西部通信
中原中也
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その日はカラリと晴れた、やはらかい日射しの、秋の一日だつた。私は暫く麦のよく稔つた田園を歩いた後、フト玉を突いてみたい欲望を抱いた。別にしたいこととてもないその午後に、一つの欲望が湧いたといふことはひどく私を有頂にした。
やがて最初に目に入つた玉屋に這入ると、部屋は明るくガランとしてゐて、温室のやうだつた、客の腰掛場になつてゐる、畳二枚を縦に並べた場所の、その中程に置かれた火鉢には其処の主人が如何にも睡げによつかゝつてをり、お主婦さんも割烹着を着たまゝ火鉢で手をぬくめてゐた。割烹着の胃に当る辺りが濡れてゐるところを見ると、今の今まで茶碗でも洗つてゐたという風だ。たつた一人の客が、部屋の真ン中にたつた一台の玉台の一方に立留つたきりで、練習突きをしてゐる。
私が這入つて行くなり、「さあお相手しませう」とその男は云つた。私は一揖して、直ちにキューを取つた。ところが相手は七十だし私は十五、その十五も危ッかしい十五なのだ。二分も経つか経たぬに勝負は私の負けとなつて、忽ち立て続けの負け十回目が終つてしまつた。相手は次第に気の毒さうにしはじめ、そのうち少し私を「脳不足」だといふ意味の目配せを主人やお主婦さんと交すやうになつた。主人やお主婦さんの方でも「御尤も」といふ顔をしてゐた。私としてはまだも少し突きたい欲望が残つてゐたわけなので、猶も勝負を続けたが彼等の勝手決めな観念がみす〳〵自分に向つて放たれ、そして私以外の三人の間では立派に通用しつゝあるのをみると、イヤな気がして来たので、恰度十三回目が終ると、其処を出てしまつた。
彼等には、私がともあれ興味を以ては突いてゐたのが見えないのだ。
智的ではない社交しか未だない此の国では、其処にゐる人達には社交能力の欠乏といふことが、論なく無価値と見えるのである。
──いや、却々どうして、そんな単純なものではない、と諸君はさとして下さるのかも知れない。
──成程、社交以外のことを念頭に置いてゐる人も沢山にありませう。然し社交のことの五分の一程も実感的には念頭に来ますまい。
健康や、生活の向上をしか念としない多くの人々は、つまり多くの幸福論者達には、実験室で働いてゐる者は愚と見える。──否、発明発見も人類の幸福に資するものだくらゐは知つてるよと云ふ人もあらう。然し実験室で可なり熱中する人々から最も専念する人々を身近に眺める時に、多くの幸福論者は兎も角一応の反撥を感ずるのが事実である。顔が蒼ざめてゐるといふやうな場合、反撥は一層の激しさを加へる。
これは随分と無理からぬことかも知れない。然しま、教養の低い所に一段と明瞭に顕れる現象であるといふことは、明かなやうである。
つまり、生活──それも社会生活といふものだけが見えて他の何事も見えないといふ人は少くないものである。それは男よりも女に一層多い。
而も今の世の中には、さういふ物的な人々を以て、つまり人が物的であることを以て直ちに健康の証左の如くに考へる傾向もないではない。それがいいことであるかどうかは、間もなく分るであらう。とにかく一つの社会的風潮は十五年経てば一先づ決算期に入るものださうであるから。然しま、私の貧弱な歴史的知識によれば、精神を閉却した時にその社会は幸福ではなかつた。
底本:「新編中原中也全集 第四巻 評論・小説」角川書店
2003(平成15)年11月25日初版発行
※底本のテキストは、著者自筆稿によります。
※()内の編者によるルビは省略しました。
入力:村松洋一
校正:noriko saito
2016年3月4日作成
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