錢形平次捕物控
死の祕薬
野村胡堂




「親分、長生きをしたくはありませんか」

 八五郎がまた、途方もないことを言ふのです。

 晴れあがつた五月の空、明神下のお長屋にも、さはやかな薫風くんぷうが吹いて來るのです。

「へエ、よく〳〵死に度い人間は別だが、大抵たいていの者は長生きをし度いと思つてゐるよ──尤も」

 と言ひかけて、平次はニヤニヤしてゐるのです。

「何んです、氣味が惡いなア、あつしの顏を見て、いきなり笑ひ出したりして」

「それより、お前の話を聽かうぢやないか。長生きの祕傳でも教はつたのか」

傳授事でんじゆごとぢやありませんよ。不老長壽の藥を賣出した奴があるから、江戸は廣いでせう」

「江戸は廣いなア。お前のやうに、何んの藥も呑まずに、百までも生きようといふ、のんびりした人相を備へた奴も住んでゐる」

 平次の可笑をかしがつたのは、鼻の下を長くした、天下太平の八五郎の人相だつたのです。

「からかつちやいけませんよ。その不老長壽の藥が當つて、この一二年間に大した金儲けをした人間があつたとしたら、どんなものです」

「結構なことぢやないか」

「二三年前までは、唯の藥種屋だつたのが、或夜神農しんのう樣とやらが夢枕に立つて、不老不死の祕法を教へたとある」

「有難いことだな」

「それを賣出したが、一錠一朱といふ小判をせんじて呑むより恐ろしい値だが、世の中には金持が多いから、賣れるの賣れねえのと言つて」

 八五郎は身振り澤山に説明するのです。

「不老不死は嬉しいね。尤も一年や二年では、目立つほど年を取らないから、藥の効能書などに文句を言ふ人間もないわけだ」

「その藥を呑んでも、中には死んだのもある。ぢ込んで行くと、その靈藥に食斷しよくだちがある、不養生をして死ぬのは此方のせゐではないと言はれるとそれ迄でせう」

「成る程、食斷ちは氣が付かなかつたな」

「そのお藥を呑むには、食斷ちの外に信心が要る」

「何をやらかしや宜いんだ」

「神農樣をおまつりして、朝夕燈明をあげて、呪文じゆもんを稱へる」

「油ウンケンか何んかやるんだらう。節のねえ呪文なら誰にでも出來るだらう」

「どうせいとに乘る呪文ぢやないから、朝夕ひよぐつたところで、大した手間隙てまひまのかゝる代物しろものぢやねえ。あつしもその祕藥を頂戴して百まで生きる工夫をしようと思ひ立つたが、いけませんよ、親分」

「何がいけないんだ」

「考へても見て下さい。一日一つぶと言つても、その藥が一と粒が一朱、大の月で三十日として、一と月が大負けに負けて一兩二分ぢや、こちとらの手に了へねえ。八所やところ借りをしても、一とまはり保つのが精一杯」

「成程八日目に神農樣の罰が當つて死んぢや、が惡いな。──川柳せんりうにはうまいのがあるよ、『神農は時々腹も下して見』とね」

「親分に逢つちやかなはねえな。そんなことを言ふと神農樣の罰が當りますよ」

「ところで、お前の用事といふのは何んだ。先刻から言ひ難さうに持つて廻つてゐるが、お前も長生きをして見たくなつたのぢやないか」

「それなんです。近頃頭痛がして、無暗にのどかわいて、胸騷ぎがして叶はねえからその有難い藥でも頂いて見ようかと、う思ふんですが」

「その藥代が欲しいといふ謎だらう」

「へエ、お察しの通りで」

「馬鹿野郎」

「へエ?」

「百迄生きる藥なんか、お前なんかに呑まれてたまるものか。一杯呑みたいとか、友達附合ひに要るとか、せめてあのに逢ひたいと言ふなら、女房をいても工面してやるが、そんな野郎に長生きをされちや、──第一叔母さんが迷惑をする、百までも借り倒されちや、洗張り賃仕事ぢやみつぎきれまい、可哀想に」

「こりや、驚いたな、どうも」

「勝手に驚くが宜い。その神農樣のお使ひ姫に、仇つぽいのか、可愛らしいのが居るんだらう。一と月一兩二分のお賽錢さいせんぢや高過ぎるぞ、馬鹿だなア」

「あツ、親分は目が高けえ、百壽園には良いが居るんですよ。あの娘の笑顏を毎日一ぺんづつ服用すると、請合うけあひ百までも生きられる」

「馬鹿だなア、お前が百になる頃には、そのも間違ひもなく九十くらゐの婆さんになる」

「あツ、其處迄は考へなかつた」

「あんな野郎だ、──長生きするのにお前といふ人間は、不老長壽の藥にも及ぶものか」

 平次も笑つてしまひました。まことにんびりした、明神下の初夏の景色です。



 江戸の噂の種を掻き集めて歩く八五郎は、生れながらの新聞記者で、好意と惡戯いたづらつ氣と、好奇心と洒落つ氣にち溢れてをりました。明神下に日參をして、平次に冷かされながらも、性懲しやうこりもなく御披露に及ぶ、數限りもない世間話のうちに、かの百壽園の事件があつたところで、何んの不思議もありません。

 錢形平次は居ながらにして、江戸八百八町に起る、もろ〳〵の事件をかぎ知り、シヤーロツク・ホームズのやうな叡智を働かせて、それを分類し、考察し、市井しせゐに湧き起る、もろ〳〵の事件を解決して行つたのです。

 その事件の多くは、平次のやうな犯罪解剖技術にすぐれた者が現はれなかつたら、闇から闇にはうむられて行つたことでせう。そしてもう一つ、八五郎のやうな猛烈な好奇心の持主がなかつたら、平次の解剖のメスを加へられずに濟んだかも知れません。

 リンカーンは唯良き友人を持つたと言はれます。比喩ひゆが突飛であるにしても、我がガラツ八の八五郎も、江戸中に良き友人を持つてをりました。一方はその人望の故に大統領にまで出世しましたが、ガラツ八に至つては、その人望と愛嬌の故に、平次の驚くべき助手として、次から次と、ニユースを提供し、平次の叡智に磨きをかけて行つたのです。

 百壽園の事件はそれから十日も經たないうちに、世にも不思議な犯罪事件となつて、錢形平次を舞臺の眞ん中に押しだしたのです。

「親分、サア大變ツ」

 八五郎が大變を持込んで來たのは、梅雨つゆ前のよく晴れたある朝、かつを時鳥ほとゝぎすも、江戸にはもう珍らしくない頃です。朝の食事が濟んで、これから出かけようとする鼻の先へ、八五郎の大變が突きのめされたやうに飛び込むのです。

「いつものことだが、きもをつぶすぜ、大變の安賣りは何處だえ」

 平次は、口ほどには驚く色もなく、そのまゝ庭へさそひ入れて、お靜に茶などをれさせるのです。まことに自若たる姿です。

「安賣りなんかぢやありやしません、飛つきりの大變なんで。根岸の百壽園から、下女のお道が飛んで來て、主人の壽齋じゆさいが殺されたから、直ぐ來てくれるやうに──と」

「待つてくれ、その壽齋とやらが、不老不死の靈藥の本家ぢやないか」

「百まで生きる藥も、人殺し野郎に逢つちやかなひませんよ」

「そいつは變な話だ」

「まだ朝飯前でしたよ。顏なじみのお道坊が根岸から飛んで來たんで、驚きましたよ。不老長壽の本家が、今朝殺されてゐる騷ぎで、いやもう」

「お道坊、お道坊と親しさうに言ふが、百壽園の神農樣のお使ひ姫といふのはその娘か」

「お道坊は唯の奉公人で、品の良いポチヤポチヤした娘ですが、まだ十六の肩揚かたあげの取れないおぼこで、──お使ひ姫で、百壽園の看板かんばんになつてゐるのは、壽齋の娘で、十九になるしのぶといふ、これは大變ですよ、百まで生きたい亡者が押すな〳〵だ」

「亡者のくせに百まで生きたいといふのは變ぢやないか」

「一々揚げ足を取らないで下さいよ」

「成程、看板娘の親殺しは、瓦版かはらばんの種になりさうだが、少し變だな」

「でせう。だから、一つ行つて見て下さいよ。根岸までわけはありませんよ」

「三輪の萬七親分と張り合ふのは嫌だな」

「そんな事を言つたつて、あれだけの好い娘を、親殺しの罪で磔刑はりつけにあげちや、天道樣──なに、神農樣に濟まないぢやありませんか。御主人としのぶさんは、決して仲の良い親娘おやこぢやないけれど、お道坊が飛び込んで來たのも無理はありません。百壽園の看板娘、忍といふ、それそのお使ひ姫が、親殺しの疑ひで、三輪の萬七親分に、朝のうちにしよつ引いて行かれたとしたらどんなものです」

「泣くなよ、八。それからどうした」

あつしのやうなケチな人間でさへ、一錠一朱の藥を買ひたくなつた看板娘ですよ。その根岸一番の綺麗な娘が、父親を殺して良いものか惡いものか」

「──」

「お孃さんは、親を殺すやうな、そんな人ぢやないと、泣いてあつしに頼むぢやありませんか」

「それをお前が引受けたのか」

「へエ、親分の分まで引受けてしまひましたよ」

あきれた野郎だ」

 そんな事を言ひながらも、平次は八五郎の顏を立てて、一度その現場を見て置き度い氣になつたのも無理のないことでした。



 不老長壽の藥は、しん始皇しくわう以來の、馬鹿を釣るためのゑさで、それを賣出して、二三年の間に巨萬の富を積んだ百壽園壽齋は、この上もない利口な釣師だつたに違ひありません。その馬鹿の上前をハネる利口者が、蟲のやうに殺されたといふのですから、平次のかんを働かせるまでもなく、其處には容易ならぬものがありさうです。

「親分、此處ですよ」

 植木屋の多い西根岸、御隱殿に近く百姓地を前に控へて、まことに閑靜ですが、社家しやけとも寺とも、れうともつかぬ門構へ、百壽園と船板の看板、洒落しやれたやうな、氣障なやうな、異樣な構への家に、八五郎は案内したのです。

「おや、八兄哥あにい、何處から嗅ぎつけたんだ」

 三輪の萬七は、苦々しくそれを迎へましたが、後に續く平次の顏を見ると、默つて三角まなこを光らせて居ります。

「三輪の親分、一寸見せて貰ひたい。親殺しだと聽いたが、──嫌なことだな、三輪の親分。お膝元にそんな事があつちやならねえ、江戸つ兒の恥だよ」

 平次は年寄り臭いことを言ふのです。

「錢形の兄哥が言ふ通り、俺だつて親殺しを有難がつてるわけではないが、壽齋老人の胸に、あの娘の懷劍くわいけんが突つ立つてゐるんだから、文句はあるめえ」

「──」

「六十男の胸に前から懷劍を突つ立てるのは、娘の外にあるまい、──御檢屍が遲れて、まだ其の儘になつてゐるから、念の爲に見るが宜い」

 三輪の萬七はそれでも先に立つて、奧の一と間に案内するのです。

 藥草園と藥屋と、本道を兼ねた不思議な家、古めかしいはりには一杯に草根木皮さうこんもくひの袋をブラさげ、壁際に幾つかの百味箪笥ひやくみだんす馥郁ふくいくたる間を拔けて、大唐紙を二度ほど開けると、南向きの八疊、眞ん中に床を敷いて、その上にはすつかひに踏みはだかつて、六十歳の壽齋、見るからに恐ろしい入道が、胸を刺されて死んでゐるのです。

「血が少ないな」

 平次が最初に氣のついたのは、そんなことでした。絹物の小掻卷こかいまきを蹴飛ばして、はだけた毛だらけの胸。

「短刀を突つ立てたまゝだから、血の出も少なかつたわけさ」

 萬七は自分が非難されでもしたやうに辯解するのです。

「その短刀は」

「此處に置いてあるよ」

 置床の上に置いた臺の上に、紙に卷いて、血にまみれた女持ちの懷劍が置いてあります。

「その刄物は、女持ちの華奢きやしやなものだ。娘のしのぶが、母から讓られたものだといふよ」

さやは」

「廊下に落ちて居たよ、──これは間違ひのない證據だ」

「此處を刺せと言はぬばかりに、死骸の胸をはだけてゐるのは、どうしたことだ」

「だから娘が下手人さ。間違ひはないよ」

 三輪の萬七は妙な論理を主張するのです。

「親分、濟まないが、一寸」

 平次は折入つた調子で萬七を誘ひました、死骸の側には八五郎を殘して。八疊の隣りの、長四疊は、田舍家らしく雜然として居ります。

「何んだえ、錢形の」

 三輪の萬七は、心持ち肩をそびやかせます。ひどく反抗的になつてゐる樣子です。

「この殺しは、矢つ張り娘の忍ぢやなささうだぜ」

「?」

「親殺しでなくて、江戸の御用聞もお互ひにホツとしたわけさ」

「それぢや、誰がんなことをしたんだ」

 萬七はひどく不足さうです。

「それはまだわからないが、殺したのは、お孃さんでないことは確かだ」

「そのわけは?」

「死骸から刄物を拔かなかつたにしても、血が少な過ぎるよ。六十男と言つても、丈夫さうな人間の心の臟を刺して、こんなわけはないと思ふよ。それに、自分の懷劍で親を殺して、その刄物をそのまゝにして置くのも變ぢやないか」

「──」

「もう一つ、自分の胸をひろげて娘に刺させたとしたら、これは殺しではなくて自害じがいだよ」

「フーム」

「そんな馬鹿なことはないから、念入りに調べて見ると、あれは、胸を突かれる前にひどく太いもので、絞め殺されたに違ひないと思ふ」

「そんな馬鹿なことが」

 平次の話の突飛さに、萬七は憤然ふんぜんとして口をはさみました。

「親殺しでなくて、ホツとしたよ。まア、もう一度よく見てくれ」

「絞め殺したとしても、それは娘でないとは言ひきれまい」

 萬七はなほも喰ひ下がるのです。

「太い紐は怖いよ。首には繩の跡も紐の跡もない。が、口の中と、鼻と、開いた尻を見てくれ。首に跡のつかないやうな、太い紐で絞めたものだ。──そんな太い紐で、聲も立てさせずに、大の男を殺すのは、怖ろしい力だ。若い女の子に出來ることぢやない」

「──」

 萬七は默つてしまひました。



「親分、大變ですよ」

 八五郎は部屋の外からわめくのです。

「大變のき物がして居るやうだよ、お前といふ人間は。何が始まつたんだ」

 平次はいつものことで、腰もあげずにたしなめます。

「下手人が名乘なのつて出たんだ。こいつが大變でなかつた日にや」

 八五郎はなほもわめき續けるのでした。

「成程、そいつは古渡こわたりの大變らしいな。誰だい、その名乘つて出た下手人といふのは?」

「手代の喜之助ですよ、今其方へつれて行きます」

 と言つて置いて、店へ引返した八五郎は、二十四五の若い男、少し華奢ですが、神經質らしい男を連れて、平次と萬七の前へやつて來るのでした。

「お前が主人を殺したといふのか」

 それを迎へて、三輪の萬七が噛みつきさうな顏になるのも無理のないことでした。平次に散々言ひ負かされた後で、何より活きた證據の下手人に名乘つて出られては叶ひません。

「飛んだことをしてしまひました。私が惡うございました。どうぞ、お繩を──」

 喜之助は言ふこともしどろもどろに、大の男のくせに泣きじやくるのです。

「考へて物を言へ、主殺しは磔刑はりつけだぞ」

「へエ」

 さう言ふ全身が木の葉のやうに顫へるのを、唐紙につかまつて、必死と我慢してゐる樣子でした。

「わけを言へ、何んで主人を殺す氣になつたんだ」

「お孃樣との間を疑がはれて、明日にも追ひ出されることになつて居りました」

「疑はれ──と言ふところを見ると、お前はまだお孃樣と出來てゐなかつたのか」

 八五郎が横から餘計な口を出します。

「へエ、附け文を落して、それを主人に拾はれてしまひました。主人はあんな風ですから、カンカンに腹を立てて、三年越し溜めて主人に預けてある給金を、一文も返してくれずに、はだかで追ひ出してやるから覺悟をしろと、昨日言ひ渡されたばかりで」

「何んと言ふ間拔けな面だ」

 三輪の萬七はつばでも吐きかけたい樣子です。

「私は腹立ちまぎれに、主人の部屋に忍び込み、床から拔け出して寢て居るのを、一と思ひに刺しました。その時は夢中でしたが、朝になつて、お孃樣が、親殺しで縛られると、私はもう──」

「どうした」

「お孃さんが親殺しの罪で、磔刑はりつけになると知つては、私の身がどうあらうと、默つてはゐられません。お願ひでございます、親分方。お孃樣は何んにも御存じありません、繩を解いてあげて下さいまし。たつた一と目、今生の別れに、お孃樣の顏を見れば、私はもう、磔刑柱に押しあげられても、怨みはございません」

 喜之助はあふるゝ涙の間から、駄々ツ兒のやうに掻き口説くどくのです。

「それほどお孃樣の爲を思ふお前が、お孃樣の持物とわかつてゐる短刀で御主人を殺したのはどういふわけだ」

 平次は大事のことを訊くのでした。

「そんな馬鹿なことが、あるわけもありません。私は私の持つてゐる匕首あひくちで突きましたが」

「さうだらうと思つたよ。主人の死骸の胸には、傷口が二つあつた。一寸見には一つに見えるが、死んだ人間の身體の傷は正直だ、傷口はまぎれもない二つ、一つは大きく一つは小さい、懷劍の傷は小さい、人でも殺さうといふ奴が、心の臟を二度突き直す筈はない」

「そんな事があつたのか」

 三輪の萬七は乘り出しました。

「その主人を突いた匕首をどうした」

「夜店で買つた、大なまくらですが、血が附いて居て、氣味が惡いから、朝のうちに外へ出たとき、御隱殿裏の大藪おほやぶに捨ててしまひました」

 それを聽いた平次が、八五郎に眼配せすると、八五郎は直ぐ外へ飛んで出た樣子です。

「では、一つだけ訊くが、この家にお前とお孃さんを張り合つた者がある筈だが、それは誰だ」

「そんなものはございません」

「男は居ないのか。お孃さんは大したきりやうだから、男の切れつ端が居さへすれば、一應疑はなきやなるまい」

 萬七も、平次の調べに引摺られて、斯んなところまで氣が廻るのです。

「男と言つても、せん三郎さんと八百吉どんだけ」

「その扇三郎は三十そこ〳〵の若さぢやないか。──尤も女房持ちといふことだが」

「深川にお神さんが住んでゐるさうですが、もとは藝人だつたやうで。本人もそれを自慢にして居りますが、身體は弱いけれど、堅い一方の人です」

「八百吉は」

「あれはまだ子供で、十四になつたばかりで、──その外は下女のお道だけ、これは可愛らしい盛りの十六」

「皆んな唯の奉公人か」

 平次が訊ねました。

「扇三郎さんは番頭さんで、あきなひの事は申すまでもなく、お藥の調合、り方まで手傳ひ、差向き主人が亡くなつても事かないだけの仕事の出來る人です」

「それから?」

「八百吉は少しは惡戲わるさもし、遊びたい盛りですが、何んと言つても、十四では──親許も確かです」

「──」

「お道坊は良い娘です。本當に可愛らしいが、まだほんのねんねで、よく働きますが、──何んでも百壽園の先代の忘れ形見がたみだと言ひますが、引取手がないので、今の百壽園に引取られて、奉公人並に働いてをります。お孃さんとは仲好しで、蔭も日向ひなたもありません」

「すると、いよ〳〵人でも殺しさうなのは、お前の外にはなくなるわけだな」

 三輪の萬七はイヤなことを言ひます。

「親分、私はもう」

 喜之助は手放しで泣くのです。

 その中へ、店の方から又どよみ打つやうに、一團の人數が入つて來ました。眞つ先に立つた八五郎は、

「番所からお孃さんを貰つて來ましたよ。宜いでせうね、三輪の親分」

 八五郎は言はでものことを言ふので、三輪の萬七の苦い顏といふものはありません。

「錢形の親分さんが、お孃さんを救ひ出して下すつたのよ」

 そのお孃さんの後から、そつとさゝやく小さい娘は、下女のお道──あの八五郎を説き落した働き者でせう。

「有難うございます」

 さう言はれて、平次の横の方から、そつと手を突いたのは、目の覺めるやうな娘でした。不老不死の靈藥よりは、もつと利き目のあつたらしい、看板かんばん娘のしのぶと名乘るまでもありません。長い眉毛と、大きい眼と、品の良い頬から襟のあたり、俯向いた姿はまことに非凡です。

 それに寄り添つた小娘、──十六になるといふ、下女のお道も、平次には最初の出逢ひですが、これは初々しく可愛らしく、働き者といふにしては、あまりに邪念のない顏です。

「お孃さん、この懷劍は何處に置いてありました」

「さア、母の形見ですが刄物は怖いから、──いつも、用箪笥ようだんすの上の抽斗ひきだししに入れてある筈です」

 平次の最初の問ひは少し變つてをります。

「その用箪笥といふのは?」

「父の部屋に置いてあります」

「其處へは誰でも入るでせうね」

「いえ、私か、お道でもなければ」

「この店で、左利ひだりきゝの者はありませんか」

「扇三郎はひどい左利きですが」

 平次の問ひは妙な方に發展して行きます。それをうさんに見守る三輪の萬七に平次はそつと囁きました。

「死骸を刺した刄物の跡は、糝粉細工しんこざいくを刺したやうにはつきりわかるぜ。死骸の胸の刄物の跡は三つ、背があべこべになつてゐるのは、一人の左利きの證據だ」

「それは?」

「まア、宜いや、どうせ主人は胸を突かれて死んだわけぢやない。ところでお孃さん、御主人が亡くなつても、藥の商賣には不自由はないでせうね」

「ハイ、番頭の扇三郎どんが、何も彼も承知してをりますから」

 この答へには、容易ならぬ暗示あんじがあるとは、當の忍にも氣が附かなかつたでせう。



「親分、大藪の中で、この匕首あひくちが見附かつたさうですよ」

 八五郎が椽側から聲を掛けました。手には大ダン平ほどの、背の厚い匕首を持つてをります。

「血のあとは?」

「そんなものはありやしません」

「よし〳〵、お前は店に頑張つて、誰も外へ出さないやうにしてくれ。頼むぜ、手が足りなかつたら、──」

「それは大丈夫で、土地の者が五六人手傳ひに來ましたから」

「よし〳〵、油斷をしちやならねえ。それから、店の者を一人づつ此處へよこすんだ」

「へエ、承知しました」

 八五郎が店へ行くと、あとは平次と萬七と二人になります。女二人はお道が先に立つて、お勝手に下がつた樣子です。

「ね、錢形の、匕首で主人を刺したのは、──その時死んでゐたにしても、喜之助に間違ひはあるめえ、本人がさう言ふんだから」

「死骸と氣がつかずに刺したのだらう」

「これも許せねえが、その後で、女持ちの懷劍で、死骸の胸傷あとを刺したのも勘辨ならねえ野郎だ」

「お孃さんに親殺しの罪をせるつもりだつたのさ」

「その野郎は、左利きの番頭の扇三郎だらう。蒼白くてにやけて、嫌な野郎だと思つたが、お孃さんを磔刑はりつけに押しあげて、この百壽園をそつくり横領するつもりだつたんだね」

 三輪の萬七は今にも店へ飛んで行つて扇三郎をしよつ引かうとするのです。

「あの野郎は勘辨のならねえ野郎だから、いづれは三輪の親分に縛つて貰ふが、それより前に、主人の壽齋じゆさいを絞め殺したのは誰か、それを調べなきやなるまい」

「フーム」

 壽齋は刺し殺される前に、太いもので絞め殺されてゐた筈です。

「この家で、一番弱いのは誰だらう?」

 平次は又妙なことを訊きます。

「番頭の扇三郎だらうよ」

「強いのは?」

「小僧の八百吉だよ。たつた十四だといふが、大變な身體だ。八百屋の伜で、人蔘にんじん大根だいこんよりは、藥草の方が良からうと、此家へ奉公させられてゐるが、正直な働き者で、評判の良い小僧だ」

「それを呼んで見てくれ」

 斯うなると、先輩せんぱい三輪の萬七も、錢形平次の調べの助手に廻る外はありません。萬七ではまるで見當もつかないのに、若い平次は、この複雜極まる殺しを、手際よくキビキビ裁いて行くのです。

 三輪の萬七に呼んで來られた小僧を見て、平次も少し驚きました。たつた十四といふのは、この頃の人の迷信で、四十二の二つ子を嫌つて、歳を二つサバを讀ませた事があと後でわかりました。それにしても、非凡の體格で、ある名力士の少年繪姿を見てゐるやう、前髮姿が不似合ひで、愛嬌のある童顏も憎めません。

「お前は八百吉といふのだな」

「へエ」

「何時から奉公して居る?」

「二年になります」

「主人をどう思ふ」

「──」

 八百吉は默り込んでしまひました。ひたひから頬へ、泣き出したいやうな痙攣けいれんが走ります。

「お前は力があるさうだな」

「──」

 ほろ苦い得意の色が、少年らしい顏を輝かせます。

「その押入を開けて見ろ」

 八重吉は躊躇ちうちよしましたが、平次の意志の力に引摺られるやうに立ち上つて押入を開きました。

「この邊はもう、が出るだらうな、御隱殿裏の大藪は蚊の巣見たいなものだ」

「──」

「その蚊帳かやは主人の使つて居たものだらう」

「?」

「端つこの方が、太くよれて居るのはどう言ふわけだ」

「──」

「俺が言つてやらう、──昨夜ゆうべ主人の壽齋は、その蚊帳を釣つて寢てゐた。そして夜中に何んか用事があつて人を呼んだ──多分氣持でも惡かつたんだらう、恐ろしく力のある男が入つて來て、主人の背をさすると見せて、蚊帳のすそで主人の首を絞めた。あの大きい身體の主人を、蚊帳の裾などで絞め殺せるのは、大變な力だ」

「──」

「見るが宜い。死骸のあごや首には、蚊帳の織目の跡がついてゐるぢやないか。これだけ太いもので絞められると、紐や繩の跡はつかない」

「──」

「主人があばれたので、蚊帳の釣手つりては切れた。曲者は主人の死んだのを見屆けたが、蚊帳を釣り直もすのが面倒臭いので、そのまゝ、おつつくねて押入に放り込んだ、──その通り、間違いあるまい。どうだ、八百吉」

「──」

 八百吉は打ちのめされたやうに首を垂れるのです。

「どうだ、八百吉。わけを言へ、主人を殺さうといふのはよく〳〵の事だ」

 平次はこの少年が妙に憎めなかつたのです。

「親分、お道さんが可哀さうで」

「?」

「お道さんは、百壽園のもとの主人の娘です。それが、この藥草園も、家も、何も彼も横取りされた上、奉公人同樣に扱はれて、その、その上」

「その上、どうした」

「主人のめかけになれと、近頃は毎日のやうにいぢめられてゐました。お道さんは、昔は親達の住んでゐたこの家を出る氣にもなれず、さうかと言つて──」

 それは無理もないことでした。お道と仲の好い八百吉は、お道が泣きながら訴へる訴へを、身をかきむしるやうなやるせなさで聽いてゐたのです。

「それで、主人を殺す氣になつたのか」

「昨夜といふ昨夜、お道さんは、──もう逃げ出す外はないと、私に泣いて言ふのです。お道さんは、死ぬまでこの家にゐたかつたし、仇同士のくせに、お孃さんとも仲が好かつたんです。でも、でも、お孃さんに言ふことも出來ず」

「で?」

「私は一と晩暗い廊下で樣子を見てをりました」

「ひどく蚊に刺されたやうだな」

 少年の顏や手足に、斑々はん〳〵たる蚊の跡を見て、平次は早くも昨夜の事情を察してゐた樣子です。

「夜中にお道さんが、主人の部屋から逃げ出しました。そして、あとで主人が苦しみながら人を呼ぶ聲がしたので、私が飛んで來ると、主人は、床の中から拔け出して、苦しんでをりました。それから」

「それから、蚊帳の裾で、主人を絞めたのだらう。主人を殺せば、どうなるか、知らない筈はあるまい」

「私は夢中でした」

 その時まで默つてゐた三輪の萬七は、ようやく本當の下手人を見附けると、獵犬の本能で立ち上がると、八百吉の肩へ大きな手を掛けて、

「野郎、立てツ」

 大きな眼をくのです。



「三輪の親分、待つた」

 平次は靜かに呼留めました。萬七はこの手柄を平次に持つて行かれさうで、一寸の油斷もなく、この機會をねらつてゐた樣子です。

「まだ何んか用事があるのか」

「主人の壽齋は、絞め殺されたわけぢやない」

「何?」

「八百吉に絞められる前に、主人は毒を呑んで死にかけてゐた筈だ」

「何んだと?」

「苦しさうに聲を立てたのはそのためだ。放つて置いても、壽齋は間もなく死んだ筈だ」

 平次の言葉の豫想外さに驚いたか、三輪の萬七も暫らくは立ちすくみました。

「死骸の口の中を見るが良い。いや、身體も只事ではない、間違ひもなく毒の跡だ」

「──」

「これからフリ出しに戻つて、主人の壽齋に毒を盛つた奴を調べなきやなるまい」

 平次は、何にか當てがあつたのか、悠々として落着き拂つてをります。

「勝手にしやがれ」

「此處は名題の百壽園で、主人の壽齋は不老長生の靈藥を拵へて賣つてゐる。不老長生の藥と言へば、數限りもないが、第一に枸杞くこ、第二に烏頭うづ、昔から仙藥と言ふものは澤山あるさうだが、そんなものを浴びるほど呑んだところで、人間は百まで生きるのが何萬人に一人もない。あとはせいさかんにして、百歳の若さを保つ爲めには、鳥兜とりかぶとの根から採る藥に限るさうだ。こいつはしかし恐ろしい毒藥だ、分量を間違へると立ちどころに死ぬ」

 この事件が始まる前、平次はあらかじめ本草學者に就いて、不孝長生の藥を調べてゐたのです。餘談になりますが、大正の中頃、日本でも屈指の大本草學者が、老來精を養ふ爲に鳥兜とりかぶとの根を毒草と知りながら用ひ、ひそかに若返りを誇つてゐたところ、フト分量をあやまつて、一夜にして急死した例があります。

「で、壽齋は自害でもしたといふのか」

 三輪の萬七は紛々ふんぷんとして、その忿怒のやり場に困つてゐる樣子です。

「いや、壽齋は、間違つて死んだのだよ。六十歳の壽齋は、十六歳のめかけを迎へる氣で、したゝか鳥兜とりかぶと煎藥せんやくを呑んだのだ、お道は幸ひにその爪を免れたが壽齋は死んでしまつたのだ。──八百吉はそれとも知らずに、呼ばれて入つたつもりで、苦しみあがく主人を絞め、喜之助はその後で來て、匕首あひくちを突つ立てた、──惡いと言へば皆んな惡いが、主人の壽齋を殺した本當の下手人は、壽齋自身だ」

「そんな馬鹿な」

「それとも、三人も四人も並べて磔刑柱はりつけばしら背負しよはせるか」

「勝手にしやがれ」

 三輪の萬七は、此處まで來ると。消えてなくなる外はありません。紛々ふんぷんとして歸つて行くのを店まで送つた八五郎は、

「へエ、良い心持で。三輪の親分は、自慢の煙草入を忘れて、草履ざうりを片ちんばにいて行きましたよ」

 こんな事を言ふのです。

「俺達も引揚げようか」

 平次は大きくびをしました。

「すると、誰も縛らずに」

「一番憎いのは、匕首の後へ、女持ちの懷劍を打ち込んだ奴だ」

 今で言ふ屍體毀損きそん、──昔は併しそんな罪名もなかつたのです。

「驚いたね、どうも」

「驚いたついでに、あれを見ろ」

 店を出ると、平次はそつと後ろを指さしました。振り返ると建物の袖のところへ、若い下女のお道が、兩掌を合せて此方を拜んでゐるではありませんか。

 粗末な身扮みなり、打ちひしがれた哀れな姿ですが、この娘には何んとも言へない可愛らしさと品のよさがあるのです。

「あ、あの娘が」

「百壽園の主人が鳥兜とりかぶとの分量を間違ひさうもないよ」

「それぢや」

「後ろを振り向くな、默つて歩け」

「へエ、でも、あのは──」

「わかつたよ、──眞つ直ぐに行け。明神下には初鰹はつがつをで一杯用意してある筈だ」

 平次は八五郎をうながします。

 この後、百壽園は唯の生藥屋になり、美しい娘のしのぶが跡を立てました。番頭の扇三郎は、行方不知しれずになり、小僧の八百吉は、親許の八百屋に戻りましたが、間もなく百壽園の忍に話して、親のない子のお道を引取り、行々は──などと世間の氣を揉ませてをります。

 八五郎は相變らず、不老不死の藥にも及ばず、百歳フラツトまで、のほゝんで生きさうな顏をしてをります。

底本:「錢形平次捕物全集第三十四卷 江戸の夜光石」同光社

   1954(昭和29)年1025日発行

初出:「オール讀物」文藝春秋新社

   1954(昭和29)年7月号

※題名「錢形平次捕物控」は、底本にはありませんが、一般に認識されている題名として、補いました。

入力:特定非営利活動法人はるかぜ

校正:門田裕志

2017年112日作成

2017年34日修正

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