては随分思い切ったことであり、私が世間へ公表するのはこれがはじめてですが、妻ははじめたった三円の資金しかなかったに拘わらずこれでもって渋谷の荒木山に小さな一軒の家を借り、実家の別姓をとって〝いまむら〟という待合をはじめたのです。私たちとはもとより別居ですが、これがうまく流行はやって土地で二流ぐらいまでのところまで行き、これでしばらく生活の方もややホッとして来たのですが、矢張り素人のこととてこれも長くは続かず、終わりにはとうとう悪いお客がついたため貸倒れになって遂に店を閉じてしまいましたが、このころ、私たちの周囲のものは無論次第にこれを嗅ぎ知ったので「大学の先生のくせに待合をやるとはしからん」などと私はさんざん大学方面で悪口をいわれたものでした。しかし私たちには全くやましい気持はなかった。金に困ったことのない人たちは直ぐにもそんなことをいって他人の行動にケチをつけたがるが、私たちは何としてでも金を得て行かなければ生活がやってゆけなく全く生命の問題であったのです。しかもこの場合は妻が独力で私たちの生活のために待合を営業したのであって、私たち家族とはむろん別居しているのであり、大学その他へこの点で、何等迷惑をかけたことはごうもなかったといってよいのです。それゆえに時の五島理学部長もその辺よく了解し且つ同情していて下されたのです。

 こうしてとにかく一時待合までやって漸く凌いで来たのち、妻は私に目下私たちの住んでいるこの東大泉の家をつくる計画を立ててくれたのです。妻の意見では都会などでは火事が多いから、せっかく私の苦心の採集になる植物の標本などもいつ一片の灰となってしまうか判らない。どうしても絶対に火事の危険性のないところというので、この東大泉の田舎の雑木林のまん中に小さな一軒家を建ててわれわれの永遠の棲家としたのです。そうしてゆくゆくの将来は、きっとこの家の標本館を中心に東大泉に一つの植物園をこしらえて見せよう、というのが妻の理想で私も大いに張り切り、いよいよ植物の採集にも熱中したのですが、これもとうとう妻の果敢はかない夢となってしまいました。この家が出来て喜ぶ間もなく、すなわち昭和三年に妻はとうとう病気で大学の青山外科で歿くなってしまったからです。享年五十五でした。妻の墓はいま下谷谷中の天王寺墓地にあり、その墓碑の表面には私の咏んだ句が二つ亡妻へのとこしなえの感謝として深く深く刻んであります。


家守りし妻の恵みやわが学び

世の中のあらん限りやスエコ笹


 この〝スエコ笹〟は当時竹の研究にっており、ちょうど仙台で笹の新種を発見してそれを持って来ていた際なので、早速亡妻寿衛子の名をこの笹に命名して永の記念としたのでした。この笹はいまだにわが東大泉の家の庭にありますが、いずれ天王寺の墓碑の傍に移植しようと思っています。

 終わりに臨んで私は私の約半世紀も勤め上げた大学側からは、終始いろいろの堪えられぬような学問的圧迫でいじめられ通しでやって来ました。しかし今日私の心境はむしろ淡々としていてこんなつまらぬことは問題にしていません。由来学者とはいうものの、案に相違した偏狭な、そして嫉妬深い人物が現実には往々にしてあることは、遺憾ながら止むを得ません。しかし私は大学ではうんと圧迫された代わりに、非常に幸運なことには世の中の既知、未知の方々から却って非常なる同情を寄せられたことです。

 私は幸い七十八歳の今日でも健康にはすこぶる恵まれていますから、これからの余生をただひたすらわが植物学の研究に委ねて、少しでもわが植物学界のために貢献出来れば、と念じているばかりです。


科学の郷土を築く


学問の環境に育つ

 私の二十歳といえば、明治十四年のことで、私がはじめて、東京の空気に触れて、故郷にかえっていた頃でした。

 私の郷里は、高知県高岡郡佐川町ですが、そこは、藩主山内侯の特別待遇をうけていた国家老深尾家が治めていたところで、士族の多い市街だったのです。

 街には「名教館めいこうかん」という学校があって孔孟の教が教えられ、算数の学が講ぜられなどして、学問も随分盛んでした。当時高知についでの学問地だったのです。

 でもその時代は士族とか町人とかの区別が厳しく残っていて、学問は主に士族の間にのみ盛んでした。そして、田中光顕伯、土方寧博士、広井勇博士などの名士を送り出しました。

 私は酒屋の子供だったのですが、こうした学問の環境中に育って来たのです。そして、時勢は次第に学問の必要を理解するようになった。学問を士族の特権と考えるような時代は過ぎ去りました。


郷土へ新しき知識を

 私は二十代の頃世の中の進歩開化のためには、どうしても科学を盛んにしなければならぬと痛感して、私が先に立って郷里に「理学会」をつくり、郷土の学生を集めて講演をしたり、蒐集した書籍を提供したりして郷土民の啓蒙に努力しました。こうしたいろいろの方面に関係して行くうち雑誌創刊の必要に迫られて「格致雑誌」をつくりました。勿論その時分は郷里に印刷機もありません。自分で書いて、それを冊子とし同輩の人々に回覧せしめたものでした。その時井上哲次郎博士に序文を頂こうと思って当時東京にいた土方寧氏を煩わしましたが、何かの都合で有賀長雄あるがながお先生から「格致の弁」という名文を貰って喜んだことなどを覚えています。こうしたことも結局郷土人に科学の知識を涵養かんようしようとする私の努力だったのです。

 その頃郷土の学校に唱歌という課目があったが、師範学校に一台のオルガンがあるだけで郷里にはこれなくどうしても正確な教授も出来なかったので、私は自費で一台のオルガンを買って郷土の学校に寄附したことなどもありました。自分はどうかして新しい知識を郷里に入れようと努めていたのです。

 当時は私の家には財産があったので、この頃は学問に遊んでいたのです。親が早くなくなったので親よりの制裁もなく、自分のおもうままに好きな植物研究に入って行ったのです。

 こうして自分の研究を進める一面、自分は方々より集めた本を郷土の人々に紹介しては読書の関心を強めようとしていたのです。


研究に没頭して、遊惰を省みない

 二十代を顧りみて、いままでによかったと思うことが一つある。丁度その頃僕達の市街にもいろいろの料理屋などが出来て、思想の定まらない青年達はその感覚の魔界におぼれて随分その前途をあやまったものが多かった。しかし自分は植物の研究に自らの趣味も感じていたので花柳のちまたには足を入れようとは思わなかった。またその時分もしも酒に親しむような悪習に染まっていたならば、あるいは酔いに乗じて酒に飲まれていたかもしれない。小さい時から酒を呑まなかったことは正しく身を守ることを保証しているのです。

 私は現在七十四歳です。でも老眼でもなく血圧も青年のように低い。動脈硬化の心配もない。医者の言葉ではもう三十年もその生命を許される、との事である。酒や煙草を呑まなかったことの幸福を今しみじみとよろこんでいる。

 青年は是非酒と煙草をやめて欲しい。人間は健康が大切である。われらは出来るだけ健康に長生きをし、与えられたる使命を重んじ、その大事業を完成しなければならぬ。身心の健全は若い時に養わねばならぬ。

〔補〕右は昭和十年に書いて公にしたものである。私は昭和十八年の今日八十二歳ですが、幸に元気は頗る旺盛で一向に老人の様な気がしない。故に牧野翁とか牧野叟とか牧野老とか署するのはこの上もなく嫌いで、また人からそう呼ばれるのも好まない。頭は白髪を戴いて冬の富嶽の様だが、心は夏の樹木の様に緑翠である。つまり葉鶏頭はげいとう(老少年)なる植物が私を表象している、まだこれからウントがんばれる。めでたしめでたし。


学内事情


 これは昭和十四年七月二十五日「東京朝日」に掲載されたものである。


四十七年勤めて月給七十五円

 東大を追われた牧野博士

  深刻な学内事情の真相をあばく

 わが植物学界の国宝的存在牧野富太郎博士が四十七年間即ち半世紀の長きにわたって奉職していたその東大の植物学教室から今度追われる如く、あるいは自ら追ん出る如くにして、老の身を教壇から退かなければならなかったというニュースほど、このごろの学界に様々の話題と深刻な疑問を投げかけたものはない。記者はその間のいきさつ或はその背後にある大学の内部事情、学閥などについて知り合の或学界通B君にくわしく質問して見たから読者諸君の御参考のために以下問答体でその話をなるべく正直に御紹介しよう。Aはむろん質問者たる記者である。

 A さっそくながら今度の牧野博士事件についての真相を聞かせてもらいたいね。一体博士はなぜ辞表を出したんだ?

 B それは、ちょっと簡単に言えないね。博士ももう七十八歳の高齢だ。したがって後進に道をゆずるため、去年頃から適当な機会に大学を辞めるだろう、というような噂は一般にあったし、実際は博士自身にさえその腹はあったらしいんだ。

 A それにしては新聞で見ると、今度という今度は、博士も大分怒って辞表を出したらしい形跡じゃないか?

 B まあ待て待て、先を急ぐなよ。むろん、今度の場合は、さしも平常はのんき一本槍で通って来た牧野先生も、カンカンに怒ったんだよ。それもぼくから言わせれば無理のない話だ。なぜって新聞にもちょっと出たから、君も大体知っているだろうが、五月の或る日のことだ。あの東大泉の雑木林の中の博士の陋屋ろうおくへ、はるばると東武電車に乗って東大理学部長寺沢寛一先生の代理なる者が、博士に面会にやって来たんだよ。それで博士が、ていちょうに上げて見ると、それが何と理学部植物学教室のただの事務員(著者註、この時使いしたのは植物学教室の助手M・Sの二氏であった)なんだ。そして何を言い出すかと思うと、あの無邪気でのんきな老先生に向って、先生は、もう、先日来、適当の機会に辞表を出したいと言っておられたが、大学でも待っているから、早い方がいい、今日辞表を出してくれないか、という主旨の申込みなんだ。

 しかもその間には、七十八歳の高齢の博士に対して、ずいぶん、失礼な言辞があったらしい。それで、さしも日頃のんきな老先生も、カンカンになって、その無礼に対し怒り出し、また博士の家のおとなしいお嬢さんも、となりの部屋でただ聞いているには忍びなくなって飛び出し〝何という失礼なことをあなたは老人になさるんです! お帰りなさい、お帰りなさい!〟と、とうとう大声で泣き出してしまったという秘話まであるんだ。そこで、若い事務員は、ほうほうのていたらくで、大学へ逃げ帰ったんだが、一本気の牧野先生は、もう腹の虫がおさまらないで、サッサと辞表を提出してしまったんだ。博士も先日東大で発表したように、どうせ、もう大学を辞めてもいいと思っていたし、御自身は大学に対しては、ちっとも未練はなかったんだよ。ただ同じ辞めるにしても、大学がもっと博士に礼儀をつくしてくれればよかったんだね。

 のみならず、博士が辞職の決意をして大学へあいさつに行くと、当の理学部長の寺沢寛一先生は、肝心の事務員事件をあまり御存知ないらしいんだ。それでとうとうこの事件は植物学の某教授の博士追出し策に過ぎない、という疑惑がようやく濃厚になり、世間でもその教授に対して〝忘恩教授〟などと陰口をきくようになったんだよ。

 A それにしても、だいたい大学講師の停年はいくつなんだい?

 B 冗談言っちゃいけない。ただのはかない嘱託にすぎない大学講師なんかに停年なんかあるものか。強いて言えば講師は毎年毎年その三月には停年(?)なんだ。というのは原則として講師は一年単位の臨時やといだからね。停年制のあるのは教授、助教授、さては助手など東京帝国大学官制第一条に、ちゃんと明記されている官吏だけなんだよ。講師については、帝国大学令第四条に「必要アル場合ニ於テハ帝国大学総長ハ講師ヲ嘱託スルコトヲ得」と規定されてあるだけなんで、そもそもの初めをいえば講師なんか、大学になくたってちっともおかしくはない存在なんだ。

 A それで実際の待遇の差はどうなんだ。

 B 官吏たる助教授、教授などは元来、そうとうの実質上、待遇を受けている。それに各学部で定員がちゃんと治まっているから、うかつに教授に長生きされると、その下の助教授などは全くの万年助教授で一生浮かばれんことになる。それで停年制というのが出来上ったのだが、その代り停年で辞めるような連中には、ちゃんと恩給がついていて、老後の生活は保証されているんだ。ところが講師の場合だが、いいかい? さっき言った毎年毎年辞令の出るような講師の俸給は、元来、毎週その講師が受け持たされている、たとえば毎週一時間の講義をする講師の年俸は大体百五十円から、二百円、二時間講義をするものはその二倍の三百円から四百円という風に、慣習的に相場がきまっているんだ。だから一時間講義をする先生は、月割にすれば、たった十二三円の月給取りという勘定になる。ふつうの講師は毎週二時間から四時間だから、その中をとれば月給は大たい三十八円というわけさ。ところがわが牧野老先生は、本年七十八歳、四十七年間もの長い間講師を勤めあげた甲斐があって、講師としては最高の月給取りなんだが、それが先日来、問題の月給七十五円なんだ。これは大学講師としては異例の異例と言っていいくらいの高給取りなんだが、他方官吏たる職員の場合を考えると、七十五円なんて端っ葉は、学校出たてのホヤホヤ二十代の青二才のような助手でも立派にとる俸給に過ぎない。だから大学講師としてつづける限り、先生が百歳まで長生きをなきろうと、百円のサラリーマンにはなかなか及びもつかない待遇しか、大学から受けられんわけさ。

 A なる程、それなら牧野博士のような大学者を大学では、なぜ、そんな半世紀もの長い間単なる講師として放任して置いたんだ。博士は一体それで生活できたのかい。また、博士は大学から見れば、ほんとの学者じゃないとでもいうのかい。

 B 博士が学者じゃないとバカなことは冗談にも言い給うな。この点では本職の大学がやはり、博士の博い学殖を一番知っていることだろう。なぜって、明治のころ、わが国の植物学者が、植物を採集して来ては、それを自分で学名がつけられないので、標本を一々外国に送っては、向うの先生に学名をつけてもらっていたころ、牧野博士が出現して、はじめて独力で、どしどし新学名をつけられ、後世の学者はそれを真似るようになったんだし、現に、いま六千種からある日本の植物のうち、千五百種以上の学名は、博士がたった一人で名づけ親になっているといわれているんだからね。また、ドイツの故エングラー博士、アメリカのベイリー博士などの世界的学者が、日本の植物学者に頭を下げたのは、ただ、わが牧野老先生だけだったんだからね。そんじょ、そこいらの自称学者先生とは、けたちがいの大学者なんだ。三宅驥一博士はかつて、牧野博士のことを「百年に一度出るか出ないかの大学者」とまで折り紙をつけて激賞されたんだ。事実、博士に一目にらまれると日本のどんな地方の植物でも、それが草の切れっぱし、葉の一片はおろかなこと、あの識別のもっとも至難とされているところの、ただの芽生えがあっただけで、その植物が何科の植物で、どんな性質のものか、いっぺんで正体が暴露されてしまうというんだから、俗な表現だが、まったく天才というのほかないよ。……


自動車事故


 今から七年程前になるが、大学からの帰途、街で拾った円タクで白山上を通過した時、前方から疾走してきた自動車と衝突し、大怪我をした。窓ガラスで顔を切り、ひどく出血した。直ちにハンカチで傷口を押えながら、大学病院に駈けつけて、七針か八針縫って貰った。この事故で眼をやられず、動脈をやられなかったことは幸いであった。

 退院したては人相が悪かったが、思ったより早くよくなった。医者は酒を呑まないから全快が早いのだと喜んでくれた。


朝日賞を受く


 昭和十二年一月二十五日朝日新聞社から昭和十一年度の朝日賞〔朝日文化賞〕を贈られた。

 これは私の過去五十年間の研究集大成として『牧野植物学全集』を完成し、昭和十一年十一月に刊行したが、これに対し贈られたものである。

 当時の「朝日新聞」には「(牧野)博士が命名した新種一千を越え、新変種及び新に改訂した学名を加えれば一千五百に達している。従って世界の植物分類学者で牧野博士の名を知らぬものは殆どない。……真正の国宝的学者といっても過言でない。現在各帝大その他の学校、研究所にいる数十名の植物分類学者を始め、全国に分散している植物同好者数百名は直接間接に博士の指導を受けた門下生といってもよいものである。博士が日本植物分類学の創設者、日本植物研究の第一人者たるの功績は没すべからざるものであるが、同時に日本の植物分類学者の大多数に親切に手ほどきして、養成した功労も亦甚大なるものであるといわねばならない」とあった。


燦たる栄誉の蔭に

 血の滲む不撓の精励

 文化史に不滅の足跡

  十一年度朝日文化賞が讃える業績

「文化日本」のため絶大な貢献をなした功績者として一月二十五日東京朝日新聞社において昭和十一年度の「朝日賞」を贈呈される九氏──わが植物学界の至宝、牧野富太郎氏……

日本植物分類学の始祖

 輝く研鑽五十年の集大成

  斯界の至宝牧野博士

         …………

 牧野博士が受けた賞牌には、

 一、日本植物分類の研究

 本邦の植物分類に専念すること五十年、この全的努力は遂に昭和十一年十一月牧野植物学全集を完成し、わが植物学界に貢献すること多大なり。

 右貴下の功績を賞讃し、本社朝日文化賞規定により表彰候也。


 とある。

 朝日賞の詮衡に当たって、新聞社の人が大学の教室に見えた時、柴田桂太博士をはじめ皆喜んで賛成してくれたが、ただ一人某博士のみは私のことを悪口し、散々にこき下したので新聞社の人もその態度を怒り、それにはかまわずに私を推薦したということである。

 朝日賞を受けた時貰った金は、何か有益なことに使わねば相済ぬと考え、今なお大切に保管している。

 都々逸どどいつんだものに、


沈む木の葉も流れの工合

   浮かぶその瀬もないじゃない


大学を辞す


 昭和十四年の春、私は思い出深い東京帝国大学理学部植物学教室を去ることになった。私はもう年も七十八歳にもなったので、後進に途を開くため、大学講師を辞任するの意はかねて抱いていたのであったが、辞めるについて少なからず不愉快な曲折があったことは遺憾であった。私は今改めてそれについて語ろうとは思わないが、何十年も恩を受けた師に対しては、相当の礼儀を尽すべきが人の道だろうと思う。権力に名をかり一事務員をつかわして執達吏の如き態度で私に辞表提出を強要するが如きことは、許すべからざる無礼であると私は思う。辞める時の私の月給は七十五円であったが、このことは相当世間の人を驚かしたようだ。

 私は大学を辞めても植物の研究を止めるわけではないから、その点は少しも変りはないわけである。

「朝な夕なに草木を友にすれば淋しいひまもない」

 というのが私の気持である。


私と大学


 昭和十四年からおよそ五十二年程前の明治二十年頃に民間の一書生であった私は、時々否な殆ど不断に東京大学理科大学、すなわち今の東京帝国大学理学部の植物学教室へ通っていた。がしかし大学とは公に於て何の関係もなく、これは当時植物学の教授であった理学博士矢田部良吉先生の許しを得てであったが、先生達はじめ学生諸君までも非常に私を好遇してくれたのである。教室の書物も自由に閲覧してよい、標本も勝手に見てよいとマルデ在学の学生と同様に待遇してくれた。その時分はいわゆる青長屋時代であった。私はこれがため大変に喜んで自由に同教室に出入して大いにわが知識の蓄積に努め、また新たに種々と植物を研究して日を送った。そこでつらつら私の思ったには、従来わが国にまだ一つの完全した日本の植物志すなわちフロラが無い、これは国の面目としても確かに一つの大欠点であるから、それは是非ともわれら植物分類研究者の手に依てその完成を理想として、新たに作りはじめねばならんと痛感したもんだから、私は早速にそれに着手し、その業をはじめる事に決心した。それにはどうしても図が入用であるのだが、今それを描く自信はあるからそれは敢えて心配は無いが、しかしこれを印刷せねばならんから、その印刷術もト通りは心得ておかねば不自由ダと思い、そこで神田錦町にあったひとつの石版印刷屋で一年程その印刷術稽古をした。そしていよいよ『日本植物志』を世に出す準備を整えた。その時私の考えではおよそ植物を知るにはその文章も無論必要だが、図は早解りがする。故にとりあえずその図を先きに出し、その文章を後廻しにする事にして、断然実行に移す事となり、まずその書名を『日本植物志図篇』と定めた。これは『日本植物志』の図の部の意味である。そしていよいよその第一巻第一集を自費を以て印刷し、これを当時の神田裏神保町にあった書肆敬業社をして発売せしめたが、それが明治二十一年十一月十二日で今から大分前の事であった。その書名は前記の通りであったが、これを欧文で記すると Illustrations of the Flora of Japan, to serve as an Atlas to the Nippon-Shokubutsushi であった。助教授であった村松任三氏は大変にこれを賞讃してくれて「余ハ今日只今日本帝国内ニ本邦植物図志ヲ著スベキ人ハ牧野富太郎氏一人アルノミ……本邦所産ノ植物ヲ全璧センノ責任ヲ氏ニ負ハシメントスルモノナリ」と当時の「植物学雑誌」第二十二号の誌上へ書かれた。

 それが明治二十三年三月二十五日発行の第六集まで順調に進んだ時であった。ここに突然私に取っては一つの悲むべき事件が発生した。それは教授の矢田部氏が何の感ずる所があってか知らんが、殆ど上の私の著書と同じような日本植物の書物を書く事を企てた。そこで私に向こうて宣告するに今後は教室の書物も標本も一切私に見せないとの事を以てした。私はこの意外な拒絶に遭ってヒタと困った! 早速に矢田部氏の富士見町の宅を訪問して氏に面会し、私の意見を陳述しまた懇願して見た。すなわちその意見というのは第一は先輩は後輩を引き立つべき義務のある事、第二は今日植物学者は極めてすくないから一人でもそれを排斥すれば学界が損をし植物学の進歩を弱める事、第三は矢張り相変らず書物標本を見せて貰いたき事、この三つを以て折衝してみたが氏は強情にも頑としてそれを聴き入れなかった。その時は丁度私が東京近郊で世界に珍しい食虫植物のムジナモ(Aldrovanda vesiculosa L.)を発見した際なので、私は止むを得ずこれを駒場の農科大学へ持って行ってそこでそれを写生し、完全なその詳図が出来た。この図の中にある花などの部分はその後独逸ドイツの植物書にも転載せられたものである。

 私は矢田部教授の無情な仕打ちに憤懣し、しかる上は矢田部を向うへ廻してこれに対抗し大いに我が著書を進捗しんちょくさすべしと決意し、そこではじめて多数の新種植物へ学名をつけ、欧文の記載を添え、続々とこれを書中に載せ、上の『日本植物志図篇』を続刊した。当時私の感じでは今仮りにこれを相撲に喩うればそれは丁度大関と褌担ぎのようなもの、すなわち矢田部は、大関、私は褌担ぎでその取組みは甚だ面白く真に対抗し甲斐があるので大いにヤルべしという事になり、そこは私は土佐の生まれだけあって、その鼻息が頗る荒らかった。一方では杉浦重剛先生または菊池大麓先生など、それは矢田部がしからんと大いに孤立せる私に同情を寄せられ、殊にその頃発行になっていた「亜細亜」という雑誌へ杉浦先生の意をけて大いに私のために書いて声援して下さった。

 丁度その時である。イッソ私は、私をよく識ってくれている日本植物研究者のマキシモヴィッチ氏の許に行かんと企て、これを露国の同氏に紹介した。同氏も大変喜んでくれたのであったが、その刹那同氏は不幸にも流感で歿したので、私は遂にその行をはたさなかったが、その時に「所感」と題して私の作った拙い詩があるからオ目に掛けます。


専攻斯学願樹功、微躯聊期報国忠、人間万事不如意、一身長在轗軻中、泰西頼見義侠人、憐我衷情傾意待、故国難去幾踟蹰、決然欲遠航西海、一夜風急雨黫黫、義人溘焉逝不還、倐忽長隔幽明路、天外伝訃涙潸潸、生前不逢音容絶、胸中鬱勃向誰説、天地茫茫知己無、今対遺影感転切


 明治二十四年十月遂に上の図篇が第十一集に達し、これを発行した時、私の郷里土佐国佐川町に残してあったわが家(酒造家)の始末をつけねばならぬ事が起ったので、仕方なく右の出版事業をそのままなげうっておいて、匆々そうそう東京を出発する用意をし、間も無く再び東京へ出て来るから、今度出て来たが最後、大いに矢田部に対抗して奮闘すべく意気込んで国へ帰った。すなわちそれが右二十四年の秋も半ばを過ぎた紅葉の時節であった。

 国に帰った後で、一つの驚くべき一事件が大学に突発した。それは矢田部教授が突然大学を罷職になった事である。同教授のこの罷職は何も私とのイキサツの結果では無論なく、これは他に大きな原因があって、ツマリ同じ大学の有力者との勢力争いで遂に矢田部教授が負けたのである。それには彼の鹿鳴館時代、一ツ橋高等女学校に於ける彼の行為も大分その遠因を成しているらしく思われる。

 越えて明治二十五年になった。月も日も忘れたが、大学から一つの書面が私の郷里に届き私の手に入った。ひらいて見ると君を大学へ採用するから来いとの事が書いてあった。大抵の人ならこんな書面に接したら飛び立つように喜ぶであろうが、私はそう嬉しいようにも感じ無くアアそうかという位の気持ちであった。そこで早速返事を認めて、只今我が家を整理中だからそれが済んだら上京して御世話になりますと挨拶をしておいた。

 翌明治二十六年一月になって私の長女が東京で病死したので急遽私は上京した。大学の方はどう成っているか知らんと聴いて見たら、地位がそのまま空けてあるからいつからでも這入はいれという事で、私は遂に民間から入って大学の人となり、助手を拝命して植物学教室に勤務し、毎月月給を大枚十五円ずつ有難く頂戴したが、これは一面からいうと実は芸が身を助ける不仕合せでもあったのである。

 実は私は大学へ勤める迄は、私の覚えていない程早く死んだ親から遺された財産があって、何の苦労も無くノンビリと一人で来たのである。が丁度大学へ入った時分にそれが全く尽きて仕舞った。それは大抵皆なわが学問に入れあげたからであったが、そこは鷹揚な坊チャン育ちの私には金の使い方が確かにマズク、今でもよく牧野は百円の金を五十円に使ったと笑われる事がある。

 おもうて見れば誠に不思議なもので小学校も半分しかやらず、その後何処の学校へも這入らず、何の学歴も持たぬ私がポッカリ民間から最高学府の大学助手になり、講師になり、後には遂に博士の学位迄も頂戴したとは実にウソのようなマコトで実に世は様々、何がどうなるか判ったもんでは無い。

 ダガ、昨日まで暖飽だんぽうな生活をして来た私がにわかに毎月十五円とは、これには弱った。何分足りない、足りなきゃ借金が出来る、それから段々子供が生まれだし、驚くなかれ後には遂に十三人に及んだ。そして割合に給料があがらない。サア事ダ、私の多事多難はこれがスタートして、それからが波瀾重畳、つぶさに辛酸をめた幾十年を大学で過ごした。その間また断えず主任教授の理不尽な圧迫が学閥なき私に加えられたので、今日その当時を回想すると面白かったとは冗戯じょうだん半分いえない事も無いでは無いが、しかし誠に閉口した。がそれでも上に媚びて給料の一円もあげて貰いたいとしく勝手口から泣き込んで歎願に及んだ事は一度も無く、そんな事はいやしくも男子のする事では無いと一度も落胆はしなかった。そしてこんな勢いの不利な場合は幾らあせっても仕方が無いから、そんな時は黙ってウント勉強し潜勢力を養い、他日の風雲に備うる覚悟をするのが最も賢明であると信じ、私は何の不平も口にせずただ黙々として研究に没頭し、多くの論文を作ってみたが、この研究こそ他日端なく私の学位論文となったものである。

 紆余曲折あるこんな空気の中に長くおりながら、何の学閥も無き身を以て明治二十六年就職以来今日まで実に四十七年の歳月が流れたのである。こんな永い間敢て薄給を物ともせず厭な顔一つも見せずに何時もニコニコと平気で在職していた事は大学としても珍しいことであろうし、また本人の年からいっても七十八歳とはこれもまた他に類の無い事であろう。そこで私の感ずる事はなるべく足許の明るいうちにこの古巣を去りたい事で、去年からそれを希望し、今年三月を限りとし、「長く通した我儘わがまま気儘最早や年貢の納め時」の歌を唄いつつこの大学の名物男(これは他からの讃辞であって自分は何んとも思っていない)またはいわゆる植物の牧野サン(これも人がよくそういっている)が、この思い出深い植物学教室にオ暇乞いとまごいをするのである。

 大学を出て何処へ行く? モウよい年だから隠居する? トボケタこと言うナイ、われらの研究はマダ終わっていないで尚前途遼遠ダ。マダ自分へ課せられた使命ははたされていないから、これから足腰の達者な間はこのひろい天然の研究場で馳駆ちくし、出来るだけ学問へ貢献するのダ。幸い若い時分から身体に何の故障も無く頗る健康に恵まれているので、その辺は敢て心配無用ダ。私の脈は柔かく血圧は低く、エヘン元気の電池であるアソコも衰えていなく、そして酒も呑まず煙草も吸わぬからまず長命は請合いダと信じている。マア死ぬまで活動するのが私の勤めサ。「薬もて補うことをつゆだにもわれは思わずきょうの健やか」これなら大丈夫でしょう。

 言い漏したが前の『日本植物志図篇』の書はその後どうなっタ? それは私の環境が変わったのでアレはまずその第十一集で打切り(十二集分の図は出来ていたけれど)、後に当時の浜尾総長の意を体して大学で私が『大日本植物志』の大著に従事していたが、ある事情の下にそれは第四集で中止した。これはわが国植物書中の最も精緻を極めたものであるので、その中止はわが学界のためにこの上も無い損失であった。著者であった私としては、マー私の手腕の如何なる〔も〕のであったかの証拠を示した記念碑を建てて貰ったのダト思えば多少自ら慰むるところがないでもない。

 以上は頗るダラシの無い事を長々と書き連ねましたので、筆をいたあと私は恐れ縮こまっています。


ながく住みしかびの古屋をあとにして

   気のむ野辺にわれは呼吸いきせむ


これから二つの大仕事


 思い出深い大学は辞めたが、自分の思うように使える研究の時間が多くなったことは何より幸いである。私は幸い健康に恵まれていて、雨天の際もレインコートを着けることをつとめないでも平気だし、また植物の図を描く時にも、どんな細部でも毛筆で描けて決して手がふるえるようなことはない。貧乏な私にとって、衣服の心配はなし、助手をやとう必要はなし、真に有難い健康を得たと思っている。

 私にこれから先に課せられた大きな仕事は二つある。一つは私が蒐集した膨大な標品の整理であり、もう一つは『日本植物図説』の刊行である。この二つは私に課せられた天の使命と信じ、今後万難を排して完成しなければならないものである。


標品の整理


 標品の整理は、これから研究を進めるについても是非しなければならないものであるが、なにせ何十万という膨大な数に上っているので、なかなか一朝一夕に片付くものではなく少なくとも三、四年の年月はかかると思う。もし整理をせずに置けば、全く宝の持腐れで、この貴重な蒐集も、枯草の集りに過ぎぬことにもなる。またこの整理は採集者である私自身でなければ不完全になるおそれがある。

 私は何十年もの間、根気よくこの標品を蒐集してきたが、常に将来『日本植物図説』を刊行する時の研究材料にする心がまえで、完全な標品を、しかも多数にとる事を忘れなかった。記載を完璧なものにするには、どうしても完全な標品を充分に持っている必要があるのであって、私はその点世間の他の人より優れていると自負している。私は標品整理完了の暁には、その一部を日本植物学界のために遺し、また他の一部は欧米の植物学界のために寄贈し、以て世界を利せんことを念願としている。そうすれば、私の標品も決して無駄にはならず、その価値を充分に発揮することが出来るわけである。

 またこの標品整理には、仕事場が必要であって、そのため私はバラックで結構だから建物が欲しいと思っている。五けんに六間位の広さで、二階建で風雨が凌げれば充分であると思う。

 標品整理が完了し、出来れば国家の手で私の標品が標品館にでも収容されるようになれば、非常に満足に思う。私はこの苦心の標品が、火災により焼失したり、また鼠その他害虫等により破損することを恐れている。この標品の始末をすみやかになし遂げる迄は、私は安泰としてはいられない気持でいる。


『植物図説』の刊行


 もう一つの大きな仕事として私に課せられた使命は、『日本植物図説』の刊行である。私は植物に関係した当初からこの考えをもっており、明治二十二年頃には『日本植物志』刊行を発念し、『日本植物志図篇』を手はじめに出版したが、その序文にもある如く、『日本植物志』刊行の必要を痛感していた。私の考えは終始一貫しているが、なかなか思うようにならず、遂に今日に及んだが、日本にはどうしても日本植物研究の土台となるべき完全な日本植物志が必要である。この仕事の遂行には自分は最適任者の一人であると自負している。幸いに私はこの仕事を遂行するに充分な健康を持っている。今でも夜二時過迄仕事をしているが、これをしないでは物足らない感じがする。仕事をすまして頭を枕につけるととたんにぐっすりと朝迄熟睡するから、いまだに記憶力が鈍ったとか、気力が衰えたとか感じたことはない。今年は七十九歳になったが、胃腸も丈夫で何でも食べるし、血圧は低く、採集に山登りをしても足腰が痛むということは全くない。そう肩が凝ったらあんまをしろの、腰をさすってくれの等といったことがないから、家の者はまことに世話のやけない年寄だと思って喜んでいる。

 私は自身でも図を描くので、図を描かせるについても要領よく指図をすることが出来て具合がよい。図説は彩色したものにする積りで、一般の人にも判る便利なものにしたいと思っている。この時局で色々のものが充分にいかんのは残念であるが、私は献身的の努力を以てこれを完成する覚悟でいる。私はこの図説は世界に向かってその真価を問うつもりでいる。出版の暁は是非広く世の人に講評を仰ぎたいと思っている。私はこの二つの大きな仕事の遂行に当たり、大方の御後援、御鞭撻を賜る事を切に希望して止まない。


私の今の心境


 私は去年大学を辞めて以来日夜この大使命遂行のために献身的努力を払っているのであって、決して安閑と日を過しているのではない。「三年ばない鳴かない鳥も蜚んで鳴き出しゃ呼ぶ嵐」というのが、私の今の心境である。

 私は植物研究の五十年を回顧して詠んだ次の句を以て、この自叙伝の終りを結びたいと思う。


草をしとねに木の根を枕、花を恋して五十年

(五十年といえども、この恋はまだ醒めない)


 終りに臨み、私のために永らく貴重な誌面を提供された白柳秀湖しらやなぎしゅうこ先生の御厚意に対し、深甚なる感謝の意を表したいと思う。


八十五歳のわれは今何をしているか


 私は今年八十五歳になるのだが、我が専門の植物研究に毎日毎夜従事していて敢てく事を知らない。つまり植物学への貢献を等閑に附していないのだから、何方どなたにも御安心を願いたい。実際私は昨年十月二十四日に山梨県北巨摩こま郡穂坂村の疎開先きから帰宅した。以来何んだか新世界へ生まれて来たような気持ちである。これからは日本文化のため尽さねば国民たるの資格がはたせないとの孝えから、大いにその責任と義務とを良心的に感じている次第だ。早速にわが仕事として年来蘊蓄した知識を順々に発表するため、「牧野植物混混録」なる個人雑誌を編輯したが、鎌倉書房主人が義侠的にこれを発刊してくれたので以下の号も続いて世に出す事となっている。そして私は疎開先きから帰るや否や躊躇なく我が研究を進め、今日の只今も繇条ようじょう書屋の書斎南窓下の机にって一方には植物の実物をけみし、一方にはペンを動かしてこれを記述し、また写生図をも自分に作っている。この間机前に坐り通し、ただ用事のある時、食事の時、または来客に接する時などだけそれを離れるのである。頃日けいじつ庭に咲いた中華民国産のマルバタマノカンザシ(円葉玉簪花)の写生に四日を費やしたようの始末で、余り我庭へも出る暇がない。それ故我が庭で何時草の花、木の花が咲き了ったのか知らずに過ごしている事も時々ある。また偶々たまたま庭に出るとそこから採集して来た植物を今でも昔と同じく標品に製作して他日の考証に備える用意を怠ってなく、その押紙を取換える事など皆自分でやらんと気が済まない。すなわちこんな事が私の日常の日課で少しも休んでいない。そして不断、夜は大抵一時二時もしくは三時までも勉強し、時にはペンを走らしている間に夜が明ける事もある。けれども敢て体の疲れる事を覚えないのは何により仕合せであると喜んでいる。

 私はこの様にする事が我が楽しみであるばかりでなく、それは私に課せられた使命であると信じており、勉強すればするだけ仕事の効果も上り、ひいてはそれが斯学に貢献する事となり、つまりは日本文化のためになる事を思えば何んの苦にもならず、極めて欣ばしく感じているばかりである。故に今日の私はわが一身を植物の研究に投じ至極愉快にその日その日を送っているので、こうする事の出来るわが身を非常な幸福だと満足している次第である。そして前にも記した通り我が年も八十五になったから、これから先きそう長くも生きられ得べくもなく、もう研究する余年も甚だ少ないので只今この健康に恵まれ眼も手もよい間にうんと精出しておかねばならんと痛感している。同学の諸士は私よりは年下だのに早くも死んだ人が少なくないに拘わらず、われは尚心身矍鑠かくしゃくたる幸福をち得ているからこの達者なうちに一心不乱働かねば相済まぬことと確信している。

 私は天性植物が好きだったのが何より幸福で、この好きが一生私を植物研究の舞台に登場させて躍らせた。これがため私の体は幸いに無上の健康を得、私の心は無上に快適で、前述のように高年の今日でもその研究が若い時分と同じく続けられ、国家並に学問に対するわが義務が多少でもはたせる事をおもうとまことに歓喜の至りに堪えない。これは一に天に謝さねばならぬものである。

 私は元来土佐高岡郡佐川町の酒造家に生まれた一人ぽっちのせがれであるが、まだ顔を覚えない幼い時分に両親に別れた。そして孤となり羸弱るいじゃくな生まれであったが、植物が好きであったので山野での運動が足り、且つ何時も心が楽しかったため、従って体が次第に健康を増し丈夫になったのである。そして私は小さい時から酒も煙草も呑まないので、これも私の健康の助けになったに違いないと信じている。

 人間は足腰の立つ間は社会に役立つ有益な仕事をせねばならん天職をけている。それ故早く老い込んではオ仕舞だ。また老人になったという気持を抱いては駄目だが、しかしそんな人が世間に寡くないのは歎かわしい。今日戦後の日本は戦前の日本とは違い、脇目もふらず一生懸命に活動せねばならぬのだから、老人めく因循姑息な退嬰気分は一切放擲して、幾ら老人でも若者に負けず働く事が大切だ。私は翁、老、叟の字が大嫌いで、揮毫の際結網翁(結網は私の号)などと書いた事は夢にもない。


何時までも生きて仕事にいそしまんまた生まれ来ぬこの世なりせば

何よりも貴とき宝持つ身には富も誉れも願わざりけり

百歳に尚道遠く雲霞


花と私──半生の記──


 私は土佐の国高岡郡佐川町における酒造家の一人息子に生まれたが、幼少のころから植物が何よりも好きであった。そして家業は番頭任せで、毎日植物をもてあそんでこれが唯一の楽しみであった。

 はじめ町の土居謙護先生の寺子屋で字を習い、次に町外れにあった伊藤徳裕先生について再び字を習った。明治七年、小学校が出来る直前には名教館めいこうかんで日進の学課を修め次いで同七年に出来た町の小学校に通い、かたわら師について英語を学んだ。明治九年に小学校を半途退学、次いで高知に出で弘田正郎先生の私塾に入った。そしてそれ以後は私の学問は全く独修でいろいろの学課を勉強した。明治十七年に東京に出、同十八年にはじめて大学の植物学教室に出入した。明治二十六年ごろに大学助手を拝命し、その後引続いて長いこと植物学教室で講師を勤め、理学博士の称号をもらった。大学では在職四十七年で辞職し民間に下って今日に及んでいる。そして日本学士院の会員に挙げられた。

『日本植物志図篇』というのが私の処女作で、それから大学発行の『大日本植物志』をはじめとして、その他いろいろの書物を著わし、出版した中で、北隆館で発行した『牧野日本植物図鑑』が一番広く世人に愛読せられている。

 上に述べたように、私の一生は殆ど植物に暮れている。すなわち植物があって生命がありまた長寿でもある。ようこそわれはこの美点に富んだ植物界に生まれ植物が好きであったことを神に謝すべきことだと思っている。私がもしも植物を好かなかったようなれば、今ごろはもっと体が衰え手足がふるえていて、心ももうろくしているに違いなかろう。幸いに植物が好きであったために、この九十二歳になっても、英気ぼつぼつ、壮者をしのぐおもむきがある。そしてなお前途にいろいろの望みを持って、コノ仕事も遂げねばならぬと期待し、歳月のふけ行く事をあえて気にする事なく、日夜わが専門の仕事にいそしんでいる。そのセイか心身ともにすこぶる健康で、いろいろの仕事に堪えられる事は何よりである。しかし人間の寿命はそう限りなきものではないから、そのうちには寿命がつきてアノ遠き浄土に旅立つ事になろうから、そこで旅立ちせん前に精力のあらん限りを尽して国に報い、世に酬ゆる丹心を発展さすべきものである。すなわちこれこそ男子たるべき者のとるべき道でなくて何であろう。

 私はわが眼力がまだ衰えていないので、細かき仕事をするに耐えられる。従って精細な密な図を描く事も少しも難事ではないのは、何より結構至極なのであると自信している。

 植物が好きであるために花を見る事が何より楽しみであって厭く事を知らない。まことにもって仕合せな事だ。花に対すれば常に心が愉快でかつ美なる心情を感ずる。故に独りを楽しむ事が出来、あえて他によりすがる必要を感じない。故に仮りに世人から憎まれて一人ボッチになっても、決して寂寞を覚えない。実に植物の世界は私にとっての天国でありまた極楽でもある。

 私は植物を研究しているとあえて厭きる事がない。故に朝から晩まで何かしら植物に触れている。従って学問上にいろいろの仕事が成就し、それだけ学界へ貢献するわけだ。中には新事実の発見も決して少なくないのは事実で、つまりキーをもって天の扉を開くというものだ。

 こうした事が人生として有意義に暮らさしめる。人生まれて酔生夢死ほどつまらないものはない。大いにつとめよや、吾人! 生きがいあれや吾人! これ吾人の面目でなくて何んであろう。何事も心が純正でかつ何時も体が健康で、自ら誇らず、他をねたまず、水の如き清き心を保持して行くのは、神意にかなうゆえんであろう。こんな澄んだ心で一生を終えれば死んでもあえて遺憾はあるまい。そして静かに成仏が出来るに違いなかろう、とあえて私は確信するのである。


終りに臨みて謡うていわく、

学問は底の知れざる技芸なり

憂鬱は花を忘れし病気なり

わが庭はラボラトリーの名に恥じず

綿密に見れば見る程新事実

新事実積り積りてわが知識

何よりも貴き宝持つ身には、富も誉れも願わざりけり

昭和二十八年九月

底本:「牧野富太郎自叙伝」講談社学術文庫、講談社

   2004(平成16)年410日第1刷発行

底本の親本:「牧野富太郎自叙伝」長嶋書房

   1956(昭和31)年12

入力:kompass

校正:仙酔ゑびす

2014年118日作成

青空文庫作成ファイル:

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