思ひ出す牧野信一
中原中也
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牧野信一が縊死した。原因が何であるか、私は知らない。新聞に拠れば、神経衰弱が原因だし、宇野女史との恋愛なぞといふことも一寸載つてゐたが、どれも直ちに信じる気にはなれない。仮りに正しく神経衰弱が原因だつたとしても、単純な受験生のそれではあるまいし、その神経衰弱の因つて来た所を考へてみたくなる。恋愛の方はといへば、てんで問題にしたくはない。牧野さんといふ人は、恋愛に殉じる態の純情家といふものとは遙かに縁遠いと思はれるからだ。
人が自殺した時、それも作家が自殺した時、その原因を簡単に云つてしまふなぞはよくないことである。何も記者が簡単に云へるものと考へてゐるとは思はないけれど、それを一般世間が可なりオーム返しに信じたりする風景は、なさけなく思はれるのである。
恐らく、人が、思はず云ひ過ぎをしてしまふやうに、自殺も、思はずしてしまふやうなものに相違ない。
芸術家としての牧野さんは、幾分線が細過ぎたやうに私は思ふ。「西部劇通信」だの「ゼーロン」だのを書いた昭和五年の頃は、彼の返り咲きの観があつたし、評判がよかつたのであるが、あの頃のものよりも、それから暫く後に書いた、水車小屋の壁に凭れて月の明りで手紙を読む短篇なぞの方が、遙かに牧野さんらしいものであると思はれる。「西部劇通信」にも無論個性は十分に現はれてゐるのであるが、人物をギリシャ人に仕立てたりするあの仮構は、作者自身にしつくりしたことではなかつたと思ふ。手短かに云へば、作家牧野は、もつと書き流す態の作をするにはあまりに純粋の要求があり過ぎたし、完固たるフォルムに到達するためにはあまりに情調派であり過ぎたのである。即ち自家の文体を実現し了せなかつたこの作家は、一生涯習作をしてゐたといへるし、絶えざる模索の状態は彼を鬱屈させてゐたのであつた。
そのやうな彼が棲息するに、ただもうゴマカルことを事としてゐるかの如き現代インテリ界は不適当なものであつた。それかあらぬか彼はただ徒らに気を弱くされてゐた。
私が最初に会つたのは、一昨々年の五月である。西銀座の「きゆぺる」の二階で会つた。その夜我々は新しく始める同人雑誌の相談で、同人二十人ばかりで其処へ集つてゐた。同人中の谷丹三が牧野さんを知つてゐたので、その夜来て貰ふやう頼んでおいたのであつた。大変元気で粗忽が自慢でもある、甚だ罪のない男がその夜の進行係をやつてゐて、一人で大声で喋舌つてゐたが、大部分の者は聴いてもゐなかつた。とにかくその座はザワザワしてゐた。其処へやつて来た此の鉄色がかつた栗色の肌の牧野信一は、部屋に這入るなり進みもしないで坐つた。久留米絣を来てゐて、既に酔つてゐた。「僕、邪魔はしないからねえ、邪魔はしないからねえ」と、みんなの者に云つたのがその時の挨拶であつた。みんなむしろ邪魔されて欲しいくらゐのところへ、この挨拶は、一寸ツカないものであつた。牧野は酔ふと仕方がないといふのが牧野さんの周囲の人達の定説であつたのでもあらう。さういふ定説といふものを云ひ出す方は案外呑気に云ひ出すのであるが、云はれる方は辛いものである。おまけに牧野さんが酔ふと発しはじめるのなぞは、当人に自制力がないよりも、周囲が彼にとつてはあまりに不真面目に見える所から起るのであつたと考ふべき点もあるのであるから、さういふ定説が呑気に繰返されることは辛かつたのである。
進行係は依然大声を出してゐた。牧野さんの近くにゐる四五人の者が、何かかゝ牧野さんに話してゐた。聞きながら、大きいガツテンガツテンを、アクセントをつけてやつてゐた。それがなんだか気の毒で、私は何も云ひ出せなかつた。その会合の終り頃になつて、私は名刺を出しただけであつた。名刺を読むと、しきりにまたガツテンガツテンをしながら私の顔をみて、それからタモトに入れたのであつた。
それから二タ月くらゐして、やつぱりその同人の集りのあとで、谷君他三人ばかりが、円タクの中からオイデオイデをするから行つてみると、これから牧野さんを誘ひ出しに行くから乗れといふのである。車が芝南寺の少し手前まで来ると、助手台に乗つてゐた谷丹三の親友が、急に停車を命じた。と、それは花屋の前であつた。やがてケシの花だつたかを買つて円タクに帰つて来ると、その男は花を一本づつ我々に配つた。一本づつ持つて牧野さんを訪ねるといふのである。
牧野さんは当時南寺の借家にゐた。四畳半の真ん中に卓を一つ置いて、原稿紙を前に坐つてゐた。まだ一字も書いてはなかつた。横手の障子をアケヒロゲて、カヤリを焚いてゐた。障子の外は、真つ暗であつた。浴衣一枚の胸をハダケて、恐らく我々が来るまで、彼は頭をカカへてゐたに違ひなかつた。谷君がこれから出掛けて飲みませんかといふと、出たさうだし出たくなささうであつた。谷君の方で早速遠慮を示したので、結局出掛けないことになつて、「では二階に行かうか、此処は子供が目を覚ますんで話が出来ないんだ」と牧野さんは云つた。それもなんとなくみんなが遠慮して、結局そこで小さい声で話すことになつてしまつた。みんなが何を話したか別段記憶しないが、ともあれみんな文学青年が先輩を詣でた式のことで、主人は間もなく退屈した。而も帰つて欲しさうでもなかつたので、何か話し出さうと思つたが、私は疲れてもゐたので黙つてゐた。私の正面の壁に子供の小学校の霜降の服と、糊でビリビリの日覆をかけた小学帽とが掛かつてゐた。カヤリの煙がユラユラと壁に映つて、十一時頃であり、そのうちまた出掛けさうな気配にもなつたりして、時は刻々に過ぎつゝあつた。
その手クビは細かつた。格別細い感じがした。其処に月光的な悲哀が漂つてゐた。牧野さんの作品には明るい風景が出て来るし、陽に透いた桜の葉のやうな色や又赤い色があるが、その赤はうでた小海老の赤である。
斯の如き男にとつて、世間は荒いか、さもなくば衒学的に思はれたであらう。その中間はすつかりの空虚であつた。彼がもしそのことを欺いたとして、当今人々は云ふのである、「それはお前だけのことだ、お前の註文があるだけのことだ」と。けれどもそのお前自身にしてみれば、その註文を抱いてこそ生きてゐるやうなものでもあるのだ。
分類が終るや能事足れりとなす所に、現代インテリの過ちがあり、恐らくこの過ちが彼を不幸にした大きい理由であつたと云へよう。
底本:「新編中原中也全集 第四巻 評論・小説」角川書店
2003(平成15)年11月25日初版発行
底本の親本:「文学界」
1936(昭和11)年5月号
初出:「文学界」
1936(昭和11)年5月号
※()内の編者によるルビは省略しました。
※底本巻末の編者による語注は省略しました。
入力:村松洋一
校正:noriko saito
2014年9月11日作成
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