錢形平次捕物控
名馬罪あり
野村胡堂
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「おつと、待つた」
「親分、そいつはいけねえ、先刻──待つたなしで行かうぜ──と言つたのは、親分の方ぢやありませんか」
「言つたよ、待つたなしと言つたに相違ないが、其處を切られちや、此大石が皆んな死ぬぢやないか。親分子分の間柄だ、そんな因業なことを言はずに、ちよいと此石を待つてくれ」
「驚いたなア、どうも。捕物にかけちや、江戸開府以來の名人と言はれた親分だが、碁を打たしちや、からだらしがないぜ」
御用聞の錢形の平次は、子分のガラツ八こと八五郎を相手に、秋の陽ざしの淡い縁側、軒の糸瓜の、怪奇な影法師が搖れる下で、縁臺碁を打つて居りました。
四世本因坊の名人道策が、日本の圍碁を黄金時代に導き、町方にも專ら碁が行はれた頃、丁度今日の麻雀などのやうに一時に流行を極めた時分です。
尤も平次とガラツ八の碁はほんの眞似事で、碁盤と言つても菓子折の底へ足を付けたほどのもの、それにカキ餅のやうな心細い石ですから、一石を下す毎に、ポコリポコリと、間の拔けた音がするといふ代物、氣のいゝ女房のお靜も、小半日この音を聞かされて、縫物をし乍ら、すつかり氣を腐らして居ります。
「だらしがないは口が過ぎるぞ、ガラツ八奴、手前などは、だらしのあるのは碁だけだらう」
平次も少しムツとしました。
「それぢや、此石を待つてやる代り、何か賭けませう」
「馬鹿ツ、汚い事を言ふな、俺は賭事は大嫌ひだ」
「金でなきアいゝでせう、竹箆とか、餅菓子とか──」
「よしツ、それ程言ふなら、此一番に負けたら、今日一日、お前が親分で俺が子分だ。どんな事を言ひ付けられても、文句を言はないといふ事にしたらどうだ」
「そいつは面白いや、あつしが負けたら、打つなり蹴飛ばすなり、何うともしておくんなさい。何うせ親分なんかに負けつこがないんだから」
「言つたね、さア來い」
二人は又怪しげな碁器の中の石をガチヤガチヤ言はせて、果し合ひ眼で對しました。
「まア、お前さん、そんな約束をなすつて」
お靜は見兼ねて聲を掛けましたが、
「放つて置け、此野郎、一度うんと取つ締めなきア癖になる」
平次は一向聞き入れさうもありません。江戸一番の御用聞が、笊碁で半日潰すのですから、まことに天下は泰平と言つたものかもわかりません。
「さア、親分何うです、中が死んで、隅が死んで、目のあるのは幾つもありませんぜ。──今更征の當りなんか打つたつて追つ付くもんですか」
「フーム」
「降參なら投げた方が立派ですぜ。この上もがくと、頸を縊つて身投げをするやうなもので」
「勝手にしろ、──褌を嫌ひな男碁は強し──てな、川柳點にある通り、碁の強いのは半間な野郎に限つたものさ」
平次はさう言つて、一と握りの黒石を、ガチヤリと盤の上へ叩き付けました。御用聞には惜しい人柄、碁さへ打たなきア、全く大した男前です。
「へツ〳〵、何とでも仰しやいだ、──今日一日あつしが親分で」
「馬鹿野郎」
「親分に向つて馬鹿野郎はないでせう」
八五郎はさう言ひ乍らも、長い顎を撫で廻しました。唐棧を狹く着て、水髮の刷毛先を左に曲げた、人並の風俗はして居りますが、長い鼻、團栗眼、間伸びのした臺詞、何となく犢鼻褌が嫌ひといつた人柄に見えるから不思議です。
丁度その時でした。
「御免下さいまし、平次親分のお宅は此方でいらつしやいますか」
切り口上ですが、鈴を鳴らすやうな美しい聲、女房のお靜はそれに應じて取次に出た樣子です。
「武家の娘だ、が──すつかり顛倒して居るらしいぜ。八親分、こりや飛んだ大きな仕事かも知れないよ」
そんな事を言つて面白さうにガラツ八を顧みました錢形の平次も、なか〳〵人の惡いところがあります。
お靜に案内されて通つたのは、十八九の武家風の娘。その頃の人ですから、すつかり訓練されて立居振舞に少しの破綻もありませんが、平次が聲を聞いて判斷したやうに、どんな目に逢つて來たものかすつかり怯えて、挨拶を濟ませると胸を抱いたまゝ暫らくは口もきけないほど昂奮して居ります。
「お孃樣、どうなさいました、大層驚いていらつしやる樣ですが──」
平次は敷物をすゝめて、いたはるやうに斯う言ひました。お靜の若い美しい女房振りや、平次の穩かな調子は、どんなに相手を慰めたことでせう。娘は少し落着くと、ほぐれるやうに、その驚きを話します。
「父上──相澤半之丞と申しますが、大事な書面を紛失してお腹を召さうとなさいます。一應は止めましたが、書面が出て來ない以上は、のめ〳〵と生きては居られぬと申します。平次樣、お願ひで御座います、お助け下さいませ」
「相澤半之丞樣と仰しやると?」
「大場石見樣の用人、牛込見付外に住んで居ります」
「フーム」
大場石見といふのは、八千石を食んで、旗本中でも家柄、その用人と言へば、陪臣乍ら相當の身分です。
「いつぞや助けて頂いた、小永井浪江樣は(『殺され半藏』參照)私の幼友達で御座います。外に頼るところもない身の上、どうぞ力になつて下さいまし」
娘はさう言つて、後ろに愼ましく控へたお靜の方を、訴へるやうに見やるのでした。
「御武家方の紛紜に立ち入るのは筋違ひですが、兎も角一應承りませう」
平次が斯う乘り出してくれるともう千人力です。娘はホツとして樣子で、語り進めました。
牛込見附外の大場石見といふのは安祥旗本の押しも押されもせぬ家柄ですが、房州の所領に、苛斂誅求の訴へがあつた爲に、若年寄から東照宮の御墨附──大場家の家寶ともいふべき品──を召上げられ、長い間留め置かれましたが、領地の騷ぎも納まつたので、一と先づ下げ渡されることになつたのはツイ昨日の事。大場石見早速罷り出て受取るべき筈のところ、所勞の爲果し兼ねて、越えて今日、用人相澤半之丞を代理として差出し、御墨附を文箱に納めて持ち歸らせましたが、間違ひはその途中、牛込見付外の屋敷へ入らうといふ一歩手前に待ち伏せして居たのでした。
相澤半之丞は典型的な用人ですが、劍槍兩道にも秀でた立派な武士。この日主人の代理として、御評定所から御墨附を受取つて來るについて、まさかテクテク歩くわけにも行かず、さうかといつて、陪臣が駕籠に乘るわけにも行きません。
この人の唯一の弱身は、生れ付き馬が嫌ひで、尤も身分柄乘らずに濟んだせゐもあるでせう、今までは先づ其爲に困つた經驗もなかつたのですが、和田倉門外の御評定所へ行つて大事の品を受取つて來るとなると、馬で行くのが一番ピタリとします。
幸ひ、主人、大場石見は大の馬好き、近頃手に入れた『東雲』といふ名馬、南部産八寸に餘る逸物に、厩中間の黒助といふ、若い威勢の好い男を附けて貸してくれました。
相澤半之丞、嫌とも言へず、それに乘つて出かけたのが間違ひの基だつたのです。
往きは先づ無事、御評定所で御墨附を受取り、一應懷紙を銜んで改めた上、持參の文箱に移して御評定所を退き、東雲に跨つて、文箱を捧げ加減に、片手手綱でやつて來たのは牛込見附です。
見附に出て、神樂坂を上ると、あとは一と息ですから、此處まで來ると、相澤半之丞思はずホツとしました。何となく氣が緩んだのです。
「旦那樣、惡いものが參りました」
馬丁の黒助は、前へ駈け拔けて、半之丞の乘つた栗毛の轡を取りました。
「何だ」
半之丞は御墨附を入れた大事の文箱を、鞍の前輪に添へて確と押へたまゝ、黒助の指さす方を見やります。
成程市ヶ谷の方から少しダラダラになつた道を來るのは、引越しのガラクタとも見える高荷を積んだ大八車。戸棚を二つも重ねて──いかに電話線のない時代でも、その上へ三間梯子を積んだのですから、恰好が淺ましいばかりでなく、車の動くにつれて、グワラグワラと恐ろしい音を立てます。
「旦那樣、體裁は惡う御座いますが、暫らく我慢なすつて下さい。この馬は疳が強う御座いますから」
黒助はさう言ひ乍ら、法被を脱いで、馬の首に冠せ、その下から手を入れて、
「ドウドウドウ」
と鼻面から鬣をさすつて居ります。
が、そんな事で宥められる『東雲』でなかつたのか、それともすれ違ひさま、梯子の先が馬の尻に觸つたのか、馬はパツと棹立ちになると、馬丁の法被をかなぐり捨てゝ、奔流の如く元の道へ。
「ワーツ、ワーツ」
と言ふ人聲、眞晝の往來は斷ち割つたやうに二つに裂けて右往左往に逃げ惑ふ中を、僅に鞍に獅噛み付いた半之丞、必死の手綱を絞りますが何の甲斐もありません。
「旦那樣、お濠だツ、危ないツ、降りて下さいツ」
まだ轡を放さなかつた馬丁の黒助は、張り切つた馬の首の下から必死の聲を絞ります。
ヒヨイと見ると、成程奔馬はもうお濠の崖へ乘出さうとしてゐるではありませんか。
「あツ」
半之丞は本當に必死の思ひで飛降りました。イヤ、轉げ落ちたと言つた方がよかつたでせう。大地に抛り出されて、起き上がらぬうちに、狂ひに狂つた馬は、二三十尺もあらうと思ふ崖の下へ、一塊の土の如く落ちて、水音高く沈んで了つたのです。
「旦那樣、お怪我は?」
「おゝ黒助、文箱を探してくれ」
「こゝに御座います、旦那樣」
「有難い、それさへあれば」
落散る文箱を取つて差出すと、半之丞押し戴いて立ち上がりました。埃と泥とに、見る影もなく塗れて居りますが、馬は下手でも、體術の心得が確かなので、幸ひ大した怪我もなかつた樣子です。
併しこの醜體を何時までも往來の人に見せるわけには行きません。半之丞は濠に落ちた馬の始末を黒助に任せて、自分は御墨附の入つた文箱を後生大事に、其處からはもう眼と鼻の間の屋敷へ歸つて來ました。
屋敷と言つたところで、主君大場石見のお長屋、落馬をした埃だらけの體で、主君石見の前へ出ることもありません。一應自分の長屋に歸つて衣服を改め、髮を撫で付け、さて出かけようとして次の間の机の上に置いた文箱を取り上げて驚きました。
「あツ、これは?」
箱は違つて居るのです。紐の色、高蒔繪、いくらか似ては居りますが、よく〳〵見ると、まるつ切り違つた品で、金蒔繪で散らした紋も、鷹の羽が何時の間にやら抱茗荷になつて、嚴重にした筈の封印もありません。
顫ふ手先に紐を拂つて、蓋を開けると、中は空つぽ──
暫らくは夢見る心地、何の考へも出て來ませんが、やがて牛込見附の落馬騷ぎから、自分の長屋まで辿り付いた光景、着換の爲に、暫らく文箱を隣室に置きつ放しにしたことなどがはつきり思ひ出されます。
「斯う言ふ譯で御座います。御墨附が出なければ、さうでなくてさへ公儀に睨まれて居る大場家は明日とも言はず御取潰しになりませう。御先祖大場甚内樣、大坂夏冬の陣に拔群の御手柄を現はし東照宮樣の御墨附を頂いたばかりに、此度御所領の騷動にも、格別の御沙汰もなく、御目こぼしになりました。──それにも拘らず、大事の御墨附を失つては、御使者に立つた父相澤半之丞も生きては居られません」
半之丞の娘お秀、涙乍らに斯う語り進みました。
「──」
八千石の大旗本が、潰れるか立つか、人の命幾つにも關はる事だけに、平次もお靜も、八五郎も息も吐かずに神妙に聽入りました。
「父上は、主君への申譯、腹を切らうとなさいましたが、腹掻き切つて出て來るといふ品では御座いません。──主君に申上げて、御驚きの中にも、三日だけ猶豫を頂きました。せめて三日、死ぬべき命を永らへ、恥ぢを忍んで御墨附の行方を探さうといふ覺悟を定めたので御座います」
「──」
「と申しても、何處に隱されたやら、誰が摺り換へたやら、掻暮れ見當も付きません。平次樣、お助け下さいまし、外に頼るところもない親子、主從の難儀で御座います」
お秀はさう言つてしまつて、疊に手を突きました。血のやうな涙が、ポロポロと落ちて、その桃色珊瑚を並べたやうな指を濡らします。
「お孃樣、お手をお上げなさいまし。御武家の内輪事へ、町方の御用聞や手先が口を出すべき筋では御座いませんが、お話を承れば如何にもお氣の毒で御座います、思ひ切つてお引受け申しませう」
屹と擧げた平次の秀麗な面。
「え、それでは引受けて下さる、──何と御禮を申して宜しいやら」
お秀はもう涙です。
「あ、お孃樣、今からお禮は早過ぎます。就ては、これだけの事をお含み下さいませんか、私は町方の岡つ引ですから、何んな事があつても御屋敷内の方を縛りはしませんが、三日の間出入りを自由にさして頂いた上、上は大場石見樣から、下は馬丁、下女に至るまで、私の都合で、何時でも物を訊けるといふことに──」
「それはもう」
「それからもう一つ、この野郎は八五郎と申しまして、私には可愛くてならない子分ですが、御覽の通り人間は少し甘く出來て居ります」
「親分」
ガラツ八は横から口を出しました。人間が甘いと言はれたのが不服だつたのでせう。
「默つて居ろ、──ところでお孃樣、今日一日この八五郎が親分で、あつしが子分になるといふ賭をいたしました。私の代りに、この男を差上げますから、私だと思つて、いろ〳〵御相談なすつて下さいまし、──大丈夫で御座いますとも、人間は甘くても、なか〳〵良い鼻を持つて居りますから、どうかしたら、御墨附を嗅ぎ出すかもわかりません。最初から私が乘出して、曲者に用心させるより、八の野郎を看板にして蔭で操つた方が、反つて仕事が運びます」
「──」
お秀は不安心さうにガラツ八を見やりました。鼻は良いかも知れませんが、何うもあまり賢さうな人相ではありません。
即刻八五郎は牛込見附外の大場屋敷へ乘込みました。
八千石の旗本の用人といへば、小大名の家老にも匹敵するでせう。相澤半之丞の權力は大したもの、その住居も、お長屋といふ名に相應はしからぬ堂々たるものです。
「父上樣、平次の子分の八五郎といふ方を伴れて參りました」
「左樣か、私は相澤半之丞ぢや、宜しく頼みますぞ」
四十恰好のデツプリした武士、人品骨柄には申分ありませんが、恐ろしい心配に打ちひしがれて、さすがに顏色が鉛のやうに沈んで居ります。
「へエ──」
八五郎のつぶらな眼と長い顎が、すつかり半之丞を落膽させましたが、折角來たものを追ひ返すわけには參りません。
「何のやうにしても構はぬ、三日の間に御墨附を搜し出して貰ひたい」
「へエ──」
八五郎は定石通り事件を遡上つて考へました。平次がこんな大事な舞臺へ、代理として立たせてくれたのは、石原の利助や三輪の萬七といつた、意地の惡い岡つ引の居ないところで、存分に腕を伸させる爲でせう。
「何なと聞くがいゝ」
と半之丞。
「それでは伺ひますが、見附で落馬なすつた時は、文箱は何うなりました」
「持つて居た──が、生得馬が嫌ひで、落馬も生れて始めてだから、大地に膝をついた時、思はず取り落した」
「拾ひ上げた時變つては居ませんでしたか」
「いや、變る道理がない。眼の前で黒助が拾つて、土埃を拂つて渡してくれたのだ」
「其處から歩いていらつしやるうちに、摺り換へられるやうな事は御座いませんか」
「そんな事はありやう筈はないではないか」
「お歸りになつて、暫らく隣の御部屋の机の上にお置きになつたさうぢや御座いませんか」
「着換のうち、暫らく目を離したが、其處には召使の者が見張つて居た」
「その方に逢はして頂けませんか」
「いゝとも、これ、お組を呼んで來るがいゝ」
「ハイ」
お秀が立つて行くと、入れ換つて二十一二の、召使とは見えぬ美しい女が入つて來ました。
「お召で御座いましたか」
「この人が訊きたいことがあるさうだ、何でも眞つ直ぐにお答へするのだぞ」
「ハイ」
靜かに一禮して上げた顏は、其邊の商賣人にも滅多にない容色で、髮形、銘仙の小袖、何となく唯の奉公人ではありません。
「この方は、御女中で御座いますか、旦那」
「フム、まづ女中だ」
「まづ女中とは?」
「家内に先年死に別れて、何彼と身の廻りの世話をさせて居る」
さう言へば立派なお妾です。八五郎は日本一の尤もらしい顏をして、此女を見据ゑました。
「生れは?」
「房州の知行所の者だ」
と半之丞が引取りました。
「何時頃御奉公に上がりました」
「もう三年位になるかな、お組」
「ハイ」
「旦那、一々さう旦那が仰しやつちや何にもなりません。この御女中の口占から、いろ〳〵の事を見付け出すのが、私の方の術で」
「左樣かな」
ガラツ八の半間な調子と、それを精一杯尤もらしくする言葉に、相澤半之丞も少しうんざりして居ります。
「ところで御女中、文箱はお前さんの目の前で摺り換へられた筈だ、此邊で何も彼も申上げたらどうだ」
とガラツ八、思ひの外突つ込んだ事を言ひます。
「えツ、そんな、そんな事は御座いません」
お組の顏はサツと血の氣を失ひました。
「落馬した時に變らず、道中で變らなければ、旦那が一寸眼を離した時、──お孃樣が御手傳ひをして着換をして居る時、隣の部屋でお前さんが摺り變へるより外に變りやうがないではないか。大事な時だ、よく考へて物を言つた方がいゝよ」
「──」
半之丞父娘も、そんな事を疑はないではありませんが、お組の愛に溺れた相澤半之丞、さすがにさうと斷定も出來ず、それを又齒痒いことに思つて娘のお秀が、平次へ頼みこんだのでせう。遠慮のないガラツ八に斯う言はれると、敷居際に聞いて居るお秀は、思はず唇を噛み、半之丞は今更乍ら、取返しの付かない成行に、娘の視線を避けて首うな垂れました。
「どうだい、八親分」
「お願ひだから、その『親分』だけは止しておくんなさい。殺生だよ、全く『ガラツ八』と言はれた方が、まだしも清々する位のもので──」
歸つて來た八五郎を迎へて、平次は斯んな調子で話しかけました。
「それぢや、ガラツ八親分」
「なほ惡いや、──もう碁の相手は御免だ」
「氣の弱いことを言ふなよ、ところで首尾はどうだい」
「上々さ、自慢ぢやねえが、あつしが乘込むと、一ぺんにカラクリが解つて了ひましたよ、親分」
「大層鼻がいゝね、曲者は見當だけでも付いたのかえ」
「見當は心細いな、動きのとれないところを押へて、白状させるばかりに運んで來ましたぜ」
「へエ──、少し可怪しいぜ、八」
「斯う言ふわけでさ、相澤半之丞は三年前に配偶に死なれて、それから知行所から呼んだ下女のお組といふのを妾にして居た。──これは大變な美い女だが、お孃さんと折合が惡いので、近いうちに縁を切つて、田舍へ歸すことになつて居ますぜ」
「成程」
「文箱を一寸の間見張つて居たのは、間違ひもなく、その女だから、誰が考へたつて曲者はお組に極つて居るやうなものでさ。手落も罪もなくて暇になる腹いせに、ちよいとそんな惡戯をしたが、相手が父親の妾だけに、判りきつて居ても、お秀さんとかいふお孃さんの口からは騷ぎ出せない。わざ〳〵平次親分を引張り出して判り切つた曲者を擧げさせようとしたのは、そんなわけですよ」
八五郎は少ししたり顏でした。成程、それだけの話なら、平次を引取り出す迄もなく、ガラツ八でも事は濟みます。
「ところで、そのお墨附といふのが見付かつたのかい」
と平次。
「それが判らないから不思議だ、お墨附が見付かるどころか、どんなに責めても、お組といふお妾は知らぬ存ぜぬの一點張だ。ね親分、女といふものは、思つたより剛情なものぢやありませんか。顏を見ると、そんな大それた事をしさうもないが」
「もう一つ訊くが、文箱は念入りに檢べたらうな」
「見ましたとも」
「塗か紐に汚れはなかつたかい、土か砂の付いた跡が──」
「そんなものはありやしません、舐めた樣に綺麗でしたよ」
「フーム」
「落馬した時持つて居た箱なら、往來へ取落したと言ふから少し位拭いたつて、泥か埃が付いて居る筈でせう。──だから家へ持つて歸つてから摺り換へられたに間違ひありません」
ガラツ八も見やう見眞似でなか〳〵穿つたことを言ひます。
「八」
「へエ」
「これは、思つたより底のある企みらしいぜ、もう少し樣子を見るとしよう」
平次は考へ深さうに腕を拱きました。
「底にも蓋にも、これつ切りの話ぢやありませんか」
「いや、さうぢやない。お前は駄目ばかり詰めて、肝腎の筋へは石を打たなかつたんだ」
「へエ、譬が碁と來たね」
「俺はこれから、ちよいと行つて見て來る。用事があつたら牛込見附の邊へ來て見るがいゝ」
もう夕暮に近い街へ、平次は大急ぎに飛出しました。
それから一刻ばかり、秋の日はすつかり暮れて、ガラツ八が所在もなく鼻毛を拔いて居ると、牛込の大場石見邸から、
「即刻、平次親分に來てくれるやうに」
と言ふ丁寧な口上で使の者が來ました。
「弱つたなア、親分は何處へ行つたか解りませんが、其邊まで行つて見ませう。牛込見附のあたりに居るかもわかりませんから」
ガラツ八はさう言ひ乍ら使ひの者と一緒に、神田から九段下に出て牛込見附へやつて來ました。
八日月の薄明り、幸ひ人の影は五間十間離れても見當位付きます。
「親分」
ガラツ八は月の光にすかして聲を掛けると、濠端の柳の幹から離れた影が、
「八か、何だ用事は」
紛れもなく平次の聲です。
「大場樣から、直ぐ來るやうにつて、御使の方が見えましたぜ」
「さうだらう」
「あれ、待つて居たんですかい」
「まア、ね」
平次はさう言つて、何やら手に持つた物を懷に入れ乍ら近づきました。
通されたのは、相澤半之丞の長屋ではなく、本家の大場石見の奧座敷、といつても、庭木戸から廻つて、縁側にかしこまつた平次とガラツ八は、四方の樣子の物々しさに、思はずギヨツとしました。
庭先に番手桶、荒筵を敷いて、その上の枝ぶりの良い松に吊り上げたのは、半裸體の美女。言ふまでもなく用人相澤半之丞の妾お組といふのが、雁字がらめにされて、水をブツかけられたり、弓の折れで打たれたり、芝居の責を其儘の拷問にかけられて居るのです。
「平次か」
縁側に立つたのは、大場石見、八千石の當主でせう。五十を少し越した筋張つた神經質な武家、一刀を提げて、松が枝のお組と、縁先の平次を當分に見比べた姿は、苛斂誅求で、長い間房州の知行所の百姓を泣かせた疳癖は充分に窺はれます。
「へエ」
「用人相澤半之丞から何も彼も聞いた。この女を申受けて、あらゆる責やうをして見たが、剛情我慢で何んとしても言はぬ。命を絶つのは易いが、それでは御墨附の行方も永久に解るまいと言ふので、取りあへず其方を呼びにやつたのだ。商賣々々で、斯樣な女に口を開かせる術もあらう、何とか致してくれ」
「──」
「大場家の大事だ。首尾よく御墨附の在所が判れば、禮は存分に取らせる」
「──」
何といふ嫌な言ひ草でせう。平次は疳の蟲がムカムカと首をもたげましたが、八千石の大身の興廢に拘ることと、胸をさすつて唇を噛みました。
「どうぢやな、平次」
「拷問や牢問ひは、牢番與力配下の不淨役人の仕事で、手前共手先御用聞の役目では御座いません、恐れ乍らその儀は御容赦を願ひます」
平次は屹と言ひ切りました。沓脱の上にこそ膝を突きましたが、擧げた面魂は、寸毫も引きさうになかつたのです。
「フーム、さうか、なか〳〵立派な口をきくのう。が、大場の家の浮沈に關ることぢや、捨て置くわけには參らぬ。半之丞、打つて〳〵打ち据ゑいツ、黒助は水を掛けるのだ」
「ハツ」
馬丁の黒助は立ち上がつて、番手桶の水をザブリと掛けました。初秋の肌寒い風が、半裸の美女を吹いて、そのまゝ燻蒸する湯氣も匂ひさうです。
「半之丞、打てツ」
「ハツ」
相澤半之丞、弓の折を取つて立上がると、三年越寵愛した自分の妾の肉塊を、ピシリ、ピシリと叩きます。
「あツ」
キリキリと空に廻るお組の身體は、一塊の綿を束ねたやうに、絶え入るばかりもがき苦しみます。
「まだ言はぬか、女」
堪へ兼ねて大場石見、一刀を提げたまゝ庭に降り立ちました。
「殿樣、お怨を申します」
「何?」
不意に、縛られた女の聲を聞くと、大場石見は愕然として振り仰ぎました。
「永い間の非道ななされ方の酬いとは思ひませんか。年々の不作も構はず、無法な御用金を仰せ付けた上、厭が上の徴税に、知行所の百姓は食ふや食はずに暮して居ります」
「何、何を言ふ」
「親は子を賣り、夫は女房に別れて、泣かない日とてはない何千人の怨み、公儀の御とがめは免れても、御墨附が紛失した上は、輕くて改易、重ければ腹でも切らなければなりますまい、おゝいゝ氣味」
縛られた美女、月光に人魚のやうに光るのが、カラカラと血潮に醉つたやうな笑ひ聲を立てるのでした。
「お前は何だ」
「房州の百姓の娘、殿樣に近付いて怨が報いたいばかりに、相澤樣に取入つて、心にもない機嫌氣褄を取りました。相澤樣は用人としてするだけの事は、それも内輪にしただけ、罪は十が十まで殿樣の我儘と贅澤にあることが解りました。御墨附は私が死ねば、何處にあるか知つてる者もない筈、せめて腹でも切つて、多勢の百姓の怨を思ひ知るがいゝ、ホ、ホ、ホ、ホ、ホ」
高鳴る嘲笑。
「お組、それは考へ違ひだぞ。殿樣にはよく申上げて、くれ〴〵も上納を輕くして頂く、御墨附の在所を言へツ」
と相澤半之丞、思はず立ち上がつて、松が枝に吊した繩に取りすがりました。
「誰が言ふものか、見るがいゝ、此邸にペンペン草を生やしてやるから」
「お組ツ」
黒助と石見が一團になつて馳け付けましたが、縛られたまゝ舌でも切つたものか、吊られた繩がキリキリと廻ると、お組の蒼白い唇からはクワツと血潮が流れます。
「平次、何とかならぬものか。お組が死んで了つては、開かせる口もないが、御墨附がなくては大場の御家は斷絶だ」
「──」
「約束の三日目は過ぎて、今日はもう七日目ではないか。何とかして搜し出す工夫はないものだらうか。まさかお組は、燒きも捨てもした筈はない。八五郎とか言ふのが氣が付くと、直ぐ取つて押へて、間もなく主君へ申上げたのだから、御墨附を始末する暇はなかつた筈だ」
相澤半之丞、折入つて平次に頼み込みました。お組が死んで七日目、これ以上愚圖々々して、公儀の耳にでも入つては、全く何うすることも出來なかつたのでせう。
「御胸の中は御察し申して居ります」
「それでは何とかしてくれぬか。拙者も腹を切るにも切られぬ破目だ」
半之丞は思はず吐息を吐きました。主君大場石見の暴壓を永年の間どれだけ緩和して來たことか、この人には、お組が言つたやうに、決して惡意のないことを平次も知り悉して居たのです。
「旦那、私にはよく解つて居ります」
「何が」
「御墨附は燒きも捨てもしませんが、この儘では決して出つこはありません」
「何うすればいゝのだ」
「お人拂ひを願ひます」
平次の物々しい樣子に、半之丞は立つて縁側と隣の部屋を覗きました。
「誰も聞いては居らぬ」
「御墨附を手に入れるには、大場石見樣が隱居を遊ばして、御家督を先代樣の御嫡男、今は別居していらつしやる、大場釆女樣にお讓りになる外は御座いません」
「えツ」
平次は大變な事を言ひ出しました。
「長い間の無法な御政治で、御領地の百姓が命を捨てゝお怨みしようと思つて居ります。このまゝにして置いては、百人千人のお組が出て來ることは、解り切つたことで御座いませう」
「フーム」
「御當主石見樣は、先代の御遺言通りに遊ばせば、三年も前に二十歳になられた甥の釆女樣に御家督を讓らなければなりません。私は七日がかりでこれだけの事を調べて參りました」
「──」
「此儘に時が經てば、御城の目安箱から、大場家御墨附紛失の屆が出て來ませう。一と月とたゝないうちに、御家は御取潰しになります」
「──」
「殿樣──石見樣は一日も早く御隱居遊ばして、本當の御跡取、釆女樣を家督に直すやう、呉々も御すゝめ申上げます。それさへ運べば、憚り乍ら、御墨附は其日のうちに私が搜して參ります」
平次の言葉には、妥協も駈引もありませんでした。大場家を潰すか、石見が隱居をするか、この二つより外には道がありさうもなかつたのです。
「旦那樣、大事な場合で御座います。後見人から御當主に直られた石見樣の惡業の爲に、大場の御家を潰してはなりません」
「──」
重ねて言ふ平次の言葉に、相澤半之丞も漸くうなづいた樣子です。
事件は一擧に片附いて了ひました。翌る日親類が寄合ひ、相澤半之丞と平次が説明役になつて、家の爲、諸人の爲、評判の惡い大場石見は隱居する事に決り、直ぐ樣公儀に屆濟みになつて、本當の嫡男、先代の子釆女が入つて家督相續をしました。
がまだ御墨附が出て來ません。
釆女が登城して、首尾よく御目見得を濟ませた晩、大場家の奧には、釆女と相澤半之丞と平次が首を鳩めて居りました。
「平次、もう御墨附を搜してもらへるだらうな、それを機に拙者も身を退きたい」
身分の粗忽からこの騷動を惹起したと思込んで居る半之丞は、心の底からさう言ふのでした。
「私も今晩あたりは、御墨附をお返し申上げられるかと思ひます。恐れ入りますが、馬丁の黒助を御呼び下さいますやうに」
妙な註文ですが、半之丞は直ぐ人をやつて、黒助を庭先へ呼び寄せました。
「黒助に何か用事か」
若い釆女は、平次の物々しさが、すつかり氣に入つた樣です。
「兄哥、お前の望みは遂げた筈だ。大場の御家を取潰す迄もあるまい。此邊で御墨附を出したら何うだ」
ヅイと出た平次、縁側の下に蹲まる黒助を見下ろして斯う言ふのでした。
「えツ、そりや親分」
黒助はギヨツとして顏を上げました。二十四五のよい若い者、黒助といふ名とは似も付かぬ色白で、身のこなしも何となく尋常ではありません。
「よく知つて居るよ、なア、黒助兄哥、お前さんの父さんは御用金が嵩んだ上、上納が滯つて水牢で死んだ筈だ。兄妹二人、この怨みを晴らしたさに、お前さんは馬丁になつて、嚴重な大場樣の屋敷に入り込み、妹のお組は下女になつて、用人の相澤樣に奉公したが、容貌のよいのが幸か不幸か、到頭側近くお世話することになつた。これだけの事を知りたさに俺は房州まで行つて來たよ」
「──」
黒助はガツクリ首を垂れました。平次の言ふ事が圖星をピタリと言ひ當てたのでせう。
「相澤樣が御墨附を受取に行つた時、千載一遇の思ひだつたらう。お前は前の晩用意しろと言ひ付けられると、早速青竹を切つて來て水鐵砲を拵へた、これだよ」
平次はさう言つて袖の中から七八寸の青竹、節のところに小さい穴をあけて綿を卷いた棹を突込んだ、一番原始的な水鐵砲を出して見せました。
「──」
黒助は素より、釆女も半之丞も、あまりの事に言葉もなく互に顏を見合せるばかりです。
「馬は耳へ水を入れられると死ぬ、お前は折を狙つて『東雲』の耳に水を入れ、馬のお上手でない相澤樣を落馬させて、御墨附の文箱を摺り換へるつもりだつたらう。──うまい折がなくて、牛込見附まで來ると、下度引越車が通りかゝつた。お前は法被を馬に被せて、その下で水鐡砲の水を耳に注ぎ込み、思惑通り氣違ひのやうになつた馬から、相澤樣が落ちるところを狙つて、豫て用意した文箱を摺り換へたらう。俺には目に見えるやうに解る」
「──」
「子分の八五郎を相澤樣の御長屋へやつて、俺は馬の荒れた場所へ行つて見た。見當を付けた土手の下に、この水鐵砲を見付けるのは何んでもないことだつたよ」
「──」
「妹のお組は、兄の仕業と覺つて、文箱の泥を丁寧に拭き取り、罪を自分一身に引受けて死んだのは見上げた心がけだ。氣が付けば殺すんぢやなかつたが、縛られたまゝ舌を噛まれたので、手の付けやうがなかつた」
何といふ明智でせう。斯う説き明かされて見ると、もう寸毫の疑ひも殘りません。
「俺はこの手で妹へ水をブツ掛けさせられた。畜生、殺しても飽足らないのはあの石見だ」
黒助はキリキリと齒を噛み締めて、いつぞや、妹が吊られた松ヶ枝を、一月遲れの月の光に見上げました。
「黒助兄哥、怨みのある石見樣は隱居した上、御親類中から爪彈きされて、行方不明になつて了つた。敵は討つたも同じことだらう。此後は釆女樣が乘出して、御政治向もよくなる──、お前の故郷では盆と正月が一緒に來たやうな騷ぎだ。妹のお組の骨を持つて、早く歸るがいゝ」
「平次、御墨附は」
と相澤半之丞。
「へエ、これがその御墨附で御座います」
次の間の縁側から、ガラツ八の八五郎が、黒塗金蒔繪の立派な文箱、高々と結んだ紐まで以前のまゝのを捧げて、お能の足取りといつた調子で來たのでした。
「あツ、それは」
「黒助兄哥、濟まねえが馬糧の中を探さしたよ、──それから、相澤樣、黒助には給金の殘りも御座いませう。五十兩ばかり持たして、故郷へ歸してやつておくんなさいまし」
「──」
何といふ横着さ、半之丞が呆れて默つて居ると、若い釆女は手文庫の中から二十五兩包を二つ出してポンと投りました。
「お組の墓でも建てゝやれ」
黒助は默つてうなづきました。この若くて艱難をした新領主に楯を突く心は微塵もなくなつて居たのです。
× × ×
「親分、鮮やかだつたね、水鐵砲を袂から出した時は、音羽屋アと言ひたかつたよ」
「お前が文箱を捧げて出た足取りもよかつたよ、ハツハツハツハツ、この勝負は中押で俺の勝さ」
「違げえねえ」
平次と八五郎は、月明りの下を、ホロ醉加減で神田へ辿つて居りました。家には、美しいお靜が寢もやらずに待つて居るのです。
相澤半之丞は惜まれ乍ら身を引き、娘のお秀は玉の輿に乘つて、主君大場釆女と祝言しました。これはズツと後の話、馬丁の黒助は本名の九郎助に返つて、房州で百姓をした事は申す迄もありません。
底本:「錢形平次捕物全集第十二卷 鬼女」同光社磯部書房
1953(昭和28)年8月25日発行
初出:「オール讀物」文藝春秋社
1933(昭和8)年10月号
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
※題名「錢形平次捕物控」は、底本にはありませんが、一般に認識されている題名として、補いました。
※「牛込見付」と「牛込見附」の混在は、底本通りです。
※底本の「(「錢形平次捕物全集」第十一卷『殺され半藏』參照)」は、「「錢形平次捕物全集」第十一卷」は底本のシリーズ名によるため削除し、「(『殺され半藏』參照)」と入力しました。
入力:特定非営利活動法人はるかぜ
校正:門田裕志
2014年5月14日作成
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