私の事
中原中也
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どうしてこんなに暗くなるのだらう……どうもこれはかう理由もなく暗くなるのでは、理由を神秘に索めるよりほかはない。愉快に友達と話してゐても、或る時或る時刻から、急に何の理由もなく暗くなるといふ風だ。
毎晩アパート三階の便所に行くと、新宿の百貨店や何かの電燈広告が五六町ばかりの向ふに灯つてゐて、まるでほんとかと云ひたくなる。いつたいあれが僕の気持とどれだけの関係があるんだ。
「あれが実業といふもんさ。」と人も云ひ、自分だつてさう思つてるやうなもんだけれど、ではいつたい僕が暗くなるのは何といふものなんだい。「それは……」と兎も角此の世の常識に関する限りの世界ではなまなか誰でも一と通りの理由は直ぐに見付けて呉れるんだけれど、また僕の方だつてさういふ理由の見付け方にはテモなく感服してみせる習慣をさへ付けてしまつたやうなものだけれど、それといふのも暗くなるといふことが自身にとつてもあんまり神秘的に起つて来るからのことなんだ。勿論暗くなつたればとて、他人様にまで八ッ当りを始められる程の自分なら何を書かう程のことでもないけれど、暗くなると却て明るい真似をしてみたり急に他人本位になつたりしなければならない上に、それでゐて結局人からもさういふ時はやつぱり此奴暗いと見て取られてしまふからには、なんとも馬鹿化た話なんだ。
だが思ふのに、えてして暗くなる時には、その時若し一人でゐたならば可なり着々と何事にまれ運むでゐただらう時のやうである。それなのにやつぱり人とそのまゝ一緒にゐるといふならば、ただ意志が弱いといふことになるやうなもんだが、それかといつて、ああ今は一人になるべきだといつて一人になつてみたとて、何事にまれさう運ぶものでもない。つまりは暗くなる時刻が来る少し前あたりから人に会ふやうな機会になつてゐたことが不運みたいなもんで、それ故何もかも神秘なやうなものでもある。
どうもがいてみたつて結局俺は俺なのだと、肚を決めて万事楽天的に時間を用ゐることにすれば、これはまた精神の雑駁な日々を送ることになるのである。
所詮は、十一月の曇つた午後に、風が往来の砂塵を巻きあげてゐるやうなもんだと、僕の、心はともかく肉体は、左様に今はや観念してゐるやうな具合だ。
砂混りのおからを食つて、箸の置きやうもないやうなもんだ。
大体何か充ち足りた心なり環境なりがないからだ、といふやうに癇癪まぎれに思つてみることもあるが、仮りにどんな環境が降つて湧いたつて、その変化の当座こそ充ち足りた気持を招来しもこそすれ、慣れてしまへばやつぱりそれなりに暗い時が来るなら来ようといふ風にしか思へないんだ。勿論それにしたつて、気持の好い環境が降つて呉れるのならいやとはいはぬ。
「何をホザイてゐるんだ。なんだ唐人の寐言みたいだ。結局環境といふも結局各々の作り出すもんだ。」なぞ云はれゝば、無論直ちに黙りもするが、かといつてそんなこと云つたつて僕に暗い時間が訪れるといふ事実をどうしやうもないんだ。
で結局僕は僕の心の虫をいつくしむんだ。いつくしむよりほかどうしやうもあるもんか。ゆつくりいつくしめば、いつくしんだだけ人様に対して反動を廻すとかなんとか、さういふ自他のけぢめを掻き毟つたやうな行為は少くなるんだし、自分としてもコクのある気分でゐられるんだ。
なまなかそれをいつかどな理由をつけて、その理由への対策を講じてみたつて、暗い女が明るくならうとしてアバズレになるみたいなもんだ。
ひよつとしたら、仕事したなんて人は、自分の虫をいつくしみ了せた所から出発したのかもしれない。さして何もしなかつた人といふのは、なまなか人の袖と自分の袖を比べてみるやうなことばかりに心を用ゐたのかもしれない。──とも考へられるやうなものである。
あ、あ、あ。それでは俺は以後万事チーンとしよう。と思つたら何か知らぬが子供の時に聞き覚えた、故郷の子供等の間で唱はれる、次の文句が浮んで来た。
ボーボラナンキン皿持テ来イ。鰯ノ頭ヲ三ツ遣ロ。
「ボーボラナンキン」といふのは「オタンコナス奴」といふやうな意味だ。
さらば我、皿持ちゆかん、鰯の頭を賜びさせ給へ!
鰯の頭を三つ貰つたつて、それが何にもならないことは決つてゐるが、呉れる奴の方はこつちを嗤つて呉れるだらう。その代りこつちでは、例へば白い西洋皿の上に、鰯の頭が三つ、コロコロと這入るところを、よつくとみて、どうせ対手は嗤つてゐるのだから一寸、ホンの一寸した目礼くらゐで自分の所に帰つてゆけば、却々シツクリした気持だつて味はへるやうなもんぢやないか。
底本:「新編中原中也全集 第四巻 評論・小説」角川書店
2003(平成15)年11月25日初版発行
※底本のテキストは、著者自筆稿によります。
※()内の編者によるルビは省略しました。
入力:村松洋一
校正:noriko saito
2018年9月28日作成
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