錢形平次捕物控
棟梁の娘
野村胡堂
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深川熊井町の廻船問屋板倉屋萬兵衞、土藏の修覆が出來上がつたお祝ひ心に、出入りの棟梁佐太郎を呼んで、薄寒い後の月を眺めながら、大川を見晴らした、二階座敷で呑んでをりました。
酌は醗酵し過ぎたやうな大年増、萬兵衞の妾でお常といふ、昔は隨分美しくもあつたでせうが、朝寢と美食と、不精と無神經のために、見事に脂肪が蓄積して、身體中のあらゆる關節に笑靨の寄るといつた、大變な大年増でした。
「あれまア、月が」
などといひながら、欄干の方へよち〳〵膝行つて、品を作つて柱に絡むとそのまゝ『美人欄に寄るの圖』にならうといつた──少なくとも本人はさう信じて疑はない性の女だつたのです。
九月十三夜の赤銅色の月が、洲崎十萬坪あたりの起伏の上に、夕靄を破つてぬツと出る風情は、まことに江戸も深川でなければ見られない面白い景色でした。
「成程こいつは良い。深川に生れて深川に育つても、こちとらの長屋の縁側からぢや、お隣りの物干が邪魔をして、こんなお月樣は拜めねえ」
棟梁の佐太郎は、主人萬兵衞と一緒に一本あけて、ホロツと來た樣子でした。氣性も身體も引緊つた四十男、そのくせお店の新造といはれてゐる萬兵衞の妾のお常の豐滿な魅力には、妙に誘惑を感じてゐるらしく、席を立つて女の背後に行くと、頬と頬とが觸れるやうに欄干に凭れて、パンパンと柏手を打つのです。
おとくい先のお妾にちよつかいを出すのと、お月樣を拜むのとは、全く別な人格と意圖とに出ることで、一緒にやらかしても、一向良心に恥ぢないのが、この時代の市井人のモラルでした。
わけても佐太郎は、四十過ぎの分別者のくせに、好い男で浮氣者でもあつたのです。
「お月樣は明日の晩も出るよ、──さア、親方の好きな熱いのが來たぜ」
萬兵衞は後ろから聲をかけました。西に殘る夕映えと、東から昇る月の光をたよりに、まだ灯は點けませんが、お常と佐太郎の如何はしい態度は、醉つた萬兵衞からもよく見えます。
「へエ、相濟みません。折角の十三夜だから、揚幕から出たお月樣を褒めてあげなきや」
佐太郎はそんな下らない洒落をいひながら、席に戻つて杯を擧げます。
「私は知つての通り酒が弱いから、とても親方と附き合つちや行けない、──ちよいと横になるから」
二本目の徳利から、一口呑みかけた猪口を下に置いて、萬兵衞はお常の膝を引き寄せて横になりました。五十を越したばかり、痩せて骨張つてはをりますが、精力的で金儲けが上手で、一代に江戸でも何番といはれた富を築いただけの強かさがあります。
その時番頭の忠助は、燭臺を持つて下から昇つて來ました。これは三十五六の柄の大きい、ぽーつとした感じの男ですが、調子にはなか〳〵如才ないところがあります。
「ちよいとお邪魔いたします」
忠助は縁に吊した三つの提灯に灯を入れて、フト主人の方を振り返りましたが、
「旦那、どうかなさいましたか。ひどくお顏色が惡いやうですが」
物々しく萬兵衞の顏をさし覗くのです。
「先刻から胸が惡くて叶はないよ。酒は親方と一本あけただけだが」
「あつしは何んともありませんがね。何んかお晝に召上がつたものでも惡かつたんぢやありませんか」
「さア、そんな心當りもないが」
主人の萬兵衞は、額に脂汗を浮べて、眞つ蒼な顏をしてをります。が、酒好きの佐太郎は、それには構はず、三本目の徳利を一人であけて、四本目が欲しさうな顏をしてをります。
その間にも萬兵衞は胸をかきむしつて苦しみ藻掻き、欄干に這ひ寄ると、大川尻の水の上へ、したゝか吐きました。ところが、ひどく元氣だつた相手の棟梁佐太郎も、その頃から苦しみ始め、これも七轉八倒の末、同じやうに吐いて、半刻ばかりのうちに、棟梁の佐太郎一人だけが死んでしまつたのです。
不思議なことに早く苦しみ出した主人の萬兵衞は、散々吐いた後は落着いた樣子で、佐太郎が息を引き取つた頃は、起き上がつてその容體などを訊ねるくらゐに元氣づいてをりました。
萬兵衞の養子の幸吉は、自分で飛んで行つて、町内の本道石原全龍をつれて來ましたが、その時はもう手遲れで、佐太郎を助ける道はなく、一應萬兵衞の手當をして歸りましたが、
「佐太郎は砒石の中毒だ。石見銀山鼠捕りかなんか、酒へでも入つてゐたのだらう。これは御檢屍を受けなければなるまい」
さういひ遺した不氣味な言葉が、養子の幸吉、番頭の忠助の心持を暗くします。
「全龍先生を追つ驅けるのだ。忠助どん早く、──金で濟むなら──家から繩付を出したくない」
主人の萬兵衞は、苦しさを忘れて起き上がりました。
それから十日、棟梁佐太郎の娘お萩といふのが、明神下の錢形平次の家へ、精一杯の心持で飛び込んで來たのです。
二十歳といふにしては、ひどく若く見えるのは、小柄なのと、身扮の派手なのと、それに一生懸命さの興奮のせゐでせう。
お勝手口へ來て、シクシク泣いてゐるのを、平次の女房のお靜が見つけて、なだめすかして訊くと、父親が殺されたに違ひないのに、食物の中毒で死んだことにされ、町役人も土地の御用聞も、取上げてくれないので、噂に聞いた錢形の親分にすがるつもりで、遙々深川からやつて來たといふのです。
「可哀想ぢやありませんか。表口から入るのを遠慮して、お勝手口で泣いてるやうな内氣な娘なんですもの。會つて話を聽いた上で、力になつてあげて下さい」
女同士の思ひやりから、娘の衣紋を直さしたり、泣き濡れた顏を洗はせたりして、お靜はお萩を夫の前へ押しやるのでした。
「どうしたといふのだ、一應話して見るがいゝ。お前は父親が殺されたと思ひ込んでも、矢張り食中りで死んだのかも知れない。いきなり深川まで出しや張つて、恥を掻くのも變なものだ、──尤もことと次第では隨分力になつてやらないものでもないが──」
平次の態度は、いつもの通り消極的でした。側で聽いてゐるガラツ八の八五郎の方は、居住を直したり、額を叩いたり、長んがい顎を撫で廻したり、話を聽く前からもう、一方ならぬ興奮です。
お萩の話はたど〳〵しいものでしたが、根が悧發な娘らしく、父親の死んだ驚きの中にも、いろ〳〵の人の話をかき集めて、どうやらその夜の出來事を彷彿させるのでした。
「そいつは氣の毒だが、それだけぢや手のつけやうがない、──醫者はなんといつてゐるんだ」
檢屍が濟んで、葬ひまで無事に運んだものを、もとに返して調べることは、御用聞風情の平次にはできないことです。
「でも、町内のお醫者の石原全龍樣が、最初石見銀山の毒死に違ひないといひながら、御檢屍のときは、お刺身かお酢の物の中毒だらうといつたさうで」
「そんな馬鹿なことがあるものか」
八五郎は横合ひから口を挾みました。
「石原樣が、板倉屋からお金を貰つて、よい加減なことを申上げたに違ひないと、御近所の衆も申します」
「そいつは幇間醫者の大藪醫者だらう」
八五郎はまたいきり立ちます。坊主頭に黄八丈の袷、黒縮緬の羽織に短かいのを一本きめて、讀めさうもない漢文の傷寒論を懷にし、幇間と仲人を渡世にしてゐる醫者は、その頃の江戸には少なくなかつたのです。
「默つてゐろよ、八、──ところで、人を殺さうとするほどの大それたことは、洒落や冗談ではできることではない。板倉屋の主人とお前の父親を殺して、得をする者の心當りはないのか」
平次は靜かに訊ねました。
「──」
お萩は首をかしげました。が、娘心には、そんな恐ろしい企らみのある顏が映りさうもありません。
「お前にはわかるまいよ、──俺が出る幕にはまだ早い。八五郎をやつて、一應調べさして見よう」
「──」
お萩は不足さうでしたが、それでもさすがに、口には出しません。
「なア、八。お前が行つて持前の鼻をきかせるがいゝ」
「幇間醫者をうんと脅かしてみませうか」
八五郎はスタートに並んだ競馬馬のやうに彈みきつてをります。
「そいつはお前の手には了へまいよ。それより板倉屋の内輪のことを調べてみるが宜い。その妾のお常の身持、番頭忠助の評判、養子の幸吉と主人萬兵衞の仲など、氣になることがあつたら、とことんまで調べ拔くのだ。どうかすると、惡者は主人萬兵衞を殺す氣でやつたことかも知れない。棟梁にも毒酒を呑ませたのは、なんかの誤魔化しかも知れないぢやないか、──幸ひ主人萬兵衞は、酒が弱いので助かつたといふこともあるだらう」
平次のコーチはさすがに行屆きます。
お萩はこれ以上平次に頼むこともならず、お靜に慰められて、しを〳〵と歸つて行きます。涙が乾いて、興奮が納まると、青白く引緊つた顏が、江戸娘らしいきかん氣を匂はせて、多い髮も、赤い唇も、なか〳〵の魅力です。
「それぢや、行つて來ますよ親分」
その後ろから、懷ろを十手で突つ張らせた八五郎、照れ臭さうでもあり、嬉しさうでもあります。
「親分、困つたことになりましたよ」
あの張り切つて深川へ出向いた八五郎が、ぼんやり戻つて來たのは、それから三日目の晝頃でした。
「何を困つてゐるんだ。財布でも落したといふのか」
錢形平次は相變らずの不精煙草です。
「財布なんか落したつて驚きやしませんよ。憚りながら百も入つちやゐないんで」
「呆れた野郎だ、──それともあの娘に口説かれたとでもいふのか」
「それなら、願つたり叶つたりで──實はね親分、肝心の娘が行方不明になつてしまつたんです」
「何時のことだ、それは?」
平次もさすがに驚きました。事件は決して單純ではあるまいと思ひましたが、あの娘が姿を隱したとあつては容易のことではありません。
「昨夜ですよ。お萩の叔母のお紺といふ、出戻りの四十女が青くなつて飛んで來ましたよ」
「お前はどこにゐたんだ」
「八幡前の專次の家に泊つてゐると、亥刻半(十一時)過ぎに、氣違ひのやうに戸を叩くぢやありませんか。──姪のお萩が久し振りに町内の丁子湯へ行つて、それつきり歸らず、氣を揉んで丁子湯へ行つてみると、お萩はザツと流して、間もなく歸つたといふんださうです。それから二た刻も經つてゐるのに、お萩はどこへ行つたかわからず、死んだ兄の佐太郎の弟子で、佐太郎の家にゴロゴロしてゐる久治と二人、心當りを精一杯に搜したが、それつきり行方不知になつてしまつたといふんです」
「今朝になつても出て來ないのか」
「へエ、さうなんで」
「縁起のよくねえことだが、殺された樣子もないのか」
「海も川も鼻の先だが、船を出して一と通り搜しても死骸は見えませんよ」
「お萩に男はなかつたのか」
「あのきりやうですもの、いひ寄つた男や、焦れてゐる男は何十人あるかわかりやしません」
「何を隱さう、八五郎もその一人だつてね」
「あつしはいひ寄られた方で」
「呆れた野郎だ。お前は長生きするよ」
「ところで、何んの話でした?」
八五郎は掛合ひ話に氣を取られて、話題を忘れてしまつた樣子です。
「あの調子だ、──お萩に男がなかつたか、それを訊いてるぢやないか」
「あの娘に夢中なのは、隨分澤山あるやうですよ。中でも首つたけの二人」
「誰と誰だ」
「板倉屋の養子幸吉と、佐太郎の弟子の久治。あの男はお萩と同じ屋根の下に住んでゐるわけだが」
「その二人は昨夜どこにゐたんだ」
「生憎久治は叔母のお紺と家にゐたに違ひはないし、板倉屋の若旦那の幸吉は、番頭の忠助と月末の帳合に忙がしく、亥刻(十時)近くまで夜業をしてゐたさうです」
八五郎の話が本當なら、お萩の行方不知に關することだけは、佐太郎の弟子の久治も、板倉屋の養子の幸吉も疑はしい節は少しもありません。
「ところで、お前の方の調べはどうなつたんだ。板倉屋と棟梁の佐太郎を怨んでゐる者の見當でもついたのか」
平次は話題を變へました。三日前に八五郎を深川へやつたのは、お萩を見張らせるためではなくて、板倉屋の毒殺事件を調べさせ、佐太郎を殺した下手人を擧げさせるのが目的だつたのです。
「困つたことに、それが少しもわかりませんよ。板倉屋の主人萬兵衞は年甲斐もなく女癖が惡く、三年前に内儀が死んでからは、後添えも貰はずに亂行續きですが、金がうんとあつて太つ腹で、人に怨まれるやうな人間ぢやありません。尤もあの身上はまともな廻船問屋で三年や五年にできるわけはないから、内々拔け荷でも扱つてゐるんぢやないか──とこれはやきもち半分の町内の評判ですがね」
「拔け荷か」
「それに女癖の惡いことは深川一番で、妾のお常なんかどこの馬の骨ともわかりやしませんよ。いかもの喰ひの萬兵衞が、夜鷹か何んかの一番丈夫で脂臭くて、ブヨブヨしたのを拾つて來たんだらうといふ噂ですが、近頃その小汚いのに嫌氣がさしたやうで、出すとか出るとかブスブス燻つてゐるさうです。尤もあのお常がまた大變な女で、少し毛並の良い雄を見ると、すぐ尻尾を振つて絡み付く癖があるんだつていひますが」
「大變な女だな」
「養子の幸吉は意氣地も働きもないのを取柄で貰はれて來たやうな男で、養父の萬兵衞との仲はあまり良くありません」
「番頭の何んとかいつたのは」
「忠助ですか。ノツソリしてゐる癖に、恐ろしく慾の深い男で、馬鹿見たいな悧口者ですね」
「それつきりか」
「醫者の石原全龍坊主は、思つたほどの大藪ぢやありませんが、そのうちに公儀から召出されて公方樣の糸脈を引くんだなんて大法螺を吹いてゐるところをみると、あんまり信用のできる醫者ぢやありませんね。その上板倉屋からは何百兩といふ借金があるやうで」
「ところで、殺された棟梁佐太郎の内には弟子の久治と、お萩の叔母のなんとかいふのがゐる筈だな」
「佐太郎の妹で、出戻りの四十女。お紺といふ、ちよいと色つぽい中婆さんですがね。こいつは、江戸一番の金棒曳で、下女代りに兄の家の世話を燒いてをります」
「久治は?」
「これは好い男ですよ。氣前がよくて啖呵が切れて、仕事が上手で」
「大層褒めるぢやないか、まさか一杯おごられたわけぢやあるまいな」
「冗談で、──おごつたのはあつしの方ですよ、醉はして置いていろ〳〵聽かうと思つたが、なか〳〵口を割りません」
「よし〳〵、そんなことで澤山だ。お萩はいづれどこからか出て來るだらう。少し氣ながに見張つてゐるがよい」
「親分は?」
「俺は外に御用がある。大急ぎでそれを片づけて、明日、──遲くも明後日は行つてみる」
「さうですか」
「お萩を搜すのは、張合ひのある仕事ぢやないか。不足らしい顏をするな」
平次にからかはれながら、八五郎はまた深川へ取つて返しました。が、併し事件はこれからが本當の山だつたのです。
平次はその翌々日の朝、ようやく身體の明いたのを幸ひ、八五郎との約束を果す氣になりました。
深川の熊井町に着いたのはもう巳刻(十時)過ぎ、大川沿ひに建つた廻船問屋の板倉屋を覗くと、
「あ、親分、大變なことになりましたよ。今明神下まで飛んで行かうと思つたところで」
八五郎は鐵砲玉のやうに板倉屋の店から飛び出しました。
「どうした、八。借金取りにでも會つたのか」
「そんなつまらねえ話ぢやありませんよ。こちらへ來てみて下さい」
八五郎は平次の手を引いてグングン川沿ひの庭の中へ入つて行くのです。
「どこへ行くんだ」
「これですよ、幸ひまだ檢屍前だ。川から揚げて半刻も經つちやゐません」
裏木戸寄りの凉み臺の上に水死人を載せて、さすがに荒筵は遠慮したらしく、浴衣を掛けてあるのを取ると、痩せた中老人の死骸が、秋の陽の下に淺ましく曝されるのでした。
「これは?」
「板倉屋の主人ですよ」
色好みで金儲けの上手だといはれた、板倉屋萬兵衞が、水死人になつて、自分の家の數寄を凝らした庭の凉み臺に、檢屍の役人を待つてゐるのです。
「首筋から肩へかけて、大變な傷があるぢやないか、──それも生きてゐるうちに、鳶口のやうなもので突かれた傷らしいな。肉がはぜて、ひどく血も出た樣子だ」
平次は萬兵衞の死骸を丁寧に調べてをります。商人らしく地味な紬の單衣を着て、帶はきちんと締めてをります。さすがに衣紋は崩れて、みぞおちのあたり、ひどく脹れてゐるのが目立ちます。
「でも、溺れて死んだには違ひありませんね。廻船問屋でもしてゐるくらゐで、泳ぎは自慢だつたさうですが」
「これだけの傷を受けちや、少しぐらゐ水の心得があつたところで、自由に泳げまいよ」
「ところで不思議なことがあるんですがね」
「何んだ」
「死體の着てゐる單衣の袂から、こんなものが出て來たんです」
八五郎は懷中紙の間から、小型の黄楊の梳き櫛を一つ出して見せました。そんなに古いものではありませんが、不思議なことに、その櫛の中程、齒へ堅く挾んで、五六本の長い柔かい髮の毛が、キリキリと巻き附けてあるのです。
「この櫛は誰のだ」
「誰のともわかりませんよ。まだ見つけたばかりで」
「いづれわかるだらう、──こいつは飛んだ證據になるかも知れないよ」
平次は死體から離れると、板倉屋の家の周圍を一と廻りしてみました。
さすがに見事な構へで、二階座敷が大川へ乘り出してゐるところは、十何日か前の晩に、棟梁の佐太郎と主人の萬兵衞が中毒騷ぎを起した座敷でせう。
塀の外の道は僅かに一間足らず、ろくな柵もないので、夜分などは川へ落ちないとは限りません。裏木戸の中には二た戸前の土藏が棟を並べ、わけても一つは四十坪もあるでせう、如何にも嚴重で堂々として、板倉屋の富を物語つてゐさうです。
土藏と土藏の間に大きな物置があり、覗くとその中には、船の道具が雜然と並べてあります。
「八、これをどう思ふ」
平次はその奧の方から檜の手頃な棹を拔き出しました。
「先の方が濡れてゐますね」
八五郎は尤もらしく顏を寄せます。物置の奧に入れてある棹が、心持濡れてゐるのは不思議ですが、八五郎にはそれ以上のことはわからない樣子です。
「石突に血が附いてゐるぢやないか。よく見るがいゝ」
「あツ」
この邊りでは滅多に使はない、鐵の石突の着いた棹ですが、その先の錆に交つて、明かに洗ひ殘した血の痕がみえるのでした。
「人にいふな、櫛のこともこの棹の血も内證だぞ」
「へエ」
平次は外廻りはそれくらゐにして、家の中へ入ると、先づ妾のお常を呼び出して貰ひました。
「昨夜のことを詳しく訊きたいな、御新造」
平次は六疊の縁側にかけたまゝ、遠く主人萬兵衞の死體を見ながら、かう始めるのでした。如何にも氣の置けない態度です。
「亥刻(十時)時分でした。主人は何時ものやうに、土藏から家の廻りを見廻つて來るからと、提灯をつけて出て行きました。──その提灯は今朝藏の戸前の外に消したまゝ、ありましたが」
「確かに燃えきつてはゐなかつたのだな」
「新しい蝋燭を入れて行きましたが、一寸くらゐ減つてゐるやうです」
この女は恐ろしく無智らしい癖に、妙に行屆いたところがあります。
「夜の見廻りは丁寧で、どうかすると半刻もかゝることがありますが、それにしてもあんまり遲いので、子刻(十二時)近くになつてから、幸吉さんが樣子を見に出かけましたが、どこにも見えなかつたさうで、間もなく戻つて參りました」
「その前には誰も外へ出なかつたのか」
「これは主人を搜しに出たわけではありませんが、番頭の忠助どんが、──外で人聲がするやうだと、裏木戸を覗いた樣子でしたが、──なんでもない──といつて四半刻ほど見廻つてから歸つて來ました。亥刻半(十一時)過ぎだつたでせう」
「それから」
「一と晩大騷ぎをしましたが、なんにもわからず、たうとう朝になつてしまひ、八五郎親分も來てくれましたが、晝近くなつて、あの通りの姿で永代の下に浮んださうで」
お常はそれでも涙を拭く眞似などをしてをります。
「お前とは仲が良かつたことだらうな」
平次の問ひは唐突でした。
「いえ、──近頃は喧嘩が絶えませんでした。どうかしたら私は近いうちに追ひ出されたかも知れません」
この女は恐ろしく正直です。が、考へて見ると仲が良かつたといつたところで、誰もそれを保證してくれる筈はなく、どうせ仲の惡さが知れるものなら、自分の口から正直にいふ方が、賢いのかもわかりません。
「主人を怨んでゐるものはなかつたのか」
「飛んでもない。太つ腹な良い人でしたもの」
お常は強く否定します。
「この櫛に覺えはないか」
平次は八五郎から受取つた、死體の袂にあつたといふ梳き櫛を見せました。
「いえ、少しも」
お常は極めて自然に無造作に頭を振ります。
養子の幸吉は小柄で一應は小才がきゝさうですが、こんなのは案外正直で、世間並で平凡過ぎる人間かもわかりません。
養父の萬兵衞と仲の良くなかつたことは、本人の幸吉も承認してをりますが、あとはお常のいつたこと以上はなんにも知つてゐず、この男の賢さは附け燒刄で、個性も洞察も推察力もなんにも持つてゐないことを、やがて平次も知り盡してしまひました。
「お萩が行方不知になつた晩、お前は確かに店にゐたことだらうな」
「番頭と帳合に忙しくて、夕方から一歩も外へは出ません。忠助どんに訊いて下さい」
「その時主人はどこにゐたのだ」
「土藏の中でせう」
「何?」
「大きい方の土藏の中を修復して、書畫骨董などを片付けるのださうで、一と月も前から棟梁の佐太郎一人だけを入れて働かせてをりました。私も番頭もお常さんでさへも、土藏へは入れないことになつてをりました」
「それはどういふわけだ」
「金銀などを扱ふから、人には見せたくないといつてをりました。あの晩も多分そんな片付けをしてゐたのでせう──親父は夜分でもちよい〳〵一人で土藏へ行つて仕事をしました」
「近頃はすつかり元氣になつてゐたのだな。毒を呑まされたといつたが──」
「佐太郎親方はすぐ死にましたが、親父は翌る日はもう元氣になつてをりました」
「ところで、もう一つ訊きたいが」
「──」
平次は少し改まりました。
「お前は、お萩をどう思つてゐた?」
「どうといつて」
幸吉はパツと赤くなりましたが、そのまゝウヤムヤに言葉を濁してしまひました。
次に會つたのは番頭の忠助でした。よく肥つた三十五六の男で、愛嬌のある顏、要領の惡い口調、一應はボーツとしたやうに見えて、思ひの外如才がないところがあります。
「幸吉と父親の仲が惡かつたさうぢやないか」
「──」
「それにはわけがあるだらう。お前は知つてゐる筈だが」
平次の言葉には、なか〳〵掛引がありました。
「よく存じてをります。つまらないことですよ」
「つまらないことゝいふと」
「若旦那が、棟梁の娘のお萩さんを嫁に欲しかつたんで、──唯それだけのことで」
忠助の言葉は妙に皮肉でした。
「主人を怨む者は他になかつたのか」
「あるわけはありません。あの通りの太つ腹で、奉公人も出入り職人も隨分潤ほつてゐました。現にこの私など、多寡が廻船問屋の番頭で、年に五兩か六兩の手當が當り前ですが、十兩の給金の外に、盆暮には十兩づつの御手當を貰つてをります」
「大層なことだな、──ところで、お前がこゝへ奉公して何年になる」
「たつた二年で──まだあの土藏の中へも一人では入れてくれません」
「板倉屋は拔け荷を拔つてゐるといふ評判を聽いたが──」
「飛んでもない親分、そんなことがあるものですか」
「ところで、お前はなにか知つてると思ふが、例へば棟梁の佐太郎が死んだ晩、酒の燗は誰がつけたんだ」
「主人は酒がやかましくて、決して人に燗を任せませんでした」
「呑み殘した酒は調べたことだらうな」
「毒死でないと決つたので、殘つた酒はみんなで頂いてしまひましたが、中毒を起したのは一人もありません。──もう十二三日も前のことですが」
忠助のいふことにはなんの不思議もありません。
「ところで、お萩の行方不知になつた時、なにか變つたことに氣がつかなかつたか」
「なんにも氣が付きません」
「昨夜、主人が外へ出た後で、お前は裏木戸を覗いたさうだが──」
「それを申上げようかどうしようか、迷つてをりました」
忠助は額を揉み込むやうに、ひどくいひ澁つてをりました。
「とも角いつてみるがいゝ。主人が死んだといふ大事な時だ、つまらねえ遠慮をして、下手人を逃がしてはなるまい」
「では思ひきつて申上げませう。──昨夜亥刻(十時)頃、裏の方で人聲がいたしましたので、私は心配になつて出て見ました。それが佐太郎親方のところにゐる久治の聲で、ひどく怒つてゐる樣子なので、捨て置けない心持になつたのです」
「なに?」
「丁度私が裏木戸へ行つた時、なんか川へ落ちたやうな、大きな水音がしましたが、覗いて見ると、川岸縁には誰もゐませんでした。闇を透して見ると、町の方へ人の逃げて行く足音を聽いたやうに思ひますが、確かなことはわかりません」
これは重大な證言でした。平次は默つて八五郎を振り返ると、心得た八五郎は獵犬のやうに、彈みきつてどこかへ飛んで行きます。
「お前は川を覗いては見なかつたのか」
「まさか主人が落ちたとは氣がつきません。石でも投つたことと思つて、そのまゝ家へ入つてしまひました。──へエ外にゐたのはほんの一寸で」
「もう一つだけ聽いて置きたい」
「──」
「棟梁佐太郎が死んだ時、お前は本道の全龍先生を追つかけて、その口を塞いだ筈だ。それを聽かうか」
平次の態度は容赦のないものでした。
「主人が苦しみながらも、全龍先生に百兩も握らせるやうに申しつけました。私は追つかけてその通りする外はなかつたのです」
忠助はかういひきるのです。主人萬兵衞が死んだ今となつては、最早遠慮する必要もないと思つたのでせう。
平次は八五郎の後を追つて棟梁の佐太郎の家へ行きましたが、肝心の久治は朝からどこかへ行つて歸らないさうで、八五郎はお萩の叔母のお紺と押問答の眞つ最中でした。
「留守なら、お前は暫らく見張つてゐるがよい。ところでお紺さん、この櫛に見覺えがあるだらうな」
平次は例の髮の毛を巻いた梳き櫛を出して見せると、
「あ、どこにあつたんです。これはお萩が湯へ行くとき持つて行つた、あの娘の梳き櫛に違ひありません」
四十前後、出戻りの叔母のお紺は、名代の金棒曳であるにしても、正直者で純情家らしい女でした。
「八、いよ〳〵大變なことになつたぞ」
「何が大變です、親分」
「もうひと息だ、──ね、お紺さん。これは大事のことだが、久治はお萩に夢中だつたんだね」
「それはもう親分さん、はたで見てゐても、痛々しいやうでした。あの生一本の久治が、お萩のことといふと──」
「ところで、板倉屋の主人の萬兵衞は、お萩を奉公に出せとか何んとかいつたことなどがあるだらう」
「さうですよ、あの助平爺いがお萩を可愛がつて、──嫌らしいことはしないし、妾奉公といふわけではないから、小間使のつもりで奉公に出せつていふんです。兄は怒つてゐましたよ。でも不斷お世話になるお店のことだし、ポンポン斷わるわけにも行かなくて、頭痛に病んでましたよ」
「それつきりか」
「板倉屋の旦那は夢中で、お常さんを出してもいゝとまでいふんですつて。でも兄もさすがに首を縱に振り兼ねて、愚圖々々してゐるうちにあんなことになつてしまひました」
お紺の話で、事件にまた新しい面が開けた樣子です。
「八、こゝは頼むぞ」
平次はそんなことにして、町内の醫者、石原全龍の家へ飛び込んだのです。
「何? 錢形の親分が來た」
庭先に飛び込んだ平次を、大坊主の全龍は、尤らしく縁先に迎へました。
「全龍先生、人間の命二つ三つに關はることだ。打あけてお話を願ひたいんだが──」
「何を打ちあけろといふのだえ、親分」
全龍は縁側に片膝を突いて、少し屹となります。
公方樣の糸脈を引く──と大法螺を吹くだけあつて、なか〳〵の見識です。
「あつしは先生をどうしようといふ氣で來たんぢやありませんよ。ね、全龍先生。棟梁の佐太郎を殺し、お萩を誘拐し、板倉屋の主人を殺した曲者は、先生の言葉一つで、見當がつくのですぜ」
「それを私が知つたことか。冗談ぢやない、──それだけの用事なら歸つて貰はうか、親分」
全龍は以ての外の口振りです。
「ぢや、訊きますが、──佐太郎が死んだ晩、主人のいひ付けで、番頭の忠助が百兩の金を先生に渡した筈だ。あれはどういふわけで──」
「──」
「こいつを申立てると、先生の立場はイヤなものになりやしませんか」
「いや、さうまでいはれては仕方がない。實は、棟梁佐太郎が死んだのは、あれは砒石中毒かも知れない──石見銀山鼠捕りでも呑まされたのだらうと一度は思つたが」
石原全龍もいや〳〵ながら打ちあけるのです。
「主人も同じことで」
「いや、主人の萬兵衞は違ふ。主人の容體は砒石の中毒ではない。だから私は表沙汰にしなかつたのだ。砒石の中毒はあんな手輕なものではない」
「それは?」
「主人は唯吐いただけのことだ。容體は佐太郎に似てゐるが、これは確かに違ふ」
石原全龍は思ひも寄らぬことをいふのです。
「そんなに吐かせる藥はあるでせうか、先生」
「南蠻物にはよく効く吐劑がある。南の方の國で取れる吐根などはその一つだが、なか〳〵手には入るまいよ、──だが、こいつは内證にして貰ひたい。親分が折角いふからかうでもあらうかといふところを話したまでだ。表向きは萬兵衞も佐太郎も、酢の物の中毒でやられ、運が惡くて佐太郎が死んだといふことになつてゐる」
「──」
平次はこの間に合せの幇間醫者の面上に唾を吐きたいやうな氣持でしたが、とも角も打ち明けてくれたのをせめてものことにして、そのまゝ歸る氣になつたのでした。
棟梁の家へ引き返すと、八五郎が大工の久治の胸倉を取つて大騷ぎをしてをりました。
「親分、これはどうしたことです」
久治は平次の顏を見るといきなり救ひを求めるのです。
「八、手を放すな、──おい久治、お前は昨夜何をした」
「板倉屋の猅々爺に會ひましたよ。でも、大川へ飛び込んだのはあの猅々爺のせゐで、あつしの知つたことぢやありませんぜ」
「なんだと」
「お萩ちやんを隱したのは、板倉屋の親爺に違ひないと思つて、あの岸縁をブラブラしてゐるとあの萬兵衞の猅々爺が、裏木戸から顏を出して、嫌味なことをいひながら突つかゝつて來るから『お萩さんをどうした』つて詰め寄ると、いきなり力任せにあつしを突き飛ばすぢやありませんか──背後は大川で後がねえ」
「お互ひの姿は見えたのか。月はなかつた筈だが」
「水明りで、結構相手の樣子がわかりましたよ。川を後ろに背負つてゐるんだから──その時、あつしは危ないと思つて身をよけると、萬兵衞親爺奴、突いて出た彈みに、もんどり打つて大川へ飛び込みましたよ、──相手は泳ぎが達者だと知つてゐるから、少し凉ませるのも洒落てゐるだらうと、そのまゝ後ろも見ずに歸つてしまひました」
久治の話にはなんの巧みがあらうとも思はれません。
「ところで、お前はあの邊へ時々行つたことがあるのか」
「飛んでもない、板倉屋の裏口ですよ、お萩ちやんのことでも心配しなきや、あんなところへ行くものですか」
「木戸の内に物置があつた筈だが──」
「あつたかも知れませんね」
久治から訊くことはそれで全部でした。が、平次は何を思ひ出したか小戻りして、
「棟梁の佐太郎が生きてゐるうち、板倉屋の仕事をしてゐたさうだが、何をやつたんだ」
妙なことを訊くのでした。
「大きい方の土藏の中に、なにかむづかしい普請をしてゐたさうです。親方一人で引受けて、あつしなんか覗いて見たこともありません。板倉屋の人達も、近頃はあの藏の中へ入れなかつたさうです」
「それで解つたよ。八、來い」
「どこです、親分」
平次は八五郎をつれて、板倉屋へ取つて返したのです。
「八、あの野郎だ」
平次の指さしたのは、裏木戸のあたりをウロウロしてゐる番頭の忠助でした。
「あ、何をしやがるんだ」
八五郎はもんどりを打たせられました。忠助は思ひも寄らぬ腕達者だつたのです。
が、續いて飛びついた錢形平次は、さすがに汗も掻かずにこれを取つて押へました。
「この野郎」
その頭を押へて小突き廻したのは、投げられた口惜しさの八五郎です。
「畜生、俺は縛られるが、その代りお萩は死ぬぞ」
平次の膝の下に忠助は齒を剥くのです。
それは實に恐ろしい脅迫でした。
「お萩のゐるところは、この俺が知つてるだけだ。俺が口を割らなきや、お萩の命は今日一日保つめえ。ざまア見やがれ」
「野郎」
八五郎はカンカンに腹を立てますが、大事な鍵を握られてゐるらしいので、どうにもなりません。
「八、驚くな。俺には見當がついてゐる」
平次は案外落着いてをりました。
「どこです、親分」
「あの大きい土藏の中だ。鍵はこゝにある。この番頭野郎が持つてゐたんだ、──お前が行つてもむづかしい、──久治を呼んで來い。餅は餅屋だ。あの男なら、死んだ棟梁の拵へた隱し戸棚かなんかを開けるに違げえねえ」
「よしツ、見てゐろ」
八五郎は棟梁の家へ飛びます。
久治をつれて來て、土藏の中へはいりましたが、その中に拵へた隱し戸棚を見つけることは容易でなく、それを開けるのにまた久治と平次は智慧を傾けました。
ざつと一刻ばかり。ようやく開けたのは、土藏の一方の壁に造つた秘密の戸棚で、その中から出てきたのは、夥しい拔け荷、密輸入された物資──だつたのです。
珠玉、細工物、ギヤーマン、羅紗、それに南蠻物の生藥の數々。その中には萬兵衞が呑んだと思はれる吐根も、佐太郎を殺したと思はれる砒石も交つてゐたことはいふまでもありません。
この隱退藏物資の山の奧に、半死半生の姿で、美しいお萩は隱されてをりました。餓と苛責とに疲れ果てて、最早助けを呼ぶ力もなく、僅かに顏を擧げて夢心地に、灯をかざしてゐる救ひの手の、誰彼の顏を眺めるのでした。
「お萩さん、助かつた。錢形の親分のお蔭だ」
久治は飛び込んで處女の弱り果てた身體を抱き上げたのです。二人は人の見る眼も忘れて濡れた頬を寄せます。
× × ×
事件が落着してから平次は、相變らず繪解きをせがむ八五郎に、かう話して聽かせました。
「板倉屋の萬兵衞は、あの拔け荷の隱し場所に困つて、棟梁の佐太郎に隱し戸棚を拵へさせたが、うつかり口走られると、命がけの大事になるから、お月見に祝ひ酒を呑ませることにして、佐太郎を毒害したのだよ。毒は砒石だ、二本目の徳利に入つてゐたのだ。最初の徳利はなんにも入つてゐないが、酒を呑む前に、萬兵衞はうんと吐根を呑んでゐた、──二本目の酒──毒の入つたのは佐太郎一人で呑んだかな。同じやうに吐いても、主人萬兵衞に別條なかつた。うんと苦しさうな顏をしただけのことだ。かうして置けば誰も萬兵衞に疑ひはかけない」
「へエ、恐ろしい企らみですね」
「萬兵衞は佐太郎を殺して、あの若くて可愛らしいお萩を手に入れたかつたのだ。その上、妾のお常が佐太郎に氣のあるのが癪に障つたんだらう」
「お萩を誘拐したのは」
「矢張り主人の萬兵衞だ。お萩の湯の歸りを誘つて、半分は力づくで土藏につれ込み、隱戸棚に入れて、氣長に口説いたのだらう。お萩は賢い娘だが、どうしても外の人に自分のことを知らせる工夫はない。散々考へた揚句、湯へ行くので持つてゐた黄楊の梳き櫛に、自分の毛を五六本拔いて巻きつけ、萬兵衞の袂にそつと入れた。なにかの彈みに誰か氣がついてくれるものがあるかも知れないと、萬一のことを頼みにしたのだらう──幸か不幸かその晩萬兵衞は殺されて、櫛はお前の手に入つた」
「その萬兵衞を殺したのは、久治ぢやなかつたのですね」
「久治は良い男だ。最初から人などを殺す氣はないが、──自分を川へ突き落さうとして萬兵衞があべこべに川へ落ちたのを見て、少し良い心持になつて歸つたことだらう、──番頭の忠助は木戸のところでそれを見てゐた。主人が岸へ這ひ上がらうとした時、豫て心得てゐる物置の中から、石突の附いた物凄い棹を取り出し、思ひきり上から突き落したに違ひない」
「へエ」
「それは忠助のいつたことでわかつたよ」
「あの男は人聲がしたので裏木戸から覗いたといつたらう。その時、水音がして誰か町の方へ逃げて行つたといつた──その時はもう久治はゐなかつた筈だ──棹を置く場所を久治は知つてゐる筈はないから、月のない夜に、それを取出せるわけはない。もう一つ忠助は外へ出て四半刻近くも歸らなかつたと、お常も幸吉もいつてゐるのに、本人の忠助はすぐ戻つたといつた。──それから忠助が無理に主人を褒めるのも變だし、これは後でわかつたが、金も隨分取り込んでゐるし、お萩も隱し戸棚へ主人が死んだ後では忠助が來たと言つてゐる」
「惡い奴ですね」
「あんな惡い奴はないよ。土藏の隱し戸棚のことは主人と仲の惡い養子の幸吉は知らないから、お萩を手に入れた上、あの拔け荷をそつと取り込むつもりだつたらう」
「成程ね」
「久治は良い男さ。いづれお萩と一緒になつて棟梁の後を立てるんだらう」
平次は滿足さうでした。正直者が幸せになるのが、平次は何より嬉しかつたのです。
底本:「錢形平次捕物全集第二十九卷 浮世繪の女」同光社
1954(昭和29)年7月15日発行
※題名「錢形平次捕物控」は、底本にはありませんが、一般に認識されている題名として、補いました。
入力:特定非営利活動法人はるかぜ
校正:門田裕志
2017年9月24日作成
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