西の京の思ひ出
和辻哲郎



 老人の思ひ出話など、今の若い人にはあまり興味はあるまいと思はれるが、老人にとつては、思ひ出に耽ることは楽しいのである。さういふ楽しみに耽る機会を与へられた北島葭江先輩自身が、すでにいろ〳〵な思ひ出の種になる。

 この春安倍能成君から電話がかゝつて来て、北島が訪ねて行くから、逢つて頼みを聞いてやつてくれといふことであつた。その時わたくしは北島さんの昔の顔を思ひ起すことが出来た。安倍君と同じ級であつたとすれば大学はちやうど入れ替りになるわけであるが、どこかでちよい〳〵顔を見たことがあつたのであらう。ところで来訪された北島さんは、八十近い老人であつた。昔の面影が残つてゐないわけではないけれども、昔の大学生とは大分感じが違つてゐた。聞いて見ると、大学は安倍君と一緒であつたが、年は安倍君よりも五つ六つ上だといふ。若い頃にはそれほどに思はなかつたが、今見るとわたくしよりもよほど長老に見える。さういふ長老のいはれることであるから、書く材料があらうとなからうと、とにかくいはれるまゝに原稿を引き受けざるを得なかつたのである。

 ところで、いよ〳〵その原稿を書かなくてはならない時期になると、さて何を書いてよいか解らない。題目は「西の京の思ひ出」といふのであるが、わたくしは奈良の西の京について特別な思ひ出を持つてゐるわけでもない。どうしてわたくしにかういふ題目が割りあてられたのであるかと考へてゐるうちに、ふと思ひ出したのは、若い頃に書いた『古寺巡礼』のなかに、唐招提寺や薬師寺を見物した日の夕方、奈良の町へ帰る田畝道の上で、薬師寺の仏像とガンダラ美術との聯関についていろ〳〵と空想にふける箇所があることである。あれは「西の京での空想」であつて、「西の京の思ひ出」ではないが、しかし今から思ふと、わたくしにとつては曽て西の京からの帰り途の原中であゝいふ空想に耽つたといふこと自体が、西の京の思ひ出となるであらう。わたくしにこの題目が割り当てられたといふことの背後には、さういふ聯想が働いてゐるかも知れない。

 しかしさうなるとわたくしは、若い者があゝいふ空想に魂の飛ぶ思ひをしたあの時代の特殊な雰囲気を、興味深く思ひ出さざるを得ない。それは北島さんが東大に在学してゐた時期とあまり距つてゐない頃の出来事である。勿論、仏教美術に関してギリシア彫刻の影響の顕著なガンダラ彫刻が問題とされ始めたのは、前世紀からのことである。日本でも高山樗牛は、死ぬ前に「日本美術史稿」のなかで、グリュンヱーデルなどを引用して、奈良の仏像とガンダラ美術との関聯を説いてゐる。それは樗牛全集の第一巻に収録されて、明治三十七年(一九〇四)にすでに刊行されてゐる。しかしわたくしたちが奈良の彫刻に注意を向けるやうになつたのも、またその彫刻の印象に関聯してあゝいふ空想を刺戟されるやうになつたのも、樗牛の「日本美術史」とは全然関係がない。それは全く別途に、一つは東大での日本美術史の講義から、他はサー・オーレル・スタインの新疆省探険の報告から刺戟されたためであつた。

 日本美術史の講義は、わたくしどもの在学の頃に岡倉覚三先生や滝精一先生が始められたのであるが、北島さんの在学の頃にはまだその講義がなく、工科大学の関野貞先生の日本建築史の講義でそれを埋めてゐた筈である。その頃関野先生はやつと四十歳位であつたと思ふが、日本の古い建築や彫刻に対する強烈な関心で小柄な体がはち切れるやうになつてゐた。明治三十九年(一九〇六)の九月に入学した魚住影雄君は、この講義がよほど面白かつたと見えて、下宿へ遊びに行くと好くその話をした。魚住君は、自分が興味を起してゐれば共にゐる相手もまたその興味を共に持つことを要求する人であつたので、自然さういふ態度になつたのだと思ふが、さういふ風に当人が興味を以て話すと、その興味は非常に伝染し易い。恐らく魚住君自身が関野先生の心に渦巻いてゐる興味に感染してゐたのであらう。さういふ関係で、わたくしも関野先生の講義に非常に興味を抱き、その学年の終りに魚住君のノートを借りて読んだばかりでなく、そのノートのレジュメを作つて、その年の夏休みに奈良へ行つた時に、それを持つて歩いた。これがそも〳〵奈良の古い建築や彫刻に接した最初の機会だつたのである。

 尤もこの時の旅行は、中学時代の級友奥村輝光君の勧誘に従つたのであつて、主要な目標は、吉野から大峯山に登り、十津川を下つて、瀞八丁へ寄り、新宮、那智、潮岬などを見物するといふにあつた。奈良へ寄つたのはほんの附けたりで、さう詳しく見物したわけではなかつた。奈良へ入るには京都から南下するのろい汽車にのるか、或は大阪から奈良経由名古屋へ通ずる関西鉄道によるか、いづれかにするほかなかつた時代で、交通はずゐぶん不便であつた。今奈良盆地を縦横に走つてゐる近鉄の電車を自由に利用してゐる人たちは、殆んど想像することも出来ないであらう。しかしその近鉄が来年で創立五十周年だとのことであるから、無理もないといへる。わたくしが初めて奈良を見たのはそれよりもまだ数年前の話で、生駒山の下をトンネルで抜くなどといふ考がまだ岩下清周といふ人の頭に浮んでゐない頃であつた。その頃の奈良見物の学生にとつては、東大寺や春日神社など一通り見て廻つたあとでは、もう西の京まで歩いて行く元気などはなかつた。だからその時は薬師寺も唐招提寺も法隆寺もすべて割愛して、その日の夕方の汽車で吉野口の方へ行つたのであつたと思ふ。

 さういふわけで最初の機会には西の京を素通りしたのであるが、それではその翌年にでも改めて見物に行つたかといふと、さうではないのである。魚住君は古美術への関心を持ち続け、大学を出てからも「日本美術」といふ雑誌の編輯を引き受けたりなどしてゐたが、わたくしの方は次から次へと興味を刺戟するものが現はれて来て、その方へ気を取られ、日本の古美術への関心は初めの頃ほど強くはならなかつた。だから大学で岡倉覚三先生の「泰東巧芸史」の講義を聞いた頃には、まだ奈良の西の京を見物してはゐなかつたのである。

 この講義を聞いたのは大学の二年の時であつたと思ふ。従つて魚住君から関野先生の講義のノートを借りて読んだりなどした時から、三年以上後のことである。大学へ入つた年には関野先生の講義を聞きに工科大学の階段教室へ通つて、木村といふ助手に頼んでいろ〳〵な写真の焼き増しを頌布して貰つたものであつたが、翌年には文科大学で岡倉先生を引張り出して日本美術史の講義を開くことになつた。その時の講義室は、元良先生の心理学の教室であつた。この教室のあつた場所は、ちやうど今安田講堂になつてゐるところである。あの講堂は関東大震災の頃に建築中であつたが、それ以前、特にわたくしの在学した頃には、あの場所は相当に高い崖になつてゐた。その崖の上、今安田講堂の入口のあるあたりに、文科大学の事務室と学長室とを含んだバラック建があつた。その建物の東側が草の生ひ茂つた二三間の高さの崖で、その崖の下の低いところに、元良先生の心理学教室のバラック建があつたのである。建物は東向きで、真中に玄関があり、それを入ると右手、即ち建物の北半分が講義室になつてゐた。南半分には教授室や実験室があつたのだと思ふ。わたくしは卒業の時の口頭試問をこの心理学教室で受けた。多分あの頃には文科大学の中であの元良教授の室などが最も落ちついた、気持の好い室であつたのかも知れぬ。その心理学教室の講義室が日本美術史の講義のために使はれたのは、一つはこの室で幻燈が使へるやうになつてゐたせいだと思ふが、しかし今記憶を辿つて見ると、幻燈を講義に活用したのは滝精一先生であつて、岡倉先生ではなかつた。岡倉先生は多分幻燈を一度も使はなかつたであらう。写真さへもあまり使はなかつた。何か実物を持つて来て見せられたことはあるやうに思ふが、それもはつきりとは覚えない。最も印象の強く残つてゐるのは、大乗仏教の興起やシナにおけるその教理の変遷などをかなり詳しく講義されたことである。それはむしろ仏教哲学史の講義のやうであつたが、先生はさういふ哲学的理念の感覚的具体化といふやうな意味で、仏像彫刻の理解を試みられたのであつたやうに記憶する。

 さういふ講義の或る日、話が薬師寺の三尊に及ばうとする時に、岡倉先生は教場を見廻はして、「諸君のうちにまだ薬師寺に行つて見たことのない人がありますか」と聞かれた。突然のことで、皆が一瞬の間戸惑つてゐると、先生は重ねて、「まだ行つたことのない人は手をあげてごらんなさい、」と言はれた。わたくしは手を挙げた。その瞬間に先年奈良を見物した時以来のことを考へて、西の京をまだ訪れずにゐる自分を幾分恥かしく感じたことは事実である。またさういふ気持であたりを見廻はすと、手をあげてゐる人の方が遙かに多かつたので、何となく安心するやうな気持になつたことも事実である。すると先生は、あの大きな眼でぎよろりとわれ〳〵を見廻はしながら、「よろしい、わたくしは諸君を心の底から羡ましいと思ふ、」と言はれた。この言葉がまたわれ〳〵には案外であつたので、先生は何を言ひ出すのかと、非常に緊張した気持で教壇の先生を見上げた。

 その時に先生の言はれたことは、大体次のやうであつたと思ふ。「わたくしは若い頃初めてあの像の前に立つた時、実に何とも言へない強い驚きを感じた。あの大きい、まつ黒に光つてゐる本尊の、あの渾然とした美しさが、雷電のやうにわたくしを打つたのであつた。この最初の印象がわたくしには非常に強い感銘を残してゐる。あの本尊はその後別に美しさを減じたわけではないが、しかしあの印象は一度だけのものである。もしあの時のやうな気持をもう一度経験することが出来るならば、そのためにわたくしは何を失つても惜しいとは思はない。然るに諸君は、これからあの気持を経験することが出来るのである。それを羡まずにゐられようか。」

 さう言つて岡倉先生は実際に感慨無量といふやうな表情を浮べた。それは先生が歿せられる二三年前のことであつたから、事実上岡倉先生の晩年の感懐であつたと言つてよいわけであるが、わたくしたちは右の言葉から異常に強い刺戟を受けたのであつた。

 今考へて見ると、当時先生は数へ年でやつと五十歳になつたかならないか位の時であつた。しかしその頃わたくしどもの眼には、五十歳の人はかなり老人に見えたものである。大学の先生たちにも五十歳以上の人はあまりゐなかつたし、社会的に目立つてゐる人たちでもさうであつた。例へば文壇では岡倉先生と同年の森鴎外が最古参で、幸田露伴はそれより数年の年少であつた。その頃盛んに小説を書き始めてゐた夏目漱石も五六歳の年少であつたが、わたくしたちの眼には老大家に見えた。大学の講義でわれ〳〵の間の人気を集めてゐた大塚保治先生も同様であつた。つまり四十代前半の人たちが十分に老熟した人に見えたのであるから、五十歳の岡倉先生の言葉のうちに非常な年輪を感じ、敬意を以てそれを迎へたといふことは、少しも不自然ではなかつたのである。

 それではその岡倉先生の言葉に刺戟されて、大急ぎで奈良の西の京へ見物に行つたかといふと、さうでもないのである。それほどにその頃には次々と気を取られるものが多く、特に「新しい」といふことが異常な刺戟をわたくしたちに与へてゐた。文芸の上ではロシアや北欧の近代文芸がさういふ「新しいもの」としてわれ〳〵の関心を煽つてゐたし、美術の上ではフランスの印象派の絵やロダンの彫刻などが「新しい美術」としてわれ〳〵の心を捕へたし、音楽ではその頃急に発達して来た蓄音機のレコードがそれまで聞いたこともなかつたいろ〳〵なシンフォニーやオペラなどを紹介して、われ〳〵の心を西欧の方へ引きつけた。演劇の方で自由劇場が「新しい芝居」を始めてわれ〳〵の心を魅了したのもちやうどその頃である。だから岡倉先生の言葉がどれほど強く響いたとしても、われ〳〵は西の京まで出掛けて行く余裕はなかつたのである。

 では初めて西の京へ行つて、薬師寺や唐招提寺の堂塔仏像に魂を打たれたのは何時であつたか。

 それは岡倉先生の右の言葉を聞いてから更に数年の後、第一次大戦争の最中の大正五六年の頃であつたと思ふ。わたくしは東大の美術史研究室でやつてゐる見学旅行に加はつて、初めて奈良あたりの諸寺を秩序立つて見物したのであつた。

 東大に美術史の講座が出来たのは大正三年(一九一四)で、わたくしの卒業後二年目である。最初の教授は滝精一先生であつた。滝先生が講師として講義を始めたのは岡倉先生と同じくわたくしの在学中であつたから、最初の講義「日本絵画史」は二年位続けて聞いた。その後滝先生は一年ほどヨーロッパへ行つて来て、帰朝後、大正三年の初めに教授になつたのである。美術史の専攻学生が出来たのもこの年以後だと思ふ。その滝先生の研究室で春休みに奈良や京都への見学旅行を始めたのが何年であつたかは、はつきりとは思ひ出せないが、わたくしがそれに参加したのは、どうも二回目の見学旅行であつたやうな気がする。勿論滝先生が引率されたわけであるが、その下でいろ〳〵と事務をやつたり、若い連中を宰領したりしてゐたのは、研究室の副手の藤懸静也君であつた。同行の連中の中には、児島喜久雄、春山武松、矢代幸雄、丸尾彰三郎などの諸君がゐたやうに思ふ。大変賑やかだつたといふ印象が残つてゐるが、ほかにどういふ連中がゐたかはどうも思ひ出せない。

 西の京へ廻つたのは見学の二日目であつた。朝八時頃の汽車で奈良をたつて先づ法隆寺へ行つたのであるが、法隆寺駅から法隆寺までの十数町の間は、人力車のほかには交通機関のない頃で、勿論われ〳〵は歩くのが当然のやうな気持で、麦畑の間の道を、遙かに法隆寺の塔を眺めながら歩いて行つた。あの長閑な心のテンポが、今はなか〳〵取り返せないであらうと思ふ。さういふ接近の仕方であるから、法隆寺の見学もゆつくりとしてゐた。昼の弁当は中門の廻廊外の茶店で食つたやうに思ふ。それから宝蔵を見たり、夢殿や絵殿や中宮寺などへ廻つて、さて夢殿の前の道を北の方へ、法輪寺に向つて歩き出したのは、もう三時を過ぎてゐたであらう。法輪寺からは更に畑の中の小径を伝つて法起寺へ廻つたのであるが、そのあとは郡山へ通ずる街道へ出て、一路西の京を目ざして歩いたものである。夢殿のあたりから薬師寺まで、まづ四キロメートルはあるであらうと思ふが、それも歩くのが当然のことのやうに思つて、わたくしたちはせつせと歩いた。郡山の町を北へ抜けて、十町ほど先に薬師寺の塔を望んだときに、もう夕ぐれの迫つて来たのを感じた覚えがある。

 かうしてわたくしは初めて薬師寺のあの珍らしい形の塔の前に立ち、また初めて薬師寺金堂のあの三尊の前に立つたのであつた。ところで、この日の第一印象のことを簡単にいふと、岡倉先生のあの言葉で非常な期待を持たされてゐた金堂の薬師三尊には、それほどの強い感銘を受けず、むしろあの塔の思ひ切つた形のつけ方の方が遙かに強く心を打つたのであつたが、それよりも一層強くわたくしを驚かせたのは、東院堂の聖観音像であつた。この像からは、わたくしは、岡倉先生の言葉をそのまゝ移して使つてもよいほどの、強い感激を受けたのである。

 その日は時刻が遅れた関係で、日が西に傾いてゐたので、照明の工合はわりに好かつたやうに思ふ。金堂の本尊の黒い色と艶とは、話には聞いてゐたが、全く想像を絶するものだと思つた。形が非常によく整つてゐるばかりでなく、あの形づけ方の流れるやうな柔かさが、特に強い印象を与へた。だからこの仏像があのやうに称讃されてゐることに対して、わたくしは少しも異見を抱いたわけではない。しかしそれにもかゝはらずわたくしには、この仏像の美しさに焦点を合はすことが出来ないやうなもどかしさが残つてゐた。それがすつかり取れたのは、何回かこの本尊の前に立つた後であつたやうに思ふ。だから最初の時には、本尊自身の印象よりも、むしろあの台座の浮彫りの方に一層強い興味を感じたほどである。

 それに比べるとあの塔の美しさはよほど理解し易かつた。法隆寺の五重の塔を見て来たばかりの眼で見ると、この塔の変化の多い形がいかにも思ひ切つたやり方に見えた。その上、この時には、塔の上の水煙の天人の姿が、石膏で形を取つて陳列してあつたやうに思ふ。あれは実に優れた作品で、この時代の一つの代表作と言つてよいが、その印象がわたくしの頭の中では塔の印象と妙に密接に結びついてゐる。それは金堂の本尊よりもむしろ強い感銘をわたくしに与へた。

 がそれらの一切に優つてわたくしを驚かせたのは聖観音の銅像であつた。それは東院堂の中央の大きい厨子の中に立つてゐるのであるが、東院堂は西向きであるから、開いた扉の間から堂内へさし込んだ夕日の光が、開いた厨子の中を工合よく照らしてゐたやうに思ふ。あの銅像は、金堂の三尊のやうにまつ黒な色にはなつて居らず、古びた色ではあるが銅らしい色を見せてゐるのであるから、その銅の色が際立つやうに見えてゐた。肩、胸、両側へ垂れた腕などのしつかりとした肉づけ、腹から下肢の方へ流れ下つてゐる薄い衣のひだにぴつたりと包まれてゐる下半身の力強い形づけ、さうしてさういふ堂々とした体躯の上の、いかにも端厳な観音の顔、さういふものが厨子の闇の中からくつきりと浮び上つて見えた。このやうにまで優れた彫刻が日本にあらうとは、わたくしは実際に予期してゐなかつたのである。

 この聖観音像がわたくしに古代日本への眼を開かせてくれた。これだけのものの作れた日本人は大したものである。こんな日本人が何時の間にどうして出来上つたのであらうか。それまでにわたくしの教はつてゐた日本の歴史ではどうもこの疑問は解けなかつた。

 この日かういふ気持を一層そゝつたのは、講堂の三尊像であつた。それは金堂の薬師三尊と同じ位の大きさの大きい銅像であるが、元来何処の何寺のものであつたのか、素性のはつきりしないものだといふことであつた。修補のあとが著しく、作として金堂の薬師三尊よりも遙かに劣るので、おのづから黙殺されるやうになつてはゐるが、しかしこれほどの大きい銅像がさういふ状態で残つてゐること自体がわたくしにはひどく興味深い現象のやうに思へた。それは一つには、薬師三尊が作られた頃には、この種の大銅像の製作はさほど珍らしいことではなく、従つて大和の人々からはありふれたものとして取扱はれたのであつたかも知れない。さうなるとその頃の銅像製作は大したものである。どうも偉い時代があつたものだと感ぜざるを得なかつた。

 夕暮が迫つて来たので、大急ぎで薬師寺から唐招提寺へ行つた時に、わたくしはまた新しい驚きに出逢つた。南門から入つてやゝ進んで行つた時に、正面にどつしりと据つてゐるあの金堂の姿が、実に調和そのものであるやうな、古典的な美しさの絶頂を示すやうに思へたのである。木造建築であるから天平の昔の姿をそのまゝ伝へてゐるかどうかは疑問であらうが、しかしそんなことを考へて見る暇もなく、わたくしはいきなり天平建築の代表をこゝに見るやうに感じた。こゝには暗い影の些さかもない、明朗そのものゝやうな木造建築がある。屋根はなるほどどつしりとしてはゐるが、しかし下から受ける柱の列が実に強い力を現はしてゐて、いかにも軽々と持ち上げてゐるやうに見える。屋根のそりはちやうどその持ち上げる力のはね返しを現はしてゐるやうに見える。その屋根のそりをはつきりと現はしてゐるのは、大棟の鴟尾のところから四隅の軒先へ流れ下る降り棟の線であるが、その線の緩やかにはね上つてゐる先端へ、正面の軒の左右にのびた線の端の方もまた緩やかにはね上つて一緒になる。正面から見れば、左右の軒の先端へ屋根のはね上りが集中してゐるやうに見える。その他の部分、例へば最も上にある大棟の線とか、下方でそれと並行して左右に走つてゐる軒端の線とかも、幾分か彎曲してゐるのかも知れないが、しかし眼立つほどではない。はね返りの彎曲は左右の軒の先端に至るに従つて顕著になつてゐるのである。しかしそのことは、下から軒を受けて立つてゐる八本の円柱の並べ方と無関係なのではない。無関係どころか、非常に密接な聯関を以て八本の柱が並んでゐるやうに見える。といふのは、正面に遊離して並んでゐる八本の柱の間の隔りが、微妙な割合を以て両端に至るほど狭まつてゐるのである。これは両端に至るほど柱の並び方が密になつて、その支へ上げる力が強まつて行くことを意味してゐる。屋根のはね上りは、ちやうどこの支へる力の増加と対応してゐるのである。これは実にわたくしにとつて驚異の種であつた。

 金堂を正面から眺めた場合、柱の間の間隔は、中央において広く、左右に至つて狭くなつてゐるのが普通である。唐招提寺の金堂の前に立つた時より数時間前にゆつくりと眺めて来た法隆寺の金堂だつてさうである。然るに法隆寺ではその点に少しも気づかなかつたのに、唐招提寺の金堂の前では、それが恰もこの堂の美しさの秘密を開示してゐるかの如くに、わたくしの心を打つたのであつた。それは何故だつたのであらうか。

 実をいふとわたくしは、その時にも、またその後の四十年余の間にも、あの柱の間隔を測つて見たこともなければ、またその逓減の割合を考察して見たこともない。況んや法隆寺の金堂の場合と比較して見たこともない。たとひ細かな数字を出して見たところで、その意味を理解する能力はわたくしにはないからである。が、かりにその逓減率と屋根のそりの曲率との間に、何かの関係が見出せたとしても、この金堂の建築家がさういふ数学的関係に基いて設計したのでないことは確実であらう。この金堂の建築家が使つたのは、芸術的な釣合の感覚である。さうしてその感覚は、法隆寺の金堂の建築家の場合とは、明かに違つてゐたのである。

 しかしわたくしは、唐招提寺の金堂が示してゐるあの釣合に驚歎すると共に、この釣合を作り出した感覚が、あのアテナイのパルテノンを作り出した感覚と、極めてよく似たものではないかと感じたのであつた。しかもそれが、天平時代の金堂らしい金堂としては唯一の遺物なのである。われ〳〵は、たゞこの窓口を通してのみ、天平時代の数多い荘大な金堂を想像して見ることが出来る。さうして、この窓口から見た天平の大建築は、実に予想外に素晴らしいものとならざるを得なかつた。たゞ一つ東大寺の金堂を問題としてもよい。この堂の規模は記録によつておほよそ解つてゐる。今の大仏殿が七間七面であるに対して、最初のそれは十一間七面であつた。釣合がまるで違ふ。殊に現在のやうに、正面に唐破風などをつけた形は、天平の感覚からは遠ざかり得る限り遠ざかつたものだと言つてよい。十一間七面は左右に長い形で、唐招提寺の金堂に似てゐる。唐招提寺の方はずつと小さく七間四面に過ぎないが、間口と奥行の割合は極めて近い。柱間の寸法によつては同じ割合にも出来たであらう。だからわれ〳〵は、唐招提寺金堂のあの比類のない美しい調和を持つた姿を、そのまゝ拡大して、倍以上の大きさの重層建築として想像することが出来る。これは実に大変な建築である。わたくしは全く魂の天外に駛け廻るやうな思ひをしたのであつた。

 唐招提寺の金堂は天平建築だといふことでわたくしにさういふ刺戟を与へたのであつたが、薬師寺の金堂の本尊は、同じ金銅仏でありながら、少し時代が早いと言はれてゐるせいか、東大寺の大仏への想像を刺戟するやうなことはなかつた。唐招提寺の金堂には初めからの乾漆の盧舍那仏がいかにも堂とよく調和して安坐してゐるので、この点からも金銅盧舎那仏への想像を阻止されたのであつたかも知れぬ。が考へて見ると、薬師寺本尊の鋳造の時代と大仏鋳造の時代とは、僅か三十年位しか距つてゐない。鋳造の技術がさほど衰へたとは思へない。造像の技術に関しては、むしろ円熟の度を進めてゐると言つてよいであらう。さうすればわれ〳〵は、薬師寺の本尊の上にもつと天平的な円熟の趣を加へた大きい金銅盧舍那仏を想像することが出来る筈である。さういふ本尊があつてこそ初めて唐招提寺金堂を拡大し重層化したやうな大仏殿が天平時代の結晶としての意義を発揮して来るであらう。

 かういふことを考へざるを得ないやうな刺戟を唐招提寺の金堂はわたくしに与へたのであつたが、しかし最初の見学の日にわたくしはさう長くそこに留まつてゐたわけではない。その頃講堂は普請中であつて、内部を参観したのは金堂と開山堂とだけで、さほど長い時間を要しなかつた。だから夕暮れで幾分薄暗くなる頃にはわたくしたちは唐招提寺の構内を北西の方へ抜けて、垂仁天皇陵の方へ歩いてゐた。今はこの御陵と唐招提寺との間に電車線路が通じてゐるが、あの頃にはまだ線路はなく、いかにも物静かな景色であつた。夕暮の光の中で垂仁陵の茂つた樹立がいかにも幽邃に見えた。まはりの池との調和も非常に好かつた。なるほど前方後円墳といふのはかういふ落ちついた感じのものかとしみ〴〵感じた。

 垂仁陵のそばから田舍道伝ひに西大寺の停車場までは一キロ半位はあつたであらう。わたくしたちはおのづから足を早めて元気よく歩いて行つた。大阪奈良間の電車が開通してからはもう数年経つてゐた。それでも、この見学旅行の時にこの電車を利用したのは、この西大寺奈良間だけであつたと思ふ。


 初めに問題とした「西の京での空想」が浮び上つてくるためには、もう一つの重大な契機としてスタインの西域旅行記を読んだことが残つてゐる。スタインが最初に新疆省のタリム盆地を探険したのは、明治三十三四年頃、わたくしが中学へ入つた頃であるが、その時の探険は非常に世界を驚かした。それまで殆んど世界から忘れられてゐたタリム盆地が、急に強い照明を帯びて眼の前に現はれて来たからである。西本願寺の大谷光瑞が西域の探険にのり出したのはこの刺戟のせいであつたと思ふ。が第一回の探険の報告が旅行記として一九〇三年(明治三十六年)に出版され、更に詳しい研究の報告 Ancient Khotan 二巻として一九〇七年(明治四十年)に世に出た頃には、スタインはすでに第二回の探険旅行(一九〇六年─八年)に入り込み、燉煌の千仏洞などを発見して、一層世界を驚かしてゐた。日本の東洋学者たちもひどく湧き立ち、北京へ燉煌出土の古文書を見に行つたりなどした。わたくしたち、直接に関係のなかつたものでも、その騒ぎは少しは知つてゐる。特にわたくしの記憶に残つてゐるのは、これまで孫悟空の活躍する西域記の種本として名前だけ知つてゐた玄奘三蔵の大唐西域記が、この探険旅行に非常に役立つたと聞いて、非常に驚いたことである。驚いたのはわたくしだけではなかつたと見えて、京都の文科大学では、新しく西域記を校訂して出版した。これは千何百年来日本で大蔵経の中に存在してゐた本なのであるが、こゝで全く新しい眼で見られる必要を生じたのである。堀謙徳氏の詳しい『解説西域記』が出たのもそれから間もなく、大正元年(一九一二)のことであつた。

 そのスタインの引き起したシヨックが何であつたかといふことを、わたくしは西の京で、薬師寺の東院堂の聖観音や、唐招提寺の金堂などを見たときに、初めて理解することが出来たのであつた。これらはシナから伝はり、シナの仏教美術を手本として作られたものではあるが、しかしそのシナの仏教美術なるものは、タリム盆地あたりを通ずる西域との交渉を勘定に入れなくては、理解されない筈である。それはもと〳〵シナ的なものではなくしてインド的なものなのである。仏教に伴つた一つの特殊な文化の流れなのである。それがシナへどうやつて入つて来たかを、スタインはタリム盆地の砂漠の中から掘り出して見せてくれた。そこへわたくしの興味は強くひきつけられたのであつた。

 その頃には第二回の探険の報告は、Ruins of Desert Cathay といふ二巻の旅行記が出てゐただけで、詳しい研究の報告 Serindia 五巻はまだ出てゐなかつた。しかしわたくしには第一回の探険の報告である古代于闐の発掘記だけでも、実に興味深いものであつた。わたくしは魂が天外に駛けるやうな思ひをしてあの遺跡の報告を読んだものである。

 今では、次の世代の元気のいゝ人たちが、自分であのアジア大陸の真中の、砂漠の多い地方へ乗り込んで行つて、自分でじかにあの地方を体験するといふやうなことを、さほど珍らしくもなくやつてゐる。それを思ふと半世紀前はまるで事情が違つてゐた。まことに今昔の感に堪えない。

 ところで、スタインの探険した西域は過渡の地である。それは当然西域の本場へ、即ちインドの地へ、人を導いて行く。わたくしは北西インドやアフガニスタンの仏教美術のことに親しまざるを得なかつた。がさうなると興味は、仏教美術の起源そのものに向つて行く。さうしてそこにインドの文化とギリシアの文化との、接触の問題が横たはつてゐる。それが不思議に強い力を以てわたくしの心を捕へたのであつた。

 これが最初に挙げた「西の京での空想」の湧き上つて来た所以なのである。

(一九五九年九月)

底本:「大和の古文化」近畿日本叢書、近畿日本鉄道

   1960(昭和35)年916日発行

※「盧舍那仏」と「盧舎那仏」の混在は、底本通りです。

入力:岩澤秀紀

校正:杉浦鳥見

2020年221日作成

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