錢形平次捕物控
毒酒藥酒
野村胡堂
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運座の歸り、吾妻屋永左衞門は、お弓町の淋しい通りを本郷三丁目の自分の家へ急いでをりました。
八朔の宵から豪雨になつて亥刻(十時)近い頃は漸くこやみになりましたが、店から屆けてくれた呉絽の雨合羽は内側に汗をかいて着重りのするやうな鬱陶しさ──。
永左衞門は運座で三才に拔けた自分の句を反芻しながら、それでも緩々たる氣持で足を運んでをりました。
眠さうな供の小僧を先に歸して、提灯は自分で持ちましたが、傘と兩方では何彼と勝手が惡く、少し濡れるのを覺悟の前で、傘だけは疊んで右手に持ち、五六軒並んだ武家の屋敷を數へるやうに、松平伊賀樣屋敷の側へヒヨイと曲つた時でした。
「え──ツ」
まさに紫電一閃です。いきなり横合から斬りかけた一刀、闇を劈いて肩口へ來るのを、
「あツ」
吾妻屋永左衞門、僅かにかはして、右手に疊んで持つた傘で受けました。刄は竹の骨をバラバラに切つて、辛くも受留めましたが、二度、三度と重なつては、支へやうはありません。
朔日の夜の闇は、雨を交へて漆よりも濃く、初太刀の襲撃に提灯を飛ばして、相手の人相もわかりません。
幸ひ、吾妻屋永左衞門、若い時分町道場に通つて、竹刀の振りやうくらゐは心得てゐました。二た太刀三太刀やり過したのはそのお蔭といふよりは、暗とぬかるみのせゐだつたかも知れませんが、兎も角も、雨合羽を少し裂かれただけで、大した怪我もなく、松平伊賀樣前の、自身番の灯の見えるところまで辿り着いたのは、僥倖といふ外はなかつたのです。
「えツ、面倒」
疊みかけて襲ひかゝる曲者の刄は、灯が見えると、一段と激しさを加へました。吾妻屋永左衞門、それを除けるのが精一杯。が、終に運命的な瞬間に近づきました。
後ろすさりの永左衞門、とうの昔に高足駄は脱ぎ捨ててをりましたが、道傍の石に足を取られ、物の見事にぬかるみの中に引つくり返つたのです。
今ぞ觀念と、振り冠つた曲者の刄、
「あツ、大井、大井久我之助樣」
自身番の灯が細雨を縫つてサツと、曲者の顏を照らし出したのです。
それは弓町に住む浪人者で、同じ道に親しむ、青年武士──ツイ先刻まで、同じ俳筵に膝を交へて、題詠を競つた仲ではありませんか。
相手の素姓がわかると、吾妻屋永左衞門妙に自信らしいものがついて來ました。日頃懇意にしてゐるだけに、大井久我之助の強さ弱さを悉く知つてをります。
吾妻屋永左衞門の棒振り劍術と違つて、相手は二本差だけに、劍術の腕前は確かにすぐれてゐるでせう。併し俳諧、辯舌、男前、わけても金の力では大井久我之助、鯱鋒立ちをしても吾妻屋永左衞門に及ぶ筈もなく、それを知り悉してゐるだけに、泥んこの中に引つくり返つた永左衞門、急に自信を取戻して來ました。
「暗討は卑怯だらう──何んの怨みで、この私を──」
永左衞門は建物の袖を小楯に、必死の聲を絞りました。日頃金の力と男前と、辯舌と才氣で浪人大井久我之助を壓迫して來た町人吾妻屋永左衞門は、腕は少々鈍くとも、得物が一本ありさへすれば、この男にムザムザ敗ける氣はなかつたのです。
「卑怯? 卑怯は其の方だ」
「何を」
「金の力に物を言はせて、拙者が言ひ交した女を横取りしたのは、其の方ではないか」
大井久我之助は、一刀を構へたまゝ、ジリジリと詰め寄るのでした。
「あ、そのことか」
吾妻屋永左衞門、ハツと思ひ當つたのです。
相手は女故に祿も家も捨てて我儘氣隨に暮してゐる浪人、暇はあるにしても、恥も人格もない人間だけに、女出入りの怨みを妬刄を合せた暗討のひと太刀に、人知れず片付けようといふ腹だつたのです。
「覺えがないとは言はさぬぞ」
「で、素手の町人を斬る氣になつたのか」
吾妻屋永左衞門は相手の切つ尖を除けながら、隙があつたら、ツイ鼻の先の自身番に驅け込む氣でゐるのでした。
「望みとあらば、拙者の小刀を貸さう──尋常に向つて來るか」
「いや私は町人だ、武家との果し合ひは御免蒙る」
「卑怯だらう」
「何方が卑怯か」
この掛け合ひは、一瞬々々のやり取りで命を賭けての、必死の言葉爭ひでした。若し吾妻屋永左衞門に、少しばかりの心得がなく、大井久我之助に、人にすぐれた腕があつたら、こんな厄介な事件に發展せず、お弓町の一角の、雨中の暗討で事が濟んだことでせう。
「親分、こんな馬鹿氣た話があるんだが──」
と、ガラツ八の八五郎が、明神下の平次のところへ、報告を持つて來たのは、それから二三日後のある朝でした。
「何が馬鹿氣てゐるんだ。お前の持つて來る話で、馬鹿氣ない話てえのは、あんまりないやうだが」
初秋の温い陽を除けて、平次は相變らず植木の世話に餘念もなかつたのです。
「だつて親分、女一人のことから、大の男が命のやりとりを始めて──」
「待ちなよ、八。女出入りで命のやり取りなんざ、お前が好きさうな話ぢやないか」
平次は秋葉の緑の中に顏をあげました。
「それが生優しい命のやり取りぢやありませんよ。馬鹿々々しいの何んのつて」
「詳しく話して見な、お前一人で呑込んでゐたんぢや、俺はちつとも馬鹿々々しくないよ」
平次は八五郎を誘ひ入れると、椽側に並んで掛けて、いつもの馬糞煙草にするのです。
「吉原の玉屋小三郎の店で、お職を張つてゐた薄墨といふ太夫を親分御存じですかえ」
「知らないよ。俺のところにはそんな叔母さんはなかつた筈だ」
「へツ、素氣ない返事だね、いかにお靜姐さんがお勝手で聽いてゐるにしても」
「つまらねえ氣を廻しやがる」
「その薄墨が、どんな女だと思ひます、親分」
「よつぽど變つてゐるのか、眼が三つあるとか、何んとか」
「嫌になるなア、世間でさう言つてゐますよ、錢形の親分はたいした人間だが、何んだつて又あんなに野暮だらう──つて」
「野暮でも箆棒でも構はねえが、その眼の三つある華魁はどうした」
「あ、また化物にこだはつてゐる──そんなイヤな代物ぢやありませんよ。玉屋の薄墨華魁といふのは、そりやたいした女で」
「フーム」
「仲町をクワツと明るくしたほどの女だ、上品で愛嬌があつて茶の湯生花歌へえけえ──諸藝に達して親孝行で」
「大變なことだね」
「この薄墨華魁に入れあげて、身上を潰したのが十六人、死んだのが三人」
「矢つ張り化物ぢやないか」
「それを本郷三丁目の藥種問屋の若主人、吾妻屋永左衞門が、千兩箱を積んで身請けをし、自分の家へ引取つて内儀の位に据ゑたのはツイ二た月前だ」
「内儀の位は嬉しいな」
平次のからかひにも構はず八五郎は報告を續けるのでした。
「吾妻屋永左衞門は、三十そこ〳〵、金があつてへえけえが上手で、ちよいと好い男で、道樂者の癖に少しケチで、──薄墨太夫のお染さんと並べると、少しヒネてはゐるが見事な女夫雛ですよ──」
「──」
「それほどの太夫を根引いて宿の妻にすると、納まらないのが諸方にあるのも無理はないでせう。ね、親分」
「俺に相談することがあるものか、話の先を急ぐがいゝ」
「一番納まらないのは、萬兩分限の身上を費ひ果して、乞食のやうになつた伊豆屋の虎松。こいつは憑かれたやうになつて、夜も晝も、吾妻屋の近所をうろ〳〵し、間がよくばひと眼でも、昔の薄墨華魁──今は眉を落した、内儀のお染さんの顏を見ようとしてゐる」
「淺ましいことだな」
「あつしだつて、萬兩といふ身上をつぶしたら、そんな心持になるかも知れませんね」
「幸ひ、五兩と纒つた金に、めぐり逢つた例もあるめえ」
「有難い仕合せで──ところで薄墨が吾妻屋の女房になつて、納まらなかつたもう一人は、お弓町に住んでゐる浪人者で、大井久我之助といふ好い男だ。年の頃は三十二三、二本差には違げえねえが、薄墨華魁に入れ揚げて、小藩のお留守居だつたのが永の暇になつたとかで」
「──」
「ちよいと金があつて好い男で、へえけえは下手だが小唄と鼓の上手で、これは間違ひもなく薄墨の深間だつたさうですよ。今は浪々の身で金ツけとは縁がない。薄墨の年の明けるのを待つて二人は一緒にならうなんとケチなことを考へてゐると、横から飛び出した吾妻屋永左衞門が、千兩箱を杉なりに積んで『お先に御免』とも何んとも言はずに、薄墨華魁をしよつ引いて行き、誰にも相談をせず、元服させて『お染』と親のつけた名前で呼ぶことにした──こいつは大井久我之助、納まらないのも無理はないぢやありませんか」
「無理とは言はないから、その先はどうした?」
「八月朔日のあの大雨の降つた晩──春日町の運座のけえへ行つた吾妻屋永左衞門、供の小僧を先へ歸して、たつた一人でお弓町へ差しかゝると、いきなり闇の中から飛び出して斬りかけた者がある──誰だと思ひます、親分」
「お前でねえことは確かだ」
「錢形の親分、さすが眼が高けえ」
「ふざけちやいけねえ」
「浪人者の大井久我之助ですよ。二本差の癖にしやがつて、女を奪られて、町人に暗討を仕掛けるなんて、風上にも置けねえ野郎ぢやありませんか。幸ひ吾妻屋永左衞門、少しやつとうの心得があるので、泥の中へ引つくり返つただけで怪我はしなかつた」
「それから」
平次にも、少しばかり話が面白くなつて來た樣子です。
「──でも握りつ拳一つぢや、斬り結ぶわけに行かねえ、さすがの吾妻屋も持て餘してゐるところへ同じ運座の歸りのこれも浪人仲間の湯島の國府彌八郎樣が通りかゝり、驚いて飛び込んでマアマアと引きわけた」
「それつきりだらう、女出入りはそんなことで市が榮えるの筋書きさ」
「ところが、今度は泥んこになつた吾妻屋が納まりませんよ。このなりぢや戀女房のお染のところへ歸れない、第一武家が町人を暗討するとは卑怯千万、この納まりをどうしてくれるとねぢ込んだ」
「成程な、──で、どう話がついたのだ」
「つきませんよ、どつちも詫を入れる氣はないんだから。仲に入つた國府彌八郎さんも大困り、いづれその内に、ジヤン拳か何んかで恰好をつけるでせうが──」
「そんなことで濟むのかな」
平次はこの事件の底に、何やら根強く横たはつてゐる、無氣味な人の怨みを感じないわけに行かなかつたのです。
果して、吾妻屋永左衞門と、大井久我之助の鞘當ては、一應表向きは納まりましたが、二人の心持は執拗に深刻に、行くところまで行き着いてしまつたのです。
それから十何日、丁度八月十五日の名月の晩に、吾妻屋永左衞門は小宴を開いて、大井久我之助と國府彌八郎を呼び、表向きは仲直りの杯を交はすといふことにして、實は退引ならぬ二人の間の蟠りの雲を、この獻立てで、一擧に片付けようとしたのも無理のない成行でした。
人妻に戀するのは不都合千萬と言つても吾妻屋の女房のお染は、玉屋小三郎抱への遊女薄墨の後身であり、その間夫だつた大井久我之助の手許には、薄墨の書いた起請が十三通、外にとろけさうな文句を綴つた日文が三百幾十本となり、このまゝ諦めるにしては、二人の仲はあまりにも深間過ぎて、暗討まで仕掛けられた吾妻屋永左衞門にしても、寢覺めのよくなかつたことでせう。
「先づ、どうぞ」
深怨の久我之助と、時の氏神の國府彌八郎と、連れ立つて來たのを、主人永左衞門、自ら案内に立つて、設けの席に導き入れました。
それは『かねやす』に背を向けた、東向きの裏二階で十五夜の月はもう、町並の屋根の上に昇つてをり、椽側には型通りの祭壇が、青白い月の光を受けて、肅然と靜まり返つて居ります。
部屋の中にはわざと薄暗い行燈が一つ。主客席に着くと、待つてゐましたと言はぬばかりに、手順よく膳が運び出されるのです。
それは氣まづい月見の宴でした。時の氏神の國府彌八郎が、一人で辯じ立てますが、主人の永左衞門も、客の久我之助も、默り込んで受け應へをするでもなく、國府彌八郎の駄洒落が騷々しく空廻りをして一層座を白けさせるだけです。
「入らつしやいませ」
ほんのりと掛香が薫じました。どうかしたらそれは、世にも稀なる、あで人の肌の匂ひだつたかも知れません。顏を擧げて見ると、空の色よりも青い小袖、ほの白い顏が灯の側にパツと咲いて、赤い唇だけが、珠玉の言葉を綴つて艶めかしく動きます。
「──」
久我之助も彌八郎も、思はず丁寧過ぎるほど丁寧に禮を返しました。
眉こそ青々と落してをりますが、頬の曲線の柔かい細面、顏を伏せると、美しい鼻筋がスーツと通ります。
「御内儀、飛んだ御世話に相成る」
などと國府彌八郎は、取つてつけたやうな世辭を言ひますが、素より白けた座を救ふ由もありません。
お染はさすがに、この座の息苦しさに堪へられなかつたものか、間もなく引下がつて、さて、それからの酒は羽目を外しました。
主人の永左衞門もさることながら、客の大井久我之助は、いくら呑んでも醉ひが發しないらしく、まさに鯨飮といふ物凄さです。
座を斡旋してくれるのは、特に呼んだ若い藝子が二人、これが内儀が引つ込んだ後の座を取持つて、必死と骨を折つてゐる樣子ですが、月の光に照らされて、海の底のやうに靜まり返つた一座の空氣は、三味線でもドラでも、感興を掻き立てる工夫はありません。
「さて、御兩所」
月まさに三竿、酒もやがて爛醉に入つた頃、主人の永左衞門、改めて膝を直しました。
「改まつて何事ぢや、御主人、今夜はもうむづかしいことを言はぬ筈ではなかつたか」
國府彌八郎は、兩手を宙に泳がせます。
「いや、この儘では、大井久我之助樣もお氣がお濟みになるまい。拔刀で脅かされた私も、町人ながら諦めきれません」
「──」
「國府樣の御はからひで、一應は納まりましたが、納まり難いのは、大井樣と私の胸のうちでございます」
「何を申すのだ、御主人」
「私が町人でなく、二本差してゐる身分の者なら勝ち負けは兎も角として、一應は大井樣の御相手をいたすべきですが──」
「──」
大井久我之助は、眞つ蒼な顏を振り上げると、そつと一刀を引寄せます。
「町人の悲しさ、算盤を持つのが精一杯で大井樣のお相手はいたし兼ねます──が、さうかと申しまして、犬や猫のやうに、何んの手向ひもせずに、斬り殺されてしまつては男と生れた甲斐がございません」
「──」
「で、一つ、妙なことを思ひつきました」
「──」
落着き拂つた吾妻屋永左衞門の言葉に、妙な殺氣をカキ立てられて、大井久我之助も、國府彌八郎も、思はず固唾を呑みました。
「もうよいではないか、御主人。酒だ、酒だ」
彌八郎はそれを停めようとあせりますが、主人永左衞門の強大な意志に壓倒されて、今となつてはもう、何んの力もありません。
「その酒で思ひつきました──私は商賣柄、ごく内密で長崎の異人から手に入れた、南蠻物の大毒藥」
「?」
「それを熱燗に解かして、一本の徳利に仕込みました──此處に酒の入つた徳利が二本ございます。いづれも模樣も何んにもない、伊萬里の白い徳利。一本には唯今申上げた南蠻物の毒酒が入つてをり、一本には唐土から渡つた、不老長壽の靈藥が入つてをります。この通り」
「──」
主人永左衞門は、盆の上に並べた二本の徳利を、物々しくも座の眞ん中に据ゑたのです。
「私は藥種渡世の冥利に、この二本の徳利で、大井久我之助樣と果し合ひがいたしたいのでございます。このうち、毒酒の方を呑めば、肺腑を破つて立ちどころに死にますが、藥酒の方を呑めば、不老長壽とまでは行かずとも、神氣爽かに、百病立ちどころに癒えると申します」
「──」
「大井樣と私は、どうせ並び立たない二人でございます。この先又氣が變つて、暗がりから斬りかけられては、町人の私は防ぎやうはございません。そこで、二本の徳利のうち、どちらかを一本、先づ大井樣に選んで呑んで頂き、殘つたのを一本、私が呑むといたしたら如何なものでせう」
「それは卑怯」
大井久我之助は勃然として膝を立て直しました。
「飛んでもない、──同じ形の徳利で、どちらに毒が入つてゐるか、それとも藥が入つてゐるか、この私にもわかり兼ねます。その上大井樣に先に選んで頂き、殘つたのを私の分ときめ、一緒に呑むとすれば、これほど立派な果し合ひはあるまいと存じます」
「──」
「武家と町人の刀を拔いての果し合ひよりは、この方がよつぽど公明正大ではございませんか──選ぶのは大井樣が先でも、呑むのは一緒といたしませう。さあ、大井樣」
「──」
「臆れましたか、大井樣」
「──」
「闇から飛び出して、町人に斬りつけるのと毒酒藥酒の果し合ひと、何方が卑怯か」
「──」
「──」
恐ろしい緊迫でした。行燈は丁子が溜つて、ジ、ジと瞬きますが、三人の大の男は瞬きも忘れて、互ひの顏を、二本の徳利を、洞ろな眼で見廻すのです。
「あれツ、御新造樣」
隣りの部屋は、火のついた騷ぎでした。
「何うした、騷々しい」
吾妻屋永左衞門は僅かに身體を動かして振り返ります。
「御新造樣が、危ない、あれツ」
二人の藝子は内儀のお染に絡みついて、その手から短刀をもぎ取らうと爭ひ續けてゐるのでした。
「ならぬぞ、見苦しい」
永左衞門は思はず聲が高くなります。
「でも、わちきのためにお二方が──」
思はず里言葉の出るお染の薄墨太夫は、此處まで來る前に、この無法な企てをどんなに止めたことでせう。
「男と男の意地だ──それとも夫の私が、もう一度泥の中に這はされ、虫のやうに殺されるのを見てゐるつもりか」
「──」
さう極めつけられると、お染は返す言葉もありません。短刀を取上げられて青い袂に顏を埋めたまゝ、聲を立てて泣く外はなかつたのです。
「よし、呑むぞ、拙者はこれだ」
大井久我之助は猿臂を伸ばして、一本の徳利を取りました。お染の演じた激情的な情景に勇氣をかき立てられたのでせう、早くも大振りの盃に注いで呑まうとするのを、
「待つた、二人一緒でなければ──」
國府彌八郎に注意されて、しばらく躊躇する隙に、殘る一本の徳利は主人の永左衞門が取上げたのです。
「では」
これも同じく盃に波々と注ぐと、盆を引いて、顏と顏が、一方は薄暗い行燈に照らされ、一方は月を隱した庇の闇に染まつて、
「行くぞ」
口と口へ、盃は一緒に觸れたのです。
「親分、到頭大變なことになりましたぜ」
八五郎が、その報告を持つて來たのは、翌る日の朝でした。
「何が大變なんだ。──昨夜のお月見の馬でも曳いて來たのか」
「そんな氣のきいた話ぢやありませんよ。いつか話したでせう、薄墨華魁のことで鞘當てをしてゐる、二本差と藥種屋の若主人」
「間拔けな話さ、身請をされた女郎に未練を殘す二本差の顏を見てやりてえくらゐのものだ」
「ところが、もう見られませんよ」
「逃げたのか、身を隱したのか」
「死んだんです」
「何? 死んだ」
「藥種屋の若主人と、果し合ひの毒酒を呑んで──」
「果し合ひの毒酒?」
「吾妻屋が毒酒と藥酒を二本の徳利に入れて、何方でも好きな方を呑めと言つたさうで、暗討をしかけた弱い尻があるから、大井久我之助もこいつは斷われねえ」
「で、選つたのは運惡く毒酒で、浪人者が死んでしまつたといふ話だらう」
「その通りですよ。お染さんの薄墨華魁は、短刀まで持出して止めたさうですが、二人は意地になつて聽き入れなかつたんですつて」
「吾妻屋はそれで清々したといふのか」
「ところが大違ひで──」
「まさか華魁が後追ひ心中をしたわけぢやあるめえ」
「いえ、薄墨華魁はいゝあんべえに無事でしたが、藥酒を呑んだつもりの吾妻屋の若主人永左衞門も、七轉八倒の苦しみで、毒酒を呑んだ大井久我之助の直ぐ後から息を引取りましたよ」
「毒は兩方の徳利に入つてゐたのか」
「そんな筈はないといふんですが」
「行つて見よう、八。こいつは厄介なことになるかも知れない」
「へツ、さう來なくちや──お蔭で薄墨華魁の元服姿が拜めるといふものだ」
「馬鹿だなア」
平次は大きく舌打をしながら、手早く支度を整へました。
八五郎のやうな桁の外れた貧乏人でさへ、遊女崇拜の風に染まずにはゐられなかつた時代、薄墨の美貌の作つた悲劇の恐ろしさに、さすがの平次も肝を冷やしましたが、事件はこれがほんの發端で、次から次へと、不思議な展開を續けて行くのです。
錢形平次は、吾妻屋永左衞門の女房お染──曾ての玉屋小三郎抱へ遊女薄墨と相對してをりました。
消えも入るやうな、歎きの美女の、哀れ深くやるせない姿を見つめて、平次はさて何んと言ひ出したものか、暫らくは言葉もありません。
多い毛は襟のあたりで惜氣もなく切つて、紫の紐で結んであり、好みの青い衿に黒い帶、凝脂豊かなくせに、異常にほつそりした身體を包んで、深い歎きに身を揉むごとに、それが蜘蛛の巣に掛つた美しい蝶をさいなむやうに、キリキリと全身を絞り上げるのです。
平次はこんな女に逢つたのは、生れて始めての經驗でした。それは單に美しいとか愛嬌があるとか言つた、通り一ぺんの形容詞で片付けられる種類の女ではなく、人間の女性から五濁五惡の血肉を抽き去つてその代りに、天人の玉の乳鉢で煉つた、眞珠の露を入れ換へたと言つた感じです。
遊女崇拜を土臺にした江戸の文化は、大部分恥つ掻きな馬鹿々々しいもので、それは人類の歴史の中の、最も薄汚い頁であつたに相違ないのですが、賣春婦を神格化し、仙臺樣に吊し斬りにされた高尾を、貞烈無比な女と信じた時代の遊女は嚴しい選擇と激しい修業と、かなり高い教養を積んだことも事實らしく、『歌舞の菩薩』といふ形容詞が、必ずしも出鱈目とは言へないものがあつたのでせう。
大門を入れば、極樂淨土──と當時の人は信じ切つてゐたのです。その極樂淨土に棲む三千の菩薩達、その中でも入山形に二つ星と言はれる、松の位の太夫は今日のミス何々と言つた、お手輕なものでなかつたこともうなづけるのです。
遊び嫌ひの錢形平次、遊里へ足を踏み入れるのを、──當時の道徳とは逆に、男の恥のやうに思つてゐた平次も、眼の前に近々と見た、歎きの太夫、薄墨のお染の、悲しんで傷らざる、上品で痛々しい姿に、思ひも寄らぬ驚きを味はひました。
洗練に洗練を重ね、一點のしみも留めない女の清々しさ、恐らく、そのあらゆる分泌物が馥郁として匂ひ、踏む足の下から、百花妍を競つて咲き亂れることでせう。これでこそ、十六人の男に身代限りをさせ、三人の男の命を奪りもしたのです。さしも頑固の錢形平次でさへ、かう相對してゐると、息詰まるやうな──それは不思議な女の魅力でした。
「どうしませう、錢形の親分さん、私はもう」
頼る主人に死なれては、もとの浮き川竹──の遊女生活に還るか、でなければ、生活の道を一つも知らない、虫のやうにか弱い女として、往來に投り出される外はなかつたのです。
「お氣の毒なことで──毒酒の果し合ひなどは、いかにも魔の差しさうなことだが、間違ひが何處にあつたか、それは調べ拔かなきやなりませんよ、御新造」
平次は職業意識を取戻すと、昨夜事件の起つた部屋に案内して貰ひました。
月見のために用意された東向き二階の八疊で、六疊の次の間があり、さすがにあわてたものか、月見の用意なども昨夜のまゝ薄や萩が、眞晝の陽の中に、ユラユラと影を落してゐるのも、わびしく哀れな姿です。
「お膳はかう三つ、主人は此處で、お客樣お二人は此處でございました。銚子は引つ込めて、盆の上に徳利が二本、それが出た時は私も藝子達も、皆んな次の間へ追ひやられました」
内儀お染──薄墨太夫の説明はなか〳〵行屆きます。
二本出した徳利、一本には毒、一本には靈藥が入つてゐる筈のが、二本とも毒であつたのでは、其處に種も仕掛けもある筈はなく、お染の説明がどんなに念入りでも、錢形平次の調べの役には立ちさうもありません。
「その最後の酒の席に、誰も入つて來た者はなかつたのかな」
「話も入る筈はございません」
「酌は?」
「二人の藝子に任せました。私がゐましては、大井樣に當てつけがましいと存じまして」
「お燗番は?」
「お勝手に任せましたが」
お染の答へは何んの淀みもなく、平次にしても、これ以上立入つて訊くこともありません。
「親分、五丁目の杏齋先生が、お話をしたいことがあるとかで、下で待つてをりますが」
八五郎がさう言つて來たのをきつかけに、平次はこの美しい女房の囚から解放されて、階下の一と間に案内されました。
「これは、錢形の親分。忙がしいところを氣の毒だが、少しお耳に入れて置きたいことがあつてな」
五丁目で賣込んだ本道の杏齋が、平次を迎へて大きな坊主頭を振り立てます。
「杏齋先生、お話と仰しやるのは」
「少々他聞を憚るが」
眼顏で誘ひ合つて、二人は部屋の隅に、吹き寄せられたやうに顏を突き合せました。
「どんなことで?」
「昨夜、あの騷ぎに立ち合つた私が、醫者として甚だ腑に落ちないことがあるのぢや」
「?」
「外でもない、大井久我之助樣の命を奪つたのは、日本には類のない藥で、これは恐らく南蠻物であらう、──ところが、暫らく後で發病した、この家の主人永左衞門殿の呑んだのは、それと全く違つたありきたりの、石見銀山鼠捕り、つまり砒石ぢや。二人の症状はまるで違ふ」
「──」
「念のために、騷ぎに紛れて誰も氣のつかぬうちに、私は二本の徳利を見つけ封印をして持つて歸つたが、家で調べて見ても同じことだ、徳利は伊萬里の無地で、一寸見てはけじめもわからぬが、中味は全く違つた、二種の毒酒が入つてゐるのぢや」
「それは容易ならぬことですが、杏齋先生」
「全く容易ならぬことだ、──これだけ申し上げたら、親分の調べに、何かの助けにならうと思つてな。いや、忙しいことぢや」
杏齋先生は、自分の言ふだけのことを言ふと、ろくな挨拶もせずに、サツサと歸つて行くのです。
「親分、妙なことになりましたね」
八五郎は、話したいことを一パイ溜めた調子で、庭から顏を出しました。
「何が妙なことなんだ」
「あんな良い女が、この世の中に生きてゐると思ふと、あつしはかう、張合ひのあるやうな、情けないやうな、死にたくなるやうな氣持になりますよ」
「それが妙なことかえ」
「外にもまだありますがね」
「どんなこと?」
「下女のお友が、徳利の酒を下水へ捨ててゐるから、私はあわてて止めましたよ。半分はもう捨てられてしまひましたが、まだ殘つてゐるでせう」
八五郎は懷中から白い伊萬里燒の徳利を出して平次に見せるのでした。
「もう一本あつたのか、毒酒の入つてゐた二本は、あの杏齋先生が持つて行つた筈だ」
平次は受取つて匂ひを嗅いで見ましたが、酒の匂ひの外には、何んの特色もありません。
「少し甞めて見ないか、八」
「御免蒙りませう、あつしはまだ死ぬのに少し早いやうで。尤もあんな女と三日も添ひ遂げた上ならコロリと死んでも化けて出るやうな未練がましいことはしませんがね」
そんな大平樂を言ふ八五郎です。
「良い心掛けだ。口惜しかつたら千兩箱を杉なりに積んで見ろ、お前の望み通りになるぜ」
「有難いことに、それが出來ないから百迄も生きますよ」
「無駄は止して、下女のお友は自分の勝手な量見でこの徳利の酒を捨ててゐたのか」
「訊きましたよ、うんと脅かしながらね。三十八にもなつて、口の隅をたゞらせてゐるつまみ喰ひの名人だ、あんまり利口でない代り、何んでもベラベラしやべつてしまひますよ」
「どんなことを」
「萬一、その徳利にも、毒が入つてゐると怖いから、早く捨てた方がよい、──つて、人に教へられたんださうで」
「誰がそんな智慧をつけたんだ」
「手代の佐太郎ですよ、──ちよいと良い男で、薄墨華魁を觀音樣の化身のやうに思つてゐる──これはあのこまちやくれた小僧の春松の惡口ですがね」
「よし、その佐太郎といふのを搜してくれ」
「へエ、先刻までその邊にゐましたが」
八五郎は店の方へ飛んで行きましたが、その時はもう佐太郎は何處かへ出かけた後で、店にも姿を見せなかつたのです。
お勝手へ廻ると、乞食のやうな不氣味な男が一人、下女のお友と立話をしてをりましたが、平次と八五郎の姿を見ると、ひどく驚いた樣子で、横つ飛びに裏通りに姿を隱してしまひました。
「あれは何んだえ」
平次はぼんやり口を開けて立つてみる下女のお友に訊きました。
「虎──といふ男です。滿更の乞食ぢやありません。あれでも昔は傳馬町の伊豆屋の若旦那で、虎松さんと言はれた好い男の成れの果てで──」
口の隅をたゞらした女も、なか〳〵洒落れたことを言ひます。
「あ、薄墨華魁に入れ揚げて、良い身上を棒に振つたといふ──」
八五郎は横から口を入れました。それは界隈に隱れもない噂の種で、若い者を戒める、年寄りの一つの話にもなつてをりました。
平次はチラリと見ただけですが、成程さう言へば、滿更の乞食ではないらしく、身扮も自墮落ではあつたにしても、そんなにひどいものではなく、顏容も尋常、身體なども逞ましく見えたのです。
「あの男はチヨイチヨイ此處へ來るのか」
平次は訊きました。
「毎日その邊へ來てウロウロしてゐますよ。御新造の顏を、一目でも見たいんでせう。あんなになつても、男つて本當に、身の程を知らないものですねエ」
この女も時折は、こんなひとかどのことを言ふのでした。
「ところで、手代の佐太郎は何處へ行つた」
「知りませんよ、私は」
「お前に徳利の酒を捨てろと言つたさうぢやないか」
「──萬一、その徳利にも毒が入つてゐると危ないからつて言ふんですもの」
「こんな徳利は外にないのか」
「もう一本ありますよ、四本二對になつてゐたんで」
「どれ」
お友が戸棚から出してくれた、四本目の徳利を嗅いで見ましたが、これは酒を入れた樣子もなく、中までカラカラに乾いてをります。
「昨夜のお燗は誰がした」
「佐太郎どんですよ。私は料理の方が忙しかつたんですもの」
「二階へ運んだのは、藝子達で」
「誰だえ、あれは?」
平次は不意に顏を擧げました。
「御新造さんの弟さんで、米吉さんですよ」
さう言つてゐるところへ、十七八の前髮立の美少年が、何心ない樣子で、チヨロチヨロとお勝手を出て來ました。
「ちよつと、米吉さんと言つたね」
「へエ」
「お前は御新造のお染さんの本當の弟か」
平次は突つ込んだことを訊きました。
「よく似てゐるさうですから、見て下さい」
米吉は微笑を浮べたまゝの顏を突き出すのです。邪念のない細面で、小柄で色白で、女の兒のやうですが、聲變りのせゐか、聲は思ひの外太く、態度になんとなく人を喰つたところがあります。
「生れは?」
「上州──でも、仲町で育ちました。姉の仕送りで」
「昨夜は何處にゐたんだ」
「仲町の知合ひの家へ行つて、お月見の御馳走になつて、たうとう泊つてしまひました」
「此處に客のあるのを承知でか」
「後で聞いたんです。姉さんは、私を子供扱ひにして、酒の席なんかには寄せつけませんよ」
縞物を短かく着て、何處か大店の小僧とも見える美少年米吉は、平次の問ふまゝに、蟠まりもなく答へます。
「ところで、昨夜の藝子は何處から呼んだ。湯島か、芳町か、それとも──」
「仲町ですよ。少し遠いけれど、泊めてやりやよいと、御新造樣の知合ひの家の藝者衆で、何んでも巴家とか言ひましたが──」
お友の記憶は甚だ覺束ないものでした。
「どんな妓達だ」
「綺麗な藝子さん達でしたよ。一人は藝達者で、一人はそりやお人形のやうで」
お友は眼を細くします。
平次と八五郎は、そんなことで切上げて、本郷の通りへ出ました。
「親分、カラクリはわかりましたか」
八五郎はキナ臭い鼻をして見せます。
「いや、少しも見當はつかない。最初から二本の徳利に毒が入つてゐるなら、吾妻屋永左衞門は、大井久我之助と一緒に死ぬ氣でやつたことになるが、そんな馬鹿なことがある筈はない。矢つ張り最初は二本のうち一本には毒が入つてゐなかつたのだ。それを、何處で摺り換へたか、誰が毒を入れたか」
平次もそれ以上のことはわからない樣子です。
「何處へ行くんで、親分」
「五丁目の杏齋先生のところだ。三本目の徳利の酒に、毒があるかないか見て貰ひたい」
「成程ね」
二人は杏齋の門に立つたとき、杏齋先生は病家へ駕籠で出かけるといふところでした。
「先生、三本目の徳利が見つかりましたよ。これに毒があるかないか、御手數でも調べて頂きたいんですが」
平次が駕籠を停めて、袖の中から白伊萬利を出し、杏齋先生の鼻の先へ出すと、杏齋は駕籠に乘つたまゝ、
「どれ〳〵匂ひはないな、味は──?」
と掌に酒を垂らしてペロペロと甞めるのです。
「先生、毒が入つてゐちや危ないぢやありませんか」
平次の方が驚きました
「なアに、大丈夫、私は不死身だよ──これくらゐのことで命に拘る毒といふものはない筈だ」
などと舌鼓を打つて見せるのです。
「あつしのやうな無法者も、そいつは氣味が惡くて甞め兼ねましたよ」
それは八五郎でした。
「いや、甞めなくてよかつたよ。この酒には矢張り南蠻物の毒が入つてゐる。嘘だと思ふなら、少しやつて見るがよい、舌を絞るやうな、惡く苦いところがある」
杏齋先生は言ふだけのことを言ふと、駕籠を急がせて行つてしまひました。
「親分、驚きましたネ」
「驚くことはないよ、三本とも毒の入つてゐる方が、筋道がはつきりしてゐるんだ──今日はこのまゝ歸つて考へて見るとしよう」
平次はそのまゝ事件に背を見せるのでした。
毒酒事件がそのまゝ迷宮入りになつて、錢形平次の叡智も一向埒があかぬまゝ、幾日か過ぎました。
この邊で八五郎が、『大變』を持ち込んで來る段取りですが、今度は思ひも寄らぬ方面から、その『大變』が舞ひ込んで來たのです。
吾妻屋の手代佐太郎は、あの日から行方不明、主人永左衞門の葬ひが濟んでも歸つて來ず、平次は精一杯手を伸ばしてゐたにも拘らず、そのまゝ江戸の坩堝の中に溶け込んでしまつたかと思はれてから四日目、橋場の渡しの近くに、佐太郎らしい水死人が上がつたといふ知らせを、吾妻屋の内儀お染の弟、あの美少年の米吉が教えに來てくれたのです。
平次と八五郎が橋場へ行つてみると、丁度檢屍も濟んだばかり、吾妻屋から番頭の嘉七と、小僧の春松がやつて來て、死骸を引取つて行かうといふ眞際でした。
「錢形の親分さん、大變なことになりましたが」
重なる不祥事に、番頭の嘉七は泣き出しさうにしてをります。
「どれ〳〵」
筵を取つて見ると、紛れもなくそれは、吾妻屋の手代の佐太郎で、その精力的な身體や、ちよいと好い男に變りはなく、濡れ鼠になつて着崩れてゐても、澁い好みの袷などは、水死人には勿體ないやうです。
「おや、ひどい傷だが」
死骸の後頭部のひどい傷は、石か何にかで毆つたものでせう。柘榴のやうに割れて水にふやけてをりますが、これをやられてから、水に投り込まれたらしく、身體に水死人らしい特徴は一つもありません。
「山谷堀から流れて來たのかな」
八五郎でした。
「昨夜の上汐で、下の方から押し流されて來たのかも知れない」
それはいづれにしても、昨夜のうちに水に投げ込まれたことは間違ひありません。
「懷中物は?」
「百も持つちやゐませんよ。拔かれたんですね」
番人は忌々しさうです。
「ところで番頭さん」
「へエ〳〵」
嘉七はあわてて振り返りました。ひどく萎びた中老人ですが、吾妻屋の先代から勤めてゐる白鼠で、着實さうなことはこの上なしです。
「昨夜吾妻屋から出た者はないのかな」
平次の問ひは當然でした。
「一人も出たものはございません。御新造樣は早くから、お休みになりましたし、米吉さんは二階へ、私と春松は戸締りを見廻つて、その下へ休みました。お友は出るわけも御座いません」
小僧の春松は、それを肯定するやうに默つて聽いてをります。不在證明は吾妻屋の屋根の下に住んでゐる者に限り極めて完全です。
「ところで、もう一つ。あれから御新造の樣子はどうだ」
平次は突つ込んだことを訊ねました。
「見上げた方で御座います、朝晩念佛三昧で、愼み謹んでをります。一足も外へ出ることではございません」
「──」
「さう申しては何んですが、あれが君傾城の果てとは、どうしても思はれません。たいしたお心掛けでございます」
嘉七の言葉は老實そのもので何んの誇張があらうとも思はれません。
やがて釣臺に載せた佐太郎の死骸は動き出しました。後ろへしよんぼりと從ふ嘉七と春松、少し離れて平次と八五郎も、途中までは一緒に行かなければなりません。
「變な殺しですね、──あの毒酒の果し合ひの續きでせうか」
「──」
「あつしは、あれはあれ、これはこれといふ氣がするんですが。佐太郎はフラフラと遊びに出て、吉原で居續けた揚句、一文なしになつて、歸るところを、辻強盜か何んかにやられたんぢやありませんか」
八五郎は一應の順序を立てますが、
「主人が變死した翌日、葬式も出してゐないのに、奉公人の佐太郎が吉原へ遊びに來たといふのか」
平次にさう言はれると一言もありません。
湯島の天神下にかゝると、
「あの晩中裁に入つた、國府彌八郎樣のお屋敷はこの邊ぢやないか」
「直ぐ其處ですよ」
「ちよいと寄つて見よう」
平次は良いところに氣がつきました。國府彌八郎は小祿ながら聞えた御家人で、四十年配の分別盛りを、道樂と洒落つ氣で暮してゐる武家でした。
「平次親分か、──よく來てくれた。まア〳〵寛ろいで、ゆつくり話して行つてくれ」
などと友達付き合ひで如才もありません。
「實は、あの晩──吾妻屋の毒酒の果し合ひの時の樣子を詳しく伺ひたいのですが」
平次は早速要件に入りました。
「良いとも、どんなことを話せばよいのだ」
「徳利はたしかに二本出たのでせうね──三本ではなく」
「その通りだ。その前の酒は燗の良いのであつたが、果し合ひの酒は、白伊萬里の徳利に入れた冷酒が二本、──吾妻屋がわけを話して、果し合ひを申し出ると、大井氏はさすがに驚いたらしく、暫らくは睨み据ゑて口もきかなかつたが、隣りの部屋で内儀のお染殿が、自害しようとする氣配を聽くと大井久我之助殿、サツと顏色を變へて、二本の徳利のうち、吾妻屋の方に寄つた遠いのを取上げた」
「その時席に三人の外に人はゐなかつたので?」
「ゐなかつたが──一人の若い藝子がアタフタと入つて來て、吾妻屋に──御新造樣が──と囁いた。吾妻屋は面倒臭さうに拂ひ退けて、邪魔だ、向うへ行つてゐろ──と叱つた」
「それは初耳でした」
「つまらないことだから、言はなかつたのだ」
國府彌八郎こともなげに言ふのです。
「その時、藝子は徳利を換へた樣子はありませんか」
「氣がつかなかつた。何分、たゞごとならぬ二人の意氣込みで、私も氣が張つてゐた。が二人の藝子が内儀の自害を止めて、そのうちの一人がそれを教へに來たことに間違ひはなく、徳利を換へる隙などはなかつた筈だと思ふ」
「さうでせうか」
平次は何やら腑に落ちぬらしく考へ込むのです。
「ところで、平次親分は、これをどう思ふ。吾妻屋は大井久我之助殿を殺して、最初から自分も死ぬ氣でやつた細工ではないのか」
「飛んでもない、──千兩箱を杉なりに積んで、あれだけの太夫を身受けした吾妻屋の主人が一年も經たないうちに死ぬ氣になるでせうか」
「成程な、諸行無常を感ずるのは、貧乏人か、振られ男に限るといふわけか、ハツハツハツハツ」
國府彌八郎は自分の警句に堪能してカラカラと笑ふのです。
無事な日は五日、七日と過ぎました。
大井久我之助と、吾妻屋永左衞門を、一ぺんに殺した毒酒の祕密もまだわからず、吾妻屋の手代佐太郎を、石で叩き殺した下手人の見當もつかぬうちに、お月樣は一と晩毎に痩せて、江戸の街もやがて惡魔の跳梁に都合の良い、闇夜續きになつて行きます。
「親分、今日は良い日和ですぜ、ちよいと遊びに出ちやどうです。ヂツとして煙草ばかり吸つてゐるのは、身體のために毒ですよ」
などと、一とかどのことを言ひながら、子分の八五郎は幾日目かの顏を見せました。
「遊びに行くほどの小遣ひでもあるかえ、大層機嫌が良いやうだが」
平次は悠然として、日向のとぐろをほぐさうともしません。
「御存じの通りで、金には縁がありませんよ。尤も女の子には持て過ぎて困るんだが」
さう言つて長んがい顎を撫で廻す八五郎です。
「へエー、大層なことになるものだね、世並が惡いわけだ」
「さう馬鹿にしたものぢやありませんよ」
「相手は何處のおん婆さんだえ」
「そんなイヤな代物ぢやないんで、へツ。入山形の二つ星、眉は落したがお燈明をあげてえくらゐの代物で──」
「吾妻屋の後家ぢやないのか、あれは止せよ八。下手なちよつかいを出すと、飛んだ恥を掻くぜ。第一お前にはお職過ぎて、お染八五郎ぢや床に乘らねえ」
平次は少しムキになりました。吾妻屋の後家、曾ての薄墨太夫のお染が相手では、八五郎深草の少將ほど通つたところで、モノになる道理はありません。
「その吾妻屋の後家が言ふんですよ『八五郎親分、濟みませんけれど、毎晩泊りに來て下さいませんか、淋しくて心細くて、私誰かにどうかされさう、氣味が惡くて叶はないんですもの、──親分はお一人ださうだから何處からも尻の來る氣づかひはないんでせう、後生だから』と、里訛りの拔けきれない言葉で口説いて、頤の下のあたりで、手をもむやうな拜むやうな恰好をするんです。その色つぽさといふものは──」
「よさないかよ、馬鹿々々しい。お前がそんな恰好をしたつて、少しも色つぽくなんかなりやしないよ、擽ぐつたい野郎だ」
「へエ、擽ぐつたいんですかねえ、あつしといふ人間は」
「お前と話をすると臍のあたりがムズムズするよ」
「まるで蚤ですね」
「それほど思ひ込まれたら、八五郎も男冥利だ、二た晩三晩行つて泊つて見るか」
「行つてもいゝんですか、親分」
「用心棒に泊る分には構はねえが、吾妻屋へ婿入りしようなんて量見は出すな」
「お職過ぎますかね、あの後家は? 高慢で無愛想で、ヒヤリとしたところがある癖に、何んかの彈みでニツコリすると、ゾツとするほど色つぽいところがありますよ、あの女は」
でも八五郎はイソイソと飛んで行きました。江戸一番のフエミニストの八五郎が、首尾よく用心棒の役目を果して、平次が期待する、吾妻屋の祕密を探つて來るでせうか、甚だ覺束ないことです。
三日經たないうちに、八五郎はもう最初の報告を持つて來ました。
「親分、あの家は變な家ですね」
その酢つぱさうな顏を見ると、勇敢なる騎士が戀の成功を納めたとは受取れません。
「まさかあの後家に手ひどく彈かれたわけぢやあるまいな」
「大丈夫ですよ、まだ亭主の三十五日も濟まないうちから私がそんなことをするものですか」
「大層義理堅い人だね」
「第一あの女は、あつしが側にゐると、一日一と晩經つても白い齒も見せませんよ。妙にかうヒヤリとして」
「お前といふものに用心してゐるのさ」
「そんな筈はねえと思ふんだが──」
八五郎の甘さ。
「ところで、變なことといふのは何んだ」
「みんな變ですよ。主人の死んだのを良いことにして、番頭の嘉七はセツセと取込んでゐる樣子だし、下女のお友はつまみ食ひばかりしてゐるし、後家のお染は取濟して冷んやりとしてゐるし、弟の米吉は、姉の部屋へばかり入り込んで、こちとらには鼻汁も引つかけないし──あの米吉といふ野郎は、氣の知れない若造ですよ。物腰は女みてえに妙に物靜かなくせ、ひどく氣性に激しいところがあつて、小僧の春松などは、うつかり甞めたことを言ふと、ひどい眼に逢はされますよ」
「綺麗な男だつたな」
「さすがは姉の弟で、芝居の色子にも、あんな綺麗な男の子は滅多にありませんね、小柄で。華奢で、聲變りで變な太い聲さへ出さなきや、女の子と間違へますよ」
「それつきりか」
「まだありますよ。橋場で殺された佐太郎は、勿體なくも主人の配偶のあのお染さんに夢中だつたんですつてね」
「不都合な話ぢやないか」
「尤も、薄墨華魁の客の一人だつたといふから、無理もありませんがね。知らぬは亭主ばかりで、女房が勤めをしてゐる時の客の一人が、店にゐる手代だつたとは、死んだ吾妻屋も氣がつかなかつたでせうよ」
「フーム」
遊女制度の不都合さで、金さへ出せば、誰でも客になれたことが、この不倫な結果を生んだのでせう。
「主人が生きてゐるうちは愼んでゐた樣ですが、主人が殺されると忽ち羽をのばして、三日經たないうちから、主人の後家に絡みついてゐたといふから、佐太郎にも殺されるだけのわけがあつたかも知れませんね」
「その佐太郎が殺された晩、吾妻屋の家の者は、一人も外へ出なかつた筈だな」
「生憎みんな家にゐたさうで、どう詮索しても、佐太郎殺しの下手人は、吾妻屋にはゐませんよ」
「外に變つたことは?」
「何んにもありませんね。尤も、あの下女のお友といふのは出戻りださうで、世帶の苦勞も情事の苦勞も劫が經てゐますから、妙なところへ眼が屆きますよ」
「──」
「佐太郎が惚氣交りに話したことや、内儀と米吉が、夜も晝も奧の部屋に籠つて、綾取り双六、毬つきと、他愛もないことばかりして遊んでゐることも、あの女が見屆けてくれましたが」
「それから?」
「それつきりですよ。あ、さう〳〵、伊豆屋の虎松、相變らず乞食からお釣錢の來さうな風體で、朝から晩まで吾妻屋のあたりをウロウロしてゐまさア。後家のお染さんはそれを嫌がるまいことか」
「──」
「虎松は身扮こそ惡いが、若くて丈夫さうだから、うつかり追つ拂ふわけには行きませんよ。番頭の嘉七などは、見て見ない振りで、あつしが氣を揉んだくらゐぢや、どうにもなりやしません」
八五郎の報告はざつとこんなものでした。
それから又四五日經ちました。吾妻屋の主人永左衞門の二た七日が濟んで、月も九月に改まつて間もなく、八五郎は二度目の報告を持つて飛んで來ました。まだ朝のうちです。
「何んだ、八」
「大變なんですよ、親分」
八五郎は格子に絡みついで息を繼ぎました。
「何がどうしたんだ」
「四人目がやられましたよ」
「四人目?」
「伊豆屋の虎松が、吾妻屋の裏木戸の前で喉笛を切られて血だらけになつて死んでゐますよ」
「よし、手を緩めると、飛んでもねえ業をする畜生だ。行かう八」
平次は手早く支度をすると十手を腰に、ポンと飛び出します。
「あれ、まだ御飯が──」
うろ〳〵するお靜へ、
「すぐ歸つて來るよ──味噌汁のさめねえうちに」
本郷三丁目はさして遠い道ではなく、簡單に埒をあけてと思つた平次も、こればかりは飛んだ見當違ひでした。
物をも言はずに、吾妻屋の裏通りへ駈けつけた平次、木戸の前に、引取手もなく筵をかけてある、虎松の死骸の前へ立止りました。
「親分、飛んだ早い足ですね」
八五郎はフウフウ言ひながら追ひつくのが精一杯。
「味噌汁の冷えねえうちに、下手人を縛る氣で飛んで來たよ──おや、これはひどい」
平次は死骸を見張つてゐる町役人や、番太の老爺に挨拶して、早速筵をハネのけました。死骸になつた虎松は、この時漸く三十二三、分別も思想も一人前に圓熟する筈の年を、薄墨華魁に現を拔かし、傳馬町で唄はれた伊豆屋の身上をフイにしてしまつて、乞食同樣の姿になりながら、一度契つた薄墨が忘れられず、請出されて人の女房になつた後までも、落ちぶれ果てた姿で、ウロウロと附き纒つて、恥を恥とも思はぬ、不思議な生活を續けてゐたのです。
顏立ちもよく整つて、恰幅も見事ですが、戀に狂ふ型の人間によくある、やゝ肥り肉の多血質で脹れつぽい眼、多い毛などが妙に人目につきます。
着てゐるものは、昔の榮華を偲ばせる絹物ですが、滅茶々々に破れて芝居に出て來る乞食といふ風體、皮膚の色も陽に焦けて、手足の垢づいてゐるのも淺ましい樣子です。
傷は右首筋、匕首か何んかで、廻しながらザクリと切つたもの、返り血を受けないために、恐らくは後ろから手を廻して刄物を引いたものでせう。
「刄物は、すぐ足の下の下水に投り込んでありました、──こいつは自害ぢやありませんか」
「いや、これだけ切ると自分の手が汚れる筈だ」
「少しは血がついてゐますよ」
「自分でやつたのなら、そんなこつちやあるめえ。それに右手を使つて、かうは自分の喉を切れるもんぢやないよ、──虎松は左利きなら話は別だが」
「もう一つ、鞘が虎松の懷から出て來ましたよ」
「こじりは何方を向いてゐた」
「外を向いてゐましたよ」
「落付いたやうでも、下手人はあわててゐる證據だ。こじりを外へ向けて自分の懷ろへ匕首の鞘を突つ込む奴があるものか、それに、自分でやつたものなら鞘を自分の懷ろへしまひ込まずに、反つて捨てるのが本當だらうよ──多分後ろから行つて、聲をかけて油斷をさせながら、刺したものだらう、虎松と親しい人間の仕業だ」
平次の觀察はさすがに行屆きました。
「錢形の親分」
年配の町役人が平次に聲をかけます。
「何んです、佐野屋さん」
「吾妻屋の内儀さんが、この死骸を引取つて葬つてやりたいと言つてゐるが、どうしたものでせうね」
事情をよく知つてゐるらしい町役人はひどく腑に落ちない顏をします。
「奇特なことぢやありませんか。お望み通りにしてやつたら、死んだ伊豆屋の虎松さんも、どんなに喜ぶことでせう」
平次は簡單に賛成しました。吾妻屋の主人が死んで、まだ三七日にもならないのに、生前の戀敵とも言ふべき虎松の死骸を、後家のお染が引取るのは、一應出過ぎたことのやうにも見られますが、裏木戸の外に死骸を晒して、何時までも諸人に見られるよりは、反つてその方が恥を小さくする方法かもわかりません。
「錢形の親分さん、さぞ、差出がましい女とさげずみなさんしたでせうね」
死骸は御勝手の隣りの薄暗い部屋に移され、形ばかりの香花は供へられました。
平次と八五郎も、ツイ手傳つてやる氣になつて、何んとなく動いてゐると、やゝ一段落になつた頃、後家のお染が沈んだ顏を、そつと廊下から覗かせたのです。
「いや、飛んだ功徳ですよ。伊豆屋虎松とも言はれた人が、犬猫のやうに死骸を扱はれちや可哀想だ」
平次は心からさう言つた調子です。死んだ者には、何んのとがもあるべき筈はないのです。
「さう聞いて安心いたしました。昔の恥になりますけれど、私のためには隨分苦勞をなすつた虎さんですもの、死んでしまへば、憎からう筈はありません」
靜かに部屋の中に入つて來たお染は、黒つぽい袷、切髮が首筋に淀んで、素顏にほのかな紅を呑んだのさへ、驚くべき効果的な魅力ですが、虎松の死骸の側に寄つて、たしなみよく香を捻る姿は、あはれ深くも美しいものでした。
「ところで御新造──いや今では内儀さんと言つた方がよいでせう、──昨夜この家から、外へ出た者はなかつたでせうか」
平次は場所柄を無視してかう訊ねました。
「一人もなかつた筈でございます。嘉七どんと、お友に訊いて下さい」
「──」
「私は奧の部屋へ一人で休んでをりますし、弟の米吉はたつた一人で二階へ、その梯子段の下には、番頭の嘉七どんと小僧の春松が休んでをります。一人で外へ出て誰にも氣取られないのは、下女のお友くらゐのものでございませう」
お染は掌を返して、口許へ持つて行きました。よつぽど笑ひたいのを我慢した樣子です。
「念のため、家の中を見せて貰ひます」
「どうぞ、御自由に」
お染は少しツンとして、自分の部屋へ引取りました。錢形平次の執拗な疑ひに對して、嬌瞋を發した姿です。それは怒つた孔雀のやうな、不思議な氣高さと華やかさを持つたものです。
平次は番頭の嘉七に案内させて、ざつと家中を調べて見ました。二階への梯子段は一つで、その上に休んでゐる米吉は、梯子段の下の六疊に休んでゐる嘉七と春松に知られずに、夜中便所へも起きられないことは確かでした。
内儀のお染の部屋は、階下の一番奧の六疊で、一應どの部屋とも掛け離れてをりますが、平次はその部屋の外に、無用な梯子が掛けつ放しであり、それを登つて、庇傳ひに行けば、米吉の寢てゐる二階六疊の窓に、わけもなく達することを發見しました。
「八、あの庇から向うの窓に行けるだらうか」
平次に聲をかけられると、梯子から庇を渡つて米吉の部屋の前まで行つて、變な顏をして戻つて來た八五郎は、
「庇の上は鎌倉街道だ。散々苔が踏み荒されて、二階の窓は外からでも格子が外れますよ」
と、思ひも寄らぬ報告です。
「よし〳〵、それで大方わかつたよ。お前は下女のお友と仲よしになつたやうだから、精一杯口説いて見てくれ、昨夜何んか變つたことがあつたに違げえねえ。それから下つ引を二三人狩り出して。伊豆屋の虎松の巣を突き留め、手一杯に搜させるんだ」
「親分は?」
「俺は吉原へ行つてくる、──變な顏をするな、遊びに行くんぢやねえ、巴屋といふ藝者屋と、編笠茶屋の裏の當り屋といふ料理屋を探るんだ」
「承知しました、それぢや」
「待つてくれ、もう一つ頼みがある」
「何んです、親分」
「お前も氣がついてゐるだらうが、内儀の弟の米吉が男にしちやあんまり綺麗だ、どうかするとありや女ぢやないのかな──聲は太いが、音曲で喉をつぶすと、女でも隨分あんな聲になることもあるだらう──それを試して貰ひたいんだ。いきなり懷ろへ手なんか入れちやいけないよ。何んとか、うまい工夫をして、──何をニヤニヤ笑つてゐるんだ」
「それならもう濟みましたよ」
「何が?」
「あつしも、あの野郎がどうも女のやうな氣がして仕樣がないんで──親分に叱られさうですが、到頭やりましたよ」
「何を?」
「いきなり尻を捲つたんで、へツ」
「ひどいことをするな、お前は」
「男姿だから、ふざけた振りをしてやりや何んでもありませんよ。女なら尻を捲られると、キヤとかスーとか言つて、いきなりペツタリ坐るが、野郎なら、ヂツとしてゐて怒鳴るでせう──この野郎、ふざけた事をしやがるとか何んとか」
「呆れた野郎だな」
「安心して下さい、ありや確かに男ですよ。毛脛が大變で──その上切り立ての犢鼻褌をして威張つてゐましたよ」
八五郎の説明は途方もないものでしたが、この冒涜行爲も、相手が確かに男とわかつて、平次の神經を痛める程の事件でもありません。
平次は先づ吉原の巴屋へ行つて訊きましたが、女將は、
「あのお月見の晩、もとの薄墨華魁からの使ひで、お酌を二人本郷の吾妻屋さんへよこして貰ひたい、どうせ泊めるから、遲くなつても心配しないやうにといふお話でしたが、一人は病氣で出られなかつたので、お袖といふのを一人だけ本郷へ駕籠で送りました」
と、いふ思ひも寄らぬ挨拶です。
そのお袖といふお酌に逢つて見ると、十五六のなか〳〵才氣走つた娘で、
「向うへ行つて見ると、私より二つ三つ年上らしい、もう一人のお酌がをりました。柳橋から來たといふことで、自分でたよりといふ名だと言つてをりました。唄はいけませんでしたが、踊りは一と通りで、何より、それは〳〵綺麗な人でした」
そんなことを話すのです。その晩吾妻屋の主人は大井といふ浪人者の爭ひが始まつてから、二人のお酌は怖いので次の間に逃げてゐたが、薄墨華魁が自害をしようとしたので、二人がゝりでそれを止め、たよりが次の間へそのことを知らせに行つて間もなく、大井といふ浪人者が苦しみ出し、續いて吾妻屋の主人も苦しみ出したといふのです。
「あんな怖い思ひをしたことはありません──でもたよりさんは何時の間にやら歸つてしまつて、私一人、翌る日の朝まで下女のお友さんの部屋にもぐり込んで顫へてをりました」
お酌のお袖は、かう言ふのでした。
「外に氣のついたことはないのか」
平次はもう一と押し押しました。
「あの騷ぎの中でたよりさんが袂の下に白伊萬里の徳利を隱すやうにして、隣りの部屋へ行つたやうです」
「何? それは本當か、大事なことだが」
「でも、そのまゝ持つて戻りました、──間違ひはありません。變なことだと思つて、よく覺えてをります」
「有難う、それでわかつた」
平次は巴屋を飛び出すと、編笠茶屋の裏の小料理屋、當り屋へ行つてをりました。四十五六の女房が一人、商賣物の料理の支度をしてをりましたが、
「米吉のことですか、──あの子は薄墨華魁の先代の、矢つ張り薄墨と言つた華魁の隱し子で、男の子のくせに、禿になつてゐましたよ、可愛いゝ坊主禿でした。先代の薄墨華魁が死んだ後は、何んでも色子になつたとか妙な噂もありましたが、吾妻屋さんに身請された二代目の薄墨華魁が見つけて來て、大層世話をしてをりました。男つ振りが好いのと小柄なので十七八にしか見えませんが、もう二十より下ではない筈です。女に化けるかと仰しやるんですか、それはもう男姿よりは、女姿の方がピツタリとするくらゐで、地聲は太い人ですが裏聲を使ふと、どうしても女としか思へません」
女房の話は平次を驚かすに十分でした。どうして此處へ氣がつかなかつたのか、毒酒と藥酒の詭計があまりにも鮮かだつたので、さすがの平次の叡智にも盲點があつたのです。
「月見の晩、此處へ泊らなかつたのか」
「泊りやしません。宵に一寸姿を見せて預けてある荷物を持つて行きましたが──」
それで充分でした。引揚げて神田明神下の自分の家へ歸ると、八五郎はもう鼻の下を長くして待つてをります。
「親分、大變なことを聽きましたよ。昨夜、あの取りすました後家華魁のお染が──」
「乞食のやうな虎松を引入れて、大變な口説をしたといふのだらう」
「その通りですよ。下女のお友が一から十まで、隙見をしてゐたんですつて──いやもう大變な見ものだつたさうですよ」
「金のためには、國守大名にも乞食にも、平氣で身を賣つた女だ。虎松に脅かされてそれくらゐのことをするのは當り前だ」
平次は早くもそれを見通したのか、さして驚く色もありません。
「それから、虎松の巣はわかりました。妻戀稻荷の裏の物置、かき廻して見ると、血のついた手拭が出て來ましたよ。血の外に泥がついて、眞中が毮つたやうに切れてゐますが──」
「その手拭に石を包んで佐太郎を毆つた上、大川へ投り込んだのだ──手拭を捨て兼ねたのは乞食根性だが」
「すると」
「もうよい、行かう八、三丁目の吾妻屋だ。お前は下つ引をつれて行つて裏表の出入口を張つてゐるんだ。俺は中へ入つて少し搜すものがある」
平次は吾妻屋へ着くと、番頭の變な顏をするのを案内させて、いきなり二階の米吉の部屋へ行きましたが、押入の中の行李を搜しても、目當ての物はなかつたのか、直ぐ樣奧の一ト間──後家のお染の部屍に飛び込んで、箪笥、長持、押入、戸棚と搜した揚句、思ひも寄らぬところから、若い藝者の着さうな、派手な振袖を見つけて、嘉七の鼻の先へ持つて行くのでした。
「この振袖は、月見の晩、年を取つてた方のお酌の着てゐたものに相違あるまい」
「へエ、そのやうで」
平次は合圖する間もありませんでした。裏口へ飛び出した後家のお染は、下つ引のマゴマゴする手の下を掻いくゞつて逃げてしまひ、表へ飛び出した美少年の米吉は、八五郎の手に、骨を折らせながらも繩を打たれてしまつたのです。
× × ×
薄墨華魁のお染が、水死體になつて大川に浮んだのはその翌日、美少年米吉は吾妻屋永左衞門と、伊豆屋の虎松を殺した罪で、獄門になつたのはその後のことです。
一件落着後、平次は八五郎のためにかう説明してやつたのです。
「米吉は坊主禿から成人して色子になりお染の薄墨太夫に拾はれて、その間夫になつたのさ。商賣女のいか物喰ひだよ。吾妻屋に身請されてからも、顏の一寸似てゐるのを幸ひ、弟といふことにしてつれ込み、不義の契を重ねてゐたが、矢つ張り吾妻屋永左衞門が邪魔になつて殺す氣になつたのだ」
「へエ? 恐しい女ですね」
「尤もあの月見の晩は、吾妻屋の方にも惡企みがあつた。最初果し合ひに持出した徳利には、二本とも南蠻物の毒藥を仕込み、大井久我之助は何方を取つても助からないやうに仕組んだのだ。そして大井久我之助がそれを呑む──といふ息の詰まるやうな時分を狙つて、お酌に化けた米吉が、毒の入つてない徳利を持出し、それを主人の永左衞門が呑んで、目出度く大井久我之助だけを死なせる手筈だつたが──」
「──」
「物事はさう都合よくは行かない。お染と米吉は相談をして、主人の永左衞門が飮む筈の、三本目の藥酒の入つた徳利に、石見銀山鼠捕りを投り込んだのだ。永左衞門はそれを飮んで死んだ。杏齋先生が持つて行つた徳利二本の毒が違つてゐるわけだよ、──そして、お酌のお袖が──たよりに化けた米吉が、徳利を持つて行つて又持つて歸つたと言つてゐるのも本當だ。石見銀山の徳利を持つて行つて、南蠻物の毒酒を持つて戻つたのだ」
「ひどいことをしますね」
「ひどいのはそれからだ。それを嗅ぎつけて、お染へしつこく絡みついた佐太郎を、虎松に誘ひ出させて打ち殺させ、──虎松がこれを根に持つて、乞食姿にも恥ぢずに、お染を口説き廻ると油斷をさせて置いて木戸の外へ送つて出た米吉に刺させたのだ」
「──」
八五郎も默つてしまひました、あまりのことに、口をきく張合ひもなくなつたのです。
「何千人の男と掛り合つた女──の中には稀にこんなのもあるだらうよ。怖いことだな、八」
「へツ、乞食と華魁の色模樣なんざ、たまらねえな」
八五郎は平次の教訓より、この歪んだ情事の方が、遙かに面白さうです。
底本:「錢形平次捕物全集第三十四卷 江戸の夜光石」同光社
1954(昭和29)年10月25日発行
初出:「サンデー毎日」
1950(昭和25)年7月23日号~8月6日号
※題名「錢形平次捕物控」は、底本にはありませんが、一般に認識されている題名として、補いました。
入力:特定非営利活動法人はるかぜ
校正:門田裕志
2017年5月11日作成
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