錢形平次捕物控
玉の輿の呪
野村胡堂
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「あツ、ヒ、人殺しツ」
宵闇を劈く若い女の聲は、雜司ヶ谷の靜まり返つた空氣を、一瞬、煑えこぼれるほど掻き立てました。
「それツ」
鬼子母神の境内から、百姓地まで溢れた、茶店と、田樂屋と、駄菓子屋と、お土産屋は、一遍に叩き割られたやうに戸が開いて、聲をしるべに、人礫が八方に飛びます。
「お吉ぢやないか」
誰かが、路地の口に、ガタガタ顫へてゐる娘の姿を見つけました。
「お菊さんが、お菊さんが──」
お吉の指す方、ドブ板の上には、向う側の家の戸口から射す灯を浴びて、紅に染んだ、もう一人の娘が倒れてゐるではありませんか。
「あツ、お菊」
人垣は物の崩れるやうに、ゾロゾロと倒れてゐるお菊の方に移りましたが、蘇芳を浴びた蟲のやうに蠢めく斷未魔の娘を何うしやうもありません。
「お菊、何うしたんだ」
彌次馬を掻き分けて飛込んで來たのは、落合の徳松といふノラクラ者、いきなり血潮の中から、お菊を抱き上げます。
が、お菊はもう蟲の息でした。半面紅に染んだ顏は、恐ろしい苦痛に引吊つて、クワツと見開いた眼には次第に死の影が擴がるのです。
「お菊ツ、──だから言はない事ぢやない、罰が當つたんだ」
徳松は死に行くお菊の顏を憎惡とも、懷かしさとも、言ひやうのない複雜な眼で見据ゑましたが、やがて自分の腕の中に、がつくりこと切れる娘の最期を見屆けると、
「お菊ツ」
激情に押し流されたやうに、自分の濡れた頬を、娘の蒼ざめた頬に摺り附けるのです。
「あツ、何といふことをするんだえ、畜生ツ」
轉げるやうに飛込んで來たのは、五十年配の女──お菊の母親のお樂でした。いきなり徳松を突き飛ばすと、その膝の上から、娘のお菊を毮り取ります。
「おつ母ア、お菊は大變だぜ」
僅かに反抗する徳松。
「お前がやつたんだらう。畜生ツ、何うするか見やがれ」
戰鬪的な母親は、お菊が死んだとは氣がつかなかつたものか、相手の男を憎む心で一パイです。
「違ふよ、俺ぢやねえ」
「あツ、お菊、確かりしておくれ、おつ母アだよ、お菊ツ」
「──」
「お菊、お菊ツ、死んぢやいけないよ。お菊、明日といふ日を、あんなに樂しみにしてゐたぢやないか」
「──」
「お菊」
母親のお樂は、自分の腕の中に、一と塊の襤褸切れのやうに崩折れるお菊を搖ぶり乍ら、全身に血潮を浴びて、半狂亂に叫び立てるのでした。
「おつ母ア、驚くのは無理もねえが、──お菊坊がこんなになつたのは、おつ母アのせゐもあるんだぜ」
徳松はまだ其處に居たのです。灯先にヌツと出した顏は──身體は──、顎から襟へ腕へ──膝へかけて、飛び散る碧血を浴びて、白地の浴衣を着てゐるだけに、その凄まじさといふものはありません。
「まだウロウロしてゐるのかい、──お菊を殺したのはお前だらう」
猛然と振り仰ぐお樂。
「違ふよ、俺ぢやねえ、大名なんかへやる氣になつたから、魔がさしたんだよ」
「何を、──お菊はな、お前のやうな肥桶臭い小博奕打の相手になる娘ぢやない。彈ね飛ばされたのが口惜しくて、こんな虐たらしい事をしやがつたらう」
「違ふよ、おつ母ア」
「覺えてゐやがれ、そのガン首をお處刑臺の上に晒してやるから」
さう言ふうちにもお樂は、お菊の死骸をかき上げかき上げ、赤ん坊でもあやすやうに、血潮に濡れた肩から、頸筋へ、額にかゝる黒髮のあたりへと、際限もない愛撫を續けるのでした。
話は十日程前に遡ります。
雜司ヶ谷の鬼子母神樣門外、大榎の並木の蔭に竝んだ茶店は、その頃江戸の町内にもない繁昌を見せたものでした。
一つは大奧始め、諸家の女中、町人の女房達の信仰を集めた鬼子母神の御利益と、もう一つは、鷹野、野驅け、遠乘りに頃合なので、代々の將軍始め、大名、旗本、諸家の留守居、若侍達に、一番人氣のあつた遊び場所でもあつたのです。
上總國勝浦一萬一千石の領主、植村土佐守は、若くて寛達で、獵と女と遠乘りが何より好きといふ殿樣でした。家來のうちでも、世故に長けた柴田文内と、若くて腕の出來る吉住求馬は、お氣に入りの筆頭で、その日も土佐守の遠乘りのお供をして、呉服橋の上屋敷から、一氣に目白へのし、歸りは鬼子母神のお樂の茶店へ寄つて、持參の割籠を開いて來たのです。
大名は滅多に他所で煑炊きした物を食べません。茶店から貰つたのは、熱い湯と、生みたての鷄卵だけ。
「お樂、──今日は御微行だから、何も御修業だと仰しやる。地酒を一獻差上げては何うぢや」
柴田文内は、顏見知りのお樂へ、こんな事をねだりました。
「へエ──」
お樂は恐る〳〵樽の呑口を捻つて、地酒といつても自慢のを一本、銅壺へ投り込んで、早速の燗をすると、盆へ猪口を添へて、白痴がお神樂の眞似をする恰好で持つて出ます。
「氣がきかないお樂だな。お前のところには、お淺とかいふ娘があつた筈ではないか。酌も大事なおもてなしだ、平常着のまゝで構はぬ、出せ〳〵」
柴田文内は、主君土佐守のニコニコする顏を見ながら、身分柄にも似ぬぞんざいな口をきゝます。
尤も、植村土佐守はこんな事が好きで〳〵たまらなかつたのです。
「淺はこの春亡くなりましたよ、旦那樣」
お樂は恐る〳〵坐り込みました。
「ホウ、それは愁傷であつたな。──が、此店へ入つた時、綺麗な娘が居たやうに思ふが──あれは誰だ」
「淺の妹の菊でございます」
「その菊で宜い、此處へ呼んでくれ。酌を申付ける。姉の淺よりも一段のきりやうぢやな」
「へエ──」
土佐守はもう盃を持つて居ります。お菊は着換へをする暇もなく、ほんの心持化粧崩れを直して土佐守の前へ押出されたのです。
「──」
默つてお辭儀をして、これだけが看板の大きな島田髷を傾げるやうに白い顏をそつとあげました。妙に人馴れた眼、少し綻びた唇、クネクネと肩で梶を取つて、ニツと微笑したお菊は、椎茸髱と、古文眞寶な顏を見馴れた土佐守の眼には、驚く可き魅力でした。
赤前垂は外しましたが、貧しい木綿物の單衣も、素足の可愛らしい踝も、人を恐れぬ野性的な眼差も、お大名の土佐守には、全く美の新領土です。
奧方は今を時めく老中、酒井左衞門尉の息女で、一も二もなく權門の威勢に押されてゐる土佐守が、こんな野蠻で下品で、その癖滅法可愛らしい娘を、見たことも想像したこともありません。
「もつと近う參れ、盃を取らせるぞ」
そんな事を言つた時は、二本目の銚子が用意されて居りました。
翌る日、柴田文内と吉住求馬は、支度金三百兩を持つて、お樂の茶店に乘込んで來たのに何の不思議があるでせう。上屋敷に光つて居る奧方に憚つて、名儀は本所閻魔堂前の下屋敷召使、十日目には駕籠で迎へに來るといふことまで取決めに來たのです。
お樂と、お樂の後添、──死んだお淺とお菊には繼父に當る彌助──の喜びはいふまでもありません。お菊は大名の妾と聞いて、最初は二の足を踏みましたが、上屋敷の奧方附と違つて、下屋敷に召使格で居る分には、物見遊山も芝居見物も勝手と言ひ聞かされて、忽ち乘氣になりました。
その上、土佐守はなか〳〵の美男で、表向お樂夫婦と親子の縁は切るが、内々は逢つても貢いでも、一向構はぬといふ條件で、話はトントン拍子に運んでしまつたのです。
柴田、吉住兩士は歸りました。が、後で考へると、さう簡單には玉の輿に乘れさうもありません。お菊には去年の秋から、落合の徳松といふ、惡い蟲が附いて居たのです。
徳松は落合村の百姓の子で、素姓の惡くない男ですが、友達にやくざが多かつたので、何時の間にやら、その道に深入りし、親許は久離切られて、一かど兄哥で暮して居りました。お菊が背を見せたとなれば、匕首位は振り廻す筈ですが、相手が大名と聞くと、威張り甲斐も暴れ甲斐もありません。仲に入る人があつて、手切れが三十兩、女から男へやつて、これは無事に話がつきました。
それから九日、化粧と支度に大騷動をして、明日はいよ〳〵大名屋敷に乘込まうといふ前の晩──。
繼父彌助の連れ娘、歳はお菊より二つ上の二十歳ですが、跛足で不きりやうで、餘り店へも出さないやうにしてゐる、お吉と一緒に錢湯へ行つて、速中まで歸つて來たところを、──お吉が湯屋へ手拭を忘れて、それを取りに戻つた間に、無慙、喉笛を掻き切られて死んでゐたのです。
土地の御用聞、三つ股の源吉が、子分の安と一緒に飛んで來たのは、それから煙草三服ほどの後でした。
「何? お菊が殺された?──退け〳〵、邪魔だ」
源吉の鹽辛聲を聞くと、お菊の死骸に蠅のやうに群がつた彌次馬は、一ぺんにパツと飛散ります。
「徳松、──手前は、逃げちやならねえ」
うろ〳〵する徳松は、源吉にグイと袖を押へられました。
「親分、あつしは知りませんよ」
「何を、誰が手前が下手人だと言つた」
「へエ──」
「變な野郎ぢやないか、あツ血ツ」
徳松の顎から下は、手も胸も、着物も帶も斑々たる血潮に染んでゐることに、源吉は氣がついたのです。
「お菊の死骸を抱き上げた時、こんなに附きましたよ」
「何?──お菊の死骸を抱き上げた時附いた血だ? 嘘を吐きやがれ、殺す時附いた返り血を誤魔化せねえから、多勢の前でお菊の死骸を抱き上げて、血染の上塗をしたんだらう。そんな手を喰ふものか」
「親分」
「誰か、この野郎がお菊の死骸を抱き上げる前に、着物にも身體にも血の附いてゐないのを見屆けた證人でもあるかい」
源吉はさう言ひ乍ら四方を見廻します。『血の附いて居るのを見たか』と言はずに、『血の附いてゐなかつたのを見屆けた證人はないか』と言つたところに、彌次馬心理を掴んだ源吉の働きがあつたのです。かういへば、白洲の砂利を掴んでまでも、徳松の無實を言ひ立てようといふ、勇氣のある篤志家は容易に出ないでせう。
「親分、そいつは無理だ。あつしは何にも知らねえ」
「えツ、手前が知らなくたつて、俺が知つて居りや澤山だ。──お菊を追ひ廻したのは、手前の外にはねえ。落合の兄哥に遠慮して、土地の若い男は、門竝御遠慮申上げて居るんだ。お菊に惚れただけの男なら、一束や二束はあるが、お菊を手に入れたのは手前だけよ。そのお菊が大名屋敷に奉公すると聞いて、指を啣へて引込む手前ぢやあるめえ」
「親分」
「うるせえ野郎だ。安、縛つてしまへ。顎を叩きたきや、お白洲で存分にするがいゝ」
「大丈夫ですか、親分」
子分の安が躊躇するのを、三つ股の源吉は叱り飛ばすやうに、繩を掛けてしまひました。
「親分さん、娘を殺したのは、その男に間違ひありません。どうぞ、敵を討つて下さい、お願ひ申します」
お樂は娘の死骸を抱いたまゝ、繁く降る涙の顏を擧げました。
「お母さん、お菊さんを家へ運んで行きませうよ」
彌次馬と源吉の眼に射竦められて居たお吉は、此時漸く聲を掛けました。
「おや? まだ其處に居たのかい、お前は」
「え」
「お菊がこんな姿になつて、──お前は、まさか嬉しいんぢやあるまいね」
「まア、おつ母さん」
お吉はあわてました。繼母の舌の動きが、あまりにも辛辣だつたのです。
「手傳つておくれ、──噛みついちや惡いから、お前は足の方を持つがいゝ」
「──」
默つて死骸の足を持上げるお吉。わけもない涙が、この時ドツとこみ上げます。
「でも、矢張り泣いてくれるんだね」
自分の言つた皮肉の爲とは、顛倒したお樂には氣がつかなかつたのでせう。
多勢の彌次馬は、此時漸く氣がついたやうに、母娘二人に手を貸して、死骸をあまり遠くないお樂の茶店に擔ぎ込みました。
後に殘つたのは、三つ股の源吉と、子分の安の二人だけ。尤も安の手には、落合の徳松の繩尻が掴まれて居ります。
「おや、剃刀ぢやないか」
血潮の中から、源吉は平べつたいものを拾ひ上げました。
「よく使ひ込んだ剃刀ですね、親分」
子分の安は片手の提灯をかゝげました。
「いゝものが手に入つた。安、引揚げようか」
「へエ──」
源吉はその剃刀を、徳松の物と決め込んでゐる樣子です。
翌る朝、植村土佐守家來、柴田文内と吉住求馬、女乘物を用意して、お樂の茶店の裏口へ着けました。
「可怪しいぞ。簾が下つて、忌中の札が出て、中から線香の匂ひだ。誰が死んだのだらう?」
柴田文内、鼻をヒクヒクさして居ります。
「左樣──、主人かな」
吉住求馬にも合點が行きません。
折角玉の輿に乘りかけたお菊が、昨夜のうちに、非業の最期を遂げたとは、固より知る由もなかつたのでせう。
お樂彌助夫妻も、あまりの事に顛倒して、今日植村家の迎へが來るとは知つてゐながら、ツイ使の者を走らせて、それを止めることまでは考へ及ばなかつたのです。
「あ、柴田の旦那樣、娘は、娘は到頭、殺されてしまひました」
お樂は眞つ先に飛んで出ました。
「使を差上げる筈でしたが、この通りの取込みで、何とも相濟みません」
亭主の彌助は、額を叩いて追從らしく深々とお辭儀をして居ります。
「それは氣の毒、誰が一體お菊を殺したのだ」
柴田文内、仰天し乍らも好奇の眼を光らせます。
「娘をつけ廻してゐた、徳松といふ野郎でございます。──昨夜のうちに縛られて行きましたが──」
「フーム、さう申上げたら、殿にはさぞ御落膽遊ばすことであらうが、餘儀ないことだ。──あんまり力を落すではないぞ、お樂」
「ハイ」
お樂は見事な女乘物を眺めながら、顏も擧げられない程泣いて居りました。これに乘る筈だつた娘が、昨夜の血潮も洗ひ淨めず、逆さ屏風の裡に冷たく横たはつて居るのです。
「では、歸るとしようか、吉住氏」
「此處へ來合せたのも、何かの因縁だらう。せめて線香でも上げて行かうか、柴田氏」
吉住求馬は、若いに似氣なく氣が廻ります。
「成程尤も、年上の拙者が、それに氣が付かないとは迂闊千萬」
柴田文内はそんな事をいひながら中へ入りました。續く吉住求馬。
二人竝んで、心靜かに拜んでゐると、何やら急に家の中が騷ぎ出します。
やがて騷ぎが鎭まると、バタバタと入つて來たお樂、お菊の遺骸の前へヘタヘタと坐ると、何やら、譯のわからぬ事をブツブツいひながら滅茶々々に線香を立てて居ります。
「何だ、お樂」
「土地の御用聞──三つ股の源吉といふ親分ですよ」
「何しに來た」
「お吉を縛つて行くんださうで──」
「お吉?」
「亭主の連れ娘で私には繼しい仲ですよ。片輪者のくせに妬み根性が強いから、お菊位は殺し兼ねません」
お樂はかういふうちにも、お吉に對する憎惡の燃え上がつて來るのを、何うすることも出來ない樣子です。
「そんな事はあるまい。下手人は徳松とやらいふ男で、昨夜のうちに捕まつたといふではないか」
口數の少い吉住求馬はかう追及します。
「二人でやつたかも知れませんよ」
「何?」
「何うかしたら、お吉一人の仕業かも知れないぢやありませんか。──お菊の姉のお淺がこの春死んだのも、お吉の拵へた玉子燒に中てられたからで──何だつて私はあの時氣が付かなかつたでせう。玉の輿に乘る前の晩、あの化物娘と一緒に外へ出すなんて──」
お樂はキリキリと齒を鳴らします。繼娘にお菊を殺されたと思ひ込むと、矢も楯もたまらぬ憎惡に、煑えくり返るやうな心持だつたのでせう。
柴田文内と吉住求馬は、そこ〳〵に外へ出ました。半狂亂の母親を相手に、呪ひと恨みの數々を聞かされるのは、とても我慢が出來ません。
外へ出ると、三つ股の源吉と子分の安は、彌助の連れ娘お吉を縛り上げて、彌助の驚きと嘆きを他所に、此處を引揚げるところです。
「源吉とか申したな」
「へエ──、柴田樣と吉住樣で、飛んだことでございましたな」
源吉の片頬には、ニヤリと皮肉な笑ひが動きましたが、あわてて、揉みほぐすやうに、その頬へ手を當てました。
「その娘に疑ひが懸つたのか」
と、吉住求馬、若い義憤らしいものが燃えたのでせう。少しせき込んだ調子です。
「へエ──、昨夜一緒に風呂へ行つたのは此娘で、──手拭を忘れて湯屋へ戻つたといひますが、番臺で訊くと、戻らなかつたといひますよ」
「戻りましたよ。場屋の前まで行つて、暖簾を潜らうとすると、私の手拭は入口のドブ板の上に、落ちて居たんです」
お吉は躍起と抗辯しました。お菊より二つ年上ですが、跛足のせゐか小柄で、お淺お菊姉妹には比べられないにしても、お樂が化物娘といふほど醜くはありません。
自分のきりやうに自信のないお吉の、素顏のまゝの質素な樣子が、人によつては却つてお菊の派手好みなのより良いといふ人があるでせう。現に吉住求馬も、キリキリと縛り上げられて、訴へやうのない眼──泣き濡れた顏、いぢらしくも歪む唇などを見ると、助けられるものなら助けてやりたいといつた、やるせない心持になるのを、何うすることも出來なかつたのです。
「ドブ板に落ちてゐた手拭は、こんなに綺麗ぢやないか」
源吉は生濕りの手拭をお吉の眼の前にヒラヒラさせました。
「家へ歸つてから洗つたんです」
かういふお吉の言葉は、勝誇る源吉を動かしさうもありません。
「徳松は何うした」
と柴田文内。
「まだ番所に留めてありますよ。──あの騷ぎの時は、筋向うの碇床に居たんだ、と言ひ張りますが、誰も覺えちや居りません。──それに、お菊を殺した剃刀は、碇床の格子先からなくなつた品ださうで──」
「すると、殺されたのは一人で、殺したのは二人か」
吉住求馬の調子は皮肉ですが、
「徳松か、お吉か、何方かですよ、旦那」
源吉は求馬の抗議も一向通じないやうな顏をして居ります。
それから一刻あまり、葬式の手順もつかずに居る中から拔出して、亭主の彌助は番所にゐる見廻り同心に訴へ出ました。
「お菊を、殺したのは、この彌助に相違ございません。──何時もお菊やお淺に苛められて、小さくなつてゐる、片輪のお吉が可哀さうで、ツイあんな大それた事をして了ひました」
といふのです。
「馬鹿な事をいへツ。お前は、娘のお吉を助けたさに、罪を背負つて死ぬ氣だらう」
と、いきり立つ源吉。
「親分、よく近所の衆から、聞いて下さい。お吉がどんな心掛のいゝ娘で、今まで二人の妹の無理を聞いてゐたか、よく解りませう」
「──」
「そのお菊が、大名に見染められて、下屋敷に上がることになつてからといふものは、人を人臭いとも思はぬのさばり樣で、さすがの私も見るに見兼ねました。あの晩私も錢湯へ行つた歸り、フト見ると路地の中にお菊がたつた一人立つて居るぢやございませんか。お吉に疑ひがかゝるとは夢知らず、碇床の格子先から剃刀を取つて、一と思ひにお菊の阿魔を殺しました」
「それは本當か、彌助」
次第に通る訴の筋を、三つ股の源吉も、見廻り同心も、無視するわけには行きません。其場で繩を打たれて、お菊殺しの下手人は、これで三人になつたのです。
父親の彌助が自訴して出たと聞くと、お吉は今まで否定し續けた態度を一變して、
「お菊さんはこの私が殺しました。──父さんは何にも知りやしません。錢湯へ行つたのは本當ですが、私達より一と足先に家へ歸つた筈です。私を助ける爲に、そんな事を言ひ出したのでせう」
急にこんな事を言ひ張ります。
かうなるとどれが本當の下手人か判らず、さうかといつて、三人の繩附を奉行所へ送るのは、三つ股の源吉始め、行がかりで立合つた見廻り同心の顏にもかゝはるわけで、暫らくは目白の番所に留め置いたまゝ、一と晩念入りに調べ拔くことになつたのでした。
その晩──
事件は到頭、神田の平次へ持込まれました。
「平次殿に逢ひたい。拙者は植村土佐守家來、吉住求馬と申す者だが──」
變な事からこの渦中に卷込まれた吉住求馬は、思案に餘つた顏を、錢形平次のところへ持つて行つたのでした。
「へエ、私は平次で、──どんな御用でございませう」
慇懃に迎へ入れた平次に、吉住求馬は、事件の顛末を細々と物語りました。
「こんなわけだ。騷ぎが大きくなれば、自然主君の御名前にも拘はる。それに、奧方御里方、酒井左衞門尉樣への聞えも如何、──早急に片附ける工夫はないものか」
「──」
「もう一つ。三人のうち二人、或は三人共無實であらう。父親が娘を庇ひ、娘が父親を庇ふ心根がいかにも不憫、助けられるものなら助けてやりたい、曲げて力を貸してはくれまいか」
純情家らしい青年武士が、疊へ手を付かぬばかりにいふのを、錢形平次はぢつと聽いて居りました。
「繩張り違ひは、私共の仲間でうるさい事になつて居りますが、御言葉の樣子では、餘程深い仔細がおありのやうに存じます。八丁堀の旦那方の御言葉を頂いて、明日にもきつと雜司ヶ谷へまゐりませう」
「乘出してくれるか、平次」
「へエ」
「禮を言ふぞ」
吉住求馬は、主君大事と思ひ込んで居るのでせう、平次が引受けると、思はずホツと胸を撫で下ろしました。
翌る日の朝、與力笹野新三郎の言葉を頂いて、平次は雜司ヶ谷に乘込みました。
「錢形の兄哥、この通りだ。種も仕掛けもねえ、が、三人が三人共、下手人の疑ひがあるから、どれを奉行所へ送りやうもねえ」
三つ股の源吉は、イヤな顏をしながらも十手の義理で、八丁堀のお聲掛りで來た平次に、一切のことを話しました。
「有難う、それで大概判つたやうだ。成程三つ股の兄哥が三人縛つたのも無理はない。俺だつて、そのうち一人だけ繩を解く氣にはなるまいよ」
「さう言へば、その通りだが──」
源吉はいくらか心持が解けた樣子で、苦い笑ひを漏します。
「一と通り見せて貰はうか、何も後學の爲だ」
「それぢや、現場から──」
「八、手前も一緒に來るがいゝ」
平次とガラツ八の八五郎は、三つ股の源吉に案内されて、お菊の殺された湯屋の路地へ入りました。
一方は五尺ばかりの生垣、一方は黒板塀を前にした下水で、ドブ板の上は、血汐を洗つて、一昨夜の跡もありませんが、源吉に死骸の位置を、細々と説明させた上、平次は其處から湯屋の入口まで歩いて見ます。距離はほんの二三十間ですが、一箇所生垣が出張つて居るので、見通しはつきません。
「お菊が聲を立てさへすれば、湯屋の入口に居たお吉に聞えた筈だね」
と平次。
「だから、殺したのは、お菊をよく知つて居る者の仕業だ。流しの剽盜や、あまり口をきいた事もないやうな人間のしたことぢやねえ」
「その通りだ。──が、別れ話がついて、他人になつた筈の徳松が、未練らしく此處で絡み附いたとしたら──手に刄物なんか持つて居るのを、お菊はおとなしく應對するだらうか」
平次の觀察は、もう源吉の思ひ及ばなかつたところまで飛躍します。
「すると、徳松は──」
ガラツ八は長い顏を出した。
「お前は默つて居ろ」
「へエ──」
湯屋の前、お吉が手拭を落したといふあたりには、固より證據などの殘つてゐる筈もありません。
「碇床へ行つてみようか」
三人は元の道を取つて返して、兇行のあつた場所から、十間とも離れてゐない、碇床の店先に立ちました。
「剃刀は此處に置いてあつたのか」
平次は、油障子に大きな碇を描いた入口の隣──砥石や鬢附油や剃刀や鋏を竝べた格子を指しました。
「これは、親分さん方、御苦勞樣で──」
碇床の親方は、少し頓狂な顏を出します。
「格子の障子は開けて置くのかい、親方」
と平次。
「へエ、この暑さですから、閉め切つちや仕事が出來ません、──お蔭で飛んだ迷惑をしましたよ」
「剃刀を持つて行くのが見えないだらうか」
「見張つて居なきや、ちよいと氣がつきませんよ、親分」
親方の言ふのは恐らく本當でせう。
「あの晩、徳松がこゝに居たさうだが」
「將棋の相手がありますから、三日のうち一日は此處で暮します。あの騷ぎの時も、此處に居たやうに思ひますが、お菊さんとお吉さんが錢湯へ行く姿を見ると、急にソハソハして何處かへ出かけたやうで──」
親方の言ふのが本當だとすると、徳松は少し不利益になります。
「それを、俺も徳松に訊いたんだ。すると、あの野郎は、お吉と一緒だから、此邊で顏を見せて、聲でも立てられるとうるさいと思ひ、お菊の家の前で待つて居た──と、斯う言ふのだよ」
源吉は引取つて説明します。
「撚を戻すつもりだつたのかな」
と平次。
「いや、もう一度逢つて、名殘が惜しみたかつたといふよ。どうせ心變りのしたお菊だし、明日玉の輿に乘ると決つて居るから、何を言つても無駄だと諦めて居た──ともいふが」
「それが本音かも知れないな、今度はお菊の家へ行つてみようか」
平次は、斯う、靜かに段落をつけました。
お菊が殺され、お吉が縛られ、彌助は自訴して出た、殘るのはお樂一人だけ。近所の衆や、親類の者が來て、今日の葬式の支度だけは急いで居りますが、悲劇の家は、何となく落莫として、身に沁みるやうな淋しさがあります。
「錢形の親分さん、──早く娘の敵を討つて下さい。いくらお吉が可愛いからつて、お菊の葬式も濟まないのに、うちの人まで自訴なんかして」
勝氣らしいお樂も、すつかり氣が挫けたものか、評判の錢形平次が乘出したと聞くと、その袖に縋り附いて、サメザメと泣くのです。
「心配することはないよ、下手人は今日明日中に判るだらうから」
「本當でせうか、親分さん」
「判つたところで、何うもならないかも知れないが、兎も角、落着いて居るがいゝ──さういつたところで、娘二人に死なれちや、落着いても居られまいが」
平次の眼には、深い哀憐が動きました。
「有難う御座います、親分さん」
これが岡つ引手先の口から聞く言葉でせうか。お樂はツイ耻も忘れて、聲を立てゝ泣きます。
「大急ぎで來て間に合つたのが何よりだ。お菊の死顏を見せて貰はうか」
「ハイ」
お樂は漸く涙ををさめて、三人を奧へ案内しました。幸ひ入棺したばかり白布を取つて蓋を拂ふと、早桶の中に、洗ひ淨められたお菊の死骸が、深々と踞まつて居ります。
靜かに顏を起してやると、左顎の下へパクリと開いたのは、凄まじい斬傷、蝋のやうな顏に、昨日の艶色はありませんが、黒髮もそのまゝ、經帷子も不氣味でなく、さすがに美女の死顏の美しさは人を打ちます。
「フーム」
「錢形の兄哥、何うだい」
と源吉。
「刄物が違ふ」
「えツ」
「削刀には峯があるから、斯う深くは切れない」
「いや、肉がはぜてゐるぜ」
源吉は敢然としました。
「刄が厚いからだ」
平次も下りません。
續いて、其晩着てゐた、お吉と彌助の着物を出させましたが、何方にも血の飛沫いた跡もなく、洗つた跡もないのです。
「綺麗だな」
獨言のやうに平次。
「血が附かないわけだ。剃刀を逆手に握つて、後ろから引つ掻くやうに切つたんだ」
源吉は手眞似をして見せました。お菊の後ろから近づいて、何か聲をかけながら、咄嗟に剃刀を喉へ廻し、肩を押へてやつた──と見たのでせう。
「逆手に持つて肩を押へながら切つた剃刀なら、傷は上向に引かれる筈だ、──これは刄物の入つたところから下向に引かれて居るぜ」
平次の推理は假借もありません。
「が──」
「前から切つたのだぜ。三つ股の兄哥、剃刀ぢやない。脇差で前から切るとかうなる」
平次は手眞似をして見せました。
「前から脇差で切られるのを、聲も立てずに待つて居たのかい」
と源吉。
「知つてる人だ、──お菊のよく知つて居る人だつた。眼の前へ來るまで自分が斬られるとは思はなかつた──」
「それにしても脇差を拔くのを默つて見て居たといふのかい」
源吉はなか〳〵承知しません。
「──」
平次は何か言ひかけましたが、聞いて居る者が多いのに氣がついたのか、そのまゝ口を噤んでしまひます。
「親分さん、下手人は矢張り、あの徳松の野郎でせうか」
お樂は顏を擧げました。
「いや解らぬ、三人に逢つて訊いてみなきや」
平次と八五郎と源吉は、目白の番所へ引揚げました。
其處へ行くと、三人の繩附に逢ふ前に、平次は、剃刀と手拭を見せて貰ひます。
剃刀はありふれた床屋使ひの品、柄のところに籘を卷いて、磨ぎ減らしてありますが、なかなかよく切れさうです。
「これが、お吉の手拭か」
次に取上げた手拭は、何の變哲もない中古の品で、よく乾いてしまつて、泥も砂もついては居りません。
「湯屋の前で落したといふが、砂も泥もついては居ない──尤も、お吉は歸つて來てすぐ洗つたといつてるが」
と源吉。
「成程な」
平次はそれつ切り手拭を返して、番所の中へ入りました。中には、徳松と、お吉と、彌助が、繩も解かず、役所にも送られず、三人の手先が附添つて、默りこくつて控へて居ります。
「徳松」
「──」
平次は凝つと若い男の顏に見入りました。精々二十五六でせう。身を持崩しては居りますが、百姓の子らしい堅實さの何處かに殘る樣子も、決して人を不愉快にさせるやうな男ではありません。
「皆んな言つてしまつた方がいゝぜ」
「──」
「お前が隱して居る事があるから、事面倒なんだ」
「──」
「お前はお菊を殺す氣で、碇床から剃刀を持出したに相違あるまい」
「いえ、親分」
徳松は振り仰ぎました。
「默つて聞け、──路地の外で待つて居たが、二人の娘はなか〳〵來ない。そのうちに變な物音がしたので、飛込んで見ると、お菊はドブ坂の上に殺されて居た」
「親分」
「お前は剃刀を投出して、路地の外へ飛出し、お吉の聲を聞くと、もう一度彌次馬と一緒に引返して、先刻身體に附いた血の誤魔化しやうに困つてお菊を抱き上げた筈だ」
「親分、──その通りです。恐れ入りました、何處で親分はそれを見て居ました」
徳松はヘタヘタと崩折れました。
「何だつて早くそれを言はなかつたんだ」
「でも、剃刀を持出したり、着物に血がついたり、──逃れやうがないと思ひました」
「錢形の」
不意に、源吉は平次の肘を押へます。
「何だい、三つ股の兄哥」
「それぢや、徳松の野郎に、言ひ逃れの口上を教へ込むやうなものぢやないか」
源吉はこみ上げる激動を押へて居る樣子です。
「大丈夫だ、それに相違なかつたんだ。お菊を殺したのは徳松なんかぢやない、据物斬の名人だよ」
「えツ」
「前から拔く手も見せず喉笛を切つて、噴き出す血を浴びる前に逃出したんだ」
「──」
「後ろから徳松が來た筈ですぜ、親分」
ガラツ八が口を出します。
「その通りだ。前からはお吉が引つ返して來た、──が曲者は恐ろしい腕利きの上身輕だ。お菊を仕留めると、左手の生垣を一氣に飛越えて、百姓地へ逃込み、騷ぎの初まつた頃は、目白坂を下つて居たよ」
「──」
「生垣の中に足跡があつた筈だ──今日はもう見えないが、その時直ぐそれを見つけさへすれば、こんなに多勢縛るまでもなかつた」
平次の言葉には何の疑ひもありません。
「お吉は? 親分」
とガラツ八。
「何にも知らなかつたのさ。お吉が下手人なら、濡手拭へわざと泥を附けたまゝにして置くよ。お吉は本當に風呂屋の入口で自分の手拭を拾つたから、女らしい心持で、その晩騷ぎの最中にも手拭の泥を洗つて置いたんだらう。手拭を洗つたのが、お吉に罪のない證據さ」
何といふ明察、──源吉も一句もありません。
「彌助は?」
ガラツ八はまだ堪能しない樣子です。
「娘を助けたい一心だ──さア、繩を解いてもらつて歸るがいゝ。お樂の手前、極りが惡かつたら、俺が一緒に行つて、よく話してやるよ。お樂だつて、氣の強いことをいつても、二人の娘に死なれちや、老先が心細からう。──精々孝行をしてやるがいゝ、なア、お吉」
平次は靜かに言ひ終ります。
お吉は繩を解かれるのを待ち兼ねたやうに、父親の胸に飛附いて泣き出しました。
「それぢや、下手人は誰なんだ」
源吉の不服さうな顏といふものはありません。
「大方判つてゐる積りだ。今晩、──いや、明日の晩、お菊の法事をして貰つて、その席で話さう」
平次は靜かに立ち上がりました。
體術と据物斬に秀でたといふ、お菊殺しの下手人は誰? どう頸を捻つたところで、ガラツ八には解りさうもなかつたのです。
翌る日の晩、お樂の茶店に集まつたのは、近所の衆と、親類と、平次とガラツ八と、それに源吉を加へて、かなりの大一座になりました。
百萬遍が濟んで、皆んな歸ると、
「御免」
二人の武士が訪ねて來ました。言ふ迄もなく柴田文内と吉住求馬。主君植村土佐守が、お菊横死の趣を聞いて、二人に香華料を持たせたのです。
一と通り挨拶燒香が濟んで、彌助、お樂、お吉、源吉、ガラツ八と二人の武家を、店の次の間──佛壇の前に並べると、平次は靜かに口を切りました。
「今晩は、お菊殺しの下手人の名を佛壇の前で申上げる事になつて居ります。が、その前に、私の話がすんで下手人の名が出る迄、どんな事があつても、どんな飛んでもない事を申上げても、どうぞ靜かにお聞き下さるやうにお願ひ申上げます」
「──」
「その代り、私の申上げる下手人の名が違つてゐるとか、そのために、不都合な事が起るとかいふ時は、其場でこの首を打ち落して下すつても、決して怨みには思ひません」
思ひ入つた平次の調子。佛壇を前に、半圓を描いた七人も、思はず固唾を呑みました。
「話は少し差障りがありますが、詳しく申上げないと、お解りにならないかも知れません。どうぞ、暫らくお許しを願ひます」
これだけの枕を置いて、平次は本題に入つたのです。
上總國勝浦一萬一千石の領主植村土佐守、遠乘りの歸りお樂の茶店に立寄り、お菊を見染めて、下屋敷へ入れることになり三百兩の支度金まで出しましたが、それほどの事が、いくら隱しても、奧方の耳へ入らない筈もありません。
奧方は時の老中酒井左衞門尉の息女、土佐守は一目も二目も置いて居りますが、さすがに嫉妬がましく、それはなりませんとはいへません。
そこで、お家の體面論を眞つ向に、お菊の茶屋へ案内して、この事件を惹起した、柴田、吉住の兩名へ、詰問したのでした。
「御兩人と申しても、これは多分、吉住樣お一人へ奧方から仰しやつたので御座いませう。吉住樣は文武の達人で、酒井樣から、奧方附として、御輿入に從つて植村家へ入られ、其儘御側用人に取立てられた方でいらつしやいます」
「──」
平次の言葉に、兩士は默つて聞入りました。此處までは事件の圖星を言ひ當てた樣子です。
「吉住樣からは、土佐守樣へは諫言は申上げ憎い。が、奧方の思召しを無にして、土佐守樣が卑しい女を召出されるのを、其儘にもならず、柴田樣とお二人が、お菊を橋渡しまでなすつた形なので、悉く閉口されたことでせう」
「──」
「この上は、下屋敷へ迎へ入れる前に、お菊を殺す外はない。植村家安泰のため、一つは又、土佐守樣と奧方の仲を無事に納めるため、お二人のうちの一人──それも私は存じて居ります」
「──」
「──お菊を四五日附け狙つたことでございませう。到頭、明日は下屋敷入りといふ前の晩、風呂から歸るのを首尾よく斬つた、が、──前後から人が來て逃げやうはない。咄嗟の働き、生垣を飛越してお屋敷へ歸られ、翌る日はわざ〳〵乘物を仕立てて迎へに來られ、驚いた振りをして歸られゝば、それで萬事無事に納まると思つて居られた──」
平次の話の豫想外さ、一座は死の沈默に陷ちて、息をするのも忘れたやう。
平次はそれに構はず、冥府の判官のやうに、冷たく、靜かに續けました。
「ところが、下手人の疑ひはあらぬ三人に懸つて、世上の噂は大きくなるばかり。土佐守樣御名前も引合に出さうになつて見ると、其儘には差措き難い。思案に餘つて、吉住樣は、私の家へ御出て下された、──一つは無實の罪で縛られた、三人の者を助けたいため、──一つは下手人が解らぬまゝに、うやむやに世評を揉み消したいため──」
「──」
一座の視線は期せずして、吉住求馬の顏に集まりました。植村家で名題の腕利き、純情で、忠義で、奧方の爲には水火も辭さないのは、この人でなければなりません。
が、吉住求馬の顏は、作り附けた人形のやうに靜まり返つて、少しの表情の動きもなかつたのです。
「それでは、お名前を申上げませう、──主君の爲、お菊を殺したのは」
平次は顏を擧げて、次の言葉が唇の上へ動きました。
「もうよい。許せよ、お樂」
平次の言葉を抑へて、脇差を引拔きざまガバと自分の腹へ突き立てたのは、──何と、中年者の武家、柴田文内の方だつたのです。
「柴田樣、よく遊ばしました」
と靜かに膝行寄る平次。
「柴田氏、──貴殿の仕業とは、今の今まで拙者も知らなかつた、かうと氣がつけば──」
吉住求馬もこの斷末魔の同僚の側に悲痛な顏を差寄せました。
「平次、──悉く其方の言ふ通りだ。主君を此處へお誘ひしたのは、拙者一代の過ち、──これは吉住氏の落度ではない。それにも拘らず、吉住氏が奧方の御叱を蒙つたと聞いた時から、拙者は自分の罪の償ひを覺悟して居たのだ」
柴田文内の息が切れて、一座は深い沈默に落ちます。
「──」
「お樂、お吉、彌助──これで許してくれ。腹を切る外に、俺は、俺はこの過ちを償ふ道を知らなかつた」
「──」
「さらば」
「柴田殿」
次第に落ち行く柴田文内の最期を、平次と求馬は、せめて左右から抑へてやります。
「──」
刀を拔くと、サツと疊に流るゝ血汐。
それを避けもせずに、お樂とお吉は泣き伏しました。
「南無──」
忙しく香をくべて、鐘を叩くのは彌助。新佛の前に灯が搖いで、夜の鳥が雜司ヶ谷の空を啼いて過ぎます。
底本:「錢形平次捕物全集第十二卷 鬼女」同光社磯部書房
1953(昭和28)年8月25日発行
初出:「オール讀物」文藝春秋社
1937(昭和12)年8月号
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
※題名「錢形平次捕物控」は、底本にはありませんが、一般に認識されている題名として、補いました。
入力:特定非営利活動法人はるかぜ
校正:門田裕志
2014年5月25日作成
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