感情喪失時代
中原中也



一 感情喪失時代


 現代は、「不安の時代」だと云はれる。之に対して或人は理智の欠乏がその原因だといひ、或人は共通信条の不在を嘆いてゐる。みんなそれぞれ理由のある所であらうが、原因はいざ知らず、見渡した所感情が喪失されてある状態であること明らかであるやうである。

 感情といふ語の内容も色々であらうが、「独り居て怡しむ」底の感情、対人的に発露するに非ざる、そこはかとなき欣怡の情である。之の欠乏する限り、対人せる場合に現はれる感情も、飢えた獣の感情に似る他はないのではあるまいか。

 又、之の欠乏する限り、判断といふものもひどく相対的にしか行はれないのではあるまいか。

 それはさて、人が皆その幼時に、欣怡の情を有することは確かである。ではそれは何時如何様にして喪失されていつたのであらうか。答へは簡単だ、野望のせゐだ。事そのもの、物そのものを、知る間もあらせずその事その物の利用を思つた心のせゐだ。


 とまれ感情なくしては、現代が不安の時代であるとしてからが、その不安さへも不安と感じられないであらうやうなものではないか。


 さて時代の不安の原因が果して理智の欠乏だとすれば、人は直ちに理智の涵養に取掛かればよいのだし、又共通信条の不在がその原因なればそれの探究に取掛かればよい。所でもし感情喪失が原因なれば、人は先づ退いて心身を休めるの必要があるのであらう点で、前二者とは趣を異にするのである。前二者が注射や服薬ならば、之は神経衰弱や軽微な肋膜の療養に似て、呑気にブラブラすることを要請してゐるのである。


 呑気にブラブラすることか、あゝそれならば楽だよと、云はれる人が多ければ、私なぞが亦何をか云はんやである。然るに退くことは、却々以て性格の力を要することは亦事実であるやうである。

 世に、真実と、虚飾との二つがあることは先刻知れ渡つてゐる。然るに真実を守り、虚飾に関与せざらんはまた却々大した芸当である。第一、事々に、真実と虚飾とを篩ひ分ける感情基底を失はずしてあることが既に問題なのである。同様に、呑気にブラブラすることも容易とは見えぬのである。


 試みに、呑気にブラブラしてみて下され。さうするうちには、今まで見えなかつたものが見えて来、感じられなかつたことが感じられて来るかも知れぬのだ。すれば、貴下の生活も次第に統整のしやうがあり始めようといふもの。


 一般生活はいざ知らず、由来芸術とは、芸術家自身の統一夥多がなさしめるわざではないか。統一への途上に於て小主観的作品の物されることが多ければこそ、問題は錯雑を極め、作品よりも批評の方に真実の見られ易いが如き事態ともなつてゐるのではあるまいか。


 感情基底稀薄にして、かうもああもあつたものではないのである。

 して、感情基底の確立のためには、退いて呑気にブラブラすること勘要だらうと愚考するのである。


二 帰省者田舎よりの手紙


 拝啓 御無沙汰しましたが、お変りもありませんか。僕事は、相変らずです。友達がゐないのが淋しいきり、そのほかでは都よりも寧ろこちらにゐる方が退屈はしません。セザンヌが謂ふ「空と樹木」が、申すまでもなく都より豊富だからです。木一本ない野原とて、却々街よりは変化に富んでゐます。

 それで、手紙が書きたくなるたびに、沢山書くことがあるやうな気持なのですが、さて書き出してみると、何もないのです。それといふのが、これが都より田舎へ出すのであれば、何音楽会に行きました、何展覧会に行きました等々の、謂はば事件があるわけですが、こちらでは、何を豊富に感じてゐるとも、それが事件の形を採りませんので、書くことがまるでないやうな有様にもなるのだと、今更思ひ知る次第です。

 それなのに、都にある時よりも、手紙は遥かに書きたいのです。而も、書かうとなれば、詩作と同様のことになり、誰に出す手紙かも分らなくなつてしまふのです。

 かういふことを、都の人は、えてシラジラしいことのやうにも考へるやうですが、却々それどころでもないのです。寧ろこちらから云へば、都の人が没個性的であるのでもあるのです。

 理窟を云つてゐたら、ホトホト疲れました

底本:「新編中原中也全集 第四巻 評論・小説」角川書店

   2003(平成15)年1125日初版発行

※底本のテキストは、著者自筆稿コピーによります。

※()内の編者によるルビは省略しました。

※底本巻末の編者による語注は省略しました。

入力:村松洋一

校正:noriko saito

2015年91日作成

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