錢形平次捕物控
許嫁の死
野村胡堂
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「親分、小柳町の伊丹屋の若旦那が來ましたぜ。何か大變な事があるんですつて」
「恐ろしく早いぢやないか、待たしておけ」
「へエ──」
平次は八五郎を追ひやるやうに、ガブガブと嗽ひをしました。
美しい朝です。鼻の先がつかへる狹い路地の中へも、金粉を撒き散らしたやうな光が一パイに射して、初夏の爽やかさが、袖にも襟にも香りさう、耳を澄ますと明神の森のあたりで、小鳥が朝の營みにいそしむ囀りが聞えます。
こんな快適な朝──起き拔けの平次を待ち構へてゐるのは、一體どんな仕事でせう。血腥い事件の豫感に、平次は一寸憂欝になりましたが、直ぐ氣を變へて、ぞんざいに顏を洗ふと、鬢を撫で付け乍ら家へ入つて行きました。
「親分、た、大變なことになりました」
伊丹屋の大身代を繼いだばかり、まだ若旦那で通つてゐる駒次郎は、平次の顏を見ると、上がり框から起ち上がりました。少し華奢な、背の高い男です。
「駒次郎さんかい、──どうしなすつたえ?」
萬兩分限の地主の子に生れた駒次郎は、この春伊丹屋の主人になつて、尤もらしい尾鰭を加へたにしても、平次の眼にはまだ道樂者の若旦那でしかなかつたのです。
「皆んな、隱せるものなら隱す方がいゝつて言ひますが、私はあんまり口惜しいから、親分の力を借りて、下手人を見付け、二度とそんな事のないやうにしてやりたいと思ひます」
駒次郎は、女の子のやうに、少し品を作つてお辭儀をしました。色の白さも、襟の青さも、裾を引く單衣の長さも、そのまゝ芝居に出て來る二枚目です。
「隱すの、下手人の──つて、一體それは、どんな事で?」
「親分、聞いて下さい。昨夜向柳原の十三屋のお曾與が殺されましたよ」
「えツ」
「母親と一緒に風呂へ行つた歸り、──一と足先に歸つて來たところを路地の中で絞められて──」
「それを隱して置く法はない、誰がそんな事を言ひ出したんだ」
「私の家の番頭達が言ひ出し、十三屋へは金をやつて、うやむやにするつもりでした」
平次も驚きました。向柳原の名物娘が一人、絞め殺されて死んだのを、うやむやに葬るといふのは、あまりと言へばわけが解らなさ過ぎます。
「十三屋のお曾與は、お前さんところへ嫁入りする筈だつたぢやないか」
十三屋の文吉が、娘のお曾與を伊丹屋に嫁入りさせることになつた話は、平次の耳にもよく聞えてゐたのです。
「さうですよ、祝言は三日の後──この二十五日といふことになつて居ました」
駒次郎はいかにも口惜しさうです。
「成程、そいつは氣の毒だ」
「番頭や親類が集まつて、──こんな噂がパツと立つて、萬一呼賣の瓦版にでも刷られたら、伊丹屋の暖簾に疵が付く、それよりは金で濟むことなら、十三屋へ金をやつて、内々にするがいゝと、かう言ひます」
「無法な人達だな」
「でも私は口惜しくて口惜しくてたまりません。嫁を貰ふのを一々怨まれちや、やり切れないぢやありませんか。この先もあることですから、どうぞ下手人をあげて、お處刑に上げて下さい、親分」
「お前さん、怨まれる心當りがあると言ふのかえ」
「──」
駒次郎は默つてしまひました。が、この樣子では、金があるに任せて、飛んだ罪を作つてゐるのかもわかりません。
「八、一と足先に行つて見てくれ。怨まれる筋があるさうだから、思ひの外手輕に下手人の當りが付くかも知れない」
「へエ──」
八五郎のガラツ八は、伊丹屋の駒次郎を促して、一と足先に出て行きました。後には平次、悠々と朝飯にして、お靜と無駄を言ひ乍ら、陽の長けるのを待つて居ります。簡單に埒があきさうな事件を、なるべくガラツ八に任せて、手柄をさせようといふ心持でせう。
間もなく八五郎が歸つて來ました。
「親分、濟まねえが、ちよいと智惠を貸して下さい」
「何だ、もう見當が付く頃ぢやないのか。嫁入り前の娘を殺す奴は、大抵極つてゐる筈だ」
「それが一向決つてゐないから不思議で──」
「どうしたんだ」
「下手人の匂ひのするのが多過ぎるんですよ、親分」
ガラツ八は事件の外貌を一と通り説明しました。
娘の親の十三屋文吉といふのは、向柳原の毛蟲のやうに思はれてゐるかれこれ屋で、十三屋ぢやない千三つ屋だといはれる五十男、娘のお曾與が不思議に美しく生れ付いたのを利用して、一番有利な取引を心掛け、到頭小柳町の萬兩分限、伊丹屋駒次郎の嫁にするところまで漕ぎつけたのでした。
伊丹屋の先代、──この春死んだ駒次郎の父親が生きてゐたら、この祝言は成立たなかつたでせう。十三屋文吉のやうな、評判の惡い男の娘を嫁にすることは、お曾與がどんなに良い娘であつたにしても、大地主で舊家で、神田で何番と指を折られる格式の伊丹屋に取つては、まことに我慢のならない事だつたに違ひありません。
駒次郎はまた典型的な道樂息子で、八五郎の言葉を借りて言へば、
「あれは馬鹿野郎ですよ、金で世間の女が何うにでもなると思つてやがる、──その金で自由になつた女が、皆な自分に血道をあげると思ひ込んでゐるから凄まじいぢやありませんか。だから、お曾與殺しの下手人が擧らなきや、神田中の綺麗な娘が、種切れになると、大眞目面で思ひ込んでやがるから世話はない」
かう言つて、ペツペツと唾を吐くのです。
「八、その家の中から庭へ唾を飛ばすのだけは止してくれ。大層見事な藝當だが、千番に一番間違つて、疊へ落ちた日にや、表替でもしなきや追つ付くまい」
「へツ」
八五郎はポリポリと鬢を掻きました。
「ところで話の續きはどうした」
「そこで、十三屋へ乘込んでお曾與の死體を見せて貰つたが──親分、良い心持のものぢやないね、あの娘が達者なときはたまにからかつても見たが、駒次郎といふ大きな餌に喰ひ付いてゐるせゐか、こちとらには鼻汁も引つかけなかつた娘だが、死んで見ると可哀想だ」
「無駄はいゝ加減にして、それから何うした?」
「娘は路地の外で殺されてゐたのを、一足おくれて歸つて來たお袋が、躓いて氣が付いた、まだ月は出なかつたし、昨夜は自棄に暗かつた」
「──」
「起して見ると、自分の娘のお曾與が、白木の三尺で絞め殺されてゐる──」
「白木の三尺?」
「その三尺は誰のだと思ひます、親分?」
「下手人ので無いことだけは確かだらうよ」
「えらいツ、さすがは錢形親分だ」
「馬鹿だなア」
「その三尺の持主は、同じ町内のやくざ野郎で、勘三郎のものと知れた」
「あの、大工くづれの?」
「しめたと思つたから、飛んで行つて勘三郎を擧げるつもりだつたが、いけねえ、──肝腎の勘三郎は、三日前から霍亂に罹つて、死ぬやうな騷ぎだ」
「本當か」
「吐く瀉すで、げつそり痩せてゐるから、嘘ぢやないでせう。妹のお袖が、枕元に附きつ切りで介抱だ」
「フーム」
「そのお袖がまた、殺されたお曾與の前に、駒次郎と評判が立つてゐたいふから因縁事ぢやありませんか」
「フーム」
「その上兄の勘三郎は、お曾與と仲が良かつた。伊丹屋へ嫁に行く話の始まる前は、妹のお袖の友達でもあり、ツイ冗談の一つも言ひ合つた仲だといふから、どんな事がないとも限らない」
「それつ切りか」
「まだありますよ、親分、伊丹屋の馬鹿野郎は小唄の師匠のお舟の世話も燒いてゐた」
「そんな話を聞いたこともあるやうだな」
「月々かなりのものを仕送つて、狼連が歸ると、長火鉢の猫板の上へ、長い頤を載つけて置いたつて言ふぢやありませんか」
「まだ續いてゐるか」
「お曾與の話が始まつてから、手切の金をやつて、綺麗に切れたとは言つてますがね」
「フーム」
「當てになつたものぢやありませんや。すると、お曾與を殺しさうなのは、勘三郎と、その妹のお袖と、師匠のお舟と──」
「勘三郎とお袖でなきや、お舟に決つたやうなものぢやないか」
と平次。
「ところが、お舟も昨夜は一と足も外へ出ねえ」
「はてな?」
「お舟のところに居候してゐる和助──從兄とか何とかいふ、不景氣な野郎を親分は知りませんか」
「知らないよ」
「三十がらみの青瓢箪野郎で、大きな聲で物も言へない、物の汚點か、影のやうな野郎ですよ、──その和助が言ふんだ、お舟さんは昨夜一と足も外へ出ねえ──と」
「勘三郎とお袖は兄妹だらう」
「へエ──」
「お舟と和助も、從兄妹同士か何かだ。二人づつ相談して口を合せたら、どんな嘘でも通るぢやないか」
「だから親分行つて見て下さい。あつしぢや、此上の見當が付かねえ」
八五郎は正直に投げ出してしまつたのです。
平次は大きな舌打をして、十手を懷にねぢ込みました。鼻がよくて、いろ〳〵の消息を嗅ぎ出すことにかけては、天稟の妙を得たガラツ八ですが、理詰めに手繰つて、下手人を擧げることとなると、まるでだらしがありません。
先づ一番に小柳町の伊丹屋へ行つて見ると、本人の駒次郎以外は、お曾與を嫁に迎へることに賛成なのは一人もありません。
駒次郎に逢つて聞くと、
「お曾與は良い娘でしたよ、生一本で、情が濃くて──」
そんな事を言ふのです。
「お袖やお舟を捨てたのはどう言ふわけで?」
平次はこんな事まで突つ込むのです。
「お袖は兄がいけない、あの勘三郎は親類附合の出來ない男ですよ」
「お舟と手を切つたのは?」
「あの女には蟲が付いて居る、私は何時寢首を掻かれるかわからない──あんな怖い女はありませんよ」
平次はこれ以上聞くこともありませんでした。自惚が強くて、薄情で、臆病で、慾が深くて道樂の強さうな駒次郎は、平次に取つても、一番嫌な相手だつたのです。
十三屋へ行つて見ると、まだお曾與の死骸の始末もせず、父親の文吉と母親のお倉は際限のない涙にひたつて居りました。
「親分さん、敵を討つて下さい。娘をこんな目に合せた人間を、八つ裂にも火焙りにもして下さい」
父親の文吉は娘の死骸を見せながら、氣狂ひ染みた事を言ふのです。
「下手人は直ぐ擧げてやるが、一體誰がこんな事をしたんだ、心當りでもあるのかい」
と平次は
「心當りはうんとありますよ、親分。伊丹屋の旦那のところへ嫁きたかつたのは、此界隈でも、五人や三人ぢやありません」
「そのうちでも、諦めたのと、諦め切れないのがあるだらう」
「お袖や、お舟は諦められない口です」
「それから」
「娘を追ひ廻してゐたのでは、お袖の兄の勘三郎といふ野郎があります。あの野郎なら殺し兼ねません。恐ろしく無法な奴で──」
文吉の呪は果てしもありません。
平次はお曾與の枕元に線香を上げて、そこ〳〵に不快な空氣から遁れ出ました。
その次に訊ねたのは、小唄の師匠のお舟、何とかいふ名取りですが、昔から知つてゐる平次には、唯の新造のお舟のやうな氣がしてなりません。もう二十七八にもなるでせうが、若くて、意氣で、美しくて、何となく心ひかるゝ含蓄があります。
こんな透き徹るやうな感じの女が、どう間違つて伊丹屋の駒次郎などの思ひ者になつて居たことか、平次にはそれが不思議でなりません。
「あら、錢形の親分さん」
お舟は屈托のない樣子で迎へました。
「お舟、お曾興が殺されたことは聞いた筈だな」
かう言ふ平次は、自分ながら職業的な嫌味を自分に感じて居りました。
「え、お氣の毒ねエ」
「お前もさう思ふか」
「まア」
「お曾與には怨があつたんぢやないか」
「飛んでもない。伊丹屋の若旦那と手が切れて、私は清々して居ますよ」
「本當かい、それは?」
「嘘なら、今日にも伊丹屋の若旦那と撚を戻しますよ、──でも、私はもう眞つ平御免蒙ります」
「大層な見切りやうだね」
「世の中に、色男面をする人間ほどイヤなものはありやしません。本人はお曾與さんと祝言をしたら、江戸中の女は半分位頸でも縊るだらうと思つてゐるでせうが──」
「手嚴しいな、お舟」
平次も、お舟の氣焔には少したじ〳〵と來ました。
「だから、お曾與さんを殺したのが、伊丹屋の若旦那に振り棄てられた女の怨だと思つたら大間違ひさ、──金さへあれば、どんな事でも出來ると思ふやうな男に、女は夢中になるわけはない──金より外に何んにも持つてゐない男のために、人殺しまでする女がこの世の中にあるでせうか」
「さう言つたものかも知れないな。ところで、お前は大層な手切金を貰つたといふ話ぢやないか」
平次は話の方向を變へました。
「え、──まア〳〵あの吝ん坊にしては、清水の舞臺から飛降りたつもりでせうよ」
「いくらだ」
「五十兩」
「ほう、それは大金だ」
「五十兩も出さなきや、私は頸でも縊ると思つたでせう」
「ところで、昨夜お前は一と足も外へ出なかつたと言つたさうだが、本當か」
「出やしません。日が暮れるとお稽古がなくなつたから、早御飯にして、和助さんと無駄話をしたり、ウンスン歌留多をやつたり、亥刻前に寢てしまひましたよ」
「和助といふのは?」
「私の遠い從兄ですよ、──ちよいと、和助さん、錢形の親分さんに御挨拶をしておくれ」
「──」
お舟に呼ばれて、默つて出て來たのは、本當に物の汚點のやうな男でした。恐ろしく高い背を二つ折にして歩くので、傴僂のやうに思ひますが、別に不具な樣子はなく、竹のやうに長くて武骨な手足、白痴のやうに陰氣で無表情な顏、油つ氣のない髷、何處から見ても、お舟と一緒に置いて、『男性』の不安を感じさせるやうな人間ではありません。
弟子達の下足を揃へたり、水を汲んだり、使ひ走りをしたり、下女に手傳つて雜巾掛をしたり、お舟に取つては、色氣がないだけに、申分のない用心棒でもあつたのでせう。
「昨夜お舟は何處へも出なかつたね、和助」
平次は聲を掛けました。
「へエ──、私も師匠も、此處から外へ一と足も出ませんよ」
さう言つて和助は敷居を指すのです。
「下女は?」
「母が病氣で三日前に房州へ歸りましたよ、──今日は戻る筈ですが」
お舟は何のこだはりもありません。
平次とガラツ八は、其足をすぐ勘三郎の家へのしました。
「病氣だつて言ふぢやないか、どんな具合だい」
淺間な家、木戸から入つて聲を掛けると、
「あつ、錢形の親分」
勘三郎はあわてて床の上に起上がります。
「起きなくたつていゝよ、其儘で構はない」
「へエ──」
「お前は飛んだ仕合せだつたよ、ピンピンして居て見ねえ、今頃は無事ぢや濟まないよ」
「お曾與の阿魔が殺されたんですつてね、好い氣味見たいなもので」
「何て口のきゝやうだ」
「へエ──」
平次にたしなめられて、勘三郎は頭をかきました。
三日寢てゐたといふ窶れはありますが、二十五六の小意氣な男で、伊丹屋の糝粉細工のやうな若旦那よりは、江戸の町娘には好かれさうです。
「腹を惡くしたさうぢやないか」
「なアに、大した事はありませんよ。兩國で散々泳いだ上、西瓜を鱈腹やつたんで」
「それぢや腹をこはさねえ方が不思議だ」
「相濟みません」
「俺へ詫びなくたつていゝ。ところで、お曾與殺しに、何か心當りはあるかい」
「大ありですよ、誰もあの阿魔を締め手がなきや、あつしがやるつもりだつたんで──」
「まア、兄さん」
妹のお袖は側からあわてて止めました。十九──殺されたお曾與よりは一つ年下ですが、荒つぽい兄の勘三郎に似ぬ、露草の花のやうな淋しい娘です。
「大丈夫だよ、錢形の親分さんは見通しだ。思ふ存分な事を言はない方が、反つて隔てがあつていけねえ。ね、親分。さうぢやありませんか」
「その通りだ、氣の付いた事は何でも言つてくれ」
「千三つ屋の文吉奴、自分のとこの七つ下りの娘を伊丹屋へ押付けたいばかりに、ひどい罪を作つてゐますぜ」
「フーム、どんなことをしたんだい」
「あつしの妹と伊丹屋の若旦那と心易くなつた時は、お袖には勘三郎といふやくざな兄が附いてるから後が怖いとか、お袖の血筋には、惡い病があるとか──いろんな事を、伊丹屋にたき付けたさうですよ。お師匠のお舟さんだつて、同じやうな目に逢つてますよ、あの女には隱し男があるとか、あとでお店へ行つて尻をまくる奴があるかも知れないとか──嫌な千三つ屋ぢやありませんか、あの野郎こそ、嘘吐きで、胡麻摺りで、手癖が惡くて、瘡つかきで、──伊丹屋の若旦那の古いアラを搜していた振つてばかりゐるさうで──」
「まア、兄さん」
お袖はまた止めました。
「ところで、昨夜はどうして居たんだ」
平次は話題を變へました。
「へツ、あんまり景氣の良い話ぢやありませんが、雪隱へお百度ですよ」
「今日は」
「漸く落着いて此通り、──温石を三つ下つ腹へ當てて居ますよ、こいつは樂ぢやありませんぜ」
さう言へば、少し逆上てゐる樣子です。
「お曾與を絞めたのは、お前の三尺だつて言ふぢやないか」
「呆れてしまひましたよ、親分。俺の三尺なんか盜みやがつて手數のかゝる野郎ぢやありませんか」
「その三尺を何處で盜まれたんだ」
「町内の湯屋で──一と月も前ですよ。晝湯につかつて、良い心持に唸つてゐると、どこの野郎か知らないが、あつしの三尺を締めて行つちまひましたよ」
「代りはなかつたのか」
「へエ」
「帶を締めずに來たのかな」
「あつしの白木の三尺を、博多の帶とでも間違げえたんでせう」
「その時一緒に風呂へ入つてゐたのは誰だい」
「二三人ゐたやうですが、暫く柘榴口から出ずに、夢中で喉を聞かせてゐたから、どんな野郎がゐたか、ろくに見やしません」
ありさうもない事ですが、勘三郎らしい無頓着さでもあります。
これ以上には訊くべきこともありません。
其處を出た二人。
「驚いたね、親分。お舟でなくお袖でなく、勘三郎でなきや、──流しの追剥か、氣違ひぢやありませんか」
ガラツ八はこんな事を言ふのです。
「流しの追剥や氣違ひが、勘三郎の三尺をわざ〳〵用意するものかい」
「成程ね」
「無駄を言わずに、お舟の家の近所の食物屋を一軒殘らず當つて見るがいゝ。下女が房州へ歸つてゐると言ふから、昨夜あたりは店屋物を取つてゐるに違げえねえ。蕎麥屋でも小料理屋でもいゝ、昨夜あたりお舟のところへ何か出前物を持込まなかつたか、持込んだ時、お舟と和助が確かにゐたか、それを訊き出すんだ、──それから、酒屋も訊いて見るんだぜ、いゝか」
「心得てゐるよ、親分」
八五郎はポンと胸を叩きました。勘三郎の病氣はニセでなく、三尺帶が勘三郎のに相違ないとすると、お曾與殺しの疑ひは、眞つ直ぐにお舟に掛かるわけです。お舟と和助と口を合せて、不在證明を作らないとも限らないわけですから、平次はその裏を掻いて、昨夜お舟の家を覗いた者を搜し出さうとするのです。
平次はガラツ八に別れて町の湯屋へ行きました。
「一と月ほど前に、勘三郎が白木の三尺を盜まれたさうだね」
番臺のお神さんに訊くと、
「そんな事がありましたよ、──板の間稼ぎはよくあることですが、あんまり新しくない三尺を盜んで行くのは變ぢやありませんか」
「その時、男湯へ入つてゐたのは誰だい」
「横町の古着屋の隱居と、町内の手習師匠と、──三尺には用のない方ばかりでしたよ」
「それだけか」
「小柳町の伊丹屋の若旦那が入つてゐました」
「珍らしい人だね、小柳町は遠過ぎるぢやないか、それに、伊丹屋なら内風呂があるだらう」
「師匠のところ──親分も御存じでせう、お舟さんのところへ入浸つてゐる頃は、伊丹屋の若旦那がよく此處へ見えましたよ」
「成程」
さう言へば一向不思議はありません。
平次はそんな事で諦めて歸つて來ると、それから一刻ばかり經つて、ガラツ八は息せき切つて飛んで來ました。
「親分」
「どうした、八」
「變なことがありますよ、──あの町内の蕎麥屋で訊くと、昨夜お舟のところで、確かに蕎麥を三つ取つたと言ふんで──」
「フーム」
平次の見當は見事に當りました。
「ところが、不思議なことに戌刻少し前に持つて行くと、お舟も和助も──二人共ゐなかつたと言ふぢやありませんか」
「──」
「それから半刻ばかり經つて入物を取りに行くと、お舟と和助は何處からか歸つて來て、二人そつぽを向いて坐つて居たといふぢやありませんか」
「蕎麥は?」
「その時はまだお勝手口に置いたまゝで、念の爲に蓋をあけて見ると、手もつけずに、伸びてゐたんださうで──」
「八、來い」
「親分」
平次は猛然と起上がりました、續く八五郎。
「お舟、──昨夜何處へ行つた」
平次はお舟の家へ取つて返すと、八五郎に裏口を見張らせて、ズイと入りました。
「あ、親分さん」
「先刻は、よくも俺を騙したな。昨夜酉刻半過ぎから戌刻過ぎまで、此家に二人共ゐなかつた筈だ」
平次は入口を背にして、お舟と和助の方へ詰め寄りました。
「親分さん、濟みません」
お舟はガツクリ頭を垂れます。大きな牡丹が、土に落ちて碎けた風情です。
「手數をかけずに、本當の事を言つちやどうだ」
「恐れ入りました、親分さん。お曾與を殺したのは、此私に違ひありません」
お舟は疊に手を突きました。
「違ふよ、──お舟さんぢやない。──お曾與殺したのは、この和助だ、──私だよ、親分」
汚點のやうな男──和助は長身を起しました。青い顏に血が上つて、この影のやうな男にも、若い情熱のあることを、平次は不思議な心持で見て居ります。
「あれ、そんな事を言つて、和助さん」
と隔てるお舟。
「いえ、親分、──お舟さんは人などを殺せる女ぢやない。お曾與を殺したのは、全くこの和助だ、──私がそつと家を出たのが酉刻半頃、──その時分お曾與が湯屋へ行くのを知つてゐるからだ」
と和助。
「お前にはお曾與に怨がなかつた筈だ、出鱈目な事を言つちやならねえ」
平次は和助の白状を相手にもしません。
「親分、聞いて下さい、かうなりや、皆んな言つてしまひます。そして立派にお處刑を受けます」
和助は激情に顫へながら、平次の前に手を突きました。
「──」
ヂツとそれを見詰ある平次、お舟も呆氣に取られて默つてしまひました。
「私はこの通り、見る影もない人間だ。ね、親分。お舟さんが、寄り所のない私を引取つて、此處へ置いてくれるのは、私を男の切れつ端とも思はないからだ、──多勢の弟子達だつて、私を六十七十の年寄のやうに思つてゐる。私は結局それをいゝ事にして、人目に立たないやうに其の日〳〵を送つてゐる──」
「──」
「でも、私も男だ、──まだ三十を越したばかりの若い男だ。遠い從妹のお舟さんの、人並すぐれて綺麗なのや、情け深いのを見て、木や石のやうな心持でゐられるわけはない。私の心はとうから火のやうに燃えてゐる──」
「──」
和助の言葉も火のやうに燃えました。この汚點のやうな男に、こんな情熱があらうとは、一緒に暮してゐるお舟も全く氣が付かなかつたのでせう。思ひもよらぬ生命の點ぜられた男の顏を見詰めるばかりです。
「伊丹屋の若旦那に捨てられてから、お舟さんの悲歎は、この和助がよく知つてゐる、──負けん氣のお舟さんが、口では強いことを言ひ乍らも、人の見ぬところでは、毎日泣いて暮してゐた。息も絶え〴〵に泣いて居ることさへあつた。伊丹屋の若旦那が何も彼も金で濟したつもりで、五十兩の手切をよこした時は、お舟さんは大喜びで受取りながら、使の者が歸ると、その金を庭に叩き付けた。この私に掃溜へ捨てろといふ大むづかりだ、見るのもイヤだと言つた」
和助の言葉の激しさ。が、それが悉く事實だつたのでせう。お舟は襟に顏を埋めて泣いて居ります。
「伊丹屋の若旦那へ、ある事無い事焚き付けて、お舟さんとの間を割いたのは千三つ屋の文吉だ。私は文吉が憎かつた、お曾與も憎かつた。どうせ私のやうなものを、男の切れつ端とも思つてくれないお舟さんのために、私はこのお舟さんの怨をそつと晴らしてやらうと思つて、──昨夜、お曾與が湯屋から歸るのをつけて、あの路地の中で絞め殺したのは、お舟さんの敵を討つため、文吉に思ひ知らせる爲だ──親分、これで判つたでせう。さア、私を縛つて下さい。お舟さんに罪はない、──私も隱せるものなら隱し了せるつもりだつたが、お舟さんが私を庇つて、自分で罪を背負ひさうぢや、もう我慢が出來ない」
「──」
「親分、縛つて下さい、さア」
和劫は自分の身體を、平次の方へすり寄せて、兩手を自分から後ろに廻すのです。
「和助さん、お前、それは本當かい」
お舟は漸く顏を擧げました。
「本當とも」
「堪忍しておくれ、──私は何といふ馬鹿だらうねえ。そんな立派な男が自分の側にゐるのも知らずに、──あんな糝粉細工のやうな金持の若旦那なんかに未練を殘して、──」
「お舟さん」
「有難うよ、和助さん」
お舟は膝行寄つて、和助の激情に顫へる手を取るのです。涙はお互の顏も見えないほど降りそそぎました。
「よし〳〵、いゝ心掛けだ、──ところで和助、──お前はお曾與を殺したに違ひあるまいが──何で殺した」
平次は靜かに問ひました。
「三尺ですよ、親分」
「どんな?」
「白木の三尺で」
「そいつはお前のか」
「え」
「ところで、お前は三尺を何本持つてゐる」
「二本持つてゐますよ」
「今締めてゐるのが一本、あとの一本でお曾與をしめたわけだな」
さう言ふ平次の言葉や眼色を讀むと、ガラツ八は飛んで待つて、横手の押入から行李を一つ出しました。
「こいつは和助の行李だらう」
と平次。
「え」
お舟は僅かに頷きます。
平次の指圖で八五郎が蓋を取ると、中には着物が二三枚、股引、腹掛、手拭の外に、白木の三尺が一本入つてゐるではありませんか。
「これは何だ」
と平次。
「もう一本ありましたよ、親分」
和助はヘドモドします。
「和助、氣の毒だが、お前が下手人ぢやないよ」
「──」
「下手人は、勘三郎の三尺を盜んで、それでお曾與を殺したんだよ」
「それが」
「まア聞け、その三尺は町内の湯屋で盜まれた品だ」
「私ですよ、親分。私が勘三郎の三尺を盜みましたよ」
と和助。
「何時の事だ」
「三日前で──いや五日位前ですよ」
「もう澤山だ、──下手人は和助ぢやない──が、お舟を庇つてさう言ふのだらうが、こいつはお舟でもないよ」
「──」
お舟と和助は濡れた眼を見合せました。
「和助とお舟は、昨夜別々に此處を出て、お曾與を殺すつもりで行つたんだらう」
「──」
お舟はうなづきました。
「ところが、お舟は本當の下手人を見た。背の高い男が、お曾與を殺して逃げたのを見た筈だ。宵闇の暗い中で、それを和助と思ひ込んだのも無理はない」
「──」
「和助の方はお舟の出て行つた血相と、あわてて歸つて來た樣子を見て、てつきり下手人をお舟と思ひ込んだ──それに相違あるまい」
「その通りですよ、親分」
和助とお舟は始めてホツとした顏を擧げます。
「背が高くて一寸和助に似た身體の男が下手人だ。そいつは、文吉に怨があるか、お曾與が生きてゐては困ることがあつたんで、そして一と月前に湯屋で勘三郎の三尺を盜んで仕度をした──八、來い。俺には大方判つたやうな氣がする」
平次は其處を飛出しました、──續く八五郎。お舟と和助はそれを見送つて、氣まづい沈默を續けて居ります。
「和助さん」
暫く經つてお舟が口を切りました。
「──」
「和助さん、──お前さんは馬鹿ねえ、──でも本當に有難うよ」
お舟は極り惡さうにモジモジする和助の側に寄つて、その節高な手を取つて居りました。
平次はもう一度十三屋の文吉に逢つて、いろ〳〵締め上げました。そして文吉が、伊丹屋駒次郎が部屋住時代に、筋の惡い借金や、騙りのやうな事までして、遊びの金を作つたことを種に、駒次郎を脅迫して、お舟やお袖と手を切らせ、無理に自分の娘を押付けてゐたことを白状させました。
駒次郎がお袖に充分未練があつたことは、近所の人達もよく知つて居ります。押かけ嫁の祝言が近くなつて、駒次郎は最後の手段を取つたのでせう。
「それ行けツ、あの野郎だツ」
平次とガラツ八は小柳町に飛びました。丁度外へ出ようとした駒次郎は、ガラツ八の腕力に押へられて、蟲のやうに無抵抗に縛られたことは言ふまでもありません。
繩付を役所に引渡した歸り、ガラツ八は繪解きをせがみました。
「惡い奴があるものだね、親分」
「あれは馬鹿さ、──金づくで何うにもならない事があると、馬鹿はあんな事をするのさ」
「何だつて、わざ〳〵親分のところへお曾與が殺されたつて言つて來たんでせう」
ガラツ八にはそれが不思議でたまらなかつたのです。
「どうせ變死と知れずには濟まぬと思つたのさ、知れると、この邊の事だから、俺が行くに決つてゐるぢやないか。どうせ平次の手に掛かるものなら、此方から訴へ出て好い子にならうといふ魂膽さ」
「その邊は馬鹿ぢやないね」
「どんなに器用な細工をしたところで、人でも殺さうといふのは、矢張り馬鹿さ」
平次はさう言つて、お舟と和助のことを考へて居ました。この二人は駒次郎の馬鹿のお蔭で、飛んだ儲けものをしたことになるのです。
底本:「錢形平次捕物全集第十六卷 笑ひ茸」同光社磯部書房
1953(昭和28)年9月28日発行
※題名「錢形平次捕物控」は、底本にはありませんが、一般に認識されている題名として、補いました。
入力:特定非営利活動法人はるかぜ
校正:門田裕志
2014年1月18日作成
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