第二真珠抄
北原白秋



ほのかなるもの


ゆめはうつつにあらざりき、うつつはゆめよりなほいとし、まぼろしよりも甲斐なきはなし。


幽かなるこそすべなけれ、美しきものみなもろし、尊きものはさらにも云はず。


ひとのいのちはいとせめて、日の光こそすべなけれ、麗かなるこそなほ果敢な。星、月、そよかぜ、うす雲のゆくにまかする空なれども。


ふりそそぐものみなあはれなり、雨、雪、霰、雹に霙、それさへたちまち消え失せぬ。


土に置く霜、露のたま、靄、霧、霞、宵の稲づま、ほのかなれども水陽炎のそれさへ頼むに足るものなし。


煙こそあはれなれども、捉へられねばよしもなし。山家にゆけど、野にゆけども、水のながれを堰くすべもなや。


ちちろと歎く蓑虫も、蛍の尻もみな幽けし。なまじ寝鳥の寝もやらぬ春のこころの愁はしさよ。


色ならば、利休鼠か、水あさぎ、黄は薄くとも温かければ、卵いろとも人のいふ。


水藻、ヒヤシンスの根、海には薔薇いばらのり、風味あやしき蓴菜は濁りに濁りし沼に咲く、なまじ清水に魚も住まず。


花といへば、風鈴草、高山の虫取菫、蒜の花、一輪咲いたが一輪草、二輪咲くのが二輪草、まことの花を知る人もなし。


葉は山椒の葉、アスパラガス。蔓は豌豆、藤かづら、芥子に恨みはなけれども、その葉ゆゑこそ香も清く、ひとに未練はなけれども、思ひ出のみに身はほそる。


あはれなるもの、木の梢。細やかなるもの、竹の枝、菅の根の根のその根のほそ毛、絹糸、うどんげ、人蔘の髯。


はろかなるもの、山の路。疲れていそぐは秋の鳥、とまるものなき空なればこそ、こがれあこがれわたるなれ。玻璃器のなかの目高さへ、それと知りなば果敢なみやせん。


巣にあるものはその巣をはなれ、住家なきもの家をさがす。栗鼠りすは野山に日を暮らし、巡礼しばしもとどまらず。殻を負ひたる蝸牛ででむしはいつまで殻を負うてゆくらむ。


かへり見らるる船のみち、背後しりへの花火、すれちがひたる麝香連理じやかうれんりの草花の籠、ひとの襟あしみなほのかなれ。


笛の音の類、朝立ちの駅路うまやぢの鈴、訪ふ人もなき隠家のべるの釦のほのかに白き、小夜ふけてきくりんのたま。


影はなによりまた寂し、踊子のかげ、扇のかげ、動く兎の紫のかげ、花瓶のかげ、皿に転がる林檎のかげはセザンヌ翁をも泣かすらむ。


夏はリキユウル、日曜の朝麦藁つけて吸ふがよし。熱き紅茶は春のくれ。雪のふる日はアイスクリイム。秋ふけて立つる日本茶、利休ならねどなほさら寂し。


味気なきは折ふしの移りかはり、祭ののち、時花歌はやりうたのすぐすたれゆく、活動写真の酔漢の絹帽シルクハツトに鳴くこほろぎ。


さらに冷たきもの、真珠、鏡、水銀のたま、二枚わかれし蛇の舌、華魁おいらん


しみじみと身に染みるもの、油、香水、痒ゆきところに手のとどく人が梳櫛すきぐし。こぼれ落ちるものは頭垢ふけと涙、湧きいづるものは、泉、乳、虱、接吻くちづけのあとのおくび、紅き薔薇さうびの虫、白蟻。


過ち易きは、人のみち、算盤そろばんの珠。迷ひ易きは、女衒ぜげんの口、恋のみち、謎、手品、本郷の西片町、ほれぼれと惚れてだまされたるかなし。


忘れがたきは薄なさけ。一に好色、二に酒のあぢ、三にさんげの歌枕、わが思ふ人ありやなしやと問ふまでもなし都鳥、忘れな草の忘れられたるなほいとし。


浅くとも清きながれのかきつばた。偽れる、薄く澄ませる、また寂し。まことなきものげに寂し。まことあるものなほ寂し。しんじつ一人は堪へがたし。人と生れしなほ切なけれ。


思ひまはせばみな切な、貧しきもの、世に疎きもの、哀れなるもの、ひもじきもの、乏しく、寒く、物足りぬ、果敢なく、味気なく、よりどころなく。


頼みなきもの、捉へがたく表現あらはしがたく、口にしがたく、聴きわきがたく、忘れ易く、常なく、かよわなるもの、詮ずれば仏ならねどこの世は寂し。


まんまろきもの、輪のごときもの、いつまでも相逢はず平行ならびゆくもの、まためぐるもの、はじめなく終りなきもの、煙るもの、なばぬがに縺れゆくものみなあはれ。


芸は永く命みじかし、とは云ふものの、滅び易きはうき世のならひ。うたも、しらべも、いろどりもゆめのまたゆめ。


うつつをゆめともおもはねど、うつつはゆめよりなほ果敢な、悲しければだぞなほ果敢な、幻よりもなほ果敢な。

底本:「白秋全集 3」岩波書店

   1985(昭和60)年57日発行

底本の親本:「白秋全集 第三巻 詩集第三」アルス

   1930(昭和5)年719

初出:「ARS 1巻2号」

   1915(大正4)年51

入力:岡村和彦

校正:フクポー

2016年129日作成

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