我が生活
中原中也
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明治座に吉右衛門の勧進帳が掛かつてゐる、連日満員である──と電車の中で隣り客の話してゐるのを聞いて、なんとなく観に行きたくなつたのであつた。観れば何時もながら面白く感ずるのだが、観るまでは大変憶怯で、結局一年に一度か二度しか歌舞伎を覗くことはないのが私のこれまでである。「観たいな……観よう!」と、電車が濠端を走つてゐる時思ひ定めた、「でもまた観ないでしまふんだらうな」とそのすぐあとでは思ふのだつた。明け放された窓からは初夏の風がサカンに頬や帽子の鍔に吹きつけてゐた。
それから二三日してからのことであつた。朝十一時に目が覚めた。これは私にしては、余程早起きなのであつた。私は独りで一軒の家に住んでゐて、毎夜、夜明近くまで読書する。昼間は落付かないし、出掛けてもさして面白くないので、私には朝早く起きることは大変時間の損失なのだ。それで何時も目が覚めるのは、大抵午後の二時頃だ。
で、「今日明治座に行けばゆける」と思つた。
本を売つて一円五十銭ばかり出来ると、明治座の見料が出来た。それから往復の電車賃を差引くと、やつと五等の入場料が残るだけで心細かつた。三時半から、夜の十一時近くまで、食事は取れないといふことになつたが、煙草を吸つて、水を飲んでれば、今日一ン日くらゐなんでもないと思ひながら電車に乗つた。
切符売場前の長い列の、私は最後の方だつた。私がノロクサと三階に登つた時には、もう五人分しか席がなかつた。最も不利な位置、──花道の上に当る一番の端ッこが五つ並んで空いてゐるだけであつた。私が枡に足を蹈み込んだばかりに、肥つた四十年配の女が二人、飛び込んで来て、「ああよかつた、端ッこでもあつてこそよございました、もう五分早ければよございました、惜しいことをしました、私は今朝から一服もしません、ええでも一ト幕見てから一服することにいたしませう」なぞと、イキセキ切つて云ふのであつた。私はすつかり嫌気がさして、今貰つて来た景品の包装を破いてみた。すると三十格恰の会社員でもしてゐさうな、蝶ネクタイが出て来た。と、私の前の奴を見ると、私のよりウンとハデな蝶ネクタイを、私より五つも年取つてゐる男が持つてゐた。二人の肥つた女達は、私のや私の前の男のネクタイを見ながら、「まあ勉強しますわねえ、八十銭であんな物まで附けるのですものねえ……ええェ」と云つた。それからすぐまたなんだか役者の話なぞベチヤクチヤ喋舌り散らしてゐる。二人共大変に歌舞伎通のやうである。
幕が開くと、「ああ好いですわねえ」とその一人が云つた、「先代萩の序幕……あの舟はしつかり出来てますわねえ、かかりますでせうねえ。」
私は腹が立つてならなかつた。
歌舞伎通なんてのはみんな目出度くおもひあがつてるものだ。あの感情はなんとも云へない。俗情のエッセンスだとでも名付けるよりほかはない。私は歌舞伎を観るたびにそれが嫌ひだ。チツポケな虚栄心を持つてるに過ぎない奴等が、いつかどのきほひ肌や、伝法肌のつもりになつて得々としてるのだ。
勧進帳の前が予定食事時間、三十分の休憩。みんなゾロゾロ食堂に行く。私はおなかがペコペコなのだが、喫煙室のソーファに沈んで煙草を吹かしてゐるより他はなかつた。
やがて起ち上つて、二階や一階の方に行つてみた。二三人美しい女が目にとまつた。美しい女といふものはよいものである。彼女等はきほひ肌でも伝法肌でもない!
可笑しくもない所で笑ふ。例へば安宅の関で弁慶が勧進帳とて読み上げる巻物の正体を、覗かれかゝると笑ふ。その笑ひは恰かも、「わたしはあれが弁慶の頓智だといふことを知つてるのですよ知つてるのですよ、あなた方もでしよ、さうでしよ、ホラホラさうぢやありませんか」と云つてるやうである。
勧進帳が終つて喫煙室に這入ると、「好いですね、好いですね、よくやりますね」と一人の爺々ィが云つてゐた。
「しかしねえ」と、その傍にゐた会社員風の男が睡さうに云つた、「音羽屋のを見てからは見られませんよ。」
「いやいや、大して違ひはありますまい」と語尾を上げて、爺々ィが云つた、「音羽屋の方が所作はうまいかしれないが、ハリマ屋の方はスゴミがあるツ。」
「……ふーん、しかしねえ……」と睡さうなのが云つた。
そこへやつて来た五十くらゐの女が、いきなりその二人に向つて、「わたしや勧進帳はだい嫌ひ、眠くなつちやつた」と云つた。そこらにゐたすべての者が、その女にはアツ気にとられたといふかたちだつた。私ははじめその女が爺々ィの女房ででもあるのかと思つてゐたが、さう云つてまた忽ちその女が向ふへゆくと、爺々ィが、「まあ、どこから出て来た女か知れないけれど、勧進帳で眠くなるなんて、呆れた奴だ」と云つて笑つた。みんながみんな大喜びで笑ひ始めた。
私は銀座を歩いてゐた。私は中幕の勧進帳までしか見なかつた。おなかが空いた時芝居なんかの中に、さう長くゐられるものではない。それよりかまだ歩いてゐた方がマシである。帰れば、借りつけの賄屋から取ることが出来る。けれども、
歩き出すと案外に平気だつた。初夏の夜空の中に、電気広告の様々なのが、消えたり点つたりする下を、足を投げ出すやうな心持に、歩いてゆくことは、まるで亡命者のやうな私の心を慰める。
数々の人の意識が、電燈の光と影との中を浮動してゐる。それ等のみんなが、意識によつて幸福であり、意識によつて不幸なのである。所で私といふ無意識家は、自分が幸福であるか不幸であるかは知らないといへばいへるといふふうなのだ。しかしさういふ私の性格は、或種の人には説明しても分らない。──私が今歩いてゐる時に持してゐる私の表情は、悲しげなものであるかも知れない。或ひは、無感覚に見えるかも知れない。ひよつとしたら怜悧にさへ見えるかも知れない。ところで私はといへば、まもなくすれば行く手の空に吸はれて了ふのだといふふうな気持で、群集といふ伴奏附きで泳いでゐるやうなものなのである。若しも此の時突然知人の誰かが声を掛けたとしたら、私はニコニコしだすかも知れないし又、愚鈍な瞳で力なく返事するかもしれない。諸君──つまり意識を以て生きてる諸君は、若し其の時、私がニコニコすれば私が元気だと思ふだらうし、六ヶしさうな顔をしてゐたら元気がないなと思ふのであらう。ところで私自身では、いくら元気である時にでも、もしその時に佗しげな夢を見てゐたとしたら、尠くとも直ぐにニコニコはしないであらう。而して私は常に夢みてゐる。それは恰かも青い色が青い色であり、赤い色が赤い色であるやうに、夢をみようともみまいともしないで私は夢みてゐるのである。これは私が衣食住してゆくといふことの上には大いに不便なわけである、それは年来の経験でいやが応でも知つてゐる。さうして、不便が嬉しくはちつともない。然し人生には、どんな荒んだ社会にも猶小唄があるやうに、詩人といふものは在るものなのである。その詩人なるものに、多分は生れついてゐる、否、それ以外ではツブシも利かないのが、私といふものだつたのである。
底本:「新編中原中也全集 第四巻 評論・小説」角川書店
2003(平成15)年11月25日初版発行
※底本のテキストは、著者自筆稿によります。
※()内の編者によるルビは省略しました。
※底本巻末の編者による語注は省略しました。
入力:村松洋一
校正:noriko saito
2018年4月26日作成
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