錢形平次捕物控
蔵の中の死
野村胡堂




「親分、驚いちやいけませんよ」

 毎日江戸中のニユースを掻き集めて、八丁堀の組屋敷から、南北兩町奉行所まで、萬遍まんべんなく驅け廻らなきや、足がムズムズして寢つかれないといふ、小判形の八五郎こと、一名順風耳はやみゝのガラツ八です。

「驚かないよ。お前と附き合つて一々驚いてゐた日にや、膽つ玉の掛け替へが二三束あつたつて足りやしまい。どこの鼠が猫の子を捕つたんだ」

 錢形平次──江戸開府以來と言はれた捕物の名人平次は相變らず貧乏臭い長屋にくすぶつて、火の消えた煙管を横ぐはへに、世話甲斐のない三文植木を並べては、獨り壺中こちうの天地を樂しんでゐるのでした。

 平次は三十を越したばかり、典型的な江戸ツ子で引つ込み思案で、色の淺黒い好い男ですが、子分の八五郎も勘平さんそこ〳〵の血氣盛り。色白でノツペリして、顎が長くて鼻の下の寸が詰つて、ノウ天氣で向う見ずで、正直者で洒落しやれが好きで、──そして何んと、この年までもまだ獨り者だつたのです。

「そんな間拔けな話ぢやありませんよ。江戸で名題の金持が千兩箱を杉なりに積んで、その上で死んでゐたとしたら、どんなもんです、親分」

「金がありや死ななくてもいゝといふ御布令おふれでも出たのか」

 平次はまだそんなことを言つて居りました。

「唯死んだんぢやありませんよ。首をくゝつて死んだんで」

「誰だえ、その金持は?」

「赤坂裏傳馬町の萬屋よろづや善兵衞ですよ」

「あ、あの惡兵衞か」

 それは鬼のやうな六十男で、半生の非道な公事くじ(訴訟)と、人の弱身につけ込む強請ゆすりで何萬といふ金を拵へ、本名の善兵衞を忘れられて、萬屋惡兵衝で通つた名物男だつたのです。

「驚くでせう。萬屋善兵衞が千兩箱の上で首を吊つて死んだと聽いたら」

「驚くよ、まさに一言もないところだ。餘人は知らず萬屋善兵衞、三の川で渡し守からお剩餘つりを取る老爺だ。自分で首などを吊る人間ぢやない」

「御檢屍の同心、小田中左門次樣が、に落ちないことがあるから、平次を呼んで來るやうにといふお言葉で」

「よし、行つて見よう」

 平次は手早く支度をすると、女房のお靜の打つてくれる切火をうなじに浴びながら、八五郎と一緒に赤坂見付に飛びました。

 時は五月の半ば、お城をめぐる青葉が薫じて、急ぎ足になると、ツイ額が汗ばみます。

 裏傳馬町の萬屋といふのは、見附外の名主屋敷の裏で、場所柄至つて靜かなところですが、家はしもたや風ながら小大名の下屋敷ほどもある堂々たるもので、中に渦卷く風雲は兎も角、外構へはいかにもひつそり閑としてをりました。

 錢形平次と八五郎の姿を見ると、どこに見張つてゐたか下男風の大男が一人飛んで出て、

「錢形の親分、御苦勞樣で。小田中樣は此方こちらで待つてゐらつしやいますが」

 丁寧に小腰を屈めるのでした。

 まだ二十七八でせうか、恰幅も顏形ちも立派な男で、下男などをさして置くのはもつたいないやうな人柄ですが、身扮みなりは恐ろしく粗末で、淺黄色の股引もゝひきも、繼だらけの袢纒はんてんも、町の物貰ひとあまり大差のないひどいものです。

 尤も手まめで綺麗好きな男らしく、そのひどい身扮にボロも下げず、首や手足に大した汚れのないのは、さすがに若さのせゐでせう。

 その男に案内されて庭口から入つた平次は、

「どこへつれて行くつもりだ」

 立止つて、恐ろしく泉石の數寄すきを凝らした、俗惡極まる庭を眺めてをります。これがみんな貧乏人や金に困る者の弱味につけ込んで、長い間に絞り取つた儲けの蓄積かと思ふと、妙に小腹が立つて來るのです。

「主人の部屋は土藏の中でございますよ」

「成程、金持はさうしたものだらうな」

 母屋をグルリと廻つて裏へ出ると、二た戸前の土藏があつて、大きい方は雜用藏らしく、小さい方の嚴重な土藏は金藏でもあり、主人の夜の部屋にもなつてゐる樣子です。

「平次か、いや、御苦勞々々々」

 土藏の前に迎へたのは、同心の小田中左門次でした。まだ三十五六の柔和さうな男で、親の跡を襲つて役目には就いたものの、むづかしい事件になると見當がつかなくて、平次を呼出しては、一から十までその叡智に頼ると言つた情けない役人です。

「遲くなりました。何にか厄介なことが起りましたやうで」

「武家上がりの公事師で、お役所を惱ませ續けてゐた萬屋善兵衞が、自殺をして死なうとは思はれない。見てくれ、死骸は取りおろしたが、あとはこと〴〵くそのまゝにしてある」

 左門次は先に立つて案内しました。その頃はもう、案内した下男はどこへ行つたか姿を見せません。



 土藏は小さいものでしたが、よく整頓されて、思ひの外明るいのも、萬屋善兵衞が自分で住むやうに設計させたためでせう。

 八五郎が言つた、千兩箱を杉なりに積んで、その上で死んでゐたといふのは嘘で、そこには一つも千兩箱らしいものは見えません。

「主人の死骸は一應こゝに寢かしてあるが、見付けた時はあのはりにブラ下がつてゐたさうだ。首にあの繩を卷いて、足は床から一尺も離れてゐたといふが、不思議なことに踏臺がなかつた」

 小田中左門次は、床の上に寢かした善兵衞の死骸と、その死骸の側に、天井の梁から不氣味に下がつてゐる、頑丈な麻繩を指すのでした。

「梁から下げた繩に飛び付いて、ワナの中に首を突つ込んだことになりますね」

「そんなことになるだらうな」

 小田中左門次は苦笑ひをしてをります。

 平次はその繩を引いて見ました。高々とつた、頑丈な梁を越えて、繩の先は何うやら窓の外に出てゐる樣子です。

「おや?」

「氣がついたか平次。繩の先は明け放したまゝの、窓の鐵格子を潜つて、庭の柿の木に縛つてあるのだよ──それが不思議でたまらないから、お前を呼んだのだ」

 小田中左門次が、力及ばずと見たのは、この不思議な首吊り繩の力學だつたのです。

「變なことをしたものですね」

 平次は藏の外へ出て、窓のあたりを眺めてをりましたが、やがてどこからか九つ梯子ばしごを見付けて來て、窓を潜つた繩の樣子、わけても窓わくや鐵格子と繩の接觸部分を丹念に調べ、それから繩の先を縛つた、たくましい柿の木の枝、その繩の結び目などを見てをります。

「變つたことがあるか、平次」

「窓の外には梯子の跡がありませんね」

「それから」

「窓ワクがひどくれてゐるし、麻繩も外に出てゐるところが、痛んでゐるやうですが──」

「するとどういふことになるのだ」

 小田中左門次は少しせき込みました。

「繩の端を柿の木に結へて、外から藏の中に入れるには、梯子がなきやなりません。窓は一丈も上にあるのですから」

「?」

「首吊り繩の端を、藏の中から外へ投げ出す分には、梯子も踏臺も要りません。二階に登る梯子段の途中から、梁に繩を潜らして、その端を窓の外へ投り出せます」

「成る程」

「窓わくがひどく摺れて、繩の──藏の外へ出た邊りが痛んでゐるのは、人間の重みのかゝつた繩を、藏の外から引上げて、柿の樹へ縛つた證據ぢやございませんか」

 平次の探索は、神妙で徹底的ですが、

「そんなことが解つたところで、何にかの役に立つのかな」

 小田中左門次は、平次の行屆き過ぎるのが苦々しい樣子でした。

「──これだけのことがわかると思ひました。死んだ主人の善兵衞は、はりから下がつてゐる繩に首を突つ込んだのでなくて、首に繩をつけて、窓の外から引上げられたといふことで御座います」

「すると?」

「首へ繩をつけて、梁に引上げられるまで知らずにゐる者はありません、──金持の年寄りなどと言ふものは、眼ざといときまつたもので御座います」

「──」

「多分、主人の善兵衞が死んでから、首へ繩を掛けられて梁へブラ下がるやうに、藏の外から引上げられたことと思ひます」

 平次の話の焦點は、次第にはつきりして來るのでした。

「どうして、そんな馬鹿なことをしなければならなかつたのだ」

「善兵衞に怨みのある者の仕業しわざでございませう、──どうかしたら、怨みのある者の仕業と見せるためかもわかりません」

「──」

「一人ではできさうもないことをやつて退けて、二人でやつた仕事と思はせたのでせう。もう一つ」

「──」

「あの柿の木に何にか因縁があつたのかも知れません──それはいづれわかることでございませう」

「すると、善兵衞は自分でくびれて死んだのではなくて、人手に掛つて殺されたと言ふのだな」

「自分で首を縊るなら、はりだけで澤山でございます。繩の先を窓の外へ持つて行つたのは、人に殺されたと教へてゐるやうなもので、──尤も死骸を見なきや、確かなことは申されませんが──それに踏臺がなくては首は縊れません」

 平次はこの時ようやく藏の隅に寢かしてある主人の死骸に近づきました。



 何よりも平次を驚かしたのは、主人善兵衞の夜の物の豪勢さでした。白綾しろあやの眞新しい布團、縮緬ちりめんの寢卷など、まさに大名以上のぜいで、こんなところに大金を費つて、秘やかな誇りにほくそ笑む人種の生活を、まざ〳〵と見せつけられる心持です。

「大層なことだらう平次」

 小田中左門次──八丁堀にゆかりのある役人は、當時役得だけでも大名暮しができたと言はれてをりますが、その八丁堀同心の、小田中左門次が舌を卷くのです。

身扮みなりはいたつて粗末な人でしたが──」

 平次も善兵衞の日頃は一應知つてをりました。

「外へは質素に見せたが、暮しは大變だ」

 それを聽きながら、平次は死骸をおほつたものを除りました。

「──」

 死骸の顏には豫想した兇惡さや、苦悶の跡は少しもなく、六十歳の老人らしく、年相應の皺も寄り、びんの毛も白くなつてをりますが、どつちかと言へば、極めて穩やかな死に顏です。

 何んの苦悶もともなはない、不意に訪づれた死でなければ、こんなに靜かには來なかつたでせう。

 平次は死人の口中を見て、鼻腔びこうを覗いて、それから喉、首筋と見て行きました。

「旦那、不思議なことがありますね」

 擧げた平次の顏には、やりきれない疑惑がこびりついてをります。

「これは自殺でも、殺しでもありませんね」

「何んだと?」

 平次の言葉はあまりにも豫想外でした。

くびれて死んだものなら、顏がむくんで、相好さうがうが變つてゐなきやなりません。それに口を堅く結んだまゝで、その口中に何んの變りもなく、喉佛も無事だし、繩の當つた跡も大したことはありません」

「フ──ム、俺もそれは氣が付いた。が」

「これは病氣で死んだ死骸をブラ下げたに違ひありません。病氣は何んで死んだか、そいつは醫者でなきやわかりませんが、多分卒中そつちうか何んかで頓死したのを、最初にその死んだのを見付けた奴が、わけがあつてこんなひどいことをやつたのでせう」

「成程」

 小田中左門次も二の句が繼げません。

「こいつは飛んだ面白いことかもわかりません。家中の者を調べて見ませう。それから八、八五郎はゐるかい」

「へエ」

 八五郎は藏の中へんがい顎を覗かせました。

「お前は精一杯近所の評判を集めてくれ。主人善兵衞を一番怨んでゐたのは誰か、──藏の前の柿の木に、首でも吊つた者はなかつたか」

「そんなことならワケはありません。煙草三服の間だ」

「甘く考へると縮尻しくじるぞ。一番深い怨みを持つた奴は、一番ねんごろな顏をしてゐるものだ」

 さう言ふ平次の注意を後ろに聽いて、八五郎は駈け出してしまひました。

 それを見送つて、平次は念入りに四方あたりを見廻しましたが、見知り人に注意でもされなければ、どれが主人の持物で、何が惡戯者の殘したものか、素より見當もつきません。

 下つ引の一人は、第一番に番頭の勘三郎をつれて來ました。四十少し過ぎらしい、酒灼けのした赤い顏の、どこか武術の心得でもあり氣の、妙に片付けた身體の表情をする男です。

「お前は當家の支配人だと言つたな」

 口をきつたのは小田中左門次でした。

「へエ、勘三郎と申します」

「主人の死んでゐるのを見付けたのは何時のことで、誰が一番先だ」

 平次は問ひを引取りました

「今朝ほど、下女のお元が見付けて騷ぎになりました。卯刻むつ(六時)過ぎだつたと思ひます。藏の戸が半分開いてゐたので、びつくりして覗くと──」

 勘三郎はさすがにゴクリと固唾かたづを呑みます。

「何時も藏の戸は閉つてゐるのか」

「主人はやかましい方で、一寸の出入りにも必ず扉を締めてぢやうをおろしました」

「何にか奪られた物の心當りはないか」

「よく調べて見なければわかりませんが、一寸見たところでは、何んにも奪られた樣子はございません」

「萬屋では藏の壁の中に、千兩箱が塗り込んであると言ふぢやないか──これは世間の評判だが」

「そこまでは私もまだ見たことはございませんが──」

 勘三郎は苦笑ひするのです。そんな馬鹿々々しい噂が、どうして世上に擴がつて、岡つ引の耳にまで入つて行くかそれが不思議でたまらない樣子です。

「曲者ののこしていつたと思ふ品でもなかつたのか」

「曲者と仰しやると、主人は矢張り」

「藏のが開いて、主人ははりにブラ下がつてゐたさうだが、踏臺がなかつたといふから、一應は疑つて見なければなるまい」

 平次は主人の死の眞相は、どうしたつもりか番頭には打ち開けなかつたのです。

「尤も自害などをしさうもない主人でございました。若しやとは思ひましたが」

「ところで、何にかこの藏の中に、不斷見馴れない品物はなかつたかと訊いてゐるんだが──」

「さう言へば今朝見慣れない煙草入が落ちてゐたやうで御座います。主人は煙草を呑みません、へエ──」

「もう少しくはしく話してくれ。その煙草入がどうしたんだ」

「下男の權次に呼ばれて、私がこゝへとび込んで來た時は確かに煙草入はございました。權次と顏を見合せて、物は言ひませんが、不思議に思つたことでございますが、家中の者がドカドカと入つて來て、一と騷ぎした後で氣がついて見ると、もうその煙草入は影も形もなかつたので──、誰かが拾つて手早く隱したのを、私はチラリと見たやうでございます」

「そいつは誰の煙草入だ、見覺えがあるだらう」

「へエ」

「お前が言はなきや權次に訊くまでだ、隱しても仕樣があるまい」

洒落しやれた印傅いんでんの懷ろ煙草入で、銀の吸口の煙管の端が見えてをりました。ザラにある品ぢやございません」

「それは誰のだ」

「御勘辨を願ひます。私の口からは申上げ兼ねます」

「それでは煙草入を拾つた者は心當りがあるだらう。それは言へないことはあるまい」

「女でございました」

 勘三郎はこれを言ふのが精一杯らしく、恐ろしく苦澁くじふな表情をして見せますが、實は言ひ度くて仕樣がなかつたのかもわかりません。



「主人の善兵衞は、もと武家であつたと聽いたが、それは本當か」

 平次と勘三郎の問答が、ハタと行詰つたのを見ると、同心の小田中左門次は横から助け舟を出しました。

「ハイ、武家と申しても寺侍てらざむらひで、寛永寺の末寺の雜用をしてをりました、──武道の心得などはございません」

 勘三郎の語氣には、少しばかり輕侮けいぶの調子が匂ひます。

「それでお前が用心棒に入つたわけだな」

 平次は間髮を容れずに口をはさみました。

「用心棒と申すほどでは御座いませんが」

 勘三郎はさすがに言ひ過ぎを後悔してゐる樣子です。

面摺めんずれがあるやうだが」

「へエ、ほんの少し棒振りの眞似事をいたしましたが、私は二本差ぢやございません。百姓の子で、若い時分諸方の部屋々々を廻つて歩きましたので、當家の御主人とも懇意こんいになり、七八年前から御商賣のお手傳ひをしてをります。へエ」

 勘三郎はひどく折れた調子で、問はず語りに自分の身の上の説明をしました。

「主人を怨んでる者は澤山あつたことだらうな」

「へ、それはもうこんな稼業をいたしてをりますから、自分に理がなくても、借金を取り立てられた者や、公事くじに負けた者は相手を怨みます」

「その中でも、一番主人を怨んでゐた者は誰だ」

「さア、そこまではわかり兼ねますが──」

 問答はこれで又行詰つてしまひました。

萬屋よろづや身上しんしやうは大したことだらうな」

 平次は問ひを改めます。

「私にもよくはわかりません。何しろ、毎日々々利分の金を主人に引渡しましたので、世間で萬屋の藏の壁には千兩箱が塗り込んである──などと申されました。でも、大したことはあるまいと存じます。有るやうでないのは、何んとかと申しますから」

 勘三郎はひどく心得たことを言つて、藏から出て行きました。

 入れ替つて呼出されたのは、主人のをひに當る、喜八郎といふ若い男、

「御苦勞樣で」

 二十四五にもなるでせうか、身扮みなりの整つた瓜實うりざね顏で、少し無氣力ではあるが、呉服屋の手代などにある、物柔かな色男でした。

「お前の煙草入を見せてくれ」

 平次の言葉は唐突で無造作で、そして恐ろしく效果的でした。

「ハツ」

 喜八郎は本能的に懷ろを押へました。が、次の瞬間、不可抗力に立ち向つた人の思ひ定めた樣子で、その懷中から煙草入を出して平次の手に渡しました。唇の色までなくなつて、華奢きやしやな手が小刻みに顫へてをります。

 煙草入は印傳いんでんの洒落れたかますで、赤銅しやくどうの金具、銀の吸口を見せた短かい煙管まで、滅多にまぎれる品ではありません。

「お前は主人善兵衞の甥に當る者だな」

「へエ、──甥と申しても從兄いとこの子で」

「何時からこゝにゐる」

「三年前からでございます」

「善兵衞が死ねば、この家の跡は誰が繼ぐわけだ」

「私にはそんなことはわかりませんが──いづれお米さんに養子を迎へることになりませう」

「その養子はまだきまつてゐないのか」

「へエ」

「主人善兵衞をうんと怨んでゐる者があつた筈だ。お前は氣がつかなかつたか」

「さア」

 喜八郎は默り込んでしまひました。この問答は一向にらちがあきません。

「昨夜うちにゐた者で、外へ出た者はないか」

「この通り廣い家で、銘々自分の部屋に寢てゐるので、誰が外へ出たか、見當もつきません」

「この藏の鍵は誰と誰が持つてゐるのだ」

「伯父が持つてゐるだけで、外からは開けやうはありません」

「すると、昨夜藏に入つた者があるとすれば、外から聲を掛けて、開けて貰つて入つたわけだな」

「そんなことになります」

「誰が聲を掛けても、主人は中から扉を開けてくれたのか」

「飛んでもない。あの通り用心深い人ですもの、知らない者が聲を掛けたつて、扉なんか開ける道理はありません」

「成程な、──ところで、萬屋よろづやは何萬兩といふ身上だと聽いたが、地所家作は別として、その金をどこにしまつて置くのだ」

「世間では藏の壁の中に塗り込んであると申しますが、他人は申すまでもなく、奉公人さへも藏の中へは一と足も入れなかつたくらゐですから、どこに隱してあるか、見當もつきません」

 喜八郎は腑甲斐ふがひなくもさう言ふのでした。

「あの煙草入を呑氣に持つてゐるやうぢや、主人の死骸を吊つたのはあの男ぢやありませんね」

 立ち去つて行く喜八郎を見送りながら、平次は小田中左門次にさう言ふのでした。



 三人目は死んだ主人の一粒種、お米といふ二十歳はたちの娘でした。その頃にしてはき遲れで、小田中左門次や平次の前に呼出されると、場所柄に不似合なしななどを作つて、妙にモヂモヂしてをります。

 尤も顏は親の善兵衞の惡辣あくらつ無殘な性格をそのまゝ承け繼いだやうに、珍らしい不きりやうでした。これだけの身上であつても、縁談が一つもなかつたといふのは、親の評判の惡さよりも、この恐ろしいみにくさのせゐだつたかも知れません。

 それが親の死骸の前で、クネクネと品を作つて見せるのです。平次は妙におくれた心持になつて、暫らくはきり出し兼ねてゐたのも無理のないことです。

「あの、お役人樣」

「何んだ」

 返事をしたのは小田中左門次でした。たうとう娘の方から先にきり出したのです。

昨夜ゆうべ、私、見たんですが──」

「何を見たのだ」

「まだ宵のうちでした。若い女がこの藏の中へそつと入つたのを見てしまつたんです」

「それは誰だ」

「誰ですか知ら」

 お米はすねた恰好になつて、袷のたもとをかう猫じやらしにいぢつてゐるのです。

「お前はそれをどこから見てゐたのだ」

 平次は次の問ひを引取りました。

「手洗場の窓から、こゝがよく見えます。それに昨夜は良い月でした」

「それから?」

「それつきりでございます」

「では訊くが」

「?」

 平次は妙に改まつて、お米の顏を見詰めました。

「今朝お前がこゝで拾つた煙草入を、何んだつて隱したんだ」

「えツ」

 お米の顏色はサツと變ります。

「餘計なことをするから、仕事が厄介になるのだ」

「──」

「もういゝ、お前に訊くことはない」

 平次はこの厄介な娘を追ひやりました。

 續いて呼出されたのは、下男の權次、先刻さつき案内してくれた男です。

「へエ、何んか御用で?」

 見直すと、この下男は全く小氣味の良い男でした。小山の動きのやうな體格も、つくろはぬ愛嬌も、下男奉公などに甘んじてゐる人柄ではありません。

「奉公はどうだ」

 平次の問ひは平凡でした。

「へエ、奉公に樂なことは望めませんが」

つらいといふのか」

「へエ、まア、そんなとこでございます」

「お前の生れはどこだ」

「内藤新宿でございます」

「こゝへ來たのは?」

「二年前でございました」

「給料は?」

「有るやうな無いやうな」

「それはどういふわけだ」

「死んだ親父の借金が、利子が積つて十八兩。私はそれを四年働いてこの身體で返すことになつてをります」

「それぢや、お仕着せもないわけだな」

「へエ」

 權次は自分の身體を眺めて顏を伏せました。さすがにひどい身扮みなりが極り惡かつたのでせう。

 他に下女が二人、お元とお由利。お元の方は四十女で、七八年も奉公して、何んの不平もない出戻り、少しりないところがあるらしく、掃除と飯炊きの外には通用しさうもありません。

 お由利ゆりといふのは十八の娘盛り、これは哀れ深く優しい娘でした。

「──」

 默つてお元に押出された時には、平次や左門次も思はずハツとした程です。

 薄肉で、蒼白くて、榮養はよくありませんが、その清らかさは、全く非凡でした。長い睫毛まつげの下に澄んだ眼、透き徹るやうな頬、唇の紅さだけが青春に燃えて、この娘を比類もない魅惑的なものにしてをりをす。

「お前の家はどこだ」

「ツイ近所──と申しても、赤坂傅馬町の三丁目でございます」

「兩親は?」

「亡くなりました、──二人共」

「何時から奉公してゐる」

「去年の夏からでございます」

「奉公は辛いか」

「──」

 お由利は默つて首を垂れてしまひました。

「給金は貰つてゐるだらうな」

「──」

 お由利はそれにも答へませんでした。何にか仔細しさいのあることでせう。



 一とわたり家中の者に逢つた平次は、小田中左門次と相談して、主人の死骸を母屋おもやに移し、近所の衆に手傅はせてお葬ひの支度を始めました。

 陽はもうかたむきかけてをりましたが、念のため町内の職人を呼んで、土藏の腰板を剥がさせましたが、そこには何んの仕掛もなく、噂に傳はつた千兩箱の壁も、全くの嘘とわかつて、諸人はたゞ口をあくばかり。

「成程ね、あるやうで無いのは金──とはよく言つたものだ」

「どこか、他の場所に隱してはゐないか」

「主人がこの土藏から離れなかつたんだから、他へ隱して置く筈はない」

 そんな噂を聞きながら、尚ほも天井から床下まで調べましたが、どこにも小判の破片かけらもなく、たゞ梯子段の下のあたりや、壁際のあたりに、千兩箱を此處へ置いたのではあるまいかといふ、僅かばかりの痕跡こんせきを見付けただけです。

「親分、町内一軒々々しらみつぶしに訊いて廻りましたよ」

 薄暗くなつてから歸つて來たのは、ガラツ八の八五郎でした。

「どんなことがわかつたんだ」

「いやもう、佛樣の惡口を言つちや濟まねえが、死んだ主人の評判といふのは散々だ」

「フーム」

「高利の金は貸す。町内中の揉めごとに口を容れて、公事師くじしの眞似をして金を取る。人のアラや弱味は一つも見のがさないし、泥棒よりひどいことをして金を貯めたさうですよ」

「番頭の勘三郎は」

「あの野郎は主人に輪をかけた惡黨で、──この家に下女代りにコキ使はれてゐる、お由利とかいふ可愛らしい娘がありますね」

「うん、若い娘のことになると、お前はさすがに眼が早いな」

「あの娘の兩親は、もとは隣り町で良く暮した商人あきんどだつたさうですが、落目になつたところを少しばかりの金を惡兵衞から借りたのが災難で、眼玉の飛び出るやうな利息を背負はされ、たうとう二人共死んでしまつたさうですよ」

「フーム」

「母親はそれを苦にしてわづらひついたところを、布團まで剥がれた上借りてゐた家を追ひ出されて、去年の春桐畑の野天で死に、父親の濱田屋利助は、それを怨んでこの屋敷の中に忍び込み、藏の前の柿の木に首を吊つて死んだのは、ツイ去年の夏ださうで」

「──」

 平次も左門次も默つてしまひました。これは又、あまりにも殘酷な話です。

「娘のお由利はあの通り可愛らしいから、貸した金の抵當かたに引取つてコキ使つてゐるが、主人の善兵衞も、番頭の勘三郎も、孫見たいなのを追ひ廻して、間がなすきがな爪を磨いでゐたさうですよ。呆れ返つた腎助じんすけ爺いぢやありませんか」

「お前の聽いたのはそれだけか」

 平次は八五郎の義憤に水を差しました。

「まだありますよ。下男の權次も親の借金の抵當かたにコキ使はれてゐるが、あれは新宿では評判の孝行者で、宮相撲の三役まで取つた人氣男ださうです。をひの喜八郎はヘナヘナ野郎で、あの人三化にんさんばけ七の娘のお米にへばり着いて、後生大事に御機嫌を取結んでゐるのは、いづれこの家の身上しんしやうを狙つてゐるに違ひないといふ評判で。嫌な野郎ぢやありませんか」

 八五郎の話は、小田中左門次の苦笑ひにも關はず、こんな調子で飛躍するのでした。

 それがひと通り濟むと、平次はもう一度藏の外を一と廻りしました。

「明るいうちに見て置きたい。そこに動かした石か材木がないか、よく調べてくれ」

 平次の指圖を受けて、八五郎と下つ引二三人は、念入りに家の廻りを見まはしたが、數寄をこらした泉石にも、物置の後ろに積んだ材木にも、動かした樣子は少しもなく、わけても土藏の周圍は、掃き清められたやうに綺麗になつてゐるのでした。

「動かした石も木もありませんね。よくも手が屆いたと思ふほど、庭も裏口も土藏のあたりも綺麗ですよ、──あの權次とかいふ下男が行屆くんですね。その上家の裏には小さい畑まで作つて、菜つ葉や豆などを育ててゐますが、畝間うねま箒目はうきめを入れるほどの念の入れやうで」

 八五郎の報告はそんなことです。

 主人善兵衞は念のため醫者にも診せましたが、矢張り病死に變りはなく、この上の詮索せんさくは明日の日といふことにして、藏の鍵は番頭の勘三郎に預けたまゝ、小田中左門次を始め、平次、八五郎等、たそがれの赤坂見付を自身の家へ引揚げてしまひました。



 事件はしかしこれだけで濟んだわけではありません。翌る日の朝、

「八、少し歩いて見ないか。朝寢は毒だぜ」

 向う柳原の八五郎の巣へ、錢形平次が自分で誘ひに行つたのです。

「お早やう、──こんなに早くどこへ行くんです」

 叔母さんの二階に居候してゐる八五郎は、房楊枝ふさやうじの毛をむしりながら、夏の天道樣の中に、寢不足らしい顏を持つて來るのでした。

「赤坂の裏傅馬町だ──俺は千兩箱の夢を見たんだよ」

「へエ」

「千兩箱が夢枕に立つたのさ。このまゝ埋まつちや冥利みやうりが惡いから、掘り出して下さいつてね」

「へエ、洒落しやれた千兩箱ですね」

 八五郎はそんなことを言ひながら、手早く支度をして、平次と一緒に裏傳馬町へ行つたことは言ふまでもありません。

 だが、そこへ行つて見ると、又新しい事件が、生々なま〳〵しい傷口を開けたまゝ、平次の來るのを待つてゐたのです。

「平次、今迎ひを出したところだ、──行違ひに來てくれていゝ鹽梅だつた」

 同心小田中左門次は、持て餘しきつてゐた樣子です。

「何にか變つたことがありましたか、旦那」

「變つたことなら良いが、昨日と同じことを繰り返したのだ。變らなさ過ぎるよ」

「へエ」

「今度は番頭の勘三郎だ。來て見てくれ」

 土藏の前にたかつて來る者を一應遠ざけて平次は左門次と一緒に入りました。

 昨日と同じやうに、繩が一本はりから下がつて、その下には取りおろしたばかりの番頭勘三郎の死骸が、おほふところもなく、むき出しの怖ろしい形相をさらしてゐるのでした。

「今度は殺されましたね」

 死骸を一と眼、平次がかう言つたのも無理はありません。顏がひどくむくんで、唇から血が流れて、そして喉のあたりには、絞殺死體に特有の繩の跡が、恐ろしいみぞになつて殘つてゐるのです。

 土藏の中も滅茶々々に荒らして、格鬪の激しさを物語つてをりますが、それよりも恐ろしかつたのは、窓のふちの痛みやうで、頑丈な繩が散々むしれてゐる上、その繩の端を縛つた藏の外の柿の木までが、皮がげたりしてをります。

 柿の木の下は、二た通りの下駄が踏み荒してをりました。

「あれは誰の跡でせう」

 八五郎の鼻はうごめきます。

「詮索しても無駄だよ。どうせお勝手の水下駄だ、誰が突つかけても同じことだよ」

 平次はそれをあまり氣にもしません。

「もう一つ、死骸の下にあんなものがあつたんだ」

 左門次は、土藏の中から取出して、下つ引に見張らせてある、三つの千兩箱を指さしました。

「下手人は、この千兩箱を目的めあてぢやなかつたんでせうか──持つて行かないのはどうしたことでせう」

 八五郎はその三千兩の誘惑に無頓着だつた番頭殺しの曲者のことを考へてをります。

「もつと大きな目當てがあつた筈だ。ところで、番頭が殺されると、この家の取締りは、甥の喜八郎が心得てゐるだらう、呼んで來てくれ」

「へエ」

 八五郎は母屋おもやへ飛んで行つて、直ぐ喜八郎をつれて來ました。二枚目役者のやうなこの男は、腰が低くて調子は滑らかですが、話の運びが甚だ惡く、

「昨夜は主人の通夜つやで、みんな母家にをりました。夜半よなか過ぎに番頭の勘三郎どんが姿を隱しましたが、誰も氣にしたものは御座いません。みんな呑んだり食つたり、居眠りをしたり、まるで他愛がなかつたので」

 こんなことが精一杯の報告です。

 娘のお米は、昨日からの心の激動で、半病人のやうになつてしまひ、今日は朝から起きても來ないといふので、平次は自分の方からその部屋へ押しかけて行きました。

「あら、親分、こんなところへ」

 娘はさすがに極りが惡かつたものか、床の上へ起き直らうとしましたが、眩暈めまひでもしたものか、あわてて前褄まへづまを掻き合せて俯向うつむきになつてしまひました。どこかひどく痛む樣子です。

 そして、何を訊いても首を振るばかりで、一向らちがあかず、さすがの平次もこの醜女しこめの寢間──世にもなまめかしい場所を見棄てる外はなかつたのです。

 美しい下女のお由利は、年上のお元と一緒に、手一杯にお勝手で立ち働らき、下男の權次は、表裏入口を一手に預つて、これも眼の廻る忙しい思ひをしてゐる樣子です。



「ところで、夢枕に立つた千兩箱に逢はうと思ふが、八、くはを借りて、權次を呼んで來てくれ」

「へエ」

 八五郎の驅け出して行く後ろ姿を見ながら、

「平次、夢枕とか、千兩箱とか、それは一體何んのことだ」

 小田中左門次は眉をひそめました。

「金を隱した場所がわかりました。多分間違ひはないと思ひますが──」

「どこだ、それは?」

「權次に訊いて見ませう。丁度そこへ參りました」

 平次は八五郎と一緒に鍬を擔いで來た權次を指さします。

「親分、何んか御用で?」

 さう言ふ顏には、何んのわだかまりもありません。

「お前は働き者だといふことだが、畑の上にまで箒目を入れて置くのか」

 平次の言葉は如何にも豫想外です。

「飛んでもない、親分。庭をくのだつて手一杯ですよ」

 權次は何んのことか解らない樣子でした。

「行つて見よう、八は昨日裏の畑に箒目が入つてゐると言つたやうだな」

「へエ、驚きましたよ。菜つ葉と豆を植ゑた畑の畝間うねまはうきが入つてゐるんだから」

「俺はそれを思ひ出したのだよ、──成程、念入りだな權次、この箒目に見覺えはあるのか」

一昨日をとゝひまではなかつた筈ですが」

「よし、掘つて見るがいゝ」

 平次の言葉の下から、權次のくはは動きました。馴れた作業で、見る〳〵畑が掘り返され、その穴は次第に深くなつて行くと、二尺ほどの下から、ガチンガチンと鍬の先に當るものがあるではありませんか。

「あ、千兩箱だ。こんなところに」

 一つ、一つ、千兩箱は掘り出されました。土の上に並べたのが全部で五つ。

「これでみんなですね」

 權次はくはの手を休めます。

「よし〳〵、藏から出たのと合せて八千兩。萬屋よろづやの現金はそんなものだらう」

 小田中左門次も八五郎も暫らくは呆氣に取られました。そればかりでなく、とむらひの支度をしてゐた筈の家の者や近所の衆も、自分の仕事も忘れて、庭の隅、塀の蔭から、この不思議な寳掘りを眺めてをります。

「誰がこんなことをしたのだ、平次」

 左門次は呑込み兼ねた顏を擧げました。

「殺された番頭の勘三郎ですよ」

「えツ」

「丁度みんな聽いてゐるところだから。あつしから順序を立てて話して見ませう。違つてゐるところがあつたら、さう言つてくれ」

「──」

 平次は多勢の顏を見廻しながら、かう始めたのです。

「一昨日の晩、主人の善兵衞は、藏の中へお由利を呼び入れた。一年越し附け廻したこの娘を、今夜こそは何んとしても口説くどき落さうとしたのだらう。四十も年の違ふ、孫のやうな娘が、素よりそれを聽き入れる筈もない。二人はつひに立ち上がつた、──お由利は危ふく手籠てごめにならうとしたことだらう。そこへお由利の身を案じて、權次がとび込んだ。年を取つた主人と掴み合ひをしたわけではないが、お互に憎さ口惜しさに取逆上とりのぼせて、ひどい睨み合ひになつたことだらう──」

「──」

 平次はチラと權次の顏を見ました。この好い男は觀念した樣子で、くはを杖に默つて聽いてをります。

「善兵衞には中風の氣があつた。極りの惡さと腹立たしさに取逆上とりのぼせて、急に卒中を起したことだらう。善兵衞はそのまゝバタリと倒れてしまつた。お由利と權次はびつくりしたに違ひないが、落着いて考へると、この男には二人共數々の怨みがある。家の者を呼んで手當てをしたところで、息を吹返す見込みがないとわかると、權次はお由利を母屋に引取らせた上、麻繩を持つて來て善兵衞の死骸をはりに釣り、その繩の尖端さきを窓から出して、お由利の父親が善兵衞を怨んで首を吊つた、あの柿の木に結んでしまつた」

「──」

「繩で人間の身體を梁に引上げるのは、容易な力ではできない。先づ一人でやつたのならその死骸より重い身體を持つてゐる者か、石か材木を繩の端に縛つて引上げる外はない。ところがこの邊には動かしたやうな石も材木もない。──窓越しに主人の死骸を引上げるのは、草相撲くさずまふの三役まで取つた、權次の外にないことになる」

「──」

 權次は默つてうなづきました。如何にも素直な態度です。

「その後へ、樣子が變なので、番頭の勘三郎が來て見たのだらう。主人の死骸ははりにブラ下がつてゐるが、權次はもう引揚げてそこにはゐなかつた。──萬事の樣子を呑込むときもが太くて慾の深い勘三郎は、主人の隱して置いた千兩箱を、梯子はしご段の下から取出し、それを裏の畑へ持つて行つて埋めた、五つ埋めるのに曉方までかゝつたことだらう。そして覺られないやうに、掘つて踏み荒した畑の土を平らにし、それでも不安心で箒を持つて來て掃いた──これは勘三郎の縮尻しくじりだつた。畑に箒目を入れる者はどこの世界にもあるわけはない」

「──」

 聽く者はホツと息を吐きました。平次の明智に服したのです。

「すると昨夜番頭を殺したのは誰だ」

 左門次は我慢のならぬ樣子で問ひを挾みます。



「さて、昨夜ゆうべになつて、まだ取殘した千兩箱が三つあるのが氣になつて、番頭の勘三郎は土藏へやつて來ました。こいつも畑へ隱さうと思つたのでせう」

 平次は靜かな調子で續けます。

「──」

 見物の衆は固唾かたづを呑みました。いよ〳〵番頭殺しの曲者が正體を現はす段取りになつた樣子です。

「すると、そこへ、もう一人の男が來てゐたのです。この家の金は皆んな俺のものだ、イヤさうはさせない、と二人は激しい喧嘩になつた。──番頭の勘三郎は武家奉公をしたことがあり、劍術の心得もある。喧嘩になればもう一人の男の方が負けにきまつてゐるが、この時、夢中になつて言ひ爭つてゐる番頭の後ろへ、そつと忍び寄つた女があつた」

「──」

「女の手には細引があつた、──夢中になつていきり立つてゐる番頭の首へ、その細引を投げかけると、女は必死となつてそれを締めた、──女は死物狂ひとなると、思ひの外に強かつた。が、勘三郎には、武術の心得があつた。女は暴れ狂ふ勘三郎のために、ひどい怪我をさせられた」

「──」

しかし、もう一人の男も默つて見てゐたわけではない。女と力をあはせて、恐ろしい骨折りではあつたが、たうとう番頭の勘三郎を締め殺してしまつた」

「誰だ、そいつは?」

 左門次の問ひは、死のやうな恐ろしい靜寂を破りました。平次の物語りの恐ろしさに、しはぶき一つする者もなかつたのです。

「男と女はそのまゝ逃げ出さうとしたが、前の晩の善兵衞の死骸のことを思ひ出して、二人の力で番頭の死骸もはりに吊つた。かうして置けば昨夜の惡戯者が、番頭を殺したと思ふだらう──と、これは素人の猿智惠だ」

「──」

「今度は女も手を貸したので、死骸は樂に梁にブラ下がつた。番頭が隱し場所から取出した三千兩の小判は、どうせ自分達のものになるからと、わざとそのまゝにして置いた」

「それは一體誰だ。いや、誰と誰だ」

 小田中左門次はせき込みます。

「胸から脚のあたりを、暴れ狂ふ番頭にられて、ひどい怪我をした女がある筈だ」

「お米だ」

 八五郎がそれに應じました。

「男はお米と言ひかはした奴──、お米が昨日の朝煙草入を拾つてやつた奴」

「野郎ツ、逃げるかツ」

 見物の後ろから、コソコソと這ひ出さうとしたをひの喜八郎は、とびついた八五郎に、むずとその襟髮えりがみを掴まれたのです。

        ×      ×      ×

「何んにも話すことはないよ、積惡の報いだ。幾百人の人を泣かせて溜めた萬屋よろづやの身上が、お上に沒收されたところで氣の毒がる者もあるまい。喜八郎は打首、お米は遠島くらゐになるだらう」

 事件が落着してから、この事件を思ひ出して平次は言ふのでした。

「でも、あのお由利といふ娘は良い娘でしたね」

 八五郎の記憶には娘の可愛らしさだけが燒きついてゐるのでせう。

「權次と丁度似合ひさ、昨日世帶を持つた禮廻りに來たよ。女房の古い帶一筋、俺の財布を叩いて小判一枚はづんでやつたが、──若い女房振りもまた惡くなかつたぜ」

 平次はさう言つて本當に滿足さうです。

「でも、主人の死骸を柿の木に吊つたのはやり過ぎでしたね」

「權次もさう言つてゐたよ。口惜しさに一時眼がくらんだが、後で考へると嫌なことをしてしまひました──つて、どんなことをされても人を怨まないやうに修業しなきや──とも言つてゐたよ」

 平次はしんみりとしました。

底本:「錢形平次捕物全集第二十九卷 浮世繪の女」同光社

   1954(昭和29)年715日発行

※題名「錢形平次捕物控」は、底本にはありませんが、一般に認識されている題名として、補いました。

入力:特定非営利活動法人はるかぜ

校正:門田裕志

2017年43日作成

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