雷門以北
久保田万太郎



広小路(一)


 ……浅草で、お前の、最も親愛な、最も馴染なじみのふかいところはどこだときかれれば広小路の近所とこたえるほかはない。なぜならそこはわたしの生れ在所である。明治二十二年田原町で生れ、大正三年、二十六の十月までそこに住みつづけたわたしである。子供の時分みた風色けしきほど、山であれ河であれ、街であれ、やさしくつねに誰のまえにでも蘇生よみがえって来るものはない。──ことにそれが物ごころつくとからのわたしのような場合にあってはなおのことである。

 田原町、北田原町、東仲町、北東仲町、馬道一丁目。──両側のその、水々しい、それ〴〵の店舗のまえに植わった柳は銀杏いちょうの若木に変った。人道と車道境界の細い溝は埋められた。(秋になるとその溝に黄ばんだ柳の葉のわびしく散りしいたものである)どこをみてももう紺の香のめた暖簾のれんのかげはささない。書林浅倉屋の窓の下の大きな釜の天水桶もなくなれば鼈甲べっこう小間物松屋の軒さきの、くしの画を描いた箱看板の目じるしもなくなった。源水横町の提灯ちょうちんやのまえに焼鳥の露店も見出せなければ、大風呂横町の、宿屋の角の空にそそる梯子ばしごも見出せなくなった。──勿論、そこに、三十年はさておき、十年まえ、五年まえの面影をさえさし示す何ものもわたしは持たなくなった。「渋屋」は「ペイント塗工」に、「一ぜんめし」は「和洋食堂」に、「御膳しるこ」は「アイスクリーム、曹逹水ソーダすい」におの〳〵その看板を塗りかえたいま──そういっても、カフェエ、バア、喫茶店の油断なく立並んだことよ──たま〳〵ひょうきんな洋傘屋あって赤い大きな目じるしのこうもり傘を屋上高くかかげたことが、うち晴れた空の下に、遠く雷門からこれを望見することが出来たといっても誰ももうそれを信じないであろう。しかくいまの広小路は「色彩」に埋もれている。強い濃い「光」と「影」との交錯を持っている。……ということは古く存在した料理店「松田」のあとにカフェエ・アメリカ(いま改めてオリエント)の出来たばかりのいではない。そうしてそこの給仕女たちの、赤、青、紫の幾組かに分たれている謂いでも勿論ない。前記書林浅倉屋の屋根のうえに「日本児童文庫」と「小学生全集」の尨大ぼうだいな広告を見出したとき、これも古い酒店さがみやの飾り窓に映画女優の写真の引伸しの飾られてあるのを見出したとき、そうして本願寺の、震災後まだかたちだけしかない裏門の「聖典講座」「日曜講演」の掲示に立交る「子供洋服講習会」の立札を見出したとき、わたしの感懐にそむいていよ〳〵「時代」の潮さきに乗ろうとする古いその町々をはっきりわたしはわたしに感じた。──浅倉屋は、このごろその店舗の一部をさいて新刊書の小売をはじめたのである。さがみやもまたいままでの店舗を二つに仕切って「めりんすと銘仙めいせん」の見世を一方にはじめたのである。

 が、忘れ難い。──でも、ぱり、わたしにはその町々がなつかしい……

 何故だろう?

 そこには仕出屋の吉見屋あっていまだに「本願寺御用」の看板をかけている、薬種屋の赫然堂あっていまになおあたまのはげた主人がつねに薬をねっている。餅屋の太田屋あってむかしながらのふとった内儀さんがいつもたすきがけのがせいな恰好かっこうをみせている。──宿屋のふじや、やなぎや、鳥屋の鳥長、すしやの宝来、うなぎやの川松、瓦煎餅かわらせんべいの亀井堂、軽焼のむさしや。──それらの店々はわたしが小学校へ通っていた時分と同じとりなしでいまなおわたしをつつましく迎えてくれるのである。──それらの店々のまえを過ぎるとき、いまもってわたしは、かすりの筒っぽに紫めりんすの兵児帯へこおび、おこそ頭巾ずきんをかぶった祖母に手をひかれてあるいていたそのころのわたしの姿をさびしく思い起すのである。──それは北風の身を切るような夕方で、暗くなりそめた中にどこにももう灯火がちらちらしているのである。──眼を上げるとそこに本願寺の破風はふが暮残ったあかるい空を遠く涙ぐましくくぎっているのである。……


広小路(二)


 ……広小路は、両側に、合せて六つの横町と二つの大きな露地とをもっている。本願寺のほうからかぞえて右のほうに、源水横町、これという名をもたない横町、大風呂横町、松田の横町、左のほうに、でんぼん横町、ちんやの横町。──二つの大きな露地とは「でんぼん横町」の手前のさがみやの露地と朝倉屋の露地とをさすのである。──即ち「さがみやの露地」は「源水横町」に、「浅倉屋の露地」は「名をもたない横町」に広い往還をへだててそれ〴〵向い合っているのである。

 が、「源水横町」だの「名のない横町」だの、「大風呂横町」だの「松田の横町」だの「でんぼん横町」だの、それらはすべてわたしの子供の時分には……すくなくともまだわたしの田原町にいた時分にはだれもそう呼んでいたのである。──かつてそこに松井源水が住んでいたというのをもって源水横町、その横町が「大風呂」という浴場をもっていたのをもって大風呂横町、その右かどに料理店の「松田」をもっていたのをもって松田の横町(それはまたその左かどに牛肉屋の「いろは」をもっていた理由でいろはの横町とも呼ばれた)──で、「でんぼん横町」とは「伝法院横町」のいい、「ちんやの横町」とは文字通りちんやの横町のいいである。そういえば誰でも知っている大衆的の牛肉屋「ちんや」の横町である。──由来はいたって簡短である。

 このうちいま残っているのは「ちんやの横町」だけである。「ちんやの横町」という称呼だけである。浅倉屋の露地だのたぬきや横町だのに行きつけのカフェエをもつほどのいまのそのあたりの人たちに「源水横町」といういいかたは空しい響きしかすでに与えなくなった。それと同時に「これという名をもたない横町」は「川崎銀行の横町」という堂々としたいいかたをいつかもつようになった。わたしのそこを去ったあと、それまでの際物問屋、漬物屋、砂糖屋、その外一、二けんを買潰して出来たのがその銀行である。いまでこそ昼夜銀行が出来、麹町銀行がまた近く出来ようとしているものの、いまをさる十二、三年まえにあってはそうした建物を広小路のうちのどこにももとめることが出来なかったのである。銀行といえば、手近に、並木通りの浅草銀行(後に豊国銀行)の古く存在するばかりだったのである。──「大風呂」のすでに失われた今日「大風呂横町」の名のいつかは昔がたりになるであろうとともに「松田の横町」の「松喜の横町」と呼びかえられるであろう日のそう遠くないことを、カラリとした感じの、いち早く区画整理のすんだ、いままでより道幅のはるかに広くなった往来のうえに決定的にそうわたしは感じた。──いままでの「松田の横町」は外の三つの横町のどこよりも暗く陰欝だった。──「松喜」とは「いろは」のあとに出来たこれも大きな牛肉屋。──そこにちんやとすべてに於て両々相対している……

 その四つのそれ〴〵の横町についてこれ以上巨密なふでを費すことをわたしはしないだろう。なぜならそれはいたずらにただわたしの感懐を満足させるにすぎまいから。ただ、わたしは、それらのそのほう〴〵の横町で聞いた「はさみ、包丁、かみそりとぎ」だの、「朝顔の苗、夕顔の苗」だの、定斎屋の鐶の音だの、飴屋のチャルメラだの、かんかちだんごのきねの音だの、そうしたいろ〳〵の物音が幾年月を経たいまのわたしの耳の底にはッきりなお響いている。──それらの横町を思うときわたしの心はしぐれのような暗い雨にいつもぬれるのである……


広小路(三)


 ところで「でんぼん横町」である。いまではその「大風呂横町」に向合った横町を──三好野と三川屋呉服店とを(かつてはそれが下駄屋とすしやだった)その両角に持ったにぎやかな横町を「でんぼん横町」といわないのである。そういわないで「区役所横町」というのである。そうして伝法院の横の往来──その「区役所横町」の出はずれによこたわって仲見世と公園とを結びつけているむかしながらの狭い通りを「でんぼいん横町」(「でんぼん横町」とよりはやや正しく)といまではそう呼んでいるのである。

 その「区役所横町」(最近までわたしはそれを承服しなかった。強情にわたしは「でんぼん横町」といいつづけた。が、たま〳〵わたしと同年配の、それこそ「珍世界」の太鼓をたたく猿の人形も知っていれば、電気館のあごなしの口上いいもよくおぼえているさる人の、躊躇ちゅうちょなくそこを「区役所横町」と呼びなしているのを聞いてわたしは我を折った。「区役所横町」では身につかない感じだがやむを得ない)を入ってすぐのところに以前共同かわやのあったことをいっても、おそらくだれもその古い記憶をよび起すのに苦しむだろう。それほど、整った、美しい、あかるい店舗の羅列をその両側がもつにいたったのである。ことにその下総屋と舟和との大がかりな喫茶店(というのはもとよりあたらない。といってそも〳〵の、ミツマメホオルというのもいまはもうあたらない。ともにその両方がガラスの珠すだれを店さきに下げたけしき──この頃の暑さにむかってのその清涼なけしきがいまはまれにしかみられない「氷店」といった感じをわたしに与えるのである)のすさまじい対立は「新しい浅草」の繁栄とそれに伴う無知なよろこびをいさましくそこに物語っている。──下総屋は「おかめ」の甘酒から、舟和はいも羊羹ようかん製造から、わずかな月日に、いまのようなさまにまでおの〳〵仕上げたのである。

 ……が、仕上げたということになると、わたしの十二、三の時分である、きのう書いた川崎銀行の角、際物師の店の横にめぞッこ鰻をさいて焼く小さな床見世があった。四十がらみの、相撲すもうのようにふとった主人が、年頃の娘たちとわたしより一つ二つ下のいたずらな男の子とを相手に稼業をしていた。ほかにみるから気の強そうな、坊主頭の、その子供たちにおじいさんと呼ばれていた老人がいたが、そのうちどうした理由かそこを止し、広小路に、夜、矢っ張その主人が天ぷらの屋台を出すようになった。いい材料を惜しげもなく使うのと阿漕あこぎに高い勘定をとるのとでわずかなうちに仕出し、間もなく今度は、いまの「区役所横町」の徳の家という待合のあとを買って入った。──それがいまの「中清」のそも〳〵である。

 ついまだそれを昨日きのうのようにしかわたしは思わないが、広小路のあの「天芳」だの仲見世の「天勇」だののなくなったいま、古いことにおいてもどこにももう負けないであろう店にそのうちがなった。が、そこには、その横町にはさらにまたそれよりも古い「かきめし」がある──下総屋と舟和を、もし、「これからの浅草」の萌芽とすれば、「中清」だのそこだのは「いままでの浅草」の土中ふかくひそんだ根幹である……


広小路(四)


「ちんやの横町」のいま「聚楽じゅらく」というカフェエのあるところは「新恵比寿亭」という寄席よせのもとあったところである。古い煉瓦れんがづくりの建物と古風なあげ行灯あんどんとの不思議な取合せをおもい起すのと、十一、二の時分たった一度そこで「白井権八」のうつし絵をみた記憶をもっているのとの外にはその寄席について語るべき何ものもわたしはもっていない。なぜなら、そこは、わたしが覚えて古い浪花なにわぶしの定席だったから。──その時分わたしは、落語も講釈も義太夫も、すべてそうしたものの分らない低俗な手合のみの止むをえず聞くものを浪花ぶしだとおもっていた。そう思ってあたまでわたしは馬鹿にしていた。──ということはいまでも決してそうでないとはいわない……(ついでながらわたしの始終好きでかよった寄席は「並木亭」と「大金亭」だった。ともに並木通りにあって色もの専門だった。──色もの以外、講釈だの浄瑠璃じょうるりだのへはごくまれにしか足ぶみしなかったわたしは、だから吾妻橋のそばの「東橋亭」、雷門の近くにあった「山広亭」「恵比寿亭」そうした寄席にこれという特別の親しさをもっていなかった。──が「山広亭」、「恵比寿亭」とおなじく、いまはもう「大金亭」も「並木亭」もうちよせた「時代」の波のかげに、いつとなくすがたを消した。残っているのは「東橋亭」だけである。)

 いまでこそ「聚楽」をはじめ、「三角」あり、「金ずし」あり、「吉野ずし」あり、ざったないろ〳〵の飲食のみくいの場所をそこがもっているが、かつてははえないしもたやばかりの立並んだ間に、ところ〴〵うろぬきに、小さな、さびしい商人店──例えば化粧品屋だの印判屋だののはさまった……といった感じのくうな往来だった。食物店といってはその浪花節の寄席の横に、名前はわすれた、おもてに薄汚うすよごれた白かなきんのカアテンを下げた床見世同然の洋食屋があるばかりだった。──なればこそ、日が暮れて、露ふかい植木の夜店の、両側に、透きなくカンテラをともしつらねたのにうそはなかった。──植木屋の隙には金魚屋が満々と水をみたした幾つもの荷をならべた。虫屋の市松しょうじがほのかな宵暗をしのばせた。──灯籠屋とうろうやの廻り灯籠がふけやすい夏の夜を知らせがおに、その間で、静かに休みなくいつまでもまわっていた……

「さがみ屋の露地」「浅倉屋の露地」ともにそれは「広小路」と「公園」とをつなぐただ二つの……という意味は二つだけしかないかなめのみちである。そうして「さがみやの露地」には、両側、すしや、すしや、すしや……ただしくいえば天ぷら屋を兼ねたすしやばかり目白押しに並んでいる。まぐろのいろの狂爛きょうらんのかげにたぎり立つ油の音の怒濤どとうである。──が、かつてそこは、入るとすぐおもてにあらい格子を入れて左官の親方が住んでいた。その隣に「きくもと」という待合があった。片っぽの側には和倉温泉があり煙草屋を兼ねた貸本屋があった。

 ……そこで、一段、みちが低くなった。

 あとは、両側とも、屋根の低い長屋つづき、縫箔屋ぬいはくやだの、仕立屋だの、床屋だの、道具屋だの、駄菓子屋だの、炭屋だの、米屋だの……あんまり口かずをきかない、世帯じみた人たちばかりが何のたのしみもなさそうに住んでいた。──と、そうわたしはそこのことを七、八年まえ書いたことがある。──が、そのときはまだ和倉温泉はあった。かたちだけでもいま残っているのは途中にあるお稲荷さまのほこらだけである。

 で、「浅倉屋の露地」は──「公園劇場近道」の下に「倉通横町」としたいまのその露地は……

 今日のまず挿画を御覧ねがいたい。


仲見世(一)


 ……わたしは、小学校は、馬道の浅草小学校へかよった。近所にいろ〳〵小川学校だの青雲学校だのといった代用学校があり、田原町、東仲町界隈かいわいのものは、みんなそれらの「私立」へかようのをあたりまえとしたが、わたしは長崎屋のちゃァちゃん(いまも広小路に「長崎屋」という呉服屋は残っている。が、いまのはわたしの子供の時分のとは代を異にしている。もとのそのうちは二十年ほどまえ瓦解がかいした。その前後のゆくたてに花ぐもりの空のようなさびしさを感じて、いつかはそれを小説に書きたいとわたしはおもっている)という子と一しょに、公立でなければという双方の親たちの意見で、遠いのをかまわずそこまでかよわせられた──浅草学校は、浅草に、その時分まだ数えるほどしかなかった「市立」のうちの最も古い一つだった。

 毎日、わたしは、祖母と一しょに「馬車みち」──その時分まだ、東京市中、どこへ行っても電車の影はなかったのである。どこをみても「鉄道馬車」だったのである。だからわたしたちは「電車通り」という代りに「馬車みち」といった。東仲町のいま電気局のあるところに馬車会社があった──を越して「浅倉屋の露地」を入った。いまよりずっと道幅の狭かったそこは、しばらく両側に、浅倉屋の台所口と、片っぽの角の蕎麦屋そばやの台所口とのつづいたあと、右には同じく浅倉屋の土蔵、左には、おもてに灰汁桶あくおけの置かれてあったような女髪結のうちがあった。土蔵のつづきに、間口の広い、がさつな格子のはまった平家があった。出羽作という有名なばくちうちの住居だった。三下が、始終、おもてで格子を拭いたり水口で洗いものをしたりしていた。──ときには笠をもった旅にんのさびしいすがたもそのあたりにみられた。

 道をへだてて井戸があり、そばに屋根を茅でいた庵室といったかたちの小さなうちがあった。さし木のような柳がその門に枝を垂れ、おどろに雑草がそのあたりを埋ずめていた。──と、いま、ここにそう書きながら、夏の、ぎら〳〵と濃い、さわったらベットリ手につきそうに青い空の下、人あしの絶え、もの音のしずんだ日ざかりの、むなしく白じらと輝いた、でこぼこ石を並べたその細いみちをわたしは眼にうかべた。駄菓子屋のぐったりした日よけ、袋物屋の職人のうちの窓に出したぽつんとした稗蒔ひえまき……遠く伝法院の木々の蝉が、あらしのように、水の響きのようにしずかに地にしみた。──その庵室のようなうちには、日本橋のほうの、小間物屋とかの隠居が一人寂しく余生を送っていた。

 出羽作の隣は西川勝之輔という踊りの師匠で、外からのぞくと、目尻の下った、禿上った額の先代円右に似たその師匠が、色の黒い、角張った顔の細君に地を弾かせ、「女太夫」だの「山がえり」だの「おそめ」だのを、「そらイ……ぐるりとまわって……あんよを上げて……」と小さい子供たちにいつも熱心に稽古していた。──それに並んで地面もちの、吉田さんといううちの、門をもった静かな塀がそのあとずっと出外ではずれまでつづいていた。──子供ごころに、いまに自分も、そうした構えのうちにいつかは住みたいとそこを通る毎しば〳〵そうわたしは空想した。商人のうちに生れたわたしたちにとって門のある住居ほど心をそそるものはなかった。

 ……「浅倉屋の露地」を出抜けたわたしはそのまま泥溝にそって公園の外廓を真っすぐにあるいた。いまのパウリスタの角を右に切れて──その左つ角に大鹿という玉ころがしがあった──いうところのいまの「でんぼいん横町」を「仲見世」へ出たのである。


仲見世(二)


 ……と、簡単にそういってしまえばそれだけである。が、片側「伝法院」の塀つづき、それに向いてならんだ店々だから、下駄屋、小間物屋、糸屋、あるへいを主とした菓子屋、みんな木影を帯び、時雨をふくんで、しずかにそれ〴〵額をふせていた。額をふせて無言だった。──それには道の中ほどに、大きな榎あってたくましい枝を張り、暗くしっとりと日のいろを……空のいろをせいていた。──その下に古く易者が住んでいた。──いまの天ぷら屋「大黒屋」は出来たはじめは蕎麦屋そばやだった。

 したがってそこへ出る露店もしずかにつつましい感じのものばかりだった。いろは字引だの三世相だのを並べた古本屋だの、煙草入の金具だの緒締おじめだのをうる道具屋だの、いろ〳〵の定紋じょうもんのうちぬきをぶら下げた型紙屋だの。──ときに手品の種明しや親孝行は針のめど通し……そうしたものがそれらの店のあいだに立交るだけだった。だから、それは、「仲見世」に属してそこと「公園」とを結びつける往来とよりも、離れて「伝法院」の裏通りと別個にそういったほうがより多くそこのもつ色彩にふさわしいものがあった。──と同時に「伝法院」の裏門がもとはああしたいかめしいものではなかった。いまの、もっと、向って右よりに、屋根もない、「通用門」といった感じのごくさびしいざつな感じのものだった。

 が、それはひとりその往来ばかりでなかった。「仲見世」のもつ横町のすべてがそうだった。雷門を入ってすぐの、いま角に「音羽」という安料理屋のある横町、つぎの、以前「天勇」の横町といった、角に「金竜軒」という西洋料理のある横町、そのつぎの以前「共栄館」の横町と呼ばれた、いまその角に「梅園」のある横町、右へとんで蕎麦屋の「万屋」の横町。──それらの往来すべてがつい十四、五年まえまで、おかしいほど「仲見世」の恩恵をうけなかったのである。お前はお前、わたしはわたし、そういったかたちにわかれ〳〵、お互が何のかかわりも持たず、長い年月それでずっとすごして来たのである。──そのうち「金竜軒」の横町だけは、「若竹」だの、「花家」だの、「みやこ」だのといった風の小料理がいろ〳〵出来、それには「ちんや横町」を横切って「区役所横町」までその往来の伸びている強味がそこをどこよりも早く「仲見世」と手を握らせた。でも、そこに、いまはどこへ行ってもあんまりみかけない稼業の刷毛屋はけやがあり、その隣にねぼけたような床屋があり、その一、二けん隣に長唄の師匠があって疳高かんだかい三味線の音をその灰いろの道のうえに響かせていたのを昨日のことのようにまだわたしは覚えている。──後にそのならびに出来た洋食屋の「比良恵軒」、九尺間口の、寄席よせの下の洋食屋同然にきたなかったその店は、中学の制服を着立てのわたしに、「カツ」だの「テキ」だの「カレエ」だのと称するものの「やっこ」のいかだ「中清」のかき揚以上に珍味なことをはじめて教えてくれた店である。──その時分、浅草には、「浅草銀行」の隣の「芳梅亭」以外西洋料理屋らしい西洋料理屋をどこにも見出すことが出来なかったのである。「音羽」の横町には格子づくりのおんなし恰好かっこうのしもたやばかり並んでいた。正月の夜の心細い寒行の鉦の音がいまでもわたしをその往来へさそうのである。──「梅園」の横町についてはかつてはそこに「たこや」のあったことを覚えている。よく晴れた師走の空がいまでもわたしにその往来の霜柱をおもわせる。──ともにけしきは「冬」である。

 で、「万屋」の横町は……

 ……道草をくってはいけない、わたしはいま学校へ行く途中である。


仲見世(三)


 角、「たつみ食堂」と称するもののいまあるところに「梅園館」という勧工場かんこうばがあった。──そこを「仲見世」へ出たわたしは、そのまま左へ仁王門のほうへ道をとった。その時分からあったのがいまの「大増」の手まえを木深くおくへ入った「大橋写真館」である。「大増」のところには、その時分、浅草五けん茶屋の一つにかぞえられた「万梅」があった。……とだけでは何のこともない、いまも立ならぶ大きなあの榎のかげに、手堅い、つつましい、謙遜けんそんな、いえばおのずからそれが江戸まえのくろ塀をめぐらしたその表構えが「古い浅草」のみやびと落ちつきとをみせていた。そこの石だたみだけつねにしぐれた感じだった。──ことにはそこに、その榎の下に、いつも秋早くから焼栗の定見世の出ることが、けそめた月の、夜長夜寒のおもいを一層ふかからしめた。──「仲見世」というところはときにそうした景情をもつところだった。

 その後、「万梅」は、公園の中「花やしき」の近くに越して、そのころ「仲見世」に勢力を張っていた牛屋の「常盤」がそのあとをうけついだ。そうして「奥の常盤」という名称で営業をつづけた。……といっても、それは、そうした事業家らしい料簡りょうけんの、そのなつかしいおもてつきの一部の改築して簡易な食堂をこしらえたり、湯滝ゆだきをはじめたり、花壇を設備したりした。そうしていままでより広い世界の客をさそおうとした。──とくに「奥の常盤」と呼んだのは、それ以外、「雷門の常盤」だの「中の常盤」だのというおなじ店のいろ〳〵そこに存在したからである。

 それほどさかった「常盤」もだん〳〵その影がうすくなった。どの店のおもてにも秋風がふいてすぎた。──そうしたとき、その「奥の常盤」を、ありがたちのまま引うけたのがいまの「大増」である。──そのうちもその以前「今半」のならびにもう一けん店をもっていた。そうしてそれは地震まえまで残っていた。──だからかつては「奥の大増」と、とくにやっぱりそこをそう呼んだのである……

 そんなことはどうでもいい、それよりそこの「万梅」の時分、いまの木村屋のところが「写真屋」だったのである。東京名所だの役者の写真だのをうる店だったのである。──いかに夢中で、吉右衛門だの、小伝次だの、宗之助だの、当時浅草座出勤少年俳優の写真をわたしは買込んだことだろう。そのまえを通れば必ずわたしは祖母をせがんだ。──いうまでもなく絵葉書のまだ出来ない時代である。──絵葉書の出来たのはそのあと六、七年たってからである。

 ……その「写真屋」(その店の名まえを忘れたのは残念である)の角をしるこやの「秋もと」のほうへ曲り、「岡田」の屋根の両方のはじにくッついた鯛のかたちをみながら弁天山の裾をまわり、いまは酒やになった米やの角を馬道の往来へ出ると、学校のまえの銀杏の梢のすぐもうそこにみえたものである。わたしの足はおのずと早くなった。──そのころ、浅草学校、いまのようにまだ味噌屋の「万久」の通りに門をもっていなかった。──宿屋の「釜屋」のならびにいまの半分もない小さな門しかもっていなかった。──ということは、だから、その門の方を向いた教場の窓からみると、その銀杏の梢のかげに五重の塔の青い屋根が絵のようにいつもくっきり浮んでいた……


仲見世(四)


『旧雷門のありしところより仁王門に至る間、七十余間を仲店といふ。道幅五間余を全部石にて敷きつめ、両側に煉瓦造りの商店百三十余戸あり。もとこの地は浅草寺支院のありしところにて左右両側各六院ありき。その仁王門に近きところには茶店ありて二十軒茶屋と称したりき。明治維新後、支院は或は移り或は絶えて、そのあとには露店など並びしが、今の店は、明治十八年十二月、東京市により建設せられたるものなり。仲見世各商店は一棟を数戸に分割し、間口九尺奥行も亦それ以上に出でざるを以て、内部の狭隘はいふばかりなく、出店商人は夜間は店を鎖してうちに帰り、翌日また弁当を持ちて通い来たる有様なり。然れどもこの仲見世は公園内の最も繁昌するところにて、凡そ観音に参詣するものは、家へのみやげ物は大抵こゝにて買求むるを以て日々の商売額甚だ多きを以て出店を希望するもの多く、多額の金円をいだすにあらざれば容易にその店株を得る能はず、場所によりては三百円以上に達するものありといふ。』と明治四十三年に出た「浅草繁昌記」という本の「仲見世」を説明したくだりに書いてある。明治四十三年といえばいまから十七年まえである。わたしの慶応義塾予科二年のときである。が、それにしてもその株の売買価の三百円は相場でなさすぎると思って友人伊藤貫一君にこれをただした。伊藤君は、仲見世入ってすぐの角の清水屋書店の主人である。「そんなことはありません、その時分でもその五倍や六倍はしました」と伊藤君はいった。「では、いまは、その十倍になっていますか」とわたしは聞いた。伊藤君は笑ってこたえなかった。

 その代り、伊藤君、いろ〳〵そこについて参考になることを聞せてくれた。たとえばもとの煉瓦れんがづくりの時分九尺だった間口が今度の奈良朝づくりになってから平均八尺(というのは中には七尺八寸のところもあるのだそうである)になったことや、各戸その一けん〳〵を一トこま二タこまという呼び方をしていることや、総々そうぞうでそれが百四十七こま九十九世帯あることや、震災を助かっていまなお以前の「仲見世」の名残をとどめている仁王門のそばの七けんに「新煉瓦」という名称のついていることや、物日なんぞ人の出さかるときは東側にいて西側の店の見えないことや、等、等、等。──まさかいち〳〵書き留めるわけにも行かないからぼんやりした顔でわたしはそれらを聞いていた。

 が、いまわたしが昔ながら(わたしにとってはそうである)の「仲見世」を通って感じることは絵草紙屋のすくなくなったことである。(そのなかで最も大きかった清水屋……伊藤君のその店にしていまでは「中央公論」「改造」の二、三百ずつもさばく書店になってしまったのである)豆屋、紅梅焼屋の以前のように目につかなくなったことである。(数のうえでも豆屋は絵草紙屋とともにすくなくなった)「木村屋」を真似た名所焼の店のほう〴〵に出来たことである。──そうして「武蔵屋」が衰え「伊藤勘」のさかえたことである……

 由来そこは外のほう〴〵の霊場がもつようなことさらな「名物」はもっていなかった。「煎豆」があり、「紅梅焼」があり「雷おこし」があったといっても、それらは直接「観音さま」に関連する何ものも持たなかった。それはただ「仲見世」あるいは「雷門」附近をえらんで店舗をもったにすぎなかった。──と、たま〳〵パン屋の「木村屋」あって「名所焼」を売りはじめた。──わたしの記憶にもしやあやまりがなければ、いまから十五、六年まえのことである……


観音堂附近(一)


 それはただ在来の人形焼……で思い出したが、そのずっと以前、広小路の、「ちんや」のならびにそれの古い店があった。夫婦かけむかいでやっていたが、そろって両方が浄瑠璃じょうるり好き、とき〴〵わたしでも細君が三味線をひき、そのまえで主人の首をふり〳〵夢中でそれを語っているのを店のかげにみたことがあった。しかく大まかなせかいだった。電車も通らず、自動車も響かず、柳の葉のしずかに散りしいたわけである。──前にいうのを忘れたが、その時分まだ「ちんや」は牛屋をはじめなかった。ヒマな、客の来ない、萎微をきわめた天麩羅屋てんぷらやだった。……その人形焼を、提灯ちょうちん、鳩、五重の塔、それ〴〵「観音さま」にちなみあるものに仕立てたにすぎなかったが、白いシャツ一つの男が店さきで、カン〳〵おこった火のまえにまのあたりそれを焼いてみせるのが人気になったのである。そうして長い月日のうち、とう〳〵いっぱしの、そこでの名代の店の一つになったのである。──ということは、前にいった、あらわにそれを模倣する店の一、二軒といわず続いてあとから出来た奴である。

 こうして、いま、「仲見世」に、「煎豆」「紅梅焼」「雷おこし」以外の新しい「浅草みやげ」が出来た。「煎豆」「紅梅焼」「雷おこし」の繁栄の、むかしをいまにするよしもなくなったのは、ひとえに「時代」の好みのそれだけ曲折に富んで来た所以せいである。──「梅林堂」のおくめさんの赤いたすきこそいまついに完全な「伝説」になりおわった。

「武蔵屋」の、震災後、いままでのいうところの「ぜいたくや」を止め、凡常な、張子はりこよろいかぶとを軒にぶら下げ、ブリキの汽車や電車をならべ、セルロンドの人形やおしゃぶりをうず高く積みあげた、それこそ隣にも、そのまた隣にも見出せるであろう玩具屋になり了ったことは、わたしに再び、「仲見世」の石だたみにふる糸のような春雨の音を聞くあたわざらしめた感がある。わたしは限りなく寂しい。そこで出来る雛道具ひなどうぐこそ榎のかげにくろい塀をめぐらした「万梅」とともに「古い浅草」を象徴するものだった。箪笥たんす、長持、長火鉢のたぐいからざる、みそこし、十能、それこそすり鉢、すり粉木こぎの末にいたる台所道具一切、それは「もちあそび」とはいえない繊細さ、精妙さをもっていた。しかもその繊細さ、精妙さのうちに「もちあそび」といってしまえない「生命感」がやどっていた。堅実なしみ〴〵した「生命感」がおどっていた。──しかもそうして、うちみのしずかなこと水の如きものがあった……

 そこのそうしたさまになったと一しょに、伝法院の横の、木影を帯び、時雨しぐれをふくんだその「細工場さいくば」は「ハッピー堂」と称する絵葉書屋になった。──その飾り窓の一部にかかげられた「各博覧会賞牌受領」の額をみて立つとき、わたしのうなじにさす夕日の影はいたずらに濃い……

「伊勢勘」で出来るものは「子供だまし」という意味での「大人だまし」である。絵馬だの、豆人形だの、縁喜棚だの、所詮しょせんそれらは安価な花柳趣味だけのものである。かつての「武蔵屋」のそれが露にめぐまれて咲いた花なら「伊勢勘」のそれはだまされて無理から咲いた「室」の花である。でなければ糊とはさみとによって出来た果敢はかない「造花」である。……わたしにいわせれば、畢竟ひっきょうそれは「新しい浅草」の膚浅ふせんな「殉情主義」の発露に外ならない……

 が、一方は衰えて一方はさかえた。──いつのころからか「助六」と称するそれと同じような店まで同じ「仲見世」に出来た……


観音堂附近(二)


 だが、「大増」のまえの榎の葉かげが足りなくなっても、絵草紙屋がすくなくなっても、豆屋が減っても、名所焼屋がふえても、「いせ勘」がさかえても、そうして、「高級観音灸効果試験所」の白い手術着の所員がここをせんどのいいたてをしても、大正琴屋のスポオツ刈の店員がわれとわが弾く「六段」に聞き惚れても、ブリキ細工の玩具屋のニッケルめっきの飛行機がいかにすさまじく店一ぱいを回転しても、そこには香の高いさくら湯のおもいでをさそうよろず漬物の店、死んだ妹のおもかげに立つ撥屋ばちやの店、もんじ焼の道具だの、せがんでたった一度飼ってもらった犬の首輪だのを買った金物屋の店……人形屋だの、珠数屋じゅずやだの、唐辛子屋とうがらしやだの……そうしたむかしながらの店々がわたしのまえに、そのむかしながらの、深い淵のようなしずけさをみせてそれ〴〵残っている。──が、それよりも……そうしたことよりもわたしは、仁王門のそばの「新煉瓦」のはずれの「成田山」の境内にいま読者をらっしたいのである。

 岩畳がんじょうな古い門に下ったガラスばりの六角灯籠とうろう。──その下をくぐって一ト足そのなかへ入ったとき、誰しもそこを「仲見世」の一部とたやすくそう自分にいえるものはないだろう。黒い大きな屋根、おなじく黒い雨樋、その雨樋の落ちて来るのをうけた天水桶。──それに対して「成田山」だの「不動明王」だのとしたいろ〳〵の古い提灯ちょうちん……長かったりまるかったりするそれらのせた色のわびしいことよ。金あみを張った暗い内陣には蝋燭ろうそくの火が夢のようにまたたいている。仰ぐと、天井に、ほう〴〵の講中から納めた大きな額小さな絵馬がともに年月のすすに真っ黒になっている。納め手拭に梅雨つゆどきの風がうごかない……

 眼をかえすと、狛犬こまいぬだの、ごしょぐるまだの、百度石だの、灯籠だの、六地蔵だの、そうしたもののいろ〳〵並んだかげに、水行場みずぎょうばのつづきの、白い障子をたてたうちの横に葡萄棚ぶどうだなが傾いている。──そのうしろに、門のまえの塩なめ地蔵の屋根を越して、境内の銀杏のそういっても水々しい、したたるような、あざやかないろの若葉につつまれた仁王門のいただきが手にとるようにみえる──古いみくじの結びつけられたもくせいの下の鶏の一つ二つ餌をあさっているのも見逃し難い……

 左手の玉垣の中に石の井戸がある。なかば土にうもれて、明和七年ときざまれたのがよめる……

 金山三宝大荒神、──それに隣った墨色判断、──門の際につぐなんだ乞食……

 わたしはただそういっただけにとどめよう。──お堂(観音さまのである)のまえの水屋の溢れるようにみち〳〵た水のうえにともる灯火のいまなおラムプであることを知っているほどのものでも、ときにこの「成田山」の存在をわすれるのをわたしはつねに残念におもっている。──これこそ「仲見世」でのむかしながらのなつかしい景色である……

    ───────────────

 ……金竜山浅草餅の、震災後、いさましい進出をみせたのが、商売にならないかしてたちまちまたもとへ引っ込んでしまったのをまえに書きはぐった。──おそらくは後代、その名のみ残ってどんなものかと惜しまれるのがこの古い名物の運命だろう。


浅草学校(一)


 ……学校の、門のほうを向いた教場の窓から、五重の塔の青い屋根のみえることをいったわたしは、それと一しょに、そこを離れた北のほうの窓から、遠くまた、隅田川の水にちかい空を、しら〴〵とのぞむことの出来たのをいわなければいけない。──花川戸、山の宿、金竜山下瓦町(広小路の「北東仲町」をいま「北仲町」といっているように、そこもいまは「金竜山瓦町」とのみ手間をかけないでいっている)隅田川に沿ったそうした古い町々が、そこに、二、三町乃至五、六町のところに静かに横たわっている。──「馬道」とそれらの町々との間をつらぬく広い往還に、南千住行の、「山の宿」だの「吉野橋」だのという停留場をもつ電車のいまのようにまだ出来なかったまえは、同じ方角へ行くガタ馬車が、日に幾度となくわびしい砂けむりをそのみちに立てていた。そうしていまよりもっと薄暗い、陰気な、せせッこましいそのみちの感じは、そのガタ馬車の、しば〳〵馬にむちを加える苛酷な御者ぎょしゃの、その腰にさびしく巻きつけられた赤い古毛布のいろがよくそれを語っていた……とわたしはかすかにおぼえている。

 だから、わたしの、学校で毎日顔をみ合わせる友だちは、南は並木、駒形、材木町、茶屋町(まえにいったように、すこしのところで、わたしの近所からはあんまり通わなかった)北はその花川戸、山の宿、金竜山下瓦町。──猿若町、聖天町を経て、遠く吉野山谷あたりから来るものばかりだった。まれには「吉原」からもかよって来た。──というといまでもわたしの覚えているのは、まだわたしの尋常二、三年の時分、運動場にならんでこれから教場へ入ろうとするとき、その水を打ったような中で、突然うしろから、肩さきをつかんでわたしは列外に引ずり出された。そのまま、運動の真ん中に、一人みっともなくとり残されたことがあった……

 わたしの記憶にもしあやまりがなければ、わたしはそのとき泣かなかった。なぜならどうしてそんな目にあうのか自分によく分らなかったから。それには、それまで、柔和おとなしいというよりはいくじのないといったほうがほんとうの、からきしだらしのなかった、臆病だった、そのくせいたってみえ坊だったわたしは、いまだかつて、そうした恥辱ちじょくをあとにもさきにもうけたことがなかったのである。そんなへまをしたことは一度もなかったのである。──たとえば夢ごこちで、茫然とただわれとわが足もとをみてわたしは立っていた。──やがて悲しさが身うちにはっきりひろがった──ボロ〳〵ととめどなく涙がこぼれて来た。

 が、それをみてわたしのために起ってくれたのが「つるよし」のおばアさんである。「つるよし」のおばアさんというのは、わたしと同じ級に女の子をよこしていた吉原のある貸座敷の隠居で、始終その子に附いて来てはとも〴〵一日学校にいた。外の附添いたちと小使部屋の一隅を占めて宛然えんぜん「女王」の如くにふるまっていた。小使なんぞあごでみんなつかっていた。──その「つるよし」のおばアさん、「あの子はそんな子じゃアない、立たせられるようなそんな悪い子じゃアない──そんな間違ったことってあるもんじゃアない」とわがことのようにいきり立ち、わたしをそういうことにしたその先生のところへその不法をたちまちねじ込んだものである……


浅草学校(二)


 その先生、高等四年(というのは最上級のいいである)うけもちの、頬ひげの濃い、眼の鋭い決してそのあお白い顔をわらってみせたことのない先生だった。学校中で最も怖い先生だった。その名を聞いてさえ、われわれは、身うちのつねにすくむのを感じた。──いかに「小使部屋の女王」といえど、とてもその、どこにも歯の立つ理由はなかったのである。

 が、すぐにわたしは放免ほうめんされた。そのまま何のこともなく教場へ入ることを許された。──素直にその「抗議」がれられたのである。

 勿論、わたしは、「つるよし」のおばアさんのそのいきり立ったことも、先生にその掛合をつけてくれたことも、そのためわずかに事なきをえたことも、すべてそのときは知らなかった。あとで聞いて不思議な気がした。──同時にいまさらのように、そのとき不注意にわきみをするとか隣のものに話しかけるとしたかも知れなかった自分をふり返ってわたしはたんぜんとした。なぜなら『えらいんだね、「つるよし」のおばアさんは。──ああいう先生でもかなわないんだね、「つるよし」のおばさんには』といった風の評判の一トしきり高くなったものがあったから。──当座、わたしは、その先生の眼から逃れることにばかり腐心した。

 が、そのまたずっと後になって、その先生にとって「つるよし」のおばアさんは遠い縁つづきになっていることをわたしは祖母に聞いた。なればこそ、先生「小使部屋の女王」のそうした無理を聞かなければならない筋合いをいろ〳〵そこにもっていたらしいのである。──そうと分って初めてわたしは安心した。──祖母もまたわたしに附添って、そのあとでは二、三年わたしより遅れて入学したわたしの妹に食ッついて、ときに矢っ張とも〴〵その小使部屋で日を消す定連じょうれんのなかの一人だったのである。

 ……ただそれだけである。それだけのことである。……といってしまえない、すくなくともそういってしまいたくないものを、わたしは、このなかからいろいろ探し出したいのである。──そこには、亜鈴あれいだの、球竿だの、木銃だのをことさらに並べた白い壁の廊下……わたしの眼にそのさまが浮ぶのである。──青い空をせいた葭簀よしずの日覆が砂利のうえに涼しい影を落している運動場……わたしの眼にそのさまが浮ぶのである。──唱歌の教場の窓に咲いた塀どなりの桐の花……そのけしきがいまわたしの眼に浮ぶのである。──そうしていま、煙もみえず、雲もなく、風も起らず浪立たず……黄海々戦の歌である……あなうれし、よろこばし、たたかい勝ちぬ、百千々の……凱旋がいせんの歌である……そうしたなつかしいオルガンのしらべが夢のようにわたしに聞えるのである……

 女はみんな長いたもとをふりはえていた。……男の生徒といえどはかまをはいたものはまれだった……が、それから二、三年してわたしの高等科になった前後に、それまでの古い煉瓦の校舎は木造のペンキ塗に改まった。──門の向きが変ると同時に、職員室も、小使部屋も、いままでより広くあかるくなった。──時間をしらせる振鈴の音は以前にかわらず響いたが、「つるよし」のおばアさんたちのすがたは再びそこに見出せなかった。

「すみだに匂ふちもとの桜、あやせに浮ぶ秋の月……」

 そうしたやさしい校歌の出来たのもその時分だった。


「古い浅草」と「新しい浅草」(一)


 その学校の、古い時分の卒業生に、来馬琢道氏、伊井蓉峰氏、田村とし子氏、土岐善麿氏、太田孝之博士がある。わたしと大ていおんなし位の時代には、梅島昇君、鴨下晁湖君、西沢笛畝君、渋沢青花君、「重箱」の大谷平次郎君たちがいる。わたしよりあとの時代には、松平里子夫人、中村吉右衛門夫人、富士田音蔵夫人なんぞがいる──勿論、この外にもいろんな人がいる。──がこれらの諸氏は、銀座で、日本橋で、電車で、乗合自動車で、歌舞伎座で、築地小劇場で、時おりわたしのめぐりあう人たち、めぐり逢えばすなわちあいさつぐらいする人たちである。──もっとも、このうち、田村とし子氏は七、八年前にアメリカへ行ったなりになっている……

『蓋し浅草区は、世のいはゆる政治家、学者、或は一般に称してハイカラ流の徒なるものがその住所を定むるもの少し。今日知名の政治家を物色して浅草に何人かある。幾人の博士、幾人の博士、文士、はた官吏がこの区内に住めるか。思ふにかゝる江戸趣味及び江戸ッ児気質の破壊者が浅草区内に少きはむしろ喜ぶべき現象ならずや。今日において、徳川氏三百年の泰平治下に養はれたる特長を、四民和楽の間に求めんとせば、浅草区をおきてこれなきなり』と前記「浅草繁盛記」の著者はいっている。その著者のそういうのは、官吏だの、学者だの、教育家だの、政治家だの、実業家だのというものはみんな地方人の立身したもので、いくら学問や財産やすぐれた手腕はあっても、その肌合や趣味になるとからきし低級でお話にならないというのである。『紳士にして「お茶碗」と「お碗」との区別を知らず、富豪にして「清元」と「長唄」とを混同し「歌沢」「新内」の生粋を解せずして、薩摩琵琶、浪花節の露骨を喜び、旧劇の渋味をあざけりて壮俳の浅薄を賞す。』といろ〳〵そういったうえ『かくの如きはたゞ見易き一例にすぎずして、家屋住宅の好みより衣服器具の選択など、形式上のすべてがいわゆる江戸趣味と背馳するもの挙げて数ふべからず。』とはっきり結論を下している。そうしてさらに『およそ斯くの如きは、山の手に至りて特に甚だしく、下町もまた漸く浸蝕せられ、たゞ浅草区のみは、比較的にかゝる田舎漢に征服せらるゝことの少きをみる。』とこと〴〵く肩をそびやかしている。──いうところはいかにも「明治四十三年」ごろの大ざっぱな感じが、その政治家だの学者だの官吏だのの浅草の土地に従来あんまりいなかったというだけはほんとうである。すくなくも、その当時、わたしのその学校友だちのうちは……その親たちはみんな商工業者ばかりだった。それも酒屋だの、油屋だの、質屋だの、薬屋だの、写真屋(これは手近に「公園」をもっているからで、外土地にはざらにそうない商売だろう)だの、でなければ大工だの、仕事師だの、飾り屋だの……たま〳〵勤め人があるとみれば、それは小学校の先生、区役所の吏員、吉原の貸座敷の書記さん……そうしたたぐいだった。女のほうには料理屋、芸妓屋が多かった。──いまでも、おそらくは、そうでないとはいえないであろう……

 ところで芥川龍之介氏は「梅、馬、鶯」のある随筆の中でこういっている。『……浅草という言葉は少くとも僕には三通りの観念を与える言葉である。第一に浅草といいさえすれば僕の目の前に現われるのは大きな丹塗の伽藍である。或はあの伽藍を中心にした五重塔や仁王門である。これは今度の震災にも幸と無事に焼残った。今ごろは丹塗の堂の前にも明るい銀杏の黄葉の中に相変らず鳩が何十羽も大まわりに輪を描いていることであろう。第二に僕の思い出すのは池のまわりの見世物小屋である。これは悉く焼け野原になった。第三にみえる浅草はつつましい下町の一部である。花川戸、山谷、駒形、蔵前──その外どこでも差支ない。ただ雨上りの瓦屋根だの火のともらない御神灯だの、花のしぼんだ朝顔の鉢だの……これは亦今度の大地震は一望の焦土に変らせてしまった。』と……


「古い浅草」と「新しい浅草」(二)


「古い浅草」とか「新しい浅草」とか、「いままでの浅草」とか「これからの浅草」とか、いままでわたしのいって来たそれらのいいかたは、畢竟ひっきょうこの芥川氏の「第一および第三の浅草」と「第二の浅草」とにかえりつくのである。──改めてわたしはいうだろう、花川戸、山の宿、瓦町から今戸、橋場……「隅田川」のながれに沿ったそれらの町々、馬道の一部から猿若町、聖天町──田町から山谷……「吉原」のくるわに近いそれらの町、そこにわたしの「古い浅草」は残っている。田原町、北仲町、馬道の一部……「広小路」一帯のそうした町々、「仲見世」をふくむ「公園」のほとんどすべて、新谷町から千束町象潟町にかけての広い意味での「公園裏」……つたのように伸び、花びらのように密集したそれらの町々、そこにわたしの「新しい浅草」はうち立てらさた。……「池のまわりの見世物小屋」こそいまのその「新しい浅草」あるいは「これからの浅草」の中心である……

 が、「古い浅草」も「新しい浅草」も、芥川氏のいうように、ともに一トたび焦土に化したのである。ともに五年まえみじめな焼野原になったのである。──というのは「古い浅草」も「新しい浅草」も、ともにその焦土のうえに……そのみじめな焼野原のうえによみ返ったそれらである。ふたたび生れいでそれである。──しかも、あとのものにとって、かつてのそのわざわいは何のさまたげにもならなかった。それ以前にもましてだん〳〵成長した。あらたな繁栄はそれに伴う輝かな「感謝」と「希望」とを、どんな「横町」でもの、どんな「露地」でものすみ〴〵にまで行渡らせた。──いえば、いままで、「広小路」を描きつつ、「仲見世」に筆をやりつつ、「震災」の二字のあまりに不必要なことをひそかにわたしは驚いたのである……

 が、前のものは──その逆に「古い浅草」は……

 読者よ、わずかな間でいい、わたしと一緒に待乳山まつちやまへ上っていただきたい。

 そこに、まずわたしたちは、かつてのあの「額堂」のかげの失われたのを淋しく見出すであろう。つぎに、わたしたちは、本堂のうしろの、銀杏だの、椎だの、槙だののひよわい若木のむれにまじって、ありし日の大きな木の、劫火ごうかに焦げたままのあさましいその肌を日にさらし、雨にうたせているのを心細く見出すであろう。そうしてつぎに……いや、それよりも、そうした木立の間から山谷堀の方をみるのがいい。──むかしながらの、お歯黒はぐろのようによどんだ古い掘割の水のいろ。──が、それにつづいた慶養寺の墓地を越して、つつぬけに、そのまま遠く、折からの曇った空の下に千住のガスタンクのはる〴〵うち霞んでみえるむなしさをわたしたちは何とみたらいいだろう?──眼をさえぎるものといってはただ、その慶養寺の境内の不思議に焼け残った小さな鐘楼と、もえ立つような色の銀杏の梢と、工事をいそいでいる山谷堀小学校の建築塔タワーと……強いていってそれだけである。

 わたしたちは天狗坂を下りて今戸橋をわたるとしよう。馬鹿広い幅の、青銅いろの欄干らんかんをもったその橋のうえをそういってもとき〴〵しか人は通らない。白い服を着た巡査がただ退屈そうに立っている。どうみても東海道は戸塚あたりの安気な医者の住居位にしかみえない沢村宗十郎君の文化住宅(窓にすだれをかけたのがよけいそう思わせるのである)を横にみてそのまま八幡さまのほうへ入っても、見覚えの古い土蔵、忍び返しをもった黒い塀、鰻屋のかどの柳──そうしたものの匂わしい影はどこにもささない。──そこには、バラックの、そばやのまえにも氷屋のまえにも、産婆のうちのまえにも、あおいだの、コスモスだの、孔雀草だのがいまだにまだ震災直後のわびしさをいたずらに美しく咲きみだれている……


「古い浅草」と「新しい浅草」(三)


 もし、それ、「八幡さま」の鳥居のまえに立つとしたら──「長昌寺」の墓地を吉野町へ抜けるとしたら……

 わたしたちは、そこに木のかげ一つ宿さない、ばさけた、乾いた大地の、白木の小さなやしろと手もちなくむかい合った狛犬こまいぬとだけ残して、くうに、灰いろにただひろがっているのをみるだろう。──そうして、そこに、有縁無縁の石塔の累々るいるいとしたあいだに、鐘搗堂かねつきどうをうしなったつり鐘の雑草にうもれていたずらに青錆びているのをみるだろう。──門もなければ塀もなく、ぐず〳〵にいつか入りこんで来た町のさまの、その長屋つづきのかげにのこされた古池。──トラックの音のときに物うくひびくその水のうえに睡蓮すいれんの花の白く咲いたのもいじらしい……

    ───────────────

『歌沢新内の生粋を解せずして、薩摩琵琶浪花節の露骨を喜び、旧劇の渋味をあざけりて壮俳の浅薄を賞す』と「浅草繁盛記」の著者がいくらそういっても、いまのその「新しい浅草」の帰趨きすうするところはけだしそれ以上である。薩摩琵琶浪花節よりもっと「露骨」な安来節、鴨緑江節が勢力をえている。そのかみの壮士芝居よりもっと「浅薄」な剣劇が客を呼んでいる。これを活動写真のうえにみても、いうところの「西洋もの」のことにして、日本出来の、なにがしプロダクションのかげろうよりもはかない「超特作品」のはるかに人気を博していることはいうをまたない。

 みたり聞いたりするものの場合ばかりにとどまらない、飲んだり食ったりの場合にして矢っ張そうである。わたしをしてかぞえしめよ。「下総屋」と「舟和」とはすでにこれをいった。「すし清」である。「大黒屋」である。「三角」である。「野口バア」である。鰻屋の「つるや」である。支那料理の「来々軒」「五十番」である。ややこうじて「今半」である。「鳥鍋」である。「魚がし料理」である。「常盤」である。「中清」である。──それらはただ手がるに、安く、手っとり早く、そうして器用に見恰好よく、一人でもよけいに客を引く……出来るだけ短い時間に出来るだけ多くの客をむかえようとする店々である。それ以外の何ものも希望しない店々である。無駄と、手数と、落ちつきと、親しさと、信仰とをもたない店々である。──つまりそれが「新しい浅草」の精神である……

 最後までふみとどまった「大盛館」の江川の玉乗、「清遊館」の浪花踊り、「野見」の撃剣……それらもついにすがたを消したあとはみたり聞いたりのうえでの「古い浅草」はどこにももう見出せなくなった。(公園のいまの活動写真街に立って十年まえ二十年まえの「電気館」だの「珍世界」だの「加藤鬼月」だの「松井源水」だの「猿茶屋」だのを決してもうわたしは思い出さないのである。「十二階」の記憶さえ日にうすれて来た。無理に思い出した所でそれは感情の「手品」にすぎない。)飲んだり食ったりのうえでも、「八百善」「大金」のなくなった今日(「富士横町」の「うし料理」のならびにあるいまの「大金」を以前のものの後身とみるのはあまりにもさびしい)わずかに「金田」があるばかりである。外に「松邑」(途中でよし代は変ったにしても)と「秋茂登」があるだけである。かつての「五けん茶屋」の「万梅」「大金」を除いたあとの三げん、「松島」は震災ずっと以前すでに昔日のおもかげを失った、「草津」「一直」はただその尨躯ぼうくようするだけのことである。──が、たった一つの、それだけがたのみのその「金田」にして「新しい浅草」におもねるけぶりのこのごろ漸く感じられて来たことをどうしよう……

 ……「横町」だの「露地」だのばかりをさまよってしば〳〵わたしは「大通り」を忘れた。──が、「新しい浅草」のそも〳〵の出現は「横町」と「露地」との反逆に外ならないとかね〴〵わたしはそう思っている。──これを書くにあたってそれをわたしはハッキリさせたかった。──なかばもそれをつくさないうち紙面は尽きた。

 曇ってまた風が出て来た。──ペンをおきつつ、いま、公園のふけやすい空にともされた高灯籠の火かげを遠くしずかにわたしは忍ぶのである……(七月十四日夜、日暮里にて)

底本:「大東京繁昌記」毎日新聞社

   1999(平成11)年515日発行

初出:「東京日日新聞」

   1927(昭和2)年630日~716

入力:門田裕志

校正:仙酔ゑびす

2014年12日作成

青空文庫作成ファイル:

このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。