錢形平次捕物控
九百九十兩
野村胡堂
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「親分」
「何だ、八」
「腕が鳴るね」
ガラツ八の八五郎は、小鼻をふくらませて、親分の錢形平次を仰ぎました。
初夏の陽を除け〳〵、とぐろを卷いた縁側から、これも所在なく吐月峯ばかり叩いてゐる平次に、一とかど言ひ當てたつもりで聲を掛けたのでした。
「腕の鳴る面かよ、馬鹿野郎。近頃お濕りがないから、喉が鳴るんだらう」
「違げえねえ」
平掌で額をピシヤリ。この二三日スラムプに陷つてゐる平次から、この痛快な馬鹿野郎を喰はせられるのが、ガラツ八にはたまらない嬉しさの樣子です。
「八、あれを聞くがいゝ」
「何ですえ、親分」
「誰か來たやうだ、飛んだ面白い仕事かも知れないよ」
「──」
「家の前を往つたり來たりしてゐるだらう。入らうか入るまいか、先刻から迷つてゐる樣子だ、──女の跫音だね」
平次の言葉が終らぬうちに格子が開いて、お靜が取次に出た樣子、若い女の低いが彈み切つた聲が聞えます。やがて通されたのは、二十歳そこ〳〵の愛くるしい娘、何やら惱みに打ちひしがれて、部屋の隅に小さく俯向きました。
色白の顏が少し痙攣して、豊かな肩が搖れると、恐る〳〵顏をあげて、相對した江戸一番の御用聞──錢形平次の顏をソツと見上げるのです。
「俺は平次だが、何んな用事で來なすつた。思ひ切つて打明けてみるがいゝ」
平次はこの娘の裡から善良なものを感じました。
「親分さん、父さんを助けて下さい。父さんは頸を縊つて死ぬんだといつて、何うなだめても聞いてくれません」
「成程、それは大變だらう、──お前の父さんといふのは何だえ、稼業は?」
平次は娘の昂奮を外らさないやうに、心持せき込んで訊ねます。
「灸點横町(神田佐久間町)の多の市でございます」
「あ、蛸市か。すると姐さんはお濱さんかい、道理で──」
縁側からガラツ八が長い顎を出します。
「默つて引込んで居ろ、馬鹿野郎ツ」
平次の一喝を喰つて、ガラツ八は頭を叩かれた蝸牛のやうに引込みました。
尤も、娘の名乘るのを聞いて、ガラツ八が乘り出したのも無理のないことだつたのです。灸點横町の多の市といふのはお灸と鍼の名人で、神田中に響いた盲人ですが、稼業の傍ら高利の金を廻し、吸ひ附いたら離れないからといふので、蛸市と綽名を取つてゐるほど、強か者だつたのです。
その娘のお濱の美しい話も、ガラツ八は聞き飽きるほど聞かされて居りました。ポチヤポチヤして可愛らしくて、若い男の心をひしと掴まずには措かない──といふ噂のお濱が、この物に怯えて雁皮紙のやうに顫へて居る娘とは思ひもよりません。
「さう仰しやるのも無理はございません。父さんは本當にお金を溜めるのに夢中だつたんですから、──その命がけで溜めたお金が九百九十兩、誰かに盜まれてしまひました」
「九百九十兩?」
錢形平次は驚きました。九百九十兩といへば、千兩にたつた十兩缺けただけ、聞いただけで一寸ドキリとさせる大金です。
千兩分限といふ言葉が、今の千萬長者と同じ響を持つた時代、──十兩から上の泥棒は首を斬られた時代──に、灸點横町の裏長屋で、九百九十兩溜める人間も溜める人間なら、それを盜む奴も盜む奴──と思つたのでした。
「父さんは──あの金を盜られては、生きてゐる張合もないから、助けると思つて殺してくれと、泣いたり暴れたり」
お濱の眼──訴へるやうに平次を仰ぐ黒い眼は、夕立を浴びたやうにサツと濡れて、ハラハラと拭ひもあへぬ涙が膝にこぼれました。
「順序を立てて詳しく話すがいゝ、隨分力になつてやらないものでもない」
平次は膝を進めました。
「お父さんはこの二十年の間、蛸市とか赤鬼とか、世間樣から存分なことをいはれながら、一心不亂にお金を溜めました。隨分痛々しい取立てもしたさうですが、その代り私達父娘の身も詰められるだけは詰めたのです。爪に火を灯すと言ひませうか、三度の物も二度にして、十年越し、浴衣一枚買つたことも御座いません」
お濱は一生懸命さの中にも顏を赧らめました。着てゐる浴衣は、別れた母親讓りの品らしく、二三十年前江戸で流行つた、洗ひ晒しの大時代物、赤い帶も芯がはみ出して、繕ろひ切れぬ淺ましい品だつたのです。
「そんなに金を溜めて、何をするつもりだつたんだらう」
平次のやうな、宵越の錢さへ持たない者には、烏金まで貸して溜める人間の心理が解りません。
「盲目の望みは檢校でございます。眼が見えないばかりに、艱難辛苦して育つた父さんは、人樣に馬鹿にされる口惜しさが昂じて、一生のうちには、石に噛り付いても檢校の位に上り、今まで片輪者を馬鹿にした人達を、眼下に見てやらうと思ひ立つたのです」
「成程ね」
「その爲に配偶の私の母とも別れ、娘の私だけ引取つて、母がその日の暮しにも困つて居るのを知り乍ら、十年越し仕送りもしませんでした」
「──」
「二十年間、夢にも現にも、口癖にいつたのは、──俺はきつと檢校になる、どんな事をしても檢校になる──と」
盲人の恐ろしい執念は、お濱の口を通して、平次の身にも迫ります。
「檢校の位になるには、千兩要るといふことだが、お前の父さんはその用意の金を盜られたのかい。成程半狂亂になるのも無理のないことだ」
平次も次第に多の市父娘の苦惱が解つて來ました。
盲人の保護は中古以來のことですが、徳川時代になつてその制度を確立し、上は檢校總録から最下位の半打掛座頭に至るまで、階級を七十三の小刻みに分けました。
その盲官のことは、詳しく書くと際限もありませんが、この物語に必要な程度だけ、ほんの概略を抄くと、──盲人の官途は四階十六官、七十三刻と定められて居ります。四階とは檢校、別當、勾當、座頭、十六官とは座頭に四度の階級があり、勾當、別當、檢校それ〴〵次第があつて、都合十六に分れて居ることを言ひ、七十三刻とは、半打掛から中老引まで六十七刻、正檢校から五刻六老を經て、職總檢校まで都合七十三の階級のあることを言ふのです。
これ等はすべて盲人保護の官位で、昔は人物技藝一世に秀でた者を任じたのですが、後、足利時代から賣官の風が行はれ、江戸時代には賣官料まで公定されて、一階一兩から四十五兩に及び七十三刻を併せると都合七百十九兩、──つまりは座頭の最下位から最高位の總晴まで進むには、七百十九兩の金を必要としたことになつたのです。
更に時代が下ると、七百十九兩さへ納めれば、一介の土盲が、一夜にして檢校にもなれたといふのですから、野心的な盲人達が、金を作つて檢校の位を獲ようとしたのも無理はありません。檢校になると、世の尊崇を集めるばかりでなく、官物官金の配當、名目金貨付の收益など、夥しい役得が附隨したのでした。
「京都に上つて、久我家へお願ひする日を指折り數へて、父さんは一生懸命金を溜めました。今に見ろ、蛸市とか何とかいひやがつて、この俺を蟲ケラのやうに思つた長屋の奴等や、俺に足腰を揉ませて大きな面をした町内の旦那衆を見返してやるから、──といふのが口癖で、好きなものは食はず、温かいものも着ず、千兩になるのを樂しみに働いて〳〵働き拔いたのです」
お濱は淺ましいことのやうに語り續けました。平次の無言の奬勵がなかつたら、かうまで親の恥を打ち明ける勇氣もなかつたでせう。
「七百十九兩で澤山な筈だが──」
「檢校になるのは、七百十九兩で濟みますが、京都へ上る路用から、檢校になつた時、見苦しくない身裝や住居も要ります。父さんはそんなこんなで、千兩溜めたら京都へ上るつもりで、そればかり樂しみにして居りましたが、千兩へあと十兩といふ時、魔がさしたのでせう」
お濱の言葉も昂奮が去るにつれて、次第に淋しく滅入ります。
「それを盜られたのだね、何處へ隱し置いてたんだ」
平次は話の無駄を苅り取るやうに、斯う言葉を挾みました。
「太い竹筒へ入れて、父さんの寢る三疊の置床の隅に掛けて置きました」
「不用心なことだな」
「竹筒は置床の柱のやうに見えました。誰もあんなものに千兩近い小判が入つてゐるとは思ひも寄りません」
「成程さういつたものかも知れない。で、無くなつたのは何時だ」
「三日前の晩でございました」
「──」
「明日は、貸した金が十兩入るから、いよ〳〵千兩の願ひが叶つた──と、父さんは珍しくお酒を呑んで、上機嫌で寢ましたが、その晩」
「待つてくれ、泥棒は確かにその晩入つたに相違あるまいな」
「寢る時まで、間違ひもなく竹筒はあつたんですから」
「それから何うした、順序を立てて話してくれ」
平次は靜かに煙管を取上げました。
「醉つた勢ひで、竹筒の柱を撫でて、上機嫌で休みましたが、翌る朝になると、雨戸は開いて、置床の前の竹筒はなくなつて居たのです」
「雨戸の締りがなかつたのか」
「そんなものはございません。盲目の家へ入る泥棒もあるまいから──と、父さんは締りもろくにさせなかつたのです」
「フーム」
「竹筒がなくなつたと判ると、父さんは死ぬほどびつくりしましたが、お上へ屆けて、そんな大金を持つてゐたと知れるのが嫌だし、盜られた金が滅多に出たためしもないからと、私と二人で家の中を搜しました」
「お屆けをしないといふのは亂暴だな」
平次はさう言ひましたが、その頃の岡つ引警察制度の缺陷を一盲人に指摘されたやうな氣がして、何んとはなしに小鬢を掻きます。
「何處を搜す當もありません。半日考へた揚句、隣町の道尊坊に頼みました」
「何だ、あの似非修驗者か」
「でも他に頼る人もありません。──道尊さんは早速やつて來て、護摩を焚いて祷つてくれましたが、何のしるしもありません」
「大金が無くなつたと聞いて近所の衆も祟りを恐れて寄り付かず、仕方がありませんから、暴れ狂ふ父さんを、仲の好い佐の市さんとお祷りに來た道尊さんにお願ひして私は一寸拔け出して來ました」
お濱は語り終つて吐息を吐きました。何か娘心では脊負ひ切れない、大きな恥の塊りをおろして、ホツとしたやうな心持でせう。
「そいつは氣の毒だ。命がけで溜めた千兩を盜られちや、死にたくもなるだらう。見つかるか見つからないか解らないが、兎に角行つて見るとしようか」
平次は氣さくに言つて、煙草入れを腰に──立上がつたのでした。
錢形平次と八五郎は、お濱に案内させて、直ぐ佐久間町の灸點横町へ驅け付けました。
「さあ、殺せ──殺してくれ、お願ひだから殺してくれ」
危ないドブ板を踏むと、奧からは押潰されたやうな聲。平次は、さすがにギヨツとして立止ります。
「八、──お濱は何うした」
平次はフト、一緒に來たお濱の姿の見えなくなつたのに氣が付きました。
「へツ、へツ、へツ」
「何を笑やがる」
「路地の外を覗いて下さいよ、親分」
八五郎の指す方を、二三歩戻つて覗くと、お濱は二十二三の若い男の胸に顏を埋めるやうに、何やら熱心に話してゐるではありませんか。
「ありや何だ」
「經師屋の吉三郎──てんで、飛んだ二枚目さ、へツ〳〵〳〵」
「やツかむな、八」
「妬くわけぢやねえが、少しは氣になりますよ、親分」
「お濱に男があるとは氣がつかなかつた。構ふことはねえ、一と當り當つて見るがいゝ」
「繩を掛けるんですか、親分」
「あわてちやいけねえ、此家と掛り合ひの人間で、最初に逢つた男だ。訊いたら何とか言ふだらう、懷の十手を引つ込めて、惚氣でもいはせて見るがいゝ」
「へエ──」
八と別れて、平次は多の市の家へ入つて行きました。
「お願ひだ、殺してくれ。俺はもう生きる精も張合も拔けた──二十年この方、女房まで追ひ出して、食ふや食はずで溜めた金だ。せめて盜んだ野郎へ面當てに、頸でも縊つて死んでやつてよ、化けて出て怨が言ひてえ」
怨に燃えるやうな聲は、ツイ鼻の先の破れ障子の中から、護摩を焚く凄まじい煙と共に湧き起るのでした。
「まア、そんなに氣を立てずに、道尊さんの調伏を待つてるがいゝ、そのうちに盜つた野郎は、血へどを吐いて死ぬかも知れねえ」
さう言ふのは主人多の市の仲好し、佐の市といふ盲人でせう。
「御免よ」
平次はガラリと障子を開けました。
「誰だい? 取込みがあるんだ。揉療治なら後にして貰ひてえが──」
佐の市が見えぬ眼を剥きます。
「俺は平次だが、何か間違げえがあつたさうぢやないか」
「あツ、錢形の親分さん」
取亂した多の市が、平次の聲を聞くと這出しました。
中はたつた二た間、想像以上の凄まじい住居で、此處に千兩近い金などがあらうとは、どう間違つても考へられません。骨ばかりの障子、芯のはみ出した疊、壁は落ち、戸はさゝくれて、家具らしいものは、七輪が一つに鍋が二つ、茶碗やら丼やらが、棚の上に四つ五つ竝んで、柱には着換への襤褸が一二枚ブラ下がつてあるだけ、さすがの平次も、暫らくは言葉もありません。
「錢形の親分さん、九百九十兩盜つた野郎を搜し出して、磔刑にするなり、八つ裂にするなり、思ひ知らせてやつて下さい、お願ひ」
上框に腰をおろした平次の袂へ、多の市の痩せさらばへた手が、ワナワナと蔓草のやうに絡み付くのです。
「まア、待ちな、一と通り見て來るから」
平次は言ひ捨てて、家の内外を一と廻り、あまりの無造作な住居で、手掛りも何にもありません。
多の市の寢て居るのは奧の三疊、お濱の寢てゐたのは入口に近い四疊半、その外には狹い濡縁があつて、二つの部屋の隣りに小さいお勝手があります。
「此處に千兩近い金のあるのを知つてゐるのは誰と誰だえ」
元の座へ歸つて來た平次の問ひは常識的でした。
「娘の外にはありません」
「お前が金を持つてゐることは、この平次も薄々聞いて居るぜ、──お濱の外にも嗅ぎ付けた人間があるだらう」
「世間ではそんな噂をして居りますが、九百九十兩と纒まつた金を竹筒の柱に入れて持つて居ると知つてゐるのは、娘たつた一人でございます」
「大金を持つて居ることを知つてゐる者なら他にもあるだらう」
「それはもう、──現に此處に居る佐の市さんだつて、私が檢校になりたさに、金を溜めて居ることは知つてゐる筈です」
「それは、多の市さん」
佐の市は驚いて口を出しました。主人と同年輩の四十五六、同じ稼業には相違ありませんが、これは人に金を貸す方ではなく、始終借りて居る方で、酒も呑み、遊びも好き、身裝も相當で、内々は富籤までも買つてゐるといつた山氣のある按摩でした。
「それから」
平次はそれに構はず問ひ進みました。
「十年前に別れて、今でも時々無心に來る女房のお皆も薄々は知つて居ります。それに隣のお角さんだつて、小判の音位は聞いてゐるでせう、それから──」
「──」
多の市は一寸考へましたが、
「娘にちよつかひを出してゐる經師屋の吉三郎の野郎だつて娘から聞いてゐないとは言はれません」
「それつ切りか」
「へエ──」
多の市は覺束なくも言ひ切ります。その間にも、修驗者の道尊坊は、護摩の煙を濛々となびかせながら、揉みに揉んで何やら祈り續けて居るのでした。虎髯の四十男で、あまり智慧のありさうな人間ではありませんが、樣子と聲の物々しさに、妙に狂信者の心を囚へさうなところがあります。
「此家を明けるやうな事はあるまいな」
「それはありません。何と言つても、千兩近い金があるんですから、私が仕事に出る時は、必ず娘に留守番をさせました」
「お前が一番怪しいと思ふのは誰だい」
「へエ──」
「遠慮なくいふがいゝ」
「壁へ穴をあけて、朝夕覗いてゐる人間が一番氣になりますよ、親分さん」
「──」
平次はさう言はれて二軒長屋の境の壁を見ました。成程多の市の部屋の柱寄り、丁度疊から五六寸上が、向うから壞されたやうに、ポコリと土が落ちて居るのです。
「その小判を入れた竹筒の長さはどれほどあつたんだ」
「置床の端つこの臍へ立てて、上の梁へはめ込んだんですから、七尺はありましたよ」
「目方は?」
「五貫目もあるでせう」
それでは女子供には相當の荷物です。
平次はその足で直ぐ壁隣りの相長屋、後家の内職で細々と暮して居るお角といふ大年増の家を覗きました。
「親分さん、錢形の親分さんでせう。よく存じてゐますよ、隣の蛸市が、私が一番怪しいつて言つたでせう。五貫目もある小判入りの柱が私に持てるか持てないか、考へても見て下さいよ、ね、親分さん」
顏を見ると、もう立て續けにまくし立てます。三十七八の青白い女、何處か病氣でもある樣子ですが、昔は相當に踏めたらしい眼鼻立ちで、さわやかに動く舌の根はどうも素人育ちではありません。
「竹筒を引摺る術もあるぜ、お神さん」
「まア、親分さん、お口の惡い、蟻が蚯蚓を運ぶんぢやあるまいし」
「ちよいと此處を借りるよ」
「さア〳〵どうぞ」
怪しげな座蒲團を敷いたのは、多の市とは反對側になつてゐる濡縁です。
「ところで、何も彼も知つて居るやうだから、つまらない事は拔きにして訊くが、お神さんに心當りはなかつたのかい」
女世帶らしく小綺麗に片附いた家の中を見廻すともなく、平次はかう訊きました。
「お生憎樣、何にも知りませんよ──でもね、親分さん。あの佐の市といふのは、お隣りの蛸市の朋輩のくせに、打つて變つた道樂者で、蛸市にはうんと借金があるやうだし、それに蛸市が檢校になるのを、一番嫌ふ人間ですよ」
「成程ね」
「その上、滅法カンのよい盲目で、賭け碁までやるといふ位だから、目が見えなくたつて、戸閉りのない朋輩のうちへ、泥棒位には入りかねませんよ」
「それは知らなかつた。有難うよ、お禮をするぜ、お神さん」
「まア、親分さんはお世辭ものね」
「ところで、その壁の穴から、あの隣の置床のあたりは見えないだらうか」
「まア」
「ちよいと覗かして貰ふぜ」
「惡戯をしたのは鼠ですよ、親分さん。近頃の鼠はそりやタチが惡いから、壁でも板戸でもすぐ喰ひ破りますよ」
「さうだらうとも、よい年増が、こんな穴を拵えて隣を覗くわけはねえ」
「まア、親分さん」
お角の抗議を空耳に聞いて、平次は狹い濡縁から三疊の間に乘出すやうに、穴から隣の家の方を覗いて居ります。
「ちよいと待つた」
「あ、錢形の親分さん」
吉三郎はギヨツと立止りました。お濱や八五郎に別れて、柳原河岸の宵明りを、自分の家の方へ急いで居たのです。
「少し聞きたいことがあるんだ」
「私は何にも知りませんが、親分さん」
吉三郎はお濱から事件の概略を聞いたらしく、平次の前に立竦んだ顏は、不安に顫へて居りました。
「お前を九百九十兩の盜人だと思つてるわけぢやねえ。實は先廻りして、あの晩お前が家から一と足も出ない事を聞いて來たんだ」
「へエ──」
平次の行屆いた言葉に、吉三郎は安心よりも驚きが先でした。
「だから、知つてるだけの事を、皆んな話してくれさへすればいゝ、──お前はお濱と何時頃からの仲なんだ」
「三年になりますよ、親分さん」
吉三郎の聲は悲しさうです。二十二三の少し柔和だが良い男、お濱が夢中になるのも無理はない──と、平次は見て居ります。
「親父の多の市が不承知なんだらう。どうしても一緒にしねえといふのか」
「へエ──檢校になつた曉、經師屋の下職ぢや婿にならねえ──と」
「泣くな、大の男が見つともねえ」
「どう頼んでも多の市さんは聞いてくれません。心中をしようか、夜逃げをしようか、と何べんも切り出しましたが、お濱はどうしても承知してくれません。──因業なやうでも父親に違ひないし、眼の不自由な者をたつた一人捨てて、死にも逃げもならない──とかう言ひます」
「いゝ心掛けだな」
「私にはそのいゝ心掛けが嬉しくありません。三年越しの深い仲、こんな苦勞した揚句、大地へ額を摺り付けて頼んでも、添はせてくれない親が、そんなに大事なものでせうか、親分さん」
「──」
「若し檢校などになる望がなかつたら、──あの千兩近い金がなかつたら、多の市さんも堅氣の職人に娘をくれる氣になつたでせう。私はお濱さんからその話を聞いて、本當に──いゝ氣味だと」
「吉三、少したしなむがいゝ。それでなくてさへ、お前は疑はれてゐるんだよ」
「へエ──」
こんな純な若者を、平次も此上追及する氣にはなりませんでした。
「まア歸つてよく氣を落着けるがいゝ。つまらねえ氣を起してお濱を困らせるんぢやないぞ」
「へエ──」
何といふ間の惡さ、氣のきかない叔父さんのやうな事をいつて、平次はぼんやり家へ歸りました。
「親分」
先廻りして待つて居たのは、ガラツ八の八五郎です。
「何だ、八」
「九百九十兩の盜人の當りはつきましたか」
「それがつかねえ」
「あんな馬鹿氣た事は、半刻で判りさうぢやありませんか」
「それが半日かゝつて眼鼻もつかねえ、──どうだ、八、聽いてくれるか」
「へエ──」
「今日一日で搜つたことを纒めて話すうちに、何んかよい智慧が浮ぶかも知れねえ。鼻を掘らずに、神妙に聽くんだよ」
「へエ──」
八五郎はあわてて長い顎を撫でまはします。
「お濱は親孝行だ、あの娘が父親の金を盜る筈はねえ」
「へエ──」
「だが、あんな狹い家で、締りがなかつたにしても、醉つ拂つてゐる多の市は兎も角、若い娘のお濱が、自分の枕から一間とも離れねえ置床の柱を外して持つて行くのを、知らずに居る筈はねえと思ふが何うだ。あの竹筒を外すと、置床の臍がきしむのは、木口の光る樣子で見ても解るぜ」
「──」
「すると、お濱は泥棒を見て居る筈だ。見てゐても言へなかつた──と考へたらどうだ」
「へエ──」
「お濱がそれほど庇つてやる人間は、吉三郎の外にはねえが、吉三郎はあの晩一と足も外へ出なかつた。──それに、盜むのを見たら、大きな聲を出さず、一度は泥棒を庇ひ立てしたお濱が、三日目に俺のところへ飛込んで、泥棒をつかまへてくれと泣きついたのは何ういふわけだ」
「フーム」
ガラツ八の鼻の穴の大きいこと。
「すると、最初お濱が自分の知つて居る者の仕業と思ひ込んだのが間違ひで、後で赤の他人の仕業と判つたのかも知れないな」
「──」
「置床の柱に小判が入つてゐると知つてるのは、お濱と吉三郎の外に、隣の後家のお角がある。あの壁の穴から、多の市の部屋は見通しだ。が、お角は華奢で病身らしいから、とても五貫目もある小判の柱を盜める筈はない」
「お角が人に頼んで盜ませたら、親分?」
「それも考へた、が、あの女は人に物を頼める女ぢやない。疑ひ深くて、勝手で」
「お角に男がありやしませんか」
「不思議にない樣子だ、それがあの女の病氣だ」
此處まで來ると、平次もハタと行詰ります。
それから三日目、すつかり腐つてしまつた平次。半氣違の多の市に惱まされて歸ると、
「親分、大變ツ」
ガラツ八が眼の色を變へて飛んで來ました。
「何だ、八」
「足がつきましたよ、親分」
「何の足だ」
「九百九十兩の片らを使つた人間があるんで」
「何だと?」
「あの長屋に、小判で買物をした奴があつたら何うします」
「えツ」
「お角の阿魔ですよ。昨日越後屋へ行つて單衣と帶を買つて小判を出しましたよ」
「よし、行つて見ろ」
二人は宙を飛びました。灸點横町へ來て、お角の家の格子を引開けると、
「御免よ」
飛込むのと一緒でした。
「まア、親分さん」
「お角、小判を何處から出した。隱しちや爲にならねえよ」
何時にもなく平次もせき込んで居ります。
「まア、いきなり飛込んで來て、──そんな事が訊きたいと仰しやるの、親分さん。こ、こ、こ小判は天下の通用金ですもの、何處にでもあるぢやありませんか」
お角は事もなげに笑ひますが、平次の氣組を受けかねて、さすがに青くなつて居ります。
「そんな言ひわけを聞くんぢやない。小判を何處から出した、それを言つて貰はうか」
「臍くりですよ、親分さん」
「えツ、しぶとい女だ。十兩の上は盜みも打首獄門だ。默つて繩を打つて引立てると、無事では濟むまいぞ」
「──」
何時にもない平次の激しさ、お角も度膽を拔かれて口を噤みます。
「お前が五貫目もある竹筒を擔ぎ出したのでないことは、この平次がよく分つて居るが、お白洲の砂利の上ではそんな辯解は通らねえぞ。さアお角、小判を何處から出した。此處でいふか、それとも」
「いひますよ、親分、いひます」
「何處で、誰から貰つた」
「貰つたんぢやない、拾つたんです」
「何?」
「あの日の朝、お隣の前のドブ板の隙間から拾ひましたよ」
「何故あつた」
「小判が三枚」
「本當だな」
「嘘なんか言ふもんですか、親分さん」
「何だつて又直ぐ使つたんだ」
「貧乏人が小判を持つちや使はずに居られませんよ。たつた四五日懷の中へ入れて置いただけで、持病の癪を起しさうになつたぢやありませんか」
「兎も角、あとでお呼出しがあるかも知れない。當分何處へも出ちやならねえよ」
「へエ」
「小判の殘りは町役人に預ける、何枚ある」
「二枚と一朱殘しましたよ」
「呆れた女だ」
平次とガラツ八は、その金を町役人に引渡して、ぷん〳〵して引揚げます。
が、事件はその晩のうちに、思はぬ方へ發展してしまつたのです。
翌る日の朝。
「親分」
「又大變の賣物か、八。今度は何だ?」
飛込んで來た八五郎の顏には、全く大變といふ字が草書で書きなぐつてあるやうに見えたのです。
「お角が殺されましたよ」
「何? お角が、そいつあ大變だツ」
飛んで行つた時は、町役人と彌次馬が來て、朝の路地が押すな〳〵の騷ぎ。
「退いた〳〵、見世物ぢやねえぞ」
掻きわけて入つて見ると、お角は淺ましくも床の中に絞り殺されて、無氣味な白い眼に、怨多い壁の穴を睨んでゐるのでした。
頸へ卷きつけたのは、お角の細紐、四方を見ると大して取亂した樣子もなく、ほんの一と思ひに殺られたことは解りますが、餘つ程慣れた奴と見えて、後に毛程の證據も殘しません。
隣の多の市の家で訊きましたが、多の市は金を盜まれてから半氣違ひ同樣。お濱も悲歎にくれてばかり居て何にも知らず、その上修驗者道尊坊が來て、夜中まで祈祷を續けて居たので、隣の物音も聞かなかつたと言ふのです。
「お角が、盜人を知つて居たでせうか、親分」
ガラツ八は囁やきます。
「盜人ぢやあるまい、多分、小判を隱した場所を嗅ぎ付けたんだらう」
「──」
「昨日三枚の小判を隣りのドブ板の隙間から拾つたと言つたが、隣りのドブ板にはそんな隙間はないし、あつたところで、三兩の小判が氣を揃へて隙間へもぐり込むわけはねえ、それに、──お角は商賣人上がりで大寢坊だ。ドブ板や往來に、夜のうちに落した小判が、お角が起き出す迄無事でゐるわけはねえ」
「盜人を嗅ぎ出して強請つたんぢやありませんか。それ位のことはやりかねない女だ」
「盜人は容易ならぬ人間だ。それを強請るにしちやお角の樣子は暢氣過ぎた。俺は盜人の隱した金を探し當てたんだと思ふよ」
「成程ね」
が併し、平次の智慧もこれ以上には遡りません。
「隣りへ行つて、もう一度樣子を見ようぢやありませんか」
「よからう」
二人はもう一度、多の市の家へやつて行きました。が、其處の陰慘な空氣は、暢氣者のガラツ八をも窒息させさうです。多の市はたつた四五日の間に、すつかり窶れ果てて、冥土から來た幽鬼のやうに、物をも食はずにうめき續け、お濱はすつかり怯え切つて、部屋の隅に踞まつたまま、涙も涸れさうに泣いてゐるのです。
「八、こいつは唯事ぢやないぜ」
「へエ──」
「お濱は盜人も、人殺しも知つて居るんぢやないか、お濱があんなに心配するのは誰の身上だと思ふ」
平次は路地を出るとかう言ひます。
「吉三郎ぢやありませんか」
「俺もそれを考へて居たよ、行つてみよう」
二人はツイ一と走り、吉三郎の家まで飛んで行きました。店の奉公人と近所の人達に念入りに訊くと昨夜も吉三郎は一足も外へ出なかつたことは、同じ部屋に寢て居る三人の奉公人達が口を揃へて證明して居ります。
「親分、變ぢやありませんか」
「變だが、仕方がない、──ところで八、俺はすつかり忘れて居たが、お濱には母親があつた筈だが、知つてゐるか」
「へエ、十年前に亭主の多の市と別れて隣町で細々と仕立物をしながら暮して居ますよ」
「行つて見よう、八」
「無駄ですぜ、親分。十年も前に多の市に別れてゐるし、お皆といつて、貧乏はしてゐるが、町内では評判の氣のいゝ女ですよ」
「評判なんか何うでも、──お濱があんなに庇つてゐるのは外にない筈だ」
「でも、お濱は、小判の竹筒が盜まれて、三日目には親分のところへ飛込んで來たぢやありませんか、自分のお袋の仕業と知つたら、あんな事をする筈はありません」
文句をいふ八五郎を後ろに、平次は、お皆──多の市の元の女房の家へ驅けつけます。
「親分さん、お濱がそんなに泣いて居るなら、皆んな申上げてしまひます。小判を隱した竹筒は、この私が盜つたに相違ございません」
四十女の貧し氣なお皆は、平次に問ひ詰められる迄もなく、泣き乍らかうスラスラといつてのけるのでした。
「その小判を何うした、何處に隱してある」
後ろから八の差出口です。
「それが一向判りません。あの家から盜み出したのはこの私ですが、それを又人に盜られてしまひました」
かういふお皆は、此上もなく質素な調度の中に暮して居りますが、何となく確り者らしい中年女でした。
「それはどう言ふわけだ」
平次も思はずせき込みます。
「詳しく申上げませう。お聞き下さい、親分さん」
お皆の言ふのはかうです。夫の多の市が檢校になりたさの野心に燃えて、非道な高利貸を始め、生活を極度に切り詰めて、手強く意見をするお皆を裸にして放り出したのは今から十年前、お皆は人知れず娘お濱と往來して、夫の心の解けるのを待ちましたが、多の市の非道と吝嗇は年と共に募るばかり、到頭吉三郎とお濱の仲まで割いて、千兩の金が纒つたのを機會に、いよ〳〵この月のうちには、京都へ上ることに決めてしまつたのでした。
お皆は矢も楯もたまらぬ心持でした。お濱可愛さとそれを慕ひ寄る吉三郎のいぢらしさ。その上自分が、十年の恐ろしい艱苦に晒されたのも、多の市が柄にもない檢校になる野心の爲と思ふと、腹の底から忿怒が煮えくり返ります。到頭夫の家へ忍び込んで、たつた一日で千兩の金を隱し、淺ましい夫に、思ひ知らせてやる氣になつたのです。
多の市が珍らしくお祝の酒を買はせたと聞いた晩、お皆は到頭この企の實行に取かゝりました。お濱は其處で氣が付きましたが、母の仕業と知つて、素知らぬ振りで狸寢入りをしてゐたのです。
母が盜つた小判の筒は、縁の下の柔かい土に半分埋めてあつたのを、お濱は翌る朝になると見て取つてしまひました。父の半狂亂に氣を揉み乍らも、母の目論見の底を割り兼ねて、默つてしばらく樣子を見てゐるうちに、多の市は似非修驗者の道尊坊を頼んで來て、大袈裟な祈祷を始めました。
お濱はその間に一寸拔け出して、隣町の母親を訪ね、その氣持を確めると、歸つて縁の下から、小判の竹筒を取出し、改めて父親に意見をするつもりでしたが、歸つた時は、もう誰かに取出されて、縁の下の竹筒は影も形もなかつたのです。
「いづれ近所の衆か、物賣りなどが見つけて縁の下から持つて行つたのでせう。娘はあまりのことに仰天して、翌る日錢形の親分さんのところへお願ひに行つたさうでございます」
お皆は靜かに顏を擧げました。お濱に似て昔は美しかつたでせう、貧に窶れ果てては居りますが、何の邪念があらうとも思はれません。話の筋道も、まことによく通ります。
「すると、お角を殺したのは?」
ガラツ八は又口を出しました。
「縁の下から竹筒を盜んだ曲者だ」
平次は靜かに、組んだ腕をほどきます。此處まで來ると、平次の心に事件の全貌がはつきり投影した樣子です。
「もう一人、置床の柱に小判が入つてゐる事を知つて居る者があつた筈だ。それを思ひ出しさへすれば、盜人はすぐ捕まる──が」
平次は取亂した多の市をシヤンと坐らせて、その前にむずと膝を組みました。
「娘と隣りのお角と、吉三郎と、外に竹筒の事を知つてる者はありませんよ、親分」
「いや、ある。きつとある筈だ」
平次の手は、多の市の顫へる手をギユツと押へて居ります。
「祈祷を頼むとき、道尊坊さんには、置床の柱に見せた竹筒に九百九十兩入つたのを盜まれた──と話しましたが、それは盜まれてから後の事で」
「成程、盜まれてから後の事か──、八、行かうか」
平次は立ち上がつて八五郎に合圖をすると、疾風の如く道尊の庵室へ飛んで行きました。
「御免よ、道尊さんは居るだらうね」
「お氣の毒樣、出かけましたよ」
弟子の少し足りない顏をした男が、ノソリと二人の前に突立ちます。
「何處へ行つたんだ」
「此處は狹くなつたから、新しく祈祷所を建てるんだと仰しやつて、二三日前材木や地所を買ふ約束をした筈ですよ。今日は其地所でも見に行きなすつたでせう」
「さうか、──ちよいと、中を見せて貰ふぜ」
「へエ──」
「俺はお上の御用を承る者だ」
平次は返事を得たずに入り込むと、ガラツ八と手分けして、狹い祈祷所を隅から隅まで搜しました。護摩壇も、天井裏も、床下も、押入れも一刻ばかりで見盡しましたが、竹筒は愚か、小判の片らも見付かりません。
「買ふ約束をしたといふ地所は何處だ」
平次は呆氣に取られてゐる弟子を顧みます。
「松永町の裏で」
「よし〳〵、餘計な事を言つちやならねえよ」
あの足で二人は松永町の裏へ──、成程手頃な地所はありますが、よく取片附けられて、物を隱す場所などがあらうとも思へません。
「八、こいつは面白くないな、地主へ行つてみよう。手金を小判で拂つて居りや占めたものだ」
平次の動きは疾風迅雷です。が、地主へ行つても豫想は見事に外れました。道尊坊が土地を買取る約束をした事は確ですが、まだ手金を一文も拂つては居なかつたのです。
それから平次は、佐久間町を中心に、神田中の材木屋を片つ端から訊ねて歩きました。
「修驗者の道尊坊が、材木を買ふ約束をしなかつたか──」
と言ふ平次の問ひに、困つたことに點頭いた材木屋は一軒もありません。
「川を越してみようか、八」
そんな事はあり得ないと思ひ乍ら、到頭柳原河岸へ行つたのはもう夜、其邊で一番大きな材木屋で平次は漸く搜し拔いたモノに出逢はしました。
「二三日前に、そんな約束をしましたよ。祈祷所を建てるんだからと仰しやつて揃つた材木を一と山二十八兩の約束で」
「手金は」
「へエ、それがその面白くございません。御都合があると仰しやつて、ほんの形ばかり、小粒と錢で一分二朱頂戴いたしましたが」
「──」
平次はがつかりしました。二三日前では日が餘り違ひ過ぎる上、小粒や錢で大事な手金を拂ふ樣では脈がありません。
「この不景氣ですから、それでもお約束致しました。一ヶ月は材木をあの儘、手を付けずに置くといふ事にして、へエ──」
「それは何時から積んであつた材木なんだ」
「ずつと前から十二三本杉丸太のあつた上へ、三日ほど前荷が入つたので、ほんの間に合せに杉丸太を下敷にして檜材を五六十本積みましたが、それがお氣に召したさうでへエ──」
平次は默つて其處を出ました。
「親分、何處へ行きなさるんで」
「二三日前に積んだ材木は氣に入らないが、兎に角其處へ行つてみるとしよう。其處で竹筒が見付からなきや、先づ諦める外はあるまい」
二人は材木屋の店を出ると、遲い月の出の薄明りに照らされ乍ら、河岸の材木置場へ廻りました。
「おや、變な音がしたやうですぜ、親分」
「材木の崩れた音だ、急いで行かう」
二人は物音のした方へ飛んで行きました。
「あツ」
幸ひの月明り、すかして見ると杉なりに積んだ檜の巨材の間に何やら蠢めく物。
「それ行け、八」
飛込むと、それは大きな材木の間に、左手を突つ込んだまゝ、拔き差しもならずうめく人間の姿ではありませんか。
「道尊坊だ」
變哲な法服と、髯面が紛れもありません。
「罰が當つたのだよ」
平次も暫らくは手の下しやうもありません。
「助けてくれ、苦しい、──苦しい」
平次とガラツ八はもう躊躇しませんでした。崩れた材木を起して、左腕を折つた道尊坊を引出し、兎も角も手當をさせて腰繩を打つてしまひました。
「九百九十兩小判を入れた竹筒を盜んで、お角を殺したのはお前だらう。──六日前に杉丸太の間へ竹筒を隱したが、その上へ檜の角材を積まれ、折角の竹筒が取出せなくなつたので、祈祷所を建てると言つて、要らない土地と材木を買つたらう」
「恐れ入ります」
「お角は此材木置場へお前を跟けて來て、落ち散つた小判を拾つた筈だ。その口を塞ぐ爲に殺したのは罪が深過ぎたぞ」
「──」
道尊坊は默つて首を垂れます。
材木を取除けると、果してその下から竹筒に入れた九百九十兩の小判が出て來ました。いや、九百九十兩といふより、九百八十七兩といつた方が正しいでせう。
× × ×
道尊坊は獄門になりましたが、平次の情で、お皆にもお濱にも、何の科もなくて濟みました。そればかりではなく、多の市も我慢の角を折つて、十年別れ住んだ女房のお皆と一時になり、お濱と吉三郎を娶合はせ、平凡ながら、腕の良い按摩で無事に一生を終つたといふことです。
底本:「錢形平次捕物全集第十三卷 焔の舞」同光社磯部書房
1953(昭和28)年9月5日発行
初出:「オール讀物」文藝春秋社
1937(昭和12)年6月号
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
※題名「錢形平次捕物控」は、底本にはありませんが、一般に認識されている題名として、補いました。
入力:特定非営利活動法人はるかぜ
校正:門田裕志
2014年6月30日作成
2014年7月3日修正
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