汽車で逢つた女
室生犀星



 二丁目六十九番地といふのは、二軒の家を三軒にわけたやうな、入口にすぐ階段があつて、二階が上り口の四疊半から見上げられる位置にあつた。打木田が突立つて、戸越まさ子といふんですがと女の名前をいふと、二階の障子がものしづかに開いて、女の顏が顎から先きに見え、紛ふ方もない汽車で逢つたまさ子であつた。

 打木田は、やあ僕やつて來ましたよ、と笑ひ顏を向けると、女は、あら、ほんとによく來てくだすつたわね、といひ、お内儀らしい中年女にお客樣だわ、お上げしていいでせうといつた。いいとも、皆に降りて貰へばよいと機嫌好くさばいて、あんたおあがんなすつて、と階段を眼先であんないして、いつた。それと同時に、女の出て來た部屋から三人の女が、一どきに階段を降りて來た。いらつしやいましと口々にいふと、次の間にこぼれ込んで行つた。どの女もわかくてでぶで、氣立の好い笑顏を見せてくれたので、打木田は好意のあるぺこぺこしたお辭儀をつづけた。

「よく來てくだすつたわね、あれつきりかとも思つてゐたのよ。」

「此處らの番地はみな同じだね、さんざ搜して歩いたんです。」

「さう、わるかつたわね、ご挨拶も未だだわね、いろいろその節はごしんせつ樣にして頂いて。」

「お禮は僕の方でしなければなりませんね、あんたはこんな處にゐる人だつたの。」

「ええ、はづかしいわ、だつて仕方がないんですもの。」

「こんな處にでもあんたがゐなかつたら、會へはしないわけですね、ビールが飮みたいんだが。」

 女はビールと南京豆の袋を持つて來た。打木田は支那饅頭の包みをひろげ、女はよく氣がついたわねといつたが、上野で一緒に食べようと思ひついて、買つて來たのだといつた。女は美味さうに支那饅頭を食べはじめたが、打木田はビールを息もつかずに、飮むとああうまいといつた。その飮み振りはどこか、がつがつ以上のものがあり、洋杯コツプをささげて拜んでゐるみたいなものすら、あつた。

「まあ、お美味しさうね、汽車の中でお辨當おあがりになつたときと同じだわ、まるで山の中から出て來た人みたいよ。」

「さう見える?」

 打木田は爭へない自分の風體を感じ、こいつあ氣を付けなくちやと、こんどは洋杯をおもむろに口に持つて行つた。

「さう、そんなふうにおビールはあがるものよ。」

 打木田は氣がついて、階下したへとほす金は幾らだといつたが、女はゆつくりなさるおつもりだらうからと、金の額を示したが、打木田はその金を女に手渡した。お金なぞいただいてわるいのですけれど、こんな商賣をしてゐるものですからと、女は階下からあがつてくると、晩までいらしつていいわといつた。打木田は割引してある晩までの金も、ついでに女に渡した。永い服役で積まれた金が、この女の手に渡ることでは、少しもケチな氣にはならずに、金で女のからだの時間を自分のものにすることで、あまい融けるやうな氣持だつた。汽車の中で偶然に會ひ、そして打木田に手までにぎらせてくれたことで、厭だつた娑婆世界に難なくすべりこんだ嬉しさを感じたのだ、打木田は三年間にうれしい氣持といふものを、身をもつて迎へたことがない、うれしいこととは、どういふ事だか打木田から失くなつてゐる、だから、それがどういふことだつたか、まるで判らなくなつてゐた。出獄の日だつて鐵のとびらから辷り出ても、大してうれしい思ひはなかつた。もつと外のものでうれしい事があつた筈だつた。それが汽車で同席したこの女が、一どきに解きあかしてくれたのだ。うれしい事を一杯に手ににぎらせてくれたのである。いまのおれにうれしいことは女にぴたつとくッつくことなのだ、そこで三年間のものを一度に打ち明けたい。女に分る筈のないおれの聲のかぎりの嗚噎をえつが、おれが女を抱いてゐる間ぢゆう續いてゐるのだ、どんな偉い奴も、どんな美味いものもいまのおれにはいらない、おれにいるものはこの女のお腹や胸や足や、そしておれにはなしてくれる言葉なのである。まともな人間とつきあつてくれるものをいふのだ、そしておれの思ふままにしてくれるからだなのだ、この外におれのいるものに何があらう、何もない、この人のすぐにしたしくして呉れるものの外に、なにが娑婆にあるといふのだ、この女のほかにおれは何處に行つても、行くところは、どこもかしこも行停りなのだ、この女のあたたかいぐにやぐにやしたもの、そしてこのぐにやぐにやしたものの麗しさは、おれのからだに脈を打つてはいつて來るのだ、打木田は自分の顏にくつついてゐる女の顏をしげしげ見ていつた。普通の人間とおれとどこか異なつてゐるところが、ないかね、たとへばかうしてゐて、おれのからだに變つた臭ひでもあるかどうか、ね、かいで見てご覽、怒らないから遠慮なくいつて見たまへ、打木田は女の答へで、自分が出獄人であるかどうかを、はつきりと確かめて見たかつた。

「さうね、この臭ひは野良仕事をしてゐる人の臭ひね、わたくしの父はお百姓だつたんですが、よくこんな體臭があつたわ。」

 女は打木田の手を弄くりながら、またいつた。

「農家の方ぢやないんですか。」

「ちがふ。」

「でも手がとてもかさかさしてゐるわ。」

「手は荒れ性なんだがからだの臭ひでは、外に何もしないかね。」

「永くお湯にはいらないときのやうな臭ひがしますわ。不潔といふわけではないけれど、ずつとこんなに近寄らないと判らない臭ひなのよ。」

 打木田は存分に自分のからだを洗つたことのないことが、女のことばの間に分つた。かれはこんどは妙なことをいつた。

「眼なんかどう?」

「あんたの眼のことですか。」

「何か變つているところがないか知ら? たとへば怖い眼をしてゐるとか何とか……」

「ちつともびくびくしてゐないわね、怖い者がどこにもゐないみたいよ。」

「へえ。」

「のんびりとひらいてゐるわ。」

「惡こすい眼をしてゐませんか。」

「いえ、ちつとも、まるで子供みたいにぽかんとしてゐますわ、汽車の中でもこの頃の人にまるで見られない、のんびりした眼付だと思ひました。」

「世なれない眼付をしてゐるといふんですね。」

「さうよ、田舍からきふに出ていらしつた方のやうよ、こんな處に遊びにくるやうな人ずれがしてゐないわ。」

「僕はまたずるい人間に見えさうで、氣が引けてならないんです。」

「あたしね、人樣の眼ばかり見てゐる商賣をしてゐるもんですから、あんたを初めて見たときも、田舍から出ていらしつたばかりの方だと思ひましたの。」

「田舍も田舍、たいへんな田舍にゐたやうなものですよ、だから何も知らないことばかりだ。」

 打木田はふだん自分の顏のみにくいことを氣にかけてゐたが、女のいふやうに、そんな惡こすい人間の眼に見えないといふことに、やはりうたがひを持つた、しかし毎日規則正しい生活をしてゐたので、馬鹿みたいな眼付になつてゐるのも、本統のことかも判らない。

「すぐ騙されさうに見えるわよ、ようじんしないと困ることがあるわ。」

「ははは、こいつあ有難い。」

 打木田はうれしさうに笑つた。そしてまじめくさつて喋り出した。おれはね、これから稼いできみを女房にしたいのだが、きみは女房になつてくれるかどうかといつた。あまり突然なしかも誰も申し出たことのないやうな言葉を、女はふしぎさうにこの男は少々どうかしてゐるのではないか、こんな境遇にゐる者を女房にする相談なぞ、しかけて來る者が今までになかつたのだ、この男はよほどおめでたく出來てゐるのか、うぶなところがあるのか、鳥渡見當がつきかねた。しかし惡い人間でないことは例のぽかんとしてゐる眼付にも、金拂ひでも、からだを愛撫するにも、すみずみまで齒がゆさうにする、あどけなさがあつた。どこかに一生懸命に今夜だけでも寢ようとする、ほかの客に見られないものを見せてゐて、しかも、お腹をなでるのにも、唇を吸ふのにも、いちいち、きすをしてもよいか、氣もちがわるければやめるよ、と、許しを乞うてゐるのは稀らしい客の風情であつた。彼女はそのたびにいいわよ、お好きになさるがいいわといふと、この男はありがたうとすなほに禮をいつた。その低い聲はただ女のきげんを取るために、宜い加減に言つてゐるのではない、どこか、喉の奧からその聲は柔らかく、喜びをもつてしぼり出されてゐた。彼女はあんたつて人はよいお家の坊ちやんみたいに、温和しく無理なことをなさらないわね、といつた、打木田は笑つてこのおれがよい生れなんていふのは、きみくらゐなもんだよ、やくざで碌でなしでどろぼうみたいで、煮ても燒いても食へない奴なんですよと彼はいつた。あんたがやくざなら、世の中のひとはみんなやくざばかりになるわと、彼女は天井に向つてちよつと眉をあげて、怒つてゐるやうにいつた。

「大宮でたべたべんたうは美味かつたなあ。」

「鹽鮭がとてもおいしかつたわ、あんたつたら、あつといふ間に食べたぢやないの、あんなに早く人間がご飯を食べられるものかと思つたわ。」

 打木田はうそは吐けない、あの辨當はたべてから、たべたことを知つたくらゐ、夢中でたべて了つてゐた。

「おれがあんたの足の上に、足をのつけたのを知つてゐる?」

「知つてゐたわ。」

「何故外さなかつたの。」

「お隣さんですもの、そんなことをしてあんたに厭な思ひをして貰ひたくなかつたわ。」

「きみはいい人だね、こんな處にゐる人ではない。」

 打木田は夜中に眼をさますと、まさ子といふ女は深く寢込んで、からだが熱かつた。まる三年も女とねたことのない打木田が熱がるのも無理がない。打木田は此處に來る途中、須田町に近い一軒の古着屋で上着を一枚買つて着たが、その店は店員が二人に帳場が一人ゐた。三臺の自轉車が入口にならべられ、そこまで古着の下がりが伸びてゐた。先づ自轉車二臺分のタイヤに切口をつけて、追手に役立たないやうにしたうへ、帳場近くで金を拂つて剩錢をうけとる前に、手提金庫をかかへ込む、可哀想だが帳場には目潰しを加へ、出來るだけ早く店員にもあて身を食らはして置いて、自轉車で表をつッ走つて銀行の角をまがるのだ、すぐ次の路地に乘り入れて追手が捲くことができたら、そのまま自轉車はそこに棄ててしまふ……

 打木田は晝間歩いてしらべた路地の尾が、表通りに出られそこにくるまが駐つてゐることも、あつらへ向きだつた、これはどぢを踏むと一遍に捕まつてしまふが、大てい街仕事は逃げ終せるものだ、捕まつてしまへば、女にも會へない、やけで稼ぐならともかく、危ない藝當はしたくなかつた、このすやすやした頬の傾斜の穩やかさ、もつと身のある氣の利いた仕事をして見よう、打木田はつぎの計畫を立てない前に睡りに落ちた。だが、すぐまた眼がさめ、何ともいひやうのないかぐはしい女の顏を、打木田は仕合せにあふれて、なでさすつた、女は睡ることもはやいが、さめることでもはやかつた。どうなすつたの、睡れないんですか、いや、ちよつと考へごとをしてゐたものだから、なあに僕なぞにかまはないであんたはたらいい、さう、ぢや寢ませていただくわ、大抵のお客樣つたら夜ぴて睡らせないんですもの、睡るとみな怒るんですもの、ご免なさい、やすみますわ、彼女がかういつたあと、頬やからだにさはつて見ても、もう眼をさまさない安堵してゐるやうすであつた。

 翌朝、打木田は今夜も來るといつて、二軒を三軒に作りあげたやうな家を出ると、品川で下りて、郷里の同じ町の出身でいま大學に出てゐる北里といふ、男をたづねた。打木田の姉が北里の家に手傳ひに、まる三年も勤めてゐたので打木田は、北里とも顏見知りであつた。打木田は北里が會つてくれまいと思つたが、すぐ通されて用件を聞く前に、北里は金の話だらうがいまどきそんな用件で來てくれては困るといつた。併し折角あてにして來たんだらうが、何か方法がありさうなものだと、北里は打木田の顏を見入つた。君は何のために金が入用なのか、君は姉さんが暇を取つてからもう三年にもなるが、一體、姉さんは何處にゐるのかとたづね、打木田はまるで便りがないと答へ、實は私は三年間ちよつとしたことで、何處にも顏を出せない處にゐたのだと、率直にいつた。北里はそのことにもべつに驚いたふうを見せなかつた。

「ところで君は何かい、女でも出來たといふのかね。」

「いえ、そんなことではございません。」

「とにかく金がいるんだね、ところが僕には金はないんだ。」

「は」

「納屋に古本がある、それを君が指圖をして賣るんだね、賣り上げはみな君に上げる、僕はその古本を賣ることで本屋とは顏を合せたくないし、幾らしたといふことも聞きたくないんだ、そして君に金の工面をするのはこんどきりにしてほしい。」

「は」

「僕は君には何の關係もないが姉さんの顏を立てるために、君の要求に應ずるわけなんだ、いいかね、その理窟がよくわかるかどうか。」

「はい、わかります、いちどきりでお伺ひしません。」

「さうか、それでよい、金はどれだけになるか判らないが、うまくつかひなさい。」

 北里は納屋まであんないすると、一册ものこさずに賣りたまへ、報告はしなくともいいから、金が出來たらすぐかへつてよい、驛前に古本屋が二三軒あるから一等大きい店の人を、連れてくるがよいと北里はいひ、打木田は元氣づいて驛までのバスに乘つた。これで須田町の仕事をしなくともいいし、捕まるなぞといふビクビクした境遇に行かなくともよかつた。彼はこの機會に本職の飾職の口を見付ける肚になり、明日は下谷の飾屋問屋で、口を開けてもらふつもりだつた。

 古本屋が來て値段付けが終ると、本屋はリヤカーを取りに行き、打木田は豫想外の額の金をうけ取り、北里にその金を示したが、この變な男はそんなことに氣を奪られてゐないらしく、打木田に持つて行くやうにいつた。そして本屋が再びリヤカーを引いて來て、遠慮して裏門から書物を搬ばうとすると、ふいに書齋から縁側に出ていつた。

「表門からはこびたまへ。」

 打木田は本屋に手傳つて搬んだが、本といふものがこんなに他の物とちがつて、きちんとした價格を持つてゐるものであることを、初めて知つた。打木田がお禮のことばをいふと、北里といふ學者らしい男は、姉さんにあつたらよろしくいつてくれ、そして、たまに訪ねてくれるやうにいつた。彼はけふ此方でお金が出來なかつたら、また惡いことを企てたかも判らない、何とかしてこの金で身を持ち直したいといひ、實は出獄したばかりの者ですといつたが、北里といふ男はそんなことにも、少しの氣色を變へないでもう來るなよ、それも君の姉さんがよくしてくれたからだ、君は君でうまく身を固めたまへといつた。

 打木田はその晩、まさ子といふ女にあふと、此處を出るのにどのくらゐの金がいるとたづねた。お内儀といふ人もよい人だから、借金をふんづけるわけに行かない、きれいに片をつけたいといつたが、その金高は打木田の持つてゐる金の二倍も上の金だつた。打木田はやはり荒仕事をしなければ、まさ子の身受けの出來ないことを知つた。とにかく、彼はどんな部屋でもいいから至急に貸間をさがす事、仕事につく事、女の身受けの金は少しづつお内儀に話して入れる事、北里先生からの金の事も彼は女にこまかく話した。そして最後に彼は實は少しばかりの行き違ひで、くらいところに這入つて出て來たばかりだといはうとしたが、氣がついて警察に引ぱられて出たところだと胡麻化していつたが、まさ子は警察なんか怖かないわ、あんたのやうな方が警察に引張られるなんて、警察もどうかしてゐるわとまさ子はお世辭でない、本心からさういつてゐるふうだつた。

「君は何故そんなに僕のことを信用するのかね。」

「だつてあんたは初めから商賣女をあつかふやうになさらないもの、すぐ一緒になつてくれなんてそんなこと言ふ方ははじめてだわ。」

「ぢやお客樣つてどんなことをするの。」

「お金もちんと値切つてすることをしてしまつたら、欠伸して煙草一本呉れないでかへつて行くわ、あんたはそんな事をしないで、あたしにまともに話してくれるんだもの、はじめは、この人どうかしてゐるんぢやないかと思つたくらゐよ。」

「でも、君だつて金のことも、僕の方でいふまで默つてゐたぢやないか、こんな處では先きに金はすぐに取り上げるんぢやないか。」

「それはさうですけれど、だまつてゐたつて下さるものは、きつと、下さる方だと思つてゐたものですから。」

 打木田はまさ子の手の甲をなでてゐた、そしてこの女に自分のゐた場所を言つてよいか、それとも隱して置いた方がよいかに、迷うた。何も彼もきれいに話して、いやな重い氣持を察してもらひたかつたが、やはりそれを正直にいふことが控へられた。

「まさ子といふんでしたね。」

「ええ、何故。」

「あの汽車はああして毎日馳つてゐるが、もう一度乘つて見たいね。」

 打木田は不覺にも眼をうるませた。

「汽車でお會ひしたときからあんたにまたきつと會へると思つてゐたわ、それも、ただ會へるんぢやなくていい事がありさうに思へたわ。」

「おれもきみに會へなかつたら、何をしでかしたか分らない、會へてたすかつたのだ。」

 打木田は千葉在の妻の寄邊にも行つてみたが、一歩も閾の上にあげまいと父親は立ちはだかつてゐた、そして話はつけてある筈だ、文句をつけないで、歸つて貰はうと突つぱねられた、それだけでもうやけくその殺意が、耳の中に鳴りはじめたが、……それから二三軒の友達をたづねて見て、どれも、打木田が何處にゐたかを知つてゐて、ほんの一と言か二た言で應對して泊りも寄邊も、聞いてくれなかつた。そんなぐらぐらした頭で君と會つたことが、たとへたづねて行つて君に斷わられたとしても、斷わられるまでの希みがあつた。

「おれは飾屋が本職なんだが、しごとは明日からでも出來る、君は店にあひに來てくれればいい、この金で店と鐵の砧盤とを手にいれたら、地道に生きてゆかれるんだ。」

 彼は正直に金の包みを見せて、急き込んだ語調でしやべつた。

「これは北里といふ先生から本をいただいて賣つた金なんだ、ほら、これが本屋の受取書だ。よく見てごらん、打木田三郎といふのが僕の本名なんです。」

「よかつたわね、こんなに纒まつたお金が出來てよかつたわ。」

「そこでこれを君に預けて置きたいんだがね。」

「それはだめよ、こんな商賣をしてゐるものにお金なんぞ預けるものぢやないわ、大事に持つていらつしやい。」

「きみを信用してゐるから構はないよ、預つてくれよ。」

「ここには碌な人間が出入りしてゐないんです、お金と見たら生血と換へつこにしてゐるやうな處よ、それよかお店を搜して手付を打つがいいわ、近い處がいいわね、飾屋つて指環や頸かざりや銀のお盃なぞもお作りになるんでせう。」

 打木田は飾職といふものを説明した。まさ子はそれを熱心に聞いてからも、金は預らなかつた。どろぼう、掏摸すり、掻拂ひ、剃刃渡りといふやうに、素性の判らない人間對手の商賣では、何時支度部屋に這入りこまれて掻き𢌞されるか分らない、だから、家ではお内儀さんも現金は一さい持たないやうにして、みな、預けてあるといつた。

「僕のやうな奴も出入りしてゐるんだから、危ないには危ないね。」

 打木田は全くどこにどろぼうがゐるか判らないと、自分といふ人間の所在のふしぎさを感じた。

 まさ子はその時あ、さうさう忘れてゐたといつて、階下から紙包みを持つて上り、それをひろげて見せた。それはただの饀をつつんだ蒸菓子にすぎなかつたが、打木田はそれをつまんで食べながら、この菓子どうしたのといつたから、支那饅頭をいただいたお返しだといつた。かれらは別々の命運のもとに寄り合つた者共だが、隔てが取れ、ただの二三度の關係で、何も彼も打ち明けて世間から選ばれた二人の人間になつてゐた。蒸菓子を半分食べかけながら、笑ひあつて接吻をし、そしてみんな食べ終へるとまた接吻をつづけた。ふざけ切つたこれらの情景にたいして、誰一人だつて指一本ふれることが出來ない。それはお内儀に支拂つたわづかな金がかれらを世間から引き離し、好き放埒で仕合せな一夜をおくらせてゐるのである。

底本:「黒髮の書」新潮社

   1955(昭和30)年228日発売

初出:「婦人公論 第39巻第10号」中央公論社

   1954(昭和29)年101

入力:磯貝まこと

校正:待田海

2019年222日作成

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