錢形平次捕物控
お局お六
野村胡堂
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紅葉は丁度見頃、差迫つた御用もない折を狙つて、錢形平次は、函嶺まで湯治旅と洒落ました。
十手や捕繩を神田の家に殘して、道中差一本に、着換の袷が一枚、出來るだけ野暮な堅氣に作つた、一人旅の氣樂さはまた格別でした。
疲れては乘り、屈託しては歩き、十二里の長丁場を樂々と征服して、藤澤へあと五六町といふところまで來たのは、第一日の申刻過ぎ──。
「おや?」
平次はフト立停りました。
道中姿の良い年増が一人、道端の松の根元に、伸びたり縮んだり、齒を喰ひしばつて苦しんでゐるのです。
「どうなすつた、お神さん?」
ツイ傍へ寄つて、顏を差覗いた平次。
「お願ひ、──み、水を──」
斜に振り上げて、亂れかゝる鬢の毛を、キリキリと噛んだ女の顏は、そのまゝ歌舞伎芝居の舞臺にせり上げたいほどの艶やかさでした。
「癪を起したといふのか、──そいつは厄介だが、──待ちな、今、水を持つて來てやる。反つちやならねえ、どつこい」
平次は女の身體を押付けてゐた手を離すと、ツイ十五六間先の百姓家へ飛んで行きました。まご〳〵する娘つ子を叱り飛ばすやうにして、茶碗を一つ借りると、庭先の井戸から水を一杯くんで、元の場所へ取つて返します。
その忙しい働きのうちに、街道筋は暫く人足が絶えて、浪人者が二三人、うさんな眼を光らせて通つただけ──。
「おや?」
平次はもう一度目を見張りました。ツイ今しがたまで、松の根方にもがき苦しんでゐた、道中姿のいゝ年増が、何處へ消えて無くなつたか、影も形も見えなかつたのです。
狐につまゝれたやうな心持で、藤澤の宿に入ると、旅籠だけは思ひ切り彈んで、長尾屋長右衞門の表座敷を望んで通して貰ひましたが、足を洗つて、部屋に通ると、懷中へ手を入れた平次は、
「おや〳〵そんなものが望みだつたのか、手數のかゝる芝居をしたものぢやないか」
思はず苦笑ひをしたのも無理はありません。頸からブラ下げた財布が、何時の間にやら、見事に切り取られて居たのです。
「どうなさいました、お客樣」
入つて來た番頭は、平次の頸にブラブラと下がつた紐に驚いたのでせう。
「ハツハツハツ、巾着切にやられたよ。江戸者も旅に出ちや、からだらしがねえ」
「それは大變ぢやございませんか」
腰を浮かす番頭。
「騷ぐほどのことぢやないよ、番頭さん。取られたのは、ほんの小出しの錢が少しばかりさ。まだ小判といふものをうんと持つてゐるから、旅籠賃の心配はさせねえ」
平次はそんな事を言つてカラカラと笑ひますが、盜られた財布の中味は、正直のところ、路用から湯治の雜用を併せて三兩二分ばかり、あとに殘つたのは、煙草入に女房のお靜が入れてくれた、たしなみの小粒が三つだけです。
「お役人に申しませうか」
「いや、それにも及ぶめえよ」
江戸の高名な御用聞、錢形の平次が巾着切にしてやられたとは、さすがに人に知られたくなかつたのでせう。
「左樣でございますか、──その御災難の中へ、こんな事を申上げるのは變でございますが、今日は急に御本陣へお行列が入つて、宿中一パイになつてしまひました。手前共でも割り切れないほどのお客樣で、どうすることも出來ません。御迷惑樣でも、相客をお二人ばかりお願ひ申上げたいのでございますが、如何でございませう」
番頭は敷居際に坐り込んだまゝ、一生懸命手を揉んで居ります。
「いゝとも、十疊に一人ぢや勿體ない。二人でも三人でも、案内して來るがいゝ」
「では──」
番頭は引込むと、間もなく二人の屈強な武家を案内して來ました。
「──」
平次は危ふく聲を出すところでした。相客といふのは、先刻街道筋で、女巾着切を介抱してゐる時、近々と眺め乍ら、素知らぬ顏をして通つて行つた、二人の浪人者に紛れもなかつたのです。
「なんだ、町人か」
向う疵のある、大柄の浪人は、平次を睨め廻し乍ら、部屋の眞ん中にドツカと坐り込みます。
「蟲だと思つたら腹も立つまい、我慢をせい」
續くのは小柄の中年男。
「俺はその蟲が大嫌ひでな。蚤、虱、バツタ、カマキリ、百足蟲、──蟲と名のつくものにろくなものがない」
「目障りだつたら、捻り潰すだけの事だ。まア湯へ入つて一パイやらかさうか」
平次は驚きました。世の中にこんな無法な武家があるものでせうか。見れば醉つてもゐない樣子、
『觸らぬ神に祟りなし』といつて、その頃の人に共通の逃避的な心持で、平次は殊勝らしく部屋の隅つこに小さくなつたのです。
やがて交る〴〵風呂に入つた二人の浪人者は、一本つけさして、互に獻酬を始めました。平次はその間に部屋を出て、懷紙に帳場硯でサラサラと何やら認め、店先に立つて宵の街を眺めて居ります。
その頃の街道筋の賑ひは、今日想像したやうなものではなく、大名の行列だけでも、日に幾つも通ることがあり、上り下りの旅人、諸藝人、武士、僧侶、あらゆる階級の人の間を縫つて、諸大名の早飛脚や、十一屋の定飛脚などが、夜晝の別なく通つて居ります。
平次はそのうちの一人、夜道をかけて江戸へ行く早飛脚を見付けると、たつた三つしかない一朱銀のうちの一つを、先刻書いた手紙にクルクルと包んで、飛脚の眼の前にポンと投りました。
「おや?」
思はず立止つて、それを拾ひ上げた飛脚は、クルクルと懷紙をほぐして、店先の灯に透しましたが、四方に投げた人影もないのを見定めると、腹掛の中へポンと落して、サツと平塚の方へ飛びます。
始終の樣子を物蔭から見た平次、忍ぶともなく跫音靜かに元の部屋に歸りました。
「足を折るのが一番いゝ、──血を流すと事面倒だ」
「一人だけ、この宿に踏止まつて、役人の方を引受けるつもりなら、少し位は傷を負はせても差支へあるまい」
漏れて來るのはこんな言葉です。平次はさすがにギヨツとしましたが、思ひ直した樣子で、靜かに入ります。
「これ町人」
「へエ──」
「出入りには挨拶位するものだぞ。いきなり唐紙を開ける奴があるか、馬鹿野郎」
「へエ、相濟みません」
絡み付いて來るのを、平次は輕くかはしました。
「飯が濟んだら腰の物の手入れをしよう。いざといふ時、武士の魂が役に立たなくては濟まぬ」
「いかにも、それはいゝことに氣が付いた」
二人は灯を中にして、ギラリギラリと長いのを引つこ拔きました。
「どうだ。見事だらう。貴公の備前物は、大層な自慢だが、到底この相州物には敵ふまい」
小さい方の武家は一刀をギラリギラリと振り廻しました。
「なんの、刀は體裁や見てくれで切れるものか。本當の切れ味は俺の備前物の方が、どんなに優れてゐるか判るまい」
「よし、それなら、試し斬りをして見ようか」
「應ツ、望むところだ。が、何を斬るつもりだ。卷藁などは嫌だぞ」
「幸ひ其處に生きたのが居るではないか」
「成程、手頃な肥り具合だ。これ、町人」
平次はさすがに膽を潰しました。長い間御用聞をして居りますが、まだ、こんな無法な人間に逢つたこともありません。
これが旅先でなかつたら──もう一つ、大事な目的のある旅でなかつたら、平次も娑婆つ氣を出して、二人の浪人者を取ひしいだかも知れません。が、得意の投錢を飛ばすにしても、あと煙草入に、小粒が二つこつきりでは、平次の戰鬪力は半分になります。
「逃げるか、町人」
「其方はどうも氣に入らないところがある。それへ直れ」
大柄の一人は早くも入口を塞いで大上段に振り冠り、小柄の一人は、一刀を正眼に、平次のうしろからジリジリと迫ります。
何も彼も、平次と見込んでの嫌がらせらしく、何方の氣はひを見ても、脅かしや醉狂でないことは、平次にもよく解ります。
「御免蒙りませう。あつしは斬られつけないから、そんな遊びの相手にはなりませんよ」
「何をツ」
早くも脇差を腰に、振り分けの荷を右手にさらつた平次は、中腰になつて、二人の隙を窺ひます。
「こいつは面白い。鳥も飛ばなきあ撃つ張合がないといふものだ、逃すな」
「應ツ、此處は鐵璧だ。蟻一匹這ひ出させるこつちやねえ」
前後から迫る刄、平次は相手の深刻な害意を讀むと、もう躊躇しませんでした。脇差を引つこ拔いて、武士と渡り合ふのを不穩當と思つたか、右手に掴んだ振分けの荷、──それを入口を塞いだ大男の股倉へパツと抛つたのです。
「わツ」
不意を喰らつて、大男は前のめりになりました。咄嗟の隙に乘じた平次、一氣にその頭を飛越して廊下へ──。
「無禮者ツ」
後ろから追ふ二人の浪人者。旅籠屋中は引くり返るやうな騷ぎになりました。
二條の刄に追ひ詰められた平次は、暫らく廊下を逃げ廻つて居りましたが、何の部屋も必死と内から障子を押へて、平次を入れてくれさうもないのを見ると、浪人者の姿が納戸の蔭に隱れた機會を掴んで、階段の下の行燈部屋の中へ、パツと飛込んだのでした。
「あツ」
低い小さい聲乍ら、異常な驚きにかき立てられた女の悲鳴です。行燈部屋と見たのは、混み合つた時は矢張り客を入れる部屋だつたのでせう。長四疊の灯は消して、窓から入る月の光りでは、女の素姓もはつきり讀めません。
二人の浪人は暫らく其邊中を探して居る樣子でしたが、最後に平次の隱れた部屋をパツと開けました。
「何だ此處にも人が居るぞ」
一歩大きな浪人が踏込みます。
「此處は女一人でございます。御無體をなさいません樣に」
凛とした聲、──入口に立ち塞がつたのは、異香薫ずるやうな部屋の主でした。
「何、女一人?」
さすがの無法者も、面喰らつて引下がりました。
「女一人でも油斷はならぬぞ、一應中を見せて貰はうか」
小さい方の浪人は、その背後から警戒の眼を光らせました。
「取亂して居りますが、どうぞ御覽下さい」
女はツト身を引きました。それを追つて廊下の灯を背にした四つの眼。
「フーム、居ないぞ」
「外へ飛出したのかも知れぬな」
「逃げ足の早い奴だ」
二人はプンプンとして引揚げます。
女はその後姿を見送つて、靜かに行燈に灯を入れ、鬢と襟を直して、押入の戸を開けました。
「もう大丈夫でございます。無法者は行つてしまひました」
「有難い、──飛んだ御迷惑をかけました」
ひよいと押入から出て來た錢形の平次、何心なく行燈の灯の中に、女と顏を見合せて立竦みました。
「あツ、お前さんは?」
紛れもない、夕刻藤澤の宿の入口で、癪を起して苦しんでゐた女──、水をくんで來るうちに、行方不明になつた女──、平次の頸にかけた、財布の紐を切つて拔いた女──。
「まア、私は」
女は兩の袂を顏に當てて、身も世もあらぬ樣子で疊の上に突つ伏しました。
「お前さんに助けられようとは思はなかつた、これは〳〵」
「──」
「癪はどうしたえ、──」
平次は漸く落着きを取戻して、萎れ返つた女を觀察しました。精々二十二三、町人の女房が江の島詣りに行くと行つた身輕な風をして居りますが、樣子にひどく上品なところがあつて、武家の新造、奧方といつても恥かしくないでせう。
それよりも平次を驚かしたのは、氣位の高さうな取濟した底に潜む、冷美といつてもよい不思議な美しさでした。それを見詰めてゐると、冷たい焔に對して感ずるやうな、恐ろしい蠱惑と懊惱をさへ感じさせるのです。
「親分さん、──濟みません。飛んだことをしてしまひました。──私の本意でなかつたわけは、親分の懷中物を、私の身に着けてゐないことでもお解りでせう。幾らあつたか存じませんが、せめてこれでお許しを願ひます」
女はさう言つて、自分の帶の間から赤い紙入を拔いて、平次の方へ押しやるのでした。絶えも入りたげな面目なさに、長い睫毛を伏せたまゝ──、惡い女も隨分大勢見て來た平次にも、唯の巾着切や胡麻の蠅とは思へないいぢらしさです。
「お前は唯の惡人らしくもねえが、──惡戯にしちや、少し念が入り過ぎるぜ。一體どうして人樣の物に手を掛ける氣になつたんだ」
「申上げませう、親分さん」
女は精一杯の努力で顏を擧げました。睫毛は濡れて、赤い唇が激情にヒクヒクと顫へます。
その物語はかなり長いものでした。が、筋は、──女の名はお六──武家の娘で本當は祿と書くのだが──、少女時代にさらはれて道中胡麻の蠅の手先になり、ついうか〳〵と娘盛りの二十歳を越してしまつたといふのです。
尤も一度は惡者の手を逃れて、江戸番町の親の家に歸りましたが、少女お六が誘拐されるとき、父親の鎌井重三郎は人手にかゝつて非業の死を遂げ、家祿は沒收、母親はそれを苦に病んで父の後を追ひ、その後を襲ぐ者もなく、鎌井家は沒落、お六は再び惡者に引戻され、美貌と器用さを重寶がられて、浮ぶ瀬もなく惡事に沈淪して居たのです。
「こんなわけで、私は目の前に父親の仇を見乍ら、討ち果すこともならず、不本意乍ら惡者の手先になつて、うか〳〵と日を過しました。でも、今日といふ今日、惡い夢の醒めたやうな心持が致します。──此上のお願ひには親分さん、この私に親の敵を討たせ、重なる罪のお處刑を、立派に受けさせて下さいませんか、お願ひでございます」
「──」
「親分さんのやうな方に助太刀をして頂いたら、私にも親の敵が討てないこともないでせう、お願ひ」
お六の手はツイ伸びて、平次の膝を搖ぶります。
「巾着切から敵討か、そいつは驚くぜ。まアいゝ。三幕目は何にならうと、俺の知つたことぢやねえ、──ところで、その敵の名前や顏が解つてゐるのかな」
平次は漸く積極的になりました。
「中國浪人久留馬登之助、──顏に向う疵のある、三白眼の大男、海道筋に響いた無法者でございます」
「あ、あれだ」
「御存じで? 親分さん」
「ツイ今しがた、拔刀で俺を追つかけた浪人だ。あれは滅多に間違へる人相ぢやねえ」
「親分さん、──さうと氣が付けば放つては置けません、お願ひ申します」
包の中から匕首を取出したお六、平次の止める隙もなく、廊下へパツと飛出しました。その突き詰めた樣子や、輕捷な物腰など、思ひ付きの芝居とも思はれません。
誘はれるともなく、平次も飛出しましたが、その時は、もう二人の浪人は旅籠屋に難癖をつけて、何處ともなく立去つた後でした。
翌る日の朝は、運惡くドシヤ降り、早立ちは駄目になりましたが、間もなく素晴らしい秋日和になつて、上り下りの旅人は一ぺんに旅籠屋から流れ出しました。
伊勢詣り、湯治客、國侍、飛脚馬──などと一緒に平次とお六も此上もない長閑な旅を續けたのです。
お六は女巾着切に似ぬ教養のある女で、平次も時々受け應へに困ることがありました。武家育ちといふだけに、諸藝、歌、俳諧にまでたしなみがあるらしく、次から次へと、話の種は盡きません。
小田原へ着いたのは丁度六つ少し前、飛脚馬も、伊勢詣りも、武家も町人も、大抵は其處で泊りました。凾嶺までは四里八町、夜道には少し遠過ぎます。
平次とお六が泊つたのは、とら屋三四郎、晩酌を一本つけて、さて、話が枝がさし葉が繁ります。番頭は夫婦と見たか、駈落者と見たか、ひどく心得て同じ部屋に泊めるつもりなのを、
「そいつは困るぜ、二人は唯の道伴れだ」
平次は野暮なことを言つて大きく手を振ります。
「まア、親分さん、──」
お六は何時までも離れともない風情でした。が、さすがに打ちあけてさう言ひ兼ねたものか、モヂモヂし乍ら自分の部屋に引下がります。
「誰だい、入口の漆喰壁へ、消炭なんかででつかい圓と四角を描いたのは?」
帳場の方でそんな聲がしました。多勢の雇人達が、いろ〳〵評議をして居る樣子ですが、結局誰の惡戯とも解りません。
暫らく經ちました。
平次は手水場から歸つて來て、さて寢ようとすると、
「親分さん」
そつと廊下の外から聲を掛ける者があります。柔かな匂ふやうな聲。
「お六さんかい」
「お願ひがありますが、入つて構ひませんか」
「いゝとも、まだ寢たわけぢやねえ」
「では」
滑るやうに入つて來たお六、寢卷姿に、少し取亂して居りますが、何か異常な緊張に、ワクワクして居る樣子です。
「どうしたんだ、お六さん」
「親分さん、──お約束を守つて下さるでせうね」
「約束?」
「敵、久留馬登之助の所在がわかりました。今夜、今すぐ名乘りかけて討ちたいと思ひますが──」
お六は華奢な肩を落して、怨ずる姿に平次を見上げます。
「そいつは早速で面喰らはせるぜ。何處に居るんだ、その敵役は?」
「先刻、この旅籠屋の入口で、番頭と話して居るのを二階の窓から聞きました。──親分が泊つていらつしやると聞いて、夜道をかけて凾嶺へ登つたやうで──」
「へエ──、昨夜はあんなに俺を追ひ廻して、今晩は向うが逃げ廻るのかい」
「親分さんが敵討の助太刀をすると氣が付いたので御座いませう」
「今晩は御免蒙らうよ、お六さん」
平次は沒義道にクルリと背を見せました。
「でも、親分さん、あんなに堅くお約束をした筈ではございませんか」
「俺は約束をしたやうな覺えはねえよ。お六さんが自分の心持で一人極めにしたんぢやないか」
「でも」
敷居に崩折れるやうに、お六の怨じた眼は妖艶を極めます。
「それに、俺は夜の仇討が大嫌ひさ。同じ事なら、竹矢來を組んでよ、檢視の役人附添の上、ドンドンと太鼓を叩いて、揚幕から靜んづ〳〵と出てみたいやな。鎖帷子に身を固めて、大ダンビラを肩でしごくと、後ろから眞つ赤な朝日が出る、──皆んな極つた型のあるものだ」
平次はすつかり茶かし氣味です。
「親分さん、本當に眞劍に聞いて下さい。久留馬登之助の隱れ家は、湯元から山道を入つて、ほんの五六町のところにあります。今晩は其處に泊るに違ひありません。親分さんと二人押し掛けて名乘りをあげたら、萬に一つも取逃すやうなことはないでせう」
「──」
「此處からほんの一里半足らず、敵を討つても夜中までには歸つて來られます」
「歸つて來る?」
「小田原へ歸らうと、其儘凾嶺を越さうと、親分さんのお心持次第になります」
お六は本當になやましさうでした。何處までも茶かし氣味な平次の顏を見上げて、たうとう涙さへ流してゐるのです。
「成程、さう聞けばわけのないことだ、夜中前に歸つて來るといふことにして、出かけてみようか」
「親分さん」
お六は本當に嬉しさうでした。平次がもう少し甘い顏をしたら、飛付いて手ぐらゐは取つた事でせう。
二人は銘々に支度をして、そつと旅籠屋を拔出したのは、それから間もなく、闇の小田原街道を、手に手を取るやうな心持で、凾嶺の三枚橋を渡りました。
「此處から少し道が惡くなります」
お六の注意までもなく、途は本街道を遙かに外れて、次第に狹く、次第に險しくなりました。
「親分さん」
崖や岩に攀上るとき、お六は決つて下から手を差伸べ、少し甘い調子で救ひを求めます。
「──」
平次は時々舌打をし乍ら、それでも、心せく樣子で、グイと引揚げてやりました。
「まア、何て、邪慳なんでせう」
「邪慳なのは生れ付きさ」
さう言ふ平次へ、お六は時々物に怯えたやうに飛付いたりし乍ら、何うやらかうやら目的地に着きました。
「此處──親分さん」
お六は囁やき乍ら、山の盆地を指さしました。林に三方を圍まれて、嚴重さうな山小屋が一つ、──中には灯も何にも見えません。
「誰も居る樣子はないぢやないか」
「久留馬登之助は何處かへ廻つたのでせう。いづれ此處へ來るに違ひありません。入つて待つて居ませう」
お六は何の恐れ氣もなく、山小屋の中に入りました。續く平次。
「恐ろしく暗いんだな」
「灯をつけるわけに參りません。暫らく此處で待つて下さい」
「──」
平次は高を括つた心持で、小屋の中にドツカと坐りました。
「ね、親分さん。首尾よく敵討がすんだら、私を江戸へおつれ下さるでせうね、──足を洗つて、今度こそは堅氣になりますが──」
「お六さん、それは誰に言つて居ることか、お前さん知つてゐるのかい」
「──」
「この俺が誰だか、知つて居なさるのかと訊いて居るんだよ」
「──」
「お前は、物腰が上品だからと言ふので、お局のお六といはれた、名題の女道中師だらう。今まで積んだ惡業の數々、それが、砂文字を消すやうに、綺麗になると思つて居るのかい」
平次は到頭、言ふべきことを言つてしまつたのでした。
「では、私も申します、──錢形の平次親分さん」
「え?」
「それ位のことを知らずに、大それたこんな芝居は打てるでせうか、──私はいかにもお局のお六に相違ございません。──でも、今晩小田原の旅籠屋にいらつしやれば、錢形の親分は、間違ひもなく殺されなすつた筈ですよ」
「──」
「仲間は正亥刻半を合圖に五人で斬り込む筈、それがいけなければ、鐵砲位は持出し兼ねません。今頃は親分の姿が見えなくなつて、さぞ大騷動をしてゐることでせう」
「そいつは本當か」
「今更駈引をいふ私ではございません。そのうちに、仲間が私の足跡を嗅いで、此處へ來ると事面倒になります。私は一と走り、方角を外れさして來ませう。こゝを動いてはなりません、親分」
お六は命令する調子で言ふと、
「待つた」
平次の聲を耳にもかけず、ヒラリと山道の闇の中に姿を隱しました。
「親分」
女はそつと小屋の中へ滑り込みました。あれから小半刻も經つたでせう。
「──」
平次は暗がりの中に、腕を組んだまゝ、木像のやうに默りこくつて居ります。
「親分さん、──大變なことになりましたよ」
お局のお六の聲が、激情に彈みます。狹い小屋の中は、この女一人を入れただけで、近々と體温を感ずるやう。
「──」
が、平次は相變らず默りこくつたまゝ、壁の方を向いて、プツリとも音をあげません。
「親分、まさか座襌ぢやないでせうね。返事位はして下すつたら──?」
「──」
「でも默つて聞いて貰つた方が、言ひいゝかも知れない。幸ひ顏も見えないし」
「──」
「親分さんが、何の用事で凾嶺へ來たか、それはよく解つて居ますよ、──大公儀から、駿府へ送る御用金が六千兩、二千兩の箱が三つ、馬に積んで、井上玄蕃樣が宰領をして、わざと大袈裟な守護はつけず、錢形の平次親分がたつた一人、御鑑定に叶つて、凾嶺の關所を越すまで、蔭乍ら守護して來るといふ話は、海道筋を繩張りにしてゐる、私達の耳に入らずに居る筈はない──」
「──」
お六は大變なことを言ひ始めました。
「井上玄蕃樣は木像も同樣、あとは馬子と青侍が二人だけ、錢形の親分の目さへ光らなきや、六千兩は此方のものと、計略は前々から、練りに練られました。最初に親分の懷を拔く役目を引受けたのは此の私」
「──」
「假病をつかつて、首尾よく親分の懷中は拔きましたが、路用がまだ殘つて居るとは氣が付きません。その晩は、久留馬登之物ともう一人の仲間が、親分に喧嘩を吹かけ、手足を折るか、淺傷を負はせるか、兎も角、旅を續けられないやうにする筈でしたが、親分が相手にならなかつたので、それも駄目」
「──」
「私の部屋に逃げ込んだのを幸ひ、道づれになつて、親分の氣を外らせようとしましたが、親分の目は一刻半刻も、六千兩の荷から離れることではございません」
「──」
「仲間の者はジレ込んで、いよ〳〵親分を殺すことに決めました、──手引はこの私と、手筈まで調つた時、私は、何うしたことか、親分を殺すのがイヤになつたのでございます。親分も殺さず、六千兩も無事に奪ひ取つたら、科は宰領の井上玄蕃が一人で背負ひこむ筈──と、仲間の者に隱れて親分をそつと此處へ誘ひ込みました」
「──」
不思議な惱ましさに、お六の言葉は暫らく絶えます。平次も救ひ、仲間にも反かず、六千兩も首尾よく奪ひ取る細工が、どんなに女らしく、陰險に、緻密に運ばれたことでせう。
「でも、仲間の者は私の裏切に氣が付きました。總勢十五人、そのうち三四人は、間もなく此處に向つて來ることでせう」
「──」
「親分さん──逃げて下さい──と申上げたいけれど、私はその氣になれない。それに、──今頃はもう山の中の何處かで、六千兩は仲間の手に奪ひ取られた筈。此まゝ江戸へ歸られる錢形の親分さんではないでせう──」
「──」
平次の頭は、闇の中に強く動きました。
「いえ〳〵嘘ぢやございません。親分が小田原の旅籠屋を逃げたと知ると、仲間の者が駿府の使に化けて、小田原に向ひ、明日早朝、關所手前で、御用金を受取りたい、夜中御苦勞乍ら、その手配を付けるやうに──と申込まれ、井上玄蕃は錢形の親分の留守中も構はず、六千兩の金を馬につけて、ツイ今しがた凾嶺の山道へかゝつた筈──」
「──」
平次の首はまた激しく動きます。
「さア、親分さん、一緒に此處を立ち退きませう。親分は江戸へ歸られず、私は仲間のところへ歸られないとなると、二人の行先は京大阪の外にはありません」
お六は執拗に絡み付いて、その手は默然として壁の方を向く平次の肩に掛りました。
「馬鹿ツ」
平次はすつくと立上がりました。その彈みに、長大な身體が小窓のところまで伸びると、隙間漏る月の光が、丁度その顏のところを照らしたのです。
「あツ」
平次と思ひきや、何時の間に入れ替つたか、それは大きな馬顏。
「馬鹿ツ、何といふ女だい」
言ふまでもなく、錢形平次の子分、ガラツ八の八五郎でなくて誰であるものでせう。
「お前は、お前は?」
「よく覺えて置け。錢形親分の右の片腕といはれた、小判形の八五郎だ、──親分が何時までこんなところにマゴマゴして居るものか」
「えツ」
「ざまア、見やがれツ」
ガラツ八は小屋の入口から外へパツと飛出さうとしましたが、いけません。小屋は全部外から鎖した上、入口の──今お六の入つた締は、闇に馴れないガラツ八の眼ではどうしても搜せなかつたのです。
そのうちに、パチパチパチと物のはぜる音がして、夜風が一陣の煙をサツと室の中に吹込みます。
「まア、惡かつたワねえ、でも、錢形の子分なら、滿更諦められない事はない。觀念して私と一緒に燒け死んでおくれ」
「野郎ツ」
「海道一の良い女と燒け死ねば、お前も本望ぢやないか。諦めて、丸燒になつておくれよ。錢形の親分が私と一緒に逃げる氣にならなきや、どうせ一緒に燒け死ぬ筈だつたんだから」
「──」
ガラツ八はもうその毒舌に取合ひませんでした。そのうちに驅け付けた惡者の仲間が二人、三人、小屋の中に裏切つたお六と、錢形平次が居るものと早合點して、どつと喊聲をあげ乍ら、小屋の四方に薪を添へます。
「お前は隨分變な顏だねえ」
「勝手にしやがれ」
小屋の一角を燒き拔いて、クワツと燃え立つ焔。
「可哀想で助けるんぢやない、お前と心中するのが役不足だから助けて上げる、──さア、私の氣の變らないうちに、其處から出て、仲間の眼を免れることが出來たら、本街道を畑宿の方へ行くがよい」
「──」
お六はさう言ひ乍ら、ガラツ八をかきのけて、隱し掛金を外したのです。
「親分の平次に逢つたらさう言つておくれ。男に心引かれたことのないお局のお六が、岡つ引に癪の介抱をして貰つたばかりに、火の中で死んでしまつた──と」
「──」
クワツと又一角を燃え崩して、焔は怒濤の如く小屋の中へ──。
「御用面をしたつて、この私は縛れないよ。さア歸つておくれ、お前なんかとは一緒に死んでやらないから」
どつと尻火を切つた中に、觀念の眼を閉ぢたお六の姿、八五郎はさすがにその手を取つて引つかつぐ氣力もありませんでした。
お六の開けてくれた入口から、轉がるやうに外へ出ると、
「それツ、逃すなツ」
飛付いて來たのは三人の惡者、──幸ひ大した腕でなかつたと見えて、八五郎の死物狂ひの襲撃に驚いて、パツと三方に散りました。
「手前達は後で縛つてやる、凝つとして待つて居やがれ」
岩も藪も一足飛に──焔の中のお六に心引かれ乍ら、密林の闇に飛込んでしまひました。
かくある可しと期待した平次は、ガラツ八を山小屋に置いて、三枚橋のあたりに網を張つて待ちました。
間もなくやつて來たのは井上玄蕃と、御用金六千兩を積んだ馬と、馬子と、青侍が二人、──凾嶺の關所さへ越せば、あとは駿府から數十人の警護の者が來てゐると聞いて、喜び勇んで凾嶺の山道へかゝつたのです。
平次は舌打を一つして、見え隱れにその後に從ひました。あれほど嚴重に注意して置いても、平次の姿が見えなくなると、『何を岡つ引め』で、すぐこんな勝手な行動をする、井上玄蕃の頭の惡さに愛想が盡きたのです。
やがて畑宿を越して、双子山の麓を廻つたのは、眞夜中過ぎ。凾嶺の山道でも、此邊は一番淋しいところですが、あと一と丁場で關所と思ふせゐか、馬子も青侍も、大した警戒をする樣子はありません。
暫らくすると、麓近い密林の中に、ポーツと焔があがります。
──やつたな──
平次はさすがにギヨツとしましたが、今更引返すわけにも行きません。
甘酒茶屋までもう一と息といふ頃。
近々と梟が鳴きました。
「おや?」
馬を停めた井上玄蕃は、藪の中から出た、釘拔のやうな手に足を掴まれて、あつと言ふ間もなく引落されました。
「それツ、曲者ツ」
「油斷すなツ」
二人の青侍が一刀を拔く間もありません。何處から飛出したか、黒裝束が七八人、三方から取圍んで、水も漏らさじと詰め寄るのです。
「一人も生かしちやならねえ、口がうるさい」
頭立つたのが號令すると、七八本の刄が、折から昇つた月の光を受けて、三方からサツと殺到するのでした。
「えツ、そんな勝手なことをさせてなるものか、平次が相手だ、來いツ」
不意に、御用金を積んだ馬の側に、スツクと立上がつたものがあります。
「何? 平次、いゝ相手だ」
バラバラと亂れ打つ刄、平次はそれをどう掻い潜つたか、半分は同士討をさせて、
「此處だ、馬鹿奴ツ」
拳を擧げると、平次の手から、凾嶺名物の燒け石が亂れ飛びます。
それに勢を得て、二人の青侍も、必死の刄をかけ並べ、馬の三方を守つて、激しく切り合ひました。
が、多勢に無勢、暫らくの後、井上玄蕃は生捕られ、二人の青侍も薄傷を負つた樣子、手馴れた錢を投げられないので、平次の武力も思ふに任せません。
最早これまで──、勝敗の數は定まりました。
畑宿へ一里、關所へ一里、眞夜中過ぎの往來はピタリと絶えて、救ひの道の全くあらうとも思へぬところへ、
「御用ツ、御用ツ、御用だぞツ」
凾嶺全山を搖がすほどの聲がして、ガラツ八の八五郎、疾風の如く飛んで來たのです。
「お、八か」
さすがにホツとした平次。
「俺が來さへすれや百人力だ、──親分。小田原のお役人が、千人ばかり畑宿をくり出しましたぜ」
八五郎の宣傅力の偉大さ。
「助太刀なんか要るものか、錢さへありや俺一人で片附けてやるが、藤澤で掏られて空つ尻だ。八、──穴のあいたのがあつたら少し貸せ」
と平次。
「有難えて、親分に金を貸すのは生れて始めてだ。大判や小判はねえが、穴のあいたのならうんとあるぜ」
懷から取出した大かい財布、寛永通寳が五六百枚も入つて居るのを受取ると、平次はすつかり有頂天になりました。
「有難てえ、これさへありや」
手に從つて飛ぶ投げ錢、惡者達は鼻を叩かれ、頬を削られ、中には眼をやられ、拳を痛められて、ドツと崩れ立ちます。
相手の氣勢さへ挫けば、八五郎の馬鹿力は最も有效に働きます。二人の青持と力を併せて、瞬くうちに生捕つた曲者が、二人、三人、五人、──折から關所の方にあがる喊の聲。助勢の人數と見て、殘る曲者は、パツと蜘蛛の子を散らしてしまひました。
それを見送つて、
「八、有難てえ。お前のお蔭だ」
平次は思はず八五郎の手を取りました。
「親分、あの小屋の中で、女は燒死にましたぜ」
純情家の八五郎は、まだそれを考へて居たのですが、さすがに憚かつて、これ以上の事は言へません。
六千兩の御用金は、その日の朝、關所で駿府の使に引渡し、平次とガラツ八はホツとして江戸へ歸りました。
「よく間に合つてくれたね、八」
つく〴〵言ふ平次。
「飛脚が氣をきかしてくれたんですよ。親分の手紙を見ると、早駕籠で、夜晝おつ通しに飛んで來たが、あんまり急いで、小田原の旅籠屋の目印を見落すところでしたよ」
「白壁に消炭で描いた丸に四角、あれを錢形と氣のつくのは、廣い世界にもお前だけさ」
平次は會心の笑みを漏しました。
「でも、あの女は可哀想でしたよ。一寸燒跡に寄つて、念佛でも稱へて行きませうか」
「鬼の念佛だらう」
何にも知らない平次は、まだ洒落を言つて居ります。朝陽にクワツと照らされる凾嶺の紅葉──その色に醉ふやうな心持で、二人は麓へと急ぎました。
底本:「錢形平次捕物全集第十六卷 笑ひ茸」同光社磯部書房
1953(昭和28)年9月28日発行
初出:「オール讀物」文藝春秋社
1938(昭和13)年11月号
※題名「錢形平次捕物控」は、底本にはありませんが、一般に認識されている題名として、補いました。
入力:特定非営利活動法人はるかぜ
校正:門田裕志
2014年1月18日作成
2016年12月14日修正
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