錢形平次捕物控
江戸の夜光石
野村胡堂
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「親分の前だが、江戸といふところは、面白いところですね」
松もまだ取れないのに、ガラツ八の八五郎はもう、江戸の新聞種を仕入れて來た樣子です。長んがい顎を撫で廻して、小鼻をふくらませて、滿面の得意が、鼻の先にブラ下がつてゐる樣子でした。
「面白いに違げえねえな、お互ひに江戸に生れて江戸に住んで、大した退屈もせずに、また年を一つ取つたぢやないか」
錢形平次は、近頃、暇で〳〵仕樣がなかつたのです。勝負事は大嫌ひ。細工や片付け事は生れながら不器用で、御上の御用のない日は、小原庄助さん見たいに朝湯に入つて、酒の代りに番茶を呑んで、氣の減るほど煙草ばかり吸つてゐるのでした。
たまには黄表紙を出したり、八五郎とヘボ碁も鬪はせますが、何べんも何べんも讀んだ黄表紙が、夢中になるほど面白い筈はなく、八五郎と一局圍んでも、申分なく人間の甘い八五郎に、三番立て投げなどを喰はされては、親分の平次の沽券に拘はるだけのことです。
女房のお靜も、取つて二十三になつた筈ですが、相變らず若々しくて健康で、一日一杯目立たないやうに、靜かに働いてをります。神田明神下の家庭は、靜謐そのものですが、八五郎が時々やつて來ては、頓狂な調子で事件の匂ひを持込み、錢形平次を、靜から動に、隱者のやうな生活から、大波瀾大活躍の舞臺へと誘ひ込むのです。
「第一、元日から大晦日まで、お祭や催し事のない日はなく、何處かに火事があつて、何處かで喧嘩が始まつて」
「物騷なことを面白がるぢやないか」
「その上、女の子が綺麗で料理がうまい、氣に入らないのは、いつでもこちとらの懷中がピイピイだ」
「落がきまつてゐる。──話は、それつきりか」
「今のは枕を振つただけで、話はこれから始まるんですよ」
「フーム」
「山谷の聖天樣、──むづかしく言へば歡喜天樣、──降魔招福、歡喜自在の御利益があるといふ、大した佛樣だ」
八五郎の話には、珍らしく筋がありさうです。
「それが?」
「江戸の喉首、吉原への通ひ路、山谷堀へ緒牙船で入らうといふ左手に鎭座まします、江戸城から見るとこれが鬼門に當る」
「そんなことはどうでも宜い」
「宜かアありませんよ。鬼門除けがあつて、裏鬼門の未申になんにも無いといふのは變だ、──といふので、江戸に吉原を開いた、庄司甚内の子孫、庄司三郎兵衞といふ大金持が、目黒のお不動樣の近くに住んでゐるが、先祖の甚内樣にあやかつて、目黒川のほとりに江戸一番の盛り場を押つ開かうと、先づ自分の屋敷の中に、歡喜天を勸進し、この正月の十五日には、開眼供養とかのお祭があるんださうで、嬉しいぢやありませんか」
「何んにも嬉しいことはないぢやないか、盛り場が増えるのは、女房共の惱みの種だ」
「へツ、女房共の惱みは嬉しいね」
八五郎はチラリとお靜の顏を見て、龜の子のやうに首を縮めました。
「たつたそれだけのことで、お前は江戸が面白くなつたといふのか」
「面白いぢやありませんか、歡喜天といふのは、象の頭で人間の身體の和合神ですつてね。男體は大荒神で、女體は觀音樣の化身、──その聖天樣の像といふのは、天竺傳來の大した御本尊ですぜ」
「──」
「像は子供ほどの大きさで、木像に色をつけたものだが、男體、女體それ〴〵の額に夜光の球がはめ込んである、これが大變だ」
「夜光の球なんて、日本にそんなものがあるのか」
「大層な光ださうですよ、灯を側へ持つて行くと眩しいほど、──男體の方のは梅の實ほどで火のやうに光り、女體の方は銀杏の實ほどで青光りする。あつしは見たわけぢやないが、氣味が惡いほどだと言ひますよ」
「フーム」
「最初は、難破して堺の浦に流れついた、異人の船が持つて來たもので、その船の繕ろひや、歸りの路用に困つて、他のいろ〳〵の品物と一緒に、土地の商人に賣つたものだが、あんまり値段が高いのと、夜なんか不氣味で傍へ置けないので、堺の商人が江戸まで持つて來て、三百兩で賣りに出た品だといふことです」
「三百兩は大したことだな」
その頃の三百兩は、通用價値から言へば、今の三百萬圓以上になるでせう。
「堺の商人はその聖天樣の額の寳珠を、水晶か何んかと思つて、五十兩か三十兩に値踏みしたことでせう。引取つた他の品は、思ひの外高く賣れたから、聖天樣の像は百兩で宜いといふことになり、目黒の庄司三郎兵衞がそれを買ひ、さて見る人に見せて驚きました。この珠は水晶やギヤマンではない、これは夜光の珠と言つて一國一城にも替え難いものだと言はれて、庄司三郎兵衞も膽をつぶし、急に目黒川のほとり、自分の家の後ろに堂を建てて、江戸裏鬼門の聖天樣として、祀ることになつた──と斯んなわけですよ」
それは八五郎が面白がるほどのことか、それとも、大袈裟に傳へられた、市井の雜事の一つか、其處まではまだわかりませんが、兎も角も大きな事件の種らしい匂ひがするのです。言ふ事もなく夜光の珠といふのは、今で言ふダイヤモンドで、梅干大のダイヤが何百カラツトあるか、一寸想像も出來ません。
正月十日、霜天に泡を吹いて、ガラツ八の八五郎、奔馬のやうに飛んで來たのです。
「さア、大變ツ」
「どうした、八。この寒空に大變な汗ぢやないか」
「目黒の聖天樣の騷ぎで」
「火事か、喧嘩か」
「夜光の珠が盜まれたさうで、目黒から使ひの者が、飛んで來ましたよ」
なるほどさう言ふ八五郎の後ろに、二十五六の良い若い者が一人、八五郎の三倍も汗を掻いて、燒き立ての芋のやうに湯氣を立てて居るのです。
「そいつは變つてゐるな、そんなものを盜つてどうするのだらう」
「落着いちやいけませんよ。そればかりぢやない、聖天像の夜光の珠も大したものと聞いたが、それより大事なのは、庄司樣の御内儀の眼の玉をくり拔かうとした奴があるさうで」
なるほどそれは容易ならぬことでした。平次は早速支度をして、神田から目黒まで、近からぬ道を急ぐことになりました。
目黒の庄司家へ着いたのは、やがて晝近い頃でした。祖先は曾ての吉原の創始者で、浪人者ではあつたにしても、名だたる有徳人で、金もあり、人望もあり、何代か土地に住み着いて、申分のない人柄だつたのです。
平次と八五郎と、それを案内して來た下男の磯松が、三頭の駻馬のやうに、彈みきつて驅け込むと、
「いや御苦勞々々々、錢形の親分も一緒で、それは有難い」
迎へに出た庄司三郎兵衞は、四十五六の仁體、まことに穩かな人柄です。髮形も身扮も町人には違ひありませんが、態度には浪人らしさが殘つて、應接も立派ですが、不安な氣持が一擧手一投足にもこびり付いていかにも氣の毒です。
「飛んだことでしたね、御内儀が怪我をなすつたさうで」
「兎も角も、堂の中から、一應調べて下さい」
「では」
廣い庭をグルリと廻ると、北から西へ伸びた、深々とした林があり、その林の中ほどに、十尺四方ほどの嚴重な堂が建つてをります。まだ木の香目出度いまゝ、扉を締めきつて、グルリと柵を繞らしてゐるのでした。
柵を開き、拜殿の大海老錠を拔くと、中には立派な壇が据ゑてあり、扉を開くと、等身よりやや小さいと言ふ、歡喜天の像が安置してあるのでした。
像はなか〳〵に古く、木目も見えませんが、いづれも天竺の名木で作つたものでせう、色彩も剥落してまことに慘憺たる有樣ですが、男女二體の彫像の内、男體の額に鏤めた夜光の珠は燦然として方丈の堂内を睨むのでした。
その凄まじい光に平次も八五郎も思はずハツト立竦みました。──が、兩體の佛像のうち、夜光の珠の殘つてゐるのは男體の方だけ、女體の方の額は、寳玉をゑぐり取られて、淺ましい穴が、額にポカリと開いて居るのも無氣味でした。
「この通りですよ、錢形の親分。──この夜光の珠は、日本に類がないばかりでなく、唐天竺から南蠻にも珍らしいもので、これを一つ賣れば、南蠻紅毛の國では、何千兩、いや〳〵何萬兩にもなるといふことです。曲者はそれを知つて、堂に忍び込み、開眼供養の前に盜み取つて、唐天竺に持つて行くか、長崎平戸あたりの、異人に賣り飛ばすにきまつてをります」
庄司三郎兵衞は、心外らしく語るのです。
「この像を堺の町人に賣つたといふ、南蠻人の商人は、江戸へ追つかけて來るやうなことはなかつたでせうか」
平次は漸く冷靜に立ち還つて、その調べを始めました。梅の實や銀杏の實ほどの珠が、何千、何萬兩もするといふことは、ザラの小泥棒などにわかる筈もありません。
「それも考へられないことはありませんが、この佛像を賣つた南蠻の商人といふのは、どうも唯の商人ではなくて、世界の海を荒し廻る、海賊か何んかで、堺奉行が調べを始めると、船の修理もそこ〳〵に逃げ出してしまつたやうです」
「これを江戸へ持込んだ、日本の商人は?」
「それは素姓が知れてをります、小傳馬町の加納屋に泊つて、上方と江戸の間を引つきりなしに歩いて居る。和泉屋皆治と言ふ人で、歡喜天の額の珠が、大した値打のものだと聽いたらしく、その後賣値の倍で買ひ戻し度いと再三の掛け合ひでした。私は申す迄もなくお斷りいたしましたが」
「ところで──この小さい方の珠を盜られた時刻は?」
「昨夜の夕方から、今朝の夜明けまでの間──間違ひもありません。昨夜は私が見廻つて、嚴重に錠をおろし、それから他所へ出かけました。今朝も私が一番先に見廻りました。入口に蝋が垂れて居るので、驚いて扉を開けると、この通り」
「錠前は?」
「間違ひなく昨日の夕方見廻つた時も、今朝檢めた時も海老錠がおりてをりましたよ」
「鍵は?」
「私が持つてをります」
「無事だつたでせうな」
「間違ひありません」
庄司三郎兵衞は腰のあたりを搜つて見せるのです。
平次は何を考へたか、もう一度拜殿に戻つて、今度は蝋燭を用意させ、それを片手にかゝげてサツト帳を引きました。
「アツ」
寳石の威嚴や魅惑に馴れない平次が、思はずたじろいだのも無理はありません。歡喜天の異樣な象頭の額に輝やく夜光の珠が、火の如く燃えて、魅入るやうに平次を睨むのです。
燃えるやうに──といふ言葉は、決して空々しい形容ではありません。梅干大の夜光の珠は、宇宙創造の神秘を籠めた、プロメトイスが盜んだ坩堝の焔のやうに、全くメラメラと燃えて居るのです。灯をかゝげて見る方寸のダイヤの威嚴は、どんなに凄まじいものか、泥棒も恐らくこれを見て膽を潰し、大きい方の佛像の額からもぎり取る氣力がなかつたのでせう。
平次は試みに手を加へて、歡喜天の大夜光の珠を押して見ました。象頭の像の額にハメ込んだ珠の根の臺座には、後で修繕ひでもしたらしい繼目があるのに、その細工が精巧を極め、珠は固く定着して、一寸したことでは取れさうもなく、その上、珠の發する光りが、冷い焔となつて、掌の指の間にメラメラと燃え、長くはこの冒險的な作業は續けられさうもありません。
諦めて柵の外に出ると、主人庄司三郎兵衞は、後ろの扉を嚴重に締め、さて二人を母屋に案内しました。
半分は百姓家造りですが、木口も立派、調度も何んとなく堂々として居り、江戸の町家のコセコセした造りばかり見て居る眼には、その大どかさに膽をつぶします。
板の間を二つ三つ過ぎると、奧には疊の部屋が唐紙で仕切つて幾つか連なり、その一番奧、南陽の當る八疊に、内儀のお照は外科の手當てを受けて居るのでした。
「入らつしやいまし」
布團をハネのけて起き上がるのを、平次は兩手を擧げて、
「まア、そのまゝ、そのまゝ」
靜に押えて座につくのです。
田舍の内儀──それも中年過ぎの日焦けのした、大年増を豫想した平次も八五郎も、ハツと息を呑んだのも無理のないことでした。後で聽いたことですが、それは中年過ぎてから娶つた後添へで、年も精々二十四五、商賣人あがりらしい、蒼白い顏をした、少し劍のある、──が、美しい女です。
左の眼から頬へかけて顏半分の繃帶をして居るのが、鬱陶しく重々しい限りですが、それがこの中年増の内儀の美しさを、一層引立てると言つた、不思議な効果です。
が、平次も八五郎も、本當に眼を見張つたのは、内儀の布團の裾の方に、小じんまりと控へて居る、若い娘の可愛らしさでした。
「これが娘の幾と申すもので──」
と父親三郎兵衞に引き合せられて、恥かしさうに首を垂れましたが、頬の豊かな、唇の曲線の素晴らしい、まことに逸品的な美しさでした。いや〳〵、單なる美しさではなく、それは誰にでも好意を持つてゐさうな、世にも目出度い存在だつたのです。
庄司三郎兵衞が耳打ちをすると、手當てをしてゐた外科が、道具を片付けて、
「もう大丈夫でございます。幸ひ眼の玉は外れたし、頬の疵も大したことではない、──刄物は左樣、刀や鑿のやうなものではない、薄刄の剃刀かな、切出しかも知れないが眼にも肉にも骨にも、大したさはりはない」
さう言ひながら歸つて行くのです。
「お聞きの通りで、──曲者は最初から、家内の眼を潰すつもりで入つたわけではなく、佛像の額の大夜光の珠が取れなかつた口惜し紛れに、母屋へ忍び込んでこんな惡戲をしたのではあるまいか」
庄司三郎兵衞はさすがに行屆いたことを言ふのです。
「もう少し、その時の樣子を聽かして下さい。曲者はどうして入つて、どうして逃げたか、他に奪られたものはなかつたか──」
平次は押して訊くのです。
「昨夜──まだ宵の内だつたさうで、──私は相談事があつて、近所の知り合ひの家へ行つて居りました。──その留守を狙つて曲者が入り、置炬燵に凭れてウトウトして居る家内の眼を、後ろから抱きつくやうに突いて逃げ出したさうで──」
「私はうつかりしてをりました。行燈を消されたのも知らずに居たのでございます。左の眼を突かれて、ハツと眼を開くと、あたりは眞つ暗。何が何やらわからずに、大きい聲を出しますと、娘のお幾が、手燭を持つて飛んで來てくれました。その時はもう曲者は影も形もなく、何んで突いたか、得物も見付かりません。私は斯んな怨を受けるわけはなし、唯もうあわてて居るところへ、主人が戻つて參りました」
内儀は眼の繃帶を氣にしながら、なか〳〵雄辯に話してくれるのです。
「私が戻つてから、先づ何より手當てをさせましたが、もとより、こんな無法なことをされる覺えはなく、私も土地の繁昌のために骨を折つて居るだけで、人樣から怨みなどを受ける筈もございません。ところが、今朝になつて、歡喜天樣の額の珠が盜まれて居ることがわかり、その上家の中に手紙を投げ込んだものがあつたので、何も彼もわかりましたよ。これを御覽下さい」
三郎兵衞は立上がつて、手文庫から一本の手紙を取出すのです。
手紙はありふれた半紙二枚を重ねたもので、八つ折にしたのを押し開くと、なか〳〵の達筆で、斯う書いてあるのです。
「貴殿入手の歡喜天は、三國傳來の秘佛にして、俗人の私すべきものに無之、早速當方に引渡され度く此の段確と申入候。尤も佛體そのまゝ引渡すには不及、歡喜天の額上にはめ込みたる夜光の珠のみにて宜しく、それを拔き取りて、堂内の壇上に安置されたく候。若しこの申出に從はざるに於ては、貴殿の身寄の者の眼を一夜に一眼づつ奪ひ去るべく候。差當り次の眼は、──」
こゝで文句はプツリと切れて居るのです。
恐らく最後まで言はない方が、脅かしはぐつと手嚴しく響くことを心得た爲でせう。
手紙にはもとより署名もなく宛名もありませんが、今朝雨戸を開けた時、雨戸の隙間から投り込んだらしく、白々と椽側にあつたといふのですから、曲者から主人三郎兵衞に當てたことは言ふまでもありません。
平次はそれをくり返して讀んで、椽側に立出でました。
庭も屋敷も廣いのですが、家族と言つては、主人夫婦と、──内儀のお輝には繼しい仲ですが、──娘のお幾、あとは下男の磯松、これは二十五の男盛り、庭掃きの爺やの五十五になる與八、これは近在の百姓で、殘るのは十九になる下女のお崎だけ、何んの疑はしいかどもありません。
「お隣りは?」
平次は低い生垣の先の大きい藁葺の家を指しました。その家との間の庭は、道もないところに道をつけて、かなり踏み荒されて居るのです。
「御旗本御大身、波多野越前樣の御隱居屋敷で」
「御家族は?」
「御隱居樣のお朝樣、もう六十以上の御年配で、あとは御女中と、下男ばかり」
「待つて下さい。お宅には坊ちやんがゐらつしやる筈ですが──」
「──」
「眞新しい竹刀があり、弓矢があり、隣りのお部屋には、近頃刷り立ての青表紙や、机の上には──」
「さすがは錢形の親分、──これは申上げたくないことですが、二十一になる彌三郎と申す伜があります。總領の男の子には相違ないが、耻かしながら身持放埒で、今は親類のところに預けてあります。繼しい中で家内も悉く心配をして居りますが──」
庄司三郎兵衞は内儀の顏を見い〳〵斯う言ふのでした。
「それはお氣の毒で──」
平次も斯んなお座なりを言ふ外はありません。
「尤も、友達が惡かつた。伜は根が正直一途で、世の中を何んにも知らず、懷ろ子に育つてゐるところへ、私が若い後添へを迎へると、それをまた、他から嗾かす者があり──」
庄司三郎兵衞の言葉は、傍に居る内儀の思惑を兼ねて、いかにもしどろもどろです。が結局友達に遊佐の右太吉といふ、素姓のよくないのがあり、それが時々誘ひ出しては、伜の彌三郎に惡いことを教へるのだといふことになります。
「ところで御主人、この手紙の申し出をどうなさるつもりで?」
歡喜天の額の寳珠か、それとも活きた人間の眼玉かといふ恐ろしい脅迫に對して、主人の三郎兵衞はどれだけの覺悟を持つて居るか、それが聽き度かつたのです。
「歡喜天の珠は、何萬兩といふ寳で、盜賊などに脅かされて、おいそれとやれる品では御座いません。だが、家内はすつかり脅えてしまつて、この上の間違ひがあつてはいけない、命に替へる寳はないのだから、その夜光の珠とやらを、聖天樣の額から拔き、盜賊の言ふ通りに渡してくれと斯う申します」
「──」
「錢形の親分に來て頂いたのは、──何うしたものか、それを決めて頂き度かつたのでございます」
庄司三郎兵衞は、この寒空に、額の冷汗を拭くのです。
「さア、あつしはこれでも町方の御用を承つて居ります。泥棒の言ひなりになつて、そんな大事な品を、惡者に渡してやれとは申し兼ねます」
「でも、親分」
内儀のお輝は、たまり兼ねたやうに、枕の上に顏をあげました。その繃帶で半分は隱れた顏には、容易ならぬ苦惱の色が、夕立雲の如くいろ〳〵と動くのです。
「いや、これには深いわけがありさうです。暫らく八五郎を泊めて下されば、この男に見張らせますが」
「それは有難い、八五郎親分が見張つて下されば、精一杯御馳走をいたしますよ」
「この男は呑み過ぎる癖がありますから、日が暮れてからは、酒をやらないやうにお願ひいたします」
平次がツケツケやるのを、八五郎はそつぽを向いて聽いてをりましたが、たまり兼ねた樣子で、
「親分の前だが、酒は呑んでも、呑まいでも──」
「馬鹿ツ」
やりかけたところを、平次に一喝されて、ペチヤンコになつてしまひました。
「それから、錢形の親分。この堂のまはりに、もう一重の頑丈な柵を繞らし、村の若い衆を五六人頼んで、交替で一と晩見廻りさせようと思ひますが、何うでせう」
庄司三郎兵衞は、その手配はもう出來て居るやうな口吻です。
「いや、それにも及ばないでせう。曲者はたつた一人で、吹けば飛ぶような非力な人間のやうですから」
「そうでせうか」
「それでは私は、御免を蒙ります」
平次はこれだけにしてきり上げました。見送らうとする主人の三郎兵衞を押し止めて、目黒の往來へ出ると、後を追つて出た八五郎は、恐ろしく不足らしい顏で、
「ね、親分。親分の前だが──」
と言ひかけるのを、
「わかつたよ、八。晩酌を止められたのが不足なんだらう、だが、少し我慢しろよ、二日か三日のことだ。それから、聖天樣の御堂なんかに氣を取られちやならねえよ、──大事なのは人間の眼の玉だ、──あの可愛らしい娘を見張つて居ろ」
平次はさう言ひすてて、神田の家へ歸るのです。
それから三日目の朝、目黒からの急の使ひで、平次は霜を踏んで行きました。
庄司三郎兵衞の家の近くまでやつて來ると、
「親分、濟みません」
遠くから顎を振りながら、八五郎が迎へてくれるのです。
「どうした八。昨夜、寢酒を呑み過ぎたらう」
「へエ、圖星で、御内儀の全快祝ひで、二本とつけて貰ひ──」
「それね、言はないこつちやない、神田に居たつて見通しだよ。お前が俺の顏を見るなり、いつも喰はせる『大變ツ』が飛び出さないから、餘つ程變だと思つたが」
「相濟みません」
八五郎はポリポリ小鬢は掻いて居るのです。
「で、何があつたんだ、聖天樣の額の珠をやられたのか」
「それは無事でしたが、下女のお崎が、可哀想に、自分の部屋で眼玉をやられましたよ」
「あツ、だから言はないこつちやない」
「十九になつたばかり、色は黒いが、愛嬌者で、飛んだ良い娘ですが、可哀想に」
「で?」
「睡つてゐるところをやられたのと、曲者もあわてた樣子で、瞼を突かれましたが、玉は無事だつたさうで」
「危ないなア」
「不幸中の幸ひで、眇目にならずに濟みましたが、得物は内儀の時の薄刄と違つて、簪のやうなもので突いたさうです」
「可哀想に」
二人は足を早めて、庄司家に入りました。
「あ、錢形の親分、遠いところを、御苦勞樣で──またやられましたよ」
主人の庄司三郎兵衞はいそ〳〵と出迎へました。
二人は兎も角も奧の部屋へ通されると、内儀のお輝は、
「入らつしやいませ」
主人の蔭から、物靜かに迎へます。
「飛んだことでしたね」
「こんなことが續くと、私はもう氣味が惡くて」
内儀はさう言つて怨めしさうに、夜光の珠に執着する、主人三郎兵衞の顏を見るのです。
「でも、御内儀さんの疵はもう宜いやうで──」
「お蔭樣でこの通り、少し跡は殘りましたが、それも次第に消えるだらうと、外科の先生が仰しやいます」
顏を擧げると、青々と剃つた左の眉尻から瞼を外れて、美しい頬までかけて、引つ掻いたやうな傷跡が殘つて居ります。
蒼白く引緊つた顏──情熱よりは理智と意志を思はせる顏ですが、いかにも上品で清潔で、富める庄司三郎兵衞には、年齡の距りを越えて相應しい内儀です。
平次と八五郎は、庄司夫妻に案内されて、お勝手に近い女中部屋に案内されました。
中に小綺麗な布團を敷いて寢かされてゐるのは、四日前の内儀と同じく、眼から頬へかけた繃帶をした下女のお崎で、それを看護して居るのは、娘のお幾、入つて來た四人の顏を見ると、驚いた籠の小鳥のやうに、狹い部屋の隅つこの方に小さくなります。
娘お幾の可愛らしさは非凡ですが、下女のお崎も、健康さうな良い娘でした。
近在の百姓の娘ださうで、
「親許へもそう言つてやりましたが、まだ誰も來てくれません。尤も近在と申しても、八王子近くなりますから」
内儀はそう言つて、そつとお崎の布團などを直してやるのです。
「どうだ、氣持は? 傷はもう痛まないのか」
平次が訊くと、
「もう大したことはございません。──實はこれを申上げたものか、どうか、お孃さんとも、相談しましたが──」
下女のお崎は枕から頭をあげて、妙に開き直つたことを言ふのです。
「どんなことか知らないが、何にか知つてゐることか、變つたことがあるなら、隱さずに話してくれ」
平次はお崎の顏に近々と寄るのです。この娘の表情には、何やら腑に落ちない疑惑があるのです。
「──」
娘のお幾もお崎の言葉を誘ふように、深々とうなづいて見せます。
「實は、皆さんのお話を聽き齧つて、私は矢も楯もたまらないほど心配になり、この次に曲者に狙はれるのは、お孃樣に違ひないと思ひ、嫌がるお孃樣に無理を申し上げて、三晩前から、私はお孃樣と床を換へて休みました」
「──」
四人の聽手は思わず顏を見合せました。
若い娘同士の同情と信頼は大人の思ひ及ばない不思議なものがあるのです。
「二た晩、何事もなく過ぎました。もう大丈夫だらうと、昨夜はもとの通り、お孃樣はお孃樣のお部屋へ、私はこの私の床へ戻つて休みますと、夜半過ぎに、眼を突かれて、ハツと驚きましたが、──」
「灯はなかつたのだな」
「眞つ暗な上に、氣味が惡いのと、痛いので、思はず聲を出しました」
お崎は、その時の恐ろしさを思ひ出したものか、プツリと絶句します。
平次はその視線を追つて、思はず顏を擧げました。西側の壁に格子を塗り込んだ、百姓家風の明り採り窓、そこにチラリと物の影が射して、バタバタと人が逃げ去るのです。
窓は一尺四方ほどの極めて小さいもの、高くて嚴重で追つかける術もありません。
窓から射した人影、バタバタと逃げて行く足音、室の者は總立ちになりましたが、さすがに訓練の積んだ八五郎は、障子を二三枚ハネ飛ばして、椽側から飛び降りると、まつしぐらに曲者の跡を追つかけたのです。
これが江戸の町だつたら、八五郎ほどの韋駄天でも、一丁と行かないうちに、曲者の姿を見失つたことでせうが、有難いことに、その頃の目黒は百姓地だらけの田舍で、必死と逃げ出した曲者も、暫らくは身を隱す藪もありません。
「野郎ツ、待ちやがれツ」
八五郎の聲は、目黒の野良に高鳴ります。この聲は、曲者の足を竦ませるばかりでなく、八丁四方に居る人達の耳に響いて、思はぬ助力を呼び出す役にも立ちます。
時は眞晝、何も彼もが見通しです。逃げる曲者と、それを追ふ八五郎が、田圃の畦道を走馬燈のやうに馳けて行くのですが、不思議なことに、田圃で働いてゐる人も、道行く人も、八五郎に助勢しようといふ者は一人もなく、自分が惡いことでもしたやうに、顏を反けて除けて通るのです。
「待たねえか、野郎ツ」
斯うなると追ふ者の強さです。八五郎の體力が勝つて、次第に距離を縮めると、運惡く曲者は、物に躓いてもんどり打ち、八五郎はまたそれに躓いて、引つくり返りましたが、直ぐ起き上がると、曲者を押へました。
「この野郎、飛んだ世話を燒かしやがる。見ろ、二人共汗みどろになつた上、畑の中につつ轉んだから、まるでドラ猫ぢやないか、良い新造つ子に見せられる面ぢやねえぞ。畜生」
息をはずませながら、斯んなことを言ふ八五郎です。
曲者はまだ二十一二の若い男で、青白くて華奢ですが、なか〳〵の好い男で、近在の百姓の伜とも覺えません。
「さア、歩け」
襟髮を取つて八五郎が引立てると、素直に首を垂れて、トボトボと歩きますが、もとの庄司の家へ歸るのを、ひどく嫌がる樣子です。
平次と、主人の庄司三郎兵衞は、それを椽側から見て居りました。曲者と八五郎が近づくにつれて、三郎兵衞はひどくソワソワするのです。
「御主人」
「ハイ」
平次はそれを顧みて靜かに聲を掛けました。
「あの曲者を、御主人は御存じでせうな」
「いえ、何」
「どうせわかることです。土地の人が顏を反けて通る樣子や、八五郎がいくら怒鳴つても手傳つてくれない樣子、──それよりも、この家へ戻るのを、ひどく嫌がる樣子は、唯事ぢやありません」
「──」
「御總領の彌三郎とかを、身持放埒で勘當なすつたといふことですが、あれが、彌三郎さんぢやありませんか」
「恐れ入りました、親分」
平次の慧眼で睨まれては、一も二もなかつたのです。
「丁度良い、私は、彌三郎さんにも訊き度いことがありました。御主人も一緒に聖天堂へお出で下さい。歡喜天樣がそれから、どうなつたかも拜み度い」
「ハイ」
主人三郎兵衞はそれに從ひました。内儀のお輝も、途中までそれについて來ましたが、何んとも言はない平次の氣持を測り兼ねたものか、途中から引つ返した樣子、聖天樣の入口の海老錠をあけたときは、平次と主人とたつた二人きりになつて居りました。
「親分、この野郎は動きませんよ。誰か手を貸して下さい、引摺つて行きますから」
八五郎は、嫌がる曲者を引摺りながら、堂の外で揉んで居ります。
「手荒なことをするな、それは庄司家の若旦那の彌三郎さんだ。──自分の家を覗いただけで、泥棒呼ばはりをされるわけはないだらう」
「へエ、さうですかね」
八五郎も漸く曲者の襟髮を放しました。
放されて彌三郎は、最初の勢ひもなく、逃げ出さうとする樣子もなく、首うな垂れて八五郎の蔭に隱れて居ります。
堂の中に入つて、正面の帳をかゝげると、歡喜天の男體の方の額の夜光石が、隙間洩れる陽の光に、爛として燦きます。
佛像は怪奇至極なものですが、それだけに信者達から見れば、神通力廣大とも見えるのでせう。女體の佛像の額のゑぐられたのも、淺ましく目立ちますが、それよりも、男體の夜光石の威力は、それをカヴアして、四方を威壓する凄まじさを持つて居るのでした。
「御主人、若旦那は、どんな不都合なことで勘當をされました」
平次は改めて訊ねました。
「それを言はなきやならないのでせうか」
庄司三郎兵衞、妙にモヂモヂして居ります。
「何萬兩とやらの夜光石を獲るために、いや、多勢の──それも若い女の人の、夜光石よりも貴い眼玉の安泰のために、それは是非聽いて置かなきやなりません」
平次は妙なことを──だが、退引させずに言ひ出すのです。
「放埒にもいろ〳〵ありますが、金を費つたとか、女遊びをしたとか」
平次は誘ひを入れました。
「いや、そんなことはありません。伜は、身持ちの良過ぎる方で」
「喧嘩や、博奕をやりさうな柄でもなし、あつしにも見當はつきませんが──」
「──」
平次はグイグイと突つ込みますが、主人庄司三郎兵衞は、モヂモヂして、容易に打ちあけさうもありません。
「それぢや、若旦那に訊くが、あの小窓から何を覗いて居たんです」
荒壁にハメ込んだ、小さい小窓、百姓家の万年床の寢部屋にはよくある圖ですが、高くて小さくて、明り取り以外には役に立ちさうもありません。若旦那の彌三郎は、踏み臺をしてその窓から覗いてゐるところを、眼の早い平次に發見されたのです。
「何んでもありません。家に何んか、騷ぎがあつたと聽いて、ツイ覗く氣になりました」
彌三郎は漸く口を開くのでした。
「こんな小さい窓から覗いたところで、家中見れるわけでもあるまいが」
平次は横槍を入れました。
「でも、お崎が怪我をしたといふ噂でしたから」
「お崎が怪我をしやうと、どうしやうと、お前の知つたことぢやないだらう」
主人の庄司三郎兵衞は、始めて伜の彌三郎に口をきゝました。それも、ひどく激しい口調で──。
「御主人、私にも大抵のことはわかりましたよ」
平次はいきなり妙なことを言ふのです。新しい堂の椽は、狹くはあるが清潔で、歡喜天に見張られながら、調べを進めるのも、なか〳〵に變つた氣持です。
「?」
三郎兵衞は、つく〴〵伜彌三郎のみすぼらしさを眺めながら、默つて平次の話を促しました。
「若旦那が、下女のお崎と仲がよくなつたのが、勘當のもとぢやありませんか」
「──」
「いや、辯解なさることはない。道樂や勝負事の果てから、こんなに落ち果てた風になる筈はない。好い男の若旦那を達引かうといふのが、男も女も事を缺かない筈。庄司家の身上が後ろ楯になつて居るから、少しもとを入れても損のしつこはない」
「?」
「二十歳代の好い男が、この眞晝に、寢部屋の小窓から、下女の部屋を覗くのは──わかつて居るぢやありませんか。若旦那は下女のお崎の身體を案じて、そんな恥かしいことをなすつたんだ。ね、若旦那、そうでせう。──安心なさるが宜い、お崎は簪か何んかで眼を突かれたけれど、曲者は餘つ程あわてたと見えて、上瞼を怪我しただけ、眼には障りはない」
「有難うございます。親分、それを聽いて私も安心いたしました」
若旦那の彌三郎は、それが餘つぽど嬉しかつたらしく、心から平次にお辭儀をするのです。
「仕樣がない奴だ。お前はもう歸れ、好きなところへ、とつととうせろ」
三郎兵衞は伜の屈辱的な態度がひどく氣になるらしく、平次の思惑をかまはずに叱り飛ばすのです。
「待つて下さい、御主人。若旦那には、まだ、あつしが用事があります」
「──」
「ね、若旦那、打ちあけて言つて下さい。これは大事の事だ。人間の眼玉幾つにも係はる上に、何萬兩といふ夜光石にもかゝはります」
「──」
「若旦那は、あのお崎とか言ふ娘と、何にか約束をなすつたことでせう、──末は夫婦とか何んとか、よくあることで、──それはあの娘は、飛んだ良い娘ぢやありませんか」
水仕事などに忙しくて、顏容をつくろふ隙もないらしく、いかにも生れた生地のまゝで、それに白粉も紅も知らぬ肌は小麥色を通り越して、赤黒い方に近く、いかにも見すぼらしい娘です。その清潔さと、生無垢な純情らしさは非凡です。
「そんなに、油を掛けないで下さいよ。あれは、下女に雇つた水呑百姓の娘だし、それに、血統も良くありません。伜の嫁などと、飛んでもないことで、──年季が明けさへすれば、この三月には、親許に返します」
三郎兵衞は、以ての外の氣色でした。大家の伜の嫁に、水呑み百姓の娘の、下女あがりなどとは、當時の常識では考へられない釣合ひです。
「これは外の話ですがね、御主人」
「ハイハイ」
主人はこみあげる怒りを紛らして應へました。
「御先祖の庄司甚内樣は、江戸の吉原といふ、日本一の盛り場を開きましたな」
「へエ、それはもう、隱れもないことで」
三郎兵衞は自慢らしくうなづくのです。
「若旦那が、女遊びに身を打込むとか、花魁を請出して、内儀にされたといふなら、御主人は、あまりお小言も言はなかつたでせうね」
「それはもう、申す迄もありません。世間には例のないことではなく、一概に女郎と申すと安くなりますが、花魁となると見識の高いもので御座います。わけても入り山形の二つ星とか、晝三の太夫とか申すのは、大名高家のお相手もいたします」
「──」
「現に私は、江戸の吉原の向うを張つて、お城の裏鬼門に、目黒の盛り場を開かうとして居るくらゐで、せめて伜が、青表紙の化物のやうになる代りに、物の道理や、遊びのいきさつまで心得て、私の相談相手になつて欲しいと望んで居ります」
斯うまで歪められた人生觀は、平次の舌では、一朝一夕にどうすることも出來ません。
江戸の遊女崇拜の思想が、斯うまで根強く浸透して居たのです。その頃の文學も美術も音樂も、遊女崇拜から出發して、遊女崇拜の思想が、一般の人の心の中に、貧乏搖ぎもしない土臺を据ゑ、女遊びをしない者は、物のわからない奴であり、朴念仁であり、馬鹿でさへありました。
このわけのわからぬ主人に、思ひ知らせてやり度いのは腹一杯ですが、千萬言を費したところで、呑込める筈はなく、百人に許した唇も、どんな罪惡の因子を持つて居るかも知れない血統も、花魁といふ名で淨化される、單純至極な考へやうには、平次も抗いやうはありません。
現にかう言ふ三郎兵衞の女房のお輝も、前身を洗へば、身體を買つた女に違ひはなく、夫の三郎兵衞が、腹の底から花魁崇拜で、伜をまでもその道徳で律しようとするのは、手のつけやうのないお宗旨見たいなものです。
平次は諦めました。諦めると、引揚げる外はありませんが、このつぎに狙はれるのは、明かです。
それを知りながら、この遊女崇拜の愚かしきボスを見棄てるのは、日頃の平次の氣性では許されないことです。
「あれから、誰か、この聖天堂の中へ入りましたか」
氣を換へて平次は訊ねました。
「いや、誰も入らなかつた筈だ。私は毎日一度は覗くが、扉を開いて帳をあけて、歡喜天樣の額の夜光の石が無事なことを確かめると、そのまゝもとの通りにして戻つて來る」
三郎兵衞の答へには、何んの疑念を挾む餘地もありません。
「鍵は?」
「一つしかありません。斯んな大事な場所は、代りの鍵を用意するのが本當ですが、そんな事をすると、無くなす心配もあるわけで、私の流儀で、鍵は一つ、私の腰につけて居ります」
「まさか、鍵を抱いて寢るわけではないでせうな」
「夜分は、枕許に置きます」
庄司三郎兵衞は、自分の注意に落度があるなどとは、夢にも思つてゐない樣子です。
「ところが、御主人。この三日の間に、誰か堂内に入つて、いろ〳〵の細工をしてゐるのはどういふわけでせう」
「そんな筈はありません。鍵は私の腰に──」
「思ひ違ひといふことがあります。──御主人、お酒の方は」
平次は呑む眞似をして見せました。
「少しはやりますが、前後不覺になるほど呑んだことはなく、それに私は目ざとい方で、枕許に置いた鍵を盜まれて、知らずに居るなんてそんなことはありません」
「夜中に起きることがありますか」
「私も女房も、一二度は手洗に起きますが、それもお互ひにわかるわけで、そつと相手に知らさずに起き出すなどといふことは考へられません」
「──」
三郎兵衞は確と言ひ切ります。内儀のお輝さんに盜む見込みのない鍵を、外から入つた盜賊が、主人の枕許からそつと盜つて聖天堂を開け、又もとのところへ返して置くなどといふことは、全く考へられないことです。
「──その上、鍵から眼を離したことがなく、夜中に眼を覺しても、必ず鍵を確かに見定めます。この通り大きい札を、根付け代りに附けてありますから、無くなつたのを、氣がつかずに居る筈もありません」
三郎兵衞は、腰をさぐつて、帶に挾んだ木の札を拔きました。三センチ幅に、長さはその二倍半もある、頑丈な杉の札で、札の先には、麻紐で大きい聖天堂の海老錠の鍵が結んであるのです。
「それは、よくわかります。が、この疵をどう見ます、御主人」
平次は歡喜天の男體の方の額を指さしました。
「?」
「額にはめた夜光石の、はめ込んだ根のあたりは、ひどく荒されて、膠か塗か知らないが、珠を留めたものが、──この通り、粉のやうに床の上にこぼれて居ます」
「──」
「三日前には、斯んなことはなかつた。それから三日の間に、晝か夜か、兎も角も泥棒が忍び込んで、タガネか何んかで、夜光の珠をゑぐり取らうとした。珠はなか〳〵よく附いて居る上、臺座にハメ込んであるので、容易には奪れない」
「成るほど」
強情な三郎兵衞も、これは承認しないわけには參りません。
「曲者は中に居ります、油斷しちやいけません。自棄になると、本當に人の眼を潰し兼ねません──ついては、御主人に折入つての相談だが」
「?」
「身内の者で、力になる用心棒が一人欲しいと思ひませんか。この次に狙はれるのは、お孃さんの眼でなきや、御主人の眼にきまつて居ます」
「そんな物騷なことを」
「いや、これは間違ひもないことです。このタチの惡い曲者の尻尾をつかむまで、八五郎を此處へ泊めて置いちや下さいませんか。人間は少し甘口だが、先刻も御覽の通り、力はありますよ」
「どうせあつしは甘口ですよ。チエツ、面白くもねえ、目黒くんだりまで來て、馬鹿を吹聽されりや世話アねえ」
「あれ、聽えたか、八。我慢しなよ、用心棒があんまり賢こいとわかると、曲者は用心して寄りつかねえ」
「有難い仕合せで」
「芝居だつてお前、馬鹿の振りして居るくらゐの人間は、皆んな好い男で智慧者だ」
「一條大藏卿が聽いて呆れらア」
皆んなは、笑ひながら聖天堂の外に出ました。
主人は開放されたやうに母屋に歸り、伜の彌三郎は、輕く默禮して何處かへ行かうとするのを平次は呼び止めました。
「ちよいと待つて下さいよ、彌三郎さん」
「ハイ、何んか御用で」
彌三郎はオドオドしながら立ち停ります。何んとしても見すぼらしい風體です。
「餘計なことを聽くやうだが、暫らく身を寄せる親類か知合はありませんか」
庄司の一人息子といふ肩書を振り舞はせば、唯で食はせようとする人も、達引かうといふ人も、箒で掃くほどある筈です。それをしないのは、人が良いのか、強情なのか、平次でも見當はつきません。
「最初のうちは、隨分、世話をしてくれた人もありましたが、心掛けが惡くて勘當した伜を世話するなら、出入りを差しとめると文句を言はれて、親類も知己も手を引いてしまひました。今ではこの通り」
まことに尾羽打ち枯らした姿です。
「丁度宜い。仕事がなくて困るなら、暫らくの間、この平次に雇はれて、働いちやくれませんか」
「?」
「と言つても、若旦那を下つ引にするわけぢやない。──八五郎は母屋に泊めますから、若旦那は外に居て、夜つぴて家の廻りを見張つて下さい。夜中に誰が家へ來るか、聖天堂へ忍んで入るか、それが判りさへすれば宜いので、曲者をつかまへて、取つ組合ひなんか、以ての外で、──若旦那一人で手が廻らなかつたら、友達とか何んとか、懇意なものの一人くらゐはあるでせう」
「そりや、あります。遊佐の右太吉、評判はよくないが、そんな惡い人間ぢやございません」
「手代りに、その右太吉とやらを頼んで下さい。妹のお幾さんの眼の玉を助けようと思つたら、──あの眼の玉は、歡喜天の夜光石よりも大事ですよ。あんな正直で情け深くて可愛らしい眼を、あつしも見たことはない」
「その通りですよ、親分」
八五郎は、何處からか合槌を打ちます。
「それに、お崎の敵も討つてやり度い。眼は無事だつたが、あの傷は生涯殘るかも知れない」
「親分」
「わかつたよ、──お前さんの心持は、──花魁や女郎より、田舍娘の方が賤しいと思ふ父親があつちや、若旦那も骨が折れるだらう、辛抱なさるが宜い」
「──」
若旦那の彌三郎は、後に心を殘して去るのです。もう寢部屋の小窓から、お崎の容態を覗く勢ひもありません。
「いや、もう、驚いたの、驚かねえの」
八五郎が報告に來たのは、それからまた四五日經つてからでした。
「お前の『大變』が、もう來さうな空合だと思つたよ。目黒の庄司家はどうした」
平次は相變らず、明神下の長屋にとぐろを卷いて、煙草ばかり燻して居ります。近頃は早耳の八五郎が居ないので、ニユースが品切れでことの外天下太平です。
「金があるといふことは、恐ろしいことですね」
「貧乏人は兎角、そんなことを言ふよ」
「何しろ、目黒中の若い者を狩り集めて、辨當が出て酒が出て、お手當が五十文だ。惡くないでせう」
「俺に日雇を稼げといふのか」
「あつしでもやり度くなりますよ。尤も辨當と酒はあつしにも差入れをしてくれるが、五十文の日當は、此方から斷わつた」
「當り前だ、女郎屋の亭主に手當てが貰ひ度かつたら、十手捕繩を返上して、牛太郎にでもなれ」
「相濟みません。──何しろ、これだけのお手當てが出ると大變ですよ。庄司家には日が暮れると、毎晩少なくて二三十人、多いときは五十人もの用心棒が集まる」
「そこで、お前は浮び上がつたといふわけか」
「御冗談で、あつしは、扇の要のやうなもので、あつしが居るから、指圖が行屆く」
「勝手にしやがれ、──その代りお仕着せの酒をお代り頂戴と來るのもお前だけだらう」
「へツ、見て居たんですか、親分は」
「それからどうした」
「娘のお幾も可愛いが、あの下女のお崎は飛んだ掘り出しですね。眼は繃帶をして居るし、汚な作りの赤つ黒い娘だけれど、あんなもぎ立ての桃の實のやうな娘は、江戸の眞ん中ぢや見られませんね。若旦那の彌三郎が夢中になるわけで」
八五郎の報告はまた飛んでもない方へ脱線するのでした。
「馬鹿野郎、娘の品定めに、お前を張らせたわけぢやないよ」
「でも、これを言はなきや、話の筋は通りませんよ。──集まつて來る若い者は、三十八五十人、毎晩酒が出て、あの樣子の良い内儀が顏を出して愛嬌を振り撒くから、皆んな彈みが付いて、競り合つてやつて來まさア、石川五右衞門が夫婦づれで來たつて、聖天堂の側なんか寄りつけるものぢやありません」
「──」
「入費も大變だらうと思ふ。あれが何時まで續くことか、目黒近在ぢや、世直し樣が來たやうに思つて居る」
「それつきりか」
「まだありますよ。娘のお幾は滅多に顏を出さないが、お崎は辨當や酒の世話で、毎晩出て來ます。可哀想に、伜の彌三郎は、自分の家ながら、大びらにも入れず、さうかと言つて、まさか日雇取になつて呑み食ひも出來ず、人垣の影になつて、身を狹めて覗いたり、合圖をしたり」
「──」
「つく〴〵あつしは、女の子に掛り合ふものぢやないと思ひましたよ」
「それつきりか」
「これからが大變なんで、親分はせつかちだから叶はない」
「お前はまた氣が長過ぎるよ」
「今朝、──曲者からの二度目の手紙が、聖天樣の堂の中に投り込んでありましたよ」
「矢つ張り來たのか」
「相手も、ひどく荒つぽくなりましたよ、──歡喜天の額の珠を渡さなきや、いよ〳〵家中の者の眼玉をくり拔いてやる。第一番に娘のお幾と内儀のお輝だ。何人で堅めたところで、そんなことに驚く拙者ではない、今日から三日と日を限る──凄いでせう」
「凄いのは相手だ、少しあせり始めたのだよ。それで主人の三郎兵衞は何んと言つてる」
「こんな脅かしに乘るものか、今晩から人數を倍にして、一人の手當てを百文に値上げする、──と」
「フ──ム」
「いよ〳〵世直しですね」
八五郎は呑氣なことを言ひますが、事件は益々深刻味を加へて來るのです。
「ところで、お前の話も、今度は總仕舞ひだらう」
「ところがもう一つ大事のが殘つて居るんで」
「早くブチまけなよ、温めておくほどの話ぢやあるまい」
「こいつは、ブチまけるのが勿體ない程のタネなんで、──小傳馬町の加納屋に泊つて居るといふ、堺の町人和泉屋皆吉といふ男が、目黒の庄司家を訪ねて來ましたよ」
「あの歡喜天を紅毛人から買つて、庄司家に賣込んだといふ?」
「その男で。何んでも、あの佛樣は天竺のお寺から海賊が盜み出したものださうで、あとの掛合事がうるさくなり、長崎のオランダ領事の手に返さなきやならないから、千兩で買ひ戻し度いといふ掛け合ひですよ」
「千兩と言つたか」
「ちよいとの間に三百兩が千兩になるんだから、もう少し温めて置けば、何千兩になるか知れないぢやありませんか」
「ところで、庄司家では承知したのか」
「小氣味よく斷わりましたよ。商人の取引はそんなものぢやない──とね。尤も歡喜天の女體の方は額の珠を拔かれて疵物になつて居るから、庄司の主人にも弱身があるから、オイそれとはあの歡喜天をお目にかけられない」
「さう言つた含みもあるだらうな。ところで、話は段々こんがらがつて來たやうだ、俺も一度覗いて見るとしようか」
何日目かで、平次は目黒の庄司家も訪ねる氣になりました。
江戸の町から目黒村に入ると、その頃はまだ、別世界に足を踏込んだやうな心持でした。まだ菜の花も咲かず蝶々も出ないのですが、路傍の蓬や田芹が芽ぐんで、森の蔭、木立の中に、眞珠色の春霞が棚引いて、まだ陽炎は燃えませんが、早春の裝ひは申し分もありません。
「へツ、へツ、たまらねえな」
八五郎がいきなり笑ひ出しながら、森の南の積藁の蔭を指さすのです。
「何が可笑しいんだ、八」
「あれを見て下さいな、兄ちやんと姉やの逢引きだ。泣いたり笑つたり」
さう言へば十間ばかり先、人目を忍んで若い男と若い娘が、手を取り合つて泣いてゐるではありませんか。
「ありや、お前、若旦那の彌三郎と、下女のお崎ぢやないか。樣子がありさうだ、行つて見よう。だが、脅かしちやいけないぜ」
二人が近づくと、彌三郎は逃げ出さうとしましたが、相手を平次と見定めると、思ひ直してそれを迎へました。
「どうしましたえ、若旦那、お安くないぜ」
八五郎はもう、餘計な口をきくのです。
「お前は默つて──どうかしましたか、若旦那」
「お崎はたうとう暇を出されました」
さう言ふ彌三郎の樣子は、いかにも絶望的です。
「それはまた、どうしたわけで」
「この間から、そんな話はありましたが、お崎はよく働いてくれるのと、妹のお幾が大の仲よしで、どうしても放すと言はないので、兩親も無理とも言へず、私だけを勘當しました。が、昨夜──いや、それはもう今朝になつてからでした」
「?」
「村の若い者達が、一と晩聖天堂を見張つて、夜が明けかけたから、もう宜からうと、ぞろ〳〵歸つてしまつた後に、たつた一人、歸りそびれて殘つた者があつたさうです、──四方もまだ薄暗いので、堂の横手で草鞋の紐を結んでゐると、一人の女が、聖天堂の扉を開けて中に忍び込んだのを見付け、それから大騷ぎになりました。まだ明けきらないのと、人數が少なかつたので、曲者は逃してしまひましたが、聖天堂の扉は開け放したまゝで、入口に簪が落ちて居たと申します」
「──」
「その簪は、お崎の大事にして居る、つまみ細工の簪で、──私が買つてやつた品で、お崎が大事にして居るんだと申します」
彌三郎はモヂモヂしながら極り惡さうに言ふのでした。
「聖天堂へ入つて、夜光の珠でも奪らうといふ泥棒が、大事な簪を揷して行くだらうか」
平次もツイ口を挾みました。
「お崎もさう申したさうですが、言ひわけは通りません。今日中には請人を呼んで、小田原在の親のところに返すと──」
「待つてくれ、俺が何んとか話してやらう。簪を揷した泥棒は、あんまり聽いたこともない。それに、聖天堂の扉が開いて居たのは、大變なことだ」
平次はシクシク泣いてゐるお崎を促して、主人と一と談判始める氣でせう。全くこの娘は、夜光の珠泥棒にしては、あまりにも清純過ぎます。血色の良い頬、大きい眼、そして何も彼もが、自然のまゝの美しさです。
平次と八五郎は、泣き濡れてゐる下女のお崎を促して、母屋に入りました。若旦那の彌三郎は、それと一緒に自分の家へ入りもならず、遠くの方から三人の後ろ姿を見送つて居ります。
「お、錢形の親分、惡者から二度目の手紙をよこしましたよ」
主人の庄司三郎兵衞は、椽側からうら〳〵と陽炎の立ちのぼる、田圃の景色を眺めて居りました。四十五六の分別盛りで、金にも智惠にも事缺かぬ、立派な江戸の旦那衆です。
「それは八五郎から聽きました。いよ〳〵曲者も、あせり出したと見えますね。歡喜天を、何處かへ移すやうなお話でもあるのですか」
平次の言葉は、すぐ原因の探求に飛躍するのでした。
「さう言へば今日、堺の商人の和泉屋の皆治といふ人が來る筈で、あの歡喜天をどうしても、千兩で讓れといふのです。千兩でいけなければ、千二百兩まで出さうと言ふのですが」
「あれが千二百兩、──大したことで」
「ところがいけません。堺の町人は、歡喜天は欲しいが、兩體とも揃つて、無疵のまゝでなければいけない──と斯う申します。御存じの通り女體の方は、額の夜光石をゑぐり取られて居ります。あれを見たら、堺の町人──和泉屋皆吉といふ人は、何んと申しますか」
庄司三郎兵衞の顏には、苦澁の色が隱すべくもありません。男女兩體揃つて、無疵のまゝでこそ、大した値打のものでせうが、一方の女體の額に大穴があいては、踏み倒されるに決つて居ります。
「序にもう一つ伺ひますが、下女のお崎を今日限り暇をやるといふのは本當でせうか」
平次は話題を變えて、さり氣なくお崎のことに觸れて行きます。
「そのことですよ、親分。あの娘の簪が、聖天堂の入口に落ちてゐて、お堂の入口の海老錠が開いて居ると、外に疑ひを持つて行きやうはありません」
「お崎が曲者の仲間なら、大事にしてゐた、つまみ細工の簪などを揷して、聖天堂へ入るでせうか」
「八五郎親分も、さう言つて居りました。が、このまゝお崎を許して置いては、家の者が承知しません」
家の者──といふと多勢らしく聽えますが、それは、内儀のお輝一人のことだつたかもわかりません。
「一應は尤もですが、歡喜天の女體の額の夜光石を盜んだ曲者を縛るまでは、この屋敷から、一人も外へ出し度くないのですよ、──御主人」
平次は思ひも寄らぬことを言ふのです。
「すると、錢形の親分は、その曲者をお崎だと言はれるのか」
「飛んでもない。お崎は曲者ではない。が、お崎は何にか大事のことを知つてるに違ひないのですよ」
「成程」
「下女であらうと下男であらうと、この家の者を一人も外へは出し度くない、──おわかりでせうな御主人」
平次の止めは効果的でした。斯う言はれると、押しきつて、下女のお崎を返すといふわけにも行きません。
「でも、錢形の親分。私は、あの娘と同じ屋根の下に住むのが、不氣味でなりません」
それは何時の間にやら、主人の後ろに來てちんまりと坐つた内儀のお輝でした。言葉に少し訛があつて、蒼白い細面は、もとの稼業が何んであらうと、何んとなく近寄り難い上品さがあります。
左の眼の上の傷は、もうすつかり癒つて、繃帶も解いてしまひましたが、傷跡は少し殘つて、一種の惱ましい感じでした。
「それは大丈夫で、八五郎に見張らせてあります」
「──」
内儀のお輝の唇には、好意とも惡意ともわからぬほのかな微笑が浮びました。八五郎親分では、何ほどの役にも立つまいと言つた、からかい氣味の微笑とも取れるのです。現に當の八五郎は、平次の後ろの日向に腰をおろして、無心に鼻毛を拔いてゐるのでした。
晝少し過ぎになると、和泉屋皆吉といふ堺の町人が來ました。
「私が歡喜天樣をお納めした、堺の皆吉でございます」
と取次がせると。主人庄司三郎兵衞は、平次にも頼んで、その立會の上に話を進めました。それに八五郎は椽側に待機し、内儀のお輝は茶を運んだり、菓子を持つて來たりするので、結局この談合は、五人立會の上で始められたも同じことです。
「實は、私からお納めした、聖天樣の御像は、やかましいことになりました。天竺のさる寺から、オランダの役人に頼んで、あの本尊樣は、海賊の手で盜み出されたものだから、是非返して貰ひ度いと、強つての談判でございます。その代り唯とは申さない、金は千兩まで出す──いや千二百兩でも宜しいといふ申し出で──」
堺の商人皆吉の申し出は、寛大ではあるが、妙に嚴重さがありました。恐らく千二百兩か千五百兩、或は三千兩にもなる、うまい口錢が附いて居るのでせう。
「それは併し、妙な話ですが、私は江戸の商人の仲介でまともな品として買入れ、何百兩かの入費をかけて、あの御堂まで建てました。今更お堂を空つぽにして、天竺とやらへ返せるわけはございません」
庄司三郎兵衞もなか〳〵に頑強らしく突つ張りました。
「では、申上げますが、御主人、驚いてはいけませんよ。あの歡喜天の額にハメ込んだ珠は、金剛石と申す夜光の珠で、たいした値打でございます。それを狙つて、長崎から大層な惡人が江戸へ入り込んだといふことでございます」
「脅かしちやいけません」
「いや、決して脅かしを申すわけではない。惡者は二人のやうに聽いて居りますが、いづれにしても、見込まれた以上は、どんな事をしても奪られるに決つて居ります。せめて御怪我のないうちに、私に御引渡し下されば、私は堺奉行の手を拜借して、オランダの役人に屆け、八方無事に治まるやうにいたし度いと思ひますが」
堺の皆吉の話は、なか〳〵筋が通りますが、この熱心さから見ると、いづれ、二千兩や三千兩は手に入る仕事でせう。
「ところが、困つたことになりました」
主人三郎兵衞は、分別らしい額に手を當てました。苦澁の色は蔽ふべくもありません。
「困つたことと仰しやるのは?」
「申し上げませう、いづれは知れることですから。──實は五六日前の晩、聖天樣、男女兩體のうち、女體の方の額の夜光石を、盜まれてしまひました」
庄司三郎兵衞は、言ふべきことを言つてしまつたのです。
「それは大變なことで御座います。御主人、私は兎も角として、オランダの役人は何んと申しますか」
「錢形の親分にもお願ひして、いろ〳〵搜して居りますが、かいくれ行方がわからないばかりでなく、曲者は男體の夜光石──あの梅干ほどの大きい寳玉まで狙つて、いろ〳〵と細工をするので、この通り村人を狩り集め、夜も晝も嚴重に見張つて居りますが」
庄司三郎兵衞は今更らしく辯解するのですが、額に沁み出した冷汗は隱しやうもありません。
「では、御主人、打ちあけて申しますが」
和泉屋皆吉は、何やら含みのあることを言ひだすのでした。主人も平次も、内儀も八五郎も、思はず聽き耳立てたことは言ふまでもありません。
「よく聽いて下さい──驚いてはいけませんよ」
「?」
「何を隱さう、あの聖天樣、男女兩體の二つの夜光石のうち、何千兩といふ値打のある、眞物の夜光石は、男體の額のだけで、女體の額にハメ込んである、銀杏ほどの小さいのは、あれは僞物でございますよ」
「あツ」
これは實に、豫想もしなかつた大きな驚きでした。冷靜なのは、さう言つた和泉屋皆吉だけ、平次はさすがにとり亂しもしませんが、主人庄司三郎兵衞は申す迄もなく、内儀お輝の驚きやうも大變なものでした。
「それはまア、どうしたことで?」
主人三郎兵衞を差し置いて、あの美しく氣高くさへある内儀が、堺の町人に詰め寄つたのは、たいしたことでした。
「詳しく申さないとわかりませんが、あの聖天樣は、インドとやらの寺にある時も、一度盜まれたことがあるさうで、間もなく役人の手で取戻しましたが、その時はもう、女體の歡喜天樣の額の夜光石は拔かれて居たさうで、このまゝでは、信者の方にも相濟まないと、お寺でギヤマンに水銀を貼つた僞物を造り、女體の額の穴にハメ込んださうでございます。成程さう言はれて見ると、男女兩體の夜光石はまるつきり違ひます。光澤と言ひ、光りと言ひ、それから、女體の方は後から入れたので、直ぐ外れますが、男體の額の夜光石は、佛體に刻み込んだもので、漆を碎いたくらゐではなか〳〵拔けません」
さう言へばその通りで、男體の額の夜光石は、幾度か曲者に狙はれ、タガネか鑿でゑぐり取らうとしても、容易に取れなかつたことは、皆んなよく知つて居ります。
だが、併しこの皆吉の打明け話は大變なことでした。曲者の奪つた夜光石は、唯のギヤマンの僞物とわかると、事態はすつかり變り、庄司三郎兵衞も、一應は愁眉を開くことになるわけです。
一應佛像を拜んで行き度い──といふ堺の町人皆吉の申し出を、主人庄司三郎兵衞は拒み兼ねました。女體の額の小さい夜光石の紛失は、幾らか氣が樂になりましたが、男體の額の大きい夜光石の安否も一度は見定めて置く必要があつたのです。
五人の男女が、揃つて聖天堂の前に立つと、その邊に物好きらしくウロウロして居る夜番晝番の百姓達を、遠くの方へ追ひ退け、主人の庄司三郎兵衞は、腰に提げた、大きい鍵を、根附けの木の札ごと引拔いて、堂の正面に近づきました。
「今朝もこの扉が開いて居たので、直ぐ締めて置きましたが、中には異状がなかつたやうで──」
さう言ひながら、大一番の海老錠の穴に鍵を差し込みました。が、鍵は錠の中に入つたまゝ右にも左にも動かうとはしなかつたのです。
「どうしました、御主人」
「こんな筈はないのですが」
「鍵が違ひはしませんか」
平次はその手許を差覗きました。
「いや、そんな筈はない。私はこの鍵一つしか持つては居ないのだから──變なことがあるもので」
庄司三郎兵衞は尚ほもガチヤガチヤやつて居りますが、頑固な海老錠は開いてくれさうもないのです。
「ちよいと、私にやらして下さい」
平次は主人の手から、鍵を受取つて、念入りに廻して見ましたが、矢張り言ふことを聽いてくれず、大きな錠は、執こく沈默を守り續けるのです。
「このまゝでは一と晩も過せない。いづれ後で大工の手を借りて、扉を外させませう。その間和泉屋さんには、一杯差上げながら、お話を承るとしませう。錢形の親分も附き合つて下さい」
主人は出入りの大工を呼んで、扉の蝶番を外すやうに申し付け、皆吉と平次と八五郎と、そして内儀も從へて母屋に引揚げました。
「あの」
酒が始まつて、席が少しほぐれた頃、内儀は主人の三郎兵衞に囁くのでした。
「ちよつと、鍵を拜借し度いと、棟梁が申しますが、爺やの與八に見張らせて置きますから」
「さうか、──扉の蝶番をこはさずに濟むものなら、その方が宜いな」
三郎兵衞は腰を搜つて、堂の鍵を内儀に手渡しました。丈夫で眞黒な鐵の鍵に、まだ新しい木の札を附けたまゝ、麻糸を捻つた紐で嚴重に吊してあります。
内儀は椽側から顏を出して、爺やの與八を呼んでその鍵を渡し、そのまゝもとの座に戻りました。それからほんの煙草なら二三服と思はれる、短かい間、人々の雜談は、鍵のことなどを忘れて、世間話に花が咲きます。
「妙なことがありますよ。旦那樣」
爺やの與八は庭口から顏を出しました。
「何うしたの爺やさん」
取次いだのは内儀のお輝でした。
「聖天樣の御堂が開きました」
「扉をこはしたのか」
「いえ、この鍵が、利いたので。棟梁が廻すと、何んのわけもなくクルリと廻つて、あの錠前が開いてしまひました」
「そんな馬鹿なことが」
三郎兵衞は立ち上がつて居りました。反對に錢形平次は落着き拂つて、爺やの手から鍵を受取ると、ためつすかしつ、それを眺めて掛ります。根付けの木の札の木目から、鍵の大きさ、重さ、それを吊つた麻紐の捻の具合まで。
「兎も角、行つて見よう」
四人はそれに從ひました。庭から廻つて、堂の扉へ。八文字に開いて錠前は拔いたまゝブラ下がつて居りますが、それを眺めて居る棟梁は、
「何んでもなく開いてしまひました。何處も損じちやゐません。まるで嘘見たいで」
と、酢つぱい顏をするのです。
堂の中へ入つて、正面の帳をかゝげると、祭壇の上の歡喜天は、クワツと此方を睨み据ゑて居り、男體の額にハメ込んだ夜光石は、夜の灯で見る程ではないにしても、窓から射した眞晝の明りに、燦爛として、百千の星をかけ並べたやうに光つて居るのです。
和泉屋の皆吉は、念入りに歡喜天を調べて居りましたが、それが濟むと、
「では、このまゝで結構です。三日經てば長崎から金が着くことになつて居りますから、四日目には間違ひもなくこの佛體を頂載に參ります」
自分の言ふだけのことを言ひ遺して、振りきるやうに庄司の家を立出でました。錢形平次は、何にか思ふことがあつたらしく、
「それではあつしも家へ歸りませう。八五郎を留め置きますから」
拶挨もそこ〳〵に飛び出してしまつたのです。
家を出て少し行くと、
「有難うございました。錢形親分さん」
呼びとめたのは、下女のお崎でした。いやお崎の後ろに、寄り添ふやうに立つてゐた、娘のお幾だつたかも知れません。
「?」
平次はその意味を測り兼ねて立ち停つたのです。一應の調べが濟んで、和泉屋の皆吉と一緒に、これから歸らうとして居る時でした。
「お崎を引留めて下すつて、私は本當に嬉しいと思ひました」
今度は確かに娘のお幾です。邪念とか作爲とかを、何處かへ忘れて來たやうに、いかにも可愛らしい娘です。こんなふくよかな娘は、無抵抗で無防禦で、惡魔の餌には、最も都合が良いのかも知れません。
健康で赤黒くて、純粹ではあるが、充分意志も強さうな下女のお崎に比べると、これはまさに、糝粉細工のお姫樣のやうです。
「まア、宜いあんべえでしたよ。これからも思案に餘ることがあつたら、八五郎に相談して下さい。暫らく此處へ泊めて置きますから、それから」
「さうして下さると、心丈夫ねえ」
「それから、もう一つ、當分の間、──枕の方角を變へて休んで下さい」
「?」
「いつも南枕だつたら北枕に、東枕の癖があるなら、西枕にして」
「怖いワ、私」
「これは誰にも言つちやいけませんよ、──若旦那の彌三郎さんは、お家へ入られるやうに、私からお内儀さんに頼んで置きます」
少し先へ行つた、和泉屋の皆吉に聽えないやうに、平次は二人の娘に囁くのでした。
そして、小走りに皆吉に追ひつくと、相携へて、江戸へと急ぐのです。皆吉は小傳馬町の宿へ、平次は神田明神下へ。
道々、堺の商人、皆吉は言ふのです。
「ね、錢形の親分。あんなことを言つて宜いでせうか」
「構やしません。──ところで、三日經つたら、千二百兩の小判を、馬にでもつけて此處まで運んで來て下さい。庄司の御主人も、その氣になつたやうだから」
「それは心得て居ります。私も良い口錢になることですから、──が、あの女體の額の夜光石は惜しいことで」
「そのうちに、思ひも寄らぬところから出て來るでせう」
二人は田圃道にかゝりました。と出逢ひ頭に、森の中から出て來た男、ハツと面喰つた樣子で、頬冠りのまゝ通り過ぎます。横顏だけしか見えませんが、二十五六の小意氣な男です。
「あれを御存じですか、錢形の親分」
皆吉は振り返りながら訊きました。
「顏だけは知つて居ますよ。遊佐の右太吉とか言ふ、厄介な男で、庄司の若旦那の彌三郎さんは眤懇にして居るやうだが、油斷のならない男です。──少し上方訛がありますが」
平次は近頃繁々と顏を合せるが、まだ口をきいたことのない、遊佐の右太吉のことを説明してやりました。
「あの男は私も存じて居ります。遊び人風には見えますが、堺で紅毛人の通辭(通辯)をしてゐた男で、──油斷がなりません。あんな男が土地へ入り込んぢや」
和泉屋の皆吉は、振り返り振り返り妙に警戒的なことを言ふのでした。この時の同行は二人、八五郎は目黒に殘されたことは言ふ迄もありません。
「親分、目黒といふ國は、恐ろしく退屈ですね」
八五郎が、明神下の平次の家へ飛び込んで來たのは、それから二日目でした。
「あ、八か、何んだつて今頃來やがつた」
平次は相變らず、閑で〳〵仕樣のないやうな顏をして、椽側に腹ん這ひになつたまゝ、庭に芽ぐんだ春を眺めて、煙草ばかり吸つて居たのです。
「御拶挨ですね、親分。あつしはまた、少し褒めて貰はうと思つて來ましたが」
「お前でも、褒められ度くなるのか。まア宜い、其處に立つたまゝ話せ」
「家へも上げてくれないんですか、親分。──せめては、目黒から驅けて來た樣子だから、お茶でも呑めとか何んとか」
「茶は品切れだよ、喉が渇くなら、水瓶へ首を突つ込め、──もう陽がかげつて來たぢやないか、目黒まで歸つたら暗くなるだらう。明日か今日だ、曲者は何をするかわからねえから、暗くなつたら、あの家を一刻もあけちやならねえ」
「驚いたね、どうも。あつしはまた、自分の身に引き比べて、親分もさぞ退屈だらうと、今夜の鰌汁を喰ひ損ねるのを覺悟で、此處まで飛んで來ましたが」
「來るに及ぶものか、歡喜天樣の女體の額の珠が見付かつたんだらう」
「あツ、親分はどうしてそれを?」
「さう來なくちやならないように、車掛りの陣を布いてあるのさ。その夜光石を何處へやつた」
「主人の庄司三郎兵衞樣が、自分の眼玉のやうに大事にして居ますよ。尤も、あれがギヤマンの僞玉ぢや何んにもならねえが」
「誰が、そんな事を言つた、──あれは正眞正銘の夜光石だよ。僞玉なんかでたまるものか」
「えツ、──だつて、堺の商人の和泉皆吉が──」
「俺がさう言はせただけのことさ。力づくぢや、奪り返せさうもないと思つたから」
「驚いたな、曲者もさう思ひ込んで、女體の額の僞玉は返すから、男體の眞物の夜光石をよこせ、今夜のうちにそれを渡さなきや、娘お幾を始め家中の者の眼玉をくり拔くと、僞の夜光石を包んだ手紙を、堂の中に放り込んでありましたよ」
「その大事な時、お前は脱け出して來たのか」
「親分の迎いにね。尤も、それまでは退屈でしたよ、見張りが大事だといふので、あつしには酒も出してくれねえ。可愛らしい娘つ子の、お幾とお崎が、時々チラチラするけれど、若旦那の彌三郎が戻つてからは、内儀のお輝さんは、恐ろしく不機嫌で、あつしが挨拶しても、ニツコリともしねえ」
「贅澤だよ、お前は、それで話が濟んだら、直ぐ目黒へ戻つてくれ」
「あれ、お前さん、お茶を入れて上げて下さい。ちよいと、煎餅でも買つて來ますから」
お靜はいそ〳〵と立上がるのです。
「放つて置いて下さいよ、姐さん。それよりもう一つ親分の耳に入れ度いことがあるんだ、これは一向つまらないことだが」
「何がつまらないもんだ」
「遊佐の右太吉といふ野郎は、内儀とわけがありさうですよ。内儀が上方で勤めをして居た頃の客だつたさうで、──後を追驅けるやうに目黒に來て、ブラブラ樣子を搜つてるうち、庄司の伜の彌三郎と懇意になり、彌三郎をけしかけちやいろ〳〵の事を企らんでるらしいが、彌三郎は懷ろ子のお人好しで、右太吉と無二の氣でゐるから世話アないでせう」
「よし、褒めてつかはすぜ、八。いろんな事がわかつた、俺も後から行く。お前は一と足先へ引返してくれ、煎餅なんか、來年でも喰える」
「それぢや親分」
平次の意氣込みの激しさに驚いて、八五郎も煎餅を諦めました。
「女體の額の夜光石のことは誰にも言ふな、それからお前は、遊佐の右太吉を搜し出して、本人に氣付かれないやう、一と晩見張るのだ。──但し、餘計なちよつかいを出しちやならねえ、わかつたか」
「へエ」
八五郎を一と足先に、平次はそれに續きました。
平次はそれから、小傳馬町の加納屋に、堺の商人、和泉屋皆吉を訪ねて、最後の打ち合せをしたことは言ふまでもありません。
庄司の内儀お輝に逢ひ、遊佐の右太吉に逢つた、堺の皆吉は、二人の顏を見て記憶を喚び起したらしく、
「これは間違ひもないことです。あのお輝さんといふお内儀は、堺の町で遊び女をして居た、照代といつた女でございます。二三年前フツと行方を晦ましましたが、堺の町で評判になつて居た頃は、遊佐の右太吉と深い仲で、照代が姿を隱したあと、右太吉は血眼になつて搜して居るといふ噂でございました。妙なところで、二人の顏を見掛けましたが、多分右太吉が通辭をして居る頃小耳に挾んだ、歡喜天の額の夜光石に引かれ、その後をつけて、江戸まで來たに違ひありません」
堺の皆吉はさう言ふのです。
「有難う、それで大方わかりましたよ。明日は是非千二百兩の小判を、目黒へ持つて來て下さい。頼みましたよ」
平次は千二百兩の念を押して、八五郎の後を追つて目黒へ飛びました。もう日が暮れかけて居ります。
目黒へ着いたのは、もう亥刻(十時)近い時分でした。庄司家の奧では、まだ、何やら揉め事がある樣子です。暫らくすると、お勝手口が開いて、小風呂敷包みを持つた、若い娘が一人、まだ薄寒い夜へ送り出され、それを追つて出たらしい伜の彌三郎は、父親の三郎兵衞の手で荒々しく引戻され、後ろの戸をピシヤリと締められてしまひました。
「お崎ぢやないか」
「あ、錢形の親分」
途方にくれた下女のお崎の前に、錢形平次は立つて居たのです。
「どうした、今頃外へ投り出されて?」
「お孃樣と床を換へて寢て居るのを見付かりました。放つて置くと、今夜こそお孃樣の眼を潰されるに違ひありません。二日までは無事でしたが、三日目の晩、たうとう旦那樣と御新造樣に見付かつてしまひ、お前はどうせこの家へは置かれない、とつとと小田原へ歸れと外へ突き出されてしまひました。若旦那樣と、お孃樣は庇つて下さつたけれど──」
「よし、よし、泣くな」
平次はお崎を撫めながら、近所の百姓家を起して、この娘のために一と晩の宿を頼みました。
それからが大變だつたのです。
下女のお崎を追ひ出されて、本人のお幾が、自分の床へ戻つてからざつと一と刻、不安と焦躁のうちにも、若さと健康に負けて、お幾がウトウトとした時のことでした。
黒い影が──いや、その黒さも紛れる部屋の闇の中へ、ソロリと忍び込んだ者がありました。手搜りと足搜りで、漸く娘の床に近づくと、一氣に眼を襲はうとした樣子でしたが、娘のお幾が足の方を枕に、枕の方を足にして、逆に寢て居るのに氣が付かなかつたものか、顏を搜つた手に足がさはつて、ハツと驚いた拍子、思はず何やら物に觸つた樣子です。
曲者は氣を取直して、改めて頭を搜り出し、狙ひを定めて、身構へました。
ジーンと、鐵の燒ける匂ひ、曲者は闇の中に得物を振り冠りました。非常に落着いた、今度こそはの、寸毫も狂ひのない襲撃です。
「あツ」
その時、何處からともなく射した光線、曲者の潜入した唐紙の間から、泥棒龕燈の灯が、まともに曲者の顏を照して居るではありませんか。
それは何んと、長襦袢を踏みはだけた寢亂れ姿、髮が少し亂れて、銀簪を振り冠つた青い顏──藍を塗つたやうな鬼畜の顏──紛れもない、内儀のお輝の血に渇く、物凄い顏だつたのです。
泥棒龕燈を持つた男は、靜かに入つて來ると、默つてその振り上げた腕を押へました。
「畜生ツ、岡つ引奴」
お輝の照代は、そのまゝ力が盡きて、ヘタヘタと、碎かれた人形のやうに、娘お幾の燃えるやうな茜裏の布團の上に崩折れてしまひました。
その時、家の外では、八五郎の叱咜が夜空に響いて高鳴ります。
「野郎ツ、神妙にしやがれ」
遊佐の右太吉が聖天堂の扉をコジ開けようとして居るのを見付けて、目黒中に響き渡る大捕物が始まつたのです。
× × ×
翌る日、堺の町人皆吉が、千二百兩の大金を持つて來て、觀喜天を受取り、長崎奉行の手を經て、和蘭人に引渡されることになりました。
一度縁あつて江戸に入りましたが、もとの天竺のお寺に還した方が、八方圓く納まるに違ひないと、庄司三郎兵衞も千二百兩の大金を手に入れて滿足したことでせう。
そして目黒に盛り場を作ることを斷念し、伜彌三郎を家に入れて、下女のお崎と夫婦にしてやりました。内儀のお輝と遊佐の右太吉は夥しい舊惡が露見して、處刑されたことは言ふ迄もありません。
八五郎が訊くまでもなく、この事件にわからない點は一つもありません。たつた一つ、内儀のお輝の眼瞼の傷は右ではなくて左だつたのは不思議で、一應自分で切つたのではないかと疑ひましたが、どんな女でも、自分の手で、自分の顏──わけても眼瞼を傷つける筈はないので、これは人に切られたものとわかり、よく突つ込んで訊くと、右太吉との嫉妬の爭ひから、匕首で斬られた傷とわかりました。
最後に一つ、これは大事なことですが、お輝は聖天堂の鍵を、主人の持つて居るのと、一寸では見分けのつかぬやうな僞物を作り、曉方主人の枕もとに置いてある眞物の鍵とすり換へて歡喜天堂を開けたのです。
一度、その入れ換へた鍵を、戻す暇がなく海老錠に合はなくてひと騷ぎをしましたが、主人の手から受取つて爺やの與八に渡すとき、お輝は自分の持つて居る眞物と摺り變へたのでした。
女體の額の夜光石がギヤマンの僞物だと、堺の皆吉が言つたのは、平次に智慧をつけられた、皆吉がでつちあげた詭計でしたが、お蔭で女體の夜光石は無事に戻つたわけです。
「だがね、親分。この間目黒へ行つて、庄司の家を覗いて見ましたが、下女のお崎はすつかり綺麗になつて、良い嫁になつて居ましたよ。ありや飛んだ掘り出しものでしたね。吉原の花魁を總仕舞にして選り出したつて、あんな良い娘はありませんよ」
「當り前だ、馬鹿野郎」
平次はさう言ひながらも、嬉しさうでした。
底本:「錢形平次捕物全集第三十四卷 江戸の夜光石」同光社
1954(昭和29)年10月25日発行
初出:「主婦と生活」
1954(昭和29)年
※題名「錢形平次捕物控」は、底本にはありませんが、一般に認識されている題名として、補いました。
※「皆治」と「皆吉」の混在は、底本通りです。
入力:特定非営利活動法人はるかぜ
校正:門田裕志
2017年1月12日作成
青空文庫作成ファイル:
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