デボルド─ヷルモオル
中原中也
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今月から、何回かにわたつて、マルスリーヌ・デボルド─ヷルモオルの詩を、飜訳してゆかうと思ふ。
ヷルモオルは、我国に於ては、殆んどまだ知られてゐないが、当のフランスに於ては、ボードレエルによつて既に賞讃せられ、ヹルレーヌの有名な詩人論〝Poètes Maudits.〟の中に、ヹルレーヌの認めて最も真物の詩人となした五人の詩人中に加へられてゐるのである。
マルスリーヌ・デボルド─ヷルモオルは千七百八十六年七月の二十日にドゥエ(Douai)に生れ、千八百五十九年七月二十三日巴里で死んだ。彼女の一生は実に平々凡々なものであつた。少数のエリット達からは認められてもゐたが、世間からは一向知られなかつた。彼女の名声は今では日に月に高まりつつあるのだが、つまり『死後の名声』といふやつなのである。
彼女の家は貧しかつた。空想的な人物であつた彼女のお母さんは、アメリカで金持になつてゐる親戚に会ひに行つて、家を建てて貰はうなぞと考へた。未だ幼いマルスリーヌを伴つて、彼女は実際アメリカに行つたのだつた。ところが著いてみると、恐ろしい当て外れだつた。親戚はネグロ達から家を逐ひ立てられてゐるといふ始末であつた。植民地一揆が起つてゐたのだ。加ふるに黄熱病が猖獗を極めてゐて、ヷルモオルのお母さんは遂にそれに罹つて死んだのだつた。一人になつたヷルモオルは船から船に移されて漸くのことで例の親戚の手に渡されたのだが、その親戚は貧乏になりはてちまつてゐたといふわけだ。恰度まあいい具合にその時劇場から話があつて、ヷルモオルは早速歌ふことを学んだ。『快活にならうとつとめたが、どうも私に合ふのはメランコリックな情熱的な役だつた』と後年彼女は追想してゐる。間もなく月収僅か八十法で以てフェイドオ劇場といふのに招かれ、赤貧洗ふが如き生活をした。然しまあ未来があつたのだが、それも諦めて、父親のためには田舎へ引籠らなければならなかつた。
『二十才にして既にひどい心痛は歌ふことを断念せざるを得ざらしめた。何故といつて私の声は泣くやうだつた。然し音楽は片時も念頭を離れなかつた。そして何時もかはらぬ韻律が、私の色んな物思ひをいつしらず整頓してくれるのであつた。やがて私はそれを書きとめた。人々はそれを見て、悲歌だと云つた。』
茲に彼女自身『ひどい心痛』と云つてゐるのは、冷たい男に恋したことなのだ。その男といふのは文士のアンリ・ド・ラトゥシュ。然しヷルモオルの天才は彼に負ふところ尠くなかつた。彼女はその恋には随分長年苦労した。やがて遂々諦めて、間もなく劇場仲間のヷルモオルと結婚した。ヷルモオルは却々しつかりした男で、彼女はその妻として実に申し分のない妻だつた。彼女は彼の許に、あまり栄えもしない詩人生活をした。彼が巡業を主としてゐたので、従つて彼女の生活は放浪的なものであつた。
儲けにこそならなかつたが、詩は彼女の大切な慰安だつた。それに、ラマルチーヌの、サント・ブーヴの、モンモランシイの、レカミエ夫人の、ミシュレの友情を招来したのだつた。尤もひどく無頓着だつた彼女は、彼等との交際も余りしなかつたのではあるが。彼女は家庭的な女となり、甞て恋の女として苦しんだ様に母としても苦しんだ。
ヷルモオル夫人の詩業は身を切るやうな感受性の叫びや呻吟である。彼女には実以てどんな技術もなかつた。又教養たるや不完全なものだつた。ただ音楽やリズムといふことに対しては優れた感覚を有してゐた。心を捉へる表現力をも持つてゐた。感じ易い魂──それが彼女を随分困らせもしたのだが──をも持つてゐた。情深い、不安げなその魂は何時も困惑や切願の状態にあつて、劇しいメランコリとも呼ばるべきものだつた。それは夢多かりし幼時を過ごしたフランドルの哀愁にも因るのであらう。彼女の遠い祖先のスペインの血は、その顔にも現れて、はげしい苦闘的なものを印してゐた。それ等諸特質が彼女の詩をなすものであつた。マルスリーヌはフランス女流詩人中の第一人者であつた。然し人々は却々それに気が付かなかつた。詩集『悲歌』は可なりな人気を博したとはいへ、猶人々は彼女をかの浪漫派時代の女詩人達、タストやセガラやエルザ・メルクールの輩と並べて考へてゐたものだつた。それどころか子供に関する温しきに過ぎる若干の詩篇なぞは、愚弄さへされたのであつた。人々は此のフランスのサッフォを、幼年用の教訓詩人とさへ思ひ誤つた。
彼女の名声が漸く動かすべからざるものとなつたのは、『遺稿集』が出てからであつた。由来彼女の光茫はその輝きを益すばかりである。彼女の後に出た詩人達は彼女の中に様々な美点を見付けた。自らその門弟と称したヹルレーヌの如きは、諧調と韻律との配合を会得したのは実にヷルモオルに於てであつたと告白してゐる。音楽と恋との他には何も分からなかつた、此の女が詩を進展させたのだつた。もつと適確に云ふなら、近代詩の様々な形式変化を準備したのは彼女であつた。この計画的になされたものでこそなかつたが、仄かな表現や、語の気紛れな使用こそ、来るべきサンボリスムを予兆せる所のものである。
彼女が把持したのは、必竟『聖なる抒情主義』ともいふべきものであつた。それを彼女は自在に駆使した。或る人々は、彼女が気高い暮しをしたと云つてゐる。恐らくそれは彼女の不幸に充ちた生活のことを云つてゐるものであらう。たしかに、その不幸が彼女の作品を一層立派にしてゐるのではあるが。
此の十九世期の一仏蘭西女、此のフェイドオ劇場の一女優、此の巡業家の妻、此の子供を育てるに実に良心的でやさしさ此の上もなかつた一小市民──それがコリンヌ風な意味ででもサッフォ風な意味ででも抒情的な詩人であつたといふわけである。いとも近代的な鬱憂の調子、即ち一種の夢みるやうな調子を備へ、この調子がその胸を刺すやうな悲痛の表現に魅力を添へてゐるのであつた。サッフォの熱い想ひと、ギリシャ詞華集のあの強靱なやさしさとは、共にその詩に具はつてゐた。
その個性は絶対的のものであり、その語彙は彼女の時代のそれであり、形式は旧時代のものを大いに採用してゐる。その天才が閃くのは思ひがけない発見の中にであり、その点では同時代人の中にも先人の中にも彼女に如くものはないのである。迸出の新鮮さといふ点からいふも、美の美しさといふ点からいふも、彼女の詩は後世が呼んで『純粋状態』の詩といふものに該当してゐる。一種の率直な果敢性をもつ、本能的なその芸術は、その暫く後にいたつて、人々が意志と探究との結果、漸く得た新風を、サツサとやりおほせてゐるのであつた。
此の紹介は少しく長くなりすぎた。では来月号からその詩を訳載しよう。
底本:「新編中原中也全集 第四巻 評論・小説」角川書店
2003(平成15)年11月25日初版発行
底本の親本:「四季」
1937(昭和12)年8月号
初出:「四季」
1937(昭和12)年8月号
※()内の編者によるルビは省略しました。
※底本巻末の編者による語注は省略しました。
入力:村松洋一
校正:noriko saito
2015年2月20日作成
青空文庫作成ファイル:
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