新短歌に就いて
中原中也



 新短歌に就いて論ずることは、非常に困難なことに思はれる。すべて芸術上の新様式の発生期に当つてその新様式を是非することは、予想外の困難を伴ふことだし、大概の場合正鵠を射当てることはない。そんなわけで私は今どんな断定的な態度をもとることは出来ない。私は此の新生児を抱いて、七転八倒してみるだけのことである。

 扨新短歌は、既に新しい様式として存在してゐるか? 或ひは存在するに到りさうであるか?

 その成績を今問はないこととするならば、新短歌は、どうやら詩歌の新しい様式として、既に存在してゐるやうに思はれる。これが短歌より出て来たものだとしても、既に短歌と訣別して、新しい領土に立つてゐることも恐らく間違ひない。然し、私はさう思ふと同時に、多くの躊躇をも感ずるものだ。そこで問題を、他の側から考へてみる。

 新短歌が、短歌から出て来たものと考ふべきか、全然別個に発生したものと考ふべきかは甚だ疑問であるけれども、短歌にもはや発展の余地がないと思つた人々によつて工夫されたものであることは慥かである。

 では短歌に発展の余地が残されてゐないといふことは事実であらうか? ──多分、事実であらうと私は思ふ。この懐かしい遺風は今後とも決して忘られはしないであらうけれども、今後とも発展しさうには思はれない。恐らく現に生存してゐる歌人諸氏が、最後的のものであらう。すべてかういふことは、判然と示証することは出来ないけれども、短歌を作りたいといふことが、今後とも人々に全的な希望、全的な仕事として考へられることはあり得ないやうに思はれる。元々此の短歌なるものは、生活のかたはらに生じた芸術といふ感じの強いものであつて、短歌が、一人の人間の全生命となるといふ風のものではなかつた。それは何も人々が短歌に不熱心であつたといふやうなことではなく、短歌様式そのものが本来さうしたものであるやうに思はれる。従つて、人類生活が益々繁忙なものになりゆく以上、さういつた芸術様式が発展を続けてゆくものとは考へられない。

 では新短歌が短歌に交代するものであらうか? 尠くとも短歌に交代するものゝ一つであらうか?

 さしあたつて先づ、新短歌の成績を考へてみよう。──読んでみて面白いものはある。然しその面白さたるや「感覚的」に終止するものであることは争はれない。「感覚的」も結構である。もともと芸術は先づは感覚的でなければならぬ。さもなければ地に根を下ろすことは出来ない。けれども、良い芸術品は、「感覚的」を透して理念(情緒をも含めて)を蕩揺させてゐるものである。理念を指示、或ひは暗示するだけではない、その理念を対者に怡しますものである。その理念を暫時、蕩揺させてみせるものである。その蕩揺といふことがない以上、生活の余暇の芸術ではあり得ても、芸術生活となることは出来ない。謂はば男子一生の仕事となることは出来ない。つまり大人の芸術とはなることは出来ない。而して新短歌にはその蕩揺はない。その様式を規範的に考へてみても、その蕩揺は出せさうにない。

 又、別様に考へてみるに、新短歌は、抒情といふより抒情的インタープリテイションといつた感じである。暗示といふよりは、鋭敏な指示といつた感じである。──さうだとすると、これはまたしても芸術の中に生活を見出すことのない、「生活の余暇の芸術」であると思はれる。そしてさうである限り、新短歌も短歌と共に今後の発展を約束されるものではないとみねばなるまい。

 私は新短歌が現に挙げてゐる成績に偏執し過ぎたかも知れない。然し新短歌様式を規範的に吟味してみて、私の考へが余り間違つてゐるやうには思はれない。

 新短歌のみならずすべて一呼吸詩歌(私は短歌や俳句や新短歌を今仮りにさう呼ぶ)が、その詩歌の中に生活を見出すものでなくて、生活のかたはらに生ずるものとしてだけ意義を有するものであるといふことを、左にもう少し言添へよう。

 何しろ是等三様式は極めて短い詩形であるから、語自体の力が、語を駆使する作者の力よりも存外に大きいものであることは明瞭であらう。これはつまり、偶然の介入する余地が、多いといふことである。即ち意欲すべきものといふより、おのづと出来るにまかせるべきものといふことである。そこで、俳聖芭蕉は、みだりに作らないといふ覚悟を非常に持つてゐたさうであるが、その事は、私には此の場合特に重要な事と考へられる。これはつまり是等の一呼吸詩歌が十分に人一人ひとひとり仕事となる性質のものでなくて、生活の余暇に出来る──といつて語弊があるならば、生活に随伴的に出来るものとして意義のあるものだといふことを証示する、一つの事ではあるまいか?

 それはさて、新短歌の吟味を、また少しつゞけてみる。

 新短歌の、語句から語句への推移は、短歌よりも俳句に近い。短歌に於ける語句から語句への推移は謂はば情理的であるが、俳句の語句から語句への推移は、謂はば感覚的である。勿論かういふことは、一々の短歌作品、一々の俳句作品に就いてそつくりそのまま当箝まることではないけれども、夫々の様式を規範的に観た場合そのやうに言ふことは先づ間違ひない。而して新短歌の語句から語句への推移は現に情理的であるよりも感覚的であり、又左様にあることが此の様式に相応ふさふやうに思へる。

 芭蕉は、一物と他物との合体の瞬間に於ける妙といふことを、非常に大切にしたのであるが、そして恐らく此の事こそ俳句の最高眼目たるものでもあらうが、その眼目が射当てられるためには、蓋し情理的であるよりもおのづと感覚的である方が適切であるに相違ない。──此の点から観ても、新短歌は短歌よりも俳句に近いと云へまいか? 尠くともその眼目とする所に於て俳句に近いであらう。

 これは何も何方に近いから良いとか悪いとかいふのではなくて、尠くとも一般からは却て短歌より発展して出来たものとされてゐる新短歌が却てその精神エスプリに於て俳句に近いといふことを注意してみたかつたまでである。

 扨、新短歌が今後益々作られることに、異存のあるわけもないが、新短歌が「生活の余暇的なもの」といふ私の考へにして間違ひがないならば、新短歌が民族詩歌の発展に寄与する所は少ないであらう。私としては、従来のものを一新しようといふ新短歌作者等が、どうしていつそ寛闊な様式──新体詩様式に到らないのか寧ろ不思議である。

 新体詩様式は、未だ十分の発達を示してはゐないけれども、人々はその案外に困難なる故を以てかどうか、何時の間にか退却し、昨今再び立向つてゐる状勢だが、猶極めて怠惰な立向ひ方と云へよう。その退却する時十分自覚的でなかつた如く、今更めて立向ふにも自覚的な人は甚だ稀なやうである。然しもし此の新体詩様式の困難が、次第に征服されてゆけば、其処に始めて詩歌は「生活の傍ら的なもの」から、「その中で生活の出来る詩歌」に迄到達することだと思ふ。而してその両者の重要な相違点は「理念を蕩揺させること」のあるないにあると思ふ。

 要するに私の言ひたいことは、詩歌は理念を持つといふだけでは十分でない、その理念を蕩揺させてみるべきだといふこと、謂はば理念の余剰価値に迄到達すべきだといふこと、そこに於てはじめて詩歌は享楽されるものたるのみならず、意欲されるものとなるといふことである。

 あまり七転八倒の文章であるから以下簡単に此の一文を要約してみる。

 新短歌は、単なる思ひ付以上のものだ。とんかく一様式と観らるべきものが感じられる。而も理念を蕩揺させてみせることの可能な或ひは適した様式ではないやうだ。かくて私としては、新体詩様式を確立することが、大切なやうに思はれる。

底本:「新編中原中也全集 第四巻 評論・小説」角川書店

   2003(平成15)年1125日初版発行

底本の親本:「短歌研究」

   1936(昭和11)年12月号

初出:「短歌研究」

   1936(昭和11)年12月号

※()内の編者によるルビは省略しました。

入力:村松洋一

校正:noriko saito

2015年220日作成

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