ルウベンスの僞畫
堀辰雄
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それは漆黒の自動車であつた。
その自動車が輕井澤ステエシヨンの表口まで來て停まると、中から一人のドイツ人らしい娘を降した。
彼はそれがあんまり美しい車だつたのでタクシイではあるまいと思つたが、娘がおりるとき何か運轉手にちらと渡すのを見たので、彼は黄いろい帽子をかぶつた娘とすれちがひながら、自動車の方へ歩いて行つた。
「町へ行つてくれたまへ」
彼はその自動車の中へはひつた。はひつて見ると内部は眞白だつた。そしてかすかだが薔薇のにほひが漂つてゐた。彼はさつき無造作にすれちがつてしまつた黄いろい帽子の娘を思ひ浮べた。自動車がぐつと曲つた。
彼はふと好奇心をもつて車内を見まはした。すると彼は輕く動搖してゐる床の上にしちらされた新鮮な唾のあとを見つけたのである。ふとしたものであるが、妙に荒あらしい快さが彼をこすつた。目をつぶつた彼には、それが毮りちらされた花瓣のやうに見えた。
しばらくしてまた彼は目をひらいた。運轉手の背なかが見えた。それから彼は透明な窓硝子に顏を持つて行つた。窓の外はもうすつかり穗を出してゐる芒原だつた。ちやうど一臺の自動車がすれちがつて行つた。それはもうこの高原を立ち去つてゆく人々らしかつた。
町へはひらうとするところに、一本の大きい栗の木があつた。
彼はそこまで來ると自動車を停めさせた。
自動車は町からすこし離れたホテルの方へ彼のトランクだけを乘せて走つて行つた。
それのあげた埃が少しづつ消えて行くのを見ると、彼はゆつくり歩きながら本町通りへはひつて行つた。
本町通りは彼が思つたよりもひつそりしてゐた。彼はすつかりそれを見違へてしまふくらゐだつた。彼は毎年この避暑地の盛り時にばかり來てゐたからである。
彼はしかしすぐに見おぼえのある郵便局を見つけた。
その郵便局の前には、色とりどりな服裝をした西洋婦人たちがむらがつてゐた。
歩きながら遠くから見てゐる彼には、それがまるで虹のやうに見えた。
それを見ると去年のさまざまな思ひ出がやつと彼の中にも蘇つて來た。やがて彼には彼女たちのお喋舌りが手にとるやうに聞えてきた。彼は彼女たちのそばをまるで小鳥の囀つてゐる樹の下を通るやうな感動をもつて通り過ぎた。
そのとき彼はひよいと、向うの曲り角を一人の少女が曲つて行つたのを認めたのである。
おや、彼女かしら?
さう思つて彼は一氣にその曲り角まで歩いて行つた。そこには西洋人たちが「巨人の椅子」と呼んでゐる丘へ通ずる一本の小徑があり、その小徑をいまの少女が歩いて行きつつあつた。思つたよりも遠くへ行つてゐなかつた。
そしてまちがひなく彼女であつた。
彼もホテルとは反對の方向のその小徑へ曲つた。その小徑には彼女きりしか歩いてゐないのである。彼は彼女に聲をかけようとして何故だか躊躇をした。すると彼は急に變な氣持になりだした。彼はすべてのものを水の中でのやうに空氣の中で感ずるのである。たいへん歩きにくい。おもはず魚のやうなものをふんづける。彼の貝殼の耳をかすめてゆく小さい魚もゐる。自轉車のやうなものもある。また犬が吠えたり、鷄が鳴いたりするのが、はるかな水の表面からのやうに聞えてくる。そして木の葉がふれあつてゐるのか、水が舐めあつてゐるのか、さういふかすかな音がたえず頭の上でしてゐる。
彼はもう彼女に聲をかけなければいけないと思ふ。が、さう思ふだけで、彼は自分の口がコルクで栓をされてゐるやうに感ずる。だんだん頭の上でざわざわいふ音が激しくなる。ふと彼はむかうに見おぼえのある紅殼色のバンガロウを見る。
そのバンガロウのまはりに緑の茂みがあり、その中へ彼女の姿が消えてゆく。……
それを見ると急に彼の意識がはつきりした。彼は彼女のあとからすぐ彼女の家を訪問するのは、すこし工合が惡いと思つた。しかたなしに彼はその小徑を往つたり來たりしてゐた。いいことに人はひとりも通らなかつた。さうして漸く「巨人の椅子」の麓の方から近づいてくる人の足音が聞えたとき、彼は何を思つたのか自分でも分らずに、小徑のそばの草叢の中に身をかくした。彼はその隱れ場から一人の西洋人が大股にそして快活さうに歩き過ぎるのを見てゐた。
彼女はまだ庭園の中にゐた。彼女はさつき振りかへつたときに彼が自分の後から來るのを見たのである。しかし彼女は立止つて彼を待たうとはしなかつた。なぜかさうすることに羞しさを感じた。そして彼女はたえず彼の眼が遠くから自分の背中に向けられてゐるのをすこしむず痒く感じてゐた。彼女はその背中で木の葉の蔭と日向とが美しく混り合ひながら絶えず變化してゐることを想像した。
彼女は庭園の中で彼を待つてゐた。しかし彼はなかなか這入つて來なかつた。彼が何をぐづぐづしてゐるのか分るやうな氣がした。數分後、彼女はやつと門を這入つて來る彼を見たのであつた。
彼はばかに元氣よく帽子を取つた。それにつり込まれて彼女までが、愛らしい、おどけた微笑を浮べたほどであつた。そして彼女は彼と話しはじめるが早いか、彼が肉體を恢復したすべての人のやうに、めうに新鮮な感受性を持つてゐるのを見のがさなかつた。
「お病氣はもういいの?」
「ええ、すつかりいいんです」
彼はさう答へながら彼女の顏をまぶしさうに見つめた。
彼女の顏はクラシツクの美しさを持つてゐた。その薔薇の皮膚はすこし重たさうであつた。さうして笑ふ時はそこにただ笑ひが漂ふやうであつた。彼はいつもこつそりと彼女を「ルウベンスの僞畫」と呼んでゐた。
まぶしさうに彼女を見つめた時、彼はそれをじつに新鮮に感じた。いままでに感じたことのないものが感じられて來るやうに思つた。さうして彼は彼女の齒ばかりを見た。腰ばかりを見た。その間に、彼は病氣のことは少しも話さうとはしなかつた。さういふ現實の煩さかつたことを思ひ出すことは何の價値もないやうに彼は思つてゐた。そのかはりに彼は、眞白なクツシヨンのある黒い自動車の中に黄いろい帽子をかぶつた娘の乘つてゐたのが、西洋の小説のやうに美しかつたことなどを好んで話すのだつた。そしてその娘の香ひがまだ殘つてゐた美しい自動車に乘つてきたのだと愉快さうに言つた。
しかし彼はその自動車の中に殘つてゐた唾のことは言はないでしまつた。さうした方がいいと思つたのだつた。が、それを言はないでゐると、その唾が花瓣のやうに感じられたあの時の快感がへんに鮮かにいつまでも彼の中に殘つてゐさうな氣がするのだ。こいつはいけないと思つた。その時から少しづつ彼は吃るやうに見えた。そして彼はもう不器用にしか話せなかつた。一方、さういふ彼を彼女は持てあますのだつた。そこでしかたがなしに彼女は言つた。
「家へはひりません?」
「ええ」
しかし二人はもつと庭園の中にゐたかつた。けれども今の言葉がをかしなものになつてしまひさうなので、二人はやつと家の中へはひらうとしたのであつた。
そのとき二人は、露臺の上からあたかも天使のやうに、彼等の方を見下ろしてゐる彼女の母に氣がついた。二人は思はず顏を赧らめながら、それをまぶしさうに見上げた。
翌日、彼女たちはドライヴに彼を誘つた。
自動車は夏の末近い寂しい高原の中を快い音を立てながら走つた。
三人は自動車の中ではほとんど喋舌らないでゐた。しかし風景の變化の中に三人ともほとんど同樣の快さを感じてゐたので、それは快い沈默であつた。ときどきかすかな聲がその沈默を破つた。が、それはすぐまた元の深い沈默の中に吸ひこまれてしまふので誰も何も言はなかつたのではないかと思はれるほどのものであつた。
「まあ、あの小さい雲……(夫人の指に沿つてずつと目を持つてゆくと、そこに、一つの赤い屋根の上に、ちやうど貝殼のやうな雲が浮んでゐた)ずゐぶん可愛らしいぢやないの」
それから後は淺間山の麓のグリイン・ホテルに着くまで、ずつと夫人の引きしまつた指と彼女のふつくらした指をかはるがはる眺めてゐた。沈默がそれを彼に許した。
ホテルはからつぽだつた。もう客がみんな引上げてしまつたので、今日あたり閉ぢようと思つてゐたのだ、とボオイが言つてゐた。
バルコニイに出て行つた彼等は、季節の去つた跡のなんとない醜さをまのあたりの風景に感じずには居られなかつた。ただ淺間山の麓だけが光澤のよいスロオプを滑らかに描いてゐた。
バルコニイの下に平らな屋根があり、低い欄干をまたぐと、すぐその屋根の上へ出られさうであつた。そんなに屋根が平らで、そんなに欄干が低いのを見たとき、彼女が言つた。
「ちよつとあの上を歩いて見たいやうね」
夫人は、彼と一しよに下りてもらへばいいぢやないのと彼女に應へた。それを聞くと彼は無造作に屋根の上に出て行つた。彼女も笑ひながら彼について來た。そして二人が屋根の端まで歩いて行つた時、彼はすこし不安になりだした。それは屋根のわづかな傾斜から身體の不安定が微妙に感じられるせゐばかりではなかつた。
その屋根の端で彼はふと彼女の手とその指環を見たのである。そして彼女が何でもなかつたのに滑りさうな眞似をして指環が彼の指を痛くするほど、彼の手を強く掴むかも知れないと空想した。すると彼はへんに不安になつた。そして急に彼は屋根のわづかな傾斜を鋭く感じだした。
「もう行きませう」さう彼女が言つた時、彼は思はずほつとした。彼女は先に一人でバルコニイに上つてしまつた。彼もそのあとから上らうとして、バルコニイで夫人と彼女の話しあつてゐるのを聞いた。
「何か見えて?」
「ええ、私達の運轉手が、下でブランコに乘つてるのを見ちやつたのよ」
「それだけだつたの?」
皿とスプウンの音が聞えてきた。彼はひとりで顏を赧くしながら、バルコニイへ上つて行つた。
夫人の「それだけだつたの?」を彼はお茶をのんでゐる間や、歸途の自動車の中で、しきりに思ひ出した。その聲には夫人の無邪氣な笑ひがふくまれてゐるやうでもあつた。また、やさしい皮肉のやうでもあつた。それからまた、何んでも無いやうでもあつた。……
翌日、彼が彼女たちの家を訪問すると、二人とも他家へお茶に招ばれてゐて留守だつた。
彼はひとりで「巨人の椅子」に登つて見ようとした。が、すぐ、それもつまらない氣がして町へ引きかへした。そして本町通りをぶらぶらしてゐた。すると彼は、彼の行手に一人の見おぼえのあるお孃さんが歩いてゐるのに氣がついた。それは毎年この避暑地に來る或る有名な男爵のお孃さんであつた。
去年なども、彼はよく峠道や森の中でこのお孃さんが馬に乘つてゐるのに出逢つた。さういふ時いつも彼女のまはりには五六人の混血兒らしい青年たちがむらがつてゐるのであつた。一しよに馬や自轉車などを走らせながら。
彼もこのお孃さんを刺青をした蝶のやうに美しいと思つてゐた。しかし、それだけのことで、彼はむろんこのお孃さんのことなどさう氣にとめてもゐなかつた。が、ただ彼女を取りまいてゐるさういふ混血兒たちは何とはなしに不愉快だつた。それは輕い嫉妬のやうなものであるかも知れないが、それくらゐの關心は彼もこのお孃さんに持つてゐたと言つてもいいのである。
それで彼は何の氣もなくそのお孃さんのあとから歩いて行つたが、そのうち向うからちらほらとやつてくる人々の中に、ふと一人の青年を認めた。それは去年の夏、ずつと彼女のそばに附添つてテニスやダンスの相手をしてゐた混血兒らしい青年であつた。彼はそれを見るとすこし顏をしかめながら出來るだけ早くこの場を離れてしまはうと思つた。その時、彼はまことに思ひがけないことを發見した。といふのは、そのお孃さんとその青年とは互にすこしも氣づかぬやうに裝ひながら、そのまますれちがつてしまつたからである。唯、そのすれちがはうとした瞬間、その青年の顏は惡い硝子を透して見るやうに歪んだ。それからこつそりとお孃さんの方をふり向いた。その顏にはいかにも苦にがしいやうな表情が浮んでゐた。
このエピソオドは彼を妙に感動させた。彼はその意地惡さうなお孃さんに一種の異常な魅力のやうなものをさへ感じた。勿論、彼はその混血兒の側にはすこしも同情する氣になれなかつた。
その晩はベツドへ横になつてからも、何度も同じところへ飛んでくる一匹の蛾のやうに、そのお孃さんの姿がうるさいくらゐに彼のつぶつた眼の中に現れたり消えたりするのであつた。彼はそれを拂ひ退けるために彼の「ルウベンスの僞畫」を思ひ浮べようとした。が、それが前者に比べるとまるで變色してしまつた古い複製のやうにしか見えないことが、一そう彼を苦しめた。
しかし翌朝になつて見ると、そのふしぎな魅力は夜の蛾のやうにもう何處かへ姿を消してしまつてゐた。さうして彼は何となく爽やかな氣がした。
午前中、彼は長いこと散歩をした。そして、とあるロツヂの中で冷たい牛乳を飮みながら、しばらく休むことにした。彼はこんなに爽やかな氣分の中でなら、夫人たちに昨日からのエピソオドを打明けても少しもこだはるやうなことはないだらうと思つたほどであつた。
それは町からやや離れた小さな落葉松の林の中にあつた。
木のテエブルに頬杖をついてゐる彼の頭上では、一匹の鸚鵡が人間の聲を眞似してゐた。
しかし彼はその鸚鵡の言葉を聽かうとはしなかつた。彼は熱心に彼の「ルウベンスの僞畫」を虚空に描いてゐた。それが何時になく生き生きした色彩を帶びてゐるのが彼には快かつた。……
その瞬間、彼は彼のところからは木の枝に遮ぎられて見えない小徑の上を二臺の自轉車が走つて來て、そのロツヂの前に停まるのを聞いた。それからまだその姿は見えないけれど、若い娘特有の透明な聲が聞えてきた。
「なんか飮んで行かない?」
その聲を聞くと彼はびつくりした。
「またかい。これで三度目だぜ」さう若い男の聲が應じた。
彼は何となく不安さうに、ロツヂの中にはひつてくる二人を見つめた。意外にもそれはきのふのお孃さんだつた。それから彼のはじめて見る上品な顏つきをした青年だつた。
その青年は彼をちらりと見て、彼から一番離れたテエブルに坐らうとした。するとお孃さんが言つた。
「鸚鵡のそばの方がいいわ」
そして二人は彼のすぐ隣りのテエブルに坐つた。
お孃さんは彼に背なかを向けて坐つたが、彼には何だかわざとかの女がさうしたやうに思はれた。鸚鵡は一そう喧ましく人眞似をしだした。かの女はときどきその鸚鵡を見るために背なかを動かした。その度毎に彼はかの女の背なかから彼の眼をそらした。
お孃さんはその青年と鸚鵡とをかはるがはる相手にしながら絶えず喋舌つてゐた。その聲はどうかすると「ルウベンスの僞畫」の聲にそつくりになつた。さつきこのお孃さんの聲を聞いて彼がびつくりしたのは、そのせゐであつたのだ。
お孃さんの相手の青年はその顏つきばかりではなしに、全體の上品な樣子が去年の混血兒たちとはすこぶる異つてゐた。すべてがいかにもおつとりとして貴族的であつた。さういふ兩者の對照の中に彼は何となくツルゲエネフの小説めいたものさへ感じたほどだつた。この頃になつてこのお孃さんはやつとかの女の境涯を自覺しだしたのかも知れない。……そんなことをいい氣になつて空想してゐると、彼は彼自身までがうつかりその小説の中に引きずり込まれて行きさうで不安になつた。
彼はもつとここに居て見ようか、それとも出て行つてしまはうかと暫く躊躇してゐた。鸚鵡は相變らず人間の聲を眞似してゐた。それをいくら聽いてゐても、彼にはその言葉がすこしも分らなかつた。それが彼にはなんだか彼の心の中の混雜を暗示するやうに思はれた。
彼はいきなり立ちあがると不器用な歩き方でロツヂを出て行つた。
ロツヂのそとへ出ると、二臺の自轉車がそのハンドルとハンドルとを、腕と腕とのやうにからみあはせながら、奇妙な恰好で、そこの草の上に倒れてゐるのを彼は見た。
そのとき彼の背後からお孃さんの高らかな笑ひ聲が聞えてきた。
彼はそれを聞きながら、自分の體の中にいきなり惡い音樂のやうなものが湧き上つてくるのを感じた。
惡い音樂。たしかにさうだ。彼を受持つてゐるすこし頭の惡い天使がときどき調子はづれのギタルを彈きだすのにちがひない。
彼は自分の受持の天使の頭の惡さにはいつも閉口してゐた。彼の天使は彼に一度も正確にカルタの札を分配してくれたことがないのだ。
或る晩のことであつた。
彼は彼女の家から彼のホテルへのまつ暗な小徑を、なんだか得體の知れない空虚な氣持を持てあましながら歸りつつあつた。
そのとき前方の暗やみの中から一組の若い西洋人たちが近づいてくるのを彼は認めた。
男の方は懷中電氣でもつて足もとを照らしてゐた。そしてときどきその電氣のひかりを女の顏の上にあてた。するとそのきらきら光る小さな圓の中に若い女の顏がまぶしさうに浮び出た。
それを見るためには、その女が彼よりずつと背が高かつたので、彼はほとんど見上げるやうにしなければならなかつた。さういふ姿勢で見ると、若い女の顏はいかにも神々しく思はれた。
一瞬間の後、男は再び懷中電氣をまつ暗な足もとに落した。
彼は彼等とすれちがひながら、彼等の腕と腕が頭文字のやうにからみあつてゐるのを發見した。それから彼はその暗やみの中に一人きりに取殘されながら、なんだか氣味のわるいくらゐに亢奮しだした。彼は死にたいやうな氣にさへなつた。
さういふ氣持は惡い音樂を聞いたあとの感動に非常に似てゐた。
さういふ音樂的なへんな亢奮をしきりに振り落さうとして、彼はその朝もそこら中をむちやくちやに歩き𢌞つた。そのうちに彼は一つの見知らない小徑に出た。
そこいらは一度も來たことのないせゐか、町から非常に遠く離れてしまつたかのやうに思はれた。
そのとき彼はふと自分の名前を呼ばれたやうな氣がした。あたりを見𢌞して見たが、それらしいものは見えなかつた。をかしいなと思つてゐると、また彼の名前を呼ぶものがあつた。今度はややはつきり聞えたのでその聲のした方を振り向いてみると、そこには彼のゐる小徑から三尺ばかり高まつた草叢があり、その向うに一人の男がカンバスに向つてゐるのが見えるのだ。その男の顏を見ると彼は一人の友人を思ひ出した。
彼はやつとこさその上に這ひ上つて、その友人のそばへ近よつて行つた。が、その友人は、彼にはべつに何にも話しかけようとせずに、そのまま熱心にカンバスに向つてゐた。彼も話しかけない方がいいのだらうと思つた。さうしてそこへ腰を下ろしたまま默つてその描きかけの繪を見まもつてゐた。彼はときどきその繪のモチイフになつてゐる風景をそのあたりに搜したりした。しかしそれらしい風景はどうしても搜しあてることが出來なかつた。なにしろその畫布の上には、唯、さまざまな色をした魚のやうなものや小鳥のやうなものや花のやうなものが入り混つてゐるだけだつたから。
しばらくその奇妙な繪に見入つてゐたが、やがて彼はそつと立ちあがつた。すると立ちあがりつつある彼を見上げながら、友人は言つた。
「まあ、いいぢやないか。僕は今日東京へ歸るんだよ」
「今日歸る? だつて、まだその繪、出來てないんぢやないの?」
「出來てないよ。だが僕はもう歸らなければならないんだ」
「どうしてさ」
友人はそれに答へるかはりに再び自分の繪の上に眼を落した。しばらくその一部分に、彼の眼は強く吸ひつけられてゐるかのやうであつた。
彼はひとり先きにホテルに歸つて、晝食を共にしようと約束をしたさつきの友人の來るのを客間で待つてゐた。
彼は客間の窓から顏を出して中庭に咲いてゐる向日葵の花をぼんやり眺めてゐた。それは西洋人よりも背高く伸びてゐた。
ホテルの裏のテニス・コオトからはまるで三鞭酒を拔くやうなラケツトの音が愉快さうに聞えてくるのである。
彼は突然立上つた。そして窓ぎはの卓子の前に坐り直した。それから彼はペンを取りあげた。しかしその上にはあいにく一枚の紙もなかつたので、彼はそこに備へ付けの大きな吸取紙の上に不恰好な字をいくつもにじませて行つた。
ホテルは鸚鵡
鸚鵡の耳からジユリエツトが顏を出す
しかしロミオは居りません
ロミオはテニスをしてゐるのでせう
鸚鵡が口をあけたら
黒ん坊がまる見えになつた
彼はもう一度それを讀み返さうとしたが、すつかりインクがにじんでしまつてゐて何を書いたのか少しも分らなくなつてしまつてゐた。
それでもやはり彼は、約束の時間よりもすこし遲れてやつてきた友人がひよいとそれを覗き込んだ時には、それを裏返へしにした。
「隱さなくてもいいぢやないか?」
「これは何でもないんだ」
「ちやんと知つてるよ」
「何をさ」
「一昨日、いいところを見ちやつたから」
「一昨日だつて? なんだ、あれか」
「だから今日は君が奢るんだよ」
「あれは、君、そんなもんぢやないよ」
あれはただ淺間山の麓まで自動車で彼女たちのお供をしただけだ。「たつたそれだけ」だつたのだ。──彼は再びその時の夫人の言葉を思ひ出した。そしてひとりで顏を赧くした。
それから彼等は食堂へはひつて行つた。それを機會に彼は話題を換へようとした。
「ときに君の繪はどうしたい?」
「僕の繪? あれはあのままだ」
「惜しいぢやないか?」
「どうも仕方がないんだ。ここは風景は上等だが、描きにくくて困るね。去年も僕は描きに來たんだが駄目さ。空氣があんまり良すぎるんだね。どんなに遠くの木の葉でも、一枚一枚はつきり見えてしまふんだ。それでどうにもならなくなるんだよ」
「ふん、そんなものかね。……」
彼はスウプを匙ですくひながら、思はずその手を休めて、自分自身のことを考へた。ことによると、自分と彼女との關係がちつとも思ふやうに進行しないのは、ひとつはここの空氣があんまり良すぎて、どんなに小さな心理までも互にはつきり見えてしまふからかも知れない。彼はそれを信じようとさへした。
そして彼は考へた。描きかけの風景畫をたづさへてこれから東京へ歸らうとしてゐるこの友人と同樣に、自分もまた數日したら、それも恐らく描きかけのままになるであらう自分の「ルウベンスの僞畫」をたづさへて再びここを立ち去るより他はないであらうか?
午後になつて、その友人を町はづれまで見送つてから、彼はひとりで彼女の家を訪れた。
丁度ふたりでお茶を飮んでゐるところだつた。彼を見ると夫人は急に思ひ出したやうに彼女に言つた。
「あの乳母車にのつてゐる寫眞をお見せしないこと?」
彼女は笑ひながらその寫眞を取りに次の部屋にはひつていつた。その間、彼の眼のうちらには、彼女の幼時の寫眞の古い茸のやうな色がひとりでに溜つてくるやうだつた。次の部屋から再び歸つてきた彼女は彼に二枚の寫眞を渡した。が、それは二枚とも彼の眼をまごつかせたくらゐに撮影したばかりの新鮮な寫眞だつた。それはこの夏この別莊の庭で、彼女が籐椅子に腰かけてゐるところを撮らせたものらしかつた。
「どつちがよく撮れて?」彼女が訊いた。
彼は少しどぎまぎしながら、近視のやうに眼を細くしてその二つの寫眞を見較べた。彼は何とはなしにその一つの方を指してしまつた。そのとき彼の指の先がそつとその寫眞の頬に觸れた。彼は薔薇の花瓣に觸れたやうに思つた。
すると夫人はもう一つの方の寫眞を取りあげながら言つた。
「でも、この方がこの人には似てゐなくて?」
さう云はれて見ると、彼にもその方が現實の彼女によりよく似てゐるやうに思はれた。そしてもう一つの方は彼の空想の中の彼女に、──「ルウベンスの僞畫」にそつくりなのだと思つた。
しばらくしてから、彼は實物を見ないうちに消えてしまつたさつきの古い茸のやうな色をしたヴイジヨンを思ひ出した。
「乳母車といふのはどれですか?」
「乳母車?」
夫人はちよつと分らないやうな表情をした。が、すぐその表情は消えた。そしてそれはいつもの、やさしいやうな皮肉なやうな獨特の微笑に變つていつた。
「その籐椅子のことなのよ」
そしてそのやうに和やかな空氣が、相變らず、その午後のすべての時間の上にあつた。
これがあれほど彼の待ち切れずに待つてゐたところの幸福な時間であらうか?
彼女たちから離れてゐる間中、彼は彼女たちにたまらなく會ひたがつてゐた。そのあまりに、彼は彼の「ルウベンスの僞畫」を自分勝手につくり上げてしまふのだ。すると今度はその心像が本當の彼女によく似てゐるかどうかを知りたがりだす。そしてそれがますます彼を彼女たちに會ひたがらせるのであつた。
ところが現在のやうに、自分が彼女たちの前にゐる瞬間は、彼はただそのことだけですつかり滿足してしまふのだ。そしてその瞬間までの、その心像が本當の彼女によく似てゐるかどうかといふ一切の氣がかりは、忘れるともなく忘れてしまつてゐる。それといふのも、自分が彼女たちの前にゐるのだといふことを出來るだけ生き生きと感じてゐたいために、その間中、彼はその他のあらゆることを、──果してその心像が本當の彼女によく似てゐるかどうかといふ前日からの宿題さへも、すつかり犧牲にしてしまふからだつた。
しかし漠然ながらではあるが、自分の前にゐる少女とその心像の少女とは全く別な二個の存在であるやうな氣もしないではなかつた。ひよつとしたら、彼の描きかけの「ルウベンスの僞畫」の女主人公の持つてゐる薔薇の皮膚そのままのものは、いま彼の前にゐるところの少女に缺けてゐるかも知れないのだ。
二つの寫眞のエピソオドが彼のさういふ考へをいくらかはつきりさせた。
夕暮になつて、彼はホテルへのうす暗い小徑をひとりで歸つていつた。
そのとき彼はその小徑に沿うた木立の奧の、大きい栗の木の枝に何か得體の知れないものが登つてゐて、しきりにそれを搖ぶつてゐるのを認めた。
彼が不安さうに、ふとすこし頭の惡い自分の受持の天使のことを思ひうかべながら、それを見あげてゐると、なんだか淺黒い色をした動物がその樹からいきなり飛び下りてきた。それは一匹の栗鼠だつた。
「ばかな栗鼠だな」
そんなことを思はずつぶやきながら、彼はうす暗い木立の中をあわてて尻尾を背なかにのせて走り去つてゆく栗鼠を、それの見えなくなるまで見つめてゐた。
底本:「堀辰雄作品集第一卷」筑摩書房
1982(昭和57)年5月28日初版第1刷発行
底本の親本:「ルウベンスの僞畫」江川書房
1933(昭和8)年2月1日
初出:第一稿、「山繭 第二巻第六号」
1927(昭和2)年2月1日号
第二稿、「創作月刊」文藝春秋社
1929(昭和4)年1月号
第三稿、「作品」創刊号
1930(昭和5)年5月1日
※このファイルには、以下の青空文庫のテキストを、上記底本にそって修正し、組み入れました。
「ルウベンスの偽画」(入力:kompass、校正:染川隆俊)
入力:大沢たかお
校正:岡村和彦
2012年9月30日作成
2012年12月19日修正
青空文庫作成ファイル:
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