錢形平次捕物控
橋場の人魚
野村胡堂
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八五郎の顏の廣さ、足まめに江戸中を驅け廻つて、いたるところから、珍奇なニーユスを仕入れて來るのでした。
江戸の新聞は落首と惡刷りであつたやうに、江戸の諜報機關は、斯う言つた早耳と井戸端會議と、そして年中何處かで開かれてゐる、寄合ひ事であつたのです。
「お早やうございます。良い陽氣になりましたね、親分」
八五郎と雖も、腹が一杯で、でつかい紙入に、二つ三つ小粒が入つて居ると、斯んな尋常の挨拶をすることもあります。
「大層機嫌が良いぢやないか、──お前の大變が飛び込まないと、──今日は大きな夕立でも來やしないかと、ツイ空模樣を見る氣になるよ」
「へツ、天下は靜謐ですよ、──親分におかせられても御機嫌麗はしいやうで」
「馬鹿野郎、御直參見てえな挨拶をしやがつて」
「親分の繩張り内はろくな夫婦喧嘩もねえが、三輪の萬七親分の繩張りには、昨日ちよいとしたことがあつたさうで」
「チヨイとしたこと──といふと」
平次に取つては、八五郎の『大變』よりは、この『チヨイとした事』の方に興味を惹かれるのです。
「橋場の金持の息子が、土左衞門になつたんで、一向つまらない話で」
「まだ櫻が散つたばかりだぜ、──泳ぎには早いし、金持の息子が、身投げするのも變ぢやないか」
平次はこの短かい報告の中から、幾つかの腑に落ちない點を見出して居るのです。
「あつしも、變だと思つたから、晝過ぎに覗いて見ました。死んだ息子の親許の、橋場の伊豆屋ものぞいて見ましたがね──」
「待つてくれ、橋場の伊豆屋の伜が水死したといふのか、そいつはお前、大した金持の子ぢやないか」
その頃は江戸八百八町と言つても、人口にして百萬に充たず、有名な物持や大町人や、筋の通つた家柄は、御用聞の平次ならずとも大方諳んじて居たのです。
橋場といふところは、一應江戸の場末のやうですが、吉原といふ不夜城を控へ、向島と相對して、今戸から橋場へかけて、なか〳〵の繁昌であつたことは想像に難くありません。
その橋場の中ほど、錢座寄りに、伊豆屋は質兩替の組頭として、古い暖簾を掛けて居りました。
「大した金持なんですつてね、こちとらには附き合ひはねえが」
「當り前だ。──尤も、伊豆屋の名前は聽いて居るが、主人は何んと言ふか、伜はどんな男か、お前の言ひ草ぢやねえが、俺も附き合ひはねえ」
「主人は、因業で禿げ頭で、恐ろしく達者で、釣が好きで、五十年輩の徳兵衞。伜は菊次郎と言つて、芝居の色子見たいな二十一の好い男、青瓢箪で、鼻聲で、小唄の一つもいけて、女の子には持てるが、飯の足しになることは一つも出來ない」
「大層惡く言ふぜ、怨みでもあるのか」
「質を置きに行つて斷られたわけぢやないから、恩も怨みもありやしません、──その色息子の菊次郎が、自分の家の潮入の池から笹舟のやうな小さい釣舟を漕ぎ出し、隅田川の眞ん中で引つくり返して、舟は兩國の中程の橋桁に引つ掛けて居たが、本人は土左衞門になつて、百本杭で見付かつた」
「それは氣の毒な」
「死んで見れば氣の毒見たいなもので、その上菊次郎には許嫁の娘があつたんですよ」
「フーム」
「伊豆屋に引取られて、あつしもちよいと逢つて來ましたが、とんだ良い娘でした。近いうちに祝言させることになつて居たが、息子の菊次郎はそれを嫌つて、向島あたりの凄いのに通ひつめ、父親の伊豆屋徳兵衞は腹を立てて、押し籠め同樣にして居るといふ噂でした」
「よくあることだな」
「向島の凄いのは、あつしも見ませんが、許嫁といふのは、伊豆屋の主人が若い時世話になつたとかの武家の娘で、孤兒になつたのを、五年も前から引取つて育てたといふことでした」
「フーム」
「少し武家風かも知れないが、それは〳〵良い娘でした。あの娘を嫌つたりして、罰の當つた話ぢやありませんか」
「若い男と女が、一緒に育つたりすると、反つて、兄妹見たいな心持になつてしまつて、夫婦の情は湧かないものらしいな」
「一向つまらねえ話でせう。伊豆屋の若旦那が土左衞門になつたと聽いて、橋場まで行つて見ましたが、三輪の親分が睨め廻してゐるから、諦めて歸りましたよ。一應兩國へ廻つて、死骸も見ましたが、兩國の水除けか橋桁でやられたやうで、首のあたりにひどい打撲のあとがありましたが、たつたそれだけでたいしたことはありませんよ」
八五郎の報告はたつたそれだけ、何んの變哲もなく話を結びました。
「あの、お客樣ですが」
平次の女房のお靜は、障子を開けて、そつと取次ぐのです。
「どなただ?」
「あの、お名前は仰しやいませんが、若いお孃さんで」
「どれ、あつしが行つて見ませう」
若いお孃さんと聽くと、八五郎は早くも立上がつて、お靜を掻いのけるやうに、入口へ顏を出すのです。
「あわてた野郎だ」
苦笑ひする平次の前へ、八五郎はニヤニヤしながら戻つて來ました。
「來ましたよ、親分、たうとう」
「何が來たんだ、少し顎の紐を締めろ」
「伊豆屋の若旦那の許嫁ですよ。お夏さんとか言つた、そりや良い娘で」
「それがどうした?」
「橋場から、駕籠で來たんですつて。伊豆屋の息子が死んだのが、どうしても怪しいことばかりだから、錢形の親分に調べて頂き度いんですつて」
「三輪の萬七親分は?」
「水死に何んの疑ひもないからと、歸つてしまつたさうで、──お孃さんは路地に居ますよ。呼んで來ませうか」
「兎も角逢つて見よう」
平次が引受けると、八五郎は早速格子戸をガタピシさせながら路地に飛び出し、
「さア〳〵此方へ、ヅイと入つて下さい。遠慮することはない」
などと如才もありません。
八五郎に追つ立てられるやうに、平次の家へ入つて來たのは、噂の通りの良い娘で、十九といふには若々しく、媚も誇張もないので、少し淋し過ぎますが、眼鼻立の端麗な、いかにも武家風な感じのする美人でした。尤も身扮はありふれた町娘で、少しの嚴めしさもあるわけはないのですが、折り屈みがキチンとして、少し淺黒くさへある、白粉つ氣のない顏立ち、それもまた不思議な魅力です。
「どうなすつた、お孃さん。伊豆屋さんに何にか變つたことでも」
平次は誘ひの水を向けるやうに聲を掛けました。
「いえ、何んにも變つたことはございませんが、私の腑に落ちないことを、親分さんにお訊ねし度いと思ひまして、父樣にも内證で、出入りの若い衆に頼んで、送つて貰ひました」
ピタリと膝に手を置いて、靜かに仰ぐ淺黒い顏は、刻みがはつきりして、唇の線の美しさも、睫毛の長い眼も非凡ですが、凡そ十九の娘とは思はれぬ、確りしたものを持つて居るのです。
「どんなことが變だと思ひました、お孃さん」
平次は八五郎のモヤモヤするのを椽側に追ひ退けて娘と二人相對しました。
「伊豆屋の總領、菊次郎さんが水死したことは、御存じでせうね」
「それは今しがた八五郎から聞きました」
「その水死した菊次郎さんは、隅田川に夜中に舟を出して溺れた樣子ですが、菊次郎さんは、よく舟が漕げなかつたのです」
「?」
「その上、兩國の水除けに引掛つた死骸の首に、紫色になつた大きな打撲がありましたが、それは首の急所で、打つてはならないところです。その上、橋場で舟から落ちて、兩國まで流れるうち、泳ぎを知らない菊次郎さんは、生きて居る筈もなく、兩國へ行つたときは、息が絶えて居る筈でございます」
「で」
「死骸になつた菊次郎さんが、水除けに引つ掛つたとき、首筋を撲つたくらゐのことで、黒血が溜る筈もございません。打たれて黒くなるのは、生きて居る人に限つたことと成つて居りますが──」
さすがは武家の娘で、この十九の娘の、眼の屆くには驚きました。首筋と言ふのは多分、頸部の大動脉でせう。
「それだけで?」
「まだございます、──菊次郎樣は、五百兩の大金を持出したことは判つて居りますが、舟にも、橋場近い川底にも、兩國近くにも、菊次郎樣の懷中にもなかつたさうでございます」
「フーム」
「それだけの大金を持つていらつしやれば、船は沈んでも、御自分は溺れても、お金の始末はしたことと存じますが」
「その金は、どうした金で」
「晝のうちに、奧藏から出して、翌日は朝のうちに、人樣に拂ふお金だつたさうでございます」
「若旦那が持出したのは?」
「さア、其處まではわかり兼ねますが」
お夏はそれだけは言ひ兼ねた樣子です。恐らく若旦那の菊次郎が、向島とやらに居る女に貢ぐために持出したものかもわかりません。
「で、お孃さんのお望みは、私に何をさせようと仰しやしるので」
「菊次郎さんは人手にかゝつて、害められたものに違ひもございません。その下手人を親分の手で擧げて頂き、私は菊次郎樣の無念が晴らし度うございます」
お夏は確と言ひきるのです。が、その顏には少しの苦澁も、歎きらしいものも見られなかつたのです。
「お心當りは、下手人の?」
「私は何んにも存じません」
これ以上は、無理に訊いても、お夏の口を開ける見込みはなかつたでせう。平次は暫らく考へて居りましたが、
「參りませう。三輪の親分には惡いが、どうも放つて置けないやうな氣がする」
「有難うございます、親分。それで私の氣も濟みます」
お夏は、首を垂れて、始めてホロリとするのです。この娘は何を考へ、何を目論んでゐるのか、平次にも見當はつきません。たつた十九の娘が、斯んなに悧巧な筈はなく、こんなに思ひきつた行動をとれさうもなく、それよりも、こんなに非人情な筈はないやうに思へるのです。
お夏の駕籠を先に歸してやつて、平次と八五郎は、その後から續きました。橋場に着いたのは、やがて晝近い頃、彼岸も過ぎ、櫻も散り、佛誕會が近くなつて、江戸の町もすつかり初夏です。
「ね、親分、良い娘でせう。銘仙に黒い帶、拵へは地味だが、人間はそれよりもまた地味で、ちよいと冗談も言へないが、あんな娘は反つて、情が深いんですつてね。化粧をした、ジヤラジヤラした娘と違つて、何んとなく斯う神々しいぢやありませんか。──伊豆屋の若旦那が、食ひつけなかつたのも無理はありませんね」
「無駄を言ふな、それ、もう伊豆屋だ。大した構へだな、お前が先に入つて、御主人に逢ひ度いと言つて見ろ、──お夏さんに逢つたなどと言つちやならねえ、宜いか」
「へエ」
八五郎は心得て店から飛び込みましたが、暫らくすると恐ろしく酸つぱい顏をして戻つて來ました。
「こいつは親分も見當外れでしたよ。お孃さんがもう四半刻も前に戻つて、旦那の徳兵衞に打ちあけ、御主人が自分で出迎へましたよ」
「そんなことか」
これは平次も少し豫想外だつたやうです。暖簾をくゞると、手代が二三人、帳場格子から立つて來た五十男──それは言ふ迄もなく主人の徳兵衞で、
「これは〳〵錢形の親分さん、娘が飛んだ御無理を申上げたさうで、申譯もございません。いやもうこの節の若い者と來ては」
と、揉手をするのです。筋肉質の確りした中老人で、柔弱だつたといふ伜の菊次郎に比べて、これはまた、武家あがりと言つた恰幅です。
「飛んだことでしたね、お孃さんが仰つしやるのも一應尤もで。兎も角、一應調べた上、諦めて頂くものなら諦めて頂くやうにしなきやなりません」
「尤もなことで、ではまア、此方へ」
主人の徳兵衞は平次と八五郎を引いて、土藏の前の、人目に遠い小座敷に案内しました。娘のお夏は冷たいほど素氣ない拶挨をしたつきり、お茶を運んで來て、あとは顏を見せないのは、八五郎をがつかりさせます。
「何より先に、あのお夏さんといふお孃さんのことを伺ひ度いのですが」
「飛んだ出過ぎたことをしたさうで、あゝいつた氣性者も親讓りでございます。あの娘の父親と申すのは、立派な御家人でした。良いお役まで附いたのを、私の粗相を庇つてくれたばかりに役目を縮尻り、五年ほど前浪々の身で亡くなりました。その遺言で娘のお夏を引取り、私は娘のやうにして育てました」
「若旦那の菊次郎さんとは?」
「親同士の許婚で、本人もその氣でゐるやうですが、伜の菊次郎は、お夏の氣性を嫌つて、祝言をする氣にもならず、次第に放埒に身を持ち崩して、飛んだことをいたしてしまひました」
「飛んだ事といふのは」
「向島にお銀の茶屋といふのがございます。水神の森の中で、花時は大した繁昌ですが、そのお銀と申す、如何はしい女に溺れ、家を外にいたしますので、この春から一と間に押し込め、窮命をさせて居りました。私の許しがなければ、一と足も外へは出られないやうに、座敷牢と申しては大袈裟ですが、一と間に押し籠め、嚴重な見張りをつけたのでございます」
「──」
「だが、若い男と女は、どんな工夫をしても思ひのたけを言ひ交します。伜も、どうして鍵を持出したか、座敷牢を拔け出し、表も裏も見張りが嚴重で出られないので、庭の池から、水門をくぐつて、隅田川へ出た樣子です。庭の池は潮入で、水門一つで隅田川に通じます。池には小さい釣舟がありましたので、それを漕いで出たやうで、全く呆れ果てたことでございます。その上、前の日の夕方に用意した、五百兩の小判を、風呂敷包にして持出したやうで、小判と風呂敷がないので、あとでそれを知りましたが──」
主人徳兵衞の話はかなり長いものでしたが、大店の主人らしく、伜の放埒と不心得を苦々しがりながらも、涙を含んだ調子は爭ふべくもありません。
「お店の樣子では、お葬ひはまだのやうで」
「檢屍に手間取つて、伜を引取つたのは昨夜でした。それから入棺をしたり、お通夜をしたり、親類達を集めたり、今日は漸くお葬ひを出すことになりました」
「それでは、佛樣を拜まして下さい」
「どうぞ」
主人の徳兵衞に案内されて、平次と八五郎は奧の部屋に入つて見ました。親類の人達や近所の衆で、家の中はなか〳〵混雜して居ります。
佛樣の前は一應整へられて、線香が部屋一パイに燻ぶつて居ります。
平次は一應拜んだ上で、早桶を開けさせました。水死人並の不氣味に脹れた死骸と思ひきや、中の死骸は細々と痩せて、左の首筋に牡丹のやうに開いたのは、お夏の指摘した凄まじい皮下出血です。
死骸には傷の痕はなく、物馴れた平次の眼には、これは溺れたものではなく、首の大動脈を激しく撃たれて、咄嗟に死んだことは爭ふ餘地もありません。
伊豆屋の店の者を一應は調べました。が、これは全くの無駄骨折りでした。伜の菊次郎の放埒が始まつてから、主人の取締りは恐しくやかましく、夜分の外出などは思ひも寄らず、その上菊次郎は獨りぎめの通人肌で、店の者などとは交渉もなく、菊次郎に怨みを持つ者などは想像も出來ないことです。
それに質兩替といふ商賣は、大勢の奉公人を必要とするわけではなく、暗くなつてから外へ出たのは、下男の元吉たつた一人、これは宵のうちに歸つて、菊次郎が外へ出たのは、それから大分經つてから、恐らく橋場の渡し舟が停つてずつと後、多分眞夜中近い刻限だつたでせう。
「引き潮が亥刻(十時)時分、水が淺いと、水門から舟が出ませんから、伜が出たのは、眞夜中過ぎになります」
主人の徳兵衞はさう言ふのです。斯うして下男元吉の疑ひは、綺麗に拭ひ去られたわけです。
その元吉といふのは、喰へさうもない三十男で、伜菊次郎とは一番よく馬が合ひさうでしたが、時間の喰ひ違ひが大きいので、全く問題になりません。
「さて、雲をつかむやうなことになつたぜ、八」
平次が少し持て餘すと、
「まだありますよ、親分、この家の二番目息子、徳三郎に當つて見ちやどうです、兄の菊次郎と違つて、堅い一方の評判の良い男ですが、──先刻まだ店に居たやうですが──」
八五郎は平次を誘つて店へ引返しました。暗い廊下を曲つて、納戸の前へ出ると、
「──」
八五郎はソツと平次の袖を引くのです。
「──」
平次も妙にギヨツとした心持で立ち竦みました。若い男と女が、納戸の後ろで、何やら密々と語り合つて居るではありませんか。しかも、二人共、涙を流して居るのです。
「あ、親分さん」
立ち竦んだのは、女の方──菊次郎の許嫁のお夏でした。男の方は輕く一禮して、身をかはすやうに、隣りの部屋にヒラリと避けてしまひます。それはお夏よりは一つ二つ上の二十歳そこ〳〵とも見られる、色の淺黒い、確りした男で、何んとなく手答へのある、確とした感じを與へます。
「お孃さん、──何んかわけがありさうですね、差支がなかつたら、話して下さい」
「ハイ」
お夏は少したじろぎましたが、惡びれた色もなく平次に從つて、納戸の隣りの長四疊に入りました。八五郎は心得て、その入口を見張つたことは言ふまでもありません。
「此處なら大丈夫でせう。さア、聽きませう、お孃さん」
許婚の菊次郎の死骸が、まだ葬りもせずに隣りの部屋にあるのに、弟の徳三郎と、泣いたり笑つたりして居るのは、確りものらしいお夏の態度としては、いかにも腑に落ちないものがあるのです。
「御尤もですが、これには深いわけがあります」
「──」
お夏は端麗な顏を擧げました。まだ頬が上氣して、睫が濡れて居ります。
「私と徳三郎さんは、五年前から幼な馴染でございました。私がこの家に引取られる前からでございます。この家に引取られて兄の菊次郎さんよりは、弟の徳三郎さんと、私は親しくして居りました。菊次郎さんは遊び好きで、私などを相手にしてもくれません」
「──」
「私と許婚の披露があつてからも、菊次郎さんの遊びが止まなかつたので、私もつい白い齒も見せず、親しい氣持になれなかつたので、だん〳〵他所々々しくなるばかり、それからの菊次郎さんの放埒は本當に目に餘りました」
「?」
平次は默つてその後を促します。
「でも、菊次郎さんが亡くなつて、その手文庫を調べますと、お氣の毒なことに、私のことが、いろ〳〵書いてございました。菊次郎さんは、決して私を嫌つたわけでもなく、私が他所々々しくするので、ついたまり兼ねて放埒に身を持ち崩し、向島のお銀さんとやらに通ひ出したやうで」
「──」
「私はそれを知つて、本當に菊次郎さんにすまないと思ひました。今更氣がついても、後の祭りですが、せめては菊次郎さんを殺した下手人を擧げ、それから身を退き度いと存じ、明神下の親分さんのところへ參りました」
「──」
「ところが、徳三郎さんは」
平次にもその消息はよくわかるやうな氣がするのです。お夏に對して冷淡だつたと思ひ込んだ兄の菊次郎が死んだ上は、お夏といふ獲物はもう、自分のものと思ひ込んだのでせう。
「で、お孃さんは、大方見當がついてゐることと思ふが、菊次郎さんが釣舟で庭の池から出るのは、この間の晩に限つたことではなかつた筈だと思ふが──」
「三月過ぎになると、時々そんなことはあつたやうでございます」
「それを知つてるのは?」
「私と、弟の徳三郎さんくらゐのもの。あとは奉公人達は遠くに居るので、一人も知つたものはない筈でございます」
「菊次郎さんは舟は漕げなかつたと聞きましたが──」
「私も、それが不思議でなりません」
「この家で舟の漕げるのは?」
「父は自慢でございますが、あとは元吉くらゐのものでせうか」
お夏の答へははつきりして居ります。
「親分、これから何處へ行くんで」
伊豆屋の店を出ると、八五郎は平次の後を追ひます。
「向島へ行つて見ようよ。菊次郎はそつと夜中にぬけ出して、時々そのお銀とやらに逢つて居たやうだ」
「そいつはたまらねえね、──そのお銀とやらは、大變な女ださうで」
八五郎はまた、揉手をして喜んで居ります。有名な美人に逢つて見るのを、役得と心得て居る八五郎です。
橋場の渡しを越えて、水神の森にかゝると、お銀の茶屋は直ぐでした。花時が過ぎて葉櫻が毛虫だらけになると、暫らくは暇で〳〵仕樣のないやうに見えますが。
だが、この葉櫻の季節が、お銀の本當の稼ぎでした。お銀の魅力にあこがれた若い男達は、灯に寄る夏の蛾のやうに、水神のお銀の茶屋に覗ひ寄るのです。
その一人が、伊豆屋の菊次郎であつたことは言ふ迄もなく、これがまた、第一等の施主でもありました。葭簾張りの茶店に、いろ〳〵の小旗をなびかせて居りますが、奧は普通の家になつて、其處にお銀と、茶汲女のお松といふ十八九の娘が一緒に住んでゐるのです。
「ご免よ」
「あ、錢形の親分さん」
平次が葭簾の中に顏を突つ込むと、お銀は少しあわてて飛んで出ました。二十一、二、年増と言つて宜い女ですが、何んとなく、蒼く引締つて、濃い陰影のある女ですが、感情が激發すると、パツと咲いたやうに華やかになる不思議な顏の持主です。
すべてが細々として、頼りないやうですが、何處かに強靱なところがあり、考へやうではスポーツ型とも言へるでせう。花時は五六人の雇人を置くのですが、葉櫻になるとお松とたつた二人、淋しいやうな暮しです。そのまたお松といふのは、不きりやうで無口で、ちよいと扱ひ惡い女、こんなのがお銀の持つてゐるらしい、暗い祕密の保持には必要なのかもわかりません。
「逢つたことはない筈だが、俺を平次と知つて居るのか」
「あら、錢形の親分を知らない者はありやしません。江戸中の人で」
「大袈裟な」
平次は一寸舌打ちをし度い心持でした。一方から言へば、江戸中の惡い人間は、皆んな平次を知つて居るとも取れるのです。
「用事はもうわかるだらうが、伊豆屋の若旦那のことだ」
「溺れたんですつてね。私も長いこと御贔屓を受けましたが、お葬ひにも伺へない有樣で」
お銀は一寸萎れて見せるので、なか〳〵の風情です。
「いや、若旦那は殺されたのだよ」
「まア」
「お前のところへ、チヨイチヨイ來るさうぢやないか」
「いえ、近頃は親旦那がやかましくて、座敷牢とかに入れられて居るさうで、この春からはお目にかゝりません」
「座敷牢に入つてると、どうして知つた」
「それはもう、世間の噂で」
店の者にも口留めして、世間には知らせなかつた筈──と思ひながら、平次は其處までは素破拔きませんでした。
「若旦那は、夜中に釣舟で來ることはなかつたのか」
「そんなことはありません。嘘だと思つたら、一緒に此處に泊つてゐるお松に訊いて下さい。若旦那はもう、二た月も此處へいらつしやらないんですもの」
お銀は妙に怨ずる色があります。
店の中は思ひの外貧しさうで、若旦那が滅多に來ないといふのも嘘ではないかも知れません。
「すまねえが、ちよいと、家の中を見せて貰ひ度いが」
「え、え、どうぞ、金の茶釜も錦の小袖もありやしません。私は家搜しされるのを、指をくはへて見て居るのも變ですから、ちよいと遊びに出て來ます」
お銀はさう言つて、粹な着流しのまゝ、氣取つたポーズで外へ出てしまひました。
平次と八五郎は、その留守で、手一杯に家中を搜し廻りましたが、なか〳〵に洒落た着物と、少しばかりの小遣の外に、大した貯へもなく、これは全く平次の當て違ひでした。
「ちよつとちよつと、お前は何時頃から此處に居るんだ」
平次はお松に訊ねました。
「去年の春から居りますよ」
「大層繁昌するやうだな」
「それ程でもありませんが」
「伊豆屋の若旦那はチヨイチヨイ來たやうだな」
「去年の秋から、今年の春へかけてよく來ましたよ。三月になつてからは、押し籠められたさうで、一度も顏を見せません」
「本當に一度も來ないのか」
「それは確かですよ。來ると、私が追ひ出されて、その代り小粒一つづつ貰ひましたから、忘れるわけはありません」
「成程それは忘れつこはない、──ところでお銀は外へ出ないのか」
「滅多に出ませんよ」
「伊豆屋の店の者は誰か來ないのか」
「下男の元吉さんは、チヨイチヨイやつて來ますよ」
「弟の徳三郎さんは?」
「噂は聽いてるけれど、顏を見たこともありません」
「一昨日の晩、お銀は外へ出なかつたのか」
「ちよいと出たやうです。頭痛持ちで疳性だから、夜風に吹かれるのが好きで、チヨイチヨイ出かけます、──本當に頭痛持ちなんですね。頭へ油をつけるのが嫌ひで、三日に一度、五日に一度は洗ひ髮にして居ります。あんなに毛を洗つちや惡からうと思ふけれど、本人に言はせると、女の頭の臭いほど嫌なものはないんですつて」
「──」
そんな話のうちに、家搜しは大方濟みました。一服やつて居ると、
「あら、もう濟みましたの、──千兩箱でも見付かりまして」
お銀は葉櫻の下を笑ひながら戻つて來ました。深い表情ですが、いかにも邪念のない姿です。
「飛んだ邪魔したよ、それぢやお銀」
「あれ、もうお歸りですか、せめて商賣物のお茶でも上げるのに」
平次はそれを背に聽いて、一歩外に出ると、後に殘つた八五郎が、
「お銀、いやさ、お銀さん、邪魔したね。これをご縁に、ちよい〳〵來るぜ」
立ち戻つてお世辭を言ひます。
「ま、飛んだご縁ね」
「ところで、その近づきの印に、氣障なやうだが、手を握らせてくれ」
「あらまア、そんな事なら、──お安い御用ね、頬つぺたを嘗めさしてくれとでも仰しやることかと」
お銀が素直に手を出すと。八五郎はその手をムズと握りました。
「ま、痛い、大變な力ね」
「濟まねえ濟まねえ、ツイ力が入つたんだ。美い女はとくだぜ」
「とくだか災難だか」
「あばよ」
八五郎は櫻の土手を、平次の跡を追ひました。
「どうした八」
「とんだ役得で、思ひきり柔かい手を握つて來ましたよ」
「タコがなかつたか」
「撥ダコもありやしません。ありや箸より重い物を持つたことのない手ですね」
平次はそれを聞くと小首を傾げました。何やら呑込み兼ねた姿です。
「親分、見當はついたやうですね」
「いや、まだ〳〵さう手輕には行かない。お前は、お銀の素姓を知つてるのか」
「あつしは知りませんが、原の郷に阿星半七郎といふ、大變な浪人者が居ます。もとはお銀の好い人で、今は向島一帶を繩張りにして居る侍やくざですが、その男に訊いたらわかるでせう」
「それぢや頼むから、お前は其處へ廻つてお銀の前身を聽いて來てくれ」
「親分は?」
「明神下の家で待つてゐるよ。尤もその前に、もう一度伊豆屋へ行つて、下男の元吉を脅かして見るが」
「へエ?」
八五郎は何が何やら、わけもわからずに本所へ廻り、平次はもう一度橋場の渡しを越して、伊豆屋に引つ返しました。
伊豆屋は葬ひを出したばかり、菊次郎の弟の徳三郎は、お寺へ行つて留守、主人は奧へ籠つたまゝ、平次は下男の元吉を呼んで、裏口に引張り出しました。
「元吉、もうわかつたよ」
「へエ?」
元吉のけゞんな顏は見事でした。
「お前はいくら貰つた?」
「何を仰しやるんです、親分」
「明日は五百兩といふ小判を搜してやる、お前はその手傳ひをするんだ。今日一日、何處へも出ちやならねえよ」
「へエ」
何が何やらわからぬ樣子の元吉を後に殘して、平次は眞つ直ぐに明神下に引揚げました。
八五郎が原の郷から歸つたのはその夕方。
「親分、何も彼もよくわかりましたよ。あのお銀といふ女の背中の灸の痕まで」
「そんなことはどうでも宜い」
「あれは潮來生れで、人魚のお銀と言はれた大變な女ですよ」
「何が大變なんだ」
「泳ぎの名人で、──尤も手は恐ろしく柔かいから、舟は漕げませんね」
「お前も飛んだところへ氣がつく、──よし〳〵、それでわかつた。今夜は少し面白いぞ」
「何があるんです」
「下つ引を三四人狩り集めてくれ。橋場の伊豆屋を取卷くんだ。亥刻(十時)過ぎに外へ出る者をそつと出してやるんだ、その代り確り顏を見て置け」
「へエ」
それから日が暮れるまで、平次と八五郎は退屈な時を過しました。そして、暗くなると共に、もう一度、橋場へ引つ返したのです。
「へエ? 又橋場へ行くんで?」
「それも術だよ。あの邊で頑張つてると、夜釣の魚は出て來ない」
「へエ?」
橋場へ行くと、伊豆屋へは入らず、裏から廻つて、豫て用意したらしい、一艘の艀舟に潜りました。
「八、頭から、その筵を冠れ。少しは埃臭いが、我慢をしろ」
「變な匂ひがしますね、親分」
「默つて居ろ。舟を少し川の眞中へ出して貰ふから、物を言つちやならねえ」
「へエ」
それは子刻(十二時)近い時分でした。兩岸の灯も消え、吉原通ひの猪牙舟の音も絶えて、隅田川は眞つ黒に更けて行きます。
「月はないんですね」
「默つて居ろ、今晩に限つてお月樣は邪魔だ」
「あ、何んか、水の音が?」
「シツ」
二人は息を殺しました、何處からともなく微かに水の音が響きます。
それから暫らくの間、八五郎は生れて始めての長い時間を經驗しました。向島の方から一艘の小舟が、灯もなく靜かに近づくのです。やがてその舟が、平次と八五郎の乘つた舟に近づくと、闇をすかして此方を見て居る樣子でしたが、何事もないと見きはめがつくと、舟足をピタリと停めて、舷から、スルスルと眞黒な水面に滑る者があるのです。
「もう少し傍へ寄りませうか、親分」
平次の耳の側で、八五郎は擽つ度く囁きます。
「いや、動くな、──川の中に竿が一本立つて居た筈だ、──その竿を見定めて置いたのが良かつたのだよ、暫らく待て──」
平次の聲も、微風のやうにそよぎます。
それから又、やゝ暫らく經ちました。何やら水の音がして、相手の舟にドツシリした物が投げ込まれます。
やがて物音が大きくなつて、闇の中にも何やら、飛躍的なものを感ずると、平次の手から一導の灯がパツと射しました。泥棒がん燈です。
「あツ」
八五郎は思はず聲をあげました。泥棒がん燈の丸い光の中に浮んだのは、何んと、緋縮緬の腰卷一つになつて、裸體になつた女の立ち姿、それは全身水に光つて人魚さながらの美女、蒼白い顏、肩に流るゝ黒髮、──それは凄艶にも、昇華し去りさうな美しい姿です。
その美しくも無氣味な情景も一瞬にして消え、女は身を飜して、夜の水の中に、ザンブと跳び込んだのです。
が、その泥棒がん燈の光を合圖に、舟は八方から集まりました。
舟の中に殘つたのは男一人、それは飛び込んだ八五郎に取つて押へられました。水に跳び込んだ女の姿は、十數艘の船を動員し、八方から、松明をかゝげて搜しましたが、遂に朝までも見付からず、朝の光の中に、夥しい船はそのまゝ引揚げる外はなかつたのです。
船の中の男は、伊豆屋の下男元吉、船の中には、風呂敷に包んだ、五百兩の小判が轉がつて居りました。そして人魚のやうな女は──言ふ迄もなく水神の森の茶店の女、お銀の姿だつたことは言ふ迄もありません。
× × ×
それより半刻も前、水を潜つて逃れたお銀は、そのまゝ捨て置き難いものがあつたか、──いや、舟の中に着物を脱いだ爲に、裸體で逃げるわけに行かなかつたか、兎にも角にも水神の森の中の、茶店の裏口に立つて居たのです。
「お松さん、開けておくれ、──私だよ」
晩春の水の冷たさに、お銀もさすがに顫へて居りました。焔に腰を包んだやうな、物凄い裸體、流れた毛を持ち扱ひ兼ねた姿で、そつと雨戸に拳を當てるのです。
内ではコトコトと音がして、お銀の前にガラリと戸が開きました。
「あツ」
それは思ひもよらぬ錢形平次の姿だつたのです。
「此處へ來るだらうと思つたよ。サア、着物を着るうちだけは待つてやらう」
平次はさう言つて、逃げる思案もつかず、ぼんやり立つてゐるお銀の手に、一とかさねの平常着を投げてやるのです。
「有難う、禮を言つたものか知ら、錢形の親分」
お銀はさう言つて濡れたまゝの身體に袷を引つかけ、蒼澄んだ顏に、ニツコリ淋しい微笑を浮かべるのです。
お銀も元吉も處刑になり、伊豆屋の二番目息子の徳三郎は、それつきり行方不明になりました。菊次郎の許婚のお夏も、自分から身を退かうとしましたが、養ひ親の主人徳兵衞に望まれて、伊豆屋に留まり、その後を立てることになりました。
八五郎が繪解をせがむと、平次は、
「わからないところは一つもないだらう。お銀は菊次郎を嫌つて、五百兩の金だけほしかつたのさ。菊次郎が座敷牢に入ると、裏から小舟を出して、すぐ庭の裏の川で、向島から泳いで來るお銀と逢引して居たのだよ。五百兩持出させた晩、竹竿で菊次郎を撲り殺したが、五百兩といふ小判を持ち運ぶ工夫はない、お銀は舟は漕げないから、川に沈めて竿を立てて眼印しにして置いたのだ。さてあの翌る日は、俺が川を搜すと觸れて廻つたので、前の晩元吉に舟を出させて、目印しの場所から五百兩の小判を取出したのだ。潮來で育つたお銀は、海女のやうに川を潜る」
「ところで徳三郎はどうなりませう」
「兄を殺さしたも同樣さ、惡い奴だ。元吉を使つて、菊次郎が五百兩持つて出るのを、お銀に知らせたのだらう、──可哀想なのはお夏さ。良い娘だが、少し我が強く菊次郎と一緒になる氣がしなかつたのだらう、──でも自分が好きになれないばかりに、菊次郎があんなことになつた、罪亡ぼしのために明神下まで飛んで來たに違ひない」
「でも、あの女は大した女でしたね。人魚と言ふのは、あんなものでせう」
「何をつまらねえ、──あれは竹竿で男を撲り殺す女だ。化物だよ」
「それに比べると、お夏は──愛嬌はないが、良い娘でしたね」
何處まで行つても、八五郎の女人禮讃は果てしもありません。
底本:「錢形平次捕物全集第三十四卷 江戸の夜光石」同光社
1954(昭和29)年10月25日発行
初出:「オール讀物」文藝春秋新社
1954(昭和29)年6月号
※題名「錢形平次捕物控」は、底本にはありませんが、一般に認識されている題名として、補いました。
入力:特定非営利活動法人はるかぜ
校正:門田裕志
2017年1月12日作成
2017年3月4日修正
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